南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 2 号土器棺墓出土土器の系統と編

南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 2 号土器棺墓出土土器の系統と編年的位置
-弥生時代後期初頭における地域間交流の一端-
小林嵩
はじめに
弥生時代後期初頭は、南関東地方における中期後半の土器型式であった宮ノ台式の解体現象が起
き、久ヶ原式が成立する時期にあたる。この時期、南関東地方では集落数の激減が指摘され(西川
1991)、顕著な土器型式圏の縮小が起こり「後期のしぼみ」(石川 2011)と呼ばれ、何らかの大きな
社会変動があったことを窺わせる。今回主な検討対象とする千葉県成田市の南羽鳥谷津堀遺跡を含
む房総半島においても、中期末葉までは交流が見られた北関東地方と南関東地方間の地域間交流が
ほぼ見られなくなる時期に当たっている。しかし、そのような中でも土器の文様要素・系統を検討
することで、実態が把握し難い後期初頭の地域間交流を示すことが本稿の目的となる。具体的には、
千葉県成田市の南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 2 号土器棺墓出土土器を取り上げ、その文様要素の系統と
編年的位置付けの検討から、下総を中心として弥生時代後期初頭における地域間交流の一端を明ら
かにしたい。
1. 資料の紹介
南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点を含む南羽鳥遺跡群は千葉県成田市に位置している。南羽鳥遺跡群は過
去幾度かの調査が行われている。弥生時代に関しては中期後半~後期にかけての遺構が確認され、
南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 2 号土器棺墓では特異な土器が出土している。筆者は以前にこの資料をや
や特殊な南関東系土器群として捉えた(小林 2013b)が、今回この資料に検討を加える。
2 号土器棺墓は遺跡の立地する台地の先端部、南東に面する緩斜面地に位置し、古墳の墳丘下から
検出され 2 点の土器が出土している(第 1 図)。
1 の壺形土器の口縁部は、無文の複合口縁であり、頸部・胴部上半・中央・下端に端末結節文を伴
う羽状縄文帯が 4 段施されている。羽状縄文の原体は単節縄文のものと附加条縄文の二者が見られる。
頸部と 2 段目の羽状縄文帯の下には 5 本単位の櫛状工具による鋸歯文が施され、2 段目下の鋸歯文に
は円形の刺突文が充填され、数は 17 ~ 28 個と報告されている。底部には木葉痕が確認され、焼成
後に穿孔が施されている。
2 の甕形土器は、複合口縁であり、口唇部及び口縁部に附加条 1 種縄文を施す。複合部の下端に指
頭の押捺が認められ、段部は明瞭な稜を有している。頸部は無文であり、自縄結節文により区画され、
胴部は附加条 1 種縄文が施されている。
調査時の所見によれば、2 の甕が正位に置かれた後、1 の壺が正位に置かれたものであると報告さ
れている。
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2 号土器棺墓遺物出土状況
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第 1 図 南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 2 号土器棺墓出土状況・出土遺物
第 1 図 南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 2 号土器棺墓出土状況・出土遺物 2 系統の検討
2 号土器棺墓出土土器に施される文様の系統について検討を行う。
1)壺形土器の系統
結節文 下総においては、弥生時代中期末葉段階から確認され、南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 7 号住
居跡等が例として挙げることができる(第 2 図 2)。結節文の系譜に関しては、弥生時代中期後半段
階から栃木県域において比較的多く確認することができ(磯岡北遺跡第 3 号土坑・第 2 図 1)、栃木
県域の影響を受け、下総に定着したものと考えられる(小林 2014)。
羽状縄文 羽状縄文は、下総においては中期後半の宮ノ台式にその祖源を辿ることができる。宮
ノ台式のⅢ期(小倉 1996)において羽状縄文が定着し、以降、久ヶ原式・山田橋式といった南関東
系土器群の壺形土器等に施されることから、羽状縄文の系譜に関しては、南関東系土器群の影響と
考えられる(第 2 図 3)。
鋸歯文内充填刺突文 鋸歯文を施し、内部に文様を充填する技法は、長野県域・群馬県西部域といっ
た中部高地を主な分布域とし、妻沼低地・大宮台地等の関東地方北西部の壺形土器や高杯形土器に
も中期後半から後期にかけて確認することができる(用土・平遺跡 10 号住・第 2 図 4、大西遺跡
H-41 住・第 2 図 5)1)。鋸歯文内に施される文様は、斜沈線・縄文等幾つかのパターンがあるが、南
羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 2 号土器棺墓のように、刺突文を充填するものは、妻沼低地、大宮台地・下
末吉台地に分布する遺跡(反町遺跡第 2 号土器棺墓・第 2 図 6、長尾台北遺跡 14 号住居跡・第 2 図
7)に比較的安定して確認される 2)。中部高地では、鋸歯文内充填刺突文は少なく、斜沈線を充填す
る例が一般的に見られるが、僅かながら中部高地においても確認される(小八木志志貝戸遺跡・第 2
図 8)。
鈴木正博は鋸歯文内充填刺突文について、「屋代式」や「佐野原 2 式」(鈴木 1979)との関係を重
視している(鈴木 2008)が、文様構成は妻沼低地や大宮台地・下末吉台地に分布が確認されるもの
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1
2
3
4
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文様要素の系統(中期末葉)結節文(1・2) 羽状縄文(3) 鋸歯文内に刺突文を充填するもの(4・5)
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文様要素の系統(後期初頭)鋸歯文内に刺突文を充填するもの(6 ~ 8)
第 2 図 南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 2 号土器棺墓出土土器に見られる文様要素の系譜
第 2 図 南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 2 号土器棺墓出土土器に見られる文様要素の系統 に共通すると考えたい。
2)甕形土器の系統
結節文 上述したように結節文の系統は栃木県域の影響を受け、中期末葉の段階から下総に定着
したものと考えられる。
附加条縄文 口縁部及び胴部に附加条 1 種縄文が施されるが、附加条縄文に関しては、中期の段
階から常陸を中心に施文されるもので、下総の弥生時代後期においては小玉Ⅱ段階(小玉 2008)
・高
花Ⅰ b 期(高花 2007)3)以降に、一般的に施文されるようになる(小林 2014)。
以上、南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 2 号土器棺墓出土資料の系統を検討したところ、特に壺形土器は、
下総に特徴的な要素を持ちつつも、南関東系土器群の影響や、下末吉台地や妻沼低地、大宮台地か
らの影響等、複数の系統が複雑に折衷した土器であると言うことができる。
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3. 編年的位置
特に 2 号土器棺墓出土の壺形土器については、これまでに幾つかの考察が行われている。報告者
でもある小谷龍司は、報告書内で後期と位置付けている(小谷 2000)。また、鈴木正博は「佐野原 2 式」
との関係に着目し、壺形土器に見られる「三角区画内充填刺突文」が「S 字状結節紋」との併施関
係として認められることから、後期初頭に編年的位置を求め(鈴木 2008)、高花宏行はこの鈴木の編
年的位置付けが妥当である可能性を示唆している(高花 2009)。
これらの研究を踏まえ、本稿では甕形土器も含めた 2 点の土器について、その系譜及び、器形等
の諸要素の検討から編年的位置について再検討したい。
1)甕形土器
2 号土器棺墓出土の甕形土器は、複合口縁であり、複合部の幅が狭く厚みを持つこと、複合部下端
に指頭押捺を施すこと、複合部が明確な段部を呈すること、施文される原体が附加条縄文となる点
から、下総における検討(小林 2014)を踏まえれば後期初頭のⅠ b 期に位置付けることができる。
2)壺形土器
2 号土器棺墓出土の壺形土器は他に類例のない特異な土器である。この土器に施される鋸歯文内
充填刺突文は、下総においては一般的な手法ではなく、上述したように妻沼低地や大宮台地・下末
吉台地に比較的安定的に見られる手法である。特に注目される出土例としては、下末吉台地に位置
する長尾台北遺跡を挙げることができる。長尾台北遺跡の 14 号住居跡は弥生時代後期と報告される
資料がまとまって出土しており、浜田晋介によれば朝光寺原式 0 式、田村良照によれば朝光寺原Ⅰ
式に比定され、双方共に後期初頭という点に関しては共通している(第 3 図 1 ~ 4)4)。田村により
朝光寺原Ⅰ式とされたもの中には、喜多見陣屋遺跡 158 号住居址(第 3 図 5・6)が含まれているが、
注目されるのは下総に特徴的な、A1 類 5)とされた土器が出土していることである(第 3 図 6)。頸
部の文様構成や、口縁部幅が狭く厚い複合口縁であり、段部が明確で複合部下端に刻みを施すこと、
施文される原体が附加条縄文であることから、南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 2 号土器棺墓の甕形土器と
同じ、Ⅰ b 期に位置付けることが妥当である。このような出土事例の対比から、朝光寺原 0 式~ 1 式・
朝光寺原Ⅰ式・Ⅰ b 期に大まかに併行関係を見出すことができる。
このような各遺跡から出土した甕形土器を含めた資料の併行関係の検討から、長尾台北遺跡 14 号
住居跡と、喜多見陣屋遺跡 158 号住居址、南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 2 号土器棺墓は併行関係にある
と言うことができ、南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 2 号土器棺墓の壺形土器の編年的位置に関しても下総
における後期初頭のⅠ b 期であるということができる。
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2
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長尾台北遺跡 14 号住居跡(1 ~ 4、朝光寺原 0 式、朝光寺原Ⅰ式)
喜多見陣屋遺跡 158 号住居址(5、朝光寺原 1 式、朝光寺原Ⅰ式)
第 3 図 朝光寺原 0 式・1 式(浜田 2009)、朝光寺原Ⅰ式(田村 2013)と共伴資料 92
以上、南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 2 号土器棺墓について、編年的な位置付けについて検討を行った。
その結果、下総における後期初頭のⅠ b 期に位置付けることが妥当であり、後期初頭という鈴木の
編年的位置付けの妥当性が裏付けられた。
4. 後期初頭の地域間交流
上述した土器の文様要素の検討結果から、下総を中心に弥生時代後期初頭の地域間交流について
検討する。
弥生時代中期後半の下総は、関東地方北西部の土器型式である北島式の影響が少なからず見られ
ることが指摘されてきた(吉田 2003)。また、栃木県域や現在の霞ケ浦周辺に分布の中心を求めるこ
とができる土器群の出土も確認され、これらの地域と地域間交流を持っていたことが分かる。この
ような交流が起こる背景については、南関東地方において中部高地に製作地を求めることができる
榎田型磨製石斧等の大陸系磨製石斧が流通している(馬場 2001・杉山 2004)ことから、関東地方北
西部や北関東系土器群の出土は、大陸系磨製石斧の流通に関わるものと考えたい。後期初頭に入る
と集落数の減少から地域間交流の実態が把握し難く、今回検討したように現状の資料の出土状況で
は、積極的に地域間交流と評価できるのは下末吉台地との交流関係のみではあるが、特に鋸歯文内
充填刺突文の分布状況からは、後期初頭の段階においても中期後半段階から交流があったと考えら
れる関東地方北西部(妻沼低地・大宮台地)と連綿と交流があった可能性が指摘できる(第 4 図)6)。
後期初頭の地域間交流の背景としては、中期末葉を境として、大陸系磨製石斧が一斉に見られなく
なること、中期末葉の ET Ⅲ期の大崎台遺跡第 431 号住居址では既に鉄斧が出土していることから、
日本海側を通した鉄器の流通(野澤 2002)が関わるものと考えている 7)。
また、後期初頭の地域間交流を示すその他の例として、南関東系土器群の影響が挙げられること
ができる。今回取り上げた南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 2 号土器棺墓の壺形土器に見られる南関東系土
●
小八木志志貝戸遺跡
●
反町遺跡
赤塚氷川神社北方遺跡
●
喜多見陣屋遺跡
●
●
●
南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点
戸張作遺跡
●
長尾台北遺跡
第 4 図 鋸歯文内充填刺突文の分布と地域間交流を示す資料 93
器群の影響以外にも、下総における北関東系土器群に時折、南関東系土器群の影響と考えられる口
唇部の刻みが確認されることや、羽状縄文を施す例(八木宇廣遺跡 2 号住居跡等)があることから、
南関東系土器群の影響を受けたものが確実に一定量存在している。また、弥生時代後期初頭におい
ても、南関東系土器群自体の出土例が僅かながら確認される(小林 2013b)ことから、南関東系土
器群 8)の分布圏とも交流を持っていたことが分かる。
まとめ
今回、千葉県成田市南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 2 号土器棺墓出土土器の系統と編年的位置付けの検
討及び、下総を中心に弥生時代後期初頭の地域間交流の一端を論じた。以下に要点をまとめたい。
土器棺墓出土土器の系譜 土器棺墓から出土した 2 個体の土器のうち、甕形土器については下総
に典型的な土器ということができる。鈴木は壺形土器に関して、「屋代式」・「佐野原 2 式」との関係
を考えているが(鈴木 2008)、今回再検討した結果、栃木県域の影響を受け下総に定着した結節文等
の要素の他に、南関東系土器群の影響と考えられる羽状縄文が認められ、鋸歯文内充填刺突文は下
末吉台地、妻沼低地・大宮台地周辺との交流の結果であり、それらが複雑に折衷したものであると
考えたい。
編年的位置 甕形土器に関してはその形態的な特徴や施文される原体から、Ⅰ b 期に位置付けら
れる。世田谷区喜多見陣屋遺跡 158 号住居址及び、長尾台北遺跡 14 号住居跡の対比から、各氏の時
期比定にやや相異があり流動的ではあるが、朝光寺原 0 ~ 1 式(浜田 2009)・朝光寺原Ⅰ式(田村
2013)・Ⅰ b 期は併行関係にあると考えることができ、南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 2 号土器棺墓の壺
形土器に関してもⅠ b 期と考えることができ、鈴木の後期初頭という編年的位置付け(鈴木 2008)
の妥当性が裏付けられた。
下総における後期初頭の地域間交流 従来、下総に限らず後期初頭は集落数が激減することから、
地域間交流について不明瞭な部分があったが、下総の土器に見られる文様要素の系譜を検討するこ
とで、交流があった地域を具体的に指摘することができた。また、後期初頭において、下総と地域
間交流をしていた地域は、中期後半段階から継続的に交流関係を維持していた地域である可能性が
指摘された。
今回検討を行ったが残された課題は多く、例えば本稿で取り上げた地域間交流の背景について、
土器以外の遺物や、各遺跡自体の検討から具体的に迫ることができなかった。しかし、土器の文様
要素の系統と編年的位置付けの再検討から、弥生時代後期初頭の地域間交流の一端を明らかにでき
たことを成果とし、擱筆としたい。
本稿を草するにあたり、下記の方々には有益な助言を頂き、また資料調査等の際には大変お手を
煩わせました。記して感謝致します。なお、本文中の人物名は敬称略とさせて頂きました。ご寛恕
願います。勿論、本稿の内容に誤りがあった場合、全ての文責は筆者に帰結します。
(五十音順・敬称略)
新井悟・黒沢哲郎・轟直行・柳澤清一・山田俊輔・川崎市市民ミュージアム・成田市教育委員会
註
1)関東地方北西部や中部高地の例では、鋸歯文を箆描による沈線で施文する場合が大半である。南羽鳥谷津堀遺跡 A 地点 2 号土器
棺墓の例は櫛描文であり、様相を異にしている。下総においては、中部高地の影響を受け多条の櫛描文が定着し、中期末葉~後期
94
を通して文様施文に用いる例が多く、関東地方北西部や中部高地と文様の構成は同様であるが、施文具は下総に定着した工具を使
用していたものと考えたい。
2)武蔵野台地に位置する、板橋区赤塚氷川神社北方遺跡(赤塚氷川神社北方遺跡発掘調査団(鈴木敏弘)1989)でも確認されている。
LN81 号址からは、岩鼻式の 2 期(柿沼 2006)と考えられる資料と共伴しており、後期前半までに収まると考えられる。
3)この時期指標は、高花により設定され(高花 2007)、筆者が再検討したものを指すこととする(小林 2014)。
4)田村はこれらの資料を朝光寺原Ⅰ式とし、喜多見陣屋遺跡 158 号住居址等の資料も同時期と考えている。一方、浜田は長尾台北
遺跡 14 号住居例を朝光寺原 0 式、喜多見陣屋遺跡 158 号住居址例を朝光寺原 1 式とし、田村の朝光寺原Ⅰ式に含まれる資料内にも
時期差を見出している。
5)これらの分類基準に関しては、高花氏の分類基準(高花 1999)に準ずることとする。
6)中期末葉における関東地方北西部と下総の地域間交流を示す事例の一つとして、埼玉県下田町出土の大崎台 1 式がある(小玉
2007)。
7)管玉の生産地は北陸及び佐渡島周辺に限られること(大賀 2001)等から、鉄以外にも中部高地が流通ルートに組み込まれたもの
もあると考えられる(大賀 2002)。
8)このような北関東系土器群に影響を与えた南関東系土器群が南武蔵であったのか上総であったのか等は判断することが難し
い。しかし、下総における弥生時代後期の南関東系土器群は、千葉県北西部以外は基本的に上総の影響が強いと考えている(小林
2013b)。
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図の出典
第 1 図:酒井ほか 2000 第 2 図 1:藤田ほか 2000 2:小谷ほか 2000 3:菊池 1999 4:埼玉県 1982 5:北島シンポ準備委員会
2003 6:福田ほか 2009 7:伊藤ほか 1997 8:横山 1999 第 3 図 1 ~ 4:伊藤ほか 1997 5・6:喜多見陣屋遺跡調査会 1996 第
4 図:各報告書及びカシミール 3D を用い筆者作成
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