論文要旨・審査の要旨

学位論文の内容の要旨
論文提出者氏名
論文審査担当者
論
文
題
目
渡邊
主
査
西川
徹
副
査
寺田
純雄、杉内
さつき
友理子
Aroma helps to preserve information processing resources of the brain
in healthy subjects but not in temporal lobe epilepsy
(論文内容の要旨)
<要旨> 香りが健常者の脳に影響を及ぼすことがこれまでに報告されている。本研究では、イランイラ
ンアロマオイルの香りが側頭葉てんかん患者および健常者の脳機能に与える影響を、事象関連電
位 P300 を用いて比較検討した。対象は側頭葉てんかん患者群 14 人、健常者群 14 人である。P300
頂点潜時は香りにより両群で延長した。これは、イランイランアロマの沈静作用による情報処理
速度の低下を反映していると考えた。P300 頂点振幅は、健常者群でパフォーマンスを悪化させる
ことなく低下したが、側頭葉てんかん群ではこの変化がみられなかった。健常者群で香りにより
脳の情報処理資源が保護された一方で、患者群では側頭葉における高次嗅覚情報処理過程が障害
されているために香りの効果が現れなかったと考えた。 <緒言> 嗅覚はヒトを含む多くの動物にとって重要な感覚機能である。近年、香りが脳機能や行動に与
える効果について様々な研究が行われてきた。先行研究により、アロマオイルの香りが脳波基礎
活動におけるα波を増加させることや、健常者の聴覚性事象関連電位 P300 の振幅を減少させるこ
とが明らかになった。イランイラン、ラベンダー、ペパーミント、グレープフルーツ、ジュニパ
ーの 5 種類の香りを比較した脳波研究では、イランイランが最も高い効果を示すことが報告され
た。そこで本研究では、イランイランアロマオイルに注目し、その香りが聴覚性 P300 に及ぼす影
響を調査することにした。P300 とは事象関連電位のひとつであり、2 種類の感覚刺激をランダム
に呈示し低頻度な刺激に注意を向けたときに出現する、潜時約 300~500 msec の陽性電位である。
P300 は高次認知処理過程と関連しており、注意配分や作業記憶の文脈更新過程を反映するとされ
ている。嗅覚において側頭葉が重要な役割を果たしていることから、我々は香りが認知機能に及
ぼす効果は側頭葉てんかん患者では限定されると考えた。本研究の目的は、健常者で観察される
イランイランアロマの効果が側頭葉てんかん患者においても同様に見られるかどうかを調査する
ことであった。 - 1 -
<方法> 1)対象:14 人の側頭葉てんかん患者及び 14 人の健常者を対象とした。側頭葉てんかんの診断
は、臨床症状、脳波、MRI 画像などをもとに、国際抗てんかん連盟によるてんかん分類に基づい
て行った。精神疾患、物質依存、聴覚障害または視覚障害をもつ者は除外した。てんかん患者の
てんかん焦点は、左が 5 人、右が 2 人、両側あるいは不明が 7 人であった。頭部磁気共鳴画像で
は海馬硬化を 3 人、海綿状血管腫を 1 人で認めた。 2)香り:イランイラン精油 0.05ml をグレープシードオイルで 10 倍に希釈し、膨らませた匂い
袋の中に垂らして栓をしたものを用意した。また、空気のみをいれたものをコントロールとした。
被験者は鼻と口を覆うようにマスク部分を軽くあてて香りを嗅いだ。香りの呈示順序はカウンタ
ーバランスをとった。 刺激:純音による 1000Hz の高頻度刺激(80%、200 回)と 1050Hz の低頻度刺激(20%、50 回)
をランダムに呈示する聴覚オドボール課題を用いた。刺激間隔は 900±90msec、刺激呈示時間は
100 msec とした。被験者には、香りを嗅ぎながら無声映画の DVD 画面に視線を固定し、イヤホン
を通して呈示される音のうち低頻度刺激の出現回数を頭の中で数えるよう指示した。 3)脳波記録:国際 10‐20 法に基づき頭皮上3ヶ所 (Fz、Cz、Pz)に電極を装着し、基準電極は
鼻尖とした。サンプリング周波数は 1 kHz とし、0.05Hz‐300Hz のバンドパスフィルタを使用して
デジタル記録を行った。 4)データ解析:刺激呈示前 100 msec から刺激呈示後 800 msec までのエポックを平均加算した。
刺激呈示後 300 msec から 550 msec の区間における P300 の頂点振幅と頂点潜時を求めた。振幅は
刺激呈示前 100 msec の区間の平均振幅をベースラインとした。 5)統計解析:2 群の年齢および教育年数の比較に Student’s t‐test を用いた。イランイランの香り
が P300 に与える影響を検討するため、頂点潜時および頂点振幅について、診断(側頭葉てんか
ん vs. 健常者)×電極(Fz vs. Cz vs. Pz)×香り(イランイラン vs. 無臭)の3元配置反復測定分
散分析を行った。有意な交互作用がみられた場合は、Bonferroni の調整を用いた post hoc 多重比
較を行った。側頭葉てんかん患者における発作の影響を検討するため、測定前 12 ヶ月以内の発作
の有無により患者を発作あり群となし群に分け、発作(あり vs. なし)×電極(Fz vs. Cz vs. Pz)
×香り(イランイラン vs. 無臭)の 3 元配置反復測定分散分析を行った。また、Spearman の順位
相関係数を用いて、P300 の頂点潜時および頂点振幅とてんかん発症年齢との相関を検討した。全
ての統計において有意水準を 0.05%とし、必要に応じて Greenhouse‐Geisser 補正を行った。 <結果> 1)臨床プロフィール:側頭葉てんかん群と健常者群とで、年齢、教育年数及び男女比に有意な
差はなかった。 2)パフォーマンス:低頻度刺激の出現回数を数えた正解度は、側頭葉てんかん群と健常者群で
有意差を認めたが、香りによる違いは認めなかった。 3)頂点潜時:P300 頂点潜時では、香りの有意な主効果(F[1,26]=8.46)および電極の有意な主効
果(F[2,52]=14.29)がみられた。潜時は無臭条件下よりもイランイランアロマ条件下で延長し、
Pz 電極における潜時は Fz 電極と Cz 電極よりも長かった。また、測定前 12 ヶ月以内の発作の有無
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は潜時に影響せず、てんかん発症年齢と潜時には有意な相関を認めなかった。 4)頂点振幅:P300 頂点振幅では、香りと診断の間の有意な交互作用(F[1,26]=7.74)を認めた。
Post hoc 多重比較を行ったところ、健常者においては無臭条件下に比べてイランイランアロマ条
件下で有意な振幅低下がみられたが(F[1,26]=9.38)、側頭葉てんかんではそのような有意差は認
めなかった(F[1,26]=0.78)。また、電極の有意な主効果を認め(F[2,52]=17.87, ε=0.74)Pz 電極
における振幅は Fz 電極および Cz 電極より大きく、Cz 電極の振幅は Fz 電極よりも大きかった。測
定前 12 ヶ月以内の発作の有無は振幅に影響しておらず、てんかん発症年齢と振幅に有意な相関は
認めなかった。 <考察> 本研究では、イランイランの香りが側頭葉てんかん患者と健常者の P300 に与える影響を調査
した。P300 潜時はいずれの群においてもイランイランアロマ条件下で延長した。P300 潜時は刺
激分類速度の指標と考えられており、潜時の延長は沈静作用によるものかもしれない。イランイ
ランアロマにより血圧と心拍数が減少することが報告されている。また、P300 の研究により P300
潜時と心拍数は負の相関を示すことが知られている。これらのことから、イランイランの香りが
副交感神経に作用し、刺激分類速度を延長させたと考えた。 健常者の P300 振幅は、イランイランアロマ条件下で低下した。P300 振幅は、認知的処理に動
員される情報処理資源の量を反映するとされている。P300 振幅が小さくなったにも関わらずパフ
ォーマンスは低下しなかったことから、イランイランアロマによってより少ない処理資源で効率
的に情報処理を行うことができたと考える。香りの脳に対する作用機序の詳細は未だ不明な点が
多いが、中枢神経系の神経伝達に影響を及ぼすことが示唆された。 一方側頭葉てんかん患者では、健常者と異なり香りの P300 振幅への影響は認めなかった。嗅
覚情報は扁桃体、梨状皮質などで処理される。また、側頭葉てんかん患者の嗅覚閾値は正常であ
るが、嗅覚情報の学習や記憶といった高次の嗅覚情報処理過程が障害されていることが報告され
ている。これらのことから、側頭葉てんかんにおける高次嗅覚情報処理の障害によって香りの
P300 に与える効果が低下したと考える。側頭葉てんかんで香りの影響がみられなかった他の理由
として「床効果」が考えられる。無臭条件下での P300 振幅は健常者よりも低下しており、それ以
上低下しなかった可能性がある。 <結論> イランイランアロマが認知機能に与える効果を事象関連電位 P300 を用いて示した。健常者にお
いては香りによってより少ない処理資源で効率的に情報処理が行われるのに対し、側頭葉てんか
んではその効果が発現しなかった。これは側頭葉てんかん患者では側頭葉における高次嗅覚情報
処理過程が障害されているためと考えた。 - 3 -
論文審査の要旨および担当者
報 告 番 号 甲 第
論文審査担当者
4 6 5 5 号
渡邉
主
査
西川
徹
副
査
寺田
純雄、杉内
さつき
友理子
(論文審査の要旨)
本論文は、アロマオイルの香りが脳機能に与える影響について、認知の諸過程と密接に関係す
る、オドボール課題による事象関連電位 P300 を指標として、側頭葉の関与を検討した初めての報
告である。臨床症状、脳波、MRI 画像等の所見をもとに、国際抗てんかん連盟によるてんかん分
類にしたがって診断した側頭葉てんかん患者 14 名と、健常者 14 名の同意と協力を得て、イラン
イランアロマオイルの香りに暴露したところ、(1) P300 の振幅が健常者で有意に低下するのに対
して患者群では変化しない、(2) P300 の頂点潜時は両群ともに延長し差がない、(3)香りの暴露
をしていない条件では、健常者に比べ患者群の方が、P300 の振幅が低い、等の点が明らかになっ
た。側頭葉てんかん患者の嗅覚閾値は正常であることから、これらの結果は、嗅覚の受容ではな
く、嗅覚に関係する学習・記憶をはじめとした、高次の嗅覚情報処理過程に側頭葉が重要な役割
を果たす可能性を示唆している。今回の成果は、嗅覚と精神機能や行動との関係の解析や、アロ
マセラピーのように嗅覚に働きかける心身の健康増進法の科学的評価に手がかりをもたらした点
で評価される。
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