。) 日本国民高等学校協会 日本農業実践学園同窓会 理事長挨拶 二、同窓会長挨拶 信号設置報告 l 牧氏にお会いして| 六、学園直売所の紹介 本学園・卒業生の関連記 四、「天命を知る」 三、「内原の友」三十四号に寄せて 目 平成二十六年度会費納入について 九、学生募集 十、情報提供のお願い 日本農業実践学園同窓会会長 加 加 鈴 藤 藤 藤 木 朝 昭 次 公益社団法人日本国民高等学校協会理事長 日本農業実践学園学園長 加 巳 弥進彦 達 日本農業実践学園名誉学園長 雄 人 2 3 4 6 1 1 1 3 1 4 1 5 1 6 五 七 八. 事 長 挨 拶 鈴木昭雄 公益社団法人日本国民高等学校協会 理事長 七年二月一日建立)「さし昇る朝日と共に鍬とりて磨け 益良夫やまと魂」の裏面には、当時協会理事長の那須蛤先 随する。人造りは活ける人格の感化と、事々物々に即しての います。謹んでお見舞い申し上げます。地震、津波の備えに 地球温暖化と言われていますが、冬の寒さには氷河期になる 実践的修行によりて達せられる。本校教育の本義は其処に存 作物、生活等で大きな被害に道われた方がおられることと思 のかと思い、季節による寒暖の差が大きくなったように感じ する」とあり、最後に「現下の複雑にして激動しつつある国 「教育の本義は人造りにある。知識、技術の習得はこれに付 ます。この様な自然の厳しさと向き合い、優しさと寄り添い、 生が学園教育について書かれています。その冒頭の部分に そして恩恵を受けながら代々受け継がれてきた農業を、次の は拡大され、独り農のみならず、他の職業においても世界の 内及び国際情勢に鑑み、本校教育の視野と関係者の活動舞台 ている。」と記されています。現在の経済至上主義のなかで、 正しき発展に寄与し得べき信念ある人物の養成を目指すに至っ うになりました。しかし、農業を取り巻く厳しい状況、国か 益社団法人」と変わり、今まで以上に公益性が求められるよ を継承しながらも新しい視野で、農業だけでなくその他の分 が、それに惑わされることなく、学園創立以来の伝統と精神 に厳しい状況にあります。今年度には、協会理事、同窓会長、 野、日本にとどまらず世界でも正しく活動できる人物を育て 農業経営や農業経済に重きを置いた教育が重視されています 協会監事、学園職員等で編成した「企画戦略会議」を立ち上 ていくことが使命と考えます。 に対してお礼を申し上げますと共に、来年度も引き続きご指 最後になりましたが、協会と学園に対するご指導、ご支援 導、ご支援を賜りますよう、協会を代表してお願い申し上げ ます。 園のあり方を現在検討しているところです。皆様方からも、 の人間教育です。学園内にある加藤完治先生の碑(昭和四十 学園の教育は「実践教育」「全寮制」「師弟同行」を通して ご意見やご提案がありましたら是非協会までお寄せ下さい。 での歴史と伝統をふまえた上で、この先五十年、百年先の学 げました。学園は三年後に創立九十周年を迎えますが、今ま らの補助金の打ち切り、学生数の減少等、学園の運営は非常 平成二十五年四月一日より、協会は「社団法人」から「公 世代に継承していく人聞を育てるのが我々の役目です。 加えて、雪国以外でも大雪に対する備えが必要となりました。 例年にない厳しい寒さが続き、二月の大雪では、ノウスや 理 同窓会長挨拶 新しい年を迎え、同窓会の皆様には、益々ご清祥のことと お慶び申し上げます。 我が愛する内原も、まもなく創立九十周年を迎えようとし 加藤 巳 日本農業実践学園同窓会 会長 まったのかも知れません。若者にとっては農業が割に合う産 業とは思えないのかも知れません。学園そのものの体制も大 立の原点に回帰し、諸先生方には揮を締め直してもらって きく変化しなくてはならないのかも知れません。もう一度創 ておりますが 開拓精神を想い起こし 」こ最近の入学希望者の減少には、危機感を 抱くばかりです。職員と学生の数が桔抗するような状況に至っ ています。 迷わずに」 同窓会の皆様には、いつでも内原に足を運んで頂いて、先 仲良く 生方に発破をかけて頂ければ幸です。 「丈夫で -2- 朝 自力更正していただきたいと切に願っ ております。学園長を始め職員一丸になって、現状を打破す べく努力をしていますが、なかなか入学希望者増の決定打に 年代前半)を思い起こすと、考えられない状 結びつくものが見つからないようです。私がお世話になった 当時(昭和五 況です。毎朝マラソンに始まり、鍬を担いで打ち起こしをし、 失ってしまった日本の中では、内原の役割ももう終わってし 精神論を 青春だったと当時を懐か 農作業では先生と一緒に心と身体を磨き合い、夜課では柔道・ 厳しく大変だったけれど ま す 日本農業の現状、経済至上主義になってしまい 出 し 剣道と 回 し く 「内原の友」 ー一一一ー‘ 四 号 に 寄 せ て 達 人 日 店 乏 学 園 長 藤 業 実 園 力日壁 本 . . . . . ・ ー さ ん の ご 協 力 と 叡 智 を 結 集 し て こ の 危 機 を 乗 り 越 え た な ど に 関 す る 法 律 」 の 定 め に よ り 手 続 き を す す国めのた古結典果、、易平経 と い う 書 物 に あ る 「 窮 す れ ば 変 ず る 、 まの す認 。 定 今 かO らO 三 年五 前 に 完 成 し た と い わ れ る 、 中 ま ず 、 社 団 法 人 日 本 国 民 高 等 学 校 協 会 は 「 公え益て 法い 人 二 支 の 七 番 目 、 折 り 返 し の 年 で す 。 な 、 自 馬 立 年 が 、 求 め の 皆 様 の 「 弥 栄 」 を お 祈 り 申 し あ げ ま す 。 今 年 は 十 ら れ る こ と に な り ま し た 。 大 き な 困 難 の 中 かの ら卒 の業 支生 援 が 事 業 仕 分 け の 名 の 下 に 打 ち 切 ら 本 国 民 高 等 学 校 協 会 関 係 者 並 び に 日 本 農 業 実な 践ど 学) 園 平 成 二 十 六 年 の 年 頭 に 当 た り 、 謹 ん で 日 本 国 時家 にの 三安 年泰 前と か日 ら 、 こ れ ま で 五 十 年 間 続 い て き た 省 庁 ( ー一一ー. . . . . 葉 を 杖 と し て さ ら な る 復 興 と 財 政 的 自 立 を 目 指 し て 逼 原 の 友 」 三 十 四 号 の ご 挨 拶 と い た し ま す 。 今 、 震 災 か ら 三 年 が た と う と し て い ま す 。 大 き な 災 害 と 同 ば と 念 願 し て い ま す 。 の が 相 り 互 が 交 広 流 が の れ 場 と し て 、 ま す ま す 発 展 す る こ と を 念 う な 行 事 を 通 じ て 卒 業 生 の 皆 さ ん と 学 校 と の 繋 こ ろ 何 と 八 十 名 方 々 が お い で い た だ い て お り ま こ し の た 「 。 こ 内 の 原 よ の 友 」 が 、 協 会 会 員 の 皆 様 並 び に 、 卒 業 い頂 ごい 支た 援と 、 ご 協 力 に 対 し 心 か ら 感 謝 申 し 上 げ ま す き ま し た 。 来 校 頂 い た 卒 業 生 の 方 に お 名 前 を 書暖 いか て 等 方 学 々 校 に 協 対 会 応 、 頂 並 び に 日 本 農 業 実 践 学 園 同 窓 会 へ の 日 方 に お い で い た だ き 私 と 共 に 来 校 す る 同 窓 生 の 日 に 行 っ て い る ) に は 、 お 忙 し い 中 、 同 窓 会 長 様 及 以び 上 役、 員日の本 農 業 実 践 学 園 の 運 営 母 体 で あ り ま す 日 い き 又 、 本 学 園 の 大 き な 行 事 で あ る 収 穫 祭 ( 毎 年 十た 一 い月 と二考十え 三て い ま す 。 き た い と 考 え て い ま す 。 性 の 高 い 法 人 と し て 、 日 本 の 農 業 の 発 展 の た め りに 自貢分献のし進てむ いべ き 道 が 聞 か れ る 。 」 と い う も の で す 。 こ る、 もよ のり で 信 す 頼 。 自 分 を 信 じ 、 努 力 を 続 け れ ば 、 必 ず 状 況 が し た 事 を 皆 様 に お 知 ら せ い た し ま す 。 新 制 度 の 下 ば て 通 認 ず 」 成 二 十 五 年 四 月 一 日 を も っ て 公 益 社 団 法 人 と し 可 と さ い れう ま言 葉 が あ り ま す 。 危 機 に 陥 る こ と は 誰 に -3- ー牧氏にお会いして i 弥進彦 算の大部分を充てても足らない程の無駄遣い」と批判されて 「天命を知る」 日本農業実践学園 nH 阿 新年を迎えご挨拶申し上げることの幸せを有り難く思って 四面楚歌の中で奮闘された経緯や、満州事変の際は満鉄理事 古川 M いる。本学園の前身日本国民高等学校が創立されてから八十 をしていたので特に詳しく 名誉学園長 七年になり、改めて時の経つ早さを痛感している。その頃、 が良く書かれた名著である。名刺にはジャーナリストとあっ 私は思う。 たが、史実に基づく近現代史の研究家と言う方がよいように 長い氏の生涯の業績と時代背景 就学前の幼児であった私も九十二歳の高齢になってしまった。 その都 昭和十八年学徒出陣で兵役に服した私は多くの友人を失い 自らも命を落とす機会は少なからずあった。しかし その牧氏が、昨年秋に学園に来られて加藤完治記念館を詳 しく見て行かれた。正月には求められて加藤完治全集をお送 不思議にも難を逃れて今日に至っている。何か課せられ た天命があって、それが終わるまでは生かされているように りしたところ めて、終戦七十周年の来年八月までに加藤完治の業績につい 礼状と共に「今年一年を資料の収集に努め、 思われてならない。来年は終戦七十周年になるとのことで、 更に加藤完治氏の薫陶を受けた人の証言を出来るだけ多く集 久さんという方で長く日本経済新聞社に勤めて、代表 っかの著書を出しておられる。最近出版された代表的なもの は、開拓移民の悲劇はすべて日本の侵略戦争に非があったと 牧氏から頂いた手紙の一節を紹介すると、「戦後の教育で て、正しい見方の書を刊行したいとのことであった。 に「新幹線の父十河信二」(ウエッジ社発行)がある。今で 教えられてきました。少年たちは侵略の先兵として送り込ま 取締役副社長を退職してから著述の仕事に専念し、既にいく は新幹線のない日本など考えられないが、当初は、「国家予 -4- 藤 過日来客があった。 度 牧
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