中国 北朝都城の祭祀空間

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Title
中国 北朝都城の祭祀空間
Author(s)
村元, 健一
Citation
都城制研究(7) 古代都城をめぐる信仰形態, pp.39-53
Issue Date
2013-03
Description
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http://hdl.handle.net/10935/3492
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中国北朝都城の祭把空間
村元健一
はじめに
中国の南北朝時代は、漢族の南朝と、鮮卑族の北朝とが、中国王朝としての正統性をめ
くやって対立した時代である。周知のように、統治集団が鮮卑族である北朝は、漢族統治の
ために儒教の礼制を取り入れるとともに、仏教、道教も積極的に取り入れており、その受
容は南朝とは異なる様相を示す。また、北貌分裂以後は
対南朝に加え、対峠する北朝間
でも正統性の問題が生じるようになり、宗教施策にも影響を与えている。本稿では、北朝
が礼制や仏教をどのように取り入れ、それぞれの正統性を主張したかを検討していきたい。
ただし、祭前日全般を考察の対象とするとあまりに議論が多岐にわたるため、都城との関係
ということを重視し、祭示日に伴う建造物−礼制建築、仏教寺院ーに検討対象を絞ることに
する。構造物についての史料が豊富に残されていること、近年の発掘調査により建造物の
具体像が明らかになったことがその理由である。したがって、祭杷建築が都城の景観にど
のような変化をもたらし、それが王朝の正統性の表徴にどのように関わったのかを明らか
にすることが本稿の主題となる。
1.南北朝以前の都城
本稿で考察の対象となる北朝期の都城景観の特徴を明らかにするために、まずはそれ以
前の都城の姿を、祭和建築と景観という点から概観しておきたい。対象となるのは儒教が
本格的に統治理念として取り入れられた後漢以降の洛陽(維陽)である。
後漢維陽は箕都当初から儒教建築の整備が行われた。光武帝期には南郊、明堂、辞苑が
築かれており、重要な礼制建築は早くもそろったことになる(村元健一 2010a)。こうした
建物が都城の景観としてどの程度認識されていたか、という点については都城を賛美した
賦が貴重な情報を提供してくれる。とくに張衡「東京賦」は建物の詳細を述べており、文
学的な修辞があるものの、都城の景観を記した重要な史料と見なすことができょう。張衡
は、前漢の長安の豪者な宮殿群に比べ、質素な維陽がいかに儒教的に正統な天子の都であ
るかを説くことに主眼をおいている。そのため、宮殿の様子については、
猶お謂えらく、之を矯る者は努し、居する者は大いに逸する也、と。唐虞の茅茨を慕
い、夏后の卑室を思う。
というように、質素な建物を心がけたことを強調する。一方、礼制建築、特に明堂、砕宛、
霊台の三宮は維陽を特徴づけるものとして詳しく記される。
乃ち三宮を営み、教を布き常を頒つO 複廟重屋、八達九房なり。天に規り地に矩り、
-39-
時を授け郷に順う。舟を清池に造り、惟れ水決決たり。左は砕棄を制し、右は霊牽を
立つ 進むに因り表うるを距ぎ、賢を表し能を簡ぶ。鴻相、浸を観、械を祈り災を穣
O
。
つ
張衡の「東京賦」の主張は、班固の「東都賦」とほぼ同じであり、礼制建築を都城の重
要な構成要素と見なしていたことが分かる。もちろんこれらの賦が一定程度、現実を反映
しているとはいえ、そこに者イ多に流れる風潮に対する風刺がこめられ、誇張があることは
忘れてはなるまい。しかし、だからこそ、儒教教義を身につけた後漢の官僚たちが理想と
する都城の姿を、そこに見出すことができるのである。
実際には、維陽に全く豪者な建築がなかったわけではない。例えば、平楽観は錐陽でも
著名な高層建築で、あった( 1)。また、「東京賦Jでは名前が列挙されているだけの徳陽殿や
。
)
宮城門も実際には相当高大な建物であり、まさに維陽の象徴と呼ぶべきもので、あった(2
「東京賦」の維陽は儒教の正統な天子の都であることが求められ、それは三宮に代表さ
れる礼制建築群の存在に象徴される。一方で実際には皇帝権力を体現した宮殿群も都城を
特徴づけるものであり、やはり、維陽の象徴というべき存在で、あったのである。この時期
には、まだ仏教も高塔を鋒えさせるような大寺院を建てておらず、都城は儒教建築によっ
て正統性を示し、同時に巨大な宮殿建築により皇帝権を誇示するという景観を有していた
のである。
こうした都城の要素は曹貌・西晋になると、高大な朱雀闘や徳陽殿などの巨大宮殿建築
は姿を消し、かわりに闇闇門、太極殿といった天体を象り、内朝、外朝など儒教経典に準
拠した宮城プランにより、その正統性を示すようになっている(村元健一 2010b)。加えて
明堂、辞苑などの礼制建築が再興されることにより、後漢よりもさらに儒教の礼制に貝j
lっ
た都城となっていたのである。
南北朝以前の都城の姿を、以上の後漢から西晋、特に西晋の洛陽に代表させ、これと比
較しながら、北朝都城の姿を祭和との関連を中心に検討していくことにしたい。
2. 礼制の変化一天子の正統性ー
まずは儒教祭示日と都城との関わりを見ていくことにしたい。後漢以降、中国の正統な天
子となる以上、儒教祭示日の導入は不可欠なものだからである。
①北貌平城期(図 1
)
北朝での皇帝祭杷の変化を端的に示すものは、郊示日制度の導入である。郊杷は儒教的天
子であることを示す重要な祭杷であり、北貌では道武帝の天興二( 399)年に南郊祭杷が導入
されるが(3)、金子修一氏が指摘されるように、祭天の場としては孝文帝期までは、引き続
き従来の西郊が重視されていた(4)。このことは『南斉書』巻 57・貌虜伝に西郊天壇と儀式
の様子が記されていることや(5)、『水経注』巻 1
3• ¥:累水条に西郊の様子が詳述されている
ことからも窺うことができょう(6)。しかし、道武帝による南郊郊加の導入は、華北を支配
-40-
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者
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-41-
することになった北貌が東晋・南朝を強く意識した結果であり
南郊郊和の重要性を認識
していたと同時に、中華の正統な天子としての統治方針を明示したことを示す点で重要で
ある。また、この時には南北郊の設置に遅れ、東晋とは異なり、鄭玄説に基づき、円丘、
方沢も設けられたと考えられる(7
。
)
郊杷に関しては、その後はあまり目立った記事はなく、活発な議論が出てくるのは孝文
帝期になってからのことである。『貌書』巻 1
0
8之 1 ・礼志 1によれば、孝文帝の改革は円
丘、方沢の新たな造営から始まり、その祭加のあり方を検討し、一定の整理をつけたのち、
西郊祭天の廃止を断行している(8)。鮮卑として最も重視されてきた西郊祭天を廃し、漢族
が重んじる南郊祭肥を重視したことは、漢化を明確に示すだけでな〈、北貌皇帝の正統性
の根拠を大きく転換させることを示すもので、あった。
郊示日改革とともに、明堂建設も北貌の礼制改革の重要な柱である。明堂は儒教経典の中
で、天子の朝政、祭杷の場として重視される建造物であるが、その姿をめぐっては前漢の
武帝以来、議論が絶えない(9)。孝文帝は南朝の明堂を視察させ、都城・平城の南に建設し
た。近年、その遺構が見っかり、直径約 255mの円形の区画の中央に一辺 42mの方形の中
心建築があり、区画の周囲に幅約 20mの溝を巡らした平面であることが分かつている( 10
。
)
構造はいわゆる九室の制であり、鄭玄ではなく虚植の説に基づくものであり( 11)、同時期
の南朝と同様である。孝文帝が郊示日改革に加えて明堂を建設したことは、儒教的な天子で
あることを強く打ち出したことを意味する。
孝文帝による以上の礼制改革は帝の漢化政策の一環であり、それは同時に太極殿造営な
ど、宮城の大規模な改変とも平行して進められたものであった( 12)。こうした一連の改革
は、次章で述べるように、即位当初に、それまで、盛んで、あった仏寺建立を抑止したうえで
実施されたもので、あった。平城の大規模な中華的都城への改変には、近郊に位置する礼制
建築の整備や仏寺建立の抑制を欠くことはできなかったのである。
②北貌洛陽期(図 2)とそれ以降
孝文帝による洛陽遷都後も、平城での改革がそのまま継承される。遷都早々の太和
1
9(
4
9
5)年には洛陽南の委粟山に円丘を築いている。平城と同様、洛陽に円正、方沢と南郊、
北郊が存在したことは、『貌書』巻 84・儒林伝・李業興伝の著名な史料から明らかである。
(天平)四( 537)年、兼散騎常侍李言皆、兼吏部郎慮元明と斎街に使いす。街の散騎常侍
朱昇、業興に聞いて日く「貌の洛中委粟山は是れ南郊なるや」と。業興日く「委粟は
是れ園丘にして、南郊に非ず」と。弄日く「北聞は郊、丘、所を異にす。是れ鄭義を
用う。我が此の中は王義を用う」。業興日く「然り、洛京の郊、丘の慮は専ら鄭解を用
う」と。
その後、円丘は景明 2 (
5
0
1)年、宣武帝により「伊水の陽」に移されるが、円丘、方沢
とは別に南北郊があることに変わりはなかった。
0
8之 2・礼志 2に
、
洛陽遷都後の明堂についての史料は少ない。『貌書』巻 1
-42-
初め世宗の永平、延昌中、明堂を建てんと欲す。而して議する者、或は五室を云い、
5
1
7)年〕に至
或は九室を云う。頻りに年畿に属き、遂に寝む。是〔孝明帝の照平 2 (
り復た之を議し、詔して五室に従わしむ。元叉の政を執るに及び、遂に九室に改管せ
るるに値り成らず、宗配の穂、迄に設くる所無し。
んとするも、世の首L
とあり、宣武帝の時に計画されながら、その構造を旧来の九室にするか、あるいは鄭玄説
に基づき五室にするかで議論が紛糾した上で頓挫し
孝明帝の時に改めて造営が推進され
5
1
4)年「十有二月庚寅、詔して明堂を立
たようである。『貌書』巻 8・世宗紀に、延昌 3 (
5
2
4)
年 9月「乙亥、帝、明堂に幸し、(斎)賓貨
つ」とあり、巻 9・粛宗紀には、正光 5 (
等に銭す」とあることから、宣武帝最晩年に明堂が築かれ、孝明帝期には使用されていた
と認められよう。実際に発掘された洛陽の明堂は、後漢期に創建され、貌晋の修復を経て
北貌にも再建されていたことが判明している( 13)。そのため、北貌の洛陽期に明堂が存在
したことは確実である。
北周、北斉については明堂の造営は計画されたが、いずれも完成せずに終わっている。
北斉は五室、北周は九室のものを予定していたといい( 14)、それぞれに異なるプランの明
堂建設を具体的に構想していたことが分かる。
このように、北朝は北貌の道武帝以来、儒教的な天子たるべく、礼制建築の整備を推進
していたことを読み取ることができる。平城期末の孝文帝による西郊廃止と明堂の建設は、
より強く儒教的天子であることを示すことになり、この流れが北朝末まで続くのである。
また、これらの導入にあたっては、常に東晋・南朝を意識し、模倣しながらも、郊杷に独
自に鄭玄説を取り入れるなど、明らかに違いを出そうとしているのである。
3. 北朝都城の仏教寺院ー都城の新たな象徴ー
北朝は、雲岡や龍門の大石窟に代表されるように、仏教文化が花開いたことでも知られ
る。北朝では都城の内外に相当な数の仏教寺院が築かれたが、その様子は『洛陽伽藍記』
に描写された北貌洛陽によって代表されよう。当然ながら、洛陽に前後する北朝の都城で
)の記述
も、仏教寺院は盛んに築かれた。まずは『貌書』巻 114・釈老志(以下「釈老志 J
にしたがい、北貌、東貌の都城内寺院の様子を通観し、その後、北斉、北周の様子も見て
いくことにしたい。
①北貌平城期(図 1)
「釈老志」によれば道武帝期にすでに、皇帝が率先して都城に仏教寺院を建立していた
ことが分かる。
天興元( 398)年、詔を下して日く「夫れイ弗法の興、其の来るは遠し。済益の功、存設に
冥及し、神縦遺軌、信じ依猿す可きなり。其れ有司に救し、京城に容範を建飾し、官
舎を修整し、信向の徒をして、居止する所有らしめよ」と。是の歳、始めて五級イ弗圏、
香関幅山及び須爾山殿を作り、加うるに績飾を以てす。別に講堂、禅堂及び沙門座を
-43-
構え、巌具せざるは莫し。
建立された仏寺は、五級仏塔や諸堂を備えた荘厳なもので、あった。その後、太武帝による
、
)
廃仏はあったものの、文成帝以降、急速に仏教は回復し、都城には五級大寺、永寧寺( 15
天宮寺( 16)、建明寺、報徳寺などの寺院が続々と築かれた(「釈老志 J)。その様子は「京華
の壮観矯り」(天宮寺)と称えられ、「興光より此〔太和元( 477)年〕に至るまで、京城内の
寺、新奮且に百所、僧尼は二千台余人、四方の諸寺は六千四百七十八、僧尼は七寓七千二百
3・
五十八人 J(「釈老志 J)という盛況で、あった。平城の仏教の盛んな様子は、『水経注』巻 1
潔水条の記述からもうかがうことができる( 17)。ただし、孝文帝の即位初期にすでに寺院
建立の規制がかかっていることは注目すべきである。「釈老志」には
延興二(472)年夏四月・ーまた詔して日く「内外の人、福業を興建し、園寺を造立し、高
倣額博するもまた以て至教を輝隆するに足る。然れども無知の徒、各おの相い高尚し、
貧富相い競い、費は財産を喝くし、務は高虞に存り、昆轟含生の類を傷殺す。有しく
も能く精致さば、土を累ね沙を来むるも、福の鍾まること不朽なり。福の因を建矯せ
んと欲するも、未だ生を傷つくるの業を知らざるなり。朕は民の父母矯り、慈養は是
れ務めなり。今より一切これを断て」と。
とある。この規制は豪者を競う新たな仏寺建立を禁じるものであり、洛陽遷都後にも継承
される。
)
②北貌洛陽期(図 2
洛陽遷都後も、孝文帝は都城内の寺院建立を厳しく制限している。「釈老志」には、孝明
帝の神亀元( 518)年に仏教規制を唱えた任城王元澄の上奏文の中に、
故に都城の制に云う、城内は唯だー永寧寺の地を擬し、郭内は唯だ尼寺一所を擬し、
鈴は悉く城郭の外とすと。永く此制に遵い、敢えて矩を聡ゆること無からしめんと欲
す。景明の初めに逮び、微かに禁を犯すもの有り。故に世宗、仰ぎて先志を修め、愛
に明旨を援し、城内に浮圏、僧尼寺舎を造立せず、亦た其の希観するを絶たんと欲す。
る
文武二帝、量にイ弗法を愛尚せざるや。蓋し道俗の腸を殊にするを以て、理の相い箇L
るを無からしめんとする故なり。
とあるように、孝文帝は、洛陽遷都当初、城内には永寧寺(実際には霊太后胡氏により建
立)、郭内に一尼寺の建立だけを認め、それ以外は郭外に築くことを原則とした( 18)。任城
王の上奏では宣武帝も改めて禁令を出したとしているが、実際には、その宣武帝が自身の
元号を冠した景明寺を南郭の南に築き、さらに城内に落光尼寺、西郭内に永明寺を築くな
ど、率先して洛陽に大寺を建立している。つまり、すでに宣武帝期に、皇帝が率先して仏
。
)
寺造営の禁を破っていたのである( 19
こうして、洛陽では仏寺建立が一気に進む。同じく任城王の言には洛陽には 500を超え
る寺院があったという(20)。平城期の 5倍という驚くべき数だが、『洛陽伽藍記』には「京
城の表裏、凡そ千徐寺有り。今日、~廓として、鐘替、聞くこと宰なり J
-44-
と回顧されてい
る。洛陽最末期には河陰の変で惨殺された皇族の邸宅が寺院となり、その数は飛躍的に伸
びていることから、小さな寺院も併せるなら、これらの数字は決して誇張されたものでは
ないのだろう。だが、このように寺院が立ち並ぶ洛陽の景観は、決して遷都当初に孝文帝
が意図したもので、なかったことには注意しなければならない。前章に見た礼制建築の整備
を見るならば、孝文帝は仏教寺院を抑制し、儒教の礼制建築による正統性の具現化を重視
していたともいえるのである。
洛陽の仏教寺院で注目しておきたいのは、仏塔の建立である。『洛陽伽藍記』の記述に基
づくと、洛陽における仏塔は、孝文帝期にはなく、宣武帝期に建立された瑳光寺の五層塔
が最初であるが(21)、次の孝明帝期、すなわち霊太后が実権を握った時代に爆発的に増加
する。主なものを見ただけでも、永寧寺の九層塔をはじめ、景明寺の七層塔、秦太上君寺・
秦太上公西寺の五層塔があり、いずれも霊太后による建立である。この時期以降、王族に
より五層、官僚や官官により三層の塔が相次いで建立されることになり、都城の景観は孝
文帝期とは大きく異なることになった。同時に都市景観で目立つ高塔の造営にあたっては、
王恵君氏も指摘するように、塔の階層数と建立者の地位には一定の相関関係が認められ〔王
恵君 1994〕、身分秩序を可視的に示す役割を担っていた可能性が高い。このように北貌洛
陽は霊太后期を境に都城景観を大きく変えることとなった。『洛陽伽藍記』に描かれた仏教
都市洛陽は、まさに霊太后期以降の姿なのである。こうして洛陽は孝文帝の構想を否定し、
また平城とも異なり、政治的な意図を込めて仏塔が多数林立する都市へと変容したのであ
る
。
③業~・長安(図 3 ・ 4)
洛陽遷都直後に出された寺院建立の規制と同じ趣旨のものは、北貌分裂後の東貌にも見
られる。「釈老志」に、
元象元( 538)年秋、詔して日く「党境は幽玄にして、義、清噴に蹄す。伽藍は浄土にし
て、理、審塵を絶つ。前朝の城内、先に禁断有り、章れ業~の来遷より、率ね奮章に由
る。而して百僻士民、都に届るの始、城外新城、並びに皆な宅を給す。奮城中暫時普
く借すは、更めて後須に擬し、永久と為すに非ず。聞くが如きは、諸人、多く二慮を
以て地を得、或いは奮城借る所の宅を捨て、撞に立て寺と矯す。己の有に非ざるを知
り、此の一名を綴る。終に恐らく因習となり滋ます甚しく、恒式を巌くこと有らん。
宜しく有司に付し、精しく隠括を加えよ。且つ城中の奮寺及び宅は、並びに定帳有り、
其れ新立の徒は、悉く殻廃に従え」と。
とあるように、当初、都を遷した鄭の旧城、すなわち北城に寺院が増えたことから、造寺
が禁じられたことが分かる。おそらく、これは洛陽の寺院の多くが移転したことと関係す
るのであろう(22)。しかしその一方で、興和 2(540 )年には業~北城の旧宮が天平寺とされた。
北貌洛陽の景明寺と同様、東貌の元号を冠せられた寺院で、東貌の中心寺院というべきも
のであり、皇帝以下の造寺が活発になってし、く様子が分かる。
-45-
圃
圃
γ
掴圏直書
圃
圃
圃
語明暗明朝咽明帯構喜明
細寸大舞察審車
議員監金書
饗蕗畿圏
議義務的
ず嶋
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A
t
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議講義殉
A
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嘩
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4
弘 苓仏機二k
主
義
•1
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J
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j
A
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4
調畿議議域鵠毒争議議事
擁護
諸島議議事と仏教麟議選襲撃
-46-
東貌の譲りを受けた北斉では、『北斉書』『北史』によると、都城には大荘厳寺、大総持
寺、大聖興寺といった寺院の存在が確認できる。うち大聖興寺は北城にあった三台宮を改
めたもので、後には三台そのものも施入されており、皇帝による大規模な寺院建立がうか
がえる。それを示すように、『続高僧伝』巻 10・靖嵩伝には「南のかた津輩に瀞ぶに、高
斉の盛に属す。仏教中興し、都下の大寺は略ぼ四千を計る」とあり、業~下に四千もの大寺
があったと記す。洛陽最末期の寺院数の 4倍という数は、さすがに信じがたいものではあ
るが、業~の仏教隆盛を示す史料である。
一方で、現地での考古調査により、寺院に関する新たな情報も得られている。業~は現在、
北城と南城が確認されており、この両城が東貌北斉の都城である。史料上や遺物の分布か
ら、周囲に郭城がめぐっていたと考えられるが、その存在はまだ確認されていなし、。大規
.3km、郭内想定地域で発見された。一
模な寺院跡である越彰城仏寺遺跡は、南城外の南 1
辺3
0
r
nの規模をもっ巨大な仏塔基壇の発掘で話題となったが、近年、寺院の範囲も明らか
にされている〔中国社会科学院考古研究所・河北省文物研究所業~城考古隊 2010〕。
また、これ以外にも業~からは石仏や金銅仏が発見されている。金銅仏が小型で移動性が
あるのに対し、石仏は大きく、重量もあることから現地性が高いと考えられる。興味深い
のは、石仏の発見地点がいずれも南城外ということである〔河北臨津県文物保管所 1980〕
〔中国社会科学院考古研究所・河北省文物研究所業~城考古隊 2012〕。つまり、現在のとこ
ろ、南城内で、は仏教寺院に直接結び、つく遺構、遺物の発見はなく、内城内にあったことが
確実な寺院は、北城の天平寺と大聖興寺だけとなる。北貌洛陽の宮城南側の目立つ地点に
永寧寺の大伽藍が建立されていたことと明らかに様相が異なっており、あるいは内城内の
仏寺建立が規制された可能性がある。また、越彰城仏寺遺跡のような巨大な塔が城外に営
まれたことは、北貌霊太后期のように仏塔による身分表象の意義が失われた可能性もある。
こうして仏寺の数が多いとはいえ、業~の姿は、北貌末期の洛陽の姿ではなく、孝文帝が意
図した姿により近くなったと言えるだろう。
一方の西貌・北周長安の状況は不明な点が多い。武帝による廃仏の断行からは、逆に相
当な寺院の存在を推測できるが、『法苑珠林』巻 100・興福部には「周の太祖文帝〔西貌の
実力者字文泰〕、長安に追遠、捗自己、大乗等六寺を造る、度僧千人なり。又た五寺を造る」
とあり、北周建国以前の西貌期からすで、に造寺が盛んで、あったことが分かる。
考古調査はどうであろうか。西貌・北周の都城は、前漢の長安を踏襲している。近年は
北朝期の大規模な宮殿基壇と宮城と思われる小城が長安北東部で発見されているが、全体
の都城プランを復原するにはいたっていなし、。長安城内では石仏の出土が多数認められ、
中には、明らかに仏教寺院祉を示すような出土例もある〔西安市文物保護考古所 2009〕〔中
国社会科学院考古研究所 2010b〕。こうしたことから長安城内にはかなりの寺院の存在を認
めることができ、城内の寺院建立を規制していた北貌−東貌とは異なる状況を示しており、
あるいは北周武帝の廃仏以前は、仏寺造営の規制がなかった可能性もある。
47-
このように北朝では、皇帝や皇族が率先して仏寺を建立したため、都城に仏教寺院が乱
立することになった。その背景には、周知のように、王朝が仏教を統治手段として用い、
仏教側も国家の保護の下で教勢を拡大したという、北朝固有の問題があった(23)。一見す
ると、北貌太武帝の廃仏から北周武帝の廃仏までは、平城、洛陽、業日、長安といった北朝
の都城では仏寺造営が隆盛を極めていたように見えるが、北貌孝文帝期になされた造寺規
制が、都城の宗教空間のあり方に大きな問題を投げかげたことは無視できない。遷都直後
の洛陽は極めて仏教寺院が少ない景観だ、ったのである。また、東貌・北斉の鄭内城内での
仏教寺院の少なさ、北周武帝による廃仏は北貌孝文帝による造寺規制の一面を継承したも
のと位置づけることもできるのである。
おわりに
以上をまとめると、北朝の都城は、形式的には北貌道武帝即位時から郊杷を取り入れ、
儒教的天子が君臨する漢族の伝統的な都城を指向するもので、はあった。しかし、実質的に
は西郊での祭天儀礼が重視され、また、都城の平城内には玉級仏寺以下の高塔を有する寺
院が築かれており、その都城景観は儒教的礼制を具体化した後漢あるいは西晋の洛陽と大
きく異なるもので、あった(24)。こうした様子が改められたのは孝文帝期である。都城での
仏寺造営を規制したうえで、南郊、円丘を整備し、同時に都城の南に明堂を築き、そして
西郊祭天を廃した。この改革は、宮城の改変とも連動し、平城を儒教の礼制に基づく都城
へとっくり変えることを意図していたのであり、西晋洛陽への回帰ともいえるだろう。こ
れをさらに進めたのが洛陽遷都だ、ったのである。
洛陽遷都後も大規模な仏寺造営を規制しつつ、明堂、昨薙などを再建しており、まさに
西晋洛陽の再興といえるもので、あった。しかし、その景観は長くは続かず、宣武帝、そし
て続く霊太后期には仏寺が相次いで築かれ、中には九層、七層といった高塔を有するもの
もあり、都城景観は大きく変容したのである。つまり北貌洛陽は孝文帝が目指した西晋洛
陽のような儒教的礼制を体現した都城の姿に、新たに皇室の主導により仏教都市という姿
をまとうことになった。しかも永寧寺の九層を筆頭に、七層、五層、三層と、塔の階層に
より、造立者の地位を明示するもので、あった。これは建国当初から仏教を統治手段として
利用して正統化を図った北貌王権と、王権の庇護のもとで教勢を拡大した北貌仏教の特徴
を端的に示す景観である。このように、儒教と仏教からなる二重の秩序を具体化した都城
の景観は、明らかに後漢のものとも西晋のものとも、あるいは同時期の東晋・南朝のもの
とも異なるもので、あった
D
この都城の姿が以後の北朝に大きな影響を与えたように見える
が、仔細に見れば様相は異なる。東貌・北斉の業~では、都城内外に多数の仏教寺院が認め
られるものの、内城内での造営は規制された可能性が高く、北貌洛陽末期の野放図な造寺
は一定の歯止めがかけられたようである。また仏塔の階層数に造立者の身分の反映させる
ことも、北貌末期に比して後退していた可能性がある。一方の西貌・北周では、都城構造
-48-
が不明ではあるものの、城内各所から石仏が発見されていることから、城内に多数の仏寺
が建ち並ぶ景観が想定される。ただし北周武帝期には徹底した廃仏が行われ、その結果、
儒教の礼制建築だけで王朝の正統性を示す都城景観が出来上がる。『周礼』に基づく国家を
目指した北周の行き着いた一つの結果で、あり、北貌孝文帝の都城構想、にも通じるものがあ
る。しかし、北周武帝の儒教ー尊の都城は永続することなく、続く惰、唐の都城では、再
び仏教寺院が多数建立される。ただし、その姿は高塔により階層性を示すものでは最早な
くなっていたのである。
上述のように、北朝の都城景観は、漢族が正統とする儒教的な礼制建築を備えながら、
北貌孝文帝期や北周武帝期を例外としながらも、新たに高塔に代表される仏教寺院で飾り
たてられたものとなった。北貌末期の洛陽に代表されるように、数々の高塔は、都城の景
観として強く印象付けられ、同時にその造営者も記憶されることになる。仏教寺院を通じ、
皇帝権力の可視化という点で、北貌は西晋までの漢族の都城とは異なる新たな要素を付け
加えたということができる。儒教・仏教により王朝の正統性を可視化された都城は、東貌・
北斉の鄭、西貌・北周の長安では、仏寺・仏塔による正統性の表象を弱め、その姿が、惰
唐の長安の景観に継承されていくのである。
注
(
1
) 『水経注』巻 1
6・穀水条に以下のようにある。
穀水又た南し、平楽観の東を蓬。李尤平『楽観賦』に日く、乃ち平楽の穎観を設け、
秘偉の奇珍を章にす、と。華幡『後漢書』に日く、霊帝、平楽観下に大壇を起し、
上に十二重五采の華蓋を建つ、高さ十丈。壇の東北に小壇を矯り、復た九重の華蓋
を建つ、高さ九丈。奇兵騎士数寓人を列ね、天子、大蓋の下に住く。穂畢らば、天
子弟ら甲骨を撮き、無上将軍と稀し、陣に行き三たび匝りて還る。秘戯を設け以て
遠人に示す、と。
(
2)徳陽殿と宮城門の朱雀闘については、『績漢書』礼儀志中の注に引く察質『漢儀』に詳
しい。
徳、陽殿、周旋高人を容る。陛高は二丈、皆文石もて壇を作る。沼水を殿下に激す。
童屋朱梁、玉階金柱、刻銭、宮披の好を作り、廊、青弱翠を以て、一柱に三帯、謡、
むに赤縫を以てす。天子正旦の節、百僚を此に曾朝す。{医師に到るより、宮を去る
こと四十三里、朱雀五閥、徳陽を望むに、其の上、欝律として天と連なる。
また同じく注に引く『維陽宮閣簿』には、
徳陽宮殿、南北行七丈、東西行三十七丈四尺。
とあり、その高大な姿が分かる。
(
3
) 『貌書』巻 1
0
8之 1 ・礼志 1。天興 2年は道武帝が平城に遷都し、皇帝位についた翌
年であり、即位後の最初の正月に南郊祭杷を行ったことになる。
-49-
(
4)金子修一氏は、『貌書』巻 1
0
8之 4・礼志 4に、「二至、天地を郊し、四節、五帝を嗣
る。或いは公卿、事を行うも、唯だ四月の郊天は、帝、常に親ら行い、楽は鍾懸を加
え、以て迎送の節と矯す」とあることから、四月の西郊が皇帝親祭であるのに対し、
南郊がしばしば有司摂事であることを指摘する〔金子修一 2006第 6章
〕
。
(
5)城西に洞天壇有り、四十九木人を立つ。長さ丈許り、白横、練祐、馬尾被にして、壇
上に立つ。常に四月四日を以て牛馬を殺し祭記す。盛んに函簿を陳べ、遺壇に奔馳し
伎を奏し柴と矯す。
(
6)城西郭外に郊天壇有り、壇の東側に「郊天碑」有り。延興四年立つ。
(
7
) 『貌書』巻 1
0
8之 1・礼志 lに天興 3年の北郊祭把の様子を詳述した後、「其の後、冬
至、上帝を園丘に祭り、夏至、地を方津に祭る。牲幣の属を用うること、二郊と同じ j
とある。「其の後」がいつを指すのかが問題となるが、『貌書』巻 109・楽志に「太祖
の初め、冬至に天を南郊園丘に祭る。楽は皇失を用い、雲和の舞を奏す。事詑らば、
維皇を奏し、終に燦す夏至に地祇を北郊方津に祭る。柴は天砕を用い、大武の舞を
奏す」とあること、礼志の記事が太祖在位中の祭示日記事の聞に入っていることから、
やはり平城遷都の初期に円丘、方沢祭示日がすでに導入されていたと考えたい。
(
8
) 『貌書』礼志から関連する記事を時系列に示すと下記のとおりである。
(太和)十二年間九月、親ら園丘を南郊に築く。
(太和)十三年正月、帝大駕を以て園丘に有事す。五月庚成、車駕、方津に有事す。
(太和十八年)三月
詔して西郊祭天を罷む。
(
9)明堂については南津良彦氏の一連の研究参照。後漢以降はその構造について慮植の九
室説と鄭玄の五室説のどちらを採るかが議論の中心となる。
(
1
0)大岡市の明堂遺構の調査については(劉俊喜ら 2
0
0
0
) (王銀田ら 2001)があり、発掘
に基づいた研究として(王銀田・曹彦玲 2000) (王銀田 2000)があり、上部構造を復
原したものに(王世仁 2009)がある。周囲に円形に溝を巡らす平面は前漢長安の明堂
に近く、漢貌洛陽城の明堂の姿とは異なる。
(
1
1)『水経注』巻 1
3・潔水には次のように明堂の構造を詳述している。
又た南して霜田及び薬圃の西、明堂の東を淫。明堂は上国下方、四周十二戸九室に
して重隅と矯さざるなり。室外柱内、締井の下、機輪を施し、標碧を飾り、天朕を
仰象し、北道の宿を董き、天を蓋うなり。月毎に斗に随い建つる所の辰、天道に轄
廃するは、此の古と異なるなり。霊牽を其の上に加え、下は則ち水を引き辞苑と矯
す。水側は石を結び塘と矯し、事は古制に準う。是れ太和中の経建する所なり。
(
1
2)『貌書』巻 7下・高祖紀下および巻 1
0
8之 1・礼志 1により、この間の動きを列挙す
れば次のようになる。
2年、南郊に円丘を築く。
太和 1
太和 1
3年、正月に円丘、五月に方沢で有事す。
-50-
太和 1
5年、明堂を造営。
太和 1
6年、太華殿を撤去し、太極殿を造営する。
太和 1
8年、西郊祭天を廃す。
太和 1
2年から太和 1
9年の洛陽遷都直前にかけて、継続的に礼制の改革とあわせて都
城の改変も進んだことが分かる。
(
1
3)漢貌洛陽城の明堂については、(中国社会科学院考古研究所 2010a)参照。明堂は一辺
400mほどの方形の塘で固まれ
中央に直径約 64mの建物があるプランで、平城のも
のとは異なる。
(
1
4)『惰書』巻 6・礼儀志 1に以下のようにある。
後棒、周官考工記を採り五室と震し、周は漢の三輔黄園を採り九室と矯す。各おの
其の制を存するも、而して寛に立てず。
(
1
5)其の歳(天安元年)、高祖の誕載なり。時に永寧寺を起し、七級イ弗園を構う。高さ三百
徐尺にして、基架の博倣なること、天下第一矯り(「釈老志」)。
(
1
6)又た天宮寺に、緯迦立像を造る。高四十三尺、赤金十高斤、黄金六百斤を用う(「釈老
志
」
)
。
(
1
7)又た南して皇男寺の西を蓬。是れ太師昌寄与王鴻育園の造る所なり。五層浮固有り、其
の神の圃像、皆青石を合し之を震り、加うるに金、銀、火容を以てし、衆紙の上、:偉
燈として精光有り。又た南して永寧七級浮園の西を淫。其の制甚だ妙にして、工は寡
讐に在り。…水の右に三層浮圏有り。真容鷲架、悉く石を結ぶなり。装制麗質なるこ
と、亦た美善を霊くすなり。東郭の外、太和中、閤人宕昌公鮒耳慶、時に抵湿合を東
皐l
こ立つ
O
橡瓦梁棟、憂壁橘陛、尊容聖像、林坐軒帳に及ぶまで、悉く青石なり。国
の制、観る可きなるも、恨む所は惟れ壁に合石を列ぬるに、疎にして密ならず。庭中
に「抵湿碑J有り。碑題大家、佳に非ざるのみ。然れども京邑帝里、イ弗法の塑盛なる
こと、神園妙塔、築峠して相望み、法輪の東韓、葱に上矯り。
(
1
8)ただし『洛陽伽藍記』によれば孝文帝は城南に報徳寺を建立しており、規制との矛盾
が認められる。
(
1
9)北貌洛陽の仏寺造営規制とその弛緩については(王恵君 1
9
9
4)参照。王氏も任城王の
言と異なり、宣武帝期からすでに造営規制は弛緩していたことを指摘する。北貌洛陽
9
7
0)も参照。
の仏寺については(滋野井悟 1
(
2
0)都城の中及び郭邑の内、寺合を検括するに、数は五百を乗し、空地に利を表し、未だ
塔宇を立てざるは、其の敷に在らず(「釈老志」)。
(
2
1)稽光寺の造営については『洛陽伽藍記』巻 1には「世宗宣武皇帝の立つる所」とされ
ているが、寺塔の建立時期は明記されていない。寺の建立と塔の造営時期は必ずしも
一致しない例があり、(王恵君 1
9
9
4)では造塔の時期を孝明帝期に下らせている。そ
の可能もあるが、それを証明する史料もないため、ここでは宣武帝期と考えておく。
(22 )『洛陽伽藍記』巻 5 に「(洛陽)寺一千三百六十七所有り。天平元年、都を業~城に遷す
に、洛陽の余寺四百二十一所」とあり、洛陽の寺院の 2/3 以上が業~に移ったことにな
る
。
(
2
3)北貌仏教の特徴を端的に示す言葉として、北貌最初の道人統となった法果の「太祖は
明叡にして道を好む。即ち是れ嘗今の如来なり、沙門宜しく磨に種を蓋くすべし J(
「
釈
老志」)が挙げられよう。北朝の仏教については(塚本善隆 1969)参照。
(
2
4)北貌平城には太武帝による道教崇拝を示す建物も存在していた。『水経注』巻 1
3・潔
水条には、次のようにある。
水の左に大道壇廟有り。始光二年、少室道士冠謙之の議して建つる所なり。兼ねて
諸巌の廟碑も亦た多く署立する所なり。其の廟階は三成、四周は欄濫。上階の上、
木を以て園基を矯り、互いに相い枝梧せしむ。版を以て其上を瑚し、欄陛は阿を承
け上園なること、制は明堂の如し。而して専室四戸、室内に神坐有り、坐右に玉磐
を列ぬ。皇輿親しく降り、銭を霊壇に受け、競して天師と日う。道式を宣揚するこ
と、暫く嘗時に重し。壇の東北、奮と静輪宮有り、貌の神鹿四年造る。抑そも亦た
栢梁の流れなり。牽樹高虞にして、雲間を超出し、上は零客を延し、下は意浮を絶
たしめんと欲す。太平真君十一年、又た之を駿つ。
ただし、道教自体が太武帝以降、影響力を失い、洛陽遷都後は都城景観に大きな影響
を与えることもなく、北朝を通観した際には、ほぼ平城に限定されるといえる。
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