30 寄稿・随想 盧 溝 橋 山 﨑 芳 彦 北京郊外の永定河に、盧溝橋という歴史的にみ 山で行くべきところではなく、日本にとって、望 ても重要な橋が架かっている。金時代の1192年に ましくない遺産として、一度目にしてみたいと 完成。マルコポーロが訪れ、東方見聞録で世界中 思ったからである。訪問時は、まだ日本に対する 探しても匹敵するものがない美しさと紹介、西洋 敵対感情は大きくなかったが、現地の人がどのよ ではマルコポーロ橋として知られている。この付 うな感情を抱いているか不安もあってなかなか言 近を舞台に、1937年7月、日本と中国との間に紛 い出せなかった。北京郊外の宛平県城の門をく 争が勃発、やがて第二次世界大戦に進展する先が ぐって、盧溝橋に到着した。橋の長さは266.5メー けとなった。 トル、幅11メートルで11の美しいアーチを持って 新潟市民病院は黒竜江省、哈爾浜市のハルビン いる。橋の登り口は広くなっている(写真1) 。 第一医院と交流があり、1995年6月、当時の小田 欄干には数多くの石に彫られた獅子像が並んでい 良彦副院長を団長として同院を訪問、小田弘隆循 る(写真2) 。長い歴史と手入れも十分されてい 環器科部長らによる、 カテーテル治療を成功させ、 ないためか、色は黒みがかり、彫が取れたものも 帰途、北京の故宮博物院、万里長城、天壇などの あり、マルコポーロが見たときの美しさは残って 著名な観光施設を案内してもらったことがある。 いないかもしれないが、それでも獅子がずらりと 偉大な文化遺産に触れ、感動した記憶も新しい。 並んでいる姿は見事であった。紫禁城から離れた この最中、予定にはなかったが、案内してくれ 遠いところに、なぜ豪壮で美しい橋が架けられた た第一医院の医師に、盧溝橋が見られるだろうか のか謎であった。北京郊外にある頤和園の昆明湖 と話したところ、快く引き受けてくれた。盧溝橋 にも、これを模したと思われる、欄干に獅子像が については深い知識はなかったが、単なる物見遊 並んだ橋が架かっている。河は、水がほとんどな 写真1 盧溝橋で新潟市民病院の訪問団一行。石畳 が敷かれ、橋の袂部分は広くなっているが、先に行 写真2 欄干にひとつひとつ形の異なる500体以上の 獅子像が並んでおり、遠くに城門がみえる。小田循 くと狭くなる。 環器科部長と。 新潟県医師会報 H27.12 № 789 31 く、砂利と雑草だらけの普通の川という風であっ う。盧溝橋の脇にある戦争博物館も見てみるかと た。周囲には民家が並んでおり、田舎風の感じで 言われたが、おそらく一方的に日本非難の様子が あった。それでも橋の袂には、2-3の露店の土 展示され、中国側の考えを押し付けるものだと思 産物屋があった。その時は、観光客と思われる人 われたことと、中国のこの戦争に対する対日感情 は我々以外になく、時折地元の人が自転車などで に不安があったことから、 お断りしたが、 今になっ 通り過ぎるだけであった。日本人は少ないだろう てみるとそれでも見ておくべきであったと後悔し が、それでも中国人は結構訪れるのであろう。 ている。 小生には、盧溝橋事件をはじめ、第二次世界大 一見、長閑な田園風景が見られる場所から、日 戦の記憶は全くないが、この橋を何度か行き来し 本と中国の間の対立が始まり、やがて世界中を巻 て、当時の背景を思いめぐらせてみた。日中の衝 き込んだ戦争に発展してしまった意味で重要な事 突の原因については、双方の考え方に大きな違い 件であった。戦後70年経た今も日中間の対立が続 があるが、当時は一触即発の状態であったことは いているかと思うと、心の修復は容易でないと思 間違いなく、日本の軍隊が北京に滞在していたこ わざるを得ない。 と自体が、中国の主権を侵害していたことになろ (白根大通病院) 31 平成27年度がん登録届出状況 11月末現在 区分 4月~ 10月 11月 計 (平成26年度計) 届 出 件 数 14,776 4,014 18,790 27,291 医療機関数 113 39 実医療機関数 113 120 新潟県 ・ 新潟県医師会 ・ 新潟県健康づくり財団 新潟県医師会報 H27.12 № 789
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