文化財課 23局3635 22局3811 たちがいたのでご紹介します。 果てに、アメリカまでたどり着いた人 江戸時代の田原にも、海洋を漂流した の功労者の一人として活躍しました。 文化、学問を学び、帰国後は開国の影 特に万次郎はアメリカに渡り、政治や て死の恐 た。 そ し たしまし 渇きを満 やのどの ては空腹 彼ら4人を救助した船主は、手厚 く面倒を見ています。そこには人道 怖と闘い な が ら、 よ い ち 現在の江比間町の伊藤与一の船 は、 嘉 永 4 年( 1 8 5 1) 月 弱気になった仲間たちを励ましたの 的な面はもちろん、アメリカのこと 救助されるその時を信じ続けました。 間の漂流を経て、グアム島の北東約 が作蔵で、彼の気力がアメリカの捕 を深く理解してもらおうとした狙い 日 3 0 0 海 里 で、 ア メ リ カ の 捕 鯨 船 鯨船の発見へとつながったのです。 日、熊野灘で激しい風に遭い、 に 救 助 さ れ ま し た。 漂 流 し た 船 は 時日本が行っていた鎖国が影響して いわきち 歳) 、作蔵(若見村・ 歳・のちの かつぞう 21 40 市を汽車で訪れたのです。 ▼桜や花しょうぶ、野鳥 など四季折々の自然を楽 しむことができる初立池。 撮影に出かけた日も、ウォーキ ングを楽しむ人や、しょうぶ園で 散策する親子連れの姿が見られ ました。そんな中、元気に走り 回る犬も・・・。かわいいワンち ゃんでも怖いと感じる方もいるの で、放さないでくださいね。 (O) (増山) があったのです。その根底には、当 1 2 0 石 積 で、 名 は 永 久 丸 で し た。 そして運よく4人は救助され、7 カ月ほどアメリカの捕鯨船の水夫と いたのでしょう。 えいきゅうまる 乗 組 員 は 沖 船 頭( 船 長 )の 岩 吉( 江 して働きました。太平洋を北上して ぜんきち ( 江 比 間 村・ とが新聞に紹介されています。 か こ 歳 )、水主(船乗)の善吉 北極圏まで進み、9月にはハワイに 永久丸漂流の悲喜1 白井勝蔵)の4人です。漂 流 時 に は 比 間 村・ 歳 )と 勇 次 郎( 芦 村・ (1852年11月) ▲フレンド紙の掲載記事 │ ●編集・発行/田原市役所政策推進部広報秘書課 ●電話/ 0531-22-1111(代表) ● E メール/ [email protected] 【表紙の写真】 初立池のしょうぶ園 No.644 平成21年6月15 日号 してボストン、ニューヨークの大都 はアメリカの地に立ったのです。そ ドフォードに入港した作蔵と勇次郎 由で大西洋を北上し、ニュー・ベッ なりました。南米南端のホーン岬経 め、そのままアメリカに渡ることに 入港しました。ハワイでは彼らのこ 人気のある冒険物語に、漂流・遭難 の物語があります。海洋や無人島で 食料や水はあったのですが、やがて 捕鯨船の船主の考えで、妻子のあ る岩吉と善吉は先に帰国させ、若い さくぞう 遭難した主人公たちが、未知の危機 底をつきました。4人は雨水を飲み、 作蔵と勇次郎は見聞を深めさせるた いく姿は感動を与えます。物語として は胸躍るのですが、もし実際に自分が その立場になったら・ ・ ・。恐怖で一体 どうなっていたでしょうか。 江戸時代の漂流民では、中浜(ジ ョン)万次郎、大黒屋光太夫が有名 ▲作蔵 (のちの白井勝蔵) はぐく を乗り越え、 勇気や友情を育みながら、 朝露をなめ、船に寄るサメを捕まえ そうなん 26 ※永 久 丸 の 漂 流 については 、山 田 哲 夫 さ ん ふう と う ( 田 原 町 )著『 風 濤 の 果 て 』に 詳 細 に 書 か れ て い ま す 。図 書 館 で も 借りることがで きますので 、ぜ ひ 一 読 く だ さ い 。 12 85 生きる知恵や力を身につけ成長して 田原のジョン万次郎たち 99 です。彼らは漂流の恐怖を乗り越え、 21 平成 21年6月15 日 │ 12 本誌は再生紙を使用しています。 66 其の
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