Title ドイツ年金制度の構造と発展 Author(s) 下和田, 功 - HERMES-IR

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Author(s)
ドイツ年金制度の構造と発展
下和田, 功
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Issue Date
Type
1995-11-08
Thesis or Dissertation
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/16902
Right
Hitotsubashi University Repository
Az久久
’67
ドイツ年金制度の構造と発展
下 和 田
功
1
次
目
第1部門現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
第1章 ドイツの社会経済体制と年金保険・一…………………一3
1 社会経済体制と社会保障システム・……・…………・一…・…………・3
(1)戦後の社会的市場経済体制と社会保障…3
(2)社会保障システム
の3本柱…5
2 社会予算における年金保険の重要性…………………………………7
(1)社会予算と社会給付…7
(2)制度別社会予算に占める年金保険制
度の比重…10
3 社会保障と年金保険における多元主義…………・…・・…・…………・・12
(1)社会保障における多元主義…12
(2)年金保険における多元主義
…13
4 人口・就業構造の変化と年金保険…………・・……・…………・…一・14
(1)人口構造の変化と年金保険…14
(2)産業・就業構造の変化と年
金保険…19
第2章 ドイツの年金保険の構造とその特質一………一…・……23
1 年金保険の機能と構造………一・…………・・……・……………・…・・…・23
(1)年金保険の基本的特質…23.(2)年金保険制度の構造…25
2 年金保険の財政・一………………・一…・…………・・…………・……・………28
(1)財政方式と連帯思想…28
(2)保険料…30 (3)国庫負担…34
(4)制度間財政調整…37
3 年金保険の給付…・…・……………………………・……・・…………・………38
(1)給付種類と受給者数…38
(2)年金受給資格…42
支給開始年齢と部分年金制度…43
(3)老齢年金
(4)年金算定式と年金スライド…
2
目‘
44
次
目
(5)年金水準…48
第2部
3
1 占領期における年金保険の動向(1945−1949年)一……・・………一77
第2次大戦前におけるドイツ年金保険の発展
(1)4占領地区の社会保険∴・77
険の岐路…79
第3章 生成期における年金保険の史的展開(1880年代一
1914年)………………・一……・・………………一……・…………一53
・・・・・・… 一・・・・・・・・・・・…
1 皇帝詔勅とビスマルク社会立法………………
一… 53
(1)社会保険の一部門としての年金保険の成立…53
(2)障害老齢保
険法の特色…56
.
(2)統一的社会保険と多元的社会保
,
2 経済復興期における年金保険の動向(1949−1953年目・…・…・・一82
(1)ドイツ連邦共和国』(西ドイツ)の発足と社会保険の再建…82
(2)年金保険制度の経済復興への適応と年金改革の動き…83
第6章 高度成長期における年金保険の動向(1954−1970年)
第1次年金改革の生成とその展開を中心に一
2 ライヒ保険法と職員保険法の制定……………・・…・……………・…・・61
(1)ライヒ保険法の制定…61 (2)職員保険法の制定…62
第4章 戦間期における年金保険の史的展開(1914−1945年)
・… 。・・・・… 。・・・・・・・・・・・・・・・・・… 。・… 。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 一・・・・・・… 65
1 第1次大戦と年金保険(1914−1919年)・………一・…・一……・……65
(1)戦時体制への対応…65
次
(2)障害年金保険における年金支給開始
1 第1次年金改革の形成過程・・…・………・…・・……………・・…・…………87
(1)西ドイツの高度成長期…87
(2)社会保障改革か年金改革か…88
(3)シュライバープランと政府部内における年金改革論争…90 (4)年
金改革をめぐる議会内外の論争…93
2 第1次年金改革の特色とその成立の主要要因・………………・……・97
(1)第1次年金改革の特色とその評価…97
年齢の引き下げ…65
2 ワイマール共和国の年金保険(1919−1932年)………一……一…66
(1)インフレーションの年金保険への影響…66
(2)再建と改革…67
3 国家社会主義政権下と第2次大戦中の年金保険(1933−1945年)
… 。・・… 。・・・・・・・・・・・… 。… 。・・・・・・・・・・・・・・・… 。・・・・・・・・・・・・・… 。・・・・・・・… 。・・… 。・・… 。… 。。。・・70
(1)自治管理主義の廃止と国家社会主義的指導者原理の導入…70
(2)年金保険の「健全化」と給付改善…71
・・・・・・・・・・・・… 。・・… 。・・。・・… 。・・・・・・・・・・・・・・・・・… 。… 。・・・・・・・… 。・・・・・・・・・・・・・… 。・。・87
(3)第2次大戦中の展
開…72
第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第5章 敗戦から奇跡の経済復興までの年金保険の動向
(1945−1953年)………………・…・……・・1……・…・……・・…………77
(2)第1次年金改革成立
の主要要因…105
3 第1次年金改革成立後の展開(1957−1969年)・・……・……………109
(1)新年金システム導入後の最初の10年…109 (2)戦後最初の経済
不況と新年金システムの初試練…110
第7章 高度成長期末期における年金保険の動向(1970−
1975年)
一第2次年金改革の成立とその評価を中心に一
......._..................。。.。...............、.......................。.・・・・… 。・… 115
1 第2次年金改革実雄の契機………・・………………・…一…・…1……115
(1)1966/1967年の経済不況からの回復と年金財政…115 (2)改
.革の改革…116
4
目
次
目
2 第2次年金改革の成立とその特色・……・・…・……・・……………一・117
(1)第2次年金改革の成立…117
(2)第2次年金改革の主要な改正点
次
5
(1)基本年金構想…154 (2)現行制度の粋内での改革構想…157
(3)賦課方式と積立方式を組み合わせた年金改革構想…160
3 ドイツ年金史における1980年代の性格・…・……………・…………162
…118
3 第2次年金改革の評価とその課題………・一…・……………・……・・121
4 高度成長期と年金改革………一……………・・……………・……・……125
第8章 1970年代後半における年金保険の動向(1975−
1980年)
1 1992年年金改革法の形成過程………・…・……・………一・…一・…・一165
2 1992年年金改革法の要点・………・………・・…………・……・…………167
(1)現行年金制度の基本的粋組みの維持…167
一第1次石油ショック後の財政危機対応期一
.。..............。。...........,._...,...............。.....∴。・・.。・・・・・・・・・・・・・・・・… 127
1 年金財政危機と総選挙……・・…………・…・・……………・………………127
(1)第1次石油ショック後の年金財政危機…127 (2)1976年総選挙
の段階的引き上げ…168
(2)年金支給開始年齢
(3)減額年金・増額年金制度の改正…170
(4)部分年金制度の導入…171
(5)女性・家族政策的改革…172
(6)連邦補助金の動態化…173
(7)年金関係法の統合とその社会法典
への編入…173
3 1992年年金改革法成立の社会経済的背景………・…・……・………174
前後の状況…131
2 第20次年金調整法による財政健全化対策…………・……・・………133
(1)2つの年金調整法の成立…133
第10章 1992年年金改革法の成立とその社会経済的背景…165
(2)第20次年金調整法(1977年)
の年金財政対策…133 (3)第20次年金調整法の評価…135
3 第21次年金調整法による年金財政対策・……………・…・…………137
(1)第21次年金調整法(1978年)の主要な改正点…137 (2)第21次
年金調整法の評価…139
年齢者の就業状況の変化…178 (4)乳輪高齢者の生活問題…180
(5)被保険者問の不公平性の問題…182
4 1992年年金改革法の評価とその課題…一…一…・・……………184
第11章 東西ドイツ年金制度の統合・……・…………・…・…・……∴一187
1 ドイツ統一と年金保険制度の統合…・・……・…………・……………・・187
4 1970年代後半の年金政策の性格……………・一・……………………143
第9章 1980年代における構造改革の試みと年金改革論争
.。。............._.......,............................._....・… 。。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 147
1 1980年代における年金財政再建と構造改革の試み……………147
(1)1980年代前半の財政危機と危機管理…147
(1)人口構造の変化…174 (2)経済・雇用環境の変化…177 (3)高
(2)1984年の予算関
触法と年金調整法による主要な改正点…i48 (3)1985年の遺族年金・
養育期間法による主要な改正点…150
2 1980年中の主要な年金改革論争…・・……・……………・…・………・…153
2 東西ドイツ年金制度の比較……・…一・…・・……・・…………・・……・・190
(1)東ドイツの年金制度…190 (2)西ドイツの年金制度…193
3 年金制度統合のプロセスとその主要課題…・……・………・………195
(1)ドイツ再統一と年金法上の一元化…195
(2)年金制度統合に伴う
主要課題…198
4 時間のかかる実質的な年金制度の統合……………・…………・…・…202
終章 年金改革と保険主義一……一…・……・…………・・…一・…一205
6
目
次
1 ドイツ年金制度の歴史的連続性と保険主義…・……………・……・205
2 社会保険と保険主義一・…………・……………・…・・…一…………・・…207
(1)ドイツ社会保障と保険主義…207
208
(2)社会保険学説と保険主義…
第1部
(3)年金保険における保険主義…210
3 ドイツ年金史における保険主義の変容…・……………・・…・…一…213
(1)戦前期における保険主義の動揺…213 (2)戦後復興期における保、
険主義の後退…213 (3)第1次年金改革期における保険主義の強化
…215
現代ドイツの社会経済体制と
年金保険の構造
(4)第2次年金改革期における保険主義の後退…216
(5)1980年代における溝造改革の試みと保険主義維持の模索…217
(6)1980年代の年金改革論争と保険主義…218
(7)1992年年金改革
法における保険主義の維持強化…219
4 ドイツ年金制度の将来と保険主義・………………・・……………・…・・221
19世紀末ドイツに社会保険が導入されて以来,年金保険制度
は社会保険の全部門の中で常に重要な位置付けを与えられてき
た。第2次大戦後も西ドイツでは多様な制度からなる社会保障
システムが整備される中で,人口高齢化の進展と年金保険制度
の成熟化によって,年金部門は引続き財政的にも最大の比重を
参考文献
索
引
占めてきた。それは,国民総生産(GNP)や社会予算に占める
年金財政の比重をみれば明らかである。第工部では,町会経済
体制,社会保障システムおよび社会予算における年金保険の意
義などについて述べた後,ドイツ年金保険制度の構造的特質と
その概要を明らかにする。
3
第1章 ドイツの社会経済体制と年金保険
1社会経済体制と社会保障システム
(1)戦後の社会的市場経済体刷と社会保障
第2次世界大戦後ドイツは英,米,仏,ソ連の4力国により分割占領され
た。しかし,東西冷戦の発生により,英,米,仏の西側3力国の管理する地
区はドイツ連邦共和国(Bundesrepublik Deutschland=BRD)いわゆる西ドイ
ツとして,ソ連占領地区はドイツ民主共和国(Deutsche Demokratische Repub−
iik=DDR)いわゆる東ドイツとしてそれぞれ発足し,ドイツは1949年に分裂
国家となった1)。そして,1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊し,西ドイ
ツの基本法第23条に基づいて東ドイツを西ドイツに編入する形で1990年
10月3日に歴史的な再統一が実現し,新生ドイツが統一に伴う種々の困難に
現在直面していることは,周知のとおりである。
本書は約40年に及ぶ分裂国家時代については西ドイツを主な考察の対象
としているが,同国における戦後の社会経済体制の共通の基盤となっている
思想は社会的市場経済(soziale Marktwirtschaft)の理念であり,この理念に
基づき実施された各種の政策が今日までの同国の経済的成功を導いた原動力
であった,といわれている2)。
社会的市場経済原理は,
①フライブルグ学派(新自由主義学派)および「ケインズ」学派,
②自由主義的社会政治理論,
③カトリック社会論,
4 第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
④地方自治の伝統
第1章 ドイツの社会経済体制と年金保険
5
くるものであるといえよう。
の4っの思想ないし源流から導きだされたものといわれ,主にドイツの伝
統・風土から生成してきたものである3)。
(2)社会保障システムの3本柱
この経済社会原理は戦前の国家干渉主義と全:体主義に基づく中央統制経済
社会的市場鋒済理念のもとで㌧戦後西ドイツは戦前までの労働者やホワイ
に対する批判から出発して,新自由主義思想の核心をなす競争原理の有効性
トカラーという特定の被用者階級のみを対象とする社会保険を全国民を対象
を認め,同時に社会的問題をも解決してゆこうとするもので,その名付親と
とする社会保障へと拡大していった。その背景としては,とくに戦後の産業・
いわれ,アデナウアー内閣の経済省次官としてその理念を実践に移して活躍
就業構造の変化および国際的な社会保障の発展の影響が挙げられる。
したケルン大学名誉教授ミュラー・アルマック(Alfred Mαller−Armack)は,
西ドイツの社会保障システムはある構想に基づき体系的統一的に作られた
社会的市場経済を「市場における自由の原理を社会的調整と結びつけ,自由
ものではなく,歴史的発展経過に即しながら個々の制度の改革の積み重ねと
主義と干渉主義との新たな総合を目指すものである」としている4)。換言すれ
新制度の創設によって形成されてきたものである。したがって,統一的原則
ば,社会的市場経済は経済政策的概念として「法治国家で保障される自由,
を欠くことも多く,とくに戦後各種の社会保障制度が拡充新設されることに
自由の不可分性のゆえに自由主義的秩序の必要不可欠な要素とみなされてい
よって,制度間の給付の重複や不統一もみられるようになり,複雑きわまり
る経済的自由と,社会国家的な社会的保障および社会的公正の理念との総合
ない社会保障制度全般を展望することは必ずしも容易ではない。しかし,各
を目指す」ものといえる5)。したがって,社会政策的修正が個人および集団の
制度を支える基本原理に従い,通常ドイツの社会保障システムは,援護原理
自己責任,その自由と能率,経済的活動を侵害しない範囲で,社会政策ない
(Versorgungsprinzip)に基づく国家援護(staatliche Versorgung),扶助原理
し社会保障政策も社会的公正を確保するものとしてきわめて重視されてき
(FUrsorgepri且zip)に基づく社会扶助(Sozialhilfe),保険原理ないし保険主義
た。
(Versicheru㎎sprinzip)に基づく社会保険(Sozialversicherung)の3つにi類別
現実の経済運営においては,ある時には「市場経済」に,ある時には「社
会的」側面に比重がおかれることによって具体的政策が時代の流れの中で揺
され,この保険・援護・扶助がいわゆる社会保障の3本柱を形成する7)。
社会保険は保険原理をその基本原理とし,疾病,負傷,老齢,障害,死亡,
れ動いていることも事実であるが,この社会的市場経済の政策原理はCDU/
災害,失業などの社会的リスクを保障するもので,社会保障で最も重要な領
CSU(Christlich−Demokratische Union Deutschlands=キリスト教民主同盟/
域を形成しており,年金制度の多くは社会保険の1部門として位置づけられ
Christlich−Soziale Union=キリスト教社会同盟)を中心とする連立政権下にお
ることになる。
いてはもちろん,SPD(Sozialdemokrat量sche Partei Deutschlands=ドイツ社会
社会保険では大数の法則に基づくリスクの平均化が行われ,危険集団全体
民主党)を中心とする連立政権下においても引き継がれ,現在まで一貫して戦
の収支相等の原則が適用されるが,保険料は給付・反対給付均等の原則によら
後西ドイツの経済政策・社会政策の基本的理念となっている6)。以下に検討
ず,応能負担の原則によって報酬の一定パーセントとして徴収される場合が
する戦後の諸年金改革にみられる,CDUとSPDという二大政党間の大枠に
多く,その財源は労使の負担する保険料を中心としながら,一般税収によっ
おける多くの見解の一致も社会経済体制に対する基本的理念の合意から出て
て調達される連邦補助金も重要な役割を演じている。したがって,社会保険
6 第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
第1章 ドイツの社会経済体制と年金保険
7
では保険原理が文字どおり当てはまるのではなく,それ以外の社会的調整の
る傾向がみられたが,ドイツではこうした発展を社会的市場経済原理の観点
原理(Prinzip des sozialen Ausgleichs)ないしは扶養主義によって補完されて
から援:護国家(Versorgungsstaat)への移行であるとして批判する者が多く,
いることは明らかである。その給付請求権は保険料を納付することによって
援護・扶助制度の肥大を抑制し,保険中心の社会保障システムを維持する(社
発生し,個人の必要性や困窮状態とは無関係である。ドイツの社会保険では
会)保険国家(Versicherungsstaat)指向の主張が繰り返し支持されて,現在
社会的自治が本質的原理となっており,保険料を拠出している雇主側と被保
に至っている。したがって,集団的自助を特質とする社会保険が社会保障の
険者側の代表者によって構成される自治管理機関が法律で定める範囲で支出
中核的存在となり,社会保険では保険原理(主義)が重視されてきた。
と収入に関して自律的(autonomisch)に決定することができることになって
いる。また,社会保険と国家援護では,集団の成員相互で保障しあうという
連帯性の原理(S・lidaritatsgedanke)カミその基本思想となっているのに対し,
社会の援助は個人が自らの力で援助をなしえない時にのみ限るべきであると
注1) ドイツ連邦共和国基本法は1949年5月8日に制定され,ドイツ民主共和国憲法
は同年10月7日に公布されている。西ドイツで「憲法(Verfassung)」とよばず,
「基本法(Grundgesetz)」と名づけられたのは,周知のように,将来のドイツ再統一
までの暫定的立法としての性格を内外に明らかにするためであったといわれる。
2)Cf. Hallet[1973], p.23.戦後西ドイツにおける社会経済体制と社会保障との関
連については,下和田[1978b],1−56ページ参照。
いう補完性の原理(Subsidiaritatsgedanke)が社会扶助には最もよく該当する。
3) Cf. Hallet[1973], pp.17−24.
こうした特徴をもつ社会保険と他の国家援護,社会扶助との基本的相違につ
5) VgL Lampert[1976],S.92.
いて簡潔に整理したのが,図表1−1である8)。国家援護には戦争犠牲者援護,
負担調整など,社会扶助・社会サービスには社会扶助,青少年扶助,、各種の
社会サービスがある。
戦後の福祉国家(ドイツでは社会国家Sozialstaatとよばれている)の発展によ
り,社会保障システムの3本柱のうち援護制度と扶助制度が絶えず拡大され
図表1−1社会保障システムの3本柱の主要原理
社会保険
基本原理
保険原理と社会的調整原理
国家援護
援護原理
扶助原理
(1) 社会予算と社会給付
特殊な犠牲があったことに
薰テく請求権(原因主義)
必要性による請求権(結果
一般租税収入
一般租税収入
国 家
民間機関と国家(民間機関
源
掃除料(被保険首雇主の
組
織
社会的自治(被保険者,雇
蜍`)
薗S)
連帯性の原理
社会保障が多元的制度構成をとっていることについてはすでに触れたが,
社会保障の財政規模が年々拡大し,国民経済に占める比重が増大するに従っ
て,社会保障を統一的に把握し,コントロールすることが重要になってきた。
蛯フ参加)
社会倫理
ては終章で検討しているので,参照されたい。
8) ミュラー[1982],41ページ参照。
2 社会予算における年金保険の重要性
保険料支払を条件とする請
′?i原因主義)
財
6)マルクス主義政党としての長い歴史をもつSPDは,1959年の「バート・ゴーデス
ベルク綱領(Bad Godesberg Programm)」によりマルクス主義を放棄して,階級
政党から国民政党へ脱皮し,基本的に社会的市場経済理念を受け入れ,CDUと経済
政策・社会政策などにおいてあまり差のない立場をとるようになっている。
7)詳しくは,ミュラー[1982],32−42ページ参照。保険原理ないし保険主義につい
社会扶助
フ結合
給付条件
4)大陽寺[1960],263ページ参照。
連帯性の原理
I基礎
出所=ミュラー[1982],41ページの表を修正のうえ引用。
D先)
そのために1968年から原則として毎年,社会保障を対象とする社会予算
補完性の原理
(Sozialbudget)が作成されることとなり,それは連邦労働社会省により発行さ
れる社会報告(Sozialbericht)に収録されている。社会予算は,中期経済計画
8
第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
第1章 ドイツの社会経済体制と年金保険
9
と中期財政計画の資料に基づいて作成された将来5年間にわたる中期社会保
給付が国民経済的にきわめて大きな比重を占めていることには変わりはない
障予測と最近の過去5年間の社会保障の実績を提示する。その対象となるも
(図表1−2参照)。したがって,社会給付全体の発展がその時々の社会全体の需
のは西ドイツで支給されるすべての社会給付(Sozialleistungen)であり,その
要構造における優先順位の変動と一致しているかどうかが,常に検討される
財政分析によりこれら給付の中期にわたる発展を予測することが,社会予算
必要があろう2)。
の中心的課題となっている1)。
社会予算では社会給付が機能別と制度別に分類されている。機能別分類で
社会予算の対象となる社会給付が国民総生産(Bruttosozialprodukt)に占め
は,社会給付は,①夫婦・家族,②保健,③雇用,④老齢・遺族,⑤政治的
る割合を社会給付率(Sozialleistungsquote)とよぶが,それは名目的にも実質
的にも毎年急速に上昇し,1960年代には25%前後となり,1970年代中葉に
図表1−3 社会予算一機能別給付
(単位:百万マルク)
は30%を超え,社会給付支出が国民総:生産の実に3分の1を占めるに至って
年
いる。その後社会保障全般の見直しが進められたため,この数値は1975年の
度
社会予算(合計)
1960
68,943
1965
114,603
1970
180,ユ44
1975
346,598
1980
478,512
1985
1990
575,498
、
V03,058
i100.00)
33.7%をピークに漸減し,30%前後で安定的に推移している。しかし,社会
夫婦・家族
社会予算’
社会予算
総 額
鵬)
1960
対前年
揄チ率
i%)
68.9
社 会
虚t率1)
年
当たり
鵬)
iマルク)
22.7
1,235
対前年
揄チ率
i%)
11,867
14,901
25,143
38,920
37,831
56,441
14,528
20,696
25,128
29,788
29,888
744
998
1,376
2,159
3ガ707
3,604
人口1人
3,753
18,561
社 会
虚t率1)
当たり
30,867
53,084
107,487
157,682
191,302
232,797
1,479
2,914
4,418
8,101
9,792
11,173
16,055
12,026
19,873
36,346
77,055
113,043
135,862
164,272
労働災害,職業病
1,674
3,121
4,875
8,323
12,045
13,958
16,248
障害(一般)
3,381
4,959
7,445
14,009
22,803
30,309
36,222
1,822
2,403
5,798
22,146
28,534
45,479
59,264
(8.43)
職業教育
505
663
2,337
6,992
8,174
8,770
13,449
247
740
1,709
2,153
5,948
6,029
12,与10
1,070
1,000
1,753
13,001
14,412
30,681
33,305
28,411
45,372
72,342
135,027
185,161
229,300
284,168
26,938
42,742
68,035
126,981
173,339
217,641
271,680
保健
(33.11)
iマルク)
予防,リハビリ
1976
373.9
十7.9
33.2
6,085
398.7
十6.7
33.2
6.498・
疾病
十10.7
23.0
1,348
1977
十11.0
23.5
1,480
1978
419.5
十5.2
32.5
1963
93.9
十10.9
24.6
1,623
1979
444.9
十6ユ
31.9
7,240
1964
103.3
十10.0
24.6
1,763
1980
478.5
+7.6
32.2
7,788
1965
114.6
十10,9
15.0
1,931
1981
51L7
十6.9
33.1
8,299
1966
126.9
十10.8
26.0
2,122
1982
527.6
十3.1
33.0
8,550
1967
136.1
十7.2
27.3
2,270
1983
539.1
十2.2
32.1
8,759
職業移動
失業
2,400
1984
558.3
十3.6
31.5
9,106
老齢・遺族
2,567
1985
575.5
十3、1
31.2
9,427
十6.6
157.1
十8.2
27.1
6,841
1970
180.1
十14.6
26.7
2,952
1986
607.9
十5.6
312
9,961
1971
205.1
十13.9
27.3
3,335
1987
634.9
十4.4
31.5
10,384
1972
232.1
十13ユ
28.1
3,755
1988
662.1
十4.3
31.2
10,811
1973
262.7
十13.2
28.6
4,230
19892)
678.5
十2,5
30.0
10,996
1974
301.9
十14.9
30.6
4,870
19902}
703.1
十3.6
29.4
11,270
1975
346.6
十14.8
33.7
5,623
(注)1 社会給付の対GNP比(%)
2 暫定値
出所:BMA[1991], S.535.(同訳書,615ページ)
90,202
10,549
76.3
145.1
71,223
6,500
84.7
1969
67,755
6,903
工961
27.2
47,998
児童,青少年
1962
1968
30,805
夫婦
母性保護
総:額
入口1人
23,414
(12.83)
図表1−2 社会予算と社会給付率の推移
年
14,148
雇用
(40.42)
老齢
遺族
その他の機能
政治的事件の補償
住宅
貯蓄・財産形成
一般的生活援助
1,473
2,629
4,306
8,046
11,822
1L659
6,001
12,548
18,115
33,940
39,379
38,193
3,082
3,841
4,732
7,625
8,239
5,711
4,645
716
4,936
5,948
8,195
10,383
11,673
12,758
1,133
2,670
6,045
16,096
18,508
17,146
16,130
1,071
1,100
1,390
2,024
2,249
3,663
3,093
出所:BMA[1991], S.536.(同訳書,616ページ)
12,489
36,626
(5.21)
10 第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
第1章 ドイツの社会経済体制と年金保険
事件に対する補償,⑥住宅,⑦貯蓄奨励,⑧一般的生活援助に分けられてい
図表1−4 制度別にみた社会予算の推移
(単位:百万マルク)
1960
1965
1970
1975
1980
1985
1990
社会予算(合計)
68,943
114,603
180,144
346,598
478,512
575,498
703,058
一般制度
33,079
54,944
88,948
201,586
281,972
353,785
433,616...
19,587
31,569
52,224
101,125
142,585
175,220
216,500
115,981
年
る。このうち④は主として年金制度の担当する機能であり,約40%と最大の
比重を占めている(図表1−3参照)。
11
度
年金保険
労働者年金保険
(2)制度別社会予算に占める年金保険制度の比重
社会予算で用いられている社会給付の制度別分類では,社会給付がまず,
12,164
20,019
31,896
61,813
80,216
95,996
職員年金保険
5,733
9,777
16,432
43,143
57,137
77,429
鉱山従業員年金保険
2,633
4,045
6,129
9,769
13,319
14,715
①社会保障,②事業主給付,③補償給付,④社会扶助および社会サービス,
疾病保険
9,662
15,988
26,088
61,142
90,066
114,400
⑤間接給付に分類される。①ん④は直接給付を意味する。
災害保険
1,748
3,266
4,240
7,155
10,019
11,648
雇用促進
1,206
1,566
3,882
18,066
23,098
39,376
児童手当
916
2,884
2,891
14,638
17,609
14,465
・
227
569
1,104
2,427
3,693
4,749
農業者老齢保障
工82
488
900
1,867
2,773
3,340
専門職年金組合
45
81
204
560
920
1,409
①社会保障についてはさらに一般制度,特別制度,官吏制度,事業主給付
の4種に分けられ,一般制度には労働者年金保険,職員年金保険,鉱山従業
員年金保険,疾病保険,災害保険,雇用促進といった社会保険と児童手当制
度が,特別制度には農業者老齢扶助,専門職別保険組合,官吏制度には年金,
家族手当,扶助金が,事業主給付には賃金継続支払,企業年金,公益事業追
加保険,その他が区分されている(図表1−4参照)。このように,社会予算の
対象となる社会給付の範囲はきわめて包括的であり,通常の社会保障はもち
ろんのこと,事業主による任意給付や租税控除をも含む広義の概念となって
育児手当
特別制度
官吏に対する制度
年金
家族手当
扶助金
事業主給付
賃金継続支払
企業年金
付加年金
i100.00)1)
i頃〔68レ
(30.79)
〔16.50〕
97,440.
〔13.86〕
17,060
〔 2.43〕
134,932
(19.19)
13,316
( 1.89)
5L142
(7.27)
14,585
(2.07)
4,507
(0.64)
6,541
(0.93)
4,569
〔 0.65〕
1,972
〔 0.28〕
9,606
16,207
24,027
37,044
46,331
52,458
6,781
10,677
15,825
26,016
32,947
37,028
2,173
4,961
4,336
1,194
8,167
6,218
1,984
18,802
7,048
3,980
29,738
7,617
5,767
44,949
8,206
7,224
51,276
3,000
1,190
4,500
1,980
18,490
5,320
3,483
2,445
15,919
27,880
8,100
5,879
3,090
17,761
25,850
12,850
8,406
4,170
17,154
652
62,230
(8.85)
一
42,440
〔 6.04〕
9,772
10,018
65,252
(9.28)
33,230
16,700
10,272
5,050
17,125
(2.44)
13,310
1,134
ビスを含まず,社会保険とその類似制度,それに児童手当を加えた狭義の概
補償
8,176
10,051
12,500
3,050
1,732
1,520
11,534
念として用いられている。この狭義の社会保障は社会予算での特殊な概念で
戦争犠牲者援護
負担調整
戦災賠償
その他の補償
社会的扶助・サービス
3,948
2,026
2,115
5,803
2,017
1,800
7,488
1,785
1,959
11,135
1,844
2,398
13,480
1,713
2,156
13,474
1,389
1,973
2,608
5,468
11,644
32,321
42,865
48,584
1,322
2,194
1,016
3,540
14,972
8,098
3,149
2,009
1,669
12,968
22,789
9,535
65,734
(9.35)
33,750
14,345
2,714
1,911
11,166
4,240
2,200
10,285
648,613
いる。反対に,一般制度と特別制度(狭義の社会保障)では援護や扶助・サー
その他の事業主給イ寸
あり,通常は社会保障は援護(補償給付),扶助(社会扶助,社会サービス),保
険(各種社会保険とその類似制度)を含む広義の概念として利用されている。
社会給付の制度占率を図表1−4でみると,社会保険に児童手当を加えた一
般制度が社会予算全体の約3分の2を占め,中でも児童手当・育児手当を除
社会扶助
青少年福祉
就学促進
住宅手当
公的保健サービス
財産形成促進
341
430
87
727
960
431
302
542
310
448
529
629
660
758
1,380
4,455
9,218
4,260
2,309
1,797
1,361
13,376
440
86
2
171
178
L602
412
318
469
く社会保険が1990年では6割弱を占めており,ドイツの社会給付ないし社会
(直接給付 合計)
58,392
94,972
155,365
317,889
436,182
526,426
予算は社会保険を中心とした制度構成をとっていることがわかる。一般制度
(間接給付 合計)
10,551
19,631
24,779
28,709
42,330
49,072
としての年金保険が3割下と最大の比重を占めており,中でも労働者年金保
租税控除
住宅優遇措置
15,800
3,831
20,726
4,053
24,059
4,650
36,370
5,960
43,512
5,560
険と職員年金保険が中核的制度となっている。したがって,官吏年金や農業
10,460
91
鰍㌔M諮翻三三舗蕪懲ぺ.。)
1,704
976
914
(92,26)
54,445
( 7.74)
・48,205
6,240
12
第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
第i章 ドイツの社会経済体制と年金保険
13
者老齢扶助を加えると,機能別分類でも述べたように老齢・遺族・障害保障
入されたのとは異なり,単一社会保険は西ドイツでは形式上も事実上も存在
を目的とする年金制度が医療保障を意味する「保健」を上回り,社会予算に
しなかった。さらに各社会保険部門では細分化が行われており,たとえば疾
おいて40%と最大の比重を占めている(図表1−3参照〉。
病保険には企業疾病金庫,地区疾病金庫など8種類もの異なる保険管理機関
注1)社会予算については,詳しくはヘルパー[1982],194ページ以下参照。
が存在し,1,600以上の疾病金庫ではそれぞれ自治管理機関によって自主的
2) Vgl. Doetsch[1975],S.267.
に管理運営されている。
3社会保障と年金保険における多元主義
(2)年金保険における多元主義・
戦後西ドイツでは国民の経済保障については社会的市場経済原理に.も沿う
(1)社会保障における多元主義(P壷urahsm麗s)
戦後の西ドイツ社会の特質を示すキイワードとして多元(主義)社会という
ものとしていわゆる3本柱論(Drei」Saulen−Theorie)ないし三層論が国民的合
意を得ているが,これは社会保障,職場保障および個人保障のそれぞれの機
概念がよく用いられるが,社会保障システムでも上述のように社会保険,児
童手当,戦争犠牲者援護,負担調整,社会扶助など多種多様な部門から形成
され.さらに各部門が多元化されており,きわめて分立的制度構成をとって
いることが特色となっている。しかも,異なる原理に支えられた多様な制度
の相互補完によって,国民の生活保障が確保されている。こうした多元的社
会保障の統r性や機能性ないし透明性を確保し,高めるために,前述の社会
予算や社会報告が発表され,社会法典の制定が推進されてきたわけである。
制度の多様性にもかかわらず,こうした制度的手立てや連邦政府と地方政府
との連携によって,社会保障全体の整合性がかなり確保されていることは注
能を認めあって,国民の総合的生活保障を確保しようとする考え方である。
老後保障についても,公的年金のみによって行うのではなく,企業年金,個
人的自助努力(生命保険,個人年金など)との相互補完によって目的を達成す
る考え方がとちれている。
公的年金制度についてみると,職能別・階層別に労働者年金保険,職員年
金保険,鉱山従業員年金保険,手工業者年金保険,農業者老齢扶助,官吏年
金,専門職(医師,弁護士など)別年金などに分かれており,中核となる制度
は最初の2制度である。労働者年金保険は1891年以来実施されている最も古
い制度であるが,州単位で設置されている州保険事務所(Landesversiche㎜gs−
目に値する。多様な制度が存在することは,同様に各制度の管理・組織上の
多様性も認められているということであり,多様な管理機関によって管理運
営されている。たとえば社会扶助の運営では,宗教団体などの民間の非営利
anstalt:旧西ドイツでは18カ所,旧東ドイツでは5州と東ベルリンの6カ所)と海
員金庫,連邦鉄道保険事務所によって管理されている。他方,職員年金保険
では連邦職員保険事務所(Bundesverslcherungsanstalt f噸r Angestelle),鉱山
組織が重要な役割を演じている。
社会保険でも同様であり,現在の社会保険制度はビスマルク以来の伝統を
継承して多元的制度から構成されており,まず保険事故別に疾病保険,災害
保険,年金保険,失業保険(ないし雇用促進制度),そして1995年4月から実
施される介護保険に類別される。したがって,戦後東ドイツで統一保険が導
従業員年金保険では連邦鉱山従業員共済組合,手工業者年金保険では労働者
年金保険を管理している州保険事務所,農業者老齢扶助では地域別に19カ所
に設置されている農業老齢金庫で管理されている。これら保険者はすべて公
法上め自治団体であり,政府の監督下にある。その自治管理機関としては理
事会と代議員会議が設置されており,これらの機関は労働者・職員年金保険
14 第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
第1章 ドイツの社会経済体制と年金保険
15
の場合は6年中とに実施される社会選挙(SozialwahDによって選出された同
間の長期化,すなわち年金件数と年金支出額の増大を意味する。また,年金
数の被保険者および事業主の代表によって構成されている。
制度の成熟度を年金受給者数÷被保険者数(%)で示すことができるが,人口
高齢化は長期的には分子すなわち高齢者数(年金受給老数)の増加を意味する
4 人口・就業構造の変化と年金保険
ばかりか,分母すなわち就業人口数ないしは(潜在的)保険料納付者数が減
少するという特徴をもう入口構造の変化であg,急速に成熟度を高めること
(1)人口構造の変化と年金保険
になる。年金受給者1人を扶養する被保険者数は減少し,年金水準や年金支
人口構造の変化が年金保険に直接影響することはいうまでもないであろ
給開始年齢を変更しないカ・ぎり,.被保険者の保険料負担を高めることになる。
う1)。国民のほぼすべてが公的年金制度によってカバーされている戦後にお
過去においては年金成熟度は20%とか30%と低い数値を示していたが,戦
いては,老齢入ロの増加,平均寿命の延長は年金受給者の増加と年金受給期
後年々高くなり,現在は被保険者数100人につき年金受給者数48.9.人で約
図表1−5.主要国の65歳以上人口の構造係数
50%,モデル計算によれば2030年までには被保険者100人につき年金受給者
(65歳以上人口の総人口に占める割合)の推移
(%)
20
91人とほぼ100%に近い高い成熟度に達することが予想されている2)。
ドイツの人口構造を国際比較の観点からみると,ドイツに公的年金保険制
度が導入された1890年頃は65歳以上人口の総人口に占める割合はフラン
一肱ソ◎
ス,スウェニデン,ノルウェーなどに比べると低いが,イギりスやアメリカ
15
よりも高くなっている(図表1−5参照)。導入当初のドイツの公的年金保険は
老㍗つ晒ドイツ
’/
酒一_監4’
\ノ
図表1−665歳以上人口割合が7.9%から14.3%に
高まるまでの年数の国際比較
,一
フラ急∠湯ンフビアメリカ
10
/つ罷,く」/ つノ \
///イギ・・,/
!
りのの
5
〆
1850
\ ’/
ノ
日本
ノ
,’、、 一 ,”
1900
1950
2000 (年)
(注)1.外国の過去の入口は,United Nations, The Aging of Populations and正ts
Economic and Social lmplications(1956)およびU, N., Demographic Year・
国 名
年次
本
65歳以上
l口割合
年次
65歳以上
l口割合
期間
1975
7.9%
2000
14.3%
25年
西 ドイ ツ
19391)
7.9
1975
14.3
36
デンマーク
ノルウェー
19391)
7.9
1980
14.3
41
1900
7.9
1980
14.3
80
スウェーデン
18931}
7.9
1973
14.3
80
イ ギ リ ス
19341)
7.9
1980
14.1
46
フ ラ ン ス
18791)
7.9
2005
14.1
126
ア メ リ カ
19481)
7.9
1990
11.3で横ばい
日
1ぴookにより,将来人口は, U. N., Population by Sex and Age for Regions and
Countri㏄1950−2000, As Asse舗ed ln 1973=M曲㎜Variant(1976)〔仮印
刷〕による。日本は1920∼75年は「国勢調査」,その他の年次は人口問題研究所
の推計による。
2.西ドイツについては,1933年以前は全ドイツ。
出所:厚生省年金局編『年金制度改革の方向』,東洋経済新報社,昭和54年,44ページ。
(注)1.65歳以上人口割合をそろえるため年次間を補完推計したもの。
資料:U,N., The Ag三ng.of Populations and its Economic and Sodal
Impllcations, U. N., Selected World Demographic Indicators by
Countries,1950−2000.
出所:老齢人口研究委員会『老齢化社会の統計的基礎研究』統計研究会,
昭和54年,45ページ。
16 第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
第1章 ドイツの社会経済体制と年金保険
17
老齢年金よりも障害年金中心の色彩が強かったが,ドイツでも高齢者の割合
このような状況から図表1−6にあるように,ドイヅは65歳以上人口の総
は5%前後となっており,フランスとの対比において高齢者問題に対し次第
人口に占める割合が7.9%から14.3%に高まるまでの年数が高齢化の進ん
に関心がもたれるようになっていた。
でいたフランスなどよりは短い1939年から1975年までの36年かかってお
り,西欧諸国ではデンマーク,イギリスとともに高齢化が急速に進んだ国と
ドイツ1)の人ロピラミッド2)
図表1−7
(1971年12月31日現在)
1925年
1910年
1890年
1950年
イテンポで進んだので,ドイツよりもさらに短く1975年から2000年の25年
1987年
女 ,
なっている。もちろん,日本は西欧諸国より遅れて1950年頃より高齢化がハ
間というきわめて短い年数しか要しないと予測されていた(実際にはさらに早
女
く1994年に14%台になった)。
人口を男女別に分け,年齢の若い方から積み上げて全体の構成を描いた「人
8066蟹}20 G 瓢}喫』65附鴎価645懲} 0 2価4060瓢}鎖}帥輪罰
⑪
20406080関60範当) 0 2D 4050粉罰6匹恥罰》 ⑰ 罰}4060蹄
ロピラミッド」を図表1−7でみると,1910年までのドイツ帝国の人ロピラミ
歳
ッドはきれいなピラミッド型をしていたのが,第1次大戦中の急激な出生減
1
を示した年齢層の凹みを押し上げる形でその後釣鐘型へと移行しており,と
go
男子不足
くに戦後は西ドイツでは人口高齢化と,多産多死型から少産少死型への移行
第1次世界大戦
80
女子超過
による戦死者
が急速に進んだことを示している。1971年の人ロピラミッドは過去の歴史の
70
痕跡を明確に示しているが,戦後の死亡率低下と平均寿命の大幅な伸びによ
第2次世界大戦
による
1
って,人口の年齢構成は高年齢層が
60
箏み灘
箏あ鑛
図表1−8 総人口における出生の推移
年
1932年前後の
経済恐慌中の
1932年前後の
経済恐慌中の
40
出生減
出生減
女
男
30
第2次大戦末
第2次大戦末
期の出生減
期の出生減
20
女子不足
男子超過
10
60
50
40
30
20
10
0 0
10
20
30
40
50
0
60
(単位1万人)
(注)1。1890,1910,1925年はドイツ帝国,1950,1971,1987年は西ドイツの人口である。
2.男子不足ないし超過分を示すために,男子人ロピラミッド側に女子人ロピラミッ
ドの輪郭線が書かれている。同様に,女子人日ピラミッド側にも男子人口の輪郭線が
書かれている。
出所:BMA[1975], S.30 und Rehfdd[1990], SS.1115−1119より作成。
厚くなり,逆に出生率の急激な低下
純再生産率
新生児(1,000人)
1960
968.6
1965
1,044.3
1970
810.8
1975
600.5
1980
620.7
1981
624.6
1982
621.2
1983、
594.2
1984
584.2
1985
586.2
1986
626.0
1987
642.0
1988
677.3
1989
681.5
1,098
により低年齢層では薄くなってお
1,177
り,こうした傾向を1987年の図では
0,948
0,680
より明確に読み取ることができる。
0,679
0,675
西ドイツは世界でも最も出生率の
0,660
低い国の1つとなっており,とりわ
0,625
0,606
け1960年代後半以降急速に低下し
0,604
0,632
ている。現在の人口を維持するため
0,640
には1でなければならない「純再生
0,664
O.6701}
産率」はすでに当時から1以下とな
(注)1.推計 連邦統計局資料
出所:BMA[1gg1], s.14乳(同訳書154ページ) っており,1985年には0.604まで低
18 第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
第1章 ドイツの社会経済体制と年金保険
下している(図表1−8参照)。平均世帯人数も1871年の4.6人,1939年.4人
19
323万,1970年553万,1987年では935万へと急増している3)。
から,1950年には3人を割り,1987年には2.3人に減少している。核家族化
図表1−9は西ドイツの人口変動を示したものであるが,総入口はすでに
も進み,単身世帯は1871年で53万,1939年198万であったものが,1951年
1975年の6,200万人をピークに減少した後,1985年をボトムに再び微増し,
図表1−9 2030年までの居住人口1〕および従属指数の推移
単位
各
年
P月1日
サ 在
総 数
「満
20歳以上
U0歳未満
60歳
2
3
4
20歳
1
1995年に6,278万人でピークに達した後は急速に減少するものと予測され
1,000人
年少人口
老年人口
従属人口
w数2)(%) 2÷3
w数3)(%) 4÷3
w数4)(%)
ている。また,60歳以上の老年人口は1960年に897万人であったものが,
i2+4)÷3 年金
w数5)6)
ネ上
5
6
7
年 金
給者
2030年には約1,900万人に増大し,また中核的な年金制度である労働者・職
9
員年金保険制度の年金指数(Rentenfallquotient)や年金受給者指数(Rentner−
w数η
8.
1960
55,257
15,947
30,336
8,974
52.6
29.6
82.1
34.9
1965
58,588
16,720
3L414
10,454
53.2
33.3
86.5
37.9
1970
61,195
18,227
31,326
11,642
58.2
37.2
95.3
43.5
1975
61,992
17,944
31,621
12,427
56.7
39.3
96.0
52ユ
1980
61,439
16,521
33,114
11,804
49.9
35.6 ’
85.5
1985
61,049
14,366
34,312
12,372
41.9
36.1
77.9
1988
61,311
13,219
35,389
12,703
37.4
35.9
73.3
1990
62,166
12,935
36,221
13,010
36.0
36.0
72.0
56.0
48
1995
62,784
12,835
36,351
13,598
35.0
37.0
73.0
60.0
50
2000
62,656
12,839
34,795
15,022
37.0
43.0
80.0
65.0
55
2005.
2010
61,812
12,191
33,726
15,894
36.0
47.0
83.0
7LO
59
60,514
11,157
33,386
15,971
33.0
48.0
81.0
74.0
62
2015
58,680
9,938
32,389
16,353
31.0
50.0
81.0
77.0
64
2020
56,647
9,096
30,614
16,937
30.0
55.0
85.0
85.0
70
2025
54,339
8,616
27,671
18,052
31.0
65.0
96.0
95.0
80
2030
51,737
8,173
24,672
18,892
33.0
77.0
110.G
109.0
91
quotient)も急速に高まることが予想されており,ドイツは日本よりはるかに
厳しい状況にあり,それは統一後も同じである。戦後西ドイツの年金保険の
改革はこうした人口構造の変化の枠組みの中で進められてきたことを理解す
る必要がある。
54.9
.て〉
(注)1.1990年以降については,ドイツ連邦共和国内務省編の1987年2月10日現在のドイツ連邦共和
国の人口推移モデル計算のうちモデルICに拠り,1987年を初年として修正したものである。モデ
ルICと異なり1988年に243,000入,1989年に520,000人,1990年に380,000人の移住者・越境
者(Aus−und Ubersiedler)を受け入れている。
1987年国勢調査の結果は考慮されていない。
2.20歳以上60歳未満の者100人に対する20歳未満の比率。
3.20歳以上60歳未満の者.100人に対する60歳以上の者の比率。
4.20歳以上60歳未満の者100人に対する20歳未満の者及び60歳以上の者の比率。
5.労働者年金保険・職員年金保険の保険料納付者(1978年までは就業中の労働者及び職員,1979年
以降は失業者を含む。国勢調査の結果を考慮し,1988年の就業者は22,008,000人,1989年+1.4
%,1990年+1.1%,1991年から1993年まで各通+0,8%,1994年+0.5%と増加する。その後2
年毎に約0,1%ずつ低下し,2003年に0%となる。それ以降2015年までは一定,2016年以降は潜
在就業者数の推移に対応する)100人に対する労働者年金保険・職員年金保険の被保険者年金およ
び寡婦年金件数。
(2)産業・就業構造の変化と年金保険
老齢人口の増大,年少人口の急減という戦後の人口革命により,戦後増大
し続けていた就業者数は1965年の2,690万人(総人口の45.3%)をピークに
その後は漸減傾向にあり,1970年には総人口の442%にあたる2,661万人
が就業していた。就業者数の総人口に占める割合が1955年の48.2%をピー
クにその後低下しているのは,若年人口の教育期間の延長や,老年人口の増
加,年金制度の改善による65歳以前の早期退職者の増大などに起因するもの
とみられる。
ドイツはイギリス,フランスに遅れて19世紀前半に工業化を推進したが,
第1次大戦までは基本的には農業・工業国であった。その後,第2次大戦後
の急速な産業構造の変化により,就業人口は農業(1882年では:全就業人口の
43.5%であったが,1987年には4.2%に激減している)から工業(1970年.で全就
6.1980年および1985年については,国勢調査結果に基づいて修正された就業労働者および職員数
がないため,、データはない。
7.注5.による保険料納付者100人に対する労働者年金保険・職員年金保険の年金受給者数(遺族
年金受給者数を除く)。過去については,統計上年金受給者数は把握されていないため,データは
ない。
出所:BMA[1991], S.148.(同訳書,155ページ)
業人口の48.4%)へ,さらにサービス産業(1882年で全就業人口の22.8%にす
ぎなかったが,1987年では54.7%となった)へとシフトし,サービス経済化が
進展してい.る(図表1−10参照)。
20 第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
(
訳
榊 )
第1章 ドイツの社会経済体制と年金保険
o
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就業人口の従業上の地位別分布も自営業者やその家族従業者が戦後急減
yΩ卜寸①o①IH①㊤Noo
し,企業などで雇用される被用者が増大している(図表1−10参照)。中でも,
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%)でも増加し,逆に労働者数が減少し,今後もこの傾向が進むと予想されて
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いる。ドイツの年金制度が職能別に労働者年金保険,職員年金保険,鉱山従
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下和田[1980],}58ページ参照。
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注.1) 西ドイツの人口・就業構造の変動が社会保障に及ぼす影響については,詳しくは
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険と職員年金保険との両制度間で財政調整が実施されるようになっている。
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重大な影響を及ぼすことになり,後述のように1960年代以降,労働者年金保
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労働者数の絶対的・相対的減少によって年金成熟度を高め,その財政状態に
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は年金制度にも種々の影響を与えており,どりわけ労働者年金保険では若い
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業員年金保険などに分かれていることから,こうした産業・就業構造の変化
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2)Vgl. BMA[1991], S.148.(同訳書,154ページ)
3) Vg1. Rehfeld[1990], S. U42一
23
第2章 ドイツ年金保険の構造とその特質
1 年金保険の機能と構造
(1) 年金保険の基本的特質
現在のドイツの年金保険制度は1世紀を越える長い歴史の中で形成されて
きたものであるが,以下のような基本的特質を有している。
第1に,公的年金制度が扶助方式ないし租税方式ではなく,保険方式をと
っており,強制保険として実施されていることである。したがって,その財
源も労使によって拠出される保険料を中心にし,連邦補助金などの公費によ
って補完されている。年金保険の財政方式は長年積立方式をとってきていた
が,戦後の1957年に第1次年金改革により修正賦課方式に変更され,1969年
以降さらに純賦課方式へと移行した。すなわち,現役世代と退職世代との世
代聞契約(Generationenvertrag)なレ・し連帯思想(Solidaritatsgedanke)に基
づき,公的年金の費用は現在の収入(保険料収入および連邦補助金)によって賄
われている。換言すれば,現在働いている就業者(Erwerbst註tige)の世代はそ
の賃金・俸給の一部を保険料として拠出することによっ・て将来の年金受給権
を取得し,退職している年金受給者(Rentner/Rentenempfanger)の世代の受
け取る年金の費用は現在の就業者の負担する保険料によって調達される,と
いう世代間の順送りの連帯主義がベースになっている。さらに1986年から
は,育児のために保険加入義務のある稼得活動に従事できない女性のために
育児期間中も児童養育期間として年金算定の際考慮することになったが,こ
れは世代間契約が青壮年と老人との2世代間契約から次世代を含めた3世代
24 第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
間契約に拡大されたという意味で新たな意義をもつことになった。
第2章 ドイツ年金保険の構造とその特質
25
保険料をベースに決定され,いわゆる「賃金・保険料に応じた」年金が支給
年金制度は沿革的社会的理由から職能別・階層別に分かれている。その被
されることになっている。これを「賃金・保険料関連性の原則(Lo㎞一und
保険者範囲は法律に規定され,多くは強制加入となっているが,一部は任意
Beitragsbezogenheitsprinzip)」とよんでいる。生活水準保障のためには賃金や
加入も認められている。中核となる公的年金制度は労働者年金保険,職員年
物価の変動にスライドして年金額が改定され,その実質水準が常に確保され
金保険,鉱山従業員年金保険の3制度である。1891年から実施されている歴
ることが前提となるが,そのために第1次年金改革により年金および年金期
史の最も古い労働者年金保険(制定当初は障害・老齢保険,1899年からは障害保
待権が現役世代の賃金の伸びに応じて毎年改定される動的年金(dynamische
険とよばれ,現在の名称になったのは1934年の社会保険構成法による)では主と
Rente),すなわち賃金スライド制が導入された。これにより,すでに引退した
して肉体労働に従事する労働者を被保険者範囲とし,1911年制定の職員(年
年金受給者も生産性向上の恩恵と現役の就業者の最新の所得の増大の分け前
金)保険は主として精神的労働に従事する職員(ホワイトカラー)を対象とし
に与ることとなった。その結果,被保険者年金(老齢年金,障害年金)は保険
ており,被保険者範囲についてはそれぞれの根拠法に詳細に規定されている。
事故である老齢・障害のためにもはや得ることのできない報酬を代替する賃
これら2つの年金制度は,1934年の社会保険構成法により給付面が統一さ
金代替機能(Lohnersatzfunkt量on)を,また被保険者が死亡した場合に支給さ
れ,「年金保険」という概念が初めて法定された。第1次大戦後の年金制度再
れる各種の遺族年金は,死亡した扶養者が提供していた生計費を代替する生
編により鉱山従業員のみを対象とする疾病・老齢・障害のための総合的社会
計費代替機能(Unterhaltungsersatzfunktion)を履行することになった。在職
保険制度が1923年の鉱山従業員共済組合法により新設されたが,一その中の1
中に平均的賃金を得て保険加入年数が45年の年金受給老の受け取るいわゆ
事業として実施されている鉱山従業員年金保険は労働者であれ,職員であれ,
る標準年金(Eckrente)が税(社会保険料を含む)引き後の手取り賃金の70%
鉱山業に従事している被用者を対象としている。
を確保できるように,いわゆる純年金水準(Nettorentelmiveau)を維持するこ
年金保険の管理運営は他の社会保険と同様に,労使代表によって構成され
とが政府の努力義務となっている。
る自治管理機関によって運営されており,当事者による自治ないし自主管理
(Selbstverwaltung)を特色としている。
給付は原則として法定給付となっており,法律に算定方式が定められてい
る。ドイツの年金給付の特色は被保険者の老齢・障害・死亡事故に対する老
(2)年金保険制度の構造
1)保険者(Versicherungstrager)
現行年金制度は改革の積み重ねと新制度の導入によって形成されてきたも
齢年金,障害年金,遺族年金(寡婦・寡夫年金,遺児年金)といった年金給付4)
のであり,多元的制魔構成をとっている。老齢・障害・遺族保障のための年
みならず,被保険者の稼得能力の維持・改善・回復のためのリハビリテーシ
金制度の体系は,現在以下のようになっている。
ョン給付を1957年の第1次年金改革により導入していることである。年金保
(a)一般年金制度(Allgemeine ReRtensysteme)
険の給付は最低生活の保障ではなく,従前生活の保障,すなわち各年金受給
①労働者年金保険(Rentenversicherung der Arbeiter)
者が在職時に獲得していた一定水準の生活レベルを保証する生活水準保障
②職員年金保険(Rentenversicherung der Angestellten)
(Lebensstandardsicherung)を目的としている。年金額は被保険者の拠出した
③鉱山従業員年金保険(knappschaftliche Rentenversicherung)
26 第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
(b)特別年金制度(Sonderrentensysteme)
第2章 ドイツ年金保険の構造とその特質
27
婦も任意加入できる。特別年金制度は農業従事者(その家族従事者を含む)や
④農業者老齢扶助(Altershilfe f血r Landwirte)
専門職(医師,薬剤師,弁護士など)の特定の職業に従事する自営業者などを対
⑤専門職保険組合(Versorgungswerke)
象とする。さらに官吏恩給法(Beamtenversorgungsgesetz)に基づき官吏
(c)官吏保障制度(Beamtenrechtliches System)、
⑥官吏恩給(Pensionen)
(Beamter:日本の公務員の概念と若干異なり,公務に従事する労働者・職員を除
く公務員すなわち官吏をさす)を対象とする官吏恩給制度がある。
これら年金制度の保険者(管理運営機関)は,①では州保険事務所(Lan−
公的年金制度への加入については,①法律による強制加入,②申請による
desversicherungsanstalt:統一上東ドイツ地域の5州と東ベルリンが加わり,現在
強制加入,③任意加入があり,任意加入制の利用を含めて,これらの職能別
24カ所にある),連邦鉄道保険事務所(Bundesbahn−Versicherungsanstalt)(1),
階層別年金制度により,ほぼすべての国民が公的年金制度で保障されること
海員金庫(Seekasse)(1),②では連邦職員保険事務所(Bundesversicherungsan−
になる。また,一定条件を満たす者には,加入義務が免除される。
stalt fOr Angestellte)(1),③では連邦鉱山従業貝共済組合(BundesknaPP−
労働者・職貝年金保険では,職員については一定所得以上の者はカロ入が免
schaft)(1)である。なお,1938年制定のドイツ手工業者老齢保障法によって
除されていたが,1968年1月からはその所得の多少にかかわらず,すべての
実施されていた手工業者(年金)保険(Handwerkerversicherung)は,1960年
労働者,職員が強制被保険者となった。採用時に労働者か職貝かは定まるが,
の手工業者保険法により労働者年金保険の中の特殊な義務保険として1962
職員の概念については職業グループ総覧があり,また取引内容ないしは肉体
年より再スタートすることになり,労働者年金保険を管理する州保険事務所
的活動か精神的活動を行うかに基づいて決定される。法定年金保険の強制加
で管理されている。これら保険者はドイツ年金保険者連合会(Verband Deut−
入者であった者で,営業開始後または加入義務終了後2年以内の自営業者は
scher Rentenversicherungstrager)を組織している。
自ら申請すれば,申請による強制加入として,労働者年金保険,職員年金保
④は1957年忌農業者老齢扶助法に基づき実施されている年金制度で,地
険の強制被保険者となることができる。官吏は法律により保険加入義務が免
域別に農業組合に付置されている農業老齢金庫’(landwirtschaftliche Alters−
除され,職業身分上の保障制度の加入者(医師,弁護士など)は保険加入義務
kasse)によって管理されており,その全国組織としては農業老齢金庫総:連合
の免除を受けることができる。
会がある。
これら保険者はすべて公法上の自治団体であり,政府の監督下にある。そ
の自治管理機関として理事会(Vorstand)と代議員会議(Vertreterversam血
1972年の年金改革により,ドイツ国内に住所または居所を有し,労働者年
金保険,職員年金保険,鉱山従業員年金保険への保険加入義務を有しない満
16歳以上の者は外国人であっても,そのいずれかに任意加入できるようにな
Iung)があり,労働者・職貝年金保険では6年ごとに実施される社会選挙によ
った。また,遡及適用や任意継続被保険者制度,増額保険制度(Hochversiche−
り選出された同数の被保険者代表と事業主代表によって構成されている。
rung:強制加入者であると任意加入者であるとを問わず,任意で拠出に応じ,保険
2)被保険者(Versicherte)
数理に従って算定される給付を受給できるが,この給付は年金スライドの対象とな
一般年金制度は最も中核となる制度で,民問企業の被用者(労働者・事務職
らないため加入者は少ない。1992年年金改革:法により,今後当分の問のみ存続する
貝)および公務に従事する労働者・職員を対象としており,自営業者および主
ことになっている)も存在する。
28 第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
第2章 ドイツ年金保険の構造とその特質
図表2−1保険加入義務者数
(1988年12月31日現在)
労働者年金保険
職員年金保険
鉱山従業貝年金保険
公的年金保険
男
女
計
男
女
計
女
計
7,672,382
2,690,686
10,363,068
4,459,371
5,677,488
10,136,859
191,670
14,232
205,902
12,323,423
8,382,406
20,705,829
7,467,150
2,630,673
10,097,823
4,352,264
5,529,279
9,881,543
188,992
13,954
202,946
12,008,406
8,173,906
20,182,312
71,686
6,702
78,388
30,134
6,587
36,721
1,564
33
1,597
103,384
13,322
116,706
286
40,557
40,843
418
13LO55
131,473
3
245
248
707
171,857
172,564
78,610
一
78,610
51,265
一
51,265
1,エ11
一
1,111
130,986
一
130,986
一自営業者
9,827
1,685
11,512
25,290
10,567
35,857
12252
,
一
}
35,117
47,369
一手工業者
44,823
11,069
55,892
,
『
一
一
一
44,823
11069
一
55,892
強制被保険者数
一被用者
一早期退職受給者
一児童養育期間の
@算入を受ける者
一兵役勤務者及び
@兵役代替勤務者
29
男
一
女
男
計
保険料納付者数
’
(1988年に支払った者)
一保険料を支払っ
@た者
一強制保険料を支
@払った者
一強制適用による
保険料を支払っ
た者
9,126,552
3,420,270
12,546,822
5,149,010
6,637,750
11,786,760
224,206
15,761
239,967
14,499,768
10,073,781
24,573,549
8,845,257
3,294,238
12,139,495
4β47,003
6,471,829
11,318,832
224,206
15,761
239,967
13,916,466
9,781,828
23,698,294
8,633,704
3,190,640
11,824,344
4,681,848
6,194,126
10,875,974
221,881
15,283
237,164
13,537,433
9,400,049
22,937,482
出所:BMA[1991], S.150.(同訳書,158ページ)
主要な3制度の被保険者数を図表2−1でみれば,1988年末現在で強制被
用された。この方式では10年を単位期間‘とし,その期間に年金受給者に支給
保険者数は男1,232万人,女838万人,合計で約2,071万人目,制度別内訳
される年金は,現在就業している被保険者の払い込む保険料によって賄われ,
は労働者年金保険1,036万人,職員年金保険1,014万人置鉱山従業員年金保
期末には最終年度の12カ月の年金給付費に相当する積立金が最低保有され
険21万人となっている。
ねばならないことになっている。この財政方式は既述の世代間連帯契約の思
想に基づいて導入されたものである。財政方式の変更を必要とした主な理由
2年金保険の財政
としては,膨大な積立資産が数度にわたるインフレーション(とくに1923年)
や戦後1948年の通貨改革により完全に失われたこと,戦後の長期的構造的物
(1) 財政方式と連帯思想
価上昇と急速な所得・生活水準の上昇が積立方式の維持を困難にしたこと,
年金保険はその創設の時から長年保険料積立方式をとってきた。ドイツで
年金支出額はすでに巨額に達しており,積立金ではもはや確保できなくなっ
はこれを期待額充足方式(Anwartschaftsdeckungsverfahren)とよんでいるが,
てきたこと,積立金があまりに巨額になることは経済運営の上からも問題が
実際に「 ヘインフレその他の理由で数理的に完全な積立は過去には一度も実行
多いこと,賃金スライド方式の導入によって年金の実質価値を維持し,年金
できなかった。戦後第1次年金改革によりこの積立方式が廃止され,代わっ
受給者の生活を安定させるためにはその時々の経済力に財源を求める修正賦
て期間充足方式(Abschnittsdeckungsverfahren>とよばれる修正賦課方式が採
課方式を選択せざるをえなかったこと,などが挙げられる。
30
第1部
現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
図表2−2 労働者・職員年金保険の変動
準備金1)の推移
変動準備金
年金支出額の
年末
i10億マルク)
1966
27.3
一
1967
24.8
一
1968
23.1
1969
20.8
7.9カ月
1970
24.0
8.1
1971
29.5
8.8
1972
34.8
9.3
1973
39.9
9.4
1974
44.3
8.6
1975
43.0
7.4
1976
35.8
5.3
1977
25.3
3.3
1978
18.1
2.2
1979
16.4
1.9
1980
18.7
2.1
1981
21.7
2.4
1982
20.5
2.1
鞄膜諮狽Q)
1983
15.0
1.5
1984
9.8
0.9
1985
11.2
1.0
1986
17.8
1.6
1987
21.0
1.8
1988
23.2
1.9
1989
25.8
2.0
1990
33.3
2.5
(注)1.1968年までは現金・運用資金。
2.変動準備金が前年度の年金支出額の
何カ月分であるかを示すものである。
出所:BMA[1991], S.199.(同訳書,212ペー
ジ)
第2章 ドイツ年金保険の構造とその特質
31
1966/67年の不況を契機に,1969
保険料(Beitrag)によって賄われているが,保険料はP=kY,すなわち,保
年には10年一単位の計算方式をやめ
険料率(Beitragssatz)に被保険者の報酬(賃金ないし俸給)を乗じて計算され
て,毎年の収支のバランスをはかる
る。保険料率は戦前は2∼5%と低かったが,戦後の年金給付の相次ぐ引き上
賦課方式への徹底化が進められ,前
げや賃金スライド方式の導入によって,段階的に引き上げられて,1973年以
年度の3カ月分の年金支出相当額の
降は18%を超える高水準で定着している(図表2−3参照)。鉱山従業員年金保
積立金を最:低保有すればよいことに
険の場合,被保険者の:負担する保険料率はたとえば1987年1月現在では
改められた。さらに1977年の第20
9.35%で労働者・職貝年金保険と同じであるが,事業主は被保険者よりかな
次年金調整法ではこの法定最低積立
り多い15.10%を負担しており,労使あわせて24.45%と労働者・職員年金
金が1カ月分に圧縮され,純賦課方
保険の18.7%よりも保険料率自体が高く設定されている。
式へと移行している。したがって,
図表2−3年金保険の保険料率
(保険料拠出義務の対象となる賃金・俸給のパーセンテージ)
1カ月分の法定最低積立金は,年金
の支払に支障を生じさせないための
最小限の積立金ということができ,
期
間
労働者年金保険/職貝保険
1891/1911
L7/一
1912
2.1/一
2,1/5.3
これを変動準備金(Schwankungs−
1913/1916
1917/1923
2,6/5.3
1924
2,7/3.0
reserve)という。1966年以後の変動
1925/1926
4ユ/4.0
1927/1942
5,0/4.0
準備金の推移については図表2−2
を参照されたい。なお,1992年年金
改革法により,この変動準備金が1
カ月支出相当額を年末に下回る恐れ
のある時には,後述の自動調節装置
(Selbstregulierungsmechanismus)が
作動し,保険料,年金スライド率,連邦補助金が自動調節的に相互に結び付
けられて調整され,1カ月分を下回らない変動準備金が確保されることにな
った。
(2)保 険料
年金保険の財源は労働者・職員年金保険では主として労使が折半負担する
期
間
鉱山従業員年金保険
労働者
職
員
1924
1925
1926
11,6
10.0
10。7
6.5
11.0
9.3
10.6
12.3
8.5
10.3
9.8
10.9
14.0
1927/1928
1929/1930
1931/1937
1938/1941
9.0
16.0
15.0
1942/1948
18.5
21,5
1969.1.1以降
16.0
1949.6.1以降
1970.1.1以降
17.0
1957.6.1以降
1973.1.1以降
18.0
1981.1.1以降
1981.1.1以降
18.5
1982.1.1以降
1982.1.1以降
18.0
1983.9.1以降
24.0
1983.9.1以降
18.5
1984.1.1以降
24.25
1985.1.1以降
18.7
1985.1.1以降
24.45
1985.6.1以降
19.2
1985.7.1以降
24.95
1987.1.1以降
18.7
1987.1.1以降
24.45
1991.4.1以降
17.50
1991.4.1以降
23.25
1994.1.1以降
19.20
1994.1.1以降
24.95
1942.7.1以降
1949.6.1以降
1955.4.1以降
1957.3.1以降
1968.1.1以降
5.6
10.0
11.0
一
22.5
23.5
24.0
23.5
(注)1927年以前の労働者年金保険,1942年以前の職員年金保険および1938年以前の鉱山従業員年金保
険における保険料率は個別の賃金・俸給等級についての保険料率の平均値を表示している。
出所=BMA[1991], SS.200 and 205.(同訳書,214,221ページ)他
32
第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
図表2−4 法定年金
平均総労働報酬9
一般算定基礎2)並びに現実年金価値
年金調整率(%)
保険の基礎データ
保険料算定上限額
社会保険平均報酬額
最低限度4,
年次
1
1957
1958
1959
1960
1961
1962
1963
1964
1965
1966
1967
1968
1969
1970
1971
1972
1973
1974
1975
1976
1977
1978
1979
1980
1981
1982
1983
1984
1985
1986
1987
1988
1989
1990
1991
対前年比
マルク
マルク
現実年金
@ (%)
i年額)
i年額)
ソ値3)
2
3
4
5
対前年比(%)
i労働者・職員年金保険)
6
5,043
4,281
5.35
5.7
5,330
4,542
5.68
6.1
5.1
5,602
4,812
6.02
5.94
33
第2章 ドイツ年金保険の構造とその特質
実施日
P月1日
・7
「
タ施日
V月1日
8
マルク
i年額)
9
マルク
i月額)
10
マルク
(月額)
11
労働者・職員年金保険
鉱山従業員年金保険
マルク
マルク
マルク
マルク
(年額)
(月額)
(年額)
(月額)
12
13
14
15
LOOO
93.75
9,000
750
12,000
93.75
9,000
750
12,000
1,000
6.1
100.00
9,600
800
12,000
1,000
12,000
1,000
13,200
1,100
13,200
1,100
8.9
6,101
5,072
6.34
5.4
5.94
106.25
10,200
10.2
6,723
5,325
6.66
4.99
5.4
112.50
10,800
9.0
7,328
5,678
7.10
6.63
5.0
118.75
1L400
850
900
950
6.1
7,775
6,142
7.68
8.17
6.6
125.00
12,000
1,000
14,400
1,200
8.9
8,467
6,717
8.40
9.36
8.2
137.50
13,200
1,100
16,800
1,400
9.0
9,229
7,275
9.09
8.31
9.4
150.00
14,400
1,200
18,000
1,500
7.2
9,893
7,857
9.82
8.0
8.3
162.50
15,600
1,300
19,200
1,600
3.3
10,219
8,490
10.61
8.06
8.0
1.75.00
16,800
1,400
20,400
1,700
6.1
10,842
9,196
11.50
8.32
8.1
200.00
19,200
L600
22,800
1,900
9.2
11,839
9,780
12.23
6.35
8.3
212.50
20,400
1,700
24,000
2,000
12.7
13,343
10,318
12.90
5.5
6.35
225.00
21,600
1,800
25,200
2,100
11.9
14,931
10,967
13.71
6.29
5.5
237.50
22,800
1,900
27,600
2β00
9.4
16,335
12,008.
15.01
9.49
6.3.
9.5
262.50
25,200
2,100
30,000
2,500
12.0
18,295
13,371
16.71
11.35
11.35
287.50
27,600
2,300
33,600
2,800
11.4
20,381
14,870
18.59
11.21
11.2
312.50
30,000
2,500
37,200
3,100
7.0
21,808
16,520
20.65
11.1
11.1
350.00
33,600
2,800
40,800
3,400
7.0
23,335
18,337
22.92
11.0
11.0
387.50
37,200
3,100
45,600
3,800
6.9
24,945
20161
25.20
9.95
5.2
26,242
21,608
27.01
4.5
5.5
271685
21,068
26.34
6.5
29,485
21911
27.39
,
,
9.9
22,200
1,850
425.00
40β00
3,400
50,400
4,200
23,400
1,950
390.00
44,400
3,700
55,200
4,600
4.5
25,200
2,100
390.00
48,000
4,000
57,600
4β00
4.0
4.0
26,400
2,200
390.00
50,400
4,200
61,200
.5,100
4.8
30,900
22,787
28.48
4.0
4.0
28,080
2,340
390.00
52,800
4,400
64,800
5,400
4.2
32,198
24,099
30.12
5.76
5.76
29,520
2,460
390.00
56,400
4,700
69,600
5,800
3.4
33,293
25,445
31.81
5.59
5.59
30,960
2,580
390.00
60,000
5,000
73,200
6,100
3.0
34,292
26,310
32.89
3.4
3.4
32,760
2,730
390.00
62,400
5,200
76,800
6,400
2.9
35,286
27,099
33.87
3.0
3.0
33,600
2,800
400.00
64,800
5,400
80,400
6,700
3.8
36,627
27,885
34.86
2.9
2.9
34,440
2,870
410.00
67,200
5,600
82;800
6,900
3.0
37,726
28,945
36.18
3.8
3.8
36,120
3,010
430.00
68,400
5,700
85,200
7,100
3.1
38,896
29,814
37.27
3.0
3.0
36,960
3,080
440.00
72,000
6,000
87,600
7,300
3.0
40,063
30,709
38.39
3.0
3.0
37,800
3,150
450.00
73,200
6,100
90,000
7,500
4.8
41,986
31,661
39.58
3.1
3.1
39,480
3,290
470.00
75,600
6,300
93,600
7,800
4.6
43,917
33,181
41.48
4.8
4.8
40,320
3,360
480.00
78,000
6,500
96,000
8,000
(注)1.1990年および1991年の報酬は推計である。
2.1978年に表示する一般算定基礎は,上半期に発生した保険事故に関してのみ適用がある。下半期
に関しては1979年の算定基礎を適用する。8欄には1978年に関しては,1978年の下半期に関する
一般算定基礎の1977年に関する同数値との比を記載する。
3.1992年以前の現実年金価値は一般算定基礎から次の算式により計算する,一般算:定基礎×1.5%÷12
4、1977年の第1半期は425マルク,第2半期は370マルクとする。
出所:BMA[1991], S.183.(同訳書,195ページ)
34 第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
第2章 ドイツ年金保険の構造とその特質
35
保険料計算の基礎となる報酬(保険料納付義務収入)は一時金(休暇手当,ク
な影響を最小限にしながら自己規制的に確保しようというもので,きわめて
リスマス手当など)を含む総報酬(自営業者の場合は総収入)であるが,標準等
注目される改革である。連邦補助金は労働者・職員年金保険では1965年の
級に区分され,年金算定式の一般算定基礎の2倍が最:高限度となっており,
59億マルクから88年には276億マルクへと年々上昇してきたが,年金支出
この限度額を保険料算定報酬上限額(Beitragsbemessungsgrenze)という。一
般算定基礎は総報酬の変化に合わせて毎年改定されるが,1992年以降は保険
料算:定報酬上限額の毎年の決定は前々年度に対する前年度の総報酬の変化が
基準となる。労働者・職員年金保険の場合,1990年でこの保険料算定報酬上
限額は年額75,600マルク,月額で6,300マルクどなっている(図表2−4の
12∼15欄を参照)。保険料算定報酬上限額の10%以下の低所得者の場合,保険
図表2−5年金支出に占める連邦補助金の割合
(単位:%)
労働者・職員年金保険
年
労働者年金保険
職員年金保険
1958
35.8
17.6
29.6
1959
35.3
17.0
29.0
1960
35.1
16.7
28.8
1961
34.1
15.9
27.8
1962
34.0
14.1
27.4
1963
34.9
14.1
27.5
1964
34.4
13.8
27.0
料は全額事業主によって負担され,任意継続被保険者や申請による強制加入
1965
33.3
13.3
26.1
1966
32.2
12.8
25.2
者と強制加入の自営業者はその保険料を単独で負担する。
1967
30.8
12.2
24.1
1968
29.8
6.1
21.2
1969
27.5
6.1
19.8
1970
25.9
6.0
18.6
1971
25.4
6.6
18.5
1972
26.5
10.3
20.6
保険加入義務のある被用者の払い込む保険料は賃金支給時に留保され,疾
病保険や失業保険の保険料とともに総合社会保険料(Gesamtsozialversiche−
rungsbeitrag)として管轄の疾病金庫などに納付され,金庫は各保険管理機関
に配分する。
(3)国 庫 負 担
国庫負担金は,年金保険では1891年の障害・老齢保険の導入以来,労働者
年金保険では中断することなく支払われてきたが,1946年以降は職員年金保
険にも導入された。
連邦補助金(BundeszuschuB)は1957年置らは総労働報酬の変化(これは年
金スライド率を決定する最も重要な要因でもある)に応じて定められてきたが,
1992年以降は後述の自動調節装置の導入により,さらに保険料率の変化に応
じても規定されることになった。このメカニズムは高齢化社会の本格的な進
展に対応して,現役世代の保険料負担割合,国家による連邦補助金の支出,
年金受給者の受給する年金のスライド率の数字を相互に関連づけることによ
1973
22.2
2.7
15.0
1974
24.2
9.3
18.7
1975
23.9
9.0
18.3
1976
23.4
8.7
17.9
1977
23.1
8.4
17.5
1978
23.9
8.4
17.9
1979
24.3
8.5
18.1
1980
25.4
10.1
19.3
1981
21.6
8.5
16.3
1982
24.9
8.1
18.1
1983
24.4
7.8
17.5
1984
25.2
7.9
17.9
1985
25.3
7.7
17.8
1986
25.3
7.6
17.7
1987
25.2
7.4
17.5
1988
25.1
7.3
17.3
1989
24.9
7.1
17.1
出所:Verband Deutscher Rentenversichenmgstrager, Rentenver§icherung in
Zah童en, Juni l990, S.17.
って,保険料拠出者,年金受給者,国家の3者間の公平な費用分担を政治的
36 第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
第2章 ドイツ年金保険の構造とその特質
全体に占める割合は26.1%から17.3%に減少している。連邦補助金の占め
37
1992年年金改革法によ.り,連邦政府は連邦補助金の他に流動性援助
る割合は制度によって異なり,最も少ないのが職員年金保険で,10%を下回
(Liquiditatshilfe)を無利子の貸付の形態で行うこととなったが,これは,予測
っており,年金支出の9割強が保険料で賄われている。労働者年金保険では
できない景気変動の発生により労働者・職員年金保険の変動準備金の流動資
近年低下してきているとはいえ,年金支出の4分の1が連邦補助金で賄われ
産が年金の支払義務を満たすのに十分でない場合に連邦政府より支払われ
ていることになる(図表2二5参照)。
る。
へ
これに対し,鉱山従業員年金保険ではさらに連邦補助金の占める割合が約
6割,農業者老齢扶助(農業者老齢年金保険ともよばれるが)は扶助の名前が示
(4)制度間財政調整
すように年金支出の7割前後を占め,保険料の占める割合が非常に小さくな
すでに第1章4で述べたように,農業社会から工業社会への移行,さらに
っている(図表2−6参照)。この2制度では,鉱山業または農業という競争力
サービス経済化の進展により,戦後急速に産業構造が変化し,それにつれて
の弱い産業部門を保護するという産業政策上の理由から,それぞれの根拠法
就業構造も大きく変化した。とくにサービス経済化により,労働者階層の減
で毎年の総支出が保険料および利子収入を上回る場合,その不足額を政府が
少(労働者年金保険の被保険者数は1960年の1,230万人から1978年1こは1,170万
補平することを規定しているからである。すなわち,鉱山従業員年金保険と
人に減少),職員層の急増(職員年金保険の被保険者数は1960年の530万人から
農業者老齢扶助では公費負担(その大部分が連邦補助金)が当初から認められ,
1978年には910万人に増加)という現象が生じたが,その結果,労働者年金保
予定されているが,他方,労働者・職員年金保険では,公費負担は育児期間
険では職員年金保険とは逆に被保険者は減少するのに対し,年金受給者は急
の算入などのような非保険数理的な社会政策的目的のための給付を支弁する
増したために,両制度間の財政状態に著しい不均衡が発生した。そのために
ものに限定し,原則として労使の負担する保険料で財源を確保する建前にな
1969年の第3次年金保険改正法により,労働者年金保険と職員年金保険との
っている,といえる。
間で財政調整(Finanzausgleich)を行うことが定められた。1974年に初めて
図表2−6社会保険保険者に対する公費からの補助・支出
この措置が実施され,聯員年金保険から労働者年金保険へ財政調整のために
(1988年置.単位:1ρ億マルク)
保険種類別
総:支出額
公費分
構成比(%)
労働者年金保険
職員年金保険
鉱山従業貝年金保険
農業老齢扶助
年金保険計
疾病保険
労災保険
失業保険
失業扶助
105.2
24.3
23
計
86.6
6.8
8
15.9
9.4
4.1
2.9
211.8
43.4
59
71
21
134.4
1.61)
1
15.0
1.22〕
8
40.8
1.0
2
8.5
8.4
99
410.5
55.6
(注)1 農業者(年金受給者)の疾病保険分13億マルクを含む。
2 国の機関及び農業者労災保険の分である。
出所:BMA[1991], S.63.(同訳書,42ページ)
21.5億マルクが支払われた。当初は労働者年金保険の変動準備金が合計して
前年の支出の2カ月分を下回れば職員年金保険から財政援助を行うことにな
っていたが,現在では半月分の平均的支出を下回る場合に改められている。
さらに最近ではこれら2制度間だけでなく,鉱山従業員年金保険を含めて財
政調整を実施することが検討されている。
労働者年金保険の管理運営機関(州保険事務所)の間では,保険料返還,年
金受給者疾病保険の保険料,その他のリハビリテーション給付以外の現金給
付が共同負担され,保険料収入の割合で配分されるが,これを財源連合
(Finanzverbund) という。
38 第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
第2章 ドイツ年金保険の構造とその特質
39
稼得不能年金(Erwerbsunfahigkeitsrente),就業不能年金(Berufsunfahigkeits−
3年金保険の給付
rente)に分けられる。
老齢年金は一定の満年齢(年金支給開始年齢)に達した場合に支給されるが,
(1)給付種類と受給者数
年金保険は被保険者本人およびその遺族に年金を支給することによって,
通常老齢年金(Regelaltersrente)は満65歳に達し,通常の待機期間を満たし
た被保険者に支給されるものである。1972年の年金改革により,満63歳に達
老後保障,障害保障,遺族保障を行うことを主要任務としているが,さらに
し,かつ35年の待機期間を満たした被保険者には長期被保険者老齢年金
1957年の年金改革によって,被保険者が障害事故にあった場合の,治療,就
(Altersrente fOr langl ahrig Versicherte)に対する請求権が与えられる。また,
業促進および経済的援助を含む稼得能力の維持,改善ならびに回復のための
満60歳に達:し,年金受給開始時に最低50%の障害度と認定された重度障害
給付,すなわちリハビリテーション給付が追加された。これは戦後のイギリ
者または就業・稼得不能者で,かつ35年の待機期間を満たす被保険者は,重
スなどにおける社会保障改革の影響によるといわれるが,リハビリテーショ
度障害者老齢年金または就業・稼得不能者老齢年金(Altersrente fnr Schwer−
ン給付が被保険者個人にとっても,国民経済的にも単に継続的に年金給付を
behinderte, Berufs−oder Erwerbsunfahige)に対する請求権を取得する。さら
支給するよりも合理的かつ有利な結果をもたらすという思想,すなわち「リ
に,満60歳に達し,失業中で所定の受給条件を満たす者には失業老齢年金
ハビリテーションが年金給付に先行(Vorrang vor den Rentenleistung)する
(Altersrente wegen Arbeitslosigkeit)に対する受給資格が与えられる。
原則」に基づくもので,正式に法定給付となったものである。
年金保険の給付種類は,次のとおりである。
①法定給付(Regelleistung)1)
a.被保険者年金(Versichertenrente:老齢退職年金,稼得不能年金,就業不
能年金)
障害ないし廃疾を対象とする就業不能年金は,疾病またはその他の心身の
障害もしくは薄弱のために,被保険者と同様な条件の心身の健全な者に比べ,
その下下能力が半分以下に減少した被保険者に支給される年金である。稼得
不能年金は就業不能より障害の程度が高い被保険者で,当分の問稼得活動を
規則的に行うことがほとんどできなくなったか,または稼得活動ではほんの
b. リハビリテーション給イ寸(Rehabilitationsleistungen)
わずかな収入(平均報酬月額の7分の1以下)しか得ることのできなくなった者
c.遺族年金(Hinterbliebenenrente)
に支給される。就業不能者または稼得不能者が近い将来回復する見込みが十
d.寡婦・寡夫年金の還付および保険料償還(Witwen−und Witwer−
分ある場合には,これらの年金は3年または最高4年の期限付きで皮給され
rentenabfindung sowie Beitragserstattung)
ることがある。
e.年金受給者年金保険への保険料負担
リハビリテーション給付には医療給付,職業訓練,社会復帰援護などがあ
f.児童養育給付(Leistung fOr Kindererziehung)
り,稼得能力の著しい減退を条件として支給される。二三能力減退を理由と
②付加給付(zusatzliche Leistung, Mehrleistung)
被保険者年金は被保険者に保険事故である老齢,障害事故が発生し々場合
に被保険者本人に支給されるもので,老齢年金(Altersrente,Altersruhegeld),
する年金給付申請に対する裁定に際しては,年金保険者はリハビリテーショ
ン給付が効果的と予想され.るか否かを審査し,年金支給か,リハビリテーシ
ョン給付の支給かを決定する。
40 第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
被保険者の死亡に基づく遺族年金には,寡婦年金(Witwenrente)または寡
第2章 ドイツ年金保険の構造とその特質
労働者年金保険・職員年金保険における年金件数および年金支出の推移
図表2−7
夫年金(Witwerrente),遺児年金(Waisenrente)がある。寡婦年金または寡
夫年金には大および小の区別があり,通常の受給権付与期間を満たした被保
険者であった配偶者の死亡に基づきその寡婦は死亡者の稼得不能年金の25
年金支出
年金件数1〕
年
総
41
i単位二百万マノレ
内訳
数
﨑ロ険者年金
寡婦年金
遺児年金
労働者
N金保険
ク)2)
職員年金保険
合計
1949
2,886,138
1,743,40G
738,138
4G4,60G
1,407
591
1,998
%に相当する小寡婦年金(kleine Witwenrente)を受給し,さらに18歳未満
1950
3,906,959
2,213,522
988,269
705,168
1,995
780
2,775
1955
5,998,131
3,250,504
1,632,398
1,115,229
4,027
1,917
5,944
のまたは障害の子供を養育し,満45歳以上に達し,または就労不能か稼得不
1960
7,213,815
4,067,244
2,488,042
658,529
9,366
4,839
14,205
1965
7,993,149
4,759,862
2,809,011
424,276
14,428
8,137
22,565
1970
9,275,799
5,724,081
3,115,885
435,833
24,414
13,979
38,393
1975
10,820,262
6,949,966
3,380,097
490,199
45,680.
27,152
72,832
1980
12,262,194
8;039,710
3,693,621
528,863
65,821
43,551
109,372
1981
12,457,793
8,202,815
3,733,025
521,953
68,701
46,357
115,058
1982
12,639,592
8,367,417
3,764,105
508,070
72,675
50,052
122,727
1983
12,813,158
8,532,158
3,788,945
492,055
75,013
52,756
127,769
する。遺児年金に対する請求権は死亡した被保険者による通常の待機期間を
1984
12,997,414
8,716,165
3,805,295
475,954
78,655
56,663
135,318
1985
13,198,479
8,912,396
3,825,441
460,642
81,160
59,847
141,007
満たすことを条件とする。
1986
13,298,508
9,026,642
3,838,588
433,278
83,492
62,745
146,237
1987
13,495,361
9,219,515
3,868,058
407,788
86,777
66,279
153,056
1988
13,692,884
9,415,685
3,894,704
382,495
90,394
69,951
160,345
1989
14,010,785
9,69曾,410
3,950,936
360,439
94,175
73,735
167,910
能であった場合には大寡婦年金(groBe Witwenrente:死亡者の神州不能年金の
60%)の受給権を取得する。死亡した被保険者の子供(遺児)は,扶養義務を
有する片親がいる場合には片親喪失遺児年金(Halbwaisenrente)を受給し,
その他の場合には両親喪失遺児年金(Vollwaisenrente)に対する請求権を取得
年金保険機関の財政支出の内訳を1989年についてみると,2,048億マルク
の総支出のうち年金支出が1,679億マルクで83。6%と圧倒的比重を占め,リ
ハビリテーション給付はわずか2.7%となっており,年金受給者疾病保険へ
の費用の補助金5.4%,行政・手続費用1.8%,児童養育法に基づく児童養育
給付0.9%,その他の給付(保険料の償還,鉱山従業員調整給付)0.4%となっ
(注)1 1960年以降は,年央(7月1日)に郵便局を通じて支給された既裁定年金件数(1955年までは年
平均件数。1949年目よび1950年はザールラント,ベルリンを除く。1955年はザールラントを除
く)。1976年までは国内で支給された件数のみ。
2 通算年金調整支給を除く。
出所:BMA[1991], S.146.(同訳書,152ページ)
ている2}。
図表2−7によれば,年金件数は戦後急速に増加しており,1989年では
図表2−8
(単位:1,000件)
1,401万件に上っている。その中では被保険者年金と寡婦年金が年々増加し
ており,逆に年少人口の減少を反映して遺児年金件数は1980年以降毎年減少
年金の種類
被呼
ロ険者金
している。
最:近の1990年における既裁定年金の種類別年金支給件数は図表2−8に示
してあるが,3年金制度の合計では被保険者年金が68.5%,遺族年金が31.5
年金保険における既裁定年金の種類別件数(1990年)
留年
労働者
職
員
N金保険 N金保険
鉱山従業員
N金保険
老齢年金
4,823
A業不能年金
メ得不能年金
@60
P,242
@482
284
R5
T3
寡婦・寡夫年金
2,702
1,279
307
合
計
8,236(55.7)
@22
4,288(29.0)
3,129
@117(0.8)
P,777(12,0)
竡剩N金
@227
@125
P3
@365(2.5)
合
9,054
5,037
692
14,783(100.0)
計
出所=Verband Deutscher Rentenversicherungstrager(VDR),Rentenvers至che−
%となっており,老齢年金が約56%と最大の比重を占めている。同時に,全
体の12%ではあるが,178万件もの多数の稼得不能年金受給者が存在するこ
とが注目される。
rung in Zahlen, Stand=August 1992, SS.42−45より抜粋。
42 第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
(2)年金受給資格
第2章 ドイツ年金保険の構造とその特質
43・
おける稼得能力低下に基づく年金権の確保には,保険事故以前の5年間に少
年金は原則として老齢,障害,死亡などの保険事故が発生し,かつ最低保
なくとも3年間の強制保険料納付期間が存在することが必要であり,考慮期
険期間すなわち待機期間を満たした場合に支給される。待機期間(Wartezeit)
間だけ延長されることによって効力をもつ。この期間は平均報酬の75%の保
ないし待期間とは,年金保険法で認められた保険加入期間の最低年数を意味
険料が納付されたものとして年金算定の際に処理される。この期間も35年間
し,この待機期間を満たすことによって,給付に対する請求権を取得するこ
の待機期間に算入される。
とができる。年金法上の保険期間は保険料納付期間,保険料免除期間および
考慮期間に分けられる。
通常の待機期間は5暦年であり,満65歳から支給される通常老齢年金,就
業・三三不能年金,遺族年金の前提条件となるが,保険料納付期間および場
保険料納付期間(Beitragszeiten)は保険加入義務のある就労または活動に
合によっては代替期間が通常の待機期間に算入される。業務上災害,兵役上
基づいた強制保険料納付期間(Pflichtbeitragszeiten)ないし任意保険料(frei−
の負傷などの一定条件を満たす場合には,この通常の待機期間は期限前に満
willige Beitrage)が納付された期間である。保険料免除期間(beitragsfreien
了する。失業に基づく老齢年金と女性の老齢年金の待機期間は15年,長期被
Zeiten)は社会政策的観点から保険料の納付を免除し,算入可能な期間として
保険者,重度障害者もしくは就労・稼得不能者に対する老齢年金は35年で,
保険期間に加えることが認められているもので,算入期間(Anrechnungs−
この期間には年金法上のすべての暦月が算入される。就業不能年金,すべて
zeiten),加算期間(Zurechnungszeiten),代替期間(Ersatzzeiten)に小区分さ
の遺族年金の待機期間は一般に5年,稼得不能年金では20年間である。
れる。算入期間(従来は脱落期間〈Ausfallzeiten>とよばれていた)は疾病,妊
娠,失業または満16歳以降の就学(最高7年まで認められる)のために保険料
(3)老齢年金支給開始年齢と部分年金制度
が納付されなかった期間である。加算期間は被保険者の保険事故発生ないし
老齢年金の支給開始年齢(Altersgrenze)すなわち年金年齢は従来は満65歳
年金開始から満60歳に達するまでの期間で,就業不能・照明不能年金,遺族
から支給と固定的であったが,1972年に年金年齢選択制の導入により,一定
年金もしくは養育年金の場合に加算される。代替期間は,被保険者が兵役義
条件を満たす場合には満65歳以前でも被保険者の選択により60∼65歳で年
務,捕虜期間などの戦争または戦争と関連する原因により保険料を納付でき
金が受給できるように弾力化された。そのために65歳になる前に退職し,年
なかった期間である。
金生活に入る者が増加し,年金財政を圧迫する一因ともなった。1992年年金
考慮期間(BerUcksichtigungszeiten)は公的年金制度を少子・高齢社会の進
改革法により,再び老齢年金支給開始年齢を段階的に満65歳に一律に引き上
展に対応させるために1992年年金改革法により新たに導入された概念で,児
げることとなり,女性と失業者については2012年,長期被保険者である男性
童養育のための考慮期問(BerOcksichtigungszeiten wegen Kindererziehung:
に対しては2006年までに達成されることになっている。ただし,重度障害者
児童考慮期問)と在宅介護のための考慮期間(Ber藪cksichtigungszeiten wegen
および就業不能者,三三不能者に対する60歳の年金支給開始年齢は引続き維
hauslicher Pflege:介護考慮期間)とがある。前者は児童の出生の月から満10
持される。
歳到達の月までが対象となり,後者は申請に基づいて,1992年以降に含まれ
しかし,今後も高齢化社会に適した形で老齢年金の支給に弾力性を与える
る重度要介護者の稼得可能でなし・在宅介護の期間が算入される。この期間に
ために,1992年年金改革法では部分年金制度が導入され(第10章参照),被保
44 第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
第2章 ドイツ年金保険の構造とその特質
45
険者が65歳から通常老齢年金として支給される「全部年金(Vollrente)」を請
賃金・保険料関連性の原則」は維持されたが,年金評価に関しては新しい年
求するか,全部年金の3分の1,2分の1または3分の2の額の「部分年金
金算定式に置き換えられ,報酬点数(Entgeltpunkte),受給開始要素
(Teilrente)」を満65歳に達する前に請求するかを選択できることになった。
(Zugangsfaktoren),年金種類要素(Rentenartfaktor),現実年金価値(Aktueller
もちろん,被保険者が希望すれば,満65歳到達後に割増支給される年金の受
Rentenwert)の4要素を基準にして,直接に年金月額Rmを計算する方式に簡
給を開始することもでき、る。部分年金を請求する被保険者は自己の職務範囲
略化された。新年金;算定式は1992年より適用されているが,以下の式で表さ
の分割(部分就労ないしパートタイム就労)に関する提案を行うことができ,こ
れる。
れに対しそ事業主は意見を表明する義務を負う。満65歳到達前に部分年金が
年金月額=個人報酬点数×年金種類要素×現実年金価値
請求される場合,追加所得限度(Hinzuverdienstgrenzen)が適用される。平均
新年可算定式は旧算定式から次のようにして導かれる。旧算定式の100評
報酬月額が7分の1の追加所得限度以下の場合,全部年金が支給される。部
価単位から新算定式の1報酬点数が生じ,現実年金価値は一般算定基礎Bの
分年金を肇給する場合,部分年金額に応じて,被保険者は年金支給開始直前
1。5%を12で除して得られる。年金種類要素の割合は旧算定式の年数加算率
の暦年における被保険者の労働所得の約40%,60%ないしは80%(個別的追
の割合に対応し,年金種類要素1は従来の老齢年金または稼得不能年金の加
加所得限度)をその部分就労の報酬として受けとる。満65歳到達時からは追
算率の1.5%に相応する。
加所得の制限はない。この制度の導入は,老化現象には個人差が激しいので,
新算定式の年金額の基準となるのは個人報酬点数(Pers6nliche Entgelt−
部分就労・部分年金という移行期を設けることによって,被保険者の生活設
punkte)であるが,これは保険期間中に得られた報酬点数の合計額と受給開
計に基づきフル就労から年金生活へ円滑に移行できることを目的とするもの
始要素の積により得られる。報酬点数の算定は保険料納付期間と保険料免
で,高齢化社会への本格的対応策としてその成果がきわめて注目される。
除期間・保険料減額納付期間とで異なり,保険料納付期間に関する報酬点数は
保険料納付期間中の毎年の保険料算定基礎,すなわち被保険者の保険加入義
(4)年金算定式と年金スライド
務ある報酬を毎年算定される被保険者全員の平均総:労働報酬(法令により連邦
1957年の第1次年金改革により,従来の定額部分プラス賃金比例部分とい
統計局の算定に基づき毎年確定される)により除することにより算定される。た
う静的年金算定式から賃金・保険料に応じた画期的な賃金スライド方式の以
とえば,ある被保険者が1988年に46,675マルクの報酬を得ていた場合,その
下の年金算定式(Rentenformel)が採用された(詳しくは後述第6章参照)。
年次の平均総労働報酬は38,896マルクである(図表2−4の3欄参照)から,
Rj=(P×B)×(J×St)
R」は年金の年額,Pは個人的年金算定基礎率, Bは一般算定基礎, Jは算入
その年次の報酬点数としては46,675÷38,896=1.2が算入される。保険料免
除および保険料減額納付期間に関する報酬の算定方法は複雑なので,詳細な
可能な被保険年数,Stは年数加算率であるが,要するに被保険者の過去の賃
説明はここでは省略するが,所定の保険料免除期間(場合によっては保険料減
金(P×B)と保険期間(J×St)に比例して年金額がきまり,従前所得の一定
額納付期間も)は満額総実績評価を与えられず,限定的総実績評価(begrenzte
割合(保険期間40年の平均的賃金を得ていた被保険者の受給する老齢年金,いわゆ
Gesamtleistungsbewertung)を獲得する。たとえば疾病および失業による算入
る標準年金で約60%)を保障するものである。1992年年金改革法でも「年金の
期間の場合,総実績評価の80%,算入可能就学期間では75%に限定して報酬
46 第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
第2章 ドイツ年金保険の構造とその特質
点数が算定される。期間受給開始要素は老齢年金の早期または据置の受給開
図表2−9年金水準1)
始により生じる有利性・不利性を調整するもので,その都度の基本となる退
年 金
年金月額3}
水 準4}
正 味
総 額
職年齢への到達(通常老齢年金の場合は65歳)により老齢年金が支給されると,
この数値は1となり,1カ月据え置かれるごとに0.5%ずつ増加され(1+
47
算入可 能な被保険年
年次2}
0.5×据置月数),したがって1年当たり受給権を6%ずつ増加させる。
40年
マノレク
45年
マノレク
40年
%
45年
%
数
40年
%
45年
%
1957
214.10
1958
1959
214.10
240.90
48.2
54.2
56.7
63.8
との割合による各種年金水準の保障を目的とし,老齢年金1.0,就業不能年金
227.10
255.50
48.6
54.7
57.1
64.2
1960
0.6667(2/3),岬町不能年金1.0,寡婦・寡夫年金は最初の死亡四半期間は
240.60
270.70
47.3
53.2
56.2
63.2
1961
253.60
285.30
45.3
50.9
54.2
60.9
1.0,その後の継続期間は0.25,片親喪失遺児年金0.1,両親喪失遺児年金0.2
1962
266.30
299.60
43.6
49.1
52.5
59.0
1963
283.90
319.40
43.8
49.3
53.0
59.6
59.5
年金種類要素は旧算定式の逓増割合に代わるもので,その時々の老齢年金
となっている。
現実年金価値は鴫野定式と同様に,一般の賃金水準の変化にスライドした
240.90
50.9
57.3
59.3
66.7
1964
307.10
345,50
43,5
49.0
52.9
1965
335.90
377.90
43.7
49.1
52,7
59.3
1966
363。80
409.30
44.1
49.6
53.9
60.7
1967
392.90
442.00
46.1
51.9
56.7
63.7
年金および年金受給期待権の動態化を保証するもので,旧地定式で用いられ
1968
424.50
477.60
47.0
52.9
57.3
64.5
1969
ていた一般算定基礎iBの1.5%を12で除して得られる。したがって,たとえ
459.80
517.30
46.6
52.4
57.7
65.0
1970
489.00
550.20
44.0
49.5
56.8
63.9
61.2
ば1990年6月1日以降の現実年金価値は図表2−4の5欄にあ.るように,
31,661マルク(1990年度一般算定基礎)×1.5%÷12=39.58マルクとなる。現
1971
515.90
580.40
41.5
46.6
54.4
1972
1973
600。40
675.50
42.2
47.5
57.0
64.2
668.60
752.20
41.6
46.8
56.3
63.4
1974
743.50
836.50
41.6
46.8
57.0
64.1
実年金価値は毎年7月1日に年金調整割合に応じて引き上げられる。この現
1975
826.00
929,30
43.2
48.6
59.0
66.4
実年金価値の引上げ率が年金のスライド率を決定するが,この年金スライド
1977
1,008.10
1,134.10
いわゆる年金調整(Rentenanpassung)は第1次年金改革では法律(年金調整法)
1978
1,008.10
1,134.10
1979
1,053,40
1,185.10
1980
1,095.60
1,232.50
44.6
1976
に基づいて,その都度総報酬すなわち税引き前の総賃金の上昇に対応して行
われてきた(総報酬主義Bruttoprinzip)が,1992年以降は,租税・社会保険料
916.90
1,03L50
44,8
50.4
62.8
70.7
46.3
52.1
65.6
73.8
46.1
51.9
64.6
72.7
45.7
51.4
63.8
71.7
50.2
63.2
71.1
1981
1,139.40
1,281.80
44.2
49.8
62,9
70.8
1982
1,205.00
1,355.60
44.9
50.5
64.6
72.7
1983
1,272.30
1,431.30
44.6
50.2
64,5
72.6
を差し引いた後の手取り賃金(純報酬)の変化,すなわち純報酬に基づいて連
1984
1,315.50
1,480.00
45.3
50.9
65.2
73.4
邦政府の法令により実施可能となった。この純報酬主義(Nettoprinzip)への
1985
1,355.00
1,524.40
45.4
51.1
65.1
73.2
1986
1,394.30
L568.60
45.0
50.7
63.6
71.6
1987
1,447.30
1,628,20
45.2
50,8
64.1
72.1
移行は,総:報酬主義では手取り賃金の毎年の伸び率は租税・社会保険料の引
き上げなどによって総賃金のそれよりも低いので,手取り賃金の伸び率を基
準に年金を引き上げることによって,現役世代と退職世代とのバランスを図
ることを目的に実施されたもので,世代間の公平を期している。
1988
1,490.70
1,677.10
45.3
51.0
63,8
71.8
1989
1,535.50
1,727.40
45.3
51.0
64.3
72.4
(注)1.労働者・職員年金保険における老齢退職年金(既裁定年金)
2.部分的には暫定数値
3.7月に関して,総額,個人算定基礎100%(平均報酬)
4.暦年につき,総額年金並びに年金受領額,総額並びに正味労働報酬による算定と
する。
出所:BMA[1991], S.186.(同訳書,199ページ)
48 第1部 現代ドイツの社会経済体制と年金保険の構造
(5)年金水 準
第2章 ドイツ年金保険の構造とその特質
49
ている。図表2−10では,賃金スライド方式が導入された1957年以降の名目
年金は1957年以来賃金スライド方式によりその時々の労働報酬の変化に
額および実質額での被用者の手取り報酬と年金受給者の年金の伸び率を
応じて継続的に調整されてきた。年金水準(Rente皿iveau)は,標準年金が各
1957年目100として示してあるが,1970年前後から名目額でも実質額でも年
年度の平均賃金の何パーセントになるかで測走されるが,労働者・職員年金
金が報酬の伸びを上回っていることがわかる。
保険における老齢年金(既裁定年金)の年金水準を示したものが図表2−9およ
図表2−11既裁定年金の平均支給月額(1990年1月現在)
び図表2−10である。ドイツの年金水準は国際的にみてもきわめて高水準に
(単位:マルク)
あるといわれているが,図表2−9によると,保険期間40年の場合の年金水
年金の種類
準は総報酬との割合でみると,約45%,純報酬との比率では65%前後となつ
図表2−10 手取り報酬の変化ならびに年金受給者およ
び被用者の購買カー1957年以降
(1957年=100;対数目盛)
800
700
名目年金
600
,,一!1
!!!’
500
ノ
/名目手取り報酬
!!
400
!!
就業不能年金
稼得不能年金(重度障害者を含む)
職員年金保険
労働者年金保険
女 子
男 子
女 子
男 子
629.46
806.56
427.53
958.24
1,215.77
419.23
1,444.51
731.72
1,734.01
712.52
2,158.31
907.67
一
817.39
』
1,200.94
1,767.21
1,030.64
2,105.66
1,483.02
1,790.66
1,320.04
失業者の60歳からの老齢年金
女性の60歳からの老齢年金
重度障害者,就業不能者ないし稼得
s能者の60歳からの老齢年金
63歳からの老齢年金
65歳からの老齢年金
65歳を超えてから受給の老齢年金
836.77
2,276.12
1,143.23
403.50
1,686.41
653.17
1,099.24
532.72
1,829.14
864.86
被保険者年金全体の平均額
1,392.76
531.91
1,899.84
908.86
寡婦・寡夫年金
240.88
792.65
400.24
1,100.97
遺児年金
295.64
212.82
324.04
243.21
出所:VDR, Rentenversicheru㎎in Zahlen, Stand:August 1992, SS.30−31より抜粋。
!〆
/
300
/
1990年1月現在の既裁定年金の平均支給額を図表2−11でみると,被保険
/
/
、!
/
200
実質年金
_
/斧、く=/;
ノ/ブノ実質手取囎
ノ
/
ノ
//
ノ
ノ ノ/
! ,//
/ 7 /
/ ’ /
/ノノ/
ノ
、‘〃/
Ioo
/
go
1957 1961 1965 1969 1973 1977 1981 1985 1989
出所:BMA[19911, S.エ86.(同訳書,198ページ)
者の受け取る各種年金全体の平均月額は労働者年金保険では男子1,393マル
ク,女子532マルク,職員年金保険では男子1,900マルク,女子909マルク
となっている。これらの数字から明らかなように,職員年金保険と労働者年
金保険の両制度間の年金額には賃金・俸給の格差などを反映して,依然とし
てかなりの格差があり,男子では1.4倍の,女子では1.7倍の格差がみられ
る。また,男女間の格差はさらに大きく,職員年金保険では2倍強の,労働
者年金保険では2.6倍もの格差がある。
注1) Vgl.§23 Abs.1NL l des Ersten Buches Sozialgesetzbuch.
2)Vg夏. BMA[1991],S.156.
第2部
第2次大戦前における
ドイツ年金保険の発展
社会保険ないし社会保障の一環として国家的な年金保険が世
界に先駆けてドイツで初めて実施されたのは1891年であり,そ
の歴史はすでに百年を越えている。第2次大戦終了直前の昭和
17(1942)年に労働者年金保険(2年後に現在の厚生年金保険に
改称される)が導入された日本と異なり,ドイツの年金保険は
戦前に限定しても半世紀を越える55年もの長い歴史を有して
いることになる。この導入から1945年に至る時期は,第1次大
戦を境に大きく2期に分けることができる。第1次大戦前まで
の第1期は現在の公的年金制度の中核となっている労働者年金
保険と職員年金保険の2大制度の形成期といえる。第2期は2
つの大戦に挟まれた戦間期であり,第1次大戦後の超インフレ
ーション,世界大恐慌,ナチス政権の成立と戦時体制への突入
という困難な時代背景の中で,年金保険制度も試練期を経験し
ている。第2部では,第3部の戦後ドイツ年金保険史の分析を
よりょく理解するための予備的考察として,第2次大戦までの
戦前における年金保険の主要な動向を概説する。
53
第3章 生成期における年金保険の
史的展開(1880年代71914年)
1 皇帝詔勅とビスマルク社会立法
(1)社会保険の一部門としての年金保険の成立
産業革命をいち早く達成したイギリスと比較して,経済的社会的に後進国
であり,多くの諸邦に分かれていたドイツは,19世紀前半から伝統的な農業
社会からの離脱をはかり,工業化を強力に推進していったが,・1871年(明治
4年)のドイツ統一を契機にさらに目覚ましい経済発展を遂げた。急速な工業
化の進展に伴い,多数の農民が農村から都市へ大量に移住し,人口の都市へ
の集中に伴う住宅難や物価高,低賃金や大量解雇などにより,労働者階級の
絶対的貧困化が進行していった。1870年代から1890年代前半に及ぶ経済不
況により,労使間の階級対立は一層先鋭化し,各地でストライキや都市暴動
などが頻発し,社会主義運動も一段と高揚を示した。1878年には2度にわた
り皇帝狙撃事件も発生し,社会不安の解決,とくに労働者階級の生活問題が
当時の最大の社会問題となった。こうした体制危機的状況に対し,当時のビ
スマルク(Otto von Bismarck,1815−1898年)政府はいわゆる「飴と鞭(Zucker−
brot und Peitsche)」の政策をとり,一方で1878年に「社会主i義者鎮圧法
(Sozialistengesetz)」(同法は1890年に撤廃された)を制定し,他方で1881年11
月17日のウィルヘルム1世(Kaiser Wilhelm I)の皇帝詔勅(Kaiserliche
Botschaft)に基づき,社会保険の立法化に取り組んでいった。
ドイツ社会政策の大憲章(Magpa Charta der deutschen Sozialpolitik)とも
いわれるこの皇帝詔勅はその後の社会保険の発展に決定的な方向性を与えた
54 第2部 第2次大戦前におけるドイツ年金保険の発展
第3章 生成期における年金保険の史的展開
55
が,それは
ることが構想されたのは,主に歴史的な理由に求められる。すなわち,新設
①社会的害悪の治癒のためには社会民主党の騒乱を阻止するのみでは完全で
される年金保険制度を除いて,災害保険制度は賠償責任法に基づく雇主責任
はなく,労働者の福祉を積極的に促進することを考究すべきであること,
②国内平和のために新しい永続的な保障を与え,かつ扶助を必要とする者に
にその起源があり,また疾病保険制度は既存の企業や労働組合などの設立し
ている登録疾病金庫や市町村の共済金庫を取り込んで実施することが予定さ
より一層の安定と権利として請求できる十分な補助手段を与えるために連
れていたことにある。したがって,すべてまったく薪しい組織で実施される
垣内のすべての政府が努力すべきこと,
のであれば,統一保険として社会保険が導入される可能性もなかったとはい
③連邦政府は労働者の災害に関する法律,これを補充的に援助するための疾
病保険法案および老齢または障害により一得不能となるものに対する障害
老齢保険法案を提出する用意のあること,
④国家的保護のもとに国民生活を協同体的組合(Kofporative Genossenschaft)
えない3)。
また,対象とするリスクの性格の相違も3部門に分けられる理由として挙
げられよう。すなわち,疾病保険では比較的短期の給付を主な対象とし,疾
病の治療は症状により異なり迅速な処置を必要とし,また地域や職業によっ
の形で結集することが扶助に対し正当な手段方法を発見するという公共団
て異なる取り扱いを必要とするので,職業や地域ごとに組織された多様な管
体の任務の解決を可能にすること,
理機関によって実施されるのが適しているが,長期の年金での現金給付が中
などを主要な内容としている1)。
心となる災害保険や年金保険では,集権的な組織でも可能であり,また一般
皇帝詔勅はドイツの社会政策の中心思想を確立した重要な国家的宣言であ
的にも受け入れられやすかったといえる。災害保険は業務上の災害に基づく
り,ビスマルク社会保険の巨大な3部作(Kolossale Trilogie)といわれる疾病
就業不能を対象としているのに対し,年金保険は業務外の事故に基づく完全
保険(Krankenversicherung),災害保険(Unfallversicherung)および年金保険
障害や一部障害および退職による高齢を対象としており,両者を別組織で行
(Rentenversicherung)がその後逐次導入されていった2)。すなわち,疾病保険
う根拠が存在する。
法は1883年(明治16年)に,災害保険法は1884年(明治17年)に制定され
その主要対象がリスクの多い現場で働く労働者であったので,社会保険は
た。そして3部作の最後をしめくくる年金保険制度ほ,1889年(明治22年)
当時のドイツでは労働者保険(Arbeiterversicherung)ないし労働保険(Arbeits−
6月22日に「障害および老齢保険に関する法律(Gesetz betre漉nd die
versicherung)とよばれていた。その名称が示すとおり,労働者保険は労働力
Invaliditats−und Altersversicherung vom 22.6.1889:以下,障害老齢保険法な
保全をも意図して社会政策の一手段として導入されたものである。その点で,
いし1889年法とよぶ)」が帝国議会においてかろうじて過半数の賛成を得るこ
疾病保険および災害保険は現に働いている労働者本人の医療・災害保障を行
とによって成立した。同法は1891年1月1日から施行されたので,ドイツの,
うことによって,労働力の保全・培養に直接寄与するのに対し,年金保険は
そしてまた世界の社会保険としての年金保険の歴史はこの年に始まるとされ
労働力として再び職場に復帰する見込みのない退職高齢者や障害者を対象と
ている。
しており,間接的な意義しか認められないものである。しかし,退職後の生
社会保険の導入にあたり,統一保険:(Einheitsversicherung)として制度化す
活が保障されることは現役労働者が老後についてあまり心配せずに安心して
べきであるという意見がなかったわけではないが,3部門に分かれて実施す
働け,かれらの労働意欲や職場への定着率の向上にもプラスに作用し,労働
56 第2部 第2次大戦前におけるドイツ年金保険の発展
第3章 生成期における年金保険の史的展開
57
生産性の改善にも寄与すると考えられるので,年金保険制度は社会政策とし
範囲に該当する者は無条件に保険加入強制となる。疾病保険や災害保険と異
ても一定の意義をもつことになる。ビスマルクが当初から年金保険制度をも
なり,障害老齢保険の被保険者範囲は当初から広く規定されており,単に工
かれの社会政策構想の中に取り入れていた主な動機としては,かれがプロシ
業労働者のみならず,農業,商業,交通業などの就業者も含まれ,賃金・俸
ャ大使としてパリに滞在中の1850年にフランス老齢金庫法が制定され,国家
給を得て就業している満16歳以上の者はすべて保険加入義務者すなわち強
による少額の年金支給により愛国的な労働者階級を育成し,現存の国家体制
制加入者となる。ただし,その対象は年間所得2,000マルク以下の被用者(す
の存続を希求する国民感情が醸成されていること1ピ感銘を受けたことにある
べての賃金労働者と低所得の職員)に制限されていた。
といわれている。
しかし,障害老齢保険法はビスマルクがすでに労働者保険にあまり関心を
中小零細経営者は満40歳までに希望すれば,保険料を全額自己負担して任
意加入できることになっている。官吏にはすでに恩給制度があるので,同法
示さなくなった1880年代末に,ベティヒャア(Karl Heinrich von Boetticher)
は適用されない。ホワイトカラーを意味する職員という言葉は同法ではまだ
やウェトケ(Erich von Woedtke)などの内務官僚の努力により成立し,かれ
用いられてはいないが,職員には高給を得ている者が多く,年間所得が2,000
が失脚した1890年の翌年から施行されたことから,実際に導入された年金保
マルクを超える職員は加入義務を免除されることになる。
険制度はかれの当初の構想とはかなり異なったものとなった4)。しかし,同法
の制定は,広く国民に老後所得保障の道を開き,ドイツの年金制度がその後
近隣諸国に重大な影響を及ぼしたことを考えると,きわめて画期的な出来事
であった5)。
障害老齢保険法の施行された1891年でも被保険者数は全人口の約25%に
当る1,150万人目多く,1895年目は55%強の2,080万人目増加している6)。
’2)給
付
この保険の目的はその名称が示すとおり,被保険者が永続的な障害状態に
なりまたは高齢で退職した時に年金を支給することにある。しかし,被保険
(2) 障害老齢保険法の特色
帝国内務庁(Rεichsamt des Imern)は年金制度に関する調査研究を1881年
者本人が死亡した場合の遺族に対する年金の支給は未だ対象となっていず,
その意味で年金保険としては不十分なものであった。老齢年金(Altersrente)
以来続けていたが,1887年7月にその労働者障害老齢保険法素案を発表し,
は加入期間30年以上の者に対し満70歳から支給される7)。障害年金
多くの反響をよんだ。1888年4月に政府案が議会に提出され,1889年6月22
(Invalidenrente)は5年の待機期間を満たし,完全永久稼得不能でしかもその
日に障害老齢保険法が可決され,91年1月1日から実施された。同法は6章
状態が1年継続している場合にのみ支給される(この年金は後の稼得不能年金
に分かれ,全部で162力条からなり,以下のような特色をもっていた。現行
に相当する)。したがってその後導入された稼得不能より障害程度の軽い者に
のドイツ年金保険制度の基本構造はこの法律で決定されたといっても過言で
支給される就業不能年金は発足当初は認められておらず,厳しい受給条件と
はない。
なっていた8)。なお,年金取得前に被保険者が死亡した場合には,これまで納
1) 強制加入と被保険者範囲
付された保険料の半額が一時金で払い戻される。老齢事故は老衰による特殊
ドイツ社会保険の特色の1つは強制保険(Zwangsversicherung)として実施
な障害状態ないし稼得能力の後退したケースとみなされており,創立時の障
されていることであるが,障害老齢保険でも法律で規定されている被保険者
害老齢保険は障害事故を重視する保険となっていた9)。
58 第2部第2次大戦前におけるドイツ年金保険の発展
第3章 生成期における年金保険の史的展開
図表3−1 賃金等級別週払保険料
賃金等級
IHmW
年間賃金
350マルクまで
R50マルク以上550マルク未満
T50マルク以上850マルク未満
W50マルク以上2,000マルク未満
59
図表3−2 第1次大戦前における法定年金保険の主要データ
週払保険料(労使折半負担)
1891
14ペニッヒ
被保険者数(100万人)
Q0ペニッヒ
新規裁定障害年金受給者
障害年金支払額(100万日目ク)
Q4ペニッヒ
R0ペニッヒ
出所=K6hler[1990], S.56より作成。
平均障害年金額(年額)
新規裁定老齢年金受給者
老齢年金支払額(100万マルク)
平均老齢年金額(年額)
以上のような特色を反映して,障害老齢年金の受給者数は当初の1891年置
は障害年金27人,老齢年金132,917人と後者が多かったが,障害年金受給者
療養給付費支出(100万マルク)
平均週拠出額(マルク)
1899
1900
1903
1905
1912
9.93
12.65
12.16
13.38
14.39
16.99
31
96,665
117,141
143,141
116,522
117,255
42.36
53.57
92.79
114.28
一
?
113.49
132.40
140.38
150.57
157.05
183.49
132,926
17,320
19,109
11,746
10,185
11,642
15.29
28.82
26.22
22.11
19.47
123.55
141.57
144.34
154.22
158.01
165.27
4.02
5.57
9.90
12.15
22.21
0.21
0.22
0.23
0.24
0.35
一
0.20
?
出所:Te㎜stedt[1976], S.457.
は約10年後の1902年には486,945人,1913年998,300人目急増しているの
に対し,老齢年金受給者は1902年で179,450人,1913年で87,300人となり,
が示されているが,新規裁定年金受給者数をみても,障害年金受給者数が老
20世紀に入ると急減しており,前者の比重が圧倒的に多くなっている10)。、
齢年金受給者数を大幅に上回っていることがわかる。
当初の障害年金額は一律の定額給付60マルクと4賃金等級別に段階づけ
.られた週払い保険料(図表3−1参照)の拠出週数に基づく逓増額(2,6,9,13ペ
3)財 政 方 式
障害老齢保険の財政方式は完全積立方式はとられず,それよりも積立金が
ニッヒ),それに一律の定額国庫補助金50マルク(毎年)から構成されていた。
少なくてすむターミナル・ファンディング方式(事前積立を行わず年金支給事
しかし,老齢年金には定額部分はなく,4賃金等級別に段階づけられた砂払い
由の発生時に所要の年金現価を一時に積み立てる年金原資一時積立方式)である一
保険料の拠出週数に基づく逓増額(1週当り4,6,8,10ペニッヒ)で計算され,
時金充足方式(Kapitaldeckungsverfahren)が採用された。皇帝詔勅では国家,
それに国庫補助金50マルクが毎年加算される。拠出週数は最高1,410週(1
使用者,被用者の3者負担が構想されていたが,その基本理念がほぼ実現し,
年47週置して30年に当る)まで認められる11)。
労使の折半負担する保険料が主要財源となっており,それに一律の国庫補助
具体的には,障害年金は賃金等級II(年間所得き50マルク以上550マルク未
満)の被保険者の場合保険料拠出期間5年の場合で124マルク,30年で
金が年金給付時に毎年支払われる。
保険料は350∼2,000マルクの賃金を対象に4等級に区分されており,賃金
203.60マルク,50年で266マルクとなり,老齢年金は同じく賃金等級IIの場
等級(Lohnklasse I, II, H至, W)ごとに定額で毎週14,20,24,30ペニッヒと
合1,410週で134マルクとなる12)。
なっており(図表3−1参照),これは賃金の1.5∼2.5%に相当する。支給され
受け取る年金額は年収と論士してかなり少なく,年金は生計費の補助的役
る年金も既述のように賃金等級と加入期間に比例して増減する。一時金充足
割を果たすにすぎず,生活水準の保障とはなっていない。しかし,低所得者
方式による収支相等の原則は保険料拠出と給付の等価をある程度実現する4
にとっては負担した保険料に比べ年金は有利になるように計算されているの
賃金等級に基づく拠出・給付によって私保険的要素を取り込んだといえる14)。
で,少額の年金でも衣食住を支える重要な収入源となっていた13)。
図表3−2では,1891年から1912年までの年金保険に関する主要なデータ
保険料は保険料納付印紙を受領カードに貼ることになっていた15)。
1908年当時の工業労働者の平均年収は約1,200マルクであったが,この平
60 第2部 第2次大戦前におけるドイツ年金保険の発展
均的労働者の場合,保険料は年間約9マルク(雇主も同額を負担)であるが,
加入期間10年半受け取る障害年金は年間約210マルク,加入期間20年では
270マルク,70歳で受け取る老齢年金は年間約230マルクとなる16)。
4) 年金保険管理機関と自主管理
国家が直接一元的に管理するというビスマルクの当初の構想とはまったく
第3章 生成期における年金保険の史的展開
・61
の法改正により障害保険法に改称された)1,523万人であった。(Temstedt[1976],
S.449.)
7) ただし,制度発足当時の高齢者には経過規定が設けられていたので,1891年です
でに13万人余が老齢年金を受給していた。その後1916年に老齢年金支給開始年齢
は満65歳に引き下げられた。当時の低い平均寿命からいっても,70歳支給はかなり
厳しい受給資格であったといえる。
8)Vgl. K6hler[1990], SS.54−55.当初の立法では,いわゆる3分の1障害限度
(Ein−Drittel−Invaliditatsgrenze)の原則がとられており,被保険者の賃金合計額が
異なり,年金保険は国や地方政府からは独立した,各州単位に新たに設立さ
れた31のラント障害老齢保険事務所(Landesversicherungsanstalten fUr
InvaIiden−und Altersversicherung)により管理された。これちの年金保険管理
機関は自治ないし自主管理の原則(Prinzip der Selbstverwaltung)に従って,
過去5年間における被保険者自身の賃金率の6分の1と,最後の就業地における普
通の日給労働者のその地区での通常の日給の6分の1との合計額に及ばず,従来得
ていた賃金の3分の1以下となった時に障害年金は支給されることになっており,
障害の定義はきわめて制限的なものであった。その後,この原則は次節で述べるよ
うに1899年障害保険法により緩和されたが,労働者年金保険について「2分の1原
則」が採用されたのは第2次大戦後のことである。この点については,箸方[1984],
自治管理機関(理事会〈Vorstand>ならびに監査委員会くAufsichtsrat>,代理
253ページを参照されたい。
人〈Vertrauensmannern>を含む委員会<Ausschuss>)によって運営され,こ
10) Vgl. Rehfeld[1990], S.1148.
9)Vgl. K6hler[1990], S.55.箸方[1984],250ページも参照されたい。
れらの自治機関は少なくとも使用者と労働者の代表者各5人以上の労使同数
11) Vgl. K6hler[1990], S.56.
からなる理事,委員によって構成されていた17)。定款(Statut)や資産管理
13) Vg!. Tennstedt[1976],S.448 und K6hler[1990],S.57.
12) Vgl. K6hler[1990],S.57.
(Verm6gensverwaltung)も各保険管理機関で独自に決定された。「ただし,日
14) Vgl. K6hler[1990],SS.56−57。
15) これを保険料印紙・受領カード方式(Beitragsmarken/Quittungskartenverfah−
常業務は各州法に基づき任命された官吏によって執行された。
年金保険に対する国家の監督は,すでに災害保険法に基づき設置されてい
たライヒ保険庁(Reichsversicherungsamt)が管轄することになり,保険事務
ren) という。
16) Vgl. Tennstedt[1976], S.448.
’17)捕方[1982]は疾病保険を中心とする社会保険生成期の自治管理について歴史的
考察を行っているので,参照されたい。
所の定款の認可や法律に基づく監督を行って,制度の統一性・整合性の確保
をはかり,年金に関する統計作業などを担当した。
2 ライヒ保険法と職員保険法の制定
注1)皇帝詔勅の主要部分については,大林[1952],45−46ページ参照。
2) ドイツ社会保険の成立期の事情については,Vogel[1951], Peters[1978], SS.
49−74,大林[1952],42ページ以下,近藤[1963],87ページ以下,箸方[1977],
178−198ページなどを参照のこと。
3) Vgl. Peters[1978],S.52.
4) この点については,Tennstedt[1976],S.448,大陽寺[1970]56ページ以下など
を参照のこと。
5) ビスマルク社会保険の近隣諸国への影響やオーストリアにおける社会保険導入
の経過については,Ritter[1983]参照。
6)Vgl. Rnckert[1990],S.30.ただし,テンシュテットによれば,1908年ではドイ
ツ帝国の全人口6,298万人のうち被保険者となっている者は疾病保険では1,318
万人,災害保険2,367万人,障害保険(障害老齢保険法はその後1899年7月19日
(i) ライヒ保険法の制定
障害老齢保険法はその後1899年7月に改正され,障害(年金)保険法
(Invalidenversicherungsgesetz:1900年1月.1日施行)と改称されたが,その改
正内容の要点は,被保険者範囲の拡大(すべての労働者への拡大と一定所得以下
の職員),保険料計算の基礎となる賃金等級の4等級区分から5等級区分化,
障害概念の緩和1),保養・リハビリテーション給付の拡大,保険者(ラント障
害保険事務所)間の財政調整制度の導入などである。また,財政方式が一時金
62 第2部 第2次大戦前におけるドイツ年金保険の発展
第3章 生成期における年金保険の史的展開
63
充足方式から完全積立式の1つである期待額充足方式(Anwartschafts−
する。障害保険は1934年の社会保険構成法により現在の労働者年金保険と改称さ
verfahren)へ変更された。しかし,この改正でも遺族年金の導入は依然とし
れ,年金保険という名称が法律上初めて用いられた)とこの職員年金保険の2制
て実現しなかった。
度を中核にその後発展することになる。
社会保険3部作の実現後,各保険部門では被保険者範囲の拡大や給付改善
職員年金保険の導入はオーストリアで制定された1906年12月の年金法
などの法改正がばらばらに実施されてきたために,社会保険制度全体の統一
(Pensionsgesetz)の制定に刺激されており,また官吏の恩給制度をモデルにし
性を欠き,管理面でも種々問題が生じてきた。そこで,社会保険め体系的秩
て制度化されている。産業構造の変化により賃金労働者階級の中で急速に増
序や管理面での統一性を確保するために疾病保険法,災害保険法および障害
加し始めた職員階層が職業の性質や種類,職場における地位や教育程度など
保険法の3法律を単一法典化する作業が進められ,19U年7月19日に法制
から,労働者階層や官吏階層とは異なる特別の階級意識を抱くようになり,
史上も画期的なライヒ保険法(Reichsversicherungsordnung=RVO)2》が制定さ
20世紀に入ると社会的にも独自の年金制度導入の必要性が問題とされるよ
れた。この新しい法体系により,公法,私法いずれの分野にも属さない社会
うになってきた,という事情によるものといわれる3)。
法(Soziakecht)の領域が確立されたといわれる。同法は第1編から第6編に
職員年金保険の基本的仕組みは障害年金保険とほぼ同じであり,社会保険
分かれ,第4編の第1226条から1500条までが「障害遺族保険(Invaliden−und
方式をとっている。従来ライヒ保険法により年間所得2,000マルク以下の職
Hinterbliebenenversicherung)」に関する条文となっている。同法の制定によ
員は障害年金保険に引続き加入することになっており,したがって職員年金
り,長年の課題となっていた寡婦年金・遺児年金などの遺族年金が導入され,
保険法は2,000マルク以上5,000マルク以下の職員を加入義務者としてい
1912年1月1日から被保険者本人が死亡した場合に遺族に対し年金が支給
る。職員年金保険は,
されることとなった。被保険者本人のみならず,家族へも年金給付の拡大が
①老齢年金の支給開始年齢の引き下げ(障害年金保険のように70歳ではなく,
実現したことは,公的年金史上特筆すべき出来事であった。また,15歳未満
の児童を扶養している障害年金受給者には,児童1人につき年金の10分の1
の児童加算(Kinderzuschuss)が新たに加給されることになった。被保険者範
囲も薬局従業員,劇団員・楽団員にも拡大された。中産階級の希望を入れて
任意付加保険(freiwillige Zusatzversicherung)が認められた。
65歳としたこと),
②寡婦年金の受給制限の廃止(寡婦年金を障害のある寡婦に限定せずに,すべて
の寡婦に支給することにしたこと),
③障害概念の緩和(労働能力の3分の2以上を喪失した場合の稼得不能のみなら
ず,それより軽度で労働能力が3分の1以上減少した場合の就業不能でも年金を
支給することになったこと),
(2)職員保険法の制定
ライヒ保険法制定後まもなく,事務職員のための独立した年金制度が1911
④任意給付の支給(任意給付,とくに結核などの保養給付など障害年金保険に比
べ,有利なものとなっていること),
年12月28日公布の職員(年金)保険法(Versicherungsgesetz f丘r Angestellten)
などの点で労働者を対象とする障害年金保険よりも一歩前進したものとなっ
により新設された。同法は1913年1月1日から施行されているが,ドイツの
ていた。職員年金保険の保険者はベルリンに設置されたライヒ保険事務所
公的年金制度は,労働者を対象とする障害保険(ライヒ保険法第4編を根拠法と
(Reichsversicherungsanstalt)で,労使同数からなる自治機関により自主管理
65
64 第2部 第2次大戦前におけるドイツ年金保険の発展
された。職貝年金保険の財源は労使の負担する保険料で賄われ,国庫負担は
なく,保険主義を重視したものとなっている。そのために,保険料も9俸給
等級に細分化されており,保険料率も最高で9.5%,平均で5.3%と障害年金
保険の平均2.1%よりもかなり高く設定されていた(図表2−3参照)。
第4章 熱間期における年金保険の
史的展開(1914−1945年)
二
退職年金(Ruhegeld)は保険料納付月数120カ月で満65歳から俸給の20%
を支給され,保険料納付40年では俸給の50%支給されることになっていだ。
寡婦年金は退職年金の40%,遺児年金では片親喪失遺兜年金(Halb−
1 第1次大戦と年金保険(1914−1919年)
waisenrente)は退職年金の8%,両親喪失遺児年金(Vollwaisenrent6)は13.5
%支給される4)。
1913年で,障害年金保険の被保険者数1,750万人に対し,職員年金保険は
140万人であった5》。
注1) その結果,年金受給者がたとえば西プロイセン州では1899年の96,665人から90
年には125.759人と30%も増加した(Vg1。 Tennstedt[1976]S451)。
2)同法は帝国保険条例とか帝国保険法とも訳されているが,本書では,「Reichを単
に『帝剛とか『国家』とか,あるいは現代的な用語としての『連邦』とかに訳す
るのは適当でない」(有泉[1977]155ページ)としてライヒ保険法の訳をとる海外
社会保障法制研究会の考えに従った。同法の制定により単一法典化は実現したが,
その後も3保険部門は従来どおり,別々に管理運営されてきた。
(1)戦時体制への対応
ライヒ保険法および職員年金保険法が制定施行されて間もない1914年に,
第1次世界大戦が勃発した。第1次大戦中は社会保険の各分野でも戦時体制
の影響を受けて,それへの協調と適応を余儀なくされたが,とくに大きな新
しい動きはなかった。
年金保険の分野でも戦時体制への適応のために種々の影響を受けたが,
1914年から従軍中の兵役;期間(Militardienstzeiten)は待機期間および保険期
3) Vg1. K6hler[1990], S.70.
間に算入されることになった。また,法改正により戦時福祉事業
4) Vg1. Peters[1978], S.93.
(KriegswohlfahrtpHege)が年金保険の活動分野に加えられ,年金保険機関は
5) VgL Rehfeld[1990], S.1144.
1918年までに戦傷者扶助,性病対策,野戦軍兵士への衣類支給,病院列車の
調達などのための戦時福祉事業に6,000万マルクの支出を強いられた。
(2) 障害年金保険における年金支給開始年齢の引き下げ
大戦中の年金保険における最:も重要な改正は,戦争に入って2年後の1916
年6月にライヒ保険法第1257条の改正により,障害年金保険における老齢年
金支給開始年齢が70歳から65歳に引き下げられたことであり,これは労働
者も職員(職員年金保険)や官吏と同一年齢から年金を受給できるようになっ
たことを意味する。この改正により,年金受給者数は1916年末で倍増した。
同年に遺児年金や児童加算が増額された。障害年金,寡婦・寡夫年金の増額
66 第2部 第2次大戦前におけるドイツ年金保険の発展
は1918年1月から特別手当支給の形で実施された。
第4章 戦間期における年傘保険の史的展開
67
第1次大戦回歴史的にも有名な破局的なインフレーションが発生した。年
戦争末期の1918年末現在では,年金保険全体で,すなわち31の年金保険
金保険を取り巻く経済状況は年金制度創設当時とは様変わりし・物価安定を
事務所で障害年金が約92.1万件,.老齢年金75.5万件,寡婦・寡夫年金6万
前提に期待額充足方式(Anwartschaftsdeckungsverfahren)で年金財政の収支
件,遺児年金38.6万件に達していた。年金保険機i関の純資産も1913年の21
均衡をはかるという仮定は崩れてしまった。インフレーションによる年金の
億マルクから1917年には25億マルクに増加していたが,その大部分は有価
実質価値の減少を補うために,1921年12月7日の「障害保険・三三年金保険
証券(52%),貸付(43%)で占められており,不動産はわずか4%にすぎなか
の年金受給者援助のための緊急措置法」や22年6月9日の「社会保険貨幣額
った1)。1919年に終戦となり,敗戦国ドイツは甚大な打撃を受けたが,年金制
変更法」などにより種々の臨時年金加給手当の支給,年金給付額の引き上げ
度もこうした巨額の保有資産が無価値となることによって,壊滅的な損害を
が行われると同時に,増収のために保険料が5賃金等級(Lo㎞klasse)から
こつむつた。
1923年9月に36賃金等級に細分され,年収限度額もインフレに応じて引き
注1)VgL Kδhler[1990],串.74.
上げられた。しかし,こうした対策も年金受給者にとっても年金財政にとっ
てもほとんど効果はなく,年金制度は実質的には完全に機能喪失の状態にあ
2 ワイマール共和国の年金保険(1919−1932年)
った。年金受給者の多くが,国家がその8割を負担している市町村による扶
助給付を受給せざるをえなかったが,年金保険受給権が福祉事務所でこの扶
(1)インフレーションの年金保険への影響
1918年一ユ1月9日にドイツ帝国皇帝の退位が公示され,社会民主党が政権
党となワ,共和国が宣言され,翌年8月11日にドイツライヒ憲法,いわゆる
助受給の申請をする際の証拠書類として利用されるという皮肉な事態に陥っ
ていた2)。積立金の大半が天文学的インフレにより無価値となったこと,戦争
未亡人,戦災孤児の増加によって年金受給権者数が急増したこと(年金受給者
ワイマール憲法が制定されて,ワイマール共和国がスタートした。同憲法第
数は1924年には1913年の約3倍に増加している)により,年金制度はいまや崩
161条は包括的社会保険の設置を約束し,第162条は就職できない場合の生
壊寸前の状態に追い込まれていた。
計援助について規定している。
第1次大戦後の重要な社会政策面の課題は,第1に復員軍人や軍事産業労
働者などのための雇用確保と戦争犠牲者,失業者,年金受給者やその他の貧
困者の生活保障であり,第2にワイマール憲法に規定された労働権,社会権
(2)再建と改革
1923年の通貨改革(マルクからレンテンマルクへの切り替え,さらに翌24年に
はライヒマルク=RMに切り替えられた),1924年のドーズ協定による賠償規制
を保障する法体系の整備であった1)。したがって,ドイツでは疾病・労災・年
によって,さしものインフレーションも終息した。年金制度をほじめとする
金保険に次ぐ第4の社会保険としての失業保険は,1911年の国民保険法によ
社会保険の再建整備が緊急の課題となったが,障害年金保険(現在の労働者年
り国家的な失業保険を世界で初めて導入したイギリスよりもかなり遅れて,
金保険)と職員年金保険を統合する改革案や社会保険を廃止して租税方式の
1927年7月16日の「職業紹介および失業保険:に関する法律」によって実施さ
国民扶助制度を導入する案などが論じられた。しかし,この種の抜本的改革
れた。
は結局実現せず,既存の法的枠組みの中で多数の部分的改正が行われた3)。
68 第2部 第2次大戦前におけるドイツ年金保険の発展
1922年11月10日に公布された職員年金保険法・ライヒ保険法改正法で
第4章 戦間期における年金保険の史的展開
69
に給付改善が繰り返され,とくに待機期間が男性被保険者で60カ月に短縮さ
は,職員年金保険と障害年金保険の両方に加入するいわゆる重複保険
れ,1年以上失業していた60歳以上の失業者には就業不能年金の受給を認め
(Doppelversicherung)を解消する改正が実施され,転職により障害年金保険か
るなどの改善が行われた。また,被保険者範囲の拡大や保険加入義務限度額
ら職員年金保険へ移ったり,逆のケースの場合に両年金制度を通算する通算
の引き上げがしばしば実施された。
年金制度(通算保険ないし転職者年傘保険<Wanderversicherung>とよばれる)
自治管理機関の名誉職(Ehrenamter)委員選挙は第1次大戦のため中止され
が導入された。これまでの多数の法改正に対応するために,1924年12月15
ていた。戦後の1922年4月13日の改正により,初めて女性が名誉職委員に
日ライヒ保険新法が公布されたが,この改正により障害年金保険では保険料
なることが認められ,また選挙方法も簡素化された。1927年4月8日の年金
計算法が再び5賃金等級になり(§1245RVO),遺児年金の給付が職員年金保
3法(ライヒ保険法,職員年金保険法,鉱山従業員共済組合法)の選挙規定に関す
険法と同様に18歳までに延長された(§1259RVO)。
る改正法により社会選挙の実施時期が統一され,任期も5年に定められた。
インフレーション終息後,年金保険制度の再整備が検討された際に,かね
新方法による最初の社会選挙が1927年11月に実施されたが,候補者が組織
七から4大鉱山労働組合などから強い要求のあった,乱立している鉱山従業
の定員に満たなかったため,推薦された候補者が全員当選するという「平和
貝共済組合を統合して鉱山従業員のみを対象とする全国一律の社会保険制度
選挙(Friedenswahlen)」となった。
を導入することが検討され,その結果1923年6月23日中帝国鉱山従業貝共
しかし,1929年末の世界大恐慌のために1931年6月の第2次緊急事態令
済組合法(Reichsknappschaftsgesetz>が制定された。これは鉱山従業員のみを
により自治機関の機能は麻痺したが,ワイマール共和国の政治的経済的危機
対象とする老齢,障害,疾病のための総合的社会保険制度であるが,ライヒ
は年金保険全体にも深刻な影響を与えた。失業者の急増により,保険料収入
鉱山従業員共済組合連合会が管理にあたった。
は激減し,戦争やインフレーションによる損害から立ち直る間もなく,年金
インフレ終息から1929年の世界大恐慌発生までの時期は経済回復期にあ
財政は再び危機を迎えた。1932年の第4次緊急事態令により,すべての年金
たり,各種の年金給付の改善が実施され,年金基礎額や児童加給の引き上げ,
保険で児童加給および遺児年金は15歳で打ち切られ,待機期間が延長され,
国庫補助金の増額が行われている。しかし,年金の最:高額でも1930年では
併給が禁止されるなどの措置が導入された。第1次大戦後のインフレーショ
767RMにすぎず,これは当時の全野保険者の平均賃金2,074 RMの37%に
ンと1930年から1932年までの経済恐慌によって,障害年金保険,職員年金
相当した4)。したがって,多くの年金受給者にとっては年金だけで生活してゆ
保険,鉱山従業員共済組合のいずれの年金制度もきわめて困難な財政危機に
くのは容易ではなかった。
遭遇したが,1932年では保険数理的欠損額は障害年金保険で約130億RM,
職員年金保険法も1924年に新条文に改められ,退職年金は定額部分(360
職員年金保険で21億RM,鉱山従業員年金保険で35億RMに達していた5)。
RM,§50 AVG)+報酬比例部分(保険料の10%,§56 Satz 3 AVG)+児童加
算部分(36RM,§58 AVG)を合計して計算し,寡婦・寡夫年金は退職年金
の60%,遺児年金は50%に引き上げられた。俸給等級は再び5等級に区分さ
注1)保坂[1987],35ペーージ参照。
2)Vgl. Kδhler[1990],S.75.前述の1921年12月遅よび1922年6月制定の両法が
公的年金給付と扶助給付の併給を認める根拠法となっている。
3) Vgl. Kδhler[1990], S.76.
4) Vgl. Kδhler[1990], S.77.
れ,俸給の3−6%の保険料が徴収された。また障害年金保険とまったく同様
70 第2部 第2次大戦前におけるドイツ年金保険の発展
5)Peters[1978],S.117.上村[1968]184−185ページ参照。
第4章 戦間期における年金保険の史的展開
71
てみなすに至った。
3 国家社会主義政権下と第2次大戦中の年金保険
(1933−1945年)
しノ
(1) 自治管理主義の廃止と国家社会主義的指導者原理あ導入
(2)年金保険の「健全化」と給付改善
相次ぐ緊急事態令の発令にもかかわらず,1932年当時で3年金保険部門全
体の保険数理的不足額が190億RMになると試算されていたので,「障害年
1933年1月31日にヒットラー(Adolf Hitler)がライヒ首相となり,権力
金保険,職員年金保険:および鉱山従業員年金保険の給付能力を維持するため
を得た国家社会主義(Nationalsozialismus)政権,いわゆるナチス政権は社会
の法律」いわゆる年金健全化法(Sanieru㎎sgesetz)が1933年12月7日に制
保険については独自の政策をもっていなかったといわれる1)が,1945年の政
定され,年金制度の健全化に努めることになった。同法に基づき改正された
権崩壊までに広範な改正を行った。
ライヒ保険法は戦後の1957年に実施された第1次年金改革まで適用された。
社会保険における伝統的な部門別制度構成は,このナチス時代にも基本的
同法は賦課方式に代わり,第1次大戦後のインフレーションや緊急事態令に
には維持されたが,労使代表による自治管理主義は廃止され,代わって国家
より放棄されていた期待額充足方式を再び復活させ,年金保険の財政的基盤
が任命する管理官(Leiter)が管理の全権限をもつ,いわゆる指導者原理
を強化する方向をとった。
(F曲rerprinzip:全権がヒットラー総統に帰結するもの)が採用された。この改
ナチスの戦争目的に沿った年金制度の改正が1937年12月21日の年金保
正は1934年7月5日の社会保険構成法(Gesetz Uber den.Aufbau、der
険拡充法(Gesetz伽er dep Ausbau der Rentenvers量cherung)により行われた。
Sozialversicherung)によるが,同法7条は「社会保険機関すべてに管理官
同法により労使の負担する保険料は変更せずに,国庫負担金が大幅に増額さ
(Leiter)1名が任命される。社会保険法で定められている機関は廃止される。
れた。国が年金の基本額部分を負担し,兵役期間について有利な代替期間を
管理官は……これら管理機関の任務と権限を保持する」と規定している2)。管
認め,その分を国庫負担とし,保険料および国庫負担金の他に給付改善に必
理官は選挙ではなく,総統により指名され,その協力機関である評議員会
要な資金を保証するいわゆる国家保証(Reichsgarantie)が法定された。給付
(Beirat)が保険者に代わって管理運営にあたる。ただし,すでに同法の制定
面では,人口政策的観点から,女子職員が結婚した年の保険料の半額返還,
される1年以上前から年金保険の自治管理を実質的に制限してゆく命令がだ
多子世帯の被扶養児加算の増額,遺児年金および被扶養児加算の就業・職業
されており,社会保険に対するナチスの干渉が法的根拠なしに進められてい
教育・障害の際の満18歳までの支給などが認められた。また,臨戦体制下の
た。自治管理主義の廃止はもちろんナチスの強権政策によるものであり,ゴ強
この時期に不必要であったにもかかわらず,年金財政健全化のためにライヒ
力な中央統制管理体制を確立するための一助として敢行されたものである。
職業紹介・失業保険庁3)は失業増大による年金財政救済のためにその資金を
社会保険構成法では,従来の障害保険,職員保険および鉱山従業員保険を総
1938年4月1日目ら年金保険管理機関に交付することがi義務付けられた。こ
括して新たに「年金保険」という統合概念が法律的に初めて取り入れられ,
れらの改善策はナチスの住民懐柔策の1つといわれ,ナチスの国家観に相応
現在に至っている。同法はまた,従来労働政策の一環として展開されてきた
した給付制度の構築を実現することを目的としたものであった。
1927年7月制定の失業保険制度をその社会的使命から広義の社会保険とし
72 第2部 第2次大戦前におけるドイツ年金保険の発展
(3) 第2次大戦中の展開
第2次大戦中の改正としては,ナチス政権下の経済情勢が有利に発展した
ことから,まず1941年7月24日の第1次年金保険給付改善法により,すべ
第4章 戦間期における年金保険の史的展開
3)ライヒ職業紹介・失業保険庁はワイマール期の1927年7月16日に制定された
職業紹介・失業保険法により設置された。同法の主要部分は同年10月1日より実
施されたが,ビスマルク時代の3部門に失業保険が加わることによって,ドイツの
社会保険システムが完成したことになる。
4) Vgl. K6hler[1990],S.82.
ての公的年金保険部門において既裁定年金の月額7RMの引き上げと新規裁
定年金の基本額部分の引き上げが実施されるとともに,1924年から終戦まで
の期間については保険料についてみなし納付の扱いを認めて期待権を無視す
る措置がとられた。また,同法第4条第1項により年金受給者疾病保険(Kran−
kenversicherung der Rentner)が新設され,年金受給資格を有する者は今後ラ
イヒ保険法第2編による疾病保険の被保険者となること,この保険の費用は
障害年金ないし退職年金1件当り月額1RMを年金保険機関が疾病金庫に二
二して支払うことが規定された。
1942年6月19日の第2次年金保険給付改善法では,児童加給の増額,育
児・出産の場合の寡婦年金の改善,離婚後も被保険者である夫から生計費を
得ていた婦人の寡婦年金の改善などが実施された。
1942年遅は給与控除簡素化野が2度にわたり出されたが,社会保険の保険
料払込み方法が従来の保険料印紙貼付方式から保険料給与控除方式(Lo㎞ab−
zugsverfahren)に改められた。疾病金庫が社会保険全体の保険料徴収について
責任をもち,したがって,年金保険機関は各疾病金庫から年金保険料の配分
を受けることになる。
このように,国家社会主義政権下でも多くの改正,とくに自治管理の廃止
などが行われたが,社会保険の統合も,年金保険機関の統合も実現せず,し
たがって年金制度全体としてみれば,ビスマルク社会保険以来の歴史的連続
性が維持されたといえる。それは全面戦争のためにナチスのかなりのエネル
ギーが割かれ,社会保険の抜本的改革までかれらが着手する余裕がなかった
ことも一因していると思われる4)。
注1)VgL Z6nner[1981],S.127.
2) Vgl. Peters[1978], S.117 und Z611ner[1981], S.131.
73
第3部
第2次大戦後における
ドイツ年金保険の発展
第2次大戦後,ドイツは戦勝国であるアメリカ,ソ連,イギ
リス,フランス4力国軍政府の統治する占領期を経て,冷戦の
発生により分裂国家となり,米,英,仏の西側3力国の占領し
た地域は1949年5月基本法を制定してドイツ連邦共和国いわ
ゆる西ドイツとして,またソ連占領地区は同年9月憲法を制定
し,ドイツ民主共和国いわゆる東ドイツとして発足した。西ド
イツと東ドイツはまったく異なる体制のもとで約40年共存し
た後,ベルリンの壁崩壊後の1990年に西ドイツが東ドイツを吸
収する形でドイツ再統一が実現し,統一後もドイツ連邦共和国
を正式国名としている。本書では東ドイツおよび西ドイツとい
う用語をこの分裂当時の両国をさすものとして用いる。西ドイ・
ツは戦前の年金保険制度を継承しながら戦後の経済社会変動に
対処していったが,東ドイツは社会主義体制下における新たな
統一的社会保険制度を導入しており,戦前との連続性はほとん
どみられない。そこで第3部では,東西に分裂していた時代に
ついては西ドイツの年金史をもっぱら取り上げ,東ドイツにつ
いては主として第11章で簡単に触れることにする。
77
第5章 敗戦かち奇跡の経済復興までの
年金保険の動向(1945−1953年)
1 占領期における年金保険の動向(1945−1949年)
(1)4占領地区の社会保険
ドイツ帝国は1945年5月9日の無条件降伏により崩壊し,その戦後処理は
戦勝国に委ねられることになったが,長年の伝統を有する社会保険制度も同
様であった。ドイツは連合国によって構成される連合国管理理事会(Allied
Control Commission;Allierter Kontrollrat)の管理下におかれたが,実際の統
治は4力国に分割された各占領地区の占領軍政府(Militarregierungen)によ
って行われた。
第2次世界大戦によリドイツは領土の喪失のみならず,人的にも物的にも
壊滅的な損害を受けた。戦死者数は約680万人目上ると推定されており,1945
年末で戦傷者は160万人,戦争未亡人120万人,片親を失った遺児140万人,
両親を失った遺児6万人に達した1)。
社会保険も敗戦により致命的打撃を受けた。とりわけ年金保険はその膨大
な資産をわずか30年も経過しない間に3度にわたり喪失したため,その影響
は大きかった。敗戦当時の社会保険の総資産は204億マルク(RM)に達して
いたが,その内訳は職員年金保険92億3,900万マルク,障害:保険76億9,300
万マルク,疾病保険:15億7,300万マルク,災害保険4億9,000万マルク,鉱
山従業員共済組合14億500万マルクであった。職員年金保険と労働者を対象
とする障害年金保険の資産が大半を占めていたことがわかる。.1938年4月1
日の命令により国債,公債への投資が義務づけられていたので,その総資産
78 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第5章 敗戦から奇跡の経済復興までの年金保険の動向
79
の70%から75%にあたる145億マルクが国債などに投資されていた。ドイ
た。そして,市内で働く全市民を被保険者とし,疾病,労働災害,老齢・障
ツ帝国の崩壊によって国債などは無価値となり,保有していた不動産も戦争
害を保障する統一保険(失業保険をのぞく)が導入された。総所得(最高限度額
によって破壊されたりした。社会保険全体で蒙った財産上の損失は165億マ
は月額で120RM)の20%(被用者の場合労使折半負担)が1945年7月から統一
ルクに上ると推定されている2)。
的な社会保険料として徴収された。年金の支払いは同年11月から開始される
しかも,ドイツ帝国の崩壊によって,年金保険への国庫補助金の支給はス
ことになったが,1946年5月までは暫定的に困窮者のみを対象に最高額を限
トップした。経済の崩壊による失業者の増加などで,保険料収入も劇的に減
定して支給された。この改革ではベルリン社会保険庁長官に就任したシェレ
少した。他方,難民の年金給付,援護年金,補償年金の年金保険への移管な
どにより支出は増加した。そのため,年金保険財政はきわめて厳しい状況に
ンベルク(Ernst Schellenberg)が指導的役割を演じたといわれている4}。
このベルリン社会保険庁の統一保険(Einheitsversicherung)はその後のドイ
あった。占領軍も社会政策の統一的方針を打ち出すことはできなかったが,
ツ全体を対象とした社会保険改革のモデルになるものとして考えられてお
各占領地区では既存の社会保険法に基づき,個別的に各種社会保険給付を戦
り,とくに1946年9月の連合国管理理事会法案であるドイツ労働者・職員義
後の変化した状況へ適応させるための改正が随時実施された。年金給付の切
務社会保険法案(Draft for Compulsory Social Insurance Law for Germany;
り下げなどがたびたび実施されたにもかかわらず,ライヒ保険法(Reichsver−
Gesetzentwurf自ber die p且ichtmaBige Sozialversicherung der Arbe量ter und
sicherungsordnung=RVO),職員保険法(Angestelltenversicherungsgesetz=
Angeste11ten in Deutschland)に影響を及ぼした。同法案も全就業者を対象に
AVG),ライヒ鉱山従業員共済組合法(Reichsknappschaftsgesetz;RKG)など
統一保険として各州に州保険庁を新設して一元的に管理することが計画され
の年金保険に関する基幹法に基づき,各年金保険の組織面の機能は基本的に
ていた5}。管理理事会法案はその後1948年3月に最終的に廃案となるが,ベ
は引続き維持された。
ルリン社会保険庁の統一保険モデルはベルリン分割後も段階的に西ドイツ法
英米仏の西側3力国の占領地区では,伝統的なドイツ社会保険がほぼその
に調整されるまでは西ベルリンでも適用され,ソ連占領地区およびその後の
まま引き継がれたが,このことはドイツの制度が長年多くの国のモデルとな
東ドイツでは統一保険がドイツ再統一まで40年余にわたり実施されること
り,ドイツ人もその社会政策的な伝統に強い誇りをもっていたことが影響し
になった。
ているといわれている。とくにイギリス,アメリカの両国は,すでに占領前
にドイツの伝統的社会保険制度をできるかぎり維持する方針を決定してい
た3)。
しかし,4地区に分割されたベルりンでは,連合国ベルリン管理庁(Allierte
(2) 統一的社会保険と多元的社会保険の岐路
冷戦の激化により,ドイツは分裂国家となつかが,ドイツ連邦共和国(西ド
イツ)は基本法(Grundgesetz f臼r die Bundesrepublik Deutschland)を1949年
Kommandantur,4占領国共同のベルりンにおける最高管理機関)の同意に基づ
5月8日に制定し,5月24日から施行した。他方,ドイツ民主共和国(東ドイ
き,ベルリン市庁(Magistrat Berlin)により戦後最初の社会保険改革が実施
ツ)も急いで憲法を同年9月に制定し,10月7日から施行した。社会保険の
された。すなわち,ベルリンにある既存の社会保険機関を廃止し,唯一の管
歴史も東西ドイツではまったく異なる道を辿ったが,それはすでにこの占領
理機関としてベルリン社会保険庁(Versicherungsanstalt Berlin)が新設され
期に始まっている。ソ連軍政府はすでに1947年1月28日に軍政府命令第28
80 第3部第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第5章 敗戦から奇跡の経済復興までの年金保険の動向
81
号を布告し,他方,英米両占領地区経済評議会は管理理事会法案の挫折が決
は戦前の保険料払込み期間の一定の評価引き上げをも意図したものである
定的となった後の,1949年6月17日に社会保険調整法(Sozialversicherungs−
が,年金保険財政にとっては大幅な負担増となった。
Anpassungsgesetz)を公布することによって,東ドイツと西ドイツは年金保険
社会保険調整法は,労働者年金保険と職員年金保険について,①新しい賃
でも異なる体制のもとでそれぞれまったく異なる道を歩くことになったので
金水準や物価水準に調整するために年金給付を引き上げること,②最低保障
ある。
額の引き上げ,③障害基準の統一などを定めており,災害保険改善法(1949年
ソ連占領地区では,ソ連軍政府命令第28号により1947年1月28日に「ソ
8月10日),鉱山従業員年金保険に関する調整法(1949年7月30日)でも同様
連占領地区における統一的社会保険制度導入とその改善措置の実施」が命ぜ
の改正措置が講じられた。これらの改正の中でも注目すべき変更は,労働者
られた。その結果,74力条からなる社会的義務保険法(Verordnung Uber
の年金保険法における法的地位が職員並みに引き上げられたことであり,
SozialpHichtversicherung=VSV)が同年2月1日から施行され,「労働者,職
1949年6月21日より,労働者年金保険の障害限度基準が職員年金保険並み
員および小企業経営者のための統一的民主的社会保険制度」が導入された6)。
に稼得能力の3分の2から2分の1に緩和された。また,被保険者である配
医療・年金・労災・失業の4部門がさらに職域別に区分されていた従来の多
偶者が死亡した場合には,労働者年金保険でも寡婦年金が無条件に支給され
元的制度が公務員を含めて5社会保険機関に統合された。東ベルリンの社会
ることになった。ただし,労働者年金保険をより高い水準の職員年金保険並
保険は1948年頃はベルリン社会保険庁から分離され,ソ連占領地区の統蝋的
みに調整することを目的としたこの2つの法改正は既裁定年金には適用され
社会保険に組み込まれた。さらに東ドイツは1951年にこの5機関を統合し統
ず,新規裁定年金のみを対象とするものであったが,労働者と事務職員との
一的中央機関を設置し,自由ドイツ労働組合同盟(FDGB)の管理下に置いた。
格差を解消するという長年望まれていた改革の一部が実現したものとして歓
社会保険財政は国家予算の一部に編入されたが,保険料は徴収され,その料
迎された。
率は1977年まで所得の20%であった。東ドイツの年金の給付水準はその後
ライヒ保険庁の廃止と4占領地区への分割により,社会保険の地域的不統
の経済停滞のためなかなか上昇せず,1971年に至って初めて年金給付引き上
一が顕著になってきたが,その再統一化が社会保険調整法によりまず英米両
げのための改革が行われた。
地区で,1950年以降は西ドイツ全体で実現した7)。同法は,加給金一括払いに
これに対して,西側3占領地区では,通貨改革1年後の1949年6月17日
よる年金の増額と保険料率5.6%の10%への引き上げを実施し,月額50
に公布された社会保険調整法によって,一部重要な変更が行われたにもかか
DMの最低年金を導入した。当時は労働者年金保険の年金受給額の大部分が
わらず,基本的にはビスマルク社会保険以来の伝統的な多元的職能別体系が
35DM以下であったので,この最低年金の導入は年金受給者にとっては朗報
継続されることが決定され,既存の社会保険は再びその機能を本格的に回復
であった8)。
することになった。なお,1948年6月の通貨改革では,ライヒマルク(RM=
1924年からドイツの貨幣単位となっていた)とドイツマルク(DM)の交換比率
を10対1として,通貨価値の安定を図ったが,過去に払い込まれた年金保険
料とそれに対応する年金給付に関しては1対1の交換比率を適用した。これ
注1)Vgl. Peters[1978], S.123.
2) Vgl. Peters[1978],S.126.
3)この点については,Hockerts[1980],S.21.下和田[1983]57ページ参照。
4)かれはその後転ドイツでSPD選出の連邦議会議貝としてとくに社会政策分野で
長年活躍した。
82 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
5) 詳しくは,下和田[1983]参照。
第5章 敗戦から奇跡の経済復興までの年金保険の動向
83
また,ナチス政権下の1934年に公布された社会保険構成法により廃止され
6) Vgl. Schieckel[1948], SS.12−41.
7)なお1956年までフランスの統治下にあったザールラントでは,ドイツの社会保
険制度が段階的に導入され,それは1963年に完了している。
8) Vgl. K6hler[1990],SS.85−86.
ていた社会保険当事者による自主管理(自治)を再び認める「社会保険の領域
における自治の復活およびその他の改正に関する法律」(略して自治管理法
Selbstverwaltungsgesetzとよばれる)が1951年2月22日に制定された。この
2経済復興期における年金保険の動向(1949−1953年)
法律に基づき,再び労使同数(ただし鉱山従業員共済組合では労働者代表2,使
用者代表1の割合で選出)から原則として構成される自治管理機関(代表者会議
(1) ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の発足と社会保険の再建
新生西ドイツは1949年5月に基本法を制定し,西側諸国の一員として議会
制民主主義と自由主義経済を基本とする「社会的法治国家(sozialer Rechts−
staat)」ないし「社会国家(Sozialstaat)」としてスタートした。その経済体制
は「社会的市場経済(soziale Marktwirtschaft)」原理を基本理念として運営さ
れたD。
1949年8月に実施された西ドイツ発足後干:初の連邦議会総選挙では,キリ
スト教民主同盟(Christlich−Demokratische Union Deutschlands=CDU)/キリ
と理事会)が設置されることになった。
社会保険自治を復活するに際して,労働者年金保険と職員年金保険を統合
する論議がでたが,連邦議会では全員一致で職員年金保険制度を存続させる
ことを決め,1953年8月7日に連邦職員保険事務所設置法が制定され,連邦
職員保険事務所がその管理機関となった。
1953年9月3日には社会保険,失業保険,戦争犠牲者援護などに関して発
生する訴訟事件を専門に取り扱う独立の行政裁判所の設置を規定した「社会
裁判所法(Sozialgerichtsgesetz)」が制定され,翌年1月1日より施行された2)。
スト教社会同盟(Christlich−Soziale Union=CSU)が144議席を獲得して第1
党となり,社会民主党(Sozialdemokratische Partei Deutschland=SPD)は第
2党となった。しかし,両党の議席差はわずかに4議席にとどまったために,
CDU/CSUは自由民主党(Freie Demokratische Partei=FDP),ドイツ党
(Deutsche Partei=DP)と連立政権を組織し, CDU党首のアデナウアー
(Konrad Adenauer)が同年9月20日に連邦首相に就任した。
1949年から1953年に至るドイツ連邦議会の第1会期では,社会保険を新
たな憲法(基本法)上の与件に適合させ,差し迫った社会的ニーズを満たすた
めの努力が行われた。この会期中に,戦争による災害と関連し緊急を要する
社会給付を行うために,52もの多数の社会保障関連味が制定されたが帰郷
者法(1950年),連邦援護法(1950年),負担調整法(1952年)などはその代表
的なものである。
(2)年金保険制度の経済復興への適応と年金改革の動き
1948年の通貨改革断行後,社会的市場経済のもとで奇跡の経済復興が達成
された。このきわめて順調な奇跡の経済復興により就業者の賃金・生活水準
は年々急速に上昇し,物価もまた確実に上昇していった。しかし,年金の引
き上げはそれに追いつかず,多数の年金受給者の相対的窮乏化が社会的に放
置しえない問題となってきた。すなわち,第1会期中の4年間で平均賃金は
80%も上昇したので,多数の年金受給者の生活安定のためには賃金動向や物
価上昇を考慮しながら年金給付を随時引き上げることが緊急の政治的課題と
なってきたのである。そこでまず1951年8月10日に年金加給法(Renten−
zulagegesetz)と物価上昇手当法(Teuerungszulagegesetz)が施行された。年
金加給法では,労働者,職員,鉱山従業員の各年金保険の給付額を平均25%
引き上げることを定め,障害年金については年金額により段階づけられて累
84 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第5章 敗戦から奇跡の経済復興までの年金保険の動向
85
増する加給金を支給する措置をとった。そのための財源は各保険機関が費用
年12月2日の特別加給法(Sonderzulagegesetz),1956年11月16日の第2次
の20%を分担し,残りを連邦政府が負担することで賄われた。また保険料率
特別加給法,1956年12月23日の年金前払法(RentenvorschuB−Zahlungs−
も10%から11%に引き上げられた。労働者年金保険と職員年金保険の保険
gesetz)がある。とくに年金付加額法が注目される。すなわち,従来の年金算
料算定限度額も1952年8月の法改正により750DMに引き上げられた。
定では比例部分については過去にどれだけ保険料が納付されたかを基準に年
さらに,労働者・職員・鉱山従業員の各年金保険のすべての年金を統「的
金額が決定されていたが,同法では保険料の払い込まれた「期間」も考慮す
に引き上げるために,基本額引上法(Grundbetragserh6hun醜esetz)が1953年
ることとし,1923年以前の保険料納付期間については比例部分に80%の付
4月17日に制定され,前述の年金加給法や物価上昇手当法とは無関係に,
加額をつけ,1939年以前の保険料納付期間については40%増額することを
1952年2月1日現在のすべての既裁定年金およびこの日以降新規に確定さ
規定している3)。また職員年金保険制度では,1954年12月の法改正で,1年
れた年金の基本額が月額5DM増額された。また,寡婦・寡夫年金について
以上失業している職員は60歳で老齢退職年金に対する請求権を与えられる
は月額4DM,遺児年金は2DM増額されている。これらの措置のための費用
ことになった。
は,連邦政府が負担した。
多数の難i民,引揚者,亡命者の国内への流入に対応するために,1953年8
年金受給者疾病保険は1956年6月の法律によりうイヒ保険法に編入され
ることになった。組織面では,ベルリンにあったライヒ保険庁に代わって連
月7日に異郷年金・外国年金法(Fremdrenten−und Auslandsrentengesetz)が
邦保険庁(Bundesversicherungsamt)が1956年5月の連邦保険庁設置法に基
制定され,これらの人々を年金保険に組み入れることが試みられた。同法は
づいて新設された。
補償原理を基礎とし,その財源の大部分を連邦政府が負担することに・した。
1950年から53年に実施された年金額の引き上げはその干しのぎの臨時的
な措置にとどまっており,長期的,抜本的な対応がますます必要とされてき
た。しかも,人口高齢化の進展によって,年々高齢者が急増してきており,
こうして高齢者の生活保障問題が1950年代に入るとクローズアップされて
きた。連邦政府も第2会期に入った1953年には,包括的な社会保障改革の用
意のあることを発表し,抜本的システム整合的な年金増額が時局的問題とな
ってきた。1950年代に議論された社会改革論争は,こうした急速な経済復興
とその後の経済成長により発生した高齢者層の社会的公平の回復という視点
からの国民的な議論であり,階級的視点からの労働運動と直接関連するもめ
ではなかった。
第6章で検討する第1次年金改革が実現するまでのつなぎの改正として
は,1954年11月23日の年金付加額法(Renten−Mehrbetrags−Gesetz)と1955
注1)社会的市場経済とその社会保障との関連については,第1章1および下和田
[1978]参照。
2)社会裁判所の特質などについては,Peters[1978],SS.153−156を参照。
3) VgL Peters[1978],SS.190−191.
87
・第6章 高度成長期における年金保険の動向
(1954−1970年)
第1次年金改革の生成とその展開を中心に一
1 第1次年金改革の形成過程
(1) 西ドイツの高度成長期
西ドイツは奇跡の経済復興を経て,1950年代には高度経済成長期に入り,
1966年に戦後初めての本格的不況を経験したが,翌年には再び景気は回復に
向かい,1973年の第1次石油ショックの発生まで高度経済成長が続いてい
る。これを国民総:生産(GNP)でみると, GNPの年平均名目成長率は1950−
1955年は13。1%,1955−1960年9.4%,1960−1970年で8.6%と,高度経済
成長が長期にわたり継続していることがわかる。1971年の対前年成長率は
10.9%,1972年は9.2%,1973年11.5%,1974年でも9%であり,1970年
代に入っても高い成長率が持続している。その結果,GNPは1950年の約980
億マルクから1974年には1兆マルクを超え,この20余年で実に10倍にな
り,実質額でも1974年は1960年の2倍となっている。したがって,実質成
長率でみても,1960年8.8%,1965年4.5%,1970年5.8%,1971年2.7%,
1972年3%,1974年2%となっており,第1次石油ショックの発生までは高
成長が続いている。このことはその後マイナスないし1−2%の低い経済成長
率を記録していることをみても明らかである。
家計の受け取る賃金・俸給も名目額ではもちろん,実質額でもほぼ毎年増
加しており,マクロでみた雇用者所得は1950年の450億マルクから1974年
には5,530億マルクと約13倍に増加し,生計費指数やGNPの伸び率を上回
88 第3部 第2次木戦後におけるドイツ年金保険の発展
第6章高度成長期における年金保険の動向 89
図表6−1 西ドイツの主要経済指標
市場価格による
年
走ッ総生産
(10億マルク)
実
質
走ッ総生産
(10憶マルク)
ッジ報告に基づいて,戦後すぐに社会保障改革に着手し,1945年の家族手当
国民所得
雇用者所得
(10億マルク)
(10億マルク)
生計費指数
1950
98
77
45
64
1955
181
84
71
1960
284
一
328
141
236
134
78
1965
460
419
355
230
89
1970
686
529
529
353
100
1971
760
544
584
400
105
1972
830
560
634
439
111
1973
926
590
713
498
118
1974
LO10
602
774
553
126
出所=BMA[1975], S.37.(同訳書,35ページ)
っている(図表6−1参照)。
失業者数や失業率でみても,1950−1971年はほぼ毎年20万人以下,1%以
法,1946年の国民保険法,国民保健サービス法,1948年の国民扶助法などが
相次いで制定された。この動きはドイツでも注目されて,連邦援護法,負担
調整法など社会保障関連法が1950年代初頭に制定された。また,1952年4月
にマッケンロート(Gerhard Mackenroth)がベルリンで開催された社会政策
学会特別大会で行って,大きな反響を呼んだ講演「ドイツ社会計画による社
会政策の改革」にも,明らかにイギリス社会保障改革の影響がみられる1)。か
れは社会保障全体を適切かつ効率的に運営するために、社会予算(SoziaL
budget)という概念を提起しており,政府は1959年から社会予算を作成し,
発表している。また,1953年1月には社会保障調査団がイギリスに派遣され
ている2)。
下の低い数字を示しており,完全雇用状態が1950年代,1960年代と続いてい
戦中から戦後にかけての英,北欧諸国を中心とする社会保障改革の新しい
たのに対し,1974年以降急速に失業者が増加し,1975−1980年で約100万人,
動向の影響も受けながら,政府与党も野党のSPDも当初は包括的な改革を
1980年代にはさらに倍増して1983年には200万人を超えており,失業率は
行うことを発表していた。SPDは研究を委託していたアウエルバッハ
1974年以降の2−5%から1983年以降はさらに9%台へ急上昇している。
(Walter Auerbach)の意見書に基づき1953年に「ドイツ社会計画(Sozialplan
上述の簡単な考察からみても,1950年代から第1次石油ショックまでの約
fUr Deutschland)」綱要を発表して連邦議会総選挙の選挙運動に入ったが,そ
4分の1世紀は西ドイツ経済は総:括して高度経済成長期にあったといえよ
の核心的部分は英・北欧諸国の福祉国家概念(たとえば全国民を対象としたフ
う。この時期に西ドイツでは画期的な年金改革が1957年と1972年の2度に
ラットレート制の国民年金や無料の租税型国民保健サービス)をドイツに適合し
わたって実施されている。本章および次章では高度成長期におけるこの2大
た形で移入しようとするものであった3)。
年金改革について,その形成過程やその特色,背景,意義などについて考察
してみたい。
連邦政府は連邦労働社会省に社会保障全般の改革を検討する特別の内閣直
属の委員会である社会保障閣僚会議(Sozialkabinett)を1952年に設置した
が,2期目に入ったアデナウアー政府も引続き泡括的な社会保障改革を行う
(2)社会保障改革か年金改革か
ことに積極的であった。政府部内では,1955年の年末までには,社会保障改
奇跡の経済復興,産業・就業構造の高度化などにより急速に変化する戦後
革構想をまとめることにしていた。実際に1955年にはボックス(Walter
の経済的社会的環境の変化に社会保障を適応させるためには,その時々の弥
Bogs)が「社会保障法とその改革の基本問題」と題する答申を政府に提出し,
縫策ではもはや対応できないことが1950年代に入ると広く認識されるよう
またアデナウアー首相の私的諮問に答えて,アッヒンガー(Hans Achinger),
になってきた。すでにイギリスでは,戦時中の1942年に発表されたべヴァリ
ヘフナー(Joseph H6ffner),ムテシウス(Hans Muthesius),ノインデルファ
90 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第6章 高度成長期における年金保険の動向
91
一(Ludwig Neund6rfer)の4人の学者がローテンフェルス建議(Rothenfelser
であった。シュライバー(Wilfrid Schreiber)はカトリック企業経営者連盟
Denkschrift)として有名になった「社会給付の新秩序」を発表している4)。ロ
(Bund far kathorischer Unterne㎞er)事務局長であり,ケルン大学経済社会
ーテンフェルス建議では,社会保障法の体系的な再編成を進めるための手段
学部の経済理論の私講師として活躍していたが,かれはすでに1955年に「産
として,社会法典(Code Socia1)を編纂すべきことを提唱した5)。連邦労働社
業社会の生存保障一カトリック企業経営者連盟の社会保険改革構想一」を出
会省は社会給付新秩序審議会(Beirat f臼r die Neuordnung der sozialen Leistun−
版していた8)。シュライバーの構想に関心をもち,政府案のベースにしたいと
gen)を設置し,同時にヤンツ(Kurt Jantz)をキャップとし,シェーべ(Dieter
考えたアデナウアー首相はかれを招待して,その年金改革案の概要を1955年
Schewe),ツェルナー(Detlev Z611ner)などの改革推進派の若手官僚を結集し
12月に社会閣僚会議で講演させたのである9)。
た社会改革官房室(Generalsekretariat far die Sozialreform)が省内に設置さ
れた6)。
しかし,一方で社会保障全体の改革には財政支出の増大を懸念するシェー
シュライバーの年金改革の基本思想は単純明快かつ革新的なものであっ
た。かれは年金制度をドイツ国民全体の共通の年金金庫(かれの表現でいえば
「ドイツ国民の年金金庫(Rentenkasse des deutschen Volkes)」)とし,すべての
ファー(Fritz Schaffer)大蔵大臣と,他方で改革推進派のシュトーク(Anton
就業者からその総賃金の一定パーセントを拠出させ,毎年の保険料収入をす
Storch)労働社会大臣をそれぞれ代表とする賛否両派に閣内の意見が大きく
べて年金受給者に年金として支払うというもので,被保険者から毎年払い込
二分されていた。そのため,1955年末には方向転換を余儀iなくされ,1956年
まれる保険料は年金請求点数の形でカウントされて,被保険者が将来受け取
2月には社会保障閣僚会議は,社会保障全体の改革ではなく,緊急を要する年
る際の年金受給額に反映させるというものであった。そのために,従来の財
金保険の改革から着手することを定めた改革大綱を決:平するに至った。この
政方式である保険料積立方式を廃止して,「世代間連帯契約(Solidarvertrag
決定の背景には,1957年に行われる連邦議会総選挙までに実現可能な改革を
zwischen den Generationen, Generationenvertrag)」概念に基づいて賦課方式
まとめて,選挙戦を有利に戦いたいという政策的判断があった。ヘンチェル
に転換することにし,同時に年金額をそめ時々の賃金水準に連結させて自動
によれば,1951年から53年にかけて年金額が53%引き上げられたにもかか
的にスライドさせて,年金の実質価値を確保することを意図していた。保険
わらず,多数の年金受給者の受け取る平均年金額は現役の就業者の受け取る
料の名目価値により年金を計算する従来の年金算定式には,賃金や物価の変
平均賃金の約3分の1に過ぎず,公的扶助と比較してもその基準額よりも少
動を無視するという構造的欠陥があり,そのため被保険者が退職して年金受
ない年金を受け取っている者が,労働者年金保険では実に4分の3,職員年金
給者となると,その生活水準が物価上昇や現役の就業者の生活水準の上昇に
保険でも4分の1もおり,多数の年金生活者の相対的窮乏化はすでに放置し
よって絶えず低下するという問題が生じる。こうした問題を防止ないし解決
えない社会的関心事となっていたのであるη。
することをかれは重視したのであったiO)。
シュライバープランの意義を決して過小評価するのではないが,同様な考
(3)シュライバープランと政府部内における年金改革論争
え方は当時他の学者や政治家の議論でもすでに表明されており,たとえば前
年金問題へ社会的関心が集まっていく過程で,年金改革論争の発火点とな
述のマッケンロートも「社会的支出はすべてその時々の国民所得から結局は
ったのが,その後シュライバープラン(Schreiber−Plan)とよばれた改革構想
充足されざるをえず,その意味で国民経済的には常に賦課方式のみが存在す
92 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第6章 高度成長期における年金保険の動向
93
ることになる」と述べていた11)。また,具体的方法までは論じられていないに
積み立てることを支持し,シュライバーとは対照的に国庫負担金の完全削除
しろ,年金をなんらかの変数に連結させて自動的に引き上げる考え方も出さ
には反対した。かれはまた被用者をすべて年金保険の強制加入者とし,一定
れており,社会改革官房室は1955年秋には1957年の年金改革で導入された
所得以下の自営業者を年金保険に加入させることには賛成であったが,年金
年金算定式と多くの類似点をもつ新しい計算式をすでにいくつか用意してい
改革の実現を確実なものにするために,自営業者の問題は分離して考えるこ
た12}。シュライバープランでは保険料率は常に一定であり,その意味で人口高
とにまもなく改めている。
齢化の危険が無視されているのに対し,官房平平では賃金・年金比率を一定
以上のような内容の改革を社会閣僚会議の決定とするために,アデナウア
割合に維持し,財政方式も必要に応じ変更されるものとしており,また,前
ーは努力したが,閣僚間には意見の対立があり,そのことはたとえば1956年
者が年金水準を決定していないのに対し,後者では被保険者が在職中に確保
1月の同会議委員会コミュニケで用いられた「静態的な年金から動的年金へ
した生活水準を老後も維持できるように年金額を算定するという新方式が出
の移行」という表現が1カ月後のコミュニケでは「動的年金という表現は間
されていた。
違いであって,生産性年金という表現を用いるべきである」といっているこ
社会閣僚会議でシュライバーが講演する前に,官房室はシュライバープラ
とにも表れている。とくに既裁定年金を何を基準にどのように定期的にスラ
ンを省内で論議させていたが,しかし省内では反対論がきわめて強かった。
イドさせるかについて激しい論争が行われた。エアハルト(Ludwig Erhard)』
そこで,官房室はその改革案を推進するためにアデナウアーとシュライバ∵
とシェーファーの両大臣は既裁定年金の賃金への自動スライドに対して強く
という2人の役者を使って,なんとか突破口を開こうとしたといえ,それは
反対し,年金受給者を生産性上昇の恩恵に浴させながら,しかも貨幣価値下
成功したのであった。すなわち,動的年金の導入は官僚に対する外部の圧力
落のリスクからも解放する物価を基準とした非自動的な年金の引き上げに賛
で実現したというよりは,むしろシュトニク労働大臣をはじめ,ヤンツ誉ど
成していた。逆に,シュトーク労働社会大臣は,過去のインフレーションな
若手官僚のリーダーシップのもとで実現したというのが真相であり,ここに
どの経験から年金受給者をインフレーションから保護するために賃金スライ
もドイツ社会保険史における官僚の積極的役割を見出すことができる珊。
ドを支持していた14}。
1955年から1956年にかけて,アデナウアー首相は官房室の準備した主要
な改正点を検討し,年金を賃金と連結して引き上げること,および新規裁定
(4)年金改革をめぐる議会内外ψ論争
年金(Neurente)のみならず,既裁定年金(Bestandsrenten)を継続的に調整
1956年5月に社会閣僚会議は政府案をまとめたが,それは妥協の産物とい
することにも同意した。その理由としては,年金問題が政治に左右されない
え,とくにシェレンベルクを中心にまとめられた野党SPDの年金改革法案
ものとし,選挙戦で党利党略的に利用されないようにする好機とかれは考え
が具体的に提示されたこともその契機となった。すなわち,SPDが1956年4
たからといわれる。また在職中に確保した生活水準を保障する老齢年金の支
月に年金保険改正法案を連邦議会に提出したために,政府側も急遽5月に政
給,予防,リハビリテーションによる早期障害の克服の強化,十分な終身保
府案を提出することになったのである。政府案とSPD案は目標や方法にお
障を提供する障害年金の支給にもかれは賛成した。しかし,かれは純賦課方
いて多くの類似点を有しており,SPDは国民全体に租税方式の一律の基礎年
式を支持するシュライバーと異なり,景気変動に備えて一定の危険準備金を
金を支給するという従来の同党の主張を断念し,議会の現状から実現可能な
94 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第6章 高度成長期における年金保険の動向
95
改革案を提案してきたのであった。逆に,政府側,とくに官庁サイドでも,
くるこど.を期待していた。
抜本的な改革は長期永続的に追求することにし,当面は国民的コンセンサス
これらの年金改革法案に対しては,議会内外で賛否両論の激しい論議が展
の得られる,したがって議会第2党である野党SPDも支持しうるような改
開され鵡とくに改革のポイントである動的年金導入に対しては,経営者団
革案をまとめることに努力したことにも注目する疹要がある。
体,業界団体とくに各種金融機関は一致して強く反対した。反対する主要な
政府案とSPD案はともに,既存の組織をそのまま利用して,年金法全体を
理由は以下の3点に整理される。
改革する点で一致していた。また,両案とも,年金算定式では従来の定額部
①賃金スライド方式の動的年金は通貨政策にとって危険な指数条項の考え方
分(払込み保険料とは無関係に給付額が決定される)を廃止して,保険料と拠出
に立つものであり,多数の年金受給者をも労働組合の賃上げを支持する階
期間に比例して年金額を計算する方式を採用することを予定しており,、その
層にし,インフレーションを加速させるものである。
点で保険主義を強化するものであった。ただし,拠出期間には社会的調整な
②手厚い老後保障が約束されることによって国民の貯蓄意欲は低下し,社会
いし扶養主義の要素をもった代替期間,脱落期間,加算期間を含めることに
保険料の引き上げによって国民の貯蓄能力も低下するので,今回の年金改
していた。被用者全員を強制加入者とし,労働者と事務職員を実質的に同一
革は資本市場を脅かすものである。また,積立方式から賦課方式への移行
の取り扱いとし,就業不能年金や稼得不能年金についても両者を同一基準で
は国民経済にとっても資金形成にマイナスの影響を与え,公的資金による
取り扱うこととする点でも共通していた。両案はまた自営業者の保障の問題
社会住宅の建設にも支障をきたすことになろう。
は除外していたが,この点では政府案とは異なり,野党案は任意加入の可能
性を残していた。
改革の核心部分である年金算定式も,両案とも後述の4要素を掛け合わせ
③長期的に年金支出がいかに増大してゆくのかの費用予測が困難であり,今
後の人口構造の高齢化によって,深刻な問題がでてくることが懸念され
る15)。
る動的年金方式をとっている。主な相違点は,一般算定基礎Bについて政府
1956年6月目は連邦参議院で政府案に対し多くの修正希望が出され,連邦
案が過去3年間の全被保険者の平均賃金としているのに対し,SPD案は1年
議会には野党案も提出されて,9月より委員会での審議も開始された。政府案
前のそれで決定すること,老齢年金の年数逓増率Stを政府案は1.5%とし,
にはエアハルト,シェーファーなどの有力閣僚が反対の立場をとっており,
保険加入期間40年の場合で総賃金の60%の年金水準を確保しようとしてい
与党内にも反対意見が多かったが,与党のCDU/CSUの社会政策分野の座長
るのに対し,SPD案は1.8%と高い数値を用い,かつ年金計算に擬制的最:低
を務めるホルン(Peter Horn)が精力的に党内の意見調整に努力した結果,
所得を取り入れることにより,政府案より高い年金を支給することを目指し
1956年11月には,同党内の意見がまとまり,法案可決の道が開けていった。
ている点にある。したがって,両案の最も重要な相違点はSPD案が年金を自
しかし,連立与党のドイツ党(DP)などはなお反対の態度を崩さず,アデナ
動的に毎年の賃金の動向にあわせてスライドさせることを予定しているのに
ウアー首相をもってしても,与党内の意見をまとめることは至難iの技であっ
対して,政府案は毎年の経済変動の不安定性が直接年金スライドに反映する
たのである。
ことを緩和するために,3年間の賃金上昇率を平均することにしていること
連邦議会の社会政策委員会はSPDのリッヒター(Willi Richter)とCDUの
である。アデナウアー首相は議会での審議によって,現実的な妥協案がでて
アルントゲン(Josef Arndgen)を議長として42回も集中審議した。委員会は
96 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
女性の老齢年金支給開始年齢の65歳から60歳への引き下げ,寡婦年金の改
第6章 高度成長期における年金保険の動向
97
4) Vg1. Bogs[1957]und Achinger u. a.[1955].
5) この提案はその後実行に移され。1970年より社会法典(Sozialgesetz茄ch)の編
善,財政方式の修正,料率引き上げなどを含む修正案をまとめて,1956年12
月21日その審議を終了した。連邦議会では1957年1月16日から21日まで
纂組織が設置され,1975年以降連邦議会で逐次決定され,現在まで20年に及ぶ長期
の作業が継続されている。
6) Vgl. Hockerts[1990], S.94.
「年金論戦(Rentenschlacht)」とよばれる激しい論議が展開された。すでに
1956年2月以来連立政権から離脱し野党となっていた自由民主党(FDP)も,
7) Vgl. Hentschel[1983].
8) Vgl. Schreiber[1955 a].
9) Schreiber [1955 b].
連立与党のDP, FVPと同様に,年金スライド化に対する反対から委員会案
にもなお同意しなかった。SPDでも改革推進派議貝からの反対があったが,
最終的には党内の合意が得られた16)。その結果,FDPが法案に反対, DPの議
員の一部が反対するなかで,連邦議会は1957年1月22日に圧倒的多数の賛
成で,また連邦参議院は同年2月8日に満場一致で,それぞれ新年金法を可
10)Vgl. Schreiber[1955b].なお,シュライバープランの概要については, Bethusy−
Huc[1976],SS.66−69も参照。
11)Vgl. Mackenroth[1952], S.41.これをマッケンロート仮説(Mackenroth
Thesis)とよぶことがある。
12) Vgl. Hockerts[1990],S.96.
13) Vgl. Hockerts[1990], S.96.
14) Vgl. Hockerts[1990],SS.97−98.
15) Vgl. Hockerts[1990],SS.99−100.
決した。なお,この2改正法,すなわち労働者年金保険改正法(Gesetz zur
16) Vgl. Hockerts[1990],SS.102−103.
Neuregelung des Rechts der Rentenversicherung der Arbeiter)と職員年金保険
改正法(Gesetz zur Neuregelung des Rechts der Rentenversicherung der Anges−
2 第1次年金改革の特色とその成立の主要要因
tellten)は同年1月1日にさかのぼって適用された。
その後,1957年5月に鉱山従業員共済組合法が同様に改正され,7月間は
農業者老齢扶助法(Gesetz Uber die Altershilfe f血r Landwirte)が新たに制定
(1)第1次年金改革の特色とその評価
アデナウアー政権下で実現した第1次年金改革はビスマルク社会保険成立
された。さらに1960年2月には引揚者年金保険法,同年9月には手工業者年
以来の百年に及ぶ長い歴史においても特筆すべき画期的な出来事であった
金保険法も改正されて,戦後最初の抜本的な年金改革が実現したのであった。
が,その改革のポイントは以下のように整理することができる。
これら一連の法改正ないし新法制定に基づく年金改革は戦後最初の本格的改
1)新年金算定式の導入と保険主義の強化
革という意味で第1次年金改革といわれるが,アデナウアー首相のリーダー
年金はこれまで
シップのもとに実現した年金改革という点ではアデナウアー年金改革とよぶ
こともできる。
以下では,ドイツ年金制度の中核となっている労働者年金保険および職員
年金保険の両制度を中心に検討する。
注1)Vgl. Mackenroth[1952].
2) Vg1. Hockerts[1981],SS.335−336.
3)Vgl. Bethusy−Huc[1976], SS.61,69−70.ただし,このSPDのドイツ社会計画
は第1次年金改革関連法可決後に公表された。
年金額=被保険者年金部分(定額部分+報酬比例部分)+加給年金部分
の計算方式で計算されてきた。加給年金部分は配偶者,未成年の子供などの
扶養家族がいる場合の支給部分であるが,被保険者本人を対象とする基本年
金部分のうち,定額部分は賃金・保険料とは無関係に計算される部分であり,
賃金が少ないために少ない保険料しか納付しなかった低所得者層にも一定水
準の年金額になるようにしたもので,最低保障的な機能をもっていた。なお,
98 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
報酬比例部分は保険料に応じて計算される部分である。
第6章 高度成長期における年金保険の動向
99
藍一翼E野+取
この伝統的な年金算定式を廃止し,今回の改革では,以下に示すようなま
ったく新しい年金算定式を導入している1)。
R=P×B×JxSt
ここでRは毎年の年金年額(マルク),Pは個人的年金算定基礎の百分率,
Bは一般算定基礎,Jは保険期間すなわち算入可能な被保険年数, Stは算入
可能な被保険年1年当りの逓増率を示している。P×Bは個人的年金算定基
礎,J×Stは被保険者期間全体の百分率を意味している。一算定式では,4要
素の積で毎年の年金額が計算されるが,年金は基本的には被保険者の賃金な
いし保険料および保険期間に比例して決定され,いわゆる比例拠出・比例給
付の考え方が従来よりも強化されたといえよう。すなわち,改正前のような
定額部分が廃止され,最低保障を考慮せずに,あくまでも個々の年金受給者
の過去の賃金・保険料に応じて年金額が算定されることになる。これを年金
の賃金・保険料関連性の原則(Prinzip der Lohn¶nd Beitragsbezogenheit)な
いし保険料・給付等価主義(Prinzip der Aquivalenz)とよぶが,この点から第
1次年金改革により,従来よりも保険主義が強化されたということができる。
2)賃金スライド方式による年金の実質価値の維持(動的年金の導入)
1957年改革の核心はこの賃金スライド方式年金の導入にある。すなわち,
一般算定基礎(B)により,年金額が実質価値をもったその時々の賃金水準と
連結されることになった。その結果,生産活動から離脱した年金受給者層が
経済成長から取り残され,賃金・生活水準上昇の恩恵を受けられずに,就業
者との所得格差が拡大するといった事態が防止されることとなり,しかも賃
金は物価上昇率を超えて引き上げられることが多いので,年金のインフレ・
ヘッジも確保されることになった。
Bは保険事故の発生した暦年の前々年を含めてそれ以前の3力年間におけ
る労働者年金保険および職員年金保険の被保険者全員の総労働報酬(平均賃
金年額)を平均したものである。すなわち,
で算定される。B。はn年度のB,E。はn年度の労働者年金保険および職員年
金保険の被保険者全員の平均総労働報酬で,その数値は毎年連邦政府によっ
て発表される。たとえば,1961年度のBは1957年,1958年および1959年の
三年の平均総労働報酬Eの和(5,043+5,330+5,602)の平均値5,325マルクと
なる(図表2−4の第3欄と第4欄の数値を参照のこと)。
このように,実際の賃金水準の動向と2,3年のタイムラグはあるが,基本
的には年金がその時々の賃金上昇率にスライドして引き上げられるというい
わゆる動的年金(dynamische Rente)方式が導入され,経済発展に対応した年
金が確保されることになった。ただし,Bの引き上げは新規裁定年金には自
動的に適用されるが,既裁定年金には自動的に適用されない点は注意すべき
である。すなわち,SPDの提案した毎年の賃金上昇率にスライドする年金の
「自動的調整(alljahrliche automatische Anpassung)」方式では,年金財政,
通貨の安定性,資本形成などに悪影響を与之る恐れのあることを考慮して,
今回の年金改革では,賃金や生産性およびその他の経済要因の推移,就業者
1入当り国民所得の変動,ならびに年金保険の財政状態などを総合的に考慮
して既裁定年金のスライド率を調整する,といういわゆる「同調的調整
(synchronisierte Anpassung)」方式が採用された。連邦政府は被保険者代表4
名,使用者代表4人,社会・経済学界代表3人,ドイツ連邦銀行代表1人の
計12人から構成され,連邦労働社会省に設置された社会(保障)『審議会
(Sozialbeirat)が同調的調整に基づき毎年具体的に判定して作成する勧告を
収録した年金調整報告(Rentenanpassungsbericht)を社会報告(Sozialbericht)
とともに議会に対して毎年9月末までに提出し,この審議会勧告に基づき年
金額調整のためにとるべき措置を提案することを義務づけられている。すな
わち,年金額の調整は毎年国会の議決を経て,法律(年金調整法〈Rentenanpas−
sungsgesetz>)によって実施されることになる。後述するように,既裁定年金
100 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第6章 高度成長期における年金保険の動向
についても当初の1958年に一度年金のスライドが見送られた以外は.その後
101
年完全実施されてきた(図表24の第7,8欄および図表6−2参照)。
の順調な経済成長に助けられて,1959年1月以降第1次石油ショック直後の
3)生産性年金
1970年代後半までの約20年間,賃金にスライドした年金額の引き上げが毎
4要素のうちのPは年金受給者個人が被保険者として保険料を拠出してい
る期間(保険料納付期間)の三年の総労働報酬(税込賃金)と各年における被保
図表6−2賃金(=平均年間総労働報酬)上昇率と既裁定年金の年金スライド率
険者全員の総労働報酬の比率を計算し,それらの平均値を計算したもので,
(単位:%)
以下の式で示される。ただし,nは保険料納付年数, Iiはi年度の当該被保険
者の総労働報酬(年額),Liはi年度の全被保険者の平均総:労働報酬(平均賃金
十12.7
年額)である。
十12◎
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十62
十6.2
・}α・
十6.0
うに,戦後西ドイツの奇跡の経済復興を推進した功労者といわれるエアハル
i
1
54
十5.1
1
率と生産性への刺激,生活保障のための各個人の競争原理の重視などを指導
6.97
、
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十6.1
5.94
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3
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1
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1
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黙
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1
覧
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1
に寄与したか,換言すれば,年金受給者のいわば全生涯にわたる生産性を示
労働給付と生産性に比例した年金を受け取ることになる。その意味で,新し
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十89
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したがって,Pは年金受給者が現役時代にどれだけの業績をあげ,国民経済
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新しい年金算定式でPとBが導入されたことにより,年金はいまや賃金代
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i1979年以後)
1
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195859 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81
(注)1975年以後の賃金上昇率の数字の一部およびそれに基づく第20次年金調整法とそれ
以前の調整法の年金スライド率(グラフの点線部と実線部)は暫定的なものである。
出所=BMA[1976], S.31, usw.により作成。
生0
1
第21次年金調整法
+3.3
3
トなどが最も重視した点である。
替機能(Lohnersatzfunktion der Rente)をもっこととなり,「年金問題は一般
的な賃金政策と購買力付与政策の一環として,経済政策的な舞台に登場する
ことになった」3)のである。年金制度は単なる最低生活の保障ないし生計費の
補助といういわば防貧的機能を果たすのではなく,従前所得(現役時代に得て
いた賃金)の一定パーセント(たとえば税引き後の純賃金の70%)を保障するい
わゆる「生活水準保障(Lebensstandardsicherung)」を行うものとして確立さ
102 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
れたことになる。
4)年金支給条件の緩和とリハビリテーション給付の導入
改革の第4点としては,年金支給条件を緩和し,給付の額や種類を増やす
こと忙よって,包括的保障を行おうとしている点が注目される。
新年金算定式では,年金額は保険期間すなわち算入可能な被保険年数(J)
第6章 高度成長期における年金保険の動向
103
る)または大学教育期間(5年以内),1957年1月1日以前に消滅した満55歳
到達前の障害年金の受給期間なども脱落期間となる。
加算期間とは,被保険者が満60歳到達前に就業不能または稼得不能となっ
た場合の,保険事故発生暦月から満60歳到達暦月までの期間をいい,この期
間が保険事故発生前の保険期間および脱落期間に加算される5)。
に比例して増えることになっているが,この保険期間に算入されるのは,実
このように,一定の保険料免除期間も保険期間に算入可能となったこと寿
際に保険料を納付した年数(保険料納付期間〈Beitragszeiten>)のみならず,
ら,戦争や失業,職業訓練,修学,育児,早期障害などのために,従来は受
保険料を払い込んでいない代替期間(Ersatzzeiten),脱落期間(Ausfallzeiten),
給資格期間を満たしえなかった者も年金を受給できることになり,しかも支
加算期間(Zurechnungszeiten)も算入され,その意味でJは「算入可能な被保
給額にも反映されることになった。
険年数」とよばれる。1970年頃では,年金の対象となっている被保険年数は
被保険者は算入可能な被保険年数1年につき一定率の年金額の割増を受け
平均して男子で約35−36年,女子で21−25年といわれ,そのうち男子では
るが,この被保険年1年当りの逓増率Stは年金の種類ごとに異なり,就業不
約27−29年が保険料納付期間で,女子ではこれより少なく,したがって男子
能年金(Berufsunfahigkeitsrente)の場合は個人的算定基礎の1%,稼得不能年
は平均して3年強が代替期間,約3年が脱落期間であった4)。これらの保険料
金(Erwerbsunfahigkeitsrente)および老齢年金(Altersrente oder Altersruhe−
免除期間(beitragsfreie Zeiten)も保険期間に含まれていることは,扶養主義
geld)の場合は1.5%である。
が配慮されていることを意味し,その限りで保険主義の部分的後退というこ
また,被保険者の四三能力の維持,改善,回復のためのリハビリテーショ
とができる。
ン給付(Rehabilitationsleistung)が正式に法定給付となった。これは,リハビ
代替期間とは,兵役i義務などに基づく軍務期間や戦争捕虜期間,ナチスの
リテーション給付が被保険者のみならず,国民経済的にも障害年金の給付以
迫害による自由剥奪期間などの不可抗力の出来事で保険料を拠出できなかっ
上に有意義であり,有効であるという思想(リハビリテーション優先原則=「年
たとき,給付面での不利益を被保険者が受けないように算入される期間をい
金支給に優先するリハビリテーション」)に基づき重視されるようになったもの
い,代替期間となる以前から保険関係が成立していたなどの一定の条件を被
である。障害を受けた者に対するリハビリテーションのための諸給付は年金
保険者が満たしている場合に限って認められる。
保険に新たな保障形態を加えたことになり,公的年金制度が包括的な保障を
脱落期間とは,疾病または災害に基づく労働不能の期間,リハビリテーシ
ョンの措置がとられている期間,悪天候手当を給付されている期間,失業保
行い,あわせて社会的市場経済における労働力の維持・調達政策の一環を明
確に担うことになった。
険などによる失業手当,社会扶助給付などを受けている失業期間をいい,上
5)財政方式の転換
記の期間ではいずれも,保険加入義務を伴う就業または活動が少なくとも1
年金制度の財政方式はビスマルク以来の伝統をもつ保険料積立方式
暦月にわたって中断されていなければならない。さら1こ,妊娠・出産期間,
(Kapitaldeckungsverfahren)ないし期待額充足方式(Anwartschaftsdeckungs−
満16歳以後の拠出をしない学校・専門学校教育期間(4年以内に限り認められ
verfahren)を従来採用していたが,この方式が放棄されて,期間充足方式
104 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第6章 高度成長期における年金保険の動向
105
(Abschnittsdeckungsverfahren)とよばれる修正賦課方式が導入された。この
年金制度が統一的に構成されることになり,法体系の整備が行われた。とく
方式は,10年間を単位期間として,その期間中の保険料収入および利子その
に,労働者と事務職員の年金保険法上の地位が同一のものとなり,受給資格
他の収入で,期間中支出すべき年金その他の必要経費を賄い,かつ最:終年度
や給付については,労働者年金保険と職員年金保険では同一扱いがされるこ
の支出相当額(すなわち12カ月分の支出相当額)が期末に積立金として残るよ
とになった。これはSPDが伝統的に主張してきた国民保険への実質的な第
うに,保険料率を算定するものである。この財政方式の採用は,10年間を単
一歩ということができ,その後引制度間で財政調整が行われる素地をつくっ
位として,その期間に年金受給者層(年金世代)が消費するものは,かれらに
たものと評価することができよう。
よって蓄積された国富の恩恵と経済成長の結果を享受している現在就業して
いる被保険者層(就業世代)の費用で負担し,現在の就業世代も将来同様に次
(2)第1次年金改革成立の主要要因
の世代によって保障される,といういわゆる世代間連帯契約(Solidarvertrag
急速に変化する経済社会環境に対応するために戦後初めての本格的な年金
zwischen den Generationen)ないし就業者と非就業者の両世代間の連帯という
改革がアデナウアー政権のもとで実現し,その後の西ドイツ年金保険の発展
思想に基づいている6)。しかも,急速な生産性向上,物価・賃金水準の上昇,
方向を決定づけたのであるが,この第1次年金改革が高度成長期に入って問
生活水準の向上を伴う戦後の西ドイツ成長経済のもとでは,増加する年金受
もない戦後きわめて早い時期に実現した背景としては,以下の諸点を指摘す
給者の受け取る年金の実質価値を維持するためには,年金保険の財源を過去
ることができよう。
の積立金ではなく,その時々の経済力に求めざるをえなくなった,という切
1)従来の基本的枠組みの維持(歴史的連続性の保持)
実な現実認識があった。この財政方式の切り替えなしには,動的年金ないし
戦後東ドイツでは社会主義国家というまったく新しい体制のもとで社会保
生産性年金の導入は不可能であったであろう。
険制度が統一保険として全面改組されたのに対し,西ドイツでは戦前からの
6)保険料率の引き上げと保険主義の強化
部門別社会保険体系が継承きれた。したがって,年金保険部門では,組織面
年金財政を強化するために,従来は11%であった保険料率が1957年3月
での変更は行わないで,労働者年金保険,職員年金保険,鉱山従業員年金保
1日から14%に引き上げられた(図表2−3参照)。保険料は労使折半負担であ
険,手工業者年金保険といった職能別に制度が分立する多元主義的被用者年
るが,この措置により,年金保険の財源は保険料を中心に確保するという保
金制度が維持された。また,ナチス時代に廃止されていた社会保険の自主管
険主義が維持,強化されたことになる。
理が1951年に復活し,戦前からの各保険者が引続き年金保険の運営機関とな
7) 労働者年金保険と平貝年金保険の実質的統一化
り,理事会(Vorstand),代表者会議(Vertreterversa㎜lhmg)といった自主
戦後急速に産業・就業構造の高度化が進行し,工業社会からサービス社会
管理機関によって管理されることになった。また,強制保険方式がそのまま
への進展により,労働者層が相対的に減少し,事務職員いわゆるホワイトカ
踏襲され,労使で折半して:負担される保険料を主要な財源とする保険方式が
ラー(ドイツでは単に職員とよぶ)層が急速に増加していった。第1次年金改革
維持された。
でも労働者年金保険と職員年金保険の2制度を中核に伝統的な多元的職能別
こうした伝統的な年金保険の基本的枠組みが維持され,戦前からの連続性
年金制度が維持されたが,今回の法改正により,根拠法は異なるものの,各
が大枠で保持されたことが,今回の年金改革の実現を支える重要な要因とな
106 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第6章 高度成長期における年金保険の動向
107
つたことは間違いない。とくに組織面での改編が予定されていれば,いたず
このことは同時に,第2次年金改革などの時にみられたように,年金スライ
らに混乱のみが生じ,改革どころではなかったであろう。このことは,連合
ド率や実施時期などが政治的影響を受けることとなり,アデナウアーが当初
国管理理事会が1946年から1948年にかけて全ドイツを対象とする新体系に
目指していた政治的中立性の確保という目的を不徹底なものとし,年金制度
基づく社会保険改革法案を提案したが,結局ドイツ側の根強い反対などによ
の安定性にも問題を残すことになったともいえる。
ってそれが実現しなかった経緯をみても明らかである7}。当時米軍政府の社
4)社会的市場経済原理の導入と「奇跡の」経済復興・高度成長の持続
会政策専門官として活動していたベーカーも「私自身アメリカにみられない
第1次年金改革という国民にとっても国家にとっても財政的負担を求める
ドイツ社会保険の特質である自主管理に強い印象を受けた。…〈中略〉…
政策が導入され,実行できたのも,戦後の奇跡的ともよばれる経済復興とそ
1957年の第1次年金改革の礎石もこの自主管理の復活にあると私は確信し
の後の高度経済成長によることは多くの説明を必要としないであろう。また
ている」旨を述べている8〕。
急速な経済成長が,経済的繁栄の影で取り残されがちな社会的弱者としての
2) 国民的コンセンサスの形成
高齢者層の受け取る年金の実質的価値維持の必要性を明らかにし,高齢と貧
すでに述べたように,与党と野党SPDの年金改革案の問には多くの対立
困の悪循環がこの改革により打破され,現役世代と引退世代との世代間の社
点が当初はあったが,政府側は野党も支持しうるような改革案をまとめるこ
会的公平を回復する契機ともなった。
とに努力し,他方SPDも租税方式による国民年金の導入という同党の長年
この経済復興は1949年のアデナウアー政権成立以来,エアハルト経済大臣
の主張を断念して,政府案と目標や方法において類似点を有するSPD案を
により実践に移され,戦後の西ドイツの経済社会体制の基本理念となった社
1956年6月には提出している。こうした与野党の妥協には,幅広い社会各層
会的市場経済原理に基づく経済政策の実行によってもたらされたものといわ
の参加する年金改革に関する論議が活発に行われる中で国民的コンセンサス
れている。この社会的市場経済原理では,経済的自由とともに,社会国家的
が次第に形成されていったことが背景にあり,第1次年金改革は連邦議会に
な社会保障および社会的公正が重視されており,この両者の新たな総合を目
おいても圧倒的多数で可決されたのである。
指すものといわれている.9)。個人および集団の自己責任,個人の自由と能率を
3)年金スライドにおける同調的調整方式の採用
著しく侵害しない範囲内で,国家が最大可能な経済的福祉を社会保障などに
自由主義市場経済にとって景気変動は不可避であり,景気の波の影響を受
より国民に提供することは社会的市場経済の理念に沿うものである。この年
けるために毎年の経済成長率は安定的に推移するとは限らない。その点で景
金改革の目的や手段も国民的コンセンサスを得ている社会的市場経済原理に
気変動の影響がストレートに反映される自動的調整は,長期安定的に運営さ
合致し,それを強化するものとして受け入れられたといえよう。
れることがきわめて重要な年金制度にとっては同調的調整よりも問題が多い
5)アデナウアーのリーダーシップ
といえよう。その点で,賃金上昇率と約3年のタイムラグがあるとはいえ,
1950年代末に行われた世論調査を要約して,世論調査機関は「今回の年金
総合的判断に基づいて,しかも過去3年間の賃金変動を考慮してスライド率
改革のように,ほとんどすべての国民からこれほど積極的な反響や支持の得
を決定する同調的調整方式が採用されたことは賢明な選択であり,その後の
られたものはかって例のないことである。」と述べているが,年金改革後に行
年金政策を安定的に円滑に遂行することを容易にしたといえよう。しかし,
われた総選挙で与党が勝利を得たのもこうした年金改革に対する広範な国民
108 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第6章 高度成長期における年金保険の動向
109
の支持を背景としていたlo)。全力でこの改革を推進しようとしたアデナウア
ーの決意にも,選挙対策への思惑があったことは疑いの余地がない。同時に,
3 第1次年金改革成立後の展開(1957−1969年)
アデナウアーにとっては,戦後の混乱したドイツ社会をこうした社会政策的
な改革によって安定させ,世代間の対立を緩和する.こと,さらには冷戦下の
厳しい東西対立のもとで,分裂した東ドイツの国民にとっても西ドイツを魅
力ある国家とすること,などの遠大な目標もあったといえる。
(1)新年金システム導入後の最初の10年
第1次年金改革の核心部分であり,最も論議のあった動的年金,すなわち
一般算定基礎(B)の賃金へのスライドの実施であるが,これまでに前例のな
6)官僚の役割
いことでもあり,1957/1958年目既裁定年金への最初の適用については,景気
ビスマルク社会保険の導入時において官僚の果たした役割についてはよく
動向や財政的観点から慎重な検討が行われたことは不思議ではない。1958年
知られているが,第1次年金改革においても,年金保険の管轄官庁である連
初めから審議を開始した新設の社会審議会の考え方に則して,年金を1958年
邦労働社会省を中心とした官僚がその推進,取りまとめにおいて重要な役割
の一般算定基礎で計算したスライド率6.1%で引き上げるが,そのスライド
を演じたことが明らかにされてきている。とくに同省のヤンツ,シェーべな
の適用時期を1年遅らして1959年1月から実施することで,政府と議会は
どが活動した社会改革官房室の役割を評価する必要があろう。
1958年末に同意に達した。したがって,1957年末までにすでに支給が開始さ
もちろん第1次年金改革で残された課題も多く,とくに最低年金の保障を
れている既裁定年金については,1958年目新たに既裁定年金となった年金と
行わない年金算定式の導入により,低賃金で働いている低所得者層や保険期
比べスライド回数が1回減ることになり,結果的に不利な扱いを受けること
間,個人的算定基礎などで不利な扱いを受けやすい女性ないし主婦,臨時に
になった。この措置により,既裁定年金は賃金水準の変動より3年ではなく,
またはパートタイムで働く人々の問題はほとんど検討されずに終っている。
4年遅れでスライドされることになった。スライド適用時期が1年遅れたこ
また,依然として職能別年金制度となっているために,自営業者や主婦など
とでこの措置による年金の支出増は約5%にとどまった1)。
は公的年金の対象外となっていたが,この問題も手がつけられずに終った。
第1次年金改革成立後の最初の10年間,西ドイツ経済はきわめて順調な経
注1)年金算定式については,BMA[1975],SS.75−86(内訳書,80−96ページ)に詳
済発展を遂げた。196て年までのqNPの伸び率は5%を超えており,空前の
しく説明されている。
2)大陽寺[1960],270ページ参照。
高成長率を維持していた。1960年目は失業率が1%以下となり,完全雇用状
3)大陽寺[1960],270ページ参照。
態が達成された。こうした高度経済成長を背景に,同調的調整とはいえ,1960
4)Vg1. BMA[1975],S.82(同訳書,89−90ページ参照)。
5)労働者年金保険の場合は,代替期間はライヒ保険法(RVO)の1251条に,脱落期
閲は1259条,加算期間は1260条にそれぞれ規定されているので,参照されたい。
6) Vgl. Schreiber[1955 a],SS.30,114.
7)下和田[1983],55−57ページ参照。
8) Vgl. Baker[1977], SS.30−31。
9)VgL Lampert[1976],SS.92−95.この点については,すでに第1章1で述べた。
10) Vg1. Hockerts[1990], S.103.
年以降も予定された一般算定基礎Bのスライドが既裁定年金にも毎年完全
適用されて,図表2−4(第7,8欄)および図表6−2にあるように,年金が賃
金動向に約3∼4年のタイムラグを伴いながら毎年引き上げられた。
1957年の年金改革は保険数理的にはかなりの冒険であり,アクチュアリー
などの一部の専門家から強い批判があったが,その後の高度経済成長に恵ま
れて,1957年に定められた14%の保険料率(労使7%ずつの折半負担)を引き
110 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第6章 高度成長期における年金保険の動向
111
上げることなく,年金の賃金スライドが毎年完全実施され,年金財政上もと
さらに,不況による保険料の収入減も加わって,年金保険は財政危機に見
くに問題は発生しなかった。労働者年金保険と職員年金保険を合計すると,
舞われた。労働者年金保険:および職員年金保険の1967年の総収入340億マル
1966年までは総収入が総:支出を常に上回っており,積立金もすでに1960年
クに対し,総支出は362億マルクとなり,ついに22億マルクもの赤字が発生
代初めには期間充足式で定められている1年分の支出相当額を大幅に上回る
した。このままなんの対策もとられないならば,1968年以後はさらに赤字額
金額になっていた。
が急増してゆくと予想されるに至った。第1次年金改革では期間充足方式の
財政方式が採用されたが,1966/1967年はこの財政方式で予定されていた10
(2)戦後最初の経済不況と新年金システムの初試練
年目の最初の財政再計算期にあたっていた。したがって12カ月分支出相当分
戦後初めての構造的不況といわれる本格的景気後退が1966年から1967年
の積立金が積み立てられていなければならないことになるが,現実には赤字
にかけて西ドイツ経済を襲い,新しい年金システムは第1次年金改革成立後
となっていた。この年金財政危機を乗り切るために,1967年から年金保険の
10年目に最初の試練を迎えた。図表6−2にもあるように,1967年は賃金引
財政建直しが始められ,1969年7月の第3次年金改正法(Drittes Rentenver−
上げ率も戦後最低の3.3%にとどまっている。
sicherungs−Anderungsgesetz)が可決されて,一応の決着をみた。その間にと
政治的にも,戦後20年間政権を担当していたCDU/CSUは,1966年12月
からは野党第1党のSPDと大連立内閣を組み,かろうじて政権を維持した
られた一連の措置は,以下のとおりである。
第1に,動的年金システムを維持しながら,この財政危機を克服するため
が,1969年10月にはCDU/CSUはついに政権から去り, SPDがFDPと連
に,保険料率を段階的に引き上げる収入増加対策がとられた。すなわち,1957
立政権を組むという政権の交替が起きている。
年以来据え置かれていた14%の保険料率を1968年1月1日より1%引き上
不況による国家の財政危機に対応するために財政変更法が1967年に施行
げて15%とすること,さらに1969年1月には16%,1970年1月には17%に
され,労働者年金保険および職員年金保険に対する連邦補助金が1968年から
引き上げ,最終的に1973年からは18%とすることが決議され,長期的な財
1971年までに40億マルクも急激に削減される措置がとられることになっ
政対策の確立がはかられた(図表2−3参照)。
た。鉱山従業員年金保険その他の公的年金保険を含む年金制度全体としては,
第2に,実質的に給付切り下げにつながる,次の2措置がとられた。すな
1971年までに70億マルクもの連邦補助金がカットされる予定で,これは国
わち第1は年金給付額の2%を年金受給者疾病保険(Krankenversiche㎜g
家財政の支出削減予定額の約5割に相当するものであった。
der Rentner)の保険料として徴収すること(1968年と69年に実施されたが,2
他方,年金制度の成熟化と人口構造の高齢化も一段と進み,第1次年金改
年後再び中止され,しかも両年の徴収分も1972年に年金受給者に還付された),第
革が実施された当時の1958年では保険料拠出者100人に対し(被保険者年金
2には新規裁定年金について保険事故発生の月の年金は支給せず,その翌月
および寡婦・寡夫年金の)年金受給者は35人であったが,それが1965年目は
分から支給することである。
41人に増えており,いわゆる「年金の山」の訪れる1970年代中葉の1976/1977
第3に,職員年金保険では保険加入所得限度以下の事務職員のみが強制加
年までにはさらに50人に増加すると予測されていた2)。この年金受給者の急
入被保険者となっていた3)が,1968年より保険加入義務がすべての事務職員
増という変化も年金財政を圧迫する要因となっていた。
に拡大された。この措置は,高所得の事務職員が新たに加入することにより,
112 第3部第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第6章 高度成長期における年金保険の動向
113
保険料収入の増額にはなるが,これら新規加入者が年金受給者となる将来に
る。3カ月支出相当分の積立金は,保険機関にとっては単に流動性準備金
は,年金制度にとってより大きな負担となる可能性をもつ。
(Liquiditatsreserve)としての性格を有し,年金などの支払いを円滑に行うた
第4に,労働者年金保険と職員年金保険の両部門間で相互に財政調整を行
う措置をとることになった。すなわち,一方の保険部門の資産が2カ月分の
支出相当額以下となり,もう一方の保険部門ではなお4カ月分以上の支出額
めに常時換金性の高い現金・預貯金などで保有していなければならない金額
といえる。
以上のような一連の対策を通じて,第1次年金改革で導入された動的年金
に相当する資産を保有している揚合には,両部門間で財政調整が行われるこ
などの基本原則を変更することなく,1966年に始まる経済不況を主因とする
とになり,両保険の財政面での統一化がはかられることになった。この措置
年金制度の財政危機を乗り切る努力が行われたのであった。
が実際に適用されたのは1974年が初めてで,職員年金保険から労働者年金保
険へ21.5億マルクが財政調整のために支払われた。これは,戦後の産業・就
業構造の高度化により,事務職員は1950年初頭からの約20年余で約400万
ノ
人増加したのに対し,労働者は逆に100万人も減少したが,こうした就業構
造の変化が労働者年金保険の年金受給者と被保険者との比率を悪化させ;そ
の財政に不利に作用したので,こうした外部的要因によゐ両保険部門間の財
政的影響を平均化しようとするものである。この措置の導入は,1957年の年
金改革により職員年金保険と労働者年金保険における保険料と給付に関する
権利が統一されたことからくる一帰結ということができる。
第5に,財政方式が修正賦課方式である期間充足方式から,積立金がより
少なくてすむ純賦課方式に切り替えられた。すなわち,1957年の年金改革で
導入された10年を一期間とし,その期末に最低12カ月分の支出額に相当す
る資産を積み立てることを義務づけている期間充足方式が廃止された。純賦
課方式では年度ごとに収支の均衡がとれるように計算されるので,理論的に
は後の年度のための積立金を設ける必要はないが,1969年8月から導入され
た賦課方式では就業者数の増減などによる収入の変動を考慮して,労働者年
金保険および職員年金保険の積立金を合算して,前年度の平均3カ月の支出
額に相当する積立金を少なくとも保有することが法律で義務づけられた4)。
そして,この最儀積立金が今後3年で確保できないと予測される場合には,
連邦政府は保険料率の引き上げを提案しなければならないことになってい
注1)Vgl. Hermann[1990],SS.109−110.
2) Vg重. Hermann[ユ990], S.113.
3)職員年金保険の保険加入所得限度額は1957年3月から月額1,750マルク,1965
年7月から1,800マルクであった。
4) Vgl. RVO§1383 und AVG§110.
115
第7章 高度成長期末期における
年金保険の動向(1970−1975年)
第2次年金改革の成立とその評価を中心に
1 第2次年金改革実施の契機
(1)1966/1967年の経済不況からの回復と年金財政
戦後初めて訪れた本格的経済不況からの回復が予想以上に早まり,景気は
再び上向き,1969/1970年には早くも実質経済成長率が6%を超え,失業率も
1%以下となり,完全雇用の状況に入っている。1965年の9%から1966年に
は7.2%,1967年は3.3%と2年連続で低下した賃金上昇率も,1968年には
6.1%,1969年9.2%と再び急上昇し,1970年には12.7%,1971年11.9%と
実に2年連続で2桁台の高い伸びを示した。その結果,1970年代も再び高度
経済成長が持続するであろうと予想されるに至った。
こうした早い経済回復と1960年代末にとられた一連の年金財政再建策は
年金財政にも好影響を及ぼした。労働者年金保険と職貝年金保険の収支は
1967年から1969年まで3年連続して赤字を記録していたが,早くも1970年
には,収入が支出を再び上回り,37億マルクの黒字を計上した。その後も黒
字額は年々増加し,1973年には63億マルクになっている。
とくに1968年から3年連続して実施された1パーセント・ポイントずつ
の保険料率の引き上げ(14%から17%へ)の効果は著しく,その間の10%前
後の高い賃金上昇率もあって,保険料収入も急増した。しかも,1973年から
は保険料率はさらに18%に引き上げられることになっていたので,両年金部
門の積立金は年々急速に増加することが予想された。1972年当時の予測によ
116 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
ると,1986年には積立金は3カ月の法定最低積立金をはるかに上回る約19
カ月分に相当する2,110億マルク以上もの巨額に達するものと見積もられて
第7章 高度成長期末期における年金保険の動向
注1)
117
Vgl. Hermann[1990], S.118.
2)
Vgl. Hermann[1990],S.116.
3)
Bogs u.a.[1966].
いた1)。
2 第2次年金改革の成立とその特色
(2)改革の改革
こうした1960年代馬の急速な景気回復およびキージンガー(Kurt G.
Kiesinger)(CDU)首相のもとでの大連立政権の崩壊により,1969年10月に
労働者階級をその主要な支持基盤とするSPDがプラント(Willi Brandt)首
相(SPD党首)のもとでFDPと連立政権を樹立したことなどが,その後の年
金政策にも友映されることになった。
第1次年金改革以後静まっていた1958年の年金スライドの停止問題が再
びますます注目されるようになった。さらに,第1次年金改革で積み残され
た諸課題を実現するという「改革の改革(Reform der Reform)」が活発に論
じられ始めた2}。
(1)第2次年金改革の成立
1972年の年金改革は1957年から1992年までの公的年金制度改革の中で
年金制度の構造上紙も革新的な作業であったといわれており,一般に第2次
年金改革(Die 2. Rentenreform)とよばれている9。しかも,第1次年金改革
以上に国民的コンセンサスを得て実現した改革といわれており,連邦議会で
は与野党ともに賛成し,年金改革法は全会一致で可決されている。しかし,
年金改革の具体的内容については,総選挙を控えていることもあって,可決
直前まで与野党間で激しい論戦が展開された。
1972年4月野党の政府不信任案が否決されて,政府与党と野党との対立は
中でも,自営業者に年金制度を開放する問題が,1968年の全職員への適用
激化し,ついに同年秋には連邦議会は早期解散することになった。各政党は
拡大の実現を契機として,すでに1960年代中葉から議論され始めていたが,
解散前にできるだけ自党に有利な形で年金改革を可決して総選挙を有利に戦
1970年代に入ると一層現実味をもって論じられるようになった。さらに,‘ま
だ年金制度へ卯等していない主婦などの階層にも適用範囲を拡大すること.も
いたいという点では一致していた。
コストの面から実現可能な改革案として提出されている政府与党案(その
検討されるに至った。ボックスなど5人の学者からなる社会調査委員会の報
改革のポイントは①公的年金保険の一般的開放,②年金支給開始年齢の弾力化,③
告3)でもこの問題は取り上げられ,1967年末にはすでに連邦議会では全職貝
最低所得による年金,④働いている女性の出産後の育児期間(Babyjahr)を保険期
への被保険者範囲の拡大と関連して,この問題を早急に検討するように決議
間に加算すること,などである)に対し,野党(CDU/CSU)案は
しており,新政権でも「より広い社会階層」への公的年金保険の即時開放を
①自営業者への公的年金保険の開放,
検討することを明らかにした。
②最低所得による年金,
また,労働組合などにより長年論じられてきた老齢年金支給開始年齢の弾
力化(Flexibilisierung der Altersrentengrenzen),低賃金労働者の受給する年
金が低すぎることを是正するための最:低算定基礎(Mindestbemessungsgrund−
Iagen)制度の創設などの要求も幅広く支持されるようになっていった。
③年金スライド時期の繰り上げ
をその骨子としていた。
一
このように,与野党間には共通点とともに改革に関する基本的理念の対立
118 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第7章 高度成長期末期における年金保険の動向
119
がみられた。しかし,予想を上回る経済成長の結果,将来の積立金に関する
は,非常に有利な条件で1973年以前の1956年までさかのぼって保険料を払
財政予測が繰り返し上方修正されたこともあって,当初の改革案よりも2倍
い込むことが認められた。これは保険料追納(Beitragsnachentrichtung)制度
近くも支出が増加する第2次年金改革案が与野党間の妥協により実現可能な
といわれるる保険料等級の選択は被保険者が任意に選択できることになって
ものと考えられてまとまり,1972年年金改革法(Reロtenreformgesetz〈RRG>
いる。
vom 16.10.1972)が1972年10月に全会一致:で可決され,1973年1月から実
2)老齢年金支給開始年齢の弾力化
施されたのであった。ただし,政府与党案の④(育児期間の保険期間への加算)
老齢年金の支給開始年齢はこれまでは満65歳と固定的であったが,それを
は1972年夏の議会における手づまり状態を打破する話し合いの過程で改革
弾力化して,一定条件を満たす被保険者には満65歳になる以前でも老齢年金
案から消えて,年金改革に関する妥協は野党案を大幅に取り入れた形で決着
の受給を認めるという,いわゆる老齢年金支給開始年齢選択制(Flexible
したのであった。
Altersgrenze, Flexibilisierung der Altersrentengrenze)が導入された。たとえ
第2次年金改革法が可決された後の1972年秋に行われた予測では,労働者
ば,35年以上の算入可能な保険期間(代替期間や脱落期間を含む)があり,そ
年金保険と職員年金保険の積立金は1986年には法定最低積立金3カ月分を
のうち15年以上の保険料拠出期間と代替期間のある被保険者はすべて,63
はるかに上回る19カ月分の年金支出に相当する2,110億マルク以上に増加
歳に達した時点で,被保険者本人の選択により,63丁目ら65歳までの間で,
し,他方,第2次年金改革で決議された措置により必要な費用は1986年まで
いっから老齢年金を受給するかを選択できることになった。また,一定の条
に1,650億から2,060億マルクの範囲におさまり,収支の均衡が確保される
件を満たせば,女性および失業者は60歳から,重度障害者や就業不能者・稼
と予想されていた2)。1986年までに蓄積される予定の幻の積立金の大半を費
得不能者は62歳から受給できることになった(図表7−1参照)。
消する内容の年金改革法が,総選挙直前に成立したのであった。
なお,年金を65歳未満で早期に受給しながら引続き就業して得ている所得
図表7−1 年金支給開始年齢選択白
(2)第2次年金改革の主要な改正点
田 象 者
プラント(SPD/FDP)連立政権のもとで実現した1972年年金改革法の主要
なポイントは,以下のように整理できる。
婦
1)年金保険の自営業者などへの開放
失
公的年金保険に加入していない自営業者や主婦などは労働者年金保険か職
員年金保険に任意加入できることになった。どちらの年金保険に加入するか
は,初めて加入する際に被保険者が任意に選択することができる。したがっ
人
業
者
年金
老齢年金の受給要件
N齢
60歳
60歳
15年の保険料拠出・代替期間と最
1.老齢年金を受けることなく
゚20年間に121回の義務的拠出
@65歳まで継続して働き,より
15年の保険料拠出・代替期間と最
@高額の老齢年金を受給する
Q.老齢年金を受けることなく
゚1年半のうち1年の失業
重度障害者と就業不
¥年金受給者または
メ得不能年金受給者
62歳
すべての被保険者
63歳
すべての被保険者
65歳
35年の算入可能な被保険年数,そ
こととなった3)。また,新たに任意加入する者で,一定条件を満たす被保険者
@65歳をすぎても継続して働
@き,より高額の老齢年金と補
@足年金を受給する
一
フうち15年の保険料拠出・代替
匀{
て,この任意保険(freiwillige Versicherung)で加入する方法を利用すれば,
16歳以上の国民はすべて,いずれかの公的年金保険に原則として加入できる
選択可能
老齢年金を受けることなく,継
15年差保険料拠出・代替期間
出所:BMA[1975], S.72(同訳書,76ページ)より作成。
アして働き,より高額の老齢年
烽ニ追加的年金を受給する
120 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第7章 高度成長期末期における年金保険の動向
121
についてはその制限および算入は行われないことになっていた。また,老齢
に固定化され4),6カ月繰り上げて年金がスライドされることになった。した
年金の早期受給とは逆に,年金受給資格を満たしているにもかかわらず,65
がって,1972年にはすでに1月1日に年金は6.3%引き上げられていたが,
歳から受給しないでそれ以後も就業する場合,65歳から67歳までの間では
7月1日には2度目のスライドが9.5%引き上げで実施された(図表6−2参
65歳に受け取る年金額(Ausgangsrente)の30%を上回る非常に有利な割増年
照)。1959年以来賃金動向に約4年遅れてスライドされていたといわれる年
金が支給されることになった。しかし,この点については,総選挙後に可決
金水準が,この半年繰り上げによって3年半に短縮されることになったとい
された第4次年金改正法(4.Rentenversicherungs−Anderungsgesetz vom 30.3.
われる。
1973)により,労働市場政策的理由からも,在職しながら追加的所得を得てい
5)年金水準の確保
る場合の追加報酬限度(Hinzuverdienstgrenze)が保険料算定基礎の30%に制
年金水準確保条項(Rentemiveaussic耳erungsklausel)が規定された5)。年金
限され,65歳以後の年金受給に対する増額年金についても割増率の引き下げ
水準は,在職中に平均賃金を得て働き,保険期間が40年あるモデル年金
が実施された。
(Eckrente)受給者の老齢年金額と,被保険者全員のその時点での平均賃金(こ
3)最低所得による年金
こでいう賃金とは純賃金ではなく,税引き前の総賃金をいう)との比率で示される
第1次年金改革により,就業中の賃金と保険期間に比例して年金額が計算
が,その数値が毎年のスライド時期(7月1日)で50%を下回らないよう’にす
されることになり,いわゆる最:皆年金(Mindestrente)の保障はなくなった。
ること}もしこの年金水準が連続する2力年にわたって確保されなかった場
その結果,低賃金で長年働いた勤労者の受給する年金は非常に低くなり,い
合には,連邦政府は経済力,および生産性の推移,就業人口1人当りの国民
わゆる最小額年金(Kleinstrente)の受給がこれまでも問題となっていた。そ
所得の変化,年金保険の財政状況の推移を考慮しながら,毎年7月1日っ定
こで,算入可能な保険期間(脱落期問および任意加入保険期間は除く)が最低25
期的スライド以外に年金水準確保のためにいかなる措置をとるかを連邦議会
年ある被保険者については,この保険期間におけるその人の個人的算定基礎
に提案することが義務づけられた。この規定は安定した年金水準を確保する
の百分率が全被保険者の平均賃金の75%に達しない場合には,保険料が平均
ことを目指したものであ.る。
賃金の75%で支払われたものとみなして年金額を計算することにならた。こ
注1)VgL Hermann[1990], S.117.
の最低所得による年金(Rente nach Mindesteinkommen)は,低所得者とくに
賃金面で不利な扱いを受けている女性が老後受け取る年金が不当に低くなる
ことを防止する措置であり,一亜種の最低年金の保障といえる。
2) Vgl. Hemlann[1990], S.118.
3) Vgl.§1233 RVO;§10 AVG.
4) Vgl.§1272 Abs.1RVO;§49 Abs.1AVG.
5) Vgl.§1272 Abs.2RVO;§49 Abs.2AVG
4)年金スライド時期の固定化とその半年繰り上げ
第1次年金改革では,年金を一般算定基礎の上昇率に応じてスライドする
3 第2次年金改革の評価とその課題
期日は意図的に固定化されていなかったが,現実には1958年の実施を見合わ
せたほかは1959年より毎年1月1日付けで年金が一般算定基礎の上昇率に
スライドして引き上げられてきた。今回の改革では,スライド時期が7月1日
第1次年金改革の理念をさらに拡大発展させた第2次年金改革は,1950年
代から20年余り続いた高度成長期の最後の時期,すなわち第1次石油ショッ
122 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第7章 高度成長期末期における年金保険の動向
123
クが発生する直前に実現した改革であった。その作用,評価および残された
弾力的に対応するものとして,高く評価することができよう。この年金年齢
主要課題は以下のとおりである。
選択制の導入は,さらに高齢者の早期退職によって,増加する若年労働者の
1)実質的な国民保険への接近
失業問題を緩和したい,という当時の雇用政策ないし労働政策上の問題への
西ドイツの年金保険は労働者保険としての沿革的な伝統を継承して,職能
配慮もあったといわれている。しかし,年金財政上は当然支出増となり,そ
別に制度が分かれており,自営業者や専業主婦などはこうした職能別被用者
の額は1986年までに630億マルクに達すると予測されていたD。人口高齢化
保険の対象外となっていた。したがって,西ドイツは全国民を対象としたイ
が一層進展する中で,その後1992年年金改革法により,この制度の見直しが
ギリスの国民保険やわが国のような国民年金制度とその他の公的被用者年金
行われたことは銘記すべきである。
保険によって,国民全部を対象とするいわゆる国民皆年金体制にはなってい
3)最低年金の保障と保険主義の後退
なかった。しかし今回の第2次年金改革により,自営業者や専業主婦など公
「最低所得による年金」の導入は,平均賃金の75%以下の賃金で働いてい
的年金制度にこれまで加入できなかった16歳以上の国民も任意加入制を利
た低賃金就労者が退職引受け取る年金について平均的年金の75%を常に保
用すれば,原則としてだれでも公的年金へ加入できるようになったが,この
障することを意味し,賃金格差が常に拡大する傾向にある中で,また長年賃
改革により,伝統的な職能別被用者保険体制を維持しながら,実質的にSPD
金面で男性に比べ不利な扱いを受けがちな多くの勤労女性にとっては,’きわ
が長年提唱してきた国民保険(Volksversicherung)へ一歩近づいたものとい
めて画期的な改革であった。女性5人のうち4人がこの措置によるメリット
え,ドイツ年金保険史上一大転機を画するものであった。
を受けるといわれていた。初年度の1973年では,この措置の実施によって,
とくに以下の点できわめて画期的意義を有するものであった。第1に,従
年金全体(そのうちの3分の1に当る約125万件は寡婦年金)でみて12%強の引
来公的な老齢・障害・遺族保障がまったく存在しなかったか,不十分にしか
き上げが行われる結果になった2}。
与えられていなかった,企業と雇用関係にない国民階層にとっても,公的な
この措置は拠出を伴わない年金給付の増額であり,その意味で,明らかに
基礎的保障が可能となったこと,第2に,これらの人々に自分の年金権を取
保険主義の後退,扶養主義の強化ということができる。この措置による支出
得する機会を与えたこと,第3にいつでも国民皆年金体制へ名実ともに移行
増は1972年時点での評価で1986年までに350億マルクと見込まれており,
できる体制が整備されたことである。その後,作業所や施設で働いている障
年金財政上はかなりの負担増となる。
害者も年金保険の義務的被保険者とする障害者社会保険法が1975年5月に
4) スライド時期の半年繰り上げと政治的干渉の問題
制定され,被保険者範囲の一層の拡大が実施された。
年金のスライド時期が半年繰り上げられ,しかも固定化されたが,1972年
2)人口高齢化への弾力的対応と労働市場対策的措置
は2度にわたり年金が引き上げられることになった。その結果,実に1,000万
高齢者たちの健康状態や労働意欲は個人差が大きいこと,高齢就業者ほど
件強の既裁定年金のスライド率が1972年のみで年間で14.4%と二桁の記録
心身の能力減退による労災事故や傷害事故などを起こしやすく,失業率も高
的なものとなり,それは1971/1972午の賃金や物価の上昇率を上回っていた。
いことなどを考慮すると,年金支給開始年齢選択制の導入により被保険者が
半年繰り上げによる支出増は1986年までで770億マルクにも達すると見積
自由意志により退職を選択できる余地を与えたことは,人口高齢化の進展に
もられていた。この措置もまた保険料負担を伴わない給付改善であり,保険
124 第3部第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第7章 高度成長期末期における年金保険の動向
125
主義の後退を意味すると同時に,年金スライドがその時々の政治状況によっ
革の見直しも含めて,こうした新たな経済社会環境の変化に適応するための
て簡単に左右された例といえる。こうした場当たり的な政治的干渉の好例は
継続的な政策努力をその後緊急に要請されることになった。
年金受給者疾病保険についてもみられ,1968年と1969年の両年度のみ年金
受給者から徴収された年金受給者疾病保険の保険料が1972年には年金受給
注1) Vg正. Harlen[1977],S.788.
2) Vg里. Hermann[1990],S.121.
者に償還されるといった,一貫性を欠いた政策変更がわずか数年の間に発生
している。
4 高度成長期と年金改革
5)女性,とくに離婚した女性の年金問題
女性,とりわけ離婚した女性の老後保障を改善する問題は,第2次年金改
革でも不十分な形でしか論じられず,積み残された課題となっていた。1975
年の連邦憲法裁判所の判決によって1984年までに遺族年金の男女平等化と
女性の年金保障のための法改正を政府は求められたことから,この問題に対
応するために連邦政府は1977年になって「女性(妻)および遺族の社会保障
のための専門家委員会」を設置して,検討を開始したのであった。そして,
女性の育児期間における取り扱いを含め,女性の年金保障の問題は1980年代
の年金改革の主要テーマの1つとなった。
6) 高度経済成長期における最後の年金改革
1960年代中葉における経済不況からの回復が早まり,経済が再び高度成長
軌道に乗ったこと,政権交替によりSPDを主体とする連立政権が樹立され
たこと,連邦議会選挙に対する各政党の選挙戦略,そして何よりも超完全雇
用の永続や年金財政に対する楽観的予測などにより,高度経済成長を前提と
した第2次年金改革が実現したが,皮肉にもその翌年の1973年に石油ショッ
クが発生した。それを契機として戦後最:大の経済不況が始まり,経済環境は
激変して,低成長経済へと移行していった。ドイツもその例外ではなく,成
長率の低下,失業者の増加,物価上昇などの諸問題が発生し,一転して年金
保険財政の悪化が予想されるに至った。第2次年金改革は戦後20数年も続い
た高度成長期における最後の年金改革となった。そして,その後の低成長経
済への移行と人口高齢化の一層の進展により,年金保険制度は第2次年金改
奇跡の経済復興に始まり,1950年代から1970年代中葉に至る高度経済成
長期に,第1次年金改革と第2次年金改革という,世界の年金保険史におい
ても注目すべき2つの画期的な年金改革が旧西ドイツにおいて実現した。こ
の2つの年金改革は人口高齢化が漸進的に進行し,高度経済成長が持続する
時期に実施されたもので,すでに見たように,もっぱら年金制度の給付水準
や給付方法,給付条件などを拡充改善するいわば成長経済下の晴天型年金政
策(Sch6nwetter−Politik)における改革であったといえる1)。経済構造の近代
化と経済成長の持続により,国民経済は急速に拡大し,ほぼ毎年かなり大幅
な賃上げが行われ,それは保険料引き上げという企業と従業員の一定の負担
増を可能とし,年金財政の好転はすでに退職している年金受給者の賃金上昇
率にスライドした相当大幅な年金給付引き上げを可能とする(図表6−2でも
明らかなように,1959−19ケ7年の年金スライド率は5−11%と高い数字となってい
る)。こうした給付改善は将来の年金受給者予備軍である現役の就業者世代か
らも,社会的公平の確保の点からも歓迎された。経済成長→賃上げ→保険料
増収→給付改善・受給資格緩和→年金受給者を含む消費者の有効需要の確保
→経済成長,という一連の好循環が確保さ払連立政権下において与野党は
もちろん,各利害集団を含む国民的コンセンサスが両年金改革では形成され
てきた。「最良の経済政策は最良の社会政策である」という言葉があるように,
まさに西ドイツの2つの年金改革は「最良の経済政策」のもとで実現された
ものであったということができる。
127
126 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
両年金改革とも経済政策ないし経済成長政策と密接に関連していることは
明らかである。第1次年金改革における生産性年金の理念は,勤労者が退職
後も在職時の生産性,労働寄与率に比例した年金を受け取ることを意図して
おり,高い年金を得るために勤労者の労働意欲を刺激し,労働生産性を高め
るインセンティブとなるものである。西ドイツはこの点で,均一拠出・均一
第8章 1970年代後半における年金保険の動向
(1975−1980年)
一軍1次石油ショック後の財政危機対応期
給付制の国民年金を実施したイギリスが高福祉のゆえに国民の労働意欲を後
退させ,イギリス病といわれるような長期的な経済停滞に悩まされたのとは,
好対照をなす。また,動的年金による年金の実質価値の維持,第2次年金改
1 年金財政危機と総選挙
革における年金ズライド時期の半年繰り上げ,「最低所得による年金」や年金
水準確保条項の導入などは,年金生活者の購買力を確保し,喚起することに
(1)第1次石油ショック後の年金財政危機
なり,消費を刺激して,生産活動を支援し,経済成長を維持・強化すること
第2次年金改革は社会(保障)政策的には革新的な前進を意味したが,中長
に寄与した。第2次年金改革における年金支給開始年齢選択制の導入,すな
期的な年金財政の面からは不安定な基盤にたって実施されたものであった。
わち65歳以前に早期退職して年金生活に入ることを認めたことは,早期退職
そのため,巨額の支出増を伴う第2次年金改革には第1次年金改革以上に強
希望者の要望に応えたにとどまちず,当時の若年労働者の失業問題を解決し,
い批判があった。たとえば,公的年金保険の管理機関の全国組織であるドイ
技術革新に対応できる労働力を確保し,生産性を高めることなども意図して
ツ年金保険者連合会(VDR)は第2次年金改革法成立以前の1972年1月,第
いたことは明らかで,労働力政策や生産性維持・強化政策とも結びついてい
2次年金改革により将来年金財政がいかに悪化するかを示し,警告を発して
な。
いた1)。しかし,1950年代から長く続いた高度経済成長が今後も続くであろう
1970年代後半から1980年代前半にかけては,インフレや景気停滞,失業と
どいう楽観的予測に基ブきはじき出された,将来の15年に限っても2,000億
いったリセッションの影響が年金制度にも反映され,少子・高齢社会への対
マルクもの剰余金が積み増されてゆく,という幻想に励まされて,与野党は
応へと年金改革の重点が移ってきた2)が,第1次石油ショック以後のこうし
目前に迫った1972年秋の連邦議会総選挙に備えて,双方の要求をできる限り
た年金改革の重点の相対的変化と比較すれば,高度成長期の1970年代中葉ま
取り入れた第2次年金改革を実施したのである。
では『高度経済成長への年金保険の適応』が重点課題であり,年金改革の重
しかし,皮肉なことに,実施直後に石油ショックが世界経済を襲い,経済
点は生産活動から引退した高齢者にも年金を通じて経済政策,経済成長の成
環境は一変して低成長経済へと移行していった。堅実な経済運営を誇ってき
果を分配し,社会的公平をはかることにあり,この課題は第1次年金改革で
た西ドイツも,戦後最大の長期的構造的不況の影響を受けて,成長率低下,
も第2次年金改革でも一貫して追求されてきたといえよう。
賃金上昇率低下,物価上昇,失業者の急増といった一連の現象が顕在化して
注1)Vgl. Hemann[1990],S.138.
きた。その影響を年金保険財政も直接受けることになり,甘い幻想はいち早
2) Vgl. Heine[1990],S.141.
く打ち砕かれたのであった。人口高齢化により年金受給者の対被保険者比率
128 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第8章 1970年代後半における年金保険の動向
がピークになる「年金の山(Rentenberg)」の時期(1975年頃から1980年頃に
かけての時期)を迎えた(図表8−1参照)ことが加重されて,剰余金が増える
どころか,早くも1975年号は収支のバランスがくずれ,年々赤字が増大して
ゆき,年金保険は財政危機に陥ってゆくものと予想されるに至った2)。’
年金保険積立金の将来見通しについては,1975年から1976年にかけて多
くの予測が発表された。図表8−2によれば,連邦政府自身の予測を含めて,
いずれの計算モデルでも現行法のままで何らの対策も講じられないならば,
労働者・職員年金保険は1970年代目から財政的危機に陥ることは不可避で
あり,1980年頃から毎年赤字が雪だるま式に急増して早晩制度自体がパンク
図表8−1「年金の山」における負担率の推移
負担率(%)
60
56
54
52
50
48
46
44
42
40
38
36
34
32
30
0
1968 70 72 74 76 78 80 82 84 年度
(注)1. ここでの負担率は,労働者年金保険および職員年
金保険における強制加入被保険者100人当たりの
図表8−2
1975
現行法に.基づく労働者・職員年金保険の積立資産の将来見通し
連邦政府D
年度
億マルク
431
129
社会保障審議会2)
カ月日
7.4
億マルク
409
カ職分
7.0
ドイツ経済研究所3)
億マルク
429
ドイツ年金保
ッ者連合会4〕
日月分
億マルク
420
7.4
1976
387
5..8
348
5.1
384
5.7
300
1977
326
4.5
274
3.8
316
4.3
220
1978
240
3.1
182
2.3
237
2.9
110
1979
144
1.7
80
0.9
155
1.7
一10
1980
40
0.4
一34
一〇.4
76
0.8
一13G
1981
一41
一〇.4
一133
一1.4
26
0.2
一222
1982
一151
一1.5
一272
一2.7
一43
一〇.3
一352
1983
一268
一2.4
一426
一3.9
一107
一〇.8
一500
1984
一389
一3.2
一590
一5.0
一170
一1.2
一650
1985
一508
一4.0
一756
一6.0
一244
一1.6
一810
1986
一633
一4.6
一932
一7.0
一328
一2.1
1987
一756
一5.2
一1,110
一7.9
一422
一2.5
1988
一890
一5.7
一1,305
一8、8
一537
一2.9
1989
一1,038
一6.2
一1,519
一9.6
一682
一3.5
1990
一872
74.1
1991
一1,118
一4.9
(注)1 仮定:被保険者の平均報酬の年間上昇率7%;毎年の失業率2.5%
2 仮定=被保険者の平均報酬上昇率1975年=8,5%,1976年=5%,1977ん1979年=プ%,1980
∼1989年=6%;失業率1975年=4.8%,1976年=4%,1977年=3%,1978∼1989年=
2%
3 仮定:被保険者の平均報酬上昇率1975年=7.5%,1976年=7%,1977∼1991年=8%;失業率
1975年;4.8%,.1976年=4.5%,1977年=3.5%,1978年=2,5%,1979∼1991年=2%
4 仮定:被保険者の平均報酬上昇率1975および1976年=6≧5%,1977∼1985年=7%;就業者数
の増加率1976∼1978年=1%,1979∼1985年=0,4%(1978年の失業率は3%となる)
出所=Ipstitut“Finanzen und Steuerガ’, Zur Lage der Rentenvεrsicheru㎎, Bom 1976, S.42.
してしまうことが示されている。1975年はまだ収入が多少増えるが,1976年
には赤字が70億マルクとなり,その後年々急増して,中長期的には赤字額が
800億マルクをオーバーすると予測されていた。しかも,各モデルの基礎とな
っている諸仮定(賃金上昇率,失業率)は楽観的経済予測に基づいていた。こ
のように,長期的にはもちろんのこと,今後5年といった中期的観点からも,
年金保険制度の抜本的改正が早急に実施されなければならなかった3)。
こうした差し迫った財政危機をめぐって,年金保険財政建て直しのための
具体的な改革案が各方面から次々に提案された。ドイツ年金保険者連合会は
被保険者年金と寡婦年金の件数で示されている。
出所:BMA[1975], S,50.(同訳書,50ページ)
改革案を実施した場合の年金保険の積立資産の将来見通しを試算している
130 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第8章 1970年代後半における年金保険の動向
図表8−3労働者・職貝年金保険の積立資産将来見通し
(
マルク
ドイ
ッ年金保険者連合会による1976年
(2)1976年総選挙前後の状況
政府および議会は年金財政再建のための関係法規の改正を行わないままに
1 月現在の予測)
十400
1975年と1976年を過ごし,各政党はこの年金財政問題に深入りすることを
5)
十300
鞘
十200
避けて,1976年10月の連邦議会選挙に臨んだ。2大政党の議席差が接近して
8薯。・
、ぐ
で’・∼噛 、、
、
十100
0
1976
1977
1978
1979
4)
2)
●㍉・…..鱒、 、
1975
131
19ぎ0
おり,政権交替の可能性があることから,選挙中の与野党の対決は相当過熱
D∠
冨.一
u1981尋
・・。.1982
1983
1984
1985
したものであった。しかし,各政党は年金保険の財政危機を国民に示さずに,
、、聖・。
一100
3)
矯鳩r転悔
、、
過去における自党の年金改革への貢献を宣伝し,被保険者および年金受給者
、
一200
、響鴨な
一300
の双方を喜ばす甘い選挙公約を乱発して,選挙戦を有利に戦おうとしたので
1)
一400
一500
一600
一700
一800
あった。
選挙の結果は,野党のCDU/CSUが議席数を増やしたものの過半数を制す
るに至らず,第2政党のSPDと少数政党のFDPが引続き政権を維持するこ
ととなり4),両党は12月上旬連立協定交渉に入った。年金問題に関しては,
①次回の1977年7月1日の年金スライド時期を半年延長して78年1月1日
(注)1 現行法通りで,なんらの改正も行われない場合の積立金の推移(基本計算)。これは卿表8−
2のドイツ年金保険者連合会の予測をグラフ化したものである。
2 前記1.と同じであるが,ただし1977年7月1日の年金調整時期を半年繰り下げ,以後毎年
1月1日に年金を調整した場合の積立金の推移。
3 1977年1月1日以降レーヴェ案によりタイムラグを除去した場合の積立金の推移。
4 前記2.一と3.を組み合わせて実施した場合の積立金の推移。
5 前記4.の場合の法律で定められた最低積立金(3カ月支出相当分)の推移。
出所:Herbert Waldmann, Rentenversicherung−wohin2, in=Zeitschr1ft fほr Sozialrefonn,22.
とすること,
②年金受給者疾病保険への年金保険者の負二分を従来の年金支出総額の17
%から11%に制限し,年金保険者の負担を軽減すること,
などで両党首脳は合意した。しかし,年金受給者グループや野党はもちろん
J9. Heft 10,0ktober 1976, S.638,
のこと,SPD, FDPの与党内部からも激しい批判の声が起こった5)。とくに
(図表8−3参照)。それによると,第2次年金改革で実施された既裁定年金のス
第1点については1977年7月の引き上げを約束し,選挙戦の目玉としてきた
ライド時期の半年繰り上げを1972年以前の状態に戻して,1978年以降は毎
両党の選挙公約に違反するものであった。
年1月1日とするといった措置を実施するだけで,かなりの効果がみられ,
この決議はわずか1日で撤回され,連立協定交渉委貝会は年金保険の財政
この措置に加えて,一般的算定基礎(B)をその年の平均賃金上昇率と同率で
再建に関し新たな決:定を行い,1976年12月13日になって両党により正式に
算定するいわゆる完全現実化(Vollaktualisierung)の措置をとれば,法定最低
承認された。年金保険に関する新協定は以下のとおりである6)。
積立金(3カ月支出相当分)を少し下回る程度の積立金が確保されて,年金保
①選挙公約どおり,既裁定年金は1977年7月1日に約9.9%引き上げる。し
険の財政危機は1985年頃までは回避されることが予測されていた。
かしその次のスライドは1年半後の1979年1月1日とし,それ以降は毎年
1月1日に年金のスライドを実施する。
②新規裁定年金は従来どおり総賃金を基準に算定するが,既裁定年金は1979
132 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第8章1970年代後半における年金保険の動向
133
年1月1日以降は総:賃金ではなく,純賃金を基準にして調整し,可能な場
合はそれ以上のスライド率で引き上げる。
2 第20次年金調整法による財政健全化対策
③年金保険料率は現行どおり18%に据え置く。また,年金受給者疾病保険へ
の年金受給者からの保険料の徴収は行わない。
④年金保険の法定最低積立金は,従来の3カ月支出相当分から1カ月分に引
き下げる。
⑤年金保険者の年金受給者疾病保険に対する支出は,1977年7月1日以降は
最高11%に制限する。
⑥児童加算額は引き上げず,リハビリテーション給付および外国年金(国外居
(1)2つの年金調整法の成立
連立協定交渉での年金問題に関する新決議に基づき,政府案が1977年3月
に連邦議会に提出された。同年6月27日に議会を通過した第20次年金調
整・法定年金保険財政基礎改善法(Gesetz zur Zwanzigsten Rentenanpassung
und zur Verbesserung der Finanzgrundlagen der gesetzlichen Rentenversiche−
rung vom 27.6.1977)(以下では,第20峯年金調整法〈Zwanzigstes Rentenanpas−
住者の受ける年金)は減額される。
sungsgesetz>と略称する)は年金保険の財政建直しを主たる目的にしており,
この新協定では,1977年7月1日スライドという選挙公約は一応守られて
その後の年金制度見直しの第一弾として,1977年7月1日から施行された。
いるものの,半年繰り下げが1年間引き伸ばされたにすぎず,この新しい決
しかし,第20次年金調整法の措置のみでは約130億マルクの節減効果しかな
議も激しい批判にあった。しかし,ともかくも12月15日の首班選出にこぎ
く,1982年までに生ずると予測される320億マルクを超える赤字対策として
つけ,第2次シュミット(Helmut Sc㎞idt)1内閣は曲がりなりにも発足した。
は不十分であった1)ので,第二弾として第21次年金調整法(Einundzwan−
そして,社会保障担当のアレント(Walter Arendt)労働社会大臣は結果的に
zigstes Gesetzαber die Anpassung der Renten aus der gesetzlichen Rentenver−
責任をとって辞任する形をとり,新たにエーレンベルク(Herbert亘hrenberg)
sicherung vom 25.7.1978)(以下では,第21次年金調整法〈Einundzwanzigstes
が就任し,年金保険問題は本格的な調整期に入ることとなった。
Rentenanpassungsgesetz>と略称する)が1978年7月可決成立し,年金財政再
注1)Vgl. Rohwer−Kahlmann[1977],S.593.
2) 「年金の山」については,下和田[1981],25ページ参照。
3)1970年代後半の年金保険に関する財政論議および財政予測については,詳しくは
下和田[1978a],108ページ以下および下和田[1979],14ページ以下参照。
4)1976年10月の総選挙による連邦議会の政党別議貝内訳は,CDU 190議席,
CSU 53議席で両党の合計で243となり,他方SPD 214とFDP 39の両党議席を合
建のための新たな対策が実施に移されることになった。
両年金調整法ともいずれも短期的中期的対策を重視したものであるが,75
年後半以降の年金財政再建期の基本的方向を打ち出したものといえ,以下で
は,この両法の改正内容について検討する。
計すると253となり,与党と野党の議席差は10議席となった。
5) Vgl. z. B. K61nische Rundschau vo皿11.12.1976, SS.1,3.
6) Vgl. Rohwer−Kahlmann[1977], SS.15−16.
(2)第20次年金調整法(1977年)の年金財政対策
第20次年金調整法の主要な改正点は次のとおりである。
1)年金スライドの半年繰り下げ
既裁定年金の年金額は1977年7月1日から9.9%引き上げるが,次回以降
の年金スライドの実施時期は半年繰り下げて,毎年1月1日とする。したが
134 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第8章 1970年代後半における年金保険の動向
135
って,次回は1978年7月1日ではなく,1979年1月1日に年金額のスライド
①被保険者の保養(Kur)に対する請求権に厳しい制限を設ける。
が実施される。
②児童加算の自動的引き上げは1977年7月1日からは実施しない。
2)部分的現実化
③年金受給者疾病保険の財源の一部として,年金保険機関はこれまで法定負
既裁定年金の年金額算定の基礎となる一般算定基礎(B)の部分的現実化
担率の10.98%を大幅に上回る年金支払総額の17%(1976年実績で)前後を
(Teilaktualisierung)が実施される。従来はBは,保険事故発生の前々年に先
毎年疾病金庫に支払ってきたが,今回の改正により,法定負担率を11%に
行する3年間の被保険者全員の平均年間総労働報酬を基準に計算されていた
引き上げて,その率で固定し,今後は年金保険機関はそれ以上の超過負担
(たとえば,1978年のBは1974年,1975年,1976年の平均年間総労働報酬Eから
は行わないことになった。また,民営疾病保険に加入している年金受給者
算出される)が,今回の改正により,保険事故発生の前年を含めた3年間(1978
に対する保険料補助額も年金額の11%に定められた。
年は1975,1976,1977年の3年間が算出基準年となる)の平均総労働報酪から計
④強制加入被保険者が失業した場合,その期間は脱落期間として保険料を支
算されることになる。その結果,従来よりもタイムラグが1年間短縮されて,
払うことを免除して保険期間に算入していたが,今回の改正セ,1979年1
年金が現実の賃金水準の変動により近い数字でスライドされることになっ
月1日より失業した者からも年金保険の保険料を徴収することとなり,そ
た。
の費用は失業保険機関が負担することになった。
3)法定最低積立金の引き下げ
1969年に年金保険の財政方式が賦課方式に切り替えられた際に,・労働者・
(3)第2①次年金調整法の評価
職員年金保険の法定最低積立金は前年度支出額の3カ月分を少なくとも積み
1975年にすでに年金保険の収支が不均衡を生じ,12億マルクの赤字が発生
立てることを義務づけられたが,今回の改正により1カ月分に引き下げられ
しているとはいえ,積立資産は法定最低積立金3カ月分をはるかに上回る約
た。さらに労働者年金保険と職員年金保険の間の財政調整の条件を緩和し,
7カ月下に相当する430億マルクもの金額に達していた。しかし,1976年に
一方の部門(現実には職員年金保険)の積立金が4カ月を上回らない場合でも,
は赤字額は72億マルクに急増し,したがって積立金も658億マルクに急減し
自制度の年金支払いに支障が生じない限り,他の部門(労働者年金保険)への
ている。1977年にはさらに赤字額が確実に100億マルクを超えることが見積
財政援助を行うことが義務づけられた。
もられており,積立金はかろうじて3カ月支出分に相当する253億マルクに
4) 自営業者などの任意加入者への優遇措置の是正
減少するものと予想されていた。法律的改正が行われないならば,1980年ま
任意加入者の最低保険料を1977年までの月額18マルク(1957年以降20年
での赤字額はさらに増加し,これまでの積立金をすべて費消した上になお
間据え置かれていた)から1978年に36マルク,79年72マルク,80年83マル
400億マルクを超える債務が発生することになる。換言すれば,1976年目ら
クと段階的に引き上げる。また,任意加入者の保険料納付期限を1980年から
80年までに約800億マルクの赤字が発生する。こうした状況の中で,1980年
は1年短縮し,強制被保険者と同様に当該暦年の末日までとする。さらに任
前後までの数力年を見通した第20次年金調整法が制定されたことになる。
意被保険者,とくに自営業者に対するいくつかの優遇措置も廃止する。
5)その他の改正点
年金保険の財政再建を主目的とする第20次年金調整法の諸改正は支出抑
制策と収入安定対策および財政方式修正に区分できるが,1980年までの支出
136 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第8章1970年代後半における年金保険の動向
137
節減効果としては年金スライドの半年繰り下げで約154億マルク,児童加算
ツ人が非難してきた単一年半保険(Einheits−Rentenversicherung)へ実質的に
のスライド中止で17億マルク,年金受給者疾病保険の超過負担の停止で317
歩き始めたことを意味する。また,法定最低積立金の1カ月分への引き下げ
億マルクなどが見込まれ,逆に増収効果は失業保険機関からの保険料負担に
が円滑な年金支払の障害となり,景気停滞が続けば,国庫負担の不可避的な
より約49億マルクなどが見込まれていた2)。結局,第20次年金調整法による
増額,それに伴う自治管理の後退と国家の影響力の増大という現象を生じさ
負担軽減効果は1980年までで総額600億マルク程度と予想され,800億マル
せる危険性を高めたものということができる。
クの予想不足額と比べてもなお年金財政再建対策としては不十分なものであ
年金保険の財政健全化のためのしわ寄せを疾病保険や失業保険へ転嫁する
った。しかも,その負担軽減効果も連邦政府の再建計画の基礎となっている
対策がとられているが,これらの対策もまた一種の「トリック」ということ
諸仮定が満たされて初めて実現できるものであり,ひとえに今後の経済動向
ができ,その結果はこれら保険部門の料率引き上げや負担増を招くことにな
に依存しているのである。しかし,1980年までの毎年の賃金上昇率7.5%,
る。ただし,これらの措置は年金保険と疾病保険や失業保険との関係を正常
1977年置失業者数85万人(80年までに失業者は65万人に減少),1977年の年金
化したものとみることもできる。
保険料収入増加率対前年比6.5%という、政府予測は,1977年の失業者数が確
自営業者への優遇措置の是正については,ブリュックは第2次年金改革で
実に100万人を超え,1977年の賃金上昇率が6.5%を割り,1977年上半期の
進められた国民保険(Volksversicherunng)化の傾向を阻止し,被用者保険
年金保険料収入はわずかしか増えず,1977年末段階ですべて政府の予想と大
(ArbeitnehmerVersicherung)優位への再転換であるとして評価している。
幅に食い違ってしまったのである。第20次年金調整法の不十分な対策とこう
注1)VgL Hermann[1990],S.127.
した政府予測よりも低い経済成長と失業者急増などの結果として,予定され
ている1979年,1980年間年金調整にも支障を生ずるこどが確実に予想され,
2) Vgl. Reiter[1978],SS.71−72.
3) VgL Br面ck[1977 b],SS.193 ff.
4) Vgl. Brαck[1977 a],S.29.
したがって次年度の第21次年金調整法による新たな財政再建策が早くも必
要とされるに至ったのである。
3 第21次年金調整法による年金財政対策
第20次年金調整法は,ブリュックが指摘しているように,「重大な欠陥を
もった年金保険の再建対策」ということができよう3)。まず一般算定基礎(B)
(1)第21次年金調整法(1978年)の主要な改正点
の部分的現実化という措置は,賃金上昇率が11.4%と非常に高い1974年を
第21次年金調整法の主要な改正点は次のとおりである。
1978年の一般算定基礎の基準年からはずすための「トリック」であり,年金
1)年金スライド率の3年間固定化
受給者をペテンにかけるもので,こうしたやり方は開放的長期安定的な年金
年金スライド率を賃金上昇率にリンクさせずに,3年間固定し,1979年を
政策とは無縁のものである。しかも,これは第1次年金改革の重要原則の1っ
4.5%,1980年および1981年を4%とすることとした。その場合,新規裁定
を修正するものであり,動的年金の核心部分である年金算定式への政治的な
年金も既裁定年金と同じように取り扱われる。したがって,従来の計算方法
干渉であるとして,ブリュックは問題興している4)。
によると,1979年が7,2%,1980年6.2%,1981年6.0%となるが,この3
労働者年金保険と職員年金保険の完全財政調整方式の採用は,多くのドイ
年間は一般賃金水準の上昇率と連結しないで,年金引き上げ率が意図的に低
138 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第8章 1970年代後半における年金保険の動向
139
く抑えられたことになる。年金算定式の一般算定基礎(B)は1979年目21,068
ク×12カ月=864マルク)に相当する場合にのみ,動的年金給付請求権の対象
マルク,1980年は21,911マルク,1981年は22,787マルクに固定される。そ
となる。1978年12月31日までに支払われた保険料はすべて従来どおり動的
の結果,1979年の一般算定基礎は1978年の21,608マルクより低いことにな
年金給付の計算対象になる。
る。1982年以後は,一般算定基礎は原則として再び被保険者全員の平均総報
また,従来2年前に遡って支払うことが認められていた任意加入者の保険
酬の動向に従って引き上げられる予定である。今回の改正により,1979年の
料遡及払い,いわゆる保険料追納は,1980年1月1日以降はその暦年内に制
一般算定基礎は1978年下半期に保険事故の発生した新規裁定年金から適用
限され,これまで2年遅れで保険料を追納していた者も1980年には1979年
されるが,1978年上半期の新規裁定年金の超過引き上げ分との不公平は1981
の保険料を追納できないことになった。この措置は増額保険にも適用される。
年以降の年金引き上げの際に調整されることになっている。
毎月300マルク以上の収入があるか,週15時間以上または年2カ月か50
2)保険料率の引き上げ
日以上働く者は,1979年1月1日以降は年金保険加入をi義務づけられる。月
保険料率が従来の18%から1981年1月1・日には18.5%に引き上げられ
額390マルクという報酬限度額は1980年12月31日まで適用され,1981年1
る。任意加入者の支払う保険料および増額保険の保険料も同様に引き上げら
月1日以後は賃金水準の動向に応じて引き上げられる。
れる。また,年金保険の財政状態と経済成長のいかんによっては連邦政府は
自営業者および任意加入者の最低保険料は,1979年と1980年については
法律により18.5%の料率を18%に引き下げることができることになってい
月額72マルクとし,1981年以降は賃金水準の動向に応じて引き上げられる。
る。
3)年金受給者疾病保険の保険料の年金受給者からの徴収
(2)第21次年金調整法の評価
年金受給者疾病保険のために年金保険機関はその年金給付総額の11%を
連邦政府の説明によれば,第21次年金調整法による改正,とくに年金スラ
疾病金庫に支払うことが定められていたが,それが廃止され,それに代わっ
イド率の固定化,保険料率引き上げ,疾病金庫への年金受給者疾病保険分の
て1982年1月1日から所得状態に応じた個別保険料が年金受給者から徴収
支払停止の措置によって,同法を施行しなかった場合に1982年までに生じる
されることになった。ただし,年金受給者疾病保険の保険料率は今後特別法
と予測される年金保険の赤字320億マルクが埋め合わせられ,しかも積立金
により決定されることになった。その後の経過をみると,1%から始まらたそ
は図表8−4のように推移して法定最低積立金1カ月分を確保できるとして
の保険料率も1983年以後毎年引き上げられ,1985年で4.5%,1989年には
いた。連邦政府はこれらの措置を積極的に評価し,年金制度の安定確保に貢
6.45%になっている。この措置による年金受給者の負担増については,1982
献するものとしていた。すなわち,1979年からの■ ?、3年間でも年金は13%
年1月1日の年金スライドの際に相応の年金の増額を行うことによって相殺
引き上げられることになり,年金受給者は今後も引続き経済成長の成果に与
されるように配慮される予定になつ、ていた。
れるものと評価している。
4)その他の改正点
1979年およびそれ以後に支払われる任意加入者の保険料は,3暦年連続し
て支払われ,合計して少なくとも12カ月分の最低保険料(1979年では72マル
こうした第21次年金調整法の内容に対し,ブリュックは年金制度を第1次
年金改革以前の状態に逆戻りさせた「最悪の解決法」と評価し1),またルッペ
ルトは「操作された年金」とよび2),ともに厳しく批判している。
140 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第8章 1970年代後半における年金保険の動向
図表8−4黎講望欝欝1静合の労賭職員讐
141
策である。というのは,これだと年金が賃金水準の変動に応じて調整される
ことが保証され,政治的中立がある程度確保されるからである。第21次年金
法定最低積立金
年
積立資産
1977年末
253億マルク
3,3カ月分
76億マルク
1978 〃
155
1.9
83
1979 〃
104
1.2
85
1980 〃
89
LO
88
1981 〃
127
1.4
90
1982 〃
165
1.8
93
@(1カ月分)
調整法ではRの固定化は1979年,1980年,1981年の3年間に限定され,1982
年以後は原則として従来どおり総報酬を基準に調整されることになっている
が,それは逃げ口上にすぎず,状況によってはいつでも恣意的に年金を「操
作する自由」を確保せんとしているにすぎない。保守党のCDU/CSUが長年
実行できなかったことを,労働者を支持母体とするSPDとFDPの連立政権
出所:N.N., Rentenanpassungsbericht 1978 und 21. Rentenanpassu㎎s−
gesetz, in:Zeitschrift f血Sozialreform,24. Jg. Heft 5, Mai 1978, S.
が実行したのであるが,年金の調整を賃金水準の動向と切り離して行うこの
315.
措置は動的年金の空洞化ないし無効化であり,1957年以前の状態に戻すまっ
かれらが最も問題覚しているのは,もちろん年金スライド率の3年間固定
たく反動的(reaktionar)措置であるといわれる3)。ルッベルトは,標準年金の
化の措置である。第1次年金改革によって確立された動的年金主義すなわち
場合について,第20次,第21次年金調整法により具体的に年金額がどのよ
賃金スライド方式の年金引き上げの核心は,年金算定式のB,すなわち一般
うに変わるかを計算している(図表8−5参照)が,1982年ではそれ以前の状
算定基礎にあり,それは一定のタイムラグを伴うとはいえ,その時々の被保
況と比べて実に毎月112マルク,年間で約1,341マルクも年金額が減少(約
険者全員の総報酬の動きに連結している点にある。この措置はBの適用停止
9.33銘の減少)し,その影響の大きさを推測することができる。
であり,したがって動的年金への重大な干渉であり,反システム的(system−
保険料率の0.5%引き上げについては,ブリュックは否定的には受けとめ
widrig)ないしシステム破壊的(systemzerst6rend)であるばかりか,既存の原
ていない。というのは,かれは社会の安定のためにはある程度の保険料の引
則を廃止し,別の原則を採用したのと同じことである。長年の保険料支払の
き上げ,とくに事業主負担の増大もやむをえないと考えているからである4)。
後に引退後支給される年金がその時々の賃金水準を反映する一般算定基礎B
ただし,保険料率の引き上げが即時ではなく,2年先の1980年に予定されて
を基準に調整されるということが,老後も年金によって引退前の社会的地位
いる連邦議会選挙の翌年の1981年1月からであり,引き上げ幅が中途半端な
に相応しい生活が確保されるということであり,年金の実質価値の保証とも
0.5%となっている点をかれは批判している。しかも,料率引き上げという重
なる。したがって,こうした措置は,年金額がその時々の政治問題として政
大問題が,年金保険の財政状態や景気の動向によって再び18%に引き下げる
府や政党によって恣意的に決定され,政治的介入によってどうにでも操作さ
ことができるといっているように,かなり安易な考え方から決定されており,
れうることを意味し,年金受給者のみならず,現役の被保険者もまた,年金
年金問題よりも選挙を意識しすぎた動機からなされていることが問題である
制度へ不信の眼を向けることになる。それは世代間契約の原則にも反し,長
といえる。
期安定的に運営されるべき年金制度の性格にも反するものである。同じ年金
年金受給者疾病保険の保険料を年金受給者から徴収することについては,
算定式への侵害でも,Bを総報酬ではなく,税引き後の純報酬を基準に毎年
費用面では年金保険機関にとっても疾病金庫にとっても負担中立的(Belas−
改定するという純報酬主義(Nettoprinzip)の実施の方がまだしもましな解決
tungsneutraDなものであり,評価できるが,その実施が1982年以後と遅きに
142 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第8章 1970年代後半における年金保険の動向
図表8−5 標準年金の発展
143
同時に2%の年金受給者疾病保険の保険料を徴収する案を,この2措置がシ
(保険期聞40年で個人的年金算定基礎率100%の被保険者の年金年額)
?
年度
第20次年
金調整法
以前
第21次年金調
整法以後
(マルク)
な再建策として支持していた。
保険
料率
注1)VgL Br自ck[1978], SS.73 ff.
1981年
(マルク)
1977
第21次年
金調整法
以前
ステム整合的(systemkonform oder systemgerecht)であるがゆえに最も適切
1982年
まで
以後
(マルク)
(マルク)
(11,5491))
2) VgL Rubbert[1978],SS.121 ff
(%)
3) Vgl. Brαck[1978],S.73.
4) Vgl. BrUck[1978], S.74.
18.O
1978
12,097
12,097
12,097
工979
13,105
12,965
12,939
12,641
1980
14,018
13,771
13,147
1981
14,920
14,613
13,672
1982
15,832
15,477
(14,512)
l:::
ll:1}・・78%
14,481
4 1970年代後半の年金政策の性格
18.5
年金制度の財政不均衡をめぐって第1次石油ショック以降論じられている
0.21%
ように,1970年代後半の西ドイツ年金問題がまず何よりも年金財政にかかわ
6,88%
る問題であることは,改めて指摘するまでもないであろう。そうした財政問
9.33〔8,53)%
題を生じさせた最大の原因が1973年秋の石油ショックを契機とする経済環
12.10%
1983
16,768
16,427
(15,412)
15,370
18.5
1984
17,797
17,446
(16,357)
16,322
18.5
1985
18,901
18,515
(17,348)
17,322
18.5
境の変化にあったこともまたいうまでもないことである。
しかし,1970年後半の年金財政危機が,高成長から低成長への移行によっ
てのみ生じたものではなく,年金制度自体の構造ないし過去における改革の
(注)1 1977年7月1日にさらに引き上げられる。
・灘年金はP一嬬・」一・6の被保険者の年金年額であ・・
歴史にも起因することはこれまでの分析から明らかであろう。すなわち,何
出所:Rubbert[1978], S.125.
よりもまず第2次年金改革において,保険料引き上げと景気回復に伴う年金
財政の好転を契機に,保険数理を無視した給付拡大や給付条件の緩和,被保
失する点が問題である。
第21次年金調整法の対策に代わるベターな提案としては,ブリュックは世
険者範囲の拡大といった,年金財政を圧迫する原因となる新たな諸措置が眼
代間契約の視点から,すでに現在年金を受給している者には年金受給者疾病
前に迫った1972年秋の連邦議会選挙を有利に戦うべく,与野党によって競っ
保険の保険料を課し,現在就業している被保険者には保険料率を引き上げて
て提案され,第6会期最終日に急遽可決されたことである。1970年代も高成
高い保険料を課すること,すなわち老齢世代と現役世代が公平に負揖増に参
長が続き,巨額の積立金が蓄積されるという楽観論にたって,第2次年金改
加することがよいとしている。これらの対策で不十分な場合に初めて年金の
革は導入されたといえる。もちろん,年金支給年齢選択制や主婦・自営業者
スライド率を変えるべきことを提案している。
などへの被保険者範囲の拡大といった措置の社会保障政策上の意義は評価す
L
結論的にはブリュックと同じであるが,ルッベルトはドイツ職員労働組合
べきであろう。しかし,一部の学者や研究機関によって,景気のいかんにか
(DAG)の提案,すなわち1979年1月1日から保険料率を19%に引き上げ,
かわらず,第2次年金改革の実施が年金制度に重大な財政危機をもたらすで
144 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第8章 1970年代後半における年金保険の動向
145
あろうことはすでに当時警告されていたのである。第2次年金改革が年金財
る。その後再びこの数字は上昇し,1990年前後に第2の年金の山が訪れると
政危機をより深刻なものにしたことは否定できない。
予測されていた。こうした人口高齢化の中での低成長経済下の年金財政の長
誤
また,第1次年金改革で採用された年金算定式(その核心は動的年金の根拠
期安定化が石油ショック後模索されてきたといえよう。
となる一般算:定基礎Bにある)は賃金が右上がりで上昇する時には問題なく機
こうした内外の諸要因によって発生した年金財政危機を打開すべく,第20
能するが,不況期,とりわけ好景気直後の不況期には年金引き上げ率が賃金
次年金調整法と第21次年金調整法による対策が相次いで出されたのである。
上昇率を上回ることとなり,そのこと自体が社会問題となりかねないばかり
しかし,両法の制定される過程では,当面の財政危機をつぎはぎだらけの対
か,さらに保険料収入停滞・年金支出急増という収支のアンバランスを発生
策でいかに乗り切るかの論議に終始し,提案された対策を通じて達成される
させることになり,財政上多くの問題を派生させることはすでに数回過去に
べき年金保険の理念ないし理想像はどの政党からもまったく提示されなかっ
経験していることである。年金算定式自体は,Bの算定方法に基づき賃金動
た。1970年代後半は第1次年金改革当時と違って,理念なき論議に終始した
向に3年前後のタイムラグをもって年金が調整されるので,賃金が年々上昇
「改革のための思想喪失の時代」ないし模索の時代といえよう。しかも,第1
する時期には必ずしも年金引き上げ率は高くならず,逆に賃金上昇率が低下
次年金改革の時に確立され,その後維持されてきた基本原則を修正ないし変
する景気後退期にはそれを上回る年金引き上げとなり,景気調整的機能を内
質させる反システム的ないしシステム破壊的な内容を含む諸対策が安易に打
蔵するというメリットを有している。しかし,そのことがとくに不況期に年
ち出され,一部の学者がとくに第21次年金調整法に対しては強い危機感を表
金引き上げ率が賃金上昇率を上回る理由となり,1970年代後半にみられるよ
明したのである。年金算定式への恣意的な干渉は,法定最低積立金の1カ月
うな年金財政自体を圧迫することになり,そのような景気調整肝機能を否定
分への引き下げとあいまって,年金制度に対する政治的介入が強まる方向を
するような動きが出てきやすくなる。また,法定最:低積立金が1カ月支出相
明確にしたものであった。年金制度がその時々の政治状況に左右されること
当分でよいとする賦課方式の場合,わずかの経済変動でも財政問題が生じ,
は,保険主義や動的年金主義が空洞化され,年金保険料がやがて目的税とな
年金制度が不安定なものとなりやすい。したがって,賦課方式で年金財政を
り,比例年金が最:低一律給付へと変わり,早晩年金保険が年金扶助と化し,
安定的に運営してゆくためには,こうした欠陥に対処するための制度的工夫
社会的自治管理が解体されて官僚主義にとって代わられる端緒が開かれたと
と関係当事者の十分な自覚ないし共同責任意識が必要とされる。
もいえる1)。こうした懸念を回避するためには,むしろ1976年10月の社会審
以上述べたように,石油ショック後の年金財政問題の発生は,単に景気変
議会やDAGなどが提案しているように,保険料引き上げによる被保険者・
動のみに起因するのではなく,年金制度の構造自体からも派生しているので
事業主の一定範囲内での負担増と年金受給者の疾病保険料引き上げといっ
あるが,同時にそれをさらに深刻化しているのがいわゆる人口構造の変動に
た,第1次年金改革の基本原則と矛盾しないシステム整合的な対策がとられ
基づく「年金の山」である。年金受給者の対被保険者比率(年金者指数Renten−
るべきであったということができる。しかし,保険料引き上げにはFDPが反
fallquotientないし年金受給者率,年金成熟度ともいう)が1975年の49.3%をピ
対し,年金受給者疾病保険料徴収にはシュミット首相が性急に反対の意思表
ークに高くなり,ほぼ2人の被保険者で1人の年金受給者を扶養することに
明を行ったために,いずれも採用されるに至らなかったのである。
なるが,その後年金受給者率は漸次低下してゆき,1985年には46.1%とな
年金問題は単に年金引き上げ率を何パーセントにするかという算術の問題
147
146 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
ではなく,また単なる経営における収支計算と同質でもない。それは人間の
生活ないし「生活の質」「生活状態の分配」にかかわる問題である。・二したがっ
て,被用者,自営業者,年金受給者,失業者のいずれであれ,すべての国民
の年金問題論議への積極的な参加が必要である。その意味で,年金問題は西
第9章 1980年代における構造改革の
試みと年金改革論争
ドイツの民主主義的内部構造の維持,拡大ないし国内の社会的政治的平和の
維持にとってきわめて重要な問題でもある2)。第20次および第21次年金調
整法の諸措置がこうした問題まで意識されて政治家の強い責任感に基づいて
1 1980年代における年金財政再建と構造改革の試み
決定されたかどうかは疑問であった。一時しのぎの解決策がとられた背景の
1つとしては,ブリュックなどが指摘しているように,年金法における男女不
平等が憲法違反であり,1985年までに男女平等を実現する改革を行うよう
に,という1975年3月の連邦憲法裁判所判決が重くのしかかっていたことで
ある3)。こうした改革には,巨額の財政負担増が必要とされるからである。
当時の年金問題に関する論議を整理すると,次のように分けられる4)。
①現行年金保険制度は変化する経済状態に適応する能力を欠いているζいっ
た「適応問題」として把握する立場(Z611ner)
②保守的観点からの「福祉国家危機説」ないし「福祉国家限界論」として捉
える説(Albers, Watrin, Molitor)
③進歩派の立場から社会民主・自由党(SPD・FDP)政権の「改革政策の危機」
(1) 1980年代前半め財政危機と危機管理
本章では,1980年代における年金財政再建と構造改革の試みを跡づけ,
1980年代の主要な年金改革論争を検討する。
1979年の第2次石油ショックの影響も加わり,1980年代に入っても景気は
依然低迷を続け,1970年代後半よりもむしろ深刻化していった。その影響も
加わり1982年秋にはSPD/FDP連立政権は崩壊し,代わってコール(Helmut
Koal)CDU党首を首相とするCDU・CSU/FDP連立政権が誕生した。
第20次および第21次年金調整法を中心とする1970年代後半の年金財政
再建策はかなりの節減効果を挙げたが,中期的な成果をもたらしたにすぎな
かった。経済・雇用環樟は一層悪化し,実質経済成長率は1980年1.5%,81
として理解する一派(Murswieck, Naschold)
年0%,82年マイナス1%,83年1.8%と低下し,‘ [ロ成長ないしマイナス
いずれの立場に立つにせよ,財政危機の結果が,いかなる社会グループの
成長が続いた。他方,登録失業者数は1975−1976年に100万人台に乗ったが,
負担によって解決されるのか,社会的に最も弱い立場にある階層の犠牲によ
1980年代に入るとさらに急増し,1985年には230万人と200万の大台を超
って処理されるのか否かが問題となる。
え,9.3%の失業率を記録している。また,人口高齢化と年金制度成熟化の進
注1)Vgl. Brαck[1977 a],S.29.・
展によって年金受給者数は年々増加し,1972年は年金支給件数1,040万件で
2) Vgl. vom Berg[1978], SS.131 ff.
3) VgL Brαck[1978],S.74.
4) Vgl. Standfest[1978],SS.159 ff.
あったものが,さらに1985年には1,390万件と350万件も増加している。こ
うした年金制度の枠組条件の変化によって,年金財政は1980年代前半にはさ
らに悪化し,年金制度を抜本的構造的に改革することの必要性が一層明確に
なってきた。たとえば,社会審議会は1981年の年金額改定の際に提出した意
148 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第9章 1980年代における構造改革の試みと年金改革論争
149
見書『ドイツ連邦共和国における老齢保障の長期的諸問題』において,年金
年金スライド率の基礎となる一般算定基礎の伸び率を従来のように過去3
財政の長期安定対策の必要性を指摘し,2000年以降の人口構造の変化に対す.
年聞の被保険者全員の平均総:労働報酬の上昇率ではなく,前年のそれによる
る年金制度の在り方を論じている。
こととし,年金スライド率を現役世代の賃金上昇率に直接リンクさせるとい
だが,当座は引続き各種の短期的な視点からの財政健全化対策が試みられ,
う,いわゆる年金スライドの現実化(Aktualisierung der Rentenanpassung)
1980年間ら1985年までは毎年のように保険料率の改定が繰り返された。
が1984年7月1日より実施された。その結果,1984年7月の年金スライド率
1982年12月の1983年予算関連法(Haushaltsbegleitgesetz 1983)では,年金
は前年賃金上昇率と同率の3.4%となり,従来の計算方法によって算出され
スライドの実施を半年延期することを決定し,その結果,前の改定期から1年
る5%強の数字よりもかなり低くなっている。この改正は年金が賃金に3年
半後の1983年7月1日にようやく年金スライドが実施された(この附置によ
前後のタイムラグをもってスライドされてきた点を修正するもので,現実の
る1983年の支出減少額は約38億マルクとなる1})。同時に,延期されていた年金
賃金動向に応じて,すなわち賃金上昇率の近年の低下を反映させて年金をス
受給者疾病保険の保険料が年金受給者から年金支給額の1%徴収され(1983
ライドさせることを意図したものである。最近の賃金動向からは結果的には
年の支出減少額は約7億マルク),その後1984年には3%,1985年からは5%に
年金スライド率を抑制する効果をもち,年金支出を削減する財政効果を挙げ
段階的に引き上げられた。年金保険の保険料率は1983年9月には0.5%引き
ている。すなわち1984年で約15億マルクの節減効果があり,1987年までに
上げられ,18.5%となった(1983年の収入増加額は約8億マルク)。また,連邦
90億マルク以上の支出削減になると予測されている3)。と同時に,年金スライ
補助金の削減(約9億マルク)などの財政対策や失業給付受給者の強制加入か
ド率が完全に賃金上昇率にリンクすることによって,現役世代と年金受給者
らの除外などが実施されている。こうした財政再建策にもかかわらず,年金
世代との公平性を確保するという構造的改革の意義がある。
財政は危機的状況にあり,1984年には数十億マルクの赤字が発生することが
2) 年金水準確保条項の緩和
明らかとなったので,さらに1984年予算関連法では増収・支出削減策により
1972年の年金改革では年金水準確保条項により,標準年金は当年度の予測
中期的に約300億マルクの負担軽減となる一連の対策が決定された。
される平均総労働報酬g)50%を確保することを義務づけていたが,1973年
しかし,198q年代中葉になると,構造改革的要素をもった措置もいくつか
には前々年の全被保険者の平均総労働報酬の50%に改定され,2年連続この
実施されるとともに,各種の構造改革構想が公表され,盛んに論議されるよ
水準を維持できなかった場合には,翌年の年金調整報告において連邦政府は
うになった。1984年予算関連法にも一部そうした改革が導入されているが,
対応策を提案することになっていた。この規制を緩和し,1984年予算関連法
とくに1985年7月の遺族年金・養育期聞法(Hinterbliebenenrenten一一und
では「年金と可処分労働報酬との均衡ある発展の原則(Grundsatz einer gleich−
Erziehungszeiten−Gesetz=HEZG)では重要な改正が行われている2)。
gewichtigen Entwicklung der Renten und der verf負gbaren Arbeitsentgelt)」に
従って年金水準を確保すればよいことになった。これは1)の一般算定基礎の
(2)1984年の予算関連法と年金調整津にホる主要な改正点
算出方法の改定と同様に給付水準の切り下げを容認するものといえる。
1984年予算関連法と年金調整法の主要な改正内容は次のとおりである。
3)特別手当からの保険料徴収
1)年金スライドの現実化
クリスマス休暇手当,有給休暇手i当などの特別手当(Sonderzahlung)を保
150 第3部第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第9章 1980年代における構造改革の試みと年金改革論争
151
険料算定の対象となる労働報酬に含めて保険料を徴収するという拠出義務の
年間でに年金法における男女不平等を除去し,女性(妻)の年金権を確立する
強化がはかられた。この対策により1987年までに約120億マルクの収入増が
ために,以下のようないくつかの提案を示していた。
見積もられていた4)。
①寡婦年金と寡夫年金の受給資格要件を同一にする。一
4) 障害年金受給要件の厳格化
②婚姻中に取得した年金請求権は婚姻中夫半間で継続的に分割(Splitting von
稼得不能年金・就業不能年金の受給資格要件を厳しくし,待機期間を満た
Versorgupgsanwartschaften)され,妻の固有の年金権を確保する。
すだけでなく,さらに保険事故発生の直近5年間のうち3年間の保険料拠出
③夫婦ともに生存中は各自の年金請求権に基づく年金給付を受け,配偶者の
期間を有することにした。これは年金の賃金代替性を強化する対策であった。
一方が死亡した場合には遺族年金が当然に支給されるのではなく,自己の
この措置による節減効果は1987年までで17億マルクと予測されていた5)。
保険事故によって初めて夫婦が婚姻中に取得したすべての年金請求権の合
5)受給資格期間の緩和
半額の70∼75%(本来の持分50%+増加需要分20%)の年金を受ける。ただ
満65歳の通常退職年齢で受給する老齢年金の受給資格要件である保険加
し,子供を養育しているか,または老齢により要扶養状態にある時は,そ
入期間が従来の15年間から5年間に短縮された。これは育児のために就業が
中断されがちな女性の立場を配慮した改革であり,女性の受給資格者が増大
する措置であるが,少子社会対策として注目されよう。
1
れ以前でも稼得不能年金の70∼75%に相当する遺族年金を受給できる。
④稼得活動に徒事していない被保険者の配偶者を強制加入させ,その保険料
は稼得括動に従事している配偶者の30∼50%を基準に拠出させる。夫婦と
6)再婚する寡婦・寡夫年金の一時金切り下げ
もに生存中は各自の年金請求権に基づく年金給付を受け,配偶者の一方が
寡婦・寡夫年金の受給者が再婚する場合に支給される一時金の額を過去の
死亡した場合にも③と同じく自己の保険事故によって夫婦が婚姻中に取得
年金額の5年分から2年分に減額した。
したすべての年金請求権の合計額の75%(本来の持分50%+増加需要分25
7)そ の 他
%)の年金を受ける。
従来の年金の児童加給を新規裁定年金から児童手当に切り替え,また結核
1980年目総選挙当時は,③の「持分年金(Teilhaberente)」方式が最も支持
給付を疾病保険の給付に切り替えて,年金財政の軽減をはかった。
を得ていたが,年金財政の一層の深刻化に伴い政策転換が要請され,実施に
しかし,これらの措置でもなお年金財政の困難が予測されためで,1984年
あたり追加費用を必要としない費用中立(Koste㎜eutralitat)的な改革が求め
12月の雇用促進・年金保険改正法(Arbeitsf6rderungs−und Rentenversiche−
られていった6)。その結果,「控除方式(Anrechnungsmodell)」1こよる控除額つ
rungs−Anderungsgesetz)により,1985年から1989年までにかぎり保険料率を
き遺族年金(Hinterbliebenenrenten mit Freibetrag)制度の導入が決定され,
18.7%まで引き上げることが決定された。
1985年7月に成立した遺族年金・養育期間法により,この制度が1986年1
月より実施されることとなった。同法の主な改正点は以下のとおりである。
(3) 1985年の遺族年金・養育期間法による主要な改正点
1975年3月の連邦憲法裁判所の判決を受けて,1977年に連邦政府により設
置された「女性(妻)および遺族の社会保障のための専門家委員会」は1984
1)遺族年金における男女間格差の解消
・
配偶者が死亡した場合の寡婦または寡夫に支払われる遺族年金は死亡した
配偶者の年金の60%とし,男女(寡婦と寡夫)の差別をなくした。すなわち,
152 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第9章 1980年代における構造改革の試みと年金改革論争
旧法における寡婦年金の受給要件を寡夫年金にも拡大することになった。
2)控除額つき遺族年金制度の導入
、
♂
控除額つき遺族年金制度.(Hinterbliebenenrenten mit Freibetrag)が1986年
正法の決定を修正して1985年6月から89年末まで19.2%とすること,連邦
補助金を1985年にかぎり15億マルクを限度として行うことを決定した。
注1)VgL He㎜ann[1990], S.132.
1月から導入された。すなわち,遺族年金受給者の所得月額が900マルクを超
2)たとえば,以下の文献を参照のこと。
①宍戸[1989],117−121ページ。、
えた時には,その超過額の40%(ただしこの数字は第1年目は0%,第2年目10
②Schmahl u. a.[1986], SS.72−74.
%と毎年10%ずつ引き上げられ,5年目から40%となる)を遺族年金に算入し
て,その分だけ年金の支給を停止することとした。
153
③BMA[1986], SS,24−30.
④Hermann[1990],SS.136−138.
3) VgL Hermann[1990], S.133.
4) VgL Hermann[1990],S.133.
3) 児童養育期間の保険期間への加算
5) Vg1. Hermann[1990],S.133.
実母,義母,養母のいかんを問わず,生後1年間子供を養育した者はすべ
6) Vg1. Hermann[1990], S.136.
7)宍戸[1989],119−120ページ参照。
て,1年間の保険期間を有するものとし,その期間は被保険者の平均賃金の75
%を得ていたものとして評価される。したがって,5人の子供を養育した女
2 1980年代の主要な年金改革論争
性は,それだけで通常の老齢退職年齢(満65歳)による老齢年金受給資格を
得られることになる。この措置は少子社会への対応を図るための構造改革の
試みとして注目される。
2)の控除方式の採用は,遺族年金の支給に受給者の需要に応じて制限を加
えており,一種の資産調査の導入であり,その意味で保険主義からの逸脱で
あるとして批判される。また,財産権(Eigentumsrecht)として認められてい
る被保険者年金と異なり,生計費補償(Unterhaltsersatz)としてみるこの方
式は,前述の婚姻中の年金権の離婚時における分割といった提案などにみら
れる,夫婦財産の取扱いにおける男女平等の推進という立場からは後退した
ものであるとの指摘があるη。
ユ980年代の改革の中心テーマの一つが遺族年金と女性の年金権の確立に
あったことが以上の考察から理解できるが,これは後述するように,1975年
の連邦憲法裁判所の違憲判決により,連邦政府が1984年までに遺族年金の男
女平等と女性の年金権保障のための法律改正を求められていたことによる。
1984年から1985年にかけての変動準備金不足を解消するために「年金保
険財政基盤強化法」が1985年5月に可決され,1984年雇用促進・年金保険改
西ドイツの年金保険制度は,1957年の第1次年金改革.と1972年の第2次
年金改革により,世界でもトップクラスの水準にあるといわれている。しか
し,第1次石油ショック後の経済社会環境の変化に対応するために,1970年
代後半および1980年代に「調整と改革の試み」が行われたにもかかわらず,
年金財政は依然として不安定な状態が続いていた。他方,1975年の連邦憲法
裁判所の判決により,1984年までに年金制度における男女不平等を是正する
ことを連邦政府は義務づけられ,1984年を目指した第3次年金改革ともいう
べき1984年改革が期待されていた。しかし,1980年代に入っても,小改革
(Ref6rmchen)のみが繰り返されて,アデナウアーの第1次年金改革に匹敵す
る「世紀の改革(Jahrhundertreform)」は実現しなかった1)。
こうした状況の中で,超高齢化社会を迎える21世紀に向けて社会・経済構
造や人口構造といった枠組み条件(Rahmenbedingungen)の変化に適応した,
長期的に安定した年金制度を確立するには,従来のようなつぎはぎだらけの
弥縫的対応策ではなく,本格的な取り組みの必要なことが各政党や関係者に
154 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第9章 1980年代における構造改革の試みと年金改革論争
155
より広く認識されるようになり,拙くに1980年代中葉にはいわゆる年金制度
マンモデル(Bangemann−Modell)である。同モデルは1963年にFDPで検討
の「構造改革(Stmkturreform)」が盛んに論じられるようになった。すなわ
されたミシュニクプラン(Mischnick−Plan)を継承するものであり,三層年金
ち,従来のような部分的修正のみでは成熟経済化,超高齢社会化といった年
システム(dreigestaffelte Rente)を提案している。それは第一層に主婦を含む
金制度をめぐる枠組条件の変化にもはや対応してゆけないことが誰の眼にも
全国民を対象とする国庫負担による統一基本年金(Einheitsgrundrente)を新
明らかになってきた。すなわち,1983年,1984年の予算関連法や1985年の
設し,第二層として保険主義に基づく保険料を財源とする国家監督下の追加
遺族年金・養育期間法などにより構造改革の試みが行われる一方で,各政党
年金(Zusatzrente),第三層に任意加入の私的追加年金(freiwillige, privat−
や各種団体・学会,研究者などにより各種各様の年金改革構想が提示され,
finanzi6rte Zusatzrente)を上乗せするものである。したがって,公的年金と
活発な論議が展開されてきた。構造改革といっても,現行制度の枠組の中で
してはまったく新たに新設される租税方式の統一基本年金と現行制度を全面
の抜本的改革を行うという立場をとる論者が多いが,1980年代中葉の改革論
的に再編して機能を限定した追加年金の二層からなるものである。しかし」
争においては現行制度を一部または全面的に廃止し,新制度を導入する革新
この提案はCDUや連邦労働社会省の反対にあい, FDPでも拒否されたが,
的な構造改革案が数多く提示されたことが特徴的であった。とりわけ,各種
バンゲマン自身は同年7月に修正案をだし,.基本年金の導入に固執していた
の「基本年金」構想が政治的に異なる立場の論者たちによって1985年頃に相
といわれる。
次いで提示され,注目された。その意味で,1980年代は「年金改革論のルネ
第2に示す基本年金案は,ミニ野党「緑の党」が提案した「緑の党モデル
ッサンス」といっても決して過言ではない。
(Modell der Gr伽en)」である。同党はドイツ経済研究所(Deutsches Inst量tut
本節では,それらのうちの主要なものを,①基本年金構想,②現行の枠内
ぐ
での改革構想,③賦課方式と積立方式の折衷案の三種類に分けて検討する。
f曲rWirtschaftsforschung=DIW)の報告書に基づき,1985年6月,連邦議会
に「老後の貧困(と農業者老齢扶助における社会的不公平)に代わる基本年金」
構想を提案し,年金制度の抜本的改革を提唱した。その内容を見ると,第1に
(1)基本年金構想
西ドイツ在住の満60歳以上の全住民に均一の動的基本年金を支給するが,そ
第1グループに属する改革案は,現行制度を一部または全面的に廃止して,
の月額を1985年の価額で1,000マルク(DM)とし,その財源は価値創造税な
租税方式による基本年金を導入するラディカルなもので,与野党などにより
どの新税で確保するというものである。第2に,この基本年金を補完するた
いくつかの提案が行われている。その基本的な考え方は,現行制度の枠組内
めに,稼得収入のある全就業者(公務貝,自営業者,農民を含む).を対象とする,
での改革では,今後の急速な人口高齢化や低成長経済・大量失業の下で年金
保険料を財源とする動的追加年金(dynamische Zusatzrente)が上乗せされ,
制度の長期的安定を維持することはできず,したがってすべての国民の老後
強制保険として実施されることにしている。そして,基本年金と追加年金を
保障を確保できないという立場から,なんらかの基本年金制度の導入を主張
併せて保険期間40年の場合で総労働報酬の45%の年金水準を確保すること
するものである2)。
とし,追加年金の保険料率は9%(被保険者のみの負担分)とする。緑の党モデ
その第1は,連立政権を支えるミニ与党である自由民主党(FDP)の党首で
ルも,公的年金としては租税方式による基本年金と保険方式による追加年金
連邦経済大臣のバンゲマン(E.Bangemann)が1985年4月に提案したバンゲ
の二層年金となっている。高齢者の貧困防止,年金権の男女平等化などを目
156 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第9章 1980年代における構造改革の試みと年金改革論争
157
的に提案された,上述の特色をもつ緑の党モデルは十分野議論が連邦議会で
険型追加年金を上乗せした,その意味で中途半端な他の2モデルと異なり,
は行われずに終わっているが,その後同党は1986年の選挙綱領においても同
現行制度を全廃し,均一の租税型動的基本年金を63歳以上のすべての高齢者
モデルを主張した。
に支給するという,単純明快かつ大胆な改革案となっている。そして,家計
第3番目の提案は,ガイスラーの後を次ぐ社会政策部門の責任者でもある
の経済力上昇,私的保障能力の向上を論拠に,公的な老齢・障害・遺族保障
CDUの有力者ビーデンコップ(Kurt H. Biedenkopf)の主宰する経済・社会
を最低生活の保障に限定し,それを上回る追加的保障は各個人の自助努力に
政策研究所(lnstitut fnr Wirtschafts−und Gesellschaftspolitik=IWG)の関係
委ねるという,私的保障重視の立場を鮮明にしており,イギリスの最近の
者によって1985年秋に発表された基本年金構想であり,いわゆるミーゲル=
1987年年金改革と同様に,国家の活動領域を限定し,市場原理や国民の自助
IWGモデル(Miegel=IWG−Modell)である3)。
努力を重視するものであった。
このモデルでは,満63歳以上で,成人後25年以上の納税義務を満たした
者に対して,その時々の被用者全員の平均純賃金の40%(1985年現在極額で月
(2)現行制度の枠内での改革構想
額800マルクとなる)を保障する均一の動的基本年金を支給することにしてい
制度そのものの仕組みを変更するという(1)に挙げた改革案を抜本的「構
る。ただし,迫町不能年金は5年以上の納税義務と勤務年数を有する者に支
造改革」とよべば,この(2)で検:討する改革案は現行制度の枠内での大幅な
給され,寡婦年金ないし寡夫年金は配偶者が25年の納税義務を満たし,保険
「構造改善」ないし「制度修正的改革」ということができ、よう4)。
事故発生直前までの7年間未就業の鳩合でも満50歳から支給されるd遺児年
連邦政府,少なくとも管轄官庁の連邦労働社会省および保険者である各年
金は両親のどちらか一人が保険事故発生前に最低5年納税義務を満た七た場
金保険機関の年金改革に対する態度はかなり明確であり,(1)の方式ではな
’合には,基本保障の50%が教育終了までか,遅くとも27歳になるまで支給
く,(2)での漸進的年金改革を目指してきた。この分類に入る改革案は最も
される。基本年金の財源はすべて一般租税収入から賄われ,財源の3分の2が
種類が多く,バラエティに富んでおり,いわば西ドイツにおける年金改革構
間接税により,残りの3分の1が直接税により調達される。そのために,1985
想の多数派といえる。しかし,その具体的な修正ないし改革については,議
年に約17.5%の所得税は2010年には約22%に,付加価値税は14%から約
論が分かれ,各種の提案が出されたが,その主要なものをここでは取り上げ
20%に上昇すると予測している。このモデルでは,約25年の移行期間をかけ
る。
て現行年金制度を廃止することにしている。この基本年金構想もCDUの幹
1) 社会審議会の意見書
部会で同意が得られず,同党の年金政策には採用されなかった。
連邦労働社会省に設置されている社会審議会(Sozialbeirat)は,毎年の年
与野党の一部から出された基本年金構想は,いずれも1984年から1985年
金調整報告に際し,その意見書を連邦政府と議会に提出することになってお
にかけての年金改正に関する論議を通じて提案されるに至ったものである。
り,年金制度の発展に重要な役割を演じているが,すでに1981年7月の意見
基本年金導入を連邦議会に提案した西ドイツ史上最初の政党は緑の党であっ
書「ドイツ連邦共和国における老齢保障制度の長期的諸問題」では,人口構
たが,最も反響の大きかったのは,与党のCDU関係者による本格的基本年金
造の変動に伴う年金財政問題の克服策として,現行制度の枠内で問題を解決
モデルのミーゲル=IWGモデルであった。本モデルは,租税型基本年金に保
してゆく方針を打ち出し,
158 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
①被保険者の可処分所得の伸びに応じて,年金受給者の年金額を調整する方
式に改めること,
第9章 1980年代における構造改革の試みと年金改革論争
159
①1972年に導入された年金年齢選択制を見直して,年金支給開始年齢を徐々
に引き上げること,
②保険料と等価でない給付に対応するものとして,連邦補助金を現在の一般
②しかし,職業生活から年金生活への移行を円滑にするために,減額年金ま
算定基礎ではなく,年金給付費の上昇率に合わせて引き上げ,増額するこ
たは増額年金を導入し,退職年齢を流動化して年金生活への移行を個人の
と,
選択に委ねること,
などを提起していた。1986年4月の意見書「老齢保障全体の枠組みにおける
などを提案している。
法定年金保険の長期的財政強化と体系的発展のための構造改革に関する社会
3)下イツ年金保険者連合会の意見書
審議会の意見書」では,租税方式による基本年金の導入を否定し,改めて第
公的年金制度の管理機関の全国組織であるドイツ年金保険者連合会(Ver−
1次年金改革以来の現行制度の原則に基づく構造改革を行うことを確認し
band Deutscher Rentenversicherungstrager)は,1987年6月に「法定年金保険
た。そして,当面の緊急課題として,
の長期的発展のために」と題する意見書を公表したが,その中で現行制度の
①年金スライド率を全被保険者の平均総労働報酬ではなく,平均純労働報酬
枠組みでの改革を確認し,
の上昇率に変更すること,
②年金課税を見直し,被用者と年金受給者との公平を期すること,人口構造・
経済構造の変化に対応するために連邦補助金を引き上げること,
③保険料不拠出期間を見直し,一部については保険料拠出期間に変更し,保
険主義を強化すること,
④養育期聞の算入の拡大や介護者への給付の拡大は扶養主義の拡大として認
めるが,その費用はあくまで国庫負担によるものとすること,
などを挙げていた。連邦労働社会省はこの意見書に基づいて年金改革の作業
に着手した。
①被用者の可処分所得と年金受給者の年金額の上昇率が乖離しないように,
純労働報酬による調整(純調整主義Nettoprinzip)に移行すること,
②連邦補助金を年金支出年額の20%に引き上げ,年金支出や保険料率の変動
に応じて見直すこと,
③保険料無拠出期間を見直すこと,
などを提案している。
4)連邦職員保険事務所の部分年金構想
職員年金保険制度の管理機関である連邦職員保険事務所(Bundesversiche−
rungsanstalt fUr Angestellte)は,1987年2月に部分年金(Teilrente)構想を
2)保険学形成協会の年金支給開始年齢引き上げ論
発表した。60歳から65歳の被用者に対して保険数理に基づく年金の減額支
その時々の社会問題に戦後積極的提言を行ってきたケルンに本部を置く保
給ないし追加支給を認める立場から出発しているこの部分年金構想は,老齢
険学形成協会(Gesellschaft f臼r Versicherungswissenschaft und二gestaltung e
年金の早期受給者をこれ以上増やさずに,パートタイム労働の促進を図り,
V.)は,保険料を負担可能な限度に抑え,現行の年金水準を維持するためには,
就業期間をできるかぎり延長し,年金財政の負担軽減と職業生活から年金生
現行制度の枠組みの中での改革としては,生涯労働時問を延長し,年金支給
活へのスムーズな移行とに役立てることを意図している。
開始年齢を引き上げることが必要不可欠である,とする構造改:革案を1987年
に発表した。その中で,
これら団体の年金改革構想は,いずれも現行年金制度の枠内での改革を目
指す点で一致しており,共通する点も多く,連邦政府の改革作業もこれらの
160 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
提案に影響されながら進められていった。
他方,野党のSPDは,1972年に第2次年金改革に『より導入された最低年金
第9章 1980年代における構造改革の試みと年金改革論争
161
と運用利息を年金三塁として退職後に追加年金を終身間支給するもので,追
加年金額は個々の被保険者の年金源資額によって算定される。早期に死亡し
保障制(Rente nach Mindesteinkommen)による年金額の計算方式を一般化し
て余った残額は遺族には支払われずに,長生きして自己の年金源資を費消し
て,現行制度の中で構造的に発生する低額年金をなくするための年金最低保
た人々の年金支払いに振り向けられることになっており,いわゆるトンチン
障(Mindestsicherung)を主内容とする1985年年金改革法案を連邦議会に提出
性年金の方式をとっている。追加年金については,現行方式以上に保険主義の
した。同党は1987年の社会政策綱領においてもこの考えを社会的基本保障
強化されたものとなっており,私保険的性格のきわめて強いものといえよう。
(Soziale Grundsicherung)として採用している。
シュバルツ=シリングモデルは,連邦政府などの(2)による改革案ではい
ずれも不十分であって,いずれ保険料率も被保険者や企業の負担限度を超え
(3)賦課方式と積立方式を組み合わせた年金改革構想
たものになるとの考えに立って,世代間の負担公平をも考慮して早急に荒療
これまで取り上げた(1)の基本年金構想と(2)の現行制度の枠内での改
治を行うことを提案している。まず将来も保険料率25%の負担限度を超えな
革構想は新制度を導入するか否かという点でまったく対照的な考えに立つも
いように,現世代が1.5倍の保険料(企業の負担はそのまま9.35%に据え置く
のである斌これらニグループとも異なるいわば第三の道を探る改革案がこ
と仮定すると保険料率を現行の19.7%から23.5%に引き上げることになる)を負
の(3)に入る。ここでは,1987年に提案されたバトラー=イエーガーモデル
担する。連邦補助金の負担は年金支出の27%を超えるべきではないので,現
とシュバルツ=シリングモデルについて簡単に検討する5)。
在の約17%(これは労働者年金保険と職貝年金保険の2制度を平均した数値であ
バトラー=イエーガーモデルは,賦課方式で運営されている現行年金制度
る)を1995年以後27%に引き上げる。保険料と連邦補助金の増収分を2015
をいわゆる部分積立方式(Teilkapitaldeckungsverfahren)の年金制度で補完す
年までに積み立てると約30億マルクに達するので,これを年金源資ストック
る改革案である。現行制度を変更しなければ,現在約19%の保険料率は2030
(Kapitaldeckuhgsstock)とし,それ以後の年金支出の一部に充当する。支出抑
年頃までには38∼40数%にもなり,被保険者や企業の負担限度を超えて,制
制の措置は今後も実施し,被用者の平均純労働報酬との比較でみた年金水準
度自体の維持も困難になるとの考えから,人口高齢化がピークを迎える2030
は現在の70%台から約65%に引き下げることにしている。したがって,こ
年頃でも保険料率を30%以下に抑制するために,積立方式による追加年金制
のモデルでは,賦課方式の現行制度の大幅見直しを行い,それに積立方式を
度の導入が提案されている。このモデルでは,公的年金の主要部分は従来の
併用して,2030年頃に訪れる「年金の山」のピークを乗り越えようとするも
制度を部分的に修正した年金によって占められており,保険料率や給付を抑
のである。
制して年金水準の低下した部分を積立方式による追加年金で補完しようとす
るものである。追加年金を1990年に導入したとすると,現行制度と新制度を
あわせた保険料率は2020年頃までは現行方式より若干高くなるが,それ以後
は低く抑えられると予測している。新制度では,稼得期間中に払い込まれた
保険料は年金源資ストック(Kapitalstock)として積み立てられ,その積立金
注1)VgL Faupel[1988],S.201.
2)Igl[1988], S.590では,基本保障ないし最低保障iの概念を
①社会扶助に類似した,困窮度に応じた基本保障の導入,
②現行制度の枠内で,少額年金回避の仕組みを取り入瓦た,最低所得保障年金制に
基づく年金最:低保障の実施
③現行制度の維持または廃止のいかんを問わず,独立した基本保障の導入,
の3タイプに分類し,①にはUf Fink,②にはGerhard Becker,③にはMiegel/
162 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
Wahlの改革構想などが属するとしている。本稿は,③のタイプに入る基本保障の提
案を主に取り上げる。
3)Vgl. Miegel/Wahl[1985].本モデルについては,下和田[1990],241ページ以
下で詳細に紹介検討しているので,参照さ瓦たい。
4) Vgl. Kolb[1986], SS.1ff.
5)バトラー=イエーガーモデルについては,Buttler/Jager[1988],SS2385−406.
シュバルツ=シリングモデルについては,Ruland[1988],SS.109−113.
をそれぞれ参照のこと。
3 ドイツ年金史における1980年代の性格
1980年代は,戦後の西ドイツ年金史において,以下の2点から評価するこ
とができる,と考えられる。第1に,1980年代は第1次年金改革の行われた
1950年代に次いで本格的な年金改革論が展開された時期であり,いわば「年
金改革論のルネッサンス」であった。そして,第1次・第2次石油ショック
後の年金財政対策いわゆる第2次年金改革の調整を実施するのみならず,低
成長経済と少子・高齢社会という年金制度の枠組条件の変化に本格的に対応
するための新たな改革の試みも行われており,その意味でもっぱら年金財政
再建の視点からの調整のみの行われた1970年代後半とは異なる意義を,1980
年代は戦後の西ドイツ年金史においてもっといえよう。
第2に,1980年代は,21世紀をも視野に入れた年金制度の抜本的な「構造
改革」ないし「構造改善」論争が,幅広い視点から,各種機関・研究者によ
り活発に展開された時期でもあった。とくに,急速に進行している人口構造
の変化に対応するいくつかの新しい試みが行われている点で注目される。
こうした1980年代における活発な年金改革論争に一応の結論を出し,21
世紀へ向けての方向づけを行った改革が,1980年代の最後の年の最後の月で
ある1989年12月に成立した「1992年年金改革法」であった,と位置づける
ことができよう。同法は,次章で検討するように,基本的には現行年金制度
の枠内での改革を推進する路線を採用しており,年金制度の歴史的連続性を
第9章 1980年代における構造改革の試みと年金改革論争
163
維持しながら,21世紀の2010年頃までの超高齢化社会ヘソフトランディン
グすることを試みており,注目すべき改革を含んでいた。
165
第10章
1992年年金改革法の成立と
その社会経済的背景
1 1992年年金改革法の形成過程
1992年はEC市場統合の年としてのみならず,ドイツ年金史にとっても注
目すべき年であった。というのは,ベルリンの壁が崩壊した日と同じ1989年
11月9日に連邦議会を通過した「1992年年金改革法」が,その法律の名称ど
おり1992年1月より施行されたからである。それまで予想だにできなかった
ドイツ統一の動きが始まる直前に,旧西ドイツ最後の年金改革が実現したこ
とになる。
1980年代は,第1次年金改革の行われた1950年代に次いで,本格的な年金
改革論が展開された「年金改革論のルネッサンス」期であった1)。そして,1980
年代における活発な年金改革論争に一応の結着をつけ,21世紀へ向けての公
的年金制度の方向づけを行った改革が1992年年金改革法であった。同法は現
行年金制度の大枠を維持しながらも,21世紀の少子・高齢社会への本格的対
応をいくつか試みており,注目すべき改革を含んでいる。本章は,同法の主
要内容とその成立の社会経済的背景を検討する。
西ドイツでは,既述のように,第1次石油ショック以来社会保障の見直し
が内政上の重要課題となっていたが,CDU/CSU・FDP連立政権はこの数年
来医療改革と年金改革のための見直し作業に重点的に取り組んできた。前者
については,保健改革法(Gesundheitsreformgesetz)が1988年12月に議会を
通過し,1989年1月より施行され,その一応の実現をみている。
後者の年金改革は,1987年3月のコール首相の施政方針演説で,国民の幅
166 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
広いコンセンサスを得ながら実行してゆくことが表明され,政府はこれまで
に提示された各種の改革構想を踏まえて,その改革作業を進めてきた。当初
第10章1992年年金改革法の成立とその社会経済的背景
167
④Heine[1990], SS.141 ff.
3) VgL Faupel[1990], S.38.
の予定より9カ月遅れて,1988年11月中旬に連邦労働社会省の年金改革法
試案・草案(Diskussions−und Referentenentwurf eines Rentenreformgesetzes)
2 1992年年金改革法の要点
が公表されるに至り,本草案をめぐって与野党間で活発な論議が展開された。
いくつかの修正が加えられて,1989年3月には緑の党を除く野党と連立与党
の3党(CDU/CSU, SPD, FDP)間で基本的な合意が成立し,与野党間で合
新たに成立した法律は,その名称の示すとおり,1992年1月1日から施行
された。同法の主要内容は,以下のとおりである。
意をみた改正法案が連邦議会に提出された。連邦議会はこの「法定年金保険
改革のための法律(Gesetz zur Reform der gesetzlichen Rentenversicherung)」
いわゆる1992年年金改革法(Rentenreformgesetz 1992=RRG 1992)を政府草
案の発表から丸1年経過した1989年11月9日に圧倒的多数で可決した。連
邦参議院も1989年12月1日満場一致でこれに同意した2}。
連邦議会では,バイエルン州選出のSPD議員19名と基本年金構想をもつ
緑の党が同法に反対票を投じたが,SPD議員の反対理由は,主に年金支給開
始年齢の再引き上げないし生涯労働時間の延長にあった。すなわち,、
①現在のように大量失業の存在する状況では,生涯労働時間は延長すべきで
はなく,むしろ短縮すべきであり,したがって退職と連結している年金支
給開始年齢も60∼63歳から65歳に引き上げるべきではない,
②若い労働力が西ドイツに流入してきている現状からも,生涯労働時間の延
長は不必要である,
③今後女性の就業がさらに増加すると予想されるので,生涯労働時間の延長
は行うべきではない,
といった反対意見が述べられていた3)。
注1)この点については,第3部第9章2を参照。
2) 同法の概要については,以下の諸文献を参照されたい。
①VDR[1990].
②Faupel[1990], SS.3零一41.
③Niemeyer[1990],SS.98−iO2.
(1)硯行年金制度の基本的枠組みの維持
公的年金制度の長期安定性と国民の年金制度に対する信頼性を確保するた
めに,現行制度の枠組みが基本的に維持されることになった。被用者年金制
度は今後も労働者年金保険,職員年金保険,鉱山従業員年金保険の3制度に
分かれて維持される。
現行制度の基本的特質である「年金の賃金・保険料との関連性の原則」が
今後とも維持・強化される。したがって,最低生活の保障ではなく,生活水
準の保障が引続き実施される。すなわち,公的年金が従前所得の一定パーセ
ント(加入期間45年のモデル年金受給者で純賃金の約70%の年金水準を確保)を
保障する賃金代替機能を今後も果すことになる。このことは,1980年代中葉
に盛んに論議された租税型の基礎年金ないし基本年金の導入1)をはっきりと
否定したことを意味する。
しかし,保険主義に基づく現行制度の枠組みを維持するための以下のよう
な部分的修正も導入された。まず年金調整方式であるが,就業者と年金受給
者との公平性を確保するために,年金額の毎年の引き上げ率ないしスライド
率が全被保険者の平均総労働報酬の上昇率ではなく,租税・社会保険料控除
後の全被保険者の平均純労働報酬の上昇率に応じて調整されることになった
(総調整主義から純調整主義への変更)。また,従来のように年金調整法によって
毎年の既裁定年金のスライド率を決定するのではなく,社会法典第6編自体
168 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第10章 1992年年金改革法の成立とその社会経済的背景
169
に毎年7月1日に年金が調整されることが規定され,連邦参議院の同意をえ
期を6年遅らせて,2001年から当初は4カ月ごとに1月ずつ,2005年からは
て,毎年3月31日までに連邦政府の政令によりスライド率が決定されること
2カ月ごとに1月ずつ引き上げることにした。2006年12月に現行の63歳か
になった。
ら65歳への引き上げを完了することになる。したがって,この措置の影響を
年金の計算式も単純化され,透明性を高めるための見直しが行われた。年
受ける被保険者は1937年12月31日以降に生まれ,満63歳で老齢退職年金
金年額ではなく,当初から年金月額で計算する方式に改められ,たとえば老
図表10−1公的年金保険における早期退職年齢の段階的引き上げ
齢年金の年金月額は
「全部」年金を
受給する年齢
年金月額=価値単位×一般算定基礎×0.00015×1/12
65歳
で計算される。また,保険料納付期商に基づく年金部分と保険料免除期間に
,「 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一 一
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1
C! I
I
64
基づく年金部分は分離して示されることになった。
U3
また,保険料は従来どおり報酬額を基準に計算され,徴収される。
U2
従来失業保険金や疾病手当の受給中は年金保険への保険料払込みを免除
Iぎ憐i i
賃金の80%を基礎とする保険料をそれぞれの機関に負担させ,ユ997年から
実際の保険料納付期間に基づいて年金額を計算することになった。すなわち,
保険料免除期間についての保険主義が強化されたことになる。
、
(2)年金支給開始年齢の段階的引き上げ
西ドイツでは定年と同時に年金生活に入るのが勤労者の一般的退職パター
濫
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I
l
l
[
l
l
I
U1
し,その期間(いわゆる脱落期間)も保険料納付期間と同様に扱って年金額を
計算していたが,今回の改正で,これらの期間については1995・年かち従前の
i
1941
U0
1938
、2002 20041200612008 2010 201212014 2016
暦年、
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ン60歳)(同63歳)
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P943
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i・____=________.憶2」下見1妻上げ
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P947
ンであるが,1072年の第2次年金改革で年金年齢選択性が導入され,1972年
P948
以前は定年となっていた65歳よりも早期1ご退職して60∼64歳から弾力的に
P949
年金が受給できるようになった。しかし今回の改革により,通常の男性の場
P950
合の早期支給開始年齢を63歳から65歳に段階的に引き上げることになっ
P951
た。これは生涯労働時間の長期化につながる措置である。この引き上げには
1952
労働組合,女性団体などからの反対も強く,最後まで最も議論が行われた点
P953
であるが,世代間のバランスの維持のための不可避の措置として承認された。
生年
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\4歳引き上げ
\一一一一r一一一一
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\近心上げ_ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ __ _ _ _ _ _ __ _も _ _ _ _ ___ _ _ _ _ _
?Nに60歳ま…暦年まで全部年
たは63歳になる受給のためには就
・・
ただし,政府案では引き上げを1995年から開始する予定であったが,開始時
すること
出所:Schmahl[1992], p.95.
170 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第10章 1992年年金改革法の成立とその社会経済的背景
の受給資格を2001年に取得できる予定の者である。1943年12月以後に生ま
れた被保険者は65歳が通常の年金支給開始年齢となる(図表10−1参照)。
図表10−2退職の繰り上げ・繰り下げ1}による年金額の増減率
%
120
る被保険者は,1940年12月31日以後に生まれ,失業者または女性で満60歳
1年につき+7.2%
11O
−1の下半分参照)。
1992年年金
改革法
112
(65歳時の年金額を基準に)『\
、
loo
邑
に老齢退職年金の受給資格を取得できる予定の者である。1952年11月以後
に生まれた被保険者はすべて65歳が通常の年金支給開始年齢となる(図表10
現行法’
1エ4.4
失業者および女性が対象となる現行の60歳から65歳への引き上げも同様
に2001年から段階的に実施され,2012年に完了する。この措置の影響を受け
171
1年につき+6%
1!(現実の年金額を基準に)
90
1年}こっき一3.696
3
1
旨
{
80
しかし,年金支給開始年齢引き上げ措置は重度障害者と就業不能年金・稼
1
70
得不能年金受給者および鉱山従業貝には適用されず,かれらは従来どおり60
歳から早期老齢年金を受給することができる。
60
61
62.
63
64
65
66
67歳
(注)1 62歳から67歳までが本制度の対象年齢である。
出所二Schmahl[1992],p.95.
なお政府は,年金支給開始年齢の段階的引き上げが労働市場や年金財政な
どに与える影響を予測し,その結果を年金報告書に1997年以降毎年発表する
増額年金は1992年から実施される(図表10−2参照)。
ことを義務づけられており,その予測いかんによっては上述の実施時期が再
検討される可能性も残されている。
(4)部分年金制度の導入
さらに生涯労働時間を弾力化するために,新たに部分年金(Teilrente)制度
(3)減額年金・増額年金制度の改正
(2)の措置により年金支給開始年齢が65歳に引き上げられるからといっ
が導入された。就労時間をパートタイムの形で3分の1,2分の1,または3
分の2に短縮した場合には,その他の要件が満たされれば,在職のままそれ
て,それが一律に強制されるわけではない。すなわち,年金支給開始年齢の
ぞれ全部年金の3分の2,2分の1,または3分の1の部分年金を受給するこ
弾力化は引続き,以下のような形で基本的には維持されることになった。65
とができることになった。
歳という標準的な年金支給開始年齢を最大3年繰り上げて,早期受給を希望
部分退職の場合の所得制限(ELP)は,
する者は62歳から年金を受給できる。その場合,従来と異なり,2001年から
は保険数理的な減額措置がとられることとなり,1カ月につき0.3%ずつ減
額される。たとえば,1年繰り上げ受給の場合3.6%,3年繰り上げ受給の場
合は10.8%の減額年金となる。
逆に年金支給開始年齢を65歳以後に繰り下げることも選択でき,その場合
には増額年金が支給され,1カ月につき0.5%,1年につき6%増額される。
ELP(t)=M・EP(t−1)・APA(t)
で算出される。本式での記号は,
EP(t−1)=部分退職した年あ1年前の退職者の相対的所得額
APA=現実の年金額(すなわち全部年金の額)
M;乗数
を示し,部分年金が3分の1,2分の1,または3分の2の場合,Mは各々70,
172 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第10章 1992年年金改革法の成立とその社会経済的背景
52.5,35風なる。たとえば,EP(t−1)=1(平均的所得を得ていた者),1992
173
に考慮期間として認め,同様に保険期間に算入する。
年現在のAPA=39.58DM,3分の1の部分年金を受給する場含ELPは
70×1×39.58DM=2,770.60 DM(月額)となり,この額までの所得が認めら
(6)連邦補助金の動態化
れる。保険期間45年で平均所得を得ていたモデル年金受給者の場合,全部年
年金保険に対する連邦補助金が1990年に3億マルク,1991年に23億マル
金は1,781字置であり,3分の1の部分年金は593.70DMで,その場合の所
クに増額される。1992年以降は連邦補助金は前年の年金支出額の変動のみな
得制限は2,770.60DM(月額)となる。 ELPは全被保険者の平均純賃金の上
らず,賃金上昇率の変動や保険料率の改定に連動して増減される。こあ3者
昇率にスライドして毎年引き上げちれる2)。
間相互の「自動調節装置(Selbstregulie㎜gsmechanismus)」により,保険料拠
部分年金受給者は自分の選択した時点で,いつでも現在受給している部分
年金とは異なる部分年金かまたは全部年金へ変更することができる。部分年
金は65歳以後も本人が希望すれば引続き受給できる。
出者,年金受給者,国家の3者間でより公平な費用の分担が確保されること
になる(図表10−3参照)。
図表10−3 ドイツ公的年金保険制度の自動調節装置
この措置は,部分就労ないし部分退職と部分年金を組み合わせることによ
保険料収入
って,被保険者の職業生活から年金生活への移行を円滑にし,同時に年金保
険の財政負担を軽減するために導入されたものである。
次年度の年金
スライド率
;
保険料率
・「
,!
連邦補助金
十
/呼
(1カ月以下になると)
年金支出額
(5) 女性・家族政策的改革
法定最低準備金
財政再建的ないし費用節減的対策を中心とする改正が行われている中で,
今回の改革で注目されるのが,児童養育期間(Kindererziehungszeiten)の強化
と無償の介護期間(Pflegezeiten)の導入である。
前者は1985年の遺族年金・養育期間法により1986年1月から実施されて
隣騎繕劉
+ =引き上げないし増額
一 =引き下げないし滅額
一一一一一一 <tィードバック効果
[=コー期待値
出所:
Sc㎞ahl[1991 c], p.15より若干修正のうえ作成。
いるものであるが,同法では1人の子供につき生後1年間子供を養育した者
にはすべて1年の保険期間が与えられていたが,今回の改正で,1992年以降
この自動調節装置により公的年金の保険料率は2000年で20−20.5%に抑
に出生した子供については2年延長して子供1人につき3年の保険期間を認
制することができ,今回の改革により2000年までに約2%の節減効果が見込
めることになった。
まれている。さらに,2010年では21.2−22%の保険料率が予測されており,
さらに,考慮期間(BerUcksichtigungszeiten)の概念が導入されたが,1つ
節減効果は3%強になると考えられる。
は児童養育のための考慮期間で,子供1人につき最長10年の養育期間をこの
期間として認め,保険期間に算入する。いま1つは家庭における重度介護者
の介護期間を一定要件(一週につき最低10時間の介護にあたることなど)のもと
(7)年金関係法の統合とその社会法典への編入
これまでライヒ保険法(RVO,同法は労働者年金保険に関する条文を含む),職
174 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第10章 1992年年金改革法の成立とその社会経済的背景
175
員年金保険法(AVG),ライヒ鉱山従業員共済組合法(RKG,同法は鉱山従業
じられるべき課題を含んでいる。
員年金保険に関する条文を含む)および多数の付則に規定されていた年金関係
西ドイツの人口はすでに1974年に6,205万人とそのピークを迎え,その後
の法律が統合され,年金保険法はすべて社会法典(Sozialgesetzbuch)第6編
減少に転じ,1980年6,157万人,1985年で6,102万人となっており,国連の
に新たに規定されることになった。900以上あった規牢が320に整理され,各
世界人口予測によると2000年5,948万人,2025年には5,349万人目急減す
章節の編成も整理され,体系化された。また,素人にも分かりやすいように,
ることが予測されている。その背景には西欧諸国でも最も低い出生率と平均
条文を平明化する努力も行われている。
寿命の著しい伸びがある。合計特殊出生率は1965年の2.51から年々急減し
注1) この点については,下和田[1991b],62−66ページおよび下和田[1990],241ペ
ージ以下参照。
2) Cf. Schmahl[1992],pp.94−96.
て1975年に1.45となり,1985年はL28まで低下している。日本では1990
年に「1.57ショック」が話題となったが,西ドイツではすでに1970年代から
1.57をさらに下回る低い数値を記録していた。他方,65歳以上人口の総人口
3 1992年年金改革法成立の社会経済的背景
に占める比率(高齢化比率)はドイツではすでに!934年で7.1%(日本は1970
年目この水準に達した)となっており,戦後さらに急速に人口高齢化が進み,
ハイネは1972年の第2次年金改革以後を回顧して,概略次のように述べて
いる。すなわち,「第2次年金改革後5年も経たない内に『第3次年金改革』・
1970年には13.2%,1985年には14.7%となった。今後の予測では2000年に
は18.2%,2030年には28.3%とさらに高齢化が進展する。
が要請され,・1992年年金改革法が施行されるまでにさらに15年目経過した。
こうした人口高齢化の結果,年金受給者比率(年金受給者の保険料拠出者に対
だが,その間に改革の重点は変化してきている。1970年代後半から1980年代
する比率)は1986年の56%から2040年には約2.5倍の140%になると予測
前半にかけては『インフレや景気,失業といったリセッションの社会保障へ
されている。2020年頃に100%すなわち保険料拠出者と年金受給者の割合が
の影響』が重要な検討課題であったが,その後は『人口構造変動の社会保障
1対1となる。2040年には前者が100人に対し後者が140人となり,保険料
への挑戦』へと重点が移ってきており,それが1992年年金改革法の主要な動
拠出者2人が年金受給二二3人の面倒をみることになる(図表10−4参照)2}。
機となっている」1)と。本節では,人口構造変動を中心とする1992年年金改革
最近の老齢年金の受給者数は1972年で476万人,1975年549万人,1980年
法の主要な社会経済的背景について検討する。
627万人,1985年670万人,1900年の暫定値で824万人と年々増加しており,
この20年間で1.7倍に増えている。年金支給開始年齢の段階的引き上げの措
(1)人口構造の変化
人口構造の変化,とりわけ人口高齢化は先進諸国に共通する社会現象であ
置は年金受給者比率の改善につながる。
こうした人口構造の変化を中心とする社会経済変動により,賦課方式に基
り,21世紀にかけて長期的に各国の年金制度た重圧を与える要因となってい
づく年金制度では,現在の18%前後の保険料率を2030年頃には2倍以上に
る。人口構造の変化の及ぼす問題は,老齢人口の増加のみならず,年少人口
引き上げるか,逆に年金額を半分以下に引き下げるかの選択を迫られること
の減少,出生率の低下,女性の育児・介護と社会進出の問題など,幅広く論
になる。被保険者・年金受給者・国の3者による負担の公平化により,被保
険者や企業の負担能力を超える37−42%といった保険料率の引き上げを阻
176 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第10章F1992年年金改革法の成立とその社会経済的背景
図表10−4年金受給者比率と老齢者負担率の推移(予測)
177
止し,2040年頃でも26−31%程度に抑制できるような改革を行うことが早
%
160
急に要請されていたといえる(年金保険の保険料率の推移予測については図表10
−5参照)3)。
140
120
(2)経済・雇用環境の変化
100
年金受給者比率
80
,口.喀「■鞠.噛
.
@@@ φρ
o
.
@マφ .
@9ρ
X
60
第1次石油ショック以後,低成長経済への移行,国家財政の悪化,失業者
、、
の増加,入口高齢化の進展などにより,社会保障の財政危機がクローズアッ
・,,
Y…一・・・・・・…“口口”
40
プされ,欧米先進諸国では1970年代後半から社会保障の全般的な見直しが相
鞠髄■..昌8.9昌,.
次いで進められた。
20
EC諸国の中で最も安定した経済運営を誇ってきた旧西ドイツも同様な状
0
19851990 1995200020052010 201520202025203020352040年
出所=Schmidt[1987], S.500,
況にある。1980年代は1970年代後半以上に深刻な長期的な経済停滞が続き,
実質成長率は1980年1.5%,1981年0%,1982年マイナズ1%,1983年1。8
%でゼロ成長ないしマイナス成長であり,1984年以後も2−3%の低成長率
図表10−5 年金保険の保険料率の推移(予測)
%
45
税・社会保険料を差し引いた純所得はさらに不利な影響を受け,実質所得は
2(》40年
2030年
□現状維持の場合
40
となっている。その結果,勤労者の粗所得伸び率も鈍化し,粗所得から所得
1980年代に入ってむしろ停滞ないし低下している。失業率は第1次石油ショ
醗囲年金改革を行った場合
35
ック後急増し,登録失業者数が1975∼1976年に100万人台に乗り,それまで
30
コンマ以下であった失業率も4%台に上昇した。その後1980年までは100万
25
人を割ったものの,1980年代は年々雇用状況が悪化し,1981年の失業者数
20
127万人,失業率5.5%から1985年の230万人,9.3%へと悪化の一途を続
15
け,その後も200万人台,9%前後の高い失業率となっている。すなわち,1980
10
年代を通じて長期的に労働市場の不調が続いており,その影響は高齢者や女
5
0
子,身障者などに深刻である。
低 局
位 位
推 推
言十
言十
低 局
位 位
推 推
言圭 言十
低
位
推
計
高
位
推
計
低
位
推
計
局
位
推
計
低
位
推
計
局
位
推
計
こうした経済・雇用環境の変化は,当然に年金財政にも保険料収入,年金
支出の両面に不利な影響を及ぼしている。労働者年金保険と職員年金保険を
出所:Schm重dt[1987], S.505.
あわせた変動準備金はついに1984年には前年度年金支出額の0.9カ月分と
なり,法定最低準備金である1カ月分を下回り,年金の支払いにも支障をき
178 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第10章 1992年年金改革法の成立とその社会経済的背景
179
たす状況に陥ったために,年金保険は100年の年金史上初めて短期貸付けを
規の65歳で新規裁定年金を受給する男子は全体のわずか30%であり,
1984年晩秋に受けて急場をしのいだ。こうした長期的な経済・雇用環境の悪
60∼64歳で退職し年金を受給する者が70%にも達している(図表10−6参
化が1980年代を通じて,1970年代後半以上に本格的な年金制度の見直しを
照)。その結果,第2次年金改革以後,高年齢者の労働力率は年々低下し,63
迫る背景となっていることは明らかである。
歳男子の労働力率は1970年の67%から1980年には27%に低下しており
(図表10−7参照),とくに60∼64歳の男性のそれが著しく低下してきている
(3) 高年齢者の就業状況の変化
ことがわかる(図表10−8参照)。
ズ
1970年代以降高学歴化と早期退職の傾向によって,就業年数の短縮化が進
今回の改革はこうした状況を是正して,年金財政に寄与させる狙いがあり,
展してきた。とくに後者は1972年の年金年齢選択制の導入による影響が大き
部分年金制度の導入はこの特例廃止の緩衝装置としての意義をもつものとみ
い。西ドイツでは,65歳と固定的であった老齢年金支給開始年齢が第2次年
ることができる。
金改革によって弾力化され,特例として,一定条件を満たせば60∼64歳から
他方,第3次産業の比重増大によるサービス経済化と技術革新により,近
本人の選択により老齢年金を受給できることにならた。キリスト教徒の労働
年雇用の弾力化は進展しており,高齢者の労働機会も増大している。また,
に対する考え方と受給条件の有利なことなどから,この制度を利用して,65
労働能力や労働意欲は,高齢者の場合同一年齢でも個人差が大きい。高齢者
歳以前に早期退職し,老齢年金を受給する者が増加し,もはや特例が通常化
図表10−7 旧西ドイツの労働力率(男子)
し,65歳支給開始の原則は有名無実化していった。たとえば1989・年では,正
%
90
\こ誉こ一・唖
図表10−6 新規裁定年金の種類別占率
(1989年)
労働者
男
女
80
、、
、
事務職員
男
女
、
\
\
\
、
\
\、
70
\
、
障害・老齢年金(計100%)
障害年金
44.1
17.1
22.9
18.4
老齢年金
55.9
82.9
77.1
81.6
50
老齢年金(年齢別内訳)(計100%)
60歳(失業者)
60歳(女)
60歳(障害者)
24.3
一
18.1
1.7
31.0
0.6
17.6
一
17.9
2.3
63歳
28.3
1.1
33.7
2.3
65歳
29.3
65.5
30.4
50.5
0.1
O.1
0.4
0.2
65歳以上
、、、 \
\
\
\
\
\
、
\
、、
\
\
睡7%→
、、、
\\ \
40
42.5
1.8
67%
・
、
、
\
\
\
\
60
\
へ
’、
\ \
、、
30
、、、
らも
27%、「ゆ’
、、
21%→
20
55
56
57
58
59
60
61
62
63
64
資料:VDR, Rentenzugangsstatlstik 1989
資料lCalculated on the basis of Mikrozensus data.
出所:Sch皿ah1[1992], P.90.
出所:Sc㎞ah1[1992], p.84.
歳
(1970)
1907年生まれ
(1974)
\
\
\
\、
1911年生まれ
臭980)
(1989h917年生まれ
1926年生まれ⊃
180 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
図表10−8 旧西ドイツの労働力率
第10章1992年年金改革法の成立とその社会経済的背景
181
高齢者が多数存在する。
戦後の福祉国家の進展の中で,西ドイツにおいて膨大な隠れた貧困層の存
75歳以上
70−74
在を指摘し,1970年代中葉に出された報告書で「新しい社会問題」として問
65−69
題堤起したのは,当時野党であったCDUのガイスラー(H. Geissler)であっ
60−64
た6)。かれは,「1974年において約200万の世帯一これは世帯全体の約9%に
55−59
50−54
あたる一で580万の人々のもとでは,月間純所得が社会援護の申請可能水準
45−49
以下であった」と述づ,「古い社会問題で取り上げられてきた労働者は労働組
40−44
合という強力な組織を持ち,彼らはもはや社会的弱者とはいえない。今日の
35−39
新しい社会問題は,子供,主婦,老人といった無力な未組織集団の保護・保
30−34
障の問題である」ηとしている。
25−29
1983年末に実施された各種調査でも,資産・所得格差が拡大しており,資産
20−24
保有額の少ない世帯や借金を抱えている世帯が多数存在することが分析され
15−19
80
60
40
團1970年
20
0
20
40
60
80
100 %
□1980年 ■1989年
ている8)。連邦統計局(Statistisches Bundesamt)の調査によれば,87%の世
帯が資産が債務を上回る正の金融資産残高を保有していたが,8.1%の世帯
資料:Federa1㎝ce of Statistics
出所:Sc㎞ah董[1992],p,85.
(189万世帯)では債務が資産を上回っており,5.3%の世帯(124万世帯)は資
が個々人の諸事情に応じながらパートタイム雇用などの活用により職業生活
産ゼロであった。また資産分布もきわめて偏っており,少数の高額所得者に
から年金生活へ移行する環境が整備されつつある。また,人口高齢化の進展
資産が集中していることが指摘されている。ドイツ経済研究所(Deutsches
している中で,それぞれ限界を有している社会保障,企業保障,個人保障を
Institut fUr WirtschaftsfQrschung)の報告書で所得分布についてみると,被用
サポートする高齢者雇用の重要性が近年欧米では注目されている4)が,.西ド
者世帯の44%が可処分所得月額2,000マルク以下であり,被用者世帯の77
イツも同様な状況にあり,部分就労・部分年金の思想が今回の改革でもいち
%強が3,000マルク以下となっていた。全世帯でみると,5割以上の世帯が
早く取り入れられている点は注目される5)。
月2,900マルク以下の支出で生活していた9)。
社会扶助受給者数をみても,1970年は約150万人であるが,1980年代を通
(4)貧困高齢者の生活問題
じて増加傾向にあり,1980年214万人,1986年では302万人と増加している。
戦後,被用者社会化と中産階級化が進行する中で,年金生活者も1957年の
対人口1,000入比でみた扶助受給率も1970年の25から1980年35,1986年
第1次年金改革による賃金スライド制の導入により経済成長の恩恵を受ける
には49へ上昇している。社会扶助受給者全体に占める65歳以上の高齢者の
ことになった。しかし,モデル年金や平均年金額の毎年の改善にもかかわら
比率は1970年代の30%強から1980.年28%,1985年で18%とかなり低下し
ず,モデル年金の条件を満たさない年金受給者や低額の年金を受給している
ているが,絶対数では65歳以上の社会扶助受給者数は1970年の48万人から
182 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第10章1992年年金改革法の成立とその社会経済的背景
1980年の60万人,1985年の51万人とほとんど減っていない。とくに65歳
以上の高齢女性の社会扶助受給率は高くなっている10)。こうした多数の高齢
図表10−10 年齢層別就業率(1987年)
(%)
96
貧困者の存在が現行年金制度の抜本的改革を促す要因となっている。
87
82
075
O
97
O
98
O男性
96
O
93
○
80
O
(5)被保険者間の不公平性の問題
●
西ドイツの公的年金制度は労働者年金保険,職員年金保険,鉱山従業員年
金保険などの職能別に分立しているが,1957年の年金改革でとくに前2者は
内容的にほぼ統一された。しかし,現行制度が比例拠出・比例給付の原則に
立っていることから,労働者とホワイトカラーの賃金格差を反映して,両制
183
67
●
62
45
●
63
女性
●
63
●
58
●
52
●
40
●
40
34
O
度間には平均年金額にかなりの格差があり,その是正が長年課題とされてい
る(図表10−9参照)。
●
11
また,年金制度における男女不平等の是正も1980年代の課題となってい
た。1975年の連邦憲法裁判所の違憲判決により,1984年頃でに遺族年金の男
女平等化と女性の年金保障のための法改正を政府は求められていた。連邦政
5
2
15−2020−2525−3030−3535−4040−4545−5050−5555−6060−6565歳以上
(注)15∼65歳の男性の平均就業率は82%で,女性のそれは54%である。
出所:Heine/Kiel[1989],S.356.
府は1977年に「女性(妻)および遺族の社会保障のための専門家委員会」.(女
給付方法と育児期間の算入に関する最:初の改革案を公表している。1982年秋
性・遺族社会保障委員会)を設置し,同委員会は1979年には各種の遺族年金あ
のCDU/CSU・FDP政権誕生後も検:討が続けられたが,1985年7月に「遺族
年金・養育期間法」の成立により,一応の体裁が整った。しかし,依然とし
画表10−9 公的年金保険における平均老齢年金額と平均保険加入一問(1989年7月)
男
労働者
女
子
事務職員
労働者
子
・
て男女間の年金格差は大きく残っている(図表10−9参照)。男女格差の生じる
理由としては賃金面における格差のほかに,結婚,育児,家族の看護・介護
事務職員
などで退職・休職を余儀なくされ,その結果保険加入期間が短くなりやすい
老齢年金の種類
DMI}
年数
DMI)
年数
DMI)
年数
DM1)
年数
60歳(失業者)
1,788
41.9
2,230
42.4
745
28.8
942
29.6
一
一
一
一
845
31.3
1,235
33.9
に対して,女性の職場進出が進んでいる西ドイツでも女性の平均就業率は54
60歳(障害者)
L828
43.5
2,176
43.5
1,065
38.4
1,528.
40.1
%と男子よりかなり低い(図表10−10を参照)11)。
63歳
1,843
44.4
2,346
44.8
857
37.8
1,359
39.0
65歳
1,159
31.4
1,717
32.2
401
18.5
656
21.1
2) Vgl. Schmidt[1987], SS.499−500.
65歳以上
1,125
28.2
1,883
34.1
551
22.0
890
24.8
3) Vgl. Schmidt[1987],SS.504−505.
60歳(女子)
(注)1 概数
資料:“Rentenanpassungsbericht I990”
出所:Schmahl[1992],p.91.
ことが挙げられる。15歳から65歳までの男子の平均就業率が82%であるの
注1)Vgl. Heine[1990],S.141.
4) この点については,下和田[1991a],3ページ以下参照。
5)部分年金については,たとえば菅野,堀,山口[1991],2ページ以下参照。
184
第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
6)
この点については,足立[1988],52−58ページを参照。
7)
足立[1988],53ページより引用。
8)
Vgl. Leyendecker[1986],SS.147−149.
9)
Vgl. Leyendecker[1986],S,149.
ユ0)
社会保障研究所編[1989],309−311ページ参照。
11)
Vgl. Heine/Kiel[1989],SS.350 ff.
第10章 1992年年金改革法の成立とその社会経済的背景
185
1992年年金改革法は保険方式を維持しながら,人口高齢化に対応する年金
改革の方向性をいくつか示している点で注目される内容のものとなっている
が5今回の改革に対し,とくに基本年金構想支持者などからは厳しい批判が
寄せられている。その主要なものを挙げれば,以下のとおりである。
①今回の改:革によって2010年頃まではなんとかやり繰りできても,それ以後
41992年年金改革法の評価とその課題
の年金制度の安定的運営は確保されていない。今後の人ロ構造の変化,経
済・財政状況,労働市場の動向,国外からの人口流入,東ドイツとの統合
1992年年金改革法は,人口構造や社会経済構造などの変化に適応させつ
、による影響などにより,引続き年金制度の改革が必要とされる。
つ,年金財政の長期安定化を目指して施行されたもので,2010年頃までの約
②今回の連邦補助金の見直しはなお不十分なものである。連邦補助金の年金
20年間を視野に入れた長期的改革とされている。今回の法改正で注目される
支出に占める割合は1988年で17.3丁目ある(過去における数字については
第1点は,1980年代に提案された各種の基本年金構想を採用せずに,現行制
前揚図表2−5を参照)が,ある試算によれば,今回の見直しが実施されても,
度の枠内での改革を指向している点である。第1次年金改革の基本的特色を
2010年には17.1%に低下するだけであるといわれる2)。
できるかぎり維持し,第2次年金改革で導入された年金年齢選択制を高齢化
③週労働時間にしろ,生涯労働時間にしろ,労働時間の短縮が長年論じられ
社会に適応した形で修正しながら,保険主義を基礎とする現行制度の維持を
てきたが,それに逆行する年金支給開始年齢の再引き上げが大量失業や入
はかることが,今回の改革の基本理念となっている。そのために,総調整主
口流入の続いている時期に行われたことは問題である。この点については
義から純調整主義への変更年金支給開始年齢の65歳への段階的引き上げ?
DGBは当初から強く反対していたが, SPDの議員の一部もこの点を理由
連邦補助金の動態化などの対策がとられている。
として反対票を投じたことは既述のとおりである。この措置による財政的
第2に指摘すべき点は,児童養育期間・介護期間の保険期間への算入,部
効果はあまり大きくなく,政府自身の試算でも,2010年までの節減額が33、
分年金制・減額年金制の導入など,人口構造や就業構造の変化に対する注目
億マルク,保険料率で0.2ポイント引き下げる効果しかないといわれてい
すべき施策が取り入れられていることである。その点で今回の年金改革法が
る3)。
ニーマイギーのいうように,単なる年金財政の再建や費用節減のための対策
④児童養育・介護期間の保険期間への算入に要する費用は連邦が負担すると
のみではなく,新たな改革措置を含んだものとなっていることに注目ずべき
当初ブリューム(Norbert BIOm)連邦労働社会大臣は言明していたが,実
であろデ)。
際には連邦補助金ではなく,保険料および州政府の負担で賄われることに
今回の改革により年金財政は2010年頃までは小康状態を保持し,1997年
なった。児童養育や介護の問題は社会全体の課題であるにもかかわらず,
頃までは保険料率を現行の18.7%に維持でき,その後の2015年頃でも負担
年金制度の保険料拠出者に転嫁されている。児童養育と介護に対する考慮
可能な25%以下に抑えられるものと予測されている。
期間の措置は保険主義からの逸脱を意味し,将来の年金財政問題悪化の一
因となることが予想される。
187
186 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
以上で今回の年金改革法に対する主要な批判点を示したが,年金制度に残
された課題としては,次の諸点が挙げられる。
第11章 東西ドイツ年金制度の統合
①1992年年金改革法では,就業不能・稼得不能年金や遺族年金の問題はほと
んど検討されていない。
②労働者と事務職員(ホワイトカラー)の区別が産業構造の変化や新技術の導
入などによりほとんど無意味になっているにもかかわらず,年金制度は依
然労働者年金保険と職員保険に分かれており,「労働者と事務職員」のテー
1 ドイツ統一と年金保険制度の統合
マは今後に残された課題となっている4)。東ドイツでは制度が一本化され
ており,両者の区別は廃止されていた。
③EC統合の進展によって,社会保障制度のハーモニゼーションが推進され
れば,その点からのドイツ公的年金の再改革が要請されよう。
本書の第1章と第5章で述べたように,第2次大戦後ドイツは分裂国家と
なり,西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と東ドイツ(ドイツ民主共和国)は,戦後
の約40年間,資本主義国家と社会主義国家というまったく異なる体制のもと
④ドイツ統一は年金制度にも新たな問題を課している。次章で検討するよう
で,異なる政治的社会経済的発展をとげてきた。しかし,戦後の米ソ対立の
に,すでに旧東ドイツでも旧型ドイツ方式の社会保障ないし年金保険を設
象徴的存在ともなっていたベルリンの壁が冷戦の終決により1989年11月9
けることが決定されているが,両ドイツの年金制度の一本化にはかなり長
日に崩壊した後,体制を異にする東西両ドイツは1990年5月18日には国家
期の過渡期を必要とし,年金財政上も種々の問題が発生すると考えられる。
条約を,同年8月31日には統一条約(第2次国家条約)を締結し,予想を上回
これらの理由から,1992年年金改革法もさらに早い時期に見直しを余儀な
るテンポで統一への歩みを早めていった。そして,東ドイツの人口約1,600万
くされることになると思われる。
人の約4倍の人口6,200万人目擁する西ドイツが東ドイツを吸収合併する形
注1)VgL Niemeyer[19901, S.100.
で統一が進められ,早くも1990年10月3日にはベルリンで統一式典が挙行
2) Vgl. Faupe1[1990],SS.38−39.
3) VgL Faupel[1990], S.40.
4) Vg1. Kolb[1990],SS.104−108.
された。新生ドイツは,国名も西ドイツの正式国名であるドイツ連邦共和国
をそのまま名乗って,再び統一国家となり,同年12月には統一後最初の総選
挙も実施されている。したがって,東ドイツは統一により,体制的には計画
経済,中央統制経済体制から市場経済,自由主義経済体制へと転換してゆく
ことになる。
ドイツ統一により,通貨統合,経済統合,政治統合,社会統合など,あら
ゆる分野の統合が推進されてゆくことになるが,通貨統合や政治統合と異な
り,経済・社会統合の実現には多くの困難が伴い,相当な時間を必要とする。
社会保険制度,したがってまた年金保険の分野も東西ドイツではまったく異
188 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展・
第11章東西ドイツ年金制度の統合
189
なる発展をたどっており,社会統合の主要な課題の1つとなっている1)。二
⑤旧東ドイツと旧西ドイツの公的年金制度の統合
ところで,社会的,沿革的な理由などから,分立して発展してきた,制度,
を挙げている3)。協調(保険料,給付などの制度間の格差を縮小ないし解消するこ
仕組みの異なる複数の公的年金保険制度をその後の社会的経済的ないし政治
と),調和(法規三面の相違を縮小ないし同一化すること),統合(独立している複
的な状況の変化に適応させるために制度間調整(協調Koordinationまたは調
数の制度を統一して1制度にすること)の区別は実際には簡単ではない。ここで
和Harmonisierung)ないし制度統合(lntegration)を行う必要性が近年各国で
は,一元化する場合の統合と法形式的,実質的相違を縮小ないし解消するこ
増加してきている。調整・統合の理由ないし背景は,制度間格差の解消,産
とを意味する調整に区別するが,①一④の場合でも制度が一本化される場合
業・就業構造の変化,人口高齢化,国家統合・地域統合など,多様である。
には統合が問題となる。
わが国の年金制度も分立しているために,厚生年金と国民年金の格差,官民
旧西ドイツではすでに多くの「調整」の例がみられる。たとえば,1957年
格差,国鉄共済年金の財政破綻などの問題が論議され,これらの問題に対応
の第1次年金改革では,戦後の社会経済構造の変化に対応するために画期的
するために,国民基礎年金や国民年金基金の導入,公務員共済組合などによ
な賃金スライド方式のいわゆる動的年金が導入されたが,さらに労働者年金
る国鉄共済年金の財政援助,公的年金制度の一元化などが検討されてきたこ
保険と職員年金保険,鉱山従業員年金保険の3制度の受給資格や給付水準,
とは周知のとおりである。
年金算是式,財政方式などの調整が行われ,とくにこれまで多くの格差がみ
ドイツの公的年金制度は伝統的に職能別の分立的制度として発展してきた
られた労働者ど事務職員との年金保険法上の取扱いが多くの点で同等化され
が,戦後も川西ドイツでは戦前の体系が継承され,歴史的連続性寮維持され
た。また,産業・就業構造の変化による労働者階層の減少,職員階層の増大
た。すなわち,既述のように年金制度は労働者年金保険,職員年金保険手
による労働者年金保険の財政問題を解決するために,労働者年金保険と職員
工業者年金保険,鉱山従業貝年金保険,戦後新設の農業者老齢扶助に分かれ
年金保険との間の財政調整が1974年より実施されている。
ており,さらに官吏保障制度や医師,薬剤師,弁護士などの自由業者・自営
業者のための業種別年金制度が州レベルで設置されている2)。
シュメールはドイツにおける年金制度の調整・続合の現代的課題として,
①組織的に分離されているが,給付,財政面で同様な規定がみられる国内の
主要な公的年金制度間の調整(具体的には,労働者年金保険職員年金保険な
いしは鉱山従業員年金保険の3制度間の調整),
②組織的に分離されているだけでなく,給付・財政面でも異なる規定のある
公的年金制度間の調整(前記の3公的年金制度と官吏保障制度との調整),
③公的年金制度と私的年金制度(とくに企業年金制度)との間の調整,
④2国斜ないし多国間の年金制度の調整(たとえばEU加盟国間の年金制度の
調整),
本章では,制度統合の具体的かつ特殊な例として,1990年のドイツ再統一
によって生じた社会的統合の主要課題である公的年金保険の制度統合の問題
を取り上げる。そこで,まず東西ドイツの年金制度の特色について検討する
ことにする4)。
注1) 第2次大戦直後の社会保険改革をめぐる動向については,下和田[1983]参照。
2)西ドイツの年金保険の制度別構成については,第2章1(2)および下和田[1978a]
参照。
3) Vgl. Sch皿ahl[1991 b], SS.229−230.
4)西ドイツについてはこれまで検討してきたので,ここでは東ドイツとの比較で必
’要な限りで,ごく簡単に述べるにとどめる。
190 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第11章 東西ドイツ年金制度の統合
191
主管理が憲法上認められる場合でも,それはFDGBの組合員に制限されてい
2 東西ドイツ年金制度の比較
た。FDGBの地区理事会が年金裁定権を有し,毎月の年金支給を保証する。
国家保険の管理は特別の条令により規定されており,大蔵大臣の提案に基づ
(1)東ドイツの年金制度
東ドイツの社会保険は社会政策の重要な構成要素を成していたが,保険事
き省事務次官によって任命された総:裁を頂点とする地区管理局によって管理
されていた。
故別に3部門に分かれていなかった。すなわち,統一的総合的社会保険の形
社会保険料は地区税務署により徴収され,直接国家に納入される。社会保
態をとっており,中心となる統一義務保険(Einheitspflichtversicherung)制度
険のために必要な資金は国家財政から支出されるので,社会保険予算と国家
はほとんどすべての国民を対象に日常生活のほとんどあらゆるリスクを保障
予算との厳密な区分はなかった。社会保険料は総報酬の22.5%で,そのうち
し,疾病・負傷,母性,障害,老齢,戦傷,死亡,労災,職業病を対象とす
被用者は10%,企業は残りの12.5%を負担する。したがって,保険料は所得
る総合的社会保険となっていた。したがって,この義務保険の枠内で老齢・障
比例拠出ということになる。ただし,保険料算定報酬上限額は月額600マル
害・遺族年金も支給されていた1}。年金保障はこの義務保険と後述の任意付
ク(Mark−Ost.以下,東マルクと表記する)で,この上限額は1947年以来まっ
加年金が中核となっており,その他に医師,技術者,社会主義統一党(SED)
たく引き上げられていない。保険料の他に国庫負担金が支出されるが,社会
党員,軍人などのための付加保障・特別保障制度(Zusatz−und Sonderversor−
保険に対する国庫負担金は1989年で176億東マルクで,社会保険支出364億
gungssysteme)が60余も設置されていた2)。老後保障においては企業年金や個
東マルクの約48%を占めていた。社会保険支出の46.6%が年金給付のため
人年金はほとんどなんの役割も演じておらず,もっぱらこれらの公的義務保
の支出であり,それは150億東マルクであった3)。
険が主要な柱となっていた。なお,失業は社会体制上存在しない建前になっ
1971年に被用者および自営業者のために任意付加年金保険(Freiwillige
ているために,失業保険は長年存在しなかったが,1990年初頭に創設され,
Zusatzrentenversicherung=FZR)が創設され,保険料算定報酬上限額である月
統一と共に同年10月3日に連邦雇用庁に移管統合されている。
額600東マルクを超えるか,年額7,200東マルクを超える所得のある社会保
被保険者範囲は西ドイツよりも包括的であり,自営業者,自由業者,公務
険強制加入者は誰でも加入できる。その保険料率は20%で,被保険者と企業
貝を含む全就業者が社会保険の強制加入者となっていた。1985年では,国民
の10%ずつの折半負担であるが,保険料の計算対象になる所得は保険料算定
(被保険者とその家族)の約89%が労働者・職員社会義務保険(Sozialpflicht−
報酬上限額の月額600東マルクを超える部分である。強制被保険者の80%強
versicherung der Arbeiter und Angestellten)に,約11%が自営業者,弁護壬・
が近年はこの任意付加年金保険に加入していた。任意付加年金保険はドイツ
医師・芸術家などの自由業者,農林,漁業ないし手工業の生産協同組合組合
統一により,1990年6月30日に廃止されたが,過去に得られたその年金請求
貝などのための国家保険(Staatliche Versiche㎜g der DDR)に加入していた。
権は今後も引続き維持される。
社会保険の管理運営は,憲法の規定に基づき,労働者・職員社会義務保険
東ドイツでも老齢年金,障害年金,遺族年金が支給される他に労災年金,
では自由ドイツ労働組合同盟(Freie Deutsche Gewerkschaftsbund=FDGB)に
戦傷者年金が含まれる。障害の概念は稼得能力の3分の2以上の喪失となっ
よって,また国家保険では国家によって管理されてきた。被保険者による自
ており,西ドイツの2分の1以上よりも厳しくなっている。老齢年金の支給
192 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第11章 東西ドイツ年金制度の統合
開始年齢は固定的で,男性65歳,女性60歳と定められている。受給資格は
193
クであった5}。
最低15年の加入期間となっているが,3人以上の子供のある女性は子供1人
につきこの期間が1年ずつ引き下げられる。
(2)西ドイツの年金制度
年金は定額部分(1989年11月30日までは月額140束マルクであったが,同年
西ドイツの社会保険は保険事故ごとに3部門(失業保険を入れると4部門)に
12月1日から勤務年数に応じて5段階に分け,勤務年数25年未満の場合の170東
分離されており,年金保険は疾病保険や労災保険とは別制度となっている。
マルクから10東マルクごとに増額され,40年以上勤務の場合の210東マルクまで
さらに,年金保険は職能別に分かれており,中心になるのは労働者年金保険
となっている)と勤務年数1年につき平均賃金の1%ずつ増額となる逓増部分
と職員年金保険,鉱山従業員年金保険の3制度で,労働者,職員などの被用
とから計算される。最低年金額は勤務年数により月330東マルク(勤務年数15
者はすべて年金保険の強制被保険者となっている。自営業者や主婦は1972年
年未満の場合)から470東マルク(45年以上勤続の場合)まで保証される(図表
からこれらの公的年金制度に任意加入できることになった。老後保障では,
11−1参照)。年金は数年に一度見直され,西ドイツの1957年以前と同じ状況
企業年金と私保険が公的制度を補完する役割を演じており,いわゆる3本柱
にあった。したがって,西ドイツのような保険料納付期間の長短による年金
論が国民的合意を得ている。
額の差異はなく,賃金・所得水準の上昇に応じてスライドする動的年金とも
年金保険の管理運営機関は,労働者年金保険では各州に設置されている州
なっていない。社会的義務保険と任意付加年金保険の年金給付をあわせても,
保険事務所と連邦鉄道保険事務所,海員金庫であり,職員年金保険では連邦
最低保障の水準にとどまっている4)。
職員保険事務所,鉱山従業員年金保険では連邦鉱山従業員共済組合である。
1990年5月現在で,老齢年金の受給者数は250万人,その平均月額は
これらの運営機関には他の社会保険制度と同様に,被保険者と企業の代表者
475.19東マルクとなっていたが,付加年金受給者89.5万人の平均月額は
により構成される理事会と代議員会議が設置されており,これら自治管理機
569.37東マルク,付加年金を受給していない者の平均月額は422.46東マル
関による自主管理が認められている。
図表11−1東ドイツの社会的義務保険に
おける年金の定額部分と最低
年金額(月額)
(1989年12月1日現在,単位:東マルク)
定額部分
最低年金額
15年未満
170
330
15年以上20年未満
20年以上25年未満
25年以上30年未満
30年以上35年未満
35年以上40年未満
40年以上45年未満
45年以上
170
340
170
350
180
370
勤務年数1》
190
390
200
410
210
430
210
470
公的年金制度では保険主義が重視され,労働者・職員年金保険の財源の大
半が労使の折半負担する保険料で賄われており,それに連邦負担金が加算さ
れる。保険料収入の全収入に占める割合は1985年では労働者年金保険で68
%,職員年金保険で92%となっており,保険料の占める割合が高い。しかし,
鉱山従業員年金保険では約19%を占めるにすぎず,財源の大半が連邦負担金
で賄われている6)。年金保険の財政方式は世代間連帯思想に基づく賦課方式
となっている。保険料算定報酬上限額は賃金水準の変動を考慮して毎年改正
されるが,原則として平均賃金の2倍を限度としてらる。保険料率は戦後段
階的に引き上げられてきたが,労働者・職員年金保険では1985年に史上最高
(注)1 加算期間を含む
出所:Polster[1990], SS.162−163.
の19.2%となった。その後1987年1月から18.7%,さらに1991年4月から
194 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第11章東西ドイツ年金制度の統合 195
17.7%に引き下げられたが,1994年1月から再び19.2%に引き上げられ,
かなりの高負担となっている。
3年金制度統合のプロセスとその主要課題
賃金にスライドして引き上げられるいわゆる動的年金制度が1957年より
導入されており,賃金・物価水準の変動に対応して年金の実質価値が確保さ
(1) ドイツ再統一と年金法上の一元化
れるようになっている。したがって,年金が賃金にスライドしてほぼ毎年引
1989年11月にベルりンの壁が崩壊したが,その半年後の1990年5月18
き上げられる。年金額は過去に被保険者が得ていた賃金,払い込んだ保険料
日目は東西両ドイツ国家は「通貨・経済・社会同盟の創設に関する両独国家
に応じて計算されるいわゆる年金の賃金・掛金との関連性の原則によって計
条約」(Vertrag Uber die Schaffung einer Wahrungs一, Wirtschafts−und
算され,被保険者年金は賃金代替機能を,遺族年金は生計費代替機能を有す
Sozialunion zwischen der BRD und der DDR;Staatsvertrag)(以下単に「国家
ることとし,年金制度が最低生活の保障ではなく,被保険者の退職前の生活
条約」とよぶ)を批准し,この国家条約は同年7月1日に発効した。ドイツ統
を保障する生活水準保障機能を果たすことが意図されている。
一は中央統制経済体制をとる東ドイツの国家体制を西ドイツと同一の市場経
老齢年金の支給開始年齢は原則として満65歳であるが,1972年に年金年
済体制に変:革してゆく形で進められたが,同条約は通貨統合,経済統合のみ
齢選択制の導入により60∼65歳で被保険者が選択できることとなった。しか
ならず,社会統合をも目指していた。通貨統合は東マルクを廃止し,これを
し,既述のように,1992年年金改革法によりこの制度の段階的廃止が決定さ
西ドイツマルク(Deutsche Mark=DM.以下DMと表記)に切り替えることに
れ,2006年12月以降は再び65歳に一律に引き上げられることになってい
より,すでにこの条約の発効した日に実施され,大きな混乱もなく無事完了
る。
している。また,1990年8月31日には「統一ドイツ回復に関する両独統一条
注1) 旧東ドイツの年金保険制度の概要については,Backer/Steffen[1990], Polster
[1990]und Schmahl[1991 a]などを参照。
約」(Vertrag zwischen der BRD und der DDR Ober die Herstellung der E量nhe1t
2) Vgl. Ruland[1991],S.521.
Deutschland=Einigungsvertrag)(第2次国家条約ともいわれるが,以下では「統
3)Vgl. Doetsche[1990],S.378 und BMA[1991], S.549.
一条約」と略称する)が締結され,同年10月にはベルリンで統一式典が挙行さ
4)社会的義務保険と任意付加年金保険の年金額の計算例については,Polster
[1990],S.168を参照。 Polsterの計算:例(1990年2月に満65歳となり,勤務年数
49年(加算期間を含む),1970年1月1日から1989年12月31日までの平均報酬月
額500東マルクであった既婚の年金受給者の場合)では,1990年12月1日に社会的
義務保険から受け取る老齢年金月額は
定額部分+逓増部分+配偶者加算=210+49×1%x500+200
=455(被保険者本人年金)十200
=655東マルク
となる。
5) Vgl. Ruland[1990],S.458.
6) Vg1. Rehfeld[1990],S.1151.
れた。同条約第8条により,同条約に別の定めがない限り,連邦法が同年10
月3日から東ドイツ地域にも適用されることになった。そうした例外分野の
1つが年金法で,1991年12月31日までは東ドイツの年金法が東ドイツ地域
では引続き適用され,社会法下野6編(年金保険法)の規定は1992年1月1日
から適用されることになった。早くも1990年12月には統一後最初の総選挙
が実施され,政治的統合も急速に推進されてきた。しかし,多くの困難を伴
う経済統合や社会統合は今後時間をかけて推進されてゆくことになる。
戦前の60年余の歴史を共有する東西ドイツの社会保険制度は,疵述のよう
に,戦後40年でまったく異なる発展を示しており,とくに長期的性格をもつ
196 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第/1章東西ドイツ年金制度の統合 197
年金保険の統合は社会統合の中でもとりわけ困難な課題となっている。戦前
いては一定期間引続き維持されること,などが決定された。また,年金同一
の伝統を継承した西ドイツの公的年金保険制度は疾病保険その他の社会保険
化法1さ東ドイツの年金法を西ドイツ方式の賃金・保険料比例年金に同一化
とは分離され,しかも前述の複数の職能別年金保険機関が存在し,各機関で
し,既裁定年金を西ドイツなみの純年金水準へ引き上げてゆくこと,動的年
は労使代表により構成される自治機関により自主管翠されてきた。他方,東
金方式を導入すること,などを規定している。
ドイツの社会保険は疾病保険,災害保険,年金保険などを一本化した総:合的
法的統一化をさらに一歩前進させたのは,「統一条約」である。同条約によ
統一保険として自由ドイツ労働組合同盟(FDGB)ないし国家によって管理さ
り,社会保険の任務が各保険部門の管理機関に移譲され,日常業務が執行さ
れてきた。
れることとなった。疾病保険部門では比較的早く法的一元化が実現し,すで
このように異なる仕組みの両国の社会保険制度を統合する場合に,ドイツ
に1991年1月1日には社会法典第.5編(疾病保険法)が一連の移行規定を設け
統一の過程では,
て東ドイツ地域に適用されることとなった。しかし,長期的性格を有する年
①完全に新しい社会保険制度を導入するか,
金保険や労災保険の一元化は疾病保険とは異なり,それほど容易ではなかっ
②東ドイツの社会保険法を西ドイツの法律に段階的に同一化してゆくか,
た。西ドイツでは1989年12月18日公布の1992年年金改革法が1992年1月
が問題になったが,時間的制約のために新制度の導入は不可能ということに
1日から施行されることが決定されていたが,統一条約により,この年金改革
なり,②の方法での一本化が進められることになった1)。
法の規定が同じ日から原則として東ドイツ地域でも適用されることになっ
ベルリンの壁崩壊直後から,東・ドイツでもその年金制度を西ドイツの年金
た。東ドイツの年金制度を西ドイツ方式へ移行するための経過期間に生ずる
法に調整するために,緊急に抜本的な改革を行う必要のあることがすでに広
諸問題については,1991年4月上旬連邦政府が決議し,6月末に連邦議会が
く認識されていた。「国家条約」も社会統合について東ドイツの社会制度を西
圧倒的多数で可決,7月上旬連邦参議院で同意され,1991年7月25日に公布
ドイツの方式に改変し,統合してゆくことを定めており,社会保険,したが
された年金移行法(Rentennberleitungsgesetz=RUG)においてとくに規定され
って年金保険についても同条約第20条において,東ドイツに同国の年金法を
ている4〕。ただし,原則として以下の諸点が確定されている。
西ドイツのものと同一化することを義務づけている。このことは1990年6月
①1992年1月1日から1995年6月30日までの期間に新規裁定年金を受給
28日に飾翫同年7月・日に騨した東ドイツの2法徳すな々ち社会
する年金受給者には東ドイツ年金法規に基づき1990年6月30日現在で算
保険法(Gesetz aber die Sozialvers量cherung=SVG)および年金同一化法
定された年金額が少なくとも支給されること,
(Renten−Angleichungsgesetz=RAG)2)によって実行されている。この2つあ
法律は,国家条約に基づき東ドイツの社会保険を西ドイツの法律に一元化す
るための第一歩となった3)。すなわち,社会保険は疾病保険;・年金保険,労災
保険の3部門に分けられ,1991年1月1日以降は各保険部門の管理機関によ
って西ドイツにおけると伺様に運営されること,保険料や料率も1990年7月
1日からは西ドイツ方式で徴収されること,現行の包括的被保険者範囲につ
②1990年6月30日現在で東ドイツ年金法規に基づき年金請求権が発生して
いた場合には,年金が支給されること,
③1991年4月1日から西ドイツと同一保険料率で保険料が東ドイツ地域で
も労使折半負担で徴収されること,
④戦傷者年金,社会的割増金などの東ドイツに特有の給付費については連邦
政府が東ドイツ地域の年金管理機関に支払うこと。
198 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
年金移行法は1992年1月1日から施行されたが,同法の成立により東西ド
イツの年金制度の法律面での統一化は終了したことになる5)。
第11章 東西ドイツ年金制度の統合
199
国家条約で決定された。
東ドイツ年金制度では動的年金方式は採用されておらず,被保険者に最低
保障のみを提供していた。すなわち,年金の実質価値を確保するための賃金
(2)年金制度統合に伴う主要課題
スライド方式は実施されておらず,また平均賃金がすでに1960年代中葉には
以上の考察から明らかなように,東西ドイツにおける年金制度の統合は,
月額600東マルクを超えていたにもかかわらず,保険料算定報酬上限額は
組織財政構造の問題にとどまらず,東ドイツの年金給付構造・給付水準な
1947年以来600東マルクに据え置かれていたことから,東ドイツの年金は賃
どを西ドイツ方式に改変することが重要な課題になる6)。
金上昇を反映しないで,低額にとどまっていた。したがって,年金生活者と
統一条約により社会法典第6編(年金保険法)は基本的に1992年1月1日か
就業者との所得格差は年々拡大してきていた。なお,国家条約第20条により,
ら隠州(統一後は東ドイツ地域の5州と東ベルリンを一般に新連邦州neue Bun−
東ドイツで支給される年金は1990年7月に束マルクからDMに1二1で切
deslanderとよぷが,以下では新州と略記する)に適用されるが,その組織に関
り替えられたので,新州の年金がかさあげされることになり,旧州の年金水
する規定は1991年1月1日から勢州にも適用されることになり,組織面では
準への同一化がはかられた。また,新旧では1990年12月14日の年金スライ
甲州の年金保険は迅速に西ドイツ方式に衣替えしていった。年金制度につい
ド政令により1991年1月1日と7月1日に15%ずつ,1992年1月1日に
ては,ベルリンの壁崩壊直後から東西両国の保険機関が接触を開始し,国家
11.65%,7、月1日に12.79%年金が引き上げられ,政策的年金引き上げが実
条約および1990年7月1日の社会保険法(東ドイツ)の発布後,田野(旧西ド
施された(その効果については図表11−2参照)。1990年7月1日からは旧州と
イツの予州と西ベルリンのいわゆる旧連邦州alte Bundeslanderをさす)の年金保
同一の年金保険料率が新旧にも適用され,労使で折半負担されることになっ
険機関の全面的な援助のもとに,新守にも骨子と同じ方式の年金保険機関が
た。保険料算定報酬上限額も月額2,700DMに引き上げられ,1991年1月1
設置されていった。労働者年金保険では州保険事務所が5つの新州と東ベル
日には3,000DM,同年7月1日には3,400DMに引き上げられた。平均的所
リンに新設され,連邦職員保険事務所,連邦鉱山従業員共済組合,連邦鉄道
得を得ていた保険加入期間45年の被保険者の年金は当時の東ドイツの被用
保険事務所,海員金庫はその管轄を新子にも拡大した。そして,新旧でも自
者の平均純所得の70%に引き上げられたが,それは任意付加年金を含めての
主管理法が適用されたので,年金保険の管理運営に労使が原則として対等に
ものであることに注意する必要がある8)。東ドイツの年金算定式は西ドイツ
参加することになった。東ドイツの社会保険者は1991年1月1日までに社会
保険移管機関となり,各年金保険の管理機関によって引き継がれるまでの間
図表11−2公的年金保険制度の被保険者年金の平均月額(単位:DM)
その事務を遂行し,1991年12月までにその任務を完了した。新州と計図の年
旧
金保険管理機関は密接な協力のもとに短期間に効率的な対応をはかり,1990
年第4四半期には540. 恊lの被保険者に社会保険手帳を送付し,1991年9月
には年金受給者に年金受給者番号を交付している7)。なお既存の東ドイツの
付加保障・特別保障制度は原則として1990年7月1日目廃止されることが
1990年7月1日
P991年1月1日
P991年7月1日
P992年1月1日
新
州
肥州/旧州(%)
州
男性
女性
女性
男性
女性
1,558
658
739
524
47
80
P,558
U58
W70
U20
T6
X4
P,636
U93
P,001
V16
U1
P03
P,636
U93
P,145
V64
V0
P10
出所:Backer/Ste鉦en[1992], S.167.
男性
200 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第11章 東西ドイツ年金制度の統合
201
とはまったく異なっていたので,新州の住民の年金を最終的に拠出比例的な
②旧州の規定に則した遺族年金の支給のために約38億DMの支出増,
年金にするためには,長期の移行期間が必要である。
③既裁定年金の評価変え(賃金スライド)による約74億DMの支出増。
移行期間における東ドイツの年金保険と失業保険の不足する財源は,西ド
東ドイツには社会扶助制度は存在しなかったので,その導入と行政機構の
イツが一定の範囲内で援助することを統一条約は規定している。連邦政府は
設置が完了するまでの問,社会的付加給付(Sozialzuschlag)が支給されるこ
1990年には当初の財政援助として7.5億DMと当年度の連邦負担金を負担
とが国家条約により規定された。この給付は年金保険からの給付ではなく,
し,東ドイツの年金保険の当年度赤字額約13.4億コ口を年金移行法により
西ドイツの社会扶助給付に相当するが,1991年12月31日までに受給を開始
引き受けている。しかし,予州にとって年金財政の将来見通しはきわめて厳
する者に対し年金保険,災害保険,失業保険の給付に付加され,最長1995年
しいものになっている。統一条約に基づく連邦政府の当初の見通しとは異な
6月30日まで支給される10)g年金移行法でも個人への影響を緩和し,年金制
り,保険料収入は予想より少なく,しかも1991年には前述のごとく2度にわ
度への国民の信頼を確保するために,1991年12月31日現在の状況を保護す
たり年金額を15%ずつ引き上げたので,連邦政府は1991年も新州の年金保
る移行規定が設けられている。すなわち,1996年12月までは東ドイツの年金
険の赤字分5億DMを負担した。もちろん,この2度にわたる年金の引き上
法規に基づく年金額が最低限支払われることが保障されている。さらに,1991
げは野州の年金受給者の生活状態を改善するのに大いに寄与した。連邦政府
年12月31日現在の年金額が勤務年数などが少ないために495DM以下の場
は新州の年金保険の機能を維持するためにその運営資金を無利子で貸与する
合,495DMと年金額との差額が社会的付加給付として支払われる。すなわ
ことになっており,1992年以降は新州と甲州の年金保険は財政的に連結され
ち,495DMが最低限保障されることになるが,この額は年金の賃金スライド
ることから,連邦政府の負担が今後さらに増大することが懸念されている9)。
に応じて引き上げられる。
1991年4月1日に年金保険の保険料率が18.7%から17.7%に引き下げ
新州における1991年の平均総労働年間所得は19,260DMで,旧州の
られたが,1992年と1993年も料率は変更されていない。しかし,1992年度
44,505DMの約43%の水準にある。旧州では短期労働者がきわめて多いの
末の変動準備金は新旧両州あわせて1.6カ月分で,赤字額は83億DMにな
で,完全就業者で比較すると,この数字は50%強になる。それでも,旧州と
ると予測されている。旧州は約42億DMの黒字なので,予州の赤字が125億
新州とでは2倍の賃金格差があることになる。保険料拠出者数では,新州は
DMということになる。1994年1月から19.2%に大幅に引き上げられたが,
660万人で,旧州は2,300万人である。失業者数は旧州の160万人に対し,新
今後も保険料率の引き上げがさらに必要となろう。国民が保険料負担に耐え
州は110万人で,新州の失業率はきわめて高い。新州の平均老齢年金額(月額)
られる程度に統一ドイツの経済状態が今後発展することが切望されている。
は1991年7月1日現在で男子1,021DM,女子707DMであるが,三州では
年金移行法は1992年1月より新州に適用されたが,同法によづて,新州に
男子は1,679DM,女子は718DMである。男子では新旧両州で1.7倍もの格
も年金権の統一化が進められてゆくことになる。同法の適用によって1992年
差がみられる。女子ではほとんど同額であるが,これは東ドイツでは女性の
には,以下のような財政的影響がでてくる。
社会進出が盛んで,その勤務年数が西ドイツより長いことを反映している。
①旧州の規定に則した年金支給開始年齢の調整ならびに就業不能年金および
稼得不能年金の導入のために約44億DMの支出増,
注1)VgL Diel/Ewert/GaBner/Kesse1/Thiede[1991],S.11.
2) 同法の正式名称は「東ドイツの既裁定年金を西ドイツの純年金水準へ同一化する
202 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
第11章 東西ドイツ年金制度の統合
203
ことなどを目的とする年金改正法(Gesetz zur Ang歪eichung der Bes亡andsrenten
an das Nettorentenniveau der Bundesrepublik Deutschland und zu weiteren
発展により新州の年金水準が旧州と同一レベルに達してからということにな
rentenrechtlichen RegelungenこAng正G)」である。
る。しかも,その間の両地域間の年金格差の存在は統一ドイツにとって社会
Vgl. Kiel/Maller/Roth[1990],SS.468 ff.
3)国家条約が年金保険に及ぼす影響については,Ruland[1990], H日ttenmeister
[1990]参照。
4)年金移行法については,BMA[1991], SS.549 ff., Ruland[1991], SS.518 f五,
Kie1/Luckert[1991],SS.555 ff. und Hain u.a.[1992], SS.521 ff.参照。
5) Vg1. Die1/Ewert/Ga8ner/Kessel/Thiede[1991], S.12.
6) VgL Kolb[1990 a]und Ruland[1990].
7) Vg星. Ruland[1991],S.519.
8) Vgl. Ruland[1991],S.522.
統合の面からも障害となり,社会的公平性や国民感情の上からも政治問題化
することが予想され,新口と旧州の年金格差解消のための政策的改革が要請
されることになろう。新州では年金額が少額なために社会的付加給付を併給
する年金受給者が当座はかなりな数に上ることが予想される。
こうした分裂国家の再統一による年金制度統合は史上に前例のない壮大で
希有な実験といえ,近年各国で増加している,仕組みや沿革のまったく異な
9) Vgl. Ru里and[199ユ], SS.520−521.
10) Vgl. Ruland[1991],S.523。
る年金制度間の統合やECのような地域統合による加盟国間の年金制度の調
整・統合にも多くの示唆を与えるものである3)。東西ドイツの年金制度はま
4 時間のかかる実質的な年金制度の統合
ったく異なる社会経済体制のもとで戦後40年間にまったく異なる発展を遂
げたので,ドイツ統一により統一的総合的社会保険のもとで運営されていた
東西ドイツ再統一の結果,東ドイツの制度を西ドイツ方式に統合すること
東ドイツの年金制度を多元的制度構成をとる西ドイツ方式へ統合するという
により,全ドイツを対象とする公的年金制度が再出発することになった。年
複雑で困難な課題が課されることになった。しかも,旧州と新州の間での人
金移行法の施行により,法律的には1992年1月1日より年金制度の統合は実
口移動や労働力移動に伴う問題など無数といっていい課題は,西ドイツが
現した。しかし,組織,仕組みなどの同一化は実現したが,統一後も旧州地
1989年12月成立の1992年年金改革法に基づき,長期的にその年金制度を高
域と新州地域(東ベルりンを含む)では賃金,物価などが異なるために,かな
齢化社会へ適応させるために改革中であったことにより,さらに年金統合の
りの年金格差が存続し,区分勘定される2つの年金制度が経過期問中は旧州
複雑さと困難さを増幅させている4)。
と三州に併存することになる。連邦政府は新州の年金水準を引き上げるため
発展段階の異なる東西ドイツの年金制度が単に法形式的だけではなく,実
に.1992年で87億DM,1993年で100億DMもの巨額の資金援助をしてい
質的にも一元化されるためには,旧東ドイツ地域の経済が旧西ドイツ地域並
る。しかし,新州における所得水準は過去はもちろん当分の間は西ドイ.ツ地
みに復興・発展することが必要であり,しかも過去における賃金格差や制度
域いわゆる米州におけるよりもかなり低く,両地域の年金水準には引続き
間格差に基づく既裁定年金の新州と旧州の格差をいかに解消してゆくかが今
大きな格差がある1)。これと関連して異郷年金(Fremdrente)と同様な問題が
後に課せられた重要な長期的課題といえよう5)。
生ずる。すなわち,新旧両州の地域間で人口移動が増えているが,被保険者
が両地域間を移動する場合の振替問題(Transfer−Probleme)がでてくる2)。
したがって,真に統一的な年金制度の実現という最終目標は,新州の経済
注1)年金算定式の一要素であり,年金額を決定する重要な要因である現実年金価値
(Aktueller Rentenwert,賃金上昇率に応じて毎年引き上げられる)は,1993年で
は職貝・労働者年金保険の場合で土州は42.63DM,新畑は28.19 DMであり,旧州
は新州の1.5倍となっている。年金算定式および現実年傘価値については,第2章
3の「(4)年金算定式と年金スライド」を参照されたい。
205
204 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
2) VgL H⑰ttenmeister[1990], SS.1167−1168,艮uland「1990」, SS.465−467 und
Diele/Ewert/GaBner/Kesse1/Thiede[1991], SS.37−38.この問題の詳しい説明は
省略するが,新州で雇用関係にあり旧州に派遣される人は新州の年金制度の適用を
受け(これをAusstrahlungという),逆のケースの人は旧州の年金制度の適用を受
ける(これをEinstrahlungという)という経過期間特有の問題がでてくる。
終章 年金改革と保険主義
3)Vg1. von Maydell[1990],SS.387 ff.なおドイツ統∵により東ドイツ地域(新州)
にもEC法が適用されることになるが,この点については, Grotzer[1991]参照。
4)1992年年金改革:法の概要については,前章ですでに紹介した。
5) Vgl. Ruland「1990」, S.463 und Schmahl[1991 b],S.241.
1 ドイツ年金制度の歴史的連続性と保険主義
1880年代に他国に先駆けてドイツで社会保険が導入されてから,すでに1
世紀余りが経過している。社会保険を取り巻く社会的経済的ないし政治的状
況は,社会保険成立当時と現在では激変しており,ドイツ社会保険100年目
歴史は,こうした社会経済環境などの変化への対応の歴史として位置づける
ことができる。
しかし,他方では,ビスマルク社会保険の基本的特質は第2次大戦後は連
綿と西ドイツそして統一ドイツに継承されて,その歴史的な一貫性ないし連
続性は保持されてきた1)。ドイツの現在の公的年金制度の特質は,職能別多元
的制度,保険主義,自主管理,強制加入などに求められるが,これらはいず
れも1889年の障害老齢保険法にその淵源を見いだすことができる。とりわけ
保険原理ないし保険主義の重視は,ドイツ(戦後は西ドイツ)の社会保険の伝
統となっている。保険主義はドイツ社会保険,・したがってまた年金保険あ歴
史やその特質を理解するためのキイコンセプトといえるので,この点につい
て若干の考察を行って終章としたい。
石油ショック以後,高成長経済から低成長経済への移行,失業者の急増,
人口高齢化の進展などの影響を受けて,西ドイツでは,年金財政の危機がク
ロー ャAップされ,1970年代後半から財政再建を中心とした諸対策が相次い
で実施されてきた。しかし,超高齢社会を迎える21世紀に向けて長期的に安
定した年金制度を確立するためには,従来のような部分的対応策では不十分
206 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
なことが広く認識されるようになり,1980年代中葉にはいわゆる年金制度の
「構造改革(Strukurreform)」が盛んに論議されるようになった。連邦政府も,
1982年頃から予算関連法や年金調整法,1985年の遺族年金・養育期間法など
により,構造改革の試みに着手している。
1980年代に提唱された各種の年金改革案は,現行制度との連続性を維持し
ながら大幅な改革を行う立場から,現行制度を全廃してまったく新しい制度
を導入する立場のものまで実に多種多様であり,話発な論争が展開された。
この年金改革論争の帰結が1989年末に成立した「1992年年金改革法」であっ
た。同法は現行の基本的枠組みを維持しながら21世紀の少子・高齢社会にお
ける年金制度の在り方を追求している。年金制度は老後の生活保障の中心的
柱であり,その改革は多数の高齢者の生活設計に直接重大な影響を及ぼすも
のであるだけに,常にその時々の最大の政治的課題となっている。
わが国では,1986年4月施行の新年金法により,全:国民共通の基礎年金制
を導入する年金改革が実施された。しかし,21世紀における年金制度の全体
像が提示されないままに,性格を異にする国民年金,厚生年金,共済組合の
分立を前提にして実施されたこの年金改:革も,財政対策のみが先行しており,
明確な改革の理念やコンセプトについて十分な議論が行われないままに,国
民の公的年金に対する信頼を失わせる形で押し進められたといわれる2)。現
行制度の問題点を把握するためにも,長期的視点に立った確固たる理念ない
し原則を確立することが必要である。このことは,社会保険の中でも,とり
わけ長期安定的に運営される必要のある年金制度にとっては重要なことであ
る。その意味からも,シュメールの指摘するように,100年の歴史を有するド
イツ例会保険の基本原理となってきた保険主義ないし保険原理に,今後実施
される年金改革の中でいかなる意義や役割を与えるべきかが中心的課題とい
える3)。こうした問題意識から,1983年1a月から翌年1月にかけてベル1∫ン
終章 年金改革と保険主義
207
点から論議されたのであった4)。
注D ドイツ杜会保険の歴史的連続性の問題を検討した文献としては,さしあたり以下
の2文献を挙げておく。
①Hockerts[1983],SS296−323.
②箸方[1984],245−272ページ。
2)坂本[1988],322−337ページ参照。
3)Vgl. Winfried Schmahl, Vorwort, in:Schmahl(Hrsg.)[1985],SJIL
4) このシンポジウムで発表された報告は,Schmahl(Hrsg.)[1985]に収録されて
いる。
2 社会保険と保険主義
(1) ドイツ社会保障と保険主義
ドイツでは社会保障制度は各制度を支配する形成原理に従って,保険,援
護,扶助の3領域に大きく分類されている。社会保険は疾病,老齢,障害,
災害,失業などの社会的リスクを保障するもので・西ドイツでは社会保障の
最:も重要な分野を占めており,疾病保険,年金保険,災害保険,失業保険・雇
用促進などの制度から構成されている。国家援護は西ドイツでは限定的範囲
で適用されており,国家のために犠牲になった人々に対する補償給付をさし,
戦争犠牲者援護と負担調整(戦争により財産上の損失を受けた人々に対する補
償)などからなる。国家援護は社会扶助と同様に一般税収により賄われてお
り,その点で保険料を主要財源とし,あらかじめ保険料を払い込むことによ
って受給権の発生する社会保険とは異なる。しかし,国家援護は社会扶助と
異なり,受給者の個別的な困窮状態や必要度を調査することなく,特別の犠
牲を証明すれば支給される。社会扶助の代表的な制度はわが国の生活保護に
相当する社会扶助制度である。
形成原理を異にレ,それぞれの特質を有する3領域が有機的関連を維持し
ながら,世界的にもハイレベルの社会保障が社会国家を標榜する西ドイ、ツで
自由大学で,学者や社会保険実務家などが参加するシンポジウムが開催され,
西ドイツの疾病保険と年金保険の両部門における保険主義の意義が種々の観
は実施されてきた。しかも,戦後西ドイツの指導原理となっている社会的市
208 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
終章 年金改革と保険主義
209
場経済原理との整合性から,保険主義を基本原理とする社会保険が社会保障
わが国でも,大林良一,印南博吉,近藤文二,広海孝一,箸方幹逸などの
の3本柱のうちで最も重視されてきたといえる。スウェーデンのような援
各教授によってこの問題は論じられてきたが,とりわけ大林教授は保険主義
護原理を中心とする社会保障体系への方向転換を求める動きが西ドイツで
とセットで取り上げられる扶養主義ないし扶養性概念を中心にその社会保険
も一部にみられたが,むしろ中央管理的な援護国家への傾斜には批判的警
理論を樹立されている3)。大林博士は,保険の手段により社会的目的を達成し
戒的な考え方が根強く,社会保険を社会保障の中核とする現行の保険国家
ようとする社会保険には,危険および給付と保険料との比例性に忠実な保険
(Versicherungsstaat)のあり方が広範な支持を得てきたのである。したがっ
主義と,貧困な被保険者などを救済するために保険料との関係を考慮せずに
て,戦後被保険者範囲の拡大や給付改善などにより拡充されてきたことを反
必要な給付を行う扶養主義という相対立する思想が必ず何らかの形で共存
映して,社会保険はその重要性を年々増大し,社会保障に占める社会保険の
し,「保険主義(Versicherungsprinzip)か扶養主義(Versorgungsprinzip)かの
比率は上昇している。ドイツの社会保障体系では,保険主義を形成原理とす
2つの志向の何れか一方に向かって最後的な決定をなすことは,社会保険を
る社会保険,とりわけ被用者階層を主な対象とする年金保険と疾病保険の2
止揚することとなる……社会保険の枠内の問題としては保険主義と扶養主義
部門にその重点が置かれているといえる。
の相互に随伴する場合でなくてはならぬ。その限りにおいて保険主義の問題
は同時に扶養主義の問題である」4)とされている。社会保険における保険主義
(2)社会保険学説と保険主義
と扶養主義の相互随伴の様相は国により,また時代により変化し,「経験的に
成立当初のドイツの社会保険は,
は,時に,より多く保険主義の方向へ,又時に,より多く扶養主義の方向へ
①私保険と同じく個別危険の原則により,疾病,障害・老齢などの危険別の
保険部門が設けられ,保険事故を特定していた,
と変動せるために,その現象形態は時に保険性の,又時に扶養性の濃厚なも
のになる」5)といわれる。
②私保険にならい,給付の財政的基礎を労使の拠出する保険料に求めていた,
スイスの学者トリッペルも「……社会保険の中には保険主義と扶養主義と
③保険料の危険への比例性の原則は災害保険に限られたが,収入に応ずる保
いう2つの異なった原則が実現している。保険主義は保険技術的に組織化さ
険料,保険料負担に応ずる金銭給付が採用された,
’
れた自助に重きをおく。被保険者は実質上保険の資金を支払わなければなら
などにみられるごとく,個人主義的色彩,したがって保険主義のきわめて濃
ない。……事情いかんにより,社会保険では保険主義と扶養主義のいずれか
厚なものであった1)。しかも,保険主義の対極にある扶養主義の顕現ともいう
がより強調される」6)と大林博士と同様な見解を展開している。また,アメリ
べき国庫負担金の制度は,疾病保険法,災害保険法では実現せずに,この2法
カのレジダも社会保険の特質を私保険性(private insurance elements)と福祉
よりも遅れて制定された1889年の障害老齢保険法において初めて採用され
性(welfare element)の両要因を含有するものとして把握し,この点から社会
ている。したがって,ドイツでは保険主義の概念は社会保険との関連でかな
保険と私保険や公的扶助との共通点や相違点を説明しようと「している7)。た
り古くから取り上げられてきた。ヴェッディゲンは1931年目『社会保険改革
だし,レジダは社会保険における私保険性の定義は示さず,社会保険と私保
の基本問題』で保険主義と扶養主義を取り上げ,社会保険における二重性の
険の共通点と相違点を列挙するにとどまっている8)。
問題を本格的に論じている2)。
210 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
終章 年金改革と保険主義
211
(3)年金保険における保険主義
により実現した年金保険も依然として第3の立場にみられるごとく,保険主
ビスマルクはもともと国家による扶助ないし援護の制度を希望し,援護国
義と社会的調整,換言すれば危険平均(保険的所得再分配)と階層間の人的所
家を志向していたといわれるが,成立した社会保険の3部作はかれの当初の
得再分配が一定の仕方で結合された中間的形態ないし混合形態であった。し
計画とは反する内容を多く含んでおり,ビスマルクの意思に反して導入され
たがらて,前述の大林博士に代表される所説(社会保険における保険主義と扶養
た第1のものは保険主義であったといわれる9)。皮肉なことに,保険主義の重
主義の二重性理論)がなお社会保険分析のツールとして多くの学者により援用
視はその後のドイツ社会保険史の伝統となっており,戦後は西ドイツと統一
されることになる。
ドイツに継承されている。
第3の立場が西ドイツにおける多数説といってよいが,それは個人保険に
しかし,ワーグナーが「一般に受け入れられた保険主義の定義は存在しな
おけると同様に社会保険においても等価原則(Aquivalenzprinzip)を保険主義
い」10》といい,マインホルトが「保険主義が何を意味するか,さらに社会保険
としてとらえるが,社会保険の二重性のゆえに,社会保険における等価原則
主義とは何かについては,無数の解釈がある」11)と指摘しているように,保険
は個人保険のそれとは同一のものではなく,扶養主義ないし社会的調整の要
」萎塑明確な紘=:的定i野州査しな齢。コルプによれば,年金保険にお
ける保険主義の把握の仕方は大きく3種類に分けられる12)。第1の立場はシ
請からデフォルメされた形で適応されているとする14)。
等価原則とは因果主義(Kausalprinzip)と給付・反対給付均等の原則(Prin−
ュライバー(Wilfrid Schreiber)に代表されるもので,「公的年金保険は給付・
zip der Gleichheit von Leistung und Gegenleistung)をさす。前者は社会扶助
反対給付の等価原則が全面的に適用されるべき,そして全体として大部分適
などに適用される結果主義(Finalprinz加)と対立する原則である。後者は保
用されている自助施設である」とするもので,私保険と同一の等価原則が適
険料は保険給付の数学的期待値に等しいといういわゆるレクシスの公式(純
用されるものとする。第2の立場はこれとはまったく正反対の見解であり,
保険料をP,危険発生率をw,保険給付をZとすると,P=wZで表される)を意味
「社会保険とは給付・反対給付の期待値の均等原則が適用されない保険と定
する。その含意は概略次のとおりである。事前の保険料(掛金)拠出によって
義できる」‘とするホイベッグ(Georg Heubeck)に代表されるものである。第
契約における保険給付請求権は確保される。保険料はできる限り正確に危険
3の立場{まムール(Gerd Muhr)に代表されるが,「年金保険には等価原則と
発生率に比例して支払われ,その限りで個人保険は完全な自助施設である。
連帯原則が等しく存在し,加算期間から遺族保障に至る連帯的平均の給付が
しかし,それは集団的自助であって,危険発生率の把握には大数法則が適用
保険料によっても賄われている。年金保険は連帯原則ないし社会的調整の原
され,危険発生率を同じくする保険団体内においては危険平均が行われ,収
則と等価原則ないし給付・反対給付均等の原則とを統合(Synthese)したもの
入保険料の総額は支払われる保険給付の総額に等しくなるように収支相等の
である」とするものである。
原則が適用される。なお,カルテンは等価原則を給付・反対給付均等の原則
第1の立場にたって,第1次年金改革に際してシュライバーは,古典的な
をさす個別的等価原則(individuelle Aquivalenzprinzip)と,収支相等の原則
ドイツ社会保険における二重性を反省して,扶養主義の強化に抵抗し,保険
主義のより一層の強化を要請するシュライバー構想を提唱したといわれ
る13)。しかし,シュライバーの主張と現実との距離は大きく,第1次年金改革
を示す集団的等価原則(Gruppenaquivalenzprinzip)に分類している15)。
社会保険は保険主義をその指導原理の1つとしており,個人保険と同様に
保険料(掛金)を負担することによって,給付請求権が発生する。社会保険が
212 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
等価原則志向的であり,契約志向の給付請求権の特質をもつということから,
所得ないし賃金の多いものは保険料を多く負担し,それに応じて年金を多く
支給される(このことを所得・保険料の関連性Einkommens−und Beitrags−
bezogenheitまたは保険料等価Beitragsaquivalenzとよぶ)という比例拠出・比
例給付の形態をドイツの年金保険は採用している。このことから,年金保険
終章 年金改革と保険主義
213
14)大林博士は,社会保険の保険主義を等価原則から把握するのではなく,その保険
学説から出発して把握する方法をとられ,社会保険の保険性が「部分的に変改され
ている」諸点を詳細に論じられている(大林[1952],85−96ページ参照)。
15)Vgl. Karten[1977],S.186(目方[1978],154ページ注2を参照).この箸方論文
(150−154,160−161ページ)では,個人保険と社会保険における等価原則の特質が簡
潔に述べられている。
16)大林[1952],4ページ参照。
が賃金代替機能をもつことになる。kを定数, Yを所得ないし賃金とすれば,
社会保険の保険料PはP=kYで課せられることが多く,保険料はwやZで
3 ドイツ年金史における保険主義の変容
はなく,Yに比例して決定され,応能負担の原則により課せられている。し
たがって,個人保険の場合と異なり,社会保険では危険相当以下の保険料を
(1) 戦前期における保険主義の動揺
支払う者もあれば,それ以上の保険料を負担して強制加入させられる者も存
保険主義のきわめて濃厚な社会保険として発足したドイツにおいて,扶養
在することになる。さらに,社会保険は完全な自助施設ではなく,自助のた
主義の顕現というべき国庫負担金の制度が導入されたのは,1889年の障害老
めに国家的扶助が加わったものとなっており,国庫負担金が社会保険財源の
齢保険が最初である。第1次大戦とその後の時期には,当時の経済状況の悪
一部を構成することになるが,財源の少なくとも半分以上が被保険者または
化や高インフレーションのために,各種の補助給付がいずれも全額または一
その雇主によって支払われることが必要であり,財源の大半またはすべてが
部国庫:負担により実施され,扶養主義の強化,保険主義の後退という状況が
租税収入によって賄われる場合には,もはや社会保険とはいえないことにな
進行した。とくに1920年の「年金保険のための非常手段に関する法律」では,
る16)。’
注1)大林[1952],61−62ページ参照。
2)Vgl. Weddigen[1931].大林[1952],60,71−72,79ページ参照。
3)大林[1952],とくにその第1章と第3章を参照のこと。
4)大林[1952],60ページ。
5)大林[1952],61ページ。
6)Trippel[1952], S.13.訳は広海[1964],80ページより引用。広海論文は,大林
博士とトリッペルの所説を手がかりに,社会保険の財源調達との関連で,扶養主義
における雇主醸出金の地位を詳細に考察された労作である。
7) Cf Rejda[1976],pp.33−41.
8) Cf. R(jda[1976],pp.37−39.
国庫が8割,地方団体が2割をそれぞれ分担して,年額3,000マルクが別途
収入のない年金受給資格者に支給されるに至り,保険主義の著しい後退をみ
た。しかし,当時においてもなおドイツ議会をはじめとして,長期的視点か
らは保険主義の放棄を積極的に主張する者は少なかったといわれる1)。ナチ
ス体制下でも,ライヒ労働省官僚の抵抗などにより,ドイツの伝統的な社会
保険の基本構造には変化は起きなかった2)。すなわち,ビスマルク時代に採用
された社会保険における濃厚な保険性の堅持が,ナチス蒔代においても,そ
の社会保険改革の基礎となっていたのである3)
9)二方幹逸[1982],175−176ページにおいても,Hentschel[1980],S。47のかかる
見解が紹介されている。
10)Wagner[1985], S.142.
11)Meinhold[1985],S.14.
12) VgL Kolb[1985 b],S.121.
13)和訓[1978],152ページ参照。
(2) 戦後復興期における保険主義の後退
第2次大戦後機能を停止していたドイツの社会保険制度を再建し改革する
ために,1946年から1947年にかけて統一的な国民保険を目指す社会保険改
214 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
革案が連合国管理理事会法案として作成された。周法案は可決直前までいっ
終章 年金改革と保険主義
215
ある。こうした年金財政のあり方に対しては各方面から批判が寄せられた。
たが,冷戦の発生などにより1948年2月に智理理事会会議で棚上げされ,実
施されるに至らなかった。その結果,英,米,仏の西側3占領地区では,疾
病,災害,年金,失業の4部門からなる伝統的な多元的社会保険制度を維持
(3)第1次年金改革期における保険主義の強化
1957年の第1次年金改革では,あらたに農業者老齢扶助法が制定され,い
して,ビスマルク社会保険以来の歴史的連続性が継承されることになった4)。
わゆる農民老齢年金保険が導入された。この農業者老齢扶助と鉱山従業員年
敗戦と戦後のインフレーション,通貨改革などの影響により,年金財政は
金保険では,各根拠法において,毎年の総支出が保険料・利子収入を上回る
破滅的状態にあった。他方,1948年の通貨改革を契機とする西ドイツ経済の
場合には,その差額が政府により補填されることが規定されている。その結
急速な復興により賃金や生活水準は年々上昇したにもかかわらず,年金は低
果,農業者老齢扶助ではその財源の実に7∼8割を連邦補助金に依存してお
水準にとどまり,400万人以上に上る多数の年金生活者の生活はきわめて苦
り,また鉱山従業員年金保険でもその財源の5∼6割が連邦補助金によって占
しい状況に置かれていた。戦後の新しい物価水準や賃金水準に年金額を調整
められており,保険主義の後退した,換言すれば扶養主義の顕著な財政構造
するために1949年6月に社会保険調整法が制定され,年金給付や最:低保障額
を示している。その点で,この両制度には,国庫による毎年の支弁を予定せ
の引き上げなどが実施された。その後ほぼ毎年,年金給付の改善,受給資格
ず,保険料を主要財源とする労働者・職員年金保険制度とは本質的に異なる
の緩和が行われた。たとえば1951年8月には年金加給法により年金給付額が
特色が認められる(前掲図表2−5および図表2−6参照)6)。農業者老齢扶助と鉱
平均25%引き上げられた。こうした伝統的手法による定額の物価加算,基本
山従業員年金保険の両制度は農業ないし鉱山業という特定の産業部門を保護
額の引き上げなどの措置による支出増は,経済復興が軌道に乗るまでは保険
育成するための産業(構造)政策上の理由から大幅な公費負担が当初から公認
料率引き上げの余地は少ないために,いきおい連邦補助金によって賄わざる
され,予定されている特殊制度といえる。以下では,もっぱら労働者年金保
をえなかった。西ドイツの公的年金制度の中核をなす労働者年金保険と職員
険と職員年金保険を考察する。
年金保険についてみると,保険料率は10%(労使5%ずつの折半負担)で据え
第1次年金改革では伝統的な分立的制度とその組織を継承しながら,シュ
置かれ,その引き上げが実施されたのは1955年以後(55年に11%,57年に14
ライバーの基本思想を取り入れて,保険主義を強化する方向が打ち出されて
%に引き上げられた)のことである。他方,労働者・職員年金保険の年金財政
いる。第1に,従来の定額部分プラス報酬比例部分という年金算定式を廃止
に占める連邦補助金の割合は年々急増し,1950年では18.7%であったもの
し,被保険者の過去の賃金・拠出と保険期間に応じた年金額を決定する比例
が,1955年では35.1%(労働者年金保険では36.7%,職員年金保険で31.7%)
年金方式が採られている。第2に年金保険の財源も従来同様に労使の拠出す
と,1957年の第1次年金改革実施直前では3分目1を超える水準に達してい
る保険料により主として賄われ,保険料は被保険者の所得に保険料率(1957年
た5)。
で14%を労使折半負担)を乗ずることによって算出される。しかし,他方で,
このように戦後復興期には,緊急事態に対処するために,保険料率の引き
保険期間に兵役,疾病,育児,失業などによる保険料不払期間(代替期間,脱
上げを伴わない給付改善がいわばなしくずし的に国の財政援助により実施さ
落期間,加算期間など)も一定条件のもとで算入され,年金額に反映されるこ
れ,保険主義の後退,扶養主義の強化という状況が進行したことは明らかで
とになっており,一定の連邦負担金も引続き支払われる。ただし,従来は年
216 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
終章 年金改革と保険主義
217
金額の3分の1を国家が負担することになっていたが,一定額を国が負担す
に引き上げられたことから年金財政が好転し,積立金が年々急増すると予測
る方式に改められ,1957年では労働者年金保険支出の35.3%,職貝年金保険
されるに至った。1950年代,1960年代と同様な高成長を予定した第2次年金
支出の18.3%,両制度平均では29.8%を国が負担していた。この一定額の連
改革が1972年にプラントSPD/FDP連立政権下で実現した。この年金改革
邦補助金は毎年の年金保険支出額ではなく,総:賃金餌の推移に応じて決定さ
では,年金年齢選択制の導入,最低年金保障制の導入,既裁定年金のスライ
れることになっており,年金支出に占める連邦補助金の割合はその後年々低
ド時期の半年繰り上げ,自営業者,主婦などへの年金保険の開放(任意加入に
下した。すなわち,第1次年金改革以後,年金保険料出額に占める保険料の
際して加入者にきわめて有利な保険料追納制を認める)などが実施された。いず
割合は急増し,逆に連邦補助金の占める割合は急減(労働者年金保険と職員年
れも年金制度にとって長期的に多額の支出増につながる措置であり,保険数
金保険の平均でみると,1958年の29.6%から60年28.8%,65年26.1%,70年
理的に必要とされる保険料負担を伴わずに実施されたもので,明らかに等価
18.6%,80年19.3%,89年17.1%となっている7)。この点については,前掲図表
原則を侵害し,保険主義を犠牲にした扶養主義・連帯主義の強化を意味する
2−5を参照)しており,保険主義の強化と扶養主義の後退がこの点からも指摘
ものであった19。自営業者への年金保険の開放も従来の被保険者である被用
できる。
者階級の負担により自営業者などを優遇するものである。しかも,こうした
シュライバーが第1次年金改革で目指したものは,古典的なドイツ社会保
険における二重性への反省であり,扶養主義強化に反対し,保険主義を一層
措置が1970年代後半に「第1の年金の山」を迎え,年金受給者指数が上昇す
みことが確実に予想される中で実施された。
強化することにあったといわれ8㌧改革の成果としては「従前所得保障主義原
第2次年金改革実施直後の1973年には第1次石油ショックが発生し,年金
則」の確立と「等価原則」の強化が指摘される9)が,そのことは以上の叙述で
財政の破綻を回避するために,1970年代後半より各種の場当たりの財政再建
確認できる。
策が試みられた。年金算定式への恣意的干渉(一般算定基礎Bの算出基準年度
しかし,第1次年金改革では,保険主義の確保強化という伝統の維持に加
を変更したり,1979年から1981年までBを固定化し,賃金スライドをストップし
えて,動的年金の導入,世代間連帯契約思想に基づく財政方式の転換(積立方
た),法定最低積立金の前年度3カ月分支出相当額から1カ月分への引き下げ
式から修正賦課方式へ)などの新機軸が打ち出されている10)。また,シュライ
などは,システム破壊的な内容の対策として批判された。こうした対応に対
バーの意図にもかかわらず,二重性の止揚は実現せず,年金保険は依然とし
しブリュックは,年金制度が政治的干渉を受けやすくなり,保険料収入・年
て保険主義と扶養主義の混合形態となっている。
金給付支出の等価原則や動的年金原則が空洞化され,年金保険料がやがて目
第1次年金改革はその後の高度経済成長に支えられて順調に実施されてき
たが,1966/67年の経済不況のために年金財政再建の必要から保険料率を引
的税となり,比例年金が最:低一律給付へと代わり,早晩,年金保険が年金援
護と化することを懸念していた王2)。
き上げる形で主要対策がとられ,保険主義の一層の強化がはかられた。
(5)1980年代における構造改革の試みと保険卑義維持の模索
(4)第2次年金改革期における保険主義の後退
1966/67年目経済不況からの回復が早まり,1968年以降保険料率が段階的
1980年代に入っても,引続き短期的な財政再建策が試みられ,収支のバラ
ンスを維持するために1981年から1985年にかけて保険料率の改定が繰り返
218 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
終章 年金改革と保険主義
219
され,保険主義維持の模索が試みられた。さらに,給付切り下げにつながる
があり,この3モデルはいずれも1985年に発表され,反響をよんだ。この第
年金スライドの現実化(Aktualisierung)が1984年より実施され,年金スライ
2の道を探る考え方は,現行制度の枠組みでの改革では今後の人口高齢化と
ド率を従来のような過去3年間の被保険者全体の平均総労働報酬の伸び率で
低成長経済において年金制度の長期安定化は得られないという立場から新制
はなく,前年のそれによることにした。他方で,1984年の予算関連法では育
度の導入を主張するものである。いずれも全国民を対象に国家財源による統
児などで保険期間が短くなりやすい女性の立場を考慮して受給資格期間を従
一的基本年金を支給する新制度の導入を提案しており,したがって,その点
来の15年から5年目短縮したり,1985年の遺族年金・養育期間法では遺族
に関する寮ぎり保険主義を全面的に廃棄した改革案となっている。なかでも
年金における男女不平等を是正するために控除額付き遺族年金制度を1986
ミーゲル=IWGモデルは現行制度を全廃して,租税方式の均一な動的基礎年
年1月から実施したり,生後1年間子供を養育した者に1年聞の保険期間を
金を満63歳以上のすべての居住者に支給しようとするもので,これら3つの
認める児童養育期間制を取り入れるなどの構造改革の試みも行われている。
モデルの中でも最も単純明快で大胆な改革案となっており,保険主義に固執
しかし,これらの対策は長期的なビジョンや明確な理念が確立されての構
してきた伝統的な公的年金制度と訣別する内容になっている。
造改革とはなっておらず,ファウペルの指摘するように,小改革の繰り返し
第3グループの改革案はバトラー=イエーガーモデルなどにみられる。同
であった13}。第2次年金改革以後の1980年代までの対策は第1次年金改革で
モデルでは賦課方式で運営されている現行の年金制度をいわゆる部分積立方
実現し,曲がりなりにも保険主義を形成原理とする現行年金制度の基本構造
式によって補完する折衷的な案となっている。
をなんとか維持してゆくための,一面で試行錯誤を含む関係者の懸命な努力
いずれにしろ,1980年代の年金改革論争はドイツの年金制度で重視されて
であったということができる。
きた保険主義をめぐる論争といってよく,租税方式のモデルを含むきわめて
.幅広い観点から議論された点に特色がみられる。
(6)1980年代の年金改革論争と保険主義
1980年代の年金改革構想は大きく3種類に区分できる。.第1グループに属
(7)1992年年金改革法における保険主義の維持強化
する年金改革案は賃金・保険料に比例した年金を支給し,賦課方式と動的年
1980年代の年金改革論争の帰結が1989年末に成立した1992年年金改革
金制を採用している第1次年金改革以降の現行年金制度の枠組みを維持しな
法である。同法の内容は結果的に(6)で述べた第1グループの年金改革案に
がら,構造改革を進めてゆこうとする立場のものであり,現行制度における
沿ろたものであり,基本的に保険主義に基づく現行年金制度の枠組みを維持
保険主義の維持をはかってゆく考え方である。この分類に入る漸進的改革案
しながら,21世紀に向けた少子・高齢社会を乗り切ってゆこうとするものあ
は,社会審議会の1986年の意見書,ドイツ年金保険者連合会意見書(1987年)
る。換言すれば,租税方式の基本年金,基礎年金の導入を明確に否定レたも
など,最:も数が多い。
のとなっている。したがって,現行年金制度の基本的特質である賃金・保険
第2グループに入る改革案は現行制度を一部または全部廃止して,租税方
料の関連性の原則は今後も維持され,労使の負担する保険料を主要財源にし
式による統一的基本年金を導入するラディカルなもので,IWG関係者により
て年金制度は運営される。保険主義の観点から注目される点は,連邦補助金
発表されたミーゲル=IWGモデル,バンゲマンモデル,「緑の党」モデルなど
の動態化を意図した「自動調節装置」の導入である。この自動調節装置は,
220 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
保険料率の改定や賃金上昇率(これは年金スライド率を規定する)に連動して連
終章年金改革と保険主義 221
13) Vg1. Faupel[ユ988 a], S.201、
邦補助金を増減するもので,保険料拠出者,年金受給者,国家の3者により,
公平な費用負担が確保されることを目的としているが,連邦補助金への傾斜
4 ドイツ年金制度の将来と保険主義
を規制すると同時に,保険料率と年金スライド率を連動させることによって
年金収支のバランスをはかる意図もあり,保険主義の維持にもプラスする。
第2次年金改革の際に導入された年金年齢選択制により65歳以前に老齢
年金制度を人口高齢化と低成長経済という厳しい環境条件の変化に適応さ
せるために,第1次年金改革によって修正・確立された保険主義を中心とす
年金を受給する者が大部分を占めるようになっていたが,1992年年金改革法
る基本原理をなんとか維持しながら,改革を進めてゆく努力が,1970年代中
では,本格的な人口高齢化に対応するためにこの制度を廃止し,第2次年金
葉から今日まで続けられてきた。
改革以前と同様に,年金支給開始年齢を通常の男性の場合は65歳に固定し,
1980年代には,新しい発想に基づく各種の改革構想が提案され,議論され
2006年まで時間をかけて段階的に引き上げることにした。減額年金制は早期
てきた。前述の各種の基本年金構想のほかにも,SPDや労働組合などの提案’
受給を希望する者は62歳から老齢年金を支給する代わりに,保険数理に基づ
に基づく機械保険料(Maschinenbeitrag)ないし価値創造保険料(Wertsch6P−
く減額措置がとられることになった。部分年金制度の導入は,第2次年金改
fungsbeitrag)や,家族負担調整(Falnilienlastenausgleich)を年金制度に導入’
革で導入された年金年齢選択制の利用による老齢年金の早期受給者をこれ以
する構想,部分年金構想などがある1)。
上増加させないために,早期受給資格者にパートタイム就労を認め,その間
機械保険料は技術革新によるコンピュータ化やロボット化などの進展に対
減額された部分年金を支給するものである。これらはいずれも超高齢社会に
応させながら,伝統的な拠出原則を現代的に適応させようとする提案である。
対応するために,保険主義に基づく現行年金制度を守りつつ,年金財政の安
家族負担調整は第1次年金改革の基礎となっている世代間連帯契約の思想を
定化を図ろうとする苦肉の対策といえよう。
出生率低下という人口要因の変化に対応させるために,将来の年金保険財政
注1)大林[1952],62−63ページ参照。
を支える子供達を生み育てた人と,そうでない人とで保険料ないし年金に差
2)示方[1984],267ページ参照。
3)大林[1952],64ページ参照。
を設けようとする3世代間の連帯(Drei−Generation−Solidaritat)をはかる考え
4) 詳しくは,下和田[1983],33ページ以下参照。
方であり,それは1992年年金改革法では,児童養育期間の強化という形で一
5)Vgl. BMA[1975], SS.98−100.(同訳書,108−110ページ)
6)下和田[1978a],90−91ページ参照。
7)Vg1. auch BMA[1991], S.202.(同訳書,217ページ)
8)読方[1978],152ページ参照。
9)町方[1978],160ページ参照。
10)白方[1984],271−272ページでは,公的年金制度:の歴史的非連続性の証左として,
①動態年金の原則,②年金算定式の変更,③年金改革の国民的コンセンサスの成
立,を挙げておられる。
11)同様な指摘は内方[1978],161ページでも行われている。
12)Vgll B凶ck[1977 a],S.29.このブリュック論文の要旨は,箸方[1978],158−165
ページで紹介されている。
部取り入れられている。また,部分年金構想は同法では部分就労・部分年金
制という形で実現されている。
ドイツの年金制度の将来の発展に影響を及ぼす最も重要な要因は,引続き
経済的要因と人口構造的要因である。とくに後者は1980年代以上に今後20
年ないし40年間は状況が一段と厳しくなり,2030年頃には年金受給者数が
被保険者数を上回るという未曾有の事態の到来が予測されている2)gかかる
状況と1980年代の構造改革の動向を考えあわせると,利害関係者多数の支持
222 第3部 第2次大戦後におけるドイツ年金保険の発展
終章 年金改革と保険主義
223
を得ると思われる今後の年金改革の基本的方向を集約すれば,コルプの指摘
て新制度を導入することは長所よりもむしろ混乱や危険の方が大きいという
するごとく,以下の諸点が挙げられよう3)。
基本的考え方にある。すなわち,システムを変更するのではなく,新しい環
①保険主義ないし賃金・保険料の年金額との関連性の原則を今後も維持すべ
境条件に現行システムを適切に調整してゆくことが重要であるとの認識があ
きである。
る。そして,調整のための負担増は,被保険者のみならず,年金受給者,企
②年金制度の改革はシステム整合的なものでなければならない。すなわち,
業,政府など関係者全員で公平に分担しなければならないことになる。シュ
歴史的に展開されてきたドイツ年金保険の基本原理との連続性が保持され
パーン=カイザーが指摘しているように,等価原理すなわち保険主義への固
るべきである。
執は,ドイツではすでにほとんどイデオロギー的特質となっている6》。このこ
③年金制度の改革は計画的にかつ長期的展望をもって実施されるべきであ
り,さもないと,国民の年金制度に対する信頼を喪失させることになろう。
とは,租税方式に基づく基本年金構想に対する否定的論議の中にも明らかに
見てとることができる。
④最低保障の考え方は,1957年以来従前所得保障の原則を取り入れて,長年
\
したがって,ドイヅにおける年金改革は,今後も保険主義の限界を問い続
国民の間に定着しているドイツの年金制度には適していない。もし最低保
けながら,現行制度を新し吟「枠組み条件(Ra㎞enbedingungen)」にいかに
障制度が導入されるとすれば,それは国や州などの負担で公的費用によっ
適合させるか,という方向で模索され続けるものと思われる。
て賄われるべきである。
戦後におけるドイツの諸年金改革は,人口高齢化,成熟経済という共通の
⑤年金保険によっていかなる年金水準が今後保障されるのかを法律の年金水
環境条件の変化の中で,保険主義に基づく分立的年金保険を今後積極的に改
準確保条項によって明確にすべきである。そうすることによって,世代間
革してゆかなければならないわが国にとっても多くの示唆を与えるものであ
連帯契約を維持し,従前所得保障を今後も行うということに対する国民の
り,ドイツの年金制度の動向を引続き注目する必要がある。
信頼が形成されることになる。
注1)機械保険料などの構想を本格的に検討した邦文文献はないが,さしあたり宍戸
⑥各種の年金制度間の格差を縮小し,被保険者すべてを平等に処遇すること
が重要である。
[1989],172−174ページ参照。
2) VgL Gretschmann/Heinze/Hilbert/Voelzkow[1987],S.18.
3) Vgl. Kolb[1985 a],S.66.
4)Vgl. Brnck[1977 a],SS.25 ff.箸方[1978]158−165ページ参照。
ブリュックも,第2次年金改革実施後最初の本格的見直しが行われた1977
年に,もはや保険ではなく,援護に変質している疾病保険と異なり,年金保
険は被用者とその老後保障の利益となるように,相対的に無傷な等価主義の
安定をはかり,保険主義を防衛すべきである,と論じていた4)。
以上を要するに,保険主義を空洞化しないで,現行制度の枠内でシステム
整合的な構造改革を進めてゆく方向が今後もとられてゆくものと思われ
る5)。それは,約1世紀余に及ぶ歴史を有するドイツ年金保険制度が21世紀
の環境条件の変化にも耐えぬいてゆく能力を有しており,現行制度を廃止し
5)BMA[1986], SS.29−30では,今後の年金改革に対する連邦政府の基本方針とし
て,①年金の保険料関連性の原則の維持,②就業者の賃金と年金受給者の年金の均
衡のとれた発展,③経済的人口構造的枠組み条件の変化に年金制度を調整する際の
関係当事者すべての公平な負担,の3つをあげていた。1992年年金改革法ではこの
方針が概略踏襲されている。
6) VgL Spahn/Kaiser[1988],S.197.
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あ
引
か
アウエルバッハ………・・……・……………89
海員金庫………………………・…・・…13,26
新しい社会問題……・・…………・………181
介護考慮期間………………・・………・……42
アデナウアー・………………・・…82,107,108
介護保険・………………・…・・……………・・12
一年金改:革・………・…・………………96
ガイスラー・……・…………・……………181
飴と鞭の政策…・……………・………・……53
加算期間…・・…………………・…42,102,103
アルントゲン・…………・……・……………95
家族負担調整・………・……・……………221
アレント…………・・……・……・……・…・132
片親喪失遺児年金・・……一…・…・・…40,64
価値創造保険料…・…・……・……………221
い
稼得不能年金・…;………一・・………・39,103
異郷年金・…・……………………………・202
寡夫年金・……・………………………・……40
・外国年金法………………………84
寡婦年金…・……………・・……………40,64
遺児年金………………・…・………………40
カルテン…・…・…………・…………・…・・211
遺族年金・………………・………・……38,152
監査委員会…………・……・…………・……60
一・養育期間法………………151,218
完全現実化・…………・……・……………130
一時金充足方式・………………・・…………59
管理運営機関・・………・……・・…………・…26
一般算定基礎・一………一44,98,109,138
官吏恩給……………・……・・…………・…・・26
一般年金制度……・……・…………・…・…・・25
法……………・…・…………‘………27
因果主義……・…………・………………・211
管理官…・・………・・…・……………………・70
印南博吉・…………・……・………………209
管理機関…・…・・………・・……・……………60
う
官吏保障制度…・…・…………………・……26
き
ウィルヘルム1世……・………・・…………53
ヴェッディゲン…・・……………・………208
機械保険料…………・…・…・……………221
ウェトケ・………………・………・……・…・・56
期間充足方式…………・……・…・28,103,111
え
企業年金…一…………・・……………10,13
危険集団……・・…………・…………………5
エアハルト・………………・………・…93,107
危険平均……・…………・・………………211
エーレンベルク…………・……・………・132
既裁定年金一…・……一40,49,92,99,203
援護原理…………・……・…・………………5
キージンガー冒”………”……●…………116
援護国家…………・・……・…・…・……・7,208
期待額充足方式……………・・…・28,62,103
基本額引上法・・…………・…・・…・…………84
お
基本年金・……………・・……………154,219
応能負担の原則・・………………・’・…・5,212
基本法………………・・………・……・…・・3,79
大林良一……………・…・…・………209,211
給付請求権・……・…………・・…一…・6,212
給付・反対給付均等の原則……5,210,211
強制加入…一………・・…………24,27,205
2
索
引
索
強制被保険者………・………・………・……27
コルプ・……・・…一一・……………210,222
強制保険………………………………23,56
近藤文二・・………………・………………209
協同体的組合………・………・……………・54
さ
巨大な3部作…・・…・・………・………・……54
キリスト教社会同盟……………・…・・…4,82
キリスト教民主同盟…………・……・・…4,82
均一拠出・均一給付制…………………126
け
災害保険………………・・…………・10,54,55
法・・・・・・・・… 門・… 一・・・・・・・・・… 。・・。・・・… 。54
一の制度別分類・…・…………………・10
引
3
州保険事務所………・…・……・………13,26
一寸一…・………・・一・………………8
自由民主党………………・・…・……………82
社会国家・………・・…一・・…………6,82,207
受給開始要素…・……………・…………・’・・45
社会裁判所法………………………………83
手工業者
年金保険………………・…………・13
社会主義者鎮圧法・・…・………・…・・………53
社会審議会…・……………・・……99,147,157
一一保険…・…………・…………・…・…・・26
財源連合………………・・…・…………・…・・37
社会選挙・……・…………・……………14,69
財産権……・…………・…・…・…………・・152
社会調査委員会……・・…………・………116
シュトーク……・・…………・…………90,93
財政調整………………・……・……・…37,112
社会的基本保障・…・…………・…………160
最:低所得による年金………………120,123
社会的義務保険法……・…………・………・80
一老齢保障法……・…………………・・26
産業構造の変化…・……………・・…………19
社会的公正・………………・・………………4
シュバルツ=シ1,ングモデル…………161
シュパーン=カイザー…………………223
シュミット………………………………132
減額年金………・…… ………・・…… P70,220
@45}46,203
現実年金価値・………
3世代間の連帯・・………………・………221
社会的市場経:済……………・…一・3,4,107
シュメール…………・…………・・…188,206
三層年金システム・・………………・……155
社会的調整……………………4,6,210,211
シュライバー・・……………・……91,210,216
限定的総実績評価……
算入可能な被保険年数…………44,98,102
社会的付加給付・・………・…・・…・………201
プラン・…・……………・……………90
算入期間…………・……・……………・・…・・42
社会的リスク……・・…………・………5,207
純再生産率………………・………………・・17
3本柱論……………………・………∴…・・13
社会扶助・………一…………・…・…・・5,207
純調整主義…・……・……・…・……・…・…167
経済的自由…………・
結果主義…・…………
・…
@。・・・・・・・・・・・… 曾・・・… 4
@。・・… 211
・・・・・・・・・・・・・・…
・・・・・・・・・・・…
… 。・・… 。・・・・・… 。・・… 45
公益事業追加保険・・…・ ・・………………・… P0
合計特殊出生率……・・
。◎・…
@。・・・… 。・・・・・… 175
鉱山従業員
共済組合法……
一調整給付………
一年金保険・・…・…
控除額つき遺族年金・・
制度…・…一…
構造改革・……・………
皇帝詔勅………………
考慮期間………………
高齢化…………………
し
シェーブアー…………・・
・。・曾・・…
@。・・・・… 。・・・… 24
・・9。・・・・・…
・・・・・・…
。・・…
・・…
・…
@。… 99・・・… 40
@10,24,25,215
@一・・・・・・・・・・・… 151
・・・・・・・・・・・・・・・…
自治管理機関…………・…
… 。・・・・・・… 一・90,93
・・…
@。・・・… 。・90,108
・・・・・・・・・・・・…
@。9・・53
@42,172
… 。・・・・・… 。… 。・・。・。・・17
失業保険…………………
失業老齢年金・……………
疾病保険………・………・
法・…………………
@。・・・… 。・・。・。・。66
・・・・・・・・・・・・・・・・・…
・・・…
@。。・・・・… 。… 。54
・・・・・・・・・・・・・・・…
P22
指導者原理………………・
・…
@。・◎・・・… 。9。・・。・。44
個人年金………・…・・… ……………・…・・…
個人報酬点数…………
国家援護………・…・…
国家社会主義…………
国家条約……………・・
国家保険……………・・
一曾・・・・・・・・・・…
・・。・◎・・…
@。曾・・… 。45
@り・。。… 。・5,207
・・・・・・・・・・・・・・…
・・・・・・・…
P3
@一・・・・・・・・・・・… 70
・。・。・…
@30,173,219
P0
…・…・…………
・・…
@。・・・… 。・99,106
児童養育
期間……・………・
一一給付……………・…
’”。・・・・・・・・・・・・…
@172
@。・。。・。・・… 38
一改革・・……………・……・……・……・89
少産少死型………・………・……・…・・…・…17
閣僚会議…………・……・・…………89
職貝………………・・……一………24,27,63
システム……・……・……・…………5
職員年金保険…………………10,24,25,63
の財政危機………………………177
一の3本柱・………………・・…………5
一寸正法……………・…・・………・…・・96
社会民主党…………・…・…・…………54,82
法…・………………………………・・62
女性の年金
社会予算…………・……・………………・7,89
一権 ・・・・・… 。・・・・・・・・・… 。・・・・・・・・… 151,152
就業・稼得不能者老齢年金………………39
一一一一保障 曾・・・… 。・・・・・・… 6・・・・… 。。… 124,182
就業者…・,……・・…・…・……………………23
新規裁定年金……・…・・……・…‘……・92,99
就業不能年金………一……・・………39,103
人口構造
一の高齢化…・………・……・…………95
収支相等の原則……………・・…・……5,211
修正賦課方式………・………・・……………23
一の変化…………………………14,174
人口高齢化………一…σ・147,175,205,220
@。190
私保険性………・……・… … 。… 曾匿曾・・・・・・… 209
集団的等価原則・……………∵…………211
人ロピラミッド………・………・・…………17
Q11
事務職員………………・・ … 。・。・。。・… 105,186
自由ドイツ労働組合同盟……………80,190
新自由主義思想……・…・………・…………4
重度障害者老齢年金………………………39
新年金算定式…・……………・………・……97
雇用促進……………… …………………… P0
コール…・…………・…
@。・42
障害老齢保険法……………54,56,205,208
小寡婦年金・………・∵……・……………・…40
従前所得保障…………・…・…・…・・…・…222
個別的等価原則・・…… ……・……………
・・・・…
自動的調整………・………
@。・。… 。・… 62
法…・・……………・………………196
社会保障
@曾・・・… 。・… 172
@。… 。・・70
@187,195,196
・。り。・・・・・・・・・・・・・・…
自動調節装置…………・…
児童手当…・………………
@39
@。… 一・・・… 10,54
児童考慮期間…………・…
・。。・…
一一受給者………・・…・………・………・・58
一一保険法……………・…・……・………61
国民総:生産・…・……… …・…・…………・…・ W
@。一・・・・・・・… 一・。。98
障害年金・・…………・・……………………・・57
一構成法・…・…・……・一・………24,70
生涯労働時間………・…・……・……158,166
・・・・・・…
・・・・…
障害者社会保険法…………・……・・……122
貨幣額変更法…・……………・・……67
における二重性……………210,216
児童加算…………・………
個人的年金算定基礎…
率………………
社会保険…・…………・・5,6,10,12,207,208
@一・・6,13,24,60
高齢者雇用・…………・ ………………・… P80
国民保険・……………・ ……………・……
純報酬主義・・…・………・…・・∴……∴・46,140
調整法……’一………・………80,81
・・…
・…
純賦課方式一……………・…………・23,112
社会法典…………・・……・………90,97,174
Q4,60,106,205
・。。・
・…
@。79,93
自治管理法・……………… …………・・…… W3
@り。・・・… 。・・・・・… 152
@。。・・・・・・… 。154,206
・・9。・・・・・・・・・・・・・…
シェーベ………………・…
シェレンベルク……・…・
自主管理・・………………
社会報告…………………………………7,99
@。… 一… 147,165
一のための考慮期聞
社会改革官房室………・・
・。・・・・…
・・・…
・…
@。・・… 90,92,108
社会給付・・……………… ………・……・…・・ W
週払い保険料………………………………58
4
索
引
索
せ
生活水準保障…………・……・・…24,25,101
一機能……………
… 。・・・… 。・・・・・・・… 194
生計費
一代替機能…・…・…
邑・・・・・・・・・…
補償……………
生産性年金……………
晴天型年金政策………
@。。・25,194
@。・6・・… 。・・152
・・・・・・・…
・・・・・・・・・・・・…
生命保険・………………・
@101,126
脱落期間・……・…………・………………102
年金保険者連合会………26,127,159
ターミナル・ファンディング方式………59
民主共和国……………・…・・……3,79
生活者の相対的窮乏化…・・………・90
_連邦共和国…………・……・…・…3,79
成熟度・…・…一…・…・一15,21,144
@96,97,125,215
一一労働者・職員義務社会保険法案…79
同一化法……・・…………・………196
@117,118,125,2171
統一基本年金………・………・・…………155
年齢……・…………・・………………43
諱c…・…・…111
統一義務保険・・……・……・…・・…………190
@一・・… 133,135
統一条約…・・……………・……187,195,197
年齢選択制一……一一43,178,220
の賃金・保険料関連性の原則
単一年金保険………
・一・・曾。・・。。。・・。・…
第1次年金改革・・…・
・・・・・・…
第2次年金改革……
第3次年金改正法…
第20次年金調整法…
第21次年金調整法…
・・・…
…・・…
・9・・・・・・…
・・・・・・・・・・・・・…
@。。… 137
@一133,137
@。・・・・・・・・・・・・… 125
・・…
ち
・・・・・・・・・・・・・…
@。・・… 13
中期社会保障予測……・・…………・………8
世代間
契約……・…・……
。・・・・…
の社会的公平…
一一連帯契約………
@一・・… 。・・・… 23
・・◎・・・・・・・・・・…
・・・・・…
戦時福祉事業…・・………
全部年金………・……・…
・・・・・…
@。… 29,91,104
@。・・・・・・… 。… 65
・・・・・・・…
専門職別保険組合……
占領軍政府……………・・
1972年年金改革法……
1984年予算関連法……
1992年年金改革法……
・。。・…
・・…
@一・一107
@一・・・・・・・… 44
@。・・… 。・… 10,26
@。・・・・・・・・・・・・・… 77
………・……・…・
・・・・・・・・・・…
・・・・・・・…
P18
増額年金……………
総合的社会保険……
総実績評価・…・………
総調整主義……・・…・
総報酬主義…・……・…
租税方式……・・………
・・・・・・…
・・・…
疾病保険・……一・…72,111,135,138
一一一代替機倉旨。一・・… 。・・… 。・・・… 25,101,194
・保険料関連性の原則……………25
@。・190
@。・・・・… 。… 45
の現実化・…・…………・・……・・…149
一郭 ・。・… 。… 。・・・… 。・・・・… 。・137,149,220
つ
に
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…
積立方式…・………・
・・…
@1・・… 44
@。。・・・・・… 。・155
任意加入……・…………・
@g。… 。・。・… 120
任意継続被保険者制度…・
@。一・・・・・・・・・・・… 。・… 68
・・・・・・・・・・…
・・。・…
ニーマイヤー…………・・
@一・・・・・・・・・… 39
@。・・… 。・・・・・・・・・・… 90
・・。・・・・・・・・・・・…
任意付加年金保険・・……
年金調整…………・…・・・……・…………・…46
・・…
@一・・… 。・・・… 184
・・…
@。・… 24,27,118
・・・・…
@。・・・・・・・・・… 27
・・・・・・・・…
@。・・… 。。191
任意付加保険…………・… ・・……………… U2
P18
任意保険………………・・
…………・……
@。・… 23,29
ね
法… 。一・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 99
報告……・……………………・……・99
年置保険・・………………・……24,54,55,70
拡充法……・…………・…………・…71
財政基盤強化法……………・・…・152
積立金・……・…………・…………128
一の管理運営………………・…・……・24
年数カロ;算:率・一・・・・・・… 。・一・・・・・・・・・… 。・・・・… 一・44
て
年金
@。・・・・・・・・… 23,219
・。一・・・・…
移行法…・……………・・……197,200
帝国内務庁……………・…・…………;……56
改革・…・……………・………………4
転職者年金保険・………………・…・………68
改革論のルネッサンス…………154
法…・…………・
と
一力巨川法……………・・…・……………83
農業老齢金庫・………
源資ストック………・・………・…160
一総連合会…・…・
@。・… 。・・40
@。。… 。・42,43
の
帝国鉱山従業員共済組合法…・………・…・68
@。・・。・・・・・・・… 13,26
ドイツ
一一健全化法………………・・…………・71
農業者老齢扶助…・・…一…・…・・10,26,215
… 9。・・・・・・… 。・・・・・・・… 96
’”.’....’●・・・・・・…
・・・・・・・・・・・・・・・・・…
@13,26
@。… 。26
は
@。一一・・・・・・… 64,68
国民の年金金庫・………………・…・91
算定式…・……………・・…44,98,144
@一・・・・・・… 5
社会政策の大憲章…………・……・・53
支給開始年齢…………・……・・43,170
賠償責任法…………・……・………・………55
社会民主党・………………・……・…4
支給開始年齢選択制…119,122,126
三方幹逸……………・…・………・…・・∵・209
一職貝労働組合……………・…・…・142
指数…・……………・・………………19
バトラー漏イエーガーモデル・・………・160
党………・………・……・……・……・・82
種類要素一…………一・……45,46
バンゲマンモデル……………・・…・154,218
退職年金…・……・……
。・…
大数の法則・…………・
。・・・・・・・・・・…
・…
年置スライド…………………120,124,218
ナチス政権………・………・…・……………70
@。・・・・・・・・・・・… 167
・・。・・・・・・・・・…
・…
比率………・・………・……………175
な
等級……………・…・…・……58,59,67
通算年金制度………
通常老齢年金………
ツェルナー…………
た
代表者会議…・……・…
トリッペル……・………・…・……………209
@。・・・・… 一・・・・・・… 46
・・・・…
代替期間…………・……
指数…・……………・・………………19
スライド方式…29,44,48,49,95,98
@。・・・・… 。・。・・。・・27
@。。・・… 。・34
年金受給者………・………・・…∴…・23,34,83
特別年金制度・……・………・………………26
....・・・・・・…
・・・・・・・・・・…
大寡婦年金………・……
特別加給法……………・…・…・……………85
前払法………・………・……………・85
論戦。… 。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 96
一一継続支払…………・……・・…………10
追加報酬限度……・・
・。・・・・・・・・・・・・・・・・・…
代議員会議……………
待機期間………………
賃金
@。・。・。。・・… 170
・・・・・・・・・・・・・…
一一報告書…………・…・…・…………170
動的追加年金………・………・・…………155
・・・・・・・・・・…
総合社会保険料……・・
一付加額法……………………………84
同調的調整………………・・…・………99,106
動的年金………・…・……・…・…・……㍗禦9
追加年金・…・………
・・・・・・…
一の山…………110,128,144,161,217
等{面主義i………・…・・… …・…・………。…222
重複保険…………・……・……………・……68
@。・… 。・・… 166
増額保険制度…・…・…
’”.’’’’’’”一’’’’’’’’’’’’’”●’・・・・・・・・… 98,167
等価原則・・………………・…………210,211
長期被保険者老齢年金…………………,・・39
追加所得限度………
。・・・・・・・・・…
一水準確保条項・一…‘………121,149
統一保険…・……………・………一12,54,79
@。。。・・… 148
そ
5
引
@。・… 。。・・・… 42,102
.・・…
@一・・・・… 。。・・… 105
多元(主義)社会……・ …・…・……………
多産多死型・…………… …・…・……………
P2
P7
一一一
揶?一・一・・… 。・・… 一。・… 一… 一… 一。187
一水準………・……・・…………・…・…・48
6
索
引
索
ひ
ビスマルク……・………・…・……53,56,210
一社会保険・…・…
。・一…
ヒットラー……・……・
ビーデンコツプ……・
被保険者……・…・……
年金・………・…
@。・・・・・・・・・・・・・・… 54
・・・・・・・・・・・…
@。・・b。… 。・・70
.・・。・・・・・・・・・・・・・・・・…
・・・・・・・・・・・…
@156
@。。・・・・・・… 26
…・…・…………・…・
範囲………・…・
R8
… 一・・・・・・・… 9… 24,190
評議員会…………・…・
標準年金……………
広海孝一……………
・・・・・・・・…
@。曾・・・・・・・・・… 70
・・・・・・・・・・・・・…
@。・… 25,48
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…
@209
ふ
ほ
む
ホイベッグ…・……………・・……………210
ムール………………・…………・………・210
付加給付・・………………・……・・…………・38
歴史的非連続性……・・…………・………220
歴史的連続性……72,105,188,205,207,214
法定給付……一……・…・……………24,38
め
法定最低準備金・………………・……・…177
名誉職委貝………・………・…………・……69
レクシスの公式…………・・……・………211
法定最低積立金…・……………・・30,118,134
レジダ……………………・…………・…・209
連合国管理理事会……………・……・……・77
も
法案・一・・一・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 79,214
保険・援護・扶助………・……・…・………5
持分年金……………・…・・…・…・………・151
連合国ベルリン管理庁・……・…・・……・・…78
保健改革法…・……・………・……………165
モデル年金……・…・………・……………121
連帯原則…・…………・…・………………210
保険学形成協会・・………………・………158
保険
一原理……・・…………・………………5
連帯思想・………………・・…・……………・・23
や
連帯性の原理・・………………・・……・・……6
ヤンツ・……………・・………・……・…・90,108
国家・…・……………・・…・・……7,208
ファウペル・………………・・……………218
7
れ
報酬点数………………・……・………・……45
補完性の原理………・…・……・……………6
引
主義…5,145,193,205,206,208,209,
213,215,219,222,223
連邦鉱山従業員共済組合……………13,26
連邦職員保険事務所・・……一13,26,83,159
ら
連邦鉄道保険事務所…………・……・・13,26
ライヒ職業紹介・失業保険庁……………71
連邦保険庁………………・………・…・……85
賦課方式…………・…・…・………30,91,193
方式・………………・………・…・・…・23
ライヒ保険事務所………………・・……・…63
連邦補助金………34,36,173,214,215,220
付加保障・特別保障制度・…・…・…190,198
保険者……………・…・…・…………・…・…・25
ライヒ保険庁…・……………・……………・60
連邦労働社会省…………・……・…・………89
福祉性・……・…………・…・・……………・209
保険料……・…・………・・……∵………31,59
ライヒ保険法……………・…・……………・62
扶助原理………………・・………・…………5
印紙貼付方式…………・・…………・72
ラント障害老齢保険事務所………………60
物価上昇手当法・………………・……・……83
・給付等価主義………・………・…・98
部分就労・部分年金……………44,180,221
一給与控除方式……・…………・’……72
部分積立方式……………………・・……・160
一拠出者……………・…・……………・34
部分的現実化……・………・…・…………134
算定報酬上限額……………………34
部分年金……・…………・…・44,159,171,220
謝1・。・・・・・… 一・・。・・・・・・・・・・・・… 119,139
一一・職員社会義務保険……………190
理事会・………………・……・…13,26,60,105
リスクの平均化………
リッヒター…・…………
一積立方式……・…………・・…………28
フランス老齢金庫法………………・・…・…56
一一納付期聞…・……・・………42,102,168
給付……………
プラント……………・一・…………116,118
一免除期間…・……………・…・………42
一優先原則………
振替問題…・…・…………・…・・………・…202
一二・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・… 。・。・・・・・・… 31,220
ブリュック・…・一…136,141,146,217,222
ボックス・………………・…一………89,116
ブリューム……・………・…・……………185
ホルン……………………・……………・・…95
ま
兵役期間………・・…・…・・
平均純労働報酬………
平均総労働報酬………
ベーカー………………
ベティヒャア……・・……
ベルリン社会保険庁…・・
ヘンチェル……・・………
変動準備金…………・…・
・・…
@。・・・・… 。・・・・・… 65
・。・・・・・・・・・・・・・…
・。・・・・・・・…
・・・・・・・・…
・・・・…
@一・167
@45,99,167
@。・・・・・・・・・・… 78
… ◎。・… 曾・・・・・・・・・… 90
一・。。…
@。。。・・・・・・・… 。30
… 一・・・・… 。一・・… 曾… 5
・・・・・…
@。。… 。・。・・・・… 95
年金保険……・…………・…・10,24,25
年金保険改正法………・………・…・96
一一保険…………・…・…………・・……・・55
労働保険……………・…・…・…・…………・・55
リハビリテーション
・一・曾・・…
流動性援助……………・
流動性準備金…………
両親喪失遺児年金……
@。・38,39,103
労働力の保全・培養………………・・…・…55
P03
老齢年金……………・…・……・38,39,57,103
・……・…………・
・・・・・・…
@。・・・・・・・・・・… 37
…………・……・・
P13
… 一・・・・・… 一… 40,64
る
ルッベルト…………・……・………・……141
一一受給者……………・…・……・………58
の年金月額…・……………一……168
ローテンフェルス建議………………・一90
わ
ワイマール共和国・………………・・………66
マッケンロート………………・・…・…89,91
枠組み条件…………・・……・………153,223
一一仮説…………・…・……・・…………・・97
ワーグナー……・…・………・・……・・……210
@一・・・・・… 106
@。。・・・・… 。・・… 56
・・・・・…
マインボルト……………………………210
労働者・・………………・……24,27,105,186
り
扶養主義………・一……・………6,208,209
へ
ろ
み
ミーゲル=IWGモデル……………156,218
ミシュニクプラン・……………・…・……155
緑の党モデル……・…………・・……155,218
ミュラー・アルマック……・…・………・…4