Kobe University Repository : Kernel

Kobe University Repository : Thesis
学位論文題目
Title
イスラームの聖地エルサレムの形成
氏名
Author
岡本, 恵
専攻分野
Degree
博士(文学)
学位授与の日付
Date of Degree
2013-09-25
公開日
Date of Publication
2014-09-01
Resource Type
Thesis or Dissertation / 学位論文
学位記番号
(請求記号)
Call Number
甲第5989号
URL
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/D1005989
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Create Date: 2015-01-31
博士論文:イスラームの聖地エルサレムの形成
神戸大学大学院文化学研究科
博士課程後期
065D7 22H
岡本
恵
目次
・・・ ⅰ
序章
1. は じ め に
・・・ 1
2. 用 語 の 定 義
・・・ 1
(1) バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス と ア ク サ ー ・ モ ス ク
(2) フ ァ ダ ー イ ル ・ バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス
・・・ 2
・・・ 4
3. 先 行 研 究 と そ の 問 題 点
(1) FBM に 関 す る 研 究 の 始 ま り
(2) FBM 起 源 論
(3) 写 本 研 究
・・・ 5
・・・ 6
・・・ 11
第 1 章 : FBM の 定 義 と 内 容 の 概 観
1. 本 論 が 考 察 の 対 象 と す る FBM の 決 定 と そ の 一 覧
・・・ 15
2. FBM に 含 ま れ る 伝 承 の カ テ ゴ リ ー
A. エ ル サ レ ム の 歴 史 ( イ ス ラ ー ム 以 前 ) ・・・ 22
B. エ ル サ レ ム の 歴 史 ( イ ス ラ ー ム 時 代 ) ・・・ 24
C. エ ル サ レ ム の 神 聖 さ 、 偉 大 さ を 伝 え る 伝 承
D. エ ル サ レ ム と 終 末 思 想 を 関 連 付 け た 伝 承
・・・ 26
・・・ 27
E. エ ル サ レ ム で ム ス リ ム た ち が 体 験 し た 奇 跡 譚
・・・ 28
F. エ ル サ レ ム に あ る モ ニ ュ メ ン ト と そ こ へ の 参 詣 に 関 す る 伝 承
G. エ ル サ レ ム に 縁 の ム ス リ ム た ち の 伝 記
H. ク ル ア ー ン 解 釈
・・・ 33
I. FBM 以 外 の フ ァ ダ ー イ ル に 由 来 す る 要 素
第 2 章 : ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM
1. ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM の 著 者 と 作 品 の 構 成
(1) FBM-W
・・・ 32
・・・ 37
i
・・・ 34
・・・ 29
(2) FBM- IM
(3) FQ
・・・ 40
・・・ 43
(4) MM
・・・ 47
(5) FBM-Ḍ
・・・ 48
(6) FBM-M
・・・ 50
(7) FBM-K
・・・ 5 1
2. ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM に 見 ら れ る 傾 向
(1) 著 者 の 出 身 地 と 法 学 派
・・・ 52
(2) 各 作 品 の 構 成 と 、 カ テ ゴ リ ー ご と の 割 合 の 異 同
(3) 作 品 の 編 纂 時 期 と そ の 契 機
・・・ 53
・・・ 55
第 3 章 : マ ム ル ー ク 朝 期 の FBM
1. エ ル サ レ ム 参 詣 と FBM 編 纂 と の 結 び つ き ( 参 詣 記 型 FBM)
(1) BN
・・・ 57
(2) TU
・・・ 60
2. MG-M に お け る 新 要 素 の 追 加 ( 地 誌 型 FBM)
(1) MG-M の 編 纂 方 針
・・・ 64
(2) MG-M に 見 ら れ る 新 し い 要 素
・・・ 66
3. 2 つ の 方 向 性 の 融 合
(1) RM
(2) IA
・・・ 68
・・・ 71
4. 地 誌 と し て の FBM の 発 展
(1) UJ に お け る 歴 史 的 記 述
・・・ 75
(2) UJ に お け る 地 理 記 述 と ウ ラ マ ー 伝
・・・ 79
5. マ ム ル ー ク 朝 期 FBM に 見 ら れ る 傾 向
(1) 著 者 の 出 身 地 と 法 学 派
・・・ 82
(2) ア ブ ラ ハ ム と モ ー セ の 重 要 視
・・・ 83
第 4 章 : オ ス マ ン 朝 時 代 の FBM
1. 各 作 品 の 構 成
(1) Mustaqṣ ā
(2) Ris āla
(3) LUJ
(4) ḤI
・・・ 85
・・・ 89
・・・ 95
・・・ 103
ii
2. オ ス マ ン 朝 期 FBM に 見 ら れ る 傾 向
(1) 著 者 の 出 身 地 と 法 学 派
・・・ 106
(2) FBM 編 纂 者 と オ ス マ ン 朝 為 政 者 と の 接 近
(3) ス ー フ ィ ズ ム の 影 響
・・・ 107
・・・ 108
終章
1. 議 論 の ま と め
・・・ 111
2. 5/11-12/18 世 紀 の シ リ ア に お け る FBM 編 纂 者
・・・ 115
3. FBM 編 纂 と そ の 変 遷 か ら み た 「 イ ス ラ ー ム の 聖 地 」 エ ル サ レ ム
(1) 聖 地 と し て の エ ル サ レ ム の 重 要 性 は い つ 確 立 さ れ た か
(2) ユ ダ ヤ 教 ・ キ リ ス ト 教 的 概 念 の 吸 収 と 再 構 成
・・・ 117
・・・ 119
資料編
ム ス タ フ ァ ー・ブ ン・ア ス ア ド・ル カ イ ミ ー Muṣṭafā b. Asʽad al-L uqaymī al-Dimyāṭī 著 、
『 エ ル サ レ ム と ヘ ブ ロ ン の 至 宝 に 関 す る 栄 光 あ る 喜 び の 妙 句 Laṭāʼif Uns al -Jalīl fī Taḥāʼif
al-Quds wa al -K halīl』 校 訂 と 訳 注
(1) は じ め に
・・・ 125
(2) ハ ム シ ャ リ ー の 校 訂 と 参 照 写 本
・・・ 125
(3) ハ ム シ ャ リ ー の 底 本 選 択 の 問 題 点
(4) ハ ム シ ャ リ ー の 未 参 照 写 本
(5) 写 本 間 の 相 互 関 係
・・・ 128
・・・ 12 9
(6) 本 論 の 校 訂 に お け る 底 本 選 択
(7) 本 論 の 校 訂 と 訳 注 に お け る 用 例
LUJ ア ラ ビ ア 語 校 訂
LUJ 日 本 語 訳 注
参考文献とその略号
・・・ 127
・・・ 129
・・・ 130
・・・ 131
・・・ 203
・・・ 323
図表
表 1: FBM 著 者 ・ 作 品 一 覧
・・・ 20 -21
表 2: ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM に お け る 各 伝 承 の 割 合
・・・ 54
表 3: ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM に お け る 各 伝 承 の 割 合
( エ ル サ レ ム に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル の み ) ・・・ 55
iii
表 4: BN と TU に お け る 各 伝 承 の 割 合
表 5: 伝 記 集 人 名 一 覧
・・・ 63
・・・ 99-102
図 1: FBM 引 用 ・ 被 引 用 関 係
・・・ 114
iv
序章
1. は じ め に
シ リ ア 地 域 の 一 都 市 エ ル サ レ ム は 、古 代 よ り ユ ダ ヤ 教 の 、そ し て キ リ ス ト 教 の 聖 地 と し て 歴
史 上 重 要 な 意 義 を 持 つ 場 所 で あ る 。一 神 教 の 聖 地 と し て の こ の 概 念 は イ ス ラ ー ム に お い て も 取
り 入 れ ら れ 、 イ ス ラ ー ム に お い て も 第 3 の 聖 地 と な っ て い る 。 エ ル サ レ ム は 17/638 年 に 第 2
代 正 統 カ リ フ = ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ル ハ ッ タ ー ブ ʽUm ar b. al-Kh aṭṭ āb (r. 13/634 -23/644) に 征 服
さ れ た 後 、 十 字 軍 に よ る 占 領 と い う 中 断 を 経 な が ら も 、 19 世 紀 に ユ ダ ヤ 教 徒 ・ キ リ ス ト 教 徒
との間でその帰属問題が持ち上がるまで、ムスリムの支配する都市として あり続けた。
イ ス ラ ー ム 世 界 に お い て 、エ ル サ レ ム に 関 連 し て 編 纂 さ れ た 作 品 の 中 に 、フ ァ ダ ー イ ル ・ バ
イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス Faḍāʼ il Bayt al -Maqdis( 以 下 作 品 ジ ャ ン ル と し て の フ ァ ダ ー イ ル ・ バ
イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を FBM と 略 称 す る 。 用 語 の 定 義 に つ い て は 後 述 ) と い う も の が あ る 。
こ れ は 「 フ ァ ダ ー イ ル の 書 k it āb al-faḍāʼil 」 と 呼 ば れ る 作 品 ジ ャ ン ル の 一 種 で あ る 。 フ ァ ダ ー
イ ル faḍāʼil (s. fa ḍīl a) と は ア ラ ビ ア 語 で 優 越 性 、 優 秀 さ 、 美 点 な ど を 意 味 す る 言 葉 で あ り 、
転 じ て あ る 対 象 の 優 れ た 点 を 列 挙 し 、そ れ を 称 え る こ と を 目 的 に 編 纂 さ れ た 作 品 を 表 す 言 葉 と
も な っ た 。フ ァ ダ ー イ ル の 書 が 讃 美 の 対 象 と す る も の に は 様 々 あ り 、ク ル ア ー ン 、正 統 カ リ フ
を は じ め と す る 個 人 や 、人 々 の 集 団 、都 市 や 地 域 、あ る い は ラ マ ダ ー ン 月 な ど 特 定 の 月 や ジ ハ
ー ド な ど の 抽 象 概 念 ま で 多 岐 に わ た っ て い る [Sellhei m 1965: EI2 Ⅱ , “FAḌĪLA”]。
フ ァ ダ ー イ ル の 書 に つ い て 包 括 的 な 研 究 を 行 っ た グ ル ー バ ー E. A. G ruber は こ の 分 野 を 、
「 人 物 や 人 物 集 団 に つ い て の フ ァ ダ ー イ ル 」、
「 都 市 や 地 域 に つ い て の フ ァ ダ ー イ ル 」、
「クルア
ー ン の フ ァ ダ ー イ ル 」の 大 き く 3 つ に 分 類 し 、そ れ ぞ れ の 成 立 の 起 源 と そ の 形 式・内 容 に つ い
て 述 べ た [Gruber 1975] 。 本 稿 が 考 察 の 対 象 と す る FBM は 、 こ の う ち の 「 都 市 や 地 域 に つ い
て の フ ァ ダ ー イ ル 」に 含 ま れ る も の で あ り 、イ ス ラ ー ム 第 3 の 聖 地 エ ル サ レ ム と そ の 周 辺 地 域
を対象としたファダーイルの書である。
本 章 で は 、ま ず 本 論 で 用 い ら れ る い く つ か の 用 語 の 定 義 を 明 ら か に し た う え で 、本 論 に お け
る 論 点 の 設 定 を 行 う と と も に 、 FBM に 関 す る 先 行 研 究 と そ れ ら の 問 題 点 を 概 観 す る 。
2. 用 語 の 定 義
本 節 で は 、 以 降 の 議 論 の キ ー ワ ー ド と な る 「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス Bay t a l-Maqdis」 と
「 ア ク サ ー・モ ス ク al-M asjid al-A qṣā」、ま た「 フ ァ ダ ー イ ル・バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス Faḍāʼ il
Bayt al-M aqdis 」 と い う 用 語 に つ い て 、 本 論 に お け る 定 義 を 提 示 す る 。
1
(1) バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス と ア ク サ ー ・ モ ス ク
「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 」 と は 、 字 義 的 に は 「 神 聖 な る 家 」 と い う 意 味 で あ り 、「 神 殿 」
を 意 味 す る ア ラ ム 語 bēth maqdesh ā を 語 源 と し て い る [G raber 1986: EI2 ⅴ , “AL-ḲUDS”] 。
FBM に お い て も バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス と は こ の 字 義 通 り に 、 天 使 や 各 時 代 の 預 言 者 た ち が
神 に 仕 え る た め に エ ル サ レ ム に 建 設 し た 建 物 を 表 す 言 葉 で あ る 。こ の「 神 の 家 」の 設 立 者 と し
て は 、天 使 、ア ダ ム 、セ ム 、ヤ コ ブ と 様 々 な 名 前 が 挙 げ ら れ て い る が 、中 で も 最 も 有 名 な も の
が 、イ ス ラ エ ル 時 代 に ダ ビ デ 、ソ ロ モ ン に よ っ て 建 設 さ れ た 神 殿 で あ る 。 FBM で は 、「 ソ ロ モ
ン が 王 位 を 継 い だ と き 、 至 高 な る 神 は 彼 に 啓 示 を 下 し て 、『 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 建 設 せ
よ 』と 言 わ れ た 。そ こ で 彼 は そ れ を 建 設 し た 」 [ FQ 76] と い う 一 文 の 中 に 、イ ス ラ エ ル 時 代 の
神殿を「バイト・アルマクディス」と呼び習わす表現を見ることができる 。
こ の ダ ビ デ と ソ ロ モ ン に よ る 神 殿 は 、ム ス リ ム 知 識 人 に よ っ て 預 言 者 ム ハ ン マ ド の イ ス ラ ー
の 目 的 地 、「 遠 隔 の 礼 拝 堂( ア ク サ ー ・ モ ス ク ) al -Masj id al -Aqṣ ā」 1 と 同 一 視 さ れ る よ う に な
り 、 言 葉 の 上 で も 、「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 」 と 「 ア ク サ ー ・ モ ス ク 」( あ る い は 「 モ ス ク 」)
の 2 つがほぼ同じ意味で用いられるようになった。
現 在 の エ ル サ レ ム の 聖 域 ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ al-Ḥaram al -Sh arīf の 南 端 に は ア ク サ ー ・ モ ス
ク と 呼 ば れ る 金 曜 モ ス ク が あ る が 、 FBM に お け る 「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス / ア ク サ ー ・ モ
ス ク 」は 、必 ず し も 現 代 の ア ク サ ー ・ モ ス ク の み を 指 す 用 語 で は な く 、む し ろ ハ ラ ム ・ シ ャ リ
ーフ全体を指すものとして用いられている場合が多い 。ここで言うハラム・シャリーフとは、
エ ル サ レ ム 旧 市 街 地 南 東 部 の 隅 に あ る 、壁 に 囲 ま れ た 長 方 形 の 区 画 の こ と で あ る 。そ こ は 前 述
の ダ ビ デ ・ ソ ロ モ ン の 神 殿 、 あ る い は 王 宮 が 存 在 し た 場 所 で あ り 、「 神 殿 の 丘 」「 モ リ ヤ の 丘 」
な ど と 呼 ば れ て 、イ ス ラ エ ル 時 代 よ り 聖 域 と し て 重 要 視 さ れ て い た 。そ の 後 イ ス ラ ー ム も こ こ
を 聖 域 と 見 な す 概 念 を 取 り 入 れ て い る 。預 言 者 ム ハ ン マ ド が イ ス ラ ー し た と い う「 ア ク サ ー ・
モ ス ク 」す な わ ち「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 」も 、こ の ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の こ と を 指 し て い
る と 考 え ら れ る 。 例 え LUJ( 作 品 の 略 号 は 後 述 の [表 1] に 従 う ) で は 、 ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ
の 西 南 の 壁 に 開 い て い る ガ ワ ー ニ マ 門 Bāb al-Gh aw ānima に つ い て 、「 ガ ワ ー ニ マ 門 は 、 ガ ワ
ー ニ マ 地 区 に 通 じ て い る た め 〔 そ の 名 が つ け ら れ た の 〕で あ る が 、預 言 者〔 ム ハ ン マ ド 〕の 門
と し て も 知 ら れ て い る 。ミ ー ラ ー ジ ュ の ハ デ ィ ー ス に お い て 、彼 が『 太 陽 と 月 が 傾 く 門( 西 の
門 ) か ら モ ス ク に 入 っ た 』 と さ れ て い る と こ ろ で あ る 」 [LUJ(C) 25a] と 述 べ て お り 、 ム ハ ン
マ ド が イ ス ラ ー の 夜 に 入 っ た「 モ ス ク 」の あ る 場 所 が 現 在 の ア ク サ ー ・モ ス ク に 限 定 さ れ て い
ないことは明らかである。
ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ が「 バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス / ア ク サ ー ・ モ ス ク 」と 呼 ば れ て い た こ と
については、作品中に次のような記述があることからも確認できる。
ク ル ア ー ン 17 章 1 節 、
「 聖 な る 礼 拝 堂 か ら 、我 ら が し る し を 示 す た め に 周 囲 を 祝 福 し た 遠 隔 の 礼 拝 堂
まで、夜の間にその僕を連れて旅し給うたお方に栄光あれ」より。
1
2
まず初めに知っておくべきは、今人々によく知られているように、アクサー・モスクとはモスク
の中央にある金曜モスクのことであるが、実際にはアクサー・モスクというのは、壁で囲まれたと
こ ろ す べ て の 名 前 な の で あ る 、 と い う こ と で あ る [LUJ(C) 19 b]。
ウラマーは、アクサー・モスクとはモスクの壁で囲まれた部分のことを指すということ で一致し
て い る 。 ・・・ 現 在 ミ ン バ ル の あ る 場 所 と し て 特 に 区 別 さ れ る ア ク サ ー ・ モ ス ク と い う の は 、 新 し い 用
法 で あ る [ḤI 11 5b]。
し か し な が ら「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス / ア ク サ ー ・ モ ス ク 」と い う 言 葉 は 、ハ ラ ム ・ シ ャ
リ ー フ 内 で 特 に 礼 拝 の た め の 場 所 と さ れ て い る と こ ろ 、す な わ ち 現 在 の ア ク サ ー・モ ス ク を 指
す 言 葉 と し て も 用 い ら れ て い る 。 こ ち ら の 用 法 で は 、 FBM 中 で は 特 に 「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ
ィ ス の モ ス ク Masjid Bay t al-Maqdi s 」 と い う 表 現 、 ま た 「 ア ク サ ー ・ モ ス ク 」 と い う 現 代 と
同様の呼称で表現されることが多い。
本 論 で は 現 代 に お け る 呼 称 を 参 考 に し 、 FBM に お け る 「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス / ア ク サ
ー・ モ ス ク 」と い う 用 語 が 現 在 の ア ク サ ー ・モ ス ク の 位 置 に あ る 礼 拝 所 と し て の 建 物 の み を 指
す 場 合 に は 「 ア ク サ ー ・ モ ス ク 」、 壁 で 囲 ま れ た 南 東 部 の 区 画 全 体 を 指 す 場 合 に は 「 ハ ラ ム ・
シャリーフ」という言葉を充てる。また伝承がイスラーム以前の出来事を扱ったものであり、
「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 」 を イ ス ラ ー ム 的 な 概 念 で 表 す こ と が 不 自 然 な 場 合 、「 神 殿 」 等 の
表現を適宜用いる。
以 上 の よ う に 、「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 」 と い う 用 語 は 、 現 在 の ア ク サ ー ・ モ ス ク と ハ ラ
ム・シ ャ リ ー フ の 両 方 を 表 し う る も の で あ る と い う こ と を 確 認 し た が 、こ の 用 語 は も う ひ と つ 、
よ り 広 い 範 囲 を 表 す 言 葉 と し て も 用 い ら れ る 。 FBM に お い て 「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 」 と
は 、ハ ラ ム・ シ ャ リ ー フ と 市 街 地 を 合 わ せ た 市 壁 内 部 の 町 全 体 、ま た 市 壁 外 に 広 が る オ リ ー ブ
山 や シ オ ン の 丘 を 含 む 地 域 、さ ら に は そ の 周 辺 に あ る 町 や 村 ま で 含 む 行 政 区 規 模 で の 地 域 を も
表 す 場 合 も あ る 。な お 、イ ス ラ ー ム に お い て は「 バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ ス 」と「 ア ク サ ー・ モ
ス ク 」の 2 つ の 言 葉 は ほ ぼ 同 じ 意 味 で 用 い ら れ る と 前 述 し た が 、対 象 物 が 町 や 地 域 に ま で 拡 大
し た 場 合 、 そ の イ コ ー ル 関 係 は 成 立 し な く な る 。「 ア ク サ ー ・ モ ス ク 」 と い う 言 葉 は 、 現 在 の
ア ク サ ー ・モ ス ク や ハ ラ ム ・シ ャ リ ー フ を 指 す こ と は あ っ て も 、町 や 地 域 を 表 す も の と し て は
用いられず、この意味では「バイト・アルマクディス」という言葉の方だけが使われる。
元 来 は「 神 の 家 」を 意 味 す る 言 葉 で あ っ た「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 」が 、そ れ を 越 え て 町
や 地 域 と い っ た よ り 広 い 範 囲 を 表 す も の と し て も 用 い ら れ る と い う こ の 現 象 は 、ラ ザ ル ス = ヤ
フ ェ Laza rus- Yafeh が 指 摘 す る「 聖 性 の 拡 大 」と 捉 え る こ と が で き よ う 。ラ ザ ル ス = ヤ フ ェ は
こ れ を 、「 神 が 住 ま う 」 ゆ え に 聖 な る 場 所 で あ っ た 神 殿 と 、 そ の 他 の 場 所 と の 境 界 が 次 第 に 曖
3
昧 に な り 、 後 に は 町 そ の も の が 聖 な る 場 所 と な っ た 結 果 で あ る と し て い る [Laza rus- Yafeh
1999: 288]。
本 論 で は 、こ の 町 や 地 域 を 表 す も の と し て の「 バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス 」に は「 エ ル サ レ ム 」
という言葉を充てて議論を進める。
(2) フ ァ ダ ー イ ル ・ バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス
本 論 の 議 論 の テ ー マ と な る「 フ ァ ダ ー イ ル・バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス 」と い う 用 語 も 、FBM
作 品 の 中 で は 異 な る レ ベ ル で 用 い ら れ て い る 。ま ず こ の 用 語 は 、
「 ア ク サ ー・モ ス ク / ハ ラ ム ・
シ ャ リ ー フ / エ ル サ レ ム の 持 つ 美 点 」と い う 字 義 通 り の 用 法 の 他 に 、そ れ ら を 伝 え る 伝 承 、す
な わ ち FBM の 各 作 品 を 構 成 し て い る ひ と つ ひ と つ の 伝 承 を 表 す も の で あ る 。
FBM に 取 り 上 げ ら れ て い る 伝 承 は 、 広 い 意 味 で は い ず れ も こ の 「 フ ァ ダ ー イ ル ・ バ イ ト ・
ア ル マ ク デ ィ ス 」で あ る と 言 え る が 、よ り 厳 密 に は 、エ ル サ レ ム と そ こ に あ る も の の 神 聖 性 ・
偉 大 性 に 関 す る 伝 承 の こ と を 指 し て い る 。 具 体 的 に は 、「 神 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 対 し
て 何 々 な さ っ た 」 の よ う な 、 エ ル サ レ ム に 与 え ら れ る 神 の 恩 寵 、「 預 言 者 某 は バ イ ト ・ ア ル マ
ク デ ィ ス に お い て 何 々 を 行 っ た 」の よ う な イ ス ラ ー ム 以 前 の 預 言 者 た ち の 言 行 、預 言 者 ム ハ ン
マ ド の エ ル サ レ ム に 関 す る 発 言 、ク ル ア ー ン の 章 句 を エ ル サ レ ム に 結 び 付 け る 解 釈 な ど で あ る 。
FBM は 、 と り わ け 時 代 が 下 る に つ れ 、 エ ル サ レ ム の 歴 史 や 地 理 的 情 報 、 エ ル サ レ ム 在 住 の 著
名 人 の 伝 記 な ど 多 様 な 内 容 を 含 む よ う に な る が 、こ こ に 挙 げ た 狭 義 の「 フ ァ ダ ー イ ル・バ イ ト・
ア ル マ ク デ ィ ス 」 が 、 FBM の 核 と な る 部 分 で あ る 。
次に「ファダーイル・バイト・アルマクディス」という用語は、個々の伝承が集められ、1
冊 の 著 作 と し て 編 纂 さ れ た 際 に 、そ の 書 名 を 表 す も の と し て も 用 い ら れ る 。本 稿 で 取 り 上 げ る
FBM 作 品 群 の 中 に も 、「 フ ァ ダ ー イ ル ・ バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 」、 あ る い は 「 バ イ ト ・ ア ル
マ ク デ ィ ス 」 と ほ ぼ 同 義 の 「 ク ド ス al- Quds」 と い う 単 語 を 用 い た 「 フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ル ク ド
ス Faḍāʼil al-Quds」 と い う 書 名 を 持 つ も の が あ る 2 。
さ ら に こ の 用 語 は 、現 代 の 研 究 者 た ち が こ れ ら の 作 品 を 総 括 し て 、ひ と つ の 作 品 ジ ャ ン ル を
表 現 す る 際 に も 使 用 さ れ て い る 。 管 見 の 限 り 、「 フ ァ ダ ー イ ル ・ バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 」 と
い う 言 葉 が そ れ ぞ れ の 作 品 の 中 で 、ジ ャ ン ル 全 体 を 指 す も の と し て 用 い ら れ て い る 例 は 存 在 せ
FBM で は ア ク サ ー ・ モ ス ク / エ ル サ レ ム の ま ち を 表 す 言 葉 と し て 、「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス Bayt
al- Maqd is」 の 他 に 、「 バ イ ト ・ ア ル ム カ ッ ダ ス al-Bayt al- Muqadd as 」 や 「 ク ド ス al-Quds」 と い う 言
葉 が 挙 げ ら れ て お り 、こ れ ら の 言 葉 の 語 源 は い ず れ も「 清 め ら れ た と こ ろ 、多 神 教 や 偶 像 崇 拝 の 罪 か ら
逃 れ て い る 場 所 」 の 意 味 で あ る と さ れ る [MG- M 190; I A ⅰ , 94; LUJ(C) 3b]。「 バ イ ト ・ ア ル ム カ ッ ダ
ス 」 の 語 は 、 FBM 作 品 の 中 で は 「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 」 と 同 義 で 用 い ら れ て い る 。「 ク ド ス 」 の 語
に つ い て は 使 用 に 一 定 の 傾 向 が あ り 、こ ち ら は イ ス ラ ー ム 時 代 以 降 、と り わ け サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン
に よ る エ ル サ レ ム 征 服 以 降 の 歴 史 を 扱 っ た 記 事 に お い て 、エ ル サ レ ム の ま ち と そ の 周 辺 地 域 を 表 す 言 葉
と し て 用 い ら れ る 場 合 が ほ と ん ど で あ る 。 例 え ば 「 彼 ( サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン ) は ( 583/1187 年 )
ラ ジ ャ ブ 月 15 日 日 曜 日 に ク ド ス の 西 に 駐 屯 し 、 不 信 仰 を そ う あ る べ き よ う に 転 覆 さ せ た 。 そ の 日 ク ド
ス に は 、 フ ァ ラ ン ジ ュ 全 軍 の 中 に 6 万 人 を 越 え る 槍 や 弓 を 持 っ た 戦 士 た ち が い た 」 [LUJ(C) 1 8a] の よ
う な 用 例 で あ り 、「 ク ド ス 」 の 語 が イ ス ラ ー ム 以 前 の 記 述 の 中 で 用 い ら れ た り 、 ア ク サ ー ・ モ ス ク や ハ
ラム・シャリーフを指すものとして用いられたりすることはまれである。
2
4
ず 、こ れ は あ く ま で 現 代 的 な 用 法 で あ る 。本 論 で は 、こ の 作 品 ジ ャ ン ル と し て の「 フ ァ ダ ー イ
ル ・ バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 」 を 、 便 宜 上 FBM と 略 称 す る 。
3. 先 行 研 究 と そ の 問 題 点
(1) FBM に 関 す る 研 究 の 始 ま り
ル ス ト レ ン ジ G. Le Strange は 、FBM 作 品 を エ ル サ レ ム に 関 す る 文 献 の 一 種 と し て 注 目 し 、
8/14 世 紀 か ら 9/15 世 紀 に か け て 編 纂 さ れ た MG- M、IA、UJ の 3 作 品 の 部 分 英 訳 を 行 っ た [ Le
Strange 1887; 1890; 1893]。 続 い て マ シ ュ ー ズ C. Ma tthews が 、 8/14 世 紀 の 作 品 で あ る BN
を は じ め と す る 、 当 時 の 欧 米 の 大 学 図 書 館 に 所 蔵 さ れ て い た FBM 作 品 や そ れ に 関 連 す る 作 品
の 写 本 を 部 分 翻 刻 ・ 英 訳 し て 発 表 し た [ Matthews 19 35; 1936; 1937] 。
ル ス ト レ ン ジ 、 マ シ ュ ー ズ の 研 究 に お い て は 、 マ ム ル ー ク 朝 時 代 に 編 纂 さ れ た FBM 作 品 の
み が 注 目 さ れ て い た が 、 ア ー リ フ A. al- ʽĀrif は そ れ ら に 加 え 、 イ ブ ン ・ ア ル ム ラ ッ ジ ャ ー
Musharraf Ibn al-Mur ajjā (d. c. 450/ 1058) に よ る FBM-IM 等 の よ り 早 い 時 代 に 編 纂 さ れ た
作 品 の 写 本 を も 参 照 し て 、 エ ル サ レ ム に 関 す る 通 時 代 的 な 歴 史 研 究 を 行 っ て い る [al -ʽĀrif
1961] 3 。 こ う し た よ り 早 い 時 代 の 作 品 に 注 目 す る 動 き は 、 1970 年 に ア ッ カ ー ( ア ク レ ) の ア
フ マ ド ・ ア ル ジ ャ ッ ザ ー ル ・ モ ス ク M asjid Aḥmad al-Jazzār の 図 書 室 か ら 、 現 存 す る 最 古 の
FBM 作 品 で あ る 、 ワ ー ス ィ テ ィ ー Abū Bakr b. Aḥmad al-Wās iṭī (d. 5/11 C) に よ る FBM-W の
写 本 が 発 見 さ れ た こ と で 明 確 な も の と な っ た 。FBM-W の 写 本 は 1979 年 に ハ ッ ソ ン I. Ha sson
に よ っ て 校 訂 さ れ 、 ま た 1985 年 に は リ ヴ ネ = カ フ リ O. Livne-Kafri が FBM-IM の 校 訂 を 含
む 研 究 を 行 う に 至 っ て 、5/11 世 紀 に 編 纂 さ れ た FBM 作 品 に も 研 究 者 の 注 目 が 集 ま る よ う に な
り 、 そ う し た 作 品 を も 含 め た FBM と い う ジ ャ ン ル そ れ 自 体 を 扱 っ た 研 究 が 始 ま っ た 。
FBM に 関 す る 以 降 の 研 究 は 大 き く 2 つ の 流 れ に 分 け る こ と が で き 、 そ の ひ と つ が FBM 起
源 論 、 も う ひ と つ は FBM 写 本 研 究 で あ る 。 以 下 の 2 節 で は 、 こ れ ら 2 つ の 流 れ に つ い て 概 観
する。
1950 年 代 か ら 60 年 代 に か け て の 欧 米 の 研 究 者 に よ る FBM の ア プ ロ ー チ は 、FBM 作 品 そ の も の を 研
究 対 象 と し た も の で は な く 、 FBM を エ ル サ レ ム の 聖 性 を 伝 え る 歴 史 史 料 の ひ と つ と し て 用 い 、 初 期 イ
ス ラ ー ム 、と り わ け ウ マ イ ヤ 朝 時 代 に 、イ ス ラ ー ム の 聖 地 と し て の エ ル サ レ ム が ど の よ う に 確 立 し た の
か を 論 じ る と い う も の で あ っ た 。 グ ラ バ ー ル O. Grarar 、 ゴ イ テ イ ン S. Goitein、 ブ ッ セ H. Busse 、 テ
ィ バ ウ ィ ー A. Tibawi ら が 、岩 の ド ー ム を 中 心 と す る ハ ラ ム ・シ ャ リ ー フ 建 設 の 過 程 と そ の 背 景 を 論 じ
る 研 究 の 中 で 、 FBM に つ い て 言 及 し て い る [Grabar 19 59; Goitein 19 66; B us s e 1 9 6 8 ; Ti b a w i 1 9 6 8 ] 。
以 降 も FBM を 史 料 と し て 用 い て ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 形 成 を 論 じ る 研 究 は 続 き 、 そ う し た も の の 中 に
は ラ ッ バ ト N. Rabbat や エ ル ア ド A. Elad に よ る 研 究 が あ る [Rabbat 1993; Elad 199 9b] 。
3
5
(2) FBM 起 源 論
前 述 の グ ル ー バ ー の フ ァ ダ ー イ ル 研 究 に 拠 れ ば 、都 市 や 地 域 に つ い て の フ ァ ダ ー イ ル の 起 源
は ア ラ ブ の 征 服 活 動 の 中 に 求 め ら れ る 。ア ラ ブ は 預 言 者 ム ハ ン マ ド の 死 後 極 め て 短 期 間 の う ち
に 、北 ア フ リ カ か ら 中 央 ア ジ ア に 至 る 広 大 な 地 域 を 征 服 す る に 至 っ た 。そ う し た 征 服 活 動 の 中
で 、バ ス ラ 、ク ー フ ァ 、フ ス タ ー ト と い っ た 軍 営 都 市 が 次 々 と 建 設 さ れ 、ア ラ ブ は 家 族 あ る い
は 自 ら が 所 属 す る 部 族 ご と そ れ ら の 軍 営 都 市 に 入 植 し て い っ た 。そ の 結 果 そ こ で は 様 々 な 出 自
の 人 々 が 混 在 し て 住 む よ う に な っ た が 、そ の 住 民 の 要 素 が 異 な っ て い れ ば い る ほ ど 、共 通 の 住
ま い で あ る と こ ろ の そ の 都 市 を 、最 も 近 い 共 通 点 と し て 認 識 す る 必 要 性 は よ り 強 い も の と な っ
て い っ た 。す な わ ち こ う し た 新 し い 都 市 が 、従 来 の 部 族 と い う つ な が り を 越 え る 新 し い 連 帯 感
を 提 供 す る 基 盤 と な っ た の で あ る 。グ ル ー バ ー は こ の 一 例 と し て 、タ バ リ ー M uḥammad b. Jar īr
al-Ṭ abar ī (d. 310/923) の 『 歴 史 』 に 見 ら れ る 「 何 々 ( 都 市 名 ) の 民 」 と い う 用 法 を 挙 げ て い
る 。グ ル ー バ ー は 、
「 ク ー フ ァ の 民 ahl Kūfa」と い う 表 現 は ク ー フ ァ 創 設 年 の 17/638 年 か ら 早
く も 使 わ れ 、ま た『 歴 史 』の 中 で も 頻 繁 に 使 用 さ れ て い る 一 方 で 、ク ラ イ シ ュ 族 の 町 で あ る メ
ッ カ の 場 合 は 「 メ ッ カ の 民 ahl Makka 」 と い う 表 現 は ほ と ん ど 見 ら れ ず 、「 メ ッ カ の 民 」 と い
う 言 葉 が 「 メ ッ カ の 町 の 住 人 」 と い う 意 味 で 用 い ら れ る よ う に な る の は 36/6 56 年 の こ と で あ
る と 述 べ て い る [G ruber 1975: 49]。
さらにグルーバーは、こうした都市や地域のファダーイルはその後、第 3 代正統カリフ・
ウ ス マ ー ン ・ ブ ン ・ ア ッ フ ァ ー ン ʽUth mān b. ʽA ffān (r. 23/644-35/656) の 殺 害 に 始 ま る ア ラ ブ
の 内 乱 の 時 期 に 、大 き く 発 展 を 遂 げ た と し て い る 。す な わ ち こ の 時 期 に は ム ス リ ム の ウ ン マ が 、
ク ー フ ァ を 拠 点 と す る ア リ ー ・ ブ ン ・ ア ビ ー ・ タ ー リ ブ ʽAl ī b. Abī Ṭ ālib ( r. 35/656-40/661)、
ダマスカスを中心としたシリア地域を拠点としたムアーウィヤ・ブン・アビー・スフヤーン
Muʽāwiya b . Abī Sufyān (r. 40/661-60/ 680) と ウ マ イ ヤ 家 、 メ ッ カ ・ メ デ ィ ナ を 拠 点 と し た ア
ブ ド ・ ア ッ ラ ー ・ ブ ン ・ ズ バ イ ル ʽAb d Allāh b. Zub ayr (d. 73/692) な ど の 勢 力 に 分 裂 し た が 、
そ れ ぞ れ の 勢 力 基 盤 と な っ た 都 市 や 地 域 が 自 ら の 勢 力 を 支 持 し 、他 勢 力 と 対 立 す る 中 で 、こ う
し た フ ァ ダ ー イ ル の 要 素 を 持 つ 伝 承 が 生 み 出 さ れ て い っ た 。し か し な が ら グ ル ー バ ー は 、こ の
よ う な フ ァ ダ ー イ ル の 発 展 は 、ア ッ バ ー ス 朝 の 成 立 を も っ て 一 旦 終 結 し た と す る 。彼 は 、ア ッ
バ ー ス 朝 の 首 都 バ グ ダ ー ド に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル 伝 承 が ほ と ん ど 存 在 し て い な い こ と か ら 、も
は や ア ッ バ ー ス 朝 は 政 治 的 手 段 と し て の フ ァ ダ ー イ ル を 必 要 と し て お ら ず 、こ の 時 期 か ら フ ァ
ダ ー イ ル は む し ろ 、あ る 場 所 を 巡 礼 地 や 対 外 的 な ジ ハ ー ド の た め の 起 点 と し て 捉 え る 方 向 、あ
る い は 文 学 的 な 都 市 讃 美 の 方 向 に 進 ん で い っ た と し て い る [Gruber 1975: 50- 51, 80]。
グ ル ー バ ー が 指 摘 し た 内 乱 期 の 都 市・地 域 間 の 競 争 意 識 は 、実 際 に フ ァ ダ ー イ ル 作 品 の 中 に
散 見 で き る 。 例 え ば フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ッ シ ャ ー ム Faḍāʼil al-Sh ām 作 品 群 4 の 中 に は 、 預 言 者 ム
こ こ で の 「 シ ャ ー ム al-Shā m」 と は 、 ダ マ ス カ ス の ま ち を 表 す 言 葉 で は な く 、 よ り 広 い 地 域 を 表 す も
の で あ る 。イ ス ラ ー ム に お い て シ ャ ー ム と は 、伝 統 的 に「 ユ ー フ ラ テ ス か ら エ ジ プ ト 地 方 に 通 じ る ア リ
4
6
ハ ン マ ド は シ リ ア( シ ャ ー ム )と イ エ メ ン の た め に は 祝 福 を 請 う た 一 方 で 、イ ラ ク に 対 し て は
「 そ こ に は 地 震 や 反 乱 が あ り 、そ こ に は 悪 魔 の 角 が 現 れ る 」と 言 っ て 祝 福 し な か っ た 、と い う
伝 承 が 取 り 上 げ ら れ て い る [ FS-M 21 ; FBM- M 34b; MG- M 87-88; IA ⅱ , 138 -139]。 ま た 「 終
末 の と き は 、イ ラ ク の 民 の う ち 良 き 人 々 が シ リ ア に 移 さ れ 、シ リ ア の 民 の う ち 悪 し き 人 々 が イ
ラ ク に 移 さ れ る ま で は 始 ま ら な い 」[ FS-M 23; MG-M 101] と い う 伝 承 や 、「 悪 魔 は イ ラ ク に 入
り 、そ こ で 彼 の 望 み を 叶 え る 。そ れ か ら 彼 は シ リ ア に 入 る が 、そ こ で は 追 い 出 さ れ る 。そ れ か
ら 彼 は エ ジ プ ト に 入 り 、そ こ で 卵 を 温 め 、雛 を 孵 し 、自 身 の 敷 物 を 広 げ る 」[FS-M 27; FBM- M
42b; TU 3a ; MG- M 98; IA ⅱ , 140] と い う 伝 承 も あ り 、 そ こ で は シ ャ ー ム と そ の 他 の 地 域 、
と り わ け イ ラ ク と の 対 比 が 行 わ れ 、シ リ ア が イ ラ ク と は 異 な り 、神 の 恩 寵 を 受 け た 優 れ た 地 で
あるということが強調されている。
エルサレムはウマイヤ朝の支配領域であったシリア地域における主要都市のひとつであり、
FBM も フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ッ シ ャ ー ム と 深 い 関 連 性 を 持 っ て い る 。 こ れ ら の 文 献 群 の 間 の 関 連
性 は 、そ れ ぞ れ に ほ ぼ 同 一 の 形 式・ 主 題 を 持 つ 伝 承 が 散 見 さ れ る こ と か ら も 指 摘 で き る 。例 え
ば FBM に は 、 預 言 者 ム ハ ン マ ド に よ る も の と さ れ る 「 我 が ウ ン マ の 中 の 一 団 は 、 終 末 の と き
に 至 る ま で 正 義 の も と に 勝 利 者 で あ り 続 け る 。彼 ら は エ ル サ レ ム と そ の 周 辺 に い る 」と い う 伝
承 が あ る [FBM-W 26; FBM-M 214, 21 6; FQ 94; FBM-K 84a; TU 3a] 。 一 方 フ ァ ダ ー イ ル ・ ア
ッ シ ャ ー ム の 中 に は 、 上 記 の 伝 承 の 「 彼 ら は エ ル サ レ ム と そ の 周 辺 に い る 」 の 部 分 を 、「 彼 ら
は シ リ ア の 民 で あ る 」 と い う 言 葉 に 変 え た だ け の も の が 見 受 け ら れ る [ FS-R 58; FS-M 24-25;
FBM- M 45a-45b; IA ⅱ , 140]。 こ の よ う な 両 者 の 関 連 性 は 、 エ ル サ レ ム あ る い は シ リ ア が 神
の 恩 寵 篤 き 地 で あ る と い う 伝 承 、ま た 終 末 や 最 後 の 審 判 に 関 係 し た 伝 承 に お い て と り わ け 見 ら
れるものである。
以 上 の こ と か ら FBM は 、内 乱 期 以 降 の イ ス ラ ー ム 地 域 に 見 ら れ る よ う に な っ た 都 市 ・ 地 方
単 位 で の 連 帯・ 競 争 意 識 の 中 で 、フ ァ ダ ー イ ル・ ア ッ シ ャ ー ム と 関 連 し な が ら 生 み 出 さ れ た フ
ァ ダ ー イ ル の 1 ジ ャ ン ル で あ る と 言 え る 5。
で は FBM は 、 実 際 に は い つ 頃 か ら 編 纂 が 始 ま っ た の か 。 ま ず 、 最 も 狭 義 の 意 味 で の フ ァ ダ
ー シ ュ al-ʽArīsh ま で 」 [MB ⅲ , 312] に 及 ぶ 地 域 で あ る と さ れ て い る 。 FBM の 一 部 の 作 品 で は シ ャ ー
ム の 範 囲 が 明 示 さ れ て お り 、 そ れ に 拠 れ ば 、 南 の 境 界 線 は ア リ ー シ ュ か ら ア イ ラ ( エ イ ラ ッ ト ) Ayla
を 通 り 、タ ブ ー ク Tabūk、ド ゥ ー マ ト・ア ル ジ ャ ン ダ ル Dūmat al -Janda l を 通 っ て サ マ ー ワ 砂 漠 Barrīyat
al- Sa māw a へ と 伸 び る 線 で あ る 。東 側 か ら 北 側 に か け て の 境 界 線 は ユ ー フ ラ テ ス 川 で あ り 、こ れ ら の 線
と 、 西 側 の 境 界 線 で あ る 地 中 海 と に 囲 ま れ た 地 域 が シ ャ ー ム で あ る と さ れ る [MG-M 84; LUJ(C) 2b-3a ]。
以 上 の 地 域 は 、現 在 の シ リ ア 、レ バ ノ ン 、ヨ ル ダ ン 、 イ ス ラ エ ル に 、 シ ナ イ 半 島 東 部 と サ ウ ジ ア ラ ビ ア
北 部 、イ ラ ク 西 部 ま で を 含 ん だ 部 分 と な る 。本 論 で は こ の シ ャ ー ム の こ と を「 シ リ ア / シ リ ア 地 域 」と
いう語で表すものとする。
5 フ ァ ダ ー イ ル・ア ッ シ ャ ー ム の 起 源 と 、そ こ に 取 り 上 げ ら れ る 伝 承 の 内 容 に 関 し て は 、コ ブ P. Cobb、
ア ナ ブ ス ィ G. Anabs i の 論 考 を 参 照 [Cobb 2002; Anabsi 20 08] 。 こ の 他 、 エ ル サ レ ム 以 外 の 場 所 に 関 す
る フ ァ ダ ー イ ル 文 献 を 扱 っ た 専 論 に は 、 ム ン ト H. Munt に よ る フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ル マ デ ィ ー ナ Faḍāʼil
al- Madīn a( メ デ ィ ナ に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル ) 研 究 、 吉 村 に よ る 「 ナ イ ル 地 理 書 」( ナ イ ル 川 と そ の 流
域 に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル ) 研 究 が あ る [Munt 2012; 吉 村 2008]。
7
ー イ ル ・ バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ ス 、す な わ ち エ ル サ レ ム の 聖 性 を 讃 美 す る 伝 承 の 発 生 に つ い て
は 、イ ス ラ ー ム の か な り 早 い 時 期 に 求 め る こ と が で き る 。イ ス ラ ー ム の 教 義 に お け る エ ル サ レ
ム の 聖 性 は 、エ ル サ レ ム が メ ッ カ 以 前 の キ ブ ラ( 礼 拝 の 方 角 )で あ っ た こ と と 、預 言 者 ム ハ ン
マ ド が エ ル サ レ ム に 向 け て イ ス ラ ー( 夜 の 旅 ) を 行 い 、そ こ か ら ミ ー ラ ー ジ ュ( 昇 天 ) し た こ
と に 由 来 し て い る 。ム ス リ ム の 最 初 の キ ブ ラ と ム ハ ン マ ド の イ ス ラ ー に つ い て は ク ル ア ー ン に
言 及 さ れ て お り 6、 ク ル ア ー ン で は そ れ ら の 舞 台 が エ ル サ レ ム で あ る と い う こ と は 明 言 さ れ て
いないものの、そこをエルサレムと同定する解釈は、ウマイヤ朝初期(ヒジュラ暦 1 世紀末)
ま で に は 定 着 し て い た で あ ろ う と 考 え ら れ て い る [Ha sson 1996 : 353; El ad 1999 b: 28-29;
Bloom 1996: 208] 。言 う ま で も な く こ う し た エ ル サ レ ム の 聖 性 は ユ ダ ヤ 教 ・ キ リ ス ト 教 か ら 取
り入れたものであり、イスラームにおいてもその概念の発展には、イスラーイーリーヤート
isrāʼīl īyāt と 呼 ば れ る ユ ダ ヤ 教・キ リ ス ト 教 伝 承 が 大 き な 影 響 を 与 え て い る 7 。こ れ ら の イ ス ラ
ー イ ー リ ー ヤ ー ト は 、 カ ァ ブ ・ ア ル ア フ バ ー ル Kaʽb al-Aḥb ār (d. c. 31/652-63) 8 、 ア ブ ド ・ ア
ッ ラ ー・ブ ン・サ ラ ー ム ʽAbd Allāh b. Salām (d. 43/6 63-64) 9 、ワ フ ブ・ブ ン・ム ナ ッ ビ フ Wahb
b. Munabbih (d. c. 110/728) 1 0 な ど の ユ ダ ヤ 教 か ら の 改 宗 者 1 1 を 通 じ て イ ス ラ ー ム に 伝 え ら れ 、
彼 ら の 名 は FBM に お い て も 、 エ ル サ レ ム の 神 聖 さ に 関 す る 伝 承 の 伝 承 者 と し て 多 く の 箇 所 で
目にすることができる。
こ の よ う な エ ル サ レ ム 讃 美 に 関 す る 伝 承 が ム ス リ ム 伝 承 家 た ち に よ っ て 収 集 さ れ 、広 く 流 通
す る よ う に な っ た の は 、ウ マ イ ヤ 朝 時 代 の こ と で あ る と 見 な さ れ て い る 。キ ス タ ー M. J. Ki ster
ク ル ア ー ン 17 章 1 節( 本 論 2 ペ ー ジ 脚 注 1)、第 2 章 142 節「 人 々 の う ち 愚 か な 者 ど も は 言 う で あ ろ
う 、『 な ぜ 彼 ら は 、 以 前 に 向 い て い た キ ブ ラ か ら 向 き を 変 え た の か 』。 答 え る が よ い 、『 東 も 西 も 神 の も
の 。 神 は み 心 に か な う も の を 正 し い 道 に 導 き た も う 』」
7 ユ ダ ヤ 教 ・キ リ ス ト 教 が イ ス ラ ー ム に お け る エ ル サ レ ム の 聖 性 確 立 に 与 え た 影 響 に つ い て は 、ハ ッ ソ
ン 、シ ャ ロ ン M. Sharon、リ ヴ ネ = カ フ リ の 論 考 が あ る [Hasson 1981; Sha ron 1992; Liv ne -Kaf ri 1991;
1998; 1999; 20 04; 2005; 20 07] 。
8 イエメン在住のユダヤ教徒で、
第 2 代 正 統 カ リ フ = ウ マ ル の 治 世 中 の 17/638 年 に イ ス ラ ー ム に 改 宗 、
メ デ ィ ナ に 移 住 す る 。 改 宗 後 は ウ マ ル と 親 密 な 関 係 を 保 ち 、 17/638 年 の エ ル サ レ ム 征 服 の 際 に は ウ マ
ル に 同 行 し て エ ル サ レ ム に 赴 く 。そ の 際 ユ ダ ヤ 教 の 伝 承 に 関 す る 造 詣 を 生 か し て 、当 時 所 在 が 不 明 に な
っ て い た 聖 な る 岩 al-Ṣakhr a の 位 置 を ウ マ ル に 教 え た 、 と い う 伝 承 が FBM 作 品 中 に 伝 え ら れ て い る
6
[Sc hmitz 197 8: EI 2 ⅳ , “KAʽB AL - AḤ BĀ R”; FBM- I M 64-6 5; FBM- M 11b; MG- M 166; IA ⅰ , 236-237;
UJ ⅰ , 380; LUJ(C) 11a] 。
9 メ デ ィ ナ の カ イ ヌ カ ー 族 Banū al-Qa yn uqāʼ に 属 す る ユ ダ ヤ 教 徒 。 預 言 者 ム ハ ン マ ド の メ デ ィ ナ 到 来
直 後 の 8/629-30 年 に イ ス ラ ー ム に 改 宗 し た と さ れ る 。
「ムハンマドはトーラーに預言された預言者であ
る 」と し て 、ユ ダ ヤ 教 的 背 景 か ら ム ハ ン マ ド を 擁 護 し た 。ウ マ ル に よ る エ ル サ レ ム 征 服 に も 同 行 、ウ マ
ル の 死 後 は ウ ス マ ー ン 、 ム ア ー ウ ィ ヤ と も つ な が り を 持 っ た [Horovitz 1960: EI2 ⅰ , “ʽABD AL LĀ H B.
SAL Ā M”]。
1 0 サ ナ ア 近 郊 の 町 ズ ィ マ ル Dhimar に 生 ま れ る 。 父 親 で あ る ム ナ ッ ビ フ が ユ ダ ヤ 教 か ら の 改 宗 者 で 、
ワ フ ブ 自 身 は ム ス リ ム と し て 生 ま れ て い る と 考 え ら れ て い る [Khoury 200 2: EI2 ⅹ ⅰ , “WAHB B.
MUNABBI H”]。 聖 書 や タ ル ム ー ド に 含 ま れ て い た 、 古 く か ら の ユ ダ ヤ 教 の 伝 承 に 詳 し く 、 彼 が 伝 え た
伝 承 が タ バ リ ー や イ ブ ン ・ イ ス ハ ー ク Muḥamma d b. I s ḥāq (d. 151/761 ) 、 イ ブ ン ・ ク タ イ バ ʽAbd A ll āh
b. Mus lim b. Qu tayba (d. 270/88 3) ら の 著 作 の 中 に 引 用 さ れ て い る 。「 天 地 創 造 か ら イ ス ラ ー ム 到 来 に
至 る ま で の 預 言 者 た ち の 歴 史 」 と い う 歴 史 的 枠 組 み を 最 初 に 作 り 出 し た [Duri, 1983: 122 -13 5]。
11 リ ヴ ネ = カ フ リ は 、 イ ス ラ ー イ ー リ ー ヤ ー ト が イ ス ラ ー ム に 取 り 入 れ ら れ て い く 過 程 に お い て 重 要
な 役 割 を 果 た し た の は 専 ら ユ ダ ヤ 教 か ら の 改 宗 者 で あ り 、キ リ ス ト 教 か ら の 改 宗 者 の 果 た し た 役 割 は 小
さ い も の で あ っ た と し て い る [Livne=Ka fri 1999: 85] 。
8
や ジ ュ イ ン ボ ル G. H. A. Juynboll は 、 FBM を 含 む フ ァ ダ ー イ ル 文 献 は 、 そ れ ぞ れ の 地 域 に
ま つ わ る 伝 承 を 収 集 し た ハ デ ィ ー ス 集 か ら 発 展 し て き た も の で あ る と し 、 FBM に 含 ま れ る 伝
承 も 1/7 世 紀 後 半 か ら 2/8 世 紀 前 半 の ウ マ イ ヤ 朝 時 代 に は す で に 流 通 し て い た と し て い る
[Kister 1981: 185-186; Juynboll 1983: 162-163]。 エ ル ア ド A. Elad も 彼 ら の 意 見 を 支 持 し 、
FBM の 起 源 を 同 時 期 に 求 め て い る 。エ ル ア ド は こ の 時 代 を FBM の 起 源 と し て 確 定 す る 根 拠 と
し て 、ワ ー ス ィ テ ィ ー と イ ブ ン・ ア ル ム ラ ッ ジ ャ ー の 著 作 に 出 て く る 伝 承 の イ ス ナ ー ド( 伝 承
経 路 )に 注 目 し て い る 。彼 は そ れ ら の 伝 承 の 大 部 分 が 、ラ ム リ ー al-W alīd b. Ḥammād al- Raml ī
(d. c. 300/912) に 代 表 さ れ る あ る 特 定 の 人 物 を 経 由 し て い る こ と を 指 摘 し 、一 人 の 人 物 に イ ス
ナ ー ド が 集 中 し て い る と い う こ と は 、そ の 人 物 は エ ル サ レ ム に 関 す る 伝 承 を す で に ま と ま っ た
量 で 保 存 し て い た の だ ろ う と の 見 解 を 提 示 し て い る [Elad 1991: 41 -70; 1999 b: 1-22]。
ま た ス レ イ マ ン ・ ム ラ ー ド Sulei man A. Mou rad も ワ ー ス ィ テ ィ ー と イ ブ ン・ ア ル ム ラ ッ ジ
ャ ー の イ ス ナ ー ド 検 証 を 通 じ て ラ ム リ ー に 着 目 し て い る 。ラ ム リ ー の 著 作 は 現 在 で は 失 わ れ て
い る の だ が 、ム ラ ー ド は 、FBM-W や FBM-IM の イ ス ナ ー ド 部 分 に 残 る ラ ム リ ー の 名 前 よ り 彼
の 著 作 の 内 容 を 復 元 し よ う と 試 み て い る 。 そ れ に 従 え ば 、 ラ ム リ ー は 37 人 の 伝 承 者 よ り エ ル
サレムに関する伝承を伝えており、彼らの大部分がシリア・パレスチナ在住の人物であった。
ま た 37 人 の 伝 承 者 の 中 で も 、 ラ ム リ ー が 主 要 な 情 報 源 と し た 人 物 は い ず れ も 3/9 世 紀 後 半 に
没 し て い る 。ム ラ ー ド は こ の こ と か ら 、ラ ム リ ー は 3/9 世 紀 後 半 に は エ ル サ レ ム に 関 す る フ ァ
ダ ー イ ル の 収 集 を 終 え て い た 、 ま た ラ ム リ ー が 37 人 に 及 ぶ 伝 承 者 を 情 報 源 と し て い た こ と か
ら 、 3/9 世 紀 、 あ る い は そ れ に 先 立 つ 2/8 世 紀 に は 、 エ ル サ レ ム の 周 辺 地 域 で エ ル サ レ ム の フ
ァ ダ ー イ ル が 広 ま っ て い た 、 と 結 論 付 け て い る 。 ま た そ う で あ れ ば 、 こ の 地 域 で FBM に 対 す
る 関 心 が 芽 生 え た の は そ れ よ り さ ら に 早 い 時 代 の こ と で あ ろ う と し 、 2/8 世 紀 の ハ デ ィ ー ス 伝
承 家 ム カ ー テ ィ ル ・ ブ ン ・ ス ラ イ マ ー ン Muqātil b. Sul aym ān al-Balkh ī (d. 15 0/767) が 、 自 身
のクルアーン解釈に関する著作の中でエルサレムに関するファダーイルを扱っていることを
挙 げ 、 FBM の 起 源 を 2/8 世 紀 に 定 め て い る [Mou rad 1996: 34-39; 2008 : 86-9 0]。
エ ル サ レ ム に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル 諸 伝 承 が 1 冊 の FBM 作 品 と し て 、 書 物 の 形 で 編 纂 さ れ る
よ う に な っ た 時 期 に つ い て は 、 ム ラ ー ド は 、 現 存 す る 最 古 の FBM で あ る ワ ー ス ィ テ ィ ー の
FBM-W( 410/1019 年 編 纂 ) 1 2 に 先 立 っ て 、前 述 の ラ ム リ ー も 、自 身 の 有 し て い た 伝 承 を 書 物
の 形 に ま と め て い た と し て お り 、そ の 根 拠 と し て 、ワ ー ス ィ テ ィ ー と イ ブ ン ・ア ル ム ラ ッ ジ ャ
ー が ラ ム リ ー よ り 引 用 し た イ ス ナ ー ド 1 3 の 中 に 、そ の 著 作 の 存 在 が 示 さ れ て い る こ と を 挙 げ て
FBM -W の 編 纂 年 代 に つ い て は 、 作 品 の 冒 頭 に あ る 伝 承 の イ ス ナ ー ド 中 に 、「 ワ ー ス ィ テ ィ ー と し て
知 ら れ る 、イ マ ー ム に し て ハ テ ィ ー ブ た る ア ブ ー ・ ム ハ ン マ ド ・ア ブ ド ・ア ル ア ズ ィ ー ズ ・ブ ン ・ア フ
マ ド ・ ブ ン ・ ム ハ ン マ ド ・ マ ク デ ィ ス ィ ー Abū Muḥam mad ʽ Abd a l- ʽAzīz b. Aḥ ma d b. Mu ḥa mma d
12
al- Maq disī が 我 々 に 、 エ ル サ レ ム に あ る 彼 の 住 ま い に て 410 年 に 伝 え た 」 と あ る [FBM-W 4]。
13
「 ワ リ ー ド ( ・ ブ ン ・ ハ ン マ ー ド ・ ラ ム リ ー ) が 我 々 に 、 次 の よ う に 伝 え た 。『 私 は 私 の 書 の 中 に (fī
kitābī)、イ ブ ラ ー ヒ ー ム ・ ブ ン ・ ム ハ ン マ ド そ の 他 の 者 か ら 次 の よ う に 伝 え ら れ て い る の を 見 つ け た 』」
[FBM-W 5 1; FBM- IM 12 3]。
9
い る [Mou rad 1996: 34 -35; 2008: 89] 。 ま た 、 FBM の 写 本 研 究 を 行 っ た ア サ リ ー K āmil Jam īl
al-ʽAsalī は 、現 存 し な い な が ら 記 録 に 残 る 最 古 の FBM と し て 、イ ス ハ ー ク・ ブ ハ ー リ ー Isḥ āq
b. Bishr al-Bukh ārī (d. 206/821) の Kitāb Futūḥ Bayt ak- Maqdis と い う 作 品 を 挙 げ て お り
[al-ʽAs alī 1984: 25]、 こ れ に 従 え ば 、 書 物 と し て の FBM 編 纂 は 2/8 世 紀 末 か ら 3/9 世 紀 初 頭
の 時 期 に 始 ま っ た と 言 え る 14。
先 行 研 究 で は 、エ ル サ レ ム に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル 諸 伝 承 が 発 生 し 広 ま っ て い っ た 時 代 を ウ マ
イ ヤ 朝 に 求 め 、ウ マ イ ヤ 朝 が そ う し た 伝 承 の 発 展 に 与 え た 影 響 を 強 調 し て い る 。こ の 時 代 に エ
ル サ レ ム に 関 す る 伝 承 が 流 通 す る よ う に な っ た 理 由 に つ い て エ ル ア ド は 、シ リ ア に 権 力 基 盤 を
持 っ て い た ウ マ イ ヤ 朝 カ リ フ た ち が 、そ れ ら の 伝 承 を 政 治 的 プ ロ パ ガ ン ダ の 手 段 と 見 な し 、そ
の 流 通 を 推 奨 す る こ と で エ ル サ レ ム の 政 治 的・宗 教 的 地 位 を 高 め よ う と し て い た こ と に あ る と
し て い る 。 エ ル ア ド は 、 FBM と い う 文 献 ジ ャ ン ル の 発 展 は シ リ ア に お け る 政 治 的 状 況 に 強 く
影 響 さ れ た も の で あ る と 見 な し 、そ れ ゆ え ア ッ バ ー ス 朝 の 台 頭 と と も に 政 治 の 中 心 地 が シ リ ア
か ら イ ラ ク に 移 っ た 後 は 、 カ リ フ や 知 識 人 た ち は FBM に 無 関 心 に な っ た と し て い る [Elad
1999a: 300-301; 1999b: 12-15]。
キ ス タ ー 以 降 の 研 究 者 は 総 じ て 、 FBM は 地 方 色 の 強 い ハ デ ィ ー ス 集 と し て 出 発 し た も の で
あ り 、 そ の 起 源 を 遅 く と も 2/8 世 紀 に あ る と し た 上 で 、 FBM は ウ マ イ ヤ 朝 時 代 に 大 き な 発 展
を 経 験 し た と し て い る 。先 行 研 究 は さ ら に 、FBM が 2 度 目 に 大 き な 発 展 を 迎 え た 時 期 と し て 、
十 字 軍 時 代 を 挙 げ て い る 。例 え ば シ ヴ ァ ン E. Sivan は 、ウ マ イ ヤ 朝 と FBM と の 関 連 性 に 着 目
し て お ら ず 、ワ ー ス ィ テ ィ ー や イ ブ ン・ア ル ム ラ ッ ジ ャ ー 、ル マ イ リ ー M akkī b . ʽAbd al-Sall ām
al-Rum ayl ī (d. 492/1099) の 著 作 が 編 纂 さ れ た 5 /11 世 紀 を 、 FBM が 成 立 し た 時 代 で あ る と 見
な し て い る の だ が 、 そ の 後 の FBM の 展 開 に つ い て 、 十 字 軍 に よ る エ ル サ レ ム 占 領 に よ る 影 響
を 示 唆 し て い る 。す な わ ち シ ヴ ァ ン は 、十 字 軍 侵 攻 の 混 乱 に よ り 6/12 世 紀 前 半 に は FBM の 編
纂 は 一 時 中 断 さ れ た も の の 、エ ル サ レ ム 再 征 服 プ ロ パ ガ ン ダ が 激 化 す る ザ ン ギ ー 朝 の ヌ ー ル ・
ア ッ デ ィ ー ン Nūr al -Dīn Maḥmūd b. Zankī (r. 541/1146-569/ 1174) の 時 代 に 再 び こ の ジ ャ ン ル
に 対 す る 興 味 が 見 ら れ る よ う に な り 、ジ ハ ー ド の 気 運 の 高 ま り と 共 に 中 東 全 域 で 隆 盛 を 見 る こ
と に な っ た と 述 べ 、 FBM 編 纂 の 動 機 に 十 字 軍 に 対 す る ジ ハ ー ド を 挙 げ る [Sivan 1971:
100-110]。 FBM の 起 源 を ウ マ イ ヤ 朝 に 求 め る キ ス タ ー 以 降 の 研 究 者 に つ い て も 、 シ ヴ ァ ン と
同 様 に 十 字 軍 が シ リ ア 地 域 に 与 え た イ ン パ ク ト を 重 視 し て お り 、エ ル サ レ ム に 関 す る フ ァ ダ ー
イ ル 諸 伝 承 が 、シ リ ア に お け る ム ス リ ム 支 配 者 た ち の 対 十 字 軍 プ ロ パ ガ ン ダ の 手 段 と し て 利 用
書 物 と し て の FBM 作 品 の 編 纂 時 期 に つ い て は 、ム ン ト の 研 究 に よ り 、フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ル マ デ ィ ー
ナ の 成 立 時 期 と の 比 較 が 可 能 で あ る 。ム ン ト は 記 録 に 残 る 最 古 の フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ル マ デ ィ ー ナ を 、イ
ブ ン ・ ザ バ ー ラ Muḥammad b. a l- Ḥasan b. Zabā la a l -Ma ḥzūmī (d. c. 200/815 -16) が 199/81 4 年 に 編 纂
14
し た Akhbār al -Madīn a と い う 作 品 で あ る と し 、 現 存 す る も の の う ち 最 古 の も の を 、 ウ マ ル ・ ブ ン ・ シ
ャ ッ バ ʽUmar b. Sha bba (d. 262/876 ) に よ る Tārīkh al -M adīn at al -Mun awwar a と い う 作 品 で あ る と し て
い る 。 ム ン ト は こ の 2 作 品 を 含 め 、 ヒ ジ ュ ラ 暦 2 世 紀 末 ( 9 世 紀 初 頭 ) か ら 3/9 世 紀 に か け て に 成 立 し
た フ ァ ダ ー イ ル・ア ル マ デ ィ ー ナ を 4 つ 取 り 上 げ 、そ れ ら を こ の ジ ャ ン ル に お け る 嚆 矢 で あ る と し て い
る [Munt 2021: 2 -3, 11-1 3]。
10
さ れ た こ と で 、 FBM と い う ジ ャ ン ル が 再 度 隆 盛 し た と 捉 え て い る [Ha sson 19 81: 172; Ashtor
1981: 187; Frenkel 1996: 70; Mourad 1996: 40 -41; Elad 1999b: 15] 。
し か し な が ら 、 FBM の 成 立 あ る い は 隆 盛 の 要 因 と し て 、 ウ マ イ ヤ 朝 や 、 十 字 軍 時 代 の シ リ
ア の イ ス ラ ー ム 勢 力 に よ る 政 治 的 プ ロ パ ガ ン ダ を 挙 げ る 先 行 研 究 の 見 解 に は 、そ の 根 拠 と す る
べ き 事 例 を そ れ ぞ れ の 時 代 の 社 会 状 況 の 中 に 明 確 に 提 示 で き て い な い と い う 問 題 点 が あ る 。ま
ず ウ マ イ ヤ 朝 時 代 に つ い て は 、 書 物 の 形 で 成 立 し た FBM を 考 え る の で あ れ ば 、 現 存 す る 最 古
の 作 品 で あ る FBM-W が 5/11 世 紀 初 頭 、記 録 に 残 る 最 古 の FBM と さ れ る ブ ハ ー リ ー の 作 品 も
3/9 世 紀 初 頭 の も の で あ り 、 ウ マ イ ヤ 朝 時 代 に 編 纂 さ れ た 作 品 は ま っ た く 知 ら れ て い な い 。 ま
た こ の 時 代 を 、 FBM が 文 字 で 記 録 さ れ る よ う に な る 以 前 の 、 口 伝 に よ る 伝 承 集 積 の 時 代 で あ
る と 捉 え る に せ よ 、そ れ ら の 伝 承 を ウ マ イ ヤ 朝 カ リ フ た ち が 実 際 ど の よ う に 利 用 し て い た の か
に つ い て は 示 さ れ て い な い 。 FBM が 十 字 軍 時 代 に 隆 盛 を み た と す る 見 解 に つ い て も 、 や は り
先 行 研 究 は 、ヌ ー ル・ア ッ デ ィ ー ン や 、ア イ ユ ー ブ 朝 ス ル タ ン = サ ラ ー フ・ア ッ デ ィ ー ン Ṣ al āḥ
al-Dīn Yūs uf b. A yy ūb (r. 569/1174-591 /1193) が 、 そ れ ら を ど の よ う に 利 用 し て い た の か の 具
体 例 を 提 示 し て い な い 。 ま た FBM 編 纂 状 況 に 照 ら し 合 わ せ て も 、 エ ル サ レ ム が 十 字 軍 に 占 領
さ れ た 492/109 9 年 か ら 、 サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン に よ る 583/1187 年 の 回 復 ま で の 期 間 に 編
纂 さ れ た 作 品 は 存 在 せ ず 、 こ の 期 間 は む し ろ FBM 編 纂 の 空 白 期 と な っ て い る た め 、 先 行 研 究
が な に を も っ て こ の 時 代 を 「 FBM の 隆 盛 期 」 と 捉 え て い る の か に は 疑 問 が 残 る 。
(2) 写 本 研 究
FBM 先 行 研 究 の も う ひ と つ の 流 れ と し て は 、 ア サ リ ー や マ フ ム ー ド ・ イ ブ ラ ー ヒ ー ム
Maḥmūd Ibrāhīm に 代 表 さ れ る 研 究 者 た ち に よ る 写 本 研 究 が あ る [al -ʽAs al ī 1984; Ibrāh īm
1985]。 こ れ は 、 記 録 に 残 る FBM に つ い て そ の 書 名 と 著 者 名 を 一 覧 に し た 上 で 、 そ の 著 作 の
写 本 が 現 存 す る か し な い か 、現 存 す る も の に つ い て は そ の 所 蔵 先 と そ の 請 求 番 号 を 調 べ た 研 究
で あ る 。 例 え ば ア サ リ ー は 、 3/9 世 紀 か ら 14/20 世 紀 の 間 に 書 か れ た FBM 作 品 を 、 写 本 が 現
存 し な い も の や 著 者 不 明 の も の も 含 め て 年 代 順 に 49 作 品 を 数 え 上 げ て い る 。 こ の 研 究 に よ り
FBM と い う ジ ャ ン ル に ど の よ う な 著 作 が あ る の か が お お か た の と こ ろ 明 ら か に な っ て お り 、
以 降 の 研 究 者 は こ の リ ス ト を 元 に し て FBM 研 究 を 進 め る こ と が で き る 。 そ の 点 で ア サ リ ー に
よ る 成 果 は FBM 研 究 の 基 礎 資 料 と し て 重 要 な も の で あ る 1 5 。
し か し な が ら ア サ リ ー は 、 FBM に つ い て の 明 確 な 定 義 づ け を 行 っ て お ら ず 、 明 ら か に そ の
範 疇 に は 入 ら な い 作 品 ま で リ ス ト に 含 め て し ま っ て い る 。例 え ば ア サ リ ー は 、5/11 世 紀 ダ マ ス
ア サ リ ー は FBM 写 本 研 究 の 他 に も 、 5/11 世 紀 か ら 14/20 世 紀 に か け て エ ル サ レ ム を 訪 問 し た 旅 行
者たちによって著された旅行記についても同様の研究を行っている。研究書は 2 部構成になっており、
第 1 部では旅行者たちのビブリオグラフィーと、彼らのエルサレム滞在時の状況について概観、第 2
部 で は 彼 ら が 著 し た 旅 行 記 の う ち 、エ ル サ レ ム に 関 す る 部 分 の み を 抜 き 出 し て 、部 分 翻 刻 を 行 っ て い る 。
こ ち ら も エ ル サ レ ム 研 究 の 基 礎 資 料 と し て 有 用 で あ る [al-ʽ Asa lī 1 9 91]。
15
11
カ ス の 法 学 者 ラ バ イ ー ʽAlī b. M uḥamm ad al -Rab aʽī (d. 444/1052) に よ る Faḍāʼil al-Shām wa
Faḍl Dimashq( 以 下 FS-R と 略 称 ) を リ ス ト に 含 め て い る が 、 こ れ は そ の 書 名 の 示 す 通 り 、 シ
リ ア 地 域 と ダ マ ス カ ス に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル 集 で あ り 、エ ル サ レ ム を 対 象 と し た も の で は な い
[al-ʽAs al ī 1984: 30-34]。ま た 定 義 の 曖 昧 さ に 加 え 、写 本 情 報 に つ い て も 一 部 誤 り を 含 ん で お り 、
FBM 研 究 を 進 め る に あ た っ て は こ の 点 に も 留 意 し て 、 ア サ リ ー の リ ス ト を 修 正 す る 必 要 が あ
る。
イ ブ ラ ー ヒ ー ム に よ る 研 究 は 、FBM 概 論 に 加 え 、ア サ リ ー の も の と 同 様 FBM の 写 本 に 着 目
し 、 FBM 作 品 群 の 写 本 情 報 や 校 訂 本 に つ い て の 情 報 を 加 え た も の で あ る 。 イ ブ ラ ー ヒ ー ム の
研 究 は 第 1 部 の 研 究 編 と 第 2 部 の 資 料 編 に 分 か れ て お り 、研 究 編 の 方 は ア サ リ ー 以 上 の 情 報 を
持 つ も の で は な い 。 し か し 資 料 編 に お い て は 、 校 訂 本 が 出 版 さ れ て い な い FBM 写 本 の 中 か ら
11 の 写 本 を 選 び 出 し 、 そ の 部 分 翻 刻 が 行 わ れ て お り 、 こ ち ら の 部 分 に 利 用 価 値 が あ る 。 イ ブ
ラ ー ヒ ー ム の 翻 刻 は 各 作 品 の 一 部 分 に 過 ぎ ず そ の 点 は 惜 し ま れ る が 、各 作 品 の 序 文 と 結 び を 取
り 上 げ て い る た め 、作 品 の 構 成 や 編 纂 の 動 機 な ど を 推 測 す る 点 で の 助 け と な る 。ま た こ れ ら の
11 の 写 本 の 中 に は 参 照 の 難 し い 孤 本 も 含 ま れ て お り 、 そ の 点 で も 有 用 で あ る 。
以 上 FBM 先 行 研 究 の 2 つ の 大 き な 方 向 性 と そ れ ぞ れ の 問 題 点 を 概 観 し て き た が 、こ れ ら の
先 行 研 究 全 体 に 共 通 す る 問 題 は 、 FBM 研 究 が 依 然 と し て 極 め て 限 定 的 な テ ー マ に 関 す る 議 論
の み に 終 始 し て い る と い う 点 に あ る 。 ま た ア サ リ ー ら の 写 本 研 究 に よ っ て FBM 写 本 の 現 存 状
況 が 明 ら か に な っ て い る に も か か わ ら ず 、以 降 の 研 究 者 た ち は ワ ー ス ィ テ ィ ー と イ ブ ン・ア ル
ム ラ ッ ジ ャ ー に 代 表 さ れ る 初 期 の 作 品 に の み 依 拠 し て お り 、実 際 に 編 纂 が 盛 ん に な っ て い る ア
イユーブ朝・マムルーク朝時代の作品、あるいはそれ以降の作品をほとんど参照しておら ず、
参 照 史 料 に 偏 り が 見 ら れ る 。起 源 論 研 究 に お い て は 、こ う し た 史 料 状 況 が 考 慮 さ れ て い な い ま
ま で あ る こ と か ら 、研 究 の 視 点 が ウ マ イ ヤ 朝 、あ る い は 十 字 軍 と の 関 連 性 に 固 定 さ れ て し ま っ
ているという問題点がある。
筆 者 は こ う し た 問 題 点 に 鑑 み 、な に よ り も ま ず 研 究 対 象 を 初 期 の 作 品 の み に 限 定 せ ず 、こ の
ジ ャ ン ル 全 体 に 拡 大 す る こ と が 、 今 後 の FBM 研 究 に お い て 新 し い 研 究 テ ー マ を 展 開 し て い く
上 で の 第 一 歩 と な る と 考 え る 。よ っ て 本 論 で は 、よ り 新 し い 時 代 に 編 纂 さ れ た 作 品 ま で を 含 め
た FBM 作 品 群 全 体 を 考 察 の 対 象 と し 、 各 作 品 の 持 つ 特 徴 、 時 代 を 通 じ て の 内 容 、 編 纂 方 式 の
変 化 、作 品 間 の 関 連 性 に 注 目 す る こ と で FBM 作 品 群 の 全 体 像 を 捉 え 、FBM 史 料 研 究 を 行 う こ
と を 目 的 と す る 。 FBM を 実 際 に 分 析 す る と 、 そ の 中 に は エ ル サ レ ム に 関 す る 多 様 な 情 報 が 含
ま れ て お り 、歴 史 研 究 に お い て も 有 効 な 史 料 で あ る 。そ れ ら は 各 時 代 の エ ル サ レ ム 周 辺 の 社 会
状 況 や 、ム ス リ ム た ち が エ ル サ レ ム に 対 し て 向 け て い た 意 識 を 反 映 し た も の と な っ て い る た め
に 、一 連 の 作 品 群 を 検 討 す る こ と は 、イ ス ラ ー ム に お い て エ ル サ レ ム の 聖 性 が ど の よ う に 認 識
さ れ て き た の か と い う 問 題 、す な わ ち イ ス ラ ー ム に お け る エ ル サ レ ム 論 を 語 る 上 で の 根 本 的 な
12
史料となり得るものである。
以 下 に 本 論 に お け る 章 構 成 を 挙 げ る 。 第 1 章 で は 前 述 の ア サ リ ー に よ る FBM 作 品 リ ス ト を
参 考 に 、 こ れ に 修 正 を 加 え て 本 稿 で 考 察 の 対 象 と す る FBM 作 品 の 範 囲 を 決 定 す る 。 ま た 第 2
章 以 降 の 議 論 に 入 る 前 に 、FBM に お い て 扱 わ れ る 代 表 的 な 伝 承 を 、A. エ ル サ レ ム の 歴 史( イ
ス ラ ー ム 以 前 )、B. エ ル サ レ ム の 歴 史( イ ス ラ ー ム 時 代 )、 C. エ ル サ レ ム の 神 聖 さ ・ 偉 大 さ に
関 す る 伝 承 、D. エ ル サ レ ム と 終 末 思 想 を 関 連 付 け た 伝 承 、E. エ ル サ レ ム で ム ス リ ム た ち が 体
験 し た 奇 跡 譚 、F. エ ル サ レ ム に あ る モ ニ ュ メ ン ト と そ こ へ の 参 詣 に 関 す る 伝 承 、G. エ ル サ レ
ム に 縁 の ム ス リ ム た ち の 伝 記 、 H. ク ル ア ー ン 解 釈 、 I. そ の 他 ( エ ル サ レ ム 以 外 に 関 す る フ ァ
ダ ー イ ル )の 9 つ の カ テ ゴ リ ー に 分 類 し 概 観 す る 。第 2 章 で は 、ア イ ユ ー ブ 朝 末 期 か ら マ ム ル
ー ク 朝 初 期 に 至 る ま で の 、比 較 的 初 期 に 編 纂 さ れ た FBM 作 品 を 検 討 す る 。こ の 時 期 の 作 品 は 、
先 行 研 究 が 指 摘 し て い る よ う に ハ デ ィ ー ス 集 と し て の 形 式 を 備 え て お り 、本 稿 で は こ の 時 代 の
作 品 を「 ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM 」と 呼 ぶ 。第 3 章 で は 、 FBM の 編 纂 が 盛 ん に な る マ ム ル ー ク 朝
時 代 に 、 従 来 の ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM が 「 参 詣 記 型 FBM」 と 「 地 誌 型 FBM」 と い う 2 つ の 方
向 へ と 変 化 し て い く 過 程 に つ い て 考 察 す る 。第 4 章 で は オ ス マ ン 朝 期 に 編 纂 さ れ た 作 品 を 取 り
上 げ 、 マ ム ル ー ク 朝 期 に 大 き く 変 化 し た FBM 編 纂 が 、 そ れ 以 降 の 時 代 に ど の よ う に 展 開 し て
い く か を 見 る 。終 章 で は 第 2 章 か ら 第 4 章 に か け て 検 討 し た FBM 編 纂 の 歴 史 を 総 括 し 、FBM
編纂を通じてシリアのムスリム社会の中で聖地としてのエルサレムの重要性が確立していく
過 程 を 考 察 す る 。 ま た 本 稿 の 巻 末 に は 資 料 編 と し て 、 オ ス マ ン 朝 時 代 に 成 立 し た FBM 作 品 の
ひ と つ で あ る LUJ を 取 り 上 げ 、 ア ラ ビ ア 語 写 本 の 校 訂 と 日 本 語 訳 注 を 付 し た 。
13
14
第 1 章 : FBM の 定 義 と 内 容 の 概 観
1 . 本 論 が 考 察 の 対 象 と す る FBM 作 品 の 決 定 と そ の 一 覧
序 章 に お い て 述 べ た よ う に 、 FBM に 関 す る 先 行 研 究 の 中 に は ア サ リ ー に よ る 写 本 研 究 が あ
り 、 彼 の 研 究 成 果 に よ り 記 録 に 残 る 多 く の FBM 作 品 の 書 名 や 著 者 名 、 そ の 写 本 に 関 す る 情 報
を 得 る こ と が で き る 。 FBM 研 究 の 基 礎 と な る 史 料 情 報 を 明 ら か に し た と い う 点 で ア サ リ ー の
研 究 は 非 常 に 有 用 で あ る が 、そ こ に は 様 々 な 問 題 点 も 見 ら れ る 。本 節 で は こ の ア サ リ ー の 先 行
研 究 を も と に 、 そ こ に 修 正 を 加 え な が ら 、 本 論 が 考 察 の 対 象 と す る FBM 作 品 を 決 定 し 、 そ の
一覧を提示する。
ア サ リ ー は 、 2/8 世 紀 か ら 14 /20 世 紀 初 頭 に ま で の 期 間 に ア ラ ビ ア 語 と オ ス マ ン 語 で 書 か れ
た FBM 作 品 と し て 、 現 存 し な い も の や 著 者 不 明 の も の も 含 め 4 9 作 品 を 挙 げ て い る ( ア ラ ビ
ア 語 48 作 品 、オ ス マ ン 語 1 作 品 )。こ の う ち 、現 時 点 で 筆 者 が 写 本 の 現 存 を 確 認 で き た も の は 、
ア ラ ビ ア 語 に よ る 32 作 品 で あ る 1 6 。 本 論 で は 、 執 筆 年 代 や 著 者 の 編 纂 方 法 ・ ス タ ン ス を 主 要
な 観 点 の ひ と つ と す る 関 係 上 、著 者 が 不 明 で あ る 4 作 品 は 考 察 の 対 象 か ら 外 す 。ま た ア サ リ ー
は 、14/ 20 世 紀 以 降 に 印 刷 本 の 形 で 出 版 さ れ た と さ れ る 作 品 を 4 つ 挙 げ て い る が 、こ れ ら の 作
品 に つ い て は 書 誌 情 報 や 著 者 に 関 す る 情 報 が 曖 昧 で 作 品 自 体 の 参 照 も 困 難 で あ る た め 、今 回 の
考 察 の 対 象 か ら は 除 外 す る 。 以 上 の 操 作 を 行 う と FBM 作 品 は 2 4 に 絞 ら れ る が 、 こ こ か ら さ
らに吟味を加えていく必要がある。
ア サ リ ー の FBM リ ス ト の 最 大 の 問 題 点 は 、 彼 が FBM に 属 す る と 見 な す 作 品 の 定 義 が 非 常
に 曖 昧 で あ り 、 そ の た め FBM に 分 類 で き な い 作 品 ま で も リ ス ト に 加 え て し ま っ て い る と い う
と こ ろ に あ る 。 ま ず こ の 24 作 品 の 中 に は 、 序 章 で も 述 べ た よ う に ラ バ イ ー に よ る FS-R が 含
ま れ て い る 。 ア サ リ ー は 、「 こ の 著 作 は 直 接 的 な 意 味 で の フ ァ ダ ー イ ル ・ バ イ ト ・ ア ル マ ク デ
ィ ス で は な い 」と 言 い な が ら も 、そ の 中 に エ ル サ レ ム に 関 す る 記 述 が あ る と し て 、こ れ を 自 身
の FBM リ ス ト に 含 め て い る [al- ʽAs alī 1984: 30]。 し か し な が ら 本 書 は あ く ま で 地 域 と し て の
シ リ ア と ダ マ ス カ ス を 讃 美 す る こ と に 焦 点 を 当 て た 著 作 で あ り 、ア サ リ ー の 言 う エ ル サ レ ム に
関 す る 記 述 も わ ず か な も の に 過 ぎ な い た め 、 こ れ を FBM の 範 疇 に 入 れ る べ き で は な い 。
ア サ リ ー の リ ス ト に は 、こ の 他 に も エ ル サ レ ム 以 外 を 対 象 と し た フ ァ ダ ー イ ル の 書 が 含 ま れ
ア サ リ ー が オ ス マ ン 語 に よ る FBM 作 品 と し て 挙 げ て い る の は 、ム ハ ン マ ド ・ ヤ フ ヤ ー ・ エ フ ェ ン デ
ィ ー Muḥammad Y a ḥyā Afan dī (d. 1010/16 01) に よ る 、 Faḍāʼ il Qud s Sh arīf と い う 作 品 で あ る 。 ア サ リ
ー は 本 作 品 の 情 報 を ク ラ チ コ フ ス キ ー I. Kratchkovsk i の 研 究 書 ( ア サ リ ー は ア ラ ビ ア 語 訳 版 を 参 照 )
か ら 得 て い る 。 ク ラ チ コ フ ス キ ー は 、 こ の ム ハ ン マ ド ・ エ フ ェ ン デ ィ ー と い う 人 物 は 、 Faḍāʼil M akk a
16
Mukarr ama、 F aḍā ʼil Mad īna Munaww ara 、 Faḍāʼi l Quds Sharīf の 、 3 聖 地 に 関 す る 3 つ の フ ァ ダ ー イ ル
作 品 を 編 纂 し た と し 、こ れ ら の 3 作 品 に は 多 く の 写 本 が 存 在 し て い る と 述 べ て い る [al- ʽAsa lī 1 984: 115;
Kratchkovsk i 1963- 65: Ⅱ , 612-13]。し か し な が ら 、筆 者 は 現 時 点 に お い て こ の Faḍāʼ il Qud s Shar īf の
写本の現存を確認できなかったため、本論では本写本は止むを得ず考察対象よ り外した。
15
て い る 。 そ の ひ と つ に は 、 8/15 世 紀 ヘ ブ ロ ン の 法 学 者 で あ っ た タ ド ム リ ー Isḥāq b. Ibrāhīm
al-Tadm urī (d. 833/1439) に よ る Muthīr al- Gharām ilā Ziyārat al-K halīl( 以 下 MG-T と 略 称 )
が あ る 。 ヘ ブ ロ ン と は エ ル サ レ ム の 南 西 方 向 に 位 置 す る 町 で 、「 神 の 友 al- Khalīl 」 と 呼 ば れ る
預 言 者 ア ブ ラ ハ ム が 住 ん だ 場 所 で あ る と さ れ て い る と こ ろ か ら 、そ の 名 を 取 っ て ア ラ ビ ア 語 で
は「 ハ リ ー ル 」と 呼 ば れ て い る 。 確 か に ヘ ブ ロ ン は エ ル サ レ ム 近 隣 に あ る 、 預 言 者 に 縁 の 聖 所
と し て 、FBM に お い て も 言 及 さ れ る こ と が 多 く 、 FBM と も 緊 密 な 関 連 性 を 持 っ て い る 。 し か
し な が ら MG-T は 、ほ ぼ 全 編 が 預 言 者 ア ブ ラ ハ ム と 彼 の 子 孫 た ち の 伝 記 、そ し て 彼 ら の 墓 が あ
る ヘ ブ ロ ン の 地 に 関 す る 伝 承 に 費 や さ れ て お り 、エ ル サ レ ム に 関 す る 伝 承 は 含 ま れ て い な い た
め [MG-T 2a-2b ; Ma tthews 1937: 114- 116]、 本 書 を FBM に 含 め る こ と は で き な い 。
ま た ア サ リ ー は 、モ ス ク に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル の 書 3 作 品 を も リ ス ト に 含 め て い る 。そ れ が 、
カ イ ロ の シ ャ ー フ ィ イ ー 派 法 学 者 ザ ル カ シ ー M uḥ ammad b. Bah ādir al -Zark as hī (d. 794/1392)
に よ る Iʽlām al-Sājid bi-Aḥkām al- Mas ājid( 以 下 IS と 略 称 )、 エ ジ プ ト の シ ャ ー フ ィ イ ー 派 法
学 者 ア ク フ ァ フ ス ィ ー Aḥm ad b. al -ʽIm ād al-Aqfahsī (d. 808/1405) に よ る Tashīl al-Maqās id
li- Zuwwār al- Masājid、 メ ッ カ の ハ ナ フ ィ ー 派 イ マ ー ム で あ っ た フ ワ ー リ ズ ミ ー Muḥ ammad b.
Isḥāq al-Khwārizmī (d. 827/1424) に よ る Athārat al-Targh īb wa al-Tashwīq ilā al-Masāj id
al-Thalātha wa ilā al- Bay t al-ʽAtīq で あ る 。 こ れ ら の 作 品 は 、 メ ッ カ の ハ ラ ー ム ・ モ ス ク 、 メ デ
ィ ナ の 預 言 者 の モ ス ク 、エ ル サ レ ム の ア ク サ ー・モ ス ク と い う 3 つ の 主 要 な モ ス ク を 中 心 と し
た イ ス ラ ー ム 世 界 の 様 々 な モ ス ク が 持 つ 美 徳 を 讃 美 す る 伝 承 や 、ま た 一 般 に モ ス ク と い う 場 所
で 、信 徒 は ど う い っ た 振 舞 い を す べ き か 、あ る い は す べ き で は な い の か と い う 規 範 と 、そ れ に
伴 う 利 益 や 懲 罰 に 関 す る こ と を 扱 っ た も の で あ る 。こ れ ら の 作 品 の 中 に は 確 か に ア ク サ ー・モ
ス ク に 関 す る 伝 承 が 含 ま れ て い る が 、 そ こ で は ア ク サ ー ・ モ ス ク は あ く ま で「 モ ス ク 」の 範 疇
の 中 で 捉 え ら れ て お り 、 FBM と は 作 品 の 構 成 や 主 眼 の 置 き 方 が 異 な っ て い る 。 そ の た め 一 部
に 共 通 す る 伝 承 を 持 つ か ら と い っ て 、 こ れ ら を FBM の 範 疇 に 含 め る こ と は で き な い 。
さ ら に ア サ リ ー の リ ス ト に は 、サ ラ ー フ・ ア ッ デ ィ ー ン の ワ ズ ィ ー ル で あ っ た イ マ ー ド ・ ア
ッ デ ィ ー ン ・ イ ス フ ァ ハ ー ニ ー ʽImād al-D īn M uḥ ammad b. M uḥammad al-Iṣ fah ānī (d.
597/1201) に よ る al-F atḥ al- Qussī fī al-Fatḥ al- Qudsī( 以 下 Fatḥ と 略 称 ) が 含 ま れ て い る 。 ア
サ リ ー は こ れ に つ い て も 、「 こ の 書 は 厳 密 に は フ ァ ダ ー イ ル ・ バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス で は な
く 歴 史 書 、 と り わ け 583/1187 年 の 〔 サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン に よ る 〕 ク ド ス 征 服 の 歴 史 書 で
あ る 」と し た 上 で 、な お そ こ に バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス を 称 賛 す る 詩 や 伝 承 な ど が 含 ま れ て い
る と し て 、 こ れ を FBM に 数 え て い る [al-ʽAsal ī 1984: 41]。 し か し こ の 著 作 の 主 眼 は 、 サ ラ ー
フ・ア ッ デ ィ ー ン が 十 字 軍 と の 戦 い を 通 じ て バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス を 含 む シ リ ア 地 域 を 征 服
し て い く 過 程 を 年 代 記 形 式 で 記 述 す る こ と に あ り 、エ ル サ レ ム 讃 美 そ の も の が 目 的 の 著 作 で は
な い 。エ ル サ レ ム に 関 す る 伝 承 を 含 む 歴 史 書 や 年 代 記 な ら ば こ れ 以 外 に も 数 多 く 存 在 す る の で
あるから、それらを考慮せず本書のみをリストに加えるアサリーの判断には問題がある。
16
アサリーがこれらの作品を自身のリストに取り上げているのは、これらの作品が一部の
FBM の 中 に 、 そ の 典 拠 と し て 挙 げ ら れ て い る た め で あ る と 考 え ら れ る 。 確 か に こ れ ら の 6 作
品 は FBM の 内 容 や 構 成 に 影 響 を 与 え て お り 、FBM 研 究 に お い て そ の 関 連 性 は 無 視 で き る も の
で は な い 。し か し な が ら こ れ ら は あ く ま で FBM の 周 辺 に あ る 作 品 群 と 見 な し 、FBM そ れ 自 身
の 範 疇 に 含 め る べ き で は な い 。 な お こ れ ら の 周 辺 作 品 と FBM と の 引 用 ・ 被 引 用 関 係 に つ い て
は 、 第 2 章 以 降 FBM の 各 作 品 を 個 別 に 取 り 上 げ て い く 中 で 改 め て 考 察 す る 。
こ の 他 ア サ リ ー の FBM リ ス ト に は 、 現 存 す る 写 本 の 情 報 に 疑 問 の 余 地 が あ る も の が 2 点 含
ま れ て い る 。1 つ 目 は 、カ ー ス ィ ム・ブ ン・ア リ ー・イ ブ ン・ア サ ー キ ル Qās im b. ʽAlī b.ʽAsāk ir
(d. 600/1203) に よ る al- Jām iʽ al-Mustaqṣā fī F aḍāʼ il al- Masjid al-Aqṣā( 以 下 J M と 略 称 )、 2 つ
目 は 、 ア フ マ ド ・ ブ ン ・ ム ハ ン マ ド ・ イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル Aḥmad b. Muḥ am mad b.ʽAs ākir (d.
610/1213) に よ る Uns fī Faḍāʼil al-Quds( 以 下 UFQ と 略 称 ) で あ る 。
カ ー ス ィ ム ・ イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル は 、『 ダ マ ス カ ス 史 Tār īkh Madīnat Dimas hq 』 の 著 者 と し
て 有 名 な ダ マ ス カ ス の 知 識 人 、 ア リ ー ・ イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル ʽAl ī b. al-Ḥas an b. ʽAsākir (d.
571/1176) の 長 男 で あ り 、 彼 の 著 作 は 後 代 の 多 く の FBM 編 纂 者 に よ っ て 参 照 さ れ て い る 重 要
な 作 品 で あ る 。本 書 の 写 本 に つ い て ア サ リ ー は 、完 全 な 写 本 は 現 存 し て い な い と 述 べ る 一 方 で 、
カ イ ロ の ア ズ ハ ル 図 書 館 Maktab at al-A zhar al-Sh arīf に 所 蔵 さ れ て い る ”al-Mustaqṣā fī Ziy ārat
al-Masjid al-Aqṣā” (MS. t ārīkh 3971) 1 7 と い う 題 の 写 本 の 断 片 を 、 こ の カ ー ス ィ ム の 著 作 と 同
定 し て い る [al -ʽAs alī 1984: 49-50]。
筆 者 が こ の 写 本 の マ イ ク ロ フ ィ ル ム を 確 認 し た と こ ろ 、 葉 数 に し て 10 葉 の ご く 短 い 写 本 で
あ り 、そ の う ち 第 1 葉 か ら 第 7 葉 ま で が フ ァ ダ ー イ ル・ バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス 、第 8 葉 か ら
第 10 葉 ま で は ア ッ カ ー と ア ス カ ラ ー ン に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル に 充 て ら れ て い た 。 第 7 葉 b の
下 部 欄 外 に 、本 文 の 筆 跡 と は 異 な る 筆 跡 で「 イ ブ ン・ア サ ー キ ル に よ る 、” al- Mustaqṣā fī Ziy ārat
al-Masjid al-A qṣā” と 名 付 け ら れ た こ の 書 は 以 上 。 至 高 な る 神 が 彼 を 憐 れ み 給 わ ん こ と を 」 と
書 か れ て お り 、こ の た め ア サ リ ー は こ の 写 本 を 、カ ー ス ィ ム ・ イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル の 著 作 で あ
る と 見 な し た の で あ ろ う 。ア ズ ハ ル 図 書 館 が 添 付 し た 写 本 表 紙 に も 、著 者 の 欄 に ”Bah āʼ al-Dīn
(al-Q āsim) Ibn ʽAsāk ir” と 記 入 さ れ て い る 。
し か し な が ら こ の ア ズ ハ ル 写 本 は 、必 ず し も カ ー ス ィ ム ・ イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル の JM で あ る
と は 断 定 で き な い 。 彼 の 著 作 は 後 代 の 多 く の FBM の 典 拠 と し て そ の 名 が 挙 げ ら れ て い る と こ
ろ か ら 、多 く の 伝 承 を 含 み 、あ る 程 度 ま と ま っ た 分 量 を 持 つ 作 品 で あ っ た と 考 え ら れ る 。例 え
ば マ ム ル ー ク 朝 後 期 に 編 纂 さ れ た al- Rawḍ al- Mugharras fī Faḍāʼ il Bay t al - Maqdis や I tḥāf
al-Akhiṣṣāʼ bi-Faḍāʼ il al-Masjid al-A qsā の 序 文 に は 、「 イ マ ー ム に し て ハ ー フ ィ ズ 、イ ス ラ ー ム
のシャイフたるアブー・アルカースィム・アリー・ブン・アルフサイン・ブン・ハッバト ・ア
17
ア ズ ハ ル 写 本 の マ イ ク ロ フ ィ ル ム の 写 し が 、 カ イ ロ の ア ラ ブ 連 盟 写 本 研 究 所 Maʽhad a l- Makh ṭūṭā t
al- ʽArabīy a の 第 2018 番 写 本 と し て 登 録 さ れ て い る 。 筆 者 は こ ち ら を 利 用 し た 。
17
ッ ラ ー ・ ブ ン ・ ア サ ー キ ル の 息 子 で あ る 、イ マ ー ム に し て ハ ー フ ィ ズ た る バ ハ ー ・ ア ッ デ ィ ー
ン ・ ア ブ ー ・ ム ハ ン マ ド ・ カ ー ス ィ ム の al- Jāmiʽ al-Mustaqṣā fī Faḍāʼ il al-Masjid al-Aqṣā を 読
ん だ 。こ れ は よ り 標 準 的 な 巻 で あ る 。ま た こ れ を 写 し た い く つ か の 書 物 も 読 ん だ 。そ れ ら に は
16 あ る い は 17 の 部 分 juzʼ が あ っ た 」と あ り [ RM(B) 123b-124a; IA ⅰ , 84]、JM が 16 あ る い
は 17 の 部 分 か ら 構 成 さ れ て い た こ と が 述 べ ら れ て い る 。 こ れ に 対 し ア ズ ハ ル 写 本 は 、 葉 と 葉
と の 間 に 記 述 内 容 の 脱 落 が 見 ら れ な い に も 関 わ ら ず わ ず か 10 葉 と い う 分 量 で あ り 、 そ れ ほ ど
の章構成は見られない。
ま た JM を 参 照 し て い る こ と が 明 ら か な フ ァ ザ ー リ ー Ibr āhīm b. ʽAbd al- Raḥmān al- Fazār ī
(d. 729/1329) の Bāʽith al-Nuf ūs ilā Ziy ārat al- Quds al- Maḥr ūs( 以 下 BN と 略 称 ) で は 、「 ハ ー
フ ィ ズ ・ バ ハ ー ・ ア ッ デ ィ ー ン ( カ ー ス ィ ム ・ イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル ) が 彼 の al-Mustaqṣ ā の 書
の 中 で 、〔 教 友 の 〕 ア ブ ー ・ ザ ッ ル Abū Dharr に 遡 る イ ス ナ ー ド に よ っ て 伝 え て い る と こ ろ で
は 」 と あ り [BN 5]、 JM の そ れ ぞ れ の 伝 承 に は イ ス ナ ー ド の 記 載 も あ っ た も の と 思 わ れ る 。 し
か し ア ズ ハ ル 写 本 に は イ ス ナ ー ド の 記 載 は 見 ら れ な い 。 詳 細 は 本 論 第 3 章 に て 述 べ る が 、 BN
は JM と 、イ ブ ン・ア ル ム ラ ッ ジ ャ ー に よ る FBM- IM を 典 拠 と し て 編 纂 さ れ て い る 。FBM- IM
と BN の 内 容 を 比 較 す る と 、 BN に は FBM- IM と 共 通 し な い 伝 承 が 30 含 ま れ て お り 、 そ う で
あ れ ば こ れ ら の 30 の 伝 承 は J M よ り 引 用 さ れ た も の で あ る と い う こ と に な る 。 し か し な が ら
これらの伝承のうち、問題のアズハル写本に確認できるもの 4 つに過ぎない。この点からも、
ア ズ ハ ル 写 本 は 少 な く と も JM の 全 内 容 を 表 し た も の で は な い と い う こ と に な る 。
以 上 の 点 よ り こ の 写 本 は 、 JM の 一 部 分 を 抜 き 書 き し た も の で あ る か 、 あ る い は 何 ら か の 別
の FBM 作 品 に 、 誤 っ て カ ー ス ィ ム ・ イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル の 名 前 が 書 き 込 ま れ た も の と も 考 え
ら れ る 。い ず れ に せ よ こ の ア ズ ハ ル 写 本 を JM の 完 全 な 写 本 と 見 な し 、一 個 の 作 品 と し て 考 察
を進めることは難しく、さしあたって本論ではこれを考察の対象から外すこととする。
も う 一 方 の UFQ の 著 者 で あ る ア フ マ ド ・ イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル は 、 ア リ ー ・ イ ブ ン ・ ア サ ー
キ ル の 弟 の 長 男 、す な わ ち カ ー ス ィ ム ・ イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル の 従 弟 に 当 た る 人 物 で あ る 。彼 は
カ ー ス ィ ム の JM を 典 拠 と し て 自 ら の 著 作 を 著 し て お り 、そ の こ と は 彼 ら の 作 品 を 参 照 し た 後
代 の 作 品 の 中 に 引 用 さ れ て い る [RM( M) 124a; IA ⅰ , 85-86]。 こ れ に つ い て も ア サ リ ー は 、 写
本 は 現 存 し て い な い と し な が ら も 、 フ ェ ズ の カ ラ ウ ィ ー イ ー ン 図 書 館 Khiz ānat al -Qar aw īyīn
の 第 1250 番 写 本 に 、 ア ブ ー ・ ム ハ ン マ ド ・ ア ブ ド ・ ア ッ ラ フ マ ー ン Abū Muḥammad ʽAbd
al-Raḥm ān と い う 人 物 に よ る ”al- Uns b i-Tār īkh al- Quds” と い う 題 の も の が あ る と 聞 い た と 述
べ て い る 。ア サ リ ー は 、ア フ マ ド・イ ブ ン・ア サ ー キ ル の ク ン ヤ ( 尊 称 )も ア ブ ー・ ム ハ ン マ
ド で あ る こ と か ら 、 こ れ が お そ ら く 彼 の 著 作 の 写 本 で あ ろ う と し て い る [ al - ʽ A s al ī 1 98 4: 52 ] 。
筆 者 が カ ラ ウ ィ ー イ ー ン 図 書 館 の 写 本 カ タ ロ グ を 確 認 し た と こ ろ 、 第 1250 番 に は そ う し た
題 の 写 本 は 存 在 し な か っ た 。 同 カ タ ロ グ の 2 番 後 の 第 1252 番 に は 、「 ウ ラ イ ミ ー 、 ア ブ ー ・
ア ル ヤ マ ン 、ム ジ ー ル ・ア ッ デ ィ ー ン 、ア ブ ド ・ ア ッ ラ フ マ ー ン ・ ブ ン ・ ム ハ ン マ ド ʽUl aymī,
18
Abū al-Yam an, Mujīr al -Dīn, ʽAbd al-Raḥmān b. Muḥamm ad・・・860 年 生 、 92 7 年 没 、 ・・・ Uns
al- Jalīl bi- Tār īkh al- Quds wa al -Khalīl」 [al-Fās ī ⅲ , 215]と の 記 載 が あ り 、 ア サ リ ー は こ の 写 本
に つ い て 言 及 し て い る と 考 え ら れ る の だ が 、こ れ は 明 ら か に ア サ リ ー が リ ス ト の 別 項 に 挙 げ て
い る ウ ラ イ ミ ー と そ の 著 作 の 写 本 で あ る 1 8 。 ま た こ の 部 分 以 外 に も 、 同 カ タ ロ グ 内 に U FQ と
思 し き 写 本 の 記 載 は 見 ら れ な か っ た 。こ の 写 本 に つ い て は 、ア サ リ ー は 十 分 な 調 査 を し な い ま
ま 、別 の 写 本 と 混 同 し て い る も の と 考 え ら れ る 。筆 者 は 現 時 点 で は ア サ リ ー が 主 張 し て い る も
の の 他 に U FQ の 写 本 に 関 す る 情 報 を 得 て い な い た め 、 本 稿 で は こ れ は 現 存 し な い FBM で あ
ると見なして考察の対象から外す。
一 方 、 ア サ リ ー の リ ス ト に 挙 げ ら れ て い な い も の で そ の 存 在 が 確 認 で き た FBM と し て は 、
ダ マ ス カ ス の ハ ン バ ル 派 法 学 者 で あ る デ ィ ヤ ー ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ マ ク デ ィ ス ィ ー Ḍiy āʼ al-Dīn
Muḥammad b. ʽAbd al-W āḥid al-M aqdisī (d. 643/1245) に よ る Faḍāʼil Bayt al-Maqdis が あ る 。
こ れ に つ い て は 198 8 年 に ダ マ ス カ ス で 翻 刻 本 が 出 版 さ れ て い る 。 翻 刻 者 の ム ハ ン マ ド ・ ム テ
ィ ー ゥ Muḥ ammad M uṭīʽ に よ れ ば 、 本 書 は マ ク デ ィ ス ィ ー に よ る F aḍāʼ il al -Shām 3 部 作 の 、
第 2 部 に あ た る も の で あ る と い う 。第 1 部 と 第 3 部 に つ い て は 現 存 せ ず そ の 内 容 は 不 明 と あ る
が 、書 名 よ り お そ ら く シ ャ ー ム 地 域 に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル の 書 で あ ろ う 。底 本 と な っ た 写 本 は
ダ マ ス カ ス の ザ ー ヒ リ ー ヤ 図 書 館 al-M aktab a al-Ẓ āhirīya に の み 所 蔵 さ れ る ( MS. majmūʽ 48)、
著 者 本 人 の 手 に な る 貴 重 な 写 本 で あ る と い う 。校 訂 者 は こ の 写 本 が ア サ リ ー の リ ス ト に 入 っ て
い な い 理 由 に つ い て 、 こ の 写 本 が ザ ー ヒ リ ー ヤ 図 書 館 の カ タ ロ グ で は Faḍāʼil al-Shām の 書 名
に て 掲 載 さ れ て お り 、そ の 中 に エ ル サ レ ム に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル を 含 む 一 部 が あ る こ と が 添 え
ら れ て い な か っ た た め で あ ろ う と し て い る [FBM-Ḍ 27]。
以 上 よ り 、ア サ リ ー の 挙 げ た 現 存 し 著 者 名 の 明 ら か な 24 作 品 の う ち 、FBM に は 含 め る こ と
が で き な い 、 あ る い は 書 誌 情 報 の 不 明 瞭 な 8 作 品 を 除 き 、 ま た 新 た に 1 作 品 を 追 加 す る と 17
作 品 と な る 。 本 稿 で は こ れ ら の FBM を 直 接 の 考 察 対 象 と す る 。 [表 1] は 、 こ れ ら の 作 品 を 著
者の没年を基準に年代順に並べ、確認できる限りにおいてそれぞれの著者の生没地、法学派、
略 歴 を 添 え た も の で あ る 。写 本 が 現 存 し な い 作 品 に つ い て も 、著 者 に 関 す る 情 報 が 明 ら か な も
の に つ い て は 、 FBM 作 品 群 全 体 の 傾 向 を よ り 明 確 に す る た め の 成 立 年 代 や 著 者 の 立 場 の サ ン
プルとして、一覧に含めた。以降本稿では、各作品の略称と番号はこの表に従うものとする。
な お [表 1] に お い て 、グ レ ー の 欄 は 現 存 し な い 作 品 で あ り 、ま た「 法 学 派 」の 欄 に つ い て は 、
S が シ ャ ー フ ィ イ ー 派 、 HB が ハ ン バ ル 派 、 HF が ハ ナ フ ィ ー 派 、 M が マ ー リ ク 派 を 表 し て お
り、矢印→は法学派の変更を表すものとする。
な お カ ラ ウ ィ ー イ ー ン 図 書 館 に は 、第 1252 番 写 本 の 他 に 3 つ の ウ ラ イ ミ ー の FBM の 写 本 が 所 蔵 さ
れ て い る が ( 第 556-558 番 ) [al- Fāsī ⅱ , 70 -7 2]、 ア サ リ ー は ウ ラ イ ミ ー の 項 で は こ れ ら の 写 本 情 報 に
18
は 触 れ て い な い [al-ʽ Asalī 1 984 : 10 9- 1 12] 。 こ の 点 か ら も 、 ア サ リ ー は 同 図 書 館 の カ タ ロ グ を 十 分 に 調
査していないものと思われる。
19
20
Kitāb Man Nazala Filasṭīn min al-Ṣaḥāba
Akhbār Bayt al-Maqdis
Faḍā’il Bayt al-Maqdis
Faḍā’il Bayt al-Maqdis
Mūsā b. Sahl al-Ramlī
Aḥmad b. Khalf al-Subḥī
al-Walīd b. Ḥammād al-Ramlī
Muḥammad b. Aḥmad al-Wāsiṭī
FBM-W
FBM-IM
2
3
4
5
6
MM
FBM-Ḍ
12
13
Faḍā’il Bayt al-Maqdis
Faḍā’il Bayt al-Maqdis wa Faḍā’il al-Shām
Faḍā’il Bayt al-Maqdis wa Faḍā’il al-Shām
Bāʽith al-Nufūs ilā Ziyārat al-Quds al-Maḥrūs
Ibrāhīm b. Yaḥyā al-Miknāsī al-Tilimsānī
Muḥammad b. Muḥammad al-Kanjī
Ibrāhīm b. ʽAbd al-Raḥmān al-Fazārī
FBM-M
FBM-K
BN
16
17
18
Rawḍat al-Awliyā’ fī Masjid Īliyā’
Faḍā’il Bayt al-Maqdis
fī Ziyārat Bayt al-Maqdis
Miftāḥ al-Maqāṣid wa Miṣbāḥ al-Marāṣid
al-Uns fī Faḍā’il al-Quds
Faḍā’il Bayt al-Maqdis
ʽAbd Allāh b. al-Ḥasan Ibn ʽAsākir
al-Baghdādī
Muḥammad b. Maḥmūd Ibn al-Najjār
ʽAbd al-Wāḥid al-Maqdisī
Ḍiyā’ al-Dīn Muḥammad b.
ʽAbd al-Raḥīm b. ʽAlī al-Qurashī al-Isnā’ī
Aḥmad b. Muḥammad Ibn ʽAsākir
al-Dimashqī
Ḥasan b. Habbat Allāh b. Ṣaṣrā
fī Faḍā’il al-Masjid al-Aqṣā
15
14
UFQ
11
10
JM
9
al-Jāmiʽ al-Mustaqṣā
Faḍā’il al-Quds
ʽAbd al-Raḥmān b. ʽAlī b. al-Jawzī
FQ
8
Qāsim b. ʽAlī Ibn ʽAsākir
Faḍā’il Bayt al-Maqdis
Makkī b. ʽAbd al-Sallām al-Rumaylī
7
wa Faḍāʼil al-Shām
Faḍā’il Bayt al-Maqdis wa al-Khalīl
Kitāb Futūḥ Bayt al-Maqdis
Ishāq b. Bishr al-Bukhārī
1
Musharraf b. al-Murajjā al-Maqdisī
書名
著者名
FBM著者・作品一覧
番号
[表1]
没 c. 300/912
生600/1203 (ダマスカス)
没645/1248
生600/1204 (ミクナース)
没666/1268 (ファイユーム)
生?
没682/1283 (エルサレム)
生660/1264 (ダマスカス)
没729/1329 (ダマスカス)
生578/1183 (バグダード)
没643/1245 (バグダード)
生569/1174 (ダマスカス)
没643/1245 (ダマスカス)
S
S
S
S
HB
S
生542/1148 (ダマスカス)
没610/1213 (ダマスカス)
生550/1155 (イスナー)
没625/1228 (ダマスカス)
S
S
HB
S
S
法学派
生537/1142 (ダマスカス)
没586/1190
生527/1133 (ダマスカス)
没600/1203 (ダマスカス)
生432/1040 (エルサレム)
没492/1099 (エルサレム)
生510/1116 (バグダード)
没597/1201 (バグダード)
生?
没 c. 450/1058 (エルサレム)
生?
没 p. 410/1019 (エルサレム)
生?
H3C-H4C
生? 没261/874-5
生? (バルフ)
没206/821 (ブハラ)
生没年(場所)
バーダラーイーヤ学院(ダマスカス)
のシャイフ
Ḍiyā’ al-Dīn al-Maqdisī (13) の弟子
Ibn al-Jawzī (8),
Aḥmad Ibn ʽAsākir (11) の弟子
Ibn al-Jawzī (8),
のワズィール
アイユーブ朝 al-Malik al-Muʽaẓẓam
Qāsim Ibn ʽAsākir (9) の従弟
Qāsim Ibn ʽAsākir (9) の弟子
ヌーリーヤ学院(ダマスカス)
のシャイフ
バグダードのハティーブ
Ibn al-Murajjā (6) の弟子
エルサレムのムフティー
アクサー・モスクのハティーブ
著者の経歴
21
Mustaqṣā
Risāla
LUJ
ḤI
32
33
34
UJ
31
30
29
28
fī al-Masjid al-Aqṣā
fī Taḥā’if al-Quds wa al-Khalīl
Ḥusn al-Istiqṣā’ li-mā Ṣaḥḥa wa Thabata
(Tārīkh Binā’ al-Bayt al-Maqqdas)
Laṭā’if Uns al-Jalīl
Risāla fī Taʽmīr ʽAyn Bayt al-Maqdis
al-Mustaqṣā fī Faḍā’il al-Masjid al-Aqṣā
Faḍā’il Bayt al-Maqdis
li-al-Masjid al-Aqṣā
al-Mustaqṣā fī Faḍā’il al-Ziyāra
al-Uns al-Jalīl bi-Tārīkh al-Quds wa al-Khalīl
(al-ʽAsalī, Makhṭūṭāt Faḍā’l al-Bayt al-Maqdis をもとに筆者が作成)
al-Azharī al-Khalwatī
Muḥammad b. Muḥammad al-Tāflātī
Muṣṭafā b. Asʽad al-Luqaymī al-Dimyāṭī
Muḥammad b. Muḥammad al-Khalīlī
al-ʽAlamī al-Maqdisī
Naṣr al-Dīn Muḥammad b. Muḥammad
al-Ṣāliḥī
Shams al-Dīn Muḥammad b. ʽAlī b. Ṭūlūn
Naṣr al-Dīn al-Ḥalabī al-Rūmī
b. Muḥammad al-ʽUlaymī al-Maqdisī
Mujīr al-Dīn ʽAbd al-Raḥmān
Itḥāf al-Akhiṣṣā’ bi-Faḍā’il al-Masjid al-Aqṣā
Muḥammad b. Aḥmad al-Minhājī al-Suyūṭī
IA
fī Faḍā’il Bayt al-Maqdis
al-Dimashqī
27
al-Rawḍ al-Mugharras
ʽAbd al-Wahhāb b. ʽUmar al-Ḥusaynī
RM
Faḍā’il Bayt al-Maqdis
Ḥamza b. Aḥmad al-Ḥusaynī
25
26
Tajrīd Man Nazala Bayt al-Maqdis
Tārīkh al-Quds
Muḥammad b. Muhibb al-Dīn ʽAbd Allāh
al-Maqdisī
Muḥammad b. Maḥmūd b. Isḥāq
wa al-Shām
al-Maqdisī
24
23
Muthīr al-Gharām ilā Ziyārat al-Quds
MG-M
22
Shihāb al-Dīn Aḥmad b. Muḥammad
TU
21
fī Faḍā’il al-Quds
Masā’il al-Uns fī Tahdhīb al-Wārid
Taḥṣīl al-Uns li-Zā’ir al-Quds
Khalīl b. Kaykaldī al-ʽAlā’ī
MU
20
Silsilat al-ʽAsjad fī Ṣifat al-Aqṣā wa al-Masjid
ʽAbd Allāh b. Yūsuf al-Anṣārī
Aḥmad b. ʽAbd Allāh
19
Ma→
HF
S
生1105/1693 (ダミエッタ)
没1178/1765 (ダマスカス)
生?(モロッコ)
没1191/1777 (エルサレム)
S
HF
HF
生?(ヘブロン)
没1148/1743 (エルサレム)
生?(エルサレム)
没 a. 952/1545-46
生880/1475 (ダマスカス)
没953/1546
生?(エルサレム)
没948/1541
HB
(S)
S
生813/1410 (アスユート)
没8801475 (カイロ)
生860/1456 (エルサレム)
没928/1522 (エルサレム)
S
S
HB
生800/1397-98 (ダマスカス)
没875/1470 (メッカ)
生712/1312
没789/1387 (ダマスカス)
生818/1415 (ダマスカス)
没874/1469 (エルサレム)
生?(アレッポ)
没776/1374-75
S
エルサレムのムフティー
al-Khalīlī (32) の弟子
バラディーヤ学院(エルサレム)
のシャイフ
エルサレムの大カーディー
に仕える
アレッポ総督 Amīr Jānim Bek
ダマスカス、アレッポのカーディー
al-ʽAlā’ī (20) と交友関係
タンキズィーヤ学院(エルサレム)の
シャイフ、al-ʽAlā’ī (20) の弟子
カイロのハンバル派マドラサのシャイフ
S→
HB
生708/1309 (エジプト)
没761/1360 (エジプト)
生714/1314 (エルサレム)
没765/1364 (エルサレム?)
サラーヒーヤ学院(エルサレム)の
シャイフ、al-Fazārī (18) の弟子
S
HF
生694/1295 (ダマスカス)
没761/1359 (エルサレム)
生? 没755/1354
RM と Mustaqṣ ā に つ い て は 、 ど ち ら も 完 全 な 写 本 は メ デ ィ ナ の ア ー リ フ ・ ヒ ク メ ト ・ ア ッ
シ ャ リ ー フ 図 書 館 M aktabat ʽĀrif Ḥik met al-Sharīf( 現 マ リ ク ・ ア ブ ド ・ ア ル ア ズ ィ ー ズ 図 書
館 Maktabat al-M alik ʽAb d al- ʽAzīz al- ʽĀmma)に 所 蔵 さ れ て い る の み で あ る [al-ʽAs alī 1984: 92,
115-116]。筆 者 は マ リ ク・ア ブ ド・ア ル ア ズ ィ ー ズ 図 書 館 に 写 本 の 複 写 に つ い て 問 い 合 わ せ た
が返答がもらえず、残念ながらこれらの写本を参照することができなかった。
RM は ベ ル リ ン 州 立 図 書 館 Staatsbibli othek zu Berlin に も 写 本 が 1 点 所 蔵 さ れ て い る が 、
こ ち ら は RM の 全 37 章 の う ち 、 序 文 と 第 1 章 か ら 第 14 章 ま で の 前 半 部 分 の み を 含 む 不 完 全
な 写 本 で あ る 。 ま た RM と M ustaqṣ ā の メ デ ィ ナ 写 本 に つ い て は 、 イ ブ ラ ー ヒ ー ム が 内 容 の 一
部 を 翻 刻 し 出 版 し て い る [Ibrāh īm 1985: 433-460, 489- 521]。 よ っ て RM と Mustaqṣ ā に 関 し
てはベルリン写本とイブラーヒームによる翻刻を利用する。
2 . FBM に 含 ま れ る 伝 承 の カ テ ゴ リ ー
本 節 で は 、 次 章 以 降 で そ れ ぞ れ の 作 品 に つ い て 個 別 に 検 討 す る 前 に 、 FBM に お い て ど の よ
う な 内 容 の 伝 承 が 取 り 上 げ ら れ る の か を 概 観 し た い 。 こ こ で は FBM に 含 ま れ る 伝 承 を 、 第 2
章 以 降 で の 分 析 に 資 す る べ く 、そ の 内 容 の 性 格 に よ っ て 、以 下 の 9 つ の カ テ ゴ リ ー に 分 類 す る 。
す な わ ち 、A. エ ル サ レ ム の 歴 史( イ ス ラ ー ム 以 前 )、B. エ ル サ レ ム の 歴 史( イ ス ラ ー ム 時 代 )、
C. エ ル サ レ ム の 神 聖 さ ・ 偉 大 さ に 関 す る 伝 承 、 D. エ ル サ レ ム と 終 末 思 想 を 関 連 付 け た 伝 承 、
E. エ ル サ レ ム で ム ス リ ム た ち が 体 験 し た 奇 跡 譚 、F. エ ル サ レ ム に あ る モ ニ ュ メ ン ト と そ こ へ
の 参 詣 に 関 す る 伝 承 、 G. エ ル サ レ ム に 縁 の ム ス リ ム た ち の 伝 記 、 H. ク ル ア ー ン 解 釈 、 I. そ
の他(エルサレム以外に関するファダーイル)の 9 つである。
A. エ ル サ レ ム の 歴 史 ( イ ス ラ ー ム 以 前 )
FBM を 構 成 す る 伝 承 の う ち 、 数 の 上 で 大 き な 割 合 を 占 め て い る の が 、 エ ル サ レ ム の 歴 史 に
関 す る 伝 承 で あ る 。イ ス ラ ー ム 以 前 の 歴 史 に つ い て は 、序 章 で 述 べ た よ う に ユ ダ ヤ 教 ・キ リ ス
ト 教 の 伝 承 、す な わ ち イ ス ラ ー イ ー リ ー ヤ ー ト か ら 一 神 教 の 歴 史 が 取 り 入 れ ら れ て お り 、カ ァ
ブ・アルアフバールやワフブ・ブン・ムナッビフ、アブド・アッラー・ブン・サラームといっ
た 、ユ ダ ヤ 教 か ら の 改 宗 者 、あ る い は そ の 家 系 に 繋 が る 人 物 が 多 く の 伝 承 を 伝 え て い る 。そ れ
ら は 神 に よ る 天 地 創 造 に 始 ま り 、ア ダ ム を 祖 と す る 預 言 者 た ち の 事 績 を 中 心 と し た 歴 史 で あ り 、
基本的には聖書の記述に一致している。
FBM に お け る 歴 史 記 述 に は 、連 続 性 に 乏 し い と い う 大 き な 特 徴 が あ る 。FBM の 歴 史 記 述 は
神 殿 や ハ ラ ム ・シ ャ リ ー フ の 存 在 を 核 と し た も の で 、そ の 建 設 や 整 備 、あ る い は 崩 壊 に ま つ わ
る エ ピ ソ ー ド が 大 部 分 を 占 め て い る 。こ の カ テ ゴ リ ー の 中 心 と な る 伝 承 は 、イ ス ラ エ ル 王 ダ ビ
22
デ と ソ ロ モ ン に よ る 神 殿 建 設 で あ り 、伝 承 の 数 や ヴ ァ リ エ ー シ ョ ン の 豊 富 さ 、そ れ を 取 り 上 げ
る 作 品 の 数 は 、こ の カ テ ゴ リ ー に 属 す る 伝 承 の 中 で も 最 多 で あ る 。一 例 と し て 、以 下 に ワ フ ブ
より伝えられている伝承を挙げる。
〔 ワ フ ブ ・ ブ ン ・ ム ナ ッ ビ フ は 以 下 の よ う に 伝 え た 〕 ダ ビ デ 19 は イ ス ラ エ ル の 民 の 人 口 を 知 り た
いと思い。軍団長たちを派遣して、彼らに人々の数がいかほどかを報告するように命じた。このゆ
え に 、 強 大 に し て 栄 光 あ る 神 は 彼 を 叱 責 な さ っ て 言 わ れ た 。「 私 が ア ブ ラ ハ ム と 交 わ し た 約 束 を 汝 は
知っていよう。私は彼と彼の子孫たちに祝福を与え、彼らを砂粒のように多くし、その数を数え切
れないようにすると約束した。それなのに汝は人々の数を知りたがっている。彼らの数は数え切れ
ぬ も の を 。ゆ え に 汝 ら は 汝 ら の 試 練 を 選 ば な け れ ば な ら な い 。3 年 間 の 飢 餓 か 、汝 ら の 上 に 3 か 月 間
敵が襲いかかることか、あるいは 3 日間の死〔の病〕か」ダビデはこのことをイスラエルの民に繰
り 返 し た 。 す る と 彼 ら は 言 っ た 。「 我 々 に は 3 年 間 の 飢 饉 に は 耐 え ら れ ま せ ん 。 3 か 月 間 敵 に 襲 わ れ
ることもそうです」そうなると彼らには、他に残っているものはなかった。死の病ならば神の御手
によるものであって、他の何者の手によるものでもなかったからである。ワハブが語ったところで
は 、1 年 間 の う ち に 彼 ら の う ち の 数 千 人 、数 を 把 握 す る こ と も で き な い 人 数 が 死 ん だ 。ダ ビ デ が そ れ
を見たとき、その死者の多さに彼は苦しんだ。彼は強大にして栄光ある神に求め、祈りを捧げて言
っ た 。「 我 が 主 よ 、 今 私 は 酸 い も の を 口 に し 、 イ ス ラ エ ル の 民 は 〔 そ の 酸 い も の の ゆ え に 〕 口 が 痺 れ
ております。確かに私はこのことを求め、イスラエルの民にも〔このことを〕命じましたが、これ
ではどうしようもありません。どうか私に免じてイスラエルの民をお救いください」強大にして栄
光ある神は彼の願いを聞き届けられ、人々の上から死の病を取り除けられた。さてダビデは、剣を
引き抜いて持っている天使たちが、その剣を鞘に戻し、黄金の階段を、かの岩から天へと昇ってい
く の を 見 た 。ダ ビ デ は 言 っ た 。
「 こ れ こ そ 神 の た め の 礼 拝 所 、栄 光 の 台 座 が 建 て ら れ る べ き と こ ろ だ 。
礼拝所の建設のためにここを取り上げたいものだ」しかし強大にして栄光ある神は彼に啓示を下し
て 言 わ れ た 。「 こ こ は 神 聖 な る 家 で あ る 。 汝 は そ の 手 を 血 で 染 め た が ゆ え に 、 そ れ を 建 て る 者 と な る
ことはできない。しかし汝の息子は、私は汝の後に彼を王とし、彼をソロモンと名付けて彼を血よ
り 守 る 」 ソ ロ モ ン は 王 に な る と 、 そ れ を 建 て 聖 別 し た [FBM- W 9-10 ] 2 0 。
FBM の 歴 史 記 述 に お け る 連 続 性 の 欠 如 、す な わ ち あ る 特 定 の 出 来 事 の み に 偏 っ た 記 述 法 は 、
歴 史 書 と し て の 性 格 の 強 い UJ に お い て も な お 見 ら れ る も の で あ る 。 UJ は そ の 他 の 作 品 に 比
べ て 多 く の 歴 史 的 な 伝 承 を 扱 っ て お り 、そ れ ら を 天 地 創 造 以 降 古 い 時 代 か ら 新 し い 時 代 へ と 時
間 の 流 れ に 沿 っ て 配 列 し て は い る が 、そ の 記 述 方 法 が そ れ ぞ れ の 預 言 者 の 事 績 と い う「 点 」の
集 合 で あ る こ と に 変 わ り は な い 。他 の 作 品 と の 相 違 点 は 、 そ れ ら の 「 点 」と 「 点 」と の 間 隔 が
19
本論の引用部分においては、預言者や教友たちの名前に付せられる「彼に平安あれ」等の頌徳文は
省略した。
20 ダ ビ デ の 人 口 調 査 と そ れ に 対 す る 神 の 懲 罰 に つ い て は 、
『 サ ム エ ル 記 下 』 24 章 を 参 照 。
23
狭 く な っ て い る こ と の み で あ り 、基 本 的 な 記 述 方 法 は 同 じ で あ る 。イ ス ラ ー ム に お け る エ ル サ
レ ム の 歴 史 記 述 に 連 続 性 が 欠 如 し て い る こ と に つ い て 、グ ラ バ ー ル は 、エ ル サ レ ム と い う 場 所
が 宗 教 的 な 聖 地 で は あ る が 政 治 的 、あ る い は 文 化 的 に 重 要 な 場 所 で は な か っ た た め で あ る と 見
な し て い る [G rabar 1986 : E I2 ⅴ , “AL-ḲUDS”]。
ま た FBM 全 般 に 言 え る こ と だ が 、 エ ル サ レ ム が イ ス ラ エ ル の 手 を 離 れ ロ ー マ 帝 国 の 支 配 下
に 入 っ て 以 降 、ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ル ハ ッ タ ー ブ に よ る エ ル サ レ ム 征 服 に 至 る 、紀 元 1 世 紀 後 半
か ら 6 世 紀 半 ば ま で の 期 間 の エ ル サ レ ム に お け る 歴 史 的 事 象 に つ い て は 、わ ず か な 記 述 し か 見
ら れ な い 。 FBM は 、 聖 書 時 代 以 降 エ ル サ レ ム が ロ ー マ ・ ビ ザ ン ツ 帝 国 の 支 配 下 に あ っ た 時 代
の 出 来 事 に つ い て は 、わ ず か に コ ン ス タ ン テ ィ ヌ ス 帝 と 母 后 ヘ レ ナ に よ る 聖 墳 墓 教 会 建 設 に 触
れ て い る の み で 、 ほ と ん ど 無 視 し て い る の で あ る 。 FBM の 編 纂 者 た ち は イ ス ラ ー イ ー リ ー ヤ
ー ト に 由 来 す る 伝 承 に 注 目 す る 一 方 で 、ロ ー マ・ビ ザ ン ツ 時 代 の 歴 史 書 は 参 照 し て い な い こ と
がわかる。
B. エ ル サ レ ム の 歴 史 ( イ ス ラ ー ム 時 代 )
イ ス ラ ー ム の 歴 史 に 関 す る 記 述 に お い て も 、そ の 記 述 方 法 が ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ を 核 と し た
断 片 的 な も の で あ る 点 は 同 様 で あ る 。こ の カ テ ゴ リ ー の 中 で 特 に 重 要 視 さ れ る 伝 承 は 2 つ あ り 、
1 つ目は預言者ムハンマドのイスラーとミーラージュに関する伝承、2 つ目はエルサレムがム
ス リ ム の 第 1 の キ ブ ラ で あ っ た こ と に 関 す る 伝 承 で あ る 。こ の 2 つ は 、イ ス ラ ー ム に お け る エ
ル サ レ ム の 聖 性 を 最 終 的 に 決 定 づ け た 出 来 事 で あ り 、 FBM に お い て も 多 数 の 伝 承 が 取 り 上 げ
られている。
ム ス リ ム が 直 接 的 に エ ル サ レ ム に 関 わ っ た 出 来 事 と し て は 、ま ず ウ マ ル に よ る エ ル サ レ ム 征
服 が 挙 げ ら れ る 。 こ れ は ム ス リ ム に よ る エ ル サ レ ム 統 治 の 始 ま り と し て 、 ほ と ん ど の FBM に
お い て 大 き く 取 り 上 げ ら れ る も の で あ る 。こ の 他 イ ス ラ ー ム 時 代 の 歴 史 に 関 し て 注 目 さ れ る の
は 、 ウ マ イ ヤ 朝 カ リ フ 、 ア ブ ド ・ ア ル マ リ ク ・ ブ ン ・ マ ル ワ ー ン ʽAb d al-M alik b. Marw ān (r.
65/685-86/705) に よ る 岩 の ド ー ム 建 設 、 十 字 軍 に よ る エ ル サ レ ム 占 領 と ア イ ユ ー ブ 朝 ス ル タ
ン 、サ ラ ー フ ・ア ッ デ ィ ー ン に よ る エ ル サ レ ム 征 服 で あ る 。イ ス ラ ー ム 時 代 に つ い て も 記 述 は
こ れ ら 3 つ の 「 点 」 に 集 中 し て お り 、 こ の 3 点 を 述 べ る こ と が FBM に お け る 歴 史 記 述 の 典 型
と な っ て い る 。 U J で は こ れ ら の 点 の 間 を 埋 め る 試 み が あ る 程 度 見 ら れ 、 ま た M ustaqṣ ā で は
十 字 軍 侵 攻 以 降 の シ リ ア の ム ス リ ム 地 方 政 権 の 反 応 が 述 べ ら れ て い る が 、そ う し た 記 述 が 作 品
全 体 に 占 め る 分 量 は 小 さ な も の に 留 ま っ て い る 。 FBM 編 纂 史 後 期 の UJ と オ ス マ ン 朝 期 の 作
品 の 一 部 に は 、当 時 の 為 政 者 の エ ル サ レ ム 統 治 政 策 に 関 す る 記 述 が 見 ら れ る よ う に な る が 、そ
れ以前の作品では、前述の 3 つの「点」を除く各王朝のエルサレムの状況は一切示されない。
こ こ で は こ の カ テ ゴ リ ー に 属 す る 伝 承 の 一 例 と し て 、ウ マ ル に よ る 征 服 に 関 す る も の を 挙 げ る 。
24
ウ マ ル は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 民 と の 間 に 和 平 条 約 を 締 結 し 終 え る と 、そ の 地 の 大 司 教 buṭrīq
に向かい「我々をダビデのモスクに案内せよ」といった。大司教は「はい」と言った。ウマルは剣
を 帯 び 、4000 人 の 同 行 者 を 連 れ て 出 か け た 。彼 ら も 剣 を 帯 び て 彼 に 随 行 し た 。当 時 そ の 地 に い た 我 々
の中の一団は、剣以外の武器を持っていなかった。大司教はウマルや彼の同行者の前にいた。我々
は ウ マ ル の 後 ろ に つ い た 。我 々 は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 町 に 入 り 、人 々 が「 ご み 山 の 教 会 Kanīsat
Qumāma」 と 呼 ぶ 教 会 2 1 に 入 っ た 。 大 司 教 は 、「 こ こ が ダ ビ デ の モ ス ク で す 」 と 言 っ た が 、 ウ マ ル は
そ こ を 見 渡 し 、 注 意 深 く 観 察 す る と 言 っ た 。「 あ な た は 嘘 を つ い て い る 。 か つ て 神 の 使 徒 は 私 に ダ ビ
デのモスクの様子を教えてくださったことがあるが、それはこのようではなかった」次に大司教は
「 シ オ ン Ṣahyū n」と い う 教 会 2 2 に 行 き 、
「 こ こ が ダ ビ デ の モ ス ク で す 」と 言 っ た 。し か し ウ マ ル は 、
「あなたは嘘をついている」と言った。次に大司教はウマルを連れてバイト・アルマクディスのモ
スクに向かい、ムハンマド門と呼ばれるそこの門にまで連れてきた。我々はその門の階段の上にあ
ったごみの山からそのモスクの方に下りていき、その門の中にある狭い通路に出た。その階段の上
には多くのごみの山が積もっていて、モスクの天井に届かんばかりになっていた。大司教がウマル
に 言 っ た 。「 這 っ て で な け れ ば 中 に 入 る こ と は で き な い で し ょ う 」 ウ マ ル は 言 っ た 。「 む し ろ 這 っ て
入りたいのだ」そこで大司教はウマルの前を這って入り、我々はウマルの後ろを這っていった。つ
いに我々はバイト・アルマクディスの岩のもとに辿り着き、そこで立ち上がった。ウマルはあたり
を 見 渡 し 、 長 い 間 注 意 深 く 観 察 し て い た が 、 や が て 言 っ た 。「 こ れ ぞ 、 我 が 身 が そ の 手 の う ち に あ る
方 に か け て 、 神 の 使 徒 が 我 々 に 言 わ れ た と こ ろ の も の だ 」 [FBM- I M 63; MG- M 165-1 66; IA ⅰ , 236;
UJ ⅰ , 379-380; LUJ(C) 1 0b -11a ]
イ ス ラ ー ム 以 前 、 イ ス ラ ー ム 時 代 を 通 じ て 、 FBM に お け る 歴 史 記 述 の ス タ イ ル は 非 常 に 限
定 的 ・ 定 型 的 で あ る 。 FBM 編 纂 者 は 、 エ ル サ レ ム 讃 美 の 一 環 と し て ス ペ ク タ ク ル と な り う る
出 来 事 に の み 注 目 し て い た の で あ り 、総 合 的・通 史 的 な 歴 史 記 述 を 志 向 し て は い な か っ た の で
あろう。
し か し な が ら こ こ で 興 味 深 い の は 、 FBM で は フ ァ ー テ ィ マ 朝 、 セ ル ジ ュ ー ク 朝 、 ザ ン ギ ー
朝 と い っ た 4/10 世 紀 か ら 6 /12 世 紀 前 半 に か け て の シ リ ア の 地 方 政 権 に 関 す る 記 述 は ご く 限 ら
れ た も の に 過 ぎ ず 、従 っ て サ ラ ー フ・ ア ッ デ ィ ー ン 以 前 の ム ス リ ム 勢 力 と 、当 時 エ ル サ レ ム と
その周辺地域を支配していた十字軍との争いについてもほとんど触れられていないという事
実 で あ る 。 17/638 年 の ウ マ ル に よ る 征 服 以 来 、 約 460 年 間 ム ス リ ム の 支 配 下 に あ っ た 聖 地 エ
ル サ レ ム が 異 教 徒 に 侵 略 さ れ る と い う 歴 史 的 事 象 の イ ン パ ク ト の 大 き さ を 考 え た と き 、以 後 約
21
現在のエルサレム旧市街キリスト教徒地区にある、聖墳墓教会を指す。イエス磔刑の場所とされ、
336 年 に ロ ー マ 帝 国 皇 帝 コ ン ス タ ン テ ィ ヌ ス の 母 后 ヘ レ ナ に よ っ て 建 設 さ れ た 。聖 墳 墓 教 会 は 、ア ラ ビ
ア 語 で は 元 来 は カ ニ ー サ ト ・ キ ヤ ー マ ( 復 活 の 教 会 Kan īsat Qiyāma) と い う が 、 UJ を 含 む FBM に お
い て は そ れ を も じ っ て 、カ ニ ー サ ト・ク マ ー マ( ご み 山 の 教 会 Kan īsat Qumāma)と 呼 ば れ て い る [Ishārāt
28; Meri 200 4: 76 -77 ]。
22 シ オ ン の 丘 に あ る ダ ビ デ の 墓 の あ る 教 会 を 指 す 。
25
90 年 間 の 歴 史 に つ い て FBM が 沈 黙 し て い る こ と は 特 筆 す べ き で あ る 。 序 章 に お い て 、 こ の
90 年 間 に FBM が ま っ た く 編 纂 さ れ な か っ た こ と か ら 、 FBM 編 纂 の 動 機 を 十 字 軍 に 対 す る プ
ロ パ ガ ン ダ と 捉 え る 先 行 研 究 の 見 解 に は 疑 問 が 残 る と 述 べ た が 、歴 史 記 述 の 内 容 も 先 行 研 究 の
見 解 を 裏 付 け て い な い と い う こ と に な る 。 従 来 FBM 編 纂 を 考 え る 上 で は 、 当 然 の よ う に 十 字
軍 が 大 き な 影 響 を 与 え た も の と さ れ て き た が 、こ の 論 題 に つ い て は 先 入 観 に 囚 わ れ ず 改 め て 議
論 し て い く 必 要 が あ る 。 本 稿 で は 、 第 2 章 で ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM に つ い て 考 察 す る 中 で 、 改
めてこの問題を取り上げる。
C. エ ル サ レ ム の 神 聖 さ 、 偉 大 さ を 伝 え る 伝 承
FBM に は 、 エ ル サ レ ム や エ ル サ レ ム に あ る 岩 al-Ṣaḥra が 、 神 の 恩 寵 を 受 け た 楽 園 に 近 し い
場 所 で あ る と い っ た 、エ ル サ レ ム の 神 聖 さ や 偉 大 さ を 伝 え る 伝 承 が 数 多 く 収 め ら れ て い る 。こ
の カ テ ゴ リ ー の 伝 承 が 、 最 も 直 接 的 な 意 味 で の 「 フ ァ ダ ー イ ル ・ バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 」、
す な わ ち エ ル サ レ ム の 美 徳 を 讃 え る 伝 承 で あ る と 言 え る 。こ の 中 に は 、例 え ば 以 下 の よ う な 伝
承が含まれる。
カ ァ ブ 曰 く 、神 の 使 徒 は 言 っ た 。
「 至 高 な る 神 は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に 向 か っ て 言 わ れ た 。
『汝
は我が楽園、我が聖地、我が国々のうち私が選び出したところ。汝に住まう者には我が恩寵を、汝
か ら 出 て い く 者 に は 我 が 怒 り を 』」 [FBM - W 23; FBM-I M 20 6; BN 89; UJ Ⅰ , 348-349; LUJ(C) 6 a]
か の 岩 、 す な わ ち バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 岩 は 、 1 本 の ナ ツ メ ヤ シ の 側 に あ る 。そ の ナ ツ メ ヤ シ
は、楽園の川のうちのひとつの側にある。そのナツメヤシの下にはファラオの妻アースィヤとイム
ラーンの娘マリアがおり、彼女たちは復活の日に至るまで、楽園の民の真珠の首飾りを繋いでいる
[FBM-W 6 7; FBM-I M 13 2; FBM- M 14a; BN 47; MG - M 251; I A ⅰ , 130; UJ ⅰ , 357; Risāla 16 b;
LUJ(C) 21b] 。
ま た こ の カ テ ゴ リ ー に は 、信 徒 た ち が そ う し た エ ル サ レ ム の 美 徳 に あ や か る た め の 手 段 と し
て 、エ ル サ レ ム へ の 参 詣 を 推 奨 す る 伝 承 も 含 ま れ て い る 。そ こ で は 、エ ル サ レ ム に 参 詣 し 、礼
拝 や 祈 願 、サ ダ カ 、断 食 な ど に 努 め た 者 に は 、他 の 場 所 で は 得 ら れ な い 功 徳 が 与 え ら れ る と さ
れている。この種類の伝承には、例えば次のようなものがある。
バイト・アルマクディスを訪れてかの岩の左右で礼拝し、鎖のあった場所で祈願を捧げ、多少な
りともサダカを差し出した者は、その祈願は聞き届けられる。神はその者の悲しみを取り除いて下
さり、彼は母親から生まれた日のごとくにその罪から抜け出すことができる。例え彼が神から証を
求 め よ う と も 、 神 は 彼 に そ れ を お 与 え に な る [FBM -W 23; FBM-I M 117, 164; FQ 142; FBM - M 6b;
26
FBM-K 67 b; BN 53; IA ⅰ , 138; UJ ⅰ , 350; Risāla 8b]。
さ ら に エ ル サ レ ム で 死 に そ こ に 埋 葬 さ れ る こ と や 、エ ル サ レ ム か ら イ フ ラ ー ム 2 3 を 始 め る こ
とも推奨されている。代表的な伝承は次のようなものである。
バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス で の 1 日 は 1000 日 の ご と く 、 そ こ で の ひ と 月 は 1000 月 の ご と く 、 そ こ
で の 1 年 は 1000 年 の ご と く で あ る 。そ こ で 死 ん だ 者 は 最 下 天 で 死 ん だ の と 同 様 で あ り 、そ の 周 囲 で
死 ん だ 者 も 、 そ こ で 死 ん だ の と 同 様 で あ る [FBM-W 4 6; FBM- IM 27 2; FQ 129; MG -M 248]。
バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス か ら イ フ ラ ー ム を 始 め た 者 は 、そ れ 以 前 に 犯 し た 罪 、ま た そ れ 以 降 の 罪 も
赦 さ れ 、 楽 園 に 入 る こ と が で き る [FBM-W 59; FB M- Ḍ 88; FBM- K 75b- 76a; BN 39; T U 5b; MG -M
211-212; IA ⅰ , 151; UJ ⅰ , 351-352]。
D. エ ル サ レ ム と 終 末 思 想 を 関 連 付 け た 伝 承
FBM に お い て 、 エ ル サ レ ム は 終 末 の 日 に 、 最 後 の 審 判 と 人 々 の 復 活 が 行 わ れ る 場 所 で あ る
とされている。このカテゴリーに属する伝承には、例えば次のようなものがある。
復 活 の 日 、カ ア バ は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の も と に 集 め ら れ る 。カ ア バ は そ こ に ハ ッ ジ し た 人 々
を 引 き 連 れ て 、花 嫁 の 行 列 の よ う に 急 ぎ 来 る 。す る と か の 岩 は 、
「参詣するものと参詣されるものよ、
よ う こ そ 」 と 言 う 。 [FBM- M 16a; UJ ⅰ , 357-35 8]
ト ー ラ ー に 曰 く 、 神 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 岩 に 言 わ れ た 。 ・・・「 昼 と 夜 は 、 汝 の も と に 天 か
ら 炎 が 送 ら れ て 、汝 の 中 か ら ア ダ ム の 子 ら の 手 や 足 の 跡 が 舐 め 尽 さ れ る ま で は 、終 わ り を 迎 え る こ と
は な い 。ま た 私 は 汝 の 上 に 玉 座 の 下 か ら 水 を 送 り 、汝 が 水 晶 の か け ら の よ う に な る ま で 汝 を 洗 い 清 め 、
汝 の 上 に 厚 さ 12 ミ ー ル の 雲 で で き た 壁 と 、 炎 の 囲 い を う ち 立 て る 。 ま た 私 は 汝 の 上 に 、 我 が 手 で 形
作 っ た ド ー ム を 置 き 、汝 の 中 に 、汝 を 讃 美 す る 我 が 聖 霊 と 天 使 た ち を 下 ら せ る 。復 活 の 日 ま で は 、ア
ダ ム の 子 ら の う ち 誰 一 人 と し て 、汝 の 中 に 入 る こ と は で き な い 。遠 く よ り そ の ド ー ム の 光 を 見 た 者 は 、
『 汝 の 中 で 跪 拝 し て 神 に ひ れ 伏 す 顔 に 祝 福 あ れ 』と 言 う で あ ろ う 。ま た 私 は 汝 の 上 に 、炎 の 壁 と 雲 の
囲 い 、ま た サ フ ァ イ ア 、真 珠 、エ メ ラ ル ド で で き た 5 つ の 壁 を う ち 立 て る 。汝 は 脱 穀 場 で あ る 。汝 の
も と に 人 々 は 集 め ら れ 、 汝 の 中 か ら 復 活 し て い く 」 [FBM-W 71; F BM-I M 13 8-139; I A ⅰ , 131]
23
メ ッ カ 巡 礼 に 際 し 、メ ッ カ に 入 る 前 に イ フ ラ ー ム iḥrām と 呼 ば れ る 巡 礼 用 の 衣 装 に 着 替 え て 身 を 清
め 、 自 ら を 巡 礼 に ふ さ わ し い 聖 な る 状 態 に 整 え る こ と 。 イ フ ラ ー ム を 開 始 す る 場 所 mīqāt/muḥa l l に つ
い て は 、巡 礼 者 が ど の 地 域 か ら メ ッ カ に 向 か っ て く る か に 応 じ て 伝 統 的 に 規 定 が あ り 、例 え ば シ リ ア や
エ ジ プ ト な ど メ ッ カ の 西 側 か ら や っ て く る 人 々 に 対 し て は 、 メ ッ カ 北 北 西 200km に あ る ジ ャ フ フ ァ
al-Ja ḥfa が そ の 場 所 と さ れ て い た [Wensinck 1 97 1: EI2 ⅲ , “I ḤR Ā M” ]。す な わ ち エ ル サ レ ム よ り イ フ ラ
ームを始めることは、伝統的な規定に則ったものではないということになる。
27
神 の 使 徒 は 我 々 に フ ト バ を 行 っ た が 、彼 の フ ト バ で 最 も 多 か っ た の は 、ダ ッ ジ ャ ー ル に つ い て 我 々
に話したもの、その者のことを我々に警告したものであった。彼の言葉の一つはこのようなもので
あ っ た 。「 人 々 よ 、 こ の 大 地 に ダ ッ ジ ャ ー ル に よ る 反 乱 ほ ど 大 き な 反 乱 は な い 。 い か な る 預 言 者 も 、
その民に彼のことを警告するために遣わされたのである。私は最後の預言 者であり、お前たちは最
後 の ウ ン マ で あ る 。 必 ず や か の 者 は お 前 た ち の 中 か ら 現 れ る 。 ・・・〔 そ の と き 人 々 は 〕 バ イ ト ・ ア ル
マクディスにいる。かの者は現れて人々を追い詰めるが、そのときの人々のイマームは義しき人で
あり、彼が礼拝するために進み出てくる。彼が『神は偉大なり』と唱え礼拝に入ると、マリアの子
イエスが下りてくる。その人はイエスを見ると彼を認め、マリアの子イエスが前に出てくることが
できるように後ろに退く。イエスは片手をその人の両肩に置いて『礼拝しなさい。私はあなたのた
め に 礼 拝 を 行 っ た の だ か ら 』と 言 う で あ ろ う 。そ し て イ エ ス は 彼 の 後 ろ に つ い て 礼 拝 し 、続 い て『 門
を開けなさい』と言う。すると門は開くが、そのときダッジャールの側には 7 万人のユダヤ人がい
る 」 [FBM-W 6 3; FBM-I M 29 9]
このカテゴリーの伝承には、とりわけユダヤ教・キリスト教からの影響が強く表れている。
FBM と ユ ダ ヤ 教・キ リ ス ト 教 文 学 と の 関 係 性 を 研 究 し た リ ヴ ネ = カ フ リ に よ れ ば 、ユ ダ ヤ 教 ・
キ リ ス ト 教 の 終 末 思 想 、 黙 示 文 学 は 、 1/7 世 紀 の ア ラ ブ に よ る 大 征 服 や イ ス ラ ー ム 帝 国 の 拡 大
の 反 動 と し て 大 き く 発 展 し た が 、 そ れ が イ ス ラ ー ム に お け る 終 末 思 想 に も 取 り 込 ま れ 、 FBM
に も 反 映 さ れ た と い う 。 上 記 の 伝 承 に 見 ら れ る よ う に 、 FBM の 中 で 表 現 さ れ て い る 典 型 的 な
終 末 の イ メ ー ジ に は 、終 末 の 日 に ダ ッ ジ ャ ー ル( 反 キ リ ス ト )が 出 現 し 、エ ル サ レ ム に お い て
マ フ デ ィ ー( 救 世 主 )た る イ エ ス と 戦 う と い う も の や 、エ ル サ レ ム に 宝 玉 の 壁 が 現 れ る と い う
も の 、カ ア バ が「 夫 の も と に 急 ぐ 花 嫁 の よ う に 」エ ル サ レ ム に 導 か れ 、両 者 が と も に 天 へ と 上
げ ら れ る と い っ た も の な ど が あ り 、 こ れ ら は 例 え ば 『 ヨ ハ ネ に よ る 黙 示 録 』 21 章 の 中 に 見 る
こ と の で き る イ メ ー ジ で あ る [Livne-K afri 2004; 2006; 2007] 。 ま た 後 に 挙 げ る ク ル ア ー ン 解
釈 と 関 連 す る も の で あ る が 、ク ル ア ー ン 50 章 41 節「 召 還 役 が 近 い 場 所 か ら 呼 び か け る 日 に は 、
よ く 耳 を 傾 け よ 」 に つ い て 、 FBM に は こ れ を 、 復 活 の 日 に 天 使 イ ス ラ ー フ ィ ー ル が エ ル サ レ
ム の 岩 の 上 か ら ラ ッ パ を 吹 く こ と だ と す る 解 釈 が 見 ら れ る 。「 終 末 に 天 使 が ラ ッ パ を 吹 く 」 と
いうこのイメージも、キリスト教の黙示文学に見られるものである。
E. エ ル サ レ ム で ム ス リ ム た ち が 体 験 し た 奇 跡 譚
FBM に し ば し ば 見 ら れ る の が 、 エ ル サ レ ム を 訪 れ た ム ス リ ム が そ こ で 何 ら か の 奇 跡 的 な 体
験 を す る 、 と い う 伝 承 で あ る 。 こ こ で は そ う し た 伝 承 の 中 か ら 、 多 く の FBM で 取 り 上 げ ら れ
て い る ア ブ ー ・ア ッ ザ ー ヒ リ ー ヤ Abū al-Z āhrīya Jubayr b. Kur ayb と い う 人 物 の 奇 跡 譚 を 、一
例 と し て 取 り 上 げ る 。こ れ は 、彼 が あ る 夜 ア ク サ ー ・ モ ス ク で 礼 拝 し て い た と き に 、そ こ で 天
28
使たちに会ったというものである。
私は礼拝するためにバイト・アルマクディスに行き、モスクに入った。モスクの門番たちは私に
気づかず、ランプを消してしまった。人はいなくなり、門は閉められた。私がそのようにしている
と き 、突 然 私 は 、一 対 の 翼 の あ る 人 が 呟 い て い る の を 聞 い た 。彼 は こ う 言 い な が ら 近 づ い て き た 。
「永
遠者、存在者に讃えあれ、永遠者、存在者に讃えあれ。生命ある方、永遠にある方に讃えあれ、王
た る 方 、聖 な る 方 に 讃 え あ れ 、天 使 と 魂 の 主 に 讃 え あ れ 。そ の 称 賛 に よ っ て 神 に 讃 え あ れ 。高 き 方 、
いと高き方に讃えあれ、至高なるかの方に讃えあれ」そして別の声が、先の声に続いて、それと同
じように言いながら近づいてきた。さらにまた別の声、また別の声がそれに唱和し、それらの声が
モ ス ク に 満 ち た 。 彼 ら の ひ と り が 私 の 近 く に い て 、「 人 間 か 」 と 言 っ た 。 私 が 「 は い 」 と 言 う と 、 彼
は 言 っ た 。「 恐 れ る こ と は な い 。 こ こ に い る の は 天 使 た ち で あ る 」 私 は 言 っ た 。「 私 が 見 て い る 通 り
にあなた方を強くなし給うた方にかけて、私はあなたにお尋ねしますが、最初の方はどなたですか」
彼 は 「 ガ ブ リ エ ル で あ る 」 と 言 っ た 。 ま た 私 は 言 っ た 。「 そ れ で は 彼 に 続 い た 方 は ? 」 彼 は 「 ミ カ エ
ル で あ る 」と 言 っ た 。ま た 私 は 言 っ た 。
「 そ の 後 彼 ら 2 人 に 続 い た 方 々 は ? 」彼 は「 天 使 た ち で あ る 」
と 言 っ た 。「 私 が 見 て い る 通 り に あ な た 方 を 強 く な し 給 う た 方 に か け て 、 私 は あ な た に お 尋 ね し ま す
が 、 こ の 言 葉 を 唱 え た 者 に は ど ん な 報 い が あ る の で す か 」 彼 は 言 っ た 。「 こ の 言 葉 を 1 年 間 、 毎 日 1
回ずつ唱えた者は、楽園に自分の席を見るか、神が彼にそれを見せてくださるかするまでは死なな
い 」 [FBM-W 41 -42; FBM- I M 191-1 93; FQ 132 -133; F BM- M 10 a-10b; F BM -K 68b- 6 9a; MG- M 222;
IA ⅰ , 140]
上 記 の ア ブ ー ・ア ッ ザ ー ヒ リ ー ヤ に よ る 体 験 の よ う に 、こ の 奇 跡 譚 に は 、ム ス リ ム が エ ル サ
レ ム の い ず れ か の 場 所 で 礼 拝 し て い る 間 、あ る い は 眠 っ て い る 間 に 、天 使 や 預 言 者 た ち に 出 会
い 言 葉 を 交 わ す 、と い う パ タ ー ン を 取 っ て い る も の が 多 い 。こ れ ら は エ ル サ レ ム の 聖 性 を 裏 付
け る エ ピ ソ ー ド と し て 、 多 く の FBM の 中 で 取 り 上 げ ら れ て い る 。
F. エ ル サ レ ム に あ る モ ニ ュ メ ン ト と そ こ へ の 参 詣 に 関 す る 伝 承
FBM を 構 成 す る 重 要 な 要 素 の ひ と つ に は 、 エ ル サ レ ム の 各 所 に あ る モ ニ ュ メ ン ト の 名 前 や
そ の 建 築 上 の 構 造 や 外 観 、そ の モ ニ ュ メ ン ト が 設 立 さ れ る に い た っ た 背 景 や 、そ こ に ま つ わ る
預 言 者 や 聖 人 た ち の エ ピ ソ ー ド 、さ ら に は そ こ に 参 詣 す る 際 に 守 る べ き 作 法 や 手 順 に つ い て 説
明 し た 伝 承 が あ る 。 こ う し た 伝 承 は ま ず FBM- IM に お い て 確 認 で き 、 そ こ で は ア ク サ ー ・ モ
ス ク と 岩 の ド ー ム を 中 心 と し た 、ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ に 点 在 す る ド ー ム や ミ フ ラ ー ブ( 礼 拝 所 )、
門 な ど の 各 モ ニ ュ メ ン ト と 、エ ル サ レ ム 市 街 地 の 東 側 に 位 置 す る オ リ ー ブ 山 に 関 す る 伝 承 が 挙
げ ら れ て い る 。 例 え ば FBM- IM に お い て は 、 岩 の ド ー ム の 参 詣 作 法 が 次 の よ う に 述 べ ら れ て
いる。
29
岩〔のドーム〕に入る者に望ましいこと:バイト・ハラームの周りをタワーフするのとは逆にな
る よ う に 、 自 分 の 右 側 に そ れ ( 岩 ) が く る よ う に し て ( 右 回 り に )、 人 々 が 祈 願 す る 場 所 ま で 来 る 。
そ れ か ら 手 を 岩 の 上 に 置 く 。 岩 に 口 づ け し て は な ら な い 。 そ れ か ら 次 の よ う な 祈 願 を 唱 え る ・・ ・「 お
お神よ、隠されたものを見通すあなたの知識によって、被造物の上に及ぼすあなたの力によって、
あなたが良いと思われる限り私を生かし、あなたが良いと思われるときに私の命を召し上げ給え。
私はあなたに、隠されたものと証のことであなたを畏れる気持ちを、怒りと満足について理の言葉
を、貧しさと豊かさについて目的を求めます。私はあなたに、途切れぬ安らぎ、途絶えることのな
い冷たき泉、死後の涼やかな生活を求めます。私は、傷つけられた苦しみも、信仰の道から外れて
背くこともなく、あなたのお顔を見てあなたに会いたいと熱望します。おお神よ、信仰という飾り
で 我 々 を 飾 り 、 我 々 を 導 か れ し 者 た ち の 導 き 手 と な し 給 え 」 [FBM-I M 81]
上 記 の よ う な 参 詣 作 法 に 関 す る 記 述 は FBM-W に は 見 受 け ら れ ず 、FBM- IM の 中 で 最 初 に 取
り 上 げ ら れ て い る 。FBM- IM で は こ の 記 述 に 続 き 、岩 の ド ー ム( ド ー ム 内 部 :岩 → 黒 い タ イ ル
al-Bal āṭā al -Sawdāʼ 2 4 → 岩 の 下 に 開 い た 洞 窟 2 5 → 預 言 者 の マ カ ー ム Maqām al-Nabī 2 6 ) → イ ス
ラ ー フ ィ ー ル 門 Bāb Isrāfīl( 岩 の ド ー ム 東 門 ) → 鎖 の ド ー ム Qubbat al-Silsil a 2 7 → ミ ー ラ ー ジ
ュ の ド ー ム Qubb at al-M iʽr āj 2 8 → 預 言 者 の ド ー ム Qubbat al-Nab ī 2 9 → ラ フ マ 門 Bāb
al-Raḥm a 3 0 → ザ カ リ ヤ の ミ フ ラ ー ブ M iḥrāb Zak ariyāʼ 3 1 → ソ ロ モ ン の 玉 座 K ursī Sulaymā n 3 2
24
岩のドームの北門近くにある大理石で、実際には緑色をしているが、黒という色の概念が緑よりも
先 に 生 ま れ た も の で あ っ た た め に「 黒 い タ イ ル 」と 呼 ば れ て い る と 言 わ れ る 。こ の 大 理 石 は 楽 園 の 門 の
上 に あ っ た も の で あ る と 伝 え ら れ 、 参 詣 す べ き 場 所 と さ れ た [IA ⅰ , 163]。
2 5 岩 の 下 部 は 洞 窟 状 に な っ て お り 、階 段 で そ こ に 下 っ て 行 く こ と が で き る 。洞 窟 内 部 に は「 岩 の 舌 Lisān
al- Ṣakhra」 と 呼 ば れ る 場 所 が あ り 、 参 詣 の 場 所 と な っ て い る [LUJ(C) 21a - 21b]。
2 6 あ る 伝 承 で は 、預 言 者 ム ハ ン マ ド は 岩 の 上 か ら ミ ー ラ ー ジ ュ を 行 っ た と さ れ て お り 、
「預言者のマカ
ー ム 」 と は 、 ミ ー ラ ー ジ ュ に 際 し て ム ハ ン マ ド の 足 跡 が つ い た 場 所 で あ る と さ れ て い る [LUJ(C) 21 a ] 。
2 7 岩 の ド ー ム の 東 側 に あ る ド ー ム 。 FBM に は 、 か つ て ダ ビ デ が イ ス ラ エ ル の 民 の 間 で 裁 判 を 行 う に あ
た っ て 、天 か ら 善 悪 を 判 断 す る こ と が で き る 光 の 鎖 を 下 さ れ た 、と い う 伝 承 が あ る 。鎖 の ド ー ム は そ の
鎖があった場所であると言われている。またこの場所は、預言者ムハンマドがイスラーの夜天女たち
al- Ḥūr a l- ʽAyn に 会 っ た 場 所 で あ る と も 言 わ れ て い る [IA ⅰ , 170; UJ ⅱ , 56-58; LUJ(C) 2 2b -2 3a]。
28 岩 の ド ー ム の 北 西 に 位 置 す る ド ー ム 。 預 言 者 ム ハ ン マ ド が ミ ー ラ ー ジ ュ の 前 に 、 他 の 預 言 者 た ち や
天 使 た ち を 先 導 し て 礼 拝 し た 場 所 で あ る と さ れ る 。一 部 の 伝 承 で は 、ム ハ ン マ ド は そ の 礼 拝 の 直 後 に こ
の 場 所 か ら 昇 天 し た と も 言 わ れ て お り 、こ れ は「 ミ ー ラ ー ジ ュ は 岩 の 上 か ら 行 わ れ た 」と い う 伝 承 と 矛
盾 す る も の で あ る が 、 FBM に お い て は 両 方 の 伝 承 が 取 り 上 げ ら れ て い る [IA ⅰ , 174; UJ ⅱ , 58]。
2 9 「 預 言 者 の ド ー ム 」 と 呼 ば れ る 場 所 に つ い て は 、 詳 し く は 明 ら か に な っ て い な い 。 FBM-I M に お い
て は ミ ー ラ ー ジ ュ の ド ー ム の 近 く に あ る 場 所 で あ る よ う に 書 か れ て い る が 、 IA の 著 者 シ ャ ム ス ・ ア ッ
デ ィ ー ン ・ ス ユ ー テ ィ ー Shams a l- Dīn Mu ḥ amma d b. Aḥ mad a l- Suyū ṭī は 、 自 身 が 874/1470 年 に エ ル
サ レ ム 参 詣 を 行 っ た 際 に は 、そ う し た 名 前 の ド ー ム は 存 在 し な か っ た と 述 べ て い る 。ス ユ ー テ ィ ー は こ
の「 預 言 者 の ド ー ム 」を 、預 言 者 ム ハ ン マ ド が イ ス ラ ー の 際 礼 拝 を 行 っ た 場 所 で あ る と し て 、実 際 に は
ミ ー ラ ー ジ ュ の ド ー ム の こ と を 指 し て い る の で あ り 、 FBM-I M の 著 者 イ ブ ン ・ ア ル ム ラ ッ ジ ャ ー も 、 1
つ の 場 所 を 2 つ の 名 前 で 呼 ん で い る の だ ろ う 、 と し て い る [IA ⅰ , 173-174]。 UJ で は こ の ド ー ム の こ
と を 「 預 言 者 の マ カ ー ム 」 と 呼 ん で お り 、 岩 の ド ー ム 内 部 の 預 言 者 の マ カ ー ム と の 混 同 が 見 ら れ る [UJ
ⅱ , 58-59]。
30 ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ 東 壁 に 開 い て い る 門 で 、 こ の 門 の 外 に 、 ム ス リ ム た ち に 「 ワ ー デ ィ ー ・ ジ ャ ハ
ン ナ ム 」( 地 獄 の 谷 ) と 呼 ば れ る キ ド ロ ン の 谷 が 伸 び て い る 。 ラ フ マ 門 は 聖 域 と 地 獄 と を 隔 て る 門 と し
30
→ サ キ ー ナ 門 Bāb al-Sak īna 3 3 → ヒ ッ タ 門 Bāb Ḥiṭṭa 3 4 → ア ク サ ー ・ モ ス ク ( モ ス ク 内 部 : ウ
マ ル の ミ フ ラ ー ブ → ム ア ー ウ ィ ヤ の ミ フ ラ ー ブ ) → 預 言 者 の 門 Bāb al- Nab ī( モ ス ク 南 門 ) →
マ リ ア の ミ フ ラ ー ブ Miḥrāb Mar yam 3 5 → ガ ブ リ エ ル の 輪 の あ っ た 場 所 3 6 → オ リ ー ブ 山 に あ る
サ ー ヒ ラ al-Sāh ira 3 7 → ダ ビ デ の ミ フ ラ ー ブ Miḥrāb D āwūd 3 8 と い う 一 連 の 参 詣 ル ー ト が 示 さ
れ て い る [FBM-IM 81-101]。
エ ル ア ド は 、FBM- IM に お い て 参 詣 作 法 に 関 し た 部 分 に は イ ス ナ ー ド が 付 随 し て い な い こ と
か ら 、そ の 他 の 伝 承 と は 異 な り こ の 部 分 は 著 者 イ ブ ン・ア ル ム ラ ッ ジ ャ ー 自 身 が 編 集 し た の で
あ ろ う と の 見 解 を 示 し て い る 。FBM-IM が 示 す 参 詣 作 法 の 中 に 見 ら れ る 、参 詣 場 所 で 唱 え る べ
き と さ れ る 祈 願 文 に つ い て 、 リ ヴ ネ = カ フ リ は 、 そ れ ら の 祈 願 文 が イ ブ ン ・ ク タ イ バ Ibn
Qutayba (d. 276/889) に よ る ʽ Uy ū n al- Akhb ā r 等 の 3/9 世 紀 の ア ダ ブ 文 学 作 品( 教 養 ・ 作 法 の
書 )に 見 ら れ る も の で あ る と し 、イ ブ ン ・ ア ル ム ラ ッ ジ ャ ー は そ こ か ら 祈 願 文 を 引 用 し 、自 身
の 作 品 に 組 み 込 ん だ と す る [ Elad 1999 a: 309 -310; Livne-Kaf ri 2001: 67-69] 。
エ ル ア ド は さ ら に 、FBM-IM の 中 に 、ヒ ジ ュ ラ 暦 335 年 ム ハ ッ ラ ム 月 10 日 ア ー シ ュ ー ラ ー
の 日( 946 年 8 月 12 日 )に 、ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー ・ ブ ン ・ ム ハ ン マ ド ・ ア ル フ ー リ ー ʽAbd All āh
b. Muḥ ammad al -Khūl ī と い う 人 物 が 、 夢 の 中 で ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ 参 詣 を 行 っ た 、 と い う 伝
承 が 取 り 上 げ ら れ て お り 、 ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー が ハ ラ ム 内 で 回 っ た 場 所 が FBM-IM の 参 詣 ル ー
ト に 一 致 す る こ と か ら 、 FBM- IM に お い て 提 示 さ れ て い る ル ー ト は 、 4/10 世 紀 半 ば ま で に は
て 、 ク ル ア ー ン 57 章 13 節 に 〈 彼 ら の 間 に は 壁 が 建 て ら れ 、 そ の 内 側 に は 慈 悲 al-r aḥma が 、 そ の 外 側
に は 懲 罰 が 待 っ て い る 〉 と 言 わ れ て い る と こ ろ の 門 で あ る と さ れ る [IA ⅰ , 197-198] 。
3 1 位 置 不 詳 。 ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 南 東 の 隅 に は 「 ソ ロ モ ン の 馬 小 屋 Isṭablāt Su lay mān 」 の 跡 と さ れ
る 区 画 が あ り 、そ の 西 側 の 部 分 に「 ザ カ リ ヤ の ミ フ ラ ー ブ 」と 呼 ば れ て い る 場 所 が あ る が 、参 詣 ル ー ト
を 見 る 限 り そ れ と は 異 な る も の を 指 す と 考 え ら れ る 。 IA で は 、 ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 東 壁 に は ミ フ ラ
ー ブ が あ り 、そ こ は「 ダ ビ デ の ミ フ ラ ー ブ 」で あ る と も 言 わ れ て い る 、と い う 記 述 が あ り 、 FBM-I M に
お け る 「 ザ カ リ ヤ の ミ フ ラ ー ブ 」 は こ れ を 指 す か [IA ⅰ , 195-196]。
3 2 ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 北 東 の 隅 に 開 い て い る ア ス バ ー ト 門 Bāb a l - A s b ā ṭ の 近 く に あ っ た と さ れ る 。
33 位 置 不 詳 。 ア ス バ ー ト 門 と ヒ ッ タ 門 の 間 に あ る か 。
3 4 ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 北 壁 中 央 部 に 開 い て い る 門 。 名 前 の 由 来 は 、 ク ル ア ー ン 2 章 58 節 〈 こ の 町 に
入 り 、 好 き な と こ ろ で 存 分 に 食 べ よ 。 伏 し 拝 み つ つ 門 に 入 り 、「 お 赦 し を ḥiṭṭa」 と 言 え 。 そ う す れ ば 、
我 ら は お 前 た ち の 罪 を 赦 し て や ろ う 〉よ り 。神 は イ ス ラ エ ル の 民 に「 お 赦 し を 」と 言 い な が ら エ ル サ レ
ム に 入 る よ う 命 じ た が 、 彼 ら は そ れ に 従 わ な か っ た と さ れ る [IA ⅰ , 203-205; UJ ⅱ , 70-71]。 ル ビ ン
U. Rubi n は ク ル ア ー ン の こ の 章 句 に つ い て 、「 ヒ ッ タ 」 と い う 言 葉 は ヘ ブ ラ イ 語 で 「 小 麦 」 を 表 す も
の で あ っ た が 、ア ラ ビ ア 語 の「( 罪 を )取 り 除 く ḥaṭṭa」と い う 単 語 に 置 き 換 え ら れ た も の で あ る 、と し
て い る [Rub in 1 999: 83 - 91]。
3 5 マ リ ア が エ ル サ レ ム の 聖 所 で 神 に 仕 え た と い う 場 所 を 指 す ( ク ル ア ー ン 3 章 35-43 節 参 照 )
。
36 預 言 者 ム ハ ン マ ド が 天 馬 ブ ラ ー ク に 乗 り 、 ガ ブ リ エ ル に 伴 わ れ て イ ス ラ ー し た 際 、 ガ ブ リ エ ル が ブ
ラ ー ク の 手 綱 を 結 わ え つ け た と さ れ る 場 所 。ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 西 壁 に 開 い て い る マ ガ ー リ バ 門 Bāb
al- Ma ghāriba( 預 言 者 の 門 と も 呼 ば れ 、ム ハ ン マ ド が イ ス ラ ー の 際 に そ こ か ら ハ ラ ム に 入 っ た と さ れ る
門)のそばにある。
3 7 ク ル ア ー ン 79 章 14 節 〈 見 よ 、 彼 ら は よ み が え っ て 地 上 al-sāhira に 現 れ た で は な い か 〉 に 由 来 し 、
終 末 の 日 に 人 々 が 復 活 さ せ ら れ る 場 所 で あ る と さ れ る [IA ⅰ , 221-222]。
3 8 位 置 不 詳 。ダ ビ デ の ミ フ ラ ー ブ の 所 在 地 に つ い て は FBM 中 に も 諸 説 あ り 、ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 東
壁 、ア ク サ ー・モ ス ク の 内 部 、エ ル サ レ ム の 西 側 の 城 壁( ダ ビ デ の 塔 )な ど の 説 が 挙 げ ら れ て い る [IA ⅰ ,
195; LUJ( C) 19b, 26b ] 。
31
エ ル サ レ ム 参 詣 者 の 間 で 広 ま っ て い た 可 能 性 が あ る こ と を 指 摘 し て い る 。 [Elad 1999a:
309-310; FBM- IM 364-365]。 シ リ ア に お け る 墓 地 ・ 聖 者 廟 参 詣 ziyāra に つ い て の 研 究 を 行 っ
た メ リ J. Meri は 、エ ジ プ ト で は フ ァ ー テ ィ マ 朝 時 代 か ら 参 詣 ガ イ ド が 編 纂 さ れ て い た の に 対
し 、 シ リ ア で は そ う し た 作 品 の 登 場 が 遅 く 、 10/16 世 紀 初 頭 に な っ て 初 め て 見 ら れ る よ う に な
る と し て い る が [Meri 2002 : 144 -153] 、 FBM-IM に お け る エ ル サ レ ム ・ ヘ ブ ロ ン 参 詣 に 関 す る
記 述 は 、シ リ ア に お い て も よ り 早 い 時 代 か ら 、聖 所 参 詣 の た め の 案 内 書 が 編 ま れ て い た こ と を
示 す も の で あ る 39。
ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ に あ る モ ニ ュ メ ン ト の 紹 介 と そ の 参 詣 作 法 に 関 す る 伝 承 は 、FBM- IM 以
降 BN を は じ め と す る マ ム ル ー ク 朝 以 降 の 作 品 に お い て 重 点 的 に 取 り 上 げ ら れ る よ う に な る 。
さ ら に こ の カ テ ゴ リ ー に 属 す る 伝 承 は 、マ ム ル ー ク 朝 末 期 か ら オ ス マ ン 朝 時 代 に 編 纂 さ れ た 作
品 に お い て 、 対 象 の 範 囲 や 記 述 の 量 が 拡 大 す る 。 UJ で は 直 接 参 詣 の 対 象 と な る 場 所 ば か り で
な く 、著 者 の 同 時 代 の エ ル サ レ ム 市 内 に あ る マ ド ラ サ や ザ ー ウ ィ ヤ 、リ バ ー ト な ど の 宗 教 施 設 、
市 内 の 各 街 区 や 城 塞 に 関 す る 情 報 、さ ら に は 市 外 に あ る モ ニ ュ メ ン ト や 、エ ル サ レ ム 近 郊 に あ
る ベ ツ レ ヘ ム や ヘ ブ ロ ン と い っ た 町 々 の 情 報 な ど が 加 わ り 、エ ル サ レ ム の 町 と そ の 周 辺 地 域 に
関 す る 総 合 的 な 地 理 情 報 へ と 発 展 し て い る 。 FBM に お け る エ ル サ レ ム 参 詣 に 関 わ る 要 素 に つ
いては、第 3 章にて改めて検討する。
G. エ ル サ レ ム に 縁 の ム ス リ ム た ち の 伝 記
FBM に は 、 エ ル サ レ ム に 深 い 関 係 を 持 つ ム ス リ ム 著 名 人 た ち の 名 前 を 列 挙 し 、 さ ら に は 彼
ら の 生 没 年 や 家 系 、エ ル サ レ ム に お け る 業 績 な ど を ま と め た 、伝 記 集 と し て の 要 素 も 含 ま れ て
いる。この要素は、初期の作品において見られる次の伝承が原形となっていると考えられる。
神の使徒の、パレスチナの地に住んでいた教友たちの名前。彼らの中には子孫を残した者も、残
さ な か っ た 者 も あ っ た 。 ウ バ ー ダ ・ ブ ン ・ ア ッ サ ー ミ ト ʽUbāda b. al -Ṣā mit、 シ ャ ッ ダ ー ド ・ ブ ン ・
ア ウ ス Shaddād b. A ws、 ア ブ ー ・ ウ バ イ イ ・ ブ ン ・ ウ ン ム ・ ハ ラ ー ム Abū Ubayy b . Um m Ḥarām―
彼 の 名 は サ ム ウ ー ン Samwū n と い い 、ハ ド ラ マ ウ ト に 縁 の 人 で あ っ た ― 、
〔 同 じ く 〕ハ ド ラ マ ウ ト の
ア ブ ー ・ ラ イ ハ ー ナ Abū Rayḥāna 、 サ ッ ラ ー マ ・ ブ ン ・ カ イ サ ル ・ ハ ド ラ ミ ー Sall āma b. Qay ṣar
al- Ḥa ḍramī、 フ ァ イ ル ー ズ ・ ダ イ ラ ミ ー Fayr ūz al -D ayla mī、 ズ ー ・ ア ル ア サ ー ビ ゥ Dhū al - Aṣābiʽ、
ア ブ ー ・ ム ハ ン マ ド ・ ナ ッ ジ ャ ー リ ー Abū Mu ḥam mad al - Naj jārī。 こ れ ら の 人 々 は バ イ ト ・ ア ル マ ク
ディスの民で、同地で死んだ。彼らのうち子孫を残した者は、ウバーダ・ブン・アッサーミト、シ
ャッダード・ブン・アウス、サラーマ・ブン・カイサル、ファイルーズ・ダイラミーである。これ
らの人々の子孫はバイト・アルマクディスにおり、彼らの墓もそこにある。彼らのうち子孫を残さ
エ ジ プ ト に お け る 参 詣 に つ い て は 、大 稔 や タ イ ラ ー C. Taylor に よ る 死 者 の 街 参 詣 を 論 じ た 研 究 に 詳
し い [大 稔 1993; 1994; 1999; 2001; Ta ylor 1998] 。
39
32
なかった者は、アブー・ライハーナ、ズー・アルアサービゥ、アブー・ムハンマド・ナッジャーリ
ー で あ る [FBM-W 64 -65; F BM -I M 285- 286 ; FQ 130 -131; F BM - Ḍ 9 0-92; F BM -M 8 b-9 a]。
これは、預言者ムハンマドの教友のうちエルサレムに住んでいた者の名前を列挙しただけ
の 、ご く 簡 単 な 記 述 で あ っ た 。7/13 世 紀 半 ば ま で に 編 纂 さ れ た 作 品 の 多 く に 、こ の 伝 承 が 取 り
上げられている。
こ の カ テ ゴ リ ー に 大 き な 変 化 が 生 じ る の は 、 8/ 14 世 紀 半 ば 成 立 の MG-M に お い て の こ と で
あ る 。MG-M で は 作 品 の 最 後 の 部 分 に 、人 類 の 祖 ア ダ ム に 始 ま る イ ス ラ ー ム 以 前 の 預 言 者 た ち
の 伝 記 と 、イ ス ラ ー ム 以 降 は ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ル ハ ッ タ ー ブ に 始 ま る 教 友 、 タ ー ビ ウ ー ン( 教
友 の 後 継 世 代 )、 さ ら に そ れ 以 降 ア イ ユ ー ブ 朝 中 期 に 至 る ま で の ム ス リ ム た ち の 伝 記 が 付 け ら
れ て お り [MG- M 269-377]、 こ こ に 至 っ て FBM の 中 に エ ル サ レ ム に 縁 の 著 名 人 の 伝 記 集 を 含
め る と い う ス タ イ ル が 確 立 し 、MG-M 以 降 こ れ を 典 拠 と し た FBM 作 品 の 中 に 受 け 継 が れ て い
く 。 こ の 要 素 は さ ら に UJ に お い て 発 展 し 、 UJ で は MG-M が 取 り 上 げ た 人 物 に 加 え 、 著 者 と
同 世 代 ( マ ム ル ー ク 朝 末 期 、 900/149 5 年 ま で ) の エ ル サ レ ム と 、 さ ら に ヘ ブ ロ ン で 活 動 し た
ウ ラ マ ー や ス ー フ ィ ー た ち に ま で 範 囲 が 拡 大 し て い く [UJ ⅰ , 385-394; ⅱ , 1 50-407]。
H. ク ル ア ー ン 解 釈
ク ル ア ー ン の 中 で は 、 エ ル サ レ ム Ba yt al- Maqdis/al-Quds と い う 言 葉 は 直 接 に は 見 ら れ な
い 。 し か し な が ら FBM に は 、 ク ル ア ー ン 1 7 章 1 節 「 遠 隔 の 礼 拝 堂 」 や 、 5 0 章 41 節 「 召 還
役 が 近 い 場 所 か ら 呼 び か け る 日 」の よ う な ク ル ア ー ン の 文 言 を 、エ ル サ レ ム の こ と を 指 し 示 す
も の で あ る と 解 釈 す る 伝 承 が 数 多 く 登 場 す る 。 こ の ク ル ア ー ン 解 釈 は 基 本 的 に は 、「 至 高 な る
神 の お 言 葉 何 々 と は す な わ ち 、エ ル サ レ ム の こ と で あ る 」、
「至高なる神のお言葉何々について、
某( ク ル ア ー ン 解 釈 者 ) は『 そ れ は エ ル サ レ ム の こ と で あ る 』と 述 べ て い る 」と い う 形 で 記 述
される。
こ の 要 素 は FBM 作 品 全 体 を 通 じ て 見 ら れ る も の で あ る が 、 マ ム ル ー ク 朝 以 降 の 作 品 に な る
と 、取 り 上 げ ら れ る ク ル ア ー ン の 章 句 の 数 が 増 加 す る 傾 向 に あ る 。こ の カ テ ゴ リ ー に 属 す る 伝
承 の 種 類 が 最 も 豊 富 で あ る の が MG-M で あ り 、 22 の 句 に 関 す る 解 釈 が 取 り 上 げ ら れ て い る 。
そ の 中 に は そ れ 以 前 の 作 品 で は 見 ら れ な か っ た 解 釈 も い く つ か 含 ま れ て い る 。 例 え ば 、 24 章
36 節 「 高 々 と 建 て ら れ 、 御 名 が 唱 え ら れ る こ と を 神 が お 許 し に な っ た 家 々 」 や 、 34 章 18 節
「 我 ら は 、彼 ら と 我 ら が 祝 福 し た 町 々 の 間 に 、見 つ け や す い 町 々 を 造 っ た 」を 、エ ル サ レ ム の
こ と を 表 す も の と す る 解 釈 で あ る 。こ の よ う に 後 期 の 作 品 で は 、以 前 の も の に は 取 り 上 げ ら れ
て こ な か っ た 句 が エ ル サ レ ム や そ の 周 辺 の 場 所 、あ る い は エ ル サ レ ム で 起 き た 出 来 事 に 同 定 さ
れ る よ う に な り 、 そ の た め に 伝 承 の 数 が 増 え て い る 。 FBM に お け る ク ル ア ー ン 解 釈 は 、 エ ル
サ レ ム の 聖 性 の 根 拠 を 聖 典 に 求 め る こ と で 、そ こ に イ ス ラ ー ム 的 な 価 値 観 を 付 加 し よ う と す る
33
編 纂 者 の 姿 勢 を 表 す も の で あ り 、そ の 姿 勢 は 後 期 の 作 品 に よ り 顕 著 に 見 ら れ る よ う に な っ て い
る。
また後期の作品では、この要素は作品の冒頭部分にまとめて取り上げられる場合が多く、
FBM- K 、 TU、 MG- M、 IA、 UJ 、 LU J が こ の ス タ イ ル を 取 っ て い る 。 作 品 の 冒 頭 部 で エ ル サ
レ ム と 関 連 す る ク ル ア ー ン の 章 句 を 並 べ る こ と が 、 後 期 の FBM に お け る 定 型 と な っ て い く と
言 え る 40。
I. FBM 以 外 の フ ァ ダ ー イ ル に 由 来 す る 要 素
本 章 第 1 節 に お い て 、 本 稿 で 扱 う FBM 作 品 の 範 囲 を 決 定 し た 際 に 、 筆 者 は FBM に は エ ル
サレムと関連するその他の場所のファダーイルの書の要素が含まれる場合があることを述べ
た 。そ れ ら に は 主 と し て 、シ リ ア 地 域 を 扱 っ た フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ッ シ ャ ー ム 、 預 言 者 ア ブ ラ ハ
ム の 町 ヘ ブ ロ ン を 扱 っ た フ ァ ダ ー イ ル・ア ル ハ リ ー ル 、イ ス ラ ー ム 世 界 の モ ス ク の 美 徳 に つ い
て述べたファダーイル・アルマサージドの 3 つがある。
ファダーイル・アッシャームは、エジプトやイラクと対になる、地域としてのシリアの他、
ダマスカスを始めとするシリアの諸都市の美徳を讃美する伝承が集めたものである。一部の
FBM に は 、フ ァ ダ ー イ ル・ア ッ シ ャ ー ム の 典 拠 と し て 前 述 の FS-R が 登 場 す る が 、こ れ は 5/11
世 紀 半 ば に 編 纂 さ れ た 作 品 で 、現 存 す る 最 古 の フ ァ ダ ー イ ル・ア ッ シ ャ ー ム で あ る と さ れ て い
る 。 フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ッ シ ャ ー ム の 形 式 は FBM と よ く 似 て お り 、 シ リ ア に 与 え ら れ る 神 の 恩
寵 、シ リ ア に い た 預 言 者 た ち の エ ピ ソ ー ド 、シ リ ア に 関 す る 預 言 者 ム ハ ン マ ド の 発 言 、ク ル ア
ー ン の 章 句 を シ リ ア に 関 連 付 け て 解 釈 し た も の 、シ リ ア 各 所 の 情 報 な ど を 含 ん で い る 。ひ と つ
ひとつの伝承をとっても、
「至高なる神はシリアに対し言われた。
『汝はこの上なく貴重なもの。
汝 の も と か ら 人 々 は 復 活 し 、汝 の も と に 人 々 は 集 め ら れ る 。汝 の 中 に は 我 が 地 獄 と 我 が 光 が あ
る ・・・』」 [FS-R 55] の よ う に 、 FBM に 見 ら れ る も の と 同 一 の モ テ ィ ー フ を 取 る も の も 多 く 、
FBM と の 近 縁 性 を 指 摘 で き る 。FBM の 中 で も フ ァ ダ ー イ ル ・ア ッ シ ャ ー ム の 要 素 が 見 ら れ る
も の は 少 な く な い 。FBM-IM や FBM- M、IA の よ う に 、作 品 の 巻 末 部 分 に フ ァ ダ ー イ ル・ア ッ
シ ャ ー ム を 加 え た 作 品 や 、 FBM-Ḍ や MG-M の よ う に 、 作 品 の 第 1 部 を フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ッ シ
ャ ー ム に 充 て 、 第 2 部 を FBM に 充 て た も の な ど が あ る 。
次 に フ ァ ダ ー イ ル・ア ル ハ リ ー ル で あ る が 、こ れ は ヘ ブ ロ ン に 縁 の 預 言 者 ア ブ ラ ハ ム と 彼 の
子 孫 イ サ ク 、イ シ ュ マ エ ル 、ヤ コ ブ 、ヨ セ フ の 事 績 、あ る い は 同 地 に あ る と さ れ る 彼 ら の 墓 に
あ る 美 徳 と そ こ へ の 参 詣 作 法 な ど に つ い て 扱 っ た も の で あ る 。独 立 し た 作 品 と し て の フ ァ ダ ー
イ ル ・ ア ル ハ リ ー ル の 例 と し て は 、 管 見 の 限 り 9/15 世 紀 初 期 に タ ド ム リ ー に よ っ て 編 纂 さ れ
た MG- T が あ る の み で あ る 。 し か し ヘ ブ ロ ン 讃 美 の 要 素 は 、 す で に 5/ 11 世 紀 半 ば の FBM-IM
40
クルアーンの中のどの章句がエルサレムを表すものと解釈されてきたかについては、ハティーブ
Abda lla h al -K hatib の 研 究 を 参 照 [al-Kha tib 2001] 。
34
の 中 に 見 る こ と が で き る [FBM- IM 468 -493]。 エ ル ア ド に よ れ ば 、 フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ル ハ リ ー
ル に 含 ま れ る 伝 承 の 大 部 分 は FBM と 同 じ 1/ 7 世 紀 末 か ら 2 /8 世 紀 初 頭 に か け て の 時 期 に は 成
立 し て い た と い う 。そ の 後 4/1 0 世 紀 以 降 、ム カ ッ ダ ス ィ ー M uḥammad b. Aḥmad al -Muqaddas ī
(d. p. 380/99 0) の 地 理 書 に 代 表 さ れ る よ う に 、ム ス リ ム に よ る 地 理 書 の 中 に ヘ ブ ロ ン に 関 す る
記 述 が 見 ら れ る よ う に な り 、 同 時 期 よ り ヘ ブ ロ ン 参 詣 が 盛 ん に な っ た と さ れ る [Elad 1996,
27-41; AT 172]。
ム ス リ ム に よ る ヘ ブ ロ ン 参 詣 は 、エ ル サ レ ム と の 距 離 的 な 近 さ と 相 ま っ て 、エ ル サ レ ム 参 詣
に 連 続 し て 行 わ れ る の が 一 般 的 で あ っ た 。例 え ば ナ ー ス ィ ル・フ ス ラ ウ Nāṣir -i Khusr aw (d. p.
465/1072) と ハ ラ ウ ィ ー ʽAlī b. Abī Bakr al-Har aw ī (d. 611/1215) は 、 そ れ ぞ れ 438/1047 年 と
569/1173 年 に エ ル サ レ ム を 訪 問 し て い る が 、 両 者 と も そ の 直 後 に ヘ ブ ロ ン に 向 か い 、 ア ブ ラ
ハ ム の 墓 に 参 詣 し て い る [SN 57-60; Is hārāt 25; 森 本 2003: 29; Meri 2004: 7 0 -71]。 FBM-IM
の 巻 末 に フ ァ ダ ー イ ル・ア ル ハ リ ー ル に 関 す る 伝 承 が 付 さ れ て い る の は 、当 時 の こ う し た 参 詣
の状況を反映したものであろう。そしてこのようなファダーイル・アルハリールの要素は、
FBM に エ ル サ レ ム 参 詣 に 関 す る 記 述 の 占 め る 割 合 が 多 く な る BN 以 降 の 作 品 で 目 立 つ よ う に
な っ て い く 。こ の こ と は 、マ ム ル ー ク 朝 以 降 も エ ル サ レ ム 参 詣 と ヘ ブ ロ ン 参 詣 が セ ッ ト で 捉 え
られていたことを示している。
モ ス ク 一 般 に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル 、す な わ ち 、モ ス ク を 建 設 し た り 清 掃 し た り す る こ と を 推
奨 す る 伝 承 や 、反 対 に モ ス ク の 中 で 唾 を 吐 い て は い け な い と い っ た モ ス ク に お け る 禁 止 事 項 に
関 し て は 、本 稿 で 扱 う FBM の 中 で は FBM-IM に し か 見 る こ と が で き な い [ FBM-IM 366-429]。
こ の よ う な 伝 承 は 、第 1 節 で 述 べ た 、ア サ リ ー の リ ス ト に 含 ま れ て い た フ ァ ダ ー イ ル・ア ル マ
サージドの書の中でも取り上げられているものである。
前 述 の 通 り 、 作 品 と し て の フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ル マ サ ー ジ ド は 、メ ッ カ 、 メ デ ィ ナ 、エ ル サ レ
ム の 3 モ ス ク を 中 心 と し た 伝 承 で 構 成 さ れ る も の で あ り 、バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス( ア ク サ ー・
モ ス ク ) と い う 共 通 項 を 持 つ 点 で FBM と は 深 い 関 係 が あ る 。 例 え ば ザ ル カ シ ー に よ る 著 作 に
は 、ダ ビ デ と ソ ロ モ ン に よ る バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 建 設 の 伝 承 や 、バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス
で 礼 拝 す る こ と を 推 奨 す る 伝 承 な ど 、 FBM に あ る も の と 同 様 の 伝 承 が 述 べ ら れ て い る [IS
280-283, 287-288]。
作品としてのファダーイル・アルマサージドは、独立して存在していたメッカ、メディナ、
エ ル サ レ ム に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル の 中 か ら 、そ れ ぞ れ の モ ス ク の 成 り 立 ち や 美 徳 に 関 す る 伝 承
を 抜 き 出 し 、そ こ に モ ス ク 一 般 に 関 す る 伝 承 を 加 え て 再 編 集 さ れ た 、比 較 的 新 し い 形 の フ ァ ダ
ー イ ル の 書 で あ る と 考 え ら れ る 。現 存 す る フ ァ ダ ー イ ル・ア ル マ サ ー ジ ド の 書 3 作 品 も 、い ず
れ も 8/1 4 世 紀 か ら 9/1 5 世 紀 に か け て 成 立 し た も の で あ る 。 こ れ ら は 既 存 の FBM を 典 拠 の ひ
と つ と し て お り 4 1 、 そ し て そ う し た フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ル マ サ ー ジ ド は 、 今 度 は RM や IA の よ
41
例 え ば ザ ル カ シ ー の 著 作 で は 、 ワ ー ス ィ テ ィ ー の FBM- W と イ ブ ン ・ ア ル ム ラ ッ ジ ャ ー の FBM-I M
35
う な 後 期 に 編 纂 さ れ た FBM の 中 で 典 拠 と し て 引 用 さ れ て い る [IA ⅰ , 86; Ibrāhīm 1985: 445] 。
以 上 本 節 で は FBM に 見 ら れ る 9 つ の カ テ ゴ リ ー に つ い て 概 観 し て き た 。 FBM の 全 体 的 な
傾 向 と し て は 、後 代 に 編 纂 さ れ た 作 品 の ほ う が 、よ り 多 様 な 要 素 を 内 包 す る よ う に な る 。す な
わ ち 初 期 の 作 品 に お い て は 、 カ テ ゴ リ ー A( イ ス ラ ー ム 以 前 の 歴 史 )、 B( イ ス ラ ー ム 以 降 の 歴
史 )、 C( エ ル サ レ ム の 神 聖 さ に 関 す る も の )、 D ( 終 末 に 関 す る も の ) が 主 な 要 素 と し て 取 り
上 げ ら れ る の に 対 し 、マ ム ル ー ク 朝 以 降 に 成 立 し た 作 品 に お い て は そ れ ら の 4 要 素 に 、カ テ ゴ
リ ー F( エ ル サ レ ム 参 詣 作 法 、 地 理 的 情 報 ) や G ( 伝 記 ) と い っ た 要 素 が 追 加 さ れ て く る 。 ま
た カ テ ゴ リ ー E( 奇 跡 譚 )、 H( ク ル ア ー ン 解 釈 ) に つ い て も 、後 代 の 作 品 に は よ り 多 数 の 伝 承
が 取 り 上 げ ら れ る よ う に な る 。さ ら に 、イ ス ラ ー イ ー リ ー ヤ ー ト の 強 い 影 響 を 受 け て 成 立 し た
FBM が 、 時 代 が 下 る に つ れ 様 々 な 新 し い 要 素 を 付 け 加 え ら れ て い く 中 で 、 当 初 の ユ ダ ヤ 教 ・
キリスト教的色彩が弱まり、イスラーム独自の性格が強くなっていくという傾向 も見られる。
次 章 以 降 で は こ う し た FBM の 時 代 を 通 じ た 変 遷 に つ い て 、 個 別 の 作 品 を 取 り 上 げ て 詳 し く 検
討する。
か ら 伝 承 が 引 用 さ れ て い る [IS 286, 288, 2 9 6]。
36
第 2 章 : ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM
本 章 で は 、 5/ 11 世 紀 か ら 、 8/14 世 紀 ( ア イ ユ ー ブ 朝 末 期 か ら マ ム ル ー ク 朝 初 期 ) に か け て
の 時 期 に 編 纂 さ れ た FBM7 作 品 を 、 著 者 の 出 身 や 経 歴 、 作 品 の 構 成 、 作 品 を 構 成 す る 伝 承 の
内 容 の 観 点 か ら 考 察 す る 。 こ の 時 期 に 成 立 し た FBM 作 品 は 、 ウ マ イ ヤ 朝 時 代 に 収 集 さ れ て い
た エ ル サ レ ム に 関 す る 様 々 な ハ デ ィ ー ス が 、書 物 の 形 で 書 き 表 さ れ る よ う に な っ た 結 果 生 み 出
さ れ た も の で あ り 、ハ デ ィ ー ス 集 の 特 徴 を 強 く 残 し て い る 。こ れ ら の 作 品 に は エ ル サ レ ム に 関
す る フ ァ ダ ー イ ル の 中 核 と な る 伝 承 が 含 ま れ て お り 、マ ム ル ー ク 朝 以 降 の 作 品 の 直 接 の 典 拠 と
も な っ て い る 。 こ こ で は こ の 時 代 に 編 纂 さ れ た 作 品 を 「 ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM」 と 呼 び 、 FBM
文献ジャンルの原形がどのようなものであったのかを提示したい 。
1 . ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM の 著 者 と 作 品 の 構 成
(1) FBM- W
ム ハ ン マ ド・ブ ン・ア フ マ ド・ワ ー ス ィ テ ィ ー M uḥ ammad b. Aḥmad al-Wās iṭī に よ る FBM-W
は 現 存 す る 最 古 の FBM で あ り 、ま た 後 代 の 多 く の 作 品 の 典 拠 と な っ て い る と い う 点 で 、FBM
研 究 の 出 発 点 と な る 重 要 な 著 作 で あ る 。 著 者 に つ い て は 、 4/10 世 紀 か ら 5/ 11 世 紀 に か け て の
エ ル サ レ ム に 住 ん で い た シ ャ ー フ ィ イ ー 派 知 識 人 で あ る こ と 、ア ク サ ー・モ ス ク の ハ テ ィ ー ブ
( 説 教 師 )を 務 め て い た 人 物 で あ る こ と 以 外 に は 、ほ と ん ど 明 ら か に な っ て い な い 。作 品 冒 頭
の伝承に付されたイスナードの中に、ワースィティーがこの作品に収められた伝承を、
410/1019 年 に エ ル サ レ ム に あ る 彼 の 自 宅 に お い て 、 ア ブ ー ・ ム ハ ン マ ド ・ ア ブ ド ・ ア ル ア ズ
ィ ー ズ ・ ブ ン ・ ア フ マ ド ・ ナ ス ィ ー ビ ー Abū M uḥammad ʽAb d al-ʽAzīz b. Aḥ mad al -Naṣībī と
い う 人 物 4 2 に 口 述 し た と い う こ と が 書 か れ て お り [FBM-W 4] 、 本 書 の 成 立 は こ の 年 に 求 め る
ことができる。
FBM-W は 典 型 的 な ハ デ ィ ー ス 集 の 記 述 様 式 に 則 っ て 記 述 さ れ て お り 、 作 品 内 で 扱 わ れ て い
る 伝 承 の す べ て に 、最 初 の 伝 承 者 か ら 、著 者 ワ ー ス ィ テ ィ ー の 直 前 の 伝 承 者 に 至 る ま で の 完 全
な イ ス ナ ー ド が 付 さ れ て い る 。本 書 の 校 訂 者 の ひ と り で あ る ハ ッ ソ ン は 、本 書 に 登 場 す る 伝 承
の 数 を 165 と 数 え て い る 。以 下 は FBM- W の 冒 頭 に 挙 げ ら れ た 伝 承 と 、そ の イ ス ナ ー ド で あ る 。
慈愛深く慈悲あまねき神の御名において。
シ ャ イ フ に し て 信 仰 深 き イ マ ー ム た る タ キ ー・ア ッ デ ィ ー ン・ア ブ ー・ア ル フ サ イ ン・ ア フ マ ド ・
42
な お ル カ イ ミ ー ([表 1], 7) は エ ル サ レ ム に て 、 こ の ナ ス ィ ー ビ ー よ り 伝 承 を 学 ん だ と さ れ る [TS ⅴ ,
332-33 3]。
37
ブ ン ・ ハ ム ザ ・ ブ ン ・ ア リ ー ・ シ ャ ー フ ィ イ ー Taqī al- Dīn Abū al - Ḥusayn Aḥ mad b. Ḥ amza b. ʽA lī b.
al- Shāfiʽī が ダ マ ス カ ス の 町 の 金 曜 モ ス ク に て 、 583 年 ラ ジ ャ ブ 月 に 我 々 に 伝 え た 。 曰 く 、 神 聖 に し
て指導者たるアブー・アルアッバース・アフマド・ブン・ムハンマド・ブン・アブド・アルアズィ
ー ズ ・ ア ッ バ ー ス ィ ー ・ マ ッ キ ー Abū al-ʽ Abbās Aḥ ma d b. Mu ḥa mma d b. ʽ Ab d a l- ʽ Azīz a l- ʽAb bāsī
al- Mak kī が 、 547 年 ラ ビ ー ゥ ・ ア ル ア ッ ワ ル 月 12 日 に 、 バ グ ダ ー ド に あ る カ リ フ の 館 の 奥 の 間 に あ
る彼の部屋にて我々に伝えた。曰く、カーディーたるアブー・アルフサイン・ムハンマド・ブン・
ム ハ ン マ ド ・ ブ ン ・ ア ル フ サ イ ン ・ ブ ン ・ ア ル フ ァ ッ ラ ー Abū al- Ḥusayn Mu ḥam ma d b. Mu ḥa mma d
b. al - Ḥusayn b. a l - Farr āʼ が 我 々 に 伝 え た 。 曰 く 、 イ ブ ン ・ ア ル ナ ス ィ ー ビ ー と し て 知 ら れ る 、 イ マ
ームたるアブー・ムハンマド・アブド・アルアズィーズ・ブン・アフマド・ブン・ウマルが我々に
伝えた。曰く、ワースィティーとして知られる、イマームにしてハティーブたるアブー・ムハンマ
ド・アブド・アルアズィーズ・ブン・アフマド・ブン・ムハンマド・マクディスィーが、エルサレ
ム に あ る 彼 の 住 ま い に て 、 410 年 に 我 々 に 伝 え た 。 曰 く 、 ア ブ ー ・ ハ フ ス ・ ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ル フ ァ
ド ル ・ ブ ン ・ ア ル ム ハ ー ジ ル ・ ラ フ ミ ー Abū Ḥafṣ ʽ Umar b. a l -Fa ḍ l b. a l- Muhājir a l-L akhmī が ア ク サ
ー・モスクにて、彼の監督のもとで読み上げられたものを我々に伝えた。曰く、我が父アブー・ア
ルアッバース・アルファドル・ブン・ムハージルが我々に伝えた。曰く、ワリード・ブン・ハンマ
ー ド ・ ラ ム リ ー Walīd b. Ḥa mmā d a l -Ra mlī が 我 々 に 伝 え た 。 曰 く 、 イ ブ ン ・ ア ビ ー ・ ア ッ サ リ ー Ibn
Abī a l- Sarī が 我 々 に 伝 え た 。 曰 く 、 ア ブ ド ・ ア ッ ラ ッ ザ ー ク ʽAbd a l- Razzāq が 我 々 に 伝 え た 。 曰 く 、
マ ァ マ ル Maʽmar が ズ フ リ ー al-Zuhrī、 サ イ ー ド ・ ブ ン ・ ア ル ム サ イ ヤ ブ Saʽīd b. a l- Masayyab、 ア ブ
ー ・ フ ラ イ ラ Abū Huraura よ り 〔 順 に 〕 我 々 に 伝 え た : 神 の 使 徒 は 言 っ た 。「 ハ ラ ー ム ・ モ ス ク 、 こ
の 私 の モ ス ク 、ア ク サ ー・モ ス ク の 3 つ の モ ス ク 以 外 に 向 け て 、鞍 を 据 え て は な ら な い 」[FBM- W 3-4]
ハ ッ ソ ン と ム ラ ー ド が FBM-W の イ ス ナ ー ド に つ い て 行 っ た 考 察 に よ れ ば 、1 65 の 伝 承 の う
ち 約 7 割 に あ た る 118 が 、上 の 伝 承 の 中 に も 名 前 が 挙 が っ て い る ア ブ ー・ハ フ ス・ウ マ ル・ ブ
ン・ ア ル フ ァ ド ル ・ラ フ ミ ー と い う 人 物 を 経 由 し て 、ワ ー ス ィ テ ィ ー に 伝 え ら れ た も の で あ る
という。さらにこのウマル・ブン・アルファドルを経由した伝承のイスナードを検証すると、
ウ マ ル は 父 親 で あ る ア ル フ ァ ド ル・ブ ン・ム ハ ー ジ ル・ ラ フ ミ ー か ら 、さ ら に フ ァ ド ル は ワ リ
ー ド ・ ブ ン ・ ハ ン マ ー ド ・ ラ ム リ ー ([ 表 1], 4) か ら 伝 承 を 伝 え て い る こ と が わ か る 。 こ の ラ ム
リ ー と は 、 3/ 9 世 紀 半 ば に 一 個 の 著 作 と し て の FBM を 編 纂 し た と さ れ る 人 物 で あ る [FBM- W
[1]-[3]; Hasson 1996; Mou rad 1996]。
FBM-W の 記 述 方 法 は 至 っ て 単 純 な も の で あ る 。 ま ず 作 品 に は 序 文 が 付 さ れ て お ら ず 、 バ ス
マ ラ (「 慈 愛 深 く 慈 悲 あ ま ね き 神 の 御 名 に お い て 」 と い う 定 型 句 ) の す ぐ 後 に 第 1 の 伝 承 の イ
ス ナ ー ド が 始 ま っ て い る 。 ま た 作 品 の 結 び と な る 部 分 も 、「 こ の フ ァ ダ ー イ ル は 、 神 と そ の お
力 、 神 が お 与 え く だ さ っ た 幸 運 と ご 助 力 を も っ て 〔 こ こ に 〕 完 成 し た 」 [FBM-W 102] と あ る
の み で あ る 。FBM-W に お い て は 、著 者 本 人 の 言 葉 や 編 纂 方 針 は ほ と ん ど 見 る こ と が で き な い 。
38
作 品 内 で 取 り 上 げ ら れ た 伝 承 に つ い て も 、そ れ に 対 す る ワ ー ス ィ テ ィ ー 自 身 の 見 解 や 真 正 性 の
判断などは一切記述されていない。
ま た ハ デ ィ ー ス 集 と し て の 形 式 に 従 い 、 FBM-W に お い て は ほ と ん ど 同 様 の 内 容 を 持 つ 伝 承
で あ っ て も 、イ ス ナ ー ド や マ ト ン の 中 の 言 葉 や 表 現 が 異 な っ て い る 場 合 は 別 の 伝 承 と 見 な さ れ
て い る 。こ の た め 作 品 内 で は 、同 内 容 の 伝 承 が 複 数 挙 げ ら れ て い る 箇 所 も 少 な く な い 。例 え ば
冒 頭 部 分 に は 、預 言 者 ム ハ ン マ ド の「 ハ ラ ー ム・モ ス ク 、こ の 私 の モ ス ク( 預 言 者 の モ ス ク )、
ア ク サ ー ・ モ ス ク の 3 つ の モ ス ク 以 外 に 向 け て 、〔 乗 馬 の 〕 鞍 を 据 え て は な ら な い 」 と い う ハ
デ ィ ー ス が 述 べ ら れ て い る の だ が 、そ こ で は ア ブ ー・フ ラ イ ラ (d. 59/678-79) か ら 伝 わ る も の 、
ウ マ ル・ブ ン・ア ル ハ ッ タ ー ブ か ら 伝 わ る も の 、ア ブ ー・サ イ ー ド・ フ ド リ ー Abū Saʽīd Saʽd b.
Mālik al-Kh udrī (d. 74/693-94) か ら 伝 わ る も の で イ ス ナ ー ド と マ ト ン が 異 な る も の が 2 つ 、
計 4 つ の ハ デ ィ ー ス が 取 り 上 げ ら れ て い る [FBM-W 3-6] 。
こ の 他 FBM-W に お け る 記 述 方 法 の 特 徴 と し て は 、作 品 の 構 成 や 伝 承 の 配 列 に 規 則 性 が 見 ら
れ な い こ と が 挙 げ ら れ る 。 ま ず FBM- W で は 、 後 代 の FBM と は 異 な り 明 確 な 章 立 て が 行 わ れ
て い な い 。作 品 全 体 を 見 れ ば 、同 内 容 の 伝 承 は 同 じ 個 所 で ま と め て 叙 述 さ れ る と い う 傾 向 が 見
ら れ る が 、そ れ は 厳 密 な も の で は な く 、同 じ テ ー マ の 伝 承 が 別 々 の 箇 所 で 書 か れ て い る こ と も
多 い 。例 え ば 上 で 述 べ た よ う に 作 品 の 冒 頭 部 分 、す な わ ち 作 品 に 含 ま れ る 全 165 の 伝 承 の う ち
の 1 番 か ら 4 番 の 伝 承 は 、「 3 つ の モ ス ク 以 外 に 出 向 い て は な ら な い 」 と い う 預 言 者 ム ハ ン マ
ド の ハ デ ィ ー ス に 関 す る も の で あ る が 、こ れ に 関 し て は こ の 1 か 所 で ま と め て 記 述 さ れ て い る 。
次 の 5 番 目 の 伝 承 は ダ ビ デ と ソ ロ モ ン に よ る 神 殿 建 設 を 扱 っ た も の で あ り 、続 く 6 番 も 同 じ テ
ー マ の も の で あ る 。 し か し 7 番 の 伝 承 は 、「 天 地 創 造 の 際 、 神 は 大 地 の 上 に 現 れ た ク リ ー ム 状
の塊を 4 つに分け、その 1 つ目からメッカを、2 つ目からメディナを、3 つ目からバイト・ア
ル マ ク デ ィ ス を 、4 つ 目 か ら ク ー フ ァ を 創 造 し た 」と い う も の で 、5、6 番 と は 異 な る テ ー マ の
伝 承 で あ る 。 こ の 7 番 の 伝 承 を 間 に 挟 ん で 、 8 番 か ら 10 番 で は 再 び ダ ビ デ と ソ ロ モ ン に よ る
神 殿 建 設 の 伝 承 が 取 り 上 げ ら れ 、 さ ら に 19 番 か ら 23 番 、46 番 、47 番 の 離 れ た 場 所 で も 扱 わ
れている。
ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM に お い て は 各 伝 承 の 前 に イ ス ナ ー ド が 付 さ れ て い る た め 、 作 品 内 の 伝
承 の 個 数 を 数 え る こ と が 容 易 で あ る 。 FBM-W の 場 合 、 校 訂 者 ハ ッ ソ ン は イ ス ナ ー ド の 数 に 従
い 、 165 の 伝 承 を 計 数 し て い る 。 筆 者 は こ こ で 、 こ れ ら の 伝 承 が 第 1 章 第 2 節 に 挙 げ た A ~ I
の い ず れ の カ テ ゴ リ ー に 属 す る も の で あ る か を 調 べ 、作 品 全 体 に 対 す る 各 カ テ ゴ リ ー の 割 合 を
表 し た ( 以 下 章 末 に 挙 げ る [ 表 2] を 参 照 )。 な お そ の 際 、 イ ス ナ ー ド の 数 で は な く マ ト ン の 内
容 と い う 点 か ら そ れ ぞ れ の 伝 承 を 見 た 場 合 に 、1 本 の イ ス ナ ー ド に よ っ て 伝 え ら れ た 伝 承 の 中
に 複 数 の 異 な る モ テ ィ ー フ が 含 ま れ て い る 場 合 が あ っ た 。本 稿 で は そ れ ら は 別 の 伝 承 と し て 数
え 4 3 、 FBM-W の 伝 承 の 総 数 を 185 個 と 計 数 し て い る 。
43
例 え ば 第 44 番 に は 、① ズ ー ・ ア ル カ ル ナ イ ン( ア レ ク サ ン ダ ー 大 王 )が エ ル サ レ ム で 見 た 6 つ の 奇
39
FBM-W で は 、 エ ル サ レ ム で 起 こ っ た 歴 史 的 な 出 来 事 に 関 す る 伝 承 ( A お よ び B) が そ れ ぞ
れ 22.16%と 22.70%で 、全 体 の お よ そ 半 分 を 占 め て い る 。こ れ に エ ル サ レ ム の 神 聖 さ や 偉 大 さ
に 関 す る 伝 承 (C)が 31.35%と 続 き 、 こ れ ら の 3 つ が 作 品 を 構 成 す る 主 要 な 要 素 と な っ て い る 。
以 下 エ ル サ レ ム と 終 末 思 想 に 関 す る 伝 承 (D)が 5.94%、 エ ル サ レ ム で ム ス リ ム た ち が 体 験 し た
奇 跡 譚 ( E)が 4.86%、エ ル サ レ ム に あ る モ ニ ュ メ ン ト や そ こ へ の 参 詣 に 関 す る 伝 承 (F)が 5 .40%、
エ ル サ レ ム に 縁 の ム ス リ ム の 伝 記 (G) が 0.54%、ク ル ア ー ン 解 釈 (H)が 5.92% 、エ ル サ レ ム 以 外
に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル ( I)に つ い て は 、フ ァ ダ ー イ ル・ア ッ シ ャ ー ム が 2 つ 含 ま れ て お り 1.08%
と続いている。
(2) FBM- IM
FBM- IM の 著 者 ム シ ャ ッ ラ フ ・ イ ブ ン ・ ア ル ム ラ ッ ジ ャ ー ・ マ ク デ ィ ス ィ ー Abū al-M aʽāl ī
al-M usharr af b. al-Mur ajjā al -Maqdisī の 経 歴 に つ い て は 、ワ ー ス ィ テ ィ ー 同 様 ほ と ん ど の こ と
が 明 ら か に な っ て お ら ず 、 450 /1058 年 前 後 に 没 し た エ ル サ レ ム 在 住 の 人 物 で あ っ た こ と が 知
ら れ て い る の み で あ る [ ʽAl ām ⅶ , 227; Livne-Kafri 2001: 62] 。
本 書 は FBM-W 同 様 、各 伝 承 に 完 全 な イ ス ナ ー ド が 付 さ れ て い る 。こ の イ ス ナ ー ド の 数 に 従
っ て 伝 承 数 を 計 数 す れ ば 、本 書 に は 62 5 の 伝 承 が 含 ま れ て い る こ と に な る 。FBM-IM と FBM-W
の 中 で 取 り 上 げ ら れ て い る 伝 承 の イ ス ナ ー ド を 比 較 す る と 、両 者 に 共 通 す る イ ス ナ ー ド を 持 つ
伝 承 は 99 で あ る 。そ の う ち の 72 が 前 述 の ラ ム リ ー を 経 由 す る イ ス ナ ー ド ( Walīd b. Ḥammād
al-Ramlī→ Faḍl b. al-Muḥ ājir al -Lakhmī→ ʽUmar b. al-Faḍl al-L akhmī) で あ り 、 残 り の 27 が そ
れ以外のイスナードによるものである。
FBM-IM は 、作 品 全 体 の お よ そ 16% に あ た る 伝 承 を FBM-W と 共 有 し て い る が 、FBM-W と
の 間 に 直 接 の 引 用 ・ 被 引 用 関 係 が あ る か に つ い て は 、明 確 に は 指 摘 で き な い 。イ ブ ン ・ ア ル ム
ラ ッ ジ ャ ー は 上 記 72 の ラ ム リ ー に よ る 伝 承 を 、 ム ハ ン マ ド ・ ブ ン ・ ウ マ ル ・ イ ス フ ァ ハ ー ニ
ー Abū M uslim Muḥ ammad b. ʽUmar al-Iṣfah ānī と い う 人 物 か ら 伝 え て お り 、 こ の イ ス ナ ー ド
の 中 に 、 ま た そ れ 以 外 の 27 個 の イ ス ナ ー ド の 中 に も 、 ワ ー ス ィ テ ィ ー の 名 前 は 見 ら れ な い か
ら で あ る 。 作 品 中 に FBM-W あ る い は そ の 他 の 書 物 を 典 拠 と し た 、 と い う 記 述 も な い 。
FBM-IM に は 短 い 序 文 が つ い て お り 、 そ こ に 著 者 の 編 纂 方 針 を 垣 間 見 る こ と が で き る 。
ある人が私に、私にまで伝わっている限りのファダーイル・バイト・アルマクディスをすべて語
っ て く れ と 頼 ん で き た 。 ・・・私 は 彼 の 求 め に 応 え 、 そ う し た も の の 中 か ら 、 私 に ま で 伝 わ っ て い る 神
の 使 徒 や 教 友 の 方 々 、美 質 に お い て 彼 ら に 続 く 人 々( タ ー ビ ウ ー ン )の 伝 承 、神 が 下 さ れ た 書( ク ル
跡 、② ソ ロ モ ン に 与 え ら れ た 善 悪 を 判 断 で き る 光 の 鎖 が 、イ ス ラ エ ル の 民 の 不 正 に よ っ て 消 え て し ま っ
た こ と 、③ ソ ロ モ ン が 池 の 上 に 絨 毯 を 敷 き 、そ こ に 高 位 の 人 々 の 席 と し た が 、正 し い 人 は そ の 絨 毯 の 上
に 座 っ て も 沈 む こ と が な か っ た と い う 伝 承 、④ ズ ー ・ ア ル カ ル ナ イ ン の 死 と 彼 の 墓 の あ る 場 所 、と い う
4 つの伝承が含まれている。
40
ア ー ン )の 中 に あ る も の を 語 っ た 。ま た 私 は そ れ に 続 け て モ ス ク の フ ァ ダ ー イ ル( フ ァ ダ ー イ ル ・ ア
ル マ サ ー ジ ド )や フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ッ シ ャ ー ム の 一 部 も 語 っ た 。と い う の も こ の モ ス ク ( ア ク サ ー ・
モ ス ク に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル )は 、そ う し た も の す べ て の 中 に 含 ま れ る か ら で あ る 。私 は そ れ を 、求
め る 者 が 楽 に〔 探 せ る 〕よ う に 、熱 望 す る 者 が 簡 単 に〔 探 せ る 〕よ う に と 、至 高 な る 神 が〔 私 を 〕助
け 楽 に し て く だ さ る よ う に と お 頼 り 申 し 上 げ 、 ご 助 力 を 請 い つ つ 、 章 立 て て 並 べ た [FBM -I M 4]。
こ の 序 文 よ り イ ブ ン ・ ア ル ム ラ ッ ジ ャ ー は 、エ ル サ レ ム の フ ァ ダ ー イ ル に 関 す る 様 々 な 伝 承
を 幅 広 く 含 ん だ 著 作 を 志 し て い た こ と が わ か る 。 前 述 し た よ う に FBM- IM に は 625 に 及 ぶ 伝
承 が 含 ま れ て お り 、こ れ は FBM-W の 伝 承 数 165 の 3 倍 以 上 に 相 当 す る 。総 数 か ら エ ル サ レ ム
以 外 に 対 す る フ ァ ダ ー イ ル を 除 い た と し て も 、425 の 伝 承 を 数 え る こ と が で き 、こ の 数 は ハ デ
ィ ー ス 集 型 FBM の 中 で は 最 大 の も の で あ る 。
イ ブ ン・ ア ル ム ラ ッ ジ ャ ー は 、読 者 に 対 す る 便 宜 と し て 、作 品 を 章 立 て て 構 成 す る と い う 編
纂 手 法 を 取 っ て い る 。 FBM-IM で は 作 品 が 115 の 章 に 分 け ら れ 、 同 一 の モ テ ィ ー フ ご と に 伝
承がまとめられて叙述されている。
ま た 著 者 は 同 内 容 の 伝 承 を 同 一 の 箇 所 で ま と め て 記 述 し て い る だ け で な く 、一 部 の 章 と 章 と
の つ な が り に も 工 夫 を 見 せ て い る 。 例 え ば 作 品 の 第 1 章 か ら 第 12 章 に か け て は 、 天 地 創 造 の
際、神は最初にハラーム・モスクとアクサー・モスクを大地の上に据えた、という伝承から、
ダ ビ デ と ソ ロ モ ン に よ る 神 殿 建 設 と ネ ブ カ ド ネ ツ ァ ル に よ る 破 壊 、イ ス ラ ー ム の 預 言 者 ム ハ ン
マ ド の 登 場 、ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ル ハ ッ タ ー ブ に よ る エ ル サ レ ム 征 服 、ウ マ イ ヤ 朝 カ リ フ = ア ブ
ド ・ ア ル マ リ ク ・ ブ ン ・ マ ル ワ ー ン に よ る 岩 の ド ー ム 建 設 に 至 る ま で の 、エ ル サ レ ム で 起 こ っ
た 歴 史 的 出 来 事 に 関 す る 記 述 が 時 代 ご と に 配 列 さ れ て い る 。 続 く 第 13 章 か ら 第 18 章 ま で は 、
ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ と オ リ ー ブ 山 に あ る 各 モ ニ ュ メ ン ト と そ こ へ の 参 詣 作 法 に 関 す る 章 で あ り 、
こ の 部 分 も 一 連 の 内 容 と な っ て い る 。こ の 後 の 部 分 に も 、聖 な る 岩 の 美 徳 や 岩 の ド ー ム を 始 め
と し た ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ の 各 モ ニ ュ メ ン ト に ま つ わ る 預 言 者 た ち の 伝 承 、エ ル サ レ ム の 神 聖
さや偉大さに関する伝承、終末思想などが、大まかにではあるがまとめて並べられている。
こ の 一 方 で FBM- IM に お い て も FBM- W と 同 じ く 、 そ れ ぞ れ の 伝 承 の 真 正 性 の 検 証 や 、 著
者本人による伝承の解釈などは行われていない。
FBM- IM の も う ひ と つ の 特 色 は 、序 文 に も 書 か れ て い た よ う に 、作 品 の 終 わ り に フ ァ ダ ー イ
ル ・ ア ル マ サ ー ジ ド 、フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ッ シ ャ ー ム 、フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ル ハ リ ー ル が 加 え ら れ
て い る と こ ろ に あ る 。こ れ ら の エ ル サ レ ム 以 外 に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル は 作 品 全 体 の お よ そ 3 割
に 及 ぶ 部 分 を 占 め て い る 。イ ブ ン ・ア ル ム ラ ッ ジ ャ ー は フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ル マ サ ー ジ ド と フ ァ
ダーイル・アッシャームの書き出しを、次のような言葉で始めている。
私はこの私の書の中で、神がそれをしてバイト・アルマクディスを特別なものとなさったところ
41
のもの、すなわち栄光あるファダーイルや偉大なる偉業の数々、その中でそれ以外のものが肩を並
べることなどできないような〔すばらしい〕ものを語ってきた。さて私は、もし神がお望みになる
な ら ば 、 こ の 後 フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ル マ サ ー ジ ド を 少 し 語 ろ う 。 そ れ ぞ れ の 美 徳 faḍīla は 諸 モ ス ク に
ついて述べられたものであるが、このモスク(バイト・アルマクディス) こそはその中でも多くの
部分を占めるものであり、そしてそれは、神がそこにお与えになり、神聖で特別なものとなさった
ものによって、それらとは別個のものでもある。そここそが一番であり、そこに関する美徳はもっ
と も 偉 大 で あ る [FBM- IM 3 66]。
ファダーイル・アルマサージドと、至高なる神がそれをしてモスクを特別なものとなさったとこ
ろのもの、バイト・アルマクディスのモスクもその中に含まれるところのものを述べた後で、私は
〔次は〕ファダーイル・アッシャームと、至高なる神がそれをしてそこを特別なものとなさった と
ころのものについて述べよう。というのもこの聖なる地は、同じくそれ(シリア)全体の下に含ま
れ て い る か ら で あ る 。 も ち ろ ん そ こ ( バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス ) は 、 美 点 faḍl に か け て は 最 も 価 値
のあるところであるが。というのもそこがシリアの軸であり、それゆえにシリアの大部分の美徳が
あるのだから。ゆえにそれぞれの美徳はシリアについて述べたものであるが、クドスがその中で 最
も 多 く の 部 分 を 占 め 、 最 も 多 く 割 り 当 て を 受 け る も の な の で あ る [FBM -I M 429 ]。
以 上 よ り 、イ ブ ン・ ア ル ム ラ ッ ジ ャ ー が そ れ ぞ れ の フ ァ ダ ー イ ル を エ ル サ レ ム や ア ク サ ー ・
モスクと深い関連を持つものであると見なしていること、それらの中にエルサレムやアクサ
ー・モスクが要素として含まれているがゆえに、それらを本書の中で取り上げる意味がある、
と考えていることがわかる。
ま た フ ァ ダ ー イ ル・ア ッ シ ャ ー ム に 続 く 作 品 の 末 尾 の 部 分 に は フ ァ ダ ー イ ル・ア ル ハ リ ー ル
が 取 り 上 げ ら れ て お り 、そ こ で は 預 言 者 ア ブ ラ ハ ム と そ の 一 族 の 墓 に 参 詣 す る こ と で 得 ら れ る
功 徳 と 、そ こ へ の 参 詣 作 法 に 関 す る 伝 承 が 述 べ ら れ て い る 。本 論 第 1 章 第 2 節 に お い て 、ム ス
リ ム に よ る ヘ ブ ロ ン 参 詣 は 4/10 世 紀 以 降 盛 ん に な り 始 め た と す る エ ル ア ド の 仮 説 を 挙 げ た が 、
FBM- IM に お け る フ ァ ダ ー イ ル・ア ル ハ リ ー ル の 記 述 は こ の 仮 説 を 裏 付 け て い る と い え る 。す
な わ ち 、 少 な く と も 本 書 が 編 纂 さ れ た 5/11 世 紀 半 ば に は 、 ヘ ブ ロ ン を エ ル サ レ ム 近 隣 に あ る
も う ひ と つ の 聖 所 と し て ひ と ま と め に 捉 え 、エ ル サ レ ム 参 詣 と ヘ ブ ロ ン 参 詣 を 連 続 し て 行 う と
いう習慣が確立していたことが伺える。
FBM- IM に 含 ま れ る 625 の 伝 承 を カ テ ゴ リ ー ご と に 分 類 し た 場 合 、歴 史 的 な 伝 承( A お よ び
B) が そ れ ぞ れ 13.76%と 15.36%、 エ ル サ レ ム の 神 聖 さ や 偉 大 さ に 関 す る 伝 承 (C)が 21.28%、
終 末 思 想 に 関 す る 伝 承 (D)が 7 .20%、奇 跡 譚 (E)が 1.92% 、エ ル サ レ ム に あ る モ ニ ュ メ ン ト や そ
こ へ の 参 詣 に 関 す る 伝 承 (F)が 4. 32%、 伝 記 (G)が 0.16%、 ク ル ア ー ン 解 釈 (H)が 4.00%、 エ ル
サ レ ム 以 外 に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル (I) に つ い て は 、 フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ル マ サ ー ジ ド が 15.36% 、
42
フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ッ シ ャ ー ム が 8.96% 、フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ル ハ リ ー ル が 7.68 %で 、計 32.0% と
なっている。
FBM- IM は 数 多 く の 伝 承 を 伝 え る 作 品 で あ り 、後 代 の 多 く の FBM が こ れ を 直 接 の 典 拠 と し
て い る 。 後 代 の 作 品 に 与 え た 影 響 の 大 き さ と い う 点 に お い て 、 本 書 は FBM 編 纂 の 歴 史 の 中 で
極めて重要な位置づけを持つ作品であると言える。
(3) FQ
FQ の 著 者 ア ブ ド・ア ッ ラ フ マ ー ン・ブ ン・ア リ ー・イ ブ ン・ア ル ジ ャ ウ ズ ィ ー ʽAbd al-Raḥm ān
b. ʽAlī b. al-Jawzī (d. 597 /1201) は 、 バ グ ダ ー ド で 活 躍 し た 著 名 な ハ ン バ ル 派 法 学 者 で あ る 。
時 の カ リ フ や ワ ズ ィ ー ル た ち の 庇 護 を 受 け て 彼 ら の マ ジ ュ リ ス( 評 議 や 討 論 を 行 う サ ロ ン )に
連 な り 、説 教 師 あ る い は 著 作 家 と し て 高 い 名 声 を 得 て い た 。 541 /1146-47 年 と 553/1158-59 年
に メ ッ カ 巡 礼 を 行 っ た と き を 除 い て イ ラ ク を 離 れ た こ と は な く 、生 涯 の ほ と ん ど を バ グ ダ ー ド
で 過 ご し た と さ れ て い る [FQ 17-30; Aʽl ām ⅲ , 316] 。 FBM の 著 者 と し て は 、 シ リ ア 地 域 の 出
身 者 で あ る か 、あ る い は エ ル サ レ ム 参 詣 経 験 を 持 つ 人 物 が 大 部 分 で あ る 中 で 、シ リ ア と ほ と ん
ど地縁を持たないイブン・アルジャウズィーの存在は目立つもの である。
FQ の 編 纂 動 機 に つ い て 、イ ブ ン・ア ル ジ ャ ウ ズ ィ ー は 作 品 の 序 文 で 、
「ある敬虔な人が私に、
フ ァ ダ ー イ ル ・ バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 語 っ て く れ と 頼 ん で き た 。そ こ で 私 は 彼 に 、分 類 し
章 立 て し て〔 フ ァ ダ ー イ ル を 〕語 っ て や っ た の だ が 、彼 は そ の こ と に よ っ て 、来 世 で の 報 酬 や
褒 美 を 求 め て い た の で あ る 」 [FQ 63] と 述 べ て い る が 、 著 者 が こ の 時 期 に FQ を 編 纂 し た こ と
の 第 一 の 契 機 は 、 や は り 583/1187 年 の サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン に よ る 十 字 軍 か ら の エ ル サ レ
ム 奪 還 で あ る だ ろ う 。 FQ で は 、 第 18 章 「 後 〔 の 時 代 〕 に バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス で 起 こ っ
た こ と 」と い う 章 に お い て 、十 字 軍 の 侵 攻 と サ ラ ー フ ・ア ッ デ ィ ー ン に よ る エ ル サ レ ム 征 服 に
関する事柄が次のように述べられている。
492 年 シ ャ ア バ ー ン 月 23 日 金 曜 日 、 フ ァ ラ ン ジ ュ ( 十 字 軍 ) が バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 占 領 し
た 。 彼 ら は 7 万 人 を 越 え る ム ス リ ム を 殺 し 、 岩 〔 の ド ー ム 〕 か ら 40 数 個 の 銀 の ラ ン プ を 奪 っ た 。 ラ
ン プ の そ れ ぞ れ は 3600 デ ィ ル ハ ム に 相 当 す る も の で あ っ た 。ま た 彼 ら は ラ ト ル ・ シ ャ ー ミ ー に し て
raṭlan bi -a l- Shā mī
44
40 ラ ト ル の 銀 の 香 炉 や 、 10 数 個 の 金 の ラ ン プ 、 衣 服 な ど 、 数 え 切 れ な い も の
を奪っていった。シャームの地より恐れ怯える人々がやってきて、ムスリムたちの上に起った事を
我々に話してくれた。ダマスカスのカーディーであったカーディー・アブー・サァド・ ハラウィー
Qāḍī Abū Sa ʽd al - Harawī が バ グ ダ ー ド の デ ィ ー ワ ー ン に 立 ち 発 言 し た が 、 そ れ は そ こ に い た 人 々 を
嘆かせるものであった。彼はディーワーンの中で、軍隊に行った人のために嘆き悲しみ、人々にそ
44
ラ ト ル は イ ス ラ ー ム 地 域 に お け る 重 量 の 単 位 。シ リ ア に お い て は 、1 ラ ト ル は 1853 グ ラ ム に 相 当 す
る [Ashtor 199 1: EI 2 ⅵ , “MAKĀ YIL ”]。
43
の 災 い の 様 子 を 知 ら せ た 。 イ ブ ン ・ ア キ ー ル Ibn ʽAqī l そ の 他 の 人 を 始 め と す る 偉 大 な ウ ラ マ ー は そ
のことを嘆き悲しんだが、しかし彼らは言い訳したり自己弁護したりで尻込みしていた。バイト・
ア ル マ ク デ ィ ス は 583 年 ま で 不 信 仰 者 ど も の 側 に あ っ た が 、 そ の 後 信 徒 の 長 ナ ー ス ィ ル ・ リ デ ィ ー
ン ・ ア ッ ラ ー Nāṣir li -Dīn Al lā h の そ の 地 に お け る 代 理 人 サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン が 、 そ の 周 辺 の 地
域 を 支 配 し た 後 、 そ こ 〔 の 奪 還 〕 に 向 か っ た 。 583 年 ラ ジ ャ ブ 月 27 日 、 サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン の
ラカブを持つユースフ・ブン・アイユーブがバイト・アルマクディスを征服し、その地にて 自身の
名 に お い て フ ト バ を 行 い 礼 拝 し た と い う 知 ら せ が 我 々 の も と に 届 い た [FQ 125-12 8]。
こ の 記 述 の 存 在 よ り 、FQ の 編 纂 年 代 は 583/1187 年 か ら 、著 者 が 没 し た 597 /1201 年 ま で の
期 間 内 の こ と で あ る と わ か る 。バ グ ダ ー ド 在 住 で あ り エ ル サ レ ム と 地 縁 を 持 た な か っ た 著 者 が
FBM を 編 纂 し た 理 由 は 、583/ 1187 年 の エ ル サ レ ム 奪 還 の イ ン パ ク ト に よ る も の と 考 え ら れ る
た め 、本 書 の 編 纂 は こ の 年 か ら さ ほ ど 隔 た っ て い な い 時 期 で あ ろ う 。当 時 の 著 名 な ウ ラ マ ー の
ひ と り で あ り 、カ リ フ に も 近 い 位 置 に い た イ ブ ン ・ ア ル ジ ャ ウ ズ ィ ー は 、ザ ン ギ ー 朝 ス ル タ ン
= ヌ ー ル ・ ア ッ デ ィ ー ン と も 親 交 を 持 っ て い た 。 ヌ ー ル ・ ア ッ デ ィ ー ン は 55 6/1161 年 に ア ン
テ ィ オ キ ア 候 に 勝 利 し た 際 、イ ブ ン・ア ル ジ ャ ウ ズ ィ ー に そ の こ と を 伝 え る 書 簡 を 書 き 送 っ て
い る [FQ 35]。 こ の よ う な 立 場 に あ っ た こ と で 、 彼 は バ グ ダ ー ド に い な が ら に し て あ る 程 度 十
字 軍 と シ リ ア の ム ス リ ム 勢 力 と の 事 情 に 通 じ て お り 、ま た 関 心 も 持 っ て い た で あ ろ う 。以 上 よ
り イ ブ ン・ア ル ジ ャ ウ ズ ィ ー は サ ラ ー フ・ア ッ デ ィ ー ン か ら の エ ル サ レ ム 回 復 の 知 ら せ を 受 け
た こ と を き っ か け に 、キ リ ス ト 教 勢 力 に 対 す る イ ス ラ ー ム の 勝 利 を 記 念 す る た め に 、エ ル サ レ
ムに関するファダーイルを編纂したと考えられる。
FQ の 校 訂 者 ジ ブ ラ ー イ ー ル ・ ジ ャ ッ ブ ー ル Jibrāʼ īl Jabbūr は 、 イ ブ ン ・ ア ル ジ ャ ウ ズ ィ ー
に よ る サ ラ ー フ・ア ッ デ ィ ー ン の エ ル サ レ ム 回 復 の 記 述 が 、著 者 の 同 年 代 の 出 来 事 で あ る に も
関 わ ら ず 非 常 に 簡 潔 な も の に 過 ぎ な い こ と か ら 、著 者 は 当 時 の エ ル サ レ ム に 関 す る 情 報 を 多 く
持 っ て い な か っ た の で あ ろ う と 述 べ て い る [FQ 14]。 し か し な が ら FQ に お け る 記 述 の 簡 潔 さ
が 、必 ず し も 著 者 の 情 報 や 興 味 の 欠 如 を 意 味 す る も の で あ る と は 言 え な い だ ろ う 。そ も そ も ル
マ イ リ ー ([表 1], 7) が 493/1099 年 の 十 字 軍 に よ る エ ル サ レ ム 侵 攻 の 際 に 、 FBM の 執 筆 途 中
に し て 殺 害 さ れ て 以 降 、イ ブ ン・ア ル ジ ャ ウ ズ ィ ー に 至 る ま で の お よ そ 1 世 紀 の 間 、事 件 の 渦
中 に あ っ た シ リ ア 地 域 で は FBM の 編 纂 は ま っ た く 記 録 に 残 っ て い な い 。 ま た こ の 出 来 事 は 、
ア イ ユ ー ブ 朝 か ら マ ム ル ー ク 朝 に か け て 編 纂 さ れ た ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM の 中 で は む し ろ ほ と
ん ど 取 り 上 げ ら れ て い な い 要 素 で あ る 4 5 。 こ の よ う な 状 況 に お い て こ の 記 述 が FQ に 存 在 す る
ことは、むしろ著者の関心の高さを示すものだと言える。
45
FBM に お い て サ ラ ー フ・ア ッ デ ィ ー ン に よ る エ ル サ レ ム 征 服 の 過 程 が 詳 細 に 述 べ ら れ る よ う に な る
の は マ ム ル ー ク 朝 末 期 成 立 の IA 以 降 の こ と で あ り 、 そ の 典 拠 と し て は イ マ ー ド ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ イ ス
フ ァ ハ ー ニ ー に よ る Fatḥ が 用 い ら れ て い る 。ま た エ ル サ レ ム が 十 字 軍 に 占 領 さ れ て い た 100 年 間 に つ
い て は 、 UJ を 除 き FQ と 同 様 の 記 述 し か な い 。
44
イ ブ ン・ア ル ジ ャ ウ ズ ィ ー が エ ル サ レ ム と い う 場 所 に お け る 、十 字 軍 勢 力 を 始 め と す る 異 教
徒 た ち に 対 す る イ ス ラ ー ム の 戦 い と 勝 利 と い う テ ー マ に 関 心 を 持 っ て い た こ と は 、FQ の 第 12
章「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス で 起 き た 破 壊 や 略 奪 」 の 章 か ら も 確 認 で き る 。 こ の 章 は 、ク ル ア
ー ン 17 章 4-8 節 4 6 の 解 釈 に 託 し て イ ス ラ エ ル 王 国 や ビ ザ ン ツ 帝 国 の 堕 落 と 、 彼 ら に よ る エ ル
サ レ ム 支 配 の 崩 壊 、そ こ が 最 終 的 に ム ス リ ム に よ っ て 支 配 さ れ る と い う 一 連 の 歴 史 の 流 れ を 述
べ た も の で 、 FBM の 中 で も FQ に の み 登 場 す る も の で あ る 。 イ ブ ン ・ ア ル ジ ャ ウ ズ ィ ー は イ
スラエルの民が犯した「2 つの害悪」について、1 つ目を預言者イザヤ、あるいは預言者ザカ
リ ヤ の 殺 害 、2 つ 目 を 預 言 者 ヨ ハ ネ と イ エ ス の 殺 害 で あ る と す る 解 釈 を 引 用 し 、彼 ら の 上 に は
そ の 罰 と し て そ れ ぞ れ バ ビ ロ ン と 、ペ ル シ ア や ビ ザ ン ツ に よ る 侵 攻 が 下 さ れ た と し て い る 。し
か し イ ス ラ エ ル の 民 に 変 わ り エ ル サ レ ム を 支 配 し て い た ビ ザ ン ツ の 民 も 、ハ ラ ム・ シ ャ リ ー フ
を 汚 す と い う 悪 徳 を 行 い 、最 終 的 に は ウ マ ル ・ ブ ン ・ア ル ハ ッ タ ー ブ 率 い る ム ス リ ム 軍 に 征 服
さ れ た と 述 べ る [ FQ 99-109]。
預 言 者 の 殺 害 な ど の 罪 を 犯 し た イ ス ラ エ ル の 民 が 神 の 罰 を 受 け 、新 し い 神 の 民 に 侵 略 さ れ る
と い う モ テ ィ ー フ は 、FQ 以 外 の FBM で も 各 所 に 見 ら れ る 。リ ヴ ネ = カ フ リ は FBM に お け る
こ の モ テ ィ ー フ に つ い て 、か つ て キ リ ス ト 教 徒 が ユ ダ ヤ 教 徒 に 対 し て 抱 い て い た 意 識 が 、ム ス
リ ム に も 取 り 込 ま れ た こ と の 反 映 で あ る と し て い る 。す な わ ち 、か つ て は キ リ ス ト 教 徒 が 自 身
を「 堕 落 し た ユ ダ ヤ 教 徒 に 変 わ っ て 現 れ た 」新 し い 神 の 民 と 認 識 し て い た も の が 、今 度 は ム ス
リ ム た ち が 、自 分 た ち こ そ が さ ら に キ リ ス ト 教 徒 に 代 わ っ て そ の 位 置 に 就 く べ き 存 在 で あ る と
見 な す よ う に な っ た と い う こ と で あ る [ Livne-Kafri 1998; 200 4]。 こ の ユ ダ ヤ 教 徒 ・ キ リ ス ト
教 徒 に 代 わ る 新 し い 神 の 民 と し て の ム ス リ ム と い う モ テ ィ ー フ は 、 と り わ け FQ の 第 12 章 に
お い て 端 的 に 表 現 さ れ て い る 。 FQ に お け る こ の モ テ ィ ー フ の 強 調 は 、 イ ブ ン ・ ア ル ジ ャ ウ ズ
ィ ー が サ ラ ー フ・ア ッ デ ィ ー ン に よ る 十 字 軍 勢 力 か ら の エ ル サ レ ム 征 服 を 意 識 し て 本 書 を 編 纂
したことの結果であろう。
FQ は 著 者 本 人 が 序 文 で 述 べ て い る 通 り 、27 の 章 か ら 構 成 さ れ て い る 。FBM-IM 同 様 、同 内
容 の 伝 承 は ひ と つ の 章 に ま と め て 叙 述 さ れ 、ま た 各 章 の 配 列 も 、関 連 の あ る 章 同 士 は 続 け て 並
べるといった配慮が行われている。
FQ も FBM-W や FBM-IM と 同 じ く イ ス ナ ー ド を 備 え た 伝 承 記 述 を 行 っ て い る 。し か し 先 の
2 作 品 が す べ て の 伝 承 に 完 全 な イ ス ナ ー ド を 付 し て い た の に 対 し 、 FQ で は 一 部 の 伝 承 で イ ス
46
ク ル ア ー ン 17 章 4-8 節 :「 我 ら は 啓 典 の 中 で イ ス ラ エ ル の 子 ら に 告 げ た 、
『お前たちは必ずや地上に
おいて 2 度も害悪を及ぼし、甚だしい思い上がりに達するであろう』第 1 の約束が事実となったとき、
我 ら は お 前 た ち に 、激 し い 力 を 備 え た 僕 た ち を 遣 わ し た 。彼 ら は 戸 別 に 侵 入 し て 家 探 し し た 。こ う し て
こ の 約 束 は 果 た さ れ た の で あ る 。そ の 後 我 ら は 、再 び お 前 た ち を し て 反 撃 に 転 ぜ し め 、お 前 た ち に 財 産
と 子 孫 を 補 充 し て 、 兵 力 を 強 化 し て や っ た 。『 も し お 前 た ち が 善 を 行 う な ら ば 、 お 前 た ち 自 身 の た め に
善 を 行 っ た こ と に な る 。も し 悪 を 行 う な ら ば 、そ れ も お 前 た ち 自 身 の た め で あ る 』第 2 の 約 束 が 事 実 と
なったとき、我らは彼らをしてお前たちの顔を悲しみで覆わせ、最初のときと同様、神殿に侵入させ、
手 当 た り 次 第 に 破 壊 さ せ た 。お そ ら く 主 は お 前 た ち を 憐 れ み 給 う で あ ろ う 。も し お 前 た ち が 繰 り 返 す な
らば、我らも繰り返すだろう。我らは不信者どもの牢獄としてゲヘナを造ったのである」
45
ナ ー ド の 省 略 が 起 こ っ て い る 。例 え ば 伝 承 の 書 き 出 し を「 伝 承 に 詳 し い ウ ラ マ ー 曰 く 」[FQ 78 ,
110] 等 の 言 葉 で 始 め た り 、 ま た 「 イ ブ ン ・ ア ッ バ ー ス 4 7 曰 く 」 [ FQ 115] の よ う に イ ス ナ ー ド
の 根 元 に 来 る 著 名 な 伝 承 家 の 名 前 の み を 取 り 上 げ て 、途 中 の イ ス ナ ー ド は 省 略 し た り と い っ た
手 法 で あ る 。 FQ に 登 場 す る 伝 承 の 数 を イ ス ナ ー ド に 従 っ て 数 え る と 4 8 、 全 部 で 111 の 伝 承 が
含 ま れ て い る が 、 そ の う ち の 50 に は イ ス ナ ー ド の 省 略 が 見 ら れ る 。
イ ブ ン ・ ア ル ジ ャ ウ ズ ィ ー は イ ス ナ ー ド が 省 略 さ れ て い な い 残 り 61 の 伝 承 の う ち の 20 を 、
ム バ ー ラ ク ・ ブ ン ・ ア フ マ ド ・ ア ン サ ー リ ー Ab ū al-Muʽamm ar al-M ubār ak b. Aḥmad al-Anṣ ār ī
(d. 549/1154) と い う バ グ ダ ー ド の ハ デ ィ ー ス 伝 承 者 [FQ 72; A ʽlām ⅴ , 269] か ら 聞 き 伝 え て
いる。また 7 つを、彼の母方のおじに当たるバグダードのシャーフィイー派法学者ムハンマ
ド・ブ ン・ナ ー ス ィ ル・サ ッ ラ ー ミ ー M uḥammad b. Nāṣ ir al-Sall āmī al-D ārī (d . 550/1155) [FQ
73; Aʽl ām ⅶ , 121] よ り 聞 き 伝 え て お り 、 こ の 2 名 が FQ に お け る イ ブ ン ・ ア ル ジ ャ ウ ズ ィ ー
の主要な情報源となっている。
FQ の イ ス ナ ー ド の 中 に は 、 FBM-W の 著 者 ワ ー ス ィ テ ィ ー を 経 由 し た も の が 2 6 見 ら れ る 。
そ の う ち の 17 は FBM-W の 項 で 示 し た ラ ム リ ー に よ る イ ス ナ ー ド で あ り 、FQ で は こ れ が ワ ー
ス ィ テ ィ ー を 経 由 し て ム バ ー ラ ク ・ ア ン サ ー リ ー に 伝 え ら れ て い る (W alīd b . Ḥammād
al-Ramlī→ Faḍl b. al-M uh ājir al-L akhmī→ ʽUm ar b. al-Faḍl al -Lakhmī→ M uḥ ammad b. Aḥmad
al-Wāsiṭī→ ʽAbd al-ʽA zīz b . Aḥmad al-Naṣīb ī→ M uḥammad b. M uḥamm ad al-Farrāʼ→ Mub ārak b .
Aḥmad al-A nṣ ārī)。 こ の こ と か ら 、 ワ ー ス ィ テ ィ ー が 収 集 し た 伝 承 の 一 部 が 6/12 世 紀 の バ グ
ダ ー ド で も 知 ら れ て い た こ と が 確 認 で き る 。 ま た FQ に は 、イ ス ナ ー ド の 頭 に ワ ー ス ィ テ ィ ー
の 名 前 が 付 さ れ て い る 伝 承 も あ り [FQ 77, 98]、イ ブ ン・ア ル ジ ャ ウ ズ ィ ー が 直 接 FBM-W を 参
照している可能性も考えられる。
ま た FQ の 章 構 成 に つ い て FBM-W や FBM- IM に 見 ら れ な か っ た 新 し い 点 と し て は 、 冒 頭
に 「 聖 な る 地 al-Arḍ al-M uqaddasa の 美 徳 」 と い う 章 が 置 か れ て い る こ と が 挙 げ ら れ る 。 こ れ
は 、 ク ル ア ー ン 5 章 20 節 に あ る 「 皆 の 者 よ 、 神 が お 前 た ち の た め に 定 め 給 う た 聖 な る 地 に 入
れ 」 と い う 預 言 者 モ ー セ の 言 葉 と 関 連 し て 、「 聖 な る 地 」 と は シ リ ア の ど の 地 域 を 指 す も の で
あ る の か と い う 解 釈 と 、「 聖 な る quds/ maqdis/ muqaddas」 と い う 言 葉 を 踏 ま え た 「 バ イ ト ・
ア ル マ ク デ ィ ス 」と い う 地 名 の 語 源 や 意 味 に つ い て 述 べ た 部 分 で あ る 。ク ル ア ー ン 解 釈 と 名 称
に 関 す る 伝 承 を 作 品 の 冒 頭 部 に 置 く と い う 形 式 は 、 後 代 の FBM に お い て 踏 襲 さ れ ひ と つ の 定
型となっていくものである。
FQ に 含 ま れ る 伝 承 の 数 は 、 イ ス ナ ー ド や 伝 承 者 名 に 従 っ て 数 え た 場 合 111 と な る が 、
FBM-W 同 様 1 つ の 伝 承 の 中 に 複 数 の 内 容 を 含 ん で い る も の も あ る た め 、そ れ を 考 慮 し た 場 合
伝 承 の 総 数 は 117 と な る 。こ れ ら 117 個 の 伝 承 を カ テ ゴ リ ー ご と に 分 類 す る と 、歴 史 的 な 伝 承
ʽAbd A l lāh b. ʽA bbās (d. 68/687 - 88). 預 言 者 ム ハ ン マ ド の 従 弟 で あ り 、 ハ デ ィ ー ス 伝 承 者 、 ク ル ア
ーン解釈家として著名な人物。
48 イ ス ナ ー ド の 途 中 が 省 略 さ れ て い る 場 合 、 根 元 に あ る 伝 承 者 の 発 言 ご と に 1 つ の 伝 承 と 数 え る 。
47
46
( A お よ び B) が そ れ ぞ れ 29.91%と 11.97%、 エ ル サ レ ム の 神 聖 さ や 偉 大 さ に 関 す る 伝 承 (C)
が 20.51%、 終 末 思 想 に 関 す る 伝 承 (D) が 5.13%、 奇 跡 譚 (E)が 3.42% 、 エ ル サ レ ム に あ る モ ニ
ュ メ ン ト や そ こ へ の 参 詣 に 関 す る 伝 承 ( F)が 1.70%、 伝 記 (G)が 0.86%、 ク ル ア ー ン 解 釈 (H)が
26.50%と な る 。 な お FQ に は エ ル サ レ ム 以 外 に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル (I) は 含 ま れ て い な い 。
(4) MM
著 者 の ア ブ ド・ア ッ ラ ヒ ー ム・ ブ ン・ ア リ ー・ イ ス ナ ー イ ー ʽAbd al-Raḥīm b. ʽAlī al-Qurashī
al-Isnāʼī は 、ア イ ユ ー ブ 朝 の エ ジ プ ト 、シ リ ア で 書 記 と し て 活 動 し た 人 物 で あ る 。エ ジ プ ト の
イ ス ナ ー で 生 ま れ 、ク ー ス で 学 問 を 修 め 、同 地 の イ ン シ ャ ー 庁 に 勤 め た 後 に ア レ ク サ ン ド リ ア
や エ ル サ レ ム の イ ン シ ャ ー 庁 に 勤 め た 。そ の 後 ア イ ユ ー ブ 朝 の ダ マ ス カ ス 君 主 マ リ ク・ム ア ッ
ザ ム ・ イ ー サ ー al-M alik al-M uʽaẓẓam ʽĪsā b. al-M al ik al- ʽĀdil Muḥ ammad b. Ayy ūb (d. 624/
1227) の も と で ワ ズ ィ ー ル を 務 め 、 彼 と 親 し い 関 係 に あ っ た 。 625/1228 年 に ダ マ ス カ ス に て
没 し て い る [A ʽlām ⅲ , 347; M uʽjam ⅱ , 133; KW x ⅷ , 379-383] 。 FBM 著 者 の 中 に は 、 法 学
者 や マ ド ラ サ の 教 授 と し て の 立 場 に い た 人 物 が 多 い 中 で 、イ ス ナ ー イ ー は 書 記 や ワ ズ ィ ー ル を
務めたという珍しい経歴を持っている。
MM の 校 訂 本 は 出 版 さ れ て お ら ず 、 本 稿 で は ダ ー ル ・ ア ル ク ト ゥ ブ D ār al-K utub al-M iṣrīya
所 蔵 の 写 本 ( MS. maj āmīʽ 514) を 参 照 し て い る 。 本 書 は ダ ー ル ・ ア ル ク ト ゥ ブ 写 本 の 葉 数 に
し て 13 葉 の 小 編 で あ る 。 序 文 に は 神 と 預 言 者 ム ハ ン マ ド へ の 賛 辞 が 書 か れ て い る の み で 、 編
纂 の 動 機 に つ い て は 触 れ ら れ て い な い 。作 品 の 編 纂 時 期 に つ い て も 限 定 で き な い が 、
「 マリク・
ナ ー ス ィ ル ・ サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ ユ ー ス フ ・ ブ ン ・ ア イ ユ ー ブ が 583 年 の あ る 金 曜 日 に
そ こ を 征 服 し た 」と い う 、サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン の エ ル サ レ ム 征 服 に 関 す る 短 い 記 述 が あ り
[MM 48b]、 583/ 1187 年 以 降 の 編 纂 で あ る こ と は 明 ら か で あ る 。
MM の 分 量 の 小 さ さ は 、 作 品 に 含 ま れ る 伝 承 数 が 少 な い こ と に 加 え 、 前 述 の 3 つ の FBM に
あ っ た い く つ か の 要 素 を 省 略 し て い る こ と で 成 り 立 っ て い る 。 ま ず MM で は 、 す べ て の 伝 承
で イ ス ナ ー ド の 省 略 が 行 わ れ て い る 。 FQ と 同 様 に イ ス ナ ー ド の 根 元 と な る 人 物 、 あ る い は そ
のイスナードを採用した権威あるハディース伝承者の名前のみを挙げてイスナードに代えて
いる場合もあれば、イスナードを完全に省略して直接マトンの叙述を始めている部分もある。
な お MM で は 、FBM-IM や FQ の よ う な 章 立 て は な さ れ て い な い 。ま た こ れ ま で の 3 つ の FBM
と 異 な る 部 分 は 、そ れ ら の 作 品 で は イ ス ナ ー ド や マ ト ン の 文 句 が 異 な っ て い る が 同 様 の 内 容 を
持 つ 伝 承 を 複 数 個 並 列 し て い た の に 対 し 、MM で は ひ と つ の 内 容 の 伝 承 は ひ と つ し か 取 り 上 げ
ら れ な い と い う と こ ろ に あ る 。ま た そ の ひ と つ ひ と つ の 伝 承 の 分 量 に つ い て も 、従 来 の 作 品 で
扱 わ れ て い た も の の 一 部 を 省 略 し て 短 く 切 り 取 っ た 形 に な っ て い る も の が 多 い 。こ れ ら の 省 略
の 他 、 MM に は そ れ 以 前 の FBM に な い 新 し い 要 素 も 特 に は 見 ら れ な い 。
MM で 扱 わ れ る 伝 承 の カ テ ゴ リ ー ご と の 割 合 に つ い て は 、エ ル サ レ ム の 歴 史 に 関 す る 伝 承( A
47
お よ び B) が そ れ ぞ れ 38.46%と 15.38 %と な っ て い る 。 イ ス ラ ー ム 以 前 の 歴 史 (A)に 比 べ る と
イ ス ラ ー ム 時 代 の 歴 史 ( B)の 割 合 が 少 な く な っ て お り 、先 の 3 つ の FBM に は な ん ら か の 形 で 取
り 上 げ ら れ て い た 預 言 者 ム ハ ン マ ド の イ ス ラ ー に 関 す る 伝 承 と 、ウ マ ル の エ ル サ レ ム 征 服 に 関
す る 伝 承 が 、MM に は ま っ た く 含 ま れ て い な い 。こ れ に エ ル サ レ ム の 神 聖 さ ・偉 大 さ に 関 す る
伝 承 (C) 35.38%が 加 わ り 、こ れ ら の 要 素 の 合 計 が 全 体 の 9 割 以 上 を 占 め る 主 要 素 と な っ て い る 。
残 り の 1 割 ほ ど は 、 終 末 思 想 に 関 す る 伝 承 (D) 4.61%と 奇 跡 譚 (E) 1.54% 、 ク ル ア ー ン 解 釈 (H)
4.61%に よ っ て 占 め ら れ て お り 、 そ の 他 の 要 素 は 扱 わ れ て い な い 。 MM は そ の 分 量 の 小 さ い こ
と と 、 現 存 す る 写 本 の 数 が 少 な い こ と か ら 49、 読 者 を 想 定 し 広 く 読 ま れ る こ と を 目 的 と し て 書
か れ た 作 品 で は な く 、 イ ス ナ ー イ ー が 既 存 の FBM や ハ デ ィ ー ス 集 か ら 抜 粋 し た 、 彼 個 人 の 覚
書としての性格のものであったとも考えられる。
(5) FBM-Ḍ
FBM-Ḍ の 著 者 デ ィ ヤ ー ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ ム ハ ン マ ド ・ ブ ン ・ ア ブ ド ・ ア ル ワ ー ヒ ド ・ マ ク デ
ィ ス ィ ー Ḍiyāʼ al -Dīn Muḥ ammad b. ʽA bd al-W āḥid al -Maqdisī al-D imash qī (d . 643/ 1245) は 、
ア イ ユ ー ブ 朝 ダ マ ス カ ス の ハ デ ィ ー ス 伝 承 者 で 、高 名 な ハ ン バ ル 派 ウ ラ マ ー の 家 系 で あ る ク ダ
ーマ家の一員である。クダーマ家は、もとはナーブルスの西に位置するジャンマーイール
Jammāʽīl と い う 村 に 居 住 し て い た が 、 551/1156 年 、 一 族 の 長 で あ っ た デ ィ ヤ ー ・ ア ッ デ ィ ー
ン の 祖 父 ア フ マ ド が 十 字 軍 の 攻 勢 を 逃 れ る た め 、当 時 ヌ ー ル ・ア ッ デ ィ ー ン の も と で 政 治 的 安
定 を 保 っ て い た ダ マ ス カ ス に 一 族 を 連 れ て 移 住 し た [Miura 1995 : 132-133]。 デ ィ ヤ ー ・ ア ッ
デ ィ ー ン は こ の ウ ラ マ ー の 一 族 の 一 員 と し て ハ デ ィ ー ス 学 を 学 び 、シ リ ア 、エ ジ プ ト 、イ ラ ク 、
中 央 ア ジ ア に 至 る 様 々 な 都 市 に 旅 を し て 、 多 く の ハ デ ィ ー ス を 収 集 し た 。 59 5/1198-99 年 以 降
か ら 601/1204-05 年 に か け て の 時 期 に バ グ ダ ー ド に 滞 留 し て お り 、そ の 際 晩 年 の イ ブ ン・ア ル
ジ ャ ウ ズ ィ ー か ら も 伝 承 を 伝 え 聞 い た と い う 。エ ル サ レ ム に は 、サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン に よ
る エ ル サ レ ム 征 服 後 の 583/ 1187 年 か ら 584/1188-89 年 に か け て の 時 期 と 、 625/1227-28 年 に
訪 問 し て い る 。ま た 彼 の 師 の ひ と り に は 、ダ マ ス カ ス の ア サ ー キ ル 家 の ア フ マ ド ・ イ ブ ン ・ ア
サ ー キ ル ([表 1], 11) も い る 。 ダ マ ス カ ス に 帰 還 後 は 、 カ シ オ ン 山 の ふ も と の サ ー リ ヒ ー ヤ 地
区 Ḥāra al-Ṣāliḥ īya に 自 ら の 名 前 を 冠 し た 学 院 (D ār al-Ḥadīth al-Ḍ iyāʼīya/ al-Madr as a
al-Ḍiyāʼīya) を 創 設 し 、 ハ デ ィ ー ス の 教 授 や 著 作 活 動 に 従 事 し た [ FBM-Ḍ 9-1 9; Aʽlām ⅵ , 255;
Muʽj am ⅲ , 468-69 ; SA ⅹ ⅹ ⅱ , 26-27; ⅹ ⅹ ⅲ , 126-130; KW ⅳ , 65-66] 。
本稿第 1 章第 1 節でも述べたように、本書は『ファダーイル・アッシャーム』 と題された
3 部 か ら 成 る 作 品 の 第 2 部 に あ た る も の で あ る 。第 1 部 と 第 3 部 に つ い て は 現 存 し て い な い が 、
校 訂 者 は 第 1 部 が フ ァ ダ ー イ ル・ア ッ シ ャ ー ム 、す な わ ち ダ マ ス カ ス に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル で
49
ア サ リ ー に よ れ ば 、 MM の 写 本 は ダ ー ル ・ ア ル ク ト ゥ ブ 写 本 の 他 に は 、 ア レ ッ ポ 大 学 所 蔵 の も の が
あ る の み で あ る [al-ʽ Asalī 1 984 : 53 ]。
48
あり、第 3 部はガザやその他のシリアの諸都市に関するファダーイルであったと考えている
[FBM-Ḍ 25-28]。
FBM-Ḍ は FBM-W や FBM- IM 同 様 、 す べ て の 伝 承 に 完 全 な イ ス ナ ー ド を 付 け た ハ デ ィ ー ス
集 型 FBM で あ る 。 イ ス ナ ー ド の 多 く に は 著 者 デ ィ ヤ ー ・ ア ッ デ ィ ー ン が 伝 承 を 聞 い た 場 所 が
書 き 添 え ら れ て お り 、彼 は ダ マ ス カ ス や シ リ ア の 諸 都 市 だ け で は な く 、エ ジ プ ト 、バ グ ダ ー ド 、
イスファハーン、ニーシャープール等の広い地域で、多数の伝承家から伝承を収集している。
FBM-Ḍ に は ワ ー ス ィ テ ィ ー を 経 由 し た イ ス ナ ー ド が 6 か 所 見 ら れ 、 そ の い ず れ も マ ト ン は
FBM-W の 記 述 内 容 に 一 致 し て い る 5 0 。 し か し デ ィ ヤ ー ・ ア ッ デ ィ ー ン は 、 そ れ ら の 伝 承 の う
ち 5 つ は バ グ ダ ー ド で 、 1 つ は エ ジ プ ト で 聴 講 し て お り 、 直 接 に FBM-W を 参 照 し て い た わ け
ではないようである。
ま た 校 訂 者 が 底 本 と し て い る ザ ー ヒ リ ー ヤ 図 書 館 al-Mak tab a al-Ẓāh irīya 所 蔵 の 写 本 (MS.
48) の 余 白 部 分 に は 、そ れ ぞ れ の 伝 承 を い つ 誰 が ど こ で 読 み 上 げ 、誰 が 聞 い た の か と い う サ マ
ー ア ー ト sam āʽāt が 書 き 込 ま れ て い る 。こ れ ら の サ マ ー ア ー ト に よ れ ば 、本 書 に 含 ま れ て い る
伝 承 の 一 部 は 、 デ ィ ヤ ー ・ ア ッ デ ィ ー ン 本 人 が 63 2/1235 年 か ら 642 /1244 年 に か け て デ ィ ヤ
ー ニ ー ヤ 学 院 で 講 義 し た も の で あ る こ と が わ か る 。ま た デ ィ ヤ ー ・ア ッ デ ィ ー ン の 死 後 も 、彼
の 弟 子 に あ た る 人 物 が 650/1252 年 か ら 708/1308 年 に か け て 講 義 を 行 っ て い る 。 サ マ ー ア ー
ト の 記 載 に 拠 れ ば 、 650/1252 年 か ら 6 86/1287 年 に か け て の 時 期 に は 著 者 の 兄 の 息 子 で あ る
ム ハ ン マ ド ・ ブ ン ・ ア ブ ド ・ ア ッ ラ ヒ ー ム Muḥ ammad b. ʽAbd al- Raḥ īm b. ʽAbd al-W āḥid
al-M aqdis ī (d. 688/1289) が 、 695/129 6 年 か ら 708/1308 年 に か け て は ス ラ イ マ ー ン ・ ブ ン ・
ハ ム ザ Sul aym ān b. Ḥamza b. Aḥmad al-Maqdisī (d. 715/1315-16) と い う 同 じ く ク ダ ー マ 家 出
身 の 人 物 が 、 本 書 に 含 ま れ る 伝 承 を 講 義 し て い る [FBM-Ḍ 122-125] 。
す な わ ち 本 書 は デ ィ ヤ ー・ア ッ デ ィ ー ン・マ ク デ ィ ス ィ ー の 収 集 し た フ ァ ダ ー イ ル・バ イ ト・
ア ル マ ク デ ィ ス を 書 き 留 め た も の で あ り 、さ ら に こ こ に 収 め ら れ て い る 伝 承 は 、7/13 世 紀 ダ マ
ス カ ス の マ ド ラ サ で 実 際 に 伝 達 さ れ て い た も の で あ る 。真 正 な 、権 威 あ る 伝 承 を 収 集 あ る い は
伝 達 す る と い う 目 的 意 識 か ら か 、FBM-Ḍ で は 一 部 の 伝 承 に つ い て そ の 真 正 性 の 証 明 、あ る い は
批 判 が 行 わ れ て い る 。例 え ば 、あ る 伝 承 は ブ ハ ー リ ー や ム ス リ ム の『 サ ヒ ー フ 』に お い て も 同
様 の イ ス ナ ー ド に よ っ て 伝 え ら れ て い る た め 信 頼 で き る と さ れ て お り [FBM-Ḍ 40]、ま た あ る 伝
承 は 、イ ス ナ ー ド 中 の 伝 承 者 た ち の あ る 者 が よ く 知 ら れ て い な い 人 物 で あ る た め 信 頼 で き な い
と す る 意 見 も あ る 、 と 加 え ら れ て い る [ FBM-Ḍ 47] 。
校 訂 者 は 、本 書 で 扱 わ れ る 伝 承 を 66 と 数 え て い る 。本 書 は 20 の 章 に 分 け ら れ て お り 、FBM
-IM や FQ の よ う に 、章 ご と に 同 一 の モ テ ィ ー フ を 持 つ が イ ス ナ ー ド や マ ト ン の 表 現 は 異 な る
50
6 つ の 伝 承 の う ち 4 つ は ワ ー ス ィ テ ィ ー か ら イ ブ ン ・ ア ン ナ ス ィ ー ビ ー を 経 由 し た も の [FBM- Ḍ 56,
68, 90, 9 7]、2 つ は ワ ー ス ィ テ ィ ー か ら ム ハ ン マ ド・ブ ン・ハ ム ー ド・サ ッ ワ ー フ Muḥamma d b. Ḥa mūd
al- Ṣa wwāf と い う 人 物 を 経 由 し た も の で あ る [FBM - Ḍ 4 6, 4 8 ]。
49
伝 承 が 数 個 ず つ ま と め ら れ て い る 。FBM-Ḍ で 扱 わ れ る 伝 承 の 内 容 に は 独 自 の も の は な く 、す べ
て 従 来 の FBM の 中 に 確 認 さ れ る も の で あ る が 、 伝 承 の 選 択 に は 一 定 の 傾 向 が 見 ら れ 、 そ の 大
部 分 が 預 言 者 ム ハ ン マ ド か ら 伝 わ る も の と な っ て い る 。 そ の た め 従 来 の FBM の 主 要 な 要 素 で
あ っ た 、イ ス ラ ー イ ー リ ー ヤ ー ト を 元 と す る 、ス ラ ー ム 以 前 の エ ル サ レ ム の 歴 史 に 関 す る 伝 承
(A)は 、 全 体 の 4.54%と 少 な い 。 預 言 者 ム ハ ン マ ド の イ ス ラ ー を は じ め と す る 、 イ ス ラ ー ム 以
降 の エ ル サ レ ム の 歴 史 に 関 す る 伝 承 (B) が 40.90%と 、エ ル サ レ ム の 神 聖 さ や 偉 大 さ を 伝 え る 伝
承 (C)が 39.39%と 作 品 の 大 部 分 を 占 め て お り 、 こ の 2 つ が FBM-Ḍ の 主 要 素 と な っ て い る 。 そ
の 他 は 終 末 思 想 に 関 す る 伝 承 (D)が 9.0 9%、 奇 跡 譚 (E)が 3.03%、 伝 記 (G)が 1. 51%、 ク ル ア ー
ン 解 釈 (H)が 1.51% で あ る 。
(6) FBM- M
著 者 の イ ブ ラ ー ヒ ー ム ・ ブ ン ・ ヤ フ ヤ ー ・ ミ ク ナ ー ス ィ ー Ibrāh īm b. Yaḥ yā al-Mik nāsī (d.
666/1267-68) は 、 7/13 世 紀 エ ジ プ ト の シ ャ ー フ ィ イ ー 派 法 学 者 で あ る 。 フ ァ ル ド farḍ( イ ス
ラ ー ム 法 に お け る 宗 教 的 義 務 )に 詳 し い 人 物 で あ っ た こ と 、マ グ リ ブ 、シ リ ア 、イ ラ ク に 滞 在
経 験 が あ る こ と 以 外 に は 、彼 の 詳 し い 経 歴 は 不 明 で あ る [Aʽl ām ⅰ , 79; Muʽjam ⅰ , 81; KW ⅵ ,
162]。
FBM-M は 2 部 に 分 か れ て お り 、 第 1 部 が フ ァ ダ ー イ ル ・ バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 、 第 2 部
が ダ マ ス カ ス や そ の 他 の シ リ ア 諸 都 市 に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル・ア ッ シ ャ ー ム と な っ て い る 。第
2 部 の フ ァ ダ ー イ ル・ア ッ シ ャ ー ム が 作 品 全 体 の お よ そ 半 分 に 相 当 す る 44. 86%を 占 め て お り 、
作 品 の 構 成 と し て は FBM-IM や FBM -Ḍ と 同 様 、 フ ァ ダ ー イ ル ・ バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス と フ
ァ ダ ー イ ル ・ ア ッ シ ャ ー ム を 併 記 す る 形 に な っ て い る 。各 伝 承 の 記 述 方 法 に 関 し て は 、作 品 の
序 文 で 著 者 が「 私 は こ の 中 で 、見 る 者 の 助 け と な る よ う に 、ば ら ば ら に な っ て い た も の を 集 め 、
見 え な く な っ て い た も の を 明 ら か に し た 。ま た 私 は こ れ を 世 に 出 す に あ た り 、大 部 分 の イ ス ナ
ー ド を 短 縮 し 、そ の ほ と ん ど を 省 略 し た 」[ FBM- M 1b] と 述 べ て い る 通 り 、す べ て の 伝 承 に お
い て イ ス ナ ー ド の 省 略 が 行 わ れ て い る 。各 伝 承 の 前 に は 、伝 承 の 発 信 者 と な る 人 物 1 人 の 名 前
か 、 あ る い は そ の 人 物 か ら 数 え て 2~ 4 人 分 の 伝 承 者 の 名 前 が 挙 げ ら れ て い る の み で あ る 。 た
だ し 、各 伝 承 に は 必 ず 少 な く と も 1 人 の 伝 承 者 の 名 前 が 付 さ れ て い る こ と か ら 、イ ス ナ ー ド と
マ ト ン と い う 1 組 の 伝 承 の ま と ま り を 判 別 す る こ と は 容 易 で あ り 、こ の 点 で は FBM-M は 従 来
の ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM の 形 式 に 従 っ て い る と 言 え る 。
FBM-M は 32 の 章 に 分 け ら れ て い る 。 第 1 章 が バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 名 前 の 由 来 に 関
す る 章 で 、こ れ が 冒 頭 に 置 か れ る の は FQ と 同 様 の 形 式 で あ る 。そ れ 以 外 の 章 で 扱 わ れ る 伝 承
に つ い て は 従 来 の FBM と 同 様 の も の で 、 特 に 新 し い 要 素 は 見 ら れ な い 。 伝 承 の 真 正 性 の 検 証
も 行 わ れ て い な い 。作 品 全 体 に 占 め る 各 カ テ ゴ リ ー の 割 合 に つ い て は 、全 37 0 の 伝 承 の う ち 第
2 部 の 166 の フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ッ シ ャ ー ム を 除 き 、 フ ァ ダ ー イ ル ・ バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス
50
204 の み に 注 目 し た 場 合 ( 章 末 の [表 3 ] 参 照 )、 そ の う ち 歴 史 に 関 す る 伝 承 ( A お よ び B) が
そ れ ぞ れ 13 .78%と 16.17%で あ り 、そ の 他 の ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM と 比 較 す る と や や 割 合 が 小
さ く な っ て い る 。エ ル サ レ ム の 神 聖 さ ・偉 大 さ に 関 す る 伝 承 (C)が 36.76%と 作 品 の 主 要 素 と な
っ て い る こ と は 、 こ れ ま で の FBM に 同 様 で あ る 。 終 末 思 想 に 関 す る 伝 承 (D) の 占 め る 割 合 は
17.16%と 相 対 的 に 大 き く 、こ の 他 奇 跡 譚 (E)が 3.92%、モ ニ ュ メ ン ト に 関 す る 伝 承 (F)が 0.49% 、
伝 記 (G)が 0.49%、 ク ル ア ー ン 解 釈 (H)が 11.27%と な っ て い る 。
(7) FBM-K
著 者 の ム ハ ン マ ド ・ ブ ン ・ カ ン ジ ー M uḥammad b. M uḥamm ad b. al-Ḥus ayn al -Kanjī (d.
682/1283) に つ い て は 、7/13 世 紀 エ ル サ レ ム 在 住 の ウ ラ マ ー で あ る こ と 以 外 は 知 ら れ て い な い 。
サ フ ァ デ ィ ー Khalīl b. Ayb ak al-Ṣafadī (d. 764/1363) は 彼 の ニ ス バ を 「 ア ズ ィ ル バ イ ジ ャ ー ニ
ー al-A dhirbayj ānī」で あ る と し て お り 、エ ル サ レ ム の 居 留 者 nazīl で あ っ た と 述 べ て い る [A ʽlām
ⅶ , 31; KW ⅰ , 230] 。
作 品 の 構 成 に つ い て は 、序 文 に「 私 は 至 高 な る 神 に 、私 の シ ャ イ フ た ち か ら 伝 わ る イ ス ナ ー
ド を 付 し て 、 フ ァ ダ ー イ ル ・ バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に つ い て の 40 の 章 を 編 纂 す る こ と を 、
至 高 な る 神 の お 力 で も っ て 成 功 に お 導 き 下 さ る よ う に と 求 め た 」 [ FBM-K 63 b] と あ る 通 り 、
イ ス ナ ー ド を 伴 っ た 伝 承 が 40 の 章 に 分 け て 叙 述 さ れ て い る 。 イ ス ナ ー ド に 従 っ て 伝 承 を 計 数
す れ ば 、本 書 に は 101 の 伝 承 が 含 ま れ て い る 。た だ し こ れ ら の 伝 承 の う ち イ ス ナ ー ド が 省 略 さ
れ ず 完 全 な 形 で 書 き 上 げ ら れ て い る の は 、半 数 以 下 の 45 に 過 ぎ な い 。残 り の 伝 承 に つ い て は 、
FBM-M と 同 様 最 初 の 伝 承 者 の 名 前 か 、 あ る い は 最 初 か ら 2~ 4 人 の 伝 承 者 の 名 前 が 挙 げ ら れ
て い る の み で あ る 。こ の よ う な 一 部 に お け る イ ス ナ ー ド の 省 略 に 関 し て 、カ ン ジ ー は 作 品 の 末
尾に次のように記している。
これで私が収集したファダーイル・アッシャームは終わりであるが、それらはけっしてそうある
べ き 完 璧 な 手 法 に 則 っ た も の で は な い 。 ハ デ ィ ー ス を 伝 え る イ マ ー ム た ち 曰 く 、「 我 々 が 預 言 者 〔 ム
ハンマド〕から規則やスンナ、儀礼に関するハディースを語り伝える際には、正しく行わねばなら
ず 、『 記 憶 力 に 優 れ 、 誠 実 で 信 頼 が 置 け 、 完 璧 で あ る こ と で 知 ら れ て い る と こ ろ の 人 で あ る 某 と 某 か
ら 〔 伝 え ら れ た 〕』〔 と い う 言 葉 を 〕 つ け ず し て 、 そ の ハ デ ィ ー ス を 得 る こ と は で き な い 。 し か し な
がら我々が義務とされる以上の行いや任意の礼拝、ファダーイルに関することを語り伝える際には、
我 々 は そ れ を 免 除 さ れ る 」。 こ の 選 集 も そ う し た も の で あ る [FBM-K 97b ]。
こ こ で カ ン ジ ー は 、フ ァ ダ ー イ ル を 伝 え る 際 に は 、預 言 者 ム ハ ン マ ド の ス ン ナ に 関 す る 伝 承
を伝えるときほどには厳密な手続きを取らなくてもよいとする見解に従っている。
FBM-K の 中 で 省 略 さ れ て い な い 45 の イ ス ナ ー ド を 検 証 す る と 、カ ン ジ ー は ダ マ ス カ ス 、ア
51
レ ッ ポ 、 エ ル サ レ ム 、 バ グ ダ ー ド に お い て 伝 承 を 聞 き 伝 え て い る 。 こ れ ら の 地 域 は FBM-Ḍ の
著 者 デ ィ ヤ ー・ア ッ デ ィ ー ン ほ ど に は 広 い も の で は な く 、バ グ ダ ー ド を 除 け ば シ リ ア の 都 市 で
あ る 。伝 承 を 聞 い た 場 所 が 明 ら か に な っ て い る も の で は 、ダ マ ス カ ス が 最 も 多 い 。カ ン ジ ー は
こ れ ら の 伝 承 を 、主 に 3 人 の 人 物 か ら 伝 え て い る 。す な わ ち イ ス マ ー イ ー ル ・ ブ ン ・ イ ブ ラ ー
ヒ ー ム ・ タ ヌ ー ヒ ー Ismāʽīl b. Ibrāh īm al-Dim ashq ī al -Tanūkhī と い う ダ マ ス カ ス 在 住 の 伝 承
家 よ り 11 の 伝 承 を 、 フ ァ ラ ジ ュ ・ ブ ン ・ ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー ・ ハ バ シ ー Faraj b. ʽAbd Allāh
al-Ḥab ashī と い う 人 物 よ り 10 を 、 ア レ ッ ポ 在 住 の ハ ン バ ル 派 法 学 者 ユ ー ス フ ・ ブ ン ・ ハ リ ー
ル ・ ハ ラ ビ ー Yūs uf b. Kh alīl al-D imash qī al-Ḥal abī (d. 648/1250) よ り 4 つ を 伝 え て い る 。
ま た 上 記 の 45 の イ ス ナ ー ド の 中 に は 、ワ ー ス ィ テ ィ ー を 経 由 し て い る も の が 15 含 ま れ て お
り 、 そ の す べ て が ワ ー ス ィ テ ィ ー か ら 、 FBM-W の 聞 き 手 で あ っ た イ ブ ン ・ ア ル ナ ス ィ ー ビ ー
に 伝 え ら れ た も の で あ る 。 ま た こ れ ら 15 の 伝 承 の 内 容 は 、 い ず れ も FBM-W に お け る 記 述 に
一 致 し て い る [FBM-K 67b, 71a, 72b, 74b -75a, 76b-82a, 84b-87a]。 こ の こ と か ら 、 FBM-K は
直 接 FBM-W を 典 拠 と し て い る わ け で は な い に せ よ 、間 接 的 に は FBM-W の 影 響 を 受 け て い る
と言える。
伝 承 の 内 容 や 叙 述 方 法 に つ い て は 、 従 来 の FBM に 比 べ て 特 に 新 し い 要 素 は 見 ら れ な い 。 作
品 内 に お け る 各 カ テ ゴ リ ー の 占 め る 割 合 に つ い て は 、イ ス ラ ー ム 以 前 の 歴 史 ( A)が 26.73%、イ
ス ラ ー ム 時 代 の 歴 史 (B)が 20.79% 、 エ ル サ レ ム の 神 聖 さ ・ 偉 大 さ に 関 す る 伝 承 ( C) が 3 1 . 6 8 % 、
終 末 思 想 に 関 す る 伝 承 (D)が 4 .95%、 奇 跡 譚 (E)が 2.97% 、 モ ニ ュ メ ン ト に 関 す る 伝 承 ( F)が
1.98%、 ク ル ア ー ン 解 釈 (H)が 10.98%と 、 FBM-W の 構 成 に 近 い も の に な っ て い る 。
2 . ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM に 見 ら れ る 傾 向
(1) 著 者 の 出 身 地 と 法 学 派
ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM の 著 者 た ち 、 す な わ ち ア ッ バ ー ス 朝 か ら マ ム ル ー ク 朝 初 期 に か け て
FBM を 編 纂 し た 人 物 は 、 そ の 大 半 が シ リ ア 出 身 で あ る 。 シ リ ア 以 外 の 地 域 で 活 動 し た 人 物 に
は 、 バ ル フ に 生 ま れ 、 ブ ハ ラ や バ グ ダ ー ド で 活 動 し た ブ ハ ー リ ー ([ 表 1] 1)、 バ グ ダ ー ド の イ
ブ ン・ア ル ジ ャ ウ ズ ィ ー と ム ハ ン マ ド・バ グ ダ ー デ ィ ー M uḥammad b. Muḥam mad al- Baghdādī
(d. 643/1245) ([ 表 1], 14)、 エ ジ プ ト の ミ ク ナ ー ス ィ ー の 4 名 が い る 。 こ の 他 の 編 纂 者 は エ ル
サ レ ム や ラ ム ラ 、ダ マ ス カ ス 出 身 、あ る い は そ れ ら の 都 市 で 活 動 し た 人 物 で あ る 。こ れ よ り こ
の 時 期 の FBM 編 纂 は 、 基 本 的 に は シ リ ア 地 域 で 行 わ れ た も の で あ る と 言 え る 。
著 者 の 所 属 す る 法 学 派 に 着 目 し た 場 合 、法 学 派 が 明 ら か に な っ て い る 者 の う ち で は 、シ ャ ー
フ ィ イ ー 派 に 所 属 す る 人 物 8 名 と 最 も 多 く 、 2 名 が ハ ン バ ル 派 に 属 し て い る 。 た だ し 、 FBM
編 纂 と シ ャ ー フ ィ イ ー 派 法 学 者 と の 間 に 特 別 な 関 連 性 が あ る と 言 い き る こ と は で き な い 。 UJ
52
に は 、 6/ 11 世 紀 か ら 9/15 世 紀 に か け て の エ ル サ レ ム と ヘ ブ ロ ン で 活 動 し た ス ン ナ 派 4 法 学 派
の ウ ラ マ ー 357 名 の 伝 記 を 記 し た 部 分 が あ る が 、そ れ に 従 え ば 、そ の 63% に あ た る 224 名 が シ
ャ ー フ ィ イ ー 派 、 22%に あ た る 79 名 が ハ ナ フ ィ ー 派 、 11% に あ た る 38 名 が マ ー リ ク 派 、 4%
に あ た る 16 名 が ハ ン バ ル 派 に 属 し て い る [UJ ⅱ , 11 7-392]。 FBM 編 纂 者 に シ ャ ー フ ィ イ ー 派
知 識 人 の 多 い こ と は 、シ ャ ー フ ィ イ ー 派 の 優 勢 な シ リ ア 地 域 の 状 況 を 反 映 し た 結 果 に 過 ぎ な い
と も 見 る こ と が で き 、現 時 点 で は FBM 編 纂 と 特 定 の 法 学 派 と の 間 に 因 果 関 係 を 指 摘 で き な い 。
(2) 各 作 品 の 構 成 と 、 カ テ ゴ リ ー ご と の 割 合 の 異 同
ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM に 属 す る 作 品 は 、 ハ デ ィ ー ス 伝 達 の 手 法 に 則 り 、 あ る 伝 承 の 発 言 者 に
ま で 遡 る こ と が で き る イ ス ナ ー ド に マ ト ン を 合 わ せ た 形 で 記 述 さ れ て い る 。し か し 一 方 で は イ
ス ナ ー ド の 一 部 、 あ る い は 全 部 の 省 略 も 始 ま っ て お り 、 こ の よ う な 省 略 は 6/ 12 世 紀 末 に 成 立
し た FQ に は す で に 見 ら れ る も の で あ る 。
作 品 中 の 省 略 さ れ て い な い イ ス ナ ー ド を 検 討 す る と 、3/ 9-10 世 紀 の ラ ム リ ー が 収 集 し た 伝 承
の 一 部 が 、 4/10-5/ 11 世 紀 の ワ ー ス ィ テ ィ ー と イ ブ ン ・ ア ル ム ラ ッ ジ ャ ー に 伝 え ら れ 、 ワ ー ス
ィ テ ィ ー か ら さ ら に 後 代 の FBM 編 纂 者 に 伝 え ら れ て い る と い う 流 れ が 見 ら れ た 。 こ の 時 期 に
お け る FBM 編 纂 で は 、 あ る 編 纂 者 が 自 作 品 の 典 拠 と し て 既 存 の FBM を 書 物 の 形 で 参 照 し た
か ど う か に つ い て は 、 明 確 に 示 す こ と は で き な い 。 FQ、 FBM-Ḍ 、 FBM-K に は 、 一 部 の 伝 承 の
イ ス ナ ー ド 中 に ワ ー ス ィ テ ィ ー の 名 が 見 ら れ 、 FBM-W と マ ト ン も 一 致 す る 伝 承 が 含 ま れ て い
る こ と か ら 、作 品 の 編 纂 者 た ち に 伝 承 を 伝 え た 人 物 が 、書 物 の 形 で FBM-W を 参 照 し て い る 可
能 性 は あ る 。し か し な が ら こ れ ら の 作 品 の 編 纂 者 は 、あ く ま で 口 伝 の 形 で 伝 承 を 収 集 し て お り 、
ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM の 編 纂 に お い て は 書 物 か ら の 情 報 収 集 は 間 接 的 な も の で あ っ た と 言 え よ
う。
イ ス ラ ー ム に お け る 文 字 文 化 の 発 展 に つ い て 研 究 を お こ な っ た ヒ ル シ ュ ラ ー K. Hirschler
は、イスラームの最初の 3 世紀間は文字文化と口伝文化が相互に作用しながら混在しており、
明 確 な 文 字 文 化 が 現 れ る よ う に な っ た の は 3/9 世 紀 以 降 の こ と で あ る と し て い る 。ま た ヒ ル シ
ュ ラ ー は 、そ れ 以 降 も ハ デ ィ ー ス 伝 達 の 場 面 に お い て は 、依 然 と し て 記 憶 に 拠 っ た 口 伝 が 重 要
視 さ れ て い た が 、4/10 世 紀 以 降 紙 の 発 明 や 簡 略 化 さ れ た 書 体 の 使 用 に よ り 、書 物 の 作 成 が 容 易
に な っ た こ と を 経 て 、 5/11 世 紀 に は 口 伝 と 書 物 を 併 用 す る 風 潮 が 生 ま れ て き た と 述 べ る
[Hirschler 20 12: 12-22]。 ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM の 編 纂 者 が 主 に 口 伝 に よ る 伝 承 収 集 を 行 っ て
いることは、このような社会状況を反映するものである。
各 作 品 に 含 ま れ る 伝 承 の 種 類 に つ い て は 、FBM-IM に お い て ほ ぼ 網 羅 さ れ て お り 、そ れ 以 降
の 作 品 の 中 に も 目 立 っ て 新 し い 要 素 は 見 当 た ら な い 。ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM で 扱 わ れ る 伝 承 は 、
5/11 世 紀 の FBM- IM の 時 点 で そ の ほ と ん ど が 収 集 さ れ て い た と い う こ と で あ る 。 本 章 第 1 節
で は 、 こ れ ら の 伝 承 を A~ I の 9 つ の カ テ ゴ リ ー に 分 類 し 、 各 作 品 に お け る 伝 承 数 の パ ー セ ン
53
テ ー ジ を 算 出 し た が 、 そ れ を 表 に ま と め た の が 以 下 の [表 2] で あ る 。 こ れ を 見 る 限 り ハ デ ィ
ー ス 集 型 FBM に お い て は 、 各 作 品 の 伝 承 の 取 捨 選 択 に 特 定 の 傾 向 が あ る よ う に は 見 え な い 。
ま た FBM-W か ら FBM-K に 至 る 作 品 の 中 で 、 時 代 に よ る 変 化 が 見 ら れ る わ け で も な い 。 こ こ
で 対 象 と す る 伝 承 を エ ル サ レ ム に 関 す る も の の み (A-H) に 限 定 し 、 そ の 他 の フ ァ ダ ー イ ル (I)を
除 い て 計 算 し 直 し た も の が [ 表 3] で あ る 。 対 象 を エ ル サ レ ム に 関 す る 伝 承 の み と し た 場 合 に
は 、 作 品 間 で の ば ら つ き が あ る に せ よ 、 エ ル サ レ ム の 歴 史 に 関 す る 伝 承 ( A お よ び B) と 、 エ
ル サ レ ム の 神 聖 さ ・ 偉 大 さ を 伝 え る 伝 承 (C)が 作 品 を 構 成 す る 主 要 素 と な っ て い る と い う 共 通
性が指摘できる。
[表 2] ハディース集型FBMにおける各伝承の割合
A
1
2
3
4
B
C
D
E
F
G
H
FBM-W 41 (22.16%) 42 (22.70%) 58 (31.35%) 11 (5.94%) 9 (4.86%) 10 (5.40%) 1 (0.54%) 11 (5.94%)
I
合計
シャーム 2 (1.08%)
185
シャーム 56 (8.96%)
FBM-IM 86 (13.76%) 96 (15.36%)133 (21.28%) 45 (7.20%) 12 (1.92%) 27 (4.32%) 1 (0.16%) 25 (4.00%) ヘブロン 48 (7.68%)
モスク 96 (15.36%)
FQ 35 (29.91%) 14 (11.97%) 24 (20.51%) 6 (5.13%) 4(3.42%) 2 (1.70%) 1 (0.86%) 31 (26.50%)
―
MM
625
117
25 (38.46%) 10 (15.38%) 23 (35.38%) 3 (4.61%) 1 (1.54%)
―
3 (4.61%)
―
5
FBM-Ḍ* 3 (4.54%) 27 (40.90%) 26 (39.39%) 6 (9.09%) 2 (3.03%)
―
65
1 (1.51%) 1 (1.51%)
―
6
FBM-M 28 (7.57%) 33 (8.92%) 75 (20.27%) 35 (9.46%) 8 (2.16%) 1 (0.27%) 1 (0.27%) 23 (6.22%) シャーム 166 (44.86%) 370
66
7
FBM-K 27(26.73%) 21 (20.79%) 32 (31.68%) 4 (4.95%) 3 (2.97%) 12(1.98%)
―
―
11 (10.89%)
101
―
* 現存する第2部のみの統計とする
A. エルサレムの歴史(イスラーム以前)
B. エルサレムの歴史(イスラーム時代)
C. エルサレムの神聖さ・偉大さを伝える伝承
D. エルサレムと終末思想を関連付けた伝承
E. エルサレムでムスリムたちが体験した奇跡譚
F. エルサレムにあるモニュメントやそこへの参詣に関する伝承
G. エルサレムに縁のムスリムたちの伝記
H. クルアーン解釈
I. エルサレム以外に関するファダーイル
FBM-K
A
FBM-M
B
FBM-Ḍ
C
D
MM
E
F
FQ
G
FBM-IM
H
I
FBM-W
0%
10%
20%
30%
40%
50%
54
60%
70%
80%
90%
100%
[表 3] ハディース集型FBMにおける各伝承の割合(エルサレムに関するファダーイルのみ)
H
合計
1
FBM-W 41 (22.40%) 42 (22.95%) 58 (31.69%) 11 (6.01%) 9 (4.91%) 10 (5.46%) 1 (0.55%)
A
11 (6.01%)
183
2
FBM-IM 86 (20.24%) 96 (22.59%) 133 (31.29%)45 (10.59%) 12 (2.82%) 27 (6.35%) 1 (0.24%)
25 (5.88%)
425
2 (1.70%) 1 (0.86%) 31 (26.50%)
117
3
B
C
D
E
F
G
FQ
35 (29.91%) 14 (11.97%) 24 (20.51%) 6 (5.13%)
4(3.42%)
4
MM
25 (38.46%) 10 (15.38%) 23 (35.38%) 3 (4.61%)
1 (1.54%)
―
―
3 (4.61%)
65
5
FBM-Ḍ*
2 (3.03%)
―
1 (1.51%)
1 (1.51%)
66
6
FBM-M 28 (13.73%) 33 (16.17%) 75 (36.76%) 35 (17.16%) 8 (3.92%) 1 (0.49%) 1 (0.49%) 23 (11.27%)
204
7
FBM-K 27(26.73%) 21 (20.79%) 32 (31.68%) 4 (4.95%)
101
3 (4.54%)
27 (40.90%) 26 (39.39%) 6 (9.09%)
3 (2.97%)
2(1.98%)
―
11 (10.89%)
* 現存する第2部のみの統計とする
A. エルサレムの歴史(イスラーム以前)
B. エルサレムの歴史(イスラーム時代)
C. エルサレムの神聖さ・偉大さを伝える伝承
D. エルサレムと終末思想を関連付けた伝承
E. エルサレムでムスリムたちが体験した奇跡譚
F. エルサレムにあるモニュメントとそこへの参詣に関する伝承
G. エルサレムに縁のムスリムたちの伝記
H. クルアーン解釈
FBM-K
FBM-M
A
B
FBM-Ḍ
C
D
MM
E
FQ
F
G
FBM-IM
H
FBM-W
0%
10%
20%
30%
40%
50%
60%
70%
80%
90%
100%
(3) 作 品 の 編 纂 時 期 と そ の 契 機
本 章 の 最 後 に 、 先 行 研 究 の 論 点 の ひ と つ と な っ て い る ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM の 編 纂 時 期 と そ
の契機について考察を加えたい。
先 行 研 究 は 、FBM 編 纂 の 起 源 と し て ウ マ イ ヤ 朝 時 代 を 、FBM 編 纂 が 盛 ん に な っ た 時 期 と し
て 十 字 軍 時 代 を 設 定 し て お り 、そ れ ぞ れ 、シ リ ア ・ パ レ ス チ ナ に 勢 力 基 盤 を 置 い た ウ マ イ ヤ 朝
が 、 主 要 都 市 の ひ と つ で あ っ た エ ル サ レ ム の 地 位 を 高 め る た め に FBM を 推 奨 し た こ と 、 ヌ ー
ル・ ア ッ デ ィ ー ン や サ ラ ー フ ・ア ッ デ ィ ー ン ら が 、対 十 字 軍 ジ ハ ー ド の た め の プ ロ パ ガ ン ダ と
し て FBM を 利 用 し た こ と を 、そ の 理 由 と し て 提 示 し て い た [Sivan 1971: 100-110; Elad 1999a:
300-301; 1999b: 12-15; Hasson 1981: 172; Frenkel 1996: 70; Mourad 1996: 40 -41; Duri
1981: 26, 29]。
ま ず ウ マ イ ヤ 朝 時 代 に FBM 編 纂 が 始 め ら れ た こ と に つ い て 言 え ば 、 序 に お い て 述 べ た よ う
55
に 、 先 行 研 究 で は ラ ム リ ー の 存 在 を ひ と つ の 根 拠 と し て 、 FBM の 起 こ り は 遅 く と も 彼 以 前 の
2/8 世 紀 に あ る だ ろ う と 考 え て い る [El ad 1991: 41-70; 1999b: 1-22; Mourad 1996: 34 -39;
2008: 86-90]。 し か し な が ら こ の 年 代 設 定 は 、「 ラ ム リ ー と い う 特 定 の 人 物 に イ ス ナ ー ド が 集
中 し て い る 」と い う 理 由 の み か ら 導 か れ る に し て は や や 早 す ぎ る き ら い が あ る 。ラ ム リ ー の 情
報 源 と な っ た 伝 承 者 が 3/9 世 紀 後 半 あ る い は そ の 前 後 の 時 期 に 没 し て い る と し て 、彼 ら が 伝 承
を 収 集 し た と 考 え ら れ る 時 期 と は 、早 く 見 積 も っ て も 2/8 世 紀 末 か ら 3 /9 世 紀 初 頭 に か け て で
あ ろ う 。 記 録 に 残 る 最 古 の FBM と さ れ る ブ ハ ー リ ー の 著 作 ([表 1], 1) が 著 さ れ た 時 期 も お そ
ら く は こ の 頃 で あ る 。よ っ て ラ ム リ ー に 繋 が る イ ス ナ ー ド 検 証 か ら 判 断 で き る 限 り に お い て は 、
既存の伝承がエルサレムに関するファダーイルとして認識・収集され、 さらに書物の形での
FBM 編 纂 が 始 ま っ た の が こ の 時 期 で あ る と 言 う べ き で あ る 。
次 に 、FBM が 十 字 軍 時 代 に 再 び 隆 盛 を 見 た と す る 議 論 は 、FBM 作 品 の 実 際 の 編 纂 状 況 に 照
ら し 合 わ せ れ ば 、す ぐ に 否 定 さ れ る べ き も の で あ る 。記 録 に 残 る 限 り に お い て 、十 字 軍 に よ る
エ ル サ レ ム 占 領 期 間 に 編 纂 さ れ た FBM は 存 在 し て お ら ず 、FBM 編 纂 の 再 開 は 、サ ラ ー フ・ア
ッ デ ィ ー ン の エ ル サ レ ム 征 服 を 契 機 と し た FQ 以 降 の こ と だ か ら で あ る 。
FBM 編 纂 が サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン 以 降 の ア イ ユ ー ブ 朝 時 代 に 集 中 し て い る こ と に つ い て
は 、当 時 の ア イ ユ ー ブ 朝 ス ル タ ン と 十 字 軍 君 主 た ち の 間 で エ ル サ レ ム が 政 治 的 な 駆 け 引 き の 材
料 と し て 用 い ら れ て お り 、そ の 帰 属 が 不 安 定 で あ っ た 期 間 と も 重 な る こ と か ら 、そ う し た 不 安
定 な 状 況 に 対 す る ム ス リ ム 側 の 防 衛 反 応 で あ っ た と 捉 え る こ と は 不 可 能 で は な い 。し か し な が
ら 、 こ の 期 間 に 編 纂 さ れ た FBM の う ち 現 存 す る 作 品 ( MM、 FBM-Ḍ、 FMB- M) の 内 容 を 見 る
限 り 、 そ れ ら の 中 で 扱 わ れ る 伝 承 の 種 類 や 作 品 の 形 式 が そ れ 以 前 の FBM-W や FBM- IM と 大
き く 異 な る と い う こ と は な く 、そ も そ も こ れ ら の 作 品 の 中 で は 十 字 軍 に 関 す る 話 題 は ほ と ん ど
出 て い な い 。 こ の 時 代 に FBM の 編 纂 が 盛 ん に な っ た の は む し ろ 、 エ ル サ レ ム が ム ス リ ム 勢 力
の 手 に 戻 り 、そ こ が 再 び ム ス リ ム の 支 配 す る 都 市 と し て 整 備 さ れ る こ と で 、ム ス リ ム 知 識 人 が
エルサレムにアクセスすることが容易になった結果であると考えるべきであろう。
以 上 の よ う な 状 況 か ら 判 断 し て 、 ア イ ユ ー ブ 朝 ま で の エ ル サ レ ム と FBM 編 纂 を 巡 る 状 況 に
つ い て は 、以 下 の 2 つ の 仮 説 を 導 く こ と が で き る 。 1 つ 目 に は 、 十 字 軍 以 前 と 十 字 軍 占 領 期 間
の シ リ ア に お い て 、聖 地 と し て の エ ル サ レ ム の 重 要 性 は 未 だ 十 分 に は 確 立 さ れ て い な か っ た の
で は な い か と い う こ と で あ る 。 2 つ 目 に は 、 FBM 編 纂 に 対 し て 十 字 軍 が 与 え た イ ン パ ク ト は
間 接 的 な も の で あ り 、 FBM は 十 字 軍 の 存 在 そ の も の や そ の 支 配 に で は な く 、 ム ス リ ム が 十 字
軍 か ら エ ル サ レ ム を 再 征 服 し た 結 果 、そ こ が あ ら た め て ム ス リ ム の 町 で あ る と 再 認 識 さ れ た こ
と に 影 響 を 受 け た の で は な い か と い う こ と で あ る 。 こ れ ら の 点 よ り 、 FBM 編 纂 や 聖 地 と し て
の エ ル サ レ ム の 意 義 を 考 慮 す る 上 で は 、十 字 軍 に よ る エ ル サ レ ム 侵 略 と ム ス リ ム 勢 力 に よ る 奪
還 に の み 注 目 す る 従 来 の 研 究 の 視 点 を 脱 し 、そ れ 以 降 の 状 況 の 展 開 に 注 目 す る こ と が 必 要 に な
ってくるのである。
56
第 3 章 : マ ム ル ー ク 朝 期 の FBM
第 3 章 で は 、 8/14 世 紀 初 頭 か ら 9/1 5 世 紀 末 に か け て の マ ム ル ー ク 朝 時 代 に 成 立 し た FBM6
作 品 を 検 討 す る 。 FBM 編 纂 の 歴 史 に お い て 、 ア イ ユ ー ブ 朝 か ら マ ム ル ー ク 朝 に か け て の 時 期
は 、 FBM 編 纂 が 最 も 盛 ん に な さ れ た 時 期 と な っ て い る 。 [表 1] に 従 え ば 、 58 3/1187 年 以 降 に
編 纂 さ れ た FQ を 区 切 り と す る と 、ア ッ バ ー ス 朝 か ら 十 字 軍 時 代 に か け て の 約 300 年 間 に 編 纂
さ れ た FBM は 、現 存 し な い も の を 含 め て 7 作 品 、900/1495 年 ま で の 記 述 を 含 む UJ を 区 切 り
と し て 、 ア イ ユ ー ブ 朝 か ら マ ム ル ー ク 朝 に か け て の 約 300 年 間 に 21 作 品 、 以 降 オ ス マ ン 朝 時
代 の 約 300 年 間 に 6 作 品 が 編 纂 さ れ て い る 。
ア イ ユ ー ブ 朝 以 降 作 品 数 の 増 加 し た FBM は 、 さ ら に マ ム ル ー ク 朝 に 入 り 、 作 品 の 内 容 や 構
成 、 編 纂 方 針 の 点 に お い て も 大 き な 変 化 を 体 験 し 、 そ れ ま で の ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM に は な か
っ た 新 し い 要 素 を 持 つ よ う に な る 。 そ う し た 変 化 の 1 つ 目 の 例 が 、 FBM の 編 纂 を 参 詣 ziyār a
と 結 び 付 け 、FBM に エ ル サ レ ム 参 詣 の た め の ガ イ ド ブ ッ ク と し て の 意 味 合 い を 持 た せ た も の 、
2 つ 目 が 、 従 来 の ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM の 内 容 に 、 エ ル サ レ ム に 関 す る 地 理 的 情 報 や 同 地 で 活
動 し た 著 名 人 た ち の 伝 記 、 あ る い は よ り 広 範 な 歴 史 な ど を 追 加 し て 、 FBM を エ ル サ レ ム の 総
合的な情報を提供する地誌へと発展させたものである。
以 下 で は マ ム ル ー ク 朝 時 代 の FBM に 見 ら れ る こ れ ら 2 方 向 へ の 変 化 に 注 意 し 、そ の 変 化 の
契 機 と な る 作 品 と 、そ こ で の 新 要 素 が 後 代 の 作 品 に お い て ど の よ う に 引 き 継 が れ て い く か を 検
討する。
1 . エ ル サ レ ム 参 詣 と FBM 編 纂 と の 結 び つ き ( 参 詣 記 型 FBM)
(1) BN
BN の 著 者 イ ブ ラ ー ヒ ー ム ・ ブ ン ・ ア ブ ド ・ ア ッ ラ フ マ ー ン ・ フ ァ ザ ー リ ー Ibrāhīm b. ʽAbd
al-Raḥm ān al-Faz ārī は 、660/1262 年 ダ マ ス カ ス 生 ま れ の シ ャ ー フ ィ イ ー 派 知 識 人 で あ る 。ダ
マスカスの著名な学者の家系の出身であり、父親の後を継いでバーダラーイーヤ学院
al-M adr asa al- Bādarāʼīya の 教 師 を 務 め た 。 生 涯 の 大 部 分 を ダ マ ス カ ス で 活 動 し た 人 物 で 、
729/1329 年 に 同 学 院 内 で 没 し 、市 内 の 墓 地 に 埋 葬 さ れ て い る 。本 書 以 外 の 著 作 と し て は 、Iʽ lām
bi-Faḍāʼil al-Shām と い う フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ッ シ ャ ー ム が あ る こ と が 知 ら れ て い る [ BN 19-23;
Aʽlām ⅰ , 45-46; M uʽj am ⅰ , 34; KW ⅵ , 43-44; TS ⅸ , 312-313] 。
フ ァ ザ ー リ ー は 作 品 の 序 文 に お い て 、イ ブ ン ・ ア ル ム ラ ッ ジ ャ ー に よ る FBM-IM と 、カ ー ス
ィ ム ・ イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル に よ る J M の 2 作 品 を 利 用 し て BN を 編 纂 し た こ と を 記 し て お り 、
自 著 を こ れ ら 2 作 品 か ら の 「 選 集 mun takhab」 で あ る と し て い る [ BN 1-2]。 ハ デ ィ ー ス 集 型
57
FBM で は 口 伝 に よ る 伝 承 の 収 集 が 行 わ れ て い た の に 対 し 、BN は 書 物 を 典 拠 と し た 編 纂 が 行 わ
れている。
BN は こ れ ら 2 作 品 の 選 集 で あ る と い う 言 葉 の 通 り 、2 つ の う ち 現 存 す る 方 の FBM- IM に 比
べ る と 分 量 の 小 さ い 作 品 と な っ て い る 。こ の こ と は 、BN の 中 で 扱 わ れ る 伝 承 数 自 体 が FBM-IM
よ り 少 な い と い う こ と と 、イ ス ナ ー ド の 省 略 に よ る も の で あ る 。フ ァ ザ ー リ ー は 同 じ く 序 文 の
中で、
「 私 は 利 便 性 の た め に 、そ れ ら の す べ て の イ ス ナ ー ド を 省 略 し た 」[BN 2 ] と 述 べ て お り 、
作 品 内 で は 伝 承 を 最 初 に 伝 え た 人 物 や 、ブ ハ ー リ ー な ど 権 威 あ る ハ デ ィ ー ス 集 の 著 者 の 名 前 を
記 す こ と で イ ス ナ ー ド に 代 え て い る 。こ の ス タ イ ル は 第 2 章 で 取 り 上 げ た FBM-M と 同 様 の も
の で あ り 、 BN に お い て も 大 部 分 の 各 伝 承 の 始 め に は 最 初 の 伝 承 者 1 名 の 名 前 が 付 さ れ て い る
こ と か ら 、伝 承 の 個 数 を 数 え る こ と は 比 較 的 容 易 で あ る 。筆 者 は こ こ で BN の 伝 承 数 を 152 と
計 数 し た 。 こ れ は FBM-IM の 伝 承 数 6 25 の お よ そ 4 分 の 1 に 相 当 す る も の で あ る 。
第 1 章 第 1 節 で も 述 べ た よ う に 、BN に 含 ま れ る 152 の 伝 承 の う ち 30 は FBM-IM と は 共 通
し な い も の で あ り 、こ の 30 の 伝 承 は J M よ り 引 用 さ れ た も の で あ る と 考 え ら れ る が 、JM の 完
全 な 写 本 が 見 つ か っ て い な い た め 、こ の 点 を 確 認 す る こ と は で き な い 。本 稿 で は フ ァ ザ ー リ ー
の 主 張 通 り 、 本 書 を FBM-IM あ る い は JM か ら の 要 約 で あ り 、 著 者 が あ る 編 纂 方 針 の も と に
取 捨 選 択 し た も の で あ る と 考 え る 。そ れ で は フ ァ ザ ー リ ー は BN を 編 纂 す る に あ た り 、何 に 意
識を置いていたのだろうか。
BN の 序 文 に は 、 本 書 が 13 の 章 か ら 構 成 さ れ る こ と と 、 各 章 の 題 が 書 き 上 げ ら れ て お り 、
それらは次のようなものである。
第 1 章:バイト・アルマクディス、すなわちアクサー・モスクの建設の起こり
第 2 章 : そ こ に 向 け て 鞍 を 置 く こ と 。そ こ を 訪 れ る こ と と 、そ こ で ラ ン プ を 灯 す こ と の 美 徳 。ど こ
からそこに入るべきか。ベツレヘムに行きそこで礼拝することの美徳
第 3 章 : そ こ で 礼 拝 す る こ と の 美 徳 。1 年 の う ち に ハ ッ ジ を 行 い 、か つ メ デ ィ ナ と ア ク サ ー ・ モ ス
クで礼拝を行うことの美徳
第 4 章:バイト・アルマクディスよりイフラームすることの美徳。そこでのアザーンの美徳
第 5 章:そこでのサダカと断食の美徳
第 6 章:岩の美徳、それは楽園からきたものである
第 7 章:黒いタイルの美徳。どこから岩〔のドーム〕に入るべきか
第 8 章 : ミ ー ラ ー ジ ュ の ド ー ム 、預 言 者 の ド ー ム 、ラ フ マ 門 、ザ カ リ ヤ の ミ フ ラ ー ブ 、モ ス ク 後 方
に あ る 岩 々 、サ キ ー ナ 門 、ヒ ッ タ 門 、ウ マ ル の ミ フ ラ ー ブ 、そ の 他 の ミ フ ラ ー ブ 、預 言 者 の 門 、オ リ
ーブ山、鎖のドーム、タウバ門
第 9 章:バイト・アルマクディスの水、シロアムの泉、葉の井戸
第 10 章 : サ ー ヒ ラ 、 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に て 死 ん だ 者 の 美 徳
58
第 11 章 : そ れ ら の 場 所 を 回 ろ う と 考 え る 者 、 回 ら な か っ た 者
第 12 章 : フ ァ ダ ー イ ル ・ バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 集
第 13 章 : 神 の 友 〔 ア ブ ラ ハ ム 〕 の 墓 の 美 徳 [BN 2-4]
以 上 の 章 題 か ら は 、本 作 品 が エ ル サ レ ム 参 詣 を 推 奨 し 、そ の 助 け と な る よ う な も の と し て 編
纂 さ れ て い る こ と が わ か る 。例 え ば 第 2 章 か ら 第 5 章 に か け て は 、エ ル サ レ ム で 様 々 な 宗 教 的
行 い を 行 っ た 者 は 罪 を 赦 さ れ て 楽 園 に 入 る こ と が で き る 、と い う こ と が 述 べ ら れ 、続 く 第 6 章
か ら 第 8 章 に か け て は 、ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ に あ る 岩 の ド ー ム や ミ ー ラ ー ジ ュ の ド ー ム 、ハ ラ
ム の 壁 や 門 な ど 参 詣 す べ き と さ れ る 場 所 を 挙 げ 、そ れ ら の 場 所 の 由 来 や 美 徳 に ま つ わ る 伝 承 と
と も に 、 具 体 的 な 参 詣 作 法 に つ い て 述 べ ら れ て い る 。 BN で 取 り 上 げ ら れ て い る 参 詣 作 法 は 、
す べ て FBM- IM の 該 当 部 分 を 要 約 し て 引 用 し た も の で あ る [FBM- IM 78-101; BN 5 4 , 6 1 - 6 3 ] 。
BN が エ ル サ レ ム 参 詣 を 前 提 に 編 纂 さ れ た 作 品 で あ る と い う こ と は 、 本 書 の 第 1 3 章 が ヘ ブ
ロ ン 参 詣 に 充 て ら れ て い る こ と か ら も 読 み 取 る こ と が で き る 。 第 13 章 「 偉 大 な る 神 の 友 〔 ア
ブ ラ ハ ム 〕の 墓 に 巡 礼 す る こ と の 美 徳 」に 出 て く る 伝 承 は 、エ ル サ レ ム の 参 詣 作 法 に 関 す る 部
分 と 同 様 に 、 FBM-IM か ら 引 用 さ れ て い る [FBM- IM 459-493 ; BN 105-119] 。 こ の 章 で は 預 言
者 ア ブ ラ ハ ム と 彼 の 子 孫 の 伝 記 や 、彼 ら の 墓 が あ る と さ れ る ヘ ブ ロ ン の 美 徳 と と も に 、ヘ ブ ロ
ン参詣を推奨する伝承とそこでの参詣作法について述べられている。
神 の 友 〔 ア ブ ラ ハ ム 〕、 イ サ ク 、 ヤ コ ブ の も と に 参 詣 し よ う と す る 者 に は 、 次 の よ う な こ と が 望 ま
し い 。そ の 意 図 を 純 粋 な も の と し 、至 高 な る 神 に 幸 運 と お 助 け を 求 め る 。 2 度 の ラ ク ア( 直 立 、お じ
ぎ、跪拝の 3 つの動作を 1 セットとした礼拝の基本単位)を行い、その後で至高なる神に保護を求
める。慈悲深き方の友がその者から反逆を感じることがないようにし、その参詣にはいかなる非礼
もあってはならない。というのも、預言者たちはその墓の中で生きているからである。それから自
らを低め、心静かに赦しを求めながらその場所に向かう。そしてモスクに右足から入って、次のよ
う に 言 う 。「 神 の 御 名 に お い て 。 神 の 使 徒 に 平 安 あ れ 。 お お 神 よ 、 ム ハ ン マ ド と ム ハ ン マ ド の 一 族 に
祝福を与えたまえ。私をお赦しになり、私とすべてのムスリムに憐れみを垂れたまえ。まことにあ
な た は 、 あ ら ゆ る 物 事 に お い て 力 あ る 方 で あ ら れ ま す 」。 そ の 後 2 度 ラ ク ア を し 、 モ ス ク の 永 続 を 願
う。それから神の友の墓に入り、どの方向からでもいいので彼の方に向かって立つ。そして彼に挨
拶 を し て 言 う 。「 あ な た の 上 に 平 安 の あ ら ん こ と を 、 預 言 者 よ 。 神 の 恩 寵 と 祝 福 の あ ら ん こ と を 。 神
の 友 に 平 安 の あ ら ん こ と を 。 神 の 恩 寵 と 祝 福 の あ ら ん こ と を 」 [BN 112-113]
4/10 世 紀 以 降 ム ス リ ム に よ る ヘ ブ ロ ン 参 詣 が 盛 ん に な り 、エ ル サ レ ム 参 詣 に 連 続 し て ヘ ブ ロ
ン 参 詣 を 行 う と い う 参 詣 ル ー ト が 確 立 さ れ て い た と い う こ と は 、第 1 章 第 2 節 I に お い て 述 べ
た 通 り で あ る 。 BN の 第 13 章 で も 、 こ う し た エ ル サ レ ム ・ ヘ ブ ロ ン 参 詣 ル ー ト の 存 在 を 確 認
59
できる。
BN で は 逆 に 、 エ ル サ レ ム の 歴 史 に 関 係 す る 伝 承 、 例 え ば イ ス ラ エ ル 王 ダ ビ デ 、 ソ ロ モ ン に
よ る 神 殿 建 設 や バ ビ ロ ン 王 ネ ブ カ ド ネ ツ ァ ル に よ る そ の 破 壊 、ロ ー マ・ビ ザ ン ツ 帝 国 に よ る エ
ル サ レ ム 支 配 、ウ マ ル の 征 服 、ア ブ ド ・ ア ル マ リ ク に よ る 岩 の ド ー ム 建 設 な ど の 伝 承 は 、ほ と
ん ど 取 り 入 れ ら れ て い な い 。 こ れ ら は FBM- IM に お い て 、 あ る い は そ の 他 BN 以 前 に 編 纂 さ
れ た FBM に お い て は 、 1 つ の 内 容 に つ き 異 な る イ ス ナ ー ド を 経 由 し た 複 数 の 伝 承 が 挙 げ ら れ
る な ど 多 く の 紙 面 が 割 か れ 、重 要 視 さ れ て い る 要 素 で あ る 。こ う し た 要 素 が BN に お い て 省 か
れているのは、それが参詣に直接結びつかないからであろう。
BN の 15 2 個 の 伝 承 を 、 ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM の 項 で 行 っ た よ う に カ テ ゴ リ ー ご と に 分 類 す
る と 、[ 表 4] の よ う に な る 。歴 史 に 関 す る 伝 承( A お よ び B)の 割 合 が そ れ ぞ れ 18.42%、9.21%
と 比 較 的 低 い こ と は 前 述 の 通 り で あ る 。 エ ル サ レ ム の 神 聖 性 ・ 偉 大 性 に 関 す る 伝 承 (C) は
51.32% と 全 体 の 約 半 分 を 占 め て お り 、 エ ル サ レ ム 参 詣 者 に 与 え ら れ る 功 徳 に 関 す る 話 も こ こ
に 含 ま れ て い る 。 終 末 思 想 に 関 す る 伝 承 (D)が 2.63%、 奇 跡 譚 (E)が 3.29% と 続 き 、 モ ニ ュ メ ン
ト や そ こ へ の 参 詣 作 法 に 関 す る 伝 承 ( F) が 7.24%で あ る 。 こ の 7 .24%と い う 割 合 は 、 ハ デ ィ ー
ス 集 型 FBM に お け る 同 項 目 の 割 合 と 比 べ る と や や 大 き く 、ま た こ こ に 含 ま れ る 伝 承 1 つ の 長
さ が 長 い た め 、 BN の 中 で は 伝 承 数 以 上 の 存 在 感 を 示 す 部 分 と な っ て い る 。 最 後 に BN で は 、
フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ル ハ リ ー ル (I)が 4.61 %含 ま れ て い る 。
BN に お け る エ ル サ レ ム・ヘ ブ ロ ン 参 詣 作 法 に 関 す る 記 述 は 、い ず れ も FBM-IM か ら の 引 用
で あ る 。し か し な が ら こ の 部 分 は 、現 存 す る 限 り に お い て BN 以 前 の 、4/11 世 紀 半 ば か ら 8/1 4
世 紀 初 頭 に 編 纂 さ れ た 作 品 に は 引 用 さ れ て お ら ず 、 そ の 時 期 の FBM 編 纂 者 に と っ て FBM に
必 須 の 要 素 と 見 な さ れ て い た わ け で は な い も の で あ る 。 そ れ ゆ え フ ァ ザ ー リ ー が FBM-IM か
ら こ う し た 要 素 を 選 び 出 し て い る こ と は 、彼 が 実 際 の 参 詣 を 意 識 し て 自 身 の 作 品 の 編 纂 を 行 っ
たことを示していると言える。
BN で 再 び 取 り 上 げ ら れ た 参 詣 作 法 に つ い て の 伝 承 は 、 以 降 複 数 の 作 品 の 中 に 引 用 さ れ る よ
う に な っ て い く 。BN は FBM に 初 め て エ ル サ レ ム 参 詣 記 と し て の 形 式 を 与 え た と い う 意 味 で 、
FBM 編 纂 の 歴 史 の 中 で 重 要 な 位 置 づ け に あ る 作 品 で あ る 。
(2) TU
著 者 の ア ブ ド ・ ア ッ ラ フ マ ー ン ・ ブ ン ・ ユ ー ス フ ・ ア ン サ ー リ ー ʽAbd al-Raḥ mān b. Yūs uf
al-Anṣārī al-Miṣr ī (d. 761/1360) は カ イ ロ 在 住 の 知 識 人 で あ る 。 最 初 は シ ャ ー フ ィ イ ー 派 法 学
を 学 ん で い た が 後 に ハ ン バ ル 派 に 転 向 し 、カ イ ロ の ハ ン バ ル 派 マ ド ラ サ で 教 師 を 務 め た [A ʽlām
ⅳ , 147; AA ⅱ , 66-67; Ibrāh īm 318-320]。
TU に は 校 訂 本 は な く 、本 論 で は ア ラ ブ 連 盟 写 本 研 究 所 M aʽh ad al-M akhṭ ūṭāt al-ʽAr abīya 所
蔵 の 写 本 を 利 用 し た (M S. tārīkh 514) 。 TU も MM と 同 様 に 、 わ ず か 8 葉 の 非 常 に 小 さ な 作 品
60
で あ る 。作 品 の 分 量 が 小 さ い こ と は 、MM と 同 じ く イ ス ナ ー ド の 省 略 と 、同 一 の 内 容 の 伝 承 は
作品内に 1 つしか取り上げないという叙述方法によって成り立っている。
TU で は 、 ス ン ナ 派 の 主 要 ハ デ ィ ー ス 集 で あ る 六 書 の 他 、 ハ ー キ ム ・ ニ ー サ ー ブ ー リ ー
Muḥammad b. ʽAb d Allāh al-Ḥākim al-Nīsāb ūrī (d. 405/10 14) に よ る Mustadr ak ʽalā
al-Ṣaḥīḥay n f ī al- Ḥadīth や 、 バ イ ハ キ ー Aḥmad b. al-Ḥus ayn al-Bayhaqī (d. 4 58/1065) に よ る
Dalāʼil al-N ubūwa な ど の 有 名 な ハ デ ィ ー ス 集 か ら の 伝 承 の 引 用 が 行 わ れ て い る 。ア ン サ ー リ ー
も フ ァ ザ ー リ ー と 同 じ く 、口 伝 で は な く 書 物 を 典 拠 と し て 作 品 を 編 纂 し て い る と 考 え ら れ る が 、
フ ァ ザ ー リ ー と は 異 な る 典 拠 を 用 い て い る 。TU は 短 い 作 品 で は あ る が 章 立 て は な さ れ て お り 、
作 品 内 に は 16 の 章 が 存 在 す る 。 伝 承 者 や 典 拠 と さ れ た 書 物 の 題 を 利 用 し て 、 作 品 内 に 収 め ら
れ て い る 伝 承 の 数 を 数 え る と 、 73 の 伝 承 が 計 数 で き る 。
TU の 叙 述 方 法 に つ い て 特 筆 す べ き 点 は 2 つ あ る 。 ま ず 1 点 目 は 、 作 品 の 第 1 章 に お い て 、
エ ル サ レ ム と い う 場 所 や 、そ こ で 起 き た 出 来 事 と 結 び 付 け て 解 釈 さ れ る ク ル ア ー ン の 章 句 に 関
す る 伝 承 が 、 ま と め て 並 べ ら れ て い る こ と で あ る 。 ク ル ア ー ン 解 釈 は 従 来 の FBM で も 扱 わ れ
て い る 要 素 で あ る が 、そ こ で は「 ク ル ア ー ン 解 釈 に 関 す る 伝 承 」と し て 一 か 所 に 固 め て 記 述 さ
れ る と い う こ と は な か っ た 。 TU の よ う に ク ル ア ー ン 解 釈 を 作 品 の 冒 頭 部 に ま と め て 記 述 す る
と い う 形 式 は 、TU 以 降 の FBM で も 多 く 行 わ れ て い る も の で あ る 。FQ や FBM-M で 見 ら れ た
「 バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス 」と い う 地 名 の 由 来 や 意 味 に 関 す る 伝 承 と と も に 、こ の 要 素 を 作 品
の 冒 頭 部 に 配 置 す る こ と は 、 後 代 の FBM の 定 型 の ひ と つ と な っ て い る 。 TU で は こ の 章 の 存
在 の た め に 、作 品 全 体 に 占 め る ク ル ア ー ン 解 釈 に 関 す る 伝 承 (H) の 割 合 が 27. 39%と 、他 の 作 品
に比べてかなり高いものとなっている。
2 点 目 は 、作 品 の 序 文 に「 こ れ ら の 紙 片 に は 聖 な る 地 の フ ァ ダ ー イ ル の 一 部 が 、そ の モ ス ク
へ の 参 詣 を 志 す 者 に と っ て 必 要 な 知 識 と い う 形 で 要 約 さ れ て い る 」 [TU 1b] と あ る こ と か ら 、
TU も BN 同 様 、 作 品 の 編 纂 が エ ル サ レ ム 参 詣 を 前 提 と し て 行 わ れ て い る と い う 点 で あ る 。 こ
の こ と は TU の 最 後 の 章 か ら も 推 測 す る こ と が で き る 。 TU の 最 後 の 章 で 著 者 の ア ン サ ー リ ー
は 、エ ル サ レ ム に あ る 一 部 の モ ニ ュ メ ン ト に つ い て 現 地 の 人 間 が 誤 っ て 認 識 し て い る と 彼 が 見
なした伝承と、それに対する批判を行っている。
我々はアクサー・モスクについて、土地の人々が述べていること、民衆や低級な人々が間違って
思い込んでおり、何の価値もないようなことをも見てきている。その中には、人間の行いが錘とな
る例の天秤が置かれる場所であると彼らが言い張っている場所がある。またその近くにある別の場
所 に つ い て は 、 彼 ら は 、 そ こ は 楽 園 に か か る 細 い 道 al-ṣirāṭ で あ る と 言 い 張 っ て い る ・・・こ う し た こ
とは彼らの間では貴賤に関わらず有名な認識であるが、これらはすべて真実ではなく、宗教的根拠
の な い 作 り 話 で あ り 、 む な し く 人 々 の 財 を 食 い つ く す こ と を 意 図 し て 作 ら れ た も の で あ る [TU 8a]。
61
こ の 部 分 の 記 述 か ら 、ア ン サ ー リ ー は 実 際 に エ ル サ レ ム 参 詣 を 行 っ て お り 、そ の 際 に 現 地 の
人々の言動を見聞していたと推察できる。
こ の よ う な ア ン サ ー リ ー の「 宗 教 的 根 拠 の な い 作 り 話 」に 対 す る 批 判 的 態 度 は 、彼 と 同 時 代
の ハ ン バ ル 派 法 学 者 イ ブ ン ・ タ イ ミ ー ヤ Taqī al -Dīn Aḥmad b. Taym īya (d. 7 28/1326) に よ る
Qāʽida fī Z iyārat Bay t al- Maqdis と い う 書 物 に 見 ら れ る 、 彼 の エ ル サ レ ム 参 詣 に 関 す る 態 度 に
影響されたものである。
イ ブ ン ・ タ イ ミ ー ヤ に よ る Qāʽida は 、 エ ル サ レ ム 参 詣 や エ ル サ レ ム に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル
に つ い て 述 べ た 短 い 作 品 で あ る が 、 そ の 編 纂 ス タ ン ス は FBM 作 品 群 と は 大 き く 異 な る も の で
あ る 。イ ブ ン ・タ イ ミ ー ヤ は そ の 著 作 の 中 で 、ム ス リ ム が エ ル サ レ ム 参 詣 を 行 う こ と 自 体 は 推
奨 さ れ る と し な が ら も 、そ れ に ま つ わ る 様 々 な 伝 承 が ク ル ア ー ン や 預 言 者 ム ハ ン マ ド の ハ デ ィ
ー ス に 基 づ き 、シ ャ リ ー ア の 規 定 に 反 さ な い も の で あ る か ど う か を 吟 味 し 、そ う で は な い も の
に 対 し て は 厳 し い 批 判 を 行 っ た 。 例 え ば FBM 作 品 群 に は 、 メ ッ カ 巡 礼 に 際 し て エ ル サ レ ム よ
り イ フ ラ ー ム を 始 め る こ と を 奨 励 し 、預 言 者 ム ハ ン マ ド の 教 友 た ち も エ ル サ レ ム か ら の イ フ ラ
ー ム を 行 っ て い た と す る 伝 承 が あ る が [ FBM-W 59; FBM- IM 2 11-213; FBM-Ḍ 88-89; BN
39-42; MG 211-214; IA ⅰ , 151-153]、 そ れ に つ い て イ ブ ン ・ タ イ ミ ー ヤ は 、「 ハ ッ ジ に 合 わ せ
て そ こ へ の 旅 を 行 う こ と は 、神 の 意 に 適 う 行 為 で は な い 。
〔 そ う し た 行 い が 〕『 あ な た の ハ ッ ジ
を 神 聖 な も の と し て く れ る の で す 』な ど と 言 う 者 の 言 葉 は 、根 拠 の な い 、意 味 の な い も の で あ
る 」 [Qāʽida 14] と 述 べ て い る 。 上 記 の 箇 所 に お い て ア ン サ ー リ ー が 最 後 の 審 判 の 天 秤 や 細 い
道 を 否 定 し て い る の も 、イ ブ ン ・ タ イ ミ ー ヤ の「 そ こ に は 細 き 道 や 天 秤 、あ る い は 楽 園 と 地 獄
とを分ける壁―この壁というのはモスクの東に建てられたもののことである―があると言い
張 っ て い る 者 も い る 。同 様 に〔 ダ ビ デ の 〕鎖 や そ の 鎖 が あ っ た 場 所 を 偉 大 視 す る こ と も 、シ ャ
リ ー ア に 適 っ た こ と で は な い 」 [Qāʽida 12] と い う 考 え を 受 け た も の で あ る 。 イ ブ ン ・ タ イ ミ
ー ヤ は Qāʽida に お い て エ ル サ レ ム に 対 し 非 イ ス ラ ー ム 的 な 観 念 を 持 つ こ と を 厳 し く 批 判 し て
お り 、イ ス ラ ー イ ー リ ー ヤ ー ト よ り 多 く の 伝 承 を 取 り 入 れ て き た FBM と は 全 く 異 な っ て い る 。
ア ン サ ー リ ー は そ の 他 の 個 所 で も 信 頼 性 の な い 伝 承 に つ い て 、イ ブ ン・タ イ ミ ー ヤ の 言 葉 を
引 用 し て 批 判 を 加 え て い る 。例 え ば 次 の 箇 所 は 、預 言 者 ム ハ ン マ ド が イ ス ラ ー の 際 に 、エ ル サ
レム以外の場所で礼拝したという伝承についてのものである。
〔 預 言 者 ム ハ ン マ ド 曰 く 、 ガ ブ リ エ ル は 言 っ た 〕「 こ こ は ベ ツ レ ヘ ム 、 汝 の 兄 イ エ ス の 生 ま れ た 場
所である。下りてここで礼拝せよ。そしてここは、汝の父アブラハムの墓である。下りてここで礼
拝せよ」博学のイマーム、タキー・アッディーン・イブン・タイミーヤはこのハディースについて、
「これは嘘であり、これに益などない」と言っている。これはつまり、彼が言っているように、こ
の ハ デ ィ ー ス は ア ブ ー ・ ア ル カ ー ス ィ ム ・ マ ッ キ ー ・ ブ ン ・ ア ブ ド ・ ア ッ サ ッ ラ ー ム 51 が 、 神 の 友
51
5/11 世 紀 エ ル サ レ ム の FBM 編 纂 者 ル マ イ リ ー の こ と ([表 1], 7)。
62
〔の町ヘブロン〕への参詣について著した書の中で述べていることであるが、彼はそれをよく知ら
れていない人物たちを含むイスナードによって伝えているということである。すなわちこのハディ
ー ス に は 、 棄 却 さ れ た 文 言 が 含 ま れ て い る の で あ る [TU 7. b]。
ア ン サ ー リ ー が 示 し た よ う な 一 部 の 伝 承 や 慣 習 に 対 す る 批 判 的 態 度 は 、 TU 以 外 の FBM に
は 確 認 さ れ ず 、FBM 編 纂 者 の 態 度 と し て は 一 般 的 な も の で は な い が 、エ ル サ レ ム は ユ ダ ヤ 教 ・
キ リ ス ト 教 起 源 の 聖 地 で あ る が ゆ え に 、そ こ に ま つ わ る 伝 承 は 常 に 、イ ス ラ ー ム の 純 粋 性 を 求
め る 一 部 の ウ ラ マ ー の 批 判 の 対 象 と な っ て い た こ と が 伺 え る 。ア ン サ ー リ ー は エ ジ プ ト の 出 身
で あ り 、 エ ル サ レ ム や シ リ ア 在 住 の 、 彼 が 言 う と こ ろ の「 土 地 の 人 々 」で は な い が 、 彼 が 既 存
の FBM を 典 拠 と せ ず 、権 威 が あ る と さ れ る ハ デ ィ ー ス 集 を 利 用 し て い る の は 、FBM に 含 ま れ
る不正確な伝承を排除したいという意識の表れとも考えられる。
[表 4] BNとTUにおける各伝承の割合
G
H
I
合計
BN 28 (18.42%) 14 (9.21%) 78 (51.32%) 4 (2.63%)
A
B
5 (3.29%) 11 (7.24%)
―
5 (3.29%)
ヘブロン 7 (4.61%)
152
TU
1 (1.37%)
―
20 (27.39%) シャーム 9 (12.33%)
73
7 (9.58%)
C
D
12 (16.43%) 19 (26.02%) 4 (5.47%)
E
F
1 (1.37%)
A. エルサレムの歴史(イスラーム以前)
B. エルサレムの歴史(イスラーム時代)
C. エルサレムの神聖さ・偉大さを伝える伝承
D. エルサレムと終末思想を関連付けた伝承
E. エルサレムでムスリムたちが体験した奇跡譚
F. エルサレムにあるモニュメントやそこへの参詣に関する伝承
G. エルサレムに縁のムスリムたちの伝記
H. クルアーン解釈
I. エルサレム以外に関するファダーイル
A
BN
B
C
TU
D
0%
10%
20%
30%
40%
50%
60%
70%
80%
90%
100%
E
F
G
H
I
63
2 . MG-M に お け る 新 要 素 の 追 加 ( 地 誌 型 FBM)
(1) MG-M の 編 纂 方 針
第 1 節 で は FBM が エ ル サ レ ム 参 詣 と 関 連 し て 編 纂 さ れ た 例 を 確 認 し た が 、第 2 節 で は FBM
の も う ひ と つ の 方 向 性 を 与 え た 作 品 と し て 、シ ハ ー ブ ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ ア フ マ ド ・ ブ ン ・ ム ハ
ン マ ド ・ マ ク デ ィ ス ィ ー Sh ihāb al-Dīn Aḥmad b. Muḥ ammad al-M aqdisī に よ る MG-M を 取 り
上げる。
著 者 シ ハ ー ブ ・ ア ッ デ ィ ー ン は 、 71 4/1314 年 エ ル サ レ ム 生 ま れ の シ ャ ー フ ィ イ ー 派 法 学 者
で あ る 。 エ ル サ レ ム の 著 名 な マ ド ラ サ の ひ と つ で あ る タ ン キ ズ ィ ー ヤ 学 院 に て al-M adr asa
al-Tank zīya に て 学 び 、師 で あ っ た ア ラ ー イ ー Kh al īl b. Kaykal dī al -ʽAl āʼī (d. 7 61/1359) ([ 表 1],
20) 5 2 の 死 後 は 同 学 院 の 教 授 職 を 務 め た 。 生 涯 に お い て ダ マ ス カ ス と カ イ ロ に 遊 学 の 経 験 が あ
る 。 765/1364 年 に 没 し た が 、 そ の 場 所 と し て は エ ル サ レ ム で あ る と い う 説 と エ ジ プ ト で あ る
と い う 説 の 2 つ が あ る 。 著 書 と し て は 本 書 の 他 に 、 ア ブ ー ・ ダ ー ウ ー ド Abū Dāwūd Sulaym ān
b. al-Ashʽath (d. 275/ 889) に よ る『 ス ナ ン 』の 注 釈 書 や 、預 言 者 ム ハ ン マ ド の ミ ー ラ ー ジ ュ や 、
シ リ ア に お け る 教 友 の ひ と り で あ る タ ミ ー ム ・ ダ ー リ ー Tam īm b. Aws al-D ār ī (d. 40/600) に
ま つ わ る 伝 承 に 関 す る 書 物 を 残 し て い る [MG-M 23-39; Aʽl ām ⅰ , 224 ; Muʽjam ⅰ , 239]。
MG-M の 序 文 に は 、 本 書 の 編 纂 方 針 と 構 成 に つ い て 、 次 の よ う に 書 か れ て い る 。
私はこの書をきちんと整理し、改正を行い、完全なものに仕上げ、明確なものとして著した。私
は こ の 書 を 、あ ら ゆ る フ ァ ダ ー イ ル の 書 の 中 で 人 々 に 注 目 さ れ る 作 品 と し た 。私 は こ の 書 に 出 て く る
ハ デ ィ ー ス や 伝 承 の 状 態 を 、 大 方 の と こ ろ 明 ら か に し て お い た 。〔 す な わ ち 〕 真 正 な も の か 、 脆 弱 な
も の か 、預 言 者 で は な く 後 世 の 人 に よ っ て 捏 造 さ れ た も の か 、良 好 な も の か〔 と い う こ と を 〕。
〔私以
前に〕ファダーイルに関する著述を行った人々はそうではなく、その著作に出てくるハディースを、
〔 そ の 状 態 を 〕明 確 に す る こ と な く ひ と ま と め に 引 用 し て い る に す ぎ な い か ら で あ る 。私 は こ の 書 を
2 つの部分で構成した。
第 1 部:シリアの美徳、その〔地理的〕境界と〔語源的〕由来、その区分について言われている
こと、高貴なるクルアーンの中でその美徳について述べられている章句について。それらはいくつ
かの章や節により構成される。
第 2 部: ア ク サ ー ・モ ス ク の 美 徳 、そ れ が 据 え ら れ た こ と の 始 ま り と そ の 構 造 の 特 別 な こ と に 関 す
る こ と 、最 初 の 頃 そ こ で 起 き た 奇 跡 や 伝 承 の 数 々 に つ い て 。の 美 徳 に つ い て 述 べ ら れ て い る 章 句 に つ
いて。それらはいくつかの章や節により構成される。
また私はこの書を、貴顕たちのうちかの地を訪れたことがある人々、彼らのうちそこに移住した
ダ マ ス カ ス 出 身 の シ ャ ー フ ィ イ ー 派 法 学 者 。 717/1317-18 年 以 降 エ ル サ レ ム に 移 住 し 、 市 内 の 多 く
の マ ド ラ サ の 教 授 職 を 務 め た 。 724/1324 年 以 降 は エ ル サ レ ム の 大 カ ー デ ィ ー も 務 め る [KW ⅹ ⅲ ,
410-41 6; TS ⅹ , 35-38]。
52
64
人 々 の 話 、583 年 に〔 サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン に よ っ て 〕そ こ が 征 服 さ れ た と き に そ こ で 読 ま れ た フ
トバでもって終えることにした。このフトバにはこの地の明らかなる美徳が含まれているからであ
る [MG-M 6 4]。
こ こ で シ ハ ー ブ ・ ア ッ デ ィ ー ン は 、 従 来 の FBM で は 伝 承 が 真 正 性 の 検 証 な し に 収 集 さ れ て
い た こ と に 対 し 、正 し い 伝 承 学 の 手 法 に 従 っ て い な い と し て 批 判 を 加 え て い る 。こ の 発 言 の 通
り 、MG-M で は 作 品 内 の 多 く の 伝 承 に 対 し 、イ ス ナ ー ド の 中 に 出 て く る 伝 承 者 が 信 頼 に 足 る 人
物であるか、またマトンそのものに十分な合理性があるかなどの検討を行っている。例えば、
預 言 者 の マ ウ ラ ー ト で あ っ た マ イ ム ー ナ・ビ ン ト・サ ァ ド Maymūna bint Saʽd よ り 伝 え ら れ た 、
エルサレムでの礼拝の功徳を伝える伝承に対しては、次のような検証を加えている。
ズ ィ ヤ ー ド Ziyād b. Abī Sa ʽda と 彼 の 兄 弟 ウ ス マ ー ン ʽUthmān に つ い て は 、 イ ブ ン ・ ハ ッ バ ー ン
Ibn Ḥabb ān と マ ル ワ ー ン ・ ブ ン ・ ム ハ ン マ ド Marwān b. Mu ḥa mma d が 、 彼 ら 2 人 は 信 頼 で き る 人
物 で あ る と し て い る 。 我 々 の シ ャ イ フ 、 ザ ハ ビ ー al-Dhahabī 5 3 は 、 彼 の Mīzān の 書 の 中 で 「 こ の ハ
ディースは否定されるものである」と言っているが、それには強い根拠はない。このハディースの
イスナードは我々が見てきたとおりであるが、ザハビーは、油をヒジャーズからシャームに贈ると
いう内容が含まれていることから、このマトンを正当と見るべき根拠〔の不足〕について指摘して
い る 54 。 し か し な が ら こ れ は 、 こ の ハ デ ィ ー ス を 否 定 さ れ る べ き も の で あ る と す る に は 至 ら な い
[MG- M 19 3]。
伝 承 の 真 正 性 批 判 を 重 視 す る 姿 勢 か ら か 、シ ハ ー ブ ・ア ッ デ ィ ー ン も ア ン サ ー リ ー 同 様 、作
品 を 編 纂 す る に あ た っ て は FBM 以 外 の 伝 承 集 に 依 拠 し て い る 。MG-M の 典 拠 と し て 作 品 中 に
書 名 が 挙 が っ て い る 代 表 的 な 著 作 は 、ス ン ナ 派 の 主 要 ハ デ ィ ー ス 集 で あ る 六 書 の 他 、ニ ー サ ー
ブ ー リ ー の al-Mustaqṣā や 、バ イ ハ キ ー の Dalāʼ il al-Nub ūwa 、Jām iʽ al- Muṣannaf f ī Shiʽb al-Īmān
な ど で あ る 。 既 存 の FBM に つ い て は 、 ワ ー ス ィ テ ィ ー の FBM-W と イ ブ ン ・ ア ル ム ラ ッ ジ ャ
ー の FBM-IM、カ ー ス ィ ム・イ ブ ン・ア サ ー キ ル の JM か ら の 引 用 が あ り [MG- M 143, 149-151,
175]、こ の 3 作 品 に つ い て は 直 接 参 照 し て い る も の と 考 え ら れ る 。ま た 作 品 の 結 び の 部 分 に は 、
本 書 以 前 に FBM を 著 し た 人 物 と し て 、 上 記 の 3 名 の 他 、 FQ の 著 者 イ ブ ン ・ ア ル ジ ャ ウ ズ ィ
ー と FBM-M の 著 者 ミ ク ナ ー ス ィ ー 、 BN の 著 者 フ ァ ザ ー リ ー の 名 前 が 記 さ れ て お り 、 シ ハ ー
ブ・アッディーンがこれらの作品の存在を知っており、内容を把握していたことがわかる。
な お シ ハ ー ブ・ア ッ デ ィ ー ン は 、脆 弱 な イ ス ナ ー ド に よ る 伝 承 で あ っ て も い っ た ん 作 品 中 に
Muḥamma d b. Aḥ ma d a l -Dhah abī al -Di ma shq ī (d. 748/1 348). ダ マ ス カ ス の シ ャ ー フ ィ イ ー 派 知 識 人
で 、 シ ハ ー ブ ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ マ ク デ ィ ス ィ ー の 師 の ひ と り [MG-M 25]。
54 シ ャ ー ム は オ リ ー ブ が 多 く 産 出 さ れ る 地 で あ り 、 反 対 に ヒ ジ ャ ー ズ 地 方 に は オ リ ー ブ の 木 が 少 な い
の に 、な ぜ そ の ヒ ジ ャ ー ズ か ら オ リ ー ブ 油 の 豊 富 に あ る シ ャ ー ム に わ ざ わ ざ オ リ ー ブ 油 を 送 ら ね ば な ら
ないのかが理解できない、という意味か。
53
65
取 り 上 げ 、そ の 上 で 批 判 を 加 え て「 こ れ は 信 用 で き な い 伝 承 で あ る 」と 結 論 づ け る と い う ス タ
イ ル を 取 っ て い る 。こ の こ と か ら 著 者 は 、た だ エ ル サ レ ム に 関 す る 真 正 な 伝 承 を 集 め る こ と だ
け で は な く 、 従 来 の FBM に 含 ま れ て い た 「 弱 い 」 伝 承 を も 振 り 返 っ て 、 そ こ に 正 し い 判 断 を
加えることを目的としていたと言える。
MG-M、 あ る い は そ れ 以 降 の FBM 作 品 に 関 し て は 、 ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM の よ う に 単 純 に
伝 承 を 引 用 し て い る だ け で は な く 、著 者 に よ る 再 構 成 や 著 者 自 身 の 見 解 な ど が 入 っ て き て 構 成
が 複 雑 に な る た め 、 作 品 内 の 伝 承 数 を 数 え る こ と が 難 し く な る 。 よ っ て こ こ で は MG-M の 伝
承 数 を 提 示 で き な い が 、上 記 の よ う に 多 数 の 伝 承 を 取 り 上 げ て そ こ に 検 証 を 加 え て い る こ と に
よ り 、 MG-G の 作 品 全 体 の 分 量 は FBM-IM に 次 ぐ 大 き な も の と な っ て い る 5 5 。
(2) MG-M に 見 ら れ る 新 し い 要 素
シ ハ ー ブ・ア ッ デ ィ ー ン が MG-M を 編 纂 す る に あ た っ て 、既 存 の FBM だ け で は な く そ の 他
多 く の 著 作 を 参 照 し て い る こ と は 、本 書 の 内 容 面 で の 新 し さ に も 繋 が っ て い る 。序 文 で 述 べ ら
れ て い た よ う に 、MG-M は 大 き く 分 け て 2 つ の 部 分 か ら 構 成 さ れ て い る 。第 1 部 が フ ァ ダ ー イ
ル ・ ア ッ シ ャ ー ム 、第 2 部 が フ ァ ダ ー イ ル ・ バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 関 す る 部 分 で あ る 。フ
ァ ダ ー イ ル・ バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ ス と フ ァ ダ ー イ ル・ア ッ シ ャ ー ム の 2 部 構 成 と い う ス タ イ
ル 自 体 は 、 FBM-Ḍ や FBM-M に も 見 ら れ た も の で あ る 。
MG-M の 2 部 は 、さ ら に い く つ か の ま と ま り に 分 け る こ と が で き る 。第 1 部 は 、① ク ル ア ー
ン の 中 で エ ル サ レ ム や シ リ ア の こ と を 述 べ て い る 箇 所 に つ い て ( ク ル ア ー ン 解 釈 )、 ② 「 シ ャ
ー ム 」と い う 地 名 の 由 来 、③ シ リ ア の 地 理 的 な 境 界 、④ シ リ ア 地 域 、ダ マ ス カ ス や そ の 他 の 都
市 に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル の 4 つ の 部 分 に 大 別 で き る 。次 に 第 2 部 は 、① ア ク サ ー・モ ス ク や ハ
ラ ム ・シ ャ リ ー フ の 成 立 の 歴 史( ダ ビ デ と ソ ロ モ ン に よ る 神 殿 建 設 、ウ マ ル に よ る エ ル サ レ ム
征 服 、ア ブ ド・ア ル マ リ ク に よ る 岩 の ド ー ム 建 設 含 む )② エ ル サ レ ム に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル( 冒
頭 に エ ル サ レ ム の 名 称 に つ い て の 情 報 含 む )、 ③ エ ル サ レ ム に 縁 の 預 言 者 や 著 名 な ム ス リ ム の
伝記の 3 つの部分に大別できる。
第 1 部 の 初 め の 2 つ の 要 素 、す な わ ち ク ル ア ー ン 解 釈 と 、そ の 土 地 の 名 称 の 由 来 や ヴ ァ リ エ
ー シ ョ ン に 関 す る 伝 承 の 2 つ を こ の 部 分 の 冒 頭 に 置 く 記 述 ス タ イ ル は 、す で に FQ や TU に お
い て 確 認 さ れ て お り 、 MG-M 以 降 も FBM 記 述 の 定 型 と な っ て い る も の で あ る 。 し か し こ こ で
注 目 し た い の は 、「 シ リ ア の 地 理 的 な 境 界 」 [MG- M 84-87] と い う 部 分 で あ る 。
こ の 部 分 は 、シ リ ア 地 域 の 東 西 南 北 の 境 界 線 が ど こ に あ り 、そ れ ら の 間 が 何 日 行 程 の 距 離 で
あ る か と い う こ と と 、シ リ ア 地 域 を パ レ ス チ ナ 行 政 区 、ハ ウ ラ ー ン 行 政 区 、グ ー タ 行 政 区 、ヒ
ム ス 行 政 区 、キ ン ナ ス リ ー ン 行 政 区 の 5 つ の 行 政 区 に 分 け て 示 し 、そ れ ぞ れ の 行 政 区 に ど の よ
MG-M の 校 訂 本 の 底 本 と な っ て い る パ リ 写 本 (Bibliothèq ue Nationa le de France, MS. 1667 ) で は 1
ペ ー ジ 17 行 × 119 葉 、FBM- I M の 校 訂 で 使 用 さ れ て い る ダ ー ル ・ ア ル ク ト ゥ ブ 写 本 (MS. tārīkh 3 194 )
が 1 ペ ー ジ 20 行 × 123 葉 で あ る 。
55
66
う な 中 心 都 市 と 周 辺 都 市 が あ る か と い う こ と を 述 べ て い る 。シ ハ ー ブ・ア ッ デ ィ ー ン は こ の 部
分 を 、主 に イ ブ ン・フ ル ダ ー ズ ビ フ ʽUb ayd Allāh b. Aḥmad Ibn Khur dādhbih (d. c. 280/893) に
よ る Masālik wa al-Mamālik よ り 引 用 し て い る 。 こ の よ う な シ リ ア に 関 す る 地 理 的 な 情 報 が
FBM に 組 み 込 ま れ る の は 、 MG-M が 初 め て で あ る 。
第 2 部 に つ い て も 、構 成 と 記 述 内 容 の 両 面 に お い て 新 し い 要 素 を 見 る こ と が で き る 。第 2 部
で は 、エ ル サ レ ム に 関 す る 伝 承 の 中 か ら 、ま ず ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 起 こ り と 、そ の 後 の イ ス
ラ エ ル 時 代 と イ ス ラ ー ム 時 代 に お け る 建 設 ・整 備 事 業 と い っ た 、ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 形 成 と
発 展 に 関 す る 伝 承 が ひ と ま と め に し て 最 初 に 置 か れ 、そ の 他 の 、主 に エ ル サ レ ム の 偉 大 性 ・神
聖 性 に 関 す る 伝 承 が 続 い て い る 。 そ し て こ れ に 続 く 作 品 の 終 わ り の 部 分 に は 、 従 来 の FBM に
は見られなかった「伝記集」という形式での記述がある。
こ の 伝 記 集 部 分 の 冒 頭 で は 、「 預 言 者 が イ ス ラ ー の 夜 、 ア ク サ ー ・ モ ス ク に て 他 の 預 言 者 た
ち の 先 頭 に 立 っ て 礼 拝 し た こ と 」と い う 項 が あ り 、こ こ で 預 言 者 ム ハ ン マ ド が エ ル サ レ ム に イ
ス ラ ー し た 際 、そ こ で ア ダ ム を は じ め と す る そ の 他 の 預 言 者 た ち に 出 会 い 、彼 ら の イ マ ー ム( 導
師 )と な っ て 礼 拝 を 行 っ た と い う こ と に 関 連 づ け て 、ム ハ ン マ ド の イ ス ラ ー に 関 す る 一 連 の 伝
承 が 取 り 上 げ ら れ て い る [MG- M 265-2 68]。 以 降 彼 ら 預 言 者 た ち ひ と り ひ と り の 名 前 を 時 代 順
に 挙 げ 、彼 ら の 生 涯 の 事 績 や エ ル サ レ ム と の 関 わ り な ど が 述 べ ら れ る 。な お ダ ビ デ と ソ ロ モ ン
に よ る 神 殿 建 設 の エ ピ ソ ー ド に つ い て は 、第 2 部 の 最 初 に あ る ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ の 形 成 と 発
展 に 関 す る 伝 承 で す で に 扱 わ れ て い る た め 、 こ こ で は 除 か れ る 。 MG-M で は 18 名 の 預 言 者 た
ち( ズ ー ・ア ル カ ル ナ イ ン と マ フ デ ィ ー を 含 む )の 名 前 が 挙 げ ら れ て い る( 第 4 章 第 1 節 に 挙
げ る [表 5] を 参 照 )。 こ の 部 分 で 述 べ ら れ る 記 述 内 容 は 従 来 の FBM に も 見 ら れ る も の で あ る
が 、 MG-M の 新 し い 点 は 、 そ れ ら を 人 物 ご と に ま と め て 再 編 成 し て い る と こ ろ に あ る 。
続 い て 伝 記 は ム ス リ ム の も の に 入 り 、そ こ で は ウ マ ル ・ブ ン ・ハ ッ タ ー ブ を は じ め と す る ム
ハ ン マ ド の 教 友 た ち や 、 タ ー ビ ウ ー ン 第 1 世 代 、 そ し て 第 2 世 代 以 降 の 、 1/ 7 世 紀 か ら 6/12
世 紀 の ム ス リ ム 96 名 の 名 前 が 挙 げ ら れ て い る 。 こ れ ら の 人 物 は い ず れ も エ ル サ レ ム を 訪 れ た
経 験 を 持 つ か 、あ る い は エ ル サ レ ム に 生 ま れ 同 地 で 活 動 し た 人 物 で あ り 、そ れ ぞ れ の 項 で は 彼
ら の 生 没 年 や エ ル サ レ ム で の 行 い が 記 さ れ て い る 。な お ダ ビ デ と ソ ロ モ ン の 神 殿 建 設 同 様 、ハ
ラ ム・シ ャ リ ー フ 整 備 に 関 わ り の あ る ウ マ ル の 征 服 と ア ブ ド・ア ル マ リ ク の 岩 の ド ー ム 建 設 の
エ ピ ソ ー ド に つ い て は 、 す で に 述 べ ら れ て い る た め こ こ で は 取 り 上 げ ら れ な い 。 従 来 の FBM
に も 出 て き た 教 友 た ち や 、ウ マ イ ヤ 朝・ア ッ バ ー ス 朝 カ リ フ た ち の エ ル サ レ ム に ま つ わ る 言 動
は、この部分でそれぞれの人物ごとにまとめられている。
ム ス リ ム た ち の 伝 記 の 最 後 か ら 2 番 目 の 項 目 が 、ア イ ユ ー ブ 朝 ス ル タ ン = サ ラ ー フ・ア ッ デ
ィ ー ン の も の と な っ て い る 。MG-M の 序 文 に お い て「 583 年 に〔 サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン に よ
っ て 〕そ こ が 征 服 さ れ た と き に そ こ で 読 ま れ た フ ト バ で も っ て 終 え る こ と に し た 。こ の フ ト バ
に は こ の 地 の 明 ら か な る 美 徳 が 含 ま れ て い る か ら で あ る 」 [MG- M 64] と あ っ た 通 り 、 こ こ で
67
は サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン の 名 の も と に 、彼 の ダ マ ス カ ス に お け る カ ー デ ィ ー で あ っ た 、ム フ
イ ー・ア ッ デ ィ ー ン・ブ ン・ザ キ ー・ア ッ デ ィ ー ン M uḥyī al-D īn Muḥ ammad b. Zakīy al-Dīn ʽAl ī
al-Dim ashqī (d. 598/1202) が 行 っ た フ ト バ の 文 言 が 引 用 さ れ て い る 。サ ラ ー フ・ア ッ デ ィ ー ン
の 項 は 、ほ と ん ど が こ の フ ト バ の 引 用 で 占 め ら れ て お り 、エ ル サ レ ム 征 服 を 含 む 彼 の 生 涯 の 事
績 に つ い て は 短 い 記 述 し か な い 。こ こ で の シ ハ ー ブ ・ア ッ デ ィ ー ン の 目 的 は 、彼 の 発 言 に あ る
通 り 、こ の フ ト バ の 中 で 述 べ ら れ て い る エ ル サ レ ム の フ ァ ダ ー イ ル を 示 す こ と に あ っ た の で あ
ろ う 。こ の サ ラ ー フ・ア ッ デ ィ ー ン の フ ト バ は MG-M 以 前 の FBM に は 見 ら れ な か っ た 要 素 で
あ り 、 シ ハ ー ブ ・ ア ッ デ ィ ー ン は こ の フ ト バ を 、 イ ブ ン ・ ハ ッ リ カ ー ン Aḥmad b. Muḥ ammad
Ibn Khallik ān al-Barmakī (d. 681/1282 ) に よ る 伝 記 集 、 Wafayāt al-Aʽyān wa Anbāʼ Abnāʼ
al-Zamān の 「 ム フ イ ー ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ ブ ン ・ ザ キ ー ・ ア ッ デ ィ ー ン 」 の 項 よ り 引 用 し て い
る [WA ⅳ , 229-237]。
以 上 の よ う に MG-M で は FBM 以 外 の 豊 富 な 典 拠 を 用 い た 編 纂 が 行 わ れ て お り 、従 来 の FBM
に は な か っ た 、地 理 的 情 報 や 伝 記 集 と い っ た 新 要 素 が 盛 り 込 ま れ た 内 容 と な っ て い る 。シ ハ ー
ブ・ア ッ デ ィ ー ン は MG-M の 編 纂 に あ た り 、従 来 の FBM の 枠 に は ま ら な い 、よ り 幅 広 い 内 容
を含む作品を意識していたと言える。
3. 2 つ の 方 向 性 の 融 合
マ ム ル ー ク 朝 時 代 に 入 り 、FBM の 編 纂 は BN と MG- M と い う 2 つ の 革 新 的 な 作 品 に よ っ て 、
エ ル サ レ ム 参 詣 と 結 び 付 い た 編 纂 ス タ イ ル と 、エ ル サ レ ム に 関 す る よ り 広 範 な 情 報 を 取 り 入 れ
る 編 纂 ス タ イ ル と い う 、 新 し い 方 向 性 を 獲 得 し た 。 こ れ ら 2 つ の ス タ イ ル は と も に 、 9/15 世
紀 後 半 に 連 続 し て 編 纂 さ れ た RM と IA の 中 に 受 け 継 が れ て い く 。
(1) RM
著 者 の ア ブ ド ・ ア ル ワ ッ ハ ー ブ ・ ブ ン ・ ウ マ ル ・ フ サ イ ニ ー ʽAbd al-W ahhāb b. ʽUm ar
al-Ḥus aynī al-Dim ash qī は 、9/15 世 紀 シ リ ア の シ ャ ー フ ィ イ ー 派 法 学 者 で あ っ た 人 物 で あ る 。
彼 の フ サ イ ニ ー と い う 名 は 、預 言 者 ム ハ ン マ ド の 孫 で あ る フ サ イ ン ・ ブ ン ・ ア リ ー Ḥusayn b.
ʽAlī (d. 61/680) に 由 来 し て い る 。彼 は 800/1397-98 年 以 降 の 年 に ダ マ ス カ ス で 生 ま れ 、同 地
で 教 育 を 受 け た 。 カ ー ミ ル ・ ブ ン ・ バ ー リ ズ ィ ー K āmil b. al-Bārizī と い う 人 物 に 同 行 し て カ
イロに赴き、そこでも様々な知識人について学んでいる。帰郷後はこのカーミルの代理人と
してダマスカスのカーディーや教授の職を務め、カーミルの死後にはアレッポのカーディー
を務めた。後にアレッポでの職を辞して故郷に戻り、ダマスカスの自邸にて勤行に励む生活
を 送 っ た と い う 。フ サ イ ニ ー は 生 涯 何 度 も メ ッ カ 巡 礼 を 行 っ た と さ れ 、875/1 470 年 メ ッ カ 巡
68
礼 中 に 没 し 、 メ ッ カ 近 郊 の マ ア ラ ー ト Maʽl āt に 埋 葬 さ れ て い る [D L ⅴ , 106; Ibrāhīm 1985:
437-440]。
フ サ イ ニ ー は 871 /1466-67 年 に エ ル サ レ ム に 参 詣 し て お り 、そ の と き の こ と を RM の 序 文 で
次のように記している。
私 は 871 年 に ア ク サ ー ・ モ ス ク を 訪 れ た 。 私 の そ こ で の 滞 在 は 4 か 月 弱 で あ っ た 。 私 は そ れ ら の
神聖なる土地、高貴にして栄光ある参詣場所を見て、それらのファダーイルについて知りたいと思
うようになった。というのも、そこへの参詣者としての用意ができていなかったからである。そこ
で 私 は そ こ の 学 識 あ る 人 に 、 そ の 地 に ま つ わ る 知 識 に つ い て 尋 ね た ・・・ し か し 私 は 、 何 ひ と つ 答 え て
もらえなかった。そこで私はそうしたことに関する書物を求めたのだが、見つけられなかった。ゆ
えに私は寛大なる与え手たる讃えられし至高なる神に、そうしたことを容易にしてくれるものを編
纂 す る こ と に つ い て 、 導 き を 求 め る こ と に し た [RM(B) 123b -124 a]。
こ の 部 分 よ り 、 フ サ イ ニ ー は エ ル サ レ ム 参 詣 を 契 機 と し て FBM の 編 纂 に 興 味 を 持 っ た と 考
え ら れ る 。RM の 結 び に は 、 本 書 が 8 7 2 年 ラ ビ ー ウ ・ ア ル ア ッ ワ ル 月 19 日( 1467 年 10 月 27
日 )に 完 成 し た こ と が 記 さ れ て お り [Ibr āhīm 1 9 85: 4 5 8 -4 59 ] 5 6 、彼 は 本 書 を エ ル サ レ ム 滞 在 中 か 、
あるいはその直後の時期に執筆したということになる。
フ サ イ ニ ー は「 エ ル サ レ ム に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル の 書 を 見 つ け る こ と が で き な か っ た 」と し
つ つ も 、実 際 に は フ ァ ザ ー リ ー 同 様 既 存 の 作 品 を 典 拠 と し て 自 著 の 編 纂 を 行 っ て お り 、続 く 序
文 で そ う し た 書 物 の 名 前 を 挙 げ て い る 。こ の 記 述 の 矛 盾 は 、フ サ イ ニ ー の 要 求 を 十 分 に 満 た す
内 容 を 備 え た FBM が 存 在 し な か っ た た め に 、 自 著 を も の し た の で あ る と 理 解 で き よ う 。 い ず
れ に せ よ 、 彼 は 主 た る 引 用 元 と し て 11 冊 の フ ァ ダ ー イ ル の 書 を 挙 げ て お り 、 そ れ ら は 順 に
FBM6 作 品 、 3 聖 地 の モ ス ク と そ こ へ の 参 詣 に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル の 書 2 作 品 5 7 、 フ ァ ダ ー イ
ル ・ ア ッ シ ャ ー ム 2 作 品 58、 フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ル ハ リ ー ル 1 作 品 59で あ る 。
フ サ イ ニ ー が 典 拠 と し た FBM を 成 立 年 代 順 に 挙 げ れ ば 、イ ブ ン・ア ル ジ ャ ウ ズ ィ ー の FQ 、
カ ー ス ィ ム ・ イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル の J M、ア フ マ ド ・ イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル の UFQ 、フ ァ ザ ー リ
56
イ ブ ラ ー ヒ ー ム に よ る メ デ ィ ナ 写 本 (MS. 900/114) か ら の 部 分 翻 刻 を 利 用 。
57
Muḥamma d b. Ba h ādir a l -Zarkash ī (d. 79 4/1392 ), Iʽlā m al- Sā jid bi -Akhk ām al -M asā ji d; Aḥma d b.
al- ʽImā d a l -Aqfahsī (d. 808/14 05 ), T a sh īl al-Maq ā sid l i- Zuwwār al -Masāj id.
58
ʽAlī b. Mu ḥam mad a l- Rabaʽī (d. 444/1 052) , Faḍ āʼ il al - Sh ām w a Faḍ l D imash q; al- Fazārī, Iʽlām
bi- Faḍ āʼ il al - Sh ām. な お こ の フ ァ ザ ー リ ー は BN の 著 者 と 同 一 人 物 で あ る ([表 1], 18)。
59
Isḥāq b. Ibr āhī m a l- Tad mur ī (d. 833/143 0 ), Muth īr al -Gh arām fi Zi yār at al -Khalīl. 著 者 で あ る タ ド ム
リーはフサイニーとミンハージーの同時代人で、ヘブロンのモスクのイマームを務めた人物である
[Aʽ lām ⅰ , 293; Muʼjam ⅰ , 338; SA ⅱ , 276-277 ]。
69
ー の BN、 ア ラ ー イ ー の MU 、シ ハ ー ブ ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ マ ク デ ィ ス ィ ー の MG-M と な る 。フ
サ イ ニ ー は さ ら に ア フ マ ド ・ イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル と フ ァ ザ ー リ ー 、シ ハ ー ブ ・ ア ッ デ ィ ー ン の
作 品 の 序 文 を 引 用 し 、ア フ マ ド・ イ ブ ン・ ア サ ー キ ル が 彼 の 父 方 の 従 兄 に あ た る カ ー ス ィ ム の
作 品 を 直 接 の 典 拠 と し て い る こ と 、フ ァ ザ ー リ ー が カ ー ス ィ ム ・ イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル の JM と
イ ブ ン ・ ア ル ム ラ ッ ジ ャ ー の FBM-M を 直 接 の 典 拠 と し 、ま た「 利 便 性 の た め に 、そ れ ら の す
べ て か ら イ ス ナ ー ド を 省 略 し た 」 上 で 編 纂 を 行 っ て い る こ と 60、 シ ハ ー ブ ・ ア ッ デ ィ ー ン が 彼
以 前 の FBM 編 纂 者 と は 異 な り 、 作 品 内 の 各 ハ デ ィ ー ス の 真 正 性 を 明 示 す る と い う 編 纂 方 針 を
取 っ て い る こ と 61を 述 べ て い る 。 な お フ サ イ ニ ー は 、 シ ハ ー ブ ・ ア ッ デ ィ ー ン が 批 判 す る 「 彼
以 前 の FBM 編 纂 者 」 と は カ ー ス ィ ム ・ イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル を 指 す も の で あ る と し て い る 。
フ サ イ ニ ー は 典 拠 情 報 に 続 け て 、 序 文 の 中 で 本 書 を 37 の 章 に 分 け て 構 成 し た と 述 べ 、 そ れ
ぞ れ の 章 題 を 挙 げ て い る 。そ れ に よ れ ば RM の 章 構 成 は 、第 1 章 が エ ル サ レ ム の 名 称 に つ い て
の 章 、 第 2~ 6 章 が ア ク サ ー ・ モ ス ク 設 立 の 由 来 と そ の 美 徳 に つ い て の 章 、 第 7~ 12 章 が エ ル
サ レ ム で 宗 教 的 行 い を し た 者 に 与 え ら れ る 功 徳 に つ い て の 章 、 第 13~ 28 章 が エ ル サ レ ム 市 内
外 の モ ニ ュ メ ン ト に ま つ わ る 伝 承 と 、 そ れ ら の 場 所 に 参 詣 す る 際 の 作 法 に つ い て の 章 、 第 29
~ 30 章 が ウ マ ル に よ る 征 服 と 、 ア ブ ド ・ ア ル マ リ ク に よ る 岩 の ド ー ム 建 設 に つ い て の 章 、 第
31 章 が エ ル サ レ ム の そ の 他 の フ ァ ダ ー イ ル 集 、 第 32 ~ 34 章 が エ ル サ レ ム に 縁 の あ る 預 言 者 、
教 友 、 タ ー ビ ウ ー ン の 中 で 著 名 な 人 々 の 伝 記 集 、 第 35 章 が 預 言 者 ア ブ ラ ハ ム と 彼 の 一 族 の 伝
記 と ヘ ブ ロ ン 参 詣 に つ い て の 章 、第 36 章 が 預 言 者 モ ー セ の 墓 に つ い て の 章 、第 37 章 が フ ァ ダ
ー イ ル ・ ア ッ シ ャ ー ム 集 と な っ て い る [ RM(B) 125b-127a]。
RM の 章 構 成 は フ ァ ザ ー リ ー の BN の そ れ に よ く 似 て お り 、こ れ に 倣 っ た も の で あ る と 考 え
ら れ る 。 BN に な い 要 素 と し て は 、 第 1 章 の エ ル サ レ ム の 名 称 に つ い て の 章 と 、 第 32~ 34 章
の 伝 記 集 、第 36 章 の モ ー セ の 墓 に つ い て の 章 、第 37 章 の フ ァ ダ ー イ ル・ア ッ シ ャ ー ム 集 が あ
る 。 第 1 章 に つ い て は 、 す で に TU や MG-M に お い て も 述 べ ら れ て い る 要 素 で あ る が 、 フ サ
イ ニ ー は こ の 章 を 、 MG-M の 第 2 部 と 、 MG-M の 後 に ザ ル カ シ ー に よ っ て 編 纂 さ れ た フ ァ ダ
ー イ ル ・ ア ル マ サ ー ジ ド 集 で あ る IS よ り 引 用 し て い る [MG-M 190; IS 277- 279; RM( B) 128a 129a]。第 32~ 34 章 と 第 37 章 は 、イ ブ ラ ー ヒ ー ム が MG-M か ら の 引 用 で あ る こ と を 指 摘 し て
い る [Ibrāh īm 1985: 453] 。 第 36 章 に つ い て は 、 筆 者 が 確 認 で き た ベ ル リ ン 写 本 に は な い 部 分
で あ り 、か つ イ ブ ラ ー ヒ ー ム も 部 分 校 訂 を 提 示 し て い な い た め 、そ の 内 容 を 直 接 把 握 す る こ と
は で き な い 。 し か し な が ら RM の 記 述 内 容 は 、 後 述 す る よ う に IA か ら 推 測 が 可 能 で あ り 、 IA
か ら 判 断 す る に こ の 章 に は 、 従 来 の FBM や そ の 他 の ハ デ ィ ー ス 集 、 預 言 者 伝 な ど に 見 ら れ た
モ ー セ の 生 涯 と 、彼 の 墓 と そ こ へ の 参 詣 に ま つ わ る 伝 承 が ま と め ら れ て い る と 考 え ら れ る 。同
様 に 第 35 章 の ア ブ ラ ハ ム の 章 に お い て も 、 BN や FBM-IM で 扱 わ れ て い な か っ た 内 容 に つ い
60
61
RM( B) 1 24a. こ の 部 分 の 引 用 は BN の 序 文 の 内 容 に 一 致 す る 。
RM( B) 1 24b. こ の 部 分 の 引 用 は MG- M の 序 文 の 内 容 に 一 致 す る 。
70
て は 、タ ド ム リ ー に よ る フ ァ ダ ー イ ル・ア ル ハ リ ー ル を 参 照 し て 補 っ て い る も の と 考 え ら れ る 。
以 上 の よ う に フ サ イ ニ ー は 、 BN か ら は エ ル サ レ ム ・ ヘ ブ ロ ン 参 詣 に 関 す る 一 連 の 内 容 、
MG-M か ら は 伝 記 集 と シ リ ア の 地 理 的 要 素 を 含 む フ ァ ダ ー イ ル ・ア ッ シ ャ ー ム と い う 、2 つ の
新 し い 要 素 を 共 に RM の 中 に 取 り 入 れ て い る 。さ ら に フ サ イ ニ ー は モ ス ク や ヘ ブ ロ ン に 関 す る
フ ァ ダ ー イ ル の 書 も 主 要 な 典 拠 と し て お り 、そ の 結 果 RM の 情 報 量 は FBM 作 品 群 の 中 で も 最
大 の も の と な っ て い る 62。
RM は マ ム ル ー ク 朝 時 代 の FBM 編 纂 の 流 れ を 見 る 上 で 重 要 な 作 品 で あ る が 、 本 論 第 1 章 で
も 述 べ た よ う に 完 全 な 写 本 が メ デ ィ ナ 写 本 し か 残 っ て い な い た め 、研 究 者 が 利 用 し に く い 作 品
と な っ て い る 。 し か し な が ら RM の 内 容 は 、 本 書 と 同 時 代 に 編 纂 さ れ た IA の 中 に ほ ぼ 同 じ 形
で 取 り 入 れ ら れ て お り 、 IA を 参 照 す る こ と で こ の よ う な RM の ベ ル リ ン 写 本 の 欠 落 を 補 う こ
と が 可 能 で あ る 。 次 項 で は RM を 主 要 な 典 拠 と し て 編 纂 さ れ た IA を 取 り 上 げ 、 RM と 合 わ せ
て 2 作品の形式や内容について考察する。
(2) IA
IA の 著 者 ム ハ ン マ ド ・ ブ ン ・ ア フ マ ド ・ ミ ン ハ ー ジ ー M uḥammad b. Aḥm ad al-M inh āj ī
al-Suyūṭī は 813/141 0 年 エ ジ プ ト の ア ス ユ ー ト に 生 ま れ た シ ャ ー フ ィ イ ー 派 法 学 者 で あ る が 、
彼 の 前 半 生 に つ い て は 、ア ス ユ ー ト に て 育 ち そ の 後 カ イ ロ に 移 住 し た こ と 以 外 は 知 ら れ て い な
い 。 848/1444 年 よ り メ ッ カ 巡 礼 に 出 発 す る が 、 そ の こ と は IA の 序 文 で も 述 べ ら れ て い る 。
そ れ に よ れ ば 、 ミ ン ハ ー ジ ー は 848 年 ラ ビ ー ゥ ・ ア ル ア ッ ワ ル 月 ( 1444 年 6 月 ) に メ ッ カ
に 到 着 し ウ ム ラ( 巡 礼 月 で あ る ズ ー ・ ア ル ヒ ッ ジ ャ 月 以 外 の 期 間 に 行 う メ ッ カ 巡 礼 )を 行 っ た
後 、そ の ま ま ズ ー・ ア ル ヒ ッ ジ ャ 月 ま で メ ッ カ に 滞 在 し 、続 け て ハ ッ ジ を 行 っ た 。翌 849 年 の
初 め ( 1445 年 4 月 ) に メ デ ィ ナ に 向 か い 、 預 言 者 ム ハ ン マ ド の 墓 に 参 詣 し 、 そ の 年 の ズ ー ・
ア ル ヒ ッ ジ ャ 月 に は 再 び メ ッ カ に 戻 っ て 2 回 目 の ハ ッ ジ を 行 っ て い る 。 そ し て 857 年 の 初 め
( 1453 年 1 月 ) ま で 7 年 間 メ ッ カ に 滞 在 し た 後 、 お よ そ 9 年 間 に 渡 る ヒ ジ ャ ー ズ 滞 在 を 終 え
て カ イ ロ に 帰 還 し た 。彼 は こ の ヒ ジ ャ ー ズ か ら の 帰 途 に エ ル サ レ ム 参 詣 を 行 い た い と 考 え て い
た が 、こ の 時 点 で は エ ル サ レ ム に 向 か う こ と は で き な か っ た 。カ イ ロ 帰 還 後 、ミ ン ハ ー ジ ー は
マ ム ル ー ク 朝 ス ル タ ン = ア シ ュ ラ フ・バ ル ス バ ー イ Ashr af Barsb āy (r. 827/14 22-842/1438) の
近 臣 で あ っ た ア ミ ー ル ・ ジ ャ ー ニ ム ・ ベ ク Amīr Jānim Bek 6 3 に 仕 え る こ と と な り 、 彼 に 重 用
さ れ た 。そ の 後 ジ ャ ー ニ ム・ ベ ク が ア レ ッ ポ 総 督 に 任 命 さ れ る と 、ミ ン ハ ー ジ ー も 彼 に 同 行 し
て シ リ ア に 向 か い 、ア レ ッ ポ や ダ マ ス カ ス に 滞 在 し た 。こ の 時 期 に 彼 の エ ル サ レ ム 参 詣 の 願 望
62
メ デ ィ ナ 写 本 の 分 量 が 、 1 ペ ー ジ 17 行 ×174 葉 で あ る [Ibrāhīm 19 85: 4 4 1]。
63
サ ハ ー ウ ィ ー が ”Jānim n āʼib qalʽa t Ḥa lab ” と し て 名 前 を 挙 げ て い る 人 物 で あ ろ う 。サ ハ ー ウ ィ ー は 、
こ の 人 物 は 当 時 の ス ル タ ン の 近 臣 に し て 娘 婿 で あ り 、こ の 妻 と 同 年 の 897/1491-92 年 に 没 し た と し て い
る [DL ⅲ , 65]。
71
は ま す ま す 強 ま り 、 ま た FBM の 執 筆 も 決 意 し た よ う で あ る 。 序 文 に は 次 の よ う に こ の 決 意 が
記されている。
私 は 至 高 な る 神 の 御 為 に 、 自 分 自 身 に あ る こ と を 課 し た 。 す な わ ち 、 も し 私 が バ イ ト ・ア ル マ ク デ
ィスに入り、そこを参詣するという願いを果たし、他の参詣者とともに望みの限りを尽くし、導き
の 道 を 通 っ て そ こ に あ る 様 々 な 遺 跡 を 辿 る こ と が で き た な ら 、 必 ず や 私 は バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス の
美徳やその奇跡、その古き特質、良きハディースが地の果てまでも届いており、今に至るまでその
契約の上に続いているところの姿を書き記そうと。私はその中に、受け継がれてきた並々ならぬこ
と の 間 か ら 麗 し い 作 品 を 集 め 、 そ れ に よ っ て こ の 家 ( バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス ) に 仕 え る と い う 願 い
を果たそう。その家はラクダの鞍〔のハディース〕の中に含まれており、かの 3 つのモスクの中の
ひ と つ で あ る の だ か ら [IA ⅰ , 80]。
し か し ミ ン ハ ー ジ ー は し ば ら く 参 詣 の 機 会 を 得 る こ と が で き ず 、彼 が 念 願 の エ ル サ レ ム 参 詣
を 果 た し た の は 874 年 ラ マ ダ ー ン 月( 1470 年 3 月 )に な っ て の こ と で あ っ た 。IA は 彼 の エ ル
サ レ ム 滞 在 中 に 執 筆 さ れ た も の で あ り 、 本 書 の 結 び に は 、 875 年 サ フ ァ ル 月 23 日 ( 1470 年 8
月 23 日 )同 地 に て 本 書 の 執 筆 が 完 了 し た と い う 旨 が 記 さ れ て い る [ IA ⅱ , 173] 。彼 が い つ ま で
エ ル サ レ ム に 滞 在 し た か は 明 ら か で は な い が 、お そ ら く 数 年 以 内 の こ と で あ っ た だ ろ う 。後 に
カ イ ロ に 帰 還 し 、880 /1475 年 同 地 に て 没 し て い る [ IA ⅰ , 24, 77-82; A ʽlām ⅴ , 334; Muʼj am ⅲ ,
85; SA ⅶ , 13]。
ミ ン ハ ー ジ ー は IA を 編 纂 す る に あ た り 、シ ハ ー ブ・ア ッ デ ィ ー ン・マ ク デ ィ ス ィ ー の MG-M
と フ サ イ ニ ー の RM の 2 作 品 を 直 接 の 典 拠 と し た こ と を 述 べ て い る の だ が [ IA ⅰ , 83]、 IA の
序 文 の 記 述 や 章 構 成 か ら 判 断 し て 、ミ ン ハ ー ジ ー は と り わ け 後 者 に 依 拠 し て い る こ と が わ か る 。
彼 は IA の 序 文 で フ サ イ ニ ー の 名 前 を 挙 げ た 後 に 、「 彼 は そ の 高 貴 に し て 独 創 的 な 著 書 の 中 で 、
〔 彼 が 典 拠 と し た 〕 そ れ ぞ れ の 書 物 の 序 文 の 一 部 を 伝 え て い る 」 [IA ⅰ , 83] と 述 べ て 、 フ サ
イ ニ ー が RM の 序 文 で 列 挙 し て い た 典 拠 情 報 を そ の ま ま の 形 で 引 用 し て い る 6 4 。ミ ン ハ ー ジ ー
は こ れ ら の 典 拠 情 報 の 最 後 で 以 下 の よ う に 述 べ て 、自 身 が RM を 主 た る 典 拠 と し て い る こ と を
明記している。
こ れ が 、 前 述 の サ イ イ ド ( フ サ イ ニ ー ) が 参 照 し 、 al-Raw ḍ al -Mu gharr as と 名 付 け ら れ た そ の 著 作
においておおもとの引用を頼ったものである。これ以上はいかなるファダーイルの書からも参照を
増やす必要はない。神はこの書とそこからの知識による利益を、ハディースにおける支えとして、
ま た 私 が 決 意 し た こ の 著 作 の 典 拠 と し て 、 永 遠 な る も の と な さ っ た [IA ⅰ , 88]。
64
IA ⅰ , 84-87. こ の 部 分 の 内 容 は 、 フ サ イ ニ ー の 序 文 の 記 述 と 一 致 し て い る [RM(B) 123b -1 24a]。
72
ミ ン ハ ー ジ ー は 典 拠 情 報 に 続 き 、IA を 全 17 の 章 で 構 成 し た こ と を 述 べ て い る 。そ れ に よ れ
ば 、 第 1 章 が ア ク サ ー ・ モ ス ク や バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス と い う 名 前 の 由 来 と 、 エ ル サ レ ム に
関 す る 全 般 的 な フ ァ ダ ー イ ル に つ い て の 章 、第 2 章 が ア ク サ ー・モ ス ク 設 立 の 由 来 と そ の 美 徳
に つ い て の 章 、第 3 章 が 聖 な る 岩 に つ い て の 章 、第 4 章 が エ ル サ レ ム で 宗 教 的 行 い を し た 者 に
与 え ら れ る 功 徳 に つ い て の 章 、 第 5~ 8 章 が エ ル サ レ ム 市 内 外 の モ ニ ュ メ ン ト に ま つ わ る 伝 承
と 、そ れ ら の 場 所 に 参 詣 す る 際 の 作 法 に つ い て の 章 、第 9 章 が イ ス ラ ー ム 以 降 に エ ル サ レ ム で
起 こ っ た 出 来 事 に つ い て の 章 、 第 10 章 が エ ル サ レ ム に 縁 の あ る 預 言 者 や 教 友 た ち の 伝 記 集 、
第 11 ~ 15 章 が 預 言 者 ア ブ ラ ハ ム と 彼 の 一 族 の 伝 記 と ヘ ブ ロ ン 参 詣 に つ い て の 章 、 第 1 6 章 が
預 言 者 モ ー セ の 墓 に つ い て の 章 、 第 17 章 が フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ッ シ ャ ー ム 集 と い う 構 成 と な っ
て い る [ IA ⅰ , 88-92] 。 以 上 の 章 構 成 は RM と ほ ぼ 同 一 の も の で あ り 、 ミ ン ハ ー ジ ー は こ の 点
に お い て RM を 全 面 的 に 踏 襲 し て い る 。
こ こ で IA を 用 い て 、RM と IA の 各 章 の 内 容 を 改 め て 考 察 す る 。ま ず IA の 第 1 章 は 、IS か
ら 引 用 し た エ ル サ レ ム の 17 の 名 称 と 、 ク ル ア ー ン の 中 で エ ル サ レ ム を 表 す も の と 解 釈 で き る
章 句 の 一 覧 で あ る 。 こ の 要 素 を FBM の 冒 頭 に 置 く こ と は 、 従 来 の FBM に も し ば し ば 見 ら れ
た 形 式 で あ る 。第 2 章 か ら 第 8 章 に か け て は 、ダ ビ デ ・ ソ ロ モ ン に よ る 神 殿 建 設 と 、 ハ ラ ム ・
シ ャ リ ー フ や 岩 の 偉 大 性・神 聖 性 に 関 す る 伝 承 、FBM-IM や BN か ら 引 用 さ れ た 参 詣 に 関 す る
伝 承 が 挙 げ ら れ て い る 。こ の 部 分 で は ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ 内 外 の 参 詣 の 対 象 と な る モ ニ ュ メ ン
ト を 軸 に し て 、そ れ ぞ れ の モ ニ ュ メ ン ト に ま つ わ る 伝 承 と そ れ ら へ の 参 詣 作 法 が ひ と つ に ま と
め ら れ て お り 、 例 え ば 鎖 の ド ー ム Qub bat al-Silsil a の 箇 所 で ダ ビ デ と 黄 金 の 鎖 の エ ピ ソ ー ド 、
ミ ー ラ ー ジ ュ の ド ー ム Qubb at al-Miʽrāj の 箇 所 で 預 言 者 ム ハ ン マ ド の イ ス ラ ー と ミ ー ラ ー ジ ュ
のエピソードが述べられるといった形である。
第 9 章 は ウ マ ル の 征 服 と ア ブ ド・ア ル マ リ ク の 岩 の ド ー ム 建 設 、サ ラ ー フ・ア ッ デ ィ ー ン の
軍 事 活 動 と エ ル サ レ ム 征 服 を 扱 っ た 章 で あ る 。ウ マ ル の 征 服 と ア ブ ド・ア ル マ リ ク の 岩 の ド ー
ム 建 設 に つ い て は 多 く の FBM で 扱 わ れ て い る エ ピ ソ ー ド で あ る が 、 IA は こ の 部 分 を 主 に
MG-M か ら 引 用 し て い る 。サ ラ ー フ・ ア ッ デ ィ ー ン の 活 動 に つ い て は 、イ マ ー ド ・ア ッ デ ィ ー
ン の Fatḥ よ り 引 用 さ れ た も の で あ る 。 サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン の フ ト バ に つ い て は MG-M で
も 取 り 上 げ ら れ て い た が 、そ の 前 後 の 彼 の 十 字 軍 と の 戦 い の 過 程 や 、サ ラ ー フ・ ア ッ デ ィ ー ン
死 後 の ア イ ユ ー ブ 朝 ス ル タ ン た ち の 対 エ ル サ レ ム ・ 十 字 軍 政 策 が FBM で 述 べ ら れ る の は 、 こ
の IA が 最 初 で あ る 。 な お サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン に 関 す る 内 容 は RM の 章 題 か ら 判 断 す る 限
り RM に は 見 ら れ な い も の で あ り 、 ミ ン ハ ー ジ ー が 独 自 に Fatḥ か ら 追 加 し た 部 分 で あ る と 思
わ れ る 。 FBM に お い て 、 サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン に よ る エ ル サ レ ム の 奪 回 に 関 す る 詳 細 な 記
事がこの時点まで見られないことは注目に値する。
第 10 章 の 伝 記 集 は 明 ら か に MG- M を 利 用 し た 部 分 で あ る 。 こ こ で は ア ダ ム 以 下 18 名 の 預
言 者 と 、ウ マ ル・ブ ン・ア ル ハ ッ タ ー ブ 以 下 82 名 の ム ス リ ム の 名 前 が 挙 げ ら れ て い る 。MG-M
73
と 比 較 す る と 、 人 物 の 選 択 に は 多 少 の 欠 落 や 追 加 が 見 ら れ る も の の 、 ほ ぼ MG-M に 従 っ て い
る ( [表 5] 参 照 )。 伝 記 の 内 容 に つ い て も ほ ぼ MG-M を 踏 襲 し て お り 、 一 部 に JM や UFQ か
らの引用が確認できる。
第 11 章 か ら 15 章 に か け て は 、預 言 者 ア ブ ラ ハ ム と 彼 の 一 族 、す な わ ち サ ラ 、イ サ ク 、ヤ コ
ブ 、イ シ ュ マ エ ル と ハ ガ ル 、ロ ト の 生 涯 の 事 績 と 、ヘ ブ ロ ン に あ る 彼 ら の 墓 へ の 参 詣 の 作 法 に
関 す る 章 で あ る 。 こ こ で は FBM-IM や BN で 扱 わ れ て い た ヘ ブ ロ ン 参 詣 に 加 え 、 ア ブ ラ ハ ム
一 族 の 伝 記 が 述 べ ら れ て い る 。ム ス リ ム の 伝 記 集 の 後 に ア ブ ラ ハ ム の 物 語 を 置 く 形 式 は RM と
同 様 で あ る が 、 RM が 全 37 章 の う ち 第 35 章 の み を こ れ に 充 て て い る の に 対 し 、 IA で は 全 17
章 の う ち 5 章 と 相 当 の 分 量 が 費 や さ れ て い る 。 RM に お い て も 典 拠 と し て タ ド ム リ ー の MG- T
が 挙 げ ら れ て い る こ と か ら 、FBM- IM や BN 以 上 の 内 容 が 含 ま れ て い た と 考 え ら れ る が 、ミ ン
ハ ー ジ ー は RM の 内 容 に 加 え て 、独 自 に MG-T や そ の 他 の 預 言 者 伝 か ら 情 報 を 追 加 し て い る こ
と が 考 え ら れ る 。 ま た 第 16 章 は モ ー セ に ま つ わ る 伝 承 と 彼 の 墓 が あ る 場 所 に 関 す る 章 で 、 こ
の 部 分 に つ い て は RM の 項 で も 述 べ た よ う に 、従 来 の FBM や そ の 他 の ハ デ ィ ー ス 集 や 預 言 者
伝の内容をまとめたものである。
第 17 章 は フ ァ ダ ー イ ル・ア ッ シ ャ ー ム に 充 て ら れ て い る 。こ こ は MG-M の 第 1 部 を 典 拠 と
し て お り 、 シ リ ア 地 域 や 各 都 市 の フ ァ ダ ー イ ル に 加 え 、「 シ ャ ー ム 」 と い う 名 前 の 由 来 、 シ リ
ア の 地 理 的 な 境 界 や 行 政 区 に つ い て の 情 報 が 含 ま れ て い る 。 ダ マ ス カ ス に つ い て は MG-M に
は な か っ た 情 報 も 追 加 さ れ て お り 、こ の 部 分 は お そ ら く 、フ サ イ ニ ー が RM の 典 拠 の ひ と つ と
し て い た ラ バ イ ー の フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ッ シ ャ ー ム か ら の も の で あ り 、 IA に も そ れ が 引 用 さ れ
ていると考えられる。
以 上 の こ と か ら 、ミ ン ハ ー ジ ー は RM を 元 に 、そ こ に 一 部 内 容 を 追 加 し て 自 身 の 作 品 を 著 し
て い る と 言 え る 。 ミ ン ハ ー ジ ー が エ ル サ レ ム を 訪 れ た 874/1470 年 と い う 時 期 は 、 フ サ イ ニ ー
が エ ル サ レ ム 参 詣 と RM の 編 纂 を 行 っ た 871-72/1466-67 年 の 直 後 に 当 た っ て い る 。 お そ ら く
ミ ン ハ ー ジ ー は エ ル サ レ ム 滞 在 中 に RM を 入 手 し 、 こ れ に 感 銘 を 受 け て IA の 執 筆 に 至 っ た の
で あ ろ う が 、わ ず か 数 年 前 に 著 さ れ た も の と ほ ぼ 同 じ 形 の 著 作 を 編 纂 し て い る と こ ろ か ら 、彼
の 目 的 は 既 存 の 書 物 か ら た だ 単 に FBM に 関 す る 知 識 を 得 る こ と で は な く 、 あ く ま で 自 分 自 身
の 手 で FBM を 著 す こ と で あ っ た と 言 え る 。
RM と IA は ほ ぼ 同 時 期 に 編 纂 さ れ 、 ま た 両 作 品 と も 著 者 が 晩 年 に 行 っ た エ ル サ レ ム 参 詣 に
際 し て 編 纂 さ れ て い る こ と 、著 者 が 編 纂 の 数 年 後 に 没 し て い る こ と な ど 、作 品 成 立 の 環 境 に も
共通点が多い。このような共通点にも関わらず両作品の写本の残存状況には大きな差があり、
RM の 写 本 に は 完 全 な も の が 1 つ し か 現 存 し て い な い の に 対 し 、 IA に は 多 数 の 写 本 が 残 っ て
お り [al-ʽAs alī 19 84: 98-104; Brockel mann 1943-1949: G2, 132-133]、 校 訂 本 も 出 版 さ れ て い
る 6 5 。IA は 12 /18 世 紀 オ ス マ ン 朝 時 代 に 編 纂 さ れ た Ris āla や LUJ に お い て 典 拠 と し て 参 照 さ
65
本 書 の 校 訂 本 は 2 種 類 出 版 さ れ て い る 。 1 つ 目 は ア フ マ ド Aḥmad Rama ḍān Aḥma d に よ る 1982 年
74
れ て お り 、こ れ ら の FBM が RM で は な く IA を 参 照 し て い る こ と か ら 、12/1 8 世 紀 の 時 点 で も
RM よ り も IA の 方 が 利 用 し や す い 書 物 と な っ て い た と 考 え ら れ る 。IA は 形 式 面 で は RM の 模
倣 で あ り 、サ ラ ー フ・ア ッ デ ィ ー ン の エ ル サ レ ム 征 服 に 関 す る 記 事 を 除 け ば 内 容 面 で も 新 し い
要 素 を 持 つ も の で は な い が 、RM の 内 容 を 保 存 し 後 世 に 伝 え る と い う 意 味 に お い て 重 要 な 役 割
を 果 た し た 作 品 で あ る と 言 え る 66。
4 . 地 誌 と し て の FBM の 発 展
こ こ ま で 、 マ ム ル ー ク 朝 時 代 の FBM に 参 詣 記 型 と 地 誌 型 の 2 つ の 方 向 性 が 示 さ れ る よ う に
な り 、そ の 2 つ と も が 後 代 の 作 品 に 取 り 込 ま れ て い く 過 程 を 確 認 し た 。本 節 で は マ ム ル ー ク 朝
末 期 に 編 纂 さ れ た 、も う ひ と つ の 地 誌 型 FBM で あ る UJ を 取 り 上 げ 、FBM が エ ル サ レ ム 地 誌
として発展する例を見る。
(1) UJ に お け る 歴 史 的 記 述
UJ の 著 者 で あ る ア ブ ド・ア ッ ラ フ マ ー ン・ブ ン・ム ハ ン マ ド・ウ ラ イ ミ ー ʽAb d al-Raḥmān b.
Muḥammad al-ʽUl aymī al-M aqdis ī は 、 860/1456 年 エ ル サ レ ム に て 、有 名 な 学 者 の 家 系 で あ る
ウ ラ イ ミ ー 家 に 生 ま れ た 。ウ ラ イ ミ ー 家 は シ ャ ー フ ィ イ ー 派 の 家 系 で あ る が 、父 親 が ハ ン バ ル
派 に 転 向 し た た め 、 そ の 下 で 学 ん だ ウ ラ イ ミ ー も ハ ン バ ル 派 に 属 し て い る 。 880/1475 年 か ら
889/1484 年 に か け て カ イ ロ で 学 ん だ 後 エ ル サ レ ム に 戻 り 、 エ ル サ レ ム 、 ラ ム ラ 、 ヘ ブ ロ ン 、
ナ ー ブ ル ス 4 都 市 の カ ー デ ィ ー 職 を 歴 任 し 、 エ ル サ レ ム の 大 カ ー デ ィ ー も 務 め た 。 928/1522
年 エ ル サ レ ム に て 没 し 、同 地 に 埋 葬 さ れ て い る [UJ ⅰ , 11-20; A ʽlām ⅲ , 33 1; Muʽjam ⅱ , 112]。
な お ウ ラ イ ミ ー が UJ を 編 纂 し た の は 、 本 書 の 結 び に 記 載 さ れ て い る 日 付 よ り 、 900/149 5 年
であることが明らかである。
ウライミーは本書の編纂の動機について、序文にて次のように述べている。
私は知識に乏しいという我が現状から、著述家のひとりであるとも言われておらず、私の知識の
量などは微々たるものなのである。しかし〔バイト・アルマクディスやヘブロン以外の〕イスラー
の 版 で 、メ ッ カ の ハ ラ ム 図 書 館 Maktaba t a l -Ḥara m a l -Ma kkī a l- Shar īf 所 蔵 の 写 本 (MS. tārīk h 1 9 2, M S.
tārīkh 32 7) と 、 ダ ー ル ・ ア ル ク ト ゥ ブ 所 蔵 の 写 本 (MS. tārīkh 4 07, M S. tārīkh 18 79 ) の 、 計 4 本 の 写
本 を 用 い た も の 、2 つ 目 は マ ズ ィ ー デ ィ ー Aḥma d Far īd al -M azīdī に よ る 2010 年 の 版 で あ る 。後 者 に つ
い て は 、用 い た 写 本 が 前 者 と ま っ た く 同 じ で 追 加 も な く 、さ ら に 各 写 本 間 の 相 違 を 注 釈 し て い な い な ど
基 本 的 な 校 訂 の 手 法 に 則 っ て い な い た め 、参 照 の 価 値 は な い 。よ っ て 本 稿 で は 前 者 の 校 訂 本 に 従 っ て い
る。
6 6 本 論 に お け る 参 詣 記 型 FBM( BN、 R M、 IA) の 内 容 と 編 纂 の 流 れ に つ い て は 、 [岡 本 2013] を も と
にしている。
75
ム諸国の大部分については、ハーフィズたちがそこに興味を示し、先の時代に存在した様々な情報
を伝えるその歴史に関することを書いているがゆえに、私がそれ(本書の執筆)を行うことにした
のである。
バイト・アルマクディスについては、私は何か特別なことを知っているわけではなかった。しか
し人々は歴史書の中で、ばらばらの箇所で色々なことを言っているに過ぎない。そして私は、私が
志したこの方法を求めている人々がいるのを知った。というのも、あるウラマーはファダーイルに
関することのみを書いており、またある者はウマルによる征服とウマイヤ家による整備を述べるこ
と〔だけ〕に気を配り、またある者はサラーフ・アッディーンによる征服のみを述べ、それ以降に
起 こ っ た こ と に つ い て は 述 べ て い な い 。ま た あ る 者 は 、そ こ に 関 す る 歴 史 に つ い て は 述 べ て い る が 、
バイト・アルマクディスの著名人たちについてはたいしたことは述べていない。そこで私は本書 を
完 全 な 歴 史 書 と す る た め に 、〔 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 〕 建 設 や フ ァ ダ ー イ ル 、 征 服 、 著 名 人 の 伝
記 の 話 や 、 有 名 な ハ デ ィ ー ス の 一 部 を 集 め て み た か っ た の で あ る [UJ ⅰ , 67-68]。
ウ ラ イ ミ ー は こ こ で 、そ れ ま で エ ル サ レ ム の 歴 史 を 総 合 し て 扱 っ た 歴 史 書 が 存 在 し な か っ た
ことを挙げ、自らの手でそれを編纂することを考えた、と述べている。ウライミーが「歴史
tārīkh/taw ārīkh」と い う 言 葉 を 用 い て い る こ と か ら も 、彼 の 第 一 の 目 的 は エ ル サ レ ム の 歴 史 を
記 す こ と に あ る 。 UJ は 大 き く 2 つ の 部 分 に 分 け る こ と が で き る が 、 第 1 部 が こ の 歴 史 に 充 て
ら れ て お り 、第 2 部 が エ ル サ レ ム と 周 辺 都 市 の 地 理 的 情 報 と 、そ こ で 活 動 し た ス ン ナ 派 4 法 学
派のウラマーたちの伝記に充てられている。本項ではまず歴史部分について考察する。
UJ の 歴 史 的 記 述 の 最 大 の 特 徴 は 、 天 地 創 造 か ら ア イ ユ ー ブ 朝 末 期 の 659/ 1261 年 ま で の 期
間 の 出 来 事 を 、 時 代 の 流 れ に 沿 っ て 著 す こ と を 試 み て い る 点 に あ る 。 こ れ は 、 従 来 の FBM に
お け る 歴 史 記 述 が 、ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 形 成 を 中 心 と し た 出 来 事 の み を 切 り 取 り「 点 」と し
て著していたのとは異なる部分である。
UJ の 冒 頭 に は 、 ク ル ア ー ン 解 釈 と エ ル サ レ ム の 名 称 に 関 す る 伝 承 が 挙 げ ら れ て お り 、 こ の
点 は 従 来 の FBM の 形 式 に 従 っ て い る [ UJ ⅰ , 68-73] 。そ の 後 天 地 創 造 、ア ダ ム の 創 造 と 堕 天 、
ノ ア 、フ ー ド と サ ー リ フ 、ア ブ ラ ハ ム と そ の 一 族 、モ ー セ と 、イ ス ラ ー ム 以 前 の 預 言 者 た ち を
核 と し た 歴 史 が 続 く 。こ の 部 分 の 記 述 は 旧 約 聖 書 の『 創 世 記 』や『 出 エ ジ プ ト 記 』の 内 容 と 共
通 し て お り 、核 と な る 人 物 の 抜 き 出 し 方 、と り わ け ア ブ ラ ハ ム の 一 族 と モ ー セ を 重 要 視 す る 記
述 、ア ダ ム と ノ ア の 間 や ノ ア と ア ブ ラ ハ ム の 間 を 系 図 で 繋 い で い く 試 み 6 7 な ど の 共 通 点 が 見 ら
67
例 え ば UJ に は 、 ア ダ ム か ら ノ ア を 繋 ぐ 人 類 の 系 図 と し て 次 の よ う に あ る 。「 ア ベ ル の 殺 害 の 後 、 ア
ダムにはセトが生まれた。彼がアダムの後継者である。神の息吹たるセトのタフスィールについては、
彼 は 912 年 生 き 、 ア ダ ム の 堕 天 よ り 1142 年 後 に 死 ん だ 。 ア ダ ム の 子 ら は 皆 、 そ の 血 筋 は セ ト に 辿 り 着
く の で あ る 。 セ ト に は エ ノ シ ュ が 生 ま れ た 。 エ ノ シ ュ は 905 年 生 き た 。 そ し て エ ノ シ ュ に は ケ ナ ン が
生 ま れ た 。 ケ ナ ン は 910 年 生 き た 。 そ し て ケ ナ ン に は マ ハ ラ ル エ ル が 生 ま れ た 。 マ ハ ラ ル エ ル は 895
76
れ る 。そ の 後 歴 史 は イ ス ラ エ ル 王 国 の 建 国 へ と 続 き 、ダ ビ デ 、ソ ロ モ ン 、ソ ロ モ ン の 死 後 の 王
家 の 系 図 、バ ビ ロ ン の ネ ブ カ ド ネ ツ ァ ル に よ る 第 1 神 殿 の 破 壊 と バ ビ ロ ン 捕 囚 、イ ス ラ エ ル の
民の帰還と第 2 神殿の建設、ペルシアやギリシャの勢力によるエルサレムの支配、ザカリヤ、
ヨ ハ ネ 、イ エ ス の 登 場 、ロ ー マ 帝 国 皇 帝 テ ィ ト ゥ ス に よ る 第 2 神 殿 の 破 壊 、ビ ザ ン ツ 帝 国 皇 帝
コ ン ス タ ン テ ィ ヌ ス と 母 后 ヘ レ ナ に よ る エ ル サ レ ム の 整 備 と 、以 降 ビ ザ ン ツ に よ る エ ル サ レ ム
の 支 配 が 描 か れ る [UJ ⅰ , 73-284]。 イ ス ラ エ ル 王 国 以 降 の 歴 史 に つ い て も 、『 列 王 記 』、『 歴 代
誌 』、
『 マ カ バ イ 記 』、あ る い は 4 福 音 書 と の 共 通 性 が 見 ら れ る 。UJ の 校 訂 者 で あ る ム ハ ン マ ド・
ア リ ー M uḥ ammad ʽAl ī は 、 ウ ラ イ ミ ー は こ れ ら の 情 報 を 直 接 ト ー ラ ー ( 旧 約 聖 書 ) か ら 引 用
し て い る の で は な く 、カ ァ ブ ・ ア ル ア フ バ ー ル や ワ フ ブ ・ ブ ン ・ ム ナ ッ ビ フ ら ユ ダ ヤ 教 徒 か ら
の 改 宗 者 を 通 じ て 伝 わ っ た 伝 承 を 利 用 し て い る の で あ ろ う 、 と 推 測 し て い る [ UJ ⅰ , 37]。 ウ
ラ イ ミ ー は こ う し た ユ ダ ヤ 教 の 伝 承 に 、ム ス リ ム に よ る 預 言 者 伝 や FBM-IM な ど の FBM か ら
の引用を加えて、この部分の歴史を記している。
こ こ か ら UJ の 歴 史 記 述 は イ ス ラ ー ム 時 代 に 移 り 、預 言 者 ム ハ ン マ ド の 生 涯 の 事 績 が 述 べ ら
れ る 。こ の 部 分 で は 、ム ハ ン マ ド の ヒ ジ ュ ラ や メ デ ィ ナ の モ ス ク 建 設 な ど の 、エ ル サ レ ム に 関
わ り の な い 出 来 事 も 取 り 上 げ ら れ て い る 。イ ス ラ ー と ミ ー ラ ー ジ ュ の 伝 承 も 、こ の 部 分 で 扱 わ
れ て い る [UJ ⅰ , 284-346]。
ム ハ ン マ ド の 伝 記 が 終 わ っ た と こ ろ で 、 UJ の 記 述 は い っ た ん 歴 史 的 な 内 容 か ら 離 れ る 。 こ
こ に 「 神 聖 な る ア ク サ ー ・ モ ス ク の フ ァ ダ ー イ ル 」 と 題 さ れ た 項 が 入 り 、 従 来 の FBM で 取 り
上 げ ら れ て き た 、エ ル サ レ ム の 偉 大 性 ・神 聖 性 に 関 す る 伝 承 、エ ル サ レ ム で 宗 教 的 行 い を 行 っ
た 者 に 与 え ら れ る 功 徳 が 述 べ ら れ る 。ま た ア ク サ ー・モ ス ク と 岩 の ド ー ム に 参 詣 す る 際 の 作 法
に つ い て も 、 FBM-IM と 同 じ 内 容 の も の が 引 用 さ れ て い る [UJ ⅰ , 346-366] 。
こ の 後 再 び UJ の 記 述 は 歴 史 的 な 内 容 に 戻 る 。ム ハ ン マ ド の 死 後 、ア ブ ー・バ ク ル と ウ マ ル ・
ブ ン・ア ル ハ ッ タ ー ブ の 正 統 カ リ フ 就 任 に 続 き 、ウ マ ル に よ る エ ル サ レ ム 征 服 に 関 す る 一 連 の
エ ピ ソ ー ド が 語 ら れ る [UJ ⅰ , 366-385 ]。
UJ で は こ こ で 、 ウ マ ル 以 外 の 教 友 た ち 37 名 の 伝 記 が 挿 入 さ れ て い る 。 こ れ は MG-M の 巻
末 に あ っ た 伝 記 集 の 教 友 の 項 目 と ほ ぼ 同 様 の も の で あ る が 、 UJ で は 時 代 の 前 後 関 係 が 重 視 さ
れ 、 教 友 の 項 目 は 正 統 カ リ フ 時 代 と ウ マ イ ヤ 朝 時 代 の 間 に 置 か れ て い る [UJ ⅰ , 385-397]。
教 友 の 伝 記 が 述 べ ら れ た 後 、ウ マ ル の 死 後 ウ ス マ ー ン と ア リ ー の カ リ フ 就 任 と 、ウ マ イ ヤ 朝
初 代 カ リ フ = ム ア ー ウ ィ ヤ・ブ ン・ア ビ ー・ス フ ヤ ー ン の 政 権 樹 立 、ム ア ー ウ ィ ヤ か ら ア ブ ド ・
ア ル マ リ ク ・ ブ ン ・ マ ル ワ ー ン ま で の 各 カ リ フ の 系 図 と 続 き 、さ ら に ア ブ ド ・ ア ル マ リ ク の 岩
の ド ー ム 建 設 に 関 す る 一 連 の エ ピ ソ ー ド が 述 べ ら れ る 。こ れ 以 降 の ウ マ イ ヤ 朝 と ア ッ バ ー ス 朝
年 生 き た 。 ・ ・ ・そ し て エ ノ ク に は メ ト シ ェ ラ が 生 ま れ た 。 メ ト シ ェ ラ は 969 年 生 き た 。 そ し て メ ト シ ェ
ラ に は レ メ ク が 生 ま れ た 。 レ メ ク が 188 歳 に な っ た と き 、 彼 に ノ ア が 生 ま れ た 」 [UJ ⅰ , 87-88]。 こ の
記 述 は 、『 創 世 記 』 5 に 一 致 す る も の で あ る 。
77
に 関 す る 歴 史 は 簡 潔 に 書 か れ て お り 、 ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ブ ド ・ ア ル ア ズ ィ ー ズ ʽUmar b. ʽAbd
al-ʽAzīz (r. 99/717-101/720) と マ ン ス ー ル Abū Jaʽfar ʽAbd All āh al-M anṣūr (r. 136/754-158/
775) 、マ フ デ ィ ー al-M aḥdī b. al-M anṣ ūr (r. 158 /775-169/785) が 挙 が っ て い る の み で あ る [UJ
ⅰ , 397-417]。
UJ で は こ こ で 再 び 、タ ー ビ ウ ー ン 6 7 名 の 伝 記 が 挿 入 さ れ て い る 。UJ の こ の 部 分 で は 、5/11
世 紀 末 か ら 6/12 世 紀 初 頭 に か け て の 主 に エ ル サ レ ム 出 身 の ウ ラ マ ー の 名 前 が 、 MG- M の リ ス
ト に 追 加 さ れ て い る ( [ 表 5] 参 照 ) [UJ ⅰ , 417-441]。
さらにファーティマ朝やセルジューク朝の支配下で起こった出来事が簡潔に述べられた後、
十 字 軍 が シ リ ア 地 域 を 侵 略 し 、エ ル サ レ ム を 征 服 し た こ と が 書 か れ る 。こ の 次 に 、ア イ ユ ー ブ
朝 ス ル タ ン = サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン の 事 績 が 来 る 。 こ の ア イ ユ ー ブ 朝 時 代 の 歴 史 記 述 が UJ
第 1 部 に お い て 最 も 密 度 の 濃 い 部 分 で あ り 、 564/ 1169 年 か ら 、 583/1187 の エ ル サ レ ム 征 服 に
至 る ま で の 軍 事 行 動 、 エ ル サ レ ム で の フ ト バ 、 エ ル サ レ ム 征 服 以 降 589/119 3 年 に サ ラ ー フ ・
ア ッ デ ィ ー ン が 没 す る ま で の 間 の 彼 の 事 績 、さ ら に 彼 の 死 後 の ア イ ユ ー ブ 朝 君 主 た ち の 事 績 が 、
年 代 順 に 書 き 上 げ ら れ て い る 。 こ の 部 分 は 、 659/1260 年 に ア イ ユ ー ブ 朝 の ダ マ ス カ ス ・ ア レ
ッポ君主であったマリク・ナースィル・ユースフ・ブン・アルマリク・アルアズィーズ・ ムハ
ン マ ド M alik al-Nāṣ ir Yūsuf b. al-M alik al- ʽAzīz Muḥ ammad が 殺 害 さ れ た こ と を も っ て 終 わ
っ て い る [UJ ⅰ , 441-557; ⅱ , 31-45] 。
ウ ラ イ ミ ー が 序 文 に お い て 述 べ て い る 通 り 、彼 は UJ を エ ル サ レ ム に 関 す る 歴 史 書 と し て 完
成させることを目指しており、それはそれぞれの歴史的事件が古い時代から新しい時代へと、
一 貫 し た 流 れ に 従 っ て 記 さ れ て い る こ と に 読 み と る こ と が で き る 。こ こ で は エ ル サ レ ム の 美 徳
を 直 接 的 に 伝 え る 伝 承 ( カ テ ゴ リ ー C) の 存 在 感 は 、 UJ 全 体 の 分 量 に 比 す れ ば 小 さ い も の で
あ り 、 こ れ が 例 え ば ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM に お い て 相 当 の 部 分 を 占 め て い た こ と と は 対 照 的 で
あ る 。 ま た ウ ラ イ ミ ー は MG-M で 初 め て 用 い ら れ た 伝 記 集 と い う 記 述 ス タ イ ル を 取 り 入 れ て
いるのだが、それも時代の流れを妨げない形に分割されて挿入されている。
UJ に お け る 歴 史 記 述 の も う ひ と つ の 特 徴 は 、 従 来 の FBM に お け る 歴 史 記 述 に 比 べ 、 記 述
の 形 が よ り 「 線 」 に 近 く な っ て い る と い う 部 分 に あ る 。 従 来 の FBM で は 、 重 要 と さ れ る 特 定
の 人 物 や 出 来 事 に 関 す る エ ピ ソ ー ド が 「 点 」 の 形 で 書 き 抜 か れ て い た の に 対 し 、 UJ で は そ の
「 点 」と「 点 」の 隙 間 を 埋 め よ う と す る 試 み が 見 受 け ら れ る 。そ れ が 前 述 し た ア ダ ム - ノ ア 間
の系図や、ソロモンの死後のイスラエル王家の系図、預言者ムハンマドから正統カリフ時代、
ウマイヤ朝カリフへのカリフ位の推移を述べた部分などに現れている。
た だ し 、歴 史 を 連 続 し た も の と し て 表 そ う と す る こ の 試 み は 、決 し て 徹 底 し た も の で あ る と
は 言 え な い 。 UJ に お い て も 記 述 の メ イ ン と な る エ ピ ソ ー ド は 従 来 の FBM で 強 調 さ れ て き た
も の と 同 じ で あ り 、そ れ 以 外 の 要 素 に 関 し て は 記 述 量 も 少 な く 、非 常 に 内 容 が 薄 い こ と に 変 わ
り は な い 。ア ッ バ ー ス 朝 や フ ァ ー テ ィ マ 朝 、セ ル ジ ュ ー ク 朝 時 代 の エ ル サ レ ム に 関 す る 記 述 が
78
ほ と ん ど な い こ と が こ の 例 と な る 。 UJ で は ア イ ユ ー ブ 朝 時 代 と 、 作 品 の 巻 末 に 付 さ れ た 著 者
の 同 時 代( 873/1468-900/1495 年 )の 出 来 事 を 除 い て 、年 代 記 の 形 で 記 さ れ て い る 部 分 は な い 。
ま た 873/146 8 年 ま で の マ ム ル ー ク 朝 時 代 の 歴 史 記 述 は こ こ で は 書 か れ て お ら ず 、 後 半 の 人 物
伝 の 部 分 に 回 さ れ て い る 。UJ は 歴 史 書 と し て の 色 彩 を よ り 強 め な が ら も 、FBM 特 有 の 歴 史 記
述のスタイルの枠から外れたものではない。
(2) UJ に お け る 地 理 記 述 と ウ ラ マ ー 伝
UJ の 第 2 部 は 、 そ の 中 を さ ら に 大 き く 2 つ の 部 分 に 分 け る こ と が で き る 。 そ の 1 つ 目 は 、
著 者 ウ ラ イ ミ ー の 時 代 に エ ル サ レ ム 市 内 外 に あ っ た モ ニ ュ メ ン ト や 建 築 物 、さ ら に エ ル サ レ ム
周辺の都市に関する情報を集めた部分である。
こ こ で は ま ず 、ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 内 部 に あ る 、 ア ク サ ー ・ モ ス ク や 岩 の ド ー ム 、 ミ ー ラ
ー ジ ュ の ド ー ム 、預 言 者 ム ハ ン マ ド の マ カ ー ム( イ ス ラ ー の 際 に 預 言 者 ム ハ ン マ ド が 礼 拝 を 行
っ た と さ れ て い る 場 所 )な ど の 場 所 が 取 り 上 げ ら れ て い る 。ハ ラ ム ・シ ャ リ ー フ の 各 モ ニ ュ メ
ン ト に つ い て は 従 来 の FBM に お い て も 参 詣 に 関 連 づ け て 述 べ ら れ て お り 、 そ こ で は そ れ ら の
モ ニ ュ メ ン ト の 起 こ り や 預 言 者 た ち と の 関 わ り な ど が 取 り 上 げ ら れ て い た 。 UJ で は こ う し た
情 報 に 加 え 、建 築 上 の 構 造 に 関 す る 情 報 が 詳 細 に 述 べ ら れ て い る 。す な わ ち そ れ ぞ れ の モ ニ ュ
メ ン ト の 縦 横 の 長 さ と 高 さ 、そ れ が ハ ラ ム ・シ ャ リ ー フ の ど の 部 分 に 位 置 し て い る か 、建 物 内
部 の 構 造 、建 物 に 付 随 す る 門 や 柱 、回 廊 、ミ ナ レ ッ ト な ど の 位 置 や 数 や 材 質 、ま た そ れ ら の モ
ニュメントが、建築物としてはイスラーム時代のどの年代に建設されあるいは修繕されたか、
と い う よ う な 情 報 で あ る 。こ の 部 分 の 最 後 に は 、ハ ラ ム・ シ ャ リ ー フ の 周 囲 を 囲 む 壁 に つ い た
門 が 挙 げ ら れ て い る [UJ ⅱ , 45-75]。
次 に UJ の 記 述 は 、 ハ ラ ム ・ ア ッ シ ャ リ ー フ 以 外 の エ ル サ レ ム 市 内 に あ る 建 物 へ と 移 る 。 ウ
ラ イ ミ ー は ま ず 、市 内 に あ る マ ド ラ サ や ザ ー ウ ィ ヤ の 一 覧 を 挙 げ て い る 。彼 は こ こ で 、ハ ラ ム・
シ ャ リ ー フ に 近 い と こ ろ に あ る か ど う か で マ ド ラ サ を 区 分 し て お り 、ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ の 中
に あ る も の と し て 3 件 、 ハ ラ ム の 西 壁 付 近 に あ る も の と し て 10 件 、 北 壁 付 近 に あ る も の と し
て 22 件 を 挙 げ て い る 。 さ ら に 、 ハ ラ ム の 西 壁 の 側 に あ る の で は な い が 、 そ こ か ら 近 い と こ ろ
に あ る も の と し て 19 件 、 ハ ラ ム か ら 離 れ た 所 に 位 置 し て い る も の と し て 1 5 件 を 挙 げ て い る 。
ウ ラ イ ミ ー は こ れ ら の そ れ ぞ れ に つ い て 、ハ ラ ム に 近 い も の に つ い て は ど の 門 の 側 に 建 っ て い
る か 、ま た ハ ラ ム か ら 遠 い も の に つ い て は 市 内 の ど の 地 区 に 建 っ て い る か 、そ こ が 何 年 に 誰 に
よ っ て 設 立 さ れ た も の で あ る の か を 記 し て い る 6 8 。ま た ウ ラ イ ミ ー は イ ス ラ ー ム の 宗 教 施 設 の
他 に も キ リ ス ト 教 の 教 会 や 修 道 院 に も 注 目 し て お り 、聖 墳 墓 教 会 を は じ め と す る 市 内 の 教 会 の
名 前 も 挙 げ て い る [UJ ⅱ , 76-105]。こ の 他 エ ル サ レ ム 市 内 に 関 し て は 、街 区 ḥ āra と 通 り khaṭṭ、
UJ を 主 要 史 料 と し た マ ム ル ー ク 朝 時 代 の エ ル サ レ ム に お け る 宗 教 施 設 に つ い て は 、三 浦 の 研 究 に 詳
し い [三 浦 2004]。
68
79
市 内 を 取 り 巻 く 城 壁 qal ʽa が 取 り 上 げ ら れ て い る [UJ ⅱ , 105-111]。 ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ 以 外
の 市 内 の 建 物 に つ い て の 情 報 が 扱 わ れ る の は FBM の 中 で U J が 最 初 で あ り 、 著 者 の 情 報 源 が
従 来 の 文 献 で は な く 、著 者 自 身 、あ る い は 著 者 に 近 い 時 代 の 人 々 の 経 験 に よ っ て い る こ と を し
め し て い る 。ま た 著 者 の 関 心 が 従 来 の 参 詣 の 対 象 と な る 場 所 に 限 定 さ れ ず 、よ り 広 い 範 囲 に 及
んでいることも分かる。
こ こ か ら UJ の 記 述 は エ ル サ レ ム 市 外 に 移 る 。シ ロ ア ム の 泉 や オ リ ー ブ 山 を は じ め と す る エ
ル サ レ ム の 町 の 周 囲 に あ る 場 所 か ら 、エ ル サ レ ム 郊 外 の 村 と し て ベ ツ レ ヘ ム 、さ ら に シ リ ア に
あ る そ の 他 の 都 市 と し て ラ ム ラ 、 ル ッ ド 、 ア ス カ ラ ー ン 、 ガ ザ 、 ア リ ー ハ ー ( イ ェ リ コ )、 ナ
ー ブ ル ス 、ヘ ブ ロ ン と 挙 げ ら れ 、著 者 の 視 点 は ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ を 中 心 に 、だ ん だ ん と 外 に
広 が っ て い る 。 シ ャ ー ム の 各 都 市 に 関 す る 記 述 で ウ ラ イ ミ ー は 、 FBM-IM や MG-M な ど に 出
て き た フ ァ ダ ー イ ル ・ア ッ シ ャ ー ム を 参 照 し て い る が 、こ こ で も ハ ラ ム ・シ ャ リ ー フ の 部 分 同
様 、従 来 の フ ァ ダ ー イ ル に 加 え 、そ れ ら の 場 所 に あ る モ ス ク や マ ド ラ サ 等 の 建 築 物 、そ こ に い
る 著 名 な イ マ ー ム や ウ ラ マ ー な ど 、著 者 の 時 代 の 情 報 が 数 多 く 入 っ て い る 。こ れ ら の 都 市 に 関
す る 記 述 の 中 で は ヘ ブ ロ ン が 最 も 詳 し く 、エ ル サ レ ム と 同 様 に 市 壁 や 街 区 、マ ド ラ サ 等 の 名 前
が 取 り 上 げ ら れ て い る 。 な お こ こ で は 、 参 詣 記 と し て の 要 素 を 持 つ FBM と は 異 な り 、 ア ブ ラ
ハ ム と そ の 一 族 の 墓 へ の 参 詣 に 関 す る こ と は 取 り 上 げ ら れ て い な い [UJ ⅱ , 112-150]。
UJ 第 2 部 の 2 つ 目 の 部 分 は 人 物 伝 で あ る 。ウ ラ イ ミ ー は こ の 部 分 の 最 初 に 、
「 バ イ ト・ア ル
マ ク デ ィ ス と 我 々 の 主 人 神 の 友〔 ア ブ ラ ハ ム 〕の 町 を 治 め 、そ こ で 慈 善 活 動 や 町 の 整 備 な ど の
様 々 な 善 行 を 行 っ た イ ス ラ ー ム の 諸 王 」と 題 し た 章 を 設 け 、第 1 部 の 歴 史 を 扱 っ た 部 分 で は 取
り 上 げ て い な か っ た マ ム ル ー ク 朝 ス ル タ ン た ち の 名 前 を 時 代 順 に 書 き 上 げ て い る 。こ こ で は 各
ス ル タ ン の 氏 名 、 生 没 年 、 ス ル タ ン に 即 位 し た 年 、 先 代 の ス ル タ ン と の 血 縁 ・ 主 従 関 係 、ま た
生 涯 の 事 績 、特 に そ の ス ル タ ン の エ ル サ レ ム に お け る 活 動 を 中 心 と し た こ と が 簡 潔 に 書 か れ て
い る [UJ ⅱ , 150-176]。
ウ ラ イ ミ ー が こ の 部 分 を 第 1 部 の 歴 史 部 分 に 含 め ず 、第 2 部 の 人 物 伝 の 部 分 に 含 め る と い う
構成を取っているのには、2 つの理由が考えられよう。1 つ目は、マムルーク朝におけるエル
サ レ ム は 政 治・行 政 上 の 重 要 性 が 低 く 、と り た て て 重 要 な 歴 史 的 事 件 が 起 こ ら な か っ た こ と で
あ る 。こ の 時 代 の 為 政 者 が エ ル サ レ ム で 行 っ た こ と は 、モ ス ク の 修 繕 や マ ド ラ サ の 建 設 な ど の
市 内 の 整 備 に 留 ま っ て お り 、そ の た め ウ ラ イ ミ ー は こ れ ら の 活 動 を 一 連 の 歴 史 の 流 れ と し て 見
る の で は な く 、各 ス ル タ ン の 個 々 の 業 績 と し て 編 纂 す る こ と を 選 ん だ の で あ ろ う 。2 つ 目 の 理
由 と し て は 、 UJ の 第 2 部 自 体 が 著 者 の 同 時 代 を 含 む 、 よ り 新 し い 時 代 の エ ル サ レ ム の 姿 を 某
社 す る こ と に 充 て ら れ て い る こ と が あ る 。ウ ラ イ ミ ー は 第 1 部 を ア イ ユ ー ブ 朝 の 終 焉 で い っ た
ん 終 わ ら せ た 後 、同 時 代 の エ ル サ レ ム の 市 内 外 の 様 子 、地 理 的 情 報 に 移 行 し て い る 。ま た マ ム
ル ー ク 朝 ス ル タ ン の 伝 記 の 後 に は 、 6/1 2 世 紀 か ら 著 者 の 同 時 代 に か け て の エ ル サ レ ム と ヘ ブ
ロ ン の ウ ラ マ ー 伝 が 続 い て お り 、第 2 部 は 全 体 と し て 、マ ム ル ー ク 朝 を 中 心 と し た よ り 著 者 に
80
近い時代の事柄を集めた構成になっているのである。
第 2 部 の 最 も 多 く の 部 分 を 占 め て い る の が ウ ラ マ ー 伝 で あ る 。こ こ で は シ ャ ー フ ィ イ ー 派 ウ
ラ マ ー 22 名 、エ ル サ レ ム や ヘ ブ ロ ン の シ ャ ー フ ィ イ ー 派 カ ー デ ィ ー 職 を 務 め た 人 物 64 名 、ア
ク サ ー ・ モ ス ク や ア ブ ラ ハ ム の モ ス ク の ハ テ ィ ー ブ 職 を 務 め た 人 物 26 名 、 シ ャ ー フ ィ イ ー 派
ス ー フ ィ ー 18 名 、 エ ル サ レ ム に 居 留 し 同 地 に 埋 葬 さ れ た 著 名 な ウ ラ マ ー 94 名 、 ハ ナ フ ィ ー 派
の ウ ラ マ ー や カ ー デ ィ ー 79 名 、 マ ー リ ク 派 の ウ ラ マ ー や カ ー デ ィ ー 38 名 、 ハ ン バ ル 派 の ウ ラ
マ ー や カ ー デ ィ ー 16 名 の 、 計 357 名 の 名 前 や 生 没 年 、 職 歴 、 埋 葬 地 が 、 法 学 派 ご と 、 年 代 順
に 挙 げ ら れ て い る [UJ ⅱ , 176-392] 。本 稿 第 2 章 で も 述 べ た 通 り 、こ こ に 登 場 す る 357 名 の 人
物 を 法 学 派 ご と に 計 数 し た 場 合 、 62.74 %に あ た る 224 名 が シ ャ ー フ ィ イ ー 派 と な り 、 当 時 の
エ ル サ レ ム に お け る 主 流 法 学 派 が シ ャ ー フ ィ イ ー 派 で あ っ た こ と が 確 認 で き る 。こ の ウ ラ マ ー
伝 の 次 に 、 6/12 世 紀 末 以 降 エ ル サ レ ム と ヘ ブ ロ ン の ナ ー イ ブ ( 県 知 事 ) と ナ ー ズ イ ル ( ワ ク
フ 監 督 官 )を 務 め た マ ム ル ー ク 軍 人 50 名 の 伝 記 が 挙 げ ら れ て 、伝 記 集 部 分 は 終 了 し て い る [UJ
ⅱ , 393-407]。
第 2 部の最後の部分は「当代の王、我らがマウラーたる神聖なる陛下の伝記」と題された、
ウ ラ イ ミ ー の 同 時 代 の ス ル タ ン 、 カ ー イ ト バ ー イ Q āytbāy (r. 873/146 8-903/ 1496) の 時 代 の 、
873/1468 年 か ら 900/1495 年 に か け て の 年 代 記 に な っ て い る 。こ の 部 分 も そ れ 以 前 の ス ル タ ン
た ち の 伝 記 部 分 同 様 、カ ー イ ト バ ー イ の 主 に エ ル サ レ ム と そ の 周 辺 地 域( エ ル サ レ ム 県 Niyāb at
al-Quds ) に お け る 業 績 を 中 心 に 書 か れ て い る の だ が 、 著 者 の 同 時 代 の 出 来 事 で あ る だ け に 非
常 に 詳 細 な 記 述 と な っ て お り 、カ ー イ ト バ ー イ の 建 設 ・修 繕 活 動 だ け で は な く 、ナ ー イ ブ や カ
ー デ ィ ー の 任 命・罷 免 、ユ ダ ヤ 教 徒 や ク ル ド 人 Akr ād の 反 乱 、あ る い は ナ ー イ ブ 間 の 勢 力 争 い
に 対 す る 対 応 な ど が 、1 年 ご と に 述 べ ら れ て い る [UJ ⅱ , 407-508]。FBM の 中 に 著 者 の 同 時 代
の 為 政 者 の 事 績 が 記 さ れ る の は 、 UJ が 初 め て の こ と で あ る 。 マ ム ル ー ク 朝 末 期 の シ リ ア 地 域
に お い て は 、ア ミ ー ル 位 を 持 つ マ ム ル ー ク 層 が 弱 体 化 し た こ と で 、規 制 の 地 方 政 府 機 構 が う ま
く 機 能 し な く な っ て い た 。そ の た め エ ジ プ ト の 中 央 政 府 は 、シ リ ア 地 域 を コ ン ト ロ ー ル す る た
め に 、現 地 に 強 い 影 響 を 持 っ て い た 有 力 ウ ラ マ ー 層 と よ り 直 接 的 に 結 び 付 く 必 要 性 が 出 て き た
[五 十 嵐 1 999: 45-47]。 ウ ラ イ ミ ー が UJ に お い て カ ー イ ト バ ー イ の 治 世 を 記 述 し て い る こ と
は 、こ の 時 代 に エ ジ プ ト の ス ル タ ン と シ リ ア の ウ ラ マ ー と の 繋 が り が よ り 強 い も の と な っ た こ
とを示唆している。
以 上 UJ の 第 2 部 で は マ ム ル ー ク 朝 時 代 の エ ル サ レ ム の 地 理 的 ・ 人 的 情 報 が 扱 わ れ て お り 、
従 来 の FBM に は 見 ら れ な か っ た 新 し い 要 素 と な っ て い る 。 従 来 の FBM が ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー
フを中心とした参詣の目的地となる場所にのみ注目していたのに対し、ウライミーはここで、
市 内 に あ る マ ド ラ サ や ザ ー ウ ィ ヤ 、ハ ー ン カ ー な ど の 、直 接 参 詣 の 対 象 と な る わ け で は な い 宗
教 施 設 に 大 き な 関 心 を 寄 せ て い る 。ま た 伝 記 集 部 分 に つ い て も 、MG-M に 始 ま っ た 教 友 と タ ー
ビ ウ ー ン の 伝 記 を 取 り 入 れ る だ け で は な く 、マ ム ル ー ク 朝 時 代 の ウ ラ マ ー 伝 を 追 加 し 、そ れ に
81
多 く の 紙 面 を 充 て て い る 。こ れ ら は と も に 、ア イ ユ ー ブ 朝 ・マ ム ル ー ク 朝 時 代 の エ ル サ レ ム の
あ り 方 を 反 映 し て い る も の で あ る 。サ ラ ー フ ・ア ッ デ ィ ー ン に よ る 征 服 以 降 、ム ス リ ム 支 配 者
層 は ム ス リ ム の 都 市 と し て の エ ル サ レ ム の イ メ ー ジ を 復 活 さ せ る た め 、多 く の 宗 教 施 設 を ワ ク
フ 物 件 と し て 建 設 し 、ま た 広 い 地 域 か ら ウ ラ マ ー を エ ル サ レ ム に 誘 致 し た 。そ の 結 果 こ の 時 代
の エ ル サ レ ム は 、政 治 的 な 重 要 性 を 失 っ て い く 一 方 で 、宗 教・ 学 術 セ ン タ ー と し て の 地 位 を 高
め て い っ た 。 リ ト ル D. P. Li ttle は 、 ウ ラ イ ミ ー が UJ に お い て 宗 教 施 設 や ウ ラ マ ー の 存 在 を
重 要 視 し て い る こ と を 、彼 が こ れ ら の 存 在 に よ っ て も た ら さ れ た 宗 教 的・ 精 神 的 達 成 こ そ 、エ
ル サ レ ム の 真 の 栄 光 で あ る と 考 え た こ と に よ る 、 と 述 べ て い る [Li ttle 1995: 247] 。 UJ に お い
て は 、 従 来 の FBM の 主 要 な 要 素 の ひ と つ で あ っ た エ ル サ レ ム の 偉 大 性 ・ 神 聖 性 に 関 す る 伝 承
が 、作 品 全 体 に 占 め る 割 合 は 小 さ い が 、ウ ラ イ ミ ー は ア イ ユ ー ブ 朝 ・マ ム ル ー ク 朝 時 代 に ム ス
リ ム た ち が エ ル サ レ ム に も た ら し た こ の 成 果 を 、ひ と つ の 新 し い フ ァ ダ ー イ ル と し て 捉 え て い
るのであろう。
RM や IA が 、 BN の 参 詣 記 と し て の 要 素 と MG-M の 地 誌 と し て の 要 素 の 両 方 を 取 り 入 れ て
い た の に 対 し 、 UJ で は 参 詣 作 法 に 関 す る 記 述 は ア ク サ ー ・ モ ス ク と 岩 の ド ー ム に 対 す る も の
に 留 ま っ て お り 、参 詣 記 と し て の 性 格 は 薄 い 。ウ ラ イ ミ ー は エ ル サ レ ム の 由 緒 あ る 家 系 に 生 ま
れ 育 ち 、エ ル サ レ ム の み な ら ず 、ヘ ブ ロ ン 、ラ ム ラ 、ナ ー ブ ル ス と い っ た エ ル サ レ ム 県 内 の 都
市 の カ ー デ ィ ー を も 務 め た 経 歴 を 持 っ て い た た め 、県 内 の 地 勢 や 人 物 に つ い て は 詳 し い 知 識 を
持 っ て い た で あ ろ う 。 UJ は 、 エ ル サ レ ム 出 身 の ウ ラ マ ー が 、 そ の 地 理 的 な 近 さ を 用 い る こ と
で著した郷土誌のような性格を持つものであると言える。
5 . マ ム ル ー ク 朝 期 FBM に 見 ら れ る 傾 向
(1) 著 者 の 出 身 地 と 法 学 派
マ ム ル ー ク 朝 時 代 の FBM 編 纂 も ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM 同 様 、 シ リ ア 地 域 の ウ ラ マ ー を 中 心
に 行 わ れ て い る 。 本 章 で は 、 マ ム ル ー ク 朝 時 代 の FBM に 参 詣 記 型 と 地 誌 型 の 2 つ の 方 向 性 が
見られることを確認したが、現存する作品を見る限りでは、参詣記としての要素の見られる
FBM( BN、 TU 、 RM、 IA) は ダ マ ス カ ス や エ ジ プ ト と い っ た 、 エ ル サ レ ム 以 外 の 地 域 の 出 身
者 に よ っ て 書 か れ て い る の に 対 し 、 地 誌 型 の FBM( MG- M、 UJ) は エ ル サ レ ム 出 身 者 に よ っ
て 書 か れ て い る 。こ の こ と か ら 、外 の 世 界 か ら 参 詣 者 と し て エ ル サ レ ム を 訪 れ た 人 物 が 、そ の
参 詣 を 契 機 に FBM 編 纂 に 着 手 し 、 自 身 を 含 め 参 詣 者 の 便 宜 に 応 え る よ う な 作 品 を 著 し て い る
の に 対 し 、エ ル サ レ ム 内 部 に 生 活 の 場 を 持 っ て い た 者 は 、そ う し た 外 部 か ら の 参 詣 者 と し て の
視 点 を 持 ち 合 わ せ な い 一 方 で 、故 郷 に 関 す る 詳 細 な 情 報 を 包 括 す る よ う な 作 品 編 纂 を 目 指 し て
いたことが分かる。
82
そ れ ぞ れ の 著 者 の 所 属 す る 法 学 派 に つ い て は 、 こ の 時 代 の 著 者 11 名 の う ち 6 名 が シ ャ ー フ
ィ イ ー 派 に 属 し て お り 、シ ャ ー フ ィ イ ー 派 か ら ハ ン バ ル 派 へ と 転 向 し た ア ン サ ー リ ー と シ ャ ー
フ ィ イ ー 派 の 家 系 を 持 つ ウ ラ イ ミ ー を 加 え る と 、こ の 法 学 派 に 連 な る 人 物 は 8 名 に 及 ぶ 。こ ち
ら も ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM 同 様 、 そ の 大 部 分 が シ ャ ー フ ィ イ ー 派 知 識 人 と な っ て い る 。 マ ム ル
ー ク 朝 時 代 に お け る シ ャ ー フ ィ イ ー 派 法 学 の 優 勢 は UJ の 節 で 述 べ た 通 り で あ り 、 FBM 編 纂
者 の 法 学 派 の 偏 り が 、当 時 の シ リ ア 地 域 に お け る 傾 向 を 反 映 し た 以 上 の も の で あ る か は 、現 時
点では不明である。
(2) ア ブ ラ ハ ム と モ ー セ の 重 要 視
マ ム ル ー ク 朝 期 に 編 纂 さ れ た FBM に は 、 ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM に は 見 ら れ な か っ た 様 々 な
新 し い 要 素 が 見 ら れ た が 、そ う し た も の の ひ と つ に 預 言 者 ア ブ ラ ハ ム と モ ー セ に 関 す る 伝 承 の
重要視がある。アブラハムとモーセは、イスラームにおいても 5 人の大預言者に数えられる、
と り わ け 高 貴 な 預 言 者 で あ る と さ れ て い る 。こ の 2 人 の 預 言 者 に 関 す る 伝 承 は 、FBM-IM な ど
を 中 心 に ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM 中 に も 見 ら れ た が 、 ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM で は イ ス ラ ー ム 以 前
の 預 言 者 に 関 す る 伝 承 と 言 え ば ダ ビ デ と ソ ロ モ ン に よ る 神 殿 建 設 で あ り 、ア ブ ラ ハ ム や モ ー セ
の比重は大きいものではなかった。
そ れ が 、 ま ず BN に お い て FBM- IM よ り ヘ ブ ロ ン 参 詣 に 関 す る 伝 承 が 引 用 さ れ た こ と を 契
機 と し て 、ア ブ ラ ハ ム と 彼 の 一 族 に 対 す る 尊 崇 が 見 ら れ る よ う に な っ た 。BN で は ほ ぼ FBM-IM
と 同 様 、 ヘ ブ ロ ン 参 詣 者 に 与 え ら れ る 功 徳 と そ こ で の 作 法 が 述 べ ら れ て い た の が 、 RM や IA
に な る と ア ブ ラ ハ ム と 彼 の 一 族 の 事 績 ま で が 含 ま れ る よ う に な り 、IA で は 全 17 章 中 5 章 と い
う か な り の 分 量 が こ れ に 費 や さ れ て い る 。こ こ に は 、ア ブ ラ ハ ム が 一 族 の 墓 地 と し て ヘ ブ ロ ン
を 購 入 し た と い う エ ピ ソ ー ド 以 外 の 、ヘ ブ ロ ン に も エ ル サ レ ム に も 関 連 し な い も の 、例 え ば イ
シ ュ マ エ ル の 伝 記 や メ ッ カ の ハ ラ ー ム・モ ス ク 建 設 に ま つ わ る エ ピ ソ ー ド な ど も 豊 富 に 含 ま れ
て い る 。な お 、ヘ ブ ロ ン 単 独 に 捧 げ ら れ た フ ァ ダ ー イ ル 集 で あ る タ ド ム リ ー の MG-T が 編 纂 さ
れ た の も 、 814/1 411-12 年 の こ と で あ る 。
ま た モ ー セ に 関 し て は 、 RM に お い て は じ め て 、ア ブ ラ ハ ム と 並 列 さ れ て モ ー セ に 関 す る 章
が 1 章 立 て ら れ る よ う に な り 、 IA で も 同 様 に 1 章 分 が モ ー セ に 充 て ら れ て い る 。 旧 約 聖 書 に
お い て は 、 モ ー セ は 出 エ ジ プ ト 後 、 イ ス ラ エ ル の 民 の 不 敬 に 対 す る 罰 と し て 、「 約 束 の 地 」 で
あ る カ ナ ン に 入 る こ と な く 荒 野 で 死 ん だ と さ れ て い る 。イ ス ラ ー ム の 伝 承 で も 、聖 な る 地 に 入
る こ と な く 荒 野 で 死 ん だ と さ れ て お り [ FQ 112]、エ ル サ レ ム に は 直 接 関 わ り の な い 預 言 者 で あ
っ た は ず が 、別 の 伝 承 で は「 モ ー セ は 、聖 な る 地 か ら 石 を 投 げ れ ば 届 く ほ ど の 距 離 の と こ ろ で
死 ぬ こ と が で き る よ う に 、神 に 求 め た 」[FQ 97] と さ れ て お り 、こ こ か ら モ ー セ の 墓 は エ ル サ
レ ム の 周 辺 に 存 在 し て い る と い う 伝 承 に 繋 が っ て い く 。こ れ ら 2 人 の 預 言 者 を 重 要 視 す る 姿 勢
は UJ に も 現 れ て お り 、 UJ 第 1 部 に お い て 、 ア ブ ラ ハ ム と モ ー セ に 充 て ら れ た 紙 面 は 、 そ の
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他の預言者に比べて格段に多い。
FBM に お け る ア ブ ラ ハ ム の 重 要 視 に つ い て は 、 こ の 時 期 に ヘ ブ ロ ン が エ ル サ レ ム と 同 一 の
行 政 単 位 に 含 ま れ る よ う に な り 、エ ル サ レ ム と の 結 び つ き が 強 ま っ て き た こ と が 理 由 で あ ろ う 。
ヘ ブ ロ ン と エ ル サ レ ム の 一 体 化 は 、 UJ の 第 2 部 の 様 々 な 場 所 で 「 エ ル サ レ ム と ヘ ブ ロ ン の
al-Quds wa al -Khal īl」 と い う 並 列 表 記 が 見 ら れ る こ と か ら も わ か る 。 ま た モ ー セ に つ い て は 、
モーセの墓とそこへの参詣に関する人々の興味が生まれてきたことが理由ではないかと考え
ら れ る 。時 代 は 下 る が 、12/18 世 紀 前 半 の オ ス マ ン 朝 時 代 に 編 纂 さ れ た Risāl a の 中 に は 、エ ル
サ レ ム 近 郊 に あ る と い う モ ー セ の 墓 に 参 詣 し 、そ こ で 様 々 な 奇 跡 を 体 験 す る 人 々 の 話 が 出 て い
る 。こ う し た モ ー セ 参 詣 に 関 す る 関 心 は 、マ ム ル ー ク 朝 時 代 に す で に 芽 生 え て い た の で は な い
だろうか。
FBM に お い て ア ブ ラ ハ ム と モ ー セ を 重 要 視 す る こ と に は 、 も ち ろ ん 高 名 な 預 言 者 を エ ル サ
レ ム と 関 連 づ け る こ と に よ り 、 FBM の 権 威 づ け を 図 る 意 図 も あ っ た だ ろ う 。 こ れ に 加 え 、 当
時 の エ ル サ レ ム 周 辺 都 市 間 の 結 び 付 き や 、エ ル サ レ ム 以 外 の 場 所 へ の 参 詣 が 盛 ん に な っ て き た
ことが、こうした重要視に繋がっているものと思われる。
84
第 4 章 : オ ス マ ン 朝 時 代 の FBM
マ ム ル ー ク 朝 時 代 に 多 数 編 纂 さ れ 、 ま た 内 容 の 面 で も 大 き な 変 遷 を 遂 げ た FBM で あ る が 、
オ ス マ ン 朝 時 代 に 入 る と 再 び 編 纂 数 が 減 少 す る 。 [ 表 1] に 示 し た 通 り 、 9/1 5 世 紀 か ら 12/18
世 紀 の オ ス マ ン 朝 期 に 編 纂 さ れ た FRB の 数 は 6 作 品 で あ り 、 そ の う ち の 4 作 品 が 現 存 し て い
る 。 こ れ ら の 作 品 は 、 基 本 的 に は 前 時 代 の FBM の 内 容 や 形 式 を 踏 襲 し て い る 一 方 で 、 従 来 の
作品には見られなかった独自の内容を追加されている。第 4 章ではオスマン朝時代の 4 つの
FBM が 持 つ 、 従 来 の 作 品 と の 共 通 点 と 相 違 点 に 着 目 し 、 5/11 世 紀 以 来 の FBM 編 纂 の 変 遷 を
見通す。
1. 各 作 品 の 構 成
(1) Mustaqṣā
著 者 の ナ ス ル ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ ム ハ ン マ ド ・ ブ ン ・ ム ハ ン マ ド ・ ア ラ ミ ー Naṣr al-Dīn
Muḥammad b. Muḥ ammad al -ʽAl amī は 、 10/16 世 紀 エ ル サ レ ム の 知 識 人 で あ る 。 オ ス マ ン 朝
エ ル サ レ ム の 有 力 な 家 系 の ひ と つ で あ っ た ア ラ ミ ー 家 の 出 身 で あ り 、法 学 派 は ハ ナ フ ィ ー 派 に
属 し て い る 。没 年 に つ い て は 、イ ス マ ー イ ー ル・バ グ ダ ー デ ィ ー の 伝 記 集 に 従 え ば 952/1545-46
年 頃 と な る が 6 9 、 Mustaqṣ ā の 部 分 翻 刻 を 行 っ た イ ブ ラ ー ヒ ー ム は 、 こ の 年 代 に 疑 問 を 呈 し て
い る 。彼 が 参 照 し た 写 本 の 末 尾 に 、ア ブ ー・ア ル ア ッ バ ー ス・ ア フ マ ド・ブ ン・ア リ ー・ダ ッ
ジ ャ ー ニ ー Ab ū al- ʽAbbās Aḥmad b. ʽAlī al-D ajjānī と い う 人 物 の 名 前 で 、「 彼 ( 著 者 ア ラ ミ ー )
は 、969 年 ジ ュ マ ー ダ ー ・ ア ル ア ー ヒ ラ 月 16 日( 1562 年 2 月 21 日 )、祝 福 さ れ し 木 曜 日 の 夜
明 け に 亡 く な っ た 」 と 記 さ れ て い る こ と か ら 、 イ ブ ラ ー ヒ ー ム は 著 者 の 没 年 が 969/1562 年 で
あ る 可 能 性 を 示 唆 し て い る [Ibrāhīm 1985: 494-495] 。 ま た M ustaqṣ ā の 編 纂 完 了 は
948/1541-42 年 の こ と で あ る [Ibr āhīm 1985: 494-495]。本 書 の 内 容 に つ い て は 、筆 者 が 本 作 品
の 写 本 マ イ ク ロ フ ィ ル ム を 参 照 す る こ と が で き な か っ た た め 、イ ブ ラ ー ヒ ー ム に よ る 部 分 校 訂
を 参 考 に 考 察 を 進 め る 70。
本 書 は 序 文 と 10 の 章 、 結 び か ら 構 成 さ れ て お り 、 序 文 は 以 下 の よ う な も の で あ る 。
69
Īḍāḥ a l-M aknūn fī a l- Dha yl ʽ alā Ka sh f al- Ẓ unūn ʽan A sā mī al -Kutu b wa al -Funūn, ed. D ār al -Mu thann ā,
Bagh da d, ⅱ , 4 7 8 [I br āhīm 1 98 5: 4 9 2].
70
ア ー リ フ ・ ヒ ク メ ト 図 書 館 ( メ デ ィ ナ ) 所 蔵 、 カ タ ロ グ 番 号 3951 番 、 分 類 番 号 900/205 番 写 本 。
全 46 葉( 1 ペ ー ジ 23 行 )。1242/1826 - 27 年 に 、ハ ー ッ ジ ー・ダ ー ウ ー ド・バ ル ヒ ー Ḥāj jī Dā wūd Ba lkh ī
と い う 人 物 に よ っ て 筆 写 さ れ た も の [Ibr āhīm 1 98 5: 4 9 5 -4 96]。
85
これは小編ではあるが、私はこれを急ぎ、様々な場所と、アクサー・モスクとその周辺への参詣
に関するものとして要約した。知識の秩序の焦点、アダムの子らの凝結、良き行いをもって諸王国
を運営する人、ビザンツとアラブとペルシアのスルタンの長老にしてその助言者、人民がその命に
服し、定められた運命がその欲するところにおいて彼を助けるところの人、その時代に公正と善行
が現れ広がるところの人、最も偉大なるワズィール閣下にして強き獅子、我らがマウラーたるアリ
ー ・ パ シ ャ ʽAlī Bāsh ā の 御 為 に 。 神 が 彼 の た め に 、 密 か に 高 貴 さ の 頂 を 永 続 さ せ 給 い 、 そ の 御 稜 威
をもって彼に力と助けを与え給わんことを。
私 は こ れ を 序 文 と 10 の 章 に よ っ て 構 成 し た 。 私 は こ の 中 に 、 他 所 か ら 取 り 込 ま れ た も の や 因 習 的
なものを入れないように留意した。よって、ここにあるのは限られた量に過ぎない。さて我々はそ
れらについて、連続する章を述べよう。
第 1 章:神聖なるカアバの建設の起こりと、それを建設した人
第 2 章:神聖にして聖なるアクサー・モスクの建設の話。それは敬虔さの上に土台を据えられて
いる。
第 3 章:神聖なる岩〔のドーム〕の建設の話とその美徳、参詣が課されている場所
第 4 章:アブラハムの墓、彼の子孫たち、妻女たちの墓の話、ヨセフの墓の話
第 5 章:我らが主人モーセと、彼の墓がある場所の話
第 6 章:祈願が聞き届けられる場所の話
第 7 章:ウマル・ブン・アルハッターブがバイト・アルマクディスを征服した話
第 8 章:スルタン=マリク・ナースィル・サラーフ・アッディーン・ユースフ・ブン・アイユー
ブが、バイト・アルマクディスとその周辺を征服した話
第 9 章:ファダーイル・バイト・アルマクディスの話
第 10 章 : バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 周 辺 に 埋 葬 さ れ た 聖 者 た ち の 話 [Ibr āhīm 1 98 5: 4 97-4 9 8]
こ の 序 文 の う ち ま ず 注 目 し た い の は 、 こ の 作 品 が オ ス マ ン 朝 ス ル タ ン = ス レ イ マ ン 1 世 ( r.
928/ 1520-965/1566) の 治 世 後 期 の ワ ズ ィ ー ル の ひ と り で あ っ た 、 ア リ ー ・ パ シ ャ に 捧 げ ら れ
て い る こ と で あ る 。 従 来 の FBM で は 、 著 者 と 同 時 代 の 為 政 者 に 対 し て 作 品 が 献 呈 さ れ た り 、
作 品 中 で そ う し た 人 物 に 対 す る 讃 美 や 祈 願 が な さ れ た り す る こ と は な か っ た 。 Mus taqṣ ā に お
い て 初 め て 、あ る 特 定 の 為 政 者 の 名 前 を 挙 げ て 作 品 を 著 す と い う こ と が 行 わ れ て い る 。ア ラ ミ
ー の こ の 行 い は 、944/1537 年 か ら 94 8/ 1541 年 に か け て ス レ イ マ ン 1 世 が 行 っ た 、エ ル サ レ ム
で の 大 規 模 な 建 設 事 業 に 関 係 し て い る も の と 思 わ れ る 。ス レ イ マ ン 1 世 は こ の 時 期 に 、エ ル サ
レ ム の 城 壁 の 建 設 や 岩 の ド ー ム の 修 繕 、水 利 施 設 の 設 置 、さ ら に 多 数 の ワ ク フ 物 件 の 建 設 を 行
っ て い る [Graba r 1986 : EI2 ⅴ , “AL-ḲUDS”]。M ustaqṣā の 編 纂 は こ れ ら の 事 業 が 完 了 し た 948
年 の こ と で あ り [Ibrāh īm 1985: 494- 495]、 ア ラ ミ ー も こ の 公 共 事 業 に 刺 激 を 受 け て 本 書 を 編
86
纂 す る に 至 っ た の で あ ろ う 。ア ラ ミ ー が 本 書 の 序 文 に 名 前 を 挙 げ て い る こ と か ら 、ワ ズ ィ ー ル
であるアリー・パシャも何らかの形でエルサレムにおける事業に関わっていたと考えられる。
Mustaqṣ ā の 各 章 の 内 容 に つ い て は 、 大 部 分 は 従 来 の FBM と 同 様 の 内 容 を 持 つ も の と 考 え
ら れ る 。例 え ば イ ブ ラ ー ヒ ー ム は 、第 3 章 の 岩 の ド ー ム 建 設 に 関 す る 章 に つ い て は 、イ ブ ン ・
ア ル ム ラ ッ ジ ャ ー の FBM-IM と ほ ぼ 同 じ 内 容 で あ っ た と 述 べ て い る [Ibrāh īm 1985: 498]。 ま
た 第 7 章 の ウ マ ル・ ブ ン・ハ ッ タ ー ブ に よ る エ ル サ レ ム 征 服 に 関 す る 伝 承 も 、FBM- IM と 、イ
ス ナ ー イ ー に よ る MM の 記 述 に 等 し い と し て い る 。 第 7 章 に は 続 け て 、「 ウ マ ル の 征 服 の 後 、
フ ァ ラ ン ジ ュ が バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 占 領 し た 話 」と い う 節 が あ り 、こ の 部 分 で は フ ァ ー
テ ィ マ 朝 に よ る シ リ ア ・ エ ジ プ ト 地 域 の 支 配 と 、 490/1097 年 か ら の 十 字 軍 に よ る シ リ ア 侵 攻
と エ ル サ レ ム の 征 服 に 関 す る こ と が 述 べ ら れ て い る が 、 こ の 部 分 は UJ の 「 十 字 軍 が バ イ ト ・
ア ル マ ク デ ィ ス を 征 服 し 、 占 領 し た 話 」 に ほ ぼ 一 致 し て お り 、 UJ を 参 照 し て い る も の と 思 わ
れ る [Ibrāhīm 1985: 5 00-503; UJ ⅰ , 4 45-450]。
第 8 章 の サ ラ ー フ・ ア ッ デ ィ ー ン に よ る エ ル サ レ ム 征 服 に 関 す る 一 連 の 記 述 は 、バ ハ ー・ア
ッ デ ィ ー ン ・ イ ブ ン ・ シ ャ ッ ダ ー ド Bahāʼ al-Dīn Yūsuf b. R āfiʽ Ibn Shadd ād ( d. 632/1234) に
よ る al-Nawā dir al- Sulṭānīya wa al- Maḥāsin al -Yūs ufīya や 、 イ マ ー ド ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ イ ス フ
ァ ハ ー ニ ー の Fatḥ 、 ア ブ ー ・ シ ャ ー マ Abū Sh āma ʽAbd al -Raḥmān b. Ismāʽīl al-M aqdisī (d.
665/1268) に よ る K itāb al-Raw ḍatay n fī Akhb ār al-Dawlatay n al-Ṣalāḥīya wa al-Nūrīya と い っ
た 、 サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン と 同 時 代 の 著 述 家 に よ る 年 代 記 、 ま た ウ ラ イ ミ ー の UJ の 内 容 に
等 し い と す る 。こ の 他 イ ブ ラ ー ヒ ー ム は 第 9 章 の 一 部 を 取 り 上 げ て い る が 、そ こ か ら 判 断 す る
と 、 こ の 章 は エ ル サ レ ム の 偉 大 性 ・ 神 聖 性 に 関 す る 伝 承 ( カ テ ゴ リ ー C) が 、 イ ス ナ ー ド を す
べ て 省 略 し た 形 で 、 箇 条 書 き で 列 挙 さ れ て い る よ う で あ る [Ibr āhīm 1985: 511]。
第 1 章、第 2 章、第 4 章、第 5 章、第 6 章については、イブラーヒームの研究の中では紹
介 さ れ て い な い た め 実 際 の 内 容 は 確 認 で き な い が 、各 章 題 か ら 判 断 す る に 、こ れ ら の 部 分 は 従
来 の FBM で も 見 ら れ た 伝 承 を 扱 っ て い る も の と 思 わ れ る 。 す な わ ち 第 1 章 は 、 お そ ら く ア ブ
ラ ハ ム と そ の 息 子 イ シ ュ マ エ ル に よ る カ ア バ 建 設 に ま つ わ る こ と が 扱 わ れ て お り 、こ れ は マ ム
ル ー ク 朝 後 期 に 成 立 し た RM や IA に お い て 重 要 視 さ れ る よ う に な っ た 、 預 言 者 ア ブ ラ ハ ム と
彼 の 一 族 の 事 績 の 中 に 含 ま れ て い た 要 素 で あ る 。 第 2 章 に つ い て は 、 従 来 の FBM で も 主 要 な
要 素 の ひ と つ で あ っ た ハ ラ ム ・シ ャ リ ー フ の 建 設 に 関 す る 章 で あ り 、こ こ で は ハ ラ ム ・シ ャ リ
ー フ が 天 使 た ち 、あ る い は セ ム や ヤ コ ブ に よ っ て 創 建 さ れ 、続 い て ダ ビ デ と ソ ロ モ ン の 手 に よ
っ て 完 成 さ れ た こ と が 述 べ ら れ て い る と 推 察 で き る 。第 4 章 と 第 5 章 に つ い て は 、こ れ も RM
と IA に あ っ た 要 素 で あ り 、 ヘ ブ ロ ン に あ る ア ブ ラ ハ ム と そ の 一 族 の 墓 所 の 様 子 と そ こ へ の 参
詣 作 法 、ま た シ リ ア の 各 地 に 伝 承 が 残 っ て い る モ ー セ の 墓 所 に 関 す る 伝 承 が 取 り 上 げ て い る も
の と 思 わ れ る 。第 6 章 の「 祈 願 が 聞 き 届 け ら れ る 場 所 の 話 」に つ い て は 、章 題 か ら 内 容 を 特 定
す る こ と が 難 し い が 、エ ル サ レ ム や ヘ ブ ロ ン の 周 辺 に あ る 、預 言 者 や 聖 者 に 縁 の 場 所 と 、そ こ
87
にまつわるエピソードが扱われているのではないかと考えられる。
以 上 の よ う に 、 M ustaqṣ ā の 第 1 章 か ら 第 9 章 に か け て は 特 に 新 し い 要 素 は 見 ら れ ず 、 従 来
の FBM や そ の 他 の 歴 史 書 を 参 照 し て 書 か れ て い る 。 ア ラ ミ ー は 本 書 の 結 び に お い て 、「 こ れ
が 、バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス と 、我 ら が 主 人 神 の 友〔 ア ブ ラ ハ ム 〕と 神 の 代 弁 者〔 モ ー セ 〕の
諸 伝 承 を 簡 略 化 し た も の で あ る 。私 は 自 分 が 伝 え 聞 い た も の を 記 録 す る こ と に 努 め 、可 能 な 限
り〔 こ れ ま で に 編 纂 さ れ た 書 物 を 〕参 照 し て き た 」と 述 べ て お り 、本 書 の 基 本 的 な 編 纂 ス タ ン
ス は 、 従 来 の FBM を 要 約 す る こ と に あ っ た と 言 え る 。
し か し な が ら 、本 書 の 第 10 章「 バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 周 辺 に 埋 葬 さ れ た 聖 者 た ち の 話 」
に 関 し て は 、 従 来 の FBM に は 見 ら れ な い 内 容 を 持 つ 章 と な っ て い る 。 本 書 の 第 1 0 章 で は 、
6/13 世 紀 か ら 10/16 世 紀 に エ ル サ レ ム と そ の 周 辺 で 没 し 、そ こ に 埋 葬 さ れ た 15 名 の 聖 者 wal ī
(pl. awl iyāʼ) の 簡 単 な 伝 記 が 、 次 の よ う な 形 式 で 挙 げ ら れ て い る 。
「 ワ ジ ャ ド ナ ー 」 と い う ラ カ ブ を 持 つ サ イ イ ド ・ ア フ マ ド al-Sayyid Aḥ ma d al- Mulaqqa b
bi-Waja dnā : 我 が サ イ イ ド に し て 至 高 な る 神 の 友 、「 ワ ジ ャ ド ナ ー ( 我 々 は 見 出 し た )」 と い う ラ カ
ブを持つサイイド・アフマド。この〔ラカブの〕理由は以下のようなものである。ある人〔すなわ
ちサイイド・アフマド〕が金曜日に、クルアーンの「洞穴」の章を読みながら歩いてきた。彼がか
の 方 の お 言 葉 〈 彼 ら は 自 分 の 行 っ た こ と を 目 の 当 た り 見 出 す で あ ろ う 〉 (Q18:49) に 差 し 掛 か っ た と
き 、 そ の 墓 の 方 か ら 声 高 に 、「 我 々 は 見 出 し た 、 我 々 は 見 出 し た 、 我 々 は 見 出 し た 」 と い う 返 事 が あ
り、それはその人の耳にも届いた。
彼 は 神 聖 な る ク ド ス に て 710 年 に 没 し 、マ ー マ ラ ー Māmalā に 埋 葬 さ れ た 。彼 の 墓 は 有 名 で あ り 、
その上には大きな石がある。ある人々が彼の墓の上にある石を取って、別の場所に持って行ったこ
とがあったが、次の日になると、その石は元通りにその墓の上にあった。彼の奇跡の中にそうした
こ と は 数 多 く あ る [Ibrāhīm 19 85: 51 7 -5 18 ]。
FBM に エ ル サ レ ム に 縁 の 偉 人 た ち の 伝 記 を 組 み 入 れ る と い う 編 纂 方 式 は 、 MG-M で 初 め て
見 ら れ 、以 後 RM や IA、UJ に も 取 り 入 れ ら れ て き た 。こ れ ら の 作 品 に 見 ら れ る 伝 記 集 は 、預
言 者 、教 友 、タ ー ビ ウ ー ン 以 降 の 偉 人 伝 で 構 成 さ れ て お り( [ 表 5] 参 照 )、さ ら に UJ で は 6/13
世 紀 か ら 9/1 5 世 紀 に か け て の ウ ラ マ ー や 為 政 者 の 伝 記 が 追 加 さ れ た 。 Mustaqṣ ā に お い て も 、
こ の 伝 記 集 と い う 形 式 そ の も の は 従 来 の FBM を 踏 襲 し て い る の で あ る が 、 そ の 伝 記 集 の 人 選
は 他 の 作 品 と は 大 き く 異 な っ て い る 。ア ラ ミ ー が 挙 げ て い る 15 名 は 全 員 が ス ー フ ィ ー で あ り 、
彼 ら の 項 目 の 大 部 分 は 「 我 が サ イ イ ド に し て 至 高 な る 神 の 友 s ayyid ī, wal īy Allāh taʽālā」と い
う書き出しで始まっている。上記のサイイド・アフマドの伝記にあるように、各人の項では、
その人物のスーフィーとしての徳や彼が行った奇跡、彼の没年と埋葬地、そしてその墓地が
人々の参詣地となっているということが述べられている。
88
ア ラ ミ ー が 本 書 の 第 10 章 に お い て ス ー フ ィ ー に 限 定 さ れ た 伝 記 を 挙 げ て い る こ と は 、 こ の
時 代 の エ ル サ レ ム に お け る ス ー フ ィ ズ ム の 隆 盛 を 示 す も の で あ る 。エ ル サ レ ム が 十 字 軍 勢 力 よ
り 取 り 戻 さ れ 、再 び ム ス リ ム の 支 配 す る 都 市 と な っ て 以 降 、エ ル サ レ ム の 政 治 経 済 的 重 要 性 は
低 下 し た が 、 そ の 一 方 で 学 問 的 ・ 宗 教 的 重 要 性 を 確 立 し て い た [G raba r 1986: EI2 ⅴ ,
“AL-ḲUDS”; Busse 1968 : 461-462; Bloom 1996 : 216] 。UJ に 見 ら れ た よ う に 、マ ム ル ー ク 朝 末
期 ま で に は ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ を 中 心 と し て 多 数 の マ ド ラ サ や ザ ー ウ ィ ヤ が 設 立 さ れ 、エ ル サ
レ ム は ウ ラ マ ー や ス ー フ ィ ー た ち の 集 ま る 町 と な っ て い っ た 。 M ustaqṣ ā に 見 ら れ る ス ー フ ィ
ズ ム 的 要 素 も 、 こ う し た 当 時 の 状 況 を 反 映 し た も の で あ ろ う 。 FBM と ス ー フ ィ ズ ム と の 間 の
同 様 の 関 連 性 は 、次 項 に 上 げ る Risāl a に も 見 ら れ る も の で あ る 。オ ス マ ン 朝 時 代 の FBM と ス
ーフィズムとの関連性については、本章の終わりにて改めて考察する。
(2) Risāla
著 者 の ム ハ ン マ ド・ブ ン・ム ハ ン マ ド・ハ リ ー リ ー M uḥ ammad b. Muḥ ammad al-Khalīlī は 、
11/17 世 紀 末 か ら 12/18 世 紀 の シ ャ ー フ ィ イ ー 派 法 学 者 で あ る 。 ヘ ブ ロ ン に 生 ま れ 育 ち 、 後 に
は カ イ ロ の ア ズ ハ ル に 遊 学 し た 。エ ジ プ ト 滞 在 中 に は 、ス ー フ ィ ー 教 団 の ひ と つ で あ る カ ー デ
ィ リ ー 教 団 に 所 属 し た 。エ ジ プ ト か ら シ リ ア に 戻 っ た 後 、1104/1694 年 に は エ ル サ レ ム を 来 訪
し 、ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ の 西 壁 の 側 に あ っ た マ ド ラ サ・バ ラ デ ィ ー ヤ al -Madras a al-Bal adīya に
居 留 し 、同 マ ド ラ サ の 教 授 職 を 務 め た 。ア ク サ ー・ モ ス ク の ム ア ッ ズ ィ ン 長 や シ ャ ー フ ィ イ ー
派 の ム フ テ ィ ー 職 も 兼 任 し 、ワ ー イ ズ( 説 教 師 )と し て も 有 名 で あ っ た 。ハ リ ー リ ー は ま た 若
い 頃 よ り 商 人 と し て も 活 動 し て お り 、豊 か な 経 済 基 盤 を 有 し 、ワ ク フ も 多 数 所 有 し て い た と 言
わ れ て い る 。1147 /1734 年 に エ ル サ レ ム で 没 し 、マ ド ラ サ ・ バ ラ デ ィ ー ヤ の 敷 地 内 に 埋 葬 さ れ
た 71。
ハ リ ー リ ー は 、 著 述 家 と し て は さ ほ ど 多 く の 著 作 を 持 っ て い な い が 、 Ris āl a の 他 に も エ ル
サ レ ム に 関 す る 歴 史 書 で あ る Tār īkh al-Quds wa al-K halīl や 、 い く つ か の フ ァ ト ワ ー 集 や 書 簡
を 残 し て い る 。 T ārīkh は 、 当 時 の ス ル タ ン 、 ア フ メ ト 3 世 ( r. 1083 /1703-114 9/1730) の ワ ズ
ィ ー ル の ひ と り で あ っ た ラ ジ ャ ブ ・ パ シ ャ Rajab Bāshā (d. 1139/ 1726) 7 2 が エ ル サ レ ム と ヘ ブ
ロンで行ったワクフ建設事業について記録した著作である。
Ris āl a に つ い て は 校 訂 本 が 出 版 さ れ て い な い た め 、 本 論 で は ベ ル リ ン 図 書 館 所 蔵 の 写 本
71
Tārīkh al -Qud s w a al -Khalīl の 校 訂 本 序 文 よ り [Tārīkh 3-4 8]。
ス ル タ ン の 侍 従 、ス ル タ ン の 宝 物 庫 の 管 理 人 katkhudā al -khizāna a l -sul ṭānīya を 経 て ワ ズ ィ ー ル と
なる。ワズィール就任中にはディヤール・バクル、トラブゾン、エルサレム、アレッポ、ダマスカス、
エ ジ プ ト 等 様 々 な 地 域 の 行 政 官 に 任 じ ら れ て お り 、 1126 年 ズ ー ・ ア ル ヒ ッ ジ ャ 月( 1715 年 1 月 ) か ら
1128 年 ラ ビ ー ゥ ・ ア ル ア ッ ワ ル 月 ( 1716 年 3 月 ) に か け て の 期 間 に 、 エ ル サ レ ム の 行 政 官 と し て 同 地
に 滞 在 し て い た 。こ の 間 に ハ リ ー リ ー と も 親 交 を 結 び 、ハ リ ー リ ー は 彼 の 相 談 役 と な っ て い た 。エ ル サ
レ ム で の 任 期 を 終 え た 後 も 、 ハ リ ー リ ー と の 親 交 は 続 い た と い う [Tārīkh 4 9 -5 6]。 ラ ジ ャ ブ ・ パ シ ャ の
72
任 期 よ り 、 Tārīkh の 編 纂 は 1128/1716 年 直 後 の こ と と 考 え ら れ る 。
89
(Petermann Ⅰ , 344) を 参 照 し た 。
Ris āl a に お い て も 、前 述 の M ustaqṣ ā 同 様 、作 品 内 の 各 所 で オ ス マ ン 朝 の 為 政 者 に 対 す る 祈
願 や 讃 美 が 行 わ れ て い る 。ま ず 本 書 の 冒 頭 に は 次 の よ う に 、当 時 の ス ル タ ン で あ る ア フ メ ト 3
世と彼のワズィールに対する讃美が行われている。
我らが主人ソロモンの時代から、時代の諸王の王にして信仰と善行の旗を打ち立てし方、不信仰
と圧政の民に轡をつける方たるオスマン家のスルタン、アフマド・ブン・ムハンマド・ハーンに至
るまでの時代を注意深く見よ。そして彼の確かな徳と彼の国へのあまねき善行、あらゆる信仰の魂
に向けての深慮、預言者性とその高き書の泉の最初の部分によって、この証の結末を学ぶがよい。
とりわけ彼のワズィール閣下にして彼の顧問官、彼の大小のことを差配する方によって。彼はすべ
ての裁きを、完璧なることダイヤモンドのごときその思慮によって裁き、クルアーンの章句と預言
者のハディース、インドの剣、太陽と月の輝き、神の直感、確固とした高貴なる行いによって臣民
や調停者たちを裁定する。彼は知性あるウラマーやイスラームのシャイフたちの第一人者にして、
明白な証と重みあるハディース、力ある秘密、神秘的な知識によってハッジからゆっくりと歩んで
く る 人 で あ る [Risāla 3a]。
Tārīkh が ワ ズ ィ ー ル = ラ ジ ャ ブ ・ パ シ ャ に 捧 げ ら れ た 著 作 で あ っ た の に 対 し 、 Risāl a の 方
は、同じくスルタンによってエルサレムに派遣されてきた、メフメト・エフェンディー
Muḥammad Afandī と い う 人 物 に 対 し て 捧 げ ら れ て い る 。
さてこれは、栄光を授けられし高貴なるマワーリー閣下にして知識あるウラマーの飾りたるムハ
ンマド・エフェンディー閣下、神聖なるクドスのカーディー殿のために捧げられた手記である。彼
は時代の諸王たちの王たるオスマン家のスルタン、アフマド・ブン・スルタン・ムハンマド・ハー
ンによって、その生命の泉とそのモスクの魂、その秩序の完成、そのしるしの公示を整えるという
任 務 を 与 え ら れ た 人 で あ っ た [Risāla 3b]。
後 に 本 書 の 第 2 章 で 詳 し く 述 べ ら れ る の だ が 、メ フ メ ト・エ フ ェ ン デ ィ ー は 水 利 に 難 の あ る
エ ル サ レ ム の 状 況 を 改 善 す る た め 、同 地 の 水 利 施 設 の 設 立・修 繕 と い う 任 務 を 与 え ら れ て 派 遣
さ れ た 人 物 で あ る 。 彼 が そ の 事 業 を 行 っ た の は 1120/1708 年 か ら 1122/171 0 年 に か け て の こ
と で あ り 、Ris āl a の 編 纂 時 期 も こ の 年 か ら 大 き く 遅 れ て は い な い だ ろ う [ Risāl a 2 0b; Tārīkh 28;
al-ʽAsal ī 1984: 118] 。Ris āla の 編 纂 は Tārīkh の 数 年 前 に 当 た っ て お り 、Risāla の 中 で 言 及 さ
れている「ワズィール閣下」がラジャブ・パシャを指しているかについては 不明である。
Ris āl a は 序 と 3 つ の 章 、 結 び よ り 構 成 さ れ て お り 、 そ れ ぞ れ の 内 容 に つ い て は 本 書 の 冒 頭
にて次のように述べている。
90
序は、知識ある預言者たちのうち、バイト・アルマクディスとその周辺のことに配慮した人物に
つ い て 明 ら か に し た も の で あ る 。 ・・・
第 1 章は、バイト・アルマクディスとそこで整備を行うこと、そことその民のために良いことを
行うことの美徳について明らかにしたものである。
第 2 章 は 、バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 泉 で 整 備 を 行 う こ と 、泉 の 流 域 、そ こ に 付 随 す る 水 車 や そ の
他 の も の 、そ こ に 集 ま っ て い る 泉 や 池 、そ の 縦 横 の 範 囲 、そ の 泉 の 端 に 立 っ て い る カ ル ア ト ・ ア ル マ
リ ー ジ ー ゥ Qalʽat a l- Marījī ʽ と い う 名 前 の 城 塞 に つ い て 。
第 3 章 は 、〔 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス で 〕 整 備 を 行 っ た 人 物 と そ の 日 付 、 ウ ラ マ ー や 正 し き 人 々 、
優 れ た 人 々 が 彼 を 讃 え て 詠 ん だ カ ス ィ ー ダ 、そ の 中 に あ る 喜 ば し き 知 ら せ や 、彼 ら に つ い て の 良 き 言
葉 に つ い て 明 ら か に し た も の で あ る 。 ・・・
結 び は 、前 述 の モ ス ク を 我 々 の 建 物 に 変 え た 、高 貴 な る 預 言 者 た ち や 、知 識 あ る 聖 者 た ち に つ い て
で あ る [Risāla 4 a -4 b]。
Ris āl a の 序 は エ ル サ レ ム の 歴 史 に 充 て ら れ て い る 。 た だ し こ の 部 分 は 非 常 に 大 ま か な も の
で 、ソ ロ モ ン に よ る 神 殿 建 設 、ネ ブ カ ド ネ ツ ァ ル と ビ ザ ン ツ に よ る ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ の 破 壊 、
フ ァ ラ ン ジ ュ に よ る 侵 略 、サ ラ ー フ・ ア ッ デ ィ ー ン に よ る 奪 還 と 整 備 が 、短 く 述 べ ら れ て い る
に 過 ぎ な い 。ハ リ ー リ ー は こ の 後 、序 の 最 後 の 部 分 に お い て 、
「 こ の 王 国 の 時 代 に お い て は ・・・
前 述 の メ フ メ ト ・エ フ ェ ン デ ィ ー 閣 下 が そ れ( エ ル サ レ ム に お け る 水 利 事 業 )に つ い て 任 を 受
け 」 [Risāl a 6b] と メ フ メ ト ・ エ フ ェ ン デ ィ ー の 名 前 を 挙 げ て お り 、 彼 の エ ル サ レ ム に お け る
事 業 が 、サ ラ ー フ ・ア ッ デ ィ ー ン 以 降 ム ス リ ム に よ っ て 行 わ れ て き た 、不 信 仰 者 の 手 か ら エ ル
サ レ ム を 清 め 守 る 行 為 の 延 長 に あ る こ と を 示 し て い る 。ハ リ ー リ ー は 本 書 に お い て エ ル サ レ ム
の 歴 史 を 語 る こ と を 重 要 視 し て は お ら ず 、こ の 部 分 は 単 に メ フ メ ト・エ フ ェ ン デ ィ ー の 名 前 を
導 く た め の 導 入 部 で あ る 。 な お こ の 部 分 で は 、 典 拠 の ひ と つ と し て ミ ン ハ ー ジ ー に よ る IA が
挙 げ ら れ て お り 、 ハ リ ー リ ー は 従 来 の FBM の う ち 少 な く と も IA は 参 照 し て い る と 考 え ら れ
る。
第 1 章 は 、大 き く 分 け て 3 つ の 部 分 か ら 構 成 さ れ て い る 。最 初 の 部 分 は 、ク ル ア ー ン の 章 句
の 解 釈 、エ ル サ レ ム に 関 す る 預 言 者 ム ハ ン マ ド の ス ン ナ 、エ ル サ レ ム の 偉 大 性・ 神 聖 性 に 関 す
る 伝 承 ( カ テ ゴ リ ー C) が 、 イ ス ナ ー ド を 省 略 し た 形 で 列 挙 さ れ て い る 。 2 つ 目 の 部 分 は 、 ク
ル ア ー ン 17 章 1 節 等 で 言 及 さ れ る 、 エ ル サ レ ム を 含 む 「 聖 な る 地 」 の 東 西 南 北 の 境 界 線 と 、
そ の 境 界 か ら エ ル サ レ ム ま で の 距 離 に つ い て 述 べ た 部 分 で あ る 。 こ の 部 分 は 、 MG-M や IA に
お い て「 シ リ ア の 境 界 」と 題 さ れ て い る 項 の 内 容 と 共 通 し て い る が [ MG-M 84; IA ⅱ , 132-133]、
そ れ ら の 著 作 を 直 接 引 用 し た も の で は な く 、エ ル サ レ ム を そ の 地 域 の 中 心 的 都 市 と し て 、そ こ
から各境界線への距離を測っているところがそれらとは異なっている。
91
第 1 章 の 3 つ 目 の 部 分 は 、 エ ル サ レ ム の 「 霊 性 rawḥānīya」 に つ い て の 議 論 と な っ て い る 。
ハリーリーはここで、
「 バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス は 、大 地 の す べ て の 霊 性 に と っ て の 瞳 で あ る 。
ま さ し く 万 物 に と っ て そ の 姿 の 中 に は 内 な る 霊 性 が あ り 、大 地 の あ ら ゆ る 部 分 、あ ら ゆ る 点 に
存 在 し て い る 。・・・バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 地 は 、大 地 の 他 の 場 所 の 霊 性 よ り も 高 く 高 貴 で 、
霊 性 と い う 点 に お い て 勝 っ て お り 、伝 承 や 箴 言 と い う 点 に お い て 明 白 な の で あ る 」[Ris āl a 11a]
と述べ、メッカの霊性と合わせてこの 2 つの聖地が他に優れて神聖な場所であるとしている。
こ の 部 分 に は 明 ら か に ス ー フ ィ ズ ム 的 観 念 が 示 さ れ て い る 。 以 上 第 1 章 は 、 従 来 の FBM よ り
引 用 し た エ ル サ レ ム に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル と 、ス ー フ ィ ズ ム 的 観 点 か ら 見 た エ ル サ レ ム の 霊 的
な 位 階 の 高 さ を 述 べ る こ と で 、神 聖 な る 土 地 の 整 備 を 行 う メ フ メ ト・エ フ ェ ン デ ィ ー の 功 績 を
強調するための章となっている。
Ris āl a の 第 2 章 は 、 章 題 の 示 す 通 り エ ル サ レ ム の 水 利 に 関 す る 内 容 と な っ て い る 。 ま ず 冒
頭 で は エ ル サ レ ム が 古 来 よ り 水 の 便 の 悪 い 土 地 で あ っ た こ と 、歴 代 の 王 た ち も そ の 水 利 に 腐 心
してきたが解決には至らなかったことが述べられた後に、この問題に取り組むためにメフメ
ト・エ フ ェ ン デ ィ ー が ス ル タ ン の 命 に よ り 派 遣 さ れ て き た こ と が 述 べ ら れ て い る 。彼 は エ ル サ
レ ム 到 着 直 後 よ り 意 欲 的 に こ の 任 務 に 取 り 組 み 、工 人 や 現 地 の 知 識 人 た ち を 伴 っ て 、エ ル サ レ
ム 周 辺 の 水 源 や 水 利 施 設 の 調 査 を 行 い 、そ れ ら の 整 備 に 着 手 し た 、と さ れ て い る 。続 い て エ ル
サ レ ム の 水 源 と な っ て い る 4 つ の 泉 と 、そ こ か ら 伸 び る 水 路 、水 路 に 付 属 す る 水 車 、水 源 の 側
に イ ス ラ エ ル 時 代 に 作 ら れ た と い う 3 つ の 溜 め 池 と そ の 大 き さ 、そ れ ら の 池 の 近 く に あ り 、水
利 を 管 理 す る た め の 城 塞 の こ と が 言 及 さ れ て い る 。こ の 他 第 2 章 で は 、例 え ば カ ァ ブ・ア ル ア
フ バ ー ル よ り 伝 わ る「 甘 き 泉 か ら 出 る 水 は い ず れ も 、バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス の 岩 の 下 か ら 出
たものである」という伝承のような、水や川に関するファダーイルが抜き書かれている。
第 2 章の最後の部分には次のようにある。
私 は 、あ ら ゆ る 生 命 の 源 は 水 そ れ そ の も の で あ り 、生 命 は そ の 元 た る 根 源 を 求 め る た め だ と 言 う 。
人々が集められるとき、自然はその中にある、自然がそこから作り出された根源であるところの水
を求める。そしてそれは岩の下から流れ出た水なのである。ゆえにすべての魂が、集められる際に
は自然とその水に向かう。このことは信徒であれ不信仰者であれ、あらゆる人間に今も起こってい
ることである。まことに人間は、その元たる根源と生まれ持った性質のゆえに、バイト・アルマク
デ ィ ス へ と 向 か お う と す る の で あ る [Risāl a 1 7a] 。
第 2 章 に お い て ハ リ ー リ ー は 、メ フ メ ト・エ フ ェ ン デ ィ ー の 水 利 事 業 と 関 連 付 け て 水 と い う
テ ー マ に 関 す る 伝 承 を 取 り 上 げ 、現 世 の あ ら ゆ る 水 は エ ル サ レ ム の 岩 の 下 か ら 流 れ 出 る と い う
伝 承 と 、水 が あ ら ゆ る 生 命 に よ っ て 必 要 不 可 欠 な も の で あ る と い う こ と を 組 み 合 わ せ る こ と で 、
水という観点からエルサレム讃美を行っている。
92
続 く 第 3 章 で は 、オ ス マ ン 朝 の エ ル サ レ ム 統 治 が テ ー マ と な っ て い る 。ハ リ ー リ ー は こ こ で 、
922/1516 年 に エ ル サ レ ム を 初 め て 支 配 下 に 置 い た ス ル タ ン = セ リ ム 1 世 (r. 918/1512926/1520) の エ ル サ レ ム 政 策 に つ い て 言 及 し て い る 。セ リ ム 1 世 が 訪 れ た 当 時 の エ ル サ レ ム と
そ の 周 辺 地 域 は 無 秩 序 状 態 に 陥 っ て お り 、正 式 な 統 治 者 が お ら ず 遊 牧 ア ラ ブ た ち に 蹂 躙 さ れ て
い た 。そ こ で セ リ ム 1 世 は そ の 地 に 統 治 者 と イ ェ ニ チ ェ リ 軍 団 を 置 い て 遊 牧 ア ラ ブ た ち を 制 定
し 、シ リ ア か ら ヒ ジ ャ ー ズ に 伸 び る ハ ッ ジ 道 を 管 理 さ せ た 。続 く ス レ イ マ ン 1 世 も エ ル サ レ ム
の 整 備 に 貢 献 し た [Ris āl a 18b] 。 ハ リ ー リ ー は 、 こ れ と 同 様 に エ ル サ レ ム 整 備 に 尽 力 し て い る
ス ル タ ン と し て ア フ メ ト 3 世 の 名 前 を 挙 げ 、こ の 章 に お い て も メ フ メ ト・エ フ ェ ン デ ィ ー に よ
っ て 行 わ れ た 水 利 事 業 と 、さ ら に 同 じ く 彼 が 行 っ た ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ の 修 繕 に つ い て 述 べ て
い る 。第 3 章 の 記 述 に よ れ ば メ フ メ ト ・エ フ ェ ン デ ィ ー は 、エ ル サ レ ム 郊 外 の 水 源 の 水 を 市 内
に 通 し 、ま た そ の 水 を ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ 内 の 水 場 ま で 通 す こ と に よ っ て 水 利 状 況 を 整 え る こ
と で 、人 々 が そ こ で 神 に 奉 仕 す る こ と が 容 易 に な る よ う な 環 境 を 整 え た [Ris āla 19a, 20b -21a] 。
ハ リ ー リ ー は 、以 上 の よ う な 為 政 者 に よ る エ ル サ レ ム の 整 備 を イ ス ラ ー ム の 信 仰 に 対 す る 偉
大 な 貢 献 で あ る と 見 な し 、こ れ ら の 行 い を 讃 美・奨 励 し て い る 。彼 は ク ル ア ー ン 9 章 18 節「 神
の 礼 拝 堂 を 管 理 す る の は 、神 と 終 末 の 日 と を 信 じ 、礼 拝 を 守 り 、喜 捨 を 行 う 者 に 限 る 」に つ い
て 、「 神 の 礼 拝 堂 を 管 理 す る 」 こ と に は 、 建 物 そ の も の の 管 理 だ け で は な く 、 礼 拝 前 の 清 め に
用 い る 水 の 手 配 を す る こ と や 、「 絨 毯 を 敷 い て そ こ を 飾 っ た り 、 ラ ン プ を 用 い て そ こ に 明 か り
を 灯 し た り 、勤 行 や ズ ィ ク ル を 長 続 き さ せ た り 、そ こ で 知 識 の 伝 授 を 行 っ た り 、現 世 の 伝 承 の
よ う な そ こ に 関 係 の な い 物 事 か ら そ こ を 遠 ざ け た り す る こ と 」[Risāl a 21a] も 含 ま れ て い る と
す る 。ハ リ ー リ ー は 第 3 章 に お い て 、こ う し た 行 い と そ れ を 行 っ た 者 を 讃 え る カ ス ィ ー ダ を 詠
ん で い る 。こ こ で は ハ リ ー リ ー の も の だ け で は な く 、ヘ ブ ロ ン の ア ブ ラ ハ ム の モ ス ク の ハ テ ィ
ー ブ で あ っ た シ ャ イ フ ・ ア ブ ド ・ ア ッ ラ フ マ ー ン ・ タ ミ ー ミ ー al -Shaykh ʽAbd al-Raḥmān
al-Tamīmī 、 エ ル サ レ ム の シ ャ リ ー ア 法 官 で あ っ た サ イ イ ド ・ カ ー ス ィ ム ・ タ ル ジ ュ マ ー ン
al-Sayyīd Qāsim Tarj umān 、シ ャ イ フ・ム ス タ フ ァ ー・ハ ト ブ ー ブ al-Shaykh Muṣṭafā Haṭb ūb
と い う 人 物 の カ ス ィ ー ダ も 取 り 上 げ て い る 。 こ れ ら 4 編 の カ ス ィ ー ダ は 、 Ris āla の 写 本 全 40
葉のうちの 7 葉あまりに相当しており、作品全体の中でも相当の分量となっている。
Ris āl a の 終 章 は 、 エ ル サ レ ム の 周 辺 に あ る 預 言 者 や 聖 者 の 墓 廟 や 聖 所 に つ い て の も の で あ
る 。 預 言 者 の 墓 廟 に つ い て は 順 に 、ア ブ ラ ハ ム と 彼 の 妻 サ ラ 、 イ サ ク 、 ヤ コ ブ 、 ヨ セ フ 、 マ リ
ア の 夫 で あ る 大 工 ヨ セ フ 、エ サ ウ 、ロ ト 、 ヨ ナ と 彼 の 父 親 で あ る ア ミ タ イ 、 ノ ア 、ア ダ ム 、ダ
ビ デ 、モ ー セ 、ア ロ ン 、イ シ ュ マ エ ル 、マ リ ア 、サ ー リ フ 、 ア ブ ラ ハ ム の 子 孫 で あ る と い う ア
ス タ ヤ ー Aṣṭayā や ス ィ ー リ ー Sīrī、ル ク マ ー ン と い っ た 人 々 の 墓 が 挙 げ ら れ て い る 。ま た 預 言
者 た ち の 他 に も 、 エ ル サ レ ム の 有 名 な 女 聖 者 で あ っ た ラ ー ビ ア ・ ア ダ ウ ィ ー ヤ Rāb iʽa
al-ʽAdawīya (d. 135/752) な ど の ム ス リ ム の 聖 者 の 墓 に つ い て も い く つ か 述 べ ら れ て い る 7 3 。
73
ペ テ ル セ ン A. Petersen は 、 エ ル サ レ ム ・ ヘ ブ ロ ン 周 辺 に 点 在 す る 預 言 者 た ち の 墓 廟 に つ い て 、 建
93
こ の 部 分 に は 、 従 来 の FBM と は 異 な る 特 徴 が 3 点 見 ら れ る 。 ま ず こ こ に 挙 げ ら れ て い る 情
報 は 預 言 者 や 聖 者 の 墓 の あ る 場 所 に 関 す る こ と に 限 定 さ れ て お り 、そ れ ら の 人 々 の 伝 記 な ど は
書 か れ て い な い 。ま た 例 え ば ヘ ブ ロ ン に あ る ア ブ ラ ハ ム の 墓 所 に つ い て も 、FBM-IM 以 降 い く
つ か の FBM に 見 ら れ た よ う な 参 詣 の 際 の 作 法 に 関 す る こ と は 書 か れ て い な い 。 そ の 代 わ り に
ハ リ ー リ ー は 、そ れ ら の 場 所 に 実 際 に 参 詣 し た 、自 身 を 含 む ム ス リ ム た ち の 上 に 起 こ っ た 奇 跡
や 、そ の 参 詣 に よ っ て 得 ら れ た 功 徳 の 話 を 列 挙 し て い る 。こ う し た 編 纂 方 式 に つ い て ハ リ ー リ
ー は 、「 歴 史 書 や 様 々 な 解 釈 書 、 物 語 は 、 彼 ら の 様 々 な 状 況 を す べ て ア ラ ビ ア 語 に し て 書 い て
い る か ら 、我 々 は 汝 に た だ 、彼 ら の こ と で 我 々 が 知 っ て い る こ と の う ち 述 べ ら れ な か っ た こ と 、
我 々 に 関 わ る 物 事 の う ち 我 々 の 兄 弟 の 上 に 起 こ っ た こ と の み を 述 べ よ う 」[Risāl a 29a] と 述 べ 、
す で に 既 存 の 書 物 に 取 り 上 げ ら れ て い る 伝 承 を 再 び 取 り 上 げ る こ と は せ ず 、こ れ ま で に 知 ら れ
て い な い 、著 者 に 近 い 時 代 に 起 き た 奇 跡 譚 を 重 点 的 に 取 り 上 げ る と い う 姿 勢 を 明 ら か に し て い
る。
こ こ に 挙 げ ら れ て い る 奇 跡 譚 の 一 例 を 挙 げ れ ば 、例 え ば ア ブ ラ ハ ム の 項 に は 、ハ リ ー リ ー 自
らの体験として次のようなことが書かれている。
あ る 盗 賊 が 我 々 の 荷 物 を 奪 っ た 。そ の 後 私 は か の 神 聖 な る お 方( ア ブ ラ ハ ム )の も と に 向 か っ た 。
す る と 私 は 町 に 入 る 前 に 私 の 親 戚 の 者 に 会 っ た 。 彼 は 私 に 、〔 強 盗 に 会 う と い う ひ ど い 目 に あ っ て 困
っ て い る だ ろ う か ら 〕 自 分 と 一 緒 に 外 に あ る 庭 園 に 戻 ろ う と 言 っ た 。 し か し 私 は 彼 に 、「 ど う し て 私
に、高貴なる預言者たち―神よ我らが預言者と彼らとに祝福と平安を与え給え―への参詣を行う前
に〔外に〕向かうことができようか」と言った。私は彼と共に〔外に〕向かうことなく、彼らの参
詣へと向かった。その夜、私はある人が「我らの愛を求める者よ、我らの門に急ぎ来たれ。我らの
もとに来たりし者は打ち負かされし者であり、彼が我々のもとに来たならば、我らは彼をもてなそ
う 」 と 言 っ て い る の を 見 た 。 す る と 3 日 目 に 、 そ の 荷 物 は そ っ く り 戻 っ て き た [Risāl a 2 9b]。
2 つ 目 は モ ー セ の 重 要 視 で あ る 。預 言 者 モ ー セ は イ ス ラ エ ル の 民 を 率 い て 聖 な る 地 に 入 っ た
人 物 と し て 、ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM の 中 で も い く つ か の 箇 所 で 取 り 上 げ ら れ て き た 。そ し て RM
と IA に お い て は 、 モ ー セ が 埋 葬 さ れ て い る 場 所 を め ぐ る 伝 承 を 中 心 に 、 彼 に 関 す る ひ と つ の
独 立 し た 章 が 設 け ら れ て お り 、 UJ の 歴 史 部 分 で は ア ブ ラ ハ ム に 次 ぐ 分 量 の 伝 記 が 費 や さ れ て
い る 。 こ れ に 対 し て Ris āl a に お い て は 、 結 び の 部 分 の お よ そ 半 分 の ペ ー ジ が モ ー セ に 対 し て
充 て ら れ て お り 、 こ れ は 伝 統 的 に FBM で の 記 載 の 多 か っ た ア ブ ラ ハ ム を 越 え る も の で あ る 。
Ris āl a の 結 び で は 、 ア ブ ラ ハ ム に ま つ わ る 奇 跡 譚 は 5 つ 挙 げ ら れ て い る の に 対 し 、 モ ー セ に
ま つ わ る も の は 17 も の 数 が 挙 げ ら れ て い る 。 以 上 の 点 よ り 、 マ ム ル ー ク 朝 後 期 か ら オ ス マ ン
朝 に か け て 、シ リ ア に お い て モ ー セ を 重 要 視 す る 新 し い 傾 向 が 生 ま れ て い た の で は な い か と 推
築 学 的 観 点 か ら 実 地 調 査 を 行 っ て お り 、一 部 の 墓 廟 の 所 在 地 を 特 定 し て い る [Petersen 2001: 359 -3 81]。
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測 で き る が 、こ れ は 大 預 言 者 の ひ と り で あ る モ ー セ を エ ル サ レ ム に 関 連 づ け よ う と す る 、シ リ
アのウラマーの試みであろう。
イ ス ラ ー イ ー リ ー ヤ ー ト か ら の 伝 承 で は 、モ ー セ は イ ス ラ エ ル の 民 の 背 信 の 罪 の た め に 、聖
な る 地 に 入 る こ と を 許 さ れ ず 、荒 野 で 死 ん だ と さ れ て い た [FQ 110-112]。し か し 一 方 で イ ス ラ
ー ム の 伝 承 に お い て は 、 モ ー セ は 「 聖 な る 地 か ら 石 を 投 げ れ ば 届 く ほ ど の 距 離 」 の と こ ろ [ FQ
97]、 す な わ ち 聖 な る 地 に き わ め て 近 い と こ ろ で 死 ん だ と も 言 わ れ て き た 。 こ こ か ら モ ー セ は
ヨ ル ダ ン 川 以 西 の 町 イ ェ リ コ で 死 ん だ と す る 伝 承 が 一 般 的 に な っ た の だ が 、 Ris āl a で は モ ー
セ の 墓 の あ る 位 置 は「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス か ら 東 に 4 時 間 半 の と こ ろ 」[Ris āl a 32a] と 表
現 さ れ 、結 果 と し て モ ー セ も エ ル サ レ ム の 領 域 内 に 埋 葬 さ れ て い る と い う 書 き 方 が な さ れ て い
る 。 Risāl a で は モ ー セ の 墓 に ま つ わ る 奇 跡 譚 を 数 多 く 取 り 上 げ る こ と で 、 偉 大 な 預 言 者 の 美
徳がこの地域に今なお及んでいることを述べ、この地域の神聖性を強調している。
Ris āl a の 結 び に お い て 着 目 す べ き 3 つ 目 の 点 は 、 こ こ で は 預 言 者 や 聖 者 の 墓 廟 の み が 参 詣
の場所として取り上げられているということである。預言者の墓についての伝承は従来の
FBM に お い て も 散 見 さ れ る が 、 Risāl a で は そ う し た 伝 承 の み が 抜 き 出 さ れ て ひ と つ の 章 に ま
と め ら れ て お り 、 こ の 編 纂 ス タ ン ス は 本 書 に 独 特 の も の で あ る 。 翻 っ て 従 来 の FBM の 一 部 で
重 要 な 要 素 で あ っ た 、ハ ラ ム ・シ ャ リ ー フ を 中 心 と し た モ ニ ュ メ ン ト に ま つ わ る 伝 承 は 、一 切
取 り 上 げ ら れ て い な い 。こ こ に 挙 げ ら れ て い る 墓 廟 も エ ル サ レ ム 市 内 や 市 外 近 く に あ る も の は
少 な く 、大 部 分 は エ ル サ レ ム 地 区 内 の 別 の 町 や 村 に あ る と さ れ て お り 、著 者 の 視 点 は エ ル サ レ
ム に 固 定 さ れ て は い な い 。こ れ は お そ ら く 、こ の 当 時 の シ リ ア で 預 言 者 廟・ 聖 者 廟 へ の 参 詣 が
盛 ん に な り 、ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ 外 の よ り 小 規 模 な 聖 所 が 参 詣 地 と し て 新 た に 注 目 さ れ る よ う
に な っ た こ と の 反 映 で あ ろ う 。こ の 点 に も ハ リ ー リ ー の ス ー フ ィ ズ ム 的 傾 向 を 見 る こ と が で き
る。
Ris āl a に お い て ハ リ ー リ ー は 、 従 来 の エ ル サ レ ム に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル を 引 用 し つ つ 、 同
時 代 に 行 わ れ た メ フ メ ト・エ フ ェ ン デ ィ ー に よ る 水 利 事 業 を 讃 美 し 、ま た 自 身 の 同 時 代 か そ れ
に 近 い 時 代 に シ リ ア 各 地 で 体 験 さ れ た 奇 跡 譚 を 取 り 上 げ る な ど 、著 者 の 生 き て い る「 現 在 」の
状 況 に 視 点 が 置 か れ て い る 。 こ れ は 、 こ れ ま で の FBM の ほ と ん ど が 、 そ れ ら が 編 纂 さ れ た 時
代 よ り も は る か 昔 に 作 ら れ た 伝 承 を 繰 り 返 し 引 用 し て い る の と は 大 き く 異 な っ て お り 、 Ris āl a
に特有の編纂スタンスであると言える。
(3) LUJ
著 者 の ム ス タ フ ァ ー ・ ア ス ア ド ・ ル カ イ ミ ー Muṣṭafā b. Aḥmad Asʽad al -Luqaymī al-Dim yāṭ ī
は 、1105/1693 年 ダ ミ エ ッ タ に 生 ま れ た シ ャ ー フ ィ イ ー 派 法 学 者 で あ る 。ダ ミ エ ッ タ に 生 ま れ
育った人物であるが、父祖にはエルサレムの有力な一族であるガーニム家を興した、ガーニ
ム ・ ブ ン ・ ア リ ー ・ マ ク デ ィ ス ィ ー Gh ānim b. ʼAlī al -M aqdisī を 持 っ て い る 。 ガ ー ニ ム の 血 統
95
は さ ら に 、預 言 者 ム ハ ン マ ド の 教 友 の ひ と り で あ り 、当 時 の メ デ ィ ナ の ア ン サ ー ル た ち の 長 老
で あ っ た サ ァ ド ・ ブ ン ・ ウ バ ー ダ ハ ズ ラ ジ ー Saʽd b. ʽUbāda al-A nṣ ārī al-Kh azrajī に 遡 る こ と
ができる。
ル カ イ ミ ー は 1133/172 0 年 に ハ ッ ジ の た め に ヒ ジ ャ ー ズ 地 方 に 旅 を し て お り 、 そ の 際 メ ッ
カ ・ メ デ ィ ナ の 知 識 人 た ち よ り 学 ん で い る 。そ の 後 エ ジ プ ト で 暮 ら し た が 、 1143/1730 年 に 故
郷 の ダ ミ エ ッ タ か ら シ リ ア に 旅 し 、シ リ ア の 各 都 市 を 訪 問 し た 後 に 、最 終 的 に は ダ マ ス カ ス に
移 住 し て い る 。 117 8/1764 年 に 同 地 で 没 し 埋 葬 さ れ た [A ʽlām ⅲ , 857; Muʽjam ⅶ , 230; Tārīkh
19-20; LUJ(H) 6-21]。
ル カ イ ミ ー は シ リ ア 訪 問 の 様 子 を 、 旅 行 記 Mawāniḥ al- Uns bi-Riḥlatī li-Wādī al- Quds に 記 録
し て い る 。彼 は シ リ ア 滞 在 中 に 様 々 な 都 市 を 訪 れ 、そ れ ら の 場 所 に あ る 遺 跡 や 聖 所 に 参 詣 し て
い る 。エ ル サ レ ム に も 1144/1732 年 に 訪 問 し て い る 。ル カ イ ミ ー は ス ー フ ィ ー と し て は ハ ル ワ
テ ィ ー 教 団 al-Ṭ arīqa al -Khalwaṭīya に 属 し て い た が 、エ ル サ レ ム で は 同 教 団 の シ ャ イ フ で あ っ
た ム ス タ フ ァ ー ・ バ ク リ ー M uṣṭafā al- Bakrī al- Ṣiddīqī を は じ め と す る 、 多 く の ス ー フ ィ ー 知
識人のもとで教えを受けている。こうした知識人の中には前述のハリーリーも含まれており、
ルカイミーは岩のドームで行われていた彼のマジュリスに出席して、講義を受けている
[LUJ(H) 12]。 ル カ イ ミ ー が LUJ を 編 纂 し た の は 、 こ の エ ル サ レ ム 滞 在 中 の 1144/1731-32 年
の こ と で あ る [LUJ(C) 19b] 。
LUJ に は 2000 年 に 、ハ ー リ ド・ア ブ ド・ア ル カ リ ー ム・ハ ム シ ャ リ ー Kh ālid ʽAbd al-Karīm
b. al-Hamsharī に よ る 校 訂 本 が 出 版 さ れ て い る 。 本 書 の 写 本 に つ い て は 、 現 時 点 で ヘ ブ ラ イ 大
学 所 蔵 写 本 、ダ ー ル ・ ア ル ク ト ゥ ブ 所 蔵 写 本 、ケ ン ブ リ ッ ジ 大 学 所 蔵 写 本 、ベ ル リ ン 州 立 図 書
館 所 蔵 写 本 の 4 本 が 知 ら れ て い る が 、 本 論 で は ケ ン ブ リ ッ ジ 写 本 に 従 っ て い る 。 LU J の 写 本
の詳細や、本論における写本選択の理由については、資料編を参照されたい 。
ル カ イ ミ ー は LUJ の 冒 頭 部 分 で 、本 書 が ミ ン ハ ー ジ ー の IA と ウ ラ イ ミ ー の UJ か ら の 要 約
で あ る こ と を 述 べ て い る 。彼 は こ の 2 つ の 作 品 を 、
「〔 こ れ ま で に 〕編 纂 さ れ た も の の う ち で 最
も 優 れ 最 も 偉 大 な も の で あ り 、こ の 方 式 で 作 ら れ た も の の う ち で 最 も 優 れ た も の 」で あ る と し 、
それらを注意深く読み込んで「2 つ〔の書〕から、旅人の楽しみとなり、滞在者や参詣者の糧
と な る よ う な も の を 要 約 」 す る こ と を 目 指 し た 、 と す る [LUJ(C) 2a] 。 LUJ は 序 章 と 8 つ の 本
章 、 結 章 の 、 計 10 章 よ り 構 成 さ れ て い る 。 各 章 の 章 題 に つ い て は 以 下 の 通 り で あ る 。
序章:聖なる地の境界と、敬神の土台となるその礎
第 1 章:バイト・アルマクディスの名称と神聖性、参詣者に贈られる高貴なる贈り物
第 2 章:神 聖 な る ク ド ス の 町 を 整 え た 者 と そ こ に 住 ん だ 者 、そ こ が 2 度 征 服 さ れ た こ と に つ い て 簡
潔に
第 3 章:アクサー・モスクと岩〔のドーム〕の様子、詳しく述べられることのない偉業
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第 4 章:クドスの町の様子と、そこにあるマシュハド
第 5 章 : ヘ ブ ロ ン の 町 と そ の モ ス ク 、神 の 友 〔 ア ブ ラ ハ ム 〕 の 物 語 と 、 彼 の マ シ ュ ハ ド に 参 詣 す る
ことの美徳
第 6 章:バイト・アルマクディスの周囲にある高貴な偉業のある村々
第 7 章 : 預 言 者 た ち 、教 友 た ち 、著 名 な 人 々 の う ち 、バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 入 っ た 人 、ま た は
知識人のうちでそこで死に埋葬された人
第 8 章:ヒドルの物語と、バイト・アルマクディスにある彼の位高き住まい
終 章 : シ ャ ー ム の 物 語 、 そ の 美 徳 と 偉 大 さ 、 そ の 場 所 の 神 聖 さ [LUJ(C) 2a]
な お ル カ イ ミ ー は 、前 述 の 通 り 本 書 を エ ル サ レ ム 参 詣 者 の た め の 書 と し て お り 、こ の 点 で 本
書 は BN 以 降 の 参 詣 記 型 FBM と し て の 性 格 を 引 き 継 い で い る 。
以 下 LUJ の 各 章 の 内 容 を 概 観 す る と 、 序 章 は シ リ ア 地 域 の 境 界 線 と 、 エ ル サ レ ム 行 政 区 と
ヘ ブ ロ ン 行 政 区 の 境 界 線 に つ い て の 章 で あ る 。シ リ ア 地 域 に つ い て は 、そ の 東 西 南 北 の 境 界 線
と 、そ の 境 界 か ら エ ル サ レ ム ま で の 距 離 に つ い て 述 べ て お り 、こ の 部 分 の 内 容 は 前 出 の Ris āla
の 第 1 章 に お け る 内 容 に ほ ぼ 一 致 す る も の で あ る 。 LU J で は こ れ に 、 エ ル サ レ ム 行 政 区 と ヘ
ブ ロ ン 行 政 区 の 範 囲 に 関 す る 記 述 が あ り 、周 辺 に あ る ど の 村 ま で が そ れ ら の 行 政 区 に 属 し 、ど
の 村 か ら は 他 の 行 政 区 に 属 す る の か と い う 情 報 が 追 加 さ れ て お り 、 こ の 部 分 は LUJ に 初 出 で
ある。
第 1 章 で は ま ず 、エ ル サ レ ム の 名 称 、エ ル サ レ ム に つ い て 述 べ た ク ル ア ー ン の 章 句 と そ の 解
釈 、 預 言 者 ム ハ ン マ ド の ス ン ナ が ま と め ら れ て い る 。 こ の 部 分 は IA の 第 1 章 の 一 部 を 要 約 し
た も の で あ る が 、 こ れ ら の 要 素 を 作 品 の 冒 頭 に 置 く と い う 形 式 は 、 そ の 他 の FBM に も 見 ら れ
た も の で あ る 。 LUJ 第 1 章 後 半 に は 、 エ ル サ レ ム の 偉 大 性 ・ 神 聖 性 に 関 す る 伝 承 ( カ テ ゴ リ
ー C) も 含 ま れ て お り 、 エ ル サ レ ム に お け る 礼 拝 の 功 徳 な ど 参 詣 に ま つ わ る フ ァ ダ ー イ ル も こ
こで取り上げられている。
第 2 章 は エ ル サ レ ム の 歴 史 に 関 す る 章 で あ り 、最 初 の ア ク サ ー・モ ス ク の 建 設 か ら ダ ビ デ と
ソ ロ モ ン に よ る 建 設 、ネ ブ カ ド ネ ツ ァ ル と ロ ー マ 帝 国 に よ る 破 壊 、ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ル ハ ッ タ
ー ブ の 征 服 、 ア ブ ド ・ ア ル マ リ ク ・ ブ ン ・ マ ル ワ ー ン に よ る 岩 の ド ー ム 建 設 、ア ッ バ ー ス 朝 カ
リ フ に よ る 再 建 、フ ァ ラ ン ジ ュ の 侵 攻 、サ ラ ー フ・ ア ッ デ ィ ー ン に よ る 征 服 と 彼 の 名 前 で 行 わ
れ た フ ト バ 、サ ラ ー フ・ア ッ デ ィ ー ン 死 後 の ア イ ユ ー ブ 朝 ス ル タ ン の エ ル サ レ ム 政 策 と い う 一
連 の 流 れ を 扱 っ て い る 部 分 で あ る ( カ テ ゴ リ ー A お よ び B)。 こ の 章 は IA の 第 2 章 と 第 9 章 、
そ し て UJ の 歴 史 部 分 を 要 約 し た も の で あ る 。本 章 が 扱 っ て い る 時 代 の 下 限 は 、IA と UJ が 共
通 し て 扱 っ て い る ア イ ユ ー ブ 朝 末 ま で で あ り 、そ れ 以 降 の マ ム ル ー ク 朝 、オ ス マ ン 朝 時 代 の 出
来事はここには述べられていない。
第 3 章 と 第 4 章 に か け て は 、 エ ル サ レ ム の 地 理 に 関 す る 章 と な っ て い る ( カ テ ゴ リ ー F)。
97
ま ず 第 3 章 が ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ の 様 子 に つ い て 述 べ た 部 分 で あ り 、ア ク サ ー・モ ス ク や 岩 の
ド ー ム 、そ の 他 鎖 の ド ー ム や ミ ー ラ ー ジ ュ の ド ー ム な ど の モ ニ ュ メ ン ト 、ハ ラ ム ・シ ャ リ ー フ
の 壁 に つ い て い る 門 な ど の 構 造 と 、そ こ に ま つ わ る 伝 承 が 取 り 上 げ ら れ て い る 。ま た 第 3 章 の
終 り に は 、ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ の 西 壁 と 北 壁 に 隣 接 す る マ ド ラ サ や ザ ー ウ ィ ヤ の 名 称 が 列 挙 さ
れ て い る 。第 4 章 が エ ル サ レ ム の 町 と そ の 郊 外 に つ い て の 章 で 、そ の 中 で は 市 内 に あ る ス ー ク
と 街 路 、マ ド ラ サ や ザ ー ウ ィ ヤ 、町 の 城 壁 の 門 、市 外 に あ る オ リ ー ブ 山 や シ ロ ア ム の 泉 な ど の
モ ニ ュ メ ン ト が 挙 げ ら れ て い る 。 こ れ ら の 部 分 は IA の 第 5 章 か ら 第 8 章 と 、 UJ 第 2 部 の 地
理 部 分 [UJ ⅱ , 45-123] を 要 約 し た も の で あ る 。こ こ で ル カ イ ミ ー は 、IA と UJ か ら そ れ ぞ れ
の 要 素 を 取 り 入 れ 、 そ れ ら を 補 う 形 で 組 み 合 わ せ て い る 。 す な わ ち 、 IA か ら は ハ ラ ム ・ シ ャ
リーフを中心としたモニュメントに参詣した者に与えられる功徳と参詣作法に関する記述を、
UJ か ら は 市 内 に あ る マ ド ラ サ や ザ ー ウ ィ ヤ 、 ス ー ク 、 街 路 、 門 、 ま た 市 内 外 に あ る 墓 地 や 泉
な ど の 名 称 を そ れ ぞ れ 引 用 し て お り 、IA の 参 詣 ガ イ ド と し て の 特 徴 と 、UJ の 地 誌 と し て の 特
徴の両方を合わせた形となっている。
LUJ の 第 5 章 は ヘ ブ ロ ン の 地 理 に つ い て の 章 で あ り 、 こ の 部 分 も 第 4 章 と 同 様 、 IA と UJ
の そ れ ぞ れ の 要 素 を 取 り 入 れ て 再 編 纂 し た も の と な っ て い る 。ル カ イ ミ ー は 、IA 第 11 章 よ り
ア ブ ラ ハ ム 一 族 の 墓 廟 の 様 子 と そ こ に 参 詣 す る 際 の 作 法 に 関 す る 伝 承 を 引 用 し 、 UJ か ら は
LUJ 第 3 、 第 4 章 と 同 じ く 、 IA で 扱 わ れ て い な か っ た ヘ ブ ロ ン の 町 の 地 理 、 す な わ ち 市 内 外
に あ る マ ド ラ サ や ザ ー ウ ィ ヤ 、泉 、墓 地 等 の 説 明 を 引 用 し て い る [UJ ⅱ , 139-1 50]。第 6 章 は 、
ヘ ブ ロ ン を 含 む エ ル サ レ ム の 周 辺 に あ る 町 と 、そ れ ら に 付 随 す る 村 々 に 関 す る 章 で あ り 、こ こ
で は ヘ ブ ロ ン 周 辺 の 村 、 ラ ム ラ 、 リ ッ ド 、 ア ス カ ラ ー ン 、 ガ ザ 、イ ェ リ コ 、 ナ ー ブ ル ス と い う
地 域 に つ い て 、そ れ ら の 場 所 が エ ル サ レ ム か ら 何 日 行 程 の 距 離 に あ る か と い う こ と や 、そ こ に
あ る 名 所 に 関 す る こ と が 述 べ ら れ て い る 。 こ の 章 の 内 容 は UJ か ら の 引 用 で あ る [UJ ⅱ ,
123-139]。
第 7 章 は エ ル サ レ ム に 縁 の 偉 人 た ち の 伝 記 集 で あ る 。ル カ イ ミ ー は こ の 章 の 形 式 と 内 容 の 大
部 分 を 、 IA 第 10 章 よ り 取 り 入 れ て い る 。す な わ ち 、人 類 の 祖 ア ダ ム に 始 ま る 預 言 者 た ち 、イ
ス ラ ー ム 以 降 で は 教 友 た ち と 彼 ら に 続 く タ ー ビ ウ ー ン 第 1 世 代 の 人 々 、さ ら に そ れ 以 降 の 著 名
人 の 順 で 、 そ れ ぞ れ の 人 物 の 略 伝 を 取 り 上 げ て い る 。 IA の 第 10 章 は MG-M の 伝 記 集 を 典 拠
と し た も の で あ る た め 、 LUJ の 第 7 章 も MG-M よ り 始 ま っ た 伝 記 集 の 形 式 を 受 け 継 い で い る
と 言 え る 。 た だ LUJ で は 、 著 者 は タ ー ビ ウ ー ン 以 下 の 人 物 に 関 す る 伝 記 部 分 の う ち 、 IA で は
扱 わ れ て い な い 人 物 の も の を UJ よ り 補 っ て お り 、 人 物 の 選 択 と い う 点 で は UJ に よ り 近 い も
の と な っ て い る( [ 表 5] 参 照 )。第 7 章 で 挙 げ ら れ て い る の は ヒ ジ ュ ラ 暦 6 世 紀 ま で の 人 物 で
あ り 、 こ れ は MG-M や IA に お け る 下 限 と 同 様 で あ る 。 UJ で は 作 品 の 後 半 部 分 で 、 さ ら に そ
れ 以 降 の 時 代 の エ ル サ レ ム と ヘ ブ ロ ン の ウ ラ マ ー 伝 が 挙 げ ら れ て い た が 、LU J で は そ の 部 分 は
取り入れられていない。
98
[表 5] 伝記集人名一覧
名前
没年
MG-M
IA
UJ
LUJ
アダム
―
○
○
別項
○
ノア
―
○
○
別項
○
アブラハム
―
○
○
別項
○
ヤコブ
―
○
○
別項
○
ヨセフ
―
○
○
別項
○
モーセ
―
○
○
別項
○
ヌンの子ヨシュア
―
○
○
別項
○
ダビデ
―
○
○
別項
○
ソロモン
―
○
○
別項
○
イザヤ
―
○
シュアイブ
―
○
別項
○
エレミヤ
―
○
別項
○
エズラ
―
○
別項
○
ザカリヤ
―
○
○
別項
○
ヨハネ
―
○
○
別項
○
イエス
―
○
○
別項
○
ヒドル
―
○
○
マリア
―
○
○
アレクサンドロス(ズー・アルカルナイン)
―
○
マフディー(救世主)
―
○
○
別項
○
ʽUmar b. al-Khaṭṭāb
d. 24/644
○
○
別項
○
Abū ʽUbayda ʽĀmir b. al-Jarrāḥ
d. 18/639
○
○
○
○
Abū al-Dardā’ ʽUwaymir b. Mālik
d. 32/652
○
○
○
○
Saʽd b. Abī Waqqāṣ
d. 1/7C
○
○
○
Saʽīd b. Zayd b. ʽAmr
d. 51/671
○
○
○
○
ʽAbd Allāh b. ʽUmar al-Khaṭṭāb
d. 73/692
○
○
○
ʽAbd Allāh b. ʽAbbās b. ʽAbd al-Muṭṭalib
d. 68/687
○
ʽAmr al-ʽĀṣ al-Sahmī
d. 43/663
ʽAbd Allāh b. ʽAmr al-ʽĀṣ
d. 65/684
○
○
別項
別項
○
別項
○
○
○
○
○
○
○
Muʽādh b. Jabal al-Anṣārī
d. 18/639
○
○
○
○
Abū Dharr Jundab al-Ghifārī
d. 32/652
○
○
○
○
Abū ʽAbd Allāh Salmān al-Fārisī
d. 36/656
○
○
Khālid b. al-Walīd al-Makhzūmī
d. 21/642
○
○
Bilāl b. Rabbāḥ al-Ḥabashī
d. 20/641
ʽAyyāḍ b. Ghanam al-Fahrī
d. 20/641
ʽAbd Allāh b. Salām b. al-Islā’īlī
d. 43/663
Yazīd b. Abī Sufyān al-ʽUmawī
d. 18/639
○
Muʽāwiya b. Abī Sufyān al-ʽUmawī
d. 60/680
○
Abū Hurayra ʽAbd al-Raḥmān b. Ṣakhr
d. 59/679
○
Abū Umāma Ṣaddī al-Bāhilī
d. 71/700
○
Abū Masʽūd ʽUqba b. ʽAmr al-Badrī al-Anṣārī
d. 40/660
○
○
99
備考
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
第2代正統カリフ
※以下教友
ウマイヤ朝カリフ
名前
没年
MG-M
ʽAwf b. Mālik al-Ashjāʽī
d. 73/692
○
Abū Jumʽ al-Anṣārī
d. 1/7C
○
Murra b. Kaʽb al-Bahzī
d. 57/677
ʽUbāda b. al-Ṣāmit al-Anṣārī
d. 34/654
Shaddād b. Aws al-Anṣārī
IA
UJ
LUJ
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
d. 58/677
○
○
○
○
Abū Rayḥāna Shamʽūn al-Azdī
d. 1/7C
○
○
○
○
Tamīm b. Aws al-Dārī
d. 40/660
○
○
○
al-Shurayd b. al-Suwayd
d. 1/7C
○
○
○
○
ʽAbd Allāh b. Abī al-Jadʽā’ al-Tamīmī
d. 1/7C
○
○
○
○
Fayrūz al-Daylamī
d. 53/673
○
○
○
Dhū al-Aṣābiʽ al-Tamīmī
d. 1/7C
○
○
○
○
Masʽūd b. Aws al-Najjārī
d. 1/7C前半
○
○
○
○
ʽAbd Allāh b. Ubayy b. Umm Ḥarām
d. 1/7C
○
○
○
○
○
○
Wāthila b. al-Asqaʽ
d. 83/702
○
Muḥammad b. al-Rabīʽ
d. 99/717-18
○
○
○
Sālim b. Qayṣar
?
○
○
○
ʽAbd al-Raḥmān b. Abī ʽUmayra al-Adzī
?
○
Ṣafīya bint Ḥayy
d. 50/670
○
Ghaḍīf b. al-Ḥārth
?
○
Kaʽb b. Mātiʽ al-Aḥbār
d. 32/652
○
Uways b. ʽĀmir al-Qaranī
d. 37/657
ʽUbayd ʽĀmil
d. 1/7C
ʽUmayr b. Saʽd al-Anṣārī
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
d. 45/665
○
○
○
Yaʽlā b. Shaddād
?
○
○
○
Jubayr b. Nufayr al-Ḥaḍramī
d. 75/694-95
○
○
○
Abū Nuʽaym al-Mu’adhdhin
?
○
○
○
Abū al-Zubayr al-Mu’adhdhin al-Dāraqṭanī
?
○
○
○
Abū Sallām Mamṭūr al-Ḥabashī
?
○
○
○
○
Abū Jaʽfar al-Jarshī
?
○
○
○
○
Khālid b. Maʽdān al-Kalāʽī
d. 104/722
○
○
ʽAbd al-Raḥmān b. Ganam al-Ashʽarī
d. 77/696-97
○
○
○
Umm al-Dardā’ Hujayma
d. p. 81/700
○
○
○
Abū al-ʽAwwām al-Mu’adhdhin
?
○
○
○
○
ʽAbd al-Malik b. Marwān
d. 86/705
○
○
別項
○
Qubayṣ b. Dhu’ayb al-Khazāʽī
d. 86/705
○
○
○
○
Khālid b. Yazīd b. Muʽāwiya
d. 90/709
○
○
ʽUmar b. ʽAbd al-ʽAzīz
d. 101/720
○
○
別項
○
Muḥārib b. Dithār al-Sudūdī
d. 116/734
○
○
○
○
Ibrāhīm b. Abī ʽAbla al-ʽUqaylī
d. 152/769
○
○
○
○
ʽAbd Allāh b. Fayrūz al-Daylamī
d. 2/8C
○
○
○
○
Rajā’ b. Ḥaywa al-Kindī
d. 112/730
○
Muḥammad b. Wāsiʽ al-Azdī
d. 123/741
○
100
○
○
○
○
備考
預言者ムハンマドの妻
※以下タービウーン
第1世代
カリフ=ウマルの工人
※以下タービウーン
第2世代以降
ウマイヤ朝カリフ
名前
没年
MG-M
IA
LUJ
備考
Walīd b. ʽAbd al-Malik b. Marwān
d. 96/715
○
○
○
ウマイヤ朝カリフ
Sulaymān b. ʽAbd al-Malik b. Marwān
d. 99/717
○
○
○
ウマイヤ朝カリフ
Ziyād b. Abī Sawda
?
○
○
○
○
Mālik b. Dīnār al-Baṣrī
d. 131/748
○
○
○
Sulaymān b. Ṭarkhān al-Tamīmī
d. 143/760
○
○
○
Rābiʽa bint Ismāʽīl al-ʽAdawīya
d. 135/752
○
○
○
Abū al-Ḥasan al-Nahrānī al-Andalsī
?
○
Muqātil b. Sulaymān
d. 150/767
○
○
○
Ibrāhīm b. Muḥammad al-Gharyābī
?
○
○
○
Abū ʽUtba ʽAbbād al-Khawwāṣ
?
○
○
○
Sufyān b. Saʽīd al-Thawrī
d. 161/778
○
○
○
○
Ibrāhīm b. Adham al-Tamīmī
d. 161/778
○
○
○
○
ʽAbd al-Raḥmān b. ʽAmr al-Awzāʽī
d. 157/774
○
○
○
Baqīya b. al-Walīb al-Ḥumayrī
d. 197/812
Layth b. Saʽd al-Fahmī
d. 175/791
○
○
○
○
Abū Jaʽfar ʽAbd Allāh al-Manṣūr
d. 158/775
○
○
別項
○
アッバース朝カリフ
al-Mahdī b. al-Manṣūr
d. 169/785
○
○
別項
○
アッバース朝カリフ
Wakīʽ b. al-Jarrāḥ al-Ru’āsī
d. 197/812
○
○
○
Muḥammad b. Idrīs al-Shāfiʽī
d. 204/820
○
○
Mu’ammal b. Ismāʽīl al-Baṣrī
d. 206/822
○
○
Sarī b. al-Mughallas al-Saqaṭī
d. 253/867
○
Dhū al-Nūn al-Miṣrī
d. 245/859
○
Muḥammad b. Karrām
d. 255/869
Ṣāliḥ b. Yūsuf al-Wāsiṭī
d. 282/895-96
Bakr b. Sahl al-Dimyāṭī
○
UJ
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
d. 289/901
○
○
Aḥmad b. Yaḥyā al-Baghdādī
d. 341/952
○
○
Bishr b. al-Ḥārith al-Ḥāfī
?
○
○
○
○
ʽAbd Allāh b. ʽĀmir al-ʽĀmirī
?
○
○
○
○
Abū ʽAbd Allāh Muḥammad b. Khafīf
d. 371/982
○
○
○
○
Abū Muḥammad ʽAbd Allāhb. al-Walīd
d. 386/996
Qutham al-Zāhid
?
○
○
Abū al-Ḥasan ʽAlī b. Muḥammad al-Baghdādī
d. 341/952-53
○
○
Jaʽfar b. Muḥammad al-Nīsābūrī
?
○
ʽAbd al-Wāḥid b. Muḥammad al-Shīrāzī
d. 486/1093
Ibn al-Qazwīnī
?
Abū al-Maʽālī al-Musharraf b. al-Murajjā
d. c. 450/1058
○
○
Sallāma b. Ismāʽīl al-Maqdisī
d. 480/1087
○
○
Abū al-Fatḥ Naṣr b. Ibrāhīm al-Maqdisī
d. 490/1097
○
○
Abū al-Faḍl ʽAṭā’
?
○
○
エルサレムの
シャーフィイー派法学者
Makkī b. ʽAbd al-Sallām al-Rumaylī
d. 492/1099
○
○
FBM(散逸)の著者
Abū al-Qāsim ʽAbd al-Jabbār al-Rāzī
d. 492/1098
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
101
FBM-IMの著者
MG-M
IA
UJ
LUJ
名前
没年
Muḥammad b. Ḥasan al-Lāshāʽūnī
d. 506/1112
Abū al-Faḍl Muḥammad b. Ṭāhir al-Maqdisī
d. 507/1113
Abū al-Faḍl ʽAlī b. Aḥmad
?
Muḥammad b. al-Walīd al-Ṭarṭūshī
d. 520/1126
○
Muḥammad b.Muḥammad al-Ghazālī
d. 505/1111
Abū al-Ghanā’im Muḥammad b. ʽAlī
d. 510/1116-17
Muḥammad b. Aḥmad al-ʽUmawī al-Maqdisī
d. 527/1132-33
○
ʽAlī b. Aḥmad al-Rabaʽī al-Maqdisī
d. 531/1117
○
Ḥasan b. Faraj al-Maqdisī
d. 535/1141
○
Abū al-Fatḥ Sulṭān b. Ibrāhīm al-Maqdisī
d. 535/1140
○
Abū Bakr Muḥammad al-ʽArabī
d. 543/1148
○
Muḥammad b. Aḥmad al-Daybādī
d. 529/1134-35
○
○
○
○
Muḥammad b. Ḥātim al-Ṭūsī
?
○
○
○
○
Abū al-Rūḥ Yāsīn b. Sahl
d. p. 512/1118-19
○
ʽAbd Allāh b. Walīd al-Anṣārī
?
○
Abū Bakr b. al-ʽArabī Muḥammad al-Muʽāfirī
d. 543/1149
Abū Bakr Muḥammad al-Jurjānī
d. 544/1149-50
Abū Saʽd ʽAbd al-Karīm b. al-Samʽānī
備考
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
○
d. 561/1166
○
○
○
○
Ṣalāḥ al-Dīn Yūsuf b. Ayyūb
d. 589/1193
○
○
別項
Abū ʽAbd Allāh Muḥammad al-Qurashī
d. 599/1202-03
○
○
114
89
合計
○
アイユーブ朝スルタン
○
105
126
※別項を除く
続 く 第 8 章 は 、預 言 者 ヒ ド ル に 関 す る 伝 承 の み を 集 め た 短 い 章 で あ る 。ヒ ド ル は エ ル サ レ ム
に 関 わ り の 深 い 預 言 者 と し て 、こ れ ま で の FBM で も 各 所 で そ の 伝 承 が 取 り 上 げ ら れ て き た が 、
ヒ ド ル の た め に ひ と つ の 章 を 設 け る の は LUJ に 独 自 の ス タ イ ル で あ る 。 こ れ に つ い て は 、 本
章 の 終 わ り に 、著 者 自 身 が 夢 の 中 で ヒ ド ル に 会 い 、彼 の 祈 願 を 受 け た と い う こ と が 書 か れ て お
り [LUJ(C) 52a]、こ の た め に 著 者 が ヒ ド ル に 対 し 特 別 の 好 意 を 示 し て い る の だ と も 考 え ら れ る 。
LUJ の 終 章 は フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ッ シ ャ ー ム に 充 て ら れ て い る 。 こ の 部 分 は IA の 第 17 章 と
終 章 を 典 拠 と し て お り 、シ リ ア 地 域 の 5 つ の 行 政 区 の 範 囲 、シ リ ア に 関 し て 述 べ ら れ た ク ル ア
ー ン の 章 句 と そ の 解 釈 、シ リ ア 地 域 と 、ダ マ ス カ ス を は じ め と す る 各 都 市 の 美 徳 が 取 り 上 げ ら
れている。
ル カ イ ミ ー は フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ッ シ ャ ー ム を 書 き 終 え た と こ ろ で 、「 Itḥāf al-Akhiṣṣāʼ と
al- Uns al-Jalīl か ら の 要 約 は 以 上 で あ る 。 万 世 の 主 た る 神 に 称 賛 あ れ 」 と 述 べ て 一 旦 筆 を 置 い
た 後 に 、「 シ リ ア に 埋 葬 さ れ て い る 人 々 の 中 に は 、 我 ら が い と 高 き 父 祖 た る サ ァ ド ・ ブ ン ・ ウ
バ ー ダ・ ア ン サ ー リ ー・ ハ ズ ラ ジ ー が い る 。我 々 は こ の 要 約〔 の 書 〕を 、彼 と 彼 の 徳 の 話 、ア
ン サ ー ル の 美 徳 の 一 部 の 話 で 終 え よ う 」 [LUJ(C) 55a] と 言 っ て 、 自 身 の 祖 先 に 当 た る メ デ ィ
ナ の 教 友 、サ ァ ド ・ ブ ン ・ ウ バ ー ダ (d. ca. 15/636) に ま つ わ る 伝 承 を 取 り 上 げ て い る 。 そ こ で
102
は サ ァ ド ・ ブ ン ・ ウ バ ー ダ が 、ア ン サ ー ル と し て 預 言 者 ム ハ ン マ ド に 忠 誠 を 誓 い 、彼 に 信 頼 さ
れ た 人 物 で あ っ た こ と や 、彼 の 寛 大 な 振 る 舞 い 、預 言 者 ム ハ ン マ ド が「 お お 神 よ 、あ な た の 祝
福 と 恩 寵 を 、サ ァ ド ・ ブ ン ・ ウ バ ー ダ の 一 族 に 与 え 給 え 」と い う 祈 願 を 彼 の た め に 行 っ た と い
う 伝 承 な ど が 述 べ ら れ て い る [LUJ(C) 55a-57b] 。 本 書 の 記 述 に 従 え ば 、 ル カ イ ミ ー こ の サ ァ
ド ・ ブ ン ・ ウ バ ー ダ の 21 代 目 の 子 孫 で あ る と い う [LUJ(C) 37b] 。 著 者 は こ の ア ン サ ー ル の 父
祖の美徳を述べた後に、預言者ムハンマドによる「アンサールの子孫たちに祝福を与え給え」
と い う 祈 願 に つ い て の 解 釈 を 取 り 上 げ 、こ の 祈 願 は 終 末 の 日 に 至 る ま で の あ ら ゆ る ア ン サ ー ル
の 子 孫 た ち に 及 ぶ も の で あ る と す る 解 釈 を 引 用 し 、祖 先 を 通 じ て 自 身 に も 与 え ら れ て い る 祝 福
を強調している。
サ ァ ド ・ ブ ン ・ ウ バ ー ダ は エ ル サ レ ム を 訪 れ た こ と は な い た め 、 従 来 の FBM の 伝 記 で は 挙
げ ら れ て こ な か っ た 教 友 で あ る が 、著 者 は こ こ で 、サ ァ ド は 預 言 者 ム ハ ン マ ド の 死 後 シ リ ア に
移 住 し そ こ で 没 し た と い う 伝 承 を 引 い て 、LUJ 終 章 の フ ァ ダ ー イ ル・ア ッ シ ャ ー ム に 関 連 づ け
て い る 。著 者 は ま た LUJ の 別 の 箇 所 で 、自 身 の 14 代 前 の 祖 先 で あ る ガ ー ニ ム ・ マ ク デ ィ ス ィ
ー の 名 を 挙 げ 、こ の 人 物 の 血 統 が エ ル サ レ ム 市 内 の ガ ワ ー ニ マ 地 区 に 住 ん で い た 一 族 に 由 来 し
て い る と 述 べ 、 自 分 自 身 と エ ル サ レ ム と の 間 の 繋 が り の 深 さ を 強 調 し て も い る [LUJ(C) 37b] 。
ル カ イ ミ ー 自 身 は エ ジ プ ト の ダ ミ エ ッ タ 出 身 で あ る が 、エ ル サ レ ム で の 滞 在 経 験 を 持 ち 、ま た
ダマスカスに移住して同地で没しているところからも、シリア地域と深い地縁を持っており、
自身もそれを意識していたと言える。
LUJ 全 体 の 構 成 を 振 り 返 れ ば 、 本 書 は ほ ぼ 全 編 に 渡 っ て IA と U J に 依 拠 し て お り 、 参 詣 記
型 FBM に 伝 記 集 や フ ァ ダ ー イ ル ・ ア ッ シ ャ ー ム の 要 素 を 組 み 入 れ た IA と 、 エ ル サ レ ム の 総
合 的 な 地 誌 と し て の 性 格 を 持 つ UJ の 2 作 品 か ら 、そ れ ぞ れ の 要 素 を 要 約 し た 形 で 抜 き 出 し て
編 集 し 直 し た も の と な っ て い る 。こ の 点 で 本 書 は 、本 稿 第 3 章 で 考 察 し た マ ム ル ー ク 朝 時 代 の
FBM の 流 れ を そ の ま ま 受 け 継 い だ 作 品 と な っ て い る 。ル カ イ ミ ー が こ の 2 作 品 以 外 の FBM を
参 照 し て い る か ど う か は LUJ の 記 述 か ら 判 断 で き な い が 、 IA と U J は 共 に そ れ 以 前 の 時 代 に
編 纂 さ れ た FBM 作 品 群 の 多 く を 典 拠 と し て 作 ら れ た も の で あ る た め 、結 果 と し て LUJ は 間 接
的 に 多 く の FBM 作 品 群 の 要 素 を 取 り 入 れ て い る こ と に な る 。 こ の 点 よ り LUJ は 、 FBM 作 品
群 の 変 遷 の ひ と つ の 帰 結 と し て 、 ま た FBM の そ れ ぞ れ の 要 素 を 凝 縮 し た 作 品 と し て 、 重 要 な
意味を持っていると言える。
(4) ḤI
著 者 の ム ハ ン マ ド ・ ブ ン ・ ム ハ ン マ ド ・ ハ ル ワ テ ィ ー Muḥ ammad b. M uḥammad al-T āflātī
al-Kh alwatī は モ ロ ッ コ 生 ま れ の 知 識 人 で あ る 。幼 少 時 に ト リ ポ リ に 移 住 し 、10 代 の 頃 に カ イ
ロ の ア ズ ハ ル 大 学 で 学 問 を 修 め た 。 そ の 後 19 歳 に な っ た ハ ル ワ テ ィ ー は 、 母 親 に 会 い に 故 郷
の モ ロ ッ コ に 海 路 で 戻 る 途 中 、フ ァ ラ ン ジ ュ の 海 賊 に 捕 え ら れ 、 2 年 間 を 捕 虜 と し て マ ル タ 島
103
で 過 ご す こ と に な っ た 。後 に 海 賊 の 手 を 逃 れ て エ ジ プ ト に 戻 り 、そ こ か ら ヒ ジ ャ ー ズ や イ エ メ
ン 、イ ラ ク 、シ リ ア 、イ ス タ ン ブ ー ル 等 の 様 々 な 地 域 を 旅 し 、最 終 的 に エ ル サ レ ム に 移 住 し た 。
も と は マ ー リ ク 派 に 属 し て い た が 、後 に は ハ ナ フ ィ ー 派 に 転 向 し て お り 、エ ル サ レ ム で は ハ ナ
フ ィ ー 派 の ム フ テ ィ ー と し て 活 動 し て い た 。1191 /1777 年 に エ ル サ レ ム で 没 し て い る [A ʽlām ⅶ ,
69; Muʽjam ⅲ , 648-9; Rafiq 2000 : 50 - 51]。
ḤI に も 校 訂 本 が な く 、 本 論 で は プ リ ン ス ト ン 大 学 図 書 館 Princeton University Libra ry 所
蔵 写 本 ( Collection on Isla mic Manuscripts, Ga rrett, No. 51 5Y) を 利 用 し て い る 。
ḤI は プ リ ン ス ト ン 写 本 に し て 6 葉 の 小 さ な 作 品 で あ る が 、 本 論 で こ れ ま で に 取 り 上 げ て き
た FBM 作 品 群 と は 全 く 異 な る 形 式 で 編 纂 さ れ て い る 。 本 書 は 、 ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ と 岩 に つ
い て の 30 の 質 問 と そ れ に 対 す る 回 答 と い う 、 一 問 一 答 形 式 で 構 成 さ れ て い る 。 ハ ル ワ テ ィ ー
は 本 書 を 編 纂 し た 動 機 を 、「 親 愛 な る 友 人 、 こ の 高 き 王 国 の 地 方 の 知 事 で あ る ハ ー ッ ジ ー ・ ム
ハ ン マ ド ・ ア ー ガ ー Ḥājjī Muḥ ammad Āghā が 、 そ う し た こ と に つ い て 私 に 尋 ね た 」 こ と に 対
す る 返 答 で あ る と し て い る [ḤI 150b] 。 な お 本 書 の 末 尾 に は 、 そ の 編 纂 が 11 91/1777 年 で あ る
旨 が 記 さ れ て お り 、 本 書 の 完 成 は ハ ル ワ テ ィ ー の 死 の 直 前 で あ っ た こ と が 分 か る [ḤI 156a]。
本 書 に お い て 挙 げ ら れ て い る 30 の 質 問 と は 以 下 の 通 り で あ る 。
第 1 の 質 問 : そ れ ( ア ク サ ー ・ モ ス ク ) を 最 初 に 建 て た 者 は 誰 か 、 そ れ は い つ 建 て ら れ た の か [ḤI
15 0b]。
第 2 の 質 問 : そ の 後 そ こ を 建 て た 者 は 誰 か [ḤI 15 1a]。
第 3 の 質 問 : そ の 長 さ と 幅 [ḤI 15 2a] 。
第 4 の質問:そこはあらゆる預言者たちにとってのキブラであったか。
第 5 の質問:岩やそのドームの周りを、カアバのようにタワーフすることは認められているか。
第 6 の 質 問:選 ば れ し 方( 預 言 者 ム ハ ン マ ド )は ミ ー ラ ー ジ ュ の 夜 、ど の 門 か ら そ こ に 入 っ た か [ḤI
15 2b]。
第 7 の質問:ブラークが繋がれた輪はどの場所にあるか。
第 8 の 質 問 : ミ ー ラ ー ジ ュ は 岩 の 上 か ら で あ っ た の か 、そ れ と も「 ミ ー ラ ー ジ ュ の ド ー ム 」と し て
知られているドームのある場所からであったのか。
第 9 の質問:彼はミーラージュの夜、預言者たちを率いてどこに立っていたのか。
第 10 の 質 問 : そ の 礼 拝 は 今 あ る こ の 〔 モ ス ク の 〕 上 で 行 わ れ た の か 、 あ る い は 一 部 の 者 が 主 張 し
て い る よ う に 古 い ア ク サ ー ・ モ ス ク で 行 わ れ た の か [ḤI 15 3a]。
第 11 の 質 問 : 彼 は 岩 の 下 に 入 っ て そ こ で 礼 拝 し た か 。
第 12 の 質 問 : ミ ー ラ ー ジ ュ は 何 を 通 っ て 行 わ れ た の か 。
第 13 の 質 問 : バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 岩 は 現 世 の 岩 で あ る か 、 そ れ と も 楽 園 の 岩 で あ る か 。
第 14 の 質 問 : バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 岩 は 〔 地 面 と 〕 繋 が っ て い る か 否 か 。
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第 15 の 質 問 : ミ ー ラ ー ジ ュ は 真 っ 直 ぐ で あ っ た か 、 曲 が っ て い た か 。 ま た 彼 の 昇 天 は ど う い う も
の で あ っ た か [ḤI 154 a]。
第 16 の 質 問 : 彼 は ブ ラ ー ク に 乗 っ て 昇 天 し た の か 、 あ る い は 戻 っ て 来 る ま で そ れ を モ ス ク に 繋 い
で置いていったのか。
第 17 の 質 問 : バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 岩 は 現 世 で 最 も 高 い 場 所 で あ る か 、 そ れ と も 大 地 に 最 も
近い場所であるか。
第 18 の 質 問 : モ ス ク の ど の 場 所 が 最 も す ぐ れ て い る か [ḤI 154 b]。
第 19 の 質 問 : こ の 吊 り 下 が っ て い る 岩 は 、 ド ー ム の 下 に 露 出 し て い る の か 、 あ る い は そ の 中 に は
何か大地の下に隠れているものがあるのか。
第 20 の 質 問 : 岩 の 美 点 は 残 っ て い る か 、 あ る い は 神 聖 な る カ ア バ の 美 点 に 置 き 換 え ら れ て し ま っ
たのか。
第 21 の 質 問 : 岩 に は 、 参 詣 案 内 人 た ち が 言 い 認 め て い る 通 り 、 舌 が あ る か 。
第 22 の 質 問 : 神 聖 な る 岩 は ク ル ア ー ン の 中 で 言 及 さ れ て い る か 否 か [ḤI 1 55 a] 。
第 23 の 質 問:ア ク サ ー・モ ス ク の 美 点 に つ い て 、ハ デ ィ ー ス の 中 に 何 か 真 正 な も の が あ る か 否 か 。
第 24 の 質 問 : バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に お け る 礼 拝 の 報 い は い か ほ ど か 。
第 2 5 の 質 問 :「 ア ク サ ー 」 と は モ ス ク 全 体 の こ と か 、 あ る い は 今 日 ミ ン バ ル の あ る 場 所 と し て 知
ら れ て い る 箇 所 の こ と か [ḤI 15 5b]。
第 26 の 質 問 : 彼 は イ ス ラ ー の 夜 、 ア ク サ ー ・ モ ス ク へ の 挨 拶 と し て 礼 拝 し た か 否 か 、 ま た 彼 が そ
の礼拝を行ったのはどの場所であったか。
第 27 の 質 問 : 礼 拝 〔 の 価 値 〕 が 倍 に な る と い う の は モ ス ク に 特 別 な こ と で あ る の か 、 あ る い は そ
の町に特別なことであるのか、あるいはそうではないのか。
第 28 の 質 問 : ヒ ド ル は 、 毎 年 ラ マ ダ ー ン に バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に て 断 食 し た か 否 か 。
第 29 の 質 問 : 我 ら が 主 人 ソ ロ モ ン は 、 彼 の 父 と 共 に ア ク サ ー ・ モ ス ク に 埋 葬 さ れ た か [ḤI 1 5 5 a ] 。
第 30 の 質 問 : ア ク サ ー ・ モ ス ク を 修 繕 し た の は 誰 か 。
以 上 30 の 質 問 の う ち 、 第 1~ 第 5 問 、 第 23 ~ 第 25 問 、 第 27 ~ 第 30 問 は ハ ラ ム ・ シ ャ リ
ー フ の 成 立 と そ の 美 徳 に つ い て 、 第 6 ~ 第 12 問 、 第 15 ~ 第 1 6 問 は 預 言 者 ム ハ ン マ ド の ミ ー
ラ ー ジ ュ に つ い て 、第 13~ 第 14 問 、 第 17~ 第 22 問 は 岩 の 美 徳 に つ い て の も の で あ る 。 ハ ル
ワ テ ィ ー は そ れ ぞ れ の 質 問 に 対 し て 、伝 承 家 た ち が ど の よ う な 見 解 を 述 べ て き た か 、そ れ ら の
見 解 が 真 正 な も の で あ る か ど う か 、ま た あ る 問 題 に 対 し て 複 数 の 見 解 が あ る 場 合 は 、ど ち ら の
方 が よ り 正 し い か 、 と 言 っ た こ と を 述 べ て 回 答 と し て い る 。 例 え ば 第 16 の 質 問 に つ い て は 、
「 答 え:彼 は ブ ラ ー ク に 乗 っ て 昇 天 し た と は 言 わ れ て い る が 、ハ デ ィ ー ス 伝 承 者 た ち が よ り 重
要 視 し て い る の は 、彼 ら が 真 正 で あ る と し て い る 通 り 、ブ ラ ー ク は 繋 が れ た ま ま 置 い て お か れ 、
彼 は 彼 自 身 で 昇 天 し た と い う こ と で あ る 」 [ḤI 154a] と し て い る 。
105
こ れ ら の 質 問 は 内 容 が ハ ラ ム ・シ ャ リ ー フ と 岩 、ミ ー ラ ー ジ ュ に 限 定 さ れ て お り 、そ の 大 部
分 は 既 存 の FBM で す で に 議 論 さ れ て い る も の で あ る 。し か し 第 15 問 や 第 1 6 問 の よ う に 、従
来 の 作 品 で は 触 れ ら れ て い な か っ た 詳 細 に つ い て の 問 い か け も あ る 。ま た こ れ ら の 質 問 の 大 半
は 、「 ~ で あ る の か 、そ れ と も ~ で あ る の か 」と い っ た 二 択 形 式 か 、「 ~ で あ る か 否 か 」 と い っ
た イ エ ス ノ ー 形 式 を と っ て い る 。こ こ か ら 、上 記 の テ ー マ に つ い て の 曖 昧 な 部 分 を 明 ら か に し 、
正 し い 知 識 を 伝 え よ う と す る 著 者 の 姿 勢 を 伺 う こ と が で き る 。 ḤI は 、 ハ ル ワ テ ィ ー が 実 際 に
ム ハ ン マ ド・ア ー ガ ー と の 間 に こ の よ う な 問 答 を 行 い 、ウ ラ マ ー と し て そ れ に 応 え た も の を 書
き留めた作品であると見ることができる。
ḤI の 第 3 0 の 質 問 で は ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 整 備 に つ い て 、「 答 え : 諸 王 は 、 そ こ や 岩 の ド
ー ム の 中 の 悪 く な っ た 部 分 を 修 繕 し 続 け て き た 。オ ス マ ン 家 の 諸 王 も 、そ れ に つ い て は 細 心 の
注 意 を 払 っ て い る 」[ḤI 15 6a] と あ り 、Mustaqṣā や Risāl a と 同 様 、オ ス マ ン 朝 政 府 に よ る エ
ルサレム政策を意識する記述が見られる。
2 . オ ス マ ン 朝 期 FBM の 傾 向
(1) 著 者 の 出 身 地 と 法 学 派
オ ス マ ン 朝 時 代 の FBM 編 纂 者 ( [表 1 ] 29-34) の 出 身 地 を 見 る と 、 こ こ で も ハ デ ィ ー ス 集
型 FBM 編 纂 者 や マ ム ル ー ク 朝 時 代 の 編 纂 者 た ち と 同 様 に 、シ リ ア 出 身 者 が 大 半 を 占 め て い る 。
ル カ イ ミ ー が ダ ミ エ ッ タ 出 身 、ハ ル ワ テ ィ ー が モ ロ ッ コ 出 身 で あ る が 、こ の 両 名 と も が 後 半 生
をそれぞれダマスカスとエルサレムに移住して送っており、ともに移住先で没しているため、
彼らについてもシリア地域に深い地縁を持つ人物であったと言うことができる。
著 者 た ち の 法 学 派 に つ い て は 、所 属 法 学 派 が 明 ら か に な っ て い る 5 名 の う ち 、シ ャ ー フ ィ イ
ー 派 が 2 名 、ハ ナ フ ィ ー 派 が 3 名 と な っ て お り 、 マ ム ル ー ク 朝 期 ま で の FBM 編 纂 者 の 間 で は
シ ャ ー フ ィ イ ー 派 が 優 勢 で あ っ た の に 対 し 、こ こ で は ハ ナ フ ィ ー 派 ウ ラ マ ー の 優 勢 が 見 ら れ る 。
し か し な が ら こ う し た ハ ナ フ ィ ー 派 の 優 勢 は 、オ ス マ ン 朝 に お い て は 公 式 法 学 派 が ハ ナ フ ィ ー
派 と な り 、オ ス マ ン 朝 政 権 が ハ ナ フ ィ ー 派 優 遇 政 策 を 取 っ た こ と に 由 来 す る 当 然 の 結 果 で あ る
と言える。
ア ブ ド ゥ ル カ リ ー ム ・ ラ ー フ ェ ク Abd ul-Kalim Rafeq は 、 10/16 世 紀 か ら 11/17 世 紀 に か
けての時期に、それまでシリアにおける主要法学派であったシャーフィイー派の割合が減り、
代 わ っ て ハ ナ フ ィ ー 派 の 割 合 が 増 加 し た と し 、こ れ を シ ャ ー フ ィ イ ー 派 ウ ラ マ ー が オ ス マ ン 朝
の 支 配 下 で 自 身 の 立 場 を 維 持 す る た め に 、ハ ナ フ ィ ー 派 へ の 法 学 派 の 変 更 を 行 っ た た め で あ る
と し て い る 。ラ ー フ ェ ク は 、ダ マ ス カ ス の 伝 記 集 著 者 で あ っ た ム ハ ン マ ド ・ ハ リ ー ル ・ ム ラ ー
デ ィ ー M uḥ ammad Kh alīl al -Mur ādī (d. 1206/1791) の ウ ラ マ ー 伝 Silk al-Durar fī Aʽyān al- Qar n
106
al-Thānī ʽAshar a よ り 、 12/18 世 紀 シ リ ア に お い て 、 法 学 派 の 明 ら か に な っ て い る 360 名 の ウ
ラ マ ー の う ち 、 約 51%に あ た る 187 名 が ハ ナ フ ィ ー 派 、 約 41% に あ た る 147 名 が シ ャ ー フ ィ
イ ー 派 で あ っ た と 計 数 し て い る [ Rafeq 1999: 67-69, 73] 。 ま た ラ ー フ ェ ク は 、 同 時 代 エ ル サ レ
ム 在 住 の ウ ラ マ ー に 限 定 し た 場 合 の 割 合 に つ い て も 計 数 し て い る が 、 そ こ で は 全 27 名 の う ち
約 52%に あ た る 14 名 が ハ ナ フ ィ ー 派 、約 19%に あ た る 5 名 が シ ャ ー フ ィ イ ー 派 と な っ て お り 、
や は り ハ ナ フ ィ ー 派 の 優 勢 が 見 ら れ る [ Rafeq 2000: 47 -48] 。 オ ス マ ン 朝 時 代 の FBM 編 纂 者 の
法 学 派 の 割 合 も 、こ う し た 傾 向 に 一 致 し て い る 。モ ロ ッ コ 出 身 の ハ ル ワ テ ィ ー は 、も と は マ グ
リ ブ で 優 勢 で あ っ た マ ー リ ク 派 に 所 属 し て い た が 、カ イ ロ や エ ル サ レ ム で 過 ご す 中 で ハ ナ フ ィ
ー 派 に 転 向 し て お り 、こ れ は 現 地 の ウ ラ マ ー が 当 時 の 情 勢 に 従 っ て 法 学 派 を 変 更 す る 例 の ひ と
つ で あ る と 言 え よ う 。従 っ て こ れ ま で の 時 代 と 同 様 、そ の 当 時 の シ リ ア に お け る 法 学 派 の 状 況
と FBM 編 纂 者 の 所 属 法 学 派 と の 間 に 大 き な 違 い は な く 、 こ れ に つ い て 何 ら か の 特 殊 な 傾 向 を
指摘することはできない。
(2) FBM 編 纂 者 と オ ス マ ン 朝 為 政 者 と の 接 近
マ ム ル ー ク 朝 時 代 に 編 纂 さ れ た IA と UJ に ほ ぼ 全 面 的 に 依 拠 し て い る LUJ を 別 に し て 、オ
ス マ ン 朝 時 代 に 編 纂 さ れ た FBM に は 、 従 来 の 作 品 に は 見 ら れ な か っ た 特 徴 を 見 出 す こ と が で
きた。その 1 つが、作品中にオスマン朝為政者の名前が言及され、その人物に対する讃美や、
場合によっては作品そのものがその人物に対して捧げられるというものである。ここでは
Mustaqṣ ā が ス ル タ ン = ス レ イ マ ン 1 世 の ワ ズ ィ ー ル 、 ア リ ー ・ パ シ ャ に 、 Risāl a が ス ル タ ン
= ア フ メ ト 3 世 の ワ ズ ィ ー ル 、 メ フ メ ト ・ エ フ ェ ン デ ィ ー に 対 し て 捧 げ ら れ て お り 、 ま た ḤI
も そ の 時 代 の エ ル サ レ ム の 知 事 で あ っ た ハ ー ッ ジ ー・ム ハ ン マ ド・ア ー ガ ー の 名 前 を 出 し て い
る。
従 来 の FBM で は 、 こ の ジ ャ ン ル の 作 品 の 性 質 上 、 そ れ ぞ れ の 作 品 が 編 纂 さ れ た 当 時 の エ ル
サ レ ム の 政 治 状 況 、エ ル サ レ ム に 対 す る そ の 時 代 の 為 政 者 の 政 策 が 言 及 さ れ る こ と は 少 な か っ
た 。 FBM 著 者 は 同 時 代 の そ う し た 状 況 に は ほ と ん ど 興 味 を 示 し て お ら ず 、 著 者 と 為 政 者 の 間
に は 一 定 の 距 離 が あ っ た 。例 え ば 為 政 者 側 が 自 身 の 政 策 の 正 当 性 を ア ピ ー ル す る た め に 、シ リ
ア の ウ ラ マ ー に FBM の 編 纂 を 依 頼 し た り 、 逆 に 著 者 の 側 が 自 著 を 為 政 者 に 献 呈 す る こ と で 政
権 の プ ロ パ ガ ン デ ィ ス ト と し て の 役 割 を 務 め た り と い う よ う な 事 実 は 、 現 存 す る FBM の 記 述
か ら は 読 み と れ な か っ た 。 FBM 作 品 群 に お い て 著 者 が 同 時 代 の 為 政 者 の エ ル サ レ ム 政 策 に つ
い て 言 及 す る の は 、マ ム ル ー ク 朝 末 期 成 立 の UJ が 初 め て の こ と と な り 、 こ こ で 著 者 の ウ ラ イ
ミーは、当時のスルタン=カーイトバーイの治世中の出来事について述べている。
UJ 以 降 の FBM に お い て 当 時 の エ ル サ レ ム の 為 政 者 の 名 前 が 言 及 さ れ 、 FBM 著 者 と 政 権 側
に 接 近 が 見 ら れ る よ う に な っ た こ と の 一 因 に は 、当 時 の エ ル サ レ ム を 取 り 巻 く 環 境 の 不 安 定 さ
が あ っ た と 考 え ら れ る 。 UJ が 編 纂 さ れ た マ ム ル ー ク 朝 末 期 に は 、 エ ル サ レ ム 周 辺 は 遊 牧 ア ラ
107
ブ ・ ク ル ド の 襲 撃 や 現 地 の 知 事 た ち の 反 乱 が 頻 発 し て い た [UJ ⅱ , 414-502] 。 ま た オ ス マ ン 朝
以 降 も 、ス ル タ ン た ち は エ ル サ レ ム の 政 治 ・軍 事 的 安 定 を 重 要 視 せ ず 、そ の 治 安 は 常 に 不 安 定
な も の で あ っ た 。 Risāla に は 、 ス ル タ ン = セ リ ム 1 世 が エ ル サ レ ム を 征 服 し た と き 、 そ れ ら
の 地 域 が 遊 牧 ア ラ ブ に 荒 ら さ れ 無 政 府 状 態 に 陥 っ て い た こ と や 、そ の 後 も 周 辺 の 村 の 農 民 た ち
al-fall āḥ ūn が 反 乱 を 起 こ し 、 街 道 に 陣 取 っ て 人 々 を 略 奪 す る と い っ た 出 来 事 が あ っ た こ と が
述 べ ら れ て い た [Risāl a 17b-18a, 37a] 。 そ の 一 方 で こ の 時 代 に は 、 UJ や LU J に お い て 述 べ ら
れ て い る よ う に 、エ ル サ レ ム に は 多 く の 宗 教 施 設 が 整 い 、エ ル サ レ ム は ア ラ ブ・ イ ス ラ ー ム の
文 化 ・宗 教 的 中 心 地 の ひ と つ と し て の 立 場 を 確 立 し て い た 。そ う し た 状 況 に お い て 、エ ル サ レ
ム の ウ ラ マ ー は そ れ ら の 宗 教 施 設 を 維 持 す る た め に は 中 央 政 権 に 依 存 せ ざ る を 得 ず 、政 権 側 が
エ ル サ レ ム に 対 し て ど の よ う な 対 応 を 行 う の か に 注 目 し 、中 央 か ら 派 遣 さ れ て く る 行 政 官 と 接
近 し て い っ た の で あ ろ う 。 Risāla に 見 ら れ た 、 メ フ メ ト ・ エ フ ェ ン デ ィ ー の 治 水 事 業 に 対 す
る 讃 美 か ら は 、こ う し た 行 い を 称 揚 し 、為 政 者 側 か ら エ ル サ レ ム に 対 す る 貢 献 を 引 き 出 そ う と
する意図が感じられる。
(3) ス ー フ ィ ズ ム の 影 響
オ ス マ ン 朝 時 代 に 編 纂 さ れ た FBM の う ち 、M ustaqṣā と Risāl a に は ス ー フ ィ ズ ム の 強 い 影
響 が 見 ら れ た 。 ま ず M ustaqṣā で は 、 従 来 の 伝 記 集 の 形 式 を 踏 襲 し つ つ 、 6/1 3 世 紀 か ら 10/16
世紀にエルサレムとその周辺で没しそこに埋葬されたスーフィーの聖者のみを扱った聖者伝
が 挙 げ ら れ て い た 。 ま た Ris āl a で は 、 預 言 者 た ち や 聖 者 た ち の 墓 廟 の あ る 場 所 と 、 そ れ ら に
参 詣 し た 者 に 起 こ っ た 奇 跡 に 関 す る 逸 話 が 述 べ ら れ て い た 。こ れ ら の 記 述 よ り 、当 時 の エ ル サ
レム周辺で聖者廟への参詣が盛んに行われていたことが明らかとなる。
エルサレムは、古くからスーフィズムとのつながりの強い場所であった。スーフィズムは、
2/8 世 紀 半 ば の ア ッ バ ー ス 朝 成 立 ご ろ か ら イ ス ラ ー ム 思 想 界 に お い て 見 ら れ る よ う に な っ て い
た 禁 欲 主 義 ( ズ フ ド zuhd) か ら 発 展 し た も の で あ る 。 東 長 は 、 禁 欲 主 義 は イ ラ ク か ら ア ラ ビ
ア 半 島 、シ リ ア に 及 ぶ ア ッ バ ー ス 朝 の 幅 広 い 地 域 に 広 が っ た が 、特 に 隆 盛 を 見 せ た の は ホ ラ ー
サ ー ン 地 方 で あ る と し 、こ う し た 隆 盛 の 背 景 に は 、か つ て ホ ラ ー サ ー ン で 栄 え て い た 仏 教 の 禁
欲 主 義 思 想 か ら の 影 響 が 考 え ら れ る と 述 べ て い る [ 東 長 2013: 52] 。エ ル サ レ ム に お い て も ホ ラ
ー サ ー ン と 同 様 に 、他 宗 教 の 禁 欲 主 義 の 影 響 を 受 け た 形 で 、ム ス リ ム の 間 で 禁 欲 主 義 が 広 ま っ
て い た 。す な わ ち 、当 時 の エ ル サ レ ム 郊 外 に は 多 く の キ リ ス ト 教 修 道 院 が あ り 、キ リ ス ト 教 修
道 士 た ち が 隠 遁 生 活 を 送 っ て い た の だ が 、 彼 ら の 存 在 が ズ フ ド を 求 め る ザ ー ヒ ド zāh id ( pl.
zuhh ād) に 強 い 影 響 を 与 え た [Hasson 1981: 171-172; Livne=Kafri 2004 : 367 -369]。
こ の よ う な キ リ ス ト 教 修 道 士 の イ メ ー ジ は 、 FBM で は 洗 礼 者 ヨ ハ ネ に ま つ わ る 以 下 の 伝 承
の中に端的に表れている。
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ザカリヤの子ヨハネは 8 歳のときバイト・アルマクディスに入った。彼は、バイト・アルマクデ
ィスで神に仕える者たちが、毛織の荒布と羊毛の被り物を着て熱心に勤行しているところや、物語
師が彼らの周りで話をしているところを見た。彼は両親のもとに行き、自分にも毛織の荒布を着せ
てくれるように頼んだ。両親がそうしてやると、彼はバイト・アルマクディスに戻っていき、昼は
そ こ で 神 に 仕 え て 神 を 讃 え 、 夜 は 礼 拝 を し 、 そ の よ う に し て 25 年 を 過 ご し た [FBM-I M 18 2-18 3;
MG- M 286; UJ ⅰ , LUJ(C) 39 b] 。
ま た 、 ヨ ハ ネ は 性 的 な 接 触 を 絶 っ た 人 間 で あ っ た が ゆ え に 「 思 慮 あ る 者 al-ḥ aṣūr 」 7 4 と 呼 ば
れ 、 復 活 の 日 に 罪 を 持 た な い 唯 一 の 人 物 と な る と も 言 わ れ て お り [ MG-M 285 ; IA ⅱ , 14; UJ
ⅰ , 269; LUJ(C) 39b ]、 禁 欲 主 義 者 と し て の ヨ ハ ネ 像 が 伺 え る 。
こ の よ う な キ リ ス ト 教 か ら の 影 響 の も と で 、エ ル サ レ ム は ザ ー ヒ ド た ち を 引 き つ け る 場 所 と
な り 、 イ ブ ラ ー ヒ ー ム ・ ブ ン ・ ア ド ハ ム Ibrāhīm b. Adham al-Balkh ī (d. 162/ 799) 7 5 や ス フ ヤ
ー ン ・ サ ウ リ ー Sufyān b. Saʽī d al-Th awrī (d. 161/777) 7 6 、ま た Ris āla に も そ の 墓 廟 が 挙 げ ら れ
て い た ラ ー ビ ア ・ ア ダ ウ ィ ー ヤ Rāb iʽa bint Ismāʽīl al- ʽAdaw īya (d. c. 185/80 1) 7 7 等 の 著 名 な
ザ ー ヒ ド た ち が エ ル サ レ ム に 訪 問 、あ る い は 移 住 し て い る 。イ ス ラ ー ム に お け る ス ー フ ィ ズ ム
の 理 念 が 確 立 し た 後 も 、ス ー フ ィ ー た ち に よ る エ ル サ レ ム 訪 問 は 続 き 、ア ブ ー ・ ハ ー ミ ド ・ ガ
ザ ー リ ー Abū Ḥāmid Muḥ ammad b. Muḥammad al-Gh az ālī (d. 505/1111) も 488/1095 年 に エ
ル サ レ ム を 訪 問 し て い る 78。
も ち ろ ん 預 言 者 や 聖 者 の 墓 廟 へ の 参 詣 は オ ス マ ン 朝 以 前 よ り 行 わ れ て い た 。と り わ け ヘ ブ ロ
ン に あ る ア ブ ラ ハ ム 一 族 の 墓 廟 へ の 参 詣 に 関 す る 記 述 は す で に 5/11 世 紀 の FBM-IM に 見 ら れ
る も の で 、当 時 の ム ス リ ム の 間 で エ ル サ レ ム の ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ 参 詣 と ヘ ブ ロ ン 参 詣 を 連 続
し て 行 う 参 詣 ル ー ト が 確 立 し て い た こ と は 前 述 の 通 り で あ る 。ま た 教 友 や タ ー ビ ウ ー ン の 伝 記
を 初 め て 取 り 入 れ た MG-M に お い て も 、 一 部 の 伝 記 で は そ の 人 物 の 墓 に 関 す る 情 報 を 書 き 入
ク ル ア ー ン 3 章 39 節 「 彼 こ そ 神 の み 言 葉 の 確 証 者 と な り 、 指 導 者 、 思 慮 あ る 者 、預 言 者 に し て 正 し
い人のひとりとなろう」より。
75 ホ ラ ー サ ー ン の バ ル フ の 王 族 と し て 生 ま れ た が 、 現 世 で の 生 活 を 棄 て 禁 欲 主 義 者 と な っ た と 言 わ れ
る 。メ ッ カ 訪 問 後 シ リ ア に 向 か い 、エ ル サ レ ム で 生 涯 を 終 え た [al-Kīlānī 2001: 610-6 11; 東 長 2013: 52] 。
7 6 ク ー フ ァ に 生 ま れ る 。 ア ッ バ ー ス 朝 第 2 代 カ リ フ = マ ン ス ー ル (r. 136/754-158/77 5 ) の 招 喚 を 拒 ん
で ク ー フ ァ を 離 れ 、メ ッ カ ・ メ デ ィ ナ に 居 住 し た 。エ ル サ レ ム 参 詣 を 行 い 、岩 の ド ー ム で ク ル ア ー ン を
読 み 通 し た と 伝 え ら れ る [UJ ⅰ , 328; Aʽlā m ⅲ , 104-105; al -Kīlānī 2001: 61 0-611]。
77 バ ス ラ に 生 ま れ る 。 若 く し て 父 親 に 死 に 別 れ 、 苦 し い 生 活 の 中 で 神 秘 的 思 想 に 目 覚 め 、 神 へ の 無 償
の 愛 を 唱 え た 。以 後 の 生 活 を エ ル サ レ ム に て 過 ご し 、同 地 で 没 し た 。墓 廟 は オ リ ー ブ 山 頂 に あ る [Aʽlā m
74
ⅲ , 11; al-Kīlānī 609 -610; 東 長 2013: 55- 56]。
78
ガ ザ ー リ ー の エ ル サ レ ム 訪 問 と 、 彼 が そ の 際 に 著 し た 著 作 の ひ と つ で あ る al-Ris ā l a al-Q uds ī y a f ī
Qawā ʼid al -ʽA q āʼ id に つ い て は 、 テ ィ バ ウ ィ ー に よ る 研 究 が あ る [Tibawi 1 965] 。 ま た そ の 他 2/8 世 紀 か
ら 6/12 世 紀 に か け て エ ル サ レ ム を 訪 れ た ス ー フ ィ ー た ち に つ い て は 、al-Kīlānī の 研 究 を 参 照 [al-Kīlānī
20 01: 6 09 -6 19 ]。
109
れ て お り 、 こ の 時 点 で す で に そ う し た 教 友 た ち の 墓 が 参 詣 の 対 象 に な っ て い る こ と が わ か る 79。
し か し Mus taqṣ ā と Ris āla に お い て は 、 こ う し た 傾 向 が 一 層 強 め ら れ て い る 。 Risāl a で は 預
言 者 や 聖 者 の 墓 廟 に 関 す る 情 報 の み が 抜 き 出 さ れ 、 ま た そ こ で は 従 来 の FBM で は 触 れ ら れ る
ことのなかった、マリアの夫である大工ヨセフや預言者サーリフの墓に ついて述べていたり、
メッカで没したとされるイシュマエルについてもエルサレムの周辺にマカームがあるとして
い た り と 、よ り 多 く の 預 言 者 の 墓 廟 に つ い て 言 及 し よ う と す る 著 者 の 意 図 を 感 じ る こ と が で き
る [Ris āla 31a, 38a, 39a-39b]。
マ ム ル ー ク 朝 時 代 の 参 詣 記 型 FBM の 要 素 を 引 き 継 い だ LUJ や 、 Ris āla に お け る エ ル サ レ
ム の モ ス ク 整 備 の 記 述 に 見 ら れ る よ う に 、オ ス マ ン 朝 に お い て も ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ を 中 心 と
し た よ り 伝 統 的 な 参 詣 は 依 然 と し て 重 視 さ れ て い る 。 し か し オ ス マ ン 朝 時 代 の FBM か ら は 、
ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ だ け で は な く シ リ ア 各 地 に よ り 小 規 模 か つ 身 近 な 聖 所 を 作 り 、そ こ に 参 詣
することで預言者や聖者たちの功徳を得ようとする当時の聖者崇拝の流行を見ることができ
る。
MG- M で は 、 例 え ば 教 友 の ひ と り で あ っ た シ ャ ッ ダ ー ド ・ ブ ン ・ ア ウ ス Shad dād b. Aw s (d. 58/667 )
の 墓 に つ い て 、「 彼 は 58 年 に 75 歳 で 没 し た 。 41 年 に 亡 く な っ た と も 言 わ れ て い る 。 彼 の 墓 の あ る 場
所は明らかになっており、参詣の場所となっている。それはバイト・アルマクディスの、アクサー・
モ ス ク の 壁 に 面 す る ラ フ マ 門 の 近 く に あ る 」 と 述 べ て い る [MG-M 31 7]。
79
110
終章
1. 議 論 の ま と め
本 論 に お い て 筆 者 は 、エ ル サ レ ム 史 研 究 史 料 と し て の フ ァ ダ ー イ ル ・ バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ
ス FBM と い う 文 献 ジ ャ ン ル に つ い て 考 察 を 行 っ て き た 。 ま ず 序 章 で は 、 従 来 の FBM 先 行 研
究 の 流 れ を 明 ら か に し 、 そ れ が 主 に 起 源 論 研 究 に 終 始 し て お り 、 FBM 写 本 の 現 存 状 況 が 明 ら
か に な っ て い る に も 関 わ ら ず 、研 究 者 た ち は 比 較 的 初 期 に 成 立 し た 作 品 に し か 注 目 し て こ な か
っ た と い う 問 題 を 指 摘 し た 。 こ の た め 実 際 に FBM 編 纂 が 盛 ん に な っ た ア イ ユ ー ブ 朝 末 期 以 降
の 作 品 に つ い て は 議 論 が 進 ん で お ら ず 、 FBM の 起 源 や そ の 編 纂 目 的 を 、 シ リ ア に 権 力 基 盤 を
お い た ウ マ イ ヤ 朝 と 、十 字 軍 勢 力 か ら の エ ル サ レ ム 奪 還 と い う ジ ハ ー ド を 掲 げ て い た シ リ ア の
イ ス ラ ー ム 政 権 に よ る 、政 治 的 プ ロ パ ガ ン ダ と 結 び 付 け る と い う 固 定 さ れ た 視 点 か ら 脱 却 で き
ず に い た 。よ っ て 本 論 で は こ の 問 題 点 に 立 脚 し 、よ り 新 し い 時 代 に 編 纂 さ れ た 作 品 ま で を 含 め
た FBM 作 品 群 全 体 を 考 察 の 対 象 と し 、 各 作 品 の 持 つ 特 徴 や 時 代 を 通 じ て の 内 容 や 編 纂 方 式 の
変 化 、 作 品 間 の 関 連 性 に 注 目 す る こ と で FBM 作 品 群 の 全 体 像 を 把 握 す る こ と を 目 指 し た 。 さ
ら に そ う し た 考 察 を 通 じ て 、 従 来 と は 異 な る 視 点 か ら FBM 編 纂 の 動 機 ・ 目 的 や そ の 背 後 に あ
っ た 社 会 状 況 を 明 ら か に し 、ム ス リ ム 知 識 人 た ち が 聖 地 エ ル サ レ ム と い う 場 所 を ど の よ う に 認
識していたのかを示した。
第 1 章 第 1 節 で は 、 ま ず ア サ リ ー に よ る FBM 写 本 研 究 を 参 考 に 、本 論 で 考 察 の 対 象 と す る
FBM 作 品 を 定 め た 。本 稿 で は 、2 /8 世 紀 か ら 14/20 世 紀 初 頭 に ま で の 期 間 に 編 纂 さ れ た 作 品 の
う ち 、 写 本 が 現 存 し そ の 著 者 が 明 ら か に な っ て い る 作 品 の み を 考 察 の 対 象 と し た 。 ま た 14/20
世 紀 以 降 に 印 刷 本 の 形 で 出 版 さ れ た と さ れ る 作 品 に つ い て は 、書 誌 情 報 が 不 確 か で あ る た め 今
回 は 対 象 か ら 外 し 、扱 う 時 代 の 下 限 に つ い て は 12 /18 世 紀 ま で と し た 。内 容 の 面 か ら は 、FBM
を「 エ ル サ レ ム と い う 都 市 や そ の 周 辺 地 域 を 直 接 の 対 象 と し 、そ の 美 点 を 讃 美 す る こ と に 主 題
を 置 い た 作 品 」と 定 義 し 、エ ル サ レ ム に 関 す る 記 述 を 含 む も の の 主 題 が こ の 定 義 よ り 外 れ る 作
品 に つ い て も 対 象 外 と し た 。 こ の 操 作 の 結 果 、 本 稿 で 考 察 の 対 象 と す る FBM は 17 作 品 と な
っ た 。 ま た 第 2 節 で は 、 個 別 の 作 品 の 考 察 に 入 る 前 に 、 FBM 作 品 群 で 扱 わ れ る 伝 承 ・ 記 述 の
内 容 を 確 認 し 、 A. エ ル サ レ ム の 歴 史 ( イ ス ラ ー ム 以 前 )、 B. エ ル サ レ ム の 歴 史 ( イ ス ラ ー ム
時 代 )、 C. エ ル サ レ ム の 神 聖 さ ・ 偉 大 さ に 関 す る 伝 承 、 D. エ ル サ レ ム と 終 末 思 想 を 関 連 付 け
た 伝 承 、E. エ ル サ レ ム で ム ス リ ム た ち が 体 験 し た 奇 跡 譚 、 F. エ ル サ レ ム に あ る モ ニ ュ メ ン ト
と そ こ へ の 参 詣 に 関 す る 伝 承 、G. エ ル サ レ ム に 縁 の ム ス リ ム た ち の 伝 記 、H. ク ル ア ー ン 解 釈 、
I. そ の 他 ( エ ル サ レ ム 以 外 に 関 す る フ ァ ダ ー イ ル ) の 9 つ の カ テ ゴ リ ー に 分 類 し た 。
第 2 章 で は 、 5/ 11 世 紀 フ ァ ー テ ィ マ 朝 時 代 か ら 7/13 世 紀 マ ム ル ー ク 朝 初 頭 に か け て の 時 期
に 編 纂 さ れ た 7 つ の FBM を 取 り 上 げ た 。 FBM は 元 来 エ ル サ レ ム に 関 す る ハ デ ィ ー ス 集 か ら
111
派 生 し て き た ジ ャ ン ル で あ り 、こ の 時 代 に 編 纂 さ れ た 作 品 に は イ ス ナ ー ド の 明 記 や 口 伝 に よ る
伝 承 収 集 な ど の 、ハ デ ィ ー ス 集 と し て の 性 格 が 強 く 残 っ て い た 。本 論 で は こ の 時 期 に 編 纂 さ れ
た 作 品 を 「 ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM」 と 呼 ん だ 。 こ れ ら の 7 作 品 に 含 ま れ る 伝 承 を 先 の 9 つ の カ
テ ゴ リ ー に 分 類 し て 、作 品 ご と に そ の パ ー セ ン テ ー ジ を 確 認 し た と こ ろ 、エ ル サ レ ム を 扱 っ た
伝 承 に 関 し て は 各 作 品 と も 概 し て A、B、C の 割 合 が 多 く 、こ れ ら の 要 素 が ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM
の 主 要 素 に な っ て い た 。し か し フ ァ ダ ー イ ル・ア ッ シ ャ ー ム 等 の そ の 他 の 場 所 に 関 す る 伝 承 ま
で含め作品全体の構成を見た場合には、伝承の取捨選択に特定の傾向を見出すことはできず、
こ の 時 代 の FBM 編 纂 に 明 確 な 定 型 は な か っ た こ と が わ か る 。 こ の 中 に ウ マ イ ヤ 朝 時 代 や 、 十
字 軍 が エ ル サ レ ム を 占 領 し て い た 時 代 に 編 纂 さ れ た 作 品 は 知 ら れ て い な い こ と か ら 、 FBM 編
纂 が こ れ ら の 時 代 に 盛 ん で あ っ た と す る 先 行 研 究 の 主 張 は 、史 料 状 況 か ら は 否 定 で き る 。十 字
軍時代の前後で作品の編纂スタイルが大きく変化しているということもなく、この時期の
FBM 編 纂 に は 当 時 の エ ル サ レ ム 周 辺 の 政 治 ・ 社 会 状 況 は あ ま り 反 映 さ れ て い な い と 言 え る 。
第 3 章 で は 、8 /14-9/15 世 紀 の マ ム ル ー ク 朝 時 代 の 6 作 品 を 取 り 上 げ た 。こ の 時 代 に は FBM
編 纂 は 大 き な 変 化 を 見 せ 、 従 来 の ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM か ら 、 あ る テ ー マ の も と に 伝 承 を 取 捨
選 択 ・ 再 構 成 し た り 、ま た 新 し い 要 素 を 追 加 し た り と い っ た こ と が 起 こ っ た 。第 1 節 で は 、エ
ル サ レ ム 参 詣 と 結 び 付 け ら れ 、エ ル サ レ ム 参 詣 の 案 内 書 と し て の 意 味 を 持 つ「 参 詣 記 型 FBM」
で あ る BN と TU に つ い て 考 察 し た 。 こ れ ら の 2 作 品 で は 、 従 来 の FBM に 取 り 上 げ ら れ た 伝
承 の 中 か ら 、エ ル サ レ ム 参 詣 や ヘ ブ ロ ン 参 詣 に 関 係 す る 部 分 の み が 抜 き 出 さ れ て 、参 詣 者 へ の
便 と し て イ ス ナ ー ド を す べ て 省 略 し た 形 で 再 構 成 さ れ て い た 。 第 2 節 で は 、 FBM が 辿 っ た も
う ひ と つ の 方 向 性 と し て 、MG-M と い う「 地 誌 型 FBM」を 取 り 上 げ た 。MG-M で は 従 来 の FBM
に は 見 ら れ な か っ た 新 し い 要 素 と し て 、シ リ ア 地 域 の 地 理 的 情 報 と エ ル サ レ ム に 縁 の 偉 人 た ち
の 伝 記 と い う 2 つ が 追 加 さ れ た 。 こ れ ら の 新 要 素 は 、 既 存 の FBM だ け で は な く 様 々 な ハ デ ィ
ー ス 集 、伝 記 集 、地 理 書 か ら 取 り 入 れ ら れ た も の で あ り 、エ ル サ レ ム に 関 す る よ り 広 範 な 知 識
をまとめようとする著者の姿勢を見ることができる。
第 3 節 で は 、第 1 節 と 第 2 節 で 確 認 し た 2 つ の FBM 編 纂 の 方 向 性 を 両 方 と も 取 り 入 れ よ う
と し た 作 品 と し て RM を 挙 げ た 。RM は 著 者 フ サ イ ニ ー の エ ル サ レ ム 参 詣 に 際 し て 編 纂 さ れ て
お り 、基 本 的 に は BN に 倣 い 参 詣 に 関 す る 内 容 を 中 心 に 各 章 を 構 成 し つ つ 、MG-M よ り シ リ ア
の 地 理 的 情 報 と 伝 記 集 の 要 素 も 取 り 入 れ て い る 。RM は 現 存 す る 写 本 が 少 な く 参 照 し づ ら い 作
品 と な っ て い る が 、 こ の 作 品 の 内 容 は 、 こ れ と ほ ぼ 同 時 期 に 編 纂 さ れ た IA の 内 容 に よ っ て 補
う こ と が 可 能 で あ る 。 IA の 著 者 ミ ン ハ ー ジ ー は 、 フ サ イ ニ ー の エ ル サ レ ム 直 後 の 時 期 に や は
り エ ル サ レ ム 参 詣 を 行 っ て お り 、そ の 際 に 入 手 し た の で あ ろ う RM に 全 面 的 に 依 拠 し た 作 品 を
編 纂 し た 。IA は 内 容 的 に は RM の 模 倣 で あ る が 、オ ス マ ン 朝 時 代 の 作 品 の 典 拠 と な っ て お り 、
RM の 内 容 を 後 世 に 伝 え る 働 き を し た 点 で 重 要 性 が あ る 。第 4 節 で は 地 誌 型 FBM で あ る MG-M
の ス タ イ ル を さ ら に 発 展 さ せ た 作 品 と し て 、 ウ ラ イ ミ ー に よ る UJ を 考 察 し た 。ウ ラ イ ミ ー は
112
本 書 を 、歴 史 的 記 述 を 行 っ た 第 1 部 と 、当 時 の エ ル サ レ ム と そ の 周 辺 地 域 の 地 理 や 建 造 物 に つ
いての情報と、同地で活躍した 4 法学派のウラマーを中心とした伝記集から成る第 2 部の、2
部 構 成 で 編 纂 し た 。 こ の 結 果 UJ は 、 エ ル サ レ ム に 関 す る 広 範 な 内 容 を 備 え た 、 エ ル サ レ ム の
総合的な地誌としての体裁を持つ作品となっている。
第 5 節 で は 、マ ム ル ー ク 朝 時 代 に 編 纂 さ れ た 作 品 の 中 で み ら れ る よ う に な る も う ひ と つ の 傾
向として、預言者アブラハムとモーセの重要視について検討した。
第 4 章 で は 、 10 /16-12/18 世 紀 の オ ス マ ン 朝 時 代 に 編 纂 さ れ た 4 つ の FBM を 取 り 上 げ た 。
こ の 時 代 に 編 纂 さ れ た FBM に は 、 作 品 中 で 当 時 の オ ス マ ン 朝 ス ル タ ン や 、 エ ル サ レ ム 県 知 事
と い っ た 為 政 者 た ち の 名 前 が 言 及 さ れ 、彼 ら に 対 し て 作 品 が 捧 げ ら れ る と い っ た 新 し い 傾 向 が
見 ら れ た 。そ う し た 為 政 者 が エ ル サ レ ム で 行 っ た 公 共 事 業 が 、作 品 編 纂 の 直 接 の 動 機 と な っ て
い る 場 合 も あ り 、 エ ル サ レ ム 在 住 の FBM 著 者 と 為 政 者 の 間 の 接 近 が 確 認 で き た 。 こ れ は 、 当
時 の エ ル サ レ ム を 取 り 巻 く 政 治・社 会 情 勢 が 不 安 定 で あ り 、同 時 に 経 済 基 盤 も 脆 弱 で あ っ た こ
と か ら 、現 地 の 知 識 人 が 宗 教 施 設 を は じ め と す る イ ン フ ラ を 管 理 し 自 身 の 立 場 を 守 る た め に は 、
中 央 政 府 の 意 向 に 依 存 せ ざ る を 得 な か っ た こ と に 基 づ く も の と 考 え ら れ る 。FBM 著 者 た ち は 、
オスマン朝為政者がエルサレムで行った事業を宗教的善行として作品中で讃美することによ
り、彼らがエルサレムにより多くの貢献をもたらすことを期待していたのである。
ま た こ の 時 代 の FBM に 見 ら れ る も う ひ と つ の 特 徴 と し て は ス ー フ ィ ズ ム の 強 い 影 響 を 挙 げ
る こ と が で き 、そ れ は と り わ け 聖 者 廟 参 詣 と い う 形 で 表 さ れ て い た 。作 品 中 で は 、伝 統 的 な 参
詣場所であるエルサレムのハラム・シャリーフやヘブロンのアブラハムのモスク以外にも、
数 々 の 預 言 者 や 聖 者 た ち の 墓 廟 に つ い て の 記 述 が あ り 、そ れ ら の 当 時 の 様 子 や 人 々 が そ こ で 体
験 し た 奇 跡 に 関 す る 逸 話 が 豊 富 に 挙 げ ら れ て い た 。こ の こ と か ら は 、当 時 の エ ル サ レ ム 周 辺 地
域 に お い て よ り 小 規 模 で 身 近 な 聖 所 が 作 り 出 さ れ て 、そ う し た 場 所 へ の 人 々 の 参 詣 が 一 般 化 し
て い た こ と 、 さ ら に FBM が そ れ ら の 参 詣 を 推 奨 し て い た こ と が 指 摘 で き る 。
な お 次 ペ ー ジ に 挙 げ た [図 1] は 、本 論 に お い て 4/10 世 紀 の FBM 編 纂 者 ラ ム リ ー 以 降 、12/18
世 紀 に 至 る ま で の FBM 作 品 群 を 考 察 し た 結 果 明 ら か に な っ た 、 作 品 間 の 引 用 ・ 被 引 用 関 係 で
ある。
113
[ 図 1] FBM 引 用 ・ 被 引 用 関 係
(4 )al- Ram lī
(5) al- Wāsiṭ ī F BM - W
( 6) Ib n al -Mu rajj ā
F BM-IM
(8 ) Ibn al - Jawzī FQ
(9) Qāsim Ibn ʽAsākir JM
(17) al-Ka n jī F BM -K
(1 1) Aḥ mad Ibn ʽ Asākir
UF Q
(18 ) a l-Faz ārī BN
( 16) al-Mi knāsī F BM-M
( 20) al- ʽA lāʼī
(2 2) S hihā b al-D ī n al-Ma qdi sī
MG-M
(27) al-Ḥusa ynī RM
(28 ) al-Min hājī I A
(1 2) a l-Is nāʼī M M
(2 9) al- ʽUla ymī UJ
(13) Ḍi yā al-Dīn
(32) al-Khal īlī
a l-Maqd isī F BM-Ḍ
Risāla
(31) al-ʽA lamī Mu staqṣā
(3 3) a l-Luqa ymī LUJ
(21) al-Anṣ ārī TU
(34) al-Khalwa tī ḤI
※実線は書物からの直接の引用関係を、破線は口伝での引用関係、
あるいは引用関係を推測できるものを表す。
114
2 . 5/11-12/18 世 紀 の シ リ ア に お け る FBM 編 纂 者
本 節 で は 、第 2 章 か ら 第 4 章 に か け て 時 代 ご と に 考 察 し て き た FBM 編 纂 者 の 経 歴 ・ 立 場 に
ついて、あらためてまとめたい。
FBM 編 纂 者 た ち の 出 身 地 、 活 動 し た 地 域 に つ い て は 、 時 代 を 通 じ て エ ル サ レ ム 、 ダ マ ス カ
ス の 2 都 市 に 代 表 さ れ る シ リ ア 地 域 に 集 中 し て い る こ と が 確 認 さ れ た 。彼 ら の 大 部 分 は エ ル サ
レムかダマスカスに生まれ育った知識人であり、またシリア生まれではない人物の場合でも、
な ん ら か の 形 で シ リ ア に 滞 在 経 験 を 持 っ て い る 場 合 が ほ と ん ど で あ る 。こ の 点 に お い て 唯 一 の
例 外 が イ ブ ン・ア ル ジ ャ ウ ズ ィ ー( [ 表 1], 8. 以 下 本 節 と 次 節 に お い て は 、括 弧 内 の 数 字 は [表
1] の 番 号 を 表 す も の と す る ) で あ り 、 彼 の み が 生 涯 に お い て ま っ た く シ リ ア に 足 を 踏 み 入 れ
た こ と が な い と 考 え ら れ て い る 。第 2 章 第 1 節 に お い て 述 べ た よ う に 、イ ブ ン・ア ル ジ ャ ウ ズ
ィ ー が FBM 編 纂 を 志 し た 動 機 は 、 サ ラ ー フ ・ア ッ デ ィ ー ン に よ る エ ル サ レ ム 征 服 の 知 ら せ が
バ グ ダ ー ド の ア ッ バ ー ス 朝 カ リ フ の も と に 届 け ら れ た こ と に あ る 。イ ブ ン・ア ル ジ ャ ウ ズ ィ ー
は 、ヌ ー ル ・ ア ッ デ ィ ー ン や サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン と 交 流 を 持 っ て お り 、そ う し た こ と か ら
も ム ス リ ム 勢 力 に よ る エ ル サ レ ム 回 復 と い う 記 念 す べ き 出 来 事 に 際 し 、 FBM 編 纂 を 考 え た の
で あ ろ う 。こ の 例 外 を 除 け ば FBM の 編 纂 は シ リ ア 地 域 に 限 定 さ れ て お り 、FBM 編 纂 は あ く ま
で地域的な行いに過ぎなかったと言える。
ま た 第 2 章 か ら 第 4 章 に お い て 、 FBM 編 纂 者 の 所 属 す る 法 学 派 に つ い て も 考 察 し た 。 ま ず
FBM を 著 し た こ と が 知 ら れ て い る 著 作 家 た ち の う ち 、シ ー ア 派 で あ る 人 物 は ひ と り も お ら ず 、
ス ン ナ 派 4 法 学 派 の う ち で は 、 シ ャ ー フ ィ イ ー 派 に 属 す る 人 物 が 最 も 多 か っ た 。 [表 1] に 挙
げ ら れ る 34 名 の 人 物 の う ち 、 お よ そ 4 割 に あ た る 16 名 が シ ャ ー フ ィ イ ー 派 知 識 人 で あ り 、
所 属 法 学 派 が 明 ら か に な っ て い る 人 物 に 限 定 す れ ば 、そ の 7 割 以 上 が 同 派 に 属 し て い る 。し か
し な が ら こ の シ ャ ー フ ィ イ ー 派 の 明 ら か な 優 勢 は 、シ リ ア 地 域 に お け る 主 要 法 学 派 が シ ャ ー フ
ィ イ ー 派 で あ っ た と い う 地 域 的 な 特 性 に よ る も の で あ る と 考 え ら れ る 。事 実 ハ ナ フ ィ ー 派 が 公
式 法 学 派 と 定 め ら れ 、シ リ ア に お い て も 同 派 が 優 勢 と な っ て い た オ ス マ ン 朝 時 代 に は 、ハ ナ フ
ィ ー 派 に 属 す る 編 纂 者 が 多 く な っ て い る 。 こ の た め 現 時 点 で は FBM 編 纂 と シ ャ ー フ ィ イ ー 派
法 学 の 間 に 特 定 の 関 係 は 見 出 す こ と は で き ず 、 こ の 偏 り は FBM 編 纂 の 地 域 性 を 表 す も の で あ
ると捉えられる。
こ こ で FBM 編 纂 者 の 属 す る 立 場 に つ い て 、 よ り 詳 し く 考 察 し て み た い 。 何 ら か の 形 で シ リ
ア 地 域 と 地 縁 を 持 つ FBM 編 纂 者 で あ る が 、 彼 ら は さ ら に 、 ① シ リ ア に 生 ま れ 、 エ ル サ レ ム か
ダ マ ス カ ス で 学 問 に 携 わ っ た 在 地 の 知 識 人 、② シ リ ア 地 域 外 か ら エ ル サ レ ム や ダ マ ス カ ス に 移
住 し 、同 地 で 活 動 し た 人 物 、③ シ リ ア 地 域 外 か ら 参 詣 、あ る い は 遊 学 に 際 し エ ル サ レ ム や ダ マ
スカスを一時的に訪問した人物、に大別できる。
① の 集 団 に つ い て は 、 最 も 多 く の 編 纂 者 が こ の 集 団 に 属 し て お り 、 FBM 編 纂 の 主 体 と な っ
115
て い る 。こ の 集 団 の 中 で 注 目 し た い の は 、エ ル サ レ ム や ダ マ ス カ ス の 高 名 な 学 者 の 家 系 に 連 な
る 人 々 と 彼 ら が 運 営 す る 知 識 人 サ ー ク ル が 、エ ル サ レ ム に 関 す る 伝 承 を 収 集 し 後 世 に 伝 え る 役
割 を 果 た し て い る こ と で あ る 。こ う し た 家 系 の 代 表 が 、ダ マ ス カ ス の ア サ ー キ ル 家 で あ る 。フ
レ ン ケ ル Y. Frenkel は 、『 ダ マ ス カ ス 史 』の 著 者 ア リ ー ・ イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル の サ マ ー ア ー ト
研 究 を 通 じ て 、彼 が 収 集 し た 伝 承 が ア サ ー キ ル 家 の 中 で 世 代 か ら 世 代 へ と 伝 え ら れ て い た こ と
を 明 ら か に し て い る 。 例 え ば 『 ダ マ ス カ ス 史 』 が ウ マ イ ヤ ・ モ ス ク に お い て 、著 者 本 人 の 臨 席
の も と に 講 義 さ れ た 際 に は 、 長 男 で あ る カ ー ス ィ ム ・ イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル (9) が 講 師 を 務 め 、
そ の 他 の 息 子 や 孫 、親 族 を 含 む 人 々 が 聴 衆 と な っ て い た 。ま た こ う し た 講 義 の 聴 衆 に は 、ア サ
ー キ ル 家 の 人 物 だ け で は な く 、ダ マ ス カ ス の そ の 他 の 有 力 家 系 の 人 物 も 加 わ っ て お り 、そ の 中
に は サ ス ラ ー 家 の ハ サ ン ・ イ ブ ン ・ サ ス ラ ー Ḥas an Ibn Ṣaṣrā (10) も 含 ま れ て い た と い う
[Frenkel 2005: 170-172] 。
ア サ ー キ ル 家 を ひ と つ の 軸 と す る 伝 承 の 継 承 は 、 FBM 編 纂 の 流 れ に も 表 れ て い る 。 カ ー ス
ィ ム は 父 ア リ ー や 父 方 の 伯 父 た ち よ り 伝 承 を 聞 き 伝 え [ ʽIbar ⅴ , 33] 、 エ ル サ レ ム に 関 す る 伝
承 を 収 集 し て JM を 編 纂 し た 。 本 書 は 現 存 し な い が 、 後 代 の 多 く の FBM 作 品 の 典 拠 と さ れ た
重 要 な 作 品 で あ る 。 前 述 の イ ブ ン ・ サ ス ラ ー も ア リ ー 、 そ し て カ ー ス ィ ム に 師 事 し 、 FBM を
著 し て い る 。ま た カ ー ス ィ ム の 従 弟( ア リ ー の 弟 ム ハ ン マ ド の 息 子 )に あ た る ア フ マ ド ・ イ ブ
ン ・ ア サ ー キ ル ( 11) も ま た 父 方 伯 父 た ち の も と で 伝 承 を 聞 き 伝 え [S A ⅹ ⅹ ⅱ , 26-27]、カ ー ス
ィ ム の J M に 依 拠 し て FBM を 編 纂 し て い る 。 カ ー ス ィ ム と ア フ マ ド が 編 纂 し た FBM は 、 後
代 に 伝 え ら れ た 写 本 か ら 、実 際 に 著 者 本 人 の 臨 席 の も と モ ス ク な ど で 講 義 さ れ て い た こ と が 明
ら か に な っ て い る [RM(B) 123b; IA ⅰ , 84-85]。 同 時 代 の ダ マ ス カ ス の も う ひ と つ の 高 名 な 学
者 の 家 系 ク ダ ー マ 家 の 出 身 で あ る デ ィ ヤ ー ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ マ ク デ ィ ス ィ ー (13) は 、 こ の ア
フ マ ド を 師 の ひ と り と し て い る [SA ⅹ ⅹ ⅱ , 26-27]。 デ ィ ヤ ー ・ ア ッ デ ィ ー ン の 著 し た FBM-Ḍ
に 残 る サ マ ー ア ー ト に よ り 、彼 の 収 集 し た 伝 承 は さ ら に 彼 の 親 族 を 含 む 弟 子 た ち に 教 授 さ れ て
い た こ と が わ か る [FBM-Ḍ 28-31, 122- 125]。ま た 7/13 世 紀 半 ば の ア ブ ド・ア ッ ラ ー・イ ブ ン ・
ア サ ー キ ル (15) も 、 ア サ ー キ ル 家 出 身 の FBM 編 纂 者 で あ る 。
こ の 他 ① の 集 団 に 属 す る FBM 編 纂 者 と し て は 、 フ ァ ザ ー リ ー (18)、 ア ラ ー イ ー (20)、 シ ハ
ー ブ・ ア ッ デ ィ ー ン・ マ ク デ ィ ス ィ ー ( 22)、フ サ イ ニ ー (26) 、ウ ラ イ ミ ー (28) 、ア ラ ミ ー (31)、
ハ リ ー リ ー (32) が い る 。 彼 ら は ダ マ ス カ ス や エ ル サ レ ム の 知 識 人 の 家 系 に 属 し 、 自 ら も マ ド
ラ サ の シ ャ イ フ や カ ー デ ィ ー と い っ た 役 職 を 務 め 、両 都 市 の 知 の 世 界 に 深 い 関 わ り を 持 っ て い
た 。こ う し た シ リ ア 在 地 の 知 識 人 た ち が 主 体 と な り 、エ ル サ レ ム に 関 す る 伝 承 が 収 集 ・継 承 さ
れ 、 FBM と い う 書 物 の 形 に ま と め ら れ て い っ た の だ と 言 え る 。
② の 集 団 に 属 す る 人 物 と し て は 、エ ジ プ ト 出 身 の イ ス ナ ー イ ー (12) や ル カ イ ミ ー (33)、モ ロ
ッ コ 出 身 の ハ ル ワ テ ィ ー (34) が い る 。 彼 ら は 人 生 の あ る 段 階 で シ リ ア 以 外 の 地 域 か ら エ ル サ
レ ム や ダ マ ス カ ス に 移 住 し 職 を 得 て 、残 り の 生 涯 を 同 地 で 過 ご し た 人 物 で あ り 、長 い 期 間 を シ
116
リアで生活していることから、①の集団と同様の社会的立場に立っていたと言えるであろう。
③ の 集 団 に 含 ま れ る の は ミ ク ナ ー ス ィ ー (16) や ア ン サ ー リ ー (21)、ミ ン ハ ー ジ ー (27) で あ る 。
ミ ン ハ ー ジ ー に 関 し て は 、当 時 の ア レ ッ ポ 総 督 に 仕 え て あ る 程 度 の 年 月 を シ リ ア の 諸 都 市 で 過
ご し て い る た め 、② の 集 団 に 含 ま れ る と も 見 な す こ と が で き る 。彼 ら は エ ル サ レ ム 参 詣 に 際 し
て FBM 編 纂 を 行 っ た も の と 考 え ら れ 、 比 較 的 シ リ ア 地 域 と の 関 わ り が 薄 い 外 部 か ら の 人 間 に
よ る FBM 編 纂 の 一 例 と な っ て い る 。
②、③の集団に属する人物の出身地は、ハルワティーを除く全員がエジプトとなっている。
こ れ は ア イ ユ ー ブ 朝 、マ ム ル ー ク 朝 が エ ジ プ ト ・シ リ ア 両 地 域 を 支 配 領 域 と し て お り 、両 地 域
間 に お い て 人 間 の 移 動 が 盛 ん に 行 わ れ て い た こ と か ら く る も の で あ ろ う 。オ ス マ ン 朝 時 代 に 入
り モ ロ ッ コ 出 身 の ハ ル ワ テ ィ ー と い う 例 が 見 ら れ る が 、 全 体 と し て FBM 編 纂 者 は 、 各 時 代 に
おいてエルサレムを支配下に収めていた王朝の版図内部の人間であったということができる。
ま た 版 図 内 部 で あ っ て も 、ヒ ジ ャ ー ズ や イ ラ ク 以 東 の 地 域 、ア ナ ト リ ア 出 身 の 人 物 に よ る FBM
編 纂 例 は 確 認 さ れ て い な い 。 そ れ ぞ れ の 時 代 や 地 域 に お け る FBM 編 纂 と そ の 数 の 多 さ は 、 そ
の 環 境 下 で の エ ル サ レ ム に 対 す る 関 心 の 高 さ を 反 映 す る も の と 見 な せ る た め 、シ リ ア と エ ジ プ
ト を 除 く イ ス ラ ー ム 地 域 で は 、聖 地 と し て の エ ル サ レ ム の 価 値 や そ こ へ の 参 詣 は さ ほ ど 重 要 視
さ れ て い な か っ た の で は な い か と 考 え ら れ る 。エ ル サ レ ム の 重 要 性 が 地 域 的 な も の で あ っ た か
ど う か と い う 点 は 、イ ス ラ ー ム 第 1 の 聖 地 メ ッ カ に つ い て の 事 例 と 比 較 し て 今 後 検 討 す べ き 課
題である。
3 . FBM 編 纂 と そ の 変 遷 か ら み た 「 イ ス ラ ー ム の 聖 地 」 エ ル サ レ ム
(1) 聖 地 と し て の エ ル サ レ ム の 重 要 性 は い つ 確 立 さ れ た か
本 節 で は 、第 2 章 か ら 第 4 章 に か け て 辿 っ た FBM 編 纂 の 歴 史 を 通 じ て 、 5/11-12/18 世 紀 の
シ リ ア を 中 心 と し た 地 域 に お い て 、ム ス リ ム 知 識 人 た ち の 抱 い て い た エ ル サ レ ム に 対 す る イ メ
ージがどのように形作られ、またそれが変化していったのかを考察したい。
イ ス ラ ー ム 第 3 の 聖 地 と し て の エ ル サ レ ム の 聖 性 そ れ 自 体 は 、イ ス ラ ー ム の 極 め て 初 期 の 時
代 に は 認 識 さ れ て い た と さ れ て い る [H asson 1996: 353; Elad 1999b : 28 -29; Bloom 1996: 208] 。
イ ス ラ ー ム に お い て エ ル サ レ ム が 聖 地 で あ る と 見 な さ れ た 根 拠 は 、そ こ が 預 言 者 ム ハ ン マ ド の
イ ス ラ ー の 終 着 地 点 で あ る「 遠 隔 の 礼 拝 堂 al-Masjid al-A qṣ ā」と 同 定 さ れ て い る こ と と 、ム ハ
ン マ ド が メ デ ィ ナ に ヒ ジ ュ ラ し た 当 初 、エ ル サ レ ム に 向 か っ て 礼 拝 を 行 っ て い た こ と 、す な わ
ち エ ル サ レ ム は ム ス リ ム に と っ て の 第 1 の キ ブ ラ で あ っ た こ と に あ っ た 。先 行 研 究 は 、そ の 後
シ リ ア に 政 権 を 置 い た ウ マ イ ヤ 朝 に よ っ て こ の エ ル サ レ ム の 聖 性 は 強 調 さ れ 、エ ル サ レ ム に 関
す る フ ァ ダ ー イ ル の 流 通 が 推 奨 さ れ る よ う に な っ た と 見 な し て い る が [Sivan 1971: 100 -110;
117
Elad 1999a: 300 -301; 1999b: 12-15]、 本 論 第 2 章 で 述 べ た よ う に 、 FBM の 編 纂 が 実 際 に 始 ま
っ た の は 2/8 世 紀 末 か ら 3/9 世 紀 初 頭 に か け て の ア ッ バ ー ス 朝 時 代 に な っ て か ら の こ と で あ る 。
ま た ア ッ バ ー ス 朝 以 降 の FBM 編 纂 を 見 る と 、4 92/1099 年 に ル マ イ リ ー (7) が 編 纂 途 中 で 没 し
て か ら 、 583/1187 年 の サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン に よ る エ ル サ レ ム 征 服 以 降 に イ ブ ン ・ ア ル ジ
ャ ウ ズ ィ ー (8) が 作 品 を 著 す ま で の 約 90 年 間 、 FBM 編 纂 は 中 断 し て お り 、 以 後 ア イ ユ ー ブ 朝
時代に編纂数が急増している。
イ ス ラ ー ム 初 期 に は エ ル サ レ ム の 聖 性 が ム ス リ ム の 間 で 認 識 さ れ て お り 、FBM-IM が 示 し て
い た よ う に 、 5/11 世 紀 に は エ ル サ レ ム 参 詣 も 行 わ れ る よ う に な っ て い た に せ よ 、 FBM 編 纂 と
い う 観 点 よ り 見 れ ば 、583/ 1187 年 以 前 の シ リ ア に お い て FBM 編 纂 は 盛 ん で は な か っ た 。こ の
こ と は 、イ ス ラ ー ム の 聖 地 と し て の エ ル サ レ ム の 重 要 性 が ま だ 強 固 に 確 立 し て お ら ず 、ム ス リ
ム た ち の 間 で も そ の イ メ ー ジ が 不 安 定 で あ っ た こ と を 意 味 し て い よ う 。確 か に ウ マ ル ・ ブ ン ・
ハ ッ タ ー ブ に よ る 征 服 以 降 、エ ル サ レ ム は ム ス リ ム に よ っ て 支 配 さ れ る 都 市 と な り 、ウ マ イ ヤ
朝 時 代 に は 王 国 内 の 重 要 な 都 市 の ひ と つ と し て ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ の 整 備 も 進 め ら れ た 。し か
しながらアイユーブ朝以前のエルサレムは、いまだユダヤ教・キリスト教色の強い町であり、
ム ス リ ム た ち は 政 治 的 に は そ こ を 支 配 し て い な が ら も 、社 会 的・文 化 的 に は ユ ダ ヤ 王 国 以 来 続
い て き た「 ユ ダ ヤ 教 ・ キ リ ス ト 教 の 聖 地 と し て の エ ル サ レ ム 」の イ メ ー ジ を 払 拭 で き て い な か
った。エルサレム在住の地理書編纂者ムカッダスィーは自身の町であるエルサレムについて、
気 候 も よ く 豊 か な 産 物 に も 恵 ま れ 、預 言 者 た ち の マ シ ュ ハ ド を 数 多 く 有 す る 楽 園 の ご と き 町 で
あ る と 讃 え る 一 方 で 、「〔 そ こ に は 〕ウ ラ マ ー は 少 な く 、キ リ ス ト 教 徒 は 多 い 。彼 ら は モ ス ク の
中 庭 や 宿 場 で 無 作 法 を 行 っ て い る 。 ・・・フ ァ キ ー フ は お ら ず 、文 人 adīb も 見 受 け ら れ な い 。マ
ジ ュ リ ス( 学 問 の 集 い )も 見 ら れ ず 、知 の 教 授 も な い 。キ リ ス ト 教 徒 や ユ ダ ヤ 人 た ち が こ の 町
で は 優 位 に 立 っ て お り 、 モ ス ク に は 人 々 の 集 ま り や マ ジ ュ リ ス に 乏 し い 」 [AT 167] と 、 当 時
の エ ル サ レ ム に お い て ユ ダ ヤ 教・キ リ ス ト 教 の 影 響 力 が 依 然 強 く 、イ ス ラ ー ム の 学 問 を 学 ぶ 体
制が整っていなかったことを書いている。
492/1099 年 に 十 字 軍 が エ ル サ レ ム に 侵 攻 し た 際 、 弱 体 化 し て い た フ ァ ー テ ィ マ 朝 が そ れ を
阻 止 す る こ と が で き ず 、以 降 も 分 裂 し た シ リ ア の 地 方 勢 力 が 長 い 間 十 字 軍 か ら エ ル サ レ ム を 取
り 戻 そ う と す る 姿 勢 を 見 せ な か っ た こ と は 、 FBM に も 表 さ れ て い る 。 ま た ダ マ ス カ ス か ら 助
け を 求 め る 使 節 団 が ア ッ バ ー ス 朝 下 の バ グ ダ ー ド に 到 着 し た 際 に も 、当 時 の カ リ フ = ム ス タ ズ
ヒ ル al-M ustaẓh ir bi-All ah ( r. 487 /1094 -512/1118) と 彼 の 周 囲 の ウ ラ マ ー は そ の 知 ら せ を 悲 し
み な が ら も 、 な ん の 具 体 的 な 対 策 も 取 ら ず に 放 置 し て い る [FQ 125-126; UJ ⅰ , 447-448;
Ibrāhīm 1985: 501-503]。
エ ル サ レ ム が ム ス リ ム の 手 か ら 離 れ て い た 期 間 は FBM 編 纂 の 中 断 期 間 と 完 全 に 一 致 し て お
り 、こ の 期 間 は 為 政 者 た ち ば か り で は な く ウ ラ マ ー も エ ル サ レ ム に 対 し て 積 極 的 な 反 応 を 向 け
て い な い 。 す な わ ち FBM 作 品 の 現 存 状 況 に 従 え ば 、 イ ス ラ ー ム の 聖 地 を 異 教 徒 に 奪 わ れ た こ
118
と へ の 危 機 感 か ら ウ ラ マ ー が ム ス リ ム た ち に 向 け て エ ル サ レ ム 奪 還 の ジ ハ ー ド を 説 き 、そ の た
め の 手 段 と し て FBM を 編 纂 し 続 け た と い う 事 実 は 読 み と れ な い 。 十 字 軍 の 征 服 以 降 エ ル サ レ
ム は キ リ ス ト 教 徒 の 支 配 す る 都 市 と な り 、モ ス ク も 教 会 へ と 改 修 さ れ た 。十 字 軍 時 代 の エ ル サ
レ ム に ム ス リ ム の 入 城 が 完 全 に 認 め ら れ て い な か っ た わ け で は な い が 8 0 、そ こ は ウ ラ マ ー が 恒
常 的 に 滞 在 し て イ ス ラ ー ム に 関 す る 学 問 を 行 え る よ う な 環 境 で は な く 、ウ ラ マ ー の 人 口 も 激 減
し て い た 。492/1099 年 以 前 は 、主 と し て エ ル サ レ ム や そ の 近 隣 の 村 で あ る ラ ム ラ で FBM 編 纂
が 行 わ れ て い た の に 対 し 、583/ 1187 年 以 降 復 活 し た FBM 編 纂 は 、カ ン ジ ー (1 7) ま で の 約 100
年 間 は ダ マ ス カ ス を 中 心 に 行 わ れ て い る 。こ れ は い っ た ん ム ス リ ム の 都 市 と し て の 立 場 を 失 っ
た エ ル サ レ ム が 再 び そ の 立 場 を 取 り 戻 し 、さ ら に シ リ ア の 学 術 セ ン タ ー の ひ と つ と し て 発 展 し
ていくまでの期間であると見ることができるだろう。
サ ラ ー フ ・ア ッ デ ィ ー ン 以 降 の ア イ ユ ー ブ 朝 ・ マ ム ル ー ク 朝 君 主 は 、十 字 軍 に よ っ て キ リ ス
ト 教 化 さ れ た エ ル サ レ ム の 再 イ ス ラ ー ム 化 に 腐 心 し 、マ ド ラ サ を は じ め と す る 多 く の ワ ク フ 物
件 を 設 立 し た [Frenkel 1996: 73 -76; 1999: 2-13; Korn 2004: 76 -87]。 そ の 結 果 マ ム ル ー ク 朝 末
期 ま で の 時 期 に は 、UJ に お い て 述 べ ら れ て い た よ う に 、市 内 に は 多 く の 宗 教 施 設 が 並 び 立 ち 、
多 数 の ウ ラ マ ー を 擁 す る 宗 教 ・ 学 問 の 中 心 地 と な っ た 。 FBM 編 纂 数 の 増 加 は 、 エ ル サ レ ム に
お け る こ う し た 動 き に 同 調 す る も の で あ り 、こ の こ と は と り も な お さ ず 、こ の 時 期 の シ リ ア を
中心としたムスリム知識人たちの間にエルサレムに対する関心が高まっていったことを意味
し て い る 。エ ル サ レ ム は 十 字 軍 勢 力 か ら 回 復 さ れ た 後 、そ こ に あ っ た キ リ ス ト 教 的 要 素 が 排 除
さ れ 町 が 再 イ ス ラ ー ム 化 さ れ て い く 過 程 に お い て 、以 前 に は 存 在 し な か っ た「 イ ス ラ ー ム の 聖
地」としての強固なアイデンティティーを確立していったのである。
(2) ユ ダ ヤ 教 ・ キ リ ス ト 教 的 概 念 の 吸 収 と 再 構 成
ア イ ユ ー ブ 朝 以 降 の FBM 編 纂 数 の 増 加 は 、 イ ス ラ ー ム の 聖 地 と し て の エ ル サ レ ム の 重 要 性
の 高 ま り と 軌 を 一 に す る も の で あ っ た 。 次 に こ の 点 を 、 FBM の 内 容 の 変 遷 か ら 考 察 す る 。
ア イ ユ ー ブ 朝 時 代 に FBM 編 纂 が 再 開 さ れ て か ら 1 世 紀 余 り の 間 に 著 さ れ た 作 品 は 、十 字 軍
時 代 以 前 の 形 式 を そ の ま ま 受 け 継 い だ ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM で あ っ た 。 こ の 編 纂 形 式 に 大 き な
変 化 が 見 ら れ る よ う に な る の は 、 フ ァ ザ ー リ ー (18) の BN 以 降 の マ ム ル ー ク 朝 時 代 の こ と と
な る 。 FBM が こ の 時 期 に 辿 っ た 変 遷 の ひ と つ の 方 向 が 、 BN や ア ン サ ー リ ー (21) の TU に 代
表 さ れ る 参 詣 記 型 FBM で あ る 。 こ の ス タ イ ル の FBM の 登 場 は 、 ま さ し く エ ル サ レ ム の 聖 地
と し て の 重 要 性 が こ の 時 期 に 確 立 さ れ 、マ ム ル ー ク 朝 に お い て エ ル サ レ ム 参 詣 が 盛 ん に な っ た
こ と を 受 け て い る 。 ま た FBM の 変 化 の も う ひ と つ の 方 向 性 と し て は 、 シ ハ ー ブ ・ ア ッ デ ィ ー
80
ハ ラ ウ ィ ー は 569/1173 年 に エ ル サ レ ム を 訪 れ 、ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ を 参 詣 し て い る 。ま た ウ サ ー マ・
ブ ン ・ ム ン キ ズ Usāma Ibn Munqidh al -Ki n ānī (d. 585/1188) も 、 十 字 軍 支 配 下 の エ ル サ レ ム を 度 々 訪
れ て 、 当 時 テ ン プ ル 騎 士 団 の 小 礼 拝 堂 と な っ て い た ア ク サ ー ・ モ ス ク で 礼 拝 し て い る [Ishārāt 25;
Rosen- Aya lon 199 9: 335-3 39; Meri 2 004: 70 -71; Ric hter-Ber nb ur g 2010; 12 0 -112; 藤 本 1987: 178] 。
119
ン・マ ク デ ィ ス ィ ー (22) の MG-M や ウ ラ イ ミ ー (28) の UJ に 代 表 さ れ る 地 誌 型 FBM が あ り 、
そ の 中 で は 伝 記 集 や 地 理 的 情 報 と い っ た ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM に は 見 ら れ な か っ た 新 し い 要 素
が組み込まれるようになった。
マ ム ル ー ク 朝 か ら オ ス マ ン 朝 に か け て の FBM に は 概 し て 、 十 字 軍 以 降 の 歴 史 的 記 述 や ム ス
リ ム 著 名 人 た ち の 伝 記 、そ れ ぞ れ の 作 品 が 編 纂 さ れ た 時 代 の エ ル サ レ ム と そ の 周 辺 地 域 の 様 子
の 描 写 等 が 追 加 さ れ る こ と に よ り 、作 品 が イ ス ラ ー ム 的 性 格 の 強 い も の と な り 、そ れ と 反 比 例
す る 形 で 、ユ ダ ヤ 教 ・ キ リ ス ト 教 的 色 彩 の 強 い 伝 承 、す な わ ち イ ス ラ ー イ ー リ ー ヤ ー ト が 作 品
内 に お い て 占 め る 割 合 が 減 少 し て く る と い う 傾 向 が 見 ら れ る 。ユ ダ ヤ 教・キ リ ス ト 教 的 色 彩 の
強 い 伝 承 と は 具 体 的 に は 、イ ス ラ ー ム 以 前 の 預 言 者 た ち の 言 行 を 中 心 と し た エ ル サ レ ム の 歴 史
を 扱 っ た 伝 承 ( カ テ ゴ リ ー A) と 、 一 神 教 の 聖 地 と し て の エ ル サ レ ム の 神 聖 性 を 強 調 す る 伝 承
( カ テ ゴ リ ー C の 一 部 )、 エ ル サ レ ム に お け る 審 判 と 復 活 、 反 キ リ ス ト に 関 す る 伝 承 ( カ テ ゴ
リ ー D) の こ と で あ る 。
MG-M に お い て は 、 5/ 11 世 紀 成 立 の FBM-IM と 比 較 し て 、 作 品 中 で 扱 わ れ る イ ス ラ ー イ ー
リ ー ヤ ー ト の 種 類 や 数 量 は 大 き く 変 わ ら な い が 、そ こ に サ ラ ー フ・ア ッ デ ィ ー ン の エ ル サ レ ム
征 服 時 の フ ト バ と 、ウ マ ル ・ブ ン ・ ア ル ハ ッ タ ー ブ 以 降 の ム ス リ ム の 偉 人 伝 と い う 新 し い 要 素
が 加 わ っ て お り 、 そ う し た 伝 承 群 の 作 品 中 に 占 め る 割 合 は 低 下 し て い る 。 RM と IA に お い て
は 、 扱 わ れ る イ ス ラ ー イ ー リ ー ヤ ー ト の 種 類 と 数 量 が MG-M に 比 べ 減 少 し て お り 、 例 え ば IA
で は 、 イ ス ラ ー イ ー リ ー ヤ ー ト を 元 と す る エ ル サ レ ム の 美 点 を 讃 え る 伝 承 は 、 全 17 章 中 の 第
1 章 の 一 部 分 に 凝 縮 さ れ て い る 。 ま た RM と IA に お い て は 、 第 3 章 第 5 節 で 述 べ た よ う に 預
言 者 ア ブ ラ ハ ム と モ ー セ に 関 す る 章 が 立 て ら れ 、そ れ ら が 作 品 の 大 き な 割 合 を 占 め る 要 素 と な
っている。
アブラハムとモーセはエルサレムにイスラエルの王国が建てられる以前の預言者たちであ
り 、元 来 は エ ル サ レ ム と い う 土 地 に 直 接 的 な 関 わ り の な い 存 在 で あ っ た 。ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM
に お い て は 、ア ブ ラ ハ ム は 主 と し て ヘ ブ ロ ン の 地 に 一 族 の 墓 を 造 っ た と い う 伝 承 、モ ー セ は 出
エ ジ プ ト の 後 エ ル サ レ ム に 近 い と こ ろ で 死 ん だ と い う 伝 承 が 、単 独 の エ ピ ソ ー ド と し て 一 部 の
作 品 に 取 り 上 げ ら れ て い た に 過 ぎ な か っ た 。 そ れ が RM と IA で は 、 彼 ら の 生 涯 の 事 績 が 専 用
の 章 を 立 て て 述 べ ら れ る よ う に な る の で あ る 。 IA で は 第 11 章 か ら 第 15 章 に か け て ア ブ ラ ハ
ム と そ の 一 族 に つ い て 、 第 16 章 で モ ー セ に つ い て と 、 実 に 6 章 分 を 費 や し て 彼 ら の 事 績 を 語
っ て い る 。そ し て そ の 中 に は 、例 え ば ア ブ ラ ハ ム が バ ビ ロ ン の 地 に 生 ま れ シ リ ア に ヒ ジ ュ ラ し
た こ と や 、 彼 が 人 類 で 初 め て 割 礼 を 行 い ズ ボ ン s irwāl を 着 用 し た 人 間 で あ っ た こ と 、 彼 が 復
活の日に、人々が裸で復活させられる中最初に衣を着せかけられる人である、というような、
エ ル サ レ ム 讃 美 と は ま っ た く 関 係 の な い 預 言 者 の 業 績 や 讃 美 が 含 ま れ て い る [IA ⅱ , 77-84]。
こ う し た ア ブ ラ ハ ム 一 族 の 事 績 の 中 に は 、ア ブ ラ ハ ム と そ の 息 子 の イ シ ュ マ エ ル の メ ッ カ 移 住
と カ ア バ 建 設 も 含 ま れ て お り 、 イ ス ラ ー ム に 独 特 の 預 言 者 観 も 強 く 表 れ て い る [IA ⅱ ,
120
109-114]。 IA は こ う し た 伝 承 を 踏 ま え た 上 で 、 ア ブ ラ ハ ム と モ ー セ が エ ル サ レ ム 近 隣 の 地 域
に滞在していたことを述べ、エルサレムを含む「聖なる地」の讃美に繋げている。
マ ム ル ー ク 朝 時 代 以 前 の ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM に お い て は む し ろ 、 エ ル サ レ ム の 神 殿 、 す な
わ ち バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 建 設 者 で あ る ダ ビ デ と ソ ロ モ ン 、復 活 の 日 に 救 世 主 と し て エ ル
サ レ ム に 降 臨 す る と さ れ た イ エ ス の 存 在 が 重 要 視 さ れ て き た 。 し か し こ こ で RM や IA は 、 エ
ルサレムがイスラエルによって本格的に建設される以前の預言者であるアブラハムとモーセ
を 取 り 上 げ 、さ ら に 彼 ら を 、ユ ダ ヤ 教 ・ キ リ ス ト 教 以 前 の 理 想 的 一 神 教 徒 、ま た イ ス ラ ー ム の
預 言 者 と し て 扱 う こ と に よ り 、ム ス リ ム が 一 神 教 の 正 統 な 後 継 者 で あ る こ と と 、ム ス リ ム が エ
ル サ レ ム を 管 理 す る こ と の 妥 当 性 を 主 張 し て い る 。ア ブ ラ ハ ム と モ ー セ は 、預 言 者 ム ハ ン マ ド
が ミ ー ラ ー ジ ュ の 際 に 天 で 彼 に 会 い 、と も に ム ハ ン マ ド の ウ ン マ に 対 し て 挨 拶 を 送 り 心 遣 い を
示 し た と さ れ て い る [ IA ⅱ , 77, 127]。 FBM 著 者 は 作 品 内 で 、 エ ル サ レ ム と 直 接 の 関 連 を 持 た
な い が 、ユ ダ ヤ 教 ・キ リ ス ト 教 に と っ て も イ ス ラ ー ム に と っ て も 重 要 な 預 言 者 た ち を 描 き 、彼
ら に イ ス ラ ー ム 的 な 意 味 合 い を 持 た せ る こ と に よ り 、イ ス ラ ー イ ー リ ー ヤ ー ト か ら 取 り 入 れ た
ものとは異なるイスラーム独自のエルサレム讃美を試みているのである。
ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM の 主 要 素 の ひ と つ で あ っ た 、 エ ル サ レ ム の 偉 大 性 ・ 神 聖 性 に 関 す る 伝
承 ( カ テ ゴ リ ー C) の 作 品 に 占 め る 割 合 の 低 下 は 、 UJ に 至 り 一 層 顕 著 な も の と な る 。 UJ に お
い て こ う し た 伝 承 は 、第 1 部 歴 史 部 分 の 中 の 、預 言 者 ム ハ ン マ ド の 死 と ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ル ハ
ッ タ ー ブ の エ ル サ レ ム 征 服 と の 間 に 挿 入 さ れ る 一 要 素 に 過 ぎ ず 、 FBM の 中 で も 最 大 の 分 量 を
持 つ UJ の 中 に あ っ て 極 め て 小 さ な も の と な っ て い る 。U J に お け る エ ル サ レ ム 讃 美 は む し ろ 、
著 者 ウ ラ イ ミ ー の 時 代 の エ ル サ レ ム の 姿 を 描 き 出 し た 第 2 部 に 表 現 さ れ て い る 。ウ ラ イ ミ ー は
こ こ で 、サ ラ ー フ ・ア ッ デ ィ ー ン 以 降 再 び ム ス リ ム の 支 配 す る 都 市 と な っ た エ ル サ レ ム が 、多
く の 宗 教 施 設 を 備 え た シ リ ア に お け る 学 術・宗 教 セ ン タ ー と な っ た こ と を 、地 理 的 な 側 面 と ウ
ラ マ ー 伝 と い う 人 文 的 な 側 面 か ら 描 き 、イ ス ラ エ ル 時 代 の 栄 光 で は な く ム ス リ ム に よ っ て も た
らされた現在のエルサレムの栄光を讃美している。
FBM に お い て イ ス ラ ー イ ー リ ー ヤ ー ト の 要 素 の 重 要 性 が 相 対 的 に 低 下 し 、 代 わ っ て イ ス ラ
ー ム 独 自 の 要 素 が 現 れ て く る と い う こ の 傾 向 は 、オ ス マ ン 朝 時 代 に 成 立 し た 作 品 に も 引 き 継 が
れ て い る 。 こ の 時 代 に 編 纂 さ れ た 作 品 で は 、 イ ス ラ ー ム 以 前 の 歴 史 ( カ テ ゴ リ ー A) の 占 め る
割 合 も 大 幅 に 縮 小 さ れ て お り 、以 前 の 作 品 で 重 要 な ト ピ ッ ク で あ っ た ダ ビ デ と ソ ロ モ ン に よ る
神 殿 建 設 も も は や 重 要 視 さ れ て い な い 。IA と UJ を 典 拠 と し て い る LUJ に お い て も 、ウ マ ル・
ブ ン・ア ル ハ ッ タ ー ブ 以 前 の エ ル サ レ ム の 歴 史 は 簡 潔 に ま と め ら れ て お り 、作 品 の 重 心 は イ ス
ラ ー ム 以 降 の エ ル サ レ ム の 姿 を 描 く こ と に 移 っ て い る [ LUJ(C) 7b-9a]。 ま た FBM に メ ッ カ と
カアバに対するファダーイルを加えたり、アブラハムとモーセを重要視したりしている点も、
マ ム ル ー ク 朝 時 代 の 作 品 と 同 様 で あ る [Ibrāhīm 1985: 497-498; Ris āl a 11a, 29a-40b]。
オ ス マ ン 朝 時 代 の 作 品 で は 、イ ス ラ ー イ ー リ ー ヤ ー ト の 要 素 を 排 除 し よ う と す る だ け で は な
121
く 、そ れ ら を イ ス ラ ー ム 的 意 味 合 い を 持 つ も の に 書 き 換 え て 取 り 込 ん で い こ う と す る 動 き も 見
ら れ 、 そ れ は Ris āl a の 結 章 に 端 的 に 表 れ て い る 。 そ こ で は ア ブ ラ ハ ム の 一 族 と モ ー セ を 中 心
に 、ノ ア や イ エ ス の 母 マ リ ア と い っ た 預 言 者 や 聖 者 た ち の 墓 が あ る 場 所 と 、そ れ ら の 預 言 者 た
ち が ム ス リ ム の 上 に 及 ぼ し た 奇 跡 に つ い て 述 べ ら れ て お り 、オ ス マ ン 朝 時 代 の シ リ ア に 住 む ム
スリムたちの間でイスラーム以前の預言者たちの墓廟が数多く知られ参詣されている情景を
描 く こ と で 、そ う し た 預 言 者 た ち を イ ス ラ ー ム 的 存 在 と し て い る 。こ こ に 挙 げ ら れ て い る モ ー
セ に ま つ わ る エ ピ ソ ー ド の ひ と つ に は 、著 者 で あ る ハ リ ー リ ー 自 身 が 、モ ー セ の 墓 廟 の あ る 場
所 に つ い て あ る ユ ダ ヤ 人 と 交 わ し た 問 答 が あ る 。ハ リ ー リ ー は 、モ ー セ の 墓 廟 は ユ ダ ヤ 人 た ち
の 不 徳 の た め に 彼 ら の 目 か ら は 隠 さ れ て お り 、ム ス リ ム た ち に の み 明 ら か に さ れ て い る と 主 張
し 、「 こ れ こ そ 、 モ ー セ 様 が あ な た 方 に 対 し て 怒 っ て お ら れ る こ と の 証 で す 。 そ れ ゆ え に 、 神
は 彼 の 墓 廟 を あ な た 方 か ら お 隠 し に な っ た の で す 」と 言 い 、そ の ユ ダ ヤ 人 自 身 も そ の こ と を 認
め た と し て い る [Risāl a 33b]。 こ の エ ピ ソ ー ド が 示 す よ う に 、 こ こ で は 預 言 者 た ち は す で に イ
ス ラ エ ル の 民 の 側 に 立 つ 存 在 で は な く ム ス リ ム の 守 護 者 と な っ て お り 、ム ス リ ム の 方 こ そ が ユ
ダ ヤ 人 よ り も 彼 ら を 深 く 理 解 し 、彼 ら に 関 す る よ り 多 く の 知 識 を 持 っ て い る の だ と い う こ と が
強調されている。
以 上 の よ う に ア イ ユ ー ブ 朝 以 降 に は 、エ ル サ レ ム が キ リ ス ト 教 の 都 市 か ら 再 び ム ス リ ム の 都
市 へ と 造 り か え ら れ て い く の に 同 調 す る 形 で FBM の 編 纂 数 が 増 加 し 、 そ れ に 続 く 時 代 に は
FBM の 内 容 面 に お い て も 、 イ ス ラ ー ム 以 前 の ユ ダ ヤ 教 ・ キ リ ス ト 教 的 概 念 が イ ス ラ ー ム 的 な
形 に 変 形 さ れ て い る 。エ ル サ レ ム は メ ッ カ や メ デ ィ ナ と は 異 な り 、元 は 外 来 の 聖 地 で あ っ た た
め 、初 期 の ム ス リ ム は エ ル サ レ ム に 関 す る 伝 承 を イ ス ラ ー イ ー リ ー ヤ ー ト か ら 取 り 入 れ て き た 。
ハ デ ィ ー ス 集 型 FBM に 挙 げ ら れ て い る 伝 承 の 発 信 者 に も 、カ ァ ブ・ア ル ア フ バ ー ル や ワ フ ブ・
ブ ン・ム ナ ッ ビ フ 、ア ブ ド・ア ッ ラ ー・ブ ン・サ ラ ー ム と い っ た ユ ダ ヤ 教 か ら の 改 宗 者 た ち の
名 前 が 頻 繁 に 見 え て い た 。 初 期 の FBM が そ う し た 伝 承 を そ の ま ま の 形 で 取 り 込 ん で い た の に
対 し 、後 代 の 作 品 で は そ う し た 伝 承 へ の 依 存 の 度 合 い が 減 少 し 、エ ル サ レ ム の イ メ ー ジ に イ ス
ラ ー ム 独 自 の 解 釈 を 加 え 、ム ス リ ム の 都 市 と し て の エ ル サ レ ム の 現 状 を 描 こ う と す る 試 み が な
さ れ て い る 。こ の 点 は 、後 代 の 作 品 で は エ ル サ レ ム と ク ル ア ー ン の 文 言 を 結 び 付 け て 説 明 し よ
う と す る 伝 承 ( カ テ ゴ リ ー H ) の 数 と 種 類 が 増 加 し て い る こ と か ら も 指 摘 で き る 。 FBM 編 纂
の 歴 史 は 、前 近 代 シ リ ア の ム ス リ ム 知 識 人 た ち が イ ス ラ ー ム の 聖 地 と し て の エ ル サ レ ム の 姿 を
作り上げていくための、ひとつの学術的な努力であったと言えよう。
FBM は ハ デ ィ ー ス 集 か ら 発 展 し た ジ ャ ン ル で あ る た め 、 そ こ に は 先 の 時 代 に 成 立 し た 作 品
か ら の 引 用 に 基 づ い て 編 纂 さ れ る と い う 性 格 が あ る 。 こ れ は オ ス マ ン 朝 時 代 に 至 る ま で FBM
の 基 本 的 性 格 と し て 保 た れ 、一 面 で は 内 容 の 固 定 化 や オ リ ジ ナ リ テ ィ ー の 欠 如 を も た ら し て い
る 。し か し そ の 一 方 、と り わ け マ ム ル ー ク 朝 時 代 以 降 の 作 品 に は 、そ れ ぞ れ の 時 代 の エ ル サ レ
ム 周 辺 の 社 会 状 況 が 反 映 さ れ た 部 分 が 見 ら れ 、エ ル サ レ ム 研 究 を 行 う 上 で 重 要 な 情 報 を 提 供 す
122
る も の と な っ て い る 。従 来 注 目 さ れ る こ と の 少 な か っ た こ れ ら 後 代 の 作 品 を 史 料 と し て 活 用 す
ることで、エルサレム史研究に新しい発展をもたらすことができるであろう。
123
124
資料編
ム ス タ フ ァ ー ・ ブ ン ・ ア ス ア ド ・ ル カ イ ミ ー Muṣṭafā b. Asʽa d al-Luqaymī a l-Dimyāṭī 著 、
『 エ ル サ レ ム と ヘ ブ ロ ン の 至 宝 に 関 す る 栄 光 あ る 喜 び の 妙 句 Laṭāʼif Uns al -Jalī l fī Taḥāʼif
al-Quds wa al -K halīl』 校 訂 と 訳 注
(1) は じ め に
序 章 に お い て 述 べ た よ う に 、 従 来 の FBM 研 究 で は 比 較 的 早 い 時 代 に 成 立 し た 作 品 の み が 注
目 さ れ て い る と い う 問 題 が あ っ た 。 と り わ け 、 FBM が 盛 ん に 編 纂 さ れ る よ う に な っ た マ ム ル
ー ク 朝 を 過 ぎ 、再 び 編 纂 数 が 減 少 し て く る オ ス マ ン 朝 時 代 の 作 品 に つ い て 、先 行 研 究 は ほ と ん
ど 言 及 し て こ な か っ た 。 そ こ で 本 論 資 料 編 で は 、 そ う し た オ ス マ ン 朝 時 代 に 編 纂 さ れ た FBM
の 一 例 と し て 、 ル カ イ ミ ー (d. 1178/17 64) の LUJ を を 取 り 上 げ 、 そ の 校 訂 と 日 本 語 訳 注 を 行
う。なお著者の経歴については、本論第 4 章第 1 節を参照されたい。
LUJ は オ ス マ ン 朝 時 代 の 作 品 の 中 で は 、 そ の 典 拠 が 最 も は っ き り と 示 さ れ て お り 、 マ ム ル
ー ク 朝 後 期 の 作 品 で あ る IA と UJ に 拠 っ て 編 纂 さ れ て い る 。IA、UJ も ま た 、そ れ に 先 立 つ 時
代 に 成 立 し た 様 々 な FBM 作 品 を 典 拠 と し て 書 か れ た 作 品 で あ る た め 、LUJ の 中 に は 、5/11 世
紀 の FBM-W や FBM-IM 以 降 オ ス マ ン 朝 に 至 る ま で の FBM 編 纂 の 流 れ 、す な わ ち 時 代 を 通 じ
た 伝 承 の 取 捨 選 択 や 新 し い 要 素 の 追 加 と い っ た FBM の 変 遷 が 、 明 確 に 表 れ て い る 。 こ の 点 で
LUJ は 、 今 後 の FBM 研 究 に お い て 着 目 す べ き 重 要 な 作 品 の ひ と つ で あ る 。
LUJ に は 2000 年 に 、 ハ ム シ ャ リ ー Kh ālid ʽAbd al-Karīm al -Hamsharī に よ る 校 訂 が 出 版 さ
れ て い る 。本 論 で は 、ハ ム シ ャ リ ー に よ る 校 訂 を LUJ(H) と 略 称 す る 。以 下 で は ま ず ハ ム シ ャ
リーの研究を概観し、その問題点を示す。
(2) ハ ム シ ャ リ ー の 校 訂 と 参 照 写 本
ハ ム シ ャ リ ー は LUJ を 校 訂 す る に あ た り 、 3 つ の 写 本 を 参 照 し て い る 。 以 下 に そ の 3 写 本
と、それらに対するハムシャリーの所見を述べる。
① ヘ ブ ラ イ 大 学 写 本 al-Jāmiʽa al -ʽIbrīya, No. 807
エ ル サ レ ム の ヘ ブ ラ イ 大 学 に 所 蔵 さ れ て い る 写 本 で 、ハ ム シ ャ リ ー の 校 訂 に お い て は ア イ ン
写 本 ) ‫ ( ع‬と 呼 ば れ る 。 明 確 な ナ ス ヒ ー 体 で 筆 記 さ れ て お り 、 写 本 の 葉 数 は 48 葉 で あ る 。 1 ペ ー
ジ に つ き 25 行 、 1 行 当 た り 13 語 か ら 17 語 が 含 ま れ て い る 。 以 下 本 論 資 料 編 に お い て は 、 本
写本を H 写本とする。
ハ ム シ ャ リ ー は 、 第 1 葉 a の 記 載 よ り 、 H 写 本 は 1150 /1737 年 に 、 ア フ マ ド ・ ブ ン ・ フ サ
イ ン ・ キ ー ワ ー ニ ー Aḥmad b. Ḥusayn al-Kīwānī と い う 人 物 に よ っ て 筆 写 さ れ た も の で あ る と
125
し て い る 。 同 じ く 第 1 葉 a に は 、 サ イ イ ド ・ ム ハ ン マ ド ・ ア ッ サ イ ー ド al-Sayyd Muḥ ammad
al-Saʽīd と い う 人 物 に よ る 、本 書 に 対 す る 頌 詩 が 書 か れ て い る が 、ハ ム シ ャ リ ー は こ の 人 物 を 、
LUJ の 著 者 ル カ イ ミ ー の 兄 弟 の ひ と り で 、詩 人 で あ っ た ム ハ ン マ ド・ア ッ サ イ ー ド に 同 定 し て
いる。
ハ ム シ ャ リ ー は 、H 写 本 が 1150/1737 年 と い う 著 者 の 存 命 中 に 筆 写 さ れ て い る と い う こ と と 、
注 釈 が 多 く 付 さ れ て お り 、人 名・地 名 等 の 固 有 名 詞 に 母 音 点 が 多 く 付 け ら れ て い る と い う こ と
か ら 、 H 写 本 が 現 存 す る LUJ の 写 本 の 中 で 最 も 古 い も の で あ る と 判 断 し 、 こ れ を 校 訂 の 底 本
と し て い る [ LUJ(H) 7, 30, 34 -37]。
② ダ ー ル ・ ア ル ク ト ゥ ブ 写 本 D ār al-K utub al-M iṣrīya, No. 793/ 1935
カ イ ロ の ダ ー ル・ア ル ク ト ゥ ブ に 所 蔵 さ れ て い る 写 本 で 、ハ ム シ ャ リ ー の 校 訂 に お い て は ミ
ー ム 写 本 ) ‫ ( م‬と 呼 ば れ る 。 明 確 な ナ ス ヒ ー 体 で 筆 記 さ れ て お り 、 写 本 の 葉 数 は 73 葉 で あ る 。 1
ペ ー ジ に つ き 21 行 、1 行 当 た り 9 語 か ら 13 語 が 含 ま れ て い る 。以 下 本 写 本 を D 写 本 と す る 。
D 写 本 の 第 73 葉 b の 奥 書 に は 、「 こ の 書 の 筆 写 は 、1151 年( 1738 年 )シ ャ ァ バ ー ン 月 7 日
水 曜 日 に 完 了 し た 」と あ る が 、写 字 生 は 不 明 で あ る 。ま た 第 1 葉 の 記 載 か ら 、本 写 本 は 1251/1836
年 に 、 サ イ イ ド ・ ム ハ ン マ ド ・ ナ ー ジ ー ・ サ リ ー ム al-Sayyd Muḥ ammad N āj ī Salīm と い う 人
物の所有になっていたことがわかる。
ハ ム シ ャ リ ー は 、D 写 本 は H 写 本 に 比 べ 、注 釈 や 母 音 点 の 付 記 が 乏 し い と す る が 、1151/1738
年という H 写本に次ぐ筆写年代の古さから、本写本を H 写本に続く重要な写本であると位置
づ け て い る [ LUJ(H) 37-38, 315]。
③ ベ ル リ ン 写 本 Staa tsbibliothek zu Berlin , Wetzstein Ⅱ 1104.
ベ ル リ ン 州 立 図 書 館 に 所 蔵 さ れ て い る 写 本 で あ る が 、ハ ム シ ャ リ ー は こ の 写 本 に つ い て は 写
本 番 号 を 挙 げ て い な い 。 ハ ム シ ャ リ ー の 校 訂 に お い て は ラ ー ム 写 本 )‫(ل‬と 呼 ば れ る 。 写 本 の 葉
数 は 67 葉 で 、1 ペ ー ジ に つ き 21 行 、1 行 当 た り 10 語 か ら 15 語 が 含 ま れ て い る 。以 下 本 写 本
を B 写本とする。
ハ ム シ ャ リ ー は B 写 本 の 筆 写 年 を 、 奥 書 の 記 載 よ り 1182/1768 年 で あ る と し て い る 。 な お
写 字 生 の 名 前 に つ い て も 、同 じ く 奥 書 に 明 ら か で あ る と し て い る( 実 際 の 名 前 に は 言 及 し て い
な い )。 本 写 本 の 中 に 見 え る 固 有 名 詞 の 一 部 が 誤 っ て い た り 、 母 音 点 が 付 け ら れ て い な か っ た
り す る こ と か ら 、ハ ム シ ャ リ ー は 、こ の 写 字 生 は 歴 史 や 人 物 伝 に 関 す る 知 識 に 乏 し い 人 物 で あ
っ た の だ ろ う と 述 べ て い る [ LUJ(H) 38 -39]。
B 写 本 に つ い て の 情 報 を 追 加 す る と 、本 写 本 の 写 字 生 は リ ド ワ ー ン・ ブ ン・サ ッ ラ ー マ・ブ
ン ・ ム ハ ン マ ド ・ サ カ ル Riḍwān b. Sallāma b. Muḥ ammad b. Ṣaqar と い う 人 物 で あ る 。 ま た
筆 写 年 に つ い て は 、ハ ム シ ャ リ ー は 11 82/1768 年 と し て い る が 、ベ ル リ ン 州 立 図 書 館 の ア ラ ビ
126
ア 語 写 本 カ タ ロ グ を 編 纂 し た ア ー ル ヴ ァ ル ト W. Ahl war dt は 、 本 写 本 の 筆 写 年 を 1151 /1738
年 で あ る と し て い る [Ahlwa rdt ⅴ 1893 : 412-413]。こ れ ら の 判 断 の 違 い は 、こ の 年 代 が 数 字 で
書 か れ て い る の み で あ り 、ア ラ ビ ア 文 字 に よ る 併 記 が な い こ と に よ っ て い る [ LUJ(B) 67a] 。し
か し な が ら 本 論 に お い て 、 筆 者 は こ の 部 分 を 「 1181 年 」 と 判 読 す べ き で は な い か と 考 え る 。
筆 写 さ れ た 月 と 日 に つ い て は 、「 ジ ュ マ ー ダ ー ・ ア ル ウ ー ラ ー 月 22 日 日 曜 日 」 [LUJ(B) 67a]
と あ る た め 、 B 写 本 は 1181/1767 年 に 筆 写 さ れ た も の で あ る と す る 。
(3) ハ ム シ ャ リ ー の 底 本 選 択 の 問 題 点
ハ ム シ ャ リ ー は LUJ を 校 訂 す る に あ た り 参 照 し た 3 写 本 の う ち 、H 写 本 を 底 本 と し て い る 。
彼がこの写本を底本とすべき重要な写本であると判断した根拠は、H 写本第 1 葉 a の
1150/1737 年 と い う 年 代 の 記 載 で あ り 、彼 は こ の 年 を 、本 写 本 が キ ー ワ ー ニ ー と い う 人 物 に よ
っ て 筆 写 さ れ た 年 だ と 判 断 し て い る が [ LUJ(H) 36]、 ハ ム シ ャ リ ー に よ る こ の 所 見 は 疑 問 が 残
るものである。
ま ず ハ ム シ ャ リ ー は 、H 写 本 を 底 本 と し て 校 訂 す る に 際 、第 1 葉 a の 内 容 に つ い て は 触 れ て
い な い た め 、1150/1737 年 に キ ー ワ ー ニ ー に よ っ て 本 写 本 が 筆 写 さ れ た と い う こ と が 、実 際 に
ど の よ う な 表 現 で 書 か れ て い た の か は 明 ら か に な っ て い な い 。ハ ム シ ャ リ ー は 、校 訂 本 の 中 に 、
H 写 本 第 1 葉 a の 写 真 版 を 掲 載 し て い る [LUJ(H) 40] 。 そ こ か ら 判 断 す る 限 り で は 、 ハ ム シ ャ
リーが H 写本の筆写年代の根拠としているのは、
「 僕 に し て 常 に 誠 実 な る 者 、ア フ マ ド・ブ ン ・
フ サ イ ン・キ ー ワ ー ニ ー が こ れ を 書 い た 。神 が 彼 ら 両 名 の 罪 を 赦 し 給 わ ん こ と を 。1150 年 末 Wa
katab a-h u al-ʽab du al-mus tadīmu al-k hulūṣ u Aḥm ad b . Ḥus ayn al-Kīwānī. Ghafara Allāh u
dhunūb a-h umā. F ī awākhir 1150」 と い う 記 述 で あ ろ う 。 し か し 、 こ の 「 キ ー ワ ー ニ ー が こ れ
を 書 い た 」と い う 一 文 を 、必 ず し も「 キ ー ワ ー ニ ー が こ の 写 本 を 筆 写 し た 」と い う 意 味 に 取 る
ことはできない。
H 写 本 第 1 葉 a は 3 つ の 部 分 よ り 構 成 さ れ て お り 、 そ れ ぞ れ ① LUJ の タ イ ト ル と 著 者 ル カ
イ ミ ー の 名 前 、② 著 者 の 兄 弟 ム ハ ン マ ド ・ ア ッ サ イ ー ド に よ る 頌 詩 、③「 神 た だ お ひ と り に こ
そ 称 賛 あ れ 。こ れ は 魂 の 聖 性 の 閃 き に し て 、神 聖 な る ス ン ナ の 輝 き 、創 造 主 の ご 意 志 の 聖 性 で
あ る ・・・」 か ら 始 ま る 文 章 で あ る 。 こ の ③ の 終 わ り の 部 分 に 、 前 述 の 「 キ ー ワ ー ニ ー が こ れ を
書 い た 」 と い う 一 文 が 付 さ れ て い る 。 ③ の 部 分 は キ ー ワ ー ニ ー が LUJ と 著 者 ル カ イ ミ ー に 寄
せ た 賛 辞 で あ る と 考 え ら れ 、前 文 の 中 に 見 え る「 彼 ら 両 名 」と は 、ル カ イ ミ ー と キ ー ワ ー ニ ー
のことを指しているだろう。
「 キ ー ワ ー ニ ー が こ れ を 書 い た 」と い う 表 現 に つ い て も 、
「キーワ
ー ニ ー が こ の 賛 辞 を 書 い た 」と い う 意 味 で 捉 え る ほ う が 自 然 で あ る 。な お こ の キ ー ワ ー ニ ー と
は 、ル カ イ ミ ー と 同 時 代 の ダ マ ス カ ス の 詩 人 で あ る( 1173 /1759 年 に ダ マ ス カ ス に て 没 )[Aʽl ām
ⅰ , 118]。
キーワーニーを H 写本の筆記者と見なすことのもうひとつの問題は、H 写本には最終葉が
127
欠 け て お り 、奥 書 を 確 認 す る こ と が で き な い 点 に あ る 。写 本 の 筆 写 年 と 写 字 生 に つ い て の 情 報
は 、普 通 写 本 の 奥 書 に 書 か れ る 。ハ ム シ ャ リ ー が 参 照 し て い る 3 つ の 写 本 の う ち 、D 写 本 と B
写 本 に つ い て は 、 そ れ ぞ れ 奥 書 に こ れ ら の 情 報 が 記 さ れ て い る 。 H 写 本 は 47 葉 か ら 構 成 さ れ
て い る が 、 第 47 葉 b は 明 ら か に 文 の 途 中 で 中 断 さ れ て い る [ LUJ(H) 42]。 他 の 2 写 本 か ら 判
断 す る に 、 H 写 本 に は 48 葉 目 が 存 在 し た は ず で あ る が 、 こ の 最 終 葉 は 現 在 失 わ れ て し ま っ て
い る 。よ っ て 、本 写 本 が 正 し く 1150/17 37 年 に キ ー ワ ー ニ ー に よ っ て 筆 写 さ れ た も の で あ る と
は、判断することができないのである。H 写本の正確な筆写年が確認できないものであれば、
1150/1737 年 と い う 年 代 を 根 拠 に 本 写 本 を 現 存 す る 最 も 古 い 写 本 で あ る と 見 な し 、こ れ を 校 訂
の底本とすべきであるとしたハムシャリーの前提も崩れることになる。
(4) ハ ム シ ャ リ ー が 参 照 し て い な い 写 本
LUJ に は 、 ハ ム シ ャ リ ー が 参 照 し て い な い 写 本 が も う 1 つ 存 在 す る 。 そ れ が ケ ン ブ リ ッ ジ
大 学 図 書 館 Ca mbridg e Universi ty Lib rary 所 蔵 の 写 本 (Qq. 127) で あ る 。 以 下 本 写 本 を C 写
本とする。
ケ ン ブ リ ッ ジ 大 学 写 本 は 明 確 な ナ ス ヒ ー 体 で 筆 記 さ れ て お り 、 葉 数 は 58 葉 、 1 ペ ー ジ に つ
き 23 行 が 含 ま れ て い る 。 1 葉 の 大 き さ は 21.2×16.2cm で あ る 。
C 写本の第 1 葉 a は H 写本と同様、①タイトルと著者名、②ムハンマド・アッサイードに
よ る 頌 詩 、③ キ ー ワ ー ニ ー に よ る 賛 辞 の 3 つ の 部 分 で 構 成 さ れ て お り 、本 文 は 第 1 葉 b よ り 始
まっている。C 写本の第 1 葉 a には、H 写本の記述とは異なる点がいくつか含まれている。
まずムハンマド・アッサイードによる頌詩について、C 写本には「サイイド・ムハンマド・
ア ッ サ イ ー ド ・ ル カ イ ミ ー al- Sayyd M uḥammad al-Saʽīd al-L uqaymī に よ り 、 本 書 が 讃 え ら れ
て い る 」 と あ る 。 ハ ム シ ャ リ ー の 所 見 通 り 、 頌 詩 の 作 者 ム ハ ン マ ド ・ ア ッ サ イ ー ド は 、 LUJ
の 著 者 ル カ イ ミ ー の 兄 弟 と 見 て 間 違 い な い だ ろ う 。 ま た C 写 本 で は こ の 頌 詩 の 終 わ り に 、「 神
が 彼 ら 両 名 を 赦 し 給 わ ん こ と を 。 114 3 年 」 と い う 一 文 が 付 け 加 え ら れ て い る 。 1143/173 0-31
年 と い う 年 は LUJ が 編 纂 さ れ た 1144/ 1732 年 の 前 年 に 当 た っ て お り 、こ の 詩 は LUJ の 編 纂 完
了以前に詠まれたものであると考えられる。
次 に キ ー ワ ー ニ ー に よ る 賛 辞 に つ い て で あ る が 、 賛 辞 の 終 わ り の 部 分 が 、「 僕 に し て 常 に 誠
実 な る 者 、ア フ マ ド ・ ブ ン ・ フ サ イ ン ・ キ ー ワ ー ニ ー が こ う 言 っ た 。神 が 彼 ら 両 名 の 罪 を 赦 し
給 わ ん こ と を 。 1150 年 末 」 と な っ て お り 、 H 写 本 に お い て 「 書 い た k ataba」 と さ れ て い た と
こ ろ が 、 こ こ で は 「 言 っ た qāl a」 と さ れ て い る 。
また C 写本には、ムハンマド・アッサイードによる頌詩の上、第 1 葉 a の左上部にあたる
箇 所 に 、「 恩 寵 の 泉 に お け る さ さ や か な る 美 徳 の 術 に 乏 し き 者 、 ア フ マ ド ・ ナ ー ス ィ ル ・ ア ッ
デ ィ ー ン ・ マ シ ュ リ キ ー Aḥmad Nāṣ ir al-Dīn al-M ashriqī の 知 事 在 任 中 に 。 神 が 彼 を 赦 し 給 わ
ん こ と を 」と い う 一 文 が 記 さ れ て い る 。な お こ れ ら の 第 1 葉 a 面 は す べ て 、第 1 葉 b 面 以 降 の
128
本文と同一の筆跡で記されている。
C 写 本 の 筆 記 さ れ た 年 と 写 字 生 に つ い て は 、第 57 葉 b の 奥 書 に「 本 書 の 筆 写 は 、1161 年 の
神 聖 な る ム ハ ッ ラ ム 月 13 日 の 祝 福 さ れ し 月 曜 日 に 、 卑 し き 者 フ サ イ ン ・ イ ラ ー キ ー Ḥus ayn
al-ʽIrāqī 8 1 の 手 に よ っ て 完 了 し た 」 と 記 さ れ て い る 。 す な わ ち 本 写 本 は 1161/1 748 年 と い う 、
著 者 ル カ イ ミ ー の 存 命 中 に 作 ら れ た 写 本 の ひ と つ で あ る 。こ の 奥 書 か ら も 、少 な く と も C 写 本
においては、第 1 葉 a に名前が見られるキーワーニーは写字生ではないこ とが明らかである。
こ の こ と は 、ハ ム シ ャ リ ー が 底 本 と し た H 写 本 に つ い て も 、1150/1737 年 に キ ー ワ ー ニ ー が 記
し た の は 賛 辞 の 部 分 の み で あ り 、写 本 の 写 字 生 は 別 に 存 在 し た の で は な い か と い う 仮 説 を 裏 付
けるものである。
(5) 写 本 間 の 相 互 関 係
ハ ム シ ャ リ ー が 参 照 し た H、D 、B 写 本 に C 写 本 を 加 え た 4 つ が 、現 在 存 在 が 明 ら か に な っ
て い る LUJ の 写 本 で あ る 。 こ れ ら 4 つ の 写 本 の う ち 、 H 写 本 と C 写 本 に は 、 タ イ ト ル の 書 か
れ た 最 初 の ペ ー ジ に 、ム ハ ン マ ド・ア ッ サ イ ー ド に よ る 頌 詩 と キ ー ワ ー ニ ー に よ る 賛 辞 が 加 え
られているが、D 写本と B 写本にはこれらが存在しない。このことから、H 写本と C 写本は
同系統の写本であると考えられる。
次 に H 写 本 と C 写 本 の 間 の 相 互 関 係 に つ い て 検 討 す る 。 C 写 本 に は 第 31 葉 b 第 22 行 に お
い て 、大 き な 脱 落 が 見 ら れ る 。ハ ム シ ャ リ ー の 校 訂 に 従 え ば 、 C 写 本 の 脱 落 部 分 は 、H 写 本 の
第 25 葉 a 第 1 行 か ら の 2 葉 あ ま り に 渡 る 部 分 と な る 。 C 写 本 に こ う し た 大 き な 脱 落 が あ る こ
と か ら 、H 写 本 が C 写 本 を 親 写 本 と し て 写 さ れ た 写 本( C 写 本 → H 写 本 )で あ る と は 考 え に く
い。逆に C 写本が H 写本より写された可能性(H 写本→C 写本)についても、確実な根拠を
挙げることはできない。よって現時点では、H 写本と C 写本は同系統の写本群であり、共通
の親写本を持っている可能性があるとするに留める。
H-C 写 本 と D 写 本 、 B 写 本 と の 相 互 関 係 に つ い て で あ る が 、 こ れ ら の 間 に も 直 接 の 関 係 性
を 断 定 で き る ほ ど の 根 拠 は 見 出 せ な い 。B 写 本 に つ い て は 、C 写 本 よ り 後 に 筆 記 さ れ た も の で
あるが、C 写本より写された可能性( C 写本→B 写本)は低いと言える。B 写本には、前述の
C 写 本 に お け る 脱 落 部 分 を 始 め 、C 写 本 に は 存 在 し な い 個 所 や 、逆 に C 写 本 に は 存 在 す る 箇 所
が脱落していたりするからである。
(6) 本 論 の 校 訂 に お け る 底 本 選 択
以 上 LUJ に は 4 つ の 写 本 が あ り 、 こ の う ち B 写 本 と C 写 本 の 2 つ は 、 ブ ロ ッ ケ ル マ ン C.
Brockel mann や ア サ リ ー に よ る 写 本 研 究 で 存 在 が 確 認 さ れ て い た も の で あ る [Brockel mann
ケ ン ブ リ ッ ジ 大 学 図 書 館 の ア ラ ビ ア 語 写 本 カ タ ロ グ を 編 纂 し た ブ ラ ウ ン E. Browne は 、 本 写 本 の 写
字 生 を ”Ḥusayn ‫ “الع را ف ي‬と し て い る [Browne 1900: 187-18 8 (No. 978) ]。 C 写 本 に お い て は 、 こ の 部 分
81
の 単 語 に 弁 別 点 が 付 け ら れ て い な い [LUJ(C) 57b ] 。 本 論 で は こ れ を al-ʽIrāqī ‫الع را قي‬と 判 読 し た 。
129
G2: 476; S2: 490; al-ʽAs al ī 1984: 119- 120]。 H 写 本 と D 写 本 に つ い て は 、 ハ ム シ ャ リ ー の 校
訂 に お い て 初 め て 用 い ら れ た 写 本 で あ り 、新 し い 写 本 の 存 在 を 示 し た と い う 点 で 彼 の 研 究 は 意
味を持つものである。
しかしながらここで指摘してきたように、ハムシャリーが底本とした H 写本には、筆写年
代 の 設 定 に 疑 問 が 残 る た め 、こ れ を 校 訂 の 底 本 と し て 選 択 す べ き か ど う か は 、改 め て 検 討 す る
必 要 が あ る だ ろ う 。ま た ハ ム シ ャ リ ー は 、ブ ロ ッ ケ ル マ ン や ア サ リ ー を 参 照 し て い る に も か か
わ ら ず [ LUJ(H) 333, 335 -336] 、 校 訂 に C 写 本 を 用 い て い な い 。 さ ら に B 写 本 の 参 照 の 仕 方 に
つ い て も 、 多 く の 不 備 が 見 ら れ る 82。
本 論 の 資 料 編 に お い て 筆 者 は 、ハ ム シ ャ リ ー の 校 訂 を 補 完 す る も の と し て 、C 写 本 を 底 本 と
し 、さ ら に B 写 本 を 用 い て 校 訂 を 行 う こ と と す る 。な お 筆 者 は 現 時 点 に お い て 、ハ ム シ ャ リ ー
の指摘した H 写本と D 写本を参照することができていない。これら 4 つの写本、また更なる
新しい写本を用いてより精緻な校訂を行うことは、今後の筆者の課題として置く。
(7) 本 論 の 校 訂 と 訳 注 に お け る 用 例
ア ラ ビ ア 語 校 訂 中 、日 本 語 訳 注 中 に ] ‫ أ‬. 1 [ あ る い は [1 . a] と あ る の は 、本 論 に お け る 底 本 と し
た C 写 本 の 葉 番 号 と そ の 表 (‫أ‬/a)、 裏 ( ‫ب‬/b)を 表 し て い る 。
校訂に際しては、C 写本と B 写本との間で語句に違いがある箇所を(
)( 小 カ ッ コ ) で
指 摘 し 、脚 注 に て 解 説 す る 。 校 訂 脚 注 で は 、 B 写 本 を ア ラ ビ ア 文 字 ‫ ب‬で 表 す も の と す る 。 ま た
日本語訳を作成するにあたっては、底本内に存在しない語句を日本語で補う場合には〔
〕
( 亀 甲 カ ッ コ )で 、 代 名 詞 等 を 具 体 的 に 説 明 す る 場 合 に は 、「 彼( 預 言 者 ム ハ ン マ ド )」と い う
ように(
)( 小 カ ッ コ ) を 用 い る 。 ク ル ア ー ン か ら の 引 用 に つ い て は 、 ア ラ ビ ア 語 校 訂 に
おいては{
注においては〈
}( 中 カ ッ コ ) を 用 い て 区 別 し 、 脚 注 に お い て 章 と 節 の 番 号 を 示 し 、 日 本 語 訳
〉( 山 カ ッ コ ) を 用 い て 区 別 し 、 (Q
:
) の記号によって章・節番号を示
す も の と す る 。な お ク ル ア ー ン の 日 本 語 訳 に つ い て は 、藤 本・伴・池 田 訳 を 参 考 と し て い る [池
田 2002]。
一 例 を 挙 げ れ ば 、 ハ ム シ ャ リ ー は 校 訂 本 49 ペ ー ジ 註 (5) に て 、 ‫ وعز‬と い う 1 単 語 が B 写 本 に は 欠 落
し て い る と し て い る が 、B 写 本 第 1 葉 b の 該 当 部 分 に は 挿 入 を 表 す 記 号 が 付 け ら れ て お り 、本 文 欄 外 右
側 に 本 文 と 同 一 の 筆 跡 で 、 ‫ وع ز‬の 語 が 書 き 込 ま れ て い る 。ハ ム シ ャ リ ー に よ る B 写 本 の 参 照 に は 、こ の
ような誤りが多く見られる。
82
130
‫‪LUJ ア ラ ビ ア 語 訳 注‬‬
‫[ ‪ . 1‬أ ] كتاب لطائف أنس الجليل في تحائف القدس والخليل تأليف لعبد الفقه مصطفى أسعد اللقيمي‬
‫الحس ي ني سبط العالمة نور ال دين بن غانم المقدسي غفر هللا لهما‪ ،‬أمين الحمد هلل وحده ‪.‬‬
‫( في نوبة الفقير في فنون الفضل الحقير في عيون النيل‪ ،‬أحمد ناصر الدين المشرقي‪ ،‬عفا هللا عنه ‪.‬‬
‫للسيد محمد السعيد اللقيمي بمدح هذا الكتاب ‪:‬‬
‫أرى اإلتحاف مع أنس الجليل‬
‫حوى تاريخ قدسك والخليل‬
‫هما سفران لو نقشا بتبر‬
‫على تاج لكان من القليل‬
‫ول ّخ ص أسعد لهما اختصار ا ً‬
‫بتهذيب على الوجه الجميل‬
‫فحاك منه ال ً عذبا ً فدائا ً‬
‫يبرد ورده ح ّر الغليل‬
‫أحاديث الشفا ص ّح ت لديه‬
‫فكم ذا قد شفى قلب العليل‬
‫فش ن ّ ف مسمعي بحديث قدس‬
‫فمن يروي لذي التخليص أ ّر خ‬
‫وز ِ دني من حديثك يا خليلي‬
‫له بشري باإلتحاف الجليل‬
‫كأبواب الجنان جوى ثمان‬
‫وحسن ختامه أوفى دليل‬
‫غفر هللا لهما ‪ .‬تاريخ سنة ‪. 1111‬‬
‫الحمد هلل وحده ‪ .‬هذه لمحة قدسية النفس ولمعة الس ن ّ ة القديسة وقدسية نية البديع ‪ .‬تف ّر دت بالمحاسن حيث‬
‫حضر منها كل زوج بهيج‪ ،‬جاد بها طبع سليم‪ ،‬ما حاد عنها كل خيم كريم ‪ .‬طالما أسرى به التوفيق إلى أقصى م رّ‬
‫من البالغة الوثيق‪ ،‬وأخصت به السياحة إلى أفضل ساحة ‪ .‬بل ش دّ ما امتطي نجيب المهر ف ي ساحة أسهم الفصاحة‬
‫حتى مسح بأركان البالغة وسمحت له البراعة بس ّر الصناعة ‪ .‬قد أطلعني أكرمه هللا عليها في ساعة الوداع التي‬
‫كانت إلى الحسرات أبلغ الوداع ‪ .‬وإنما أتم ث ّ ل بقول من قال هل جسوم يوم النوى و دّ عوها بإقنات لسوما ً؟‬
‫أودعوها بأحداة المطى بالعدل؟ هذا أتبعوه ا أجسامها أودعوها؟ كيف ال وفراق أخ يعطي الموتى حقها‪ ،‬أض ّر‬
‫وأبلى من فراق حبيب‪ ،‬لعجزت عن توصيفها مع وقوفي على حسن اختصارها وترصيفها ‪ .‬وما ذاك لضيق المقام‬
‫عن تحلية جيدة الحالي لدى العطل بما يليق من أبكار التقريظ الخالية عن الخطل ‪.‬‬
‫فأنا أعتذر إلى كريم عفوه عذر أخ من التقصير خجل ومن فظاعة بغتة الفراق وأجم وأجل ‪ .‬وهللا يجمعني‬
‫وإياه كما يهوى وأهواءه على ما نرضى ويرضا‪ ،‬وال بأس من روح إال له ‪ .‬قاله العبد المستديم الخلوص أحمد بن‬
‫حسين الكيواني ‪ .‬غفر هللا ذنوبهما ‪ .‬في أواخر ‪. 1 ) 1111‬‬
‫‪1‬‬
‫ليس موجودة في‬
‫ب‪.‬‬
‫‪131‬‬
‫[ ‪ . 1‬ب ] بسم هللا الرحمن الرحيم ( وب ه ثقتي ) ‪. 2‬‬
‫الح مد هلل الذي من علينا بآالء ال تستقصى‪ ،‬من أج لها ا تحافنا بزيارة المسجد األقصى‪ ،‬وأوالنا من وافر‬
‫ب ّر ه الجز يل‪ ،‬وهدانا لتلخيص إتحاف األخصاء وأنس الجليل ‪ .‬والصالة والسالم على باب رحمته الذي خ ّ‬
‫صه‬
‫باإلسراء ‪ .‬فهي من أعظم كريمته‪ ،‬فسبحان الذي أسرى بعبده‪ ،‬وأتحفه بجالئل نعمه ووفده ‪ .‬فهو سيد األولين‬
‫واآلخرين وخاتم األنبياء والمرسل ين صلى هللا عليه وعلى ِع ترته ذوي األعراق األقدسة‪ ،‬وصحابته ذوي األخالق‬
‫القدسية‪ ،‬صال ة ً وسالما ً شذاهما من المسك أعطر دائمين إلى يوم المحشر والمنشر ‪.‬‬
‫أما بعد‪ ،‬فلما أتحفني هللا بال سعي إلى الوادي األقدس‪ ،‬وش ّر فني بزيارة ( المسجد ) ‪ 3‬الشريف المقدس‪،‬‬
‫وحلل ُ‬
‫ت بوسيع تلك الرحاب‪ ،‬وقبلت بأجفاني ث ّر ا ً ( تلك ) ‪ 4‬األعتاب‪ ،‬واقتبست من مشكاته مصباح األنوار‪ ،‬وكشفت‬
‫ت لرؤيا تلك اآلثار‪ ،‬وتر ّو ح ُ‬
‫لي محاسنه عن مخدرات األسرار‪ ،‬وترنح ُ‬
‫ت لريا نسيمها المعطار ‪.‬‬
‫بالد بها نيطت ل ج د ّ ي ابن غانم ‪ .‬تمائم في جيد الزمان هي العقد ‪ .‬فالتمست كتابا ً يكون أمامي ال حتاط‬
‫بهاتيك المآثر‪ ،‬وأمامي للقيام ( ب واجب حقوق ) ‪ 5‬تلك المشاعر ‪ .‬فوجدت إتحاف األخصاء وأنس الجليل كتابين‬
‫ص نع في هذا المنهج‪ ،‬غير أن‬
‫ج ْم ع ا ً بين صناعتي اإلجمال والتحصيل‪ ،‬وهما من أبرع ما أ ُل ّ ف وأبهج وأبرع ما ُ‬
‫ُ‬
‫مح ّل المقصد من ذكر المآثر‪ ،‬يعسر ويع ّز استخالصه واس تلخاصه على الزائر ‪ ( .‬ونزلت بمعاهدها نزول ضيف )‬
‫‪6‬‬
‫وأقمت ( بسوحها كمزنة صيف ) ‪ ، 7‬وما بلغت من مرامها األدباء ولم أقض عن حقها الذي وجبا ‪ .‬ثم لما شئت عنان‬
‫العزم إلى الرجوع ون ب ّهت إنسان عيني من سفة الهجوع‪ ،‬وألقت عصاها واستق ّر بها النوى‪ ،‬كما ق ّر عينا ً باإلياب‬
‫ال مُ ساف ُر ‪ .‬سرح ُ‬
‫ت ثاني ا ً في رياضهما ناظري‪ ،‬فالح في ( جوهر ) ‪ 8‬مرآة خاطري مع ما أنافيه [ ‪ . 2‬أ ] من تغير‬
‫الوارد‪ ،‬وما أعانيه من تكدر الموارد‪ ،‬إ ْن أ ُل ّ‬
‫خ ص منهما ما يكون نزهة للسائر‪ ،‬وبلغة للمقيم والزائ ر فاجتنيت من‬
‫رياضهما تمرات األورا ق األنيقة‪ ،‬واقتطفت من غصونهما ي انع زهراتهما العبيقة ‪ .‬فجاء بحمد من له الفضل‬
‫والمنة روضة أبوابها عدد أبواب الجنة مبتد ا ً بمقدمة ومختتم ا ً بخاتمة ‪ ،‬تغاوال بحسن الختام والوصول إلى دار‬
‫اإلسالم بسالم ‪ .‬وسميته لطائف أنس الجليل في تحائ ف القدس والخليل ‪.‬‬
‫فالمقدمة ‪ :‬في حدود األرض المقدسة وقواعدها التي هي على التقوى مؤسسة ‪.‬‬
‫الباب األو ل ‪ :‬في أسماء البيت المقدس وشرفه وما يتحف به الزائر من جالئل تحفة ‪.‬‬
‫الباب الثاتي ‪ :‬في من احتظ ّ مدينة القدس الشريف‪ ،‬وفيمن سكنها وفتوحاها على أوج ز وجه لطيف ‪.‬‬
‫الباب الثالث ‪ :‬في صفة المسجد األقصى والصخرة وما به من المآثر التي ال تستقصى ‪.‬‬
‫الباب الرابع ‪ :‬في صفة مدينة القدس وما بها من المشاهد ونبذة مما حول سرادقاتها من المعاهد ‪.‬‬
‫الباب الخامس ‪ :‬في مدينة الخليل ومسجده وذكر الخليل وفضل زيار ة مشهده ‪.‬‬
‫الباب السادس ‪ :‬في بعض ما حول بيت المقدس من القرى التي بها المآثر الرفيعة الزري ‪.‬‬
‫‪2‬‬
‫‪3‬‬
‫‪4‬‬
‫‪5‬‬
‫‪6‬‬
‫‪7‬‬
‫‪8‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫( رب يسرنا كريم )‪.‬‬
‫( الحرم )‪.‬‬
‫( هاتيك )‪.‬‬
‫( بحقيق )‪.‬‬
‫( فولج ُ‬
‫ت تلك المعاهد ولوجا ً مستعجز ا ً )‪.‬‬
‫( هناك إقام ة ً مستفز ة ً )‪.‬‬
‫( جوهري )‪.‬‬
‫‪132‬‬
‫الباب السابع ‪ :‬في بعض من دخل بيت المقدس من األنبياء والصحابة واألعيان ومن توفي ودفن فيها من‬
‫أهل العرفان ‪.‬‬
‫الباب الثامن ‪ :‬في ذكر الخضر عليه السالم وم حله من المسجد األقصى الرفيع المقام ‪.‬‬
‫الخاتم ‪ :‬في ذكر الشام وفضلها وبهجتها وشرف محلها ‪.‬‬
‫وجعلت ذلك دلي ال ً ل لسائرين وتحفة مهداة للزائرين ‪ .‬ومن أغرب العجائب وأعجب الغرائب أن لما آن من‬
‫الكتاب التمام‪ ( ،‬و رم ُ‬
‫ت ) ‪ 9‬أن أطبعه بمسك الختام‪ ،‬تي س ّ ر لي العو د ُ إ لى القدس مرة أخرى‪ ،‬وكان ( بي ذلك )‬
‫‪10‬‬
‫أولى وأخ رى ‪ .‬فجلست ثاني ا ً في ذلك األثر‪ ،‬فوافق بحمد هللا ال ُ‬
‫خ ب ْر ال َخ ب َ ر‪ ،‬غير أن هناك مآثر أهملوها ومعاهد لم‬
‫ي ذكروها‪ ،‬أرشدني بعض الثقات إليها ‪ .‬فنيت عنان العزم ووقفت عليها ‪ . 2 [ .‬ب ] فسنح لي أن أذكر ك ال ً في محله‬
‫األقرب‪ ،‬معنونا ً له بقلت كما هو الالئ ق واألنسب ‪ .‬وهللا يهدي من ي شاء إلى سواء السبيل وحسبنا هللا ونعم للوكيل ‪.‬‬
‫المقدمة ‪ :‬في حدود األرض المقدسة وقواعدها التي هي على التقوى مؤسسة ‪.‬‬
‫فمن القبلة أرض الحجاز يفصل بينهما جبال السوداء وهي جبال منيعة ‪ .‬بينها وبين أيلة نح و ( مرحلتين ) ‪. 11‬‬
‫وسطح أيلة أو ل الحجاز وهي من تيه بني إسرائيل ‪ .‬وبينها وبين المقدس نحو ثمانية أيام سير األ ثقال ‪ .‬ومن‬
‫الشرق من بعد د ومة الجندل برية السماوة وهي كبير ة وممتدة إلى العراق ينزل بها عرب الشام‪ ،‬ومسافتها عن‬
‫بيت المقدس ( ن حو مسافة أيلة ‪ .‬ومن الشمال مما يلي الشرق نهر الفراة‪ ،‬مسافته عن بيت المقدس )‬
‫‪12‬‬
‫عشرين يوما ً‬
‫سير األثقال ‪ .‬فيدخل في هذا ال حد المملكة الشامية بكمالها ‪ .‬ومن الغرب بحر الروم وهو البحر الملح‪ ،‬ومسافته من‬
‫بيت المقدس من جهة رملة فلسطين يومين ‪ .‬ومن الجنوب رملة مصر والعريش‪ ،‬ومسافته من بيت المقدس خمس‬
‫أيام سي ر األثقال‪ ،‬ثم يليه تيه بني إسرائيل و ( هو )‬
‫‪13‬‬
‫طور سينا ويمتد من تلك الجهة إلى تبوك ‪ ،‬ثم دومة الجندل‬
‫المتصلة بالحد الشرقي ‪.‬‬
‫وأما حدود القدس عرف ا ً مما يطل ق عليه عم ل القدس الشريف وداخ ال ً في حكم قا ضيه ‪ .‬فمن القبلة عمل سيدنا‬
‫الخليل عليه الصالة والسالم ي فصل بين هما قرية سعير وما حاذاها وهي من عمل القدس ‪ .‬ومن الش رق نهر األردن‬
‫وهو المسمى بالشريع ة ‪ .‬ومن الشرق عمل مدين ة نابلس يفصل بينهما قرية سنجل وغ رون وهما من أعمال القدس ‪.‬‬
‫وتتمة ( الحد )‬
‫‪14‬‬
‫رأس بني زيد و ( هو )‬
‫‪15‬‬
‫من أعمال الرملة ‪ .‬ومن الغرب مما يلي رملة فلسطين قرية بيت نوبة‬
‫وه ي من أعمال القدس‪ ،‬ومما يلي مدينة غزة قرية عجوز وهي من أعمال غزة ‪.‬‬
‫وأما حدود بلد سيدنا الخليل عليه السالم ‪ ،‬فمن القبلة منزلة السلح على ض رب الحجاز وقباب الشاورية‬
‫وهي قرية منسوبة لبني شاور امرأ عرب جرم ‪ .‬ومن الشرق قريته عين ج دّ ي من عمل بلد الخليل عليه [ ‪ . 1‬أ ]‬
‫‪9‬‬
‫‪10‬‬
‫‪11‬‬
‫‪12‬‬
‫‪13‬‬
‫‪14‬‬
‫‪15‬‬
‫ب ‪ ( :‬برمت )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬ذلك بي )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬مرحلة )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬الحدود )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬هي )‪.‬‬
‫‪133‬‬
‫السالم‪ ،‬وبحيرة لوط‪ ،‬وه ذا الحد الفاصل بي ن ها وبين عمل الكرك ‪ .‬ومن الشمال عم ل القدس الشريف يفصل بينهما‬
‫قرية سعير و ما حاذاها كما ت قدم ‪ .‬ومن الغرب من ال جهة المحاذية لرملة فلسطين قرية زكريا وهي من أعمال‬
‫الخليل ‪ .‬من الجهة المحاذية لغزة قرية سمسج المجارة لقرية س كرية وبالد بني عبد وهي من أعم ال بلد الخليل‬
‫عليه السالم ‪ ( .‬وأما المسافة من بيت المقدس إلى بلد سيدنا الخليل عليه السالم ) ‪ ، 1 6‬فهي ( تقرب )‬
‫‪17‬‬
‫من نح و ثالثة‬
‫عشر مي ال ً أ و ثمانية عشر مي ال ً ‪ .‬وهللا أعلم ‪.‬‬
‫الباب األول ‪ :‬في األسماء البيت المقدس وشرفه وما يتحف به الز ائر من جالئل تحفة‬
‫وأما أسماؤه فكثيرة دا ل ّ ة على مآثره العزيزة ‪ .‬منها ‪ :‬مسجد األقصى ‪ ،‬ألنه أبعد ا لمساجد التي تزار وي بتغي‬
‫به األجر من المسجد الحرام‪ ،‬أو لبعده عن األقدار الحسنة والمع نوية‪ ،‬أو ألنه وسط الدنيا ال يزيد شيئا ً وال ينقص‬
‫شيئا ً كما وراه عبد هللا ب ن سالم مرفوع ا ً ‪ .‬و مسجد إيلياء ‪ ،‬ككبرياء أي بيت هللا المقدس ‪ .‬و بيت المقدس ‪ ،‬كمعبد أي‬
‫المطهر للذنوب ‪ ،‬مشتق من الق د َ س وهي الطهارة ‪ .‬و البيت المقدس ‪ ،‬بض ّم الميم وتشديد الدال‪ ،‬أي المطهر من‬
‫األصنام والصل بان ‪ .‬و القدس ‪ ،‬بسكون الدال وبضمتها‪ ،‬اسم مصدر ‪ .‬و بيت المقدس ‪ ،‬بض مّ الدال وسكونها ‪ .‬و س ل ّ م‬
‫بالمهملة معنا ً بيت السالم لكثرة سالم المالئكة فيه ‪ .‬و كورة إيلياء وإلياء ‪ ،‬وإيلياء معناه بيت هللا المقدسة ‪.‬‬
‫و أوشلم ‪ ( ،‬بفتح )‬
‫‪18‬‬
‫الهمزة وفتح الشين وكسر الالم‪ ،‬و ( أوسليم )‬
‫‪19‬‬
‫و أورشليم و ش ل ّ م بالمعجمة مشدد ا ً ‪ ،‬و ش ُل م ‪.‬‬
‫و بيت آ يل ‪ ،‬أي بيت الر ّ‬
‫ب ‪ ،‬و صهيون و قصرو ث و بابوش و كور سالة و أزيل و صلون ويقال البيت المقدس‬
‫الزيتون ‪ ،‬وال يقال له الحرم ‪.‬‬
‫وأما ( شرفه وفضله )‬
‫‪20‬‬
‫فقد تظاهرت به اآليات الشريفة والسنة العالية المنيفة‪ ،‬وطفحت به اآلث ار الواضحة‬
‫واألخبار الصحيحة الراجحة ‪.‬‬
‫فأم ا اآليات فمن أجلها قوله قعالى ‪ { :‬سبحان هللا الذي إسري بعبده لي ال ً من المسجد الحرام إلى المسجد‬
‫األقصى الذين باركنا حوله }‬
‫‪21‬‬
‫‪ .‬فإنها [ ‪ . 1‬ب ] بفضلة كافية ولجم ي ع البركات وافية‪ ،‬ألنه إذا بورك حوله‬
‫ج عل منه المعراج تنويه ا ً بشرفه األنيل وتنبيها ً ع لى حصول الكمال والتكميل ‪ .‬ومعنى‬
‫فالبركة فيه مضا فعة‪ ،‬و ُ‬
‫{ باركنا حوله } إج راء األنهار وإنبات الثمار ‪ .‬و { باركنا حوله } فلسطين واألردن وهو نهر الشريعة‪ ،‬أو { ب اركنا‬
‫حوله } معنى الشام‪ ،‬أو { باركنا حوله } بمقابر األنبياء وسمي مباركا ً ألنه مق ّر األنبياء وقبلهم ومهبط المالئكة‬
‫والوحي وفيه المحشر ‪.‬‬
‫وقدم الزهري ب يت المقدس فرأى شخصا ً يحدث عن الك ميت في فضل بيت المقدس ويكثر ‪ .‬فقال له الزهري ‪:‬‬
‫إنك لن تنتهي إلى ما انتهى إليه قوله ‪ { :‬سبحان هللا الذي إسري بعبده لي ال ً من المسجد الحرام إلى المسجد األقصى‬
‫الذين باركنا حوله } ‪.‬‬
‫ومنه قوله تعالى لبني إسرائيل ‪ { :‬ادخلوا هذه القرية فكلوا منها حيث شئتم رغ د ا ً وادخلوا الباب سجدا ً‬
‫‪16‬‬
‫‪17‬‬
‫‪18‬‬
‫‪19‬‬
‫‪20‬‬
‫‪21‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬بضم )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬فضله وشرفه )‪.‬‬
‫من القرآن ‪. 1:71‬‬
‫‪134‬‬
‫وقولوا حطة ن غفر لكم خطاياكم وسنزيد المحسنين }‬
‫‪22‬‬
‫‪ ،‬فلم يخ ّ‬
‫ص هللا م سجد ا ً سوى بيت المقد س بغفران‬
‫خطاياهم بسجدة فيه إال ل خصوصية ‪.‬‬
‫ومنه قوله تعالى ‪ { :‬ونجيناه ولوط ا ً إلى األرض التي باركنا فيها للعالمين }‬
‫إلى ربوة ذات قرار ومعين }‬
‫‪24‬‬
‫‪ ،‬وقوله تعالى ‪ { :‬ادخلوا األرض المق دسة التي كتب هللا لكم }‬
‫{ يخرج ون من األجداث سراع ا ً }‬
‫صدق }‬
‫‪27‬‬
‫‪23‬‬
‫‪ ،‬وقوله تعالى ‪ { :‬وآويناهما‬
‫‪26‬‬
‫‪25‬‬
‫‪ ،‬وقوله تعالى ‪:‬‬
‫‪ ،‬قيل إلى صخرة بيت المقدس ‪ .‬وقوله تعالى ‪ { :‬ولقد ب ّو انا ب ني إسرائيل مب ّو أ‬
‫‪ ،‬وهو الشام وبيت ال مقدس أو هو خا ّ‬
‫ص ة ‪ .‬وقوله تعالى ‪ { :‬يوم ينادي المن ادي من مكان قريب }‬
‫‪28‬‬
‫‪ ،‬أي‬
‫من الصخرة ‪.‬‬
‫وق وله ( تعالى )‬
‫‪29‬‬
‫‪ { :‬والتين والزيتون }‬
‫‪30‬‬
‫‪ ،‬قال عقبة بن عامر ‪ :‬الت ين دمشق الزيتون بيت المقدس ‪.‬‬
‫وروى أبو هري رة قال ‪ :‬أقسم ربنا ج ّل جالله بأربعة جبال فقال ‪ { :‬والتين والزي تون وطور سنين وهذا البلد‬
‫األمين } ‪ ،‬قال ‪ :‬التين ( ص ور )‬
‫‪31‬‬
‫سينا مسجد دمشق‪ ،‬والزيتون طور زيتا مسجد بيت المقدس‪ ،‬وطور سنين حي ث‬
‫ك ل ّ م هللا موسى عليه السالم‪ ،‬وهذا البلد األمين جبل مكة ‪.‬‬
‫ومنها قول ه تعالى ‪ { :‬فضرب بينهم بسور }‬
‫‪32‬‬
‫‪ ،‬أي هو سور بيت المقدس‪ . 1 [ ،‬أ ] باطن ه أبواب الرحمة‬
‫وظاهره وادي جهنم ‪ .‬وقوله تعالى ‪ { :‬ولقد كتبنا في الزبور من ب عد الذكر أن األرض ي رثها عبادي الصالحين }‬
‫‪33‬‬
‫‪ ،‬قال بعض المفسرين ‪ :‬األرض المقدسة يرثها أمة محمد ص لى هللا عليه سلم ‪ .‬وقوله تعالى ‪ { :‬ومن أظلم ممن منع‬
‫مسجد هللا أن يذكر فيها اسمه وسعى في خرابها أولئك ما كان لهم أن يدخلوها إال خائفين لهم في الدنيا خزي ولهم‬
‫في اآلخرة ع ذاب عظيم }‬
‫‪34‬‬
‫‪ ،‬نزلت في منع الروم المس لمين من بيت المقدس‪ ،‬فإذ لهم هللا وأ خرجهم فال يدخله أحد‬
‫منهم أبد ا ً إال وهو خا ئف متلفع ثوب الخزي والهوان والضعاف ‪.‬‬
‫وأما السنة فروى أبو هريرة مرفوعا ً‪ :‬ت ش دّ الرحال إلى ثالثة مساجد‪ ،‬المسجد الحرام والمسجد األقصى‬
‫ومسجدي هذا ‪ .‬وعن أبي سعيد الخدري مرفوعا ً‪ :‬ال تش دّ الرحال إال إلى ثالثة مساجد‪ ،‬المسجد الحرام وإلى‬
‫مسجدي وإلى مسجد بيت المقدس ‪.‬‬
‫وعن أبي ذ ّر ‪ :‬قل ُ‬
‫ت ‪ :‬يا رسول هللا‪ ،‬أي مسجد وضع في األرض أول؟ قال ‪ :‬المسجد الحرام ‪ .‬قلت ‪ :‬ثم أي؟‬
‫قال ‪ :‬المسجد األقصى ‪ .‬قال ‪ :‬قلت ‪ :‬كم بينهما؟ قال ‪ :‬أربعون سن ة‪ ،‬فأيهما أدركت الصالة فص ّل فهو مسجد ‪ .‬وقوله‬
‫بينهما أربعين سنة محمول كما يأتي التصريح به على ما بين بنا ء المالئكة الكعبة وبيت المقدس أو على ما بين‬
‫بنا ء إبراهيم الكعبة ويعقوب البيت المقدس ‪.‬‬
‫وعن عمران بن حصين قال ‪ :‬قلت ‪ :‬يا رسول هللا‪ ،‬ما أحسن المدينة ! قال ‪ :‬كيف لو رأي َ‬
‫ت بيت المقدس ‪.‬‬
‫‪22‬‬
‫‪23‬‬
‫‪24‬‬
‫‪25‬‬
‫‪26‬‬
‫‪27‬‬
‫‪28‬‬
‫‪29‬‬
‫‪30‬‬
‫‪31‬‬
‫‪32‬‬
‫‪33‬‬
‫‪34‬‬
‫من القرآن ‪. 87:2‬‬
‫من الفرآن ‪. 817:1‬‬
‫من الفرآن ‪. 857:2‬‬
‫من الفرآن ‪. :781‬‬
‫من القرأن ‪. :2705‬‬
‫من القالأن ‪. 12705‬‬
‫من القرأن ‪. :2701‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫من الفرأن ‪. 0:71‬‬
‫ب ‪ ( :‬طور )‪.‬‬
‫من الفرآن ‪. :::1:‬‬
‫من الفرأن ‪. 81712:‬‬
‫من الفرأن ‪. 87110‬‬
‫‪135‬‬
‫قلت ‪ :‬وهو أحسن؟ قال النبي صلى هللا عليه وسلم ‪ :‬وكيف ال تكون ؟ هي وكل م ن بها يزار وال يزور وتهدى إليه‬
‫األرواح وال تهدى روح بيت المقدس ‪ .‬إال أن هللا أكرم المدينة وط ي ّبها بي وأنا حي وأنا ف يها ميت ‪ .‬ولو ال ذلك ما‬
‫هاجرت من مكة‪ ،‬فإني ما رأي ُ‬
‫ت الق مر في بلد قط إال وهو بمكة أ حسن ‪.‬‬
‫وقال كعب ‪ :‬ال تقوم الساعة حتى يزو ر البي ُ‬
‫ت الحرام البي َ‬
‫ت المقدس ‪ .‬فيقادان إلى الجنة جميع ا ً وفيهما‬
‫أهلهما ‪ .‬والعرض الحساب ببيت المقدس ‪.‬‬
‫وقال ابن عمران ‪ :‬الحرم لمحرم في السموات السبع بمقداره من األرض‪ ،‬وإن بيت المقدس لمقدس في‬
‫السموا ت السبع بمقداره من األرض ‪.‬‬
‫وقال كعب ‪ :‬إن هللا ينظر إلى بيت ال مقدس كل يوم مرتين ‪ .‬وقال ‪ :‬باب مفت وح من السماء من أبواب الجنة‪،‬‬
‫ينزل منه الحنان والرحمة على بيت المقدس كل صباح حتى تقوم الساعة ‪ .‬وما مثل بيت [ ‪ . 1‬ب ] المقدس عند هللا‬
‫وسائر األرضين‪ ،‬وهلل المثل األعلى إال كمثل ملك له مال كثير وفيه كنز وهو أحب ماله إليه ‪ ،‬إذا أصبح لم يطلع‬
‫على شيء من ماله قبل كنزه ذلك‪ ،‬كذلك ر ّ‬
‫ب العالمين في كل صباح ال يطلع على شيء من األرض قبلها يدر‬
‫ع ليها حنانه ورحمته ثم يدرها بعد على سائر األرضين ‪.‬‬
‫وعن ابن عباس مرفوعا ً‪ :‬من أراد أن ينظر إلى بق عة من بقاع الجنة فلينظر إلى بيت المقدس ‪.‬‬
‫وقال أنس بن مالك ‪ :‬إن الجنة لتح ّن شوقا ً إلى بيت المقدس وهو من جنة الفردوس‪ ،‬والفردوس بالسريانية‬
‫البستان ‪ .‬وقال ‪ :‬من أتى البيت الحرام غفر له ورفع له ثمان درجات‪ ،‬ومن أتى مسجد الرسول غ فر له ورفع له‬
‫أربع درجات‪ ،‬ومن أستغفر لل مؤمنين والمؤمنات ببيت المقدس في كل يوم خمسة وعشرين مرة وقاه هللا المتآ لف‬
‫وأدخله في البدالء ‪.‬‬
‫وأما األ ثار واألخبار فمن خالد بن معدان أن حذو بيت المقدس با ٌ‬
‫ب من السماء ‪ ،‬يهبط هللا كل يوم سبعين‬
‫ألف ملك يستغفرون لمن يجدونه يصلي فيه ‪ .‬وفي رواية ‪ :‬يستغفرون هللا َ لمن أتى بيت المقدس فصلى فيه ‪.‬‬
‫وقال وهب بن منبه ‪ :‬أهل بيت المقدس جيران هللا تعالى ‪ ،‬وحق على هللا تعالى أن ال يعذب جيرانه ‪.‬‬
‫وعن عطاء ‪ :‬ال تقوم الساعة حتى يسوق هللا خيار عب اده إلى بيت المقدس فيسكنهم ( إياه ) ‪. 35‬‬
‫وقال عبد هللا بن عمر ‪ ( :‬بيت )‬
‫‪36‬‬
‫بنته األنبياء وعمرته وما فيه موضع شبر إال وقد سجد عليه ملك أو قام‬
‫عليه ‪ .‬وقيل لنعمان بن عطاء ‪ :‬ما تقول في بيت المقدس؟ قال ‪ :‬ما فيه موضع شبر إال وقد سجد عليه ملك أو نبي ‪.‬‬
‫فلعل جبهتك أن توافي جبهة ملك أو نبي ‪ .‬وقال مقاتل بن سليمان ‪ :‬ما فيه موضع شبر إال وقد صلى عليه نبي‬
‫مرسل أو ملك مقرب ‪.‬‬
‫وذكر أن في كل ليلة ينزل سبعون ألف ملك إلى مسجد بيت المقدس يهللون هللا تعالى ويكبرونه ويسبحونه‬
‫ويحمدونه ويقدسونه ويمجدونه ويعظمونه‪ ،‬وال يعودون إلى أن تقوم الساعة ‪.‬‬
‫وقد اختص بغرائب كثيرة بأ د ل ّ ة واضحة شهيرة‪ ،‬منها إنه أول أرض بارك هللا فيها ويجعلها ( الر ّ‬
‫ب ج ّل‬
‫جالل ه مقامه يوم القيامة على أرض بيت المقدس ‪ .‬وقد جعلها )‬
‫‪37‬‬
‫صفوته من األرض كلها ‪ ،‬وهي األرض التي‬
‫ذكرها [ ‪ . 1‬أ ] هللا بقوله ‪ { :‬إلى األرض التي باركنا فيها للعالمين } ‪.‬‬
‫وقال تعالى لموسى ‪ :‬انطلق إلى بيت المقدس‪ ،‬فإن فيها ناري ونوري وتنويري‪ ،‬يعني وفار التنور ‪ .‬وك ل ّ م‬
‫هللا بها م وسى وبها ر أى نور ر ب ّه ج ّل وعال وتجلى هللا ج ّل جالله للجبل فيها ‪ .‬وبها تاب على آدم وداوود و سليمان ‪.‬‬
‫‪35‬‬
‫‪36‬‬
‫‪37‬‬
‫ب ‪ ( :‬إياها )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫‪136‬‬
‫ور د ّ على سليم ان ملكه وفهمه منطق الطير ‪ .‬وسأله ملك ا ً ال ينبغي ألحد من بعده فأعطاه إياه بها ‪ .‬وب شّ ر هللا زكريا‬
‫بيحيي وأوتى الحكم صبي ا ً ‪ .‬واستوثرت المالئكة على داود المحراب و س ّخ ر له الجبال والطير وأالن له الحديد ‪.‬‬
‫وكانت تقرب األنبياء القرابين وتهبط المالئكة عليهم السالم كل ليلة ‪ .‬و ( تقبل )‬
‫‪38‬‬
‫امرأة عمران نذرها ‪ .‬وأتيت‬
‫مريم عليها السالم فاكهة الشتاء في الصيف وفاكهة الصيف في الشتاء وكفرها زكريا‪ ،‬وأ نبيت النخلة لها‬
‫وأثمرت رطب ا ً جني ا ً ‪ ،‬وب ش ّ ر هللا مري م بعيسى عليه السالم ببيت المقدس‪ ،‬وت ك ل ّ م في المهد صبيا ً وأ نزلت عليه‬
‫المائدة‪ ،‬وأحيا الموتى وضع العجائب ‪ ،‬وأ ي ّد بروح المقدس ورفع إلى السماء ‪ .‬وماتت مريم عليها السالم وفضل ت‬
‫على نساء العالمين ‪.‬‬
‫وهاجر إبراهيم عليه السالم من كوثا إلى بيت المقدس وتكون الهجرة إليه آخر الزمان كما روي‬
‫مرفوعا ً‪ :‬أن خيام أمتي يهاجر هجرة بعد هجرتي إلى بيت المقدس ‪ .‬وأوصى إبراهيم وإسحاق أن يدفنا ببيت‬
‫المقدس‪ ،‬وأوصى آدم لما مات بالهند أن يدفن به ‪.‬‬
‫وبه هبطت السلسلة ومنه رفعت وكذا التابوت والسكينة ‪ .‬وإليه اإلسراء بالبراق ومنه ا لمعراج ‪ .‬وإليه هبط‬
‫وبه صلى ( وهو محمد صلى هللا عليه وسلم )‬
‫‪39‬‬
‫باألنبياء والمالئكة إ ماما ً ‪ ،‬وبه رأى مالك ا ً خازن الناي ران وح ور‬
‫الجنان ‪ .‬وإليه كانت قبلة األنبياء قبله ‪.‬‬
‫وتكون األرض المحشر والمن شر ‪ .‬وبها ينصب الصراط يعطف المالئكة ‪ .‬ومن ها تطوى األرض و الناس‬
‫على الصراط وإ ليها يأتي هللا في ظلل من الغمام والمالئكة ‪ .‬وبها يصير ما عدا الثقلين ترابا ً ‪ .‬ومنها يتفرق الناس‬
‫إلي الجنة والنا ر ‪ .‬وإن بيت المقدس وسط ظهر الحوت ور أسه بمطلع الشمس وذيبه بمغربها ‪ ( .‬ومن س ّر ه )‬
‫‪40‬‬
‫إن‬
‫يمشي في روضة من رياض [ ‪ . 1‬ب ] الجنة فليمش في صخرة بيت المقدس ‪ .‬ومن صلى به فكإنما صلى بالسماء ‪.‬‬
‫ومنها بسطت األرضون ومنها تطوى ‪ .‬وأول ما انحسر ما الطوفان عن صخرة بيت ال مقدس وطافت‬
‫السفينة بالصخرة أسبوع ا ً بعد أن طافت بالكعبة كذلك ‪ .‬روي أن السفي نة سارت حتى بلغت بيت المقدس فوقف ت‬
‫ونطقت بأذن هللا تعالى وقالت ‪ :‬يا نوح‪ ،‬هذا موضع بيت المق دس الذي ت سكنه األنبياء ‪ .‬وعاش نوح بعد خروج ه من‬
‫السفينة ثالثمائة وخمسين سنة ودفن بكرك نوح ‪.‬‬
‫ومنها إن هللا يمنع عدوه الد ّج ال من الدخول فيها كالحرمين وهي آخر األرض خرابا ً ويغلب ياجوج‬
‫وماجوج على األرض ما عدا الحرمين وبيت المقدس ‪ .‬وبها هالكهم وبها ينفخ إسرافيل في الصور النفخة الثانية‬
‫وتطير أوراح المؤمنين إلى أجسادها‪ ،‬ويقول هللا تعالى لصخرة بيت المقدس ‪ :‬وع ّز تي ( وجاللي ) ‪ ، 41‬ألضع ّن عليك‬
‫عرشي وألحشر ّن إليك خلقي وألجري ّن أنهارك نهر ا ً من لبن ونهر ا ً من عسل ونهر ا ً من خمر‪ ،‬أنا يومئذ ربهم‬
‫وداود ملكهم ‪.‬‬
‫وأما ما يتحف الزائر من ج الئل تحفة فقد روى النسائي بسنده إلى ابن عمر مرفوعا ً‪ :‬أن سليمان بن‬
‫داوود عليهما السالم لما بنا مسجد بيت المقدس سأل هللا تعالى خال ال ً ثالثا ً ‪ .‬سأل هللا َ حكما ً يصادف حكمه وأوتيه‪،‬‬
‫سأل هللا ملك ا ً ال ينبغي ألحد من بعده فأوتيه‪ ،‬وسأل هللا حين فراغه من بناء المسجد أ ن ال يأتيه أحد إال للصالة فيه‬
‫أن يخرج من خطيته كيوم ولدته أمه ‪ .‬وزاد ابن ماجة في هذه الرو اية ‪ :‬ف قال النبي صلى هللا عليه وسلم ‪ :‬أم ا اثنتين‬
‫فقد أعطيهما‪ ،‬وأرجو أن يكون قد أعطي الثالث ‪ .‬وأخرج الحاكم في مستدركه على شرط الشيخين ‪.‬‬
‫‪38‬‬
‫‪39‬‬
‫‪40‬‬
‫‪41‬‬
‫ب ‪ ( :‬تقبل من )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫‪137‬‬
‫وعن كعب األحبار قال ‪ :‬شكى بيت المقدس إلى ر ب ّه الخراب‪ ،‬فأوحى هللا إليه ‪ :‬ألمأل ن ّ ك خدود ا ً سجدا ً‬
‫يدفون إليك دفوف النسور إلى أوكارها ويحنون إليك حنين الحمام إلى بيض ها ‪ .‬فقال رج لٌ لكعب ‪ :‬اتق هللا‪ ،‬يا‬
‫كعب ‪ .‬وإن له لسانا ً؟ قال ‪ :‬نعم‪ ،‬وقلب ا ً كقلب أحدكم ‪.‬‬
‫وعن أنس مرفوعا ً‪ :‬من زار بيت المقدس محتسب ا ً أعطاه هللا أجر ألف شهي د ‪ .‬وعنه مرفوعا ً‪ :‬من زار‬
‫عالم ا ً و كإنما زار بيت المقدس ‪ .‬ومن زار بيت المقدس حرم هللا لحمه وجسده [ ‪ . 6‬أ ] على ال نار ‪ .‬وعنه مرفوعا ً ‪:‬‬
‫من صلى في بيت المقدس غفرت له ذنوبه كلها ‪.‬‬
‫وعن مكحول بن كعب ‪ :‬من خرج إلى بيت المقدس بغير حاجة إال الصالة فصلى فيه خمسة صلوات صبحا ً‬
‫وظهر ا ً وعصر ا ً ومغرب ا ً وعشا ً خرج من ذموبه كيوم ولدته أ مّ ه ‪.‬‬
‫وعن أبي أمامة الباهلي مرفوعا ً‪ :‬من ح ّج البيت واعتمر وصلى بيت المقدس وجاهد ورابط فقد استكمل‬
‫جميع س ن ّ تي ‪.‬‬
‫وروى اإلمام أحمد في مسنده من حديث أبي أمامة مرفوعا ً‪ :‬ال تزال طائفة من أ مّ تي على ا لحق ظاهرين‬
‫لعدوهم قاهرين‪ ،‬ال يض ّر هم من خالفهم وال ما أصابهم من األ عد اء حتى يأتي أمر هللا وهم كذلك ‪ .‬قالوا ‪ :‬يا رسول‬
‫هللا‪ ،‬وأين هم؟ قال ‪ :‬ببيت المقدس وأكناف بيت المقدس ‪.‬‬
‫وعن معاز مرفوعا ً‪ :‬قال هللا ‪ :‬ي ا شام‪ ،‬أنت صفوتي من بالدي وأنا سائ ق إليك صفوتي من عبادي ‪ .‬من ك ان‬
‫مولده فيك فاختار عليك غيرك بذنب وصيبه‪ ،‬ومن كان مولده في غيرك فاختارك فبرحمة مني ‪ .‬يا شام‪ ،‬اتسعي‬
‫ألهلك بالرزق كما يتسع الرحم للولد‪ ،‬وعيني عليك بالط ّل والمطر منذ خلقت السنين واأليام ‪ .‬من يعدم فيك المال‬
‫ّ‬
‫تزف العروس‬
‫ال يعدم فيك الخير ‪ .‬يا روشلم‪ ،‬أنت مقدس بنوري وفيك المحشر والمنشر ‪ .‬أز ف ّ ك يوم القيامة كما‬
‫إلى بعلها ‪ .‬ومن دخلك أستغني من الزيت و القمح ‪.‬‬
‫وعن كعب قال ‪ :‬قال هللا لبيت المقدس ‪ :‬أنت جنتي وقدسي وصفوتي من بالدي ‪ .‬من يسكنك فبرحمة مني‪،‬‬
‫ومن يخرج منك فبسحط مني عليه ‪.‬‬
‫وعن عبد هللا بن مسعود ‪ :‬يدخل الد ّج ال األرض كلها إال أربعة مساجد وأربع قرى ‪ :‬مكة والمدينة وبيت‬
‫المقدس وطور سينا ‪.‬‬
‫وكان كعب إذا خرج من حمص يريد الصالة في مسجد إيلياء ببيت المقدس ‪ .‬إذا انتهى إلى الميل من إيلياء‬
‫أمسك عن الكالم فلم يتكلم إال بتالوة القرآن والذكر‪ ،‬ثم دخل من باب األسباط و استقبل القدس‪ ،‬ثم يجمع خمس‬
‫صلوات ‪ .‬فإذا انصرف إلى الميل تك ل ّ م وك ل ّ م الصحابة ‪ .‬فقالوا إليه ‪ :‬يا أبا إسحاق‪ ،‬ما حملك على ذلك؟ فقال ‪ :‬إ ن ّ ي‬
‫أجد في بعض الكتب [ ‪ . 6‬ب ] أن الحسنات تضاعف في هذا المسجد وأن السيات يفعل بها كذلك‪ ،‬أو قال ‪ :‬مثل‬
‫ذلك‪ ،‬وأنا أح ّ‬
‫ب أن ال يكون مني إال الحسنات حتى أنصرف ‪.‬‬
‫وورد عن جرير بن عثمان وصف وان بن عمر قاال ‪ :‬الحسنة في بيت المقدس بألف والسيئة بألف ‪.‬‬
‫وعن أبي ذ ّر قال ‪ :‬قل ُ‬
‫ت ‪ :‬يا رسول هللا‪ ،‬الصالة في مسجدك هذا أفضل من الصالة في بيت المقدس؟ فقال ‪:‬‬
‫صالة في مسجدي هذا أفضل من أربع صلوات في بيت المقدس‪ ،‬ولنعم المصلى هو أرض المحش ر والمنش ر‬
‫وليأتين على الناس زم ان ‪ ،‬وبسطة قوس الرجل من حيث يرى أمنة ببيت المقدس خير له وأح ّ‬
‫ب إليه من الدنيا‬
‫جميع ا ً ‪.‬‬
‫وعن أنس مرفوعا ً‪ :‬صالة الرجل في بيته بصالة‪ ،‬وصالته في مسجد القبائل بخمس وعشرين صالة‪،‬‬
‫وصالته في المسجد الذي يجمع فيه بخمسمائة صالة ‪ ،‬وصالته في المسجد األ قصى بخمسين ألف صالة‪ ،‬وصالته‬
‫‪138‬‬
‫في مسجد الكعبة بمائة ألف صالة‪ ،‬وصالته في مسجدي هذا بخمسين ألف صالة ‪ .‬أخرجه البخاري والطبراني‬
‫وابن ماجة ‪.‬‬
‫وعن أبي الدرداء مرفوعا ً‪ :‬فضل الصالة في المسجد الحرام على غيره مائة ألف صالة‪ ،‬وفي مسجدي‬
‫ألف صالة‪ ،‬وفي بيت المقدس خمسمائة صال ة ‪ .‬رواه اإلمام أحمد ‪.‬‬
‫وعن ميمونة بنت سعد موال ة رسول هللا صلى هللا عليه وسلم ‪ :‬أنها قالت ‪ :‬يا رسول هللا‪ ،‬أفتنا في بيت‬
‫المقدس ‪ .‬قال ‪ :‬أرض المحشر والمنشر‪ ،‬آتوه فصلوا فيه ‪ .‬فإن كل صالة فيه كألف صالة ‪ .‬قلنا ‪ :‬يا رسول هللا‪ ،‬ممن‬
‫لم يستطع أن يأتيه؟ فليه دِ إليه زيت ا ً يسرج في قناديله ‪ .‬فإن من أهدى إليه زيت ا ً كان كمن أتاه ‪.‬‬
‫و ُر وي عن كعب األحبار أنه قال ‪ :‬من صام يوم ا ً ببيت المقدس أعطاه هللا برأ ة من النار‪ ،‬ومن استغفر‬
‫للمؤمنين والمؤمنات في بيت المقدس ثالث م ّر ات كتب هللا له مثل حسنات المؤمنين والمؤمنات ودخ ل على كل‬
‫مؤمن ومؤمنة من د عائ ه في كل يوم وليلة سبعون مغفرة ‪.‬‬
‫وروى ( جابر )‬
‫‪42‬‬
‫رج ال ً قال ‪ :‬يا رسول هللا‪ ،‬أي الخلق أول دخول الجنة؟ قال ‪ :‬األنبياء ‪ .‬قال ‪ :‬ثم من؟ قال ‪:‬‬
‫الشهداء ‪ .‬قال ‪ :‬ثم من؟ قال ‪ :‬مؤذنوا بيت المقدس ‪ .‬قال ‪ :‬ثم من؟ قال ‪ :‬مؤذنوا البيت الحرام ‪ .‬قال ‪ :‬ثم من؟ قال ‪:‬‬
‫مؤذنوا مسجدي ‪ . 7 [ .‬أ ] قال ‪ :‬ثم من؟ قال ‪ :‬سائر المؤذنين ‪.‬‬
‫ومنها ‪ :‬أن صخرة بيت المقدس وسط الدنيا ‪ .‬وإذا قال العبد لصاحبه ‪ :‬انطلق بنا إلى بيت المقدس يقول هللا ‪:‬‬
‫يا مالئكتي‪ ،‬اشهدوا على أني قد غفرت لهما قبل أن يخرجا إذا كانا ال يصران على الذنوب ‪ .‬وإن هللا ت كفل لمن‬
‫سكن بيت المقدس بالرزق إن فاته المال ‪ .‬ومن مات مقيم ا ً محتسبا ً في بيت المقدس كإنما مات في السماء‪ ،‬ومن‬
‫مات حوله كإنما مات فيه ‪.‬‬
‫روي أن معاذ ا ً رضي هللا عنه أتي بيت المقدس فأقام به ثالثة أيام و ليالها يصوم ويصلى ‪ .‬فلما خرج منه‬
‫وكان على الشرف ثم أقبل على أصحابه‪ ،‬فقال ‪ :‬ما مضى من ذنوبكم فقد غفر هللا لكم ‪ .‬فانظروا ما أنتم صانعون‬
‫فيما بقي من أعما ركم‪ ،‬وقد أجمعت الطوائف كلها على ت عظيم بيت المقدس ما عدا السامرة ‪ .‬فأنهم يقولون القدس‬
‫جبل نابلس وخالفوا جميع األمم في ذلك ‪.‬‬
‫وقد كان في زمن بني إسرائيل إذ أنزل بهم خوف من عدو أو أجدبوا ‪ .‬صوروا الق دس وجعلوه هيك ال ً‬
‫وصوروا أبوابه و محاريبه واستقبلوا به العدو فيهزمه هللا ‪ .‬ويستقبلوا به السماء في الجد ب فال تزال تم طرهم حتى‬
‫يرفعوا الهيكل‪ ،‬فكانوا ي فعلون ذلك في كل مهم يدهمهم وأمام ا ً ‪ .‬يقال إن بيت المقدس طش ت من ذهب مملؤ‬
‫عقاريب ‪ ،‬وإنه كأجمة األسد فداخله أما أن يسلم أو يدركه العطب ‪ .‬محمول ذلك على زمن بني إسرائيل ‪.‬‬
‫وأما اليو م هلل الحمد فإنما به وبأفنائه الطائفة اإلسالمية المنصورة ويكفي دلي ال ً قوله عليه الصالة والسالم‬
‫إن خيار أمتي سيهاجر بعد هجرة إلى بيت المقدس ‪ .‬وكيف وقد قال صلى هللا عليه وسلم ألبي عبيدة بن الجراح‬
‫رضي هللا عنه ‪ :‬النجا ء النجا ء إلى بيت المقدس إذا ظهرت الفتن ‪ ( .‬قال وا ) ‪ : 4 3‬يا رسول هللا‪ ،‬فإن لم أدرك بيت‬
‫المقدس؟ قال ‪ :‬فابذل مالك واحرز دينك ‪ .‬وكذا قال علي رضي هللا عنه لصعصعة ‪ :‬نعم المسكن عند ظهور الفتن‬
‫بيت المقدس‪ ،‬القائ م فيه كالمجاهد في سبيل هللا ‪ .‬وليأتين على الناس زمان يقول أحدهم ‪ :‬ليتني تبنة في لبنة في‬
‫بيت المق دس ‪ .‬وأحب الشام إلى هللا‪ ،‬بيت المقدس وأحب حبابها إليه ‪ .‬الصخرة وهي آخر األرض خرابا ً بأربعين‬
‫عام ا ً وهي روضة من رياض الجنة ‪.‬‬
‫‪42‬‬
‫‪43‬‬
‫ب ‪ ( :‬أحمد بن جابر )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬قال )‪.‬‬
‫‪139‬‬
‫[ ‪ . 7‬ب ] الباب الثاني ‪ :‬فيمن احتظ مدينة القدس الشريف وفيمن سكنها وفتوحا ت ها على وجه ( أوجز )‬
‫‪44‬‬
‫لطيف ( ولكن ) ‪. 4 5‬‬
‫فأول من احتظ ّ ها مليك صادق وهو سام بن نوخ ‪ .‬فإنه نزل بأرض بيت المقدس بكهف من جبالها يتعبد فيه‬
‫واشته ر أمره حتى بلغ ملوك األرض الذين بالقرب منه بالشام وسدوم غيرهما ‪ .‬وكانوا اثنى عشر ملكا ً فحض روا‬
‫إليه ‪ .‬ف لما رأوه وسمعوا كالمه اعتقدوه و ( ح ب ّوه )‬
‫‪46‬‬
‫حب ا ً شديد ا ً ‪ ،‬ود فعوا إليه ما ال ً ليعمر به مدينة القدس ‪ .‬فاحتظها‬
‫وع مّ رها ( بروشلم ) ‪ ، 4 7‬ومعناه بالعبرانية ‪ :‬دار السالم ‪ .‬فلما انتهت عمارتها اتفقت الملوك أن يكون ملكا ً عليهم‪،‬‬
‫فكانوا ب أجمعهم تحت طاعته إلى أن مات بها ‪ .‬وكان محل المسجد في وسطها وهو صعيد واحد والصخرة الشريفة‬
‫في وسطه حتى بني ‪.‬‬
‫واختلف في أول من بناه‪ ،‬فقيل المالئكة بعد بنائ ها البيت الحرام بأذن هللا وه و ظاهر حديث أبي ذ ّر اآلتي ‪.‬‬
‫وقيل إن الباني إسراف يل ‪ .‬وقيل أول من بناه آدم ‪ .‬وقيل سام ‪ .‬وقيل يع قوب ‪ .‬وقيل داوود ‪ .‬وال مانع أن يكون المالئكة‬
‫هم الذين ابتنوه أو ال ً ‪ ،‬وما بعده يحمل على ال تجدي د ‪ .‬فإن بين كل بني واآلخر مدة يحتمل فيها التجديد ‪.‬‬
‫ويحمل حديث أبي ذ ّر حين سأل النبي صلى هللا عليه وسلم بقوله ‪ :‬أي المساجد وضع في األرض أول؟‬
‫قال ‪ :‬المسجد الحرام ‪ .‬قال ‪ :‬قلت ‪ :‬ثم أي؟ قال ‪ :‬المسجد األقصى ‪ .‬قلت ‪ :‬كم بيتهما؟ قال ‪ :‬أربعون سنة ‪ .‬الحديث على‬
‫بناء إبراهيم المس جد الحرام ويعقوب المسجد األقصى ‪.‬‬
‫وسمي األقصى لبعد المسافة بينه وبين المسجد الحرام وغير ذلك كما تقدم في المقدمة ‪ .‬ولذلك ورد في‬
‫تفسير قوله تعالى { واستمع يوم ينادي المنادي من مكان قريب } ‪ ،‬المنادي هو إسرافيل ينادي من صخرة بيت‬
‫المقدس بال م حشر‪ ،‬وهي وسط الدنيا وكون بيت المقدس وسط الدنيا ظاهر ‪ .‬فإن سائر المالئكة محيطة به من كل‬
‫جانب ‪ .‬فإنه يقابله من جهة القبلة إقليم الحجاز وبالد اليمن ومملكة الهند وما واالها‪ ،‬ومن جهة الشمال البالد‬
‫الشامية ومملكة الروم وما واالها‪ . 8 [ ،‬أ ] ومن جهة الغرب الديار المصرية ومملكة الغرب وما واال ها ‪.‬‬
‫وأول من استوطنه من األنبياء عليهم السالم يعقوب عليه السالم‪ ،‬وسبب ا ستوطانه أن ( أباه )‬
‫‪48‬‬
‫صلوات‬
‫هللا وسالمه عليه أمره أن ال ينكح امرأة من الكنعانيين وأمره أن ينكح من بنات خاله ‪ .‬فلما تو ّج ه إلى خاله لينكح‬
‫ابنته أدركه الليل في بعض الطريق‪ ،‬فب ات متوسد ا ً حجر ا ً ‪ .‬فرأى فيما يرى النائم أن سلما ً م نصوبا ً إلى باب من‬
‫أبواب السماء و المالئكة تعرج فيه ‪ .‬فأوحى هللا إليه ‪ :‬أني أنا هللا ال اله إال أنا‪ ،‬وقد ورثتك هذه األرض المقدسة‬
‫وذريتك من بعدك‪ ،‬ثم أنا معك أحفظك حتى أدرك إلى هذا المكان‪ ( ،‬ف اجعله )‬
‫المقد س ‪ .‬فاستوطنه ثم من بعده داوود بن إ ليشا من ذرية ( يهود )‬
‫ينقل الحجر على عاتقه ويضعه بيده ‪.‬‬
‫‪44‬‬
‫‪45‬‬
‫‪46‬‬
‫‪47‬‬
‫‪48‬‬
‫‪49‬‬
‫‪50‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬أحبوه )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬وس ميت بروشلم )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬أباه إسحاق )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬اجغله )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬يهودا )‪.‬‬
‫‪140‬‬
‫‪50‬‬
‫‪49‬‬
‫بيت ا ً تعبد بي فيه ‪ .‬فهو بيت‬
‫بن يعقوب عليهم السالم واحتظ المسجد وجعل‬
‫واختلف في سبب بنائه ‪ .‬فقيل أصاب بني إسرائيل طاعون في زمن داود عليه السالم‪ ،‬فخرج بهم إلى‬
‫موضع بيت المقدس يدعون هللا ويسألون كشف ال بالء عنهم ‪ .‬فاستجاب لهم‪ ،‬فاتخذوا ذلك الموضع مسجد ا ً ‪.‬‬
‫وقيل ‪ :‬لما تاب هللا على داوود عليه السالم وكان قد بنا مدائن كثيرة وصلحت حال بني إسرائيل أح ّ‬
‫ب أن‬
‫يبني بيت المقدس وعلى الصخرة قبة على الموضع الذي ق دّ سه هللا في إيلياء‪ ،‬فبناها ‪.‬‬
‫قيل ‪ :‬أمره هللا ببنائه وأراه مو ضعه حيث يرى الملك شاهر ا ً سيفه ‪.‬‬
‫ويمكن الجمع بين األقوال وروي أنه لما ابتدأه ورفعه قدر قام ة رجل أوحى هللا إليه ‪ :‬أني لم أقض ذلك‬
‫على يدك ولكن ابن لك أملكه بعدك اسمه سليمان‪ ،‬أقضي إتمامه على يده ‪.‬‬
‫وروي أن داو ود بناه وأراد عليه سور ا ً ‪ .‬فلما ت مّ السور سقط ثالثا ً ‪ .‬فشكى ذلك إلى هللا عز وجل‪ ،‬فأوحى‬
‫هللا إليه ‪ :‬أنك ال تصلح أن تبني لي بيت ا ً ‪ .‬قال ‪ :‬يا ر ّ‬
‫ب ‪ ( ،‬ولم ا ) ‪ 5 1‬؟ قال ‪ :‬لما جرى على يد ي ك من الدماء ‪ .‬قال ‪ :‬ي ا‬
‫ر ّ‬
‫ب ‪ ،‬أو لم يكن ذلك في هواك ومحبتك؟ قال ‪ :‬بلى‪ ،‬ولكنهم عبادي وأنا أرحم بهم منك ‪ .‬فشق ذلك على داوود‪،‬‬
‫فأ وحى هللا إليه ‪ :‬ال تحز ن‪ ،‬فإني سأقض بناءه على يد ابنك سليمان ‪ .‬فأوصى قبل موته بالملك لولده سليمان عليه‬
‫السالم وأوصاه [ ‪ . 8‬ب ] بعمارة بيت ال مقدس وعين لذلك عدة بيوت أموال تحت وي على جمل كثيرة من الذهب ‪.‬‬
‫فلما مات داود ملك ابنه سليمان وع مّ ره اثنى عشر س نة وابتدأ في عمارة بيت المقدس بعد م ضى أربع‬
‫سنين من ملكه ‪ .‬فجمع حكماء ( الجن واإلنس )‬
‫‪52‬‬
‫وعفاريت األرض وعظم اء الشياطين‪ ،‬وجعل فريقا ً يبنون وفريقا ً‬
‫يقطعون الص خور والعمد من معا دن الرخام وفريق ا ً يغوصون في البح ر يخرجون منه الد ّر والمرجان وفرقة‬
‫يقط عون معادن الياقوت والزمرد ويأتون ( بمعدان )‬
‫‪53‬‬
‫الجوهر ‪ .‬وجعل الشياطين صفا ً مرصوصا ً من مع ادن‬
‫الرخام إلى حائط المسجد‪ ،‬يتلقي األول القطعة الرخام فيدفعها للذي يليه وهكذا إلى ينتهي إلى المسجد ‪ .‬وكان‬
‫عدد من عمل معه في بناء بيت المقد س ثالثون ألف رجل‪ ،‬وعشرة آالف رجل منهم يتراوحون عليهم قطع الخشب‬
‫والذين يعملون في الحجارة سبع ون ألف رجل‪ ،‬وعدد األمناء عليهم ثالثمائة غير المسخرين من الجن‬
‫والشياطين ‪.‬‬
‫وأنبت هللا له شجرتين عند باب الرحمة‪ ،‬أحدهما تنبت الذهب واألخرى تنبت الفضة ‪ .‬فكان كل يوم ينزع‬
‫عن كل واحدة مائتي رطل ذهبا ً وفضة ‪ .‬وأت مّ عمارته على أحسن وصف ألحدى عشرة سنة مضت من ملكه وز ي ّ نه‬
‫بالذهب والفضة والد ّر والياقوت والمرجان وأنواع الجواهر في سمائه وأرضه وأبوابه وأركانه مما لم ير مثله‬
‫حتى أنه فرش أرضه بالطة من ذهب وب الطة من فضة‪ ،‬وأسقفه بالعود اليلنجوج ‪ .‬ووضع له مائت ي قفل من الذهب‬
‫زنة كل قفل عشرة أرطال وأولج فيه تابوت موسى وهارون ‪.‬‬
‫وكان الصخرة ا ر تفاعها إذ ذاك اثنى عشر ذراع ا ً وا رتفاع القبة التي عليها ثمانية عشر مي ال ً ‪.‬‬
‫ولما فرغ من بنائه ذبح ثالثة آالف بقرة وسبعة آال ف شاة‪ ،‬ثم أتى المكان الذي في مؤ خر المسجد مما يلي‬
‫باب األسباط وهو الموضع المسمي بكرسي سليمان ‪ .‬فقال ‪ :‬اللهم‪ ،‬من أتاه من ذي ذنب [ ‪ . 9‬أ ] فاغفر له‪ ،‬أو ذي‬
‫ض ّر فاكشف ض ّر ه ‪ .‬فال يأتيه أحد إال أصاب من دعوة سيدنا سليمان ‪.‬‬
‫وتوفي سليمان وعمره اثنان وخمسو ن سن ة سنة ‪ 171‬لوفاة موسى عليه السالم‪ ،‬وكان و فاة موسى بعد‬
‫الطوفان بألف وستمائ ة وست وعشرين سنة‪ ،‬وبين وفاته والهجرة الشريفة ألفان وثالثمائة وثمان وأربعون سنة ‪.‬‬
‫ثم ملك ولده وولد ولده إلى أن أ خربه بخت ن ّ‬
‫ص ر في سنة ‪ 919‬لوفاة موسى عليه السالم‪ ،‬وأحرق القدس‬
‫‪51‬‬
‫‪52‬‬
‫‪53‬‬
‫ب ‪ ( :‬ولم )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬األنس والجن )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬بأنواع )‪.‬‬
‫‪141‬‬
‫وخرب المسجد واحتمل منه ثمانين عجلة ذهبا ً وفضة وطرحه برومية ‪ .‬وأباد بني إسرائيل قت ال ً وتشتيتا ً ‪ ،‬ثم بقي‬
‫خرابا ً سبعين سنة ‪ .‬ثم عمره كورش بوحي من هللا إلى أش عيا عليه السالم‪ ،‬فسكنه من بقي من بني إسرائيل وكان‬
‫رئيسهم عزير عليه السالم ‪ .‬ثم توفي بعده شمعون الصديق من نسل هارون عليه ال سالم ‪ .‬ثم كان به عيسى عليه‬
‫السالم ومنه رفع ‪ ،‬واستم ّر بعد أربعين سنة عامر ا ً إلى أن خربه طيطوس الرومي ‪ .‬ثم تراجع إل ى العمارة قلي ال ً‬
‫قلي ال ً و ترحم شعثه واستم ّر عامر ا ً إلى أ ن صارت هيالنة أم قسطنطين إلى القدس وعمرت الق مامة وخربت الهيكل‬
‫الذي بالمسجد وصيرت الصخرة مزبلة ‪ .‬وبقي هذا الحال إلى أن فتح هللا القدس على يد أمير المؤمنين عمر بن‬
‫الخطاب رضي هللا عنه صلحا ً سنة خمسة عشر ‪.‬‬
‫وهو أن أبا عبيدة بن الجرا ح أتى إلى األردن فعسكر بها وأرسل رسله إلى أهل إيلياء وكاتبهم‪ ،‬فأبوا أن‬
‫يأتوه وأن يصلحوه ف أقبل حتى نزل بهم وحاصرهم حاصر ا ً شديد ا ً ‪ ،‬وضيق عليهم ‪ .‬فطلبوا الصلح وأن أمير‬
‫المؤمنين عمر بن الخطاب يكون هو الذي يعطيهم العهد ويكتب لهم األمان ‪ .‬فأخذ عليهم أبو عبيدة العهو د‬
‫والمواثيق بذلك وكتب إلى عمر بن الخطاب كتابا ً بذلك‪ ،‬وهو ‪ :‬بسم هللا الرحمن الرحيم ‪ .‬لعبد هللا عمر أمير‬
‫المؤمنين من أبي عبيدة ( عامر )‬
‫‪54‬‬
‫بن الجراح ‪ .‬سالم عليك ‪ .‬فإني أحمد هللا إليك الذي ال اله إال هو ‪ .‬أما بعد‪ ،‬فإ ن ّ ا‬
‫أقمن ا على أهل إيلياء وظنوا أن في مطاول ت هم فرج ا ً ‪ ،‬فلم يزدهم إال ضي قا ً ونقع ا ً وهز ال ً وذ ال ً ‪ .‬فلما رأ و ا ذلك سألوا‬
‫أن يقدم عليه م أمير المؤمنين‪ ،‬فيكون هو الموثق لهم والكاتب‪ ،‬فخشينا أن يقدم أمير المؤمنين فيقدر القوم‬
‫و يرجعوا ‪ . 9 [ .‬ب ] فيكون مسيرك أصلحك هللا عن ا ً وفض ال ً ‪ ،‬فأخذنا عليهم المواثيق المغلظة بإيمانهم ليقب لن‬
‫وليودن الجز ية وليدخلن فيما دخل فيه أهل الذ ّم ة ‪ .‬ففعلوا فإن رأيت أن تقدم‪ ،‬فافعل وإن في م سيرك أجرا ً‬
‫وصالح ا ً ‪ ( .‬أطال ) ‪ 5 5‬هللا رشدك ويسر أمرك ‪ .‬والسالم عليك رحمة هللا وبركاته ‪.‬‬
‫فلما قدم الكتاب على عمر رضي هللا عنه دعا رؤساء المسلمين وقرأ عليهم الكتاب واستشارهم ‪ .‬واختلفت‬
‫اآلراء‪ ،‬فبعضهم أشار بعدم السير نظر ا ً إلى أنهم ال يزداد ون إال ضعفا ً وذ ال ً ‪ ،‬فيسلموا من غير حضور أمير‬
‫المؤمنين ‪ .‬وبعضه م أشار بالسير ا غتناما ً للفرصة وخوف ا ً من أن يأتيهم المدد ‪ .‬فسار ومن معه من العسا كر ‪.‬‬
‫فلما دنى من الشام تلقيه المسلم ون وأقبل أبو عبيدة عل ى قلوص يكتنفها بعباءة خطامها من شع ر‪ ،‬البس ا ً‬
‫سالحه منتكب ا ً قوسه ‪ .‬فلما نظر إلى عمر أناخ قلوص وأناخ عمر بعيره‪ ،‬فنزل أبو عبيدة إليه وأقبل عمر إليه ‪ .‬فلما‬
‫دنى من أبي عبيدة م دّ أبو عبيدة يده إلى عمر ليصافحه فم دّ عمر يده‪ ،‬فأخذها أبو عبيدة وأهوى ليقبلها يريد أن‬
‫يعظ مه في العامة فأهوى عمر إلى رجل أبي عبيدة ليقبلها ‪ .‬فقال أبو عبيدة ‪ :‬مه‪ ،‬يا أمير المؤمنين ‪ .‬وتنحى ‪ .‬فقال‬
‫عمر ‪ :‬مه‪ ،‬يا أبا عبيدة ‪ .‬فتعانق الشيخان ثم ركبا يتسايران وسار الناس أمامهما ‪.‬‬
‫قيل ‪ :‬وتلقى عمر ببرذون وثياب بيض وكلموه أن يركب البرذون ليراه العدو‪ ،‬فهو أهيب له عندهم‪ ،‬وأنه‬
‫يلبس الثياب ويطرح الفروة عنه فأبى‪ ،‬ثم أل ّح وا ( عليه )‬
‫‪56‬‬
‫فركب البرذون بفروته وثيابه ‪ .‬فهملج البرذون وخطام‬
‫ناقته بعد في يده‪ ،‬ف نزل وركب راحلته وقال ‪ :‬لقد غ ي ّر ني هذا حتى خفت أن أتكبر وأنكر نفسي‪ ،‬فعليكم يا معشر‬
‫المسلمين‪ ،‬بالقصد وبما أعزكم هللا عز وجل به ‪.‬‬
‫وعرضت له مخاضة‪ ،‬فنزل عن بعيره ونزع جرموقيه‪ ،‬فأمسكهما بيده وخاض الماء ومعه بعيره ‪ .‬فقال له‬
‫أبو عبيدة ‪ :‬لقد صنعت اليوم صنع ا ً عظيما ً عند أهل األرض ‪ .‬فصك عمر في صدره وقال ‪ :‬لو غيرك يقولها يا أبا‬
‫عبيدة‪ ،‬إنكم كنتم أذ ّل الناس وأحقر الناس وأق ّل الناس‪ ،‬فأع ّز كم هللا ب اإلسالم ومهما تطلبوا الع ّز ة [ ‪ . 11‬أ ] بغير ه‬
‫‪54‬‬
‫‪55‬‬
‫‪56‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬أتاك )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫‪142‬‬
‫يذ ل ّ كم هللا ‪.‬‬
‫ونزل عمر شرقي بيت المقدس على جبل طور زيتا وأتى رسو ل بطريقها إليه بالترحيب وقال ‪ :‬إ ن ّ ا‬
‫سنعطي ( بحضرتك )‬
‫‪57‬‬
‫ما لم نكن نعطيه ألحد دونك ‪ .‬وسأله أن يقبل منه الصلح والجزية ويعطيه األمان على‬
‫دم اتهم وأمواله م وكنائس هم‪ ،‬فأنعم له عمر بذلك ‪ .‬ف سأل ه الرسول األمان لصاحبه ليقول مصالحته ومكاتبته‪ ،‬فأنعم‬
‫وخرج إليه بطريقها أي أميرها بجماعته‪ ،‬فصالحهم وأشهدهم على ذلك ‪.‬‬
‫( فعن )‬
‫‪58‬‬
‫ع بد الرحمن بن غنم قال ‪ :‬كتب لعمر بن الخطاب رضي هللا عنه حين صالح نصارى أهل إيليا ء ‪:‬‬
‫بسم هللا الرحمن الرحيم ‪ .‬هذا كتاب لعبد هللا عمر بن الخطاب أمير المؤمنين من نصارى مدينة كذا وكذا ‪ .‬إنكم لما‬
‫قدمتم علينا سألناكم األمان ألنفسنا وذرارينا وأموالنا وأهل م ل ّ تنا‪ ،‬وشرطنا لكم على أنفسنا أن ال نحدث في‬
‫مدينتنا وال فيما حولها دير ا ً وال كنيسة وال قالية وال صومعة راحب‪ ،‬وال نحيي منها ما كان في خطط المسلمين‬
‫وال نمنع كنائسنا أن ينزلها أحد من المسلمين في ليل وال ن هار‪ ،‬وأن نوسع أبوابها للمارة وابن السبيل‪ ،‬وأن ننزل‬
‫من م ّر بنا من ا لمسلمين ثالث ليال نطعمهم‪ ،‬وال نؤ اوي في منازلنا وال كنائسنا جاسوسا ً ‪ ،‬وال نكتم غشاء‬
‫للمسلمين‪ ،‬وال نعلم أوالد نا القرآن وال نظهر شرك ا ً ‪ ،‬وال ندعوا إليه أحد ا ً ( وال نمنع أحد ا ً )‬
‫‪59‬‬
‫من ذي رحم قرابتنا‬
‫الدخول في اإل سالم أن أراده‪ ،‬وأن نو ق ّ ر المسلمين ونقوم لهم من مجالسنا إذا أرادوا الجلوس‪ ،‬وال نتشبه بهم في‬
‫شيء من لباسهم في قلنسوة وال عمامة‪ ،‬وال نعلين وال فرق شعر‪ ،‬و ال نتكلم ب كالمهم وال نتكني بكنا هم‪ ،‬وال نركب‬
‫السروج وال نتقلد السيوف‪ ،‬وال نتخذ شيئا ً من السالح وال نحمله معنا‪ ،‬وال ننقش على خ واتمنا بالعربية‪ ،‬وال نبيع‬
‫الخمور وأن نج ّز مقادم رؤوسنا‪ ،‬وأن نلزم زينا ً حيث ما ك ن ّ ا‪ ،‬وأن نش دّ زنانيرنا على أوسطنا‪ ،‬وال نظهر الصليب‬
‫على كنائ سنا وال نظهر صلباننا وال كتبنا في شيء من طرق المسلمين وال في أسواقهم‪ ،‬وال نضرب نواقيسنا في‬
‫كنائسنا إال ضرب ا ً خفيفا ً وال نرفع أصواتنا مع موتنا‪ ،‬وال نظهر النيران معهم في شيء [ ‪ . 11‬ب ] من طرق‬
‫المسلمين‪ ،‬وال نطلع عليهم في منازلهم ‪.‬‬
‫قال ‪ :‬فلما أتيت عمر بن الخطاب رضي هللا عنه بالكتاب زاد فيه ‪ :‬وال نضرب أحد ا ً من المسلمين ‪ ،‬شرطنا‬
‫لكم ذلك على أنفسنا وأهل م ل ّ تنا وقبلنا عليه األمان‪ ،‬وإ ن نحن خالفنا شيئا ً مما ذكرناه شرطناه على أنفسنا‪ ،‬فال‬
‫ذمة لنا وقد ح ّل لكم منا ما ح ّل من أهل ا لمعاندة والشقاق ‪ .‬رواه البيهقي وغيره ‪.‬‬
‫وكتب لهم عمر بن الخطاب كتابا ً صورته ‪ :‬بسم هللا الرحمن الرحيم ‪ .‬هذا ما أعطى عبد هللا أمير المؤمنين‬
‫عمر أهل إيلياء من األمان ‪ .‬أعطاهم أمانا ً ألنفسهم وأموالهم ولكنائسهم وصلبانهم مقيمها وبريها وسائر م ل ّ تها ‪.‬‬
‫إنها ال تسكن كنائسهم وال تهدم‪ ،‬وال ينقص منها وال من خير ها وال من صليبهم وال شيء من أموالهم‪ ،‬وال‬
‫ي كرهون على دينهم وال يضار أحد منهم‪ ،‬وال يسكن ( أحد بإيلياء )‬
‫‪60‬‬
‫‪ ،‬وعلى أهل إيلياء أن يعطوا الجوية كما‬
‫يعطي أهل المدائن‪ ،‬وعليهم أ ن يخرجوا منها الروم والصوص ‪ .‬فمن خرج منهم فإنه آمن على نفسه وماله حتى‬
‫يبلغوا مأمنهم‪ ،‬ومن أقام منهم فهو آ من و عليه مثل ما على أهل إيلياء من الجزية‪ ،‬ومن أح ّ‬
‫ب من أهل إيلياء أن‬
‫يسير بنفسه وماله مع الروم وي خلي بيعتهم وصليبهم حتى يبلغوا مأ منهم‪ ،‬ومن كان فيها من أهل األرض فمن شاء‬
‫منهم قعد وعليه مثل ما على أهل إيلياء من الجزية‪ ،‬ومن شاء سار مع الروم ومن شاء رجع إلى أرضه وأ ن ال‬
‫يؤخذ منهم شيء حتى يحصد حصادهم ‪ .‬وعلى ما في هذا الكتاب عه د هللا وذمته وذمة رسوله صلى هللا عليه وسلم‬
‫‪57‬‬
‫‪58‬‬
‫‪59‬‬
‫‪60‬‬
‫ب ‪ ( :‬حضرتكم )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬بإيلياء أحد من اليهود )‪.‬‬
‫‪143‬‬
‫وذمة الخلفاء وذمة المؤمنين إذا أعطوا الذي عليهم من الجزية ‪ .‬شهد على ذلك خالد بن الوليد وعمرو بن العاص‬
‫وعب د الرحمن بن عوف ومعاوية بن أبي س فيان ‪.‬‬
‫ولما فرغ ع مر من كتاب الصلح قال لبطريقها ‪ :‬د ل ّ ني على مسجد داود ‪ .‬وقال ‪ :‬نعم ‪ .‬وخرج عمر متقلدا ً‬
‫سيفه في أربعة آالف من أصحابه الذين قدموا معه متقلدين سيوفهم وطائفة ممن كان عليها والبطريق بين يدي‬
‫عمر حتى دخل مدينة بيت المقدس ‪ .‬فأدخله الكنيسة التي يقال له القمامة وق ال ‪ :‬هذا مس جد [ ‪ . 11‬أ ] داوود ‪ .‬فنظر‬
‫عمر وتأ ّم ل وقال له ‪ :‬كذب َ‬
‫ت ‪ ،‬ولقد وصف رسول هللا صلى هللا عليه وسلم مسجد داوود بصفة ما هي هذه ‪ .‬قال ‪:‬‬
‫فمضى بهم إلى كنيسة صهيون وقال له ‪ :‬هذا مسجد داوود ‪ .‬فقال له ‪ :‬كذبت ‪ .‬قال ‪ :‬فانطلق به إلى مسجد بيت‬
‫المقدس حتى انتهى به إلى بابه الذي يقال له ب اب محمد ‪ .‬وقد انحدر ما في المسجد الزبالة على درج الباب‬
‫والسوق وكثر حتى كاد أن يلصق بسقف الرواق ‪ .‬فقال له ‪ :‬ال نقدر أن ندخله إال حبو ا ً ‪ .‬قال عمر ‪ :‬ولو حبو ا ً ‪ ،‬فحبى‬
‫بين يدي عمر وحبى عمر خلفه ومن معه حتى أفضوا إلى صحن المسجد واستووا قياما ً ‪ .‬فنظر عمر وتأمل يمينا ً‬
‫وش ما ال ً ‪ ،‬فقال ‪ :‬هللا أكبر ! هذا والذي ( نفس عمر )‬
‫‪61‬‬
‫بيده الذي وصفه لنا رسول هللا صلى هللا عليه وسلم وقال إنه‬
‫أسري به إليه ‪.‬‬
‫ثم قال عمر لكعب ‪ :‬يا أبا إسحاق‪ ،‬أتعرف موضع الصخرة؟ فقال ‪ :‬اذرع من الحائط الذي يلي وادي جهنم‬
‫كذا وكذا ذراع ا ً ثم احفر‪ ،‬فإنك تجدها ‪ .‬قال ‪ :‬وهي يوم ئذ مزبلة مما كانت الروم تطرح غيظ ا ً لبني إسرائيل ‪.‬‬
‫فحفروا فظهروا‪ ،‬وبسط عمر رداءه وجعل يكنس ذلك الزبل وجعل المسلمون يكنسون معه‪ ،‬واتخذ مقدمها‬
‫مسجدا ً ‪ .‬ثم قال عمر ‪ :‬ال تصلوا فيها حتى يصيبها ثالث مطرات ‪ .‬ثم مضى نحو محراب داوود هو الذي على باب‬
‫البلد في القلعة والمسل مون معه‪ ،‬فصلى فيه ولم يلبث أن طلع الفجر‪ ،‬فأمر المؤذ َن باإلقامة وتقدم‪ ،‬فصلى بالناس‬
‫وقرأ بهم ص وسجد فيها ‪ .‬ثم قام فقرأ بهم في الثانية صدر ا ً من بني إسرائيل‪ ،‬ثم ركع ثم انصرف‪ ،‬ثم صلى عند‬
‫كنيسة مريم وعليه قميصان ‪ .‬فبصق في أحدهما ‪ .‬فقيل ابصق فيها‪ ،‬فإنه موضع يشرك فيه باهلل تعالى ‪ .‬فقال إن كما‬
‫يشرك فيها‪ ،‬ففيها يذكر اسم هللا‪ ،‬ثم قال ‪ :‬لقد كان عمر غنيا ً عن أن يصلي عند وادي جهنم ‪.‬‬
‫روي أن أمير المؤمنين عمر لما فتح بيت المقدس وكتب كتاب األمان والصلح وقبضوا كتابهم وأمنوا‪،‬‬
‫دخل الناس بعضهم في بعض وأقام عمر أياما ً ‪ ،‬ثم قال ألبي عب يدة ‪ :‬لم يبق أمير من أمراء األجناد إال استزارني‬
‫غيرك ‪ .‬فقال أبو عبيدة ‪ :‬يا أمير المؤمنين‪ ،‬إني أخاف أن أستزيرك فتعصب عينيك في بيتي ‪ .‬قال ‪ :‬فاستزدني ‪ .‬قال ‪:‬‬
‫[ ‪ . 11‬ب ] فزرني ‪ .‬فأتاه عمر في بيته ‪ .‬فإذا هو ليس فيه شيء إال لبد فرسه وإذ هو فرشه وسرجه وإذ هو وسادته‬
‫وإذا كسرة يابسة في كورة بيته‪ ،‬فجاءها فوضع بها على األرض بين يديه وأتى بملح جريش وظرف وفيه ماء ‪.‬‬
‫فلما نظر عمر إلى ذلك بكى ثم التزمه وقال ‪ :‬أنت أخي‪ ،‬وما من أحد من أصحابي إال وقد نال من الدنيا ونالت‬
‫منه غيرك؟ فقال له أبو عبيدة ‪ :‬ألم أخبرك أنك ستعصب عينيك ‪.‬‬
‫ثم إن عمر قام في الناس فحمد هلل وأثنى عليه بما هو أهله وصلى على النبي صلى هللا عليه وسلم ‪ .‬ثم قال ‪:‬‬
‫يا أهل اإلسالم‪ ،‬إن هللا قد صدقكم الوعد ونصركم على األعداء وأورثكم البالد ومكن لكم في األرض‪ ،‬فال يكونن‬
‫جزاؤه منكم إال الشكر ‪ .‬وإياكم والعمل بالمعاصي‪ ،‬فإن العمل بالمعاصي كفر ا لنعم وقل ما كفر قوم بما أنعم هللا‬
‫عليهم‪ ،‬ثم لم يفزعوا إلى التوبة إال يسلبوا ع ّز هم وسلط عليهم عدوهم ‪ .‬ثم نزل‪ ،‬وحضرته الصالة ‪ .‬فقال ‪ ( :‬أال يا‬
‫بالل ) ‪ ، 62‬فأ ذّ ن لنا يرحمك هللا ‪ .‬قال بالل ‪ :‬يا أمير المؤمنين‪ ،‬وهللا ما أردت أن أؤذن ألحد بعد رسول هللا صلى هللا‬
‫‪61‬‬
‫‪62‬‬
‫ب ‪ ( :‬ن فسي )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬يا بالل‪ ،‬أال )‪.‬‬
‫‪144‬‬
‫عليه وسلم‪ ،‬ولكن سأطيعك إذا أمرتني في هذه الصالة وحدها ‪ .‬فلما أ ذّ ن بالل وسمعت الصحابة صوته ‪ .‬ذكروا‬
‫نبيهم صلى هللا عليه وسلم‪ ،‬فبكوا بكا ًء شديدا ً ‪ ،‬ولم يكن من المسلمين يومئذ أطول بكاء من أبي عبيدة ومعاذ بن‬
‫جبل حتى قال لهما عمر ‪ :‬حسبكما رحمكما هللا ‪.‬‬
‫فلما قضى عمر صالته انصر ف أمير المؤمنين راجع ا ً إلى المدينة واجتهد فيما هو بصدده من إقامة‬
‫شعائر اإلسالم والنظر في مصالح المسلمين والجهاد في سبيل هللا‪ ،‬ولم يزل كذلك حتى توفي شهيد ا ً رضي هللا‬
‫تعالى عنه ونفعنا به وجمع بيننا وبينه في دار كرامته‪ ،‬إنه ولي الحسنات وغافر السيات بمنه وكرمه ‪. 63‬‬
‫( من بنا )‬
‫‪64‬‬
‫قبة على الصخرة عبد الملك بن مروان‪ ،‬وهو أنه جمع الصناع من عمله وأرصد للعمارة‬
‫خراج مصر سبع سنين ووضعه في قبة شرقي المسجد جهة الزيتون‪ ،‬وكل على العمارة والصرف رجاء بن حياة‬
‫الذي أحد العلم األعالم من جلساء عمر بن عبد العزيز ورج ال ً من موالي عبد الملك يدعى أبا سالم المقدسي‪ ،‬هو‬
‫وولديه ووصف لهم صفة القبة وتكوينها ‪ .‬فبنوا له [ ‪ . 12‬أ ] قبة السلسلة شرقي الصخرة وأعجبه تكوينها وأمرهم ا‬
‫بالنفقة والقيام عليها وأن يفرغا المال إفراغ ا ً دون أن ينفقا إنفاق ا ً ‪.‬‬
‫فأخذوا في البناء والعمارة حتى أحكموه ‪ .‬فكتبا إلى عبد الملك بدم شق ‪ :‬قد أت مّ هللا ما أمر به أمير المؤمنين‬
‫من بناء صخرة بيت المقدس والمسجد األقصى‪ ،‬ولم يبق لمتكلم فيه كالم ‪ .‬وقد بقي مما أمر به أمير المؤمنين من‬
‫النفقة بعد أن فرغ البناء وأحكم مئة ألف دينار‪ ،‬فيصرفها أمير المؤمنين فيما أحب ‪ .‬فكتب إليهما أمير المؤمنين ‪:‬‬
‫أمر ُ‬
‫ت بها لكما جائزة لما وليتما من عمارة بيت المقدس ‪ .‬فكتبا إليه ‪ :‬نحن أولى أن نزيد من حلي نسائنا فض ال ً عن‬
‫أموالنا‪ ،‬فاصرفها في أحب األشياء إليك ‪ .‬فكتب إليهما ‪ :‬تبسك وتفرغ على القبة‪ ،‬فبسكت وأفرغت على القبة ‪ .‬فما‬
‫كان أحد يقدر أن يتأملها مما عليه يكن الذهب ‪ .‬وجعلوا إليها لب ود ا ً يكسونها إياها أيام الشتاء تكنها من األمطار‬
‫والرياح والثلوج ‪.‬‬
‫وكان رجاء بن حياة ويزيد بن سالم قد ح ف ّ ا الصخرة بدرارزين ومن خلفه ستور ديباج مرجاة بين‬
‫العمدات ‪ .‬وكانت ال تفتح إال في يوم االثنين والخميس يلطخون الصخرة بالخلوق‪ ،‬ويطلفون مجامر الند والعود‪،‬‬
‫‪63‬‬
‫مضافة في ب ‪ :‬ووجد على بعض التصاوير التي كانت في المسجد بعدما استنقذه المسلمون شعرا ً ‪:‬‬
‫ادمي الكنائس إن تكن عبثت بكم‬
‫أيدي الحوادث أو تغ ي ّر حال‬
‫فلطال ما سجدت لكن شمامس‬
‫ش مّ األنوف ضراغم أ بطال‬
‫بعد أعلى هذا المصاب ألنه‬
‫يوم بيوم والحراب سجال‬
‫قلت ‪ :‬وقد طلبت من األخ المجيز السيد محمد السعيد تشطير هذه األبيات‪ ،‬فتوحها وشطرها‪ ،‬فط ه ّرها بهذا التسبيح‬
‫وأ ّ‬
‫خ رها ‪ .‬التمست عن حيز التشجيع فقال ‪:‬‬
‫‪64‬‬
‫وبيوم فتح القدس نكست الدماء‬
‫في فتحه العمري فصار يقال‬
‫أدم الكنائس إن تكن عبشت بكم‬
‫سطوات صحب المصطفى مذ جالوا‬
‫أو إن تكن نسخت لكن مواثرا ً‬
‫أيدي الحوادث أو تغير حال‬
‫فلطال ما سجدت لكن شمامس‬
‫سود القالنس شعث أو عال‬
‫واليوم نكس رأسكن فوارس‬
‫ش مّ األنوف ضراغم أبطال‬
‫بعد أعلى هذا المصاب فإنه‬
‫خرئ لكن وذلة ووبال‬
‫فأغرة كنتن ثم أذلة‬
‫يوم بيوم والحراب سجال‬
‫ب ‪ ( :‬أول من ينا )‪.‬‬
‫‪145‬‬
‫ثم ت رفع الستور فيفوح البخور إلى السوق‪ ،‬ثم ينادي منادي ‪ :‬اآلن الصخرة قد فتحت ‪ .‬فيقبل الناس مبادرين إلى‬
‫الصالة في الصخرة‪ ،‬فأكثر الناس من يدرك ركعتين وأقلهم أربعا ً ‪ .‬فمن شموا رايحته قالوا ‪ :‬هذا ممن دخل‬
‫الصخرة ‪ .‬وتغلق األبواب وعلى كل باب عشرة من الحجبة وال يدخلها في غي ر االثنين والخميس إال الخدم ‪ .‬وكانت‬
‫تسرج بدهن البان المديني والزنبق الرصاصي ‪.‬‬
‫وكان معلقا ً بوسط القبة درة يتيمة وقرنا كبش إبراهيم وتاج كسرى إلى أن صارت الخالفة لبني هاشم‬
‫حولت إلى الكعبة حرسها هللا تعالى ‪.‬‬
‫وكان الفراغ من العمارة سنة ثالث وسبعين ‪ .‬وكانت صفته إذ ذاك كما رواه ابن عساكر قال رحمه هللا‬
‫بسنده إلى أبي المعالي المقدسي قال عقبة ‪ :‬وكان في ذلك الوقت من الخشب السقف سوى أعمدة خشب ستة آالف‬
‫خشبة ‪ .‬وفيه من األبواب خمسون باب ا ً والعمد ستمئة عمود رخام‪ ،‬وفيه من المحاريب سبعة ومن [ ‪ . 12‬ب ]‬
‫السالسل للقناديل أربعمئة سلسلة إال خمسة عشر منها مئتا سلسلة وثالثون سلسلة في المسجد والباقي في قبة‬
‫الصخرة‪ ،‬وذرع السالسل أربعة آالف ذراع ووزنها ثالثة وأربعون ألف رطل بالشامي‪ ،‬ومن القناديل خمسة‬
‫آالف قنديل وكان يسرج فيه مع القناديل ألفا شمعة في ليالي الجمع وفي ( ليالي )‬
‫‪65‬‬
‫نصف ( شعبان ورجب )‬
‫‪66‬‬
‫و رمضان وفي ليلتي العيدين ‪ .‬وفيه من القباب خمسة عشر قبة سوى قبة الصخرة‪ ،‬وعلى سطح المسجد من شقف‬
‫الرصاص سبعة أالف شقفة وسبعمئة شقفة‪ ،‬وزن الشقفة سبعون رط ال ً غير الذي على قبة الصخرة ‪ .‬كل ذلك عمل‬
‫في أيام عبد الملك بن مروان ‪ .‬ورتب له من الخدام القوام ثلثمئة خادم اشتر يت له من خمس بيت المال‪ ،‬كلما مات‬
‫منهم مي ٌ‬
‫ت قام مكانه ولده وولد ولده أو من يكون من أهليهم يجري ( ذلك )‬
‫‪67‬‬
‫ما تناسلوا ‪ .‬وفيه من الصهاريج‬
‫أربعة وعشرون صهريج ا ً كبار ا ً ‪ .‬وفيه من المنائر أربع‪ ،‬منها ثالثة صف واحد غربي المسجد وواحد على باب‬
‫األسباط ‪ .‬وكان له من الخدم اليه ود الذين ال تؤخذ منهم جزية عشر رجال وتوالدوا‪ ،‬فصاروا عشرين تكنس‬
‫أوساخ الناس في المواسم والشتاء والصيف وتكنس المطاهر التي حول الجامع‪ ،‬وله من الخدم النصارى عشرة‬
‫أهل بيت يتوارثون خدمته لعمل الحصر وكنس حصر المسجد وكنس القنى التي تجري إلى صهاريج الماء وكنس‬
‫الصه اريج أيض ا ً وغير ذلك ‪ .‬وله من الخدم اليهود جامعة يعملون الزجاج للقناديل واألقداح والبراقات وغير ذلك‬
‫مما تدعوا إليه الحاجة ‪ .‬ال يؤخذ منهم جزية وال من الذين يحملون القش لفتائل القناديل‪ ،‬جاري ا ً عليهم وعلى‬
‫أوالدهم أبد ا ً ما تناسلوا من عهد عبد الملك بن مروان وهلم ج ر ا ً ‪ .‬ولما انتقلت الخالفة للوليد بن عبد الملك انهدم‬
‫شرقي المسجد‪ ،‬فأمر بضرب ما على القبة وصرفه على العمارة ‪.‬‬
‫( عبد الرحمن بن ثابت )‬
‫‪68‬‬
‫عن أبيه عن جده أن األبواب كلها كانت ملبسة [ ‪ . 11‬أ ] بصفائح الذهب والفضة‬
‫في أيام خالفة ابن عبد الملك بن مروان ‪ .‬فلما قدم أبو جعفر ا لمنصور العباسي وكان شرقي المسجد وغربيه قد‬
‫وقع زمن الرجفة في سنة ثالثين ومئة ‪ .‬فقيل له ‪ :‬لو أمرتنا ببناء هذا المسجد وعمارته ‪ .‬فقال ‪ :‬ما عندي شيء من‬
‫المال ‪ .‬ثم أمر بقلع صفائح الذهب والفضة التي كانت على األبواب وضربت دنانير ودراهم وأنفقت عليه حتى‬
‫فرغ منه ‪ .‬ثم كانت الرجعة الثانية فوقع البناء الذي كان قد أمر أبو جعهر به ‪ .‬ثم قدم المهدي من بعده وهو جراب‬
‫فرفع ذلك إليه وأمر ببنائه ‪ .‬فقال ‪ :‬دق هذا المسجد وطال وخال من الرجال انقصوا من طوله وزيدوا في عرضه ‪.‬‬
‫‪65‬‬
‫‪66‬‬
‫‪67‬‬
‫‪68‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫( ليلة ) ‪.‬‬
‫( رجب وشعبان )‪.‬‬
‫( ذلك أبدا )‪.‬‬
‫( روى عبد الرحمن بن ثابت )‪.‬‬
‫‪146‬‬
‫فت مّ البناء في خالفته ‪ ( .‬سنة )‬
‫‪69‬‬
‫اثنين وخمسين وأريعمئة سقط تنور قبة بيت ال مقدس‪ ،‬وفيه خمسمئة قنديل ‪ .‬فتط ي ّر‬
‫المقيمون من المسلمين وقالوا ‪ :‬ليكونن في اإلسالم حادث عظيم وقد كان ‪.‬‬
‫فإنه لم يزل بيت المقدس بأيدي المسلمين من لدن عمر بن الخطاب رضي هللا عنه إلى سنة إحدى وتسعين‬
‫وأربعمئة ‪ .‬في تلك السنة قصدوه اإلفرنج في ألف ألف مقاتل وأقاموا علي ه نيف ا ً وأربعين يوما ً وملكواه ضحي‬
‫نهار الجمعة لسبع بقين من شعبان من تلك السنة‪ ،‬وقتل فيه من المسلمين خلق كثير في مدة أسبوع وقتل في‬
‫المسجد األقصى ما يزيد على سبعين ألفا ً من ساداتهم وعبادهم وزهادهم وأخذوا من عند الصخرة من أواني‬
‫الذهب والفضة ما ال يصبطه الحصر ‪ .‬وانزعج بسببه المسلمون في سائر البالد غاية االنزعاج واجتمع أهل بغداد‬
‫في الجوامع واستغاثوا وبكوا حتى أنهم أفطروا من عظيم ما جرى عليهم ‪ .‬وندب الخليفة ببغداد الفقهاء إلى‬
‫الخروج إلى البالد وليحرضوا الملوك على الجهاد‪ ،‬فخرج اإلمام أبو الوفاء بن عقيل الحنبلي وأخذ من أعيانة‬
‫الفقهاء وساروا في الناس‪ ،‬فلم يفد شيئ ا ً ف { إ ن ّ ا هلل وإ ن ّ ا إليه راجعون }‬
‫‪70‬‬
‫‪ .‬واستولت اإلفرنج على بالد السواحل‬
‫وما فيها من القالع والحصون وعاثوا فيها وفيما واالها [ ‪ . 11‬ب ] من النواحي واألعمال والضياع عيث زع ل‬
‫وذكوان في سرح المدينة ‪ { .‬وز ي ّن لهم الشيطان ما كانوا يعملون }‬
‫‪71‬‬
‫ّ‬
‫ودال هم بغرور فظلوا في طغيانهم‬
‫‪،‬‬
‫يعمهون ‪.‬‬
‫ولما أخذ بيت المقدس وغيره من المسلمين قال في ذلك ( مظ ف ّ ر )‬
‫‪69‬‬
‫‪70‬‬
‫‪71‬‬
‫‪72‬‬
‫‪72‬‬
‫األبيوردي أبيات ا ً ‪ ،‬منها ‪:‬‬
‫مزجنا دماء بالدموع السواجم‬
‫فلم يبق فيها عرضة للمراجم‬
‫وشر سالح المرء دمع يفيضه‬
‫إذ الحرب شبت نارها بالصوارم‬
‫فإيها بني اإلسالم أن وراءكم‬
‫وقائع يلحقن الذري بالمناسم‬
‫وكيف تنام العين منك جفونها‬
‫على هفوات يقظت كل نائم‬
‫فإخوتكم بالشام يضحي قتيلهم‬
‫ظ هور المذاكي أو بطون القشاعم‬
‫تسومهم الروم الهوان وأنتم‬
‫تجرون ذيل الخفض فعل المسالم‬
‫وكم من دماء قد أبيحت ومن دمي‬
‫توارى حياء حسنها بالمعاصم‬
‫وبين اختالس الضرب والطعن وقعة‬
‫يظل لها الولدان شيب القوادم‬
‫وتلك حروب من يغب عن غمارها‬
‫ليسلم يقرع بعدها س ّن نادم‬
‫سللن بأيدي المشركين قواضب ا ً‬
‫ستعمل منهم في الطلى والجماجم‬
‫يكاد لها المستجن بطيبة‬
‫ينادي بأعلى الصوت يا آل هاشم‬
‫أرى أمة ال يشرعون إلى العدى‬
‫رماحهم والدين واهي الدعائم‬
‫ويجتنبون النار خوفا ً من األذى‬
‫وال يحسبون العار ضربة الزم‬
‫أترضي صناديد األعاريب باألذى‬
‫وتغضي على ذل حماة األعاجم‬
‫فليتهم أن لم يذودوا حمية‬
‫على الدين ضنوا غيرة للمحارم‬
‫فإن زهدوا لألجر أو زهدوا الوغى‬
‫فهال أتوه رغبة في المغانم‬
‫ب‪:‬‬
‫من‬
‫من‬
‫ب‪:‬‬
‫( وفي سنة )‪.‬‬
‫القرآن ‪. 8702‬‬
‫القرآن ‪. 2705‬‬
‫( المظفر )‪.‬‬
‫‪147‬‬
‫ولم يزل بيت المقدس وما وااله من بالد السواحل وغيرها في أيدي اإلفرنج المخذولين‪ ،‬نيفا ً وتسعين من‬
‫السنين إلى أن جاءت الساعة التي جالها هللا لوقته ا وأظهر اآلية التي ال أخت لها ‪ .‬فنقول هي أكبر من أختها ‪.‬‬
‫[ ‪ . 11‬أ ] وأفضت الليلة ( المعتمة )‬
‫‪73‬‬
‫إلى فجرها‪ ،‬ووصلت الدنيا الحامل بجنين الجنايات إلى تمام شهرها‪،‬‬
‫وجاءت بواحدها التي تضاف إليه األعداد‪ ،‬ومالكها الذي له السماء خيمة والحبك أطناب واألرض بساط والجبال‬
‫أوتاد وا لشمس دينار والقمر دراهم واألفالك خدم والنجوم أوالد‪ ،‬هو السلطان الملك المعظم مالك ذمام الفضل‬
‫المعتصم بالرأي ( الشديد )‬
‫‪74‬‬
‫المتوكل على هللا فيما يبدئ ويعبد‪ ،‬السلطان الملك الناصر صالح الدنيا والدين أبو‬
‫المظ ف ّ ر يوسف بن أيوب ‪ .‬سقى هللا عهده بالرحمة والرضوان وأسكنه ف سيح الجنان‪ ،‬وقد ي سّ ر هللا على يديه ما‬
‫تي سّ ر من الفتوح وأنزل به المالئكة والروح في أيام موالنا اإلمام الناصر لدين هللا أمير المؤمنين أبي أحمد‬
‫العباسي ببغداد‪ ،‬وكان السلطان الملك الناصر صالح الدين ناصر دعوته وداعي نصرته ‪ .‬فندبه لهذا الفتح‬
‫المبين‪ ،‬وكان هجرة لإل سالم ثانية وبيعة رضوان أليدي أهل التثليث بالكفر ثانية ‪.‬‬
‫فجمع العدد وفرق العدد‪ ،‬ووهب الجياد وأجاد المواهب‪ ،‬ورغب في العطايا وأعطى الرغائب ‪ .‬وخرج في‬
‫مسته ّل محرم ( الحرام )‬
‫‪75‬‬
‫سنة ثالث وثمانين وخمسمئة وقد أيقن بالظفر بما رام‪ ،‬وبايع هللا ورسوله على نصر ة‬
‫اإلسالم ‪ .‬وكت ب إلى األقطار والبالد يستدعي جموع الجهاد‪ ،‬وسار والغرام يستنهضه والعز يح ّر ضه وقدم بمحافله‬
‫الحافلة وجيوشه الصابلة‪ ،‬وقصد بيت المقدس بعد أن يستولي على جميع ما كان فيما أيدي الكافر من الحصون‬
‫والقالع والضياع بتلك األقطار‪ ،‬ومحي منها بالسعود رسم النحوس وأقام جاه ا ألذان‪ ،‬وهللا عز وجل ناصره حتى‬
‫انتهى به الفتح إلى عسقالن ‪.‬‬
‫فدخل السلطان من عسقالن للقدس الشريف طالب ا ً وللنصر العزيز مصاحب ا ً ‪ ،‬يخطب من القدس عروسا ً‬
‫ويبذل لها من المهر نفوسا ً ‪ ،‬وجاء الخبر إلى القدس الشريف بوصول السلطان ذي القدر المنيف‪ ،‬فطارت قلوب‬
‫من به وطاشت ‪ .‬و تمنت اإلفرنج لما شاعت األخبار أنها ما عاشت وأيس اإلفرنج من الفرج وأجمعوا على بدل‬
‫المهج [ ‪ . 11‬ب ] وقالوا ‪ :‬هذه قمامتنا ومنها تقوم قيامتنا وبها صلب المسيح وق ّر ب الذبيح وبها نزل النور وزال‬
‫الديجور ‪ .‬وأضافوا إلى متع ب ّدهم من هذه الضالالت‪ ،‬ما ضلوا به عن نهج ( الدالال ت )‬
‫‪76‬‬
‫وح ّ‬
‫ض هم قسوسهم‬
‫وحررتهم رؤوسهم‪ ،‬فما شعروا إال وقد أقبلت العساكر الناصرية منصورة الجنود مشهورة القواضب منشورة‬
‫البنود ‪ .‬قد سألت الوهاد بأكمامها وجالت األعالم في أعالمها ‪.‬‬
‫وأقبل السلطان بإقبال سلطانه وأبطال شجعانه وأفيال أوالده وإخوانه وأشبال مماليكه وغلمانه ‪ .‬وأصبح‬
‫يسأل عن األقصى وطريقه األدنى وفريقه األسنى‪ ،‬وقال ‪ :‬إن أسعدنا ( بفريقه )‬
‫‪77‬‬
‫فما أسعدنا وأي أيد له عندنا إذ‬
‫أ ي ّدنا ‪ .‬ووصف السلطان من خصائص بيت المقدس واألقصى مزاي ا ً ال تع دّ ال تحصى تستقصى‪ ،‬وأقسم ال يبرح‬
‫عنه حتى يخطو إلى زيارة موضع القدم النبوى بقدمه وص مّ م على ذلك رجاء من هللا أبرار قسمه ‪.‬‬
‫ونزل غربي القدس يوم األحد خامس عشر رجب وقلب الكفر قد وجب‪ ،‬وكان بالقدس حينئذ ما بين رامح‬
‫ونابل من جموع اإلفرنج ما يزيد على سبعين ألف مقاتل ‪ .‬فوقفوا دون البلد يبارزون ويقتحمون المنايا‬
‫‪73‬‬
‫‪74‬‬
‫‪75‬‬
‫‪76‬‬
‫‪77‬‬
‫ب ‪ ( :‬الظلماء المقيمة )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬الرشيد )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬الضالالت )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬هللا يفتحه )‪.‬‬
‫‪148‬‬
‫ويحاجزون‪ ،‬وقاتلوا أشد القتال ونازلوا أشد النزال وصافوا بصحاف الصفاح إلرواء الظباء الظمأ من ماء‬
‫األرواح ‪ .‬ودامت الحرب واستمر الطعن والضرب ‪.‬‬
‫وانتقل السلطان يوم العشرين من رجب إلى الشمالي وخ ي ّم هنالك وض ي ّق على اإلفرنج المسالك ونصب‬
‫المجانيق وف ّو ق من آفاقها األفاويق حتى نزلت الصور سور ا ً وجعلت الذات عنه محشور ا ً ‪ ،‬وعاد عقد العداء بعد‬
‫النظم منثور ا ً وظهر من أفق الفتح نور ا ً ‪ .‬وتس ل ّ م البلد باألمان يوم الجمعة السابع والعشرين من رجب على شروط‬
‫شرطوها ( وأمور )‬
‫‪78‬‬
‫التزموها‪ ،‬فأ دّ وا ذلك للسلطان على ما اختار‪ ،‬وقد حصل لبيت ( المال )‬
‫‪79‬‬
‫ما يقارب مئة ألف‬
‫دينار ‪.‬‬
‫وكتبت من البشائر بهذا الفتح ما يفرح أرج نشره ويحيي بحياة [ ‪ . 11‬أ ] هذا السلطان آثار بره ‪ .‬وبشرت‬
‫المسجد الحرام بخالص المسجد األقصى وقلت على الملة المحمدية شرع لكم من الدين ما وصى و ( ه ّن )‬
‫‪80‬‬
‫الح جر‬
‫األسود بالصخرة البيضاء ومنزل الوحي بمح ّل اإلسراء ومق ّر سيد المرسلين وخاتم النبيين بم قر الرسل واألنبياء‬
‫المقربين ومقام إبراهيم الذي وفى بموضع قدم محمد المصطفى ‪ .‬وتسامع الناس بهذا النصر الكريم والفتح‬
‫العظيم ‪ .‬فوفدوا للزيارة من كل فج عميق وسلكوا إليه من كل طريق وأحرموا من البيت المقدس إلى البيت العتيق‬
‫‪81‬‬
‫في الروض األني ق ‪.‬‬
‫وتنزهوا من أزهار ( الكرامت )‬
‫ولما تس ل ّ مه السلطان أمر بكشف النقاب عن عروس المحراب وهدم ما كان أمامه من األبنية‪ ،‬وأمر بتنظيف‬
‫ما حوله من األقبية‪ ،‬وبسطوا تلك البسيطة بالبسط الرفيعة‪ ،‬وعلقت القناديل وتليت آيات التنزيل‪ ،‬وص ف ّ ت‬
‫السجادات وص ف ّ ت العبادات وأقيمت الصلوات وأدعيت الدعوات وتجلت ال بركات وأنجلت الكربات‪ ،‬ونصب‬
‫المنبر وتحلى المحراب المطهر ‪.‬‬
‫فلما دخل يوم الجمعة رابع شعبان أصبح الناس يسألون في تعيين السلطان وامتأل الجامع واختلفت المجامع‬
‫وتوحشت األبصار والمسامع وأفاضت لرقة القلوب المدامع وتوسمت العيون وتقسمت الظنون ‪ .‬وتكلموا فيمن‬
‫يخطب ولمن يكون المنصب وتفاوضوا في ذلك وأطالوا التفويض وتحدثوا بالصريح والتعريض‪ ،‬وأعالم تعلى‬
‫والمنبر يكسى ويجلي‪ ،‬واألصوات ترفع والجماعات تجتمع واألفواج تزدحم واألمواج تلتطم‪ ،‬وللعارفين من‬
‫الضجيج ما في عرفات للحجيج حتى حان الزوال وزال االعتدال وجعل الداعي وأعجل الساعي ‪ .‬نصب السلطان‬
‫الخطيب بن ّ‬
‫ص ه وأبان عن اختياره بعد فحصه‪ ،‬وأشار إلى القاضي محيي الدين أبي المعالي محمد بن ( الحسن )‬
‫‪82‬‬
‫علي بن محمد بن يحيي بن علي بن عبد العزيز بن علي بن الحسين بن محمد بن عبد الرحمن بن القاسم بن الوليد‬
‫بن محمد بن عبد الرحمن بن عثمان بن عفان رضي هللا عنه‪ ،‬ويعرف بابن الزكي العثماني القرشي ‪ .‬ورسم له‬
‫السلطان أن [ ‪ . 11‬ب ] يرقي ذلك المرقي بتقديمه عرقي ‪ .‬فرقى ذلك العود ولقي السعود واهتزت أعطاف المنبر‬
‫واعتزت أطراف المعشر ‪ .‬فخطب وأنصتوا‪ ،‬ونطق وسلتوا‪ ،‬وأفصح وأعرب وأبدع وأغرب‪ ،‬وأبان عن فضل بيت‬
‫المقدس وتقديسه وتطهير ه بعد تنجيسه وإخراس ناقوسه وإخراج قسيسه ‪.‬‬
‫وكان أول ما بدأ به في خطبته بعد أن استوى قائما ً من جلسته أن افتتح بقراءة سورة الفاتحة إلى آخرها‪،‬‬
‫ثم قال ‪ { :‬فقطع دابر القوم الذين ظلموا والحمد هلل رب العالمين }‬
‫‪78‬‬
‫‪79‬‬
‫ب ‪ ( :‬وأموا وأموال )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫‪80‬‬
‫ب ‪ ( :‬هنئ )‪.‬‬
‫‪81‬‬
‫ب ‪ ( :‬كريمته )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬أبي الحسن )‪.‬‬
‫من القرآن ‪. 270:‬‬
‫‪82‬‬
‫‪83‬‬
‫‪149‬‬
‫‪83‬‬
‫‪ .‬ثم قرأ أول سورة األنعام إلى قوله { ثم الذين‬
‫كفروا بر ب ّ هم يعدلون }‬
‫‪84‬‬
‫‪ ،‬ثم قرأ من سورة سبحان { وقل الحمد هلل الذي لم يتخذ ولد ا ً ولم يكن له }‬
‫{ وكبره تكبير ا ً } ‪ ،‬ثم قرأ أول سورة الكهف { الحمد هلل الذي على عبده الكتاب }‬
‫النمل { قل الحمد هلل الذي له ما في السموات وما في األرض }‬
‫‪87‬‬
‫‪86‬‬
‫‪85‬‬
‫إلى قوله‬
‫اآليات الثالث‪ ،‬ثم قرأ من أول‬
‫اآلية ‪ .‬وكان في قصده أن يذكر جميع تحميدات‬
‫القرآن فخشي من اإلطالة ‪.‬‬
‫وقال ‪ :‬الحمد هلل مع ّز اإلسالم بنصره ومذ ّل الشرك بقهره ومصرف األمور بأمره ومديم النعم بشكره‬
‫ومستدرج الكفار بمكره‪ ،‬الذي قدر ( األيام )‬
‫‪88‬‬
‫بعدله وجعل العاقبة للمتقين بفضله وأفاء على عباده من فضله‬
‫وأظهر دي نه على الدين كله‪ ،‬والقاهر فوق عباده فال يمانع‪ ،‬والظاهر على خليقته فال ينازع‪ ،‬واألمر بما يشاء فال‬
‫يراجع‪ ،‬والحاكم بما يريد فال يدافع ‪ .‬أحمده على أظفاره وأظهاره وأعزازه ألوليائه ونصره ألنصاره وتطهره‬
‫لبيته المقدس من أدناس الشرك وأفاته‪ ،‬حمد من استشعر الحمد باطر سره وظاهر أظهاره ‪.‬‬
‫أشهد أن ال اله إال هللا وحده‪ ،‬ال شريك له‪ ،‬األحد الصمد الذي لم يلد ولم يولد ولم يكن له كفوا أحد‪ ،‬شهادة‬
‫من طهر بالتوحيد قلبه وأرضى به ربه ‪ .‬وأشهد أن محمد ا ً عبده ورسوله رافع الشك وداحض الشرك وقامع األفك‪،‬‬
‫الذي أسري به لي ال ً من المسجد الحرام إ لى هذا المسجد األقصى وعرج به منه إلى السموات العلي { إلى سدرة‬
‫المنتهى‪ ،‬عندها جنة المأوي ما زاغ البصر وما طغى }‬
‫‪89‬‬
‫‪ ،‬صلى هللا [ ‪ . 16‬أ ] عليه‪ ،‬وعلى خليفته أبي بكر‬
‫الصديق السابق إلى اإليمان‪ ،‬وعلى أمير المؤمنين عمر بن الخطاب أول من رفع عن هذا البيت المقدس شعار‬
‫الصلب ان‪ ،‬وعلى أمير المؤمنين عثمان بن ع ف ّ ان ذي النورين جامع القرآن‪ ،‬وعلى أمير المؤمنين علي بن أبي‬
‫طالب مبيد الكفر ومزلزل الشرك ومكسر األوثان‪ ،‬وعلى آله وأصحابه والتابعين لهم بإحسان ‪.‬‬
‫أيها الناس‪ ،‬ابشروا برضوان هللا الذي هو الغاية القصوى والدرجة العلياء‪ ،‬واشكروه عل ى ما يسر على‬
‫أيديكم من استرداد هذه الضالة ور دّ ها إلى مق ّر ها من اإلسالم بعد ابتذالها في أيدي المشركين قريب ا ً من مئة عام‬
‫وتطهير هذا البيت الذي أذن هللا أن يرفع وذكر فيها اسمه وإماطة الشرك عن طرقه بعد أن امت دّ عليها ( روقه )‬
‫‪90‬‬
‫واستم ّر فيها رسمه ورفع قواعده بالتح ميد ‪ .‬فإنه بني عليه وشيد بنيانه بالتمجيد‪ ،‬فإنه أ س ّ س على التقوى من خلفه‬
‫ومن بين يديه ‪ .‬فهو موطن أبيكم إبراهيم ومعراج نبيكم محمد صلى هللا عليه وسلم أفضل الصالة والتسليم‪،‬‬
‫وقلبتكم التي كنتم إليها في ابتدأ اإلسالم‪ ،‬وهو مق ّر األنبياء ومقصود األولياء ومدفن الرسل وم هبط الوحي ومنزل‬
‫به األمر والنهي‪ ،‬وهو في أرض المحشر وصعيد المنشر‪ ،‬وهو في األرض المقدسة التي ذكرها هللا تعالى في‬
‫كتابه المبين‪ ،‬وهو المسجد الذي صلى فيه رسول رب العالمين بالنبيين والملسلين والمالئكة المقربين‪ ،‬وهو البلد‬
‫الذي بعث هللا إليه عبده ورسوله وكلمته الذ ي ألقاها إلى مريم ( وروح منه )‬
‫وش ّر فه بنبوته و ( ال )‬
‫‪92‬‬
‫يزحزحه عن رتبة عبوديته ‪.‬‬
‫فقال ‪ { :‬لن يستنكف المسيح أن يكون عبد هللا وال المالئكة المقربين }‬
‫‪84‬‬
‫‪85‬‬
‫‪86‬‬
‫‪87‬‬
‫‪88‬‬
‫‪89‬‬
‫‪90‬‬
‫‪91‬‬
‫‪92‬‬
‫‪93‬‬
‫من‬
‫من‬
‫من‬
‫من‬
‫ب‪:‬‬
‫من‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫من‬
‫‪91‬‬
‫عيسى الذي ك ّر مه هللا برسالته‬
‫القرآن ‪. 271‬‬
‫القرأن ‪. 1:7111‬‬
‫القرأن ‪. 1271‬‬
‫القرآن ‪. 5071‬‬
‫( األيام دوال )‪.‬‬
‫القرآن ‪. 5:71: -5:710‬‬
‫( رواقه )‪.‬‬
‫( روحه )‪.‬‬
‫( لم )‪.‬‬
‫القرآ ن ‪. 071:8‬‬
‫‪150‬‬
‫‪93‬‬
‫‪ ،‬كذب العادلون باهلل وضلوا ضال ال ً‬
‫بعيد ا ً ‪ { ،‬ما اتخذ هللا من ولد وما كأن معه من آله إذا لذهب كل إله بما خلق ولعلى بعضهم على بعض سبحان هللا‬
‫عما يصفون عالم الغيب والشهادة‪ ،‬فتعالى عما يشركون }‬
‫عيسى بن مريم }‬
‫‪95‬‬
‫‪94‬‬
‫‪ { ،‬لقد كفر [ ‪ . 16‬ب ] الذين قالوا إن هللا هو المسيح‬
‫إلى آخر اآليات من المائدة ‪.‬‬
‫وهو أول القبلتين وثاني المسجدين وثالث الحرمين ‪ .‬ال تشد الرحال ب عد المسجدين إال إليه‪ ،‬وال ( تعقد )‬
‫‪96‬‬
‫الخناصر بعد الموطنين إال عليه ‪ .‬فلو ال أنكم ممن اختاره هللا من عباده واصطفاه من س كّ ان بالده لما خ ّ‬
‫ص كم بهذه‬
‫الفضيلة الذي ال يجاريكم فيها مجار وال يباريكم فيها مبار ‪ .‬فطوبى لكم من جيش ظهرت على أيديكم المعجزات‬
‫النبوية والوقعات البدرية والعزمات الصديقية والفتحات العمرية والجيوش العثمانية والفتكات العلوية‪ ،‬جددتم‬
‫اإلسالم أيام القادسية والمالحم اليرموكية والمنازالت الخيبرية والحمالت الخالدية ‪ .‬فجزاكم هللا عن نبيكم محمد‬
‫أفضل الجزاء وشكر لكم ما بذلتموه من مهجكم في مقارعة العداء‪ ،‬وتقبل منكم ما تقربتم إليه من إهراق الدماء‬
‫وأثابكم الجنة ‪ .‬فهي دار السعداء‪ ،‬فاقدروا رحمكم هللا هذه النعمة حق ق دّ رها وق ّو موا هلل بواجب شكرها ‪ .‬فله تعالى‬
‫المنة عليكم بتخصيصكم بهذه النعمة وترشيحكم لهذه الخدمة ‪ .‬فهذا هو الفتح الذي فتحت له أبواب السماء وتبلجت‬
‫بأنواره وجو ه الظلماء ( وابتهج )‬
‫‪97‬‬
‫المالئكة المقربين وقربه أعين األنبياء والمرسلين ‪ .‬فإذا عليكم من النعمة بأن‬
‫جعلكم الجيش الذي تقوم بسيوفهم بعد فترة من النبوة أعالم اإليمان‪ ،‬فيوشك أن ( يفتح )‬
‫‪98‬‬
‫على يديكم أمثاله وأن‬
‫يكون التهاني ألهل الخضراء‪ ،‬أكثر من التهاني ألهل الغبراء ‪.‬‬
‫فه و البيت الذي ذكره هللا تعالى في كتابه ون ّ‬
‫ص عليه في معظم خطابه ومنحكم به متنه وطوله ‪ .‬فقال تعالى ‪:‬‬
‫{ سبحان الذي أسري بعبده لي ال ً من المسجد الحرام إلى المسجد األقصى الذي باركنا حوله }‬
‫عظمته الملك وأثنت عليه الرسل وتليت فيه الكتب األربعة المنزلة ( على )‬
‫‪100‬‬
‫‪99‬‬
‫‪ .‬وهو البيت الذي‬
‫هللا عز وجل‪ ،‬ألجله الشمس على‬
‫يوشع بن نوف بن يعرب‪ ،‬باعد بين جوانبها ليتسر فتحه ويقرب ‪ .‬أليس هو البيت الذي أمر هللا عز وجل موسى أن‬
‫يأمر قومه باستيطانه‪ ،‬فلم يحببه إال رجالن وغضب عليهم ألجله‪ ،‬فألقاهم في التيه [ ‪ . 17‬أ ] عقوبة للعصيان ‪.‬‬
‫فاحمدوا هللا الذي أم ضى غرائمكم لما نكلت عنه بني إسرائيل‪ ،‬فقد فضلت على العالمين ووفقكم لما خذل‬
‫فيه أمم ا ً كانت قبلكم من األمم الماضين‪ ،‬وجمع ألجلكم كلمتكم وكانت شتى وأغناكم بما أمضته كان وع ن‬
‫( سوف )‬
‫‪101‬‬
‫وحتى ‪ .‬وليهنكم أن هللا قد ذكركم به فيمن عنده وجعلكم بعد أن كنتم جنود األهوية جنده وشكركم‬
‫المالئكة ( المنزلون )‬
‫‪102‬‬
‫بهذا البيت من طيب التوحيد ونشر التقديس والتمجيد ‪ .‬وما أمطتم عن طريقه من أ د ّ ى‬
‫الشرك والتثليث واالعتقاد الفاجر الخبيث‪ ،‬واآلن تستغفر لكم أمالك السموات وتصلى عليكم الصلوات‬
‫المباركات ‪.‬‬
‫فاحفظوا رحمكم هللا هذه الموهبة فيكم‪ ،‬وأحرسوا هذه النعمة عندكم بتقوى هللا الذي من تمسك به وسلم ومن‬
‫اعتصم بعروتها نجا وعصم ‪ .‬وأحذروا من اتباع الهوى وموافقة الردا ورجوع القهقري والتولي عن العداء‪،‬‬
‫وج دّ وا في انتهاز الفرصة وإزالة ما بقي من الغ ّ‬
‫ص ة‪ ،‬وجاهدوا في هللا حق جهاده وبيعوا رحمكم هللا أنفسكم في‬
‫‪ 9 4‬من القرآن ‪. 85708 -85701‬‬
‫‪ 9 5‬من القرآن ‪. :71:‬‬
‫‪ 9 6‬ب ‪ ( :‬تعود )‪.‬‬
‫‪ 9 7‬ب ‪ ( :‬وابتهج به )‪.‬‬
‫‪ 9 8‬ب ‪ ( :‬يفتح هللا )‪.‬‬
‫‪ 9 9‬من القرآن ‪. 1:71‬‬
‫‪ 1 0 0‬ب ‪ ( :‬من )‪.‬‬
‫‪ 1 0 1‬ب ‪ ( :‬وسوف )‪.‬‬
‫‪ 1 0 2‬ب ‪ ( :‬المنزلون على ما أهتديتم )‪.‬‬
‫‪151‬‬
‫رضاه إذ جعل كم من خير عباده ‪ .‬وإياكم أن تستزلكم الشيطان وأن يداخلكم الطغيان‪ ،‬فيخ ي ّل لكم أن هذا النصر‬
‫بسيوفكم الحداد ( وخيالكم )‬
‫‪103‬‬
‫الجياد وبجالدكم في موطن الجالد ‪ .‬ال وهللا العظيم وما النصر إال من عند هللا‬
‫العزيز الحكيم ‪ .‬واحذروا عباد هللا بعد أن ش ّر فكم بهذا الفتح الجليل وال منح الجزيل وخ ّ‬
‫ص كم بنصره المنير ‪ .‬أن‬
‫تقترفوا كثير ا ً من نواهيه وأن تأتوا عظيم ا ً من معاصيه ‪ .‬فتكونوا { كالتي نقضت غزلها من بعد قوة إنكاثا ً }‬
‫{ وكالذي آتيناه آياتنا فانسلخ منها واتبعه الشيطان‪ ،‬فكان من الغاوين }‬
‫‪105‬‬
‫‪104‬‬
‫‪،‬‬
‫‪.‬‬
‫والجهاد الجهاد فهو أفضل عبادتكم وأشرف عاداتكم ‪ .‬أ نصروا هللا ينصركم‪ ،‬اذكروا هللا يذكركم‪ ،‬اشكروا‬
‫هللا يردكم ويشكركم ‪ .‬ج دّ وا في حسم الداء وقلع شأفة األعداء وطهروا بقية األرض من هذه األنجاس التي أغضبت‬
‫هللا ورسوله‪ ،‬واقطعوا [ ‪ . 17‬ب ] فروع الكفر واجتثوا أصوله ‪ .‬فقد نادت األيام بالثاوات اإلسالمية والملة‬
‫المحمدية ‪ .‬هللا أكبر‪ ،‬فتح هللا نصر‪ ،‬غلب هللا وقهر‪ ،‬وأخذل من كفر ‪ .‬واعلموا رحمكم هللا أن هذه فرضة فانتهزوها‪،‬‬
‫وفريسة فناجزوها‪ ،‬وغنيمة فحوزوها‪ ،‬ومهمة فأخرجوا بها هممكم وأبرزوها وسيروا إليها سرايا عزماتكم‬
‫وجهزوها ‪ .‬فالسعادة بأمائرها والمكاسب بدخائلها ‪ .‬وقد ظفركم هللا بهؤالء ا ألعداء المخذولين وهم مثلكم أو‬
‫يزيدون‪ ،‬فكيف وقد أضحى قبالة الواحد منكم عشرين ‪ .‬وقد قال هللا تعالى ‪ { :‬أن يكن منكم عشرون صابرون يغلبوا‬
‫مئتين }‬
‫‪106‬‬
‫‪ { ،‬وإن يكن منكم ألف يغلبوا ألفين بأذن هللا وهللا مع الصابرين }‬
‫‪107‬‬
‫‪ .‬أعاننا هللا‪ ،‬وإياكم على اتباع‬
‫أوامره واالنزجار بزواجر ه‪ ،‬وأ ي ّدنا معاشر المسلمين بنصر من عنده‪ { ،‬إن ينصركم هللا ف ال غالب لكم وأن‬
‫يخذلكم ‪ .‬فهذا الذي ينصركم من بعده }‬
‫‪108‬‬
‫‪ .‬إن أشرف مقال يقام ف ي مقام وأنفذ سهام تمريق عن قسي الكالم‬
‫وأمضى قول تحلي به األفهام‪ ،‬كالم الواحد الفرد العزيز العالم ‪.‬‬
‫ثم استعاذ وبسمل وقرأ أول سورة الحشر‪ ،‬ثم دعا للخليفة أمير المؤمنين ناصر لدين هللا وللسلطان‪ ،‬فقال ‪:‬‬
‫اللهم‪ ،‬وأدم سلطان عبدك‪ ،‬الخاضع لهيبتك‪ ،‬الشاكر لنعمتك‪ ،‬المعتر ف بموهبتك سيفك القاطع وشهابك الالمع‪،‬‬
‫والمحامي عن دينك‪ ،‬والمدافع الذاب عن حرمك الممانع‪ ،‬السيد الملك األجل الناصر‪ ،‬جامع كلمة اإليمان‪ ،‬قامع‬
‫عبدة الصلبان‪ ،‬صالح الدنيا والدين‪ ،‬سلطان اإلسالم والمسلمين‪ ،‬مط ه ّر بيت المقدس من أيدي المشركين‪ ،‬أبي‬
‫المظ ف ّ ر يوسف بن أيوب‪ ،‬محيي دولة أمير المؤمنين ‪.‬‬
‫اللهم‪ ،‬عمر بدولته البسيطة‪ ،‬واجعل مالئكتك براياته محيطة‪ ،‬وأحسن عن الدين الحقيقي جزاءه‪ ،‬واشكر‬
‫عن الملة المحمدية عرضه ومضاه ‪ .‬اللهم‪ ،‬أبق لإلسالم مهجته ودف لألنام حوزته‪ ،‬وانشر في المشارق‬
‫والمغارب دعوته ‪ .‬اللهم‪ . 18 [ ،‬أ ] وكما فتحت على يد يه البيت المقدس بعد أن ظنت الظنون‪ ،‬فافتح على يديه‬
‫داني األرض وقاصيها‪ ،‬وم ل ّ كه صياصي األرض ونواصيها‪ ،‬فال يلقى منهم كتيبة إال مزقها وال جماعة إال فرقها‬
‫وال طائفة إال ألحقتها بمن سبقها ‪ .‬اللهم‪ ،‬اشكر عن سيدنا ( محمد )‬
‫‪109‬‬
‫سعيه‪ ،‬وانفذ في المشارق والمغارب أمره‬
‫ونهيه ‪ .‬ا للهم‪ ،‬واصلح به أوساط البالد وأطرافها وأرجاء الملل وأكنافها ‪ .‬اللهم‪ ،‬زلل به معاطس الكفار‪ ،‬وارغم به‬
‫أنوف الفجار والنشر‪ ،‬وأ ي ّد ملكه على األمصار ‪ .‬اللهم‪ ( ،‬ثبت )‬
‫وشد عضده ببقائهم‪ ،‬أمين ‪.‬‬
‫‪103‬‬
‫‪104‬‬
‫‪105‬‬
‫‪106‬‬
‫‪107‬‬
‫‪108‬‬
‫‪109‬‬
‫‪110‬‬
‫ب‪:‬‬
‫من‬
‫من‬
‫من‬
‫من‬
‫من‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫( وخيولكم )‪.‬‬
‫القرآن ‪. 12708‬‬
‫القرآن ‪. :71::‬‬
‫القرآن ‪. 272:‬‬
‫القرآن ‪. 2722‬‬
‫القرأن ‪. 57122‬‬
‫( محمد صلى هللا عليه وسلم )‪.‬‬
‫( لبث )‪.‬‬
‫‪152‬‬
‫‪110‬‬
‫فيه وفي عقبه واحفظه في بنيه الغ ّر الميامين‪،‬‬
‫وختم بقوله تعالى ‪ { :‬إن هللا بأمر بالعدل واإلحسان }‬
‫‪111‬‬
‫‪ ،‬ونزل وصلى في المحراب وافتتح بسم هللا وقرأة‬
‫أ مّ الكتاب وأ مّ بتلك األمة وت مّ نزول الرحمة ‪ .‬ولما قضيت الصالة انتشر الناس واشتهى اإليناس وانعقد اإلجماع‬
‫واطرد القياس وجرت حاالت وتولت مسرات ‪ .‬وصلى السلطان في قبة الصخرة والصفوف بها على سعة الصحن‬
‫متصلة واألمة إلى هللا تعالى بدوام نصر السلطان الملك الناصر مبتهلة‪ ،‬واأليدي إليه مرفوعة والدعوات لديه‬
‫مسموعة ‪.‬‬
‫ومن االتفاقات العجيبة أن الملك الناصر صالح الدين يوسف لما فتح حلب في صفر مدحه محيي الدين بن‬
‫الزكي قاضي ( بدمشق )‬
‫‪112‬‬
‫بقضيدة ‪ .‬منها ‪:‬‬
‫مب شّ ر ا ً بفتوح القدس في رجب‬
‫وفتحكم حلب ا ً بالس يف في صفر‬
‫فكان األمر في ذلك العام كما ب ش ّ ر به ‪.‬‬
‫ويحكي أن السلطان لما كثرت فتوحاته في السواحل كان ال يتجاسر على فتح بيت المقدس لكثرة ما فيه من‬
‫العدد واألبطال لكونه كرسي دين النصرانية‪ ،‬وكان فيه مأسور ا ً رجل من أ هل دمشق‪ ،‬فأرسل إلى السلطان أبياتا ً‬
‫على لسان البيت المقدس ‪:‬‬
‫يا أيها الملك الذي‬
‫لمعالم الصلبان نكس‬
‫جاءت إليك بطاقة‬
‫تسعى من البيت المقدس‬
‫كل ( المساجد )‬
‫‪113‬‬
‫وأنا على شرفي من ّج س‬
‫طهرت‬
‫ّ‬
‫فوال ه خطابة‬
‫[ ‪ . 18‬ب ] وكانت هي الداعية إلى الفتح ‪ .‬ويقال إن السلطان وجد في ذلك الشاب أهلية‪،‬‬
‫المسجد األقصى ‪.‬‬
‫ثم أن السلطان ر ت ّ ب أرباب الخدم والوظائف وحمل إلى المسجد الربعات والمصاحف‪ ،‬وأمر بالعمارة‬
‫وترخيم محراب األقصى‪ ،‬وأن يبالغ في ذلك ويستقضي ‪ .‬وأقام السلطان بالقدس مدة ورحل عن ه يوم الجمعة‬
‫الخامس والعشرين من شعبان ( سنة ‪) 181‬‬
‫الليام‪ ،‬ووقع ( بينهم وبينه )‬
‫‪115‬‬
‫‪114‬‬
‫‪ ،‬وأخذ بفتح ما بقي من البالد بأرض الشام ويقاتل اإلفرنج الكفرة‬
‫وقعات مشهورة بأصلي هذا الكتاب مرقومة ومسطورة إلى أن دعاه داعي ال ِح مام‬
‫قلبي للسابع والعشرين من صفر ( سنة ‪) 189‬‬
‫‪116‬‬
‫وما تأبى ‪ .‬وكثر عليه األسف‪ ،‬وما وجد له بدل وال خلف‪ ،‬وبكاه‬
‫األمراء ورثاه الشعراء ‪ .‬ممن أحسن المراثي مرثية العماد الكاتب‪ ،‬رثاه بقصيدة وهي مئتان واثنان وثالثون بيت ا ً ‪.‬‬
‫فمنها ‪:‬‬
‫شمل الهدى والملك عم سناته‬
‫‪111‬‬
‫‪112‬‬
‫‪113‬‬
‫‪114‬‬
‫‪115‬‬
‫‪116‬‬
‫من‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫والدهر ساء وأقلعت حسناته‬
‫القرآن ‪. 12702‬‬
‫( دمشق الخطيب المذكور )‪.‬‬
‫( السواحل )‪.‬‬
‫( سنة ‪ :20‬أربعة وثمانين وخمسمئة )‪.‬‬
‫( ب ينه وبينهم )‪.‬‬
‫( سنة ‪ :20‬تسعة وثمانين وخمسمئة )‪.‬‬
‫‪153‬‬
‫باهلل أين الناصر ال ملك الذي‬
‫هلل خالصة صفة نياته‬
‫أغالل أعناق العداء أسيافه‬
‫أطواق أجياد الورى م ن ّ اته‬
‫بكت الصوارم والصواهل إذ‬
‫خلت من س ل ّ ها وركوبها غزواته‬
‫دفن السماح فليس ينشر بعدما‬
‫أروى إلى يوم النشور وفاته‬
‫وتنافس ملوك بني أيوب فيما يجمع لهم ود القلوب في إبداء األثار بالبيت المقدس من كل حسن ونفيس‬
‫وأنفس ‪ .‬ثم لما أقضى الملك للملك ( المعظ ّ م ) ‪ 1 1 7‬عيسى بن الملك العادل أبي بكر بن أيوب وتمكن اإلفرنج من‬
‫البالد وضعفت قوة المسلمين أمر بتخريب صور بيت المقدس في ( سنة ‪) 616‬‬
‫‪118‬‬
‫خشية أن يقصد بيت المقدس‪،‬‬
‫فال يقدر على منع العداء ‪ .‬فانتقل منه خلق كثير وتفرقوا أيدي سباء ‪.‬‬
‫وفي ( سنة ‪) 626‬‬
‫‪119‬‬
‫اختلفت ملوك بني أيوب وضعفوا وقويت اإلفرنج وابتلغوا‪ ،‬فلم يجد السلطان الكامل‬
‫يد ا ً من المهاترة وس ل ّ م القدس إلى اإلفرنج على بقاء المسلمين فيه وأن يقيم [ ‪ . 19‬أ ] كل منهما ( شعاره فيه )‬
‫‪120‬‬
‫الذي يرتضيه بشرط أن ال تعمر اإلفرنج الصور وأن ال يتعرضوا للصخرة وال للمسجد األقصى ويكون الرجوع‬
‫في الرستاق إلى والي المسلمين ‪ .‬وعظم ذلك على المؤمنين وحصل به وهن شديد في الدين ‪ .‬وقد عقد سبط بن‬
‫الجوزي مجلس وعظ بدمشق وذكر فيه فضل القدس الشريف وما حل بالملسمين من هذا الهول المخيف وأنشد‬
‫قصيدة يائسة ‪ .‬فمنها بيتا ً‪:‬‬
‫ومنزل وحي مقفر العرصات‬
‫مدارس آيات خلت من تالوة‬
‫فأبكى القلوب والعيون وتمنت الناس المنون بسبب هذا الخطب الجسيم ‪ .‬فال حول وال قوة إال باهلل العلي‬
‫العظيم ‪.‬‬
‫ثم مات الملك الكامل وتو ل ّ ى بعده الملك الناصر داوود بن الملك العادل ‪ .‬وفي ( سنة ‪) 617‬‬
‫‪121‬‬
‫اقتضى رأيه‬
‫السعيد وعزمه الشديد استنقاذ بيت المقدس من الطائفة الفاجرة وتطهيرة من أرجاسهم رجاء ثواب اآلخرة ‪ .‬فجمع‬
‫األبطال جمع كثرة ال قلة وهجم على اإلفرنج على حين غفلة في يوم عيدهم األكبر يوم رفع الصليب وشرب‬
‫المنكر‪ ،‬فوافاهم قبيل الصباح وأعمل فيهم السيوف والرماح‪ ،‬وصار المسلمون بالتكبير ويجتهدون ويقتلون‬
‫ويأسرون وينهبون ‪ .‬فما ارتفع النهار وظهرت الشمس إال وآثار الكفرة كان لم تغن باألمس وقويت شوكة‬
‫المسلمين وأت مّ هللا نعمته على المؤمنين‪ ،‬وكتبت بذلك إلى األقطار البشائر واعتبتي بإقامة ما كان رتبة عمه‬
‫صالح الدين يوسف من الشعائر ‪.‬‬
‫وقد كان هذا الفتح سطر للملك الناصر داوود في صحائف الحسنات وتواردت األلسن باألدعية الصالحة في‬
‫سائر األوقات إلى أن دخلت ( سنة ‪) 611‬‬
‫‪122‬‬
‫ب دّ ل الملك الناصر داوود حسنته بالسيات وسل ّ م القدس لإلفرنج بما‬
‫فيه من المزارات ‪ .‬فانتقم هللا منه وسلبه ملكه واألموال والقصور وابتلى بمحن يضيق عنها هذا المسطور ‪.‬‬
‫‪117‬‬
‫‪118‬‬
‫‪119‬‬
‫‪120‬‬
‫‪121‬‬
‫‪122‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬سنة ‪ 212‬ستة عشر وستنئة )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬سنة ‪ 282‬ستة عشرين وستنئة )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬شعار دينه )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬سنة ‪ 25:‬سبعة وثالثين وستمئة )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬سنة ‪ 201‬واحد وأربعين وستمئة )‪.‬‬
‫‪154‬‬
‫ثم لما توفي الملك الصالحي الناصر نجم الدين بن الملك الكامل استولى على غزة وملك السواحل وفتح‬
‫القدس الشريف وحص ل له به [ ‪ . 19‬ب ] غاية التشريف وهو آخر فتوحاته ‪ .‬فإنه مستم ّر بأيدي المسلمين إلى‬
‫عصرنا هذا والمرجورمن كرم هللا استمراره كذلك إلى يوم القيامة بجاه صفيه محمد وجميع األنبياء والمسلمين ‪.‬‬
‫إنه مجيب دعوة المضطرين ‪.‬‬
‫الباب الثالث ‪ :‬في صفة المسجد األقصى وما به كم الصخرة والمأثر التي ال تستقصى‬
‫اعلم أو ال ً أن المتعارف اآلن عند الناس أن المسجد األقصى‪ ،‬هو الجامع المبين في صدر المسجد‪ ،‬وحقيقة‬
‫الحال أن المسجد األقصى اسم لجميع ما دار عليه السور ‪ .‬فإن البناء ( التي )‬
‫‪123‬‬
‫في صدر المسجد وفيه الصخرة‬
‫واألروقة فحادثة ‪ .‬واعلم أنه ليس له نظير تحت أديم السماء وال بني في المساجد سعته وال صفته‪ ،‬كان في الزمان‬
‫األول على الصفات العجيبة والسمات الغريبة ‪.‬‬
‫وأما صفته في عصرنا وهو ( سنة ‪) 1111‬‬
‫‪124‬‬
‫‪ ،‬فالجامع الذي هو في صدره عند القبة التي تقام فيها‬
‫الجمعة‪ ،‬فهو المعروف اآلن بالمسجد األقصى ‪ .‬فيشتمل على بناء عظيم ب ه قبة مرتفعة على العمد الرخام‬
‫والسواري ‪ .‬فعمده خمسة وأربعون‪ ،‬منها ثالثة وثالثون رخام ا ً واثنى عشر مبنى بالحجارة‪ ،‬وسواريه أربعون‬
‫سارية ‪ .‬والمحراب الكبير الذي في صدره بجانب المنبر من الشرق‪ ،‬يقال إنه محراب داوود عليه السالم ‪ .‬وذرع‬
‫هذا المسجد في الطول قبلة بشام مئ ة ذراع محرر ا ً وعرضه من الباب الشرقي إلى الباب الغربي سبعة وسبعون‬
‫ذراع ا ً وبداخله بجامع عمر ‪.‬‬
‫وبه محرابه واألكثر أن محراب عمر هو محراب داوود لصالته فيه يوم الفتح ‪ .‬وبجانب جامع عمر من‬
‫جهة الشمال إيوان‬
‫‪125‬‬
‫لطيف‪ ،‬به محراب زكريا عليه السالم ‪ .‬بجوار الباب الشرقي وبجا نب المنبر الشريف‬
‫محراب لطيف يقال إنه محراب معاوية رضي هللا عنه ‪ .‬وبداخل المسجد من جهة الغرب مجمع كبير معقود‬
‫باألحجار الكبار‪ ،‬وهو كوران ممتدان شرقا ً وغربا ً وهو عشر قناطير على تسع سواري يسمى جامع النساء ‪.‬‬
‫وبصدر المسجد من وراء القبة الزاوية الخنثنية ‪ .‬وبداخله ال مقصورة الحديدة المالصقة للمنبر ‪ .‬وبجوار الزاوية‬
‫ال ُ‬
‫خ ن ْ ث َ نية دار الخطابة [ ‪ . 21‬أ ] والمنبر في صدره مقابلة دكة المؤذنين على عمد الرخام في غاية الحسن ‪.‬‬
‫وبهذا المسجد عشرة أبواب يدخل منها من صحن المسجد إليه‪ ،‬وسبعة أبواب منها في جهة الشمال‬
‫بظاهرها رواق على سبعة قنا طر قبالة‪ ،‬كل باب قنطرة بها أربعة عشر عمود ا ً من الرخام ‪ .‬وباب من جهة الشرق‬
‫جهة مهد عيسى وباب من جهة الغرب والعاشر يدخل منه إلى جامع النساء ‪.‬‬
‫وبداخل هذا المسجد بئر الورقة على يسار الداخل‪ ،‬وحديثه كما روي عن عطية بن قيس ‪ :‬أن رسول هللا‬
‫ي ‪ .‬فقدمت رفقة بيت المقدس‬
‫صلى هللا عليه وسلم قال ‪ :‬ليد خلن الجنة رجل من أ مّ تي يمشي على رجليه وهو ح ّ‬
‫يصلون فيه في خالفة عمر بن الخطاب رضي هللا عنه ‪ .‬فانطلق رجل من بني تميم يقال له شريك بن حباشة‬
‫يستسقي ألصحابه ‪ .‬فوقع دلوه في الجب ( فنزل ليأخذه ‪ .‬فوجد بابا ً في الج ّ‬
‫ب)‬
‫‪123‬‬
‫‪124‬‬
‫‪125‬‬
‫‪126‬‬
‫‪126‬‬
‫ينفتح إلي جنان ‪ .‬فدخل من ا لباب‬
‫ب ‪ ( :‬الذي )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬سنة ‪ 1100‬أربع وأربعين ومئة وألف )‪.‬‬
‫مضافة في ب ‪ ( :‬مقصود يسمى مقام عزير ‪ .‬وبجوار هذا اإليوان من جهة الشمال إيوان )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫‪155‬‬
‫إلى الجنان يمشي فيها‪ ،‬وأخذ ورقة من شجرها‪ ،‬فجعلها خلف أذنه ثم خرج من الجب ‪ .‬فأتى صاحب بيت المقدس‬
‫وأخبره بما رأى من الجنان ودخوله فيها ‪ .‬فأرسل معه إلى الجب فنزل ومعه أناس‪ ،‬فلم يجدوا بابا ً ولم يصلوا إلى‬
‫الجنان ‪ .‬فكتب بذلك إلى عمر‪ ،‬فكتب عمر يصدق حديثه في دخو ل رجل من هذه األمة الجنة يمشي على قدميه‬
‫ي ‪ ،‬وكتب عمر أن انظروا الورقة‪ ،‬فإن يبست وتغ ي ّرت فليس هي من الجنة‪ ،‬فإن الجنة ال يتغير فيها شيء ‪.‬‬
‫وهو ح ّ‬
‫وذكر في حديثه أن الورقة لم يتغير ‪ .‬وفي رواية أنها كانت شبيهة بورقة الدارقن بمنزلة الكف محددة الرأس‪،‬‬
‫وأنها وضعت بين كف ته وصدره ‪ .‬فكان آخر العهد بها ‪.‬‬
‫وبجوار هذا المسجد وبه من جهة الشرق قبر كبير معقود بالحجارة ( يقال له )‬
‫‪127‬‬
‫النجارة‪ ،‬يوضع فيه آلة‬
‫المسجد وبه فم ثاني لبئر الورقة ‪ .‬وبظاهر المسجد في صحن الحرم من جهة الشرق في الصور القبلي بالقرب من‬
‫مهد عيسى محراب كبير يسمى محراب داوو د عليه السالم‪ ،‬والدعاء عنده مستجاب‪ ،‬وقد جرب ذلك ‪.‬‬
‫وفي آخر المسجد من جهة الشرق مما يلي محراب داوود مكان معقود به محراب يسمى بسوق المعرفة ‪.‬‬
‫يقال [ ‪ . 21‬ب ] إنه كان به باب التوبة لبني أسرائيل ألنه كان إذا أذنب أحدهم ذنب ا ً أصبح مكتوبا ً على باب داره‪،‬‬
‫فيأتي هذا المك ان ويتضرع ويتوب وال يبرح حتى تظهر له ‪ .‬أما رأت الغفران بمحو الكتابة عن باب داره ‪ .‬وكان‬
‫هذا المكان قديما ً مصلى للحنابلة‪ ،‬أفرده لهم الملك المعظم عيسى صاحب دمشق ‪.‬‬
‫وبسفل سوق المعرفة مهد عيسى عليه السالم ‪ .‬به محراب مريم عليها السالم وهو موضع مستعبدها وهو‬
‫موضع مأنو س الدعاء فيه مستجاب ‪ .‬فينبغي لمن يصلي هناك أن يقرأ سورة مريم ويسجد كما فعل عمر بن‬
‫الخطاب في صالته في محراب داوود عليه السالم وإنه صلى وقرأ ص‪ ،‬ويدعو في المهد بدعاء عيسى ( عليه‬
‫السالم )‬
‫‪128‬‬
‫حين رفعه هللا من طور زيتا وهو ‪ :‬اللهم‪ ،‬أنت القريب في علوك المتعالى في دنوك الرفيع على كل‬
‫شيء من خلقك‪ ،‬أنت الذي نفذ بصرك في خلقك وحسرت األبصار دون النظر إليك وغشيت دونك وسبح لك الفلك‬
‫في النور‪ ،‬أنت الذي جليت الظلم بنورك فتباركت ‪ .‬اللهم‪ ،‬أنت خالق الخلق بقدرتك مقدر األمور بحكمتك‪ ،‬مبدع‬
‫الخلق بعظمتك‪ ،‬القاضي في كل شيء بعلمك‪ ،‬الذي خلقت سب عا ً في الهوى بكلماتك محتويات الطبقات مذعنات‬
‫لطاعتك‪ ،‬سما بهن العلو بسلطانك‪ ،‬فأجبن وهن وخان من خوفك‪ ،‬فأتين طائعين ألمرك‪ ،‬فيهن المالئكة يستحونك‬
‫ويقدسونك وجعلت فيهن نور ا ً يجلي الظالم وضياء أضواء من الشمس وجعلت فيهن مصائح يهتدي بهن في‬
‫ظلمات البر والبحر ورجوما ً للشياطين ‪ .‬فتباركت اللهم‪ ،‬في مفطور سمواتك وفيما دحوت من األرض ودحوتها‬
‫على الماء فأدلت ( بها الماء الظاهر )‬
‫‪129‬‬
‫فدل لطاعتك وأذعن ألمرك وخضع لقولك أمواج البحار ‪ .‬ففجرت فيها‬
‫بعد البحار األنهار وبعد األنهار العيون الغزار والينابيع ثم أخرجت منها األشجار واألثمار ثم جع لت على‬
‫ظهرها الجبال أوتاد ا ً فأطاعتك أطوادها فتباركت ‪ .‬اللهم‪ ،‬صفاتك ومن يبلغ صفة قدرتك ومن ينعت نعتك‪ ،‬تنزل‬
‫العيث وتنشئ السحاب الثقال وتقك الرقاب وتقض الحق ‪ . 21 [ .‬أ ] وأنت خير الفاصلين ال اله إال أنت‪ ،‬إنما‬
‫يخشاك من عبادك العلماء‪ ( ،‬ونعلم )‬
‫‪130‬‬
‫أنك لست باله استحدثناك وال رب لنا سواك ‪ .‬نذكره وال كان لك شركاء‬
‫يقضون معك فندعوهم وندعوك وال أعانك أحد على خلقك‪ ،‬فنشهد فيه أشهد أنك أحد صمد لم يلد ولم يولد ولم‬
‫يكن له كفر ا ً أحد ولم يتخذ صاحبة وال ولد ا ً ‪ .‬اجعل ( لي )‬
‫‪127‬‬
‫‪128‬‬
‫‪129‬‬
‫‪130‬‬
‫‪131‬‬
‫‪131‬‬
‫ب ‪ ( :‬يسمى )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬لها الظاهر )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬نشهد )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬لي من أمري )‪.‬‬
‫‪156‬‬
‫فرج ا ً ومخرجا ً ‪.‬‬
‫وبظاهر المسجد في صحن الحرم من جهة الغرب مكان معق ود يعرف بجامع المغاربة وهو مكان مأنوس‬
‫مهيب وفيه صالة المالكية ‪.‬‬
‫أما الصخرة الشريفة‪ ،‬فهي في وسط المسجد على الصحن الكبير المرتفع في أرض المسجد‪ ،‬وعليها قبة في‬
‫غاية الحسن واإلتقان مرتفعة علوها من فوق الصحن أحد وخمسين ذراعا ً ‪ .‬وعلو الصخرة من جهة القبلة سبعة‬
‫أذرع وارتفاع القبة من صحن المسجد حينئذ ثمانية وخمسين ذراعا ً وارتفاعها على اثنى عشر عمودا ً من الرخام‬
‫وأربعة سواري في غاية اإلحكام ‪ .‬والصخرة الشريفة تحت هذه القبة يحيطها درابزين من خشب ويحيط بالعمد‬
‫والسواري الحاملين للقبة درابزين من حديد ‪ .‬وخارج القبة سقف مستدير م ن الخشب المدهون المذهب على ستة‬
‫عشر عمود ا ً من الرخام وثمانية سواري‪ ،‬وأرض القبة وحيطانها مبنية بالرخام باطنا ً وظاهرا ً ومنونية‬
‫بالفصوص الملونة ‪ .‬والبناء الذي حول القبة على التثمين وذرع دائرها من داخل مئتا ذراع وأربعة وعشرون‬
‫ذراع ا ً ( ومن الخارج مئتا ذراع وأربعون ذراع ا ً )‬
‫( والقدم )‬
‫‪133‬‬
‫‪132‬‬
‫‪.‬‬
‫الشريف في حجر منفصل عن الصخرة‪ ،‬محاذي لها آخر جهة الغرب من جهة القبلة على عمد‬
‫من رخام ‪.‬‬
‫وتحت الصخرة مغارة‪ ،‬من جهة القبلة يتوصل إليها بسلم حجر وعند وسط السلم صفة مسطبة متصلة به‬
‫من جهة الشرق‪ ،‬يقف عليها الزائر لزيارة لسان الصخرة ‪ .‬وهناك ع مود من رخام ملقى طرفه األسفل على طرف‬
‫الصفة من جهة القبلة مسند ا ً إلى جدار المغارة القبلي وطرفه األعلى مسند إلى طرف الصخرة كإنه مانع لها من‬
‫الميل إلى جهة القبلة ‪ . 21 [ .‬ب ] ( وهي )‬
‫‪134‬‬
‫من األماكن المأنوسة وعليه الهيبة والوقار ‪.‬‬
‫والصخرة من عجائب هللا في األرض‪ ،‬فإنها صخرة في وسط المسجد قد انقطعت من كل جهة ال يمسكها إال‬
‫الذي يمسك السماء ‪ .‬إن تقع على األرض إال بأذنه وهي مائلة من جهة الجنوب وفي الجهة الثانية أثر أصابع‬
‫المالئكة التي أمسكتها حين مالت حين ركب النبي عليه الصالة السالم البراق من عليها ‪.‬‬
‫وقد ورد في فضلها أحاديث منها عن علي بن أبي طالب مرفوعا ً‪ :‬سيد البقاع بيت المقدس وسيد الصخور‬
‫صخرة بيت المقدس ‪.‬‬
‫وعن ابن عباس مرفوعا ً‪ :‬صخرة بيت المقدس من صخور الجنة ‪.‬‬
‫وعن كعب ‪ :‬الجنة في السماء بإزاء الصخرة‪ ،‬ولو وقع منها حجر لوقع على الصخرة ‪.‬‬
‫وعن عبادة بن الصامت ورافع بن خديح قال ‪ :‬إن هللا عز وجل لما استوى إلى السماء قال لصخرة بيت‬
‫المقدس ‪ :‬هذا مقامي وموضع عرشي يوم القيامة ومحشر عبادي‪ ،‬وهذا موضع جنتي عن يمينها وموضع ناري‬
‫عن يسارها‪ ،‬وفيه أنصب ميزاني أمامها‪ ،‬وأنا هللا ديان يوم الدين ‪ .‬ثم استوى إلى عليين ‪.‬‬
‫عن الزهري عن وهب مرفوعا ً‪ :‬قال هللا تع الى لصخرة بيت المقدس ‪ :‬فيك جنتي وناري فيك جزاي وعقابي‪،‬‬
‫فطوبى لمن زارك ‪ ( .‬أو قال ‪ :‬طوبى لمن رآك ) ‪. 1 3 5‬‬
‫عن أبي هريرة مرفوعا ً‪ :‬المياه العذبة والرياح اللفوافح من تحت صخرة بيت المقدس على نخلة‪ ،‬والنخلة‬
‫على نهر من أنهار الجنة وتحت النخلة أسية امرأة فرعون ومريم ابنت عمر ان ينظمان سموط أهل الجنة إلى يوم‬
‫القيامة ‪.‬‬
‫‪132‬‬
‫‪133‬‬
‫‪134‬‬
‫‪135‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬القدس )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬وه و )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫‪157‬‬
‫وعن ابن عباس مرفوعا ً‪ :‬األنهار أربعة سيحان وجيحان والفراة والنيل‪ ،‬وأما سيحان فنهر بلخ وأما جيحان‬
‫فدجلة وأما النيل فنيل مصر وأما الفراة ففراة الكوفة ‪ .‬وكلما يشرب ابن آدم من هذه األربعة يخرج من تحت‬
‫الصخرة ‪.‬‬
‫وعن كعب أن ه قال ‪ :‬ما من نقطة من عين عذبة إال ويخرجها من تحت صخرة بيت المقدس ‪.‬‬
‫وعن مكحول قال ‪ :‬من أتى بيت المقدس فصلى عن يمين الصخرة وعن شمالها ودعى عند موضع السلسلة‬
‫وتصدق بما قل أو كثر استجيب له دعاوه وكشف هللا حزنه [ ‪ . 22‬أ ] خرج من ذنوبه كيوم ولدته أمه ‪.‬‬
‫وللقبة أربعة أب واب من الجهات األربع ‪ .‬فالباب القبلي مواجه للجامع المتقدم المعروف بالمسجد األقصى ‪.‬‬
‫وعن يمين الداخل المحراب مقابله دكة المؤذنين على عمد من الرخام ‪ .‬والباب الشرقي تجاه درج البراق قبالة‬
‫قبة السلسلة ويسمى باب إسرافيل ‪ .‬والباب الشمالي المعروف بباب الجنة عند البالطة السوداء ‪ .‬والباب الغربي‬
‫قبالة باب القطانين ‪ .‬وعلى ظاهر كل باب من األربعة عضائد وعمد من رخام وسقف يعاوه ‪.‬‬
‫فسيتحب لمن أراد الدخول إلى الصخرة أن يبدأ بالرجل اليمين قائ ال ً ‪ :‬اللهم‪ ،‬اغفر لي ذنوبي وافتح لي‬
‫أبواب رحمتك ‪ .‬وإذا خرج صلى النبي صلى هللا عليه وسلم ويقول ‪ :‬اللهم‪ ،‬اغفر لي ذنوبي وافتح لي أبواب فضلك ‪.‬‬
‫ويجعل الصخرة عن يمينه ويعقد التوبة مع اإلخالص وليضع يده عليها وال يق ب ّلها ويكره الصالة على ظهرها ‪.‬‬
‫وإذا نزل تحتها فليكن بأدب وخشوع ويصلي ما بدأ له ويدعو بدعاء سليمان عليه السالم ‪ :‬اللهم‪ ،‬من أتاه من ذي‬
‫ذنب فاغفر ذنبه‪ ،‬أوذي ض ّر فاكشف ض ّر ه ‪ .‬اللهم‪ ،‬بنورك اهتديت وبفضلك استغنيت وبك أصبحت وأمسيت‬
‫ذنوبي بين يديك أستغفرك وأتوب إليك ‪ .‬يا حنان يا منان ‪ .‬ويدعو بدعوات ‪.‬‬
‫وردت في السنة ‪ :‬اللهم‪ ،‬إني أسألك بأن لك الحمد‪ ،‬ال اله إال أنت المنان بديع السموات واألرض‪ ،‬يا ذا‬
‫الجالل واإلكرام ‪ .‬الل هم‪ ،‬إني أسألك بأنك أنت هللا األحد الصمد الذي لم يلد ويولد ولم يكن له كفر ا ً أحد ‪ .‬اللهم‪،‬‬
‫ي ‪ ،‬وأسألك‬
‫ي وتوفني ما علمت الوفاة خير إل ّ‬
‫بعلمك الغيب وبقدرتك على الخلق أحيني ما علمت الحياة خير إل ّ‬
‫خشيتك في الغيب والشهادة وكلمة الحق في الرضي والغضب والقصد في الفقر وال غناء‪ ،‬وأسألك نعيما ً ال ينفذ‬
‫وقرة عين ال تنقطع وبرد العيش بعد الموت‪ ،‬وأسألك النظر إلى وجهك الكريم والشرف إلى لقياك من غير ضراء‬
‫مضرة وال فتنة مضلة ‪ .‬اللهم‪ ،‬زينا بزينة اإليمان واجعلنا هذاة مهتدين ‪.‬‬
‫وينبغي أن تحت الصخرة بأدب [ ‪ . 22‬ب ] وخشوع عاقد ا ً للتوبة وليصلي م ا بدأ له ويجتهد في الدعاء‪ ،‬فإنه‬
‫موضع مقطوع باإلجابة فيه إن شاء هللا تعالى ‪.‬‬
‫والبالطة السوداء عند باب الجنة وهي خضراء وأطلق عليها سوداء ألن األخضر مظهر من بعيد أسود ‪ .‬فقد‬
‫روي عن وهب أنها على باب من أبواب الجنة ويقال إنها على قبر سليمان ‪ .‬وقد روي الخضر وهو يصل ي عليها ‪.‬‬
‫فينبغي أن يصلي عليها ويدعو بما رواه أنس‪ ،‬قال ‪ :‬كان النبي صلى هللا عليه وسلم إذا صلى بأصحابه أقبل على‬
‫القوم‪ ،‬فقال ‪ :‬اللهم‪ ،‬إني أعوذ بك من عمل يحزنني ‪ .‬اللهم‪ ،‬أني أعوذ بك من غناء يطفئني ‪ .‬اللهم‪ ،‬أني أعوذ بك‬
‫من فقر ينسيني ‪.‬‬
‫وقبة السلسلة قبة في غاية الظرف على صفة قبة الصخرة على سبعة عشر عمود ا ً من الرخام خال عمودي‬
‫المحراب ‪ .‬يروى أنه عليه الصالة والسالم رأى ليلة اإلسراء الحور العين في مكانها ‪ .‬قيل كانت السلسلة آية من‬
‫آيات داود عليه السالم‪ ،‬وكان سأل هللا َ تعالى أن يؤتيه برهان ا ً يعرف به الصادق من الكاذب إذ أحكم بين اثنين من‬
‫بني أسرائيل بحكم‪ ،‬فأنزل هللا عليه سلسلة من نور معلقة في الموضع‪ ،‬مكان قبة السلسلة الموجودة اآلن ‪ .‬فكان إذا‬
‫حكم بحكم بعث بالخصمين إليها‪ ،‬فمن كان صادقا ً نالها ومن كان كاذب ا ً لم ينلها حتى وقع المكر بين الناس‬
‫‪158‬‬
‫ارتفعت ‪ .‬شعر ‪:‬‬
‫مضي العدل زمان ( الهدى )‬
‫‪136‬‬
‫وارتفع الوحي ( زمان السلسلة )‬
‫‪137‬‬
‫وملخص سبب ارتفاعها أن رج ال ً يهودي ا ً استودعه رجل مئة ديتار ‪ .‬فلما طلب الرجل وديعته جحدها‬
‫اليهودي وترافعا إلى السلسلة ‪ .‬فكان اليهودي بمكره‪ ،‬قد سبك الدنانير وحفر لها عصى وجعلها فيها ‪ .‬فلما أتى‬
‫السلسلة دفع العصى إلى صاحب الدنانير وقبص على السلسلة وحلف باهلل ‪ :‬لقد أعطاه دنانير‪ ،‬ثم أخذ العصى‪،‬‬
‫وأقبل صاحب الدنانير وحلف أنه لم يأخذها منه‪ ،‬وم ّ‬
‫س كل منهما السلسلة فتعجب الناس من ذلك ‪ .‬فارتفعت‬
‫السلسلة من ذلك اليوم‬
‫‪138‬‬
‫‪.‬‬
‫والصحن يحيط بقبة الصخرة على حكم [ ‪ . 21‬أ ] التربيع‪ ،‬فطوله قبلة بشام مئ تان وخمسة وثالثون ذراعا ً‬
‫وعرضه شرقا ً بغرب وتسعة وثمانون ذراعا ً ويتوصل إلى هذا الصحن من صحن المسجد من عدة أماكن بكل سلم‬
‫( أدرج )‬
‫‪139‬‬
‫من حجر على رأس السلم قناطر مرتفعة على عمد ‪ .‬فمن ذلك سلمان من جهة القبلة أحدهما تجاه باب‬
‫المسجد األقصى‪ ،‬وعلى رأسه منبر من رخام‪ ،‬بجا نب المنبر محراب يصلي فيه في العيد واالستسقاء ‪ .‬والسلم‬
‫الثاني يليه من جهة قبة طومار و ( هي )‬
‫‪140‬‬
‫طرف صخن الصخرة من جهة الزيتون ‪ .‬من جهة الشرق سلم يعرف‬
‫بدرج البراق ‪ .‬ومن جهة الشمال سلمان‪ ،‬أحدهما مقابل باب حطة والثاني مقابل باب الداودية ‪ .‬ومن جهة الغرب‬
‫ثالثة ساللم‪ ،‬أحد ها مقابل الناظر والثاني مقابل باب القطانين والثالث مقابل باب السلسلة‬
‫‪141‬‬
‫‪.‬‬
‫وعن يمين الصخرة الشريفة من جهة الغرب‪ ،‬قبة المعراج مشهورة مقصودة للزيارة ‪ .‬إلى جانب قبة‬
‫المعراج محراب لطيف محطوط في األرض بالرخام األحمر في دائرة على سمته بالط الصخرة‪ ،‬هو مقام النبي‬
‫صلى هللا عليه وسلم باألنبياء والمالئكة ليلة أسري به ‪ .‬روي أن كعب ا ً قال لصفية زوج النبي صلى هللا عليه وسلم ‪:‬‬
‫يا أم المؤمنين‪ ،‬صلي هاهنا‪ ،‬فإن النبي صلى هللا عليه وسلم صلى بالنبيين حين أسري به إلى السماء ‪ .‬ويروى من‬
‫أتى القبة قاصد ا ً وله حاجة من حوائج الدنيا واآلخرة و صلى ركعتين أو أربعا ً تبينت له سرعة اإلجابة ‪.‬‬
‫فيستحب أن يصلي عند قبة المعراج ومقام النبي صلى هللا عليه وسلم ويجتهد في الدعاء‪ ،‬فإنهما من‬
‫المواطن المجمع على إجابة الدعاء فيهم وال باس أن يدعو بهذا الدعاء وهو ‪ :‬اللهم‪ ،‬اقسم لنا من خشيتك ما تحول‬
‫به بيننا وبين معاص يك ومن طاعتك ما تبلغنا به جنتك ومن اليقين ما يهون علينا مصيبات الدنيا واآلخرة ‪ .‬اللهم‪،‬‬
‫م ت ّ عنا بأسماعنا وأبصارنا وفوتنا ما أحييتنا واجعله الوارث منا واجعل ثارنا على من ظلمنا وانصرنا على من‬
‫عادانا وال تجعل مصيبنا في ديننا وال تجعل الدنيا أكبر ه مّ نا وال تبلغ ع لمنا [ ‪ . 21‬ب ] وال تسلط علينا بذنوبنا من‬
‫ال يرحمنا ‪.‬‬
‫وبسفل صحن الصخرة تجاه باب الحديد بجانب السلم حاصل كان قديم ا ً يعرف بمقام الخضر ‪ .‬به صخرة‬
‫تسمى بخ بخ سمع الخضر يصلي عليها ويدعو وهو مكان مأنوس وعلو هذا المكان في صحن الصخرة محراب‬
‫يعرف بمغارة األرواح بقصد للزي ارة ‪.‬‬
‫‪136‬‬
‫‪137‬‬
‫‪138‬‬
‫‪139‬‬
‫‪140‬‬
‫‪141‬‬
‫ب ‪ ( :‬العالء )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬مع السلسلة )‪.‬‬
‫مضا ف ة في ب ‪ ( :‬انتهى )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬درج )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬هو )‪.‬‬
‫أضيف في ب ‪ ( :‬فجملها ثمانية )‪.‬‬
‫‪159‬‬
‫وفي مؤخر المسجد من جهة الشمال صخور كثيرة ظاهرة يقال إنها من زمن داوود عليه السالم ألنها ثابتة‬
‫في األرض ولم يطرأ عليها ما يغيرها ‪.‬‬
‫وفي تلك الجهة بالغرب من باب الدوادرية قبة سليمان عليه السالم محكم ا ً بها صخرة ثابتة‪ ،‬وهي التي‬
‫وقف عليها بعد انتهاء بناء ا لمسجد ودعا ‪ .‬فقال ‪ :‬اللهم‪ ،‬من أتاه من ذي ذنب فاغفر له‪ ،‬أو ذي ض ّر فاكشف ض ّر ه ‪.‬‬
‫فال يأتيه أحد إال أصاب من دعوة سليمان عليه السالم ‪.‬‬
‫وتجاه باب السلسلة قبة يعرف بقبة مومي‪ ،‬وكانت قديم ا ً تعرف بقية الشجرة ‪ .‬وفي المسجد من جهة الغرب‬
‫األروقة مبنية محكمة ممتدة من جهة الق بلة إلى جهة الشمال‪ ،‬وأولها عند باب المغاربة ( وآولها )‬
‫‪142‬‬
‫عند باب‬
‫الناظر وفوقه إلى قرب باب الغوانمة ‪ .‬وفي صحن المسجد من جهة الغرب بين األروقة وصحن الصخرة عدة‬
‫محاريب على مساطب مبنية للصالة وأشجار كثيرة ‪ .‬وأما األروقة من جهة الشمال‪ ،‬فهي ممتدة من باب األسباط‬
‫إلى ال مدرسة الجاولية المعروفة بدار النيابة ‪.‬‬
‫وفي المسجد من جهة الشرق بين صحن الصخرة والسور الشرقي أشجار زيتون كثيرة من عهد الروم ‪.‬‬
‫وعلى طرف صحن الصخرة من جهة القبلة مما يلي الشرق قبة الطومار وبجانبها خلوة تعرف بالقاشانية ‪ .‬وبسفل‬
‫صحن الصخرة من جهة الشرق عند الزيتون زاوية البسطامية‪ ،‬مكان مأنوس ‪ .‬كان يجتمع فيه الفقراء البسطامية‪،‬‬
‫وقد سد بابها ‪ .‬وبجانبها من جهة الشمال زاوية العمادية‪ ،‬وقد سد بابها كالبسطامية ‪.‬‬
‫وفي المسجد أربعة وثالثون بئر ا ً لجمع ماء الشتاء ‪ .‬منها في صحن الصخرة سبعة والباقي حول صحن‬
‫الصخرة من الجهات األربع ‪ .‬ف منها ما له فمان ومنها ما له ثالثة‪ ،‬فعدة األفواه نيف وأربعون‪ ،‬ومن [ ‪ . 21‬أ ]‬
‫اآلبار ما خرب وسد فمه‬
‫‪143‬‬
‫‪.‬‬
‫وذرع المسجد فطوله قبة بشام من السور القبلي عند محراب داوود إلى صدر الرواق الشمالي عند باب‬
‫األسباط ستمئة وستون ذراعا ً وعوضه شرق ا ً بغرب من السور الشرقي المطل ع لى مقابر باب الرحمة إلى صدر‬
‫الرواق الغربي الذي سفل المدرسة التنكزية أربعمئة ذراع وستة أذرع ‪.‬‬
‫وفي المسجد أمكان كثيرة من محاريب وغيرها يطول وصفها وبالجملة‪ ،‬فإن هذا المسجد أوصافه عظيمة‬
‫ال يتصورها إال من ( شاهدها )‬
‫‪144‬‬
‫‪ .‬وهذا الذي ذكر إنما هو على سبيل التقريب ومن أ عظم محاسنه ‪ .‬إنه إذا جلس‬
‫إنسان في أي موضع منه يري أن ذلك الموضع هو أحسن المواضع وأبهجها‪ ،‬ولهذا قيل إن هللا تعالى نظر إليه‬
‫بعين الجمال ونظر إلى المسجد الحرام بعين الجالل كما نظر إلى المسجد النبوي بعين الكمال ‪ .‬فترى هذا المسجد‬
‫في غاية البهجة والسعة والمنظر الح سن‪ ،‬والمسجد الحرام في غاية األبهة والوقار والهيبة ‪.‬‬
‫فصل ‪ :‬وبسفل المسجد من جهة القبلة مكان كبير معقود به سواري حاملة للسقف يسمى األقصى القديم‪،‬‬
‫ولعل من أثر البناء السليماني ‪ .‬وإلى جانب هذا المكان سفل المسجد تحت أشجار الزيتون مكان عظيم معقود يقال‬
‫له إصطبل سليما ن ‪.‬‬
‫فأما المنابر فأربعة ‪ .‬فاألولى على مقدم المسجد من جهة القبلة على المدرسة الفخرية‪ ،‬والثانية على باب‬
‫السلسلة على الجانب الغربي‪ ،‬والثالثة على مؤخر المسجد من جهة الشمال مما يلي الغرب يسمى بمأذنة‬
‫‪142‬‬
‫‪143‬‬
‫ب ‪ ( :‬وآخرها )‪.‬‬
‫مضا ف ة في ب ‪ ( :‬قلت ‪ :‬وقريبا ً من باب األقصى تجاه بسلم الصخرة بركة ماء كبيرة تسمى بالكأس يأتيها الماء من جهة بيت‬
‫لحم‪ ،‬وحولها األشجار وهو مكان مأنوس تنشرح برؤيته النفوس )‪.‬‬
‫‪ 1 4 4‬ب ‪ ( :‬شاهدها عيانا ً )‪.‬‬
‫‪160‬‬
‫الغوانمة‪ ( ،‬والرابعة )‬
‫‪145‬‬
‫على الجهة الشمالية من المسجد بين باب األس باط وباب حطة وهي أظرفها شك ال ً ‪.‬‬
‫وأما أبواب فأولها بابان متحدان في السور الشرقي الذي قال هللا تعالى ‪ { :‬فضرب بينهم بسور له باب باطنه‬
‫فيه الرحمة [ ‪ . 21‬ب ] وظاهره من قبلة العذاب }‬
‫‪146‬‬
‫‪ .‬فإن الوادي الذي وراءه وادي جهنم‪ ،‬وهما داخل الحايط‬
‫مما يلي المسجد‪ ،‬أحدهما باب الرحم ة وثانيها باب التوبة ‪ .‬وعن زياد بن أبي سودة قال ‪ :‬روى عبادة بن الصامت‬
‫رضي هللا ( تعالى )‬
‫‪147‬‬
‫عنه وهو على سور بيت المقدس يبكي ‪ .‬فقيل له ‪ :‬ما يبكيك يا أبا الوليد؟ قال ‪ :‬هنا أخبرنا‬
‫رسول هللا صلى هللا عليه وسلم أنه رأى جهنم ‪ .‬وفي رواية ‪ :‬أنه رأى مالكا ً يقلب حجر ا ً كالقطف ‪ .‬وعن ابن عباس‬
‫رضي هللا ( عنهما )‬
‫‪148‬‬
‫أنه وقف على سور بيت المقدس الشرقي فقال ‪ :‬من هناك ينصب الصراط ‪.‬‬
‫وهما من داخل الحائط مما يلي المسجد أحدهما باب الرحمة وثانيها باب التوبة‪ ،‬وهما اآلن غير‬
‫مشروعين ‪ .‬وعليهما من داخل السور مكان معقود بالبناء السليماني ولم يبق بداخل ال مسجد من البناء السليماني‬
‫سوى هذا المكان وهو مقصود للزيارة وعليه األبهة والوقار ‪ .‬ويقال إن ( عمر بن الخطاب )‬
‫‪14 9‬‬
‫رضي هللا عنه‬
‫أغلقهما وإنهما ال يفتحان حتى ينزل عيسى بن مريم عليه السالم والذي يظهر أن سبب غلقهما خشية على المسجد‬
‫والمدينة من العدو المحذول‪ ،‬فإنهما ينت هيان إلى البرية وليس في فتحهما كبير فائدة ‪ .‬وبالسور الشرقي بقرب‬
‫البابين المذكورين من جهة القبلة باب لطيف سدود بالبناء مقبال درج البراق يقال إنه الباب الذئب‪ ،‬دخل منه‬
‫النبي صلى هللا عليه وسلم ليلة اإلسراء ويسمى بباب الجنائز لخروجها منه قديما ً ‪.‬‬
‫واألبواب المشر وعة للدخول أحد عشر بابا ً ما عدا األبواب التي يتوصل منها إلى المسجد من المدارس‬
‫( والربط )‬
‫‪150‬‬
‫والمنازل ثالثة ‪ .‬في جهة الشمال باألسباط نسبة ألسباط بني إسرائيل وهو في مؤخر المسجد ‪ .‬من‬
‫جهة الشرق قريب باب الرحمة وباب حطة وهو الذي قيل لنبي إسرائيل { ادخلوا الباب سجد ا ً و قولوا حطة نغفر‬
‫لكم خطاياكم }‬
‫‪151‬‬
‫‪ ،‬فبدلوا ودخلوا [ ‪ . 21‬أ ] على أستاههم وقالوا ‪ :‬حبة في شعرة ‪ .‬باب شرف األنبياء ولعله الذي‬
‫دخل منه عمر يوم الفتح واآلن يعرف بباب الدويدار ‪ .‬وفي الجهة الغربية ثمانية أبواب‪ ،‬باب الغوانمة بالغرب‬
‫من منارة الغوانمة التصاله بحارة بني غانم و يعرف قديم ا ً بباب الخليل ‪ .‬وباب الناظر يعرف قديما ً بباب‬
‫ميكائيل‪ ،‬يقال إنه الذي ربط بجبرائيل البراق ليلة اإلسراء ‪ .‬باب الحديد وهو باب لطيف محكم ‪ .‬وباب القطانين‬
‫ألنه ينتهي إلى سوقهم وهو باب عظيم بناؤه في غاية اإلتقان ‪ .‬وبالقرب منه باب المتوضئ‪ ،‬يخرج منه إلى‬
‫متوضئ المسجد ‪ .‬وباب السلسلة وباب السكينة وهما متحدان‪ ،‬يخرج منهما إلى الشارع األعظم المعروف بخط‬
‫سيدنا داوود عليه السالم‪ ،‬وباب المغاربة ألنه ينتهي إلى حارة المغاربة ويسمى بباب النبي صلى هللا عليه وسلم‬
‫لحديث المعراج ودخل المسجد من باب تميل فيه الشمس والقمر ‪ .‬وليس باب بهذه الصفة ثم إال هذا ‪.‬‬
‫وأما المسجد فمن جهة القبلة والشرق ينتهي إلى البرية‪ ،‬فالجهة القبلية مشرفة على عين سلوان وغيرها ‪.‬‬
‫والجهة الشرقية مشرفة على طور زيتا ووادي جهنم وغيرها‪ ،‬والمنازل محيطة به من الغرب والشمال فقط ‪ .‬وأما‬
‫في الزمن السابق فكانت المدينة محيطة به من الجهات األربع ‪.‬‬
‫وأما األيمة المرتبون فأولهم إمام المالكية يصلي في جامع المغاربة‪ ،‬ثم إمام الشافعية بالجامع األقصى‪ ،‬ثم‬
‫‪145‬‬
‫‪146‬‬
‫‪147‬‬
‫‪148‬‬
‫‪149‬‬
‫‪150‬‬
‫‪151‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫من القرآن ‪. ::715‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬عنه )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬سيدنا عمر بن الخطاب )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫من القرأن ‪. 87:2‬‬
‫‪161‬‬
‫إمام الحنفية بقبة الصخرة الشريفة‪ ،‬ثم إمام الحنابلة بمدرسة السلطان الملك األشرف ‪.‬‬
‫وقبلة أهل بيت المقدس وما جاوره من الرملة وغزة وما والي ذلك من السواحل جهة مئزاب الكعبة وحجر‬
‫إسمائيل ‪.‬‬
‫وأما ما فيه من المدارس فمنها المدارس الفارسية بداخل المسجد األقصى بقرب بئر الورقة ‪ . 21 [ .‬ب ]‬
‫والمدرسة النحوية على طرف صحن الصخرة من جهة القبلة إلى الغرب ‪ .‬والمدرسة الناصرية كانت على برج‬
‫باب الرحمة ودثرت ‪.‬‬
‫وأما م ا حول المسجد من المدارس والزوايا‪ ،‬فأما المدارس والربط المجاورة للسور من جهة الغرب‪،‬‬
‫فثالثة عشر ‪ .‬أولها الخنقاة الفخرية مجاورة بجامع المغاربة من جهة الغرب وهي بداخل السور ‪ .‬والمدرسة‬
‫التنكزية مدرسة عظيمة ليس في المدارس أتقن منها وهي بخط باب السلسلة ‪ .‬المدرسة األ شرفية الذي هي محل‬
‫مصلي الخنايلة ‪ .‬والمدرسة العثمانية بباب المتوضئ‪ ،‬والرباط الزمني بباب المتوضئ تجاه المدرسة العثمانية ‪.‬‬
‫والمدرسة الخاتونية والمدرسة األرغونية والمدرسة الجوهرية الثالثة بباب الحديد ‪ .‬ورباط كرد بباب الحديد‬
‫بجوار السور تجاه المدرسة األرغونية والم درسة الجوهرية بباب الحديد ‪ .‬والزاوية الوفائية بباب الناظر تجاه‬
‫المدرسة المنجكية بباب الناظر ‪.‬‬
‫وما هو من جهة الشمال فأربعة عشر‪ ،‬األولى المدرسة الجاولية وفيها مدفن الشيخ درباس الكردي وكان‬
‫رج ال ً صالح ا ً ‪ .‬والمدرسة الصلبية والمدرسة األسعردية والمدرسة الملكية فوق الرواق الشمالي بالمسجد‬
‫األقصى ‪ .‬والمدرسة الفارسية والزاوية األمينية بباب شرف األنبياء‪ ( ،‬والدويدارية )‬
‫‪152‬‬
‫الذي سمي بها باب شرف‬
‫األنبياء وتعرف قديما ً بدار الصالحين وهي مكان مأنوس ‪ .‬والمدرسة الباسطية بعضها على المدرسة الدودارية‬
‫والتربة األوحدية بباب حطة ‪ .‬والمدرسة الكريمية بباب حطة‪ ،‬والمدرسة القادرية بداخل المسجد‪ ،‬والمدرسة‬
‫الطولونية بداخل المسجد من الرواق الشمالي‪ ،‬والمدرسة العترية مقابلة الطولوية من جهة الشرق‪ ،‬والمدرسة‬
‫الحسينية على باب األسباط وهي آخر المدارس ‪.‬‬
‫وأما األماكن التي يتوصل منها إلى المسجد ولها أبواب خارج [ ‪ . 26‬أ ] المسجد‪ ،‬فمنها الزواية الخنثنية‬
‫ودار الخطابة والفخرية والتنكزية والبلدية والرباط الزمني والخاتونية واألرغونية والوفائية والمنجكية ودار‬
‫الشيخ جمال الدين بن غانم شيخ الحرم أحد جدودنا‪ ،‬وقد تولي منهم جماعة يزيدون على عشرين مشيخة‬
‫( الحرام )‬
‫‪153‬‬
‫‪ ،‬ودار بني جم اعة المجاورة لمنارة الغرائمة والمدرسة الجاولية والصلبية واألسعردية والملكية‬
‫واألمنينية والباسكية والكريمية والعترية ‪.‬‬
‫وأما ما في المدينة من المدارس خالف ذلك فسيأتي في الباب الذي يليه ‪ .‬وهللا الهادي للصواب ‪.‬‬
‫الباب الرابع ‪ :‬في صفة مدينة القدس وما بها من المش اهد ونبذة مما حول سرادقاتها من المعاهد ‪.‬‬
‫أما صفتها في عصرنا هذا‪ ،‬فهي مدينة عظيمة محكمة البناء بين جبال وأودية ‪ .‬عليها سور من جهة الغرب‬
‫والشمال يسمى السور السليماني من بناء السلطان أحد ملوك بني عثمان ‪ ( .‬له أبواب المدينة مرتفع على علو‬
‫‪152‬‬
‫‪153‬‬
‫ب ‪ ( :‬والمدرسة الفارسية والد ويدارية )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬الحرم )‪.‬‬
‫‪162‬‬
‫وبعضه منخفض في واد )‬
‫‪154‬‬
‫‪ ،‬وغ الب األبنية التي باألماكن المرتفعة العالية تشرف على ما هو دونها من‬
‫األماكن المنخفضة ‪ .‬وشوارع المدينة بعضها سهل وبعضها وعر‪ ،‬وهي كثيرة اآلبار ( لجمع الماء )‬
‫‪155‬‬
‫ألن ماءها‬
‫يجمع من األمطار ‪.‬‬
‫أما أسواقها‪ ،‬فمن ذلك سوق القطانين المجاور لباب المسجد من جهة الغرب وهو سوق في غاية االرتفاع‬
‫لم يوجد مثله في كثير من البالد ‪ .‬وأيضا ً األسواق الثالثة المتجاورة بالقرب من باب المحراب المعروف بباب‬
‫الخليل‪ ،‬وهي من بناء الروم ممتدة قبلة بشام ومن بعضها إلى بعض منافذ ‪ .‬فاألول سوق العطارين والذي يليه‬
‫وهو األوسط لبيع الخضراوات والذي لجهة الشر ق لبيع القماس ‪ .‬وذكر المسافرون أنهم لم يروا مثل هذه األسواق‬
‫الثالثة في الترتيب والبناء في بلد من البالد‪ ،‬وذلك من محاسن بيت المقدس ‪.‬‬
‫وأما [ ‪ . 26‬ب ] شوارعها‪ ،‬فمنها خط داوود وهو الشارع األعظم وابتدأوه من باب السلسلة إلى با ب‬
‫المحراب المعروف بباب الخليل‪ ،‬وهذا الخط على أقسام ‪ .‬والسبب في تسميته بخط داوود أن سيدنا داوود عليه‬
‫السالم كان له سرداب تحت األرض من باب السلسلة إلى القلعة المعروفة بمحراب داوود وكان منزله بها ‪ .‬وهذا‬
‫السرداب موجود وفي بعض األوقات يكشف بعضه ويشاهد وهو أقبية معقودة بالحجارة ‪ .‬وخط مرزبان وفيه سوق‬
‫العط ارين وخالفه ‪ .‬وخط وادي الطواحين وفيه عدة شوارع معلومة ال حاجة لذكرها ‪.‬‬
‫وأما ما في المدينة من المدارس مما هو حول المسجد غير مالصق للسور ولكن بالقرب منه‪ ،‬فمن جهة‬
‫الشمال المدرسة الصالحية بباب األسباط تعرف قديم ا ً بصند ح ن ّ ة يقال إن ( فيها قبر أم مريم )‬
‫‪15 6‬‬
‫‪ ،‬أنشأها ا لملك‬
‫صالح الدين يوسف حين فتح القدس ووقفها على السادة الشافعية ‪ .‬وبجوارها الحمام الذي بنته الجن لسليمان‪،‬‬
‫وهو أول حمام بني ‪ .‬والزاوية الشيخونية عند سويقة باب حطة‪ ،‬والمدرسة الكاملية بباب حطة‪ ،‬بجوار ( التربة‬
‫األوحدية )‬
‫‪157‬‬
‫والمدرسة المعظمية والزاوية المهمازية بالقرب من المعظمية من جهة الغرب‪ ،‬والمدرسة‬
‫الوجوهية بخط درج المولى‪ ،‬والمدرسة المحدثية بالقرب من الوجوهية من باب الغوانمة وما هو بالقرب من‬
‫المسجد من جهة الغرب‪ ،‬والرباط المنصوري بباب الناظر‪ ،‬ورباط عالئ الدين البصير تجاه رباط المنصوري‪،‬‬
‫والمدرسة الحسينية بباب الناظر علو رباط عالئ الدين ‪ .‬ومقابل هذه المدرسة تربة بها ضريح يقال إنه قبر‬
‫السيدة فاطمة بنت معاوية رضي هللا عنهما ‪ .‬والمدرسة القشتمرية بباب الناظر بالقرب من الحسينية‪ ،‬والمدرسة‬
‫السفرية بباب الناظر أوقفتها الست سفري بنت شرف الدين البادردي‪ ،‬بالبادردية [ ‪ . 27‬أ ] أيض ا ً با لقرب من‬
‫القشتمرية ‪ .‬والزاوية المحمدية بجوار البادرية ‪.‬‬
‫من جهة الغرب الزاوية اليونسية‪ ،‬مقابلة للبادردية نسبة للفقراء اليونسية الجهاركسية بجوار اليونسية‪،‬‬
‫أصلهما كنيسة من بناء الروم قسمت نصفين ‪ .‬والمدرسة الحنبلية بباب الحديد‪ ،‬والتربة السعدية بباب السلسلة‬
‫تجاه ا لمدرسة التنكزية وباب المدرسة ‪ .‬التربة الجالقية برأس درج العين بباب السلسلة‪ ،‬دار الحديث بجوار‬
‫التربة الجالقية ‪.‬‬
‫من جهة الغرب دار القرآن السالمية تجاه دار الحديث ‪ .‬المدرسة الطازية بخط داوود بالقرب من باب‬
‫السلسلة‪ ،‬تربة الملك حسام الدين بركة خان مقابل المدرسة ال طازية‪ ،‬التربة الكيالنية بجوار الطازية ‪.‬‬
‫‪ 1 5 4‬ب ‪ ( :‬له أبواب وبعض بناء المدينة مرتفع على علو وبعضه منخفض في واد )‪.‬‬
‫‪ 1 5 5‬ناقصة في ب ‪.‬‬
‫‪ 1 5 6‬ب ‪ ( :‬قبر حنة أم مريم )‪.‬‬
‫‪ 1 5 7‬ب ‪ ( :‬الكريمية )‪ .‬و مضا ف ة في ب ‪ ( :‬من جهة الشمال ورباط المارديني بباب حطة مقابل الكاملية بجوار التربة األوحدية‪،‬‬
‫والمدرسة العظيمة مقابل شرف األنبياء‪ ،‬والمدرسة السالمية بباب شرف األنبياء تجاه المعظمية )‪.‬‬
‫‪163‬‬
‫من جهة الغرب المدرسة القشتمرية بالقرب من الكيالنية ‪ .‬زواية الطواشية بحارة الشرق وتعرف قديما ً‬
‫بحارة األكراد ‪ .‬زاوية المغاربة بأعال حارتهم ‪ .‬المدرسة األفضلية تعرف قديما ً بالقبة بحارة المغاربة ‪.‬‬
‫وما هو من المدارس والزوايا بالقدس الشريف غير قريب من المسجد‪ ،‬فمنها زاوية البالسي بظاهر القدس‬
‫الشريف من جهة القبلة‪ ،‬نسبتها للشيخ أحمد البالسي المدفون بها وكان من الصالحين‪ ،‬وقبره مشهور يقصده‬
‫الزوار ‪ .‬زاوية األزرق بظاهر القدس الشريف من جهة القبلة‪ ،‬وهي شرقي زاوية البالسي‪ ،‬بها قبور جماعة‪،‬‬
‫منهم الشيخ إسحاق بن الشيخ إبراهيم األزرق ‪ .‬المدرسة اللؤلؤية بخط مرزبان بجوار حمام عالئ الدين البصير ‪.‬‬
‫من جهة الشمال ( المدرسة )‬
‫‪158‬‬
‫بخط مرزبان بالقرب من اللؤلؤية ‪ .‬زاوية الدركاة بجوار البيمارستان‬
‫الصالحي ‪ .‬زاوية الشيخ يعقوب العجمي بالقرب من القلعة وهي كنيسة من بن اء الروم [ ‪ . 27‬ب ] وقد اشتهرت‬
‫بزاوية ابن الشيخ عبد هللا البغدادي لسكنه بها ‪ .‬مسجد الحيات وهو الذي كان فيه طلسم الحيات وهو أنه كان من‬
‫لسعته حي ة ٌ في بيت المقدس يمكث ثالثمئة وستين يوم ا ً ال يخرج من البلد‪ ،‬فإن خرج منها قبل تمام العدة مات‪،‬‬
‫وهو من القرب من القمامة و هو من المساجد العمرية ‪ .‬الخنقاه الصالحية علو كنيسة قمامة ‪ .‬الزاوية الحمراء‬
‫بالقرب من الصالحية وتعرف قديم ا ً بالرغلية ‪ .‬الزاوية اللؤلؤية بباب العمود أحد أبواب المدينة ‪ .‬الزاوية‬
‫البسطامية بحارة المشارفة ‪ .‬المدرسة الميمونية عند باب الساهرة أصلها كنيسة واآلن صارت من المهمالت ‪.‬‬
‫زاوية الهنود بظاهر باب األسباط‪ ،‬وهي قديمة وكانت للفقراء الرفاعية ‪ .‬فنزل بها طائفة من الهنود فعرفت بهم ‪.‬‬
‫الجراحية زاوية بظاهر القدس من جهة الشمال وبظاهرها من جهة القبلة قبور جماعة من الجاهدين القيمرية قبة‬
‫محكمة ‪ .‬بظاهر القدس من جهة الشمال مما يلي ال غرب بها قبور جماعة من الشهداء المجاهدين في سبيل هللا ‪.‬‬
‫بظاهرها قبور جماعة أيضا ً من المجاهدين ‪.‬‬
‫وأما ما بالقدس من المنائر‪ ،‬فبالمسجد أربعة كما تقدم ‪ .‬وبظاهر المسجد منارة على المدرسة المعظمية‪،‬‬
‫وعلى الحنقاة الصالحية منارة‪ ،‬وعلى المسجد الذي عند قمامة علو سجن الشر طة منارة‪ ،‬وعلى زاوية الدركاة‬
‫منارة‪ ،‬وعلى مسجد مالصق لكنيسة اليهود من جهة القبلة منارة ‪.‬‬
‫وفي القدس الشريف عدة من الكنائس والديارات من زمن الروم نحو عشرين مكانا ً وعمدة النصارى ‪ .‬منها‬
‫كنيسة قمامة وإليها يحجون بزعمهم ويليها ( كنيسة )‬
‫‪159‬‬
‫صهيون [ ‪ . 28‬أ ] المختصة باإلفر نج‪ ،‬ثم كنيسة المصلبة‬
‫المختصة بطائفة الكوج وهي بظاهر القدس ‪.‬‬
‫وأما األبواب التي للمدينة‪ ،‬فعشرة ‪ .‬فمن جهة القبلة باب حارة المغاربة وباب صهيون المعروف اآلن باب‬
‫حارة اليهود ‪ .‬ومن جهة الغرب باب صغير يلصق دار األرمن وباب المحراب المسمى اآلن بباب الخليل وهو‬
‫الذي عيس ى عليه السالم يقتل عنده الد ّج ال ألنه يسمى باب ل ّ د أيض ا ً ‪ ،‬وباب الرحمة ‪ .‬ومن جهة الشمال باب دير‬
‫السرب‪ ،‬وباب العمود وباب الداعية يتوصل منه إلى حارة بني زيد‪ ،‬وباب الساهرة ‪ .‬ومن جهة الشرق باب‬
‫األسباط ‪ .‬وقد كان للمدينة أيض ا ً بابان‪ ،‬أحدهما عند زاوية الشيخ يعقوب العج مي وباب بحارة الطورية وقد سدا ‪.‬‬
‫ومن جهة الغرب القلعة وهو حصن عظيم البناء بظاهر المدينة كان قديما ً سكن داوود عليه السالم ‪ .‬وبالحصن‬
‫برج داوود من البناء السليماني وبالجملة ‪.‬‬
‫فبيت المقدس بناؤه في غاية اإلتقان واإلحكام ورؤيته من بعيد في غاية النورانية وحسن المنظر ‪،‬‬
‫خصوص ا ً إذا كان اإلنسان على جبل طور زيتا وكذلك من جهة القبلة ‪ .‬وأما من جهة الغرب والشمال‪ ،‬فال يرى‬
‫‪158‬‬
‫‪159‬‬
‫ب ‪ ( :‬المدرسة البدرية )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫‪164‬‬
‫منها من بعد إال القليل لمواراة الجبال لها‪ ،‬فإن بيت المقدس وبلد سيدنا الخليل علسه السالم في جبال كثيرة‬
‫األوعار واألحجار والسير فيها يشق والمسافة بعيدة ‪ .‬فإن الج بال المحيطة بالبلد قرب مسافتها تقريبا ً ثالثة أيام‬
‫طو ال ً ومثلها عرض ا َ ‪ .‬فمن وصل إلى تلك البلدتين وشاهد األنوار وحصل له األنس والبهجة والسرور نسي ما‬
‫حصل له من المشقة وإذا أنشد الحافظ ابن حجر العسقالني حين قدومه القدس للزيارة [ ‪ . 28‬ب ] في معنى ذلك ‪:‬‬
‫إلى البيت ا لمقدس قد أتينا‬
‫رجاء العفو من رب كريم‬
‫قطعنا في محبتكم عقابا‬
‫وما بعد العقاب إال النعيم‬
‫وأما ما حول سرادقاتها من المعاهد‪ ،‬فمنها عين سلوان بالوادي من جهة القبلة ‪ .‬فعن أم عبيدة بنت خالد بن‬
‫معدان عن أبيها أنه قال ‪ :‬زمزم وعين سلوان التي ببيت المقدس من عيون الجنة ‪ .‬وعنه ‪ :‬من أتي بيت المقدس‬
‫فليأت محراب داوود المشرف وليصل فيه ويسبح في عين سلوان‪ ،‬فإنها من الجنة ‪ .‬وال يدخل الكنائس وال يشتري‬
‫فيها بيع ا ً ‪ ،‬فإن الخطية فيها مثل ألف ( خطية والحسنة فيها مثل ألف )‬
‫‪160‬‬
‫حسنة ‪.‬‬
‫وبئر أيوب بالقرب من عين سلوان نسبة إلى أيوب عليه السالم التي ( قال )‬
‫هذا مفتسل بارد وشراب }‬
‫‪162‬‬
‫‪161‬‬
‫لنبيه أيوب ‪ { :‬أركض برجلك‬
‫‪ .‬وهذا البئر في كل سنة عند قرة الشتاء وكثرة األمطار يفور منه الماء حتى يصير‬
‫كالنهر الجاري ويسيح إلى مسافة بعيدة ويستم ّر على هذه الحالة عدة أيام وهذه عجيبة ‪.‬‬
‫وقد كان في بيت المقدس برك من عمل حزقيل أحد ملوك بني أسرائيل ثالثة في المدينة وثالثة خارجها ‪.‬‬
‫أما التي في المدينة فبركة بني أسرائيل‪ ،‬فهي موجودة شمالي المسجد األقصى يلصق السور بين باب األسباط‬
‫وباب حطة منظرها مهول من العجائب ‪ .‬ولعل بركة سليمان وبركة عياض هما اللتا ن بخط مرزبان وحارة‬
‫النصارى لحمام البصير ‪.‬‬
‫وأما الذي خارجها فبركة مامال وهي وسط مقبرة مامال‪ ،‬وبركة المرجيع وهما بالقرب من قرية أرطاس‪،‬‬
‫ينتفع بهما لخزن الماء الواصل من قناة السبيل إلى القدس الشريف ومسافتها عن القدس نصف بريد ‪ .‬وبظاهر‬
‫القدس الشريف [ ‪ . 29‬أ ] من كل جهة كروم بها أنواع الفواكه من العنب والتين والتفاح والمشمش وغير ذلك‪،‬‬
‫وأحسن األماكن أرض البقعة ‪.‬‬
‫ظاهر القدس من جهة الغرب إلى القبلة وبها قصور وأبنية محكمة البناء للنزهة واالنبساط‬
‫‪163‬‬
‫‪ .‬وشرق‬
‫في بيت المقدس جبل طور زيتا وهو جبل عظيم مشرف على المسجد األقصى ‪ .‬وعن أب ي هريرة رضي هللا تعالى‬
‫عنه قال ‪ :‬قسم ربك بالتين والزيتون‪ ،‬التين مسجد دمشق والزيتون وطور زيتا ‪ .‬وعنه أيضا ً‪ :‬أقسم ر ب ّنا بأربعة‬
‫أجبل ‪ .‬فقال ‪ :‬والطور والزيتون وطور سنين وهذا البلد األمين‪ ،‬والتين مسجد دمشق والزيتون طور زيتا مسجد‬
‫بيت المقدس وطور سينين حيث ك ل ّ م هللا موسى وهذا اليلد األمين مكة ‪.‬‬
‫وقد قدمت صفية زوج النبي صلى هللا عليه وسلم بيت المقدس فصلت فيه وصعدت طور زيتا فصلت وقامت‬
‫على طرف الجبل وقالت ‪ :‬من هاهنا يتفرق الناس يوم القيامة إلى الجنة وإلى النار ‪.‬‬
‫وهذا الجبل على طرف الجبل الذي صعد منه عيسى عليه السالم ‪ ( .‬هناك قبة يقال لها مصعد عيسى صلى‬
‫‪160‬‬
‫‪161‬‬
‫‪162‬‬
‫‪163‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬قال هللا )‪.‬‬
‫من القرآن ‪. 52708‬‬
‫مضا ف ة في ب ‪ ( :‬قلت ‪ :‬قد خربت تلك القصور وطوي من البسطة بساط السرور )‪.‬‬
‫‪165‬‬
‫هللا عليه وسلم )‬
‫‪164‬‬
‫خروبة ( العشرة )‬
‫‪ .‬وبطور زيتا شجرة خروب عندها مسجد لطيف تحت مغارة مأنوسة مقصودة بالزيارة تسمى‬
‫‪165‬‬
‫‪ .‬وفي جبل طور زيتا كنيسة تسمى بالجسمانية خارج باب األسباط ‪ .‬وبها قبر مريم عليها‬
‫السالم مقصودة بالزيارة من المسلمين والن صارى ‪ .‬وقد دخلها عمر بن الخطاب فصلى بها ركعتين ثم ندم لقوله‬
‫صلى هللا عليه وسلم ‪ :‬هذا واد من أودية جهنم ‪ .‬ثم قال عمر ‪ :‬ما كان أغنى عمر أن يصلي في أودية جهنم ‪ .‬وعن‬
‫كعب األحبار ‪ :‬ال تأتوا كنيسة مريم والعمودين اللذين في كنيسة الطور‪ ،‬فإنهما طواغيت‪ ،‬ومن أتاهما حبط عمل ه ‪.‬‬
‫وبالقرب من قبر مريم قبة من [ ‪ . 29‬ب ] بناء الروم يسمونها طرطور فرعون ‪ .‬وبالقرب منه بذيل الجبل‬
‫أيضا ً قبة أخرى من الصحن يقال لها كوفية زوجة فرعون ‪ .‬وقد قيل إن األول قبر زكريا والثاني قبى يحيي‬
‫عليهما السالم ‪ .‬ويعضد هذا القول قول بعض العلماء إن زكرياء ويحيي مدفو نان ببيت المقدس بذيل جبل الطور‬
‫بمقابر األنبياء ‪ .‬وقيل إن قبرهما بقرية سبسطة من أرض نابلس وقيل بجامع دمشق ‪.‬‬
‫وبجانب الطور من جهة الغرب بقيع يقال له الساهرة ‪ .‬وفي حديث ابن عمران أرض المحشر تسمى‬
‫الطاهرة وهي ظاهر المدينة ‪ .‬من جهة الشمال فيها مقبرة يدفن فيها المسلم ون وفيها جماعة من الصالحين‬
‫والمقبرة مرتفعة على جبل عال ‪ .‬وبسفل هذا الجبل كهف من العجائب وهو زاوية داخل تحت الجبل في صخرة‬
‫عظيمة تسمى باألدهمية وتسمى مغارة الكتان ‪ .‬مقبرة الساهرة علو هذا الكهف بحيث لو ثقب أسفلها لظهرت‬
‫الموتى فليغزو‪ ،‬يقال ‪ :‬أحياء تحت أموات ‪ .‬وبال زاوية قبور جماعة من الصالحين وعليها األنس والوقار ‪ .‬ومقابل‬
‫الساهرة من جهة القبلة تحت سور المدينة الشمالي مغارة كبيرة مستطيلة تسمى مغارة الكتان أيضا ً يقال إنها‬
‫تصل تحت الصخرة‪ ،‬ودخلها جماعة وحكوا عنها أمور ا ً مه ّو لة ‪ .‬وبكنيسة صهيون بظاهر بيت المقدس قبر داوود‬
‫عل يه السالم‪ ،‬وهو مكان مأنوس مقصود للزيارة‪ ،‬ويقال أن قبر سليمان عليه السالم عنده ‪ .‬وقيل إن قبر سليمان‬
‫تحت البالطة السمراء التي بداخل باب الصخرة الشمالي ‪.‬‬
‫وأما ما بظاهر المدينة من المقابر لدفن المسلمين فأولها مقبرة باب الرحمة بجوار سور المسجد الشرقي‬
‫فوق وادي جه نم‪ ،‬وهي مأنوسة وأقرب الترب إلى المدينة ‪ .‬ومقبرة الساهرة وتقدم ذكرها ‪ .‬ومقبرة الشهداء‬
‫بالقرب من مقبرة [ ‪ . 11‬أ ] الساهرة إلى جهة الشرق ‪ .‬ومقبرة مامال وهي بظاهر القدس من جهة الغرب وهي أكبر‬
‫مقابر البلد وفيها خلق من األعيان والعلماء والصلحاء والشهداء‪ ،‬يأتي ذكر بعضهم في الباب السابع‪ ،‬وأصلها‬
‫مأمن هللا وقيل باب هللا وقيل زيتونة الملة ‪ .‬وعن الحسن قال ‪ :‬من دفن في بيت المقدس في زيتونة الملة فكإنما دفن‬
‫في سماء الدنيا ‪ .‬وبوسط هذه المقبرة زاوية تسمى القندرية‪ ،‬بها بنية عظيمة وأصلها كنيسة تعرف بالدير األحمر ‪.‬‬
‫وبالمقبرة المذكورة قبة محكمة البناء تسمى الكبكية نسبة إلى األمير عالئ الدين الكبكي المدفون في ( سنة‬
‫‪) 688‬‬
‫‪166‬‬
‫‪.‬‬
‫وبظاهر بيت المقدس عدة أماكن ومشاهد مقصودة بالزيارة يطول ذكرها ‪ .‬فقد روى كعب األحبار أنه قال ‪:‬‬
‫في بيت المقدس من قبور األنبياء ألف قبر ‪ .‬قال صاحب مثير الغرام يعني هي وما حولها ‪ .‬فإن ثم قبور ومعالم‬
‫يرى أثرها وال تعلم وكثير منها ‪ .‬قد درس وعفا الستبالء اإلفرنج على البالد مدة طويلة وفيما ذكر كفاية وحسبنا‬
‫هللا ونعم الوكيل ‪.‬‬
‫‪164‬‬
‫‪165‬‬
‫‪166‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬العزة )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬سنة ‪ 222‬ثمانية وثمانين وستمئة )‪.‬‬
‫‪166‬‬
‫الباب الخامس ‪ :‬في مدينة الخليل ومسجده وذكر الخليل وفضل زيارة مشهده ‪.‬‬
‫أما المدينة فاسمها حبرون وهي تجاه بيت الم قدس من جهة القبلة ومنظرها في غاية الحسن والنورانية‬
‫وهي مسدتيرة حول المسجد من الجهات األربع وبناؤها حادث بعد السور السليماني بزمن طويل ‪ .‬فإنه أول من‬
‫بناء حولها رجل من بني أسرائيل أدرك المسيح عيسى عليه السالم اسمه يوسف الراي‪ ،‬ثم تتابع البناء قلي ال ً‬
‫قلي ال ً ‪ ،‬فص ار مدينة ‪.‬‬
‫المسجد وسطها وصورة المسجد تشتمل على بناء مقصود من داخل السور على نحو النصف من جهة القبلة‬
‫إلى جهة الشمال‪ ،‬وهو ثالثة أكوار األوسط منها مرتفع عن األخرين ‪ .‬والسقف مرتفع على أربعة سواري محكمة‬
‫البناء ‪ .‬وبالصدر تحت الكور األعلى المحراب وبجانبه المنبر‪ ،‬وي قابل [ ‪ . 11‬ب ] ذلك سدرة المؤذنين على عمد‬
‫من رخام في غاية الحسن والرخام مستدير على حيطان المسجد من الجهات األربع ‪.‬‬
‫والقبور الشريفة بداخل السور منها تحت البناء المذكور في المغارة التي اشتراها إبراهيم الخليل عليه‬
‫السالم من عفرون الملك‪ ،‬وذلك لما ماتت سارة طلب إب راهيم من عفرون أن يبيعه موضعا ً يقبر فيه مَ ن مات من‬
‫أهله ‪ .‬فقال له ‪ :‬قد أبحت لك حيث شئت من أرضي ‪ .‬قال ‪ :‬إني ال أحب إال بالثمن ‪ .‬وطلب منه المغارة ألنه لما أراد‬
‫إبراهيم أن يذبح العجل أنفلت منه حتى دخل مغارة حبرون‪ ،‬فنودى ‪ :‬يا إبراهيم‪ ،‬سلم على عظام أبيك آدم ‪ .‬فوقع‬
‫ذلك في نفسه ثم ذبح العجل وق ّر به إلى الضيوف‪ ،‬وكان من شأنه ما قصد هللا في كتابه ‪ .‬ولما أبى إبراهيم أن ال‬
‫يأخذها إال بالثمن قال له عفرون ‪ :‬أبيعكها بأربعمئة درهم‪ ،‬كل درهم وزن خمس درهم وكل درهم ضرب ملك ‪.‬‬
‫وأراد بذلك التشديد عليه ‪ .‬فأتاه جبريل بها ودفعها إلى عفرون ‪ ( .‬فقا ل )‬
‫‪167‬‬
‫‪ :‬من أين لك هذه الدراهم؟ فقال ‪ :‬من‬
‫عند خالقي ورازقي ‪ .‬فأخذها منه ‪.‬‬
‫وأول من دفن بها سارة عليها السالم‪ ،‬ثم توفي إبراهيم عليه السالم ف د ُفن بحذائها ‪ .‬ثم توفيت ربقة زوجة‬
‫إسحاق فدفنت فيها‪ ،‬ثم توفي إسحاق عليه السالم فدفن بحيال زوجته ‪ .‬ثم توفي يعقوب عليه السالم فد فن عند باب‬
‫المغارة‪ ،‬ثم توفيت ليقا زوجته فدفنت بحذائه ‪ .‬واجتمع أوالد يعقوب والعيص وأخوته وقالوا ‪ :‬ن َ دِ ع ُ باب المغارة‬
‫مفتوح ا ً وكل ماتنا دفناه فيها ‪ .‬فتشاجروا فرفع أحد أخوة العيص وقيل أحد أوالد يعقوب يده ولطم العيص لطمة‬
‫سقط رأسه في المغارة‪ ،‬فحملوا جثته ودفن بغير رأس وبقي الرأس في المغارة وحوطوا عليها حائطا ً وعملوا‬
‫عليها عالمة القبور كل في موضعه ‪ .‬فقبر سيدنا إسحاق إلى جانب [ ‪ . 11‬أ ] السارية التي عند المنبر‪ ،‬ويقابله‬
‫زوجته ربقة إلى جانب السارية الشرقية ‪.‬‬
‫وله ثالثة أبواب تنتهي إلى ( صحن المسجد ‪ .‬أحدها وهو األوسط ينتهي إلى الحضرة الشريفة الخليلية )‬
‫‪168‬‬
‫وهي مكان معقود والرخام مستدير على حيطانه األربع به ‪ .‬إلى جهة الغرب الحجرة الشريفة ويقابله من جهة‬
‫الشرق قبر زوجته سارة ‪ .‬والباب الثاني من جهة الشرق عند باب السور السليماني خلف قبر سارة ‪ .‬والباب‬
‫الثالث من جهة الغرب خلف قبر إبراهيم عل يه السالم ‪.‬‬
‫وبآخر الساحة التي بداخل المسجد التي بداخل السور السليماني من جهة الشمال ضريح سيدنا يعقوب‬
‫عليه السالم ‪ .‬ويقابله من جهة الشرق قبر زوجته ليقا ‪ .‬وقد حدث محمد بن الخطيب بمسجد إبراهيم عليه السالم‬
‫قال ‪ :‬قال محمد بن إسحاق النحوي ‪ :‬نقلت النقش المقابل بقبر ر بقة زوجة إسحاق عليه السالم بحضور القاضي بن‬
‫‪167‬‬
‫‪168‬‬
‫ب ‪ ( :‬فقال له )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬الصخرة الشريفة الخليلية )‪.‬‬
‫‪167‬‬
‫عمر وعثمان بن شاذان النحوي وعرب ألنه كان بلسان اليوناني القديم ‪ .‬فإذ هو ‪ :‬باسم إلهي واله العرش القاهر‬
‫الشديد البطش ‪ .‬العلم الذي بحذاء هذا قبر ربقة زوجة إسحاق‪ ،‬والذي وزانه قبر إسحاق‪ ،‬والعلم األعظم الذي‬
‫يوازيه قبر إبرا هيم الخليل صلى هللا عليه وسلم‪ ،‬والعلم الذي بحذائه من الشرق ( قير )‬
‫‪169‬‬
‫زوجته سارة‪ ،‬والعلم‬
‫األقصى الموازي لقبر إبراهيم الخليل قبر يعقوب‪ ،‬والعلم الذي يليه من الشرق قبر ليقا زوجة يعقوب‪ ،‬صلوات‬
‫هللا وسالمه عليهم ‪ .‬وكتبه العيص بخطه ‪.‬‬
‫وقال الحافظ ابن عساكر ‪ :‬قرأت في بعض كتب أصحاب الحديث ونقلت منها ‪ .‬قال ‪ :‬محمد بن أبي بكر بن‬
‫محمد الخطيب خطيب مسجد إبراهيم عليه السالم وكان قاضي ا ً بالرملة في أيام الراضي باهلل في سنة نيف‬
‫وعشرين وثالثمئة وما بعدها وله رواية في الحديث وسمع من جماعة وحدث عنه جماعة من أهل العلم‪ ،‬قال ‪:‬‬
‫سمعت محمد بن أ حمد بن علي بن جعفر األنباري [ ‪ . 11‬ب ] يقول ‪ :‬سمعت أبا بكر األسكافي يقول ‪ :‬صح عندي أن‬
‫قبر إبراهيم ( عليه السالم )‬
‫‪170‬‬
‫في الموضع الذي هو اآلن فيه ‪ .‬لما رأيت وعاينت وذلك إني وقفت على السدنة‬
‫وعلى الموضع وقوف ا ً كثيرة بنحو من أربعة آالف دينار رجاء ثواب هللا عز وجل‪ ،‬وطلبت أن أعلم صحة ذلك‬
‫حتى ملكت قلوبهم بما كنت أعمل معهم من الجميل والكرامة والمالطفة واإلحسان إليهم‪ ،‬وطلبت بذلك أن أصل‬
‫إلى ما ص ّ‬
‫ح وحاك في صدري ‪ .‬فقلت لهم يوما ً من األيام وقد جمعتهم عندي بأجمعهم ‪ :‬أما لكم إن توصلوني إلى‬
‫باب المغارة كي أنزل إلى األنبياء صلوات هللا و سالمه عليهم ‪ .‬قالوا ‪ :‬قد أجبناك إلى ذلك ألن لك علينا حقا ً واجبا ً ‪،‬‬
‫ولكن ما يمكن في هذا الوقت ألن الطارق لنا كثير فاصبر حتى يدخل الشتاء ‪ .‬فلما دخل كانون الثاني خرجت‬
‫اليهم ‪ .‬فقالوا ‪ :‬أقم عندنا حتى يقع الثلج ‪ .‬فأقام عندهم حتى وقع الثلج وانقطع الطارق عنهم ‪ .‬فجاؤوا إلى موضع ما‬
‫بين قبر إبراهيم الخليل ( وإسحاق )‬
‫‪171‬‬
‫عليهما السالم ‪ .‬فقلعوا البالطة التي هناك‪ ،‬ونزل رجل منهم يقال له‬
‫ص علوك وكان رج ال ً صالح ا ً فيه خير ودين‪ ،‬ونزلت معه ومشي وأنا من ورآئه‪ ،‬فنزلنا في اثنين وسبعين درجة ‪.‬‬
‫ُ‬
‫فإذا عن يميني د كّ ان عظيم من حجر أسود‪ ،‬وإذا عليه شيخ خ فيف العارضين طويل اللحية ملقى على ظهره وعليه‬
‫ثوب أخضر ‪ .‬فقال لي صعلوك ‪ :‬هذا إسحاق عليه السالم ‪ .‬ثم سرنا غير بعيد‪ ،‬فإذا د كّ ان أكبر من األول وعليه شيخ‬
‫ملقى على ظهره له شيبة ‪ .‬قد أخذت ما بين منكبيه أبيض الرأس واللحية والحاجبين واشفار العينين‪ ،‬وتحت شيبته‬
‫ثوب أخضر قد ج ل ّ ل بدنه والرياح ‪ ( . 1 7 2‬يقال إن بها أربعون شهيد ا ً وهو موضع مأنوس يقصد للزيارة ) ‪. 173‬‬
‫وأما أعين الماء‪ ،‬فعين الطواشي على باب [ ‪ . 12‬أ ] مسجد الشمالي وهو أحسن المياه‪ ،‬وعين المسجد عند‬
‫باب الطبلخانة‪ ،‬وعين سارة بظاهر البلد بين الكروم‪ ،‬وعين السمعية‪ ،‬وعين الحمام ومنبعه ا من وادي التفاح‪،‬‬
‫وعين جرى عند المقبرة السفلي ‪.‬‬
‫وبظاهر البلد مقابر المسلمين‪ ،‬فالمقبرة السفلي غربي البلد‪ ،‬ومقبرة تربة الرأس جهة الشرق‪ ،‬ومقبرة‬
‫البقيع بحارة الشيخ علي البكاء‪ ،‬بها زاوية المدفون بها‪ ،‬كان مشهور ا ً بالصالح والعبادة وإطعام من يجتاز به من‬
‫المارة وال زوار وله مكاشفات عجيبة ‪.‬‬
‫وأما الكروم‪ ،‬فهي بظاهر البلد محيطة بها من كل جانب ‪ .‬وفيها أنواع الفواكه‪ ،‬ومعظمها العنب على صفة‬
‫كروم بيت المقدس ‪ .‬في غالبها قصور مبنية محكمة وأهلها يقيمون بها في زمن الصيف مدة أشهر ‪ .‬وهي من‬
‫‪169‬‬
‫‪170‬‬
‫‪171‬‬
‫‪172‬‬
‫‪173‬‬
‫ب ‪ ( :‬وقيل )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬صلى هللا عليه وسلم )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬وقبر أسحاق )‪.‬‬
‫مضا ف ة في ب بعد هنا ‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫‪168‬‬
‫إقطاع تميم الداري الذي أقطعه له النبي صلى هللا عليه وسلم حين قدم تميم وإخوته على النبي صلى هللا عليه‬
‫وسلم سنة ‪ 9‬وأسلموا وسألوه أن يقطعهم أرضا ً من الشام‪ ،‬فأقطعهم حبرون وما حولها وكتب لهم ذلك في قطعة‬
‫أديم من حق أمير المؤمنين علي بن أبي طالب رضي هللا تعالى عنه ( وصورته )‬
‫‪174‬‬
‫‪ :‬باسم هللا الرحمن الرحيم‪،‬‬
‫هذا ما أنطى محمد رسول هللا لتميم الداري وإخوته حبرون والمرطوم وبيت عينون وبيت إبراهيم وما فيهن نطية‬
‫ب ّ‬
‫ت يد منهم‪ ،‬ونقيت وس ل ّ مت ذلك لهم وألعقابهم ‪ .‬فمن آذاهم آذاه هللا‪ ،‬فمن آذاهم عليه لعنه هللا ‪ .‬شهد بذلك عتيق بن‬
‫أبي قحافة وعمر بن الخطاب وعثمان بن عفان وكتب علي بن أ بي طالب رضي هللا عنه وشهد ‪ . 12 [ .‬ب ] وهذا‬
‫اإلقطاع مستم ّر بيد ذرية تميم يأكلونه إلى يومنا هذا‪ ،‬وهم مقيمون ببلد سيدنا الخليل عليه السالم‪ ،‬وهم طائفة‬
‫كثيرة يقال لهم الدارية‪ ،‬وهذا ببركة النبي صلى هللا عليه وسلم وقد كان تميم أمير ا ً على بيت المقدس ‪.‬‬
‫وأما ذكر الخليل وفضل زيارة مشهده‪ ،‬اعلم أن هللا جل جالله بفضله ومنه ق د ّ م كرم بني آدم على سائر‬
‫الخلق ‪ .‬فقال جل ثناؤه ‪ { :‬ولقد كرمنا بني آدم }‬
‫‪175‬‬
‫‪ .‬ثم قسمهم أقسام ا ً ورفع بعضهم فوق بعض درجات‪ ،‬ففضل‬
‫األنبياء على جمع خلقه ثم زاد بعض األنبياء تشريف ا ً بالرسالة‪ ،‬فتميزوا بها على األنبياء ثم خص باألفضلية من‬
‫المرسلين أولى العزم وجعلهم أهل الشرائع والكتب ( وجعل لهم )‬
‫عنايته الربانية ( إلى مراتب عليه ‪ .‬أولها )‬
‫‪177‬‬
‫‪176‬‬
‫بهذه المزية أخص الخصوص ورقاهم بسابق‬
‫التكريم العام‪ ،‬والمرتبة الثانية النبوة وناهيك بها شرفا ً ‪ ،‬والمرتبة‬
‫الثالثة الرسالة‪ ،‬والمرتبة الرابعة أ ن جعلهم من أولى العزم ‪ .‬وأصحاب هذه المرتبة من المرسلين نالوا الكمال‬
‫من ربهم بسابق علم فيهم ولقبول محله لذلك ‪ .‬فجملة أصحاب الشرائع‪ ،‬وهم أولوا العزم خمسة نوح وإبراهيم‬
‫وموسى وعيسى ومحمد عليه وعليهم أفضل الصالة والتسليم ‪ .‬ثم أودع سبحانه وتعالى في كل واحد من هؤالء‬
‫خصائص أكرمه هللا تعالى بها‪ ،‬فمنهم من أكرمه بالخلة ومنهم من أكرمه بالكالم إلي غير ذلك من الكرامات‬
‫الباهرة والخصائص الظاهرة وجمع في حبيبه محمد صلى هللا عليه وسلم حقيق الجميع وسرائر أهل التبليغ‬
‫والتشريع‪ ،‬فهو الفرد الجامع البديع الرفيع ‪.‬‬
‫ثم شرف بعده السيد الج ليل أبا األنبياء إبراهيم الخليل وجعله السيد الكامل واألب الفاضل ونبه سبحانه‬
‫وتعالى في كتابه [ ‪ . 11‬أ ] المبين على فضله وشرفه في آيات متعددة ناطقة بتعظيم رسول هللا صلى هللا عليه وسلم‬
‫وتوقيره ‪ .‬فكل ما جاء من نوع ( اإلجالل والتعظيم )‬
‫‪178‬‬
‫وهو شائع في حق جميع األنبياء ‪ .‬فهو من مزايا خصوصية‬
‫سيدنا الخليل إبراهيم ‪ .‬على نبينا وعليه وعلى جميع األنبياء والمرسلين أفضل الصالة وأزكى التسليم ‪ .‬وهو من‬
‫أجلهم رتبة وأعظمهم منزلة وقريبة ‪.‬‬
‫وعلى ذكر فضله صلى هللا عليه وسلم‪ ،‬أقول ‪ :‬ن ّ‬
‫ص هللا سبحانه وتعالى في كتابه العزيز في حق رسله‬
‫واجتبائهم و اصطفائهم وعظم قدرهم وشرف محلهم ما يجل عن الوصف ‪ .‬فر ب ّما جمع فضلهم وشرفهم ور ب ّما ذكر‬
‫كل واحد منهم بخصوصية كما شرف السيد الخليل عليه السالم بقوله تعالى ‪ { :‬وأخذ هللا إبراهيم خلي ال ً }‬
‫‪179‬‬
‫إلى‬
‫غير ذلك مما أنزل في حقه من اآليات المخصوصة مما يزيد على ثالثين آية ‪ .‬فعلى هذا التقرير يجب تعظيم‬
‫الجميع وتوقيرهم سيما والدهم وإمامهم صلى هللا عليه وسلم ‪ .‬فيتأكد تعظيمه ألن تعظيمه مزيد اإليمان به‪ ،‬ومزيد‬
‫اإليمان به مفتاح لمزيد اإليمان باهلل تعالى‪ ،‬ويتر ت ّ ب على من اعتقد تعظيمه به ثالث أمور منها ما هو فرض‬
‫‪174‬‬
‫‪175‬‬
‫‪176‬‬
‫‪177‬‬
‫‪178‬‬
‫‪179‬‬
‫ب‪:‬‬
‫من‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫( وك ّر م وجهه وصورته )‪.‬‬
‫القرآن ‪. 1:7:2‬‬
‫( جعلهم )‪.‬‬
‫( المرتبة األولى )‪.‬‬
‫( اإلكرام واإلجالل والتعظيم )‪.‬‬
‫من القرأن ‪. 0718:‬‬
‫‪169‬‬
‫ومنها هو ندب ومنها ما هو مستحب ‪ .‬فالفرض هو اإليمان به واعتقاد فضله وشرفه وتعظيمه وتوقيره وإنزال‬
‫قدره الشريف من القلب من المنازل وإسناءها ‪.‬‬
‫وأما الندب فهو التأ دّ ب معه غيب ة ً وحضورا ً ‪ ،‬والخضوع عند سماع اسمه ونقل حديثه والتذلل عند زيارته‬
‫وخفض الصوت بقبره واإلمساك عن كل ما ال يجوزه الشرع ألنه صلى هللا عليه وسلم شاهد ا ً له في حركاته وذلك‬
‫لوجود حياته في قبره ‪ .‬فإن األنبياء أحيا في قبورهم وال ينكر حياة األنبياء إال الجاهل يخاف عليه سوء الخاتمة‬
‫والعياذ ( باهلل )‬
‫‪180‬‬
‫‪.‬‬
‫[ ‪ . 11‬ب ] وأما االستحباب فيستحب لمن هو شاهد حضرته الشريفة أن يقصد كل يوم ( مرة )‬
‫‪181‬‬
‫زيارته‬
‫و التمثيل بحضرته والتشفع به معتقد ا ً من فضائل هذا النبي الكريم واألب الرحيم ما جعله هللا تعالى له وجعله‬
‫خاصا ً به عاما ً بغيره‪ ،‬وهو النبوة والرسالة والملة والهدائة والقبلة والدعوة واإلمامة واإلنابة واألبوة والخلة‬
‫والفتوة والصالح والرافة والحلم والعلم والرشد وال وفاء والصفاء والحياء والسخاء واالجتباء واالصطفاء‬
‫( وصفاء القلب )‬
‫‪182‬‬
‫وكرم الخلق واستقامة الدين والرضاء والتسليم والتتميم للكلمات والخبلة واستناده البيت‬
‫المعمور وارتقائه إلى السموات السبع ( والذرية الكرام البررة )‬
‫‪183‬‬
‫وابتناء البيت الحرام والصحف والكبش في‬
‫الجنة والثن اء للعطر في األولين ولسان صدق في اآلخرين والسماط والسرداب والقنديل والشيبة النيرة إلى غير‬
‫ذلك من فضائله التي أكرمه هللا بها وجعلها إكرام ا ً وإرشاد ا ً لغيره وشرائع وأدابا ً لمن بعده ‪ .‬فكان أول من‬
‫أظهرها وس ن ّ ها‪ ،‬ونفع هللا تعالى بها بركة إرشاده ‪ .‬فله في ذلك فضيلتا ن‪ ،‬فضيلة التلبس بهن والعمل وثواب إرشاد‬
‫الخلق إلى سلوك منهاجها القويم ‪.‬‬
‫اعلم أن هللا سبحانه وتعالى أكرم ( خليله )‬
‫‪184‬‬
‫صلى هللا عليه وسلم بكرامات معجزات داالت على جاللة قدره‬
‫وعظيم فضله وعلو رتبته ‪ .‬منها أنه زعزع نمرود عن قصره وهو في صلب أبيه‪ ،‬ومنها أنه نكس األصنام وهو‬
‫في بطن أ مّ ه‪ ،‬ومنها طلوع نجم سعده قبل مولده‪ ،‬ومنها خفة مولده‪ ،‬ومنها سهولة وضعه‪ ،‬ومنها شربه لبن ا ً‬
‫وعس ال ً من أصابعه‪ ،‬ومنها خضوع الوخش والسباع عند رؤيته‪ ،‬ومنها إقرار البقرة للمحارث [ ‪ . 11‬أ ] برسالته‬
‫( قبل مولده )‬
‫‪185‬‬
‫‪ ،‬ومنها إقرار الوحش بنبوته‪ ،‬ومنها إشارة الحجل ببعثته‪ ،‬ومنها شهادة المرضع بصحة حجته‪،‬‬
‫ومنها قلب األعيان من الرمل بالبر الخالص بهمته‪ ،‬ومنها إسماع صوت ندائه بحج البيت الحرام لمن شاء هللا من‬
‫خليقته وهو في عالم األرواح تحت علم هللا ومشيئته‪ ،‬ومنها وفود الحجج كل عام من أقصى المشرق ومنتهى‬
‫المغرب إلى البيت الع تيق لنفود استجابة دعوته‪ ،‬ومنها ندب الصالة عليه وعلى آله على كل مصل في تحيته‪ ،‬فال‬
‫تتم صالة عب دٍ إال بعد ذكر شريف اسمه واستجالء شرف طلعته ‪ .‬فهذا من أعظم خصوصيته وأجل بركته ‪ .‬صلى‬
‫هللا عليه وعلى آله وصحبه وذريته صالة نتشرف بها في الدارين بزيارته ونحشر بها في اآل خرة إن شاء هللا‬
‫تعالى في زمرته ‪.‬‬
‫وعن أنس بن مالك رضي هللا تعالى عنه قال ‪ :‬قال رجل للنبي صلى هللا عليه وسلم ‪ :‬يا خير الناس ‪ .‬قال ‪ :‬ذاك‬
‫أبي إبراهيم عليه السالم ‪ .‬وفي لفظ مسلم ‪ :‬أن رج ال ً قال له ‪ :‬يا خير البرية ‪ .‬قال ‪ :‬ذاك أبي إبراهيم عليه السالم ‪.‬‬
‫وقد ورد في فضل زيارته آثار مما صالته صلى هللا عليه وسلم ركعتين عند قبر إبراهيم عليه السالم ليلة‬
‫‪180‬‬
‫‪181‬‬
‫‪182‬‬
‫‪183‬‬
‫‪184‬‬
‫‪185‬‬
‫ب ‪ ( :‬باهلل تعالى )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬وسالمة القلب )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬والندية الكرام البررة )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬خليقه )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫‪170‬‬
‫اإلسرى حين قال له جبريل ‪ :‬انزل فصل ركعتين فإن هاهنا قبر إبراهيم عليه السالم ‪ .‬وعنه عليه الصالة والسالم‬
‫إنه قال ‪ :‬من لم يمكنه زيارتي فليزر قبر أبي إبراهيم الخليل عليه السالم ‪.‬‬
‫وعن كعب ق ال ‪ :‬من زار بيت المقدس وقصد قبر إبراهيم عليه السالم للصالة فصلى فيه خمس صلوات ثم‬
‫سأل هللا عز وجل شيئ ا ً أعطاه إياه وغفر ذنوبه كلها ‪.‬‬
‫وعنه من جملة أثر ‪ :‬فمن حيل بينه وبين الزيارة إلى قبر رسول هللا صلى هللا عليه وسلم لفيجعل رحلته‬
‫وإتياته إلى قبر إبراهيم عليه وا لسالم وليظهر الصالة [ ‪ . 11‬ب ] عليه وليكثر الدعاء عنده فإنه مستجاب ولن‬
‫يتوسل به أحد إلى هللا جل ثناؤه إال لم يبرح حتى يرى اإلجابة عاج ال ً ‪.‬‬
‫قال صاحب أنس الجليل ‪ :‬قلت ‪ :‬وهذا مما ال شك فيه‪ ،‬فإني ج ّر بته بأمر وقع لي من أمور الدنيا ‪ .‬فكنت أتوقع‬
‫الهالك منه فتوجهت من بي ت المقدس إلى بلد سيدنا الخليل عليه السالم في ضرورة اقتضت سفري ‪ .‬فلما دخلت‬
‫مسجده صلى هللا عليه وسلم دخلت إلى الضريح المشهور أنه قبر إبراهيم‪ ،‬وتعلقت بأستاره ودعوت هللا تعالى ‪ .‬فما‬
‫كان بأسرع من أن ف ّر ج هللا عني كربتي ولطف بي وأزال عني كلما أزعجني فله الفضل سبحا نه ‪.‬‬
‫فينبغي لمن قصد زيارة سيدنا إبراهيم الخليل عليه السالم أن يطهر قلبه ( من اإلقالع )‬
‫‪186‬‬
‫من الذنوب‬
‫ويطهر قالبه بالغسل والوضوء ثم ينوي زيارته ويتوجه نحوه بعزم ورغبة ويكثر في طريقه من الصالة على‬
‫النبي صلى هللا عليه وسلم وعلى سائر النبيين والمرسلين ‪ .‬فإذا أتى الم سجد وقف يسير ا ً ثم يقدم رجله اليميني‬
‫ويدعو بما أح ّ‬
‫ب ‪ .‬فإذا دخل المسجد فليقل ‪ :‬بسم هللا الرحمن الرحيم‪ ،‬اللهم‪ ،‬صل على محمد وافتح لي أبواب‬
‫رحمتك ‪ .‬ثم يصلي ركعتين تحية المسجد ‪ .‬ثم يقصد قبر الخليل عليه السالم فيقف على باب حجرته مطرفا ً رأسه ‪.‬‬
‫ثم يستغفر هللا ويصلي على النبي ( محمد )‬
‫‪187‬‬
‫صلى هللا عليه وسلم ‪ .‬ثم يقول ‪ :‬السالم عليك أيها النبي ورحمة هللا‬
‫بركاته‪ ،‬أشهد أن ال اله إال هللا وحده ال شريك له وأن محمد ا ً عبده ورسوله ‪ ( .‬وإنك عبد هللا ورسوله وخليله )‬
‫‪188‬‬
‫جزاك هللا عنا خير ا ً كما هو أهله ‪ .‬ثم يقول ‪ :‬صلواه هللا البر الحريم والمالئكة ا لمقربين والنبياء والمرسلين‬
‫والصديقين والشهداء والصالحين من أهل السموات واألرضين عليك‪ ،‬يا أبا األنبياء‪ ،‬يا خليل هللا‪ ،‬وعلى ولدك‬
‫[ ‪ . 11‬أ ] السيد الكامل الفاتح الخاتم سيد األولين واآلخرين محمد حبيب ( هللا )‬
‫‪189‬‬
‫رب العالمين‪ ،‬وعلى آلكما‬
‫وصحبكما كلما ذكركما الذاكرون وغ فل عن ذكركما الغافلون ‪ .‬وأكمل العدد سبعون مرة‪ ،‬فإن له أثر ا ً مجربا ً‬
‫وأقله ثالث مرات ويدعو بما شاء من خير الدنيا واآلخرة ‪.‬‬
‫ثم يتوجه السيدة سارة ويقول ‪ :‬السالم عليكم أهل بيت النبوة ومعدن الرسالة‪ ،‬ورحمة هللا وبركاته ‪ .‬إنما يريد‬
‫هللا ليذهب عنكم الرجس‪ ،‬أهل البيت‪ ،‬ت طهركم تطهير ا ً ‪ .‬ثم يتوجه إلى قبر السيد إسحاق عليه السالم ويقول ‪:‬‬
‫السالم عليك إيها ( النبي )‬
‫‪190‬‬
‫ورحمة هللا وبركاته‪ ،‬يا نبي هللا إني متوجه بك إلى ربك في حوائجي لتقضي ‪ .‬ويدعو‬
‫عنده ‪ .‬ثم يلتقت عن شماله ( ويدعو أو )‬
‫‪191‬‬
‫يسلم على زوجته الجليلة ربقة ويقول ‪ :‬السالم عليكم يا أهل بيت النبو ة‬
‫والرسالة ورحمة هللا وبركاته ‪ .‬ثم يمضي بأدب وسكون ويقصد السيد الجليل نبي هللا يعقوب عليه السالم ويفعل‬
‫عنده كما فعل عند أبيه إسحاق‪ ،‬وكذلك عند زوجته السيدة ليقا ‪ .‬ثم يقصد نبي هللا السيد يوسف الصديق ويفعل كما‬
‫فعل عند أبيه يعقوب عليهما السالم ‪ .‬ثم يقصد شباك الخليل إبراهيم عليه السالم التي تجاه يعقوب ويقف بالقرب‬
‫‪186‬‬
‫‪187‬‬
‫‪188‬‬
‫‪189‬‬
‫‪190‬‬
‫‪191‬‬
‫ب ‪ ( :‬باإلق الع )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬خليله )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬النبي الكريم )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫‪171‬‬
‫منه ثم يسلم ويدعو هللا بما شاء‪ ،‬فإن الدعاء هناك مستجاب ‪ .‬ثم يتوجه إلى هللا تعالى بجميع أنبيائه خصوصا ً بسيد‬
‫األولين واآلخرين‪ ،‬ثم يمسح وجهه ويمضي مسرور ا ً مقبو ال ً إن شاء هللا تعالى‪ ،‬أمين ‪.‬‬
‫وبالقرب من بلد الخليل على نحو فرسخ على جبل صغير مشرف على بحيرة زعر موضع قرايات لوط‬
‫مسجد اليقين الذي كان به إبراهيم حين هالك قوم لوط ‪ .‬فسمع صياح الديكة في السماء ‪ .‬فقال ‪ :‬أشهد أن هذا لهو‬
‫الحق اليقين ‪ .‬فسمي به‪ ،‬وبه مرقده ‪ .‬قد [ ‪ . 11‬ب ] غاص في الحجر نحو من ذراع ‪ .‬وبظاهر المسجد مغارة‪ ،‬بها‬
‫قبر فاطمة بنت الحسين بن علي بن أبي طالب رضي هللا عنهم ‪ .‬وبقرية كفر بريك عن مسجد الخليل نحو فرسخ‬
‫قبر لوط عليه السالم ‪ .‬قلت ‪ :‬اآلن تسمى قرية بني نعيم ‪ .‬ونقل أن في المغارة الغربية تحت حائط المسجد الغربي‬
‫ستين نبي ا ً منهم عشرون رسو ال ً ‪ .‬وبقرية سعير بالقرب من بلد الخليل قبر العيص عليه السالم بداخل مسجدها‪،‬‬
‫وبه مرقد إبراهيم‪ ،‬قد غاص في الصخرة نحو ذراع ‪ .‬وبقرية جلجوال على مسافة قربية من بلد الخليل عليه السالم‬
‫على طريق القدس قبر يونس عليه السالم بمسجد عليه ‪ .‬وبالقرب منه بقرية بيت أ مّ ر قبر متى وكان رج ال ً صالحا ً‬
‫من أ هل بيت النبوة ‪.‬‬
‫الباب السادس ‪ :‬في بعض ما حول ب يت المقدس من القرى التي بها المآ ثر الرفيعة ‪.‬‬
‫الذري منها بلد الخليل عليه السالم وتقدم الكالم عليها ‪.‬‬
‫بالقرب من القدس بنحو ربع بريد قرية بيت لحم‪ ،‬حيث ولد عيسى كما في حديث اإلسرى‪ ،‬وغالب سكانها‬
‫نصارى ‪ .‬وبها كنيسة محكمة البناء ‪ .‬بها ثالث محاريب‪ ،‬أحدها مرتفع إلى جهة القبلة الشريفة‪ ،‬والثاني إلى جهة‬
‫الشرق‪ ،‬والثالث إلى جهة الصخرة الشريفة ‪ .‬وسقفها خشب مرتفع على خمسين عمود ا ً من الرخام األصفر‬
‫الصلب‪ ،‬غير السواري المبنية باألحجار ‪ .‬وأرضها مفروشة بالرخام ‪ .‬وعلى ظهر سقفها رصاص في غاية اإلحكام‬
‫وهي من بناء هيالنة ‪ .‬وفيها مكان مولد عيسى عليه السالم في مغارة في غاية اإلحكام بين المحاريب الثالث ‪.‬‬
‫وبجانب الطريق بين بيت لحم وبيت جاال قبر راحيل أم يوسف عليه السالم في قبة موجهة إلى الصخرة‪،‬‬
‫وهو مشهور يزار ‪ .‬وبقرية رامة شرقي بيت المقدس نحو ربع بريد قبر النبي شمويل عليه السالم ‪ .‬وبقرية‬
‫العاذرية قبر [ ‪ . 16‬أ ] السيد عاذر ولعله العذار بن هارون عليهما السالم وهو ظاهر في مشهد يقصد بالزيارة‪،‬‬
‫ويقال إنه عاذر الذي أحياه المسيح ‪.‬‬
‫وأما األول فهو بقرية عورتا من أعمال نابلس ‪.‬‬
‫وبالقرب من أريحا بالغور شرقي بيت المقدس على مرحلة منه قبر سيد موسى الكليم عليه السالم بقبة‬
‫معقودة بالحجارة بداخل مسجد به منارة لطيفة ‪ .‬وقد ظهر في هذا المكان أشياء من المعجرات‪ ،‬منها أن عند‬
‫الضريح الذي بداخل القبة ال يزال يرى فيه ( أشباح )‬
‫‪192‬‬
‫الوانهم مختلفة منهم صفة الراكب ومنهم صفة الماشي‬
‫ومنهم من على كتفه رمح ومنهم البس أبيض ومنهم البس أخضر ويصافح بعضهم بعضا ً وغير ذلك وللناس في‬
‫ذلك أقوال مخنلفة ‪ .‬فيقال إنهم المالئكة ويقال إنهم الصالحون وينظرهم كل الناس وال يخفون على أحد ‪ .‬وإذا دخل‬
‫المسجد أحد من النساء عليها حيض أو خبابة أو فعل أحد حول المسجد شيئ ا ً من المعاصي يثور هؤالء في تلك‬
‫البرية حتى ال يرى الرجل من بجانبه وتقلع الخيام ‪ .‬وبه أمر غير ذلك من الخوارق الباهرات التي يشهد بها ‪ .‬إنه‬
‫‪192‬‬
‫ب ‪ ( :‬خيال أشباح )‪.‬‬
‫‪172‬‬
‫مدفون في هذا المكان صلى هللا عليه وسلم ‪.‬‬
‫ومنها قرية أبي ثور بالقرب من القدس عند باب الخلي ل وهو الشيخ الزاهد العابد المجاهد شهاب الدين‬
‫أحمد القدسي اشتهر بأبي ثور ألنه حضر فتح بيت المقدس وكان يركب ثور ا ً ويقاتل عليه في الغزاة‪ ،‬فسمي‬
‫بذلك ‪ .‬وقف عليه الملك العزيز عثمان بن صالح الدين يوسف هذه القرية ودفن بها‪ ،‬وقبره ظاهر يزاره من‬
‫كرامانه ‪ .‬كان إذا احتاج شياء من القدس كتب ورقة وعلقها في عنق ثوره ويثيره ‪ .‬فيأتي إلى القدس إلى حانوت‬
‫رجل كان يتعاطي مصالح الشيخ فيقف عنده‪ ،‬فيأخذ الورقة ويقضي جاحة الشيخ ويحملها على الثور‪ ،‬فيرجع‬
‫الثور إلى الشيخ بحاجته ‪ . 16 [ .‬ب ] وهذه من كرامات ‪.‬‬
‫وبظاهر القدس الشريف من جهة الغرب وادي الشنور على نحو ثالث بريد زاوية سيدي بدر ( الدين )‬
‫‪193‬‬
‫بن محمد الحسيني‪ ،‬كان قطب ا ً عارفا ً متمكن ا ً ‪ ،‬خضعت له أولياء زمانه وهرع إليه الخاص والعام وقصد بالزيارة‬
‫وزارته الوحوش والسباع ومرغت وجوهها عند باب ضريحها بالزاوية المذكورة وترددت إلى زيارة أوالده‬
‫المدفونين بضر يح قرية شرفات بظاهر القدس الشريف ‪ .‬وقد حوى هذا الضريح منهم عدة كثيرة ال تكاد تحصى‬
‫مناقبهم نفعنا هللا بهم ‪.‬‬
‫ومنها مدينة الرملة وبينها وبين ( المقدس )‬
‫‪194‬‬
‫ثمانية عشر مي ال ً صحارى ووهاد‪ ،‬وهي في أرض سهلة‬
‫كثيرة األشجار والنخيل والفواكه ظاهرها حسن المنظر‪ ،‬قريبة من البح ر الملح من جهة يافا نحو نصف بريد ‪.‬‬
‫وبها الجامع األبيض وهو جامع متسع مأنوس في صحنه السماوي ‪ .‬مغارة تحت األرض مهيبها‪ ،‬بها قبر النبي‬
‫صالح عليه السالم ‪ .‬وبها مشهد يقصد للزيارة به قبر الفضل بن العباس بن عم رسول هللا صلى هللا عليه وسلم ‪.‬‬
‫ويقال إن بها قبر عبادة بن ال صامت ولكنه درس الستيالء اإلفرنج على تلك البالد ‪ .‬وبها قبر اإلمام المحدث إبي‬
‫سعيد المعروف برحيم أحد أصحاب اإلمام أحمد ‪ .‬وبها حوش بظاهر الجامع األبيض يلصق حائطه الشرقي يقال‬
‫إن به قبر اإلمام الحافظ النساي ‪ .‬وبحارة الياسقر قبر الشيخ أبي محمد البطاعي عليه األنس وا لهيبة‪ ،‬والدعاء‬
‫عنده مستجاب كما جرب ‪ .‬بحارة العناية قبر الشيخ محمد العدوي وله كرامات ظاهره ‪ .‬وبسوق الفاكهية بمشهد‬
‫قبر الشيخ أحمد األشموني الق ب ّي ‪.‬‬
‫وفي الرملة عدة من األولياء والعلماء والصالحين يطول ذكرهم ‪ .‬وبظاهر الرملة من جهة الغرب بالقرب‬
‫من البحر الملح مشهد يقال إنه ضريح روبيل بن يعقوب عليهما السالم وله كان يقصد للزيارة وله في كل سنة‬
‫[ ‪ . 17‬أ ] موسم يجتمع به أهل تلك النواحي وغيرها ‪ .‬وبقرية ( حرفند )‬
‫‪195‬‬
‫من أعمال الرملة قبر لقمان الحكيم‬
‫رضي هللا عنه ‪.‬‬
‫ومنها مدينة ل ّ د وفي ظاهر الرملة من جهة الشرق على مسافة قريبة‪ ،‬منها ح سنة المنظر بهجة الظاهر ‪ .‬بها‬
‫جامع مأنوس‪ ،‬وبظاهرها من جهة الشرق محل به مشهد يقال إنه قبر عبد الرحمن بن عوف رضي هللا عنه‪،‬‬
‫مشهور عند تلك الناحية بذلك ‪ .‬وبشاطي البحر الملح بساحل أرسوق تجاه يافا ضريح سيدي علي بن عليل‪ ،‬ذو‬
‫الكرامات الظاهر ينتهي نسبه إلى أمير المؤمن ين عمر بن الخطاب رضي هللا عنه ‪ .‬وأهل تلك الناحية بأمرها في‬
‫خفره وبركة سره‪ ،‬ومن مناقبه أن اإلفرنج يعتقدونه ويعترفون بصالحه ويكشفون رؤوسهم إذا أقبلوا عليه‬
‫ضريحه ‪ .‬وله في كل سنة موسم في الصيف يجتمعبه خلق كثيرة من البالد البعيدة والقريبة ‪.‬‬
‫ومنها مدينة عسقالن‪ ،‬وق د كانت من أحسن المدن وقد خربها الملك صالح الدين يوسف ألنه رأى المصلحة‬
‫‪193‬‬
‫‪194‬‬
‫‪195‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬بيت المقدس )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬صرفند )‪.‬‬
‫‪173‬‬
‫للمسلمين في ذلك ‪ .‬وبها اآلن مشهد زعم الفاطميون أن به رأس الحسين بن علي ‪ .‬وبها أماكن على شاطي البحر‬
‫تقصد للزيارة ‪.‬‬
‫ومنها مدينة غزة وهي من أحسن المدن المجاورة لبيت المقدس ‪ .‬وبها أكثر من األشج ار والنخيل وحولها‬
‫كثر من الغراس ‪ .‬وبه الصالحون وفيها ولد سليمان عليه السالم ‪ .‬وبها موضع مقصود للزيارة يعرف بمحل مولد‬
‫اإلمام الشافعي ‪ .‬ولو لم يكن بها من الفخر إال مولد سيدنا سليمان واإلمام الشافعي بها كفاها ‪ .‬وبقرية بربر أقر ب‬
‫غزة قبر الشيخ العارف ( أبو المحاسن )‬
‫‪196‬‬
‫يوسف البربراوي أحد تالمذة السيد أحمد الملقب بالكبريت األحمر ‪.‬‬
‫ومنها أريحا شرقي بيت المقدس بالقرب من نهر األردن‪ ،‬وهي مدينة الجبارين المشار إليها بقوله تعالى ‪:‬‬
‫{ ادخلوا األرض المقدس }‬
‫‪197‬‬
‫وقد فتحها يوشع بن نون عليه السالم وبها جست له الشمس حتى فتحها ‪ . 17 [ .‬ب ]‬
‫ومن عجيب االتفاق أنها في زمن بني إسرائيل سكن الجبارين وفي زمان اإلسالم مختصة بحكام الشرطة ‪.‬‬
‫ومنها مدينة نابلس‪ ،‬وهي مقابلة بيت المقدس من جهة الشمال مسافتها عنها نحو يومين سير األثقال ‪ .‬خر ج‬
‫منها كثير من العلماء واألعيان ‪ .‬وهي كثيرة األعين واألشجار والفواكه‪ ،‬ومعظم األشجار بضواحيها الزيتون ‪.‬‬
‫وقد قيل إن قبر سيدنا يوسف عليه السالم بالقرب من نابلس ‪ .‬وبمدينة نابلس مشهد يقال إنه مشهد أوالد يعقوب‬
‫عليه السالم ‪ .‬وبضواحيها مشاهد كثيرة تنسب إلى جامعة من األنبياء والصحابة ‪ .‬منها سيدنا بنيامين عليه السالم‬
‫بقرية سابية‪ ،‬والعاذر بقرية عورتا‪ ،‬وبقرية كفر حارث قبر ذي الكفل وقبر يوشع عليهما السالم ‪ .‬وقيل إن‬
‫محلهما بالقبتين القريبتين من سَ ب ْطارة‪ ،‬وقيل قبر يوشع بالمعرة ‪ .‬وبقرية حطين من أعمال صفد قبر شعيب عليه‬
‫السالم ‪ .‬وغالب قرى بيت المقدس مشحونة بقبور األنبياء إال أنها درست لقدم الزمان ‪.‬‬
‫ويقابل مدينة نابلس من جهة القبلة جبل باعالة‪ ،‬مكان مأنوس ‪ .‬به قبر ج دّ نا األعلى الشيخ غانم المقدسي‬
‫التي تنسب إليه بنيه حارة الغوانمة ببيت المقدس‬
‫‪198‬‬
‫واتصال نسبي إليه‪ ،‬مصطفى أسعد اللقيمي الدمياطي سبط‬
‫العالمة محمد العنبوسي سبط العالمة عبد الرحمن بن العالمة مفتي الديار ال مصرية في آخر القرن العاشر‬
‫المولى أبي الحسن نور الدين علي بن محمد بن محمد بن علي بن خليل بن محمد بن محمد بن إبراهيم بن موسى‬
‫ابن غانم المقدسي بن علي بن الحسن بن إبراهيم بن عبد العزيز بن سعيد بن سعد بن عبادة الخزرجي األنصاري‬
‫رضي ( هللا )‬
‫‪199‬‬
‫عنه المدفون بقرية المن يحة من أعمال دمشق كما يأتي ترجمته في الخاتمة آخر الكتاب ‪.‬‬
‫الباب السابع ‪ . 83 [ :‬أ ] في من دخل بيت المقدس من األنبياء والصحابة واألعيان ومن تو ف ّ ي ودفن فيها‬
‫من أهل العرفان ‪.‬‬
‫فأما األنبياء فأولهم آدم عليه السالم ‪ .‬فعن ابن عباس قال ‪ :‬لما أهبط آدم إلى األرض كان رأ سه إلى السماء ‪.‬‬
‫قيل ‪ :‬وأهبط إلى الهند فخر ساجد ا ً على صخرة بيت المقدس وإن قبره بمغار بين بيت المقدس ومسجد إبراهيم‪،‬‬
‫رجاله عند الصخرة ورأسه عند مسجد إبراهيم عليهما السالم‪ ،‬وبينهما عشرون مي ال ً ‪.‬‬
‫‪196‬‬
‫‪197‬‬
‫‪198‬‬
‫‪199‬‬
‫ب ‪ ( :‬أبو الحسن )‪.‬‬
‫من القرآن ‪. :781‬‬
‫مضا ف ة في ب ‪ ( :‬كما تقدم )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬هللا تعالى )‪.‬‬
‫‪174‬‬
‫نوح عليه السالم‪ ،‬قيل إن السفيبة بالبيت الحرام أسبوعا ً ثم طافت ببيت المقدس أسبوعا ً ثم استوت على‬
‫الجودي ‪.‬‬
‫إبراهيم خليل الرحمن عليه السالم‪ ،‬قال أهل التاريخ ‪ :‬لما قدم إبراهيم عليه السالم من مصر نزل بين‬
‫الرملة وإيلياء وقيل ‪ :‬كان بفلسطين ‪ .‬ولم يمت إبراهيم عليه السالم حتى بعث إسحاق إلى أرض الشام ويعقوب إلى‬
‫أرض كنعان وإسماعيل إلى جرهم ولوط إلى سدوم‪ ،‬فكانوا أنبياء على عهد إبراهيم عليه السالم ‪ .‬وذهب كعب‬
‫وغيره إلى أن قصة الذبيح كانت بالشام على صخرة بيت المقدس ‪.‬‬
‫يعقوب عليه السالم‪ ،‬وهو إسرائيل هللا ‪ .‬وعن ابن عباس ‪ :‬األنبياء كلهم من بني إسرائيل إال عشرة ‪ :‬نوح‬
‫وهود وصالح ولوط وشعيب وإبراهيم وإسماعيل وإسحاق ويعقوب ومحمد صلوات هللا وسالمه عليهم أجمعين ‪.‬‬
‫قيل ‪ :‬هو أول من بنا بيت المقدس وأورى موضعه كما تقدم ‪.‬‬
‫قال وهب بن منبه ‪ :‬لما حضرت يعقوب الوفاة جمع ولده وولد ولده وأوصاهم وعهد إليهم وأوصى يوسف‬
‫عليه السالم أن يحمل جسده حتى بقبره مع أبويه إبراهيم و إسحاق في األرض المقدسة ‪ .‬فحمله يوسف على عجلة‬
‫من أرض مصر حتى أورده األرض المقدسة ووضعه في موضعه الذي أمره به‪ ،‬ثم رجع إلى أرض مصر ‪ .‬وقال ‪:‬‬
‫وهللا إنه مات هو وأخوه عيص في يوم [ ‪ . 18‬ب ] واحد‪ ،‬وكان عمر يعقوب وعيص مئة سنة وسبع وأربعين سنة ‪.‬‬
‫يوسف الصديق عليه السالم‪ ،‬ع ن قتادة في قوله تعالى ‪ { :‬وألقوه في غيابة الجب }‬
‫‪200‬‬
‫‪ ،‬بئر في بيت المقدس‬
‫في بعض نواحيها ‪.‬‬
‫موسى بن عمران عليهما السالم‪ ،‬من ذرية يعقوب عليه السالم‪ ،‬كانت الصخرة قبلته ‪ .‬وروى الزهري أنه‬
‫لم يبعث هللا نبي ا ً منذ أهبط عليه السالم إلى األرض إال جعله قبلته صخرة بيت المقدس ‪ ،‬وم ّر به النبي صلى هللا‬
‫عليه وسلم وهو في قبره يصلي على الكثيب األحمر ‪.‬‬
‫وفي لفظ الصحيحين أن موسى عليه السالم سأل هللا عز وجل أن يدنيه من األرض المقدسة رمية بحجر‪،‬‬
‫وإنما سأل موسى ذلك تبرك ا ً بالكون في تلك البقعة وليدفن مع من فيها من األنبياء واألولياء ‪ .‬وعاش م وسى مئة‬
‫وعشرين سنة أو سبع سنة ‪.‬‬
‫يوشع بن نون عليه السالم‪ ،‬عن أبي هريرة موفوعا ً‪ :‬لم تحبس الشمس على بشر إال ليوشع ليالي سار إلى‬
‫بيت المقدس ‪.‬‬
‫داوود عليه السالم‪ ،‬كان ببيت المقدس وكان فيها دار ملكه ‪ .‬وقد تقدم أنه شرع في بنائه ولم يتمه ‪ .‬وكان له‬
‫فيه من األعمال ال صالحة والمواعظ النافعة عند قرأة الزبور ما هو في الكتب المطوالت مسطور ‪ .‬وقبره في‬
‫كنيسة صهيون ‪.‬‬
‫وعن أبي الدرداء مرفوعا ً قال ‪ :‬قال داوود عليه السالم ‪ :‬ر ّ‬
‫ب ‪ ،‬أسألك حبك وحب من يحبك والعمل الذي‬
‫‪200‬‬
‫من القرآن ‪. 18712‬‬
‫‪175‬‬
‫يبلغني حبك ‪ .‬ر ّ‬
‫ي من نفسي ومن أهلي ومن مالي ومن الماء ا لبارد ‪.‬‬
‫ب ‪ ،‬اجعل حبك أحب إل ّ‬
‫وعن عبد هللا بن الحارث قال ‪ :‬أوحى هللا تعالى إلى داوود عليه السالم أن أذكرني وأحبني وأحب أحبابي‬
‫وحببني إلى عبادي ‪ .‬قال ‪ :‬يا ر ّ‬
‫ب ‪ ،‬كيف أحببك إلى عبادك؟ قال ‪ :‬أذكرني عندهم ‪ .‬فإنهم ال يذكرون مني إال الحسن ‪.‬‬
‫وعن ابن عباس رضي هللا عنه قال ‪ :‬أوحى هللا تعالى [ ‪ . 19‬أ ] إلى داوود عليه السالم أن قل للظلمة ال‬
‫يذكروني‪ ،‬فإن أذكر من ذكرني وإن ذكري إياهم أن ألعنهم ‪ .‬فأقول إال لعنة هللا على الظالمين ‪.‬‬
‫سليمان عليه السالم‪ ،‬تقدم أنه لما فرغ من بناء المسجد سأل هللا خال ال ً ثالثا ً ‪ .‬قيل إنه دعا على الصخور‬
‫التي في مؤخر المسجد مما يل ي باب األسباط وكان عليه السالم إذا دخل بيت المقدس وهو ملك األرض يقلب‬
‫بصرة إلى أين يجلس وكان يولى المساكين والحرض والمجذومين فيدع الناس ويجلس معهم تواضعا ً ال يرفع‬
‫رأسه إلى السماء ويقول ‪ :‬مسكيم مع المساكين ‪.‬‬
‫شعيب عليه السالم‪ ،‬وهو الذي بشر بعيسى ومحمد صلى هللا عليه وسلم ولما قتله بني إسرائيل سلط هللا‬
‫عليهم عدوهم فش ّر دهم وأفناهم ‪.‬‬
‫وأقام الشام خرابا ً سبعين سنة ليس فيها غير السامرة والملك ألهل بابل ‪ .‬إرميا عليه السالم بعثه هللا إلى‬
‫بني إسرائيل‪ ،‬انقضوا التوبة فضربوه وقيدوه ‪ .‬فبعث هللا عليهم بخت ن ّ‬
‫ص ر فقتل منهم وخرق وسبى الذراري‬
‫وخرب بيت المقدس ‪ .‬وخرج إرميا إلى مصر‪ ،‬فأقام بها‪ ،‬ثم أمره هللا بالعود إلى إيلياء ‪ .‬فلما أشرف على خراب‬
‫بيت المقدس { قال أ ن ّ ي يحيي هذه هللا بعد موتها }‬
‫‪201‬‬
‫‪ ،‬فأماته هللا مئة عام ثم أحياه بعد أن عمر بيت المقدس ‪.‬‬
‫قيل إن الذي { م ّر على القرية } ‪ ،‬هو عزير ولم يكن نبيا ً وكان ممن سباهم بخت ن ّ‬
‫ص ر ‪ .‬فلما عاد عزير إلى‬
‫بيت المقدس أقام لنبي إسرائيل التوراة من حفظه بعد أن أحرقت وكان من علمائهم ‪.‬‬
‫زكريا عليه السالم‪ ،‬لما مات عمران كفل زكريا مريم وكان متزوج ا ً بخالتها وولد له يحيي عليه السالم‪،‬‬
‫وولدت مريم عيسى بعد يحيي بثالث سنين‪ ،‬وقيل ستة أشهر ‪ .‬فاتهم بنوا إسرائيل زكريا بمريم فهرب منهم ودخل‬
‫[ ‪ . 19‬ب ] في جوف شجرة ‪ .‬فوضع على الشخرة المنشار فقطع نصفين ‪ .‬فلما وضع المنشار على ظهره أن فأوحى‬
‫هللا سبحانه وتعالى إليه ‪ :‬أما أن تكف أنيتك وأما أن أقلب األرض ومن عليها ‪ .‬مسكت حتى قطع نصفين ‪.‬‬
‫يحي ي بن زكريا عليه السالم وابن خالة عيسى ‪ .‬قال هللا تعالى في حقه { مصدق ا ً بكلمة من هللا وسيد ا ً‬
‫وحصور ا ً }‬
‫‪202‬‬
‫‪ ،‬وهو أول من صدق بعيسى وهو ابن ثالث سنين والحصور من ال يأتي النساء مع القدرة ‪ .‬قيل ‪:‬‬
‫العنين ‪ .‬وعن عمرو بن العاص مورفوعا ً‪ :‬كل ابن آدم يأتي يوم القيامة وله ذنب إ ال يحيي بن زكريا ‪ .‬ثم أخذ‬
‫رسول هللا صلى هللا عليه وسلم نت األرض عود ا ً صغير ا ً فقال ‪ :‬وذلك إنه لم يكن له ما للرجل إال مثل هذا العود‬
‫ولذلك سماه سيد ا ً حصور ا ً ‪.‬‬
‫وعن عبد هللا بن عمر قال ‪ :‬دخل يحيي بن زكريا بيت المقدس وهو ابن ثمان حجج ‪ .‬نظر أهل بيت المقدس‬
‫‪201‬‬
‫‪202‬‬
‫من القرآن ‪. 878:0‬‬
‫من القرآن ‪. 5750‬‬
‫‪176‬‬
‫وقد لبسوا م دارع الشعر وبرانس الصوف ونظر إلى مجتهديهم ‪ .‬فأتى إليه أبويه فسألهما أن يدرعاه الشعر ففعال‪،‬‬
‫ثم رجع إلى بيت المقدس وكان يخدم فيها نهار ا ً ويسبح ويصلي لي ال ً حتى أتت إلى خمس وعشرين سنة ‪ .‬فذكر‬
‫سياحته وجلوسه على بحيرة األردن‪ ،‬وقد نقع عليه قدماه في الماء من العطش وك اد أن يذبحه وقال هلل تعالى ‪:‬‬
‫وعزتك ال أذوق بارد الشراب حتى أعلم أين مصيري إلى الجنة أم إلى النار ‪ .‬فبكى أبواه وسأاله أن يأكل قرصا ً‬
‫من شعير كان معهما ويشرب من ذلك الماء ‪ .‬فر قّ لهما وفعل وكفر عن يمينه ‪ .‬فذكره هللا بالب ّر ‪ ،‬فقال ‪ :‬وب ّر ا ً‬
‫بوالديه ‪ .‬فر دّ ه أبواه إلى بي ت المقدس ‪ .‬فكان إذا كان في صالته يبكي زكريا لبكائه حتى يغمي عليه‪ ،‬ويبكي أهل‬
‫المنازل ومن كان من العباد حولهما لبكائهما ‪ .‬فلم يزل كذلك حتى خرقت دموعه خديه‪ ،‬فاتخذت [ ‪ . 11‬أ ] أمه‬
‫قطعتين من لبد وألصقتهما على خديه تستنقع دموعه ‪ .‬إذا بكى في القطعتين فتقوم أمه فتعصرهما وكان يحيي إذا‬
‫نظر إلى دموعه تجري على ذراعي أمه قال ‪ :‬هذه دموعي وهذه أمي وأنا عبدك وأنت أرحم الراحمين ‪.‬‬
‫قيل إنه أفتي في امرأة أب ال تحل البن‪ ،‬فضربت رقبته لذلك وكان رأسه بعد أن انقطع يقول ‪ :‬ال تحل لها‬
‫وال تحل لك ‪.‬‬
‫وروي أنه ما بكت السماء على أحد إال على يحيي ب ن زكريا والحسين بن علي عليهما السالم وحمرتها‬
‫بكاؤها ‪ .‬وعن ابن عباس قال ‪ :‬أوحي هللا عز وجل إلى محمد صلى هللا عليه وسلم إني قتلت يحيي بن زكريا سبعين‬
‫ألفا ً وإني قاتل بابن بنتك سبعين ألف ا ً ‪.‬‬
‫عيسى عليه السالم‪ ،‬جاء في حديث المعراج أن النبي صلى هللا عليه وسلم صلى تلك الليلة حيث ولد عيسى ‪.‬‬
‫وعن مجاهد ‪ :‬قالت مريم عليها السالم ‪ :‬إذا خلوت حدثني عيسى وحدثته ‪ .‬وإذا كان عندي إنسان سمعت تسبيحه في‬
‫بطني ‪.‬‬
‫وكان عبد هللا بن عمرو بن العاص يبعث بزيت يسرج في بيت لحم حيث ولد عيسى عليه السالم ‪.‬‬
‫وقد ختن عيسى ثامن يوم والدته على سنة موسى عليه السالم وهربت به أمه إلى مصر ‪ .‬فأقام بها اثنى‬
‫عشر سنة إلى أن رحبت به إلى الشام ‪ .‬فلما بلغ ثالثين سنة جاءه الوحي ‪ .‬ورفع من جبل بيت المقدس ليلة القدر ‪.‬‬
‫وعن معروف الكرخي قال ‪ :‬اجتمع اليهود على قتل عيسى بن مريم عليه السالم فأهبط هللا جبريل في باطن‬
‫جناحه مكتوب ‪ :‬اللهم‪ ،‬إني أدعوك باسمك األحد عز وأدعوك ‪ .‬اللهم‪ ،‬باسمك األحد الصمد وأدعوك ‪ .‬اللهم‪ ،‬باسمك‬
‫العظيم الوتر وأدعوك ‪ .‬اللهم‪ ،‬باسمك الكبير المتعال ملك األكوان كلها أن تكشف ( عني )‬
‫‪203‬‬
‫ضر ما أصبحت‬
‫ي ‪ .‬وقال النبي صلى هللا عليه وسلم ألصحابه ‪ . 11 [ :‬ب ]‬
‫وأمسيت فيه ‪ .‬وأوحى هللا إلى جبريل أن أرفع عبدي إل ّ‬
‫عليكم بهذا الدعاء وال تستبطوا اإلجابة‪ ،‬فإنما عند هللا خير وأبقي للدين أمنوا وعلى ربهم يتوكلون ‪.‬‬
‫( مواعظه )‬
‫‪204‬‬
‫‪ :‬كان يقول ‪ :‬ال تمنع العلم من أهله فتندم وال تنشره عند ( غير أهله )‬
‫‪205‬‬
‫فتجهل وكن طبيبا ً‬
‫رفيع ا ً يضع دواوه حيث يعلم أنه ينفع ‪ .‬وقال من سره أن يكون موقن ا ً فال يجمعن لغده ‪ .‬فإن من جمع شيئا ً باألمل‬
‫حال دونه األجل ويحاسب بالفضل ويأكل كسرة غيره هنيا ‪ .‬وعنه ‪ :‬ال تكثروا الكالم بغير ذكر هللا‪ ،‬فتقسي قلوبكم‬
‫وإن كانت لينة ‪ .‬فإن كان القلب قاسي بعيد من هللا ولكن ال تعلمون ‪ .‬وال تنظروا في ذنوب الناس كهيبة ا ألرباب‬
‫وانظروا في ذنوب أنفسكم كهيبة العبيد‪ ،‬فإنما الناس مبتلى ومعاف ا ً فاحمدوه على العافية وارجنوا المبتلى ‪ .‬وعنه‬
‫قال ألصحابه ‪ :‬اتخذوا المساجد مساكن والبيوت منازل وكلوا من بقل البرية وأنجوا من الدنيا بسالم وكان يقول ‪:‬‬
‫‪203‬‬
‫‪204‬‬
‫‪205‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬موعظه )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬غيره )‪.‬‬
‫‪177‬‬
‫يا بني أسرائيل‪ ،‬اتخذوا مساجد هللا بيوت ا ً و اتخذوا بيوتكم منازل للضينان‪ ،‬ما لكم في المعالم من منازل إال عابري‬
‫سبيل ‪ .‬وكان يقول ألصحابه ‪ :‬لحق أقول لكم‪ ،‬حب الدنيا رأس كل حطيبة وبالنظرة ترزع الشهرة في القلب وكفى‬
‫بها خطيئة ‪.‬‬
‫الخضر عليه السالم المختار أنه نبي وأنه حي وسيأتي الكالم عليه ‪.‬‬
‫مريم الصديقة علي ها السالم‪ ،‬موضع متعبدها المحل المعروف بالمهد بمسجد بيت المقدس‪ ،‬وقبرها‬
‫بالكنيسة المعروفة بالجسمانية ‪.‬‬
‫محمد صلى هللا عليه وسلم دخله ليلة اإلسراء وصلى فيه باألنبياء ورأى فيه الحور العين كما تقدم ‪.‬‬
‫المهدي الذي يكون في آخر الزمان ‪ .‬عن ابن سعيد الخدري مرفوع ا ً قا ل ‪ :‬ينزل بأمتي آخر الزمان بالء‬
‫شديد من سلطانهم لم يسمع الناس بالء أشد منه حتى تضيق عليهم األرض الرحبة وحتى [ ‪ . 11‬أ ] ( يعلوا‬
‫األرض )‬
‫‪206‬‬
‫جور ا ً وظلم ا ً ‪ ( ،‬ثم إن هللا يبعث رج ال ً يمأل األرض قسطا ً وعد ال ً كما ملئت جور ا ً وظلما ً )‬
‫ساكن السماء ( واألرض )‬
‫‪208‬‬
‫‪207‬‬
‫‪ ،‬يرضى‬
‫ال ت دّ خر األر ض من بذرها شيئ ا ً إال أخرجته وال السماء من قطرها شيئا ً إال ص ب ّه هللا‬
‫عليهم مدرار ا ً يعيش فيهم سبع سنين أو ثمان أو تسع يتمنى األحياة األمرات بما صنع هللا بأهل األرض من الخير ‪.‬‬
‫وعن محمد بن الحنيفة قال ‪ :‬تخرج رأيات سود لبني العباس وتخرج ( من أخرى سود )‬
‫‪20 9‬‬
‫وثيابهم بي ض‪،‬‬
‫على مقدمتهم رجل يقال له شعيب بن صالح مولى بني تميم يهزمون أصحاب السفياني حتى ( ينزلون )‬
‫‪210‬‬
‫بيت‬
‫المقدس ‪ .‬يوطئ للمهدي سلطانه ويفد من الشام ويكون بين خروجه وبين أن يسلم إليه األمر ثالثة وسبعون شهر ا ً ‪.‬‬
‫وعن سليمان بن عيسى قال ‪ :‬بلغني أنه على يد المهدي يظهر تابوت ا لسكينة من بحيرة طبرية فيحمل‬
‫فيوضع بين يديه في بيت المقدس ‪ .‬فإذا نظرت إليه اليهود أسلمت إال قلي ال ً منهم ثم يموت المهدي ‪.‬‬
‫وأما الصحابة رضي هللا عنهم‪ ،‬فمنهم عمر بن الخطاب رضي هللا عنه ‪ .‬قدم الشام أربع مرات ودخل بيت‬
‫المقدس حال الصلح كما تقدم ‪.‬‬
‫أبو عبيدة بن الج راح رضي هللا عنه‪ ،‬تقدم أنه دخل بيت المقدس أمير ا ً على الجيش الذي جهزه عمر بن‬
‫الخطاب وإنه كتب إلى عمر واستدعاه للصلح فحضر وفتح بيت المقدس صلحا ً ‪ .‬مات في طاعون عمواس ودفن‬
‫بقرية عمتا تحت جبل علجون بين قفارس والعادلية ‪ .‬بزاويه دير علي من الغور الغربي ‪ .‬وقبره ظاهر مقصود‬
‫بالزيارة ‪.‬‬
‫‪206‬‬
‫‪207‬‬
‫‪208‬‬
‫‪209‬‬
‫‪210‬‬
‫ب ‪ ( :‬على األرض )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬وساكن األرض )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬من خراسان أخرى سود )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬ينزل )‪.‬‬
‫‪178‬‬
‫معاذ بن جبل رضي هللا عنه‪ ،‬تقدم في الباب األول أنه أتى بيت المقدس وأقام ثالث أيام بلياليها يصلي‬
‫ويصوم ‪ .‬استخلقه أبو عبيدة حين خضرته الوفاة ‪ .‬فمات بعده بالطاعون بناحية األردن وقبره ظاهر مقصود‬
‫بالزيارة بالقصر الذي من الغور ‪ .‬قال صاحب [ ‪ . 11‬ب ] ات حاف األخ صاء ‪ :‬وقد زرته مرارا ً وأنزلت بي أمور‬
‫مهمة وتوسلت إلى هللا تعالى به فيها‪ ،‬فرأيت أثر اإلجابة فيها ببركته وبركة صحبته ( رضي هللا عنه )‬
‫‪211‬‬
‫‪.‬‬
‫بالل بن رباح مؤذن رسول هللا صلى هللا عليه وسلم رضي هللا عنه‪ ،‬شهد فتح بيت المقدس مع عمر بن‬
‫الخطاب‪ ،‬ولم يؤذن بعد رسو ل هللا صلى هللا عليه وسلم سوى مرة واحدة لما أمره عمر باألذان بعد الفتح كما تقدم ‪.‬‬
‫توفي بدمشق وقبره عند الباب الصغير ‪.‬‬
‫عياض بن غانم بن عم أبي عبيدة رضي هللا عنه‪ ،‬دخل بيت المقدس وبنى بها خياما‬
‫ً‪2 1 2‬‬
‫‪ .‬له روايته عن‬
‫النبي صلى هللا عليه وسلم ‪.‬‬
‫خالد بن الوليد رضي هللا عنه‪ ،‬دخل بيت المقدس وشهد فتح دمشق وتوفي بحمص ( وتوفي بها )‬
‫‪213‬‬
‫وقبر ه‬
‫بها ظاهر يزار ‪.‬‬
‫أبو ذ ّر الغفاري رضي هللا عنه‪ ،‬دخل بيت المقدس وتوفي بالربذة ‪ .‬روى اإلمام أحمد في مسنده عن األحنف‬
‫بن قيس قال ‪ :‬دخلت بيت المقدس فرأيت رج ال ً يكثر الركوع والسجود‪ ،‬فوجدت في نفسي م ن ذلك شيئا ً ‪ .‬فلما‬
‫انصرف قلت ‪ :‬أتدري على شفع انصرفت أم على وتر؟ أما أنا ال أدري ‪ .‬أخبرني حبيبي أبو القاسم صلى هللا عليه‬
‫وسلم ثم بكى ما من عبد سجد هلل سجدة إال رفع هللا له بها درجة وحط عنه سيئة وكتب له بها حسنة ‪ .‬قال ‪ :‬قلت ‪:‬‬
‫ي نفسي ‪.‬‬
‫أخبرني من أنت يرجمك هللا؟ قال ‪ :‬أبو ذ ّر صاحب رسول هللا صلى هللا عليه وسلم ‪ .‬فتقاصرت إل ّ‬
‫أبو الدرداء عوير رضي هللا تعالى عنه‪ ،‬قدم بيت المقدس وتوفي بدمشق في خالفة عثمان ‪.‬‬
‫عبادة بن الصامت رضي هللا تعالى عنه‪ ،‬و ّج هه عمر إلى الشام قاضيا ً ومعلما ً ‪ .‬فأقام بحمص ثم انتقل إلى‬
‫فلسطين وهو أول من ولي قضاءها وسكن بيت المقدس‪ ،‬وتوفي بها ‪ .‬وقيل بالرملة ‪ ( .‬واآلن قبره ال يعرف [ ‪ . 12‬أ ]‬
‫الندراسه باستالء الفرنج سابق ا ً على البالد )‬
‫‪214‬‬
‫‪.‬‬
‫سليمان الفارسي رضي هللا عنه‪ ،‬دخل بيت المقدس ومات في خالفة عثمان بالمدائن ‪ .‬وما قيل إنه عاش‬
‫ثالثمئة وخمسين سنة‪ ،‬ليس بالقوى وما أراد بلغ المئة ‪.‬‬
‫أبو مسعود البدري رضي هللا عنه‪ ،‬سكن بدر ا ً ولم يشهدها ‪ .‬حكي أنه دخل بيت المقدس فتبعه نا ٌ‬
‫س ‪ .‬فقال ‪:‬‬
‫‪211‬‬
‫‪212‬‬
‫‪213‬‬
‫‪214‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬جياما )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫‪179‬‬
‫سمعت رسول هللا صلى هللا عليه وسلم يقول ‪ :‬ما من عبد يلقى هللا ال شريك به شيئ ا ً وال يتندا بدم حرام إال دخل من‬
‫أي أبواب الجنة شاء ‪.‬‬
‫تميم الداري رضي هللا عنه قدم هو وأخوه نعيم على رسول هللا صلى هللا عليه وسلم سنة تسع وأسلما‬
‫وصحباه وغزا معه‪ ،‬ولم يزل بالمدينة حتى تحول إلى الشام بعد أن قتل عثمان وكان أمير ا ً على بيت المقدس‬
‫وهو الذي أقطعه رسول هللا صلى هللا عليه وسلم أرض حبرون كما تقدم‪ ،‬وهو أول من أسرج بالمساجد كما رواه‬
‫ابن ماجة ‪ .‬توفي سنة أربعين وقبره بالقرب من قرية من قرى الشام يقال لها الكسوة ‪.‬‬
‫عمرو بن العاص رضي هللا تعالى عنه‪ ،‬دخل بيت المقدس ‪ .‬وعن أبي قيبصة بن جابر قال ‪ :‬صحبت عمر بن‬
‫الخطاب‪ ،‬فما رأيت رج ال ً أقرأ لكتاب هللا وال أنقم لدين هللا وال أحسن مداراة منه ‪ .‬وصحبت طلحة بن عبد هللا‪ ،‬فما‬
‫رأيت رج ال ً أوسع حلما ً منه ‪ .‬وصحبت عمرو بن العاص‪ ،‬فما رأيت رج ال ً أغض طرف ا ً وال أكرم جليسا ً وال أشبه‬
‫سره بعالنيته منه ‪ .‬وصحبت المغيرة بن شعبة‪ ،‬فلو أ ّن مدينة لها ثمانية أبواب ال يخرج منها إال بالكرم يخرج من‬
‫أبوابها كلها ‪.‬‬
‫عبد هللا ب ن سالم رضي هللا عنه‪ ،‬من خواص الصحابة اإلمام الحبر اإلسرائيلي المشهود له بالجنة ‪ .‬شهد فتح‬
‫بيت المقدس ‪ .‬وتوفي سنة ثالث وأربعين ‪.‬‬
‫سعيد بن زيد رضي هللا عنه‪ ،‬أحد العشرة المشهود [ ‪ . 12‬ب ] لهم بالجنة ‪ .‬قدم بيت المقدس وتوفي بالعقيق‪،‬‬
‫وقيل بالكوفة ‪.‬‬
‫سعد بن أبي وقاص رضي هللا تعالى عنه‪ ،‬قدم بيت المقدس وأحرم منه بعمرة ‪ .‬روي أنه قال ‪ :‬ما بكيت من‬
‫الدهر إال ثالثة أيام‪ ،‬يوم قيض رسول هللا صلى هللا عليه وسلم‪ ،‬وقتل عثمان بن عفان‪ ،‬واليوم أبكي على الحق‬
‫فعلى الحق السالم ‪ .‬توفي بالعقيق وحمل إلى المدينة فصلى عليه أزواج النبي صلى هللا علي ه وسلم في حجرهن‪،‬‬
‫دفن بالبقيع ‪.‬‬
‫شداد بن أوص بن أ خ ي ح سّ ان بن ثابت ‪ ،‬كان ممن أوتي العلم والحلم ‪ .‬روي أنه لما دنت وفاة رسول هللا‬
‫صلى هللا عليه وسلم قام ثم جلس ثم قام ثم جلس ‪ .‬فقال رسول هللا صلى هللا عليه وسلم ‪ :‬يا شداد‪ ،‬ما سبب قلقك؟‬
‫فقال ‪ :‬يا رسول هللا‪ ،‬ضاقت بي األ رض ‪ .‬فقال رسول هللا صلى هللا عليه وسلم ‪ :‬أال إن الشام ستفتح ( لك )‬
‫المقدس ستفتح إن شاء ( هللا )‬
‫‪216‬‬
‫‪215‬‬
‫وبيت‬
‫‪ ،‬وتكون أنت وولدك من بعدك أيمة بها إن شاء هللا تعالى ‪ .‬فكان كما أخبره صلى‬
‫هللا عليه وسلم ‪ .‬وكان ذا عبادة واجتهاد‪ ،‬نزل بالشام ناحية فلسطين ‪ .‬وتوفي ببيت المقدس وقب ره ظاهر يزار في‬
‫مقبرة باب الرحمة تحت سور المسجد األقصى ‪.‬‬
‫‪215‬‬
‫‪216‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬هللا تعالى )‪.‬‬
‫‪180‬‬
‫أبو هريرة رضي هللا عنه‪ ،‬قدم بيت المقدس وشهد فتحه ‪ .‬توفي بالمدينة وليس هو المدفون بقرية يبنى ( في‬
‫مقابلة غزة )‬
‫‪217‬‬
‫وإنما هو بعض ولده ‪.‬‬
‫معاوية بن أبي سفيان رضي هللا عنه‪ ،‬قدم بيت المقدس وقدم ( عليه )‬
‫‪218‬‬
‫عمرو بن العاص فبايعه على طل ب‬
‫دم عثمان الشام كله ‪ .‬فكانت واليته على الشام أمير ا ً عشرين سنة ‪ .‬وتوفي سنة ستين بدمشق ودفن بمقبرتها ‪.‬‬
‫عبد هللا بن عمرو بن العاص رضي هللا تعالى عنهما‪ ،‬قدم [ ‪ . 11‬أ ] إلى بيت المقدس في مبايعة معاوية مع‬
‫أبيه‪ ،‬ودخل بيت لحم فصلى فيه وأمر بزيت إل يقادها ‪ .‬كان يقرأ القرآن والتوراة ويصوم يوما ً ويفطر يوما ً ‪.‬‬
‫عبد هللا بن عباس رضي هللا عنه‪ ،‬دعا له النبي صلى هللا عليه وسلم فقال ‪ :‬اللهم‪ ،‬ف ق ّ هه في الدين وع ل ّ مه سنن‬
‫التأويل وكان يسمى الحبر لكثرة علومه ‪ .‬قدم بيت المقدس وأهل منه في الشتاء وتوفي بالطائف بقرية يقا ل لها‬
‫السالمة وقبره ظاهر بها ‪.‬‬
‫عبد هللا بن عمر رضي هللا تعالى عنهما عام بيت المقدس عام الحكمين بعد صالة الصبح فجلس في المسجد‬
‫حتى إذا طلعت الشمس فقام وصلى ركعات ومن معه ثم قعدوا على رواحلهم ولم يأتوا الصخرة ولم ينتظروا‬
‫الجماعة وأهل منه ابن عمر بعمرة ‪.‬‬
‫عوف بن مالك األشجعي رضي هللا عنه‪ ،‬شهد فتح بيت المقدس ونزل بحمص بايع رسول هللا صلى هللا عليه‬
‫وسلم على أن يعبد هللا ال يشرك به شيئ ا ً والصلوات الخمس وأن ال يسأل الناس شيئا ً ‪.‬‬
‫أبو جمعة األنصاري رضي هللا عنه‪ ،‬قدم بيت المقدس ليصلي فيه ‪ .‬مات بالشام ‪.‬‬
‫واثلة بن األشف ع رضي هللا عنه‪ ،‬من أهل الصنعة سكن البصرة ثم الشام‪ ،‬وشهد المغازي بدمشق وحمص ثم‬
‫تحول إلى بيت المقدس ومات به‪ ،‬وقيل بدمشق ‪.‬‬
‫أبو أمامة الباهلي رضي هللا تعالى عنه‪ ،‬شهد حجة الوادع وسكن الشام وبيت المقدس وهو آخر الصحابة‬
‫موتا بالشام ‪.‬‬
‫محم و د بن الربيع رضي هللا عنه‪ ،‬ختن عبادة بن الصامت ‪ .‬زعم أنه أدرك النبي صلى هللا عليه وسلم وه و‬
‫ابن خمس ستين‪ ،‬وأنه عقل مجة مجها رسول هللا صلى هللا عليه وسلم في وجهه ‪ .‬نزل بيت المقدس وأهل منه بحج‬
‫وعمرة ‪.‬‬
‫‪217‬‬
‫‪218‬‬
‫ب ‪ ( :‬الذي في مقابلة غزة )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫‪181‬‬
‫مزيد بن سفيان رضي هللا تعالى عنه‪ ،‬بعثه أبو بكر رضي هللا تعالى عنه إلى الشام وكان على جند من‬
‫األجناد [ ‪ . 11‬ب ] ( المتقدمة )‬
‫‪219‬‬
‫ولما مات أمر عمر مكانه أخاه معاوية كما تقدم ‪.‬‬
‫أبو ريحانة مولى رسول هللا صلى هللا عليه وسلم‪ ،‬كانت ريحانة ابنته تحت رسول هللا صلى هللا عليه وسلم ‪.‬‬
‫سكن بيت المقدس ومات بها وكان يعظ بالمسجد األقصى ‪.‬‬
‫الشريد بن الشر يد رضي هللا تعالى عنه‪ ،‬قدم بيت المقدس ألنه نذر أن يصلي فيه إن فتح هللا مكة على‬
‫رسول هللا صلى هللا عليه وسلم واستأذنه في ذلك فأذن له ‪.‬‬
‫عبد هللا بن أبي الجد عا ء رضي هللا تعالى عنه‪ ،‬سكن بها ويقال إن قبره بها ‪ .‬وعن عبد هللا بن شقيق قال ‪:‬‬
‫كنت مع رهط بإيلياء فقال رجل منهم ‪ :‬س معت رسول هللا صلى هللا عليه وسلم يقول ‪ :‬يدخل الجنة بشفاعة رجل من‬
‫أمتي أكثر من بني تميم ‪ .‬قيل ‪ :‬يا رسول هللا‪ ،‬سواك؟ قال ‪ :‬سواي ‪ .‬فلما قدم قلت من هذا قال ابن أبي الجدعاء ‪ .‬رواه‬
‫الترمذي ‪.‬‬
‫فيروز الديلمي رضي هللا عنه‪ ،‬من ( الذين )‬
‫‪220‬‬
‫بعثهم كسرى إلى اليمن فقبضوا الحبشة م نها وغلبوا عليها ‪.‬‬
‫سكن بيت المقدس ويقال إن قبره بها ‪.‬‬
‫ذو األصابع التميمي ‪ ،‬سكن بيت المقدس من المدد الذين نزلوا الشام ببيت المقدس ومات بها ‪.‬‬
‫أبو محمد الب جاري بالجيم رضي ( هللا )‬
‫‪221‬‬
‫عنه‪ ،‬وهو الذي زعم أن الوتر واجب ‪ .‬مات في خالفة عمر ‪ .‬وقيل‬
‫شهد صفين مع علي رضي هللا تعالى عنهم‪ ،‬سكن بيت المقدس ومات بها ‪.‬‬
‫ي بن أم حرام رضي ( هللا )‬
‫أبو أب ّ‬
‫الصحابة موت ا ً ببيت المقدس ‪.‬‬
‫‪222‬‬
‫عنه‪ ،‬سكن بيت المقدس ‪ .‬كان ربيب عبادة بن الصامت‪ ،‬وهو آخر‬
‫عصيف بن الحارث رضي هللا تعالى عنه‪ ،‬قدم بيت المقدس هو وأهله فصلى فيه جماعة ‪.‬‬
‫صفية بنت ح يي أم المؤمني ن رضي هللا تعالى عنها‪ ،‬قدمت بيت المقدس فصلت فيه وصعدت طور زيتا‬
‫وصلت به وقامت على طرف [ ‪ . 11‬أ ] الجبل‪ ،‬فقالت ‪ :‬من هاهنا يتفرق الناس يوم القيامة إلى الجنة والنار ‪ .‬توفيت‬
‫بالمدينة ودفنت بالبقيع ‪.‬‬
‫‪219‬‬
‫‪220‬‬
‫‪221‬‬
‫‪222‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫( المنفذة )‪.‬‬
‫( الذي )‪.‬‬
‫( هللا تعالى )‪.‬‬
‫( هللا تعالى )‪.‬‬
‫‪182‬‬
‫وأما التابعين‪ ،‬فمنهم أويس القرني صح أن رسول هللا صلى هللا عليه وسل م أنه أمر عمر أن يسأله أن‬
‫يستغفر لهم ‪ .‬وقيل ‪ :‬اجتمع به عمر ببيت المقدس‪ ،‬وقيل ‪ :‬لقيه بالموسم فقال لعمر ‪ :‬حججت واعتمرت وصليت في‬
‫مسجد رسول هللا صلى هللا عليه وسلم ووددت لو إني صليت في المسجد األقصى ‪ .‬فج ه ّزه عمر فأحسن جهازه وأتى‬
‫المسجد األقصى فصلى فيه ‪ .‬ثم أتى الكوف ة فخرج غازيا ً إلى ثغر أرمينية‪ ،‬فأصابه البطن فالتجأ إلى أهل خيمة ‪.‬‬
‫فمات عندهم ومعه جراب وقعب ‪ .‬فقالوا لرجلين منهم‪ ،‬اذهبا فافحرا له قبر ا ً ‪ ،‬قالوا ‪ :‬فنظرنا في جرابه ‪ .‬فإذا فيه‬
‫ثوبان ليسا من ثياب الدنيا وجاء الرجالن فقاال ‪ :‬أصبنا قبر ا ً محفور ا ً في صخرة كما رفعت عنه ا أليدي الساعة‬
‫فكفنوه ثم دفنوه ثم التفتوا ‪ .‬فلم يروا شيئا ً ويقال ‪ :‬فقد بص ف ّ ين ‪ .‬وقيل ‪ :‬مات بدمشق ودفن بها ‪.‬‬
‫عبيد ‪ ،‬عامل عمر على بيت المقدس ‪ .‬لما وقع الطاعون في بيت المقدس جعلت الجنائز تغسل وهو يصلي‬
‫عليها وال يحمل الجنائز إال الشباب ‪.‬‬
‫( يعلى )‬
‫‪223‬‬
‫( عمير )‬
‫‪224‬‬
‫بن سعد ‪ ،‬استعمله عمر بن الخطاب على حمص ‪.‬‬
‫بن شداد ‪ ،‬حضر بيت المقدس ‪.‬‬
‫أبو نعيم ( المؤذن )‬
‫‪225‬‬
‫من أ ذّ ن ببيت المقدس وصلى خلفه عبادة بن الصامت الصبح ‪.‬‬
‫أبو الزبير المؤذن ببيت المقدس‪ ،‬قال ‪ :‬جاءنا عمر فقال ‪ :‬إذا أذنت فترسل‪ ،‬إذا أقمت فاجزم ‪ .‬وفي رواية ‪:‬‬
‫فاجدر ‪.‬‬
‫أبو سالم الحبشي ‪ ،‬كان ي قدم بيت المقدس ويقرأ على عبادة بن الصامت ويروى عنه ‪ .‬قال ‪ :‬كنت إذا قدمت‬
‫بيت المقدس نزلت على عبادة بن الصامت ‪ .‬فأتيت يوم ا ً منزله فلم أجده ‪ .‬فأتيت المسجد فوجدته وكعب ا ً جالسين ‪.‬‬
‫فقال كعب إذا كانت سنة [ ‪ . 11‬ب ] ستين ‪ :‬فمن كان له مال فليجمعه‪ ،‬ومن كان له امرأة فليطلقها‪ ،‬ومن كان عزبا ً‬
‫فال يتزوج ‪ .‬فإنه ال خير في مولود يولد بعد ذلك ‪ .‬وانتقل أبو سالم من حمص إلى دمشق وقال ‪ :‬البركة تضاعفت‬
‫فيها مرتين ‪.‬‬
‫أبو جعفر الجرش ي ‪ ،‬روي عنه قال ‪ :‬دخلت مع عبادة بن الصامت المسجد مسجد بيت المقدس ‪ .‬فرأى رجال ً‬
‫يصلي واضع ا ً نعله عن يمينه أو شماله فقال ‪ :‬لو ال أنك تناجي ربك لعلوت رأسك بهذه العصى‪ ،‬تفعل كفعل أهل‬
‫الكتاب ‪.‬‬
‫خالد بن معدان الكالعي ‪ ،‬كان يسبح في اليوم أربعين ألف تسبيحة ‪ .‬أتى بيت المقدس ونزل منه على ستة‬
‫أميال ولم يصل فيه خمس صلوات ‪.‬‬
‫‪223‬‬
‫‪224‬‬
‫‪225‬‬
‫ب ‪ ( :‬عمير )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬يعلى )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬المؤذن أول )‪.‬‬
‫‪183‬‬
‫أم الدرداء ه جيمة ‪ ،‬قالت ‪ :‬طلبت العبادة فما رأيت أشفى من مجالسة العل ماء ومذاكرتهم ‪ .‬وكانت معها نساء‬
‫( يتعبدن )‬
‫‪226‬‬
‫‪ .‬فإذا ( تضعفن )‬
‫‪227‬‬
‫عن القيام تع ل ّ قن ( بالحبال )‬
‫‪228‬‬
‫‪ .‬وكانت تأتي من دمشق إلى بيت المقدس ‪ .‬فإذا‬
‫مرت بالجبال قال لقائدها ‪ :‬أسمع الجبال ما وعدها ربها‪ ،‬فيقرأ ‪ { :‬ويسألونك عن الجبال فقل ينسفها ربي نسف ا ً ‪.‬‬
‫فيذرها قاعا ً صفصفا ً ال ترى ف يها عوحبا ً وال أمت ا ً }‬
‫فلم نغادر منهم أحد ا ً }‬
‫‪230‬‬
‫‪229‬‬
‫‪ { ،‬ويوم نسير الجبال وترى األرض بارز ة ً وحشرناهم‬
‫‪ .‬وكانت تجالس المساكين ببيت المقدس وتقيم به نصف سنة وبدمشق نصف سنة ‪.‬‬
‫أبو العوام مؤذن بيت المقدس‪ ،‬روي عن عبد هللا بن عمرو بن العاص أن السور المذكور في القرآن هو‬
‫سور بيت المقدس ‪.‬‬
‫قبيضة بن ذويب‪ ،‬عبد الرحمن بن محيريز‪ ،‬هاني بن كلث وم ‪ ،‬كل هؤالء ع ب ّاد ز ه ّ اد ‪ .‬قبيضة كان عالما ً‬
‫رباني ا ً ‪ .‬وابن محيريز فقرشي نزل بيت المقدس ‪ .‬قال رجاء بن حياة إن فخر علينا أهل المدينة بعابدهم ابن عمر‪،‬‬
‫فإ ن ّ ا نفخر عليهم بعابدنا ابن محيريز إنما كنت [ ‪ . 11‬أ ] أع دّ بقاءه أمانا ً ألهل األرض ‪ .‬وأما هاني عرضت عليه‬
‫إمارة فلسطين فامتنع ‪ .‬قال ‪ :‬وكان الثالثة يقصدون الصالة من الرملة إلى بيت المقدس ‪.‬‬
‫محارب بن دثار كان قاضي ا ً وكان من العلماء الزهاد ‪ .‬وحديثه مخرج في كتب العلماء قال ‪ :‬صحبت القاسم‬
‫بن عبد الرحمن إلى بيت ا لمقدس‪ ،‬فغلبنا على ثالث‪ ،‬على قيام الليل‪ ،‬والبسط في النفقة‪ ،‬والكف عن الناس ‪.‬‬
‫عبد الملك بن مروان باني قبة صخرة بيت المقدس ‪ .‬روي عن أبي هريرة إن رسول هللا صلى هللا عليه وسلم‬
‫قال ‪ :‬من لم يغزو أو لم يج ه ّز غازيا ً ولم يخ ل ّ فه في أهله أصابه هللا بقارعة ‪ .‬كان حسن البشر عند اللقاء‪ ،‬حسن‬
‫‪231‬‬
‫الحديث إذا حدث‪ ،‬حسن االستماع إذا ح دّ ث ه ي ّن المؤنة‪ ،‬إذا خولف ال يمازع من ال يثق بعقله ( وال دينه )‬
‫يخالف لئيما ً وال يتك ل ّ م بما يقتدر منه ‪ .‬كان مرة جالسا ً عند الصخرة وعنده أم الدرداء فنودي بالمغرب ‪ .‬فقامت‬
‫وال‬
‫تتوكأ عليه حتى أدخلها مسجد النساء و مضى فصلى بالناس ‪.‬‬
‫عبد هللا بن فيروز مقدسي ثقة خرج له أبو داوود والنسائي وابن ماجة ‪.‬‬
‫زيادة بن أبي سودة ‪ ،‬روي عن عبادة بن الصامت وأبو هريرة ‪ :‬وهو من الثقات ‪.‬‬
‫أبو الحسن النهرواني األندلسي ‪ ،‬كان مقيم ا ً ببيت المقدس ‪ .‬سأله رجل فقال ‪ :‬يا أبا بكر‪ ،‬ما تقول في رجل‬
‫كان له حظ من قيام الليل تركه ثم عاوده فهو مجتهد أن يناله فال يقدر؟ قال ‪ :‬فأنشأ يقول ‪:‬‬
‫‪226‬‬
‫‪227‬‬
‫‪228‬‬
‫‪229‬‬
‫‪230‬‬
‫‪231‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫من‬
‫من‬
‫ب‪:‬‬
‫( يتعبدون )‪.‬‬
‫( ضعف ن )‪.‬‬
‫( الجبال )‪.‬‬
‫القرآن ‪. 21:117 -21:111‬‬
‫القرآن ‪. 1270:‬‬
‫( ودينه )‪.‬‬
‫‪184‬‬
‫تشاغلتم ع ن ّ ا بصحبة غيرنا‬
‫وأظهرتموا الهجران ما هكذا ك ن ّ ا ‪.‬‬
‫إبراهيم بن محمد ‪ ،‬نزل بيت المقدس ‪ .‬وحديثه في كتاب ابن ماجة ‪.‬‬
‫أبو عيينة الخواص ‪ ،‬قدم بيت المقدس وكان ثقة ‪ .‬قال ‪ :‬رأيت ببيت المقدس شيخا ً كإنه محترق بنار عليه‬
‫مدرعة سوداء طويل الصمت كريه المنظر كثير الشعر شديد الحزن ‪ . 11 [ .‬ب ] فقلت له ‪ :‬يرحمك هللا لو غيرت‬
‫لباسك ‪ .‬فقد علمت ما جاء في البياض ‪ .‬فبكى وقال ‪ :‬هذا شبيه بلباس المصاب وإنما نحن في الدنيا في حداد وكأنا‬
‫قد دعينا ‪ .‬ثم غشي عليه ‪.‬‬
‫عابد ببعض قرى بيت المقدس‪ ،‬كان يجلس إلى ثور بن يزيد وكان يغدو من قريته مع الفجر فيصلي‬
‫الصلوات كلها ببيت المقدس وينصرف بعد العشاء اآلخرة إلى قريته ‪ .‬وقد سمع خالد بن معدان الكالعي حدثه‬
‫بحديث رفعه للنبي صلى هللا عليه وسلم قال ‪ :‬من رأى شيئ ا ً يه ّو له أ و يف ّز عه فليقل ‪ :‬إن هللا هو الذي ليس كمثله‬
‫شيء وهو الواحد القهار ‪ .‬فما قالها أحد أال ف ّر ج هللا عنه ولو كان بين يديه من سور من حديد ‪ .‬وانصرف ذلك‬
‫الرجل ليلة من الليالي إلى الطريق ‪ .‬فإذا بأسود بين يديه قد منعه من السير ‪ .‬فذكر حديث خالد‪ ،‬فقاله ففرج هللا‬
‫عنه فمضى فل قي حمار وحش فاتحا ً فاه‪ ،‬يخرج منه لهيب يريده ليأكله ‪ .‬فذكر الحديث‪ ،‬فقاله‪ ،‬فو ل ّ ي الحمار وهو‬
‫يقول ‪ :‬ال يرحم هللا ثور ا ً كما علمك ‪.‬‬
‫عبد هللا بن عامر العامري قال ‪ :‬سألت راحبا ً ببيت المقدس فقلت ‪ :‬يا راحب‪ ،‬ما أول الدخول في العبادة؟‬
‫قال ‪ :‬الجوع ‪ .‬قلت ‪ :‬وما دليل ذلك؟ قال ‪ :‬ألن الجسد خلق من تراب والروح خلق من ملكوت السماء‪ ،‬شبع الجسد‬
‫ركن إلى األرض وإذا لم يشبع اشتاق إلى الملكوت ‪ .‬قلت ‪ :‬ما سبب الجوع؟ قال ‪ :‬فإذا مالزمة الذكر والخضوع ‪.‬‬
‫أبو عبد هللا بن خفيف خرج إلى شيراز إلى مكة ثم إلى بيت المقدس ثم دخل الشام ‪.‬‬
‫قثم الزاهد قال ‪ :‬رأي ت راهب ا ً على باب بيت المقدس كالواله ال يرق له دمع فهالني أمره ‪ .‬فقلت ‪ :‬يا أيها‬
‫الراهب‪ ،‬أوصني وصية أحفظها عنك ‪ .‬قال ‪ :‬كن كرجل احتوشته السباع والهوام فهو خائف مذعور يخاف أن‬
‫[ ‪ . 16‬أ ] يسهو فتفترسه أو يلهو فتنهشه‪ ،‬فليله ليل مخافة إذا آمن فيه المغترون ونهاره نهار حزن إذا فرح‬
‫البط ّ الون ثم ولى وتركني ‪ .‬فقلت ‪ :‬لو زدتني شيئ ا ً عسى هللا أن ينفعني به ‪ .‬قال ‪ :‬يا هذا الظمآن‪ ،‬يكفيه من الماء‬
‫أيسره ‪.‬‬
‫محمد حاتم الطا ئ ي تفقه على إمام الحرمين كان صدوق ا ً خير ا ً ففيها صوفي ا ً ‪ ،‬دخل بيت المقدس ‪.‬‬
‫أبو محمد بن الوليد ‪ ،‬دخل بيت المقدس قال ‪ :‬أنبأنا ( أبو )‬
‫‪232‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫‪185‬‬
‫‪232‬‬
‫محمد بن أبي يزيد قال ‪ ( :‬جماع )‬
‫‪233‬‬
‫آداب‬
‫الخير وأزمته في أربعة أحاديث قول النبي صلى هللا عليه وسلم ‪ :‬من كان يؤمن باهلل واليوم اآلخر فليقل ‪ :‬خير ا ً أو‬
‫ليصمت‪ ،‬وقوله ‪ :‬من حسن السالم المرء تركه ما ال يعنيه‪ ،‬وقوله ‪ :‬للذي اختصر في الوصية ال تغضب‪ ،‬وقول ه ‪:‬‬
‫المؤمن يحب ألخيه ما يحب لنفسه ‪ .‬توفي ابن الوليد ببيت المقدس ‪.‬‬
‫جعفر بن محمد النسابوري ‪ ،‬قدم بيت المقدس ‪ .‬يروى بسنده إلى بالل بن سعد قال ‪ :‬ال تنظر إلى صغر‬
‫الخطيئة وانظر إلى من عصيت ‪.‬‬
‫كعب األحبار ‪ ،‬سكن الشام ‪ .‬تقدم أنه دخل بيت المقدس واستشاره عمر في موضع القبلة ‪ .‬مات بحمص ‪.‬‬
‫إبراهيم بن أبي عبلة المقدسي ‪ ،‬روى عن أبي أمامة وأنس وروى عنه مالك وابن المبارك ‪.‬‬
‫جبير بن نفيل الحضرمي أتى بيت المقدس للصالة ‪ .‬قال جبير ‪ :‬خمس خصال قبيحة‪ ،‬الحدة في السلطان‬
‫والحرص في العلماء والقسوة في الشيوخ والشح في األغنيا وقلة الحياء في ذوي األحساب ‪.‬‬
‫عبد الرحمن بن غنم ‪ ،‬كان مسلم ا ً زمن النبي صلى هللا عليه وسلم ولم يفد إليه ‪ .‬لكنه الزم معاذ حين بعثه‬
‫رسول هللا صلى هللا عليه وسلم إلى اليمن حتى مات معاذ‪ ،‬سمع عمر بن الخطاب ‪ .‬قدم بيت المقدس وهو الذي فقه‬
‫عامة التابعين بالشام ‪.‬‬
‫خالد كان ( بالصخرة التي بيت المقدس )‬
‫‪234‬‬
‫‪ ،‬ف جاء عمر بن عبد العزيز فأخذه بيده وقال ‪ :‬يا خالد‪. 16 [ ،‬‬
‫ب ] ما عليك؟ قال ‪ :‬عليكم من هللا أذن سميعة وعين بصيرة ‪ .‬فارتعد عمر خوفا ً من هللا تعالى ونزع يده ‪ .‬فقال خالد ‪:‬‬
‫يوشك أن يكون هذا إماما ً عاد ال ً ‪ .‬ولزم خالد بيته في آخر أمره وقال ‪ :‬ما بقي من الناس إال حاسدا ً وشامت ‪ .‬توفي‬
‫خالد سنة تسعين ‪.‬‬
‫اإلمام العادل عمر بن عبد العزيز تقدم أنه اجتمع بخالد المتقدم ذكره ‪ .‬قال ابن سيرين رحمه هللا ‪ :‬سليمان‬
‫بن عبد الملك افتتح خالفته بخير وصلى الصلوات لمواقيتها وختمها بخير فاستخلف عمر بن عبد العزيز ‪.‬‬
‫مالك بن دينار ‪ ،‬من األيمة األعالم‪ ،‬جمع ته الطريق هو ومحمد بن واسع وعبد الواحد بن زيد وساروا إلى‬
‫بيت المقدس ‪.‬‬
‫محمد بن واسع المذكور ومما يؤثر عنه أنه كان من دعائه في كل يوم ‪ :‬اللهم‪ ،‬إنك سلطت علينا عدوا ً‬
‫بصير ا ً بعيوبنا مطلع ا ً على عوراتنا يرانا هو وقبيله من حيث ال نراهم ‪ .‬اللهم‪ ،‬فأيسه منا كما أيسته من رحمتك‬
‫وقنطه منا كما قنطه من عفوك وأبعد بيننا وبينه كما أبعدت بينه وبين جنتك ‪ .‬قيل ‪ :‬فظهر له إبليس لعنه هللا يوما ً‬
‫‪233‬‬
‫‪234‬‬
‫ب ‪ ( :‬جمع )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬بصخرة بيت المقدس )‪.‬‬
‫‪186‬‬
‫في صورة ( شيخ )‬
‫‪235‬‬
‫ي ‪ .‬فذكر له ذلك ‪.‬‬
‫‪ ،‬فقال له ‪ :‬يا ابن واسع‪ ،‬ما هذا الدعاء الذي تدعوه في كل يوم؟ اع دّ ه عل ّ‬
‫فلما فرغ قال له ‪ :‬يا ابن واسع‪ ،‬إني أعهد إل يك أن ال تعلم أحد ا ً هذا الدعاء أبد ا ً ‪ .‬فقال له محمد بن واسع ‪ :‬لك على‬
‫عهد هللا أن ال أكتمه عن أحد من خلق هللا ما عشت ‪.‬‬
‫الوليد بن عبد الملك ‪ ،‬بنا مسجد دمشق ومسجد حمص وعمر في بيت المقدس ‪ .‬قال إبراهيم بن أبي عبل ة ‪:‬‬
‫رحم هللا الوليد ‪ .‬وأين مثل الوليد؟ هدم كنيسة دمشق و بنا موضعها مسجد ا ً ‪ .‬كان يعطيني قصاع الفضة فأقسمها‬
‫على قراء بيت المقدس ‪.‬‬
‫سليمان بن عبد الملك ‪ ،‬أتى بيت المقدس وأتته الوفود بالبيعة [ ‪ . 17‬أ ] وكان يجلس ( في قبة )‬
‫بيت المقدس مما يلي الصخرة وتبسط البسط بين ( يديه )‬
‫‪237‬‬
‫‪236‬‬
‫في صحن‬
‫قبته‪ ،‬عليها النمارق والكراسي ‪ .‬فيجلس ويأذن للناس‬
‫فيجلسون على الكراسي والوسائد وكان يكون إلى جانبه األموال وكتاب الدواوين وكان قد أهم باإلقامة ببيت‬
‫المقدس واتخاذها منز ال ً وجمع األموال والناس بها واجتمع بأبي حازم الصحابي وسأله ووعظه واجتمع‬
‫بالزهري ‪.‬‬
‫أم الخير رابعة العدوية ‪ ،‬كانت من أعيان عصرها أخياره ا في الصالح والعبادة مشهورة ‪ .‬كانت تقول في‬
‫مناجاتها ‪ :‬إلهي تحرق بالنار قلب ا ً يحبك ‪ .‬فهتف بها مرة هاتف ‪ :‬ما كنا نفعل هذا فال تظني بنا الظن السوء ‪ .‬ومن‬
‫صاياها اكتموا حسناتكم كما تكتموا سيئاتكم ‪ .‬أورد لها السهروردي في عوارف المعارف ‪:‬‬
‫إني جعلتك في الفؤاد محدثي‬
‫وأبحت جسمي من أراد جلوسي‬
‫فالجسم مني للجليس مؤانس‬
‫وحبيب قلبي في الفؤاد جليسي‬
‫وقبرها على جبل زيتا بجوار مصعد عيسى عليه السالم من جهة القبلة في زاوية ينزل إليها بدرج وهو‬
‫مكان مأنوس يقصد للزيارة ‪ .‬ومن النساء العابدات ببيت المقدس‪ ،‬طائعة ولبابة وعدة من العابدات مجمولة‬
‫اسماؤهم ‪.‬‬
‫سليمان بن طرخان سمع أنس ا ً وكان يقول ‪ :‬إذا دخلت بيت المقدس كانت نفسي ال تدخل معي حتى أخرج ‪.‬‬
‫مقاتل بن سليمان المف س ّ ر ‪ ،‬قدم بيت المقدس وصلى فيه وجلس عند باب الصخرة القبلي واجتمع إليه خلق‬
‫كثير من الناس يك تبون عنه ويسمعون منه ‪ .‬فأقبل بدوي يطأ بنعليه على البالط وطأ شديد ا ً ‪ .‬فسمع مقاتل فقال لمن‬
‫حوله ‪ :‬انفرجوا ‪ .‬فانفرج الناس عنه فأهوى بيده يشير إليه ويزيد بصوته ‪ :‬أيها الواطئ‪ ،‬ارفق بنفسك ‪ .‬فوالذي نفس‬
‫مقاتل بيده‪ ،‬ما تطأ إال على أجاجين الجنة ‪ .‬قال الشافعي رضي هللا عنه ‪ :‬الناس [ ‪ . 17‬ب ] عيال على ثالثة ‪ :‬مقاتل‬
‫بن سليمان في التفسير وذكر اآلخرين ‪.‬‬
‫‪235‬‬
‫‪236‬‬
‫‪237‬‬
‫ب ‪ ( :‬شيخ هرم )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬يدي )‪.‬‬
‫‪187‬‬
‫إبراهيم القرباني ‪ ،‬نزل ببيت المقدس وحديثه في كتاب ابن ماجة ‪.‬‬
‫األوزاعي عبد الرحمن بن عمر فقيه بالشام كان رأسا ً في العلم والعبادة‪ ،‬قدم بيت المقدس فصلى فيه ثمان‬
‫ركعات والصخرة وراءه ثم صلى الخمس وقال ‪ :‬هكذا فعل عمر بن عبد العزيز ‪ .‬ولم يأت شيئ ا ً من المزارات ‪.‬‬
‫( قلت ‪ :‬ودفن ببيروت‪ ،‬توفي بالحمام )‬
‫‪238‬‬
‫‪.‬‬
‫سفيان الثوري اإلمام العادل المجمع على جاللته وزهده وورعه ‪ .‬أتى المسجد فصلى فيه بموضع الجماعة‬
‫وأتى فيه الصخرة وختم فيها القرأن ‪ .‬وروي أنه اشترى موز ا ً بدر هم فأكل منه في ظلها ‪ .‬ثم قال ‪ :‬إن الحمار إذا‬
‫استوفي عليقه‪ ،‬أو قال ‪ :‬علقه‪ ،‬يزيد في عمله ‪ .‬ثم قام يصلي حتى رحمه من وراءه ‪ .‬توفي بالبصرة ‪.‬‬
‫إبراهيم بن أدهم من أبناء ملوك بلخ وهو من ثقات التابعين أحد الزهاد ‪ .‬قدم بيت المقدس ونام بالصخرة‬
‫وسكن الشام‪ ،‬ومات بمدينة جبلة من أعمال طرابلس وقبره مشهور بها ‪ .‬وقيل ‪ :‬مات بالروم ‪.‬‬
‫الليث بن سعد كان عالم مصر ونظير مالك في العلم ‪ .‬كان د ّخ له في السنة ثمانية ألف دينار فما وجبت عليه‬
‫زكاة ‪ .‬وال ينقضي عليه عام إال وعليه دين من كثرة جوده وب ّر ه ‪ .‬قدم بيت المقدس ‪ .‬قال الليث ‪ :‬لما ودعت أبا جعفر‬
‫يع ني الخليفة ببيت المقدس قال ‪ :‬أعجبني ما رأيت من شدة عقلك‪ ،‬فالحمد هلل الذي جعل في رعيتي مثلك ‪ .‬ومات‬
‫بمصر وقبره بها ظاهر مشهور ‪.‬‬
‫وكيع بن الجراح ‪ ،‬قدم بيت المقدس وأحرم منه إلى مكة ‪ .‬ومات بقديد راجع ا ً من الحج ودفن بها ‪.‬‬
‫اإلمام األعظم والحبر األكرم محمد بن إدريس ا لشافعي ‪ ،‬قدم بيت المقدس فصلى فيه ثم قال ‪ :‬سلوني ما‬
‫شئتم أخبركم من كتاب هللا وسنة رسول هللا صلى هللا عليه وسلم ‪ .‬فقيل له ‪ :‬ما تقول في محرم قتل زنبور ا ً ؟ فقال ‪:‬‬
‫قال هللا تعالى ‪ { :‬وما آتاكم الرسول [ ‪ . 18‬أ ] فخذوه }‬
‫‪239‬‬
‫‪ .‬وحدثنا ابن عيينة عن عبد الملك بن عمر عن حذيفة‬
‫قال ‪ :‬قال رسول هللا صلى هللا عليه وسلم ‪ :‬اقتدوا بالذين من بعدي أبي بكر وعمر ‪ .‬وحدثنا ابن عيينة عن مسعر عن‬
‫قيس بن مسلم عن طارق بن شهاب أن عمر أمر المحرم بقتل الزنبور ‪ .‬مات بمصر سنة مئتين وأربعة وقبره‬
‫بالقرافة الصغرى يزار‪ ،‬نفعنا هللا به ‪ .‬قال صاجب أنس الجليل ‪ :‬وأما األ يمة الثالثة‪ ،‬فلم أطلع على شيء يدل على‬
‫قدوم أحد منهم بيت المقدس ‪.‬‬
‫أبو جعفر المنصور الخليفة ‪ ،‬تقدم في الباب الثاني أنه دخل بيت المقدس بعد الرجعة األولى ‪.‬‬
‫المهدي بن المنصور الخليفة ‪ ،‬روى هشام الغ س ّ اني قال ‪ :‬لما قدم الشام يريد بيت المقدس دخل مسجد دمشق‬
‫‪238‬‬
‫‪239‬‬
‫ب ‪ ( :‬توفي بالحمام ‪ .‬قلت ‪ :‬ودفن ببيروت )‪.‬‬
‫من القرآن ‪. :07:‬‬
‫‪188‬‬
‫ومعه كاتب ه أبو عبد هللا األشعري ‪ .‬فقال ‪ :‬يا عبد هللا‪ ،‬سبقنا بنو أمية بثالث‪ ،‬بهذا البيت يعني مسجد دمسق وال أعلم‬
‫على ظهر األرض مثله‪ ،‬وبنبل الموالي فأن لهم موالي ليس لنا مثلهم‪ ،‬وبعمر بن عبد العزبز وال يكون فينا وهللا‬
‫مثله أبد ا ً ‪ .‬ثم أتى بيت المقدس ودخل الصخرة فقال ‪ :‬يا عب د هللا‪ ،‬وهذه رابعة ‪.‬‬
‫المؤمل بن إسماعيل البصري ‪ ،‬قدم بيت المقدس فأعطى قوما ً شيئ ا ً وداروا به تلك األماكن وكان شديدا ً في‬
‫الس ن ّ ة ‪.‬‬
‫بشر الحافي أحد رجال الطريقة ‪ .‬قيل له ‪ :‬ل ِ مَ يفرح الصالحون ببيت المقدس؟ قال ‪ :‬ألنها تذهب إليهم وال‬
‫تستعال النفس بها ‪ .‬وقال ‪ :‬ما بقي عن دي من لذات الدنيا إال أني أستلقي على جنبي تحت السماء بجامع بيت‬
‫المقدس ‪.‬‬
‫ذو النون المصري ( الصالح )‬
‫‪240‬‬
‫المشهور ‪ ،‬قدم بيت المقدس ‪ .‬قال ‪ :‬وجدت على صخرة بيت المقدس كل‬
‫عاص مستوحش وكل مطيع مستأنس وكل خائف هارب وكل راج طالب وكل قانع غني وكل محب ذليل ‪ .‬قال ‪:‬‬
‫فرأيت هذه الك لمات أصول ما استعبد هللا الخلق به ‪.‬‬
‫سري السقطي ‪ ،‬قدم بيت المقدس ‪ .‬قال ‪ :‬خرجت من الرملة إلى بيت [ ‪ . 18‬ب ] المقدس ومررت بمشرفة‬
‫وغدير ماء وعشب نابت‪ ،‬فجلست آكل من العشب وأشرب من الماء ‪ .‬وقلت في نفسي إن كنت أكلت أو شربت في‬
‫الدنيا حال ال ً فهو هذا ‪ .‬فسمعت هاتفا ً يقول ‪ :‬ي ا سري‪ ،‬فالنفقة التي بلغتك إلى هنا من أين هي ‪.‬‬
‫محمد بن كرام المتكلم وإليه تنسب الفرقة الكرامية ‪ .‬أقام ببيت المقدس وكان يجلس للوعظ عند العمود‬
‫الذي عند مهد عيسى واجنمع عليه خلق كثير‪ ،‬ثم تبين لهم أنه يقول ‪ :‬اإليمان قول‪ ،‬فتركه أهل بيت المقدس ‪ .‬توفي‬
‫لي ال ً ودفن ببا ب أريحا الذي كان واندرس ‪.‬‬
‫صالح بن يوسف ‪ ،‬يقال إنه حج تسعين حجة راج ال ً في كل حجة يحرم من صخرة بيت المقدس ‪ .‬وكان يدخل‬
‫بادية تبوك على التجريد والتوكل ‪ .‬توفي بالرملة ‪ .‬يستشقي بقبره الغمام ويستجاب عنده الدعاء ‪ .‬ولم يعلم اآلن‬
‫قبره الستيالء اإلفرنج على تلك األرض مدة طويلة ‪.‬‬
‫بكر بن سهل الدمياطي المح دّ ث‪ ،‬قدم بيت المقدس فجعلوا له ألف دينار حتى روى لهم التفسير ‪.‬‬
‫أحمد بن يحيي البغدادي ‪ ،‬حكي عنه أنه قدم من مكة إلى بيت المقدس وندم على مجيئه وقال ‪ :‬تركت الصالة‬
‫بمكة بمئة ألف صالة وهنا بخمس وعشرين ألف صالة‪ ،‬وبمكة ينزل عشرين ألف رحمة للطائفين والمصلين‬
‫والناظرين وأراد الخروج إلى مكة ‪ .‬فرأى النبي صلى هللا عليه وسلم وذكر له ما خطر له من الفضل ‪ .‬فقال له‬
‫النبي صلى هللا عليه وسلم ‪ :‬هناك تنزل الرحمة نزو ال ً وهنا تصب الرحمة ص ب ّا ً ولو لم يكن لهذا الموضع محل‬
‫‪240‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫‪189‬‬
‫عظيم وأشار بيده إلى موضع اإلسرى عند قبة المعراج لما أسري بي إليه ‪ .‬فأقام الرجل بالقدس إلى أن مات‬
‫وكانت هذه الروياء في رجب سنة إحدى وأربعين وثالثمئة ‪.‬‬
‫الشيخ سالمة بن إسماعيل من جماعة بيت المقدس الضرير المصنف‪ ،‬كان عديم النظير في زمانه [ ‪ . 19‬أ ]‬
‫ألجل ما خصه هللا تعالى به من حضور القلب وصفاء الذه ن وكثرة الحفظ ‪.‬‬
‫شيخ اإلسالم عبد الواحد بن محمد الشيرازي ثم المقدسي الحنبلي األنصاري شيخ الشام في وقته‪ ،‬قدم‬
‫الشام فسكن بيت المقدس ‪ .‬اجتمع مع الخضر دفعتين‪ ،‬وكان يتكلم على الخاطر كما كان يتكلم عليه ‪.‬‬
‫ابن القزويني الزاهد‪ ،‬له تصانيف جمة ‪ .‬مات بدمشق سنة أربعمئة و ثمانين ودفن بمقبرة باب الصغير ‪.‬‬
‫أبو الفتح نصر المقدسي الشافعي ‪ ،‬شيخ المذهب بالشام صاحب التصانيف مع الزهد والعبادة ‪ .‬أقام بالقدس‬
‫مدة طويلة بالزاوية التي على باب الرحمة المعروفة بالناصرية لنزوله بها‪ ،‬ثم عرفت بالغزالية لنزول الغزالي‬
‫بها ‪ .‬ثم قدم دمشق فسكنها وعظ م شأنه بها‪ ،‬ولما قدم الغزالي الشام اجتمع به واستفاد منه ‪ .‬مات سنة تسعين‬
‫وأربعمئة بدمشق ودفن بالباب الصغير ‪.‬‬
‫الفقيه أبو الفضل عطاء شيخ الشافعية بالقدس الشريف فقه ا ً وعلما ً ‪ ،‬وشيخ الصوفية طريق ة ً ‪.‬‬
‫اإلمام أبو المعالي المشرف بن المرجا ‪ ،‬كان من علماء بيت المقدس‪ ،‬له كتاب فضائل البيت المقدس‬
‫والصخرة وما اتصل بذلك من أخبار وآثار وفضائل المساجد والشام‪ ،‬وهو كتاب مفيد ‪.‬‬
‫مكي بن عبد السالم األنصاري الرملي الشافعي ‪ ،‬الحافظ ‪ ،‬كانت الفتاوي تأتي إليه من مصر والشام‬
‫وغيرها وكان من الجوالين في اآلفاق كثير التعب والنصب والسهر وكان ورع ا ً ولما أخذ اإلفرنج بيت المقدس‬
‫في سنة أربعمئة واثنين وتسعين أخذوه أسير ا ً وبعثوه إلى البالد ينادي في فكاكه بألف دينار ‪ .‬لما علموه أنه من‬
‫علماء المسلمين فلم يستفكه أحد فرموه بالحجارة على باب أنطاكية حتى قتلوه ‪ .‬وقيل إنهم قتلوه ببيت المقدس‬
‫رحمه هللا عليه ‪.‬‬
‫عبد الجبار أبو القاسم الرازي الشافعي تفقه على الجنيد [ ‪ . 19‬ب ] بإصبهان ثم استوطن بغداد ثم انتقل‬
‫إلى بيت المقدس وسلك سبيل الورع واالنقطاع إلى هللا تعالى إلى أن استشهد على يد اإلفرنج لعنهم هللا حين أخذ‬
‫القدس سنة أربعمئة واثنين وتسعين ‪.‬‬
‫اإلمام حجة اإلسالم زين الدين أبو حامد الغزالي ‪ ،‬لم يكن للطائفة الشافعية في آخر عصره مثله ‪ .‬مبدأ أمره‬
‫بطوس ثم قدم نيسابور وصار من أعيانها المشار إليهم ‪ .‬ثم أقام مدة بدمسق ثم انتقل إلى بيت المقدس مجتهد ا ً في‬
‫العبادة وزيارة المشاهد والمواضع العظام ‪ .‬وأخذ في التصانيف المشهورة ببيت المقدس ‪ .‬فيقال إنه ص ن ّ ف في‬
‫‪190‬‬
‫القدس إحياء علوم الدين ‪ .‬وأقام بالزاوية التي على باب الرحمة كما تقدم‪ ،‬وقد دثرت تلك الزاوية ثم عاد إلى‬
‫طوس ‪ .‬فتو ف ّ ي بها سنة خمسمئة وخمسة ‪.‬‬
‫اإلمام الحافظ أبو الفضل محمد بن طاهر القير و اني ‪ ،‬الجوال في اآلفاق‪ ،‬الجامع بين الذكاء والحفظ وحسن‬
‫الت صنيف وجودة ( الخط )‬
‫‪241‬‬
‫‪ .‬ولد ببيت المقدس وله مصنفات ومجموعات في الحديث وغيره تد ّل على غزارة‬
‫علمه ‪ .‬رحل إلى بغداد ثم رجع إلى بيت المقدس وأحرم منه إلى مكة ثم رجع إلى بغداد ومات بها ودفن بالمقبرة‬
‫العتيقة بالجانب الغربي ‪ .‬وكان ولده أبو زرعة طاهر من المشهورين بعلو اإل سناد وكثرة السماع ‪.‬‬
‫أبو الغنائم محمد بن علي بن ميمون القرشي كان دينا ً خير ا ً ثقة‪ ،‬رحل إلى الشام وجمع الحديث ببيت‬
‫المقدس ‪ .‬وتوفي بالحلة ودفن بالكوفة ‪.‬‬
‫والطرسوسي محمد األندلسي ‪ ،‬قدم بيت المقدس وحج وكان إماما ً عالم ا ً زاهد ا ً سكن الشام ‪.‬‬
‫أبو عبد هللا محمد الدي باجي من ولد الديباجي من ذرية عثمان بن عفان‪ ،‬وأمه فاطمة بنت الحسن بن علي‬
‫بن أبي طالب ‪ .‬سمي الديباجي لحسنه وألنه ديباجة [ ‪ . 11‬أ ] وجهه كانت تشبه وجه رسول هللا صلى هللا عليه وسلم ‪.‬‬
‫أصله من مكة قدم بيت المقدس وأقام به ثم سكن بغداد‪ ،‬وهو فقيه فاضل حسن السيرة قوال با لحق يقال ‪ :‬سمي‬
‫المصطفى وشبيهه ‪.‬‬
‫أبو الحسن علي الربعي المقدسي الشافعي ‪ ،‬سمع الحديث من الشيخ نصر الطوسي والحافظ أبو بكر‬
‫الخطيب‪ ،‬ثم دخل الغرب وسكن البرية ‪.‬‬
‫اإلمام أبو بكر بن العربي الحافظ المشهور‪ ،‬دخل مع أبيه الشرق‪ ،‬قدم بيت المقدس ولقي خلقا ً كثيرا ً من‬
‫العلماء ‪.‬‬
‫أبو بكر الجرجاني ‪ ،‬قصد هو وأبو سعيد السمعاني زيارة بيت المقدس من بلدهما‪ ،‬فذهبا ولم يتفرقا حتى‬
‫رجعا إلى العراق ‪ .‬وكان شيخ ا ً صالحا ً قيم ا ً بكتاب هللا دائم الذكر كثير الحزن والبكاء ‪ .‬قال ابن سعيد السمعاني‬
‫في حقه ‪ :‬كان نعم الصاحب جاور بمكة السنين وخدم المشائخ ا لكبار ‪.‬‬
‫أبو سعيد السمعاني المتقدم ذكره الشافعي‪ ،‬صاحب التصانيف الكثيرة‪ ،‬من جملتها ‪ :‬تحفة المسافر‪ ،‬وعن‬
‫العزلة ‪.‬‬
‫الشيخ الزاهد أبو عبد هللا القرشي ذو الكرامات الظاهرة والمناقب الجليلة الباهرة وأهل مصر يذكرون‬
‫عنه أشياء خارقة ‪ .‬قدم بيت المقدس وأقام به إلى أن مات وقبره بمقبرة مامال ظاهر يزار ‪.‬‬
‫‪241‬‬
‫ب ‪ ( :‬الحفظ )‪.‬‬
‫‪191‬‬
‫وبجانبه قبر الشيخ شهاب الدين بن رسالن ومن المج ّر ب أن الدعاء بين قبرهما مستجيب ‪ .‬وبقربهم قبر‬
‫الشيخ الزاهد العالمة أبو إسحاق إبراهيم بن جماعة الشافعي ‪.‬‬
‫وبمقبرة مامال قبر اإلمام عمر بن إبراهيم الواسطي على جانب الطريق قبلي الكبكي ة‪ ،‬وبقربه قبر واحد‬
‫وال نعرف لصاحبه اسم وال ترجمه ‪ .‬وإنما م ّر عليه ( واحد )‬
‫يظلم ربك أحد ا ً }‬
‫‪243‬‬
‫‪242‬‬
‫وهو راكب فقرأ { ووجدوا ما عملوا حاضرا ً وال‬
‫‪ ،‬فأجاب من القبر ‪ :‬وجدنا وجدنا‪ ،‬حتى سمعه ذلك الرجل ‪ .‬وحكى بعض الناس أنه أخذ‬
‫األحجار [ ‪ . 11‬ب ] التي على قبره ونقلها إلى مكان فأصب ح وجدها على القبر كما كانت‪ ،‬فع د ّ ذلك من الكرامات ‪.‬‬
‫وبها قبر الشيخ علي البسطامي شيخ الفقير البسطامية بالبسطامية ‪.‬‬
‫( وبمقبرة باب الرحمة )‬
‫‪244‬‬
‫عدة أولياء وصلحاء يطول ذكرهم ‪ .‬نفعنا هللا بهم وأم دّ نا من مددهم وحشرنا‬
‫معهم ‪ .‬أمين ‪.‬‬
‫الباب الثامن ‪ :‬في ذكر الخضر عليه السالم ومحله من المسجد األقصى الرفيع المقام ‪.‬‬
‫ذهب كثير من العلماء إلى أنه نبي وهو حي ‪ .‬وهو يصلي كل جمعة في خمس مساجد‪ ،‬المسجد الحرام‬
‫ومسجد المدينة ومسجد قبا ومسجد بيت المقدس ويصلي في كل جمعة في مسجد الطور‪ ،‬ويأكل في كل جمعة‬
‫ب سليمان الذي ببيت المقدس المعروف بج ّ‬
‫أكلتين من كماة وكرفس ويشرب مرة من ماء زم زم ومرة من ج ّ‬
‫ب‬
‫الورقة ويغتسل من عين سلوان ‪.‬‬
‫وعن ابن أبي داوود قال ‪ :‬الخضر وإلياس يصومان شهر رمضان ببيت المقدس ويوافيان الموسم كل عام ‪.‬‬
‫وعنه بسنده إلى عمه الحافظ أبي القاسم إلى علي بن أبي طالب رضي هللا عنه قال ‪ :‬بينما أنا أطاف بالكعبة‬
‫إذ رجل معلق بأستار الكعبة وهو يقول ‪ :‬يا من ال يشغله سمع عن سمع‪ ،‬يا من ال يغطه المسائل‪ ،‬يا من ال يبرمه‬
‫إلحاج المسلحين في طلب الحاجات‪ ،‬أرزقني برد عفوك وحالوة رحمتك ‪ .‬قال علي رضي هللا عنه ‪ :‬أعد على هذ ه‬
‫الكلمات يا عبد هللا ‪ .‬فقال ‪ :‬أسمعتهن؟ قال ‪ :‬نعم ‪ .‬ق ال ‪ :‬والذي نفس الخضر بيده ‪ .‬وكان هو الخضر عليه السالم ‪ .‬ما‬
‫من عبد يقولهن دبر كل صالة مكتوبة إال غفرت ( لهن )‬
‫‪245‬‬
‫ذنوبه وإن كانت مثل رمل عالج ومثل زبد البحر‬
‫وورق الشجر ‪.‬‬
‫وعن أبي هريرة مرفوعا ً‪ :‬إنما سمي الخضر خضر ا ً ألنه جلس على فروة بيضاء ‪ .‬فإذا هي تهتز من تحته‬
‫خضراء ‪ .‬رواه البخاري ‪.‬‬
‫[ ‪ . 11‬أ ] وعن أبي حفص الحمصي قال ‪ :‬دخلت بيت المقدس قبيل أو قبل نصف الليل ألصلي فيه‪ ،‬فإذا أنا‬
‫بصوت يخافت أحيان ا ً وهو يقول ‪ :‬يا رب‪ ،‬إني فقير وأنا أخاف مستجير ‪ .‬يا رب‪ ،‬ال تبدل اسمي وال تغير جسمي‬
‫وال تجهد بالءي ‪ .‬فخرجت مذعور ا ً فمررت على ناس بباب الم سجد ‪ .‬فقالوا ‪ :‬ما لك يا عبد هللا؟ فأخبرتهم الخبر‪،‬‬
‫فقالوا ‪ :‬ال تخف‪ ،‬هذا الخضر عليه السالم وهذه ساعة صالته ‪.‬‬
‫‪242‬‬
‫‪243‬‬
‫‪244‬‬
‫‪245‬‬
‫ب‪:‬‬
‫من‬
‫ب‪:‬‬
‫ب‪:‬‬
‫( إنسان )‪.‬‬
‫القرأن ‪. 12700‬‬
‫( وبها و يمقيرة باب الرحمة )‪.‬‬
‫( له )‪.‬‬
‫‪192‬‬
‫وعن الشيخ الصالح أبي نصر البنديجي قال ‪ :‬سألت الخضر ‪ :‬أين ( تصلي الصبح )‬
‫‪246‬‬
‫؟ قال ‪ :‬عند الركن‬
‫اليماني ‪ .‬قال ‪ :‬وأقضي بعد ذلك شيئ ا ً كلفني هللا تعالى قضاءه‪ ،‬ثم أصلي الظهر بالمدينة ‪،‬ثم أقضي بعد ذلك شيئ ا ً‬
‫كلفني هللا تعالى قضاءه‪ ،‬ثم أصلي العصر ببيت المقدس ‪.‬‬
‫وعن الفقيه الصالح أبي المظ ف ّ ر عبد هللا بن محمد الجيام الحربي السمرقندي قال ‪ :‬دخلت يوما ً مغارة‬
‫فصللت الطريق ‪ .‬فإذا أنا بالخضر عليه السالم فقال ‪ :‬مجد أين أمشي ‪ .‬فمشيت معه ‪ .‬ثم قلت ‪ :‬ما اسمك؟ قال ‪ :‬أبو‬
‫العباس ‪ .‬ورأيت معه صاحب ا ً له ‪ ( .‬فقلت له )‬
‫‪247‬‬
‫ما اسم هذا؟ قال ‪ :‬إلياس بن سام ‪ .‬فقلت ‪ :‬رحمك هللا‪ ،‬هل رأيتما‬
‫محمد ا ً صلى هللا عليه وسلم؟ قاال ‪ :‬نعم ‪ .‬فقلت ‪ :‬بعزة هللا وقدرته‪ ،‬إخبراني بشيء أرويه عنكما ‪ .‬قاال ‪ :‬سمعنا رسول‬
‫هللا صلى هللا عليه وسلم يقو ل ‪ :‬ما من مؤمن يقول ‪ :‬صلى هللا على محمد إال بصر هللا قلبه ونوره ‪.‬‬
‫ي يقال له شمويل رزقه هللا النصر على‬
‫وذكر أحاديث قال ‪ :‬وسمعتهما يقوالن ‪ :‬كان في نبي إسرائيل نب ٌ‬
‫أعدائه وإنه خرج في جيشه فقالوا ‪ :‬هذا ساحر يسحو أعيننا ويفسد عسكرنا‪ ،‬فلنجعله في ناحية البحر ‪ .‬فقال‬
‫أصحا به ‪ :‬كيف نفعل؟ فقال ‪ :‬احملوا وقولوا ‪ :‬صلى هللا على محمد ‪ .‬فحملوا وقالوا ‪ :‬صلى هللا على محمد ‪ .‬فصارت‬
‫أعداؤهم في ناحية البحر فغرقوا أجمعين ‪ .‬قال الخضر وإلياس ( عليهما السالم )‬
‫‪248‬‬
‫‪ :‬كان ذلك بحضرتنا ‪.‬‬
‫قال ‪ :‬وسمعتهما يقوالن ‪ . 11 [ :‬ب ] سمعنا رسول هللا صلى هللا عليه وسلم يقول ‪ :‬من قال ‪ :‬صلى هللا على محمد‬
‫( طهر قلبه )‬
‫‪249‬‬
‫كما يطهر الشيء بالماء ‪ .‬وقاال ‪ :‬سمعنا رسول هللا صلى هللا عليه وسلم يقول على المنبر ‪ :‬من قال ‪:‬‬
‫صلى هللا على محمد فقد فتح على نفسه سبعين بابا ً من الرحمة ‪.‬‬
‫قال ‪ :‬وسمعتهما يقوالن ‪ :‬قال النبي صلى هللا عليه وسلم ‪ :‬ما من مؤمن يقول ‪ :‬صلى هللا على محمد سبع مرات‬
‫إال أحبه هللا‪ ،‬وإن كانوا أبغضوه وهللا ال يحبونه حتى يحبه هللا سبحانه وتعالى ‪.‬‬
‫قال ‪ :‬وسمعتهما يقوالن ‪ ( :‬جاء رجل )‬
‫‪250‬‬
‫إلى النبي صلى هللا عليه وسلم فقال ‪ :‬يا رسول هللا‪ ،‬إن أبي شيخ‬
‫كبير وهو يحب أن يرأك ‪ .‬فقال ‪ :‬إيتني به ‪ .‬قال ‪ :‬إنه ضرير ‪ .‬قال ‪ :‬قل له يقول في سبع أسابيع ‪ :‬صلى هللا على سيدنا‬
‫محمد ‪ .‬فإنه يرأني في المنام حتى يروي عني الحديث ‪ .‬ففعل فرأه وكان يروي الحديث ‪.‬‬
‫قال ‪ :‬وسمعتهما يقوالن ‪ :‬سمعنا رسول هللا صلى هللا عليه وسلم يقول ‪ :‬إذ أجلستم مجلسا ً فقولوا ‪ :‬بسم هللا‬
‫الرحمن الرحيم وصلى هللا على محمد يو كل هللا بكم ملكا ً يمنعكم من الغيبة حتى ال تفتابوا‪ ،‬وإذا أقمتم فقولوا ‪ :‬بسم‬
‫هللا الرحمن الرحيم وصلى هللا على محمد‪ ،‬فإن الناس ال يفتابوكم ويمنعهم الملك من ذلك ‪.‬‬
‫وأما محله من المسجد األقصى الرفيع المقام ‪ .‬فقد ذكر المش ّر ف في باب ما جاء في الصخرة التي تسمى بخ‬
‫بخ وهي التي تحت المقام الغربي مما يلي قبة النبي صلى هللا عليه وسلم وإنها موضع الخضر ( عليهما‬
‫السالم )‬
‫‪251‬‬
‫‪ .‬قال ‪ :‬وهذا الموضع يستجيب أن يدعا فيه‪ ،‬فإن الدعاء مستجاب فيه وفي سائر المسجد ‪.‬‬
‫قال صاحب أنس الجليل ‪ :‬وهذا المكان قد برك وصار حاص ال ً للمسجد وهو سفل الصخرة تجاه باب الحديد‬
‫يلصق السلم المتصل منه صحن الصخرة وهو مكان مأنوس ‪ .‬وعلى ظهر هذا المكان محراب مخطوط في صحن‬
‫الصخرة يعرف بمغارة األرواح [ ‪ . 12‬أ ] يقصد الزيارة ‪ .‬انتهى ‪.‬‬
‫قلت ‪ :‬وقد رأيت الخضر عليه السالم منام ا ً ودعى لي بدعوات‪ ،‬أرجو قبولها ‪ .‬ومن عجيب االتفاق إني أردت‬
‫‪246‬‬
‫‪247‬‬
‫‪248‬‬
‫‪249‬‬
‫‪250‬‬
‫‪251‬‬
‫ب ‪ ( :‬تصلي الصبح )‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬طهر قلبه من العقاق )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬جاء رجل من الشام )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬عليه السالم )‪.‬‬
‫‪193‬‬
‫أن نظر تفسيرها في تعبير الرؤيا البن شاهين فج ّر د فتح الكتاب ‪ .‬وقع ( النظر )‬
‫‪252‬‬
‫على قوله ومن رأى الخضر‬
‫عليه السالم فإنه يسافر سفر ا ً بعيد ا ً بالسعة واألمن‪ ،‬وقيل بحج‪ ،‬ويكون عمره طوي ال ً ‪ .‬فأرجو من المولى تفسير‬
‫يلك الرؤيا بزيارة بيت المقدس وبعده الحج والموت بأحد المساجد الثال ث ‪ .‬آمين ‪.‬‬
‫الخاتمة ‪ :‬في ذكر الشام وفضلها وبهجتها وشرف محلها ‪.‬‬
‫قسم األوائ ُل الشا َم خمسة أقسام ‪ .‬األول فلسطين وأوسط بلدها الرملة‪ ،‬والثاني حوران ومدينتها العظمى‬
‫طبرية‪ ،‬والثالث الغوطة ومدينتها العظمى دمشق‪ ،‬والرابع حمص ومن أعمالها مدينة سلمية‪ ،‬والخامس ق ن ّ سرين‬
‫ومدينتها العظمى حلب ‪ .‬اتفق العلماء على أن الشام أفضل البقاع بعد مكة والمدسنة ‪.‬‬
‫أما أفضلها من اآليات فقوله تعالى ‪ { :‬وأورثت القوم الذين كانوا يستضعفون مشارق األرض ومغاربها التي‬
‫باركنا فيها }‬
‫‪253‬‬
‫‪ .‬قال ‪ :‬مشارق الشام ومغاربها ‪ .‬وعنه في قوله ‪ { :‬ولقد ب ّو انا بني أسرائيل م ب ّو أ صدق }‬
‫‪254‬‬
‫‪ ،‬أي‬
‫حسن وهو الشام ‪.‬‬
‫ومن السنة فعن ابن عمر مرفوعا ً‪ :‬الخير عشرة أعشار تسعة بالشام وواحد في سائر البلدان‪ ،‬وإذا فسد أهل‬
‫الشام فال خير فيكم ‪.‬‬
‫وروى الطبراني في معجمه الكبير عن عبد هللا بن مسعود موقوفا ً عليه قال ‪ :‬قال ‪ :‬قسم هللا الخير عشرة‬
‫أعشار فجعل تس عة أعشار بالشام وبقيته في سائر األرض‪ ،‬وقسم الش ّر عشرة أعشار فجعل جز ا ً منه بالشام‬
‫وبقيته في سائر األرض ‪.‬‬
‫رسول هللا صلى هللا عليه وسلم مرفوعا ً أنه قال ‪ :‬ستكون مجندة شام ويمن وعراق ‪ .‬وهللا اعلم بأنها بدا‬
‫وعليكم [ ‪ . 12‬ب ] بالشام أال وعليكم بالشام ‪ .‬فمن كره فعليه يم نه ولستق من غدره‪ ،‬فإن هللا قد تكفل لي بالشام‬
‫وأهله ‪.‬‬
‫وعن علي مرفوعا ً‪ :‬األبدال بالشام وهم أربعين رج ال ً ‪ .‬ك ل ّ ما مات رجل أبدل هللا مكانه رج ال ً يستسقي بهم‬
‫الغيث وينتصر بهم على األعداء ويصرف عن الشام بهم العداب ‪ .‬رواه أحمد في مسنده ‪.‬‬
‫وعن ابن عباس مرفوعا ً‪ :‬مكة آية الشرف والمدينة معدن الدين والكوفة فسطاط اإلسالم والكوفة فجر‬
‫العابدين والشام موطن األبرار ومصر عش إبليس وكهفه ومستقره‪ ،‬الحديث ‪.‬‬
‫وعن ابن جوالة األزدي ‪ :‬قلت ‪ :‬يا رسول هللا‪ ،‬أختر لي بلد الكون فيها ‪ .‬فلو أعلم تبقي لي لم أختر على قربك‬
‫شيئ ا ً ‪ .‬قال ‪ :‬عليك ( بالشام )‬
‫‪255‬‬
‫‪ .‬فلما رأى كراهتي للشام قال ‪ :‬أتهدي ما يقول هللا للشام؟ إن هللا يقول للشام ‪ :‬يا شام‪،‬‬
‫أنت صفوتي من أرضي وبالدي‪ ،‬أدخل فيك خيرتي من خلقتي ‪ .‬إن هللا قد تكفل لي بالشام وأهله ‪ .‬وهذه شهادة‬
‫رسول هللا صلى هللا عليه وسلم باختيار الشام تفضيلها وباصطفائه ساكنيها واختياره لق اطنها ‪ .‬قال صاحب ترغيب‬
‫أهل اإلسالم في سكنى الشام ‪ :‬وقد رأيتنا ذلك بالمشاهدة ‪ .‬وإن من رأى أهل الشام ونسبتهم إلى غيرهم رأى بينهم‬
‫من التفاوت ما يدل على اصطفائهم واجتبائهم ‪.‬‬
‫‪252‬‬
‫‪253‬‬
‫‪254‬‬
‫‪255‬‬
‫ب ‪ ( :‬نظري )‪.‬‬
‫من القرآن ‪. :715:‬‬
‫من القرآن ‪. 12705‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫‪194‬‬
‫قال عطاء الخراساني ‪ :‬لما هممت بالنقلة شاورت من بمكة والمدينة والكوفة والبصرة وخراسان من أه ل‬
‫الكتاب ‪ .‬فقلت ‪ :‬أين ترون أنزل بعيالي؟ فك ل ّ هم يقولون عليك بالشام ‪.‬‬
‫وروى كعب األحبار أنه قال ‪ :‬عن التوراة في السفر األول ‪ :‬محمد رسول هللا عبدي المختار‪ ،‬ال فظ وال غليظ‬
‫وال ضخاب في األسواق وال يجزي بالسنة السيئة‪ ،‬ولكن يعفو ويغفو مولده بمكة وهجرته بطيبة وملكه [ ‪ . 11‬أ ]‬
‫بالشام ‪ .‬قال ابن عبد السالم ‪ :‬الذي ذكره كعب األحبار موافق للمشاهدة والعيان ‪ .‬فإن قوة ملك اإلسالم ومعظم‬
‫أجناده من البسالة والساعة بالشام ‪.‬‬
‫وقال كعب األحبار إن هللا سبحانه وتعالى بارك في الشام من الفرات إلى العريش ‪ .‬وقد أشار كعب إلى أن‬
‫البركة بالشام ‪ .‬وإن قو له تعالى { الذي باركنا حوله }‬
‫‪256‬‬
‫ال يختص بمكان دون مكان وإنما مستوعب لجميع حدود‬
‫الشام ‪ .‬فإذا كان الشام وأهله عند هللا بهذه المثابة وهذه المنزلة وكانوا في خراسة وكفالته د ل ّ ت األد ل ّ ة على أن‬
‫دمشق خير بالد الشام بعد بيت المقدس ‪ .‬وقد ورد أنها كانت دار نوح وبها فار ال تنور وقبل بالكوفة ‪.‬‬
‫واعلم أن في دمشق وضواحيها أماكن فضيلة ‪ .‬فمنها مسجدها األعظم ‪ .‬وقد ورد عن هللا تعالى في قوله لجبل‬
‫قاسيون ‪ :‬سأبني في حصنك‪ ،‬أي في وسطك‪ ،‬بيتا ً يعبد فيه ‪.‬‬
‫وقد ورد عن قتادة في قوله تعالى { التين }‬
‫‪257‬‬
‫‪ ،‬جامع دمشق ‪ .‬قال القرطبي ‪ { :‬التين } مسجد دمشق كان‬
‫بس تانا ً لهود عليه السالم‪ ،‬فيه تين ‪.‬‬
‫وعن عثمان بن أبي عاتكة قال ‪ :‬قبلة مسجد دمشق قبر هود النبي عليه السالم‪ ،‬وقد كان أصله كنيسة ‪ .‬فلما‬
‫فتح المسلمون دمشق اصطلحوا مع النصارى على ( أن )‬
‫‪258‬‬
‫يجعله نصفه مسجد ا ً للمسلمين ونصفه كنيسة‬
‫للنصارى ‪ .‬فلم يزل كذلك إلى أن صارت الخالفة الوليد بن عبد الملك أخذ بقيتها من النصارى وبناه جميعا ً‬
‫مسجد ا ً على صفة حسنة ‪ .‬لم يسبق إليها ‪ .‬أنفق في عمارته أربعمئة صندوق‪ ،‬كل صندوق ثمانية وعشرون ألف‬
‫دينار ‪ .‬وقال الخليفة ألهل دمشق ‪ :‬إنكم تفتخرون على الناس بأربع بهوائكم ومائكم وفاكهكم وحماماتكم‪ ،‬فاحببت‬
‫أن أزي دكم خامسة وهي هذا الجامع ‪ .‬فحمدوا هللا أثنوا عليه وانصرفوا شاكرين ‪.‬‬
‫وقال [ ‪ . 11‬ب ] الفرزدق ‪ :‬أهل دمشق في بلدهم قصر من قصور الجنة‪ ،‬يعني به جامع األموي ‪.‬‬
‫وقال أحمد بن الجوزي ‪ :‬ما ينبغي أن يكون أحد أشد شوق ا ً إلى الجنة من أهل الشام لما يرونه من حسن‬
‫مسجدها ‪.‬‬
‫وقد ورد في فضل الصالة فيه عن سفيان الثوري أن الصالة في مسجد دمشق بثالثين ألف صالة ‪.‬‬
‫ب األحبار ‪ .‬فقال له ‪ :‬أين تريد؟‬
‫وروي أن واثلة بن األسقع خرج من باب المسجد الذي يلي جيرون‪ ،‬فلقي كع َ‬
‫قال ‪ :‬أريد بيت المقدس ألصلي فيه ‪ .‬فقال ‪ :‬تعال‪ ،‬أريك موضعه‪ ،‬أو قال موضعا ً ‪ ،‬في هذه المسج د من صلى فيه‬
‫كإنما صلى في بيت النقدس ‪ .‬قال ‪ :‬فذهب وأراه ما بين الباب األصغر الذي يخرج منه الحسنة يعني القنطر ة‬
‫الغربية وقال ‪ :‬من صلى فيما بين هاتين فكإنما في بيت المقدس ‪ .‬قال واثلة ‪ :‬وهللا إنه لمجلسي ومجلس قومي ‪.‬‬
‫ومن األماكن المقصودة فيه بالزيارة‪ ،‬الموضع الذي في ه رأس يحيي بن ذكريا عليهما السالم ‪ .‬روي عن‬
‫الوليد بن مسلم ‪ :‬وسأل رج لٌ ‪ :‬يا أبا العباس‪ ،‬أين بلغك رأس يحيي بن ذكريا من هذا المسجد؟ قال ‪ :‬بلغني أنه ثم‬
‫وأشار إلى العمود المسقط الرابع من الركن الشرقي ‪.‬‬
‫وأما جبل قاسيون وما فيه من المشاهد وما حوله من اآلثار والمعاهد المعروفة بإجابات الدعوات‪ ،‬فيه من‬
‫‪256‬‬
‫‪257‬‬
‫‪258‬‬
‫من القرأن ‪. 1:71‬‬
‫من القرآن ‪. 0:71‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫‪195‬‬
‫الغرب ولد إبراهيم عليه السالم ‪ .‬وفيه أوى هللا تعالى عيسى بن مريم وأ مّ ه منعهما من اليهود ‪ .‬فمن أتى مقعل‬
‫روح هللا عيسى واغتسل وصلى ودعا لم يرده هللا خايب ا ً ‪ .‬وفيه اختبي النبي إلياس من ملك قومه‪ ،‬وفيه صلى‬
‫إبراهيم ولوط وموسى وعيسى وأيوب عليهم الصالة والسالم ‪.‬‬
‫وعن حسان بن عطية قال ‪ :‬أغار ملك هذا الجبل على لوط عليه السالم فسياه وأهله‪ ،‬فأقبل إبراهيم عليه‬
‫السالم في طلبة في عدة أهل بدر ‪ .‬فالتقوا في صخر القعود ‪ .‬فعبي إبراهيم [ ‪ . 11‬أ ] ميمنة وميسرة وقلب ا ً وكان أول‬
‫من عني الحرب هكذا ‪ .‬واقتتلوا فه زمه إبراهيم واستنقذ لوط ا ً وأهله وأتى الموضع الذي في برزة فصلى فيه‬
‫واتخذه مسجد ا ً ‪.‬‬
‫وعن الزهرى أنه قال ‪ :‬مسجد إبراهيم في قرية يقال لها برزة‪ ،‬فمن صلى فيه أربع ركعات خرج من ذنوبه‬
‫كيوم ولدته أمه‪ ،‬ويسأل هللا تعالى ما شاء فإنه ال يرد خائب ا ً ‪ .‬وبه مغارة الدم حيث قتل قابي ُل هابي َل معروفة بإجابة‬
‫الدعاء ‪ .‬فعن الزهري أنه قال ‪ :‬لو يعلم الناس ما في مغارة الدم من الفضل لما هنئ لهم طعام وال شراب إال فيها ‪.‬‬
‫وعن أحمد بن كثير قال ‪ :‬صعدت إلى موضع ابن آدم في جبل قاسيون فسألت هللا َ عز وجل الحج‪ ،‬فحججت ‪.‬‬
‫وسألته الجهاد‪ ،‬فجاهدت ‪ .‬وسألته ال مرابطة‪ ،‬فرابطت ‪ .‬وسألته الصالة في بيت المقدس‪ ،‬فصليت فيه ‪ .‬وسألته‬
‫يغنيني عن البيع والشراء‪ ،‬فرزقت ذلك كله ‪ .‬رأيت في المنام كإني في ذلك الموضع قائما ً أصلي ‪ .‬فإذا فيه النبي‬
‫صلى هللا عليه وسلم وأبو بكر وعمر وهابيل‪ ،‬فقلت ‪ :‬أسألك بحق الواحد الصمد وبحق أبيك آدم وبحق هذ ا النبي‪،‬‬
‫هذا دمك؟ فقال ‪ :‬أي رب آدم وأمي حواء ومحمد المصطفى صلوات هللا عليهم‪ ،‬وإن يجعل دمي مستغاث كل نبي‬
‫وصديق‪ ،‬ومن دعي عنده فيجيبه‪ ،‬ومن سأله فيعطيه سؤاله ‪ .‬فاستجاب هللا تعالى وجعل هذا الجبل آمنا ً ومغيثا ً ‪ ،‬ث م ّ‬
‫ووكل هللا تعالى به ملك ا ً وجعل معه من المالئكة بعد د النجوم يحفظونه ‪ .‬ومن أتى موضعه ال يريد إال الصالة فيه‬
‫إن يتقبل منه ‪ .‬فقال لي رسول هللا صلى هللا عليه وسلم ‪ :‬قد فعل هللا ذلك كرم ا ً وإحسانا ً وإني آتيه كل خميس‬
‫وصاحباي وهابيل فنصلي فيه ‪.‬‬
‫وبسفح الجبل موضع الكهف ‪ .‬روى بعض [ ‪ . 11‬ب ] الثقاة أنهم دخلوا المغارة وقلعوا البالطة الكبيرة‬
‫فوجدوا مغارة سعتها خمسة أذرع وأكثر ‪ .‬في شمالها إيوان وعليه سبعة أنفس طوال مسجيين بأكفانهم على هيئة‬
‫العرب ‪ .‬فتهيئوا أن يدنوا ورجعوا وأعادوا البالطة ‪.‬‬
‫وبه الربوة ‪ .‬وعن الثقات ‪ :‬من أراد أن يأتي إلى { ربوة ذات قرار ومعين }‬
‫‪259‬‬
‫‪ ،‬فليأت النيرب األعلى ذات‬
‫النهرين ‪ .‬وعلى الجملة فدمشق أكثر المدن أبدا ال ً وأكثرها أه ال ً وما ال ً ورج ال ً وزهاد ا ً وعبادا ً ومساجد ا ً وهي‬
‫ألهلها معقل ‪.‬‬
‫وفي أرض الشام موضع ورد الفضل بخصوصها ‪ .‬فمنها فلسطين ‪ .‬ورد في حديث ‪ :‬ما ينقص من األرض‬
‫يزاد في الشام‪ ،‬وما نقص من الشام يزاد في فلسطين ‪.‬‬
‫وقد ورد أن كعب األحبار لقي رج ال ً ‪ ،‬فقال له كعب من جملة حديث ‪ :‬لعللك من الجند الذي ينظر هللا إليهم‬
‫كل يوم م ّر تين ‪ .‬قال ‪ :‬ومن هم؟ قال ‪ :‬أهل فلسطين ‪ .‬قال ‪ :‬نعم ‪.‬‬
‫وعن عبد الملك الجزري قال ‪ :‬الشام مباركة وفلسطين مقدسة وبيت المقدس قدس القدس ‪.‬‬
‫وعن ألبي هريرة مرفوعا ً‪ :‬الزموا الرم لة‪ ،‬يعني فلسطين‪ ،‬فإنها الربوة التي قال هللا تعالى ‪ { :‬وآويناهما إلى‬
‫ربوة ذات قرار ومعين } ‪ .‬وقد تقدم ذكرها ومأثرها في الباب السابع ‪.‬‬
‫ومنها ل دّ ‪ .‬وقد ورد في صحيح مسلم أن النبي صلى هللا عليه وسلم قال ‪ :‬وقد ذكر عنده الدجال يقتله ابن‬
‫‪259‬‬
‫من القرآن ‪. 857:2‬‬
‫‪196‬‬
‫مريم بباب ل د ّ ‪.‬‬
‫ومنها عسقالن وغز ة ‪ .‬فعن ابن الزبير يرفعه ‪ :‬طوبى لمن سكن أرض العورسين ‪.‬‬
‫ومنها بيت لحم ‪ .‬وتقدم الكالم عليها ‪.‬‬
‫ومنها حمص ‪ .‬فعن قتادة أنه نزلها خمسمئة صحابي ‪ .‬وقيل ‪ :‬ال يدخلها حية وال عقرب ‪ .‬وبها قبر خالد بن‬
‫[ ‪ . 11‬أ ] الوليد وكعب األحبار ‪.‬‬
‫ومنها ق ن ّ سرين ‪ .‬روى البخاري قي تاريخه عن جرير بن عبد هللا عن النبي صلى هللا عليه وسلم أنه قال ‪:‬‬
‫أوحي إلى أي هذه الثالثة نزلت‪ ،‬فهي دار هجرتك المدينة أو البحرين أو قنسرين ‪.‬‬
‫ومنها أنطاكية ‪ .‬وبها قبر حبيب الن ّج ار ‪ .‬وقال يوسف بن أسباط المرأته ( لما حضرته )‬
‫‪260‬‬
‫الوفاة ‪ :‬إذا أنا مت‬
‫فالحقي بأنطاكية وليكن قبرك بها ‪.‬‬
‫وب الحقيقة فغالب بقاع الشام مشحونة بقبور األنبياء والصحابة ‪ .‬فأما األنبياء‪ ،‬فعن كعب األحبار قال ‪:‬‬
‫بطرسوس من قبور األنبياء عشرة وبالمصيصة خمسة وبالثغور من سواحل الشام من قبور األنبياء ألف قبر‬
‫وبأنطاكية قبر حبيب النجار وبحمص ثالثون قبر ا ً وبدمشق خمسمئة قبر وببالد األردن مثل ذلك وببيت المقدس‬
‫ألف قبر وبالعريش عشرة وقبر موسى بدمشق ‪ .‬قال صاحب إتحاف األخصا ء ‪ :‬الذي عليه األكثرون أن قبر موسى‬
‫عليه السالم بالقرب من أريحا بالغور ‪.‬‬
‫وأما الصحابة فكثير ‪ .‬منهم بالل بن ر ب ّاح وأبو الدرداء وواثلة بن األسقع وفضالة بن عبيد وأسامة بن زيد‬
‫وحفصة بنت عمر وغيرهم كثير ال يعرف اسماؤهم وال قبورهم ‪ .‬فقد ورد عن األشعث بن سليمان قال ‪ :‬بالشام‬
‫عشرة آالف عين رأت النبي صلى هللا عليه وسلم ‪.‬‬
‫انتهى المقصود من تلخيص أتحاف األخصا وأنس الجليل ‪ ،‬والحمد هلل رب العالمين ‪.‬‬
‫قلت ‪ :‬وممن هو مدفون بالشام جدنا األعلى سعد بن عبادة األنصاري الخزرجي ‪ .‬فناسب أن نختم هذا‬
‫المختصر بذكره وذكر مناقبه وذكر بعض فضائل األنصار ‪.‬‬
‫فأقول ‪ :‬قال أمير المؤمنين في الحديث الشهاب أحمد بن حجر العسقالني في كتاب اإلصابة في معرفة‬
‫الصحابة ‪ :‬سعد بن عبادة بن دليم [ ‪ . 11‬ب ] بن حارثة بن حرام بن ( خزيمة )‬
‫‪261‬‬
‫بن ثعلبة بن طريف بن الخزرج‬
‫بن ساعدة بن كعب بن الخزرج األنصاري‪ ،‬سيد الخزرج‪ ،‬يكني أبا ثابت وأبا قيس ‪ .‬أ ّم ه عمرة بنت مسعود لها‬
‫صحبة وماتت في زمن النبي صلى هللا عليه وسلم سنة خمس ‪ .‬وشهد سعد العقبة وكان أحد النقباء واختلف في‬
‫شهوده بدرانا ً ‪ .‬فأثبته البخاري ‪ .‬وقال ابن س عد ‪ :‬كان متهيأ للخروج فه ّ‬
‫ش فأقام‪ ،‬وقال النبي صلى هللا عليه وسلم ‪:‬‬
‫لقد كان حريص ا ً عليها ‪.‬‬
‫قال ابن سعد ‪ :‬كان يكتب بالعربية ويحسن العوم الرمي فكان يقال له الكامل ‪ .‬وكان مشهورا ً بالجود هو‬
‫وولده وجده وأبوه وكان لهم أطم ينادى عليه كل يوم ‪ :‬من أحب اللحم والشحم فليأت أ طم دليم بن حارثة ‪ .‬وكانت‬
‫جفنة سعد تدور مع النبي صلى هللا عليه وسلم في بيوت أزواجه ‪ .‬وقال يقسم عن ابن عباس ‪ :‬كان رأية رسول هللا‬
‫صلى هللا عليه وسلم في المواطن كلها‪ ،‬مع علي رأية المهاجرين ومع سعد بن عبادة رأية األنصار ‪.‬‬
‫ي صلى‬
‫وقد روى أحمد من طريق محمد بن عبد الرحمن بن أسعد بن زرارة عن قيس بن سعد ‪ :‬زارنا النب ُ‬
‫‪260‬‬
‫‪261‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬أبي خزيمة )‪.‬‬
‫‪197‬‬
‫هللا عليه وسلم في منزلنا فقال ‪ :‬السالم عليكم ورحمة هللا‪ ،‬الحديث ‪ .‬وفيه ‪ :‬ثم رفع يديه فقال ‪ :‬اللهم‪ ،‬اجعل صلواتك‬
‫ورحمتك على آل سعد بن عبادة ‪.‬‬
‫وروى أبو يعلى من حديث جابر قال ‪ :‬قال رسول هللا صلى هللا عليه وسلم ‪ :‬جزى هللا ُ األنصار عنا خير ا ً ال‬
‫سيما عبد هللا بن عمرو بن حرام وسعد بن عبادة ‪.‬‬
‫وروى ابن أبي الدنيا قال ‪ :‬كان أهل الص ف ّ ة إذا أمسوا انطلق الرجل بالواحد والرجل باالثنين والرجل‬
‫بالجماعة ‪ .‬فأما سعد فكان ينطلق بالثمانين ‪.‬‬
‫وروى الدارقطني في كتاب االسخياء من طريق هشام بن عرو ة ( عن أبيه )‬
‫‪262‬‬
‫قال ‪ :‬كان منادي سعد ينادي‬
‫على أطمة ‪ :‬من كان يريد لحما وشحم ا ً [ ‪ . 16‬أ ] فليأت سعد ا ً ‪ ،‬وكان سعد يقول ‪ :‬اللهم‪ ،‬هب لي مجد ا ً ‪ .‬اللهم‪ ،‬إني ال‬
‫يصلح لي القليل وال أصلح عليه ‪.‬‬
‫وعن محمد بن سيرين ‪ :‬كان سعد بن عبادة يعشي كل ليلة ثمانين من أهل الصفة ‪ .‬وقصته في تخل فه عن‬
‫مبايعة أبي بكر مشهورة ‪ .‬وخرج إلى الشام فمات بحوران سنة خمس عشرة ‪ .‬وقيل سنة ست عشرة ‪.‬‬
‫روي عنه ‪ :‬بنوه قيس وسعيد وإسحاق وحفيده شرحبيل بن سعيد ‪.‬‬
‫وروي عنه ‪ :‬من الصحابة أيض ا ً ابن عباس وأبو أمامة بن سهل‪ ،‬وأرسل عنه الحسن بن عيسى بن فائد ‪.‬‬
‫وروى أبو داوود من حديث قيس بن سعد أن النبي صلى هللا عليه وسلم قال ‪ :‬اللهم‪ ،‬اجعل صلواتك‬
‫ورحمتك على آل سعد بن عبادة ‪ .‬أخرجه في أثناء حديث ‪ .‬وقيل إن قبره بالمنيحة قرية بدمشق بالغوطة ‪.‬‬
‫وعن سعيد بن عبد العزيز أنه مات ببصرى وهي أول مدينة فتحت من الشام‬
‫‪263‬‬
‫‪.‬‬
‫وفي نهاية التقريب بعد أن ذكر نس بة سعد قال ‪ :‬وكان سعد بن عبادة والمنذر بن عمرة وأبو دجانة لما‬
‫أسلموا يسكرون أصنام بني ساعدة وسعد شهد العقبة مع السبعين من األنصار ‪ .‬في روايتهم جميعا ً‪ :‬وكان أحد‬
‫النقباء االثنى عشر وكان يحث األنصار على الخروج لبدر فتهش فتخلف ‪ .‬فضرب له رسول هللا صلى هللا عليه‬
‫وس لم بسهمه وأجره ‪ .‬ولم يثبت شهد الخندق واحدا ً والمشاهد كلها مع رسول هللا صلى هللا عليه وسلم‬
‫‪264‬‬
‫في غزوة‬
‫دومة الجندل في شهر ربيع األول سنة خمس من الهجرة ‪ .‬وكان سعد بن عبادة في تلك الغزوة ‪ .‬فلما قدم رسول هللا‬
‫صلى هللا عليه وسلم أتى قبرها وصلى عليها ‪.‬‬
‫وقال حين قال رسو ل هللا صلى هللا عليه وسلم إذا بلغه إقبال أبي سفيان ‪ :‬أشيروا علينا‪ ،‬إيانا تريد يا رسول‬
‫هللا‪ ،‬فلو أمرتنا أن نخيضها البحر ألخضناها ولو أمرتنا أن نضرب أكبادها لبرك الغماد لفعلنا ذلك ‪ .‬ومناقبه‬
‫وفضيلته كثيرة جد ا ً ‪.‬‬
‫وقال [ ‪ . 16‬ب ] ابن أبي عروبة ‪ :‬سمعت محمد بن سيرين يح دث أن سعد بن عبادة بال قائما ً ‪ .‬فلما رجع قال‬
‫ألصحابه ‪ :‬إني ألجد دبيب ا ً فمات ‪.‬‬
‫وقال أبو عمر بن عبد الب ّر ‪ :‬وتخلف سعد عن بيعة أبي بكر وخرج من المدينة ولم ينصرف ( فيها )‬
‫‪265‬‬
‫إلى‬
‫أن مات بحوران من أرض الشام لسنتين ونصف مضت ا ً من خالفة عمر وذلك سنة خمسة عشر ‪.‬‬
‫وقيل سنة را بع عشر ‪ .‬وقيل ‪ :‬مات سعد بن عبادة في خالفة أبي بكر سنة أحد عشر ‪ .‬ولم يختلفوا أنهم وجدوا‬
‫ميت ا ً وأحضر جسده ولم يشعروا بموته حتى سمعوا قائ ال ً يقول ولم يروا أحد ا ً ‪ :‬قد قتلنا سيد الخزرج سعد بن‬
‫‪262‬‬
‫‪263‬‬
‫‪264‬‬
‫‪265‬‬
‫ناقصة في ب ‪.‬‬
‫مضا ف ة في ب ‪ ( :‬انتهى )‪.‬‬
‫مضا ف ة في ب ‪ ( :‬وكانت أمه عمرة من المباي عات‪ ،‬توفيت بالمدينة في مغيب رسول هللا صلى هللا عليه وسلم )‪.‬‬
‫ب ‪ ( :‬إليها )‪.‬‬
‫‪198‬‬
‫عبادة‪ ،‬رميناه بسهمين ‪ .‬فلم ي خط فواده ‪ .‬ويقال إن الجن قتلته ‪ .‬له ذلك في غير م وضع من الصحيحين ‪ .‬وروي له‬
‫األربعة ‪ .‬انتهي باختصار ‪.‬‬
‫وفي الصواعق للعالمة الشهاب أحمد بن حجر الهيثمي قال ‪ :‬أخرج أحمد أن أبا بكر لما خطب يوم السقيفة‬
‫لم يترك شيئ ا ً نزل في األنصار وال ذكره رسول هللا صلى هللا عليه وسلم في نسائهم إال ذكره ‪ .‬وقال ‪ :‬لقد علمتم أن‬
‫رسول هللا صلى هللا عليه وسلم قال ‪ :‬لو سلك الناس وادي ا ً وسلكت األنصار وادي ا ً لسلكت وادي األنصار ولقد علمت‬
‫يا سعد‪ ،‬إن رسول هللا صلى هللا عليه وسلم قال ‪ :‬وأنت قاعد قريش والة هذا األمر ‪ .‬فب ّر الناس تبع لب ّر هم وفاجرهم‬
‫تبعا ً لفاجرهم ‪ .‬فقال ‪ :‬صدقت نحن الوزراء وأنتم األمراء ‪ .‬ويؤخذ منه ضعف ما حكاه ابن عبد الب ّر أن سعدا ً أبا أن‬
‫يبايع أبا بكر حتى لقي هللا ‪ .‬انتهى ‪.‬‬
‫وأخرج مسلم في صحيحه عن أبي هريرة ‪ :‬قال سعد بن عبادة ‪ :‬يا رسول هللا‪ ،‬لو وجدت مع امرأتي رج ال ً لم‬
‫أمسه حتى أتى بأربعة شهداء؟ قال رسول هللا صلى هللا عليه وسلم ‪ :‬نعم ‪ .‬قال ‪ :‬كال‪ ،‬والذي بعث بالحق إن كنت‬
‫ألعاجله بالسيف قبل ذلك ‪ .‬قال رسول هللا صلى هللا عليه وسلم ‪ :‬اسمعوا إلى ما يقول سيدكم إنه لغيور وأنا أغير‬
‫منه وهللا أغير مني ‪.‬‬
‫وأخرج عن المغيرة [ ‪ . 17‬أ ] بن شعبة ‪ :‬قال سعد بن عبادة ‪ :‬لو رأيت رج ال ً مع امرأتي لضربته بالسيف غير‬
‫مصفح عنه ‪ .‬فبلغ ذلك رسول هللا صلى هللا عليه وسلم فقال ‪ :‬أتعجبون من غيرة سعد؟ فوهللا ألنا أغير منه وهللا أغير‬
‫مني ‪ .‬من أج ّل غيرة هللا حرم الفواحش ما ظهر منها وما بطن ‪ .‬وال شخص أغير من هللا وال أحد أحب إليه المدح‬
‫من هللا‪ ،‬من أج ّل ذلك بعث المرسلين مب ش ّ رين ومنذرين ‪ .‬وال شخص أحب إ ليه المدح من هللا‪ ،‬من أج ّل ذلك وعد هللا‬
‫الجنة ‪.‬‬
‫وفي اإلحياء عن الغزالي عن جابر قال ‪ :‬بعث رسول وهللا صلى هللا عليه وسلم بعث ا ً وأ مّ ر عليهم قيس بن‬
‫سعد بن عبادة ‪ .‬فجهدوا فخر لهم قيس تسع ركائب‪ ،‬فحدثوا رسول هللا صلى هللا عليه وسلم بذلك ‪ .‬فقال لهم رسول‬
‫هللا صلى هللا عليه وسلم ‪ :‬إن الجود من شيمة أهل ذلك البيت ‪ .‬انتهى ‪.‬‬
‫قلت ‪ :‬وقال شيخنا العالمة عبد هللا بن سالم البصري كان قيس أطلس ‪ .‬فقال قومه ‪ :‬وددنا له ل َ ْح ي َ ة ً ولو بنصف‬
‫أموالنا ‪ .‬وكان سعد ال يتزوج إال بكر ا ً وإذا طلق زوجة لم يتجاسر أحد يتزوجها بعده لشدة غيرته وشرفه ‪.‬‬
‫وفي كتا ب االنتصار النفيس لجناب اإلمام الشافعي محمد بن إدريس ما ن ّ‬
‫ص ه نبذة في فضل األنصار ‪.‬‬
‫أخرج الشيخان وغيرهما ‪ :‬األنصار ال يح ب ّهم إال مؤمن وال يبغضهم إال منافق ‪ .‬من أح ب ّهم أح ب ّه هللا‪ ،‬ومن‬
‫أبغضهم أبغضه هللا ‪.‬‬
‫وصح في الخبر أن هذا الحي من األنصار ح ب ّهم إيمان وبعضهم ن فاق‪ ،‬من أح ب ّهم أح ب ّه هللا ومن أبغضهم‬
‫أبغضه هللا ‪ .‬الناس دثار واألنصار شعار ‪ .‬ولو سلك شعب ا ً وسلك األنصار شعبا ً لسلكت شعب األنصار ‪ .‬وال تحصى‬
‫مناقبهم وال تستقصى مأثرهم‪ ،‬وليس ذلك مخصوص ا ً بمن كان في زمن النبي صلى هللا عليه وسلم من األنصار‪،‬‬
‫وال يشمل من عداهم من ذرا ريهم فض ال ً عن كونه خاص ا ً بمن كان بأم القرى ‪.‬‬
‫وقد روى أحمد عن أنس [ ‪ . 17‬ب ] أن األنصار اجتمعوا فقالوا إلى متى نشرب من هذه اآلبار؟ فلو أتينا‬
‫النبي صلى هللا عليه وسلم ‪ .‬فسألناه لعله أن يدعو هللا لنا‪ ،‬فيفجر لنا من هذه الجبال عيونا ً ‪ .‬فجاؤوا بجماعتهم إليه‬
‫صلى هللا عليه وسلم ‪ .‬قال ‪ ( :‬أه ال ً ومرحب ا ً )‬
‫‪266‬‬
‫‪ ،‬لقد جاء بكم إلينا حاجة ‪ .‬قالوا ‪ :‬أي وهللا يا رسول هللا ‪ .‬قال ‪ :‬إنكم لو‬
‫تسألوني شيئ ا ً إال أوتيتموه وال أسأل هللا شيئ ا ً إال أعطانيه ‪ .‬فأقبل بعضهم على بعض وقالوا ‪ :‬الدنيا تريدون اطلبوا‬
‫‪266‬‬
‫ب ‪ ( :‬مرحبا ً وأه ال ً )‪.‬‬
‫‪199‬‬
‫اآلخرة ‪ .‬فقالوا بجماعتهم ‪ :‬يا رسول هللا‪ ،‬ادع هللا أن يغفر لنا ‪ .‬فقال ‪ :‬اللهم‪ ،‬اغفر لألنصار وابناء األنصار وابناء‬
‫ابناء األنصار ‪ .‬فقالوا ‪ :‬وأوالدنا من غيرنا ‪ .‬فقال صلى هللا عليه وسلم ‪ :‬وأوالدكم من غيركم ‪ .‬فقالوا ‪ :‬يا رسول هللا‪،‬‬
‫وموالينا ‪ .‬فقال ‪ :‬وموالي األنصار ‪ .‬وهذا شامل لمن بقي من ذراريهم إلى يوم القيامة ‪.‬‬
‫ويؤيد هذا ما رواه الطبراني في الكبير من حديث معاذ بن رفاعة عن أبيه أن النبي صلى هللا عليه وسلم‬
‫قال ‪ :‬اللهم‪ ،‬اغفر لألنصار والبناء األنصار ولذراريهم ولجيرانهم ‪.‬‬
‫وفيه من حديث ابن عباس مرفوعا ً‪ :‬ال يبغض األنصار رجل يؤمن باهلل واليوم اآلخر ‪.‬‬
‫وفي ابن جبان ‪ :‬اللهم‪ ،‬اغفر لألنصار ولذراريهم ولذراري ذراريهم ولموالي األنصار ولجيرانهم ‪ .‬فشمل‬
‫الدعاء الذرية ممن كان منها ولو من أوالد البنات إلى يوم القيامة ‪ .‬ويؤيد قوله تعالى ‪ { :‬ومن ذريته داوود }‬
‫‪267‬‬
‫إلى قومه وعيسى وهو من ذريته مع ابن السيدة مريم‪ ،‬فهو من أوالد البنات وابن زمن نوح من زمن عيسى عليهم‬
‫السالم ‪ .‬ففيه دليل على شمول دعائه صلى هللا عليه وسلم البناء األنصار وذراريهم إلى يوم القيامة ودعاؤه‬
‫مستجاب ال يرد ‪ .‬لما روي مرفوع ا ً وكل نبي مجاب ‪ .‬انتهى ‪.‬‬
‫فالحمد هلل الذي أدخلنا في هذا العقد العظيم [ ‪ . 18‬أ ] وش ّر فنا بدعوة النبي الكريم وأتحفنا بنسبه الطاهر‬
‫وحسبه الفاخر ‪ .‬جعل هللا ذلك لنا ذخيرة في الميعاد‪ ،‬إنه كريم متفضل جواد ‪ .‬وليكن هذا آخر ما أردناه في ذلك‬
‫المقام وبالحمد والصالة يحسن المبدأ والختام ‪ .‬وحسبنا هللا ونعم الوكيل وال حول وال قوة إال باهلل العلي والعظيم ‪.‬‬
‫وكان الفراغ من كتابته يوم االثنين ال مبارك ‪ 11‬شهر محرم الحرام سنة ‪ 1161‬ألف ومئة وأحد وستين‪،‬‬
‫وهو بخط الفقير حسين العراقي غفر هللا له ‪.‬‬
‫حاشية ‪ : 171‬من ب‪ . 83 ،‬أ ‪ . 83 -‬ب ‪.‬‬
‫[ ب ‪ . 18 :‬أ ] تلعب بشيبته يمينا ً وشما ال ً ‪ .‬فقال صعلوك ‪ :‬هذا إبراهيم الخليل صلى هللا عليه وسلم ‪ .‬فسقطت‬
‫على وجهي ودعوت هللا تعالى بم ا حضر بي من الدعاء ‪ .‬ثم سرنا‪ ،‬فإذا د كّ ان لطيف وعليها أدم شديد األدمة لث‬
‫اللحية‪ ،‬وتحت منكبيه ثوب أخضر قد ج ل ّ له ‪ .‬فقال لي صعلوك ‪ :‬هذا يعقوب النبي صلى هللا عليه وسلم ‪ .‬ثم إننا عدلنا‬
‫يسار النظر إلى الحرم ‪.‬‬
‫فحلف أبو بكر أن ت مّ مت الحديث قال ‪ :‬فقمت من عنده في الوقت ال ذي حدثني فيه وخرجت من وقتي إلى‬
‫مسجد إبراهيم عليه السالم ‪ .‬فلما وصلت في المسجد سألت عن صعلوك فقيل لي ‪ :‬الساعة يحضر ‪ .‬فلما جاء قمت‬
‫إليه وجلست عنده وطارحته بعض الحديث‪ ،‬فنظر إلي بعين منكر للحديث الذي سمع مني ‪ [ .‬ب ‪ . 18 :‬ب ] فأوميت‬
‫ي عند ذلك ‪ .‬فقلت له ‪ :‬يا‬
‫إليه بلطف تخلصت منه من األثم والحرج‪ ،‬ثم قلت له إن أبا بكر األسكافي عمي فآنس إل ّ‬
‫صعلوك‪ ،‬باهلل لما عدلتم إلى نحو الحرم ماذا كان وما الذي رأيتما؟ فقال لي ‪ :‬ما حدثك أبو بكر؟ فقلت له ‪ :‬أريد أن‬
‫أسمعه منك أيضا ً ‪ .‬فقال ‪ :‬سمعنا من نحو الحرم صائحا ً يصيح ‪ :‬تج ن ّ بوا الحريم رحمكم هللا ‪ .‬فو قعنا مغشي ا ً علينا ثم‬
‫أن بعد وقت أفقنا وقمنا وقد أيسنا من الحياة وأيست الجماعة منا ‪ .‬قال ‪ :‬فقال لي الشيخ فعاش أبو بكر األسكافي‬
‫‪267‬‬
‫من القرآن ‪. 2720‬‬
‫‪200‬‬
‫بعد ما حدثني أيام ا ً يسيرة توفي وكذلك صعلوك رحمهما هللا تعالى ‪.‬‬
‫وروي عن الحسن بن عبد الواحد بن رزق الرازي قال ‪ :‬قدم أبو زرعة قاضي فلسط ين إلى مسجد إبراهيم‬
‫عليه السالم‪ ،‬فجئ ُ‬
‫ت أسلم عليه‪ ،‬وقد قعد عند قبر سارة عليها السالم في وقت الصالة ‪ .‬فدخل شيخ فدعاه وقال ‪ :‬ي ا‬
‫شيخ‪ ،‬أيما هو قبر إبراهيم من هؤالء؟ فأومئ إليه الشيخ إلى قبر إبراهيم عليه السالم ومضى‪ ،‬فجاء شاب فدعاه‬
‫وقال له مثل ذلك ‪ .‬فأومئ إله فقال أبو زوعة ‪ :‬أشهد أن هذا قبر إبراهيم ال ش ّ‬
‫ك فيه ‪ .‬نقل الخلف عن السلف كما‬
‫قال مالك بن أنس رضي هللا تعالى عنه إن نقل الخلف عن السلف أصح من الحديث ‪ .‬انتهى ‪.‬‬
‫وأما قبر إسماعيل عليه السالم‪ ،‬ففي الحجر بمكة عند أمه هاجر ‪ .‬انتهى ‪.‬‬
‫وصحن المسجد مكشوف تحت السماء بين مقامي ا لخليل ويعقوب عليهما السالم ‪ .‬ومقام السيد الصديق عليه‬
‫السالم يتوصل إليه من السور السليماني ‪.‬‬
‫وذرع المسجد طوله في حصنه قبلة بشام من صدر المحراب الذي بجانب المنبر إلى صدر ضريح سيدنا‬
‫يعقوب عليه السالم ثمانون ذراعا ّ تقريب ا ً وعرضه شرقا ً بغرب من السور الذي به باب الدخول إلى شباك ضريح‬
‫[ ب ‪ . 19 :‬أ ] السيد يوسف عليه السالم أحد وأربعون ذراعا ً ونصف تقريب ا ً وسمك السور ثالثة أذرع ونصف من‬
‫كل جانب وارتفاع البناء من األرض ستة وعشرون ذراع ا ً ‪ ،‬كل ذراع ذراع العمل ‪ .‬وهذا هو البناء السليماني غير‬
‫الرومي ‪.‬‬
‫وعلى السور منارتان ‪ .‬إحداهما من جهة الشرق مما يلي القبلة‪ ،‬والثانية من الغرب مما يلي الشمال ‪.‬‬
‫وبظاهر السور السليماني من جهة الشرق مسجد يسمى بالجاولية نسبة إلى أبي سعيد الجاولي سنة ‪ 711‬ثالثين‬
‫وسبعمئة ناظر الحرمين الشريفين‪ ،‬وهو من العجائب قطع من جبل جومة الجاولي ‪ .‬وبني عليه السقف والقبة‪،‬‬
‫وهو في غاية الحسن ‪ .‬وبين هذا المسجد والسور السليماني دهليز معقود مستطيل‪ ،‬وهو من العجائب على الهيبة‬
‫والوقار‪ ،‬مرتفع على اثنى عشر سارية مغروش أرضه وحيطانه وسوارية بالرخام ‪ .‬طوله قبلة بشام ثالثة‬
‫وأربعون ذراع ا ً وعرضه شرق ا ً بغرب خمسة وعشرين ذراع ا ً ‪.‬‬
‫وأما ما فيها من ا لمدارس والزوايا‪ ،‬فأحسنها زاوية الشيخ عمر المجرد بحارة األكراد ‪ .‬والمدرسة اليقحرية‬
‫عند باب المسجد الشمالي‪ ،‬وزاوية المغاربة بجوار عين الطواشي والقلعة حصن من بناء الروم يلصق المسجد‬
‫من جهة الغرب وقفها الملك الناصر حسن مدرسة‪ ،‬وبها ضريح السيد الصديق واآلن صارت مس اكن ألهل البلد ‪.‬‬
‫وزاوية الشيخ علي البكاء بحارته‪ ،‬وزاوية القواسمة نسبة للشيخ أحمد القاسمي الجنيدي المدفون بها ‪ .‬ومسجد ابن‬
‫عثمان وبه منارة ومسجد‪ ،‬ومشهد الشيخ يوسف النجار‪ ،‬والمدرسة الفخرية وقد صارت مهملة والرباط‬
‫المنصوري تجاه القلعة ‪.‬‬
‫وزاوية الشيخ إبراهيم المزي وزاوية الشيخ عبد الرحمن األزدي‪ ،‬وزاوية [ ب ‪ . 19 :‬ب ] البسطامية‪،‬‬
‫وزاوية السماقية‪ ،‬ومسجد الشيخ بهائ الدين الوفاي‪ ،‬وزاوية أبي عقاقة‪ ،‬ورباط الطواشي‪ ،‬وزاوية شيخون‪،‬‬
‫ورباط مكي‪ ،‬وزاوية الراي‪ ،‬وزاوية الشيخ علي األدهمي‪ ،‬ومسجد مسعود‪ ،‬وزاوية الشيخ البيضة‪ ،‬وزاوية‬
‫الموقع وزاوية الشيخ إبراهيم الحنفي‪ ،‬وزاوية الحضرمي‪ ،‬وزاوية األعيض‪ ،‬وزاوية القادرية وبها الزاهد‪،‬‬
‫ومسجد األربعين هو مسجد غربي البلد على رأس الجبل يقال إن بها أربعين شهيد ا ً ‪ ،‬وهو مأنوس بقصد للزيارة ‪.‬‬
‫‪201‬‬
202
LUJ 日 本 語 訳 注
[1. a] ヌ ー ル ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ ア リ ー ・ ブ ン ・ ガ ー ニ ム ・ マ ク デ ィ ス ィ ー Nūr al-Dīn ʽAlī b .
Ghānim al-M aqdisī の 学 識 深 き 孫 た る ア ブ ド ・ ア ル フ ィ ク フ ・ ム ス タ フ ァ ー ・ ア ス ア ド ・ ル カ
イ ミ ー ・ フ サ イ ニ ー ʽAbd al- Fiqh Muṣṭafā Asʽad al- Luqaymī al-Ḥusaynī 著 、『 エ ル サ レ ム と
ヘ ブ ロ ン の 至 宝 に 関 す る 栄 光 あ る 喜 び の 妙 句 Kitāb Laṭāʼif Uns al-Jalīl fī Taḥāʼif al-Quds wa
al-Khalīl』。 神 が 彼 ら 両 名 を 赦 し 給 わ ん こ と を 。 ア ー メ ン 。 神 た だ お ひ と り に こ そ 称 賛 あ れ 。
恩 寵 の 泉 に お け る さ さ や か な る 美 徳 の 術 に 貧 し き 者 、ア フ マ ド・ナ ー ス ィ ル・ア ッ デ ィ ー ン・
マ シ ュ リ キ ー Aḥmad Nāṣ ir al-D īn al-M as h r i qī の 知 事 在 任 中 に 。 神 が 彼 を 赦 し 給 わ ん こ と を 。
ム ハ ン マ ド ・ サ イ ー ド ・ ル カ イ ミ ー M uḥammad al-Saʽīd al-L uqaymī が 本 書 を 讃 え て 曰 く 、
これ〔本書〕は栄光ある喜びとともにこの至宝を示し
汝のクドスとヘブロンの歴史を集めた
この両者は書物なり、これらが金泥をもって王冠の上に書きつけられたならば
その王冠は小さきものとなろう
アスアドはこの両者のために要約をまとめ上げた
その美しき顔の上に精錬することによって
そして甘き水場を贖いとして編み上げた
灼熱もその水場を涼しく冷やす
その淵にある伝承の数々は彼のもとで真正であった
それがいかに病める者の心を癒しているか
彼はクドスの伝承によって我が耳を喜ばせた
汝の伝承のうちに我を加え給え、我が友よ
救済の持ち主に語り伝える者のために
我が喜びは栄光ある至宝をもってその歴史を綴る
それは楽園の門と同じ 8 つの堂を持ち
その結びは美しく、そこに示されたことは信頼に足る
神 が 両 者 を 赦 し 給 わ ん こ と を 。 1143 年 。
神 た だ お ひ と り に こ そ 称 賛 あ れ 。こ れ は 魂 の 聖 性 の 閃 き に し て 神 聖 な る ス ン ナ の 輝 き 、創 造
主 の ご 意 志 の 聖 性 で あ る 。こ れ は 美 質 に か け て 並 ぶ も の は な く 、そ の 美 質 は あ ら ゆ る 美 し き 連
203
れ 合 い が そ こ か ら 出 て 行 き 、健 や か な る 性 質 が そ れ に よ っ て 良 き も の と な り 、あ ら ゆ る 高 貴 な
る気質がそこから離れないというものである。幸運がそれを遠隔の地へとイスラーさせた間、
確 固 た る も の が 雄 弁 の 間 を 通 り 過 ぎ 、そ れ に よ っ て 最 も 優 れ た 広 場 へ の 旅 が 特 別 な も の と な っ
た 。そ れ に つ け て も 、広 場 で は ど れ だ け 雄 弁 術 が 割 り 当 て た も の が 、高 貴 な る 若 駒 に 乗 っ て い
た だ ろ う か 。そ し て そ れ は 雄 弁 の 柱 に よ っ て 拭 い 去 ら れ 、技 能 が 作 品 の 秘 密 に よ っ て そ れ を 許
し た 。最 も 遠 い 別 れ に 悲 し み へ と 向 か っ て い る 別 れ の 時 に 際 し 、神 は 私 に そ の 技 能 を 示 し て 下
さ っ た 。 し か し 私 は た だ 、「 旅 路 の 終 わ り の 日 の 肉 体 は 、 小 さ き も の と し て 神 に 従 う こ と に よ
っ て 、そ れ に 別 れ を 告 げ た だ ろ う か 。公 正 さ を も っ て 馬 を 追 い 立 て る こ と に よ っ て 、そ れ に 別
れ を 告 げ た だ ろ う か 。そ の 体 は そ れ に 従 っ て 、そ れ に 別 れ を 告 げ た だ ろ う か 」と 言 う 者 の 言 葉
を 繰 り 返 す の み で あ る 。ど う し て 兄 弟 と の 別 離 が 、死 者 た ち に そ の 正 義 を 与 え な い こ と が あ ろ
う か 。そ れ は 恋 人 と の 別 離 に も ま し て 辛 く 苦 し い も の で あ り 、私 が そ れ を 美 し く 要 約 し そ れ に
美 し く 敷 石 を 敷 く こ と に 拠 っ て い る 限 り 、私 に は そ れ を 形 容 す る こ と な ど で き は し な い 。く だ
ら な い お し ゃ べ り と は 無 縁 の 称 賛 の 乙 女 た ち に ふ さ わ し い こ と で も っ て 飾 り 気 を な く せ ば 、立
派な装飾に拠って狭くなっている場所もどうなることであろうか。
私 は 、兄 弟 が 無 力 さ や 突 然 の 別 れ の 恐 怖 か ら 守 ら れ る よ う に と 、ま た 神 の 寛 大 な る 恩 寵 を 請
う 。ま こ と に 神 は 最 も 豊 か に し て 栄 光 あ る 方 で あ る 。神 は 私 と 彼 を ひ と つ に 集 め 給 う た 。神 の
愛 情 を 受 け し も の の よ う に 。神 の ご 愛 情 は 、我 々 が 神 に 望 み 、ま た 神 が そ う あ れ か し と 求 め ら
れ る 以 上 の も の で あ る 。神 な ら ず し て 魂 に 力 を 及 ぼ す こ と は な し 。朋 友 に し て 常 に 誠 実 な る 者
ア フ マ ド ・ ブ ン ・ フ サ イ ン ・ キ ー ワ ー ニ ー Aḥmad b. Ḥus ayn al -Kīwānī が こ れ を 述 べ た 。 神 が
彼 ら 両 名 の 罪 を 赦 し 給 わ ん こ と を 。 11 50 年 末 。
[1. b] 慈 愛 深 く 慈 悲 あ ま ね き 神 の 御 名 に お い て 。 神 に こ そ 我 が 信 頼 は あ り 。
神 に 称 賛 あ れ 。神 は 計 り 知 れ ぬ ほ ど の 祝 福 を 我 ら に 定 め 給 い 、そ の た め に 我 々 に ア ク サ ー ・
モ ス ク 参 詣 を お 与 え に な っ た 。 神 は 我 々 に 豊 か な 憐 れ み を 与 え 給 い 、〔 ミ ン ハ ー ジ ー に よ る 〕
『 親 し き 友 の 贈 り 物 I tḥāf al-Akhiṣṣāʼ 』 と 〔 ウ ラ イ ミ ー に よ る 〕『 栄 光 の 喜 び al-Uns al- Jal īl』
の 2 つ の 書 を 要 約 す る こ と に 我 々 を お 導 き に な っ た 。神 の 恩 寵 の 門 に 祝 福 と 平 安 の あ ら ん こ と
を 。神 は そ れ を イ ス ラ ー に よ っ て 特 別 な も の と な さ っ た 。そ の 僕( ム ハ ン マ ド )を イ ス ラ ー さ
せ 給 い 、彼 に そ の 高 貴 な る 恩 寵 を 与 え 給 う た 方 に 栄 光 あ れ 。げ に 彼 は 、先 の 世 の 人 々 と 後 の 世
の 人 々 の 主 人 で あ り 、預 言 者 た ち と 使 徒 た ち の 封 印 で あ る 。神 よ 、彼 と 彼 の 聖 な る 一 族 、彼 の
聖 な る 教 友 方 に 、麝 香 よ り も 芳 し く 、人 々 が 集 め ら れ 復 活 さ せ ら れ る 日 に 至 る ま で 永 続 す る 祝
福と平安を与え給え。
さ て 、神 は 私 に か の 聖 な る 谷 を 目 指 す こ と を 恵 み 給 い 、私 に か の 神 聖 に し て 聖 な る も の と さ
れ た モ ス ク へ 参 詣 す る と い う 栄 誉 を 与 え 給 う た 。私 は そ の 広 大 な 地 域 に 滞 在 し 、溢 れ ん ば か り
の涙を流してその戸口に口づけし、その壁龕から光のランプを借りた。その美質は私の前に、
204
奥 深 く 隠 さ れ て い た も の を 明 ら か に し た 。私 は そ れ ら の 遺 跡 を 目 に し て 揺 れ 動 き 、そ の 馥 郁 た
る風の香りを我が身に浴びた。
〔 か つ て 〕そ こ の あ る 地 域 が 、私 の 父 祖 イ ブ ン ・ ガ ー ニ ム Ibn Gh ānim に 委 ね ら れ た 。〔 そ れ
は 〕良 き 時 代 の 宝 玉 、首 飾 り で あ っ た 。さ て 私 は 、そ う し た 偉 業 を 守 る た め 、ま た そ れ ら の 儀
式 を 正 し く 行 う た め に 、 私 の 目 の 前 に 何 か 書 物 が な い か 探 し 求 め た 。 そ し て 私 は 、『 親 し き 友
の 贈 り 物 Itḥāf al-A khiṣṣāʼ』 と 『 栄 光 の 喜 び al-Uns al-Jalīl』 を 見 つ け た 。〔 様 々 な 知 識 を 〕 集
め て 総 合 的 に 扱 う と い う 技 を 組 み 合 わ せ た 2 つ の 書 で あ る 。〔 こ れ ら は 〕 編 纂 さ れ た も の の う
ち で 最 も 優 れ 最 も 偉 大 な も の で あ り 、こ の 方 式 で 作 ら れ た も の の う ち で 最 も 優 れ た も の で あ る 。
し か し な が ら こ の 偉 業 を 語 る 上 で は 、そ れ を 要 約 し た り 短 縮 し た り す る こ と は 、参 詣 者 に と っ
て は 辛 い こ と で あ る 。私 は そ の 場 所 に 客 人 と し て 留 ま り 、夏 の 雲 の ご と く に そ の 広 場 に 滞 在 し
た 。 私 は 知 識 人 た ち が 望 む も の か ら か け 離 れ る こ と は せ ず 、〔 か の 2 つ の 書 に 〕 課 さ れ て い る
正 し い 作 法 か ら 離 れ る こ と も し な か っ た 。そ し て 私 が 戻 ろ う と 決 意 し 、私 の 大 切 な 人 を ま ど ろ
み か ら 目 覚 め さ せ た と き 、そ れ は そ の 杖 を 放 り 投 げ 、帰 途 に あ る 旅 人 が 陽 気 で あ る よ う に 、そ
こ に 留 ま っ た 。そ し て 私 は 再 び 、そ れ ら 2 つ〔 の 書 〕の 庭 に 目 を 向 け た 。す る と 私 の 本 質 の 中
に 、私 が 除 外 し た 伝 承 の 変 遷 や 、私 が 苦 し ん だ 原 典 の 混 乱 と と も に 、私 の 考 え を 反 映 す る も の
が 現 れ た 。 [2. a] も し 私 が こ れ ら 2 つ 〔 の 書 〕 か ら 、 旅 人 の 楽 し み と な り 、 滞 在 者 や 参 詣 者 の
糧 と な る よ う な も の を 要 約 し た な ら ば 、私 は そ れ ら の 庭 か ら 、優 美 な 葉 を つ け た ナ ツ メ ヤ シ を
収 穫 し 、そ れ ら の 熟 れ た 枝 々 か ら そ の 香 り 高 い 紅 の 花 々 を 集 め る こ と が で き よ う 。そ し て 慈 悲
と恩寵を持つ方を讃えることによって、楽園の門の数と同じ〔 8 つの〕門(章)を持つ庭がも
た ら さ れ た 。〔 そ れ ら の 章 は 〕 序 に 始 ま り 結 び に 終 わ っ て い る が 、 そ の 結 び の 美 し さ と 、 イ ス
ラ ー ム 世 界 と の 平 安 に よ る 結 び 付 き は 桁 外 れ の も の で あ る 。 私 は こ れ を 、『 エ ル サ レ ム と ヘ ブ
ロ ン の 至 宝 に 関 す る 栄 光 あ る 喜 び の 妙 句 Laṭāʼif Uns al -Jalīl fī Taḥāʼ if al-Quds wa al-Khalīl』 と
名付けた。
序:聖なる地の境界と、敬神の土台となるその礎
第 1 章:バイト・アルマクディスの名称と神聖性、参詣者に贈られる高貴なる贈り物
第 2 章:神 聖 な る ク ド ス の 町 を 整 え た 者 と そ こ に 住 ん だ 者 、そ こ が 2 度 征 服 さ れ た こ と に つ
いて簡潔に
第 3 章:アクサー・モスクと岩〔のドーム〕の様子、詳しく述べられることのない偉業
第 4 章:クドスの町の様子とそこにあるマシュハド、その天幕の中にある各所
第 5 章 : ヘ ブ ロ ン の 町 と そ の モ ス ク 、神 の 友〔 ア ブ ラ ハ ム 〕の 物 語 と 、彼 の マ シ ュ ハ ド に 参
詣することの美徳
第 6 章:バイト・アルマクディスの周囲にある高貴な偉業のある村々
第 7 章:預言者たち、教友たち、著名な人々のうち、バイト・アルマクディスに入った人、
205
または知識人のうちでそこで死に埋葬された人
第 8 章:ヒ ド ル ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 物 語 と 、バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に あ る 彼 の 位 高 き 住 ま
い
結び:シャームの物語、その美徳と偉大さ、その場所の神聖さ
私 は そ れ を 、旅 人 た ち の た め の 案 内 書 、参 詣 者 た ち に 贈 ら れ た 贈 り 物 と し た 。驚 嘆 す べ き 事 々
の う ち 最 も 不 可 思 議 な も の 、不 可 思 議 な 事 々 の う ち 最 も 驚 嘆 す べ き も の の 中 で 、今 こ こ に あ る
こ の 書 は 完 全 な も の で あ る 。私 は 結 び の 麝 香 を も っ て 、そ れ に 判 を 押 す こ と を 望 ん だ 。私 が も
う 一 度 ク ド ス に 戻 っ て い く こ と は 容 易 い こ と で あ り 、ま た 私 は 徹 頭 徹 尾 そ う す べ き な の で あ る 。
そ し て 私 は 再 び か の 遺 跡 に 座 っ た 。す る と 神 を 称 賛 す る こ と に よ っ て 、経 験 は 物 語 に 行 き 当 た
っ た 。し か し な が ら そ こ に は 、人 々 が 忘 れ 去 っ て い た 偉 業 や 、語 ら な か っ た 場 所 が あ り 、あ る
信 頼 に 足 る 人 物 が 私 を そ こ へ 案 内 し て く れ た 。そ こ で 私 は 決 意 を 固 め 、そ こ に 留 ま っ た 。[2. b]
私 は そ の 最 も 近 い 場 所 に 関 す る あ ら ゆ る こ と や 、私 が 述 べ た よ う な 題 を つ け た も の を 、最 も ふ
さ わ し い よ う に 語 ろ う と 思 い 至 っ た の で あ る 。神 は お 望 み に か な う 者 を 、正 し き 道 へ と 導 き 給
う。神は我々を清算し給う。なんとすばらしき権力者であることか。
序:聖なる地の境界と、敬神の土台となるその礎
そ の 南 に は ヒ ジ ャ ー ズ の 地 が あ り 、 そ の 2 地 域 の 間 は 峻 嶮 な サ ウ ダ ー 山 脈 Jibāl al-Sawdāʼ
に よ っ て 隔 て ら れ て い る 。そ の 山 脈 と ア イ ラ Ayla の 間 は お よ そ 2 日 行 程 で あ る 。ア イ ラ の 平
地 が ヒ ジ ャ ー ズ の 先 端 で あ り 、そ こ は イ ス ラ エ ル の 民 の 荒 野 の 一 部 で あ る 。そ こ と バ イ ト ・ア
ルマクディスの間は、荷を持った旅にしておよそ 8 日である。ドゥーマト・アルジャンダル
Dūmat al-Jandal よ り 向 こ う の 東 に は 、 サ マ ー ワ の 砂 漠 Barrīyat al -Samāwa が あ る 。 そ こ は
広 く 、イ ラ ク へ と つ な が っ て い る 。そ こ に は シ リ ア の ア ラ ブ た ち が 住 ん で い る 。バ イ ト ・ ア ル
マ ク デ ィ ス か ら そ こ ま で の 距 離 は 、ア イ ラ へ の 距 離 と 同 等 で あ る 。北 に は 、東 と 接 す る と こ ろ
にユーフラテス川があり、バイト・アルマクディスからの距離は荷を持った旅にしておよそ
20 日 で あ る 。 こ の 境 界 よ り 、 完 全 に シ リ ア の 王 国 の 版 図 と な る の で あ る 。 西 に は 地 中 海 が あ
り 、こ れ は 塩 の 海 で あ る 。バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス か ら そ こ ま で の 距 離 は 、パ レ ス チ ナ の ラ ム
ラ Raml at Fil asṭīn の 方 か ら 見 て 2 日 間 で あ る 。 南 に は エ ジ プ ト の ラ ム ラ Ramlat Miṣr と ア リ
ー シ ュ al-ʽArīsh が あ る 。 そ こ と バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 間 は 、 荷 を 持 っ た 旅 に し て 5 日 で
あ る 。そ の 先 そ こ は イ ス ラ エ ル の 民 の 荒 野 、す な わ ち シ ナ イ 山 に 隣 り 合 っ て お り 、こ の 方 角 か
ら タ ブ ー ク Tabūk 、そ し て ド ゥ ー マ ト ・ ア ル ジ ャ ン ダ ル へ と 伸 び て 、東 の 境 界 へ と つ な が っ て
いる。
206
ク ド ス の 境 界 に つ い て は 、慣 例 と し て は 神 聖 な る ク ド ス の 行 政 が 及 ぶ 範 囲 で あ り 、内 的 に は
その地のカーディーの判断が及ぶ範囲である。南には、我らが主人たる神の友〔アブラハム〕
― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の 行 政 区 が あ り 、 そ れ ら の 間 に は サ イ ー ル 村 Qar yat Saʽīr
と そ れ に 向 か い 合 う も の が あ る 。そ の 村 は ク ド ス 行 政 区 の 中 に 入 っ て い る 。東 に は ヨ ル ダ ン 川
が あ り 、 こ の 川 は 「 シ ャ リ ー ア al -Sh arīʽa」 と 呼 ば れ て い る 。 東 に は ナ ー ブ ル ス Nābl us の 町
の 行 政 区 が あ り 、そ れ ら の 間 に は サ ン ジ ャ ル Sanjal と ガ ル ー ン Gh arūn の 村 が あ る 。こ れ ら 2
つ の 村 は ク ド ス 行 政 区 の 中 に 入 っ て い る 。境 界 の 最 後 は ラ ー ス・バ ニ ー・ザ イ ド Raʼs Banī Zayd
で 、こ こ は ラ ム ラ 行 政 区 の 中 に 入 っ て い る 。西 は パ レ ス チ ナ の ラ ム ラ に 隣 り 合 っ て お り 、バ イ
ト ・ ナ ウ バ 村 Qa rya t Bay t Nawba は ク ド ス 行 政 区 の 中 に 入 っ て い る 。 ま た ガ ザ の 町 に も 隣 り
合 っ て お り 、 ア ジ ュ ー ズ 村 Qaryat ʽAjūz は ガ ザ 行 政 区 の 中 に 入 っ て い る 。
我 ら が 主 人 た る 神 の 友 ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 町 に つ い て は 、南 に は ヒ ジ ャ ー ズ を 攻 撃 す る 際 の
武 器 庫 と 、ク バ ー ブ・ア ッ シ ャ ー ワ リ ー ヤ Qubāb al-Shāwarīya が あ る 。そ こ は ア ラ ブ 族 の バ
ヌ ー ・ シ ャ ー ワ ル に 由 来 す る 村 で あ る 。 東 に は ア イ ン ・ ジ ャ ッ デ ィ ー 村 Qa ry at ʽAyn Jaddī が
あ り 、そ こ は 神 の 友 ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 町 の 行 政 区 の 中 に 入 っ て い る 。[3. a] ま た ロ ト の 湖( 死
海 )Buḥayra Lūṭ も あ る 。こ の 境 界 は カ ラ ク 行 政 区 と の 間 に あ る 。北 は 、我 々 が 先 に 述 べ た よ
うに、神聖なるクドス行政区との間に、サイール村とそれに向かい合うものがある。西には、
パ レ ス チ ナ の ラ ム ラ と 向 か い 合 う 方 角 に ザ カ リ ヤ 村 Qar yat al-Z akariyā が あ る 。そ こ は ヘ ブ ロ
ン 行 政 区 の 中 に 入 っ て い る 。 ま た ガ ザ と 向 か い 合 う 方 角 に は サ ム サ ジ ュ 村 Q aryat Sa msaj が
あ り 、 そ こ は バ ヌ ー ・ ア ブ ド Banū ʽAb d の 地 で あ る サ ク リ ー ヤ 村 Qar yat Sak rīya に 隣 り 合 っ
て い る 。そ こ は 神 の 友 ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 町 の 行 政 区 の 中 に 入 っ て い る 。バ イ ト ・ア ル マ ク デ
ィ ス か ら 我 ら が 主 人 た る 神 の 友 〔 ア ブ ラ ハ ム 〕 ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 町 ま で の 距 離 は お よ そ 13
ミ ー ル 1 、 あ る い は 18 ミ ー ル で あ る 。 神 が 最 も よ く ご 存 じ で あ る 。
第 1 章:バイト・アルマクディスの名称と神聖性、参詣者に贈られる高貴なる贈り物
そ の 名 前 に つ い て は 、数 多 く 、そ の 偉 大 な る 事 績 を 表 す も の で あ る 。そ の 中 に は「 ア ク サ ー ・
モ ス ク al-M asjid al-Aqṣā」が あ る 。こ れ は そ こ が 参 詣 さ れ る 最 も 遠 隔 の モ ス ク で あ り 、そ れ に
よ っ て ハ ラ ー ム ・モ ス ク か ら の 報 い が 求 め ら れ る と こ ろ で あ る か ら で あ る 。あ る い は ま た 、そ
こ が ふ さ わ し く 理 想 的 な 程 度 に 隔 た っ て い る こ と の ゆ え で あ る 。あ る い は ま た そ こ が 現 世 の 中
心 に あ り 、 か つ て ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー ・ ブ ン ・ サ ラ ー ム ʽAbd All āh b. Sal ām が 預 言 者 ム ハ ン マ
ドから伝えたように、何も加えられず何も減じられないことのゆえである。
イ ー リ ヤ ー の モ ス ク Masj id Īl iyāʼ :〔 イ ー リ ヤ ー の 綴 り は 〕 キ ブ リ ヤ ー k ibriyāʼ と 同 様 で あ
1
ミ ー ル mīl は イ ス ラ ー ム 地 域 に お け る 距 離 の 単 位 で あ り 、 1 ミ ー ル は 約 2km で あ る 。
207
る 。 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス Bay t al- Maqdis: 神 に 仕 え る 場 所 の よ う な 、 す な わ ち 「 罪 か ら
清 め ら れ た 場 所 」 と い う こ と で あ る 。 こ れ は 「 手 桶 al-qudus 」 か ら 派 生 し た 言 葉 で あ り 、 洗
浄ということである。
バ イ ト・ア ル ム カ ッ ダ ス al-Bay t al-Mu qaddas:ダ ン マ の ミ ー ム に シ ャ ッ ダ 付 き の ダ ー ル で 。
すなわち偶像や十字架から清められた場所、ということである。
ク ド ス al-Quds/ al-Qudus : ス ク ー ン の ダ ー ル か ダ ン マ で 。 動 名 詞 。
バ イ ト ・ ア ル マ ク ド ゥ ス Bay t al-Maq dus/ Bayt al -Maqds : ダ ン マ の ダ ー ル か ス ク ー ン で 。
サ ッ リ ム Salli m: 点 の な い ス ィ ー ン で 。 そ の 意 味 は 「 天 使 た ち の 挨 拶 が 数 多 く あ る 平 安 の
家」である。
イ ー リ ヤ ー の 町 / イ ー リ ヤ ー K ūrat Īliyāʼ/ Īliyāʼ:イ ー リ ヤ ー の 意 味 は「 神 聖 な る 神 の 家 」で
ある。
ア ウ シ ャ リ ム A wshal im: フ ァ タ ハ の ハ ム ザ に フ ァ タ ハ の シ ー ン 、 カ ス ラ の ラ ー ム 。
ウ ー リ サ リ ー ム / ウ ー リ シ ャ リ ー ム Ūrisal īm/Ūrishalīm、あ る い は 点 の あ る シ ー ン に シ ャ ッ
ダ つ き で シ ャ ッ ラ ム Shallam、 ま た は シ ュ ラ ム Shulam。
バ イ ト ・ ア ー イ ル Bayt Āyl : す な わ ち 「 神 の 家 」。
〔 そ の 他 〕 シ オ ン Ṣahyūn、 カ ス ル ー ス Q aṣrūth 、 バ ー ブ ー シ ュ Bābūsh、 ク ー ル ・ サ ッ ラ ー
Kūr Sall ā、 ア ズ ィ ー ル Azīl 、 サ ル ー ン Ṣal ūn な ど 。 ま た バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス は 「 オ リ ー
ブ al-Z aytūn」 と も 言 わ れ る 。 し か し 「 聖 域 al-Ḥaram」 と は 呼 ば れ な い 。
そ こ( バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス )の 持 つ 神 聖 さ や 恩 寵 に つ い て は 、す で に 神 聖 な る ク ル ア ー
ン の 章 句 や 、い と 高 く す べ て を 超 越 し た ス ン ナ の 中 で 明 ら か に さ れ て お り 、ま た そ れ に 関 す る
はっきりとした言い伝えや、真正で重みのある伝承も豊かにある。
ク ル ア ー ン の 章 句 に つ い て は 、 至 高 な る 方 の お 言 葉 、〈 聖 な る 礼 拝 堂 か ら 、 我 ら が 周 囲 を 祝
福 し た 遠 隔 の 礼 拝 堂 ま で 、夜 の 間 に そ の 僕 を 連 れ て 旅 し 給 う た お 方 に 栄 光 あ れ 〉(Q17:1) が あ
る 。[3. b] そ こ に あ る 恩 寵 に つ い て は こ の 1 句 で 十 分 で あ り 、祝 福 が 豊 か に 集 ま っ て い る の で
あ る 。と い う の も 、そ の 周 囲 が 祝 福 さ れ た と き 、そ の 祝 福 は 2 倍 に な っ た か ら で あ る 。そ し て
そ こ か ら ミ ー ラ ー ジ ュ が 行 わ れ た と い う こ と は 、そ の 地 の 神 聖 さ を 示 し て お り 、そ れ が 完 全 に
成 し 遂 げ ら れ た こ と を 注 意 し て い る の で あ る 。「 我 ら が 周 囲 を 祝 福 し た 」 と は 、 河 川 を 流 し 果
物 を 生 や し た と い う こ と で あ る 。「 我 ら が 周 囲 を 祝 福 し た 」 と は 、 パ レ ス チ ナ と ヨ ル ダ ン 、 す
な わ ち シ ャ リ ー ア 川 の こ と で あ る 。あ る い は「 我 ら が 周 囲 を 祝 福 し た 」と は 、シ リ ア の こ と で
ある。あるいは「我らが周囲を祝福した」とは、預言者たちの墓があるがゆえのことである。
す な わ ち そ こ は 、預 言 者 た ち の 住 ま い で あ り 墓 で あ り 、天 使 た ち や 啓 示 が 下 っ て 来 る が ゆ え に 、
ま た そ こ に 人 々 が 集 め ら れ る と こ ろ が あ る が ゆ え に 、「 祝 福 さ れ た 地 」 と 呼 ば れ る の で あ る 。
ズ フ リ ー al-Zuhr ī は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に や っ て 来 て 、あ る 人 が バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ
ス の 恩 寵 に つ い て い ろ い ろ と 語 っ て い る の を 見 た 。 ズ フ リ ー は 彼 に 言 っ た 。「 あ な た は か の 方
208
の お 言 葉 、〈 聖 な る 礼 拝 堂 か ら 、 我 ら が 周 囲 を 祝 福 し た 遠 隔 の 礼 拝 堂 ま で 、 夜 の 間 に そ の 僕 を
連れて旅し給うたお方に栄光あれ〉を言うまでは終われませんよ」
ま た そ の 中 に は 、 至 高 な る 方 が イ ス ラ エ ル の 民 に 言 わ れ た お 言 葉 、〈 こ の 町 に 入 り 、 好 き な
と こ ろ で 存 分 に 食 べ よ 。 伏 し 拝 み つ つ 門 に 入 り 、「 お 赦 し を 」 と 言 え 。 そ う す れ ば 、 我 ら は お
前 た ち の 罪 を 赦 し て や ろ う 。ま た 善 行 者 に は さ ら に 多 く 報 い よ う 〉 (Q2:58) が あ る 。神 は バ イ
ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 除 い て は モ ス ク を 特 別 な も の と は な さ ら ず 、〔 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス
に お い て は 〕た だ そ の 特 別 性 の ゆ え に 、そ こ で 跪 拝 す る こ と に よ り 彼 ら の 罪 が 赦 さ れ る の で あ
る。
ま た そ の 中 に は 、 至 高 な る 方 の お 言 葉 、〈 我 ら は 彼 と ロ ト を 救 っ て 、 万 民 の た め に 我 ら が 祝
福 し た 地 に 連 れ 出 し た 〉(Q21:71) が あ る 。ま た 至 高 な る 方 の お 言 葉 、〈 ま た 我 ら は マ リ ア の 子
と そ の 母 を し る し と な し 、 安 泰 に し て 泉 湧 く 丘 に 宿 所 を 与 え た 〉 (Q23:5 0) が あ る 。 ま た 至 高
な る 方 の お 言 葉 、〈 神 が お 前 た ち の た め に 定 め 給 う た 聖 地 に 入 れ 〉 (Q5:21) が あ る 。 ま た 至 高
な る 方 の お 言 葉 、〈 彼 ら が 取 り 急 い で 墓 か ら 出 て く る 〉 (Q70: 43) が あ る 。こ れ は 、 バ イ ト ・ ア
ル マ ク デ ィ ス の 岩 の も と に〔 急 ぎ 来 る 〕で あ る と 言 わ れ て い る 。ま た 至 高 な る 方 の お 言 葉 、
〈我
ら は イ ス ラ エ ル の 子 ら の た め に 優 れ た 居 住 地 を 備 え て や っ た 〉 (Q10 :93) が あ る 。 こ れ は シ ャ
ー ム の こ と で あ り 、ま た 特 に バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の こ と で あ る 。ま た 至 高 な る 方 の お 言 葉 、
〈 召 還 役 が 近 い 場 所 か ら 呼 び か け る 日 〉 (Q50:41) が あ る 。 こ れ は す な わ ち 、 岩 か ら で あ る 。
また至高なる方のお言葉、
〈 イ チ ジ ク と オ リ ー ブ に か け て 〉(Q95:1) が あ る 。ウ ク バ ・ブ ン ・
ア ー ミ ル ʽUqb a b. ʽĀmir 曰 く 、「 イ チ ジ ク と は ダ マ ス カ ス 、 オ リ ー ブ と は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ
ィ ス の こ と で あ る 」 ま た ア ブ ー ・ フ ラ イ ラ Abū Hurayra 曰 く 、「 我 ら が 主 ― そ の 栄 光 よ 高 ら か
な れ ― は 、4 つ の 山 々 に か け て 誓 わ れ て 、
〈 イ チ ジ ク と オ リ ー ブ に か け て 、シ ナ イ 山 に か け て 、
こ の 平 安 の 国 に か け て 〉と 言 わ れ た 。す な わ ち イ チ ジ ク と は 輝 か し き 角 た る ダ マ ス カ ス の モ ス
ク 、オ リ ー ブ と は オ リ ー ブ 山 の こ と で バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の モ ス ク 、シ ナ イ 山 と は 神 が モ
ーセ―彼に平安あれ―にお言葉をかけられた地、この平安の国とはメッカの山のことである」
ま た そ の 中 に は 、至 高 な る 方 の お 言 葉 、〈 彼 ら の 間 に 壁 が 立 て ら れ 〉(Q57:13) が あ る 。こ れ
は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 壁 の こ と で 、 [4. a] そ の 内 側 と は ラ フ マ 門 ( 恩 寵 の 門 ) Abwāb
al-Raḥma、 外 側 と は ワ ー デ ィ ー ・ ジ ャ ハ ン ナ ム ( 地 獄 の 谷 ) Wadī Jahannam の こ と で あ る 。
ま た 至 高 な る 方 の お 言 葉 、〈 我 ら は 詩 編 の 中 に も 、訓 戒 の 後 で 、「 大 地 は 、我 が 正 し い 僕 た ち が
こ れ を 継 ぐ 」 と 記 し て お い た 〉 (Q21:1 05) が あ る 。 あ る 解 釈 者 は 、「 聖 な る 地 は ム ハ ン マ ド ―
神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の ウ ン マ に 継 承 さ れ る 」と 言 っ て い る 。ま た 至 高 な る 方 の お
言 葉 、〈 神 の 礼 拝 堂 で 御 名 が 唱 え ら れ る の を 妨 げ 、 そ れ を 破 壊 し よ う と 試 み る 者 、 こ ん な 者 よ
り 悪 い 輩 が い る だ ろ う か 。こ の よ う な 者 は も と も と 、恐 る 恐 る そ こ に 入 る こ と し か で き な い の
だ 。 彼 ら に は 現 世 の 恥 辱 が あ り 、 来 世 の 大 い な る 懲 罰 が あ る 〉 (Q2: 114) が あ る 。 こ れ は 、 ビ
ザ ン ツ が ム ス リ ム た ち に バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 中 に 入 る こ と を 禁 じ た と き に 下 っ て き た も
209
の で あ る 。し か し 神 が 彼 ら を 追 い 出 し 給 う た の で 、彼 ら は 誰 一 人 と し て 、怯 え 、ジ ズ ヤ と 恥 辱
の衣を被って弱々しい状態でなければ、決してそこに入ることができないのである。
ス ン ナ に つ い て は 、 ア ブ ー ・ フ ラ イ ラ が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、「 ハ ラ ー ム ・ モ
ス ク 、ア ク サ ー ・ モ ス ク 、こ の 私 の モ ス ク の 3 つ の モ ス ク に 鞍 を 据 え よ 」ま た ア ブ ー ・ サ イ ー
ド ・ フ ド リ ー Ab ū Saʽīd al -Khudrī が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、「 ハ ラ ー ム ・ モ ス ク 、
私 の モ ス ク 、バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ ス の モ ス ク の 3 つ の モ ス ク 以 外 に 向 け て 、鞍 を 据 え て は な
らない」
ア ブ ー ・ ザ ッ ル Ab ū Dharr 曰 く 、「 私 が 『 神 の 使 徒 よ 、 大 地 に 最 初 に 置 か れ た モ ス ク は ど れ
で す か ? 』と 言 う と 、彼 は『 ハ ラ ー ム ・モ ス ク で あ る 』と 言 っ た 。私 が『 そ の 次 に は ? 』と 言
う と 、彼 は『 ア ク サ ー・モ ス ク で あ る 』と 言 っ た 。私 が『 そ れ ら 2 つ の 間 は い か ほ ど で す か ? 』
と 言 う と 、彼 は 言 っ た 。『 40 年 間 で あ る 。 し か し 礼 拝 の 時 間 に な っ た ら ど こ で で も 礼 拝 し な さ
い 。 そ こ が モ ス ク で あ る 』」「 そ れ ら 2 つ の 間 は 40 年 間 で あ る 」 と い う 彼 の 言 葉 は 、 そ れ に つ
い て の 言 及 が あ る よ う に 、天 使 た ち が カ ア バ と バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス を 建 設 し た 間 の こ と か 、
あ る い は ア ブ ラ ハ ム に よ る カ ア バ 建 設 と ヤ コ ブ に よ る バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス 建 設 の 間 の こ と
を表すものである。
イ ム ラ ー ン ・ ブ ン ・ フ サ イ ン ʽImrān b. Ḥuṣ ayn 曰 く 、「 私 は 言 っ た 。『 神 の 使 徒 よ 、 メ デ ィ ナ
は 何 と す ば ら し い の で し ょ う か 』 す る と 彼 は 、『 お 前 が バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 見 た こ と が
あ っ た な ら 』 と 言 っ た 。 私 が『 そ こ の ほ う が す ば ら し い の で す か ? 』と 言 う と 、預 言 者 ― 神 よ
彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― は 言 っ た 。『 ど う し て そ う で は な い こ と が あ ろ う か 。 そ こ と そ こ
に あ る す べ て の も の は 、参 詣 を 受 け る も の で あ っ て 、参 詣 さ れ る も の で は な い 。魂 た ち は そ こ
へ と 導 か れ る の で あ っ て 、バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス の 魂 が 導 か れ る の で は な い 。し か し な が ら
神 は メ デ ィ ナ を 、私 の ゆ え に 高 貴 な も の と し 美 し い も の と な さ っ た 。私 が そ こ で 生 き 、そ こ で
死 ぬ が ゆ え に 。そ う で な け れ ば 、私 は メ ッ カ か ら ヒ ジ ュ ラ な ど し た で あ ろ う か 。私 は 未 だ か つ
て 、 メ ッ カ に お い て 見 た 月 よ り も 美 し い 月 を 見 た こ と が な い 』」
カ ァ ブ〔 ・ ア ル ア フ バ ー ル 〕 Kaʽb al -Aḥbār 曰 く 、「 終 末 の と き は 、バ イ ト ・ ア ル ハ ラ ー ム が
バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ ス の も と を 訪 れ る ま で は 始 ま ら な い 。そ れ ら は 2 つ な が ら 、中 に そ の 民
を抱えたまま楽園に導かれる。整列と清算はバイト・アルマクディスにて行われる」
イ ブ ン ・ イ ム ラ ー ン Ibn ʽImrān 曰 く 、「 ハ ラ ム は 7 つ の 天 に お い て も 、地 上 に お け る の と 同
様 に 神 聖 な 場 所 で あ り 、バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス も 7 つ の 天 に お い て も 、地 上 に お け る の と 同
様に神聖な場所である」
カ ァ ブ 曰 く 、「 神 は 毎 日 2 度 、バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を ご 覧 に な る 」ま た 曰 く 、「 楽 園 の 諸
門 の う ち 天 か ら 開 か れ た 門 が あ り 、そ こ か ら は 終 末 の と き に 至 る ま で 毎 朝 、バ イ ト ・ ア ル マ ク
デ ィ ス の 上 に お 恵 み と 恩 寵 が 下 っ て 来 る 。神 の も と で 、大 地 の そ の 他 の 地 域 の 中 に バ イ ト ・ア
ル マ ク デ ィ ス の ご と き も の は な い 。[4. b] そ こ は 神 に と っ て 最 も 高 き 模 範 で あ る 。そ れ は ま る
210
で 、多 く の 財 物 を 持 ち 、そ の 中 に 一 番 大 切 な 財 物 を 入 れ た 宝 箱 を 持 っ て い る 王 の よ う な も の で
あ る 。朝 に な れ ば 、彼 は 自 分 の 財 産 の 中 で 真 っ 先 に 、彼 の そ の 宝 箱 に 目 を 向 け る で あ ろ う 。同
様 に 万 世 の 主 も 、毎 朝 大 地 の 中 で 真 っ 先 に そ こ に 目 を 向 け 給 い 、そ の 上 に お 恵 み と 恩 寵 を 与 え
給う。そしてその後、大地のその他の場所にそれを与え給うのである」
イ ブ ン ・ ア ッ バ ー ス Ibn ʽAbb ās が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、
「楽園の一部を見たい
と思う者は、バイト・アルマクディスを見よ」
ア ナ ス ・ ブ ン ・ マ ー リ ク Anas b. M ālik 曰 く 、「 楽 園 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 恋 い 求 め
て い る 。と い う の も バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ ス は パ ラ ダ イ ス al -Fardūs の 園 の 一 部 で あ る か ら で
あ る 。 パ ラ ダ イ ス と は シ リ ア 語 で 庭 園 と い う 意 味 で あ る 」 ま た 曰 く 、「 バ イ ト ・ ア ル ハ ラ ー ム
に や っ て 来 た 者 は 赦 さ れ 、〔 楽 園 で の 位 階 を 〕 8 段 上 げ ら れ る 。 使 徒 の モ ス ク に や っ て 来 た 者
は赦され、4 段上げられる。バイト・アルマクディスにて、信徒たちや女信徒たちのために毎
日 25 回 赦 し を 請 う た 者 は 、 神 が 彼 を 守 り 給 い 、 彼 を バ ー デ ィ ル た ち の 中 に 入 れ て 下 さ る 」
言 い 伝 え や 伝 承 に つ い て は 、 ハ ー リ ド ・ ブ ン ・ マ ァ ダ ー ン Khāl id b. M aʽdān よ り 次 の よ う
に あ る: バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 正 面 に は 天 か ら 開 か れ た 門 が あ る 。神 は 毎 日 7 万 人 の 天 使
た ち を〔 そ こ か ら 〕 下 し 給 う 。 彼 ら は 、バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス で 礼 拝 す る こ と を 切 望 す る 者
の た め に 赦 し を 請 う 。 あ る 伝 承 で は 、「 彼 ら は 、 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に や っ て き て そ こ で
礼拝する者のために、神に赦しを請う」とある。
ワ フ ブ ・ ブ ン ・ ム ナ ッ ビ フ Wahb b. Munabbih 曰 く 、「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 民 は 神 の
隣人である。まことに至高なる神は、その隣人を苦しめ給うことはない」
ア タ ー ʽAṭāʼ 曰 く 、
「 終 末 の と き は 、神 が ご 自 身 の 僕 た ち の う ち 最 良 の 者 た ち を バ イ ト・ア ル
マクディスへと行かせ、そこに住まわせ給うまでは始まらない」
ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー ・ ブ ン ・ ウ マ ル ʽAb d Allāh b. ʽUm ar 曰 く 、「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス は 預
言 者 た ち が 建 て 、 整 備 し た と こ ろ で あ る 。 ま た そ こ に は 1 シ ブ ル 2た り と も 、 天 使 が 跪 拝 し た
り 立 っ た り し な か っ た 場 所 は な い 」ヌ ゥ マ ー ン・ブ ン・ア タ ー Nuʽm ān b. ʽAṭ āʼ が あ る 人 に 、
「あ
な た は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に つ い て ど の よ う に 言 わ れ ま す か ? 」と 聞 か れ た 。彼 は 言 っ た 。
「 そ こ に は 1 シ ブ ル た り と も 、天 使 や 預 言 者 が 跪 拝 し な か っ た 場 所 は な い 。ゆ え に お そ ら く〔 あ
な た が バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス で 跪 拝 す る と き 〕あ な た の 額 は 、天 使 や 預 言 者 の 額 と 合 わ さ る
こ と に な る だ ろ う 」 ム カ ー テ ィ ル ・ ブ ン ・ ス ラ イ マ ー ン M uqātil b. Sul aym ān 曰 く 、「 そ こ に
は 1 シ ブ ル た り と も 、か つ て 遣 わ さ れ た 預 言 者 や お 側 に 仕 え る 天 使 が 礼 拝 し な か っ た 場 所 は な
い」
〔 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に は 〕 毎 夜 7 万 人 の 天 使 た ち が 下 っ て 来 る 。 彼 ら は 、「 至 高 な る
神 の 他 に 神 な し 」 と 言 い 、「 神 は 偉 大 な る か な 」 と 言 い 、「 神 に 栄 光 あ れ 」 と 言 い 、「 神 に 称 賛
あ れ 」 と 言 い 、「 神 は 神 聖 な る か な 」 と 言 い 、「 神 は 偉 大 な る か な 」 と 言 い な が ら 下 っ て き て 、
2
シ ブ ル sibr は イ ス ラ ー ム 地 域 に お け る 長 さ の 単 位 で 、手 の ひ ら( 手 首 か ら 指 先 ま で )の 長 さ を 表 す 。
211
終末のときに至るまで帰っていくことはない。
〔 バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス に つ い て は 〕数 多 く の 奇 跡 、明 ら か で 良 く 知 ら れ た し る し の 数 々
が あ る 。そ の 中 に は 次 の よ う な も の が あ る 。そ こ は 神 が 最 初 に 祝 福 し た と こ ろ で あ り 、主 ― そ
の栄光よ偉大なれ―は復活の日に、そこをバイト・アルマクディスの地のお立ち処となさる。
神 は そ こ に 、 す べ て の 大 地 の 中 か ら 選 び 出 さ れ た も の を 置 き 給 う た 。 そ こ は 、 [5. a] 神 が 〈 万
民のために我らが祝福した地〉というお言葉によって述べられた地なのである。
至 高 な る 神 は モ ー セ に 、「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 向 か え 。 ま こ と に そ こ に は 我 が 炎 と 我
が 光 、我 が 釜 が あ る 」神 は そ こ で モ ー セ に お 言 葉 を か け ら れ 、ま た モ ー セ は そ こ で 、栄 光 あ る
い と 高 き 彼 の 主 の 光 を 見 た 。神 ― そ の 栄 光 の 高 ら か な ら ん こ と を ― は そ こ で 、山 の 前 に 顕 現 さ
れ た 。ま た 神 は そ こ で ア ダ ム や ダ ビ デ 、ソ ロ モ ン の 悔 悛 を 受 け 入 れ 給 い 、ソ ロ モ ン の 上 に 彼 の
王 権 と 、鳥 の 言 葉 を 理 解 す る 能 力 を 戻 し 給 う た 。ソ ロ モ ン は そ こ で 神 に 、自 分 の 後 の 何 人 に も
ふ さ わ し く な い よ う な 王 権 を 求 め 、神 は 彼 に そ れ を 与 え 給 う た 。神 は ザ カ リ ヤ に ヨ ハ ネ〔 誕 生
の 〕福 音 を 授 け 給 う た 。彼 は 幼 少 の こ ろ か ら 知 恵 を 授 け ら れ た 。天 使 た ち は ダ ビ デ の 上 に ミ フ
ラ ー ブ を 柔 ら か な 褥 と し た 。神 は 彼 の た め に 山 々 と 鳥 を 従 わ せ 、彼 の た め に 鉄 を 柔 ら か く し 給
う た 。毎 夜 お 側 に 仕 え る 預 言 者 た ち が 近 づ い て き て 、天 使 た ち が 下 っ て 来 る 。彼 ら す べ て に 平
安 の あ ら ん こ と を 。神 は イ ム ラ ー ン の 妻 の 誓 言 を 受 け 入 れ 給 う た 。マ リ ア ― 彼 に 平 安 あ れ ― に 、
夏 に は 冬 の 果 物 が 、冬 に は 夏 の 果 物 が も た ら さ れ た 。ザ カ リ ヤ が 彼 女 を 養 育 し た 。彼 女 の た め
に ナ ツ メ ヤ シ が 植 え ら れ 、瑞 々 し く 熟 れ た 果 実 を 実 ら せ た 。神 は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に て 、
マ リ ア に イ エ ス ― 彼 に 平 安 あ れ ―〔 誕 生 〕の 福 音 を 授 け 給 う た 。彼 は 幼 少 の と き 、揺 り 籠 の 中
から言葉を話した。彼の上に食卓が下された。彼は死人を生き返らせ、数々の奇跡を行った。
聖 霊 が 彼 を 助 け た 。彼 は 天 へ と 上 げ ら れ た 。マ リ ア は 死 に 、世 の 中 の 女 性 た ち に 勝 る 恩 寵 を 与
えられた。
ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ― は 、ク ー サ Kūthā か ら バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス へ と ヒ ジ ュ ラ し
た 。バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス へ の ヒ ジ ュ ラ は 、預 言 者 ム ハ ン マ ド か ら「 我 が ウ ン マ の テ ン ト は 、
我 が ヒ ジ ュ ラ の 後 に も バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に 向 か っ て ヒ ジ ュ ラ す る 」と 伝 え ら れ て い る よ
う に 、終 末 の と き に も 行 わ れ る 。ア ブ ラ ハ ム と イ サ ク は 、バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 自 身 を 埋
葬 す る よ う に と 遺 言 し た 。ア ダ ム も ヒ ン ド で 死 ん だ 際 、そ こ に 自 身 を 埋 葬 す る よ う に と 遺 言 し
た。
そ こ に か の 鎖 が 下 っ て 来 て 、 ま た そ こ か ら 上 っ て い っ た 。 契 約 の 箱 と サ キ ー ナ al-Sak īna も
同 様 で あ る 。そ こ に 向 か っ て イ ス ラ ー が 行 わ れ 、そ こ か ら ミ ー ラ ー ジ ュ が 行 わ れ た 。そ こ に 預
言 者 た ち や 天 使 た ち が 下 っ て 来 て 、ム ハ ン マ ド ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― は そ こ で 彼
ら の イ マ ー ム と な っ て 礼 拝 し た 。彼 は そ こ で 炎 を 持 つ 天 使 と 庭 園 の 乙 女 た ち に 会 っ た 。そ の 方
向に向かって、彼以前の預言者たちのキブラがあった。
そ こ は 人 々 が 集 め ら れ 復 活 さ せ ら れ る 地 で あ る 。そ こ に〔 最 後 の 審 判 の 際 に 人 々 が 渡 る と い
212
う 〕細 き 道 al-Ṣir āṭ が 立 ち 上 り 、天 使 た ち が 付 き 添 う 。そ こ か ら 大 地 は 折 り 畳 ま れ 、人 々 は 細
き 道 に 乗 る 。そ こ に 向 け て 、神 は 雲 の 影 と 天 使 た ち を 下 し 給 う 。そ こ で は 、人 間 と ジ ン 以 外 の
者 は 土 に 還 る 。人 々 は そ こ か ら 、楽 園 と 地 獄 と に 分 け ら れ る 。バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス は 鯨 の
背 中 に 乗 っ て お り 、そ の 頭 は 太 陽 の 昇 る と こ ろ 、そ の 尾 は 太 陽 の 沈 む と こ ろ で あ る 。そ の 秘 跡
の 中 に は 次 の よ う な も の が あ る 。楽 園 の 庭 園 の う ち の ひ と つ を 歩 く の は 、 [5. b] バ イ ト ・ ア ル
マクディスの岩を歩くことである。そこで礼拝する者は、天で礼拝するのと同様である。
大地はそこから広げられ、またそこから折り畳まれる。大洪水から最初に顔を出したのは、
バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 岩 で あ っ た 。箱 舟 は 、カ ア バ の 周 り を 回 っ た 後 、岩 の 周 り を 1 週 間
回った。次のようにも言われている。箱舟は流れて、バイト・アルマクディスにやってきた。
そ こ で 箱 舟 は 止 ま り 、 神 の 許 し を 得 て 口 を き い て 言 っ た 。「 ノ ア よ 、 こ こ が 預 言 者 た ち の 住 む
べ き バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の あ る 場 所 で す 」ノ ア は 箱 舟 か ら 出 た 後 350 年 生 き た 。ノ ア は カ
ラクに埋葬された。
そ の 中 に は 次 の よ う な も の も あ る:神 は 両 聖 地 同 様 、神 の 敵 反 キ リ ス ト が そ こ に 入 る こ と を
禁 じ ら れ た 。そ こ は 荒 廃 に お い て は 最 後 の 地 と な る 。ゴ グ と マ ゴ グ は 、両 聖 地 と バ イ ト ・ ア ル
マ ク デ ィ ス を 除 く 大 地 を 打 ち 滅 ぼ す 。そ こ に は 彼 ら の 滅 び が あ る 。そ こ で〔 天 使 〕イ ス ラ ー フ
ィールが第 2 のラッパを吹くと、信徒たちの魂はその肉体に飛んでいく。至高なる神はバイ
ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 岩 に 言 わ れ る 。「 我 が 偉 大 さ と 栄 光 に か け て 、 私 は 汝 の 上 に 我 が 玉 座 を
据 え 、汝 の も と に 我 が 被 造 物 を 集 め る 。私 は 汝 の 川 を 、乳 の 川 、蜜 の 川 、酒 の 川 を 流 す 。私 は
その日彼らの主となり、ダビデが彼らの王となる」
〔バイト・アルマクディスへの〕参詣者が贈られる栄光の贈り物については、ナサーイー
al-Nas āʼī が イ ブ ン ・ ウ マ ル に 由 来 す る イ ス ナ ー ド に よ っ て 、 預 言 者 ム ハ ン マ ド の 伝 承 を 伝 え
て い る : ダ ビ デ の 子 ソ ロ モ ン ― 彼 ら 2 人 に 平 安 あ れ ― は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 神 殿 3を 建
設 し た と き 、至 高 な る 神 に 3 つ の 特 性 を 求 め た 。彼 は 神 に 、神 の 知 恵 に も 匹 敵 す る 知 恵 を 求 め 、
そ れ を 与 え ら れ た 。ま た 彼 は 神 に 、彼 以 降 の 何 人 に も 相 応 し く な い よ う な 王 権 を 求 め 、そ れ を
与 え ら れ た 。そ し て 彼 は 神 に 、神 殿 の 建 設 が 完 了 し た と き に 、そ こ に 礼 拝 し に や っ て き た 者 が 、
母 親 か ら 生 ま れ た 日 の ご と く に そ の 罪 か ら 逃 れ ら れ る よ う に 、と 求 め た 。イ ブ ン・マ ー ジ ャ Ibn
Māja は こ の 物 語 に 、 次 の よ う に 付 け 加 え て い る : 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ―
は 言 っ た 。「 2 つ に つ い て は 、 彼 は す で に そ れ ら を 与 え ら れ た 。 私 は 、 彼 に 3 つ 目 の も の も 与
え ら れ て い れ ば 、 と 思 う 」 ハ ー キ ム al -Ḥākim は 彼 の 『 補 遺 』 の 中 で 、 両 シ ャ イ フ に よ る 伝 承
を取り上げている。
カ ァ ブ ・ ア ル ア フ バ ー ル 曰 く 、「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス が 自 身 の 荒 廃 に つ い て 、 そ の 主 に
不 満 を 言 っ た 。そ こ で 神 は 啓 示 を 下 し て 言 わ れ た 。『 私 は 必 ず や 汝 を 、〔 汝 を 〕耕 す 者 や〔 汝 の
3
原 語 は 「 マ ス ジ ド ・ バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス masjid Ba yt al-Ma qdis」。 こ こ で は 「 マ ス ジ ド 」 を 「 神
殿」と訳す。
213
中 で 〕跪 拝 す る 者 で 満 た す 。汝 の も と に は 、そ の 巣 に 帰 る 鷲 の は た め き が 飛 び 、そ の 卵 を 愛 し
求 め る 鳩 が 向 か っ て い く 』」 す る と あ る 人 が カ ァ ブ に 、「 神 を 畏 れ な さ い 、 カ ァ ブ よ 。そ れ( バ
イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス ) に 舌 が あ る と で も ? 」 と 言 っ た 。 カ ァ ブ は 、「 そ う だ 、 そ し て あ な た
方ひとりひとりの心のような心もある」
ア ナ ス が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、「 清 算 の た め に バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 参 詣
し た 者 に は 、 神 が 1000 人 の 殉 教 者 の 報 い を 与 え て 下 さ る 」 ま た 彼 が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝
えて曰く、
「 知 識 人 の も と を 訪 れ た 者 も 、バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス を 参 詣 し た 者 と 同 様 で あ る 。
バイト・アルマクディスに参詣した者は、神がその者の肉と体を地獄の炎から守って下さる」
[6. a] ま た 彼 が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に て 礼 拝 し た 者
の罪は、そのすべてが赦される」
マ ク フ ー ル ・ ブ ン ・ カ ァ ブ M akḥūl b. Kaʽb 曰 く 、「 礼 拝 の み を 望 ん で バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ
ス へ と 出 向 き 、そ こ で ス ブ フ 、ズ フ ル 、ア ス ル 、マ グ リ ブ 、イ シ ャ ー の 5 回 の 礼 拝 を 行 っ た 者
は、母親から生まれた日のごとくに、その罪から逃れられる」
ア ブ ー ・ ウ マ ー マ ・ バ ー ヒ リ ー Ab ū Umāma al-Bāhilī が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、
「かの家にハッジし、ウムラを行い、バイト・アルマクディスにて礼拝し、ジハードを行い、
リバートに拠って戦った者は、すでに私のスンナのすべてを完遂している」
イ マ ー ム ・ ア フ マ ド al -Imām Aḥmad が 彼 の 『 ム ス ナ ド 』 の 中 で 、 ア ブ ー ・ ウ マ ー マ よ り 預
言 者 ム ハ ン マ ド に よ る 伝 承 を 伝 え て い る :「 我 が ウ ン マ の 中 の あ る 一 団 は 、 正 義 に よ っ て 勝 利
者 で あ り 続 け 、そ の 敵 に 対 し て 勝 ち 続 け る で あ ろ う 。神 の 命 が 訪 れ る ま で 、彼 ら に 背 く 者 も 彼
ら に 襲 い か か る 敵 ど も も 、彼 ら を 傷 つ け る こ と は で き な い 。彼 ら は こ の よ う で あ る 」人 々 が「 神
の 使 徒 よ 、 彼 ら は ど こ に い る の で す か ? 」 と 言 う と 、彼 は 「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス と 、バ イ
ト・アルマクディスの周辺である」と言った。
ム ア ー ズ 〔 ・ ブ ン ・ ジ ャ バ ル 〕 Muʽāz b . Jab al が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、 神 は 言
わ れ た 。「 シ リ ア よ 、 汝 は 我 が 国 々 の 中 か ら 、 私 が 選 び 出 し た も の で あ る 。 私 は 汝 の も と に 、
我 が 僕 た ち の 中 か ら 私 が 選 び 出 し た 者 を 向 か わ せ る 。汝 の も と で 生 ま れ た の に 、汝 を 嫌 っ て 汝
以 外 の も の を 選 ぶ 者 に は 罪 と 苦 し み が 、汝 以 外 の と こ ろ で 生 ま れ た が 、汝 を 選 ん だ 者 に は 我 が
恩 寵 が あ る 。 シ リ ア よ 、〔 母 親 の 〕 胎 が 子 供 の た め に 十 分 な 広 さ が あ る よ う に 、 私 は 汝 の 民 に
日 々 の 糧 を 豊 か に 与 え る 。私 が 月 日 を 創 造 し て か ら と い う も の 、我 が 目 は 露 と 雨 を も っ て 汝 の
う え に 注 が れ て い る 。汝 の 中 で 財 産 に 欠 け る 者 で あ っ て も 、良 き こ と に 欠 け る こ と は な い 。ウ
ー ル シ ャ リ ム よ 、汝 は 我 が 光 を 持 つ 聖 地 で あ り 、汝 の 中 に は 人 々 が 集 め ら れ 復 活 さ せ ら れ る 地
が あ る 。復 活 の 日 、私 は 汝 を 、そ の 夫 の も と に 向 か う 花 嫁 の よ う に 向 か わ せ る 。汝 の 中 に い る
者は、油と小麦を豊かに与えられる」
カ ァ ブ 曰 く 、神 は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に 言 わ れ た 。
「 汝 は 我 が 楽 園 、我 が 聖 地 、我 が 国 々
の 中 で 私 が 選 び 出 し た も の で あ る 。汝 の も と に 住 ま う 者 に は 我 が 恩 寵 が 、汝 か ら 出 て 行 く 者 に
214
は我が怒りがある」
ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー ・ ブ ン ・ マ ス ウ ー ド ʽAbd Allāh b. Masʽūd 曰 く 、「 反 キ リ ス ト は 、 4 つ の モ
ス ク に 4 つ の 町 、す な わ ち メ ッ カ 、メ デ ィ ナ 、バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 、シ ナ イ 山 を 除 く 大 地
のすべてに入って来る」
あ る と き カ ァ ブ は 、バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス に あ る イ ー リ ヤ ー の モ ス ク で 礼 拝 し よ う と 、ヒ
ム ス Ḥimṣ か ら 出 て き た 。彼 は イ ー リ ヤ ー か ら 1 ミ ー ル の と こ ろ に 来 る と 、話 す の を 止 め 、ク
ル ア ー ン の 読 誦 と ズ ィ ク ル 以 外 に は 口 を 開 か な か っ た 。そ の 後 彼 は ア ス バ ー ト 門 か ら 入 り 、ク
ド ス に 向 か っ た 後 、5 回 の 礼 拝 を ま と め て 行 っ た 。
〔 そ こ か ら 〕1 ミ ー ル 離 れ た と こ ろ に 来 る と 、
彼 は 仲 間 た ち と 口 を き い た 。 人 々 が 彼 に 、「 ア ブ ー ・ イ ス ハ ー ク ( カ ァ ブ ) よ 、 ど う し て あ な
た は そ ん な こ と を し た の で す か ? 」 と 言 う と 、 彼 は 言 っ た 。「 私 は あ る 書 物 の 中 に 、 [6. b] こ
の モ ス ク の 中 で は 善 行 は 2 倍 に な り 、悪 行 も ま た そ う な る 、― あ る い は 彼 は 、
「それと同様に」
と 言 っ た ― と あ る の を 見 つ け た 。 だ か ら 私 は 、〔 そ こ か ら 〕 離 れ る ま で 、 善 行 の み を 行 い た か
ったのだ」
ジ ャ リ ー ル・ブ ン・ウ ス マ ー ン Jarīr b. ʽUthmān と サ フ ワ ー ン・ブ ン・ウ マ ル Ṣa fwān b. ʽUma r
曰 く 、「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に お い て は 、 善 行 は 1000 倍 と な り 、 悪 行 も 1 000 倍 と な る 」
ア ブ ー・ザ ッ ル 曰 く 、
「私は言った。
『 神 の 使 徒 よ 、こ の あ な た の モ ス ク で の 礼 拝 は 、バ イ ト ・
ア ル マ ク デ ィ ス で の 礼 拝 に 勝 る も の な の で す か ? 』 彼 は 言 っ た 。『 こ の 私 の モ ス ク で の 礼 拝 1
回 は 、バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス で の 礼 拝 4 回 に 勝 る 。し か し そ こ も ま た 、な ん と す ば ら し い 礼
拝 の 場 で あ る こ と か 。と い う の も そ こ は 、い ず れ 人 々 の 上 に と き が 来 た と き 、人 々 が 集 め ら れ
復 活 さ せ ら れ る 地 だ か ら で あ る 。バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に い る 門 番 が 見 え る と こ ろ か ら 人 間
の 弓 が 届 く 範 囲 は 、礼 拝 に 良 い 場 所 で あ り 、現 世 の す べ て よ り も 礼 拝 に 適 し た と こ ろ で あ る 』」
ア ナ ス が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、「 人 間 が 自 分 の 家 で 行 う 礼 拝 は 礼 拝 1 回 分 、 部
族 の モ ス ク で 行 う 礼 拝 は 礼 拝 25 回 分 、 金 曜 モ ス ク で 行 う 礼 拝 は 礼 拝 500 回 分 、 ア ク サ ー ・ モ
ス ク で 行 う 礼 拝 は 礼 拝 5 万 回 分 、 カ ア バ の モ ス ク で 行 う 礼 拝 は 礼 拝 10 万 回 分 、 こ の 私 の モ ス
ク で 行 う 礼 拝 は 礼 拝 5 万 回 分 で あ る 」 ブ ハ ー リ ー al-Bukh ārī 、タ バ ラ ー ニ ー al -Ṭab arānī 、イ ブ
ン・マージャがこれを取り上げている。
ア ブ ー・ア ッ ダ ル ダ ー Ab ū al-D ardāʼ が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、
「 ハ ラ ー ム・モ ス
ク で の 礼 拝 は そ の 他 の 場 所 で の 礼 拝 に 勝 り 、礼 拝 10 万 回 分 で あ る 。私 の モ ス ク で は 礼 拝 1000
回 分 、バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ ス で は 礼 拝 500 回 分 で あ る 」イ マ ー ム・ ア フ マ ド が こ れ を 伝 え て
いる。
神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の マ ウ ラ ー ト で あ っ た マ イ ム ー ナ・ビ ン ト・サ
ァ ド Maymūna bint Saʽd は 言 っ た 。「 神 の 使 徒 よ 、 私 た ち に バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に つ い て
ご 意 見 を く だ さ い 」 彼 は 言 っ た 。「 人 々 が 集 め ら れ 復 活 さ せ ら れ る 地 で あ る 。 お 前 た ち は そ こ
に 行 き 、 そ こ で 礼 拝 し な さ い 。 な ん と な れ ば そ こ で の 礼 拝 は 、 そ れ ぞ れ が 礼 拝 1000 回 分 と な
215
る か ら で あ る 」我 々 は 言 っ た 。
「 神 の 使 徒 よ 、そ こ に 行 く こ と が で き な い 者 は ? 」
〔 彼 は 言 っ た 。〕
「 そ こ の ラ ン プ を 灯 す た め の 油 を そ こ に 贈 り な さ い 。そ こ に 油 を 贈 っ た 者 も 、そ こ に 行 っ た 者
と同様である」
カ ァ ブ ・ ア ル ア フ バ ー ル が 次 の よ う に 伝 え て い る :「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に て 1 日 断 食
し た 者 に は 、神 が 地 獄 の 炎 か ら 解 放 し て 下 さ る 。バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に て 、信 徒 た ち と 女
信 徒 た ち の た め に 3 度 赦 し を 請 う た 者 に は 、神 が そ の 者 の た め に 、信 徒 た ち と 女 信 徒 た ち の 行
っ た 善 行 と 同 じ だ け の も の を 書 き 留 め て 下 さ り 、あ ら ゆ る 信 徒 や 女 信 徒 の 上 に 、彼 の 祈 願 に よ
っ て 毎 昼 夜 70 の 赦 し が や っ て く る 」
ジ ャ ー ビ ル Jābir が 次 の よ う に 伝 え て い る : あ る 人 が 、「 神 の 使 徒 よ 、 最 初 に 楽 園 に 入 る 被
造 物 は ど れ で す か ? 」と 言 っ た 。 彼 は 「 預 言 者 た ち で あ る 」と 言 っ た 。 そ の 人 が 「 そ の 次 は 誰
で す か 」と 言 う と 、彼 は「 殉 教 者 た ち で あ る 」と 言 っ た 。そ の 人 が「 そ の 次 は 誰 で す か 」と 言
う と 、彼 は 「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の ム ア ッ ズ ィ ン た ち で あ る 」と 言 っ た 。そ の 人 が 「 そ の
次 は 誰 で す か 」 と 言 う と 、彼 は「 ハ ラ ー ム ・ モ ス ク の ム ア ッ ズ ィ ン た ち で あ る 」 と 言 っ た 。そ
の 人 が「 そ の 次 は 誰 で す か 」 と 言 う と 、彼 は「 私 の モ ス ク の ム ア ッ ズ ィ ン た ち で あ る 」と 言 っ
た 。 [7. a] そ の 人 が 「 そ の 次 は 誰 で す か 」 と 言 う と 、 彼 は 「 そ の 他 の モ ス ク の ム ア ッ ズ ィ ン た
ちである」と言った。
それらの中には次のようなものもある:バイト・アルマクディスの岩は現世の中心である。
あ る 奴 隷 が そ の 主 人 に 、「 我 々 を バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 連 れ て 行 っ て 下 さ い 」 と 言 っ た と
き 、 神 は 言 わ れ る 。「 我 が 天 使 た ち よ 、 私 は 彼 ら 2 人 が 出 発 す る 前 に 、 す で に 彼 ら の 罪 を 赦 し
た こ と を 証 言 せ よ 。彼 ら が そ う し た な ら ば 、彼 ら は 罪 に 近 づ く こ と は な い 」神 は バ イ ト ・ ア ル
マクディスに住む者に日々の糧を与え給う。例え財産が彼から離れて行ったとしても。バイ
ト・ア ル マ ク デ ィ ス に て 暮 ら し 、敬 虔 な 行 い を 積 ん で 死 ん だ 者 は 、天 で 死 ん だ の と 同 様 で あ る 。
その周辺で死んだ者も、そこで死んだのと同様である。
ム ア ー ズ ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に 行 き 、断 食 と 礼 拝 を 行 っ て そ
こ で 3 昼 夜 過 ご し た 。彼 が そ こ か ら 出 て い っ た と き 、彼 は 高 い 地 位 に い た の だ が 、仲 間 た ち の
方 に 近 づ い て 言 っ た 。「 お 前 た ち が 今 ま で 犯 し た 罪 を 、 神 は す で に お 赦 し に な っ た 。 お 前 た ち
が 何 か を 成 す も の で あ る 限 り 、お 前 た ち に 残 さ れ て い る 寿 命 を 見 よ 。サ マ リ ア 人 を 除 く あ ら ゆ
る 集 団 が 、バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス を 偉 大 な も の と 見 な す こ と で 意 見 の 一 致 を 見 て い る 。一 方
彼らは、聖地はナーブルス山だと言って、このことについてあらゆるウンマに対立している」
か つ て イ ス ラ エ ル の 民 の 時 代 に 、彼 ら に 敵 の 脅 威 が 降 り か か っ た り 、あ る い は 渇 き に 苦 し ん
だ り し た こ と が あ っ た 。〔 そ の と き 〕 彼 ら は ク ド ス を 作 り 、 そ こ を 神 殿 と し た 。 ま た 彼 ら は そ
こ の 諸 門 や ミ フ ラ ー ブ を 作 り 、そ こ で 敵 に 立 ち 向 か っ た 。そ こ で 神 は 敵 を 打 ち 破 り 給 う た 。ま
た 彼 ら は そ こ で 、渇 き に 関 し て 天 に 向 か っ た 。す る と 彼 ら の 上 に 雨 が 降 り 、彼 ら は〔 神 殿 が 水
没 し な い よ う に 〕神 殿 の 丈 を 上 げ な け れ ば な ら ぬ ほ ど で あ っ た 。彼 ら は 、彼 ら に 降 り か か る あ
216
ら ゆ る 重 大 事 に つ い て 、そ の よ う に し て い た 。バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス は 、サ ソ リ で い っ ぱ い
の 黄 金 の 杯 で あ る と 言 わ れ て い る 。あ る い は ラ イ オ ン の い る 茂 み で あ る と も 言 わ れ て い る 。す
な わ ち 誰 か が そ こ に 入 れ ば 、あ る い は 無 事 で あ り 、あ る い は 滅 び が 彼 を 捕 え る の で あ る 。イ ス
ラエルの民の時代については、このように言われている。
復 活 の 日 に は 、神 に 称 賛 あ れ 、そ こ と そ こ の 中 庭 に は た だ 、神 の 援 助 を 受 け た イ ス ラ ー ム の
集 団 が い る の み で あ る 。証 と し て は 、彼 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の「 我 が ウ ン マ の
中の最も優れた人々は、ヒジュラの後にもバイト・アルマクディスにヒジュラするであろう」
と い う お 言 葉 で 十 分 で あ る 。〔 そ う で な け れ ば 〕 ど う し て 彼 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え
― が ア ブ ー ・ ウ バ イ ダ ・ ブ ン ・ ア ル ジ ャ ッ ラ ー フ Abū ʽUb ayda b. al -Jarr āḥ ― 神 よ 彼 を 嘉 し た
まえ―に、
「 騒 乱 の 起 こ る と き は 、バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に 避 難 せ よ 」と 言 っ た で あ ろ う か 。
人 々 が 、「 神 の 使 徒 よ 、 私 が バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 辿 り つ け な い と き は ど う す れ ば よ い の
で し ょ う か ? 」 と 言 う と 、 彼 は 言 っ た 。「 お 前 の 財 産 を 惜 し み な く 使 っ て 、 お 前 の 宗 教 を 守 り
な さ い 」 同 様 に ア リ ー ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― も サ ァ サ ァ Ṣaʽṣ aʽ に 言 っ て い る 。「 騒 乱 の 起 こ
るとき、バイト・アルマクディスは何とすばらしい住まいであることか。そこに留まる者は、
神 の 道 に お い て ジ ハ ー ド を 行 う 者 と 同 様 で あ る 。 必 ず や 人 々 の 上 に と き が 訪 れ 、〔 そ の と き に
は 〕 彼 ら の ひ と り ひ と り が 、「 自 分 が バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の レ ン ガ の 中 の 藁 で あ れ ば よ か
っ た の に 」 と 言 う で あ ろ う 。 シ リ ア は 神 に と っ て 好 ま し い と こ ろ で あ り 、 [9. a] バ イ ト ・ ア ル
マ ク デ ィ ス は 、 そ れ を 愛 す る 者 は 神 に と っ て 好 ま し い 。 か の 岩 は 、 大 地 の 中 で 40 年 か け て 最
後に滅びるところであり、楽園の庭園のうちのひとつである」
[7. b] 第 2 章:神 聖 な る ク ド ス の 町 を 整 え た 者 と そ こ に 住 ん だ 者 、そ こ が 2 度 征 服 さ れ た こ
とについて短く簡潔に
そこを整えた最初の人は、支配する者にして誠実なる者、すなわちノアの子セムであった。
彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 地 の 山 々 に あ る 洞 窟 に 滞 在 し 、 そ こ で 神 に 仕 え た 。〔 そ う す る
う ち に 〕彼 の 行 い が 名 高 く な り 、シ リ ア の 中 の そ の 近 く の 地 、ソ ド ム や そ の 他 の と こ ろ に い た
王 た ち の 耳 に 届 い た 。 彼 ら に は 12 人 の 王 が い て 、 彼 ら は セ ム の も と に や っ て き た 。 彼 ら は セ
ム に 会 っ て 彼 の 言 葉 を 聞 く と 、彼 を 信 じ 、彼 を 非 常 に 敬 愛 し た 。彼 ら は セ ム に 、ク ド ス の 町 を
建 設 す る た め の 財 産 を 差 し 出 し た 。そ こ で 彼 は そ の 町 を 整 え て 整 備 し た 。そ こ は ル ー シ ャ リ ム
Rūsh al im と 名 付 け ら れ た 。 そ の 意 味 は ヘ ブ ラ イ 語 で 「 平 安 の 館 」 と い う も の で あ る 。 そ の 町
の 整 備 が 終 わ る と 、そ の 王 た ち は 、セ ム に 彼 ら の 王 と な っ て く れ る よ う に 一 丸 と な っ て 頼 ん だ 。
彼 ら は こ ぞ っ て 、セ ム が そ の 町 で 亡 く な る ま で 、彼 に 服 従 し た 。モ ス ク の あ っ た 場 所 は そ の 町
の中央であり、そこはひとつの丘になっていた。かの神聖なる岩はその中央にあった。
217
最 初 に そ こ を 建 設 し た 人 に つ い て は 異 論 も あ り 、天 使 た ち が バ イ ト・ハ ラ ー ム を 建 設 し た 後
に 、神 の 許 し を 得 て 建 設 し た の だ と も 言 わ れ て い る 。こ れ は 、後 に 述 べ る ア ブ ー ・ ザ ッ ル の ハ
デ ィ ー ス に 見 ら れ る も の で あ る 。ま た そ れ を 建 設 し た の は イ ス ラ ー フ ィ ー ル で あ る と も 言 わ れ
て い る 。ま た そ れ を 最 初 に 建 設 し た の は 、ア ダ ム で あ る と も 、セ ム で あ る と も 、ヤ コ ブ で あ る
と も 、ダ ビ デ で あ る と も 言 わ れ て い る 。し か し な が ら 、天 使 た ち が 最 初 に そ れ を 建 設 し 、そ れ
以 降 は 改 築 が 行 わ れ た の だ と 言 え な く は な い 。そ れ ぞ れ の 建 設 者 か ら 最 後 ま で は 間 が あ る の で 、
その間に改築が行われたのであろう。
ア ブ ー ・ ザ ッ ル が 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― に 、「 大 地 に 最 初 に 置 か れ た モ
ス ク は ど れ で す か ? 」 と 尋 ね た と き の ハ デ ィ ー ス も 伝 え ら れ て い る 。「 彼 は 『 ハ ラ ー ム ・ モ ス
ク で あ る 』と 言 っ た 。私 が『 そ の 次 に は ? 』と 言 う と 、彼 は『 ア ク サ ー ・モ ス ク で あ る 』と 言
っ た 。 私 が 『 そ れ ら 2 つ の 間 は い か ほ ど で す か ? 』 と 言 う と 、 彼 は 言 っ た 。『 40 年 間 で あ る 』」
こ の ハ デ ィ ー ス は 、ア ブ ラ ハ ム に よ る ハ ラ ー ム ・ モ ス ク 建 設 と 、ヤ コ ブ に よ る ア ク サ ー ・ モ ス
ク建設の間に関するものである。
そ こ が ア ク サ ー ・ モ ス ク と 名 付 け ら れ た の は 、先 に 述 べ た 通 り 、そ こ と ハ ラ ー ム ・ モ ス ク の
間 の 距 離 が 遠 い こ と や そ の 他 の 理 由 に よ る も の で あ る 。 そ れ ゆ え に 、〈 召 還 役 が 近 い 場 所 か ら
呼 び か け る 日 に は 、よ く 耳 を 傾 け よ 〉( Q50:41) と い う 至 高 な る 方 の お 言 葉 の 解 釈 で は 、「 召 還
役 」と は イ ス ラ ー フ ィ ー ル の こ と で 、彼 が 復 活 の 行 わ れ る 場 所 で バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス の 岩
か ら 、集 ま っ て 来 る よ う に 呼 び か け る の で あ る 、と 言 わ れ て い る の で あ る 。そ の 岩 は 現 世 の 中
心 に あ る の だ か ら 、 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス も 現 世 の 中 心 に あ る こ と は 明 ら か で あ る 。〔 そ の
日 〕残 り の 天 使 た ち は 、あ ら ゆ る 方 向 か ら そ こ を 取 り 囲 む 。そ こ は 南 側 か ら は ヒ ジ ャ ー ズ 地 域
と イ エ メ ン 地 方 、ヒ ン ド の 王 国 、そ の 周 辺 地 域 と 向 か い 合 い 、北 側 か ら は シ リ ア 地 方 と ビ ザ ン
ツ の 王 国 、 そ の 周 辺 地 域 に 向 か い 合 い 、 [8. a] 西 側 か ら は エ ジ プ ト 地 方 と 西 方 の 王 国 、 そ の 周
辺地域に向かい合う。
預 言 者 た ち ― 彼 ら に 平 安 あ れ ― の う ち で 、そ こ( バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス )を 最 初 に 定 住 し
た の は ヤ コ ブ ― 彼 に 平 安 あ れ ― で あ る 。彼 が そ こ に 定 住 し た 理 由 は 、彼 の 父 イ サ ク ― 彼 に 祝 福
と 平 安 の あ ら ん こ と を ― が 彼 に カ ナ ン 人 の 女 性 を 娶 る こ と を 禁 じ 、彼 の お じ の 娘 た ち を 娶 る よ
う に と 命 じ た た め で あ る 。ヤ コ ブ が お じ の 娘 を 娶 る た め に お じ の も と に 向 か っ た と き 、あ る 道
の 途 中 で 夜 に な っ た た め 、石 を 枕 に し て 夜 を 明 か し た 。彼 は 夢 の 中 で 、天 の 門 に 向 か っ て 梯 子
が 伸 び て お り 、 天 使 た ち が そ こ を 上 っ て い る の を 見 た 。 神 は 彼 に 啓 示 を 下 し て 言 わ れ た 。「 私
は 神 で あ る 。私 の 他 に 神 は い な い 。私 は 汝 と 、汝 の 後 に 来 る 汝 の 子 孫 た ち に 、こ の 聖 な る 地 を
継 が せ る 。私 は 汝 が こ の 場 所 に 戻 っ て 来 る ま で 、汝 と と も に い て 汝 を 守 る 。こ こ に 私 に 仕 え る
た め の 家 を 造 り な さ い 」こ れ が バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス で あ る 。そ し て 彼 は そ こ に 住 ん だ 。そ
の 後 彼 の 後 に 、ヤ コ ブ の 子 ユ ダ の 子 孫 で あ る 、エ ッ サ イ の 子 ダ ビ デ ― 彼 ら に 平 安 あ れ ― が モ ス
クを整えた。彼は自らの肩に石を乗せて運び、それを自らの手で据えた。
218
そ の 建 設 の 理 由 に つ い て は 異 論 も あ り 、次 の よ う に も 言 わ れ て い る :ダ ビ デ の 時 代 、イ ス ラ
エ ル の 民 は 疫 病 に 見 舞 わ れ た 。そ こ で ダ ビ デ は 人 々 を 率 い て バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 場 所 に
出 向 い た 。人 々 は 神 に 祈 願 し 、彼 ら の 上 か ら 災 い が 取 り 除 か れ る よ う に と 求 め た 。神 は 彼 ら の
祈願を聞き届け給うた。その後人々はその場所をモスクとして用いるようになった。
次 の よ う に も 言 わ れ て い る 。神 が ダ ビ デ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 悔 悛 を 受 け 入 れ 給 う た と き 、彼
はすでに数多くの町々を建設しており、イスラエルの民の状況は十分なものであったのだが、
彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 建 設 し た い と 思 っ た 。す な わ ち か の 岩 の 上 に 、神 が イ ー リ ヤ ー
の 中 で そ こ を 神 聖 な も の と な さ っ た 場 所 に 、ド ー ム を 建 て た い と 思 っ た 。そ し て 彼 は そ れ を 建
設した。
次 の よ う に も 言 わ れ て い る 。神 は 彼 に そ れ を 建 設 す る よ う に 命 じ 給 い 、剣 を 抜 い た 天 使 が 見
えるその場所を彼に見せ給うた。
い ず れ の 伝 承 に お い て も 、次 の よ う に 伝 え ら れ て い る 。ダ ビ デ が そ れ に 着 手 し 、そ れ が 人 の
背 丈 ほ ど の 高 さ に な る と 、 神 が 彼 に 啓 示 を 下 し て 言 わ れ た 。「 私 は 汝 の 手 に そ れ を 禁 じ る 。 私
は 汝 の 息 子 を 、汝 の 後 の 王 と す る 。彼 の 名 は ソ ロ モ ン で あ る 。私 は 彼 の 手 に そ の 完 成 を 委 ね る 」
次 の よ う に も 伝 え ら れ て い る 。ダ ビ デ は そ れ を 建 設 し 、そ の 上 に 壁 を 建 て よ う と し た 。し か
し 壁 を 完 成 し て も 、そ れ は 3 度 崩 れ 落 ち て し ま っ た 。彼 が 強 大 に し て 栄 光 あ る 神 に そ の こ と に
つ い て 不 満 を 言 う と 、 神 は 彼 に 啓 示 を 下 し て 言 わ れ た 。「 汝 は 私 の た め に 家 を 建 て る の に は ふ
さ わ し く な い 」 彼 が 「 我 が 主 よ 、 ど う し て で す か ? 」 と 言 う と 、神 は「 汝 の 両 手 が 血 に 染 ま っ
て い る が ゆ え に 」と 言 わ れ た 。彼 が「 我 が 主 よ 、そ れ は あ な た へ の 愛 ゆ え の こ と で は あ り ま せ
ん か 」と 言 う と 、神 は「 然 り 。し か し な が ら 彼 ら も ま た 我 が 僕 た ち で あ っ た の で あ り 、私 は 汝
よ り も 彼 ら に 恵 み を 向 け る 」そ の こ と は ダ ビ デ を 嘆 か せ た 。す る と 神 は 彼 に 啓 示 を 下 し て 言 わ
れ た 。「 悲 し む こ と は な い 。 私 は 汝 の 息 子 ソ ロ モ ン の 手 に そ の 建 設 を 委 ね る 」 ダ ビ デ は 死 の 前
に 、彼 の 息 子 ソ ロ モ ン ― 彼 に 平 安 あ れ ― に 王 権 を 委 ね る と 遺 言 し 、ま た 彼 に バ イ ト ・ ア ル マ ク
デ ィ ス の 建 設 を 委 ね る と 遺 言 し た 。[8. b] そ し て そ の た め に 、大 量 の 黄 金 を 収 め た 数 々 の 宝 物
庫を割り当てた。
ダ ビ デ が 死 ぬ と 、 そ の 息 子 ソ ロ モ ン が 王 と な り 、 12 年 間 か け て そ れ を 建 設 し た 。 彼 は バ イ
ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 建 設 を 、王 位 に つ い て か ら 4 年 後 に 着 手 し た 。彼 は 人 間 の 賢 者 た ち や ジ
ン 、大 地 の 妖 魔 た ち や 偉 大 な 悪 魔 た ち を 集 め 、彼 ら を 建 設 す る 組 、石 や 大 理 石 の 鉱 脈 か ら 柱 を
切 り 出 す 組 、海 に 潜 っ て そ こ か ら 真 珠 や 珊 瑚 を 取 っ て 来 る 組 、ル ビ ー や エ メ ラ ル ド の 鉱 脈 を 切
り 出 し 、様 々 な 宝 石 の 鉱 脈 を 持 っ て く る 組 に し た 。そ し て 悪 魔 た ち を 、大 理 石 の 鉱 脈 か ら モ ス
ク の 壁 ま で 一 列 に 並 べ た 。最 初 の 者 が 大 理 石 の 塊 を 受 け 取 る と 、そ れ を そ の 隣 に い る 者 に 渡 し 、
そ の よ う に し て モ ス ク に 至 る ま で 運 ん で い く の で あ る 。バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス 建 設 に 携 わ っ
た 彼 ら の 数 は 3 万 人 で 、そ の う ち 1 万 人 は 木 を 切 り 出 す 仕 事 に 就 い て い た 。石 に 関 す る 仕 事 に
就 い て い た の は 7 万 人 で 、彼 ら を 監 督 し て い た 者 の 数 は 、ジ ン や 悪 魔 の 魔 法 使 い を 除 い て 300
219
人であった。
神 は ラ フ マ 門 の 側 に 2 本 の 木 を 生 や し 給 う た 。そ の 片 方 に は 金 が 成 り 、も う 片 方 に は 銀 が 成
っ た 。 毎 日 そ の そ れ ぞ れ か ら 、 20 0 ラ ト ル 4 の 金 銀 が 取 れ た 。 そ の 建 設 が す ば ら し い 形 に 完 成
し た の は 、 彼 が 王 位 に 就 い て か ら 11 年 目 の こ と で あ っ た 。 彼 は 金 銀 や 真 珠 、 ル ビ ー 、 珊 瑚 、
様 々 の 宝 石 を 用 い て 、そ こ の 天 上 や 床 、門 や 柱 を 、前 例 が な い ほ ど に 飾 り 、果 て は そ の 床 に 金
銀 の タ イ ル を 敷 き 詰 め 、伽 羅 で 天 井 を 葺 い た 。彼 は そ こ に 200 個 の 黄 金 の 錠 を 付 け た 。そ の 錠
は そ れ ぞ れ が 10 ラ ト ル の 重 さ が あ っ た 。彼 は そ の 中 に モ ー セ と ア ロ ン の 契 約 の 箱 を 安 置 し た 。
か の 岩 の 高 さ は 12 ズ ィ ラ ー ゥ 5 で あ り 、 そ の 上 に あ る ド ー ム の 高 さ は 18 ミ ー ル で あ っ た 。
ソ ロ モ ン は そ の 建 設 を 完 了 す る と 、300 0 頭 の 牛 と 7000 匹 の 羊 を 屠 っ た 。そ れ か ら ア ス バ ー
ト 門 に 隣 接 す る 、〔 現 在 の 〕 ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ 6 後 部 に あ る 場 所 ― そ こ は 「 ソ ロ モ ン の 玉 座
Kursī Sul aymān 」 と 呼 ば れ て い る と こ ろ で あ る ― に や っ て き て 、 言 っ た 。「 お お 神 よ 、 罪 を 抱
い て こ こ に や っ て き た 者 を [9. a] 赦 し 給 え 。傷 持 つ 者 の 傷 を 取 り 去 り 給 え 」そ こ に や っ て 来 て 、
我らが主人ソロモンの祈願に与らなかった者は一人もいない。
ソ ロ モ ン は 5 2 歳 で 死 ん だ 。そ れ は モ ー セ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 死 か ら 575 年 の こ と で あ っ た 。
モ ー セ の 死 は 洪 水 か ら 1626 年 の こ と で あ り 、 彼 の 死 と 神 聖 な る ヒ ジ ュ ラ ま で の 間 は 234 8 年
である。
そ の 後 は ソ ロ モ ン の 息 子 や 孫 が 王 位 に 就 い た が 、モ ー セ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 死 か ら 959 年 た
っ た と き に ネ ブ カ ド ネ ツ ァ ル Bukht Naṣṣar が 進 軍 し て き て 、 ク ド ス を 焼 き 、 神 殿 を 破 壊 し 、
そ こ か ら 車 80 台 分 の 金 銀 を 持 ち だ し て ロ ー マ Rūmīya に 投 げ 捨 て た 。 彼 は イ ス ラ エ ル の 民 を
殺 害 し て 粉 々 に 打 ち 砕 い た 。〔 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス は 〕 7 0 年 の 間 荒 廃 し た ま ま で あ っ た 。
そ の 後 、神 が イ ザ ヤ ― 彼 に 平 安 あ れ ― に 遣 わ し た 啓 示 に よ っ て 、
〔 ペ ル シ ア 王 〕キ ュ ロ ス K ūrsh
が そ こ を 建 て 直 し 、生 き 残 っ て い た イ ス ラ エ ル の 民 を そ こ に 住 ま わ せ た 。彼 ら の 長 は エ ズ ラ ―
彼 に 平 安 あ れ ― で あ っ た 。そ の 後 彼 は 死 に 、彼 の 死 後 は 、ア ロ ン の 子 孫 で あ る 誠 実 な る シ メ オ
ン ― 彼 に 平 安 あ れ ― 〔 が 長 と な っ た 〕。 そ の 後 そ こ に イ エ ス ― 彼 に 平 安 あ れ ― が 現 れ 、 そ こ か
ら 昇 天 し た 。 そ こ は そ の 後 40 年 栄 え た が 、 ロ ー マ の テ ィ ト ゥ ス が そ こ を 破 壊 し た 。 そ の 後 そ
こ に は 少 し ず つ 繁 栄 が 戻 っ て い き 、秩 序 を 回 復 し た 。そ こ は 繁 栄 し 、そ し て コ ン ス タ ン テ ィ ヌ
ス の 母 ヘ レ ナ が ク ド ス に や っ て き た 。 彼 女 は そ こ に ご み 山〔 の 教 会 〕を 建 設 し 、ハ ラ ム ・ シ ャ
リ ー フ に あ っ た 神 殿 を 破 壊 し て 、か の 岩 を ご み 溜 め に し て し ま っ た 。そ の 状 態 は 、神 が〔 ヒ ジ
ュ ラ 暦 〕 15 年 に 、 信 徒 の 長 ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ル ハ ッ タ ー ブ ʽUm ar b. al-Khaṭṭāb ― 神 よ 彼 を 嘉
したまえ―の手に平和裏にクドスを開き給うまで続いた。
〔 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 征 服 の と き 〕ア ブ ー ・ ウ バ イ ダ ・ ブ ン ・ ア ル ジ ャ ッ ラ ー フ は ヨ ル
4
ラ ト ル raṭl は 重 量 の 単 位 。 シ リ ア 地 域 に お い て 、 1 ラ ト ル は お よ そ 1850kg に 相 当 す る 。
5
ズ ィ ラ ー ゥ dhirāʽ は 長 さ の 単 位 。 人 間 の 肘 か ら 手 ま で の 長 さ を 指 し 、 お よ そ 60cm に 相 当 す る 。
6
原 語 は 「 マ ス ジ ド al-masjid」。 本 論 に お い て 、「 マ ス ジ ド 」 の 語 が 現 在 の ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ 区 域 全
体 を 指 し て い る こ と が 明 ら か で あ る 場 合 は 、「 ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ 」 の 訳 語 を 当 て る 。
220
ダ ン に 進 軍 し て 、そ こ に 駐 屯 す る と 、イ ー リ ヤ ー の 民 と 彼 ら の 書 記 に 対 し て 使 節 を 送 っ た 。し
か し 彼 ら は 、彼 の も と に 来 て 彼 と 和 平 条 約 を 結 ぶ こ と を 拒 ん だ 。そ こ で 彼 は 彼 ら の も と に 軍 を
進 め て 駐 屯 し 、彼 ら を 厳 し く 包 囲 し た の で 、彼 ら は 弱 り 果 て た 。彼 ら は 和 平 を 望 み 、信 徒 の 長
ウ マ ル ・ ブ ン ・ア ル ハ ッ タ ー ブ が 彼 ら と 条 約 を 結 び 、彼 ら の た め に 安 全 条 約 を 書 い て く れ る よ
う 求 め た 。ア ブ ー ・ ウ バ イ ダ は 彼 ら と の 間 に そ れ に つ い て 条 約 を 結 び 、 ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ル ハ
ッターブに次のような書簡を書き送った。
「 慈 愛 深 く 慈 悲 あ ま ね き 神 の 御 名 に お い て 。ア ブ ー ・
ウ バ イ ダ・ア ー ミ ル・ブ ン・ア ル ジ ャ ッ ラ ー フ よ り 、神 の 僕 に し て 信 徒 の 長 た る ウ マ ル・ブ ン ・
ア ル ハ ッ タ ー ブ へ 。あ な た の 上 に 平 安 の あ ら ん こ と を 。私 は 、神 の 他 に 神 は な き 神 に 、あ な た
へ の 恩 寵 を 求 め ま す 。さ て 、我 々 は イ ー リ ヤ ー の 民 と 相 対 し て い ま す 。彼 ら は 増 長 し て 構 え て
い ま し た が 、彼 ら は ま す ま す 締 め つ け ら れ て 痩 せ 衰 え 、骨 と 皮 に な り み じ め な 有 様 に な っ て い
ま す 。彼 ら は そ う し た 有 り 様 を 見 る と 、信 徒 の 長 が 彼 ら の も と に や っ て 来 て 、彼 ら の た め に 条
約 を 結 ん で ほ し い と 求 め て い ま す 。恐 れ な が ら 信 徒 の 長 に お か れ ま し て は お 出 ま し に な り 、こ
の 民 が 戻 っ て く る よ う に な さ っ て く だ さ い 。[9. b] あ な た の 進 軍 は ― 神 が あ な た を 正 し き 者 と
な し 給 わ ん こ と を ― 恵 み と な り 恩 寵 と な る で し ょ う 。我 々 は 彼 ら の 上 に 、彼 ら の 信 仰 に よ っ て
確 約 さ れ た 確 か な 制 約 を 取 り つ け ま し た の で 、彼 ら は〔 条 約 を 〕受 け 入 れ て ジ ズ ヤ を 納 め 、ズ
ィ ン マ の 民 が 受 け 入 れ る べ き こ と を 受 け 入 れ る で し ょ う 。彼 ら は 、あ な た が お 出 ま し を 考 え ら
れ た な ら そ う す る で し ょ う 。で す か ら そ う な さ っ て く だ さ い 。あ な た の 進 軍 に は 報 い と 善 が あ
る こ と で し ょ う 。神 が あ な た の 正 当 さ を 長 か ら し め 、あ な た の な さ る こ と を 楽 に な し 給 わ ん こ
とを。あなたの上に平安と、神のお恵みと恩寵のあらんことを」
こ の 書 簡 が ウ マ ル ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― の も と に 届 い た と き 、ウ マ ル は ム ス リ ム の 長 た ち
を呼び集めると、彼らにその書簡を読み聞かせて意見を求めた。彼らの意見は様々であった。
あ る 者 は 、彼 ら は 多 く の 苦 労 を 払 わ ず に は 進 軍 は で き な い 、信 徒 の 長 が 出 向 か ず と も 彼 ら( イ
ー リ ヤ ー の 民 )は 降 伏 す る だ ろ う 、と 意 見 し た 。ま た あ る 者 は 、こ の 機 会 を 利 用 し て こ と を 長
引かせないように進軍すべきである、と意見した。そこでウマルは軍を率いて進軍した。
シ ャ ー ム に 近 づ い た と こ ろ で 、ム ス リ ム 軍 が 彼 を 出 迎 え た 。ア ブ ー ・ ウ バ イ ダ が 、衣 を 着 せ
ら れ て 毛 織 の 手 綱 を 付 け ら れ た 若 い 雌 の ラ ク ダ に 乗 り 、武 器 を 身 に つ け 弓 を 肩 に 担 い で や っ て
来た。彼はウマルを見ると、自分の雌ラクダを座らせた。ウマルも自分のラクダを座らせた。
アブー・ウバイダは〔ラクダから〕下りてウマルの方に行くと、ウマルも彼の方に近づいた。
ウ マ ル が ア ブ ー ・ウ バ イ ダ の 方 に 近 づ い て い く と 、ア ブ ー ・ ウ バ イ ダ は 握 手 を す る た め に 手 を
ウマルの方に差し出した。ウマルもまた手を差し出した。アブー・ウバイダはその手を取り、
皆 の 前 で 彼 に 敬 意 を 示 す た め に 、そ の 手 に 口 づ け し よ う と 体 を 屈 め た 。す る と ウ マ ル ― 神 よ 彼
を 嘉 し た ま え ― は 、ア ブ ー ・ ウ バ イ ダ の 足 に 口 づ け し よ う と 体 を 屈 め た 。ア ブ ー ・ ウ バ イ ダ は
「 お 止 め く だ さ い 、 信 徒 の 長 よ 」 と 言 っ て 後 退 っ た が 、ウ マ ル は「 い や い や 、ア ブ ー ・ ウ バ イ
ダよ」と言った。2 人のシャイフは互いに抱擁した。それから彼らは騎乗し、並んで進んでい
221
った。人々は彼らの前を進軍した。
次のようにも言われている。ウマルに一頭の馬と白い服が差し出された 。彼らはウマルに、
敵 が あ な た を 見 分 け る こ と が で き る よ う に 、こ の 馬 に 乗 っ て く だ さ い 、我 々 の 間 で は そ れ が あ
な た に 一 層 の 威 厳 を 与 え る で し ょ う 、と 言 っ て 、彼 に そ の 服 を 着 せ 、さ ら に 裏 地 に 羊 毛 の 付 い
た 皮 の 上 着 を 着 せ か け よ う と し た 。ウ マ ル は 断 っ た が 、彼 ら が 是 非 に と 頼 む の で 、彼 は 自 ら の
上 着 と 服 を 着 た ま ま で そ の 馬 に 乗 っ た 。そ の 馬 は ウ マ ル を 乗 せ て ゆ っ く り と 歩 ん だ 。ウ マ ル は
自 身 の 騎 乗 用 の 雌 ラ ク ダ 〔 の 綱 〕 を 手 に 持 っ て い た が 、そ う す る う ち に 〔 馬 か ら 〕下 り 、 自 分
の ラ ク ダ に 乗 る と 言 っ た 。「 こ れ で は 私 で は な く な っ て し ま う 。 自 分 が 驕 り 高 ぶ っ て い る の で
は な い か と 恐 れ て し ま い 、そ う し た 自 分 が 嫌 に な る 。ム ス リ ム の 民 よ 、お 前 た ち は 質 素 で あ ら
ね ば な ら な い 。強 大 に し て 栄 光 あ る 神 が お 前 た ち を 偉 大 に な さ し め 給 う た も の( イ ス ラ ー ム の
教え)に従わねばならない」
〔 ウ マ ル が シ ャ ー ム に や っ て き た と き 〕彼 の 眼 前 に 浅 瀬 が 広 が っ て い た 。そ こ で 彼 は ラ ク ダ
を 下 り て 靴 を 脱 ぎ 、そ れ を 手 に 提 げ て 、ラ ク ダ を 引 い て 水 の 中 に 入 っ た 。ア ブ ー ・ ウ バ イ ダ は
彼 に 言 っ た 。「 あ な た は 今 日 、 こ の 土 地 の 民 に 対 し て 偉 大 な る 行 い を な さ い ま し た ( 清 ら か な
川 に 靴 の ま ま 入 っ て 、 そ れ を 汚 す よ う な こ と を し な か っ た )」 す る と ウ マ ル は 自 分 の 胸 を 叩 い
て 言 っ た 。「 あ な た が そ の よ う な こ と を 言 う と は 、 ア ブ ー ・ ウ バ イ ダ よ 。 あ な た 方 は 人 々 の 中
で 最 も 卑 し く 、最 も 低 く 、最 も 小 さ い 者 で あ っ た の に 、偉 大 な る 神 が イ ス ラ ー ム を も っ て あ な
た 方 を 偉 大 な も の と な さ し め 給 う た の だ 。あ な た 方 が イ ス ラ ー ム 以 外 の も の で も っ て 偉 大 に な
り た い な ど と 考 え る な ら ば 、 [10. a] 至 高 な る 神 は あ な た 方 を 卑 し め ら れ る だ ろ う 」
ウ マ ル は バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス の 東 に あ る 、オ リ ー ブ 山 に 駐 屯 し た 。そ の 地 の 大 主 教 の 使
者 が 挨 拶 に や っ て 来 て 言 っ た 。「 我 々 は あ な た の お 出 ま し に 際 し 、 あ な た 以 外 の 何 人 に も 与 え
な か っ た よ う な も の を 差 し 上 げ ま す 」ウ マ ル は 彼 に 、自 分 か ら の 和 平 条 約 と ジ ズ ヤ を 受 け 入 れ
る よ う に 求 め 、そ う す る な ら 彼 に 、彼 ら の 血 と 財 産 、教 会 に 対 す る 安 全 保 障 を 与 え よ う と 言 っ
た 。彼 は そ う し た 条 件 で 了 承 し た 。そ の 使 者 は さ ら に 、彼 の 主 人 と の 間 に 和 平 を 結 び 互 い に 書
簡 を 交 わ し て 、安 全 保 障 を 与 え て く れ る よ う に と ウ マ ル に 求 め た 。ウ マ ル は 了 承 し た 。そ の 地
の 大 司 教 、す な わ ち そ の 地 の 長 が 、一 段 を 率 い て ウ マ ル の 方 に 出 向 い て き た 。ウ マ ル は 彼 ら と
の間に和平条約を結び、彼らにそのことについて誓言させた。
ア ブ ド ・ ア ッ ラ フ マ ー ン ・ ブ ン ・ ガ ナ ム ʽAbd al-Raḥmān b . Ghanam 曰 く 、 ウ マ ル ・ ブ ン ・
アルハッターブ―神よ彼を嘉したまえ―がイーリヤーの民であるキリスト教徒たちと和平条
約 を 結 ん だ と き 、 以 下 の よ う な 内 容 が 書 か れ た 。「 慈 愛 深 く 慈 悲 あ ま ね き 神 の 御 名 に お い て 。
こ れ は 神 の 僕 に し て 信 徒 の 長 た る ウ マ ル 様 に 対 す る 、し か じ か の 町 の キ リ ス ト 教 徒 か ら の 書 簡
で あ る 。あ な た 方 が 我 々 の も と に 来 ら れ た と き 、我 々 は あ な た 方 に 、我 々 の 身 柄 、子 孫 、財 産 、
同 胞 た ち に 対 す る 保 護 を 求 め ま し た 。我 々 は 我 々 の 身 柄 に 対 し て 、あ な た 方 に 以 下 の 条 件 を 提
示 し ま す 。我 々 の 町 、ま た そ の 周 辺 に お い て 、 修 道 院 や 教 会 、 僧 坊 、 僧 侶 の 祈 祷 所 を 新 し く 作
222
りません。ムスリムの地所にあるそれらの施設が壊れても、新築したり修繕したりしません。
夜 で あ れ 昼 で あ れ 、ム ス リ ム の う ち 何 人 で あ っ て も 、我 々 の 教 会 に 滞 在 す る こ と を 妨 げ ま せ ん 。
訪 問 者 や 旅 行 者 に 対 し 、教 会 の 門 を 広 く 開 け て お き ま す 。我 々 の も と を 訪 れ た ム ス リ ム を 3 日
間 宿 泊 さ せ ま す 。我 々 の 住 居 や 教 会 に ス パ イ を 匿 い ま せ ん 。ム ス リ ム に 対 し い か な る 隠 し 事 も
い た し ま せ ん 。我 々 の 子 供 た ち に ク ル ア ー ン を 教 え ま せ ん 。多 神 教 を 広 め ず 、何 人 に も そ こ に
誘 い 込 み ま せ ん 。我 々 と 親 戚 関 係 に あ る 人 々 が も し イ ス ラ ー ム へ の 入 信 を 望 む な ら ば 、そ れ を
止 め ま せ ん 。ム ス リ ム に は 敬 意 を 表 し 、彼 ら が も し〔 我 々 と 共 に 〕座 る こ と を 望 む な ら ば 、我 々
の 座 の 中 で 彼 ら に 上 座 を 提 供 し ま す 。彼 ら の 服 装 に 関 す る こ と 、丸 帽 子 や タ ー バ ン 、サ ン ダ ル 、
髪 を 分 け る こ と に 関 し て 、彼 ら を 真 似 る こ と は い た し ま せ ん 。彼 ら の 言 葉( イ ス ラ ー ム 的 な 言
い回しなど)を使って話しません。彼らのクンヤ (尊称)を使って名乗ることいたしません。
鞍 を つ け た 馬 に 乗 り ま せ ん 。帯 剣 し た り 、武 器 を 用 い た り す る こ と を い た し ま せ ん 。そ れ ら の
も の を 携 帯 し ま せ ん 。我 々 の 指 輪 に ア ラ ビ ア 語 を 彫 り ま せ ん 。酒 を 売 り ま せ ん 。前 髪 を 刈 り 上
げ ま す 。以 前 と 同 じ 服 装 を 続 け ま す 。腰 に は 帯 を 締 め ま す 。我 々 の 教 会 に 十 字 架 を 掲 げ ま せ ん 。
我 々 の 十 字 架 や 聖 書 を 、ム ス リ ム の よ う な や り 方 で は い か な る 場 所 で も 、ス ー ク で も 、外 に 晒
し ま せ ん 。我 々 の 教 会 で は 、小 さ な 音 で な け れ ば 鐘 を 鳴 ら し ま せ ん 。我 々 の 死 者 を 悼 む 声 を 上
げ ま せ ん 。 死 者 を 送 る 火 を 、 ム ス リ ム の よ う な や り 方 で は い か な る 場 所 で も 灯 し ま せ ん 。 [10.
b] 彼 ら が 住 居 に い る と き 、 彼 ら の 方 を 見 ま せ ん 」
ウ マ ル・ブ ン・ア ル ハ ッ タ ー ブ ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― の も と に こ の 書 簡 が 届 く と 、ウ マ ル
は そ こ に 次 の よ う に 付 け 加 え た :「 ム ス リ ム た ち の う ち 何 人 を も 殴 り ま せ ん 。 我 々 は あ な た 方
に こ れ ら の こ と を 、我 々 自 身 と 我 々 の 信 仰 の 民 に 対 す る 条 件 と し 、保 護 に 同 意 し ま す 。我 々 が 、
あ な た 方 に 条 件 と し て 提 示 し 我 々 自 身 の た め の 保 障 と し た こ と に 反 し た 場 合 、我 々 に は 保 護 が
な い も の と し ま す 。あ な た 方 は 我 々 に 対 し 、不 穏 分 子 や 敵 対 分 子 を 取 り 締 ま る こ と が で き ま す 」
バ イ ハ キ ー al-Bayh aqī そ の 他 の 人 々 が こ の 話 を 伝 え て い る 。
ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ル ハ ッ タ ー ブ は 彼 ら に 、 次 の よ う な 書 簡 を 書 い た 。「 慈 愛 深 く 慈 悲 あ ま ね
き 神 の 御 名 に お い て 。こ れ は 神 の 僕 た る 信 徒 の 長 ウ マ ル が 、イ ー リ ヤ ー の 民 に 与 え る 保 護 で あ
る 。彼 は 彼 ら に 、彼 ら の 身 柄 、財 産 、教 会 、十 字 架 、住 居 、町 々 、そ こ に あ る あ ら ゆ る 信 仰 に
対 す る 保 護 を 与 え る 。彼 ら の 教 会 に は 人 が 住 む こ と は な く 、壊 さ れ る こ と は な く 、そ こ か ら は
宝 物 で あ れ 十 字 架 で あ れ 、そ の 財 産 の う ち の い か な る も の も 損 な わ れ る こ と は な い 。彼 ら は 自
ら の 宗 教 を 捨 て る 必 要 は な い 。彼 ら の う ち の 何 人 も 傷 つ け ら れ る こ と は な い 。イ ー リ ヤ ー に は
〔 ユ ダ ヤ 人 は 〕ひ と り も 住 む こ と は な い 。イ ー リ ヤ ー の 民 に は 、他 の 町 々 の 民 の 上 に 課 せ ら れ
て い る の と 同 じ く 、ジ ズ ヤ が 課 せ ら れ る 。彼 ら は ビ ザ ン ツ 人 や 盗 人 た ち を 、そ こ か ら 追 放 せ ね
ばならない。彼らのうちで外に出ていく者に対しては、彼らが安全な場所に辿り着くまでは、
彼 ら の 身 柄 や 財 産 は 安 全 で あ る 。彼 ら の う ち 町 に 留 ま る 者 も ま た 安 全 で あ る 。そ の 者 に は イ ー
リ ヤ ー の 民 と 同 じ ジ ズ ヤ が 課 せ ら れ る 。イ ー リ ヤ ー の 民 の う ち 、我 が 身 と 財 産 を 携 え て ビ ザ ン
223
ツ 人 と 動 向 し た い と 思 う 者 は 、彼 ら が 安 全 な 場 所 に 辿 り 着 く ま で は 、そ の 身 柄 、教 会 、十 字 架
は 安 全 で あ る 。そ こ に い た 土 地 の 者 た ち の う ち 、居 住 す る こ と を 望 む 者 に は 、イ ー リ ヤ ー の 民
と 同 じ ジ ズ ヤ が 課 せ ら れ る 。ま た ビ ザ ン ツ 人 と 共 に 出 て い き た い 者 、自 身 の 土 地 に 戻 り た い と
思 う 者 に 対 し て は 、彼 ら が 手 元 に 金 を 用 意 で き る よ う に な る ま で は 、何 も 徴 収 さ れ な い 。こ の
文 書 の 中 に あ る も の に つ い て は 、彼 ら が 自 ら に 課 せ ら れ た ジ ズ ヤ を 納 め て い る 限 り 、神 の 契 約 、
神 の 保 護 、神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の 保 護 、カ リ フ た ち の 保 護 、信 徒 た ち
の 保 護 と な る 」 ハ ー リ ド ・ ブ ン ・ ア ル ワ リ ー ド Khāl id b. al -Wal īd、 ア ム ル ・ ブ ン ・ ア ル ア ー
ス ʽAmr b. al- ʽĀṣ、 ア ブ ド ・ ア ッ ラ フ マ ー ン ・ ブ ン ・ ア ウ フ ʽAbd al-Raḥmān b. ʽAwf、 ム ア ー ウ
ィ ヤ ・ ブ ン ・ ア ビ ー ・ ス フ ヤ ー ン M uʽāwiya b. Abī Sufyān が こ れ に 証 言 を 与 え た 。
ウマルは和平条約を締結し終えると、その地の大司教に「我々をダビデの神殿に案内せよ」
と 言 っ た 。 大 主 教 は 「 は い 」 と 言 っ た 。 ウ マ ル は 剣 を 帯 び 、 4000 人 の 同 行 者 を 連 れ て 出 か け
た 。彼 ら も 剣 を 帯 び て 彼 に 随 行 し た 。そ こ に い た 一 団 と 大 主 教 が 、ウ マ ル の 前 に 立 ち 、バ イ ト ・
ア ル マ ク デ ィ ス の 町 に 入 っ て い っ た 。 大 主 教 は ウ マ ル を 「 ご み 山 の 教 会 K anīsat al-Qumāma」
と 呼 ば れ る 教 会 に 連 れ て 入 り 、「 こ こ が ダ ビ デ の 神 殿 で す 」と 言 っ た 。 [11. a] し か し ウ マ ル は
そ こ を 見 渡 し 、 注 意 深 く 観 察 す る と 言 っ た 。「 あ な た は 嘘 を つ い て い る 。 か つ て 神 の 使 徒 ― 神
よ彼に祝福と平安を与え給え―は私にダビデの神殿の様子を教えてくださったことがあるが、
そ れ は こ の よ う で は な か っ た 」 次 に 大 主 教 は 彼 ら を 連 れ て シ オ ン 教 会 に 行 き 、「 こ こ が ダ ビ デ
の 神 殿 で す 」 と 言 っ た 。 し か し ウ マ ル は 、「 あ な た は 嘘 を つ い て い る 」 と 言 っ た 。 次 に 大 主 教
は ウ マ ル を 連 れ て バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の モ ス ク に 向 か い 、ム ハ ン マ ド 門 Bāb Muḥammad と
呼 ば れ る そ こ の 門 に ま で 連 れ て き た 。彼 は そ の モ ス ク に あ っ た 、そ の 門 の 階 段 や ス ー ク の 上 に
積 も っ て い た ご み の 山 の 方 に 下 り て い っ た 。そ こ に は 多 く の ご み の 山 が 積 も っ て い て 、モ ス ク
の 天 井 に 届 か ん ば か り に な っ て い た 。大 主 教 は ウ マ ル に「 這 っ て で な け れ ば 中 に 入 る こ と は で
き な い で し ょ う 」 と 言 っ た が 、ウ マ ル は 「 む し ろ 這 っ て 入 り た い の だ 」 と 言 っ た 。そ こ で 大 主
教はウマルの前を這って入り、ウマルと彼とともにいた者たちはその後ろから這って入った。
そ し て 彼 ら は モ ス ク の 中 庭 に 辿 り 着 く と 立 ち 上 が っ た 。 ウ マ ル は 左 右 を 見 渡 す と 言 っ た 。「 神
は 偉 大 な る か な 。こ れ ぞ 、ウ マ ル の 魂 が そ の 手 の う ち に あ る 方 に か け て 、神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に
祝福と平安を与え給え―が我々に言われたところ、彼がイスラーしたところのもの だ」
そ の 後 ウ マ ル は カ ァ ブ に 言 っ た 。「 ア ブ ー ・ イ ス ハ ー ク よ 、 お 前 は 岩 が あ る 場 所 を 知 っ て い
る か 」 カ ァ ブ は 言 っ た 。「 ワ ー デ ィ ー ・ ジ ャ ハ ン ナ ム に 隣 接 す る あ の 壁 か ら 何 々 ズ ィ ラ ー ゥ の
ところを測り、穴を掘ってください。そうすれば岩を見つけられるでしょう」当時そこには、
ビ ザ ン ツ 人 が イ ス ラ エ ル の 民 を 侮 辱 す る た め に 捨 て た ご み の 山 が あ っ た 。彼 ら が 掘 る と 、果 た
し て 彼 ら は 見 つ け た 。ウ マ ル は 自 分 の 上 着 を 広 げ て 、そ の ご み を 掃 き 集 め 始 め た 。ム ス リ ム た
ち も 彼 と 共 に 掃 き 集 め た 。 そ し て 彼 は そ の 前 方 を 礼 拝 の 場 所 と し た 。 ウ マ ル は 、「 こ こ に 3 回
雨 が 降 る ま で 、こ こ で 礼 拝 し て は な ら な い 」 と 言 っ た 。そ の 後 彼 は 、城 塞 の と こ ろ に あ る 町 の
224
門 の 側 に あ る ダ ビ デ の ミ フ ラ ー ブ の 方 に 、ム ス リ ム た ち と 共 に 向 か い 、そ こ で 礼 拝 し た 。す る
と 間 も な く 太 陽 が 昇 っ た 。ウ マ ル は ム ア ッ ズ ィ ン に〔 ア ザ ー ン を 〕行 う よ う に 命 じ 、そ こ に 近
づ く と 、 人 々 の 先 頭 に 立 っ て 礼 拝 し 、 彼 ら に 〔 ク ル ア ー ン の 〕「 サ ー ド 」 の 章 を 読 み 、 そ の 中
で跪拝した。それから彼は立って、人々の前で再び、イスラエルの民に関する部分を読んだ。
そ れ か ら ラ ク ア を し 、〔 そ こ か ら 〕 離 れ た 。 そ し て マ リ ア 教 会 の 近 く で 礼 拝 し た 。〔 そ の と き 〕
彼 は 2 枚 の 服 を 着 て い た の だ が 、 そ の う ち の 1 枚 に 唾 を 吐 い た 。 彼 は 、「 そ の 中 に 唾 を 吐 け ば
よ い で は あ り ま せ ん か 。そ こ は 至 高 な る 神 が 他 の も の と 並 べ ら れ た 場 所 で す 」と 言 わ れ た 。し
か し 彼 は 、「 そ こ で は 神 と 他 の も の が 並 べ ら れ た の と 同 じ よ う に 、 神 の 御 名 が 唱 え ら れ て い る
の だ 」と 言 っ た 。さ ら に「 も は や ウ マ ル は 、ワ ー デ ィ ー ・ ジ ャ ハ ン ナ ム に て 礼 拝 す る 必 要 は な
い」とも言った。
次 の よ う に も 伝 え ら れ て い る 。信 徒 の 長 ウ マ ル が バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ ス を 征 服 し 、安 全 保
障 と 和 平 の 条 約 を 結 ん だ と き 、人 々 は 彼 ら の 条 約 を 受 け 入 れ 、安 全 を 与 え ら れ た 。人 々 は 互 い
に〔 町 に 〕入 っ て い っ た 。ウ マ ル は 数 日〔 バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ ス に 〕 滞 在 し た 後 、ア ブ ー ・
ウ バ イ ダ に 言 っ た 。「 お 前 は 他 の 軍 団 の 長 と は 違 っ て 、 私 を 自 宅 に 招 こ う と は し な い の だ ね 」
す る と ア ブ ー ・ ウ バ イ ダ は 言 っ た 。「 信 徒 の 長 よ 、 私 が あ な た を お 招 き す れ ば 、 我 が 家 の 中 で
あ な た が 目 を 覆 う よ う な こ と に な る の で は な い か と 恐 れ る の で す 」ウ マ ル が「 私 を 招 い て ご ら
ん 」 と 言 う と 、 [11. b] 彼 は 「 ど う か 私 の と こ ろ に お 越 し 下 さ い 」 と 言 っ た 。 そ こ で ウ マ ル は
彼 の 家 を 訪 問 し た 。そ こ に は 彼 の 馬 に 乗 せ る フ ェ ル ト の 布 し か な か っ た 。と き に そ れ は 彼 の 敷
物 と な り 、と き に は 馬 の 鞍 と な り 、と き に は 枕 と な っ た 。彼 の 家 の か ま ど に は 、ひ か ら び た パ
ン の か け ら が あ っ た 。ア ブ ー ・ウ バ イ ダ は そ こ に 行 っ て そ の パ ン を 取 る と 、そ れ を ウ マ ル の 目
の 前 の 地 面 に お い て 、粗 塩 と 水 の 入 っ た 器 を 持 っ て き た 。ウ マ ル は そ の 様 子 を 見 て 泣 き 、彼 を
し っ か り と 抱 き し め て 言 っ た 。「 お 前 こ そ 我 が 兄 弟 だ 。 我 が 仲 間 た ち の 中 に 、 お 前 ほ ど 現 世 の
苦 し み に 耐 え て い る 者 が あ ろ う か 」 ア ブ ー ・ ウ バ イ ダ は 言 っ た 。「 で す か ら 私 は 、 あ な た が 目
を覆うようなことになるだろうと言ったのですよ」
そ れ か ら ウ マ ル は 人 々 の 間 に 立 ち 、神 を 称 賛 し 、神 が 可 能 に し 給 う た こ と に つ い て 神 を 讃 え 、
預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― に 祝 福 を 求 め て 言 っ た 。「 イ ス ラ ー ム の 民 よ 、 ま こ
と に 神 は お 前 た ち と の 約 束 を 果 た し 給 い 、敵 に 対 し て お 前 た ち に 勝 利 を 与 え 給 い 、お 前 た ち に
こ の 国 々 を 継 が せ 給 い 、お 前 た ち に 大 地 を 統 べ る 力 を 与 え 給 う た 。お 前 た ち が 神 に お 返 し で き
る も の と い え ば 、感 謝 の 念 し か あ り は し な い 。お 前 た ち は 不 服 従 の 行 い に は 注 意 せ よ 。不 服 従
の 行 い は ま さ し く 忘 恩 で あ る 。神 が 人 々 に お 恵 み を 与 え て 下 さ る 限 り 、彼 ら は 不 信 仰 に 陥 る よ
う な こ と は な い 。〔 し か し 一 旦 不 信 仰 に 陥 れ ば 〕 彼 ら の 力 が 奪 い 去 ら れ 、 彼 ら の 敵 が 彼 ら を 支
配 す る こ と な く し て は 、彼 ら は 悔 悛 に 辿 り つ け な く な る の で あ る 」そ し て 彼 は〔 壇 よ り 〕下 り
た 。 そ の と き 礼 拝 の 時 間 と な り 、 ウ マ ル は 言 っ た 。「 ビ ラ ー ル よ 、 我 々 の た め に ア ザ ー ン を 行
え 。 神 が お 前 に お 恵 み を 与 え て 下 さ る だ ろ う 」 ビ ラ ー ル は 言 っ た 。「 信 徒 の 長 よ 、 神 か け て 、
225
私 は 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の 後 に は 、誰 の た め に も ア ザ ー ン を し た く な
い と 思 っ て い ま し た 。し か し こ の 礼 拝 に お い て の み 、あ な た が 私 に 命 じ ら れ る の で し た ら 、あ
な た に 従 い ま し ょ う 」ビ ラ ー ル は ア ザ ー ン を 行 い 、教 友 た ち は 彼 の 声 を 聞 い た 。彼 ら は 預 言 者
― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の 名 を 唱 え 、激 し く 泣 い た 。そ の と き ム ス リ ム た ち の 中 で 、
ア ブ ー ・ ウ バ イ ダ と ム ア ー ズ ・ ブ ン ・ ジ ャ バ ル よ り も 長 く 泣 き 続 け た 者 は い な か っ た 。ウ マ ル
は彼ら 2 人に、
「 神 が お 前 た ち の 行 い を 数 え 、お 前 た ち に お 恵 み を 与 え 給 う よ う に 」と 言 っ た 。
礼 拝 を 行 う と 、信 徒 の 長 は メ デ ィ ナ へ と 戻 っ て い っ た 。彼 は 彼 が 目 指 し て い た イ ス ラ ー ム の
シャリーアとムスリムたちに関すること、神に道におけるジハードの実施に真摯に取り組み、
殉 教 者 と し て 亡 く な る ま で そ の よ う で あ っ た 。至 高 な る 神 が 彼 を 嘉 し 給 い 、彼 の ゆ え に 我 々 に
益 を 与 え 給 い 、我 々 と 彼 と の 間〔 に あ る も の 〕 を 、彼 の 高 貴 な る 館 に 集 め 給 わ ん こ と を 。 ま こ
と に 彼 こ そ は 善 行 の 助 け 手 で あ り 、 そ の 恩 寵 と 高 貴 さ を も っ て 悪 行 を 赦 さ れ る 方 で あ る 7。
7
B 写本では、この後に以下の内容が追加されている。
「 ム ス リ ム た ち が そ の モ ス ク を 救 い 出 し た 後 、モ ス ク に 次 の よ う な 詩 が 書 き つ け ら れ て い る の が 見 つ
かった。
教会を見守る人々よ、もしも事件の手が汝らを弄んだなら、
あるいは状況が変わったなら
いかに助祭たちが汝らのために跪拝したところで意味はない、
かつては彼らも鼻高々の、獅子のごとき勇者のごとき人々であったが
今ではこの災禍に耐えるのみ、それというのも、
1 日 1 日は違うもの、戦いはかわるがわるに勝ったり負けたりするものなのだから
私( 著 者 )は 次 の よ う に 言 う 。私 は 、権 威 あ る 兄 た る サ イ イ ド 、ム ハ ン マ ド・ア ッ サ イ ー ド Muḥamma d
al- Saʽī d に 、 こ れ ら の 詩 句 を 、 そ の 初 め の 部 分 と 後 半 の 部 分 の 、 2 つ の 部 分 に 分 割 し て く れ と 求 め た 。
すると彼はそれらの詩句をこの神への讃美によって清め、それらを最後まで言ってくれた。それらは、
人を勇気づけるという範疇から求められたものであった。彼は次のように言った。
クドス征服の日には血が逆流した、
ウマルによるその征服において、そして言われるようになった
教会を見守る人々よ、
もしも辺りをうろつく選ばれし者の仲間たちの力が汝らを弄んだならば
あるいはもしも事件の手が汝らの馬の鞍布を置き換えてしまったなら、
あるいは状況が変わったなら
いかに助祭たちが汝らのために跪拝したところで意味はない、
226
か の 岩 の 上 に 最 初 に ド ー ム を 建 て た の は 、 ア ブ ド ・ ア ル マ リ ク ・ ブ ン ・ マ ル ワ ー ン ʽAbd
al-M alik b. Marw ān で あ る 。 彼 は 自 身 の 行 政 区 か ら 工 人 た ち を 集 め 、 そ の 整 備 の た め に エ ジ
プ ト の 7 年 分 の ハ ラ ー ジ ュ を 用 意 し た 。彼 は そ れ を ハ ラ ム・ シ ャ リ ー フ の 東 側 の ド ー ム に 、す
な わ ち オ リ ー ブ 山 の 方 角 に 据 え た 。そ の 整 備 や 資 金 に 関 す る こ と は 、 ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ブ ド ・
ア ル ア ズ ィ ー ズ ʽUmar b. ʽAbd al-ʽAzīz の 座 の 学 識 あ る ウ ラ マ ー の ひ と り で あ っ た ラ ジ ャ ー ・
ブ ン ・ ハ イ ワ Rajāʼ b. Ḥaywa と 、 ア ブ ド ・ ア ル マ リ ク の マ ウ ラ ー の ひ と り で あ っ た ア ブ ー ・
ア ッ サ ラ ー ム ・ マ ク デ ィ ス ィ ー Ab ū al-Sal ām al-Maqdisī と 呼 ば れ る 人 に 委 ね ら れ た 。 彼 と 彼
の 2 人 の 息 子 に よ っ て 、 そ の ド ー ム の 様 子 や 姿 形 が 描 写 さ れ て い る 。 彼 ら は 彼 の た め に 、 [12.
a] 岩 の 東 側 に 鎖 の ド ー ム を も 建 設 し た 。 そ の 姿 形 は 彼 を 驚 嘆 さ せ た 。 彼 ら 2 人 ( ラ ジ ャ ー と
ア ブ ー ・ ア ッ サ ラ ー ム ) は 資 金 を 使 っ て そ れ に 携 わ る よ う に 、ま た 〔 そ の 建 設 の た め に 〕 財 産
を使い尽すように、と命じられた。
彼 ら は 建 設 と 整 備 に 取 り 掛 か り 、そ れ を 立 派 に 行 っ た 。そ し て 彼 ら は ダ マ ス カ ス に い る ア ブ
ド・ア ル マ リ ク に 、次 の よ う な 書 簡 を 書 き 送 っ た 。
「 神 は 、信 徒 の 長 が お 命 じ に な っ た バ イ ト ・
ア ル マ ク デ ィ ス の 岩〔 の ド ー ム 〕 と ア ク サ ー ・ モ ス ク の 建 設 を 完 遂 さ せ 給 い ま し た 。そ れ に つ
い て 語 る 者 は 、一 言 も 批 判 じ み た こ と を 言 う こ と は で き ま せ ん 。し か し 信 徒 の 長 が お 命 じ に な
っ た 費 用 の う ち 、 建 設 が 完 璧 に 完 了 し た 後 に も な お 、 10 万 デ ィ ー ナ ー ル が 残 っ て お り ま す 。
信 徒 の 長 に お か れ ま し て は 、こ れ を お 好 き な こ と の た め に お 使 い く だ さ い ま す よ う に 」信 徒 の
長 は 彼 ら 2 人 に 書 簡 を 書 き 送 っ た 。「 私 は お 前 た ち 2 人 に 、 お 前 た ち が か の 神 聖 な る 家 の 建 設
を 委 任 さ れ た こ と に 対 す る ほ う び と し て 、そ の デ ィ ー ナ ー ル を 充 て る よ う 命 じ て い る 」す る と
2 人 は 彼 に 、 次 の よ う に 書 き 送 っ た 。「 我 々 は 、 自 身 の 財 産 に 加 え 、 妻 女 た ち の 装 身 具 ま で を
も〔 ド ー ム 建 設 の 費 用 と し て 〕加 え る べ き で あ る と 存 じ ま す の に 。ど う ぞ あ な た の お 好 き な こ
と に こ の 金 を お 使 い く だ さ い 」 そ こ で ア ブ ド ・ ア ル マ リ ク は 彼 ら 2 人 に 書 き 送 っ た 。「 そ れ ら
の 金 を 鋳 つ ぶ し て〔 板 に 加 工 し 〕、ド ー ム の 上 に 貼 る よ う に 」そ こ で そ れ ら の 金 は 鋳 つ ぶ さ れ 、
ドームの上に貼られた。
〔 そ の 黄 金 の 屋 根 の ま ぶ し さ に 、〕誰 も そ の ド ー ム の 上 に あ る 黄 金 を 凝
視 す る こ と は で き な か っ た 。ま た 彼 ら は そ の ド ー ム に 覆 い を 用 意 し 、冬 の 間 、雨 や 風 や 雪 の と
きにそれでドームを覆った。
ラ ジ ャ ー ・ ブ ン ・ ハ イ ワ と ヤ ズ ィ ー ド ・ ブ ン ・ サ ラ ー ム は 、石 を 欄 干 で 囲 み 、そ の 欄 干 の 後
かつては彼らの帽子も黒く、髪の毛もばさばさと高く立っていたが
今日騎士たちは汝らの頭を引き抜いた、
かつては彼らも鼻高々の、獅子のごとき勇者のごとき人々であったが
この災いが最高潮となった後に、
というのもそれは浄化されても卑しく邪悪であるから
汝らは誘惑され、そして卑しくなった
1 日 1 日は違うもの、戦いはかわるがわるに勝ったり負けたりするものなのだから 」
227
ろ か ら 柱 の 間 に 絹 の カ ー テ ン を 掛 け た 。そ こ に は 月 曜 日 と 金 曜 日 し か 開 か な か っ た 。岩 に は サ
フラン香が撒き散らされ、竜涎香や沈香の香炉が焚かれる。その後カーテンが 巻き上げられ、
乳 香 は そ の ほ と ん ど が 香 り を 発 散 さ せ て 出 て い き 、ス ー ク の 先 に ま で 届 く 。そ の 後 呼 び か け 役
が「 や あ 、 岩 は 人 々 の た め に 開 か れ た 。そ こ で 礼 拝 し た い 者 よ 来 た れ 」 と 呼 ば わ り 、 人 々 は 急
い で 岩 の ド ー ム で 礼 拝 を し に く る 。礼 拝 す る 者 の 大 部 分 は 2 回 の ラ ク ア を し 、少 数 の も の は 4
回 行 う 。そ の 後 人 々 は 出 て い く が 、そ の 香 り を か い だ 者 は 、
「これは岩のドームの中のものだ」
と言う。
〔 人 々 の 礼 拝 の 後 〕諸 門 は 閉 め ら れ る 。各 々 の 門 に は 10 人 の 門 番 が い て 、月 曜 日 と 金
曜 日 以 外 に は 人 が 入 る こ と は で き な い 。ま た〔 月 曜 日 と 金 曜 日 に も 〕奴 隷 だ け が そ こ に 入 る こ
と が で き る 。そ こ で は メ デ ィ ナ 産 の ワ サ ビ ノ キ や ラ サ ー ス 産 の ユ リ の 香 煙 と と も に 、ラ ン プ が
灯されていた。
そ の ド ー ム の 中 央 に は 、ヤ テ ィ ー マ 真 珠 durra yatīma 、ア ブ ラ ハ ム の 雄 羊 の 2 本 の 角 、ペ ル
シ ア 王 の 王 冠 tāj kisrā が 吊 り 下 げ ら れ て い た 。後 に ハ ー シ ム 家 が カ リ フ 位 を 獲 得 す る と 、そ れ
らはカアバ―至高なる神がそこを守り給わんことを―に移された。
そ の 建 設 が 完 了 し た の は 73 年 の こ と で あ っ た 。 そ の 様 子 に つ い て は 、 イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル
IbnʽAs ākir ― 神 よ 彼 を 憐 れ み た ま え ― が 、 ア ブ ー ・ ア ル マ ア ー リ ー ・ マ ク デ ィ ス ィ ー Ab ū
al-M aʽālī al-M aqdis ī に 由 来 す る イ ス ナ ー ド に よ っ て 伝 え て い る 通 り で あ る 。ウ ク バ 曰 く 、
「当
時 は 柱 に 使 っ た 木 材 は 別 と し て 、 屋 根 を 葺 く た め の 木 材 が 6000 本 あ っ た 。 ま た そ こ に は 門 が
50 門 、大 理 石 の 柱 が 600 本 、ミ フ ラ ー ブ が 7 つ 、[12. b] ラ ン プ を 吊 り 下 げ る た め の 鎖 が 400
本 に 15 足 ら ず あ っ た 。 そ の う ち の 2 3 0 本 は モ ス ク に 、 残 り は 岩 の ド ー ム に あ っ た 。 ま た そ れ
ら の 鎖 の 長 さ は 4000 ズ ィ ラ ー ゥ 、 重 さ は 43 ラ ト ル ・ シ ャ ー ミ ー で あ っ た 。 ま た そ こ に は ラ
ン プ が 5000 個 あ っ た 。 そ れ ら の ラ ン プ に 加 え て 、 各 金 曜 日 、 シ ャ ア バ ー ン 月 と ラ ジ ャ ブ 月 、
ラ マ ダ ー ン 月 の 中 日 の 夜 、2 つ の イ ー ド の 夜 に は 、2000 本 の 蝋 燭 が 灯 さ れ た 。ま た そ こ に は 、
岩 の ド ー ム を 除 い て 15 の ド ー ム が あ っ た 。 モ ス ク の 屋 根 の 上 に は 7700 枚 の 鉛 の 板 金 が 貼 ら
れ て お り 、そ の 板 金 の 重 さ は 、岩 の ド ー ム に 貼 ら れ て い る も の を 別 に し て 70 ラ ト ル で あ っ た 。
そ れ ら の こ と は 全 て 、ア ブ ド ・ ア ル マ リ ク の 御 代 に 行 わ れ た 。ま た モ ス ク に は 、そ こ を 管 理 す
る 奴 隷 が 300 人 、 宝 物 庫 の 5 分 の 1 の 金 額 で 購 入 さ れ 、 配 置 さ れ た 。 彼 ら の 中 か ら 死 者 が 出
る と 、そ の 者 の 息 子 か 孫 、あ る い は 彼 の 一 族 の 者 が そ の 地 位 に 就 い た 。そ れ ら の 職 務 は 、彼 ら
が 子 々 孫 々 続 い て い く 限 り 彼 ら の 上 に あ っ た 。 ま た そ こ に は 14 個 の 大 き な 水 が め が あ っ た 。
ま た そ こ に は 4 つ の ミ ナ レ ッ ト が あ り 、そ の う ち の 3 つ は 一 列 に な っ て お り 、 1 つ〔 の 端 〕は
モ ス ク の 西 側 に 、ま た 1 つ〔 の 端 〕は ア ス バ ー ト 門 の も と に あ っ た 。そ の モ ス ク に は ユ ダ ヤ 人
の 奴 隷 が 10 人 お り 、 彼 ら か ら は ジ ズ ヤ が 徴 収 さ れ る こ と は な か っ た 。 彼 ら の 一 族 は 大 き く な
っ た た め 、そ の 数 は の ち に 20 人 に な っ た 。
〔 彼 ら の 職 務 は 〕人 々 が 祭 り の 際 、冬 に も 夏 に も 出
し た ご み の 清 掃 、金 曜 モ ス ク の 周 り に あ る 手 洗 い の 清 掃 で あ っ た 。ま た そ こ に は キ リ ス ト 教 徒
の 奴 隷 も 、1 つ の 家 の 者 か ら 10 人 お り 、彼 ら は そ の 業 務 を 代 々 相 続 し て い た 。〔 そ の 業 務 と い
228
う の は 〕ご ざ を 作 る こ と 、モ ス ク の ご ざ の 清 掃 、貯 水 槽 に 流 れ 込 む 水 路 の 清 掃 、水 路 そ の も の
の 清 掃 そ の 他 で あ っ た 。ま た そ こ に は 別 の ユ ダ ヤ 人 奴 隷 の 一 団 も い て 、彼 ら は ラ ン プ や 杯 、ラ
ン プ の 裏 に つ い て い る 反 射 鏡 に 使 う ガ ラ ス 、そ の 他 彼 ら が 必 要 だ と 言 う も の を 作 っ て い た 。彼
ら か ら も ジ ズ ヤ は 徴 収 さ れ な か っ た 。同 様 に 、ラ ン プ の 芯 に 使 う 藁 を 作 っ て い た 人 た ち か ら も
徴 収 さ れ な か っ た 。 ア ブ ド ・ ア ル マ リ ク ・ ブ ン ・ マ ル ワ ー ン の 時 代 か ら 現 在 に 至 る ま で 、〔 こ
れ ら の 業 務 は 〕彼 ら が 子 々 孫 々 続 い て い く 限 り 、永 久 に 彼 ら と 彼 ら の 子 孫 の 上 に あ っ た 。カ リ
フ 位 が ワ リ ー ド ・ ブ ン ・ ア ブ ド ・ ア ル マ リ ク に 移 っ た と き 、モ ス ク の 東 側 が 倒 壊 し た 。そ こ で
彼はドームの上にあるものを取り、それを整備に充てるよう に命じた」
ア ブ ド ・ ア ッ ラ フ マ ー ン ・ ブ ン ・ サ ー ビ ト ʽAbd al-Raḥmān b. Thāb it が 、 彼 の 父 よ り 、 さ ら
に 彼 の 祖 父 よ り 次 の よ う に 伝 え た 。カ リ フ =〔 ワ リ ー ド 〕・ ブ ン・ア ブ ド・ ア ル マ リ ク ・ ブ ン ・
マ ル ワ ー ン の 時 代 に は 、 モ ス ク の 諸 門 は す べ て 金 銀 の 板 で 覆 わ れ て い た 。 [13 . a] ア ブ ー ・ ジ
ャ ァ フ ァ ル ・ マ ン ス ー ル ・ ア ッ バ ー ス ィ ー Abū Jaʽfar al-M anṣūr al-ʽAbb ās ī が 〔 バ イ ト ・ ア ル
マ ク デ ィ ス に 〕 や っ て き た と き 、 モ ス ク の 東 部 と 西 部 は 130 年 の 地 震 に 際 し 崩 れ 落 ち て い た 。
そ こ で 人 々 が 彼 に 言 っ た 。「 ど う ぞ あ な た 様 が 我 々 に 、 こ の モ ス ク の 建 設 と 整 備 を お 命 じ く だ
さ い ま す よ う に 」 彼 は 言 っ た 。「 私 に は 金 が な い の だ 」 そ こ で 彼 は 、 門 の 上 に あ る 金 銀 の 板 を
剥 が す よ う 命 じ た 。そ れ ら か ら デ ィ ー ナ ー ル と デ ィ ル ハ ム が 作 ら れ た 。彼 は そ れ を 使 い 、モ ス
ク を 完 成 さ せ た 。そ の 後 2 回 目 の 地 震 が あ っ て 、ア ブ ー・ジ ャ ァ フ ァ ル の 命 じ た 建 物 は 崩 れ 落
ち て し ま っ た 。そ の 後 マ フ デ ィ ー al-M aḥdī が や っ て き た と き に は 、そ こ は 廃 墟 と な っ て い た 。
彼 は こ の こ と を 進 言 さ れ 、 モ ス ク の 建 設 を 命 じ た 。 彼 は 言 っ た 。「 こ の モ ス ク は 幅 が 狭 く 、 縦
に長い。それに工人たちも足りない。このモスクの縦の長さを短くし、横幅を増やすように」
そ し て 彼 の 在 位 中 に 、建 設 は 完 成 し た 。 452 年 に は 、バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の ド ー ム の 内 天
井 が 落 下 し た 。そ こ に は 500 個 の ラ ン プ が あ っ た 。そ こ に 住 ん で い た ム ス リ ム た ち は こ れ を 不
吉な兆候と見なし、きっとイスラームにたいへんなことが起るに違いないと言った。
バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス は 、ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ル ハ ッ タ ー ブ ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ―〔 の 征
服 〕か ら 491 年 ま で 、ム ス リ ム た ち の 手 に あ っ た 。そ の 年 、フ ァ ラ ン ジ ュ( 十 字 軍 )が 何 百 万
も の 大 軍 で そ こ に 進 軍 し て き た 。 彼 ら は 40 数 日 間 そ こ に 駐 屯 し 、 そ の 年 の シ ャ ァ バ ー ン 月 に
7 日 残 る 金 曜 日 の 午 前 中 に そ こ を 占 領 し た 。彼 ら は 1 週 間 の 間 、そ こ で 数 多 く の ム ス リ ム た ち
を殺した。アクサー・モスクでも、7 万人を越えるサイイドたちや神に仕える人々、ザーヒド
たちが殺された。また彼らは岩〔のドーム〕から、数え切れないほどの金銀の器を略奪した。
こ の た め に 、そ の 他 の 地 域 の ム ス リ ム た ち も 混 乱 の 極 み に 陥 っ た 。バ グ ダ ー ド の 民 は 金 曜 モ ス
ク に 集 ま り 、助 け を 求 め て 泣 き 、彼 ら の 上 に 起 こ っ た こ と の 大 き さ に 打 ち の め さ れ た 。バ グ ダ
ー ド の カ リ フ は 、フ ァ キ ー フ た ち に そ の 地 域 に 出 向 い て 行 き 、そ こ の 諸 王 に ジ ハ ー ド を 奨 励 す
る よ う に と 言 っ た 。そ こ で イ マ ー ム・ア ブ ー・ア ル ワ フ ァ ー・ブ ン・ウ カ イ ル・ハ ン バ リ ー al-Imām
Abū al-W afāʼ b. ʽUqayl b. al -Ḥanb al ī が 、 高 名 な フ ァ キ ー フ た ち を 連 れ て 出 向 い て 行 っ た 。 彼
229
ら は 人 々 と 共 に 旅 を し た 。 し か し 彼 ら は ど う す る こ と も で き ず 、〈 主 に め ぐ り 合 い 、 主 の お 側
に 帰 っ た 〉(Q2 :46) フ ァ ラ ン ジ ュ は 海 岸 地 域 と 、そ こ に あ る 城 や 城 塞 を 占 領 し 、そ こ や そ こ に
隣 接 す る 地 域 や 行 政 区 、領 地 な ど で 苛 立 た し い 振 舞 い を し 、そ の 町 の サ ル フ の 木 sarḥ 8 の 中 で
若 木 dh akwān を 痛 め つ け た 。
〈 サ タ ン が 彼 ら に 自 分 た ち の 所 業 を 立 派 な も の と 思 わ せ 〉(Q6:43)、
彼らを惑わせてしまった。彼らはその暴力的な所業において惑い続けた。
バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス そ の 他 の 場 所 が ム ス リ ム た ち か ら 奪 わ れ た と き 、ム ザ ッ フ ァ ル ・ア
ビ ー ワ ル デ ィ ー M uẓaffar al-Abīwar dī は そ れ に つ い て 次 の よ う な 詩 を 詠 ん だ 。
我らは血を、流れ出る血と混ぜた
我々にはもはや競争相手の的となるものは残っていない
人の武器という災いは涙を流す
戦争が勃発すれば、その炎はびくともしない強さを持つ
されば、おおイスラームの民よ、汝らの後ろには
その頂きを靴底に結び付ける事実がある
いかにして汝の目は眠るというのか
その瞼はあらゆる眠れる者を目覚めさせる過ちの上にあるというのに
シリアにいる汝らの兄弟たちは戦死者を犠牲に捧げている
盛りの馬たちの背中、あるいはライオンたちの腹
かの恥ずべきビザンツどもは彼らを虐げている
汝らが安楽のしっぽを揺らして安穏とした振舞いをしている間に
いったいこれまでにどれほどの血が撒き散らされたのか、また私の血からも
その美しさを恥じらう思いは、手首によって自らを隠した
刺撃や殴打の機会を捕える間には戦いがあり
そのために幼子たちの羽の先は白くなったままである
それは、平穏のために戦いの浮き沈みから逃れた者の戦争である
その戦いの後には後悔に襲われるというのに
我らは多神教徒どもの手によって、剣の切っ先を引き抜いた
いずれそれらは彼らの首や頭蓋骨に振り下ろされよう
それらのために、自らを親切心で包んだ者が
声 を 張 り 上 げ て 叫 ば ん ば か り に し て い る 、「 ハ ー シ ム 家 の 人 々 よ
私は見ている、我がウンマの民は彼らの槍を敵に向けておらず
宗教の支えは脆弱であることを
8
木 の 一 種 。 丈 が 高 く 、オ リ ー ブ に 似 た 黄 色 い 果 実 を つ け る 。 な お ザ ク ワ ー ン は 、サ ル フ の 小 さ い も の
を言う。
230
彼らは被害を恐れて炎を避け
この恥辱を避けがたき一撃だとは思っていない
私はこの被害に際してアラブの勇者たちを探し求めている
異民族どもの弱々しい脛の肉を見下ろすことができるような
彼らが宗教への熱情を手放すことがないようせよ
彼らは聖域への激情を出し惜しみしている
彼らが報酬を棄ててしまったなら、また騒乱を棄ててしまったなら
どうして彼らが戦利品を求めてそこに向かわぬことがあろうか」
バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス や 海 岸 地 域 、 そ の 他 の 場 所 は 、 90 数 年 間 に 渡 っ て そ の 見 捨 て ら れ
し フ ァ ラ ン ジ ュ ど も の 手 に あ っ た が 、つ い に 神 は そ の 時 を 明 ら か に さ れ 、ふ た つ と な き し る し
を 示 し 給 う た の で あ っ た 。 我 々 は そ れ を 最 大 の し る し と 呼 ん で い る 。 [14. a] 長 く 続 い た 夜 は
夜 明 け を 迎 え 、数 々 の 罪 の 萌 芽 の 中 に あ る こ の 現 世 は 、そ れ を 完 全 に 明 ら か に す る こ と に な り 、
数 々 の も の が 結 び 付 い て い る そ の ひ と つ が も た ら さ れ た 。そ れ ら を 支 配 す る 者 に と っ て は 、天
が 天 幕 、流 星 の 尾 が 綱 、大 地 が 絨 毯 、山 々 が 杭 、太 陽 が 金 貨 、月 が 銀 貨 、惑 星 が 召 使 、星 々 が
子 供 た ち で あ っ た 。彼 は ス ル タ ン に し て 偉 大 な る 王 、美 徳 の 保 全 者 、強 き 見 解 に 拠 っ て 立 つ 者 、
考 え ら れ る あ ら ゆ る こ と を 神 に 委 ね る 者 、ス ル タ ン = マ リ ク ・ ナ ー ス ィ ル ・ サ ラ ー フ ・ ア ッ ド
ゥ ン ヤ ー ・ ワ ッ デ ィ ー ン ・ ア ブ ー ・ ア ル ム ザ ッ フ ァ ル ・ ユ ー ス フ ・ ブ ン ・ ア イ ユ ー ブ al-M al ik
al-Nāṣir Ṣalāḥ al-D unyāʼ wa al-Dīn Abū al-M uẓaffar Y ūs uf b. Ayy ūb で あ る 。神 は 彼 の 時 代 に 、
恩 寵 と 恩 顧 を 持 っ て 水 を 注 ぎ 給 い 、彼 を 広 々 と し た 庭 園 に 住 ま わ せ 給 う た 。神 は 様 々 な 征 服 を
彼 の 手 に 容 易 い も の と し 給 い 、彼 の 側 に 天 使 た ち と 聖 霊 た ち を 下 し 給 う た 。そ れ は 、我 ら が マ
ウ ラ ー た る イ マ ー ム ・ ナ ー ス ィ ル ・ リ デ ィ ー ン ・ ア ッ ラ ー 、信 徒 の 長 た る ア ブ ー ・ ア フ マ ド ・
ア ッ バ ー ス ィ ー al-Nāṣ ir li-D īn All āh A bū Aḥmad al -ʽAbb āsī が バ グ ダ ー ド に い る 時 代 の こ と で
あ っ た 。ス ル タ ン = マ リ ク・ナ ー ス ィ ル・サ ラ ー フ・ア ッ デ ィ ー ン は 彼 の 教 宣 の 助 け 手 で あ り 、
彼 の 助 け を 教 宣 す る 者 で あ っ た 。ゆ え に 彼( カ リ フ = ナ ー ス ィ ル )は サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン
に 、こ の 明 ら か な る 征 服 を 任 じ た の で あ る 。こ れ は イ ス ラ ー ム に と っ て 2 度 目 の ヒ ジ ュ ラ で あ
り、三位一体の民にとっては、不信仰を望んだことゆえの 2 度目のバイアであった。
彼は多くのものを集めては、多くのものをばらばらにした。彼は様々な良きものを贈られ、
様 々 な 贈 り 物 を 良 く 扱 っ た 。 彼 は 様 々 な 贈 り 物 を 求 め 、 様 々 な 望 み を 与 え ら れ た 。 彼 は 583
年の神聖なるムハッラム月の始めに出陣したが、彼が望む勝利はすでに確かなものであった。
神 と そ の 使 徒 は 、イ ス ラ ー ム を 助 け る こ と を 約 束 な さ っ て い た か ら で あ る 。彼 は そ れ ら の 地 域
の 方 々 に 、ジ ハ ー ド の た め に 集 ま る こ と を 求 め る 書 簡 を 書 き 送 っ た 。彼 は 熱 情 に 燃 え 、栄 光 に
か き 立 て ら れ て 進 軍 し 、数 多 く の 軍 勢 と 強 力 な 軍 団 を 率 い て 前 進 し た 。彼 は 、そ れ ら の 地 域 に
お い て 不 信 仰 者 ど も の 手 に あ っ た 様 々 な 城 や 城 塞 、領 地 の す べ て を 占 領 し た 後 、バ イ ト・ ア ル
231
マ ク デ ィ ス を 目 指 し た 。そ れ ら の 地 か ら は 幸 運 を も っ て 不 幸 の 足 跡 が 拭 い 去 ら れ 、ア ザ ー ン の
栄 光 が 立 ち あ が っ た 。強 大 に し て 栄 光 あ る 神 は 、彼 が ア ス カ ラ ー ン の 征 服 を 終 え る ま で 、彼 を
助け給うた。
そ し て ス ル タ ン は 、ア ス カ ラ ー ン か ら バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 求 め て 、栄 光 あ る 助 け に 付
き 添 わ れ て 入 っ た 。彼 は ク ド ス と い う 花 嫁 に 求 婚 し 、彼 女 の た め の 婚 資 金 と し て 魂 を 捧 げ た の
で あ っ た 。神 聖 な る ク ド ス に は 、高 位 の 持 ち 主 で あ る ス ル タ ン が や っ て く る と い う 知 ら せ が も
た ら さ れ た 。そ こ に い た 者 の 心 は 飛 び 跳 ね 、浮 き 立 っ た 。フ ァ ラ ン ジ ュ は そ れ ら の 知 ら せ が 広
ま っ た と き 、彼 ら は そ れ が や っ て こ な い よ う に と 願 っ た 。フ ァ ラ ン ジ ュ は 悲 し み に 絶 望 し 、生
命 の 代 わ り と な る も の を 集 め て 言 っ た 。 [14. b]「 こ れ は 我 々 の が ら く た だ が 、こ の 中 に 我 々 の
復 活 が あ る 。そ こ で キ リ ス ト は 十 字 架 に か け ら れ 、犠 牲 の 獣 が 捧 げ ら れ 、光 が 下 り 、闇 が 払 わ
れ た の だ か ら 」彼 ら は 自 分 た ち の 過 っ た 行 い や 、彼 ら を 導 き の 道 か ら 逸 ら せ た も の に し が み つ
い て い た 。彼 ら の 僧 侶 た ち は 彼 ら を 煽 り 立 て 、彼 ら の 長 た ち は 彼 ら を 好 き な よ う に さ せ た 。ゆ
え に 彼 ら は 、勝 利 の 軍 団 が 神 の 助 け を 得 た 軍 勢 と し て 、剣 の 切 り 跡 も 鮮 や か に 、大 軍 団 を 展 開
し て 近 づ い て く る の に 気 付 か な か っ た の で あ る 。す で に 低 地 は そ の 袖 に よ っ て 揺 さ ぶ ら れ 、旗
はその旗の中で揺れ動いていた。
ス ル タ ン は そ の 力 を 尽 く し て 、勇 敢 な る 勇 者 た ち 、象 の ご と き 彼 の 子 供 た ち や 兄 弟 た ち 、若
き ラ イ オ ン の ご と き マ ム ル ー ク た ち や グ ラ ー ム た ち を 率 い て 接 近 し て き た 。遠 く か ら で も 、彼
の 進 路 が 近 く 、 彼 の 軍 団 の 輝 か し い こ と が 口 に さ れ る よ う に な っ た 。 彼 は 言 っ た 。「 も し 神 が
我 々 を お 助 け 下 さ る の で あ れ ば 、神 の 一 団 が と も に あ る だ ろ う 。も し お 助 け 下 さ ら な い の で あ
れ ば 、一 体 ど ん な 支 え が 我 々 を 支 え て く れ る と い う の か 」そ し て ス ル タ ン は 、バ イ ト ・ ア ル マ
ク デ ィ ス と ア ク サ ー ・モ ス ク の 特 別 さ の 中 の 、数 え 上 げ る こ と も 量 る こ と も 、ま と め る こ と も
で き な い 数 々 の 美 点 を 語 っ た 。そ し て 彼 は 預 言 者 の 足 跡 の 場 所 に 参 詣 す る ま で は そ れ を 止 め な
い 、と 誓 っ た 。彼 は 、神 が 自 身 の 誓 い 果 た さ せ て 下 さ る よ う 望 ん で 、そ う し た こ と を 決 意 し た
のであった。
彼 は ラ ジ ャ ブ 月 15 日 日 曜 日 に ク ド ス の 西 に 駐 屯 し 、 不 信 仰 を そ う あ る べ き よ う に 転 覆 さ せ
た 。そ の 日 ク ド ス に は 、フ ァ ラ ン ジ ュ 全 軍 の 中 に 7 万 人 を 越 え る 槍 や 弓 を 持 っ た 戦 士 た ち が い
た。彼らは戦い、死の中に突っ込み、あるいは戦いから逃げながら、その町に留まっていた。
彼 ら は 激 し く 戦 い 、戦 闘 に 突 入 し た 。魂 と い う 水 に 渇 い た ガ ゼ ル に 水 を 与 え る た め の 。戦 い は
続き、突撃や襲撃が何度も繰り返された。
ラ ジ ャ ブ 月 の 20 日 に 、 ス ル タ ン は 北 側 に 移 動 す る と そ こ に 天 幕 を 張 り 、 フ ァ ラ ン ジ ュ の 通
行 を 妨 害 し た 。彼 は 攻 城 機 を 立 ち あ げ 、地 平 線 か ら 矢 筈 を 据 え た 。そ れ は 壁 と な っ て い た 土 手
を 低 く し 、集 め ら れ て い た そ こ か ら そ れ 自 身 を 引 き 剥 が し た 。そ の 体 制 が 崩 壊 し た 後 、敵 と の
条 約 が 戻 っ て 来 て 、 そ れ は 征 服 と い う 地 平 線 よ り 光 と な っ て 現 れ た 。 彼 は ラ ジ ャ ブ 月 27 日 金
曜 日 に 、彼 ら が 定 め た 条 件 と 彼 ら が 課 し た 事 案 と 財 産 で 、安 全 条 約 を も っ て そ の 町 を 占 領 し た 。
232
彼らはスルタンのために、選び出された条件でそれらを実行した。その時金庫には、およそ
10 万 デ ィ ー ナ ー ル が あ っ た 。
私 は 、こ の 征 服 に つ い て の 喜 ば し き 知 ら せ の う ち 、あ た り に 広 が る 芳 し き 香 り や 、こ の ス ル
タ ン の 命 に よ っ て 、彼 の 敬 虔 さ を 伝 え る も の を 生 き 生 き と さ せ る も の を 書 き 留 め た 。[15. a] 私
は ハ ラ ー ム ・ モ ス ク に 、ア ク サ ー ・ モ ス ク の 解 放 と い う 喜 ば し き 知 ら せ を 伝 え た 。私 は ム ハ ン
マ ド の 宗 教 に お い て 、汝 ら に 定 め ら れ た も の が 与 え ら れ た 、と 言 っ た 。黒 い 石 は 白 い 岩 を 、啓
示 が 下 る 場 所 は イ ス ラ ー の 場 所 を 、使 徒 た ち の 主 人 に し て 預 言 者 た ち の 封 印 で あ る 方 の 住 ま い
は 、神 の お 側 近 く に 仕 え る 使 徒 た ち と 預 言 者 た ち の 住 ま い を 、完 全 な る 方 ア ブ ラ ハ ム の マ カ ー
ム は 、選 ば れ し 方 ム ハ ン マ ド の 足 の 置 か れ た 場 所 を 恋 し が っ た 。こ の 高 貴 な る 勝 利 と 偉 大 な る
征 服 は 、人 々 の 間 で 広 く 知 れ 渡 っ た 。彼 ら は あ ら ゆ る 場 所 か ら 参 詣 に 訪 れ 、あ ら ゆ る 道 を 通 っ
て そ こ に や っ て き た 。彼 ら は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス か ら か の 古 の 家( カ ア バ )に 向 け て の イ
フラームを行い、この優美なる地において、その高貴なる花々を満喫した。
ス ル タ ン は そ こ を 占 領 す る と 、ミ フ ラ ー ブ と い う 花 嫁 か ら ヴ ェ ー ル を 取 り 去 っ て 、そ の 前 に
あ っ た 建 築 物 を 破 壊 す る よ う に 命 じ た 。ま た 彼 は 、そ の 周 囲 の 空 間 も き れ い に す る よ う に 命 じ
た 。彼 ら は そ の 空 間 に 、美 し い 絨 毯 を 敷 い た 。ラ ン プ が 吊 る さ れ 、啓 示 に 関 す る ク ル ア ー ン の
章 句 が 読 誦 さ れ 、跪 拝 や 神 へ の 奉 仕 が 列 に な っ て 行 わ れ た 。礼 拝 や 祈 願 が 行 わ れ 、祝 福 が 現 れ 、
嘆きは取り払われた。ミンバルが立てられ、清められたミフラーブが備えられた。
シ ャ ァ バ ー ン 月 4 日 金 曜 日 に な り 、人 々 は ス ル タ ン が〔 然 る べ き こ と を 〕割 り 当 て 、金 曜 モ
ス ク が〔 人 で 〕満 た さ れ る こ と を 求 め る よ う に な っ た 。と い う の も 集 ま り の た め の 場 所 が ば ら
ば ら で 、人 々 の 目 や 耳 は 孤 独 で あ っ た か ら で あ る 。濡 れ る 心 を 慰 め る た め に 涙 が 注 が れ 、
〔人々
の 〕 目 は じ っ と 見 つ め 、〔 人 々 の 〕 意 見 は 分 か れ た 。 彼 ら は 誰 が フ ト バ を 行 う べ き か 、 誰 が そ
の 高 き 位 に 就 く べ き か に つ い て 語 り 、そ れ に つ い て 協 議 し 、そ の 任 命 を 長 引 か せ た 。彼 ら は〔 候
補 者 に つ い て 〕率 直 に 、ま た ほ の め か し を も っ て 語 っ た 。旗 が 立 て ら れ 、ミ ン バ ル は 飾 ら れ 磨
か れ た 。 人 々 の 声 が 上 が り 、 群 衆 は 集 ま り 、 軍 勢 は ひ し め き 合 い 、〔 人 々 の ざ わ め き と い う 〕
波 は 砕 け た 。知 識 人 た ち は 、ハ ッ ジ の ア ラ フ ァ ー ト に お け る ど よ め き の よ う に ど よ め い た 。そ
う す る う ち に 正 午 に な っ た 。節 度 は 失 わ れ 、呼 び か け る 者 が 定 め ら れ 、使 い 走 り の 者 は 急 き 立
て ら れ た 。ス ル タ ン は 自 身 の 言 葉 に よ っ て ハ テ ィ ー ブ を 選 出 し 、自 ら 試 し た 後 に そ の 選 択 を 公
表 し た 。彼 は 、イ ブ ン・ア ッ ザ キ ー・ウ ス マ ー ニ ー・ク ラ シ ー Ib n al-Z akī al-ʽUs mānī al-Qurash ī
と し て 知 ら れ る 、カ ー デ ィ ー の ム フ イ ー・ア ッ デ ィ ー ン・ア ブ ー・ア ル マ ア ー リ ー・ム ハ ン マ
ド・ブ ン・ア ル ハ サ ン・ア リ ー・ブ ン・ ム ハ ン マ ド・ブ ン・ヤ フ ヤ ー・ア リ ー ・ ブ ン ・ ア ブ ド ・
アルアズィーズ・アリー・ブン・アルフサイン・ブン・ムハンマド・ブン・アブド・アッラフ
マーン・ブン・アルカースィム・ブン・アルワリード・ブン・ムハンマド・ブン・アブド・ア
ッ ラ フ マ ー ン・ブ ン・ウ ス マ ー ン・ブ ン・ア ッ フ ァ ー ン Muḥ yī al-Dīn Abū al -M aʽālī M uḥammad
b. Abī al-Ḥasan ʽAl ī b. M uḥammad b. Yaḥ yāʼ ʽAl ī b. ʽAb d al -Azīz ʽAl ī b. al-Ḥus ayn b.
233
Muḥammad b. ʽAba al- Raḥmān b . al -Q āsim b. al-W alīd b . Muḥ ammad b. ʽAb d al- Raḥmān b.
ʽUthmān b. ʽAffān ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― を 指 名 し た 。 ス ル タ ン は 彼 に 、 [15 . b] 前 に 進 ん で
そ の 階 段 を 上 る よ う に 指 示 し た 。そ し て 彼 は こ の 木 の 上 に 上 り 、幸 運 に 浴 し た 。ミ ン バ ル の 胴
体 は 揺 れ 動 き 、会 衆 は 端 々 ま で 誇 り を 感 じ た 。彼 が フ ト バ を 行 え ば 彼 ら は 耳 を 傾 け 、彼 が 言 葉
を 述 べ れ ば 彼 ら は 手 を こ す り 合 わ せ た 。彼 は 明 瞭 に 、正 し い ア ラ ビ ア 語 で 話 し 、初 め て 聞 く よ
う な 驚 嘆 す べ き 様 子 で 語 っ た 。彼 は バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス の 美 点 と 、そ こ を 汚 さ れ た 後 に 神
聖 で 清 ら か な 状 態 に す る こ と 、す な わ ち 教 会 の 鐘 を 鳴 ら さ な い よ う に し 、僧 侶 た ち を 追 放 す る
ことをはっきりと述べた。
彼 は 座 っ た 状 態 か ら 立 ち 上 が っ た 後 、彼 の フ ト バ に お い て 次 の よ う に 始 め た 。彼 は〔 ク ル ア
ー ン の 〕「 開 巻 」 の 章 を そ の 終 り ま で 唱 え る こ と で も っ て 始 め 、 続 い て 〈 こ う し て 不 義 を 行 っ
た 民 は 根 絶 や し に さ れ た 。万 有 の 主 な る 神 を 讃 え よ 〉 (Q6:4 5) と 言 っ た 。続 い て 彼 は 、「 家 畜 」
の章の最初の部分を、
〈 そ れ な の に 、信 仰 に 背 く 者 ど も は 、主 に 同 位 の 者 を 併 置 し て い る 〉(Q6:1)
ま で 唱 え 、 続 い て 「 栄 光 あ れ 」〔 と い う 語 で 始 ま る 「 夜 の 旅 」 の 〕 章 の 、〈 言 っ て や れ 、「 神 を
讃 え よ 。神 は 子 供 を 持 ち 給 う こ と も な く ・・・」〉の 部 分 を 、〈 神 の 偉 大 さ を 讃 美 せ よ 〉 (Q 17:111)
ま で 唱 え 、 続 い て 「 洞 穴 」 の 章 の 、〈 神 を 讃 え よ 、 神 は 僕 に ・・・〉 (Q18:1) 以 下 の 3 節 を 唱 え 、
続 い て 「 蟻 」 の 章 の 最 初 の 部 分 の 、〈 天 地 に あ る も の す べ て を 所 有 し 給 う 神 に こ そ 栄 光 あ れ 〉
(Q34:1) 以 下 の 句 9 を 唱 え た 。 彼 は 、 本 当 は ク ル ア ー ン の 讃 美 の 章 句 を す べ て 述 べ た か っ た の
だが、長くなることを避けたのであった。
そ し て 彼 は 言 っ た 。「 神 に 讃 え あ れ 。 神 は そ の ご 助 力 に よ り イ ス ラ ー ム に 栄 光 を お 与 え に な
り 、そ の 圧 倒 的 な お 力 に よ り 多 神 教 徒 ど も を 低 め 給 う 方 。そ の 命 に よ り 諸 々 の 事 々 を 転 じ 給 い 、
そ の 御 褒 美 に よ り 恩 恵 を 永 続 さ せ 給 う 方 。そ の 抜 け 目 の な さ に よ っ て 不 信 仰 者 ど も を 破 滅 に 導
き 給 い 、そ の 正 義 に よ っ て 日 々 を 定 め 給 い 、そ の 恩 寵 に よ っ て 神 を 畏 れ る 者 た ち に 結 果 を お 与
え に な る 方 。僕 た ち の 上 に そ の 庇 護 を 惜 し み な く 注 ぎ 給 い 、あ ら ゆ る 信 仰 の 上 に ご 自 身 の 信 仰
の 勝 利 を 示 し 給 う た 方 。そ の 僕 た ち の 上 に 立 つ こ の 勝 利 者 に は 刃 向 か う こ と な ど で き ず 、そ の
代 理 人 の 上 に お 立 ち に な る こ の 征 服 者 と は 争 う こ と な ど で き な い 。神 が 望 み 給 う た 指 揮 官 は 更
迭 さ れ る こ と は な く 、神 が 欲 し 給 う た 支 配 者 は 抵 抗 を 受 け る こ と は な い 。神 を 讃 え よ 。勝 利 を
授 け 給 い 、物 事 を 明 ら か に し 給 い 、そ の 友 を 強 め 給 い 、そ の 信 奉 者 を 助 け 給 い 、そ の 聖 な る 家
を 偶 像 崇 拝 と い う 汚 点 や 汚 れ の 中 か ら 清 め 給 う た こ と の ゆ え に 。そ の 栄 誉 に 気 づ い た 者 が 、そ
のみ心のなかにある神秘、そのジハードの明らかなることを讃えんことを。
「 私 は『 神 た だ お ひ と り の 他 に 神 な し 、神 に 並 ぶ 者 な し 、神 は 唯 一 に し て 永 遠 な る 方 、生 む
9
こ こ で 挙 げ ら れ て い る〈 天 地 に あ る も の す べ て を ・・・〉の 句 は 、ク ル ア ー ン 第 27 章「 蟻 」の 章 で は な
く 、 第 34 章 「 サ バ 」 の 章 の 冒 頭 部 分 で あ る 。 本 書 の 他 に ム フ イ ー ・ ア ッ デ ィ ー ン に よ る フ ト バ を 引 用
し て い る 著 作 を 参 照 す る と 、 ム フ イ ー ・ ア ッ デ ィ ー ン は 第 18 章 「 洞 穴 」 の 章 の 後 に 、 第 27 章 「 蟻 」
の 章 の 第 59 節 〈 言 え 、「 神 に 栄 光 あ れ 、 選 ば れ し 神 の 僕 に 平 安 あ れ 」〉 を 唱 え た 後 に 、 第 34 章 「 サ バ 」
の 章 の 冒 頭 部 分 を 唱 え た 、と な っ て い る 。こ こ で は そ の 引 用 に 混 乱 が 起 き て い る [IA ⅰ , 263-264; UJ ⅰ ,
478; MQ ⅱ , 219-220 ]。
234
こ と も 生 ま れ る こ と も な く 、彼 に 並 ぶ 者 も 誰 一 人 と し て な し 』と 証 言 す る 。こ れ は タ ウ ヒ ー ド
によって心を清めし者のシャハーダであり、彼はこれによってその主を満足させるのである。
また私は、
『 ム ハ ン マ ド は 神 の 僕 に し て 神 の 使 徒 な り 』と 証 言 す る 。彼 は 偶 像 崇 拝 か ら 離 れ て 、
誤 り を 証 明 し た 方 。彼 は あ る 夜 ハ ラ ー ム・ モ ス ク か ら こ の ア ク サ ー ・モ ス ク へ と イ ス ラ ー さ せ
ら れ 、 そ こ か ら 高 き 天 へ と ミ ー ラ ー ジ ュ さ せ ら れ た 方 。〈 人 知 の 極 ま る と こ ろ の シ ド ラ の 木 の
そ ば の こ と で あ っ た 。そ の 木 の そ ば に は 、住 ま い と な る べ き 楽 園 が あ っ た 〉( Q35:14-15) 神 よ
彼 に 祝 福 を 与 え た ま え 。 [16. a] ま た 彼 の 代 理 人 に し て 信 仰 に 先 ん じ た 者 ア ブ ー ・ バ ク ル ・ ス
ィ ッ デ ィ ー ク と 、信 徒 の 長 に し て 、こ の 聖 な る 家 か ら 最 初 に 十 字 架 の し る し を 取 り 除 い た ウ マ
ル・ブ ン・ア ル ハ ッ タ ー ブ 、信 徒 の 長 に し て 2 つ の 光 の 所 有 者 、ク ル ア ー ン 編 纂 者 ウ ス マ ー ン ・
ブ ン・ア ッ フ ァ ー ン 、信 徒 の 長 に し て 、多 神 教 を ぐ ら つ か せ 偶 像 を 打 ち 砕 い た 者 ア リ ー・ブ ン ・
ア ビ ー ・ タ ー リ ブ 、 そ し て 彼( ム ハ ン マ ド )の 一 族 と 教 友 の 方 々 、 善 行 で も っ て 彼 ら の 後 に 続
いたタービウーンたちにも祝福を与え給え。
「人々よ、弥終の境にして至高なる階段である神の恩寵を喜ぶがよい。神に感謝をいたせ。
神 は こ の 長 く 望 ま れ た も の を 取 り 戻 す こ と を 汝 ら の 手 に 易 し き こ と と な さ り 、 そ こ が 丸 100
年 も 多 神 教 徒 ど も の 手 に あ っ て 痛 ん で し ま っ た 後 に 、イ ス ラ ー ム の な か の あ る べ き 場 所 に そ れ
を お 戻 し に な り 、神 が そ の 中 で 神 の 御 名 を 高 ら か に 唱 え 挙 げ る こ と を お 赦 し に な っ た こ の 家 を
清 め 給 い 、偶 像 崇 拝 の 帳 が そ の 家 の 上 に 広 が っ て い た 後 に 、そ の 信 仰 か ら 偶 像 崇 拝 を 取 り 除 き
給 う た 。そ こ に は 偶 像 崇 拝 の 痕 跡 が 残 っ て い た が 、神 を 称 賛 す る こ と に よ っ て そ の 基 盤 は 引 き
抜 か れ た 。こ の 家 は ま さ し く そ の 称 賛 の 上 に 建 て ら れ 、そ の 建 物 は 讃 美 に よ っ て 築 か れ た 。こ
の 家 は ま さ し く そ の 前 後 に あ る 敬 虔 さ の 上 に 基 礎 を 敷 い た も の で あ る 。こ の 家 は 汝 ら の 父 祖 ア
ブ ラ ハ ム の 故 国 に し て 、汝 ら の 預 言 者 ム ハ ン マ ド ― 神 よ 彼 に 最 上 の 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の
ミ ー ラ ー ジ ュ の 地 、イ ス ラ ー ム の 始 め に 汝 ら が 向 か っ て い た キ ブ ラ で あ る 。こ の 家 は 預 言 者 た
ち の 住 ま い 、聖 者 た ち の 目 指 す と こ ろ 、使 徒 た ち の 墓 地 、神 の お 告 げ の 下 る と こ ろ 、神 の 命 と
禁 止 の 下 る と こ ろ で あ る 。こ の 家 は〔 復 活 の 日 に 〕人 々 が 集 め ら れ る 地 、人 々 が 復 活 さ せ ら れ
る 丘 に あ る 。こ の 家 は 、神 が そ の 明 ら か な る 啓 典 の 中 で 言 及 し 給 う た と こ ろ の 聖 な る 地 に あ る 。
こ の 家 は 、万 世 の 主 の 使 徒 が 預 言 者 た ち や 使 徒 た ち 、お 側 仕 え の 天 使 た ち の 先 頭 に 立 っ て 礼 拝
し た と こ ろ の モ ス ク 、こ の 家 は 、神 が そ の 僕 に し て 使 徒 た る 方 と 、マ リ ア に 授 け 給 う た 言 葉 と 、
神 が 使 徒 性 を も っ て 高 貴 な 者 と な し 、預 言 者 性 を も っ て 神 聖 な る 者 と な し 給 う た が 、僕 と し て
の立場を変え給うことのなかったところの、神の魂イエスを遣わし給うた地である」
そして彼は言った。
「〈 例 え メ シ ア で あ っ て も 、神 の 僕 で あ る こ と に 不 服 は な い は ず 。お 側 近
く の 天 使 た ち に し て も 同 様 で あ る 〉 (Q 4:172) 〔 イ エ ス を 〕 神 と 等 し い 者 と 見 な す 者 た ち は 正
し く な い こ と を 言 っ て お り 、 遠 く に 迷 い 去 っ て い る 。〈 神 は 子 を 設 け 給 わ な か っ た 。 ま た 、 共
に 並 ぶ い か な る 神 も な い 。も し そ う な ら 、ど の 神 も め い め い の 造 っ た 者 を 擁 し て 、互 い を 制 す
る こ と で あ ろ う 。彼 ら の 述 べ る と こ ろ を 超 越 し 給 う 神 に 栄 光 あ れ 。見 え な い も の も 見 え る も の
235
も、すべて知り給うお方である。神は彼らが併置する者を超越して、高きにいまし給う〉
(Q23:91-92)、 [16. b]〈「 神 は す な わ ち 、 マ リ ア の 子 メ シ ア で あ る 」 な ど と 言 う 者 は 、 す で に 信
仰 に 背 い て い る 〉 (Q5:17) ― 「 食 卓 」 の 章 の 中 の こ の 句 を 最 後 ま で ― 。
「 こ の 家 は 第 1 の キ ブ ラ に し て 第 2 の モ ス ク 、第 3 の 聖 地 で あ る 。か の 2 つ の モ ス ク を 除 い
て は 、そ こ 以 外 に 鞍 を 据 え て は な ら な い 。か の 2 つ の 故 国 を 除 い て は 、そ こ 以 外 に 重 き を 置 い
て は な ら な い 。万 一 に も 汝 ら が 、神 が そ の 僕 た ち の 中 か ら 選 び 給 い 、諸 国 の 住 人 た ち の 間 か ら
選 出 し 給 う た 存 在 で は な か っ た と し た ら 、神 は 、そ れ に つ い て 誰 も 汝 ら の 隣 に 立 つ こ と な く 誰
も 汝 ら と 競 い 合 う こ と の な い と こ ろ の こ の 美 点 で も っ て 、汝 ら を 特 別 な 存 在 と な さ る こ と は な
か っ た で あ ろ う 。汝 ら に 祝 福 あ れ 。汝 ら の 手 に は 、預 言 者 の 奇 跡 と バ ド ル の 戦 い 、ス ィ ッ デ ィ
ー ク の 決 意 、ウ マ ル の 征 服 、ウ ス マ ー ン の 軍 団 、ア リ ー の 殺 害 が あ っ た 。汝 ら は イ ス ラ ー ム の
た め に 、カ ー デ ィ ス ィ ー ヤ と ヤ ル ム ー ク の 戦 い 、ハ イ バ ル の 戦 い 、ハ ー リ ド の 攻 撃 が 行 わ れ た
時 代 が 再 び 蘇 ら せ ら れ た 。神 は 汝 ら の 預 言 者 ム ハ ン マ ド を 通 じ 、汝 ら に 最 上 の 報 い を お 与 え く
だ さ っ た 。神 は 、汝 ら が 捧 げ た 、敵 と の 戦 い に 対 す る 汝 ら の 魂 に 感 謝 を 示 し 給 い 、汝 ら が そ れ
を も っ て 敵 に 近 づ い た と こ ろ の 流 血 を 汝 ら よ り 受 け 入 れ 給 い 、そ の 報 い と し て 汝 ら に 楽 園 を 与
え 給 う た 。楽 園 こ そ は 幸 福 の 館 で あ る 。さ れ ば 汝 ら は 、神 が 汝 ら を 憐 れ み 給 わ ん こ と を 、神 が
定 め 給 う た こ の 恩 恵 の 価 値 を 思 い 知 り 、神 に 対 し そ の 恩 恵 の 義 務 を 果 た す が よ い 。ま こ と に 至
高 な る 方 は 、汝 ら を こ の 恩 恵 で も っ て 特 別 な 存 在 と な し 、そ の 奉 仕 に よ っ て 汝 ら を 選 り 抜 き 給
うたことで、汝らの上にお恵みをもたらし給うたのである。これこそは、天の諸門を開かせ、
そ の 光 で 暗 闇 の 面 を 輝 か せ 、お 側 仕 え の 天 使 た ち を 喜 ば せ 、預 言 者 や 使 徒 の 方 々 に 喜 び を 見 出
さ せ る と こ ろ の 征 服 で あ る 。こ の 恩 恵 の 中 で 汝 ら の 上 に あ る も の と 言 え ば 、汝 ら が 、信 仰 の 御
旗 が そ の 剣 に よ っ て 、預 言 者 性 の う ち の わ ず か な 間 の 後 に 立 つ こ と に な る よ う な 軍 隊 と な る よ
う 定 め ら れ て い る と い う こ と で あ る 。き っ と 神 は 汝 ら の 手 の 上 に そ の 規 範 を 開 き 給 い 、祝 福 は
大地の民に対する以上に、天空の民に対して多くなることであろう。
「これこそは、神がかつてその啓典の中で言及なさり、ご自身のお言葉において語り給い、
そ れ に よ っ て 汝 ら に お 恵 み と お 力 を 与 え 給 う た と こ ろ の 家 で あ る 。至 高 な る 神 は 言 わ れ た 。
〈聖
な る 礼 拝 堂 か ら 、我 ら が し る し を 示 す た め に 周 囲 を 祝 福 し た 遠 隔 の 礼 拝 堂 ま で 、夜 の 間 に そ の
僕 を 連 れ て 旅 し 給 う た お 方 に 栄 光 あ れ 〉 (Q17:1) こ れ こ そ は 、天 使 た ち に よ っ て 強 め ら れ 、使
徒 た ち に よ っ て 褒 め 称 え ら れ 、強 大 に し て 栄 光 あ る 神 の も と か ら 下 っ て き た 4 つ の 啓 典 が そ の
中 で 唱 え ら れ る と こ ろ の 家 で あ る 。こ の 家 の た め に 、か つ て ヤ ァ ラ ブ の 子 ヌ ン の 子 で あ る ヨ シ
ュ ア Yūshʽ b . N ūn b . Yaʽrab の 上 に 太 陽 が 〔 引 き 戻 さ れ た 〕。 神 は 彼 が そ こ を 楽 に 征 服 し 近 づ
い て 行 け る よ う に 、太 陽 を 留 め 給 う た の で あ っ た 。こ の 家 は ま さ し く 、か つ て 強 大 に し て 栄 光
あ る 神 が モ ー セ と そ の 民 に 、そ こ を 救 う よ う に お 命 じ に な っ た が 、2 人 の 人 を 除 い て 彼 ら が そ
う し な か っ た た め に 、神 が そ の こ と で 彼 ら に お 怒 り に な り 、そ の 反 抗 に 対 す る 罰 と し て 、彼 ら
を荒野に打ち捨て給うたところの家である。
236
[17. a]「 神 を 讃 え よ 。神 は 、か つ て 世 界 の あ ら ゆ る 民 族 に 勝 っ て い た イ ス ラ エ ル の 民 が 神 に
反 抗 し た 後 に 、汝 ら の こ と を 取 り 決 め 給 い 、汝 ら に 先 立 つ ウ ン マ が 神 と の 縁 を 立 ち 切 っ た 後 に 、
か つ て ば ら ば ら に な っ て い た 汝 ら の 言 葉 を 汝 ら の た め に 集 め 給 い 、「 ~ で あ っ た kāna」と い っ
た 〔 言 葉 に よ る 〕 す で に 果 た さ れ た も の を も っ て 、「 き っ と sawfa」 と か 「 そ う す る う ち に は
ḥattā」と い っ た〔 言 葉 で 表 さ れ る 未 来 の 〕こ と か ら 、汝 ら を 救 い 給 う た 。神 は す で に 汝 ら に 、
そ の 側 に い た 者 に つ い て 述 べ 給 い 、汝 ら が 奈 落 の 軍 隊 と な っ た 後 、汝 ら を そ の 軍 隊 と な し 給 う
た 。 天 か ら こ の 家 に 下 っ て く る 天 使 た ち は 、 タ ウ ヒ ー ド の 芳 し さ と 、〔 こ の 家 の 〕 讃 美 が 広 く
行 わ れ た こ と の ゆ え に 、汝 ら に 感 謝 し た 。汝 ら は 、偶 像 崇 拝 や 三 位 一 体 説 、邪 悪 な る 放 蕩 者 の
信 条 を 行 う 者 の や り 方 に は 乗 ら な か っ た 。ゆ え に 今 や 、諸 天 の 天 使 た ち が 汝 ら の た め に 赦 し を
請い、汝らのために恵み深き祝福を請うているのである。
「 さ れ ば 汝 ら 、神 が 汝 ら を 憐 れ み 給 わ ん こ と を 、汝 ら の も と に あ る こ の 施 し 物 の こ と を よ く
覚 え て お き 、神 に 対 す る 敬 虔 さ に よ っ て 汝 ら の 側 に あ る こ の 恩 寵 に 目 を 向 け よ 。そ の 敬 虔 さ を
し っ か り と 持 っ た 者 は 心 安 ら か に な り 、そ の 取 手 を し っ か り と 掴 ん だ 者 は 安 全 に 守 ら れ る の で
あ る 。熱 情 に 従 っ て 滅 び を 受 け 入 れ 、過 去 に 戻 り 、敵 か ら 顔 を 背 け る こ と の な い よ う に 注 意 せ
よ 。機 会 を し っ か り と 捕 え 、苦 し み を 取 り 除 く よ う に せ よ 。神 の た め に 、そ の ジ ハ ー ド と い う
正 義 に 努 め よ 。汝 ら は 、神 が 汝 ら を 憐 れ み 給 わ ん こ と を 、汝 ら 自 身 を ジ ハ ー ド の 喜 び の た め に
売 ら ね ば な ら な い 。神 が 汝 ら を 良 き 僕 と な さ っ た の で あ る か ら 。し か し 気 を 付 け よ 、サ タ ン が
汝 ら を 躓 か せ 、圧 政 に 引 き ず り 込 も う と し て い る 。サ タ ン は 汝 ら に 、こ の 勝 利 が 汝 ら の 鋭 い 剣
と 優 駿 と 、戦 場 に お け る 汝 ら の〔 華 々 し い 〕戦 い に よ る も の で あ る と 思 い こ ま せ よ う と し て い
る 。そ う で は な い 、偉 大 な る 神 に か け て 、強 大 に し て 叡 智 あ る 神 に よ ら ず し て は 、こ の 勝 利 は
あ り 得 な か っ た の で あ る 。神 の 僕 ら よ 、神 は こ の 栄 光 あ る 征 服 と 溢 れ ん ば か り の 施 し に よ っ て
汝 ら を 高 め 給 い 、輝 か し い 勝 利 に よ っ て 汝 ら を 特 別 に 引 き 立 て 給 う た の だ と い う こ と に 注 意 せ
よ。神が禁じ給うた事ごとを多く犯し、神に堂々と反抗することのないようにせよ。汝らは、
〈紡いだ糸をいったん固く撚り合わせた後で、ほどいてすじ糸に戻してしまう女のように〉
(Q16:92) 、 あ る い は ま た 〈 我 ら か ら し る し を 授 か り な が ら 、 そ れ を 脱 ぎ 捨 て 、 そ の た め に サ
タ ン に 追 い つ か れ て 、 惑 わ さ れ て し ま っ た 人 〉 (Q7:175) に な っ て し ま わ ぬ よ う に 。
「 ジ ハ ー ド に ジ ハ ー ド を 重 ね よ 。そ れ こ そ が 汝 ら の 奉 仕 の 中 で 最 高 の も の 、汝 ら の 慣 習 の 中
で最も神聖なるものなのであるから。神をお助け申せ、さすれば神も汝らを助けて下さろう。
神 の 名 を 唱 え よ 、さ す れ ば 神 も 汝 ら を 思 い 出 し て 下 さ ろ う 。神 に 感 謝 を 捧 げ よ 、さ す れ ば 神 も
汝 ら に 報 い を 返 し 、感 謝 し て 下 さ ろ う 。病 を 終 わ ら せ 、敵 を 根 絶 や し に す る こ と に 努 め よ 。神
と そ の 使 徒 を 怒 ら せ た 、 こ の 地 に 残 る こ の 不 浄 の も の を 清 め 、 不 信 仰 の 枝 葉 を 切 り 落 と し [17.
b] そ の 根 を 引 き 抜 け 。 時 代 は す で に 、 イ ス ラ ー ム と い う 豊 か な 雨 を も た ら す 雲 、 ム ハ ン マ ド
の 宗 教 が 沸 き 起 こ っ た こ と で 揺 れ 動 い て い る の だ 。神 は 偉 大 な る か な 。神 は 征 服 し 勝 利 を 与 え
給 い 、打 ち 破 り 制 覇 し 給 い 、不 信 仰 者 ど も を 卑 し め 給 う た 。汝 ら は 知 る が よ い 、神 が 汝 ら を 憐
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れ み 給 わ ん こ と を 、こ の 機 会 を 捕 え 、獲 物 と 戦 い 、戦 利 品 を 手 に せ よ 。割 り 当 て を 求 め て 汝 ら
の 努 め を 出 し 、そ れ を 引 き 出 し 、そ れ に 向 か っ て 汝 ら の 取 り 決 め た 部 隊 を 出 撃 さ せ 、そ れ を 用
意 せ よ 。さ す れ ば 幸 運 は そ の し る し に よ っ て 、得 物 は そ の 内 な る 性 質 に よ っ て 得 ら れ よ う 。神
は す で に 汝 ら に 、こ れ ら の 打 ち 破 ら れ た 敵 に 対 す る 勝 利 を お 与 え く だ さ っ た 。彼 ら は 汝 ら と 同
数 か 、 あ る い は そ れ 以 上 い た に も か か わ ら ず 。 い か に し て 汝 ら の う ち の 20 人 の 者 が 、 敵 の 面
前 に 現 れ た の か 。至 高 な る 神 は か つ て 言 わ れ た 。
〈 も し 汝 ら の 中 で 耐 え 忍 ぶ 者 が 20 人 い る な ら
ば 、200 人 に 勝 て る で あ ろ う 〉(Q8:65) 、〈 も し 汝 ら の 中 に 1000 人 い る な ら ば 、神 の お 許 し に
よ り 2000 人 に 勝 て る で あ ろ う 〉 (Q8: 6 6) 神 よ 我 々 を 支 え 給 え 。 汝 ら は 神 の 命 に 従 い 、 神 が 制
限 さ れ る も の か ら 離 れ ね ば な ら な い 。神 は 我 々 ム ス リ ム た ち を 、そ の お 側 に い る 者 を 助 け 給 う
こ と に よ っ て 支 え 給 う た 。〈 も し 神 が 助 け 給 う な ら ば 、 汝 ら に 勝 つ 者 は 誰 も い な い 。 し か し も
し 神 が 見 捨 て 給 う な ら ば 、 そ の 後 誰 が 汝 ら を 助 け る だ ろ う か 〉 (Q3 :160) あ る 場 所 で 唱 え ら れ
た 発 言 が 高 々 と 上 が り 、激 し い 言 葉 を 貫 き 通 す 矢 が 放 た れ 、あ る 発 言 が 終 わ れ ば 、そ の 発 言 に
よ っ て 知 性 が 彩 ら れ る も の で あ る 。〔 こ れ は 〕 唯 一 に し て ま た と な き 、 偉 大 に し て よ く 知 り 給
う方のお言葉である」
そ し て 彼 ( ム フ イ ー ・ ア ッ デ ィ ー ン ) は 神 に 救 い を 求 め 、「 慈 愛 深 く 慈 悲 あ ま ね き 神 の 御 名
に お い て 」 と 唱 え て か ら 、「 召 集 」 の 章 の 冒 頭 部 分 を 唱 え た 。 そ れ か ら 彼 は 、 カ リ フ に し て 信
徒 の 長 た る ナ ー ス ィ ル ・ リ デ ィ ー ン ・ ア ッ ラ ー と ス ル タ ン の た め に 祈 願 し て 言 っ た 。「 お お 神
よ 、汝 の 僕 た る ス ル タ ン 、汝 の 威 光 の 前 に 身 を 卑 し め 、汝 の 恩 恵 に 感 謝 を 捧 げ る 者 、汝 よ り 贈
ら れ し 、汝 の 鋭 き 剣 と 輝 く 炎 を 授 け ら れ し 者 、汝 の 宗 教 を 守 護 し 推 し 進 め る 者 、反 乱 の 起 こ っ
た 汝 の 聖 域 を 守 る 者 、栄 光 に 満 ち 神 の 助 け を 受 け し 主 人 に し て 王 、信 仰 の 言 葉 を 集 め し 者 、十
字 架 の 信 仰 者 を 制 圧 す る 者 、現 世 と 来 世 の 善 、イ ス ラ ー ム と ム ス リ ム た ち の ス ル タ ン 、バ イ ト・
ア ル マ ク デ ィ ス を 多 神 教 徒 ど も の 手 よ り 清 め し 者 、ア ブ ー ・ ア ル ム ザ ッ フ ァ ル ・ ユ ー ス フ ・ サ
ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ ブ ン ・ ア イ ユ ー ブ 、信 徒 の 長 の 王 国 を 栄 え さ せ る 者 を 、永 続 さ せ 給 わ
んことを。
「 お お 神 よ 、彼 の 広 き 王 国 に よ っ て 彼 が 栄 え ん こ と を 。汝 の 天 使 た ち を 彼 の 旗 で も っ て 取 り
巻 か せ 給 え 。真 実 な る 宗 教 に よ っ て 彼 へ の 報 い を 美 し く 飾 り 、ム ハ ン マ ド の 宗 教 に よ っ て 、彼
の 偉 大 さ と 機 敏 さ を 讃 え 給 え 。お お 神 よ 、イ ス ラ ー ム の た め に 彼 の 魂 を 留 め 置 き 、信 仰 の た め
に 彼 が 保 有 し て い る も の を 保 ち 給 え 。東 に お い て も 西 に お い て も 、彼 の 教 宣 を 広 げ 給 え 。お お
神 よ 、 [18. a] 疑 い が 持 た れ た 後 で 汝 が 彼 の 手 の 上 に バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 征 服 さ せ 給 う
た よ う に 、彼 の 手 に こ の 大 地 の 遠 き も 近 き も 征 服 さ せ 給 え 。彼 を し て 大 地 の つ ま 先 か ら 額 ま で
を 支 配 せ し め 給 え 。 さ す れ ば 彼 は 、彼 の う ち 部 隊 な ら ぬ〔 単 な る 〕 切 れ 端 に 、集 団 な ら ぬ 〔 単
な る 〕は ぐ れ 者 に 、軍 団 な ら ぬ〔 単 な る 〕先 に 行 っ た 者 に く っ つ い て 来 た 者 に 相 対 す る こ と に
な ろ う 。お お 神 よ 、我 ら が 主 人 ム ハ ン マ ド に よ っ て 彼 の 歩 み を 讃 え 、東 に お い て も 西 に お い て
も 、彼 の 命 じ た こ と や 禁 じ た こ と が 浸 透 す る よ う に せ し め 給 え 。お お 神 よ 、彼 を し て 諸 国 の 中
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心 と 周 辺 を 、宗 教 の 中 心 と 側 面 を 正 し く せ し め 給 え 。お お 神 よ 、彼 を し て 異 教 徒 ど も の 鼻 を 低
く せ し め 、放 蕩 者 ど も の 鼻 を 抑 え つ け さ せ 給 え 。軍 営 都 市 の 上 で 彼 の 王 権 を 支 え 給 え 。お お 神
よ 、そ の 王 権 が 彼 と 彼 の 子 孫 の 中 で 確 か な も の と な ら ん こ と を 。そ の 王 権 を 彼 の 誇 り 高 き 幸 運
なる一族の中に守り、彼らの遺すものによってその力を強め給え。アーメン」
そして彼は、
〈 神 は 公 正 と 善 行 を 命 じ ・・・〉(Q16:90) と い う 至 高 な る 方 の お 言 葉 で も っ て〔 彼
の フ ト バ を 〕結 ん だ 。彼 は〔 ミ ン バ ル か ら 〕下 り 、ミ ン バ ル の 中 で 礼 拝 し た 。彼 は「 神 の 御 名
に お い て 」と 始 め 、ク ル ア ー ン を 朗 読 し 、こ の ウ ン マ の 先 頭 に 立 っ て 礼 拝 し た 。恩 寵 は 余 す と
ころなく下ってきた。礼拝が行われると、人々はあちこちに広がり、友好的な空気が生まれ、
イジュマーゥが結ばれ、キヤースが行われた。状況は滞りなく進み、続いて喜びが起こった。
ス ル タ ン は 岩 の ド ー ム で 礼 拝 し 、そ の 広 い 中 庭 の 上 で は 人 々 が 列 に な っ て 続 い た 。ウ ン マ は 至
高 な る 神 に 向 か い 、ス ル タ ン = マ リ ク ・ナ ー ス ィ ル の 勝 利 の 永 続 を 求 め た 。人 々 の 手 は 掲 げ ら
れ、彼のための祈願が聞かれた。
驚 嘆 す べ き こ と は ま だ あ っ た 。マ リ ク ・ ナ ー ス ィ ル ・ サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ ユ ー ス フ が
サ フ ァ ル 月 に ア レ ッ ポ を 征 服 し た と き 、ダ マ ス カ ス の カ ー デ ィ ー で あ っ た ム フ イ ー・ア ッ デ ィ
ーン・ザキーは、彼を讃えて次のようなカスィーダを詠んだ。
汝らはサファル月に剣でもってアレッポを征服した
ラジャブ月にクドスを征服するという喜びの予兆として
果たしてことはその年、彼が予兆した通りとなったのである。
ま た 次 の よ う に 伝 え ら れ て い る 。ス ル タ ン は〔 シ リ ア の 〕海 岸 地 域 を 数 多 く 征 服 し て い た が 、
バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 征 服 に は 踏 み 切 っ て い な か っ た 。そ こ に は 多 く の 兵 や 勇 敢 な 軍 団 が
お り 、ま た そ こ に は キ リ ス ト 教 の 主 教 座 が あ っ た か ら で あ る 。そ こ で は 、あ る ダ マ ス カ ス の 民
が 捕 虜 と な っ て い た の だ が 、彼 は ス ル タ ン に 、バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ ス の 口 に 託 し た 次 の よ う
な詩を送った。
おお、十字架のしるしを引き抜いた王よ
バイト・アルマクディスからもたらされた紙片が汝のもとに届いた
あらゆるモスクは清められたというのに、私は我が神聖なる地位の上に汚されている
[18. b] こ れ こ そ が 、 征 服 を 求 め る 声 で あ っ た 。 ス ル タ ン は そ の 若 者 の 中 に 適 性 を 見 出 し 、
後に彼をアクサー・モスクのハティーブに任じたと言われている。
そ れ か ら 、ス ル タ ン は〔 ハ ラ ム の 〕業 務 を 司 る 者 た ち を 揃 え 、モ ス ク に ク ル ア ー ン と そ れ を
収める箱を運び、その整備とアクサー・モスクのミフラーブを大理石貼りにすることを命じ、
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そ う し た こ と を 熱 心 に 行 っ た 。ス ル タ ン は ク ド ス に し ば ら く の 間 滞 在 し 、 58 4 年 シ ャ ア バ ー ン
月 25 日 の 金 曜 日 に そ こ を 出 立 し た 。 彼 は 〔 引 き 続 い て 〕 シ リ ア の 地 に あ る 残 り の 地 域 の 征 服
に 着 手 し 、呪 う べ き 不 信 仰 者 た る フ ァ ラ ン ジ ュ と 戦 っ た 。彼 と 彼 ら と の 間 に は 、こ の 書 の 元 と
な っ た 2 冊 の 書 に 書 か れ 描 写 さ れ て い る 、有 名 な 数 々 の 戦 い が 起 こ っ た 。そ し て 彼 は 、589 年
サ フ ァ ル 月 27 日 に 死 の 使 い に 呼 び 寄 せ ら れ 、 拒 む こ と は で き な か っ た 。 彼 の 死 は 非 常 な 悲 し
み と な っ た 。彼 の 代 わ り と な れ る よ う な も の 、彼 の 後 を 継 げ る よ う な 者 な ど は い な か っ た 。ア
ミ ー ル た ち は 彼 を 悼 ん で 泣 き 、 詩 人 た ち は 彼 を 悼 む 詩 を 作 っ た 。〔 サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン に
捧 げ ら れ た 〕優 れ た 追 悼 詩 の 中 に は 、 書 記 の イ マ ー ド 〔 ・ ア ッ デ ィ ー ン 〕の 追 悼 詩 が あ る 。 イ
マ ー ド〔 ・ア ッ デ ィ ー ン 〕は 232 行 の カ ス ィ ー ダ に よ っ て 彼 を 追 悼 し た 。以 下 が そ の 一 部 で あ
る。
導きと王権の結合は、彼の年月を取り巻いていた
しかし時は無情にして、彼の善行は断ち切られた
神かけて、このような王権の勝利者がどこにいたであろうか
その意志は神に忠実で清冽であった
敵どもの首を繋いだ鎖が彼の剣
人々の馬の首に巻いた紐が彼の力であった
鋭い剣の切っ先も、嘶く馬たちも泣いた
それを引き抜きそれに跨る者の戦いが過ぎ去ってしまったときに
かの寛大なる精神は埋葬され、もはや蘇らない
私は復活の日に至るまで、彼の死を語り伝えよう
〔 サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン の 死 後 〕 ア イ ユ ー ブ 朝 の 諸 王 は 、彼 ら の 前 に 集 め ら れ た も の 、 バ
イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に あ る 遺 跡 を 明 ら か に す る こ と に お い て 、立 派 に ま た 金 を か け て 互 い に
競い合った。その後王権がマリク・ムアッザム・イーサー・ブン・マリク・アーディル・アビ
ー・バ ク ル・ブ ン・ア イ ユ ー ブ al -Mal ik al-M uʽaẓẓam ʽĪs ā b. al-M alik al -ʽĀ dil Ab ī Bakr b. Ayyūb
の も の と な っ た と き 、フ ァ ラ ン ジ ュ は〔 再 び 〕そ の 地 を 支 配 す る よ う に な っ て お り 、ム ス リ ム
た ち の 力 が 弱 く な っ て い た の だ が 、彼 は 616 年 に バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 城 壁 を 破 壊 す る よ
う に 命 じ た 。そ れ は フ ァ ラ ン ジ ュ が バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス に 向 か っ た と き に 、敵 ど も を 食 い
止 め る こ と が で き な い こ と を 恐 れ た た め で あ っ た 。そ の た め そ こ か ら は 多 く の 人 々 が 移 住 し て
いき、彼らは四方に散り散りになってしまった。
626 年 に は ア イ ユ ー ブ 朝 の 諸 王 が 争 い 、彼 ら は 弱 体 化 し た 。一 方 フ ァ ラ ン ジ ュ は 強 力 に な り 、
増 大 し た 。 ス ル タ ン = カ ー ミ ル al- Kāmil は そ う し た 反 目 を 解 決 す る 手 段 を 見 つ け る こ と が で
きず、ムスリムたちはそこに滞在を続けるという条件で、クドスをファランジュに割譲した。
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[19. a] 両 者 の そ れ ぞ れ が 自 身 の 宗 教 の し る し を 立 て て も よ い と い う こ と に な り 、 フ ァ ラ ン ジ
ュ は 城 壁 を 再 建 せ ず 、 岩〔 の ド ー ム 〕 や ア ク サ ー ・ モ ス ク に は 手 を つ け ず 、 農 村 部 は ム ス リ ム
の 支 配 者 に 返 す と い う 条 件 で 両 者 は 合 意 し た 。そ れ は 信 徒 た ち に と っ て は た い へ ん な こ と で あ
っ た 。 そ れ に よ っ て 、 宗 教 は 非 常 に 弱 め ら れ た 。 ス ィ ブ ト ・ ブ ン ・ ア ル ジ ャ ウ ズ ィ ー Sibṭ b .
al-Jarzī は ダ マ ス カ ス に て 説 教 の 集 ま り を 開 き 、そ の 中 で 神 聖 な る ク ド ス の 美 徳 や 、ム ス リ ム
た ち の 上 に 起 き た こ の 恐 る べ き こ と に つ い て 述 べ た 。彼 は 絶 望 的 な カ ス ィ ー ダ を 詠 ん だ が 、そ
の中には次のような一句があった。
クルアーンの章句を教授する学院では朗誦がなくなった
住宅は庭が空っぽだと囁いている
彼 は 多 く の 人 々 の 心 と 目 を 嘆 か せ た 。こ の 長 い 説 教 の た め に 、人 々 は 運 命 を 知 っ た 。い と 高
き偉大なる神によらずして、いかなる力もないのである。
そ の 後 マ リ ク・ア ル カ ー ミ ル は 死 に 、彼 の 死 後 マ リ ク・ナ ー ス ィ ル・ダ ー ウ ー ド・ブ ン・ マ
リ ク ・ ア ー デ ィ ル al-M alik al-Nāṣir Dāwūd b. al-M alik al- ʽĀdil が 継 い だ 。 63 7 年 に 、 彼 の 幸
い な る 思 考 と 峻 厳 な る 意 志 が 、来 世 で の 報 い を 望 ん で 、恥 知 ら ず ど も の 集 団 か ら バ イ ト ・ ア ル
マ ク デ ィ ス を 救 い 出 し 、そ こ を 彼 ら の 汚 れ か ら 清 め る こ と と な っ た 。彼 は 少 な か ら ぬ 数 多 く の
勇 敢 な 者 た ち が 集 め 、フ ァ ラ ン ジ ュ の 大 き な 祭 り の 日 、す な わ ち 彼 ら が 十 字 架 を 掲 げ て 、神 に
禁 じ ら れ た も の( 酒 )を 飲 む 日 に 、突 然 に 彼 ら に 向 か っ て 突 撃 し た 。彼 は 朝 に な る 前 に 彼 ら の
前に現れ、彼らの中に剣と槍をもたらした。ムスリムたちは勝ち誇って進軍し、熱心に戦い、
〔 フ ァ ラ ン ジ ュ を 〕殺 し 、捕 虜 に し 、 力 で 強 奪 し た 。日 が 高 く な り 太 陽 が 現 れ た と き に は 、不
信仰者どもの痕跡はことごとく過去のものとなった。ムスリムたちの力は強力なものと なり、
神 は 信 徒 た ち の 上 に そ の お 恵 み を 満 た し 給 う た 。そ う し た こ と に つ い て 、様 々 な 地 域 に こ れ ら
の 喜 ば し き 知 ら せ が 書 き 送 ら れ た 。 彼 は 〔 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス で 〕、 彼 の 伯 父 サ ラ ー フ ・
アッディーンが行ったような儀式を行った。
こ の 征 服 は 、善 行 の 書 物 の ペ ー ジ の 中 の 、マ リ ク ・ ナ ー ス ィ ル ・ ダ ー ウ ー ド に よ る 1 行 で あ
る。そして〔その書物の中には〕残りの時間にも、善なる祈りをもって様々な言葉が続いた。
し か し 641 年 に 入 る と 、マ リ ク ・ナ ー ス ィ ル・ ダ ー ウ ー ド は 彼 の 善 行 を 悪 行 に 置 き 換 え 、フ ァ
ラ ン ジ ュ に ク ド ス を 、そ こ に あ る 参 詣 の た め の 場 所 ご と 割 譲 し た 。そ れ ゆ え 神 は 彼 に 復 讐 し 給
い 、彼 か ら 彼 の 王 権 や 財 産 、数 々 の 城 を 奪 い 給 う た 。彼 は 様 々 な 苦 難 を 与 え ら れ 、そ れ ら の 苦
難 に よ っ て 、〔 そ れ ま で に 彼 の 善 行 の 書 物 の 中 に 〕 書 か れ て い た も の は 落 と さ れ て し ま っ た 。
マ リ ク・サ ー リ ヒ ー・ナ ー ス ィ ル・ナ ジ ュ ム・ア ッ デ ィ ー ン・ブ ン・マ リ ク・カ ー ミ ル al-M alik
al-Ṣāriḥī al -Nāṣir Najm al -Dīn b. al-M alik al -Kāmil が 死 ぬ と 、〔 ム ス リ ム の 手 に よ っ て 〕 ガ ザ
が 占 領 さ れ 、海 岸 地 域 が 支 配 さ れ 、神 聖 な る ク ド ス も 征 服 さ れ た 。そ れ は そ の た め に 、こ の 上
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な く 神 聖 に 行 わ れ た 。 [19. b] こ れ が そ の 地 の 最 後 の 征 服 で あ っ た 。 以 来 そ こ は 我 々 の 時 代 に
至 る ま で ム ス リ ム た ち の 手 に あ る 。願 わ く は 神 の 寛 大 さ が 、神 の 忠 実 な る 友 ム ハ ン マ ド と 、す
べ て の 預 言 者 た ち や 使 徒 た ち の 栄 誉 を も っ て 、復 活 の 日 に 至 る ま で そ こ を そ の ま ま に し 続 け る
ことを。まことにそこは、求める者たちの祈願が聞き届けられる場所である。
第 3 章:アクサー・モスクと岩〔のドーム〕の様子、詳しく述べられることのない偉業
ま ず 初 め に 知 っ て お く べ き は 、今 人 々 に よ く 知 ら れ て い る よ う に 、ア ク サ ー ・モ ス ク と は モ
スク区の中央に示された金曜モスクのことであるが、実際にはアクサー・モスクというのは、
壁 で 囲 ま れ た と こ ろ す べ て の 名 前 な の で あ る 、と い う こ と で あ る 。ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 中 央
に あ る 建 物 の 中 に は か の 岩 が あ り 、そ の 屋 根 覆 い は 新 し い も の で あ る 。か く の ご と く 知 れ 。天
の 下 に そ れ と 並 ぶ も の は 存 在 せ ず 、ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ の 中 に そ れ ほ ど 広 く そ れ ほ ど の 姿 を し
た も の は 建 て ら れ て は い な い 。初 期 の 時 代 に お い て も 、そ こ は 驚 嘆 す べ き 様 子 を し て お り 、ま
たとない特徴を備えていた。
我 々 の 時 代 、 す な わ ち 1144 年 に お け る そ こ の 様 子 に つ い て は 、 そ こ は 金 曜 礼 拝 が 行 わ れ る
ドームをその中央に備えた金曜モスクであり、今ではアクサー・モスクとして知られている。
そ こ に あ る 偉 大 な 建 物 の 上 に は 、大 理 石 の 支 柱 と 柱 の 上 に 建 て ら れ た ド ー ム が あ る 。そ の 支 柱
は 45 本 で あ り 、そ の う ち の 33 本 は 大 理 石 製 、12 本 は 石 製 で あ る 。ま た 柱 は 40 本 で あ る 。そ
の 中 央 に あ る 大 き な ミ フ ラ ー ブ は 、東 側 の ミ ン バ ル の 側 に あ り 、ダ ビ デ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の ミ
フ ラ ー ブ と 呼 ば れ て い る 。こ の モ ス ク の 南 北 の 長 さ は 100 ズ ィ ラ ー ゥ 、幅 は 東 の 門 か ら 西 の 門
ま で 、 ウ マ ル の モ ス ク を 含 め て 77 ズ ィ ラ ー ゥ で あ る 。
そ こ に は 数 多 く の ミ フ ラ ー ブ が あ る が 、ウ マ ル の ミ フ ラ ー ブ と い う の は 、征 服 の 日 に 彼 が そ
こ で 礼 拝 し た ダ ビ デ の ミ フ ラ ー ブ の こ と で あ る 。ウ マ ル の モ ス ク の 北 側 近 く に は 優 美 な イ ー ワ
ー ン が あ り 、そ こ に は ザ カ リ ヤ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の ミ フ ラ ー ブ が あ る 。東 門 の 近 く の 神 聖 な る
ミ ン バ ル の 側 に は 、ム ア ー ウ ィ ヤ ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― の ミ フ ラ ー ブ と 呼 ば れ る 優 美 な ミ フ
ラ ー ブ が あ る 。モ ス ク 内 部 の 西 側 に は 、大 き な 石 を 組 ん で 作 っ た 大 き な 集 会 所 が あ る 。こ れ は
東 西 に 伸 び た 2 つ の 部 屋 で 、 10 の ア ー チ が 9 本 の 柱 の 上 に 乗 っ て い る 。 そ こ は 「 婦 人 の 金 曜
モ ス ク Jāmiʽ al-Nis āʼ」 と 名 付 け ら れ て い る 。 モ ス ク 中 央 の ド ー ム の 後 方 に は 、 ザ ー ウ ィ ヤ ・
フ ン サ ニ ー ヤ al-Z āwiya al-Kh unthanīya が あ り 、 そ の 中 に は 鉄 製 で 、 ミ ン バ ル の 付 い た マ ク
ス ー ラ が あ る 。 ザ ー ウ ィ ヤ ・ フ ン サ ニ ー ヤ の 側 に は ハ テ ィ ー ブ た ち の 館 が あ り 、 [20. a] そ の
中 央 に は 、ム ア ッ ズ ィ ン の 壇 の 向 か い 側 に 、大 理 石 の 柱 の 上 に こ の 上 な く 美 し い ミ ン バ ル が あ
る。
こ の モ ス ク に は 、 ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 中 庭 か ら そ こ に 入 る た め の 門 が 10 あ る 。 そ の う ち
242
の 7 つ は 北 側 に つ い て お り 、そ れ ら の 表 に は 、 7 つ の ア ー チ の 上 に 屋 根 覆 い が つ い て い る 。す
な わ ち そ れ ぞ れ の 門 に 1 つ の ア ー チ が つ い て お り 、そ の ア ー チ に は 14 本 の 大 理 石 の 柱 が あ る 。
東 側 に あ る 1 つ の 門 は 、 イ エ ス の 揺 り 籠 の 方 向 〔 に 向 い て お り 〕、 西 側 に も 1 つ 門 が あ る 。 そ
し て 10 番 目 〔 の 門 〕 は 、 婦 人 の 金 曜 モ ス ク へ と 向 か う も の で あ る 。
こ の モ ス ク の 内 部 に は 、 左 手 側 に 「 葉 の 井 戸 Biʼr al-W araqa」 が あ る 。 そ の ハ デ ィ ー ス は 、
ア テ ィ ヤ ・ ブ ン ・ カ イ ス ʽAṭiya b. Qays が 伝 え た 通 り で あ る 。 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安
を 与 え 給 え ― 曰 く 、「 我 が ウ ン マ の 中 の あ る 者 は 、 生 き て い る と き に 彼 の 両 の 足 で 歩 い て 、 楽
園 に 入 る こ と に な る だ ろ う 」さ て ウ マ ル・ ブ ン ・ア ル ハ ッ タ ー ブ ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― の 在
位 中 の こ と 、あ る 一 団 が 、バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス で 礼 拝 す る た め に そ こ に や っ て き た 。タ ミ
ー ム 族 の シ ャ リ ー ク ・ ブ ン ・ フ ッ バ ー シ ャ Shar īk b. Ḥubb āsha と い う 人 が 、 仲 間 の た め に 水
を 汲 み に 行 っ た が 、彼 の 手 桶 が 井 戸 の 中 に 落 ち て し ま っ た 。そ こ で 彼 は そ れ を 拾 い に 下 り て 行
っ た の だ が 、そ の 井 戸 の 中 で あ る 庭 園 に 繋 が る 門 を 見 つ け た 。彼 は そ の 門 か ら 歩 い て そ の 庭 園
の 中 に 入 っ て 行 き 、そ こ の 木 か ら 1 枚 の 葉 を 取 っ た 。彼 は そ れ を 自 分 の 耳 の 後 ろ に 挟 ん で 、そ
の 井 戸 か ら 出 た 。そ し て 彼 は バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ ス の 統 治 者 の も と に 行 き 、自 分 が そ の 庭 園
で 見 た こ と と 、そ こ に 入 っ た こ と を 知 ら せ た 。シ ャ リ ー ク と と も に 人 々 が そ の 井 戸 に 派 遣 さ れ 、
人 々 は 彼 と と も に 下 り て い っ た が 、彼 ら は 門 を 見 つ け る こ と が で き ず 、そ こ は 庭 園 に な ど 繋 が
っ て い な か っ た 。 そ の こ と が ウ マ ル に 書 き 送 ら れ た 。 す る と ウ マ ル は 、「 こ の ウ ン マ の 中 の あ
る 者 は 、生 き て い る と き に 彼 の 両 の 足 で 歩 い て 、楽 園 に 入 る こ と に な る 」と い う こ の 話 を 信 じ
る 旨 を 書 き 送 っ た 。 ウ マ ル は 、「 そ の 葉 を よ く 見 よ 。 そ れ が 枯 れ て 変 色 し て い れ ば 、 そ れ は 楽
園 の も の で は な い 。と い う の も 楽 園 に あ る も の は 、い つ ま で も 変 わ ら な い か ら で あ る 」そ し て
こ の 話 で は 、そ の 葉 は 変 色 し て い な か っ た と 伝 え ら れ て い る 。ま た 別 の 伝 承 で は 、そ の 葉 は 桃
の 葉 に 似 て お り 、手 の 平 の よ う な 形 で 先 が 尖 っ て い た と な っ て い る 。そ れ は〔 シ ャ リ ー ク が 死
ん だ と き に 〕彼 の 経 帷 子 と 胸 の 間 に 置 か れ た 。そ れ が 、こ の 葉 に つ い て 知 ら れ て い る 最 後 で あ
る。
こ の モ ス ク の 東 側 近 く に は 、 石 を 組 ん で 作 っ た 大 き な 墓 が あ り 、「 大 工 仕 事 al-Nijār a」 と 呼
ば れ て い る 。そ こ に は モ ス ク の 道 具 類 が 収 め ら れ て い る 。ま た そ こ に は 、葉 の 井 戸 の 第 2 の 口
が あ る 。モ ス ク の 外 、ハ ラ ム の 中 庭 の 、南 の 壁 の 東 側 の イ エ ス の 揺 り 籠 の 近 く に は 、ダ ビ デ ―
彼 に 平 安 あ れ ― の ミ フ ラ ー ブ と 名 付 け ら れ た 大 き な ミ フ ラ ー ブ が あ る 。そ こ で の 祈 願 は 聞 き 届
けられ、そうしたことはすでに試されて〔証明されて〕いる。
モ ス ク の 東 側 の 端 の 、 ダ ビ デ の ミ フ ラ ー ブ と 隣 り 合 う と こ ろ に は 、「 ス ー ク ・ ア ル マ ァ リ フ
ァ Sūq al-M aʽarifa」 と 名 付 け ら れ た ミ フ ラ ー ブ が あ る 。 [20. b] そ こ は イ ス ラ エ ル の 民 の タ ウ
バ 門 Bāb al-Ṭ awb a が あ っ た と こ ろ で あ る と 言 わ れ て い る 。 と い う の も 、 彼 ら の あ る 者 が 罪 を
犯 す と 、 そ の 者 の 家 の 戸 に〔 そ の し る し が 〕書 か れ た 。す る と 彼 は そ の 場 所 に 行 き 、 自 ら を 卑
し め て 悔 悛 し 、彼 に〔 何 ら か の 神 の し る し が 〕も た ら さ れ る ま で そ こ を 動 か な か っ た 。彼 の 罪
243
が 赦 さ れ れ ば 、彼 の 家 の 戸 に 書 か れ た も の は 消 え る の で あ っ た 。こ の 場 所 は 、古 く か ら ハ ン バ
ル 派 の 礼 拝 所 で あ っ た 。ダ マ ス カ ス の 主 マ リ ク ・ ム ア ッ ザ ム ・ イ ー サ ー が 、彼 ら の た め に そ こ
を定めたのである。
ス ー ク ・ ア ル マ ァ リ フ ァ の 下 に は 、イ エ ス ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 揺 り 籠 が あ る 。そ こ に は マ リ
ア―彼女に平安あれ―のミフラーブがあるが、そこは彼女が神に仕えた場所である。そこは
人 々 に 親 し ま れ た 場 所 で あ り 、そ こ で の 祈 願 は 聞 き 届 け ら れ る 。そ こ で 礼 拝 す る 者 は 、ウ マ ル・
ブ ン ・ア ル ハ ッ タ ー ブ が ダ ビ デ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の ミ フ ラ ー ブ で 礼 拝 し た と き に「 サ ー ド 」の
章を読んだように、
「 マ リ ア 」の 章 を 読 ん で 跪 拝 す る の が 望 ま し い 。そ し て 揺 り 籠 の と こ ろ で 、
イエス―彼に平安あれ―がオリーブ山から神によって昇天させられた際に唱えた祈願を唱え
る 。 そ れ は 次 の よ う な も の で あ る 。「 お お 神 よ 、 あ な た は あ な た の い と 高 き 高 み に お い て も 高
遠 な る 低 み に お い て も 、あ な た の 被 造 物 の な に も の よ り も 近 い と こ ろ に お ら れ る 方 で す 。あ な
た は ご 自 身 の ご 行 為 を あ な た の 被 造 物 の 中 に 落 と さ れ 、あ な た を〔 直 接 〕見 る こ と が な く と も 、
幻 視 に よ っ て 明 ら か に な し 、ご 自 身 以 外 の こ と を お 心 に 懸 け 給 う お 方 で す 。光 の 中 に 浮 か ぶ 東
雲 が あ な た を 讃 え た ま わ ん こ と を 。あ な た は そ の み 光 に よ っ て 闇 を 払 わ れ 、祝 福 を 与 え た ま う
お 方 で す 。お お 神 よ 、そ の お 力 に よ っ て 世 界 を 創 造 な し 給 う た 方 、そ の お 知 恵 に よ っ て 物 事 を
支 配 さ れ 、そ の 栄 光 に よ っ て 新 た に 創 造 な さ り 、そ の 知 識 に よ っ て あ ら ゆ る も の を 統 べ 給 う お
方 よ 。あ な た の お 言 葉 に よ っ て 7 つ と な り 、あ な た に 喜 ん で 従 う も の と な っ た〔 天 の 〕階 層 を 、
あ な た は そ の お 力 に よ っ て 高 き 所 と 名 付 け 給 い ま し た 。〔 そ れ ら の 天 は 〕 あ な た の 上 に 煙 の よ
う に あ っ て あ な た に 答 え 、あ な た の 命 に 従 う も の と な り ま し た 。そ の 中 に は 天 使 た ち が い て あ
な た を 讃 え 、聖 な る か な と 讃 美 し て お り ま す 。あ な た は そ の 中 に 闇 を 払 う 光 と 、太 陽 の 光 を 置
か れ 、ま た 地 や 海 の 闇 を 導 き 、サ タ ン た ち に 対 し て は 石 を 投 げ て 追 い 払 う 灯 明 を 置 か れ ま し た 。
お お 神 よ 、あ な た は 諸 天 に い る 被 造 物 た ち を 祝 福 さ れ 、大 地 を 水 の 上 に 広 げ ら れ ま し た 。あ な
た は 大 地 の た め に そ の 表 に あ っ た 水 を 低 く さ れ ま し た 。水 は あ な た に 服 従 し 、あ な た の 命 に 服
従 し ま し た 。海 の 波 も あ な た の お 力 に 従 い ま し た 。あ な た は 大 地 に 、海 の 後 に は 川 を 、皮 の 後
に は 豊 か に 水 を 湛 え る 泉 と 湧 水 を 流 さ れ 、そ の 後 そ こ か ら 果 実 を 実 ら せ た 木 々 を 生 や さ れ 、大
地 の 表 に 杭 と し て 、山 々 を 置 か れ ま し た 。高 々 と 聳 え る 山 々 も あ な た に 従 い ま し た 。お お 神 よ 、
あなたはあなたのご性質を祝福されました。一体誰があなたのお力に辿り着けるというのか、
誰 が あ な た の ご 様 子 を 書 き 表 す こ と が で き る と い う の か 。あ な た は 災 い を 下 し な が ら 厚 き 雲 を
湧 き 起 こ さ れ 、 人 の 頭 を 砕 き な が ら 正 義 を 司 ら れ て い ま す 。 [21. a] あ な た こ そ は 善 悪 を 最 も
よ く 分 か ち た も う お 方 、あ な た の 他 に 神 は あ り ま せ ん 。あ な た を 畏 れ る 僕 こ そ 知 恵 あ る 優 れ た
者 。私 は あ な た が 新 し く 作 り 出 さ れ た 神 な ど で は な く 、あ な た に 並 び 立 つ 主 な ど い な い と 存 じ
て お り ま す 。我 々 は そ の こ と を 唱 え ま す 。あ な た に は 、物 事 を あ な た と 共 に 司 る 配 偶 者 な ど お
り ま せ ん 。〔 そ ん な も の が い た ら 〕 我 々 は 〔 今 頃 〕 あ な た の 名 を 呼 び な が ら 、 そ れ ら を も 呼 ん
で い る こ と で し ょ う 。ま た あ な た に は 、あ な た の 創 造 物 に 関 し て あ な た を 助 け る こ と の で き る
244
者などおりません。
〔 そ ん な も の が い た ら 〕我 々 は〔 今 頃 〕そ れ を 証 言 し て い る こ と で し ょ う 。
私はあなたが永遠にして唯一なるもの、生みもせず生まれもせぬ方、等しきものを持たぬ方、
配 偶 者 も 子 ど も も 必 要 と は さ れ ぬ 方 で あ る と 証 言 し ま す 。 ど う か 私 に 喜 び と 、〔 困 難 か ら の 〕
脱出口をお与えください」
こ の モ ス ク の 外 、 ハ ラ ム の 中 庭 の 西 側 に は 、「 マ ガ ー リ バ ・ モ ス ク Jāmiʽ al-Maghārib a」 と
し て 知 ら れ て い る ア ー チ の つ い た 場 所 が あ る 。そ こ は 人 々 に よ く 知 ら れ た 、人 の 心 を か き 立 て
るような場所である。そこではマーリク派の礼拝が行われている。
神 聖 な る 岩〔 の ド ー ム 〕に つ い て は 、そ こ は ハ ラ ム ・シ ャ リ ー フ の 中 央 に あ り 、ハ ラ ム・ シ
ャ リ ー フ の 地 面 に 盛 り 上 が っ た 広 大 な 中 庭 の 上 に あ る 。岩 の 上 に は 善 美 を 極 め た ド ー ム が あ り 、
そ れ は 中 庭 か ら 51 ズ ィ ラ ー ゥ の 高 さ に 立 っ て い る 。 岩 の 高 さ は 南 側 で 7 ズ ィ ラ ー ゥ で あ り 、
ド ー ム の 高 さ は 58 ズ ィ ラ ー ゥ と い う こ と に な る 。 そ れ は 12 本 の 大 理 石 の 支 柱 と 4 本 の 柱 の
上 に 、こ の 上 な く 完 璧 な 形 で 立 っ て い る 。か の 神 聖 な る 岩 は こ の ド ー ム の 下 に あ り 、木 製 の 欄
干 に 囲 ま れ て い る 。ま た ド ー ム を 支 え る 支 柱 と 柱 に よ っ て 囲 ま れ た 、鉄 の 欄 干 も あ る 。モ ス ク
の 外 側 に は 、 黄 金 の 張 ら れ た 木 製 の 丸 屋 根 が 、 16 本 の 大 理 石 の 支 柱 と 8 本 の 柱 の 上 に 立 っ て
い る 。ド ー ム の 床 と 壁 は 、内 側 も 外 側 も 大 理 石 で 建 て ら れ て お り 、色 と り ど り の 留 め 具 が 嵌 め
ら れ て い る 。 ド ー ム の 周 り に あ る 建 物 の 〔 大 き さ を 〕 見 積 も る な ら 、 そ の 周 囲 は 内 側 が 224
ズ ィ ラ ー ゥ 、 外 側 が 240 ズ ィ ラ ー ゥ で あ る 。
か の 神 聖 な る〔 預 言 者 ム ハ ン マ ド の 〕足 跡 は 、こ の 岩 か ら 離 れ た 石 の 中 に あ る 。そ れ は 南 側
から見たとき西側の端で岩と向かい合っており、大理石の柱の側にある。
か の 岩 の 下 に は 洞 窟 が あ り 、そ こ に は 南 側 か ら 石 の 階 段 が つ い て い る 。そ の 階 段 の 中 央 に は 、
東 側 で そ の 階 段 に 繋 が っ て い る 石 の 長 椅 子 が あ り 、そ の 上 で 参 詣 者 が「 岩 の 舌 Lisān al-Ṣakhra」
に 参 詣 す る た め に 立 ち 止 ま る 。そ こ に は 大 理 石 の 支 柱 が あ り 、そ の 一 番 下 の 部 分 で そ の 長 椅 子
の 南 側 の 端 と 繋 が り 、そ の 洞 窟 の 南 の 壁 に つ い て い る 。そ の 一 番 上 の 部 分 は 岩 の 端 に つ い て お
り 、 ま る で 岩 が 南 側 に 傾 く の を 防 い で い る か の よ う で あ る 。 [21. b] こ こ は 人 々 に よ く 知 ら れ
た場所のひとつであり、そこには尊厳と荘重さがある。
か の 岩 は 、大 地 に お け る 神 の 奇 跡 の ひ と つ で あ る 。そ れ は ハ ラ ム ・シ ャ リ ー フ の 中 央 に あ る
岩 で あ り 、 あ ら ゆ る 方 角 か ら 見 て 〔 地 面 か ら 〕離 れ て い る 。天 を 掴 む こ と の で き る 方( 神 )の
み が そ れ を 掴 む こ と が で き る 。そ れ は 神 の お 許 し に よ っ て 、大 地 の 上 に 下 り て き た 。そ れ は 南
側 に 傾 い て お り 、そ の 2 方 向 に は 天 使 た ち の 指 の 跡 が つ い て い る 。そ れ は 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝
福 と 平 安 を 与 え 給 え ― が そ の 岩 の 上 か ら〔 天 馬 〕ブ ラ ー ク に 乗 っ た と き 、天 使 た ち が そ れ を つ
かんだために岩が傾いたときのものである。
岩 の 美 徳 に つ い て は 様 々 な ハ デ ィ ー ス が 伝 え ら れ て い る 。そ の 中 に は 、ア リ ー ・ ブ ン ・ ア ビ
ー ・ タ ー リ ブ が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え た も の が あ る 。「 聖 地 の 主 人 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ
ィス、岩々の主人はバイト・アルマクディスの岩である」
245
イ ブ ン・ア ッ バ ー ス が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、
「 バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 岩 は 、
楽園の岩のうちのひとつである」
カ ァ ブ 曰 く 、「 天 に あ る 楽 園 は か の 岩 の 向 か い に あ る 。 そ こ か ら 石 が 落 ち れ ば 、 岩 の 上 に 落
ちることになる」
ウ バ ー ダ ・ ブ ン ・ ア ッ サ ー ミ ト ʽUbāda b. al-Ṣāmit と ラ ー フ ィ ゥ ・ ブ ン ・ フ ダ イ フ Rāfiʽ
b.Khudayḥ 曰 く 、「 強 大 に し て 栄 光 あ る 神 は 天 に 上 り 給 う と き に 、 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の
岩 に 言 わ れ た 。『 こ れ こ そ 我 が 立 ち 処 、 復 活 の 日 に 我 が 玉 座 の 置 か れ る と こ ろ 、 我 が 僕 た ち の
集 め ら れ る と こ ろ 。こ れ こ そ 、そ の 右 側 に 我 が 楽 園 が 、そ の 左 側 に 我 が 地 獄 が 置 か れ る と こ ろ 。
こ の 岩 の 前 に 、私 は 我 が 天 秤 を 据 え る 。私 は 神 、復 活 の 日 の 裁 き 手 で あ る 』そ し て 神 は 天 へ と
上り給うた」
ワ フ ブ が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え た も の を 、 ズ フ リ ー が 伝 え て 曰 く 、「 至 高 な る 神 は バ イ
ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 岩 に 言 わ れ た 。『 汝 の 中 に は 我 が 楽 園 と 我 が 地 獄 が あ り 、 汝 の 中 に は 我
が 報 い と 我 が 懲 罰 が あ る 。汝 の も と を 訪 れ る 者 に 祝 福 あ れ 』」あ る い は 神 は 、
「汝を見る者に祝
福あれ」と言われた。
ア ブ ー ・ フ ラ イ ラ が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、「 甘 き 水 と 実 り を も た ら す 風 は 、 バ
イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 岩 の 下 か ら 出 て く る 。岩 は 1 本 の ナ ツ メ ヤ シ の 木 の 側 に あ る 。そ の ナ
ツ メ ヤ シ の 木 は 、楽 園 の 河 川 の う ち の ひ と つ の 側 に あ る 。そ の ナ ツ メ ヤ シ の 下 に は フ ァ ラ オ の
妻 ア ー ス ィ ヤ と イ ム ラ ー ン の 娘 マ リ ア が い て 、彼 女 た ち は 復 活 の 日 に 至 る ま で 、楽 園 の 民 の 首
飾りを編んでいる」
イ ブ ン ・ ア ッ バ ー ス が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、「 川 に は サ イ ハ ー ン Sayḥ ān 、 ジ
ャ イ ハ ー ン Jayḥān 、ユ ー フ ラ テ ス al -Furāt、ナ イ ル al-Nīl の 4 つ が あ る 。サ イ ハ ー ン と は バ
ル フ の 川 、ジ ャ イ ハ ー ン と は テ ィ グ リ ス 、ナ イ ル と は エ ジ プ ト の ナ イ ル 、ユ ー フ ラ テ ス と は ク
ーファのユーフラテスである。アダムの子孫たちが飲むものはみなこの 4 つから来たもので、
岩の下から出たものである」
カァブ曰く、
「 甘 き 泉 か ら 出 る も の は み な 、バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ ス の 岩 の 下 か ら 出 て い る 」
マ ク フ ー ル 曰 く 、「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 行 っ て 、 岩 の 左 右 で 礼 拝 し 、 鎖 の 場 所 で 祈 願
し 、多 少 な り と も サ ダ カ を 行 っ た 者 は 、そ の 者 の 祈 願 は 聞 き 届 け ら れ 、神 が 彼 の 悲 し み を 取 り
除 い て 下 さ る 。 [22. a] 彼 は 母 親 か ら 生 ま れ た 日 の ご と く に 、 そ の 罪 か ら 逃 れ ら れ る 」
そ の ド ー ム に は 、四 方 に 4 つ の 門 が つ い て い る 。南 門 は 、前 述 の ア ク サ ー ・ モ ス ク と し て 知
ら れ る 金 曜 モ ス ク に 向 か っ て い る 。そ の 入 口 の 右 側 に は 、大 理 石 の 柱 の 上 に 立 っ て い る ム ア ッ
ズ ィ ン の 壇 と 向 か い 合 っ た と こ ろ に 、ミ フ ラ ー ブ が あ る 。東 門 は ブ ラ ー ク の 階 段 に 向 か っ て お
り 、 鎖 の ド ー ム の 向 か い に あ る 。 そ こ は 「 イ ス ラ ー フ ィ ー ル 門 Bāb Isr āfīl」 と 呼 ば れ て い る 。
北 門 は「 楽 園 の 門 Bāb al -Janna」と し て 知 ら れ て お り 、か の 黒 い タ イ ル al-Balāṭ a al-Sawdāʼ の
側 に あ る 。 西 門 は 綿 商 人 の 門 Bāb al -Q aṭṭānīn と 向 か い 合 っ て い る 。 4 つ の そ れ ぞ れ の 門 の 表
246
には腕木と大理石の柱、屋根がついている。
岩 の ド ー ム に 入 り た い と 思 う 者 は 、次 の よ う に す る こ と が 望 ま し い 。ま ず「 お お 神 よ 、我 が
罪 を 赦 し 給 え 、我 が 前 に あ な た の 恩 寵 の 門 を 開 き 給 え 」と 唱 え な が ら 、右 足 か ら 入 る 。な お〔 そ
こ か ら 〕出 て い く と き は 、神 に 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― へ の 祝 福 を 請 い 、お
お 神 よ 、 我 が 罪 を 赦 し 給 え 、 我 が 前 に あ な た の 恩 恵 の 門 を 開 き 給 え 」 と 言 う こ と 。〔 中 に 入 っ
た ら 〕岩 が 右 手 側 に 来 る よ う に し 、真 摯 に 悔 悛 に 努 め て そ の 岩 の 上 に 手 を 置 く 。し か し 岩 に 口
づ け し て は な ら な い 。ま た 岩 の 後 ろ で の 礼 拝 は 忌 避 さ れ る 。そ の 岩 の 下 に 降 り た ら 、作 法 を 守
り 謙 虚 な 態 度 を 保 ち 、 礼 拝 す る 。 そ し て ソ ロ モ ン ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 祈 願 を 唱 え る 。「 お お 神
よ 、こ こ に や っ て き た 罪 人 の 罪 を 赦 し 給 え 。傷 持 つ 者 の 傷 を 癒 し 給 え 。お お 神 よ 、私 は あ な た
の 光 に よ っ て 導 か れ 、あ な た の 恩 恵 を も っ て 豊 か に 富 み 、あ な た の 恩 恵 で も っ て 朝 夕 を 迎 え ま
す 。私 の 罪 は こ の 両 手 に あ り ま す 。私 は あ な た に 赦 し を 求 め 、あ な た の 前 に 悔 い 改 め ま す 。お
お情け深き方、恵み深き方よ」
ま た 預 言 者 の ス ン ナ の 中 に は 、〔 次 の よ う な 預 言 者 の 祈 願 も 〕 伝 え ら れ て い る :「 お お 神 よ 、
私 は あ な た に 、あ な た に こ そ 称 賛 は あ り 、あ な た の 他 に 神 な し〔 と い う 言 葉 〕に か け て 求 め ま
す 。 慈 し み 深 き 方 、 天 地 の 開 闢 者 よ 、 栄 光 と 寛 大 さ を 有 す る 方 よ 」「 あ な た は 唯 一 に し て 永 遠
に 在 る 神 、産 み も せ ず 産 ま れ も せ ず 、何 者 も あ な た に 並 び 立 つ こ と の な い 方〔 と い う 御 名 〕に
か け て 、 私 は あ な た に 求 め ま す 」「 お お 神 よ 、 隠 さ れ た も の を 見 通 す あ な た の 知 識 に よ っ て 、
被 造 物 の 上 に 及 ぼ す あ な た の 力 に よ っ て 、あ な た が 良 い と 思 わ れ る 限 り 私 を 生 か し 、あ な た が
良 い と 思 わ れ る と き に 私 の 命 を 召 し 上 げ 給 え 。私 は あ な た に 、隠 さ れ た も の と 証 の こ と で あ な
た を 畏 れ る 気 持 ち を 、怒 り と 満 足 に つ い て 理 の 言 葉 を 、貧 し さ と 豊 か さ に つ い て 目 的 を 求 め ま
す 。私 は あ な た に 、途 切 れ ぬ 安 ら ぎ 、途 絶 え る こ と の な い 冷 た き 泉 、死 後 の 涼 や か な 生 活 を 求
め ま す 。私 は 、傷 つ け ら れ た 苦 し み も 、信 仰 の 道 か ら 外 れ て 背 く こ と も な く 、あ な た の お 顔 を
見 て あ な た に 会 い た い と 熱 望 し ま す 。お お 神 よ 、信 仰 と い う 飾 り で 我 々 を 飾 り 、我 々 を 導 か れ
し者たちの導き手となし給え」
岩 の 下 〔 に あ る 洞 窟 〕 で は 作 法 を 守 り 謙 虚 な 態 度 を 保 ち 、 [22. b] 悔 悛 に 向 か い 、 礼 拝 し 、
祈 願 に 努 め る こ と が 望 ま し い 。至 高 な る 神 が お 望 み に な る な ら ば 、そ こ は 祈 願 が 必 ず 叶 う 場 所
である。
黒 い タ イ ル al-Bal āṭā al-Sawdāʼは 楽 園 の 門 の 側 に あ る 。 そ れ は 〔 実 際 に は 〕 緑 色 で あ る が 、
そ れ を 黒 と 言 い 表 し て い る の で あ る 。と い う の も 緑〔 と い う 色 の 概 念 は 〕黒 の 後 に 出 て き た も
の だ か ら で あ る 。 ワ フ ブ よ り 、「 そ れ は 楽 園 の 諸 門 の う ち の ひ と つ の 上 に あ っ た も の で あ る 」
と 伝 え ら れ て い る 。そ れ は ソ ロ モ ン の 墓 の 上 に あ る と も 言 わ れ て い る 。ヒ ド ル が そ こ で 礼 拝 し
て い る と も 伝 え ら れ て い る 。そ の 上 で は 礼 拝 し 、ア ナ ス が 伝 え て い る と こ ろ の 祈 願 を 行 う の が
望ましい。かつて預言者―神よ彼に祝福と平安を与え給え―は教友方を先導して礼拝する際、
人 々 の 方 に 近 づ い て 言 っ た 。「 お お 神 よ 、 私 は あ な た に 、 私 を 悲 し ま せ る も の か ら の 保 護 を 求
247
め ま す 。 お お 神 よ 、 私 は あ な た に 、 私 を 惑 わ せ る 富 か ら の 保 護 を 求 め ま す 。 お お 神 よ 、私 は あ
なたに、私を忘れさせる欠乏から保護を求めます」
鎖 の ド ー ム Qubba t al-Silsila は 、 岩 の ド ー ム の 姿 の よ う に 、 こ の 上 な く 優 雅 な ド ー ム で あ
り 、ミ フ ラ ー ブ の 2 本 の 柱 を 除 い て 17 本 の 大 理 石 の 柱 の 上 に 立 っ て い る 。こ の 場 所 で 、彼( 預
言 者 ム ハ ン マ ド )― 彼 に 祝 福 と 平 安 と あ ら ん こ と を ― は イ ス ラ ー の 夜 、天 女 た ち al-Ḥūr al-ʽA yn
に 会 っ た の だ と 言 わ れ て い る 。こ の 鎖 は 、ダ ビ デ ― 彼 に 平 安 あ れ ― に 与 え ら れ た し る し の ひ と
つ だ と 言 わ れ て い る 。彼 は 至 高 な る 神 に 、イ ス ラ エ ル の 民 の う ち の 2 人 の 人 間 の 間 を 裁 く と き 、
誠 実 な る 者 と 嘘 つ き と を 見 分 け る 証 を 与 え て 下 さ い と 求 め た 。そ こ で 神 は 彼 の 上 に 、
〔天から〕
こ の 場 所 に 、す な わ ち 現 在 鎖 の ド ー ム の あ る 場 所 に 繋 が っ た 光 の 鎖 を 下 し 給 う た 。彼 が 裁 き を
行 う と き に は 、彼 は 争 い 合 う 2 人 を そ の 鎖 の も と に 送 っ た 。誠 実 な 者 は そ れ に 触 れ る こ と が で
き る が 、嘘 つ き は そ れ に 触 れ る こ と が で き な か っ た 。そ う す る う ち に 人 々 の 間 に ず る い 行 い が
起 こ る よ う に な り 、 そ れ は 〔 天 に 〕 上 っ て い っ て し ま っ た 。〔 こ の 鎖 に つ い て は 〕 次 の よ う な
詩がある:
正しき時代の公正は過ぎ去った
かの鎖の時代に啓示は上っていった
そ れ が〔 天 に 〕上 っ て し ま っ た 理 由 を ま と め る と 、次 の よ う な も の で あ る 。あ る ユ ダ ヤ 人 に 、
別 の 人 が 100 デ ィ ー ナ ー ル を 預 け た こ と が あ っ た 。し か し そ の 人 が 自 分 の 預 け た も の を 要 求 し
た と き 、そ の ユ ダ ヤ 人 は そ ん な も の は 預 か っ て い な い と 言 っ た 。2 人 は 鎖 の 前 で 裁 き を す る こ
と に な っ た 。そ の と き そ の ユ ダ ヤ 人 が ず る い 行 い を し た 。彼 は そ の デ ィ ー ナ ー ル を 溶 か し 、杖
に 穴 を 開 け て 、そ の 中 に 流 し 込 ん だ 。彼 は 鎖 の も と に や っ て く る と 、デ ィ ー ナ ー ル の 持 ち 主 に
そ の 杖 を 持 た せ て か ら 、 鎖 を 掴 み 、「 私 は す で に 彼 に デ ィ ー ナ ー ル を 渡 し ま し た 」 と 神 に 宣 誓
し た 後 に 、そ の 杖 を 手 に し た 。デ ィ ー ナ ー ル の 持 ち 主 の 持 ち 主 も〔 鎖 に 〕 近 づ い て 、 自 分 は ま
だ 彼 か ら そ れ を 受 け 取 っ て い な い 、と 神 に 宣 誓 し た 。彼 ら の 両 方 と も が 、鎖 に 触 る こ と が で き
たので、人々は驚いた。その日より、鎖は〔天に〕上がっていってしまったのである。以上。
岩 の ド ー ム を 取 り 巻 く 中 庭 は 長 方 形 を し て い る 。[23. a] そ の 長 さ は 南 北 に 23 5 ズ ィ ラ ー ゥ 、
幅 は 東 西 に 89 ズ ィ ラ ー ゥ で あ る 。 こ の 中 庭 に 向 か っ て は 、 ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 中 庭 に あ る
様 々 な 場 所 か ら 、そ れ ぞ れ 石 造 り の 階 段 で 繋 が っ て い る 。そ の 階 段 の 上 に は 、柱 の 上 に 建 て ら
れ た ア ー チ が つ い て い る 。そ う し た も の の う ち 、南 側 か ら は 2 つ の 階 段 が あ る 。 そ の う ち の 1
つ は モ ス ク の 門 に 向 か っ て お り 、そ の 上 に は 大 理 石 の ミ ン バ ル が あ る 。そ の ミ ン バ ル の 側 に は 、
祭 り や 雨 乞 い の 際 に 礼 拝 が 行 わ れ る ミ フ ラ ー ブ が あ る 。 2 つ 目 の 階 段 は 巻 物 の ド ー ム Qubb at
Ṭūmār に 繋 が っ て お り 、 こ の ド ー ム は 岩 〔 の ド ー ム 〕 の 中 庭 の 、 オ リ ー ブ の 木 の 側 の 端 に あ
る 。 東 側 に は 「 ブ ラ ー ク の 階 段 D araj al-Bur āq」 と し て 知 ら れ て い る 階 段 が あ る 。 北 側 に も 2
つ の 階 段 が あ り 、 そ の う ち の 1 つ は ヒ ッ タ 門 Bāb Ḥiṭṭa に 向 か い 合 い 、 2 つ 目 は ダ ー ウ ー デ ィ
248
ー ヤ 門 Bāb al-D āwūdīya に 向 か い 合 っ て い る 。 西 側 に は 3 つ の 門 が あ り 、 そ の う ち の 1 つ は
ナ ー ズ ィ ル 〔 門 〕 al -Nāẓir に 向 か い 合 い 、 2 つ 目 は 綿 商 人 の 門 に 向 か い 合 い 、 3 つ 目 は 鎖 の 門
Bāb al-Silsil a に 向 か い 合 っ て い る 。
神 聖 な る 岩 〔 の ド ー ム 〕 の 右 側 、 す な わ ち 西 側 に は 昇 天 の ド ー ム Qubbat al-Miʽrāj が あ り 、
そ こ は 有 名 で 参 詣 の 目 的 地 と な っ て い る 。昇 天 の ド ー ム の 側 に は 、赤 い 大 理 石 で 地 面 に 円 形 に 、
岩〔 の ド ー ム 〕の タ イ ル の 形 に 描 か れ た 優 美 な ミ フ ラ ー ブ が あ る 。そ こ は 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝
福と平安を与え給え―がイスラーの夜、預言者たちや天使たちとともに立ったところである。
次 の よ う に 伝 え ら れ て い る 。カ ァ ブ は 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の 妻 サ フ ィ ー
ヤ Ṣafīya に 言 っ た 。
「 信 徒 の 母 よ 、こ こ で 礼 拝 し て 下 さ い 。と い う の も 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福
と 平 安 を 与 え 給 え ― は 天 に イ ス ラ ー し た と き 、〔 こ こ で 〕 預 言 者 た ち を 先 導 し て 礼 拝 し た か ら
で す 」次 の よ う に も 伝 え ら れ て い る:現 世 と 来 世 に お け る 何 ら か の 要 望 を 持 っ て こ の ド ー ム に
や っ て 来 て 、2 回 ま た は 4 回 の ラ ク ア を 行 っ た 者 は 、そ の 者 の 願 い は 速 や か に 聞 き 届 け ら れ る 。
昇 天 の ド ー ム と 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の マ カ ー ム Maqām al-Nabī で は 、
礼 拝 し 、祈 願 に 努 め る こ と が 望 ま し い 。と い う の も そ の 2 つ は 、祈 願 が 聞 き 届 け ら れ る と し て
人 々 の 意 見 が 一 致 し て い る 場 所 だ か ら で あ る 。 そ の 祈 願 と は 次 の よ う な も の で あ る 。「 お お 神
よ 、あ な た へ の 畏 れ の ゆ え に 、我 々 と あ な た に 逆 ら う 者 ど も と の 間 に あ る も の を 、我 々 に 約 束
し 給 え 。あ な た へ の 服 従 の ゆ え に 、あ な た が 我 々 を あ な た の 恩 寵 へ と 運 ん で い く も の を 約 束 し
給 え 。確 か さ の ゆ え に 、あ な た が 我 々 の 現 世 に お け る 災 い を 軽 く し て く だ さ る も の を 約 束 し 給
え 。我 々 の 耳 と 目 で 我 々 を 楽 し ま せ 給 え 。我 々 の う ち か ら 、か の 後 継 者 を 定 め 給 え 。我 々 を 虐
げ る 者 か ら 、我 々 を 遠 ざ け 給 え 。こ の 現 世 に お い て 、我 々 に 災 い を 定 め 給 う な 。現 世 を 苦 し み
多 き 場 所 、我 ら の 知 識 が 極 ま る 場 所 と は し 給 う な 。我 々 を 憐 れ ま な い 者 に 、我 々 を 支 配 さ せ 給
うな」
[23. b] 岩 〔 の ド ー ム 〕 の 中 庭 の 下 部 に は 、 鉄 の 門 Bāb al-Ḥadīd と 向 か い 合 っ て 、 階 段 の 側
に 小 屋 が あ る 。 そ こ は 古 く は 「 ヒ ド ル の マ カ ー ム M aqām al-Kh iḍr」 と し て 知 ら れ て い た 。 そ
こ に は 「 バ フ バ フ Bakhbakh」と 名 付 け ら れ た 岩 が あ り 、ヒ ド ル が そ の 上 で 礼 拝 し 、祈 願 し て
い る と 聞 か れ て い る 。そ こ は 人 々 に よ く 知 ら れ た 場 所 で あ る 。岩〔 の ド ー ム 〕の 中 庭 に あ る こ
の 場 所 の 上 部 に は 、「 魂 の 洞 窟 M aghār at al-Arwāḥ」 と し て 知 ら れ る ミ フ ラ ー ブ が あ り 、 人 々
が参詣に訪れている。
北 側 の モ ス ク 後 部 に は 数 多 く の 岩 が 見 え て お り 、そ れ ら は ダ ビ デ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 時 代 よ
り 存 在 す る と 言 わ れ て い る 。と い う の も そ れ ら の 岩 は 地 面 に し っ か り と く っ つ い て お り 、ま っ
たく変わっていないからである。
そ の 方 角 に は 、ダ ワ ー ダ リ ー ヤ 門 Bāb al-Dawādārīya か ら 西 に 行 っ た と こ ろ に ソ ロ モ ン ― 彼
に 平 安 あ れ ― の ド ー ム Qubb at Sul aym an が 、 硬 い 岩 に し っ か り と 建 て ら れ て い る 。 こ こ は 、
彼がモスクの建設を終えたときに立って、
「 お お 神 よ 、こ こ に や っ て き た 罪 人 の 罪 を 赦 し 給 え 。
249
傷 持 つ 者 の 傷 を 癒 し 給 え 」と 祈 願 し た と こ ろ で あ る 。こ こ に や っ て 来 た 者 は み な 、ソ ロ モ ン ―
彼に平安あれ―の祈願を受けているのである。
鎖 の 門 に 向 か い 合 う と こ ろ に は 、「 ム ー ミ ー の ド ー ム Qubb at Mūmī 」 と し て 知 ら れ る ド ー ム
が あ る 。 そ こ は 古 く は 「 木 の ド ー ム Q ubbat al-Shajara 」 と し て 知 ら れ て い た 。 ま た モ ス ク の
西 側 に は 、堅 固 に 建 て ら れ 、南 側 か ら 北 側 へ と 伸 び る 回 廊 が あ る 。そ の 始 ま り は マ ガ ー リ バ 門
Bāb al -Maghār iba の と こ ろ で 、そ の 終 わ り は 1 0 ナ ー ズ ィ ル 門 の と こ ろ で あ る 。そ の 上 は ガ ワ ー
ニ マ 門 Bāb al -Ghawānim a の 近 く に 繋 が っ て い る 。モ ス ク の 中 庭 の 西 側 に は 、そ の 回 廊 と 岩〔 の
ド ー ム 〕の 中 庭 の 間 に は 数 々 の ミ フ ラ ー ブ が 、礼 拝 の た め に 建 て ら れ た 石 の 長 椅 子 の 上 に あ る 。
ま た 多 く の 木 々 も あ る 。 そ の 回 廊 の 北 側 は 、 ア ス バ ー ト 門 Bāb al-Asb āṭ か ら 、 県 知 事 の 館 と
し て 知 ら れ る マ ド ラ サ ・ ジ ャ ー ワ リ ー ヤ al-M adr asa al- Jāwal īya の 方 へ と 伸 び て い る 。
モ ス ク の 東 側 に は 、岩〔 の ド ー ム 〕の 中 庭 と 東 の 城 壁 と の 間 に 、ビ ザ ン ツ 時 代 か ら の 数 多 く
の オ リ ー ブ の 木 が あ る 。岩〔 の ド ー ム 〕の 中 庭 の 南 側 の 端 で 、 東 側 に 隣 り 合 う と こ ろ に は 、巻
物 の ド ー ム が あ る 。 そ し て そ の 側 に は 、「 カ ー シ ャ ー ニ ー ヤ al-Qāsh ānīya」 と し て 知 ら れ る 小
部 屋 が あ る 。 岩〔 の ド ー ム 〕の 中 庭 の 東 側 の 下 部 に は 、 オ リ ー ブ の 木 の 側 に ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア
ル バ ス タ ー ミ ー ヤ Zāwiyat al-Basṭāmīya が あ り 、 人 々 に よ く 知 ら れ た 場 所 で あ る 。 そ こ は バ
ス タ ー ミ ー ヤ の 貧 者 た ち が 集 ま る と こ ろ で あ る が 、そ こ の 門 は 閉 ざ さ れ て い る 。そ の 北 側 の 側
に は 、 ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア ル イ マ ー デ ィ ー ヤ Zāwiyat al-ʽImādīya が あ る が 、 そ こ の 門 も バ ス タ
ーミーヤ同様閉ざされている。
ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ に は 、 冬 場 の 水 を 集 め る た め の 34 の 井 戸 が あ る 。 そ れ ら の う ち 岩 〔 の
ド ー ム 〕の 中 庭 に は 7 つ が あ り 、そ の 残 り は 岩〔 の ド ー ム 〕の 中 庭 の 四 方 に あ る 。そ れ ら の 中
に は 、 口 が 2 つ あ る も の も あ れ ば 3 つ あ る も の も あ っ て 、 そ れ ら の 口 の 総 数 は 40 い く つ で あ
る 。 井 戸 の 中 に は 、 崩 れ て い て 口 が 閉 ざ さ れ て い る も の も あ る 11。
ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ の 大 き さ は 、南 北 の 長 さ が 、ダ ビ デ の ミ フ ラ ー ブ の 側 に あ る 南 の 壁 か ら 、
ア ス バ ー ト 門 の 側 に あ る 北 回 廊 の 中 央 ま で 660 ズ ィ ラ ー ゥ 、東 西 の 幅 が 、ラ フ マ 門 の 墓 地 を 見
下 ろ す 東 の 壁 か ら 、 マ ド ラ サ ・ タ ン キ ズ ィ ー ヤ al-Madras a al-Tankizīya の 下 に あ る 西 回 廊 の
中 央 ま で が 406 ズ ィ ラ ー ゥ で あ る 。
ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ に は ミ フ ラ ー ブ そ の 他 の 数 多 く の 場 所 が あ り 、そ れ ら す べ て を 述 べ て い
く と 長 く な っ て し ま う 。こ の モ ス ク の 様 子 は ま こ と に 偉 大 な も の で 、実 際 に 見 た 者 で な け れ ば 、
そ れ を 言 い 表 す こ と な ど で き な い 。そ れ は た だ お お よ そ の と こ ろ と 、そ の 偉 大 な る 美 し さ を 述
べ る こ と が で き る だ け で あ る 。人 間 が そ の 中 の い か な る 場 所 に 座 ろ う と も 、そ の 者 は そ の 場 所
10
こ の 部 分 は 底 本 ( C 写 本 ) で は 「 そ の 始 ま り は wa-awwa lu-hā」 と な っ て い る が 、 B 写 本 で は 「 そ の
終 わ り は wa-ākharu -hā」 と な っ て い る 。 こ こ で は 底 本 を 誤 字 と し て B 写 本 に 従 う 。
11
B 写 本 に は こ の 後 に 、「 私 は 次 の よ う に 言 う 。 ア ク サ ー ・ モ ス ク の 門 の 近 く 、 岩 〔 の ド ー ム 〕 の 階 段
の 正 面 に は 、「 杯 al-Kaʼs」 と 名 付 け ら れ た 大 き な 池 が あ る 。 そ の 水 は ベ ツ レ ヘ ム か ら 来 て い る 。 そ の 周
囲 に は 木 々 が 植 え ら れ て い る 。そ こ は 人 々 に よ く 知 ら れ た 場 所 で あ り 、そ れ を 見 る こ と で 魂 た ち が 安 ら
ぐ場所である」という文章が追加されている。
250
が 最 も 美 し く 、最 も 輝 か し い 場 所 で あ る と 思 う で あ ろ う 。こ れ ゆ え に 、至 高 な る 神 は そ こ に 美
の 目 を 向 け 、ハ ラ ー ム ・モ ス ク に 栄 光 の 目 を 向 け 、同 様 に 預 言 者 の モ ス ク に は 寛 大 さ の 目 を 向
け給うた、と言われているのである。ゆえに、汝はこのモスクにこの上ない華々しさと広さ、
美 し い 眺 め を 見 出 す で あ ろ う 。一 方 ハ ラ ー ム ・ モ ス ク に は 、こ の 上 な い 栄 誉 と 荘 重 さ 、威 厳 を
見出すであろう。
ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 南 側 の す そ に は 、屋 根 つ き の 柱 の あ る 広 い 場 所 が あ っ て 、そ こ は「 古
の ア ク サ ー al-A qṣ ā al -Qadīm」 と 名 付 け ら れ て い る 。 こ れ は お そ ら く ソ ロ モ ン の 遺 跡 の ひ と つ
で あ る 。 こ の 場 所 近 く の モ ス ク の す そ 、 オ リ ー ブ の 木 々 の 下 に は 、「 ソ ロ モ ン の 馬 小 屋 Iṣṭ abl
Sul aym ān」 と 呼 ば れ る 広 い 場 所 が あ る 。
ミ ン バ ル に つ い て は 4 つ あ る 。1 つ 目 は 南 側 の ハ ラ ム・ シ ャ リ ー フ 前 方 、マ ド ラ サ ・フ ァ フ
リ ー ヤ al-M adras a al-Fakhrīya の 側 に あ る 。 2 つ 目 は 北 側 の も の で 、 鎖 の 門 の 西 に あ る 。 3 つ
目 は 北 側 の ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ 後 部 の 、 西 側 に 繋 が る と こ ろ に あ り 、「 ガ ワ ー ニ マ の ミ ナ レ ッ
ト Muʼadhdh anat al-Ghawānim a 」と 名 付 け ら れ て い る 。4 つ 目 は ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ の 北 側 の 、
アスバート門とヒッタ門の間にあり、最も形が優美である。
〔 ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 〕諸 門 に つ い て は 、東 壁 に 2 つ の 連 結 し た 門 が あ る 。こ れ は 至 高 な
る 神 が 、〈 彼 ら の 間 に は 壁 が 立 て ら れ 、そ の 壁 の 内 側 に は 慈 悲 が 、 [24. b] 外 側 に は 懲 罰 が 待 っ
て い る 〉 (Q57 :13) と 言 わ れ た と こ ろ の 門 で あ る 。 こ の 門 の 後 ろ に あ る 谷 が ワ ー デ ィ ー ・ ジ ャ
ハ ン ナ ム で あ る 。こ の 2 つ は 壁 の 内 側 に あ り 、モ ス ク 区 に 繋 が っ て い る 。そ の う ち の 1 つ が ラ
フ マ 門 、2 つ 目 が タ ウ バ 門 で あ る 。ズ ィ ヤ ー ド ・ ブ ン ・ ア ビ ー ・ サ ウ ダ Z iyād b. Abī Sawda 曰
く 、「 ウ バ ー ダ ・ ブ ン ・ ア ッ サ ー ミ ト ― 至 高 な る 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― は 、 バ イ ト ・ ア ル マ ク
デ ィ ス の 壁 の 側 に 立 っ て 泣 い て い た 。 あ る 人 が 彼 に 、『 な ぜ 泣 い て い る の で す か 、 ア ブ ー ・ ア
ル ワ リ ー ド よ 』と 言 っ た と こ ろ 、彼 は『 こ こ で 、神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ―
は ジ ャ ハ ン ナ ム を 見 た と 伝 え ら れ た の だ 』 と 言 っ た 」 あ る 伝 承 で は 、「 彼 は 織 火 の よ う な 石 を
ひ っ く り 返 し て い る 天 使 を 見 た 」と あ る 。イ ブ ン・ ア ッ バ ー ス ― 神 よ 彼 ら 両 名 を 嘉 し た ま え ―
曰 く 、「 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 東 の 壁 の 側 に 立 っ て 、『 こ こ か ら 細 き 道 が 立 ち 上 る 』と
言った」
こ の 2 つ は 壁 の 内 側 に あ り 、ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ に 繋 が っ て い る 。そ の う ち の 1 つ が ラ フ マ
門 、2 つ 目 が タ ウ バ 門 で あ る 。 こ れ ら 2 つ は 、 今 は 使 用 さ れ て い な い 。こ れ ら 2 つ の 側 の 壁 の
内 側 に と こ ろ に は 、ソ ロ モ ン の 建 物 と ア ー チ で つ な が っ た 場 所 が あ る 。ハ ラ ム・ シ ャ リ ー フ の
中 に は 、こ の 場 所 の 他 に も ソ ロ モ ン の 建 物 が 残 っ て い る 。そ こ は 人 々 が 参 詣 に 向 か う 場 所 で あ
り 、そ こ に は 栄 誉 と 荘 重 さ が あ る 。ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ル ハ ッ タ ー ブ ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― が
そ の 2 つ の 門 を 閉 ざ し た と 言 わ れ て い る 。そ れ ら は マ リ ア の 子 イ エ ス ― 彼 に 平 安 あ れ ― が 下 っ
て来る時まで開かない。これらの門が閉ざされているのは、ハラム・シャリーフとこの町が、
目 を 赤 く 腫 ら し た 敵 に 襲 わ れ る こ と を 恐 れ て の こ と で あ る 。こ れ ら 2 つ の 門 は 荒 野 に 向 か っ て
251
い る の で 、そ こ を 開 い て も 大 き な 益 は な い の で あ る 。東 壁 に は 前 述 の 2 つ の 門 の 南 側 に 優 美 な
門 が あ る が 、こ れ も 建 物 で 封 じ ら れ て い る 。こ れ は ブ ラ ー ク の 階 段 の 正 面 に あ り 、
「 狼 の 門 Bāb
al-Dhiʼb 」 と 名 付 け ら れ て い る 。 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― は イ ス ラ ー の 夜 、
こ こ か ら 〔 町 の 中 に 〕 入 っ た 。 ま た そ こ は 古 く は 、 葬 儀 が そ こ か ら 出 て い く ゆ え に 、「 葬 儀 の
門 Bāb al-Janāʼ iz」 と も 名 付 け ら れ て い る 。
そ こ か ら 入 る こ と が 認 め ら れ て い る 門 は 、マ ド ラ サ や リ バ ー ト や 宿 泊 所 か ら ハ ラ ム・シ ャ リ
ー フ に 繋 が っ て い る 3 つ の 門 を 除 い て 、 11 の 門 が あ る 。 北 側 に は 、 イ ス ラ エ ル の 民 の 部 族 に
由 来 す る ア ス バ ー ト 門 が あ り 、こ れ は ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 後 方 に あ る 。東 側 に は 、ラ フ マ 門
の 近 く に ヒ ッ タ 門 が あ る 。 こ れ は か つ て イ ス ラ エ ル の 民 が 〈 伏 し 拝 み つ つ 門 に 入 り 、「 お 赦 し
を ḥiṭṭa」 と 言 え 。 そ う す れ ば 、 我 ら は お 前 た ち の 罪 を 赦 し て や ろ う 〉 (Q2: 58) と 言 わ れ た と
こ ろ の 門 で あ る 。[25. a] し か し 彼 ら は そ う す る 代 わ り に 尻 で 入 り 、
「 髪 の 毛 1 本 に 麦 1 粒 ḥabb a
fī sh aʽr a」 と 言 っ た 。 預 言 者 た ち の 尊 厳 の 門 Bāb Sh araf al-Anb yāʼ は 、 お そ ら く ウ マ ル が 征 服
の 日 に 入 っ た 門 で あ る 。 そ こ は 今 日 で は 「 ダ ー ワ イ ダ ー ル 門 Bāb al-D āwaydār」 と し て 知 ら れ
ている。西側には 8 つの門がある。ガワーニマ門は、ガワーニマのミナレットから西にあり、
そ こ は バ ヌ ー ・ ガ ー ニ ム の 地 区 へ と 繋 が っ て い る 。 そ こ は 古 く は ヘ ブ ロ ン 門 Bāb al-Kh alīl と
し て 知 ら れ て い た 。 ナ ー ズ ィ ル 門 は 、 古 く は ミ カ エ ル 門 Bāb Mīk āʼīl と し て 知 ら れ て い た 。 そ
こ は 、イ ス ラ ー の 夜 に〔 天 使 〕ガ ブ リ エ ル が ブ ラ ー ク を 繋 い だ と こ ろ だ と 言 わ れ て い る 。鉄 の
門 は 、優 美 な が ら し っ か り と 造 ら れ た 門 で あ る 。綿 商 人 の 門 は 、そ こ が 彼 ら の ス ー ク に 通 じ て
い る ゆ え に 〔 そ の 名 が つ け ら れ た 〕。 ア ズ ィ ー ム 門 Bāb ʽAẓ īm は 、 そ の 造 り が こ の 上 な く 完 全
で あ る 。 こ の 門 の 近 く に は 、 洗 い 場 の 門 Bāb al-M utawaḍḍāʼ が あ る 。 そ こ か ら は モ ス ク の 洗
い 場 に 通 じ て い る 。 鎖 の 門 と サ キ ー ナ 門 Bāb al-Sakīna は ひ と つ な が り に な っ て い て 、 そ こ か
ら は 、我 ら が 主 人 ダ ビ デ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 通 り と し て し ら れ る 大 通 り に 通 じ て い る 。ガ ワ ー
ニ マ 門 は 、ガ ワ ー ニ マ 地 区 に 通 じ て い る た め に〔 そ の 名 が つ け ら れ た 〕の で あ る が 、預 言 者 ―
神よ彼に祝福と平安を与え給え―の門としても知られている。ミーラージュのハディースで、
彼 が「 太 陽 と 月 が 傾 く 門 」か ら モ ス ク に 入 っ た 、と さ れ て い る と こ ろ で あ る 。こ の よ う な 形 を
した門はこれ以外には存在しない。
ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ〔 全 体 〕に つ い て 見 れ ば 、 そ の 南 東 の 方 角 は 荒 野 に 通 じ て い る 。 ま た 南
の 方 角 は 、 シ ロ ア ム の 泉 ʽAyn Silwān そ の 他 を 見 下 ろ し て お り 、 東 の 方 角 は オ リ ー ブ 山 Ṭ ūr
Zaytā と ワ ー デ ィ ー ・ ジ ャ ハ ン ナ ム そ の 他 を 見 下 ろ し て い る 。居 住 区 は 、た だ 北 側 と 西 側 か ら
取り巻いている。しかし先人たちの時代には、そこは四方を取り巻かれた町であった。
そ こ に 任 命 さ れ た イ マ ー ム た ち に つ い て は 、ま ず 初 め に マ ー リ ク 派 の イ マ ー ム で 、彼 は マ ガ
ー リ バ ・ モ ス ク で 礼 拝 を 行 っ て い る 。次 に シ ャ ー フ ィ イ ー 派 の イ マ ー ム で 、ア ク サ ー ・ モ ス ク
に い る 。次 に ハ ナ フ ィ ー 派 の イ マ ー ム で 、神 聖 な る 岩 の ド ー ム に い る 。次 に ハ ン バ ル 派 の イ マ
ー ム で 、 マ ド ラ サ ・ ス ル タ ン ・ マ リ ク ・ ア シ ュ ラ フ M adr as at al-Sul ṭān al-M alik al-A shraf に
252
いる。
バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス と そ の 近 く の ラ ム ラ や ガ ザ 、ま た そ れ に 隣 接 す る 海 岸 地 域 の 民 の キ
ブラは、カアバの雨樋とイシュマエルの石の方角である。
そ こ( ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ )に あ る マ ド ラ サ に つ い て 言 え ば 、そ の 中 に は ア ク サ ー ・ モ ス ク
の 内 部 、 葉 の 井 戸 の 近 く に 、 マ ダ ー リ ス ・ フ ァ ー リ ス ィ ー ヤ al-M adāris al-Fārisīya が あ る 。
[25. b] 岩 〔 の ド ー ム 〕 の 中 庭 の 南 側 の 端 か ら 西 に 向 か う と こ ろ に は 、 マ ド ラ サ ・ ナ フ ウ ィ ー
ヤ al-M adr asa al-Naḥwīya が あ る 。 マ ド ラ サ ・ ナ ー ス ィ リ ー ヤ al-Madras a al -Nāṣ irīya は ラ フ
マ門の塔の側にあったが、忘れ去られてしまった。
ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 周 囲 に あ る マ ド ラ サ や ザ ー ウ ィ ヤ に つ い て 言 え ば 、〔 ハ ラ ム ・ シ ャ リ
ー フ の 〕 壁 の 西 側 に 隣 接 す る マ ド ラ サ や リ バ ー ト は 13 あ る 。 ま ず 初 め に ハ ー ン カ ー ・ フ ァ フ
リ ー ヤ al-Kh ānqāh al-Fakhrīya が 、マ ガ ー リ バ・モ ス ク の 西 側 に 隣 接 し て い る 。そ こ は 壁 の 内
側 に あ る 。マ ド ラ サ ・ タ ン キ ズ ィ ー ヤ は 偉 大 な マ ド ラ サ で 、マ ド ラ サ の 中 に こ れ 以 上 に 完 璧 な
も の は な い 。こ れ は 鎖 の 門 の 通 り に あ る 。マ ド ラ サ・ア シ ュ ラ フ ィ ー ヤ al -Madras a al-Ashr afīya
は 、 ハ ン バ ル 派 の 礼 拝 所 と な っ て い る と こ ろ で あ る 。 マ ド ラ サ ・ ウ ス マ ー ニ ー ヤ al-M adr as a
al-ʽUthmānīya は 洗 い 場 の 門 の と こ ろ に あ り 、 リ バ ー ト ・ ア ル ザ マ ニ ー al -Ribāṭ al -Zam anī は
洗 い 場 の 門 の と こ ろ に 、マ ド ラ サ ・ ウ ス マ ー ニ ー ヤ の 向 か い に あ る 。マ ド ラ サ ・ ハ ー ト ゥ ー ニ
ー ヤ al-M adras a al-Kh ātūnīya と マ ド ラ サ ・ ア ル グ ー ニ ー ヤ al-M adr as a al-A rghūnīya、マ ド ラ
サ ・ ジ ャ ウ ハ リ ー ヤ al -Madras a al-Jawharīya の 3 つ は 、 鉄 の 門 の と こ ろ に あ る 。 リ バ ー ト ・
ク ル ド Rib āṭ K urd も 鉄 の 門 の 壁 に 近 い と こ ろ に 、 マ ド ラ サ ・ ア ル グ ー ニ ー ヤ と マ ド ラ サ ・ ジ
ャ ウ ハ リ ー ヤ の 向 か い に あ る 。 ザ ー ウ ィ ヤ ・ ワ フ ァ ー イ ー ヤ al-Z āwiya al-W afāʼīya は ナ ー ズ
ィ ル 門 の と こ ろ に 、〔 同 じ く 〕 ナ ー ズ ィ ル 門 の と こ ろ に あ る マ ド ラ サ ・ マ ン ジ ャ キ ー ヤ
al-M adr asa al-M anj akīya の 向 か い に あ る 。
〔 ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 壁 の 〕 北 側 に は 14 あ る 。 ま ず マ ド ラ サ ・ ジ ャ ー ワ リ ー ヤ が あ り 、
こ の 中 に は シ ャ イ フ ・ デ ィ ル バ ー ス ・ ク ル デ ィ ー Shaykh Dirbās al -K urdī の 墓 地 が あ る 。 彼 は
正 し い 人 で あ っ た 。 マ ド ラ サ ・ ス ル ビ ー ヤ al-Madras a al- Ṣulb īya と マ ド ラ サ ・ ア ス ア ル デ ィ
ー ヤ al-M adras a al-As ʽardīya と マ ド ラ サ・マ リ キ ー ヤ al-M adrasa al-Malikīya は 、ア ク サ ー ・
モスクの北回廊の上にある。マドラサ・ファーリスィーヤとザーウィヤ・アミーニーヤ
al-Z āwiya al-Amīnīya は 、 預 言 者 た ち の 尊 厳 の 門 Bāb Sh araf al-A nbiyāʼ の と こ ろ に あ る 。 マ
ド ラ サ ・ ダ ワ イ ダ ー リ ー ヤ は 、〔 ダ ワ イ ダ ー リ ー ヤ 門 と し て 知 ら れ る 預 言 者 た ち の 尊 厳 の 門 の
も と に あ り 、〕
「 預 言 者 た ち の 尊 厳 の 門 」と い う の は こ の マ ド ラ サ に ち な ん で 名 づ け ら れ た 。そ
こ は 古 く は 「 義 人 た ち の 館 Dār al- Ṣāl iḥīn」 と し て 知 ら れ て お り 、 人 々 に よ く 知 ら れ て い る 場
所 で あ っ た 。 マ ド ラ サ ・ バ ー ス ィ テ ィ ー ヤ al-M adras a al -Bāsiṭīya は 、 そ の 一 部 が マ ド ラ サ ・
ダ ワ イ ダ ー リ ー ヤ と ア ウ ハ デ ィ ー ヤ 墓 地 al -Turba al-A uḥadīya に 接 し て お り 、 ヒ ッ タ 門 の と
こ ろ に あ る 。マ ド ラ サ・カ リ ー ミ ー ヤ al-Madr as a al-K arīmīya も ヒ ッ タ 門 の と こ ろ に あ る 。マ
253
ド ラ サ ・ カ ー デ ィ リ ー ヤ al-M adrasa al- Qādirīya は ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 内 側 に あ る 。マ ド ラ
サ・ト ゥ ー ル ー ニ ー ヤ al-Madras a al -Ṭ ūlūnīya も ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ の 内 側 の 北 回 廊 の と こ ろ
に あ る 。 マ ド ラ サ ・ ア ト リ ー ヤ al-M adras a al-ʽAtrīya は 、 ト ゥ ー ル ー ニ ー ヤ の 東 側 の 向 か い
に あ る 。 マ ド ラ サ ・ フ サ イ ニ ー ヤ al-M adr asa al-Ḥus aynīya は ア ス バ ー ト 門 の 側 に あ り 、 こ れ
が最後のマドラサである。
ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ と 繋 が っ て お り 、ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ の 出 口 と な る 門 を 備 え て い る 場 所
に つ い て 言 え ば 、 [26. a] そ の 中 に は ザ ー ウ ィ ヤ ・ ハ ン サ ニ ー ヤ 、 ハ テ ィ ー ブ の 館 、 フ ァ フ リ
ー ヤ 、 タ ン キ ズ ィ ー ヤ 、 バ ラ デ ィ ー ヤ al-Bal adīya 、 リ バ ー ト ・ ア ル ザ マ ニ ー 、 ハ ー ト ゥ ー ニ
ー ヤ 、ア ル グ ー ニ ー ヤ 、ワ フ ァ ー イ ー ヤ 、マ ン ジ ャ キ ー ヤ 、我 ら が 父 祖 の ひ と り で あ る ハ ラ ム
の シ ャ イ フ 、 シ ャ イ フ ・ ジ ャ マ ー ル ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ ブ ン ・ ガ ー ニ ム ― 彼 ら の う ち 20 人 を 超
え る ハ ラ ム の シ ャ イ フ た ち が 亡 く な っ て い る ― の 館 、ガ ワ ー ニ マ の ミ ナ レ ッ ト に 隣 接 す る バ ヌ
ー ・ ジ ャ マ ー ア の 館 Dār Banū Jam āʽa 、 マ ド ラ サ ・ ジ ャ ー ワ リ ー ヤ 、 ス ル ビ ー ヤ 、 ア ス ア ル デ
ィ ー ヤ 、マ ー リ キ ー ヤ 、ア ミ ー ニ ー ヤ 、バ ー ス ィ テ ィ ー ヤ 、カ リ ー ミ ー ヤ 、ア ト リ ー ヤ が あ る 。
こ れ 以 外 の 市 内 に あ る マ ド ラ サ に つ い て は 、次 章 に て 扱 う 。ま こ と に 神 は 報 い を 与 え 給 う お
方である。
第 4 章:クドスの町の様子とそこにあるマシュハド、その周辺にある場所
我 々 の こ の 時 代 に お け る そ こ( 町 )の 様 子 は 、山 地 と 谷 間 の 間 に あ る 、偉 大 で 建 物 の 立 ち 並
ぶ 町 と い っ た も の で あ る 。町 の 西 側 の 北 側 に は 壁 が 建 て ら れ て お り 、そ こ は「 ス レ イ マ ー ン の
城 壁 al-Sūr al-Sulaym ānī 」と 名 付 け ら れ て お り 、オ ス マ ン 家 の 王 た ち の う ち の ス ル タ ン に よ る
も の で あ る 。そ の 城 壁 に は 町 の 門 が つ い て お り 、あ る も の は 高 地 に 聳 え て お り 、ま た あ る も の
は 谷 間 に 低 く な っ て い る 。高 い 場 所 に 建 っ て い る 建 物 の 大 部 分 は 、低 い 場 所 に あ る も の を 見 下
ろ す 形 に な っ て い る 。町 に あ る 通 り は 、あ る も の は 滑 ら か で あ る も の は で こ ぼ こ し て い る 。ま
た そ こ に は 数 多 く の 水 を 集 め る た め の 井 戸 が あ る 。と い う の も そ こ の 水 は 、雨 水 を 集 め て い る
からである。
そ こ の ス ー ク に つ い て は 、そ の 中 に は ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ の 門 の 西 側 に 隣 接 す る 綿 商 人 の ス
ー ク Sūq al-Q aṭṭānīn が あ る 。 そ こ は 非 常 に 名 高 い ス ー ク で 、 諸 国 の い ろ い ろ な と こ ろ で も 、
そ の よ う な と こ ろ は 見 つ か ら な い 。同 様 に 、ヘ ブ ロ ン 門 と し て 知 ら れ て い る ミ フ ラ ー ブ の 門 の
近くには、3 つのスークがある。そこはビザンツ時代のものであり、南北に展開していて、ひ
と つ か ら ひ と つ へ と 通 路 が つ い て い る 。そ の 1 つ 目 の も の は 香 料 商 人 の ス ー ク Sūq al- ʽAṭṭ ārīn
で 、そ れ に 続 く 真 ん 中 の も の が 野 菜 を 売 る と こ ろ 、そ の 東 側 に 衣 服 を 売 る と こ ろ が あ る 。旅 行
者 た ち は 、こ れ ら 3 つ の ス ー ク の よ う な も の は い か な る 国 の 建 物 の 中 で も 見 た こ と が な い 、と
言っている。そこはバイト・アルマクディスの魅力のうちのひとつである。
[26. b] 町 の 通 り に つ い て は 、そ の 中 に は ダ ビ デ 通 り Kh aṭṭ D āwūd が あ る 。こ れ が 最 も 大 き
254
な 通 り で あ り 、そ の 始 ま り は 鎖 の 門 で 、ヘ ブ ロ ン 門 と し て 知 ら れ て い る ミ フ ラ ー ブ の 門 ま で 伸
び て い る 。こ の 通 り に は 様 々 な 区 分 が あ る 。そ こ が「 ダ ビ デ 通 り 」と 名 付 け ら れ た 理 由 は 次 の
よ う な も の で あ る 。我 ら が 主 人 ダ ビ デ ― 彼 に 平 安 あ れ ― は 、鎖 の 門 か ら ダ ビ デ の ミ フ ラ ー ブ と
し て 知 ら れ て い る 城 塞 に 至 る ま で 、地 面 の 下 に 地 下 室 を 持 っ て お り 、そ こ に 居 住 し て い た 。こ
の 地 下 室 が あ る と き 発 見 さ れ 、そ の 一 部 が 発 掘 さ れ 、そ れ が 石 組 み の 地 下 室 だ と い う こ と が 明
ら か に な っ た 。 マ ル ズ バ ー ン 通 り Kh aṭṭ Marzb ān に は 、 香 料 商 人 の ス ー ク そ の 他 が あ る 。 ワ
ー デ ィ ー・ア ッ タ ワ ー ヒ ー ン 通 り Kh aṭṭ Wādī al- Ṭawāḥ īn に は 数 々 の 良 く 知 ら れ た 通 り が あ る
が、述べるまでもないであろう。
町 の 中 に あ る マ ド ラ サ で 、ハ ラ ム ・シ ャ リ ー フ 周 辺 に あ り 、そ の 壁 と 接 し て は い な い が そ の
近くにあるものについては、北側にはアスバート門のところにマドラサ・サラーヒーヤ
al-M adr asa al- Ṣal āḥīya が あ る 。 そ こ は 古 く は ハ ン ナ の 墓 と し て 知 ら れ て お り 、 そ の 中 に マ リ
ア の 母 の 墓 が あ る と 言 わ れ て い る 。マ リ ク ・ サ ラ ー フ ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ ユ ー ス フ が 、 ク ド ス を
征 服 し た と き に そ こ を 興 し 、シ ャ ー フ ィ イ ー 派 の サ イ イ ド た ち の ワ ク フ と し て 定 め た 。そ の マ
ド ラ サ の 隣 に は 、ジ ン が ソ ロ モ ン の た め に 建 て た と い う 浴 場 が あ り 、こ れ は 最 初 に 建 設 さ れ た
浴 場 で あ る 。 ザ ー ウ ィ ヤ ・ シ ャ イ フ ー ニ ー ヤ al -Zāwiya al -Shaykh ūnīya は 、 ヒ ッ タ 門 の 小 市
場 の 側 に あ る 。マ ド ラ サ・ カ ー ミ リ ー ヤ al-M adr asa al-K āmilīya は 、ヒ ッ タ 門 の と こ ろ に あ る
12。 マ ド ラ サ ・ ム ア ッ ザ ミ ー ヤ
al-M adr asa al-Muʽaẓẓamīya は 、 ア ウ ハ デ ィ ー ヤ 墓 地 の 近 く に
あ る 。 ザ ー ウ ィ ヤ ・ マ フ マ ー ズ ィ ー ヤ al-Z āwiya al -Mahm āzīya は ム ア ッ ザ ミ ー ヤ の 西 側 近 く
に あ り 、 マ ド ラ サ ・ ウ ジ ュ ー ヒ ー ヤ al -Madr as a al-Wuj ūhīya は ダ ラ ジ ュ ・ ア ル マ ウ ラ ー 通 り
Khaṭṭ Dar aj al-M awl ā に あ り 、マ ド ラ サ・ム ハ ッ デ ィ ス ィ ー ヤ al-M adr asa al-Muḥaddithīya は
ウ ジ ュ ー ヒ ー ヤ と ガ ワ ー ニ マ 門 の 近 く 、す な わ ち ハ ラ ム ・シ ャ リ ー フ の 西 側 近 く に あ る 。リ バ
ー ト ・マ ン ス ー リ ー al -Ribāṭ al-M anṣ ūrī は ナ ー ズ ィ ル 門 の と こ ろ に あ り 、リ バ ー ト ・ ア ラ ー ・
ア ッ デ ィ ー ン ・ バ ス ィ ー ル Rib āṭ ʽAlāʼ al-D īn al-Baṣīr は リ バ ー ト ・ マ ン ス ー リ ー の 向 か い に
あ る 。マ ド ラ サ ・ フ サ イ ニ ー ヤ は ナ ー ズ ィ ル 門 の と こ ろ 、リ バ ー ド ・ ア ラ ー ・ ア ッ デ ィ ー ン の
側 に あ る 。こ の マ ド ラ サ の 向 か い に は 目 立 つ 墓 地 が あ り 、そ こ は サ イ イ ダ ・ フ ァ ー テ ィ マ ・ ビ
ン ト ・ ム ア ー ウ ィ ヤ al-Sayyda Fāṭima bint Muʽāwiya ― 神 よ 彼 ら 両 名 を 嘉 し た ま え ― の 墓 で
あ る と 言 わ れ て い る 。 マ ド ラ サ ・ ク シ ュ タ ム リ ー ヤ al -Madras a al-Qushtamurīya は ナ ー ズ ィ
ル 門 の と こ ろ の 、フ サ イ ニ ー ヤ の 近 く に あ る 。マ ド ラ サ・サ フ リ ー ヤ al-Madr asa al-Safr īya は
ナ ー ズ ィ ル 門 の と こ ろ に あ り 、ス ィ ッ ト・サ フ リ ー・ビ ン ト・シ ャ ラ フ・ア ッ デ ィ ー ン・バ ー
ダ ル デ ィ ー al-Sitt Safr ī bint Sh araf al -D īn al -Bādardī が そ こ を ワ ク フ と し た 。[ 27. a] ま た〔 マ
12
B 写本ではここに、
「 北 側 に は ま た 、ヒ ッ タ 門 の と こ ろ の カ ー ミ リ ー ヤ の 向 か い 、 ア ウ ハ デ ィ ー ヤ 墓
地 の 隣 に 、リ バ ー ト・ア ル マ ー ル デ ィ ー ニ ー Ribāṭ a l- Mārdīnī が あ る 。マ ド ラ サ・ア ズ ィ ー マ al-Madras a
al- ʽAẓī ma は 預 言 者 た ち の 尊 厳〔 の 門 〕の 向 か い に あ り 、マ ド ラ サ・サ ラ ー ミ ー ヤ al-Ma drasa a l- Sa lāmīy a
は 預 言 者 た ち の 尊 厳 の 門 の と こ ろ の 、〔 マ ド ラ サ ・ 〕 ム ア ッ ザ ミ ー ヤ al-Muʽ aẓẓamīya の 向 か い に あ る 」
という一文が追加されている。
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ド ラ サ ・ 〕 バ ー ダ ル デ ィ ー ヤ al-Bādar dīya も 、 ク シ ュ タ ム リ ー ヤ の 近 く に あ る 。 バ ー ダ ル デ
ィ ー ヤ の 側 に は 、 ザ ー ウ ィ ヤ ・ ム ハ ン マ デ ィ ー ヤ al-Zāwiya al-M uḥ ammadīya が あ る 。
西 側 に は 、 ザ ー ウ ィ ヤ ・ ユ ー ニ ス ィ ー ヤ al-Z āwiya al-Yūnis īya が あ る 。 バ ー ダ ル デ ィ ー ヤ
の 向 か い に は ジ ハ ー ル カ ス ィ ー の ギ リ シ ア 人 の 貧 者 た ち al-fuqarāʼ al-Yūnānīya al-Jihārk asīya
に 由 来 す る 場 所 が あ り 、そ れ は ユ ー ニ ス ィ ー ヤ の 隣 に あ る 。そ れ ら 2 つ は も と は ビ ザ ン ツ 人 の
建 て た 教 会 で 、2 つ に 分 割 さ れ た も の で あ る 。マ ド ラ サ・ハ ン バ リ ー ヤ al-Madrasa al-Ḥanb alīya
は 鉄 の 門 の と こ ろ に あ り 、 サ ア デ ィ ー ヤ 墓 地 al -Turb a al-Saʽdīya は 鎖 の 門 の と こ ろ の 、 マ ド
ラ サ ・ タ ン キ ズ ィ ー ヤ の 門 の 向 か い に あ る 。 鎖 の 門 の と こ ろ に あ る 「 泉 の 階 段 Daraj al-ʽA yn」
に は ジ ャ ー リ キ ー ヤ 墓 地 al -Turb a al- Jāliqīya が あ る 。 ジ ャ ー リ キ ー ヤ 墓 地 の 隣 に は ハ デ ィ ー
ス の 館 D ār al-Ḥadīth が あ る 。
西 側 に は ま た ハ デ ィ ー ス の 館 の 向 か い に 、 平 安 な る ク ル ア ー ン D ār al- Qurʼ ān al-Sal āmīya
の 館 が あ る 。 マ ド ラ サ ・ タ ー ズ ィ ー ヤ al-M adr asa al-Ṭ āzīya は 、 ダ ビ デ 通 り の 鎖 に 門 に 近 い と
こ ろ に あ る 。マ リ ク・フ サ ー ム・ア ッ デ ィ ー ン・ブ ル カ・ハ ー ン 墓 地 Turba t al -Mal ik Ḥus ān al-Dīn
Burk at Khān は 、 マ ド ラ サ ・ タ ー ズ ィ ー ヤ の 向 か い に あ る 。 カ イ ラ ー ニ ー ヤ 墓 地 al-Turba
al-K aylānīya は タ ー ズ ィ ー ヤ の 隣 に あ る 。
西 側 に は ま た 、カ イ ラ ー ニ ー ヤ の 近 く に マ ド ラ サ ・ ク シ ュ タ ム リ ー ヤ が あ る 。ザ ー ウ ィ ヤ ・
タ ー ワ シ ー ヤ Z āwiyat al-Ṭ awāshīya は 、 古 く は ク ル ド 人 地 区 Ḥār at al -Akrād と し て 知 ら れ て
い た 東 地 区 に あ る 。 ザ ー ウ ィ ヤ ・ マ ガ ー リ バ al-Z āwiya al-M aghārib a は 彼 ら の 地 区 に あ る 。
マ ド ラ サ・ ア フ ダ リ ー ヤ al -Madras a al -Afḍarīya は 、古 く は ド ー ム が あ っ た こ と で 知 ら れ て お
り、マガーリバ地区にある。
神 聖 な る ク ド ス に あ る マ ド ラ サ や ザ ー ウ ィ ヤ の う ち 、ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ の 近 く に な い も の
に つ い て は 、 ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア ル バ ラ ー ス ィ ー Zāwiyat al -Bal āsī が 神 聖 な る ク ド ス の 南 側 の
外 に あ る 。 そ こ は シ ャ イ フ ・ ア フ マ ド ・ バ ラ ー ス ィ ー al-Sh aykh Aḥmad al -Balāsī が そ こ に 埋
葬されていることに由来するものである。彼は正しい人々のひとりであり、彼の墓は有名で、
参 詣 者 た ち が 訪 れ る 場 所 と な っ て い る 。 ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア ル ア ズ ラ ク Zāwiyat al-Azr aq も 神
聖 な る ク ド ス の 南 側 の 外 、ザ ー ウ ィ ヤ ト・ ア ル バ ラ ー ス ィ ー の 東 に あ る 。そ こ に は あ る 一 団 の
墓 が あ り 、彼 ら の 中 に は シ ャ イ フ・イ ス ハ ー ク・ブ ン・シ ャ イ フ・イ ブ ラ ー ヒ ー ム・ア ル ア ズ
ラ ク al-Sh aykh Isḥāq b. al- Shaykh Ibrāhīm al -Azr aq が い る 。 マ ド ラ サ ・ ル ゥ ル ゥ イ ー ヤ
al-M adr asa al-Luʼl uʼīya は マ ル ズ バ ー ン 通 り の 、 ア ラ ー ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ バ ス ィ ー ル の 浴 場 の
隣にある。
北 側 に は マ ド ラ サ ・ バ ド リ ー ヤ al-M adrasa al-Badrīya が 、 マ ル ズ バ ー ン 通 り の ル ゥ ル ゥ イ
ー ヤ に 近 い と こ ろ に あ る 。 ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア ッ ダ ル カ ー ト Zāwiyat al -Dark āt は サ ラ ー ヒ ー 病
院 al-Bīmāristān al -Ṣalāḥ ī の 隣 に あ る 。ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア ッ シ ャ イ フ ・ ヤ ア ク ー ブ ・ ア ル ア ジ
ャ ミ ー Z āwiyat al-Sh aykh Yaʽqūb al -ʽA jamī は 城 塞 の 近 く に あ る 。 そ こ は ビ ザ ン ツ 人 の 建 て た
256
も の の う ち の ひ と つ で あ る が 、 [27. a] イ ブ ン ・ シ ャ イ フ ・ ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー ・ バ グ ダ ー デ ィ
ー Ibn al-Shaykh ʽAbd All āh al - Baghdādī が そ こ に 住 ん だ こ と の ゆ え に 、ザ ー ウ ィ ヤ ・ イ ブ ン ・
シ ャ イ フ ・ア ブ ド ・ア ッ ラ ー ・ バ グ ダ ー デ ィ ー と し て 有 名 で あ る 。ハ イ ヤ ー ト・ モ ス ク M asjid
al-Ḥayyāt は 蛇 の お 守 り Ṭil asm al -Ḥayyāt が あ る と こ ろ で あ る 。バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 中
で 蛇 に 咬 ま れ た 者 は 、360 日 間 そ の 町 か ら 出 ず に 過 ご せ ば よ い 。も し そ の 日 数 を 満 た す 前 に そ
こ か ら 出 れ ば 、そ の 者 は 死 ん で し ま う 。そ こ は ご み 山〔 の 教 会 〕の 近 く に あ り 、ウ マ ル の 3 つ
の モ ス ク の 中 の ひ と つ で あ る 。ハ ー ン カ ー・サ ラ ー ヒ ー ヤ al-Kh ānqāh al-Ṣ al āḥīya は ご み 山 の
教 会 の 側 に あ る 。 ザ ー ウ ィ ヤ ・ ハ ム ラ ー al-Z āwiya al -Ḥamrāʼ は サ ラ ー ヒ ー ヤ の 近 く に あ り 、
古 く は 〔 ザ ー ウ イ ヤ ・ 〕 ラ グ リ ー ヤ al-Raghlīya と し て 知 ら れ て い た 。 ザ ー ウ ィ ヤ ・ ル ゥ ル ゥ
イ ー ヤ は 、 町 の 門 の ひ と つ で あ る ア ム ー ド 門 Bāb al- ʽAmūd の と こ ろ に あ る 。 ザ ー ウ ィ ヤ ・ ビ
ス タ ー ミ ー ヤ al-Z āwiya al- Bisṭāmīya は 、 ム シ ャ ー ラ フ ァ 地 区 Ḥārat al-M us hārafa に あ る 。
マ ド ラ サ ・ マ イ ム ー ニ ー ヤ al-M adr as a al-M aym ūnīya は 、サ ー ヒ ラ 門 Bāb al-Sāhir a の 側 に あ
る。そこはもとは教会であったが、今では見捨てられた女性たちがやってくるところである。
ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア ル フ ヌ ー ド Z āwiyat al-Hunūd は ア ス バ ー ト 門 の 外 に あ る 。 そ こ は 古 い 場 所
で 、ラ フ ァ ー イ ー ヤ の 貧 者 た ち al -fuqarāʼ al- Rafāʽīya の た め の 場 所 で あ る 。そ こ は フ ヌ ー ド の
一 団 が 滞 在 し て い た た め に 、 彼 ら の 名 に よ っ て 知 ら れ て い る 。〔 ザ ー ウ ィ ヤ ・ 〕 ジ ャ ラ ー ヒ ー
ヤ al-Jar āḥīya は ク ド ス の 北 側 の 外 に あ る ザ ー ウ ィ ヤ で あ る 。そ の 南 側 に は カ イ マ ル の ジ ハ ー
ド 戦 士 al-jih ādīn al-Qaymarīya た ち の 一 団 の 墓 が あ り 、 し っ か り し た 作 り の ド ー ム が あ る 。
ク ド ス の 北 側 の 外 の 、西 側 に 繋 が る と こ ろ に は 、神 の 道 の た め に ジ ハ ー ド を 戦 っ た 殉 教 者 た ち
の一団の墓がある。またその外側にも、同様にジハード戦士たちの墓がある。
クドスにあるミナレットについて言えば、ハラム・シャリーフには前述のように 4 つある。
ハ ラ ム ・ シ ャ リ ー フ の 外 に は 、マ ド ラ サ ・ ム ア ッ ザ ミ ー ヤ の 側 に ミ ナ レ ッ ト が あ る 。ま た ハ ー
ン カ ー ・ サ ラ ー ヒ ー ヤ の 側 と 、ご み 山 〔 の 教 会 〕の 側 の 警 察 の 牢 屋 の と こ ろ 、 ザ ー ウ ィ ヤ ト ・
ア ッ ダ ル カ ー ト の 側 、南 部 の ユ ダ ヤ 教 徒 の 教 会 に 接 す る モ ス ク に も〔 そ れ ぞ れ 〕ミ ナ レ ッ ト が
ある。
神 聖 な る ク ド ス に は 、 ビ ザ ン ツ 時 代 の 教 会 や 修 道 院 が 数 多 く 存 在 し 、 お よ そ 20 か 所 あ る 。
ま た キ リ ス ト 教 徒 地 区 も あ る 。そ の 中 に は ご み 山 の 教 会 が あ る 。そ こ に は 、彼 ら が い ろ い ろ と
言 い が か り を つ け て 巡 礼 に や っ て 来 る 。ま た そ の 近 く に は 、フ ァ ラ ン ジ ュ ど も が 特 別 視 し て い
た シ オ ン 教 会 K anīs at Ṣah yūn が あ る 。 [28. a] ま た ク ド ス の 外 に は 、 ク ー ジ ュ al-Kūj の 一 団
が 特 別 視 し て い た 磔 刑 の 教 会 Kanīs at al-Muṣ all aba が あ る 。
町 の 諸 門 に つ い て は 10 あ る 。 南 側 に は マ ガ ー リ バ 地 区 の 門 、 今 日 は ユ ダ ヤ 人 地 区 の 門 と し
て 知 ら れ る シ オ ン 門 が あ る 。ま た 西 側 に は ア ル メ ニ ア 人 の 館 に 接 す る 小 門 と 、今 日 は ヘ ブ ロ ン
門として知られているミフラーブの門―これはイエス―彼に平安あれ―が反キリストを殺す
と こ ろ で あ り 、 そ れ ゆ え リ ッ ド 門 Bāb Lidd と も 名 付 け ら れ て い る ― 、 ラ フ マ 門 が あ る 。 北 側
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に は ダ イ ル ・ ア ッ サ ラ ブ 門 Bāb D ayr al -Sar ab と ア ム ー ド 門 、 バ ヌ ー ・ ザ イ ド 地 区 に 繋 が る ダ
ー イ ー ヤ 門 Bāb al-D āʽīya、 サ ー ヒ ラ 門 が あ る 。 東 側 に は ア ス バ ー ト 門 が あ る 。〔 こ の 他 〕 町 に
は 2 つ の 門 が あ り 、そ の う ち の ひ と つ は ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア ッ シ ャ イ フ ・ ヤ ア ク ー ブ ・ ア ル ア ジ
ャ ミ ー の 側 に あ り 、〔 も う ひ と つ は 〕 タ ウ リ ー ヤ 地 区 Ḥār at al-Ṭawrīya の 門 で あ る 。 こ れ ら 2
つ の 門 は 閉 鎖 さ れ て い る 。〔 町 の 〕 西 側 に は 城 塞 が あ る 。 そ れ は 偉 大 な 建 築 の 城 塞 で あ り 、 町
の 外 に あ る 。そ こ は 古 く は ダ ビ デ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 住 ま い で あ っ た 。こ の 城 塞 に は ダ ビ デ の
塔があるが、それはそのすべてがソロモンの建設物である。
バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に あ る 建 設 物 は こ の 上 な く 完 璧 な も の で 、そ れ を 遠 く よ り 眺 め る と
輝 く ば か り で 、な ん と も 美 し い 光 景 で あ る 。と り わ け オ リ ー ブ 山 の 上 か ら の 眺 め は す ば ら し い 。
南 側 か ら の 眺 め も 同 様 で あ る 。西 側 と 北 側 は 、遠 く か ら 見 る と 山 に 隠 さ れ て ほ と ん ど 見 え な い 。
バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス は 我 ら が 主 人 神 の 友〔 ア ブ ラ ハ ム 〕― 彼 に 平 安 あ れ ― の 町 で あ る 。山
は 岩 だ ら け で あ り 、そ こ を 旅 す る の は 骨 が 折 れ 、そ の 距 離 は 遠 い 。こ の 町 を 取 り 巻 い て い る 山 々
の 大 き さ は 、縦 に お よ そ 3 日〔 行 程 〕、横 に も 同 程 度 で あ る 。こ れ ら の 町 に 到 着 し た 者 は 、様 々
な光を見て、それゆえに親しみや栄光、幸運を得て、自身が抱えていた苦労を忘 れてしまう。
ハ ー フ ィ ズ ・ イ ブ ン ・ ハ ジ ャ ル ・ ア ス カ ラ ー ニ ー al-Ḥāfiẓ Ibn Ḥajar al- ʽAs qalānī が ク ド ス に
参 詣 に 来 た 際 、 [28. b] そ の よ う な 趣 旨 の 詩 を 詠 ん で い る 。
バイト・アルマクディスに我らはやってきた
寛大なる主の赦しを求めて
汝らへの愛に、我らは山道を踏み越えた
そして山道の後には安らぎがあった
町の周辺にある場所について言えば、その中には谷の南側にあるシロアムの泉がある。
ウ ン ム ・ ウ バ イ ダ ・ ビ ン ト ・ ハ ー リ ド ・ ブ ン ・ マ ァ ダ ー ン が 彼 女 の 父 よ り 伝 え て 曰 く 、「 ザ
ムザムとバイト・アルマクディスにあるシロアムの泉は、楽園の泉の一部である」
ハ ー リ ド ・ ブ ン ・ マ ァ ダ ー ン 曰 く 、「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 来 た 者 は 、 神 聖 な る ダ ビ デ
の ミ フ ラ ー ブ に 行 き そ こ で 礼 拝 し 、シ ロ ア ム の 泉 で 泳 ぐ が よ い 。な ん と な れ ば そ こ は 楽 園 の 一
部 だ か ら で あ る 。し か し 教 会 に 入 っ て は な ら ず 、そ の 中 で も の を 買 っ て は な ら な い 。そ こ で の
過 ち は 1000 の 過 ち に 等 し く 、 そ こ で の 善 行 は 10 00 の 善 行 に 等 し い な る 」
シ ロ ア ム の 泉 の 近 く に は ヨ ブ の 井 戸 Biʼ r Ayyūb が あ る 。 こ れ は 神 が そ の 預 言 者 で あ る ヨ ブ
に、
〈 お 前 の 足 で 地 を 打 て 。こ れ が 涼 し い 洗 い 場 と 飲 み 水 だ 〉(Q38:42) と 言 わ れ た と き の こ と
に 由 来 す る も の で あ る 。こ の 井 戸 は 毎 年 冬 の 寒 く 雨 が 多 い 時 に は 、流 れ る 川 の よ う に 水 が 湧 き
出 し て お り 、そ の 水 は 遠 く ま で 流 れ て い る 。こ の よ う な 状 況 は 何 日 も 続 き 、驚 嘆 す べ き こ と で
ある。
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バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に は 、イ ス ラ エ ル 族 の 王 の 一 人 で あ っ た ヒ ゼ キ ヤ が 造 っ た 池 が 、市
内 に 3 つ 、 市 外 に 3 つ あ る 。 市 内 に あ る も の に つ い て は 、 ま ず イ ス ラ エ ル 族 の 池 Birk at Banī
Isrāʼīl が あ る 。こ れ は ア ク サ ー・モ ス ク の 北 に あ る も の で 、ア ス バ ー ト 門 と ヒ ッ タ 門 の 間 に あ
る 壁 に 接 し て い る 。 そ の 眺 め は 様 々 な 奇 跡 の 中 で も 恐 る べ き も の で あ る 。 ソ ロ モ ン 池 Birkat
Sul aym ān と イ ヤ ー ド 池 Birk at ʽInāḍ の 2 つ は マ ル ズ バ ー ン 通 り の キ リ ス ト 教 徒 地 区 に あ り 、
バスィールの浴場はここから水を取っている。
市 外 に あ る 池 に つ い て は 、 マ ー マ ラ ー 池 Birkat M āmal ā が あ る 。 こ れ は マ ー マ ラ ー 墓 地
Maqb arat Māmal ā の 中 央 に あ る 。ま た マ ル ジ ー ゥ 池 Birk at al-M arjīʽ も あ り 、こ れ ら 2 つ の 池
は ア ル タ ー ス 村 Qaryat Arṭās の 近 く に あ る 。 そ の 2 つ の 池 に は 膨 大 な 量 の 水 が あ り 、 水 路 を
通 っ て 神 聖 な る ク ド ス に ま で 通 じ て い る が 、 そ の 水 路 の ク ド ス か ら の 長 さ は 半 バ リ ー ド 13で あ
る 。 神 聖 な る ク ド ス の 外 に は [29. a] あ ら ゆ る 方 角 に 果 樹 園 が あ り 、 そ こ で は ブ ド ウ や イ チ ジ
ク 、 リ ン ゴ 、 杏 そ の 他 の 様 々 な 種 類 の 果 物 が あ る 。〔 そ こ は 〕 こ の 大 地 の 最 も 美 し い 場 所 で あ
る。
ク ド ス の 外 の 西 か ら 南 に か け て は 、城 塞 や 、行 楽 や 楽 し み の た め の し っ か り と し た 建 物 が あ
る 14。 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 東 に は オ リ ー ブ 山 が あ る 。 そ こ は ア ク サ ー ・ モ ス ク を 見 下 ろ
す 偉 大 な 山 で あ る 。 ア ブ ー ・ フ ラ イ ラ ― 至 高 な る 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― 曰 く 、「 お 前 の 主 は イ
チ ジ ク と オ リ ー ブ に か け て 誓 わ れ た 。イ チ ジ ク す な わ ち ダ マ ス カ ス の モ ス ク と 、オ リ ー ブ す な
わ ち オ リ ー ブ 山 で あ る 」 ま た 曰 く 、「 我 々 の 主 は 4 つ の 山 々 に か け て 誓 わ れ た 。 す な わ ち イ チ
ジ ク 15、 オ リ ー ブ 、 シ ナ イ 山 、 こ の 平 安 の 国 に 。 イ チ ジ ク と は ダ マ ス カ ス の モ ス ク 、 オ リ ー ブ
と は オ リ ー ブ 山 す な わ ち バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の モ ス ク 、シ ナ イ 山 と は 神 が モ ー セ に お 言 葉
をかけられたところ、この平安の国とはメッカである」
預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の 妻 サ フ ィ ー ヤ は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に 行 き 、
そ こ で 礼 拝 し 、 オ リ ー ブ 山 に 上 っ て そ こ で も 礼 拝 し た 。 彼 女 は そ の 山 の 裾 に 立 ち 、「 こ こ か ら
復活の日、人々は楽園と地獄とに分かれていくのです」と言った。
こ の 山 は 、 イ エ ス ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 昇 天 し た 山 裾 の 上 に あ る 。 そ こ に は 、「 イ エ ス ― 彼 に
平 安 あ れ ― 昇 天 の 地 M aṣ ʽad ʽĪsā」 と 呼 ば れ る ド ー ム が あ る 。 ま た オ リ ー ブ 山 に は イ ナ ゴ マ メ
の 木 が あ り 、そ の 側 に は あ る 洞 窟 の 下 に 優 美 な モ ス ク が あ る 。そ の 洞 窟 は 人 々 に よ く 知 ら れ て
お り 、 参 詣 の 目 的 地 と な っ て い る の だ が 、「 友 誼 の イ ナ ゴ マ メ Khr ūbat al-ʽIs hra」 と 名 付 け ら
れ て い る 。ま た オ リ ー ブ 山 に は「 ゲ ッ セ マ ネ al-Jasmānīya」と 名 付 け ら れ た 教 会 が あ る の だ が 、
そ れ は ア ス バ ー ト 門 の 外 に あ る 。そ の 教 会 に は マ リ ア ― 彼 女 に 平 安 あ れ ― の 墓 が あ り 、ム ス リ
13
バ リ ー ド barīd は イ ス ラ ー ム 地 域 に お け る 距 離 の 単 位 。 1 バ リ ー ド は お よ そ 12 マ イ ル 。
14
B 写 本 で は こ こ で 、「 私 は 言 う が 、 そ れ ら の 城 塞 は す で に 崩 れ て お り 、〔 そ こ で は 〕 楽 し み の た め の
敷物が広げられている」という文章が追加されている。
こ こ は 底 本 ( C 写 本 )、 B 写 本 共 に 「 山 al-ṭūr 」 と な っ て い る が 、 お そ ら く 「 イ チ ジ ク al- tīn 」 の 誤
りである。
15
259
ム と キ リ ス ト 教 徒〔 両 方 の 〕 参 詣 の 目 的 地 と な っ て い る 。か つ て ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ル ハ ッ タ ー
ブ は そ こ に 入 り 、そ こ で 2 回 の ラ ク ア を 行 っ た が 、後 に 預 言 者 ム ハ ン マ ド ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平
安 を 与 え 給 え ― の「 こ の 谷 は ワ ー デ ィ ー・ ジ ャ ハ ン ナ ム の ひ と つ で あ る 」と い う 言 葉 の ゆ え に
後 悔 し た 。 そ れ か ら ウ マ ル は 、「 ウ マ ル が ワ ー デ ィ ー ・ ジ ャ ハ ン ナ ム に て 礼 拝 す る こ と に は 何
の 益 も な か っ た 」 と 言 っ た 。 カ ァ ブ ・ ア ル ア フ バ ー ル 曰 く 、「 お 前 た ち は マ リ ア 教 会 や 、 そ の
山 に あ る 洗 礼 者 た ち の 教 会 に 行 っ て は な ら な い 。そ れ ら 2 つ は 偶 像 崇 拝〔 の 場 所 〕で あ る 。そ
れらに行った者の行いは堕落する」
マ リ ア の 墓 の 近 く に は ビ ザ ン ツ 人 が 建 て た ド ー ム が あ り 、 [29. b] 彼 ら は そ れ を 「 フ ァ ラ オ
の 帽 子 Ṭ urtūr Firʽawn」 と 名 付 け て い る 。 そ の 近 く の 山 裾 に は も う ひ と つ の ド ー ム が あ り 、 そ
こ は「 フ ァ ラ オ の 妻 の ク ー フ ィ ー ヤ K ūfīya Z awjat Firʽawn」と 呼 ば れ て い る 。最 初 の も の は ザ
カ リ ヤ の 墓 で 、2 つ 目 の 者 は ヨ ハ ネ の 墓 で あ る と 言 わ れ て い る 。彼 ら 両 名 に 平 安 あ れ 。こ の 言
は 、「 ザ カ リ ヤ と ヨ ハ ネ は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の こ の 山 裾 に あ る 預 言 者 た ち の 墓 地 に 埋 葬
さ れ た 」と い う あ る ウ ラ マ ー の 言 に よ っ て 裏 付 け ら れ て い る 。ま た 彼 ら 2 人 の 墓 は 、ナ ー ブ ル
ス の 地 に あ る サ ブ サ タ 村 Qar yat Sabs aṭa に あ る と も 、ダ マ ス カ ス の 金 曜 モ ス ク に あ る と も 言 わ
れている。
こ の 山 の 西 側 に は 、サ ー ヒ ラ と 呼 ば れ る 場 所 が あ る 。イ ブ ン・イ ム ラ ー ン の ハ デ ィ ー ス に は 、
人 々 が 集 め ら れ る 地 は タ ー ヒ ラ al-Ṭ āhira と 名 付 け ら れ て お り 、そ れ は こ の 町 の 外 に あ る 、と
あ る 。北 側 に は ム ス リ ム た ち が 埋 葬 さ れ て い る 墓 地 が あ り 、そ こ に は 正 し き 人 々 の 一 団 が い る 。
そ の 墓 地 は 山 の 高 い と こ ろ に あ る 。こ の 山 の 低 い と こ ろ に は 、様 々 な 奇 跡 の 起 こ る 洞 窟 が あ る 。
そ こ は 山 の 地 下 内 部 に あ る ザ ー ウ ィ ヤ で 、「 ア ド ハ ミ ー ヤ al-A dhamīya」 と 名 付 け ら れ た 巨 大
な 岩 の 中 に あ る 。〔 そ の 洞 窟 は 〕「 麻 の 洞 窟 Maghār at al- Kattān」 と 名 付 け ら れ て い る 。 こ の 洞
窟 の 側 に は サ ー ヒ ラ の 墓 地 が あ る 。そ の 下 を 掘 れ ば 死 者 た ち が い て 、彼 ら は ガ ズ ワ を 行 う で あ
ろ う 。 そ こ は 「 死 者 た ち の 下 の 生 者 た ち Aḥyāʼ T aḥta Amwāt 」 と 呼 ば れ て い る 。 そ の ザ ー ウ ィ
ヤ に は 正 し い 人 々 の 一 団 の 墓 が あ り 、そ こ に は 親 し み と 尊 厳 が あ る 。ま た サ ー ヒ ラ の 南 向 か い
の 、町 の 北 壁 の 下 に は 、 長 く 伸 び た 大 き な 洞 窟 が あ り 、 そ こ も ま た 「 麻 の 洞 窟 」と 名 付 け ら れ
て い る 。そ こ は か の 岩 の 下 に 繋 が っ て い る と 言 わ れ て い る 。そ の 中 に あ る 人 々 の 集 団 が 入 っ た
が 、彼 ら は そ こ に つ い て 様 々 な 恐 ろ し い こ と を 伝 え て い る 。バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス の 外 に あ
る シ オ ン 教 会 に は 、ダ ビ デ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 墓 が あ る 。そ こ は 人 々 に よ く 知 ら れ た 、参 詣 の
目 的 地 と な る 場 所 で あ る 。そ こ に は そ の 側 に 、ソ ロ モ ン ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 墓 が あ る と も 言 わ
れ て い る 。ま た ソ ロ モ ン の 墓 は 、岩〔 の ド ー ム 〕の 北 門 の 内 側 に あ る 茶 色 い タ イ ル の 下 に あ る
とも言われている。
市 外 に あ る ム ス リ ム た ち の 墓 地 に つ い て 言 え ば 、ま ず モ ス ク 区 の 東 壁 近 く 、ワ ー デ ィ ー ・ ジ
ャ ハ ン ナ ム の 上 に あ る 、ラ フ マ 門 の 墓 地 が あ る 。そ こ は 人 々 に よ く 知 ら れ た と こ ろ で 、町 に 最
も 近 い 墓 地 で あ る 。サ ー ヒ ラ の 墓 地 に つ い て は 前 述 の 通 り で あ る 。殉 教 者 た ち の 墓 地 は 、サ ー
260
ヒ ラ の 墓 地 の 東 側 の 近 く に あ る 。 [30. a] マ ー マ ラ ー 墓 地 は 市 外 の 西 側 に あ り 、 そ こ が こ の 町
最 大 の 墓 地 で あ る 。そ こ に は 数 々 の 著 名 人 、ウ ラ マ ー 、義 人 た ち 、殉 教 者 た ち が い る 。彼 ら の
中のある者についての話は第 7 章にて述べられよう。そこはもとは神の安息所であったとも、
神 の 門 で あ っ た と も 、 信 仰 の オ リ ー ブ の 木 Zaytūnat al -Mill a で あ っ た と も 言 わ れ て い る 。 ハ
サ ン 曰 く 、「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 信 仰 の オ リ ー ブ の 木 に 埋 葬 さ れ た 者 は 、 現 世 の 天 に 埋
葬 さ れ た の と 同 様 で あ る 」 こ の 墓 地 の 中 央 に は 、 カ ン ダ リ ー ヤ al-Qandar īya と 名 付 け ら れ た
ザ ー ウ ィ ヤ が あ る 。 そ こ に は 立 派 な 建 物 が あ る が 、 そ れ は も と は 「 ア フ マ ル 修 道 院 al-D ayr
al-Aḥmar 」と し て 知 ら れ た と こ ろ で あ っ た 。ま た 前 述 の 墓 地 に は し っ か り し た 造 り の ド ー ム が
あ り 、688 年 に〔 そ こ に 〕埋 葬 さ れ た ア ミ ー ル・ア ラ ー・ア ッ デ ィ ー ン・カ ブ キ ー al-Amīr ʽAl āʼ
al-Dīn al-K abkī に ち な ん で 、 そ こ は カ ブ キ ー ヤ al-K abkīya と 名 付 け ら れ て い る 。
バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 外 に は 数 々 の 場 所 や 、参 詣 の 目 的 地 と な る マ シ ュ ハ ド が あ り 、そ
れ ら を 〔 す べ て 〕 述 べ る と 長 く な っ て し ま う 。 カ ァ ブ ・ ア ル ア フ バ ー ル は 、「 バ イ ト ・ ア ル マ
ク デ ィ ス に は 、 預 言 者 た ち の 墓 地 の う ち 1000 が あ る 」 と 伝 え て い る 。 ま た 『 熱 情 を か き 立 て
る も の Muthīr al- Gharām』 の 著 者 ( シ ハ ー ブ ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ マ ク デ ィ ス ィ ー ) も そ の よ う な
こ と を 言 っ て い る 。ま こ と に〔 そ こ に は 〕そ の 跡 が 見 ら れ る 多 く の 墓 や 場 所 が あ り 、そ の 数 は
誰 に も わ か ら な い 。以 前 は 調 べ ら れ て い た が 、長 年 フ ァ ラ ン ジ ュ〔 に よ る 占 領 〕と い う 苦 難 が
あ っ た た め に 消 え て し ま っ た の で あ る 。こ こ で 述 べ る こ と は こ れ で 十 分 で あ ろ う 。神 が 我 々 に
良きものを積んで下さるように。まことに神はすばらしき支配者である。
第 5 章 :ヘ ブ ロ ン の 町 と そ の モ ス ク 、神 の 友〔 ア ブ ラ ハ ム 〕の 物 語 と 、彼 の マ シ ュ ハ ド に 参
詣することの美徳
そ の 町 に つ い て は 、 名 を ヘ ブ ロ ン Ḥibr ūn と い い 、 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 南 に あ る 。 そ
の 眺 め は こ の 上 な く 美 し く 光 に 満 ち て い る 。そ の 町 は モ ス ク の 周 囲 に 四 方 に 丸 く 展 開 し て お り 、
そ の 建 物 は 、は る か 昔 の ソ ロ モ ン の 城 壁 の 他 は 新 し い も の で あ る 。そ の 周 囲 に 初 め て 建 物 を 建
て た の は 、救 世 主 イ エ ス ― 彼 に 平 安 あ れ ― を 捕 え た イ ス ラ エ ル 族 の 、ユ ー ス フ・ラ ー イ ー Yūs uf
al-Rāʽī と い う 名 の 男 で あ っ た 。 そ の 後 少 し ず つ 建 物 が で き て い き 、 町 と な っ た の で あ る 。
モ ス ク は 町 の 中 央 に あ り 、そ の モ ス ク の 形 は 、壁 の 内 部 に 組 ま れ た 建 物 の 、南 側 か ら 北 側 に
か け て の 半 分 ほ ど を 含 ん で 、3 つ の 窯 の よ う な も の で 、そ の 中 央 の 部 分 が そ の 他 の 2 つ よ り も
高 く な っ て い る 。そ の 天 井 は 、し っ か り し た 造 り の 4 本 の 柱 の 上 に 建 っ て い る 。最 も 高 い 窯〔 状
の 部 分 〕の 下 に は ミ フ ラ ー ブ が あ り 、そ の 側 に は ミ ン バ ル が あ る 。そ う し た も の に ム ア ッ ズ ィ
ン た ち の 休 息 所 が 、 [30. b] こ の 上 な く 美 し い 大 理 石 の 柱 の 上 に 乗 っ て 向 か い 合 っ て い る 。 そ
の大理石は、モスクの壁を四方から丸く取り巻いている。
261
か の 神 聖 な る 墓 は 、壁 の 内 部 、前 述 の 建 物 の 下 の 、神 の 友 ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ― が エ
フ ロ ン 王 か ら 購 入 し た 洞 窟 の 中 に あ る 。そ う し た こ と は 、サ ラ が 死 ん だ と き に 、ア ブ ラ ハ ム が
一 族 の 死 者 を 埋 葬 す る た め の 場 所 を エ フ ロ ン か ら 買 お う と し た と き の も の で あ る 。エ フ ロ ン は
ア ブ ラ ハ ム に「 私 の 土 地 か ら お 好 き な と こ ろ を お 取 り 下 さ い 」と 言 っ た が 、ア ブ ラ ハ ム は「 私
は 代 価 を お 支 払 い し た い の で す 」と 言 っ た 。ア ブ ラ ハ ム が 彼 か ら そ の 洞 窟 を 求 め た の は 、ア ブ
ラ ハ ム が 牛 を 屠 ろ う と し た と き に 、そ の 牛 が 彼 の も と か ら ヘ ブ ロ ン の 洞 窟 に ま で 来 て 入 り 込 ん
で し ま っ た た め で あ っ た 。 そ の と き ア ブ ラ ハ ム は 、「 汝 の 父 ア ダ ム の 骨 に 挨 拶 せ よ 」 と 呼 び か
け ら れ た 。彼 の 身 に そ う し た こ と が 起 こ っ た 後 、彼 は そ の 牛 を 屠 り 、そ れ を 客 人 た ち に 供 し た 。
こ の こ と は 、神 が そ の 書 物 の 中 で 示 さ れ て お ら れ る こ と で あ る 。ア ブ ラ ハ ム が 代 価 を 支 払 わ ず
に そ こ を 得 る こ と を 拒 む と 、 エ フ ロ ン は 彼 に 言 っ た 。「 私 は あ な た に そ こ を 4 00 デ ィ ル ハ ム で
お 売 り し ま し ょ う 。た だ し 1 デ ィ ル ハ ム が そ れ ぞ れ 5 デ ィ ル ハ ム の 重 さ で あ り 、そ れ ぞ れ が 天
使 に よ っ て 鋳 造 さ れ た も の で あ る こ と 」エ フ ロ ン は そ う し た こ と を 彼 に 厳 し く 求 め た 。す る と
ガ ブ リ エ ル が そ れ を 持 っ て き た の で 、ア ブ ラ ハ ム は そ れ を エ フ ロ ン の も と に 持 っ て 行 っ た 。エ
フ ロ ン が 彼 に 、「 あ な た は ど こ で こ の デ ィ ル ハ ム を 手 に 入 れ た の で す か ? 」 と 言 っ た の で 、 彼
は「 我 が 神 、我 が 創 造 主 、私 に 糧 を 与 え て 下 さ る 方 の み も と か ら で す 」そ こ で エ フ ロ ン は 彼 か
らそれを受け取った。
そ の 洞 窟 に 最 初 に 埋 葬 さ れ た の は サ ラ ― 彼 女 に 平 安 あ れ ― で あ る 。そ の 後 ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に
平 安 あ れ ― も 亡 く な り 、彼 女 の 側 に 埋 葬 さ れ た 。そ の 後 イ サ ク の 妻 リ ベ カ が 亡 く な り 、そ の 洞
窟 に 埋 葬 さ れ た 。そ の 後 イ サ ク ― 彼 に 平 安 あ れ ― が 亡 く な り 、彼 の 妻 の 側 に 埋 葬 さ れ た 。そ の
後 ヤ コ ブ ― 彼 に 平 安 あ れ ― が 亡 く な り 、そ の 洞 窟 の 門 の 側 に 埋 葬 さ れ た 。そ の 後 彼 の 妻 の レ ア
が 亡 く な り 、彼 の 側 に 埋 葬 さ れ た 。ヤ コ ブ の 子 供 た ち と エ サ ウ 、彼 の 弟 た ち が 集 ま っ た 。彼 ら
は 言 っ た 。「 我 々 は こ の 洞 窟 の 門 を 開 け た ま ま に し て お こ う 。 そ う す れ ば 我 々 の 中 で 死 ん だ 者
を 皆 、こ こ に 埋 葬 す る こ と が で き る 」 し か し 彼 ら は〔 そ の こ と に つ い て 〕 言 い 争 っ た 。そ し て
エサウの弟たちのひとり―ヤコブの子供たちのひとりであるとも言われている―が手を振り
上 げ て エ サ ウ を 打 っ た 。彼 の 頭 は そ の 洞 窟 の 中 に 転 が り 落 ち た 。彼 ら は エ サ ウ の 体 を 運 び 、頭
を 除 い て 埋 葬 し た 。彼 の 頭 は そ の 洞 窟 の 中 に 残 っ た 。彼 ら は そ の 洞 窟 に 壁 を 立 て 、そ の 上 の そ
れ ぞ れ の と こ ろ に 墓 地 の し る し を つ け た 。 我 ら が 主 人 イ サ ク の 墓 は [31. a] ミ ン バ ル の 側 に あ
る柱の近くにあり、それと向かい合って彼の妻リベカ〔の墓〕が、東の柱の近くにある。
そ の モ ス ク に は 3 つ の 門 が あ り 、そ れ ら は モ ス ク の 中 庭 に 通 じ て い る 。そ の う ち の 中 央 に あ
る 1 つ は 、神 の 友〔 ア ブ ラ ハ ム 〕の 神 聖 な る 御 前 の も と に 通 じ て い る 。そ れ ら に は ア ー チ が つ
い て お り 、 大 理 石 が そ の 四 方 の 壁 を 丸 く 取 り 巻 い て い る 。〔 1 つ 目 の 門 は 〕 西 向 き に 開 い て お
り 、神 聖 な る 小 部 屋 に 向 い て い る 。そ の 門 の 東 向 か い に は 彼 の 妻 サ ラ の 墓 が あ る 。2 つ 目 の 門
は 東 側 の ソ ロ モ ン の 城 壁 の も と に 、サ ラ の 墓 の 後 ろ に あ る 。 3 つ 目 の 門 は 西 側 に 、ア ブ ラ ハ ム
―彼に平安あれ―の墓の後ろにある。
262
ソ ロ モ ン の 城 壁 の 内 部 に あ る モ ス ク 内 部 の 広 間 の 終 わ り に は 、北 側 に 我 ら が 主 人 ヤ コ ブ ― 彼
に 平 安 あ れ ― の 墓 廟 が あ り 、そ の 東 向 か い に は 彼 の 妻 レ ア の 墓 が あ る 。か つ て ム ハ ン マ ド ・ブ
ン ・ ア ル ハ テ ィ ー ブ Muḥ ammad b. al- Khaṭīb は 、 ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ― の モ ス ク に て
次 の よ う な こ と を 語 っ た 。 ム ハ ン マ ド ・ ブ ン ・ イ ス ハ ー ク ・ ナ フ ウ ィ ー M uḥ āmmad b. Isḥ āq
al-Naḥwī 曰 く 、
「 私 は 、イ サ ク ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 妻 リ ベ カ の 墓 の 向 か い に あ る 石 碑 を 、カ ー
デ ィ ー ・ イ ブ ン ・ ウ マ ル al -Qāḍī Ibn ʽUmar と ウ ス マ ー ン ・ ブ ン ・ シ ャ ー ザ ー ン ・ ナ フ ウ ィ ー
ʽUthmān b. Shādh ān al -Naḥwī、 ア ラ ブ た ち の 前 で 写 し 取 っ た 。 と い う の も そ れ は 、 古 代 ギ リ
シ ア 語 だ っ た の で あ る 。 そ こ に は 次 の よ う に あ っ た 。『 我 が 神 、 勝 利 者 に し て 強 大 な 力 を 持 ち
し 玉 座 の 神 の 御 名 に お い て 。こ の 向 か い に あ る し る し は 、イ サ ク の 妻 リ ベ カ の 墓 な り 。そ の 隣
に あ る し る し は 、イ サ ク の 墓 な り 。そ の 隣 に あ る 偉 大 な る し る し は 、神 の 友 ア ブ ラ ハ ム ― 神 よ
彼に祝福と平安を与え給え―の墓なり。その東向かいにあるしるしは、彼の妻サラの墓なり。
神 の 友 ア ブ ラ ハ ム の 墓 に 離 れ て 並 ん で い る し る し は 、ヤ コ ブ の 墓 な り 。そ の 東 隣 り に あ る し る
し は 、ヤ コ ブ の 妻 レ ア の 墓 な り 。彼 ら の 上 に 神 に 祝 福 と 平 安 の あ ら ん こ と を 。エ サ ウ が こ れ を
自 身 の 手 跡 で 書 い た 』」
ハ ー フ ィ ズ ・ イ ブ ン ・ ア サ ー キ ル 曰 く 、「 私 は ハ デ ィ ー ス の 徒 の 書 物 の 中 で 読 み 、 そ こ か ら
引 用 し た 」曰 く 、ム ハ ン マ ド・ブ ン・ア ビ ー・バ ク ル・ブ ン・ム ハ ン マ ド・ア ル ハ テ ィ ー ブ は 、
ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ― の モ ス ク の ハ テ ィ ー ブ で あ り 、〔 ア ッ バ ー ス 朝 カ リ フ 〕 ラ ー デ ィ
ー ・ ビ ッ ラ ー al -Rāḍī bi-All āh 時 代 の 3 20 何 年 と そ れ 以 降 に ラ ム ラ の カ ー デ ィ ー で あ っ た の だ
が 、彼 は こ の ハ デ ィ ー ス に 関 す る 話 を 持 っ て い た 。彼 は あ る 集 団 か ら 聞 き 、ま た 彼 よ り あ る 知
識 人 の 集 団 が 聞 き 伝 え た 。彼 曰 く 、ム ハ ン マ ド・ ブ ン・ ア フ マ ド ・ブ ン ・ア リ ー・ ブ ン・ ジ ャ
ァ フ ァ ル ・ ア ン バ ー リ ー M uḥammad b. Aḥmad b. ʽAlī b. Jaʽfar al -Anb ārī は 言 っ た 。 [31. b] ア
ブ ー ・ バ ク ル ・ ア ス カ ー フ ィ ー Ab ū Bakr al-Askāfī は 言 っ た 。「 以 下 の こ と は 私 が 経 験 し た 事
実 で あ る 。ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 墓 は 、今 も 同 じ と こ ろ に あ る 。私 は そ れ を 見 て 確 か
め る と 、 強 大 に し て 栄 光 あ る 神 の 報 酬 を 願 っ て 、 そ こ の 門 番 と そ の 場 所 に 対 し 4000 デ ィ ー ナ
ー ル ほ ど も の 多 く の ワ ク フ 財 を 差 し 出 し た 。私 は そ う し た こ と の 正 し さ を 知 り た く て 、門 番 た
ちにいろいろと好意的に接し、親切に振舞って、彼らの歓心を買った。私はそうすることで、
私 の 胸 の 中 で 正 当 化 さ れ 編 み 上 げ ら れ て い た こ と に 辿 り つ こ う と し た の で あ る 。そ し て あ る 日 、
私 は 彼 ら 全 員 を 私 の 周 り に 集 め て 言 っ た 。『 あ な た が た が 、 私 が 預 言 者 た ち ― 彼 ら に 神 の 祝 福
と 平 安 の あ ら ん こ と を ― の も と に 下 り て い け る よ う に 、私 を こ の 洞 窟 の 門 に 連 れ て 行 っ て く れ
る と よ い の で す が 』 彼 ら は 言 っ た 。『 我 々 は あ な た の 望 み に お 応 え し ま す 。 我 々 に は あ な た に
そ う し な け れ ば な ら な い 理 由 が あ り ま す か ら 。で す が 今 こ の 時 は 、我 々 に は 多 く の 往 来 が あ り
ますから不可能です。冬になるまで我慢なさい』
「 2 月 Kānūn al- Thānī に な る と 、 私 は 彼 ら の も と に 出 か け て 言 っ た 。 彼 ら は 、『 雪 が 降 る ま
で 、我 々 の も と に い ら っ し ゃ い 』と 言 っ た 。そ こ で 私 は 、雪 が 降 っ て 人 の 往 来 が 途 絶 え る ま で 、
263
彼 ら の も と に 滞 在 し た 。そ し て 彼 ら は 、神 の 友 ア ブ ラ ハ ム と イ サ ク の 墓 の 間 ― 彼 ら 2 人 に 平 安
あ れ ― の 間 に あ る 場 所 に や っ て き て 、そ こ に あ っ た 床 石 を 剥 が し た 。彼 ら の う ち の ス ゥ ル ー ク
Ṣuʽlūk と い う 人 が 〔 そ の 中 に 〕 下 り て 行 っ た 。 彼 は 正 し い 人 で 、 善 良 さ と 敬 虔 さ を 備 え て い
た 。 私 は 彼 と と も に 下 り て 行 き 、 彼 の 後 ろ を 歩 い て 行 っ た 。 我 々 は 72 段 の 階 段 を 下 り て 行 っ
た 。す る と 私 の 右 側 に 、黒 い 石 で で き た 大 き な 壇 が あ っ た 。そ の 壇 の 上 に は 、ま ば ら な 頬 髯 と
長 い 顎 鬚 を 生 や し た 老 人 が 、仰 向 け に 横 た わ っ て い た 。彼 は 緑 色 の 服 を 着 て い た 。す る と ス ゥ
ル ー ク が 私 に 、『 こ の 方 が イ サ ク ― 彼 に 平 安 あ れ ― で す 』 と 言 っ た 。 そ れ か ら 我 々 が 少 し 進 む
と 、そ こ に は 先 ほ ど の も の よ り も 大 き な 壇 が あ り 、そ の 上 に は 白 髪 の 老 人 が 仰 向 け に 横 た わ っ
て い た 。 私 は 彼 の 両 肩 の 間 に あ る 、 白 い 頭 や 髭 、両 の 眉 、 両 の 瞼 を 見 た 。 そ の 白 髪 の 下 の 彼 の
体 は 、 緑 の 服 で 覆 わ れ て い た 1 6 。 そ こ に は 40 人 の 殉 教 者 た ち が い る と い わ れ て お り 、 そ こ は
人々に良く知られた参詣の対象となる場所である。
泉 に つ い て は 、 宦 官 の 泉 が [32. a] モ ス ク の 北 門 の 側 に あ る 。 こ こ に は 最 も お い し い 水 が あ
る 。タ ブ ル ハ ー ナ 門 Bāb al -Tablkh āna の 側 に も モ ス ク の 泉 が あ る 。サ ラ の 泉 ʽAyn S āra は 町 の
外 の 、 果 樹 園 の 中 に あ る 。 ま た サ ム イ ー ヤ の 泉 ʽAyn al -Samʽīya も あ る 。 浴 場 の 泉 ʽAyn
al-Ḥammām は 、 そ れ が 湧 き 出 る と こ ろ は リ ン ゴ の 谷 W ādī al -Tuffāḥ で あ る 。 ジ ャ ラ ー の 泉
ʽAyn Jarā は ス フ ラ ー 墓 地 al-M aqbar a al-Sufl ā の 側 に あ る 。
町 の 外 に は ム ス リ ム た ち の 墓 地 が あ る 。ス フ ラ ー 墓 地 は 町 の 西 に あ り 、ト ゥ ル バ ・ア ッ ラ ー
ス 墓 地 M aqb arat Turb at al-Raʼs は 東 側 に あ る 。バ キ ー ゥ 墓 地 M aqbar at al -Baqīʽ は シ ャ イ フ ・
ア リ ー ・ ア ル バ カ ー 地 区 に あ り 、そ こ に は そ こ に 埋 葬 さ れ て い る 人 の ザ ー ウ ィ ヤ が あ る 。彼 は
その善と神への奉仕、そこにやってきた人々や参詣者たちに食事を供したことで有名である。
そこには様々な奇跡が起こっている。
果 樹 園 に つ い て は 、町 の 外 を あ ら ゆ る 方 向 か ら 取 り 巻 い て い る 。そ こ に は 様 々 な 果 物 が あ る
が 、そ の 大 部 分 は 、バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 果 樹 園 と 同 様 に ブ ド ウ で あ る 。果 樹 園 の 多 く は
し っ か り と し た 造 り の 城 塞 に な っ て い て 、そ こ の 人 々 は 、夏 場 に は 何 か 月 も そ こ で 過 ご す 。そ
こ は 、預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― が タ ミ ー ム・ダ ー リ ー に 定 め た イ ク タ ー の 一
部 で あ る 。そ れ は タ ミ ー ム と 彼 の 兄 弟 た ち が 、 9 年 に 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え
― の も と に や っ て 来 て 挨 拶 し 、シ リ ア の 土 地 の 一 部 を 彼 ら の イ ク タ ー と し て く れ る よ う に と 彼
に 求 め た と き の こ と で あ る 。そ こ で 預 言 者 は 彼 ら に ヘ ブ ロ ン と そ の 周 辺 を イ ク タ ー と し て 定 め 、
彼 ら の た め に そ う し た も の を 永 久 的 な イ ク タ ー に す る と い う こ と を 、信 徒 の 長 ア リ ー ・ ブ ン ・
ア ビ ー ・ タ ー リ ブ ― 至 高 な る 神 が 彼 と 彼 の 姿 を 嘉 し 給 わ ん こ と を ― の 肩 書 で 書 い た 。「 慈 愛 深
く 慈 悲 あ ま ね き 神 の 御 名 に お い て 。こ れ は 神 の 使 徒 た る ム ハ ン マ ド が 、タ ミ ー ム ・ダ ー リ ー と
彼 の 兄 弟 た ち に 与 え た も の で あ る 。す な わ ち ヘ ブ ロ ン 、マ ル ト ゥ ー ム al-M arṭūm、 バ イ ト ・ ア
16
B 写本ではこの後に、アブー・バクル・アスカーフィーがアブラハム一族の墓を訪れた際の逸話の
続 き と 、ヘ ブ ロ ン に あ る マ ド ラ サ や ザ ー ウ ィ ヤ の 名 称 が 挙 げ ら れ た 部 分 が 続 い て い る 。こ の 部 分 の 訳 注
については本訳注の末尾に付す。
264
イ ヌ ー ン Bayt ʽAynūn、 バ イ ト ・ イ ブ ラ ー ヒ ー ム Bayt Ibrāhīm と 、 そ れ ら の 中 に あ る も の は 、
彼 ら に 与 え ら れ る 。私 は そ れ ら の こ と を 選 び 出 し て 、彼 ら と 彼 ら の 子 孫 に 譲 り 渡 す 。彼 ら に 仇
な す 者 を 神 が 仇 な し 給 い 、彼 ら に 仇 な す 者 を 神 が 呪 い 給 わ ん こ と を 」以 上 の こ と を 、ア テ ィ ー
ク・ブン・アビー・クハーフ ァ、ウマル・ブン・アルハッターブ、ウスマーン・ブン・アッフ
ァ ー ン が 証 言 し 、ア リ ー ・ ブ ン ・ ア ビ ー ・ タ ー リ ブ ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― が 書 き 記 し て 証 言
し た 。 [32. b] こ の イ ク タ ー は 今 日 に 至 る ま で タ ミ ー ム の 子 孫 の 手 に あ り 、 彼 ら は そ こ 〔 か ら
の 収 益 〕 で 食 べ て い る 。 彼 ら は 、我 ら が 主 人 神 の 友〔 ア ブ ラ ハ ム 〕 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与
え給え―の町に住んでいる。
神 の 友〔 ア ブ ラ ハ ム 〕の 話 と 彼 の マ シ ュ ハ ド に 参 詣 す る こ と 功 徳 に つ い て は 、神 が そ の 恩 寵
に よ っ て 彼 の 栄 光 を 高 ら か な も の と な し 給 い 、彼 の ゆ え に ア ダ ム の 子 ら は 他 の 被 造 物 に 勝 る 栄
光 を 授 け ら れ た の だ と 知 れ 。 神 ― そ の 栄 光 の 高 ら か な ら ん こ と を ― は 、〈 す で に 我 ら は ア ダ ム
の 子 ら を 貴 び ・・・〉 (Q17:70) と 言 わ れ た の で あ る 。 神 は そ の 後 彼 ら を い く つ か の 集 団 に 分 け 、
彼 ら の あ る 者 を 別 の 者 の 数 段 階 上 に 上 げ 給 う た 。そ し て 神 は 預 言 者 方 を あ ら ゆ る 被 造 物 に 勝 る
も の と な し 、さ ら に 一 部 の 預 言 者 方 に は 、使 徒 性 に よ っ て 神 聖 さ を 増 し 給 う た 。彼 ら は 使 徒 性
に よ っ て 預 言 者 よ り 優 れ た 存 在 と な っ た の で あ る 。さ ら に 神 は 恩 寵 に よ っ て 、使 徒 方 の 中 で も
と り わ け ご 意 志 に ふ さ わ し い 方 を 特 別 の 存 在 と な さ っ た 。神 は 彼 ら を シ ャ リ ー ア と 啓 典 の 民 と
な し 、こ の 美 点 に よ っ て 彼 ら を 特 別 な 者 の 中 で も 特 別 な 者 と な し 、そ の 神 的 な ご 配 慮 に よ っ て
彼 ら を 高 め 給 う た 。第 1 段 階 で は あ ま ね き 高 貴 さ 、第 2 段 階 で は 預 言 者 性 と 勇 敢 さ 、第 3 段 階
で は 使 徒 性 、第 4 段 階 で は 彼 ら を ご 意 志 に ふ さ わ し い 者 と す る こ と に よ っ て 。使 徒 の う ち こ の
段 階 に 達 し た 方 々 は 、彼 ら が あ ら か じ め 備 え て い た し る し を も っ て 、ま た そ う し た こ と の ゆ え
に そ の 地 位 を 受 け 入 れ た こ と に よ っ て 、彼 ら の 主 よ り 完 全 性 を 得 た の で あ る 。シ ャ リ ー ア の 徒
た る 、 ご 意 志 に 最 も ふ さ わ し い 方 5 名 と は 、 ノ ア 、 ア ブ ラ ハ ム 、モ ー セ 、 イ エ ス 、 そ し て ム ハ
ン マ ド で あ る 。彼 と 彼 ら の 上 に 最 上 の 祝 福 と 平 安 の あ ら ん こ と を 。栄 光 あ る 至 高 な る 神 は 彼 ら
の お ひ と り お ひ と り に 、至 高 な る 神 が 高 貴 な も の と な さ っ た 特 殊 性 を 与 え 給 う た 。彼 ら の 中 に
は 神 が そ の 栄 光 や お 言 葉 、そ の 他 輝 か し い 奇 跡 や は っ き り と し た 特 殊 性 に よ っ て 高 貴 な 者 と な
さ っ た 者 が い る が 、神 は 彼 の 愛 す る 者 ム ハ ン マ ド ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― に は 、そ
の す べ て の 価 値 と 啓 示 を 受 け た 民 の 様 々 な 秘 跡 を ま と め て 与 え 給 う た 。そ れ ゆ え に 彼 は 唯 一 に
してまったき者、他にない高き者となったのである。
そ れ か ら 神 は ム ハ ン マ ド の 次 に 、栄 光 あ る 主 人 に し て 預 言 者 た ち の 父 た る 、神 の 友 ア ブ ラ ハ
ム に 誉 れ を 与 え 給 い 、 彼 を 完 全 な る 主 人 、 優 れ た 父 と な し 給 う た 。 栄 光 あ る 至 高 な る 神 は [33.
a] そ の 明 ら か な る 啓 典 の 数 々 の 理 性 に 満 ち た 章 句 に お い て 、 彼 の 優 れ て い る こ と と 神 聖 な る
こ と を 、神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― を 讃 え る こ と に よ っ て 注 意 せ し め 給 う た 。
そ こ に 出 て く る あ ら ゆ る 栄 光 や 偉 大 さ は 、す べ て の 預 言 者 た ち に 知 ら れ て い る も の で は あ る が 、
そ れ ら は と り わ け 、我 ら が 主 人 た る 神 の 友 ア ブ ラ ハ ム に 与 え ら れ た 美 点 な の で あ る 。我 ら が 預
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言 者〔 ム ハ ン マ ド 〕と 彼 、す べ て の 預 言 者 と 使 徒 の 方 々 に 、最 上 の 祝 福 と 最 良 の 平 安 の あ ら ん
こ と を 。彼 は 彼 ら の う ち で 最 も 栄 光 あ る 段 階 に お り 、彼 ら の う ち で 最 も 偉 大 な 地 位 に い る の で
ある。
彼 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の 美 点 に つ い て は 、私 は 次 の よ う に 言 う:栄 光 あ る 至
高 な る 神 は そ の 偉 大 な る 啓 典 の 中 で 、彼 を 遣 わ し た こ と 、彼 ら を 選 択 し 選 び 出 し た こ と 、彼 ら
の 位 階 の 偉 大 さ や 彼 ら の 場 所 の 神 聖 さ な ど 描 写 を 越 え た も の に つ い て 語 っ て お ら れ る 。そ し て
お そ ら く 神 は 彼 ら の 優 越 性 や 神 聖 性 を ま と め 給 い 、〈 神 は ア ブ ラ ハ ム を 友 と な し 給 う た 〉
(Q4:125) と い う 至 高 な る 方 の お 言 葉 に よ っ て 、 主 人 た る 神 の 友 ― 彼 に 平 安 あ れ ― に 誉 れ を 与
え 給 う た の と 同 じ よ う に 、彼 ら の ひ と り ひ と り の 特 別 な 性 質 を 語 り 給 う た の で あ ろ う 。こ の 句
の 他 に も 、 神 が 彼 に つ い て 下 し 給 う た 特 別 な 章 句 は 、 30 は 下 ら な い 。 こ の 裁 定 に 鑑 み て 、〔 預
言 者 や 使 徒 た ち の 〕す べ て を 偉 大 視 し 讃 え る こ と の 中 で も 、と り わ け 彼 ら の 父 で あ り イ マ ー ム
で あ る 方 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― を 讃 え な け れ ば な ら な い の で あ る 。彼 を 偉 大 視 す
べ き だ と い う こ と は は っ き り し て い る 。と い う の も 彼 を 偉 大 視 す る こ と は 、彼 に よ っ て 信 仰 を
増 す こ と な の で あ り 、彼 に よ っ て 信 仰 を 増 す こ と は 、至 高 な る 神 に よ っ て 信 仰 を 増 す た め の 鍵
だからである。結果として彼を偉大視することを〔重要なことと〕信じる者には、 3 つのこと
が 起 こ る 。そ の 中 に は 宗 教 的 義 務 farḍ、嘆 き 悲 し む こ と nadb、望 ま し い こ と mustaḥ abb が あ
る 。宗 教 的 義 務 と は 、彼 に よ っ て 信 仰 を 増 す こ と で あ り 、彼 の 美 点 と 神 聖 さ 、彼 を 偉 大 視 し 讃
え る こ と 、彼 の 神 聖 な る 位 を 様 々 な 場 所 の 中 心 に 置 い て そ れ ら を 讃 え る こ と を〔 重 要 な こ と と 〕
信じることである。
〔 ア ブ ラ ハ ム の 死 を 悼 ん で 〕 嘆 き 悲 し む こ と に つ い て 言 え ば 、〔 彼 の 墓 の 前 に 〕 い る 場 合 で
も い な い 場 合 で も 、良 い 行 い で あ る 。彼 の 名 前 を 聞 い た り 彼 の 物 語 を 語 り 伝 え た り す る と き に
は 謙 虚 に な り 、彼 の も と に 参 詣 す る と き に は 身 を 低 く し 、彼 の 墓 で は 声 を 低 め 、シ ャ リ ー ア に
許 さ れ て い な い こ と を 遠 ざ け ね ば な ら な い 。と い う の も 彼 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ―
は 、そ の 者 の あ ら ゆ る 行 い に つ い て そ の 者 を 見 て い る か ら で あ る 。す な わ ち 、彼 の 命 は 彼 の 墓
の 中 に あ る の で あ る 。ま さ し く 預 言 者 た ち は 彼 ら の 墓 の 中 で 生 き て い る 。預 言 者 た ち が 生 き て
い る と い う こ と は 、愚 か 者 以 外 は 皆 知 っ て い る こ と で あ り 、そ う し た 者 の た め に 最 後 の 邪 悪 が
来ることを恐れる。至高なる神が彼から〔我々を〕守り給わんことを。
[33. b]〔 ア ブ ラ ハ ム に 関 し て 〕望 ま し い こ と に つ い て 言 え ば 、神 聖 な る 彼 の 御 前 に 出 る 者 は 、
次 の よ う に す る こ と が 望 ま し い 。毎 日 1 度 は 彼 の も と に 参 詣 す る こ と を 志 し 、彼 の よ う に な り 、
こ の 高 貴 な る 預 言 者 に し て 慈 悲 深 き 父 の 美 点 の う ち 、至 高 な る 神 が 彼 に 定 め 給 う た も の 、神 が
彼 に よ っ て 特 別 な も の と し 彼 以 外 の 者 に よ っ て あ ま ね き も の と な さ っ た も の 、す な わ ち 預 言 者
性と使徒性、信仰、導き、キブラ、召命、イマーム性、代理人としての権威、父祖性、友愛、
若 々 し さ 、善 性 、優 し さ 、穏 や か さ 、知 識 、正 統 性 、忠 誠 心 、澄 明 さ 、内 気 さ 、寛 大 さ 、選 り
抜 か れ 選 び 出 さ れ た こ と 、 清 ら か な 心 、 高 貴 な 性 質 、 宗 教 の 順 守 、〔 神 の 教 え に 〕 満 足 し 身 を
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委 ね て い る こ と 、完 璧 な 言 葉 と 性 質 、か の 人 が 大 勢 出 入 り す る 家 を 取 り 計 ら い 、そ れ を 7 つ の
天 に 上 げ た こ と 、寛 大 で 恵 み 深 き 子 孫 、バ イ ト ・ ハ ラ ー ム の 建 設 、 啓 典 、楽 園 の 雄 羊 、 祖 先 た
ち を 敬 い 、後 代 の 人 々 に は 信 頼 に 足 る 言 葉 を 残 し た こ と 、食 布 や 地 下 庫 や ラ ン プ〔 に 関 す る こ
と 〕、 輝 く 銀 髪 に な っ た こ と な ど 、 神 に 与 え ら れ 、 彼 以 外 の 者 と シ ャ リ ー ア を 高 め 導 く も の と
さ れ 、彼 の 後 の 人 々 の 作 法 と さ れ た 、彼 の 数 々 の 美 点 を 信 じ て 、彼 に よ っ て 執 り 成 し を 行 う の
で あ る 。彼 は 初 め て そ れ ら を は っ き り と 示 し 、行 っ た 人 で あ っ た 。至 高 な る 神 が そ れ ら の 美 点
を も っ て 、彼 の 導 き と い う 祝 福 に 益 を 与 え 給 わ ん こ と を 。彼 に は こ う し た こ と に 関 し 、 2 つ の
美 点 が あ る 。そ れ ら を 身 に つ け 実 行 す る と い う 美 徳 と 、人 々 を そ の 真 っ 直 ぐ な 行 い へ と 導 い た
という報いである。
か く の ご と く 知 れ 。栄 光 あ る 至 高 な る 神 は 彼 の 友〔 ア ブ ラ ハ ム 〕を 、彼 の 栄 光 あ る 位 階 を 示
す 驚 嘆 す べ き 奇 跡 の 数 々 と 、彼 の 偉 大 な る 美 点 、彼 の 高 き 段 階 に よ っ て 嘉 し 給 う た 。そ う し た
も の の 中 に は 、次 の よ う な も の が あ る 。彼 は 彼 の 父 親 の 腰 に い た ニ ム ロ ド を そ の 城 か ら 引 き ず
り 出 し 、彼 の 母 親 の 腹 に い た 偶 像 た ち を 引 き ず り 倒 し た 。彼 が 生 ま れ る 前 に は 星 が 昇 っ た 。彼
の お 産 は 軽 く 、彼 を 取 り 上 げ る こ と は 容 易 か っ た 。彼 が 自 分 の 手 指 を 吸 え ば 、乳 と 蜜 が 出 て き
た 。獣 も 動 物 も 、彼 の 前 で は お と な し く な っ た 。彼 は 生 ま れ る 前 に そ の 使 徒 性 を も っ て 牛 に 犂
を 付 け さ せ 、 [34. a] そ の 預 言 者 性 を も っ て 獣 を 落 ち 着 か せ た 。 馬 al -ḥajl が 1 7 、 彼 が 遣 わ さ れ
た こ と を 知 ら せ た 。乳 母 が そ の 行 い の 正 し さ を 証 言 し た 。熱 意 あ る 純 粋 な 敬 虔 さ に よ っ て 、名
士 た ち を 砂 の 中 か ら 引 き 出 し た 。バ イ ト・ ハ ラ ー ム を ハ ッ ジ し た 際 に 、神 を 求 め る 彼 の 代 理 人
の た め に 、彼 の 名 を 呼 ぶ 者 の 声 を 聞 い た 。と い う の も 彼 は 、神 の 知 識 と 神 の 意 思 の 中 の 、聖 霊
の 知 識 に 通 じ て い た か ら で あ る 。彼 は 毎 年 、東 の 果 て か ら で も 西 の 端 か ら で も 、祈 願 が 聞 き 届
け ら れ る こ と を 求 め て か の 古 の 家 に ハ ッ ジ に や っ て き た 。彼 は 、彼 と 彼 の 一 族 、彼 に 挨 拶 を し
た あ ら ゆ る 礼 拝 者 の 上 に 祝 福 を 行 う こ と を 課 し た 。ゆ え に 僕 に よ る 礼 拝 は 、彼 の 神 聖 な る 名 を
唱 え 、彼 の 神 聖 な る 姿 を 口 に し た 後 で な く て は 完 全 な も の と は な ら な い の で あ る 。こ れ が 、彼
に 特 別 に 与 え ら れ た 性 質 の う ち 最 も 偉 大 な も の で あ り 、彼 に 与 え ら れ た 祝 福 の う ち 最 も 栄 光 あ
る も の で あ る 。神 よ 彼 と 彼 の 一 族 、彼 の 同 胞 、彼 の 子 孫 に 祝 福 を 与 え 給 え 。我 々 は そ の 祝 福 を
もって、この 2 つの世界(現世と来世)において彼のもとに参詣するという栄誉を与えられ、
来世においては、至高なる神がお望みになるならば、彼の仲間の中に集められるのである。
ア ナ ス ・ ブ ン ・ マ ー リ ク ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― 曰 く 、「 あ る 人 が 預 言 者 〔 ム ハ ン マ ド 〕 ―
神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― に『 最 も 優 れ た 人 よ 』と 言 っ た と き 、彼 は『 そ れ は 我 が 父 ア
ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ― の こ と で あ る 』 と 言 っ た 」 ム ス リ ム の 言 で は 、「 あ る 人 が 預 言 者 ―
神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― に『 最 も 優 れ た 創 造 物 よ 』と 言 っ た と き 、彼 は『 そ れ は 我 が
父アブラハム―彼に平安あれ―のことである』と言った」
彼のもとに参詣することの功徳については様々な伝承が伝えられているが、その中には彼
17馬 の 足 首 部 分 が 白 く な る こ と
ḥujjila よ り 。 こ こ で は 馬 の 隠 喩 [IA ⅱ , 61, 脚 注 2]。
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( 預 言 者 ム ハ ン マ ド )― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― が イ ス ラ ー の 夜 、ガ ブ リ エ ル に「 こ
こ で 2 回 の ラ ク ア を せ よ 。な ん と な れ ば こ こ は 、ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 墓 だ か ら で あ
る 」と 言 わ れ た と き に 、ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 墓 の 側 で 2 回 の ラ ク ア を 行 っ た 、と い
う も の が あ る 。 ま た 彼 ― 彼 に 祝 福 と 平 安 の あ ら ん こ と を ― 曰 く 、「 私 の も と に 参 詣 で き な い 者
は、神の友アブラハム―彼に平安あれ―のもとに参詣するがよい」
カ ァ ブ 曰 く 、「 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 参 詣 し 、 ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 墓 に 礼 拝
の た め に 向 か い 、そ こ で 5 回 の 礼 拝 を 行 っ た 後 に 、強 大 に し て 栄 光 あ る 神 に な ん ら か の も の を
求めた者は、神が彼にそれをお与えになり、彼の罪をすべてお赦しになる」
カ ァ ブ 曰 く 、「 自 身 と 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の 墓 へ の 参 詣 と の 間 に 差
し 障 り が あ る 者 は 、 ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 墓 に 行 き 、 彼 も と で 礼 拝 し 、 [34. b] 彼 の
も と で 多 く の 祈 願 を 行 う が よ い 。 そ う す れ ば〔 そ の 祈 願 は 〕叶 え ら れ る 。 彼 の ゆ え に 、皆 が 神
― そ の 栄 光 よ 高 ら か な れ ― の も と に 辿 り 着 く こ と が で き 、〔 祈 願 が 〕 直 ち に 聞 き 届 け ら れ る よ
うになるだろう」
『 栄 光 の 喜 び Al- Uns al-Jalīl』 の 著 者 ( ウ ラ イ ミ ー ) は 次 の よ う に 言 っ て い る 。「 私 は 言 う 。
こ れ は 疑 い よ う の な い こ と で あ る 。私 は 我 が 身 に 起 こ っ た 現 世 の 事 ご と に つ い て 、そ れ を 試 し
て み た の で あ る 。私 は〔 そ の と き 〕滅 び に 直 面 し て お り 、旅 を せ ね ば な ら な い 必 要 に 迫 ら れ て 、
バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス か ら 我 ら が 主 人 た る 神 の 友 ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 町 に 向 か っ て い た 。私
は 彼 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の モ ス ク に 入 る と 、ア ブ ラ ハ ム の 墓 と し て 知 ら れ て い
る 墓 廟 に 向 か っ て い き 、彼 の 幕 に 取 り 縋 っ て 至 高 な る 神 に 祈 願 し た 。す る と 神 は す か さ ず 私 の
悲 し み を 取 り 除 い て 、私 を 慰 め て 下 さ り 、私 を 悩 ま せ て い た あ ら ゆ る も の を 私 か ら 取 り 去 っ て
下 さ っ た の で あ る 。 ま こ と に 彼 に は 功 徳 が あ る 。 神 に 栄 光 あ れ 」 18
我 ら が 主 人 、神 の 友 ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ― の も と に 参 詣 し よ う と 思 う 者 は 、次 の よ う
に せ ね ば な ら な い 。参 詣 者 は 罪 か ら 遠 ざ か り 心 を 清 ら か に し 、ま た 外 面 も 洗 い ウ ド ゥ ー を 行 っ
て 清 め て か ら 、彼 の も と へ 参 詣 す る こ と を 心 に 思 い 描 く 。強 い 意 志 と 望 み を も っ て そ こ に 向 か
い 、そ の 途 上 で は 預 言 者〔 ム ハ ン マ ド 〕― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― や そ の 他 の 預 言 者
た ち 、使 徒 た ち へ の 祝 福 を 数 多 く 願 う 。そ の モ ス ク に や っ て き た ら そ の 左 側 に 立 つ 。モ ス ク に
入 る 際 に は 右 足 か ら 進 み 、 望 み の 祈 願 を 唱 え る 。 モ ス ク に 入 る 際 に は 、「 慈 愛 深 く 慈 悲 あ ま ね
き 神 の 御 名 に お い て 。お お 神 よ 、ム ハ ン マ ド の 上 に 祝 福 を 与 え 給 え 。我 が 前 に あ な た の 恩 寵 の
諸門を開き給え」と言うこと。それからモスクへの挨拶として、2 回のラクアを行う。それか
ら 神 の 友 ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 墓 に 向 か い 、彼 の 部 屋 の 門 の 前 で 頭 を 下 げ て 立 ち 止 ま る 。そ し て
神に赦しを請い、預言者ムハンマド―神よ彼に祝福と平安を与え給え―の上に祝福を求めて、
次 の よ う に 言 う 。「 あ な た の 上 に 平 安 の あ ら ん こ と を 、 預 言 者 よ 。 神 の 恩 寵 と 祝 福 の あ ら ん こ
と を 。私 は 、神 お ひ と り の 他 に 神 な し 、神 に 並 ぶ 者 な し 、あ な た は 神 の 僕 に し て 神 の 使 徒 な り
18
UJ ⅰ , 140.
268
と 証 言 し ま す 。ま こ と に あ な た は 神 の 僕 に し て 神 の 使 徒 、神 の 友 で あ ら れ ま す 。神 が 我 々 か ら
あ な た に 良 き も の を 与 え 給 わ ん こ と を 」 そ し て 次 の よ う に 言 う 。「 敬 虔 に し て 慈 愛 深 き 神 、 お
側 に 仕 え る 天 使 た ち 、預 言 者 た ち と 使 徒 た ち 、天 地 の 民 の う ち 誠 実 な る 人 々 、殉 教 者 た ち 、義
し き 人 々 の 祝 福 が あ な た の 上 に あ ら ん こ と を 、預 言 者 た ち の 父 、神 の 友 よ 。ま た あ な た の 子 孫
た る [35. a] 完 全 な る 主 人 、 開 く 者 に し て 閉 じ る 者 、 先 代 の 人 々 と 後 代 の 人 々 の 主 人 、 万 世 の
主 た る 神 に 愛 さ れ し 者 ム ハ ン マ ド の 上 に も〔 祝 福 の あ ら ん こ と を 〕ま た あ な た 方 お ふ た り の ご
家 族 と お 仲 間 方 の 上 に も 。人 々 が あ な た 方 の 御 名 を 唱 え よ う と も 、あ る い は あ な た 方 の 御 名 を
唱 え る こ と を 失 念 し よ う と も 」 こ れ も 同 じ く 70 回 行 え ば 完 璧 で あ る 。 こ れ に は 実 に 偉 大 な 効
果がある。最低でも 3 回は行って、現世と来世の良きことのうち望むことを祈願する。
そ れ か ら 女 主 人 た る サ ラ の も と に 向 か い 、 次 の よ う に 言 う 。「 あ な た 方 に 平 安 あ れ 、 預 言 者
の 家 の ご 家 族 、使 徒 性 の 源 よ 。神 の 恩 寵 と 祝 福 の あ ら ん こ と を 。神 は あ な た 方 を 汚 れ か ら 遠 ざ
け 、あ な た 方 を 清 ら か に 清 め る こ と を 望 ん で お ら れ ま す 」そ れ か ら 主 人 た る イ サ ク ― 彼 に 平 安
あ れ ― の 墓 に 向 か い 、 次 の よ う に 言 う 。「 あ な た の 上 に 平 安 の あ ら ん こ と を 、 預 言 者 よ 。 神 の
恩 寵 と 祝 福 の あ ら ん こ と を 。神 の 預 言 者 よ 、私 は あ な た に よ っ て 、私 が 必 要 と し て い る こ と に
つ い て あ な た の 主 の 御 前 に 向 か っ て お り ま す 」そ し て 彼 の も と で 祈 願 す る 。次 に 彼 の 左 側 に 向
か い 、栄 光 あ る 女 主 人 、我 が 主 人 イ サ ク の 妻 リ ベ カ に 祈 願 し 、あ る い は 挨 拶 し て 、次 の よ う に
言 う 。「 あ な た 方 に 平 安 あ れ 、 預 言 者 性 と 使 徒 性 の 家 の ご 家 族 よ 。 神 の 恩 寵 と 祝 福 の あ ら ん こ
と を 」次 に 礼 儀 作 法 に 則 り 心 静 か に 、栄 光 あ る 主 人 、神 の 預 言 者 ヤ コ ブ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の も
と に 向 い 、そ こ で も 彼 の 父 イ サ ク の も と で 行 っ た よ う に 行 う 。彼 の 妻 、女 主 人 レ ア の も と で も
そ の よ う に す る 。次 に 神 の 預 言 者 ヨ セ フ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の も と に 向 か い 、彼 の 父 ヤ コ ブ ― 彼
ら 2 人 に 平 安 あ れ ― の も と で 行 っ た の と 同 じ よ う に す る 。次 に ヤ コ ブ〔 の 墓 〕の 向 か い に あ る 、
神 の 友 ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 格 子 窓 の も と に 向 か い 、そ の 近 く で 立 ち 止 ま る 。そ れ か
ら 挨 拶 し 、至 高 な る 神 に 望 む こ と を 祈 願 す る 。ま こ と に そ こ で の 祈 願 は 聞 き 届 け ら れ る 。そ れ
か ら す べ て の 預 言 者 た ち 、と り わ け 先 代 の 人 々 と 後 代 の 人 々 の 主 人〔 た る ム ハ ン マ ド 〕に か け
て 、神 の 御 前 に 向 か う 。そ し て そ の 表 面 を 撫 で て か ら 、幸 福 に 、ま た 神 が 望 み 給 う な ら ば 受 け
入れられて進む。アーメン。
ヘ ブ ロ ン の 町 の 近 く 1 フ ァ ル サ フ 1 9 ほ ど の と こ ろ に あ る 、ロ ト の 墓 が あ る 場 所 だ と 言 わ れ て
い る 湖 を 見 下 ろ す 小 さ な 山 に は 、 ヤ キ ー ン ・ モ ス ク M asjid al-Yaqīn が あ る 。 そ こ は 、 ロ ト の
民 が 滅 ん だ と き に ア ブ ラ ハ ム が い た と こ ろ で あ る 。 彼 は 天 の 鶏 の 鳴 き 声 を 聞 い て 、「 私 は 、 こ
れ こ そ 確 か に そ う で あ る と 証 言 す る As hhad anna hādhā l a-h uwa al-h aqq al-yaqīn」 と 言 っ た
た め に 、そ の 名 が つ け ら れ た 。そ こ に は 彼 の 寝 台 が あ る の だ が 、そ れ は 石 の 中 に 1 ズ ィ ラ ー ゥ
ほ ど 沈 ん で い る 。モ ス ク の 外 に は 洞 窟 が あ り 、そ こ に は フ ァ ー テ ィ マ・ビ ン ト・フ サ イ ン・ブ
ン ・ ア リ ー ・ ブ ン ・ ア ビ ー ・ タ ー リ ブ ― 神 よ 彼 ら を 嘉 し た ま え ― の 墓 が あ る 。神 の 友 の モ ス ク
19
フ ァ ル サ フ farsakh は 、 イ ス ラ ー ム 地 域 に お け る 距 離 の 単 位 。 1 フ ァ ル サ ン グ は 約 6km。
269
か ら 1 フ ァ ル サ フ ほ ど の と こ ろ に あ る カ フ ァ ル ・ バ リ ー ク 村 Qaryat K afar Barīk に は 、 ロ ト
― 彼 に 平 安 あ れ ― の 墓 が あ る 。私 は 言 う:今 で は そ こ は バ ヌ ー・ヌ ア イ ム 村 Qaryat Banī Nuʽaym
と 名 付 け ら れ て い る 。 次 の よ う に 伝 え ら れ て い る 。 西 の モ ス ク の 下 に あ る 西 の 洞 窟 に は 60 人
の 預 言 者 た ち が お り 、 彼 ら の う ち の 20 人 は 使 徒 で あ る 。 ヘ ブ ロ ン の 町 の 近 く に あ る サ イ ー ル
村 Qaryat Saʽīr に は エ サ ウ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 墓 が 、そ こ の モ ス ク の 内 部 に あ る 。そ こ に は ア
ブ ラ ハ ム の 寝 台 が あ る の だ が 、そ れ は 石 の 中 に 1 ズ ィ ラ ー ゥ ほ ど 沈 ん で い る 。神 の 友 ― 彼 に 平
安 あ れ ― の 町 か ら ほ ど 近 い と こ ろ の 、 ク ド ス へ の 道 沿 い に あ る ジ ャ ル ジ ュ ー ラ ー 村 Qaryat
Jalj ūlā に は 、 ヨ ナ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 墓 が あ り 、 そ の 上 は モ ス ク に な っ て い る 。 そ こ か ら 近
く の バ イ ト ・ア ン マ ル 村 Qaryat Bay t Ammar に は マ タ イ の 墓 が あ る 。彼 は 正 し い 人 で 、預 言
者の家の民のひとりである。
第 6 章:バイト・アルマクディスの周囲にある高貴 な偉業のある村々
そ の 中 に は 神 の 友 ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 町( ヘ ブ ロ ン )が あ る 。そ れ に つ い て の 言 葉 は す で に
出てきている。
ク ド ス か ら お よ そ 4 分 の 1 バ リ ー ド の と こ ろ に は 、 ベ ツ レ ヘ ム Bayt Laḥm の 村 が あ る 。 そ
こ は イ ス ラ ー の ハ デ ィ ー ス で あ っ た 通 り 、イ エ ス ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 生 ま れ た 場 所 で あ り 、そ
こ の 住 民 の 大 部 分 は キ リ ス ト 教 徒 で あ る 。そ こ に は し っ か り と し た 造 り の 教 会 が あ っ て 、そ こ
には 3 つのミフラーブがある。1 つ目は神聖なるキブラの方角(南)に向かって立っており、
2 つ目は東向きに、3 つ目は神聖なる岩の方角に向かっている。その教会の屋根は木であり、
丈 夫 な 黄 色 の 大 理 石 の 柱 5 本 の 上 に 建 っ て い る 。柱 以 外 は 石 で 作 ら れ て い る 。そ の 床 は 大 理 石
で 覆 わ れ て い る 。そ の 屋 根 の 表 面 に は 、こ の 上 な く 完 全 な 形 に 鉛 が 塗 ら れ て い る 。こ の 教 会 は
ヘ レ ナ に よ っ て 建 て ら れ た も の の ひ と つ で あ る 。こ の 教 会 の 中 に イ エ ス ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 生
まれた場所が、3 つのミフラーブの間にこの上なく完全な形の洞窟の中にある。
ベ ツ レ ヘ ム と バ イ ト ・ ジ ャ ー ラ ー Bayt Jāl ā の 間 の 道 の 側 に は 、 ヨ セ フ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の
母 ラ ケ ル の 墓 が 、か の 岩 に 向 か っ て 立 つ ド ー ム の 中 に あ る 。そ れ は 有 名 で 、参 詣 さ れ る 場 所 で
あ る 。バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 東 に お よ そ 4 分 の 1 バ リ ー ド の と こ ろ に あ る ラ ー マ 村 Qar yat
Rām a に は 、 預 言 者 サ ム エ ル ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 墓 が あ る 。 ア ー ズ ィ リ ー ヤ 村 Qaryat
al-ʽĀdhirīya に は 主 人 た る エ ズ ラ の 墓 が あ る の だ が 、 [36. a] お そ ら く こ れ は ア ロ ン の 子 エ ル
ア ザ ル ― 彼 ら 2 人 に 平 安 あ れ ― の こ と で あ ろ う 。そ こ は 参 詣 の 目 的 地 と な る マ シ ュ ハ ド の 外 に
ある。エズラとは、救世主が生き返らせた人であるとも言われている。
最 初 の も の に つ い て 言 え ば 、そ れ は ナ ー ブ ル ス 地 区 に あ る ア ウ ル タ ー 村 Qar yat ʽAwrtā で あ
270
る。
イ ェ リ コ の 近 く の 、 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 東 1 日 行 程 の と こ ろ に あ る ガ ウ ル al-Ghaw r
に、神の代弁者モーセ―彼に平安あれ―の墓が、石組みのドームのついたモスクの中にある。
そ こ に は 優 美 な ミ ナ レ ッ ト が あ る 。こ の 場 所 で は 様 々 な 奇 跡 が 現 れ て い る 。そ う し た 奇 跡 の 中
に は 次 の よ う な も の が あ る 。ド ー ム の 内 部 に あ る 墓 廟 の 側 で は 、様 々 な 色 を し た 幽 霊 が 見 ら れ
て い る 。彼 ら の 中 に は 騎 馬 姿 の 者 も お れ ば 徒 歩 の 者 も お り 、肩 に 槍 を 担 い で い る 者 も い る 。白
い 服 を 着 て い る 者 も い れ ば 緑 の 服 を 着 て い る 者 も い る 。彼 ら は 互 い に 挨 拶 し 合 う 。そ の 他 に も 、
人 々 は そ う し た こ と に つ い て 様 々 な こ と を 言 っ て い る 。彼 ら は 天 使 た ち で あ る と も 、義 人 た ち
で あ る と も 言 わ れ て い る 。す べ て の 人 々 が 彼 ら を 目 撃 し て い る が 、彼 ら の 誰 を も 恐 れ て は い な
い 。そ の モ ス ク に 月 経 中 の 、あ る い は 不 貞 を 犯 し た 女 性 が 入 っ た と き や 、誰 か が モ ス ク の 周 囲
で な に か 不 敬 な 振 る 舞 い に 及 ん だ と き に は 、こ れ ら の 幽 霊 た ち は そ う し た 人 々 に 対 し て 激 し く
怒 り 、人 は 自 分 の 隣 に い る 者 も 見 る こ と が で き な く な り 、天 幕 は 引 き 抜 か れ る 。そ こ に は こ の
他 に も 、様 々 な 輝 か し い 奇 跡 が 目 撃 さ れ て い る 。ま こ と に 彼( モ ー セ )は こ の 場 所 に 埋 葬 さ れ
ているのである。神よ彼に祝福と平安を与え給え。
ま た そ う し た 村 々 の 中 に は 、 ア ブ ー ・ サ ウ ル 村 Qar yat Abī Th awr が あ る 。 そ れ は ク ド ス の
近 く の 、ヘ ブ ロ ン の 門 の 側 に あ る 村 で あ る 。彼 ( ア ブ ー ・ サ ウ ル と い う 人 物 )は 、シ ャ イ フ に
し て ザ ー ヒ ド 、神 に 仕 え る 僕 に し て ム ジ ャ ー ヒ ド 戦 士 の シ ハ ー ブ ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ ア フ マ ド ・
ク ド ス ィ ー Shihāb al-Dīn Aḥmad al-Qudsī と い い 、 ア ブ ー ・ サ ウ ル と し て 知 ら れ て い た 。 と い
う の も 彼 は 雄 牛 thawr に 乗 っ て バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 征 服 に 加 わ り 、 そ の 背 で ガ ズ ワ を 行
っ た か ら で あ り 、そ の た め に そ の よ う に 名 づ け ら れ た の で あ る 。マ リ ク ・ ア ズ ィ ー ズ ・ ウ ス マ
ー ン・ブ ン・ サ ラ ー フ・ア ッ デ ィ ー ン ・ユ ー ス フ が 彼 に こ の 村 を 捧 げ 、そ こ に 埋 葬 さ れ た 。彼
の 墓 は 明 ら か に な っ て お り 、数 々 の 奇 跡 の ゆ え に 参 詣 者 が 訪 れ る 場 所 と な っ て い る 。あ る と き
彼( ア ブ ー ・ サ ウ ル ) が ク ド ス か ら 何 か が 必 要 に な っ た と き が あ り 、 彼 は 〔 そ れ を 〕紙 に 書 い
て 雄 牛 の 首 に 括 り つ け た 。す る と 雄 牛 は そ れ を〔 嫌 が っ て 〕興 奮 し た 。雄 牛 は ク ド ス ま で 行 き 、
シ ャ イ フ の 用 を 聞 い て い る 人 の 酒 屋 ま で 行 っ た 。雄 牛 は 彼 の 側 で 止 ま っ た 。そ こ で そ の 人 は 紙
を 取 り 外 し 、シ ャ イ フ が 必 要 と し て い る も の を 用 意 す る と 、そ れ ら を 雄 牛 に 背 負 わ せ た 。そ し
て そ の 雄 牛 は シ ャ イ フ の も と ま で 、 必 要 な 品 物 を 持 っ て 帰 っ て い く の で あ っ た 。 [36. b] こ の
ことも奇跡のひとつである。
神 聖 な る ク ド ス の 西 側 の 外 に は 、お よ そ 3 バ リ ー ド の と こ ろ に ワ ー デ ィ ー・ア ッ シ ャ ヌ ー ル
Wādī al-Sh anūr が あ り 、〔 そ こ に は 〕 我 が 主 人 、 バ ド ル ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ ブ ン ・ ム ハ ン マ ド ・
フ サ イ ニ ー Badr al-Dīn b. Muḥ ammad al-Ḥus aynī の ザ ー ウ ィ ヤ が あ る 。 彼 は 知 識 を 持 っ た 有
力 な 要 人 で あ っ た 。彼 の 前 に は 当 時 の 優 れ た 人 々 が 辞 を 低 く し て い た 。彼 の 前 に は 貴 顕 平 民 が
急 ぎ 来 て 、彼 の も と に 参 詣 し て い た 。動 物 や 獣 た ち ま で が 彼 の も と に 参 詣 し て は 、前 述 の ザ ー
ウ ィ ヤ に あ る 彼 の 墓 の 側 で そ の 顔 の ほ こ り を 払 っ て い た 。ま た 神 聖 な る ク ド ス の 外 に あ る シ ャ
271
ラ フ ァ ー ト 村 Qar yat Sharafāt の 墓 地 に 埋 葬 さ れ て い る 、 彼 の 子 孫 た ち の も と に も 繰 り 返 し 参
詣 し て い た 。そ の 墓 は ひ と つ に 集 め ら れ て お り 、そ こ に は 彼 ら の 数 多 く が い て 、彼 ら の 良 き 事
績についてはとても数え切れるものではない。神が彼らをして、我々を益し給わんことを。
ま た そ の 中 に は ラ ム ラ の 町 が あ る 。 そ こ と バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス と の 間 は 18 ミ ー ル で 、
砂 漠 や 低 地 が あ る 。そ こ に は 木 々 や ナ ツ メ ヤ シ や 果 物 の 豊 富 な 平 野 に あ り 、美 し い 眺 め で あ る 。
そ こ は 海 に も 近 く 、 ヤ ー フ ァ ー Yāfā の 方 角 に お よ そ 1 バ リ ー ド で あ る 。 そ こ に は ア ブ ヤ ド ・
モ ス ク al-Jāmiʽ al -Abyaḍ が あ る 。 そ れ は 広 々 と し て い て 、 そ の 中 庭 の 美 し い こ と で 知 ら れ て
い る 。そ の 地 下 に は 驚 く べ き 洞 窟 が あ り 、そ こ に は 預 言 者 サ ー リ フ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 墓 が あ
る 。ま た そ こ に は 参 詣 の 目 的 地 と な る マ シ ュ ハ ド が あ り 、そ こ に は 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と
平 安 を 与 え 給 え ― の〔 父 方 の 〕従 弟 で あ る ア ッ バ ー ス の 息 子 の フ ァ ド ル al-Faḍl b. al-ʽAbbās の
墓 が あ る 。ま た そ こ( ラ ム ラ ) に は ウ バ ー ダ ・ ブ ン ・ ア ッ サ ー ミ ト の 墓 が あ る と も 言 わ れ て い
る が 、そ れ は フ ァ ラ ン ジ ュ が こ の 地 域 を 占 領 し た た め に 消 え て し ま っ た 。ま た そ こ に は 、イ マ
ームにしてハディース伝承者であり、慈悲深き教友イマーム・アフマドとして知られるアブ
ー ・ サ イ ー ド の 墓 が あ る 。ま た そ こ に は 、ア ブ ヤ ド ・ モ ス ク の 外 に 囲 い が あ っ て 、そ の 囲 い は
モ ス ク の 東 壁 と 接 し て お り 、そ こ に は イ マ ー ム ・ハ ー フ ィ ズ ・ナ サ ー イ ー の 墓 が あ る と 言 わ れ
て い る 。 ヤ ー サ カ ル 地 区 Ḥār at al-Yās aqar に は 、 シ ャ イ フ ・ ア ブ ー ・ ム ハ ン マ ド ・ バ タ ー イ
ー al-Shaykh Ab ū M uḥammad al-Baṭāʽī の 墓 が あ り 、 そ こ に は 知 名 度 と 尊 厳 が あ る 。 彼 の も と
で の 祈 願 は 、す で に 試 み ら れ て い る よ う に 聞 き 届 け ら れ る 。イ ナ ー ヤ 地 区 に は 、シ ャ イ フ ・ ム
ハ ン マ ド ・ ア ダ ウ ィ ー al-Shaykh Muḥ ammad al-ʽAdawī の 墓 が あ り 、 そ こ に は 様 々 な 奇 跡 が あ
る 。果 物 市 場 に あ る マ シ ュ ハ ド に は 、シ ャ イ フ・ア フ マ ド・ア シ ュ ム ー ニ ー・ク ッ ビ ー al-Shaykh
Aḥmad al-A shmūnī al -Qubb ī の 墓 が あ る 。
ラ ム ラ に は 数 多 く の 聖 人 や ウ ラ マ ー 、義 人 た ち が お り 、彼 ら の こ と を〔 ひ と り ひ と り 〕語 っ
て い く と 長 く な っ て し ま う 。ラ ム ラ 市 外 西 側 の 、海 に 近 い と こ ろ に は 、ヤ コ ブ の 子 ル ベ ン Rūb īl
b. Yaʽqūb ― 彼 ら 2 人 に 平 安 あ れ ― の 墓 が あ る と 言 わ れ て い る 。 そ こ は 参 詣 の 目 的 地 と な る 場
所 で あ る 。 ま た そ こ に は 毎 年 の マ ウ シ ム の 時 期 に 、 [37. a] こ の 地 域 や そ の 他 の 土 地 の 人 々 が
集 ま っ て く る 。 ラ ム ラ 行 政 区 の ハ ル フ ァ ン ド 村 Qar yat Ḥar fand に は 、 ル ク マ ー ン ・ ハ キ ー ム
Luqmān al-Ḥ akīm ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― の 墓 が あ る 。
ま た そ こ に は リ ッ ド の 町 が 、ラ ム ラ の 外 の 東 側 の ほ ど 近 く に あ る 。そ こ に は 美 し い 眺 め と 目
に つ く 美 し さ が あ る 。そ こ に は 人 々 に よ く 知 ら れ た 金 曜 モ ス ク が あ る 。市 外 の 東 側 に は 、ア ブ
ド・ ア ッ ラ フ マ ー ン ・ ブ ン ・ア ウ フ ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― の 墓 と 言 わ れ て い る マ シ ュ ハ ド の
あ る 場 所 が あ る 。そ う し た こ と は こ れ ら の 地 域 で は 有 名 で あ る 。海 岸 、す な わ ち ヤ ー フ ァ ー の
向 か い の ア ル ス ー ク 海 岸 Sāḥ il Arsūq に は 、 我 が 主 人 ア リ ー ・ ブ ン ・ ア リ ー ル ʽAlī b . ʽAlīl の
墓 廟 が あ る 。 そ こ に は 明 ら か な 奇 跡 が あ る 。彼 の 血 筋 は 、 最 終 的 に は 信 徒 の 長 ウ マ ル ・ ブ ン ・
ア ル ハ ッ タ ー ブ ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― に 連 な っ て い る 。そ の 地 域 の 民 は 、彼 の 保 護 と 彼 の 秘
272
跡 の 加 護 の 中 で そ こ を 治 め て い る 。彼 の 徳 の ゆ え に 、フ ァ ラ ン ジ ュ も 彼 の 正 し さ を よ く 知 っ て
お り 、彼 ら が 彼 の 墓 に 近 づ く と き に は 被 り 物 を 脱 ぐ の で あ る 。そ こ に は 毎 年 夏 の マ ウ シ ム の 時
期には、遠近の国々から大勢の人々が集まってくる。
ま た そ こ に は ア ス カ ラ ー ン の 町 が あ る 。そ こ は 最 も 優 れ た 町 の ひ と つ で あ る 。マ リ ク ・サ ラ
ー フ ・ア ッ デ ィ ー ン ・ ユ ー ス フ が そ こ を 破 壊 し た の は 、そ う し た こ と に 関 し て ム ス リ ム た ち に
利便があることを知っていたためである。今日そこには、ファーティマ朝の者たちがフサイ
ン ・ ブ ン ・ ア リ ー の 首 が あ る と 主 張 し て い た マ シ ュ ハ ド が あ る 。ま た そ の 町 に は 、海 岸 沿 い に
参詣の目的地となる数々の場所がある。
ま た そ の 中 に は ガ ザ の 町 が あ る 。そ こ は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 近 隣 の 町 の 中 で 最 も 優 れ
た 町 の ひ と つ で あ る 。そ こ に は 多 く の 木 々 や ナ ツ メ ヤ シ が あ り 、そ の 周 囲 に も 多 く の 植 物 が 植
わ っ て い る 。そ こ に は 数 々 の 義 人 た ち が い る 。ま た そ こ に は ソ ロ モ ン ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 生 誕
地 が あ る 。ま た そ こ に は 、イ マ ー ム ・ シ ャ ー フ ィ イ ー の 生 誕 地 と し て 知 ら れ て い る 、参 詣 の 目
的 地 と な る 場 所 も あ る 。例 え そ こ に あ る 栄 光 が 、我 ら が 主 人 ソ ロ モ ン と イ マ ー ム ・シ ャ ー フ ィ
イ ー の 生 誕 地 で あ る と い う こ と の み で あ っ た と し て も 、そ れ で 十 分 で あ る 。ガ ザ 近 く の バ ル バ
ル 村 Qarya t Barbar に は 、「 赤 硫 黄 al -Kibrīt al-Aḥm ar」 と い う ラ カ ブ を 持 つ サ イ イ ド ・ ア フ
マ ド の 弟 子 の ひ と り で あ る 知 識 あ る シ ャ イ フ 、ア ブ ー ・ ア ル マ ハ ー ス ィ ン ・ ユ ー ス フ ・ バ ル バ
ラ ー ウ ィ ー Ab ū al -Maḥ āsin Yūs uf al-Barbarāwī の 墓 が あ る 。
バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 東 、ヨ ル ダ ン 川 の 近 く に あ る イ ェ リ コ の 町 は 、巨 人 た ち の 町 で あ
り 、〈 聖 な る 地 に 入 れ 〉 (Q5:21) と い う 至 高 な る 神 の お 言 葉 に よ っ て 示 さ れ 、 ヌ ン の 子 ヨ シ ュ
ア ― 彼 に 平 安 あ れ ― に よ っ て 征 服 さ れ た 町 で あ る 。そ こ で は 、彼 が そ こ を 征 服 す る ま で 、彼 の
た め に 太 陽 が 留 ま っ た 。 [37. b] そ こ で 起 こ っ た 奇 跡 の 中 に は 次 の よ う な も の も あ る 。 イ ス ラ
エ ル の 民 の 時 代 に は 、そ こ の 住 人 は 巨 人 た ち で あ っ た が 、イ ス ラ ー ム の 時 代 に は 、そ こ は と り
わけ警察の管理が行き届いている。
ま た そ の 中 に は ナ ー ブ ル ス の 町 も あ る 。そ こ は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 北 向 か い に あ っ て 、
バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス か ら の 距 離 は 、荷 を 持 っ た 旅 で お よ そ 2 日〔 行 程 〕で あ る 。そ こ か ら
は 多 く の ウ ラ マ ー や 重 要 な 人 物 が 出 て い る 。ま た そ こ に は 数 多 く の 泉 や 木 々 、果 物 が あ り 、そ
の 郊 外 に あ る 木 々 の 大 部 分 は オ リ ー ブ で あ る 。ナ ー ブ ル ス の 近 く に は 、我 ら が 主 人 ヨ セ フ ― 彼
に 平 安 あ れ ― の 墓 が あ る と 言 わ れ て い る 。ま た ナ ー ブ ル ス の 町 に は 、ヤ コ ブ ― 彼 に 平 安 あ れ ―
の 子 供 た ち の マ シ ュ ハ ド が あ る と 言 わ れ て い る 。ま た そ の 近 郊 に は 、預 言 者 や 教 友 に 縁 の あ る
数 多 く の マ シ ュ ハ ド が あ る 。そ の 中 に は 、サ ー ビ ヤ 村 Qaryat Sāb iya に 我 ら が 主 人 ベ ニ ヤ ミ ン
― 彼 に 平 安 あ れ ―〔 の マ シ ュ ハ ド 〕が 、ア ウ ル タ ー 村 に は エ ズ ラ〔 の マ シ ュ ハ ド 〕が あ り 、カ
フ ァ ル ・ ハ ー リ ス 村 Qar yat Kafar Ḥārith に は ズ ー ・ ア ル カ フ ル Dhū al- Kafl の 墓 と ヨ シ ュ ア
― 彼 ら 2 人 に 平 安 あ れ ― の 墓 が あ る 。彼 ら 2 人 の 場 所 は 、サ ブ タ ー ラ Sabṭ āra の 近 く に あ る 2
つ の ド ー ム に あ る と 言 わ れ て い る 。 ま た ヨ シ ュ ア の 墓 は マ ア ッ ラ al-M aʽarra に あ る と も 言 わ
273
れ て い る 。サ フ ァ ド 行 政 区 Aʽm āl Ṣafad の ハ ッ テ ィ ー ン 村 Qar yat Ḥaṭṭīn に は 、シ ュ ア イ ブ ―
彼 に 平 安 あ れ ― の 墓 が あ る 。バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ ス の 村 の 大 部 分 に は 、時 が 経 つ う ち に 消 え
てしまったものを除いて、預言者たちの墓に溢れている。
ナ ー ブ ル ス の 町 の 南 側 の 向 か い に は バ ー イ ラ ー ト 山 Jabal Bāʽilāt が あ り 、 そ こ は 人 々 に よ
く 知 ら れ た 場 所 で あ る 。そ こ に は 我 ら が 高 貴 な る 父 祖 、ガ ー ニ ム・マ ク デ ィ ス ィ ー の 墓 が あ る 。
彼 の 血 統 は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に あ る ガ ワ ー ニ マ 地 区 の 一 族 に 連 な っ て お り 、私 の 血 統 は
彼 に 繋 が っ て い る 。〔 こ の 私 〕 ム ス タ フ ァ ー ・ ア ス ア ド ・ ル カ イ ミ ー ・ デ ィ ム ヤ ー テ ィ ー は 、
学 識 深 き ム ハ ン マ ド・ア ン ブ ー ス ィ ー Muḥammad al-ʽAnb ūs ī の 孫 で あ り 、彼 は 10 世 紀 末 エ ジ
プ ト の ム フ テ ィ ー で あ っ た 、マ ワ ー リ ー ・ ア ブ ー ・ ア ル ハ サ ン ・ ヌ ー ル ・ ア ッ デ ィ ー ン ・ ア リ
ー・ブン・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ブン・アリー・ブン・ハリール・ブン・ムハンマ
ド・ブン・ムハンマド・ブン・イブラーヒーム・ブン・ムーサー・ブン・ガーニム・マクディ
スィー・ブン・アリー・ブン・アルハサン・ブン・イブラーヒーム・ブン・アブド・アルアズ
ィ ー ズ・ブ ン・サ イ ー ド・ブ ン・サ ア ド・ブ ン・ウ バ ー ダ・ハ ズ ラ ジ ー・ア ン サ ー リ ー al-M awāl ī
Abū al-Ḥasan Nūr al-D īn ʽAl ī b. Muḥ ammad b. Muḥ ammad b. ʽAlī b. Kh alīl b. Mu ḥammad b.
Muḥammad b. Muḥammad b. Ibrāhīm b. Mūsā b. Ghānim al-M aqdisī b. ʽAl ī b. al -Ḥasan b.
Ibrāhīm b. ʽAb d
al -ʽAzīz b. Saʽīd b . Ṣaʽd b. ʽUb āda al-Khazrajī al -Anṣ ārī ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま
え ― の 息 子 た る 、 学 識 深 き ア ブ ド ・ ア ッ ラ フ マ ー ン ʽAb d al-Raḥm ān の 孫 な の で あ る 。 彼 ( サ
ァ ド ・ ブ ン ・ ウ バ ー ダ ・ ハ ズ ラ ジ ー ) は 、こ の 書 の 最 後 に あ る 結 び に そ の 伝 記 が 上 げ ら れ て い
る 通 り 、 ダ マ ス カ ス 行 政 区 の ム ニ ー ハ 村 Qaryat al-M unīḥa に 埋 葬 さ れ て い る 。
第 7 章 : [38. a] 預 言 者 た ち 、 教 友 た ち 、 著 名 な 人 々 の う ち 、 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 入
った人、または知識人のうちでそこで死に埋葬された人
預 言 者 た ち に つ い て 言 え ば 、彼 ら の 最 初 の 者 は ア ダ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ― で あ る 。イ ブ ン ・ア
ッ バ ー ス 曰 く 、「 ア ダ ム が 大 地 に 堕 ち た と き 、 彼 の 頭 は 天 に あ っ た 」 彼 は ヒ ン ド に 堕 ち 、 バ イ
ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 岩 の も と で 跪 拝 し た と も 言 わ れ て い る 。彼 の 墓 は 、バ イ ト ・ ア ル マ ク デ
ィ ス と ア ブ ラ ハ ム の モ ス ク の 間 に あ る 洞 窟 に あ る 。彼 の 両 足 は 岩 の も と に あ り 、彼 の 頭 は ア ブ
ラ ハ ム ― 彼 ら 両 名 に 平 安 あ れ ― モ ス ク の も と に あ っ て 、 そ れ ら 2 つ の 間 は 20 マ イ ル で あ る 。
ノ ア ― 彼 に 平 安 あ れ ― : 箱 舟 は バ イ ト ・ ア ル ハ ラ ー ム に 1 週 間 お り 、そ の 後 バ イ ト ・ ア ル マ
クディスの周囲を 1 週間漂った後に、ジュディー山に乗り上げたと言われている。
慈 愛 深 き 方 の 友 ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ―:歴 史 家 た ち は 次 の よ う に 言 っ て い る:ア ブ ラ
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ハ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ― は エ ジ プ ト か ら や っ て き て 、ラ ム ラ と イ ー リ ヤ ー の 間 に 滞 在 し た 。ま た
は パ レ ス チ ナ で あ る と も 言 わ れ て い る 。ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ― は 、シ ャ ー ム の 地 に イ サ
ク が 遣 わ さ れ 、ヤ コ ブ が カ ナ ン の 地 に 、イ シ ュ マ エ ル が ジ ュ ル ハ ム に 、ロ ト が ソ ド ム に 遣 わ さ
れ る ま で は 死 な な か っ た 。彼 ら は ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 契 約 に よ っ て 預 言 者 と な っ た
の で あ る 。カ ア ブ や そ の 他 の 人 々 が 、犠 牲 の 物 語 は シ ャ ー ム の バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 岩 の
上で行われた、としている。
ヤ コ ブ ― 彼 に 平 安 あ れ ― : 彼 は 神 の イ ス ラ エ ル で あ る 。 イ ブ ン ・ ア ッ バ ー ス 曰 く 、「 預 言 者
た ち は 、 10 名 を 除 き 全 員 が イ ス ラ エ ル 族 の 出 身 で あ る 。 す な わ ち ノ ア 、 フ ー ド 、 サ ー リ フ 、
ロ ト 、シ ュ ア イ ブ 、ア ブ ラ ハ ム 、イ シ ュ マ エ ル 、イ サ ク 、ヤ コ ブ 、ム ハ ン マ ド 以 外 に は 。神 よ
彼らすべてに祝福と平安を与え給え」
彼はバイト・アルマクディスを最初に建設した人物であると言われているが、前述の通り、
その場所は燃えてしまった。
ワ フ ブ・ブ ン・ム ナ ッ ビ フ 曰 く 、
「 ヤ コ ブ に 死 が 訪 れ た と き 、彼 は 息 子 や 孫 た ち を 集 め る と 、
彼 ら に 遺 言 し 遺 産 を 割 り 当 て た 。彼 は ヨ セ フ ― 彼 に 平 安 あ れ ― に 、自 身 の 遺 体 を 運 ん で 、聖 な
る 地 に い る 父 祖 ア ブ ラ ハ ム と イ サ ク と と も に 埋 葬 す る よ う に と 遺 言 し た 。そ こ で ヨ セ フ は 彼 の
遺 体 を 車 に 乗 せ て エ ジ プ ト の 地 か ら 運 び 出 し 、聖 な る 地 に 運 び 込 む と 、そ れ を 命 じ ら れ た 場 所
に 安 置 し た 。 そ の 後 彼 は エ ジ プ ト の 地 に 戻 っ た 」 彼 ( ワ フ ブ ) 曰 く 、「 彼 と 彼 の 兄 の エ サ ウ は
同 じ 日 に 死 ん だ 。 [38. b] ヤ コ ブ と エ サ ウ の 寿 命 は 147 年 で あ っ た 」
誠 実 な る ヨ セ フ ― 彼 に 平 安 あ れ ― : カ タ ー ダ が 〈 彼 を 野 井 戸 の 底 に 投 げ 込 め 〉 (Q12:10) と
いう至高なる方のお言葉について、
「〔 野 井 戸 と は 〕バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の あ る 場 所 に あ る
井戸のことである」と伝えている。
イ ム ラ ー ン の 子 モ ー セ ― 彼 ら 両 名 に 平 安 あ れ ―:彼 は ヤ コ ブ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 子 孫 の ひ と
り で あ る 。 彼 の キ ブ ラ は か の 岩 で あ っ た 。 ズ フ リ ー 曰 く 、「 神 は 彼 ( ア ダ ム ) ― 彼 に 平 安 あ れ
― を 大 地 に 堕 天 さ せ ら れ て 以 来 と い う も の 、預 言 者 の キ ブ ラ を バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 岩 に
定 め ず し て は 、預 言 者 を お 遣 わ し に な る こ と は な か っ た 。預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え
給え―は、赤い砂丘にある彼(モーセ)の墓を通りがかったときに礼拝した」
両 『 サ ヒ ー フ 』 の 言 で は 、「 モ ー セ ― 彼 に 平 安 あ れ ― は 強 大 に し て 栄 光 あ る 神 に 、 石 を 投 げ
れ ば 届 く ほ ど の 距 離 に 、自 分 を 聖 な る 地 に 近 づ け て 下 さ い と 求 め た 。モ ー セ は そ の こ と を 、そ
こ に い る 預 言 者 た ち や 聖 者 た ち と と も に 埋 葬 さ れ る た め に 、た だ そ の 地 域 に い た い と 思 っ て 求
め た の で あ る 」 モ ー セ は 127 歳 ま で 生 き た 。
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ヌ ン の 子 ヨ シ ュ ア ― 彼 に 平 安 あ れ ―:ア ブ ー・フ ラ イ ラ が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、
「 人 類 の 上 に 太 陽 が 留 ま っ た の は 、ヨ シ ュ ア が バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に 進 軍 し た 夜 の こ と の
みである」
ダ ビ デ ― 彼 に 平 安 あ れ ―:彼 は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に お り 、そ こ に は 彼 の 王 宮 が あ っ た 。
前 述 の よ う に 、彼 は そ の 建 設 に 着 手 し た が 、そ れ を 完 成 さ せ る こ と は で き な か っ た 。し か し 彼
に は 数 々 の 正 し い 行 い と 、詩 編 を 読 ん だ こ と に 伴 う 役 立 つ 教 訓 が あ り 、そ れ ら は 様 々 な 大 著 の
中に何行にも渡って書かれている。彼の墓はシオン教会にある。
ア ブ ー ・ ア ッ ダ ル ダ ー が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、「 ダ ビ デ ― 彼 に 平 安 あ れ ― は 言
っ た 。『 我 が 主 よ 、 私 は あ な た に あ な た の 愛 と 、 あ な た を 愛 す る 者 の 愛 、 あ な た の 愛 を 私 に 届
け る 行 い を 求 め ま す 。 我 が 主 よ 、あ な た の 愛 が 、私 自 身 よ り も 、私 の 家 族 よ り も 、私 の 財 産 よ
り も 冷 た き 水 よ り も 、 私 に と っ て 好 ま し い も の と な る よ う に な し 給 え 』」
ア ブ ド ッ ラ ー ・ ブ ン ・ ア ル ハ ー リ ス 曰 く 、「 至 高 な る 神 は ダ ビ デ ― 彼 に 平 安 あ れ ― に 啓 示 を
下 し て 言 わ れ た 。『 我 が 名 を 唱 え 、 私 と 私 の 愛 す る 者 を 愛 し 、 我 が 僕 た ち に 私 を 愛 す る よ う に
さ せ よ 』 彼 は 言 っ た 。『 我 が 主 よ 、 い か に す れ ば あ な た の 僕 た ち に あ な た を 愛 さ せ る こ と が で
き る で し ょ う か ? 』 神 は 言 わ れ た 。『 彼 ら と 共 に 我 が 名 を 唱 え よ 。 彼 ら は 私 か ら 良 き こ と の み
を 唱 え る で あ ろ う 』」
イ ブ ン ・ ア ッ バ ー ス ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― 曰 く 、[39. a]「 至 高 な る 神 は ダ ビ デ ― 彼 に 平 安
あ れ ― に 啓 示 を 下 し て 言 わ れ た 。『 暴 虐 な る 者 ど も に 、 我 が 名 を 唱 え る な と 言 え 。 ま こ と に 私
は 、我 が 名 を 唱 え る 者 の 名 を 唱 え る 。私 が 彼 ら の 名 を 唱 え る と き と は 、彼 ら を 呪 う と き で あ る 』
そ れ ゆ え に 私 は 、『 神 が 暴 虐 な る 者 ど も を 呪 い 給 わ ん こ と を 』 と い う の で あ る 」
ソ ロ モ ン ― 彼 に 平 安 あ れ ―:前 述 の 通 り 、彼 が 神 殿 の 建 設 を 完 了 し た と き 、彼 は 神 に 3 つ の
特 質 を 求 め た 。彼 は〔 現 在 の 〕ハ ラ ム・シ ャ リ ー フ 後 部 の ア ス バ ー ト 門 に 続 く と こ ろ に あ る 岩 々
の 上 で 祈 願 し た と も 言 わ れ て い る 。彼 ― 彼 に 平 安 あ れ ― は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に 入 る と き 、
彼 は 大 地 の 王 で あ っ た の だ が 、座 る と こ ろ を 探 し 、貧 者 た ち や 病 人 た ち 、癩 者 た ち に 近 づ く と
人 々 を 遠 ざ け 、 身 を 低 め て 頭 を 天 に 上 げ る こ と な く 彼 ら と 共 に 座 り 、「 貧 者 は 貧 者 た ち と と も
に」と言った。
シ ュ ア イ ブ ― 彼 に 平 安 あ れ ―:彼 は イ エ ス と ム ハ ン マ ド ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ―
の〔 到 来 の 〕福 音 を 伝 え た 人 物 で あ る 。イ ス ラ エ ル の 民 が 彼 を 殺 し た と き 、神 は 彼 ら の 上 に 敵
を遣わされ、彼らを追い散らして滅ぼし給うた。
シ リ ア は 70 年 間 荒 廃 し た ま ま で あ り 、 そ こ に は サ マ リ ア 人 と バ ビ ロ ン の 民 の 王 以 外 の 者 は
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い な か っ た 。神 は エ レ ミ ヤ ― 彼 に 平 安 あ れ ― を イ ス ラ エ ル の 民 に お 遣 わ し に な っ た が 、彼 ら は
悔 悛 を 拒 み 、彼 を 打 っ て 捕 え た 。そ こ で 神 は 彼 ら の 上 に ネ ブ カ ド ネ ツ ァ ル を お 遣 わ し に な っ た 。
彼 は 彼 ら を 殺 し 、焼 き 払 い 、子 供 た ち を 捕 虜 に 死 、バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス を 破 壊 し た 。エ レ
ミ ヤ は エ ジ プ ト に 逃 げ 、そ こ に 滞 在 し て い た が 、そ の 後 神 は 彼 に イ ー リ ヤ ー に 戻 る よ う に と お
命 じ に な っ た 。彼 が 滅 ん だ バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 眺 め た と き 、彼 は〈 い っ た ん 死 ん だ も の
を 、 神 は ど う し て 生 か し 給 う の で あ ろ う か 〉 (Q2: 259) と 言 っ た 。 す る と 神 は 彼 を 100 年 の 間
死なせ給うてから、バイト・アルマクディスが復興した後に生き返らせ給うた。
〈 町 を 通 り か か っ た 男 〉と は 、エ ズ ラ の こ と で あ る と も 言 わ れ て い る 。彼 は 預 言 者 で は な く 、
ネ ブ カ ド ネ ツ ァ ル に 捕 囚 さ れ た 人 々 の う ち の ひ と り で あ る 。エ ズ ラ が バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス
に 帰 還 し た と き 、ト ー ラ ー が 焼 か れ て い た の で 、彼 は イ ス ラ エ ル の 民 の た め に 彼 が 記 憶 し て い
たトーラーを編集した。彼はウラマーのうちのひとりであった。
ザ カ リ ヤ ― 彼 に 平 安 あ れ ― :イ ム ラ ー ン が 死 ん だ と き 、ザ カ リ ヤ は マ リ ア を 養 育 し た 。彼 は
マリアの〔母方の〕おばと結婚していたおり、彼女が彼にヨハネ―彼に平安あれ―を産んだ。
マ リ ア は ヨ ハ ネ〔 誕 生 〕の 3 年 後 に イ エ ス を 産 ん だ 。6 か 月 後 で あ る と も 言 わ れ て い る 。す る
と イ ス ラ エ ル の 民 は 、マ リ ア の こ と で ザ カ リ ヤ を 疑 っ た 。彼 は 人 々 か ら 逃 れ 、 [39. b] 1 本 の 木
の 洞 に 入 り こ ん だ 。し か し そ の 木 に の こ ぎ り が 振 り 下 ろ さ れ 、そ れ は 2 つ に 切 断 さ れ た 。の こ
ぎ り が 彼 の 背 中 に 振 り 下 ろ さ れ た と き 、栄 光 あ る 至 高 な る 神 は 彼 に 啓 示 を 下 し て 言 わ れ た 。
「嘆
く の は 止 め よ 。私 は 大 地 と そ の 上 に い る 者 を 転 覆 さ せ よ う 」そ し て の こ ぎ り は 、
〔 彼 の 体 を 〕2
つに切り刻んだ。
ザ カ リ ヤ の 子 ヨ ハ ネ ― 彼 に 平 安 あ れ ― : 彼 は イ エ ス の〔 母 方 の 〕お ば の 子 で あ る 。至 高 な る
神 は 彼 の 正 し さ に つ い て 、〈 神 の み 言 葉 の 確 証 者 と な り 、 指 導 者 、 思 慮 あ る 者 〉 (Q3:39) と 言
われている。というのも、彼は 3 歳のときにイエスを確証した最初の人であったからである。
「 思 慮 深 き 者 al-Ḥaṣ ūr」と い う の は 、彼 は 能 力 が あ る に も か か わ ら ず 、女 性 に 近 づ か な か っ た
か ら で あ る 。彼 は 性 的 不 能 で あ っ た と も 言 わ れ て い る 。ア ム ル ・ ブ ン ・ ア ル ア ー ス が 預 言 者 ム
ハンマドより伝えて曰く、
「『 あ ら ゆ る ア ダ ム の 子 孫 は 復 活 の 日 に 罪 を 持 っ て 行 く が 、ザ カ リ ヤ
の 子 ヨ ハ ネ だ け は そ う で は な い 』 そ れ か ら 使 徒 は 地 面 か ら 小 さ な 木 切 れ を 拾 い 、『 彼 の 男 性 の
持 ち 物 は 、 こ の 木 切 れ の よ う な も の し か な か っ た 。 そ れ ゆ え に 彼 は 「 指 導 者 」「 思 慮 あ る 者 」
と呼ばれるのである』と言った」
ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー ・ ブ ン ・ ウ マ ル 曰 く 、「 ザ カ リ ヤ の 子 ヨ ハ ネ は 、 8 歳 の と き に バ イ ト ・ ア
ル マ ク デ ィ ス に 入 っ た 。彼 は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 民 が 毛 織 や 羊 毛 の 衣 服 を 着 て い る の を
目にし、また彼らが〔苦行に〕努めているのを目にした。そこに彼の両親がやってきたので、
彼 は 自 分 に も 毛 織 の 服 を 着 せ て く れ る よ う に 求 め た 。両 親 が そ う す る と 、彼 は バ イ ト ・ア ル マ
277
ク デ ィ ス に 戻 っ て 来 た 。彼 は そ こ で 、昼 は 神 へ の 奉 仕 を 行 い 、夜 は 神 を 讃 え 礼 拝 を 行 っ た 。そ
う し て 25 年 が 過 ぎ た 。 彼 が ヨ ル ダ ン 川 の 側 に 来 て 座 っ て い る と い う こ と が 聞 か れ る よ う に な
っ た 。 彼 は 渇 き で 死 に そ う に な り な が ら 、〔 ヨ ル ダ ン 川 の 〕 水 に 両 足 を 浸 し て い た 。 彼 は 至 高
な る 神 に 、『 あ な た の 栄 光 に か け て 、 私 は 私 の 行 き 先 が 楽 園 で あ る か 地 獄 で あ る か を 知 る ま で
は 、 こ の 冷 た い 水 を 味 わ い ま せ ん 』 と 言 っ た 。〔 そ の 様 子 を 見 た 〕 彼 の 両 親 は 泣 き 、 彼 ら が 持
っ て き た 大 麦 の パ ン を 食 べ 、そ の 水 を 飲 ん で く れ と 頼 ん だ 。彼 は 両 親 に 優 し く し 、言 う 通 り に
し て 、自 分 の 誓 い を 破 っ て し ま っ た 。し か し 神 は 優 し く 彼 に 語 り か け 、両 親 に 従 う よ う に と 言
わ れ た 。両 親 は 彼 を バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 連 れ 戻 し た 。彼 が 礼 拝 し て い る 間 、彼 の 嘆 き の
ために〔父親の〕ザカリヤも泣き、気を失ってしまうほどであった。2 人の嘆きのゆえに、彼
の 家 の 者 た ち や 僕 た ち も 2 人 の 周 り で 泣 い た 。こ う し た こ と が 続 き 、彼 の 両 頬 は 涙 で 焼 け 爛 れ
て し ま っ た 。 [40. a] そ こ で 彼 の 母 親 は 、 フ ェ ル ト の き れ を 2 枚 取 っ て 、 そ れ を 彼 の 両 頬 に 押
し 当 て て 、彼 の 涙 を 吸 い 取 っ た 。彼 が そ の き れ に 涙 を こ ぼ す と 、母 親 が 立 っ て そ れ を 絞 る の で
あ っ た 。 ヨ ハ ネ は 、 自 分 の 涙 が 母 親 の 両 腕 に 流 れ る の を 見 て 言 っ た 。「 こ れ が 我 が 涙 、 こ れ は
我 が 母 で あ る 。〔 神 よ 〕 私 は あ な た の 僕 、 あ な た は 最 も 恩 寵 深 き お 方 で す 」
次 の よ う に も 言 わ れ て い る 。彼 は 、あ る 父 親 の 妻 が 息 子 と 結 婚 す る こ と は 許 さ れ な い 、と い
う 見 解 を 述 べ た 。す る と そ の 女 性 は 、そ の た め に 彼 の 首 を 打 ち 落 と し た 。彼 の 頭 は 切 り 落 と さ
れた後も、
「 あ な た に は 彼 女 は 許 さ れ な い 、彼 女 は あ な た に は 許 さ れ な い 」と 言 い 続 け て い た 。
次 の よ う に も 伝 え ら れ て い る 。天 は 、ザ カ リ ヤ の 子 ヨ ハ ネ と フ サ イ ン ・ ブ ン ・ ア リ ー ― 彼 ら
2 人 に 平 安 あ れ ― の 上 を 除 い て は 、誰 の 上 に も 嘆 く こ と は な い 。天 が 赤 く な る の は 、天 が 泣 い
て い る の で あ る 。 ま た イ ブ ン ・ ア ッ バ ー ス 曰 く 、「 強 大 に し て 栄 光 あ る 神 は ム ハ ン マ ド ― 神 よ
彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― に 啓 示 を 下 し て 言 わ れ た 。『 私 は ザ カ リ ヤ の 子 ヨ ハ ネ に か け て 7
万 人 を 殺 し た 。 私 は 汝 の 娘 の 子 に か け て 7 万 人 を 殺 す 者 で あ る 』」
イ エ ス ― 彼 に 平 安 あ れ ―:ミ ー ラ ー ジ ュ の ハ デ ィ ー ス の 中 に 、預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安
を 与 え 給 え ― は か の 夜 、イ エ ス の 生 ま れ た 地 で 礼 拝 し た 、と あ る 。ム ジ ャ ー ヒ ド 曰 く 、マ リ ア
― 彼 女 に 平 安 あ れ ― は 言 っ た 。「 私 は 、 自 分 た ち だ け で い る と き に は 、 イ エ ス が 私 に 話 を し 、
私 が 彼 に 話 を し ま し た 。私 が 他 の 人 と 一 緒 に い る と き に は 、私 は 体 の 内 に 彼 の タ ス ビ ー フ を 聞
きました」
ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー ・ ブ ン ・ ア ル ア ー ス は 、イ エ ス ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 生 誕 地 で あ る ベ ツ レ ヘ
ムに、ランプを灯すための油を送っていた。
イ エ ス は 生 後 8 日 目 に 、モ ー セ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の ス ン ナ に 従 っ て 割 礼 し た 。彼 の 母 親 は 彼
を 連 れ て エ ジ プ ト に 逃 げ 、彼 は そ こ で 12 年 間 暮 ら し た 後 シ ャ ー ム に 戻 っ た 。彼 が 30 歳 に な っ
たとき、彼に啓示が下った。彼はカドルの夜に、バイト・アルマ クディスの山から昇天した。
マ ァ ル ー フ ・ カ ル ヒ ー M aʽr ūf al -Karkh ī 曰 く 、「 ユ ダ ヤ 教 徒 は 、 マ リ ア の 子 イ エ ス ― 彼 に 平
278
安 あ れ ― を 殺 害 す る こ と で 一 致 し た 。す る と 神 は イ エ ス の 上 に ガ ブ リ エ ル を 下 し た 。そ の 翼 に
は 、 次 の よ う に 書 か れ て い た 。『 お お 神 よ 、 私 は 唯 一 に し て 最 も 偉 大 な る あ な た の も と に 保 護
を 求 め ま す 。お お 神 よ 、私 は 唯 一 に し て 永 遠 な る あ な た の 御 名 に よ っ て 、あ な た に 祈 願 し ま す 。
お お 神 よ 、私 は 偉 大 に し て 2 つ と な き あ な た の 御 名 に よ っ て 、あ な た に 祈 願 し ま す 。お お 神 よ 、
私は強大にしていと高き、存在する者すべての支 配者であらせられるあなたの御名によって、
あなたに祈願します。私から、私が昼夜をその中で過ごしたものの過ちを取り除いて下さい』
神 は ガ ブ リ エ ル に 、『 我 が 僕 を 我 が も と に 昇 天 さ せ よ 』 と 言 わ れ た 」 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と
平 安 を 与 え 給 え ― は 教 友 た ち に 言 っ た 。 [40. b] 「 お 前 た ち は こ の 祈 願 を 唱 え る よ う に 。 そ う
す れ ば お 前 た ち は 、返 答 を 待 た さ れ る こ と は な い 。ま こ と に そ れ は 、神 の み も と で 良 き 者 、信
仰 あ る 者 た ち の た め に 、い つ ま で も 残 る も の で あ る 。信 仰 あ る 者 は 主 に 委 ね な け れ ば な ら な い 」
彼 の 訓 戒 。 彼 曰 く 、「 知 識 の 徒 に 知 識 を 禁 じ て は な ら な い 。 そ う す れ ば 罪 を 避 け ら れ る 。 知
識 の 徒 以 外 の 側 で 知 識 を ひ け ら か す な 。そ う す れ ば 無 知 で い ら れ る 。益 が あ る と わ か っ て い る
と こ ろ で 薬 を 出 す 、 親 切 な 医 者 と な れ 」 ま た 曰 く 、「 信 徒 で あ る と い う こ と を 真 実 喜 ん で い る
者 は 、顎 の 下 に 肉 が 付 く こ と は な い 。と い う の も そ の 者 は 、自 分 に 報 酬 が な い よ う な 状 況 で あ
っ て も 、希 望 を も っ て 何 か を 集 め る 者 で あ る か ら だ 。彼 は 美 徳 を も っ て 数 え ら れ 、彼 の 骨 折 り
が 彼 以 外 の 者 を そ っ く り 食 べ て し ま う で あ ろ う 」ま た 曰 く 、
「至高なる神の御名を唱える他に、
口 数 を 多 く す る な 。そ ん な こ と に な れ ば 、か つ て は 柔 ら か か っ た は ず の 心 も 、硬 い も の に な っ
て し ま う 。硬 い 心 と い う も の は 、至 高 な る 神 か ら は 遠 く 隔 た っ て い る も の で あ る が 、お 前 た ち
は そ の こ と を 知 ら な い 。主 人 た ち の 集 団 の ご と き 人 々 の 罪 を 調 べ 上 げ て は な ら な い 。僕 た ち の
集 団 の ご と き お 前 た ち 自 身 の 罪 を 調 べ 上 げ よ 。人 は 試 練 を 受 け 、ま た 救 わ れ る の で あ る 。救 い
に 際 し て 神 を 讃 え 、 試 練 に 際 し て 恩 寵 を 求 め よ 」 ま た 彼 は 弟 子 た ち に 行 っ た 。「 神 殿 を 住 ま い
と し 、家 を 居 留 地 と せ よ 。荒 野 の 雌 牛 か ら 食 べ 、平 穏 に 現 世 か ら 逃 れ よ 」ま た 彼 は 言 っ た 。
「イ
スラエルの民よ、お前たちは神の神殿を家とし、お前たちの家を弱者のための居留地とせよ。
お前たちが 1 つの道を渡る者たちでないのなら、この世界にお前たちの居留地は存在しない」
ま た 彼 は そ の 弟 子 た ち に 言 っ た 。「 お 前 た ち に は っ き り 言 っ て お く が 、 現 世 を 愛 す る こ と は 、
あ ら ゆ る 罪 の 最 た る も の で あ る 。注 意 せ よ 、心 に 欲 望 を 育 て る こ と も 、罪 と 呼 ぶ の に 十 分 で あ
る」
ヒ ド ル ― 彼 に 平 安 あ れ ―: 彼 は 預 言 者 で あ り 、生 き て い る 。彼 に つ い て の 言 葉 は 後 に 出 て く
るであろう。
誠 実 な る マ リ ア ― 彼 女 に 平 安 あ れ ―: 彼 女 が 神 に 仕 え た 場 所 は 、バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の
モ ス ク に あ る 、〔 イ エ ス の 〕 揺 り 籠 と し て 知 ら れ て い る と こ ろ で あ る 。 彼 女 の 墓 は 、 ゲ ッ セ マ
ネとして知られる教会にある。
279
ム ハ ン マ ド ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― は 前 述 の 通 り 、イ ス ラ ー の 夜 そ こ( バ イ ト ・
アルマクディス)に入り、そこで預言者たちを先導して礼拝し、そこで天女たちに会った。
終 末 の と き に 現 れ る マ フ デ ィ ー :ア ブ ー・サ イ ー ド・フ ド リ ー が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え
て 曰 く 、「 終 末 の と き 我 が ウ ン マ の 中 に 、 人 々 の 力 も 及 ば ぬ 、 彼 ら が 未 だ か つ て 聞 い た こ と も
な い よ う な 厳 し い 苦 難 が 下 さ れ る で あ ろ う 。広 大 な は ず の 大 地 は 人 々 の 前 に 狭 く な り 、[41. a]
大 地 は 不 義 不 正 で 満 た さ れ る よ う に な る 。し か し 神 は ひ と り の 男 を お 遣 わ し に な り 、そ の 者 は 、
か つ て 大 地 が 不 義 不 正 で 満 た さ れ て い た よ う に 、大 地 を 正 義 と 公 正 で 満 た す で あ ろ う 。天 と 地
に 住 む 者 は 彼 に 満 足 す る で あ ろ う 。大 地 が 生 み 出 す も の の 他 に は 大 地 は 種 を 取 り 除 け ず 、天 は
神 が 人 々 の 上 に 流 す 雨 雲 の 他 に は 露 を 注 ぎ は し な い 。彼 は 人 々 の 間 で 7 年 、あ る い は 8 年 、あ
る い は 9 年 過 ご す 。死 者 た ち は 、神 が 大 地 の 民 の ゆ え に お 創 り に な っ た 良 き も の よ り も 、生 き
かえることを望むようになるであろう」
ム ハ ン マ ド ・ ブ ン ・ ハ ナ フ ィ ー ヤ M uḥ ammad b. al -Ḥanafīya 曰 く 、「 ア ッ バ ー ス 朝 の た め に
黒 い 旗 が 現 れ る で あ ろ う 。も う 1 本 の 黒 い 旗 も 現 れ 、彼 ら の 服 は 白 い 。彼 ら の 先 頭 に は 、タ ミ
ー ム 族 の マ ウ ラ ー で あ る シ ュ ア イ ブ ・ ブ ン ・ サ ー リ フ Sh uʽayb b. Ṣāliḥ と い う 名 の 男 が い る 。
彼 ら は ス フ ヤ ー ニ ー al-Sufyānī の 郎 党 を 打 ち 負 か し 、バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス に 居 留 す る 。そ
の 地 の ス ル タ ン は マ フ デ ィ ー の 前 に 裸 足 で 歩 い て き て 、シ リ ア か ら 彼 の も と に や っ て く る 。彼
の 出 現 か ら 、 彼 が こ と を 平 穏 に 収 め る ま で の 間 は 、 73 か 月 で あ る 」
ス ラ イ マ ー ン ・ ブ ン ・ イ ー サ ー 曰 く 、「 私 は 次 の よ う に 聞 い て い る 。 マ フ デ ィ ー の 御 前 に 、
テ ィ ベ リ ア ス 湖 Buḥ ayr at Ṭab arīya よ り サ キ ー ナ の 箱 が 現 れ る 。彼 は〔 そ れ を 〕運 ん で 、バ イ
ト・ ア ル マ ク デ ィ ス に て そ の 御 前 に 安 置 す る 。ユ ダ ヤ 人 は そ れ を 見 る と 、少 数 の 者 を 除 い て 改
宗する。その後マフディーは死ぬであろう」
教 友 た ち ― 神 よ 彼 ら を 嘉 し た ま え ― に つ い て 言 え ば 、彼 ら の 中 に は ウ マ ル ・ブ ン ・ア ル ハ ッ
タ ー ブ ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― が い る 。前 述 の 通 り 、彼 は 4 度 シ リ ア に や っ て 来 て 、バ イ ト ・
アルマクディスに入城し、和平を結んだ。
ア ブ ー ・ ウ バ イ ダ ・ ブ ン ・ ア ル ジ ャ ッ ラ ー フ ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― : 前 述 の 通 り 、彼 は 将
軍 と し て 、ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ル ハ ッ タ ー ブ が 彼 に 与 え た 軍 団 を 率 い て 、 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ
ス に 入 城 し た 。彼 は ウ マ ル に 書 簡 を 書 き 送 っ て 、彼 を 和 平 の た め に 呼 び 寄 せ た 。そ し て 彼 は や
ってきて、和平でもってバイト・アルマクディスを征服したのである。
彼 は ア ム ワ ー ス ʽAmwāṣ で 起 き た 疫 病 で 死 に 、 カ フ ァ ー リ ス Q afāris と ア ー デ ィ リ ー ヤ
al-ʽĀdlīya の 間 に あ る ア ル ジ ュ ー ン 山 Jab al ʽAljūn ふ も と の 、 ア ム タ ー 村 Qaryat ʽAmt ā に 埋
280
葬 さ れ た 。 彼 の ザ ー ウ ィ ヤ は 、 西 ガ ウ ル に あ る ア リ ー 修 道 院 D ayr ʽAlī で あ る 。 彼 の 墓 の あ る
場所はわかっており、参詣の目的地となっている。
ム ア ー ズ ・ ブ ン ・ ジ ャ バ ル ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― : 第 1 章 で 述 べ た 通 り 、彼 は バ イ ト ・ ア
ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ 、 3 日 3 晩 礼 拝 や 断 食 を し て 滞 在 し た 。ア ブ ー ・ ウ バ イ ダ は 死 期 が 訪 れ た
と き 、彼 を 後 継 者 と し て 指 名 し た 。し か し ム ア ー ズ は ア ブ ー ・ ウ バ イ ダ の 死 後 、ヨ ル ダ ン 地 域
で〔 彼 と 同 様 に 〕疫 病 で 死 ん だ 。彼 の 墓 は 、ガ ウ ル に あ る 城 塞 に あ る こ と が わ か っ て お り 、参
詣の目的地となっている。
『 親 し き 友 の 贈 り 物 It ḥā f al-Akhi ṣṣāʼ』 の 著 者 ( ミ ン ハ ー ジ ー ) 曰 く 、 [41. b] 「 私 は 自 分
の 身 に な に か 重 大 な こ と が 起 こ っ た と き に 、何 度 か 彼 の も と に 参 詣 し た こ と が あ る 。私 は そ こ
で 、彼 を し て 神 に 恩 顧 を 求 め た の だ が 、す る と 私 は そ こ で 、彼 の 恩 寵 と 彼 の 友 愛 の 恩 寵 に よ っ
て 、〔 自 分 の 願 い が 〕 聞 き 届 け ら れ た と い う し る し を 見 た の で あ っ た 。 神 よ 彼 を 嘉 し 給 え 」 2 0
神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の ム ア ッ ズ ィ ン 、ビ ラ ー ル・ブ ン・ラ ッ バ ー フ
Bilāl b. Rabbāḥ ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― : 彼 は ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ル ハ ッ タ ー ブ と と も に 、 バ
イト・アルマクディスを経験した。彼は神の使徒―神よ彼に祝福と平安を与え給え―の死後、
1 度 し か ア ザ ー ン を 行 わ な か っ た が 、 そ れ は 前 述 の 通 り 、ウ マ ル が 征 服 後 彼 に ア ザ ー ン を 命 じ
たときのことであった。彼はダマスカスで亡くなり、彼の墓はサギール門の側にある。
ア ブ ー ・ ウ バ イ ダ の お じ 、 ア イ ヤ ー ド ・ ブ ン ・ ガ ー ニ ム ʽAyāḍ b. G hānim b. ʽAmm Abī
ʽUbayda ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― : 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 入 り 、 そ こ に 天 幕 を 立 て
た。彼は預言者―神よ彼に祝福と平安を与え給え―から伝承を伝えている。
ハ ー リ ド・ブ ン・ア ル ワ リ ー ド Khālid b. al-Walīd ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ―:彼 は バ イ ト ・
ア ル マ ク デ ィ ス に 入 っ た 。彼 は ダ マ ス カ ス 征 服 を 経 験 し た 。彼 は ヒ ム ス で 亡 く な っ た 。彼 は そ
こで亡くなっていて、彼の墓は同地にあることがわかっており、参詣の場所となっている。
ア ブ ー ・ ザ ッ ル ・ ギ フ ァ ー リ ー Abū Dharr al-Ghi fārī ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― : 彼 は バ イ
ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 入 っ た 。 彼 は ラ バ ザ al-Rabadha 2 1 で 亡 く な っ た 。
イ マ ー ム ・ ア フ マ ド は 彼 の『 ム ス ナ ド Musnad 』の 中 で 、ア フ ナ フ ・ ブ ン ・ カ イ ス al-Aḥ naf
b.Qays よ り 、 次 の よ う に 伝 え て い る 。「 私 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 入 っ た と き 、 あ る 人 が
ラ ク ア や サ ジ ュ ド を 繰 り 返 し 行 っ て い る の を 見 た 。私 は 、そ れ に は な に か 訳 が あ る の だ ろ う と
20
21
IA ⅱ , 23.
メ デ ィ ナ 近 郊 の 村 [MB ⅲ , 24-25]。
281
思 っ た 。 そ の う ち に そ の 人 は そ の 場 を 離 れ た の だ が 、 私 は 〔 彼 に 〕 言 っ た 。『 あ な た は 〔 ラ ク
ア や サ ジ ュ ド を 〕偶 数 回 行 っ て か ら 去 ら れ た の で す か 、そ れ と も 奇 数 回 で し た か ?
私にはわ
か り ま せ ん で し た 』〔 す る と 彼 は 私 に 言 っ た 〕『 我 が 愛 す る ア ブ ー ・ ア ル カ ー ス ィ ム( 預 言 者 ム
ハ ン マ ド ) ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― は 我 々 に 伝 え た 』 そ し て 彼 は 泣 き だ し た 。〔 そ
し て 続 け て 言 う に は 〕『 神 の た め に サ ジ ュ ド を 1 回 行 う 僕 は 皆 、 神 が 彼 の た め に 楽 園 で の 位 階
を 1 段 上 げ て 下 さ る 。神 は 彼 の 悪 事 を 1 つ 消 し 、彼 の た め に 善 行 を 1 つ 書 き 留 め て 下 さ る 』私
が『 あ な た は ど な た で す か 、 教 え て 下 さ い 』と 言 う と 、彼 は『 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安
を 与 え 給 え ― の 教 友 、 ア ブ ー ・ ザ ッ ル で す 』 と 言 っ た 。〔 そ れ を 聞 い て 〕 私 は 非 常 に 恐 縮 し た
のであった」
ア ブ ー ・ ア ッ ダ ル ダ ー ・ ウ ワ イ ル Abū al-Dardāʼ ʽUwayr ― 至 高 な る 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え
― : 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ た 。彼 は ウ ス マ ー ン の カ リ フ 在 位 中 に 、ダ マ ス カ ス に
て亡くなった。
ウ バ ー ダ・ブ ン・ア ッ サ ー ミ ト ― 至 高 な る 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ―: ウ マ ル が 彼 を カ ー デ ィ ー
として、また教師として、シリアに向かわせた。彼はヒムスに滞在した後パレスチナに移り、
そ こ で 最 初 に カ ー デ ィ ー 職 を 務 め た 人 物 と な っ た 。彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 住 み 、同 地
で 亡 く な っ た 。 彼 は ラ ム ラ で 亡 く な っ た と も 言 わ れ て い る 。 現 在 彼 の 墓 は 、 [ 42. a] こ の 地 域
を以前ファランジュが占領していたために、拭い去られてしまって知られていない 。
ス ラ イ マ ー ン・フ ァ ー リ ス ィ ー Sulaymān al-Fārisī ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ―:彼 は バ イ ト ・
ア ル マ ク デ ィ ス に 入 っ た 。 彼 は ウ ス マ ー ン の カ リ フ 在 位 中 に 、 マ ダ ー イ ン al- Madāʼin 2 2 に て 没
し た 。 彼 は 350 年 生 き た と も 言 わ れ て い る が 、〔 も ち ろ ん こ れ は 〕 確 か な も の で は な い 。 こ れ
は 、 彼 が 100 歳 を 越 え て い た と い う 意 味 で あ る 。
ア ブ ー・マ ス ウ ー ド・ バ ド リ ー Abū Masʽūd al-Badrī ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ―:彼 は バ ド ル
に 住 ん で い た が 、バ ド ル の 戦 い は 経 験 し て い な い 。彼 は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に 入 っ た 。人 々
も 彼 に 従 っ た 。彼 は 言 っ た 。
「神の使徒―神よ彼に祝福と平安を与え給え―曰く、
『何者も並び
立 た ず 、禁 じ ら れ し 血 に 濡 れ る こ と の な い 神 に 出 会 っ た 僕 は 皆 、望 め ば 楽 園 の い か な る 門 か ら
で も 入 る こ と が で き る 』」
タ ミ ー ム・ダ ー リ ー ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ―:彼 と 彼 の 兄 弟 の ヌ ア イ ム Nuʽaym は 、神 の 使
徒―神よ彼に祝福と平安を与え給え―のもとを訪れてイスラームに入信し、彼の教友となり、
22
バ グ ダ ー ド 南 東 の 古 都 ク テ シ フ ォ ン の こ と [MB ⅴ , 74-75]。
282
彼 と と も に ガ ズ ワ を 行 っ た 。タ ミ ー ム は メ デ ィ ナ に は 滞 在 し な か っ た 。彼 は ウ ス マ ー ン の 殺 害
後 シ リ ア に 移 住 し 、バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の ア ミ ー ル と な っ た 。前 述 の 通 り 、神 の 使 徒 ― 神
よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― が 、ヘ ブ ロ ン の 地 を 彼 に イ ク タ ー と し て 与 え た の で あ る 。イ ブ
ン・マージャが伝えている通り、彼はそのモスクに最初にランプを灯した者となった。
彼 は 40 年 に 亡 く な っ た 。彼 の 墓 は 、シ リ ア に あ る ク ス ワ al-Kuswa と い う 村 の 近 く に あ る 。
ア ム ル・ブ ン・ア ル ア ー ス ― 至 高 な る 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ―:彼 は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス
に入った。
ア ブ ー ・ ク バ イ ダ ・ ブ ン ・ ジ ャ ー ビ ル Abū Qub ayda b. J ābir 曰 く 、「 私 は ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア
ル ハ ッ タ ー ブ と 親 し く し て い た が 、彼 ほ ど 神 の 啓 典 を よ く 読 み 、神 の 宗 教 に 敵 意 を 抱 か ず 、人
に 追 従 し な い 者 を 見 た こ と が な い 。ま た 私 は タ ル ハ・ブ ン・ア ブ ド・ア ッ ラ ー Ṭ alḥa b. ʽAb d Allāh
と も 親 し く し て い た が 、彼 ほ ど 心 の 広 い 者 は 見 た こ と が な い 。ま た 私 は ア ム ブ ・ ブ ン ・ ア ル ア
ー ス と も 親 し く し て い た が 、彼 ほ ど 端 々 に ま で 意 志 が 固 く 、仲 間 と し て は 親 し み や す く 、秘 密
を持たずにおおっぴらである者は見たことがない。また私はムギーラ・ブン・シュゥバ
al-M ughīra b. Shu ʽba と も 親 し く し て い た が 、 例 え ば 門 が 8 つ あ る 町 が あ っ た と し て 、 彼 が 高
貴 さ を 持 た ず し て そ こ か ら 出 て い く こ と は な い で あ ろ う 。彼 は そ こ の 諸 門 の ひ と つ ひ と つ か ら
出ていくであろう」
ア ブ ド・ア ッ ラ ー・ブ ン・サ ラ ー ム ―神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ―:彼 は 教 友 た ち の 中 で も と り わ
け 優 れ た 人 物 で 、イ マ ー ム で あ り 、イ ス ラ エ ル の 民 の ラ ビ で あ り 、彼 の た め に 楽 園 が 約 束 さ れ
た 人 で あ っ た 。 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 征 服 を 経 験 し た 。 彼 は 43 年 に 亡 く な っ た 。
サ イ ー ド ・ ブ ン ・ ザ イ ド Saʽīd b. Zayd ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― : 彼 は 楽 園 を 約 束 さ れ た
10 名 の う ち の ひ と り で あ る 。彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ た 。 彼 は ア キ ー ク al-ʽA qīq 2 3
にて亡くなった。クーファで亡くなったとも言われている。
サ ァ ド・ブ ン・ア ビ ー・ワ ッ カ ー ス Saʽd b. Abī Waqqā ṣ ― 至 高 な る 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― :
彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ 、そ こ か ら ウ ム ラ へ の イ フ ラ ー ム に 入 っ た 。彼 は 次 の よ う
に 言 っ た と 言 わ れ て い る 。「 私 は 生 涯 の う ち 3 日 し か 泣 い た こ と は な い 。 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に
祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― が 神 に 召 さ れ た 日 と 、ウ ス マ ー ン ・ ブ ン ・ア ッ フ ァ ー ン が 殺 害 さ れ た
日、そして今日、私は真実を求めて、平安なる真実を求めて泣くのである」
彼 は ア キ ー ク で 亡 く な り 、メ デ ィ ナ に 運 ば れ た 。預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ―
23
水 の 流 れ る 場 所 を 表 す 言 葉 。 こ こ で は メ デ ィ ナ に あ る ア キ ー ク の こ と を 指 す [MB ⅳ , 138-141]。
283
の 妻 女 た ち が 、彼 女 た ち の 部 屋 の 中 で 彼 の た め に 祝 福 を 請 う た 。彼 は バ キ ー ゥ al-Baqīʽ
24に 埋
葬された。
シ ャ ッ ダ ー ド・ブ ン・ア ウ ス・ア ヒ ー・ハ ッ サ ー ン・ブ ン・サ ー ビ ト Shaddā d b. Awṣ b. Ak hī
Ḥassān b. Thābit : 彼 は 知 識 と 洞 察 力 を 持 つ 人 物 で あ っ た 。 次 の よ う に 伝 え ら れ て い る 。 神
の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の 死 期 が 近 づ い た と き 、彼 は 立 っ て は 座 り 、立 っ て
は 座 り し て い た 。 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― が 、「 シ ャ ッ ダ ー ド よ 、 な ぜ そ
ん な に 落 ち 着 か な い の か 」と 言 う と 、 彼 は 「 神 の 使 徒 よ 、 私 は 〔 あ な た の こ と で 〕目 の 前 が 暗
く な る 思 い で す 」と 言 っ た 。す る と 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― は 言 っ た 。
「神
が お 望 み に な る な ら ば 、お 前 の 前 に シ リ ア は 征 服 さ れ 、バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス も 征 服 さ れ る
であろう。そして至高なる神がお望みになるならば、お前とお前の後に現れるお前の子孫は、
そ の 地 で イ マ ー ム と な る で あ ろ う 」は た し て 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― が 彼
に言った通りになったのである。
彼 は 熱 心 に 神 に 奉 仕 し 、ジ ハ ー ド に 努 め る 人 で あ っ た 。彼 は パ レ ス チ ナ 地 域 に 居 留 し た 。彼
は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に て 亡 く な っ た 。彼 の 墓 は 、ア ク サ ー ・ モ ス ク の 壁 の 下 に あ る ラ フ
マ門の墓地にあることがわかっており、参詣の場所となっている。
ア ブ ー ・ フ ラ イ ラ ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― : 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ て お り 、そ
の征服を経験している。彼はメディナで亡くなった。彼はガザの向かいにあるユブナー村
Qaryat Yub nā 2 5 に 埋 葬 さ れ て い る の で は な い 。 そ れ は 彼 の 子 供 の ひ と り の も の で あ る 。
ム ア ー ウ ィ ヤ・ブ ン・ア ビ ー・ス フ ヤ ー ン ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ―:彼 は バ イ ト・ア ル マ ク
デ ィ ス を 訪 れ た 。ア ム ル ・ ブ ン ・ ア ル ア ー ス は 彼 の 元 を 訪 れ 、ウ ス マ ー ン の 血 を 求 め て 彼 に シ
リ ア 全 域 に 対 す る バ イ ア を し た 。 彼 は ア ミ ー ル と し て 、 20 年 間 シ ャ ー ム を 治 め た 。
彼 は 60 年 に ダ マ ス カ ス に て 亡 く な り 、 同 地 の 墓 地 に 埋 葬 さ れ た 。
ア ブ ド・ア ッ ラ ー・ブ ン・ア ム ル・ブ ン・ア ル ア ー ス ― 至 高 な る 神 よ 彼 ら 2 人 を 嘉 し た ま え
― : [43. a] 彼 は 父 親 と と も に 、 ム ア ー ウ ィ ヤ へ の バ イ ア を 行 う 際 に バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス
を 訪 れ た 。彼 は ベ ツ レ ヘ ム に も 入 り 、そ こ で 礼 拝 し 、そ こ の ラ ン プ を 灯 す た め の オ リ ー ブ 油 を
捧げるように命じた。彼はクルアーンとトーラーを読み、 1 日断食しては 1 日断食を解いた。
ア ブ ド・ア ッ ラ ー・ブ ン・ア ッ バ ー ス ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ―:預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平
24
25
メ デ ィ ナ に あ る 墓 地 の 名 前 [MB ⅱ , 473-4 74]。
ラ ム ラ の 近 く に あ る 村 の 名 前 。 ア ブ ー ・ フ ラ イ ラ の 墓 が あ る と 伝 え ら れ て い る [MB ⅴ , 428]。
284
安 を 与 え 給 え ― は 彼 の た め に 祈 願 し て 言 っ た 。「 お お 神 よ 、 彼 に 宗 教 を 説 き 、 そ れ を 解 き 明 か
す ス ン ナ を 教 え 給 え 」彼 は そ の 豊 富 な 知 識 の ゆ え に 、賢 者 と 呼 ば れ て い た 。彼 は バ イ ト ・ ア ル
マクディスを訪れ、冬場にそこからイフラームを始めた。
彼 は タ ー イ フ al-Ṭ āʼif に あ る 、 サ ッ ラ ー マ al-Sall āma と い う 村 で 亡 く な っ た 。 彼 の 墓 は そ
こにあることがわかっている。
ア ブ ド ・ア ッ ラ ー ・ ブ ン ・ ウ マ ル ― 至 高 な る 神 よ 彼 ら 2 人 を 嘉 し た ま え ― : 彼 は 内 乱 の 年 に
バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 行 っ た 。彼 は ス ブ フ 礼 拝 を し た 後 、モ ス ク に 座 っ て 太 陽 が 昇 る の を
待 ち 、そ れ か ら 同 行 の 人 々 と と も に 立 っ て 数 回 の ラ ク ア の 礼 拝 を 行 っ た 。そ の 後 彼 ら は 雌 ラ ク
ダ に 座 っ〔 て バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス か ら 旅 立 っ 〕 た 。彼 ら は 岩 の ほ う に は 行 か ず 、 集 団 礼 拝
を待つこともしなかった。イブン・ウマルはウムラに際して、そこからイフラームを始めた。
ア ウ フ ・ ブ ン ・ マ ー リ ク ・ ア シ ュ ジ ャ イ ー ʽAwf b. Mālik al-Ashjaʽī ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え
― : 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 征 服 を 経 験 し た 。 彼 は ヒ ム ス に 居 留 し て い た 。彼 は 、 何 者 も
並 び 立 つ こ と の な い 神 に 仕 え 、5 回 の 礼 拝 を 守 り 、人 々 に 何 も 尋 ね な い と い う 条 件 で 、神 の 使
徒―神よ彼に祝福と平安を与え給え―にバイアを行った。
ア ブ ー ・ ジ ャ ァ フ ァ ル ・ ア ン サ ー リ ー Abū Jaʽfar al -Anṣārī ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― : 彼 は
バイト・アルマクディスで礼拝するために、そこを訪れた。彼はシャームで没した。
ワ ー ス ィ ラ ・ ブ ン ・ ア ル ア シ ュ フ ァ ゥ Wāthila b. al -Ashfaʽ ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― : 彼
は サ ナ ア の 民 で 、 バ ス ラ に 住 ん で い た が 、 そ の 後 シ ャ ー ム に 〔 移 り 住 ん だ 〕。 彼 は マ ガ ー ズ ィ
ー 戦 士 と し て 、ダ マ ス カ ス と ヒ ム ス〔 征 服 戦 〕 を 経 験 し た 。そ の 後 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ
スに移り住み、同地で没した。彼はダマスカスで没したとも言われている。
ア ブ ー ・ ア マ ー マ ・ バ ー ヒ リ ー Abū Umāma al -Bāhilī ― 至 高 な る 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― :
彼 は 別 離 の 巡 礼 を 経 験 し て い る 。彼 は ダ マ ス カ ス と バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス に 住 ん だ 。彼 は シ
リアで没した最後の教友である。
マ フ ム ー ド ・ ブ ン ・ ア ッ ラ ー ビ ゥ Maḥmūd b. al-Rābiʽ ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― :彼 が ウ バ
ー ダ ・ブ ン・ ア ッ サ ー ミ ト に 割 礼 を 施 し た 。彼 は 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― が
56 歳 の と き に 彼 と 出 会 っ て お り 、 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の 顔 に 涎 が 垂
れ る の を 見 た な ど と 言 っ て い る 。彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 居 留 し 、そ こ か ら ハ ッ ジ や ウ
ムラに際してイフラームを始めた。
285
ヤ ズ ィ ー ド ・ ブ ン ・ ス フ ヤ ー ン Yazīd b. Sufyān ― 至 高 な る 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― : ア ブ
ー・ バ ク ル ― 至 高 な る 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― が 、彼 を シ リ ア に 派 遣 し た 。彼 は 先 行 し た 軍 の 一
団 を 率 い た 。 [43. b] 彼 が 没 す る と 、 ウ マ ル は 前 述 の 通 り 、 そ の 地 位 を 彼 の 兄 弟 の ム ア ー ウ ィ
ヤに任じた。
ア ブ ー・ラ イ ハ ー ナ Abū Rayḥāna :彼 は 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の マ
ウ ラ ー で あ っ た 。彼 の 娘 の ラ イ ハ ー ナ が 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の も と に
い た 。彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 住 ん で お り 、 同 地 で 没 し た 。 彼 は ア ク サ ー ・ モ ス ク の 説
教師であった。
シ ュ ラ イ ド ・ ブ ン ・ ア ッ シ ュ ラ イ ド al-Shurayd b. al-Shurayd ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― :
彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ た 。と い う の も 彼 は 、も し 神 が 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と
平 安 を 与 え 給 え ― の 上 に メ ッ カ を 開 い て 下 さ っ た な ら ば 、バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス で 礼 拝 し ま
す 、と い う 誓 い を 立 て て い た か ら で あ る 。彼 は 神 の 使 徒 に そ う す る 許 可 を 求 め 、神 の 使 徒 は 彼
にそれを許可した。
ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー ・ ブ ン ・ ア ビ ー ・ ア ル ジ ャ ド ア ー ʽAbd Allāh b. Abī al -Jadʽ āʼ ― 至 高 な る
神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― : 彼 は そ こ( バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス ) に 住 ん で い た 。 彼 の 墓 も そ こ に
あると言われている。
ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー ・ ブ ン ・ シ ャ キ ー ク ʽAbd Allāh b. Shaqīq 曰 く 、「 私 は あ る 人 々 と と も に
エ ル サ レ ム に い た 。 す る と 彼 ら の う ち の ひ と り が 言 っ た 。『 私 は 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平
安 を 与 え 給 え ― が 、「 我 が ウ ン マ の 中 の あ る 者 の 執 り 成 し に よ り 、 タ ミ ー ム 族 の 大 部 分 の 者 は
楽 園 に 入 る こ と が で き る 」と 言 う の を 聞 い た こ と が あ る 。あ る 人 が「 神 の 使 徒 よ 、そ れ は あ な
た 以 外 の 人 物〔 の 執 り 成 し で 〕と い う こ と で す か ? 」 と 言 う と 、彼 は「 私 以 外 の 人 物 だ 」と 言
っ た 。 彼 が や っ て き た と き 、 私 は 〔 彼 に 〕「 そ れ は 誰 の こ と な の で す か ? 」 と 言 っ た 。 す る と
彼 は 「 イ ブ ン ・ ア ビ ー ・ ア ル ジ ャ ド ア ー の こ と で あ る 」 と 言 っ た 』」 テ ィ ル ミ ズ ィ ー が こ れ を
伝えている。
フ ァ イ ル ー ズ ・ ダ イ ラ ミ ー Fayrūz al-Daylamī ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― : 彼 は 、 ペ ル シ ア
皇 帝 に よ っ て イ エ メ ン に 派 遣 さ れ た 者 た ち の ひ と り で あ る 。彼 ら は そ こ か ら エ チ オ ピ ア を 奪 い 、
そこを征服したのであった。
彼はバイト・アルマクディスに住んでいた。彼の墓もそこにあると言われている。
286
ズ ー ・ ア ル ア サ ー ビ ゥ ・ タ ミ ー ミ ー Dhū al-Aṣābi ʽ al-Ta mī mī : 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ
ス に 住 ん で い た 。彼 は 、シ リ ア の ダ マ ス カ ス に 居 留 し て い た 人 々 の ひ と り で あ る 。彼 は 同 地 で
没した。
ア ブ ー・ム ハ ン マ ド・バ ッ ジ ャ ー リ ー Abū Muḥa mma d al-Bajjārī ―〔 点 の あ る 〕ジ ー ム で 。
至 高 な る 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― : 彼 は〔 礼 拝 の ラ ク ア の 回 数 に つ い て 〕奇 数 回 行 う の が 義 務 で
あ る な ど と 言 っ て い た 人 物 で あ る 。彼 は ウ マ ル の カ リ フ 在 位 中 に 没 し た 。彼 は ア リ ー ― 神 よ 彼
らを嘉したまえ―とともに、スィッフィーンの戦いを経験したとも言われている。彼はバイ
ト・アルマクディスに住み、そこで没した。
ア ブ ー ・ ウ バ イ イ ・ ブ ン ・ ウ ン ム ・ ハ ラ ー ム Abū Ubayy b. Umm Ḥarām ― 至 高 な る 神 よ
彼 を 嘉 し た ま え ― : 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 住 ん で い た 。彼 は 、 ウ バ ー ダ ・ ブ ン ・ ア ッ
サーミトの養子であった。彼はバイト・アルマクディスにて没した最後の教友である。
ウ サ イ フ ・ ブ ン ・ ア ル ハ ー リ ス ʽUṣayf b. al-Ḥārith ― 至 高 な る 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― : 彼
と彼の家族はバイト・アルマクディスを訪れ、そこで集団礼拝を行った。
信 徒 た ち の 母 サ フ ィ ー ヤ ・ ビ ン ト ・ ハ イ イ Umm al-Muʼ minīn Ṣafīya bint Ḥayy ― 至 高 な
る 神 よ 彼 女 を 嘉 し た ま え ― : 彼 女 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ 、そ こ で 礼 拝 し た 。ま た 彼
女 は オ リ ー ブ 山 に 上 り 、 そ こ で も 礼 拝 し た 。 彼 女 は そ の 山 の ふ も と に 立 つ と 、 [44. a] 「 復 活
の日、人々はここから楽園と地獄とに分かれていくのです」と言った。
彼女はメディナで亡くなり、バキーゥに埋葬された。
タ ー ビ ウ ー ン に つ い て は 、 彼 ら の 中 に は ウ ワ イ ス ・ カ ル ニ ー Uways al-Qarnī が い る 。 神 の
使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― は ウ マ ル に 、彼( ウ ワ イ ス )が 彼 ら の た め に 神 に 赦 し
を 請 う こ と を 頼 む よ う に 命 じ た 。ウ マ ル は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に て 彼 と 面 会 し た と も 言 わ
れ て い る 。 ま た 2 人 は マ ウ シ ム の 時 期 に 会 っ た と も 言 わ れ て い る 。 す る と 彼 は ウ マ ル に 、「 私
は ハ ッ ジ と ウ ム ラ を 行 い 、ま た 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の モ ス ク に て 礼 拝
を 行 い ま し た 。〔 こ の 上 は 〕 私 は ア ク サ ー ・ モ ス ク で 礼 拝 し た く 思 い ま す 」 と 言 っ た 。 そ こ で
ウ マ ル は 彼 の 準 備 を 整 え 、彼 の 持 ち 物 に 気 を 配 っ て や っ た 。彼 は ア ク サ ー ・ モ ス ク を 訪 れ 、そ
こで礼拝した。
そ の 後 彼 は ク ー フ ァ を 訪 れ た 。〔 そ こ か ら 〕 彼 は ガ ー ズ ィ ー と し て ア ル メ ニ ア 国 境 へ と 出 陣
し た 。 彼 は 腹 を 負 傷 し て 、 ハ イ マ Khayma の 民 の も と に 逃 げ て き た 。 彼 は 彼 ら の も と で 没 し
た 。 彼 は 袋 と 弓 を 持 っ て い た 。 ハ イ マ の 人 々 は 、 彼 ら の う ち の 2 人 の 人 に 、「 行 っ て 彼 の た め
287
に 墓 を 掘 っ て あ げ な さ い 」と 言 っ た 。 彼 ら は「 彼 の 袋 の 中 を 見 て み よ う 」 と 言 っ た 。 す る と そ
の 中 に は 2 枚 の 服 が 入 っ て い た が 、そ れ ら は こ の 世 の 服 で は な か っ た 。例 の 2 人 の 人 々 も や っ
て き て 、「 私 た ち は 岩 に 墓 を 掘 り ま し た が 、 直 後 に 手 が そ こ か ら 伸 び 上 が っ て き ま し た 」 人 々
が彼に経帷子を着せて埋葬し、顔を向けると、そこには何も見えなかった。
彼 は ス ィ ッ フ ィ ー ン の 戦 い の 際 に い な く な っ た と も 言 わ れ て い る 。ま た 、彼 は ダ マ ス カ ス で
死に、そこに埋葬されたとも言われている。
ウ バ イ ド ʽUbayd: 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に お け る ウ マ ル の 工 人 で あ っ た 。 か つ て バ
イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス で 疫 病 が 起 こ っ た と き 、多 く の 棺 が 洗 わ れ だ し た が 、彼 は そ れ ら の た め
に祝福を請うた。若者だけがそれらの棺を担いだ。
ヤ ァ ラ ー ・ ブ ン ・ サ ア ド Yaʽlā b. Saʽd: ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ル ハ ッ タ ー ブ が ヒ ム ス に て 、 彼
に町の整備を頼んだ。
ウ マ イ ル ・ ブ ン ・ シ ャ ッ ダ ー ド ʽUmayr b. Shaddād: 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に い た 。
ア ブ ー ・ ヌ ア イ ム Abū Nuʽaym: 彼 は ム ア ッ ズ ィ ン で 、 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に て ア ザ ー
ンを行った人物である。彼の後ろで、ウバーダ・ブン・アッサーミトがスブフ礼拝を行った。
ア ブ ー ・ ア ッ ズ バ イ ル Abū al-Zuba yr : バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の ム ア ッ ズ イ ン 。 彼 曰 く 、
「 我 々 の も と に ウ マ ル が や っ て き て 言 っ た 。『 お 前 が ア ザ ー ン を す る と き は 、 ゆ っ く り と 行 う
よ う に 。 行 う と き は 確 実 に 行 う よ う に 』」 ま た 別 の 話 で は 、〔 ウ マ ル は 〕「 注 意 す る よ う に 」 と
言った。
ア ブ ー・サ ラ ー ム・ハ バ シ ー Abū Salām al-Ḥaba shī:彼 は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ 、
ウ バ ー ダ ・ ブ ン ・ ア ッ サ ー ミ ト の も と で 学 び 、 彼 か ら 伝 承 を 聞 き 伝 え て い た 。 彼 曰 く 、「 私 は
バイト・アルマクディスを訪れると、ウバーダ・ブン・アッサーミトのもとに滞在していた。
私 が あ る 日 彼 の 住 ま い に 行 く と 、彼 は 不 在 で あ っ た 。そ こ で 私 は モ ス ク に 向 か っ た の だ が 、
〔そ
こ で 〕 彼 と カ ァ ブ が 座 っ て い る の を 見 つ け た 。 60 年 の こ と で あ る が 、 [44. b] カ ァ ブ は 『 財 産
を 持 っ て い る 者 に は そ れ を 集 め さ せ 、妻 を 持 っ て い る 者 に は 彼 女 を 離 縁 さ せ 、独 り 身 の 者 に は
結 婚 さ せ る な 。 こ れ よ り 後 に 生 ま れ た 者 に 、 良 い こ と は 起 こ ら な い の だ か ら 』」 ア ブ ー ・ サ ラ
ー ム は ヒ ム ス か ら ダ マ ス カ ス へ と 移 住 し て 、「 こ こ で は 祝 福 が 2 回 2 倍 に な っ た 」 と 言 っ た 。
ア ブ ー ・ ジ ャ ア フ ァ ル ・ ジ ャ ラ シ ー Abū Jaʽfar al -Jarashī: 彼 か ら は 次 の よ う に 伝 え ら れ て
288
い る 。 彼 曰 く 、「 私 は 、 ウ バ ー ダ ・ ブ ン ・ ア ッ サ ー ミ ト と と も に バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の モ
ス ク に 入 っ た 」す る と 彼 は 、あ る 人 が サ ン ダ ル を 彼 の 右 に 、あ る い は 左 に 脱 い で 礼 拝 し て い る
の を 見 た 。 そ こ で 彼 は 言 っ た 。「 あ な た が あ な た の 主 に 秘 密 を 告 白 し て い る の で な け れ ば 、 こ
の 杖 を 使 っ て 頭 を 高 く 掲 げ な さ い 。あ な た は ま る で 啓 典 の 民 の よ う な こ と を し て い る で は な い
か」
ハ ー リ ド ・ ブ ン ・ マ ァ ダ ー ン ・ カ ラ ー イ ー Khalīd b. Maʽ dān al -Kalāʽī: 彼 は 1 日 に 4 万 回
「 神 に 栄 光 あ れ Subḥāna Allāh 」 の 句 を 唱 え て い た 。 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に や っ て き
て、そこから 6 ミールのところに居留した。彼はそこで 5 回の礼拝は行わなかった。
ウ ン ム ・ ア ッ ダ ル ダ ー ・ フ ジ ャ イ マ Umm al-Dardāʼ Huja yma : 彼 女 曰 く 、「 私 は 神 へ の 奉
仕 を 行 い た い と 思 い ま し た が 、ウ ラ マ ー と 交 際 し た り 、彼 ら と 暗 唱 の 会 を 持 っ た り す る こ と 以
上 に 健 全 な こ と は あ り ま せ ん で し た 」彼 女 は 他 の 女 性 た ち と と も に 、神 に 仕 え て い た 。彼 女 た
ちはずっと立っていることができなかったので、綱に寄りかかっていた。
彼 女 は ダ マ ス カ ス か ら バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に 行 っ て い た 。彼 女 が 山 地 を 通 り 過 ぎ る と き 、
彼 女 の 案 内 人 が「 私 は こ の 山 々 が 、そ の 主 が そ れ ら に お 約 束 な さ っ た と こ ろ の も の で あ る と 聞
い て お り ま す 」 そ し て 彼 は 次 の 句 を 読 ん だ 。〈 人 々 は 、 山 に つ い て 汝 に 尋 ね る で あ ろ う 。 言 っ
て や れ 、「 主 は そ れ ら を 粉 砕 し 給 う で あ ろ う 。 そ し て 坦 々 た る 平 野 に し て お き 給 う 。 そ こ に は
ひ ず み も 高 低 も 見 ら れ な い 」〉 (Q20:10 5-107) 〈 我 ら が 山 々 を 引 き 抜 く 日 、 汝 は 大 地 が せ り 出
す の を 見 る で あ ろ う 。そ し て 我 ら は 人 々 す べ て を 呼 び 集 め 、そ の う ち の 一 人 を も 残 す こ と は な
い 〉 (Q18:47)
彼 女 は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に て 、貧 者 た ち と と も に 座 っ た 。彼 女 は そ こ で 1 年 の 半 分 を
過ごし、ダマスカスで 1 年の半分を過ごしていた。
ア ブ ー ・ ア ル ア ッ ワ ー ム Abū al-ʽAwwām: 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の ム ア ッ ズ ィ ン で
あ っ た 。ア ブ ド・ア ッ ラ ー・ブ ン・ア ム ル・ブ ン・ア ル ア ー ス よ り 伝 え ら れ て い る と こ ろ で は 、
ク ル ア ー ン の 中 で 述 べ ら れ て い る と こ ろ の 壁 と は 、バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 壁 の こ と で あ る
〔 と ア ブ ー ・ ア ル ア ッ ワ ー ム は 言 っ た 〕。
ク バ イ ダ ・ ブ ン ・ ズ ワ イ ブ Qubayḍa b . Dhuwayb、 ア ブ ド ・ ア ッ ラ フ マ ー ン ・ ブ ン ・ ム ハ
イ リ ー ズ ʽAbd al-Raḥmān Mu ḥayrīz、 ハ ー ニ ー ・ ブ ン ・ ク ル ス ー ム Hānī b. Kulthūm: 彼 ら
は皆、アービドでありザーヒドであった。クバイダは神学者であった。
イ ブ ン ・ ム ハ イ リ ー ズ は ク ラ イ シ ュ 族 の 出 で 、 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 居 留 し て い た 。ラ
ジ ャ ー・ブ ン・ハ イ ワ 曰 く 、
「 メ デ ィ ナ の 民 が 我 々 に 向 か っ て 、彼 ら の ア ー ビ ド で あ る イ ブ ン ・
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ウ マ ル の こ と を 自 慢 し て き た 。そ こ で 我 々 は 、我 ら が ア ー ビ ド で あ る イ ブ ン ・ム ハ イ リ ー ズ の
こ と を 自 慢 し て や っ た 。 [45. a] と 言 っ て も 私 は 、 彼 が 大 地 の 民 を 安 ん じ る 者 と し て 存 在 し て
いることを述べただけであるが」
ハ ー ニ ー に つ い て は 、彼 の も と に パ レ ス チ ナ の ア ミ ー ル 位 が 下 さ れ た こ と が あ っ た が 、彼 は
そ れ を 拒 否 し て 言 っ た 。「 そ の 3 人 が 、 ラ ム ラ か ら バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 向 け て の 礼 拝 を
制限しているのだ」
ム ハ ー リ ブ・ブ ン・デ ィ サ ー ル Muḥārib b. Dithār:彼 は カ ー デ ィ ー で あ り 、ま た ウ ラ マ ー 、
ザ ー ヒ ド の ひ と り で あ っ た 。彼 の ハ デ ィ ー ス は 、様 々 な ウ ラ マ ー の 書 に 引 用 さ れ て い る 。彼 曰
く、
「 私 は カ ー ス ィ ム・ブ ン・ア ブ ド・ア ッ ラ フ マ ー ン al -Qāsim b. ʽAbd al -Raḥmān と と も に 、
バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ ス へ と 向 か っ た 。そ し て 我 々 は 3 つ の こ と を 達 成 し た 。夜 を 徹 し て 勤 行
す る こ と と 、〔 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の た め に 〕 費 用 を 潤 沢 に 使 う こ と 、 そ し て 人 々 か ら 離
れて勤行に努めることである」
ア ブ ド・ア ル マ リ ク・ブ ン・マ ル ワ ー ン :彼 は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 岩 の ド ー ム を 建 設
し た 者 で あ る 。ア ブ ー ・ フ ラ イ ラ よ り 、次 の よ う に 伝 え ら れ て い る 。神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福
と 平 安 を 与 え 給 え ― 曰 く 、「 ガ ズ ワ を 行 わ ず 、 ま た は ガ ー ズ ィ ー と し て 努 め も せ ず 、 家 族 の 中
に後継者を残すこともしない者には、神が破滅を下されるであろう」
彼 は 会 え ば 優 れ た 人 物 で 、語 れ ば 優 れ た 語 り 手 で あ り 、重 み の な い 話 で あ っ て も よ く 耳 を 傾
け た 。人 に 反 目 さ れ る よ う な こ と が あ っ て も 、彼 の 理 性 と 宗 教 を 重 ん じ よ う と し な い 者 を 馬 鹿
に し た り 、悪 意 を も っ て 反 論 し た り 、自 分 に で き る こ と を べ ら べ ら と し ゃ べ っ た り は し な か っ
た。
彼 は あ る と き 岩 の 側 に 、ウ ン ム・ ア ッ ダ ル ダ ー と と も に 座 っ て い た 。そ の と き マ グ リ ブ 礼 拝
の 呼 び か け が あ っ た 。す る と 彼 女 は 彼 に 寄 り か か っ て 立 ち 上 が り 、彼 は 彼 女 を 女 性 の 礼 拝 所 へ
と入らせた。彼は去り、人々の先頭に立って礼拝した。
ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー ・ ブ ン ・ フ ァ イ ル ー ズ ʽAbd Allāh b. Fa yrūz: 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ
ス の 出 で あ り 、〔 伝 承 に お い て 〕 信 頼 の お け る 人 物 で あ っ た 。 ア ブ ー ・ ダ ー ウ ー ド や ア ン ナ サ
ーイー、イブン・マージャが彼のハディースを引用している。
ズ ィ ヤ ー ダ ・ ブ ン ・ ア ビ ー ・ サ ウ ダ Ziyāda b. Abī Sawda : ウ バ ー ダ ・ ブ ン ・ ア ッ サ ー ミ ト
と ア ブ ー・フ ラ イ ラ よ り 、
〔 伝 承 に お い て 〕彼 は 信 頼 の お け る 人 物 で あ っ た と 伝 え ら れ て い る 。
ア ブ ー ・ ア ル ハ サ ン ・ ナ フ ラ ワ ー ニ ー ・ ア ン ダ ル ス ィ ー Abū al-Ḥa san al-Nahrawānī
290
al-Andalsī : 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 住 ん で い た 。 あ る 人 が 彼 に 尋 ね て 、「 ア ブ ー ・ バ
ク ル よ 、夜 の 勤 行 を す る べ き 人 が そ れ を 放 棄 し て 、そ の 後 再 び 戻 っ て き た と し た ら 、あ な た は
どう思われますか?
彼 は そ れ に 努 め る べ き で し ょ う か 、そ れ と も そ う は で き な い の で し ょ う
か?」と言った。すると彼は次のような詩を言い出した。
お前たちは我々から離れて、我々以外の者と交際した
我 々 が そ う で あ る 限 り 、 お 前 た ち は ハ ジ ャ ラ ー ン al-Hajar ān を 知 ら し め た
イ ブ ラ ー ヒ ー ム ・ ブ ン ・ ム ハ ン マ ド Ibrāhīm b. Muḥa mma d: 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス
に居留していた。彼のハディースは、イブン・マージャの書に入っている。
ア ブ ー ・ ウ ヤ イ ナ ・ ハ ワ ー ス Abū ʽUyayna al -Khawā ṣ: 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪
れ た 。 彼 は 〔 伝 承 の 伝 達 に お い て 〕 信 頼 で き る 人 物 で あ っ た 。 彼 曰 く 、「 私 は バ イ ト ・ ア ル マ
ク デ ィ ス に て 、炎 に 包 ま れ て い る か の よ う な シ ャ イ フ に 会 っ た 。彼 は 黒 い 鎧 を 着 て 、ず っ と 黙
り こ ん で い た 。 彼 は 見 る に 堪 え な い よ う な 格 好 で 、 毛 深 く 、 ひ ど く 悲 し ん で い た 。 [45. b] 私
は 彼 に 、「 そ の 服 を お 取 り 換 え に な っ た ら 、 神 も あ な た を 憐 れ ん で 下 さ る か も し れ ま せ ん よ 。
白 が い い こ と は ご 存 じ で し ょ う 」 と 言 っ た 。 す る と 彼 は 泣 き 、「 こ れ は 不 幸 に 見 舞 わ れ た 者 の
服 と 同 じ も の な の だ 。 我 々 は 現 世 に お い て 、嘆 き の 中 に い る の だ 。 ま る で 我 々 が〔 そ れ を 〕 祈
願したかのように」と言ってから気を失った。
バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 中 の あ る 村 に い る ア ー ビ ド:そ の 人 は サ ウ ル・ブ ン・ヤ ズ ィ ー ド
Thawrb.Yazīd と と も に 座 っ て い た 。 彼 は 夜 明 け と と も に 自 分 の 村 か ら 出 て き て 、 バ イ ト ・ ア
ル マ ク デ ィ ス に て 5 回 の 礼 拝 す べ て を 行 い 、最 後 の イ シ ャ ー 礼 拝 の 後 に 自 分 の 村 に 帰 っ て い く
のであった。
ハ ー リ ド ・ ブ ン ・ マ ァ ダ ー ン ・ カ ラ ー イ ー は 、預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の
由 来 す る ハ デ ィ ー ス に よ っ て 、 彼 の こ と を 伝 え て い る 。 曰 く 、「 な に か 恐 ろ し い 、 あ る い は 怯
えるようなことを見た者は、
『 ま こ と に 神 は 比 べ る も の と て な き 方 、唯 一 に し て 全 能 の 方 な り 』
と 唱 え る が よ い 。そ れ を 唱 え た 者 は 、た と え 彼 の 目 の 前 に 鉄 の 壁 が あ ろ う と も 、神 が 彼 の 不 安
を取り除いて下さる」さてその人がある夜道を歩いていると、彼の目の前にライオンが現れ、
進 む こ と が で き な く な っ て し ま っ た 。そ こ で 彼 は ハ ー リ ド の ハ デ ィ ー ス を 思 い 出 し 、そ れ を 唱
え た 。す る と 神 が 彼 の 不 安 を 取 り 除 い て 下 さ っ た 。さ ら に 彼 が 行 く と 、ロ バ の 前 に 猛 獣 が 口 を
開 い て い る と こ ろ に 行 き 当 た っ た 。猛 獣 の 口 か ら は 炎 が 噴 き 出 し て お り 、ロ バ を 食 べ よ う と し
て い た 。彼 は そ こ で 例 の ハ デ ィ ー ス を 思 い 出 し 、そ れ を 唱 え た 。そ し て 彼 は「 お 前 も 知 っ て い
るように、神は雄牛を憐れみ給うことはないのだ」と言って、そのロバを自分のものとした。
291
ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー ・ ブ ン ・ ア ー ミ ル ・ ア ー ミ リ ー ʽAbd Allāh b. ʽĀmir al-ʽĀmirī: 彼 曰 く 、
「 私 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に て あ る 修 道 士 に 尋 ね て 、『 修 道 士 よ 、 神 へ の 奉 仕 の 中 に 最 初
に 入 る も の と は 何 で す か ? 』と 言 っ た 。彼 は『 飢 え で す 』と 言 っ た 。私 が 『 そ の 証 拠 は な ん で
す か ? 』 と 言 う と 、 彼 は 、『 な ぜ な ら 体 は 土 よ り 創 造 さ れ 、 魂 は 天 の 王 国 よ り 創 造 さ れ た か ら
で す 。体 は 大 地 に 伸 び る 柱 に は 満 足 し て い て も 、そ の 王 国 を 恋 い 慕 う こ と に は 満 足 し き っ て は
い ま せ ん 』 と 言 っ た 。私 が『 な ぜ 飢 え な の で す か ? 』 と 言 う と 、彼 は『 ズ ィ ク ル や 謙 遜 に 付 随
するものだからです』と言った」
ア ブ ー ・ ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー ・ ブ ン ・ ハ フ ィ ー フ Abū ʽAb d Allāh b. Khafī f : 彼 は シ ー ラ ー ズ
に 出 向 き 、〔 さ ら に 〕 メ ッ カ に 行 っ た 後 、 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 行 き 、 そ し て シ リ ア に 入
った。
カ ス ム・ザ ー ヒ ド Qathm al-Zāhid:彼 曰 く 、
「 私 は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 門 の と こ ろ で 、
ひ と り の 修 道 士 を 見 か け た 。彼 は 恍 惚 と し て い る 風 で あ っ た が 、涙 を 流 し て は い な か っ た 。私
は 彼 の 様 子 を 恐 ろ し く 思 っ て 言 っ た 。『 修 道 士 殿 、 私 に 何 か 、 あ な た か ら 伝 え て 記 憶 し て お く
べ き ご 助 言 を 頂 け ま せ ん か 』 す る と 彼 は 言 っ た 。『 獣 や 虫 に 追 い か け ら れ て い る よ う な 人 で あ
り な さ い 。恐 れ や 怯 え を 持 ち な が ら 、ぼ ん や り し て い た ら 獣 に 食 い 殺 さ れ 、不 注 意 で あ れ ば 獣
に 咬 み つ か れ る こ と を 恐 れ る 者 の よ う に 。 [46. a] そ う す れ ば 、 目 の 眩 ん だ 者 た ち が 安 寧 を 見
出 す 夜 も 、彼 に と っ て は 怯 え の 夜 と な り 、怠 け 者 た ち が 楽 し み を 見 出 す 昼 も 、彼 に と っ て は 悲
し み の 昼 と な る 』 そ う し て 彼 は 向 こ う を 向 き 、 私 に 構 わ な く な っ た 。私 が 『 あ な た が 私 に 、た
め に な る よ う な こ と を も っ と た く さ ん 話 し て 下 さ っ た な ら 』 と 言 う と 、 彼 は 、『 こ の 渇 い た 者
には、彼を豊かにしてくれる水で十分だろう』と言った。
ム ハ ン マ ド ・ ハ ー テ ィ ム ・ タ ー イ ー Muḥamma d Ḥāit m al-Ṭāʼī: 彼 は 2 聖 地 の フ ァ キ ー フ を
務 め た 。彼 は 誠 実 で 善 良 で あ り 、フ ァ キ ー フ で あ り ス ー フ ィ ー で あ っ た 。彼 は バ イ ト ・ ア ル マ
クディスに入った。
ア ブ ー ・ ム ハ ン マ ド ・ ブ ン ・ ア ル ワ リ ー ド Abū Muḥammad b . al-Walī d: 彼 は バ イ ト ・ ア
ル マ ク デ ィ ス に 入 っ た 。 彼 曰 く 、「 ア ブ ー ・ ム ハ ン マ ド ・ ブ ン ・ ア ビ ー ・ ヤ ズ ィ ー ド Abū
Muḥammad b. Ab ī Yazīd が 我 々 に 次 の よ う に 伝 え た 。 善 行 の 作 法 と そ の 現 れ は 、 預 言 者 ― 神
よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― が 言 っ た 4 つ の ハ デ ィ ー ス の 中 に 集 め ら れ て い る 。『 神 と 終 末
の 日 を 信 じ る 者 は 、良 い こ と の み を 語 る か 、さ も な く ば 黙 っ て い る が よ い 』、
『人間がイスラー
ム に 入 る こ と を 良 い こ と と 思 う 者 は 、彼 と 関 わ り の な い こ と と は 離 れ ね ば な ら な い 』、
『怒って
292
は な ら な い 』、『 信 徒 は そ の 兄 弟 の た め に 、 自 分 自 身 の 望 む も の を 望 ん で や れ 』」
イブン・アルワリードは、バイト・アルマクディスにて亡くなった。
ジ ャ ァ フ ァ ル ・ ブ ン ・ ム ハ ン マ ド ・ ニ サ ー ブ ー リ ー Jaʽfar b. Muḥammad al -Nisāb ūrī: 彼
は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ た 。ビ ラ ー ル ・ ブ ン ・ サ ァ ド Bil āl b. Saʽd に 由 来 す る 彼 の イ
ス ナ ー ド に よ っ て 、 次 の よ う に 伝 え ら れ て い る 。「 罪 の 小 さ い こ と に 目 を 向 け る な 。 お 前 が 逆
らった者に目を向けよ」
カァブ・アルアフバール:彼はシリアに住んでいた。彼がバイト・アルマクディスに入り、
ウマルにキブラの場所を示したことについては前述した。彼はヒムスで没した。
イ ブ ラ ー ヒ ー ム・ブ ン・ア ビ ー・ア ブ ラ・マ ク デ ィ ス ィ ー Ibrāhīm b. Abī ʽAbla al -Maqdi sī :
彼 は ア ブ ー ・ ウ マ ー マ と ア ナ ス よ り 伝 承 を 伝 え て い る 。ま た マ ー リ ク と イ ブ ン・ ア ル ム バ ー ラ
クが、彼より伝承を伝えている。
ジ ュ バ イ ル ・ ブ ン ・ ヌ フ ァ イ ル ・ ハ ド ラ ミ ー Jubayr b. Nufayl al -Ḥaḍramī : 彼 は 礼 拝 の た
め に 、 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に や っ て き た 。 ジ ュ バ イ ル 曰 く 、「 醜 い 性 質 に は 5 つ が あ る 。
ス ル タ ン が 激 し や す い こ と 、ウ ラ マ ー が 貪 欲 で あ る こ と 、シ ャ イ フ が 無 慈 悲 で あ る こ と 、金 持
ちが吝嗇であること、高名な者が恥知らずであることである」
ア ブ ド ・ ア ッ ラ フ マ ー ン ・ ブ ン ・ ガ ナ ム :彼 は 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の
時 代 の ム ス リ ム で あ っ た が 、預 言 者 の も と を 訪 れ て は い な い 。し か し な が ら 彼 は 、神 の 使 徒 ―
神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― が ム ア ー ズ〔 ・ ブ ン ・ ジ ャ バ ル 〕 を イ エ メ ン に 派 遣 し て 、そ
れ か ら ム ア ー ズ が 死 ぬ ま で の 間 、 彼 と 交 流 が あ っ た 。ま た 彼 は 、ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ル ハ ッ タ ー
ブとも話をしている。
彼 は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ た 。彼 は シ リ ア の タ ー ビ ウ ー ン の フ ァ キ ー フ と な っ た 人
であった。
ハ ー リ ド : 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 岩 〔 の ド ー ム 〕に い た と き 、ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ブ
ド・ア ル ア ズ ィ ー ズ が や っ て き て 、手 で 彼 を 掴 ん で 、
「 ハ ー リ ド よ 、ど う し た の か 」と 言 っ た 。
[46. b] 彼 は 「 あ な た 方 に は 、 神 の よ く 聞 こ え る 耳 と よ く 見 え る 目 が 必 要 で す 」 と 言 っ た 。 す
る と ウ マ ル は 至 高 な る 神 を 恐 れ て 身 ぶ る い し 、そ の 手 を 離 し た 。す る と ハ ー リ ド は「 こ の 人 は
公 正 な イ マ ー ム も 同 然 だ 」と 言 っ た 。ハ ー リ ド は 最 後 に は 自 宅 に 引 き 籠 る よ う に な っ て 、
「人々
の中には妬む者か、他人の不幸を喜ぶ者しか残っ てはいない」と言った。
293
ハ ー リ ド は 90 年 に 亡 く な っ た 。
公 正 な る イ マ ー ム 、ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ブ ド ・ ア ル ア ズ ィ ー ズ : 彼 が 前 述 の ハ ー リ ド と 会 話 を
交 わ し た こ と は 前 述 し た 。 イ ブ ン ・ ス ィ ー リ ー ン Ib n Sīrīn ― 神 よ 彼 を 憐 れ み た ま え ― 曰 く 、
「 ス ラ イ マ ー ン ・ ブ ン ・ ア ブ ド ・ ア ル マ リ ク は そ の カ リ フ 位 を つ つ が な く 始 め た 。彼 は 在 位 中
の と き ど き に 礼 拝 を 行 い 、カ リ フ 位 を つ つ が な く 終 え た 。そ し て ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ブ ド ・ ア ル
アズィーズを後継者として指名した。
マ ー リ ク・ブ ン・デ ィ ー ナ ー ル Mālik b. Dīnār:彼 は イ マ ー ム で あ り 権 威 あ る 人 々 の ひ と り
である。彼とムハンマド・ブン・ワースィゥ、アブド・アルワリード・ブン・ザイドは道中で
行 き あ い 、〔 と も に 〕 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 向 か っ た 。
ム ハ ン マ ド ・ ブ ン ・ ワ ー ス ィ ゥ Muḥamma d b. Wāsiʽ : 前 述 の 人 物 で あ る が 、 彼 か ら は 次 の
よ う な こ と が 伝 え ら れ て い る 。 彼 は 毎 日 、 次 の よ う な 祈 願 を 行 っ て い た 。「 お お 神 よ 、 あ な た
は 敵 を も っ て 我 々 を 支 配 せ し め 、我 々 の 恥 を よ く 見 通 し 、我 々 の 弱 さ を よ く 知 っ て お い で で す 。
彼 や 彼 の ご と き 者 は 、我 々 が 彼 ら を 見 る こ と が で き な い 場 所 か ら 、我 々 を 見 て い ま す 。お お 神
よ 、あ な た が あ な た の 恩 寵 を 彼 か ら 引 き 離 し 給 う た よ う に 、彼 を 我 々 か ら 引 き 離 し 給 え 。あ な
た が あ な た の お 赦 し か ら 彼 を 失 わ せ 給 う た よ う に 、彼 を 我 々 か ら 失 わ せ 給 え 。あ な た が あ な た
の楽園から彼を遠ざけ給うたように、彼を我々の間から遠ざけ給え」
次 の よ う に も 言 わ れ て い る 。あ る 日 彼 の 前 に 悪 魔 ― 神 よ 彼 を 呪 い 給 え ― が 、老 人 の 姿 を と っ
て 現 れ た 。 悪 魔 は 彼 に 、「 イ ブ ン ・ ワ ー ス ィ ゥ よ 、 あ な た が 毎 日 唱 え て い る そ の 祈 願 は 何 な の
ですか?
私 の 前 で 繰 り 返 し て み て 下 さ い 」と 言 っ た 。そ こ で 彼 は 悪 魔 に そ れ を 語 っ た 。彼 が
語 り 終 え る と 、 悪 魔 は 彼 に 言 っ た 。「 イ ブ ン ・ ワ ー ス ィ ゥ よ 、 私 は あ な た に 誓 約 を 課 す が 、 あ
な た は こ の 祈 願 を 決 し て 誰 に も 教 え て は な ら な い 」す る と ム ハ ン マ ド・ ブ ン ・ワ ー ス ィ ゥ は 悪
魔 に 言 っ た 。「 お 前 に は 神 と の 誓 約 が あ る だ ろ う 。 私 が 生 き て い る 限 り 、 私 は 神 の 被 造 物 の 誰
からもこれを隠さないという誓約が」
ワ リ ー ド・ブ ン・ア ブ ド・ア ル マ リ ク:彼 は ダ マ ス カ ス の モ ス ク と ヒ ム ス の モ ス ク を 建 設 し 、
バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 整 備 し た 。 イ ブ ラ ー ヒ ー ム ・ ブ ン ・ ア ビ ー ・ ア ブ ラ 曰 く 、「 神 が ア
ル ワ リ ー ド を 憐 れ み 給 わ ん こ と を 。ワ リ ー ド の よ う な も の が ど こ に い る だ ろ う か 。彼 は ダ マ ス
カ ス の 教 会 を 破 壊 し て 、そ の 場 所 に モ ス ク を 建 設 し た 。彼 は 私 に 銀 の 杯 を 与 え 、そ れ を バ イ ト・
アルマクディスのクルアーン読誦者の間で分けさせた」
ス ラ イ マ ー ン・ブ ン・ア ブ ド・ア ル マ リ ク:彼 は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ た 、使 節 団
294
も 、バ イ ア の た め に そ こ に や っ て き た 。[47. a] 彼 は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 中 庭 の 、岩〔 の
ド ー ム 〕に 繋 が る と こ ろ に 座 り 、ド ー ム の 前 に 絨 毯 を 敷 い て 、そ の 上 に ク ッ シ ョ ン と 椅 子 を 置
い た 。そ し て 彼 は〔 そ こ に 〕座 り 、人 々 の た め に ア ザ ー ン を 行 っ た 。彼 ら は そ の 椅 子 や ク ッ シ
ョ ン の 上 に 座 っ た 。彼 の 隣 に は 様 々 な 財 物 と デ ィ ー ワ ー ン の 書 が あ っ た 。彼 は か つ て バ イ ト ・
ア ル マ ク デ ィ ス に 居 住 し 、そ こ を 住 ま い と し て 使 う こ と を 考 え て い た 。彼 は そ こ に 財 物 と 人 々
を 集 め た 。 彼 は 教 友 の ア ブ ー ・ ハ ー ズ ィ ム Abū Ḥāzim と 語 り 合 い 、 彼 に 質 問 し 、 彼 に 忠 告 し
た。彼はズフリーとも語りあった。
ウ ン ム ・ ア ル ハ イ ル ・ ラ ー ビ ア ・ ア ダ ウ ィ ー ヤ Umm al-Khayr Rābiʽ al-ʽAda wīya: 彼 女 は
そ の 時 代 の 著 名 な 人 々 の ひ と り で あ り 、彼 女 の 正 し さ や 神 へ の 奉 仕 に 関 す る 様 々 な 善 行 は 有 名
で あ る 。 彼 女 は 神 に 語 り か け る 中 で 、「 我 が 神 よ 、 あ な た は あ な た を 愛 す る 心 を 、 炎 で 焼 き 尽
く さ れ ま す 」 と 言 っ て い た 。 す る と あ る と き 、 彼 女 に 叫 び 声 が 聞 こ え た 。「 我 々 は そ の よ う に
はしない。そうすれば汝は我々のことを悪く思うこともないであろう」
彼 女 の 箴 言 に は 、「 あ な た が た が 自 身 の 悪 行 を 隠 そ う と す る よ う に 、 自 身 の 善 行 を 隠 し な さ
い」というものがある。
ス フ ラ ワ ル デ ィ ー al -Suhr award ī は 『 知 識 の 贈 り 物 ʽAwār if al-Maʽ ārif』 の 中 で 、 彼 女 に つ い
て次のように引用している。
私はあなたを、心の中の我が語り手とした
私は私を座らせてくれる人に、我が体を与える
そして我が体はその友に親しむ
我が心の恋人は、心の中の我が親しき友なり
彼 女 の 墓 は オ リ ー ブ 山 の 、イ エ ス ― 彼 に 平 安 あ れ ― 昇 天 の 場 所 の 南 側 近 く の ザ ー ウ ィ ヤ の 中
に あ り 、階 段 に よ っ て 彼 女 の 方 に 下 っ て い け る 。そ こ は 人 々 に 良 く 知 ら れ て い る 場 所 で 、参 詣
の目的地となっている。
女 性 た ち の 中 に は 、 タ ー イ ア Ṭ āʽia や ル バ ー バ L ubāb a、 そ の 他 多 く の 名 前 の わ か ら な い 、
バイト・アルマクディスで神に奉仕する者たちがいる。
ス ラ イ マ ー ン ・ ブ ン ・ タ ル ハ ー ン Sulaymān b. Ṭarkhān : 彼 は あ る 人 が 次 の よ う に 言 っ て
い る の を 聞 い た 。「 私 が バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 入 っ た と き 、 私 の 魂 は 、 私 が 〔 そ こ か ら 〕
出ていくまで、私と一緒に入ってはこなかった」
ム カ ー テ ィ ル ・ ブ ン ・ ス ラ イ マ ー ン : 彼 は ク ル ア ー ン 解 釈 家 で あ っ た 。彼 は バ イ ト ・ ア ル マ
295
ク デ ィ ス を 訪 れ 、そ こ で 5 回 の 礼 拝 を 行 い 、岩〔 の ド ー ム 〕の 南 門 の 側 に 座 っ た 。す る と 彼 の
も と に 多 く の 人 々 が 集 ま っ て 来 て 、彼 か ら 話 を 聞 い て そ れ を 書 き 留 め て い た 。す る と そ こ に ひ
と り の ベ ド ウ ィ ン が 、石 畳 の 上 に サ ン ダ ル を 乱 暴 に 踏 み 鳴 ら し な が ら 近 づ い て き た 。ム カ ー テ
ィ ル は そ れ を 聞 く と 、周 囲 に い る 人 々 に「 前 を 開 け て 下 さ い 」と 言 っ た 。人 々 が 彼 の 前 を 開 け
る と 、 彼 は 手 を そ の 人 の 方 に 伸 ば し 、 声 を 大 き く し て 言 っ た 。「 足 を 踏 み な ら す 者 よ 、 自 分 自
身 を 慎 み な さ い 。ム カ ー テ ィ ル の 魂 が そ の 手 の う ち に あ る 方 に か け て 、お 前 が 踏 み 鳴 ら し て い
るのは、楽園の囲いの上に他ならない」
シ ャ ー フ ィ イ ー ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― 曰 く 、[47. b]「 人 は 3 つ の も の に 頼 っ て い る 。ク ル
ア ー ン 解 釈 に お い て は ム カ ー テ ィ ル ・ ブ ン ・ ス ラ イ マ ー ン 、 そ し て あ と 2 人 の 者 の 言 26に 」
イ ブ ラ ー ヒ ー ム ・ ク ル バ ー ニ ー Ibrāhīm al-Qurbānī : 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 居 留
した。彼のハディースは、イブン・マージャの書の中に入っている。
ア ブ ド ッ ラ フ マ ー ン ・ ブ ン ・ ウ マ ル ・ ア ウ ザ ー イ ー ʽAbd al-Raḥmān b. ʽUmar al-Awzāʽī:
彼 は シ ャ ー ム の フ ァ キ ー フ で あ り 、知 識 と 神 へ の 奉 仕 に お け る 長 で あ っ た 。彼 は バ イ ト ・ ア ル
マ ク デ ィ ス を 訪 れ 、岩 が 彼 の 後 ろ に 来 る と こ ろ で 8 回 の ラ ク ア の 礼 拝 を 行 っ た 後 、5 回 の 礼 拝
を 行 っ た 。 彼 曰 く 、「 ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ブ ド ・ ア ル ア ズ ィ ー ズ が 、 か つ て こ の よ う に し て い た
のである」彼は〔その他の〕参詣場所には行かなかった。
私( 著 者 )は 言 う が 、彼 は ベ イ ル ー ト に 埋 葬 さ れ た 。彼 は ハ ン マ ー ム に 入 っ て い る と き に 亡
くなった。
ス フ ヤ ー ン・ サ ウ リ ー :彼 は 公 正 な る イ マ ー ム で あ り 、尊 厳 と 節 度 と 敬 虔 さ を 併 せ 持 っ て い
た 。彼 は〔 ア ク サ ー・ 〕モ ス ク を 訪 れ 、集 団 礼 拝 の 場 所 で 礼 拝 し た 。ま た 同 地 で 岩〔 の ド ー ム 〕
に も 行 き 、そ こ で ク ル ア ー ン を 読 み 通 し た 。彼 は バ ナ ナ を 1 デ ィ ル ハ ム で 買 い 、岩 の ド ー ム の
影 で そ れ を 食 べ た 後 に 言 っ た 。「 ロ バ が 飼 葉 を 存 分 に 与 え ら れ る と き に は 、 ロ バ の 仕 事 が 増 や
されるのである」そして彼は立ち上がって、彼の後ろにいた人が彼を憐れむまでに〔熱心に〕
礼拝したと伝えられている。彼はバスラにて亡くなった。
イ ブ ラ ー ヒ ー ム ・ ブ ン ・ ア ド ハ ム Ibrāīm b. Adham : 彼 は バ ル フ の 王 の 子 孫 の ひ と り で あ
る 。彼 は〔 伝 承 に お い て 〕 信 頼 に 足 る タ ー ビ ウ ー ン で あ り 、 ザ ー ヒ ド の ひ と り で も あ っ た 。彼
は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ 、岩 〔 の ド ー ム 〕 で 眠 っ た 。彼 は シ リ ア に 住 ん だ 。彼 は タ ラ
ー ブ ル ス 行 政 区 の 中 の 、 ジ ャ バ ラ Jab ala の 町 で 没 し た 。 彼 の 墓 は 同 地 で 有 名 で あ る 。 彼 は ル
26
あ と の 2 人 と は 、 詩 に お け る ズ ハ イ ル ・ ブ ン ・ ア ビ ー ・ ス ル マ ー Zuhayr b. Abī Su l mā と 、 言 葉 に
お け る ア ブ ー ・ ハ ニ ー フ ァ Abū Ḥanīfa の こ と を 指 す [UJ ⅰ , 427, 脚 注 10]。
296
ー ム al-Rūm で 死 ん だ と も 言 わ れ て い る 。
ラ イ ス ・ ブ ン ・ サ ア ド al-Layth b. Saʽd: 彼 は エ ジ プ ト の ウ ラ マ ー で あ り 、 知 識 に お い て は
マ ー リ ク に も 並 ぶ 者 で あ っ た 。彼 は ス ン ナ に 従 っ て 、そ こ( バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス )に 8000
デ ィ ー ナ ー ル を 持 ち こ ん だ の で 、彼 に は ザ カ ー ト の 義 務 は な か っ た 。彼 が そ の 豊 か な 寛 大 さ と
敬虔さからくるものを果たさずして、1 年を過ごすことなどなかった。
彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ た 。 ラ イ ス 曰 く 、「 私 が カ リ フ で あ る ア ブ ー ・ ジ ャ ァ フ
ァ ル と バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス で 別 れ た と き 、 彼 は 言 っ た 。『 私 は あ な た の 知 性 の す ご さ を 見
て感嘆致した。我が臣民の中にあなたのごとき者を定め給うた神に称賛あれ 』
彼はエジプトで没した。彼の墓はそこにあることが分かっており、そこは有名である。
ワ キ ー ゥ ・ ブ ン ・ ア ル ジ ャ ッ ラ ー フ Wakīʽ b. al-Jarrāḥ: 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪
れ 、そ こ か ら メ ッ カ に 向 け て イ フ ラ ー ム を 行 っ た 。彼 は ハ ッ ジ か ら 戻 る 途 中 ク ダ イ ド Qudayd 2 7
で没し、そこに埋葬された。
偉大なるイマームにして高貴なる導師、ムハンマド・ブン・イドリース・ シャーフィイー
al-Imām al -Aʽẓam wa al-Ḥabr al-Akr am Muḥa mma d b. Idrīs al -S hāfiʽī : 彼 は バ イ ト ・ ア ル
マ ク デ ィ ス に 訪 れ 、 そ こ で 礼 拝 し て 言 っ た 。「 あ な た が た の 望 む こ と を 私 に 質 問 し な さ い 。 神
の 書 と 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の ス ン ナ の 中 か ら 、あ な た が た に 教 え て あ
げ よ う 」あ る 者 が 彼 に 、
「 ム ハ ッ ラ ム 月 の 間 に 蜂 を 殺 し た 者 を ど う 思 わ れ ま す か ? 」と 言 っ た 。
す る と 彼 は 、「 至 高 な る 神 は〈 使 徒 が お 前 た ち に 授 け た 物 は 受 け よ 〉 (Q59:7) と 言 わ れ て い る 」
と言った。
[48. a] イ ブ ン ・ ウ ヤ イ ナ が 、 ア ブ ド ・ ア ル マ リ ク ・ ブ ン ・ ウ マ ル か ら 、〔 さ ら に 〕 フ ザ イ フ
ァから伝えて我々に語ったところでは、
「神の使徒―神よ彼に祝福と平安を与え給え―は、
『お
前たちは私の死後にいる者たち、すなわちアブー・バクルとウマルを規範とせよ』と言った」
ま た イ ブ ン・ウ ヤ イ ナ が ミ ス ア ル Mis ʽar か ら 、
〔 さ ら に 〕カ イ ス・ブ ン・ム ス リ ム Qays b. Mu slim
か ら 、〔 さ ら に 〕タ ー リ ク ・ ブ ン ・ シ ハ ー ブ Ṭār iq b. Shih āb か ら 伝 え て 我 々 に 語 っ た と こ ろ で
は 、「 ウ マ ル は ム ハ ッ ラ ム 月 に 蜂 を 殺 し た 」
彼 は 240 年 に エ ジ プ ト で 没 し た 。 彼 の 墓 は 小 カ ラ ー フ ァ al-Qarāfa al-Ṣughrā に あ り 、 参 詣
の場所となっている。神が彼をして我らに益を与え給わんことを。
『 栄 光 の 喜 び A l-Uns al- Jalīl』 の 著 者 ( ウ ラ イ ミ ー ) 曰 く 、「 3 人 の イ マ ー ム に つ い て は 、 彼
ら の ひ と り が バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ た と い う 証 拠 を 、 私 は 示 す こ と が で き な い 」 28
27
28
メ ッ カ 近 く の 地 名 [MB ⅳ , 313-314 ]。
UJ ⅰ , 430.
297
ア ブ ー ・ ジ ャ ァ フ ァ ル ・ マ ン ス ー ル : 彼 は〔 ア ッ バ ー ス 朝 〕カ リ フ で あ る 。彼 が 1 回 目 の 地
震 の 後 に バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 入 っ た こ と は 、〔 本 書 の 〕 第 2 章 に お い て す で に 述 べ て い
る。
マ フ デ ィ ー ・ ブ ン ・ ア ル マ ン ス ー ル al-Maḥdī b. al-Man ṣūr : 彼 は 〔 ア ッ バ ー ス 朝 〕 カ リ フ
で あ る 。 ヒ シ ャ ー ム ・ ガ ッ サ ー ニ ー Hishām al-Gh ass ānī は 次 の よ う に 伝 え て い る 。 彼 が バ イ
ト・ア ル マ ク デ ィ ス を 目 指 し て シ ャ ー ム に や っ て き た と き 、彼 は ダ マ ス カ ス の モ ス ク に 入 っ た 。
彼 の 書 記 で あ っ た ア ブ ー ・ ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー ・ ア シ ュ ア リ ー Ab ū ʽAbd Allāh al -Ashʽarī が 、 彼
の 側 に い た 。 彼 は 言 っ た 。「 ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー よ 、 ウ マ イ ヤ 家 は 3 つ の こ と で 我 々 に 先 ん じ て
い る 。〔 1 つ 目 は 〕 こ の 家 、 す な わ ち ダ マ ス カ ス の モ ス ク だ 。 私 は 地 上 に こ の よ う な も の を 知
ら な い 。〔 2 つ 目 は 〕 そ の 高 貴 な る マ ワ ー リ ー だ 。 彼 ら が 持 っ て い た よ う な マ ワ ー リ ー の ご と
き 人 々 は 、 我 々 に は い な い 。〔 3 つ 目 は 〕 ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ブ ド ・ ア ル ア ズ ィ ー ズ だ 。 我 々 の
中 に は 、神 か け て 、彼 の ご と き 者 は 決 し て 存 在 し な い 」そ の 後 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を
訪 れ 、 岩 〔 の ド ー ム 〕 に 入 る と 言 っ た 。「 ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー よ 、 こ れ が 4 つ 目 だ 」
ム ア ン ミ ル ・ ブ ン ・ イ ス マ ー イ ー ル ・ バ ス リ ー al-Muʼammil b . Ismāʽīl al -Ba ṣrī: 彼 は バ イ
ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ 、人 々 が 様 々 な 場 所 で 彼 を 取 り 囲 む 中 で 、彼 ら に も の を 与 え た 。彼
は非常な高齢であった。
ビ シ ュ ル・ハ ー フ ィ ー Bishr al-Ḥāfī:彼 は 神 の 道 を 歩 む 者 の ひ と り で あ っ た 。あ る 人 が 彼 に 、
「 な ぜ 正 し き 人 々 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 喜 ぶ の で し ょ う か ? 」と 言 っ た と き 、彼 は 言 っ
た 。「 そ れ は そ こ が 彼 ら の 方 に 向 か っ て い く か ら で あ っ て 、 魂 が そ こ で 高 く 上 っ て い く か ら で
は な い 」 ま た 彼 は 、「 私 に と っ て 現 世 の 喜 び と 言 え ば 、 天 の 下 で バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 金
曜モスクにこの身を投げ出すことがあるばかりである」
ズ ー ・ ア ン ヌ ー ン ・ ミ ス リ ー Dhū al-Nūn al-Miṣrī: 彼 は 善 良 で 、 高 名 な 人 で あ る 。 彼 は バ
イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ て 言 っ た 。「 私 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の 岩 の も と で 、 あ ら ゆ
る 孤 独 な 反 抗 す る 者 と 、あ ら ゆ る 従 順 な 従 う 者 と 、あ ら ゆ る 恐 れ 逃 げ ま ど う 者 と 、あ ら ゆ る 望
み 求 め る 者 と 、あ ら ゆ る 満 た さ れ た 豊 か な 者 と 、あ ら ゆ る 愛 情 深 く 謙 遜 な 者 を 見 た 」ま た 曰 く 、
「私はこれらの言葉が、神がその被造物を僕として従えることの源なのであると思う」
サ ッ リ ー・ サ カ フ ィ ー Sarrī al-Saqafī:彼 は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ た 。彼 曰 く 、
「私
は ラ ム ラ か ら バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス へ と 出 立 し た の だ が 、 [48. b] 途 中 あ る 丘 に 、 水 が 流 れ
298
植 物 の 茂 っ て い る と こ ろ を 通 り が か っ た 。そ こ で 私 は 座 っ て 、そ の 植 物 を 食 べ 水 を 飲 ん だ 。私
は 独 り 言 を 言 っ た 。『 私 が 現 世 で 飲 み 食 い す る こ と を 許 さ れ た も の と は 、 ま さ し く こ れ で あ ろ
う よ 』 す る と そ の と き 私 は あ る 大 き な 声 を 聞 い た 。『 サ ッ リ ー よ 、 こ の 値 は ど こ か ら 、 こ こ に
い る お 前 の も と に も た ら さ れ た も の だ と 思 っ て い る の か 』」
ム ハ ン マ ド ・ ブ ン ・ カ ッ ラ ー ム Muḥamma d b. Karrām: 彼 は 神 学 者 で あ り 、 高 貴 な 人 々 の
集 団 が 彼 の 血 縁 で あ る 。彼 は バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ ス に 居 住 し て い た 。彼 は イ エ ス の 揺 り 籠 の
側 に あ る 柱 の も と で 、説 教 を 行 う た め に 座 っ て い た 。彼 の も と に は 多 く の 人 々 が 集 ま っ た 。そ
の 後 彼 は 人 々 に 言 っ た 。「 信 仰 と は 言 葉 を 話 す こ と で あ る 。 ゆ え に バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス の
民はそれを棄てたのである」
彼 は あ る 夜 に〔 バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に て 〕亡 く な り 、彼 が そ こ に い て 学 問 を 行 っ て い た 、
イェリコ門に埋葬された。
サ ー リ フ ・ ブ ン ・ ユ ー ス フ Ṣāliḥ b. Yūsuf: 彼 は 90 回 ハ ッ ジ を 行 い 、 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ
ィ ス の 岩〔 の ド ー ム 〕か ら イ フ ラ ー ム し て 、そ れ ぞ れ の ハ ッ ジ に 歩 い て 向 か っ た と 言 わ れ て い
る 。 彼 は 俗 世 か ら 離 れ 神 に す べ て を 委 ね た 状 態 で 、 タ ブ ー ク Tab ūk の 荒 野 に 入 っ た 。
彼 は ラ ム ラ で 亡 く な っ た 。彼 の 墓 で は 雨 乞 い が 行 わ れ て お り 、ま た そ こ で の 祈 願 は 聞 き 届 け
ら れ る〔 と 言 わ れ て い た 〕。し か し 今 日 で は 、フ ァ ラ ン ジ ュ が こ の 地 を 長 期 間 占 領 し た た め に 、
彼の墓〔の場所〕がわからなくなっている。
バ ク ル ・ ブ ン ・ サ フ ル ・ デ ィ ム ヤ ー テ ィ ー Bakr b. Sahl al -Dimyāṭī: 彼 は ハ デ ィ ー ス 伝 承 家
で あ っ た 。 彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ た 。 人 々 は 彼 の た め に 1 000 デ ィ ー ナ ー ル を 集
め、彼にクルアーン解釈を語ってもらった。
ア フ マ ド ・ ブ ン ・ ヤ フ ヤ ー ・ バ グ ダ ー デ ィ ー Aḥmad b. Yaḥyā al-Baghdādī : 彼 は メ ッ カ か
ら バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に 向 か い 、や っ て き た こ と を 後 悔 し た と 言 わ れ て い る 。彼 は 言 っ た 。
「 私 は メ ッ カ に お け る 10 万 回 分 の 礼 拝 を 捨 て て し ま っ た 。 こ こ で は 2 万 5 000 回 分 の 礼 拝 だ
と い う の に 。メ ッ カ で な ら ば 、タ ワ ー フ を 行 い 礼 拝 し 居 留 す る 者 の た め に 2 万 の 恩 寵 が 下 っ て
く る と い う の に 」そ し て 彼 は メ ッ カ へ と 出 立 し よ う と し た 。す る と 彼 は 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福
と 平 安 を 与 え 給 え ― の 姿 を 見 た 。預 言 者 は 彼 に 、彼 の 身 に 起 こ っ た〔 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス
の 〕 美 点 に つ い て 語 っ た 。 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― は 彼 に 言 っ た 。「 こ こ に
も 恩 寵 は 下 っ て く る し 、こ こ に は 恩 寵 が 溢 れ て い る の だ 。よ し ん ば こ の 場 所 に 偉 大 な 箇 所 が ひ
と つ も な か っ た と し て も 、― 彼 は こ こ で 、ミ ー ラ ー ジ ュ の ド ー ム の と こ ろ に あ る イ ス ラ ー の 場
所 を 手 で 指 し 示 し た ― 私 は そ こ に イ ス ラ ー し た の で あ る か ら 」そ こ で そ の 人( バ グ ダ ー デ ィ ー )
299
は 死 ぬ ま で ク ド ス に 滞 在 し た 。 こ の 話 は 341 年 の ラ ジ ャ ブ 月 の こ と で あ っ た 。
シ ャ イ フ・サ ッ ラ ー マ・ブ ン・イ ス マ ー イ ー ル al-Shaykh Sallāma b. Ismāʽīl:彼 は バ イ ト ・
ア ル マ ク デ ィ ス の 人 々 の ひ と り で あ っ た 。 彼 は 盲 目 で 、 著 作 家 で も あ っ た 。 彼 は 、 [49. a] 至
高 な る 神 が 彼 に 特 別 に お 授 け に な っ た 心 の 在 り 家 や 澄 明 な 精 神 、豊 か な 記 憶 力 の ゆ え に 、彼 の
時代においてまたとなき人物であった。
シ ャ イ フ・ア ル イ ス ラ ー ム・ア ブ ド・ア ル ワ ー ヒ ド・ブ ン・ム ハ ン マ ド・シ ー ラ ー ズ ィ ー Shaykh
al-Islām ʽAbd al -Wāḥi d b. Muḥa mmad al-Shīrāzī: 彼 は 当 時 の シ リ ア の シ ャ イ フ で あ っ た 。
彼はシャームを訪れた後、バイト・アルマクディスに住んだ。彼は 2 度、ヒドルと面会した。
彼らは互いに心のままに語り合った。
イ ブ ン ・ ア ル カ ズ ウ ィ ー ニ ー Ibn al-Qazwīnī:彼 は ザ ー ヒ ド で あ っ た 。彼 に は 多 数 の 著 作 が
あ る 。 彼 は 480 年 に ダ マ ス カ ス で 没 し 、 サ ギ ー ル 門 の 墓 地 に 埋 葬 さ れ た 。
ア ブ ー ・ ア ル フ ァ ト フ ・ ナ ス ル ・ マ ク デ ィ ス ィ ー ・ シ ャ ー フ ィ イ ー Abū al-Fatḥ Naṣr
al-Maqdisī al-S hāfʽī : 彼 は シ リ ア に お け る こ の 学 派 の シ ャ イ フ で あ り 、 隠 遁 と 神 へ の 奉 仕 を
行 う 傍 ら 、様 々 な 著 作 を 著 し て い る 。彼 は ク ド ス に 長 い 間 居 住 し て い た 。彼 は ラ フ マ 門 の 側 に
あ る ザ ー ウ ィ ヤ に 居 住 し て い た が 、そ こ は 彼 が そ こ に 居 留 し て い た が ゆ え に 、ナ ー ス ィ リ ー ヤ
と い う 名 で 知 ら れ て い た 。そ こ は 後 に 、ガ ザ ー リ ー が そ こ に 居 留 し た こ と の ゆ え に 、ガ ザ ー リ
ー ヤ と い う 名 で 知 ら れ る よ う に な っ た 。彼 は 後 に ダ マ ス カ ス を 訪 れ て そ こ に 住 み 、そ こ で 名 声
を 得 た 。ガ ザ ー リ ー が シ リ ア に や っ て き た と き 、ガ ザ ー リ ー は 彼 の も と に 集 い 、彼 に 教 え を 請
うた。
彼 は 490 年 に ダ マ ス カ ス で 没 し 、 サ ギ ー ル 門 に 埋 葬 さ れ た 。
フ ァ キ ー フ ・ ア ブ ー ・ ア ル フ ァ ド ル ・ ア タ ー al-Faqīh Abū al -Fa ḍl ʽAṭāʼ: 彼 は 法 学 と 知 識
に お い て 、神 聖 な る ク ド ス に お け る シ ャ ー フ ィ イ ー 派 の シ ャ イ フ で あ り 、タ リ ー カ に お い て は
スーフィーのシャイフであった。
イ マ ー ム ・ ア ブ ー ・ ア ル マ ア ー リ ー ・ ム シ ャ ッ ラ フ ・ ブ ン ・ ア ル ム ラ ッ ジ ャ ー al-Imām Ab ū
al-Maʽālī al-Musharraf b. al -Murajjā:彼 は バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ ス の ウ ラ マ ー の ひ と り で あ
っ た 。彼 に は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス と か の 岩 の フ ァ ダ ー イ ル と 、そ う し た も の に 関 す る 様 々
な 物 語 や 伝 承 、モ ス ク や シ リ ア の フ ァ ダ ー イ ル に つ い て の 書 が あ る が 、そ れ は 有 益 な 書 で あ る 。
300
マ ッ キ ー・ブ ン・ア ブ ド・ア ッ サ ッ ラ ー ム・ア ン サ ー リ ー・ラ ム リ ー・シ ャ ー フ ィ イ ー Makkī
b. ʽAbd al-Sallām al-Anṣārī al-Ramlī al-Shāfiʽī : 彼 は ハ ー フ ィ ズ で も あ っ た 。 彼 の も と に は
エ ジ プ ト や シ リ ア 、そ の 他 の 地 域 か ら も 、フ ァ ト ワ ー の 要 請 が 来 て い た 。彼 は 世 界 を 広 く 旅 し
ており、多くの苦労や苦難、眠れぬ夜を経験している。また彼は神を畏れる人であった。
492 年 に フ ァ ラ ン ジ ュ が バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 奪 っ た と き 、彼 ら は 彼 を 捕 虜 と し て 捕 え
て 町 に 送 り 、 彼 の 身 代 金 と し て 1 000 デ ィ ー ナ ー ル を 要 求 し た 。 し か し 彼 ら は 、 彼 ら が ム ス リ
ム の ウ ラ マ ー で あ り 、誰 も 彼 の 身 代 金 の 支 払 い を 申 し 出 な い と わ か る と 、ア ン タ ー キ ー ヤ 門 の
と こ ろ で 彼 を 石 打 ち に し て 殺 し た 。彼 ら は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス で 彼 を 殺 害 し た と も 言 わ れ
ている。神が彼を憐れみ給わんことを。
ア ブ ド ・ ア ル ジ ャ ッ バ ー ル ・ ア ブ ー ・ ア ル カ ー ス ィ ム ・ ラ ー ズ ィ ー ・ シ ャ ー フ ィ イ ー ʽAbd
al-Jabbār Abū ak-Qāsi m al-Rāzī al-Shāfiʽī: 彼 は イ ス フ ァ ハ ー ン の ジ ュ ナ イ ド al-Junayd の
も と で 法 学 を 学 ん だ 後 、 [49. b] バ グ ダ ー ド を 祖 国 と し た 。 後 に バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 移
住 し 、至 高 な る 神 へ の 忠 誠 と 隠 遁 の 道 に 入 っ た 。彼 は フ ァ ラ ン ジ ュ が 492 年 に ク ド ス を 奪 っ た
際、彼らの手にかかって殉教した。神が彼らを呪い給わんことを。
イ マ ー ム に し て イ ス ラ ー ム の 証 、ザ イ ン・ア ッ デ ィ ー ン・ア ブ ー・ハ ー ミ ド・ガ ザ ー リ ー Zayn
al-Dīn Abū Ḥāmi d al-Ghazārī: 彼 の 時 代 の 終 わ り に は 、 シ ャ ー フ ィ イ ー 派 の 人 々 の 中 に 彼 の
よ う な 人 物 は い な か っ た 。彼 は そ の 業 績 を ト ゥ ー ス Ṭ ūs
2 9 で 始 め た 。そ の 後 彼 は ニ ー シ ャ ー プ
ー ル を 訪 れ 、前 述 し た そ の 地 の 権 威 あ る 人 々 の 一 員 と な っ た 。彼 は あ る 期 間 ダ マ ス カ ス に 滞 在
し 、そ の 後 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に 移 住 し て 、神 へ の 奉 仕 と 、マ シ ュ ハ ド や 偉 大 な る 各 所 へ
の 参 詣 に 努 め た 。彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に て 、数 々 の 著 名 な 著 作 を 著 し た 。彼 は ク ド ス
に て 、『 宗 教 諸 学 の 再 興 I ḥyāʼ ʽUlūm al- Dīn』 を 著 し た と も 言 わ れ て い る 。 彼 は 前 述 の 通 り 、 ラ
フ マ 門 の 側 に あ っ た ザ ー ウ イ ヤ に 居 住 し た 。そ の ザ ー ウ ィ ヤ は〔 今 日 で は 〕す で に 忘 れ 去 ら れ
て い る 。 彼 は そ の 後 ト ゥ ー ス に 戻 り 、 505 年 に そ こ で 亡 く な っ た 。
イ マ ー ム・ハ ー フ ィ ズ・ア ブ ー・フ ァ ド ル・ム ハ ン マ ド・ブ ン・タ ー ヒ ル・カ イ ラ ワ ー ニ ー
al-Imām al-Ḥāfiẓ Abū al -Faḍl Mu ḥa mma d b. Ṭāhir al -Qayrawānī: 彼 は 世 界 を 広 く 旅 し た
人 物 で あ り 、 聡 明 さ と 記 憶 力 、優 れ た 著 作 、美 し い 筆 跡 を 併 せ 持 っ て い た 。 彼 は バ イ ト ・ ア ル
マ ク デ ィ ス で 生 ま れ た 。彼 に は ハ デ ィ ー ス そ の 他 に 関 す る 様 々 な 著 作 や 編 纂 物 が あ り 、そ れ ら
は 彼 の 知 識 の 豊 か さ の 証 明 と な っ て い る 。彼 は バ グ ダ ー ド に 旅 し た 後 、バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ
ス に 戻 っ て き た 。彼 は メ ッ カ に 向 け て そ こ か ら イ フ ラ ー ム を 行 い 、そ の 後 バ グ ダ ー ド に 戻 っ た 。
彼 は そ こ で 没 し 、そ の 西 側 に あ る ア テ ィ ー カ 墓 地 al-Maqb ara al-ʽA tīqa に 埋 葬 さ れ た 。彼 の 息
29
ホ ラ ー サ ー ン 地 域 に あ る 町 [MB ⅳ , 49-50 ]。
301
子 で あ る ア ブ ー ・ ザ ル ア ・ タ ー ヒ ル Ab ū Zar ʽa Ṭ āhir は 、 高 貴 な イ ス ナ ー ド と 多 く の 伝 承 を 聞
いていることで有名な人々のひとりである。
ア ブ ー ・ ア ル ガ ナ ー イ ム ・ ム ハ ン マ ド ・ ブ ン ・ ア リ ー ・ ブ ン ・ マ イ ム ー ン ・ ク ラ シ ー Abū
al-Ghanāʼim Muḥammad b. ʽAlī b. Maymūn al -Qurashī : 彼 は 敬 虔 に し て 善 良 で 、 信 頼 に 足
る 人 物 で あ っ た 。彼 は シ リ ア に 旅 を し て 、バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に て ハ デ ィ ー ス を 収 集 し た 。
彼 は フ ッ ラ al-Ḥull a で 亡 く な り 、 ク ー フ ァ に 埋 葬 さ れ た 。
タ ル ス ー ス ィ ー ・ ム ハ ン マ ド ・ ア ン ダ ル ス ィ ー al-Ṭarsūsī Muḥa mma d al-An dalsī: 彼 は バ
イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ 、〔 そ こ か ら 〕 ハ ッ ジ し た 。 彼 は イ マ ー ム で あ り 、 ウ ラ マ ー で あ
り、ザーヒドでもあった。彼はシリアに住んだ。
ア ブ ー ・ ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー ・ ム ハ ン マ ド ・ ダ イ バ ー ジ ー Abū ʽAbd Allāh Muḥammad
al-Daybā jī: 彼 は 、 ウ ス マ ー ン ・ ブ ン ・ ア ッ フ ァ ー ン の 子 孫 の ひ と り で あ っ た ダ イ バ ー ジ ー の
子 孫 で あ る 。彼( ダ イ バ ー ジ ー )の 母 親 は 、フ ァ ー テ ィ マ・ ビ ン ト・ア ル ハ サ ン・ ブ ン・ ア リ
ー・ブ ン・ア ビ ー・タ ー リ ブ で あ る 。彼 は そ の 美 し さ の ゆ え に「 ダ イ バ ー ジ ー 」と 名 付 け ら れ
た 。 と い う の も 、 [50. a] 彼 の 顔 は ダ イ バ ー ジ ャ ( 錦 ) の よ う に 〔 美 し く 〕、 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼
に祝福と平安を与え給え―の顔に似ていたからである。
彼( ダ イ バ ー ジ ー ) は メ ッ カ の 出 で あ る が 、バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ 、そ こ に 居 住 し
た 。そ の 後 彼 は バ グ ダ ー ド に 住 ん だ 。彼 は 優 れ た 法 学 者 で あ り 、預 言 者 の 言 行 に 詳 し く 、真 実
を 語 る 者 で あ っ た 。彼 は ム ス タ フ ァ ー 、あ る い は「 彼 に 似 た る 者 」と も 名 付 け ら れ た と 言 わ れ
ている。
ア ブ ー ・ ア ル ハ サ ン ・ ア リ ー ・ ラ バ イ ー ・ マ ク デ ィ ス ィ ー Abū al-Ḥasan ʽAlī al -Rabaʽī
al-Maqdisī al-Shā fiʽī: 彼 は シ ャ イ フ ・ ナ ス ル ・ ト ゥ ー ス ィ ー al-Sh aykh Naṣ r al-Ṭūs ī や 、 ア
ブ ー ・ バ ク ル ・ ハ テ ィ ー ブ Abū Bakr al-Kh aṭīb か ら ハ デ ィ ー ス を 聞 い た 。 そ の 後 彼 は 西 方 地
域に入り、荒野に住んだ。
イ マ ー ム ・ ア ブ ー ・ バ ク ル ・ ブ ン ・ ア ル ア ラ ビ ー al-Imām Ab ū Bakr b. al -ʽ Arabī: 彼 は 有
名 な ハ ー フ ィ ズ で あ っ た 。彼 は 父 親 と と も に 東 方 地 域 に 入 り 、バ イ ト・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ
た。彼は〔そこで〕多くのウラマーと会った。
ア ブ ー ・ バ ク ル ・ ジ ュ ル ジ ャ ー ニ ー Abū Bakr al-Jurjānī: 彼 と ア ブ ー ・ サ イ ー ド ・ サ ム ア
ー ニ ー は 、彼 ら そ れ ぞ れ の 国 か ら バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 参 詣 を 志 し た 。 彼 ら は〔 と も に 〕 出
302
立し、イラクに戻るまで離れなかった。
彼 は 正 し き シ ャ イ フ で あ り 、神 の 啓 典 を 実 行 す る 人 で あ っ た 。彼 は 常 に ズ ィ ク ル を 唱 え て お
り 、ま た よ く 悲 し み に 耽 っ て 泣 い て い た 。イ ブ ン ・ サ イ ー ド ・ サ ム ア ー ニ ー が 彼 の 正 し さ に つ
い て 言 っ て い る と こ ろ で は 、「 彼 は な ん と す ば ら し い 同 行 者 で あ っ た こ と か 。 彼 は 何 年 も メ ッ
カの近くに滞在し、偉大なるシャイフたちに仕えた」
ア ブ ー ・ サ イ ー ド ・ サ ム ア ー ニ ー Abū Saʽīd al -Samʽānī: 前 述 の 人 物 で あ る 。 彼 は シ ャ ー フ
ィ イ ー 派 で あ っ た と 言 わ れ て い る 。 彼 に は 数 多 く の 著 作 が あ る 。 そ の 中 に は 、『 旅 人 の 贈 り 物
Tuḥfat al- Musāfir』 や 『 孤 高 に よ り ʽAn al-ʽUzla』 が あ る 。
シ ャ イ フ ・ ザ ー ヒ ド ・ ア ブ ー ・ ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー ・ ク ラ シ ー al-Shaykh al-Zāhid Abū ʽAb d
Allāh al-Qurashī: 彼 は 様 々 な 目 に 見 え る 形 で の 奇 跡 や 、 栄 光 あ る 輝 か し き 偉 業 の 持 ち 主 で あ
る。エジプトの民は、彼に関する尋常ならざる事ごとを語っている。
彼 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス を 訪 れ 、死 ぬ ま で そ こ に 滞 在 し た 。彼 の 墓 は 、マ ー マ ラ ー 墓 地
にあることが分かっており、そこは参詣の場所となっている。
彼 の〔 墓 の 〕隣 に は 、シ ャ イ フ・シ ハ ー ブ・ア ッ デ ィ ー ン・ブ ン・ル ス ラ ー ン al-Shaykh Shihāb
al-Dīn b. Rusl ān の 墓 が あ る 。 彼 ら 両 名 の 墓 の 間 で 行 っ た 祈 願 は 聞 き 届 け ら れ る と い う こ と が
確 か め ら れ て い る 。ま た 彼 ら の〔 墓 の 〕近 く に は 、シ ャ イ フ に し て 学 識 あ る ザ ー ヒ ド 、ア ブ ー ・
イ ス ハ ー ク・イ ブ ラ ー ヒ ー ム・ブ ン・ジ ャ マ ー ア・シ ャ ー フ ィ イ ー Ab ū Isḥāq Ibrāhīm b. Jamāʽa
al-Sh āfiʽī の 墓 が あ る 。
ま た マ ー マ ラ ー 墓 地 に は 、イ マ ー ム・ウ マ ル・ブ ン・イ ブ ラ ー ヒ ー ム・ワ ー ス ィ テ ィ ー al-Imām
ʽUm ar b. Ibrāhīm al -Wās iṭī の 墓 が 、カ ブ キ ー ヤ al-Kabk īya 3 0 の 南 側 に あ る 道 の 側 に あ る 。彼
の〔 墓 の 〕近 く に は あ る 人 物 の 墓 が あ る が 、我 々 は そ の 墓 の 主 の 名 前 や 経 歴 を 知 ら な い 。あ る
人 が 馬 に 乗 っ て そ の 墓 の 側 を 通 り 過 ぎ た と き 、〈 彼 ら は 自 分 の 行 っ た こ と を 目 の 当 た り に 見 出
す で あ ろ う 。 主 は 誰 一 人 と し て 不 当 に 扱 い 給 う こ と は な い 〉 (Q18:49) を 読 ん だ 。 す る と そ の
墓 の 方 か ら「 我 々 は 見 出 し た 、我 々 は 見 出 し た 」と い う 返 事 が あ っ て 、そ の 人 も そ の 声 を 聞 い
た 。 あ る 人 が 語 り 伝 え て い る と こ と で は 、 [50. b] そ の 人 は そ の 墓 の 上 に あ っ た 石 を 取 り 、 そ
れ を 別 の 場 所 に 持 っ て 行 っ た 。次 の 日 に な る と 、彼 は そ れ ら の 石 が 元 通 り に そ の 墓 の 上 に あ る
の を 見 た 。〔 そ こ に は 〕 そ う し た 奇 跡 が 数 多 く あ っ た 。 ま た そ こ ( マ ー マ ラ ー 墓 地 ) に は 、 ビ
スターミーヤのシャイフでありファキールであった、シャイフ・アリー・ビスターミー
al-Sh aykh ʽAlī al-Bisṭāmī の 墓 が あ る 。
30
マーマラー墓地にあるドームを備えたザーウィヤ。アミール・アラー・アッディーン・アミール・
ア イ ド ゥ グ デ ィ ー ・ ブ ン ・ ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー al-A mīr ʽ Alāʼ a l- Dīn A mīr Ay du ghdī b. ʽ Abd A ll āh (d.
688/1289 ) と い う 人 物 に 由 来 す る [UJ ⅱ , 123]。
303
ラ フ マ 門 の 墓 地 に は 多 数 の 聖 者 た ち や 正 し き 人 々〔 の 墓 〕が あ り 、彼 ら〔 全 員 〕の こ と を 述
べ て い る と 長 く な っ て し ま う 。神 が 彼 ら を し て 我 々 に 益 を 与 え 給 い 、彼 ら を 助 け る こ と で 我 々
を 助 け 給 い 、〔 復 活 の 日 に 〕 彼 ら と と も に 我 々 を 集 め 給 わ ん こ と を 。 ア ー メ ン 。
第 8 章:ヒ ド ル ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 物 語 と 、バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス に あ る 彼 の 位 高 き 住 ま
い
多 く の ウ ラ マ ー が 、彼 は 預 言 者 で あ り 生 き て い る 、と の 結 論 に 達 し て い る 。彼 は 毎 週 金 曜 日
に は 、 ハ ラ ー ム ・ モ ス ク 、 メ デ ィ ナ の モ ス ク 、 ク バ ー ・ モ ス ク Masj id Qub ā 、 バ イ ト ・ ア ル マ
ク デ ィ ス の モ ス ク 、 ト ゥ ー ル ・ モ ス ク Masjid al-Ṭ ūr の 5 つ の モ ス ク で 礼 拝 し て い る 。 ま た 彼
は 、毎 週 金 曜 日 に は き の こ と セ ロ リ で で き た 食 事 を 取 り 、あ る と き は ザ ム ザ ム の 水 を 飲 み 、ま
た あ る と き は バ イ ト ・ア ル マ ク デ ィ ス に あ る ソ ロ モ ン の 井 戸 の 水 を 飲 ん で い る 。 ま た 彼 は 、シ
ロアムの泉で沐浴している。
イ ブ ン ・ ア ビ ー ・ ダ ー ウ ー ド 曰 く 、ヒ ド ル と イ ル ヤ ー ス は 、 ラ マ ダ ー ン 月 に は バ イ ト ・ ア ル
マクディスで断食し、毎年マウシムの時期には姿を見せる。
彼( イ ブ ン ・ア ビ ー ・ダ ー ウ ー ド )が 、彼 の〔 父 方 の 〕お じ で あ る ハ ー フ ィ ズ・ア ブ ー ・ア
ル カ ー ス ィ ム 、さ ら に は ア リ ー・ブ ン・ア ビ ー・タ ー リ ブ に 由 来 す る イ ス ナ ー ド に よ っ て 曰 く 、
「 私 が カ ア バ の 周 り を 歩 い て い る と 、あ る 男 が『 耳 か ら 耳 へ と 伝 わ る こ と に 煩 わ さ れ て い な い
者 よ 、問 題 に 浸 か っ て い な い 者 よ 、必 要 な こ と を 求 め る た め に 、鎧 を 着 込 ん だ 者 た ち を 急 ぎ 送
り こ む 必 要 の な い 者 よ 。あ な た の 赦 し の 涼 や か さ と あ な た の 恩 寵 の 甘 さ を 私 に 与 え た ま え 』と
言 い な が ら 、 カ ア バ の 幕 に 縋 り つ い て い た 」 ア リ ー ― 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― が 、「 そ の 言 葉 を
も う 一 度 言 っ て 下 さ い 、神 の 僕 よ 」 と 言 う と 、 そ の 男 は「 そ れ ら を 聞 い て い た の で す か ? 」と
言 っ た 。ア リ ー が「 は い 」と 言 う と 、 彼 は 「 ヒ ド ル の 魂 が そ の 手 の う ち に あ る 方 に か け て 」 と
言 っ た が 、彼 こ そ は ヒ ド ル ― 彼 に 平 安 あ れ ― で あ っ た 。い か な る 僕 も 、定 め ら れ た 礼 拝 そ れ ぞ
れ の 最 後 に そ れ ら の 言 葉 唱 え れ ば 、 そ の 罪 が 赦 さ れ る 。 た と え そ れ が ア ー リ ジ ュ の 砂 地 Raml
ʽĀrij や 、 海 の 泡 、 木 の 葉 の ご と き 〔 数 え 切 れ な い ほ ど 多 く の 〕 も の で あ っ た と し て も 。
ア ブ ー ・ フ ラ イ ラ が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、「 ヒ ド ル が『 ヒ ド ル( 緑 )』と 名 付 け
ら れ た の は 、彼 が 白 い 皮 〔 の 敷 物 〕の 上 に 座 っ て い た と き 、そ れ が 彼 の 〔 体 の 〕 下 で 揺 れ 動 い
て緑になったからである」ブハーリーもこれを伝えている。
[51. a] ア ブ ー ・ ハ フ ス ・ ヒ ム ス ィ ー A bū Ḥafṣ al-Ḥimṣī 曰 く 、「 私 は バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ
ス で 礼 拝 す る た め に 、夜 半 少 し 前 に そ こ に 入 っ た 。す る と そ こ に 、時 に ひ そ や か に な る 声 が 聞
こ え て き た 。そ の 声 は 、
『 我 が 主 よ 、私 は 貧 し き も の で す 。私 は 隠 れ 家 を 求 め て 怯 え る 者 で す 。
我 が 主 よ 、我 が 名 を 取 り 変 え 給 う な 。我 が 体 を 変 え 給 う な 。我 が 試 練 を 苦 し め 給 う な 』と 言 っ
304
て い た 。 私 は 怯 え な が ら〔 そ こ か ら 〕 出 た 。す る と 私 は モ ス ク の 門 の と こ ろ で 、人 々 に 行 き 当
た っ た 。彼 ら が 『 ど う か し た の で す か 、ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー よ 』と 言 う の で 、 私 は 今 見 た こ と を
彼 ら に 話 し た 。 す る と 彼 ら は 言 っ た 。『 恐 れ る こ と は あ り ま せ ん 。 そ れ は ヒ ド ル ― 彼 に 平 安 あ
れ ― で す 。 今 は 彼 の 礼 拝 の 時 間 な の で す よ 』」
正 し き シ ャ イ フ 、 ア ブ ー ・ ナ ス ル ・ バ ン デ ィ ー ジ ー Abū Naṣr al-Bandījī 曰 く 、「 私 は ヒ ド ル
に 、『 あ な た は ど こ で 礼 拝 し て い る の で す か ? 』 と 尋 ね た 。 す る と 彼 は 、『〔 カ ア バ に あ る 〕 ヤ
マ ー ニ ー の 柱 al-Rukn al -Yamānī の 側 で あ る 。私 は 、神 が 私 に 定 め 給 う た 通 り に そ の 後 し ば ら
く〔 そ こ で 〕過 ご し 、 そ れ か ら メ デ ィ ナ に て ズ フ ル の 礼 拝 を す る 。 そ れ か ら 私 は 、神 が 私 に 定
め 給 う た 通 り に そ の 後 し ば ら く〔 そ こ で 〕過 ご し て か ら 、バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に て ア ス ル
の 礼 拝 を 行 う 』」
正 し き フ ァ キ ー フ 、ア ブ ー・ア ル ム ザ ッ フ ァ ル・ア ブ ド・ ア ッ ラ ー・ブ ン・ ム ハ ン マ ド・ ジ
ャ イ ヤ ー ム・ハ ル ビ ー・サ マ ル カ ン デ ィ ー Abū al -Maẓaffar ʽAbd All āh b. Muḥammad al-Jayyām
al-Ḥarbī al -Sam arqandī 曰 く 、「 あ る 日 私 は あ る 洞 窟 に 入 り 、 道 に 迷 っ た 。 す る と そ こ に ヒ ド
ル が 現 れ 、行 く べ き 方 向 を 教 え て く れ た 。そ こ で 私 は 彼 と 一 緒 に 歩 い た 。私 が『 あ な た は 何 と
言 う お 名 前 な の で す か 』 と 言 う と 、彼 は『 ア ブ ー ・ ア ル ア ッ バ ー ス と い い ま す 』 と 言 っ た 。私
は 彼 に ひ と り の 連 れ が い る こ と に 気 づ き 、『 あ な た は 何 と 言 う お 名 前 な の で す か 』 と 言 っ た 。
彼 は 『 セ ム の 子 イ ル ヤ ー ス Il yās b . Sām と い い ま す 』 と 言 っ た 。 私 は 言 っ た 。『 至 高 な る 神 が
あ な た 方 お ふ た り を 憐 れ み 給 わ ん こ と を 。あ な た 方 は ム ハ ン マ ド ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え
給 え ― に は お 会 い に な っ た の で す か 』 彼 ら は は い と 言 っ た 。 そ こ で 私 は 言 っ た 。『 至 高 な る 神
の栄光とお力にかけて、何か私が伝えるべきことをお聞かせ下さい』すると彼らは言った。
『 我 々 は 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― が 次 の よ う に 言 う の を 聞 い た 。「 信 徒 の
中で、神よムハンマドに祝福を垂れ給えと言う者には、神がその者の心や光に気づいて下さ
る 」』」
彼は様々な伝承を語って言った。
「 ま た 私 は 、彼 ら 2 人 が 次 の よ う に 言 う の を 聞 い た 。
『かつ
て イ ス ラ エ ル の 民 の 中 に サ ミ ュ エ ル と い う 預 言 者 が お り 、神 は 彼 の 敵 に 対 し て 彼 に 助 け を 与 え
て お ら れ た 。あ る と き 彼 が 敵 の 軍 の 中 に 出 て 行 く と 、彼 ら は 言 っ た 。
「 こ い つ は 魔 術 師 で 、我 々
の 目 を 眩 ま せ 我 々 の 軍 隊 を だ め に し よ う と し て い る の だ 。こ い つ を 海 に 放 り 込 も う 」す る と 彼
( サ ミ ュ エ ル ) は 仲 間 た ち に 言 っ た 。「 我 々 は ど う す る べ き だ ろ う か 。 神 よ ム ハ ン マ ド に 祝 福
を 垂 れ 給 え 、と 言 っ て 攻 撃 せ よ 」彼 ら が そ の よ う に 言 い な が ら 突 撃 す る と 、彼 ら の 敵 は 海 に 落
ち 、 皆 溺 れ て し ま っ た 』 ヒ ド ル と イ ル ヤ ー ス ― 彼 ら 両 名 に 平 安 あ れ ― は 言 っ た 。『 そ う し た こ
と は 我 々 の 目 の 前 で 起 こ っ た の で あ る 』」
曰く、
「 ま た 私 は 、彼 ら 2 人 が 次 の よ う に 言 う の を 聞 い た 。
『我々は神の使徒―神よ彼に祝福
と 平 安 を 与 え 給 え ― が 次 の よ う に 言 う の を 聞 い た 。「 神 よ ム ハ ン マ ド に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え
と 言 う 者 の 心 は 、も の が 水 で 清 め ら れ る よ う に 、不 浄 か ら 清 め ら れ る 」ま た 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼
305
に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― は ミ ン バ ル の 上 で 言 っ た 。「 神 よ ム ハ ン マ ド に 祝 福 を 垂 れ 給 え と 言
う 者 に は 、 神 が 彼 の た め に 70 の 恩 寵 の 門 を 開 い て 下 さ る 」』」
曰く、
「 ま た 私 は 、彼 ら 2 人 が 次 の よ う に 言 う の を 聞 い た 。
『預言者―神よ彼に祝福と平安を
与 え 給 え ― は 言 っ た 。「 信 徒 た ち の う ち 、 神 よ ム ハ ン マ ド に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え と 7 回 言 う
者 は 、神 に 愛 さ れ る 」し か し も し 彼 の こ と を 嫌 う な ら ば 、神 に 愛 さ れ る こ と も な い 。栄 光 あ る
神 は 、 彼 を 愛 し て お ら れ る か ら で あ る 』」
曰 く 、「 ま た 彼 ら 2 人 は 、 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の も と に や っ て き た あ
る男のことを言った。
『その男は言った。
「 神 の 使 徒 よ 、私 の 父 は 偉 大 な シ ャ イ フ で あ り ま す が 、
あ な た に 会 い た が っ て お り ま す 」彼 が「 父 上 を 私 の も と に 連 れ て き な さ い 」と 言 う と 、彼 は「 父
は 目 が 見 え な い の で す 」 と 言 っ た 。 す る と 彼 は 言 っ た 。「 父 上 に 、 7 週 間 神 よ ム ハ ン マ ド に 祝
福と平安を与え給え、と唱えるように言いなさい。そうすれば夢の中で私に会うことができ、
私 か ら ハ デ ィ ー ス を 伝 え る こ と が で き る だ ろ う 」は た し て 彼 が そ の よ う に す る と 、彼 は 夢 の 中
で 神 の 使 徒 に 会 い 、 ハ デ ィ ー ス を 伝 え 聞 い た 』」
曰く、
「 ま た 私 は 、彼 ら 2 人 が 次 の よ う に 言 う の を 聞 い た 。
『我々は神の使徒―神よ彼に祝福
と 平 安 を 与 え 給 え ― が 次 の よ う に 言 う の を 聞 い た 。「 お 前 た ち が 座 に 座 っ て い る と き 、 慈 愛 深
く 慈 悲 あ ま ね き 神 の 御 名 に お い て 、神 よ ム ハ ン マ ド に 祝 福 を 与 え た ま え 、と 言 う な ら 、神 は お
前 た ち に 天 使 を お 付 け 下 さ り 、災 い を 遠 ざ け て 下 さ る の で 、お 前 た ち は 復 活 す る と き も 災 い に
苦 し む こ と は な く な る だ ろ う 。ま た お 前 た ち が 立 ち 上 が る と き に 、慈 愛 深 く 慈 悲 あ ま ね き 神 の
御 名 に お い て 、神 よ ム ハ ン マ ド に 祝 福 を 与 え た ま え 、と 言 う な ら 、人 々 が お 前 た ち を 苦 し め る
こ と も な く な り 、 そ の 天 使 が そ う し た こ と か ら お 前 た ち を 遠 ざ け て く れ る で あ ろ う 」』」
彼( ヒ ド ル )の 居 場 所 に つ い て は 、高 貴 な る ア ク サ ー ・ モ ス ク に そ の マ カ ー ム が あ る 。〔『 フ
ァ ダ ー イ ル ・ バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 』 の 著 者 で あ る 〕 ム シ ャ ッ ラ フ が「 バ フ バ フ と 名 付 け ら
れ た 岩 に 関 す る 章 、そ れ は 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の ド ー ム の 隣 に あ る 西 の
マ カ ー ム の こ と で あ り 、そ こ が ヒ ド ル の 場 所 で あ る 。彼 ら 両 名 に 平 安 あ れ 」の 章 に お い て 、次
の よ う に 述 べ て い る :「 こ の 場 所 で 行 わ れ た 祈 願 は 聞 き 届 け ら れ る 。 そ こ や 、 モ ス ク の そ の 他
の と こ ろ で 行 わ れ た 祈 願 は 聞 き 届 け ら れ る 」 31
『 栄 光 の 喜 び al- Uns al-Jalīl 』 の 著 者 ( ウ ラ イ ミ ー ) 曰 く 、「 こ の 場 所 は 祝 福 さ れ て お り 、 モ
ス ク の 一 部 で あ る 。そ こ は 岩 〔 の ド ー ム 〕の 下 の 方 に あ り 、鉄 門 に 向 か い 合 っ て い る 。そ こ か
ら は 、岩〔 の ド ー ム 〕の 中 庭 に 続 く 階 段 が 付 け ら れ て い る 。そ こ は 人 々 に よ く 知 ら れ て い る 場
所 で あ る 。こ の 場 所 の 後 方 に は 、モ ス ク の 中 庭 に 描 か れ た ミ フ ラ ー ブ が あ り 、そ こ は「 魂 の 洞
窟 」 と し て 知 ら れ て お り 、 [52. a] 参 詣 の 目 的 地 と な っ て い る 」 以 上 3 2 。
私 は 言 う が 、私 は か つ て 夢 で ヒ ド ル ― 彼 に 平 安 あ れ ― に 会 っ た こ と が あ る 。彼 は 私 の た め に 、
31
32
FBM -I M 193 -194.
UJ ⅱ , 59.
306
数 々 の 祈 願 を 行 っ て く れ た 。私 は そ れ ら が 叶 え ば よ い と 思 う 。ま た 私 の 身 に 起 き た 奇 跡 の 中 に
は 、 次 の よ う な も の が あ る 。 私 は イ ブ ン ・ シ ャ ー ヒ ー ン Ibn Shāh īn に そ の 夢 の 解 釈 を し て も
ら お う と 思 っ た 。 彼 は 啓 典 を 開 き 、「 ヒ ド ル ― 彼 に 平 安 あ れ ― を 見 た 者 は 、 何 不 自 由 な く 安 全
に 遠 く に 旅 す る こ と が で き ― あ る い は ハ ッ ジ で き ― 、長 生 き す る こ と が で き る 」と い う 彼 の 言
葉 に 注 意 し た 。私 は 神 が こ の 夢 の 解 釈 を 、バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス 参 詣 に 際 し て 、そ の 後 は ハ
ッ ジ に 際 し て お 与 え 下 さ る よ う に 、ま た か の 3 つ の モ ス ク の う ち の ひ と つ に て 死 ね る よ う に と
望む。アーメン。
結び:シリアの物語、その美徳と偉大さ、その場所の神聖さ
先 人 た ち は 、シ リ ア を 5 つ の 部 分 に 分 け て い る 。 1 つ 目 は パ レ ス チ ナ で あ り 、 そ の 地 域 の 中
心 は ラ ム ラ で あ る 。2 つ 目 は ハ ウ ラ ー ン Ḥawr an で あ り 、そ の 最 も 大 き な 都 市 は テ ィ ベ リ ア ス
で あ る 。3 つ 目 は グ ー ダ al-Gh ūṭa で 、そ の 最 も 大 き な 都 市 は ダ マ ス カ ス で あ る 。4 つ 目 は ヒ ム
ス で 、こ の 行 政 区 の 中 に は サ ラ ミ ー ヤ の 町 が あ る 。 5 つ 目 は キ ン ナ ス リ ー ン Qinnasr īn で 、そ
の 最 も 大 き な 都 市 は ア レ ッ ポ で あ る 。ウ ラ マ ー は 、シ リ ア は メ ッ カ と メ デ ィ ナ に 次 い で 優 れ た
地域であるということで一致している。
ク ル ア ー ン の 章 句 に 見 ら れ る そ こ の 美 点 に つ い て 言 え ば 、 至 高 な る 方 の お 言 葉 、〈 そ し て 我
ら は 、弱 い と 見 ら れ て い た こ の 民 に 、我 ら が 祝 福 し た 土 地 を 東 西 に 渡 っ て 継 が せ た 〉(Q7:137)
が あ る 。す な わ ち 、シ ャ ー ム の 東 西 と い う こ と で あ る 。ま た〈 我 ら は イ ス ラ エ ル の 子 ら の た め
に 、 優 れ た 居 住 地 を 備 え て や っ た 〉 (Q 10:93) と い う の も 、 シ リ ア の こ と で あ る 。
ス ン ナ の 中 に は 次 の よ う な も の が あ る 。イ ブ ン・ウ マ ル が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、
「 良 き も の が 10 あ れ ば 、 10 分 の 9 は シ リ ア に あ り 、〔 後 の 〕 1 つ が 残 り の 地 域 に あ る 。 シ リ
アの民が腐敗してしまえば、お前たちの中に良き者はいなくなる」
タ バ ラ ー ニ ー が 彼 の 『 大 ハ デ ィ ー ス 集 al-Muʽjam al-Kabīr 』 の 中 で 、 ア ブ ド ッ ラ ー ・ ブ ン ・
マ ス ウ ー ド が 教 友 よ り 伝 え た も の を 伝 え て い る 。「 神 は 良 き も の を 1 0 に 分 け 給 い 、 1 0 分 の 9
を シ リ ア に 、 残 り の も の を 大 地 の そ の 他 の と こ ろ に 定 め 給 う た 。 ま た 神 は 悪 し き も の を 10 に
分け給い、そのうちの 1 つをシリアに、残りのものを大地のその他のところに定め給うた」
神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― 曰 く 、「 お 前 た ち は シ リ ア 、 イ エ メ ン 、 イ ラ ク
の ジ ュ ン ド に 住 む こ と に な る だ ろ う 。お 前 た ち は シ リ ア に 行 く が よ い 。そ し て そ れ を 拒 む 者 は
イ エ メ ン に 行 か せ 、彼 を 裏 切 る 者 と 戦 わ せ る が よ い 。ま こ と に 神 は 私 に 、シ リ ア と そ の 民 の こ
とを保証して下さった」
ア リ ー が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、「 ア ブ ダ ー ル al-Ab dāl は シ リ ア に い る 。 彼 ら
は 40 人 で あ り 、
〔 そ の 中 の 〕ひ と り が 死 ぬ ご と に 、神 は そ の 地 位 を 別 の 者 に 置 き 換 え 給 う abdala。
307
彼 ら の ゆ え に 雨 乞 い が な さ れ 、彼 ら の ゆ え に 敵 ど も に 対 す る 勝 利 が 与 え ら れ 、彼 ら の ゆ え に シ
リ ア は 苦 し み か ら 遠 ざ け ら れ て い る 」ア フ マ ド が こ れ を 、彼 の『 ム ス ナ ド 』の 中 で 伝 え て い る 。
イ ブ ン ・ ア ッ バ ー ス が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、「 メ ッ カ は 神 聖 さ の し る し 、 メ デ
ィ ナ は 宗 教 の 源 泉 、 ク ー フ ァ は イ ス ラ ー ム の 天 幕 、 ク ー フ ァ 33は 神 に 仕 え る 者 た ち の 夜 明 け 、
シ リ ア は 敬 虔 な る 人 々 の 故 郷 、エ ジ プ ト は 悪 魔 の 巣 に し て そ の 洞 窟 、そ の 座 で あ る 」以 下 、例
のハディース。
イ ブ ン・ジ ャ ッ ワ ー ラ・ア ズ デ ィ ー Ibn Jawwāla al-Azdī 曰 く 、
「私は言った。
『神の使徒よ、
存 在 す べ き 国 を 私 の た め に 選 ん で 下 さ い 。も し あ な た が 私 の 前 に 生 き 残 っ て 下 さ る の で し た ら 、
私 は あ な た の お 側 以 外 を 選 び は し な い の で す が 』す る と 彼 は『 お 前 は シ リ ア に 行 く が よ い 』と
言 っ た 。 さ ら に 彼 は 、 私 が シ リ ア を 嫌 が っ て い る 風 な の を 見 る と 言 っ た 。『 お 前 は 、 神 が シ リ
アにおっしゃっていることを伝え聞いていないのか?
神 は シ リ ア に 、「 シ リ ア よ 、 汝 は 我 が
大 地 、我 が 諸 国 の 中 か ら 私 が 選 び 出 し た も の で あ る 。私 は 汝 の 中 に 、我 が 被 造 物 の 中 の 優 れ た
も の た ち を 入 れ る 」と お っ し ゃ っ て い る の だ 。ま こ と に 神 は 私 に 、シ リ ア と そ の 民 の こ と を 保
証 し て 下 さ っ た 』こ れ は 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― が 、シ リ ア を 他 に 勝 る も
の と し て 選 び 出 し 、そ こ に 居 住 す る こ と を 選 び 、そ こ の 住 人 と な る た め に 選 び 出 し た と い う 証
で あ る 」『 シ リ ア に 住 む こ と に 対 す る イ ス ラ ー ム の 民 の 熱 望 Targhīb Ahl al-Islām fī Suknā
al-Shām 』 の 著 者 曰 く 、「 我 々 は 、 こ う し た こ と が こ の 証 の 通 り で あ る と い う こ と を 見 て い る 。
シ リ ア の 民 と 、彼 ら の そ れ 以 外 の 者 と の 繋 が り を 見 た 者 は 、彼 ら の 間 に 、彼 ら が よ り 分 け ら れ
選び出されたものであるということを示す違いを見出すのである」
ア タ ー ・ フ ラ ー サ ー ニ ー 曰 く 、「 私 が 移 住 す る こ と を 考 え て い た と き 、 私 は メ ッ カ 、 メ デ ィ
ナ 、 ク ー フ ァ 、 バ ス ラ 、 ホ ラ ー サ ー ン に 住 む 啓 典 の 民 に 助 言 を 請 う て 、『 私 は 家 族 を 連 れ て ど
こ に 居 留 す る べ き で し ょ う か 』 と 言 っ た 。 す る と 彼 ら は 皆 、『 あ な た は シ リ ア に 住 む べ き だ 』
と言った」
カ ァ ブ ・ ア ル ア フ バ ー ル が 次 の よ う に 伝 え て い る 。「 ト ー ラ ー の 第 1 巻 に は 、『 ム ハ ン マ ド
は選び出された我が僕なり。彼には荒さや粗暴さはなく、市場の中で叫び声を上げることも、
悪 い 行 い を 犯 す こ と も な い 。彼 は 罪 を 赦 さ れ て い る 。彼 は メ ッ カ に て 誕 生 し 、タ イ バ( メ デ ィ
ナ ) に ヒ ジ ュ ラ し 、 シ リ ア を 支 配 す る 』 と あ る 」 イ ブ ン ・ ア ブ ド ・ ア ッ サ ッ ラ ー ム 曰 く 、「 カ
ァ ブ ・ ア ル ア フ バ ー ル の 語 っ た こ と は 、実 際 に 見 聞 さ れ た こ と に 一 致 し て い る 。ゆ え に 、ま さ
しくイスラームの王の力と彼の軍隊の大部分はシリアにいるのである」
カ ァ ブ ・ ア ル ア フ バ ー ル 曰 く 、「 栄 光 あ る 至 高 な る 神 は 、 ユ ー フ ラ テ ス か ら ア リ ー シ ュ に 至
る シ リ ア を 祝 福 し 給 う た 」カ ァ ブ は 、祝 福 は シ リ ア に あ る と 指 摘 し て い る 。
「 至 高 な る 方 の〈 我
ら が 周 囲 を 祝 福 し た 〉 (Q17:1) と い う お 言 葉 は 、〔 抽 象 論 と し て 〕 神 が あ る 場 所 を 別 の 場 所 以
33
底 本 ( C 写 本 )、 B 写 本 と も に こ の 部 分 も 「 ク ー フ ァ al-Kūfa」 と な っ て い る が 、 IA 等 に 引 用 さ れ て
い る の 同 一 の ハ デ ィ ー ス で は 「 バ ス ラ al-B aṣra」 と な っ て い る [IA ⅱ , 137]。
308
上 に 特 別 な も の と さ れ た と い う こ と で は な く 、シ リ ア の 境 界 全 域 を 含 ん で い る の で あ る 。シ リ
ア と そ の 民 が 、神 の み も と で こ の 位 置 と こ の 地 位 に お り 、神 の 守 護 と 庇 護 の 中 に い る と き 、ダ
マ ス カ ス は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス の 次 に シ リ ア の 諸 地 域 の 中 で 良 い と こ ろ で あ る と い う 様 々
な 証 明 が な さ れ て い る 」ま た そ こ は ノ ア の 館 で あ り 、そ こ で は 釜 が 煮 立 っ て い る と 言 わ れ て い
る。
か く の ご と く 知 れ 。ダ マ ス カ ス と そ の 周 辺 に は 、様 々 な 優 れ た 場 所 が あ る 。そ の 中 に は 、そ
の 偉 大 な る モ ス ク が あ る 。ま た 至 高 な る 神 か ら は 、次 の よ う に 伝 え ら れ て い る 。神 は カ シ オ ン
山 Jab al Qāsiyūn に 向 か っ て 言 わ れ た 。「 私 は 汝 の 城 塞 の 中 に ― す な わ ち 汝 の 中 央 に ― 、 神 に
仕えるための家を建てよう」
カ タ ー ダ よ り 、至 高 な る 方 の〈 イ チ ジ ク 〉(Q95:1) と い う お 言 葉 に つ い て 、こ れ は ダ マ ス カ
ス の 金 曜 モ ス ク の こ と で あ る と 伝 え ら れ て い る 。ク ル ト ゥ ビ ー 曰 く 、
「〈 イ チ ジ ク 〉と は ダ マ ス
カ ス の モ ス ク の こ と で あ る 。そ こ は か つ て フ ー ド ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 果 樹 園 で あ り 、そ こ に イ
チジクがあったからである」
ウ ス マ ー ン ・ ブ ン ・ ア ビ ー ・ ア ー テ ィ カ ʽUthmān b. Abī ʽĀtik a 曰 く 、「 ダ マ ス カ ス の モ ス ク
の キ ブ ラ は 、預 言 者 フ ー ド ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 墓 で あ っ た が 、も と は 教 会 で あ っ た 。ム ス リ ム
た ち が ダ マ ス カ ス を 征 服 し た と き 、彼 ら は キ リ ス ト 教 徒 と 、そ こ の 半 分 を ム ス リ ム た ち の モ ス
ク と し 、も う 半 分 を キ リ ス ト 教 徒 の 教 会 と す る と い う こ と で 合 意 し た 。そ こ は 、カ リ フ = ワ リ
ー ド ・ ブ ン ・ ア ブ ド ・ ア ル マ リ ク の 頃 ま で そ の よ う で あ っ た が 、彼 は そ の 残 り の 部 分 を キ リ ス
ト 教 徒 よ り 取 り 上 げ 、そ の 全 域 を モ ス ク と し て 美 し く 建 設 し 直 し た 。そ の よ う な と こ ろ は 以 前
に は な い も の で あ っ た 。 彼 は そ の 整 備 に 、 1 つ に 2 万 8000 デ ィ ー ナ ー ル 入 っ て い る 箱 を 400
箱 費 や し た 。 カ リ フ は ダ マ ス カ ス の 民 に 言 っ た 。『 ダ マ ス カ ス の 民 よ 、 お 前 た ち は 、 お 前 た ち
以 外 の 者 に 対 し 4 つ の も の を 誇 っ て い る 。す な わ ち お 前 た ち の 気 候 と 水 、果 物 、ハ ン マ ー ム の
こ と で あ る 。そ し て 私 は 、お 前 た ち に 5 つ 目 の も の を 付 け 加 え て や ろ う 。そ れ が こ の 金 曜 モ ス
クである。しからば神を称賛し、このモスクを讃え、感謝を捧げ祈願する者として〔これに〕
向 か う が よ い 』」
[53. b] フ ァ ラ ズ ダ ク al-Fa razdaq 曰 く 、「 ダ マ ス カ ス の 民 は そ の 国 の 中 に 、 楽 園 の 城 の う
ち の ひ と つ を 持 っ て い る 。 す な わ ち 、 ウ マ イ ヤ ・ モ ス ク Jāmiʽ al-Umawī の こ と で あ る 」
ア フ マ ド ・ ブ ン ・ ア ル ジ ャ ウ ズ ィ ー 曰 く 、「 シ リ ア の 民 は 、 彼 ら が 見 て い る モ ス ク の 美 し さ
のために、楽園を熱望する気持ちが強い」
そ こ ( ダ マ ス カ ス の モ ス ク ) で の 礼 拝 と 美 徳 に つ い て は 、 ス フ ヤ ー ン ・ サ ウ リ ー 曰 く 、「 ダ
マスカスのモスクでの礼拝は、3 万回分に相当する」
次 の よ う に 伝 え ら れ て い る 。ワ ー ス ィ ラ・ブ ン・ア ル ア ス カ ゥ は 、ジ ャ イ ル ー ン Jayrūn 3 4 へ
34
ダ マ ス カ ス に あ る 土 地 の 名 前 。 ダ マ ス カ ス の モ ス ク の 東 門 は ジ ャ イ ル ー ン 門 と も 呼 ば れ る [MB ⅱ ,
199]。
309
と 通 じ る モ ス ク の 門 よ り 出 て 行 っ た 。す る と 彼 は カ ァ ブ・ ア ル ア フ バ ー ル に 出 会 っ た 。カ ア ブ
は 彼 に 、「 ど ち ら に 行 か れ る の か 」 と 言 っ た 。 彼 が 「 私 は 礼 拝 す る た め に バ イ ト ・ ア ル マ ク デ
ィ ス に 行 き た い の で す 」 と 言 う と 、 カ ァ ブ は 言 っ た 。「 い ら っ し ゃ い 、 私 が あ な た に 、 こ の モ
ス ク の 中 に あ る 場 所 で 、そ こ で 礼 拝 し た 者 は バ イ ト・ア ル マ ク デ ィ ス で 礼 拝 し た の と 同 様 に な
る 場 所 を 教 え て あ げ よ う 」そ し て 彼 は ア ス ガ ル 門 の 間 に あ る 突 き 出 た 部 分 、す な わ ち 西 側 の ア
ー チ に つ な が っ て い る 部 分 に や っ て き て 言 っ た 。「 こ の 2 つ の 間 で 礼 拝 す る 者 は 、 バ イ ト ・ ア
ル マ ク デ ィ ス に て 礼 拝 す る の と 同 様 で あ る 」 ワ ー ス ィ ラ 曰 く 、「 神 か け て 、 そ こ は ま さ し く 私
の座であり、我が民の座であった」
そ の モ ス ク の 中 に あ る 参 詣 す べ き 場 所 の 中 に は 、ザ カ リ ヤ の 子 ヨ ハ ネ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 首
が あ る 。ワ リ ー ド・ブ ン・ム ス リ ム よ り 次 の よ う に 伝 え ら れ て い る 。あ る 人 が 彼 に 尋 ね た 。
「ア
ブ ー ・ア ル ア ッ バ ー ス よ 、あ な た は 、ザ カ リ ヤ の 子 ヨ ハ ネ の 首 は こ の モ ス ク の ど こ に あ る と お
聞き及びですか」彼は「私は、それはあそこにあると聞いている」と言って、東の角にある 4
番目の滴の滴る柱を手で指し示した。
カ シ オ ン 山 と 、そ こ に あ る 祝 福 さ れ た マ シ ュ ハ ド や そ の 周 囲 に あ る 遺 跡 、祈 願 が 聞 き 届 け ら
れ 慣 習 が 破 ら れ る と 言 わ れ て い る 場 所 に つ い て 。カ シ オ ン 山 の 西 側 で は 、ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平
安 あ れ ― が 生 ま れ た 。ま た そ こ で は 、至 高 な る 神 が マ リ ア の 子 イ エ ス と そ の 母 に 避 難 所 を 与 え 、
彼 ら を ユ ダ ヤ 人 か ら 逃 れ さ せ 給 う た 。神 の 息 吹 イ エ ス の 砦 に 行 き 、沐 浴 し て 礼 拝 し 祈 願 す る 者
に は 、神 は 失 望 を お 与 え に な る こ と は な い 。イ ル ヤ ー ス は 彼 の 民 の 王 か ら 逃 れ て そ こ に 隠 れ た 。
ア ブ ラ ハ ム 、 ロ ト 、 モ ー セ 、イ エ ス 、 ヨ ブ も そ こ で 礼 拝 し た 。 彼 ら に 祝 福 と 平 安 の あ ら ん こ と
を。
ハ ッ サ ー ン ・ ブ ン ・ ア テ ィ ヤ 曰 く 、「 こ の 山 の 王 が ロ ト ― 彼 に 平 安 あ れ ― を 攻 撃 し 、 彼 と そ
の 家 族 を 捕 虜 に し た 。そ こ で ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ― は 彼 を 取 り 戻 す た め 、数 多 く の バ ド
ル の 民 を 率 い て 向 か っ て 行 っ た 。 彼 ら は サ フ ル ・ ア ル ク ウ ー ド Ṣakhr al-Quʽūd で 相 対 し た 。
[54. a] ア ブ ラ ハ ム は 〔 自 軍 を 〕 右 翼 、 左 翼 、 中 央 に 編 成 し た 。 彼 は そ う し た こ と を 最 初 に 行
っ た 人 で あ っ た 。彼 ら は 互 い に 戦 い 、ア ブ ラ ハ ム が 彼 を 打 ち 負 か し た 。彼 は ロ ト と そ の 家 族 を
救 出 す る と 、 ブ ル ザ Burza に あ る か の 場 所 に 行 き 、 そ こ で 礼 拝 し 、 そ こ を モ ス ク と し た 。
ズ フ リ ー 曰 く 、「 ア ブ ラ ハ ム の モ ス ク は 、 ブ ル ザ と い う 村 に あ る 。 そ こ で 4 回 の ラ ク ア の 礼
拝 を 行 っ た 者 は 、 母 親 か ら 生 ま れ た 日 の ご と く に 、 そ の 罪 か ら 逃 れ ら れ る 。〔 そ こ で 〕 至 高 な
る 神 に 求 め た こ と は な ん で も 、空 し く な る こ と は な い 」 そ こ( カ シ オ ン 山 ) に は 、カ イ ン が ア
ベ ル を 殺 し た と い う 「 血 の 洞 窟 M aghārat al -Damm」 が あ り 、 祈 願 が 聞 き 届 け ら れ る 場 所 と し
て 知 ら れ て い る 。ズ フ リ ー 曰 く 、
「もしも人々が血の洞窟の中にある美徳を知っていたならば、
彼らはもはやそこにいること以外、飲食を楽しむこともなくなるであろう」
ア フ マ ド ・ ブ ン ・ ク サ イ ル 曰 く 、「 私 は カ シ オ ン 山 に あ る ア ダ ム の 子 の 血 の 場 所 に 上 っ て 行
き 、強 大 に し て 栄 光 あ る 神 に ハ ッ ジ を 求 め た 。す る と 私 は ハ ッ ジ で き た 。ま た 私 が ジ ハ ー ド を
310
求 め る と 、私 は ジ ハ ー ド で き 、リ バ ー ト に 拠 っ て 戦 う こ と を 求 め れ ば そ う で き た 。ま た バ イ ト・
ア ル マ ク デ ィ ス で 礼 拝 す る こ と を 求 め れ ば 、私 は そ こ で 礼 拝 で き 、売 買 で 豊 か に な る こ と を 求
め れ ば 、 そ れ に よ っ て 日 々 の 糧 を 得 る こ と が で き た 。〔 あ る と き 〕 私 は 夢 の 中 で 、 自 分 が そ の
場 所 に 立 っ て 礼 拝 し て い る の を 見 た 。そ こ に は 預 言 者〔 ム ハ ン マ ド 〕― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を
与 え 給 え ― と ア ブ ー ・ バ ク ル 、 ウ マ ル 、 ア ベ ル が い た 。 私 は 〔 ア ベ ル に 〕 言 っ た 。『 唯 一 に し
て 永 遠 な る 方 の 正 義 に か け て 、ま た あ な た の 父 ア ダ ム の 正 義 に か け て 、ま た こ ち ら の 預 言 者 の
正 義 に か け て 、私 は あ な た に お 尋 ね し ま す が 、こ れ は あ な た の 血 な の で す か ? 』す る と 彼 は 言
っ た 。『 ア ダ ム と 我 が 母 イ ヴ 、 選 ば れ し 人 ム ハ ン マ ド ― 彼 ら に 神 の 祝 福 の あ ら ん こ と を ― の 主
よ 、神 は 我 が 血 を 、あ ら ゆ る 預 言 者 た 誠 実 な る 者 が 助 け を 求 め る と こ ろ と な さ っ た 。神 は そ の
み も と で 祈 願 す る 者 に 応 え 給 い 、願 い 事 を す る 者 に は そ の 願 う も の を 与 え 給 う 。至 高 な る 神 は
応 え 給 い 、こ の 山 を 避 難 所 、助 け の 得 ら れ る 場 所 と な さ っ た 。そ の 後 至 高 な る 神 は こ こ に ひ と
り の 天 使 を 任 じ 給 い 、そ の 天 使 と と も に そ の 他 の 天 使 た ち を 、数 々 の 星 々 を つ け て 置 き 、そ こ
を 守 ら せ 給 う た 。こ の 場 所 で 礼 拝 す る こ と の み を 求 め て こ こ に や っ て く る 者 は 、受 け 入 れ ら れ
る 』 そ の と き 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― が 私 に 言 っ た 。『 す で に 神 は そ う し
た こ と を 、寛 大 さ と 恩 寵 を も っ て 行 わ れ た 。私 と 私 の 2 人 の 教 友 、そ し て ア ベ ル は 、毎 週 木 曜
日 に こ こ を 訪 れ 、 こ こ で 礼 拝 し て い る 』」
こ の 山 の 麓 に は 、 洞 窟 の あ る 場 所 が あ る 。 [54. b] あ る 信 頼 に 足 る 人 々 が 次 の よ う に 伝 え て
い る 。彼 ら は そ の 洞 窟 に 入 り 、大 き な タ イ ル を 引 き 剥 が し た 。す る と 彼 ら は 〔 そ の 下 に 〕洞 窟
を 見 つ け た 。そ の 広 さ は 5 ズ ィ ラ ー ゥ か そ れ 以 上 あ っ た 。そ の 洞 窟 の 北 側 に は イ ー ワ ー ン が あ
り 、そ こ に は 7 人 の 背 の 高 い 、経 帷 子 に 包 ま れ た ア ラ ブ 風 の 人 々 が い た 。彼 ら は そ の 人 々 に 近
づくことを恐れ、そのタイルを元通りに戻して帰っていった。
ま た そ こ に は〔 ク ル ア ー ン で 言 及 さ れ て い る と こ ろ の 〕丘 al-rabwa も あ る 。信 頼 に 足 る 人 々
が伝えているところでは、
〈 安 泰 に し て 泉 湧 く 丘 〉(Q23:50) に 行 き た い と 思 う 者 は 、か の 2 本
の 川 の あ る 上 ナ イ ラ ブ al-Nayrab al -Aʽl ā 3 5 に 行 く が よ い 。つ ま る と こ ろ 、ダ マ ス カ ス の 町 は ア
ブ ダ ー ル が 最 も 多 い 町 で あ り 、人 々 や 財 産 、ザ ー ヒ ド 、神 に 仕 え る 者 、 モ ス ク が 最 も 多 い 町 で
ある。そこは人々のための砦である。
シ リ ア の 地 に あ る 、そ の 特 別 さ に よ っ て 美 徳 が 伝 え ら れ て い る 場 所 。そ の 中 に は パ レ ス チ ナ
が あ る 。あ る ハ デ ィ ー ス に 、次 の よ う に 伝 え ら れ て い る 。
「この大地の中で減らされるものも、
シ リ ア に あ っ て は 増 や さ れ る 。シ リ ア の 中 で 減 ら さ れ る も の も 、パ レ ス チ ナ に あ っ て は 増 や さ
れる」
カ ァ ブ・ア ル ア フ バ ー ル が あ る 人 に 会 い 、彼 に 言 っ た 。そ の 話 を 要 約 す る と 次 の よ う に な る 。
「 あ な た は お そ ら く 、神 が 毎 日 2 度 目 を 向 け 給 う 軍 管 区 の 出 身 な の で し ょ う 」そ の 人 が「 そ の
人 々 は ど こ の 人 々 な の で す か ? 」と 言 う と 、彼 は 「 パ レ ス チ ナ で す 」と 言 っ た 。 そ の 人 は 〔 そ
35
ダ マ ス カ ス に あ る 村 [MB ⅴ , 330]。
311
うです〕と言った。
ア ブ ド ・ ア ル マ リ ク ・ ジ ャ ザ リ ー 曰 く 、「 シ ャ ー ム は 祝 福 さ れ た と こ ろ で あ り 、 パ レ ス チ ナ
は聖なるところである、バイト・アルマクディスは聖なる聖 地である」
ア ブ ー ・ フ ラ イ ラ が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え て 曰 く 、「 お 前 た ち は ラ ム ラ に ― す な わ ち パ
レ ス チ ナ に ― 留 ま れ 。な ん と な れ ば そ こ は 、至 高 な る 神 が 〈 我 ら は 彼 ら に 、 安 泰 に し て 泉 湧 く
丘 を 宿 所 と し て 与 え た 〉 (Q23 :50) と 言 わ れ た と こ ろ の 丘 だ か ら で あ る 」 こ の 話 と こ の 伝 承 に
ついては、第 7 章で述べている。
ま た シ リ ア に は リ ッ ド が あ る 。 ム ス リ ム の『 サ ヒ ー フ 』に は 次 の よ う に あ る 。 預 言 者 ― 神 よ
彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― は そ こ に つ い て 言 っ た 。「 反 キ リ ス ト は 、 リ ッ ド の 門 で マ リ ア の
子に殺される」
ま た そ こ に は ア ス カ ラ ー ン と ガ ザ が あ る 。イ ブ ン・ア ッ ズ バ イ ル が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝
え て 曰 く 、「 2 人 の 花 嫁 〔 た る ア ス カ ラ ー ン と ガ ザ 〕 に 住 む 者 に 祝 福 あ れ 」
またそこにはベツレヘムがある。それについての言葉はすでに出た。
ま た そ こ に は ヒ ム ス が あ る 。 カ タ ー ダ 曰 く 、「 そ こ に は 500 人 の 教 友 が 居 留 し て い た 」 そ こ
に は 蛇 や サ ソ リ が 入 っ て こ な い と も 言 わ れ て い る 。 そ こ に は 、 ハ ー リ ド ・ ブ ン ・ [55. a] ア ル
ワリードとカァブ・アルアフバールの墓がある。
ま た そ こ に は キ ン ナ ス リ ー ン が あ る 。ブ ハ ー リ ー が 彼 の『 歴 史 Tārīkh 』の 中 で 、ジ ャ リ ー ル ・
ブ ン・ア ブ ド・ア ッ ラ ー よ り 伝 え た 。預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― は 言 っ た 。
「〔 神
は 〕 啓 示 を 下 し て 言 わ れ た 。『 こ れ ら の 3 つ に 私 は 下 り て き た 。 す な わ ち 汝 の ヒ ジ ュ ラ の 館 で
あ る メ デ ィ ナ 、 あ る い は バ ハ レ ー ン 、 あ る い は キ ン ナ ス リ ー ン に 』」
ま た シ リ ア に は ア ン テ ィ オ キ ア が あ る 。そ こ に は ハ ビ ー ブ・ナ ッ ジ ャ ー ル Ḥab īb al-Najj ār の
墓 が あ る 。イ ス ラ エ ル 12 部 族 の ヨ セ フ は 、死 に 際 に そ の 妻 に 言 っ た 。
「 私 が 死 ん だ ら 、お 前 は
アンティオキアに行きなさい。そこがお前の墓となるように」
実 際 シ リ ア の 地 の ほ と ん ど に は 、預 言 者 た ち や 教 友 た ち の 墓 が あ る の で あ る 。預 言 者 た ち に
つ い て 言 え ば 、カ ァ ブ・ア ル ア フ バ ー ル 曰 く 、
「 タ ル ス ー ス に は 、預 言 者 た ち の 墓 が 1000 あ る 。
マ ス ィ ー サ al -Maṣ īṣ a に は 5 つ が 、 シ リ ア の 海 岸 地 域 に あ る ス グ ー ル al -Thughūr に は 、 預 言
者 た ち の 墓 が 1000 あ る 。 ア ン テ ィ オ キ ア に は 、 ハ ビ ー ブ ・ ナ ッ ジ ャ ー ル の 墓 が あ る 。 ヒ ム ス
に は 30 の 墓 が 、 ダ マ ス カ ス に は 500 の 墓 が 、 ヨ ル ダ ン の 地 に は そ れ と 同 数 、 パ レ ス チ ナ に も
そ れ と 同 数 あ る 。 バ イ ト ・ ア ル マ ク デ ィ ス に は 1000 の 墓 が 、 ア リ ー シ ュ に は 10 が あ る 。 ま
たモーセの墓はダマスカスにある」
〔モーセの墓のある場所について〕
『 親 し き 友 の 贈 り 物 Itḥāf
al-Akhiṣṣāʼ 』 の 著 者 ( ミ ン ハ ー ジ ー ) は 、「 多 く の 人 々 が そ れ に は 反 対 し て い る 。 モ ー セ ― 彼
に 平 安 あ れ ― の 墓 は 、 ガ ウ ル に あ る イ ェ リ コ 付 近 に あ る 」 と 言 っ て い る 36。
教 友 た ち に つ い て も 多 数 が い た 。彼 ら の 中 に は 、 ビ ラ ー ル ・ ブ ン ・ ラ ッ バ ー フ 、 ア ブ ー ・ ア
36
IA ⅱ , 168.
312
ッ ダ ル ダ ー 、ワ ー ス ィ ラ・ブ ン・ア ル ア ス カ ゥ 、フ ァ ダ ー ラ・ブ ン・ウ バ イ ド Faḍāl a b. ʽUbayd 、
ウ サ ー マ ・ ブ ン ・ ザ イ ド 、 ハ フ サ ・ ビ ン ト ・ ウ マ ル Ḥafṣ a bint ʽUm ar 、 そ の 他 多 く の 名 前 や 墓
〔 の 場 所 〕 が 知 ら れ て い な い 人 々 が い る 。 ア シ ュ ア ス ・ ブ ン ・ ス ラ イ マ ー ン al -Ashʽath b.
Sul aym ān 曰 く 、「 シ リ ア に は 、 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― を 見 た 1 万 の 目 が
ある」
『 親 し き 友 の 贈 り 物 Itḥāf al-A khiṣṣāʼ』 と 『 栄 光 の 喜 び al-Uns al-Jalīl』 か ら の 要 約 は 以 上 で
ある。万世の主たる神に称賛あれ。
私 は 言 う 。シ リ ア に 埋 葬 さ れ て い る 人 々 の 中 に は 、我 ら が い と 高 き 父 祖 た る サ ァ ド ・ ブ ン ・
ウバーダ・アンサーリー・ハズラジーがいる。我々はこの要約〔の書〕を、 彼と彼の徳の話、
アンサールの美徳の一部の話で終えよう。
私 は 次 の よ う に 言 う 。信 徒 の 長 は か の ハ デ ィ ー ス の 中 で 次 の よ う に 言 っ た 。シ ハ ー ブ〔 ・ ア
ッ デ ィ ー ン 〕・ ア フ マ ド ・ ブ ン ・ ハ ジ ャ ル ・ ア ス カ ラ ー ニ ー Shih āb al-Dī n Aḥmad b. Ḥaj ar
al-ʽAsqal ānī が 、『 教 友 方 に 関 す る 知 識 の 的 al-Iṣāba fī Maʽrifat al -Ṣaḥāba』 の 書 の 中 で 次 の よ
う に 言 っ て い る 。〔 彼 は 〕 サ ァ ド ・ ブ ン ・ ウ バ ー ダ ・ ブ ン ・ ド ゥ ラ イ ム ・ [55. b ] ブ ン ・ ハ ー リ
サ・ブン・ハラーム・ブン・フザイマ・ブン・サァラバ・ブン・タリーフ・ブン・アルハズラ
ジ ュ・ ブ ン ・サ ー イ ダ・ ブ ン ・カ ァ ブ ・ ブ ン・ ア ル ハ ズ ラ ジ ュ・ ア ン サ ー リ ー Saʽd b. ʽUb āda b.
Dulaym b. Ḥārith a b. Ḥarām b. Khzayma b. Th aʽlab a b . Ṭ arīf b. al-Kh azr aj b. Sāʽida b. K a ʽb b.
al-Kh azraj al-A nṣārī で あ り 、 ハ ズ ラ ジ ュ の 長 で あ る 。 彼 の ク ン ヤ は ア ブ ー ・ サ ー ビ ト Abū
Thābit 、 あ る い は ア ブ ー ・ カ イ ス Ab ū Qays で あ っ た 。 彼 の 母 親 は ウ マ ラ ・ ビ ン ト ・ マ ス ウ ー
ド ʽUmar a bint Masʽūd で あ り 、 彼 女 も 預 言 者 ム ハ ン マ ド と の 面 識 が あ っ た 。 彼 女 は 預 言 者 ―
神よ彼に祝福と平安を与え給え―の時代の 5 年に没した。彼はアカバの誓いを経験している。
ま た 彼 は 貴 顕 た ち の ひ と り で あ っ た 。彼 が バ ド ル の 戦 い を 経 験 し て い る か ど う か に つ い て は 議
論 が あ る が 、 ブ ハ ー リ ー は あ る と し て い る 。 イ ブ ン ・ サ ァ ド 曰 く 、「 彼 は 出 撃 の 準 備 を し て 、
待 ち 望 ん で 立 っ て い た 。 す る と 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― は 、『 彼 は そ れ を 熱
望しているな』と言った」
イ ブ ン・サ ァ ド 曰 く 、
「 彼 は ア ラ ビ ア 語 を 書 き 、ま た 泳 ぎ と 弓 を 射 る こ と が う ま か っ た の で 、
『 完 全 な る 者 al-K āmil』と 言 わ れ た 。彼 と 彼 の 子 供 た ち 、彼 の 祖 父 と 父 親 は 、寛 大 さ を も っ て
知 ら れ て い た 。 彼 ら は 砦 を も っ て い て 、 そ の 上 か ら は 毎 日 、『 肉 と 脂 が 欲 し い 者 は 、 ド ゥ ラ イ
ム ・ ブ ン ・ ハ ー リ サ の 砦 に 来 た れ 』と 呼 び か け ら れ て い た 。サ ァ ド の 鉢 は 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝
福 と 平 安 を 与 え 給 え ― と と も に 、 彼 の 妻 た ち の 家 で 回 さ れ た 。 ヤ ク サ ム Yaq sam が イ ブ ン ・
ア ッ バ ー ス よ り 伝 え て 曰 く 、「 神 の 使 徒 の 旗 は あ ら ゆ る 祖 国 に あ り 、 ム ジ ャ ー ヒ ド 戦 士 た ち の
旗はアリーとともに、アンサールたちの旗はサァド・ブン・ウバーダとともにある」
ア フ マ ド が 、ム ハ ン マ ド・ ブ ン・ ア ブ ド・ア ッ ラ フ マ ー ン・ ブ ン・ ア ス ア ド ・ブ ン ・ザ ラ ー
313
ラ Muḥammad b. ʽAbd al - Raḥm ān b. As ʽad Zarār a、 さ ら に カ イ ス ・ ブ ン ・ サ ァ ド Qays b. Saʽd
よ り 次 の よ う に 伝 え て い る 。「 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― が 、 我 々 の 住 ま い に
訪 れ て 言 っ た 。『 あ な た 方 に 平 安 と 、神 の 恩 寵 の あ ら ん こ と を 』・・・」 以 下 の ハ デ ィ ー ス 。そ の
中 に は 次 の よ う に あ る 「 そ し て 彼 は 両 手 を 掲 げ て 、『 お お 神 よ 、 あ な た の 祝 福 と 恩 寵 を 、 サ ァ
ド・ブン・ウバーダの一族に与え給え』と言った」
ア ブ ー ・ ヤ ァ ラ ー が ジ ャ ー ビ ル の ハ デ ィ ー ス よ り 伝 え て 曰 く 、「 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と
平 安 を 与 え 給 え ― は 言 っ た 。『 神 は ア ン サ ー ル に 祝 福 を 与 え 給 う た 。 と り わ け ア ブ ド ・ ア ッ ラ
ー ・ ブ ン ・ ア ム ル ・ ブ ン ・ ハ ラ ー ム と サ ァ ド ・ ブ ン ・ ウ バ ー ダ に 』」
イ ブ ン・ア ビ ー・ア ッ ド ゥ ン ヤ ー 曰 く 、
「 ス ッ フ ァ の 民 Ahl al-Ṣuffa( 家 を 持 た な い 貧 し い 人 々 )
は 夕 方 に な る と 、あ る 人 は も う ひ と り の ひ と を 、ま た あ る 人 は 2 人 を 、ま た あ る 人 は も っ と 多
く の 人 々 を 連 れ て や っ て き た が 、サ ァ ド・ブ ン・ウ バ ー ダ は 80 人 の 人 々 を 連 れ て や っ て き た 」
ダ ー ラ ク タ ニ ー al-D āraqṭanī が『 寛 大 な る 人 々 al-Askhayāʼ』の 書 の 中 で 、ヒ シ ャ ー ム・ブ ン ・
ウ ル ワ Hishām b. ʽUrwa、さ ら に 彼 の 父 よ り 次 の よ う に 伝 え て い る 。
「サァドの呼び役が砦の上
よ り 、『 肉 と 脂 が 欲 し い 者 は 、サ ァ ド の 砦 に 来 た れ 』と 呼 び か け て い た 。 [56. a ] そ の と き サ ァ
ド は 言 っ た 。『 お お 神 よ 、 我 に 栄 光 を 与 え 給 え 。 お お 神 よ 、 私 を 正 し て く れ る も の は ほ と ん ど
な く 、 私 は そ れ に す ら 値 し な い の で す 』」
ム ハ ン マ ド ・ ブ ン ・ ス ィ ー リ ー ン 曰 く 、「 サ ァ ド ・ ブ ン ・ ウ バ ー ダ は 、毎 晩 80 人 の 家 の な い
人 々 と と も に 夕 食 を 取 っ て い た 。彼 が ア ブ ー・バ ク ル に バ イ ア を 行 わ な か っ た 話 は 有 名 で あ る 。
彼 は シ リ ア に 行 き 、 15 年 に ハ ウ ラ ー ン で 没 し た 。 16 年 で あ る と も 言 わ れ て い る 」
彼 曰 く 、「 彼 の 息 子 は カ イ ス と サ イ ー ド と イ ス ハ ー ク 、 彼 の 孫 は シ ャ ル ハ ビ ー ル ・ ブ ン ・ サ
イ ー ド Sh arḥab īl b. Saʽīd で あ る 」
彼 曰 く 、「 教 友 た ち の 中 に は ま た 、 イ ブ ン ・ ア ッ バ ー ス 、 ア ブ ー ・ ウ マ ー マ ・ ブ ン ・ サ フ ル
がいた。またハサン・ブン・イーサー・ブン・ファーイドも彼に書簡を送っている」
ア ブ ー・ダ ー ウ ー ド が 、カ イ ス・ブ ン・サ ァ ド の ハ デ ィ ー ス よ り 次 の よ う に 伝 え て い る 。
「預
言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― は 言 っ た 。『 お お 神 よ 、 あ な た の 祝 福 と 恩 寵 を 、 サ ァ
ド ・ ブ ン ・ ウ バ ー ダ の 一 族 に 与 え 給 え 』」 彼 は あ る ハ デ ィ ー ス の 中 で こ れ を 取 り 上 げ て い る 。
彼の墓は、グータにあるダマスカスの村、ムニーハにあるとも言われている。
サ イ ー ド ・ ブ ン ・ ア ブ ド ・ ア ル ア ズ ィ ー ズ 曰 く 、「 彼 は ブ ス ラ ー で 死 ん だ 。 そ こ は シ リ ア で
最初に征服された町であった」
『 接 近 の 果 て N ihāy at al- Taqrīb』 で は 、 サ ァ ド の 血 統 を 述 べ た 後 に 、 彼 は 次 の よ う に 言 っ て
い る 。 サ ァ ド ・ ブ ン ・ ウ バ ー ダ と ム ン ズ ィ ル ・ ブ ン ・ ウ ム ラ al-M undhir b. ʽUmra と ア ブ ー ・
ダ ッ ジ ャ ー ナ Ab ū Dajjāna は イ ス ラ ー ム に 入 信 し た と き 、バ ヌ ー・サ ー イ ダ Banū Ṣāʽida の 偶
像 を 打 ち 壊 し た 。 サ ァ ド は 70 人 の ア ン サ ー ル と と も に 、 ア カ バ の 戦 い を 経 験 し た 。 彼 ら の 話
は 、 全 部 で 次 の よ う な も の で あ る 。 彼 は 12 人 の 首 長 た ち の う ち の ひ と り で あ っ た 。 彼 は ア ン
314
サ ー ル を バ ド ル の 戦 い に 出 陣 す る よ う に 推 進 し 、は り き っ て 準 備 を 進 め て い た 。神 の 使 徒 ― 神
よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― は 彼 の た め に 彼 の 弓 を 射 て 、ま た そ れ を 引 き 抜 い た 。彼 が 個 人
で 塹 壕 の 戦 い を 経 験 し て い る か ど う か は 定 か で は な い が 、彼 は ヒ ジ ュ ラ 暦 5 年 ラ ビ ー ゥ・ア ル
ア ッ ワ ル 月 の ド ゥ ー マ ト・ア ル ジ ャ ン ダ ル 遠 征 で は 、様 々 の 場 面 を 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と
平 安 を 与 え 給 え ― と 共 に し た 37。 サ ァ ド ・ ブ ン ・ ウ バ ー ダ も そ の 遠 征 に 参 加 し て い た 。 神 の 使
徒―神よ彼に祝福と平安を与え給え―は〔メディナに〕やってくると、彼女(サァドの母親)
の墓に行って、彼女のために祝福を請うた。
神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― は 、ア ブ ー・ス フ ヤ ー ン の 接 近 を 耳 に し た と き 、
「 我 々 に 助 言 し て く れ 」 と 言 っ た 。「 お 望 み の ま ま に な さ っ て 下 さ い 、 神 の 使 徒 よ 。 あ な た が
我 々 に 、そ れ を 海 に 放 り 込 め と 言 わ れ る の で し た ら 、我 々 は そ う し ま す 。あ な た が 我 々 に 、そ
の 肝 臓 を 剣 の 鞘 で 殴 れ と 言 わ れ る の で し た ら 、 我 々 は そ の よ う に い た し ま す 」〔 こ の 他 に も 〕
彼の優れた行いや美徳は実に多くある。
[56. b] イ ブ ン ・ ア ビ ー ・ ウ ル ー バ Ibn Abī ʽUr ūba 曰 く 、「 私 は ム ハ ン マ ド ・ ブ ン ・ ス ィ ー
リ ー ン よ り 、次 の よ う な 話 を 聞 い た 。サ ァ ド・ブ ン・ウ バ ー ダ が 立 っ て 小 便 を し て い た 。彼 は
戻ってくると、彼の仲間たちに『私はトカゲを見つけたのだ』と言って死んだ」
ウ マ ル ・ ブ ン ・ ア ブ ド ・ ア ル バ ッ ル 曰 く 、「 サ ァ ド は ア ブ ー ・ バ ク ル に バ イ ア を 行 う こ と な
く、メディナを出た。彼はそこに戻ってくることなく、カリフ=ウマルの治世の 2 年半目に、
シ リ ア の 地 に あ る ハ ウ ラ ー ン で 没 し た 。 そ れ は 15 年 の こ と で あ っ た 」
そ れ は 14 年 の こ と で あ っ た と も 言 わ れ て い る 。ま た 、サ ァ ド・ブ ン・ウ バ ー ダ は 、ア ブ ー ・
バ ク ル の カ リ フ 在 位 中 の 11 年 に 死 ん だ と も 言 わ れ て い る 。い ず れ に せ よ 人 々 は 死 体 を 見 つ け 、
彼 の 体 は 運 ば れ た 。彼 ら は 彼 の 死 に 気 づ か ず 、彼 ら の 見 知 ら ぬ 者 が「 我 々 は ハ ズ ラ ジ ュ の 長 サ
ァ ド ・ ブ ン ・ ウ バ ー ダ を 殺 し た 。我 々 は 2 本 の 矢 で 彼 を 射 た 」と 言 っ て い る の を 聞 い た 。彼 は
ジ ン に 殺 さ れ た の だ と も 言 わ れ て い る 。そ う し た こ と は 、両『 サ ヒ ー フ 』の 中 で は 言 わ れ て い
な い が 、〔 6 書 の う ち 残 り の 〕 4 書 で は 伝 え て い る 。 か い つ ま ん で 言 う と 以 上 で あ る 。
学 識 あ る 者 シ ハ ー ブ〔・ア ッ デ ィ ー ン 〕ア フ マ ド・ブ ン・ハ ジ ャ ル・ハ イ サ ミ ー Shihāb al-Dī n
Aḥmad b. Ḥajar al-Hayth amī に よ る 『 稲 妻 al- Ṣawāʽiq 』 で は 、 次 の よ う に あ る 。「 ア フ マ ド は
次 の よ う に 引 用 し て い る 。 ア ブ ー ・ バ ク ル が サ キ ー フ ァ の 日 Yawm al -Saqīfa 3 8 に フ ト バ を 行
っ た と き 、彼 は ア ン サ ー ル に 関 す る こ と を な に ひ と つ 取 り 落 と す こ と は な く 、か つ て 神 の 使 徒
― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― が ア ン サ ー ル の 女 性 た ち の 間 で 話 し た こ と を 話 し た 。ア ブ
ー ・ バ ク ル は 言 っ た 。『 あ な た 方 は か つ て 神 の 使 徒 が 、「 人 々 が 谷 に は ま り 込 み 、ア ン サ ー ル も
37
B 写 本 で は 、こ の 部 分 は 以 下 の よ う な 内 容 に な っ て い る 。
「彼の母親であるウマラはバイアを行った
女 性 た ち の ひ と り で あ っ た 。彼 女 は メ デ ィ ナ に て 、預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― が ヒ ジ ュ
ラ暦 5 年のラビーゥ・アルアッワル月のドゥーマト・アルジャンダル遠征で不在の際に亡くなった」
3 8 メ デ ィ ナ に あ る「 サ キ ー フ ァ ト ・ バ ニ ー ・ サ ー イ ダ Saqīfat Banī Sāʽi da 」と 呼 ば れ る 建 物 の 影 に な っ
た 場 所 で 、サ ァ ド・ブ ン・ウ バ ー ダ の 祖 先 の サ ー イ ダ・ブ ン・カ ア ブ・ブ ン・ア ル ハ ズ ラ ジ ュ の 一 族 に
由 来 し て い る 。 こ こ で ア ブ ー ・ バ ク ル に 対 す る バ イ ア が 行 わ れ た [MB ⅲ , 228-229 ]。
315
谷 に は ま り 込 ん だ と し た ら 、私 は ア ン サ ー ル の 谷 に は ま る で あ ろ う 」と 言 っ た こ と を 知 っ て い
る だ ろ う 。あ な た も 知 っ て い る だ ろ う 、サ ァ ド よ 、神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え
― は か つ て 、「 お 前 は 、 こ の 問 題 を 治 め る 者 た ち で あ る ク ラ イ シ ュ の も と に 座 す 者 で あ る 。 敬
虔 な る 人 々 は 彼 ら の う ち の 敬 虔 な る 者 に 従 い 、嘘 つ き た ち は 彼 ら の う ち の 嘘 つ き に 従 っ た 」と
言 わ れ た こ と を 』 す る と サ ァ ド は 、『 私 は 、 我 々 が ワ ズ ィ ー ル で あ り 、 あ な た 方 が ア ミ ー ル で
あ る と い う こ と を 信 じ ま す 』と 言 っ た 。こ こ か ら は 、イ ブ ン・ア ブ ド・ア ル バ ッ ル Ibn ʽAb d al- Barr
が 、『 サ ァ ド は ア ブ ー ・ バ ク ル に バ イ ア す る こ と を 拒 ん だ ま ま 、 神 に 会 っ た 』 と 語 っ た こ と が
脆弱なものであるということがわかる」以上。
ム ス リ ム が 彼 の『 サ ヒ ー フ 』の 中 で 、ア ブ ー ・ フ ラ イ ラ よ り 伝 え ら れ た も の を 取 り 上 げ て い
る 。「 サ ァ ド ・ ブ ン ・ ウ バ ー ダ が 、『 も し 私 の 妻 が 他 の 男 と 一 緒 に い る と こ ろ を 見 つ け た な ら 、
そ の 男 が 4 人 の 証 人 を 連 れ て 来 る ま で は 、私 は 彼 に 何 も し て は い け な い と い う こ と な の で し ょ
う か ? 』 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― は 、『 そ の 通 り だ 』 と 言 っ た 。 す る と サ
ァ ド は 言 っ た 。『 そ ん な こ と は あ り え な い 。 正 義 を 遣 わ し 給 う た 方 に か け て 、 も し 私 が そ ん な
こ と に な っ た な ら 、そ の 前 に 私 は 剣 を 持 っ て そ の 男 の も と に 押 し 掛 け る で し ょ う 』神 の 使 徒 ―
神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― は 言 っ た 。『 お 前 た ち は お 前 た ち の 長 が 言 っ た こ と を 聞 い た
か 。 彼 は 嫉 妬 深 い 者 で あ る 。 し か し 私 は 彼 以 上 に 嫉 妬 深 く 、 神 は 私 よ り も 嫉 妬 深 い の だ 』」
ま た 彼 は 、 ム ギ ー ラ ・ ブ ン ・ シ ュ ゥ バ よ り 伝 え ら れ た も の を 取 り 上 げ て い る 。「 サ ァ ド ・ ブ
ン ・ ウ バ ー ダ は 、『 も し 私 の 妻 が 他 の 男 と 一 緒 に い る と こ ろ を 見 つ け た な ら 、 私 は そ の 男 が 鎧
を 着 け て い な か ろ う と も 、剣 で 突 き 刺 し て や る と こ ろ だ 』と 言 っ た 。神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福
と 平 安 を 与 え 給 え ― は 、 そ れ を 耳 に す る と 言 っ た 。『 お 前 た ち は サ ァ ド の 嫉 妬 に 驚 い た か 。 し
か し し か し 私 は 彼 以 上 に 嫉 妬 深 く 、神 は 私 よ り も 嫉 妬 深 い の だ 。神 の 嫉 妬 を 重 く 見 る 者 は 、い
か な る 不 貞 も 犯 し は す ま い 。神 よ り も 嫉 妬 深 い 者 は お ら ず 、神 よ り も 称 賛 す る に ふ さ わ し い 者
は い な い 。そ う し た こ と を 重 く 見 る 者 に は 、良 き 知 ら せ や 警 告 を 伝 え て く れ る 使 徒 た ち が 遣 わ
さ れ る だ ろ う 。ま こ と に 神 よ り も 称 賛 に ふ さ わ し い 者 は い な い 。そ う し た こ と を 重 く 見 る 者 に
は 、 神 が 楽 園 を 約 束 し て 下 さ る だ ろ う 』」
〔 ア ブ ー・ ハ ー ミ ド・ ガ ザ ー リ ー Ab ū Ḥāmid al-Ghazārī に よ る 〕
『 再 興 al-I ḥyāʼ 』の 中 に は 、
ガ ザ ー リ ー が ジ ャ ー ビ ル よ り 伝 え た も の が あ る 。「 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え
― は 分 遣 隊 を 遣 わ し 、カ イ ス・ブ ン・ サ ァ ド・ブ ン・ウ バ ー ダ が 彼 ら の 司 令 官 と な る よ う に 命
じ た 。彼 ら は 懸 命 に 戦 い 、カ イ ス は 彼 ら の た め に 9 頭 の 騎 乗 用 の ラ ク ダ を 屠 っ た 。彼 ら は こ の
こ と を 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― に 話 し た 。す る と 神 の 使 徒 ― 神 よ 彼 に 祝 福
と 平 安 を 与 え 給 え ― は 彼 ら に 、『 そ れ は こ の 家 の 民 の 持 つ 寛 大 さ で あ る 』 と 言 っ た 」
私 は 次 の よ う に 言 う 。我 ら が 学 識 あ る シ ャ イ フ 、 ア ブ ド ・ ア ッ ラ ー ・ ブ ン ・ サ ー リ ム ・ バ ス
リ ー ʽAb d All āh b. S ālim al-Baṣr ī 曰 く 、「 カ イ ス は 体 毛 の 薄 い 人 で あ っ た 。 そ こ で 彼 の 家 族 は 、
『 我 々 の 財 産 の 半 分 を 使 っ て も 、彼 の た め に 顎 鬚 を 手 に 入 れ た い も の だ 』と 言 っ た 。サ ァ ド は
316
処 女 と し か 結 婚 し な か っ た 。彼 が 妻 を 離 婚 し た と き 、彼 の 嫉 妬 深 さ と 高 貴 さ の ゆ え に 、誰 も あ
えて彼の後で彼女と再婚しようとはしなかった。
シ ャ ー フ ィ イ ー 派 の イ マ ー ム で あ っ た ム ハ ン マ ド ・ブ ン・ イ ド リ ー ス 様 に よ る『 貴 重 な る 勝
利 al-I ntṣār al -Nafīs 』 の 書 の 中 に も 、 ア ン サ ー ル の 美 徳 に つ い て 少 し 書 か れ て い る 。
両 シ ャ イ フ 、 ま た そ の 他 の 人 々 は 次 の よ う な こ と を 取 り 上 げ て い る 。「 ア ン サ ー ル を 愛 す る
の は 信 徒 の み で あ り 、彼 ら を 嫌 う の は 偽 善 者 の み で あ る 。彼 ら を 愛 す る 者 を 神 は 愛 し 、彼 ら を
嫌う者を神は嫌う」
こ の 話 で は 、次 の よ う な こ と が 真 正 で あ る 。ア ン サ ー ル の こ れ ら の 人 々 を 愛 す る こ と は 信 仰
で あ り 、彼 ら を 嫌 う こ と は 偽 善 で あ る 。彼 ら を 愛 す る 者 を 神 は 愛 し 、彼 ら を 嫌 う 者 を 神 は 嫌 う 。
人 々 が 上 着 で あ る な ら ば 、ア ン サ ー ル は 下 着 で あ る 。人 々 が 山 道 に 踏 み 入 り 、ア ン サ ー ル も 山
道 に 踏 み 入 っ た と す れ ば 、私 は ア ン サ ー ル の 山 道 に 踏 み 入 る で あ ろ う 。彼 ら の 良 き 行 い は 数 え
る こ と も で き ず 、彼 ら に 関 す る 言 い 伝 え は ま と め る こ と も で き な い 。そ し て こ れ は 預 言 者 ― 神
よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の 時 代 の ア ン サ ー ル に 限 ら れ た こ と で は な い の で あ る 。し か し
ア ン サ ー ル の 子 孫 た ち の 中 で も 彼 ら ほ ど 、と り わ け メ ッ カ に い た 人 々 ほ ど 、そ の 存 在 に 美 徳 が
あった者はいない。
ア フ マ ド が ア ナ ス よ り 、次 の よ う に 伝 え て い る 。 [57. b]「 ア ン サ ー ル が 集 ま っ て 、 私 に 言 っ
た 。『 我 々 は い つ こ れ ら の 井 戸 の 水 を 飲 め る の だ ろ う 。 預 言 者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給
え―のもとに行こうか』そこで我々は彼に、我々のために神に祈願してくれるように頼んだ。
そ う す れ ば 神 は 我 々 の た め に 、こ の 山 々 か ら 泉 を 掘 り 出 し て 下 さ る だ ろ う か ら 。彼 ら は 集 団 で
彼 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― の も と に 出 か け て 行 っ た 。彼 は『 よ う こ そ 。あ な た 方 は
我 々 の も と に 、 何 か ご 要 望 を 持 ち 込 ま れ た の で す ね 』 と 言 っ た 。彼 ら は 『 え え 、 神 か け て 、神
の 使 徒 よ 』と 言 っ た 。彼 は『 も し あ な た 方 が 私 に 、私 が あ な た 方 に し て あ げ ら れ る こ と 以 外 の
ことをを求めたとしても、私は、神が私にお与え下さるものの他は、一切神に求めませんよ』
そ こ で 彼 ら は 互 い に 近 づ き 、『 お 前 た ち は 現 世 を 望 ん で い る 、 来 世 を 求 め よ う 』 そ し て 彼 ら は
と も に 、『 神 の 使 徒 よ 、神 に 我 々 を 赦 し て 下 さ る よ う 祈 願 し て 下 さ い 』と 言 っ た 。彼 は 言 っ た 。
『 お お 神 よ 、ア ン サ ー ル と ア ン サ ー ル の 子 供 た ち 、ア ン サ ー ル の 孫 た ち を 赦 し 給 え 』す る と 彼
ら は 、『 我 々 以 外 の 我 々 の 子 孫 た ち〔 皆 の た め に 〕』と 言 っ た 。彼 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え
給 え ― は 、『 あ な た 方 以 外 の あ な た 方 の 子 孫 た ち に も 』 と 言 っ た 。 彼 ら は ま た 、『 神 の 使 徒 よ 、
我々のマウラーにも』と言った。彼は『アンサールのマウラーにも』と言った。このことは、
復活の日に至るまで、彼らの子孫たちのすべてに及んでいる」
こ う し た こ と は 、 タ バ ラ ー ニ ー が 『 大 全 al-Kab īr』 の 中 で 伝 え た 、 ム ア ー ズ ・ ブ ン ・ リ フ ァ
ー ア Muʽādh b. Rifāʽa 、さ ら に 彼 の 父 か ら 伝 え ら れ た ハ デ ィ ー ス で も 確 か め ら れ て い る 。
「預言
者 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― は 言 っ た 。『 お お 神 よ 、 ア ン サ ー ル と ア ン サ ー ル の 子 供
た ち 、 彼 ら の 子 孫 た ち と 隣 人 た ち を 赦 し 給 え 』」
317
ま た そ の 中 に は 、イ ブ ン・ア ッ バ ー ス が 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え た ハ デ ィ ー ス も あ る 。
「神
と終末の日を信じる者は、アンサールを嫌ってはならない」
イ ブ ン ・ ジ ャ ッ バ ー ン Ibn Jabbān〔 の 書 〕 の 中 に は 次 の よ う に あ る 。「〔 神 の 使 徒 曰 く 〕『 お
お 神 よ 、ア ン サ ー ル と 彼 ら の 子 孫 た ち 、彼 ら の 子 孫 た ち の 子 孫 た ち 、ア ン サ ー ル の マ ウ ラ ー と
隣人たちを赦し給え』ゆえにこの祈願は、それらの中に含まれている〔すべての〕子孫たち、
ま た 例 え 娘 側 の 子 孫 で あ っ て も 、復 活 の 日 に 至 る ま で 及 ん で い る の で あ る 。至 高 な る 方 の〈 彼
( ア ブ ラ ハ ム ) の 子 孫 と し て は ダ ビ デ ・・・〉 (Q6:84) か ら 、 彼 の 民 と イ エ ス に 至 る ま で の お 言
葉 も こ れ を 補 強 し て い る 。と い う の も イ エ ス は 、女 主 人 マ リ ア の 息 子 と い う 点 で 彼 の 子 孫 で あ
っ て 、 彼 は 娘 側 の 子 孫 な の で あ る 。〔 ま た こ の 章 句 の な か に は 〕 ノ ア の 時 代 の 子 供 も 、 イ エ ス
の 時 代 の 子 供 も 〔 含 ま れ て い る 〕。 ゆ え に こ の 中 に は 、 彼 ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ―
の祈願には、復活の日に至るまでのアンサールの子孫たち、また彼らの子孫たち〔のすべて〕
が 含 ま れ て い る こ と の 証 な の で あ る 。 そ し て 彼 の 祈 願 は 、『 あ ら ゆ る 預 言 者 〔 の 祈 願 〕 は 聞 き
届 け ら れ る 』と い う 預 言 者 ム ハ ン マ ド よ り 伝 え ら れ る 伝 承 の ゆ え に 、聞 き 届 け ら れ 反 駁 で き な
いものなのである」以上。
我 々 を こ の 偉 大 な る 契 約 の 中 に 引 き 入 れ 、高 貴 な る 預 言 者 の 祈 願 に よ っ て 我 々 を 嘉 し 、彼 の
清 廉 な る 血 筋 と 輝 か し き 性 質 を 我 々 に 贈 り 給 う た 神 に 称 賛 あ れ 。神 は 我 々 の た め に 、そ う し た
こ と を 期 限 に 遅 れ る こ と な く 宝 物 と な し 給 う た 。ま こ と に 神 は 寛 大 に し て 恩 寵 篤 き 方 、お 心 広
き 方 で あ る 。ま こ と に こ れ こ そ が 、我 々 が こ の 場 に お い て 最 後 に 望 む こ と で あ る 。神 は 称 賛 と
祝 福 を 持 っ て 、始 め と 終 わ り と を 良 き も の と な し 給 う で あ ろ う 。神 が 我 々 に 来 世 で の 報 い を 与
え 給 わ ん こ と を 。神 は な ん と す ば ら し き 主 人 で あ る こ と か 。い と 高 く 偉 大 な る 神 に よ ら ず し て 、
いかなる力もなし。
本 書 の 筆 写 は 、1161 年 の 神 聖 な る ム ハ ッ ラ ム 月 13 日 の 祝 福 さ れ し 月 曜 日 に 、卑 し き 者 フ サ
イ ン ・ イ ラ ー キ ー Ḥusayn al- ʽIrāq ī の 手 に よ っ て 完 了 し た 。 神 が 彼 を 赦 し 給 わ ん こ と を 。
註 14 ( B 写 本 38. a - 39. b )
[B: 38. a] 風 が 彼 の 白 髪 を 右 に 左 に 弄 っ て い た 。 す る と ス ゥ ル ー ク が 私 に 、『 こ の 方 が 神 の
友 ア ブ ラ ハ ム ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― で す 』と 言 っ た 。私 は 顔 を 地 に 伏 せ 、至 高 な
る 神 に 私 が 抱 い て い た 祈 願 を 行 っ た 。そ れ か ら 我 々 が 進 む と 、そ こ に は 小 さ な 壇 が あ り 、そ の
上 に は 、肌 が 粗 く 髭 の 汚 れ た 人 が い た 。そ の 人 の 両 肩 の 下 は 、緑 色 の 服 で 覆 わ れ て い た 。す る
と ス ゥ ル ー ク が 私 に 、『 こ ち ら が 預 言 者 ヤ コ ブ ― 神 よ 彼 に 祝 福 と 平 安 を 与 え 給 え ― で す 』 と 言
った。それから我々は左側にあるハラムに目を向けた」
318
「 ア ブ ー ・ バ ク ル は 、そ の 話 を 最 後 ま で 語 る と 誓 っ た 。私 は 、彼 が 私 に 語 っ て い る 間 彼 の 側
にいて、そしてアブラハム―彼に平安あれ―のモスクのほうに出て行った。モスクに着くと、
私 は ス ゥ ル ー ク が ど こ に い る か 尋 ね た 。す る と あ る 人 が 私 に 、
『彼は 1 時間でやってきますよ』
と 言 っ た 。彼 が や っ て く る と 、私 は 彼 の も と に 立 っ て 行 き 、彼 の 側 に 座 っ て 、彼 と 少 し 話 を し
た 。 彼 は 私 か ら 聞 い た 話 を 、 知 ら な か っ た と い う よ う な 目 で 私 を 見 た 。 [B: 3 8. b] 私 は 、 あ な
た は す で に 罪 や 過 ち か ら 救 わ れ て い る の だ と い う ふ う に 彼 に や さ し く 頷 く と 、彼 に 言 っ た 。
『ア
ブ ー・バ ク ル・ア ス カ ー フ ィ ー は 私 の お じ で す が 、そ の と き 彼 は 私 と 打 ち 解 け て 話 を し ま し た 』
さ ら に 私 は 彼 に 言 っ た 。『 ス ゥ ル ー ク よ 、 神 に か け て 、 あ な た 方 が ハ ラ ム の 方 に 向 い た と き 、
そ こ で な に が あ っ た の で す か ? 』彼 は 、
『 ア ブ ー ・バ ク ル は あ な た に 話 さ な か っ た の で す か ? 』
と 言 っ た が 、 私 は 彼 に 、『 私 は そ の こ と を あ な た か ら も 聞 き た い の で す 』 と 言 っ た 。 す る と 彼
は言った。
『我々はハラムのほうから、
「 禁 じ ら れ た 場 所 か ら 離 れ よ 。神 が 汝 ら を 憐 れ み 給 わ ん
こ と を 」と い う 大 き な 声 を 聞 き 、我 々 は 気 を 失 い ま し た 。し ば ら く し て か ら 我 々 は 目 覚 め 、立
ち 上 が り ま し た 。 我 々 は も う 生 き て は い ら れ ま せ ん 。 皆 我 々 の 生 を 諦 め て い ま す 』」 そ の シ ャ
イ フ は 私 に 言 っ た 。「 ア ブ ー ・ バ ク ル ・ ア ス カ ー フ ィ ー は 、私 に 話 を し た 後 数 日 間 生 き 、〔 そ の
後〕死んだ。スゥルークも同様であった。至高なる神が彼ら 2 人を憐れみ給わんことを」
ハ サ ン・ブ ン・ア ブ ド・ア ル ワ ー ヒ ド・ブ ン・リ ズ ク・ラ ー ズ ィ ー Ḥas an b. ʽAb d al-Wāḥ id b.
Rizq al-Razī よ り 、 次 の よ う に 伝 え ら れ て い る 。「 パ レ ス チ ナ の カ ー デ ィ ー で あ っ た ア ブ ー ・
ザ ル ア が ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平 安 あ れ ― の モ ス ク に や っ て き た 。そ こ で 私 は 彼 に 挨 拶 し に 行 っ た 。
彼 は サ ラ ― 彼 女 に 平 安 あ れ ― の 墓 の 側 に 、礼 拝 の 時 間 に 座 っ て い た 。す る と そ こ に ひ と り の シ
ャ イ フ が 入 っ て 来 た の で 、 ア ブ ー ・ ザ ル ア は 彼 を 呼 ん で 言 っ た 。『 シ ャ イ フ よ 、 こ れ ら の う ち
の ど れ が ア ブ ラ ハ ム の 墓 な の で す か ? 』す る と そ の シ ャ イ フ は 、彼 に ア ブ ラ ハ ム ― 彼 に 平 安 あ
れ ― の 墓 を 指 し 示 し て 去 っ て い っ た 。す る と そ こ に 一 人 の 若 者 が や っ て き た 。そ こ で ア ブ ー ・
ザ ル ア は 彼 を 呼 び 、彼 に 同 様 の こ と を 言 っ た 。す る と そ の 若 者 は 彼 に〔 ア ブ ラ ハ ム の 墓 を 〕指
し 示 し た 。 ア ブ ー ・ ザ ル ア は 言 っ た 。『 私 は こ れ こ そ が ア ブ ラ ハ ム の 墓 で あ る と 証 言 す る 。 こ
れ に は 疑 い が な い 』後 代 の 者 た ち は 先 人 た ち か ら 伝 え て い る の で あ る 。ア ナ ス ・ ブ ン ・ マ ー リ
ク ― 至 高 な る 神 よ 彼 を 嘉 し た ま え ― が 、『 後 代 の 者 た ち は 先 人 た ち か ら 、 よ り 真 正 な ハ デ ィ ー
スを伝えている』と言っているように」以上。
イ シ ュ マ エ ル ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 墓 は 、メ ッ カ の 石 の 中 に 、彼 の 母 ハ ガ ル の 側 に あ る 。以 上 。
モ ス ク の 中 庭 は 空 の 下 に 〔 屋 根 な し で 〕、 神 の 友 と ヤ コ ブ ― 彼 ら 2 人 に 平 安 あ れ ― の マ カ ー
ム の 間 に あ る 。ま た 誠 実 な る 主 人( ヨ セ フ )― 彼 に 平 安 あ れ ― の マ カ ー ム は 、ソ ロ モ ン の 城 壁
からそこに繋がっている。
そ の 城 壁 内 に あ る モ ス ク の 大 き さ は 、南 北 の 長 さ が 、ミ ン バ ル の 側 に あ る ミ フ ラ ー ブ の 中 央
か ら 我 ら が 主 人 ヤ コ ブ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 墓 廟 ま で が お よ そ 80 ズ ィ ラ ー ゥ 、 東 西 の 幅 は 、 入
口 の 門 か ら 主 人 た る ヨ セ フ ― 彼 に 平 安 あ れ ― の 墓 廟 の 網 ま で が 、 [ B: 39. a] お よ そ 41 と 半 ズ
319
ィ ラ ー ゥ で あ る 。ま た 城 壁 の 屋 根 は ど の 方 向 か ら も 3 ズ ィ ラ ー ゥ で あ り 、地 面 か ら の 建 物 の 高
さ は 16 ズ ィ ラ ー ゥ で あ る 。そ れ ぞ れ の ズ ィ ラ ー ゥ は ズ ィ ラ ー ゥ・ア ル ア マ ル dhirāʽ al-ʽam al で
ある。これはソロモンの建てたものであり、ビザンツのものではない。
城 壁 に は 2 つ の ミ ナ レ ッ ト が あ る 。そ の う ち の ひ と つ は 南 東 の 角 に あ り 、 2 つ 目 は 北 西 の 角
に あ る 。 ソ ロ モ ン の 城 壁 の 外 の 東 側 に は 、 ジ ャ ー ウ ィ リ ー ヤ al-Jāwil īya と 名 付 け ら れ た モ ス
ク が あ る 。そ こ は 730 年 に 神 聖 な る 両 聖 地 の 知 事 で あ っ た ア ブ ー・サ イ ー ド・ジ ャ ー ウ ィ リ ー
Abū Saʽīd al- Jāwilī に ち な ん だ も の で あ る 。そ の モ ス ク は 驚 嘆 す べ き も の の ひ と つ で 、ジ ュ ー
マ ト・ア ル ジ ャ ー ウ ィ リ ー 山 Jab al Jūmat al-Jāwilī か ら 切 り 出 さ れ て い る 。そ の モ ス ク の 上 に
は 屋 根 と ド ー ム が 建 て ら れ て お り 、こ の 上 な く 美 し い も の で あ る 。こ の モ ス ク と ソ ロ モ ン の 城
壁 と の 間 に は 、ア ー チ つ き の 真 っ 直 ぐ に 伸 び た 回 廊 が あ り 、そ こ は 驚 嘆 す べ き も の の ひ と つ で
あ り 威 厳 と 荘 重 さ を 備 え て い る 。 そ こ は 12 の 柱 の 上 に 建 っ て お り 、 そ の 床 に も 壁 に も 柱 に も
大 理 石 が 貼 ら れ て い る 。 そ の 南 北 の 長 さ は 43 ズ ィ ラ ー ゥ 、 東 西 の 幅 は 25 ズ ィ ラ ー ゥ で あ る 。
ヘ ブ ロ ン に あ る マ ド ラ サ や ザ ー ウ ィ ヤ に つ い て 言 え ば 、そ の 最 も 美 し い も の は 、ク ル ド 人 地
区 に あ る ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア ッ シ ャ イ フ ・ ウ マ ル ・ ア ル ム ジ ャ ッ ラ ド Z āwiyat al-Sh aykh ʽUmar
al-M ujarrad で あ る 。 マ ド ラ サ ・ ヤ ク フ リ ー ヤ al-M adr as a al-Yaqḥurīya は 、 モ ス ク の 北 門 の
側 に あ る 。 ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア ル マ ガ ー リ バ Zāwiyat al-M aghārib a は 宦 官 の 泉 ʽA yn al-Ṭ awāshī
の 隣 に あ る 。城 塞 は ビ ザ ン ツ 人 の 要 塞 の ひ と つ で あ り 、モ ス ク の 西 側 に 接 し て い る 。マ リ ク ・
ナ ー ス ィ ル ・ ハ サ ン al-M alik al-Nāṣir Ḥas an が 、 そ こ を マ ド ラ サ と し て ワ ク フ に し た 。 そ こ
に は 誠 実 な る 主 人( ヨ ハ ネ )の 墓 廟 が あ る が 、今 日 で は 町 の 人 々 の 住 ま い と な っ て い る 。ザ ー
ウ ィ ヤ ト ・ ア ッ シ ャ イ フ ・ ア リ ー ・ ア ル バ カ ー Zāwiyat al -Sh aykh ʽAlī al-Bak āʼ は 彼 の 地 区 に
あ る 。ザ ー ウ ィ ヤ ト・ア ル カ ワ ー ス ィ ミ ー ヤ Z āwiyat al -Qawāsimīya は 、そ こ に 埋 葬 さ れ た シ
ャ イ フ ・ ア フ マ ド ・ カ ー ス ィ ミ ー ・ ジ ャ ニ ー デ ィ ー al -Sh aykh Aḥmad al-Qāsimī al-Janīdī に ち
な ん で い る 。 イ ブ ン ・ ウ ス マ ー ン ・ モ ス ク Masj id Ib n ʽUthm ān に は 、 ミ ナ レ ッ ト と モ ス ク 、
ま た シ ャ イ フ・ユ ー ス フ・ ナ ッ ジ ャ ー ル al-Sh aykh Yūs uf al -Najjār の マ シ ュ ハ ド が あ る 。マ ド
ラ サ ・フ ァ フ リ ー ヤ al-M adsar a al-Fak hrīya に は 、捨 て ら れ た 女 性 た ち が 訪 れ て い る 。リ バ ー
ト ・ マ ン ス ー リ ー al -Ribāṭ al-M anṣūr ī は 城 塞 の 向 か い に あ る 。
〔 そ の 他 に も 〕 ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア ッ シ ャ イ フ ・ イ ブ ラ ー ヒ ー ム ・ ア ル マ ッ ズ ィ ー Z āwiyat
al-Sh aykh Ibrāhīm al -M azzī、 ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア ッ シ ャ イ フ ・ ア ブ ド ・ ア ッ ラ フ マ ー ン ・ ア ル
ア ズ デ ィ ー Z āwiyat al-Shaykh ʽAbd al-Raḥm ān al-A zdī 、 ザ ー ウ ィ ヤ ・ [B: 39. b] ビ ス タ ー ミ ー
ヤ 、 ザ ー ウ ィ ヤ ・ サ マ ー キ ー ヤ al -Zāwiya al-Samāqīya、 シ ャ イ フ ・ バ ハ ー ・ ア ッ デ ィ ー ン ・
ワ フ ァ ー イ ィ ー ・ モ ス ク Masjid al-Shaykh Bah āʼ al-Dīn al-Wafāyī、 ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア ビ ー ・
ウ カ ー カ Z āwiyat Ab ī ʽUqāqa 、 リ バ ー ト ・ ア ッ タ ワ ー シ ー Rib āṭ al-Ṭ awāshī 、 ザ ー ウ ィ ヤ ト ・
シ ャ イ フ ー ン Z āwiyat Sh aykhūn、 リ バ ー ト ・ マ ッ キ ー Rib āṭ Makk ī、 ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア ッ ラ ー
イ ー Z āwiyat al-Rāʽī、ザ ー ウ ィ ヤ ト・ア ッ シ ャ イ フ・ア リ ー・ア ル ア ド ハ ミ ー Z āwiyat al-Sh aykh
320
ʽAlī al -Adham ī、マ ス ウ ー ド ・ モ ス ク M asjid M asʽūd、ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア ッ シ ャ イ フ ・ ア ル バ イ
ダ Zāwiyat al -Sh aykh al -Bayḍa、 ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア ル マ ウ キ ィ Zāwiyat al-M awqiʽ、 ザ ー ウ ィ
ヤ ト・ア ッ シ ャ イ フ・イ ブ ラ ー ヒ ー ム・ア ル ハ ナ フ ィ ー Z āwiyat al-Sh aykh Ibrāhīm al -Ḥanafī、
ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア ル ハ ド ラ ミ ー Zāwiyat al-Ḥadr amī 、 ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア ル ア ァ ヤ ド Z āwiyat
al-Aʽyaḍ、 ザ ー ウ ィ ヤ ト ・ ア ル カ ー デ ィ リ ー ヤ Z āwiyat al -Qādirīya ― そ こ に は ザ ー ヒ ド が い
る ― 、 ア ル バ イ ー ン ・ モ ス ク M asjid al-Arbaʽīn ― こ れ は 町 の 西 に あ る 山 の 頂 に あ り 、 そ こ は
40 人 の 殉 教 者 た ち が い た と 言 わ れ て お り 、 人 々 に よ く 知 ら れ た 、 参 詣 の 目 的 地 と な っ て い る
場 所 で あ る ― 〔 が あ る 〕。
321
322
参考文献とその略号
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