20巻 4号 (1989年3月発行) - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部

4号
轟 〒
20巻
平成元年 3月
東京大学 理 学部
線 氷
\ ヽ
↑雨の化石
状 土
袋 土
気候 の変化 を読む
目
表紙 の説明………………………………………………… 1
理学部 を去 るにあた って…………………木村 俊房 … 2
木村先生を送 る一勧君更尽一杯酒 …………岡本 和夫 … 3
感謝 を こめて思いだすまま………………藤田
宏… 4
藤 田宏先生を送 る…… …………・…………・増田 久弥 … 6
無 題・
・… …… …………………… ………………佐藤 良輔 … 7
佐藤良輔先生を送 る……………………………松浦 充宏 … 8
退官 にあた って………………………………稲本 直樹 … 9
稲本先生 の御退官 によせて………………岡崎 廉治 … 11
草原 の輝 き…… ………… …… ……… ……佐佐木行美 … 12
佐佐木先生 と共に20年 ……………………・…宮本
健 … 13
東京大学一学生 たちとの青春 ………………岡田 吉美 … 14
岡田吉美先生 の御退官 によせて……………伊庭 英夫… 15
在職 18年 を振 り返 って …………………………飯野 徹雄 … 16
飯野徹雄先生 のご退官 によせて …………鈴木 秀穂 … 17
退職 にあた って……・……………………………・星
圭介 … 18
星 圭介氏を送 る言葉 ………………………土居 喜 公… 18
お別れの御挨拶 ………………・……………長田 美子 … 19
次
1
定年退官に際 して…・… ………………… 甲斐 正人 …20
宮崎敏夫 さんの定年退職 を惜んで………酒井 彦―… 21
梅村 さんを送 るにあた って …………………武田
弘…21
石渡綾子さんを送 る………………………小牧総江子 …23
・…………………中田 賢次 … 24
定年退職 に際 して…………Ⅲ
健 … 25
中田賢次さんを送 る…………………………富永
原村 寛氏言岩石・ 鉱物 の
・………..:.… ………久城 育夫 … 26
分析一筋 に30年 …■
こんなに狭‐
い理学部 の建物 …・‐
…理学部企画委員会建物小委員会 … 28
日加協力事業 によ る トライアム フ
ミュオ ンチ ャネルの宗成 …… … …… …永嶺 謙忠 … 30
ミュオ ンチ ャネル完成式典 に出席 して…上村
洸… 31
雑 感 ………………………………………………増田 久弥 … 32
小柴昌俊先生 の
文化功労賞受賞 によせて・…………………析戸 1周 治 …34
・………………36
・
理学部研究 ニ ュース…………………………・
学部消息 …… ……………… ……………………………………………39
﹁
・
表
紙
の
説
明
気候 の変化 は,一 般 に,時 間のかか るフィール ドワー クによって解読 されて きているが
,
ここでは直観的に明瞭な写真を紹介 してみよう。
地表が凍結 と融解を くりかえす と, さま ざまな模様 を1描 いて礫が斜面を流れ おち,山 が
侵食 されてなだらかになる。 この現象を ソリフラクシ ョンとい う。写真は,乗 鞍山頂近 い
高天原 に見 られる現成の もので,線 状土 とよばれる。渡島半 島を除 く北海道の大部分 の地
●
形 が,海 面 に近 い ところまで,な だ らかなのは,ヴ ュルム氷期 に,乗 鞍山頂 に近いような
気候状況があ ったため と考え られて い る。 これは現成であるが,も し流下中の礫が,た と
えばハ イマ ツの上 に乗 りかか っているところがあれば,寒 冷化を示 している可能性 もある。
粘土 の堆積 はもともと水平 におこなわれたはずであるが,そ れが複雑 な模様 を描 いてい
ることがある。堆積後 ,凍 結融解 によ る横圧で雛曲を したもので。 この現象はイ ンボ リュ
ージ ョンとい う。袋状をなす ことが時 々あり,氷 袋土 とよばれ る。 これは下北半島大間崎
近 くの もので,上 下 の地層 の関係か らヴ ュルム氷期 の形成 とされて い る。
表現は適当で ないかも しれないが,雨 の化石 とい うもの もある。 これはベル リン自由大
学 自然地理学教室の Wolfer mann氏 か ら送 られてきたもので,私 が とったものではない
が,珍 しいので紹介 しておきた い。場所は東サハ ラ,チ ベ スチ山地。1966年 5月 末頃 に降
った雨で,そ の時の風向は,穴 の形か ら,北 およびJヒ 東であ った と読 み とられて いる。 い
ま完全乾燥 の地 に雨 の化石があれば,か って若千湿潤 であった ことを示すが,湿 潤地帯で
発見 されれ ば,過 去 の過燥 の指標 とされる。
^
地理学教室
-1-
鈴
木
秀
夫
●
理 学部 を去 るにあた って
木
村
俊
房 (数 学教 室 )
私 の記憶 装置 は相 当悪 い らしく,昔 の ことは大
立教 に11年 いて ,昭 和 38年 4月 東大教 養学部 に
半霧 の 中で あ る。 よか った事 も大 して憶 えて い な
移 り, 2年 半後理学部 へ 来 た。 毎週土 曜 日,福 原
いが ,一 方 ,嫌 な こと もかな り忘 れて い るので
先生 の主 宰 されて いた函数方程 式 セ ミナ ー (い ま
,
差引す れば まあ まあで あろ う。 しか し,い くつ か
も続 いて い る)に 出席 して いたので ,立 教 時代 も
の こ とは憶 えて い るので ,そ れ らの 2,
本郷 の学生 時代 の延長 とい う気 もあ り,戻 った と
3を 書 く
い う感 じは少 なか った。福原先生 は その翌年 東大
ことにす る。
大学 3年 (当 時 は後期 とい って い た)に な り,福
を退官 され た。
原満洲雄先生 の もとで平沢義 一 君 と 2人 で セ ミナ
以来 20年 以上 が過 ぎた。 よき師 ,先 輩 ,同 寮
ーをや って 頂 くことにな った。 その時 ,先 生か ら
後輩 にか こまれ ,自 由な雰 囲気 のなかで研究,教
論文 を書 くためのセ ミナ ーに しますか ,本 を読 む
育 に携 れ た ことは本 当 に幸 せ だ った と思 う。 驚 い
だ けの セ ミナ ーに しますか と聞かれ た。 その 頃 は
,
,
た ことは,よ くで きる学生 の 多 い こ とで あ った。
論文 な ど とい うのは偉大 な数学 者 が書 くもので あ
後生恐 るべ しとはよ く言 った もので ,天 才,秀 才
り,定 理 な ど も歴 史上 の人物 によ る発 見 で あろ う
が輩 出す るので あ る。 この よ うな学 生 に接 し,と
と考 えて い たので ,び つ くり して本 の方 をお願 い
か く無精 に な りが ちな私 も頑 張 らざるを得 なか っ
します ,と 答 えた。
た。
卒業後 ,す ぐに立教大 学 へ 吉 田洋一先生 (「 零
東大 紛争 な どあ り=そ の 時 は何が起 って い るの
の発見」で御存知 で あろ う)の 助手 と して い った。
かよ く分 らず ,ま ごま ご して い るうち に終 った と
その 頃,立 教大学 か ら数学 の紀要 を出そ うとい う
い って よ い。敗戦 の時 は16才 で あ ったので,よ く
話が起 って いて ,そ の議論 を聞 き,数 学者 た らん
分 らな い まま何年 も過 した。 その時 の急 激 な変化
とす る者 は論文 を書かねばな らぬ とい う こ とを知
に比 べ ,東 大紛 争 は どんな変化 を もた らすか と考
った。慌 てて 問題 を探 し,そ れ につ いて 考 え た。
えたが ,何 かが少 し変 った とい う印象 しかな い。
1年 程 して ,幸 い小 さな結果 を得 た。福原先生 は
安 田講堂 落城 の あ と理学部幹事 と して半 年間学部
殆 ん どの論文 を フラ ンス語で書 かれて い たので
長室 に 日参 したが ,そ の年 の 暮 か ら正月 にか けて
,
私 もフラ ンス語 で書 い た方 が よい と思 い,始 めて
毎 日計算 ばか り した ことが あ る。計算 が 終 った 時
仏作 を行 った。福原先生 に見て 頂 く前 に吉 田先生
体調 が くず れ耳 鳴 りが した こ とを思 い 出す。
,
,
に見て 頂 いた。 そ の折 ,吉 田先生 に厳 しく論文 の
東大 卒業以来40年 近 くた ったが ,そ の 位たつ と
書 き方 につ いて教 えて頂 いた。 そ の時 の教 訓 を私
世 の変化 が よ く分 る。 それ に応 じ,い ろい ろな制
の弟子 (と 思 って い る人 )に 生かす のが 私 の義務
度やや り方 を変 えて い くの は当然 で あ る。数学教
と心得 ,実 行 した つ もりで あ る。
室で は昭和63年度 か らカ リキ ュラム,セ ミナ ーの
吉田先生 のいわれるには,フ ラ ンス語 の定理
や り方 な どの改革 を行 った。 これ は, もちろん
,
(th6orも me)は 大 きな定理を意味す るとい うの
若 い人達 の発想 と構想 の もとに行 われ た。 しか も
で,定 理を命題 (propOSition)│こ 直 されて し
そ の効果 に細 か く気配 り して い る。 これ は教育 に
ま った。 しか し,命 題 に落ちぶれたとはいえ,そ
つ いてで あ るが,研 究成果 に も目を見張 る ものが
の時得た定理はいまも気 に入 っている。
あ る。 ま さに,後 生 恐 るべ しで あ る。 もちろん
-2-
,
,
問題 は多 々 あ る。 しか し,私 は数学教 室 の将来 に
な る発展 を念願 す るとともに,お 世話 に な った多
つ いて 大 いに楽観 して い る。
くの人 に心 か らな る感謝 の意 を表 した い。
他 の教室 も同様 で あろ う。理学部 の さ らに大 い
木村先生 を送 る
― 勧君更尽一杯酒
岡
私 が初 めて 木村俊房先生 にお 目にか か ったのは
,
本
和
夫
(教 養学部数学教室)
おけ る微分方程 式論です。福原満洲雄 名誉教授が
1968年 とい う。 当時学生 で あ った私 ど もに とって
日本 に導入 し,基 礎付 け,発 展 させ た微 分方程式
の東大闘争 =当 時教官 で あ った先生 に と って の東
論 は ,木 村先生 をは じめ とす る「 福原 ス クール」
大紛争 の年 で した。 数学科 に進学 して最初 の週 の
の方 々によ って ,局 所 理論 につ いて は ,ほ ぼ完成
火曜 日朝 10時 ち ょっ と過 ぎ,1号 館 350番 教 室 に
の域 に達 した とい って良 いで しょう。 勿論 ,研 究
今 と変 わ らぬ貫禄 を もった先生 が入 って こ られ
す べ き課題 が な くな った とい う意 味 で はな くて
,
,
はそれ以
微分方程式論 の 講義が始 ま りま ヒ
`た 。私
何 を調 べ た ら良 いか とい うことが 明 らか にな った
来 20年 間以上 ,公 私共 にわた って ご指導頂 きま し
とい う ことで す。 いずれ にせ よ質 的な発展 をす る
た。不 肖の弟子 で あ りなが ら長 い間 お付 き合 いい
ため に新 たな問題意識 を導 入 しなけれ ばな らな い
ただいた とい う こ とで ,先 生 の ご退官 に あた リー
場面 に当た って ,本 村先生 は微 分方 程式 の大域理
´た。 ま ことに光
文 を書かせて頂 くこ とにな りま ヒ
論 に注 目され ま した。先生 の初期 の業績 と して
栄 で あ ります が ,同 時 に,先 生 が 東京大学 か ら去
一 階代 数 型微 分方 程式 の Malmquistの 定理 の拡
られ るとい う こ とは厳 しい現実 とは い え ,残 念で
張 が有 名 で す。 これは,解 の特異点 の様子か ら微
な りません。
分方程式 の型 を決 定す るとい う問題で ,先 生 に よ
,
木村俊房先生 は 1952年 本学理学部数学科 を卒業
って 完全 に解 かれ ま した。 ご研究 の 出発 点 も大域
され ,直 ち に立教 大学 理学部 の助手 に な られ ま ヒ
´
理論で あ ったので す が ,長 期的 な戦 略 と して ,先
た。同大学 の助教授 を経て ,1963年 東京大 学教 養
生 が私共 に強調 し続 けて来 たの は次 の 2点 です。
学部助教 授か ら1965年 理学部数学科 にお移 りに な
(1)解 析 的 な手 法 のみ に と らわれず ,幾 何学的な
りま した。 それ以来 ,ご 研究 と後進 の指 導 に 当た
視点 ,代 数 的手法 を積極 的 に導 入す ること。
って こ られ たわ けですが ,1971年 に教授 に な られ
(21 問題意識 も微分方程式 だ けで はな く数学全般
て以 降 は , 2度 の 日本数学会理事長 をは じめ , 日
,
に求 め るこ と。
本学 術振興会 ,文 部省 学術審議会等 の委員 を歴任
ご 自身 の研 究 テ ーマ も微分方程 式 に こだ わ らず に
され ,研 究体市1の 整備 に も多大 の努力 を払 われ ま
複素解析学 へ と広 げ,数 多 くの業績 をあげ られ ま
した。 この様 な広範 な ご活躍 は ,我 国 の数学 の発
した。 それ は理学部紀要で 紹介 され るで しょうか
展 のため とは い え ,ご 自身 の ご研 究 と両立 させ る
ら, ここで は敢 えて省略致 します。 私 自身 も含 ま
とい う難 問 を引 き受 け ることに もな った と想 像致
れ る「 木村 ス クール」 に は,数 学 的動機 は勿論
します 。 それ 故 の ご苦労 は人並 で はなか った と存
先生 のお人柄 もあ って ,狭 い意 味 で は微 分方程式
じますが ,私 に とって は,先 生 は一貫 して 数学研
論 とは関係 の薄 い研究者 がた くさん集 ま って お り
究 の先達で あ り,理 解者で あ ります。
ます。私個 人 に と っては先生 を慕 って集 ま って く
先生 の ご専 門 は ,複 素解析学 と くに複 素領域 に
-3-
,
る他分野 の研究者 ,ま た海外 の研究者 との交流 は
何 よ りも有難 い ことで した。
お話 を して下 さい ま した。 そ の影響 で私 も中国古
数学以外 で 木村先生 と切 って も切 れ な い ものは
典 に親 しむ よ うにな りま した。 まだ まだ,数 学非
タバ コ とお酒 で す。 タバ コは以 前は新生 を吸 って
数学 諸般 に わた って,お 教 え頂 くべ き ことが残 っ
ま したが 、最近 は もっと軽 い もの に な りま した。
て い るよ うです。
私 も長 い間 お付 き合 い して お りま したが数年前 に
4月 か ら東京理科大学 に移 られます。数学 の研
禁煙 しま した。最近復活 の兆 しが あ り先生 に意志
究テ ーマをた くさんお持ちで,諸 事雑用か ら幾分
´た
薄弱 を笑 われて お ります。 ご 自身 は禁煙 を志 ヒ
解散 され るか ら,と 張 り切 ってい らっしゃるよう
こと もな い よ うにお見受 け致 します。 お酒 につ い
ですが ,お 酒 の相手 に不足 したときはいつで も一
て今更付 け加 え る ことはないか も しれ ませ んが
声 おか け ください。益 々のご自愛 とご発展 をお祈
,
敢 えて書 きます。以前か ら酔 って も崩 れ な い酒呑
り申 し上げます。横書きでは気分がでな いのです
みで ,そ の点 で も私 は不 肖の弟子 で あ りますが
が,「 漢書」か ら一節引用 して木村俊房先生をお
,
量 の ほ うは ,健 康管理 のためで しょうか ,幾 分 自
送 りす る言葉 と致 します。
夫塩食肴之将,酒 百薬之長,嘉 会之好
粛 な さ って い るよ うです。酒席 に ご一 緒す るとよ
く漢文 や古代仏 教 か ら題材 を採 って ,い ろ い ろな
感謝 を こめ て思 い だす ま ま
藤
田
宏 (数 学教室)
なか った)の 期間を経て助手まで務 め,昭 和35年
私が物 理学科 の学 生 と して当理 学部 に入 つたの
に工学部 のいわゆる力学教室 (物 理工学科 の一部 )
に講師 として移 った。すで にそのときの任務は工
は昭和23年 4月 で あ る。数学科 の教授 と して ,ま
た,理 学部 長 と して停年 を迎 え よ うと して い る今
日現在 まで に41年 が経過 した。 その間 .昭 和 35年
か ら41年 まで は工学 部 にや とわれ たが ,そ れ以外
学部の学生 に応用数学 の講義をす る ことであった
が,自 分 の研究分野が数 学 に変わ って行 ったのは
の期間 は理学部 に在 籍 して い る。理学部 に学 び
もっと早 くか らである。そもそも,物 理 に志 しを
か つ勤 めた この期 間 の 回想 をたど りなが ら,お 世
話 にな った多 くの方 々へ の感謝 の意 を表 した い。
立てたの も,物 理が好きであったか らと云 うより
は,敗 戦 や父 の空爆死 などの原体験 によ り, “拶
昭和 23年 に東大 に 入学 した私達 は標 準 的 には旧
い人間が求め得 る確かな価値 "を 目指 してのこと
制高校 の最後 か ら 3番 目の卒業生 で あ る。物 理学
科 に同時 に入学 した仲 間 に は,遠 隔 の超新星か ら
であった。下地 としては,戦 争中 も軍国主義の風
学問 によっ
潮 に抗 して英語 の授業 に力をいれ, “
の ニ ュー トリノは キ ャッチ したが ,惜 し くも (い
て世 に立て "と 生徒を激励 (戦争中では非凡な こ
まの と ころ)ノ ーベル賞 を逸 した小 柴 昌俊 君 や大
とである)し て くれ た母校 (旧 制浪速高校 , 7年
制)の 教育 , とくに尋常科時代 の教育 があ った。
,
学紛争 の発端 の 頃 ,医 学部 の学生委 員 を務 めて い
た藤村靖君 ,先 年惜 しくも世 を去 つた平川浩 正君
,
物理学科 に入 って,小 平邦彦助教授
(当
時)や
時)の 物理数学 の講義を受け
現物 理学会 長 の大野 公男君 な どが いた。 ただ し
久保亮五助教授
私 は 1年 落第 して昭和 27年 に不破哲 三 共産党 書記
た。 ともに感動的な両先生 の講義であったが,小
長 の ク ラス と合流 して卒業 した。
平先生 の講義 は数学の高尚さへ の誘 いを込めたも
のであ り,久 保先生 のそれは数学 の勉強へ の発奮
,
卒業後 も物理学科 には大学院 (入 学試験 な どは
-4-
(当
を喚起す る もので あ った。物理 数学 の講義以外で
かは分 か らな いが ,以 来数学科 で は充 分大事 に し
も,い ま思 え ば,応 用数学者 と して も偉大 な今井
て貫 った。初期 の頃 は長老 の先 輩 に支援 して いた
功先生 ,高 橋秀俊先生 の講義 を受 けた の は幸 せで
だ き,終 始一 貫 して 尊敬す る同僚 に啓発 され,さ
あ った。 これ らの先生 方 の影 響 で数 学 とい うよ り
らに 自分 が年 を取 ってか らは,学 問 の才 に も (近
は数 理解析 へ の 熱意が醸成 され た。
ごろ珍 しい)愛 老精神 に も富ん だ弟子 達 に恵 まれ
最 終学年 の物理後期で のゼ ミは,ま ず 山内恭彦
て ,大 いに幸 せで あ った。献身 的 に面倒見が よい
先生 につ いて 物理 数学 を始 めたが ,後 年 アメ リカ
数学科 の職員 の皆 さん の親切 も大 きな支 えで あ っ
に流 出 し世 界 の第一流 の数学者 に な られ た,加 藤
た。研究面 で は些 か不完全燃焼 の悔 いが残 るが
敏夫先生 が指 導 を引 き継 いで下 さった。 ttΠ 藤先生
私 が 中途半端 の所 で停 止 した課題 の多 くが ,最 近
が私 の大学 院 での指導教 官で あ り,助 手 と して奉
に到 って 後輩 の英才達 に よって著 しい進 展 をみせ
仕 しなが ら仕込 んで頂 いた恩師で あ る。加藤 ス ク
てい る ことは学者冥利 と言 うもので あ ろ う。
,
ール の物理数学 は当時最先端 の数学 理論で あ った
さて ,私 が理 学部 に戻 って 間 もな く東大 紛争 が
作用素 論的関数解析 を用 いて偏 微分方程式 を主 と
起 こった。 昭和 43年 の秋 に交換教授 と して パ リ大
す る数理物理 の 問題 を数学 的厳密 さで研究 す る こ
学 に滞在 して い た私 は,吉 田先生 か ら東大 の存立
とを 目標 と した もので あ り,吉 田耕作教授 や 」。
に関 わ る重大 事 態が起 こって い るか ら直 ち に帰国
リオ ンス教授 な どの国の内外 の数学者 によ り高 く
す るよ うに との お手紙 を いただ い た。急遠 帰国 の
評価 され た。
途 につ い たが ,そ の ときの 日航 機 の 中 で配 られ た
私が助手 の 頃か ら,数 理科学 の大規模 な研究班
新 聞 に よ り東大 の全学部長が交替 し,新 理学部長
が組織 され ,全 国 の数学者 ,応 用数学者 ,数 理物
に久保先生 が就任 され た ことを知 った。 そ の年 の
理学者 な どの接触 が盛 ん とな り,共 同研 究集会 が
春 頃 に ニ ュー ョー クに居て, コロ ンビヤ大学 の学
頻繁 に行 なわれ た。 その成 果 の一 つ が現在 の京大
生紛争 を高見 の 見物 して いたのが ,今 はわが 身 と
の数理解析研 究所 の設立であ る。 おか げで私 は上
な り,帰 国 してみ ると東大 の動 乱状態 も激甚 で数
記吉 田先生 のセ ミナーに常連 的 に 出席 し,ま た
学科 の全教授 が 疲労困億 して お られた。 そ こへ 長
,
全国 の多 くの数 学者 の知遇 を得 て ,本 式 の数学 の
期 の海外 出張で充電 したよ うな顔 を して帰 って き
刺激 を充分 に与 え られ た。
た ものだか ら,早 速 に数学科 の主 任 に され ,過 激
工学部 に移 ってか らも この状況 は続 き,自 分 の
派学生 の矢面 に立 つ こ とにな った。数学 科 は闘争
ペー スでの 固有 の研究 と共 同研究 によ る刺 激 が両
す る学生 に と って,と くに共 闘系 の諸君 に とって
立 して ,私 と して は研究 成果 が あが った時期 で あ
拠点学科 の一 つ で あ った。
る。工 学部で は森 口繁一先生 や現工学部 長 の伊理
何 しろ学生 時代 の恩 師 の久保先生 が学部 長 と し
正夫 さん等 の優 れ た応 用数学者 にお近付 きになれ
て難局 に当 た って お られ るので あ るか ら,数 学科
て幸 せで あ ったが,そ の一人 で あ る故鷲 津久一郎
主任 と して以外 に もい ろい ろ特命 を受 けた。 昭和
教授 が ,私 が理 学部 数学科 へ の異 動 を相談 した際
44年 1月 18日 の早 朝 に大警官 隊 が安 田講堂他 の建
に印象的 な こ とを言 われ た。「 工 学部 は年寄 りを
物 の封鎖 を解 除す るため に構 内 に突 入 したが,理
大切 に しますが ,理 学部 は若 い人 の天下 で しょう。
学部一号 館 を受 け持 った第四機動 隊 の立会 い人 を
教授 にな って理学 部 か ら工学 部 に移 るの は賢 明で
命 ぜ られ た私 は,伊 原康 隆助教授 (当 時 )と 共 に
すが ,そ の逆 をや る貴君 の気 が知 れ ませ ん。」 当
盾 を持 った 巨漢 の ボデ ィガ ー ド付 きで本富士署か
時37才 で ,ま だ若 いつ もりで あ った私 は,鷲 津先
ら一号館 まで駆 け足を した。 その直 前 に封鎖 中 の
生 の折角 の忠告 に従 わなか った。
一 号館 で 占拠部隊 の中 にいた数学 科 の学生 数名 と
工 学部 にい た ら果 して どれだ け大 事 に扱 われ た
-5-
単身 で深夜会 見 し,"外 人部隊 "に よ る容赦 の無 い
●
)
破 壊 か ら図書室等 を守 る相 談 を した記憶 が鮮 明 に
て の衆 望 を担 われたわ けで あ る。 また して も恩 師
残 っている。安 田講堂が落城 して加藤一郎総長代行
が学部 長 に な られ たので , しっか り奉 公す るはめ
が民青系学生 に焦点 を合 わせて収拾 を図 られてか
に な った。学部 長を補佐す る幹事 と して ,教 授選
らが ,ま た一 苦労 で あ った。収拾 に反 対す る共闘
考委員会 の 設置 に関す る原案 を作成 した思 い 出が
系 の数学科学生 が学科闘争 を組み ,団 交 を仕掛 け
あ る。
学 問 それ 自体 の推進 を別 とす れば ,や は り,理
て きたか らで あ る。 当方 の 若気 もあ り,数 学科 の
学生 となれ ば同学 の後輩 で あ るとの浪速節 もあ り
,
学部教授会 の最大 の責務 は良 い人事 の遂行 であ る。
念 入 りに団交 に応 じた。老教 授 の 主張 が学生側 の
自分 で 学部 長 を務めて さ らに その思 い を強 くした。
それ と一致 した り して主任 と して慌 て る場面 もあ
つ いで ,教 授会 の信任 を得て理学 部 の意志決定 に
ったが最後 は後 味 の悪 くな い幕切 れ を迎 えた。学
重 い責任 を持 つ。 学部長,評 議員 ,各 種委 員 の選
生側 に反抗 の美学 や 自己陶酔 が過多 で あ るものの
,
挙 も,学 問 の 自治 につ なが る真剣 な課 題 で あ る。
これ らに取組 む理学 部 の伝統的な姿勢 は理想 に近
過激 な主張 の なか に も自分 の意見 に責任 を持 つ 潔
《
さが あ り,最 近見 か け るよ うな 退廃 的 な甘 え "
い もので あ るが ,今 後 とも理学者 に不似合 い な思
が なか ったせ いで あ ろう。最終段階 で はや は り単
惑 。打算 な どに振 り回 され る事 な く “理 に よ って
騎 (当 方 )で 学生側 の リー ダ ー と交 渉 した。 この
立 つ理学部 "の 筋 を貫 いて 頂 きた い。 それ に,大
ときの相手 を は じめ数学科 闘争 の リー ダ ーの多 く
小様 々な教 室・ 施設 を抱 え,理 学 を愛す ること以
が現在数学 の各分野 で一流 の研 究者 と して重 きを
外 には共通項 のな い多様 な研究 にいそ しむ理学部
な して い る。 "怪 我人 "を 出 さな い ことを 旨 と し
人 の一 体感 の拠 り所 と して “他者 へ の思 いや り "
た藤 田主任 の終結策 が悪 くなか ったので あろ う。
を加 えて頂 きた い。 これが停年 直前 に学 部長を務
紛争 の後 の改革論議 が盛 ん な 頃,小 平先生 が理
め させて頂 い た私 の理学部 の皆 さんへ の老爺 (?)
学部 長 に な られた。収拾策 に流 れが ちな改革論議
のなかで学者 の見識 に徹 す べ き理学部 の代表 とし
心 を こめて の遺言 で あ る。
長 い間 ,い ろ い ろ と有難 うござい ま した。
藤 田宏 先生 を送 る
増
田
久
弥 (数 学教 室 )
有名 な受験 参考書「大学 へ の数学 」 の著者 と し
た。 私 自身 ナ ヴ ィエ・ ス トー クス方 程式 が私 の主
て先生 のお名前 は受験生 で あ った ころか ら存 じあ
要 な研 究 テ ーマの ひ とつ とな りま した。最初 の講
げて お りま した。 直接 お顔 に接 しま したのは ,当
義 で ナ ヴ ィエ・ ス トー クス方程式 の物理 的背景 を
時吉 田耕作先生 の ご指導 の下 に関数解析 と偏 微分
説 明 された後 この方程式 に関す る数学 的研 究が世
方程式 を勉 強 い た して お りま した修± 2年 の とき
界的 に ど うな って い るか,の 鳥轍図 を示 され「 こ
で あ ります。先生 は ち ょうど吉 田先生 によ ってつ
この 分野 は大 切 だが ほ とん ど研究 されて い な い」
くられ た半群 の解析 的理論 ,作 用素 の 分数 ベ キの
とか コメ ン トを つ け られ ま した。 この講義 の後 ま
理論をナ ヴ ィエ・ ス トー クス方程式 に見事 に適用
もな く出版 され た論文 は専 門家 は もとよ り多 くの
し大 きな成功 を収 めて お られ た時期 で した。講義
数学者 に影響 を与 えま した。
は先生御 自身 のお仕事 の解説 で して実 に気 迫 の こ
もった名講義 に多 くの聴衆 は深 い 印象 を受 けま し
-6-
当時常 微分方程 式 を専 門 と して現在 は無 限次元
力学系 の大 家 で あ る
D.Henryは その著 書 の序
にたい ヒ
′て も国 際数学教育学会 の 日本 代 表 と して
文 の冒頭 で "I read the beautiful paper of
Kato and Fuiita On the Navier‐
活躍 され るな ど国際的視野 にた って の ご見識 は数
Stokes
equations and was delighted to find that,
学教育 関係者 の 中で重んぜ られ行政 に反 映 されて
properly vievred, it 10oked liked like an
い るとうかが つて お ります。
『艮
ordinary differential equation ………''と す
殴
現在 理学部 長 と して大学 全体 の行 政 ,特 に新 し
次元力学 系 を研究す るよ うにな った動機 を間接的
い入学試験制度 の確1立 とい う困難 な問題 に おいて
に述 べ て お ります。
大変 に尽力 されて ,こ こにおきま して も道 をつ く
その後 ,先 生 は熱方程式 の解 の爆発 の 問題 ,近
られて お られ ます。
似計算 一特 に有 限要素 法一 の研究 にすす まれて そ
先生 は個人 的 には大 変情 のあつ く浪花節 的 な と
の研 究 は い まで は古 典 とな って お りそ の後 の大発
ころが あ ります。興 に乗 ると ドイツ・ リー トをお
展 の契機 とな りま した。応用数 学 のための 日本で
歌 いに な った り,マ ー ジ ャ ンに こって FMC(フ
は じめて の雑誌 」apan JOurna1 0f Applied
ジタ ●マ ー ジ ャ ン・ クラブ)を 結成 され た り しま
Mathematicsの 創刊 な ど 日本 の応用数学 の興 隆
した。
に もた いへ ん情熱 をかたむ け られ大 きな道 をつ く
我 々学 生 の前 に火 の玉 とな って 現 われ た先生 が
また火 の玉 とな って理学 部 を去 って ゆか れ る。
られ ま した。 日本数学会 の理 事 長 と して数学全体
先生 ,ど うぞ いつ まで もお元気 で 。
の研究体制 の 整備 に も尽力 され ま した。
また数学教育 の重要性 を深 く認 識 され この方面
題
無
佐
理学部廣報 の編集 委員長 か ら教 室主任 を通 じて
,
藤
良
輔 (地 球物 理学教 室 )
るごとに,枡 酒 を一杯ず つ呑 まな くて はな らなか
退官 に際 して何 か エ ッセ イを書 くよ うにいわれ ま
った, とい う内容 の もので した。恐 ら く二 分 間 も
した。 しか し今 更 カキオキをす るよ うな ことは何
あれば話 の要 点 は ま とめ られ る筈 だ とい う考 え(十
もな い し,か とい って先輩 の竹 内均先生 のよ うに
ジ ョー ク)に 基 づ いて い る もの と推察 します。
一行 で す ませ るとい う度胸 もな いので ,ナ ヤ ンで
そ こで 正 直 に,か つ 勇気 をだ して書 くのです が
い る うち に締切 日が迫 って きて しまい ま した。 そ
私 が この記事 を読 んです ぐ思 ったの は,教 授会 の
る しまぎれ に)一 つ だ け
「人事 に関す る件」 の ことで あ りま した。 昔 と違
こで思 い付 くまま に
(く
●
,
ご く最近 の新 聞 の コ ラム記事 に,作 家 の高 田宏
って学 問分野 が極度 に分枝化 した最近 の 状態で は
駅
1, 3,5の 論文 は… … "と い う (詳 しい)説
氏 が書 かれ た「二 分間 ス ピー チJと い うのがあ り
明だ けで ,専 門分野 の全 く異 な る研 究業績 の こ と
ま した。故人 とな られ た詩 人 の草野 心平氏や 山本
を判 断せ よ とい われて も (い われて は い ないのか
太郎氏 が主 宰 されて いた会合で は,外 部 の人 を招
も知 れ ませ んが )ド ダイ無理 な話 だ ,と 少 な くと
いて三 分間 だ けのス ピーチをや って貰 って いたよ
も最初 の頃 は
うな ので す が ,そ の会合で は,三 分間 た つ とカネ
す るのが ため らわれた こ とも多 々 あ った とい うの
が 鳴 らされて ,そ れ まで に話 が終 わ って い な い と
が正 直 な所です。 その うちに,候 補者 の業績 を最
罰 と して枡酒 を呑 まされ,そ れか らは一 分超過す
も良 く理解 され て い る方 は推 薦 され た方 なのだ ろ
書 いて 見 る ことに しま した。
,
-7-
(!)思 って い ま したので ,「 投票」
提案 とい うのは,そ れを全 く無視 され ると提案
う し選考委 員会 の方 々なのだ ろ うか ら, こんな場
合 は信用す る しか な い と思 うよ うに な りま した。
者 は何 ともバ ツの悪 い気持 ち にな る もので すが
勿論選考委員会 の方 々の ほか に も候補者 の業 績 や
私 はお陰様 で二 月一 杯 で「 卒業 」 しますので ,と
人間性 を良 く知 って い る方 が お られ るで しょうが
,
,
にか くこの 際 ,人 の言 わな い (言 えな い ?)こ と
そ うい う方 に は「 詳 しい説 明」 はそれ程必要 と し
を言 った上 で ,そ れが無 視 されて も一 向 に平気 で
な いで しょう し,そ れ に投票 まで に一 ケ月あ るの
あ ります ことを申 し添 えて お きます。
で すか ら,「 短 い説 明」 は決 して障害 にはな らな
最後 に筆 の勢 いで もう一 つ だ け書 いてお きます。
い と思 うので す。 と ころが ,恐 ら く多 くの方 が そ
確 か物 理 の小柴先生 だ つた と思 い ます が ,退 官 の
う思 って お られ る筈 なの に (と 思 いたい),説 明
際 の最後 の教 授会 の時 , u教 授会 をせ めて二 時間
され る方 は,「 短 い 」 と候補者 に 申 し訳な い と思
で 終了す るよ うにす れば ,若 い人達 が もっ と出席
われ るせ い なので しょうか ,そ れ と も,カ ル クナ
す るよ うに なるだ ろ う "と い う主 旨の ことを話 さ
ル とで も思 われ るせ い なので しょうか ,な か なか
れ ま した。仝 く同感 です。私 の今 まで の経験 で は
(?)ど うして も
教授会 は昔 よ り (紛 争 の 頃 は別 と して )随 分長 く
説 明 が必要 で あ るの な ら,い っその こと時間を き
な って い るよ うな気 が します。○○委 員会 とい う
めて お いて チ ー ンとや って (ま さか枡酒 まで用意
のが 多 くな りす ぎたか らで しょうか ,そ れ とも
す る ことはないで しょうが ), あ とは質 問を受 け
二 分 間 です む話 を十分間 (枡 酒 九杯 分
るとい う風 にはいか な い もので しょうか。 この こ
い と気がす まな い とい う論客が多 くな ったか らな
とを私 の周 りの何人か の方 に話 した所 ,皆 さん賛
ので しょうか。
短 くな らな い。 そ こで ,内 規上
,
,
!)話 さな
成 で した (も っとも心 の 中 で は そんな ことなどで
´た。理学
それ に して も長 い間 お世話 に な りま ヒ
きっこない と思 ってお られたのか も知れ ませんが)。
院 と して益 々の発展 を心 か らお祈 り申 し上 げ ます。
佐 藤良 輔先生 を送 る
松
浦
充
宏 (地 球物 理学教室 )
佐 藤良輔先生 は,昭 和 28年 に東京大学 理学部地
の編集長 と して ,そ の育成 と発展 に尽力 されて こ
球物 理学科 を卒 業 され た後 ,大 学 院研究奨学 生 を
られ ま した。更 に,昭 和 60年 に我 が国で初 めて 開
経 て ,昭 和33年 に東京 大学 理学部 助手 と して任官
催 され た国 際地震学 0地 球 内部物理学協会
され ま した。 昭和 35年 に東京大学 か ら理学博士 の
SPEI)第
学位 を授与 され ,昭 和41年 には理学部助教授 に昇
局長 と して 活 躍 され ま した。
任 ,昭 和 55年 か らは理学部教授 と して地球物 理学
教室 の地震 学講座 を担 当 されて お ります。先生 は
(IA
23回 総会 で は,国 内組織委員会事務
私 が地 球物 理学 科 に進学 して初 めて 佐 藤先生 の
,
講義 を受 けた のは , もう20年 も前 の ことにな りま
この間 ,大 学 院理学系研究科 地球物理学専 門課程
す。当時 の地球物理学科 の講義 は多少 いい か げん
主任 ,地 殻化学実験施設長 ,地 震学会 委員長 (現
な ところ もあ ったので すが ,先 生 の講義 は,大 変
行会 長 ),地 震予知研究協議会 議長 な ど多 くの要
分か りやす くきちん と した もので した。 その後先
職 につかれ ,広 く日本 の地震学 の発 展 のため に尽
生 と親 し く接す る機会 が 増 え る につ れて分か って
くされ ま した。先生 は,又,四 半世 紀 もの長 き に
きたのです が ,先 生 は, この「 きちん とす る」 と
わた り,欧 文 の固体地球物 理学専 門誌
(」
PE)
-8-
い うことを,単 に講義 だけに限 らず ,何 事 におい
て も信条 とされて お られ たよ うです。 もっと も
訓練期 間で あ る」 との先生 のお考 え に よ る もので
先生 は大 変 お酒が お好 きで ,よ く我 々学生連 中を
す。
,
飲 み に連 れて い って下 さい ま したが ,そ の よ うな
先生 の学 問的興 味 の 中心 は,一 貫 して ,地 震波
時 は例 外 で ,何 時 もきちん と して お られ る先生 が
,
の発生 と伝 播 に関す る理 論的研究 に あ りま した。
堅苦 しい信 条 な どはす っか り忘れ陽気 な「 お父 さ
1960年 代 に は,主 に発震機構 と地 震 波 の減衰 に関
ん」 に変身 して しまわれ るのが 常で した。 これ は
,
す る基 礎 的研 究 に力を注がれ ,1970年 代 に は,「 食
多分 ,先 生 の気分転換法 の一 つ だ ったの で しょう
い違 い理論」 に基 づ く実体波や表面波 の理 論地震
が ,我 々学生連 中 は,そ んな ところに も先生 の人
記象及 び地殻 変動 など に関す る研 究 を精力 的 にな
間的魅力 を感 じて お りま した。
され ま した。 これ らの研究 は,い ず れ も,そ の後
私 が大学 院 に進 んで佐藤先生 の 指導 を受 けるよ
の理論地震 学発展 の基礎 とな る重 要 な もので した。
うにな った 頃,先 生 は英国か ら戻 られて 間 もな い
また,1980年 代 に入 ってか らは,短 周期 地震波 の
気鋭 の若手助教授 であ りま したが ,す で に理論地
発生 と伝 播 の研究 を通 じて地 震動災害予 測 に関連
震学 の大 家 と しての風格 をそなえて お られ ま した。
した分野 で も活躍 され ま した。先生 は,常 に一兵
当時 ,地 震学研究室 には私 と同期 の修士 の学生 が
卒 と して研究 の最 前線 に立 つ こ とを好 まれ ま した。
4人 もお りま したが,先 生 は, この 4人 の学生 全
研究 に対す るこのよ うな基本 的姿勢 は教 授 にな ら
員 を一 人で 指 導 されて しまわれ たので す。今 ,自
れてか らも変 わ ることな く,今 で も,わ ずかな暇
分 が 学生 を指導す る立 場 にな って みて ,そ れが ど
を見 つ けて は御 自身で計算 プ ロ グ ラム を組 み,端
んなに大 変 な こ とであ ったか 身 に しみて わか りま
末 の キ ー ボ ー ドを叩 いてお られ ます。
す。修士課程 の学生 に対す る先生 の 指導 は,テ ー
先生 は,今 年 の 3月 を も って東京大 学 を退官 さ
マ の選 び方 ,問 題 へ の アプ ロー チの仕方 ,果 て は
れ ます が , これか らもお好 きな地震 波動理論 の研
論文 の書 き方 に至 るまで ,実 に懇 切 丁寧 な もので
究 を続 けて いかれ ることと思 い ます。先生 は,助
した。博士課程 の学生 に対す る指導 は, これ と反
手 ,助 教 授 ,教 授 の時代 を通 して ,実 に多 くの 弟
対 で ,何 時で も相 談 に は乗 るが ,あ くまで も本人
子達 を育 てて こ られ ま した。 そ の多 くの弟子達 を
の 自主性 を尊 重す るとい うもので した。 この よ う
代 表 して,こ れか らの先生 の御健康 と益 々の発展
な指 導方針 の違 い は,「 博 士課程 は 自分 で 問題 を
をお祈 り申 し上 げ ます。
ll
見 つ け解 決 して い く一人 前 の研 究者 に な るための
01
退 官 に あ た っ て
稲
本
直
樹 (化 学教室 )
光 陰矢 の如 しと言 い ますが ,月 日の経 つの は早
の昭和44年 6月 に,今 の理学部 7号 館 の場所 にあ
い もので ,昭 和 23年 に理学部 化学科 に入学 してか
った私 の研究室 の一室より夕方出火 し,一 部屋焼
ら,は や40年 余 が経過 しま した。 昭和 37年 か ら38
失 した ことです。私は学会の用務で名古屋 に出張
年 にか けて カナ ダ・ トロ ン ト大学 に留学 した 1年
中で したが,虫 の知 らせか,会 の途中で帰 って き
2ヶ 月を除 いて ,今 迄 の人生 の シ3は 理学 部 にお
て このことをききびっ くりしま した。当日は東大
世話 に な った ことにな ります。
内で何か起 こりそうとかの情報 で,テ レビカメラ
先 ず第 一 に思 い出 され ます ことは,紛 争 の最 中
-9-
が近 くに待機 していて,煙 をみてかけつ け,中 継
したそ うで ,化 学教室 は じめ理学部 の皆様方 に大
とと し,そ の文案 を Y教 授 と夜半 に電話で協議 し
変御迷惑 をおか け し,ま たお世話 に な りま した。
学生 部 に指示 しま した。 当 日,そ れ とな く会 場周
翌年 1月 には機動 隊導 入で安 田講堂攻 防戦 にな
りま したが ,そ の折 ,加 藤 一郎総 長が様子 をみ た
い との ことで ,当 時 の久保亮五理学 部長 ,赤 松秀
,
′たが
辺 に何人 か を交代 で配 して注意 して い ま し
,
幸 に も何事 もな くす み,ほ っと しま した。
停年 の前 3年 間 は環 境安 全 セ ンタ ー長 に任命 さ
雄教授 が 安 田講堂 に最 も近 い化学 最新館 (現 在 の
れ ,石 綿問題 が工学部 ,地 震研 か らわ いて きて
化学本館 )屋 上 に案内す ることにな り,私 も警備
石綿問題担 当の有 馬朗人総長特別補佐 らとその対
役 と して 約 一 時間御 一 緒 致 しま したが,加 藤総長
応 を頻繁 に協議 しま したが ,有 馬先生 な ので 相談
か ら「学生 もなかなか頑 張 って いて機動 隊 も苦戦
が しやす く,助 か りま した。色 々面倒 な問題 が出
だね」 とい う言葉 を聞 い たの も20年 前 とな りま し
て きて ,一 時 は ど うな る ことか と思 い ま したが
た。
石綿 の取扱 いマ ニ ュアル もで き,除 去 工事 もス ム
昭和 58年 ,学 生委員会委員長 と して五 月祭常任
,
,
ースに行 なわれて お り,ほ っ と して い ます。
委 員会 との協議 で は苦労 し,や めてか ら胃潰瘍 を
研究 の面 で は,よ いス タ ッフ,学 生 に恵 まれ
や りま した。五月祭の時の農 学部 グ ラ ン ドで の ロ
自由に好 きな ことをや らせて い ただ きま した。流
ック コ ンサ ー トの大 きな音 量 と終 了 が 20時 頃 にな
行 の研究 はせず ,定 説 を疑 間 の 目を も って 眺 め
るなどが 問題 とな ってお り,周 辺 の方 々か ら苦情が
総合 的 に考 え る立場で仕事 を して きま したが , 9
殺到 す ると聞 いて い ま した。 この問題 が協議 の 一
年前 ,今 迄 は不安 定で単離で きな い とされて いた
項 目とな る ことは確実で ,私 には手 に追 えそ うに
化合物群 のい くつ かを ,か さ高 い基 を導 入す る こ
なか ったので ,学 生部 と相談 ヒ
´,法 学部か らの Y
とによ り単離 に成 功 し, この方 面 の研究 を世界的
教授 と同席 で会 って は との ことで ,そ うした と こ
に活発化 で きた のは望 外 の喜 びです。 また,周 期
ろ, さす が は法学部 の先生 で ,法 律 論 ,判 例 な ど
表で もわか るよ うに,化 学 は周期性 の立場 か ら整
を ひいて説得 したのは さすが と思 い ま した。 その
理 されて い ます。 しか し,総 合 的か つ 定量 的 に考
時 の学 生側 の正冨1委 員長 はか な り協 力的 であ った
え る際 には不便 もあ り,周 期性 を消去 して直線 的
こ と も幸 し,音 量 には問題 が あ りま したが ,終 了
に考 え る方 法 にめ どを つ けま したが ,雑 用 に追 わ
時間 は約束 の18時 (周 辺町 内会長か らの 直前 の 申
れ ,そ の ま ま に な って い ます。 これか らは暇 もで
し入れ 時間で もあ った)を ほぼ厳守 ヒ
′
て も らえ
きると思 い ます ので ,で きるだ け この考 えを発展
,
抗議 の電話 は今年 はなか った と平野総長 よ りね ぎ
らいの御言葉 を賜 りま ヒ
´た。 しか し,翌 年 は また
,
,
させ た い と願 って い ます。
最後 に,長 い間 お世 話 に な った理学部 の諸先生
方 ,事 務 の方 々に心か ら御礼 申 し上 げ ます ととも
終了 がかな りお くれ た と聞 いて い ます。
また ,あ るサ ー クル企画 で あ るタ レン トの コ ン
サ ー トが 予定 されて い ま したが ,五 月祭間近 にな
り,本 富士署 もつ かんで い な い あ る右翼 (?)団
体 か ら,東 大 にバゝさわ し くな い人 だか ら コ ンサ ー
トを中止せ よ, さもな くば実 力で阻止す るとその
サ ー クル に電 話 が頻繁 にあ り困 って い る との 申 し
出が あ り,そ の対応 に も苦慮 しま した。既 にかな
り前売 券 が 出て い るのでサ ー クル と ヒ
´て は 中止で
きな い との こ とで ,前 日夕方委員会 で 検討 し,と
もか く中止 と し,そ の対策 を伝 え る掲示 を出す こ
-10-
に,皆 様 の御活躍 と理学部 の御発展 をお祈 り致 し
ます。
'
稲本先生 の御退官 によせ て
岡
崎
廉
治
(化 学教室)
稲本直樹 先生 は昭和 26年 東京大学理学部化 学科
さて話 が急 に飛躍 しますが ,先 日昭和天皇崩御
を卒業 され ,29年 東京大学理学部 助手 に な られ ま
の折 :さ まざまな人達 が そのお人柄 にも、
れて いた
した。 その後 同講 師・ 助教授 を経て40年 に有機化
lそ の後 25年
学第一講座 の教授 に昇任 され ま した。
中で ,私 の 印象 に強 く残 った ことが あ りま した。
誰で あ ったか失念 して しまい ま したが ,特 筆す べ
にわた り,窒 素 , リン,硫 黄 ,セ レン,ケ イ素 な
き人柄 と して公 平 さをあげて い ま した。 この小 文
どのヘ テ ロ原子 を含 む有機 化合物 の研究 を一貫 し
を書 くに あた って 稲本先生 とと もに過 した年月 の
て進 めて こ られ ま した。今 日では ,ヘ テ ロ原子化
間 の さまざまな出来事 をも、りか え って みて ,稲 本
学 は有機化学 の 中で一 つの大 きな分野 に成長 して
先生 もまた御 自身 で は この公平 さを最 も大切 にさ
確 固 とした位 置 を 占めて お り,第 一 回 の ヘ テ ロ原
れて いたので はな いか とい う こ とに思 い至 りま し
子化学国際会議 を 日本で開催す るほ どに この分野
た。研 究室や学生 の教育 にお いて だ けで はな く
にお け る我国 の研究 が活発 にな って お りますが
学術 雑誌 の編集委員長 と して も,ま た さまざまな
その流れ を身 を も って作 って こ られ た先生 には
●
,
,
学会 活動 にお いて も,い つ もそれを心 が けてお ら
,
御退官 に あた って感慨深 い ものが あ るので はな い
れ た よ うに思 い ます。 これ は一見 あた りまえ の よ
か と推察致 して お ります。
うで ,終 始 それを貫 ぬ くこ とは,な か なかで きな
先生 とと もに過 した20余 年を思 いお こ しなが ら
,
い ことの よ うに思 い ます。
先生 のお人柄 な ど につ いて ,二 ,三 ご紹介 してみ
先生 は一 昨年 の 4月 よ り環境安全 セ ンター長 を
務 めて お られ ます。第二代 セ ンター長 で あ り,セ
たい と思 い ます。
私 が先生 に初 めてお逢 い したの は,学 部 三 年生
ンターの業務 も順 調 に進んで いて あ ま り大 きな問
の有機化学 実験 の ときで あ った と思 い ます が,そ
題 はな いで あ ろ うとの大方 の予想 を裏切 つて ,ア
の後先生 が 所属 してお られた の と同 じ研究 室 (島
スベ ス トの 問題が起 り,大 変苦労 され たよ うにお
村研究室 )に 私 も入 りま したので お逢 い す る機会
見受 け しま した。一 応 の解決 をみた とうかが って
は多か ったはず ですが ,入 りたての大学 院生 には
お ります が ,そ れ も恐 らく,持 前 の公平 さで誠 実
講 師 に な って お られ た先生 は雲上人 の よ うで ,ま
に努力 され た結 果 で あろ うと思 って お ります。
た先生 が寡 黙 の 人で あ った こと もあ り,ほ とん ど
先生 の 長年 にわ た る研究 と教 育 に対す るご尽力
お話 しを した とい う記憶 があ りませ ん。 しか し
に感謝致 します とともに,御 身体 を大切 に され 新
大学 院 の先 輩か ら,稲 本先生 は 島村教授 がパ トロ
しい職場 で の益 々の ご活躍 を期待致 します。
,
ール (実 験室 に実験経過 な どを聞か れ るため に先
生が まわって こられ るのを学生 は こうよんで いた)
中 に声 を か けて も実験 に集 中 して い るあ ま りそれ
が聞えず ,島 村教 授 がす ごす ご と実験室 か ら出て
いかれた な ど とい う話 を聞か されて ,私 や多 くの
先輩が島村教 授 が そば にい るだ けで緊張 して手 か
らフ ラス コを落 しそ うに な った ことを考 え,稲 本
先生 の集 中力 と豪 胆ぶ りに敬服 して お りま した。
- 11 -
│
"草 原 の 輝 き
"
佐佐木
湯川博士 の ノ ーベル賞 の影響 で東大理学部 の物
行
美 (化 学教室 )
な って い るが ,そ この大学 は紛 争 を経験 した後
,
理の人 気 が急 騰 しその反動か化学 の入試倍率が落
ラジカ ル な学 制改革 を経て民主化 が 進 み産学共 同
ちた事 ,ま た入試科 目に数 学 が無 くて語学偏重で
の進展 とともによい意 味 で も悪 い意 味 で も東 大同
あ った ことが幸 い し,や っと化学 に入学 で きた の
様昔 の アカデ ミックな雰 囲気 を失 って きた事が感
は昭和24年 の事 だ った。
じられ る。一般 に ヨー ロ ッパ の大学 の研 究室 での
秋 には人民政府 が 出来 るか ら化学実験 の単位 を と
日常 の話題 も専 門 テ ーマ を離れ ると駄酒落 か以前
は
は タブ ーだ った車 の話や税 金 の 話 で ,昔 の 知 的 "
って も無意 味 との ことで あ った。
な雰 囲気 は薄 らいだ感 があ る。
入 って 早 々活動家 の上級生 に きか され たのは
,
学生 時代 は三 鷹事件 ,朝 鮮戦争 (そ の 頃や っと
ウ ィー ンの友 人 は これは ビー トル ズか ら始 ま っ
ビール が 自由販売 に な った)と 南原総 長 の全面講
有効 で ,長 崎 の残留放射能 の分析 を卒 論 に卒業す
た悪民主化 現象 だ と憤慨す るが別 に彼等 が悪 い わ
けではあ るま い。確 か にアカデ ミーの委員会 で コ
は
ミック スを読 んだ リ ビー トルズに倣 って ベ ー ト
るとす ぐメ ー デ ー事件 に会 う。研究室で は ビキニ
ベ ンは詩が よ い ね "と とぼけた りす るの は古 い権
の灰 の放射 能分析 に明 け暮れ ,30年 に助手 に して
威 を嘲笑す る下克 上 的痛快 さはあ って も,ど こで
頂 い たが 落 ち着かず ,辞 表 を書 くこと四度 ,辞 職
もそれを形 だ け模倣 し真剣 な議論 か ら逃避 しよ う
して 1万 円前後 の 退職金 を頂 くこと二 度 ,外 国放
浪後 ,蝿 の よ うに追 って も追 って も戻 って 来 ると
とす る知 的怠惰 の弊害 は計 り知れ な いで あろ う。
《
で は 本学 "の 学生 はど うで あろ うか。
言 われ なが ら新設 の無機 合成化学 講座 に着任 した
この26年 間研究室 や教室で 出会 う学生 は学校群
和論争 と騒 が しく,人 民政府 は出来 ぬ まま単位 も
のが38年 で あ った。 その後 は26年 間 東大で万博
制度 によ る変化 ,団 塊 の世代 ,共 通一 次 を経て つ
,
大学粉争 に続 いて 石油 シ ョック, ロ ッキ ー ド, リ
いには新人類 と変 わ ったが ,一 貫 して私 に東大 に
クル ー トと昭和 の終 るまで多 くの 出来事 を経験す
い る幸福 感 を与 えて くれたのは,彼 ら学 生 の持 つ
る事 に な る。 中 で も安 田講堂攻 防 とアポ ロ月面着
一種 の余裕 と も言 うべ き風格 で あ った。
研究室 には漫 画本 に混 じって読 めな い外国語 の
陸 で は教 室 中用務員室 の テ レビの 前 に釘 づ け にな
った記憶 が あ る。しか し60年 安保 の熱気 と "挫 折 "
不思議 な図書 (中 世教会 ス ラブ語 ?
だ けは外 国 の新 聞 で 見 ただ けな ので 残念 なが ら他
語 ?), ど こか ら見 つ けて来 たのか を いぶか る様
人事 の様 で 親身 に感 じられ な い。
な仏教説 話文 学書 ,ル ネサ ンスの 詩集 又突然法相
仕事 に使 った器具 ,機 械 も大変 な進 歩 で手動計
ウェールズ
宗 の教義 書等 が常 に見 いだ され る。
算機 が電 動,つ いで電 子化 す る。 大形 計算機 の発
受験戦争 の 勝利 者 らしく理化学 ,動 物学 ,生 理
達 は限 りが な く出力 の紙 は実 験 室 に溢れ る様 にな
学 ,哲 学 ,歴 史 ,文 学 ,音 楽 ,何 につ いて の話 題
り,美 濃紙 に “一 身上 の都合 によ り…… "と 毛筆
で も水 を向 けれ ば誰かが 口をは さむ。 この様 に老
で書 いて い た私 もワー プ ロ無 しで は書類一 つつ く
人相手 の うま い学生 とつ き合 って い る と孤 独 を感
れ な くな った。
じる暇 も無 く,又 困 った こ とに新 聞が騒 ぎ立て る
1950-60年 頃研究生 活 を過 ご した ヨー ロ ッパ を
再訪 して見 る と一緒 に実験 をや った友人 は教授 に
- 12-
日本 の教育 の危機 も忘 れて しま う事 にな る。
ま
ア ラ ン・ ブル ームが最近有名 にな った アメ リ
カ ン 。マ イ ン ドの 終焉 "で 嘆 いて 居 る様 に,全 人
的な ル ネ ッサ ンス的教 養主義 は世 界 的 に大学 か ら
《
消滅 しつ つ あ り,何 処 で も "研 究者 "と その 管
は
理者 "が 増加 して 学者 "が 減少す る傾 向 は致 し
しか しゆ とりの無い所に文化 と真の科学 はない。
東大 に関す る限 り化学 の実験 室 の書架 に “無用
の "哲 学書や文学書が漫画本 に混 じってで もよい
か ら何時まで も残 っていて欲 しい もので ある。
方無 い。
佐佐 木先生 と共 に 20年
宮
佐佐木行 美先生 が あの若 々 しさで御退官 に な る.
ま さに光 陰矢 の如 しで あ る。
本
健 (化 学教 室 )
滅 を繰返す 宇宙 の雄 大 な記述等 多 くの 自然哲学 が
含 まれて い るが ,今 我 々の興味 を引 くの は一 種 の
初 めて 先生 にお会 したの は筆者 が学部 3年 の学
生 の ころで無機化学 Ⅱの講義で あ った。 当時先生
八面体 とみ なせ る分子 モ デル で あ る。位 置が あ っ
°
て大 きさの な い 極 微 "=原 子 の 一 つ が,上 下前
は御 結婚 直後 で ,薬 指 にはめた指輪が気 にな るの
後左右 同様 な原子 に囲 まれて一 つの大 きな原子 と
か ,机 の上 に置 いて みた り,ま た指 に はめて み た
な り, この新 しい単位 は 7個 集 ま って一つ上 の段
り しなが ら,周 到 に用意 され た講 義用 ノ ー トをパ
階 の単位 とな るcこ の よ うに “分子 "の 様 な もの
ラパ ラめ くられ ,例 の早 口で 講義 を進 め られ た。
は 7η 個 の極微 を含み ,巨 大 な もの に成 長 して行
我 々学生 は指輪 が気 にな るの と,板 書 した文字 を
く…… 」。 この比愉 の正確 な理解 は ,到 底筆者 に
先生 が直 ち に消 して しま うので ,ノ ー トを とるの
は不 可能 で す が ,古 今東西 の文化・ 歴史 に通 暁 さ
に本 当 に四 苦八苦 した。講 義 で のお話 (た しか種
れて い らっ しゃる先生 の ことです か ら, 自然科 学
々の溶媒 で の酸 と塩基 の定義 であ った)は 面 白 く
成立過程 の礎 で あ る博物学 を背景 と して ,ポ リ酸
無機 化学 は こん な に も系統 的で 美 しい学 問 なのか
の基礎 研究 を無 機 合成 化学 と して推進 ,開 花 させ
とい う誤解 と感慨 を我 々学生 に与 え た。 これが 正
よ うとお考 え に な ったのだ と推 察 ヒ
´
て い ます。 し
真正銘 の純化学者 ,佐 佐木行 美先生 に対 す る最初
か し現在 の 日本で の 自然科学基礎研 究 に対す る環
の鮮 烈 な印象 で あ った。
境 はま こ とに きび しく,先 生 の夢 は完全 に実現 さ
その後 ,先 生 の研究室で卒業 研 究 ,大 学 院修士
課程 とお世話 に な り,ど うい う御 縁 か研 究室 の助
れた とは言 い得 ませんが,教 えを受 けた門弟達 が
その理想 を実現 し,一 層発展 させ る ことを期 待 し
手・ 助教授 を勤 め21年 間 も苦楽 を共 にす る ことに
て い ます。
,
あ い な った訳 で す。
最後 に一 言。佐佐木先生 を語 るに女性 を抜 きに
先生 は30年 間一貫 して,ポ リ酸陰 イオ ン (無 機
縮合酸 イオ ン)の 溶液化学 ,構 造化学 の研究 を着
して は考 え られ ません。先生 は 日頃 か ら学生 に対
実 に進 め られ ま したが,そ の哲学 的背景 とな った
情 の気持 ちを忘 れな いよ うに と指導 されていま し
のは何 だ ったので しょうか ?御 自身 の執筆 され た
た。 そ のせ いか佐佐 木研 究 室 には ,続 々 と有能 な
「化学総説 13 八面体 の配位立体化学」
女子学生 が 集 ま り,一 時 は「 佐佐木女学 院」 と称
(日
本化
学会 編 ,昭 和51年 刊 )の 中で仏教哲学書 “阿毘達
麿具舎 論 "を 引用 され ,次 のよ うに述 べ て い ます。
は
は
「 書 の 中 に は,時 間 の単位 と して 却 "か ら 刹
那 "迄 の 定義 や 128× 109年 の 周 期 で発 生 と消
-13-
して強 い個性 の沿 持 と弱 い立場 にい る人達 へ の 同
され るほどで あ りま した。 その後研 究室 出身 の女
性研究者 が 先生 の御尽力 のか い あ って ,す くす く
と育 ち,化 学界 で は「 女性学者 の育成者 」 と して
も御 高名 で す。昔か ら先生 は多 くの良 き女友達 に
●│
0
も恵 まれ広 い 交遊関係 をお持 ち に な って い ること
場 の弱 い若 い優秀 な男性研究者 達 も周 囲 に数 多 く
は,筆 者 に と って も羨 や ま しい 限 りで あ りま した。
い る こ とを お忘れ な くお考 え いただ き,今 後共 よ
ど うか行 美 先生 ,御 退官後 は女性 だ けで な く,立
ろ しく御 指導 のほどお願 い 申 し上 げ ます。
東京大 学 一 学生 た ち との青 春
岡
学 園紛争 の傷 あ とが まだ生 な ま しく残 って い る
田 吉
美
(生 物化学教室)
た幸運 を感 謝 せ ず に はお られ ませ ん。
東京大 学 に私 が着任 した のは ,17年 前 の夏 の初 め
私 は多 くの学生 の指導教 官 とな りま したが ,そ
の 頃 で した。植物 ウイル ス研究所 とい う農林省 の
れ は私が多 くの学生 によ って支 え られて きた とい
研究所か ら移 って きた私 に は,久 しぶ りに見 る若
う意味で あ る ことをよ く知 って い ます。 そ して 私
い学生 た ちの姿 が とて も新鮮 に映 りま した。 恐れ
が学生 の 中 に あ って幸 せで あ った とい う こ とが
る こ とを知 らず ,た め らう こともな く,そ して後
学生 た ち も私 とと もに幸 せで あ った とい うことで
ろを振 りか え ることもな く,た ゞ若 さゆえ に許 さ
あ って くれれば , どんな に嬉 しい ことで しょう。
れ るす べ て の特権 を誇示 して ,あ るい は破滅 に向
その答 えは学生 た ち 自身が これか らの研 究生活で
うか も知 れ な い道 を駆 け抜 けて い く姿。 それは 自
出 して くれ る こ とで しょう。21世 紀 をた っぶ り見
分 の 若 か った 頃 の姿 の一 面 で もあ り,そ して また
る ことので きる若 い人 たちが ,そ の時代 の輝 か し
私 の 人生 で 私 自身 が切 り捨て よ うと して きた部 分
い担 い手 とな って大 き く羽ばた く姿 を私 は待 つ こ
で もあ りま した。学生 たち とめ ぐりあ う ことので
とに しま しょう。
,
きる東京大学 へ の着任 は,私 に とって ,通 り過 ぎ
世 は昭和 か ら平成 にな り,間 もな く私 も東京大
て い った青春 を もう一度呼 び戻す ことので きる春
学 を去 ります。動乱 の 昭和 の歴史 が個 人 の歩 み と
の 季節 で あ った よ うな気 が します。
色 濃 く重 な る私 に とって は, この上 な い大 きな心
こう して何年振 りか の学生 たち との研究生活 が
の 区切 りの ときが一度 にや って きた よ うな想 い が
始 ま りま した。 毎年毎年 ,す ば ら しい 資質 に恵 ま
します。 日本語 の別 れの挨拶 は「 さよ うな ら」 と
れ た学生 た ち と巡 り会 い,熱 い想 い を共 に語 る こ
言 い ます。 私 が 昭和 と東京大学 へ さよ うな らを い
とがで きま した。 研究所 時代 の私 は,自 分一 人 の
うときは,私 が学生 との青春 に さよ うな らを い う
世界 の 中 で ものを考 え ることに慣 れて い ま した。
時で もあ り, もう一度私 の人生 で何 ものか を切 り
しか し東京 大学 での 17年 間 は, 自分一 人で はあ り
捨 て るときで もあ るので ヒ
´ょう。
ませ んで した。 若 い学生 たち との輪の 中 にい る こ
その よ うな感懐 にバゝけ りなが ら自分 の 回 りを見
とがで きま した。 そ こには歓 び も哀 しみ も,笑 い
回 した とき,17年 前 の学生 たちに覚 えた新鮮 な感
も涙 もあ りま した。
動 がいまないのはなぜで しょうか。私 が年令 を とっ
「 遇 うと遇 わ ぎるとは時 な り」 とい う中国 の言
たか らな ので しょうか。 それ と も学生 た ちがず っ
葉が あ ります が,忘 れ られ な い学生 との 出会 いの
と大人 に な って しま ったか らな ので しょうか6そ
数 々が い ま懐 しく思 い 出 され ます。学生 たちの運
ん な想 い を心 の 片隈 に抱 きなが ら,だ か ら これだ
命 の ス タ ー トを決 め,そ れが私 自身 の人生 を も決
けは言 ってお きた い と思 うのです。 「若 い学生諸
めた い くつ か の 出会 い を,私 は これか らもい く度
君 よ。君たちの生 き方はいつ まで も後輩 に向けて
か思 い 出す ことで しょう。 自 らの青春 と,学 生 た
の新 しいメ ッセ イジを送 り続けて いなければい け
ち との青春 と,私 は二 つの青春 を持 つ ことので き
ないのだ」 と。
-14-
岡田吉美先生 の御退官 によせて
伊
岡 田吉美先生 は,本 年 の 3月 を もって 定年 退官
され ることとな りま した。先生 は昭和 47年 7月
,
庭
英
夫 (生 物化学教 室 )
た多数 の学生 の一 人で あ り,そ れ以来 ,ず っ とお
世話 に な って きま した。
理学部生物化学 科 へ 教授 と して御着任以 来 ,当 時
先生 は,セ ミナ ーでの 院生 や学生 の研究発表等
の学生 に とって は接 `
す る機会 が極 めて少なか った
で はた いへ ん に厳 しく,安 直 な説 明や ,中 途半端
分子 生物学 の基礎知 識 や思考法 を一 か ら丁寧 に教
な DATAで はなか なか納得 されず,た いへ んが
育 され る ことか ら開始 され ,こ の 17年 に渡 り,ウ
ん こな化学者 と して の面 を常 に もたれて い らっ し
ィロイ ドか ら高等生物 に至 る幅広 い材 料 系 に対 し
ゃい ま した。 その一方で ,分 子生物学 的思考 に徹
て分子生物学 の手 法 を駆使 され,先 導 的 な研 究 を
して い らして ,極 めて演繹 的 で あ りなが ら,凡 人
続 けて こ られ ま した。
に と って は思 い もか けぬ大胆 な発想 を され ,驚 か
岡田先生 は ,大 阪大学理学部化学科 の赤堀 四郎
され る こ とが しば しばあ りま した。 また先生 は
,
先生 の もとで 蛋白質化学 を学 ばれ ,昭 和 27年 の御
で き るだ け研究 室 に居 られ る時 間 をた いせつ に さ
卒業 後 も同研究室で大学院時代 を過 ごされ ま した。
れ,我 々 と討 論 を して下 さったばか りで な く,一
その後 ,九 州大学 医学部 ,な らび に大 阪大学 医学
旦研究 か らはなれれば, くだ けた話 も して下 さ る
部で助手 を務 め られ た後 ,米 国オ レゴ ン大学 に客
や さ しさ と,親 しみやす さもお もちで した。「 岡
員準教授 と して 留学 をされ ま した (昭 和 39年 ∼41
田先生 は相 か わ らず お っか な いか い」 な どと後輩
年 )。 先生 は, ここで, ス トライ ジンガ ー教授 と
に声 をか けなが ら訪 ねて くる卒業生 が ,機 会 あ る
共同で T4リ ゾチ ームの系 を用 いて , フ レーム シ
ご とに先生 の まわ りに集 ま り,た の し くさわ いだ
フ ト変異 の存在 を蛋 白質化学 によ り,世 界 で は じ
こ とが思 い 出 され ます。
めて 実 証 され ま した。 このお仕事 は,遺 伝子 暗号
(genetic code)の 解 明 に直接貢 献 され た故 に
極 めて有 名で あ りますが,セ
ン トラル ドグマの生
岡 田先生 は,数 年 前 よ りTMVの ゲ ノ ム RNA
を一旦 DNAに お きかえた もの を in宙 tro
DNA
組換 え の技法 で 改変 し,そ れ を転写 させて得 た産
TMVを
化学 的実証 に参 加 な さった この 期 を境 に,当 時黎
物 を植 物 に 導 入 す ることに よ り変 異 体
明期 に あ った 分子生物学 に本格 的 に身 を投 じられ
得 るとい う画期 的 な方法 を開発 され ,ウ ィル ス遺
る こと とな りま した。帰国 された後 は,新 設 の植
伝 子 の機 能 の 新 しい解析法 とTMVの ベ クター化
物 ウ ィル ス研究 所 にお いて ,タ バ コモ ザ イクウィ
へ の道 を切 り開かれ ま した。御 退官後 は,帝 京大
ルス
(TMV)の
研 究 に着手 され ま したが , この
学理 工 学部 で ひきつづ き御研究 を続 け られ るとお
ウィル スは ,先 生 が今 日に至 るまで ,そ の再構成
聞 き して 居 ります が「 まだ解析 の進 んで い な い変
の機 構 か ら遺伝 子構造,複 製機構等 とい った幅広
異体 ウ ィル スを使 って お も しろい こと
い視 点 か ら研究対象 とされ る重要 な材 料系 とな り
よ。
」とお っしゃられ る先生 が ,新
ます。
御 活躍 され る ことをお祈 りす る と共 に,今 後 とも
私 は,岡 田先生 が東大 に着任 され た時 に,学 部
の 3年 生 で ,大 学紛争後 の まだ まだ殺伐 と したキ
ャ ンパ スの 中 に お りま した。 分子生物学 とい う新
しく激 しい潮流 にひかれて先生 の もとに お しか け
-15-
じめ る
しい夢 に向 けて
私共 の御 指導 をお願 い 申 し上 げ る次 第 です。
0
在職 18年 を振 り返 って
飯
野
徹
雄 (植 物学 教室 )
気 は私の在 任 中多少 の波乱 をメ、くみ つつ も持続 し
理学部教 授 と しての勤 めを了 え退官 す るに当た
,
り,ま ず ,理 学部 の温か い雰 囲気 の 中で楽 しく教
現在 に まで及んで い るよ うに思われ る。
育 ,研 究 に終始 で きた ことにつ き,学 部 関係者 の
東大 に赴任 して み ると,実 際 に私 が感 じた シ ョ
ックは,そ う した事柄 とは別 の所 に あ った。 それ
皆様 にお礼 を 申 し上 げた い。
18年 前 に,住 み慣 れた国立遺伝学研究所 か らの
は,小 規模 の文部省 直轄研究所 とい う機構 の 中か
配置換 えが決 ま った時 には,卒 業 した母校 に戻 る
ら,巨 大 な総 合大学 とい う機構 の 中へ 移 った こと
とは い え ,一 抹 の緊張 を感 じて いた。 それ は一 つ
によ る,運 営上 のギ ャ ップだ った。 直轄研 の研究
には,研 究 に専念 して い た状態か ら,教 育 と研究
部長 と して ,所 内 の 意見 を一段階 の 話合 いで取 り
とい う二 本 建て の職務 に移 ることにな り,果 して
ま とめ,文 部省 に電 話一 本 で掛 け合 って い た事柄
教育 の任 が 十分 に果 たせ るだ ろ うか とい う不安 を
が ,東 大 に移 る と先 ず教 室 レベル ,つ いで学部 レ
抱 い たためで あ り, もう一 つ は,学 園紛争 での大
ベル の審議 を経 ,さ らに全学 レベル に持 ち上 げ ら
学教 官 の大変 な様子 を聞か されて い たので ,一 応
れ,そ れぞれ の段 階で選別や調整 が加 え られ ,し
紛争 が治 ま った とは いえ ,応 微研等 の くす ぶ りが
ば しば本来 の意 図が薄 め られ ,多 大 の 時間 を費 や
続 いて い る状態 で ,紛 争 に免疫 の な い私 が うま く
して文部省 の担 当官 に まで到達す る。 当初 はそ う
対処 してゆ け るのか と気遣 ったためだ った。 しか
したル ール を知 らず に行動 して ,当 時 の事務長 か
し私 を迎 えて くれ たのは ,予 想以上 に平 静 な学部
,
ら注意 を受 けた り,戦 艦大和 の よ うな ものでやが
教室 の雰 囲気 だ った。 そ して ス タ ッフや学生 たち
て 沈没す るぞ と うそぶ いて ,先 輩 か らた しなめ ら
の勉学 にたいす る真面 目な態度 にほ っ と した もの
れた り した もので あ る。 こ うした想 いは,昭 和 51
だ った。
年か ら52年 にか けて 総合大学院問題専 門委 員会 の
私 は昭和26年 に理学部 植物学教 室 を卒業 して一
年余 りで ,大 学院生活 の半 ば に国立研究所へ 就 職
生命科学小 委員会委員 と して ,ま た昭和54年 度 に
した。 当時 は第二 次世 界大戦後 の再建 時代 で ,教
した際 に も強 く感 じた。 いわば 巨大機 構相手 の じ
室で は学生 も含 めて 体制 改革 の議論 が 日々続 け ら
れ った さの よ うな もので あ る。
れて い た。 それ に食傷気味 に な って い た私 は,大
総長補佐 と して大学 院 と付置研究所 の 問題 を担 当
18年 をへ て 振 り返 ると,東 大 の よ うな重層 化 し
学 を離 れ る ことに一 種 の安堵感 を抱 いた もので あ
た機 構 の もとで は,そ う した方 式がか え って 全体
る。 そ して私 が教 授 と して再 び大学 に もど った 時
の能率化 にっ なが る場合 が多 く,い わゆ る常識 的
期 は,い うなれば学 園紛争 後 の再建期 に当た って
な半1断 を下す には適 して い ると,い つの 間 にか納
い た。 しか し,同 じ再建 の 時代 で はあ って も,前
得 し,自 分で もその方式 に沿 って 行動 す る様 にな
者 は外 か らの統制 による秩序 か ら解放 された時代
って い た。環境 へ の有効 な対応 のための順応性 の
で あ り,後 者 は内部的混乱 へ の倦 怠感 か ら,自 律
発露 ともみ られ るが ,一 面 で は慣 れ によ る批判精
的秩序 を求 めた時期 で あ った とい え るだ ろ う。 そ
神 の麻痺 を反 映す る ものか と自戒 して い る。
う した時期 にいわば学園紛争 の戦後派 と して大学
そ う した情況 に あ った とは言 い なが ら,懸 案 だ
に戻 り,落 ち着 いた学園生活 を過 ごす ことがで き
った遺伝子実験 施設 の創設 が ,私 の在任 中 に小 規
たの は,私 に と って非常 な幸 せ だ った。 この雰囲
模 なが ら達 成 され たのは,や は り東大 を背景 に し
-16-
て 可能 で あ った事 で あ り,こ とに理学部 の ス タ ッ
て い るの も,東 大 と して は 目を見張 るべ き事 であ
フの 皆様 の絶大 な ご支援 によ りは じめて行 いえた
る。火付 け役 と もいえ る理学部 が ,計 画実現 のた
もの と深 く感謝 して い る。 また大学 院重点大学構
めに是非 とも頑 張 って戴 きた い もの と期待 して い
想 の議 論が現在 の状態 に まで盛 り上 が り,持 続 し
る。
飯野徹雄先 生 の ご退官 に よせて
鈴
飯野徹雄先 生 は,本 年 3月 を以て停年 退官 され
木
秀
穂 (植 物学教 室 )
研究対象 が研究 者 の興味 を掻 き立 て るさま ざまな
る ことにな りま した。先生 は,昭 和 26年 東京大 学
問題 を内包 して い ることはよ くあ る ことです が
理学部植物学科 を卒 業 され,続 いて 大学 院 に進 ま
鞭毛 は生 体構造形成 のモ デル系 と して も特異 な系
れ ま したが ,翌 年 9月 に国立遺伝学研 究所 に研究
を提供 し,先 生 の研究 は鞭毛 多型 や鞭毛 形成 の遺
員 として赴任 され ま した。 それか ら 2年 余 り後
伝 学 的解析 を基礎 に 巾広 く展開 しま した。 その成
,
,
米国 ウィス コ ンシ ン大学大学 院 に留学 され ,昭 和
果 は,生 体構 造 の分子構築 や形態 形成 に基礎 的な
33年 に ph.D。 ,帰 国後 3年 程 して理 学博士 の学位
研究業績 とな りま した。 鞭毛 を対象 と した先駆 的
を受 け られ ま した。その1頃 国立遺伝学 研究所 に新
な業績 によ って,先 生 は昭和 39年 に 日本遺伝学会
設 された微生物遺伝部 で研究室 を主宰 され ,昭 和
賞,昭 和 48年 に朝 日賞 を受賞 され ま した。
●
先生 は,学 生 も含 めて研究 に携 わ る者独 り独 り
40年 に微生物 遺伝部 長 に昇進 され ま した。 昭和 46
年 に東京大学理学部教 授 と して 植物学 教 室 に戻 ら
の特性 を尊重 され ま した。 こん な こ とは当然の こ
れ ,遺 伝学研究室 を担 当 して こ られ ま した。
とと思 われ るか も しれ ませんが ,特 記す る程 徹底
して い たよ うです。一見 ,研 究室 の構成員 が それ
立遺伝学研究所 と東京 大学 と丁度半 々に な ります
ぞれ全 く独 立 の研 究 プ ロ ジェ ク トを進 めて い るよ
が,そ の間米 国留学 前を除 いて ,一 貫 して細 菌鞭
うに も見 え ,外 部 の人か ら,飯 野先生 は一 体何 を
毛 の研 究 に打 ち込んで こ られ ま した。遺伝学徒 と
しよ うと考 えて い られ るのか と聞かれ る こ ともあ
して 出発 され たばか りの先生 は ,特 に遺伝子 の変
りま した。
▲▼
これ まで36年 余 りの飯野先生 の研 究生 活 は,国
異性 に興 味 を抱 かれ たよ うです が ,サ ル モ ネ ラ菌
先生 は,ま た,さ まざまな用務 を引 き受 け られ
の鞭毛相 変異 の 遺伝 機 構 を研究課題 と して ,当 時
て 忙 しい 日々 を過 され ま した。学 内で は ,各 種 の
ウィス コ ンシ ン大学 の 」.Lederberg博 士 の 下
主任 ,委 員長等 のほか,植 物 園長 ,遺 伝子実験施
へ の留学 が 実現 した ことか ら細菌鞭毛 の研究が始
設長 を歴任 され ま した。遺伝子実験施設 の設立 と
ま ったよ うです。鞭毛変異 とい うのは,ひ とつ の
その初代施 設長 として施設 の運営 を軌道 に乗 せ る
細菌系統 の鞭毛 に抗原性 によ って I相 と Ⅱ相 と し
ことにき 力 されま した。学外 で は,文 部省学術国
て 区男1さ れ る 2型 が あ って ,そ れが 103世 代 に 1
際局科学官他 多 くの委員会 の委員 や委員長を歴任
回 くらいの頻度 で交互 に変換 す る現 象 で す。 1個
され ,そ の多忙 ぶ りは驚異 とい う程 に見受 け られ
の細 菌細胞 は どち らか一 方 の鞭 毛相 を現 わ して い
ま した。先生 は,実 に頭 の切換 え の敏 速 な方 で し
ます が ,分 裂増殖 を繰 り返す うち に反対 の相 の鞭
たので ,た くさんの用務 を次 々に処理す る能力 に
毛 を生 や した細 胞が現 われて きます。先生 は この
長 けて い られ たので しょう。特 に,遺 伝子操作 に
現象 を遺伝 子 レベル で解析 され ,は じめて相変異
関 して社会 的 な問題が提起 され た とき, 日本学術
機構 の基本的 な図式 を提 出され ま した。 ひ とつ の
会 議 や学術審議会 の組換 え DNA関 係 の委員会・
,
17 -
部会 な どを通 じて ,組 換 え DNA実 検指針 の策定
退官後 は,早 稲 田大学 で教 育 。研究 を続 け られ る
に参 画 され ,我 が国の組 換 え DNA実 験 を推進す
と伺 って お ります。 お元気 で 活躍 を続 け られ ,フ
る基礎 作 りに貢献 され ま した。
ク ロ ウの研究 を完成 され ることを願 って お送 り致
巳年 の蛇足 をつ け加 え させて頂 きます と,先 生
します。
は密 か に フク ロウの民俗史 を研究 して い られ ます。
退 職 に あ た って
星
圭
介 (事 務部 )
この春 で 丁度 13年 間を理学部 で過 ご した ことに
枕 に して ,大 の字 に寝 た まえ, この 山 が俺一人で
な ります。 農学部演 習林 を振 り出 しに,東 大 の一
動 か す こ とが 出来 る と さ と った 場 合 ,天 下 を と
員 と して ,今 日まで人生 を送 って こ られ たのは多
った気 持 ちにな る。 これ が最 高 だ。 この 先生 の話
くの人 々に暖 く接
L´
て頂 いた賜 と心 か ら感謝 して
も若 い 頃 は別 に深 く考 えなか ったが ,山 を愛 し
,
居 ります。理学部 での数多 い思 い 出や ,心 痛む事
林 を愛 した先生 の長 い体験 か ら,若 い吾 々にそ う
や ら,幾 多 の経験 を経て ,自 分 な りに仕事 を果 し
話 して下 さ った事が今更 なが ら思 い 出 され る。
た積 りです。構 内 の三 四郎池 の ほ とりの木立の四
あ と 2ヶ 月で東大 を去 る私 で すが ,多 くの先生
季 を眺 めて は, この林相 が〇〇演 習林 の何林班 に
方 や職員 の 皆様 に公私 に亘 り,親 しく接 して頂 き
あ った樹木 に よ く似 て い ると,自 分 な りに解釈 し
ま した。 お 陰様で大過 な く勤 め を終 えて 退官 い た
て,葉 脈 や ら,木 のにおい な ど胸一杯 に吸 い こん
します ことが 出来 て厚 くお礼 申 し上 げます。
理学部 の益 々の御発展 と諸先生 ,職 員 の皆様 の
では, これ は何 々 と自分 な りに診 断 す る。 演 習林
の あ る先 生 と秩 父 の 山奥で一夜 を伴 に した時 ,先
御健康 を祈念 して 退職 の御 挨拶 といた します。
生 は君達 ,不 満 が あ った場合 , この 山奥 で,木 を
星
圭 介氏 を送 る言 葉
土
居
喜
公 (事 務 部 )
今年 もまた定年 退官 を され る方 々を お送 りす る
当理学部 にお いては,満 13年 間給与掛長 と して
時節 とな りま したが ,わ が理学部 において も給与
給与 。共済 。福 祉関係 事務 の責任者 と しての責 務
掛長星圭介 氏 がめで た く退官 され ることにな りま
に専 念 され ま した。
当学部 は教 職員数約 550名 の学 内屈指 の大部局
した。
星 さん は,昭 和 21年 5月 6日 付 で本学農学 部 附
のため,そ の事務処理 は複雑 多様 を極 め ,給 与掛
属演 習林 に奉職 され ,そ の後 昭和 41年 10月 1日 付
での 13年 間 は人間関係 も含 めて 苦労 の連続であ っ
用度 掛長 に昇位 ,次 いで 昭和 51年 4月 1日 付 で理
たで あ ろ う ことは充分 に察す る ことがで きます が
,
学部給与掛 長 に配置換 とな り,現 在 に至 りま した。 星 さん はそれ を克服 しなが ら専心業務 に励 まれ た
わ けで ,吾 々後輩 に と り尊敬 の念 で一 杯 で あ りま
その 間42年 10箇 月余 の永 きに亙 って 東京大学 にお
け る事務部 門 の一 員 と して 自己の職責 を全 うされ
す。
仕 事 を離 れ た 日常 の星 さん は,昼 休み は連 日将
た ことに深 く敬意 を表す もので あ ります。
18-
棋 に興 じ,ま た 自分 の息子 や娘 の様 な職 員に対 し
生経験 に基 づ く貴重 なお話 で もお聴 かせ願 いたい
て は好 々爺 の様 に接す る光景 を展 々見受 け られ ま
と思 って お ります。
ど うも永 い問 ご苦労 さまで した。益 々の御健 勝
した。
ど うか退職 されて もお暇 の折 には理学部をお訪
をお祈 りいた します。
ね い ただ き,そ の温厚 な顔 で 吾 々後輩 に対 して人
お別 れ の御 挨 拶
長
教室 の片隅 に 自ペ ンキで 昭和 27年 実 動機 … と書
かれ た木製 の棚 が あ ります。私が教 室で初 めて 書
田
美
子 (動 物学教室 )
りを見 ,青 空 を仰 いで は好 きな山を想 い, と云 う
自然 に恵 まれ た窓辺 で した。
き込 んだ備 品番号 ,そ れが こんな に古 びて た ゞ置
37年 の 間 に 日本 は驚異 の経済発展 を遂 げ,ォ リ
かれて い るのを見 ると改 めて37年 の歳 月 の長 さを
ンピ ック,安 保 闘争 ,大 学紛争等 々,多 くの事 が
思 い ます。
あ りま した。教 室 も講座がる、
え ま した し,先 生方
も しか した ら動物 園 のよ うにい ろい ろな動物 が
も変 りま した。 事務室 の仕事 の 内容 も,そ の量 も
い るのか しらと,動 物好 きの私 が胸 を躍 らせて教
時 の流れ と共 に激 し く変 りま した。 そ して驚 くベ
室 に足 を踏 み 入れ たのは,敗 戦後 , 日本 の社会
き事 には10年 程 前 か らコ ンピュー タ ー時代 が 到来
,
経済 が 漸 く立 ち直 り始 めた昭和 27年 の春 で した。
し,機 械 によ って事務処理 が行 な われ るよ うに な
郵便 の 出 し方 も知 らず ,給 料 が い くらか も,税
つたので す。私 が仕 事 を始 め た頃 には 500枚 で も
金 を納 め な ければ な らな い事 も,公 務員 と云 うも
1,000枚 で も封筒 の宛名 を書 きま した。 又 ,騰 写
の に な った事 す ら知 らず に勤 め始 めた私 で した。
板で何千枚もの印刷物を刷った事を思い出します。
1年 目の教 室 の予算 は 150万 円, ものす ごいお金
30年 程前 の 複写機 の 出現 も画期 的 な事 で したが
だな ,と 目を見張 った事 が懐 か しく思 い出 され ま
現在では コピーがない と仕事が進まないようにな
す。 昭和 32年 の物品管理 の大 改正 が 私が意識 して
りました。 コ ンピューター も近 い将来,無 ければ
始 めて の大仕 事 で した。 明治 11年 以来 の備 品 の帳
簿 と,そ の時点 での教室 の す べて の備 品 を対照 し
大学 の事務機構が動かない と云 う日が来 る事で し
ょう。今,私 は “老兵は消え去 るのみ "と 云 う心
て ,新 しい備 品 の分類表 によ って物 品供 用簿 を作
境ですが,又 一方でば,自 分 の手で字を書 き,一
成す ると云 う作業 で したが ,教 室全員 の方 々の御
つづつ手作 りの事務を して来た事 に少 しの満足感
協 力 によ って 暑 い夏 の 日によ うや く終 った時 の嬉
を味わ ってお ります。私 に とっては本当 に良 い時
しさ も忘れ られ ない事 の一 つ で した。 そ して この
機 に職場を去 る事が出来るのだなと心か ら思 い ま
頃か ら私 に教 室 の一員 と して の意識 が 出て 来 たよ
す。
,
うな気が い た します。 その後 ,何 回か の動物学会
最後 にこの37年 間,楽 しく,充 実 した 日を過さ
の大 会 ,そ して国 際会 議 のお手伝 い等 々,変 化 の
せて下 さった動物学教室の先生方 ,同 僚 の皆様方
無 い繰返 しの よ うな 日常 の 中 に もイベ ン トと云 う
に心か らの御礼を申 し上げます。そ して又,い つ
べ き ものが あ り,楽 しい 日々で した。
もお助けいただ いた理学部事務室,他 教室 の事務
昭和52・ 53年 の 2号 館改装 のための 1号 館 へ の
引越 し,そ して 長年 の 3階 ず まいか ら 1階 へ の住
室の皆様方 に もた いへ んお世話様 になり,本 当に
有難 うござい ま した。
み変え , ここ10年 程 は窓 の外 の欅 に 四季 の 移 り変
―-19-―
平成 の時代 を迎え,更 に21世 紀 にはいって,理
││
学部 が大 き く飛躍す る事 をお祈 り して お別 れの御
しゃい ましたが,お いそが しい先生 の時間をおさ
挨拶 とい た します。
き頂 くのは申 し訳ないので御辞退 いた しま した。)
X
χ
χ
(上 のような次第 につき,執 筆できません。 嶋)
(主 任 の 嶋先生 が送 る言 葉 を書 いて下 さるとお っ
定 年 退 官 に際 して
甲
10
正
人 (植 物 園 )
とき,恰 も昭和 とい う長 い時代 が 幕 を閉 じ,平
境 の悪化 ,そ れ に伴 う植物社会 , これ らに対応す
,戦 争 と
るため に は, 日本 の植物 園 の基 盤 はあま りに も弱
平和 ,苦 難 と繁栄 の激動 の時代 と共 に生 きて きた
い ものが あ ります。野性植物 あ るいは遺伝子 資源
私です が ,こ の 昭和 とい う年代 に終止符 が打れて
ま もな く 3月 末 を もって 定年 退職 とい う。 また一
の確保 が 叫ば れて久 しいが ,保 存す る に もその 施
設が貧 弱 で あ る。 当面 ,専 門的 には「 プ ロパ ゲ ー
つの 出来事 が控 えて い ます。 実 感 と して はまだ ピ
シ ョ ン・ エ リア (増 殖 保存 区画 )」 とい う施設 な
ンときませ んが ,そ の 日が確実 に迫 って い ます。
ど急 務 を用す るものが あ るが ,財 政難 に加 えて人
一方 では退 官 に対 す る対応が あ り,片 方 で は現実
材難 が慢性 的 な 日本 の植物 園 が , これか らの 問題
の業務 の処理 の仕方 があ り,複 雑 な心境 の今 日此
点 を い か に克服 して い くかが ,今 後 の課題 で はな
の頃 です。
いで しょうか。特 に人材 につ いて は若手技術者 が
成 とい う新 しい時代 を迎 えた今年 の 1月
C
斐
,
長 か った 昭和 の時代 も一歩 そ の枠 か ら抜 け出 し
能力 を十分発揮 で きるよ うな環境整備 を中心 に育
てみ ると,色 々な 出来事 が よ り鮮 明 に見 えて くる
成す る ことが必要 で し ょう。幸 い資源植物 の保 全
よ うな錯覚 を覚 え るのは,私 一 人 で しょうか。私
あ るい は保 存 につ いて は,国 際的 な協 力体制 が確
が東 大 とい う枠 の 中で仕事 をす るよ うにな って
立 され つつ あ り,着 々進 んで い るのが現状で ,今
,
かれ これ33年 余 ,そ の 中で 最 も長期 に亘 って ,お
後 は受 け入れ枠 の拡大 が望 まれ る所以 で あろうか
世話 にな ったのは植物 園 で あ ります。植物園 には
と思 い ます。
1962年 以来 ,約 27年 余在職 しま したが ,当 時 はま
最後 に長 い間 ,お 世話 にな りま した。植物 園 の
だ戦後 の復興 の遅 れが 目立 ち,随 所 にその面影 を
方 々を は じめ理学部 の皆様方 に対 して感 謝 申 し上
げ ると共 に,植 物 園 の益 々の ご発展 を祈念 しつ つ
見 る ことがで きま した。特 に温室 の復興 が殊 の外
,
遅 れて い た感 じが しま した。 しか し,先 輩諸氏 の
お礼 の言葉 とさせ て頂 きます 。
努力 のお 陰 で今 は全 く,そ の面 影 を見 る ことはで
きませ ん。 こ う した推移 のなかで 着実 に時代 は前
進 して い ます。今後 ます ます多様化す る,自 然環
-20-―
1989年 1月 20日
記
,
宮崎敏夫 さんの定年退職 を惜 しんで
酒
井
彦
一 (生 物化学教 室 )
昭和54年 の 12月 に,そ れ まで理学 部 3号 館 の ボ
に芙蓉 が 咲 き誇 ってい るのを眺 めて ,そ の手 入れ
イ ラー技 師 だ った笹原 さんの後任 と して 宮 崎敏夫
の良 さに 感 じ入 った ものです。 これ は 3号 館 のな
さんが 3号 館 に初 めて来 られ た ときは,随 分穏や
かで廊下 の タイルの破損が ,そ れ とな く,い つの
か な人 だなあ とい う第一 印象を持 った.こ とを覚 え
間 にか修 理 されて い る こと と一 脈合 い通 ず るもの
て い ます。 これ は 10年 経 った今 で も変 って い ませ
が あ ります。 また,同 じ職場 の 中 で ,配 置転換で
ん。 東京美化株 式会 社 の業務部技術課 か ら東京大
出入 りす る仲 間 の歓送会 や歓迎会 で は,終 始寡 黙
学理学部 に移 られ た敏夫 さんは,12月 か ら 3月 迄
なが らな ごやか な雰囲気 を絶や しません。 その誠
の冬期 は 3号 館 の ボ イ ラー技 師 と して地 下室 の ボ
実 で ,責 任 感 の 強 さが,ボ イ ラー とい う縁 の下 の
イラー運転 とその維 持管理 に努力 され , 3号 館 の
力 を生 み 出 して い るもの と推察 して い ます。
│
│
縁 の下 の力持 ち的存在で した。 10年 間 ,暖 房 に関
最後 に,敏 夫 さんが如何 に勤勉 家 で あ るかを御
して は 3号 館 の どの 部屋か らも苦 情 が無 か ったの
紹介 した い と思 い ます。敏夫 さん は昭和 52年 に二
は,ボ イ ラーの管理 に敏夫 さんが如何 に細心 の注
級 ボイ ラー技 師免許を取得 しま したが ,そ の後研
意 を払 って お られ たかを うかがわせ るもので す。
鑽 を重 ね ,60年 に一 級 ボイ ラー技 師免許 を取得 し
大変 ご苦労様 で した。 3号 館 の皆 さま に代 って厚
ま した。更 に, 3年 後 に,東 京都 三 級公害 防止管
くお礼 を 申 し上 げ ます。
理者 の資格 とと もに,危 険物取扱者 乙種 の免状 を
ボイ ラーの仕事 の 合間を含 め, 4月 か ら11月 の
取得す るな ど,大 変 な努力家です。家庭 は奥様 と
期間 は,生 物化学教 室の郵便 物 の処理 や ,講 義室
息子 さんが二人で ,敏 夫 さん 自身 は大 の小 鳥好 き
,
会議室 の整備 に欠かせ な い人で した。 それ とと も
で , "ピ ー ち ゃん "が 容体が少 しで も悪 い と,R入
に, 3号 館 の 全て の人 たちが恩恵 を蒙 って い たの
院 "さ せ る愛鳥家 と聞 いて い ます。 この よ うに 自
は,廊 下 や 居室 の タイル修 理や蛍光灯 の取替 え
然 を楽 しむ敏 夫 さん には, これか らは益 々 自然 に
,
親 しむ機会 が多 くな るので はないで しょうか ,ま
掃な ど,数 え切 れ な い ものが あ ります。
た,そ れを願 って い ます。 ただ, 3号 館 住 人一 同
敏夫 さん は,ま た,自 然 を友 とす る豊 か な心 を
と して は, この 4月 か ら敏夫 さんの姿 が 3号 館 で
もって おいでで す。 それ とな く 3号 館 の周 りに花
見 られな くな るの は残念で な りませ ん。 ど うも長
があ り,木 が 植 え られ,ゆ とりを与 えて くれ ます。
い間 ご苦労 様 で した。
●
‘▼
細か な電 気修理 ,モ ー ター管理 , 3号 館周囲 の清
│
或 る日,3号 館 の東側非常 口脇 の ,通 称敏夫 花壇
梅村 さんを送 るにあた って
武
│
t
田
弘 (鉱 物学教室)
梅村 さんが鉱物学教 室 に来 られ たの は,教 室 が
の教室 の面倒を見て いただいたことにな ります。
理学部 2号 館 か ら 5号 館 に引越 して来 たばか りの
引越 し後 の ドタバ タ騒ぎはまだ終 ってな く,新 し
時で したので , 5号 館 に於 け る10年 間 の 昭和 時代
く一緒 にな った数学・ 地質・鉱物 の三教室 と, 5
-21-
号 館 の清掃 の 問題 ,戸 の 開閉 ,郵 便 の差 し出 し 。
,o
は元 の姿 に戻 って しまい ま したが。
受取 り,き れ い な飲料水 の確保等 ,新 しい シス テ
鉱 物学教 室 の基礎 を築かれ た先生方 が英 国留学
ム作 りに仕事 を始 め たばか りの ときで したか ら大
されて い た関係 もあ り,教 室で は 3時 か ら「 お茶
変 な御苦労 で あ った と感謝 して お ります。梅 村 さ
の時間」 が あ ります。教 室事務 の連絡 や討 論・ 文
んのお陰で この 10年 間 ,教 室 の 日常生 活 が 非常 に
明論議 がず っ と何 十年 も続 いて い ますが ,そ の際
スムースに進 み ,何 一 つ 問題 らしい 問題が起 きま
の潤 滑油 で あ る紅茶 も定時 に欠 か さず準備 して く
せ んで した。専 任 の秘書 の居 な い小教 室で あ る鉱
だ さ り,教 室 の 円滑 な運 営 に貢 献 して お ります。
物学教室 で は,事 務 の長谷川 さん と共 に梅村 さん
少 な い予算 で 何年 も値上 げが な く同 じ品質 の紅茶
に,そ の仕事 のか な りの部分を お手伝 いいただい
が 出て くるの は当教 室 の不思議 の一 つ です。
た ことにな ります 。梅村 さん の ご退官 は今後 の教
日常研究活動 で大切 な ことは,国 内外 の研 究者
室 の上記 の機能 の停 止を意味 します。 といい ます
との手紙 によ る交流 ですが ,こ れ も全て の記録 が
の も人事委 員会 の特別 の配慮 のないか ぎ り定員削
取 られ間違 い な く先方 に届 いて い るの も,あ た り
減で用務 員 の補充 は 困難 で あ るか らです。 昭和時
まえ の よ うに見 え ますが大変 な御 苦労 で あ ると感
代 の終 りとともに何 十年 も続 い た便利 で快適で あ
謝 して お ります 。特 に私 は郵便 物 の 多 い方 で ,国
った今 まで の生 活様 式 は姿 を変 え る ことにな りま
際共 同研 究 ,国 内・ 国際誌 の編集 ,論 文 の投稿等
す。 ここにそれが どのよ うな もので あ ったか ,梅
時間 を競 う郵便物 の差 し出 しで ,梅 村 さんの帰宅
村 さん のお人柄 と ともに記録 に留 めて お くことは
前 の忙 しい時 に ご迷惑 を掛 け恐縮 して い ます。 5
有 意義か と思 い ます。
号館 は理学部 事務 か ら最 も遠 い所 に あ るので ,締
,
私 の知 る限 りで は梅村 さんは戦 中戦後 を通 じて
切 日ぎ りぎ りの書類 を持参 して いただいて セ ー フ
4代 日で ,先 任 の岡本 つ ちの さんは明治女性の典 型
で あ った経験 を教室員 皆 が何 度 も して お ります。
とも思 え る人 で したが ,梅 村 さん も昭和 の 良 き時
これ ら教 室 の雑用 の 全てを スムー スに こな して
代 を代表す るよ うな印象を与 え る女 性 で す。文字
下 さ って い る恩恵 は,昭 和63年度 の終 りと共 に昭
通 り昭和 の63年 間を き っち り生 きて来 られた方で
和 の昔話 に な って しまい ます。 これか ら何時 も不
す。 まだ お会 い に な って お られ な い方 に は,こ れ
便 を感 じる時 には,梅 村 さんを思 い だ して ,陰 な
も昭和 を代 表す る女性であ る高 峰秀子 と佐 久間良
が らお世話 にな って いた ことを,思 い だす事 が多
子 を思 いだ させ るいつ も笑顔 を絶 や さな い温和 な
い 日々 とな ると思 われ ます。 日本 の大 学 は,そ う
人 と紹 介 して お きま しょう。 朝 早 くか らきちん と
で な くて も雑用が多 いの に一 率 な定員削減で ます
仕事 を始 め られ ,我 々が仕事 を始 め る頃 に は教室
ます海外 との差 が大 き くな るのは本 当 に困 った こ
中 きれ いに掃 除 が おわ って お り,お いて あ った物
とです。今 まで梅村 さんの存在 で研 究が スムー ス
の位 置が変 つて い な い ため,い つ の 間 にか塵 だ け
に進 んだ ことを ,こ の機会 に あ らた めて感 謝 した
が消 えた印象 を もって しま う位 です。 殺風景 な教
い と思 い ます。梅村 さん には ご退 官後 ,健 康 で有
室 の 中 に あ って 梅村 さんの部屋 には世 話 の行 届 い
意義 な人生 を送 られ ます ことを教室一 同心か らお
た植 木鉢 が置 かれて教室 の メ ンバ ーに とって ,ま
祈 りいた します。
さに砂漠 の 中 のオ ア シスで した。 あ る教 官が長期
海外 出張 の 時 に,彼 の部屋 の観音 竹 の世話 を梅村
さん にお願 い しま した。 それ まで は息 も絶 え絶 え
辛 う じて緑 を保 っていた観音竹 が ,三 カ月後 には
これが あ の観音竹 か と見違 え る程 に生 き生 きと蘇
って お りま した。残念 なが ら,ま た一 カ月 の ち に
―-22-―
石 渡 綾 子 さん を送 る
小
牧
総 江 子 (臨 海実験所 )
その掃 除 はな くな った。51年 には新宿舎が完成 し
石渡 さん通 称綾 ち ゃん (水 族館 を公開 して いた
,
頃 は若 い女 の子 が数人 いて ,先 生 以外 の職員 は
,
電化 の恩恵 を被 る様 にな った。 とは いえ用務の仕
男 は さん。 女 はち ゃんづ けだ った そ うです )は
,
事 をす るの は綾 ち ゃんだけ に な り,臨 海実習時 に
終戦後 の 昭和 25年 5月 31日 付 で 辞令 を も らい,以
はや は り大変 な事 だ と思 い ます。現在 で は朝 は 7
来39年 とい う長 きに亘 って実験所 のため に用務 と
時過 ぎ には 出勤 し,実 験所本館 の掃除 を一手 に引
い う隠れ た大変 な仕事一筋 に尽 して い らっ しゃい
き受 けて い ます。 それを こな し,宿 舎 に あが り掃
ま した。 その間 ,実 験所 を訪 れ た学生 。研 究者 は
除 ,洗 濯 と一 日中休 みな く働 き,気 候 に合せ た布
今 で はそれぞれ の分野 の第一 線 に立 って 活躍 され
団替 えの気 配 りや,冬 で も蚊 が 出 る様 な ところな
てお り,皆 をみて きた綾 ち ゃん と して は 目を細 め
ので殺虫対策 など,長 く勤 めあげた職員で な くて
る思 い で い る と思 い ます。
は 出来 ない ことを しっか りや って 下 さって い ます。
綾 ち ゃん の仕事 は朝 は実験所本館 の掃 除か ら始
今 ,綾 ち ゃん は半生 を この実験所 に棒 げ輝 か し く
ま ります。 昭和 46年 迄 は数人 で 手 分 けを して会議
退 こうと して い ます。後任 もとれ な い ま ゝ綾 ち ゃ
室 の壁板 まで拭 く程 で した。 一 服 して か ら宿 舎
ん に今辞 め られて しま った ら, 7万 6千 平方米 の
(昭 和50年 迄 は明治時代 の木 造建築 )に あが り清
土地 に ち らば って い る実 験所 の管理 は ど うな って
掃 ,こ れ が又大変 で ,は たき,第 1バ ケ ツ,雑 巾
しま うので しょうか。本館 は もとよ り,宿 舎 は荒
を使 い畳 の部屋 ,長 い廊下 ,離 れ ,便 所 (勿 論水
れて しま うので はな いか と大変 不安 です。
●
)
洗で な い上 に手 洗 いの水道 もつ いて い な い)を き
れ い に した後 .宿 泊者 の使 つた シーツ,枕 カバ ー
,
寝巻等 の洗濯 まで したそ うです。今で こそ全 自動
洗濯機 を使 って い る ものの,当 時 は盪 ,洗 濯板
,
固型石鹸 で ゴシゴ シと手洗 い を しな けれ ばな らず
‘▼
さぞ大変 だ った ろ うと思 い ます。 それが済 む と教
官宿 泊部屋 の布団敷 ,そ の 間水族館 の忙 しい時代
該
に は昼 食時 の交替 の切符切 りの手伝 もした といい
ます。 四時半 になる と,再 び下 に降 りて来て水族
館 の掃 除 の手 伝 を して ,五 時過 ぎ に皆 一 緒 に帰路
こ ゝで 綾 ち ゃん の人 とな りに ち ょっと触 れてみ
につ くとい う毎 日だ った様 です。土 。日・ 祭 日は
た い と思 い ます 。 とて もタ フで働 き者 で あ ること
休 み な しで 昭和45年 頃迄 は土・ 祭 日の代休 は全 く
はおわか りい ただ けた と思 い ます。 それ ばか りで
もらえず ,そ の後土 曜半 日と日曜 日の代体 を平 日
な く頭 の方 も働 き者で ,と て も記憶 力が よ く,実
に も らえ る様 にな った らしい。綾 ち ゃん の代体 は
験所 の古 い 出来事 や来所者 の事 な らまず綾 ち ゃん
火曜 日の午後 か ら水 曜 日で ,私 が ここにお世話 に
に聞 いて み た らとい う程 です 。 また ,絶 対 に公私
な ってか らは水曜 日は家で休養 を と りな さい とい
混 同を しな い ことや,曲 った ことが大嫌 いで ,そ
わんばか りに雨 の 日が とて も多か った と記 憶 して
んな 時 には誰 にで もぶ つ か って 行 く程 で す。 お説
い ます。46年 9月 1日 には水族館 が 閉館 とな り
教 を され た り怒 られた り した職員 や学生 は何人 も
,
23-―
い るので はな いで しょうか。 また ,人 情 に厚 く所
家 を新築 し,今 で は御子 息 と娘 の様 なお嫁 さん
内 の困 った人 に朝 晩 2ケ 月 も食糧 を車で運 び続 け
それ に 10匹 余 の 大猫 に囲 まれ, とて もお幸せ そ う
た り,長 野 に行 って 来 た とい って は所員 に抱え き
です。実験 所 を去 られ た後 もど うか健康 に気 をつ
れ な い程 の リンゴやナ シをお土 産 に下 さ った り
けて ,開 放 され た 自由な時間 に向 って 羽 ばた いて
気持 の大 きい親 分肌 の方です。
下 さい。
,
,
女手 一 つ で御子息 を育て上 げ,父 母 を看取 り
,
定 年 退 職 に際 して
中
0
田
賢
次 (化 学教室 )
永 い間理学部 の勤務 の 中 で,御 指導 を載 きま し
ま した。 また都市 ガスの火力が弱 くて電気炉 で ル
た先生方 ,ま た い ろ い ろ と御世話 に な りま した職
ツボを焼 い た り, ビー カ ーの溶液 は電気 コ ンロで
員 の皆様 に,理 学部 を去 るにあた り,理 学部 廣報
加熱 しま した。 その ほか ガ ラス器具 が 粗悪 で, う
第 4号 の場 をお借 り して御礼 申 し上 げます。
す いアル カ リ性 の溶液 で くもリガ ラスに な った り
,
昭和 22年 3月 に理学部化学教 室木村研 究室 に研
加熱 中 にす ぐに割 れて しまうな ど,苦 労 の連続で
究室職員 と して採用 され ま した。本村研究室 での
した。 これ らの事 は,強 く思 い 出 と して残 ってお
最初 の仕事 は,技 官 の方が退職す るので ,そ の方
ります。 またチ タ ンや マ ンガ ンの比色分析 には
の仕事 を大 至急習得す るよ うに との仰 せ で あ りま
デ ュボス ク比色 計 を使 って い る頃で もあ りま した。
した。 その 仕事 とは,ロ ン ドンの ア ダ ム ヒル ガ ー
28年 間 お りま した,木 村健 二 郎先生 ,斎 藤信 房
社製 E2型 石英分光写真器 を使 って ,発 光分光分
先生 の 両研究室 ,並 びに,富 永健教 授 に御指導 と
析 を行 う事 で した。 この 分光写真器 は,備 品台帳
お世 話 に な りま した事 を心か ら感謝致 して お りま
によれば,大 正 3年 2月 2日 に柴 田雄 次先生 が購
す。 あ りが とうござい ま した。
,
入 され た もので ,当 時 で は,貴 重 な分光 写真器 で
昭和 50年 10月 か ら斎藤研究室 か ら薬 品室へ と移
あ りま した。標 準 試料 を使 って 10日 間 ほ どの特訓
りま した。 ここで は,危 険物 取扱者 と して ,薬 品
で,各 種元 素 の永存 線が,正 しく読 め るよ うにな
の管理 は もち ろんですが ,実 験廃液 の管理 も大切
り, うれ し くて た ま りませんで した。 そ して発光
な仕事 です。 そ の 頃 は,環 境安 全 セ ンターの御 指
分光 分析 に 自信 を持 ちま した。 当時 は, この分光
導 の もとで ,実 験廃 液 の回収 を行 な って戴 いてお
写真器 を使 って 吸収 スペ ク トルの 測定 もや って お
りま したが ,そ の廃液 の 中で ハ ロゲ ン系廃液剤 が
りま した。試料溶液 をベ リー管 (中 空 の 内管 を調
時 と して石油缶 に穴 をあ けて しま うとか お聞 き し
節 して液層 を加減す るもの)に 入れ るだ けで簡単
て , も しか した ら御迷惑 をおか け したので はな い
に分析 が行 え ま した。 この分光写 真 器 は ,昭 和50
か と思 って お ります。 ま もな くして各 学部 に部局
年 まで使 って お りま したが ,私 に と って は大変思
廃液倉庫が で きま した。廃液 を入れ るための ポ リ
い出 の深 いお品 で した。
容器 が貸与 に な り,そ の廃液倉庫 の担 当官 を仰せ
また ほか に,岩 石 の全分析 を習得す るよ うに と
つ か りま して ,理 学部 (生 物化学教 室 を除 く)の
の事 で した。地質学教室 の久野久先生 よ り戴 きま
実験廃 液 のお世 話 が始 ま りま した。 お蔭様 で ,皆
した岩石 を ,全 分析す るのです が ,そ の 頃 は薬 品
様 のお力添 えで 12月 14日 で 445回 を数 え る事 がで
の きれ い なのが少 な くて大 変 に困 りま した。塩酸
きま した。環境安全 セ ンター発足 当初 か ら運営委
や硝酸 は蒸溜 し,精 製で きるもの は精製 して使 い
員を されて お られて ,環 境安 全 セ ン ター長 で お ら
―-24-―
れ る稲本 直樹教授 に永 い間大変 お世 話 にな りま し
した御礼 申 し上 げます。安 全委員会 な どで お世 話
てあ りが とう ござい ま した。 厚 く御礼 申 し上 げ ま
にな りま した化学教室 の田上多佳子 事務主任 ,平
す。
尾宣子事務 室主任 をは じめ とす る皆様 ,そ して理
つ ぎ に建物 につ いて ,化 学教室 は,そ れ まで あ
学部事務 室 の皆 様 に心 か ら御 礼 申 し上 げます。 ま
りま した旧館・ 本館 に続 いて 新館 が昭和58年 に建
た学生実 験 で お世 話 にな りま した杉浦 技官 にも感
ちま した。 この 新館 は16カ 月 の工 期 を終えて地上
謝 申 し上 げ ます 。最後 に, ビル 管法 で 義務 づ け ら
7階 ,地 下 1階 ,延 床面積 3,880イ の規模 で ,実
れて い る飲 料水 中 の残留塩素 の測定で は,毎 日行
験室 ,研 究室 と して ,ま た危 険物取扱最 大数量
われ本館 で 梅津恒 技官 ,新 館 で 杉本瑛 さん ,液 体
30,358倍 が取 り扱 え る一 般 取扱所 と して 申 し分
窒素 お よび ドライアイスで お世話 くだ さって い る
の な い立派 な規 模 の建物です。 この化学新館 で副
岡本賞 さん には大 変 お世 話 にな りま して あ りが と
危 険物 取扱者 に な って お りまが ,保 安監督者 で お
うござい ま した。厚 く御礼 申 し上 げ ます 。
光陰矢 の如 し,は や くも42年 たちました。永 い
られ ます 田隅三生教 授 に大 変 お世 話 にな りま した。
厚 く御 礼 申 し上 げます。 ま た退職 に際 しま して
間大変 お世話 にな りましてあ りが とうございま し
,
た。 これか らも若 さを失わず にす ごしたいと思 っ
大変 お世 話 に な りま した増 田彰正教 授 に厚 く御礼
申 し上 げます。植物学教室鈴木 美和子事務室主任
,
てお ります。
生物化学教 室宮 崎節子 事務 室主任 お世 話 にな りま
中田賢次 さんを送 る
富
永
健 (化 学教室
)
中田賢次 さん は,昭 和 22年 春 ,理 学部化 学教室
られ た。 昭和 59年 には 日本分析化 学会 の有 功賞 を
木村研究 室 の職員 に な られてか ら,こ の 3月 末 で
受 けて お られ る。 さ らに,危 険物取扱者 ,水 質管
定年退官 され るまで ,42年 もの長 い間化学教 室 に
理責任者 ,都 公害 防止管理者 ,防 火管理者 な どの
勤務 され ,技 官 (教 務員 )と して ,ま た昭和 63年
か らは助手 と して教室 のために大 きな貢献 を果 た
資格 をつ ぎつ ぎ に取得 され ,危 険 な薬 品や溶媒 の
管理 ,実 験 廃液 の 回収 な ど安全 。環境面 で 巾広 く
された。
化学教室 のみ な らず理学部 と して も中田 さん のお
,
世話 にな るところが大で あ った。 中 田 さん は温厚
地球化学試料 の 分析 な ど,故 木村健 二 郎教授 の研
で控 え 目なお人柄 で あるが ,仕 事 に関 して は積極
究 を補助 され た。 つ いで斎藤研究室 に お いて も
的で責任感 が 強 く細心 な方 であ り,教 室が安全管
,
分光 分析 や放射能 分析 な どに従事 され ると ともに
理 の面 で 永 らく無事 に過 ごせ たの も,ひ とえ に こ
昭和38年 以 降 は学部学生 の無機化学・ 分析 化学実
のよ うな 中田 さんの御 尽力 のおか げで あ る。
,
験 において ,中 田 さんは岩石 の全分析 や ,と くに
中田 さん は若 い ときか ら長 く教 室 に居 られたの
分光実験 に助言 と指導 を行 われ た。 この 間 に実験
で ,戦 後 間 もな い 頃か ら今 日まで の教室 のい ろい
室で中田 さん の お世話 にな った化学科 出身者 は
ろな事 情 に通 じて お られ,教 室 出身 のわれ われの
おそ ら く 1,000名 を こえ る もの と思 われ る。 昭和
大先輩 の学生 時代 の エ ピッー ドな どを折 にふれて
,
50年 に斎 藤研 究室 か ら化学教室 の薬品室 に移 られ
,
伺 った もので あ る。筆者 の個 人 的 な関 りで恐縮で
化学薬品 な どの管理 を担 当 し,教 室 の研究活動 を
あ るが ,私 自身 の 中田 さん との 出会 い は ,昭 和32
支 え る蔭 の力 と して大変重 要 な役割 を果 た して来
年 の冬 ,卒 業研究 につ い た斎藤信 房教授 か らい た
25-―
‘▼
木村研究室 で は,主 に発光分光 分析 を担 当 して
だいた試料
(イ
オ ン交換樹 脂 に吸着 した錯体 )が
室 に と って 誠 に残念 な ことで あ り,大 きな損失で
中田 さん の調製 され た もので あ った と記憶 す る。
あ る。 また ,中 田 さんが退職 され る と,教 室 の
以来 昭和 50年 まで 同 じ研究室 の ス タ ッフ と して お
「 バ、るき良 き時代」を知 る人が い な くな る こ とも
つ き合 いいただ き,ま たその後私 が研 究室 を主宰
大変淋 しい こ とで あ る。40有 余年 に及 ぶ 化学教 室
してか らも経理 その他 い ろい ろな面 で 中 田 さん の
へ の献身 に対 し,お 世 話 にな つた多数 の関係者 に
助力 を仰 い だ もので あ る。
かわ って 心 か ら御礼 申 し上 げ,ま た 中 田 さんが今
永年 ,教 室 の す べ ての人 々か ら信頼 され ,親 し
まれ た中 田賢次 さんが此度退官 され る ことは,教
後 ます ます お元気 で,充 実 した新 たな人生 を楽 し
まれ るよ う心 か らお祈 り申 し上 げた い。
原村寛氏 ―― 岩石・ 鉱物 の分析 一 筋 に30年
久
t●
育
夫 (地 質学教 室
)
原村 寛氏 は,昭 和26年 に東京工業大学 内財 団法
の地球科学 に対 す る貢献度 も極 めて大 き い,例 え
人工業 振興会 に勤務す ると同時 に 同大学 の分析化
ば世 界的 に有 名 にな った故久野久 教授 の 日本 の火
学教 室 の岩 崎研究室 の研究生 とな られ た。 昭和35
山岩 の研究 は,原 村氏 の 分析 に負 う所が大 きい。
,東 大理学部 (地 質学教 室 )に 技 術員 と し
て着任 され ,同 年 11月 に教 務員 ,38年 に文部技官
教務職員 ,そ して63年 10月 に文部教官助手 にな ら
また,造 岩鉱物 の研究 において 地質学教 室 は1950
年代 の後期 か ら1960年 代 にか けて優 れ た研究 を数
れた。
負 って い る。 その他 ,実 に多 くの 研究 に貢献 され
年 4月
東 工 大 分析化学教室 において は岩 崎岩 次教授 お
0
城
多 く行 な ったが ,そ れ らはや は り原村氏 の分析 に
,
お世 話 に な った学生 ,教 官 は数 十人 に及 ぶ 。
よび桂 敬教 授 よ り指導 を受 け られ化学 分析 の技 術
これ らの分析 の一 部 はまた,原 村 氏御 自身 の研
を修得 され た。 昭和35年 に東大理学部 に着任 され
究 と もな ってお り,共 著 を含 めて20数 篇 の論文 を
て以 来 ,29年 間 にわた って数 多 くの岩石 ,鉱 物 の
内外 の学術誌 に発表 されて い る。 中で も,都 城 秋
化学分析 を行 い,地 質学教室 の研 究活動 に非常 に
穂博士 (現 在 ,ニ ュー ク州立大 学教 授 )と 共 同研
大 きな寄与 を された。本理学部 に着任 され る数年
究 と して行 な った 日本 の各地質 時代 にお ける堆 積
前 か ら既 に東 工大 において,地 質学教 室 か ら依頼
岩 ,特 に頁岩 の 分析 や隕石 の分析 は国 の 内外 の研
され た試料 を分析 されて い たので ,原 村 氏 の実質
究者 の貴重 なデ ー タとな って い る。 また,1969年
的 な寄与 は30年 以上 に及ぶ こ とに な る。 この間当
には アポ ロ11号 によ る月 の岩石 の 分析 を 日本 で最
地質学教 室 だ けで な く,鉱 物学教 室 ,地 震研究所
初 に行 な った。翌年 の アポ ロ12号 の 玄武岩 の 分析
や海 洋研 究所 ,お よび他大学 の 地学 関係 の教 室か
で は,
´
らの 分析 の依頼 に も しば ヒ
ば応 じられ た。 これ ま
た マ グマ の 分化作用 を見事 に示す ことがで きた。
で に行 った 分析 の総数 は 4,000近 くに もな る。 こ
月 の岩石 の 分析 は量 が少 な い こ とに加 えて ,世 界
れ は大変 な数 で並 大抵 で は出来 な い ことで あ る。
の一 流 の 分析者 との一種 の競争で もあ り神経 をす
す なわち, この 分析数 を30年 間 に均等 に割 り振 る
り減 らす ことで あ った と推 察す る。
NASAの
X線 蛍光分析 で は見 られなか っ
と,3日 に 1個 の割合 にな る。岩石 や鉱 物 は成 分
原村 氏 は 分析技術 に優 れ ,ま た大変慎重 で あ る
の数 が多 く分析 に手間 と時間が かか り,ま た試 料
ため同 氏 の 分析 結果 は信頼性 が 高 く,国 内は もと
によ って は二 度 分析 を繰 り返す ことを考 え ると
よ り世 界 的 に も高 く評価 されて い る。特 に,分 析
この割合 は驚異 的 で あ る。数 だ けで はな くそれ ら
が極 めて 困難 で あ る隕石 の分析 で は,同 氏 は米国
,
-26-一
■
Ⅲ
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I
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I
I
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原紺えば山赫好きで,今 も時々置をみて嗜雌参
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アフ系力大学から抵磨されて岩石の分析卿
●
思う吹壌である 今後もど'う ぞお元気で。
一 器 一
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た。伺,た ところによる.と ,同 氏は家│き に強は
も1で,摂 氏奪〒錮―動慶②叫 を偶然 (?)と し
とである。
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I
灘やぅフィン
のスミソ│二 fア ν鬱鴨嚇界め .J=TO● 輛¨ζ
ランドの地萱調査新の Wi腱 竃│どと共 に世扉でも
こんなに狭 い理学 部 の建物
理 学 部企 画委 員会 建 物 小委 員会
理 学部 の企画委員会 建物小 委員会 は,二 年前 か
ら理学部 中央化 の構想 をたて ,そ の実現 に向 けて
3=16.7 7rrで す。 実 際 に使 え るのは これ の 8割
,
ワー キ ンググル ープによ る具体案 の作成 や ,施 設
て この 13イ の半 分近 くが図 に あ るよ うにモ ノに 占
部 との交渉 な どの努 力を続 けて きま した。 その一
領 され ,人 間が動 きまわれ るのはわず か に数 イ に
環 と して ,中 央化 の要求 の基礎 資料 を作 るために
,
な って しま うのです。博士課 程 の院生 とい えば立
現在 の理 学部 の建物 が いか に狭 く,危 険 で あ るか
派 に 自立 した研究 者 であ り,大 学 の研 究活動 の 中
を調 査す るア ンケ ー トを昨 年実施 し,皆 様 の ご協
心 的担 い手 で す が,そ の実験装 置 と研究活動 の場
力 を いただ きま した。 い ろい ろな事情 で その整理
が この よ うに狭 くて は研究 に支 障を生 じるだ けで
が遅 れて い ま したが,や っ と形 にな って きま した
な く,研 究 の種類 によ って は大変 に危 険で もあ り
ので そ の一 部 を ご紹介す ることに しま した。
ます。
図 は,二 号館 一 階 の南側部 分 です。 ここが特別
東大 理学部 が特 に狭 いのは,ほ とん ど定員一杯
に狭 い とい うわ けではな く,ど こ も似 た よ うな も
に博士課程 の 院生 が在籍 して い るか らです。 ちな
ので す。 ご覧 に な って おわか りのよ うに,実 験装
み に,東 京大学 を除 く国 立大学 の理 学研 究科 の博
に12:077で
あ るの に
士課 程 の定員 と実員 の比 は
置や什器類 に 占領 され,そ の狭 さた るや 目を覆 う
`ぎ
か りです。
対 して東大理学部 のそれ は 1:0.98で す。 この違
国立大学 に は全国一 律 に基準面積 とい うものが
いが理 学 院計画 の主 な理 由の一 つ で あ るのは ご承
知 の とお りです。
あ ります。理学部 は 7号 館が で きた時点で この基
準面積 に達す る面積 を獲得 した ことにな って い ま
この ことに加 えて ,狭 さを加 速す る原因 に研究
す。 そ うで あ るの に,ど う して こん な に狭 いの か
設備備 品 の急増が あ ります。東大 の研究 の優秀 さ
,
の証拠 と して ,講 座 あた りの科研 費 の獲得額 は理
その理 由を少 し考 えてみ ます。
●
ほどです か ら約 13イ とい う こ とに な ります。 そ し
基準 面積 と呼 ばれて い るもの は国立学校 建物必
学部 の平均 で 年間約 10,380千 肖マ す が ,こ れは
要面積基準 表 (昭 和 51年 )と い う文書で定 め られ
全国立大学理学部平均 の 5,902千 訂t乳 べて 極 め
てい ますが , この名称 か らもわか るよ うに,基 準
て高額 で あ ります。 この研究費で購入 された設備
面積 とは本来 は必要 条件 で あ って 十分条件 で はな
備 品 にはそれ を設 置す べ き面積 は手 当て され ませ
か ったので す。 つ ま り,面 積 の下 限を定 めた もの
ん 。 したが って ,モ ノに 占領 されて床面積 は減 る
で あ ったので すが ,現 在 は これが なぜか上限 と解
一方 です。
釈 され , これ を超 えた面積 を要 求 して も通 らな い
当小 委員会 は,理 学部 中央化 に際 して この狭 さ
こ とに な って い ます。基準面積 の決 め方 を紹介す
を解 消す るため に,中 央化達成 時 に面 積が現在 の
ると,博 士課程 を もつ理学部 の面積算 出法 は
13倍 に な るよ うに立 案 をすす めて い ます。 これ
〔(実 験 講座数 十学科数 )×
495+(非 実験講座
で は もち ろん基 準面積 を突破す る こ とに な ります
が,そ の ための方策 と して ,一 つ は特殊 な装置や
数 )× 395〕 痛
研 究手 段 の面積 を枠外 とす ることを認 め る「 基準
であ ります。 これ が修 士 まで の場 合 には 495が
445に ,ま た 395が 345に 変 ります。 博 士 の定員
は講座 あた リー 名 で すか ら二 年分 で三 名 で あ り
,
したが って一 名 あた りの面積 は
(495-445)/
―-28-
注 1 東京工業大学を除 く大学 の平均
2.昭 和63年 度交付額
3
昭和63年 度交付予定額
特例 」 を 目一杯 に利用す ることと, もう一 つ に は
当小委員 会 は今後 も中央化 に向 けて最 大 の努力
理学 院 とか らませて何 らか の特別措 置 を要 求す る
を続 けます。理学部構成員 の皆 さんの ご理 解 とご
ことを検討 して い ます。
支援 を期待 します。
│・ l
櫻
贅
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菫
菫
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書
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―-29-―
色▼
」
鷺 s
〆
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_ 黒
日加協 力事業 による トライアムフ ミュオ ンチャネルの完成
永
この国際協 力事業は,文 部省科研費特定研究
嶺
謙
忠 (中 間子科学研究 セ ンター )
のであ ります。 日本側すなわち―
東大側 の組織は
,
「中間子科学 」 (代 表者.山 崎敏光原子核研究所
筆者を代表者 として,西 山樟生・ 三宅康博・ 福地
長 )の 最大の 計画研究課題 として 日本側で予算化
光一諸氏 らセ ンターの職員が作業を分担 しま した。
され,カ ナダバ ングーバー市にあ る トライアムフ
トライアム研究所は,ノ ヾイオ ンや ミュオ ンを強
研究所 とほぼ半分ず つの予算分担 によって,1986
年度か ら 3ヶ 年計画で ス ター トしま した。最終日
力 につ くり出す ことの出来 るエネルギ ー 500 MeVJ
的は,負 の ミュオ ンを,数 Mevも の低速で,直
流状 に,強 力 に得ようとするもので,中 間子科学
の 3大 「 メソ ンフ ァク トリー」の 1つ と云 われて
研究 セ ンターの KEK分 室でのパ ルス状 ミュォ ン
室で10年 前 に開発 に成功 した超電導 ミュオ ンチャ
と相補的な研究 ファシ リティをつ くろうとい うも
ネルをつ くれば,世 界最強 に して,最 良質の負 ミ
電流 170 μAの 陽子サ イクロ トロンを持ち,世 界
います。 この加速器 につ なげて,私 共が KEK分
●
―-30=―
ュオ ンが得 られ るはず であ るとい うのが ,そ もそ
生 (東 大 中間子 セ ンター )ら を中心 とす る高温超
もの動機で あ りま した。東大側 の担 当は,長 さ 6
電導体 の酸素 の電子状態 を偏極 負 ミュオ ンで 探 る
π ,直 径 12cm,磁 場 5テ ス ラとい う巨大 な超電導
実験 ,坂 本澄彦 氏 (東 北大 医)ら を中心 とす る,人
ソ レノイ ドと,超 臨界 ヘ リウムに よ る冷却 シス テ
体 の骨 の骨 ソ シ ョウ症 を ミュオ ン原子 X線 で診 断
ムで あ りま した。 この大型超電導 ソ レノイ ドは
す る実 験 ,な どに成果 が上が って い ます。既 に 日
筆者等 に よ って lo年 前 に開発 されて KEK分 室 に
本側 か ら上記 2つ の実験 な ど 6つ の実 験 が 次 々 と
設置 され , これ まで に 2万 時間 に及 ぶ 運転 実績 を
行 なわれ ることにな って い ます が ,東 大 理学部か
持 つ もの と,ほ ぼ同型 の もの と致 しま した。
らも,筆 者 らの ミュオ ン触媒核融合 の基礎実験 の
,
幸 いに して ,建 設作業 は順調 に進 み」 昨年夏 の
他 ,近 藤保 氏 らの ミュオ ン移行反応 と中間子分子
終 りに は,超 電導 ソ レノイ ド本体 ,冷 却 系 コール
分光 の実験 ,池 畑誠一郎氏 らによ るポ リア セ チ レ
ドボ ックス,冷 却 系 コ ンプ レ ッサ ー な どの製作 。
ンの負 ミュオ ンス ピン回転 の実験 な どが承認 され
設置が終 り (写 真参照
),超 電導 シス テ ムの テス
トが行 なわれ ま した。 つづ いて 昨年 9月 末 に は ビ
て い ます。
私共 中間子 セ ンター といた しま して は,パ ル ス
ーム発生 に成 功 し, 2 MeVも の低 速 で ,毎 秒 2
状 と直流状 と 2つ の ミュオ ンビーム を うま く使 い
× 105も の負 ミュオ ンを,世 界 で初 めて ,生 み出
しま した。 12月 初 め には,後 で上 村先生 が述 べ ら
わけなが ら, ミュオ ンの科学 を強力 に進 めてゆ き
たい と考 えて お ります 。少 しで も御 関心 の あ る方
れ るよ うに完成記念祝典が行 なわれ ま した。
の参加 を強 く観迎 致 します 。
●ヽ
既 に,テ ス ト実験 が始 ま って い ま して ,西 山樟
ミュオ ン チ ャ ン ネル完成式典 に 出席 して
t ft'
永嶺謙忠氏 が説 明 された よ うに,理 学部 中間子
科学研究 セ ンタ ー と トライア ム フ研究 所 が 中心 と
Y
'0Y,
qnrY++ka)
Thwrsd.ay, I December, l98B
ou Ate Invited to lhe Cetcmoni€s
CeLeb|oti^g
な って建設 して きた ,日 加協力事業 の超伝 導 ミュ
the 0pening ol TRIUMF's Nzuesl Seom Line
オ ンチ ャネル が昨年 9月 にめで た く完成 し,昨 年
Nogf,et
uhic^ uses o Supetcondwcli^g
^{
Coalributed bV.rcPan
to Prod.uce High FLuses of Negslile, Polarized' ]rluons
12月
8日 に リボ ンカ ッ トの式典が トライア ム フ研
9B
PROθ RИ ′rrF
究所 で行 なわれ た。私 は藤 田宏理学部 長 の代理 と
ムe rR′ r/メ rF xtlditori■ tれ
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■νit● こrctた s in ィ
して理学部 を代 表 して式典 に 出席 した。
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6:00 rた e′ hν c,o/″ ヽ
9A rc SuP″ .。 .ductor=
3、
この協力事業 は,山 崎敏光原子核研 究所長 が,
当時理学部 の 中間子科学実験 施設長 で あ った当時
か ら計 画 され ,日 加 両国が それぞれ 1億 円ず つの
K. Crowc, Lev.f,c. B.rk.l.y Lsbotelory
Pdrily-viol6lion
16:20 psn ^ppli.d
Ani!.rrily ol BALith
J. Et.v.r,
Columbic
予算 をつ ぎ こんで完成 させ た もので , トライア ム
フ研究所 長 Eric Vogt教 授 を は じめカナ ダ側 の
喜び と日本側 に対 す る感 謝 の気 持 ち の大 きいのに
は,正 直言 って び っ くりも し,ま た大 変感激 した。
その一 端 を,私 の拙 い文 で 紹介す るよ り,当 日 トラ
イアム フ研 究所 の式典 出席者 (約 百 名)に 配布 され
た VOgt教 授 によ るアナ ウ ンスメ ン トを原 文 の ま
-31-
you are inuilad ao vdlch tro^ (ht m.::snrn. l.vcl
ia ah. Jr.ton lttll, Tl\. dittinguitA.d gu.3tr vill
oJrmbl. birid! lh. 149, brdm tin., c^d rP.a,t lrom lh.rc:
X. Xibuchi - Vi"c.-Pt..id.^1, XEt(
Prof. E. Ka imtrr - TokVo Univrttiay
.Dr.
Ptof, f. Ys Erski - fo,byo oniu.?ritv
.Dt, t, C,:.ild - rYalional F.r.arc^ Council
.Dr. d, 6rrrnhill - Co!.mm.nl ol Silith Cotumbio
Dr,8. Cloymrn - Chciftcr, TRIUI(F Eond of Mt agr^.nl
Nr. t. llcRd. - Jrilrubirrri Canoda lid.
Nt, N. acl:'idori - Pr.rid.na, l/ycom
Dr, t. Yogl - Dit.ctot, fRlUNf
OJ./icial .Sitbon-Culting al r.om Zinr
1)
学 。研究所 の研 究者が国際舞台 の中でその中心 と
御報告 と致 した い。
なお この事業 については,昨 年 12月 27日 の日本
なって活発 に研究を推進 し,ま たその研究が国際
経済新聞「科学技術J欄 で詳 しく紹介 されて いる。 的に高 く評価 されることを眼のあた りに見て実 に
嬉 しく存 じた次第である。
また トライアム フ研究所 に数 日滞在 して,当 理学
部の中間子科学研究 セ ンターをは じめ 日本 の諸大
前列右か ら菊池健高 エネルギー研副所長 ,筆 者。
後列右端 E.W.Vogtト ライアムフ研究所長 ,右 か ら4人 目山崎敏光原子核研究所長
感
雑
増
東北大学 に 6年 間お世話 になり 2年 前 に東大 に
戻 りま した。
実感 しております。
X
田
弥 (数 学教室 )
久
X
東北大学は “
研究第一主義 "を 建学以来 のモ ッ
青葉山 にある東北大学か らもど った数 日間 に学
トーに していますためか,雉 の鳴き声の き こえ る
生・ 助手時代ず いぶんお世話 になった正門前 の床
素 晴 しい 自然環境 な らびによ く整 った物理的環境
のもとで,快 適 に十分 自分自身 の勉強 に集 中させ
屋 さん,食 堂 のおばさんなどに出会 いま して,と
て いただきま した。数学教室 は青葉山にあ り,私
れ育 った教室 は全 く懐 か しい ものです 。
は隣 の山の八木山にす んでお りま した。 この二つ
の山の 間 は深 い渓谷で,そ の間 に長 い橋がかか っ
てお りま した。家か ら大学までバ スで 15分 かか り
ました。現在 ,大 学まで 1時 間半 かか り随分時間
を ロスしております。東京 の住 宅問題 の深刻 さを
って も懐か しい感情 におそわれ ました。また生 ま
私 どもの教室では一昨年は伊藤清三 先生,岩 堀
長慶先生 ,田 村二郎先生が ご退官 , この 3月 藤田
宏先生 ,木 村俊房先生が ご退官なります。学生時
・
代 に教 えを受 けた先生 がつぎつぎI・ やめにな られ
寂 しい限 りです。他面新 しい教室づ くりの重大 き
-32-―
を考 えれ ば考 え るほど重 い責任 を感 じます。
X
お りますが私 は腰 が重 い もので ど うな る こ とで し
x
ょうか。
東大 の数学教室 と東北大 学数学教 室 との比較 を
X
,
とい う ことです が,私 の狭 い経験 を思 い付 くまま
X
東北大学 と比 べ て 東大 は雑用 が 随分多 い よ うに
思 い ます。 ど う した らよいか,名 案 は ご ざい ませ
述 べ てみ ます。
んが ,た とえば,理 学部 にあ るた くさん の各委員
東大 の学生 はよ く勉 強す る点 ,教 官 のほ うも学
生 を大切 に扱 ってい る点 よその大学 に,一 般的 に
会 を もちと整理で きな い もので しょうか。
いって ,ぬ きんでてい ると思 い ます。学生 も自身で
私 は移 って す ぐ理学院構想検討小委員会 の委員
問題 を見 つ けて短期 間 の うち に解 いた りで感心 い
にな って しまい,一 昨年 は十数 回 も会議 にで ま し
た します。しか しこうい う経験 を しま した。現在 私
た。 その結果 が ど うで あ りま しょうか 。 ス タ ッフ
の と ころに修± 2年 の 院生 が 2名 お ります。お、た
の少 ない教 室 の方 は大変 だ とま つた く同情 いた し
りと も立 派 な仕事 を しま したが ,そ のひ とりは"先
ます。無駄 も多 いので はないで しょうか。
の見通 しを考 えて "就 職 して しまい ます。 残念 な
思 いで す。 その学生 は,大 学 院 の ときに東大 に き
時半 ∼ 5時 が通例 で した。 これ も,も っ と短 くで
た学生 で す。似た よ うな経 験 を東北 大学で は私 は
きた ら,と お もい ます。(執 行部 は努力 して い るの
よ くい た しま した。"違 い "に は い りま しょうか ?
で しょうが )。 例 えば,非 常勤講 師依頼 ,併 任・
従来 の結果 をま とめ るよ うな仕 事 で はな く,真
に新 しい問題 に進 んで 挑戦 す る野性味 を もった学
理学部教授会 も長 いで すね。去年 はだ いたい 1
兼業 な ど も教 授会 にでてお りますが あ の よ うな も
のはや めて は い かがで しょうか。
理系委員会 に各教室 2名 出て お ります が 1名 に
生 がで るため には私 どもが率先 して野 性味 を もた
で しょうか。
して はい力幼 ゞ
ねば とお もい ます。
東北大学 で は私 は数 学 だ けを して れば よ く "狭
東北大学 理学部 の教授会 は前半 は大学 院関係 の
くと も深 く "で 十分通用 しま したが それだ けで は
は
東大 で は不 十分で常 に 全体 的な視 野 "が 要 求 さ
教授 ,後 半 は理 学部 のみの教 授 の 出席 で お こない
れ ます。
ませ んで しょうか (そ の ときは,系 の委 員会 をや
東北大学 と東大 の 3つ 目の違 いは周辺 に多 くの
ます。 これ に習 って,主 任会議 を この よ うにで き
め にす る)。
大学 が あ る こ とで しょう。 私 の専 門 は解析学です
が解析 系統 の一 般 セ ミナーだ けで週 4つ も私 ど も
の教室 で 開 いて お ります。東北 大学 で は週一 回が
精一杯 で した。 セ ミナ ー とい えば,物 理教 室 の江
口徹先生 と数 学教 室 の落合 さん とで ジョィ ン トセ
ミナ ー を して お ります。大 変 ダイナ ミックで う ら
や ま し くお もい ます。 私 は非 線形偏微 分方程式 を
研究 い た して お り,と くに その重要 な応用 で あ る
ナヴィエ =ス トー クス方程式 に興 味 が あ ります。
そのため ,私 もで きます こ とな ら物 理 の神部勉先
生 とジ ョィ ン トセ ミナ ーがで きた ら物理 的側面 を
もっと把 握 で き るので はないか と心密か に思 って
―-33-―
6)
小柴 昌俊先生 の文化功労賞受 賞 によせて
折
戸
周
治 (物 理学教 室
)
理学部 名誉教授 の小柴 昌俊先生 が この度 文化 功
崩壊 の結果生 じる電子 が どうや ら観測 され る事 か
労賞 を授与 され ま した。仁科賞 ,朝 日賞 に続 く先
生 の この受賞 は当理 学部 に とって も大変喜 ば しい
ら,も う少 しバ ックグ ラウ ン ドを減 らせ ば太陽か
らの ニ ュー トリノ によ る反跳電 子 の観測 が可能 に
事 です。
な る事 に気 づ き,そ の 為 の手段 を強力 に押 し進 め
小柴先生 は昭和26年 東京大学理学部物 理 学科 を
られた事。 これ らの事が実 って ,タ ィ ミングよ く
御卒業後 ,東 京大 学 及び ロチェス ター大学 大学 院
発生 した超 新星 か らの ニ ュー トリノの検 出 に よ っ
を経て 学位 を取得 され,ロ チ ェス ター大学 ,シ カ
て ニ ュー トリノ天 文学 の幕を 自 らの手 によ って 開
ゴ大学研 究員 ,東 京大学原子核研 究所助教 授 を経
け られ ま した。 ま こ とに「 見事」 とい う しかあ り
て38年 に本学部 に着任 され ま した。
ません。
先生 は宇 宙線 ,素 粒子 の分野 にわた って 先駆 的
私 自身 は他 の研 究 の責任 を負 った事 もあ って こ
.
独創 的な研 究 を数 多 く行 って こ られ ま したが ,な
の研究 に直接参加 で きなか ったの は誠 に残念 で す
かで も宇宙線 の超 新星起源 の指摘 ,原 子核乾板 に
が,近 くで 見 て いて ,先 生か ら最後 に な って す ば
よ る宇宙線相互作 用 の研究 などが初期 のお仕事 と
らしい教 育 を受 けた と感 謝 して い ます。先生 の教
して有名です。 また素粒子物理 の分野 において は
育 は片 々た る知 識 の授与 に重 きを置 いた もので は
49年 当時 に電子・ 陽電子衝突実験 の将来 性 を鋭 く
な く,研 究者 と しての在 り方 を身 を持 って 示す と
見抜 かれ ,理 学部 付属高 エ ネル ギ ー物理学実験施
い った もので した。特 に「 本質 的 ,独 創 的 な研究
設 の設立 に尽力 され ,こ れ によ って 国際協 同実験
を常 に 目指 せ」,「 その発想 の種 とな り得 る『 たま
DASPに
ご』 を幾 つ か抱 えて いて 考 え続 けろ」 とい うのが
よ る新粒子 PCの 発見 及 び タ ウ レプ ト
ンの確立 ,更 に JADE実 験 によ るグル ー オ ンの
れて 言 われ た事 です。
私共 が学生 の 頃 に折 にお、
発見 ,統 一 ゲ ー ジ理論 の検証等 の成果 を可能 に さ
地 下深 く置かれ た水 タ ンクによ る素粒子・ 宇宙
れ ま した。 この業績 によ って 昭和 60年 に ドイ ツ国
線実験 の発想 のた まごは いつ 抱 え られた のか と伺
大 功労 十字 賞 を授 与 され ま した。更 に素 粒子物理
った事 が あ ります が,30年 近 くも前 に先生 が シカ
国際 セ ンター長 と して 欧州原子核 機構 (CERN)
ゴ大 で原子核乾板 によ る実験 をや って い る時 に
の e+」 衝突装 置 LEPを 用 い た国 際協 同実験 を
乾板 を保存 す るため宇宙線 が少 な い岩塩坑 に行 っ
発足 させ ると共 に,陽 子崩壊 ,ニ ュー トリノ天文
た際 だ そ うです。 その時 ガイガ ー カ ウ ンターが ほ
学等 の先鋭 的 な研 究 を行 われ ま した。
とん ど鳴 ら│な い程 バ ックグラウ ン ドが低 い事 か ら
,
,
この陽子崩壊 =ニ ュー トリノ天 文学 の研究 にお
そ こに例 えば水槽 を置 いて光電子増倍管 で 眺 めた
いて は これ まで に も増 して先生 の大胆 な発想 ,鋭
ら,何 か稀 な現 象 が見 え るか も しれ な い と思 った
い勘 が き らめ き, また次 々 と的中 して い った とい
そ うです。 また ニ ュー トリノ実験 ,ニ ュー トリノ
え ま しょう。 特 に地下 深 くに巨大 な水 タ ンクを建
天文学 に関 して は,私 共 が大学 院 に入 った頃 に良
設 し,こ の 内面 に20イ ンチの大 きな光電子増倍管
く話題 に され た覚 えが あ ります。従 って 先生 が30
を敷 き詰 め ,内 部 で起 こる稀 な現象 を イメ ー ジン
年近 く暖 め続 けた 2つ のた ま ごが 合体 して,ニ ュ
グ しよ うとい う雄 大 な発想。 また陽子崩 壊 の下 限
ー トリノ天文 学 が生 まれた とい うわ けです。 ま さ
を押 さえた後 に,水 中で停止 した μ中間子 か らの
に先生 の常 日頃言 われて きた研 究者 と して の 2つ
―-34-―
の心掛 けが実 に強力な方法論で あ った事を,自 ら
最後 の文化功労賞を受 け られた事 も誠 に似つかわ
見事 に実証されたわけです。我 々同 じ分野 に志す
しく,巡 り合わせ とはいえ感慨深 い ものが ござい
ものとして このお教えを心 に刻み込 んで及ばずな
ます。
が らも頑張 り,ま たこの教 えを この実例 と共 に後
尚,添 え られた 2枚 の写真 のうち上 の ものは今
世 に伝えて いきたい と思 います。また先生の一層
か ら26年 前 の もので,イ ン ド,ジ ャイプ ールにて
のご活躍をお祈 り致 します。
ネール首相 ,パ ウエル等 と写 っている もので,中
終りに,昭 和元年にお生まれになり,特 に旧人
類 の気 質 を色濃 くお持 ち にな った小柴先生 が昭和
央左の痩身 の青年 が若 きJヽ 柴先生です。下 の写真
は昭和63年 12月 の近況です。
理 学 部 研 究 ニ ュー ス
翡 日中地震予 知共 同観測
中国四川省 中央部 には
,
betM′ een
the Physical Society of
鮮水河 断層 ,龍 門 山断層 ,安 寧河 断層 の三 大断層
the American Physical Society "
が Y字 型 に分布 して お り,過 去 に何度 も大地震が
上村
」apan and
(物 理 )
洸 12月 21日
発生 して い る。 中国国家地震局 ,四 川省地震局 と
Nd
協力 して この 断層系上 に 2ケ 所 の観測所 を作 り
蒻 電子注入型 の銅酸化物高温 超伝 導体 の発見
本実験施設 で開発 した地下水 中 の Rn濃 度 連続測
物
Ce,Cuか らな る新 しい酸
化物 高温超伝 導体 (転 移温度 25K)を 発見 した。
新超伝導体 は従 前 の正孔注 入型 と異 な り,電 子 注
入型で あ る。 また構造的 に も,頂 点 の酸素 がな い
銅一酸素面 を有 す るな ど,新 しい特徴 が 見 い出 さ
れ,高 温超伝導 の 機構解 明 に重要 な イ ンパ ク トを
与 え る ことが 期待 され る。 また応用的 に も,正 子L
注入型 の もの と異 な り,還 元雰 囲気 あ るい は真空
質 の結晶構造 を説 明す ることは固体物 理 の長年 の
下 での線材 化・ 薄 模化 が可能 とな る ことか ら, こ
懸案 だが ,常 行 真 司,塚 田捷 ,青 木秀夫 ,及 び松
の発見 を契機 に よ り高温 の転移温度 を示す電子 注
井義人 (岡 山大 )は ,第 一原理 的 な電子状態 の計
入型新超伝 導体 の材料開発 に も拍車 がか か ると思
われ る。 1988年 12月 高木英 典 。内田慎一 (東
,
定装置を設置 し, 3年 前か ら共 同観漫1を 行 って い
る。今春北京 で 開 かれ る日中地震学会 合 同大会 に
おいて ,そ の成果 を発表す る。脇 田宏・ 野津憲治
5
・ 佐 野有 司・ 金 沢敏彦・ 五十嵐大 三 1989年
月
(地 殻化学 )
翡 非経験 的方法 による結晶構造 の理論 的予言
算か ら求 めた原子 間力を用 いた シ ミュ レー シ ョン
によ り, シ リカ
(Si 02'地 球 の主 成分 ,デ バ ィ
(Pr,Smで
も可 ),
大・ 工 ),十 倉 好紀
(物 理 )
ス物理 で も重要 )の 様 々な結 晶構造や相転移 を再
脳下垂体 ホ ルモ ン
現・ 予言す る こ とに成功 した。これ は「 計算物理」
勒 ホル モ ン受容 体 の調 節機構
の手法 の物質設 計 へ の可能性 を開 く一 つ の大 きな
で あ る ゴナ ド トロ ピンの受容体 は生殖腺 に あ り
成果 で ,PhyiCal Re宙 ew Letters 61巻 7号 (19
性成 熟過程 の ゴナ ドトロピン受容体 の増加 は ゴナ
88)に 公表 され ,ま た Nature誌 の 9月 号 News
ドトロ ピンに よ るが ,成 熟後 は ゴナ ドトロ ピンが
欄 で も紹介 されて高 く評価 され た。常行 真司・ 塚
逆 に受容体 を減少 させ るダウ ン レギ ュ レー シ ョン
田捷・ 青木 秀夫 ,松 井義人 (岡 山大 )
を行 って い る こ とを マ ウスで発 見 した。 電顕 オ ー
9月
15日
,
トラ ジオ グ ラフ ィーや生化学 的方法 によ り,ホ ル
(物 理 )
モ ンー受容体 複 合体 が細胞 内 に入 るイ ンターナ リ
ゼー シ ョ ンが ダ ウ ンレギ ュ レー シ ョ ンの重要 な原
蒻 アメ リカ物理 学会 フエ ロー会員 に選 ば る 上村
洸教授 を,1988年 度 において標記 フエ ロ,会 員 に
因で あ る ことをつ きとめた
選 出 した 旨,ア メ リカ物理学会会 長 よ り本人及 び
など に発表 )。
藤田宏理学部長宛 に通知 があ った。頸彰理 由 は以
川島誠一 郎
(Endocrinology誌
筒井和義・ 清水 明寿 (広 島大 ),
1月
5日
(動 物 )
下 の通 り (原 文 の まま)。
"For contribuions to the theoretical under‐
翡 固相化 DNAプ ロープを用 いての超 高効率 ク ロ
HPLC用
ゲ ル に30塩 基程度
standing of electron states in s01id state
―ニ ング法 を開発
systems and for promoting closer ies
の合成 プ ロー ブを固定化 ,細 胞 か ら抽 出 された D
―-36-―
NAよ
り目的 とす る塩基配列 を直接 に単離 ,ク ロ
世界 に先駆 け素粒子相互作 用 の統一 理論 と宇宙論
ーニ ングす る技術 を理科大・ 小 田 (鈎 )研 と共同
の密接 な関係 を明か に し,宇 宙 の創生 ,初 期宇宙
で開発 した。 2時 間 の 分離操作 は,従 来行 われて
の進化 の研究 を進 めて きた。今 回 の授賞 はその 中
いた数百万 の プ ラー クの ス ク リー ニ ングに相 当す
で も真空 の相転 移 によ る指 数 関 数 的宇宙膨張理 論
る。 この手 法 の,mRNA,CDNAラ イブ ラ リーヘ
の適用 を試 みて い る。鶴井博 理・ 和 田昭允
9日
1月
ンフ レー シ ョン理論)と 宇宙 の 多重発生論等
の業績 が高 く評価 され た もので あ る。佐 藤勝彦
(物 理 )
勒 国際共 同研究
(イ
2月 4日
平成元年度 よ り開始す る ヒュー
(物 理 )
翡 組換 え DNAに 関す る 日米科 学技術 協力事業
マ ン・ フ ロ ンテ ィア・ サ イエ ンス・ プ ロ グ ラムの
本事業 は昭和55年 に開始 して以来 ,理 学部 が 担当
試験 的事 業 と して,新 エ ネル ギ ー・ 産業技術総合
機関 と して企 画 および連 絡調整 に当 って きたが
開発機構 は,生 体 分野 につ いて「脳 の高次機能 J
来 る 3月 に担 当期 間が終了す る こと とな った。 こ
あ るい │ま 「分子認識 0応 答機 能」 に関す る国際共
の 間「 宿主 ベ クタ ー系 の開発 」や「 組換 え体 にお
Molecular Recognition
同研究 チ ーム を募集 し, “
け る遺伝 子発現 の制御」 な どを主題 と した 10回 の
,
ansfer RNA"を テ ーマ とす る日米仏共 同研
ワー ク シ ョップ と,延 べ 11人 の研究者 派遣 を実施
究 チ ーム 〔
代表者,横 山茂之 (生 物 化学 );分 担
し,日 米 の情報交流 と共同研究 の遂行 に寄与 して
者,P.Schimmel(M
きた。飯野徹雄
2月
勒 太古代斜 長 岩
斜 長岩 は地 球 の 太古代地帯 およ
of TI・
assachuseis工 科大学 ),」
.
6日
(植 物 )
―P.Ebd(CNRS分 子細胞生物学研究所,Stras―
bourg)〕 を含 む 4チ ームに対す る助成 を決定 した。
1月 10日
+に
び月高地 に広 く分布 し,地 殻生成研究 の鍵 をに ぎ
って い る。 カナ ダ 。オ ンタ リオ地域 に見 られ る斜
(生 物化学 )
細胞
長岩 は Sm_Nd法 で27億 年 の年代 を示す。 その
の外か らの情報 に対応 して細胞 内で 生理反応がお
主要 構成鉱物で あ る斜 長石 の X線 回折像 の回折強
きる際 ,Ca2+が 細胞 内情報伝 達物質 の 1つ と し
度分布 の特徴 か ら冷却過程 を推定 す る こ とが出来
て働 くこ とが考 え られて い る。 今 回 パ ッチ ク ラ ン
た。 NASAと の共 同研究。市川潤一郎 。田賀井
プの手 法 によ って,汽 水産車軸藻 シ ラタマモの液
篤平
艤 C♂
よ って制御 され るK+チ ャ ンネル
3月
(鉱
物)
0
胞 模上 の K+チ ャ ンネル (K+を 選択 的 に透過 させ
るタ ンパ ク質 )が 微少量 の Ca2+に よ って 活 性 化
蒻 海外 学術 調査 1988年 度 か ら 3年 間 の予定 で
され る様 子 を 1個 のチ ャ ンネルの レベル で観察 し
オ ス ロー大学 ,ブ リテ ィ シュ コロンビア大学 との
た。 この こ とは,細 胞外浸透圧 の低下 とい う情報
共 同研究 〔
広域 多点観測 に よ るオ ー ロ ラ動態 の研
が細胞 内 Ca21を 介 して細 胞 内 K+の 放 出を ひ き
究〕 が ス ター トした。本観 測 は 1989∼ 90年 にか け
お こす とい う生 理反応 に,分 子機構 を あたえたの
て 約 1カ 月間 , 2月 20日 打 ち上 げ予定 の EXOS
で あ る。 この成果 は 1月 8∼ 11日 の国 際 ワ ー ク シ
― D衛 星 の遠地点が北半 球 に移動 し,衛 星か らの
ョップ "CALCIn/1 RESEARCH ON
PLANT"(ハ ワイ)で 発表 され た。且原真木・
オ ー ロ ラ観測 が可能 とな る時期 に実施す るが ,昨
年 7∼ 8月 .カ ナ ダ 。ア ラスカ地 域 とノル ウェー
田沢仁 (植 物 )
・ スバ ルバ ー ド地域 に お いて ,予 備 的 な観測 をか
ねて観測 点候補地 の 調査 を実施 した。國 分
翡 第 5回 井上 学術 賞受 賞
このた び第 5回 井上学
小口
術賞 を佐藤 勝彦助教授 が授賞 した。佐 藤助教授 は
,
物研 )
―-37-―
高 0林
幹 治・ 山本達人
2月
9日
,
征・
(地
翡 原裸子植 物 の研究
古生代 に栄 えて絶滅 した原
数学 に於 る国際共 同研究 はほ と
翡 国際共 同研究
裸子植物 は種子 植物 の 直接 の祖先 と考 え られ るシ
ん どが個人単位 (二 名 ∼数名 )で 進 め られて い る。
ダ植物で あ るが ,一 連 の比 較形態学 的研究 に よ っ
1988年 中 に 出版 され た当教室教 官 と外国人 との主
て ハ ナヤ ス リ科 が生 きた原裸子植物 で あ る こ とが
な共 同研 究 は次 の通 りで あ る。 (い ず れ も1988年
確か め られた。 これ によ って種子植物 の 起源 と系
カ ッコ内 は ペ ー ジ。
統 の解 明 に手掛 りが得 られ る。 この成果 は Taxon
(植 物 園 )
誌 (1988)な どで公表 した。 加藤雅啓
翡 ミュオ ン核 融合 にお けるアル フ ァ付着現象 の直
l CCD2/T2混 合 液 体 (ト リチ ウ
:30%)を 用 い た ミュオ ン核 融合 の 実験 が行
接 観測 の成功
濃度
なわれ , ミュオ ン 1個 当 り 100個 近 い核 融合 中性
子 が観沢1さ れた上 で ,融 合反応 の 後 に放 出 され る
アル フ ァに ミュオ ンが付着す る状態
(ミ
ュオ ンヘ
リウ ム原子 )か らの特性 X線 を観 測す る ことに成
功 した。絶対値 決 定 のための種 々の較正実験 が進
行 中で , ミュオ ン核融合か らの エ ネル ギ ー生産 の
上 限が決 ま ることになる。永嶺・ 渡辺・ 坂元 。岩
崎 。三 宅・ 西 山・ 栗原 (中 間子 )。 松 崎・ 石 田 (理
研 ),鳥 養 (山 梨大工 ),梅 沢・ 工 藤 。棚瀬・ 加
藤 ほか (原 研 ア イ ソ トー プ部 )(中 間子 )
尚 ,数 学 で は共著論文 の著者 名 の順 は通常 アル
フ ァベ ッ ト順 で あ る。)
(1)El Ghys,T.Tsuboi; Annales de
l'Institut
Fourier 38(215-244)
(2)S.K otani,M.Krishna; 」.Funct.
Analysis 78(390-405)
Kotani, B.Simonsi Comm.Math.
Physics l19(403-429)
(3)S・
(4)M・ Gurtin, Ho Matano; Quarteriy of
Applied Math.XLVI(301-317)
(5)M.Flested, 」enSen, T.Oshi ma,
H.S chlichtkruH; Adv. Studies in Pure
Math。
14(651-660)
(6)G,Anderson,Y=Ihara:Annals of Math.
128(271-293)
(1)は
翡 中間子科 学研究 セ ンター整備計画 の予 算認 め ら
,
一次元力学 系間 の共役写像 ,(2)は ラ ンダ ム
・ ポテ ンシ ヤル を もつ シュレデ イ ンガー方程 式
,
ヤ コ ビ行列 ,(4)は
れ る 平成元年度 予算 内示 において , 2年 計画 の
(31は 帯状領 域上 の ラ ンダム・
初年度 と して ,特 別設置費「 ミュオ ン実験装 置」
equilibFium phase transi■ on,(5)は ユニ タ リ
が認め られ た。超低 速 ミュオ ンフ ァ シ リテ ィ及び
表現 ,(6)は 高次 円単数 に関す るそれぞれ先端的 な
ミュオ ン核融合実験 装置が新た につ くられ る他
研究 で あ る。
,
(数 学 )
理学部 の方 々に利用頂 いて い る本 郷 と高 エ ネル ギ
このたび,第 29回 東 レ科
ー研 分室 とに またが るデ ー タ処理 コ ンピューター
勒 東 レ科学技術 賞受 賞
も更新 され る。永嶺 。西 山・ 三 宅・ 坂元・ 岩崎・
学技術賞 を物理 の鈴木増雄 教授 が 受賞 した。受賞
福地 (中 間子 )
テ ーマ は「 相転 移 の統計 力学 的研 究」 で ,鈴 木教
授 の コ ヒー レン ト異常法 と超有効場理論 とい う相
微量 の窒素 の 同位 体比 を
翡 窒素 同位 体 比 の測 定
ム
測定す る システ ムを開発 した。 この システ で は
四重極質量 分析 を Static● 状 態 F用
転移 の一 般論 の提 唱 が高 く評価 され た もので あ る。
鈴木増雄
いて測 定 が
1%g)が 得 られ る。
このよ うに して得 られ る窒素 の 同位体 比 は,隕 石
X tt X美
行 われ るので ,高 い感度 (∼
や惑星 の起 源 を知 るための トレーサ ー と して重要
な情報 を与 え る と期待 されて い る。杉浦 直治
(地 球物 理 )
3月 27日 (物 理 )
「 理学部研 究 ニ ュース」欄 に掲載 の それぞれ の
ニ ュースの 詳細 について は,年 次報告書等 に紹介
されて お ります ので ,該 当 の教 室・ 施設 (ニ ュー
ス末尾 の
―-38-―
( )内 )に 連絡 して下 さい。
<学 部 消 息 >
の もので した。 それ に もかかわ らず ,生 起 した原
昭和 63年 10月 24日
理学部職員組 合委員長
因 に は,制 度 の懇 切 さの不足や関係者 の迂 闊 さが
宮
あ った こ と も否 め ませんが ,昭 和 58年 度 か ら大学
田
元
靖
殿
理学部 長
藤
田
院指導補 助担 当助手 の定数 の管理 が理学 系か ら大
学本部 に移 され ,そ れ に ともな つて 年度毎 の新規
宏
助手 の “大学院手 当 "支 給状況是 正
任用予定数 の照会 を理学部大学 院掛 か ら各専攻 に
に関す る書 簡
行 なわな い こ とに な った とい う変化 を,い くつ か
去 る 7月 下旬 に貴 職員組合 によ って ,「 助手 の
大学 院手 当 の支給 が然 るべ く行 なわれて い な い。
の専攻 で充 分認識 しなか った ことが主 な要因 に な
って い ます。
その事態 を早急 に改善 され たいJと の指摘 と要 望
これ らの諸点 を改め再発 を防止 す るため に,理
を頂 きま した。 この御指摘 を契機 と して調 査 した
学部 と して ,ま た,理 学系 と して 戒心す るべ き こ
と ころ,確 か に理学部 の相当 な数 の助手 につ いて
とを理学部教 授会・ 理学系委員会 で 強 く要 望 しま
大学 院手 当,正 確 に は,大 学院学生 の 指導補助担
したが ,具 体 的 な制度 の改善 の処 置 につ いて も理
当 の任用 に伴 う調整給 の支給 の仕方 に開始 の遅 れ
学系委員会 に諮 って い るところです 。
の問題 があ る ことが半1明 しま した。す なわち,い
以上 を報告 します とともに,事 態 の解 決 の発端
くつかの専攻 において ,学 位 取得等 の学歴 条件 や
とな った御 指摘 な らび に対応 につ いて 頂 い た御忠
6ケ 月以上 の在任 期間 とい った フォーマル な任用
告 に対 し謝意 を表す る もので あ ります。
の要件 を満 たす 助手 について新規 の大学 院指導補
敬
具
助担当 のための 選考・ 推薦 が複数 年 に亘 り実施 さ
れて い な い こ とが 明 らか にな りま した。
理 学部職 員組合委員長か ら理 学部長 へ の返 書
理学部 の助手 の学 問的な水準 の 高 さお よび理 学
理学部 長
部 に於 け る大学 院 の比重 の大 きさか ら考 えて , こ
田
藤
宏
殿
のよ うな事態 が存在 した ことは理学部長 /理 学 系
1988年 11月 15日
委員長 と して誠 に不 本意で あ り,該 当 した助手 の
理学部 職員組合委員 長
人達 の不遇 に対 し深 く遺憾 の意 を表す る次第 で す。
宮
お くればせ なが ら, これ らの人達 につ いて それ
理学部職 員組合 は,本 年 7月
ぞれの専 攻 か らの推薦 を得て後 ,急 遠 ,指 導補助
田
元
靖
,理 学部助手 の大
学院手 当 の支給 に関 して,現 に大学 院学生 の指導
担 当 に任用す る こ とを求め る上 申を総 長宛 に行 い
に当た って お り,学 歴・ 在 任期 間等支給 の要件 を
可及的 に速やか な発 令 を願 う努力 を しま した。幸
充 分 に満 た してお りなが ら,大 学 院手 当 の支給 が
い各方面 の御理解 もあ って ,該 当者 のす べ て につ
大 幅 に遅 れて い る例 が少 なか らず存在 す ることを
いて 現在 既 に発 令 が行 なわれて い ます。
指摘 し,早 急 な事態 の 改善 と,該 当す る助手 の被
,
理学部 にお いて ,助 手 は,職 務上教 授・ 助教授
った不利益 に対す る補助措置 とを要 求 しま したが
を補佐す る存在 に とどま らず ,理 学 の最 も活動 的
その件 に関 して,10月 24日 付 で理 学部長か ら「助
な部 分 を担 う進新 の 学者 で あ り,理 学 の未来 を託
手 の “大学 院手 当 "支 給状 況是正 に関す る書簡」
す べ き後継者 で あ ると私 は考 えて い ます。 この見
を受 け取 りま した。
地か らい って も,助 手 の大学 院手 当 に関 しての上
理学部 職員組合 は
記 の事態 は,理 学部 に於 て起 こって はな らな い筈
,
(J
―-39-―
理学部 長が , この よ うな事 態 が生 じた ことに
,
に対 し,遺 憾 の意 を表明 され
置 づ け,助 手 の果 たす べ き役割 とそれ を支え る制
,
12)理 学部 長 をは じめ とす る理 学部 当局 の方 々が
事態 の改善 につ いて努力 され
,
度 的保証 に関 して,活 発 に議論 が お こなわれ る よ
うに な ることを希 望す る とと もに,理 学部職員組
,
(a)現 在 ,該 当者 のす べて に対 して大学 院学生
合 と して も,必 要 に応 じて積極 的 な問題提起 をお
の指導補助担 当任用 の発令 (大 学 院手 当 の支
こな って い く所存 です。
給 )が お こなわ れ るにい た った こと
,
(b)特 に手 当支給遅延 の著 しか った者 について
は一 定 の措置 もなされ た こと
,
上記 の よ うな手紙 のや りとりが あ りま した。学
13)理 学 系委員会 において 具体 的 な手続 が 改善 さ
部長 か らの書 簡 はわた しの責任 で書 いた もので あ
れ る予 定で あ ること
,
に対 し,理 学部長 をは じめ とす る理学部 当局 の方
ります が ,理 学部職員組合 との 話 し合 いで合意 を
々の誠意 と努力 を評価す るものです。
得 た もので す。
理学部 長 か らの書簡 に もあ ります よ うに,今 回
す べ て の助手 の待遇 が常 に公正 に取扱 われ,そ
の事 態が生 じた直接 の原因 は,昭 和 58年 度か ら大
の所属す る教 室 によ って ア ンバ ラ ンスが あるべ き
学 院指導補 助担 当助手 の新規任用 の 推薦 が各専攻
で な い ことは,い まさ らい うまで もあ りません。
に任 され るよ うに な った とい う手続 き変更 に対 す
今 回 の こ とについて ,大 学事務局 は じめ理学部 事
る対応 の不徹底 に あ り,そ の意 味 で は,関 係す る
務部 ,理 学部職員組合 その他 関係者 の皆 さんが好
各専攻 主任 と理学系委員長 の責任 が大 きい と言 わ
意 あ る理 解 を示 され た ことにつ いて感謝 して い ま
ざるをえ ませ んが,理 学部職員組合 は, この 問題
す。
の よ り根本 的な原因 は,助 手 の位 置 づ けの低 さに
理学部 長
あ ると考 えて い ます。 つ ま り,理 学部長が書簡 の
中で述 べ て お られ るよ うに,「 理学部 において
,
助手 は,職 務 上教授・ 助教授 を補佐す る存在 に と
どま らず ,理 学部 の最 も活動 的 な部 分 を担 う新進
の学者 で あ り,理 学 の未来 を託す べ き後継者 であ
る」 に もかか わ らず ,実 際 に は助手 が それ に見合
│●
う扱 い を受 けて い るわけで はな く,そ の ための制
度 的保 証 もきわめて貧弱で あ る, とい う問題 が根
本 に存在 して い ると考 え ます。
また,助 手 の大学院手 当の 問題 に限 りませんが
,
今後 同様 の事 態 を発生 させ な い とい う観点 か らい
えば,た ん に制度上 の問題 だ けで な く,制 度 を支
え,そ の運用 を円滑か つ確実 にす る もの と して
,
例 えば,理 学部職員組合 が以 前 か ら要 求 して い る
事務職員 の研修 や職員相互 の 日常 的 な情報 交換 な
ど も,そ の重要 性 があ らためて認 識 され る必要が
あ る もの と考 え ます。
理学部 職員組合 は,今 回 の事態 を ひ とつの教訓
と して ,今 後 ,各 方面で ,大 学 にお ける助手 の位
―-40-
藤
田
宏
授
教
△
モ
63年 12月 21日 (水 )定 例教授会
元年 2月 15日
(水 )定 例教 授 会
理 学 部 化 学 本 館 5階 講 堂
理学部 4号 館 1320号 室
議題 は)前 回議事録承認
議題
(D
前回議事録承認
12)人 事異動等報告
唸)人 事異動等報告
嶋)物 品寄附の受入れ`に ついて
0
14)教 務委 員会報告
14)学 士入学 について
り
り
企画委員会報告
G)理学院計画委員会報告
奨学寄附金 の受入れについて
学部学生 の転学科 について
略)学 部学生 の転学部 (転 出)に ついて
│
17)総 長選挙代議員 の選出について
17)人 事委員会報告
は)そ の他
侶)会 計委員会報告
(91 企画委員会報告
平 成1元 年 1月 18日
(水 )定 例教授 会
理 学 部 化 学 本 館 5階 講 堂
議題 は)前 回議事録承認
12)人 事異動等報告
0
人事委員会報告
14)教 務委員会報告
0 東京大学理学部規則 の一 部改正 について
G)企 画委員会報告
暉)理 学院計画委員会報告
格)理 学部長候補者の選出について
00
理学院計画委員会報告
[J
12
10
04
15
評議員の選出について
植物園長 の選出について
素粒子物理国際セ ンター長 の選出 について
中間子科学研究 セ ンター長 の選出について
遺伝子実験施設長 の選 出について
し0 企画委員会委員 の選出について
人事委員会委員及び会計委員会委員 の半数 改
uη
選 について
ue
その他
0)そ の他
里一
事
人
動
(講 師 以 上 )
所
属
学
原
口 紘 蒸
理
矢
崎 茂
化
物
植
一
木 健
類
所
名
青
人
(助
氏
官 職
助
教 授
夫
発令年月 日
異動内容
63 12 1
昇
任
備
考
国立遺伝学研究所助手か ら
名古屋大学教授 ヘ
63
助手か ら
12. 16
手)
属
物
天 文 研
官
氏
職
佐
藤
名
発令年月 日
異動内容
和 彦
63 12.1
配 置 換
茂
木
立
志
半
田 利
弘
大
橋
中 井
正 健
直
″
63
12
正
-41-
採
16
用
備
考
教養学部助手か ら
所
属
官
氏
職
天 文 研
理 学
物
口 真
関
化
発令年月 日
名
吉
田 春
夫
桑
田
真
陽
酒 井
薬
袋 佳
孝
薬 袋
佳
孝
孝
子
久 野
良
素 粒
子
森
俊 則
川 越
齊
事
以
藤 成
也
考
採
用
63 12 1
63 H 20
63 12.3
昇
任
休
職 平成元 lo 23ま で
63 12.18
63 11 30
復
職
辞
職
64 1 1
採
用
工学部講師ヘ
63 12.17ま
休職更新
で
〃
平成元
2 1
員)
(職
所
清
備
″
-
中 間
人
63 12.16
木
異動 内容
属
官
務 部
〃
人事掛主任
事
中 間 子
報
情
職
技
氏
小
名
一
林
務 官
植
木 祐
″
永
井
官
佐
男
異動内容
63 12 1
昇
″
輔
″
紀
備
採
用
転
任
考
新聞研究所庶務掛長へ
任
配 置 換
64.J l
明 子
藤 安
発令年月 日
附属病院総務課か ら
文部省大臣官房人事課ヘ
外 国 人 客 員 研 究員
所
属
情報科学科
受入れ教官
後 藤 教 授
国
籍
氏
名
丁
連 合 王
国
シ ンガ ポ ー ル
シ ンノ
いポ ー ル
KO Dand
m kkei
高 David育 基
ZttU鴛
H10E Willy
維
シンガポール国立
膿 大学 シニヤ・ チュ
ータ
HENG,
Aik Koan
慮
酒 井 教 授
フ
ラ
ン ス
エクセ ター大学研
究員
北京大学準教授
瞥
物 理 学 科 大 塚 助 教 授 中華人民共和国 LU DaⅢ hai
生物化学科
2 2.14
東
懐
丘
情報科学科 後 藤 教 授
研究員期間
大
シンガポール国立
大学助教授
北京大学講師
海
PIJDLES
Julio
―-42-―
備
考
6212月 教授会
報告済 の変更
変更前期間
631∼ 12.で 了承
された もの
元 .115∼
2. 1 14
.
3
九一
九
几2 一
九 6
一2 一
一
一
物 理 学 科 大 塚 助 教 授 中華人民共和国
情報科学科 後 藤 教 授
職
﹂
¨
一
籍
脚
画
潮
期
・
物理学 科 上 村 教 授
現
中華人民共和国 TEH HangIChllan雲 南工 学院・ 講師 元 .2.15∼
637月 教授会
難隻箭皐裔易 i9
11∼ 6431で 了
承 されたもの
パ リ大 学教 授
元 .21∼
7E.6 30
633月 教授会
報告済 の延長
延長前期間 63.3
1∼ 元 .131で 了
承されたもの
:
理学博士の学位取得者
(2名 )〕
〔
昭和 63年 11月 28日 付
専 攻
氏
名
論文 博 士
山 崎
裕 文
論
題
文
目
高臨界磁界超伝導化合物 PbMo6S8お よび Nb3Snの 実用化 に関す る材料科学的
― 超伝導線材製作 のための基礎
研究
重心系 エネル ギー52 GeVの 電子・ 陽電子衝突における重い新 クォー クの探索
論文 博士
伊 藤
論文博士
富 永 義 人
車軸藻細胞における原形質流動の
論 文 博士
綿 野 泰 行
同形胞子 シダ植物 における種の生殖様式と遺伝的構造
論 文 博士
中 川 正 樹
確率的相違度を導入 した構造解析的オンライン手書き日本語文字認識の研究
物 理 学
秋 葉 康 之
核子あたり14 5 CeV/Cの
論文博士
中 原 早 生
証明とプログラム,プ ログラム抽出の自然な一手法
領 介
昭和 63年 12月 19日 付 (5名 )〕
〔
Ca2+,K+,Cl
による調節
o+A反 応におけるエネルギー生成 の測定
〔
平 成元年 1月 30日 付 (8名 )〕
論 文 博士
光 本 茂 記
室内実験 による海陸風と斜面風に関する研究
論 文 博士
加 藤 辰 已
サフオ トリギ群の分類学的研究
相関理化学
桜 井
スズ
論 文 博士
中 村 貴 義
導電性 ラングミュアープロジエ ット膜 に関する研究
カ
(lV)カ ル コゲナイ ドの光物性の研究
論 文 博士
安 藤
清
グラフと補 グラフ
植 物 学
沐卜
睦
海岸砂丘地におけるメヒシバ とオ ヒシバの分布に関する生理生態学的研究
論 文 博士
青 山
隆
気相 ,液 相 ,固 相か らの半導体結晶成長
論 文 博士
海 津
聡
多 くの小さい穴の境界上に半線形境界条件を課されたポアッン方程式の解の漸近
龍
挙動
海
外
渡
(6月
官職
所属
素粒子
化 学
助
手
″
氏
名
渡 航
以 上
先
俊 員」
ス
中 井
俊 一
アメ リカ合衆国
素粒子
″
川 越 清
数学
″
戸瀬信 之 フ ランス
ス
イ
間
目
ス
ス
―-43-―
的
同実験電子・ 陽電子衝突実験
詈 :ll:∼
房覺嫁
元 .227∼
地球化学 の研究 に従事す るため
3
以
者
)
期
森
イ
航
2 26
64.16∼
2.331
国際協同実験電子・ 陽電子衝突実験
のため
究:::る I∼
だ
僣
恣
な
需捜
通昌欝
晟騨
醤子2真 喬
理 学部長 と理 職 の 交 渉
12月 19日
, 1月 13日
,2月
い ,現 在の教室 という単位は残 ると述べ た。
10日 に理学部長 と理学部
3,教 務 職 員 の 待遇 改善 につ い て
職員組合 (理 職 )の 交渉が行われ,た 。 また ,1月 18日
には技術 系職員 の組織化問題 について理学部 長 との緊
教務職員の劣 悪 な待遇 を訴 え ,28号 俸以上の人の助
急懇談会があ った。その主 な内容は次のとうりである。
手化などによる昇格 と概算要求による教務職員全員の助
1.技 術 系 職 員 の 組 織 化 問題 につ い て
手化 へ の取 り組みを要求 した。事務長 は概算要求は全員
の交渉では ,討 論 の不足を理由に ,12月 の
の助手 化で出 していると答えた。また ,年 金 の算出が最
教授会では技官 の組織化を しないことを要求 した。 こ
後 の年の 5∼ 7月 の平均値 に基づいてお り,今 まで の最
12月 19日
れに対 し12月 の教授会では経過報告だけで決定 しない
12月 26日
,
に技術職員 に対す る説明会 を開 くと答えたc
後 の半年の助手化では退職金は良 くな って も,年 金はか
わ らないことを指摘 し,5月 以前 の助手化を要望 した。
l月 13日 の交渉では ,理 職 の12月 28日 付 の組織化案 に
学部長は助手 のポス トは本来 の助手 のための運用に支障
対す る反対声明 に対 し,1月 中に案を本部 に出さなけ
がお こ らないよ うに考慮 して ,半 年 と していると述べ た。
れ′
ば一年延 びる,小 口委員会 の案を大 き く変えること
4.事 務 系 職 員 の昇 格 改善 要 求 につ い て
は しない (小 口案 と心中す る),小 口案でよければ 1
東職 の「婦人事務職員 の昇任・ 昇格 について」および
月18日 の教授会 に出す等 と答え ,理 職 に ,1月 18日 ま
昇格 ついて の要望書 について理職が質問 したのに対 し
でに小 日案 に同意す るかどうか回答を迫 った。1月 18
日の緊急懇談会では,5級 昇格が従来 どうり,内 規 につ
学部長は主 旨は理解 した ,放 置 してお くのは よくない
理学部で もいずね′
は改善 しなければな らないと思 ってい
いては理職の案を尊重 して検討を継続す るとい う条件
ると述べ た。また ,事 務長は 4・ 5級 昇格 についてはポ
付 きで本部 に理学部案を出す ことについて合意 に達 し
ス トがあ って も動かなけね′
ば影響がで ると答えた。理職
た。このあと,学 部長は,理 学部案 と東大本部案が大 き
は 4級 昇格 については教室 の要請 もあ り,動 かずに昇格
く食 い違 うよ うであね′
ば組織化は撤回す ると言明 した。
2月 8日 の庶務部長 ,人 事課長 の説明で理学部案 には
できるよ う工夫 してほ しいと要望 した。また ,理 職 が高
位号俸者 の昇格 には移動が絶対に必要か と問 うたのに対
最終的 に本部案 の網がかかる ことが明確 にな り,2月
し,事 務長は絶対 とは言わないが ,組 織 という枠があ り
10日
,
,
,
の交渉では ,理 職が本部案 と理学部案の大 きな隔
お、さが っていれば ,上 に行 けないとい うことであると答
た りを問い ,組 織化 の撤回を要求 したのに対 し,学 部
えた。
長は理学部 の運用でなんとかなると答え ,今 後 の努力
5,行
(二 )か ら行 (― )へ の 振 り替 え につ い て
の問題であ り,撤 回す るほどの条件違反 。障害出現は
事務長が組織化 をか らめて要求 していると述べたのに
確認 されていないと思 うと述べ た。 さらに ,理 職は理
― )と すべ き人であ り組織化以前
対 し,理 職は本来行 く
学部 の内規を組合 との合意な しに本部 に出さないよ う
か らの問題で組織化を絡めるのはおか しいと反論 した。
に要求 したのに対 し,学 部長は約束 したことであるの
事務長は これを認め ,4月 以前 に も振替ができるよう努
で相談す ると述べ た。
力す ると述べ た。
2.理 学 院 計 画 につ い て
6.昇 格 問 題 につ い て
理職は技術系職員の 5・ 6級 昇格 ,図 書職員の 5級 昇
理職が経過説明を求 めたのに対 し,和 田理学院計画
委員長は ,2月 の教授会で中間素案 の説明を し,教授
格 ,行 (二 )職 員 の 4級 昇格 について ,名 簿を提出 し
会懇談会 を経て 3月 の教授会 で最終的 に承認す る。 2
昇格実現 に向けて努力を要請 した。
月 の教授会 の後で 中間素案の説明会を開 いて もよい。
7.奨 励 研 究 B申 請 書 の 入手 方 法 につ い て
,
そこで ,職 員等 の意見を聞き素案 に組み入れ,る ことが
今まで奨励研究 Bの 申請書は教室事務を通 して理学部
可能である等を述べ た。概算要求 については ,文 部省
が一括 して取 り寄せていたのに ,今 年か ら,各 人が取 り
の研究教育 の高度化 のための調査費 と して次年度概算
寄せな くてはな らなくな ったことについて理由を間 うた
要求 が認め られていること,東 大全体で調査書 の概算
のに対 し,学 部長は期限がある事 なので ,す ぐに調 べ る
要求をす ることを明 らか に した。事務組織については
,
と答えた。
教室全てをまとめて一つにす る様なことは考えていな
―-44-―
編
集
記
後
今年 も理学部か ら15人 の方 が停年あるいは定年を迎えて去 っていかれ る。 4号 は恒例の
お別れの言葉 と,送 る言葉 の特集 である。年間 4冊 発行 される廣報の内で最 も関心が もた
れ,広 く読まれ るのが この 4号 である。
この 4号 を もって,私 の廣報編集担当の役目も終了す る。廣報委員は号館か ら 1人 づつ
出て, 5年 任期 で, 4年 目に編集を担当す るようになっている。 この 1年 間をふ り返 ると
廣報 の ことを考えない 日は全 くなかったと ヽってよい。それほど気 になるものであ り,休
,
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む間がない。魔報を発行す るため に私が実 際 に費 した時間を合計すれば多分 200時 間以上
にな り, 1日 8時 間労働 に直す と 1ケ 月以上 になると思われ る。参考までにい くつかの数
字を紹介すれば, 1年 間で私が出 した原稿依頼 ,校 正依頼 の書状 の数 は約 400通 ,ゼ ロッ
クスコピーの枚数は約 900枚 である。本年 は20巻 目で, 1∼ 4号 の総頁数は 140頁 となり
,
写真や余 白を除 いた字数 は約 13.6万 字 ,400字 詰 340枚 に相当す る。 これを原稿,初 稿
,
2稿 と,少 な くとも 5回 は 目を通す。研究 ニ ュース と学部 消息を除 いて,記 事 の総数は年
間66。 2号 か ら始めた研究 ニ ュースの総数は71と なった。ちなみに印刷部数 は 2,あ 0部 で
ある。
廣報 の存在意義 についての意見 を時 々耳 にす る ことが ある。意義を認める人 と,そ うで
ない人が いて,そ れぞれ に もっともな面がある。 1年 間廣報 の編集を担当 してみて思 うこ
とは,意 義を求めて発行 して いけば,そ れな りの効果 の現われて くるような感触を もつ こ
とである。廣報 を生かす も,殺 す も,作 り方,使 い方次第 のような気がす る。今後 は 1読
者 として廣報を見守 って い きたい。
編集
:
高
橋
正
征 (植
物)
佐
藤
勝
彦 (物
理)
横
山
茂
之 (生
化)
内
藤
周
式 (分 光 セ)
田賀井
篤
平 (鉱
物)
内線
4474
4207
4392
4600
4544
印昴1‐ ¨…… ………………………三 鈴 印刷株式会社