(紹 介﹀ 原武 哲 夏 著﹃ 目 漱 石 と菅 虎 雄 布 衣禅情 を楽 しむ心友 ﹄ も し ろ い ので あ る 。 そ の 点 で、 著 者も 本 書 中 し ばし ば 参 考 にし て い 彦 る 青 江 舜 二郎 著 ﹃狩 野享 吉 の 生涯 ﹄(昭 犯 ・11 明治 書院 )と 同 じ 趣が 常 漱 石 にか か わ る 研 究 は 多 い。 研 究 史 を あ ま ね く 展 望 す る の さ え 容 本 易 では な い。 そ れ ほど に種 々の 視 点 か ら種 々 の 方 法 によ って 研 究 が 松 な さ れ て き た 。 む ろ ん 漱 石 周 辺の 人 物 に つい て の 研 究 も 少 な く な い 業 は 本 書 以 前 には な さ れ な か った 。 そ の作 業 の 綿 密 を き わ め る こと る と 目 さ れ る 人 物と そ の 生 涯 に つい て の 精 緻 で 本 格 的な 跡 づ け の 作 目 漱 石と 菅 虎 雄 と にも と ど ま る ま い 。 お そ ら くは 書 題 が それ を暗 示し て いる 。 ﹃夏 そ れ は た ん に菅 虎 雄 の側 か ら漱 石 に与 え た 影 響 を さ ぐる と い った こ 人 の評 伝をも の する こと にあ った の では け っし てな い だ ろ う 。 また 、 し か し な が ら 著 者 の目 論 見は 漱 石の 周 辺 の 人物 と し て菅 虎 雄 そ の な く も な い。 は 、 たと え ば 本 書 に付 さ れ た 菅 虎 雄 年 譜 お よ び 菅 家 系 図 (四 二八 頁 せ て 著 者 の 語 ら んと し た も の は 、 漱 石と 菅 虎雄と の は ざ ま にあ り な の であ る 。し か る に菅 虎 雄 と いう 、 あ る 意 味 では 漱 石 評 伝 の 鍵 を 握 ∼ 四 六 七 頁 ) を 瞥 見 し て も 、 その 一端 は 知 ら れ る の で あ る が 、 こ う が ら 、 両 者 を つ つみ こ み そ の存 在 と 関 係 のあ り よ う を 支 え て いる 何 か ではな か った のか 。 三 好行 雄 氏 (﹁鴎 外と 漱 石 ー 明 治 の エ ート スー ﹄ 布 衣 禅 情 を 楽 し む心 友 ﹄、 こ のと お よ び 副 題 に よ し た 漱 石 周 辺 の 人 物 の 具 体 像 を 丹 念 に 実 証 し て いく 著 者 の 方 法 は 、 ひと り 漱 石 研 究と いう 面 に限 定 せ ずと も よ い。 元 治 元 年 十 月 十 八 ま た あ らた な る 漱 石 研 究 の 地 平 を 切 り 拓 く 一斧 斥 た り 得 よ う 。 日筑 後 国 御 井 郡 呉 服 町 四 十 三番 地 に、 有 馬 藩 典 医 御 医 師 の 二 男と し エー ト スVと よ んで お い ても よ い。 少 し く 三 好氏 の言 葉 を 引 用し よ 昭 58 ・5力 富 書 房 ) の言 葉 を か り て、 そ の何 か を 、 か り に ︿ 明治 の か 、 明 治 の 倫 理 的 性 格 、 明 治 人 気 質 等 々、 好 き な よう に 読 みか え ﹁明 治 の エー ト スと いう 言 葉 を 、 読 者 は た と え ば明 治 の 精神 だと う。 て生 を う け、 昭 和 十 八 年 十 一月 十 三 日 八 十 歳 を 一期と し て 殻し た 明 治 の 一知識 人 の特 異な 生 の 軌 跡と し て本 書 を 読 む こと も 許 さ れ よ う 。 も 手 伝 って か、 幕 末 の 動 乱 期 に生 を う け草 創 期 の 近代 国家 と し て の て いた だ いて 、 す こし も 差 し 支 え な い。 お そ ら く 鶴外 と 漱 石 の文 第 一章 か ら 最 後 の 第 四 十 九 章 ま で 時 間 を 逐 って 記 述 さ れ て い る こと 日本 と 、 そ の 歩 み を ほ ぼ 同 じ く し た 一明治 人 の 伝 記と し て も 実 に お ﹁ ﹁ 61 み え る 。 に も か か わ ら ず 、 本 書 が 吾 等 に 開 示 す る の は 、 お のが じ し と み え る 菅 虎 雄と 。 そ の点 で、 両者 は 対 照 的と いう よ り 対 立 的と も 学 の 世 界 を うと ん じ、 生 涯 を 通 じ て 自 分 を 語 る こと を 自 ら に禁 じ た 作 家 で あ った 漱 石 と 、 そ う でな か った ー 物 に ついて の 詳 し い考 証 は 本 書 四 十 八 頁 ∼六 十 一頁 にあ る 。) 、瀧 田 郎 (建 築 家 志 望 で あ った 漱 石 を 文 学 者 志 望 へと 変 え さ せ た 。 こ の 人 北 条 時 敬 と い った 、 後 に官 界 で 活 躍 す る こと にな る 人 物 、 米 山 保 三 帖 を 見 ると 、 早 川 千 吉 郎 、 鈴 木 馬 左 也 、 平 沼 験 一郎 、 沢 柳 政 太 郎、 本 見 性 寺 参 禅 の こと に ついて 述 べ て いる 。第 五章 に紹 介 され た 居 士 し 、 第 八章 で 漱 石 の 最 初 の 参 禅 に つい て ふれ 、 さ ら に第 十 二 章 で 熊 のを 一つだけあ げ て お こう 。 た と え ば ︿ 禅 ﹀ であ る 。本 書 第 五 章 で 、 に 生 き た 両 者 の 生 の 非 連 続 面 では な く 、 明 治と いう 時 代 の 中 で、 彼 著 者 は ﹃蒼 龍 窟 会 上 居 士 禅 子 名 刺 ﹄と い う今 北洪 川 の 居 士帖 を 紹 介 ら の 存 在 の あ り よ う を 支 える 時 代 の ︿ エー ト ス﹀と 心 性 の 等質 性と 了 信、 阪 牧 善 辰 、 松 本 文 三 郎 、 菅 虎 雄と い った 、 漱 石 の 友 人 や 同窓 し た 、 さ ま ざ ま な 呼 び かた を 許 す よ うな 形 で 現 れ る だ ろう (略 )﹂ い う 連 続 面 で あ り 、 その 連 続 面 を 背 景 に成 立し た ︿ 心 友 ﹀と いう、 の 人 物 、あ る いは ﹁門 ﹂ で 宜 道と し て 描 か れ る こと にな る (本 書 一 学 を 通 じ て感 得 され る 心 性 の 等 質 性は 、 明 治 と いう 一時 代 を 体 現 い わ ば 求 心 的な 関 係 の あ り よう で あ る 。第 一章 の 章 題 を ﹁金蘭 の 友 〇 三 頁 ∼ 一○ 五 頁 ) 釈 宗 活 入 沢 譲 四郎と い った 人 物 の 名 前 が 認め ら む し ろ 作 家 を き ら い、 文 虎雄 ﹂と し 、 最 終 章 を ﹁去 り 行 く金 蘭 の 友 ﹂と 結 ん だ著 者 の 菅 能 にし た の は 、 資 料 自 体 に 語 ら せ る こと によ って成 り 立 つ簡 浄 の 筆 金 蘭 の 語を 容 れ て、 な お その よ う な 齪 飴 を 感 ぜ し めな い。 それ を 可 つける のは 、 鴎 外 の ﹁空 車 ﹂ でと く と こ ろ。 し か し 、 本 書 の文 体 は に み える 金 蘭 の 語 は 今 日 の 古 言 で あ る 。 古 言 の使 用が 文 の 調和 を傷 あ る 。 む ろ ん、 漱 石 研 究の 立 場 か ら い え ば、 漱 石 に お ける 禅 の も つ 寺 を 訪 ね ﹁碧嶽 録 ﹂ の提 唱 を う ける と い った 一連 の 行動 をと る の で 出 入 りし 、明 治 二十 九年 九 月 初 め の 博 多 旅 行 の 途 次 に 、 久 留 米 梅 林 に、 菅 虎 雄 の 紹介 で、 鎌倉 円 覚 寺 に 参 じ、 熊 本 時 代 には 見 性 禅 寺 に きる 。 そ の よ うな 流れ の中 で、 漱 石 も 明 治 二 十 七 年 十 二 月 二十 三 日 の 流れ の あ った こと を、 こ うし た 具 体 的 資 料 を 通 じ て 知 る こと が で れ る 。 明 治 二 十 年 代 か ら 三 十 年 代 へか け て 、 思 想 的 潮 流と し て 、 禅 で あ り 、 述 し て作 ら ず の 態 度 を く ず そ うと せ ぬ著 者 の 一貫 し た 意 志 意 味 の 独自 性 を 追 求 す る にと が 究極 の 目標 では あ る が 、 そ の 前 提と 金 蘭 の 語が でた つ いで に著 者 の 筆 法 に つい て 一言し て お く。 易 経 意 図も 、 そ こ に 存し よ う 。 的 な 姿 勢 で あ る 。 先 の 文 脈 にも どし て 言 え ば 、 つま り は 古 言 が あ ら こと が 必 須 の作 業 と な る 。 し た が って、 こ の方 面 で の著 者 の 実 証 的 し て、 時 代 思潮 と し て の 明 治 期 の禅 の 流 行 をし っか り 把 握 し て お く 内 容 を 示 すと 次 のと お り 。 本 書 が 通 時 的 に書 か れ て いる こと は 既 に ふれ た が 、 こ こ で本 書 の 見 す べき 貴 重 な 資 料 と 視 座 を 与 え て いる と 言 ってよ い。 研 究 は 、 漱 石 と 禅と いう 、 ま こと に難 解 な 研 究 課 題 を と く上 で、 必 た な る 生 命 を 得 る ほ ど に、 時 代 の ︿ エート ス﹀ が 把 握 さ れ て いると し か ら ば 、 そ の ︿ エ= ト ス﹀と は 何 ぞ や、 と いう 問 いが 当 然 の ご いう こと にな ろ う か 。 と く お こるで あ ろう が 、 それ は 三 好氏 の言 に 徴し て も 分 か る よ う に、 多義 的 であり 、 そ の内 容 を 特 定 す る と 反 って 解 釈 に無 理 が 生 じ よ う 。 し か し、 こ こ で 本 書 に そ って、 時代 の ︿ エー ト ス﹀ を 感 じ さ せ る も } ﹁ 62 序 文 (今 井 源 衛 氏 ) 一、 金 蘭 の 友 菅 虎雄 、 二、 菅 家 の 家 系 ー 久 留 米 有 馬 藩 典 医 リ 、 三、 虎 雄 の 生 い立 ち、、四、 笈 を 負 う て、 五、 ド イ い。 ま た 千 余 名 の 名 を ふく む 人 名 索 引 は 著 者 の 視 野 の 広 さ と 目 配 り 進 展 が あ げ ら れ る 。 た と え ば 、 本 書 十 二章 にあ る ﹁佐 賀 福 岡 尋 常 中 ひと つに新 資 料 の 紹 介 に よる 旧 来 の 見 解 の 訂 正と それ に よる 研 究 の 著 者 の 筆 法 を 考 え れ ば あ た り ま え の こと で あ る が 、 本 書 の魅 力 の も さ る こと な が ら 、 後 学 の も の への 配 慮 が 感 じ ら れ 有 難 い。 彷 復 、 九 、 松 山 落 ち 、 十 、 肥 後 路 へ、 十 一、 森 の 都 能本 、 十 二、 膠 学 校 参 観 報 告 書 ﹂ が それ 。 明 治 三十 年 秋 の 漱 石 五高 教 授 時 代 の 出 張 ツ文 学 の 権 興 、 六 、 教 師 の 道 へ、 七 、 学 習 院 就 職 運 動、 八 、 青 春 の 十五、漱石帰 二十 七 、 一高 への 返 り 咲 き 、 二 十 八、 漱 石 の 糖 尿 病 、 二十 九 、 ﹃文 帰朝 と 、 三 つは 漱 石 の自 筆 であ る こと ﹂と 指 摘 し て いる が 、 二 つめ の漱 こと が でき た こと 、 二 つは 漱石 の英 語教 育 観 を 知る こと が で きた こ 価 値 に ついて 二 国 語 漢 文 歴 史 の教 授 であ った こと が 判 明 し た 。 著 者 は 、 こ の資 料 的 同 行 し た の は 山 川 信 次 郎 だ と さ れ て いた の が 、 実 は 武 藤虎 太と いう 報 告 書 で 漱 石 の 自 筆 にか か る が 、 この 資 料 の 発 見 に よ って、 従 来 は 漆 の 友 去 る 、 十 三 、 耶 馬 渓 旅 行 、 十 四、 肥 後 路 黄 昏 貞の 死、 二十 、 漱 石 の 神 経 衰 弱、 二十 一、 借 金 、 二十 二、 朝 、 十 七 、 虎 雄 清 国 南 京 へ、 十 八、 書 聖 ・李 瑞 清と の 交 歓 、 十 九 、 虎雄 の 母 学 評 論 ﹄ 、 三十 、 妻 ・静 代 の死 、 三 十 一、 ﹁満 韓と こ ろ \ ﹄の ﹁吾 輩 は 猫 で あ る ﹂と パ ナ マ帽 、 二十 三 、 望 郷 、 二十 四 、 清 国 よ り 中 の 筑 後 人 、 三十 二、 し の び 寄 る 老 い、 三十 三、 修 善 寺 の 大 患 、 三 石 の英 語教 育 観な どは 意外 に 知 られ て いな い だ け に 貴 重な 発 見 であ 帝 国 大 学文 学 科 入 学 の 明 治 二十 三 年が 紀 元 二 千 五 百 五 十 年 にあ た る 員 ﹂と 裏書 き され た 一葉 の 写真 が それ 。 こ の 写 真 の 存 在と 、 漱 石が 紀元会々 十 一、 芥 川 龍之 介 の 法 帖 趣 味、 四 十 二、 文 学 博 士 号 と 杉 浦 重 剛、 四 また 、 第 五章 に 紹 介 さ れた ﹁明 治 二 十 四 年 六 月 六 日 写 つは 明治 三十 年 秋 の 漱 石 伝 記 の空 白 部 分 を 埋 める 十 四、 重 武 の死 、 三十 五、 博 士 号 辞 退 と 行 徳 二郎 、 三 十 六 、 破 れ 障 る。 二十 五、 古き 都 へー 漱 石 江 湖 の 処 士 にー 、 二十 六 、 洛 中 生 活 、 子 、 三十 七、 松根 東 洋 城 の 父 母 の 戒 名 、 三十 八、 紅 ケ谷 の 別 荘 、 三 十 三、 菅家 の墳 墓、 四 十 四 、 郭 尚 先 の 書 、 四十 五、 副島 蒼 海 の書 、 こと か ら、 著 者 は 紀 元 会 の 結 成 を 明 治 二 十 三 年 九 月 以 降 年 末 ま で の 十九、 ﹃ 初 秋 の 一日 ﹄と 釈宗 演 の 巡 錫 、 四十 、 ﹃社 会と 自 分 ﹄、 四 四十 六、 漱 石 の 易 賓、 四 十 七 、 後 の業 、 四十 八、 残 さ れ た 者 た ち、 と こ ろ にあ った の だと す る 。 著 者 は ま た 結 成 時 の 紀 元 会 々員 の 年 齢 従 来 の 日 本 精 神と 結 合 さ せ て 、 こ こ に始 め て 新 日 本 の 黎 明 を 期 す ﹂ と 専 攻と を あ げ て いる が 、 年 齢 も 二 十 二 歳 か ら 三 十 二歳 ま で ま ち ま 期 間と 推定 し 、 そ の 意 義 を ﹁近 代 西 欧 文 明 を 真 剣 に摂 取 し 、 それ を な お 各 々 の 章 に、 いく つか の 小 題 が あ り 、 序文 の前 に初 公 開 の も ち で あ り、 専 攻 の 学 問 も 文 理 に広 く わ た って いる 。 こ れ ら の こと か 四 十 九、 去 り 行 く 金 蘭 の 友 、 菅 虎 雄 年 譜 、 菅家 系 図、 あ と が き、 人 の を 含 む 五 十 数 葉 の 写 真 が 掲 載 さ れ て いる 。 著者 は これ ま で に ﹁国 名 索 引、 文 学 ﹂(学 燈 社 ) を は じ めと し て 、 諸 誌 に 漱石 お よ び 菅虎 雄 に つ いて らも、吾等はこの当時の時代性を教えられる。 ま た 、 第 七 章 にあ る 明 治 二十 六 年 七 月 十 三 日付 立 花 銑 三郎 宛 漱 石 の 研 究 を 発 表 し て いる わ け だ が 、 その 成 果が 右 に みる よ うな か た ち で 全 貌 を あ ら わ す と 、 あ ら た めて そ の射 程 の 長 さ に 驚 か ざ る を 得 な ﹁ 一 63 書 簡 が そ れ 。 この 資 料 に よ り、 漱 石 の 学 習 院 就 職 運 動 に 主と し て 立 ﹁傍 道 ﹂ が ﹁傍 道 ﹂ にと ど ま ら な い のは 言 う ま でも な く 、 むし ろ 時 追 跡 調 査 が 当 時 の 文 化 や世 相 を う か が わ せ る も の で あ る 以 上 は 、 ま た 、 漱 石 五 高 在 職 時 代 に関 連 を も った 人物 に つい ても 北 山 正 迫 代 の 深 さ を 知 る 上 で は 不 可 避 の 調 査 であ った と 言 え る 。 ち 働 いた のが 村 田 祐 治と いう よ り も む し ろ 立 花 銑 三郎 で あ った 可 能 氏 の 研 究 (﹁漱 石 の ﹃祝 辞 ﹄ に つい て =漱 石 と 黒 本 植 1 ﹂ ﹁ 文 学﹂昭 性 が 高 ま り 、 そ の 経 緯 の 一端 を う か が い知 る こと が で きる 。 ま た 、 第 十 一章 に 紹 介 さ れ た 電 報 ・電 文 案 な ど の資 料 が それ 。 こ 騒 ・11) を う け て 、 黒 本 植 、 浅 井 栄 熈と い った 、 北 山 氏 の所 謂 ﹁見 性 禅 寺 グ ループ ﹂ の 人 々 に つい て の追 跡 調 査が あ る 。 さ ら に、 明 治 れ ら の資 料 に よ って 五 高 招 聰 当 時 の 五 高 側 の 動 き を 知る こと が で き 本 書 に よ ってあ ら た に 照 明 を あ て ら れ た 人 物 も 多 い 。 たと え ば、 る。 第 三 十 五章 に ある 行 徳 二郎 にか か わ る 事 跡 の 調 査な どが そ れ で、 著 一役 か った 人 物 、 当 時 の 九 州 日 々新 聞社 長 であ り熊 本 市 会 議 員 でも 三 十 一年 の 夏 目 鏡 子 入 水 事 件 で 、 浅 井 栄 熈 のも と で事 件 も み 消し に 容と な って い る 。と す れ ば 、 当 然 これ を 読 む 興 味 に私 的 な も のが 働 漱 石 の 旧 友 の 懐 旧 談 で 持 ち 切 った 紀 行 文 ﹂ で あ り、 非 常 に私 的 な 内 で あ ると 言 わ れ た ほ ど 、 満 韓 の 自 然 そ のも の よ り も 、 満韓 で 会 った て いる よう に﹁﹃ 満 韓と こ ろ んー\ ﹄ では な く て ﹃漱 石と こ ろ ー\ ﹄ 一般 読 者 の 期 待し て いた 内 容 に適 って いる と は 言 え ず 、 著 者 が 述 べ 聞 )は 、 当 時 の 時 代 思 潮 や政 治 状 況か ら みれ ば 、 必 ら ず し も 当 時 の お 、 この 二月 九 日付 狩 野、 大 塚 、 菅、 山 川 宛書 簡は 不 思 議な 縁 で 私 漱 石 書 簡 中 で最 も 長 い明 治 三十 四年 二 月 九 日付 書簡 に つ いて も ﹁な た めで ある 。たと え ば、 漱石 が 留学 先 の ロ ンド ンか ら書 い た 書 簡 で 、 者 が そう し た 方 面 に つい て の苦 労 に 筆 の お よ ぶ こと を お さ え て いる 荒 正 人 流 の 猛 烈 な も の であ る らし い 。あ る らし いと 書 いた の は 、 著 の 門 を た た き 、 研 究 者 郷 土 史 家 と も た え ず 連 絡 をと りあ うと い った の 断 簡 零 墨 を 求 め、 故 人 の 墓石 を掃 苔し 、 各 地 に 居 住 の 子 孫 の 人 々 困 難 の 多 く 学 問 的 情 熱 を 必 要 と す る も の で ある か、 それ は 文 字 通 り 右 に みて き た よう な 、 新 資 料 の 発 掘 や 人 物 の 追跡 調査 が 、 いか に あ った 山 田 珠 一に つい ての 考 証も み のが せな い 。 者 に よ って新 資 料 を 参 考 にし た 年 譜 が ま と め ら れ て いる 。 ﹄の中の筑後人﹂も く わ け で 、 そ こ に、 登 場 す る 人 物 の 詮 索 や追 求 を お こな う 必 要 が 生 の 掌 中 に落 ち た ﹂と いう 具 合 に書 く の であ る 。 そ こ で 吾 等は 、 本 書 ・ ﹂ (明 治 42 年 10月 21 日 ∼ 同 12 月 30 日 朝 日 新 あ る いは 、 第 三 十 二章 の ﹁﹃満 韓 と こ ろ ぐ じ、 そ うし た 作 業 を 通 じて 内 容 の魅 力 が 増 大 する と い って よ いだ ろ そ れ 。 ﹁満韓 と こ ろ ぐ う 。 こ こ で著 者 の 紹 介 し て いる 筑 後 人 は 五人 。 ﹁吾 輩 は猫 で あ る ﹂ いる 。﹂﹁荒 氏 には 、 漱 石 だ け では な く、 い ろ い ろな こと を 教 え て い ﹁今 、 私 は 拙 書 の ﹁あ と が き ﹂ を 荒 正 人 氏 の 鎮 魂 の つも り で 書 いて た だ いた が 、 中 でも 学 問 の 厳し さ を 一番 強 く 教 え ら れた ﹂と いう 文 を 前 に想 像 す る し か な い の であ る が 、 著 者が あ と が き で 述 べて いる 東 都 督 府 民 政 長 官 白 仁 武 、 松本 清張 の ﹁小 説 東 京 帝 国 大 学 ﹂ にも 登 か ら も お よ そ著 者 の 本 書 に 臨 ん だ決 意と 情 熱は 察 せ ら れ よ う 。 の 多 々 良 三 平 の モ デ ルと 目 さ れ る 俣 野 義 郎 、 漱 石 の 二 年 先 輩 に あ た 場 す る 隈 本 繁 吉 で あ る 。 彼 等 の 行 跡 を 著 者 自 身 は ﹁傍 道 に それ す ぎ り 帝 大 英 文 科 最 初 の 卒 業 生 立 花 政 樹 、 後 の大 連 市 長 村 井 啓 太 郎 、 関 た ﹂と 言 いな が ら も 、 実 に 詳 細 に跡 づ け て い る 。 こう し た 、 人 物 の ﹁ ﹁ 64 す で に紙 幅 の 余 裕 が な く な り つ つあ る が 、 こ こで 評 者 の当 面 の 研 究 対 象 で あ る 芥 川 に ひき つけて 本 書 を みる と 、 著者 は 、 一高 教 師 の べ、 さ ら に ﹁書 の 師と し て の 菅 、 人 生 の師 と し ての 菅 に敬 愛 の 念 を 中 で ﹁ひと り 菅 虎 雄 の み、 敬 愛 の ま な こを も って ﹂ 眺 め られ た と 述 抱 い て い た 。﹂ と も 言 う 。 芥 川 が 菅 虎雄 に敬 愛 の 念を も って いた こと せた こと に 徴し て も わ か る の で あ る が 、 た だ、 芥 川 の生 涯 を 思 うと は 、 菅 虎 雄 宛 芥 川 書 簡 や単 行 本 ﹃羅 生 門 ﹄ で 菅 虎雄 の 手 を わ ず ら わ き、 芥 川が 、 人 生 の 師と 著 者 の 言 う 菅 虎雄 か ら く みと った も の は 一 体 何 だ った の かと いう 疑 問が お こ ら ざ る を 得 な い。 その 瞑目 に際 し て ﹁す ん だ ﹂と 書 い て 天 寿 を 全 う し た 明 治 人 菅 虎雄 の孜 々た る 歩 み と 、 三 十 六 歳 で 自 害 しな け れ ば な ら な か った 大 正 の 作 家 芥 川龍 之介 の 飛 翔 に も 似 た そ の 生 涯と の 懸 隔 は あ ま り にも 大 き い。 そ の懸 隔 の も つ意 味 を 文 化 史 的 ある いは 文 明 史 的 側 面 に留 意 し つ つ、 問 う 作 業 は 今後 、 菅 虎雄芥 川 双方 の視点 か らな され る べき 研 究 課 題 と し て残 っ と も あ れ、 本 書 全 体 の 印 象 を 一言 で ま と める な ら 、 何 より も 、 漱 て いる と 言 え よ う 。 貴 重な 示 唆 に 富 む 本 で あ ったと 言 う こと が でき る 。 な お、 最 後 に、 石 と いう 文脈 の背 後 に あ った 、 時 代 の 文 脈 を 感 得 さ せると いう 点 で、 著 者 の 原 武 哲 氏 か ら は 本 書 刊 行 後 も 多 数 の 新 資 料 発 見 の報 が 寄 せら ( 昭和 五十八年十二月発行 教 育 出 版 セ ンタ =刊 。 四 九 二頁 、 れ て いる と いう こと を 報 告し て 、 この 紹 介 の 結 び と し た い。 六八○○円) 一 リ 65
© Copyright 2024 ExpyDoc