沖縄の米軍基地周辺歓楽街に関する一考察 ―沖縄県

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Title
沖縄の米軍基地周辺歓楽街に関する一考察 ―沖縄県金武町を事例
に―
Author(s)
吉田, 容子
Citation
吉田容子: 奈良女子大学地理学・地域環境学研究報告, 2010, 7号, pp.
113-129
Issue Date
2010-03-30
Description
URL
http://hdl.handle.net/10935/2703
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沖縄 の米軍基地周辺歓楽街 に関す る一考察
一沖縄県金武町を事例 に吉 田容子
1. はじめに
1- 1 戦後の沖縄における米軍向け歓楽街 としての 「
特飲街」
9
4
5年 4月の沖縄戦で戦勝 して沖縄を占領下に置い
アメ リカ合衆国 (
以下,米国)は,1
て以来,「
アジアの防共の砦」として沖縄を位置づけ,米軍基地を展開させてきた。その結
果,日米安全保障条約に基づいて 日本国内につ くられた米軍基地のおよそ 75%が現在沖縄
県に集中 し,県全体の面積の 1割,沖縄本島の 2割 を占めている。基地の存在は,演習用
戦闘機の騒音や墜落, 自然環境の破壊,兵士の不祥事,戦時における攻撃対象など,基地
周辺の住民にさまざまな危険 と不安を与えてきた。国際政治学,法学,社会学,女性学,
環境学,平和学をは じめ多 くのディシプ リンまたメデ ィアは,長年にわたってこれ らの問
題を扱ってきた。
一般に,基地の周辺には歓楽街が形成 され ることが多い1
)
。沖縄に散在する米軍基地の
周辺にも歓楽街がつ くられ,それ らは本土返還以前 「
特飲街 (
特殊飲食店街の略称)」 2)
とよばれた。終戦後の沖縄では,衛生環境の悪化か ら日本脳炎など伝染病の蔓延が危倶 さ
9
53年 1
1月,「
Aサイン」
れるようにな り,琉球列島米国民政府 3) は 1
制度の実施 に踏
4)
み切った。 これは,米軍が示す施設認可基準に合格 した普通飲食店や肉 ・野菜の加工店な
どに対 し,米軍人 ・軍属の立入 りを許可する制度である。 さらに,経済的困窮か ら身体を
9
5
6年 5月か らは,Aサ
売る女性が急増 したことで駐留兵に性病が蔓延することを恐れ,1
イン制度がカフェ,キャバ レー,バー,ダンスホールなどのいわゆる風俗店にも適応 され
ることになった。 この制度下では基準に合格 した店に許可証であるAサインが交付 され,
各店はAサインを店内のよく目に付 く箇所に掲示 した。風俗店でAサインの許可証を持つ
Aサインバー」 とよばれ,こうした店が並ぶ通 りが特飲街 と称 され,歓楽街
店は一般に 「
を形成 した 5)。
端的に言えば,
沖縄の特飲街は,
米軍によって管理 された遊興空間であった といえよ う。
そこには米兵の消費す る ドルを当て込んだ飲食店 ・
風俗店が軒を連ね,各店舗では女給 (
女
性従業員)を雇用 して米兵を接客 していた。女給には保健所か病院で週 1回の性病検診が
義務づけられた。定期検診の結果,性病に篠患 していない女給は 「
特殊婦人」ともよばれ,
米兵 との身体的接触を引き続き許可 された。一方,女給が性病に羅患 していることがわか
れば,完治す るまで店で働 くことはできなかった。また,罷患者を出した店-の米軍人 ・
軍属の立入は禁止 (
オフ ・リミッツ o
f・
imi
l
t
s
) とされた。性病が完治 しない女給の中に
は,私娼 として売春行為を行 う者 も多かった。私娼の数が増えで性病蔓延の危険性が高 く
-
1
13 -
なると,特飲街全体がオフ ・リミッツの対象 とな り,地域経済に大きな打撃を与えた。い
ったんオフ ・リミッツが発せ られ ると一年近 く解除 されない場合 もあった。そのため琉球
政府 6)側は,風俗業者に健全な娯楽業-の転業 を提案 した り,特殊婦人に対 して衛生教育
や転業を勧 める職業斡旋を行った り,特飲街のパ トロールを強化するな どでオフ ・リミッ
ツを回避すべ く対応 したが,特飲街の劣悪な衛生環境や性病が米兵の健康や軍隊の士気に
及ぼす影響を恐れ る米軍側は,常に厳 しい姿勢で臨んだ。
1-2 本研究の位置付け
米軍 占領下での兵士 と沖縄女性 との性愛的関係 に触れることなくして語 ることのできな
い沖縄の特飲街の歴史は, 日本の戦後史の中できちん と検証 され ・位置付けられていると
は言い難い。 しか しながら,幸いにも,米軍 占領時代から 1
972年の 日本復帰お よび売春
防止法制定7
)までの間を中心に,当時のルポル タージュや新聞 ・雑誌等メデ ィアに多 くの
記録が残っている8)。また,女性学/
女性史の分野にも先行研究が散見される9)。 さらに近
年では,戦後史編纂作業の一環 として沖縄県や各市町村が積極的に取 り組んでいる 10)0
地理学の分野においては,沖縄の米軍基地問題 を継続的に研究テーマ として扱 っている
山崎が,琉球列島米国民政府が作成 した文書を用いて,米軍によるAサイン制度やオフ ・
リミッツの運用 ・評価 を検討 しつつ,これ ら制度の変遷を明 らかに した研究がある 11)。彼
の研究でお もに取 り上げられるのは,沖縄戦敗北でいち早 く米軍の占領下に置かれ,それ
以降,極東最大の米空軍基地である嘉手納飛行場 を控えた典型的な 「
基地の街」- と発展
したコザ市 (
覗,沖縄市)である。沖縄市は終戦以降の市史編纂に積極的に取 り組んでお
り,米軍統治時代の資料の発掘 ・整理を進めている。また,那覇市でも市史編纂-の取 り
組みが行われてきた 12)。 しか しなが ら,米軍統治時代の資料の発掘 ・整理が沖縄市や那覇
市ほど体系的に進 められていない 自治体もある。
そこで本稿では,米軍基地の周辺に特飲街が設置 された経緯があるにもかかわ らず,也
理学はもちろん他のディシプ リンにおいても, これまであま り触れ られることのなかった
沖縄県金武町を取 り上げる。金武町には米軍基地キャンプ ・ハンセンがあ り,このす ぐ南
側一帯に特飲街が形成 され,ベ トナム戦争時をピークに米兵たちで賑わった。 当時の特飲
街のひ とつである金武特飲街 (
金武新開地 ともよばれた)は,現在では金武町社交街 と名
称を変えなが らもキャンプ ・ハンセ ンの駐留兵 を顧客 とする店舗を包摂 している。筆者は
沖縄県内の旧特飲街についてここ数年調査を続 けてきたが,それ らの多 くには,都市化の
影響 を受けて一般商業地や住宅地- とダイナ ミックな景観が認められた。 ところが,金武
町社交街は戦後の特飲街当時の空間範囲をほぼそのまま維持 し,また,その空間が持つ機
能を温存 してきた。 とはいえ,コザ市や那覇市の特飲街に比べると,金武特飲街-の注 目
金武町誌』 13)
は地理学をは じめ隣接ディシプ リンにおいても未だみ られない。本稿では,『
と「
Aサイン」 の交付を受けた飲食店 ・風俗店の組合による組合史 『
金武町社交業組合 創
)を中心に,さらに金武町発行の文献資料等 15)および住宅地図を手が
立 20周年記念誌』 14
か りに,金武町における特飲街の成立,飲食店 ・
風俗店のAサイン取得やその維持,また,
特飲街の土地利用 とその変化について明 らかに し,戦後の沖縄における米軍向け歓楽街 と
-
1
14 -
しての 「
特飲街」に関する研究の一助 としたい。
2.旧金武村における米軍基地の設置 と特飲街の成立
本研究で取 り上げる沖縄県金武町は,沖縄本島のほぼ中央に位置する。同町の東は宜野
座村,北西側は恩納札 南は うるま市 16) と接 している (
第 1図)
。町の南には金武湾が広
が り,後方には恩納岳をは じめとす る国頭山系が連なる。恩納岳の山裾か ら太平洋側に向
かって緩やかな台地を形成 してお り,湧水に恵まれた箇所がいくつかある。水を得やすい
そ うした箇所を中心に,
農耕地や集落がつ くられた。1
980年に金武村か ら金武町 となった。
現在, 5つの行政区 (
北か ら,中川区,並里区,金武区,伊芸区,屋嘉区)より構成 され,
金武区に町役場をは じめとす る行政の中心が置かれている。
金武町の米軍基地関連施設にはキャンプ ・ハンセン,ギンパル訓練場,金武 レッ ド・ビ
ーチ訓練場,金武ブルー ・ビーチ訓練場があ り,このほか,航空 自衛隊の高射教育訓練場
がキャンプ ・ハ ンセンに隣接 している。町面積の 6割が米軍基地および 日本の自衛隊に利
用 されていることになる。
本研究で取 り上げる特飲街は,キャンプ ・ハンセンの南側を走る国道 329 (
旧軍道 1
3)
号に一部沿 うように形成 された (
第 2図)
。本章では,旧金武村 17) におけ古米軍基地およ
,『
金武
び特飲街の成立を,『
金武町誌』および 『
金武町社交業組合 創立 20周年記念誌』
町 と基地』をもとに見てい くことにす る。
2- 1 沖縄戦敗北か ら米軍基地建設まで
金武町において,先述の米軍関連 4施設お よび航空 自衛隊施設 として利用 されている場
所の一部は,沖縄戦の最中, 日本本土攻撃のための前線基地 として米軍によって開発 され
945年 3月下旬に米軍の沖縄攻略作戦が始まると,米軍はまず,金武や並里の住民を
た。1
他の集落に移 して飛行場を建設 し, 4月下旬には中型飛行機の発着が可能な金武飛行場を
現在のキャンプ ・ハンセンに建設 した。終戦直後 しばらくの間,金武飛行場は使用 されて
947年夏頃か ら米軍の実弾射撃の訓練場 として使われるようになった。
いなかったが, 1
当時の金武村では,薪炭用の木材を切 り出すため村有林を村人に払い下げる計画があっ
たことか ら,金武村出身の沖縄民政府 18)工務部長に米軍の射撃演習阻止要請の陳情を行っ
た経緯があるが,米軍側は射撃演習場 としての使用を譲 らなかった。 これ以降,金武村内
95
0年 6月に勃発 し
の山林を中心に米軍による射撃演習が頻繁に実施 されるよ うにな り,1
た朝鮮戦争の前後は,実弾を用いた激 しい演習が陸上 ・海上 ・上空で行われた。 このため
山林は焼け,農耕地や集落には砲弾の破片が飛ぶなど,金武村の自然環境や住民の生命は
脅か された。
1
956年 6月になると,
米軍海兵隊が金武飛行場跡に仮兵舎をつ くって駐屯するようにな
959年 7月か ら,沖縄県内の建設業である
り,同時に軍用地の接収が進められていった01
国場組によってキャンプ ・
ハンセンの建設が本格的には じま り,1
962年秋に工事は完了 し
た。キャンプ ・
ハ ンセンの基地建設に動員 された労働人 口は,工事期間内延べ 1
50万人で,
1千万 ドル以上の工費が費や された大事業であった。基地完成後は, 1千人余 りの従業者
-
115
-
が基地内の施設で雇用 された 19)。これ らのことか ら,基地建設が当時の金武村にもた らし
た経済効果を推 し量ることができよう。キャンプ ・ハンセンにはベ トナム戦争中およそ 8
千人が駐屯 したが,戦争後は 2千-3千人程度に減少 した。
2- 2 特飲街の成立
1)金武新開地
金武新開地」(
覗
キャンプ ・ハンセン建設の進行 とともに,この基地の第 1ゲー ト前に 「
在の金武町社交街の位置) とよばれ る飲食店 ・風俗店街の建設が本格的には じまった (
第
2図)
。そこは戦前,ヤハズ原 とよばれる畑地があった所である。畑地南側の崖周辺は原野
と山林で,崖の両側には墓地が多 くハブがよく現れる場所であったことか ら,金武集落の
956年 6月以降金武村に駐屯 しは じめた海兵隊の兵
人々は近寄 りたが らなかった とい う。1
士たちが遊興施設の多い旧コザ市や石川市に出掛けて行 くのを引き止めようと,現在のキ
ャンプ ・ハ ンセン第 1ゲー ト前に 「
ラッキーセブン」 とい うバーを開いた業者がいたもの
の,当時はこの一軒 しかなかったため,米兵を金武村内につなぎ止めてお くことはできな
かった。
キャンプ ・ハンセンの建設が本格化 した 1
959年に,地元地主たちによってヤハズ原の
開発計画がまとめられ地主 65人による組合が結成 された。その後,約 1年をかけて区画
961
整理が完了す ると,この 「
新開地」に飲食店や風俗店の建設がは じまった。そ して 1
年 2月には,対米軍関係の飲食店 ・風俗店が中心 とな り金武村風俗営業組合が成立 した。
2) 並里新開地
キャンプ ・
ハンセン第 1ゲー トか ら現在の国道 329号に沿って北東-進む と,キャンプ ・
ハンセンの第 2ゲー トに出る (
第 2図)
。この第 2ゲー ト前の南側に 「
並里新開地」とよば
れる飲食店 ・風俗店が現れは じめたのは 1
967年頃であった。戦前,第 2ゲー ト前には製
糖工場があ り,その周辺はシジャタ原 とよばれ る畑地が広がっていた。ベ トナム戦争の最
中, とくに 1
964年か らの数年間,第 1ゲー ト前の金武新開地で米兵が消費す る ドルが急
激に増えて利益が上がったことか ら,並里集落の第 2ゲー ト前の開発を推進する声が高ま
った。 1
966年 5月に都市計画委員が選出され,地主 32人 との交渉で並里集落が用地を買
収 した。 この用地はいったん業者に転売 された後,工事がは じめられた。 しか しなが ら,
並里新開地に飲食店や風俗店が並び始めた頃には,ベ トナム戦争の激化で駐留す る米兵が
減少 した り,米政府の ドル防衛策のため不景気が続いた りで,新開地計画当初の利益が見
971年 4月に金武新開地 と組合を合弁す る際には
込まれず出店を中止する業者 も出たが,1
11軒の店舗があった。
3) 牛納バー街
1
962年か ら翌 63年にかけて金武村役場の東側にあった闘牛場跡が開発 され,
63年 5月
に 「
キャバ レー ・パ レス」とい う店が開店 し,以降ここに 「
牛納 (
うしな-)バー街」(
現在
。牛納バー
の うしな-社交街の位置)とよばれる飲食店 ・風俗店街がつ くられた (
第 2図)
29号の西側にあた り,キャンプ ・ハンセン第 2ゲー トまで 300m強の
街は,現在の国道 3
ところである。第 2ゲー ト南面に並里新開地が整備される前に牛納バー街がつ くられ,各
-
1 16
-
店舗はA サインを取得 した。 しか しなが ら,第 1ゲー ト前の金武新開地が駐留兵用の特飲
街 として発展 していく一方,牛納バー街は米兵にはほとん ど利用 されなかった。む しろ,
金武はもとより宜野座,恩納な どか ら客が来て,邦人用バー街 として賑わった。 こうした
背景か ら,1
971年 1月にバー街の 23軒の業者が組合を結成す るさいには,金武村邦人社
交業組合の名称 となった。
以上のように,金武村では 1
960年代初期か ら中頃にかけて,キャンプ ・ハンセン南側
の国道 329 (
旧軍道 1
3)号に沿って 3ヶ所の特飲街が形成 された。 1
971年には 「
金武新
開地」 と 「
並里新開地」のAサイン組合が合併,さらに 1
977年には 「
牛納バー街」のA
サイン組合 と合併 し,そのつ ど組合名称を変更 しつつ,1
980年に 「
金武町社交業組合」と
0
なった (
第 1表)
次章では,これ らの特飲街が営業上必要なAサインをいかに獲得 ・保持 していったのか
を,金武新開地を中心に特飲街の組合組織 と米軍側 との関係か らみていく0
3
「
Aサイン」制度新基準をめぐる特飲街のAサイン組合 と米軍 との交渉
1- 1で紹介 したが, 「
Aサイン」制度は 1
95
3年には じま り,5
6年か ら風俗店にも適
応 されるようになった。しか し,58年の食品衛生法規則の全面改定によって,それまで米
軍 と琉球政府の両方の許可証が必要であった許可権が全て琉球政府に移 されると,Aサイ
ンに替わる等級制による許可証が出されることになった 20)。 ところが 6
2年になると,吹
の 3- 1にあるよう,Aサイ ンの新基準が発表 され,
63年か らAサイン制度が復活 した 21)0
筆者は,金武の特飲街のAサインバー業者が当初の 旧Aサインをどのように獲得 ・維持
していったかを明らかにす る資料を見つけることができなかった。 しか し,Aサイン制度
新基準の適応下での金武のAサインバーの対応について記 した資料 として 『
金武町社交業
組合 創立 20周年記念誌』があることか ら,以下ではこの資料を頼 りに,Aサイン制度新
基準をめぐる特飲街の状況や業者組合の対応についてみてい く。
3- 1 Aサイン制度新基準の施行
1
961年の末頃か ら沖縄各地域の特飲街の飲食店 ・
風俗店に対 し,店の衛生や 「
特殊婦人」
の管理が杜撰になっているとの理由から,米軍人 ・軍属の立入 りを禁止するオフ ・リミッ
ツが頻繁に出されるようになった。金武新開地でもオフ ・リミッツが度々出され各店舗の
経営に大きな影響が出るよ うになったため,当時の金武村風俗営業組合にとってオフ ・リ
ミッツ-の対策が喫緊の課題 となっていた。店舗の衛生管理や特殊婦人の検診は隣接の旧
石川市保健所によって行われていたので,金武村風俗営業組合の執行部は、石川市保健所
による性病予防講習会や石川署保安課による法令講習会をしばしば開いて,店舗経営者や
従業者の衛生思想の向上をはかった。
1
953年か らのAサイン制度実施以降,5
8年に琉球政府に等級制の許可権が移るな ど制
度上の変遷があったが,飲食店 ・
風俗店の衛生環境や女給の健康管理は徹底 されず,オフ ・
リミッツが頻繁に発令 され るよ うになってきたことか ら,旧来のAサイン制度を見直 して
-
1 17 -
米国と同 じ厳 しい基準を適応 させた新基準の導入をはかるべ く,1
9
62年 1
2月 1
4日に 「
A
サイン」 制度新基準が米軍風紀取締委員会より発表 され,翌年 8月 1日か ら実施 の運び と
なった。
1
956年か ら風俗営業店にも適応 されたAサイ ン取得基準は,給水の衛生管理,洗浄設備
の設置,冷凍 ・冷蔵庫の温度整備,昆虫 ・ネズ ミの除去,店内 ・便所の清潔,従業員の健
康証明など,多数の項 目にわたっていた 22)01
962年 1
2月に発表 された新基準は,以下の
ように,さらに細部にわたる厳 しい内容であった 23)。米軍人 ・軍属を顧客 とす るバー,キ
ャバ レー,ナイ トクラブなど,アル コール飲料 を提供する営業施設は大通 りまたは主要道
路に面 していること。営業施設付近は晩でも明るく,排水溝には蓋が してあ り,衛生的で
なければいけないこと。建物の構造は鉄筋コンクリー ト造 りであること。店内のカ ウンタ
ー内には,ステンレス製の三槽洗浄器を置き,グラスや食器類などはすべて石けん水で洗
った後に煮沸消毒をす ること。冷蔵庫内は 5℃以下を保つ こと。便所は男女別,水洗式 と
し,内部の手洗いには石けん,タオルペーパー, くず箱を置き,冷 ・温水が出る水道 を設
備すること。風俗営業店舗の場合,同一建物内に女子従業員が居住す る部屋 を設 けないこ
と。 ここに挙げた項 目は,遵守すべき基準の一例に過ぎない。米軍人 ・軍属相手のすべて
の営業施設は保健所 と琉球列島米国民政府の公衆衛生部の検査に合格 し, さらに風俗営業
施設は警察署の営業許可を受けた後,米軍風紀取締委員会の最終検査に合格 しては じめて
「
Aサイン」 (
第 3図)の交付が受けられるしくみである。
1
962年 1
2月にAサイン制度新基準が発表 された時点の金武新開地では,新基準を満た
していない項 目が多かった。当時の金武新開地はアスファル ト舗装がなされてお らず,側
溝の蓋や街灯もない道路で,木造のかわ ら葺きや トタン葺きの店舗が多かった 煮沸 した
。
グラスが少 しでも曇っていると不合格になるのである。キャンプ ・ハンセンと隣接す る金
武新開地の重要性が理解 されたのか,木造かわ ら葺 きの店舗については店主一代 に限って
Aサインを交付す るとい う条件に緩和 されたが,これ以外の基準項 目については遵守が求
められたため,店舗の改善費等に相当の金額が必要 となって新 しいAサインの取得 を断念
した業者 も 3軒あった。それでも,店舗設備の改造や衛生面での改善,側溝 ・街灯の設置
などにより,1
963年 8月 1日の新 Aサイン制度実施までに 7
3軒の業者がAサインを得た。
3-2 Aサインの保持 と米軍 との関係維持
新 Aサイン制度の実施にあたって,先述の とお り,米軍側は旧来のAサイン制度 よ り厳
しい基準を沖縄の各特飲街業者に突きつけた。 Aサインを取得できない と死活問題 となる
金武新開地の各店舗業者は,金武村風俗営業組合をつ うじて各方面に働 きかけを行 った。
以下では,そ の働 きかけの過程を 『
金武町社交業組合 創立 20周年記念誌』をもとにみて
いく。
Aサイン制度新基準である,アスファル ト舗装の道路,側溝の蓋,街灯等が金武新開地
にはないため,Aサインの交付はできない と米軍風紀取締委員会から通達を受けた。金武
村風俗営業組合は金武村長および村議会に対 して早期に施工 ・設置をするよう陳情 し,そ
の確約書を持って米軍 Aサイン事務所 と米国民政府の公衆衛生部に何度 も陳情を行った。
-
11 8
-
その結果,早期施工 ・設置を前提に特別措置 として,前述 したように 73軒の業者が新 し
いAサインの交付を受けることができた。
1
963年 1
0月より,金武村風俗営業組合は金武 Aサイン組合に名称変更 し,組合の活動
を展開 していく。当該組合の対米軍関係の折衝機関はおもに,米軍 Aサイン事務所,検察
局系列の風紀取締官,駐留米軍各部隊の性病予防官であった。米軍Aサイン事務所は米軍
懲罰委員会直属の組織で,Aサイン交付の要件を満た しているかを毎月 1回の衛生検査の
実施で判断する。風紀取締官は,時には私服で風俗店を訪れ,店内で女給による売春が行
われていないかを調査す る。性病予防官は,米軍人 ・軍属に性病患者が出ると,接触 した
女給にVD (
v
e
ne
r
e
a
ld
i
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s
e
)カー ドを渡 して治療を勧告 し,店のAサインを取 り上げ
る。各機関の調査結果は米軍Aサイン事務所で集計が行われ,毎月開かれる軍懲罰委員会
にあげられるとともに,沖縄の各市町村,各特飲街のAサイン組合や業者にも報告書が送
られ るよ うになっていた。各特飲街のAサイン組合は,その報告書を事前に取 り下げよう
と,米軍側 と折衝を行 うことも仕事のひ とつであった。
金武のAサイン組合は取得 したAサインを保持 してい くため,米軍側 との関係維持や他
のAサイン組合 との情報交換 ・協力をはかってい く。例えば,1
960年代の終わ りか ら 7
0
年代のは じめには琉米親善まつ りが度々行われた。1
969年 3月に実施 された第 1回琉米親
善まつ りは金武 Aサイン組合のほか村内のホテル組合や質屋組合の合同で企画 され,那覇
高校のブラスバン ド部を招待 して新開地の通 りをパ レー ドした。その徳,当該の行事では,
キャンプ ・ハンセン内を着物姿の沖縄女性を交えてパ レー ドをした り,カチャーシー大会
を開いて米兵 と沖縄の人たちが一緒に踊るな どの企画もあった。また,駐留す る米海兵隊
の創立記念 日には,新開地の各店でアル コール飲料等を半額にするな どのサー ビスを実施
して,米軍 との 「
親善」をはかった。
一方,金武 Aサイン組合は対米軍関係の折衝機関が行 う性病予防や衛生管理の講習会に
定期的に参加 して,米軍-の協力的姿勢をあらわ した。さらに,1
971年 3月に沖縄社交業
環境衛生同業組合に加入,また同年 4月より,第 2ゲー ト前の並里新開地のAサイン業者
1
1軒 と合併するなど,業者同士のつなが りを強化 していった。
3-3 Aサイン店の傾向
961年か ら 20周年を
『
金武町社交業組合 創立 20周年記念誌』をもとに,組合創立の 1
第 2表である。
迎えた 81年までの間に組合に加盟 した店舗の営業開始年を示 したものが,
ただ し,金武町社交業組合は金武新開地,並里新開地,牛納バーの各飲食店 ・風俗業店が
加わって創設 された経緯があるので,第 2表は旧金武村内 3ヶ所の特飲街に関す るデータ
であることを断ってお く。 この表によれば,1
970年代を通 じて 80年までの間に多数の店
が営業を開始 したことがわかる。ベ トナム戦争の激化 した 1
960年代か ら 7
0年代初期にか
け沖縄各地の米軍基地か ら兵士が戦地に送 られたが,同時に戦時中は兵士の交替か ら沖縄
に引き揚げて くる部隊もあった。1
969年 6月,およそ 5千人の海兵隊員がベ トナムか ら戻
)
。第 2表に照 らしてみると, 1
969年か ら営業を
され,キャンプ ・ハンセンに到着 した 24
開始 した店舗が増え始めた一要因には,こうした背景があった と考えられる。ベ トナム戦
ー
1
19 -
争は 1
975年に停戦するが,この年には沖縄海洋博が本島北部の本部町で開かれた。『
金武
町社交業組合 創立 20周年記念誌』によれば,海洋博期間中は組合加盟の各店で営業時間
を 1時間延長 したとある。ベ トナム戦争停戦後によって米兵の消費が減少 したにもかかわ
らず,海洋博に訪れる本土やアジア近隣からの観光客を当て込んで新たに営業を始める店
981年の時点で社交業組合に加盟する店舗は 1
46
舗があった と推測できる。ちなみに,1
軒で,この うちキャバ レー,クラブ,バーなどいわゆる風俗店は 1
42軒を占める 25)。
次ぎに,金武町社交業組合に加盟する店舗経営者の本籍地をみてみる (
第 3表)
。金武の
出身者はわずか 25名である。概 して,沖縄本島の中部から北部の出身者が多い傾向にあ
るが,離島出身者が多いことは注 目に値する。 とりわけ宮古島の 34名は多い。きわめて
少数ではあるが本土や中国に本籍地を持つ者がいる。宮古島をはじめ沖縄の離島では,戟
前 ・戦後をつ うじて食料難や貧困の問題は相当深刻で,格戦後,米軍の駐留が少なかった
離島から, ドル景気に沸 く沖縄本島-仕事を求めて流入する者が多かった 26)。金武町社交
組合加盟の店舗経営者に離島出身者が多い理由として,こうした背景が考えられる。
4 金武新開地の変遷
本章では,金武町の特飲街の うち,名称を 「
金武町社交街」と変更 して現在 もキャンプ ・
ハンセンの駐留兵を顧客の中心に営業する店舗の多いかつての金武新開地を中心に,その
空間構造を把握 したい。
4- 1 1
977年発行の住宅地図から読み取る特飲街
対象地域の米軍統治時代の名残を窺い知ることのできる詳細な地図で筆者が入手できた
977年発行の 『
ゼンリン住宅地図』である。これをもとに旧金武新開地に相当する
のは,1
一部を筆者が加工 したものが第 4図である。
1
977年発行の住宅地図には,
「
金武 Aサイン組合」事務所の位置が記入 されていた。1
97
4
年 1
1月から 「
金武 Aサイン社交業組合」 に名称変更 (
第 1表) されていることか ら推測
すると,これは住宅地図作製にあたっての現地調査 と地図出版までのタイムラグによるも
ので,77年発行の住宅地図は 日本返還前の土地利用 と大きな変化はないと判断 してよいだ
ろう。以下では,当該地域の土地利用や店舗立地の特徴を読み取って整理 した うえで,2003
年発行の住宅地図 (
第 5図) と比較 し,その変化を明らかにする。
第 4図か ら,沖縄返還前の金武新開地では, レス トラン等飲食店,およびバー,キャバレ
ー,クラブ等の酒類を扱 う飲食店 ・風俗店の立地が顕著であったことが裏付けられる。戦前
ヤハズ原 とよばれた畑地を商業地 として区画整理 したことがわかるが,その各区画は飲食
29
店・
風俗店で占められている。土地利用の細部に注意を払 うと,第 1ゲー ト正面の国道 3
号に沿って並ぶ店舗の業種が仕立 ・刺繍 ・衣料品店 (
図中の記号 T) に特化 していること
a
i
l
o
rや e
mbr
o
i
de
r
yと英語の表記が多 く用いられている。
もわかる.実際の住宅地図では t
ゲー ト前には質屋 (
PS) も数軒確認できる。これに対 し,第 1ゲー トか ら離れた所には貸
間 ・貸家 (
A)がある。ホテル ・旅館 (
H) は飲食店 ・風俗店に混在 して立地している。こ
れ らの店舗はキャンプ ・ハンセンに駐留する米兵を主たる顧客 としてお り,住宅地図で確
-
1
20 -
認できる店名は英語またはカタカナ表記である。また,第 4図で,凡例が入っていない白
抜きの各戸は,店舗業者や地元金武の人々の住宅または邦人向けの商店である。
コザ市 (
現,沖縄市)の特飲街に関する先行研究によれば,米軍基地周辺に仕立 ・刺繍 ・
衣料品店が多いのは軍関係の制服の仕立てや刺繍を扱 う店が立地するか らで,コザの場合,
イン ド出身者による出店が多いことが確認 された 27)。金武新開地について筆者は,仕立 ・
刺繍 ・衣料品店経営者の出身地まで確認できる資料を見つけることはできなかったが,軍
関係の需要を見込んでのことであろ う,それ らの店舗が第 1ゲー トか ら近い位置に立地す
る傾向を読み取ることができる。同様に,質屋がゲー ト前に数軒並んでいることも,米軍
人 ・軍属の需要を見込んでであろ う。一方,貸間 ・貸家はゲー トか ら距離を置いた所に散
「
特殊婦人」)や私娼は,駐留米兵 と一対一で交際
在す る。特飲街のAサインバーの女給 (
す るような親密な関係 に発展す ると当時の社会では 「
オンリー」や 「
ハ-ニー」とよばれ,
交際相手の米兵が彼女に部屋または家を借 りて住まわせることが多かった 28)。金武新開地
の場合,それを資料的に裏付けるものは確認 していないが,貸間 ・貸家がオンリーたちの
住まいになっていたものと推測できる。そ してこうした貸間 ・貸家は一般の住宅街に混在
す る傾向があったようで 29),金武の場合 もこれにあてはまるとみてよいだろ う。また,米
兵,特殊婦人や私娼の利用が多かった と考えられるホテル ・旅館 も,一般の住居や貸間 ・
貸家 と混在する傾向がある。金武新開地の一番南側は崖になってお り,かつては- ビが出
て誰 も行かない場所であった とい うが,特飲街の外縁に貸間 ・貸家,ホテル ・旅館 といっ
た,いわば男女の性愛的空間が形成 されたことは注 目すべき点である。
なお,金武新開地は黒人兵の勢力が強 く働いた,いわゆる 「
黒人街」 であった とす る一
般的な見方 30) がある。これに関 して康山 31) は,黒人兵 と白人兵 とのテ リトリーが明確に
決まっていたわけではないが,黒人専用 と白人専用の店は確かに存在 していたとい う。 し
か し,店舗業者が人種による差別 をしていたのではなく,黒人, 白人が 自分たちの好みの
音楽がかかっている店に集まったことが発端であると指摘す る。特に黒人兵は集団で店に
やって来て彼 らの専用店 とし,白人の入店を阻止す ることがあったとい う。本稿では,餐
料の不足か ら,金武新開地の どの店が黒人あるいは白人兵に利用 されていたかまで明 らか
にできなかったので,この点を補足 しておきたい。
4- 2 2003年の住宅地図か ら読み取 る旧特飲街
ゼンリン住宅地図』を筆者が加工 した第 5図を参照 しつつ,先
次ぎに,2003年発行の 『
977年発行の住宅地図 と比較 していきたい。なお,金武 Aサイン組合は牛納の金邦人
の1
社交業組合 と合併後,1
980年に名称変更 して金武町社交業組合 とな り,この地区は金武町
社交衝 として現在に至っている。
両年の住宅地図を加工 した第 4図 と第 5図を比べ大きく変化 した点は,(1)飲食店 ・風
俗業店の大幅な減少, (2)仕立,刺繍,衣料品店の減少, (3)質屋の減少, (4)駐車場
スペースの増大である。両図か らは店舗の名称がわか らないので実際の住宅地図を参照 し
て補言 してお くと,(1)については,英語やカタカナ表記の店名が減っている。第 1ゲー
トの南側の 2区画 目には 1
977年の時点で飲食店 ・風俗店や仕立 ・刺繍 ・衣料品店が立ち
-
12 1
-
並んでいたが,その後建物はすべて取 り払われ 2003年の時点では駐車場になっている。
この他にも,1
977年では建物があった場所が駐車場に変化 したケースや,空き地を駐車場
として利用するケースを確認できた。また,(2)および (3)についても補足 してお くと,
2003年の時点で,ゲームセンター,カラオケスタジオ,リカーショップ,メガネ ・時計店
29号沿いの第 1ゲー ト前にはゲームセンターやカ
などにかわっている。 とはいえ,国道 3
ラオケ といった娯楽施設や,質屋で扱われた高級品の流れを汲むメガネや時計等を扱 う店
が立地 してお り,土地利用の面か ら言えば,戦後の特飲街が持っていった機能が温存 され
ているとみることができるだろう。また,1
977年の時点で確認できた貸間 ・貸家は,その
大半が 2003年の時点でアパー トになっている。オンリーやハ-ニー とよばれる女性たち
が住んでいた貸間 ・貸家が,一般のアパー トとして利用 されているものと考えられ る. さ
らに,特飲街の外縁にあったホテル ・
旅館の うち,2003年時点でも宿泊施設 として利用 さ
れているものがいくつかある。
米軍統治時代の特飲街の名残を示す 1
977年時点の住宅地図比べると,2
003年のそれに
は駐留兵向けの店舗の減少やオンリーやハ-ニー とよばれ る女性の居住が見 られな くなっ
たことがあげられる。 とはいえ,特飲街 としての金武新開地か ら金武町社交街 となった現
在 も,同一の空間において類似の機能を持つ業種の店舗が存在することがわかった。第 6
図は,2004年 3月に,国道 329号か ら金武町社交街に入 るゲー トを撮ったものである。
ゲー トの両端には 日の丸 と星条旗が描かれてお り,この社交街が現在 も米国/
米軍 と強い関
係性を持っていることがわかる。また第 7- 9図は,当該社交街の店舗の状況である。店
の看板や壁には英語表記が多 く見 られ,
一瞬ここが 日本であることを忘れて しま うよ うな,
アメ リカナイズされた街並みが存在 している。かつてこれ らの飲食店 ・風俗店で現在働い
ていた沖縄の女性にかわって,エンターテイナーの入国 ビザでやってきたフィリピン人女
性が雇用 されてお り,社交街外縁のアパー トの中には彼女たちの住居 として利用 されてい
るものがある 32)0
5 おわ りに
1
97
2年 5月 1
5日の沖縄の 日本返還にともない米軍政府の統治か ら解き放たれたにもか
かわ らず,沖縄本島お よび周辺の島には依然 として米軍関連施設が置かれたままになって
いる。2009年夏に政権が 自由民主党か ら民主党に移 ったことを契機 に,沖縄の米軍基地を
めぐる政治的動きに対 して国民の関心も高まっている。沖縄が抱えている米軍基地の問題
は根っこの部分が深いため,その歴史的背景か ら丹念に見てい く必要がある。本稿で取 り
上げた金武町も,背後 に広大な面積のキャンプ ・ハンセ ンを抱え,町内の米軍施設 にはお
よそ 6千人の海兵隊員が駐留 してお り,陸上の実弾演習や戦闘機か らの爆撃,金武湾に停
泊中の戦艦か らの砲射撃な ど,実戦 さなが らの軍事訓練が行われてきた。 こうした訓練が
同町の人々の安全を脅か し,広大な土地の接収が町の振興発展の阻害要因の一つになって
いる。また,第 6図お よび第 7- 9図に紹介 したよ うに,今 日も金武町の人々の生活圏は
米国/
米軍の影響を多分に受けざるをえない。金武町におけるかつての特飲街は現在,社交
-1
2
2-
街 と名称 を変えなが らも,依然 として米国/
米軍 と強い関係性 を持っていると考 え られ る。
今回は,異なる年代の住宅地図を比較 し,土地利用 に注 目して歓楽街の空間構造が基本的
には変わっていない ことに言及 した。今後は当該地域 に関す る一時資料の収集 を進 めて,
「
基地経済」に関 して基地 と特飲街 との相互関係 をみてい くとともに,歓楽街の空間に映
し出 された権力関係 の復元に務めたい。
〔
付記〕本稿は,平成 1
5年度∼平成 1
7年度科学研究費補助金基盤研究(
B)(
研究代表者 :吉
53201
1
8),および,平成 1
9年度∼22年度科学研究費補助金基盤研究(
B)
田容子,課題番号 1
(
研究代表者 :吉田容子,課題番号 1
93201
33)を使用 した研究成果の一部である。
注
1)終戦後の 日本における駐留軍基地周辺に形成 された歓楽街の状況については,(
1
)
清水幾太
953,(
2
)
郎 ・宮原誠一 ・上田三郎 『
基地の子- この事実をどう考えたらよいか-』光文社 ,1
西田稔 『
基地の女一特殊女性の実態-』河出書房 ,1
953,(
3
)
神崎清 『
夜の基地』河出書房,
1
953な どに詳細に綴 られている。
2)1
946年 1月 21日に GHQ は公娼制度廃止に関する覚書を出 したが, 日本政府は 「
生活の
資を得 る目的を以て個人が自発的に売淫行為に従事することを禁止するものではない」 とし
たため,実際にはそれまでの公娼が私娼- と変わっただけで,表向き 「
特殊飲食店街 (
特飲
」として指定され 「
赤線」ともよばれた私娼黙認地区ができあがった。本土で特飲街 とよ
街)
ばれる地区の成立には,このような背景がある。沖縄で特飲街 とよばれる地区の成立は,以
下本文で述べるように,本土とは異なる。
3)沖縄の統治を担当した Uni
t
e
dSt
a
t
e
sCi
il
v
Ad
mi
ni
s
t
r
a
t
i
o
no
f
t
heRyukyul
s
l
a
ndsのこと
で,略称で US
CAR (
ユースカー) ともよばれた。
4)米軍人 ・軍属が立ち寄ってもよいとい うAp
pr
o
v
e
df
o
rU.
S.
Fo
r
c
e
sの頭文字 「
A」を大き
Aサイン」 と称 されるようになった。
く書いた許可証から, 「
5)Aサインを取得 したものの,本稿で紹介する牛納バー街のように,実際に店を訪れる客が
日本人ばか りのこともあった。
6)1
945年 8月 20日,米軍政府の諮問機関として,その後の沖縄の自治組織の前身 となる沖
縄諮前会がつ くられた。沖縄諮諭会は 1
946年 4月に沖縄民政府 ,50年 1
1月に群島政府,
5
2年 4月に琉球政府,そ して 7
2年 5月 1
5日の 日本返還後は沖縄県- と発展 していった。
7) 沖縄県における売春防止法は, 日本返還 と同時に施行 された。
8)たとえば,沖縄の地方紙である 「
沖縄タイムス」や 「うるま新報」 (
1
951年 9月から 「
琉
球新報」)では,米軍占領時代の沖縄の各特飲街の状況について取材 し,特集を組んで報道 し
ていた。
9)例えば,次の文献を紹介 してお く。(
1
)
菊池夏野 「
売春禁止の言説 と軍事占領一米軍占領初
期沖縄か ら-」 ソシオロジ 463,2002,91
1
08頁。(
2)
小野沢あかね 「
米軍統治下Aサイン
バーの変遷に関する一考察一女性従業員の待遇を中心 として-」
琉球大学法文学部編 日本東
-
1
23-
洋文化論集 1
1(
琉球大学法文学部紀要),2
005, 1
・
46頁。(
3
)
小野沢あかね 「
戦後沖縄にお
けるAサインバー ・ホステスのライフ ・ス トー リー」琉球大学法文学部編 日本東洋文化論集
1
2(
琉球大学法文学部紀要)20
06,207・
23
8頁。
1
0)沖縄市 (
旧コザ市)や那覇市では,総務部の中に市史編纂に取 り組む部署があり,代表的
な成果 として以下のよ うなものがある。(
1
)
沖縄市総務部総務課 (
市史編集担 当) 『
KOZA
BUNKABOX』創刊号∼第 5巻,沖縄市役所, 1
998-2009 (
2
)
那覇市総務部女性室編 『な
0
は ・女のあしあと 那覇女性史 (
戦後編)
』琉球新報社,20
01
0
l
l
)(
1
)
山崎孝史 「
USCAR 文書からみたAサイン制度 と売春 ・性病規制-1
97
0年前後の米軍
0,2008,3
9・
51頁。(
2
)
山崎
風紀取締委員会議事録の検討か ら-」沖縄公文書館研究紀要 1
孝史 「
USCAR文書からみたAサイン制度 とオフ ・リミッツ」(
沖縄市総務部総務課 (
市史編
集担当)『
KOZABUNKABOX 第 4号』沖縄市役所,2008)33・
53頁。
1
2)前掲 1
0)を参照。
1
3
)金武町誌編纂委員会 『
金武町誌』沖縄県金武町役場, 1
983
0
1
4)金武町社交業組合 『
金武町社交業組合 創立 20周年記念誌』金武町社交業組合, 1
981
0
1
5)(
1
)
沖縄県金武町企画開発課 『
金武町 と基地』沖縄県金武町役場,1
991
。(
2
)
金武町議会史
編纂委員会 『
金武町議会史』沖縄県金武町議会,2
00
40
1
6)石川市,具志川市,勝連町,与那城町が 2005年合併 し,現在の うるま市 となった。
1
7)1
980年の町政施行で金武町 となった。本稿では,町政施行までを金武村 として表記する。
1
8)前掲 6) を参照。
1
9)当時キャンプ ・ハンセンの建設は, 「
戦後の沖縄建設史上一千万 ドル以上の工事をな しと
げたのは後にも先にも例がない」ものであった とい う。基地内で雇用 された 1千人余 りの う
ち,金武村出身者は 6割程度であった。 「
広報 金武」1
97
0年 1
2月 27日発行 (
『
広報 金武
縮刷版 (1-1
00号)』金武町) 1
97頁を参照。
20)1
953年のAサイン制度導入以降,琉球政府に全ての許可権が移 された 「
等級制」 による
許可証に変わった り,
沖縄の 日本復帰を目前に米軍はAサイン制度の廃止を発表 したものの,
復帰後 も外国人相手の営業を継続 させたい業者 らによって,沖縄 Aサイン連合会が組織 され
るなど,Aサイン制度は何度かの変遷があった。
21
)山崎 (
前掲 1
1
(
1
)
および(
2
)
)は,厳 しいAサイン制度新基準について,売春を認めない と
い う米軍の強い姿勢を読み取ることができるとの見方をしている。 さらに彼は,新 しいAサ
イン制度は,性病の感染を抑制することより買売春 とい う行為 自体をAサイン店か ら排除す
るのに貢献 したこと,また,排除された買売春行為はAサインの交付を受けていない店やホ
テル,民家の貸間などに移ったことを指摘 している。
22)前掲 9)(
2
)
9頁を参照。
23)前掲 9)(
2
)
1
1
・
1
2頁および,前掲 1
4)3
940頁を参照。
24)前掲 1
5)(
1
)
62貢を参照。
25)そのほか,ステーキハ ウス, ドライブイン,ロックハ ウス,タコス店が各 1軒。
26)田里友哲 「
コザ市の都市形成についての一考察」 (
田里友哲 『
論集 沖縄の集落研究』離宇
-1
2
4-
宙社,1
983)1
95・
2
41頁には,本土返還前 (
1
964年度および 65年度)のコザ市における商
工業事業所数について,事業者の出身地別にコザ市役所商工課が聞き取 り調査 したデータと
してあがっている。 これによると,沖縄本島以外に大島,宮古,八重山といった離島出身者
の本島流入が確認できる。
27)仕立業者 にイン ド出身が多いことは,堂前が旧コザ市の都市構造に関する考察の中で指摘
9
97,971
02頁を参照。また,米軍人 ・
している。堂前亮平 『
沖縄の都市景観』古今書院,1
軍属相手の商売 として刺繍店が多いことを取 り上げ,刺繍店を通 して当時のコザの街や社会
状況を報告 している赤嶺によれば,ジャンパー,パ ッチ,帽子-の刺繍の需要があったとい
う。軍による需要で安定 している刺繍店は,Aサインバー店のようにオフ ・リミッツの打撃
を直接受けることがなかったようだ。金武の場合にも当てはまると考えられ る。赤嶺智子 「
コ
沖縄市総務部総務課 (
市史編集担当)『
KOZABUNXABOX』第 5巻,沖縄市
ザの刺繍店」(
役所,2
009)5
9・
77頁。
2
8) 「
琉球新報」は,1
95
7年 9月下旬か ら 1
0月初旬にかけて特集 「
コザの街エ レジー」を組
2日, 9月 27日, 9月 29
んで,米軍基地の街 コザの様子を多方面か ら報 じた。特に 9月 2
日,1
0月 3日の特集記事では,オンリーやハ-ニーが,親密な付き合いのある特定の米兵か
ら家や部屋 をあてがわれ,経済面で余裕のある生活をしていることが報 じられた。なお,オ
現地妻」の役割を果た して
ンリーよりもハ-ニーの方が米兵から受ける経済的待遇が良く,「
いたようである。
2
9)たとえば,呉では,戦争で焼け残った山の手の住宅地帯にオンリーが住むようになり,「
オ
953,特に
ンリー部落」を形成 したことが確認 されている。神崎清 『
夜の基地』河出書房,1
1
35頁を参照。
3
0)琉球新報社編 『ことばに見る沖縄戦後史①』ニライ社,1
9
92,1
05頁では,金武を黒人街
だ としている。
31
)廉山洋一 「
コザ十字路一帯における黒の街 と白の街」 (
沖縄市総務部総務課 (
市史編集担
KOZABUNXABOX』第 3巻,沖縄市役所,2
007
)5
881頁, とくに 71頁を参照。
当)『
3
2)短期就労 ビザで 日本に入国 したフィリピン人女性たちが,沖縄の米軍基地周辺のバー街で
働 くよ うになった。シンシア ・エンロー著,上野千鶴子監訳,佐藤文香訳 『
策略一女性 を軍
006,777
8頁,および,高里鈴代 『沖縄の女たち一女性
事化す る国際政治-』岩波書店,2
996,223貢を参照。
の人権 と基地 ・軍隊-』明石書店,1
A
n Exami
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o
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fA
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Oki
nawaPr
e
ec
f
t
ur
e:
ACas
eSt
udyi
nJ
YOSHI
DAYo
ko
キー ワー ド :米軍基地,歓楽街, Aサイ ン,土地利用,住宅地図,沖縄県金武町
-
12 5
-
第 3図
1
963年施行 の Aサイ ン制度 新基準
で交付 された
「
Aサイ ン」
沖縄 市総務課市史編集 担 当 編集
『沖縄 市戦後文化 資料展示 室 ヒス ト
リー ト』 沖縄 市役 所 ,2007年 裏表紙
第 1図
沖縄 県金武 町 の位 置
第 2図
よ り引用。
対象 地域 の概観
(
財)日本 地 図セ ンター
電子 国土サイ トを筆者加 工
-1
2
6-
『
金武町社交業組合 創立20周年記念誌』
などより作成。
第 3表 金武町社交業組合加盟店舗経営者 の本籍地
軒数
1 2 1 0 1 00 2 9 4 4 12
開始年
1961
1962
1
963
1
964
1965
1
966
1967
1
968
1969
1
970
1
971
1972
1
973
1974
1975
1976
1977
1
978
1
979
1
980
1
981
合計
1
0
1
3
1
3
15
11
6
1
6
21
5
1
46
『
金武町社交業組 合 創立 20周年記念誌』より作成。
本籍地
金武町
名護市
宮古都城辺町
′
′上野村
〝平 良市
〝下地町
〝多良間村
宜野座村
今帰仁村
那覇市
具志川市
大 島部瀬戸内町
〝喜界町
′
′知名町
〝名瀬市
八重 山都与那国町
〝石垣市
〝竹富島
i
1
3
ll
1
0
6
4
3
8
7
5
5
4
3
2
1
4
1
1
本籍地
本部 町
南風原 町
恩納村
石川市
読谷村
具志頭村
国頭村
糸満市
沖縄市
浦添市
嘉手納 町
勝連村
与那城 村
久志村
粟国村
東村
久米島
東京都
鹿児 島県
島根 県
福 島県
中国 ・
上海
不明
合計
3丁 3 - - - 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1
第 2表 金武町社 交業組合加盟 店舗の営業開始年
1
45
『金武町社 交業組 合 創立 20周年記念誌』より作成。
-1
2
7-
ー 」
,
_一
十 一
室
_
藁
」
葺 ≡壷
聖
㌔
壷
垂
/
■
(
′
ヽ
1
:
一
■
一・
l
-∴
棄
墓
琵
廃 園 レス トラン等飲食凪
第 4図
お よびバー, キャバ レー・
クラブ等の酒類 を扱 う飲食店 ・風俗店
沖縄返還直前 の金武新 開地
『ゼ ン リン住 宅地図』(
1
977年発行)よ り筆者 作成
★
金武 Aサイ ン組合事務所
A
貸間 ・貸家
H
ホテル ・旅館
L
洗濯屋
P
駐車場
PS 質屋
丁
仕 立 ・刺繍 ・衣料 品店
キャンプ・
/
、
ンセン
1
ゲート
三宝
=:壬1
T i
監
:.
□
R329
冠
匿
雪塑
遼
電 麹 レス トラン等飲食店 ・お よびバー,キャバ レー,
第 5図
現在 の 旧金武新 開地
『ゼ ン リン住 宅地図』(
2003年発行)よ り筆者作成
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1
2
8
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クラブ等の酒類 を扱 う飲 食店 ・風俗店
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金武町社 交業組合事務所
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交番
A
貸家 アパー ト
H
ホテノ
レ
P
駐車場 ・車庫
T
衣料 品店
第 6図
金武町社交街 のゲー ト
第 7図
2004年 3月筆者撮影
第 8図
金武町社交街
2004年 3月筆者撮影
第 9図
金武町社交街
2004年 3月筆者撮影
金武町社交街
2004年 3月筆者撮影
(
参考資料)
うしな-社交街
うしな-社交街 のゲー ト
2004年 3月筆者撮影
2004年 3月筆者撮影
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