今こそ、思考力と想像力を駆使して

今こそ、思考力と想像力を駆使して、独自の発見を
立命館大学
教育開発推進機構 教授
薄井 道正
「DID YOU KNOW ?(知っていましたか?) 2010 年に需要のある仕事上位 10 位は 2004 年にはまだ存
在していませんでした。今私たちは学生を教えています。まだ存在しない仕事に備えて。まだ知らない問題を解
く仕事に備えて。知っていましたか?
わたしたちは指数的に成長する時代に生きています。Google では毎月
310 億件の検索がなされています。2006 年には 27 億件でした。いったい誰にこれだけの質問がされていたので
しょう?
Google 登場前は。研究以外で初めてのテキストメッセージが送られたのは 1992 年の 12 月。現在、
毎日送受信されているテキストメッセージは地球の総人口より多い。5000 万人の視聴者を獲得するまでにかか
った年数 ラジオ 38 年 テレビ 13 年 インターネット 4 年 ipod3 年
facebook2 年。英語の単語は約 54 万
個。これはシェークスピの時代の約 5 倍。1 週間分の New York Times に含まれる情報は 18 世紀の人が生涯に
出会う情報より多いと推定されている。これは過去 5000 年の合計より多い。技術情報は 2 年で 2 倍に増える。
1 年生のときにならったことの半分は、3 年生のときまでに陳腐化するということだ。2049 年までに 1000 ドル
のコンピューターが全人類を足し合わせたよりも高い計算能力を持つようになるだろう。知っていましたか?
SO WHAT DOES IT ALL MEAN?(これってどういうことだろう?)
」
これは米国の高校教師が、急速に変化している社会で子どもたちに何をどう教えていくかを議論するために作
成(2008年)した動画「DID YOU KNOW ?3.0(知っていましたか? ヴァージョン3)日本語版」(https:/
/www.youtube.com/watch?v=qTNlKXGHnwo)から抜粋文字化したものです。同動画のヴァージョン2(2007
年)には「我々が問題を解くためには、その問題が生じた時とは異なる思考を持たなければならない」というア
インシュタインのことばも紹介されています。
たしかに、私たちは今、情報や知識が加速度的(指数関数的)に増えつづける一方で、それらが次つぎと陳腐
化していく社会に生きています。また、問題が一つ解決すれば、それと同時に新たな問題を抱えることになる時
代を生きています。そして、そうした社会と時代だからこそ、私たちには何よりも「自分の頭で考える力(思考
力)」と「想像力」が、ますます必要となっているのです。映画『ハンナ・アーレント』のクライマックスにお
「人間であることを拒否
いて、不屈の精神で逆境に立ち向かいつづけたユダヤ人哲学者ハンナ・アーレント1が、
したアイヒマン 2は、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不
能となりました。思考できなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。〝思考の風〟がもたらすのは、知
識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強
くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで、破滅の至らぬよう」と学生たちに語りかけています。
このアーレントの訴えた「ものごとの表面に心を奪われないで、立ち止まり、考え始める」こと(自立的な思考)
こそ、何よりも今、必要とされています。また、それは「誰か他の人の立場に立って考える能力」(アイヒマン
に欠如していた能力)でもあり、それが「想像力」でもあるのです。
子どもの貧困、原発事故、人種差別、食糧危機、世界の水不足……。私たちは、どれだけの自立した思考と想
像の力を働かせて、それらの問題をとらえられているのでしょうか。あの3.11の午後、私が勤務していた学校の
卒業式が終わり、卒業生を見送った直後のことでした。目眩をおぼえる微かな体のゆれを感じはしたものの、そ
の数時間後に知ることとなる甚大な被害に、その時は想像を巡らすことはできませんでした。しかし、あの日以
来、私はどんなに些細と思える事実からも、その事実を予兆とする深刻な事態を想像し、自分がなすべきことは
ないのかと考えるようになりました。そして、今回の論文大賞においても、たんなる自分の得た知識の披瀝では
なく、そうした思考力と想像力をきみたちがどれだけ遺憾なく発揮しているか、そのことを評価の重要なポイン
トに据えました。
応募していただいた作品の多くについては、論文としての体裁がしっかり整えられていて、読み手に内容を正
確に伝える技術(日本語運用能力)も確実に向上していると評価できました。しかし、全般的に書籍やインター
ネットによる調査のまとめに終始する傾向があり、調査結果を分析して新しい知見を導出するという点(論文の
もっとも重要で不可欠な要素)では弱さが目立ちました。また、問い(問題提起や研究動機)と答え(仮説や結
論)が呼応していないものも少なからず目につきました。
その結果、残念ながら論文部門においては、今年度も「大賞の該当者なし」とせざるをえませんでした。
さて、今年のテーマは、
「
『食』の未来」でした。「食」は生命の維持と人類の生存に深くかかわっています。
18 世紀末、イギリスの経済学者マルサスは、
「人口の幾何級数的な増加に食糧生産が追いつかないため、やがて
人類は深刻な飢餓や貧困におそわれる」と唱えました。しかし、その予言は、農業の機械化からバイオ技術の進
歩にいたる農業生産力の飛躍的な向上のおかげで、的中しませんでした。ただし、それももはや限界にあると主
張する人もいます。世界の人口は今やマルサスの生きた時代(200 年前)の 7 倍(70 億人)に達し、今世紀中に
は 100 億人を超えるとも予測されています。加えて、相次ぐ異常気象、農業用水の不足、少数穀物への過剰依存
がもたらす病害リスクの増大などによって、安定した食糧供給の時代は終焉を迎えようとしているというのです。
一方、
「食」には、そうした人類の生き残りをかけた問題だけではなく、文化や倫理、教育や健康といった側面
もあります。
「和食」がユネスコの無形文化財に登録されたり、食材・メニューの偽装表示や「孤食」
「固食」
「個
食」といった子どもの食事をめぐる変化が話題になったりするのも、その一例です。また、最近では、環太平洋
連携協定(TPP)参加にかかわって、食の安全性確保や食料自給率の問題なども、クローズアップされています。
さらには、世界では約 8 億 4,200 万人、およそ 8 人に 1 人が今も慢性的な飢餓に苦しんでいる一方で、日本では
年間 500〜800 万トンもの食品を廃棄しているという矛盾した現実も指摘されています。そこで、こうしたさま
ざまな側面をもつ「食」というトピックから、テーマを一つに絞り、自分で問いを立て、確かな根拠や証拠に基
づいて論理的に自分の考えを展開してほしい、というのが今回のテーマ設定の趣旨でした。
優秀賞を受賞した玉川学園高等部の上野碧葉さんの「和食と長寿に関連性はあるのか~人が受け継ぎ人の輪と
なる和食~」という論文は、和食特有の発酵食品に焦点を絞り、和食が健康と長寿をもたらす重要な要因になっ
ていることを論じていました。審査委員からは「家族の日常の食卓から発酵食品に着目し、それが日本人の長寿
と関連すると仮説を立て、発酵食品の疾病予防や栄養バランスを分析調査した結果から仮説の正しさを導いてい
る」という点や「多様な文献を活用して新しい知見を導出する論文全体の構成力・構築力に優れている」点が高
く評価されました。また、
「文章もよく推敲されており、読みやすい作品になっている」など、リーダビリティ
(読み手に対する敬意と配慮)といった点でも優秀賞にふさわしいと評価されました。ただ、問題提起としては
よいものの、和食と長寿との関係性を一貫して追究していくという視点にややブレが見られ、検証にも不十分さ
があるという指摘があった(それが大賞を逸した理由でもある)ことを付け加えておきます。
では、来年度も自立的な思考と想像力を駆使した多くの優れた論文が応募されてくることを願って、この講評
を締めくくらせていただきます。
1933 年、ナチスの激しく残虐なユダヤ人迫害から逃れるためドイツからパリへ移り、1941 年にはアメリカに
亡命。1963 年、アイヒマン裁判のレポートをザ・ニューヨーカー誌に連載し、全米で激しい論争を巻き起こす。
同年「イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告」として単行本化されたアーレントのレポートは、
ホロコースト研究の最重要文献のひとつとなった。
2ドイツのナチス政権による「ユダヤ人問題の最終的解決」
(ホロコースト)に関与し、数百万の人びとを強制収
容所へ移送する(ユダヤ人列車移送の)最高責任者を務めた。
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