伝統を嗜む 平成の武人たち - 中央区つながるマガジン まちのわ

Summer
vol.
5 -Autumn
0円 TAKE FREE!
ご自由にお持ち帰りください
2014-09-10-11
005
MACHI NO WA
つなぐ人
伝統を嗜む
平成の武人たち
つなぐ食
くまもと懐古夏
つなぐ心
江津湖 You /186,234
中央区365度
肥後の駒下駄
犬的中央区
Contents
01
ということ。
「つなぐ」
特集1 つなぐ人
ち
伝統を嗜む 平成の武人た
03
肥後朝顔
肥後の能楽
11
下駄
中央区365度 肥後の駒
13
CHUO-KU ものがたり 1
味 天神
特集 2 つなぐ食
14
くまもと懐古夏
二葉ラムネ
手造りアイス
隈
犬的中央区 黒髪∼子飼界
CHUO-KU ものがたり 2
25
27
水前寺児童公園
特集 3 つなぐ心
28
江津湖 You/186,234
神水本町ホタル会
水前寺のり 守り人
37
犬的中央区 江津湖
CHUO-KU ものがたり 3
新町獅子舞
る熊電
中央区今昔 ジャリ道を走
井戸端会議 あくてぃ部
・坪井
中央区お散歩マップ 京町
まちづくり情報発信ひろば
読者アンケートプレゼント
02 machi no wa
39
41
43
45
47
49
01
つなぐ 人
も の の ふ
た し な
伝統を嗜む
平成の武人たち
03
04 machi no wa
熊本に息づく
武家の美学
もに許したことが、学問や園芸
もっこす 〟であることを自他と
高で頑固一徹な熊本人が
〝肥後
は、﹁肥後六花 ﹂
の序文で、﹁崇
細 川 家 十七 代・細 川 護 貞 氏
芍薬・花菖蒲・朝顔・菊・山茶花・
その中の一つ、﹁肥後六花﹂
は、
継承されてきたに違いない。
形 を 変 え ること な く 、連 綿 と
からこそ頑固を貫き、現代まで
す〟
。
彼らが築いた武人の嗜みだ
は 、武 家の美 学 。頑 固なまでに
そのいずれもに息づいているの
受け継ぎ方はさまざまだが、
で変わらぬ姿を受け継いでいる。
手厚く保護した能楽もまた、
熊本
長 刀などがあり、
代々の天下人が
また 、﹁ 肥 後 古 流 ﹂には 茶 道・
たしな
の高度な発達に結びついたので
椿の6 種を 指す。
八代・重 賢 公
作 法や所 作にこだわり 続けた
もりさだ
はないか﹂
と記している。
の時代に生まれ、
それぞれに
﹁花
その美意識に、現代の武人たち
つばき
しげかた
なぎなた
酒を 飲めば 旧 知の仲のよう
連 ﹂という 団 体により、種 子や
がひたむきに向かい合っている。
さざんか
に親しげなくせに、初めて会っ
育て方など 門 外 不 出の厳しい
そのお手並みを拝見しよう。
しょうぶ
た時にはわざと相手に突っかか
掟が守られ、伝承されてきた。
しゃくやく
るような愛すべき
〝 肥後もっこ
05
06 machi no wa
肥後朝顔
くわみず
﹁ 肥 後 朝 顔 ﹂は 、生 涯 蔓を 摘
種を入れて、
肌身離さず守り続
さんがリュックに
﹁肥後朝顔﹂
の
﹁毎年、
4歳児と5歳児が一人
野惠子さんは語る。
ることができると、現園長の牧
学校法人 熊本ルーテル学園
神水幼稚園
むことなく、自然の姿を愛でる
けたおかげで、戦 後その種から
1 鉢ずつ育てています。3 歳 児
つる
ことに美学がある。
その姿、﹁小
再興することができたという。
には﹃やってみたい!﹄
という意
年︵1 8 9 9 年 ︶
に﹁ 肥 後
後世に受け継いでいこうと、明
澄まされた武 人たちの美 学を
そのストイックなまでに研ぎ
第1花を咲かせる。
は種の採取・保存など、先生方
すで作る肥料の用意。開花後に
種まき 前の土づくりや油か
一緒に
﹁肥後朝顔﹂
を育ててきた。
して以来、
同園では子どもたちと
に﹁ 神 水 幼 稚 園 ﹂
の教 師に着 任
あるものに向き 合う 真
どもたちの感性を育みます。命
まりには美学があり、
それが子
ですね。﹃肥後朝顔﹄
の厳しい決
教える 責 任や 誇 りを 育てたい
の気持ちを。
そして5歳児には
さんに 対するあこがれや 尊 敬
けいこ
鉢 本 蔓一幹 づくり ﹂。鉢の高 さ
その思いを受け継いだ娘の好
欲を。
4歳児にはお兄さんお姉
朝顔涼花会﹂
が結成され、種を
は一年を 通して心を 注ぐ 。その
も伝えていきたいですね﹂。
よし
に対し 、約2・5 倍までに本 蔓
子さんが、
昭和 年
︵1946年︶
門 外 不 出とし 、伝 統の栽 培 法
姿を通して、命あるものに向き
研ぎ 澄まされた美 学は時 代
こ
の伸びを抑え、本葉7枚の上に
を守り続けてきた。
合うこと、自分がお世話をする
を越えて、
ちいさな平成の武人
治
第二次世界大戦や大水害な
責任、
そして土に触れ合うこと
たちに受け継がれていく。
な心
どで絶 滅の危 機にひんした 際
の楽しさを 子どもたちに 伝え
すえこ
07
08 machi no wa
21
には、愛培家であった徳永据子
「肥後朝顔」
と名乗ることができるのは
一代限り。種が混じることのないように
厳格に管理されている。草丈はおよそ70
センチ、第1花を草丈の4分の1に咲か
せ、本葉の数は七つに仕立てる仕来り
で、
その品位とバランスこそ
「肥後朝顔」
の 命 である
32
でしょう﹂と十三代・勝さんは
も細川家が好んだ理由の一つ
などの古典の番組が多いこと
源氏物語や平家物語、
伊勢物語
石を給せられました。
能楽には
し、
細川家の時代には1,
000
役者 〟として500石を拝領
家初代は清正公に仕え、〝武家
たといえるでしょう。
肥後中村
入りする際に、能の大家・金春
熊本の能は、
加藤清正公が熊本
〝肥後の能楽〟とも呼ばれる
は創作能にも取り組んでいる。
な 魅 力 を 育 み な が ら 、折 々 に
継 ぎ 、若 手 能 楽 師 た ち が 新 た
中心とした伝統の能楽を受け
の流派が活動している。
古典を
流・観世流・宝生流という四つ
を 務 め る 喜 多 流・金 春
方︵*1︶
楽がある。
今も、
能の花形・シテ
を越えて受け継がれてきた能
神社薪能﹂など、熊本には時代
﹁藤崎宮秋季例大祭﹂
や
﹁出水
力 を 続 け て い る 。毎 週 火 曜 に
楽しむ道を開く活動にも尽
を は じ め 、誰 も が 能 に 触 れ 、
能楽堂の建設に向けた活動
年に つ な ぐ た め に 、勝 さ ん は
れまでの400年を次の400
十五代・帯雅ちゃんが誕生。こ
継 ぎ 、肥 後 中 村 家 に は 待 望 の
長 男・一 路 さ ん が 十 四 代 を
い限りです﹂
。
のモチベーションにもつながっ
することが家臣の信頼を得、
戦
はもとより、
高尚な文化を習得
とって嗜みの一つ。武道・戦術
﹁ 当 時 、能 楽 は 戦 国 武 将 に
切に保存されている。
も熊本市有形文化財として大
伝書を託した。その書状は、今
可状を与え、
能楽を演出する秘
勝三郎に対して、
一子相伝の印
は、豊臣秀吉公の遺命により、
ま っ た と い う 。後 に 金 春 八 郎
勝三郎を帯同したことから始
八郎の下で能楽を学んだ中村
ただとし
きた
語る。
加藤神社で行われている能
ほうしょう
初代熊本藩主・忠利公以降、
楽教室に
かんぜ
明治維新を経て今日まで、〝肥
は、 ∼
代の男女約
人が集
いちろ
たいが
芸、身に付けてほしい。郷土の
などの熊本の文化を一人一
肥 後 古 流 や 華 道・肥 後 宏 道 流
そして能楽だけでなく、茶道・
ていただくことが大切です。
方に〝肥後の能〟について知っ
せんが、
地元で一人でも多くの
のは並大抵なことではありま
無形文化を次世代へとつなぐ
しいですね﹂と、その思いを熱
てみることから始めてみてほ
た ち も 謡 を う た い 、自 ら 舞 っ
と が で き る 伝 統 芸 能 。若 い 人
あ れ ば 、誰 で も 身 に 付 け る こ
れ ま す 。能 は 扇 と 白 足 袋 さ え
か ど う か は 、郷 土 の 力 が 問 わ
法などを学ぶ。﹁シテ方が育つ
舞いと呼ばれる能楽の所作・作
い、
謡や仕
こうどう
文化を愛する心を持っていた
く語る。
「 先 生 に出 会
い、
その人柄に
魅せられて門
を叩いた」
とい
う山田 晃さん
たしな
後の能〟は隆盛を極め、多くの
名人を輩出してきた。
90
だくきっかけになればうれし
﹁ 4 0 0 年 受 け 継 い で き た
40
10
肥後 の
能楽
こんぱる
十三代・中村 勝さん。
「 能楽は天才の世界じゃなく、
玄人(くろうと)
になるためには努力あるのみ。素人(し
ろうと)
は自分より上手を育てきらんし、玄人は自分よ
りも数段上の玄人を育てることができる。私もまだ素
人、修行の途中ですよ」
と語る
09
10 machi no wa
金春流 肥後中村家
加 藤 清 正 公 ゆかりの
「箙(えびら)」
を演ずる
十四代・中村一路さん
*1 シテ……能と狂言の主役であり、
その一曲を務
める人という意味。
シテ方には「能楽五流派」
と呼ば
れる観世流・宝生流・金春流・金剛(こんごう)流・喜
多流の流派がある
信
魅
力発
365度
の
﹁鼻緒すげは誰にも負けん﹂
中央区
度
プラス 5
肥後の駒下駄
うた つ
ときお
武蔵屋 三代目・歌津 十紀雄さん
私が駒下駄ば作り始めてもう60年。細川藩の時代には侍たちが
履き、
そん後には旧制第五高等学校の学生たちが、手ぬぐいば
腰に下げて、下駄の音ば鳴らしてかっ歩しよった。今でん駒下駄
ば作り続ける訳は、昔から続いてきた伝統ば熊本に残していくっ
ちゅうこったい。小国の杉ば一足ごとに糸ノコで切り出して仕上
げるけん、下駄ばそろえて歯ば見てごらん、木目のそろっとるはず。
鼻緒も職人が作ったもんば選り抜いて、
すげちいく。
それがこだわ
創業百有余年、熊本市の伝統工
芸品を作り続けている。学生たち
や外国人の製作体験を受け入れ
るなど、熊本の伝統文化の普及に
も力を注ぐ。
武蔵屋
住:熊本市中央区呉服町1-1
Tel. 096-352-6497
営:9:00∼18:30
休:日曜、祝日
12 machi no wa
りっちゅうこったい。最近は下駄ん履き方も知らん人が多かばっ
てん、下駄から少しかかとの出るくらいが 粋 。右と左ばたまに変
えて履くと長持ちする。
お客さんの中には、下駄の歯のすり減って
の
無うなるまで履いて見せてくるる人がおって、
うれしかねぇ。
そぎゃ
んお客さんと話ばすっと、
また下駄ば作ろうて手の動くたい。
11
つなぐ食
れとろ
くまもと
懐古夏
夏休みになると
手のひらに小銭を握りしめていちもくさんに買いに走った。
キンキンに冷えたラムネと手造りアイス。
子どもたちの最高のおやつは、今も昔も変わらない。
中央区に残るレトロな夏の風景を訪ねてみよう。
14 machi no wa
U
CH
味
O- K
U もの
がた
り
1
天神
「味 (みそ)
天神」
は和銅6年
(713年)
、
悪疫が
流行した際に、神薬の神として
「御祖(みそ)天
神」
を祀ったことがはじまりだといわれ1300余
年の歴史を誇ります。
その後、国分寺が建立さ
れ、寺の味 蔵が境内と同じ敷地内に建てら
れました。
ある年、味 蔵の味 が大量に腐っ
たので
「御祖天神」
に祈願すると境内の笹を味
に立てるようにと神からのお告げがあり、
そ
れに従うと腐った味 が美味しい味 に変
わった、
という言い伝えから
「味 天神」
と呼ば
れるようになりました。
現在は、
大江第11・12・13
町内から各2名の宮総代が選出され、
大切に継
承されています。
毎月10日には13町内自治会の
皆さんによって定期清掃が行われています。
ま
た毎年10月25日には、
「熊本県みそ醤油工業協
同組合」青年部の共催の下、秋季例大祭が盛
大に執り行われ、
多くの参拝者で賑わいます。
13
く まもとの 夏 、ごっくん潤 す
昔ながらのガラス瓶が命たい ―
。
〝心のビタミン〟飲みなっせ。
幼い 頃 、青いラムネの 瓶 に
熊本市で唯一
昭和レトロのラムネ
場を守り続けてきた。
んの邦 子 さんと二人 三 脚で工
葉 食 品工業 所 ﹂
の二代 目 。奥さ
白石秀 秋さんは、新 町の﹁二
は2 000本ぐらいかなぁ。飲
てしもうてね。今手元にあると
ば作る会社がどこにもなくなっ
瓶が手に入らんごつなった。瓶
ひであき
は、
ワクワクと 喜びが詰まって
創業は昭和
年
︵1952年︶
。
いた。
なんとも不思議な形をし
年 もの 間 、熊 本の 駄 菓 子
み口がプラスチックの瓶が大半
音を立てるビー 玉が一つ。少し
供してきた。﹁もう、飲み口まで
屋さんや飲 食 店にラムネを 提
たり、持ち帰って返さん人もお
やっぱガラス瓶はよかよ。割れ
に なって し も う た ばって ん 、
背 伸びをしてラムネを 飲も う
て、
ラムネを充填し、
封かん紙を
多忙を極める時期。
瓶を洗浄し
ているが、
6月から8月は最も
現在は一年中ラムネを販売し
お客さんの笑顔が一番大事
人から人へつなぐ輪
つめる。
秀 秋さんもしみじみと 瓶を 見
る 瓶になってしもうたねぇ﹂と
人もおるくらい、希少価値のあ
るけど、中には買いたいて言う
一人になってしまったと聞いた。
でも数少なく、熊本市ではただ
り続けている職人さんは、全国
そんな昔ながらのラムネを作
だった。
なったような気分さえしたもの
瞬間の誇らしさは、少し大人に
玉を引っかけて、上手に飲めた
の日に、
あの瓶のくぼみにビー
しまった。少し 大きくなった夏
玉が転がって飲み口をふさいで
全てガラスでできた昔からある
約
,
とするたびに、
コロコロとビー
た瓶の中には 、
コロコロと 快い
27
15
16 machi no wa
60
んの日 課だ。休む 間もなく 、炎
取 引 先に配 達するのが秀 秋さ
から 軽トラックに乗せて、自ら
中に 瓶 詰めしたラムネを 午 後
貼って 仕 上 げ る 。そし て 午 前
ないでやらす﹂
と秀秋さんは破
ば 教 え ら れた 。仕 事 も 人 がつ
代から〝 人 〟ば大 事にすること
でっちゃ仕 事は苦にならん。先
ん 暑 かったっち ゃ 、土 砂 降 り
が一番 気 持ちんよかよ。ど ぎゃ
車 は 天 然 クー ラ ー 。自 然の 風
天下のまちを 走り 回る 。﹁ 俺の
を刺されていると笑う。
に﹁お宅は 辞めなすなよ ﹂と 釘
たい﹂。取 引 先の駄 菓 子 屋さん
ばってん、
でくるしこ、
がんばる
なぁ。だけん、無 理はし きらん
の 顔 ば 見 る と 、う れし かも ん
もたちの喜ぶ声とか、
お客さん
休みはなくなるばってん、子ど
楽しみは、
仲間たちと行く山登
が待っとる﹂
と語る秀秋さんの
にゃんたい。そしてまた 瓶 詰め
わった ら 瓶 ば 回 収 し て 、洗 わ
ぶのも一苦 労 。そして祭りが終
﹁ 瓶 詰めも 大 変ばってん、運
はないのだ。
く。
一度に大 量に作れるわけで
せずにいられないという。﹁見知
れが縁をつなぐと思えば、電話
返す。見ず知らずの番号でもそ
着 信 が 入 る と 、後で 必 ず 折 り
転 。7 ∼ 8 0 0 本 という 膨 大
ると 、
﹁ 二 葉 ラムネ ﹂も フル 回
祭 りの 準 備に 忙し くなってく
7 月 、熊 本のど こ そこで 夏
一本、
一本、詰めていく
ラムネ作りは体力勝負
ジュワアァーと爽やかな喉ごし
﹁ 二 葉 ラムネ ﹂が 呼 んでいる 。
夏 本 番 、キンキンに 冷 えた
のストレス解消たい﹂
。
するためにも、
山登りはよか。
俺
勝負。
楽しみながら体力を維持
り。﹁全国の名のある山は、
たい
らん電話番号こそ、
いろんなと
な単 位で、
いろんな祭りからお
を 楽しんだら 、瓶は 返 却 。それ
顔一笑。
ころの祭 りや自 治 会からの注
呼 び が 掛 る 。昔 から 変 わ ら な
が 次 世 代へと 本 物 をつな ぐ 掟
てい登ったよ。
この仕 事も 体 力
文かもしれん。
みんながラムネ
い 瓶 詰 めの 機 械 に 、1 本 ずつ
なのだ。
配 達 途 中の車の中で携 帯に
ば 飲みたかて 思ってくれる 限
セットしては 丁 寧に 詰めて 行
17
18 machi no wa
り、納めていくのが 俺の仕 事 。
二葉食品工業所 住:熊本市中央区新町4-6-9 Tel. 096-352-7914
大 人 も 子 ど も も 駆 けてくる 夏の 楽 園
19
20 machi no wa
かげろうが立ち 上る
熱のま
古い街道筋のアスファルトに
古い町並みに残る町屋で
変わらない味をつなぐ
げられている。
らない夏 休みの風 景が繰 り 広
本舗﹂
では、数 十 年 前から変わ
お店のおばあちゃん。﹁近藤製
そに。
ニコニコとそれを 手 伝う
しました﹂。
つかろうって、後ば継ぐ決心ば
かし 、力 仕 事 。両 親にはもうき
んですよ。
この仕事は休みもな
取ったなぁ∼ってね 、気 付いた
時 、帰 省して両 親 を 見 たら 年
この家に先代が惚れ込んで、
こ
町並みの中、往時の趣きを残す
わった 日 向 往 還からほど 近い
は 生 活 物 資を 運ぶ人々でにぎ
もの月日が流れている。古くに
業を営みはじめて、
百年以上
昭和から平成に時代が変わっても
子どもたちの笑顔は変わらんよ。
ちを土砂降りが洗い流していっ
店を 切り 盛りするのは三代
せいあめ
た雨上がり。辺りを蝉しぐれが
の地にやって来て、
もう
∼
上益城郡御船町木倉から製
ひろき
目・近藤弘毅さん。家業を継ぐ
つもりもなく、 年ほど県外で
仕事に就いていたという。﹁ある
70
円で売りよりました。
祖
弘毅さんが三代目を継いで、
の思い出の味ですね﹂。
それでも手作りならではの味に
キャンデーなら8 種 類ほどに。
常 時 店 頭に 並ぶ 種 類はアイス
あっと 言う 間に売れてしまい、
で楽しんでもらいたくて、月に
すよ。そのおいしさを 出 来たて
ふわと軟らかい氷ができるんで
まれた空気ごと固まって、
ふわ
た後に一晩 寝かせると 、中に含
も出店するなど、多忙を極める
た。
また、声が掛ればイベントに
が遠くからも訪れるようになっ
氷は、人 気を 呼び、多くの人々
しみなくたっぷりとかけたかき
ルソースも作る。自慢の氷に惜
年になる。
その間に少
しずつアイスキャンデーや名 物
こだわる。﹁うちの
﹃白くま﹄
は、
2回程度ですが、盛夏には店頭
やがて
﹁ 白 くま ﹂
の種 類を 増やしてき
熊本市が誇る水道水を使い、
2
から直 接 買い付けて、
オリジナ
ンゴー、
レモンなど、地元の農家
季節のフルーツをと、
イチゴ、
マ
せっかくなら 熊 本で 採れる
うにしてます﹂
と弘毅さん。
時ば
イスを食べて育った。﹁昔は、
氷金
ちろんおやつには 、手 造りのア
感じてきたという弘毅さん。
も
めな がら 、肌 でその 大 変 さ を
幼い頃から 両 親の仕 事を 眺
熊本の魅力と思いを
ぎゅうっと詰め込んで
年になるのだとか。
包みこむと、元気いっぱい、笑顔
いっぱいで駆けてくる子どもた
ちの姿があった。
﹁こんにちはー ! ﹂と 挨 拶す
るのももどかしそうに、顔をく
しゃくしゃに し な が ら アイス
キャンデ ーのケー スを 覗 き 込
む 。ちいさな子は一生 懸 命に背
伸びをしながら、
お兄ちゃんに
負 けないよ うに 手を 伸 ばして
足をバタバタさせ 、やがて半べ
母がそれに牛 乳ばかけて、
シャ
クシャクつぶして 卵 黄 ば 入 れ
て、
おやつば作ってくれよったつ
ですよ 。それが一番おいしかっ
80
5
た。
現在、
アイスキャンデーは 種
1.新規メニューの開発や広報なども
現代のニーズに合わせて展開する
近藤弘毅さん。
インターネットを通
じて社会的なネットワークを作る
SNS(ソーシャルネットワーキングシ
ステム)
を使い、
メニューやイベント
の告知などを行っている 2.日向
往還の御船口四つ角にお地蔵さん
と佇む
「追分石」 3.店内に飾られ
た古いホーローの看板などが風
情を添える 4.季節の果物で作る
かき氷は人気(今年の販売は終了)
5.同店の看板商品「琴平 」
4
毎日が続く。
類、﹁白くま﹂
は8種類。
しかし、
3
でかき 氷 も 食べても ら える よ
素 朴 なおいしさの
「手造りキャンデー」
各 種 7 0円∼ 。
「白く
ま」各種130円
度凍らせて作ります。氷ば削っ
た。夏になると思い出す幼い頃
60
7
21
22 machi no wa
1
2
15
18
1・2.型に流し込んだアイスキャンデーの原液を少し固
めて、一つひとつ棒を刺していく。斜めに傾けた角度は、
もちろん食べやすいように 3.「近藤製 本舗といえば
白くま」
という常連さんも多い 4.アイスを選ぶ子どもた
ちは真剣なまなざし 5.「お客さんに会えること、喜んで
もらえることが生き甲斐たい」
と昭子さん
子どもたちの楽しみを
絶対になくしたくない
店 休 日は 製 造に当て、体を
休める暇もない。それほどまで
に動き 回ることができる 原 動
力とは何なのだろうか。
﹁ 昔は 、どこの学 校の傍にも
駄菓子屋があって、子どもたち
のたまり 場だったでしょう。今
ん子どもたちはコンビニに集ま
る。
コンビニの前に座り 込んど
る 子どもたちば 見るとは 悲し
円で、
もう
かですね 。アイスキャンデーの
ソーダとコーラは
けはありません。
でもこれば、
子
どもたちが小遣いを握って買い
に来る。
これだけは絶対になく
したくないですね。子どもたち
のためにがんばらにゃんて決め
てるこ
とります﹂と 、弘 毅さんはその
たつみ
思いを語る。
先代の辰己さん・昭子さん夫
妻もそんな弘毅さんを支え、製
造から接客まで忙しい毎日だ。
長年、
店頭に立ち続ける昭子さ
んは、﹁ちいさか頃から知っとる
お嬢さんが、
やがて大 人になっ
て、子どもば連れて来てくれま
す。名前ば呼んで大きくなった
ねぇって話しかけると 、びっく
りして喜んでくれる。
そりゃぁ、
み∼んな覚えとるよ。
お客さん
の笑 顔ば見ると 元 気が出ます
ねぇ﹂と 生き 生きとした笑 顔 。
ここには 昔から 変わらない味
と 、迎えてくれる 笑 顔がある 。
だからこそ、何度でも訪れたい
場所なのだ。
お 気に 入 りのアイスを 片 手
に、
ベンチに腰掛けて、食べる姿
は夏の風物詩。大人から子ども
まで、顔見知りもそうでなくて
も 、仲 良 く 並んで食べる 。
いや
食べた くなるよ うな 風 情に 満
ちている。
小 豆 、抹 茶 、和三 盆& 黒 糖 、
いちごミルクにマンゴーなど 、
選ぶのが悩ましいメニューぞろ
23
24 machi no wa
い。氷の旗が風にゆれる軒 先の
ベンチで食べれば 、ひんやりと
した 風 が 吹 く 。
ここに来れば 、
忘れかけたあの日の私に会える。
住:熊本市中央区春竹町54 Tel. 096-364-5975
営:月∼土曜9:00∼19:00
日曜10:30∼18:30
休:不定休
本舗 近藤製
70
1
2
3
4
5
犬的中央区
黒髪∼子飼 界隈
見慣れた風景も視点を変えると
全く違って見えることがありません
か。毎日通る道、いつものお店。犬
たちの瞳には、
どんな街の姿が映っ
ているのでしょう。
ワンちゃん視点
での街歩き。今まで気付かなかっ
た何かに出合えるかもしれません。
子飼商店街は、最近若い人もいっぱいで
にぎわっている。飼い主さんはいろんなお
店の人と立ち話が多くてちょっと退屈に
なることも。自転車が多いけどみんなちゃ
んと押して歩いてくれるから安心さ。
飼い主さんがお肉屋さんでコロッケを買ってくれた。
おじぞうさんの前で休憩しながら半分こ。
お楽しみのおやつタイム。
おいしー。
26 machi no wa
熊大横の通りをおさんぽ。
マンホールには肥後六花、少し歩くと地元の町内自治会で植えられたポピーのお花畑。大学キャンパスでは子どもたちが遊んでた。
25
U
CH
O-K
U もの
がた
り
2
水前寺児童公園
つ なぐ 心
江津湖
市電「市立体育館前」電停からほど近い
「水前寺児童公園」の一角に、夏休み限
定でオープンする
「ちびっこプール」。
コン
コンとわき出る湧水のプールは、
どんなに
暑くても水温は18℃前後、なんと無料で
遊べるとあって、
ちいさい子から小学生の
お兄ちゃん・お姉ちゃんまで、
みんな大集
合です。湧水を掛け流しているので、
プー
ルサイドもひんやりとして、足湯ならぬ 足
湧水 を楽しむ保護者の姿も。水の都 く
まもとならではの贅沢な天然プールです。
You/186,234
江津湖の美しい自然と受け継がれた文化を
未来へと守り継ぐ中央区の人々。
その生き生きと活動する姿と熱い思いをご紹介します。
あなたも中央区に住む186,234人* のうちの一人。
次はあなたが江津湖を大好きになる番です。
(平成26年7月1日付)
*熊本市中央区推計人口
28 machi no wa
27
くわ み ず
ほん ま ち
神水本町ホタル会
ホタルが飛び交う美しい江津湖を
もう一度取り戻そうと活動を続ける
﹁神水本町ホタル会﹂。
ホタルの生息地である神水川
︵通称︶
の環境保全など、
その活動を支えたのは地域に携わる人々の
も、﹁藻取り舟﹂
があり、江津湖
かつて江津湖界隈のどの家に
環境保全の限界に直面
いでいる 。毎 年 、観 賞 会も 開 催
ぎを 舞う 美しい風 景を 守り継
えた無数のホタルたちがせせら
設立から8年、
ほのかな光を携
育み、江津湖はいつもさらりと
活 動を 支える会 員は地 域の
ホタルの舞いを堪能した。
﹁昭和 ∼ 年代の江津湖で
で歌人・中村汀女が記している。
がら 飛び 交 うホタルを 守ろう
称ホタル川を拠点に、
わずかな
るのは、﹁神水本町ホタル会﹂
の
の取り組みを始めました﹂
と語
風景を取り戻そうと環境保全
ルが飛んでいたんです。当 時の
は、夏になると当たり前にホタ
手応えを感じたものの、翌年に
ルが乱舞する光景を見た時に、
2 ∼3 年 前に数 百 匹のホタ
コツと積み上げてきた。
と、清掃活動や環境整備をコツ
6
はその姿を 探して回らねばな
めら
5
会 長 を 務 める 米 良 正 彦 さ ん 。
らないほどに激減。神水川の本
流 界 隈にわずかに光を 確 認で
きたのみだった。
﹁ 環 境 保 全では追いつかない
現状を思い知った瞬間でした。
おそらくホタルたちは、水量豊
富で川幅の広い本流へとよりよ
い生息地を求めて移動したので
しょう。
守るだけではなく、
養殖
して、
ホタル川に定 着させるこ
との大切さを痛感しましたね﹂
。
地域を守りたい思いは一つ
ホタルの 養 殖へと 着 手 する
きっかけは、
ホタル川河 畔の宅
地造成だった。﹁私たちからすれ
ば〝 環境破壊〟同然。住 宅 会 社
に抗議に行ったところ、社を上
げて環境保全に取り組んでいる
とのことで、丁寧に謝罪いただ
いた 上に 協 力を 申し 出てくだ
さったんです。それが大きな転
機になりました﹂
と米良さん。
の助成制
昨年、﹁一本の木財団﹂
度を利用し、資金を調達。
いよい
よ養殖が実現する運びとなった。
1
4
かけがえのない思いと惜しみない協力だった。
の藻を収集したという。集めた
し、
5月
日には多くの人々が
藻は肥料となって大地を豊かに
した湖底から美しい湧水をたた
有志約
人。神水川の分流・通
えていたと、﹁さきの日の江津﹂
17
10
29
30 machi no wa
3
9
40
「 神 水 本 町ホタ
ル会」会長・米良
正彦さんと奥様
の康子さん
4. 川の中に鯉を飼育する生けすを設けた。鯉のフ
ンはカワニナのエサになる
5・6. 川面にせり出す草木の影には、
川ガニや魚た
ちが棲み、季節になればカラーやショウブなどの草
花が美しい色彩を放つ
7. 神水川本流は水量が多く、
ホタルにとって棲み
やすいが、
ホタル川は年々水の量が減り、環境の変
化が危惧されている
8. 水中に白く見えるのは石灰石。水の浄化を手助
けしてくれるありがたい存在だ
9. ホタル川河畔の通路は、近所の人々がボラン
ティアで草を刈り、歩きやすく整備を続けている
1. 看板は玉名市の看板絵師・松
尾寿夫さんの作品
2.「熊本市民病院第4駐車場」
に
隣接。
目の前をホタル川が流れる
3. 養殖は、
ホタルのエサになるカワ
ニナを育てることからスタートする
8
30
7
2
32 machi no wa
31
小 屋の建 築は前 述の住 宅 会
しかったですね﹂。
みんな同じ。それがとてもうれ
の名 所を 守ろうとする 思いは
んです。地 元で知られるホタル
の 利 用 を 快 諾してくださった
﹁ 養 殖 小 屋の話をすると 、土地
主さんを探し当てた米良さん。
やく 河 畔の土 地を 所 有する 地
ホタル川近隣を訪ね歩き、
よう
小 屋を 建てる土 地を 求めて
心づくしの養殖小屋完成
が起きるように、
さらに改良さ
れ、
より効率の良い空気の流れ
ち ろん 、上 部には 金 網 が 張 ら
たという。﹁ 外 壁のすき 間はも
快 く 造り 直しに着 手してくれ
その話を 聞いた 住 宅 会 社は
き間が必要なんです﹂。
の木 材と 木 材の間に適 度なす
気温が上がらないように、外壁
ました 。ホタルを 育てるには 、
外 壁がすき 間な く 造られてい
の素晴らしい養殖小屋ですが、
江津湖の風景が描かれていた。
正さんの計らいで、昔ながらの
ホタルを育てる会﹂会長の今村
え 、導いてくれた師 匠﹁ 岱 明 町
タルの保全から養殖まで全て教
れた手描きの看板。
それにはホ
そして、小屋の入口に掲げら
量が大幅に軽減されていた。
れるよう工夫されており、作業
直接ホタル川の水を み上げら
えるためのポンプが設 置され、
小屋だけでなく、水を入れ替
には、本当に感激しました﹂。
成
思いが、
ホタルを育てている。平
掃などを 手 伝う 地 元の人々の
員の熱意と、何も言わずとも清
一年の 月 日 を 掛 けて 育てる 会
た。毎日 水を 入れ替えながら 、
しずつ少しずつ大きくなってい
ル川の水で黒 く 小さな 卵が少
ロールの箱では、清らかなホタ
に 吹 き 込 んでいく 。発 泡 スチ
涼しげな風が養 殖 小 屋の中
養殖の準備がついに整った。
みんなの思いが集まって、
ホタル
年夏、
ホタル川は る。
れていたんです。小 屋を 見た時
33
34 machi no wa
鯉の生けす周囲に流れ着く木の葉やゴミ
を手で取り除いていく。ホタル川一帯の
家は、夜になると明かりがもれないように
カーテンを引き、ホタルにストレスを与え
ないようにと協力を惜しまない。会員だけ
でなく、近所の住民一人ひとりが自分で
できることで、取り組みを支えている
社が引き 受けてくれた。﹁ 木 造
27
水前寺のり 守り人
絶滅危惧種となった水前寺のりを守るために
養殖の技術を開発した丹生慶次郎さん。
減は? ﹂﹁ 水の流れ方はどう 影
し 高ければどうか﹂﹁ 水 量の増
水 前 寺のり が 喜んでいるかの
それは ま るで﹁ 気 持ちいい﹂と
らと水流に乗って流れ始める。
けいじ ろ う
鮮やかなグリーンに輝くような新種﹁翠玉﹂
を発見し、
手塩に掛けた我が子と一緒
年
水前寺のりの魅力を全国へと発信し続けている。
保 存しておいた 文 献や新 聞
響するか﹂
と、
スタートして
ん
さ
水前寺のりを次世代に
絶やさずつなぐ
記 事を 調べる一方で、さまざま
たんせい
丹生 慶次郎
江 戸 時 代 、熊 本 藩を 代 表す
たのは、丹 生 慶 次 郎さん。養 殖
は絶えてしまう﹂
と立ち上がっ
﹁このままでは 、水 前 寺のり
滅の危機に しているという。
化 と 水 量の 減 少 を 受 けて 、絶
ジノリ 発 生 地 ﹂
では 、水 質の悪
る﹁国指定天然記念物スイゼン
り。
しかし 現 在 、上 江 津 湖にあ
へと 献 上 されていた 水 前 寺の
る 珍 味として細川家から 幕 府
ブロックや網 、波 板を 使った仕
のではないかと 、プールの中に
た。水流によって生育が変わる
せて直射日光からプールを守っ
付くと、遮光ネットを張り巡ら
る。水前寺のりの色が悪いと気
蘇の伏流水をポンプで み上げ
と、ボーリングした地中から阿
水は 水 前 寺のりにとって命 だ
な工夫で実 験を 重ねていった。
すると、
そこには小さな地球の
水 を 浄 化 する 。水 作 り が 完 成
ナを育てる。
そして、
カワニナは
みた 。すると 魚のフンはカワニ
放って、
セキショウブを 植えて
かカワニナ、
ハエとかの小 魚を
こと。伏流水の中には川ガニと
棲みやすい環 境を 整 えてやる
﹁ 私の仕 事は、水 前 寺のりが
を経た今も実験を続けている。
ふるさと。
いつか江津湖で自生
﹁ 江 津 湖は元々、水 前 寺のりの
い う 願いは 今 も 変 わ ら ない。
の中で水 前 寺のりの復 活をと
する一方で、本 来あるべき 自 然
かべる丹生さん。養殖法を確立
私の子どもと一緒 ﹂
と 笑みを浮
る様子を見るとうれしいねぇ。
﹁ぷかぷか、
水前寺のりが流れ
ように見える。
ことができるようになれば、
そ
する 水 前 寺のりを 誰もが見る
気付きました﹂。
れが一番うれしいですね﹂。
仕 組みを 作ったのと 同じ だと
水 前 寺のりは 光 合 成を 行い
阿蘇の美しい伏流水は、熊本
掛けを 手 造り。﹁ 波 板がもう少
とらぞう
にプールを造って取り組んでい
た。﹁ちょうど 私が退 職する 頃
酸素をたくさん吐き出す。
する
水前寺のり育成に挑戦!
に水 前 寺のりが絶 滅 危 惧 種に
「熊本市動植物園」では東海大学
の協力の下、園内の小川と水槽で
水前寺のりの栽培に取り組んでい
る。ザルから流れてしまいそうに小
さかったのりが順調に成長中。植物
園の小川で見ることができる。
の宝を今日も育み続けている。
はすでに父・虎造さんが嘉島町
17
Topics
と水面に浮かび上がり、
ゆらゆ
1.一般の水前寺のりにある赤い色素が
ないという
「翠玉」。一粒の発見が大き
く花開いた 2.水流は、水前寺のりを
育てる大切な要素の一つ 3.父を手
伝っていた昭和30年代後半のもの。向
かって右端が丹生さん、一人おいて父・
虎造さん。その隣に細川家十六代当
主・細川護立氏の姿も見える
なったこともあって、父がして
3
きたことをやり直してみようと
思ってね。最初は水前寺のりを
採りやすくしようとコンクリー
トのプールに水を溜めて育てた
1
35
36 machi no wa
けれど、上手くいく訳がありま
せん。何もかも 手 探りで一生 懸
命 研 究し ました 。毎 日 が 試 行
錯誤の連続で、勉強だったね﹂。
2
犬的中央区
江津湖
江津湖で最近、
おさんぽしながらゴミ拾いを
する人たちが増えてるんだって。だからボク
も、飼い主さんにゴミを見つけたら教えてあ
げながら、ゴミ拾いさんぽ をしているよ。
捨てないことが一番だけど、
みんなが毎日のおさんぽの途中でゴミ拾いをすると街がきれいになるね。
38 machi no wa
37
U
CH
O-K
U もの
がた
り
3
新町獅子舞
「新町獅子舞」
は、約400年前の熊本城の築城と
ともに誕生したと伝えられています。
かつて、藤崎
八旛宮は熊本城の西側の藤崎台にあり、
その鳥
居基として新町の人々は藤崎宮秋季例大祭に
獅子舞を奉納してきました。途中、戦や戦争で幾
度と無く中断を余儀なくされながらも、昭和41年
(1966年)に
「新町獅子舞保存会」が結成され、
現在では約60名のメンバーが伝統を守り受け
継いでいます。8月の中旬にまちの一角から笛の
音色が響き始めたら新町に秋の訪れが近づい
た合図。保存会や継承を目指す小・中学生たち
が集まり、舞手・笛手・鼓鉦となって練習を行い
ます。祭り前日まで毎晩行われる練習を地域の
人がうちわ片手に眺める姿も風物詩。昭和50年
(1975年)から39年間、代々の舞手とともに威容
を誇る舞を披露してきた赤と黄の獅子頭は、今
年の秋季例大祭で引退を迎え、現在製作中の
新しい頭へと代替わりします。ぜひ今年は、獅子
頭の最後の雄姿を見に藤崎宮秋季例大祭へ。
40 machi no wa
39
chuo-ku konjyaku
藤崎宮前 北
―熊本駅間
う道のりを列車はゆく。
立町の
︵ 現・必 由 館 高 等 学 校 ︶
へ向か
藤崎宮から熊本市立高等学校
シャツを着た乗客の姿。列車の
走 る 菊 池 行 きには 、半 袖の 白
市立高校付近の併用軌道を
ゴトンと走ったものだ。
砂 利 道を 列 車は、ガタンゴトン
踏 切 を 過 ぎ 、立 田 口 大 神 宮の
奥を横断する三輪車と、風にな
年
︵1962年︶
の夏、
鳥居の横をすり抜けると、急な
昭和
カーブで車 輪が甲 高い音を立
41
42 machi no wa
砂埃を上げて走
びく氷の旗 ……
り去る列車の後を夏風が吹く。
ててきしむ。軌道が敷設された
写真提供:中村弘之
現在の風景。昔、氷の旗が揺れていた所はコンビ
ニになっている。電車はクーラー付き2両編成。
中
には車体にたくさんのくまモンのイラストが施され
ているものも。
しかし、今もなお、道の真ん中を
走っている
明治44年
(1911年)
に
「菊池軌道」
として池田―北千
反畑町
(現・上熊本―藤崎宮前)
、
後の藤崎線を開
業。
大正2年
(1913年)
には、池田―隈府間を結
ぶ菊池線が全線開通し、藤崎線とともに、熊本の
公共交通を支えた
37
これまで培った知識や技術を生かして
地域に貢献したいという中高年の方々
あくてぃ部
あくてぃ部
中央区まちづくり事業
中央区まちづくり事業
「アクティブ・シニア増殖プロジェクト」
「アクティブ・シニア増殖プロジェクト」
し、生きがいづくりや地域の活性化に
つなげるプロジェクト。
参加お申し込みは
中央区役所総務企画課 ☎096-328-2610
これまで培ってきた知識や技術を生かして
まちづくりや地域貢献に尽力したいという
元気いっぱいの「アクティブ・シニア」の皆さん。
昭和をテーマに語り合い、人生を楽しむ
「あくてぃ部」
が
今回、誌上 〝
寄り合い
〟で盛り上がりました。
る気がします。
そのがんばりが、
高度成長
期につながっていったっで
しょうね。古かもんから新しかも
んへ変遷する時代。
その両方ば私
たちは経験できたっですねぇ。
は 華 やかな 時 代 でし た
そうですね 、私にとって
どぎゃん時代だったですか?
よるばってん、
みんなの昭和て、
集まっては、昭 和ば偲んで話し
人。〝寄り合い〟に
﹁あくてぃ部 ﹂
のメンバー
でしたよ 。あん頃は 、誰も が 必
守っていくか、そりゃもう 必 死
んやって生きていくか、家 族ば
か時 代でしたなあ 。どが
私にとってはとても厳し
も身に付いていた気がしますね。
通じて、自 然に行 儀 作 法
当 時は 、そういう 行 事を
昔は生きるために一生懸
生活していた友だちもいました。
くずを拾い集めて、
それを売って
したよね。小 学 校の頃 、鉄
本 当にみんな、
一生 懸 命で
て求められ、
大切にされよった時
業から
﹁あなたは必要な人﹂
とし
われよったほど、
若者が企
当時は青田買いなども行
よ。例えば 、
お正 月には 晴れ着
死で、〝がむしゃらな時代〟だった
命 だったばってん 、今は
だまだ生きていました。
を着て家族で初詣に行ったり、
ですね。
ミュンヘンオリンピック
人に 認 めら れ る こつに一生 懸
﹁がむしゃらだったたい﹂
ふすまの開け 閉めの作 法やき
のバレー ボ ールで 活 躍 し た 大
命。物事の尺度の変わってしも
は今
ちんと 手を 突いて挨 拶すると
古 選 手の姿がそれば 象 徴しと
代。
やりがいもありましたよ。
か、日 本 古 来のいいところがま
たつかも知れんですね。
今は何でも便利になった
けど、人との関わりが希
薄になったと思いませんか?ご
近 所 付き 合いもなくなって、
み
んなの心が寂しい時代になって
しまった気がしますねぇ。
今の子どもたちは親が忙
しくて、基本的な生活の
しつけができてないように見え
るのが気になります。昔はおじ
いちゃん、
おばあちゃんがどこの
家にいて、
一緒に遊びながらしつ
か、銘々が無理ばせんで協力で
してマンパワーば提供する人と
けるといいですね。
て、当たり 前のことも 教えてい
族が主流。私たちが遊びを通し
けもしてたでしょう?今は核家
きることで、
一緒にやれたらよか
昔 は﹁ 砂 糖 貸して﹂とか
そぎゃんしてモノば集める
するのが当たり前でしたけど、
なぁと思いよるところです。
今 ま で 身 に 付 けて き た
だけじゃなく 、体ば 使うボ
今 じゃ隣の 人の 顔 も 知 らない
しよったけん、今 度はボ
私は 福 祉 関 係の仕 事 ば
みんなで競争しよったねぇ。
昔は、
糸車で戦車ば作って、
に教えるのも楽しそう!
昔 遊びとか、子どもたち
なるといいですねぇ。
人がつながっていくような場に
昭和の風情も伝えながら、人と
蚊 帳とか消えてし まいそうな
人も多いでしょう?ホタルとか
ご 近 所 さ んと やり 取 り
知 恵や技ば生かして、
こ
ランティアっちゅうとはよかですね。
ランティアばしたかて考えとり
みんなば 集 めて 、何 か一
飯とかまかないとかで、皆さん
福祉施設に届けようと。
お昼ご
どこにでんある 身 近 なもんか
のごたっと は 使わんで 、
せっかくなら製 作キット
みんなの思いば
﹁あくてぃ部﹂
か
﹁今ば楽しまなん﹂
ていうこと。
た。平成の若者に伝えたかとは
ばってん 、楽しかこつも 多かっ
かや
ます。趣味で家庭菜園ばしよる
こぎゃんして昭和ば振り
緒に作るのはおもしろか
に食べてもらえるとうれしかで
ら工夫して全 部 手 作りしたか
ら伝えていきまっしょっ!
返ると当時はきつかった
すね。野 菜ば提 供する人 、車ば
ですね。
かもしれん!
運 転したり 準 備ば手 伝うとか
た 野 菜 ば 定 期 的に持ち 寄って
仲間たちに声ば掛けて、収獲し
て思いますか?
れからど ぎゃん 活 動 ばしたか
﹁昔は、
じいちゃん、
ばあちゃんが
どこの家にもおった﹂
23
43
44 machi no wa
昭和から平成へ 昭和から平成へ 元気をつなぐ
元気をつなぐ
「あくてぃ部」
とは
に、
そのノウハウや活動の機会を提供
糸石家
三代目夫婦 が切り盛りする蒲
熊本京町 鉾・練り物のお店。手作りにこだ
本町郵便局 わるために持っていた機械は捨て
てしまったのだそう。上品な味わい
の練り物は、お土産や贈答品にも
おすすめ。
熊本大学教育学部
附属中学校
熊本大学教育学部
附属小学校
住:熊本市中央区京町2-8-24
Tel. 096-352-7557
1個100円!!
玉名屋
10周年を記念して、
地 域のみんな で
看板を設置
京陵中学校 セブンイレブン
部活帰りの学生のおやつや、夕飯
のおかずとして地域の人々に親しま
れてきたコロッケは、シンプルな塩こ
しょう味で店の一番人気!
瀬戸坂
肥後銀行
正善寺
Tel. 096-352-2610
できたてがおいしかよ!
佛嚴寺
お気軽にのぞいて
行ってくださーい!
新坂
池田屋醸造
寛政4年(1792年)創業の老舗。
みそ、しょう油のほか、安全安心に
こだわった多様な商品が並ぶ。学
校や店舗でみそ作りの教室も。
安土・桃山時代に建立。
この地域の数多くのお寺
の中でも最も古い寺院。
エース坪井店
壺川小学校
戸泉酒店
熊本地方
検察庁
観音坂
昭和26年(1951年)に創業。焦がさ
ないよう手を止めず、小豆から大切に
作られたあんは豆の味がちゃんとす
る優しい味わい。麦饅頭や芋饅頭 報恩寺
など、アツアツ蒸したてを食べ歩き。
江戸時代に創業し、加
藤清正公お抱えだったと
いう菓子店。らくがんの型
は当時からのものを今も
使用している。
住:熊本市中央区坪井1-9-13
Tel. 096-355-2984
行徳眼科
愛染院前の放牛地蔵
安養院
Tel. 096-343-7241
住:熊本市中央区京町1-11-8
ほうぎゅう
浄行寺
坪井饅頭 島田商店
熊本地方裁判所
ポプラ
正福寺の仁王像
細川家が小倉から肥後に移る際
に一緒に移されたというお寺。
ぐわっと目を見開いた仁王さんが
迎えてくれる。
Tel. 096-241-8921
住:熊本市中央区坪井2-1-12
(熊本地方裁判所総務課庶務係)
Tel. 096-343-3770
藤崎宮
藤崎宮前駅
熊本電鉄では車内に自転車を持
ち込むことができるサービスを行って
いる(月~土曜9:00~15:30、日
曜・祝日は終日利用可。雨天時・
多客時を除く)。自転車を持ち込ん
で散策や買い物を楽しんでみよう。
住:熊本市中央区坪井2-2-40
Tel. 096-343-5035
上乃裏通り
住:熊本市中央区京町1-13-11
ガスト
西本願寺熊本
教区熊本別院
上通並木坂
レンガ造りの建物は明治41年
(1908年)に建てられた旧熊本地
方裁判所本館。現在はその正面
主塔部分が保存されている。
往生寺
セブンイレブン
仁王さん通り
中根歯科医院
46 machi no wa
セブンイレブン
にのみや菓舗
弥生書店
住:熊本市中央区京町1-2-36
Tel. 096-353-1721(愛染院)
永福寺
中坂
Tel. 096-352-0309
細川綱利公の時代、鍛冶屋町の
鍛冶屋の息子が父の非業の死を
嘆き、出家して放牛と改名。「10年
内に100体の石仏を建立して父の
菩提を弔わん」と県内に107の石仏
を造った。その石仏の15体目。
熊本坪井五郵便局
住:熊本市中央区京町2-14-12
草分菅原
神社
住:熊本市中央区京町1-10-21
あいぜんいん
飽きなしあてなし
てくてく散歩。
今回は歴史息づく京町 ・
坪井界隈を歩いてみました。
坪井川
住:熊本市中央区京町本丁1-73
寺原自動車学校
竹永
文房具店
壺川プレイパーク
農業体験など地域コミュニティの
活動拠点となっている河川敷の
広場。畑では、さつまいもなどの植
え付け体験や収穫体験などを
通して地域の人々が交流を楽しん
でいる。
45
読者アンケート
プレゼント
アンケートにお答えいただくと、抽選・先着でもらえるプレゼントをご用意いたしました。
はがきまたは、専用Webサイトよりご応募ください。
肥後の駒下駄
来年のお正月
は
下駄を履いて
初詣。
11ページの記事も読んでね!
抽選
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まちのわポストカード5枚セット
みんなに送っ
て
中央区の
魅力を広げよ
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先着
500名様
中央区つながるマガジン
まちのわ vol.5
平成26年9月
発行 熊本市中央区役所総務企画課
〒860-8618 熊本市中央区手取本町1-1
Tel. 096-328-2610
熊本市 中央区役所
検索
編集制作 株式会社カラーズプランニング
表紙のことば
キンと冷えたラムネは全国津々浦々にあれど、昔なが
らのガラスの瓶でいただける希少なラムネは中央区
の宝ものの一つ。
「くまもと懐古夏」
( 本誌14ページ)
で、
しゅわわわ∼っと、
ご紹介しています。
は が き 専用はがきに必要事項をご記入いただき
アンケートに答えて、
郵送にてご応募ください。
W e bサイト 専用のWebサイトにアクセスし、
アンケート・
必要事項をご記入いただきご応募ください。
http://www.machino-wa.jp/
12月25日(木)
応募締切 ● 平成26年
49