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5 章 水産生物の生活史に対応した効率的な漁場環境形成手法の検討
5-1生息環境の評価手法について
東京湾のイシガレイとマコガレイに対する効率的な漁場環境を形成するためには、両種の
生息環境の健全性、またはその規模等について定量的に評価することが重要である。また、
生息環境の悪化の原因を解明する上では、過去と現在の生息環境を定量的に比較し、複数
の環境要因の中から主要な悪化要因を見極めることが有効である。
そこで、4 章で作成したイシガレイとマコガレイの HSI モデルを用いて、東京湾における
現在と過去の生息環境を定量的に評価・比較した。なお、評価対象となる過去の年代につ
いては、下記の観点をもとに選定した。
<過去の年代を選定するにあたっての観点>
① 大規模な埋立が行われていない年代
② 貧酸素水塊や無酸素域(無生物域)が発生していない年代、もしくは小規模な発生に
とどまっていた年代
③ マコガレイよりもイシガレイの漁獲量の方が多かった年代
①大規模な埋立が行われていない年代
東京湾の干潟は、昭和 20 年以前には約 9,450ha 存在していたが、昭和 30 年代末にはそ
れらの干潟は埋立によって約半分まで減少したとされる(図 5-1-1)
。また、浅海域(水深
5m 以浅)においても埋立により昭和 30 年代半ばには約 28,000ha 存在していたが、昭和
40 年代半ばにはその約半分が失われたとされる。
したがって、東京湾において大規模な埋立が行われた年代は昭和 30 年代以降であること
から、干潟や浅海域が広範囲に残存していた年代は明治から昭和 20 年代といえる。
103
10,000
千葉県
8,000
東京都
年代別埋立面積(ha)
神奈川県
6,000
4,000
2,000
0
図 5-1-1 東京湾における埋立面積の推移
(出典)運輸省第二港湾建設局資料
②貧酸素水塊や無酸素域(無生物域)が発生していない年代、もしくは小規模な発生にとどまっていた年代
貧酸素水塊は、底生生物の生息に悪影響を与える事象である。対象魚種のマコガレイやイ
シガレイは底魚であるため、貧酸素水塊の影響を直接的に受けるだけでなく、深刻な貧酸
素水塊が生じると餌となる多毛類や二枚貝などの底生生物も死滅する。
東京湾では貧酸素水塊の発生状況を示す底層 DO の測定が 1955 年から行われている(図
5-1-2)
。また、貧酸素水塊に関連する無酸素域(無生物域)の観測は、1941 年から不定期
であるものの観測が長期間にわたり続けられている(図 5-1-3)
。
これらの観測の結果から、東京湾では人間活動から排出される生活排水や産業排水等によ
る水質汚濁等の影響で貧酸素水塊は 1960 年以降から常態化したと考えられる。また、貧酸
素水塊の発生に伴い無酸素域(無生物域)は 1941 年頃にも見られていたが、常態化した時
期は 1960 年以降とされる。
したがって、東京湾の貧酸素水塊や無酸素域(無生物域)の発生が見られなかった年代は、
1950 年頃と考えられる。
104
図 5-1-2 東京湾における年代別の貧酸素水塊の発生状況
(出典)石井光廣,大畑聡(2010)東京湾の水質と貧酸素水塊の変動,沿岸海洋研究 48(1)37-44
図 5-1-3 東京湾における年代別の無生物域の発生状況
(出典)沼田眞,風呂田利夫(1997)東京湾の生物誌,築地書館
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③マコガレイよりもイシガレイの漁獲量の方が多かった年代
漁業関係者等に対するヒアリングの結果から、東京湾でカレイといえばイシガレイを指す
言われるほど、昔からイシガレイは東京湾では普通に見られていたとされる。しかし、近
年はイシガレイが減少し、それに代わってマコガレイの漁獲量が全体の中でも高い割合を
占めるようになったとされる。
上述の魚類相の変化は、何らかの環境変化に伴って生じた可能性がある。このことから、
イシガレイとマコガレイの資源量が増減した年代の環境状態を比較・評価することにより、
両種の資源量の変動に大きく影響を与えた環境要因の解明に繋がると期待される。そこで、
以下ではイシガレイとマコガレイの漁獲量の推移とその年代を整理した。
<イシガレイとマコガレイの漁獲量の推移>
東京湾におけるイシガレイとマコガレイの漁獲量を把握するため、東京都、神奈川県、千
葉県の農林水産統計から漁獲量の情報を収集・整理した。ただし、統計上の区分としてイ
シガレイとマコガレイは「かれい類」または「かれい・ひらめ類」として一括計上されて
いる。また、農林水産統計に記載される「かれい類」の中にはホシガレイ、ムシガレイ、
メイタガレイなども含まれるが、これらの漁獲量はイシガレイとマコガレイに比べて全体
に占める割合は少ない。したがって、東京湾を対象とする「かれい類」の漁獲量は、ほぼ
イシガレイとマコガレイの漁獲量を反映していると考えられる。
農林水産統計に記載されたカレイ類の漁獲量の推移を図 5-1-4 に示す。カレイ類の漁獲量
は、1965 年から 1980 年頃までは一部変動が見られるものの、ほぼ一定の値で推移してい
る。その後、1980 年代前半から後半は漁獲量が最も多く、この頃に漁獲量のピークが見ら
れる。1990 年代以降は漁獲量が大幅に減少し、現在まで低水準が続いている。
都県別の漁獲量については、漁獲量が少ない東京都を除き、千葉県と神奈川県ではいずれ
の年代も同様の推移となっている。
以上のことから、1965 年以降から現在までの東京湾におけるカレイ類全体の漁獲量の経
年変化を把握することができた。しかし、農林水産統計に記載される漁獲量からはイシガ
レイとマコガレイの個々の漁獲量とその推移を把握することが困難であった。そのため、
次の手段として、農林水産統計の結果を踏まえながら、個別地区の漁獲量について調査を
行った。
個別地区の漁獲量を把握するにあたっては、既存文献調査と並行して漁業協同組合へのヒ
アリングを行った。各漁業協同組合に対しては、カレイ類の漁獲データの存在を確認する
とともに、イシガレイとマコガレイの漁獲量を個別に計上しているかどうかの確認を行っ
た。その結果、個別に計上している漁業協同組合は神奈川県の横浜市漁業協同組合と千葉
県の富津漁業協同組合については確認がとれた。しかしながら、その他の漁業協同組合の
ほとんどは、いずれも個別に計上しておらず「かれい類」として一括計上していた。また、
個別に計上している 2 漁協についても、5 年以上前の水揚げ記録を保管しているところはな
106
かった。そのため、横浜市漁業協同組合から提供を受けた水揚げ記録と既存文献(清水,1987)
から得られた漁獲データを統合し、イシガレイとマコガレイの漁獲量の推移を整理した(図
5-1-5)
。なお、横浜市漁業協同組合は複数の支所が存在するうちの柴地区の漁獲量を示す。
東京湾におけるイシガレイは、柴地区と富津地区ともに 1970 年頃まではマコガレイの漁
獲量よりも多く、カレイ類の大部分を占めていた。しかし、柴地区では 1970 年代後半から
イシガレイが減少し、それに代わってマコガレイが急増している。富津地区についても柴
地区と同様に 1970 年代後半からイシガレイが減少している。また、柴地区で見られるマコ
ガレイの急増は農林水産統計の推移とほぼ同じ傾向を示していることから、東京湾全体で
同様の資源変動が生じていたと推測される。
以上のことから、イシガレイの方がマコガレイよりも漁獲が多かった年代は 1970 年代ま
でであり、それ以降はマコガレイの方が多いか、または顕著な差が見られない状態であっ
たと考えられる。
3000
2500
漁獲量(単位・t)
2000
千葉
東京
神奈川
東京湾全体
1500
1000
500
0
年
図 5-1-4 東京湾における各都県別カレイ類の漁獲量の経年変化
107
600
マコガレイ漁獲量
500
イシガレイ漁獲量
柴地区
富津地区
柴地区
富津地区
漁獲量(t)
400
300
200
100
0
1967
1972
1977
1982
1987
1992
1997
2002
2007
年
図 5-1-5 イシガレイとマコガレイの地区別漁獲量の経年変化
■過去の年代の選定
上記①~③の検討結果から、イシガレイとマコガレイの生息環境評価を行うにあたり、過
去の年代は、1950 年頃が最も適していると考えられる。したがって、HSI モデルの評価に
用いる環境データは、1950~1959 年の期間に調査されたものを可能な限り使用した。
<HSI の計算に使用した環境データ>
■2010 年(現在)
①水質 東京湾海況情報:千葉県水産総合研究センター
②水質(DO:無酸素域) 貧酸素水塊速報(6~8 月):千葉県水産総合研究センター
③底質 平成 21 年度 東京湾底質底生生物調査報告書:国土交通省千葉港湾事務所
④水深 海図(2008)
:海上保安庁
■1950 年代(過去)
①水質(水温、塩分) 東京湾海況情報:千葉県水産総合研究センター、貧酸素水塊速報
(6~8 月)
:千葉県水産総合研究センター
注)水温と塩分は現在のデータを使用した。ただし、1 月は 2006 年データを使用した。
②水質(DO) 石井光廣,大畑聡(2010)東京湾の水質と貧酸素水塊の変動,沿岸海洋研究
48(1)37-44 、沼田眞,風呂田利夫(1997)東京湾の生物誌,築地書館
③底質 東京湾底質図(首都圏整備委員会事務局、1959~1961 年刊)
④水深 海図(1955)
:海上保安庁
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