14. 貧酸素水塊消滅過程 14.1 はじめに 北九州市洞海湾(図 14.1)では 1960 年代、沿岸に林立する各工場からの大量の未処理排 水流入のために極度の海洋汚染が進行し、湾内にほとんど海洋生物が存在せず、「死の海」 と呼ばれるほどの状態となった(Ueda et al., 1994) 。 図 14.1 洞海湾における観測地点(Sta.1-7) これに対して、北九州市民は洞海湾を浄化すべきと言う住民運動を興し、マスコミも洞 海湾浄化キャンペーンを展開した。そのような声の高まりに応えて、北九州市が排水規制 (1971)・底泥浚渫(1973)などの対策を行った結果、1990 年代には洞海湾でも魚影が見え るようになった。このような洞海湾海洋環境改善の功績により、北九州市長は 1990 年度の UNEP(United Nation Environmental Program) 500 に選ばれた。 しかし、毎年成層期には洞海湾奥の表層で赤潮、底層で貧酸素水塊が発生するという富 栄養化問題は依然として解決されなかった。 そこで、北九州市は数値生態系モデル計算を行って、赤潮・貧酸素水塊発生防止に必要 な TP(Total Phosphorus;全リン) ・TN(Total Nitrogen;全窒素)負荷削減量を明らかにし、 沿岸各工場に TP・TN 負荷削減可能量を打診した(Yanagi et al., 1999)。 さらに、環境省は 1997 年に洞海湾の TP・TN 濃度環境基準を設定し、総量削減制度に 基づき、沿岸各工場に TP・TN 削減量を割り振り、TP・TN 負荷量削減→TP・TN 濃度減 少に向けた努力が行われた。 加えて、北九州市環境科学研究所は洞海湾内で夏季に二枚貝、冬季に海藻を養殖して、 海水中の多量のリン・窒素を吸収・除去するとともに、貧酸素水塊が解消した後の秋季に 湾奥海底にイトゴカイを散布し、海底に蓄積した有機物を分解させるという、バイオレメ デーション方策を提案し、数値生態系モデルを用いて赤潮・貧酸素水塊解消に必要な二枚 貝養殖量を明らかにした(鬼塚ら、2004) 。 洞海湾において、上述したような TP・TN 負荷量削減、二枚貝養殖、海底へのベントス 散布といった環境改善努力が続けられた結果、後述するように、2011 年には夏季洞海湾で 貧酸素水塊が発生しないという状況が出現した。 本稿では洞海湾における貧酸素水塊消滅過程を定量的に明らかにすることを試みる。 14.2 貧酸素水塊の時間変化 図 14.2 に洞海湾の貧酸素水塊(本稿では DO(Dissolved Oxygen)濃度 3mg/L 以下を貧酸 素水塊と呼ぶ)の時間変化を示す。1994 年 8 月、湾奥底層の DO 濃度は 1mg/L 以下で、 この状態が 6 月下旬から 9 月上旬まで継続していた(東ら、1998) 。 図 14.2 洞海湾における貧酸素水塊の経年変動 2006 年 9 月には、湾奥底層の貧酸素水塊の空間スケールが縮小した。そして、2011 年 9 月には、湾奥底層の DO 濃度は 3.5mg/L 以上に上昇し、貧酸素水塊は消滅した。 14.3 溶存酸素収支 1994 年 8 月、2011 年 9 月の洞海湾内における溶存酸素収支を明らかにするために、図 14.3 に示すような鉛直二層、湾内(Sta.3-7) ・湾外(Sta.1-2)二領域のボックスモデルを 考える。 Sta. 7 6 5 4 3 2 2m DOiu 1 DOou 7m DOil DOol 9km 図 14.3 鉛直 2 層、水平 2 領域ボックスモデル 湾内ボックス(長さ 9km)における上層(層厚 2m) ・下層(層厚 7m)の DO 濃度の時間変 化は以下の式で表される。 DDOiu Vu (a u Tiu Chla iu Dt K h S u ( DOiu DOou ) / L Vu bTiu POC iu ) wi S i DOil u i S u DOiu K v S i ( DOiu bTil POC il ) S i cTil AVS i wi S i DOil u l S l DOol DOil ) / H i (1) Vl DDOil Vl (a l Til Chla il Dt K h S l ( DOol DOil ) / L K v S i ( DOiu (2) ここで Vu(7.2x106m3)は上層ボックスの容積、Vl(2.5x107m3)は下層ボックスの容積 を表す。他のパラメータの意味は図 14.4 に示すようである。 DOil ) / H i R Hi wi Si uu Su ul Li Sl Hi=4.5m Li=6km Su=2x400m=800m2 Sl=7x400m=2800m2 Si=400mx9km=36x105m2 R=4x106m3/s Uu=5.0cm/s Ul=1.3cm/s Wi=1.0x10-3cm/s Kh=2.7x106cm2/s Kv=3.4x10-3cm2/s 図 14.4 パラメーターの意味とその値 なお、海面を通じての酸素供給フラックスの影響は植物プランクトンの光合成による酸 素供給に比較すると著しく小さいので(Yanagi et al., 1997) 、ここでは無視してある。 (1)・(2)式を解くためには、洞海湾における夏季の物理過程をまず明らかにしておく必要 がある。1994 年夏季の洞海湾における残差流の流動状況は、図 14.5 に示すように、数値モ デルを用いて再現されている(Yanagi et al., 1997) 。このような残差流分布は 2011 年も同 様であったと仮定する。数値モデル計算結果をもとに決められた上層・下層水平移流速度 (Uu・Ul)、鉛直移流速度(Wi)、水平・鉛直拡散係数(Kh・Kv)は図 14.4 に示すようである。 図 14.5 洞海湾の夏季の残差流(Yanagi et al., 1987) 図 14.3 に示した湾内・湾外ボックスにおける上・下層の 1994・2011 年の DO 濃度、湾 内ボックスにおける Chl.a 濃度、POC(Particulate Organic Carbon)濃度、水温(T)、底質の AVS(Acid-Volatile Sulfide)濃度は図 14.6 に示すようである。2011 年は POC の観測が行わ れなかったので、2009 年の値を用いた。 Aug.1994(mg/l) DO 6.5 4.0 1.0 Sep.2011(mg/l) 10.0 4.5 Aug.1994(mg/l) 2.9 6.5 DO Aug.2009(mg/l) POC 1.1 1.0 Aug.1994(℃) 29.5 9.5 6.5 0.5 Sep.2011(℃) T 27.7 26.8 28.5 AVS1994:1.5mg/kg AVS2011:0.4mg/kg Aug.1994(μg/l) 15.5 Sep.2011(μg/l) Chl.a 15.5 5.0 図 14.6 1994、2011 年の観測値 2.1 (1)・(2)式で正味の酸素生産(植物プランクトンの光合成による酸素生産―呼吸による酸 素消費)は上・下層の Chl.a 濃度と水温に依存し、水中の酸素消費は POC 濃度と水温に依 存し、底泥の酸素消費は AVS 濃度と水温に依存すると仮定してある。 1994・2011 年の DO 分布を疑似定常状態と仮定すれば、(1)・(2)式の左辺は 0 となる。 (1)・(2)式の未知数は、au(上層の植物プランクトンの光合成による酸素生産―呼吸による 酸素消費係数) 、al(下層の植物プランクトンの光合成による酸素生産―呼吸による酸素消 費係数) 、b(懸濁態有機物の酸素消費係数) 、c(底泥による酸素消費係数)の 4 つであり、 1994・2011 年の上・下層の観測デ-タを用いて 4 つの式をつくれば、それを解いて 4 つの 未知数を求めることが可能となる。 1994・2011 年の観測データ(図 14.6)を(1)、(2)式に入れて出来た 4 つの式を解いて得 られた未知数は以下のようである。 au=1.5 x 10-7 O2mg/L・s-1(℃・μg/L・m-3)-1 al=2.4 x 10-7 O2mg/L・s-1(℃・μg/L・m-3)-1 b=7.5 x 10-7 O2mg/L・s-1(℃・mg/L・m-3)-1 c=2.7 x 10-5 O2mg/L・s-1(℃・mg/kg・m-2)-1 1994:O2 (106 mg/s) +494-462 2011:O2 (106 mg/s) 160 1 90 41 234 +464-164 400 2 63 162 234 693 +8550-5343 -3990 72 +3377-2512 -1011 図 14.7 計算された酸素フラックス また得られた両年の上・下層の DO フラックス、DO 消費・生産フラックスは図 14.7 の ようである。+は植物プランクトンによる酸素生産、-は懸濁物質や底泥による酸素消費を 表している。図 14.7 によれば、1994 年と 2011 年で顕著に異なった DO 収支の様相は、上 層の懸濁物による酸素消費量が約 1/3(462→164)に、下層のそれが約 1/2(5343→2512) に、底質の酸素消費量が約 1/4(3990→1011)に、減少していることであるが、定量的に は下層の懸濁物と底質の DO 消費の減少量が大きい。下層の酸素生産量が約 1/2 になってい るのは Chl.a 濃度が半減しているためである。これは湾内の栄養塩濃度が減少したため(後 述)であると考えられる。 以上の結果は、1994 年と比較して 2011 年は水柱の有機懸濁物量が減少して酸素消費量 が減少し、底泥への有機物負荷量も減少して底質の酸素消費量が減少した結果、貧酸素水 塊が消失したことを示唆している。 図 14.8 1995-98 年と 2006-09 年の水質パラメータの比較(Hamada et al., 2012) 14.4 考察 洞海湾の TP・TN 環境基準が未達成だった 1995-1998 年と達成後の 2006-2009 年の湾内 水質パラメータの比較結果を図 14.8 に示す(Hamada et al., 2012)6)。これを見ると、栄 養塩では環境基準達成後、湾内のアンモニアとリン酸濃度の減少が著しく、懸濁物質では PP (Particulate Phosphorus)濃度の減少が著しい。 PP の減少は PIP (Particulate Inorganic Phosphorus)の減少によっている。すなわち PO4-P が高い場合は水中の PO4-P の一部が海水中の懸濁粒子に吸着し、 PIP を生成するが、 PO4-P が低くなるとそのような吸着が起こらず、PIP 濃度は低下することが実験的に証明 されている(Hamada et al., 2012)6)。 NH4-N と PO4-P の減少は図 14.9 に示すように洞海湾への TP、TN 負荷量が著しく減少 (TN は約 1/3、TP は約 1/5 に減少した)したことが主な原因である。 同様な底質の変化を図 14.10 に示す(底質の分析法は濱田(2011)7)による) 。1995 年と 2008 年で各点における表層底泥の TOC(Total Organic Carbon) 濃度と TN(Total Nitrogen) 濃度はほとんど変化してないが、1995 年と比べると、2008 年には湾内で AVS 濃度が著し く減少している。これは測定されていない底質中の TP (Total Phosphorus)濃度、特に OP (Organic Phosphorus)濃度が著しく減少したことを示唆している。 以上の結果は3.で述べた DO 収支結果と整合的である。すなわち、洞海湾に対して 1997 年から TP・TN 負荷総量削減規制が適用された結果、洞海湾への栄養塩負荷・懸濁態リン (特に懸濁態有機リン)負荷が減少し、水柱の酸素消費量が減少するとともに、底泥への 有機物負荷量(特に有機リン)が減少し、底泥の酸素消費量が減少して、還元状態から酸 化状態へ移行して、底泥の硫化物濃度が著しく減少した、と考えられる。 TN loads TP loads 500 Kg day –1 Kg day –1 15,000 10,000 5,000 400 300 200 100 0 0 Fiscal Year Fiscal Year 図 14.9 洞海湾への TN・TP 負荷量の経年変動 1995 60 2008 40 20 TOC (mg/g) 0 7 120 100 80 60 40 20 0 6 5 4 3 Station 2 4 TN (mg/g) 80 TOC TN 3 2 1 0 1 7 6 5 4 3 Station 5 y = 25.4x + 2.47 r² = 0.997y = 28.0x + 1.62 r² = 0.995 0 1 2 3 AVS (mg/kg) TOC (mg/g) 100 3 2 1 7 6 TN (mg/g) 図 14.10 1 AVS 4 0 4 2 5 4 3 Station 2 1 1995 年と 2008 年の洞海湾底質パラメータの比較。 そこで、セデイメント・トラップを用いた沈降フラックスの変化を調べた。結果を図 14.11 に示す。図 14.11 を見ると、1997 年と比較すると、2007 年は湾奥の Stn.6 で N・P の沈降 フラックスはおよそ半分に減少している。この間、湾内の Chl.a 濃度はほとんど変化してい ないので(図 14.8) 、このことは TN・TP 総量削減により沿岸工場からの懸濁有機態の N・ P 排出量が減少し、海底への沈降・堆積量も減少して、底質の酸素消費量が減少し、AVS 濃度が減少したことを示唆している。 0. 3 0. 1 1997年 1997年 2007年 P f lux (g m -2 d -1) N f lux (g m-2 d -1) 0. 4 2007年 0. 0 0. 2 0. 0 0. 1 0. 0 3m 7m Stn. 2 3m 7m Stn. 4 3m 7m Stn. 6 0. 0 3m 7m Stn. 2 3m 7m 3m Stn. 4 図 14.11 1997 年と 2007 年の N・P 沈降フラックス(濱田、私信) 7m Stn. 6 14.5 おわりに 以上の解析の結果、洞海湾においては TP・TN 負荷総量削減規制により、栄養塩・懸濁 態有機物質(特に POP:Particulate Organic Phosphorus) 負荷量が減少して、水柱の有 機懸濁物、有機堆積物(特に Organic Phosphorus)の減少により、下層・底泥の酸素消費 量が減少して、貧酸素水塊が消滅したことが明らかになった。 今回の解析からは二枚貝養殖や底泥へのゴカイ散布の、貧酸素水塊消滅への効果を直接 確認することは出来なかった。今後それらを含む数値生態系モデル計算を行って、様々な 環境改善策のそれぞれの定量的な効果を明らかにしていきたいと考えている。さらにコア サンプルを採取して底泥中の有機リン濃度変化も明らかにしたいと考えている。 (柳 哲雄・山田真知子) 参考文献 鬼塚 剛、柳 哲雄、井上康一(2004)富栄養化した洞海湾における水質環境管理のため の生態系モデルの適用. 海と空, 80-1, 68-75. Hamada, K., N. Ueda, M. Yamada, K. Tada and S. Montani (2012) Decrease in anthropogenic nutrients and its effect on the C/N/P molar ratio of suspended particulate matter in hypertrophic Dokai Bay (Japan) in summer. J. Oceanogr., 68, 173-182. 濱田健一郎(2011)過栄養内湾(洞海湾)における栄養塩減少に伴う低次生産過程の 変化に関する研究. 東 輝明・山田真知子・門谷 北海道大学大学院環境科学院博士論文, 茂・広谷 純・柳 61 頁. 哲雄(1998)過栄養な内湾洞海湾にお ける貧酸素水塊の形成過程とその特性について. 日本水産学会誌, 64、2-4-210. Ueda N., H.Tsutsumi, M.Yamada, R.Takeuchi and K.Kido (1994) Recovery of the marine bottom environment of a Japanese Bay. Mar. Pollution Bull., 28, 676-682. Yanagi,T., K.Inoue, S.Montani and M.Yamada (1997) Ecological modeling as a tool for coastal zone management in Dokai Bay, Japan. J.Marine Systems, 13, 123-136. Yanagi,T., M.Yamada, M.Suzuki (1999) A challenge of water purification in Dokai Bay, Japan. Mar. Pollution Bull., 38, 1063-1069.
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