Title Author(s) Citation Issue Date Type ファウスト博士 : その重層的構造について 森川, 俊夫 言語文化, 3: 3-23 1966-11-03 Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/10086/9182 Right Hitotsubashi University Repository 3 ファウスト博士 その重層的構造について 森川俊夫 L rヨーゼ7物語」とr7アウスト博士」 1943年1月4日,トーマス・マンはその最大の長篇四部作『ヨーゼフとその兄弟 たち』を脱稿した。完成にはほぼ16年の日子を要したわけであるが,この16年が作 者にとっても世界にとっても,きわめて変転の多い宿命的な年月であったこ.とは言う までもない。この世界史的な変転のうちにあって,わけても1933年の亡命以来の10 年余,この作品はトーマス・マンのr生活の統一を保証し(XII S.153)」ていた。 したがって,世界の命運定かならぬこの時点,そしてトーマス・マンにとっては流講 の生活がいつ果てるともしれぬこの時点で,いわぱ生活の支柱,精神的な拠りどころ ともいうべき仕事が完成したことは,かならずしも歓迎すべき事態ではなかった。 たしかに歴史的にみれば,このころレニングラードの攻防は峠をこし(同年2月パ ウルス魔下のドイツ軍降伏),第三帝国は崩壊の一途を辿りはじめてはいるが,歴史 の渦中にある人間は,理論的には連合国側の勝利を信じていようとも,感覚的にはペ シミスティックな気分から解放されることはありえない。ドイッ降伏に先立つ半年前, 1944年末にはすでに連合国側の橋頭墜がドイツ領内に築かれていたが,しかし第三帝 国はいわゆるルントシュテット攻勢によって運命を挽回しようと試み,実際おそるべ き戦果を挙げていた。トーマス・マンはこのころを回想して,事態の見通し,その評 価のぐらつき方は回顧すれば奇妙に思われるが,しかし胸苦しい不安な日々であった, と語っている(XI S.216)。ましてrヨーゼフ」四部作の完成した1943年初頭は,r来 たるべきデモクラシーの勝利について(Vom kommenden Sieg der Demokratie. 1938年初頭アメリヵ15の都市でおこなわれた講演)」語ったトーマス・マンではあ ったが,いつその勝利がおとずれるか,予想もできなかったはずである。もっともド 4 イツ敗北の形式はこのころすでに決定し,宣言されていた。すなわち,連合国側はカ サブランカ会談(1943年1月)を通じ,ドイツの無条件降伏を要求することになっ たのである。同時に連合国側はドイツ抵抗派とのいっさいの接触を絶ってしまった。 この態度については今日さまざまな評価がくだされているが,結果的にはドイツ抵抗 運動のカをそぎ,ナチ指導層とドイツ国民との悲劇的な一体感を深めることになっ た。 これはまたヒトラーの望むところであったと言えよう。トーマス・マンはrあらか じめナチスは,ドイツという身体が生きたままで救われずに,その肉が一片一片おち てゆくほかないよう用意しておいた(XI S.217)」といっているが,連合国側がある 種の政治的配慮から促進した,ナチス指導層とドイツ国民との一体化を,ヒトラーは その悪魔的ニヒリズムから要請したのである。 しかしトーマス・マンも,まったく別の見地からであるが,この一体性を否定する ことができなかった・ナチズムとその指導者を,突然変異の現象とみなし,第三帝国に おいてその名のもとにおこなわれたいっさいの責任を,これに帰そうとする考え方は, 戦後とくにドイツ人のあいだにうかがわれたものであり,心理的には理解できる態度 であるが,倫理的にはきわめて安易であり,このような考え方に同調するには,トー マス・マンはあまりにもドイッ人を知りすぎていた。ドイツの降伏後まもなく,すな わち1945年5月末におこなった講演のなかで,トーマス・マンは,rよいドイッと悪 いドイツという二つのドイッがあるのではなくて,悪魔の好計によってそのよさが悪 に転化したドイッがあるばかりで……悪いドイッというのは,道を踏み誤ったよいド イツのことであり,不幸,責任,没落のうちにあるよいドイッであります(dito S. 1146)」と語っている。ナチズムがドイッ精神史と無縁のものでない以上,これとの 対決は回避さるべきではない。もちろんトーマス・マンは,戦後,第三帝国が組織と して過去のものになってから,この問題に取り組んだわけではなく,ナチズムの先駆 的潮流に対するその戦いはすでに1922年にはじまるのである。そして「ヨーゼフ」 四部作は1926年暮れに書きはじめられたが,これは旧約聖書の創世記に題材をあお いだ作晶であるとはいえ,時代の非合理主義的,反人文主義的潮流に対するアンチ・ テーゼとして構想されたものなのである。トーマス・マンは,自分の理解者であるル カーチがこの作品を評論にとりあげないでいるのを不満とし,「ヨーゼフ」は神話で ある,したがって逃避であり,反革命である,と見られるのは残念だ,と言っている (dito S。240)が,作者としてはこの作品のうちに「戦闘において奪い取った武器 が逆に敵に対して向けられるのに似た過程(dito S.658)」を見出してもらいたかっ 5 たのである。 ここでいう「奪い取った武暑罰とは神話である。これは直接的にはナチズムの「理 論家」アルフレート・・一ゼンベルクとその著書『二十世紀の神話』を思いえがいて の発言だが,その揚合,マンはこれをたんにナチズムだけの武器と見ていたのではな く,この著作およびナチズムの背後にある,あるいはその基盤にある精神的潮流に注 目し,その潮流の象徴的表現としてのr神話」におそるぺき危険を予感していた。す でに1926年はじめ,したがって「ヨーゼフ」小説執筆に先立つ時期,「今日のドイツ 人に夜の世界への熱狂,ヨーゼフ・ゲレス流の大地,民族,自然,過去,死といった 複合観念,大まかに性格づければ革命的反啓蒙主義を唱導する(XI S.48)」アルフ レート・ボイムラーの考え方にトーマス・マンは批判を加えている。ボイムラーは, 母権制の発見者と言われるヨーハン・ヤーコプ・バハオーフェンの選集への序文のな かで,ロマン主義のうちに二つの流れを区別し,ノヴァーリスやフリードリヒ・シュ レーゲルに代表されるグループを合理主義に感染しているとして拒けるとともに,デ ィオニュソス的なものとならんでアポ・ン的なものの観念をその理念のうちにもちこ んだ二一チェを,真の・マン主義とかかわりをもたないとして非難しているのである。 このような「純粋に」神話的なものへの複帰を要求する立場は歴史の反復を信仰する ドイツ精神史の伝統とかかわりがある,とトーマス・マンは考えているが,このよう なボイムラー的思想が,合理主義,啓蒙主義を基礎とする市民社会に対する批判と結 びついて,危険な革命的反啓蒙主義となったのである。もちろんトーマス・マンも第 一次大戦の勃発を市民社会の弔鐘と見てはいるが,しかしそれは,市民社会の精神的 フマニテリト 基盤としての合理主義,啓蒙主義,さらには人間愛の理念を放棄したことを意味しは しない。逆に,市民社会の崩壊に直面してフマニテートの理念にあらためて生気を与 えることによって,混乱の打開をはかろうとしていたのである。 いずれにもせよ,生の非合理主義的側面にのみ価値を見出そうとし,そこから中世的, 古代的,神話的世界への関心をよびさまされた思想傾向は,二十世紀前半,とくに第 一次大戦後のドイツにおいて,容易に現実の政治的潮流と結びつくにいたった。神話 は,このような意味をもつにいたって,まさに「ファシズムの武器」と化したのだが, トーマス・マンはそれゆえにこそこの敵の武器を逆手に取り,これを「言葉のすみず ロ の ロ ロ みにいたるまで人間化しよう」としたのであり,「この小説に後世が注目すべきもの を見出すとすればそれはこの点であろう(ditoS.658)」と自負しているのである。 しかし「神話の人間化」はいかなる形でおこなわれているであろうか。トーマス・ マンは年齢による関心の推移についておりにふれて語っているが,「ヨーぜフ」をと 6 りあげた50代については,個別的なもの,特異なもの,一回かぎりのものに対する 関心がうすれて,典型的なもの,普遍的なものへの関心が深まる時期であると言って いる(XI S。656)。ところでこの典型的なもの,普遍的なものは,神話においてもっ ともよく表現されている。あるいは,もっとも簡潔に表現されていると言うべきかも しれない。そしてトーマス・マンは主人公ヨーゼフ自身の生活それ自身をそれに先行 する神話的典型の反復の相において描写しているが,典型的なものとは本来的に反復 的性格を有するものだからである。 「ヨーゼフ」四部作全体の序とも言うべき「地獄行」の章は,したがって「ヨーゼ フ物語」は 「過去の泉は深い。究めつくしがたいと言うべきではなかろうか?(IV S.9)」 という文章ではじまっている。結果としては究めつくしがたいという認識に到達する にせよ,過去の泉を究めようという姿勢は,これはけっして過去への惑溺を意味する ものではない。そして「ヨーゼフ」という神話的素材をとりあげたのが現実に対する 不満からの神話への逃避を意味するのでないことは明らかである。r地獄行」のなか で詳細に説明されているように,「ヨーゼフ」伝説は神話的性格を帯びているとはい え,神話それ自体ではなく,先行する伝説,神話を基礎としている。しかし,rヨー ゼフ」伝説をさらにこえて,その起原にさかのぼることは資料的にほとんど不可能で ある。r過去の泉は深い」という詠嘆はここに生まれる。それにもかかわらずrヨー ゼフ」伝説が神話的性格を帯びていることは否定しがたいし,主人公ヨーゼフを神話 的原型,典型の反復としてとらえることは可能なのである。人間をこのように典型的 なものの反復の相のもとに見る考え方からすれば,過去,現在,未来の別を消滅させ る永遠の現在という観念が生じてくる。これによって過去を,現在の避難所として考 えるのでなく,逆に現在に引き寄せることが可能になってくるが,一方,この永遠の 現在という観念からすれば,r過去の泉」という言葉,さらにはr地獄行」という序 章の表題はその表面的な意味とはちがった色彩も帯ぴてくる。すなわちr地獄」とは たんに「過去」を意味するのではなく,したがって「地獄行」は単純に「過去への遡 行」としてとらえられるべきではなく,人間存在の本質への沈降を意味すると考える べきなのである。 人間存在の本質の一面を地獄としてとらえる考え方は,トーマス・マンにおいては けっしてあたらしいものではない。『魔の山』のなかで主人公ハンス・カストルプは 人間の理想郷を夢に見るが,その理想郷の背後に地獄図絵がくりひろげられているこ 7 とに気がつき傑然とする。「単純な青年」ハンス・カストルプが深層心理のうちに予 感する人間本質の様相を,トーマス・マンは明確に洞察し,そこからペシミズムに, あるいはニヒリズムに堕することなく,この認識のうえにそのフマニスムスを築きあ げる。トーマス・マンにとって,理想郷が地獄の存在によって現実性を増すように, 人間のうちなる善も悪によって実在性を獲得する。そして人間そのものも,この相反 する要因のダイナミックな弁証法によって深化することになる。 rヨーゼフ物語」は,精神史的潮流と政治的底流との不吉な結ぴつきを見据えて,そ のなかで色槌せたかにみえるフマニスムスに生気を吹き込むべく構想されたものでは あるが,その間に事態はますます危惧すべき方向に進行し・やがてあの政治的底流が 抜き差しならぬ形で顕在化した。すなわち,ナチ党はもともとこの政治的潮流の視覚 的表現と目されてはいたのだが,1928年の選挙結果ではまだ12議席を占めるにすぎ ない一小党であった。しかしその小政党が次の総選挙,すなわち1930年9月の総選 挙では一躍107議席を獲得して,143議席の社会民主党につぐ第2党になったのであ る。この結果をふまえてトーマス・マンは,同年10月7日ベルリンにおいてドイッ の市民階級,すなわち世界恐慌下にゆらぐドイツ中産階級のr理性に訴え(EinAppel an die Vemunft.全集にはDeutsche Anspracheとしておさめられている)」た。こ のなかでトーマス・マンはナチ党の驚異的躍進を第一次大戦の勝利者に対するドイッ 国民のプ・テスト,あるいはその意志の象徴的表現とみなしている。すなわち,ヴァ イマル共和国はヴェルサイユ体制の強い制約のもとにあるが,このヴェルサイユ体制 の理念は,ドイツ帝国主義に対してかかげられた民主主義の理念とは裏腹に,rヨー ロッパの一主要民族の生命力を歴史のつづくかぎり抑えようという目的をもつ道具 (XIS.875)」にすぎない。シュトレーゼマンなど,政治家の名に値いするヴァィマル 共和国の政治家たちの努力は,ルサンチマンに根ざす連合国側の対ドイツ政策のなか で,この共和国の国際的地位を理性的な水準にまで向上させることに向けられていた。 しかしこの努力がようやく国際的に認められ,1924年のドーズ案,1929年のヤング 案によって巨額の賠償支払いの負担を軽減されてドイツ経済が前途に光明を見出し た矢先,すなわち1929年10月世界恐慌が発生した。これによって生じた経済的窮状 が,ヴェルサイユ体制によって,すなわち連合国側のルサンチマンに根ざす対ドィッ 政策によっていっそう抜き差しならぬものにされているという認識から,ドイッ国民 は,もっともどぎつく対外強硬策を主張するナチ党の選挙公約をr利用し」て,自身 の感情を表現したのである。さらにはまた,ドイツは封建的体制の崩壊後,西ヨー・ ッパ流の議会主義憲法を受け入れたが,これがrドイツの本質に完全に適しているか 8 どうか,ドイツの政治倫理をある程度,ある意味において歪め,傷つけはしないか, という疑惑」が存在しており,しかもそれに対して誰ひとりrより正しくより適切な 体制の具体的提案をなしうるものがない」。 そのように現実の国内体制に対する疑惑, 不満も,あの選挙結果に表現されている。要するにこの選挙結果は,ドイツ国民の抗 議不満,疑惑の表現として理解さるぺきであって,ドイツ国民とナチズムの必然的 結ぴつきを象徴するものでない。トーマス・マンはこのような情勢判断に立って, 1922年以来主張してきたように,「ドイツ国民は,政治においてあたらしく独創的 なものをその固有の性格をもとに考案することに成功するまでは,歴史的伝統をも った体制をきわめて個性的にし,それによっそ最善のものにする以外にない(XI S. 876)」として,ドイツ市民層に対して社会民主主義の方途を辿るよう訴えたのであ る。 ナチズムはドイツ国民の本質に根ざすという考え方には問題がある。しかし,ドィ ッ国民とナチズムの結びつきは必然性をもたないと主張した1930年のトーマス・マ ンは,必然性をもたない結びつきというものもありうることを見落していたと言える。 1933年2月11日,トーマス・マンはオランダヘ講演旅行に出発したが,これが亡命 の旅になろうとは夢にも考えていなかった。たしかに2月27日の国会放火事件とそ れにつづく左翼勢力の弾圧に先立つ時期であったとはいえ,すでにヒトラーが宰相の 位置を占めたあとであることを考えれば,トーマス・マンはナチズムをその政治的生 命力の点で過少評価していたと言える。しかし,これはトーマス・マンにとってかな らずしもとくに不名誉なことではない。このような過少評価は当時の一般的常識であ ったと言われているし,それにこのような政党に未来があるはずはないし,あるべき でない,という願望がこの評価の根底にひそんでいたのである。 それにもかかわらず,ナチズムの生命力はおそるべき力を発揮して,10数年の命 脈を保ち,トーマス・マンの講演旅行も自動的に亡命生活に転化することになった。 rヨーゼフ物語」はそれとともに亡命生活の支えとしての性格を帯びることにもなり, 完結したときには作者に虚脱を覚えさせるほどであった。それにしてもこの作品が構 想された時期と,完結した時期の情勢とには根本的な差異があった。すなわち前者に おいては,ドイツ国民とナチズムとの必然的とはかならずしも言えない結びつきがま だ抜き差しならぬ形で実現するにいたっていなかった。すなわちドイツ国民にとって ナチズム以外の道,フマニスムスを基盤とし社会主義に裏打ちされた方向がまだ可能 であったのに対して,後者においては,あの結びつきが偶然的なものではなく,ドイ ッ国民の本質に根ざすと考えざるをえないような様相を呈していたのである。 9 このような状況のなかで,トーマス・マンの典型的なものへの関心はきわめて自然 に,ある意味で個別的なもの,すなわちドイッ的なものへの関心へと転化していった。 「ヨーゼフ物語」完成後,やはり旧約聖書を素材とした『掟』を2ヵ月足らずで仕上 げて,これら二作品に関係した資料をとりかたづけたトーマス・マンの脳裏に,唐突 に「ファウスト博士」というテーマが浮かんでくる。おなじころ,第一次大戦前に中 断した『フェーリクス・クルル』の続稿の可能性も吟味するが,トーマス・マン自身 にもすでに追想しがたい経過をたどって,「ファウスト博士」がえらばれることにな ったのである。 2.重層性について 1943年5月23日,トーマス・マンはカリフォルニアの寓居で,2ヵ月足らずの準 備ののちに『ファウスト博士』を書きはじめた。 1587年フランクフノレトの書店から刊行されたrファウスト」伝説はたちまちヨー ・ッパに流布し,クリストファー・マー・一がこれをドラマ化したのはすでに1588 年から1593年のころであると言われている。とくにドイツではゲーテの作品を頂点 としてくりかえしとりあげられており,その意味でこのテーマには超時代性が加わっ てきたが,それにもかかわらず,このテーマと,これを生みだした中世末期,近代初 頭の精神的風土との関連は無視するわけにはゆかない。 一方トーマス・マンは『ドイツとドイツ人』のなかで次のように述べている。 r伝説や文学がファウストを音楽と結びつけるこ・とをしないのは大きな失策であ ります。ファウストは音楽的であり,音楽家であるべきでしょう。音楽はデモーニ ッシュな領域であります……音楽は計算しつくされた秩序であると同時に,混沌を はらんだ反理性であって呪術的,魔術的表情に富んでいます。現実にもっとも遠い 数字の魔法であると同時に諸芸術中もっとも情熱的であり,抽象的であると同時に 神秘的であります。ドイツ的な魂を代表する存在というのであれば,ファウストは 音楽的であるべきでありましょう。抽象的で神秘的,つまりは音楽的というのが, ドイツ人の世界に対する関係だからであります……(XI S.1133)」 このようなドイツ人,ドイツ的なものの認識からトーマス・マンは,「ファウスト」 テーマと音楽とを結びつけることになったのだが,しかもrファウスト」伝説を生み だした精神的風土にも作品内にしかるぺき地位を与えるためには,作品の重層的構成 10 が要請されると言えよう。この重層性を必然的にする要因はほかにも存在する。この 作品は伝記形式であり,伝記記者である古典語学教授ゼーレヌス・ッァイトブ・一ム はトーマス・マンとおなじ時点に稿をおこしたように設定されている。すなわちツァ イトブ・一ムは,第三帝国の宿命的な没落の過程において,友人の生涯を物語るとと もに,この没落の過程を時代的にずれのある友人の伝記のなかに平行的に織り込んで いる。伝記のなかに伝記記者のおかれている時の諸事件,諸事象をもりこむことは, 他にあまり類例をみないと言えこそすれ,けっして必然的な手続きとは考えられない。 しかし逆に,ある時期,具体的に言えば第三帝国の没落期をそれに先行する時代との 関連において眺めるためには,伝記形式はまさに適切である。たとえば「レーヴァー キューンのこの非道な終末論的作品の分析を,これと不気味なつながりをもつ善良な ツァイトブ・一ムの時代体験(クリトヴィス家におけるきわめてファシズム的な談 話)の叙述と絡み合わせたいというのが,抜きがたい考えであった(XI S。243)」ト ーマス・マンにとっては必然的とも言える形式であった。くりかえして言えば,伝記 形式をえらんだことによって重層性が結果として生じたのではなく,焦点をもっぱら 主人公にしぼることをせず,主人公を主人公の地上的生命の枠組をこえた時代との関 連において眺めるという作品の意図が作品の重層性を要求し,伝記形式をえらばせた のである。 ッァイトブ・一ムは作品のこの意図を作中人物としての伝記記者の立場から直接作 中において表明している。 rこまかいことに拘泥すると言って失笑を買うことになるかもしれないが,わた くしとしては,この手記をはじめてからすでに1年近く立ち,最近の数章を書いて いるうちに1944年4月が訪れたことを読者にお知らせするのは至当なことと思う。 もちろんこの日付はわたくし自身が仕事をしている日付を言っているのであって, わたくしの物語が進行してきた日付,つまり前大戦の勃発より20ヵ月前の1912年 秋の日付を言うのではない……この二重の時の計算に何故わたくしの注意がとらえ られるのか,また語り手が活動している個人的な時と,語られることがらが演ぜら れている物語上の時とを指摘したい気持にわたくしが何故かられるのか,わたくし にはわからない。これは時の流れのまったく独得なからみあいであって,しかもそ のうえ第三の時,すなわち報告されたものを他日読者が愛清こめて受け入れる時と 結びつく定めをもっている。結果として読者は三重の時間秩序,読者自身の時, 年代記記者の時,歴史的な時とかかわりをもつことになるのである(VI S。334 11 f.)。」 ツァイトブ・一ムのこの記述は作品の本質にかかわる問題をはらんでいる。すなわ ち,作品がそれを受容するものと関係をもつことは作品の宿命であるが,作品の創造 者がその創造過程においてこの受容者を考慮するか否かは創造者の立場によってこと なる。いやむしろ近代芸術においては受容者について考慮するのは排される傾向にあ ったし,たとえばトーマス・マンの『トーニオ・クレーガー』に登揚する作家は,創 造のうちにいっさいの人間的な影響を拒否し,トーニオ・クレーガーも芸術的見地か らはこの態度を支持している。r創造の仕事にあたるものは感じることを許されてい る,などと信じている連中は能なしです。……芸術的であるのは,わたしたちのそこ なわれた,職人的な神経組織のおぼえる刺激感や冷たい仇惚感だけなのです。そのた めにはまず,超人間的,非人間的存在となり,人間的なものに対して妙に遠い,冷淡 な関係に立つことが必要で,そうでもなければ,人間的なものを演じたり,それを思 いのままにしてみたり,効果的に趣味豊かに表現したりすることは不可能ですし,そ んなことをやってみる気になることさえないでしょう。様式や形式や表現の能力から してすでに,人間的なものに対する冷やかな関係どころか,一種の人間的貧困,荒廃 が前提となるのです(VIII S.295f.)。」トーニオ・クレーガーにとって,芸術のこ の要請を是認しながら,なおかついかにして人間的なものとのかかわりをもつかが課 題であり,解決に達したとは言えないにしても,この課題を担いつづけることを決意 している。ツァイトブ・一ムが読者を,すなわち第三帝国崩壊後出版が許されて獲得 する読者を想定するのは伝記記者として当然であるが,とくにあらためて口にされ, その背景に『トーニオ・クレーガー』の作者が控えているという事情は,この作品そ のものに対する作者の常ならざる決意をうかがわせる。すなわち構成の複雑,緊密さ の点で他を凌駕するこの作品の完成後の運命を語り,それとそれに先行する時代とを 関連づけることによって,作者はこの作品に芸術,文学の枠をこえる性格を積極的に 賦与しているのである。 ツァイトブ・一ムの三重の時についての考察は,さらに主人公とこの三重の時との 関連を考えさせる。「歴史的な時」すなわち主人公の時は物語のなかでは1940年で終 わり,1943年にはじまる「年代記記者の時」は物語の発端から多声楽ふうにからん でもりこまれている。しかしこの「歴史的な時」は本来主人公の時であったろうか。 レーヴァーキューンの作品の分析を,これと不気味なつながりをもつ善良なツァイト プロームの時代体験の叙述と絡み合わせたい,云々というさきの引用はこの間の事情 12 を暗示している。すなわち,ツァイトブロームの時代体験の多くは表面的に言えば r歴史的な時」の枠内のものである。しかし主人公は内面的にはきわめて不気味な深 みをもつ存在であるにもかかわらず,時代体験の点では第三者の体験をまたねばなら ないほどに,時代との直接的なかかわりが稀薄なのである。このような主人公の内的 生活と外的関連との不均衡については後述するとして,このような主人公の性格から して,小説を成立させるための条件として,主人公と外的世界に介在する語り手が設 定されたのである。すなわち,主人公の内面的世界が小説の中心課題であれば,それ が内面化すればするほど十九世紀的小説手法では処理しきれなくなり,小説の形式一 般の解体に通ずる。この作品に即して言えば,主人公はその内面的深化と反比例して ますます孤独な生活をえらぶことになるし,作品そのものの中心課題も主人公の作曲 過程よりは作曲そのものであるという事情から,物語性は稀薄化せざるをえない。し かもこの作品全体としての物語性を確保するためには,主人公と外界との媒体となる 語り手が必要なのである。 しかしながら物語のなかに語り手を直接登揚させる手法は,たとえば『選ばれし 人』におけるように語り手の現実性を何らかの形で止揚しないかぎり,物語の内容を 空疎にする危険をはらんでいる。『選ばれし人』の語り手クレメンスは「物語の精神」 として設定され,その形而上的資格において人間の有する形而下的制約に規制される こ.となく,いついかなるところにも存在して,形而下的存在にはうかがい知れぬ出来 事を報告することができるのである。しかしこのような語り手の設定は,古典的・一 マの伝説の世界においては可能であろうが,芸術の特権である遊戯性を形式的にも内 容的にも表面化することの許されない『ファウスト博士』のような物語においては避 ξナられな‘ナれ5まならなし、。 この作品のなかで積極的に駆使されている「モンタージュ手法」は,語り手の設定 によって物語が貧困化するのを救い,しかも語り手がリアリスティソクな枠内にとど まることを可能にしている。実際の事件や歴史的事件や個人的事件を虚構のなかには めこみ,組み入れる技法をトーマス・マンは「モンタージュ手法」と呼んでいるのだ が,たとえば二一チェの伝記的事実の多くが主人公の生涯に組み込まれており,主人 公がいわば二一チェのかわりになっているため,二一チェに関するかぎりは時代的に 交差しているにもかかわらず,作品中に名前を出すわけにはいかないのである。語り 手を設定したトーマス・マンが作中に登揚するわけにはいかないのは当然であるが, しかしトーマス・マンの伝記的事実も主人公の生涯にはめこまれる。あらゆる面にわ たって駆使されるこのrモンタージュ手法」は,いわば引用であることを明示しない 13 引用であるが,これが通常の形での引用,たとえばrファウスト伝説」の作曲という ような形での引用とともに,作品の世界の内容を豊かにすると同時に,作品の有する 問題性が,作品の外に対してかかわりをもち,隠微な共鳴を生みだすのを助けている のである。 結論的に言えば,この作品の重層的構成やrモンタージュ手法」は,たんに作品の 完結性,緊密性を獲得するために用いられた技法ではない。この作品を外界と結びつ ける役割,これをトーマス・マンはこれらの技法に意識的に賦与したのである。こう して作品と結びつけられる外界は,しかしドイツ文化史,ドイッ精神史の枠内に限定 されることなく,むしろ積極的に枠は拡大され,ここに呈示される問題はたんにドイ ツ固有のものでないことが強調される。言いかえれば,二十世紀のドイツの直面した 問題はドイッ固有のものではないということなのである。ドイツ的なのは,この問題 に対決するその態度,問題解決のために選んだ手段,方法であった。悲劇性に陶酔を 覚える国民性を顧慮して,この小説の副題にrドイッ人の」という形容詞を与えるこ とを作者がためらったのは,このように問題そのものがドイツ固有のものではなかっ たからであり,それにもかかわらず,この形容詞を与えたのは,間題に対する態度の ドイッ的性格を否定しがたかったからである。 3.主人公と伝記記者 この作品の重層性はもちろん,外的なものとのかかわりをもつばかりでなく,作品 内においても相互にかかわりあい,絡み合って複雑さを増し,内的には一見無関連に 語られているとみられる挿話が,重大な寓意をはらみ,作品の意図に有機的につらな ることもある。ここでは主人公とその伝記記者とを主としてこの作品の構成を分析す ることにしたい。 すでにかんたんに触れたように,アードリアン・レーヴァーキューンの生涯には,’ 作者トーマス・マンの伝記的事実がモザイクのようにちりばめられている。1875年 生まれのトーマス・マンより10年後の1885年生まれの主人公ではあるが,ミュンヘ ンではトーマス・マンの母がリューベックから移り住んだランベルク街に下宿してい るし,さらにイタリア旅行中トーマス・マンは兄とともに・一マ近郊パレストリーナ に滞在したが,その宿の名がカサ・マリナルディであるのに対し,主人公が友人とと もに滞在したパレストリーナの宿の名は,カサ・マナルディであった。このようなこ 、 14 とは,遊戯的な意味ともとれるし,これらについての知識なしにはこの作品の理解が 妨げられるということもないが,作者としては,主人公がいかにネガティヴな性格を もち,批判さるべき存在であるとしても,これを自身の本質とは無縁な存在としてつ きはなすどころか,主人公が作者自身のもつ矛盾をひとしく内在させていることを暗 示し,それによって作品に自己批判の性格を賦与したのだと思われる。 たとえぱ,友人ツァイトブロームは,主人公の題材選択にみられる傾向,すなわち オペラや歌曲のテキストに外国語のものを好む傾向に注意を促し,オペラの揚合など は台詞を独訳すべきであるとすすめるが,主人公はこれを頑なに拒む。同時代の同胞 の理解をはじめから考慮に入れない主人公の態度を,ツァイトブロームはr尊大な世 間ぎらいとカイザースアッシェルン生まれゆえの古ドイツ的地方性の顕著な思想的世 界主義とから組み立てられているアードリアンの本質(VI S.219f.)」に由来すると 考えている。したがって友人とともにイタリアに滞在したとき,ドイツ人の声が聞こ えると逃げだすことにしていたアードリアンの,同国人に対する拒否的な姿勢は,題 材選択にみられる傾向と同一の次元のものと言えよう。ところが同国人に対するこの 態度は,イタリア旅行中の若いトーマス・マンが兄のハインリヒとともに示したもの と寸分たがわない(たとえぱ,Lebens&briB,XI S.103の記述)。さらにまた,主人 公の郷里の町ヵイザースアッシェルンは,「宗教改革発祥地方の中央,すなわちアイ スレーベン,ヴィテンベルク,クェードリンブルク,さらにはグリマ,ヴォルフェン ビュッテル,アイゼナハなどが描くルター地方の心臓部に位し」,「ザーレ河畔にあり, メルゼブルクの行政管轄区域にはいる(VI S,13仔.)」ことになっており,したがっ てライプツィヒの西,ハレの南にあたるが,このように地域的,精神的に限定された 仮空の町の描写にあたってトーマス・マンは,かつてその故郷の町リューベックの姿 をもりこんだいくつかの作品から「引用」している。いや,この「モンタージュ」 の結果,リューベックと仮空のカイザースアッシェルンはほとんど同一の姿を呈して いるとさえ言える。このことも作者と主人公とを同一次元内にとらえさせる積極的意 し図からでたものと推定されるが,さらに見落せないのは,主人公の郷里の町の設定に おけるルター的性格の強調である。リューベソクも有力な新教都市のひとつであり, したがって主人公の郷里と設定されても,条件として欠けるところはないが,しかし トーマス・マンの作品の世界のなかで,リューベックはハンザ同盟都市としての側面 がすでに強調されていて,あらためてそのルター的都市としての性格を浮き彫りにす るのは困難であったろう。しかもルター的精神,プ・テスタンティズムはこの作品の 主題にかかわる問題であるという事情もあって,主人公の町はぜひともrルター地方 15 の心臓部」になければならなかったのである。しかもこの町は地域的に限定されてい ながら,しかも仮空の町であることによってその象徴的意義を確保している。すなわ ちこの町は,地域的にははなれていても,同時にリューベックでもあ窮 またそのほ かの新教都市でもありうるのである。 主人公がこのようにして作者との密接な関連におかれる一方,伝記記者ツァイトブ, ロームは,生の外形的部分において作者と決定的な差異を示しながら,思想的には, とくに文化観,政治観の分野ではトーマス・マンと共通する部分を有している。この ことは,主人公と作者との関連同様,たんに作者の作中人物への投影とのみ理解され るべきではなく,重層的構造の一局面とみるべきであろう。ここにトーマス・マンが 自己自身をもりこんだのはr自己告白」の行為であるが,この自己告白によってトー マス・マンが意図したのは,ドイッ精神の自己検討であり,自己批判なのである。こ の作品とまったく同一の精神的基盤に立つ『ドイッとドイツ人』についての講演のな かでトーマス・マンは,rここで時代に迫られてわたくしがやってみようと試みたこ と,それはドイツの自己批判行為であります(XII S、1146)」と言っている。 しかしここでとくに作者と作中人物とのつながりに触れたのは,両者が多くの点で の差異を示しているにもかかわらず,作者において統一され,作者自身「両者が同一 人物であるという秘密(XI S.204)」をほのめかしているので,この両者をとりあげ るのがけっして偶然でないことを指摘するためである。 主人公が音楽に生涯を捧げようと決意したのは1905年20歳のこ・ろであったが・こ のとき主人公はすでに音楽の本質,その可能性,限界を見究めており,その後の研究 はこの洞察の確証であり,作曲活動はこの限界からの脱出のこころみであった。 ギムナージウムの生徒であったころ,主人公はべ一トーヴェンを中心とする連続講 演を聞くが,この講演のなかでべ一トーヴェンの苦悩にみちた姿が描き出される。す なわちこの音楽家はきわめて個性的に,「音楽に内在するいっさいの因襲的なもの, 形式的なもの,修飾的なものを個性的表現によって併呑し,主観的なダイナミズムの なかに融解しようと考えていた」。 しかし「たとえば最後の五つのピアノ・ソナタに おけるように後期のベートーヴェンの因襲的なものに対する関係は,独得の並はずれ た性格の音楽であるとは言え,それ以前とくらぺればまったくちがって,はるかにゆ るやかで好意的である。晩年の作品には因襲が,主観的なものによって触れられもせ ず変化させられもせずにしばしば現われる。いってみれば,むきだしで,あるいは吹 き出されたような形で,自我に見捨てられて現われるのであるが,それがまたあるゆ 16 る個性的な冒険よりもおそろしくも威厳あふれる効果を生む。このような作品のなか では主観的なものと因襲とがあたらしい関係を結ぶ,死によって規定された関係であ る(VI S.73f.)」。 ここで語られている,因襲的なものに対するべ一トーヴェンの二様の態度は本質的 な差異をもつものではない。音楽が宗教に対する奉仕者の役割を捨てて世俗化しはじ めて以来,すでに存在する形式の何らかの形での否定が音楽の宿命になったのである。 言いかえれば音楽をr礼拝的ないっさいのものから分離し,孤独で個性的なもの,文 化的自己目的的なものへと解放し高めたことは,音楽に他とのかかわりのない荘重さ, パ トス 絶対的な厳粛さ,苦悩への激情を負わすことになった(dito S.82)」。 こうしてあら ゆる拘束から脱し,認めうる権威を自己自身にしかもたない自我,「絶対性のうちに いたましく孤立した自我(dito S・73)」の凄惨な姿を講演者は,フーガ形式とたたか うべ一トーヴェンの姿に託して語る。フーガ形式と本格的に取り組まないのは,フー ガ形式を知らないからだ,という世評に反駁を加えるため,この伝統的形式によって 荘厳ミサ曲を作曲したが,この作曲中ベートーヴェンを訪れた友人たちは,「血管の 血が凍りつくほどぞっとするような感動にとらえられる」,rまるで対位法の悪霊と 生死を賭して戦ったあとのようであった(ditoS,81)」。 この戦いのあいだベートー ヴェンは文字どおり寝食を忘れて作曲に没頭するが,ときならぬときに食事をしよう として,女中たちが寝ていたとなると,たちまち瘡癩を破裂させ,r君らはいったい 一時間もわたしといっしょに起きていられないのか?(ditoS,80)」と喚く。ここで べ一トーヴェンの口からもれた言葉は,ゲッセマネのキリストが弟子たちに思わず口 にした叱貴の言葉とおなじ言葉である。 講演者クレッチュマルは,ドイツ系アメリカ人として設定され,そのゆえにアメリ カについても語ることができるのだが,最後の講演のなかでペンシルヴァニァのある ドイツ系バプティスト団体と,そこでおこなわれている音楽について語る。この団体 とその指導者ヨーハン・コントラート・バイセルは,フィクションではなくて,『フ ァウスト博士』執筆中トーマス・マンが知人から教えられた実在の宗教団体であり, 人物であって,「モンタージュ」の典型とも言えよう。組織的な教育を受けたことのな かったバイセルは,宗教的覚醒のあと独学で宗教団体の指導者としてふさわしいもの を身につけていったが,讃美歌の作詞をすすめてゆくうちに,作曲家としての役割を も演ずぺきだ,との霊感をえた。50の坂をこえてからの音楽理論の習得は不可能と も言えた。そこでバイセルは,それまでの音楽理論の成果をまったく無視してあたら しい理論体系をつくりあげ,それによってまったく感動的な音楽を生みだすことに成 17 功した。「わたしはイギリスやフランスやイタリアのオペラ劇揚に行ったこともある。 しかしそれは耳のための音楽であった。だがバイセルの音楽は一音一音が魂に深く食 い込んで,もはや天国の予感とも言えるほどのものであった」とクレッチュマルは父 親の言葉を紹介し,r偉大な芸術は,いわば時代をはなれ,時代の偉大なコースをは なれたとき,この種のささやかなエピソードを発展させ,忘れられた脇道をとおって かくも独得の至幸に達することができる(VI S.93)」と結んでいる。バイセルの音 楽は何よりも宗教音楽であり,したがって宗教に奉仕するものであった。そしてその 音楽理論はきわめて単純であり,したがってその理論の拘束性はきわめて強かった。 クレッチュマルはバイセルを音楽のもつ可能性のひとつとして呈示したのかもしれ ないが(少なくとも伝記記者ツァイトブ・一ムはおなじ講演を聞いてそのような印象 を受けている),主人公はバイセルの音楽に,べ一トーヴェンの音楽の指向するとこ ろとは正反対の可能性を見出した。むしろべ一トーヴェンの指向する音楽は,べ一ト ーヴェンによって達成され,すでに可能性がないと洞察したのである。伝統的なもの に批判的な距離をおき,しかもべ一トーヴェンのように伝統的なもの,因襲的なもの の克服や無視によって無拘束性の世界へ突入するのではなく,それとは正反対にまっ たくあたらしい拘束を生みだし,その拘束にみずから服する主人公の音楽の特質は, バイセノレの音楽と共通点をもつ。それゆえにこそ,すなわちバイセルの音楽にあたら しい音楽の可能性を暗示する点がみとめられるがゆえに,その音楽の単純さを嘲笑す るツァイトプ・一ムに対して,主人公はバイセルを弁護する。音楽には感覚性が付着 しやすいが,これを除去し,感覚性のもつ熱作用を冷却させることができるのは秩序 であり,法則性である。ところがバイセルはこの秩序感を有している。rおろかな秩 序にしたって,全然ないよりはましだからな(ditoS.94)。」主人公はすでに音楽に おける感覚性の否定を指向するばかりでなく,人間における感覚性の典型的なもの, すなわちその愛そのものに対して懐疑的である。 「愛がいちばん強い情熱だと思うかい?」とアードリアンはたずねた。 「もっと強いものがあるのかい?」 「うん,関心さ」 「それはたぶん,動物的な熱を抜き取った愛ということだね?」 「その定義で手を打とう!」 アードリアンは笑った(ditoS.95f.)。 すなわち主人公はすでに音楽に身を投ずる以前から,音楽から人間的なものを排除 する方向に音楽の可能性を見出しているが,芸術に対するこのような考え方は,すで 18 に引用したとおり,卜一ニオ・クレーガーの確信であった。しかしトーニオ・クレー ガーがこの確信と入間的なものへの愛をいかにして調和させるかに苦慮するのに対し て,アードリアン・レーヴァーキューンはその確信の指示する方向を辿りはじめる。 バイセルの音楽にはさらにひとつ重要な寓意がひそんでいる。すなわちバイセルの 音楽は過去の成果を無視してあたらしいものを生みだす点で革命的であり,しかもそ れの辿りつく点が原始的状態である点で反動的である。バイセルの音楽に,ファシズ ムを象徴する性格があることは,その価値をおとしめることにはならないが,重要な 点はこの象徴性をアードリアンが見抜き,それによって象徴されるものを首肯してい る点である。「文化の理論は歴史的にみればひとつの過渡的現象であり,ふたたび他 のもののなかに没してしまうかもしれないし,かならずしも未来を担うものではな い(VI S.82)」というクレッチュマルの言葉に主人公は支持を与える。 「しかし文化にかわるものと言えぱ,それは野蛮ということになる」とわたくし (ツァイトブ・一ム)は反論した。 「いいかい」とアードリアンは言った。r野蛮は文化の反対物だが,そう言えるの は,文化によってわれわれに与えられている思考秩序のなかだけだ。この思考秩序 から一歩外に出れば反対物はまったく別のものかもしれないし,およそ反対物なん ぞでないかもしれないんだ(dito)。」 そればかりか主人公は,「われわれがふたたび文化をとりもどすためには,もっと もっと野蛮にならなくてはならないということもまた疑う余地がない(dito s,83)」 とも言うのである。 トーマス・マンは,ヴァンダーフォーゲルあるいはそれに似た団体の発行した青年 雑誌を利用して,主人公をまじえたハレ大学神学部学生の会話の章を書きあげている が,ここではベートーヴェンによって予感的に表現された現代的苦悩が,少なくとも 学生のあいだでは一般的意識内容となっていることが示されている。 rいろいろ言うことはあるだろうが,国民的なものは度外視して,問題性を現代 人の実存と結びつけるべきだろうな。昔は存在に対する直接的な信頼というものが あった。これはあらかじめ存在する全体秩序,つまりは,告知された真理への一定 の指向性をもった宗教的性格の秩序,この秩序におさまっていた結果生じた信頼な のだが,この秩序が消えてからというものは……すなわちこの秩序が崩壊し,現代 社会が成立してからというものは,人間と事物に対するわれわれの関係は無限に屈 19 折し,複雑化し,もはや間題性と不確実性のほかは何も存在せず,真理への構想も あきらめと絶望のうちに終わりかねない状態だ。この解体状態のなかにあつて,秩 序を生みだすあたらしいカヘの手掛りを期待しているのが一般状況なのだ。もっと もわれわれドイツ人の場合にはこの期待の念はとりわけ真剣,切実であるのに対し て,他の民族がそれほどこういう歴史的運命に苦しんでいないことは認めるがね, かれらのほうが強靱なせいなのか,それとも鈍感なせいなのか……(VIS、166f)。」 他の学生たちが問題を民族的視野から,民族的自負心をもって眺めているのに対し て,これは,問題性を現代社会一般の次元でとらえている学生の発言である。この発 言のなかに民族的自負心への譲歩を見出すことは容易であるが,さらに淀目すべきは・ 他の学生も,多くは神学を学んで聖職者への道を予定されているにもかかわらず,こ の発言のなかの現代社会の状況描写を基本的には否定できない点である。聖職者の卵 が,社会秩序の解体過程のなかで拠りどころとして宗教以外のものを探しもとめるに 至って,現代社会の精神的解体はまさに一般化したと言えよう。数年後音楽に身を投 じた主人公は,自身の生きる時代をr因襲が破壊され,あらゆる客観的拘束性が解消 した時代,要するに自由がかびのように才能にへばりつき,不毛の諸特長を示しはじ めている時代(dito s.253)」と規定し,市民社会,市民文化の基本理念としての自 由のもつ宿命についてr自由は期待されていたことをしばらくはやってのける。しか し自由なるものは主観性を表現する別の言葉で,いつの日にか自身を持ちこたえられ なくなる。いつかはおのずから創造的であるという可能性に絶望して,客観的なもの に庇謹と安全の保障を求めることになるのだ。自由はつねに弁証法的転化の傾向をも つ。自由はたちまち,自身が束縛されていることを認識し,法律,規則,強制,体制 に従属して自己を充足する(dito)」。主人公にとってこの時代認識は同時にその芸術 認識なのである。芸術の可能性は主観的なものの排除による以外には見出すことがで きない。芸術の自由とは,それが自らつくりだした厳格な法則への従属にしかない。 このような主観性の排除は,さらにほとんど不可能ともいえる課題を芸術に与える。 すなわち作品というものは,存在の自明性を要求し,自明的に存在するようにみえる ことを願うものであるが,そのような要求,そのような遊戯は許されない。自明性は 作品の要求するものではなくて,作品にはじめから内在するものでなくてはならない。 ツァイトブ・一ムもこの点で主人公と見解をともにして,「われわれの意識,われわ れの認識,われわれの真理感覚が今日のような状況にあるとき,そのような遊戯がな お許され,精神的に可能であり,真剣に扱われるかどうか,自足的,調的なまとまり 20 をもつ構築物としての作品などというものが,われわれの社会状態の完全な不安定性, 問題性,不調和性とに何らかの正当なる関係をもっているかどうか,どんな見せかけ じ じ も,もっとも美しいものでさえ,いやまさにもっとも美しいものこそ,今日では虚偽 と化さなかったかどうか,それが問題になる(VI S.241)」。主人公の考え方とツァ イトブ・一ムのそれとの差異は,後者が芸術価値の不変性に対する疑惑の色彩をもっ ているのに対し,主人公がこの考え方を軸として,仮象としての自明性でなく,真の 自明性をそなえた作品を志向する点にある。 この志向の実現を規制するのが,コンラート・バイセルの音楽の暗示するr厳格な 法則」である。近代音楽の基礎としての平均律的音組織を否定して,12ゐ音に平等 の資格を与えることから組み立てられた音楽理論が,そしてその理論のもつ「厳格な 法則」性が,作曲者の自由を完全に制約する。志向そのものと方法自体の不可能性は, 主人公に重大な決意を抱かせる。自己自身の能力を極限まで高めるため,主人公は積 極的に病毒を自身の胎内に導入するのである。二一チェの生涯に推定される事柄を, トーマス・マンはレーヴァーキューンの生涯のなかにrモンタージュ」しているわけ であるが,二一チェとおなじく主人公もその後,病的な高揚と沈滞をくりかえすこと になる。 したがって,パレストリーナで主人公の前に悪魔が現われたという事件はこの病的 過程の一現象である。ところで,この悪魔は主人公の病的高揚から生まれた幻想であ り,主人公の「内的世界の投影」である。それゆえ,主人公の遺した「悪魔との対話」 は,主人公の内面における対話にほかならない。ゲーテの『ファウスト』におけるメ フィストーフェレスが,完全なる客観的現実として主人公と外界との媒体の役割を果 たし,イワン・カラマーゾフの悪魔がイワンの内面における悪の化身であるのに対し, レーヴァーキューンの悪魔は主人公のr総体としての内的本質が昂進,強化されたも のである」というのは,ルカーチの卓抜な性格規定である(Georg Lukゑcs:Tllo− mas Mann.Berlin1957S.62鉦、)が,こ,のレーヴァーキューンの悪魔の悪魔性は, 主人公に対するこの悪魔の内面化への強制力にある。もちろん主人公は本来的に内面 化の傾向をそなえている。たとえば主人公の「笑い」のモティーフに象徴されるもの は,他者との人間的なかわりあいよりは,他者の拒否なのである。この笑いは他者に 対する批判的距離の表現であって,主人公の天才性と結びついて考えられるものであ るが,このような天才性は,愛というもの,社会的なもののもっとも単純な形態を可 能にする要素を認めることがない。すでに引用したように,主人公は愛のもつ機能を 「関心」によって代替させようとするほどに愛に対して拒否的であった。しかもこの 21 態度は芸術のあり方に対する確信,すなわち芸術から人聞的な要素すら排除しなけれ ばならぬという確信によって裏打ちされる。そして主人公の生活はこの態度,この確 信によってほぽ一貫しているが,それにもかかわらず妖精のように可愛らしい甥に人 間的な愛情を覚える可能性も秘めているのである。高揚した自我の反映としての悪魔 は,こ・のような可能性を予感するがゆえに,主人公の愛の断念を契約の条件として呈 示する。すなわち悪魔は,主人公の確信にたがをはめ・拠棄しがたいものとするので ある。主人公と,その高揚した自我とのあいだに差異あればこそ,r対話」が成立す ることになるのだが,さしあたってこの「対話」は自身の確信の自己検証にほかなら ない。 この間の事情に対応するのが,悪魔との契約行為はすでに積極的な罹病によって済 まされているという事実である。いずれにもせよ,主人公の内面化の過程はますます 進行し,「心のうちに世界中をさがしまわり,たずねまわって,ほんとうに世間から 隠れることができ,静かにぼくの人生,ぼくの運命と対談できる揚所(VI S.280)」 を物色し,その願望にふさわしい土地がえらばれる。そががまず「悪魔との対話」の おこなわれたパレストリーナであり,イタリアからの帰国後ただちにミュンヘンから 移り住んだ仮空の村プファイフェリングである。 主人公アードリアン・レーヴァーキューンのそれ以後の運命の展開についてはしば らくおくとして,ここでふたたぴゼーレヌス・ツァイトブロームについて考えてみた い。古典語学者ッァイトブ・一ムは,古典語に対する関心が,人間の美と理性的尊厳 とに対する生き生きとした感覚と内的に結びついていると考えているのだが,しかし このことは人間的なものの否定によって創造性を確保しようとした主人公の伝記記者 として不適格であることを意味しはしない。いかなる人間的領域も,暗黒の力の影 響を受けないではいられない,「文化とは暗黒の途方もない存在に敬慶な態度で秩 序を与え,言いうべくんばこれのカを緩和させつつ神の礼拝に関係づけることである (dito S・17)」と確信している,ツァイトブ・一ムは,暗黒を指向した主人公の考え 方に影響力を行使して,その試みを阻むことはできなかったが,それにもかかわらず, 終始主人公をいたわりの目をもって眺めつづけたのは,このような確信を抱いていた からである。 この確信はまた,トーマス・マンの共有するところであり,マンが『非政治的人間 の考察』において,西欧デモクラシーに対して重大な疑惑を投げかけたのは,デモク ラシーにこのような文化理念を発展させる能力がないのではないかと危惧したからで あり,『ドイッ共和国について』以来ヴァイマル共和国擁護の立揚にまわったのは, 22 反デモクラシーの潮流には,暗黒への指向のみがあって,暗黒に光を投げかけ,これ に文化の秩序を与える努力が欠けているのに反し,デモクラシーの体制にはフマニテ ートの可能性があると判断したからである。このようにトーマス・マンの文化理念は 一貫していたが,それにもかかわらず,あるいはそれゆえにこそマンは偏向を見せた。 たとえば第一次大戦の勃発にあたっては,こ・れを停滞的状況からの民族の脱出の試み と感じ,第一次大戦終了後もしばらくは国粋主義的なサークルと関係をもっていた (これらの点についてはKurt Sontlleimer:Thomas Mann und die Deutschen。 M伽chen1961.がくわしい)。1922年のいわゆる「変節」には,こういうサークルと の交遊とそれに対する幻滅が先行しているわけだが,卜一マス・マンのこの時期の考 え方と,ツァイトブ・一ムのそれとはほとんど共通していると言える。 たとえばツァイトブ・一ムは,1914年の戦争の勃発について「わがドイツでは戦 争が何よりも高揚,歴史的興奮,打開の喜び,日常の拠棄,もはやいかんともなしがた い世界の沈滞からの解放,未来への陶酔,義務と勇気に対する訴え,要するに英雄的 祝祭として作用したこと,これは否定しがたい(VI S・399)」と言っているが,これ は一般的気分についての客観的な記述であるばかりでなく,ツァイトブ・一ム自身も この気分をわかちもっていた。トーマス・マン同様,帝政とその担い手に対しては深 い侮蔑感を抱いているツァイトブ・一ムであるが,それにもかかわらず国家と民族と を一体視する素朴さももっていたのである。そしてそのような素朴さは第二次大戦に いたってもなおツァイトブ・一ムのうちにその痕跡をとどめており,第三帝国の指導 者に対する深い嫌悪を抱きながらも,ドイツ軍の戦果に対する反射的な感激にとらえ られる。ッァイトブ・一ムがトーマス・マン同様に第一次大戦以降の精神史的潮流に 深い危険を予想し,第三帝国の営みを否定しながらも,結局はドイツ国内にとどまっ たのは,心的なものを第一義的に考え,政治的,社会的なものについては副次的なも のとして軽視するか,あるいは国家の行為を民族,国民の次元に還元し,きわめて抽 象的にしかとらえられないところに由来するといえよう。しかしこれも,この小説の 構造,すなわちその重層的構造を成立させるための必要な性格規定であった なるほどッァイトブ・一ムの国家観は,「共同体生活というより高度の形態への打 開のため一民族のとるべき手段は一その揚合,流血が不可避であるのなら一外部 へ向かっての戦争ではなくて,内乱であるぺきであろう(dito S.400)」というほど に深化する。この考え方は,BBC放送を通じてドイツ国民にナチ体制に対する反逆 を訴えたトーマス・マンの態度と相通じていると言えよう(XI S,986)。しかしこの ように,観念的,思想的次元に共通性が見出されるだけに,両者の現実における行動 23 の差異が顕著になる。ツァイトブ・一ムはその反体制的精神を,教職からの隠退とい う形でしか表現できないのである。そして,ナチ体制によっては容認されることのな い友人レーヴァーキューンの伝記の執筆がツァイトブ・一ムの生活内容であるのだが, しかもレーヴァーキュンの音楽は,前ファシズム的精神土壌ときりはなしがたい性格 をそなえているのである。 (未完) (引用のあとの・一マ数字はGesammelte Werke in zw61f Banden,S。Fisher Verlag、 1960の巻数を示す。) Thomas Mam:Do肋γFα粥伽3. Das Leben des deutschen Tonsetzers Adrian Leverk丘hn erzahlt von eine皿 Freunde.
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