Title イギリス産業革命期の人口分析の一視角 Author(s - HERMES-IR

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イギリス産業革命期の人口分析の一視角
依光, 正哲
一橋大学研究年報. 社会学研究, 12: 281-340
1973-03-31
Departmental Bulletin Paper
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http://hdl.handle.net/10086/9614
Right
Hitotsubashi University Repository
イギリス産業革命期の人口分析の一視角
はじめに
依光 正 哲
一九六九年現在のイングランド・ウェルズの人口密度は、一平方キ・メートル当り三二二人であり、日本のそれは
二七三人である。日本が人口稠密の国とよくいわれていることからすれば、イングヲンド・ウェルズはきわめて人口
︵1︶
密度の高い国であるといえる。イギリスは、いつの時代かにこのような高い人口密度の国に変ったのであって、以前
からずっとそうであったわけではない。そこで、どの時点でイギリスは人口稠密の国になったのか、あるいは人口が
急速に増加したのはいつ頃のことなのか、といったことが当然間題になってくる。
イギリスの過去三世紀にわたる人口増加に関して、マサイアスは次のようにのぺている。﹁一七四一年以前の一世
紀間には、イングランド・ウェルズの︹人口︺成長は全体としてとるに足らないものであった。一七四一年から一七
八一年までは、人口は一〇年につき四パーセントから七パーセント増加した。ついで、一七八一年から一九一一年に
かけては、イギリスの人口は一〇年につき一〇パトセント以上も増加した。その後、成長率は一〇年につき五パーセ
イギリス産業革命期の人口分析の一視角 二八一
一橋大学研究年報 社会学研究 12 二八ニ
ント未満と、同じく劇的な減少を見るのである。一八一一年から一八二一年のピークには、イギリスの成長率は一〇
︵2︶
年につき一七パーセントを示したのである。﹂このマサイアスの論述は、イギリスの人口増加傾向に関して次の三点
︵3︶
を指摘している。
ω一八世紀の中葉から従来とは異なる人口増加傾向がみられたこと。
働この傾向は一九世紀の前半にピークに達したこと。
衙二〇世紀に入ると、人口増加傾向に新たな変化がみられたこと。
これらの点は、人口増加のク・ノ・ジーに属することであり、これまでに多くの論者がクロノ・ジーを設定し、そ
れをいかに位置づけるのかという努力をしてきた。ここに人口史研究の重要な研究課題があるのであるが、イギリス
︵4︶
の人口増加の過程と人口増加の原因については、いまだに充分な説明がなされているわけではないのである。そして、
一応の合意が成立する点は、いま引用したマサイアスの論述程度のきわめて大雑把な基本線ぐらいであるといっても
過言ではなかろう。
本稿では分析の対象として、上記の整理の第三点、すなわちへ二〇世紀に入ってからの人口増加率の低下・停滞に
は直接触れず、第一点と第二点を扱うこととする。し’たがって、時期としては一八世紀と一九世紀の前半に焦点を当
てることになる。まず、当該時期の人口増加に関する議論をサーヴェイすることにより、論争点を明らかにし、人口
増加の趨勢をつかむこと、ついで、この人口増加のメカニズムに関する同様な作業を行なうことを本稿の第一の課題
とする。
︵ 5 ︶
一八世紀およぴ一九世紀前半の人口変動がわれわれの分析対象になるのは、単に.一の時期が人口変動の視点から近
代的合旋が開讐墾時期として重要であるという理由をるもの浮で髪い.この時期は、イギリスが工業
化を開始しそれを達成した時期であり、いわゆる﹁産業革命﹂と重なり合っている.︺とが重要なポイントなのである。
問題はこの産業革命期およびその前後の時期における人口変動をいかに位置づけるのかという.︾とになる。現在最も
盛んに論じられている点は、経済成長と人口成長との関連いかん、より具体的には経済成長先行か人口成長先行かと
いうことで転罷。しかし、﹁経済成長﹂と﹁人口成長﹂とを直接的に対比させ、その相互関係を検定することには、
理論的にも史料的にも若干の無理があると考えられる。われわれとしては、イギリスの人口変動を人口増加率、出生
率、死亡率などの次元だけではなく、人口の大きな部分が最終的には都市に渠中してゆく過程をも含むものとして把
握し、かかる人口変動が経済活動の側面とどのト酬うな関連をもっていたのかを検討するア︺とにする。
第二の課題は、増加しつづけたイギリスの人口がどのような分布状態にあり、それがどのように変化していったの
かということを明らかにすることである。人口は地域差をもちながら増加していったわけであるが、具体的には、イ
ングランドの北部工業地帯に人口が集中してゆくのである。したがって、この北部工業地帯と他の地方、あるいは工
業地帯と農業地帯とにおける人口変動の差異について検討しなければならなくなる。
第三の課題としては、北部工業地帯の中心的存在であるランカシヤ地方の人口変動を具体的に追求する作業がある。
工業地帯が発展してゆくなかで、どのような人口変動がみられたかということを検討してゆくことによって、いわゆ
る﹁人口と経済﹂との関連を分析する糸口がみいだせるものと思う。
イギリス産業革命期の人口分析の一視角 二八三
一橋大学研究年報 社会学研究 12 二八四
第四の課題としては、ランカシヤエ業地帯を形成する諸都市の問題が考えられる。たとえば、都市における雇用の
状態、賃金水準、衛生環境の問題、住宅問題、家族関係等汝が具体的には問題になるだろうし、﹁都市化﹂をめぐる
諸問題がとりあげられなければならないだろう。
以上のような諸課題を明らかにすることによって、当該時期の人口変動の様相に迫ることができると考えるのであ
るが、最後の第四の課題に関して本稿では触れることができなかった。残された課題としておくことにしたい。
︵1︶ q義鷺職≧ミ軌§砺匂ミ受跨ミざミぎ皐、﹄霧堕2①≦<o蒔り一Sρマ9”禽。
︵2︶5二一鍔∪−審宰設㌧ミ養・ミ≧ミ§㌔ぎ昏。§藝顛設ミ史県切ミ睾﹂§−§トぎ注。pま。も﹂。・含
小松芳喬監訳﹃最初の工業国家﹄、日本評論社、昭和四七年、㎝九六頁。
︵3︶ イギリスの人口増加率が最高を記録した時ですら、現在の発展途上国の人口増加率には達していなかったことをマサイァ
スは引用文のすぐ次の箇所で指摘している。つまり、現在の世界の人口問題は、一方で先進資本主義国の人口増加の減速がみ
られ、他方で発展途上国での﹁爆発的人口増加﹂があるわけであるが、この問題は当面のわれわれの目標からはずれるので、
本稿では触れないこととする。
︵4︶閃一ぎp罫≦﹄ミ蓉、愚ミ§§9§導き?貞象。、■。昌。戸導ρやp
︵5︶ ただし、人口増加のク・ノロジーに関する新たな仮説を本稿で展開することを意図しているわけではない。
︵6︶ω薯h。﹃gO・閏‘§﹄憎ミ裁、砺、魯ミ§§等§§ご、孚§笥○誉旨q夕導Nも。一ひ、
︵7︶浮ぴ葬ざぎ雪︸・㌧息ミ§§9§ミ§職肉§§鳶b§怠ミミ§もミ謡9u。一・8§dも‘§一も唱﹄軌−N9
ニ イギリスの人口増加
1 史料
ある社会のある時期の社会・経済状態を明らかにしようとする際、その総人口数、男女比、年齢別構成などを把握
することは重要なことであろう。このことによってすべてが明らかにされたり、それなくして何も解明されえないと
いった性格のものではないにしても、一八・九世紀のイギリスの人口変動について正しく把握することは意味のある
ことだと考える。そして、過去の人口変動に接近する揚合、直ちに問題になることは、いかなる史料をどのように利
︵1︶
用するかということである。史料の性格とその利用方法は、過去の人口変動を研究する際の基礎となるであろう。
周知の如く、イギリスで全国一斉の人口統計調査が実施されたのは一八〇一年のことである。その後一〇年ごとに
︵2︶
一九四一年を例外としてセンサス調査が行なわれ、現在に至っている。したがって、一八〇一年以降はセンサスを主
要なデータ;として利用することができる。もっとも、初期のセンサスは調査項目がきわめて粗雑なものであり、あ
まり利用価値は高くない。しかし、センサスの回数を重ねるに従って、徐々に調査の信頼度が高まり、調査項目の改
善が行なわれるようになった。また、一八三七年には戸籍制度︵。三一器署霞壁9︶が発足し、人口統計は整備されて
︵3︶
ゆくことになった。
ところが、第一回センサス以前には、全国的な人口統計は存在しない。さまざまな形の地方のセンサスが存在した
イギリス産業革命期の人口分析の一視角 二八五
ことは事実である。しかし、これらは全国統計ではないのである。そこで、さまざまな史料から一八〇一年以前の全
一橋大学研究年報 社会学研究 12 二八六
︵4︶
国的な人口統計を推計する努力がこれまでになされてきたのである。M・C・ビュアーによれば、一八世紀の統計学
者たちは、人口推計をおこなう場合、
ω全国の教区記録簿
図ロンドンの切凶一﹃9冒O拝巴一身
③地方の切芭ω9目O旨a一¢
圏若干の都市の統計表
個牧師その他の人々による補足的情報
㈲租税報告書
などの史料に依拠せざるを得なかった。その後、利用可能な史料が多くなったわけではなく、教区記録簿が最も重要
︵5︶
︵6︶
な史料であることに変りはない。しかし、この教区記録簿をもとにした一八世紀全般にわたる人口統計が作成された。
︵7︶
ジョン・リックマンが作成した一八世紀の教区記録簿統計︵評H酵一ぎ箒けR>ぴ暮H8一︶がそれである。この教区記録簿
︵8︶
統計をもとにして、一八世紀の人口動態を把握するさまざまな試みがなされることになったのである。
教区記録簿は制度としては一五三八年からはじまるのであるが、これは各教区の聖職者が、毎週の日曜日の礼拝の
︵9︶
後、前週その教区で行なわれた結婚、洗礼および埋葬を記録したものである。この教区記録簿は、一八三七年の戸籍
︵10︶
制度の確立まで約三世紀にわたって存続しつづけ、その間の莫大な情報が教区記録簿に記載されているわけである。
ここに教区記録簿が重要な史料となる理由があるわけであるが、他面、史料として多くの問題を含んでいることも確
かである。第一に、教区記録簿は洗礼や埋葬に関する記録であって、出生や死亡の記録ではない。また、人口数が示
︵n︶
されているわけでもない。これが記載事項そのものの問題点である。第二の問題点は、現実に記載が正しく行なわれ
たかどうかという点である。記載の脱漏の度合いが時代により地域により異なることが、全国人口推計を行なう際に
︵12︶
︵13︶
大きな障害となっている。第三点として、教区記録簿の制度が始まってから継続的に中断なく実施されたのはむしろ
稀れであったことを挙げることができる。そして最後に、教区記録簿が完全な姿で残存していることはきわめて少な
︵14︶
く、全期間にわたる完全な記録を残しているのは三教区にすぎないといわれている。
以上のように教区記録簿には史料としてさまざまな欠陥があるゆしかし、﹁そうした限界があるにも拘らず、教区
記録簿は、一六世紀以降三〇〇年間にわたる、イギリス経済史ならびに社会史のきわめて興味ある時期の人口の動き
について、貴重な指標を与えうる史剰﹂として、人口史研究にとっては不可欠なものなのである。とくに﹁家族復元
︵15︶
法﹂にとっては根本史料になっているのである。
︵16︶
教区記録簿についで重要な史料は教区記録簿統計である。この教区記録簿統計は教区記録簿を全国的に集計したも
のである。一八〇一年センサスには一八世紀に関する教区記録簿統計がリックマンの手によって作成され、第二回セ
︵17︶
ンサスには一八〇一年から一八一一年までの毎年の洗礼数、結婚数および埋葬数が示されている。このような教区記’
︵18︶
録簿統計を利用して人口変動を把握しようとすると、教区記録簿について述べた同じような問題が生じてくるのであ
る。さらに、フリンによれば、教区記録簿統計をリソクマンが作成してゆく際に使ったデーターは一九〇四年に廃棄
イギリス産業革命期の人口分析の一視角 二八七
>房尊碧梓について若干検討してみることにしよう。これがいわゆるセンサスと呼称されているものなのである。
と三つの項目からなる教区記録簿統計の二本立てである。後者に関してはすでに触れてきたので、前者の国自ヨ。声−
センサスの概要をのべることとしむつ。第二回センサスは七つの質問項目によって作成された国2ヨR豊9︾σ巽声9
異なる点は、第一回センサスには一八世紀の教区記録簿統計が記載されていることぐらいであろう。そこで、初期の
センサスからわれわれがとり出すことのできる情報は大部分一九世紀に属するものである。第一回全国センサスを未
︵20︶
見の状態にあり、その全貌を把握することができないが、第二回センサスとほぼ同様の内容のものであっただろう。
ついでわれわれにとって重要な史料は一八〇一年に始められた全国人口統計調査の結果である。当然のことながら、
ない の で あ る 。
︵19︶
処分となり、教区記録簿統計を作成する際の史料が存在せず、教区記録簿統計に示された数値を検証することができ
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」
族数、および上記の二つのいづれにも属さない家族数、
㈲主として農業に従事している家族数、主として商・工業︵ギ&P冒き鼠8言お。。・9頃き︵一耳簿︶に従事し七いる家
圖居住者のいない家屋数、
③建築中の家屋数、
ω担当地区︵評岳7日〇三邑・うo﹃型p8︶における居住されている家屋数および家族数、
第二回センサスは、次の七項目についての調査をイングランドの○︿。冨8βスコットランドのoD98ぎ器零窃に命
︵飢︶
じ、一八一一年五月二七日現在で回答するよう指示し、それらを集計したものである。調査項目は次の七項目である。
一剛
㈲調査時点で担当地区に居住している男女の人口数、
㈲一八〇一年の人口数と調査時点での人口数とに差異があればその原因は何であるのか、
ω以上の項目に回答する揚合とくに説明を要する事柄。
このセンサスから、人口数、家族数、きわめて大雑把な家族単位の就業状態、家屋数などが明らかにされるのであ
るが、初期のセンサスがいかに粗雑なものであったかということは明瞭であろう。第三回センサスは第二回センサス
︵22︶
と同じ七項目の調査であったが、改善された点は、年齢別構成が明らかにされたことである。第四回センサスになる
と、調査項目が一六になり、就業構造が以前のものよりも詳細に示されることになった。たとえぱ、従来農業人口と
して一括されていた項目は存続しているが、その内容をより詳細に調査し、成人男子に関して、農業労働者を雇用し
ている者、自作農、農業労働者の三つに分類している。また、商・工業に関しても、ω製造業、似小売業、手工業、
圖銀行家、資本家、専門職、四鉱夫、漁夫、道路工事人など、㈲その他、の項目で成人男子が分類され、家庭奉公人
︵%︶
などについては男女年齢にかかわりなく、人数が調査されることになった。
このように、センサスは毎回改善されてゆき、初期の不備な点は少しずつ克服されてゆくことになる。初期のセン
サスは多くの不備があるとしても、われわれにとって重要な史料であることには変りがないのである。
二,八九
︵1︶ 人口現象は特定の時代の社会の所産であると同時にその社会の存続発展に影響を及ぼすのであり、 その意味で人口変動の
把握は重要性をもつのである。︵館稔著﹃人口分析の方法﹄、古今書院、昭和四三年、 一五頁。︶
イギリス産業革命期の人口分析の一視角
一橋大学研究年報 社会学研究 12 二九Q
︵2︶。。⋮馨︾。戸蜜ミ噛こ醤、賢羨﹂国§き臭県ζ凡ミ切ミ恥ミ肋も。漏旨ぎ。貫導一も・罫
︵3︶o臥窪Fo鳶こぎミ§§等。ぴ、§ご\§譜も県§ミミ偽レ。&。Pω。8&国畠−まMも﹂軌・
︵4︶ 教区記録簿とは別に、さまざまな地方で人口統計の作成が行なわれていた。この地方の人口統計については、い攣∼ρ冒こ
ビ08一9霧島田ぎ夢O一〇。荘08言q.一㌔愚ミミご§切ミ§塁<O一,図図HHH閣2ρど冒胃。F這$。を参照。
︵5︶穿。﹃レnρ轄ミ沖モ馬ミミ§織ぎ箋ミ§§§ミ喚耐bミ砺ミ㌔ミ国ミやい砺ミ霜亮§馬n噛馬誉レ。巳。p一まも﹂。。・
︵6︶コ巨ご冒≦‘愚織w‘や一ω・
︵乳︶ 一,八〇一年のセンサスを作成する際、各教区の牧師は一七〇〇年から一七八○年までの一〇年、ごとの、その後は毎年の洗
礼数、結婚数、埋葬数を報告するよう指示された。各教区からの報告を集計して、ジョン・リソクマン︵甘一一コ差巳.ヨ目︶は
一七〇〇年から一七八○年までの一〇年ごとの、その後は五年.ことの教区記録簿統計を作成したのである。︵9臣些’Pりb
魯,竃馬こ℃マひ1四︶
︵8︶ 竃詳3亀勲U協昌ρ﹄酵帖ミ窯禽切蕊畿罫霞画ω&鴨噺“黛馬盟隣識肋議“勲O㊤ヨげ﹃一台。d9り、G3㌧や顛。各種の試算は主としてリ
ックマンの教区記録簿統計を加工して一八世紀の人口動態を把握しようとしたものである。フリンは、現在の研究者が有益な
情報をうる方法には次の三つがあるという。第一に、リックマンの手による教区記録簿統計があり、第二に教区記録簿そのも
のが考えられ、第三に家族復元法があるという︵コぎP冒宅‘魯・ミ・㌧℃や一㌣二・︶。したがって、教区記録簿統計は重要
のものは史料についてであり、第三のものは、その史料を加工する方法であるからである。
な史料なのである。ちなみに、いまのフリンの分類には多少の混乱がみられる。というのは、フリンの分類による第一と第二
︵9︶討旦多国臼㍉壽等誉、畑9§﹄要ミ黛魚§寒§勢皇㌔ミ§ミミ嚇§義ミ§§§聖曳黛ミ・o馨ヴ門一畠。d・
勺■︸一〇ひρや鼻恥薗
︵皿︶ 固冒p竃,︵‘愚・黛馬‘唱■嵩■
︵11︶ 民冨島p︾目‘.月ぎ9馨oq一譲︾山β奏婁9国夷房7寄署需器opま8占。。QM、﹂b臼霧辞u・ダ目ら団ぎ屋一聲q
いρ︵&・y、魯ミミ軌§き朗蓑ミ世い○区op這9一︾“c。ド
︵12︶ 国︿R巴oざU’中O、.国図℃一〇洋舞す昌oう≧嶺=8P娼畦冒プ園お馨o冴げ﹃>σqαq厩o竪試<o>ロ巴器厨.㌧≦門屯oざ国︾︵&,y
﹄§﹄ミき野ミ斡§ごh旨曳凡罫鴫賊篭ミ魯ミb“§魂ミ㌧ミ、Uo昌畠o戸一89℃、お
︵B︶嘱詠貫≦けこ3ミも﹄p , .. . 、 . . , , 、r
︵14︶ 琴野孝﹁イギリス産業革命と人口史研究﹂、社会経済史学会編﹃経済史における人口﹄、慶応通信、昭和四四年、八一頁。
︵16︶ 家族復元法の具体的な史料操作方法およぴ家族復元法による成果が・≦詠屯。ざ、国・>・︵。Py愚・&・のなかに発表され
︵15︶ 小松芳喬﹁イギリス人口史史料としての教区記録簿﹂、社会経済史学会編、同上書、エハ一頁。
ている。 、 、
︵17︶ 固凶⋮・琴≦・愚・ミ・・℃や嵩占避本稿作成過程で・一八〇一年のセンサスを筆者はづいに参照するこ乏ができなかった。
︵18︶﹄婁ミ黛県馬ぎきい馨ミ的§織訪亀ミ義噛言警博ミ旨§篭&,§﹂黛魯霧&き、富㌻、受嵩ミさミ県窺蔚ミ&婁短峯誌
9ミ領恥﹄自嵐ミ幅Wミ匙㌦、﹄き﹄無誉鳩醤謹醤恥黛§.﹄h8窯ミ貝ミ恥、息ミ衰噺§県Oミミ切篭ミ誉㌧§匙.皇き馬噛§、寒鷺ミ
U斗職§ミい§導ミ恥県、、︸一〇。誌・︵以下において﹄寓融§蝋貝勺魯ミミ一§﹂翼蕊Nトと略す。︶これがいわゆる第二回センサスで
あるが、℃﹃o躍日ぼ斜﹃鴫○げo。Rげ曽該o昌鉾国昌仁日Rp一一〇昌>σω#四〇一”℃騨ユ巴冒男①αq一ω3肘>σω#四含の三つで構成されている。われわ
れが参照しえた一八一一年、一八二一年、一八三一年のセンサスには、、いずれもそれぞれの年の人口統計とともに、それぞれ
のセンサス以前の一〇年間の教区記録簿統計が掲載されている。
︵19︶,固ぼP零≦こ号.ミ‘℃﹂o。。
イギリス産業革命期の人口分析の一視角 土九一
一橋大学研究年報 社会学研究 皿 二九二
︵20︶﹂騨鷺ミ馬貝、魯ミミ噺§﹂罫賊G。嵐トや界
︵21︶ き蔵こ℃やぼ貞,
︵22︶ 年齢を五歳未満、五ー一〇歳、一〇ー一五歳、一五−二〇歳、二〇ー三〇歳、三〇1四〇歳、四〇i五〇歳、五〇ー六〇
歳、六〇1七〇歳、七〇ー八○歳、八○ー九〇歳、九〇ー一〇〇歳、一〇〇歳以上に分けて集計が行なわれた。︵﹄婁ミ亀亀
導恥﹄§弩ミ恥§匙電塾ミ基§&馬鷺ミ簑黛ミ&§﹄魯憾ゑ恥匙§導恥、ミ訟欄馬ミ貝導馬淘竃恥蕊皇霞傍ミξ婁黛映凡ミ価縛ミ鷺
噛﹃嵐ミ畿ミ幾㌧、、﹄醤﹂匙誉、ミミ誌§一迅ミミミ魚導馬㌧魯ミミ艦§亀O§ミ切ミミき§織皇W蕊ぎミミ雛ミU思§§ミ§
導ミき、:、一〇。器・マ≦以下において﹄穿馬ミ亀県㌔愚ミミ§一﹄ミNo。も。Nと略す。︶
︵23︶ ﹄富鳳ミ黛魚蝋ぎ﹄誤亀ミ向§斜謁無ミ§§a魯慧ミ肋§ミ&§﹄罫曾旨匙蓄導馬韓ミ恥ミ評網恥ミ皇匙偽肉亀鷺蔓鴫傍
ミξ跨受映賊薦9ミ鷺国3きミ義匙一、、﹂醤﹂亀、ミミ恵誌畠養﹄“8ミミ県馬ぎ㌧息ミミ帖§剣q§ミ切註∼ミ§§職県、ミ鴨ミ鴇
ミb帖§§ミごミ導ミ恥駄、、一一〇。ωQ勉<〇一・一・マ≦一℃や訂決鉾︵以下において﹄寓馬ミ9皇、魯ミ&ご醤﹂騨鵠巽と略す。︶
2 人ロ推計
われわれは、一八世紀および一九世紀前半の人口変動を把握する際に利用しうる史料について若干の検討を行なっ
てきた。そこで、これらの史料をもとにした人口変動の推計方法及び推計結果について次に考えてみよう。人口推計
方法にはさまざまなものが考えられるが、その目的によって二分することが可能であろう。一方には、全国的人口統
計をめざし主として教区記録簿統計に依拠する方法があり、他方には、教区記録簿その他をもとに一地方の人口状態
をできるだけ忠実に把えようとする方法がある。後者が比較的新しい﹁家族復元法﹂という方法を用いるのに対し、
前者は伝統的なこれまでの方法によって分析を進めている。﹁家族復元法﹂
による人口分析は、現状では全国的な人口動態把握には程遠く、地方人口
57066,337
5,345,351
5,687,993
5,829,705
6,039,684
62479,730
7,227,586
8.5407738
7,814β27
92187,176
推計方法には若干の差異がみられる。そこで、具体的に﹁推計﹂に伴う問
とする。前者の伝統的方法といっても、その系列に属しながら、具体的な
戸1︶
史にとどまっているという点で、ここではこの分析方法には触れないこと
5,134,516
5,240,000
1720
5,565,000
1730
5,796,000
1740
6ン064,000
1750
6,467,000
1760
6,736ρ00
1770
7,428ρ00
1780
7,953,000
1790
8,675,000
1801
92168,000
O.58
一〇.66
0.08
3.9
6.6
6.9
6.4
8.3
一
11.5
一
34β74
一40,026
57112
240,174
4127065
458,760
457,189
一
635,158
951ρ04
一
げられた推計値であり、第−表のbは一八三一年のセンサスにのって
︵2︶
計を行なったのである。第−表のaは、一八一二年のセンサスにかか
一
そこから次のような﹂八世紀のイングランド・ウェルズの人口数の推
なったのである。彼は教区記録簿を集計して教区記録簿統計を作成し、
一
クマンは前述の如く、一八世紀全体に及ぶ人口動態に関する調査を行
第一回のセンサスを実施する際の中心的存在たるリックマンである。リッ
一八世紀のイギリスの人口推計を考える場合、きわめて重要な人物は、
題に入ってゆくことにしよう。
57475,000
1710
3.04
177,511
1710
6,012,790
1720
6,047,664
1730
6,007,638
1740
6,012,750
1750
6.2527924
1760
6,664,989
1770
7,123,749
1780
7,580,938
1785
7β26,032
1790
8,216,096
1795
8,655,710
1801
9,186,000
イギリス産業革命期の人口分析の一視角 二九一一一
まざまな推計値がある。このように複数の推計値が算定される最大の
ここに掲げた推計値はいわば代表的なものであって、この外にもさ
いる推計値である。第2表は、グリフィスが行なった推計値である。
︵3︶ ︵4︶
5,835,279
l a I b
増加率
人口数 増加数
1700
1700
第1表 リックマンの推計値
第2表グリフィスの推計値
Farr
BrO、∼niee
一橋大学研究年報 社会学研究 12 二九四
1102
1,243
1,142
1801−1810
1,276
1,276
1811−1820
1821−1830
1,272
1,359
1,278
1,278
1831−1840
1388
1,334
数を推計し、この推計された出生数と死亡数との差から人口の増減数をおさえ、さら
葬に関するものであり、洗礼数、埋葬数のそれぞれにある係数を乗じて出生数と死亡
理由は、さきにも記した如く、,教区記録簿、教区記録簿統計の記録が洗礼・結婚・埋
1,243
1791−1800
五乏いう係数を一八世紀全般について用いているが、ファー︵評3やブラウンリi
︵6︶
善の策として、洗礼数にある係数を乗ずるわけである。そして、グリフィスは一・一
︵5︶
洗礼数と出生数との乖離などを正確に把握することはきわめて困難なことである。次
に人口数を把握するためである。教区記録簿への記載の脱漏度や宗教上の理由によ惹
1781−1790
陥のあるものであるという。したがって、今後は推計方法の改良や他の情報をもとにした人口動態把握をめざさねば
︵10︶
選んだ一〇年きざみの統計だけでは、一八世紀前半の死亡率を高く算定することになり、人口動態を把握する上で欠
オーリンによれば、一七一σ年、二〇年、三〇年、四〇年はそれぞれの周辺の年よりも死亡率が高く、リソクマンが
さらに、リックマンの教区記録簿統計をもとにした人口推計は一〇年ごとの人口数の推計であり、一〇年間の平埼
︵9︶
を示したものではなく、ここから一八世紀全般にわたる人口動態をみることはできないという批判がある。P・G・
推計値を出しえないのが現状ではなかろうか。
一・二を採用して い る 。 そ れ
の 推 計 方 法 に は そ れ な りの
け で あ る が 、残念ながら合理的な
ぞ
れ 根
拠
が
示
さ
れ
て
い
る
わ ︵8︶
︵7︶
でも同様な困難があり、グリフ
ィ
ス
は
埋
葬
数
に
一
・一〇を乗じたものを死亡数と換算したのに対し、ブラウンリーは
︵騨〇一.巳。。︶ は 年 次 に よ
っ て 洗 礼数
数 の 比 率を
よ う に 変化
と
出
生 第
3
表
の さ
せ
ている。また、埋葬数と死亡数の関係
第3表洗礼数と出生数の
比率
ならないのであるが、現在のところ一〇年、ごとの推計値で人口変動の趨勢をみるより仕方がないものと考える。
そこで、われわれとしては、きわめて大雑把なものであるが、一八世紀の前半には人口増加は緩慢であったが、一
七五〇年以降人口増加率は高まり、一八一〇1一八二〇年にそれがピークに達し、その後はほぽ安定した増加率で推
︵11︶
移したことを、第4表の一八〇一年以降の人口動態と接続して考える程度のことしかできないのである。また、一八
︵12︶
世紀の一世紀間に人口数は約二倍になり、一九世紀の一世紀間に約四倍に増加したことぐらいは確認できるところで
あろう。
︵蔦︶
ところが、G・S・L・タッカーは、一八世紀の中葉を人口増加に関する転換点ととらえることに異議をとなえた。
その主要な論点は、ω一八世紀の前半は異常に高い死亡率を記録した時期であり、一八世紀前半の人口増加率はそれ
以前の時期と比較しても低い水準にあったこと、③一八世紀中葉より一七七〇年代までの人口増加は、その直前の人
口停滞を補う短期的な補償的波動であること、㈲新たな長期的人口増加は一七八○年代より開始されたこと、以上の
三点にまとめることができよう。このタッカーの結論の背後には、これまでの研究者が一八世紀の人口変動をとりあ
︵耳︶
︵15︶
げる際、その視野を一八世紀のみに限定し、それ以前の人口変動は停滞的で
1801−1810
14.00
1811−1820
18.06
1821−1830
1831−1840
15.80
14.27
1841−1850
12.65
1851−1860
11.90
1861−1870
13.21
1871−1880
14.36
1881−1890
11.65
1891−1900
1217
イギリス産業革命期の人口分析の一視角 二九五
〇年までの二世紀にわだる長期間に人口数を推計しえたのは一五〇〇年、一
ては誰もが賛成であろう。しかし、現実にタッカーが一五〇〇年から一七〇
第
4 たレかに、人口変動を中世にまでひきのばして考えること自体は考え方とし
表
あると安易に考えていたことに対する批判がこめられているものと思われる。
増加率
五四五年、一六〇三年の三時点のみである。この三つの推計値だけから二世紀間の人口変動を読みとることには多く
一橋大学研究年報 社会学研究 12 二九六
︵16︶
の危険が伴うといわざるを得ないのである。教区記録簿統計以前の、即ち一七〇〇年以前の人口統計を作成すること
は、一八世紀に関するもの以上の困難があるのだろうし、現状で一六世紀以来の人口変動の傾向を納得できる程度に
把握することは不可能に近いといっても過言ではなかろう。
同様な疑問はヘライナーの論稿についても言えることである。ヘライナーは、一八世紀の人口増加はそれ以前の二
回の人口増加の長期波動と同じであって、決してユニークなものではないと主張する。そして、一八世紀の人口増加
のユニークな点があるとすれば、高い水準から出発したことと、人ロの増加傾向が逆もどりすることなく維持された
ことであると主張する。このヘライナーの主張には、一八世紀の人口のみを扱っていたのでは人口増加傾向を正しく
︵17︶
理解できないという見解と、一八世紀の人口増加傾向があともどりしなかった原因の追求が重要になることの強調が
なされているものと思われる。前者に関しては、考え方としては正当であっても、現実的にはタッカーの主張に関す
るコメントと同様に、一八世紀以前の人口変動をより慎重に扱う必要があるだろう。後者の点は﹁経済成長と人口成
長﹂というテーマに連なる問題になるであろう。この人口成長と経済成長との相互関係の解明については、両者を短
絡的に結合させるのではなく、媒介項を入れて考えねばならないと考える。どのような媒介項を入れてくるかはそれ
ぞれの論者によって区々たるを免れえないが、われわれはすでに述べた如く、この問題を人口分布の変化、人口移動、
都市への人口集中、および工業の展開過程、などとの関連で追求してゆかねばならないと考えている。具体的には、
﹁人口﹂は機械制大工業の出現に際しどのような役割を演じ、どのように対応し、どのような成果をうけとったのか
という観点から分析しなければならないだろう。人口と経済成長との関係は、単に一方が他方に影響を及ぼすような
一方交通的なものではなく、相互交流のあるものであり、また人口増加にはある時期の社会的文化的要素が複雑にか
らみ合っているものと考えられるので、人口増加の開始時点の設定に多大なエネルギーを注ぎこむことは必ずしも得
策であるとは考えられない。
そこで、タッカーの論文では一七八O年代に新たな人口増加傾向を読みとろうとしているのではあるが、ここでは
一応大方の意見に従って、一八世紀の中葉において、イングランド・ウェルズの人口増加が開始され、一八二〇年代
︵B︶
に人口増加率がピークに達したとまとめておくことが無難ではなかろうか。
二九七
Q一9
Oロ 砕げΦ℃﹃①の9井 ω叶帥酔OOh
︵1︶ 家族復元法に関する議論については、速水融・安元稔﹁人口史研究における閃四ヨ一蔓男。8富巳ε臨9﹂、 ﹃社会経済史学﹄、
第三四巻、第二号 、 一 九 六 八 年 、 を 参 照 。
迅酵誉§W県、もミミ蝋§﹂亀NGD恥トくo一,一矯り風図・
﹄寓ミ§馬&㌧ 尽 ミ ミ 賊 § ﹂ 匙 賊 c o る o ト 唱 ■ 図 邑 鉾
念のため申し添えるが、いわゆる地方史の重要性を否定したわけでは全くない。
︵2︶
︵3︶
き&‘︾ま■
Oユ強些讐9↓己oサ竃馬‘℃ 一〇〇■
︵5︶
冒胃。nげ巴ど円,頃‘.↓ぎ男o℃巳pはgギoげ一〇ヨ畠弩ぼαQ二一Φ唄一己5ヰ一巴男o<〇一三一〇亮>Zoε
︵4︶
︵6︶
“ぎO帥昌。。−≦計op国零︵ay肉砺旨携§肉8§ミ鳶鴫裟ミ8U睾3P一3倉℃
Oop葺o<o話冤
イギリス産業革命期の人口分析の一視角
一橋大学研究年報 社会学研究 12 二九八
︵7︶ O臨塗一げ’O◆目‘o感’“籍‘℃臼一ひ
︵8︶ 冒孚﹃ωプ勲一一りd門.一肖‘NOも■馬魯‘℃■ω一〇cり
一〇軌U︶讐ρ口〇一〇匹び楓男一一一一昌㌧目’≦‘O博・も貸こ℃℃,一〇INO・
︵n︶ ○げ=昌矯b■O・、 ↓、罵﹄uo恥滴帖ミ恥魯ミ亀燃︸馬、、恥鯉馬鳶識鯉恥q︾恥“ン、\隔 砺焼ミ斜黛魚蝋、ミ鵠黛謄魚O鳩oミ鳳評o﹃、、馬ー﹄遣職黛偽、憶帖亀馬㌔O憾ミ馬9畿o番㌧
︵9︶b口。き鍔O‘魯■ミ‘℃﹄o,
︵自昌℃=げ一﹃げO自りげ。H︶。d門﹃Ooo一ω、頃帥Hく騨Hαd⇒一くO﹃ooみ曳い
︵U︶ 匡酔oげΦ一一簿]︾O帥昌O魎O博■も黛‘℃’ひ,
︵皿︶ 囚O一ω騨一一’坊。国‘﹄uO、ミ∼象畿Oミ㌔]﹁O昌qOづ噂一〇ひ圃︸℃■一ひ■
︵13︶ タッカーは一八世紀中葉より人口増加率が上昇したことは否定していない。人口増加の転換点を一八世紀中葉に求めるこ
とに反論しているのである。目8ぎさ9幹罫、国昌σQ一邑一b8−ぎ匹島昏一巴℃o℃巳暮δ昌日3昌3、り肉S§§鳶寅ミミ壕謁恥ミ恥鮮
ω①o自αoo臼一8<o一・区く一り29b。い這9︸や89このタッカーの論文の評価に関しては、琴野孝、前掲論文、を参照。
︵糾︶ 噛Φ帖“、、℃。O一軌●
︵焉︶ 噛ぴ帖賊一℃℃、bD一恥ーN一軌■
︵妬︶ 国ぴ画亀こ℃℃,boOOIN一一■
︵17︶ コo=oぎ05国,問■一、↓ぎ≦鼠一閑oくO一暮一曾男ooo拐5R&、一ぎO一p聲U・く。陣団<R巴oざU﹃団・O■︵a、y㌧愚ミ&帖§
画詰鳶軌騎、O㌣疑ヤ一ピO昌山O昌℃●00ひ■
︵B︶ 国一一p昌㌧嵩’ぐ唱‘O博●“帖職‘℃■Oω■
出生率と死亡率
イギリス産業革命期の人口分析の一視角 二九九
この変化をもたらしたものが何であったのかという点でさらに細かく意見が分かれてくるのである。
って、出生率の上昇を重視する見解と死亡率の低下を重視する見解に大きく分かれてくる。そしてそれぞれの見解は
のメカニズムはある程度明らかにされてくるであろう。というのは、この時期のイギリスでは、国外への流出者の数
ハ レ
と国内への流入者の数はほぼ相殺する程度のものであったと考えられるからである。そ.︶で、人口増加の原因をめぐ
と死亡のいずれかあるいは双方の変化が何によってもたらされたのかということを究明することによって、人口増加
一八世紀におけるイギリスの人口増加の原因を考える揚合、基本的な要因は出生と死亡である。そして、プ︺の出生
軽視するわけではないが、その重要性の認識は若干異ならざるを得ないのである。
といった性絡のものでもない。したがって、われわれはクロノロジーや人口増加のメカニズムに関する従来の成果を
社会との関係が明らかになるわけではない。また、クロノ・ジーを把握できなければ一歩も前進するア︺とができない
ても、そこから直ちに工業化社会へとイギリスが転換するに当たって﹁人口﹂が演℃た役割なり、﹁人口﹂と工業化
のク・ノロジーを完全に把握できればそれに優るものはないのであるが、仮にクロノロジーを完全に把握しえたとし
われわれは若干異なる視点からこれらの問題に接近することをすでにのべた。われわれの観点からすれば、人口増加
これまでのイギリスの一八世紀を中心とした人口史研究では、人口増加のクロノロジーの設定、人口増加の原因の
︵−︶ 、
追求、および人口増加と経済成長との関係などが主要な論点であった。これらの論点はいずれも重要なものであるが
3
一橋大学研究年報 社会学研究 12 三〇〇
長い歴史のなかで出生率と死亡率の変動を考えてみると、出生率には短期的な急激な変化は比較的少ない。それに
︵3︶
対して死亡率は戦争、飢鐘、疫病の流行などによって短期的に激しく変動することがこれまでにしばしばみられた。
したがって、短期的には死亡率の変化が人口変動にとって大きな要因となることは明白であろう。しかしながら、長
期的にみた場合、人口増加にとって死亡率と出生率のいずれが大きく作用したのかということは簡単に判定しうる性
格のものではない。イギリスの一八世紀、一九世紀前半の約一五〇年間に亘る人口変動を考える際には、短期的な変
動ではなく、まさに長期的な変動の原因を見究めるわけであるので、事柄の性格上、当初から困難が伴うわけである。
さらに、すでに何回も繰返し述べたように、当該時期の人口統計の史料は量的にも質的にも欠陥が大きいために、ま
すます作業は困難にならざるを得ないのである。
︵1︶ 拙稿﹁イギリス産業革命期の労働移動について﹂﹃一橋論叢﹄、第六五巻、第二号、昭和四五年二月、九三頁。
︵2︶園。窪。β>・ト黛εミミ曵§ミ§§讐ミ、毯q−駿9ぎ・。一鍾。Hdら、し旨9や一ご§量pω︸勺も︾“転馬■も。
︵3︶ ≦﹃一αq一〇ざ≦・>・︾、o讐§議§§&鳶翼ミ琶2。乏網9ぎ一8沖℃・ひ♪速水融訳﹃人口と歴史﹄、平凡社、昭和四六年、
一c。ざ前掲邦訳書、一九六頁。
七二−七四頁。
A 出生率
まず出生率の動向に注目してみよう。研究史的には、出生率の上昇を人口増加の原因とみなす見解は比較的新しく、
︵−︶
死亡率重視の見解に対する批判として登揚してきたものである。また、現在の世界の人口増加の主たる原因として出
︵2︶
生力をあげ、世界の人口増加の分析の中心が出生力の分析であるという状況からも、イギリスの工業化の初発の段階
においても出生力ないし出生率の変化を重視する傾向にあることは否定できないであろう。
マサイアスは、イギリスの人口増加の説明は、一七五〇年代に人口の三分の二が住んでいたイギリスの農村に求め
ねばならないとのべると共に、一七五〇年以降の人口の急激な増加を説明する主要な変動として﹁高い出生率と乳児
︵3︶
死亡率の低下﹂を指摘している。このマサイアスの主張は出生率重視説と死亡率重視説を折衷したもののようである
︵4︶
が、彼が﹁乳児死亡率の低下がもたらす経済的効果は、人口学的に言えば出生率の上昇に等しい﹂とのべているとこ
ろから、マサイアスはどちらかというと出生率重視説に傾いていると見倣してよいだろう。さらに、マサイァスは、
︵5︶
この出生率の上昇が結婚率の上昇や結婚年齢の低下、婚姻内の出生力の上昇などによってもたらされ、しかもこれら
が社会的経済的要因に作用されて変化したのだと主張する。とするならば、人口増加と結びついた地域は、﹁拡大し
つつある地域﹂であり、﹁商工業が広く行なわれていない農村社会﹂は人口増加への貢献度が低いということになる。
︵6︶ ︵7︶
ところが、このことはイギリスの大部分の人口をかかえていた農村地帯が人口増加を分析する場合に重要であるとマ
サイアス自身がさきにのべた主張と明らかに矛盾している。問題は地域ごとの人口増加を絶対数でおさえるのかそれ
とも相対的にとらえるのかということをマサイアスが明確にしておかなかったために生じたのであろう。そこで、わ
れわれが出生率に注目する場合、さらに次のような点に留意しなければならないと考える。すなわち、まず第一に出
生率の内部を詳しくみること、第二に出生率の変動と経済状態との関係、第三に地域差の有無、以上の三点が出生率
イギリス産業革命期の人ロ分析の一視角 三〇一
一橋大学研究年報 社会学研究 12 三〇二
を検討する揚合の重要なポイントとなるであろう。
第一の点、すなわち出生率の内部を調ぺることの必要性とは、出生率の変動だけでは不充分であるということを意
味している。たしかに一定期間に発生した出生数と人口数との比率は多くのことを明らかにするのであるが、同時に
他のものを隠蔽することがしばしばある。出生率は、再生産年齢女子人口に対する出生の比率、全人口に対する再生
︵8︶
産年齢女子人口の比率、結婚している再生産年齢女子人口の女子人口に占める比率などが総合されたものであり、た
とえ出生率に変動がなくてもこれらの諸比率に変化があることは充分考えられる。したがって詳細な分析にとって出
生率だけでは不充分 に な る の で あ る 。
ところが、イギリスのわれわれが問題にしている時期に関する出生についての詳しい統計は残念ながら全国レヴェ
ルでは整っていないのである。一八世紀の出生率に関するこれまでの研究は、教区記録簿統計にあらわれた洗礼数を
出生数に転換し出生率を算定する作業が主要なものであった。そして、これまでに、一八世紀の前半に出生率がめざ
ましく増加し、一八世紀の後半から一八三〇年代にかけて増加した出生率がほぼ維持された、という見解が一般的で
あった。つまり高水準の出生率の維持が人口増加の主たる原因であるとする見解である。この出生率重視の見解をさ
︵ 9 ︶
らに発展させたのがクラウスである。 一七八○年ー一八四〇年の期間を検討した結果、クラウスは次のような結論を
︵10︶
︵11︶
提出した。まず死亡率については一七八○年代から一八一〇年代にかけて重要な変化はみられず、一八二〇年以降若
干死亡率が減少したものの、死亡率の低下がイギリスの人口変動に重大な役割をはたすことはなかった。他方、出生
︵惚︶
率は一七八○年代から一八一〇年代にかけてめざましく上昇し、とくに一八〇一年−一八〇三年には結婚数が急激に
︵13︶ ︵M︶
増加し、さらに一八二〇年代からは出生力は低下してゆく。かくしてクラウスは一七八○年以降の人口増加の原因を
出生率の上昇に求めた の で あ る 。
さらに、﹁家族復元法﹂を用いたデヴォンシャーのコリトン教区の分析結果によれば、一七七〇年ー一八三七年の
︵15︶
期間はその前の一七二〇年ー六九年の期間よりも再生産年齢女子人口の出生力は高まっていたことが確認されており、
ホリングスワースが貴族家庭を対象に行なった研究でも、特定の社会階層についてだけにしかいえないことではある
︵16︶
が、一七六〇年以降出生力が著しく高くなったことが明らかにされている。
以上のような出生率の上昇は結婚年齢の低下と結婚数の増加などによってもたらされたとみなすのが一般的である
が、これらはさらに雇用の機会の増大、定期的な収入の確保、食糧事情の改善など総じて経済的改善によるものと考
えられている。ところが、M・W・フリンは、所得と出生力との相関関係を短期間については妥当すると認めている
︵∬︶
が、長期的にはこの相関関係を必ずしも認めることができず、長期的には経済上の改善と出生との間の相関が従来考
︵18︶
えられていた程直接的ではなくより複雑なものであり、かついまだに確定されていないと述べている。このフリンの
国目oN鴇昌。。匿り園,男;↓欝ミ恥黛簑§ミ恥ミ魚㌧o憾ミミご醤Oε§ミ﹄ミも導o勢騒醤“肉塁ミ避
竃aωげp=︾日■閃‘、↓70℃o唱三鉢δ昌b3げ一〇3山=眠昌σq昏o目コα5ω窪㌶一男o<o一算酬o昌.㌧Ns●
20乏吋9〆這ひPや
亀鴨こ℃マいOひーいOヨ
問題提起は、今後の大きな課題の一つになるだろう。
︵2︶
窯暮三霧触コ尽’匙じ︾一〇。P前掲邦訳書、一九九頁。
三〇三
︵−︶
︵3︶
イギリス産業革命期の人口分析の一視角
ω
︵7︶
︵6︶
︵5︶
︵4︶
きミ、唱、ま
国一目噌零 譲 こ 号 息 ‘ 唱 ■ § 占 外
專ミご同上、二〇一頁。
奪§㌧サ一8り,同上、二〇二頁。
等蕊‘同上。
きミ■一同上。
一橋大学研究年報 社会学研究 12 三〇四
︵9︶
H︵田扇p冒円こ.Ω§韻窃5日αq一醇国。&一ξ騨民竃o澄一ξ︸旨。。一∴。。軌。、嚇両8§ミも聖紙ミ更ざミ§㌧ω。8昌ω豊8
︵8︶
︵10︶
︸ゆ磐ωρ一,↓‘.響αQ一一ω︸一矧o℃巳鋒g窯○く。ヨ。暮。・団g’く①窪旨。o②巳一。。軌o.輸5u声ぎり零︵。畠臼yぎ、ミミ軸§黛
<o一 図Hい 20ー 一、 一〇軌QQ︸ ℃, MO■
︵11︶
) φ ) ) )) )
頃3箒首ぎい、∪。讐巨圃呂牢o乞。ヨ貫a国震o需嘗団88邑。u。邑ε臼。暮ぎ菩巴緯。団蒔犀。自浮帥&蜜器梓①窪9
ρ︵ay昏ミ㌧電、いま1鴇どマ鴇M.
頃〇一ぎ讐く葺ダ日閏,、.>∪§o噸巷ゴ・o。汁且図o摩ぎ騨置旨u・8一田巨一誘.㌃昌9霧㎝㌧∪・<・馳野。邑。ざq
ダゴαqδざ≦・>︸o︾匙、℃・o。o。い前掲邦訳書、九八頁。
一ぴ帆駄■㎏ ℃, 一bo団、
﹄ぴ軋載㌧ ℃, 一Nα甲
き裁こや一舘■
噛醤職ミ 恥W
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. ︸ ﹄§ミ魯§肉亀ミ§蔚笥恥竃§ヤ<〇一、目月2ρρ這9㌧隠■ひO。。ふ二,
ω ︵18︶ 国一ぼP冒,ノ < ‘ 魯 ■ 亀 ひ 唱 ℃ 。 い ㌣ い 命
B 死亡率
出生率重視の立場と対比されるのは死亡率重視の立揚である。死亡率重視の見解は研究史のうえでは比較的古く、
一九二六年に公刊されたG・T・グリフィスの﹃マルサス時代の人口問題﹄が一つの画期をなしたと考えてよいだろ
︵1︶
う。グリフィスは、教区記録簿統計にある埋葬数に一・一〇を乗じたものを死亡数とみなし、死亡率の変化について
次のようにのべている。﹁一八世紀の当初から一七三〇年までに死亡率は上昇し、一七三〇年には死亡率が出生率を
上廻った。一七二〇年から一七五〇年頃までの間に死亡率はピークに達したが、この期間はジン飲酒の時期と一致し
ている。その後死亡率は一七六〇年まで低下してゆき、一七八○年まではゆるやかに上昇した。⋮⋮一七八O年から
︵2︶
一八一〇年にかけて死亡率は二八・八知から一九・九八伽へとさがった。﹂このような死亡率の変動に影響を与える
ものとして、グリフィスは死亡率を高めるものと低下させるものに分けて考える。前者には、ジン飲酒、穀物価格の
︵3︶
上昇、戦争などが入り、後者には医学、科学、環境衛生などの改善・進歩などが考えられた。そして、死亡率の減退
︵4︶
を人口増加の主要な原因としてグリフィスはかかげ、とくに医学の進歩を強調したのである。
このグリフィスの﹁医学上の改善﹂を重視する見解に対して、医学史家たちは批判を加えた。マソキューンHブラ
︵5︶
ウンは人口増加の主たる原因を死亡率の低下に求める点ではグリフィスと一致している。グリフィスに対する批判は
この死亡率の低下をもたらした要因をグリフィスが﹁医学上の改善﹂とした点である。マッキューン”ブラウンは、
一八世紀の後半と一九世紀の前半に仮に医学上の進歩があったとしても、それが実際に患者に対して良好な結果を及
イギリス産業革命期の人口分析の一視角 三〇五
、
一橋大学研究年報 社会学研究 12 三〇六
︵6︶
ぼすこと、すなわち死亡率の低下に結びつくようになるのはのちの時代に入ってからであり、グリフィスの主張は妥
当しないと批判する。死亡率に変化を及ぼす要因としては、特定の予防法あるいは治療法、環境の改善、伝染病体の
毒性と抵抗力のバランスの変化などが考えられ、それぞれの病気については上記の三点について個別的に考える必要
があるが、住宅、上下水道、健康などのいわば﹁経済的社会的改善﹂が死亡率の低下を導き、そのことが人口増加に
︵ 7 ︶
結びついたと彼らは主張する。
マッキューン”ブラウンの主張は、経済発展が人口増加に先行して行なわれ、それが死亡率を通じて人口増加につ
ながっていったという関連になるのであるが、すでに触れた如く、経済上の発展は死亡率にではなく出生率に刺激を
与えたと解釈する見解がある。したがって、死亡率の変化を重視するからには出生率ではなく死亡率に主として作用
する要因をみつけ出さねばならない。さらに、学界の全体の動向として出生率を重視する立場が主流となってきてい
るので、現在のところグリフィスに示されたような死亡率の重視およぴ医学上の改善に力点をおく見解は支配的では
なくなってきたのである。
このような動向のなかで、P・E・ラッツェルのみが医学の進歩、とりわけ種痘︵イノキュレーション︶の普及によ
り死亡率が低下し、これによって人口増加の大部分が説明できると主張しているのである。ラッツェルは一八・九世
紀の人口は経済的諸要因によって増加したのではなく、人口増加が経済変化の主要な原因であることを立証すること
を主たる目的としているのであるが、当然のことながら人口増加の原因の分析が中心にならざるを得ない。ラッツェ
︵8︶
ルはまず新マルサス主義の主張を批判の姐上にのせる。ラッツェルによれば、新マルサス主義者たちは、一八・九世
び
紀における雇用の機会の増大、生活水準の上昇などが結婚年齢を低下させ結婚数を増加せしめ、かくして出生率が高
まり人口が急速に増加したと主張している。ところが、ラッツェルは、ω一八世紀を通じて結婚年齢、結婚率ともに
ほぼ一定であったし、地域によっては出生率や結婚率が低下しているところもあること、図他方、長期的には死亡率
が低下していること、圖産業の発展と高出生率との間には特別の連関はなく、一八四〇年代の初期を例にとれば、工
業州よりも農業州において結婚年齢や出生率が人口増加に結びつく状態にあったこと、㈲経済状態は女子の結婚年齢
︵9︶
を決定する主要な要因ではないこと、以上のような論拠によって、﹁経済発展﹂が人口増加を促進したとする見解を
批判する。そして、一八・九世紀の人口増加は出生率の上昇によってではなく死亡率の低下によってもたらされたと
主張する。
しからぱこの死亡率はいかなる原因によって低下したのであるのか。ラソツェルによれぱ、一七五〇年ー七四年
の死亡率の急速な減少は、天然痘に対す石予防接種の普及によって、すなわち天然痘による死亡が減少したことによ
ってもたらされた。予防接種は全国的に普及しており、イングランドだけでなくアイルランドの人々に対してもこの
︵10︶
予防接種が幼児死亡を減少させる効果を生み、このことこそが人口増加の原因であるとラッツェルは主張するのであ
る。
ラッッェルはさらにこの増加した人口と経済との関係に言及しているのであるが、ここでは人口増加と経済発展と
の関係に関する議論を割愛する。問題になる点は、上記のようなラッツェルの主張をどう受けとめるのかということ
である。欧米の学界の動向は、ラッツェルの主張を必ずしも正当なものと受けとっているわけではない。というのは、
イギリス産業革命期の人口分析の一視角 三〇七
一橋大学研究年報 社会学研究 12 三〇八
ラッツェルが出生率は一八世紀のほぼ全般にわたって一定であったと断言しているが、このことが確定しているわけ
︵11︶
ではなく、死亡率の低下、とくに幼児死亡率の低下に関して天然痘の予防だけですべてが説明されうるわけでもなか
ろう。これらの点も含めて今後の研究成果の積み重ねが重要になることは明瞭であろう。
ラッツェルは医学上の改善、とりわけ天然痘への予防接種を重視したのであるが、人ロ変動を長期的にみて死亡率
の低下を重視する研究がある。ヘライナーの業績がそれであり、ある側面ではすでにのべたクラウスの﹁補償的波
動﹂の考え方と近似している。ヘライナーは、一八世紀の死亡率の低下はそれ以前の高い死亡率の時代が終り、飢謹
と疫病の流行による﹁人口危機﹂がその頻度を減ずるようになって、自然に生じたものであると主張する。いわゆる
食糧危機が一八世紀のイギリスにはみられなくなり、このことの当然の帰結として死亡率が低下したとヘライナーは
のべるのである。
︵ 1 2 ︶
さらに、ペスト菌自体の変化やペストの消滅などによって死亡率が低下したと主張する見解などさまざまな主張が
あるのであるが、これらの点、とくに医学史に関してわれわれはいまのところ評価する術をもっていない。われわれ
︵ 1 3 ︶
としては、死亡率が一八世紀後半から一九世紀の初頭にかけて低下したということぐらいの確認しかできないのが実
晴である。
かくして、われわれは死亡率重視と出生率重視の折衷的立揚に甘んじなければならないのであるが、われわれとし
ては人口の状態をよりよく把握するためには人口分布や人口移動などを分析してゆくのが得策であると考えるので、
この人口増加の過程およぴ人口増加の原因に関してこれ以上とどまることをせず、先に進むことにする。
︵1︶
︵2︶
︵3︶
︵4︶
9ま9’O。円こ愚.匙こやい鈎
噛ミ恥こ℃や鴇占o。・
き蕊、︾いP
まミζマ£,
罫ぎ。善鳶■帥註中。≦p罰o‘、箒身巴閃&臼8寄一鋒①山8野αq一尋勺。旦豊g9塁窟ヨぎ国αq年Φ雪昏
きミ、マお・彼らは、当時の病院は死亡率を低下させるどころか逆に死亡率を高めた揚合すらあるとのべている。︵串ミ・・
O自嘗
曼
、、U量葦零︵a−y魯甲豊焼ζや斜一・
︵5︶
︵6︶
き§、℃や$も9毒性と抵抗力とのバランスの変化は栄養状態の改善によってもたらされたとも解釈できるわけで、.︶
℃マ 轟㌣わ♪℃お ■ ︶
︵7︶
評§F即鼻.ぎ旦器8爵。薄げの区国88邑。9鐘鴨3国の耳。。暮7帥邑田身2ぎ§馨げ,o窪言蔓
O
こか ら も
経済的 要 因 の 重 要 性 が 主 張 さ れ る の で あ る
︵8︶
団韻一きα 騨&H邑四巳.、ぢ︸g8国,い,目畠憲夷馨o■騨︵。e﹄§鮮ト&。ミ§&寄ミ§§輔醤蔑一馬﹄蔑豊恥馬憤ミ
き&こ電■ま一1まb。り
串ミこマ駅一,
ま&こ唱マ ま ㌣ ま 命
︵11︶
国亀晋9界コ.9。≦巨評く。耳一8壽。自且。邑.、〇一pβu■く﹄区団<。邑聲u・即ρ︵区y暑・ミ・も・。。u
ギリス産業革命期の人口分析の一視角 三〇九
︵12︶
︵10︶
︵9︶
笥ミミ ミ 8 醤 b いo&op一〇ひぎやまO●
一橋大学研究年報 社会学研究 12
これらの諸見解については醒言戸ヌ≦■︾ 魯、ミこ唱,畠占9を参照。
人口分布の変化
三 イングランド北部工業地帯への人口集中
1
三一〇
まず人口の絶対数を示しておこう。最初にイングランドの全州にわたる人口数を示しておいた方が、特定の州を一
分布の変化をみてみることとする。
︵2︶
つ多大の労力を要するので、ここでは便宜的にこれまでに出されてきた研究成果に全面的に依拠し、イギリスの人口
〇一年以降の諸センサスである。しかしながら、これらの史料から人口数を推計する作業自体は多くの困難を伴いか
人口分布状態を分析する際に史料となるものはいうまでもなく前節で検討した教区記録簿、教区記録簿統計や一八
のがここでの課題になる。
概念を一八.九世紀のイギリスに適用することによって、この時期のイギリスの人口状態に光をあててみようとする
的視野の下で考えた揚合、現在のイギリスが人口綱密な国であると規定できたのである。そこでこの相対人口分布の
人口分布に関する一側面をのべたことになる。人口分布には、絶対人口分布と相対人口分布が考えられ、後者の相対
︵−︶
人口分布はある特定の地域の面積とそこに住む人口数との対比を行なったものである。そして、相対人口分布を世界
われわれは本稿の冒頭で、現在のイギリスが人口密度のきわめて高い国であることを指摘した。このことは世界の
(
13
)
第5表各州の人口
1701
イギリス 産 業 革 命 期 の 人 口 分 析 の
Bedfordsh星re
Berkshire
Buckmghamsh!re
Cambrロdgeshire
Essex
Hcrefordshire
Heltfordsh1re
Hunt聖皿gdOIlshire
LinCQlnsh[re
Norfork
Oxfordsh且re
Rutland
Suffork
Sussex
1
1751
1801
52,978
55,407 (4.6)
76,790
85,977(12.0)
81p723 (85)
72p674(一10.4)
75291
81113
168,527
180,465 (7,1〉
74,210
70,426 (一5.1)
72,602
76,457 (5.3)
31533
30,258(一4.0)
1797095
2425U
84005
15404
161騨245
97,199
65r416 (18,1)
112,701(31ユ)
110,873(357)
145,558(57,9〉
233,664(29、5)
321,044 (37曾4)
92,038 (30,7)
112,450 (22,2)
100,691 (3L7)
38,767(28、1)
125,213(一18、3)
321,001 (156,4)
282ρ96 (27,5)
394,399 (39.8)
89,227 (62)
113置119 (26、8)
ユ53β51 (36.0)
11,742(一23,8)
16,878 (43,7)
159,577 (一LO)
94,315(一3.0)
299,618 (38.0)
164駒396 (74.3)
275,374 (67、5〉
242β31(27、1)
815,162(45,9)
157,206 (46)
191,015 (21.5)
419,676 (8.5)
558β30 (33.2)
視角
Cunlberland
DerbyshIre
Devonshirp
Dorsct
Hampshlre
Le量ceste【shlre
Nonmouthshlre
Nor山amptonshire
Nottmghamshlre
Shropshlre
Somerset
Westmorland
1置949,446 1,9597655 (0.5) 2,605,042 (329)
331,119
3691327
(4L7)
107,648 (7,4)
197p871 (83.8)
3381116 (70,9)
131,901 (7,8)
1947278 (47,3)
3043290 (56。6)
81,060(一10.1)
120ン972 (49.2)
171,571 (41.8)
100,734(一11,6)
166,285 (65,1)
239,812 (44.2)
306p524 (一7.4)
353,948 (155)
499,986 (4L3)
87,427
88β18 (1.0)
108,409
134,148 (23,7)
79,123
19,601 (16,1)
217,147 (361)
386,636
ComwaiE
53,784(38,7)
153,270(一14.4)
150307
100221
122403
90182
113998
144,938 (43。9)
221,255(一8,8)
、Viltshlre
小 計
147ρ08 (30,4)
1487161 (33,6)
92,198 (26、9)
∼Va且es
Cheshlre
1S31
96,547 (47.6)
91,649 (158)
119,000(34.7)
161,026 (35,3)
226,667 (690)
317,781 (40,2)
134,233(46.5)
199,197 (48,4)
26,467
29,524 (11,6)
47,037 (59,3)
99,223 (110,9)
112,130
111,834 (一〇,3)
135,962 (21.6)
181,334 (33,4)
85,009 (一〇.2)
85,145
117−369
214ρ%
144,82) (70、4)
277,837 (91,8)
126,072 (7,4)
172,989 (37.2)
225,421(30,3〉
222,526 (3.9)
282−487 (26、9)
408,702 (44,7)
㈹134
35,951(一104)
95,764 (一一6.8)
143,780(501)
213,719 (48,6)
YorkshLre,E.Riding
72,042
73慶626 (22)
139,706 (89.8)
206,528 (47,8)
Yorksh[re,N、R!ding
118,652
107,524 (一9、4)
163,275 (518)
1923881 (18.1)
Worcestershlre
小 計
102,721
1,g21,638 1,929,812 (0.4) 2,786,264(44,4)
Durham
112724
Gbucestershire
130,091
155,216
Kcnt
203000
168679
Northumberlan(1
155694
238735
582815
118380
Sta行ordsh亙祀
124飼151
Surrey
130p965
Lancashire
ムIidd1【sex
Warwickshire
Yorkshire,W,Ridmg
小 計
Engllu】d and Wales
42,945 (19.5)
97,387
238,848
317,740
590,165
139011
140562
133,427
124,760
303,098
(154)
165,479 (272)
55,654(29、6)
4043078
(45ユ)
256,738
391,330
484,492
(52.6)
(55ユ)
(30,8)
258,814(27,5)
(8.3)
317,442 (88,2)
(33,1)
69¢,202 (118.5)
1,351,745
(94,7)
(1,3)
844,240 (43.1)
1,373,460
(62.7)
(17,4)
162,115 (16.6)
225395
(39、0)
(132)
246p786 (82.7)
415,085
(68.9)
277,630 (10S.1)
491751
340359
987225
(77.1)
(1。9)
(28,1)
214,835 (722)
(26,9)
583,324 (925)
(512)
(58.ヰ)
(69.2)
1,954,915 2,2507533 (15ユ) 3,764,867 (67.3) 6p317,580 (67.8)
5,S267000 67140,000
g置156,171
14,051ρ86
* De斑】e7P.and Cole,、V。A,,oρ.o1’.,p、103.
()内の数字はその州のその年度の人口数かこの表にあらわれた前年度の人口数に対し
てどれだけの増減があったかをパーセントで示したものである。したがって,1831年の
人口数のあとにある増減比率は30年間の変化を示し,1801年・1751年のものは50年
間の増減比率を示している。
1700
1750
{
353
97
Cheshire 92 105 13
174
West Riding 91 122 34
Nottingham 105 111 5
212
{
163
{
236
162
LeLcester 100 123 22
Warwick 112 152 35
VVorcester 141 139 − 1
189
Sta丘ord 111 133 20
210
Northampton 115 122 5
134
Cambridge lo1 95 −5
109
Huntingdon 89 90 1
104
Rutland 104 80 −19
109
Bedford 116 129 10
138
Buckingham 115 120 15
147
Berkshire
Berkshire 110 131 18
155
Oxford
115 130
0xford 115 130 12
148
Llncoln
Llncoln 65 59 −9
65 59
Shropshire
Shropshire 92 104 13
92 104
Hereford
0,7
90 91
130
Norfork
Nortork
116 112
−3
129
Su丘01k
110 116
4
142
Essex
103 117
13
137
Gloucester
125 173
38
199
Somerset
113 125
10
137
、ViItshire
132 144
10
165
{
{
一橋大学研究年報 社会学研究
増加率%
Lancashlre 127 179 41
増加率%
5755332553
55
3062
5221615914
42
2624
りもよいものと考える。第5表
1801
58
14
12
17
75
107
17
GonnerンE.C、K,,‘The PGpulaUon of E皿g星and in the Eighteenth
Century’,/0軍‘隅αJ oゾ疏6Roy¢’5’餌じ5な飢‘50‘f6’y,VoL LXXVI,
Part III,(February,1913♪,pp.288−293.
三一二
定の基準でピソクアップするよ
によって、人口がどの州にどの
ように分布していたのかという
二とがわかると同時に、それぞ
れの州における人口増加の傾向
も読みとることができる。ただ
し、とりあげた時期が一七〇一
年、一七五一年、一八〇一年、
一八三一年の四つであり、あま
りにも大雑把すぎ、四つの時点
の中間に起こったであろう変化
はすべて隠蔽されているので、正確な人口増加傾向をこの表から読みとることは不可能 か も 知 れ な い 。 それにもかか
わらず、この第5表から、それぞれの州の人口変動の特徴をつかむことは可能であろう 。 また、特定の州をピックア
ップして一平方マイル当たりの人口密度を表示したものが第6表である。第5表と第6表からわれわれは次の点に注
意する必要があるだろう。
第6表1平方マイル当りの人口密度
ω州により入口の絶対数には相当のひらきがあるものの、一八世紀の初頭においては人口密度の差はあまり大きく
なく、人口は全国的に平均して分散していた。ところが一八〇一年には人口密度の差が州によって大きくひらき、平
均的に全国に分散した人口分布ではなくなった。
ωこのような人口分布の変化は、各州が長期的には人口を増大させているが、それぞれの州によって人口増加数、
人口増加率などに差異がみられるために生じたのである。
⑧州によって人口増加率が異なることの結果として、人口密度に関する各州の順位に変更がみられるようになり、
急速に発展をつづけている地域では人口増加率のみでなく人口増加数も高まり、したがって人口密度がきわめて高く
なっ て い っ た 。
これらのことを別の表現でいいかえると次のようになるだろう。商工業の中心地を自州内に有するいわゆる商工業
州では人口密度が急速に高まっていったのに対し、いわゆる農業州では商工業州に比して人口密度の高まりは緩慢で
あり、各州を人口密度を基準に配列すると上位には商工業州が圧倒的に多くなるのである。たとえば、ランカシャ、
チエシャ、ヨークシャのウェスト・ライデングなどの繊維工業の中心地では人口増加率が著しく高く、また金属工業
地帯を形成しているミドランド諸州でも一八世紀後半の伸びが著しい。これに対して、いわゆる農業州では、一八世
紀前半には増加率が低く、絶対的減少を記録した州もみられたが、一八世紀の後半にはほとんどの州で人口増加を記
ヤ ヤ ヤ ヤ
録し、人口密度が高まっていった。しかし、商工業州の伸び率と比較した揚合、農業州の人口増加のスピードはそれ
程めざましいものとはいえない。このことから直ちに農業人口の増減を語ることはできないのであり、たと、”几農業州
イギリス産業革命期の人口分析の一視角 三一三
一橋大学研究年報 社会学研究 12 一一二四
とされた州で人口増加があったとしても、農業従事者がどれだけ増加したのかということはさらに詳しく分析しなけ
ればならないことである。ここでは、一九世紀の前半までは農業州でも人口増加がみられたことを確認しておけば充
分であろう。
以上のようにして、これまで検討してきた人口増加は、全国一律にあるいは全国的に均等にみられた現象ではなく、
時代や地域によって異なった様相を呈しており、それが集計されて一八二〇年代に人口増加率がピークに達したとい
うことになる。したがって、このような人口増加の傾向に対してそれぞれの州なり地域なりの貢献度は異なるわけで、
どのような地域が最も大きく貢献したのかというと、すでに触れた如く、商工業の発展と結ぴついた地域ということ
にな る だ ろ う 。
この点についてディーン”コールは次のようなことを明らかにした。彼らはイングランドの全州を商工業州、農業
州、中間州の三つに区分し、一七〇〇年から一八==年の間の五つの時期をとって、それぞれの人口変動を示した。
︵3︶
それによれば、一七〇一年の時点では、商工業州、農業州、中間州のいずれもが、全人口に占める比率においてほぼ
同じであった。ところが、一八三一年になると、商工業州の人口が全人口の四五パーセントを占め、農業州が二六パ
ーセント、中間州が二九パーセントというように変化してゆき、イングランドの﹁人口重心﹂が南部から北部へと移
っていったのである。問題になるのは、このような北部諸州の人口増加がいかにして可能であったのか、という点で
︵4︶
︵5︶
ある。ディーン”コールは各州の人口増加を自然的増加と社会的増加に分けて分析を進めた。その結果が第7表であ
る。.一こからディーン”コールは、一八世紀を通じてイングランドの北西部や北部の諸州は南部の農業州よりも高い
第7表 自然増加率と社会的増加率(知)
社会増
1701− 1751− 1781− 1801
50 80 1800 −30
1701. 1751− 1781− 1801−
50 80 1800 30
Cheshire
Cumberland
Leicestershire
Lincolnshire
Monmouthsire
Northumberland
“10rcestershire
Yorks.,E.Riding
Wales
Kent
Mlddlesex
Surrey
一10.7
15.9 − 3.4 − 0.8 − 0,6
1,6
12,8 15.8 − 3,4 − 2,2 0.8 1,2
4.0 14.5 − 1.1
12.0 13.8 − 6.3
− 3.4 0.6 − 1.2
6.9
6.0 10.0 − 3.4
4.9
3,8 12.9 − 0.6
9.5
0.4
3.1
3.3
Hertfordshire
0、4
Hun tingdonshi re
_3,6
Norfolk
1.4
Northamptonshi[e
2.4
Oxfor(ishire
4.2
Somerset
1,0
Suffolk
1.6
Sussex
6.7
Wiltshire
3.9
2.2
1.1
− 2.9 0,9 − 2,0
2.3 1.2 − 1.8
11.7 15.2 −15。2
06 8.1 −10.2
5.3
13,3 11.9 2.2
6.5 3.8 3.4
8.6
10.8 15.9 − 5.3
1,6 5.7 − 2,7
9,0
11,3 16.3 − 1.0
− 3。9 13,1 − 3,3
10。5
9.5 13.0 − 4.2
− 5.2 − 3,2 − 0.曝
8.2
9.8 14.3 − 3.0
一 1.8 − 1,5 − 1.0
6.4 13,5
10,5 15.4
1
2,7 8.2
2,6
15.8
11.2
11.4
2.3
−2。0
1.0
3.8 − 05 − 2.9
4,9 7.ヰ ー 1.3
14.0 12.2 12.2
18.1 13.4 10.3
11、4 9,6 7,4
_4,7
−2,9
_1.2
_4.4
−1.9
−1。9
0.4
2.9
3.5
−7.5
8.4
2.1
−2,5
0,1
1.3
0.6
2.0
2.7
6.6
−3.2
−2.5
2,2
3.0
5.1
−0,2
−1.8
_7.3
−3.0
_1.6
_4,2
_2.4
2.8
±2。3
±2,4
_3,5
0.8
2.8
一〇.7
−10、3
5495818469753855占8
盆15L且ε1生生6生7生6574臥
一一[一一一 一一一一一一一一一一±
3,4
0.7 5.9 14、9
14,6 16.9 − 4.6
24550510沸597”11575潟﹂3
2.2
− 2.1 −10.0 − 7.1
0.7 6.4 − 5.1
3.3 8.8
0,6
一 2.5 4、=… 0.1
コ」1.4 18.4 − 3.3
−10,8 −4.8
−10.8 −4.8
4.2
EnglanαandWaIes
16.3 − 8.5 − 01 −105
1.2 4.1
4.3
8.5
17.1 − 7.6 −12,7 − 7,0
−15.6 g.3
一 1.4
0.3
17.1 4.4 4.3 − 0、9
7.4
_3.7 0.9
−1.0 4.3
Hampshire
小計
126
14.8 − 2.5 6.8 − 6.9
0184422551875697”石228
&2。8、76。Lα0。19。515玖秘3891住
1 11111 1 1 11 1
Cornwall
Devonshire
Dorset
Gbucestershire
4.2
16,0 3,0 12 116
9.5 14.4 − 2.6
1 Buckinghamshire
Cambndgeshire
4,6
16.4 −10.4 5.7 − 3、6
9.3
3ンユゐ485ゆ51949石5056石£
乱
073ふ丘&7スヘα絃39&&2生76
1 South
Bedfordshire
Berkshire
9.7
5.2
16.3 −10.0 − 4.5 − 4.2
3546ασα67ε47ふ色生70464
1
11121111111111
小計
5.1
12.7 − 0.6 3。3 − 02
5.0
小計
Lo皿don area
Essex
8.1
9,1
Rut】and
、Varwickshire
6.5
9.8
10,8
14.4
13,4
14.2
13.8
12.4
12.2
6.0
Herefordshire
5.4
03525忍67潟9鴻9ユ
455αε3屯軌231ε4
Durham
6.9
5,6
Yorks.,N.Riding
Yorks.,W.Riding
小計
North
3.9
10.6
13.4
15.2
10.6
12.5
14.4
15.0
12.8
14.6
12,9
6.2
Westmorland
7.9
2.7
Derbyshire
Lancashire
Shropshire
Sta狂ordsh丘e
2.1
7.8
イギリス産業革命期の人口分析の一視角
North−West
Nottinghamshire
五
自然増
一2,3
_6.5
_4.7
−1.3
5,1
−5.Q
−6.0
−2.2
6.1
−3,4
−4.0
6.5
−3.5
−5.9
_2.2
_7.0
3,3
6S
4.7
±2,4
一橋大学研究年報 社会学研究 12 三一六
自然増加率を示したと主張する。しかし、一七八○年以降、自然増加率は全国的に均等化されてゆき、一九世紀に入
ると、南部諸州の方が北西部や北部の諸州よりも自然増加率は高くなる。このような増加率の検討から、ディーン”
コールは次の点を指摘する。
ω一八世紀の初頭における全国的にほぼ均等な人口分布状態から出発して、まず商工業地域の高い自然増加率を基
盤に商工業地域の人口密度が高まってゆく。
図一八世紀の後半に至り、農業州の自然増加率が高くなり、逆に商工業地域は自然増加率が伸び悩みの状態になる
が、商工業地域では社会増という形で流入人口を吸収して全体として急速に人口を増加させていった。
偶一九世紀に入り、自然増加率は農業州においてますます高まり、人口のある部分は流出するが、自然増加率の方
が上廻っている。ディーンnコールは直接触れているわけではないが、この農業地域の人口状態が、いわゆる﹁南部
諸州の人口過剰﹂につながってゆくことは明らかであろう。
ディーン”コールはあくまでも州単位で問題を処理しようとした。そして、それぞれの州における人口変動に対し
て人口の社会的増加︵減少︶が少なからぬ要因となることが指摘された。そこで、われわれは人口の社会的増加ある
︵−︶
∪畠昌ρ即簿Oo一ρ≦■>;魯●&w‘ つ一8
舘稔、前掲書、一一五−一二二頁。
いは減少について次に分析することとしたい。人口の社会的増減とは人口移動に他ならないのである。
︵2︶
︵3︶
︵4︶
︵5︶
国ミ織‘唱一〇弁
奪&■一℃や一〇斜1一〇伊
噛ミ載こや=“
人口重心の算定方法については舘稔、前掲書、一一五−一一六頁参照。
2 人ロ移動
︵1︶
人口移動に関する研究は、人口学の内部においてこれまで﹁不遇の地位﹂にあったといわれている。その理由の第
一は、過去の長期に亘る人口変動がほぼ出生力と死亡力とによって、すなわち人口の自己再生産力によって決定され
ていたことにある。つまり、一国の人口変動をみる限り、人口移動は直接的に人口変動に関係をもたなかったと考え
られていたのである。第二に、過去において人口移動が経済の発展過程に深刻な間題を提起したことがなかったと受
けとられていたことである。このような原因によって人口移動の研究はいわば等閑視されていたともいえよう。
ところが、先進資本主義国において、人口移動は地域間の不均衡な発展をますます激化させると同時に、人口移動
の量も決して従来考えられていた程軽微なものではないことが明らかにされてきた。さらに、人口移動は地域社会の
︵2︶
発展をむしろ阻害し、一国全体の発展にとって障害にすらなっていることが指摘されるに至った。このような事態に
直面して人口学の分野で人口移動の研究が盛んになってきたのである。
われわれが一八・九世紀のイギリスの人口移動を扱う揚合には、いまのぺた視点、すなわち高度に発展した社会に
みられる﹁地域社会の発展を阻害する人口移動﹂という観点から分析を進めるわけにはゆかない。われわれの関心は、
イギリス産業革命期の人口分析の一視角 三一七
一橋大学研究年報 社会学研究 12 三一八
イギリスが工業社会に転換してゆく際にどのようにして人口の移動があらわれ、その人口移動がいかなる役割を演じ
たのか、ということを解明してゆくことにある。具体的には、イングランドの北部工業地帯およぴその周辺地域がこ
の国全体の経済活動の中心的地位を占めるようになってゆく過程で、人口移動の形態、移動量、移動の原動力など位
置づけることを目的とするのである。
人口移動の定義についてはさまざまなものが考えられるが、われわれは、住所変更を伴う地理的・揚所的な人口の
移動を考えるだけでなく、人口の職業上の変化、いわゆる社会的流動性を伴った移動を人口移動とよぶことにする。
社会的流動性に関する実証は、われわれが問題にしている期間について史料上の制約からして不可能に近いともいえ
る。しかしながら、産業革命期のような社会の激動期においては、人口の地理的移動は当然のことながら社会的流動
性をも含んでいたものと予想することができる。さらに、社会的流動性を伴わない地理的移動のみを人口移動とし
た場合には、きわめて限定された局面しか触れることができず、社会的経済的諸変化と人口移動との関連が切断され
︵3︶
てしまうであろう。したがって、人口移動を﹁職業的移動の下に行われた地域的移動﹂と定義する必要があるだろう。
人口移動には国内人口移動と国際人口移動の二つが考えられるが、当面われわれは分析対象を国内人口移動に限定
する。民族大移動や大陸間の人口移動はそれ独自の問題をもち、かつ目につきやすい性格のものであるが、われわれ
の時期には国際人ロ移動は量的にむしろネグリジブルであった。これに対して国内人口移動は、すでに明らかにされ
た人口分布の変化に対して大きな作用を及ぼしたものと考えられ、一定地域の人口規模を変化させるだけでなく、そ
︵4︶
の地域の社会構造の変化とも深くかかわりあっていたわけで、われわれとしては国内人口移動に分析の焦点を集めね
ばならないのである。
産業革命期の人口移動に接近する揚合、レソドフォードの﹃イギリスの労働移動、一八OOー一八五〇年﹄に言及
せねばならない。このレッドフォードの研究は、一九世紀前半の人口移動を経済過程の変化、すなわち大工業制度の
出現と関連づけた最もすぐれた研究であり、唯一の研究といっても過言ではなかろう。レッドフォードによれば、一
九世紀前半期のイギリスにおける人口変動の研究には二つの主要な問題がある。第一はイギリスが全体として人口を
︵5︶
増加させてゆく過程にかかわる諸問題であり、第二は大都市の発展に寄与した諸要因の分析である。レソドフォード
は第一の問題を分析の対象から一応除外し、第二の点、すなわちイギリスが工業社会に転換してゆき、その一つのそ
して重要な現象としての大都市が発展してゆく際に、人口移動が果たした役割とその形態などについて追求しようと
したのである。
産業革命期およびその前後のイギリスにおいて、一方で都市の人口が急増していったことと、他方で農村人口は停
滞していたことは、一般的に古くからいわれてきた点であり、これまでのわれわれの検討からも一応確認しうること
である。従来、この二点をつなぐものとして、農村人口が都市へ流入した、と考えられていた。具体的には、イング
ランド南部の農村地帯から北部の工業地帯へ人口が移動したと考えられていた。そして、エンク・ージャ運動に象徴
によって︵論者によって力点のおき方は異なるが︶人口移動が行なわれた、というのが一般的な見解であった。
される農村からの人口放出が一方にあり、他方で都市における雇用の機会の増大などの吸引力が働き、この双方のカ
︵6︶
ところが、レソドフォードは都市の人口急増の主たる原因が人口移動であることを前提としながらも、人口移動の
イギリス産業革命期の人口分析の一視角 一一二九
一橋大学研究年報 社会学研究 招 三二〇
形態に関して従来考えられていた南部農業地帯から北部工業地帯へという人口移動のパターンを否定し、人口移動の
距離と移動量の関係は反比例すると主張し、都市の人口増加を説明するものとして人口の短距離移動という考え方を
明らかにした。つまり、南部の農村人口が北部の工業地域へ移動することによって都市人口が急増したのではなく、
︵7︶
商工業を発展させている地域はその周辺の地域からの人口流出を促し、人口を流出した周辺の地域はさらに遠方の地
域から人口をひきつけることによって人口減少を補填し、かくして、いわば波状的な人口移動によって都市人口は膨
︵8︶
脹してゆくことになったとレッドフォードは主張するのである。
人口移動の量と人口移動距離との関係については、レッドフォードのこの研究よりも四〇年も以前にすでにラヴェ
ンシュタインがより精緻な議論を展開している。ラヴェンシ.一タインの場合は、人口移動量と距離の関係のみに分析
を限定し、人口移動の原動力ともいうべきもの、すなわち何故に人口が移動したのかという点については、商工業の
︵9︶
中心地における労働需要が移動の原因であるという前提で議論を進めている。また人口移動がもたらす社会経済的諸
変化については言及していない。さらに、統計史料が比較的整備されている一八七一年から一八八一年の間に分析を
限定しているが、この時期を選定した理由が必ずしも明らかでない。恐らく、人口移動の法則性の把握、とりわけ人
︵⑩︶
口移動の距離と量との関係の法則性をみつけだすことがラヴェンシュタインの最大の目標であったのだろう。
︵11︶
ラヴェンシュタインの得た結論は次の七点にまとめることができる。
臼D移動者の大部分は短距離を移動するにすぎない。またその結果、人口の分布の全般的な変更がおこなわれる。こ
うして、移動者を吸収する商工業の大中心地に向かう﹁人口移動の流れ﹂が生じる。
③この人口移動は次のような吸収の過程をたどる。まず急速に成長する都市を直接包囲している農村の住民がその
都市に群がる。その結果生じた農村人口の間隙は、より遠隔の地域からの移動者によって満たされる。急速に成長す
る都市の吸引力は徐六に国のなかでの最も辺境な地域にまで波及してゆく。したがって、ある人口吸収中心地への流
入者の数は、人口吸収中心地とそこへ流入する者の原住地との距離に反比例する。
個人口分散の過程は人口吸引の過程の逆であるが、その形態は類似している。
四人口移動のそれぞれの主流には、これを補償する反対流が生じる。
㈲長距離移動をする者は、商工業の大中心地へと向かう。
㈲都市の住民は農村の住民よりも移動性が低い。
ω女子は男子よりも移動性が高い。
このようにラヴェンシュタインが定式化した七項目のうち、第一と第二のものが最も重要な点である二とはいうま
でもないだろう。たとえば、イギリスのなかで最も長距離移動者の多いと考えられる・ンドンについて具体的にみて
︵12︶
みよう。第8表は、・ンドン在住者の出身地別分布状態と・ンドン出身者の全国分散状態を示したものである。ここ
から、・ンドンヘの流入もロンドンからの流出も短距離が主であり、距離が長くなるに従って移動量が縮少している
ことが判明した。すなわち上記の七項目のうちの最初の三項目について史実と合致していることがはっきりとわかる
のである。
ラヴェンシュタインの研究は、あくまでも人口移動の法則性を追求することであった。これに対してレッドフォー
イギ勺ス産業革命期の人口分析の一視角 三二一
︵U︶
動を行なったためにもたらされたのではなく、新興都市の 周 辺 諸 州 、 およぴ同じ州内の農村地帯からの短距離の人口
A
B
1
露 London 2r401,955(62・94) 2,401,955(62・94)
)Met「oP・litangr・up 394287・(・α34) 3・4・・33(13…)橋
Innerbelt 380,427(9・97) 113,572(3,45) 大
South−Westemgroup137,226(3,59) 24,972(1,57)学
・uterbelt ・・5・629(3・3・)45,9叩42)璽
Midlandgroup 31,794(0・83) 17,623(0.77)年
North−Westemgroup 32,506(0、85) 28.686(0.76)報
No「th臼Eastemg「oup 48・071(1・25) 31・796(0・76)社
Wa】es 237547(0・62) 7,944(0,58) 会
Scot】and 49,554 ( 1・30) 学
Ireland 8・,778(2.・2) 研
究
Abroad 111,626 ( 2。92)
TotaL 3,816,483ホ 2,986,655(11.48) 12
* 出身地不明の18,499を含む。
A:ロンドン住民の出身地別人口数,( )内はその比率。
B:ロンドン出身者の流出先別人ロ数,( )内はロンドン出身者の流
出先での住民数に対する比率。
三二ニ
ドの﹃イギリスの労働移動﹄は若干異なる意図をもっていた
のである。レッドフォードの最大の意図は、一九世紀前半期
に行なわれた農村から都市への移動の背後にあるカは都市の
吸引力であって農村の反搬力ではない、ということを立証す
ることであった。したがって、人口移動の量と距離との関係
やその他の人口移動にかかわる問題で、たとえレッドフォー
ドの分析がラヴェンシュタインのそれに比して精緻度におい
て劣っているとしても、そのことが直ちにレッドフォードの
研究成果を無価値にしてしまうものではないのである。
レッドフォードによれば、一八二一年から三一年の間の都
市人口の急激な増加、およぴこの一〇年間をはさんだ数一〇
年間の都市人口の増加は、イングランドの南部およぴ東部か
ら北部や西部ミドランドの新興工業地帯へと人口が長距離移
このような主張の根拠の一つとして、農村人口が減少した事
移動によるものである。そして、都市へこのような流入が み ら れ た の は 、 都市における高賃金が吸引力となって、農
﹀ ︵蔦︶
村力ら人口をひきつけたとレッドフォードは主張する。
第8表
︵蛎︶ 、 、
、 、 ︵17︶
例がほとんどなく、大部分の農村地域で人口増がみられたことを挙げている。だが、仮に農村人口が増加したとして
も、農業人口が増加したとは限らず、農村内部の構成に変化がみられ、都市へ流出してゆく潜在的源泉が増加してい
︵18︶
たであろうことは考えられる。したがって、都市が農村に比して相対的に高賃金であったことは否定できないにして
も、都市の吸引力のみで人口移動を説明しようとすることには疑問が残らざるを得ない。
イギリス産業革命期の人口移動に関しては、今後明らかにさるべき点は、まず第一に、農村人口の内部をより詳細
に分析することである。移動人口の農村での存在形態を把握することは重要なこととなろう。第二に、高賃金が本当
︵19︶
に労働力を吸引する要因であったのかということを検討する必要がある。この問題は産業革命期のいわゆる﹁手織布
工﹂問題と密接な関連がある。﹁手織布工﹂たちは、工揚労働に従事すれぱ少なくとも賃金の上では有利になったは
ずであるにも拘らず、﹁手織布工﹂として低賃金に甘んじていたのである。しかも、例外的に少数の﹁手織布工﹂が
︵20︶
そのような対応をしたのではなく、一八三〇年代になっても大量の﹁手織布工﹂が存在していたのである。このこと
だけでも、高賃金が労働力を吸引したと直線的に結合させることに無理があることがわかるだろう。人口移動を考え
る場合には、高賃金のみでなく、他の説明要因が必要になってくるのである。第三に、人口移動の距離は主として短
距離であることはほぼ明らかになっているが、その短距離を移動したのち、移動者は都市においていかなる職業につ
き、どのような生活を営み、それがその都市にどのような影響を及ぼしたのか、などの点を明らかにする必要がある
だろう。これらの諸点について、いまここで扱うことはできないので、今後のわれわれの課題にしておきたい。そし
て最近の注目すべき業績をとりあげることによって、いまのぺた今後の課題の解決方法をさぐってみることにしたい。
イギリス産業革命期の人口分析の一視角 三二三
10歳以上 20歳以上
% %
一橋大学研究年報 社会学研究
11 Clerlca1 3 4
I professlona1,Manageria1 2 2
r▽ H igher Factory 10 13
皿Trade 8 11
VI Lower Factory 21 13
VArtisan 18 20
、皿 Labourer 14 18
、嘔 Handloom Weaver 4 5
D( Unclassified 8 10
X Not employed 12 4
(出典)Anderson倉M、,oρ,oz∫,,p,26.
三二四
︵21︶
動分析を出発させる。具体的な分析は、綿業都市であるプレストンを集中
も流入者の方が多いことを一八五一年センサスで確認し、そこから人口移
︵23︶
アンダーソンは、まず、大都市の人口のうちその都市で生まれた者より
近著はきわめて貴重なものである。
を指摘しているのである。われわれの今後の研究にとってアンダーソンの
口移動に触れざるを得ず、しかも人口移動に関して従来無視されていた点
標にしたものである。しかし、この目標に達するためにアンダーソンは人
︵22︶
対する都市”工業生活のインパクトを社会学的に解明することを主たる目
史研究として企図されたものであり、一九世紀の労働者階級の家族関係に
析において注目すべき点がいくつかある。もともと本書は家族社会学の歴
M・アンダーソンの﹃一九世紀ランカシャの家族構造﹄は人口移動の分
12
れぞれの比率を示したのが第9表である。この表から、男子サンプルのうちW∼皿グループに属する者が四割近くを
サンプル人口のうちの男子を、所得の規模、就業の規則性、就業上の地位、などの点から八グループに分類し、そ
三人を抽出し、サンプル調査を行なったのである。
︵鍵︶
法を使っている。プレストンには一八五一年
に
六
九
、
五四二人が住んでいたが、そのうちの約一割に当たる六、九四
的にとりあげ、そこでの社会経済状態を明 ら か に す る 一 環 と して
人
口
移
動
を
扱
う
の
で
あ
る
。
分析方法はサンプル調査
第9表 プレストンの就業構造(1851年)
占めていることがわかる。しかもこれらのグループは、いずれも所得水準が低く、かつ雇用が不規則であるため、
︵25︶
﹁貧困﹂問題が深刻であった。アンダーソンはこの貧困状態を詳しく分析しているのであるが、ア︶ア︶ではプレストン
︵26︶
が最悪の都市の一つであったことを確認しておくことが必要であろう。
次に、プレストンヘの移住者を追跡してみよう。さきのサンプル調査によれば、三、三四五人の移住者の出生地が
判明しており、四二五の異なる出生地からプレストンに流入している。そして、それらの出生地とプレストンとの距
離を計り、その人口移動量を分類し、それぞれの比率を計算すると、プレストンから四.九マイル以内に出生地をも
つ者が一五パーセント、五ー九・九マイルが二七パーセント、一〇ー二九.九マイルが二八パーセント、三〇マイル
︵27︶
以上が一六パーセント、アイルランド出身者が一四パーセント、という結果になるのである。ア︶ア一から、プレストン
30マイル以内
都 市 24
工業村 9
混合村 8
農村 13
入したのか、またプレストンに住む以前にプレストン以外に移動したことがあるの
入のうちで都市からの流入が首位になっていることである。このことは都市から都
なる。ここでは二つの点に注目する必要がある。第一は、三〇マイル以内からの流
プレストンヘの移住者の約七割がプレストンから三〇マイル以内の地域の出身者
︵28︶
であったが、この三〇マイル圏内の地域を五分類にして考えてみると第10表の如く
かないのか、などの点に関しては把握することができないのである。
その他 16
30マイル以上 30
分
析
の イギリス産業革命期の 人口
一 視 角 三二五
地別比率(%)
ヘの流入者の四〇パーセント以上が一〇マイル以内の地域の出身者ということがわかり、いわゆる﹁短距離移動﹂を
、
確認できるのである。ただし、 ここに表われたのは出生地だけであり 現住地たるプレストンヘどのような経路で流
第10表プレスト
ン流入者の出身
トン生れの人
口比率(%)
79
66
66
一橋大学研究年報 社会学研究
85
〇 5
一一
86
ヰ ハソ
女
麟 卸 30 25 25
のレ
市への移住を意味するわけで、その背後には、ある都市での失業が他の
− 三二六
に、都市あるいは工業村以外のいわゆる﹁農村地域﹂からの流入が流入
都市への移住を促進する要因であるとアンダーソンはのぺている。第二
者の大半を占めていることに注目しなければならない。大都市の人口増
加にとって、三〇マイル圏内の農村地域からの人口流入が重要であった
65一
32
35−44
23
40
20−24
20
14
25
45−54
33
25−34
13
55−64
52
15−19
73
1〔トー14
男
年齢
移住を決意したり移住先を決定する際に血縁関係者が移住を希望する地域に居住しているかどうかということが重要
係者高蒙径むかあるいはその薩の家径んでいることが多いので菱・し奈ぞ・移住しようとす薯が
こ.︸にアンダーソンの独創性がいかんなく発揮されることになるわけであるが、結論的にのべれば、移住者は血縁関
かくして移住者のさまざまな側面について明らかになったが、アンダーソンはさらに移住者の居住形態に注目する。
入者の比率がいく分低下している。
ゆる﹁生産年齢人口﹂の大半をプレストンは流入者に依存していることがわかる。そして、六五歳以上になると、流
ば、男と女に大きな差が認められず、一五歳以上の年齢からプレストン生れの者の比率が急激に減少してゆき、いわ
︵3。灌者の年齢を調べるために、年齢別・−ホートのうちプレストン生れのものの比率をアンダーソンは計算してい
る。.一の比率をみることによって、移住者はどの年齢層に多いかということが明らかになるのである。第11表によれ
そう扱うとすれば、両者はいかなる点で異 な るの
か
、
といった点については今後の課題として残しておこう。
ことがここからも確認しうる。ところで、 都市間の移住と農村から都市への移住とを区別して扱うべきなのか、もし
第11表プレス
であったということになるだろう。移住して直ちに問題になることは、住居と就職であったが、これらの点で血縁者
︵32︶
が移住先に居住していることは移住者にとってきわめて有利であると同時に、血縁者の援助なしには住居や就職の決
︵33︶ ︵34︶
定に多くの困難が伴ったと考えられる。さらに、病気その他の突発事態に対しても血縁者の相互援助がなされ、この
ような意味で、血縁者の存在は人口移動にとってきわめて重要な要因ということになるだろう。
このアンダーソンの研究成果は、これまでプッシュ説とプル説が対立していた研究水準に一つの解決の方向を与え
たものとして高く評価したい。アンダーソンが扱った時期は、一八五一年を中心にしているが、アンダーソンがひき
出した結論が一八世紀の後半から一九世紀の前半の間には全く妥当しなかったり、血縁関係の役割が全ぐ異なってい
たと考えることは不合理であろう。一九世紀中頃より以前においては血縁の絆はむしろ強かったことが予想されるの
である。したがって、一八世紀後半からの人口移動を分析する際に血縁関係を媒介項として考える必要があろう。史
料の上からは、アンダーソンが調査をした時期よりも困難が大きくなるであろう。しかし、人口移動の分析の方向と
︵−︶
同上、九ー一〇頁。
舘稔編﹃日本の人口移動﹄、古今書院、一九六一年、八頁。
五頁。
三二七
して、われわれは基本的にはプル要因とプッシュ要因をおさえねばならないであろうが、血縁関係、家族関係を含め
︵2︶
野尻重雄﹃農民離村の実証的研究﹄、岩波書店、一九四二年、
たさまざまな要因の絡み合いを実証的に検討してゆかねばならない段階に達したのである。
︵3︶
イギリス産業革命期の人口分析の一視角
一橋大学研究年報 社会学研究 12 三二八
園o象R9>‘ 魯 。 蔑 鳳 ‘ ℃ ● U ,
︵16︶
たとえば、T.S.アシュトンは﹁以前は農業と織布業あるいは農業と鉱山業との間にその労働を分割充当していた男女
国o負o巳、>己o>ミ罰℃,蕊,
その家族は移動させないままに、自分はその全労働時問を織機とか採炭揚とかにおいて働くようにだんだんなって来た﹂
革命﹄、
岩波書店、一九五三年、=二五−一三六頁。︶
とのぺ
て
い
る
。
︵>。。拝op日ω‘↓書ぎ亀誤∼ミミ笥ミ9ミごき簑竃よGD師90圏o鼠d。型、お畠、マ嵩魯中川敬一郎訳﹃産業
が、
︵17︶
﹁農業
橋 幸 八 郎 編 ﹃ 土 地 所 有 の 比較
革
命
論
の
現
状
﹂
高 史
的
研
究
﹄
、
束
大
出
版
、
一九六三年、四四ー四七頁。︶
、ミ3℃マひo。もρ都市の吸引力を重視する立場は、産業革命論の類型としては楽観論に属することになる。︵岡田与好
カo象o乱︸>‘魯,ミ♪℃℃。黛13■
一〇ξ㎝op>・コ‘暴恥ミ旨、醤ミ§R蔓き恥防§ミNト§警N§§○惹〇三d,︸こ一。oP℃℃’一嵩ー二い,
きミ‘℃や8ひートoOM、
﹄ミ導ー℃℃■Goo占ε.
さ畿‘℃マ一$1まoo,
カp<。窃一。F国・P、穿¢匿壽o︷峯σq﹃註g.’㍉ミミミ魚ミ恥砺、ミミ魯ミ象g遷㌧ノ、〇一,図U<=一﹂。。o。鈎やま。。。
ま蕊‘℃■宝■
奪畿こ℃■≦一。
き蕊こり籍、
尋ミこマ一9
((((((((((((
151413121110987654
))))))))))))
︵18︶男・αq。箪↓‘い薫9ミミ§黛ミミ隷§織ミ蒜塁・■。&op一。。。。♪マ&3
︵19︶ ただし、初期のセンサスに示された就業構造はあまりにも粗雑なので、全国的レヴェルでとらえる揚合、具体的にどア︸か
らとりかかるかはいまのところ必ずしも明白ではない。
︵20︶たとえば、謬詩FPぎ§義Q§蕃§参﹄恥ミごミぎ肉藁帖偽︸O。慧。醤∼ミミ砺覧、黛匙ミ諮き恥㌧ミ窪向w鳩軌a、
肉塁ミミご鮮O帥ヨ訂置鴨娼蜀一這ひPを参照。
三二九
国窯野や呂,エンゲルス﹃イギリスにおける労働者階級の状態﹄、大月書店、一九五一年、 ︵マルクス“エンゲルス選集、
噛守歳㌧℃マ81爲■
さ蕊‘℃■N命
き&‘︾い避
き蕊こや≦一.
︵ R
ω
O
p 賄
幾
§
馬 §
導
9
ミ ミ
奪
9
ヨ
蜜 >&
フ ︷ こ 寒 §骨
ミ 恥 ミ 之 §爵
ミ 黛 ﹄ § ミ防
凝 。 dり
・ 一S一
21︶
︵22︶
︵23︶
︵24︶
︵25︶
∼Φ&‘やひ9
尋蔑‘℃や軌ool$ー
專蕊‘b■ωP
さ畿こ℃マωoo ー い P
串畿こやωooり
︾ロqRω9ごフ臼o噂■竃鳳甲㌧や鴇’
補巻2
︶ 、 六九−七 〇 頁 。
︵26︶
︵27︶
︵28︶
︵29︶
︵30︶
︵31︶
︵32︶
イギリス産業革命期の人口分析の一視角
︵33︶
国ぴミこや一ω9や賦避
﹄黛亀こや顛怠マ蹟一、
一橋大学研究年報 社会学研究
︵34︶
三三〇
セントを占めるに至った。つまり、両州の人口は一八〇一年−一八五一年の間に約三倍近く増加し、しかもその増加
︵ 3 ︶
人で全人口の約九パーセントを占めていたが、一八五一年には、二、四九〇、九三九人になり、全人口の約一五パー
州の面積はイングランドおよびウェルズの全面積の約一二分の一になるが、人口数は、一八〇一年に八七二、六六三
ランカシャ・チェシャは、イングランドおよぴウェルズの299−≦島8旨∪一ω鼠9を構成してい︵琵。この二っの
化してゆくことにしたい。
加、北部への入口重心の移行、人口移動などを前提にしつつ、ダンソン目ウェルトンに依拠して、それらをより具体
ミ
、
恥
&
. 誌
に
四
回
に た
︵も
1の
︶である。われわれは、これまでに検討してきた人口増
卜 § 。 黛肋
四 亀 9 鶏 妬 ミ 、魅
わ た っ て 発 表 され
八五一年までの両州の人口変動について、六回のセンサスを史料に使い、﹃ミ虜§議§砺魚馬ぎ霞ミミ魯象番耐県
ランカシャ.チェシャの人口変動についてはダンソンとウェルトンの研究がある。この研究は、一八〇一年から一
そこでの具体的事実を示すことによって、人口移動、都市成長などの点について言及してみることにしよう。
ける人口の諸側面に立ち入ってしまったが、ここで再び視野をランカシャ・チェシャの二つの州の人口変動にもどし、
われわれは人口移動の分析の際にアンダーソンの研究成果に触れながらランカシャの一都市であるプレストンにお
四 ランカシャ・チェシャの人口変動
12
率は全国レヴェルよりも高いということになる。われわれはすでに、一八世紀の一世紀の間に、人口が北部工業地帯
に集中しはじめていたことをのべたが、一九世紀の前半期にさらにその傾向が強まっていったことがわかるのである。
一九世紀前半のランカシャ・チェシャの高い人口増加率は、全国的なレヴェルでの人口増加が各州の異なる人口増
加率の総計であるのと同様に、ランカシャ・チェシャ内部の地域にょって異なった人口増加パターンを伴っていたの
55 203 307 75
1801
78,946 512,862 138,239142,616
1851
122,3911,556,495 563,053248,998
る東部、西部、南部、北部、という呼称は、ランカシャ・チェシャの内部のそれであり、イングランド全
体を区分したものとは異なっている。︶
人口増加率の差異は、都市と農村においてもあらわれる。仮に、一八○エーカi当たり二、
︵5︶
OOO人以上の人口が居住している地域を都市とよび、それ以外を農村とよぶとするならば、
一八〇一年には都市が二六、その人口数は約三三七、○○○人であったのが、一八五一年にな
ると、都市が五三、人口数が約一、六一〇、OOO人となり、ランカシャ・チェシャの一八五
︵6︶
一年時点での全人口の約三分の二が都市人口によって占められていることになるのである。し
︵7︶
かも、この都市人口をさきの四つの菊品一9に分類してみると、第13表の如くなる。ここから、
都市人口は東部と西部に圧倒的に集中していること、すなわち、上記の定義による都市は東部
革
命 析
の
一 イギリス産業
期 の 人 口分
視 角 三三一
増加率(%)
のに対し、北部と南部では人口増加率がかなり低いことがわかるのである。︵なお、以下におけ
である。ダンソン”ウェルトンは両州を四つの國oのδ諾に区分し、それぞれの菊ΦσQ一8の人口
︵4︶
増加を示したものが第12表である。ここから、東部と西部において急激な人口増加がみられた
第12表
北部 東部 西部 南部
第13表 都市人口
第14表 都市と農村の人口増加率
(1851)
一橋大学研究年
社 会学
究 12
報
研 三三二
999,930 62.1
37,097 2.3
474,677 29。5
98,908 6.1
み、そこでの人口増加はゆるやがであるのに対して、都市的性格を有する東部と西部が両
ント、西部八四・三パーセント、南部三九・七パーセントとなる。したがって、ランカシャ
︵8︶
・チェシャはイギリスにおける主要な綿業地帯であるのだが、その内部に農村的地域を含
勾oσq凶9の人口数に占める割合を示すと、北部三〇・ニパーセント、東部六四・ニパーセ
と 西 部 に 集 中 し て い る こ と が わ か る の で あ る。
さらに、第13表の都市人口がそれぞれの
19 18 11 12 9
都市の急速な人口増加は一八一一年以降の二〇年間にみられたことがわかるのである。
それぞれ
変 動 を 調 べ た 。この二〇四の地区が五〇年間のどの時期にそれぞれの最高の
の
地
区
の
人
口 トンは都
︵ 便 宜 的 に 農 村 と よぶ
市
以
外
の
地
域 ︶
から任意に二〇四の地区︵9巨ぐ望の鼠9の︶を抽出し、
他方、 都市以外の地域の人口変動を第N表よりももう少し詳しくみるために、ダンソン日ウェル
して、
年以来の
傾 向 を み て み る と 、 一八二一年から一八三一年の一〇年間に人口増加率が最高
人
口
増
加
の ︵10︶
を記録し
を 数 え 、 一八一一年から一二年に最高だったのは一二都市であった。かく
た
の
は
一
八
都
市 漸次増加
さ せ つ づ け て い る 。 また、一八五一年に都市とみなされた地域について一八〇一
率
を
減
少 録してい
が 、 農村のそれのピークは、一九世紀前半に関する限り一八OO年代であり、その後は
る ︵9︶
間で計っ
示 し た も のが
表 で あ る 。 この表から、都市の人口増加率は一八二〇年代に最高を記
て 第
1
4 ランヵ
部 を 都 市 と 農 村 に 類 型 的に
シ
ャ
・
チ
ェ
シ
ャ
の
内 区
分
し
、
それぞれの人口増加率をセンサス
部部部部
北東西南 州の人口増加の大部分を占めていたといっても過言ではなかろう。
人口数 比率%
25 34 42 32 28
市村
都農
1801 1811 1821 1831 ユ841 1851
人口増加率を示したかを調査し集計すると、一八〇一年i一八一一年の一〇年間に人口増加率が最高を記録した地区
は六八、一八一一年−一八二一年が五五、一八二一年ー一八三一年が二八、一八三一年ー一八四一年が三二、一八四
一年i一八五一年が二〇、となる。ここから、農村の人口増加は世紀の変り目頃がピークであり、その後はむしろ増
︵U︶
加がにぶっていることがわかる。さらに、二〇四地区のうち、五〇年間に人口減少を記録しなかったのが一〇七、人
︵皿︶
口増加と人口減少の双方を体験した地区が九七となっている。一九世紀の前半に、人口減少を記録した地区がすでに
表われていることがわかるのである。そして、五〇年間に人口減少を記録した九七の地区についてさらにその減少率
が最高だった時期別に数えてみると、一八〇一年ー一八一一年が九、一八一一年ー一八二一年が四、一八二一年i一
︵13︶
八三一年が一五、一八三一年ー一八四一年が二四、一八四一年!一八五一年が四五、となり、農村人口の減少は一九
世紀の中葉に近づくに従って激しくなっていることがわかるのである。
以上のような分析を通じて、われわれは次のように考えることができる。ランカシャ・チェシャの一九世紀前半の
人口増加は、都市の人口増加としてあらわれてくるのであるが、この都市の人口増加は、その都市の周辺部分の農村
における世紀の変り目頃の人口増加を前提とし、農村の人口が何らかの原因によって、何らかの経路をへて都市へ流
入したためである。一九世紀の中葉に向かって都市がひきつづき人口を増加させ、農村が人口減少を経験しているこ
とは、すでに触れた一九世紀における農村の高い自然増加傾向と考え合わゼると、当然の.︸とながら両州の内部での
農村から都市への人口移動を考えねばならないのである。
そこで、人口移動に関して、ランカシャ・チェシャの具体例を検討してゆくことにしよう。ただし、以下の検討は
イギリス産業革命期の人口分析の一視角 三三三
第15表 20歳以上の住民の出身地別人口数
の出 1鰯纈の他離餐簸綴藩晶羅
東部 602,483(71・7) 124,752(14・9) 27,689(3・3) 84,650(10.1)
西部 127,339(4α8) 68,672(2L9) 24,467(7・8) 92,435(29,5)
南部 103,211(77・4) 17,320(13・0) 4,668(3.5) 5,205(6.1)
58,333
(4.3)
187,386(18。2)
219,132 (16,2)
1
886,979(65,6)
り、五〇マイル以内の他州の出身者は一六パーセントを占め、それより以遠の地からの
ることができる。両州全体として、二〇歳以上の人口のうち約三分の二が両州生れであ
︵16︶
トンが両州在住の二〇歳以上の人口について上の第15表のように分類したものを援用す
ランヵシャ・チェシャヘの他州からの流入者の出身地をみる揚合、ダンソン”ウェル
ト強がランカシャに居住しているのである。
︵15︶
人、チェシャ在住者が二九〇、三一七人となっており、チェシャ出身者の二〇パーセン
一年の時点における両州での居住状態をみてみると、ランカシャ在住者が八四、三五八
の人口移動がなかったことを意味するわけではない。現に、チェシャ生れの者で一八五
州のどちらかでセンサス調査を受けたものの比率が高いということは、直ちに両州内部
まっていたのである。しかし、両州のいずれかで出生したもののうち、一八五一年に両
︵14︶
においては、ランカシャ・チェシャで出生した者の九三・四パーセントが両州内にとど
セントを占め、他州からの流入者は二二・六パーセントになっていた。また、この時点
のうち両州出身者が一、九二八、五七九人であり、両州出身者が全人口の七七・四パー
ランカシャ・チェシャは一八五一年に人口数が二、四九〇、九三七人であったが、そ
移動を直接把握することができないのである。
出生地と現住所との関係をセンサスから分析しているため、いまのべた両州内部の人口
一橋大学研究年報 社会学研究 12 三三四
北部 55,946(8L8) 8,3S8(12・7) 1,509(2・3) 2,096(32)
流入者はわずか四パーセント程度にすぎない。アイルランドを除くと、二こでも短距離移動を一応確認できるのであ
るが、問題はとくに西部にみられる出身者分布の状態である。西部では、両州の出身者の占める比率が約四〇パーセ
ントであり、五〇マイル以内の諸州の出身者が約二〇パーセントを占めていることである。西部におけるアイルラン
ド人、スコットランド人の比率はきわめて高いのであるが、この点はここでは一応視野の外におくとすると、五〇マ
イル以内の出身者が西部の成人人口の二〇パーセントを占めているということは、当然西部の内部における農村から
都市への移動、およびランカシャ・チェシャの西部以外からの西部への移動を考えるべきことになる。ア一の点は東部
の状態をみξことによってもいいうる。東部は西部に比して、両州の出身者の占める比率が高いが、五〇マイル以内
の他州の出身者の実数においては東部は西部の約二倍になっている。このことは、逆に、両州内の人口を東部に集中
させていたことを証明するものであろう。さらに、大都市の発展にとってはかなり遠方の地域からの人口流入もある
程度貢献していたことがここから明らかに省れたと思う。
人口移動の分析をさらに進めるためには、四つの菊oσqδ諾の相互関係やそれぞれの菊。讐9の内部の変化などを
詳細に検討しなければならないのであるが、現在のところそこまで分析することはできない。また、現在までの研究
では、出生地と現住所との関係だけしか把握できず、移動の回数などは把えることができない状態にある。したがっ
て、一九世紀の人口移動に関する研究が明らかにしていない点がきわめて多く、しかもそれらが重要な意味をもつ性
格のものであり、いかにしてこの史料上の制約を打破してゆくかが今後の重大な問題として残されているだろう。
ランカシャ・チェシャヘの流入人口について若干検討してきたが、ランカシャ・チェシャからの流出人口について
イギリス産業革命期の人口分析の一視角 三三五
_ イ ンク◆ランド
第16表就業構造
第17表 農業人口
ユ0.7 25.4 26.5
30.5 19.4 13.2
27,1 27.0 29.9
13,1 10.3 ・ 9.6
1.1 1.3 2.2
1.5 1,7 , 20
23 2.0 34
東部 34,359(8,6)
西部 15,219(10.2)
南部 22,599(34,3)
は、ラヴェンジュタインがのべているのとほぼ同じような現象がみられた。す
なわち、・ンドンヘの流出を一応例外として、両州からの距離が遠くなるに従
︵▽︶
って、両州出身者の数は減少しているのである。さきにも触れた如く新たな史
料なり新しい方法なりによって新たな事実が明るみに出なければ人口移動に関
してはこれ以上のことを述べることができないので、次に両州の就業構造に触
れることによって本稿を終ることとしたい。
ランカシャ一帯はイギリスの綿業の中心地であり、この地方の人口のなかで
綿業に従事する者が全体に占める割合は高いことを否定する論者は恐らくいな
いであろう。しかし、ランカシャ・チェシャは綿業のみに依存していたわけで
はない。第16表は成人男子の職業を八項目に分類し、それぞれの比率を示した
ものである。この表によって、イングランドおよぴウェルズの平均的状態と両
︵18︶
をかかえているとい
意 味 し て い る 。次に、チェシャはイングランド・ウェルズを平均し
う
こ
と
を ンカシャが製造業 を 中 心 と し た工
る の に 対 し て 、チェシャは広汎な農業地帯
業
地
帯
を
形
成
し
て
い はチェシャに比して
の 比 率 が 低 く 、製造業人口の比率が高いのである。このことは、ラ
農
業
人
口 では農業人口比率 と 製 造業
照 的 で あ る こ と で あ る 。すなわち、ランカシャ
人
口
比
率
が
き
わ
め
て
対 州の差異、両州の間
ど が 明 ら か に な る 。まず目にとまることは、ランカシャとチェシャ
の
差
異
な 9.4 9,8 88
一橋大学研究年報 社会学研 究
12 三三六
4.2 3.1 4。4
業業業業輸使職吏明
運
造工・ 門
業
農鉱製手商召専官不
フンカシャ チェシヤ及ぴウヱノレズ
北部 15,656(41.6)
た就業構造とほぼ類似しており、チェシャはイギリス全体の平均的な姿を縮少したようなも0であるともいえること
である。ここから、ランカシャがとび抜けて製造業への比重を高めた就業構造をとっていたことがわかるのである。
ランカシャ・チェシャを四つの國①吼o廣に区分して考えてみよう。成人男子で農業に従事している者の数は、八
︵19︶
五、八三三人であり、その分布状態とそれぞれの園品一自における成人男子に対する比率を示したものが第17表であ
る。いま、われわれはランカシャが工業地帯であり、チェシャが農業地帯を形成していたとのべたが、この四区分に
7,394(1・8) 24,039(0・6) 1,286(α3)
225(0・7) 1,718(52) 713(2.2)
5,943(4・O) 12,824(8・6) 21,095(14,2)
555(0,8) 5,653(8,6) 761(L2)
人口が成人男子の三分の一以上を占めていることがわかる。ただし、ここで注意しておかね
ばならないことは、工業の中心地たる東部において、農業人口の絶対数が最も大きいという
ことである。一八五一年の段階においてこれだけの農業人口を擁していた東部の農業地帯は、
東部あるいは西部の﹁都市﹂へ人口を流出させていた一つの源泉とみなしてもかまわないで
あろう。したがって、少し視野を拡大すれば北部および南部の農業地帯が東部や西部の工業
地帯に対して人口を流出していたであろうことはまず間違いのないところであろう。
製造業人口に関しては、人口数においても、成人人口に対する比率においても東部が断然
他をひきはなしている。東部では成人人口に占める製造業人口の割合が三三・六パーセント
であり、西部の四パーセント、北部の一〇パーセント、南部の七・ニパーセントと比較すれ
ば、いかに東部に製造業が集中していたのかがわかるのである。そして、東部の製造業人口
命 分
析 イギリス産業革
期 の 人口
の 一 視 角 三三七
部部部部
北東西南
商 業 陸上交通 海上交通
従えば、東部および西部において農業人口は圧倒的に少なく、北部および南部において農業
第18表
一橋大学研究年報 社会学研究 12 三三八
のうち九割近くが繊維工業部門で占められていた。いうまでもなく、繊維工業の主力は木綿工業であった。
︵20︶ ︵21︶
次に、両州の商業・運輸関係の就業者の比率は、製造業におけるほどではないにしても、全国平均にくらぺて上廻
︵22︶
っている。しかし、この商業・運輸に関しても両州の内部の分布は著しく偏在している。第18表によれば、商業・運
輸部門の比重が最も高いのは西部であり、成人男子の四分の一以上がこの部門にたずさわっているのである。そのう
ちでもとくに海上交通関係者が西部では大半を占めていることは外港リヴァプールの存在あるいはリヴァプールの経
済活動と深くかかわっているのである。
かくして、われわれはランカシャ・チェシャの両州の内部の就業構造に一八五一年の時点で検討を加えることによ
って、イギリスのなかで最も先進的な工業地帯を形成しているランカシャを中心とした地域において、その内部には
人口増加率、就業構造などの点でさまざまな偏差が存在していたことが明らかになった。また、これまでの分析で、
都市人口が増加してゆく過程もある程度明らかになった。したがって、われわれとしては今後次のようなテーマを追
求してゆかねばならないだろう。すなわち急激な都市人口の増加は地域社会に対していかなるインパクトを与えたの
か、また、膨脹しつづける都市人口はどのような環境の下でどのような生活を営んでいたのか、などのいわゆる﹁都
市化﹂に伴う諸問題にアプ・ーチしてゆかねばならないだろう。そして、M・アンダーソンのプレストンに関する研
究が今後のわれわれの研究にとって大きな指針となることを記しておこう。
︵1︶ ∪彗8Pヲリ沖≦鉱8P↓,>■讐、○昌荘o勺ob三暮幽8良U貰o帥ω三お臼昌匹Oげ8三冨㌧9⇒山一富い8巴9ωヰま暮︻9
<〇一・×︵一〇。凱o。y<o一■図H︵一〇。鉛ソくo一・図目︵一〇。3﹀︵以下の引用に際しては、U節コの。昌帥≦①犀。Pくo一・図︸や鉾という
u良昌αQ箒霞崎ぎ婁一。・。一−鋒、㍉§§織§ミぎ弊焼。ミ旨菖魚卜§§ミ恥霜ミ9馬砺、い賊喰軸・<。一・ヌ︵一・。軌M︶・
一〇〇〇’
一 一③暫 ℃。 いN。
・区−嶺。
一U■
三三九
ので、紹介の意味もあって、この論文を扱うことにした。ただし、この論文は出典を全く示しておらず、その点が一つのデメ
ように示す。︶レッドフォードはこの研究に全く触れておらず、日本においてもこの成果を利用したものに接した.︼とがない
リットになワているo
㌧守噛織‘ <O一﹃ 同図隔 ℃■
‘国醤職ま砺馬、頴黛ミ“肉ミ甲憶悩慢黛■O昌山o目り
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〇 一 ≦ 一
U卑昌ωo昌簿 署o犀oP くO一, 図り ℃, 刈、
一〇1一ピ
讐 斜09
り ﹄曽帆亀こ !NO一■
﹄ぴ賊亀‘ <O一,
﹄ぴ画戚こ くO一,
国ぴ馬亀‘ <Q一ひ
﹄ぴ帖匙‘ <O一、
一
図図図図図
H マ℃や℃
や や マ
期
分
イギリス産業革命
の 人 口
析 の 一視角
一〇ひoQい ℃’ “O,
一〇P8≦ロという用語をここでは ﹁都市﹂と訳出しておいた。
NOQo,
い
﹄ぴ
“‘ <
︵∪
一 ・ H︾
︻㌧
帖 や NOO’ く〇一■ ﹀︻一 ℃。 N斜・
国ぴ
亀こ
く
一。
H
︻魅
帖 〇 ﹀ や
噛ぴ
戚 こ < Oピ
一図
帖 ℃ や
﹄Φ賊職‘ <〇一、 図 一 ℃ ,
(((((((((((((
141312111098765432
)))))))))))))
国Φ畿こくo一臼図H、やひ9
噛ミド
一橋大学研究年報 社会学研究
︵15︶
尋蕊こ<〇一’図 炉 ℃ ー “ 軌 ー
︵16︶
︵∬︶
国曽&こ<〇一’図一魎やひoo■
き蕊‘<o一、図 H 、 マ 頓 O ■
︵19︶
国ぴ蕊こ<o一,図同、マ軌“.
﹄ぴ&こくo一■図H、マひP
︵18︶
︵20︶
﹄ぴミ‘<o一。図H︸℃、博O■
︵21︶
︵22︶
三四〇
︵昭和四十七年十月三十一日 受理︶
することができな か っ た 。
︹付記︺ 脱稿後、■p鴇茎型・寅。誤恥ぎミ§織肉黛§誉適、禽馬§§・9ヨ耳一凝。q・”・這認・を入手したが、本稿では参照
︵未完︶
12