誰が何をいかに継承するのか ││ハイデガl に お け る 文 化 と 継 承 │ │ 岡阿国巴kp寸 ωrgE 池田喬 ZZEZえ一国包含m 者 ZEMOEZ 当 m a gの己P5 ωロ門戸問。江冨ー問。 要旨 ち現れてくる﹁文化継愛子﹂の姿を引き出し、︿誰、が何をいかに継承するのか﹀ という本稿の主導的問いに対して、︿事cれた者たち、が死者の世界をその実存 可能性を引き受けるという仕方で継承する﹀と回答する。最後に、本稿で解さ A 昼尽するものではなく、む れた意味での文化継承とは、伝統主義や保守主義を 一 しろ﹁新たな始まり﹂の可能性の条件の創出に関与するという見方を提示する。 キーワード ハイデガl、文化と自然、継承、歴史(学)、死 目次 はじめに C1 -51 現代ドイツの代表的哲学者であるM・ハイデガl(富田ZHZFML 諸 問 巾P H ∞ 55 は、その歴史童子において﹁継承 aFRHZRa) ﹂とは何かを探∞ 求し 博物館の陳列物││過去のものになるということ 継承とは何をすることなのか 113 ハイデガーによる﹁文化﹂概念の批判│ム自然の再考 112 文化科学と自然立1 │一九土一O世紀ドイツ草のコンテクスト 111 文化的対象・技術・保護 文化とは何か││文化と自然 1 1 ただけでなく、自らの哲学の実践を﹁継承﹂という歴史的営為として理解して の一つのあり方を提示すること、か本稿の目的である。そのために、まず第一章 では、﹁文化とは何か﹂についての一般的考察から議論を開始する。そこでは、 ハイデガ1が、西南ドイツ学派の自然科学と精神(文化)科学の二分法に対す 死にゆく者たちと遣される者た中ア│-ハイデガlにおける哲学の歴 誰が何をいかに継承するのか││新たな始まり 定 る批判や、アリストテレスの自然哲学の積極的摂取を通じて、標準的な文化理 解に含まれる﹁文化と自然﹂の対立区分を解体する様を見る。次に、第二章で は、ハイデガーが、その歴史哲学において、事物が﹁過去のものになる﹂とい う時間性の芦採や、歴史家の実存の意義を根底から問い返すことによって、西 南ドイツ学派を批判しつつ、﹁継承﹂の実存論的な理解を独自に獲得していく ことを論じる。第三章では、以上の議論から、通俗的な文化概念の解体後に立 2 2 2 1 もいた。このハイデガlの哲学を手がかりとして﹁文化継承学としての哲学﹂ 1 2 3 はじめに g H H Z H即日 O同 問い進めながら、文化継承学としての童子のあり方を探っていく。そこで示さ れるように、ハイデガ!は、当時ドイツ童話主流であった新カント派ーーそ l が前面に押し出した﹁文化﹂概念に対して終始批 の中でも西南ドイツ学派 判的である(第一章)。むしろ、ハイデガlの歴史童子は、事物が﹁過去のも HEHS¥ 忌冊目吉身 EE岡田)﹂とい之子際的な知の営みに対して童子は何、ができるのだろうか工。 のになる﹂という時間性の芦採や、歴史家の実存の意義を根底から問い返すこ 何回同 ﹁文化継重子としての賀子﹂というものを考えるとすれば、それは ユZ ( E H けE 己 HZ あるいは、 とで、西南ドイツ学派の立論を批判し、﹁継承﹂の実存論的理解を獲得してい ﹁文化継承学 どういうものになるだろうか。 く(第二章)。私たちとしては、この議論から、通俗的な文化壊仙の解体後に 立ち現れてくる﹁文化継丞子﹂の姿を引き出したい。その童子は、︿誰が何を (goH匂 O )﹂や OEOH匂 O )﹂がそれぞれ生物や社会についての﹁学合 O 雪印)﹂で れた者たちが死者の世界を いかに継承するのか﹀という問いに対して、︿事 c ﹁生物学 あるのと同様に、﹁文化継承﹂についての﹁学﹂だと考えること、ができる。そ その実存可能性を引き受けるという仕方で継承する﹀と回答することになるだ 第一に、﹁j学﹂という標題に沿っていうならば、 の場合、文化を継承するとはどういうことか、そもそも文化とは何かなどにつ ろう。最後に、﹁文化継承﹂に対する肯定的議論に一種の伝統主義か保守主義 -52一 ﹁社会学(凹 いての﹁理曾的考察をするのが、﹁文作嘩藍子としての笠子﹂の課題になる まず、継承されるべき﹁文化﹂とは何か。一般に、それは﹁人類が歴史の上 文化的対象・持梼・保護 文化と き責任であるという見方を示す(第三章)。 条件を作りだし、人々の聞に自由と多様性を実現するために私たちが果たすべ を嘆ぎ付ける傾向を牽制し、文化構造の維持は﹁新たな始まり﹂を可能にする ﹁文化継承学﹂が、例えば、過去の文化財の発見や解読によって文 だろ恒三 第二に、 化継承の営みを行うものであるなら、賀子もまた過去の賀子的テキストの解釈 というかたちで、文化継承の﹁実践﹂を引き受けるものである。その場ム口、い かにして宣子は自らの文化継承をなしうるのかが実践的な課題となる。 理論と実践の二重の課題をもっ﹁文化継丞字としての賀子﹂を構想するため に、本稿では、現代ドイツを代表する萱著ハイデガl 害25FE品 開 R ハイデガーはその歴史哲学の中で﹁継承 に刻印してきた営みや行跡の総体﹂あるいは﹁過去の世界﹂などと言われるZo lH也、出凶) に着目する。 ( F R H H民自白伺)﹂とは何かの探求を行っているだけでなく、自らの萱字の もっとも、歴史的な営みの総体や過去の世界自体に接近することは現在を生き 同 ∞ ∞ 由 実慎自体を﹁継承﹂という歴史的営為として理解しており、文化継承学として はや存在してはいないからである。 £伺限ま私たちには拒まれている。それはあまりに膨大であるだけでなく、も 7 以下ではまず、文化とは何か、次に、継承とは何か、をハイデガ!とともに の哲字の一つの姿を提示していると考えられるからである。 1 されている個別の対象、つまり、建造物、芸術作品、テキストなど、である。 文化継承において、私たちが実際に接近するのは、歴史的世界がそこに表現 生存できない。労働は人間の自然性・動物性によって要壱cれる活動である。 応する活動のカである。最低限の衣食住にかかわる労働の活動なしには人聞は を作り出す活動の力である。古代ギリシャにおける神殿の建設のように、仕事 他方、仕事とは人間の非自然性に対応する活動の力であり、芦術を用いて作品 文化的対象として特に公的に指定されているのはいわゆる﹁文化遺産 によって人聞は自然環境とは異なる人工的な、人聞に固有な﹁世界 2RE)﹂ 以下では、便宜的にこれを﹁文化的対象﹂と呼ぶことにする。 FLEE-Z ユE問。)﹂である。歴史的建造物や博物館の陳列品のように、 h (この世、世間)を創設する。しかし、こうした作品がなくても人聞は死には ロ ( しない。 過去の人間によって生み出された人工物の フち、特に高い価値をもっとされる 刻象を典型として思い浮かべることができる。しかし、文化的対象であること の違いである。労働によって生み出される日々の糧は、生み出されるや否や消 ﹁労働﹂と﹁仕事﹂の区別において重要なのは、生と死をめぐる﹁時間性﹂ 知識、持術など、無形の文化遺産もあるからである。ここで、ギリシャ語のテ 費されて消失する。労働は、個々の人聞の肉体が成長し、最後には朽ちる過程 にとって事物性は必要不可欠な要件ではない。というのも、事尺描写、表現 技術)が広義のアlト(技芸)を意味したことを想起することは有益 クネl ( に対応している。他方、仕事が生み出す作品は、個々の肉体が滅んでもなお残 ﹁仕事とその生産物である人間の工作物は、死すべき生命の空しさと人間的時 だろう。文化的対象は、広い意味で、過去の人聞か技(術)によって生み出し ここで一つ重要なのは、この際の技術とは人聞に固有な能力だと連吊見なさ 間のはかない性格にニ疋の永続性と耐久性を与える﹂互。過去の人聞が技術 りつづけ、個々の生命をこえて存在する﹁世界﹂という観念に結びついている。 れていることである。文化的対象、が表現しているのは自然現象としての宇宙で によって生み出した文化的対象は、有形であれ無形であれ、死すべき人間たち たものである、とさしあたり捉えられるように印ヤえる。 はなく、 ﹁人類が歴史の上に刻印してきた営みや行跡の総体﹂だと一般に考え あるだけでなく、後世の人間たちの手によって損傷や消失から﹁保護﹂され、 次に重要なことがある。文化的対象は、単に過去の人聞が生み出したもので が、その有限性を乗りこえて歴史的世界に痕跡を残したものである。 ∞ -mwO 1 られている。 この点を、 ハイデガ!と深く交際したアlレント宮田E与 宵SF (一九五八年)の用語を借りて整理してみようき。 維持されるということがその存在の本質要件としてある、ということである豆。 ﹃人間の条丘 アlレントは、古代ギリシャの人間の生活様式にさかのぼりながら、人間の 先に﹁文化遺産﹂に登録される、特に高い価値をもっ文化的対象という言い 日@吋印) ﹁労働(︼与 O 吋)﹂と﹁仕事(き芸)﹂を区別している。こ 方をした際、おそらくは、文化的対象の範囲は、文化継承のあり方に応じて様々 活動を区別する際、 の区別に基づけば、典型的な文化的対象は﹁作品(き円r )﹂‘であると言えるよ に変化し、取るに足らないように見える日用品も文化的対象でありうる、と応 じたくなった者もいるだろう。それはたしかである。しかし、日用品が典型的 うに恩われる。 ﹁労働﹂とは人間の肉体的な生命維持のための活動であり、生物的過程に対 -53一 な文化的刻象であることは原理的に困難であることもまたたしかである。文化 以上の導入的考察から明らかになるのは、文化的対象を考えるとき、私たち 2自然の過程に に対比される。もっと正確にいえば、個々人の肉体的生命といh は、﹁自然と文化﹂という対概念に拘束されている、ということである。典型 一般に、生命維持のための吊働に関係する事物は、使用され消費され消失さ 対して、個々の死を耐え忍ぶものとして文化的対象は考えられる。しかし、後 的対象は破損や消失から﹁保誰﹂される必要があり、保護という人間の活動は れるものであり、時代を越えて人々の労力によって保護され遣されることを意 世の人々によって保護されるという要件からすると、人聞か生み出したものか、 的な考えとしては、文化的対象は人聞が技術によって生み出すものとして自然 図されていない。そもそも﹁文化﹂とは単なる生命的・自然的過程を超えた、 自然そのものによって存在しているものかという区別は本質的でもない。この 無限ではないからである。 歴史的人間の営為なのであり、実際、﹁文化的生活﹂という受口には、生存維 ﹁文化と自然﹂という対壊芯に関する問題こそ、若い頃のハイデガーが関心を iδ 世紀ドイツ哲苧のコンテクスト 112文 化 科 学 自 暴 翠11一九 払ったものであった。この点を次に見ょう。 持だけのために全てを費やすのではないような︿人間らしい﹀生活が考えられ ているだろう。数としては圧倒的に多いはずの日用品が文化的対象と見なされ るものの多数を占めることはなく、生命維持の次元を越えた、その意味では生 存維持にとっては不可欠でない﹁作品﹂が特に保護の対象になることには一定 イツの輩字界では特に西南ドイツ学派による﹁文化﹂概念が一種の流行語にな アlレントから少しさかのぼり、一九世紀から二O世紀へと変わった頃、ド もっとも、特別な保護なしに偶然残り続けた日用品が後世の人によって文化 り、大正時代の日本にも多大な影響を及ぼしていたとされる。その際、核とな の理由がある。 的対象として発見されることはありうる。しかし、その時、その日用品は﹁保 っていた理論的区別が﹁自然と文化﹂であった。 い。むしろ、この時代、この区別の核心は、自然科学と精神科学(文化科学) 人間の存在様式から引き出している労働と仕事の区別にそのまま一致はしな ただし、この場合、自然と文化の区別は、アlレントが古代ギリシャ以来の 護﹂の対象に変わり、例えは博物館の陳列品として手厚く守られる。あるいは、 口承伝承のような無形の対象の場合も、それがひとたび文化的対象と見なされ るならば、保護が始まる。 私の考えでは、文化的対象であることの本質は、後世の人々によって保護さ るだろう。人々が文化的対象ということで考えている事柄にとって、過去の人 人聞か生み出したのではない首怒が含まれる場合があることではっきりす 自立し、実証的な方法論を用いて独自の発展を遂げることを可能にしていた。 歴史学の自立がある。すでに近代の科学革命は、自然科学が(自然)析辛から その萱爪には一九世紀、ドイツにおける精神科学の状況、特に、賀子からの という理論知の区別に関わるものであった。 聞が生み出したという点は実は欠かせない要素ではない。しかし、保議される 一九世紀は、心理学、社会学、歴史学といった、自然ではなく位詩的存在とし れるということである。この点は、﹁文化遺産﹂として天然記念物のように、 ということは絶刈に欠かせない。 -54一 ての人間を刈象とする理論が、実証科学として賀子から劇的に自立していった F畏 時代だとされる。歴史学について言えば、ドイツ観念論の理念的な歴史論に対 して史料に基づく歴史の実証科学を標携したランケ(﹁g吉 区 ︿S 中 内 己 目 け 日aZBER宮内同)﹂として構怨していく。 一 九O五年の論文﹁歴史哲一子﹂において、リッケルトは、個性記述的な学と 法型疋立的な学というヴインデルパン卜の区別に、﹁個別化的方法﹂と﹁普遍 化的方法﹂という現実把握の方法論的区別を重ねる 20 この区別の要点は、 何かを代理不可能な個別性において把握することが必ず﹁価値﹂に結びついて 0・ こうした流れを受けて、当時の賞主主ちが強い関心を抱いたのは、果たし いなくてはならないのに対して、普遍化的方法の場合には客体がむしろ一切の 見田l H∞∞∞)やブルクハル卜 CR与∞R ∞巧)など。 n F R ι H W日 ∞ ︼ ∞H て精神科学の方法論は自然科学と同型のものでありうるのか、という科学哲学 おおよ沼町)は自然科学と精神科学のありかたを であるが、前科学的認識のように、その価値は恋意的であってはならず、比 H 極 一 的でなければならない。ただし、ここでいう普遍的価値は、人間の活動から独 する理論的営み 自然科学とは異なり、個別化的方法を用い、対象に価値を受n 2 向山にある互。唾史学は 価値結合から解き放たれるという性格がある、とい (5-rE5E己ZEw 的問題であった。なかでも、西南ドイツ学派の中心人物であったヴインデルパ ント (一八九四年)によれば、自然科学 立に、いわばイデア的に存在するものとしては考えられていない。むしろ、そ ヴインデルパントの﹁歴史と自然科学ト﹂ 厳密に区別することで影響力を誇った。 O B 2 5 5 F ) ﹂な学であるのに 互。自然科学は、時と場所を選ばずあてはまる普遍的自然法則を一般化によ ( E 2 5 5 S ) ﹂な学であるという点にある 他に関わる客観的価値なのであって、﹁例えば、﹁ゲーテのフォン・シユタイ リツケルトは﹁文化﹂と呼ぶ立。普遍的文化価値とは、制度、芸術、信仰その れは普遍的な社会的価値であり、社会的価値が歴史的に実現されてきた過程を と精神社子の違いは、前者が﹁法則定立的合 って見いだすことで理論構築する学である。こうした自然科学を壊鞄とする場 ン夫人宛の手紙﹂に芸術的な価値を結びつければ、それの文学史的に有札甲山味な いという判断は間違っている。歴史学は、過去の個別的な出来事や人物を描写 と自然日子では異なるのであり、自然科学と似ていないからといって学問でな 右回喜一郎は、その﹃文化価値と極限概念﹄(一九二二年)において、歴史的 だと言えるだろう。一九O五年から一九O八年までリツケルトの元で学んだ左 文化科学の営みは、それ自体、普遍的文化価値の実現に参与する歴史的運動 対して、釜告は面性記述的 合、法則を見いだし得ない歴史学は学問ではないと考えられがちである。けれ 側面が選択され、文学史の内に一つの歴史的個体が構成きれる﹂ する学である。時空的差異を超えて通用する一般的法則を歴史的事象に関して に実現する﹁価値﹂や﹁文化﹂を重視する西南ドイツ学派の哲字を、﹁文化価 Eo ども、ヴインデルパントの議論によれば、学問としての目的や手法が、歴史学 探し出玄凸みは無益である。なぜなら、時空的差異の消去は歴史的状況の消去 値の内容的実現を希求するいわば形市上学的努力﹂としての﹁文化主義﹂と解 o 識人に熱意をもって受け止められたようであるE o 文化科学論は、一種の理想主義的な装いで、大正期の日本の知 しているE にほかならないからである。 ∞ ] 858) は、さらに、精神科学を﹁文化科学 ヴインデルバンドに次ぐ西南ドイツ学派の次の世代の代表格であるリツケ ルト 22ロユロ7 5尖叩立、 -55 こうした理論的区別に先立った、生そのものの学であり、これは生の﹁根本状 のは、このように文化と自然をめぐる学問論がふきあれるドイツの学問界であ さて、フライブルク大学での修学時代の若きハイデガーが自らを見いだした ある。この生きられた﹁世界﹂が、この種の理論的区別によっては見失われて 現実の生は、これらの領域区別がなお未分化の単一の世界で営まれているので この童子にとって、自然と文化 自然と幽得の区別は無条件の前提ではない。 況﹂から出発する﹁根源学﹂としての笠子E であった。 り、その博士論文の主査を務めたのがリッケルトであった。ところが、ハイデ いる。すると、宣子的考察にとって、この区別を無反省に受け入れることは人 ハイデガーによる﹁文化﹂概念の批判│ l自然の存考 ガlは私講師として議議を担当し始めた当初から、ドイツや日本での盛り上が 聞の生そのものを見ないままに取り逃す危険を意味する。 で、主著﹃存在と時巴(および、この書の準備期に行われたアリストテレス ハイデガl の塁策の結果を、文化と自然という目下の関心事に関連する限り りに背を向けるように、師の文化や価値の宣言極めて冷淡な態度を示してい た。一九一九・二O年 季 T 期に行われた講義﹃現象尚子の根本問題﹄にはこのよ H 7な発言がある。 についての講義の記録である一九二四年夏学期講義﹃アリストテレス童子の根 本諸費必﹄)から引き出してみよう。理論的に細工された世界ではない﹁ごく E H D H H H S R F H H Z同江号)﹂ 当然の世界概念 ( ﹁これらのいわゆる学問論において、いつも繰り返し現われ、自明のこととし て受容される﹁庖さらし品﹂は、︿向艮γ文化、自然笠子文化科学﹀ないし︿自 ょうとするこの書物の中で、ハイデガlは、私たちが通常﹁人工物﹂と名指し の理念の仕上げを引き受け 然精神、自然科宇精神科学﹀という根本区分である。すると次に境界問題が ている対象を、自然と区別された人為の所産の領域へと一面的に追いやる傾向 E 生じることになる。すなわち、生物学は一体どこに属するのだろうか。生物学 に反対している。 ている。そこで、ハイデガlが牽制するのは次のような考えである。 ( 1 )自 って﹁道具﹂と呼び、その﹁道具的存在性﹂の存在論と言うべきものを展開し 通常人工物と言われるものをハイデガlはギリシャ語のプラグマタになら は一方では自然登子であるが、他方ではまた精神社子であり、あるいは精神科 学により近い関係にあるのではないか、というように。﹂ 1 3 ここで生物学が挙げられているのは、当時のドイツの生物学において、圧倒 瓦じ つに ま 具 ノ〉掛 Zふ t た │ 山i ~の ー . 1 l 1 が明 I 狙年 つの の者 こ は l ( 1 )道具的存在者はその﹁由 来(アルケ│)﹂として自然を指示しているからである。制作された立派な机 こうした自然と人為の二元論は誤っている。 ( 2 ) 道具とは、この自然に人聞が価値を付与するこ 然とは没価値的で中立的な存在であり、その実在的なあり方は価値士立的な法 手 足 的優勢を占める機械論に対して、ドリl シユ(コ由自ロユ冊目F ︼∞弓巴企)が き而 則によって捉えられる。 解な で側 新生気論と呼ばれる立場を打ち出していたことが関係しているだろう。そうし 皇 居 とで有用性のよ・?な性質を帯びた財である。 ! C l . 1 . . , ;1 た文脈は置くにしても、レlベン(生、生命、生活、いのち)という一つの対 存4 -56一 1 3 渡象 るに もつ のい でて あの る学 脊くために有用であるのは、例えば、十分に固いという自然の性質をその存在 たわけではなく、依然として﹁木製﹂である。のみならず、机がその上で字を の中に収まっている氷はコップの外にででも氷として存在している。しかし、 まっているという事物聞の関係と同じように理解することはできない。コップ 聞か世界内存在するということを、より大きな事物の中により小さな事物が収 人間の自然性を物語る事実に、誕生と死という生成消滅の出来事がある。人 の様拠としてもつからである。このことはあらゆる人工物について言えるので 世界の内に存在している人聞か世界の外にでることは﹁死﹂券}意味する。人間 ﹁木﹂から作られたものであるが、机になったことで木であることを止め ( 2 ) 前売 あり、どれだけ人為的な環境であってもそれ自体なお﹁自然﹂である。 1 ミ嵯 は、誕生において世界の内に投げ出され、世界の内に存在する。しかし、世界 私 は、 た各 ち人 はの こ生 こが で 、「 生 文誕 そもそも、そこから机が制作される﹁木﹂は、それ自体では有用でも有用でな 三 宮 の内に存在しはじめるということは、存在し始めた以上、すでにいつでも、も え や くもない、というわけではない。﹁青銅から像ができる﹂(アリストテレス) 主超 はや世界の内には存在していないという死の可能性へと差し向けられている、 勺 え ように、成長した木はそれ自体、机になる潜在能力つアュナミス)をもってい 予苔 ということでもある。 さき るのであり、あるいは、ガラスになる潜在能力はもっておらず、このことは人 コ且コ J 間が恋意的な価値付与によって決定できることではない。机はまさに自然がそ 巳ス の sz 的世界は、自然の領域から人聞か自らを区別した人間特有の﹁世界﹂ではない、 形の文化的対象にも、天然記全紡にも言える。それらは、個々人の死を超えて は朽ちていく対象の自然性によって立ち現れる何かである。類似のことは、無 ハイデガl の議論が教えているのは、人聞の技術によって生み出された人工 ということである。むしろ、まさに高度に発展した人工的環境世界でさえ、あ 後世の人々が保護しなくては脆くも失われるものである。人間にとって自然の 聞である。 るいはこうした世界に着目する時に特に浮かび上がるように、持縮的に生み出 ﹁ごく当然の世界撃山﹂を求める道のりで、人間の基礎的な 時間性は必ずしも無限の反復ではない。むしろ、歴史的人間の断絶と継承の時 と、人間よりも耐久性をもつがこれもまた物瞥的存在の運命として保護なしに 対象が、個々人の死を耐え忍び、後世の人間によって保護されるものである、 会 間の人工的な道具的世界は、環境世界的自然を掛酌することで成り立っている。 ( 3 ) また、人 2 ?吉 という先の論点を思い出すだろう SZ 文化とは、自然の領域と峻別されるも Z 障 と古 例えは、プラットフォームの屋根は天候を、腕時計は天空の運行を、大都市の の潜在能力を発揮している状態(エネルゲイア)なのである。 ιf ア 1 7 のではない。むしろ、まさに、肉体的な死を運命づけられている人間の自然性 の 間ハ 過剰な明りでさえも暗さを、つまりは太陽の光の有無を掛酌している 」イ された道具世界に生きる人聞は徹頭徹尾、自然の中に被投されているのである。 、 ハイデガlは 存在様式を﹁世界内存在﹂と名付ける。この世界を構成する存在者は、文化と 自然の領域区分に従っていない。このことは、人間自体の自然性、あるいは自 然への被投性を今一度考えさせないわけにはいくまい。 5 7一 l ま 継承とは何をすることなのか ある人聞に対して開示された世界、その道具が帰属していた世界がもはや存在 しないことに基盤をもつのである。 ハイデガl ﹃存在と時巴の歴史童子は、まず、通俗的な歴史概念を吟味す ろ、すでに存在していない人間が生きていた世界を、現在の人聞がその世界に 単に時計で進行する客観的時聞が過ぎ去ることに根拠をもつのではない。むし ある歴史的対象が過去のものであるという時、その過去性という時間性は、 ることから始まる。一般に、歴史には﹁過去のもの﹂という芦語がある。しか 帰属していた事物に即して、追憶することに根拠をもっ。第一次的に歴史的に 博物館の陳列物││重品のものになるということ ﹁過去になる﹂とはどういうことなのかがまずは問題になるB}O w ハイデガlは博物館に保存されている過去の遺物、例え 住 家具について思い 存在しているのは人間であり、第二次的に歴史的に存在しているのは、世界の l こら 価に 値し のて もそ とれ では 慰 霊 の的 ちと遣される者全 死にゆく雪 ι のになる﹂という事態は、この道具が時間の経過の中で破損したり虫に食われ ﹁過去のも になる。ハイデガーが﹁継承﹂という言葉を使うのは、この、先を行く者と後 界﹂の内に存在している現在の人間の関係が、歴史性の根源であるということ った﹁世界﹂に帰属していた事物がこれはこれで物留萌に現在帰属している﹁世 すると、すでに存在していないがかつて世界内存在していた人間と、彼、が去 たりすることで成立するのではない。今もこの道具はその意味では過ぎ去り移 続する者の聞の関係についてである。先立って存在している人間の実存可能性 ところで、この人間の実存はすでに終駕を迎え、この人間に対して開示されて 限りで、その目的の手段としてこの人間の世界に帰属するものとして存在する。 界﹂である。ある道具は、自らを目的として生きる人聞が世界の内に存在する ハイデ、ガーによれば、過去になったのは、この道具がそこに帰属していた﹁世 になりうる一切が含まれる。学者か、父親か、革命家か。私たちの自己了解は、 容のほうから自己を了解する。この解釈内容には、﹁誰か﹂という問いの答え はできない。そうではなく、さしあたり私たちは、何らかの継承された解釈内 選び取り、自らを何ものかとして了解する。しかし無からは何も選び取ること ﹁継承﹂は表立ってではなくても日々行われている。私はある実存可能性を ││生会与マーを適された者が継承するのである。 いた﹁世界﹂はもはや存在しない。だが、その世界に帰属していた道具は物質 さしあたり流通している実存可能性を自らに継承することで有意味なのであ この道具が歴史的になる、というわけではない。 ろいゆく時間の中にあるが、この時間の経過のために昨日よりも今日のほうが 考えるべきは、歴史的なものの過去性という時間の青山味である。 7lハイデガlにおける脅辛の歴史性 内部で人間に出会われるものであり、この中には広義の道具だけでなく環境世 対と 象名 に付 なけ つら たれ かう らる だの 浮かべるように促す。この{雷同は﹁過去のもの﹂と言われる。しかし、その家 主ず 揚 ぶ 界的自然木ぶ固まれる。 i j : うわ ろうか。そうではない、とハイデガlは言う。 リな 具はまさに今、目の前に現前している。この道具は実はまだ過去のものになっ ツし、 ケ。 ルそ トれ がに 言も 的になお現在も存在している。つまり、この辺具が﹁過去のもの﹂であるのは、 -58一 2 2 1 し かて ては、具体的に誰の実存可能性を継承しているのかは暖昧である。 る。ただし、ハイデガーが非杢米的と呼ぶこの種の非杢米的な自己了解におい 考えると良い。 れると考えられる。例としては、パタlナリスティックに介入する教師や親を 継承する可能性がある。私たちはともかくも先を行く他者の実存可能性の継承 かただからである。この場AR私は、具体的な他者を欠いた社会的カテゴリー は、ただ、自らのありかたを示すだけであり、他者を代理することを拒むあり ﹁率先垂範﹂という他者への気づかいは最も本来的である。率先垂範 AZなしに内容のある自己了解をすることはできない。だが、本来的に 逆に、 とい を適用して自らの実存可能性を選んだり、あるいは他者に道や定められてしま だが、人間には、具体的な人格的関係に立って、特定の人間の実存可能性を ﹁他者﹂と呼び得る人格の実存可能性を継承するという事態は、一般的な社会 ったりするのではなく、みずから具体的な人格的他者の内に﹁英雄を運ぶ﹂こ に範を示す他者は代えの効かない人格的関係にある。率先垂範は、他者にその 的カテゴリーを自らに適用することではない。この事態は自らの﹁英雄を選ぶ﹂ もっとも、このような継承は必ずしも死者と遺された者の聞にだけ成り立つ 人がみずから引き受ける実存可能性を発見させるがままにし、﹁あるがままに とで自分に具体的で明確な実存可能性を与えるのである。この受尺私と、私 ものではない。しかし、ハイデガlは、最も究極的な可能性として、死者と遺 あらしめ(印丘ロ きことにおいて成り立つ、とされる。 J ており、そして、彼にとってこの可能性こそ賀子そのも された者の関係主 え する。 釜告の他者関係において、率先垂範する(先に跳びだしていく)他者の典型 町 田 -E g ) ﹂、その人に固有な実存可能性へと﹁他者﹂を解放 のの可能性であったように思われる。 この点に関して最大のヒントになるのは、ハイデガlが他者関係の二つの極 教師としての死者 ( 1 ) りと明言してはいない。しかし、いくつかの裏付けは可能である。 のは、死者の実存可能性の﹁継承﹂である。以上のことをハイデガlははっき そしてもはや存在しないのである。本来的な他者関係の好機を最も与えている とは閉ざされており、ただ、私に先立ってある生去、方をし、その生長半タ乞示し、 パタlナリスティックな介入に陥りやすい。しかし、死者には代わりにやるこ をハイデガlは﹁死者﹂に見ているように思われる。簡を示すことは現実には ﹁代わりにやり支配するような ロケ)な他者関係である。巴ロ凹古江口問由ロとい l 258江口問g斗 端な可能性として、 官官同門田口宮昆)﹂気づかいと﹁率先垂範して解放するような(︿ O印 円高∞昆 H有 開 (50H S H H H Z沖合BS ﹂気づかいを挙げている箇所である。 前者は最も非本来的 う語の一般的な用例は、 ﹁同僚の代理を果たすこと(苫円台ロS F口 a E 25宵宮岡田コ)﹂などである。ハイデガーによれば、このような代理行為にお いて、他者が自らの道を歩むことを妨げられ、﹁自らの位置から放り出されて、 (ιRFED間同開叩)や 第一に、死者は各自がかけがえのない存在であることを教える。 ﹁他者は依存者 被支配者(仏RFZ耳 m ) になりうる﹂(幻}。この関係においては、その人 目 白Z 食事を作ることから論文作成まであらゆる行為は代理可能である。私の代わ 身を退く﹂ことを強いられるのであり、 自身が自らに固有な ( 2 m g ) 実存可能性を投企する、その可能性自体が奪わ A AMd mhd たちはどうやって知るのだろうか。他者の死を経験することからである。 死は各自が自ら引き受けるしかない傑出した現象である。では、このことを私 さにこの非行為は私にしかできない。誰も私の代わりに死ぬことはできない。 りに他者がそれをできる。他方、死ぬことはもはや行為ではない。そして、ま りがあり、この存在が成就されるのは終わりに至った時であるが、まさに終わ 存在は不可能に思われるからである。というのも、全体存在には始まりと終わ か、というかたちで問うている 27 これが一つの﹁問題﹂であるのは、全体 時間性への聞いを、現存在はその﹁全体存在(の自白色ロ)﹂において接近可能 りに至った時には私たちは死んでおり、もはや存在していないからである。私 には、私の﹁人生全体﹂は原理的に与えられないように思われる至。 この問題からハイデガlは先の他者の死の経験へと論を進めていく。この一一 ﹁何人も他者から彼の死亡を取り除くことはできない。なるほど、誰かが﹁他 者の代わりに死におもむく﹂ことはありうる。しかし、このことが意味してい えそ ばし て そ つの点を重ねて言えば、死者は﹁人生﹂の全体について教えてくれる唯一の存 控 室 言「 ﹁特定の事柄において﹂その他者の代わりに犠牲になるという V手 更を のそ 実れ 存が 可先 能を 己 実 Q の !t}勅 : ム 至 宝 i : l む生 ゎ 交 ~町 1 z z ト仇 間五 32 5 z q る γ 7 E 守器 ﹁存在の意味への問い﹂を探求するものであ 間いに対して、われわれは今日なんらかの答えをもっているのだろうか。決し ﹁一体われわれは﹁存在する﹂という言葉で何を意味するつもりなのか。この 以前にはわかっていると信じていたのに今では困惑に陥っているのだ﹂を掲げ、 を君たちが昔から熟知しているのは明らかなことだからだ。だがわれわれは、 する﹂という言葉を使"?とき、一体君たちは何を芦保するつもりなのか、それ るが、その冒頭に、プラトン﹃ソフイステ1 ス﹄からの引用﹁君たちが﹁存在 ﹃存在と時毘という書物は、 きる、というのが、ほかでもない童子の実践である、とハイデガ1は考えてい このように、死者の実存可能性を継承することとして自らに固有な人生を生 q ~\ 駆っ るのは、常に、 2長 で能 あ '~1 性は死者のものでしかありえないのである。 の在 在だということである。だから、人生の全体へと延ひ広がった、つまりは、こ a i 実す 存る 可こ 能と 性の 人聞がこの世に存在する(世界内存在する)とは、もはやこの世に存在しない けるしかない死が到来するという、この一点において、私がこの世に存在して 人 寄 で -60一 れによって他者から彼自身の死がほんのわずかでも取り除かれたということ を意味することはあり得ない。死亡することは、それぞれの現存在がそのつど 自ら引き受けるしかないものなのである。死は、それが﹁存在する﹂かぎり、 く世 人に 間存 たように思われる。 本管商にそのつど私のものなのである。﹂ ゅの ことでしかない。だが、このように誰かの代わりに死亡するということは、そ の~ 可能性へと、死へと向けられて存在することである。そして、我が身に引き受 2 2 栴こ いることには絶対的なかけがえのなさが与えられている。死者は、各人間のか イ」 ノ 、 、 けがえのなさを、自らの死をもって教える。 生は 教師としての死者 ( 2 ) 官 百 ・ に 県警 B は く暇もなく研究した﹂この間いを、忘却から救い出して自らに継承することが 要なのである﹂、と書き出しているさ。プラトンやアリストテレスが﹁息つ てそうでない。だからこそ、存在の意味への聞いをあらためて立てることが必 ければ、その?えに浮遊している普遍問なものでもなく、事実的に実存にもと いですでに誤っている。歴史学の主題は、一回限りしか生起しないものでもな 事の系列のみであるのか、それとも﹁法則﹂であるのかとい豆聞いは根底にお の づいてすでに存在した可能性なのである。﹂ き 部 2 3 るだろャフ。 ことを媒介として。 入手、精査、確保といった、翠削の事物に対する一見きわめて地味な作業にお ろう。ここで﹁事物﹂は環境世界的自然を含めて最広義に受け取られている。 の世界をその実存可能性を引き受けるという仕方で継承する﹀というものにな 簡略化すれば、上記の問いへの回答は、 いて、それらが属していた世界がそこに開示されていた死者の実存へと第一に 無形の文化的対象もその自然性や物質性と無縁ではない。口頭伝承でさえ、音 とすることを意味する。実際、 ﹃存在と時国のハイデガiは、相互的な語り くては消失するものであり、無形であるとは特有な仕方でこの﹁保護﹂を必要 関わっているのである。ヴインデルパントの精神科学/自然科学の区別を明ら ︿事。れた者たちが事物を介して死者 いかに継承するのか。死者の世界に属していた事物が翠削にある 何を継承するのか。死者たちの実存可能性を。 誰が継承するのか。遣された者たちが。 が何をいかに継承するのか﹂という根本的な聞いに次のように答えることにな ﹁文化継承山子としての賀子﹂を目指す以上の考察は、表題に蝿けておいた﹁誰 を ハイデガlの扮丸子の課題であった。あたかもプラトンにとってのソクラテスと いう折亭の最初期の出主事のごとく、死んでいった賀署の実存(問い、塁今、 言事を自らの可能性として引き継ぐことがハイデガlにおいて﹁童子するこ と﹂だったと言いうる。 Z尽から学問的営みを理解するという靖氏は、 死者の実存可能性の継承といh 実は、﹁歴史学﹂についてのハイデガlの記述においては明篠である。 先の陣物館の陳列口問の議論を引き継ぎ、ハイデガlは、次のように歴史学の ありかたを解釈する。いまなお物質的に存在している遺物、記念碑、報告など は、すでに存在していた過去の人間の世界を具体的に開示するための﹁史料﹂ である。しかし、それらの現前の事物がそもそも﹁史料﹂となることが可能な のは、それらがかつての人聞の世界に属していたからである。それらの人聞は ﹁誰か﹂であった。皇帝か、商人か、兵士か。このかつての人間の実存可能性 何 声を必要とする。自然性や物質佳とは、耐久性をもっとともに﹁保護﹂されな へとかかわっていく現在の人間なしには、何も歴史的対象にはなりえない。そ 誰 かに念頭におきながら、 ハイデ、ガlは次のように述べている。 ﹁歴史学が対象にするのは、はたしてようやく一回限りの﹁個性的な﹂出来 -61一 3 り、落ちぶれたり、死ぬことさえありうることに着目しているを。 の存在に応じて、言語(例、えばラテン語)も、まるで人間のように、成長した 死をも耐え忍ぶ事物の耐久性への眼差しを曇らせ、学問界をも巻き込んで、歴 ノの死滅のスピードの加速と一体化する急テンポの消費社会の論理が、人間の る 美 美 学 院 さ れ て 内容に補足修正を加えたものである。 ι (2) ﹁文化継承学﹂ ホームベ l ジ ﹁文化継承学とは何か﹂ より。 ﹀岡市 o b守 ミ EFSOKgbpbkhと8・s.S匂営守主ミh 田 口 ・ い 旬 、σ15270¥ 与oEKEa-E ¥ ¥ 3・宮田口・ι 百 冊 ・ E G一 (3)EEF ロ 門 同 叩 門 出 江o bso司 。E口白問。¥﹁。ロ門目 0ロ↓ymWCE︿O H,印比可O Eロ 自w印 叩 ロO p 印 問 。 w H U U 。 向 可吋叩回目 ・ ∞ ( 4 )宵 SF sobssbhg匙円H . s -ち ・ ∞ - ( 5 ) この﹁保護﹂の活動の意義については、後期ハイデガl の﹁住まい﹂の h b h H h sL町。}山勺吋仲ロロ叩Hop2・﹄・一司吋片岡阿口叩けOロロロ仲︿巾一﹁的片付可匂吋巾的凹w] 句、﹃・ w 市 戸 なお、ヤングのハイデガl解釈については以下の拙論で触れたことがあ J 巳臼申白ロ門同国 O へ Et 丘町件︿白円仲白け仲O ロ的。ロ白叶町四百O 富 田 一 o cロ w H D m w zZO 自 司 ミ23hRshhp.hagkf NbHbEmakshE.2h hvN.hsshRP 概念について論じたヤングの以下の論文から示唆を得た。同ユ臼冨白河H O D 文 史に対する責任の感覚を人々から奪い続けているように見えるからである{却)。 草 ﹁継承﹂においては、死者の実存可能性を遣された者たちが追憶しつつ引き 課 程 (明消大学文学部専任講師・童子倫理学) 本 稿 は 明 戸 ﹄ 円 四 時 叩 印 ¥ 4 F O 印EE EHEH巳 F O H H 同国間∞ 白門 H C H 化継承学 ( ﹂ 円 凶 回 、 。 内 ロ ロH 戸 一 由 宮 門HE四叩)﹂講座の合同授業(二O 二二年六月一四日)で筆者が述べた 議 受ける。童子もまた、一人の人間のように、世話されることなしには、落ちぶ 文 学 評 れたり死んだりしうる。二O世紀には﹁賀子の終駕﹂が一時流行語のように語 2 土 られていたが、そもそもソクラテスにおける童子の始まりはそれ自体、賀子の 終わりの危機だった。童子の始まりはソクラテスに対する死刑宣告であり、ソ クラテスの死の意味を後世の人々、が論じ合い、かっ、まさにそれが賀子するこ とそのものだったのである。今日、私が萱主告であるということ、童子的な実 存可能性を自ら投企することもまた、賀子の危機がふたたび叫ばれるこの世に、 (82Eghz 比宮)ことを意味す 笠子をなお、それとして存在させる る 。 この﹁保設﹂や﹁継承﹂というキーワードから一種の伝統主義か保守主義を、 ﹁無﹂から何かを ﹁新たな始まり﹂への拒否を街御する向きもあるいはあるだろうか。だが、明 白なのは、歴史的に実存する限り、私たちは﹁ゼロ﹂から、 始めたことはないということである。歴史を消去することは、私たちの自己理 解の、つまりは行動の原理の条件を破壊することである。始まりとは、過去か らのまったくの断絶によって開始されるものではない。 文化継承の音義を強調することには、行動や理解の新たな開始に抵抗する伝 ﹁新たな始まり﹂に対して自らの時代の責任を果たそうとすることで 統主義を掲げることと直接の関係はない。むしろ、その条件を生み出すという 意味で、 ある、と積極的に言うこともできるかもしれない五百このように述べること は、今日、ことさらに重要であるようにも思われる。モノの休みない生産がモ -62- 注 r 護 官 彊量 」ー 型産 の L 昌閉 8 4 (時) ﹃存在と時国と一九二四年夏子期議議﹃アリストテレス童子の根本 諸概念﹄での自然費ふについては以前詳しく論じたので、そちらをご覧 いただきたい。池田喬、﹃存在と行為││﹃存在と時間﹄の解釈と展開﹄、 創文社、二O 二年、第一章. (口)白色彩間関RWHF旨EhtNE.れω・ω司l ω 討 ハイデガlの哲学を深く理解していたはずのアl レントはこの点も理 解していたように思われる。彼女はたしかに古代ギリシャにさかのぼっ (児) b 江口同時ahEO hvh句忌ヒ日§kvH.句旨凡出荷45shhwもb E E S N Z b hP 円R て労働と仕事という人聞の活動様式を区別した。しかし、その眼目は、 自然と人為の古代的区別のうちには、出生と可死性という人間の根本事 実への洞察に基づいた自然と人為の連続性が含まれており、むしろこの 連続畦﹂そが古代の人間理解の根本にあったことを示す ﹂ w とだったと言 s s E 手当 EEL → 雪村 。 z y' i S f p H 5・ 口 E 語 h ~ ~ ~ ~' . . . . . . . . 暗 ~U ~♀ ) < ) . > ; RJ i E ヨ ミ奇 号 〈 、 吋 由 日]﹁ 年. 九円 L 河 町 ﹁その終駕を見と ﹁では、生きているかぎりは、およそいかなる人聞をも幸福kものと呼 んではならず、われわれは、ソロンの言葉どおりに、 (担) (幻)Z色紗mmRw Rbsh同bEm-N8・ ( 辺 )FE諸問白ph2.bE氏、由主的・N品。・ 民俗 HFm-HNN・ (幻)司白区高官FhE.bE (却 )ZSι諸問叩Fhs.bEnHN由民れ凶・ω∞m- 辻 (問 )22L叩四四叩phE.bS H.H・∞-SCIao- 止下│ハイデガl ・九鬼周造・アlレント﹄、墓尽大学出版会、二OO八 ﹃死と誕 ( 9 ) 百円ZHY--の口閉口町ロEZ吾己O印。吾52∞・∞印・ a . 品~' 四 日 ら総合的に読み解こうとする試みとして以下を参照。森一郎、 うべきだと思われる。 ハイデガ!とアl レントを、原則的にこの観点か 頁. (日)左右田喜一郎、 ﹃文化価値と極限概念﹄ (第二題、岩波書臣、 二年、五一頁. 六六頁. (ロ)宮川透、 ﹃日本一精神史への序弘盟、紀伊国屋書底、 一九六六年、六五j 九 七 (叩)九鬼一人、 ﹃新カント学派の価値童子﹄、弘文堂、 一九八九年、四士 ( 8 ) 出口52・42nZ口EZUFHHO印O吾52ω・401ゴ・ ∞u . ω ・。Nl hh円bRFE叩HZJ一の白己主ロ片品吋ぶCDH︿司自立山宮σ558LHg田畑 ECmw (7)ZSRH各自口rRF42S口EZUEEg吾F=E唱・宅HEOHσ出E(国間・) ] 戸 口 房け る 二主 O 体 ユ 白 出 品 口 白 口 } 戸 田 内 デ 製高 の理 事長 N .b 同 凶 ! 九 世 ・ ロK ︽凶・HHU4ロσ同ロ岡田口一同・。・∞・冨OFFω・HAF目・ 司∞ 白色Z白け己寸 C 保正面 I 企 ア る。池田喬- の問題﹄ 手芸 の 申 臼 ロ F H ロ F H 巾 (6)ttHFOE-5 邑ZEEW - ? 語 (日)冨REFEO同開口吋祖母S応可。ミ露骨辺一昔SE ohh句"のESSE官官 ( 1 ) -m∞・司門出口}内向戸円け包国玄白HZ一︿HHiTU吋HO同日O凶汁巾吋吉山口口・-市町市wu・∞-NN・ 』 戸 恒 百 ) ' a . r l ' -63一 年 円>-', 回仏 ロ毘 ﹀ 口 同 ﹂ 戸 民 間P]-mw ∞叶wω・mM- 1 5 1 4 、 、 町 / s : : ; : r : E 四 どけねばならない﹂のだろうか﹂ (アリストテレス、 ﹃ニコマコス倫理 学﹄(アリストテレス全集第三春)、加藤信朗訳、岩波書府、一九七三 年、二七頁)。全体存在の可能性への問いは、アリストテレス﹃ニコマコ ス倫理学﹄で論じられるこのソロンの聞いを存在論的に形式化したもの であると考えられる。以下の拙論を参照。﹃存在と行為││﹃存在と時 間﹄の解釈と展開﹄、第四章. mmR 恥旨 E ぇbhFω ・ ゲ (お)甲山伯仲念 (Mm)EOE な EhHbpω ・ωcm品 開 。F ゃ (幻 )zoE諸 問 。 ♂ 九 円 句 H.bEぇbhnω ・5 ・ 。 zbr白幡 間当回一 目 目 、 O LN .円iN門 . 川 知L 、 p b円 高 qhH u-Mh 問 。 凶 品 ∞ ・ h S H . h o h♀ukdw 可 omrHCJ 0・ v白円一戸田一口四ロ -64一 (お)本論第一節で論じたように、文化遺産の保護は、持続的かつ大掛かり な取組みであり、十分な組織化と資金を要する以上、政治的な側面を帯 びざるを得ない。そのため、文化構造を保護する義務の問題は今日の政 治童子の重要なトピックを形成している。これについては別に考察が必 H H H 唱 巾白山凶wNOONW 日︾ H1 (却)消春在会化とともにモノの時間という価値が消失していくという見方 円﹁ 円 hhH s h h bhh ぬお 旬。 は、例えば以下で表明されている。 V S F邑江戸白丘 hhhobH ばなら 0 bh司 円. bobhQSSN hh司、円凡目。 h m -mAFlmo 七 営 要であるが、さしあたり、議論状況を知るためには以下を参照すると良 。 営待。与ミN s r g E E江opCHFE¥Z240 晃一宮内oECE 耳目立可 し 、
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