第 10 章 タイの タイの日常生活における 日常生活における仏教 における仏教の 仏教の意義 小島 清介 はじめに タイが経済的に発展するにつれて、仏教と人々との関係には、どのような変化が生じてい るのだろうか。日本にも神道や仏教は昔からあったが、近代化し、経済発展するにつれて その重要性は薄くなってきているように感じる。タイの場合はどうだろう。日本と同じよ うに、その重要性は薄れてしまうのか。それとも、仏教とタイの国民や政府との間に、何 らかの「新しい」関係が作り上げられて来ているのか、考えてみたい。 第1節 タイの タイの日常生活における 日常生活における仏教 における仏教 タイの人々にとって仏教は生活の基盤になっている。国民の 95%の人が仏教徒であるタ イは、宗教の自由は認められているが事実上仏教国である。それは単に 95%という数字か らだけではなく、仏教儀礼が国家儀礼の一部になっていることや、仏教寺院に政府が予算 を出していること、また政府と仏教の強い繋がりがあることからタイが仏教国だというこ とが分かる。 12 世紀から 13 世紀にかけて伝えられてきた仏教はスコータイ王朝の時代から保護され てきた。仏教には小乗仏教と大乗仏教があり、タイでは小乗仏教を信仰している。小乗仏 教は上座仏教と呼ばれる事が正しく、あえて小乗仏教と呼ばれる場合、そこには「一人乗り」 という言葉で大乗仏教から軽蔑的な意味が込められている。上座仏教では、この世は輪廻 の中にあり人々はその中で生と死を繰り返しているとされている。そして仏教の戒律を守 ることにより、来世で幸福な地位に生まれることができると考えられている。つまり戒律 を守った僧でなければ来世で幸福な暮らしはできないと考えられ、「一人乗り」という言葉 はこの意味を表している。 神に対する祈りのようなものはせず、仏教独自の世界観を持ち、 それに対しての実績を持って自ら悟りを開くことが強調されることから「個人中心的主義」 である。 では僧でない人々が来世で幸福な暮らしをすることはできないのか、とも考えてしまう が、そうではない。人々は僧に喜捨する事で徳を積むことができる。また出家、戒律を守 ること、他人に施しをすることによって徳を得ると考えられている。戒律といっても僧の ように厳しいものではなく、五戒、八戒を守ればよいとされる。この中でも出家は特に重 要視され、タイの男性は成人になると出家をするとされる。2004 年9月、フィールドスタ ディの実習調査で現地に行った時に聞いた話によると、その考えは薄くなっているが習慣 として残っているらしい。出家は本人だけでなく家族や親戚にも徳を与えると考えられ、 特に母親としては自分の息子に出家をしてほしいと考えている。女性は出家ができないと 言うことが理由にあげられ、結婚相手からも出家を要求されるケースがある。 また僧は呪術師のような役割もしている。タイでは精霊の存在を信じており、ピーと言 95 う精霊が幸福あるいは不幸をもってくると考えられている。人々はピーを大切に扱いピー によって幸福な出来事を期待する。しかし病気や怪我、事故、超常現象など何か悪いこと が起こると、それは悪いピーの仕業と考え、ピーへの祈りが足りなかったことになる。そ の時人々は呪術師の役割を担う僧に悪いピーのお払いをしてもらう。このようにタイの 人々にとって仏教は生活の基盤であり、僧は必要不可欠な存在とされている。 ここまで述べてきたことが、日常あたりまえのように見ることができると想像していた 私は、タイに行くということで、自分自身、様々な仏教的場面に遭遇できると期待してい た。実際、都市から離れた村では人々が寺院に集まり、寺院が集会所の役目を果し、僧と 人々の距離も大変近くに感じた。村人の話を聞いても、病気の時は病院に行くより僧に診 てもらうことが多いと言っていたし、僧から村人に話し掛ける場面も見ることができ、タ イでの仏教の伝統は今も続いていると思っていた。ところがバンコクでは大都市と呼ばれ るにふさわしい高層ビルが立ち並び、村人との生活の違いに驚いた。寺院も村の寺とは違 い、夜ではライトアップされるなど一つの観光名所になっていた。発展途上であるタイを 象徴するバンコクでは仏教はどのような存在であるのか、また発展途上という流れの中で、 仏教僧や仏教信者たちはどのような行動をとり、今後どのような行動を必要とされるのか を考える。 第2節 タイが タイが抱える近代化の 近代化の問題 タイにおける近代化の始まりは 19 世紀で、ラーマ4世によって進められた。植民地主義 を脅威に感じたラーマ4世は開国をし、新しい学問を取り入れようとヨーロッパに留学生 を送ったのが始まりである。発展途上国の多くが抱える問題は伝統的な文化や生活、つま り宗教のような社会組織が近代化の流れに対応できないことである。マックス・ウェーバ ーは、ヒンドゥ教、仏教、儒教、道教を含む東洋宗教の中には、キリスト教の伝統が持つ 合理的な志向と形而上学的信仰の因果関係がないといっている【プラサート・ヤムクリン フン 1995 『発展の岐路に立つタイ』 国際書院】 。つまり現状の社会の動きについての 教えよりも神秘的瞑想や世俗外的禁欲主義といった世俗と離れたことについて悟りを開い てきたとされている。ただそれ自体に近代化を妨げることはない。僧自体は小乗仏教と呼 ばれるように、個人中心的主義であることから周りの環境に影響を与えたり、与えられた りすることは無いと考えられる。しかし信仰している人々が近代化の流れに対応できない と考えられる。近代化とは科学や技術の有用性を認めること、西欧的物質主義を生活の中 に組み込むこととされている。 そこでラーマ4世はマタユット派という近代化の流れに対応できる僧侶団体を形成した。 マタユット派は仏教教義に合理的解釈を特徴とされ郡市市民に基盤が置かれている。仏教 が近代化に対応することにより人々の生活の中に起こる変化に対して、仏教がそれを導く ことで西欧の思想によって仏教の思想がなくならないようにした。ラーマ4世はもともと 仏教徒であるから仏教を信仰していることはもちろんである。仏教によってタイの治安は ある程度、安定していたので、治世者たるラーマ4世は人心が仏教から離れることを恐れ た。実際、発展途上国である国を見ると何かしらの紛争は起こっている。その原因は宗教 的な問題が多い。タイの治安が比較的安定している理由は仏教が国の大きな存在であると 96 いうことがいえる。それだけ仏教がタイ国全体に重大な影響を与えるということだ。 日本の近代化の始まりは 19 世紀とされ、タイとほとんど同時に始まった。しかし現状を 見ればその差は明らかである。タイは日本の経済発展に大きく遅れをとっている。タイと 日本の違いとしては、近代化以前の社会構造の違いがあげられる。タイの人々は食料も自 給自足をしていて、国の中に商人と呼ばれる人の数は非常に少なかった。また、圧力をか け社会変動を起こすということもなかった。日本では支配階級の多くの人が不満を持って いたし、国内での工業や商業が盛んに行われるなど、伝統的な実業組織の仕組みの中で最 大限の発達をしていた。こうした違いが同時期に始まった近代化の現在の差に結びつくと 考える。 また、タイでは個人の自立や寛容性を重視していた為、労働倫理、自己規制、集団の協 力、社会的一致の考えが弱く、そこに日本との発展の差に出たとも考えられている。今で はその事がタイでも認識されている。しかし、このことは仏教の思想によって妨げられて きたのではなく、むしろ近代化の中で再編された仏教は、近代的な価値観を教える手段と して力を発揮することが求められている。仏教がタイ国内で高く崇拝されていることから、 社会的モラルや価値観と関連している限り、近代的価値を国民に浸透するには仏教が最適 と考えられている。 19 世紀以来、近代化を進める上で西欧の思想や文化の影響を受けてきたときに、仏教は 国と協力して国家建設、近代化、開発の力になってきた。ラーマ5世の時代には同時に学 校教育の政策が始まったので、僧には十分な期待が寄せられた。伝統的な教育から近代的 な教育へと移っていったその時に、寺院が学校として利用された。ラーマ5世の時代に近 代的な学校を創る政策が進められたが、近代的な教育を取り入れることで仏教の理念が失 われてしまうことを恐れ、それを残そうと寺院を教育の場として利用し、僧を教師とした のである。授業の中にも仏教、つまり道徳を教えることで、仏教のアイデンティティを残 そうとした。こうしてできた寺院学校は学校不足や教員不足を解消し経済的に、また効率 的にとてもよい成果を上げた。 20 世紀になると国家開発は進められ、西欧の教育を受けた指導者は国家開発こそが近代 的国家建設の土台であると考えた。1960 年代前半はまさにタイの近代化を象徴とした時期 になった。 国家政策と行動計画を掲げ、農村開発に関しては農民と政府の関わりを強くし、 農村内のインストラクチャーの改善や農民の抱える問題の自助努力を進めた。それは落村 開発委員会という政府の役人が、アドバイスをすることや政府と農民の仲介人のような役 目を果した。また一般の大学にも農村開発の専攻を設けることや、村人と一緒に働くとい った授業を用意して政府に協力し、国全体での農村開発がはじまった。 1960 年代後半からは西欧のファッションやテレビ、映画など海外の文化が入ってきた。 タイの指導者達は古くからある仏教理念が失われてしまうと心配し、政府内部に特別に局 を設置して、若者が仏教理念から離れないようにした。その設置した局で仏教が一つの要 素として強調され、文部省は教育のカリキュラムに仏教教育を導入した。 タイには仏教日曜学校がある。もともとスリランカにある仏教日曜学校がモデルになっ ている。バンコクにある仏教大学、マハーチュラーロンコーン大学の学長は、スリランカ とビルマの仏教視察を行い、仏教日曜学校が青少年に対する道徳教育で社会的に大きな影 響を与えていることに感動し、帰国後にそのことを学生に伝えた。ちょうどその頃、マハ 97 ーチュラーロンコーン大学の教員や学生は、他の大学や学校に行って仏教道徳や戒律を教 える活動を行っていた。また、日曜や仏教行事の日にも一般の人に対して講義をしていた。 そして親と一緒に来る子供達にも仏教の物語を聞かせる僧もいた。この状況にマハーチュ ラーロンコーン大学の教員や学生は仏教日曜学校の開校を始めた。目的として一つ目は生 徒に仏教原理、仏教倫理、タイ文化を教えること。二つ目は、生徒に教えたことをしっか りと理解し生活するように導くこと。三つ目に生徒が生活する中でよい事をするように導 くこと、四つ目に、仏教を普及させることとされた。始めのうちは年齢、知識に関係なく 誰でも入学することができ、大人も子供も一緒になり学ぶことができた。しかし2年目、 3年目にもなると生徒の数が増え全員がいっしょに学習することが困難になり、クラス編 成されるようになった。それだけ仏教日曜学校が人気を集めてきたということがわかる。 1961年には、バンコクのボウォニウェート寺院にあるマッハーマクット大学に2番目 の学校ができた。1987年には全国で362校にもなった。 このように日曜学校が増えたが、マハーチュラーロンコーン大学の僧であるチャムノン 僧は設立動機をこのように述べている。「タイ社会の現状では、学校の生活のために両親と も働かなければならず、子供達のために道徳し、しつけをほどこす時間がない。また、両 親自身も子供にしつけを与えるだけのモラルを有していない」。また、「戦後、タイ社会に 西洋文化が流入し、道徳規範が混乱している。タイの青少年は心の原理(クラチャイ)を持 っていなかったので、欧米の生活を真似ているうちにモラル感覚を失い、社会性を喪失し た」、さらに「子供が宗教から遠ざかり、学校における道徳教育が良い成果をあげていない。 そして、子供の心が社会の悪い環境からくる誘惑に負けそうになっている」とも述べている。 このようなことを理由に、彼等にモラルを教えなければならないと考えたのだ。寺と僧 が一定の役割を果たせるように仏教日曜学校が必要だという。生活環境が悪化する中で、 親の手がまわらないことや、学校教育では果たせない役割を仏教日曜学校が果しているの だ。 生徒の反応や親の反応もとてもよい。生徒からは「仏教原理を学ぶ」「家にいるより時間を 有効に使える」という意見が、親からは「良い仏教徒にさせる」「タイ文化・仏教文化を学ば せる」といった好感触の意見が返ってくる。国民が必要としている仏教道徳を学ばせる場と して、日曜仏教学校は有効利用されているようだ。確かに発展が進み仏教心は薄くなって いるかもしれないが、国民自体が伝統的なタイ文化を取り戻そうとしていることが分かる。 また 1960 年に始まった農村開発にも仏教大学は力を発揮した。仏教大学にも農村開発の 授業が導入され、卒業した僧が卒業後1~2年間、宗教的仕事と農村開発が政府の下で行 われた。宗教的奉仕をするだけでなく、村落内の生活状況改善のために働いた。この政策 で伝統的役割をする事と、現代社会に対しての僧の役割を確立することができるのでとて も熱心に働いた。一人乗りと呼ばれる上座仏教に対してはこのような政策は発展途上の中 にあるタイではとても重要な役割を果していると同時に、仏教内での変化も見ることがで きる。彼らはサンガの中でも少数派で、僧侶に対し伝統的な教え以外に世俗的教育も課す ことを主張した。それは近代化が進む社会において再び高い地位を獲得するための最善な 方法だと考えたのである。その為には幅広い教育を理解したうえで人々に分かりやすく説 明するために英語、社会学、人類学、教育、農村開発といった社会学や人類学も学び、彼 ら自身が新しい角度から見た仏教と近代化の関わりについての書物を著したり、現代社会 98 の問題に関する議論に参加し、仏教徒としての意見を述べていった。そして道徳訓練、職 業訓練、米銀行、水牛銀行、農村のインフラントラクチャー整備などの活動を組織化する 活動を行う僧を「開発僧」と呼ぶようになった。 第3節 開発僧の 開発僧の活動 私達がフィールドスタディで訪れたカオディン村は、マハチュラロコーン仏教大学によ り落村開発活動の研究に使われていた。この地域は伝統的な農地や養殖地と近代的な工場 がある。伝統的な共同体と近代化の流れが隣同士にある村だ。その中で寺院がどのように 地域開発を進めていけばいいのかを模索するためのモデルとなっている。 ここではタマサート大学のピロム先生の話を聞くことができた。先生の話によると、国 の政策を進めるためには寺院と人々が共存しなければならないらしい。それは同時に政府 と人々が共存していくことだと考えられる。 また「山をも動かす三角形」という図を見せてもらった。これは、調査(research)・社会運 動(social movement)・人々の政治(people’s politics)からできている三角形の図で、全ての繋 がりを表している。まず調査をし、知識を身に付けることで行動に移す。そしてその行動 が人々の政治活動を起こすと話してくれた。国民による自主的な政治により人々の生活が 豊かになると話してくれた。しかし、この「山をも動かす三角形」の成果は数字で現れるも のではないそうで、実際にどのような結果を得られたかを知ることはできなかった。 おわりに タイにとって仏教はなくてはならない存在だった。それは政府に対しても国民に対して も同じことが言える。習慣として残されていることから当たり前のように仏教が人々の生 活に関わっていることが分かる。むろん、近代化が進むにつれて、仏教理念が薄れてきて いることは否定できない。サンガは仏教理念が薄れてしまうことを恐れ、自己改革に乗り 出したということだ。だが、発展途上真っ最中の国だからこそ、しっかりと基盤の築かれ ている仏教でしかできないことが沢山あることが分かった。西欧文化が入り日本のように 宗教心が薄れる可能性は否定できないが、学校教育を通じて伝えられているアイデンティ ティはなくなることはない。仏教はタイで生きつづけるために仏教自体の変化を繰り返し、 またこの変化が発展する中で、積極的に国民に働きを掛けて行っている。仏教徒でなけれ ば王座につけないことなどを考えても、政府と近い距離にある仏教がもし社会の仕組みか ら無視されるようなことがあれば、政府と国民との間に大きな距離感が生まれてしまうだ ろう。タイにとって仏教は既になくてはならない存在なのである。タイにおける仏教理念 は、国民の求心力である政策という形で残っていくのかなと感じた。 99 参考文献 小野澤正喜、1994、 『暮らしがわかるアジア読本 タイ』河出書房新社。 河部利夫、1997、『タイの心―異文化理解のあり方―』勁草書房。 川田順造、1997『開発と文化3』岩波書店。 プラサート・ヤムクリンフン、1995『発展の岐路に立つタイ』国際書院。 北原 淳、1996『共同体の思想』世界思想社。 綾部 恒雄、2003『タイを知るための 60』章明石書店。 100
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