まえがき
現在約 60 億~70 億の人口を誇る人類だが、ゲノムDNA 配列に残された遺伝的多様性から見
た人口(長期の有効集団サイズ)は、たった1万人に過ぎないことが分かっている。この数値
は、実個体数が数十万程度である絶滅危惧種のチンパンジーの半分から良くて同数であり、他
のほとんどの生物種よりも低い。つまり、遺伝学的に見れば、人類は、絶滅危惧種であるはず
のチンパンジーよりも脆弱な種ということになってしまう。実際に、マラリア原虫やHIVなど、
人類で深刻な病原体に対して、チンパンジーは何らかの抵抗性を持つことが知られており、新
型インフルエンザや新型肺炎のような感染症(過去には天然痘や黒死病)が、致命的な脅威に
なり得るのも、ひとつには、人類のこの遺伝的多様性の低さが一因であるだろう。更には、こ
のような小さい有効集団サイズは、有限集団での偶然の影響(これを遺伝的浮動と呼ぶ)の作
用を大きくし、本来は有害で、集団中で増えることがまれであるはずの疾患遺伝子についても、
その集団頻度を偶然に高めてしまう場合がある。つまり、人類は、その 20 万年前の誕生時か
ら長い期間にわたる小集団の歴史によって、常に感染症や遺伝病の脅威に苦しめられて来たと
言える。しかし、その一方で、人類集団は、特に農業到来と工業革命以降に爆発的な人口膨張
を経験したことも、考古学や歴史学、そして遺伝学の証拠から明らかである。このような急速
な集団膨張により、ヒトゲノム中に膨大な量の突然変異が蓄積されたと考えられている。例え
ば、60 億人の世界人口が直近世代から経験した突然変異事象は粗く見積もって 9,600 億であり、
これはヒトゲノム 32 億塩基対の全ての塩基サイトが平均 300 回以上、世界のどこかで、突然
変異によって変化したことを意味している。これは解剖学的現生人類が過去 20 万年の歴史で
経験した突然変異の総数より多いものだ。もちろん、これらの突然変異のほとんどは機能も持
たないし、偶然だけによって即座に集団から失われる。また、機能を持つとしても、既存のゲ
ノム多様性のバックグラウンドに埋め込まれた状態であり、独立した効果を検出することは困
難であるだろう(不可能であるかも知れない)。しかしながら、それらの幾つかは、これまで
観察されたことの無い表現型を出現させる可能性がある。そして、その多くは、疾病であるだ
ろう、更には、集団サイズの増大は、遺伝的浮動よりは自然淘汰の作用を増大させることも予
測されている。これらのことは、今後、人類の健康福祉が、過去に経験したことの無い大きな
脅威に曝されることを意味しているのかも知れない。ゲノム医学は、ヒトゲノムの諸特徴を利
用することで、人類が直面しつつあるこのような問題に正しく対処し、持続可能な医療を実現
することを期待して創始された新しい学問分野であり、遺伝統計学は、特に定量的側面からそ
の根幹を支える。その基礎となる定量的な遺伝学は、すでに 1900 年代の初めから、RA・フィ
ッシャー、S・ライト、JBS・ホールデン、木村資生やその後継者たちによって、高度の理論
体系として完成されていたが、ここ 20 年間で行われたヒトゲノム解読プロジェクトをはじめ
とした多くの関連プロジェクトの成果は、この理論体系の意味するところについて、具体的理
解をようやく可能にし始めている。そのようにして垣間見えるようになったヒトゲノムの定量
的な描像は、時に極めて峻厳である。ところが、種々の遺伝的荷重に苦しんでいるのは、どう
も人類だけではないようなのだ。他の多くの生物にも、そのような傾向が大なり小なり見られ
るのは不思議なことだ。しかし、ただ人間だけが、目に見えないものを見ようとし、定量し、
推計し、深く知ろうとする。それが、人間の際立って稀有の特徴に思われる。そのような、若
い学生たちが、ひるむことなく、人道的で持続可能な医療や人類の未来を切り開くために、拙
著が一助となることを願っている。
この教科書は、主に医学系・生命科学系の大学学部生から大学院生・社会人までを対
象にしている。実際に、主要部分は、著者のひとり(田宮)が、山形大学医学部で学部学生向
けに行っていた講義をもとにしており、更に、最新の内容として、第9章を東北大学の植木優
夫博士に、第 10 章を統計数理研究所の小森理博士に御寄稿頂いたものとなっている。植木・
小森両博士とは、全章を相互に査読し、教科書としての体裁を統一した。また、理化学研究所
の高山順博士、東北大学の佐藤行人博士・小島要博士、株式会社スタージェン社の成田明博士
には全章に目を通していただき、御指導を賜った。彼らの卓越した数理論理能力が無ければ、
この教科書は決して書き上げることが出来なかった。また、東北大学の牧野悟士博士・峰岸有
紀博士、NTTデータの鈴木永久氏には、専門外の立場から有益な助言・助力を数多く頂戴し
た。東北大学・東北メディカルメガバンク機構の遺伝学勉強会(檀上稲穂博士・西川慧博士主
催)のメンバーや成相直樹博士・河合洋介博士にも原稿にお目通しを頂いた。有益な御助言と
励ましを下さった編集委員の東北大学・照井伸彦教授ならびに執筆の機会を下さった東北大
学・辻一郎教授、そして種々の我儘を聞き容れてくださった編集部にも、この場を借りてお礼
を申し上げたい。なお、末尾になったが、この教科書の原稿料は全て、著者全員の合意のもと
で、「東日本大震災みやぎこども育英募金」に寄付されることを申し添えたい。