「ブランド茶農家」 の人生: 藤川で茶に生きる

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「ブランド茶農家」の人生 : 藤川で茶に生きる
大森, 基予子
静岡県川根本町藤川. - (フィールドワーク実習調査報告書
; 平成20年度). p. 71-89
2008
http://hdl.handle.net/10297/3394
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ブランド茶農家の人生~藤川で茶に生きる~
「ブランド茶農家」の人生
~藤川で茶に生きる~
大森 基予子
まえがき
1 藤川の茶業
1.1 茶の基礎知識
1.2 藤川の茶業
2 「お茶惚け(ぼけ)
」おじさんの語り―山口晴雄さん
2.1 苦労と努力、そして栄光―晴雄さんの半生
2.2 お茶惚け―茶への思い
2.3 縁の上下の力持ち―妻恵子さんの語り
3 究極に茶業を楽しむ―高田惠夫さん
3.1 志高き少年時代、名声、まだまだ現役―惠夫さんの半生
3.2 「楽しくてしょんない」―茶への思い
3.3 高田家の事情―将来像
4 考察
あとがき
まえがき
今回の調査地である藤川地区は、有名な川根茶の中でも最高峰の品質を誇る茶の名産地である。
茶に関する文献等は多くあるが、せっかく生で茶農家の方のお話を聞けるチャンスである。私は、
茶を生産する「人」に焦点を当ててみたいと思った。茶で全国優勝を成し遂げるような猛者は、
一体どのような人生を歩んできたのだろうか。藤川で巡り逢えた 2 人の素晴らしいインフォーマ
ントの語りを通し、茶業への思いや仕事というものの捉え方について考察できればと考える。
なお、本文中のデータは特に注釈がない限り平成 20(2008)年 6 月時点のものである。
1 藤川の茶業
1.1 茶の基礎知識
一口に茶といっても日本茶、紅茶、烏龍茶と幅広い。これらはみなツバキ科のチャという植物
の葉から作られているが、製法によって見た目も味も大きく変わる。紅茶や烏龍茶が茶葉を発酵
させて作るのに対し、日本茶は茶葉を摘み取ったあと蒸して発酵を止めるため、独特の旨味と香
りが得られる。
現在では品種改良によってチャからさまざまな品種が作られている。本章で主に注目する日本
茶では「やぶきた」という品種が全体の 7 割を超えるシェアを誇る。
日本茶は日本全国で生産されており、種類・銘柄は多種多様でそれぞれ味や色、香りが異なっ
ている。なかでも静岡県は茶どころとして知られ、茶園面積や生産量、産出額などにおいて全て
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日本一1である。
また、日本茶の中でも製法や栽培法によってさらに分類される。煎茶(葉の蒸し具合によって
普通蒸し煎茶と深蒸し煎茶に分けられる)
、番茶、玉露、かぶせ茶、玉緑茶、てん茶とそれを加
工して作られる抹茶、煎茶や番茶を加工して作るほうじ茶や玄米茶などが代表的である。その中
でも煎茶は日本の茶生産量の約 80 パーセントを占めており、今回伺った茶農家でも主力商品と
して生産されていた。
収穫時期によっても呼称が異なる。その年の最初に収穫したものが一番茶、次いで二番茶、三
番茶、四番茶と呼ばれ、その他は総称して冬春秋番茶と呼ばれる。早くに収穫されたものほど上
等とされる。
それでは、煎茶、番茶、玉露などの製造工程を簡単に説明しよう。次の表 1 を参照されたい。
表 1 日本茶の製造工程
4~5 月の茶の新芽が出る時期に一番茶が収穫される。
①
摘み取り
二番茶は6~7月頃である。
今回訪れた藤川地区は山間地で標高が高いため、一般的な時期
よりやや遅れて 4 月の終わり頃2に一番茶が収穫される。
②
③
⑤
⑥
⑦
冷却
摘んだ生葉(なまは)に無圧の蒸気を当てて蒸し、茶葉の発酵
を止める。
蒸熱した茶葉を冷やし、表面の水分を取り除く。
粗揉
そじゅう
揉捻
じゅうねん
中揉
茶葉に熱風と力を加えながら揉み、乾燥させる(揉捻では熱を
加えない)
。
ちゅうじゅう
精揉
せいじゅう
茶葉を乾燥させて水分を 7~8 パーセントくらいにする。
⑧
乾燥
⑨
整形、選別
⑩
火入れ乾燥 仕上げの乾燥をし、さらに香りを立たせる。
包装
乾燥の終わった茶葉を「荒茶(あらちゃ)
」という。
ふるいにかけて荒茶に混じった茎や葉、粉などを取り除く。
また、切断して形を整える。
完成!
静岡県はどの統計でも全体の 4 割強を占める。
他に有力な産地として鹿児島県、三重県、京都府などがある(農林水産省 2008)
。
2 ヤマノイブキなど早生(わせ)の品種は 4 月 20 日頃から収穫。
1
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仕上げ
⑪
荒茶製造工程
④
蒸熱
じょうねつ
ブランド茶農家の人生~藤川で茶に生きる~
①は茶を栽培している農家全てが行う。②~⑧は「荒茶」を作る行程で、専用の機械が必要な
ためそれを保有している茶農家や茶商、農協などに依頼する場合もある。⑨~⑩の行程は「仕上
げ」で、同じく専用の機械が必要である。茶農家の選択肢としては生葉を栽培するのみか、荒茶
製造までを行うか、仕上げまで全て行うかに分かれることになる。全ての工程を行う茶農家は、
良い茶葉の栽培と機械の調整両方に心血を注ぐ必要があるということだ。
また、茶農家は自分の作った茶をコンテストに出すことができる。社団法人日本茶業中央会が
開催する全国茶品評会3は平成 20(2008)年で第 62 回を数える茶の全国大会だ。この品評会の最
高賞は農林水産大臣賞である。さらに、優秀な成績を収め農業活性化に貢献した農家には、秋の
農林水産祭において天皇杯や内閣総理大臣賞が授与される。天皇杯は農産、園芸、畜産、蚕糸・
地域特産、むらづくりなど部門別になっており、これを受賞することは大変難しいと同時に名誉
なことでありネームバリューも高い。
1.2 藤川の茶業
『決定版 お茶大図鑑』の「産地別お茶リスト」には、川根茶が以下のように紹介されている。
「産地である中川根町は、山間地にあり、平地に比べて日照時間が短いため、渋みが抑えられた
お茶に仕上がります。さらに大井川の川霧が茶葉を覆って守ります。川根茶の味は、山間地のお
茶にしかない、独特の香りとコクのある旨みが特徴です」
(主婦の友社 2005)
。
このように、川根茶は昔から自然条件を活かして作られてきた4。製茶の機械がない時代は手
揉みが主流で、川根揉み切り流という地域独特の手揉み流派も生まれた。
名高い川根茶の中でも藤川地区の茶農家は一段とレベルが高い。昭和 20 年代の全国茶品評会
発足当時から藤川の茶農家は上位に入賞している5。初代全国優勝は埼玉県の茶農家だったそう
だが、そこへ藤川の茶農家の人が研究に行き、
「あれくらいならうちだって優勝できる!」と意気
込んで帰って来たそうだ。おかげで藤川地区全体が発憤し、全国優勝への努力が始まったという。
また、昭和 25(1950)年から行われている静岡県製茶品評会でも、1 等 1 席をはじめ藤川の茶農
家が上位に名を連ねない年はないほどだ。この理由として、
「藤川は日当たりの面で近隣の地区
よりさらにいい」ということを聞いた。自然条件の有利さと、茶農家の人々の努力の積み重ねが
こうした結果につながっているのだろう。
一方、時代の変遷などによって様々な問題も出てきている。ここ数年茶の相場が低迷しており、
特に零細農家には大きなダメージとなっている。地元の農協に売っても採算が取れないため、多
くの茶農家は通信販売で小売りを行っている。
こうした現状の原因と言われているのが、お茶離れとペットボトルの緑茶飲料による圧迫であ
る。お茶離れとは家庭で茶を淹れなくなったことを指している。企業の贈答品としての高級茶需
要も減少しているという。一方でペットボトル茶生産量は平成 6(1994)年の約 38.8 万キロリットル
から年々増加し、
平成 17(2005)
年の 264.5 万キロリットルと大躍進を遂げている。
平成 19(2007)
年もやや下がるもののほぼ安定しており、家庭での購入金額でもこの年初めて緑茶を上回った6。
3 第 62 回品評会では静岡県で 3 名の茶農家が受賞した。そのうち 2 名は川根本町の茶農家。入賞者には今回のインフォ
ーマントも名を連ねていた。
4 中川根地域の茶の歴史については本書所収尾沼報告を参照。
5 県製茶品評会成績より。
6 日本茶業中央会 公開情報より。
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ペットボトル茶に対する思いは茶農家によって様々だ。
「本当のお茶ではない」といった否定的
な意見もあれば、比較的協力的な姿勢の人もいる。
他にも、インターネットでの通信販売を導入するなど新たな動きもある。また藤川地区全体が
高齢化しており、後継者のいなくなる茶畑をどうするかなど課題は少なくない。
2 「お茶惚け」おじさんの語り―山口晴雄さん
実習 2 日目、副区長の O さんに紹介されて初めて晴雄さんと出会った。いかにも作業中とい
った風体で手ぬぐいを首にかけ現れた晴雄さんは、つぶらな瞳が印象的な素朴で控えめなおじさ
んだった。O さんが調査の説明をしてくれた折には、
「俺の話なんて聞いても」と断られかけた
ほどである。なんとか食い下がってお宅の玄関先にお邪魔すると、おもむろに新茶を 1 袋差し出
された。なんと手土産にくださると言うのである。晴雄さんの口数の少なさと無表情に少々萎縮
していた私だが、そんな心遣いと、手ずから淹れてくださったお茶にほっと和ませてもらった。
山口晴雄さんは御年 70 歳の現役茶農家である。家の前に 6 反歩7の茶畑を、家の側の作業場に
は 35 キログラムの製揉機8を所有しており、妻の恵子さんと 2 人で茶葉の生産から荒茶への加工
までを行っている。5 月上旬の繁忙期には息子の幸久さんも手伝いに入り、晴雄さんと交替で一
晩中製揉機を回す。できた荒茶は近所の茶商 K さんのところで仕上げ加工されて商品となり、
晴雄さんの茶園すなわち山口園で販売される。販売方法は電話と FAX による通信販売のみで、
値段は商品によって 1 キログラム 3000 円台から 2 万円まで様々である。自分の生産した茶葉以
外にも、腕を見込まれて代金と引き替えに人の茶葉を揉んでやることがあり9、毎年 20 軒ほどの
依頼があるため新茶の季節は大忙しとなる。それでも機械を導入したことで昔よりは作業時間が
短縮したと晴雄さんは語る。現在妻の恵子さん、息子夫婦、孫と同居している。
写真 1 山口晴雄さん(右)と惠子さん。実習中ご自宅にて。
約 0.6 ヘクタール。1 反歩=300 坪≒991.74 平方メートル≒0.1 ヘクタール。
35 キログラムとは生葉 35 キログラムを入れるサイズという意。最大 240 キログラムのものまであるが、晴雄さんに
よると 35 キログラムの機械が一番上手く揉めるとのこと。
9 「賃揉み」と呼ばれる。
7
8
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ブランド茶農家の人生~藤川で茶に生きる~
2.1 苦労と努力、そして栄光―晴雄さんの半生
山口晴雄さんは昭和 12(1937)年 9 月 6 日藤川に生まれ、以来ずっと現在の家で農業を営んで
こられた。
家はもともと農家で、お茶や米、サツマイモなどを育て、山では椎茸や炭を作っていた。その
関係で茶摘みは生まれた時からやっていたし、茶葉の手もみは父から教わった。藤川の小学校に
は 5 月に 1 週間ほど
「茶摘み休み」
があった。
中学校は大井川を挟んで対岸の徳山地区に通った。
中学校でも 3 日ほどの茶摘み休みがあった。その頃は牛も飼っていたので、牛乳の瓶を抱えて学
校のついでに配ることもした。中学卒業後はずっと農業に従事した。
兄弟は多かったが長じたのは 5 人。晴雄さんの上に兄 1 人姉 3 人がいたが、兄が戦死したため
晴雄さんが山口家を継ぐことになった。
晴雄さんは 20 歳の時に同い年の恵子さんと結婚した。その当時すでに両親とも高齢であった
ため、若い 2 人は「自分たちが頑張らなくては」という思いで必死に働いた。
昭和 40(1965)年頃、惠子さんと 3 年かけて田んぼや白畑10を開墾し全て茶畑にした。作業がし
やすいようにと、交渉して家の周りに畑を集める工夫もした。それまで家族で食べるには充分な
量の米が取れていたため、父はこの計画に賛同を渋っていた。それを説得し開墾に踏み切った理
由は、減反政策11と茶バブルである。この頃だんだんと茶の値段が上がってきており、米と茶を
両方作る手間よりも茶のみに集中していいものを作った方が金になるとの判断であった。何しろ
田んぼと畑両方をやると、一番茶と二番茶の作業の間に田植えが入り、初夏は目が回るほど忙し
いのだ。
しかし、やはり開墾後すぐに儲けが出るというわけはなく、晴雄さんと惠子さんは老人 2 人と
子ども 2 人を抱えたこの頃が最も経済的に苦しかったと述懐している。水田のあとの畑は水はけ
が悪く難しいという問題もあった。クリスマスにも子どもにホールのケーキを買ってやれず 1 ピ
ースごとのケーキで我慢してもらったというエピソードもある。
開墾後数年経ち、排水の工夫など様々な努力が実り、徐々にいいお茶ができ始めた。町や地域
の品評会でも晴雄さんの茶が続けて1位を取るなど実績もできてきた。その頃のことを晴雄さん
は「無我夢中でやってた。若かったからね」と振り返る。そして昭和 46(1971)年、全国茶品評
会にて晴雄さんの茶が優勝する。そのお茶は天皇杯にエントリーし、翌年の昭和 47(1972)年に
農林漁業振興会会長賞受賞を受賞。これは天皇杯に次ぐ栄誉で、晴雄さんの名声を一気に広める
契機となった。
10
ここでは茶以外の作物を育てている畑のことを指す。
米の過剰生産に対処するため水田の面積を減らすことを促進する政策。1970 年に政府が行ったが、背景には高度経済
成長に伴う所得増加と食生活の多様化があった。
11
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写真 2 受賞当時の晴雄さんと惠子さん。茶園にて。
たくさんの取材陣が山口園を訪れ、恵子さんはその対応に追われた。
「あれで取材はもういや
くなっちゃった(いやになってしまった)
」と冗談交じりにこぼすほどであった。それにしても、
「努力が報われた思いだった」という恵子さんの言葉や、額に入れた賞状や表彰式の写真などを
誇らしげに大切そうに見せてくれた晴雄さんの様子をみるにつけ、この受賞はやはり晴雄さん恵
子さんに共通する人生のターニングポイントだったのだと思えるのだ。
大臣賞受賞以降、茶の評判を聞きつけた顧客が増え、通信販売だけで採算が取れるようになっ
てきた。そこで昭和 40 年代末、農協や茶商への卸しをやめて完全に通販に絞った。以降現在ま
でこの販売方法は変わらずにいる。また同じ頃、晴雄さんの名声を聞いて技術を学びたいと、九
州など遠方からも茶農家の若者が視察に訪れるようになった。
昭和 50 年代半ばまでは品評会で好成績を収めていたが、それ以降は「若い者に任せる」とい
った心持ちで段々と出品頻度を落とし、一昨年出品をやめた。茶畑の面積も、ピーク時には 9 反
部余りまで拡大したが、現在では 6 反部まで縮小している。これがぎりぎり恵子さんと 2 人で管
理できる面積で、今後も縮小路線だという。畑は一部人に貸してもいるそうだ。
現在、原油高によって肥料や機械の燃料が値上がりしている。そのため最近は二番茶を採らな
くなった。二番茶は低い値しか付かず、割に合わないからだ。
2.2 お茶惚け―茶への思い
晴雄さんのお話を聞いていると、本当に茶が好きなことがよく伝わってくる。茶を出してもら
った際にお礼を言えば「ここのお茶を好きになってほしいから」とはにかみ、苦労を労えば「
(そ
れでもお茶が)好きだからね」と語る。恵子さんを始め O さんや晴雄さんのいとこの Y さんご
夫婦も茶業への努力と茶の質を称える。自他共に認めるお茶大好き人間、
「お茶惚け」なのだ。
ただ、面と向かって褒められると「いやそんな…」と謙遜するところが晴雄さんの性格を表して
いる。
晴雄さんのお話にはよく「うちのお茶」という言葉が出てくる。
「うちで育てて、うちで製茶
して、うちで売る」と言うように、自分で生産から販売までを担うことに誇りを持っているのだ。
「商人じゃなくて生産家」という言葉にもその姿勢はよく現れている。インターネットによる販
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ブランド茶農家の人生~藤川で茶に生きる~
売を導入しない理由もそこにある。
晴雄さん曰く、インターネットは大量の注文を得ることができるけれども、注文に対して「う
ちのお茶」が足りなくなって、よそのお茶を混ぜて売るようになってしまう。それでは「変わっ
てしまう、別のものになっちゃうからね」ということだ。大量生産よりも、手間暇かけていいも
のを作ることを至上としている職人気質な晴雄さんである。
その結果、量ができないので良い茶ほど限定的になる。最高級茶は得意客が予約で買い占める
ため、新規の客では翌年まで待たないと買えないこともあるそうだ。ただ、値段に関しては 1 キ
ログラムあたり高くても 2 万円までと決めている。
「3 万にも 5 万にもなるかもしらんけど、う
ちではそこまで高くしない」と夫婦口を揃えて言う。その理由としては、あまり高くしても客が
離れてしまうからと説明された。毎年買ってくれる得意客がついているので、その人たちに同じ
値段で供給したいということだ。しかし、茶の内容に対して本当に安価である。察するに、客離
れを心配するというよりも、なるべく安くいいものを提供したいという気持ちの方が強いのでは
ないだろうか。
晴雄さんにこの仕事をやっていて 1 番嬉しいことは何かを尋ねると、自分の茶を飲んで喜んで
もらうこと、と返ってきた。その笑顔の向こう側に山口園のお得意さんの姿が見えた気がした。
父の代から茶を育てていたと言っても、実質的には山口園は晴雄さんと恵子さん一代で築いた
と言える。晴雄さんの目標となったのは藤川地区の茶業の先達たちであった。日本では昔から各
地で手揉みによる製茶が行われていたが、藤川には全国でただ1人手揉みの永世名人に認定され
た人もいる。
晴雄さんは茶作りの初期を、
「自分試し」と振り返る。そうして試行錯誤を重ね、先輩の作る
お茶に近づいていって、町や地域の品評会で好成績を残すようになり、全国を狙ってみようかと
思うようになったのだ。その研究熱心な姿勢は O さんや Y さんからもお墨付きである。
大臣賞を受賞して名声が広まった昭和 50 年頃、晴雄さんの茶に関する技術を学ばせてもらい
たいと、九州など遠方から茶農家の若者が視察に訪れるようになった。晴雄さんは彼らを快く受
け入れて教えてやった。周囲には、そんなに簡単に他地域のやつに教えるなと諫める声もあった
ようだが、晴雄さんはあまり気にしなかったようだ。むしろ、技術を教えてやって感謝されたこ
とをとても喜んだ。
例えば、昭和 51(1976)年当時鹿児島県茶業試験場長だった O さんは、晴雄さんが伝授した茶
の技術で鹿児島のお茶が進歩して品評会で好成績をあげたことを感謝し「感謝」の一筆と共に鹿
児島の躍進を伝える茶市場だよりを晴雄さんに送った。それは今でも晴雄さんの「宝物」であり、
賞状や優勝盾とともに大切に保管されている。
また、晴雄さんより 10 歳ほど若い鹿児島の茶農家の N さんは始めは小さな茶畑しか持ってい
なかったが、晴雄さんの指導を受けて努力を続け、今では 60 町歩の自分の茶畑と 60 町歩の借
畑を持ち、20 人の若い衆を統率する大農園の園主となった。N さんはハチノコ取りの名人で、
今でも毎年送ってきてくれるそうだ。
山口園で販売される茶の品種は全てやぶきたである。しかし、茶畑の一角にまだ商品化されて
いない「薗香(そのか)
」という緑茶種が大切に育てられている。この品種は、晴雄さんが父の
ごとく慕った「森園先生」から病床で託された形見だという。
先生は本名を森園市二(いちじ)さんといって、かつて県立茶業試験場の研究士官だった。奨
励品種を作る研究をなさっていて、薗香は候補に上がった 3 種の内の 1 つであった。結局薗香は
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選ばれずに「ふじかおり」という品種がその後どこかで商品化されたが、先生は自信作の薗香を
絶えさせるに忍びなかったのだろう。
「やぶきたにこれを 1 割混ぜるといい」というアドバイス
と共に晴雄さんに 60 本ほどの苗を託した。
実は「薗香」という名前は先生が付けたものではない。訊く前に亡くなってしまい、晴雄さん
が茶商の K さんとともに名付けたのだ。
「薗」の字は森園先生の苗字にあやかっている。薗香の
特徴は花のような香りだそうだ。私も晴雄さんの家で飲ませていただいたが、なるほど上品で洗
練された高級茶という感じを受けた。苦みの少ないこともあって、晴雄さんは若い人向けの茶と
して考えているという。
晴雄さん惠子さんお 2 人の仕事に対する大らかな姿勢を表す言葉を紹介しよう。農閑期や雨の
日など、農作業をしない・できない日についてお 2 人は口を揃えてこう語る。
「雨が降れば畑出ないし、昼間からちょっとお酒飲むこともできるし、今日はかんだるいから
出ないっこしよ(面倒くさいから畑に出るのをやめよう)
、というのもできる。そこが百姓のい
いところだね」私は童謡のカメハメハ大王を思い出し、少しうらやましくなった。
現在山口園には後継者が存在しない。晴雄さんの長男の幸久さんは 1963(昭和 38)年生まれ、
45 歳の会社員である。ただ、高校卒業後農短大と試験場で茶業を学んでおり、跡を継ごうとす
れば可能なノウハウは身につけている。晴雄さんは「本人がもし茶をやりたいと言えば応援する
つもり」というが無理に継がせるつもりはなく、自分の代で山口園が終わる覚悟を持っているよ
うだった。晴雄さんの、
「はじめは茶業を継いでもらいたかったけど、今になって思えば勤めに
出てくれていて良かったと思う」というさりげない一言が印象的だった。
2.3 縁の上下の力持ち―妻恵子さんの語り
山口恵子さんは昭和 12(1937)年 12 月 2 日藤川に生まれた。今年で 71 歳、20 歳で結婚してか
ら半世紀に渡って晴雄さんと二人三脚で山口園を支えてきた頼れる奥さんだ。
現在の山口園の主な働き手は晴雄さんと恵子さんの 2 人である。製茶に関しては晴雄さんが全
て担当しているが、その他の部分では恵子さんが影に日向に活躍する。茶畑に出て消毒や施肥を
することもあれば、家の中で通信販売の事務作業を片付けることもある。現在事務方はほとんど
恵子さんが担当しており、電話口で苗字を聞けばすぐ「あの人だ」と思い至るほど顧客を把握し
ている。
昔、
お茶摘みさん12を頼んでいた頃は彼女らの食事の世話も全て恵子さんの担当だった。
恵子さんが晴雄さんと結婚した昭和 30 年代、藤川で女性が茶畑に出て作業をすることはほと
んどなかった。女性は主に家の中で小売りの作業(袋詰めなど)を行なっていた。しかし恵子さ
んは高齢の舅姑を思い、晴雄さんとお互いに「自分たちがしっかりしなくては」と誓った。
「2
人一緒に築いていく、と。苦労もするだろうと覚悟してたね。みんなやらないこともやらなくち
ゃならんな、と思った」と語る。現在の藤川では女性が畑に出ることは珍しくないが、これは恵
子さんによると人手が足りないためだという。
恵子さんの茶業に対する語りは、晴雄さんと共通する部分が多い。量産よりも質の良いものを
求め、毎年買ってくれる顧客のために品質を維持している。
「うちのお茶だけをしっかり作って、
ほしいって人だけに買ってもらう」という言葉がお 2 人のポリシーを表している。また、あくま
で「生産者」であることにこだわっている。
「お茶屋さん兼農家、という家もあるけど、うちは
12
お茶摘みさんとは、静岡県の茶業地域において集中的に労働力が必要であった茶摘み期に臨時に雇い入れられた女性
たちのこと(笹原 2007)
。山口園では平均年齢70 歳の女性 7 人が主力メンバーだった。当時恵子さんは 20 代だった。
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ブランド茶農家の人生~藤川で茶に生きる~
そうじゃない」という語りの中では、4 章で詳述する高田農園も比較に挙げられていた。
1972(昭和 47)年の農林漁業振興会会長賞受賞時のことは、恵子さんも感慨深く語ってくれ
た。
「苦労が報われた気がした。喜びもひとしおでしたよ」また、この受賞をきっかけに友達も
増えたという。
しかし、女性という立場ならではの複雑な思いもあるようだ。周囲は山口園の茶を高く評価し、
「恵子さんはよくやってる」と言ってくれる。しかし、
「晴雄君はいいお茶を作る」とは言われ
ても「恵子さんがいいお茶を作る」と言われることは皆無だという。
「私だって半分くらいやっ
ている!」とは思えど口に出すわけにはいかない。そのジレンマもあってか、恵子さんは晴雄さ
んより商売として茶業を見ている部分がある。
「お茶(の仕事)は嫌いじゃない。好きですよ。
お金にもなってたし」
。
一番近くで晴雄さんを支え見つめてきた恵子さん。恵子さんの語りから晴雄さんがいかに茶に
夢中なのかが伝わってくる。例えば、
「お父さんは眠い人だね」という言葉。恵子さん曰く、普
段の晴雄さんは人と話をしていてもすぐ「こっくりこっくりしてしまう」
。しかし、ひとたび茶
の話になればすぐさま目が「ぱちっとする」そうだ。
また、晴雄さんは恵子さんから見てもあまりに商売っ気がなさすぎるようだ。
「お父さんは商
売向きじゃないね」
「作る人だね」という語りに続くエピソードは、ある顧客にまつわるものだ
った。
山口園の得意客に東京在住の O さんという方がいた。O さんは藤川の茶を飲み比べたが、ど
うもしっくりくる茶がないと言って最後に山口園にやってきた。その話を聞いて、晴雄さんは買
ってもらう前にまず飲んでみてくれと O さんに自分の茶を 100 グラム渡した。自分の茶を飲ん
で、本当に気に入ってくれた人に売りたいからというのが晴雄さんの言い分だった。果たして、
東京から電話がかかってきた。O さんからの、晴雄さんの茶がほしいという電話だった。それか
らずっと O さんは山口園の茶を飲み続けてくれた。O さんは 3 年ほど前に亡くなったが、今も
奥さんが主人に供えたいと言って毎年山口園の茶を買ってくれるという。
晴雄さんと恵子さんはお互いに茶業に深く関わっており、それぞれ信念もあっただろうが、夫
婦で意見がぶつかったことはなかったのだろうか。この疑問をぶつけると、意外なことにほとん
どなかったという答えであった。例えば、乾燥機から出てきた荒茶の良し悪しを恵子さんが指摘
した時に「これは品種が違うからだ、揉みもせんくせに(口を出すな)
」というようなことを言
われ、ムッとしたというようなことはあったという。しかし大きな確執にまで至らなかったのは、
製茶は晴雄さんの仕事、という作業のすみ分けがなされていたことが理由なのではと推察される。
全国茶品評会について、恵子さんから興味深いお話を聞いた。品評会は全国各地で開催される
が、地元開催だと有利だというのだ。事実として、過去の品評会成績では例えば静岡県開催なら
静岡の茶が、他県開催の時よりも相対的に多く入賞している。恵子さんの言葉を借りれば「政治
が絡んでくる」のである。
晴雄さんが全国で優勝した昭和 46(1971)年も静岡県開催であった。その時、知り合いの茶農
家の人から「今年取れなきゃ取れないよ」という助言があったそうだ。結果、見事晴雄さんの茶
が 1 等 1 席に輝いた。またある時、賞を取った数年後の品評会時、同じ人が今度は「今回は我慢
しろ」と電話をしてきて、恵子さんにも「わかってくれ、晴雄を男にしてやれ」と説得してきた。
「でも私(恵子さん)は納得しなかった。だって我慢したってそれは表に出ないじゃない」
。そ
のときは結局恵子さんが折れる形になった。恵子さんは当時を思い返して「お父さんは我慢でき
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る人。私はすぐ言っちゃうけど…。逆に(晴雄さんは)強情っぱりでもある」と語る。
3-2 でも触れたが、その後昭和 55(1980)年頃まで山口園の茶は品評会の上位を席捲していた。
しかし晴雄さんは家族の要望もあって、若い者に任せようという気持ちになり、一昨年あたりか
ら出品をやめた。
恵子さんがお嫁に来た当時、山口家の茶畑はほぼ在来品種だった。その頃藤川でもやぶきたが
出回り始めており、晴雄さんと相談の上 2 人で昭和 40(1965)年の開墾のときに全てやぶきたに
変えた。その後、様々な品種を試したが、新しい品種は数あれどやはり総合的に見てやぶきたに
勝る品種はないと恵子さんは言う。
結婚して半年後、思わぬハプニングが 2 人を襲った。晴雄さんが農作業中に脊髄骨折をしてし
まい、70 日間の入院と 7 カ月の静養を余儀なくされたのだ。かなりの重症で、晴雄さんは茶業
をやめざるを得ない可能性も覚悟したという。
幸い晴雄さんは驚異の回復を見せ、無事仕事に戻ることができたが、晴雄さんの留守中恵子さ
んは相当大変な思いをしたという。実家には、もう仕事ができないかもしれない夫は置いて帰っ
てこいと言われ、晴雄さん自身にも「帰って来いと言われてるだろう?」と聞かれた。恵子さん
は「いまこの体を置いて実家には帰れない、離婚するなら退院後だ」と歯を食いしばって頑張っ
た。1 人で茶や米その他の農作業をこなしながら、涙がぽろぽろこぼれたという。
「1 年間いつ別
れようかということばかり考えていた。結局そのまま今まで来ちゃったけどね」と笑う恵子さん
は逞しい。結婚してすぐこういった苦労を経験したため、今の農作業など「お手のもん」だと言
えるのだ。
これからの家のこと、茶業のことを尋ねてみた。恵子さんも晴雄さんと同じく、子どもや孫が
茶業を継いでくれることを期待はしていないようだった。自分たちに関しては、
「自分はもちろ
んお茶は好きだけど、やりきりいいからやめようと思えばやめられる。お父さん(晴雄さん)は
たぶんやれる限りやりたいんじゃないでしょうかね」と語る。晴雄さんもそれを肯定していた。
しかしいずれは畑を手放さなくてはいけない時がくる。恵子さんは自分の家だけでなく、高齢
化に向かう藤川地区全体の将来についても憂慮し、自分なりの構想を持っている。ここでは便宜
的にそれを「恵子理論」と呼ぶことにした。
藤川地区の家は、どこも大小の別はあれ茶畑を所有している。しかし、地区全体が高齢化して
おり、畑の引継ぎ手がいなくなることがほぼ確実に予想される。家々が点在するなかに畑地があ
る状態は機械を入れづらく、すべてを機械化された高品質な茶畑にすることは不可能である。そ
こで恵子理論によると、行政や企業が管理者のいない畑を一括で買い取り、農業を学んだ若い人
手を雇って企業化することが解決策だという。全てを茶畑にするのではなく、野菜や果物も栽培
し、朝市で売ったり給食センターや地区内のスーパーに卸したりしてなるべく地産地消を心がけ
る。そうすれば運輸にかかるコストも削減できて、藤川のみんなは美味しいものを安く食べられ
ていいのではないか、ということだ。
こうした地域密着型の耕地再利用の取り組みは、自治体や生協団体など主体は違えども日本各
地で実施されている。恵子理論は藤川地区を救うカギになるかもしれない。
- 80 -
ブランド茶農家の人生~藤川で茶に生きる~
3 究極に茶業を楽しむ―高田惠夫さん
高田農園は藤川でも 1、2 を争う規模の代々続く茶農家だ。初めて訪れた際には、巨大な機械
設備と立派な事務所構えに圧倒された。そして、その高田農園の主である惠夫さんは自信に満ち
あふれた明朗快活な方だった。調査の目的を説明すると快く語っていただけて、取材慣れした印
象を受けた。惠夫さんの話を聞いていると、とにかくその迷いの無さに感嘆する。明確なヴィジ
ョンを持ち、飽くなき探求心と向上心をもって茶に取り組んでいることがビンビンと伝わってく
る。私は奥さんの悦子さんが淹れてくださった紅茶をいただきながら、興味深い語りを聴き漏ら
すまいと集中した。
惠夫さんは 68 歳。
「自園自製自販」を標榜し、茶葉の生産から仕上げ加工、販売まで全て自分
の農園で行っている。3.3 町歩13の茶畑を経営しており、そのうち 3 町歩はやぶきたなどの緑茶
種、3 反歩は紅茶品種の「べにふうき」や「べにひかり」である。平成 21(2009)年までに紅茶
品種の面積を 2 反歩拡大する計画がある。
販売方法は電話と FAX による通信販売が主で、製品の 5 パーセントほどは農協に要請されて
伊勢丹などに卸している。通信販売での値段は自分で決めているが、最高のもので 1 キログラム
3 万円ほど、下は 3000 円前後まで幅広い。現在長男の智祥(ともよし)さんに経営移譲してお
り、主な働き手は本人、妻、長男の 3 人である。少人数体制での経営が可能な背景には、積極的
に機械を導入し作業の効率化を進めていることがある。
また、ワサビやソバの栽培、川魚(ヤマメ、イワナ)の養殖やイノシシの飼育などもほぼ 1 人
で行い副収入としている。敷地内のゲストハウスでもその収穫が振る舞われ、近所の人を喜ばせ
ている。
写真 3 高田惠夫さん(左)
、悦子さん。実習中茶園にて。
13
約 3.3 ヘクタール。1 町歩≒9917.36 平方メートル≒1 ヘクタール。
- 81 -
3.1 志高き少年時代、名声、まだまだ現役―惠夫さんの半生
惠夫さんは昭和 15(1940)年に高田家の長男として生まれた。家を継ぐことは当たり前という
意識は早くからあった。小学校・中学校は座学だったため、実践的な勉強をしたいと思っていた。
中学校卒業後、県立茶業指導所14に 2 年間通い茶の栽培から製造に至るまでみっちりと学んだ。
惠夫さんは試験場の入所式の際、所長の言葉に衝撃を受けたと語る。曰く、
「お茶は一人前にな
るのに 15 年かかる」
。さらに、
「その気にならないと何年経ってもものにならない」
。この言葉に
発憤した惠夫少年は、高卒の多かった同期の中で人一倍努力した。
卒業後は父の下で茶業に従事する。惠夫さんの父高田一夫さんは、藤川の茶名人を問うと大体
にして名前が挙がる有名人である。全国や県の茶品評会にも毎年のように「高田一夫」の茶は上
位にランクインしているが、実はその中には惠夫さんの揉んだ茶も含まれているとのことだ。
昭和 40(1965)年には 2 歳下の悦子さんと結婚。翌年には長男の智祥さんが誕生する。
昭和 44(1969)年、全国茶品評会で高田農園の茶が 1 位に輝く。この時は父の一夫さん名義で
出品していたが、前述のように惠夫さんが全て機械を調整し仕上げたそうだ。その茶が農林大臣
賞を獲得し、名声が全国的に広まることとなった。新聞やテレビで報道され、通信販売の比率が
伸びていった。父の代から通信販売と卸売を並行して行っていたが、卸売は荷口が大きくキャン
セルなどもあり不安定なことから昭和 50(1975)年頃からは堅実な通信販売のみに移行していっ
た。
昭和 51(1976)年に惠夫さんは父一夫さんから経営権を譲り受け、正式に高田農園の主となっ
た。しかし惠夫さんに言わせると、一夫さんは経営移譲から 30 年経った今も自分が当主という
意識を持っている節があるそうだ。惠夫さんは平成 17(2005)年、65 歳の時に長男の智祥さんに
経営権を移譲しており、名義上は高田農園の園主は智祥さんである。しかし、現状は現役バリバ
リな惠夫さんの影響力が大きい。
3.2 「楽しくてしょんない」―茶への思い
惠夫さんは長いこと茶と向き合ってきたが、まだまだ分からないことがたくさんあると言う。
例えば、茶葉を揉んでいて酵素を殺し切れずに若蒸しになってしまった茶が意外な美味しさだっ
たことがある。惠夫さんはそうした新たな発見を見逃さず、突拍子もないアイディアも無闇に切
り捨てない。
「ムキになってきっちりやることばっかがいいもんじゃない」という言葉は示唆に
富んでいる。
「お茶は『これで絶対』ということがない」
「いかに思いこみをなくすか、ということをいつ
も意識の中に」という言葉通り、惠夫さんは柔軟な発想を大切にし、あらゆる可能性に対して貪
欲である。そんな試行錯誤の繰り返しな茶業だが、惠夫さんは心から「仕事(茶業)が楽しくて
しょんない(しょうがない)
、やめられない」と語る。その姿は実の息子(次男)にも「おやじ
はええなあ、仕事が楽しくて」と羨まれるほどである。
ある程度の経験を積んだ今でこそしていないが、若い頃は気付いたことをすぐメモして翌年以
降に生かせるよう頭を絞っていた。このような地道な努力の積み重ねが今に生きている。
惠夫さんはこと品評会の成績に関しては比較的淡泊である。今も毎年出品しているが、好成績
14 現在の静岡県茶業研究センター。1 明治 41(1908)年県農事試験場茶業部として設立、昭和 12(1937)年に県立茶業試
験場、昭和 50(1950)年に県立茶業指導所、昭和32(1957)年に県茶業試験場、平成 19(2007)年に県茶業研究センターと
変遷。
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ブランド茶農家の人生~藤川で茶に生きる~
の時よりも成績が悪かった時の方が勉強になると語る。どこが悪かったのか分析して原因をつき
とめ、次の年に活かすことができるからだそうだ。例えば肥料を工夫したり、天候などによるお
茶の色の変化を観察したりと改善の余地は無数にある。逆に好成績だった時は、
「こんなんで取
れちゃったか」と肩すかしの感があり、何も残らないとまで言う。
「品評会は実験場」という言葉が印象的だった。品評会用の茶を作る畑と普段の商品のための
茶畑は別にあり、惠夫さんは 2 反歩を割り当てている。品評会で得た情報をいかに消化し、いか
に自分の茶に反映させるかが品評会に出す目的だということだ。
また、
「賞状じゃないだよ、実力が伴わないと」というシビアな言葉もこぼれた。実力とは「毎
年同じものを提供し続ける力」だと惠夫さんは語る。例えば天候のせいにして、今年は寒かった
からとか雨が多かったからという言い訳をしたくない。自然を観察し、自然を味方にする術を模
索する。その姿勢は魚の養殖など茶以外の場所でも発揮される。
「お客さんが喜ぶためと思うと、
曖昧なこん(事)じゃ納得しない」と言い、毎年同じ美味しさの茶を届けることにこだわってい
る。そのこだわりは顧客にも伝わっているようで、十年来高田農園の茶を飲み続けている人から
「いつも当たりはずれが無い」と言ってもらえるそうだ。
惠夫さんの技術委譲に関する基本スタンスはオープンである。視察や見学なども快く引き受け
てきた。しかし、本当の核心部分には触れない。同業者に対するビジネスとしての線引きは惠夫
さん自身の中でしっかりと決まっている。
近年普及してきたペットボトル茶の中で、川根茶の名を前面に出したものがある。実はこの開
発の際、高田農園にも協力のオファーがあった。しかし、惠夫さんはこれを断った。曰く、
「ペ
ットボトルじゃ川根のためにならない。いくら名前が売れたとしても、ピンキリのピンで勝負し
なくちゃ」
。惠夫さんが川根を高級茶の生産地として捉え、誇りを持っていることがわかる。た
だ無闇に高級路線かといえばそうではなく、茶商を通せば 1 キログラム 5 万円相当の茶も通信販
売で 3 万円で捌く。
「いいものを安く」という信条があるのだ。
惠夫さんの自信をまざまざと感じた問答がこれである。参考にさせてもらおうと、藤川地区で
自分以外にここのお茶は良い、という茶農家を挙げるなら?という質問をしたところ、惠夫さん
はニヤリと笑ってこう答えた。
「いやー、自分の茶以外は飲みたくないね」
。
惠夫さんの茶畑には、やぶきたの他に山の息吹、おくひかり、香駿15などの緑茶種の他に、紅
茶用品種のべにふうきやべにひかりが植えられている。この紅茶事業は藤川では他に類を見ない
画期的な取り組みである。
惠夫さんが紅茶を作るようになったきっかけは、平成 9(1997)年の NHK の取材である。
「ウー
ロン茶と紅茶は同じ茶葉からできるのか?」という質問に対し、惠夫さんは「わけはない(でき
る)
」と即答した。そして試験場で習った記憶を掘り起こし、手近なやぶきたの茶葉で紅茶を作
ってみたところ、悦子さんが美味しいと絶賛。その後惠夫さんの紅茶を気に入った方が平成
18(2006)年に「
(株)静岡紅茶」という会社を立ち上げ、県内各所で販売を行うまでに至った。
今ではやぶきたの二番茶は全て紅茶にしている。緑茶にするより割が良いそうだ。
また、良い紅茶を作るならやはり専用の品種がいいということで、べにふうきを導入した。当
初導入を検討していた矢先に花粉症などのアレルギーに効くことが報じられ、植物特許の関係も
あり苗の入手が困難になって 2 年の遅れを喫したが、正規苗を入手した結果やはり良いものがで
15
いずれも新規の緑茶種。
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きると確信した。販売登録を行い、現在 3 反歩の作付面積をまだまだ拡大する計画だ。べにふう
きで作った緑茶もアレルギー抑制効果を前面に押し出し、売れ行きは上々のようである。現在紅
茶は敷地内の小さな工場で作っているが、惠夫さんは近い将来もっと良い設備を整える予定でい
る。
惠夫さんが機械化に積極的であることは既に述べた通りである。技術の進歩により、機械を上
手く調整し設定すれば全国どこでも同じ茶ができるようになった。それだけに、惠夫さんは機械
の調整技術は誰にも負けないと自負する。もともと機械が好きな惠夫さんは、標準の仕様に満足
せず改造を施したり業者にオーダーメイドで造らせたりする。すると、その装備がしばらくして
その会社の標準になっていることもあるという。惠夫さんは言うなれば製茶機械のコンサルタン
トである。荒茶からの精製(仕上げ)工程をこなせる機械は藤川でも所有台数が少ない。高田農
園では作業場の 2 階全体が大規模な精製コンベアになっていて、精製から袋詰めまでを行える。
これも高田農園の、惠夫さんの効率化特権である。
写真 4 精製途中の茶葉が入ったコンベア。実習中高田農園にて。
高田農園の顧客はグルメ、高級志向の人が多い。そして皆惠夫さんの茶を飲むと「他のお茶は
飲めない」と言う。この期待とプレッシャーは並のものではないだろう。惠夫さんはそうした顧
客を大切にしており、得意客から「茶が切れた」という連絡があった時には冷凍保存してあった
茶葉をわざわざ手揉みして用意した16というエピソードもある。
惠夫さんは「良いお茶」を目と舌と鼻、自分の感覚で判断する。そのため、普段から美食に感
性を慣らす訓練をしているという。
「みんなが美味いというものはどういうものか知っておく」
ということで、評判の店へ食事に行ったり、得意客から贈られてくるメロンや牛タンといった高
級食品に舌鼓を打ったりする。これも良いお茶を作るための努力なのである。
16
冷凍保存した中火茶(機械で中揉みくらいで取り出したもの)を必要に応じて取り出し残りの行程を行うことで、鮮
度が保たれ味も比較的落ちない。
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ブランド茶農家の人生~藤川で茶に生きる~
惠夫さんは自分から宣伝をしない。それは毎年の顧客が決まっているため必要性がないからで、
通信販売の客からの問い合わせを待って出荷する。それでもテレビなどの取材にひっぱりだこで、
あまり出すぎて「なんでおまえばっかり出るんだ」と近所の人に怒られたと笑う。
宣伝に関連して、機械が好きな惠夫さんがインターネット販売を導入しない理由が興味深い。
曰く、サイト上で色々な情報を開示すると同業者に伝わってしまうからとのことだ。サイトを開
いて宣伝しようとすれば書けるネタはたくさんあるけれど、今の時点で販路に困っているわけで
はないから必要がないという。惠夫さんは今後もし現在の販路が縮小するなど何か理由があれば、
インターネットを始めてもいいかもしれないと語る。
3.3 高田家の事情―将来像
惠夫さんの父高田一夫さんは藤川の茶農家の中でもリーダー的な存在である。品評会の記録に
も、藤川の人の記憶にも一夫さんの名前は鮮やかに刻まれている。実のところ私も最初は一夫さ
んの名声を耳にして高田農園を訪れた。しかし惠夫さんに語らせると一夫さんの評価は一転する。
惠夫さんの語る父一夫さんの唯一にして最大の功績は、
「近所にえばりちらして周りを発憤さ
せたこと」
。一夫さんの成功を見て周囲の茶農家が「あいつにできるなら」と努力し、結果藤川
のお茶のレベルが上がった、ということだ。本気かどうか分からないが、とにかく私は笑ってし
まった。少なくとも、父親の権力が大きい同じような境遇の人に「おまえの家も大変だなあ」と
同情されるほどには、雷オヤジだったようである。惠夫さんは若かりし頃父に「こき使われた」
苦労を述懐する。月 500 円というあまりの低賃金に不貞寝して賃上げ要求をしたこともあったが、
2 階の寝室を一夫さんが下から棒で突いてきて無理矢理に起こされ、交渉もままならなかったそ
うだ。
惠夫さんから見ると一夫さんは機械化にもあまり積極的でなく、また農閑期には時間を浪費し
ているように見えた。そんな父を見て、惠夫さんは機械化を進め、1 年を通じた農業サイクルを
考えるようになったのだという。
父には辛口な惠夫さんだが、その代わりというように祖父の信義(のぶよし)さんを讃える。
信義さんは茶に熱心な人で、また革新的だった。昭和 6(1931)年、信義さんは藤川で 2 番目に
扇風機を導入した人だそうだが、それは人間のためではなくなんと茶を冷やすためだった。ちな
みに 1 番目の扇風機は診療所に入れられたもの。
「そういう先祖の努力を思うと自分だけ安穏と
していられない」と、惠夫さんは日夜努力を続けている。
そして現在、惠夫さんは後継者として孫に期待している。自分の培ってきた技術を伝えるため、
『孫への伝言』と銘打った秘伝の書をしたためているそうだからその期待は半端ではない。内容
は既に書き上がっているとのことである。現在惠夫さんの内孫は男の子が 2 人、女の子が 1 人、
外孫が 3 人。彼ら彼女らは惠夫さんにとって将来の高田農園を担う期待の星なのだ。
「親ができるばっかがよいじゃない」とは惠夫さんの言葉だが、まさに至言である。
4 考察
ここまでで、お二人はとても対照的でいながらどちらも茶に並々ならぬ誇りとこだわりを持つ
茶のプロフェッショナルであることがお分かりいただけたと思う。茶どころ藤川の中でも屈指の
茶農家であるお二人の間には、どのような共通点や相違点が存在するのだろうか。そこを出発点
として藤川全体の茶農家について考察を試みる。
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まず、茶農家として両氏に共通している点を挙げてみる。お二人ともそれぞれに苦労を乗り越
え、先達に学びながら努力を重ね、30 代半ばに茶で全国優勝を成し遂げて茶農家としての名声
を得た。そしてそれをきっかけに販路を通販にほぼ限定し、顧客を抱えるようになったことで比
較的安定した収入が得られている。もちろん、顧客を抱えているということは毎年飲み続けても
らえるよう品質を維持しなければならないということでもある。つまり、現在の地位に甘んずる
ことなく努力を惜しまずに生産を続けていることも両氏の共通項なのである。
両氏が受賞した時代はちょうど高度経済成長期に重なり、茶業界全体の景気も良かった。お二
人はこの波に上手く乗じて名声を得、個人ブランドを確立することに成功した茶農家だと言える。
そのため茶業に専念することができた。こうした農家を仮に「ブランド茶農家」と呼ぶことにす
る。対して、茶業のみで生計を立てることが難しく、他の作物や農業以外の職業と兼業して生活
してきた農家も藤川には存在する。そういった農家を「兼業茶農家17」と呼ぶことにする。
「兼業茶農家」の場合、広大な茶畑を有するものの後継者不足で耕地全てを活用することがで
きなかったり、茶での収入はほぼないか完全に販売せず自宅で飲む茶だけを作っていたりするこ
とがある。こうした「兼業茶農家」には土地や耕作地、伝統の技などの資本が存在しており、埋
もれさせるに忍びない。このような問題を解決するには 3-4 節で触れた「恵子理論」のような耕
地有効利用策が必要になってくると思われる。
なお、
「ブランド茶農家」と「兼業茶農家」の境界は厳格ではない。経営規模でいうと 6 反歩
ほどが目安、すなわち 6 反歩が茶のみで生活していけるぎりぎりの耕作面積ということである。
晴雄さんはこの境界上に位置することになる。また、惠夫さんは「ブランド茶農家」でありなが
ら魚の養殖など副業を行っているが、茶業の収入を補うため必要に迫られてではないので「兼業
茶農家」とは区別して考えている。
今回のフィールドワークでは特に「ブランド茶農家」の個人史に焦点を当てた形となった。
「ブ
ランド茶農家」の茶に懸ける思い、茶に対する姿勢は特別なものがあり、調査の中で最も興味を
惹かれた部分でもあった。両氏とも自分の作る茶に誇りを持ち、家族との協働でありながら特に
揉みの工程には絶対の自信を持っており、肝心要の部分では己の経験と勘のみを信じる。それは
ある種、伝統的手工業などの職人の世界に通じるものがあるのではないか。
法隆寺の宮大工棟梁として数々の復元・再建を手がけた故・西岡常一氏は、著書『木に学べ―
法隆寺・薬師寺の美―』の中で経験によって培われた技術の確かさ、職人としての姿勢や仕事へ
の覚悟を次のように語っている。
「木も建物も同じですわ。作りながら話し合って、はじめてわ
かるこというのがあるんです(西岡 1988:177-178)
」
。
「心がけの問題です。わたしと一緒に法
隆寺で仕事をした大工は 60 人ほどおりましたが、
宮大工で残ったのは、
わたし 1 人だけでした。
みんな気張ってやっているんですけど、学ぼうという心がないと、ただ仕事をするだけになって
しまうんです(西岡 1988:155)
」
。
「大地震があって、東塔は倒れたけれども西塔は残った、と
いうことになれば、まあ安心ですけれども、東塔が歪んだまま立っているのに、西塔が倒れたと
いうことになったら作ったわたしは生きていられないですな。腹切って死ななければなりません
な(西岡 1988:140)
」
。
また、西岡棟梁は技術を体得するための苦労についても以下のように述べている。
「周囲の人
で、自分よりうまい人を見て、おぼえなあかんのや。あの人のカンナは、何であんなによう切れ
17
兼業茶農家については本書所収尾沼報告を参照。
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ブランド茶農家の人生~藤川で茶に生きる~
るんやろ、思うたら、休憩でみんなが休んでるときに、そーっとその人のカンナを調べてみるん
や。そうやっておぼえるのや(西岡 1988:58)
」
。こうした絶え間ない努力が必要なところは、
茶業も職人技も共通している。
ただ、技術の継承という点で茶業と職人の世界を見たときに大きな違いがある。昔ながらの職
人の世界は徒弟制で、志を持って弟子入りしてきた若者を親方が一人前の職人に育て上げるとい
う方式であった。西岡棟梁にも跡を継ぐ一番弟子が存在する。しかし、師と弟子の間には必ずし
も血縁関係はない。一方茶業はどうかというと、惠夫さんの高田農園の例で分かるように基本的
に血縁による相続で、全くの他人による継承は難しい。なぜなら、茶業は農業であるがゆえに耕
作地が必須で、その相続が問題になるからだ。農業特有の事情として、継承者は血縁者に限ると
いう制約が存在している。
さて、ここで晴雄さんと惠夫さんの相違点について考えてみよう。複数項目にわたるため表に
まとめた。
表 2 両氏の相違点
晴雄さん
惠夫さん
経営規模
6 反歩、縮小路線
3.3 町歩、拡大路線
経営の継続性
ほぼ一代限り
代々続く
後継者
自分の代で終わる覚悟あり
孫の代まで見据えている
生産量の物質的限界のため
機密保持のため
休むときに休めるのが農業の
工夫して 1 年をフルに使うべ
いいところ
き
周囲に諫められるほどオープ
基本的にはオープンながら核
ン
心部分は触れない
インターネット通販を導入
しない理由
農閑期
技術の譲渡
受賞をとても感慨深く思って
品評会
いる一方、今は出品していな
い
やぶきた以外の品種
茶をより良くするための実験
場とし、今も出品している
故人の思い出として薗香を小
晩生緑茶種と紅茶を栽培し、
規模に栽培
新しい販路として活用
両氏とも茶に人生をかけてきたと言えるほど深く関わりながら、このように対極とも言える姿
勢が浮き彫りになった。同じ職人気質の「ブランド茶農家」でありながらなぜこのような違いが
存在するのか。それは、前出の継承に関する制約に関係してくると考えられる。すなわち、この
相違は茶業に関わる出発点が「個人」である人と「家業」である人との違いからくるものではな
いだろうか。ここでは晴雄さんを「個人」
、惠夫さんを「家業」に分類する。
分かりやすくするため惠夫さんの「家業」から説明する。前述の通り、惠夫さんの家は茶の名
- 87 -
産地藤川で代々続く茶農家である。そのため惠夫さんは「高田惠夫」という個人名よりも「高田
農園」を背負って茶業をしているように伺える。語りの中にもあったように、惠夫さんは先祖を
尊敬している。そして彼らに恥じない立派な仕事をしたいと考え、農閑期にもフルに働いている。
継承においては血縁の制約があるため、孫の代まで見据えて高田農園を途絶えさせないよう慮っ
ている。茶へのある種貪欲な姿勢も、こうした「家業としての茶業」が背景にあるのではないか
と思う。
対して晴雄さんは「個人(の職業としての茶業)
」であると言える。晴雄さんは茶農家として
の山口家を背負っているわけではない。そのため個人としては茶を愛し、生涯茶を作っていたい
と考えているものの、子や孫にそれを継がせるつもりはない。そのため経営規模は縮小傾向であ
り、品評会にも現在は出品していない。なお便宜的に「個人」という呼称を用いているが、山口
園は惠子さんとの二人三脚なため晴雄さんに限り「夫婦」という分類の方が現状に即していると
言える。
このように、藤川の茶農家は「ブランド茶農家」と「兼業茶農家」とに大別でき、
「ブランド
茶農家」の仕事に対する意識は伝統的手工業などに従事する職人のそれに類似していると考えら
れる。そして「ブランド茶農家」は継承の有無によって「家業」と「個人」に分類でき、この違
いは仕事に対する姿勢を左右するものであると考えられる。
あとがき
今回、山口晴雄さんと高田惠夫さんのお二方をはじめ藤川の方々に本当にたくさんの時間を割
いていただき、語っていただいた。まだまだここに書ききれないほどのお話をたくさん伺い、人
の人生とは、仕事とはなんて面白いのだろうと感激しきりであった。ただライフヒストリーを描
くのではなく、茶という切り口から見たことも良かったと思う。日本茶が以前よりもっと好きに
なった。私も今回出会った方々のように、人生をかけられる仕事がしたいと強く思う。
参考文献
大森 正司(監)
2002『からだにいいお茶のすべて 日本茶・紅茶・中国茶・健康茶』日本文芸社
主婦の友社(編)
2005『決定版 お茶大図鑑』主婦の友社
西岡 常一
1988『木に学べ―法隆寺・薬師寺の美―』小学館
笹原 ちひろ
2007「徳山の茶摘み文化から考える女性の出稼ぎ」
『平成 19 年度フィールドワーク実習報告
書』静岡大学人文学部社会学科
富田 祥之亮
1999「減反政策」
『日本民俗大辞典 上』吉川弘文館
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ブランド茶農家の人生~藤川で茶に生きる~
参考資料
高田惠夫さん提供
2008『茶』
山口教平さん提供
『第 11 回 農業祭受賞者の技術と経営』
(財)日本農林漁業振興会
『全国茶品評会審査成績表』
『県製茶品評会成績表』
参照した HP
(株)静岡紅茶 HP http://www.shizuoka-tea.jp/
日本茶業中央会 HP http://www.nihon-cha.or.jp/
農林水産省 HP
http://www.maff.go.jp/「平成 18 年産茶生産量(主産県)
」
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