御巣鷹に散った天使∼日本航空123便墜落事故

御巣鷹に散った天使∼日本航空123便墜落事故・客室乗務員遺族∼
對馬 聡
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︻小説タイトル︼
御巣鷹に散った天使∼日本航空123便墜落事故・客室乗務員遺
族∼
︻Nコード︼
N6415Q
︻作者名︼
對馬 聡
︻あらすじ︼
1985年8月12日に群馬県上野村に墜落した日本航空123
便。その犠牲者の一人であった客室乗務員の妹の長女が事故直後に
誕生した為に親族から﹁生まれ変わり﹂と言われてきたが、本人は
意に返さず、その事を無視してきた。しかし、成人を迎えて﹁生ま
れ変わり﹂と言われる亡くなった客室乗務員の叔母さんの事が気に
かかるようになり、自分が生まれる直前に起こった事故は何だった
のか知りたくなっていく・・・。作者独自取材で実際の話を元に描
1
いた人間物語。
︵ご遺族の希望により仮名にしており、ご遺族の内容も身元が判ら
ないよう少し変えてあります。その為、ご遺族の部分は完全なノン
フィクションではありません。御了承ください。︶
2
第一章 日本航空ジャンボ機123便墜落事故︵前書き︶
この作品は実際にお亡くなりになられた、私の知り合いの事故機
の客室乗務員遺族より取材した話です。
︵ご遺族の希望により仮名、内容も身元が判らないよう少しずらし
てあります。︶
なお、事故の経緯や救難活動、その後の事故関連の動向も実際に
警察・防衛省・公共事業関連及びアドバイザーにANA元・先任機
長 安藤 肇氏に取材しております。
☆取材協力︵敬称略︶
・群馬県警察
・防衛省
・群馬県上野村
上野村 元村長 黒澤 丈夫 上野村第六消防団 元団長 今井 靖恵
上野村小学校 元校長 神田 箕守
・長野県川上村
川上村教育委員会 中島 幸裕
川上村第二小学校 元教頭 関田 芳和
・長野県警察航空隊
・北海道警察航空隊
・民宿﹁谷間﹂黒澤 義広
・元全日本空輸・先任機長 安藤 肇
・白田 弘行︵浅間山荘事件クレーン運転手︶
・清福寺 住職 皆川 良誠
☆参考文献
ボーイング式747SR100型航空事故調査報告書︵運輸省事故
調査委員会︶
3
鎮魂のしおり︵財団法人・慰霊の園︶
日航機事故回想︵財団法人・慰霊の園︶
からまつ昭和六十年第十八号 ︵川上第二小学校︶
ほほえみ昭和六十年第二十二号︵川上村役場︶
現代の航空機︵木村秀政・グラフ社︶
航空ジャーナル一九八五年十一月号、八六年三、十、十二月号︵青
木日出男・航空ジャーナル社︶
夕刊フジ昭和六十年八月二十八日号
日航ジャンボ機墜落・朝日新聞の24時︵朝日新聞社︶
墜落遺体︵飯塚 訓・講談社︶
日航機墜落・123便捜査の真相︵河村一男・イーストプレス︶
日航機遺体収容︵河村一男・イーストプレス︶
航空知識ABC︵日本航空広報室・読売新聞社︶
報道写真1986︵信濃毎日新聞︶
日本ヘリコプター辞典 ︵タクト・ワン社︶
日本の旅客機︵イカロス出版︶
ボーイング747クラシック︵イカロス出版︶
週刊新潮二OO五年八月十一日号 ※注意
・この物語の登場人物は、ご本人の希望により仮名の人物もおりま
す。
・この物語は墜落原因や陰謀説等々を研究する意図ではありません。
・この物語は特定組織・人物を賞賛若しくは批判する意図ではあり
ません。
・著作権は作者に準じます。
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第一章 日本航空ジャンボ機123便墜落事故
☆第一章 日航ジャンボ機123便墜落事故
二十一年後、二〇〇六年八月十一日 日本航空・福岡発羽田行の機内。 ﹁ふ∼ん︰︰︰今の制服って変わったんだね。﹂
彼女は古いインスタント写真を手に機内のキャビン・アテンダン
ト︵客室乗務員︶の制服と比較した。
<i110470|8907>
在りし日の松原幸子さん︵1978年頃撮影・仮名︶
彼女の名は吉川望美︵二十歳・仮名︶大学二年生。
帝京大学に入学し、母の実家がある熊本へ帰省からの帰りであっ
た。
彼女の母は、元・全日本空輸の客室乗務員・吉川明実︵仮名・五
十歳︶。
そして、母の姉は元・日本航空の客室乗務員・松原幸子︵仮名︶
である。
姉妹で当時でいう﹁スチュワーデス﹂、しかもお互い好敵手だっ
た。
望美の叔母にあたる幸子さんは、もうこの世にいない。
二十一年前の夏。叔母は亡くなった。享年三十歳。
望美が生まれた前年の一九八五年八月十二日。
この日はとても蒸し暑い日だったという。
幸子が乗務していたボーイング747・SR46型機。
機番登録番号JA8119号。
5
東京発大阪行き123便。
幸子はこの便に乗って群馬県の山中深くに散った五二〇名の犠牲
者の一人であった。
墜落推定時刻 午後六時五十六分。
民家も道路も無い人里遠く離れた夕暮れの山中、誰にも看取られ
なかった死だった。
望美は翌年の一九八六年六月生まれ。
つまり、事故の起こった一九八五年八月に懐妊したことになる。
彼女は親族から﹁幸子の生まれ変わり﹂と喜ばれた。
だが、彼女はそう云われる度に聞き流していた。
生まれる前に亡くなった叔母に会ったことも無ければ、事故の事
も実際に立ち会った訳でも無かったからだ。
その為、特に叔母や事故に興味は無かった。
実感が沸かなかったのは他にも理由があった。
毎年恒例の慰霊登山と慰霊祭に親族は参加していなかった。
吉川一家は事故後、海外に移住したのもあった。
そして、二〇〇四年に帰国し、翌年の二○○五年、慰霊登山に望
美の父母と妹二人が二十年ぶりに参加した。 この時の話を進学で一緒に居らず、慰霊登山に参加しなかった望
美さんが、翌年の帰省でこの話を聞き、自分も行ってみたくなった
のだった。
母・明実さんは、娘に対して事故の経緯説明を慰霊登山で知り合
った日航機事故に詳しい人に依頼した。それが作者の私であった。
私は、日航機事故の研究で幾度か山を訪れており、その際に知り
合ったのである。
<i89922|8907>
明実さんより電話で﹁会わせたい人がいる﹂という依頼を受け、
二つ返事で承諾し、新宿のスバル・ビル一階で彼女と待ち合わせを
6
したが、私は相手の詳細を全く聞いていなかった。
すると、二十歳代前半の女性だったので驚いた。
彼女こそが、幸子さんの生まれ変わりと言われた望美さんだった。
確かに、以前見せて頂いた幸子さんの若い頃の写真に似ていた。
彼女は、まさに幸子さんを現代風にした感じだった。
彼女と、とりあえず喫茶店に入り、彼女が知りたがっていた日航
機事故の詳細を、資料を交えて淡々と事故の経緯を説明してあげた。
望美さんの表情は、先ほどの可愛らしい笑顔は消え、真面目に頷
きながら聞き入っていた。 その後、彼女はレンタカーで単身群馬県上野村に向かった。
これから記述する話は、望美さんの父母の証言を中心に、私が十
年かけて取材した事故に関わった人々の記録を交えて語っていく。
なお、ご本人様のご希望上、一部を除き仮名であることをご了承
願いたい。
☆あの日の朝
一九八五年八月十二日午前7時。千葉県千葉市。
幸子は、いつものように夫・定雄︵仮名・当時三十一歳︶の朝食
の準備を済ませてから出勤した。
外には個人タクシーが待機している。
幸子が通勤用に契約した顔見知りだ。
﹁バタン﹂という玄関の扉の音で定雄は起きる。
ダブルベッドの横には幸子のぬくもりだけが残り、目玉焼きの匂
いがする。
﹁朝か。うお∼おぉぉぉ!﹂ 定雄もようやく起き始め、眠気まなこで幸子の用意した朝食をほ
おばる。
7
朝食後、タバコを一服しながらTVを付け、日本テレビのズーム
イン朝を見ながら新聞を読むのが日課だ。
歯磨きをし、顔を洗い、髪の毛の寝癖を取って、ビジネススーツ
に着替えながらTVを見る。
﹁うおっ!やばいっ!もう時間だ!﹂
定雄は慌ててバッグを持ち、駅へ走っていった。
いつもと変わらない、朝の松原家の一日が始まった。
定雄と幸子は十四年前の一九七一年、地元・九州の大学で出会い、
付き合い始めた。
卒業後、幸子は日本航空に入社し、定雄は、彼女を追って東京近
辺に就職した。
幸子は十五年前の一九七〇年に放映されたTVドラマ﹁アテンシ
ョン・プリーズ﹂︵TBS系︶に憧れて、日本航空に就職した。
この当時はアシスタント・パーサー︵スチュワーデスから3年後
の昇格役職名︶であった。
だが、結婚しているとはいえ、お互い顔を合わせる機会は仕事上、
週に二、三回だった。
その為、定雄もなかなか﹁子供が欲しい﹂と言い出す機会が無か
った。
羽田に到着した幸子はタクシー運転手に、おにぎりを渡した。
﹁はい、今日の朝ごはん。﹂
﹁いつも悪いね、幸子ちゃん。それじゃ行ってらっしゃい。﹂
タクシー運転手は、白髪の老齢で、幸子さんを永らく担当してい
た。
いつも明るく優しい幸子の事を、自分の娘のように慕っていた。
ターミナル内を、お盆休みの乗客で混雑する中をすり抜けながら、
日航ブリーフィングルームに向かう。
すると、子供達に声をかけられた。
﹁一緒に写真お願いしま∼す。﹂
子供達からカメラで撮影をお願いされる。
8
幸子は笑顔で一緒の撮影に応じた。
ここのところテレビドラマのせいか、記念撮影をお願いされる回
数が多くなった。
当時は、昨年の一九八四年に﹁スチュワーデス物語﹂︵TBS系︶
が放映されたばかりで、乗客からも人気が高かった。
<i88407|8907>
☆離陸
夕方。午後五時十二分。 夏の陽の熱射で蜃気楼漂う羽田空港の滑走路に福岡発東京行きの
日航ジャンボ機が着陸した。
そのジャンボ機はレジスト︵登録番号︶JA8119号機。
機体の横には当時の他の日航機と共に、当時、オフィシャルだっ
た茨城県つくば市で開催された科学万博つくば‘85のマーキング
を左側面のライン下に描いていた。
乗客の中には、この科学万博目当ての乗客も多数いた。
ターミナルは一杯だったので、空港敷地内の十八番スポットに機
体は駐機された。
これを﹁沖止め﹂といい、バスで乗客をターミナルに送迎する。
乗客が降りたあと、乗員が降り、入れ替わるように清掃が機内に
入る。
大きな主翼の下にはタンクローリーが駐車し、﹁JET・A1﹂
と呼ばれるジェット燃料が注入される。
灯油に近い成分だが空を飛ぶ為、不純物は一切許されない、極め
て純度の高い燃料だ。
国内線は飛行時間は1時間程度だが、余裕を見て3時間分が搭載
される。
9
日本航空デスパッチ︵運行管理部︶で次にJA8119号機を操
縦するパイロットがデスパチャー︵運行管理者︶に次の行き先の飛
行ルートと天候等が告げられる。
行き先は伊丹︵大阪︶123便、行き先の天候は快晴。出発予定
時刻十八時〇〇分。
機長・高濱雅己機長︵四九歳︶
副機長・佐々木裕副機長︵三十九歳︶
機関士・福田博機関士︵四十六歳︶
今回の便は副機長が左側の機長席に座る。747型機長昇格の最
終試験である。
副機長は既に昨年の一九八四年六月に747型機操縦資格を取得
しているが、今回の試験は云わば社内での昇格試験であり、車で言
う仮免許とかではなく、立派な有資格者である。
因みに、航空機操縦士免許は多種に分かれており、小型機以上の
大型機は機種によって免許が異なる。
佐々木副機長は当時の日本航空の主力機・ダグラスDC8型に対
して機長の資格を所有しており、DC8型に関してはベテランであ
る。
同じ頃、ブリーフィング︵打合せ︶ルームで、パーサーを中心に
客室乗務員がボーイング747型の透視図看板を前に打合せを行う。
各人の受け持つ部所が告げられ、機内サービス等の順序、非常時
の対処等が改めて確認される。
幸子は前の福岡発の便から引き続き二階席を担当した。
ミーティング終了後、パイロットと合流し、これから乗る便の説
10
明を行い、乗務機に向かう。
午後五時三十分頃。
パイロット達は三人で手分けをし、機体の外部点検を行う。その
後、コクピットに上がり着座し、三人が各々持ち場に応じたプリフ
ライト・チェック︵離陸前点検︶を行い、最後にフライトプラン︵
飛行計画︶がINS︵慣性航法装置︶にインプットされる。
その上で最終的にチェックリストによる再確認が行われ準備完了。
エアポート・リムジンバスがやってきた。
本日の旅客人数 497名・幼児12名 計509名。
乗員・15名 計 524名。
ドアが閉鎖され、乗客全員搭乗の連絡を受けて、トーイング︵牽
引︶車の準備完了。
客室にシートベルトサインと禁煙サインが光った。
午後六時四分
<i77215|8907>
トーイング車が機体を18番スポットから押し出し始める。
車輪が動き始めた。
この時刻が出発時間とみなされる。
因みに十五分以上遅れると﹁遅れ﹂の対象になる為、123便は
﹁定刻どおり出発﹂とみなされた。
移動の合間にスチュワーデス達は各持ち場の、乗客のシートベル
トの着用を確認し、付け方が分からない乗客に親切に対応していく。
トーイング車が連結を離し退避する。
その後、AGS︵エア・グランド・サービス:地上クルー︶が客
席窓に向けて整列し見送る。
﹁スタートNo.3。﹂
副機長がコクピット天井のエンジン点火スイッチを入れると、三
11
番エンジンから始動が始まる。
4発のエンジンが順番に点火を始めた。
エンジン音が安定し、4つの回転計の針がアイドリング位置にな
った。
コクピット中心のパワーレバーをゆっくり後ろに下げ、パーキン
グ・ブレーキを解除する。
ゆっくりと機体が自走しはじめ、タキシング︵滑走路までの移動︶
を開始する。
金属音が徐々にかん高い音になり、周囲に響き渡る。
タキシングの間に客室乗務員は、救命胴衣を着用し、酸素マスク
を手に、スクリーンの映像と一緒に救命胴衣・酸素マスクの説明を
行い始める。
午後六時十一分
客室のスクリーンやTVの画像が救命胴衣等の説明が終わり、機
体下部カメラによる滑走路の画像に切り替わる。
同時に子供達の歓声が聞こえる。
乗務員は一斉に座席に座り離陸に備える。
For
Take
O
その一方で、乗客と対面になっている乗務員席から客席の異常の
有無を確認する。
高濱機長が客室に挨拶の放送をかけた。
副機長が管制塔から離陸許可を貰う。
・羽田管制塔
Clerd
03”
123
Way
Air
Run
Japan
ff
︽羽田コントロールよりJAL123、03滑走路にて離陸を許可
する。︾
12
・123便
Japan
Off.
Air
123
︽JAL123、了解︾
Roger.Cler
高濱機長が副機長に着陸許可を貰った旨を確認。
Take
エンジンの出力を徐々に出してエンジン回転計が60パーセント
付近になったところで一旦止め、全エンジンの計器が安定している
事をクルー三人全員が確認。
問題が無ければ離陸推力ボタンを押し離陸開始。
自動でエンジンの出力が上がり、ゆっくりと滑走をはじめ、徐々
にスピードが離陸速度まで加速されていく。
機関士が速度計を読み上げ、副機長が呼応する。
﹁V1!﹂︵緊急停止可能速度︶
滑走路先端の向こうの東京湾岸が見えてきた。
﹁VR!﹂︵離陸可能速度︶
副機長が操縦桿を引き、離陸した。
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離陸と同時に揺れがピタリと収まり、フワリとした感触を得る。
客室のスクリーンは、ねずみ色の着陸痕が多数残る滑走路の先端
からオレンジ色に染まった東京湾の海面を映し出す。
同時に車輪が格納された。
ふと、窓の外を見ると、薄曇りの雲の隙間から漏れた夕日が赤く
東京の街を染めていた。
この風景を見てはしゃぐ子供達。
何か想いを込めてか、黙ってその風景を見つめる乗客。
夕日に染まったコクピットで三人のクルーは徐々に巡航高度まで
機体を引っ張っていく。
13
JA8119号は、白い機体を紅くキラキラと輝かせながら、地
上の視界から遠ざかっていった。
☆異常発生
十八時十八分 伊豆大島付近上空。
羽田空港管制塔から、埼玉県所沢市にある東京航空交通管制部︵
123
Cler
Direct
Seap
東京ACC・エア・コントロール・センター︶に管制が引き継がれ
た。
Air
・東京ACC
Japan
arch.
Direct.
Seaparch.
︽JL123、現在位置よりシーパーチ︵非義務位置通報点︶に直
Cler
行する事を許可する︾
・123便
Roger.
︽了解、これよりシーパーチに直行する。︾
水平飛行が始まると、シートベルトサイン・禁煙サインが消灯し、
機内の緊張感がほぐれる。
乗客は窓から入る夕日が眩しく、思わずカーテンを下ろす。
ここで、客室乗務員達は立ち上がり、機内サービスを開始する。
午後六時二十四分。
神奈川県相模湾上空。巡航高度2万4千フィート︵約7千メート
ル︶ボイス・レコーダーはこの時間から録音されていた。
注︶今回この小説に収録したボイスレコーダー及び交信記録は全て
14
ではない。
必要な部分をピックアップしたもので沈黙等や事故機と関係ない
交信は削除している。
今回は何度もボイスレコーダーを聞き直し、元ANA・先任機長
の安藤肇氏に質問、内容によって7名の同僚パイロット同士で質問
を吟味した部分もある。
その為、これまでの訳とは違う部分もある。︵プロのパイロット
の解釈で、最も現実に近いと思われる訳︶
因みに当時は音声解析は機械的には行われておらず、必ずしも文
訳は絶対に正確という訳ではないそうだ。︵調査当時は外部非公開
で、専門組織に渡すことが出来なかった為︶
・客室乗務員︵松原幸子?︶
﹁︰︰︰したいとおっしゃる方がおられるのですが∼、宜しいでし
ょうかぁ?﹂
・副機長
﹁気をつけて!﹂
・機関士
﹁じゃぁ、気をつけてお願いします。﹂
・客室乗務員
﹁ハイありがとうございまぁす。﹂
客室乗務員の最初の言葉は録音されていないので不明であるが、
言葉の内容から﹁乗客からのコクピット見学要請の可能性﹂がある
という。
当時の日航はお願いすれば飛行中のコクピット見学が出来たそう
だ。
客室乗務員達が今度は子供達に10cm程の特注ミッキーマウス
のぬいぐるみを配り始めた。
15
日本航空は東京ディズニー・ランドと業務提携をしていた関係で、
ミッキーマウスは日航のキャラクターでもあった。
ぬいぐるみを手に女の子達は喜んだ。
男の子には、日航商事が贈答用に作った1/300サイズのジャ
ンボ機のプラモデルが配られた。
子供達にとって、飛行機に乗った証の大切な戦利品である。
<i88408|8907>
※この作品では実物の同型機︵JA8118︶のコクピット画像を
使用しています。
<i77119|8907>
当時の機内配布用模型
﹁ドパァン!﹂
﹁ビッビッビッビッ・・・・・・・﹂︵客室内気圧低警報︶﹂︵1
秒後停止︶
その時、機内に突如大音響が響き、機内は一瞬にして真っ白な
霧に包まれた。
客室乗務員達は直ちに乗客に酸素マスク・シートベルトの着用を
勧めた。
そして、録音のプリレコーデットアナウンス︵緊急時自動放送︶
が客室に流れ始めた。
﹃酸素マスクをつけてください。ベルトをしめてください。煙草は
Ema
Out
An
Put
Is
Seatbelt.
お吸いにならないでください。只今緊急降下中です。
Your
Discend.﹄
Cigarettes.This
Fasten
Your
gency
16
この時、機長は車輪が何らかの故障で飛び出し、その衝撃音と思
ったと思われる。
・機長
﹁佐々木ぃ!﹂
﹁何か爆発したぞ!﹂
﹁スコーク七十七!﹂︵スクォーク7700・緊急事態信号︶
﹁ギア!︵車輪︶ギア見てギア!﹂
・機関士
﹁えっ?﹂
・機長
﹁ギア見て、ギアっ!﹂
だがこの時、想像を絶する前代未聞の事態が発生していた。
垂直尾翼が吹き飛んだのである。
ジャンボ機は不測の事態に備え、各操舵系を4系統のハイドロ制
御︵油圧による制御︶に分けていたが、配管末端が尾翼破損で4系
統全てのライン全てが破壊されていた。
これにより、各操舵系のハイドロ制御油が破損箇所から徐々に抜
け始め、ハイドロ制御だけで操作されている操縦系統が全て失われ
た。
同時刻、埼玉県所沢市。東京ACC。 薄暗い管制室にはズラリと航空監視レーダーが十五台並び、各エ
リアを管制していたが、そのうちの﹁T−08関東南A﹂レーダー
より小さく﹁プー﹂という警報音が鳴る。
同時にレーダー画面には、﹁JL123﹂と日本航空123便を
示すブリップ︵照点︶の下に小さく﹁EMG﹂の文字が光った。
EMGは﹁エマージェンシー﹂の略で緊急信号の事である。
管制室は騒然となり、直ちに日本航空123便への対応をとる体
17
制にかかる。
<i89057|8907>
当時の東京ACC︵所沢航空発祥記念館蔵︶
・機長
﹁エンジン?﹂
・副機長
﹁スコーク七十七!﹂
・機関士
﹁ボディギア!﹂︵胴体側車輪︶
・副機長
﹁クロスチェック御願いします!﹂︵同じ測定をしている計器を見
比べる︶
・機関士
﹁ボディギア!﹂ この時、車輪格納庫扉の開を示すランプが点滅したと推定されて
いる。 爆発の振動で格納されている車輪が動き、警報ランプが点灯する
事も考えられるという。
福田機関士は、それを見て再度確認する。
・機関士
﹁ギア・ファイブオフ︵車輪五箇所共出ていない。︶﹂
午後六時二十五分
この時、機関士は、少しずつ低下してゆく油圧メーターが気にな
っていた。
18
しかし、一系統ならともかく、四系統全てが同時に下がっていくの
を見て不可思議に感じていた。 その一方で、首都防空監視を勤める航空自衛隊・峰岡山第四四警
戒隊レーダー︵千葉県︶も緊急信号を受理。監視が始まった。 高濱機長は、羽田空港に戻ることを選択し、佐々木副機長に右旋
maint
ba
Request
and
Return
JapanAir123,
回を指示し、東京ACCへ許可を申請した。
・機長
あ∼、Tokyo
え∼、truble,
Desend
Over.
Haneda,
220,
to
immediate
ck
ain
︽東京管制塔、JAL123便、直ちに羽田に帰る事を要求する。
As
To
want
right
Right
Request,
Turn,Over,
left
Please,
or
Oshima
You
220︵2万2千フィート・約六千メートル︶へ降下し、維持する
ことを要求する。どうぞ。︾
・東京ACC
Roger,Apprived
Vecter
︽了解。要求どおり承認します。︾
・機長
Rader
You
︽︵伊豆︶大島へレーダー誘導願います。︾
・東京ACC
Roger,
turn?
to
︽了解しました。右旋回ですか?左旋回ですか?︾
・機長
Going
︽右旋回︵内陸回り︶で。︾
・東京ACC
19
To
Heading090
Oshima,
Right,Right
ecter
Radar
V
︽了解、︵伊豆︶大島へレーダー誘導するので、右、磁石方位09
0︵九十度︶で飛行してください。︾
・機長 090,
︽090了解。
この直後、機体は角度を強めて右旋回を始めた。
客席内は右に傾く中で悲鳴が上がり、床にドリンクサービスの紙
コップが転がり落ちる。
機長は操縦桿を握る副機長を睨んだ。
・機長
﹁おい、バンク︵角度︶そんなとるなよ、そんなに。﹂
・副機長
﹁はい。﹂
だが、なお角度が増す。
・機長
﹁バンクそんな取んなって云ってんだよ!このバカッ!﹂
﹁︵角度︶何度あんの!﹂
機長はこの時、副機長が焦って操作が乱雑になったと判断した。
緊急時に急な操作は乗客の不安を煽るだけだからだ。
だが、副機長の操縦が荒かった訳では無かった。
操縦桿を幾ら右へ傾けても反応が無かったので強く傾けたからだ
った。
この直後、機長も副機長も機関士の報告に唖然とする。
20
・機関士
﹁ハイドロ・プレッシャー︵油圧︶が落っこちてます、ハイドロが。
﹂
制御油圧メーターの針が全てゼロを指している。
<i88409|8907>
つまり、それは機体の飛行制御を全て失ったことを意味した。
誰もそんなこと信じたくなかった。
4系統あるハイドロがいっぺんに機能を失うなど有り得ないから
だ。
機長はおもむろに佐々木副機長に話しかける。
・機長
﹁今、マニュアル︵手動操縦︶だからな、マニュアル。﹂
・副機長
﹁はい。﹂
・機長
﹁︵角度︶戻せっ!﹂
・副機長 ﹁戻らない。﹂
・機長
﹁ハイドロ全部だめ?﹂
・副機長 ﹁はい。﹂
旅客機の操縦桿の動きは、操縦桿に繋がるケーブルが直接動翼を
動かすのではなく、ハイドロ油圧を制御する機器に繋がっている。
この機器と動翼はプッシュ・ロッド︵操縦棒︶で繋がり操縦桿か
21
らの動きは油圧を介して操縦棒を動かし動翼に伝えられている。
ハイドロ式では本来、軽い力で操作出来るのだが、あまりにも軽
いと操縦感覚が掴み難くなる為、わざとスプリングを入れて操縦感
覚を重くしてある。
<i77202|8907>
ジャンボ機の操縦系統 日航123便の、この時の状態を説明しよう。
まず、飛行機は主翼にあるエルロン︵補助翼︶を操作しながら垂
直尾翼のラダー︵方向舵︶をペダルで同時に操作することにより左
右に旋回し、水平尾翼にあるスタビライザー︵水平安定板︶とエレ
ベーター︵上下操作翼︶で機体の前後の安定をさせる。
ここでハイドロ制御油が抜けると前述したものが全てその位置で
固着する。 すると、前後左右の安定を取ることが出来なくなるので、ゆっく
りと前後左右にふらつきながら飛行してしまうことになる。
さらに、垂直尾翼が消し飛び方向舵が無くなり、主翼の補助翼も
利かなければ、左右の旋回も出来なくなる。
つまり、事故機の現状ではエンジン制御のみで、多少制御が利い
ている程度で自由度が殆ど無い状態なのである。
しかし、垂直尾翼が無くなった事実は機内からは確認できない。
そして全てのハイドロ圧が無くなってもスプリング圧がある為に、
重さのある操縦桿は何も連動させる事は出来ない状態であっても感
触はさほど変わらず、パイロットは事態を飲み込めないまま、空を
彷徨うことになった。
機内の霧はすぐ消えた。
機内与圧隔壁破損部からの漏れ出した空気よりも、エンジン動力
で動作している与圧コンプレッサーから送られてくる空気の方が、
22
はるかに多い為である。
その為、酸欠症状にもならず室温も維持された。
幸子をはじめ、客室乗務員達は携帯酸素ボトル片手に乗客を見回
り、酸素マスクがきちんと装着されているか、動作しているか見回
った。
床に転がった鶴丸の紙コップが無造作に踏みつけられる。
Are
Right?
You
That`s
Confirm
東京ACCのレーダーは、なかなか転進する様子が見えない、1
23便を心配していた。
123
Emargency
Air
・東京ACC
Japan
Declate
Affirmative.
Request
Nat
090
Your
︽JAL123便、確認致します。緊急事態を宣言致しますか?︾
・機長
That`s
And
︽はい、その通りです。︾
Roger
・東京ACC
123
Of
Emargency.
ure
Oshima.
Heading
︽123便、了解。どのような緊急事態ですか?︾
・日本航空123便
To
Fly
﹁・・・・・・・。︵応答なし︶﹂
午後六時二十八分
Air
・東京ACC
Japan
Vector
123
Radar
︽日本航空123便、どうしました?︵伊豆︶大島へレーダー誘導
します。090で飛行願います。︾
23
・機長
But!
Now
Understand.
Uncontrol!
Roger
︽しかし、現在操縦不能!︾
・東京ACC
Uncontrol
︽操縦不能了解しました。︾
この後、地上との交信が時々途絶え途絶えになる。
パイロット達がいう事を聞かなくなった123便を操作するので
手一杯だからだ。
コクピット内は絶えず鳴り響く室内室圧警報と頻繁に﹁プーッ﹂
と鳴る高度警報音がパイロットの焦りと苛つきを増幅させる。
・機長
﹁ライトターン!ディセント!︵左旋回・降下︶﹂ ・副機長
﹁はい!﹂
・機長
﹁気合を入れろ!﹂
・機長
﹁ストール︵失速︶するぞホントにっ!﹂
・副機長
﹁はい、気をつけてやります!﹂
・機長
﹁ハイじゃないがっ!﹂
午後六時三十分 静岡県焼津市上空
全く指定位置に向く気配のない123便を見た東京ACCは、こ
のまま直進し続けて最も近い空港、名古屋空港への着陸が最善では
?との提案が浮かんだ。
24
・東京ACC
you
72
land
position
Can
Your
ya,
to
Nago
Nagoya?︽現在
Miles
to
Back
To
貴機は名古屋空港から72マイルの位置です。︵約115キロ︶名
古屋に着陸しますか?︾
・機長
Ar−−,Negative?Request
Haneda.
︽あ∼、違います。羽田に帰ることを要求する。︾
Right.
・東京ACC
All
︽了解。︾
羽田を選択したのは、目的地と違う場所に降ろすと、乗客を、他
手段を用いてでも目的地まで行く補償を行うなど大混乱になる為で
ある。
︵運行予定︹ハンドリング︺が狂う︶
そうなると、その代替準備に多大な人員と時間が必要となる為、
出発地の羽田が近いのなら羽田に戻って、代替機を用意した方が、
効率が良いからである。
・東京ACC
﹁Ar∼了解しました。え∼、これから日本語で話して頂いて結構
ですから。﹂
・機長
﹁あ∼、はいはい。﹂ 普段、航空法により、交信は国際語である英語となるが、緊急
時は母国語の交信でも可能となっている。
25
この時、機体は静岡県焼津市上空を起点に急激に内陸に向かい
始める。
益々安定感が無くなった機体はダッチ・ロールを描いてフラフラ
飛び続けた。
ダッチ・ロールというのは、丁度8の字を書くように飛ぶ姿をい
う。
異常発生から約五分経過。
乗客は静まり返っていた。
神に祈りを捧げ続ける乗客。
子供の手をシッカリ握り、何とか不安を少しでも取り除こうとす
る親。
そんな中で、自分が亡くなった後もすぐ身元が判明するようにす
る乗客、家族にメッセージを残そうと備えた乗客も多数存在した。
手持ちのメモ帳や、会社の商談用ノートに言葉を書き遺す者、会
社の封筒に遺書を記入し、運転免許を挿入する者、座席に設置され
た紙製のゴミ袋の余白、時刻表の余白に書き遺すものもいた。
絶望感溢れる乗客の姿を見て、スチュワーデス達はどんな思いだ
ったのだろう。自分自身にも死の恐怖が襲うが、その怖さを押し殺
して気丈に振るわなければならない。
乗客の不安を少しでも和らげる為に。
午後六時三十一分
コクピットの機内電話が鳴った。最後部エリアからだ。
・機関士
﹁後ろの方ですか?・・・・・・・え∼と、何が壊れているんです
か?﹂
26
この会話に機長は聞き入った。
福田機関士は機長に電話内容を報告した。
・機関士
﹁あのですね、荷物のですね、一番後ろですね、荷物の収納スペー
スのところが落っこってますね。これは降りた方がいいと思います。
﹂
コクピットは一旦、沈黙に包まれた。
客室後部では、事故発生時、天井の内張りがラバトリー︵トイレ︶
を中心に一部剥がれ落ちたという。
午後六時三十三分
コクピットに客室後部からの第二報が入る。
・機関士
﹁R5のマスクがストップですから。緊急降下したほうがいいと思
いますね。﹂
・機長
﹁はい。﹂
この時、R5ドア︵右側五番目の扉︶に位置する客席の酸素マス
クが破損していることが判明した。
スチュワーデスは、この座席に携帯酸素マスクを用意した。
・機関士
﹁マスク、我々もかけますか?﹂︵コクピット内のマスクは操縦の
妨害にならないよう自分で装着する。︶
27
・機長
﹁あぁ。﹂
・副機長 ﹁かけたほうがいいです。﹂
・機長
﹁・・・・・・。﹂
・機関士
﹁オキシジェン︵酸素︶マスク、出来れば吸ったほうがいいと思い
ますけど。﹂
・機長
﹁あぁ・・・・・・。﹂
ここで疑問に思うのは、本当に酸素マスクが必要な状態に陥って
いたかである。
結局最後まで機長達三人はマスクをした形跡が無かったそうだが、
高濱機長はどのような判断で装着しなかったのか。 恐らく、最初に前述したように後部の圧力隔壁破損により抜け出
る空気よりも、吸い込み側の与圧装置から送られてくる空気の方が
勝っており、それで酸欠になる恐れがある状態では無かったのでは
ないか?との事である。 事故当時の実験結果では4PSiで尾翼が破壊されるとある。
飛行機は、高空を飛ぶ際、大気圧が薄くなり、1cm程膨らむ。
その為、高空に耐ええるよう作ってはあるが、只でさえ膨らんで
る中で、内部からいきなり過度に空気を送られると吹き飛んでしま
うのである。
だが、胴体そのものに損傷が無い場合は尾翼を吹き飛ばしたとさ
れる4Psiの圧力より、エンジン動力により絶えず供給されてい
る与圧はその約二倍の9・3Psiが供給されている為、客室内が、
急減圧があったとしても一瞬のことだという。
最初に客室減圧警報が1秒で停止しているその1秒が急減圧発生
28
から立ち直りまでの時間だという。
因みに客室減圧警報が出るのは1万5千フィート︵4500m︶
からだそうで、室内は、多少酸素は薄いが、健康体なら問題が起こ
らない気圧で、予告警報である。
つまり、高度2万フィート︵6000m︶飛行ではあるが、与圧
装置が生きていたおかげで、室圧はギリギリ保たれていたと考えら
れる。
因みに、機長がボイス・レコーダーで怒り口調なのは﹁酸欠の証
拠﹂と言われているが、逆に酸欠だと1+1も出来ない程もうろう
となり、さらに酷くなると本人が知らないうちに静かに死んでしま
う。
2005年8月14日に発生したギリシャのヘリオス航空墜落事
故がいい例だ。この時の事故は与圧装置の異常で機内にいる人間、
客室乗務員1名を除く乗員乗客121名全てが気が付かないうちに
全員酸欠となり、そのまま自動で飛び続け、唯一異常に気が付いて
酸素マスクをした客室乗務員がコクピットに入り助けを呼ぼうと試
みたが異常な動きに気が付いて緊急発進してこの機に追いついたF
−16戦闘機のパイロットに事態が伝わった時にはもう遅く、燃料
切れで墜落、全員死亡というものであった。
酸欠については航空関係者だけでなく、燃料タンク、地下等、酸
欠の恐れのある職場で働いている方なら解るだろう。
つまり、酸欠だったら、そんな指示を出すことすらままならない。
まず間違いなく酸欠ではない。
怒り口調というのは職人によくある口調で、特に当時は航空関係
なら旧日本軍航空隊の先輩にビシバシ鍛えられた創立間もない頃の
自衛隊出身者なら、なおのこと特に珍しい存在ではない。
高濱機長は、今でも厳しいと評判の海上自衛隊航空隊出身で、退
官時は教官だった。
従って、当時の高濱機長はごく平凡な優秀なイチ機長であると断
29
定する。
これも一般的な仕事でも職人気質な方は珍しくないのは分かって
もらえるだろう。
因みに高濱機長は教える時は厳しいが丁寧で判り易く、普段は優
しく後輩からの評判は良かった。
☆日航123便を救え
午後六時三十五分
羽田空港の日本航空内に設けられた、123便対策本部より、1
23便へ社用無線連絡が始まった。
・日本航空羽田空港︵JLHND︶
﹁十八時二十四分に大島の三十マイル・ウエスト︵四十八キロ西︶
で、エマージェンシー・コールを東京ACCが傍受したということ
ですが?﹂︵女性従業員︶
・機関士
﹁ジャパン・エア・東京、え∼。ジャパン・エア、あ∼、え∼とで
すね、今、あの、R5の、ドアが、あの∼、ブロークン︵壊れる︶
しました。え∼、それで∼、え∼、今、ディセント︵降下︶してお
ります、え∼。﹂
この連絡を受けた日航側が、﹁R5ドアが脱落し、機体後部のど
こかが損傷したのでは?﹂という憶測をたてた。
・JLHND
﹁了解しました。キャプテン︵機長︶インテンション︵希望︶とし
ては、リターン・トゥ・トオキオ︵東京に戻る︶でしょうか?﹂
30
・機関士
﹁え?何ですか?﹂
・JLHND
﹁羽田に戻ってこられますか∼?﹂
・機関士
﹁え∼。﹂
﹁ちょっと、待って下さい。今、エマージェンシー・ディセント︵
緊急降下中︶しておりますので、もう一度、あ∼、コンタクト︵連
絡︶しますので、え∼。このままモニター︵監視︶しておいてくだ
さい。﹂
・JLHND
﹁了解しました。﹂
富士山が機体右側の下に見えてきた。
あかね色に染まった美しい富士山だった。
・機長
﹁頭︵機首︶下げろ。﹂
・副機長
﹁はい。﹂
・機長
﹁もう少し頭下げろ。﹂
・副機長
﹁はい。﹂
・機長
﹁両手でやれよ!両手で!﹂
片手でスラスト・レバー︵エンジン制御レバー︶を握っていた副
機長を叱咤する。
この時、福田機関士が提案を出した。
31
・機関士
﹁ギアダウン︵車輪︶したらどうですか?ギアダウン。﹂
これは、車輪を出して、空気抵抗を増やし、スピードを落とす手
段である。
・機長
﹁出せない!ギア降りない!﹂
・機関士
﹁オルタネーターでゆっくり出しましょうか?﹂
車輪は自重落下式で、今降ろすとバランスが崩れるので、非常用
に使うオルタネーター︵電動モーター︶でゆっくり動かして車輪を
出すことにした。
それでも車輪を下ろすと、五箇所全ての車輪が同時に降りる訳で
はなく、箇所によって時間がずれる。
その為、スピードは減速出来たが、バランスが崩れ、勝手に右旋
回をし、その場を一周した。
<i88568|8907>
午後六時四十分。
その頃には、山梨県大月市上空に来ていた。
最初の考えとはだいぶズレたが、一応、東京に方向を向けること
に成功した。
パイロットが123便と格闘してる際、東京ACCは状況把握の
為、二度呼び出したが応答が無かった。
32
この為、東京ACCは、123便の為に無線周波数134.0を
用意し、123便に周波数切り替えを勧めたが、返答が無いので已
123
Contact
until
furt
13
To
Station,Excep
silent
freqency
And
All
む無く逆に、現在東京ACCで管制している全ての航空機の周波数
を変えるよう指示した。
Air
Station,
・東京ACC
All
Japan
Control
t
kyo
and
Change
4.0
advised.
keep
her
︽全飛行中の航空機、日本航空123便を除く全飛行中の航空機は、
周波数134.0で東京管制局と交信せよ。なお別途指示があるま
で、沈黙を維持されたし。︾
この交信を聞いた他機のパイロットはどう思っただろうか。
この頃になると、指揮・管制塔交信を行っていた高濱機長は佐々
木副機長と共に操作を行った。そして福田機関士が電動で各部の操
作及び計器確認を行った。
機長は通信を機関士に任せ、副機長と共に操縦桿を握り始めた。
機長は予想以上の重い機体の動きに驚いた。
だが、その原因が、垂直尾翼が無くなったからというのは最後ま
で分からなかった。
垂直尾翼が吹き飛ぶなんて事故例など、これまで試作機では類似
33
の事故はあったが、一九六六年初飛行以来、十九年もの世界的実績
のあるボーイング747である。
この十九年の間、同型機が墜落した原因は皆、人為的ミスかテロ
だった。
一歩譲ってテロだったとしても、客室・貨物室を爆破されるなら
分かるが、垂直尾翼だけ部分的に破壊するテロというのも妙だ。
操縦桿を握った機長の焦りが声から伝わってくる。
・機長
﹁頭下げろ。﹂
・副機長
﹁はい。﹂
・機長
﹁パワー!﹂
﹁重たいっ。﹂
﹁頭下げろ!重たい!﹂
﹁もう少し頭下げろ!﹂
・副機長
﹁はい。﹂
・機長
﹁下がるぞ。﹂
﹁重たい。﹂
﹁いっぱいやったか?﹂
・副機長
﹁いっぱい、舵いっぱい。﹂
・機長
﹁あ∼∼っ、重たいっ!﹂
﹁舵﹂とは、垂直尾翼に付いている方向舵の事である。この﹁舵﹂
34
が吹き飛んで無くなったとも知らず、必死で操作している。
午後六時四十五分。 一旦姿勢が落ち着くと、機長は改めて東京ACCに交信した
・機長
﹁JAL123、アンコントロール!︵操縦不能︶﹂
東京ACCのレーダーに映る123便はアメリカ極東空軍・横田
基地がある東京都福生市に向かっていたので、米軍基地に協力が要
請された。
米空軍は直ちに、横田基地の滑走路を空け、消防・救急を待機さ
せると同時に、岩国海兵隊基地から通常輸送任務で横田基地に向か
If
1−2−
Guard,
12
Air
Yokota
Japan
っていたC130H輸送機に123便のサーチ・アンド・レスキュ
ー︵捜索・救助︶を命じた。
1−2−3
・米空軍横田基地管制塔
Air
On
Me,Contact
Approach
Hear
Yokota
Japan
3
You
1.5
︽JAL123便、JAL123便、こちら横田アプローチ。聞こ
えたら周波数121.5で応答せよ︾
・JAL123便
﹁・・・・・・。︵応答なし︶﹂
この頃になると、返答する余裕が無くなった。
午後六時四十六分
35
神奈川県相模原市郊外上空
To
Han
佐々木副機長が、どの辺に来ているのか窓から地上を見下ろした。
・副機長
﹁え∼。今、相模湖まで来ています。﹂
高濱機長は一呼吸置いた。
・機長
﹁・・・・・・これは駄目かもわからんね。﹂
﹁ちょっと・・・・・・。﹂
コクピット内は絶望の空気に包まれた。
午後6時四十七分
もうすぐ東京上空。
Vecter
機長は東京ACCに誘導依頼を行う。
・機長
Rader
Ah−−Kisarazu
Ah?Request
eda
︽あ∼、羽田!木更津へのレーダー誘導をお願いする!︾
・東京ACC
﹁Roger︵ここから日本語︶了解、しました∼。ランウェイ2
2︵22番滑走路。C滑走路の意味︶なので、ヘデイング090︵
磁石方位九十度︶をキープ︵維持︶してください。﹂
・機長
﹁ラージャ。﹂
36
・東京ACC
﹁現在、コントロール出来ますか?﹂
・機長
123
Co
119.7
Tokyo
Approach
Contact
﹁アン、コントローラブル︵操縦不能︶、・・・・・・・です。﹂
・東京ACC
﹁了解。﹂
Air
・東京ACC
Japan
ntrol,Ar?Tokyo
︽JAL123、こちら東京ACC,︵無線︶周波数119・7で
Roger.
コンタクト︵交信︶せよ。︾
・機長
119.7
︽119・7 了解!︾
ふと気が付くと、交信の間に高度がガックリ下がっているのに気
が付く。
高度約2万フィート︵6千メートル︶でかろうじて維持してきた
が、ここでガックリと、1万フィート︵3千メートル︶、五千フィ
ート︵千五百メートル︶まで下がっていた。
東京都青梅市上空。
深い奥多摩の山麗が連なる場所だ。
パイロットの目の前にその山麗や高圧電線が迫ってきた。
慌てて機長は無線周波数調整を後回しにし、指揮を再開する。
・機長
﹁おい、山だぞ!﹂
﹁ターンライト!︵右旋回︶﹂
37
﹁山だ!﹂
・副機長
﹁はい!﹂
・機長
﹁コントロール取れ!﹂
﹁右ィイ!﹂
﹁ライトターンッ!﹂
2人は冷や汗だくだくで、操縦桿を力一杯右に握りながらスラス
ト・レバー︵エンジン出力制御レバー︶を握る。
客室は、大きな機体の動きに想像を絶する恐怖に包まれていただ
ろう。
それでも、なお、スチュワーデス達は乗客を安心させようと必死
だった。
その思いがこの時の機内放送から伝わってくる。
機体の振動か、恐怖で震えてるのか、途絶え途絶えながらも気丈
に優しく話す声が痛々しい。
因みにこの声は機体最後部担当の放送だそうだ。
高度はだいぶ降りてます。
・スチュワーデス︵客室乗務員︶
﹁お客様へ・・・・・・
もうすぐ酸素は要らなくなります。
赤ちゃん連れの方、背に、頭を、座席の背に頭を支えて・・・・・
・してください。
赤ちゃんは、シッカリ抱いてください・・・・・・。
ベルトはしていますか?テーブルは戻してありますか?確認して
ください・・・・・・。
着陸の際は、あの∼・・・・・・予告無しで着陸する場合が・・・
・・・。
38
地上との交信は繋がっておりますので・・・・・・。﹂
青梅市上空で、山麗を越えれば、あとは目の前に米空軍横田基地、
だだっ広く続く平面な東京のコンクリート・ジャングルの向こうに
羽田空港がある。
しかし彼らは必死で、3人総出で連なる山を飛び越えてるのが精
一杯で、どんどん逆方向の深い山中に引き込まれて行った。
・機長
﹁山にぶつかるぞっ!﹂
・副機長
﹁はい!﹂
・機長
﹁ライトターン!﹂
﹁マックパワー!︵エンジン出力全開︶﹂
ここで、機関士が後ろから出力レバーに手を出し、操作を手伝い
始めた。
・機関士
﹁がんばれェー!﹂
福田機関士はレバーに願いを込めるように叫ぶ。
午後六時四十八分
高濱機長が力みながら必死に山を跳び越す。
・機長
﹁ハー、ハー、ハー、ハー、ハーッ!﹂︵荒い呼吸︶
39
﹁パワーァ!﹂
﹁ハッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ。﹂
﹁あ∼。駄目だ。﹂
﹁ストール!︵失速︶﹂
﹁マックパワー!マックパワー!マックパワーッ!﹂
﹁ストール!﹂
・警報音
﹁ピッコーン、ピッコーン、ピッコーン﹂︵失速警報︶
︵この警報音が沈黙の中、約1分近く続く︶ ・機長
﹁はい、高度落ちた。﹂
・副機長
﹁スピードが出てます!スピードが!﹂ ・機長
﹁どーんといこうや!﹂
・副機長
﹁はいっ!﹂
・機長
﹁頑張れっ!﹂
この﹁どーんと行こうや﹂の言葉は永らく機長遺族を苦しめた言
葉だ。
乗客遺族がこの言葉を文章で見て﹁ふざけるな!﹂と激怒したの
だ。
だが、実際に録音を聞くと、ふざけて云ったのでは無いのが分か
る。
佐々木副操縦士に対する励ましの言葉だったのだ。
その言い方は、とても力強く、新人を励ます言葉でもあったが、
自分自身に対する戒めであることが分かる。
40
つまり、﹁あきらめるな!﹂という事だ。
同じ言葉でも、実際に聞かないと伝わり方がまるで異なる一例だ。
午後六時五十分
山梨・埼玉県境
・機長
﹁マック!︵エンジン出力全開︶﹂
﹁頭下げろっ!﹂
・副機長
﹁はいっ!﹂
機長はメーターパネルに向かって叫ぶ。
・機長
﹁頑張れ!頑張れ!﹂
・副機長
﹁いまコントロール一杯ですっ!﹂
ここで、福田機関士が提案を出した。
・機関士
﹁パワー・コントロール︵エンジン出力調整︶がいいです。パワー・
コントロールさせてください!﹂
福田機関士は4つあるエンジンの出力を別々に調整し、機体をコ
ントロールしようと試みたのだ。
41
午後六時五十一分
・副機長
﹁フラップ︵高揚力装置︶は?﹂
・機関士
﹁下げましょうか?﹂
・機長
﹁降りない!﹂
・機関士
﹁いえ、あの∼オルタネート︵電動︶で。﹂
・機長
﹁オルタネートしかないか!やっぱり!﹂
・機関士
﹁え∼、オルタネートです。﹂
フラップ︵高揚力装置︶は翼を湾曲させて空気抵抗を増やし、浮
力を増す装置で、主翼後縁にある。
・機長
﹁頭下げろ!﹂
ここで、フラップを電動で出しながら、エンジン出力調整を手伝
う福田機関士を見て怒鳴った。
・機長
﹁他はいい!あんた自分のことやれ!﹂
この怒鳴り声でふと余所見をした副機長は操縦桿から、ふと片手
を離す。
42
高濱機長が睨んだ。
・機長
﹁両手で!﹂
・副機長
﹁はい!﹂
・機長
﹁頭下げろ!﹂
﹁はいパワー!﹂
おもむろに、福田機関士が、パワーレバーを握る。
・機関士
﹁フラップ出てますから今!﹂
・機長
﹁あぁ!﹂
﹁頭下げろ!﹂
﹁つっぱれっ!﹂!
これで、7千フィート︵約2000m︶の低空を走り幅跳びのご
とく、山麗を飛び越えていたのが、上昇し、1万五千フィート︵約
4000m︶に到達した。
☆123便の最後
午後六時五十三分
埼玉・長野県境 三国峠付近
一旦飛行は安定し、下には夕闇に暮れていた山麗の深い林がすっ
43
かり見えなくなり、延々と広がる黒い山のシルエットの中に、所々、
灯の光がキラキラ光始めていた。
気が付くと、現在の場所が何処なのか分からなくなっていた。
一方で、東京ACCでは、無線周波数切替依頼を了承してから一
切の返答が無い123便に再度呼びかけを開始。
米空軍横田基地も一度も呼びかけに応じない123便を非常に心
配し、1分置きに呼びかけを続け、基地の滑走路も全て閉鎖し、消
Japan
123,Japan
To
123,
123
Air
Air
防車を始めとする基地内の全ての緊急車両を滑走路端に待機させ、
123
123便の突然の緊急着陸に備えていた。
Air
・東京ACC
Japan
kyo.
Air
︽JAL123、JAL123、こちら東京。︾
・機長
Ar?Japan
.Uncontrol.
me.
Air
5
G
1−2−
On
Squawk
Control
Japan
︽あ∼、ジャパン・エア123、ジャパン・エア123、アンコン
トロール。︾
・東京ACC
﹁123了解しました。﹂
・米空軍横田基地管制塔
1−2−3
hear
Yokota.
You
Approach
Air
Yokota
Japan
3
If
Contact
uard.
423
︽日本航空123便、日本航空123便、聞こえたら︵無線を︶5
423にセットせよ。︾
・JAL123便
44
﹁・・・・・・。﹂
・東京ACC
﹁ジャパン・エア123、ジャパン・エア123、周波数119て
ん7、119てん7に変えてください。﹂
・機長
﹁はいはい119.7。﹂
・副機長
﹁あ、はい、え∼No.2。﹂
・機長
﹁119.7?﹂
・副機長
﹁はい﹂
・東京ACC
R
Fre
119.7
You
﹁ジャパン・エア123!出来ましたらワンワンナイン・てん・セ
ブン!︵119・7︶に変えてください。﹂
午後六時五十四分
Frequenty
Reading,If
Up
You
・羽田空港東京進入管制所 Miting.If
Come
Out.
Openly
Approach
Already
Tokyo
We Are
eading
Or,
quency
︽聞こえていれば周波数119・7で交信せよ。または東京アプロ
ーチの、他の周波数でも結構なので直ちに交信せよ。どうぞ。︾
・機関士
﹁ジャパン・エア123、え∼。ワンワンナイン・てん・セブン!
︵119・7︶セレクトしました∼。﹂
・機長
﹁リクエスト・ポジション!︵現在位置照会︶﹂
45
・機関士
West
Of
5
Han
Position
﹁ジャパン・エア123、リクエスト・ポジション?︵現在位置を
教えてください︶﹂
Your
North
123
・羽田空港東京進入管制所
Air
45Miles
Japan
Ar−5
eda.
︽JAL123、位置は・・・・・・あ∼、5・・・・・・45マ
イル羽田の北西。︾
︵羽田空港から直線で北西約72キロ︶
・機関士
﹁ノースウエスト・オブ・ハネダ・・・・・・。あ∼、え∼、何マ
イルですか?﹂
・東京ACC
﹁はい、その通りです。こちらのレーダーでは55マイル・ノース
ウエスト、
あ∼、熊谷から、あ∼・・・・・・25マイル、ウエストの地点で
す、どうぞ。﹂
︵埼玉県熊谷市から直線で西に40キロ地点︶
・機関士
﹁はい、了解。﹂
123便は、三国峠を越し、長野県川上村上空にさしかかった。
この時、折角上昇した高度も、機体の安定を維持する為の操作で
徐々に低下し、高度は8000フィート︵約2800m︶を下回っ
ていた。
川上村は標高1000m∼1500mの日本で有数の標高の場所
である。
つまり、この上空を2800mで飛ぶという事は、1000m位
46
の低空を飛んでるのと同じである。
川上村郊外の森林が123便のすぐ下に広がる。
・機長
﹁フラップ降りるね?﹂
・副機長
﹁はい、フラップ10。﹂︵フラップを10度下げた状態︶
AIR
123 日本語で申し上げます。こちらの
・羽田空港東京進入管制所
﹁JAPAN
方は、あ∼、アプローチ︵進入︶いつでもレディ︵可能︶になって
おります。なお、横田と調整して横田ランディング︵滑走路︶もア
ペイラブル︵いつでも着陸可能︶になっております。﹂
・機関士
﹁はい了解しました。﹂
・機長
﹁頭上げろ!﹂
﹁頭上げろっ!﹂
﹁頭上げろっ!﹂
・副機長
﹁ずっと前から支えてますっ!﹂ ・スチュワーデス︵機内放送担当最後部エリア︶
﹁・・・・・・からの交信は、ちゃんと繋がっております・・・・・
・・・﹂
・機長
﹁おい!フラップ止めな!﹂
・副機長
﹁は、はい!・・・・・・。﹂
47
・機長
﹁止めなっ!﹂
ここでフラップを降ろし過ぎて失速したのだろうか?誰のか分か
らないが悲鳴が入っていた。
・?
﹁あ∼っ!﹂
・機長
﹁フラップ!そんなにフラップ下げちゃ駄目だ!﹂
・副機長
﹁フ、フラップアップ!フラップアップ!フラップアップ!フラッ
プアップ!﹂
・機長
﹁フラップアップ?﹂
・副機長
﹁はい!﹂ この時、123便の第一目撃集落の川上村・神山から隣の居倉の
集落に向かって突っ込む寸前に、急上昇して、群馬県上野村方面の
山に消えて行った。
川上村集落のすぐ後ろにそびえ立つ峰は、群馬県・長野県の県境
で、峰を越せばすぐ群馬県だった。
夕暮れに染まった飛行機雲を伸ばしながら123便はフラフラと
山奥深くに入っていく。
失速寸前まで落ちた速度は姿勢を立ち直す為に回したエンジンの
パワーで一気に600キロまで加速。
しかし、どんどん加速しながら機体を右に傾げていく。
周囲には文明の明かりは全く見えなくなり、果てしなく続く暗闇
の樹海がコクピットの目前に迫る。
48
機長は青筋を立てながら叫ぶ。
・機長
﹁パワー・・・・・・パワー!﹂
・機関士
﹁いや・・・・・・。﹂
・機長
﹁フラップゥ!﹂
・機関士
﹁あげてますっ!﹂
・機長
﹁ストールするぞっ!﹂
﹁頭あげろ・・・・・・・頭上げろォ!﹂
﹁パワー!﹂
・747型機の警告音声
﹁ビリリッ!﹂︵地上接近警報︶
﹁シンクレート﹂︵降下率注意︶
﹁ウアウア!プルアップ!﹂︵上昇せよ︶
﹁ウアウア!プルアップ!﹂
﹁ウアウア!プルアップ!﹂
クルー全員の顔がひきつる。
もう目の前には薄暗い林が迫った。
高濱機長が絶叫した。
・機長
49
﹁もうー、駄目だっ!﹂
・747型機の警告音声
﹁ウアウア・プルアップ!﹂
・衝撃音
﹁ドッガシャッ!﹂
・747型機の警告音声
﹁ウアウア・プルアップ!﹂
﹁ウアウア!プル﹂
・衝撃音
﹁ボーンッ!・・・・・・グワワワワワワワッ!﹂
午後六時五十六分二十六秒 ボイス・レコーダー録音終了。
この後も、各管制からの呼びかけが続いた。
123便が管制塔に最後に残した言葉は﹁あ∼っ!﹂であった。
この叫びの主は特定されていないが、交信中だった福田機関士と
思われる。
因みに、パイロットの間では﹁ウアウア、プルアップ﹂という
音声警告は訓練、若しくは警告動作テストでしか聞かないという。
Japan
Air
Of
G
1−2−
何故なら、この音声警告が出た時は無事に帰還できない可能性が
高い為である。
午後六時五十七分 ・米空軍横田基地管制塔
1−2−3
Approach,Control
Air
Yokota
Japan
3
uard.
50
If
You
Here
Me,
Come
Up
121.5
︽JAL123便、JAL123便、こちら横田アプローチ。聞こ
えたら周波数121.5で応答せよ︾
☆ 墜落機目撃
午後六時五十五分頃。
長野県川上村は、レタスを代表とする高原野菜の産地として有名
で、夏場は休み無しのフル稼動で朝一時から夜八時で働き、アルバ
イトも多数いる。
特に当時は東京の大学生の高額アルバイトとして人気が高かった。
この日、川上村の秋山という集落で、川上村消防団長・遠藤岩雄
さん︵仮名・当時四十五歳︶が、東京からアルバイトに来た、甥の
男子大学生︵当時二十一歳︶と共に、集落から高台にある畑で、農
作業をしていた。
﹁ゴウン︰︰︰ゴウン︰︰︰﹂
背後の山から雷が聞こえる。
遠藤氏は、そろそろ夕立が来そうだから引き揚げる旨を甥に伝え
た。
すると、雷の音がどんどん大きくなる。
﹁?﹂と思い、ふと振り向くと巨大な白い飛行機がすぐ近くに飛ん
できた。
﹁何だ!自衛隊め!バカヤロゥ!あんなデカイ飛行機で低空掠めや
がって!うるせぇだよ!﹂
甥はとっさに説明した。
﹁おじさん違うよ!ジャンボ機だ!日航の旅客機だよっ!﹂
﹁そんな訳ねェや!何でこんなとこ飛ぶ用事あるだい!﹂
日航123便だった。主翼の赤と緑の翼端灯を輝かせ、機首を下
に向けながら、千曲川沿いの集落に向かって飛んでいく。
51
あまりの大きな音に帰宅途中の少年野球の子供達が大騒ぎし、千
曲川沿いの県道を走っていたトラクターや軽トラックが慌てて止ま
り、集落の家からは住民が飛び出して空を見上げた。
この時、123便の第一目撃集落の川上村・秋山から隣の居倉の
集落に向かって突っ込む寸前に急上昇して、群馬県上野村方面の山
に消えて行った。
川上村集落のすぐ後ろにそびえ立つ峰は、群馬県・長野県の県境
で、峰を二つばかり飛び越せばすぐ群馬県だった。
夕暮れに染まった飛行機雲を伸ばしながら123便はフラフラと
山奥深くに入っていく。
<i88562|8907>
遠藤氏が自分の畑から日航機の向かった群馬県方面を見ると、最
後に見たところから左に離れた場所からキノコ雲が沸き上がったの
を目撃した。
当時、川上村で多数の目撃者がいたが、墜落直後のキノコ雲を目
撃したのは、高台にいた人達だけであった。
だが、墜落音はしなかった。
高い山に囲まれた中で落ちたせいだと思われる。
甥がつぶやく。
﹁お︰︰︰おじさん︰︰︰。﹂
遠藤氏が聞いた。
﹁あの飛行機よ、人が乗ってたんずれ?﹂
甥が答える。
﹁沢山乗ってたと︰︰︰思うよ︰︰︰。﹂
遠藤氏が聞き返す。
﹁沢山って︰︰︰何人位ぇずれ?﹂
甥が頭を傾げながら答えた。
﹁多分︰︰︰三百人以上は乗れると思うけど、お盆だしね。﹂
52
遠藤氏は一呼吸置いて考えた。
﹁︰︰︰帰るぞ!﹂二人は慌てて帰宅する。
歩道脇には子供達が空を指差しを騒いでいた。
軽トラの窓ごしに
﹁さっきね!ジャンボ機がね︰︰︰。﹂
と、いう会話が聞こえた。
神山の自宅に戻って、遠藤氏は慌てて茶の間に入る。
おもむろに茶の間のテレビを見たが何もニュースが無い。
遠藤氏が奥さんに聞いた。
﹁さっき、凄い大きな飛行機が、この集落かすめていったの知って
るか?﹂
奥さんが答えた。 ﹁あ∼、うん︰︰︰さっき、来たね。凄い音立てて、煩さかったね
∼。﹂
遠藤氏が人差し指を指して力強く言った。
﹁そいつ、どうも裏の山に落っこちたらしいんだ!﹂
﹁えっ?﹂
奥さんは、話が飲み込めず、唖然とした。
遠藤氏は、そのまま茶の間に座り込みTVを睨み、近くに村内電
話を引き寄せた。
☆捜索開始
午後七時〇〇分。
茨城県・航空自衛隊・百里基地 第七航空団
日航123便を緊急信号受信直後から追っていた航空自衛隊は、
独自判断で、緊急体制当番で待機していた第三〇五飛行隊のF4E
Jファントム戦闘機二機を長野・群馬県境の行方不明地点に急行さ
せた。︵故・式地豊二尉リーダー︶
53
<i88564|8907>
午後七時十九分。
米空軍のC130H型輸送機が現場らしき炎を発見。航空自衛隊
も午後七時二十一分に、現場確認。横田TACAN︵無線位置標識︶
より磁方位300度・32マイル︵約51キロ︶と測定結果を送っ
た。
☆第一報
午後七時二十六分
報道各社に﹁日本航空123便が、レーダーから消えた﹂の旨の
第一報が入り、まずTVやラジオが速報で伝えた。
特にTVは視聴率が最も高いゴールデンタイムだったので大勢の
国民がこのニュースを確認した。
長野県川上村大字秋山。消防団長・遠藤家。
NHKが7時のニュースの終わり際に速報を読み上げた。
﹁新しいニュースが入りました。羽田空港の空港事務所に入った連
絡によりますと、午後六時に羽田を出発しました大阪行きの、日航
ジャンボ機の機影が、レーダーから消えたもようです。﹂
遠藤氏が甥に聞きなおす。
﹁おい、確か、日航ジャンボ︰︰︰とか言ってたよな?こいつの事
か?﹂
﹁︰︰︰多分?﹂
甥は自信無し気に答えた。
遠藤氏は立ち上がると村内電話で由井宗佑村長に電話をかけ、消
防団の呼集を行うか確認した。
54
ふとTVをもう一度見ると、NHK特集が始まったが、途中で番
組が中止され、日航ジャンボ機行方不明の臨時ニュースに切り替わ
り、事の大きさが伝わってきた。
﹁479名が乗った日航ジャンボが長野・群馬県境で行方不明とい
う情報が入りました。﹂︵注・人数は速報当時︶
川上村・秋山の長野県警察・川上村駐在所・秋山分駐所にニュー
スを見た多数の住民が集まり、電話が絶えず鳴り響く大騒ぎとなっ
た。
川上駐在所の管轄の臼田警察署から、県警本部に連絡が入り、早
速、対策本部が設けられ情報収集が開始された。
遠藤消防団長は役場で群馬県にカラマツの苗を提供している産業
課長・藤原先吉氏と目撃した場所に行った。
そこで、﹁間違いなく群馬県﹂と証言したという。
一方、群馬県上野村。
テレビを見た住民達が窓を開け、夜空を眺めた。
上野村に普段は飛んで来ることが全く無い航空自衛隊の戦闘機と
米軍の輸送機のエンジン音が響き渡っている。
事故の事を知らず﹁飛行機がうるさい﹂と苦情の110番をする
住民もいた。
なにしろ上野村の夜は早く、住民の殆どが七時には寝床に付いて
いるのでニュースを見た住人も限られていたのである。
そして事故機は上野村集落を通過せず、しかも墜落音も山に阻ま
れ聞こえていなかったので、なおさらである。
☆長野県警察事故対策本部設置
午後七時四十五分
55
長野県庁内にある長野県警本部に数台の機動隊バスが入ってきた。
彼らは長野県警所属の関東管区機動隊で、この日、軽井沢に保養
に来た皇太子殿下︵現・天皇陛下︶の警備に当たり、帰ってきたと
ころであった。
彼らはバスを降りると一息つく間もなく、﹁とりあえず、目撃通
報が多数ある川上村に向かえ﹂という命令を受け、とんぼ帰りで、
国道18号をまた戻っていった。
そして長野市の県警警察学校にある山岳救助隊が臼田町グラウン
ドを目指し、装備一式と投光車を引き連れて出動。
普段、交番任務等﹁警ら﹂と言われる所謂﹁街のおまわりさん﹂
が緊急時の機動隊員﹁第二機動隊﹂として集結命令が下った。
松本管内にて派出所の巡査が暴漢に刺殺された事件が発生して緊
急配備中の時だった。
彼らに﹁またかよ︰︰︰。﹂の言葉がつい出てしまう。
それは、この近年、大規模災害の出動事案が続いたからだ。
一九八四年九月十四日の﹁長野県西部地震﹂
一九八五年七月二十六日の﹁長野市地附山地滑り災害﹂
地附山地滑りに至っては、発生からまだ二週間あまりで、老人ホ
ームが完全に潰され、26名死亡のうち、まだ行方不明者捜索の段
階で大忙しの最中だった。
長野県警は近隣県警にも応援已む無しの体制で、隣の群馬県警察
へも出動要請を検討し始めた。
群馬県警も、いつ長野から応援要請があってもいいように、群馬
県前橋市の県警本部に対策室を設け県内全機動隊の集結準備を始め
た。
午後八時。
長野県内で県警同様大忙しだった陸上自衛隊松本駐屯地・第十二
師団隷下・第十三普通科連隊にも防衛庁が航空局から﹁災害出動要
請﹂を受理し、出動命令が出された。
56
そして群馬県相馬原駐屯地にある陸上自衛隊第十二師団・第十二偵
察隊の一部を出動させ、先遣隊とした。
警察の先遣隊としては、長野県臼田警察署が本部とは関係なく、
独自で110番通報を受けた直後にぶどう峠をパトカーにて捜索。
そして三国峠を半分管轄に持つ埼玉県警・秩父署のパトカー、及び
機動隊が警察庁の指示により派遣。
群馬県警は松井田署を中心とするパトカーが現場近くと思われる
碓井峠・十国峠に急行した。
<i89446|8907>
☆陸上自衛隊・第一空挺団非常呼集
午後八時半。千葉県船橋市薬円台。
この街には陸上自衛隊最強の隊員達が集結する習志野駐屯地・第
一空挺団がある。
当時現役だったB氏に名前を伏せる条件で今回取材させて頂いた。
習志野駐屯地からお盆休暇中の隊員に呼集がかかった。
まだ第一空挺団に出動命令はかかっていないが、山岳地帯の車両
が通行困難な場所とのことで、いずれ呼び出しがかかる可能性が高
いと独自で集結をかけた。
☆妻の飛行機
この日本中が未曾有の大事故の可能性が高くなった日航機行方不
明のニュースに釘付けの中、まだニュースを知らないものも居た。
123便、客室乗務員・松原幸子の夫、定雄である。このニュー
スが流れる間、彼は帰宅の電車で、うとうとしていた。
57
いつものようにマンションに帰宅すると、真っ暗な部屋の片隅で、
留守番電話のランプがチカチカ点灯していた。
﹁さて︰︰︰と。﹂
定雄は部屋の電気を点け、重いビジネスバッグをソファーに置き、
スーツを脱いでネクタイを緩める。
﹁ふ∼っ。﹂
ようやく家に帰った安堵感と、ネクタイを緩めたことの安心感に
つかりながら、留守番電話のスイッチを押した。
﹃ピー!9件・です。﹄
定雄は怪訝な顔をして思わず留守番電話に振り向いた。
﹁何だよ、9件も。﹂
定雄はタバコに火を点けた。
︵留守番電話1件目︶
﹃八月十二日午後一時十三分。ピーッ!︰︰︰ガヤガヤ︰︰︰もし
もし、幸子だよ∼ん!今日は大阪に泊まりだから、寂しくても泣く
んじゃないよ∼!ばっはは∼い!︰︰︰ガチャ﹄
﹁ばか、誰が泣くかっての。﹂定雄は苦笑いした。
︵留守番電話2件目︶
﹃八月十二日午後二時三十六分。ピーッ!あ、もしもし、吉川︵幸
子の妹︶だけど、今、九州からお父さん達、うちに遊びにきてるか
らね、顔出して。それじゃ。ガチャ。﹄
﹁そうか。それじゃ幸子が戻ってきたら顔出すかな。﹂
︵留守番電話3件目︶
﹃八月十二日午後七時十分。ピーッ!ガヤガヤ︰︰︰あ!もしもし
!日本航空です!大至急ご連絡ください!︰︰︰ガヤガヤ︰︰︰連
絡ついた?いや、こっちは︰︰︰ガチャ﹄ 日本航空から同じ内容の連絡が3分置きに続く。緊迫した声と、
後ろの騒ぎが聞こえる。定雄はタバコを消して聞き入る。
︵留守番電話9件目︶
﹃八月十二日午後七時四十八分。ピーッ!あ、日本航空ですが、松
58
原幸子さんが業務されている便が現在行方不明になってます。ご連
絡ください。ガチャ﹄
定雄は頭の中が一瞬で真っ白になる。
慌ててテレビを点けると、各民放が通常番組に日航機行方不明の
テロップを流している。
唖然とテレビを眺めた。日本テレビの﹁ザ・トップテン﹂が司会
の、堺正章氏の紹介の後、緊迫したニューススタジオからの中継に
変わった。
テレビを見入ってると突然インターホンが部屋中に鳴り響き、驚
く。
ドアを開けると、Yシャツにネクタイ姿の初老の男性が待ってい
た。
﹁あの、松原︰︰︰幸子さんの、ご主人様で?﹂
彼は、幸子さんの通勤用タクシーの運転手だった。
自宅でニュースを見ていたところ、日本航空から幸子さんのご主
人を送迎するよう依頼を受け、駆けつけたのだ。
日航に電話すると、事故現場に比較的近い群馬県藤岡市の中学校
に東京近隣の、乗客の肉親の控え所を設置したという。
午後九時。
タクシーのカーラジオで随時ニュースを確認しながら単身、群馬
県に向かった。
国道十六号沿いの街の灯を眺めながら﹁なあに、元気な姿で逢え
るさ!﹂と信じながらも、タクシーの後部座席の灰皿は、あっとい
う間に一杯になり、タバコを持つ手は震えが止まらなかった。
この頃、墜落現場は目撃者の多い長野県川上村と北相木村の間と
報道され、陸上自衛隊・松本駐屯地第十二師団第十三普通科連隊は
北相木村に集結した。
長野県警機動隊は、臼田町に到着し、そこからは交通機動隊・臼
田分駐隊の白バイが先導し、現場と思われる南相木村を目指した。
59
乗客の肉親は、最初は群馬県藤岡市に集結させたが、情報が長野
県北相木村となると北相木にも待機所を設け、結果として時間差で
現場を挟んで二手に分かれたことになる。
☆夜間山岳救難降下用意
午後九時。
米空軍横田基地から依頼を受けた米陸軍座間基地の陸軍救援隊が
UH1H型汎用ヘリで、C130H型輸送機の誘導の元、墜落現場
に辿り着いた。
その時、駆けつけた航空自衛隊の救難ヘリ・V107?型と現場
指揮航空機のMU2J型と交代し、米軍機はその場を立ち去った。
米軍機は米軍司令部から、直ちに自衛隊に全てを任せ、速やかに
現場から引き揚げる旨伝えられた。 後ろ髪引かれる思いで米軍機は去ったが、航空自衛隊の航空機と
ヘリが来て交代したので、﹁もう大丈夫だろう﹂と思ったそうだ。
しかし、うまくはいかなかった。
この直後、墜落現場付近に500kvの高圧高架電線がある事が
判明。うかつに高度を降下できなくなり、一個千ワットを誇る胴体
側面の4個のサーチライトを照らし、球形で首を伸ばして外の風景
を見れるようになっているバブル・ウインドウから隊員が血なまこ
で現場を見据えるが爆発炎上の黒煙に阻まれ何も見えない。
結局、彼らは航続距離の長い事を生かして﹁空の灯台﹂として現
場に留まり続けるしか方法が無かった。
後に、この事実を知った米兵達は非常に落胆したという。
<i77117|8907>
川崎KV−107?救難ヘリ ︵航空自衛隊浜松基地所蔵・筆者撮
60
影︶
<i77118|8907>
三菱MU−2J ︵航空自衛隊浜松基地所蔵・筆者撮影︶
☆ 墜落確定
午後九時半。
午後九時十五分に123便に搭載された三時間十五分の燃料が尽
きた時間。
これで少なくとも﹁飛行﹂は不可能と確定した。
羽田空港の日航123便行方不明対策本部は記者会見で正式に﹁
墜落﹂と公表した。
墜落から2時間。
あれだけ大きな飛行機が墜落したのに、墜落機を見ても墜落した
瞬間を見た者も音を聞いた者もおらず、110番通報も川上村発以
外は不確かなものばかりで、しかも米軍機・航空自衛隊戦闘機・航
空自衛隊ヘリの位置情報は半径5キロというアバウトなもの。︵航
空機が普通に飛行する分には許容範囲の誤差︶
現場は誤認や勘違いで長野県川上村・佐久市・軽井沢、群馬県上
野村と半径30kmに渡り錯綜し、益々混乱するばかりだった。
最も遠い情報は、現場から直線で30km離れた碓井峠で、実態
は碓氷峠バイパスで、事故で炎上するトラックだった。
<i77239|8907>
∼第二章に続く∼
61
62
第二章 事故現場を探せ
☆群馬県警事故対策本部設置
午後十一時半、群馬県上野村。
黒澤丈夫村長自宅
群馬県警の河村一男本部長より、長野県警の応援に千人程の警官
が上野村に集結するので協力して欲しい旨の連絡が入った。
既にテレビで事故のニュースを承知していたので話は早かった。
嫌な予感がして寝るに寝付けずに、県警本部長から連絡が来る前
に既に役場の職員に備えておくよう指示を出していた。
この時間は真っ暗で閉まっている筈の役場は、自主的に非常出勤
した職員によって煌々と明かりが灯っていた。
<i89924|8907>
故・黒澤丈夫氏
<i77100|8907>
上野村役場
同時刻。長野県川上村。
目撃者が多かったこの村が現場に一番近く、証言インタビューも
多く取れると確信した報道陣がこの役場に集結し、大騒ぎになって
いた。
村長を始め職員が出勤し報道陣の対応に追われた。
事務フロアは職員のデスクと電話が報道陣に貸し出され、さなが
ら報道フロアの様であった。
電話で村長が遠藤消防団長と相談をする。
63
<i77106|8907>
川上村役場
一方で北相木村に集結した陸上自衛隊・松本駐屯地・第十三普通
科連隊や南相木村に集結した長野県警機動隊員達は、決定打となる
情報が掴めず、動けずにいた。
長野県警は、交通機動隊本部から災害派遣用トライアル・バイク
隊員も派遣し、現場近くの林道をくまなく捜索したが、長野県内で
はないことが分かっただけで、結局明け方まで山中を事故現場目指
して捜索し続けた。
航空自衛隊の提案でKV107?型バートル救難ヘリの全てのラ
イトを点灯し、それを目標に現場に向かうという方法も実行したが、
結果は﹁車では行けない場所﹂という事だけがハッキリしただけで
あった。
<i88561|8907>
☆混乱する情報 八月十三日 午前二時。
事故機の客室乗務員・松原幸子の夫・定雄は群馬県藤岡北中学校
で、幸子の実両親と、妹・吉川明美と夫の和夫と合流した。
両親達は日航がチャーターした空港リムジンバスで駆けつけてい
た。
事故から七時間経過。未だにあやふやな情報ばかりが体育館に設
置されたテレビから流れる。
肉親にとって、事故原因やジャンボ機の説明よりも、安否の確認
が欲しい。
64
だが、発表されるのは墜落現場がTV局によっては群馬側もしく
は、長野県北相木村でどっちつかず。
そしてカタカナで書かれた乗客名簿とそれを読み上げる声。
名前を熱心に聞く傍ら、いい加減墜落現場がハッキリしない事と、
疲れで付き添いの日航社員に食って掛かる者も居た。
﹁なんで、あんな大きな飛行機が堕ちた場所がハッキリしないんだ
!ヘリでもう分かってる筈だろうが!﹂
日航社員が答える。
﹁いや、民家も道路もない大変山深くなので、いまいち︰︰︰。﹂
日航社員は怒る乗客の肉親に囲まれ怒鳴られ疲弊している。
そういったやり取りを横目に定雄さんは只無言で、タバコをふか
している。
山盛りになった灰皿に吸殻をねじ込んで、定雄は立ち上がった。
﹁もう、いいや、行ってきます。﹂
幸子の妹・吉川明実の夫・和夫が聞き返す。
﹁どこにいくんだ?﹂
定雄が答えた。
﹁こんなとこでボケっとタバコふかしてたって何も解決しないよ。
俺が直に現場に行く。﹂
和夫は制止した。
﹁?何?無茶云うなっ!﹂
しかし定雄は突っ撥ねる。
﹁大体の場所が分かってるんだ!出来るだけ近くに行ってやりたい
んだ!﹂
和夫が力む。
﹁警察や自衛隊が手こずってる位の山奥だぞ!無理だって!﹂
﹁︰︰︰。﹂
定雄は顔を下に向け黙ってしまった。
和夫は定雄の肩に手を置き説得する。
﹁なあ︰︰︰落ち着け。気持ちは分かる。でも無理なものは無理だ。
65
警察に任せておきなよ、な!﹂
幸子の父も間に入る。
﹁定雄君、和夫君の言うとおりだよ。君まで遭難したら世間様に申
し訳が立たんだろう。﹂
しかし、定雄は立ち上がり和夫の手を強く払った。
﹁こう話してる間でも幸子は傷ついた乗客を抱えて山を、助けを求
めて彷徨ってるかも知れないんだ。夫として出来る限りの事はして
やりたいんだ︰︰︰もう行くよ。﹂
定雄は一人、体育館の外へ出て行った。
和夫が追いかける。 ﹁定雄君!定雄君っ!﹂
定雄が突っ撥ねる。
﹁止めても無駄だよ。それじゃ。﹂
和夫がは大声で定雄さんを制止する。
﹁誰が止めるって言ったよ!俺達で行こう。それならいいだろ?﹂
義父も後ろから心配そうに付いて来た。
﹁健常な野郎3人なら何とかなるだろ?﹂
﹁︰︰︰。﹂
定雄さんは黙ってうつむいた。
和夫が手を叩いて言った。 ﹁よし、決定だ!﹂ 定雄達3人は何も装備も予備知識も無しに、あてもない救出行に
出た。
幸子用のタクシーを待たせていた定雄達が乗り込み、義父がメモ
したテレビの情報とカーラジオの情報と地図を照らし合わせ、まず
は、碓井峠に向かった。
☆群馬県警出動
66
同時刻 群馬県前橋市 国道17号線バイパス
群馬県警の機動隊バスを始め、多数の警察車両が赤色灯を光らせ
群馬県上野村に向け出発した。あらゆる警察車両が大名行列で並ぶ。
一方で東京方面からは応援に駆けつけた関東管区機動隊バス、1
972年に創立された事故・災害レスキューの警察版である警視庁
レンジャーの緑色の工作車両がパトカーを先頭に列をつらねてやっ
てくる。
沿道にはニュースを見た住民が出て遠巻きに見守る。
この騒ぎは国道462号線に入ると益々激しくなる。
狭い沿道なので警察車両だけで大渋滞が発生してしまった。
<i88411|8907>
午前三時。群馬県上野村
前橋の群馬県教育室長より上野小学校校長・神田箕守氏に校舎を
使いたい旨連絡が入り、校長は早々に教職員を呼集し準備を始めた。
午前三時半
群馬県警機動隊の先遣隊がぶどう峠から現場に近いと思われる中
ノ沢林道の行き止まりから長野県県境に向け、徒歩で前進。
しかし、群馬から長野の県境は急斜面や切り立ったガケが多く、明
け方まで奮闘したが、何も発見できず、已む無く撤収した。
この頃、陸上自衛隊偵察隊や群馬県警機動隊の先遣隊だけではなく、
多数の報道陣があちこちから登山を開始し山を彷徨い歩いている。
<i77244|8907>
67
午前4時
東の空がうっすらと明るくなってきた。
群馬県警察本隊の隊列の先頭が上野村に到着した。
黒澤村長は、早起きして既に役場の陣頭指揮を取り始めた。
まずは、大量の車両を受け入れる為に、建設中だった国道299
号線バイパスの工事中路線を開放し、それでも入らない車の為に神
流川縁に地元の土木会社をたたき起こして砂利で駐車場を大至急作
るよう指示した。
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上野村役場・大会議室
本部は役場とし、2階の大会議室を開放、警察宿舎として現場に
比較的近い上野中学校を指定。上野小学校は乗客肉親の為の待機所
として活用する為、農協や隣の中里村に資材を協力してもらい、道
案内に猟友会、食事準備に婦人会、村中全ての消防団を呼集した。
そして、役場に隣接する多野藤岡広域消防隊・上野出張所と準備
が早かった一部の消防団が周囲の山を捜索しに消防車で思い当たる
林道を走り回った。 <i77096|8907>
多野藤岡消防隊 上野村分駐所
☆夢なら覚めてくれ
定雄は気が付くと自宅のソファーで寝ていた。
﹁はっ!﹂と思い、台所を見ると幸子が料理をしていた。
幸子が振り返る。
﹁今日はカレーだよ。何か定雄さん、疲れてるみたいね。﹂ 68
﹁あ︰︰︰ああ︰︰︰疲れてた。﹂
定雄は﹁ほっ﹂としてリビングのTVのスイッチを点ける。
TV番組も通常どおりのようだ。テロップだって流れていない。
タバコに火を点け、テレビを見始める。
すると、番組が突然中断し、味気ない画面の﹁緊急ニュース﹂と
いう画面に突然変わったかと思うと、報道番組に変わった。
アナウンサーの後ろでスタッフが何かガヤガヤやっている。
﹃ここで、ニュースを申し上げます。本日午後七時頃、日航ジャン
ボ機123便、羽田発大阪行きが、墜落したもようです。﹄
﹁!︰︰︰正夢か?﹂
幸子に話しかけた。
﹁おい、幸子!テレビ観ろ!お前の会社の飛行機がまた墜落したぞ
!﹂
返事が無い。
﹁おい、幸子っ!テレビ観ろって!︰︰︰。﹂
振り向くと、台所に幸子さんがいない。
いや、元から居なかったように、さっきまで料理していたのに、
その形跡が無かった。
幸子の存在を否定するがごとく、水道の蛇口からポツリと雫が垂
れる。
﹁幸子︰︰︰?﹂
テレビは乗客乗員の名前を読み始めた。
﹃日本航空・客室乗務員の松原幸子さん三十歳﹄
定雄は、それを聞いて慌てて起きると、そこは自分の家ではなく、
タクシーの後部座席だった。
タクシーは止まっており、外は薄明るくなっていた。時計を見る
69
と朝4時半だった。
車のラジオが乗客・乗員名簿を読み上げていた。
﹁夢︰︰︰か︰︰︰。いつの間にか寝てしまったのか︰︰︰。﹂
座席についていた後頭部は汗でビッショリ濡れ、会社から帰宅し
てきたままのYシャツの背中と脇が濡れていた。
しかし、タクシーには自分以外誰も乗っていない。
よく見ると、外の道路脇にある24時間販売所の自動販売機で和
夫と義父とタクシー運転手がタバコを吸いながら缶コーヒー片手に
喋っている。
定雄は車を降りて、彼らの所に向かった。
外は関東の住宅街と違い涼しい。
﹁ここはどこだ?﹂
和夫が答えた。
﹁おう、起きたか。長野県の佐久だってさ。﹂
定雄は長野の地理が全く分からずピンと来ない。
﹁佐久?﹂
﹁軽井沢を、ちょっと進んだとこだな。﹂
和夫は隣の山梨県出身なので長野の地理は大体把握していた。
和夫は大体察していた。
︿定雄はたとえ一人、未知の山中で遭難しても、幸子の傍で死ねる
なら︰︰︰。﹀
と、いう気持ちが見えていた。
和夫は結婚してからは辞めたが高校・大学とオートバイが趣味で、
オフロード・バイクとオンロードバイクを2台所有し、ツーリング
や林道トライアルに運用した実績があり、半径三百キロの国道と地
理は頭に入ってる上、事故現場と言われる地域の林道は大体制覇し
ており、ニュースで言っていた目撃証言の多い川上村や三国峠は比
較的、山梨の実家に近く、よく知っていた。
逆側の群馬県上野村も国道299号線を通じて知っていた。
70
だが、三国峠から三国山の入り口は、登山口は知っているがオー
トバイでも入れない場所なので行った事が無い。
つまり、徒歩で行くしかない場所は全くの未知だったが、﹁全く
知らないよりはマシ。何とかなるだろう。﹂そんな感じで同行した。
義父は健康の為に山登りが趣味だった。
だが、山登りとは言っても重装備を必要とするものではなく、ハ
イキング感覚の登山で、しかも地元九州の近所の山しか知らないが、
登山経験は一応あり、少なくとも、何とかなりそうな感じであった。
その二人に対して、この﹁救難登山﹂の発起人の定雄は、同じ九
州でも都会育ちで、山の事などさっぱり知らず、せいぜい高校の時
の登山遠足が﹁唯一の登山経験﹂でしか無かった。
ただ、妻の幸子への思いは相当なものである事は誰もが認めてい
た。
☆日本航空の衰退の始まり
定雄が夢の中で幸子に﹁また墜落した﹂と言っているが、その件
について説明しよう。
日本航空の2011年現在の衰退は、今はこの123便事故がき
っかけと云われているが、実はこの事故のさらに3年前の事故が本
来のきっかけであった事が忘れ去られている。
1982年2月9日。羽田空港滑走路手前で福岡発羽田行350
便ダグラスDC−8−61型が墜落した事故だ。
この事故は精神的に追い詰められ、統合失調症︵当時は精神分裂
症︶という病気になった機長が着陸寸前に故意にエンジンを逆噴射
させ失速し墜落させた事故だった。
理由は機長の孤立化政策で追いつめられた事で精神的に参ってい
た事だった。
1960年代は、日本はとても心が熱い時代で、学生運動全盛期
71
であった時代、労働者も過激に組合運動を行っていた時代で、19
73年には国鉄組合︵現在のJR︶が首都圏の鉄道をストで止めた
為に通勤客が激怒し暴動に発展した事件があった他、全日空組合も
航空機を滑走路に並べて封鎖するというような過激な労働組合活動
が行われていた。
その中で日航も例に漏れず、組合活動は過激だったが、当時、政
府専用機が日本に無い時代、政府チャーター便を扱っていた上、国
策で45/47体制が制定された。
この体制とは、日本の航空会社を業務分担させ、専業化させるこ
とにより航空会社の過当競争を無くし、事故を無くそうという提案
であった。
45/47体制の内訳
・日本航空 国際線及び大都市幹線専門
・全日空 国内幹線専門
・東亜国内航空︵現在は日本航空に吸収︶ 国内ローカル及び離島
日本航空は日本を国際的に代表する国際線及び国内幹線専門航空
会社としてこの市場を独占した為、それら重要な路線を止められた
ら国際問題になりかねないので、組合を4つに強引に分断。
組合同士を社内で競合させることにより、会社に直接組合運動が
波及しないようにした。
その中で、機長を先頭に他のクルー達は﹁1機の旅客機のチーム﹂
という方向性を破壊する為、機長は上級職として、他クルー達の組
合から外させた。
そうなると、組合運動の先頭を機長が行う事が無くなる代わりに、
機長とクルー達の﹁本音﹂の話が出来なくなり、必然的に機長は唯
一人、機内で孤立する事になる。
この﹁チーム破壊政策﹂が機内の連携プレーを破壊して、この事
故に至ったのだという事が世間に認知され日本航空は批判にさらさ
72
れた。
当時の高木社長は、この状態を改善すべく、国策にとらわれない
完全民営化を目指していた矢先で、この事故により、プランは早期
実現となったが、高木社長の席も追われた。
その当時の日本航空のイメージを表すように、当時はお盆の最盛
期、しかも最も旅客が多い時間にも関わらず、全日空の同時間帯の
便は常に満員御礼の状態なのに、日本航空は空席があり、全日空か
ら、はみ出した乗客を拾って乗せていた状態だった。
123便で犠牲になった俳優で歌手の坂本九氏は全日空や新幹線
の席が取れず、已む無く123便に搭乗し犠牲になっている。
因みに、123便の機長、高濱氏は1979年に発生したイラン
革命で邦人救出便の操縦を志願したが、各組合に他クルーに危険が
及ぶと否定され、日本は救出機を出さなかった。
その時、世界各国は独自で各国のフラッグキャリア︵国を代表す
る航空会社︶の便を急遽派遣。
イランにいた日本人はその各国の便に便乗、事なきを得たが、西
ドイツ︵現ドイツ︶のルフトハンザ航空の機長達に﹁日本にはフラ
ッグキャリアが無いらしいね。﹂と皮肉を言われ、この事を聞いた
高濱機長は非常に悔しがっていたという話がある。
☆長野県警ヘリ﹁やまびこ﹂出動
午前四時半頃。
朝日が眩しく照りつける朝焼けの中、長野県松本空港の長野県警
航空隊のヘリコプター﹁やまびこ﹂が出動開始。
パイロットの定塚全広氏・丸山栄幸氏の二名と整備士、カメラを
持った鑑識の四名が乗り込んだ。
電源車が接続され、パイロットは整備士の合図でエンジンをスター
73
トした。
ジェットエンジンの始動音と同時にメインローターがゆっくり動
き出す。
静粛に包まれた松本空港にジェットエンジンの咆哮が徐々に響き
渡る。
誘導員の振る誘導灯に合わせ滑走路にゆっくり移動し、しばらく
滑走しながら緩やかに飛び上がる。
︵ヘリは垂直で飛ぶと燃費が悪いので必要以外は垂直には飛び上が
らない。︶
ローターの音が一面にバタバタ響き、どんどん回転を速める。
﹁やまびこ﹂は銀色の機体を朝焼けのオレンジ色に輝かせ、佐久方
面に向かっていった。
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ベル222 長野県警 初代﹁やまびこ﹂
☆現場目視確認
午前五時半。
夜明け早々に飛び立った長野県警ヘリ﹁やまびこ﹂は現場付近の
空域に到着。
長野県境山麗の稜線を越し、群馬県圏内に入る。
すると、霧の中に白い煙が充満しているのに気が付く。
煙が充満する山を跳び越すと墜落現場が見えた。
air
l
斜面が真っ黒に焦げ、カラマツの林が山の頂上目掛けて規則的に
なぎ倒されている。
焦げた斜面にはハッキリと﹁JAL﹂︵japan
ines・日本航空の略︶の文字が書かれた主翼らしき物体が転が
り、そのさらに向こうの埼玉・山梨方面の尾根の林がV字に切り欠
74
けられていた。
その間の林には銀色に光る大きな板状の物体が転がる。
水平尾翼だ。
焼け焦げた墜落現場をよくみると、日本航空の当時のカラーであ
る白い機体に赤と青のラインが、かすかに残る残骸がチラホラ見受
けられ、周囲の林の枝には様々な色の残骸が引っかかっていた。
とりあえず、人が生きて動いてる気配は全く無かった。
﹁やまびこ﹂はその後、整備士と燃料補給車両が待機する臼田グラ
ウンドまで帰還できるギリギリの燃料になるまで、一時間余り旋回
飛行を続け、詳細を撮影・調査し続けた。
午前五時三十七分、﹁やまびこ﹂は墜落現場目視確認の一報を伝
えた。
﹁群馬県御巣鷹山と三国峠の中間地点。御巣鷹山から南東約二キロ、
長野県境より約七百メートル群馬県内。残骸は全て群馬県側に散乱。
﹂
これで、ようやく墜落地点は群馬県と確定し、墜落場所と思われ
た山火事現場の残骸から﹁確実に日航ジャンボ機123便の墜落現
場﹂である事が正式に確認されたのである。墜落から実に十時間半
経過していた。
その一報を受けた、南相木村の林道で待機していた長野県警機動
隊が動き出す。
本部付けの管区機動隊と、各署から集結した警察官からなる第二
機動隊が二手に分かれ入山を開始。
バスの中で仮眠してるところを起こされ地元消防団と猟友会の案
内の元、前進を開始した。
その際、本部より水筒が支給された。
だが登山用ではなく子供用のセルロイド製のもので、人気アニメ
75
のキャラクターが描かれたチープなものだった。
彼らは紺色の威圧感のある出動服に、白い旭日章のバッジが付い
たGI型ヘルメット、出動ブーツという厳つい服装に、子供用の水
筒を肩からぶら下げている姿は何とも滑稽であったが、緊急出動ゆ
えに止むを得なかった。
<i88394|8907>
午前六時
定雄達は、深夜のニュースで言っていた長野県北相木村の御座山
周辺を確認する為、ぶどう峠に入った。
だが、見晴らしの良い場所から見ても何も見えない。
パトカーも自衛隊の姿も無く、報道陣らしき車両が路肩に何台か
あるだけで人の気配も無く、静まり返っていた。
ただ、埼玉方面のずっと向こうの方でヘリコプターがちらほら飛
んでいる。
和夫がつぶやいた。
﹁︰︰︰どうも川上村、三国峠の方っぽいな︰︰︰。﹂
定雄が聞いた。
﹁三国峠︰︰︰って遠い?﹂
和夫が一呼吸おいて答えた。
﹁︰︰︰いや、そんな︰︰︰でもこの先は群馬県上野村で、川上村
には行けないから︰︰︰。一旦国道141号線に戻って行くしかな
いな︰︰︰。﹂
定雄達はタクシーに乗って再び戻った。
カーラジオを点け情報を確認しようとするが、山奥故に電波が届
かない。
義父が思いついた。
﹁そうだ、確かね、山近くの文房具屋行けば、地形図が売っている
76
ぞ?﹂
和夫が助手席から答えた。
﹁地図ならあるよ。タクシーで使っている奴。﹂
この移動に使ったタクシーの備品の日本道路地図を見せる。
﹁違う、地形図って深山登山用のがあるんだよ。﹂
和夫も定雄もタクシー運転手も、義父の言う﹁地形図﹂がいまい
ち理解出来なかった。
それは泊りがけの登山に慣れているいわゆる﹁登山マニア﹂向け
の物で、普通の人が予備知識無しに見ても分からないものだった。
義父も使った事は無いが、地元の山小屋であった山男が使ってる
のを見て聞いたことがある程度だった。
地形図というのは国土地理院が発行しているもので、日本では一
九一〇年∼八三年にかけて作られた地図で、二万五千分の一サイズ
で文字通り地形の詳細が描いてあるので、読み方さえ覚えてコンパ
スと併用すれば地形だけで自分の居場所が把握出来る。 つまり、元から道が無い深い山に行く場合に使える。
☆夜明けの川上村
午前六時。長野県川上村 川上村営グラウンド
ここに川上村全集落の消防団が集結した。
しかし、現場が群馬県と確定し、消防団は管轄外に当たる為、そ
の場で解散となった。
川上村は丁度高原野菜の最盛期で、特に夏場は無休で夜の1時か
ら夕方8時まで働くので群馬側には申し訳ないが、助かったという
気持ちもあった。
因みに消防団をご存じない地域︵主に都市部︶の方もおられると
思うので説明すると、﹁消防団﹂は﹁消防職員﹂ではない。主に過
77
疎地等、消防署が遠い場所や消防職員の補佐に値する﹁特別公務員﹂
という立場だ。彼らは普段は民間人で各々自分の本職を持っており、
いざとなると呼集の上、出動する。しかし公務員に値する消防職員
と異なり、﹁ボランティア﹂に近い存在で、地域によって変わるが
月の報酬は無料∼2万程度で、本職を放棄してまでの出動等の強制
力は無い。 遠藤消防団長も帰ろうとすると、村長が呼び止めた。
﹁これから航空自衛隊が来る。川上第二小学校を使用するから面倒
みてやってくれないかね?﹂
﹁おう、分かった!﹂
川上第二小学校は、遠藤消防団長の自宅の近くにある。
鉄筋3階建てのモダンな作りのこの小学校は、この年から二年前
の一九八三年に建て替えられたばかりの新築であった。
小学校が、夏休みなのが幸いし、貸し出しには支障はあまり無い。
小学校に着くと、既に国防色の小型トラックやジープが到着して
いた。航空自衛隊浜松基地・浜松救難隊のヘリコプター整備車両で
ある。
遠藤消防団長が近寄ると、不動の姿勢と敬礼で答えてきた。
﹁すみません、この校舎を使わせて戴きます。﹂
﹁あいよ、オレんちはすぐそこだからさ、オレは朝から晩まで農作
業してるずれ、何かあったら聞きに来てよ。﹂
家に帰って農作業の支度をしようと戻ると物凄い大きな音が響い
た。
航空自衛隊救難隊のKV107?型バートル大型ヘリである。救
難用の白地に黄色の塗装が目立つ機体を学校のグラウンドにツイン
ローターを羽ばたかせ、カン高いジェットエンジンを響かせながら
着陸した。
息子や甥が慌てて出てくる。子供達がはしゃぐが遠藤氏は注意し
78
た。
﹁おい!邪魔になるずれ、近くに行くんじゃねえぞ!﹂
子供達が喜ぶ顔を苦笑いで見つめた。
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川上第二小学校
<i77161|8907>
小学校に集結した航空自衛隊トラック郡︵川上第二小提供︶
☆墜落現場詳細判明
一方で群馬側の上野村役場では、村長室で黒澤村長が消防団長達
とテレビを注視していた。
テレビでは事故現場上空から生中継を行っていた。
山に詳しい職員がつぶやいた。
﹁わかった︰︰︰。﹂
場所は、高原天山と御巣鷹山の真ん中辺り、上野村を流れる神流
川支流と判明。その支流の名は、﹁スゲの沢﹂。
群馬県警察幹部がそれを聞いて沸き立った。
﹁現場に行く方法はありますか?﹂
職員は頭を傾げ、考えながら話した。
﹁︰︰︰ぶどう峠に行く手前の浜平鉱泉のある林道を行くと、スゲ
の沢沿いにトロッコ線路があるんさね。そこまで行けば何とかなる
かもしんないね。﹂
何だ!事故現場へ近づける道があったのか?
しかし、そう話はうまくなかった。
上野村にあるトロッコ線路とは、戦前に作られた林業の伐採の為
に作られた線路で、戦時中は物資不足で鉄や燃料の代替品として大
量の木が伐採された。
例えば軍用トラックの荷台や運転席、特攻飛行機の材料・特攻艇
79
の船体や薪と大量に使われた。
しかし戦後も落ち着くと日本各地でハゲ山が問題となった。
ハゲ山を放置すれば、地盤を支える木の根が無くなり、地盤が弱
くなり、土砂崩れの原因となる上、土が流出すれば岩盤がむき出し
になり、非常に無残な岩盤だらけの山になってしまう。栃木県・足
尾銅山付近がいい例だ。
そうなると、建築などの需要に必要な木が生えなくなる。
そこで国を挙げて植林が始まった。
現在の﹁杉花粉﹂はその頃植えられたものが原因である。
植えられたのは主に杉とカラマツであった。
その後、林がある程度育つと、事故現場周辺は﹁保護林指定地域﹂
なので、あとは自然に委ねられた。
それから二十五年。
トロッコ線路は役目を終え、以後放置されていた。
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現役当時のトロッコ︵上野村史より︶
現場はハッキリしたが、困難な道のりになることは目に見えてい
た。
その後すぐ、黒澤村長は消防団を集結させていた上野中学校に向
かう。
校庭は、機動隊車両の列をバックに消防団が待っていた。
ここで全員にオニギリが二個づつ配布された。
明け方から総出で上野村婦人会が役場二階の厨房で作ったものだ。
黒澤村長は全員整列の上、出動の依頼を宣言し出動を見送った。
その際、第六消防団副団長・今井靖恵氏が出発しようとしたとこ
ろ、団長が今井氏の乗るポンプ車を止めた。
﹁今井さん、悪いけどポンプ車ごと何人かで村に残っていてくんね
えかい?﹂
80
今井氏が返す。
﹁ん?どした?﹂
﹁消防団が皆、集落から出て行ったら、村を守るモンが居なくなる
がね。だから残ってて欲しいんさね。﹂
﹁あ∼︰︰︰そうだいね。﹂
今井氏は後続の機動隊バスに道を譲り、代わりに第六消防団長が
バスに乗り込んで道を指示した。
バスには機動隊だけではなく、消防団も便乗した。
<i89434|8907>
御巣鷹の尾根入口。事故当時の道はここまで。 ☆地形図を探せ
午前七時。長野県小海町。
人口五千人程の小さな町だが、長野県佐久市と山梨県韮崎市の丁
度中間地点の町で、周囲には人口の少ない村が多く、重要な生活拠
点で大型の病院や商店街がある。
まだ朝早いため店は殆どが閉まっている。
その中の一件、文房具店があった。
店主がパジャマ姿で大あくびをしながらシャッターを開けて外に
出る。
新聞を広げ読み始める。
第一面には大きく﹁日航ジャンボ機行方不明﹂の記事と、新聞社
の航空機が撮影した燃え盛る夜の事故現場の写真が大きく掲載され
ていた。
﹁︰︰︰。﹂
店主が記事を読んでいると、目の前に品川ナンバーのタクシーが
停まった。定雄達のタクシーである。
81
和夫は車を降りると店主に﹁三国山近辺の地形図﹂が無いか聞い
た。
すると、店主は、ピンと来た。
品川ナンバーのタクシー、どう見てもハイカー︵登山客︶に見え
ない連中、しかも今、三国山近辺は全国的に大騒ぎになっているあ
の︰︰︰。
店主は新聞の第一面の日航機事故が絡んでいると見た。
だが︰︰︰彼らはどう見ても素人。
試しに聞いてみた。
﹁地形図は、あるだよ。でも読み方分かるずれ?﹂
和夫は困った顔で返した。
﹁や︰︰︰いや︰︰︰見れば何となく︰︰︰。﹂
明らかに登山の素人そのものだった。
﹁本当に何とかなりそうかい?ホントに?﹂
和夫は、ちょっと悩んだが﹁はい。﹂と答えた。
すると店主は、まだ明かりも点いていないシャッターも半開きの
店の中に消えていった。
﹁︰︰︰大丈夫?買えそう?﹂
定雄が後ろから聞いてきた。
和夫は小さな声で返した。
﹁あ∼︰︰︰あぁ!任せろ!大丈夫だよ!待ってろ!﹂
店主が地形図を持って出てきた。
和夫に地形図を手渡す。
﹁あ、ありがとうございます。幾らですか?﹂
店主が真顔で答えた。
﹁とりあえず、ここで広げて見てみなさい。﹂
和夫さんが地図を広げた。しかし、中身を見て和夫は固まった。
店主が﹁やっぱり︰︰︰。﹂という顔をしてため息をついた。
﹁全くの素人じゃんな!読めねぇずら!無茶すんなぁ︰︰︰あんた
ら新聞社の記者かテレビのモンかね?﹂
82
﹁いえ︰︰︰あの飛行機に乗っていた者の家族でして︰︰︰。﹂
店主が少し考えて、困った顔で云った。
﹁︰︰︰気持ちは分かるずれ。でも、何の予備知識もなく道無き道
行けば必ず遭難するずら。悪い事は言わん、ここは警察に任せて、
現場に行くのはやめなさい。﹂
和夫は黙ってしまった。
すると、後ろで見ていた定雄が店主に食ってかかった。
﹁地形図の見方、教えてください!お願いします!簡単でいいので
!妻が、私の妻が!﹂
必死の形相で迫る定雄に店主はたじろき、腕に掴みかかれたので
手を払い怒鳴った。
﹁ちょっと!待つずら!落ち着きなさいっ!﹂
﹁︰︰︰すみませんでした。﹂
定雄は冷静になって謝った。
しかし店主はタバコに火を点け一吸いした後、定雄達を店に招き
入れ、地形図の簡単な説明を始めてくれた。
﹁まず、地形の線は高低差を示しているずら。この線と線の幅が狭
い程急斜面って事ずら。地形図はその場で見るってもんじゃなくっ
て常に自分の先の行く地形を把握︰︰︰ていうか、先を読んで行く
ずれ。﹂
次にコンパスを取り出した。長方形の短い定規みたいな形で両側
に目盛り、本体に等間隔で線が3本入り、線の中心に合わせて方位
磁石とレンズが付いている。
﹁登山用コンパスを地図に置いて、方角︵上が北︶を合わし、その
方角の地形を把握して、次はその状態で自分の行きたい方向に姿勢
を正して向いて、自分の腹にコンパスと地図を固定して、目標を見
て、自分の行きたい方向の地形を読むずれ。この繰り返しで進んで
いけばいいずら︰︰︰分かったかね?﹂
<i77169|8907>
83
定雄と和夫は交代で地計図の使い方を練習した。
﹁ま︰︰︰短時間だけど、これで使い方分かったずら?﹂
二人は今度こそ自信を込めて﹁はい。﹂と答えた。
地計図とコンパスの代金と支払うと2人はタクシーに乗ろうとし
た。
タクシーの中で待っていた義父と運転手はイビキをかいて寝てい
た。
高齢にも関わらず夜通しで疲れていたのだ。
すると、店主がやってきて、ナイロン袋を渡した。
﹁これ、少ないが持っていきなさい。﹂
中身は人数分のオニギリ二個ずつとあんぱんに缶コーヒー、新品
の手ぬぐいが入っていた。
おにぎりは店主の妻が地形図を教えている間に作ってくれたもの
だった。
定雄が聞いた。
﹁い、いいんですか?﹂
店主が返した。
﹁なに、遠慮することねェや。だけど、オラほに約束してから行け
!﹂
﹁え?﹂
﹁必ず、無事に家に帰ることずれ。約束してくれるだか?﹂
定雄は笑顔で﹁はい!﹂と答えた。
運転手が気配を感じて目を覚ます。2人はタクシーに乗り込むと
窓を全開にして店主にお礼をした。
﹁ありがとうございます︰︰︰。ありがとうございました!﹂
﹁おう、じゃ、気をつけてなぁ!﹂
タクシーが走り出した。
助手席に座った定雄は、バックミラーを見ると、店主がずっと、
心配そうにこちらを見ていた。
84
街から出て国道141号線に戻る。
タクシーは川上村目指して走っていった。
☆第一空挺団出動
午前七時半。
千葉県船橋市・陸上自衛隊第一空挺団。
﹁出動命令!﹂
待機していた空挺団員が個人装備を装着し、駆け足で宿舎から飛
び出す。
駐車場に並ぶ軍用大型トラックの前で全員が整列する。
班長の号令がかかる。
全員揃ったのが確認されると命令内容が告げられる。
﹁これから日航機墜落現場、相馬原駐屯地に分散して日航機墜落事
故における災害派遣活動を行う!全員出動!﹂
全員駆け足で大型トラックに分乗する。
駐屯地内敷地の芝生に、木更津の第一ヘリコプター団のKV10
?型バートルが六機、指揮官用OH6型観測ヘリ二機が、ローター
を回しながら整列して待機していた。
各々の班のトラックがヘリに横付けし、隊員が続々とリアゲート
から乗り込む。
KV107?型大型輸送ヘリは一九八三年から随時、従来のテカ
テカ国防色の巨大な日の丸カラーから、迷彩塗装に変わっていた時
期で、この集合した六機だけでも三種類の塗装パターンが見られた。
従来の艶あり塗装の機に迷彩の機、そしてテカテカ塗装から更新
が間に合わず、とりあえず目立つマーキングが一時的に後で剥がせ
る黒塗装で一時的に塗り潰されたものがありユニークだった。
乗り込み終わったヘリから随時離陸。
殆ど同時だった。
ヘリのローター音が周囲に響き渡る。
85
KV107?バートルヘリは大型ヘリ特有の重たいローター音、
OH6は小型ヘリ特有の甲高いローター音を響かせ離陸していった。
途中で、日航機墜落現場に三機、待機要員として相馬原駐屯地に
三機と二手に別れ各々の目標に飛んでいった。
<i89000|8907>
川崎KV−107?バートル︵1/72模型 作者作成︶
<i77121|8907>
川崎ヒューズOH−6D観測ヘリ︵筆者撮影︶
☆長野県警山岳救難隊降下
午前七時五十五分。
長野県警﹁やまびこ﹂は臼田グラウンドで燃料補給を行い、山岳
救助隊二名を乗せ、墜落現場近くに降下地点を探した。
現場は火災がまだ燻っており、直接降りるとローターの強力なダ
ウンウオッシュ︵風圧︶でまた火災が広がる恐れがあった。
その為、現場から二キロ程離れた沢の砂防ダムに降下した。
隊員のホイスト降下︵ウインチで降りる︶可能高度まで落とすの
に深い谷に入り込む。
ヘリの側面にカラマツ林が壁のようにそそり立ち、木の枝ギリギリ
のところを降下していく。
ウインチが唸りを上げ、隊員をゆっくり降ろしていく。
長野県警山岳救助隊・柳沢隊員と深沢隊員は砂防ダムの上で地形
図を確認。現場まで三十分と見積もり、二人は沢沿いに現場へ向か
った。
だが、思ったように進めない。沢も高低差が激しく、とても降り
られない場所は迂回して通るしかない。
86
☆第一空挺団降下
午前八時半。
第一ヘリコプター団のKV107?型ヘリが、OH6型観測ヘリ
の詳細指揮の元、焼け爛れた斜面に直接降下、ホバリングを開始し
た。
ヘリの中では空挺隊の見守る中、リアゲートがゆっくり開き始め
た。
ゲートから地面が見える。
﹁JAL﹂と書かれた主翼らしき物体が目に入ってきた。
同時にモワっと焦げ臭い匂いが入ってきて思わず咽る。
まだ地面には誰もいない。
斜面は結構きつそうだ。
班長が号令をかけた。
﹁降下!よーい!﹂
ヘリ内部にあるウインチからロープが伸ばされ、フックをロープ
に取り付け一人ずつ、リペリング降下を始めた。
地面に着地すると、コンバット・ブーツの底を通じて熱さが伝わ
ってくる。
周囲は蜃気楼が起こり周囲の風景が歪んで見える。
角度四十五度はある斜面で次から次へ降りてくる隊員のサポート
を行う。
熱気で、汗が全身から湧き上がり、ヘリの風圧で舞い上がる埃が
体中に付着し、早くも全身埃まみれになった。
三機が順番で隊員を降ろし終わると、焦げた斜面が、あっという
間に自衛官でいっぱいになる。
しかし、まだ彼ら空挺隊員だけで、他には誰も居ない。
上空は、KV107?がいなくなったとたんに色とりどりな報道
87
ヘリが集まってくる。
風が強くて吹き飛ばされそうだが、山の風なのか報道ヘリの風圧
なのか判断がつかない位、空はごちゃごちゃしている。
中には乗っている人間の表情が分かる位接近するヘリもいる。
風圧で邪魔なので班長がヘリの向かって怒鳴りながら身振り手振
りで追い返そうとしていた。
迷彩服の班長がヘリの轟音と風圧の中、﹁捜索開始﹂の号令を上
げる。
だが、何を捜索するのか分からなかった。
確かに航空機が堕ちた場所だというのは分かるが、JALと書か
れた大きな翼以外、原型を留めているものが全く見当たらない。
せいぜい車輪と窓が分かる位で木っ端微塵になった上に燃え尽き
たようにしか見えない。
何を目標にしていいか分からないまま、トボトボと歩くと人影が
見えた。
どうも黒焦げになった遺体のようであるが、たまたま燃えた木が
そう見えるのか?
わずかに残った肌色の部分で遺体︰︰︰なのか?と思う。
よくみると、炭化した人間の一部らしいものが所々に刺さってい
る。いや、燃えた機体の一部か木の枝か?
﹁生存者﹂がいるなんて到底考えられず、もはや﹁救難﹂というよ
り﹁遺体捜索﹂と言った方が早かった。
<i88412|8907>
☆航空自衛隊地上部隊
午前八時半。長野県川上村。
川上村の唯一の大動脈である県道68号線を、レタス畑で働く住
88
民を横目に国防色のボンネット・トラックが隊列を組んで走ってく
る。
目標は航空自衛隊現地対策本部が置かれた川上第二小学校。
乗っているのは航空自衛隊・熊谷基地の隊員達。
彼らは航空自衛隊でも新人教育課程中の隊員達である。
彼らも、もちろん﹁災害派遣﹂出動で、陸上自衛隊同様、作業服
に雑具・水筒等の個人装備を施している。
まず、生徒隊。彼らは主に中卒で入学試験を受けて入隊し、陸上
自衛隊同様の厳しい野外戦闘訓練を叩き込まれ、そして通信・電子
関係を学び、卒業後は適正を照らし合わせてから整備士、基地管理・
基地防衛・警備、資材輸送等に配属される。
一般で、高校・大学卒で入隊した第二教育群や、航空機指揮・管
制を教育する第四術科学校の生徒も同様の装備で派遣された。
彼らの外観の違いは使っている車両と階級章と帽子だけで、普通
の人から見ると陸上自衛隊員と区別は付かない。
その他、航空自衛隊の地上の災害派遣を支援する為同じく熊谷か
ら第一移動通信隊が派遣され、現場上空に入間基地の三菱MU2J
型救難捜索機と富士T3型練習機を交代で上空監視を行い指揮・通
信を行った。
対策本部で命令を受理した隊員達は、早速三国峠の三国山登山口
から現場を目指して出発した。
午前九時半。
定雄達の乗ったタクシーが三国山登山口に到着した。
既に航空自衛隊員達も出発した後で、登山口入り口周囲には報道
陣の車と自衛隊のトラックがあるだけで誰も居ない。
登山口入り口には三国山の標識の他、ラジオで放送していた﹁御
巣鷹山﹂の標識もある。
タクシーの運転手は﹁ここで待っていますか?﹂と尋ねたが、い
89
つ帰るか分からないので、運転手も高齢で気の毒なので帰ってもら
うことにした。
ここからは車どころかオフロード・バイクでも通れるような道で
はないが、岩場が多く見晴らしが良かった。
頭上を航空自衛隊のKV107?型救難ヘリが飛んでいく。
定雄達はまず、三国山を目指して進んで行った。
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第三章・奇跡と絶望
☆遺体だらけ 午前十時。長野・群馬県境の峰
長野県警・管区機動隊が墜落現場を地上から発見した。
墜落現場に多くのヘリコプターが群がっている。
現場頂上からはまだ白煙が上がっていた。
しかし、今いる場所はとてつもなく高い崖の上。
下を見ると、自分の足元より低い高さで報道ヘリが飛んでいる。
とてもロープを使って大勢で降れるような崖ではないので、仕方
なく迂回して現場に向かうことにした。
同じ頃、長野県川上村役場では、消防団の分団長・八名が集まっ
てロビーのテレビの前で会議をしていた。
大深山消防分団長・中島幸裕氏が提案する。
﹁現場は、管轄外とはいえ、うちらの村の近くだ。手伝いに行って
やるのが筋ってもんじゃないか?﹂
分団長は、中島氏の意見に賛同し、消防指揮車と役場の公用車に
分乗し、三国峠へ向かっていった。
<i77104|8907>
午前十時頃。
NHKテレビで﹁遺体発見﹂の臨時ニュースが放映された。
群馬県上野村・上野中学校の三階にある遺族控え所に設置された
テレビでこのニュースを見た乗客の肉親は肩を落とした。
それを後ろで見ていた、事故機の客室乗務員・松原幸子さんの妹
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の明美さんと母は、﹁乗員の家族﹂という立場を乗客の肉親に知ら
されてはいなかったが、いたたまわれなくなり、部屋を出た。
明美さんは母に、現場に向かった夫達が帰ってくることを期待し、
現場に最も近い民宿を日航の世話役に手配してもらうことを提案し、
宿が取れたのでタクシーでその民宿に向かった。
<i77101|8907>
上野中学校
☆生存者発見
午前十時半過ぎ。
長野県警山岳救難隊が神流川支流のスゲノ沢付近で生存者を発見
した。
墜落の衝撃で千切れた後部胴体が本体と逆の斜面に転がっていっ
たせいで、火災に巻きこまれず、しかもその4名は後部胴体中心部
の座席で、比較的衝撃が少なかった為だった。
発見された生存者四名の順
・非番で大阪に向かっていた日本航空スチュワーデス︵26歳︶長
野県警山岳救難隊発見
・旅行で北海道に行っていた家族連れの中学1年生︵12歳︶陸上
自衛隊偵察隊発見
・家族連れで旅行中だった長女︵8歳︶と母親︵34歳︶上野村消
防団発見
生存者発見時は、発見現場付近には長野県警山岳救難隊2名と陸
上自衛隊第十二師団レコン︵偵察隊︶4名と上野村消防団員しかい
なかったが、反対側の激突地点に陸上自衛隊第一空挺団がいる事を
92
知った陸自の偵察隊が急いで反対側に登り、第一空挺団隊員達を呼
び寄せた。
管轄の群馬県警機動隊員初動部隊は上野村消防団員の案内で登山
していたが、慣れない登山に阻まれ、結局この時は間に合わなかっ
た。 上野村消防団員が残骸で作った急造タンカで生存者四名を担架に
乗せ、かついで頂上の平らな木陰に運ぶ最中、いつの間にか報道カ
メラマンが数人集まってきていた。
4名共、生存したとはいえ重傷で、しかも十数時間も手当もされ
ず疲弊しきった生存者に向かって遠慮なく撮影するカメラマンに消
防団員が激怒し、大声で﹁あっち行け!﹂と追い返す。
すると団員達は上着を脱いで彼女達にソっと被せた。
﹁ほらぁ、のいてのいて!突っこくど!﹂︵突き飛ばすぞ︶
カメラマンを蹴散らして進む消防団を報道カメラマン達は遠慮そ
うにシャッターを切った。
<i77179|8907>
写真提供・今井靖恵氏
☆生存者の無線報告
その頃、背丈程の笹薮のトンネルを進みながら、長野県警第二機
動隊の携帯無線に山岳救難隊から本部への無線が流れた。
﹁本部!本部!こちら山岳救難隊。生存者発見!繰り返す!生存者
発見!﹂
機動隊隊長が後ろに叫んだ!
﹁生存者がいたぞ∼!﹂
この一報に隊員達は一斉に歓声を上げる。
93
ふと事故現場の方角を見ると、ヘリコプターが沢山集まっている
のが見えた。
﹁あっちだ!まだ大勢いるかもしれない!急げ!﹂
全員雄叫びをあげながら先導の長野県猟友会の案内を置いて、急
ぎ足で笹薮を突き進む。
﹁あ、あ∼!ちょっと!待て!停まれ∼!﹂
いきなり笹薮が無くなって視界一面に事故現場を中心に山麗が広
がった。
そして足元はとても深いガケだった。
勢い余って先頭の隊員が落ちそうになる。
﹁畜生!駄目だ!こっちは行けない!バック!後退∼!﹂
皆がゾロゾロと退く。
隊長が猟友会に尋ねた。
﹁他に道は︰︰︰。﹂
﹁あんま視界が無いところで走らない方がいいやね。﹂
﹁︰︰︰。﹂
再び第二機動隊は猟友会先導で迂回し始めた。
群馬県側も山登りは大変苦戦したが、長野県警側の方は切り立っ
た深い崖が多くあり、地形的に最も苦戦した。
この時、全国のテレビで﹁生存者発見﹂の第一報が入り各地で歓
声が沸いた。
﹁生存者発見。女性三人、男性一人、名前は不明﹂
だが、この﹁男性﹂とは、男の子と間違われた中学一年の少女の
事で、後にこの誤報が混乱を招いた。
当時は﹁ボーイッシュ﹂という男の子風の格好が流行っていたせ
いだった。
<i88398|8907>
94
☆生存者を救出・搬送
墜落現場に、群馬県警機動隊幹部と山岳救難隊が埼玉県警ヘリ・
ベル206B型﹁むさし﹂と警視庁ヘリ・ベル412型﹁おおとり
一号﹂、第一空挺団を降ろしたあとの自衛隊大型ヘリ・バートルで
先遣隊がかけつけ、生存者捜索に加わった。
群馬県警はヘリからのホイスト降下経験者が居なかったが、何と
か焼け爛れた斜面に降下したという。
上野村村長・黒澤丈夫氏は、村営グラウンドを臨時ヘリポートに
指定し運用したが、周囲の木の枝が生い茂って難易度が高かった。
そこで、地元の土木業者に手配して急遽グラウンドの対岸の神流
川沿いにヘリポートを構築し運用。
ここに警視庁や神奈川県警のヘリが応援にかけつけ、運用された。
この時、役場の外で待機していた第六消防団副団長・今井靖恵氏
に上野村婦人会より食事を現場に届けて欲しい旨を依頼された。
今井氏は部下と共に人数分の食事をリュックに詰めた。
ところが、消防車はいざ火災があると困るので、各自、自家用車
に分乗。
今井氏の軽トラックを先頭に現場へ向かった。
<i89926|8907>
今井靖恵氏︵第六消防団副団長時︶
<i89058|8907>
午前十一時。
応援にかけつけた神奈川県警ヘリ・ベル222型﹁たんざわ﹂が
医師を降下させる。群馬県前橋市・群馬赤十字病院の医師一名・看
護士一名だった。
95
とりあえず生存者四名を診察・応急処置を施すが、もちろん重傷
で、早急に設備の整った病院へ搬送しなければならなかった。
しかし、応急処置完了後のヘリ手配の連絡がうまくいかなかった。
これは、各県警や自衛隊の無線周波数がそれぞれ違う上、山間部
の為、電波がなかなか届かない為であった。
そして、現場上空では報道ヘリが大量に飛び交い、1984年に
発生した兵庫県での銀行強盗事件の際の報道ヘリ同士の衝突事故と
同様の事故も懸念され、航空自衛隊のYS−11輸送機が現場上空
に派遣され、空からの管制を行った。
その後、陸上自衛隊のV−107?バートル・JG−1816号
が生存者をホバーリングによる搬送をようやく開始したが、またこ
こでも混乱しており、搬送先がパイロットが長野県松本市と思って
いたこと、とりあえず上野村に着陸し、救急車で生存者のうち児童
二名を何故か救急車にて陸路搬送、残り大人二名はそのままJG−
1816で群馬県前橋市に搬送されたが、バートルが離陸した直後
に応援の東京消防庁のAS365﹁ちどり﹂が着陸。
急遽﹁ちどり﹂で藤岡市まで搬送に変更され、JG−1816を
追うように﹁ちどり﹂は児童二名を乗せて上野村を後にした。
因みに、東京消防庁の﹁ちどり﹂は当時最新鋭のフランス製の機
材で、救難任務に最適と世界中で救難ヘリとして導入が始まったば
かりの機材だった。
事故当時は東京消防庁はいつ出動依頼が来てもいいように備えて
いたが、組織が違うせいで、このヘリの存在に誰も気が付かず、上
野村に自主的に翌日向かい、この生存者搬送騒動に立ち会った訳で
あったという。
なぜこんな回りくどいことになったかというと、私の解釈で申し
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訳ないが、まず、自衛隊のバートルが軍用であり、騒音や乗り心地
に難があるので、児童二名は可哀想だからと救急車に乗せ換えさせ
たのでは無いだろうか。
そして、偶然現れた東京消防庁の﹁ちどり﹂が当時の最新鋭救難
ヘリであり、乗り心地や装備の面では陸上自衛隊のバートルよりも
はるかに良好な為、まさに﹁渡りに船﹂と載せ替えられたのでは?
とも解釈できる。
このことについては現在もなお、詳細な資料や証言を私は発見で
きていない為、当初はこの項目を書かなかったが、こういう事もあ
ったと追記しておく。
<i88425|8907>
同時刻。
定雄達三人は、三国山付近で座って昼食を取っていた。
文房具屋で貰ったオニギリを頬張りながら、義父がバッグから何
か取り出した。
一九八三年にセイコーで販売された、当時最新鋭の携帯用テレビ
で、腕に時計のように小型液晶テレビを装着し、腰にチューナーを
装着し、ヘッドホンで聞くものである。
チューナーのチャンネルを義父はカリカリ合わす。
しかし、定雄と和夫がオニギリを食べ終わってタバコを一服し始
めたが、一向に義父はチャンネルを合わせ続けていた。
﹁使えると思って持ってきたんだがな︰︰︰。﹂
和夫が答えた。
﹁こんな山の中じゃ無理ですよ︰︰︰。﹂
義父はまだチャンネルを合わせ続ける。
﹁さて行きますか。﹂
97
和夫と定雄が立ち上がったその時だった。
﹁待て!来たぞ!﹂
義父が大声で二人を制止した。
ヘッドホンが雑音混じりだが、声がかすかに聞こえ、液晶画面が
人の形で画像が浮き出てきた。
﹁ザリザリ︰︰︰存者︰︰︰客室乗務い︰︰︰ザザザ︰︰︰。﹂
この声だけ聞こえ、あとは再び受信不可になる。
﹁客室乗務員の生存者とか何とか云ってたぞ!﹂
二人は半信半疑だったが、少しは希望が湧いた。
彼らは再び墜落現場を目指し、歩き始めた。
☆遺体回収作業開始
午後二時半。
﹁これ以上の生存者なし﹂が確認され、遺体搬送方法をどうするか
検討が始まった。
当初は人海戦術で遺体を山から降ろし、上野村で検屍作業を行う
予定だったが、あまりにも多い遺体と、かなり険しい現場へのルー
トで断念し、五十キロ離れた群馬県藤岡市の藤岡市民体育館を使用
することが決定し、搬送は陸上自衛隊のヘリコプター団のHU−1
型ヘリで行うことに決まった。
陸上自衛隊が遺体を搬送する為には、いちいちホバリングで回収
していては時間が掛かりすぎるので、現場にヘリポートを構築する
ことになった。
ヘリポート構築は、現場に先に到着していた第一空挺団に委ねら
れ、翌朝までに構築した後、陸上自衛隊の普通科連隊と交替し撤収
という形に決まった。
☆墜落現場での食事
98
午後二時半。
群馬県上野村・第六消防団の食事搬送班が現場に到着した。
テレビで見ていたが、現場はさらにゴミゴミし、何がなんだか分
からない。
副団長・今井氏が残骸近くで座って休憩していた消防団長を見つ
けた。
﹁団長!﹂
﹁よう、今井さん、来てくれただかいね。﹂
﹁皆、腹減ったろ!メシ持ってきた!皆、ちょっと休もうか。﹂
﹁︰︰︰。﹂
弁当を見た団長が黙ってしまった。
﹁団長?どうした?﹂
﹁悪ィけど、ちょっと今、食べる気になれねえんさね︰︰︰。﹂
団長が今井氏に両手の掌を見せた。
軍手はドス黒く血に染まり、指の間に髪の毛が無数に絡んでいる。
﹁どしたぁ!団長!ケガしたんだかいね!﹂
団長が返した。
﹁違うがな!これ皆、仏さんの血だいね!﹂
今井氏は血相を変えた。
そして背中に冷たいものが走った。
﹁もう、どこもかしこも皆、仏さん無残なカッコでさ、ま∼ちょっ
と今はメシ食うって気分になれねぇのさね︰︰︰。﹂
団長が軍手を脱いで残骸の上に置いた。
軍手は﹁ドバン﹂と重い音を立て、どれだけ血が染みているかが
計り知れた。
染みた血や体液がドス黒い色で垂れ、白い塗装の日航機の残骸を
染めた。
今井氏は、ふと、周囲を見渡すと、警官や自衛官が残骸から遺体
99
を回収しているのが目に付いた。
現場に着いた時は疲れと団長を探すのに精一杯で気にしてなかっ
たが、よく見ると皆、遺体を搬送しているようだ。
すぐ横の木に、全裸の男性が木にしがみついていた。
よく見ると、木に体がめりこんでいた。
どうも木に顔面から突っ込んで、その衝撃で服が破裂して消し飛
んだようだった。
団長がつぶやいた。
﹁いいやね、要らないがねメシ。仕方ねえから、そこら辺の林に放
っぽくようだよ。﹂
すると、警察が来た。
群馬県警機動隊隊長だった。
﹁皆さん、本当にご苦労様でした。生存者も救助されたので、あと
は我々がやりますので、下山されて結構です。﹂ ﹁そうかいね!あいよ!﹂
団長が、皆を呼びに行った。
今井氏は弁当をリュックから出し、大雑把に林の藪の中に置いた。
それを見た機動隊隊長が、慌てて斜面を下ってきた。
﹁あ、あの、それ、どうされますか?﹂
﹁あ、皆食わねえって云うもんで持って帰っても仕方ねェからねぇ
︰︰︰。﹂
機動隊隊長は一呼吸置いて聞いてきた。
﹁それ︰︰︰食べないのであれば売って戴きたいのですが︰︰︰。﹂
﹁ん?あ、いいよ、皆で食ってくんねえよ。﹂
今井氏は部下の持つリュックの弁当も全て機動隊隊長に引き渡し
た。
﹁あの︰︰︰お金は︰︰︰。﹂
﹁いらねェさ、どうせ放っぽくモンだがね。﹂
団員全員が戻ってきて、帰ろうとすると、また機動隊隊長が来た。
﹁あの︰︰︰すみません︰︰︰。﹂
100
今井氏が返す。
﹁いいって!そんな気にしねぇで食ってくんねぇよ!﹂
しかし、機動隊隊長は、申し訳なさそうな顔をして言った。
﹁いや、違います、お願いが︰︰︰。我々が帰り易いように道を作
りながら帰って戴ければ有り難いかな?と︰︰︰。簡単で結構です
ので︰︰︰。﹂
消防団員達は、笹薮を踏みつけ、とりあえずケモノ道程度に分か
るように道を作りながら下山した。
草を踏みつけながら団員達がつぶやいた。
﹁あ∼!こんな事、もう沢山だがね!気の毒で居られねぇや!二度
とこんな事御免だいね︰︰︰。﹂
しかし、また後日、彼らはこの現場に駆り出されることになる。
事件・事故など無縁の村で突然起こった世界最悪の大惨事。
この日まで上野村は、地元の群馬県民でも知らない人が大勢いた
過疎の村だった。この事故が発生して、初めて世界中に村の名前が
知れ渡った。
しかし、まだ終わってはいなかった。
帰り際に消防団三名が呼び止められた。
現場の報道陣で仲間が三国山方面に行ったきり行方不明になった
から探して欲しい旨の依頼が入り、捜索に向かった。
☆長野県警機動隊到着
午後三時頃
長野県警管区機動隊、第二機動隊が続々と現場に到着した。
現場に入るとゴミ捨て場のような散らかった現場に女性らしき長
い髪が頭皮だけ木に引っかかり風に揺らいでいた。
思わず誰もが足を止めたが、引き下がる訳にはいかない。
長野県警機動隊の各隊長は群馬県警機動隊隊長に報告後、作業を
101
開始した。
管区機動隊はヘリから投下される毛布を受け取り、遺体に被せる
係を担当した。
とりあえず目に付く遺体に次から次へ毛布をかけていく。
その後ろを群馬県警が印を付け、遺体発見場所と整理番号を発行
し、終わった遺体は自衛官が毛布に包み、ヘリポート近くに並べた。
現在、現場にある墓標は、それぞれの遺体が発見された地点で、
群馬県警が作成した地図を元に日本航空が墓標を建てた。︵場所に
よってはお参りできない危険な場所や、重なって発見された場所等
は若干移動して墓標が立ててある。︶
第二機動隊は、陸上自衛隊・第一空挺団が設営を始めた臨時ヘリ
ポートの手伝いに参加した。
斜面の下では民間ヘリが谷間にホバリングし、報道陣の資材を下
ろしている。
焼けた地面の熱気と日差しで、喉が渇き、既に水筒の水が無くな
っていたが、自衛官が早速、沢の水を現場近くまで引っ張って、い
つでも飲めるようにしてあったので助かったという。
そして、平らに整形されたヘリポート構築地に陸上自衛隊の大型
ヘリがやってきた。
﹁あんな大きいの着地出来ないだろう。﹂
そう思って見ていると、空中で停まったままリアゲートが開き、
空中に浮いている状態で次から次に応援の自衛官が降りてきて、資
材を下ろし始めた。
ヘリの操縦技術に思わず感心して見とれていると、後ろから小隊
長に怒鳴られてしまった。
☆悲痛な叫び
同時刻。
102
定雄達は墜落現場を発見した。
山の斜面に林がなぎ倒され、ヘリコプターが沢山上空を旋回して
いる。
だが、まだ詳細がよく見えない。
﹁幸子︰︰︰。﹂
現場を茫然と見つめる定雄。
すると、後ろから突然声をかけられた。行方不明の報道スタッフ
の捜索に回っていた上野村消防団員だった。
消防団員の一人は疲労と精神的ショックで疲れきっており、ろく
に登山装備もせずに無責任に山で遭難したから助けてくれという報
道陣に怒りを感じ、定雄達に怒鳴り散らした。
﹁この、えっれえ忙しい時に考え無で山いごき回ったらあぶせえが
な!﹂
状況が飲み込めず、オドオドする定雄達。
和夫が自分達の事を説明してくれた。
乗員の家族と知った消防団員達は、いきなり怒ったことを謝罪し
たが、定雄達も装備が不十分なのには違いない。
消防団員達は、彼らを現場に案内する事にした。
しばらく歩くと、目の前の笹薮がガサゴソ揺れ始めた。
﹁何だ?クマか?﹂
定雄達は思わず足を止めた。
すると、笹薮から二人の自衛官が飛び出してきた。
﹁やった!消防団員だ!助かった!﹂
彼らは消防団員に駆け寄り、墜落現場はどこか聞いてきた。
消防団員が彼らに聞いた。
﹁何だ?どうした一体?﹂
﹁いや、すみません、実は︰︰︰ここがどこだか分からなくなって。
﹂
どうも迷子らしい。
後ろで見ていた和夫が、怪訝な顔をして聞いた。
103
﹁無線機持ってんだろ?﹂
﹁いや︰︰︰持ってないです︰︰︰。﹂
和夫が怒って自衛官の襟首に掴みかかった。
﹁おいおい、何で自衛隊が遭難しっちょ!助けて欲しいのはこっち
ちずれ!夜中からダラダラ、ダラダラ墜落場所も特定できん、しか
も遭難までして何考ェちょるでェ!﹂
思わず、甲州弁が出てしまった。
消防団員が止めに入った。
彼らは、自衛官は自衛官でも、まだ航空自衛隊の航空生徒隊に入
ったばかりの新人だった。
とりあえず喧嘩を止めて、皆で現場に向かうことになった。
定雄一人の筈が、出発直前に三人になり、タクシー運転手や、文
房具店の店主に助けられ、そして消防団員三名、迷子の自衛官二名
が加わり、八名の大グループに膨れ上がった。
皆の助けを借りて、ようやく墜落現場近くまで来た。
生きていて欲しい。実は大した事故じゃなかったという事であっ
て欲しい。
テレビでも﹁生存者﹂と言っていた。希望はある。
現場近くに着いた。貨物輸送コンテナが変形して転がっていた。
転がってきた斜面の上は、何か騒がしい。
すると、上空にヘリが頭上で停まった。
ヘリの横のドアからテレビカメラマンがこちらを撮影していた。
あまりの風圧に周囲の葉っぱが舞い、埃まみれになる。
﹁あっち行ってろ!行けって!﹂
若い消防団員がヘリに向かって叫ぶと去って行った。
﹁さ︰︰︰幸子!﹂
とっさに定雄は斜面を無我夢中で駆け上がった。
今のヘリの騒ぎに気をとられていた和夫は慌てて引き止めたが、
もう止らなかった。
104
革靴で斜面の土に足を取られ転ぶが、すぐ立ち上がり、また転び
︰︰︰。
とにかく無我夢中で登っていった。
Yシャツはボロボロの泥だらけになり、スーツのズボンの股が裂
け、顔や腕は笹の葉や石で傷つけられ、鼻血が白いYシャツを染め、
眼鏡は変形した。
<i88399|8907>
現場に出た。
定雄は、その場に立ちすくんだ。
現場に原型を留めているものが殆ど無い。
頭の中に、ヘリの爆音と、自衛隊や警察の無線が響き渡る。
時より接近してくるヘリの風圧に耐えながら、とりあえず歩いた。
林が破壊された急角度の斜面を登ると、﹁うわっ!﹂と悲鳴が聞
こえた。
警察官が斜面でバランスを崩し転落していた。
すると、頭上から、
﹁ちょっとすみません!どいてください!﹂
と、話しかけられ、見ると、自衛官が木によじ登っていた。
他の自衛官が、定雄をよけて毛布を広げて前に出て、上から﹁何
か﹂を受け取った。
受け取った自衛官はすぐに毛布で包んでしまったが、その﹁何か﹂
黒いボロボロの物体には、確かに人間の手らしきものがあったよう
に見えた。
よく見ると、爆発で裸にされた林の枝に無数の﹁何か﹂がぶら下
がっている。
稜線に上がると、さっき消防団と会った場所から見えなかった激
突地点に着く。
105
一面焼け爛れた斜面を自衛官や警察官が大勢﹁何か﹂を運んでい
る。
その﹁何か﹂をよく見ると、毛布の隙間から手や足がはみ出て、
整理番号の書いた札がつけてある。遺体のようだった。
彼らは、まるでタマゴを運ぶアリのようだった。
頂上付近に着くと、
﹁あぶない!行くな!﹂と怒鳴られる。
そこにあった藪は一面真っ黒で白煙がもうもうと出ていた。
さっき怒鳴ってきた警官が、
﹁そこ、まだ燃えてっからさ!入るとあっという間に火達磨になっ
て焼け死んじまうがね!﹂
と、定雄の肩をポンと叩いて去っていく。
さらにトボトボ歩くと、さっき運ばれていた毛布に包まれた遺体
がズラリと並んでいた。
定雄は毛布の中を確認して幸子を探したいと思ったが、体が動か
ず、そこで立ちすくんでしまった。
後ろから和夫と義父が追いついてきた。
﹁さ、定雄くん︰︰︰。﹂
定雄は目が死んでいた。
すると三人が後ろから怒鳴られた。
﹁こらぁ!そこは撮影禁止だがね!﹂
警察官が駆け寄ってきた。
和夫はとっさに弁解する。
﹁違います!僕達はカメラマンじゃありません!﹂
﹁じゃあ何だい!日航かいね!﹂
和夫は親族でもあり日航側でもあったので一瞬返事に迷うが、
﹁し、親族です!事故機の親族です!﹂と返した。
すると警官は、困った顔をして答えた。
﹁︰︰︰とにかく、ここは大変危険です!すみませんが、とりあえ
ず山を降りてください!我々に任せてください!﹂
106
すると、定雄は力尽きるように、しゃがみ崩れたと思いきや突然
怒り狂い絶叫した。
﹁うわーあああああ!畜生ォ!﹂
いきなりだったので和夫も義父も警官も驚いたが、その直後に上
空に現れた自衛隊の大型ヘリの大きな爆音で、定雄の叫びは空しく
かき消された。
☆陸上自衛隊第十二師団対策本部移動
午後になって、群馬県藤岡市を中心とした遺体検死作業が行われ
ることが決まった為、準備が始まった。
上野中学校に待機していた遺族達も、今朝に引き続き再度日航が
手配した観光バスで藤岡市に戻る。
午後四時。上野小学校。
陸上自衛隊第十二師団が、群馬県警察と連携を執る為、長野県北
相木村から上野村へ移動し、遺族待機場所に使用予定だった群馬県
上野村小学校を使うことになった。
急遽集結した自衛隊員の集団に、宿直の教師は何も聞いていなか
ったので言葉を失った。
宿直教師は、慌てて校長へ連絡を行い、校長は自宅から駆けつけ
ると、想定外の自衛隊進駐に驚いてしまった。 神田箕守校長は、第二次大戦末期に前橋市大空襲で自分が在校し
た小学校に大量の戦災遺体を集めたのを見て、一般人が軍隊の起こ
した戦争に巻き込まれて死んだという想いがあり、自衛隊は、あま
り好きではなかった。
故に自分が所属する学校に﹁違憲の軍隊﹂が進駐するのをためら
107
ったが、事態が事態故に已む無く認可した。
第十二師団長が校長に挨拶と災害派遣任務説明を行った。
その際、緊急対応を執る際にコンバット・ブーツを脱ぐのに手間
取る為、校舎を土足で使用の許可を頼まれた。
神田校長は一瞬考えたが緊急事態故に土足使用を許可した。
<i89925|8907>
神田箕守氏︵校長時代︶
<i77098|8907>
上野小学校
☆長野県警機動隊撤収
午後五時十分。
長野県警機動隊は、群馬県警機動隊・浅見隊長の指示により、業
務を群馬県警に引き継ぎ、撤退が決まった。
管区機動隊は行きと同じ南相木に戻るルートを選択し帰路につい
たが、崖から危うく落ちかけた第二機動隊は、群馬県警と話した結
果、群馬側へ降りるのが来た道より安全で楽と判断し、下山を開始
する。
同じ頃、長野県川上村から独自で出動した川上村消防団の一行は
現場には着いたものの、何もすることが無かったので撤収した。
その帰り道、川上村に司令部を置いた航空自衛隊員達が、崖下に
声をかけていた。
何があったのか尋ねると、崖から報道フリーカメラマンが一人で転
落し、助けを求めているとの事。
だが、そこを通りかかった自衛官は航空自衛隊教育隊の生徒だった
ので、装備も無かったので仲間が司令部に助けを求めに行ったとの
108
事だった。 しかし、川上村消防団員は、山登りは慣れていたので、自衛官に
代わってカメラマンを救助した。 長野県警第二機動隊は、群馬県警に聞いた営林に使われていたト
ロッコ線路跡を進んだ。
線路のおかげでスムーズに下山出来そうだったので、警官達は、
﹁管区機動隊の連中、来た道を帰ったそうだが、こっちの方が楽だ
ぜ﹂
と、言い合っていた。
だが、そう簡単には行かなかった。
先頭から笛の音がけたたましく響く。
﹁止まれ!ダメだァ!崩れてる!﹂
途中で幾つか線路が崩落しており、崖を這いながら崩れた箇所を
一人ずつ進んで行くしかなかった。
☆事故から24時間後
午後六時。神奈川県相模湾沖。
ここで海上自衛隊ヘリコプター搭載護衛艦DD130番﹁まつゆ
き﹂が建造元の石川島播磨重工によって来年の引渡しを目指して試
験航海が行われていた。
すると、居島灯標から246度81海里にて大型の金属物体を発
見する。
午後六時四十五分、物体は﹁まつゆき﹂のヘリ甲板に引き揚げら
れた。
どうも、航空機の一部らしく、この上空で異変が起こった日航機
の一部である疑いが強くなった。
109
<i88410|8907>
午後七時。群馬県上野村。
最も現場に近い民宿の窓から、事故機の客室乗務員、松原幸子の
妹・明実は一人で現場に行く道路をずっと眺めていた。
生存者の人数も名前も完全に判明し、姉が生存している可能性が
無くなって放心状態だった。
定雄達が山から帰ってきたら現場の状況を聞きたくて仕方が無か
った。
だが、連絡手段が無く、携帯電話も発売されたばかりで、今では
信じ難い程価格が高く、重く大きく性能も低い時代で一般人には全
く縁の無い物だった時代。勿論、定雄さん達は持っておらず連絡手
段が無い中、待ち続けた。
母が声をかける。
﹁お父さん達が、ここに帰って来るなんて保障なんか無いんだよ。﹂
﹁でも、私達が群馬で待っているんだから、群馬に向かって帰って
来る筈よ。﹂
すると、薄暗い夕暮れの中、三人の男が歩いてきた。
定雄達だった。
明実は手を振り大声で声をかけた。
﹁和夫さ∼ん!おとうさ∼ん!定雄さ∼ん!﹂
和夫が気付いて元気に手を振り返した。
﹁やっぱ、お父さん達だ!﹂
明実は母を連れて道路に出た。
三人共、服は泥まみれになり、何とも云えない異臭が漂っていた。
特に定雄は服が裂け、Yシャツは血に染まり、顔中傷だらけで鼻
血が顔面に固まって、満身創痍の様相だった。
﹁大丈夫?定雄さん!﹂
110
母と明実が声をかけるが、定雄の目はうつろで返事をしない。
父が言った。 ﹁いいから!定雄君に着替え用意してやって、あと
傷も診てやってくれ!﹂
父はそのまま民宿に入っていった。
母が定雄を民宿の中に連れて行った。
明実は、和夫の無事が嬉しくて思わず抱きしめた。
和夫は、もう何も言う気力は無く、ただ黙って抱き合っていた。
午後八時。 長野県警第二機動隊が、ようやく上野村市街地に到着した。
すっかり夜が更けた道を、誰もが力尽きた顔をして、定雄達のい
る民宿の前をゾロゾロと幽霊のように歩いていた。
この時、隊長・中隊長が非番だったので指揮を執っていた小隊長
が無線係に本部へ連絡するように指示した。背中に背負った無線を
準備しようとしたその時。重大な事に気が付いてしまう。
暗闇の森林を草を分け入って斜面で転びながら進んでいる間に無
線機のアンテナをどこかに引っ掛け折損していた。
﹁ば、・・・・・・バカヤロゥ!どうやって迎え呼ぶんだ!﹂
仕方なく、たどり着いた商店に電話を借り、臼田警察署に迎えを
要請したが、要請し終わった直後、その場に全員座り込んでしまっ
た。
疲れすぎて動けないのだ。
上野村中学校に迎えに来た長野県警機動隊バスに皆が無言で乗り
込む。
臼田警察署員がバスに乗り込んで、
﹁いや∼、皆さん、ご苦労様でした!﹂
と言って食事を配った。
五目寿司だった。夏場で悪くならないようの配慮だった。
111
空腹でいきなり食べたので腹が痛くなってしまう。
力なく食事を頬張った後、誰もが帰路のバスの中でいつの間にか
寝入ってしまった。
☆何故、垂直尾翼が?
午後十時四十分。
海上自衛艦﹁まつゆき﹂が回収した航空機の一部は、海上保安庁
巡視艇﹁あきづき﹂に引き取られ、横浜港へ引き揚げられた。
残骸は巨大で、白い塗装に、日本航空の鶴マークの一部が残り、
内部は航空機の錆止め塗装に用いられるライトグリーンに塗られ、
﹁65B−03286−1﹂と印字されており、事故機のものと断
定された。
そしてその巨大な残骸は、垂直尾翼の一部とも判明。
垂直尾翼が何らかの理由で破損し、この異常事態になったことが
判明した。
ここで、航空評論家等、航空機に詳しい人たちはピンときた。
この事故機は一九七八年六月二日に、羽田発大阪便で着陸時に誤
って後部胴体を叩きつけて着陸する事故を起こしていた。
事故機の機番を見て、当初から﹁もしかして﹂と思う専門家が多
かったが、これでこの時の事故が今回の事故に繋がっている可能性
が濃厚となった。
<i88397|8907>
午後十一時。
着替えをし、傷の手当てをして貰った定雄は、ひとり民宿の前の
河原でタバコを吸いながらボーっとしていた。
112
後ろでは群馬県警機動隊の撤収グループのバスが赤色回転灯を光
らせながら村の中心部へ走り去って行った。
バスの中の警官は誰もが疲れ果てた顔をしている。
﹁オレも︰︰︰疲れたよ︰︰︰お休み、幸子︰︰︰。﹂
民宿に戻った彼は個室で一人、倒れるように寝た。
民宿の前を走る機動隊バスとパトカーの音を聞きながら︰︰︰。
☆深夜の墜落現場
八月十四日午前一時。
陸上自衛隊・第一空挺団は、三時間交代で、徹夜でヘリポート作
りに追われた。
勿論、明かりなど期待できない深山での作業は、懐中電灯とヘル
メットに装着するヘッドライトのみで行われた。
睡眠・食事は三時間休憩の間に行った。
そして山を下りた筈の群馬県警機動隊や警視庁も参加した。
彼ら警察官達は夕方に下山命令が出た際に、人が一人通れるのが
やっとの踏み分け道や、所々崩れたトロッコ線路跡を夜間に大勢下
るより、どうせ翌朝も登るなら山に留まっていた方がいいという判
断だった。
しかし、警視庁や自衛隊と違い、群馬県警は寝る為の装備など元
から無く、遺体梱包用に運ばれた毛布を斜面に敷いて寝るしかなか
った。
眠れないので、﹁どうせ眠れないなら﹂と寝ずに作業に参加した
警官も大勢いた。
☆夢枕の天使達
午前三時。群馬県上野村の民宿。 113
定雄が、熟睡していたその時だった。
枕元が眩しい位の光に包まれ目が覚める。
何か気配を感じ、﹁ハッ!﹂と起き上がると、枕元に幸子さんが
座っていた。
定雄は幸子に話しかけた。
﹁さ、幸子?︰︰︰。﹂
幸子は申し訳なさそうな表情で話し始めた。
﹁ごめんなさい︰︰︰こんなことになってしまって︰︰︰。﹂
幸子が泣き出した。
定雄は、幸子のその言葉に、こう返した。
﹁何で謝る?幸子が墜落させた訳じゃないだろうが幸子、お前だっ
て、お前だって被害者じゃないか!﹂
幸子は暫く黙ると立ち上がって、光り輝く空間の方へ向かい始め
た。
定雄は慌てて呼び止めた。
﹁幸子!待て!行くな!﹂
幸子は振り向き、涙を流しながら答えた。
﹁子供が︰︰︰子供達が︰︰︰。﹂
すると幸子さんの周囲に大勢の子供達と同僚の客室乗務員達が現
れた。
﹁迷子の︰︰︰子供達を︰︰︰皆で︰︰︰親元に︰︰︰。﹂
定雄は幸子を追いかけようと立ち上がった。
すると、自分は布団に入っており、光など全く無かった。
枕元は、何かあった気配も無かった。
夢だったのか?それとも︰︰︰。
定雄は、窓から漏れる外灯の光でタバコを探して吸い始めた。
すると、またカーテンから赤い光とディーゼル音が響く。
114
群馬県警機動隊の送迎バスだ。時間は午前三時半。
﹁まだ活動しているのか︰︰︰。﹂
<i89893|8907>
☆疲労困憊
午前四時。 上野村中学校は修羅場と化していた。
昨夜から深夜にかけて山を下った群馬県警機動隊の最後のグルー
プがようやく帰ってきたが、疲労困憊で玄関に着くなり倒れこむ警
官が続出した。
警官が倒れた仲間を抱え、休憩室に運び込む。
結局、全員撤収に十時間かかった。これから、また朝に登る。十
時間かかるなら、またトンボ帰りに登って、早い先頭が午前七時、
最後尾が午後二時になる計算になる。
そしてまた夕方撤退。
幾らなんでも無茶だ。
警官達は、機動隊隊長にこの旨を問い糾した。
少人数ならともかく、多数の人員が毎日山を登り降りするのは無
茶なので、次回は休憩後に随時、陸上自衛隊のヘリ・KV107バ
ートル?型大型ヘリで送迎してもらう事に決定した。
あまりのドタバタ劇に悔しい思いをしながら空を見ると、もう夜
が明け始めていた。
墜落現場は朝焼けの中を、ヘリポートの建築を急ぐ自衛官達のシ
ルエットが映えて見えた。
115
116
第四章・御巣鷹の尾根
☆事故二日目の朝
午前七時。群馬県上野村。
すっかり陽が上がった村に村内放送が響き渡った。
﹃こちらは、上野村役場です。本日は、日航機事故の、災害派遣の
為、大勢の車両が、村内を、行き交いますので、外出は、控えて戴
く様、お願い致します。﹄
それを自宅で聞いていた第六消防団副団長・今井氏は朝食を食べ
ていた。
奥さんが話しかける。
﹁あなた、今日は畑に行けないねェ︰︰︰。﹂
﹁そんなの仕方ないがね!﹂
今井氏は立ち上がり、窓から外を見る。
﹁そんな放送、いちいちしなくたって、出るに出れやしないがね。﹂
家の前の国道299号線は警察車両・自衛隊車両・報道陣の車で
溢れ、あっという間に動かなくなった。
<i89430|8907>
上野村の市街地。当時はこの道しかなく、しかも未舗装だった。
そんな中、藤岡市方面に向けて二台のタクシーが渋滞に巻き込ま
れていた。定雄達のタクシーである。
定雄達は日航の世話役からの連絡で、藤岡市で遺体の引渡しが行
われる旨、前橋市のホテルに向かっていた。
117
しかし、村の集落さえ抜ければ、あとは道が比較的広いので集落
を抜けてからは、スムーズに前橋市までたどり着いた。
☆臨時ヘリポート完成
午前八時半。
墜落現場のヘリポートが完成した。
早速昨夜から山の斜面に安置されている遺体を早急に藤岡市まで
届けなくてはならない。
陸上自衛隊の汎用ヘリ・HU−1H型中型ヘリが着陸し、最初の
遺体六体が積み込まれ離陸、そしてその後ろの上空では次のヘリが
着陸準備に入っていた。
ここで第一空挺団は撤収したが、陸自は、より搬送効率を良くす
る為、施設隊を派遣し、第二ヘリポートの構築に着手した。
<i88996|8907>
☆遺体搬入
午前八時半。群馬県藤岡市。
早朝から藤岡市の市民体育館と、県道を挟んで二百メートル程離
れた藤岡市立第一小学校で遺体受け入れの準備が始まっていた。
一九八三年に建てられたばかりの真新しい校舎は騒然となった。
第一小学校グラウンドには自衛隊員の手により丸い白線に﹁H﹂
の文字を描いた臨時ヘリポートが二個作られた。
<i89003|8907>
<i77112|8907>
118
藤岡第一小学校
グラウンド脇には、霊柩車と大型トラックが並ぶ。
霊柩車は急遽全国からかき集められた車両で、警察により﹁遺族
に死を意識させたくない﹂との意向で﹁寝台車﹂と呼ばれる一見、
普通のワゴン車にしか見えない車両に厳選された。
なお、主にヘリポートから、すぐ向かいの市民体育館迄の搬送作
業だが、一応パトカー・白バイの先導が付くが、万が一の場合も配
慮し、覆面パトカー用のルーフに取り付ける赤色回転灯が装着され
た。
まだ、お盆休みの渋滞に巻き込まれ、遠くからの応援は来ていな
いが、北海道から九州まで応援が駆けつけ、延べ二OO台の霊柩車
が使われた。
大型トラックは棺桶を搬送してきたもので、急遽作られたもので
あった。
荷台のガルウイングが開かれ棺桶が搬出される。
そして、骨壺も2000個余りが全霊協により発注され、セト
モノで有名な愛知県瀬戸市より送られてきた。
<i77156|8907>
1971年新築当時の藤岡市民体育館︵藤岡市役所提供︶
一方、藤岡市民体育館。
一九七一年に建てられた体育館で、デザインが七十年代らしく芸
術を意識した作りで、正面から見ると丸い窓が左右に6個あり、入
り口からステージまで屋根に傾斜が付いている等、特徴的な外観で
あった。
裏には天然芝生が気持ちいい中央公園があるが、元は旧藤岡第一
小学校跡地で一九八三年に作られたばかりであった。
駐車場には各署からの応援のパトカーがズラリと並び、日赤群馬
119
支部や、多野医師会の看護婦がチャーターされた貸切バスで続々到
着。 主に事件・事故の検死を行う専門医も続々到着した。
特に今回最も頼りにされたのは歯科医だった。
まだDNA鑑定が無い時代、バラバラに千切れた遺体の身元を証
明するのは歯型が決め手だった。
遺体搬送第一便が藤岡第一小学校に到着した。
HU−1H型ヘリの二枚ブレード独特の空気を叩く重低音の羽音
が腹に響き、強烈なダウンウオッシュがグラウンドの警官達を襲う。
グラウンドに着陸したヘリに警察官が簡易棺を持って両側に群が
る。
遺体を包んだ毛布ごと棺に入れている間に霊柩車がバックで寄り、
棺を積み込むと白バイの先導で市民体育館に向かう。
藤岡市藤岡の交差点に白バイのサイレンが鳴り響き﹁はい、緊急
車両、交差点を右に曲がります﹂とのスピーカーからの声で、交差
点近くの一般車両全てが停止する。
藤岡市民体育館前には大勢の報道陣が待機し、停止した霊柩車に
群がろうとしたが、警官の制止で遠巻きに見守る。
四人の警察官に抱かかえられた棺を検屍場に居た警官・看護婦・
医師が整列して迎えた。
体育館に大声が響く。
﹁遺体搬入!﹂
<i88396|8907>
☆幸子発見
午前十一時五十分。群馬県前橋市の某ホテル。
120
定雄達が宿泊するホテルに日航世話役が訪ねてきた。
﹁幸子様のご遺体が︰︰︰。﹂
それを聞いた定雄は分ってはいたが愕然とした。
﹁やっぱり︰︰︰駄目だったか︰︰︰。﹂
定雄はソファーに倒れこむように座った。
義父が世話役に聞いた。
﹁で、これから確認に行くんで?﹂
﹁いや、日航社員のご遺族様は深夜のご確認になります。﹂
それを聞いた定雄は﹁ギッ﹂と世話役を睨みつけ、襟首を掴んで
壁に叩き付け、食らい掛かった。
﹁ふざけるんじゃない!幸子は被害者だぞ!幸子が墜落させたみた
いな言い方じゃないか?え?何で深夜なんだ!差別してんじゃない
ぞ!﹂
日航世話役は鬼のように睨みつける定雄さんの目を見ながら落ち
着いて返した。
﹁わ、私も日航社員ですが、私も墜落させた訳ではありません。し
かし、松原様も、私を日本航空として厳しい視線でご覧になられま
す。どうか、どうか、分かってください︰︰︰。﹂
日航世話役は涙を流して定雄の顔を見つめた。
義父が間に入った。
﹁分かります。承知しております。︰︰︰で、何時になりますか?﹂
﹁え︰︰︰夜零時、藤岡体育館になります。﹂
﹁分かりました。じゃあ、またその時間に。﹂
﹁必要な物のご用命がございましたら、またご連絡下さい。﹂
日航世話役が部屋をあとにした。
定雄は、首をうなだれ、ソファーに座り黙っている。
義父は定雄の肩をポンと叩いて、部屋を出て行った。
☆涙の面会
121
八月十五日午前O時。
定雄達は藤岡市民体育館に到着した。
明実と母も付いて行こうとしたが、和夫が静止し、通路で待って
るように促した。 事故現場の遺体の悲惨さを目のあたりにした和夫は、幸子の遺体
の損傷も酷いかもしれないと見たからだ。
定雄を先頭に体育館に入った。三人共、覚悟していた。
中に入ると線香の臭いと煙で目が痒くなった。
体育館は熱気が篭っていて、臭いと併せて気持ち悪くなってくる。
警察官の案内で遺体安置フロアに入ると、棺がズラリと並び、白
い布が被せられ、花束が置いてあった。
だがよく見ると、どの棺にもその上にビニール袋と張り紙が多数
置いてある。
通りがかりに見ると、袋の中身は衣服や鍵、名刺ケース、腕時計、
靴といった身に付けているものが主で、新品同様のスニーカーもあ
れば、半分が血に染まったTシャツ、レンズの割れた腕時計。
腕時計の針は午後七時前を指した状態で壊れている。
張り紙には写真が貼ってある。一見、何の写真か分からなかった
が、人の体の拡大写真らしく﹁盲腸手術跡あり﹂等書かれていた。
﹁こちらです。﹂
案内された棺は一番奥にあった。
上には他の棺同様、多数の被服物が並んでいる。
日本航空の制服、メモ帳、下着と、他に細かい物が並んでいる。
﹁手にとって見ていいですか?﹂
﹁どうぞ。﹂
定雄だけ前に出て、確認する。
緑十字のバッジが目に入った。これは一九七二年に発生した日航
DC8型機がソ連︵現ロシア︶のシェレメーチェボ国際空港墜落事
故の遺族に、今後従業員に付けて業務するようにと言われて付けて
122
いたものだ。︵二OO三年にバッジが廃止され、胸の身分証明カー
ド右に表示に変更されている︶
悔しさで思わず握り潰す。
matsubara﹂
真っ二つに折れたプラスチックの金縁の名札に
﹁松原 幸子 yukiko
とあった。
よく見ると血が付いているようだ。
名札を持ったまま固まった定雄に警察官が話しかける。
﹁間違いありませんか?﹂
﹁︰︰︰はい。﹂
定雄の声が震えた。
﹁では、ご遺体の確認をお願い致します。﹂
警察官が白い手袋をした手で棺の窓を開く。
定雄と父が覗き込んだ。
﹁幸子か?本当に?﹂
そこには、おでこのあたりが紫色に腫れているものの、真っ白に
血の気が失せた幸子の顔があった。
﹁幸子ォ︱!。﹂ 定雄さんの悲痛な叫びが体育館に響き渡った。
棺の上で幸子の名札が入った袋を握り締めながら棺に顔を付けて
号泣した。 父は棺に背を向け、悔しそうに歯を食いしばる。
和夫は、何も言えず、ただ立ちすくんでいた。
﹁ご冥福をお祈りいたします。﹂
警察官は定雄さんが落ち着くまでその場で待った。
体育館から響く定雄の泣声を聞いた、明美さんと母も修羅場を察
して泣した。
落ち着いたところで、警察官は棺を開け、遺体の損壊状況を説明
123
した。
死因は脳挫傷で即死だという。後頭部の頭蓋骨が陥没していたそ
うだ。
幸子は二階席の乗務員席で乗客方向に操縦室の背面に座っていた。
体育館から父と和夫が出てきた。
明実が和夫に詰め寄るが、和夫は明実の目を見ただけで何も語ら
ない。
明実は和夫の胸に抱きつき、泣した。
父は、母と外に出て、隣の武道館の入り口階段に座った。
父は胸ポケットからタバコを取り出し、火を点けた。
﹁あなた︰︰︰どうでしたの?﹂
父は一呼吸置いて話した。
﹁いや︰︰︰思っていたよりは酷くは無かった。顔に傷がある位だ。
ただ、左手の人差し指が千切れて無くなっている。見つかったら連
絡するそうだが。﹂
父は言葉を詰まらせた。
﹁︰︰︰どうしたの?﹂
母が心配になって聞く。
﹁あんなメチャクチャな現場で指なんか見つからないよ。いや見つ
かるわけ無いよ︰︰︰。それよりも︰︰︰幸子を︰︰︰生きて︰︰
︰返して︰︰︰。﹂
父は言葉を詰まらせ、火の点いたタバコを強く握り締めた。
﹁畜生︰︰︰畜生!。﹂
父の足元に大粒の涙が零れ落ちる。
母も父の背中に抱きつき号泣した。
定雄は、受付で遺体受け取りに必要な手続きを始めた。 震える手で、目を真っ赤にしながら黙々と書類を書いた。
午前九時半。警察庁から朝一番に遺体引渡し許可が下り、裏口か
ら霊柩車で搬送した。
124
報道陣が群がると嫌なので手早く逃げるように藤岡市を飛び出し、
関越自動車道へ入った。
関東平野に広がる群馬県の街並みの上をヘリが飛び交っていた。
<i89929|8907>
現在も武道館だけは残る。当時は物資倉庫や関係者の救護室として
使われた
<i77113|8907>
藤岡市民体育館の元駐車場に建つ慰霊碑
この日の午後、通称﹁ブラックボックス﹂と言われるボイスレコ
ーダーとフライトレコーダーが回収され、警視庁ヘリ・富士ベル2
04B型﹁おおとり二号﹂によって搬出された。
<i77217|8907>
事故機のボイスレコーダーとフライトレコーダー。︵日本航空蔵・
ご遺族提供︶
☆報道陣の遭難事故とモラル
午後一時。長野県川上村。
川上村消防団長・遠藤氏は畑仕事をしていた。
すると、消防指揮車がやってきた。
﹁三国山付近で報道陣がケガをして助けを呼んでいます!﹂
遠藤氏が眉をしかめた。
﹁またか!もう、仕事にならねぇずれ!﹂
事故が管轄外で出動しなかった川上村消防団だったが、この日以
来、報道陣の遭難が多発。その度に出動が依頼された。
125
<i89001|8907>
三国峠頂上に到着。自衛隊と報道車両以外に普通車が多数停まっ
ていた。
﹁何だ。こんな遠くから︰︰︰。﹂
すると、奥に停まって登山の準備をしている夫婦がいた。
夫の方が激怒した顔でこちらに来た。
自分の娘の遺体損傷が少なく、もう少し救難隊が迅速に動いてく
れていれば助かったという苦情であった。
遺族の男性は先頭に居た若手の消防団員の襟首を掴み怒鳴り散ら
す。
襟首を掴まれた団員が、手を振り解き、この男性の態度に怒り、
怒鳴り返した。
遠藤氏が慌てて止めに入った。遠藤氏は怒り狂った消防団員を、
もう一人の団員と一緒に力ずくで引き離す。
男性の妻が、その光景をみて号泣した。 当たり所がない遺族達の怒りと悲しみの悲鳴の一つであった。
だがこの時期、川上村はレタス最盛期で、消毒や集荷を半日でも
怠ると、たちまち虫の餌食となり、しかも早朝の刈り取りを逃すと
新鮮さが失われる。
誰もがこの事故のせいで疲弊していた。
この報道陣遭難騒ぎだけでも川上村では農作物数百万の損害が発
生した。
直接遺体を見た人間は少ない長野県川上村であるが、管轄外にも
関わらず、現場近く故に否応無しに騒ぎに巻き込まれていた。
群馬県上野村でも、報道陣による被害があった。
126
民宿﹁谷間﹂を経営する黒澤義広氏︵当時六十一歳︶は、民宿の
定員二十名に対し、報道陣が多数宿泊し、あっというまに定員の二
倍に膨れ上がった。
当初は各報道がまとめて幾らか宿泊費を支払ったが、時間が経つ
ごとに報道陣が入れ替わり、追加料金は曖昧になり、毎日報道陣の
為の食事の為に炊飯器がフル稼働し、妻と共に夫婦二人で不眠不休
の対応を行い、洗濯機は止まることが無く、結局二ヶ月のこの騒ぎ
で洗濯機四台が壊れた。
最終日には無断で撤退され、しかも各社大勢だったので宿泊費・
食費の請求が出来なかった。
そして、黒澤さんは報道陣が居なくなった後に来た電話料金にひ
っくり返った。いつの間にか電話が使われ、しかも長距離の長時間
電話ばかりだった。
電話代を支払ったのは、一人の記者が個人的に渡した千円のみ。
しかし、どこの誰が使ったのか分からないので請求しようが無く、
泣く泣く全額支払った。
この民宿だけで被害総額は七十万近く発生した。
<i110552|8907>
民宿﹁谷間﹂の方々。右から黒澤氏、僧侶の皆川氏、黒澤氏の奥様。
一九九一年の長崎県・雲仙普賢岳噴火の際も、避難した住宅が不
在の間に無断で報道陣基地とされ、同様の損害が発生している。
そして、上野村小学校では、文集に報道陣に対する怒りを込めた
作文を掲載した。
内容は、週刊誌による﹁遺体写真全集﹂に対してである。
明らかに遺体写真を売り物にしている姿勢が子供たちにも悲痛な
までに伝わっていた。
確かに命がけで真実を全世界に発信する報道陣は大切な存在では
127
あるが、立場上﹁モラル﹂というものを大切にしなければならない。
因みに現在は報道体制は、かなり改善されたものの、その分情報
もキャッチしにくくなったという。
午後七時。群馬県 上野村小学校
現場から報告に山を降りてきた迷彩服の現場指揮官の一尉に食事
が与えられた。
﹁白米なんて久しぶりだなあ︰︰︰。﹂
と、涙を流しながら味わって食べている。
聞くと、現場では初動部隊は乾パンしか食事がなく三日三晩乾パ
ンだけの食事を余儀なくされていたという。
☆埋まっていた遺体
八月十六日。午後二時。墜落現場
目に見える遺体は回収し終わったが、ヘリポートにはまだまだズ
ラリと搬出を待つ遺体を包んだ毛布が並んでいる。
次は埋まっている遺体の捜索が始まった。
自衛官達は野戦スコップを使って焼け爛れた斜面や、えぐられ土
が見えている斜面を慎重に掘る。
すると、次から次に遺品と共に遺体が発掘される。
隊員の中には自分達が昨夜寝ていた場所から遺体が発掘され寒気
を催す者も多かった。
掘り出される遺体は、完全遺体は無いに等しく、皆バラバラの遺
体ばかり。
焼けた斜面の遺体は完全遺体が多い代わりにどれも焼け焦げ、一
見焼けた残骸や木と同化していて気が付かなかったが、遺体捜索で
ようやく分かったものが大半だった。
128
木の枝に引っかかっている物体も、すぐ人間と分かるものは既に
回収したが、内臓のみや、皮のみが、まだまだ多くぶら下がってい
る。
一方で生存者が居た胴体後部の残骸現場は大きな機体の破片が多
く、人力で動かせない。
仕方がないので、後の墜落原因特定の障害にならない程度に切断
して撤去することが決まり、警視庁レンジャーが切断任務についた。
だが、斜面の上に、滑りやすい機体の上での作業の為、命綱を付
け、さらに他の隊員が後ろで押さえ、そして機体の残骸が動かない
ように周囲にいた警察官総出で機体を押さえつけ、エンジンカッタ
ーで切断する。
一歩間違えば全員大怪我の命がけの作業が続く。
調査が終わった大きい残骸は、倒された木の切り株にロープで繋
いで、斜面からの落下を防止した。
警察は食事が滞る事が多かったが、異臭と疲労で食事をとる気力
が無く、あんぱん二個と現場に延ばされた湧き水のみで一日を過ご
す。
自衛官は﹁野戦糧食﹂という保存が利く食料があり、ふんだんに
補給された。
しかし、彼らも食欲が無い。
だが食べないと怒られる。自衛官は体力が資本なので﹁食べるこ
とも仕事﹂と義務就けられている。吐きそうになっても飲みこまな
くてはならない。
思わずむせ返る。
暑さと疲労で、現場に二日もいれば頬がコケて、目の下にくまが
出来る。
警察も自衛隊も三日交代と決められたが、誰もが一時もこの場所
に居たくないのが本音だった。
☆全国から集まった警察ヘリや海上保安庁ヘリ
129
この頃になると、ようやく警察側も墜落現場へ資材や食料・人員
を運ぶ為のヘリが必要数確保出来た。
北海道警察ヘリ・富士ベル204B型﹁ぎんれい﹂や、同じく大
阪府警ヘリ﹁おおわし﹂等、北海道から九州まで、全国の都道府県
警からの応援のヘリがかけつけ、さらに海上保安庁からまでベル2
12型ヘリが応援に駆けつけた。
しかし、地の利が無い土地での飛行は苦労し、海上保安庁もまた
普段の海上任務と異なる山岳地帯の飛行にかなり怖い思いもしたよ
うだ。
そこで、何故群馬県警には固有の地の利があるヘリが無いんだと
いう話が持ち上がったが、既に遅し。
しかも、自己保有ではなく、あくまで応援の為、群馬県警の都合
だけでは使えず、また、派遣した都道府県の都合で帰っていくこと
もしばしばだった。
<i88995|8907>
☆学校のひととき
八月十七日。午前九時。群馬県・上野村小学校
職員室に一本の電話がかかってきた。
電話を取った自衛官が出た。
﹁はい!こちら十二師!﹂
﹁︰︰︰。﹂
﹁もしもし?もしもし!﹂
﹁あ︰︰︰、あの︰︰︰。﹂
﹁はいっ!﹂
﹁すみません︰︰︰上野小学校にかけたつもりで︰︰︰。﹂
130
相手はPTA役員の主婦だった。
﹁いえ!こちらは上野小学校であります!少々お待ちくださいませ
!﹂
電話に出た自衛官が校長のいる宿直室にやってくる。
﹁来たぞ︰︰︰来た来た。﹂
校長が眉をしかめて呟いた。
隣の宿直当番教師が、思わず噴出しそうになる。
電話の応対の声が大きく、歩く音もガツガツとジャングルブーツな
のでドアの向こうなのに動きが見るように分かる。
宿直室の扉がトントン鳴り、
﹁失礼しますっ!﹂
と、大声で言ってきた。
校長が力無しに﹁はいはい。﹂と答えると、扉が開き、自衛官が
不動の姿勢で言った。
﹁校長先生殿!お電話でありますっ!﹂
見慣れない力が篭った折り目の付いた動きに笑いを堪えながら電
話に向かった。
すると後ろから、さらに大声で報告してくる。
﹁PTA役員殿からのお電話でありますッ!﹂
思わず校長は仰け反り、その自衛官に力なく言い返した。
﹁いや︰︰︰あんまり︰︰︰そんなね、力まなんで、楽にしててく
んねえよ︰︰︰はは。﹂
学校の電話は、許可を得て貸したが、まさか自衛官の電話番が付
くとは考えておらず、完全に自衛隊に掌握されてしまった。 校舎の裏には風呂が設置されていた。
この﹁野外入浴セット﹂は当時、自衛隊はこれに類するものを装
備しておらず、この事故が発生した当時にメーカーが偶然開発中で、
試作品が無償提供されたのだが大変好評で、以後正式装備し、災害
派遣で被災者支援にも用いられている。
131
<i89418|8907>
☆お別れの夜
午後七時。
事故機客室乗務員・松原幸子のマンションでお通夜が始まった。
外には報道カメラマンが何人か集まっている。
幸子の遺体は丁寧に死化粧が施され、傷やアザも目立たなくなり、
まるで寝ているかのように美しく見えた。
大騒ぎになるのを避け、身内だけでヒッソリ行われた。
午後九時。
マンションが狭いので、定雄だけ残って、親族は妹の明実の自宅
やホテルに帰った。
台所にふとんを敷いて、明かりを消すと、リビングに幸子の棺と
遺影が、電球式ろうそくに、うっすら灯されている。
寝ようとした定雄だったが、遺影を見て、ふと立ち上がり棺の中
の幸子さんを覗き込んだ。
定雄は棺の蓋を開け、冷たくなった幸子の胸に顔をうずめ、硬く
なった細い手を握り締めて泣き続けた。
テーブルの上には、お通夜準備で、端に寄せられた家財と一緒に
幸子と定雄のスナップ写真が暗がりに灯されている。
悪夢のような一日がまた更けていった。
☆失われたもの
八月十八日。墜落現場。
132
朝霧がすっかり警官や自衛官の体を湿らし、芯まで冷やし、斜
面の周りを厚い雲が一面を埋め尽くす。
寒さで歯をガチガチ震える。山の上で野宿も限界だ。お盆が明
まるで、天の世界にいるようだ。
けると急に秋めいてきた。
墜落現場の斜面はすっかり掘り起こされ、陸上自衛隊によって
作業用の道が構築され、斜面を一斉に並んで地面を掘り返し、そ
してまた逆方向へ︰︰︰を繰り返し行っていた。
危険なので基本は立ち入り禁止区域だったが、この頃になると、
警官や自衛官が歩いた踏み分け道を頼りに、遺族も数人が来るよう
になった。
面影が残る機体後部胴体の﹁JA8119﹂と大きく書かれた
残骸が置いてある場所に必然的に誰もがお供えをして合掌していく
ようになる。
この日も何人か四時間近くかけて現場にやってきて、お参りして
いった。
若い夫婦が膝を地面につけて合掌している。
夫が立ち上がると、妻はその場で泣き崩れてしまった。
﹁行こう︰︰︰捜索の邪魔になる。﹂
夫が妻の手を引っ張る。
それを見ていた警官が夫婦に寄っていき、話しかけた。
﹁いや、大丈夫ですから、どうか、ごゆっくり。﹂
その様子を横目で見ていた警官の一人が座り込んで号泣した。
疲れのせいもあるが、誰もが感情的に非常に敏感になっていた。
川上村の航空自衛隊本部から来た隊員達が、その祭壇に大きなも
のを置いた。
ナイロン袋に入った大量の千羽鶴だった。
本部の川上第二小学校児童が自主的に集まって千羽鶴を作り、航
空自衛官に託したものだった。
133
夕方になると鼻炎持ちの警官が催涙弾を浴びたがごとく鼻水と涙
を流しクシャミをする。
夜になるといきなり真底冷え、昼になると極端に蒸し暑い。 ☆遺された声
八月十八日。午前十時。
千葉県千葉市 松原家マンション。
霊柩車に棺を積み込む際、大勢の人達が集まっていた。
近所の人達と日航の同僚の客室乗務員が個人的に集結していた。
定雄が遺影を抱いて霊柩車の助手席に乗り込み出発する。
霊柩車のエアホーンがマンション周辺に響き渡ると、周囲の人達
が一斉に合掌し、カメラマンのフラッシュがバシバシ光った。
同僚の客室乗務員達が号泣しながら見送る。
﹁見ろよ、お前の友達が大勢いるぞ。人望厚かったんだなァ幸子は
︰︰︰。﹂
定雄は遺影に呟いた。
定雄は、集まった同僚を見て幸子が日本航空で、どんな人間だっ
たかが垣間見え、涙が溢れた。
見送りの参列の後ろに、幸子の乗る霊柩車に背を向けて号泣する
初老の男性がいた。
幸子が利用していたタクシー運転手だった。
午後五時。マンションに帰宅した定雄さん達。
親族達が帰った後、定雄は骨壷の前に座り込んだ。
﹁こんなに小さくなっちまって︰︰︰もう生き返る事はないんだな
幸子。﹂
定雄は骨壷をそっと抱きしめて泣いた。
八月十九日。午前十一時。
134
松原幸子の葬儀も終わり、朝から部屋の片付けが行われた。
夫の定雄は、義両親に幸子さんの最後に着ていた制服を託した。
幸子の普段着は、体格の似ている妹の明実に渡された。
明実は幸子の衣服を抱きしめ、
﹁姉ちゃんの匂いだ︰︰︰。﹂
と、涙ながらに呟いた。
リビングのオーディオの上には、幸子が会社から貰ってきて大事
にしていた日航ジャンボ機の模型が飾ってあるままだ。
憎き日航ジャンボ機の模型であるが、幸子の大切なものだったの
で、飾ったままにしておくことにした。
線香の臭いが染み付いた二人のスゥイート・ルーム。
窓を開け換気しながら定雄は一人、呆然とタバコをふかした。
義父がテレビを点けると日航機事故のニュースをやっている。
未だ遺体が見つからない遺族達が、毎日日航がチャーターしたバ
スで部分遺体の入った棺を次から次に開けて遺体を食い入るように
見続けているという。
﹁幸子姉ちゃん、まだマシな方だったんだねえ。﹂
明実が呟いた。
すると、ニュースは事故調査委員会の発表に切り替わった。
ボイスレコーダーを一旦、文書化されたのが公表されたのだ。
文章を見る限り、何が起こったのか分からないまま墜落していっ
た様子だ。
機長達が必死に最後まで頑張ったことがようやく証明された。
そしてさらに、乗客の﹁遺書﹂も公開された。
揺れる機内で﹁死﹂が確定したも同然の絶望感の中で、少しでも
家族に想いを残そうと必死に書かれた遺書の数々。
幸子が二階席でどんな思いで乗っていたかを思うと、皆、静まり
かえり、涙が零れ落ちた。
﹁怖かっただろうにな。﹂
135
義父がため息をついて、台所のテーブルに座り、タバコを吸い
始めた。
とても、やりきれない思いが部屋を包んだ。
母が目を真っ赤にして震える声で言った。
﹁明実、今の仕事、これからも続ける気?﹂
全日空の客室常務員の明実は、何も答えなかった。
夫の和夫は、不穏な空気を察し、慌てて外に出ていった。
義両親が九州の実家に帰る。
事故以来、旅客機の予約キャンセルが相次ぎ、どこの空港もガラ
ガラ状態なのに、あえて両親は日航の、しかもジャンボ機を使う便
で乗って帰った。
幸子が、どういう職場で仕事をしていたのか見たかったからだ。
定雄は義両親を羽田まで車で送った。
義両親の乗った日航ジャンボ機が離陸していく。
その後も定雄さんは夕方まで一人ポツリと羽田にいる日航ジャン
ボ機を見つめ続けていた。
﹁幸子の職場なんて、今まで気にしたこと無かったな。﹂
夕焼けが空港ターミナルと日航ジャンボ機を染める。
﹁丁度、この時間だったな。﹂
<i89056|8907>
後に全日空にて独自にフライトシュミレーターに事故機の飛行デ
ータを入力し操縦したところ、無事着陸可能だった。
但し、条件は﹁機体の破損状況を全て把握していること︵飛行中、
内部から確認不能な垂直尾翼の破損状況も含む︶﹂と、﹁着陸地点
にとても広大で、平坦な障害物の無い場所があること﹂で、事実上、
日航123便は﹁生還不能﹂という意見に達した。
仮に海上に出ても、ろくに制御が利かないのであれば不時着水は
136
不可能で、もし逆の太平洋上に出ていれば、遺体も回収出来ないよ
☆山小屋
うな状態になっていたであろう。
八月二十日。墜落現場。
この日、群馬県警の依頼で業者によるプレハブ小屋の建築が始ま
った。
場所は生存者がいた北斜面の、群馬側からの登山口付近。
山小屋は八月二十三日に完成している。
遺体捜索終了後に取り壊す予定だったが上野村が山の森林復旧作
業に使いたい旨、払い下げて欲しいと申請してきたので、無償で払
い下げられた。
その後、一般開放され、遺族の休憩所として使われた。︵現在の
は老朽化で上野村にて建て直され三代目である。︶
陽が高く昇る頃には快晴になり、すると腹に響く﹁ドドドドド﹂
という二基のローター音を響かせてKV107?型バートル大型ヘ
リが埼玉方面から轟いてきた。
﹁自衛隊か?﹂警官達が空を見上げると、違うようだ。
、白い機体に赤と青のラインが入った民間用KV107?バートル
だった。
バートル大型ヘリは元々、アメリカのボーイング社で軍用ヘリと
して開発された機体だったが、民間需要も考慮して旅客仕様も作ら
れた。ライセンス生産を行っていた川崎重工でも作られたが、運行
費用が高く、主にチャーター便に運用されていた。
ヘリが近づくと、報道カメラマンが一斉にヘリにカメラの砲列を
向ける。
﹁ケッ!また、お偉さんが空から呑気に視察かいね。お気楽なもン
137
だなァ。﹂
警官の一人が、そう呟いて空を睨むと、カメラマンの一人が話し
てきた。
﹁あれ?知らないですか?ご遺族が乗っているんですよ?﹂
遺族達はヘリの窓から食い入るように地上を覗き込んだ。
やがてヘリの窓が開けられ、順番に花束が投げ出された。
遺族からの叫び声が地上にわずかに響いた。名前を呼んでいるよ
うだった。
空から落ちてきた花束を警官が集めて祭壇に飾った。
後ろ髪引かれる気持ちでヘリは現場上空から去っていった。
<i77126|8907>
☆自衛官とカレー・パーティ
八月二十二日。長野県川上村・川上第二小学校。
夏休みが終わった十八日から、自衛隊と生徒達の共同生活が続い
ていた。
修羅場と化した現場から帰った隊員達は、温泉の帰りに、いつも
小学校児童の合唱コンクールの練習を聞いていた。
山ひとつ隔てて地獄と天国の往復。
隊員達は、小学校児童達の歌声を聞きながら、それぞれが思いに
浸った。
辛かった現場。
彼らは多数の無残な子供達の遺体を見た。
食事を頬張りながら涙する隊員。
タバコをふかしながら天を見つめて黙っている隊員。
航空自衛隊は二十日に、ほぼ九割の遺体が回収されたので、任務
縮小となり、二十二日、小学校を撤収し、毎日一名づつ泊り込みで
138
宿直してくれた教職員達に挨拶に来た。
そして、折角のグラウンドと体育館を占領してしまい、迷惑をか
けた児童達にお礼をしたいと、生徒全員に航空自衛隊のカレーライ
スが振舞われることになった。
隊員総出で支度を開始し、白いエプロンを着けた隊員が調理を始
める。
トラックで移動出来る﹁野外炊具﹂と言われる大型調理器で次か
ら次にジャガイモ・ニンジンの皮を剥き、玉葱を切る。
大きなジュラルミン製の受けに山ほど乗っかった豚のこま切れを
隊員三人がかりで﹁おらよ!﹂と、煮だった鍋に放り込む。
授業中の児童から
﹁美味しそうな匂いがしてきた!﹂
と、声があがる。
﹁お昼は自衛隊のお兄ちゃん達がカレーをご馳走してくれるそうだ
ぞ!﹂
と、教師が言うと児童たちから歓声が上がった。
お昼のチャイムが校舎中に響き渡ると、児童たちは担任教師の先
導で体育館に向かう。
ステージ前に並んだ自衛官の前に、大きな鍋がズラリと並び、体
育館中にカレーの匂いが充満していた。
児童たちは一斉にお礼の言葉をかけると、並び始めた。
白い紙皿にカレーライスが振舞われる。
﹁みんな!おかわりあるからな!遠慮なくおかわりしてくれよ!﹂
児童達が楽しそうに食べ始めた。
食べる場所は決まっていなかったので、皆好きな場所で食べた。
ある隊員と仲良し女の子グループ達が一緒にグラウンドの片隅で
食べていた。
﹁こんな大盛り、食べきれないよ∼。﹂
﹁でも何で、自衛隊の人って、男の人が料理しているの?普通、女
の人が料理するじゃない?変なの∼。﹂
139
一緒にいた自衛官が返事に困った。
﹁でも、美味しいよ!﹂
その言葉に自衛官は顔を真っ赤にして
﹁ありがとう﹂と呟いた。
すると目の前に元気盛りな男の子が
﹁おかわり!おかわり!﹂
と、叫びながら体育館に走っていく。
全児童が休みの八月二十五日。自衛官総出で校舎の清掃を開始。
川上村体育館に必要資材と人員を残し、航空自衛隊は撤収した。
撤収したあとの校舎は、えんぴつ一つ動いていない事故前の状態
で維持され、キチンと清掃していったのを見て教員達は驚き、﹁児
童の模範﹂として称えた。
<i77165|8907>
自衛官に御巣鷹の尾根に捧げる川上第二小児童が作った千羽鶴を託す
︵川上第二小学校提供︶
☆発つ鳥、跡を濁さず
八月二十七日。群馬県上野村・上野小学校。
上野小学校は、この日が夏休み最終日。
夏休みは地方によって異なり、標高が低く比較的暑い群馬は少し
長めだった。
この日、朝から自衛隊トラックが集結し、大勢で道具を降ろす。
床ワックス機と大量のワックス缶、雑巾等の掃除用具だった。
陸上自衛隊・第十二師団は総出で校舎の清掃を始める。
校舎の窓は全てグラウンドに持ち運ばれ、全てを一枚一枚丁寧に
磨き上げ、校舎内はワックス機の音が鳴り響き、トイレも隅から隅
まで素手で磨く。 140
ひととおり、グラウンドが片付くと、今度はロードローラーで丁
寧にグランドを整地し、軍用車のコンバット・タイヤが多数付けた
轍が消えた。
野戦厨房や野外入浴セットが設置されていた場所は消石灰が撒か
れ、消毒が施された。
夕方、ビッカビカになった校舎に神田校長は言葉を失った。
昨日まで戦場の前線基地と化していた校舎は、夕日に照らされて
ピカピカに輝いていた。
﹁今までのご無礼、大変お詫び申し上げます。ありがとうございま
した。﹂
師団長と部下が校長に深々と頭を下げ帰っていった。
師団旗と赤地に四連の金の桜花が入ったプレートを掲げた国防色
のワゴン車が、夕暮れの中を去っていくのを見て頼もしく思えた。
静まり返った校舎の廊下を、スリッパをペタペタ鳴らして職員室
に向かう。
夕暮れの日差しが窓から入り込みピカピカに輝く廊下を眺め、呟
いた。
﹁居なくなっら居なくなったで寂しくなるもんだなァ︰︰︰。﹂
神田校長は、違憲の軍隊・自衛隊を快く思ってはいなかったが、
この事故で自衛隊に対する見方が変った。
有事の際の、自衛隊の大切さを実感した。 この事故で多数の未来ある児童達が命を奪われた。
その児童達の分も含め、川上村・上野村の児童たちは力一杯に生
きて、人生を楽しみ、時には苦しみ、現在に至っている。
私の妻もその一人である。
<i89450|8907>
☆仕事にならない
141
八月二十三日。東京。
定雄は久しぶりに出勤した。
会社の事務所で、朝の挨拶で定雄が挨拶した。
しかし、頬がすっかりコケ、やつれ果てた定雄を見て誰もが心配
した。
机に座った定雄は、溜まった書類を整理していた。
しばらくして、定雄の机の電話が鳴る。
﹁プルルルル、プルルルル、プルルルル︰︰︰。﹂
電話に出ないので、不審に思った同僚が定雄を見ると、うつろな
表情で書類を持ったまま固まっている。
﹁松原さん!電話!﹂
慌てて定雄は電話を取ろうとしたが、机上の書類の山と、事務用
品を、うっかり手に引っ掛け床に散らばしてしまう。
﹁お待たせ致しました︰︰︰。﹂
ふと、定雄が見ると、同僚が電話を取ってくれていた。
床に散らばった書類を片付け始めると、同僚達が寄ってきて手伝
ってくれた。 お昼休み。
皆で近くの牛丼店で食事をとるが、定雄は、牛丼に全く手を付け
ず、呆然としている。
昼食が終わり、しばらく経つと、上司が定雄さんを個室に呼び出
した。
﹁はい。﹂
﹁松原君、大丈夫かね?﹂
﹁はい、︰︰︰なんでしょう。﹂
﹁︰︰︰。﹂
上司がタバコを吸い始めた。
﹁松原君、ちょっと有給取って旅行でも行ってきなさい。﹂
定雄は、上司の顔を見て詰め寄った。
142
﹁大丈夫です!仕事させてください!﹂
上司が声を荒上げた。
﹁仕事になってないだろうが!﹂
定雄は黙ってしまった。
﹁いいかい、俺はね、会社の為に言ってるんじゃないんだ。君の為
に言ってるんだ。自分の顔、鏡で見たか?凄いやつれ果てて見るに
絶えないんだよ。皆心配しているんだぞ。一週間ばかり、温泉にゆ
っくり浸かって、美味しい物食べて、綺麗な風景見て、な?元気な
顔して会社出てきなさい。﹂
定雄は已む無く無期限休暇を取る事にした。
☆カウントされなかった五百二十一名目の犠牲者
八月二十四日。
地中から人型の小さな遺体が発見された。
人間の割には小さい三十センチ位の遺体だったので、事故に巻き
込まれた猿の遺体と思われたが、一応、鑑定に回された。
だが、鑑定に回したのは大正解だった。
実は、六ヶ月目の胎児で、事故の衝撃で母親のお腹から飛び出し
た遺体であった。
報道では﹁五百二十一名目の犠牲者﹂と報じられたが、まだ生ま
れていなかったので正式に﹁一人の人間﹂とは認められず、あくま
で﹁母親の部分遺体﹂として扱われたので、被害者人数に加えられ
なかった。
住民票も、死亡確認書も無い、かわいそうな遺体の為、父親が﹁
巧﹂と名づけ、個別に弔った。
それを聞いた、茨城県の住職・皆川良誠氏は気の毒に思い、今も
この胎児の為に一ヶ月に一度、慰霊の園に供養に訪れ、正月には、
特大の餅を作り捧げている。
143
☆最後の大捜査
八月二十八日。群馬県上野村。
二十日には自衛隊が現場から完全撤収し、警官の数も千人から四
百人に縮小し、二十七日に、正式に﹁大規模遺体捜索終了﹂となっ
た。
だが、現場の警官に納得しない者が多数おり、最後に、もう一度
﹁ローラー作戦で見てみよう。﹂との事になった。
そこで、上野村の消防団、そして隣の万場町の消防団も動員され、
大規模なローラー作戦を開始した。
警察官がラウド・スピーカーで指揮をする。
全員が一斉に小型スコップや手掘りで前進しながら掘り進める。 焦げた小銭、曲がった車の鍵、キーホルダー等細かい遺品が出てく
る。
さすがに大きなものは出てこなかったが、ミイラ化した皮膚の破
片や炭化した骨片が多数発見された。
<i77223|8907>
持ち主不明のフォルクスワーゲンのキー。︵日本航空蔵・ご遺族提
供︶
☆一時見舞金
八月二十九日。千葉県千葉市。松原幸子のマンション。
定雄は長期無期限休暇を貰い、会社を休んだ。
部屋の床にはビールの空き缶が幾つも転がり、灰皿は吸殻で一杯。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋で定雄は、遺影に向かってブツ
ブツ独り呟いていた。
144
すると、玄関のチャイムが鳴り、定雄は﹁ビクッ﹂として玄関の
方を向いた。
尋ねてきたのは日航の世話役だった。
世話役は、定雄の亡霊のような顔に驚き、
﹁大丈夫ですか?﹂
と、声をかけたが、何も答えず、﹁どうぞ。﹂と部屋に招き入れ
た。
床に散らかる空き缶を足で蹴飛ばしてどける。
食卓で二人は対面して座った。
定雄が切り出す。
﹁なんですか今日は?﹂
﹁あ、あのですね、一時見舞金が出ることになりまして︰︰︰。﹂
世話役がバッグから現金150万円と書類を取り出した。
黙って定雄は受け取った。
世話役が帰った後、定雄は、150万円の札束を見つめた。
<i89512|8907>
﹁︰︰︰。﹂
そのまま定雄は食卓に突っ伏したまま寝てしまった。
起きると、もうカーテンからの日差しは無く、夜になっていた。
ふと、目の前にある札束を見つめる。
﹁こんなもん、貰ったって幸子が生き返るって訳じゃないよな︰︰
︰。﹂
そう思うと、はらわたが段々煮えくり返ってきた。
定雄は、おもむろに札束を握り締め、玄関に投げ飛ばす。その時、
電灯の紐に手が引っかかり部屋が急に明るくなった。
怒りが爆発した定雄は、食卓を蹴っ飛ばし、リビングのソファー
をひっくり返し、本棚の本を次から次に鷲掴みにして投げ飛ばした。
145
﹁うおおおおお!﹂
部屋に定雄の怒りの雄叫びが響く。
すると、オーディオの上にあった、日航ジャンボ機の模型が目に
入る。
﹁︰︰︰この野郎ォ!﹂
定雄は、おもむろに幸子が大事にしていた日航ジャンボ機の模型
を鷲掴みにし、天高く振り上げ、床に叩きつけようとした。
だが、模型を持つ手が止り、震えたまま、定雄は固まった。
冷静に部屋を見ると、自分が怒りで散らかした本や札束が舞い、
ビール缶が床一面に散乱している。
定雄は、自分が情けなくなり、その場にしゃがみこみ、日航ジャ
ンボ機の模型を抱きしめたまま、号泣した。
﹁ごめんよ︰︰︰ごめんよ︰︰︰幸子ォ︰︰︰許してくれえ︰︰︰。
﹂
☆傷心の旅路
九月一日。
事故現場は立ち入り禁止で、一応、登山口に通じる道は警察によ
って検問が行われてはいたが、遺族を力ずくで制止は出来なかった。
だが、ついにこの日、遺族の一人が亡くなってしまう。
登山中に落石が頭に命中したものだった。
その為、これまで注意だけだった乗客遺族の強行登山は完全に禁
止となる。
この日、定雄は、一人旅に出ていた。
幸子とかつて行った伊豆の温泉旅館。
静かな雰囲気が好きだった。
146
ましてや、世間は夏休み明けだったので、定雄しか客がいなかっ
た。
だが、その静粛が、益々定雄を追い詰めていった。
外の空気を吸おうと海岸に出た定雄。
人気が殆ど無い海岸で一人しゃがみこむ。
遠くで若い夫婦の家族連れが楽しんでいた。
小さな子供が﹁キャッキャ﹂言いながら海岸で波と戯れている。
﹁子供か︰︰︰。﹂
定雄は幸子と早めに子供を作っておけば、こんなことには︰︰︰
と後悔し、再び悲しみが襲う。
悲しかったが、涙はとっくに枯れ果て、出てこなかった。
<i89008|8907>
いつの間にか夕方。誰も居ない夕暮れの海岸。
夕日に輝く海を見ながら、定雄はゆっくり立ち上がった。
﹁幸子︰︰︰。﹂
波打ち際に来ると、そのまま前進。まるで地続きのように海へ、
海へ歩いていった。
すると、通りかかった地元の漁師達が、服を着たまま一人、海の
中を沖へ歩いていく定雄を見つけた。
﹁おい!あいつ!なんか、おかしいぞ!﹂
﹁こら!なにやってんだ!﹂
定雄は反応せずに、段々と肩がつかって、ついに頭しか見えなく
なった。
﹁バカヤロー!﹂
漁師三人が海に入り、定雄に追いつこうと泳いだ。
無理やり皆で暴れる定雄を引っ張って海岸に引きずりだした。
﹁なにやってんだ!死ぬ気かい!﹂
漁師達が怒る。
147
定雄は、ずぶ濡れのまま、海岸にへたりこんだ。
何も返事もしないので、仕方なく駐在所に連絡し、定雄を保護し
てもらった。
駐在が定雄に職務質問した。
﹁あんた、自殺する気だったのかい?﹂
定雄は、弱々しく答えた。
﹁︰︰︰あのまま︰︰︰死ねたら︰︰︰よかったですねェ︰︰︰。﹂
定雄は駐在の判断で、警察署に連行され﹁自殺志願者﹂として落
ち着くまで留置所に入れられ保護された。
九月二日。午後一時。
幸子の妹・明実の夫・和夫が静岡県警から連絡を受け、一人、定
雄を身元引受人として拘留されている 警察署に迎えに行った。
﹁なんで伊豆なんかに︰︰︰。﹂
十日ぶりに会った定雄の変わり様を見て和夫は言葉を失った。
無精髭を生やし、髪は乱れてバサバサ。綺麗好きで几帳面な定雄
が、ここまで追いつめられていたのかと思うと辛かった。旅館に残
りの代金を払い、定雄の車は地元の自動車ディーラーに陸送を手配
し和夫の車で帰路に就いた。
出発から三十分、沈黙していた定雄が呟いた。
﹁子供︰︰︰作っておけばよかったよ︰︰︰。﹂
定雄がようやく口を開いた。
﹁子供︰︰︰作っておけば、幸子だって仕事辞めざるを得なかった
からなあ。そうすれば死なずに済んだ︰︰︰。﹂
和夫が困った顔で何気に答えた。
﹁ああ︰︰︰。そう︰︰︰かもな。﹂
定雄はムッとした顔で和夫の横顔を睨んだ。
148
﹁和夫君、君だって人事じゃないだろう。明美さんだって全日空の
客室乗務員だし、このままでいいのか?﹂
﹁まあ︰︰︰いずれ︰︰︰な、ははは。﹂
和夫が話をそらすと定雄は声を荒上げた。
﹁いずれだって?飛行機事故なんかいつ起こるか分からないだろう。
もし、もしだよ、明実さんが乗ってる全日空機が今だってどこかに
墜落するかもしれないんだぜ!﹂
和夫は、目の前にあったパーキングエリアに急ハンドルで入り、
急ブレーキで車を止め、定雄を睨んだ。
﹁あのさァ、定雄君、例えでもそんなこと言っちょし!﹂
﹁でもさ、事実だろ?飛行機は上空で壊れたら、あとはもう助から
ないじゃないか!逃げられないじゃないか!﹂
和夫は拳でハンドルを強く叩き怒鳴った。
﹁だから飛行機乗んなってのか?よ!だったら他の乗り物はどうよ
!な?歩いてたって車に撥ねられるこんもあんじゃんな!家から一
歩も出れんってこんじゃんな!!﹂
定雄も顔を真っ赤にして反論する。
﹁そんなこと言ってるんじゃない!和夫君は、明実さんと子供をさ
っさと作って、専業主婦に専念させた方がいいって言いたいんだよ
!客室乗務員なんか危険な仕事よりもさ!﹂
和夫はリアシートのビジネスバックを取って怒鳴った。
﹁あんたな!幸子さんの事、理解してんのか本当に!﹂
定雄が怒った。
﹁してるさ!決まってるだろ!この世で最も理解してるさ!﹂
和夫はバッグから新聞を取り出して定雄さんの膝に叩きつけた。
﹁読め!﹂
定雄は、その新聞を広げた。
すると、﹁夕刊フジ八月二十八日号﹂に山下運輸大臣がインタビ
ューで、偶然事故機が123便に使用される前の便で飛んだ福岡発
羽田行き366便に乗っていたことが書いてあった。
149
そして、﹁松原幸子さんという客室乗務員がいて︰︰︰。﹂と書
いてあった。
定雄は血相を変えて新聞を閉じた。
﹁読めよ!この野郎!﹂
和夫が青筋立てて怒る。
定雄は、初めて証言された、幸子の亡くなる二時間前の姿を読ん
だ。
﹁二階席に乗った山下運輸大臣︵当時︶は、客室乗務員の松原幸子
さん︵三十歳︶が事故被害者名簿に載っていた事に非常に心を痛め
たという。何故なら、彼女にとって私が最後に長々と世間話をした
乗客だったろう・・・彼女がサービスのお茶を持ってきた時、私が
出身地を尋ねたら、私の妻と同じ出身地だったので、意気投合して
思わず三十分も彼女と話し込んでしまった。着陸前に、彼女が日航
ジャンボ機のプラモデルを渡してきて﹃お孫さんにどうぞ﹄と言わ
れた時は嬉しかった。羽田に着いてからも彼女は私の重い荷物を一
階まで運んで見送ってくれ、なんて優しい娘さんだろう︰︰︰。﹂
︵夕刊フジ 1985年8月29日号より︶
定雄は、一旦目を逸らした。
一息ついて続きを読む。
﹁その後、私の乗っていた飛行機が次の便で行方不明になったのを
知り、またか!と思った。かつて私は日航機で怖い思いを二度させ
られた。だが、事故機名簿に彼女の名前を見て︰︰︰落ち着いたら
ご主人にお目にかかって報告したい。﹂
定雄は、新聞を握りしめ、黙ってしまった。
和夫が話しかけた。
﹁スチュワーデスって仕事はさ、そこらの仕事と違って、厳しい訓
150
練と猛勉強の末にようやくなれる仕事なんだ。俺ら外部の奴がしゃ
しゃり出て、簡単に﹃辞めろ﹄なんて言えるようなモンじゃないん
だよ。好きじゃないと出来ない仕事だ。それに、毎回楽しそうな顔
して帰ってくる明実を見てるとこっちも嬉しくなるし。確かに事故
は怖いけど︰︰︰な。どうせ、若いうちしか出来ない仕事なんだか
ら、そろそろ潮時かと思ったときに、自主的に子供作って引退して
もらえばいいと、俺は思ってるよ。﹂
定雄は、幸子の自分の知らない顔を知り、ショックだった。
分かってやってるつもりだったのに、全然、幸子の事を分かって
やってなかった。もっと分かって、理解してやりたかったと後悔し
た。
<i77166|8907>
当時の夕刊フジ︵ご遺族提供︶
☆ボーイング社・修理手抜き認める
九月六日。
今まで事故機の修理が杜撰だった事をボーイング社は一切認めず、
﹁日本の事故調査委員会は経験・知識不足だから、アメリカの調査
に全てを委ねなさい﹂と云ってくる始末で、日米の事故調査委員会
に摩擦が生じ始めてきていた。
しかし、ここにきてようやく、ボーイング社独自で﹁修理の際に、
何らかの間違いがあった可能性が高い﹂と認めた。
内容は、圧力隔壁の修理の際に、シアトルから持ち込んだ補修パ
ネルが何故か寸法が足りず、仕方なく 足りない分を継ぎ接ぎし、
しかもボルトも短く、結果的に一列分のリベットが無い状態になっ
てしまったのだった。
151
日本航空は激怒したが、では何で七年間気がつかなかったのか?
修理立会いは行わなかったのか?﹁責任のなすり合い﹂と批判され
始めた。
ボーイング社は日本にある日航、全日空機、そして日本貨物航空
機も含めた全ての747型機に対し改修を行った。
圧力隔壁をとてつもなく頑丈な構造に追加補修を行い、垂直尾翼
に万が一にも破壊されないように内部点検口が開閉可能な扉で蓋が
され、操縦油圧四系統の配管も遮断弁が設けられ、万が一の破損で
もオイルが抜けないようになった。
しかし、本当に手抜き修理による事故だったのか、今現在も異論
が唱えられており、日本航空機長組合・乗務員組合・遺族の中では
﹁再調査希望﹂の声があり、日本航空本社も残骸及びボイスレコー
ダー等の証拠品を、再調査開始次第いつでも提供するとしているが、
再調査の動きは2011年2月現在もなく、世間ではこの事故は﹁
未解決﹂とする見方がされている。
つまり、どういうことかと云うと例えば1979年に一時飛行禁
止措置︵耐空証明取り消し︶されたDC−10の例がある。
1972年に貨物ドアが破損し墜落しかけた事故で、欠格という
事でリコールを出そうとしたが、当時ベトナム戦争で経済が疲弊し
ていた為に当時の政治的圧力で握りつぶされたがその後、1974
年に墜落事故に発展してしまった。
そこで、世界の顔であるボーイング747型機そのものが欠格だ
ったらどうなってしまうかである。
それを避ける為に事故の結論を747そのものではなく事故機固
有のものと結論を出来るだけ早期に出し、世界的に大損害を被るの
を阻止したのでは?という見方もある為である。
152
現に2001年のハイジャックした旅客機そのものをテロリスト
が操縦し、乗客乗員もろとも爆弾の代わりとして用いられた9・1
1テロではアメリカ本土全土が数日間飛行禁止になった損害は膨大
なもので、このテロの飛行禁止措置が世界中の物流経済に多大な影
響を与え、世界各国の航空会社数社が倒産、日本も2003年の日
本航空と日本エアシステムの大合併劇があったが、このテロの影響
もある。
<i77219|8907>
事故原因と言われる事故機の圧力隔壁︵日本航空蔵・ご遺族提供︶
☆嫌がらせ
九月十五日。千葉県千葉市。松原家マンション。
あの新聞が発行されて以来、自宅へのいたずら電話や誹謗中傷の
手紙が大量に舞い込み、定雄はさらに疲弊した。
定雄は二、三日会社に出たが、会社にも来る嫌がらせの電話や手
紙に耐え切れず、退職届を出したが上司の一存で受理されずに、再
び無期限休暇が与えられていた。
遺族に対する嫌がらせは、機長をはじめとする乗務員遺族だけで
はなかった。
運行中の機内での客室乗務員や、窓口での嫌がらせも多発した。
その一方で、乗客遺族にも容赦ない嫌がらせが多発した。
主に金に関する皮肉が多く、金が絡むと、こんなに人間汚くなる
ものかと思うほどの罵詈雑言が浴びせられた遺族が多数いた。
たとえ、億・兆単位のお金が入ったって大事な人は永久に帰って
来ない。
この事故のせいで一家離散した家庭や社長の死やブレインの喪失、
仕事遅滞による契約破棄等で倒産した企業もあった。
153
また、生存者も加熱する報道に巻き込まれ、病室でも落ち着かな
い毎日を強いられ、ケガが直っても、後遺症や悪夢に悩まされ、さ
らに報道の追跡、金からみの嫉妬に悩まされた。
☆事故機搬出
九月十七日。群馬県上野村・本谷分校跡。
本谷分校跡は、かつて林業で栄えた時代にあった校舎で、林業の
事業縮小後に廃校になった場所である。
ここに、朝日航洋株式会社のヘリコプターが5機集結した。
この会社は墜落当日も活躍し、現場に近い長野県北相木村の山中
に作られた高圧電線工事用のヘリポート跡を活用し、報道陣を支え
た為、現場を熟知していた。
今回は日本航空と群馬県警の依頼で、墜落したジャンボ機の残骸
や、大量のゴミを搬出する為に依頼されたものだ。
木っ端微塵になったとはいえ、エンジンも一機だけでも当時、日
本で最もペイロード︵貨物吊上可能重量︶が大きいAS322﹁ス
ーパー・ピューマ﹂ですら持ち上げられない重量で、しかも、事故
検証で組み立てるので壊すことも出来ず、難航すると思われた。
しかし、結局仕方が無いので後の捜査に困らない範囲で切断や分
解が認められ、出来るだけ壊さないように分断されてから緩衝材で
包んで木枠に入れられ搬送された。
<i89002|8907>
梱包は地元の﹁多野林業﹂で行われた。
本谷分校跡に降ろされた残骸は重機運搬用トレーラーに積まれ、パ
トカーの先導で東京都・調布飛行場の航空技術研究所に運ばれた。
なお、群馬県警の依頼で運ばれたのは事故原因と考えられたエン
154
ジンと機体後部のみで、事故調査委員会の証拠押収品として搬送さ
れた。
<i89006|8907>
その他の主翼等の残骸や座席・貨物コンテナその他は日本航空に
引き渡された為、群馬県警とは別契約で十月から始められ、羽田の
日本航空整備倉庫に保管された。
その後、十月十三日より営林省が破壊された山林の損害賠償を日
本航空に請求した分で、現状復帰作業が行われた。
主に倒木等の搬出や、土砂崩れ防止のネット取り付け、沢の水質
調査等であり、営林省の立会い調査に合格して作業が終了したのは
十月二十二日であった。
☆藤岡市民体育館撤収
九月二十八日。群馬県藤岡市・藤岡市民体育館。
この日までに身元が確認されて遺体が引き渡された数は515体。
残りはあと五人分となった。
遺体の惨状は、収容総計が520名に対して1702体だったと
云えばどんな状態なのか、ご理解して戴けると思う。
もう遺体の引き取りを断念して引き揚げた家族もいれば、全く見
つからなく、指一本でも構わないと毎日尋ねてくる家族、あの世で
歩けないからと見つからない手や足を捜しにくる家族。
そういった遺族の為に検屍係は毎日、朝早くまで地道な検屍を続
けていた。
しかし、いつまでも市民体育館を使ってる訳にもいかず、遺体も
少なくなったので前橋の機動センターに移動することになった。
155
最終日の二十八日。この日も夜遅くまで検屍を行っていた。
ドライアイスで冷凍保存していた遺体を少しずつ溶かしながら慎
重に調べていく。大人の女性の指だった。
腐食しかけて、しかも、ふやけているので慎重に指紋を取る。す
ると千葉県警から送られてきた資料の中に該当指紋があった。
当時、犠牲者が各都道府県に散在していたので、各都道府県警察
に依頼し、犠牲者の住まいや自家用車等から指紋や髪の毛等をサン
プルとして採取していた。
指は事故機の客室乗務員、松原幸子さんの唯一欠損していた左手
人差し指と断定された。
九月二十九日朝。 松原幸子妹・吉川明美さんの自宅。
夫・和夫は、朝食を食べながらテレビを見て、明実は全日空の客
室乗務員の制服を着て、化粧をしていた。
すると、電話が鳴った。明実が電話に出る。
九州の自宅からだった。
﹁えっ!幸子姉ちゃんの指が見つかった?よくあんな現場で見つか
ったね!﹂
その言葉を聞いた和夫の手が止った。
﹁仕事?いいよ、休むから。で、定雄さんには?﹂
﹁それが、電話、何度かけても出ないんだよね︰︰︰。﹂
和夫も急遽仕事を休み、まず定雄のマンションへ向かった。
マンションの駐車場に、定雄の車、黒の三菱ギャランΛターボが
埃を被って停まっていた。いつも風景が映るほどテカテカに手入れ
してあるのに。
﹁︰︰︰。﹂
嫌な予感がした和夫は、明実に自分の車、フォルクスワーゲン・
ゴルフのキーを渡し、一人で群馬に行くように言った。
明実の乗る車を見送った後、和夫は単身、定雄のマンションに向
156
かう。
ポストには新聞が詰まり、入りきらずに床に置いてある。
郵便受けもビッチリと手紙が山となっている。
管理人にお願いして部屋を開けてもらうと、暗く、静まり返って
いる。
﹁まさか︰︰︰。﹂
恐る恐る入っていくと、誰もいなかった。
トイレにも風呂にもいない。
とりあえず心配なので警察に行方不明者捜索願いを出したが、す
ぐ、それらしい特徴が似た男性が見つかった。
二十キロ離れた森林公園で、二日前に身元不明の首吊り自殺体が
見つかっていたのだった。
﹁あの馬鹿野郎︰︰︰なんてこった︰︰︰。﹂
和夫の口から思わず漏れた。
とりあえず、自殺遺体の保管された病院へ向かった。
午後一時。群馬県藤岡市
検屍場が藤岡市民体育館から前橋機動隊センターに移ったので、
藤岡警察署に指を預けて検屍場が移動していった。
明実は、小さな桐の箱に入った指を確認した。
指は、丁寧にファンデーションで化粧され、大切に扱われたこと
を物語っていた。
﹁こんな小さなものまで、丁寧に︰︰︰姉も喜んでいるでしょう。
ありがとうございました。﹂
検屍官に深々と頭を下げて、指を大事に持って帰ろうとしたその
時だった。
﹁吉川様、お電話です。千葉の警察署から。﹂
明実は悪寒が走った。物凄い嫌な予感がした。
和夫が待っている千葉の病院までかけつける。
157
着いたのは夕方だった。
明実は警官に遺体安置所に招かれ、暗い地下の廊下を歩いた。
和夫が、警官と話をしながら待っていた。
重い鉄の扉を開くと、遺体が安置されていた。
重苦しい臭いと線香の臭いが充満している。何度この臭いを嗅い
だか。
﹁顔︰︰︰見てもいい?﹂
和夫は静止した。 ﹁本当に︰︰︰定雄さん?﹂
和夫は黙って頷いた。
明実は悲しみと怒りが同時に込み上げ、涙しながら遺体に向って
怒鳴り散らした。
﹁いくら仲がよかったって言ったって、自殺することないじゃない
の!﹂
明実は、しゃがみこんで号泣した。
松原定雄︵享年三十一歳︶。両親は亡くなっており、一人息子で
身寄りは無かった。これで松原家は全滅してしまった。
雨が降ってきた。
主のいなくなった定雄の愛車。三菱ギャランΛターボ。自慢の車
だった。
埃が雨で流され、持ち主の綺麗好きな性格を示すかのごとく、ワ
ックスの利いた黒い車体を多数の大粒の水滴が転がる。
まるで持ち主が亡くなったのを悲しむように。
もう、この車で仲良く出かける夫婦はいない。
誰も居なくなったマンションの部屋。幸子の最後の声が残ってい
た留守番電話の録音テープと、幸子が大事にしていた日航ジャンボ
機の模型が、遺影と一緒に食卓に丁寧に並べてあった。
二日後の朝。
158
定雄の遺体が死化粧を施され棺に入れられると、明実は、桐の小
箱を手に握らせた。
幸子の指だった。
特別に許可を貰って一緒に弔った。
秋の澄んだ、どこまでも蒼い空に、定雄は幸子の指を届けに、あ
の世へ旅立って行った。
☆取り壊された藤岡市民体育館
九月三十日に返還された藤岡市民体育館。
群馬県警察は清掃して返還されたが、腐食した大量の遺体の腐食
臭が完全に染み付き取れず、しかも全国的に﹁遺体検屍場﹂として
知られた為、已む無く取り壊されてしまった。
最後の役目は合同慰霊祭だった。
一九七一年完成。この種の建造物としては短い、わずか十四年の
寿命だった。
その後、跡地に藤岡市民ホールが建てられ現在に至る。
一緒に建てられた武道館と、隣のNTTビル、道を挟んで藤岡市
公民館、そして藤岡市藤岡交差点の歩道橋が当時からの面影を残し、
公民館敷地内に慰霊碑が建てられている。
そしてヘリポートだった藤岡第一小学校は殆ど当時のままだが、
あの日が嘘のように児童のはしゃぎ声が響き渡っていた。
☆地上勤務
十月の初め。全日空・ロッキード・トライスター、羽田発那覇行
き。
明実の今日の職場だった。
そして、最後の空の職場だった。
明実は、後輩に﹁ラバトリー点検してくるね。﹂と伝えてトイレ
159
に入った。
そこで彼女は静かに聞こえないように嘔吐した。
あの事故以来、生理も来なくなり、気が滅入っていた。
﹁参ったなァ︰︰︰精神的にきているのかな?﹂
明実は上司のチーフパーサーに具合が悪い旨を伝え、今日は那覇
で病院に行き、明日帰る事にした。
翌日夜。和夫が帰宅した。
すると、明実が深刻な顔をして待っていた。
﹁おう、ただいま。﹂
﹁おかえりなさい。ちょっと来て︰︰︰。﹂
明実の様子がおかしい。
リビングのソファーに二人で座った。
﹁どうした?﹂
﹁私ね︰︰︰飛行機降りたの。地上勤務になったの。﹂
和夫は怪訝な表情をした。また何か悪い事が起こったのか?と思
ったからだ。
﹁なんだ、なんだ?今度は何があった?﹂
明実が和夫の目を見て答えた。
﹁だって、妊娠してて、スチュワーデスなんか無理でしょ?﹂
和夫はビックリして、のけぞった。
﹁で︰︰︰いつだ?﹂
﹁妊娠二ヶ月だって。だから来年六月の予定よ。﹂
和夫は立ち上がって喜んだ。
﹁やった!マジかい!よくやった!これでオレも父親か!すげえ!
いや∼、参った参った!ウハハハハハハ!﹂
喜ぶ和夫に明実が聞いた。
﹁︰︰︰二ヶ月前って何があった?﹂
和夫は突然の質問に考えた。
﹁?幸子義姉さんが亡くなった日だろ?﹂
160
明実は和夫の手を握り、嬉しそうに答えた。
﹁きっと、幸子姉さんの生まれ変わりよ!﹂
喜ぶ明実の手を慌てて振り解き、和夫は答えた。
﹁何言って︰︰︰おいおい、偶然に決まってらァ!偶然だよグーゼ
ンッ!ははははは!便所行ってくらあ!﹂
和夫はそのままトイレに行ったが、トイレに座りながらジックリ
考えた。
夏から暗い話ばかりだった中で、久しぶりに心から喜べた日だっ
た。 あとは翌年の春の誕生を心から楽しみにするばかりだった。
☆全日空・円満退社
十二月一日。羽田空港。
全日本空輸・羽田空港客室乗務員第二課会議室。
日航123便事故機客室乗務員・松原幸子の妹、吉川明実は、妊
娠により体調が優れなくなったので依願退社し、この日が最後だっ
た。
夕方。デスクワークが終わり会議室に呼び出され入ると、突然同
僚達が﹁パン、パン!﹂とクラッカーを鳴らした。
明実の頭に紙吹雪が被さる。
﹁ご懐妊おめでとう!﹂
﹁今までご苦労様でしたァ!﹂
明実の同僚が皆で祝福した。
後輩が、綺麗な花束を持ってきて明実に手渡した。
﹁良いママになってくださいね!また、落ち着いたら来てください。
﹂
161
明実は、嬉し涙を堪えきれず、後輩の客室乗務員も泣いた。
課長より滞空証明書を受け取り、ビルを出ると明実は振り向いた。
︵滞空証明書は生涯勤めた空の時間を示す。︶
ビルに﹁全日空﹂の文字が茜色に染まっていた。
冬の冷たい風が体に染みる。
後ろで、甲高いジェット音が響き、日航ジャンボ機が離陸してい
く。
日航123便と同型機のボーイング747SR46型だ。
﹁︰︰︰あの日も、あんな感じで飛んで行ったんだね。幸子姉ちゃ
ん。﹂
日航機は、白い胴体を夕焼けに照らして、あっという間に高空に
舞い上がり、飛行機雲だけ残して夕暮れの空に消えた。
そして、間を置いて離陸して行った滑走路に、自分の職場だった
全日空のロッキード・トライスターが着陸灯を輝かせて着陸してく
る。
両機共、八十年代の日本を代表した機体だ。
全日空契約の明実が利用していたタクシーが来た。
夕暮れの首都高速。明実は走るタクシーの車窓から、群馬方面を
陽が沈むまで見つめ続けていた。
現在、この全日空・羽田空港客室乗務員第二課の入る向かいの空
港設備管理ビル二階に、日本航空・安全啓発センターがあり、12
3便の残骸と身元不明の遺品が展示され、あの事故の凄まじさを今
日も伝えている。
ここには日本航空社員だけでなく、全日空の社員も訪れている。
︵2014年現在は移転しております。︶
<i77224|8907>
☆財団法人 慰霊の園 設立
162
十二月十八日。
ついに身元が確定出来なかった部分遺体485体。
十二月二十日に荼毘に付されることが決定されたので、群馬県警
はこの日最後まで残存遺体と資料を見比べて、終了した。
身元が判明した被害者は520名のうち518名。
2名は手がかりが無く、何も得ることが出来ないまま終わってし
まった。
だが、全身が発見されたのは192名。
残る326名は手や足等の部分的な遺体での発見だった。
485体は部分や性別等に細かく分別され、二十日、群馬スポー
ツセンターにて上野村主催で群馬県内の各火葬場で荼毘に付され、
79壷にまとめられた。
翌二十一日。群馬会館大ホールにて日本航空主催で供養式が行わ
れ、十月に荼毘に付されて、上野村に引き取られた。
上野村が引き取った理由は明治三十五年に制定された﹁行路病人
及び死亡人取扱法﹂に基づいたもので、﹁身元不明の死亡人が発見
された際は、発見地の地方公共団体が永代弔う﹂ことになっている
のに基づいたものだった。
だが、これは放浪の旅人や、自殺者に適用されるもので、大型航
空機の墜落事故等の外部からの大量死を想定したものではない。
普通であれば、その市町村のお寺の墓場にある無縁仏に埋葬され
るが、世界的な大事故であるので、そう簡単には済ませられない。
しかし、人口千五百人程度の上野村には重荷すぎる。当然、上野
村だけでは、とても補えない。
その為、﹁日航機事故﹂は、上野村と全く違う組織として切り離
した﹁財団法人・慰霊の園﹂を設立し、運営する事にした。
その財源確保の為、政府予算会議出席で東京に行く際に、日本航
空に財源の相談を行った。
結果、日本航空が十億円、その他、上野村・群馬県・犠牲者が所
163
属した企業からの浄財・全国からの寄付、機長等乗員遺族の寄付、
合わせて十二億円が用意出来た。
慰霊の園の所在地は、山中深くの事故現場だと、行けない人も大
勢出てくると予想され、村の集落内に設ける事とし、上野中学校の
近くの土地を村民から寄付して貰い確保出来た。
墜落現場までの道は、事故直後から遺族が登り、死者まで出して
いるので整備しようと考えたが、遺族からは﹁気楽に誰でも来て欲
しくない、面白半分に肝試しで来て欲しくない﹂との意見があった
ことから、遺族と話し合い、元から存在した営林整備用の林道行き
止まりから道路を二キロ延長し、そこからは登山歩道として整備す
る事に決まった。
だが、整備するには、国有林の為、営林省の許可が無いと何も出
来ない。
木の一本切ってはいけないし、踏み分け道すら作ってはいけない。
そこで営林省に工事と事故現場の整備の許可を依頼した。
すると、本来、この手の認可は時間がかかるのが定番だが、内容
が内容なのでスピード認可された。
あとは、雪解けの翌年四月からの着工を待つばかりとなった。
年末、雪が積もる墜落現場近くの林道に、現場に向かってポツリ、
ポツリと足跡があったという。
蒼い空が広がる晴れ渡った冬山の足跡は、どことなく哀愁を感じ
させた。
二月十七日。
財団法人・慰霊の園が県議で認可され十九日に発足した。
四月十九日。
墜落現場は名も無い場所だったので、上野村・黒澤村長が﹁御巣
鷹の尾根﹂と正式に命名した。
164
御巣鷹山とは、墜落現場近くの山で、本当は隣の、長野・群馬県
境に位置する高天原山の山麗の系列で、御巣鷹山は関係無かったが、
墜落現場判明の際に広く知れ渡った為、その山の名前を取って名付
けられた。 事故翌月に、報道で高天原山に訂正されたが、周知されずにその
後も未だに﹁御巣鷹山﹂と紹介されている事が多い。
四月に入ってから、上野村に多数の土木関係の車両が入ってきた。
ついに慰霊登山道や、慰霊の園の工事が始まったのである。
七つの業者に分担させ、一周忌に間に合うよう急ピッチで進めら
れた。
☆新しい命
六月二日。東京都練馬区。
事故機の客室乗務員・松原幸子の妹夫婦、吉川家。
夜七時半、明実は夫の和夫とテレビを見てて思わず大笑いした、
その時。
明実がつぶやいた。
﹁あ︰︰︰。﹂
和夫が明実の顔を見た。
﹁どうした?﹂
﹁破水︰︰︰したみたい︰︰︰。﹂
和夫が動揺した。
﹁破水!破水だって?破水すると︰︰︰ど、ど、どうなるんだ?﹂
明実が苦しみ始めた。
ジワっと明実の座る座布団が濡れ始めた。
和夫は明実の指示でタオルを出来るだけ沢山持ち出し、明実があ
らかじめ用意していた入院用バッグを持って、駐車場に走った。
165
苦しむ明実を車に乗せると、急いで、しかも振動を与えないよう
に走った。
運よく、信号にも捕まらず、渋滞にも合わずに着いた。
産婦人科病院へ着くと、明実を看護婦に委ねて、公衆電話で電話
をかけた。職場の上司へ、明日は休む旨伝え、義両親に連絡する。
するとテレホンカードが無くなり、仕方なく受付にありったけの
お金を十円に両替して貰い、九州の義両親に電話した。
電話してる最中に十円玉を床にばら撒いてしまい、一人、お祭り
騒ぎになってしまった。
病室では明実が今まで見たことが無い位、苦しみ悶えていた。陣
痛である。
とりあえず、腰をさすってあげ、励ます。
あまりに苦しそうなので、看護婦を呼ぶと、﹁我慢するしかない﹂
と言われ、必死に励まし続けた。
朝六時。
明実は分娩室へ運ばれた。
もうすぐ、初めて、自分の子供を見る。
自分は父親になるんだ。ドキドキしながら分娩室に入った。
和夫は明実の手を握り締め、応援した。
看護婦さん達も励ます。
﹁頑張って!もうすぐだから!﹂
明実の苦しむ顔が痛々しい。
﹁あ︰︰︰あ!あー!﹂
明実の苦しむ声が止んだと同時にか細い声が聞こえた。
﹁ほ︰︰︰ぎゃ︰︰︰ほぎゃ、ほぎゃ!﹂
﹁おめでとうございます!﹂
赤ちゃんを、看護婦はタオルでふき取り、明実の枕元に置いた。
﹁私の︰︰︰赤ちゃん︰︰︰。﹂
明実が泣き出した。
166
和夫は目に涙を浮かべて明実の手を強く握った。
﹁よく頑張った!明美!ありがとう!﹂
元気な女の子だった。
あの事故から十ヶ月。姉が事故で亡くなって、夫の定雄が自殺し
て︰︰︰。
二人の命と入れ替わりに新しい命が誕生した。
まだ一周忌も迎えてないので﹁おめでとう﹂というのは厳しいが、
﹁おめでとう﹂という言葉が、やはり出てしまう。
事故直後の懐妊に、女の子の誕生。
親戚一同は、﹁幸子の生まれ変わりだ﹂と喜んだ。
一九八六年六月三日午前九時三十六分生誕 命名・吉川 望美
☆一周忌
事故から一年後、川上村婦人会で三国山登山口の定期清掃を行っ
た。
その際、道脇から多数の軍手やビニール手袋が見つかった。
﹁あの事故で自衛隊が使ったものかねえ︰︰︰。﹂
主婦達がそう話しながら拾い続けた。
一九八六年八月一日。群馬県上野村。
この日、墜落現場にて﹁昇魂の碑﹂の除幕式が行われた。
陸上自衛隊・第十二師団が設営した元・第二ヘリポート跡入り口
である。
上野村村長であり、慰霊の園の理事長でもある黒澤丈夫氏が執筆
を行った文字が刻まれている。
その裏には祭壇小屋があり、この小屋は群馬県警が撤収の際に作
ったもので、雨ざらしだった供え物を、ここにまとめた。
167
そして、山に訪れた遺族がこの小屋に犠牲者の思い出の写真を飾
り始め、今も建物が強化されて残っている。
土砂崩れ防止に植えられた芝生ネットに包まれた墜落現場のあち
こちに木製の墓標が立ち並ぶ。
これは、上野村で警察の遺体回収資料を基に建てられたもので、
遺体発見場所に近い道沿いに並べられている。
この現場にある幾筋の道や、湧き水の取水口は、陸上自衛隊が飲
料・遺体洗浄用に作ったものであった。
<i77127|8907>
八月三日。
上野村楢原集落に建てられた﹁慰霊の塔﹂の除幕式及び、身元不
明遺体の納骨式が行われた。
現在の﹁慰霊の園﹂に建てられた慰霊の塔は群馬県出身の石彫家・
半田富久氏によって設計され、現場に向かって合掌する手をイメー
ジしたものだ。
中心に立ち、碑の奥に見える納骨堂を見ると、その直線上八キロ
の地点に墜落現場があるように設計されている。
政府各大臣をはじめとする関係者や遺族の見守る中、納骨堂に納
められ、扉が閉められた。
なお、現在も扉が開かれる時がある。
それは、新たに遺骨が見つかった時である。
事故から28年経過した今もなお、御巣鷹の尾根では残骸、遺品
そして遺骨が、雨の後等に流されて出てくる時がある。
<i89007|8907> ☆日航社員遺族の苦悩
168
八月三日夕方。東京都練馬区。
事故機客室乗務員・松原幸子の妹・吉川家自宅。
義両親が九州から上野村で宿泊し、慰霊登山に行く予定だったが
明実の家に帰ってきた。
明実は、義両親に何故帰ってきたのか聞いた。
母は黙って泣き始めた。
﹁なに?泣いてても分かんないんだけど?﹂
父が言葉を選びながら、ゆっくり話し始めた。
﹁︰︰︰日航社員遺族は、もう上野村に行かないことになった。﹂
明実が怪訝な顔をして声を荒上げた。
﹁何で?日航社員が何だって言うの?﹂
﹁いや、ほら、乗客遺族への対面もあるだろ?だから、皆で決めた
んだ。﹂
明実が怒った。
﹁何で?お姉ちゃんが何で悪いの?たまたま乗務していただけじゃ
ない!乗客遺族が来るな!って言ったの?﹂
父が慌てて怒りを静めようとする。
﹁違う!誰も何も言ってない!誰も来るなって言ってない!立場が
立場だから遠慮してるだけだ!﹂
明実は泣きながら興奮した。
﹁お姉ちゃんは、ただ乗ってただけじゃない!お姉ちゃんだって被
害者なのに、定雄さんだって自殺しちゃったのに!家庭壊されてそ
の上何よ!﹂
大声で怒る明実の声で赤ちゃんが驚いて泣き始める。
母が慌てて、赤ちゃんを抱き、あやし始めた。
﹁お父さん!明実もお産後なのに興奮させちゃだめ!﹂
和夫が職場から帰ってくる。
﹁ただいま︰︰︰何の騒ぎだよ∼︰︰︰義父さん、義母さん?何で
169
いるの?慰霊は?﹂
明実が泣き伏せているのをみて和夫が驚いた。
﹁ちょ︰︰︰何?何があったの?﹂
夜八時。
暫くして、ようやく落ち着いた。
赤ちゃんは泣き疲れ、グッスリ眠り、母と明実は呆然としている。
明実が、やつれた表情でボソリと呟いた。
﹁︰︰︰もうヤダ。︰︰︰こんな国︰︰︰もうこの国から出て行き
たいよぉ。﹂
和夫は黙って家を出て行き、友人に公衆電話で連絡して飲みに行
き、友人に、この件を愚痴った。
﹁日本を出て行きたいだと!︰︰︰全く︰︰︰困ったなあ。﹂
友人が思いついた。
﹁あのよ、それも手段の一つじゃねえのか?﹂
﹁?︰︰︰どういう事よ?﹂
友人は、香港で日本語学校に勤める事を勧めた。
当時香港は日本ブランドや日本スタイルがブームとなり、日本語
学校も大好評で、講師不足で悩まされてた程だった。
﹁気晴らしに暫く香港に住むって手もいいんじゃないか?香港は英
国領︵当時︶だから、英語の需要もある。奥さん、全日空のスチュ
ワーデスだったから英語出来るだろ?﹂
和夫は、グラスの氷を回しながらボソっと頷いた。
﹁香港︰︰︰ねェ。﹂
翌朝。八月四日。上野村。
この日は台風の影響で昨日夕方に慰霊登山会が中止になった。
已む無く殆どの遺族が登山を断念した。
だが、一部の遺族七組が強行登山を敢行した。
170
降りしきる大雨、風が強くなる中、日本航空の世話役が登山口入
り口で待ち伏せし、登ろうとする遺族達を静止したが、強風と大雨
で世話役の声は空しくかき消され、遺族達は山奥へ消えていった。
その後、この世話役の一人が、﹁山を管理したい。﹂と希望し、
日航本社の意向を無視して独自に同僚と共に山の管理を始めた。
それに対し、遺族からの励ましの声もかかり、乗り気で無かった
日航本社も、後に﹁業務の一つ﹂と認めたという。
現在、その方は定年を迎え、後輩が後を継ぎ、現在に至る。
☆海外移住
正午。東京都練馬区。
事故機客室乗務員・松原幸子妹夫婦・吉川家の自宅。
寝室で授乳している明実に和夫が昨日考えた事を言ってみた。
﹁香港?﹂
﹁そうだ。気晴らしにどうかな?と思ってさ。﹂
﹁子供は?﹂
﹁いや、旅行じゃない。仕事で。﹂
﹁和夫さん一人で?﹂
﹁いや、皆で。﹂
﹁仕事は?﹂
﹁いい仕事があるんだ。﹂
明実はとりあえず話を聞いてみた。
﹁︰︰︰今、分かんない。考えておくね。﹂
義両親がリビングでテレビの上野村の中継を見ていた。
和夫が、義両親に近づき、話しかけた。
﹁あの︰︰︰お話が︰︰︰。﹂
義父が答えた。
﹁何だ?改まって。﹂
171
和夫は恐る恐る打ち明けた。
﹁明実と、子供連れて香港に移住するって言ったら︰︰︰。﹂
義母がそれを聞いたとたん困った顔をして泣き出した。
義父が、唖然とした顔で和夫を見つめた。
和夫は慌てて弁解しようとしたその時、明実がズカズカやってきて、
おもむろにテレビを消した。
﹁明実!﹂
義父が思わず呼び止めた。
すると明実さんは、怒った。
﹁こんなニュース見る必要ない!﹂
唖然とする三人に続けて言った。
﹁もうイヤ!慰霊祭にも出られない、登山も許されない!だったら、
こんなニュースだって関係ないじゃない!子供の教育にも悪いじゃ
ないっ!﹂
明実さんは子供の寝ている寝室に戻っていった。
義父母が九州に帰った翌日の夜。
義父から和夫宛に電話が来た。
﹁︰︰︰香港の話、どうなった?﹂
﹁いや、やっぱやめときます。すみません、ははは︰︰︰。﹂
暫く沈黙の後、義父が聞いた。
﹁明実は︰︰︰どうだ。﹂
﹁︰︰︰殆ど奥の部屋に篭ってテレビも見ないで子供の面倒見てま
すよ。﹂
義父は一呼吸置いて和夫にお願いした。
﹁和夫君。君に任せる。君と明美の決めた事に、わしらは一切、口
は出さんけん。明美と孫を幸せにしてやってくれ。﹂
9月末。
和夫と明実は望美さんを抱いて香港に旅立った。
赤ちゃんは生後一週間から旅客機に搭乗可能だが、物心がついて
172
動き回るようになるとかえって厄介だ。
生後三ヶ月。丁度いい感じで旅客機に乗れた。
日本航空の制服を見ると辛くなるので、あえて日航を避け、香港
のキャセイ・パシフィック航空を選び、日本を後にした。
﹁幸子姉ちゃん、さようなら︰︰︰。﹂
明実は窓越しに見える日本本土に向けて呟いた。
これから知らない外国での生活が始まる。
外から見る日本。
次に帰る時は、堂々と上野村に行きたい。
そう願った。
<i89054|8907>
173
第5章 失われたものと得たもの
☆群馬ヘリポート開設と群馬県警航空隊設立
これまで、ヘリは必要な時に、近隣の県に頼るという考えだった
群馬県は日航ジャンボ機墜落事故でヘリコプターの有用性を痛いほ
ど理解した。
その教訓で、今まで県議会で否決されていた群馬県警察航空隊設
立と併せ、群馬ヘリポートの建設も認可された。
一九八八年八月二十五日、悲願の群馬ヘリポートが前橋市に作ら
れ、現在、関東でも重要なヘリポートとして機能している。
群馬県警航空隊はベル206L3型ロング・レンジャー﹁あかぎ﹂
を保有し、大勢の山岳遭難者を救うに到る。
二○○八年、二十年目を迎え、ヨーロッパで山岳救難に定評が高
い、イタリアのアグスタA109K2型二代目﹁あかぎ﹂に更新さ
れた。
<i110296|8907>
群馬ヘリポート
☆ボーイング社、事情聴収拒否
一九八八年八月、墜落現場の鑑識にあたった警官も含む群馬県警
の刑事が成田からアメリカ・シアトル州に旅立った。
ボーイング社の事故機修理を行った作業員に事情聴収をする為で
ある。
しかし、この旅は空しく、空振りで終わってしまった。
アメリカでは群馬県警の警察権が及ばず、﹁作業員の名前は古い
174
話だから分からない﹂の一点張りで追い返されてしまったのだった。
事故現場の鑑識課長も真っ先に初めてのヘリからのホイスト降下
で恐怖と戦いながら墜落現場に降り立たち、あの戦慄な現場を歩き、
年末まで必死に山を捜索していた。
だが、アメリカでは只の旅行者扱い。
彼らはとても悔しく、心から犠牲者に大変申し訳なく思ったに違
いない。
一方でボーイング社は遺族への賠償金等を八割負担した。
十一月二十五日。
群馬県警は前橋地検に﹁業務上過失致死﹂で書類送検を行った。
・日本航空・十二名
・運輸省︵現・国土交通省︶・四名
・ボーイング社 作業員二名︵但し当人所在名称一切不明︶
☆新生﹁JAL﹂誕生と業務上過失致死判決
一九八九年一月一日元旦。 昨年フルモデル・チェンジされたスチュワーデスの制服に彩られ
た客室乗務員カレンダーが発行された。
そして、機体も新カラーにしてフレッシュさと清潔感を出して、
日航ジャンボ機墜落事故のイメージを変えようと努力がなされてい
た。 だが、三月末。また暗雲で覆われるような事件が発生した。
123便の墜落原因になった一九七八年の大阪しりもち事故を起
こした機長が責任を感じて自殺したのだった。
五月二十九日。新塗装に彩られた﹁JAL﹂ジャンボ機がお披露
175
目された。
しかし、日航へのイメージは悪くなる一方だった。
それは十一月十八日のことだった。
群馬県・前橋地検前で、日航機123便墜落事故過失判決を待つ
遺族と多数の報道陣の前にスーツ姿の男が玄関から巻物を持って走
ってきた。
﹁不起訴﹂
これを見た多くの遺族が落胆した。
周囲に沢山のカメラのフラッシュと遺族の悲痛な声が響いた。
不起訴の理由は﹁証拠不十分﹂だった。
﹁事故の経緯と、状況を見る限り、起訴された日本航空社員、運輸
省は過失があったとは認められない。已む無い事故であった。﹂
というのが判決だった。
まず、圧力隔壁の修理後から事故までの点検だが、点検項目には
無かった。
そして、修理後の立会いは外観的に問題は無かった。
そして、ボーイング社社員︵不詳︶は、過失はあるが事故から七
年前の行為で、過失致死の時効は五年目の事故二年前に切れており
起訴出来なかった。
だが、大勢がこの判決に納得がいかず、再審にかけられることに
なった。
しかし、翌年の一九九○年八月十二日午前零時。
再審も空しく時効が成立した。
この年、二割のビジネス客が会社指定で日本航空をやめて、他社
を利用するようになったという。
一方で、ライバルの全日空、日本エアシステムも減収し、航空会
社自由化後は国際線の採算路線だけが唯一の支えになっていった。
☆事故機と同型機の引退と引退機の用途
176
一九八八年四月。
事故機と同型で生産時期も近いボーイング747SR46型が二
機退役した。
一九七三年に導入された初号機JA8117号と二番機JA81
18号。
この機体は747型機の中で最も頑丈に作られている為、引退後
は貨物機として使いたいという交渉があった。
だが、この最初に引退した二機は特殊な運命を遂げる。
初号機JA8117号は本当に問題が無いのか実際に使って確認
する意味も含め、アメリカのNASA︵連邦航空宇宙局︶に引き取
られ、スペースシャトル運搬機に改造された。
スペースシャトル運搬機とは、宇宙からの着陸能力はあるが、自
力で離陸出来ないスペースシャトルの為に、ジャンボ機の背中に特
製の超大型リフトを使って乗せて運搬する機体である。
こちらはNASA採用から二十三年経過した二○十二年。
スペースシャトル廃止に伴い同時に勇退した。
二番機JA8118号機はボーイング社が買い取り、実験場に送
られ、徹底的に経年破壊試験に供された。 これまで、人的要因でしか墜落したことの無かったジャンボ機。
747の型の中で最も頑丈と言われるSR型、しかも疑惑のJA
8119号・123便の機体と同一機体なので、わざわざJA81
18号を選んで破壊実験を行う意義は大いにあった。
この実験後、機体の前部の胴体が最も大きい部分を輪切りにし、
細切りにしたものが、イギリスの博物館に納められ、コクピット部
は成田の航空
科学博物館に納められた。
なお、機体そのものは2013年現在もボーイングの工場にある。
177
この実験結果は、一九九○年に登場する新型ジャンボ機・400
型に生かされた。
最新の電子装備が施され、外観上の変化は少ないが中身は大進化
し、従来型を﹁クラッシック﹂400型は﹁ハイテクジャンボ﹂と
呼ぶようになった。
ここで問題の垂直尾翼だが、日航123便の教訓を生かし、圧力
隔壁はとてつもなく頑丈に造られ、外観上でも頑丈になったことが
分かる。
垂直尾翼は大幅に設計変更された。
日本航空には一九九○年四月一日に初号機JA8071号が導入
され、民間航空会社となってからの新デザインのカラーリングを纏
い、﹁テクノ・ジャンボ﹂と呼んで、新世代の日本航空をアピール
した。
因みに日本航空は123便の事故以来、SR型に対し疑心暗鬼に
なり、早期に引退させたという説があるが、実は単に経年による引
退である。
現に、最初の機体二機が引退した後は、二階を大型にして乗客数
をより増した300SR型﹁ストレッチ・アッパーデッキ﹂を導入
している。
<i90384|8907>
ボーイング747の模型比較。手前が事故機と同型のSR型、奥が
−400
﹁テクノ・ジャンボ﹂
☆生かされた日航ジャンボ機墜落事故の教訓
一九八九年七月十九日。 アメリカ・アイオワ州。
178
ユナイテッド航空232便・ダグラスDC10型機が飛行中に第
2エンジンのファンブレードの一部が経年劣化の亀裂により破断し、
エンジンに吸い込まれ第二エンジンが爆発。
構造上、尾翼下に配置されたエンジンだったので尾翼と油圧制御
パイプが破断。操縦不能になった。
この事態にパイロットは慌てたが、よく考えると、同じ事例があ
ることを思い出した。
日航ジャンボ機123便墜落事故の操縦不能になった経緯である。
当時、アメリカのパイロット達は、この不可思議な日航機墜落事
故に注目し、﹁私が高濱機長だったらどうするか?﹂といった研究
が個人的に行われるのが流行っていた。
だが、アルフレッド・C・ヘインズ機長は、まさか自分がそうい
う事態に陥るとは想像もしていなかった。
ここで異常を察知した男が乗客に居た。
ユナイテッド航空の教官デニス・E・フィッチ。
非番で乗機していたが、心配になり操縦室に行くと、絶望的なコ
クピットの光景に唖然となった。
だが、デニスも日航機事故を個人的に研究していた一人で、皆で
力を合わせて着陸させようと操縦に加わる。
全くいう事を利かなくなったDC−10機を操作する術はもはや、
きめ細かなエンジン操作しかなくなったが、幸いにも偶然、スーゲ
ートウェイ国際空港が直線上にあったので、そこに緊急着陸を試み
た。
異常事態を知った地元マスコミが空港に駆けつけ、この一部始終
を撮影した。
強引に着陸した232便はスピード制御が利かずに猛スピードで
着陸。
その衝撃で胴体が真っ二つに破断され、火達磨になって着陸して
しまい、滑走路に残骸をばら撒きながら転がった。
179
乗客296人中、炎上した後部の111人が亡くなったがコクピ
ットのクルーを含む185名が生還。
日航ジャンボ機墜落事故の残したブラックボックスの公表データ
がなければ、この機もまた無残な結果だったに違いない。
因みにアメリカのNASAでは日航ジャンボ機事故のような事故
が発生しても普通に生還できる航空機を開発。近年完成したという。
☆ヘリコプターの夜間救難活動の危険性
一九九三年七月十二日午後十時十七分。北海道渡島・檜山地方。
檜山地方沖にある奥尻島付近を震源にマグニチュード7・8の大地
震が発生。
この時、地震そのものの被害は少なかったが、大津波が発生し、
震源地に近い奥尻島青苗地区の集落が大津波に襲われた。
当時、航空自衛隊で、世界初の全天候型救難ヘリ・三菱シコルス
キーUH60J型﹁レスキュー・ホーク﹂が採用されたばかりだっ
たが装備されているのは赤外線暗視装置で、人や船など熱源のある
物体を大まかに確認出来るようにはなったが、ハッキリと山の稜線
や高圧電線等の障害物まで確認出来る訳ではなく、陸上での夜間救
難活動はまだ出来なかった。
だが、当時、奥尻島には、あいにく警官が一人しか居なかった上
に、消防車も殆どが津波で破壊され、急を要した。
そこで、警官はパトカーで高台に登り、本土の江差警察署に無線
で必死に救難隊の応援を要請した。
北海道警察本部は何とかしようと、札幌市・丘珠空港の北海道警
察航空隊より夜間飛行が出来ない富士ベルB204B型ヘリ﹁ぎん
れい﹂︵JA9095︶で危険を承知で応援隊を乗せて奥尻島に出
動させた。
しかし、奥尻島は津波で破壊された街から立ち昇る炎以外は停電
で見えず、奥尻空港も停電の上、地震で破壊されて何も見えず、結
180
局断念。
航空自衛隊・千歳基地からもUH60J型救難ヘリが出動したが、
結局は赤外線カメラで火炎を遠目で確認することしか出来なかった。
しかも唯一見えた市街地の火災区域は住宅に設置されたプロパン
ガスのボンベがミサイルのごとく飛び交い、低空で接近するにはあ
まりにも危険であった。
ヘリに装備されたサーチライトも、一点しか照射できず、また日
航ジャンボ機墜落事故当時と同然の辛酸をなめることになってしま
った。
そこで、陸上自衛隊はHU1H型汎用ヘリとOH6D型観測ヘリ
にナイトビジョンゴーグル対応のコクピットに改装を施したヘリで
夜間山岳飛行訓練を実施したが、今度は視野が狭くなり空中でお互
いのローターに接触し、墜落。パイロット・搭乗者全員が死亡する
という事故を起こしてしまった。
現在、陸上自衛隊・航空自衛隊・警察航空隊にて夜間山岳飛行訓
練が続けられてはいるが、いかに夜間山岳飛行が危険なものかが分
かる。
因みに今回取材した各救難隊は異口同音でハッキリ言った。
﹁もし、命令を聞かないで勝手にやれなんて言ったら、平気で暗闇
の山中だろうが何だろうが行動を起こすだろう。しかし、無理して
要救助者の上に墜落して、救う側も助けられる側も被災したら意味
がない。その為に命令というものがある。﹂
彼らは今日も、要救助者目指して、命がけの救難活動を繰り返し
ている。
☆助けられる側から助ける側へ
一九九五年一月十七日 午前五時四十六分。
181
突然の大地震が兵庫県南部を襲った。
絶対安全と言われ続けていた高速道路や新幹線路線が崩壊し、神
戸市を中心とする街並みのビルが音を立てて崩壊し始め、木造家屋
が密集する地区で大火災が発生し、恐れられていた大都市の大地震
がついに発生してしまった。
国道は大渋滞が発生し、鉄道は寸断され、兵庫県南部は孤立した。
ここで、一九九○年から各地で少しずつ導入が進められていた﹁
防災ヘリ﹂が不眠不休の大活躍をし、以後、各都道府県が防災ヘリ
を急速に導入し始めるきっかけにもなった。
そんな中、不眠不休で活躍する看護婦の中に日航ジャンボ機墜落
事故の生存者がいた。
テレビで墜落現場から自衛隊ヘリで吊り上げられるシーンを撮影
され、全国に感動を呼んだ中学一年の少女だった。 一緒に事故機に乗っていて亡くなった、看護婦の母の後を追って
看護婦になったのだ。
あの墜落事故で重傷を負った彼女は、厳しいリハビリを乗り越え
元気になり、今後は亡くなった母のように困った人を助ける側にな
ると誓い、頑張ったのだ。
このニュースは全国の人々の感動を呼んだ。
現在、彼女は趣味のスポーツで知り合った男性と付き合い結婚し、
幸せに暮らしている。
☆生かされなかった教訓
二○○二年五月二十五日午後三時三十○分頃。台湾中部・彰化県
秀水卿。
上空から突然、風に乗って紙が振ってきた。
お札や航空会社の雑誌、航空券であった。
182
この時、百キロ先の沿岸で、チャイナ・エアライン、ボーイング
747型機・台北発香港行き611便 ︵B−18255号︶がレ
ーダーから姿を消した。
機体は空中分解し、高度三万五千フィート︵約一万一千五百メー
トル︶から飛散した。
この機は一九八○年二月七日に香港でしりもち事故を起こしてお
り、後部圧力隔壁を破損しボーイングによって修理されていた経歴
があった。
残骸から手抜き修理の痕跡が発見され、日航ジャンボ機墜落事故
と同じく、圧力隔壁の修理箇所の破損と断定された。
日航機の事故当時より高度が高く破断に耐えきれなかった上、日
本では行われた日本籍のジャンボ機全ての対策補修はこの台湾籍の
ジャンボ機にはその対策が施されていなかった事も発覚。
それは、日航機事故当時の1985年当時、アメリカは当時敵対
関係にあったソ連︵現在ロシア︶に対抗すべく中華人民共和国と国
交を深め、その代わりに台湾との国交が断絶していた時期とも重な
るので、この政治的理由も一つの原因と思われる。
この事故は日航ジャンボ機墜落事故のボイス・レコーダー録音テ
ープのコピーがマスコミに出回り、話題となった矢先の翌年だった
ので注目を集めた。
☆生まれ変わりと云われて
二○○六年八月十二日。
日航ジャンボ機墜落事故から二十一年が経過した。
午前八時。藤岡市から一台のレンタカーが上野村を目指していた。
事故機の客室乗務員・松原幸子の生まれ変わりと言われた吉川望
美。
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幸子の妹の娘、あの事故の翌年に生まれた長女である。
上野中学校グラウンドの臨時駐車場に車を止め、現場までの無料
バスに乗ることにした。
﹁ここが、ママが来た学校なんだ︰︰︰。﹂
横目で校舎を見ながら、坂道を百メートル程登ると、慰霊の園が
あった。
報道陣の車や黒塗りのハイヤー、駐在所のパトカーが並び、本で
見せてもらった慰霊の塔が見えた。
慰霊の塔の前には白い大きなテントが張ってあり、事故発生時間
一時間前から慰霊祭を行うという。
慰霊の園は綺麗な砂利が一面に敷き詰めてあり、雑草もなく、と
ても事故から二十一年経過したとは思えない程、綺麗に管理されて
いた。
入り口近くに二階建ての木造の管理事務所があり、そこに喪服を
着た人が数人いた。
受付だろうか?
とりあえず、これからどうすればいいか分からなくなり、喪服姿
の人に聞いてみた。
﹁あの︰︰︰すみません︰︰︰御巣鷹の尾根に、松原幸子のお参り
をしたいのですが、どうすればいいでしょうか?﹂
その人は日本航空の世話役だった。
世話役は、望美を事務所に案内して、管理人に墓標を確認しても
らう。
数字とローマ字で表示してある。
警察が遺体回収の際に作ったリストが使われているという。
地図を見せて貰ったが、いまいちピンと来ない。
﹁登山道の途中に、地図が入った箱があるから、その地図貰って登
ればいいや。あとね、日航さんが、御巣鷹のあちこちにいるから、
分からなかったら案内して貰いなさい。﹂
バスが来た。花束を大事に持って、乗り込んだ。
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あの事故から暫く経った近年、墜落現場の地下五百メートルに東
京電力が世界最大の水力発電所を作り、その為に整備された道だと
いう。
しかし、トンネルを抜けてからは舗装はされているが、道は狭く
なり、所々崩れたり、大きな落石があった跡があちこちに見えた。
両側が、うっそうとした林に囲まれている。
﹁こんな山奥だったんだ︰︰︰この深い山をパパが事故現場求めて
彷徨ったんだ。﹂
慰霊の園事務所の話では二年前の二○○四年まで登山道入り口か
ら現場まで歩いて一時間近くかかった。
上野村の街から車で登山口まで二十キロ、さらに徒歩一時間。大
変な所に墜落したものだと思った。
吉川家が昨年登山した際に登った、今の短い登山口に通じる車道
は、本来、土砂災害防止ダムを作る為に作られて、普段は閉鎖する
予定だったという。 しかし遺族も高齢化し、二○○六年に完全に
整備して旧登山道を閉鎖し、徒歩二十分で行ける様になった。
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登山道入り口には報道陣が集まっていた。
すると、杖が沢山置いてあった。
あの、墜落遺体検屍で修羅場と化した藤岡市のボランティアが杖
を手作りして市立美九里小学校の生徒達が心を込めたメッセージを
杖に書いたそうだ。
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杖と藤岡市のボランティアの方
あの地獄のような話しか聞いていない御巣鷹の尾根。
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でも、周囲の皆の優しさに包まれた雰囲気は、和みさえ覚えた。
これが、本当にあの戦慄の現場だったのだろうか。
登山道の斜面がきつい。普段、山なんか登ったことが無いから足
の筋肉がひきつる。
でも、高齢の男性がスタスタと登っていく。
杖をついた老人をかばって登る家族連れに、子供を背負って登る父
親。
下りから来る人は、誰もが必ず﹁こんにちは﹂と挨拶してくれる。
すると、急に道がV字になった。
V字を曲がるとプレハブの山小屋があった。警察が建てた小屋だ。
﹁ご苦労様で∼す。﹂と、小屋の前で明るく飲み物を配る人達がい
た。
日航の世話役の方だった。
世話役の方に叔母の墓標の位置を聞いた。
すると、上に﹁昇魂の碑﹂というのがある広場があり、さらにそ
の上だという。
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キツい坂を登ると、周囲の斜面に木の柱が沢山並んでいて、人々
が花と線香をあげて拝んでいた。
警察や自衛隊がその方の遺体を発見した場所に建てた墓標だった。
墓標は木で出来ていたが、中には立派な墓石のもあった。
よくみると、玩具やぬいぐるみがお供えしてある墓標が沢山ある。
大勢の子供達の墓標が点在する。
広場に出た。人が大勢集まっていた。
ここは、自衛隊が作ったヘリポートだった場所だ。
するとホラ貝の音色が響き渡った。
見ると、﹁昇魂の碑﹂と書かれた碑の前で、お坊さんがホラ貝を
吹いていた。
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お坊さんは、碑の前にしゃがみ、力強くお経を唱え始めた。
広場の人達が、お経に合わせて合掌し、黙祷し始めた。
望美も合掌する。
お経が終わると、お坊さんは広場のベンチに置いてあったバック
パックを背負い、山を降っていった。
バックパックにはラミネートされた紙が貼ってあった。
﹁羽田空港より群馬県御巣鷹の尾根へ供養行脚﹂と書いてあった。
この人は、皆川良誠さんと言って一九八九年から二週間に一度、
欠かさず上野村に供養に訪れ、毎年事故があった日に羽田空港から
御巣鷹の尾根まで歩いて供養している。
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皆川良誠氏
山にアコーディオンの音色と合唱が響いてきた。
群馬県前橋市のボランティアで、毎年この山で演奏をしている。
泣いている人は誰もいなかった。
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前橋市のボランティア
ここに訪れる人達は、誰もが優しい顔をしていた。
さらに上に上がると、小屋があった。これも警察が建てていった
ものだ。
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築当時は木の骨組みにブルーシートを張ったものだったが後に補強
された
まだ墓標すら無かった頃に、遺族や周囲の村人があげていったお
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供えをこの小屋に集めたそうだ。
小屋の中には写真がいっぱい貼ってあった。
どれも古いカラー写真で、日付は事故前の物ばかりで、亡くなっ
た方々の生前のスナップ写真だった。
中には愛車との記念写真や、結婚式の写真や写真つき年賀状が貼
ってあった。
この中に、ママと叔母の写真があると聞いたので探してみたら、
あった。
写真のママと叔母はとても若かった。丁度、今の望美位の年頃だ
った。
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小屋内部
そのさらに上には、焼け爛れた太い木があった。
よく見ると、折れて焼けた木の幹が沢山あった。
木の周りで年配の方が話をしていた。
﹁よくまあ、二十一年も腐らずに残ってるもんだねえ。﹂
﹁あ∼、木はね、炭になると腐らねぇで、いつまでも残ってるもん
だがね。﹂
他にも、半分焼け爛れた白樺の木が今でも元気に育っていた。傷
跡が痛々しいが、生命力の強さを感じる。
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頂上付近に﹁バツ岩﹂と呼ばれる、機体のコクピットがぶつかっ
て破壊した大きな岩があると聞いていたが、そこに大きな岩があり、
スプレーでX印がつけられていた。
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このバツ岩を行くと、叔母が乗務していた二階席の飛び散った場
所が、叔母の墓標があるところだった。
墓標があった。
墓標には﹁故・松原幸子﹂と書かれていた。
本当にあったのでショックだった。まるで自分の墓を見た気分だ
った。
叔母のことなど、この歳まで気にも留めたことも無かったのに、
実際に亡くなった場所を見つけみると、立ちすくんでしまった。
すると、望美は墓標の前にへたりこんで、涙が出始めた。胸の奥
が熱くなり、涙が止らなかった。
望美さんに心から悲しさと悔しさが溢れ出た。
﹁松原︰︰︰さん?﹂
後ろから急に話しかけられ、ビクっとした望美さんは、振り向く
と、中年の女性が立っていた。
﹁あ︰︰︰脅かしてごめんなさい︰︰︰後ろ姿が松原先輩に似てい
たので、つい親族様かと思って︰︰︰。﹂
望美は、この中年女性の胸元に顔をうずめ泣いた。
中年女性は、望美の頭を撫でて、優しく話しかけた。
﹁︰︰︰泣きなさい。泣いてあげなさい︰︰︰。﹂
望美が落ち着くと、その中年女性と一緒に広場のベンチに座って
休むことにした。
望美が話した。
﹁︰︰︰すみません、いきなり泣きついてしまって︰︰︰。﹂
﹁え?あ、別にいいのよ。泣きたいときは泣くのが一番よ。﹂
﹁︰︰︰ところで︰︰︰あの︰︰︰。﹂
﹁あ、私?松原先輩の後輩の松本綾香と申します。﹂
﹁後輩?叔母の?﹂
﹁叔母?あ、おばさんに当たるんだ。﹂
松本はあの事故以来、飛行機を降り、日航の世話役の手伝いとして
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山に通っていた社員の一人だった。
﹁私、叔母が亡くなった後に、叔母の妹に当たる母から生まれたん
です。﹂
﹁いや∼︰︰︰ごめんね、泣いてる最中に話しかけちゃって。あま
りにも先輩に似ていたものだから︰︰︰。﹂
﹁そんなに似てますか?﹂
﹁ええ、なんか先輩と話してるみたい。あなたのように美しい方だ
ったのよ。声や話し方、しぐさまで似てるわ。﹂
﹁︰︰︰松本さんも、客室乗務員だったんですか?﹂
﹁ええ、今はもう結婚してだいぶ前に辞めたけどね。今日は一人?
先輩の旦那さんは元気にしてる?﹂
﹁︰︰︰いえ、あの事故直後に自殺したそうです。﹂
﹁まあ︰︰︰そうなの︰︰︰。﹂
松本は一呼吸置いて話した。
﹁あの時は、ホント、辛かったよねぇ。あの時を思い出すと、今も
泣けてくるわ。﹂
松本が空を見上げると沢山のしゃぼん玉が飛んでいた。
すると、広場でアコーディオンの伴奏に合わせて子供達が﹁しゃ
ぼん玉﹂の歌を歌い始めた。
子供達が作ったシャボン玉は、御巣鷹の尾根一杯に散らばり、蒼
く、どこまでも突き抜けるような夏の空にキラキラ輝きながら消え
ていく。
望美さんがシャボン玉を見つめながら話した。
﹁ここって︰︰︰何か不思議と心が落ち着きますね。﹂
松本は答えた。
﹁そうね︰︰︰あの事故に関わった皆さんが、心を込めて御巣鷹の
尾根を守り続けているおかげかもねぇ︰︰︰。﹂
松本は立ち上がって、123便が墜落現場突入時に傷つけた手前
の峰に残る、通称﹁U字溝﹂を見つめた。
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この﹁御巣鷹の尾根﹂は地元では﹁聖山﹂として崇められ、今も
訪れる人々が絶えない。世界中からこの山を訪れる人達がいる。
この山には遺族や地元民をはじめ多くの人々の思いやりが溢れて
いる。
二度とこのような事故が起こらないよう願いをこめて。
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Roger.Cler
Take
そして、失われた521名の尊い命を決して無駄にしないように
Air
今日も山はあの日の事を語り続ける。
Japan
Off.
御巣鷹に散った天使 終
これまで、この事故について乗客遺族や機長の話は出てはいました
が、スチュワーデスの話は全くありませんでした。
また、群馬県警の話は有名ですが、出動途中で県境ギリギリで管轄
外ということで、死ぬほどの思いをしながらその苦労話は一切語ら
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れなかった長野県警。そして、管轄外ながらも近隣ということで否
応なしに事故処理に巻き込まれた長野県川上村や事故現場の村であ
る上野村の住民。
今回は、これまで知られていなかった部分を重点に描いてみたつも
りであります。
浅間山荘事件でクレーンを運転した白田弘行氏は私の知り合いで、
白田氏の浅間山荘事件の際の長野県警のツテを借りて、当時出動し
た長野県警警察官様3名を取材させて頂きました。
また、趣味を通じて知り合いました、当時の陸上自衛隊・第一空挺
団の隊員様、747型機とはどういうものかを知るべく、客室乗務
員ご遺族様からご紹介頂きました、ANAの安藤 肇 様、等々。
この小説にご協力して頂いた方々にはこの場をお借りしましてお礼
申し上げます。
また、この事故で犠牲になられた方々には謹んで哀
悼の意を表します。
平成二十五年八月
長野県の自宅にて 津嶋 智史
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n6415q/
御巣鷹に散った天使∼日本航空123便墜落事故・客室乗務員遺族∼
2014年12月31日03時27分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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