Mlmamsa学派における dharma観の基調

Mlmamsa学派における dharma観の基調
倉田治夫
祭事mImaIllsUの学問は 1dharma探究の学問」仰と呼ばれる通り、 dharmaをその中心諜題として
いる。 Mimamsa学派のほか、 V
a
i
s
e
s
i
k
a学派も dharmaを課題としているが、同派においては d
h
a
r
maを高位と低位の 2種に分け、前者は「真理の認識」であって解脱の原因となり、後者は祭蹴を
中心とする宗教的義務の実行であって生天の原因となるとしている f
)又、 Mlmaf
!
lSa学派との密接
な関係が認められている Vedanta学派の場合は、 Brahmanを考察の対象としているが f その中で
も Sa
占k
araの思想体系においては、身体・言語・心の行為にほかならない dharma
川は無明に基づ
いており、解脱の為に、窮極的には否定し去られるべきものであるとされる f それに対し、 dhar
maそのものに意義を認める Mlmamsa学派において、その dharmaとは具体的には如何なるもので
5
5
0頃)及び Kumarila(
6
5
0
あるとされ、如何なる意義を認められているのかという問題を Sabara(
7
0
0頃)系統の解釈に沿って確認しようとするのが小論の目的である。
I.MTma『1語学の意義川
Mlmamsa学派の根本典籍とされる MS(
1
0
0頃)は、 1
2の章から成り
祭式の実行に関係する種々
i
8
)
の問題乃至それに関連した聖典の句 19)の解釈を統一的に扱っているが、高度な思弁を基盤とした学
説が簡潔な定勾の形に圧縮されて展開されている。その冒頭の定句 (
a
t
h
a
t
odharmaj咽 a
S
a
)は
、
一定匂にしてー論題を形成し、 MSの序に相当するものとされる f
SBhはこの定句中の各語を次のように説明する。(11)
…外ならぬ Veda聖典の学習をまず成就するや直ちに dharmaが探究されるべきである、とい
うのが、 a
t
h
a (さてそこで)という語の含意である。…… Veda聖典を学んで直ちに泳浴すべき
ではなく、直ちに dahrmaが探究されるべきであるというのが、 a
t
h
aという語の意味である。
a
t
a
s (この故に)という語は「理由」の意を以てある事実を示している。例えば「この土地は
安楽で施物も豊富だ。この故に私はこの国に住むのである。」というのと同様である。このよう
にして、 Veda聖典は学習され終えた場合に dharmaの探究に対する原因となることが知られる
のであり、〔学習の〕直後に dharmaが探究されるべきである、というの.が a
t
a
sという語の合意
である。即ち、 Veda聖典を学習し終えていない者は dharmaの為に Veda聖典の文章を探究する
ことはできない。この故に
つまり、この理由から←一一〔学習の〕直後に dharmaを探究すべ
きである、というのが a
t
a
sという語の意味である。
t
ム
寸
丹﹃U
d
h
a
r
m
a
j
i
j
n
a
s
aというのは f
dharmaを目的としての探究」のことである。つまり、それは、そ
れ ( =dharma) を知ろうとする欲求 (
i
c
c
h
a
) のことである。
a
t
h
aもしくは a
t
h
a
t
a
sという語は、書物の冒頭、もしくは書中における論議の導入部でしばしば
J
)各学派ではこの語をそれぞれの立場から種々に説明している 山 SBhに
用いられる語であるがf
おいては、 Vedaの学習を終えた後に直ちに師の家から辞するべきか、師の家に留まって Vedaの
1
1
1 SBhにおけ
文章の探究を行うべきかという形で Mimam語学開始の意義を論じているのである。(
るこの論議は、言うまでもなく、生活期 (asrama) の思想、を前提としている。即ち、 Brahmana,
K
s
a
t
r
i
y
a,Vaisyaという上位の三種姓に属するものは、各自一定の年齢に達した時、各種姓に定め
られた季節に行う Upanayanaという入門の儀を通過し、師のもとで Vedaを学習する学生期とい
う生活期に入ることになっている。山)この「学習」とは具体的には師の指導のもとに原則として各
自の属する Veda枝派に伝わる聖典を繰り返し読諭して暗記してしまうことである。又、各人は後
に種々の祭式を行うのであるが、 Vedaを学習して必要な知識を持っていることは、各祭式を執行
するのに不可欠な必須条件の一つにほかならない
J
6
1
終身学生を別として、学習を終えた者は「帰家式 J (samavartana) という修了の儀を行って師の
もとを辞し、自分の家に戻り、やがて婚姻の儀を行って家長 (Grhastha) という生活期に入って行
くことになっている。ここでいう、帰家式は fVeda聖典を学習した後に泳浴すべし J (vedam
a
d
h
i
t
y
aS
n
a
y
a
t
(
1
7
1
) という古伝書の規則によって示されている。この文章中で、 adhHyaという語の
t
y
aという接尾辞が anantarya (直接的連続性)を表わすとすれば、 Vedaの学習と帰家式は直接
連続することとなり、〈入門〉→〈学習〉→〈帰家式〉という連続性によりく学生期〉→く家長期〉
という生活期の移行が滞りなく行われることになるのであるが、学習と帰家式の聞に dharmaを探
究する期聞が入り込むなら、この直接連続性が失われ、古伝書の規則が侵害されてしまうことにな
るのではないか。この見解に立てば、 dharmaの探究、即ち Mlmamsa学を修める余地はなくなって
しまうことになるが、この問題は接尾辞 -tyaの意味をこの語の語根の示す内容である「学習」が
p
u
r
v
a
k
a
l
a
t
a
) を表わすものと見ることによっ
泳浴よりも前に行われること、即ち単なる J前時性J (
て解決されるというのが SBhの立場である。 (
1
8
) つまり、上述の古伝書の規則で示されているのは
学習と帰家式の時間的前後関係に過ぎないのであるから、学習の後で dharmaの探究に入っても規
則に違背したことにならず、 Mlmam語学を修める余地が認められることになるという訳である。
SBhによれば、直接連続性はむしろ、 MS中の a
t
h
aという語の表示するところであり、それはく学
習〉→ <dharmaの探究〉というこの両者の間の直接連続性を示しており、 Vedaの学習に引き続い
て dharmaが探究されるべきことを説いているのであるという。このことは換言すれば Veda学習
は dharma探 究 の 前 提 と さ れ る 訳 で あ る か ら 、 学 習 を 終 え て い な け れ ば dharmaの探究
Mlmamsa学一ーに入ることができないということになるのである。州
SBhの見解は後世に受け継がれ、多様に発展展開されたが、 Kumarila派に属する P
a
r
t
h
a
s
a
r
a
t
h
i
(
1
0世紀頃?)は、 Kumarilaの説に従いつつ、この問題を論じている。その著 S
D
(
2勺こよれば Mlmam
- 1
4-
s
a学開始に当って、必要な諸条件の内、 Mimamsa学 の 対 象 (v
i
s
a
y
a
) は dharmaであり、目的
(
p
r
a
y
o
j
a
n
a
) は dharmaに つ い て の 知 識 (
d
h
a
r
m
a
j
n
a
n
a
) であり、 Mlmam語 学 と そ の 目 的 た る
dharmajnanaの関係 (sambandha) は、前者が後者の手段 (
s
a
d
h
a
n
a
) である sadhyasadhanatvaの
関係であるという。更に後世になると、 v
i
"
a
y
aを dharma及ぴ dharmajnanaの 2種とし、 MImamsa
学と dharmaの関係は、 jnapyajnapaka、Mlmamsa学と dharmajnanaの関係は、 j
a
n
y
a
j
a
n
a
k
aである
とし、 p
r
a
y
o
j
a
n
aについては、 abhyudaya (繁栄)と n
i
h
s
r
e
y
a
s
a (至福)を最高位の p
r
a
y
o
j
a
n
aと呼
ぶ一方、 dharmajnanaを下位の p
r
a
y
o
j
a
n
aとして位置付け、又、 a
d
h
i
k
a
r
i
n (有資格者)として、こ
のp
r
a
y
o
j
a
n
aを望む者がそれであるとする見解も展開されている。削
SDにおいては、 Mimamsa学開始の意義は、 Vedaの学習自体の目的を、現世において目の当り
に直接経験できる結果と見るか否かという問題を検討する形式で論じられている。それによれば、
〈学習〉→〈帰家式〉という連続性を認める場合、 Vedaの字句を暗記する学習の結果得られるのは、
生天という、直接呂の当りには経験されない果報ということになる。これに対して、学習の目的を
Vedaの文章の意味内容の理解と見れば、それは現世において直接目の当りに経験できる結果にほ
かならない。 Mimam語学の体系では直接経験可能な結果 (
d
r
s
t
a
r
t
h
a
) が認められる場合に、直接
経験できない果報 (
a
d
r
s
t
a
r
t
h
a
) を想定することは許されない。従って、生天という未来時に属す
る果報より、直接に経験できる「意味の理解」を優先させ、それを学習の目的と見倣すことになる
のである。又、このことから、「学習」は直接経験される結果たる「意味の理解」に従属するもの
であるとされる
f
)
さて、 Veda学習は 'Veda聖典を学ぶべし J (
S
v
a
d
h
y
a
y
o
'
d
h
y
e
t
a
v
y
aJ:!)附という命令に基づくも
のであるが、 SDによればこの命令 (
a
d
h
y
a
y
a
n
a
v
i
d
h
i
) の目的は、 A
g
n
i
h
o
t
r
a等の祭式について、そ
れらを行う資格は Vedaを学習した上位三種姓のみにあって、師のもとに入門して学習することの
で き な い 出 draにはないという、資格の制限を示すことにあるという。削ここで学習は祭式実行に
不可欠な条件たる知識を得るためのものであるから、 adhyayanavidhiの命ずるところは「意味が
わかるまで学習すべきこと」にほかならず、かっ又、その意味の理解は探究なくしては得られない
という。かくして、 adhyayanavidhiは探究を予期するのであり、それと矛盾する事、即ち探究を
行わずに帰家式を行うことを排除する。従って、 Vedaの学習に引き続き、 dharmaの探究、即ち
Mlmamsa学を修める必要があるという訳である。(出)
MS中の j
i
j
n
a
s
aという語は動詞 j
n
aのd
e
s
i
d
e
r
a
t
i
v
e形に由来し、 SBhにおいては「知ろうとする欲
求J
G
白 t
加
uml
比
c
c
h
山凹
泊
叫
亘
幻
)
と説明されるが、 SDでは、 SBh中で 句
〈
dh
陥a
rmo
とを、 <
v
i
c
a
r
a
y
i
t
a
v
y
odharmat> という表現を用いて説明しており、 <
j
i
j
n
a
S
a
>- <
v
i
c
a
r
a
> と捉え
ている。附更に後世の綱要書 ASでは、 j
i
j
n
a
s
aという語は間接表示機能によって v
i
c
a
r
a(探究)を
表わす、と明確に述べられている om
phd
I
I
. dharmaの具体最
上述の如く、 Mlmamsa学とは Vedaを学習した後も引き続き師の家で「意味の理解」のために
dharmaを探究する、そのような学問である。では、その dharmaとは一体如何なるものであろうか。
これについては
Id
harmaとは
codana (Veda聖典の教令)を特相とする〔有益な〕事物である」
(
c
o
d
a
n
a
l
a
k
s
a
n
o'
r
t
h
odharmah) という MS I.
i
.2の定句が定義を行っており、これも一定句一論
題を形成し、 MS全体において展開される Mlmamsa学説はこの定句を以て事実上開始されている
のである。
この定句は
S
B
hにおいて次のように説明されている OJf
2
(
8
は
叩
凶
∞
Co
由
da
同
naとは行為を誘発する言葉であると人々は言う
O
何故なら「師に命じられた私は行為を
行う」という表現が一般に認められているからである O
それによって〔何かあるものが〕指し示される (
l
a
k
s
y
a
t
e
)、そのものが、特相 (
l
a
k
s
a
n
a
) であ
る
。 例えば、「煙は火の特相である」と人々は言う。
c
o
d
a
n
a
J によって指し示される、有益な事物が人を至福 (
n
i
h
s
r
e
y
a
s
a
) と結びつけると
その C
我々は主張する。
蓋し、 codanaは過去・現在・未来の微細なもの、隠されたもの、離れたものという、このよ
うな類のものを理解させることができるが、他のもの、即ち感覚器官は、決して理解させること
ができなしミ。
ここにおいて、 codanaという語は「行為を誘発する言葉 J (krηayahpravartakamvacanam) と
a
c
a
r
y
a
c
o
d
i
t
a
) という例示がなされていることからしでも、 SBh
説明され、又「師に命じられた J (
において、この定句中の codanaという語が「命令」と解されていたことは明らかであろう。しかし、
Kumarilaは、ある場合には codanaを upade旬
、 v
i
d
h
i と同義語としながらも
(29)
この場合 codana
という語を聖典の言葉一般 (
s
a
b
d
a
m
a
t
r
a
) を表わすものとし、その根拠として、 SBh中の「過去・
J という説明に触れ、過去のものは命
現在・未来の……」という個所に見られる「過去の〔もの J
a
r
t
h
a
s
a
r
a
t
h
iは NRKにおいて、この点を明解
令の対象とはなり得ないのであると述べている。(叫 P
に整理し、 codanaという語は句 bdaの一種である vidhayaka (命令語)を表わすが、間接表示機能
によって sabda一般を表示するのであるとしている
f
)
「特相 J (
l
a
k
s
a
n
a
) という語について、 SBhは「煙は火の特相である」という例を示しているが、
これを dharmaについて当てはめてみれば、
Ic
odanaは dharmaの特相である。」ということになる
であろう。又、 l
a
k
s
a
n
aという語自体、「それによって〔何かあるものが〕指し示される、そのも
a
k
s
a
n
aである。」と説明されていることからも、「知らしめるもの」乃至「目印 J I襟酸」の
のが l
o
d
a
n
a
l
a
k
s
a
n
a
> という複合語の意味は、
意味で使用されていると解される、定句中のくc
Ic
odanaに
よって知られる」と考えても大過ないであろう。実際に、この語の意味をこのように捉えて d
h
a
r
-
f
)なお ASはくcodana> という語が Veda全体を指し、
Vedaはその全体が dharmaを対象としている、と説いている f
)
maを説明する文献も少なからず見出される
ハ
hu
--4
SDにおいて、 P
a
r
t
h
a
s
a
r
a
t
h
iは、この定勾においては、 dharmaについては codanaのみが prama
~a (正しい認識手段)であり、かつ codanã が pramã~a 以外の何物でもないということが示されて
いるのである、と述べている J
H
)
定句中の <
a
r
t
h
a
) (有益なもの)という語について SBhは、「至福を目的とした ]
y
o
t
i
s
t
o
m
a祭等」
a
n
a
r
t
h
a
>、 即 ち 罪 障
という説明を与えているが、定句中にこの語が用いられているのは、 <
(
p
r
a
t
y
a
v
a
y
a
) をもたらす、 Syena等の儀が dharmaでないことを示すためであるという。附
Syenaというのは調伏法のー穫であり、これは,[敵を〕調伏しようとする者はむ ena祭を以て
s
y
e
n
e
n
a
b
h
i
c
a
r
a
ny
a
j
e
t
a
) 附という v
i
d
h
iに示されているのであるが、 SBhによ
祭儀を行うべし J (
れば、この v
i
d
h
iは敵の調伏をなすべしと言っているのではなく、敵の殺害を望む場合には Syena
という祭儀が手段となることを教えているにほかならないという 007)kumullaによれば、 Syena自
体は v
i
d
h
iの対象となっており、敵の死という望ましい目的を達成する手段であるが、 Syenaの結
果即ち殺害 (himsã) であり、これは ni~edha の対象であって anartha にほかならないから、間接
的に a
n
a
r
t
h
a
t
v
aが Syenaに帰せられると言う
f
)
以上のことから、 MSのこの定句は, dharmaとは、 codnaによって知られる、有益な事物である。」
という意味に解される訳である。川)ところで、 SBhによれば、 dharmaの探究は、, dharmaとは何か」
「如何にして知られるか J 'その手段は何か J '似而非なる手段は何か J '白的は何か」として行わ
れるべきものであるが、この五つの課題の内、前二者がこの定匂によって説かれているという。(40)
SDによればこれらは dharmaの s
v
a
r
i
i
p
a (本性)と pram加 aを問うものであり、この定句から、
,
dharma たるものは codanã を laK5aqa とする。つまり codanã のみがその lak~alJ a 即ち p
ramaJ
la
であり、 c
odanaがその l
a
k
s
a
n
aに外ならないとして、直接に pramanaが規定されれば、意味の上
g
n
i
h
o
t
r
a等のみが dharmaであって、その codanaを
から、 codanaによって知られる (-gamya) A
l
a
k
s
a
n
aとしないもの一一仏教霊廟崇拝 (
c
a
i
t
y
a
v
a
n
d
a
n
a
) 等一一〔は dharmaJ ではない、という
こと、つまり s
v
a
r
i
i
p
aも確立する。同様に、 codanaを laK2apとするものは dharmaである、と
svariípa が直接規定されれば、意味の上から pramã~a も確立する oJ ということが知られると言う Jf4
叫1
では、 d
曲h
a
剖r
maとは具体的には何でで、あろうか oSBhによれば、それは「福を与えるもの」μ(s
釘r
e
匂y
a
おs
k
a
剖r
叫
3
a
)
勾
片
y悦
ot
凶叫
t
ω
o
m
a祭等の有益な事物である J
4
叫
K
旬叩
u
m凶 r
吋i
l
aは、これについて
であり、 J
「
福 J(sreyas) とは人の喜び (puru~aprlti) であり、それは codanã を特相とする dravya、 gu~a、
karmanによって実現される。従って、それらにのみ dharmatvaが存するのである。
a
r
t
h
a
s
a
r
a
t
h
iの述べるところによれば、ここで言う dravyaは搾乳桶 (
g
o
d
o
h
a
n
a
)
と説明している。,(431P
等
、 gunaは低さ (
n
i
c
a
i
s
t
v
a
)等
、 karmanは y
aga等であり、これらは果報を実現する手段となる
という理由で dharmaと呼ばれるのであるという。(44) 彼はこれ以上多くを語っていないが、例えば
搾乳桶が果報を実現する手段となるというのは、 Mimamsa学派ではしばしば論じられるところで
p
u
r
o
d
a
s
a
) を作るに当つての一連の所作の内、
ある。新月・満月祭で供物として使用する祭餅 (
Adhvaryu祭官が水を運ぶ所作があるが、その場合祭主の持つ種々の目的によって、水を入れる容
器を選ぶことができ、家畜を望む祭主の為には搾乳桶を用いるべきであるとされている。(45) これに
i
ヴ
-E4
ついては、搾乳桶を使用することそのものは本来水を運ぶという新月・満月祭の一環としての所作、
即ち祭式成就を目的とした行為の為に用いられるのであるから、家畜獲得という果報との結びつき
4
6
)ともあれ、搾乳桶という祭式用具が
は間接的に表示されているに過ぎないという議論もあるが J
果報をもたらす手段であるということは認められている訳である。
以上のことからすれば、 MImamsa学派において dharmaとは、望ましい果報をもたらすものであ
ること、 Vedaを pram加 aとするものであることというこつの条件を満たすもののすべてというこ
]
y
o
t
i
s
t
o
m
a祭等」となっており、
とになるであろう。但し、 SBhにおける説明が、「福を与える J '
'
y
a
g
aを行う者を dharmaを実践する者 (
d
h
a
r
m
i
k
a
) と称する。間」としていること、「神々は y
a
)
n
aを以て y
a
j
n
aを行えり。そは最初の dharmaなりき。(48)」という Vedaの文章を例示しているこ
とからすれば、 SBhの段階での dharma観は祭式という行為一般の域を出ないものであったのでは
ないかと思われるが、その継承者達は更に進んで学説を展開したものと言うことができるであろう。
なお、 P
a
r
t
h
a
s
a
r
a
t
h
iは Kumarilaの言を注釈しつつ他の諸学派における dharmaという語の用例
を紹介し、内官のある種の状態、心の潜在印象、身体を形成する原子たる p
u
d
g
a
l
a、atman固有の
属性、 apurvaとする各用例を挙げ、各々順次、 Samkhya学派、仏教徒、 ]
a
i
n
a教徒、 V
a
i
s巴s
i
k
a学派、
MImamsa学派の一派における用例としつつ、いずれも日常的言語表現においては、 dharmaという
語をそれらの意味で用いることはないとして斥けている。 (49)
なお、学説が後世詳細に展開されるに至っても、祭式を dharmaであるとする点は変りがない。
ところで、「福を与えるもの」という定義からすれば、諸祭式の内、特定の願望に基づいて行う所
謂 kamyakarmanのみが dharmaであるということになり、特定の果報をもたらさないとされる義
務的祭式たる nityakarmanは dharmaの範轄に入らないのではないかということになりそうであ
る。この点については、 P
a
r
t
h
a
s
a
r
a
t
h
iは、「義務的祭式にとっては悪業消滅が果報であると言われ
る。」と述べている場合もあり、酬義務的祭式も、積極的果報をもたらすものではないが、やはり
ここでいう dharmaとしての性格を持っていると解していたことが推測される。
m
.dharmaと解脱
]NMVに従って MSの構成を見ると、
第 1章 :dharmaについての pramana
第 2章 :dharmaたる諸祭式の区分 (
b
h
e
d
a
)
第 3章:諸祭式問の従属関係(古田 a
)
第 4章:祭式諸要素の動機 (
p
r
a
y
u
k
t
i
)
第 5章:祭式の執行順序 (
k
r
a
m
a
)
第 6章:祭式執行の資格 (
a
d
h
i
k
a
r
a
)
第 7章:細目拡大適用の一般的形態 (
s
a
m
a
n
y
a
t
o'
t
i
d
e
s
a
)
第 8章:拡大適用の個別的形態(
v
i
s
e
s
a
t
o
'
t
i
d
e
s
a
)
- 1
8-
第 9章:拡大適用に当つての諸修正(u
h
a
)
第1
0章:拡大適用に当つての除外 (badha)
第1
1章:諸要素の同時・複数効果 (
t
a
n
t
r
a
)
第1
2章:諸要素の付随的効果 (
p
r
a
s
a
匂a
)
となっている 001) 第 3 ・6 ・1
0章が各 8節から成っているほか、残りの各章はいずれも 4節から成
り、合計 1
2章 60
節9
1
5論題を以て MSは構成されている。全体として、 dharmaたる祭式の諸相を種々
の点から扱っているが、 SBh等の注釈に従ってその内容を見れば、各章はバラバラな思想、の寄せ集
めではなく、内容的にも緊密に結びついており、特定の Veda枝派の見解に偏することなく、祭式
実行ヒの諸点、乃至それに関する聖典の文句を、客観的にしかも統一的に論じようとしている意図
が窺えるのである。
さて、このようにして祭式、即ち dharmaを中心課題とする MImamsa学の体系そのものにとっ
ては、解脱の問題は本来極めて異質なものではなかろうか。解脱の問題自体は諸学派において論じ
られているにもかかわらず、 MSにも SBhにも論じられていない。このことは、祭式の実行とそれ
によって獲得される果報の連関を種々の点から論ずるという形式で dharmaを探究する MImamsa
学の体系にとって、祭式の果報を軽視し、祭式に低い位置を与えてしまう可能性のある解脱の思想
は本質的に相い容れないものであるからではないかと思われるのである。
J
a
i
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i
n
iと Sabaraは共に MImamsaのみならず Vedantaの学問にも精通していたとされ;問実際に、
a
i
m
i
n
iの見解も紹介されている。(日)しかし、 J
a
i
m
i
n
i
現存 BSには解脱に関連した問題に関しての J
自身が解脱の思想、を持っているにもかかわらず、 MSの編纂者が MSの中でそれに触れないのは、
やはり MImamsa学の体系そのものににとっては解脱が本来異質の問題だということを前提として
いたからではないかと思われるのである。これに対し、 BSにおいては知行併合論的な思想を示し
I
m
a
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i
s
a学と Vedanta学の両体系は
ながらも f)Brahmanを中心課題として解脱を扱っている。 M
合して一つの体系(=広義の MImal)1S
a
) であり、往古の学者たちは両学聞を兼学したとされるがケ)
このことは、 MImamsa学の具体的内容が Brahmana文献を中心として、祭式をテーマとした解釈
学的研究であり、 Vedanta学のそれが Upanisad文献における知をテーマとした解釈学的研究であっ
て、両者に Vedaの文章を対象とした解釈学的研究という共通性があったが故のことではないかと
考えたい。
さて、このような MImamsa学派においても、 Kumarila前後に至ると、文献のとでも明確に解脱
の思想、が展開されているが J
5
6
) これは上述の観点からすれば学派史上画期的な事と言えよう。
Kumarilaの解脱観は、
我々の身体は行為によって生ずべき〔果報〕を享受するために生ずるのである。従って、その
〔果報〕が存しなければ〔新たな身体が生ず、る〕如何なる原因も存しない訳である。そこで、解
脱を希求する者は、願望に基づく祭式と禁じられた行為を行ってはならない。罪障を除去せんが
為に、義務的祭式と臨時の祭式とを行うべきである。
という言葉によって端的に示されている。 (57)この見解は、 atmajnanaを無視して、祭式行為のみによっ
1Eよ
QU
て解脱が達成される、と説くものとして、 Sankara系統の学者による痛烈な批判の対象となってい
る
。
(
日
)
Kumarilaの実際の見解では、 atmaj白 naの一種たる念想 (upasana) にも解脱に関しての意義を
認めることから、一種の知行併合論的見解を抱いていたことが窺われ、 Parthasarathi等にそれは
継承されているグ)又、彼等の解脱論で注目すべきことは、 Sankara系統の学説と異なり、祭式即
ち dharmaを軽視して解脱を論じているのではないという点であると思われる。
N. 結語
以上のことから、 MImamsa学派における dharmaとは、 MImam語学の中心的課題として、 Veda
の学習に引き続いて探究されるべきものであり、 codanaによって知られる有益なものであって、
Jyotistoma祭等の祭式のほか、人に果報をもたらす手段としての祭式用具等のものまでをも含む広
い範囲のものである、と言うことができょう。又、 dharmaとしての諸祭式は、特定の果報を求め
て行うものについては、まさしく「福を与えるもの」であるが、義務的祭式、臨時的祭式について
は後世、罪障の消滅を介して解脱の為の手段となると見倣されるに至ったと言うことができるであ
ろう。
略号
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eComms.Prabhヨ,Tantrav
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andTuptika,AnSS9
7,Poona,1
9
2
9
前田「ダ‘ルマ」エ前回専学「ヴ、ェーダーンタ哲学におけるダルマ J (~平川彰博士環暦記念論集
仏教における
法の研究』、春秋社昭 5
0
. 所収) pp.545-566
前田・倉田「諸問題」ニ前田専学・倉田治夫「インド祭事学派の諸問題(1)ーマーダヴァ若『全哲学綱要』ミー
マーンサ一章の研究 J r鈴木学術財団研究年報~ 1
2・1
3、昭 50-51、pp.
7
7-1
0
0
;(
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仏教学J 4,
昭5
2,
pp
(
1
)
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中村『哲学』二中村元『ブラフマスートラの哲学j (岩波書庖 1
9
5
1
).
中村「法 J
中村元「法(ダルマ)の観念J (~インド、思想、の諮問題』春秋社、昭 42) 、 pp.l77 -204
SBh=S
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a-Bha~ya S
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)= Sabarasvami
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(
1
) mimamsaという語の「深い思索J r
探究 J r
討議」といった意味での用例はかなり古い時代まで遡る。
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1
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参照. Mimamsa学派と V
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を表出していない点については P
て,中村『哲学~,
p
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.
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9
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1,pp.145-177参照。
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附
剖
3
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pp.
1児
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9
目3前回「ダルマ J,卯
Pp
.
5
4
7一5
4
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. 宮本啓一「ニヤ一ヤ, ヴ 7 イシエ}シカ両派
の解脱観J (
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仏教思想 8 ・解脱』平楽寺書庖,昭 5
7
),pp.329-352,特に p
.
3
4
7注 7).
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.
5
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7
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)
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7
) 前田・倉田「諮問題J (
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.
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.
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) ;北 )
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.
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0
.
(
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) SBhを見ると、大半の論題は論及の対象としての聖典の文章(v
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) を提示する o s
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1
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1
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..
1
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.
1
) 又
, MSIi
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1に極めて似たものとして、 a
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1
) という用例がある。
1
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5
51
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wパーマーテイ』和訳 1,
1,
1-4(
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)J (昭和 5
9年度文部省奨励研究(
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)報告書) p
.
5
2,註 (
2
0
6
)以下。
同 a
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12
)
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1
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) Mα
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u
s
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i I.36. 中野義照『インド法の研究~ (日本印度学会,昭 4
9
),pp,
283-287
同
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anayagadava
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2
2
8
).c
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I
i.25-38 (
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詞d
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).
(
1カ B
audhayanagrhyasutra,
V
I.
1
.
1
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時 SBh(
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..
1,s
.
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.
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1
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2
.
1
(
位
。
SD,pp.6-8.c
f
.
S
Vp
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s
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avv.
11-25
(
2
1
) YSPp
.
9
(
2
2
) SDpp.
14-15.cf前回・倉田「諸問題 J (
I
I
),
pp.
10-11
(
2
3
) T出
,ttty:のara?
:
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Y
αhαII.
1
5
.
7
;S
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hαbrahmanaX.
IV
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Bhamatiにおいては mlmamsaはp
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r
t
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aもpramanaとされるが、これについては TV [λnSS97-2),
pp.1β9-70
例
SDp.
41参照
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.
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同
Prabhakara派の説については c
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.残りの 3つの課題の処理については, S
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51
9
3
7
) p.
14
7
)
信)
1 JNMVpp.5-9.c
f.前田・倉田「諮問題 J (I),pp.94-96
189-219.
同 中 村 『 哲 学J pp.48-52,
む
功 BSI
V
.
4
.
5
同 中 村 『 哲 学J pp.470-483
ff
(
5
5
) 中村『哲学J PP.1-78β 1
(
5
6
) SVs
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b
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102-111
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109-110
6
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9-10.c
f
.t
出稿 SAMYOGAPRTHAKTVANYAYA,印仏研 XX唖
-2,
pp加)ー (
1
司
(
5
9
) 前 掲 拙 稿.
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.
(
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,
骨n
.
2
1
)-23);Bhag
α
叩 d
g
i
t
aとの関連について拙稿「ミーマーンサー学派の解脱観J (
r
東方』
9
8
5
),pp.58-67)参照。
第 1号(東方学院 1
- 23 -