みずほインサイト アジア 2015 年 12 月 24 日 通貨下落後のマレーシア経済展望 アジア調査部主任研究員 リンギ下落の影響により輸出主導で底堅く推移 +65-6805-3990 稲垣博史 [email protected] ○ 現地ヒアリングによると、マレーシアでは通貨のミスマッチは生じていないとの見方が一般的で、 2014年後半以降の通貨・リンギの大幅な下落が経済に深刻な打撃を及ぼす可能性は低い。 ○ 通貨下落は、短期的に輸出企業の収益にプラスの影響を及ぼすほか、やや長いスパンでは輸出数量 の拡大を促す。実際、リンギ下落後に企業収益は好転し、輸出もプラスの伸びを回復している。 ○ リンギ下落の影響により内需は伸び悩むものの、今後のマレーシア経済は、輸出主導で底堅く推移 するであろう。このシナリオに対する最大のリスクは、政治不安が深刻化することだ。 1.はじめに~2015 年後半にリンギが急落 マレーシアの通貨・リンギは、2014年後半以降、総じて下落基調となった(図表 1-A)。2015年 前半に、概ね1米ドル=3.6リンギ近辺で安定するかにみえた時期もあったものの、5月終盤以降に再度 下落基調に転じた。この時期の新興国通貨は軒並み軟調であったが、アジアでは、とりわけリンギの 下落が目立っていた。9月には、1米ドル=4.5リンギ近くまで下落するに至った。 図表 1 対米ドルレート (A)リンギとアジア通貨の比較 (B)リンギと先進国通貨の比較 (2014年1~6月期=100) 105 (2014年1~6月期=100) 105 100 100 95 95 90 85 80 75 14/07 マレーシア・リンギ ユーロ 豪ドル 円 90 マレーシア・リンギ 85 インドネシア・ルピア タイ・バーツ 80 韓国・ウォン シンガポール・ドル 14/10 15/01 15/04 15/07 75 14/07 15/10 (年/月) 14/10 15/01 15/04 15/07 15/10 (年/月) (注)1.2015年12月は21日までの平均。 2.その他のアジア主要通貨(人民元、台湾ドル、インド・ルピー、ベトナム・ドン、香港ドル、フィリピン・ペソ)の下落率は、(A)の5通貨よりも小さい。 (資料)CEIC Dataよりみずほ総合研究所作成 1 2015 年のマレーシア経済は、原油の輸出不振等を背景に減速を余儀なくされたが、こうしたリンギ 下落によってさらに危機的な状況に追い込まれるのだろうか。本稿では、まずリンギ下落の背景につ いて振り返ったうえで、その経済への影響について、どう考えるべきか検討したい。 2. リンギ下落の理由は輸出不振と政治不安 2014年後半以降のリンギ下落の要因として、大きく分けて3点が挙げられる。 第1に、2014年の後半頃から浮上してきた米国の利上げ観測(ゼロ金利政策の終了)である。すなわ ち、同観測が浮上する局面で米ドル買いが、沈下する局面で米ドル売りがもたらされたが、前者の局 面がより多かったといえる。結局、FRBは2015年12月16日に0.25%PTの利上げに踏み切った。 ただし無論、米ドル上昇はあらゆる通貨の対米ドルレートに対して下落圧力となる。実際、多数の 新興国通貨だけでなく、円、ユーロ、豪ドルなどの先進国通貨も大きく下落しており(図表 1-B)、 リンギだけに下落圧力がかかったわけではない。リンギ特有のレート下落要因としてより重要なのは、 以下の第2・3点である。 第2点は、極端な輸出不振である(図表 2-A)。その背景には、大きく分けて中国を中心とする世 界的な需要減速と、そうした需要減速やシェール革命などに伴う原油等の資源価格下落がある。マレ ーシアは、アジアでも対中輸出依存度がやや高めで、またアジア主要国の中では唯一石油の純輸出国 でもあり、これらの影響を受けやすい状況にある。2014年後半は輸出数量の鈍化が目立ったが、2015 年に入ると輸出価格の下落がより目立つようになった。 第3点は、政府系投資会社であるワン・マレーシア・ディベロップメント(1MDB)を巡る巨額債務問 題と、それを発端とする政治不安である。1MDBは、2014年4月の報道で債務急増が明らかとなり、経営 不振に陥っているのではないかとの懸念が生じた(図表 3)。政府が1MDBに出資していることから、 図表 2 (A)米ドル建て 通関輸出 (B)リンギ建て (前年比、%) 20 (前年比、%) 15 10 15 数量要因 価格要因 名目輸出 5 10 0 ▲5 5 ▲ 10 0 数量要因 価格要因 名目輸出 ▲ 15 ▲ 20 ▲5 ▲ 25 2012 13 14 15 ▲ 10 2012 (年) (資料)マレーシア統計局、CEIC Dataよりみずほ総合研究所作成 2 13 14 15 (年) 政府にも何らかの負担がかかるのではないかとの見方が強まったのである。2015年6~7月頃のギリシ ャ債務問題も、この1MDB問題に対する注目を高める要因となった。 2015年6月30日に、マレーシアのソブリン格付引き下げをかねてから警告してきたフィッチが、逆に 格付見通しを引き上げると、1MDB問題は終息に向かうかに見えた。しかし同年7月2日、今度は米ウォ ールストリートジャーナル(WSJ)が、1MDBからナジブ首相の個人口座に7億米ドルの資金が流れたと 報じると、1MDB問題は、債務問題というよりは政治問題としての色彩を強めた。この問題でナジブ首 相を追求するマスコミなどへの圧力を政権が強めたため、野党支持者らの反ナジブ機運が高まり、8 月末頃には大規模な反政府デモに発展した。9月は、原油価格が横ばいで推移したにもかかわらず、デ モの影響に加えFBIが1MDBをマネーロンダリングの疑いで捜査を開始したとの報道もあり、政治不安が リンギを大きく下押しする展開となった。 マレーシア中央銀行は、こうしたリンギ売り圧力に対し、米ドル売り・リンギ買いの市場介入を断 続的に実施した。もっとも、介入の目的は通貨下落速度の調整であって、特定相場の維持を目指すも のではなかった。この結果、リンギの対米ドルレートは、2014年後半から2015年9月頃にかけて概ね下 落基調で推移した。 なお現地でのヒアリングによると、政治不安はリンギを下落させる要因にはなっているものの、こ れまでのところ、予算執行や行政手続きの遅れなどの直接的な形で経済に悪影響を及ぼしてはいない という。 図表 3 4月 10月 11月 2月 3月 6月 7月 8月 9月 1MDB 問題の推移 2014年 2013年3月時点の1MDBの借入金が、362億5千万リンギ(約1兆1千億円)に急増したとの報道。経営不 振への懸念が拡大 ナジブ首相、1MDBの借入金のうち政府保証付きは58億リンギ(約1,922億円)と発言 2014年3月期、1MDBは純利益▲6億6,530万リンギ(約228億円)の赤字決算。同時点の借入金は419億 リンギ(約1兆4千億円)に拡大 2015年 1MDB、土地売却などの経営再建策を発表 マハティール元首相、ナジブ首相の退陣を要求 マレーシア財務省、1MDBに9億5千万リンギ(約312億円)の融資枠を設定 大手格付会社のフィッチ、マレーシアのソブリン格付(A-)の格下げ確率が50%以上と表明 フィッチ、財政再建路線を評価し、マレーシアのソブリン格付の据え置き(A-)と見通しの引き上げ(弱含み から安定的)を発表。同時に、国営石油会社ペトロナスの格付(A)の見通しも、弱含みから安定的に引き 上げ 米紙ウォールストリートジャーナル(WSJ)、1MDBから首相の個人口座に7億米ドル(26億リンギと報じられ ることもある)が流れたと報道 法務庁、警察、中央銀行、汚職防止委員会の合同捜査班は、不正資金に関係した疑いのある銀行口座 の凍結を発表。警察は1MDBを家宅捜索 内務省、1MDB問題を積極的に報じてきた出版社に対し、3カ月の発刊禁止措置 1MDB問題について首相の説明責任を求めていた、ムヒディン副首相を解任 汚職防止委員会、首相の口座に流れた7億米ドルの出所は1MDBではなく、一般的な政治献金だと発表 高裁、1MDB問題を報じてきたニュースサイト「サラワク・レポート」編集長の逮捕状を発布 情報漏えいの疑いで、警察が汚職防止委員会の捜査官7人を逮捕したとの報道 29・30日に大規模な反政府デモ発生 WSJ、FBIが1MDBについてマネーロンダリングの疑いで捜査開始と報道 格付大手3社、1MDB汚職捜査が経済に与える影響は短期的との見方を表明 (注)為替レートは、報道があった時点のものを使用。網掛けは重要な動き。 (資料)各種報道よりみずほ総合研究所作成 3 3.リンギ下落の影響をどう評価するか 以上のように、ファンダメンタルズや政治情勢の悪化を背景にリンギが急落した結果、経済にはど のような影響が及ぶだろうか。新興国の通貨下落は、一般に「悪いこと」と捉えられがちだが、円安 が日本で歓迎されることがあるように、先進国の通貨下落は必ずしも悪いこととは認識されていない。 マレーシアの場合はどのように考えるべきだろうか。 (1)通貨のミスマッチは比較的小さく、経済に深刻な打撃が及ぶ可能性は低い 通貨下落に伴う代表的な悪影響は、為替差損の発生に伴う対外債務の返済負担の著しい増大だ。通 貨のミスマッチが発生しているとき、すなわち外貨建てで資金を借り入れ、ヘッジなしに自国通貨建 て資産に投資した状態で自国通貨が下落すると、こうした事態に陥る。通貨のミスマッチは、特に自 国通貨の為替レートを、米ドル等の特定外貨に連動させている場合に起こりやすい。 では、マレーシアの場合はどうだったのだろうか。ヘッジなしの外貨建て債務がどの程度あるかを 示す統計はないため、現地でエコノミスト、公的機関、金融機関などに対するヒアリングによって確 認したところ、外貨収入1がないと外貨を借りられないといった中央銀行の規制などにより、通貨のミ スマッチはほとんど生じていないとのことだった。かつてマレーシアは、米ドル連動の為替政策を採 用していた時期もあったが、現在は変動相場制を採用しているため、通貨のミスマッチの問題は深刻 化しにくい状況にあると考えられる。つまり、日本などの先進国と同じで、通貨が下落すると直ちに 経済に大打撃が及ぶというわけではない。 (2)通貨下落は企業収益や輸出にプラスの影響 上述の通り、マレーシアでは通貨のミスマッチの問題が小さいため、無理に為替レートを特定水準 に維持する必要はない。このため、マレーシア政府・中央銀行としては、通貨に下押し圧力が高まっ た場合、米ドル売り介入で下落速度を調整しつつも、通貨下落自体は容認するのが妥当な対応だ。 リンギ下落を容認した場合、短期的にみて、リンギ建てでみた輸出金額の落ち込みが緩和されるた め(図表 2-B)、輸出企業の収益にプラスの影響を及ぼすだろう。実際、2015年11月に実施した現 地ヒアリングによると、日系を含めエレクトロニクスなど輸出型製造業の業績はかなり好調だった模 様で、また企業収益と密接な株価も、2015年9月以降は輸出関連業種を中心に堅調だった(図表 4)。 さらにリンギ下落は、半年や1年といったより長いスパンでみた場合、労賃などのコスト低下を通じ、 輸出数量の拡大を促す効果を持つ。実際、リンギ下落を受け、エレクトロニクス、電機、化学、観光 などの産業が比較的早い段階で勢いを取り戻し、2015年7~9月期における財貨・サービスの輸出は前 期比でプラスの伸びを回復した。通関統計の輸出数量をみると、10月の輸出も好調であった。こうし た輸出好調を受け、米ドル売り市場介入の必要性が低下してきたため、10・11月と外貨準備は2カ月連 続で増加した。 (3)内需には下押し圧力がかかる リンギ下落の経済への悪影響は、輸入物価上昇を通じて直接的に、あるいはインフレ阻止を狙った 4 利上げにより間接的に、内需が下押しされることだ。この際、あまりに急激に通貨が下落すると、輸 出増加に向けた生産体制が整う前に内需に大きな縮小圧力がかかり、経済に打撃となる。このため、 米ドル売り・リンギ買いの不胎化介入2で下落速度の調整が行なわれることになるが、マレーシアは比 較的外貨準備が少ない方だ。通貨下落圧力が大きく高まる直前の2014年6月時点において、外貨準備は、 経済の健全性を保つ上で最低限といえる短期対外債務比1倍強に過ぎず(図表 5)、その後の介入も同 1倍を下回らない範囲でしか行なわれなかった。このことは、他国対比でリンギが急激に下落した一因 といえるだろう。 なお、比較的為替レートが安定していた2015年上期は、国内最終需要は前年比+6.2%であったが、 リンギが急落した2015年7~9月期には同+4.0%に減速した。 4.今後の展望 ~輸出主導の底堅い推移が見込まれるが、政情不安に要注視 2015年後半に入り、輸出の持ち直しが次第にはっきりとしてきたこと、また外貨準備に底打ちの兆 しが出てきたことなどを考慮すると、マレーシアの景気は、リンギ急落の影響による内需中心の減速 局面から輸出主導の拡大局面に転換し始めたとみている。外部環境にもよるが、米国経済の拡大が続 くとの前提の下、マレーシアの輸出は引き続き増加基調で推移し、景気拡大をけん引するだろう。も っとも、中国経済が減速傾向にあるため、輸出拡大ペースは、民需を大きく刺激するには至るまい。 個人消費と設備投資は、伸びが大きく高まる状況にはないと考えられる。 2016年の成長率は3%台後半程度と、2015年見込みの4%台後半よりは低下すると予想する。もっと も、これは主にゲタの低下によるもので、景気の実勢は輸出主導で底堅く推移するだろう。 リンギの対米ドルレートは、輸出が堅調に推移するため、今後さらに最安値を大きく更新して下落 する可能性は低いとみている。原油など資源価格の動向が引き続き波乱要因だが、通関輸出に占める 石油・天然ガスの割合は、2014年前半の23%から2015年後半(7~10月)には15%まで低下した。2015 図表 4 金融市場と原油相場の動向(2015 年) 外貨準備/短期対外債務 株価(FBM KLCI) 為替レート(対米ドル) 原油価格(WTI) (2015年6月=100) 105 リンギ高 図表 5 100 95 90 85 80 75 70 リンギ安 65 60 55 7 8 9 10 11 12 (月) (資料)CEIC Dataよりみずほ総合研究所作成 (資料)各国統計よりみずほ総合研究所作成 5 年10~12月期に原油価格が大きく下落した際も、10月までの輸出が堅調であったことなどを反映し、 リンギ相場の下落は限定的だった(図表 4)3。 上記のシナリオに対する最大のリスクは、政治不安の深刻化だ。前述の通り、これまでのところ政 治不安は、直接的な形では経済に悪影響を及ぼしていない模様である。しかし、2000年代後半におけ るタイの政治不安を思い起こすと、当初は実体経済に大した影響は出ていないとされていたが、2008 年11月にデモ隊がスワンナプーム国際空港を占拠すると事態が一変した。こうした経験を踏まえると、 マレーシアの政治不安についても、経済への影響は今後も小さいと断言はできまい。1MDB問題で人気 が落ちたナジブ首相は、今のところ「辞めようという気配もない」(現地ヒアリング)という状況で あり、政治不安は長引くだろう。今後も、マレーシアの政情については十分に注視していく必要があ る。 1 2 3 国内通貨建て資産でも、輸出製品の製造装置のように外貨収入を生み出す資産に投資する場合は、ヘッジされている のと同じ効果がある。これをナチュラルヘッジという。 米ドル売り・リンギ買いで吸収したリンギを、債券の買いオペなどで市場に再度放出すること。不胎化しないと短期 金利が上昇してしまう。 なお、7 月も原油価格の下落に為替レートが反応していないが、これは米ドル売り・リンギ買いの大規模市場介入の ためであろう。 ●当レポートは情報提供のみを目的として作成されたものであり、商品の勧誘を目的としたものではありません。本資料は、当社が信頼できると判断した各種データに 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