1
0
2
. 湖南におけるこつの製鉄遺跡
一 最近の調査例から一
序
;[江における製鉄i
i
i
湖、の研究は、 f
J
tl
次l
幻はl
i
i
をにおけ
る憾 fJ 治之氏 、 i,~J四段北部における記長浩司氏、 j却l 時j ・
7ミニ )J~lLJ 京総か ら j頼 [日丘陵、IlffH主地にかけ てのおJI~~' 治
夫、千後!lIJ 段、 M)J~(~号雄弁氏を rO:Jitt とするうむ子炉によっ
て.iffiめられてきた。
l県下において判明する製鉄t
U
湖、
の数はお
現 夜 、滋 t
0
側F
kを数え、そのも、ずれもが砂鉄ではなく、欽
よそ 7
位置図
上平野町大塚遺跡
2.
平津田I池 ノ下遺 跡
調
j
;イ{をl
京
事
,1
・とするものであることが鉱滞の分析から総
iLており、特 l
こな密度の向、、地域は関東地方といえる。
定されている。
iで l
;
t
:
.
f
J
l
.
1
'
:
I
判明するもの 2
8例 所 、 下 総
たとえば、常│織りl
1
J
i
1
2
2
1
1
ii1所、上野l
王1
9個所であリ 、│
後
!
)
4
.1
ま4県にまたが
'
1
,
誌の砂鉄によるタタラ
一般に製鉄総数といえば、 :
!
.
"<I
釘'
i
{
,
杭 ・美作あるいは橋燐にお
係業を思い浮ぺ、 i
るが6111~l ffrの 11~鳥以脈 、 平安fI.r代までのむのがーI"J'U~ し、
ける千五・':0欽を j
!
l
!
f
J
.
t
する。そして 、 これら中│孟│山 J
也の
i
!
:
i
J
'
j
i
f
時代 l
こまでさかのぼる Lのむ
l官
邸i
)
i
.
j
i
l
lられている。
製鉄がいずれも古代から;1]:位にかけて 、特に江戸時代
白日本では年代の判明するものも
これら米国に比ぺ i
においては大々的な採 mがなされたにもかかわらず 、
少なく 、J
I
止も多い筑l
i
可悶では 1
6
1
1
崎i
折、 1出会同では 1
3併l
ここ近江においては;1]:'
1
止はもとより中世における操業
所であヮた。さらに0:
1
'
1
五│
地方 で は 災 作│
司で 1
1m
1lij十I~Jl9"J
1"1 休ー1;IJ r.~としていない 。おそらく古代に栄え i!i代 のう
するが 、:1Iぷで I
;t.・午代の知れる古代までさかのぼるも
ちに終:~!~をむかえたものと考えられる。
のは今日まで l
俳!らかにされていないのである。
他)
J、畿内 I
也)1では-t
ml
t
、和泉で各 11
1
h
l
川知られ 、
主主芯 ・来実伝J .~1~の条の皮絡の記・!誌に
そのかみ 、 r
「悶 I
;
t
.
欽
を :1¥だす、附議 ・倭はみ
m
4
3
t
;
ここれを 1
[
i
(
る
、
;[試では 4I
{
酬 の み で あ る 。 これは製鉄炉に桜する鉱
,・々のTIi策はみな欽をもちう」とあって 、弥生時代に
俸のすて場に土慌のすてられることが少なかったため
おける鉄資iJ~i の問題を考えさせる著名なくだりである。
年代の決め手を欠くことが多いのと 、発似湖査などの
みにおいて製鉄が開 始 される以 j
j
i
Iには、その原料
列j
'J.~例が少ないことによるものである。
といっても 1
J
R石ではなく、鉄総あるいは欽ののべ阪と
なお、近江ではI'
J
J
1'1¥.1I寺代から議良時代にかけて係尖
Y
I
して入手していたに相逃なも、。ところが弥生時代後J
に操業されていた
1九州から :
I
t
/i
l
湖東までほとんどの地滅で石
には 、市 1
るし、山併の初日 111'~i射では 7 世紀初~j[の古.tn-から製
慌が使われなくな 1
)はじめる。この現象の背後には石
欽によって生じた J~~物事と呼ばれる鉱怖が副若手されて
総にかわって鉄がj
ぶ〈使用されはじめたからであると
いた 。このことによって音羽山周辺の 製鉄逃跡がかな
いわれている。
り早くから始められていた ζ とが判明する。
ζ
とが発射訪日tによって判明してい
しかし、日本列!
与の全域に及ぶようむ欽の供給が弥
9
8
1年 度
ここに紹介する こ つの逃跡は 、われわれが 1
みからそ
生後期に可能でhあったのか 、 ましてや籾併;半 j
に
1
l
1
t
.
1
Ji.した逃湖、の紹介である。いずれも緊急調Z
tとし
れがすべてまかないえたのかとする疑問が生じて くる 。
て工事のなかで災地したため多くの成来はあげること
今後このような疑問に答えるためには 、鉄総の化学的
1
1米なかった。淵査を尖絡すること自体;
が1
1
1
維な部
が:
な分析とともに製鉄巡跡の発見につとめなければなら
淡のなかで行 ったむのであ る。しかし、製鉄巡跡の発
ないと いえる 。
蝦湖貨の機会の少ないわれわれには大変勉強となリ多
古跡は 、
吸不正日本列自における古代にさかのぼる製鉄t
I
f
森県から磁は熊本リ,
Lまでほぼ全国において匁lら
北は!
.
,
- 1
くのことを学ぶことができた 。
また 、 ~ I':W辿-跡の鉱i事の 分析をはじめとして、あわ
せて i~~ 内齢 、 型'f'lj!告ノi 、Y1l 山のそれも分析結果をいただい
平 ì~t および問辺 i遺跡の製鉄棒分析他(%)
察しはじめた 。 ものの数分もたたないうちに、そのイ
│
暗
1.化学:分析
所に製鉄を示す鉄絡が散乱していることに気付き 、ふ
si
o
. FeoAI.osMgo MnOTio. Cu Cl・
iJ~! 内 PI宇 1 2
8.
75
1
.
0 6.
653
.
0
20.
350.270.080.08
聖
子
1
1
,
¥
1
所に 3
1〈わした時、かならずその工区に必'ち寄る、二
f聞を降りて{
反排水路 を 観
とにしている私は線道から8,i
た。 あわせて紹介しておきたい。
と鎖を上げると 、そこには見事な包合宿と務ち込み(
土検)の存夜が注意された。
2130.
651.
9 6.
582.970.
370.
240.1
30.10
f
J
r
i
l
iであ り
、 そのうえには
この例所{主、仮排水路の I
2
7
.
2 54.49.19 2
.
9
10.81 0.
770.050.
1
6
笠めるべく桃土がl
心めように燐リ
こiιから悶場終怖を j
5
0
.
14.
704.
04 1.270.
230.040.05
1
二げら t
lていた。さらに工ミ
ドの j
並行するミとを i
注f
具し
:
f
,
骨
i~tI32 .2
た訟は、すぐに工半現場の総 '持に ffiï 会を求め、 ~J{ ・|常を
2
i
;
S
l
,
l
¥
月
す
る
こ とになった。この j
当
日
事1
;
1
.
、 J
i
をi
!
i
:
県 Fでも注
ノレルコ X~Jm 析
y
a!
it
e
{2FeO・
s
io
.)が主成分て"あリ、
いずれの絡も Fa
Magnetite(F~ o.,
)が芝河二花、められ た。また_I
:記化学
分析f
i[から AI
.
03 が多いので An
o
r
t
hi
t
e
{Cao(Mgo)
住| をよ長めている事~ },.、遺跡であり、 古代まで測るもので
あろうこと 、 これ以
kのJ
J
:
l
t
自I
J
はさけられないのか等々
であった 0
・
AI20.・2si
o
.
)が検出されるのではないかと思われた
工おは今日の午後から予定しているとのことで、す
.
J
it
e 中に t,l~ i
容されたためか硲
が、 ζ の成分では Faya
でいブルドーザーの巡転手が院後に付き添って況地 を
認できなかった。{分析者
ニ米ていた。
見i
京大 ・工 ・井ノ山直後)
I
l
f
J
て
寸
主 、すでにこのやJ
"
i
!
i
:I
;t.市教委によ
しかし 、工 事 I
なお、調査の参加者は以下のとお りである。記して
5
;にかえさせていただきたい。
感謝の微1
って試搬捌貸されたこと 、こ の部分はこれ以上の侃削
大塚遺跡 :大谷隊、岡本│
筏子、製坂努樹、
はしないようにするとのこと等であったのよのため 、
れらの'夫t
.
'
JをI
U
1
1
:
J (雨天の場介は延期するが)尖 j
W
I、
日氷伊久男 、M原秀雄、江南美代子、
ζ
f
i、松浦俊'
和(大津市教委)
山口孫 i
測量するので午後からの工事を処l~J するように求めて
与ILi~t.J立E剤、 ・ 中川 i泊 1 : 、国(lJ[í 干IJ 兵衛 、 滋!点ヲまま1ft
j).!:絡を得ることが I I\~長た。
明くる日の 61
:
11
ま必天候の為4
炉実上 8L
Iの初から調
柴総依 r 、 総凶 '-;ì~. " r 、 11101まつ、
4守~!f とよ、山に1 1~争校 、 初 111 i
!
i
;(
,
貨を災 b
I!iしたのである。
初悶さみ、山本すなお、沢聞かつ
翻~方法
i~,司合 l ;t l析I侃凶作成と λHW:kI作成に i以った 。 ,湖 3をの北
端は、農業!日水路({反水路の l
白:
般の限 I
tiIとなったもの)
大津市上回よ平野町大詰票所在
+
4
端はこの水路 のやはり│鮒 1
Mにうかがえ
部分であり、 1
大塚製鉄遺 跡調 査概 要
る側所からやや耳目子りまでである。
I
l
I
にはまえぬソミ井川と
なぜならよの水路のさらい東南 I
はじめに
7
4
'
-3J
15日、近 江 I
J
i
l
j
l
¥
Tから思決:センターへ向
昭和 5
う途次 、 凶道一号斜!の道路工併にともなう交通 ?~I;:;貯を
避け凶上、 λIt\lfi'を経由して滋 í~'l t豆大へ出ることにした。
なった大戸川の支流である放路 1
1
1が凶行,j
i
f
J
tしてお )
1、
この l 口 i可jtJ:と忠われる悩fi)r 1)<上 t~e水路によって後1!t11f.J
j純されており、 1111j~言の I品j泌がうかがえたからてのある。
この折、平野からな手へ折れて 草津へ怠る交叉点(三1
<
すなわち二二の I
B M道部は多屯のこl
二I
ゆが流入し、この犬
l
[
l
l
において 3
7h
aに及ぶ倒場型産備事業
野口パス停)の凶 l
井川│に終ちつく以前の伊I
伴が
が実縦されていることに気が{ずいた。このような造成
と々えられたからである。
大 塚 遺 跡全 景
r
e
佑WI来るのではないか
大 塚 遺 跡 土1
策検出状況
- 2-
調 査の成果
この河川湖、の下帽を I、上田を I
Iとして記述を進め
},~本!百 j子 : 耕土 ・ k:(JlOc冊 、|自灰色砂'l1 二仁 ・ 約 llcm 、
i
ぬ縫色
たい。
・6- 9cm、i
泌総灰色布機質土(I 日企I~土)・ llcm 、
河 川 跡 1l
i資i
殴色及び紫灰色の粘1
!
{二
十
:
/
静である地 1
.
1
.
5
cm、灰 吹 色ご
仁熔(池山).11-28c
冊、灰 褐
層) ・4-1
込リ粘
色 砂j
n土府(J也 1
1
1)・1
3-38c
m、賞灰色中古賀土層
を切り込み1
制J
Iされたものである 。 しかし 、調査純聞
と J
l
jl
1
に
:
t
i
J
I
,f:甘されてその泌さ 、 1
1
Iなど明らかになしえ
也山 I
江上には!死偽色紡 '
l
'
lゴ二
!
符が
なかった。なお、二の J
(
J
息I
.
I
J
)・18-3
9cm、1
資鐙色紗1
1
{
粘1
t
t土!古(J也山)深さ米
のり、その上には鉄棒を含む干潟色の砂i
昆リ粘 1
1
{土 が I
'
可
/IOi認、以上が悦祭出来た桜木土!日である。
11
のなかに流れ込んだ状態で観泌される。
戸i
I
J
lI
跡I
Iは、この鉄j
宰を含む包含隠の」二府に 一気に
偽色術賞色土!百 (I
日床:i:)・4- 6c
m、茶褐色土(包含
遺構
m
l
日水紅l
跡 : 現7!<A3 ï(fiの~下およそ 30cm たらずの地層
流iL込んだとみなさ ü る ~l灰色I沙Wi があり 、 この砂層
t
i
u
に│
日耕ゴニと球土が倹山されている。 f
(
j
j(
f
-Jな綱 f
tでは
をもって予想している。また 、この砂!胃を y
qうように
ないためその区画や総造、年代など不明であるが、今
して鉄棒の包含!習が統祭され、これが先に ~J~ 本土!習で
記述した!日床土前下の包含!日である。この従灰色砂層
後の耐f究に良きフィールドをもIt O~ するであろう。
t
E業用水路跡 :j
i
l
i
j停に巨大な花街岩を謎俸として用
いるが、 この:r
:
I材の下には枕木をならべ 、な必そのう
台
(l
f
J
lI
跡I
I) を挟んで向包含廓がいかなる関係にある
のか目下のところ定かではない @
子1
2
!されることがあるとすれば 、i
可
J
lI
跡
え 1~'f l去には聾杭が支えとして打ち込まれている。すで
に幾 J
荷にも砂層が被似し 、観察tIJ来る側所では埋めつ
Iの弱者1
1
に
あたる包含 j
習は 、河川 i
跡、
Hの包含層と - J生のものであ
材l
白:下から黒灰色の瓦片が出
くされていた。なお 、平i
って 、包含閉め崩壊、i
u
f
H
I跡 I
Iの肉然 1
)による i
i
f
i
俸の
土してお り、その王子代を l
暗示させている。
t/if, i~jリ (:toJìf立泣のえぐり)等によってこのような形に収
卒、炉
大型土機 :包含!習を切り込んだ]彩で、炭や欽j
肢が充満した土吸である。断 i
而で級祭出来る士見紋 i
ま
、
-j
l
lが
3,
5m、深さ約 4
0
c
mをi
!
l
Jるが、その平I
削形態は
まった場合である。また 、日I
J
仰のものと考えた均-合に
は 、 ~~*層 1子中の包含層が Jf~ 成されるまえに L う 一 時
期!製鉄の総決tJ~J があリ 、 その包含層{まことごとく削除
不明である。なお、製鉄i
立跡の 4
操業時 1
V
Iとこの土;
燃と
され、河川 Iへの流入土の みが残存した場合である 。
の年代I~I係については 、 キ日前後するものがかなりの H寺
跡I
Iが基本j
習序 1
ι
,
'
の包含}習に先
さらに 、土層では河JlI
間的距た 1
)のあるものかどうかいずれについても定か
行する形となるが、先に述べた砂l
習が鍛えぐりの状態
ではな L、 し か し 、土層 f
泌総の原 則に立つならば、 こ
Iと包含!刊の年代は
でくい込んだものとすれば河川湖、 I
む湖、
以後のものであ り
、 恐らくは操業
のこ
じ駿{主 、製鉄i
4
・
J
I然としないものといえる。
後にこの地に放出されていた 小山のごとき製練擦がい
穿って桜め込み三
1
i
.
:
l
i
J
,化すべ〈努力がはらわれた結果 、
跡 Iがこれら 1
,
I
,
j
包含!日よリ
いずれにせよ 、 この河川 l
ゼiいことは隊炎である 。し かし 、包含 l
習が災鉄操業m
J
その Lのをがすものではないことから 、河川跡 Iが製
ニのような土機が,
'1-¥来上ったものとも思慮される。こ
鉄線業J~J に先行した1fii削にかかるものではないことも
ろいろな If~ で除去され 、 務.h.Iよされていく過.fhl で、火を
1
:協の :
I
'
i
.'
r
J
f
j
i
立総調主主をまた
の問題の解決には、やはり )
また ~'JJ笑である。なお 、 河 11 1 跡 Il の砂層 sれから こlニr.rli!(.~
なけH.ばならない。
の 小 川・ が l l~t*取された 。
j
、土郷 :包 含1
習の直下、鳩山とみなす灰煎色土!音を
ノ
小結
切り込んだ状態のピットが検出されている 。 なかには
l
日河川跡も製鉄祉にともなう 小こ
l
ょ挑む 、 さらには包
嬰1
立訟に炭化物のみうけられるものもあり、他物泣緋
汚を切 った大土燃や I
{
:
(
上の旧耕土、 j
求土も 、これら
含j
Zi
笥:との関係も考!iP.されるが 、 これもまた 3
1
而;羽交をま
l
いずれもが対.斜11 なif.i'~を欠き.J.;;~1本的なJ)J(;M~ を符なかっ
たことは伐念:
である。しかし 、製 鉄j
f
i
糊:の分;
(
I
jが変っ
たねば判然としないといえる。
)
i
'
J
1
1
1跡
: 先に石材で~r~ 序された終業用水路に触れた
習が正しく似泌されていたよとは
たこと 、 しかも包含j
が、この水路の下層で大きくは こ層に分けられる河川
注目に値しょう。さらに│日車I
t-土の発見、戸'
I
川跡、水 路
湖、
と党しき砂層を V
r
r
l
l
aした。
止、今後の問上地}'jの 1
)
.
f
J
発の歴史をひもとく
跡の存ず1:1
=
士
ー
一一
犬猿製鉄遺 跡 断函図
- 3ー
とき
t
r,f(な jS 跡として IJ}/!l: 1ê~~I: ,Jl.j 1f.を行うニとが可能
である。
1つの 1
'
.瓜
、
l つの欽作の ~H!. が将;!~への泊
先への j止がかリ ~I'j 必ぷするよとになった。関係者,f~
l
Jにすぎず、
遺跡地のごく ー f
'
J
'
iI
tの パ ス 停 で 下I
'
i
.
し
、
」じヘメ筋 I
J、およそ 60mの例併を"可へ折れるとその突
き当りであって 、以辺から 6
0m似た っている。
氏にあらためて J:i~しを IJ' し述べて市を捌< .
'
i
lt丘陵の II:.絡を位以する例II)I'にあたリ、
当地!.i、・I
(大谷級、 i
'
:
;
I
f
,
(r~鋭、.'.'.\坂fÇ樹、丸山竜平}
北、南より ー 'fl ,\~j <
、
t
f
J
i燥の11!!といえる f6M
の楽部立
l
tl!.である.
大津市平調書町字池 ノ下 所 在
調査方法
遺跡調査概要
必よそ
1.800m' にのはる宅地のうち、まず工・l~に中
・
止をかけた道路拡IÞMm~分から,;1:4 i
tをI
mMiした.この既
は じめに
設道路の ld,jllm はすでに機 l伐I'l~t)(j盆 '1' まで.i1ßんでいた
昭和 5
6
i
ド2JJ8l
1
、 I
H郷に ji
l
I
"
{
,
じ
す
る
4
.
l
l
:
i
l
1
1
"
i
琵琶湖l
工
・JHqJ,,~十に l 耐 IJ があ ゥて lí'J かう途次 、
かねてから|詰l 心
ため、
のあった・I'-i lり也Iメ:の S知事 li文イ'ii l也を ~I,~ j
立を走る '
I
i
.
;
さ.
から
f
l見していた 。
H
t
:
4
1
I
:
f
'
j
I
J;~i\の1'1' で北 fl!lll.i '
1
'I
f
I
i
と
│
析I
f
l
i1ul.然、,t
j
f
!
l
j
il
i
Itfr,(,ï 鋭24 し、それぞれ 1'~II(,i の作成を行った。
また、宅地部分については、
j
i1路から l
t
J
I
!
J
には京商
会1怖に及 "')~条のトレンチを、また Itiflllj では I,i] じく全
己
当 11与の事~~;I.; ju 跡 1;1、
I ,~くから J;O: H
lI
,
(
1
;I
:
iの,(!
j
J
,
I
;
'
i
f
i
火氏
'
t
l
,
¥
にJ
f
l
.ぷ一条の卜レンチを,1
立山し、 i
且怖の I
)
l
i
f
i
l
]への T
i
:
カf その liJ十 (1: に主(f.J・かれ、われわれもまた 、 ~H自に 1,'Hi::
必百1\7)'1まえを '(l i í~I.J1f.を,1えみた 。
していた i~t'l 大 JI~ ,'(11 1 作文 ~I・を jJ.Úじて熟知1 していた。
鈎査の結果
その当時、If({千1
1
4
5、 6i
l
'
.刷、ニの製鉄j
立制:の中心部と
お l .fしき伽~,ilr で:記j也j立 JJl<:ヵペ t なわれ、その J二 IfJ:rl ' に
~:I(の角,U: や欽伴 、カ im などが I,x,f;ししていて、 4守米家
1.i.立断片付I
!
)の 断(
'
I
i
によリ J
M
/,:をたど って
I
I
J
1
2
c
mの 川 緋 l
、
二 '
1
1
2
c
mの 泌 縦 色 め 粘 '
t
t
土附
トレンチ
みると、
• 1ぷ
1-. があリ、さらに 20cm の j~ i'f を多 :t;; に合み、 Iわヲず
~ーの.iJ!; J
l
t
l
l
.
fI
ニ
I
;
t~êl~ll ,制1):が必吹:であると ~,r.!恋していた
かに J
よ
二2
総器を f
合守む i
近
丘
引
釦1
快│
のである.
j
郷
期
U
切
l
にJ
地
色
t
也I
均
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