権田直助 - 毛呂山町

権田直助
おおやま あ
ふ
り
毛呂本郷に生まれ、大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)
ごんだなおすけ
に銅像が建てられている権田直助。その人生は波乱に満ち、
医者、国学者、勤皇の志士、神道家、さらに歌人、書家そ
して国語学者といった様ざまな顔をもっていました。数々
そくせき
の業績を残した直助ですが、その内容はあまり知られてい
きくこ
めと
天保元年 (1830) 歳 医道修業のため各地を遊歴。
22
◆外国船打払令
世の動き
ません。今回は直助の生涯をたどり、その足跡に迫ります。
権田直助年譜(年齢は数え年)
1 月 日、 入 間 郡 毛 呂 本 郷 に 漢 方
かしち
く ら こ
文化6年 (1809)1歳 医 の 父・ 嘉 七、 母・ 久 良 子 の 長 男
として生まれる。
13
文政8年 (1825) 歳 父・嘉七の病死。
17
19
妻・ 菊 子 を 娶 り、 母 へ の 孝 養 と 家
文政 年 (1827) 歳 事 を 託 し、 漢 方 医 学 を 学 ぶ た め 江
戸へ出る。
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広報もろやま 12月20日号
特集
毛呂山人物 伝
医者・国学者・勤皇の志士・神道家・国語学者
幕 末 の 動 乱 期、 国 の 病 を 治 す 道 を 選 ん だ
勤皇の志士 多事多難な人生
▲
権田直助肖像画(町指定文化財)
慶応2年(1866)
、倒幕運動の
さつまはんてい
ため江戸薩 摩藩邸に入った直助が
じっぺい
毛呂郷平山村の斎藤実
平(初代毛
さ じ ま
呂村長・平山左 二馬)に送った肖
像画といわれている。
Moroyama 人物伝
特集 権田直助
は ち お う じ みち
に 進 む べ く、 学 業 に 精 進 し ま す が、
た。そうしたなか、直助は医業の道
子 道 が 通 り、 向かい、経済状況の悪化から、人び
いち江 戸 時 代 末 期、 八 王
にぎ
し
市が開かれるなど、賑わいを見せて とは厳しい生活を強いられていまし
日生
いた毛呂本郷。この地に、権田直助
は文化6年(1809)1月
歳 の 時、 父 親 が 病 死 し て し ま い、
家業を継ぐまでの技量はないと悟
またざえもん
生業とし、
直助の祖父・又左衛門、父・
り、最良の師を求めて江戸に出てい
なりわい
を受けました。権田家は代々医者を
嘉七とも技量が高く、人びとから信
ます。
かしち
頼された医者で、経済的にも裕福な
しもだそこう
の 復 興 に 心 血 を 注 い だ 医 者 と し て、
家であったようです。
直助は漢方医として一家をなしま
向学心にあふれ、 すが、その向上心から、いろいろな
少年期の直助は、
かんせき
父より医書を学び、漢籍を同郷の先 道に進んでいます。日本古来の医道
輩である下田素耕から学んで知識を
得ていたようです。
高い才能を持ち、 尊王思想から倒幕運動に命をかけた
勤 皇 の 志 士 と し て、 さ ら に 国 学 者、
しんとう か
覚えはよかったと伝わっています。
天保4年 (1833)
ひらたあつたね
ききん
故 郷 に 戻 り、 実 家 の 門 前 に 表 札 を
◆天保の大飢饉
歳
掲げ一家をなす。
こうちょういどう
平田篤胤の思想が幕府批判ととら
歳 れ、 江 戸 を 離 れ た た め、 直 助 も や
むなく帰郷する。
国 学 四 大 人 の 一 人、 平 田 篤 胤 に 入
天保8年 (1837) 歳 門。 古 医 道 を 究 め る た め、 古 典 研
究の必要性から国学の道に入る。
天保 年 (1841)
嘉永元年 (1848)
日本古来の医道である皇朝医道を
しん い
研 究 し、 日 本 最 古 の 薬 方 書「 神 遺
しん い ほうけい
歳 ほう
方 」 を 詳 し く 説 明 し た「 神 遺 方 経
けんしょう
験抄」を草稿。
◆ペリー浦賀に来航
かり た
あんどうぶんたく
嘉永6年 (1853)
◆ 蘭 方 医 安 藤 文 澤、 多
しゅとう
数の幼児に種痘を実施
ゆだ
安政5年ごろ (1858)
文久2年 (1862)
きゅうごうしょとんしゅうたい
医 業 を 門 人 に 委 ね、 上 洛 し 上 流 社
歳 会 の 人 び と に 国 学 を 論 じ る な ど、
じょうい
尊王攘夷運動に傾倒する。
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神 道 家、 国 語 学 者 と 多 岐 に わ た っ て
◆鳥羽伏見の戦い
糾 合 所 屯 集 隊 ・大監察として苅田 ◆大政奉還
つみ ほ
さつ ま はんてい
慶応3年 (1867) 歳 積 穂 の 名 で 薩 摩 藩 邸 に 入 り、 薩 摩 ◆坂本龍馬暗殺
◆王政復古の大号令
藩邸焼討事件に関わる。
明治元年 (1868)
明治2年 (1869)
刑 法 官 監 察 知 事 に 任 命 さ れ る。 新
政府による大学校設立の際には中
歳
博 士 に 任 命 さ れ、 皇 朝 医 道 の 専 任
教授を務める。
ふ
り
しかん
確たる理由もなく国事犯の嫌疑を
受け、金沢藩に幽閉される。
明治4年 (1871) 歳
おおやま あ
政 治 一 切 を 断 念 し、 国 学 の 研 究 に
◆太陰暦から太陽暦へ
従事する。
明治5年 (1872) 歳
大 山 阿 夫 利 神 社 の 祠 官 に 招 か れ、
後に三嶋大社の宮司を兼務。
明治6年 (1873) 歳
明治 年 (1881)
こうてんこうきゅうじょ
本 籍 を 大 山( 現 在 の 伊 勢 原 市 ) に
歳
移す。
74
年 (1887) 歳
6月8日、風邪をこじらせ没す。
こくぶんくとうこう
没後「国文句読考」が出版される。
教導職の最高位である大教正とな
る。
だいきょうじょう
明治 年 (1882) 歳 皇典講究所の教授に就く。
75
明治 年 (1883) 歳
明治
広報もろやま 12月20日号
3
25
29
79
います。また歌人、書家としての才
▲
生地には埼玉県指定旧跡『権田直助
生地』の標柱が建つ(岡部米店前)
33
14
この時代は、ロシアをはじめ諸外
国船が日本に来航し、通商を求めて
▲現在の毛呂本郷
(毛呂本郷交差点北側)
40
63
15
能も発揮しています。
▲毛呂郷大絵図の一部(天保4年)○印が直助の家
54
59
64
61
65
16
17
きており、幕府は対応に苦慮してい
直助の家
12
20
13
ま し た。 時 代 は、 幕 末 の 動 乱 期 に
八王子道
しょほう
日本古来の医道へと目が向けられま
部分も重要であると説いたのです。
す。 漢 方 や 西 洋 の 処 方 に 頼 る の で は
天 保 年( 1 8 4 1)、 歳 で 故
のこ
しんいほう
なく、日本には神が遺した『神遺方』 郷に戻り、医業に従事し、古医道を
す。
考 え た の で す。 直 助 は、 日 本 古 来
に用いれば多くの人が救われると
て お り、 こ れ ら の 医 道 を 再 興 し 治 療
という日本最古の薬方書が伝えられ
生活は困窮。それでも直助は、昼夜
始めました。しかし評判は上がらず、
の看板を掲げ、古医道による医療を
実践。漢方医を廃して、「皇朝医家」
評判を呼び、患者も多く集まり、経
た。 直 助 は、 病 人 を 単 に 肉 体 的 な 人
皇朝医道の研究に情熱を燃やしまし
中まで知れわたったとされています。
わる書物を残し、その功績は江戸市
でした。その後、多くの古医道に関
幕運動へとつながっていきます。
志表示とされる足利三代木像 梟 首
わ
事件(足利将軍3代の木像の首を京
都賀茂川にさらした事件)では、直
じょう
『 人 の 病 は 国 の 病 よ り 小 さ い。 吾
は先ず大いなるものを治療しなけれ
じょうい
がなくなったことから、妻と共に上
らく
うとする決意が感じられます。この
医業を投げ打ってでも国家を変えよ
における実情偵察や後の倒幕運動に
集隊に大監察苅田積穂の名で、関東
直 助 で す が、 相 楽 総 三 の 糾 合 所 屯
きゅうごうしょとん
ころの直助は公家などの上流社会の
さがらそうぞう
古医道を研究する直助には、平田
あつたね
篤胤の思想が影響しています。篤胤
人びとと盛んに交流し、国学を論じ、 大きな影響を与えた薩摩藩邸焼討事
ぼしん
さつまはんていやきうち
かり た つみ ほ
は『古事記伝』を著した本居宣長の
件に関わっています。まさに倒幕運
しゅうたい
流れをくみ、仏教や儒教がもたらさ
憂国の真心を説くなど、その活動は
動の一端を担ったといえます。その
もとおりのりなが
れる以前の神とつながる精神に立ち
目覚しいものがあったようです。国
後、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争と続
ゆうこく
返ろうという復古神道を唱えた人で
家を変えようとする決意は門人たち
いていきます。
ふ っ こ しんどう
す。こうした日本古来の精神文化の
も同様でした。倒幕に対する強い意
ひら た
直助も時代の波にのまれていきます。 ら れ て い ま す が、 国 の 情 勢 を 憂 い、 ます。この件で要注意人物となった
うれ
助の門人数名が加わったとされてい
きょうしゅ
こ い ほうけいけんりゃく
洛。世は攘夷論に沸いているときで、 ばならない』と直助が語ったと伝え
文久2(1862)年、直助 歳
のとき、母親が他界、身内への心配
▲古医方経験略(嘉永元年)
「神遺方経験抄」と同時期に作成したもので、古医道を
実地経験し、そのあらましを記述している(個人蔵)
優位性を説く思想が、尊王攘夷・倒
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広報もろやま 12月20日号
▲
『医者・権田直助』日本古来の医道に没頭
文 政 8 年( 1 8 2 5)、 直 助 歳
のとき、父親が他界。最良の師を求
歳で江戸遊学に旅立っていま
一人者で
江戸でじはい、漢方医学ののま第
こうしゅんいん
将軍の侍医であった野間広春院に弟
を 問 わ ず 研 究 に 没 頭 し、 そ の 結 果、
め、
子入りし、ひたすら研究と勉学に励
の医学である古医道を究明するに
かんせき
みました。3年間で医書も漢籍も学
済的にも豊かになっていきました。
間 と し て 見 る の で は な く、 精 神 的 な
ひづめ
みなとかはらの水やたゆらむ
54
『国学者・権田直助』尊王攘夷・倒幕運動に傾倒
弟 子 も で き た 直 助 で す が、 漢 方 医
学 だ け で は 飽 き 足 ら ず、 そ の 情 熱 は
こうちょういどう
歳のとき
しんいほうけいけんしょう
学説としての『神遺方』をより実践
ひらたあつたね
大 人 の 一 人、 平 田 篤 胤 に 入 門。
は、 古 典 研 究 が 重 要 と 考 え、 国 学 四
歳で念願の家業を継ぐ
29
ことができたのでした。その治療は、 の と き で し た。 篤 胤 の も と 3 年 の 間、 書き上げたのです。直助
を遊歴し、
び終えた直助は、さらに3年間各地
12
的なものにした『神遺方経験抄』を
33
40
25
皇軍の馬の蹄もぬらさじと
みいくさ
17
歳
19
慶応四年とせといひける年の正月のなかば
山陽道鎮撫使の御供につかへ奉りて湊川に
いたりける時水瀬たえてありければよめる
従六位源朝臣直助
念願の尊王倒幕運動がかない、直
助が得意の絶頂にあったころの作品
(慶応 4 年 1 月)
(個人蔵)
Moroyama 人物伝
特集 権田直助
しんとう か
織化を行い、信仰が深くなるよう布
教活動の教化を行いました。2つ目
るものでした。3つ目は社会教化の
『神道家・権田直助』神社再興の先駆者として尽力
は、祭式の作法を根本的に統一、そ
、直助は神
明 治 6 年( 1 8 7 3)
おおやま あ ふ り
道家の道に進みます。大山阿夫利神
一環として、和歌を選んで音譜を定
れは神仏分離後、神道界の基準とな
明治維新では、王政復古が実現さ
れ、国学者の主義主張が貫徹されま
かれ、後に三嶋大社(静岡県三島市) め、完全な謡い物を作って、神祭葬
社(神奈川県伊勢原市)の祠官に招
儀のときなどに謡ったことです。
おん ぷ
した。直助は国学を中心とした教化
の 宮 司 を 兼 務 し て い ま す。 明 治 元
かくして、直助は苦慮の末、大山
を永住の地と定め、明治 年(18
しかん
運動のなかで、指導者として刑法官
年(1868)に行われた神仏分離
うた
監察知事、大学校で皇朝医道の専任
運動の指導がきっかけとなり、両神
こうちょういどう
教授を任されています。しかし、維
くりょ
新当初に政治を動かした国学中心主
81)に本籍を移しています。その
歳でこの世を
社の長を任されています。国家のた
年に
義も、急激に広まった西洋文化と相
去りました。
6年後、明治
の仕事として選択したことは、苦渋
めに尽力してきた直助にとって晩年
14
容れず、国学者は徐々に社会や政府
から排除されることになります。
79
断念して、国学の研究に従事。この
います。これを契機に、政治一切を
疑を受け、金沢藩に幽閉されてしま
のです。その功績として3つの事業
く、神社再興の先駆者となっていく
かし、直助の向上心は尽きることな
悟ったからだといわれています。し
を残しています。明治
年(188
多方面に活躍した直助ですが、国
語学、国文法の分野でも大きな業績
く、現在でもまだ十分に決められて
成しています。しかし、強制力はな
▲大山阿夫利神社に建つ直助の銅像
(神奈川県伊勢原市)
国文法、文章表現の大切さを考えて
はいません。直助がいかに早くから、
こくぶんくとうこう
に『国文句読考』が出版されていま
いたかがわかります。
しく読むことができず、意味も正確
に伝わらないとして、文章の構造と
句読点の関係、句読点の必要性を説
きました。
この『国文句読考』は、日本で初
めて出版された句読点に関する学術
書とされています。現代では、当た
年(1906)
り 前 の よ う に 用 い ら れ て い る「、」
や「。」ですが、明治
39
年(1946)には『くぎり
▲国文句読考(明治20年出版)
(個人蔵)
す。直助は、句読点がない文章は正
20
符号の使い方(句読法)(案)』を作
時点で、古医道の研究はひとまず休
7)に亡くなりますが、同年、没後
▲神教歌譜(復刻本)
、神祭葬儀に使う歌謡で、
音節、譜を直助がつけたもの
が挙げられます。1つは、信徒の組
▲三嶋大社拝殿(静岡県三島市)
止しています。
直 助 も、 明 治 4 年( 1 8 7 1)、 の決断であったものと思われますが、
歳で確たる理由もなく国事犯の嫌 国 学 が も は や 時 代 に 相 容 れ な い と 『国語表記の始祖・権田直助』
20
に文部省は『句読法(案)』、戦後の
昭和
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日~
月
11
日、 企 画 展『 郷 土 に 残 る 国 学
16
▲
郷土の偉人・権田直助を知るため
の授業で企画展に訪れた埼玉医科大
学の学生
し せい
権田直助研究の第一人者
内野勝裕さん
まさひろ
いわくら と も み
みつぎ
郷土歴史講座で「権田直助の残
そくせき
した足跡」について解説する
内野勝裕さん(毛呂山町文化財
保護審議委員会委員長)
齊藤勢吾さん
せい ご
ISEHARA・おもてなし隊代表で、
大山信仰や権田直助の調査研
究に携わっている。
おおやま あ
ふ
り
◆伊勢原での権田直助
句読点の表記と神教歌の普及は
注目すべき功績です
いせはら歴史解説アドバイザー
を要してしまいました。しかし、郷
が、難解な部分も多く、整理に時間
して3年前に企画したかったのです
本来であれば、生誕200年を記念
◆直助が残したもの
と思います。
倉具視も直助らの影響を受けたのだ
学を中心とする政治思想であり、岩
功績だと思いますが、国語学者とし
その功績は徐々に注目を集めていま
動 が 要 因 で あ る と 考 え ら れ ま す が、
功績が多くて、簡単には答えられ
じょうい
ませんが、尊王攘夷・倒幕運動に参
◆直助の最大の功績とは
した。
います。そうした作品を見ても、書
の書を町内でも多くの人が所有して
ています。その功績とともに、直助
そのなかでも、時世の歌を書に残し
の国文学者としての著述ですが、世
直助没後に出版された句読点に関
する書物は、勤皇の志士とは無関係
◆直助の功績を広めたい
る 書 物 な ど 多 岐 に わ た っ て い ま す。 と思います。
て句読点の必要性を説いた点と神教
す。明治維新における貢献は大きな
土の偉人として、多くの人に注目し
歌を普及した点は注目すべき功績だ
加し、倒幕の一端を担っていたのは
間的にはあまり評価されていません。
句 読 点 学 の 第 一 人 者・ 大 類 雅 敏 氏
おおるいまさとし
に長け、歌人としての才能を感じる
ほんそう
くれることを願っています。それだ
どなたか歴史小説として取り上げて
私は、こうした偉業を世に広めたい
教歌も、直助が世に広めたものです。
まさに至誠の人であったのではない
でしょうか。
と考えています。さらに、直助の魅
力に迫れたらと考えています。
けの要素は十分にあると思います。
時代の流れだとしても、信念を貫き、 多くの功績を残し、称えられるべ に「句読点のバイブル」とまでいわ
勇 気 あ る 行 動 で あ っ た と 思 い ま す。 き偉人であると思います。できれば、 れたほどの重要な文献なのです。神
国の病を治すがごとく奔走した姿は、 ものです。
間違いありません。幕末の動乱期に
てほしくて、今回の企画展となりま
直助が記した文献は数多く、医学
書、幕末の行動日記、国文法に関す
運動の際、直助が岩倉具視の密議に
◆企画展の趣旨
大山阿夫利神社がある伊勢原市で
こ れ ま で、 権 田 直 助 に つ い て は、 加 わ り 内 命 を 受 け て い た こ と で す。 は、直助はあまり多く語り継がれて
あ ま り 注 目 さ れ て い ま せ ん で し た。 明治維新の王政復古という精神は国 いません。それは一時期の過激な行
激動の幕末を駆け抜け
た郷土の偉人、まさに
至誠の人
私が、特に注目したいのは、倒幕
6
広報もろやま 12月20日号
権田直助没後125年記念企画展
月
14
▲
者権田直助の足跡』を歴史民俗資料館で開催
10
歴史民俗資料館で開催された権田
直助の企画展
▲
有柳雅兄の
故碩布翁の別
号を継て可庵と
号せらるゝ事を
ことほぎ侍りて 直助
い
わ
や
も
おおやまもうで
り
よろし
▲毎年、節分の日に合せ、大山阿夫利神社に
参拝をする大山節分会の皆さん
ふ
ながめ
わ
P2 権田直助肖像画/ P3 毛呂郷大絵図/
P4 掛軸「皇軍の馬の蹄…」/ P5 神教歌
譜(復刻本)/ P7 有柳の可庵嗣号を祝
す歌
おおやま あ
も
す
資料提供(毛呂山町歴史民俗資料館)
●いまも続く大山詣
大 山 阿 夫 利 神 社 へ の 信 仰 と し て、
参詣するために組織された大山講は、
江戸時代には存在していたと思われ
ますが、現在も大山詣を行っている
人たちがいます。その一人、大山節
分会の福田忠次さん(大師一区)は
「大山講の始まりは農民信仰からだ
しの
と思いますが、今も続いていること
を考えれば直助を偲んでの参拝の意
味のほうが強くなっているのではな
いでしょうか」と語り、毎年、宿坊
に泊まるのが楽しみだといいます。
●直助が後世に残したもの
人々のために、医者として病を治
すことに専念し、やがて国家の病を
治 す ま で に 発 展 し た 直 助 の 行 動 は、
地域や自国をこよなく愛していたか
らだと思います。晩年、毛呂本郷を
去ることになりますが、郷土への愛
よ
着は次の歌からもわかります。
「四方八方の詠め宜みあすはねの一
本杉に一日暮さむ」
なごしのやおうかしゅう
これは、直助の歌を門人たちが編集
あ
した『名越舎翁家集』に出ている一
首 で す。 阿 諏 訪 の 一 本 杉 峠 に 登 り、
一休みして詠んだ歌と記されていま
す。こうした歌や書は、掛け軸など
そくせき
参考文献
毛呂山町史/新毛呂山町史/毛呂山町資
料集【第5集】草奔の志士『権田直助』
/権田直助先生伝/郷土歴史講座「郷土
に残る国学者権田直助の足跡」
うりゅう
ゆゝしさよ 池の蛙の
音たふか
聞つくかねと
出立る人
直助が医者として生きる自負や決意
を歌ったもの。落款(署名)に「武野
草医」
(武蔵野の田舎医者)とある
(個人蔵)
いずも い
に残され、今に伝えられています。
多くの足跡を残している直助。そ
の原点は、人びとへの愛であり、誰
かを助けたいという信念が道を切り
開いてきたように思います。
広報もろやま 12月20日号
7
▲直助自筆の書
(個人蔵)
▲出 雲伊 波比神社社号碑(明
治10年建立)文字は直助の書
によるもの
川角村出身の俳人・野口有 柳が
せきふ
かあん
師匠の川村碩 布の号別可 庵を継い
だことを祝って直助が贈った歌
▲
Moroyama 人物伝
特集 権田直助
▲名越舎翁家集
門人により、直助の代表的な歌を編集
した歌集(個人蔵)
なごしのやおうかしゅう