共創・共育・共感

共創・共育・共感
尾鷲市教育長だより
2015.2.6.(金)
第111号
東井義雄の「村を育てる学力」
消滅する可能性のある自治体896。増田寛也+日本創成会議・人口減少
問題検討分科会によるリストの提示は、今もなお大きな反響を呼んでいます。
尾鷲市も消滅する可能性を抱えた自治体であるという深刻な事態を突きつけ
られました。
何も手を打たなければ深刻な事態に陥ってしまいます。現実としっかり向
き合い、冷静にこの問題の本質をとらえ、地域の強みや弱みを把握して、明
確なビジョンとグランドデザインを描き、地域の再生を図る、地道な取り組
みの積み重ねを大切にしていくことが重要です。
その意味で、こうした人口減少社会に学校はどう向き合っていくか、その
取り組みへのアイデアの結集と究明、その具体化が問われています。
増田寛也氏は、21世紀の日本が生き延びていくために、人口の社会移動
の構造を根本から変える必要性を説き、その一つとして、地元で学び、地元
で働く「人材の循環」を地域に生み出すことをあげています。地域は戦略的
拠点として称すべき重みを有しているというのです。
“地域”には、生活があり、自然があり、人々を育てる営みがあり、産業
があり、歴史や文化があります。それらの相互作用をとおして人々は成長を
遂げ、人生を重ねています。まさに人材育成の拠点が存在しているのです。
こ れ ま で も 、“ 地 域 ” や “ 村 ” の 教 育 に つ い て 問 い か け た 教 師 が い ま し た 。
東 井 義 雄 で す 。 東 井 義 雄 は 、 1912年 に 兵 庫 県 の 浄 土 真 宗 の 寺 の 長 男 と し て
生まれました。綴方教師サークルに参加し生活綴方による教育実践を行ない、
戦 中は子 どもの 臣民感覚 を感じ 、国 家に忠 誠する 教育に全 力投 球をしま した。
戦後は、教え子が戦死したのに自決、退職できなかった自分を反省し、十
余年にわたって執筆活動を停止しました。高度経済成長が村の人々の生活や
人生に影響を及ぼし始めた昭和30年代前半、日本の教育に能力主義が広ま
り、自分やわが子さえ勝ち上がればよいという利己的な雰囲気が学校を覆い
か け は じ め た と き に 、「 村 を 捨 て る 学 力 」か 、そ れ と も「 村 を 育 て る 学 力 」か 、
を 問 い か け「 村 を 育 て る 学 力 」( 明 治 図 書 1957年 < 昭 和 3 2 年 > )を 発 表 し 、
生活綴方教育や当時の社会に大きな衝撃を与えました。
東井は、村を捨てて、自分一人が立身出世することを助長するような教育
ではいけない。むしろ村を愛すること、村や「土」に「愛」を注ぐことに思
いを込め、そこに「村を育てる学力」の基盤があると説きました。
村を愛することをとおして「生きがい」を見つけ出し、生きがいを切り拓
いていく生き方に願いを込めて次のように記しています。
「 村 を 愛 す る こ と を と お し て 、『 生 き が い 』 を 見 つ け て く れ る よ う に も な る
だろう。たとい、村を出て行くことになっても、行ったところで、生きがい
を切り拓いていってくれるだろう」と。
「 村 を 育 て る 学 力 」 の 基 盤 に な る の は 「 生 活 の 論 理 」 で す 。「 生 活 の 論 理 」
とは、子どもの考えや行動は、親・地域・経済・文化・歴史・伝統・これま
で受けた教育・世の中や学校や学級の雰囲気にまでつながっているという論
理です。この「生活の論理」は、子どもの生き方の根底をなし、一人ひとり
違 う も の で す が 、 東 井 は こ れ を 「 教 科 の 論 理 」 つ ま り 、「 学 問 の 論 理 」 を ふ ま
えた教科の系統性を教えるための大切なベースになるものであると位置づけ
ました。子どもたちがそれぞれの「生活の論理」を磨き合うことで、客観性
のある「教科の論理」もより一層深化拡充し、発展するというのです。
例 え ば 、「 ど う し て 雑 草 を 頻 繁 に 除 草 し な け れ ば な ら な い か 」 と い う 子 ど も
の 生 活 上 の 疑 問 か ら 出 発 し て 、「 雑 草 の ふ え 方 の 研 究 」 を 実 践 さ せ ま し た 。
ある畑に雑草が何本生えているか。一本の雑草からタネがいくつ落ちるか、
それが育つのに何日かかるかを観察させ、その観察結果をもとに計算させま
す。そして、どのくらいの頻度で畑の除草を行わないと、雑草がはびこって
しまうかを認識させるのです。
このような学力形成が可能となったのは、板書法、学習帳(ノート)活用
法 、「 ひ と り 調 べ 学 習 」 な ど 、 東 井 の 優 れ た 授 業 方 法 が あ っ た か ら で す 。
「ひとり調べ学習」は、学級全体で学習を行う前後に、必ず子ども一人ひ
と り に 考 え を ま と め さ せ る と い う も の で す 。 東 井 は 、「 ひ と り 調 べ 」 を 書 い た
ノートに必ず目を通して指導助言をしていました。
授 業 を 通 し て 、 子 ど も の 「 生 活 の 論 理 」 は し っ か り し た も の に な り 、「 教 科
の論理」もより広く深く発展的なものになりました。
東井は「村を育てる学力」について、学校と家庭、地域が連帯してこそ身
につくととらえていました。学校での指導を、家庭や地域に理解してもらう
こと、また家庭や地域から学校に意見を出してもらうことがなければ、結局、
学校で学んだことは、学校のなかだけでしか役に立たないと考えたのです。
学校だよりも積極的に発行し、保護者や地域の人々にも配布し、地域と信
頼関係を築き、皆に発言してもらえる通信としながら、地域における学校の
役割を探求していったのです。東井義雄の「村を育てる学力」の根底にある
ものの見方・考え方は、これからの時代にも十分に通用するものであります。