論文要旨・審査の要旨

学位論文の内容の要旨
論文提出者氏名
小野
論文審査担当者
主
査
窪田
哲朗
副
査
赤澤
智宏
戸塚
佳一
実
Sphingosine 1-phosphate release from platelets during clot formation:
論
文
題
目
close correlation between platelet count and serum sphingosine
1-phosphate concentration
(論文内容の要旨)
<結言>
Sphingosine 1-phosphate(スフィンゴシン1リン酸:S1P)は,細胞膜に発現している S1P 受
容体に作用して,血管内皮細胞の生存・増殖・遊走,リンパ球のリンパ節から循環血液中への遊
走など様々な生理活性作用を持つ脂質メディエーターである.S1P の生合成は,細胞膜の主要な
構成成分であるスフィンゴミエリンに由来するスフィンゴシン(Sph)が,スフィンゴシンキナー
ゼ(SphK)によりリン酸化されることにより産生される.また、S1P の代謝動態は、S1P の合成系
のみならず,S1P リアーゼなどの S1P 分解酵素による分解系も重要な役割を果たしていることが
知られている.実際,血小板や赤血球は S1P リアーゼ活性が低いため,S1P の分解がほとんど起
こらないため,高濃度の S1P を含有している.
さて,ヒト検体の S1P の由来については,健常人の血漿検体中の S1P の多くは赤血球由来であ
る事が報告されている.この理由は、血小板は赤血球よりも 1 血球あたりの体積が小さいため,
血小板総体積より赤血球総体積の方が極めて大きいためと考えられる.一方,血小板に豊富に蓄
積されている S1P は血小板の活性化に伴って放出されることも知られている.このことから、健
常な状態では,循環血液中の S1P は,赤血球に主に由来するが,急性冠症候群のような血小板が
活性化する病的な状態では循環血液中の S1P 濃度は血小板に由来する部分も大きい可能性が考え
られる.実際,既報によると,冠動脈疾患では血漿 S1P と血清 S1P 濃度の意義が異なる.すなわ
ち,冠動脈疾患患者では,血漿 S1P 濃度は低下しているが,反対に、血清 S1P 濃度は,冠動脈の
狭窄程度に依存して増加する.
血清検体と血漿検体の相違の一つに,血清検体では,血小板が完全に活性化していることがあ
げられるが,現在のところ,血清 S1P 濃度を規定する因子については,まだ報告は無く,今後の
S1P の臨床検査への応用のために、血清 S1P 濃度を規定する因子を解明しておく必要がある.さ
らには,S1P と同様に S1P 受容体のアゴニストとして作用する Dihydrosphingosine 1-phosphate
(DH-S1P)に関しては,S1P と比較して,その生体内での動態は明らかにされていない.このよ
うな背景を踏まえ,本研究では,非血液疾患患者検体,赤血球数または血小板数が異常な血液疾
患検体の血清中 S1P, DH-S1P 濃度の測定し,それらの濃度を規定する因子を明らかにすることを
目的とする.
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<対象と方法>
対象検体:当院検査部で検査した残余血清 54 検体を用いた.内訳は非血液疾患群 33 例,再生
不良性貧血(AA)2 例,本態性血小板血症(ET)10 例,本態性血小板減少症(ITP)6 例,フォン
ビブラント病(VWD)3 例である.
方法:S1P, DH-S1P 濃度は血清 200μL をアルカリ性・酸性条件下で 2 段階抽出した後, OPA プ
レカラム誘導体化・HPLC 法を用いて測定した.オートタキシン(ATX)の測定は東ソー株式会社
の AIA システムを用いた酵素標識免疫測定法にて測定を行った.
統計:すべてのデータは SPSS(IBM 社)を用いて統計処理を行った.結果は平均±SD で表した.
多群間の比較は,one-way ANOVA 後,Scheffe test により検定した.2 群間の相関の検定は,Peason
相関を用いた。血清 S1P,DH-S1P 濃度の規定因子の検索は,赤血球数,血小板数,HDL-コレステ
ロール(HDL-C) ,アルブミン,ATX を説明変数として,重回帰分析を用いた.尚,今回の検討は
東京大学医学部の倫理委員会の承認を得ている.
<結果>
1) 各疾患別の血清 S1P,DH-S1P 濃度:非血液疾患患者と血液疾患患者の血清 S1P,DH-S1P 濃度
を比較した.血清 S1P 濃度は非血液疾患患者群(812.5±183.1 nM)と比較して赤血球数が少ない
AA では低かった(231.8±26.0 nM).また、血小板数の少ない ITP 群では,血清 S1P 濃度は非血
液疾患患者群と比較して有意に低く(457.7±124
nM),反対に、血小板数の多い ET 群では,非
血液疾患患者群と比較して有意に高かった(1356.5±472 nM). 血清 DH-S1P 濃度も同様の結果
であった.
2) 赤血球数,血小板数と血清 S1P,DH-S1P 濃度の相関:赤血球数,血小板数と血清 S1P, DH-S1P
濃度の相関を検討した.血清 S1P 濃度は,赤血球数とも有意な正の相関を示したが(r=0.393,
P=0.003),血小板数とより強い相関(r=0.775, P<0.001)を示した.血清 DH-S1P 濃度も同様に
血小板数と強い相関を示した(r=0.620, P<0.001).また、非血液疾患群のみにおいても,血清
S1P, DH-S1P 濃度は,血小板数と強い相関していた(それぞれ r=0.668, P<0.01,r=0.810, P<
0.01).
3) 血清 S1P,DH-S1P 濃度と HDL-C, アルブミン, ATX との相関:血球以外に血清 S1P, DH-S1P
濃度に影響を与える可能性のある因子について検討を行った.まず,循環血液中の S1P, DH-S1P
は,HDL とアルブミンと結合し存在しているため,最初に血清 S1P, DH-S1P と HDL-C あるいはア
ルブミンとの相関について検討した.結果,HDL,アルブミンとの間に有意な相関は認められなか
った.次に、,S1P,DH-S1P は,前述した SphK による主要産生経路の他に,スフィンゴシルホス
ファリルコリン(SPC)から ATX によって産生されるという経路の存在が報告されているため,血
清 ATX との相関を検討した.結果,予想に反して ATX は血清 S1P, DH-S1P 濃度に対して有意な負
の相関があることが分かった(それぞれ r=-0.407, P=0.010,r=-0.452, P=0.004).
4) 血清 S1P, DH-S1P 濃度を規定する因子の検討:最後に,重回帰分析を用いて血清中の S1P,
DH-S1P 濃度を規定する因子について検討した.血清 S1P 濃度を規定する有意な因子として、血小
板が最も重要な説明変数として選択され,次に ATX、赤血球数が順で有意な説明因子として選択
された.DH-S1P でも同様の結果であったが,DH-S1P では,赤血球数は選択されなかった.
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<考案>
生理活性脂質は、局所で生理作用を発揮する局所ホルモンとしての性質を持つ.そのうち、S1P
は,血管内皮細胞,神経細胞,リンパ球を始め様々な細胞に対して細胞増殖,抗アポトーシス,
細胞分化誘導など多彩な生理活性を及ぼす多機能性生理活性脂質である.既報によると,血漿中
の S1P は 100 nM のオーダーの濃度で存在し,主要な起源は赤血球であり,その多くはアルブミン
や HDL に結合していることが知られている.一方,血清 S1P 濃度は血漿濃度よりも数倍高い.こ
の原因は,血小板に豊富に貯蔵されている S1P が検体作成中に起こる血小板凝集により,大量に
細胞外に放出されるためと考えられるが,このことを証明した既報はなかった.さらには,DH-S1P
はセリンから代謝される代謝産物であり,S1P 受容体のアゴニストとして S1P と同様な作用を持
つと考えられているが,S1P と比較し報告は少ない.今回,我々は OPA プレカラム誘導体化・HPLC
法を用いて,非血液疾患患者検体および血液疾患患者検体の血清 S1P, DH-S1P 濃度の測定し,S1P,
DH-S1P 濃度を規定する要因について検討を行った.
各疾患別の血清 S1P, DH-S1P 濃度は,血小板数の少ない ITP では非血液疾患群や他の疾患群よ
り有意に低く,逆に血小板数の多い ET は他の群より有意に高かった.このことにより,血清 S1P,
DH-S1P 濃度は,血小板によって大きく規定される可能性を示された.さらに,血漿 S1P 濃度は赤
血球数と最も強く相関するのに対し,血清 S1P, DH-S1P 濃度は赤血球数よりも血小板数と強い正
の相関を示していた.また、重回帰分析においても、血小板数が,血清 S1P, DH-S1P 濃度の一番
重要な説明因子であった.以上の結果より,血清 S1P, DH-S1P 濃度は、血小板数により主に規定
されるが考えられた.この結果は,血清検体においては、血漿検体と比べて赤血球より多くの S1P
を含む血小板が完全に活性化されており,S1P が血小板から放出されたことによると考えられる.
血清 S1P 濃度を規定する因子が血小板数であることは,今回の報告が初めてである.さらに,我々
は血清 DH-S1P 濃度についても検討を行った.血清 DH-S1P 濃度は 225±89 nM であり,その規定
因子は,血清 S1P と同様であり,DH-S1P は,S1P と類似の動態をとることが推測された.
さて,今回の報告は,動脈硬化の病態形成における S1P の二面的な作用に関して重要な手がか
りを示している.すなわち,血漿 S1P 濃度は 300~500nM であり,血液中の S1P 濃度は赤血球によ
り恒常的に維持されている.しかしながら,動脈硬化病変のように血小板が活性化している状態
では,局所的に S1P 濃度の著明な上昇が起こっていると考えられる.このような状態では S1P 濃
度が,血清 S1P 濃度である 800~1000nM,またそれ以上であると考えられ,このような高濃度 S1P
濃度に血管内皮細胞,マクロファージ,平滑筋細胞がさらされると考えられる.In vivo での報
告によると,数百 nM 程度の低濃度 S1P は,内皮細胞に対して NO 産生や運動亢進,TNF-αや VCAM-1
などの接着分子の発現を抑制し,抗動脈硬化性の作用を発揮するのに対して,数μM の高濃度 S1P
は、NF-κB (nuclear factor κB)活性を介した接着分子の発現や血小板の活性化などの催動脈
硬化性の作用を発揮することが知られている.つまり,血漿濃度に相当する低濃度 S1P は抗動脈
硬化作用があるのに対し,血清検体のように血小板活性化状態の高濃度 S1P は動脈硬化促進作用
があるが考えられる.実際,血漿 S1P では健常人に比較して安定狭心症で低いのに対して,血清
S1P は心筋梗塞患者で高いことが報告されている.
また,血清 S1P は,生体内での血小板が十分活性化された状態を反映していると考えると,本
研究より得られた知見は,血小板由来の S1P の代謝動態を解析するための一助になる可能性が考
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えられる.例を挙げると,血清 S1P 濃度の規定因子に関して,新しい興味深い結果が得られた.
ATX は LPA を作り出す重要な酵素である一方,一部の S1P の合成にも関与している.
このため,ATX
とは正の相関が予想されたが,今回の結果では,S1P, DH-S1P 濃度は ATX と有意な負の相関がみ
られ,重回帰分析によっても ATX は血清 S1P,DH-S1P 濃度を規定する有意な負の説明因子であっ
た.ATX は何らかの機序にて血小板からの S1P 放出と関与している可能性が示唆されたが,さら
なる追加検討が必要であると思われる.
<結論>
生理活性脂質として注目されている S1P, DH-S1P の血清濃度の測定を行い,その規定因子につ
いて検討を行った.血漿 S1P が主に赤血球由来なのに対し,血清 S1P は主に血小板由来であり,
血清 DH-S1P も S1P と同じ動態を示した.
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論文審査の要旨および担当者
報 告 番 号
論文審査担当者
甲
第
4597 号
主
査
窪田
哲朗
副
査
赤澤
智宏
小野 佳一
戸塚
実
(論文審査の要旨)
学位論文 Sphingosine 1-phosphate release from platelets during clot formation:
close correlation between platelet count and serum sphingosine 1-phosphate concentration (Lipids in Health and Disease 2013; 12:20) について審査した。
本論文は sphingosine 1-phosphate (S1P)が血栓形成時に血小板から放出されるため,血清中
のS1P濃度を測定すると血小板数と相関することを示したものである。S1Pは細胞膜に発現してい
る受容体に結合することにより,血管内皮細胞の生存や増殖,血管平滑筋の収縮,リンパ球の遊
走などの活性を示すことが明らかになり,動脈硬化症などの病態との関連で近年注目されている
脂質メディエーターである。血液細胞では,赤血球と血小板が細胞内に多量のS1Pを保有しており
,血漿中のS1Pは主として赤血球に由来することが知られている。検体として血漿を用いた場合と
血清を用いた場合とでは,S1Pの測定値に乖離がみられるが, これまで血清中のS1P測定に関する
報告は少なく,その理由は 明らかにされていなかった。
本研究では,健常人および血小板数が低下する疾患や増加する疾患を含む血液疾患患者検体を
利用し,血清からS1PおよびS1Pのレセプターにアゴニストとして作用するdihydrosphingosine-1
-phosphate (DH-S1P)をアルカリ性,酸性条件下で2段階抽出した後,OPAプレカラム誘導体化 H
PLC法を用いて測定した。その結果,血清S1P濃度は赤血球数と相関したが,S1PおよびDH-S1Pは血
小板数とより強く相関することを見出した。S1Pの担体となるアルブミン,HDLコレステロールな
どとの相関は認められなかった。
これらの結果より,血清S1P濃度測定には血液凝固時に血小板から放出されるS1Pが大きく影響
することが示された。将来の臨床検査法の確立の際に必要となる,重要な基礎データを提供した
価値の高い論文と言える。
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