倉本聰さんの「北の国から」物語

 その冬の演歌興行は函館、大畑、青森、黒岩と回った。会場はほとんどが田舎の体育館などでイ
スもないし、
隙間から吹雪が吹き込むこともある。それでも開演2時間以上も前から人が集まり、
アッ
なのか、と思った倉本さんは、北島さんに付き人をやらせて下さいと頼み込んだ。
走行中という知らせが次々に入り、着いたときには寒さも吹き飛ぶ大拍手に包まれた。この人気は何
が鈴なりになって待っている。そこで小樽界隈のタクシーに無線で連絡を取ったところ、いまどこを
くて車が進まなかったのだ。1時間過ぎても着かない。寒い中をサブちゃんが来るというので町の人
地元放送局からも声がかかり、ドラマ『幻のまち』にかかわったときのこと。厳冬の小樽埠頭での
撮影に特別出演する北島三郎さんが来ない。千歳空港にはずいぶん前に着いているのに、吹雪が激し
はこの仕事で、
「本音で大胆に書かなきゃ駄目だ」ということが身にしみたという。
NHKを病気降板ということになっているので、女名前の偽名で書いたが、余りにも大胆にテレビ
界の悪口を書いたものだから、視聴率は決して良くなかったが妙に玄人受けしてしまった。倉本さん
連続ドラマを受け入れてくれたのである。
だからだろうか、プロデューサーは、テレビ局の悪口を最大に書きまくった『6羽のかもめ』という
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倉本聰さんの
「北の国から」
物語
フジテレビからで、何でもいいから書け、との依頼だった。当時のフジテレビはキー局の中では最
悪のどん底状態にあり、局の連中さえ自虐的に、
「ふりむけば チャンネル」などと言うほどだった。
りにいったりしているところに、救いの手が届いた。
SOSも来た。しかたないからトラックの運転手でもやろうかと思い、自動車教習所に規則書を取
テレビ業界から干されてしまったと思い込み、シナリオの仕事はもう無理だなとあきらめ、半分ヤ
ケクソになって自堕落な気持になっていた。東京に置いてきた奥さんからは、貯金が底をついたとの
1974
(昭和 )年にNHKと衝突してしまい、
大河ドラマ
「勝海舟」
シナリオ作家の倉本聰さんは、
を途中降板。札幌で独り暮らしをしていた。
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という間に満員に。みんな風呂敷に座蒲団と毛布を包んで、背中に背負っている。
楽屋も何もない。小さなコタツと持ち運び式のストーブがあるだけで、ガタガタ震えるほど寒い。
第1部のヒットパレードを歌で盛り上げ、第2部はリクエストコーナー。これがすごい!。
「俺は北海道を出て渋谷で何年も流しをやってた。だからたいがいの歌は歌える。今までリクエス
トされて歌えなかったことは一度もない。 番まである歌は自慢じゃないけど 番まで歌える。さあ
来い!何でもリクエストしてくれ!」
真一郎
ることで新しい自分になる道を選んだのだった。そして生まれたのが名作
『北の国から』
。その裏話
『獨
い。東京を離れたら仕事なんてこないわよ」と説教されたが、倉本さんは自然の厳しさのなかで生き
ともなげに言う。そのセリフにしびれて永住を決めた。向田邦子さんから「バカなことはお止めなさ
熊が出るんですか、と聞いたら、案内の役場の人が「なぁに、ここらの熊は気立てがいいから」とこ
北海道移住を決心した倉本さんは、札幌のような都会ではなく、地方の厳しいところがいいと思い
富良野を選んだ。そこには自然の森が残っていて、太い木々の幹には熊の爪痕がいっぱい残っている。
本気で「俺は変わろう!」と決意した。
するなら、地べた目線で書かなくてはいけない。そういう自己嫌悪と猛反省にさらされた倉本さんは、
らに評価されるものを書こうとバカな努力をしてきたのではないだろうか。テレビドラマを書こうと
「これが分かるか」と
自分には、どこかに大学出のいやらしいエリート意識みたいなものがあって、
いうような上から目線で書いていたのではないだろうか。庶民でなく批評家や業界の目に対して、彼
に思い知らされた。
はそれを見ながら、
「ああ、俺は今までテレビドラマの世界で、一体何をしてきたんだろう」と、痛切
慮もなにもない。観客もまったく遠慮などしない。裸の人間と人間が本気でぶつかりあう。倉本さん
待ってました!と蜂の巣をつついたような大騒ぎになり、ほとんど全員が手を挙げて大声でリクエ
ストする。サブちゃんはそれを何とも歯切れよくさばいて、次々に歌っていく。そこには相手への遠
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白 2011年3月』には、都会人が忘れてしまった珠玉の話が綴られている。
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