ゝ y 南アで体験したこと ▲. (−クリ_スチーうその手糸氏) 私は、清潔なユースホステルに泊まっていました。たいていの人は、アフリカ施行 の侯柊地として南アを訪れるのです。その人たちは政治にはまったく興味を示さず、 彼らの話すことといったら愚にもつかないことばかり。そのユースホステルには様々 な国のひとびとが滞在していましたが、黒人は決して泊まることはありませんでした。 そして・黒人に関して私が聞いた意見はかなり一方的なものでした。もし私が友人と 一緒でしたら、ヒッチハイクでフリーステートをまわり、アフリカーナーの意見を聞 きまわったでしょう。まあそれは次の機会にしましょう。 アパルトヘイトは・私が飛行機の中迄言われてきたものとはかなり違ったものでし た。法律はあることはあるのですが、人々は守ろうとはせず、それでいて真の進展に はなっていません。ヨハネスブルグには雑多な人種がおり、誰でもバス停、レストラ ン、ホテルー映軸に行くことはできます。しかし、窯人と白人が一億にいる光景は 滅多に見糾すませんでした。ジャーナリストミュージシャン、俳優を除いては。 私がエディとモーゼスヒ人とも黒人の友人)と歩きまわり、幸に一緒に乗ったと きの白人から受けた感度がどんなものだったかおわかりいただけると思います。人々 は恐怖と嫌悪のまなざしでみつめ、さらに展声さえあぴせるのでした。初め私は笑っ ていましたがゝやがて腹立たしくなってきました。しかし、黒人たちははとんど知ら ん振りです. 私は昼食はいっもファーストフード店にいきました。ある時、エディと一緒でした が1ポテトチィップを買って同じ愛から食べはじめました。おお、その時の白人客の 目つきが・あたかも私たちが床の上で『セックスしている』のを見ているようだった ことを想像できますか。 バスの発着は不規則であり、また誰を乗車させるかは運転手の判断でできます。私 は乗ろうとした黒人の面前でドアがぴしゃりと閉まったのを2度見ました。運転手は 乗客に軽口を言う楽しい老人たちなのです。そしてそのことは非常に注目すべきこと なのです。お店やタクシーやハスなどで会うアフリカーナーは私に親切で協力釣です。 ある時ファーストフード店で白人のマネージャーから働ちかないかと言われました。 ところがこの同じ人間が属人に対するとがらりと変るのです。 私がテリ→のコンタクトで会った友人軋記鎧保存用ビデオを製作しテレビ局に売 る仕事をしている20代半ばの青年でした。私は以前友だちとかわした会議一打ちす えられ催涙ガスをかけられ犬に追いかけられ嘆まれ、留置された−と比べてみま した。彼らはそれは日常的に行われているといい、事実それが現実なのです。 一2− エディもモーゼスも爆弾でけがをし足をひきずっています。ツェコは刑務所で播間 されました。そのような話はまだまだあります。釈放された数人のハンガーストライ カ ̄に会いました。彼らは制止されているのですが、括勤をつづけています。 多くの黒人がヨハネスブルグに住んでいるのに会いました。それが法にふれること であることは誰でも知っていますが、なお認めざるを得ないのです。なぜなら,白人 の家主たちは白人だけではアパルトヘイトを維持できないからです。そこで彼らは、 どうしても住居を必要としている黒人に、家賃をつりあげて貸します。もちろんそれ は不法であっても、法廷にもち出されることはありません。このような地域ま『灰色 地区(greyarea$)』と呼ばれています。ビジネスマンがF灰色よ地区を望むことに は多くの問題がありますが、白人居住者はその存在自体に反対しています。 私はソウユトとアレクサンドラに行ってみました。ソウェトのいくつかの場所はき れいでしたが、大部分はかなりうすぎたない所です。夕方ともなれば、厚い環が一面 を祝うのです。それは各家庭の夕食のたびに、電気でなく石炭を使うからなのですが、 それは実に気椿の患いものです。しかし.御存じのように私が会った人々はみな親切 で、手厚いもてなしをしてくれました,それはかの英国社会をも恥入らせるほどのも のでした。 アレクサンドラはひどいまったくのスラムで、贅沢な白人居住区からわずか5分と いう事実が、奉遷をさらに惑いものにしていました。そういう場所については毒物で は読んでいましたが、芙良に直面してみるとまた新たな大きなショックでした。 NUM(黒人鉱山労傲合)の二年次会議に出席しました。一仝スピーチが終った あと、全員が立ち上がり歌うのです。それはすぼらしい光景でした。 それから私はデビッド・ウェブスター(編集部注一反アパルトヘイトのために闘っ ていた白人ウイツツ大学人類学講師だったが∴未年5月、自宅前で迫殺された。) の葬儀に行きました。教会の外に人々が集り、スローガンを唱和しました。それから 墓地まで10キロメートルの行進が始まりました。行進のルートは警察と軍隊で予め 決められヘリコプターがこのイベント参加巷を撮影するために低空飛行をしていま した。道すがら1万人もの人々(大部分は黒人)が口々にスローガンを唱えました (もちろん私も!)。警案の前を過るたびに「ANC、ANC」と叫ぶのです。なん という抗議行動でしょう!悲しいイベントであるにもかかわらず、それは私たちを 勇気づけるものでした。ベイヤーズ・ノード氏が墓地で、なぜアフリカーナーは一人 の白人の死を悼むために千人もの鳥人がやってきたのを見に来ることができなかった かをスピーチされました。このイベントはおだやかでよく親御のとれたものでした。 それは、今回の私の旅行の中でも特別な瞬間でした。 (訳:Y.S) 編集部注=筆者臥英国白人女性。滞日中はインタナショナル・グループの一員とし て活動していましたが、帰国することになり、途中南アに立ち寄りました。 lユー アーrノヾこ/−l→ムズ獄中の経験を言語る 、OBJ ECTOR誌より、・ 監級は人間性を奪う社会である。このことは通常の囚人にもあてはまるが、良心にもと づく囚人にとってはどんなに多くあてはまることであろうか。チャールス・ぺスターやデ ービッド・ブルースのような才能に恵まれたひとびとの能力を、南アフリカのために生産 的に活用するよりもむしろ監禁している社会は、道徳的に破産しているのである。 監獄に対して充分に心構えのできている者など誰もいやしない∴私は精神生活を陶冶し、 ヨガを始め、Polls■叩r監獄に入る直前の2ヶ月は心理療法に適った。しかしそれでも依 然私は自分が直面しなければならないことについて心構えはできていなかった。私にとっ て監獄生活で最も困る状況とは、そこではまったく后顔というものが欠如していることで ある。内部の者は誰も信頼できない。囚人たちはごくわずかでも特権を得ようとして密告 するし、当然看守は宿敵であって、けっして信頼できるものではない。ましてや、公正で 民主的な未来のために活動している進歩的な組織においてみられる偏頗や支桟になれてい る人には、なおさらこのような築麓に対処するのは難しい。 この信頼の欠如は、つまり社会的な交際を遮断し、常に言動に気をつけていなければな らないことを意味している。会話は、生活の最も平凡な皮瀬的な面についてだけなされ 点局私のような社交的な人間でさえ、自分自身のうちに閉じこもることになるのだった。 ひどくストレスを受け助けがほしいときには、手紙や諮問を通じて、そしてまた自分自身 のうちに助けを.兄い出さなければならないのである。 恐怖もまた私が対処しなければならないものであった。監嶽当局と囚人とでは私を違っ た見に取り扱っており、両者にとって私は‘政治家’であり、テロリストであり、共産主 義者であったのだ.最初多くの囚人は私に話し掛けようとはしなかった。私はテロリスト だと警告されていたからである。あるものはこの反抗に気付き、このことは時々私に不安 と恐怖を感じさせた。ついに私は現実にもうひとりの囚人におそわれた。 しかし、おもしろいことに時がたつにつれて何人かの囚人は私を「医師」と思うように なった。このように考える滑案カができて来たのである。私は不当にも(彼らはそう考え るのだが)彼らを投鼓したシステムに立ち向っているのだ、従って私は受け入れられ、後 には囚人の幾人かは彼らが出獄換どのようにしたら不当なシステムとたたかうことができ るのか知りたがった。 あなたは監妹当局が生活について、ほとんど絶対的といってよいほどのコントロールカ を持っているという現実にうまく対処することを学はねばならない。監獄当局杜起床時間、 点灯時間、消灯時間を決め、また食事を決める。もし、今週ビデオを_見るのだったら、ど の区画あるいは独房に入れるかを決め、また、教会の礼拝に参加させるか否かを決めるの −4− である。これを埋め合わせるために私は壁のどこに自分の写真を置くかや時間の使い方に 非常に気をつかい仁注意深くいっもヨガをLt斬り、聖書を読み、運動をし、勉強をする かを決定しているのに気付いた。 Yes・監猛は誰にとっても精神的に健康的な環境ではない。しかし、我が国での黒人の抑 圧がつづくにつれこの困難な状況は深い力強さをもたらし、また悩めるものの内部から その資寛を解き放つのである。私は自分が獄中にいる間に人間として成長し、苦悩をまと めていくなかで仝人的に深まり、またtひろがることができたと思っている。いまや私は 一一居大きな邑信、深い精神性を鼠また自分白身の強さ弱きについてより深く理解できた のだ。 私は信じていること・倍じている理由をより充分に理解しており、そのため私は我が最 愛の国における解放尉争により深くコミットするのた。 監獄は私を打ち砕きはしない−むしろどちらかと言えば私に、我々が平和裸に我が国お よびアフリカ大陸の発展のために共に働くことができる人毯差別のない、正義の南アフリ カをかちとるための軌、を遂行したい気拝を深めさせているのである。 (訳;A.S) 編集部注 アイバン・トムズ氏(36才)は、白人医臥兵役を拒否したため、1988 年3月に禁固1年9ヶ月の判決を受けて収監された.しかし、就中でも厳然として恥、 11月には保釈をかちとった。彼の兵役拒否運動を契機に、全国的にF徴兵制廃止運動 (ECC)』が広まった。 デービッド・ブルースとチャールス・ベスターへ、海外から送られてきた何首枚 という同一のポストカードの中の一枚 黒人「暴力をやめたら自由になれるって言われているんだ」 白人「太当かい、僕は暴力をやめたばかりに6年の刑を受けたんだよ」 −5− ソウルーバゾフィン SaulBatzofin 私は28才で、ビジネス経済学部を卒業し、リバティー・ライフ ズ・ペンションという会社の総務部に勤めています。私は人種差別 のない其の社会を南アにつくるように努めています。 私は国民党政府が課した抑圧的な筏によって、国外追放や移民を 強調Jされることはないと患います。したがって∴私はこの国に残り、 政府が私に圧力をかけてきても、南ア防衛軍のために働くことを拒 否してきました。もし右罪となれば.最長18ヶ月の鮒刑に処せ られます。 私が南ア防籠翠勤務を拒否したのは、次のような信念からです。 つまり、南ア防衛軍は、私や他の徴兵老からの信顔できる証言によ れば、南アの人々の利益を守るために精勤しているのではなく、国 民党とアパルトヘイトシステムを雄持するためにのみ精勤している からです。 私は最初の2年の応召期間のうち、オワンボランドの歩兵大隊H Q部隊で過ごし、伍長の位を得ました。しかしその経験を通じ.私 の中に、南ア防衛軍はアパルトヘイト維持のためたけ動いているの ではないかという疑問が生じました。オワンボランドの住民は不名 誉な人々として楔われ、軽蔑されていました。すべての独身男性は 疑われ、后用されていませんでした。そこでは彼らを助けることよ りも、彼らを脅し、古びえさせることに興味が集中しているようで した。その後、町の近くや町の中に駐留もた兵士の話によると、そ ちらの状態も似たようなものでした。 そこで私は徴兵制廃止連動(ECC)に参加し、国民は軍隊に参 加するか否かを選択できるという考えに賛成し、現在もそう考えて います。 私はまた、1988年に公然と徴兵を拒否する声明を出した14 3人の一人でもあります。私は殻兵制七ついて、至急変更すること の必要性を政府に気付かせるために、この声明を発表しました。 私は、非懲戒的なコミュニティーサービスを行えるように準備し ています。そこでこそ、私は真に国家に寄与できるのではないかと 思います。 −6−
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