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表紙写真
11
「アジアサイエンスキャンプ2013」の
最終日に行われたポスター発表で選
ばれた優秀作6点。上段は審査員によ
る表彰作品で、右から金・銀・銅賞。下
November 2013
段は参加者の投票で選出されたベス
トポスター 3作品(順不同)。ポスター
づくりは、このキャンプのユニークなプ
ログラムの1つ。国籍に関係なく編成さ
れた41チームがそれぞれ作成し、話し
合いを重ねる中から生まれる若者らし
い斬新なアイデアや創造性が審査委
員会では重視された。
アジアの若者が集い、著名な科学者と語り合った1週間
科学の芽を育てる「アジアサイエンスキャンプ2013」
CO2を資源活用せよ!
8
植物の新たな可能性を引き出す
明日へのトビラ
3
Vol.7
道路の錯覚を解き明かして交通事故を減らす
12
TOPICS
14
数理モデルで錯覚を制御する
JSTの最近のニュースから…
さきがける科学人
Vol.19
小さなラン藻の大きな可能性に挑む
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科学技術振興機構さきがけ専任研究者(理化学研究所環境資源科学研究センター客員研究員)小山内 崇 研究員
「元素戦略10年」、新しい物質・材料科学の時代へ
2
物質・材料科学の未来を議論するワーク
基礎研究の成果を経済産業省のプロジェクト
東京工業大学の細野秀雄教授のC12A7エ
ショップをJSTが箱根で開催したのは2004
で活用する体制も根づき、希少元素を代替
レクトライドは、セメントの結晶のすき間に
年のことです。電子機器や高機能素材に欠
する素材や、次世代自動車向けの高効率モー
電子を入れたもので、電子材料としての応用
かせない希少元素は、流通量も産地も限ら
ター用磁石などの研究開発が進んでいます。
や、100年来のアンモニア合成法を置き換え
れるため、それらに頼らない夢の材料の実現
最近新たな物質・材料づくりのコンセプト
得る可能性のある画期的な触媒として注目
を目指し、
「元素戦略」というキーワードで日
として注目を浴びているのが、
“すき間科学”
されています。
本全体が大きく動き出した、記念すべき会議
と呼ばれる「空間・空隙制御材料」です。電子・
日本のナノテク・材料研究は世界の最先
でした。
分子が入るナノ構造のすき間をつくることで、
端を走っており、次々と新しい概念を生み出
来年はそれからちょうど10年にあたりま
従来にない機能の革新的な材料が生まれる
し、それを実用化するための技術をきちん
す。日本や地球社会が抱える資源問題の解決
のです。代表的な成果には、京都大学の北川
とつくりあげることに、国を挙げて取り組ん
に向けて、JSTはERATOやCREST、さきが
進教授による常温常圧で気体を貯蔵・分離
でいます。
けなどでの課題達成型基礎研究はもとより、
できる多孔性配位高分子PCPや、東京大学
材料を制する者が世界を制す。JSTも大き
産学連携や国際共同研究も推進しています。
の藤田誠教授による生体高分子などの構造
なビジョンのもと、この分野での研究開発の
さらに府省連携により、文部科学省が進める
解析を容易にする結晶スポンジがあります。
遂行に力を尽くしたいと考えています。
November 2013
編集長 : 上野茂幸 / 企画・編集 : 荒川紀子・大内麻里・角野広治・中村江利子・松元美香 / 制作:株式会社ミュール / 印刷・製本 : 三省堂印刷株式会社
次世代の科学技術を支える人材の育成
「アジアサイエンスキャンプ2013」
茨城県つくば市で8月25日から
6日間にわたり、
「アジアサイエ
ンスキャンプ2013」が開催され
た。ノーベル賞受賞者を含む7人
の名だたる科学者を招き、アジア
から約200名の若者が参加して
の大規模な国際科学技術合宿。
明日の科学者を目指す若者たち
は、キャンプの交流と対話から何
を学び、どんな感動を持ち帰った
のだろうか。
科学の面白さを
体験する6日間
や大学生198人が参加した。
講演者に招待された科学者は、江崎玲
於奈さん(1973年ノーベル物理学賞)、
アジア各国の優秀な高校生や大学生と
小 林 誠さん(2008年同)、小 谷元 子さ
寝食を共にし、ノーベル賞受賞者など著
ん(東北大学原子分子材料科学高等研究
名な研究者と直接対話する ― 科学を
機構 機構長)、ユアン・リーさん(1986
志す若者なら誰でも憧れるような体験型
年ノーベル化学賞。台湾出身の米国籍)、
イベントが、
「つくば国際会議場」で開か
村山斉さん(東京大学国際高等研究所カ
れた。
ブリ数物連携宇宙研究機構 機構長)、根
今年で7回目を迎えたこのキャンプは、
岸英一さん(2010年ノーベル化学賞)、
毎年アジア各国の持ち回りで開かれてお
アダ・ヨナットさん(2009年同。イスラ
り、日本 では2回目。今 回は、高エネル
エル出身)の7人。また、発起人の1人であ
ギー加速器研究機構(KEK)とJSTが共
る小柴昌俊さん(2002年ノーベル物理
催し、アジアの23の国や地域から高校生
学賞)が、開会式にビデオ・メッセージを寄
3
次世代の科学技術を支える人材の育成
「アジアサイエンスキャンプ2013」
講 演者を囲んで対 話するプログラムでは、ときに
手も動かしながら、より科学を身近に体験した。
高校生から大学2年生までを集めること
になった。
ユアン・リーさん(p.3上段左)、小林誠さん(p.3上段右)、根岸英一さん(p.3下段中)、江崎玲於奈さん(左
上)、小谷元子さん(右上)、村山斉さん(左下)、アダ・ヨナットさん(右下)と、世界トップレベルの科学者
7名が講演者を務めた。
2007年に第1回のキャンプが台湾で開
かれ、その後、インドネシア、日本、インド、
韓国、イスラエルと、毎年開催されてきた。
せて、多くの若者たちの参加を歓迎した。
り距離の近い対話では、興味ある分野の
主催国ごとに工夫を加えながら回を重ね
参加者は、大ホールでの連日の講演や、
講演者を数十人で囲む。黒板を埋め尽く
ることで、参加国も増えている。
数十人で講演者を囲む対話に心を弾ませ
す有機合成の反応式、幾何学の不思議を
2009年の日本開催時に組織委員会の
た。また、チームに分かれてのポスター
体験するシャボン液の実験など、話題も
委員となり、以来キャンプに携わってきた
作成と、KEKや宇宙航 空研究開発機構
さまざまだ。深遠な科学の解き明かしに
KEK理事の岡田安弘さんは、
「講演者と
(JAXA)などの見学を通じて、科学の知
は感嘆の声が上がり、ユーモラスな冗談
の交流はもちろんですが、生徒同士の交
識を深め、交流を育んだ。
には笑いもあった。いずれのプログラムも
流を深めるため、特に共同作業に力を入
講演では最新の宇宙論や生体高分子
英語だったが、母国語でない参加者も物
れています。なかでも学んだ成果を1枚の
の構造解析、素粒子物理など、高校や大
怖じせずに率直で活発な質疑応答をして
模造紙にまとめるポスター作成のスタイ
学の教養課程ではお目にかかれないよう
いた。また、折り紙や書道など、開催国の
ルは、2009年に続き、今回も取り入れま
な講義があり、活発な質疑があった。よ
文化を体験する1コマもあった。
した。即席のチームが1週間で作成するの
アジア版
「リンダウ会議」を
アジアサイエンスキャンプは、小柴さん
とユアン・リーさんが2005年の「リンダ
岡田 安弘 おかだ・やすひろ
高エネルギー加速器研究機構 理事
2009年以来、開催に関わってきた。
4
November 2013
はかなり厳しい要求ですが、彼らは若い
吸収力でこなしてしまうのです」と話す。
新しいアイデアを生む
“手作り”の共同作業
ウ会議」に出席した際、アジアでも若者の
参加者は、出身に関係なく5~6
ためにトップレベルの科学者と若い学生
人ず つのチームに分かれて行
らの交流プログラムを作ろうと意気投合
動を共にし、それぞれポス
し、誕生した。リンダウ会議とは、ドイツ
ターを 作 成 する。講 演
のリンダウで毎年開催される若手研究者
や対話の場で学んだこ
のための国際的な交流会議で、物理学や
とを題 材に、チームで
化学など各分野のノーベル賞受賞者が毎
話し合 いを重 ねて1枚
回20名程 度招待され、講 演などが行わ
にまとめたポスターを、
れる。これにならって企画されたアジアサ
最後に展示し、発表す
イエンスキャンプでは、専門も決まってい
る。
ない段階からもっと若い人たちに交流して
最終日、参加者た
もらい、将来の目標をつかんでもらおうと、
ちは 朝 食もそこそこ
に、3日がかりのポスターの仕上げに取り
組んでいた。正午までに貼り出さなくては
いけない。黙々と作業をするチーム、最後
会場に並んだ
個性的なポスター
まで話し合いを続けるチームなど、みんな
午後、ポスター会場には、41枚の力作
真剣そのもの。模造紙に色とりどりのペ
がずらりと並 んだ。ナノテクノロジーや
ンで文字や絵を書いたり、印刷した図を
ビッグバン、DNAなど難しそうな題目が
貼り付けたりと、手作業で作る。
目につくが、電気ウナギでエネルギー問
「ポスターの見栄えより、若者ならでは
題の解決を訴えたり、折り紙を使って数
のアイデアや工夫、創造性を大事にした
学の対称性を表したりと、夢があふれる
かった」と今回の実行委員会を代表して
個性的な作品ばかりだ。また、どのポス
KEK教授の小松原健さんは話す。
「ポス
ターも魅力的な色彩やイラストが添えら
キャンプ後半は、今
回 学 ん だ こ とを 題
材 に チ ームご と に
知恵を出し合い、み
ん な で 協 力 して ポ
スターを作成した。
ター作りは、知識の多さを問うものでは
なく、みんなの意見をまとめ、集中作業で
1つにまとめる過程が大事。発想や知識
レベルの異なる参加者たちによる共同作
業から、新しいアイデアが生まれること
を体験してほしかった」と強調した。
日本で2回目の開催となる「アジアサイエン
スキャンプ2013」は、アジア23の国や地
域から198名の若者が参加した。
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次世代の科学技術を支える人材の育成
「アジアサイエンスキャンプ2013」
英 語 で の 会 話には少し苦
労したものの、得意の折り
紙を披露して、仲間たちと
の 親 交を 深 めた中野 裕 章
さん(高2)。
参加して、科 学 の面白さ
や奥深さを実 感し、好き
な生物 学 へ の 興 味 もさ
らに高まったという鈴木
裕貴子さん(高3)。
世 界 の 若 者たちと交 流し
た い という思 い から 参 加
を決め、
「ここでの出会い
を大切にしていきたい」と
話す桐野将さん(高3)。
れているのが印象的だ。キャンプで学ん
はみんな物理が好きで、家にある5つの
ました」と話す。得意な折り紙を教えるこ
だことを環境問題に役立てたいと主張す
部屋に、エネルギー問題を解決するため
とで、みんなに溶け込めたという。
るものも多い。
のそれぞれのアイデアを込めました」と熱
愛媛県から来た鈴木裕貴子さんは、生
発表会では、メンバーが先を競ってポ
心に説明してくれた。村山さんの講演な
物が好きな高校3年生。アジア各国の同
スターを説明するチームや、代表者1人が
どから、例えば恒星を台所の熱源に見立
年代の人と話してみたいと参加した。
「一
じっくりと説明し、他のメンバーが見守る
て、ブラックホールをトイレに使う奔放さが
番興味深かったのは、アダ・ヨナット先生
チームなど、発表スタイルもさまざま。見
ユニークだ。
の講演でした。ノーベル賞を受賞するよ
学者の質問にも熱心に答えるなど、会場
閉会式で行われたポスターの表彰式で
うな研究者がどんな考えを持って研究に
は大いににぎわった。
「今年から、発表会
は、参加者の投票によるベストポスター
臨んでいるのかがわかったし、お話を聞
での交流にも力を入れるため、時間を長
3点と審査員が選んだ優秀作3点がそれ
いて分子生物学の研究にも興味が出てき
くし、参加者投票による賞も設けました」
ぞれ発表された。表彰されたチーム代表
ました」と話す。一方で、
「インドやイスラ
という小松原さんらの工夫が功を奏した。
者は、
「仲間で議論しながら、とても有意
エル、台湾から来ていたどのメンバーも
有 機 化 学を専 攻してい る 参 加 者 は、
義な時間を過ごせました」
、
「みんなの協
英語が上手で、科学に対する意識も高く、
「
(遷移金属触媒による有機合成を取り上
力があってこそできたポスターです。それ
すごく刺激を受けました。逆に、言いたい
げた)根岸先生の講演が印象的だったの
が認められて受賞できたことがとても嬉
ことがなかなか英語にならず、もどかし
で、それをポスターにしました」と話す。
しい」などとあいさつした(p.7上)。
かった。もっと勉強して、また参加したい」
鮮やかな家のイラストが印象的な 「i
house」のポスター(左下)は、インドや
カザフスタンなどの参加者が、
「メンバー
若いうちに
海外に飛び込む意識
と笑顔で答えてくれた。
東京から参加した桐野将さんは、地学
オリンピックの参加経験もあり、
「高校生
キャンプには、33人の日本人が参加し
た。
「歓迎会で各国の参加者と仲良くなろ
うと自発的に話しかけに行くくらい、意識
の高い子たちでした」
と小松原さんも驚く。
日本の参加者たちは、キャンプで何を
感じたのだろうか。
高校2年生の中野裕章さんは、地元徳
島の青いはっぴを着て気合を入れてポス
ター発表に臨んだ。
「講演やKEKの見学
がとても印象に残りました。このような国
際的な場に参加できたことは、いろいろ
な意味で自信になりました」と満足そう。
中野さんのチームには、トルコ、中国、ベト
ナム、カザフスタンからの参加者がいた。
「すべてが英語で、初めのうちはうまくコ
物理学が大 好きなメンバーが集まった6-Dチーム
のポスター。家の各部屋に、エネルギー問題 解決
のためのユニークなアイデアを盛り込んだ。
6
November 2013
ミュニケーションがとれませんでしたが、
みんなの協力もあって、徐々に慣れていき
小松原 健 こまつばら・たけし
高エネルギー加速器研究機構
素粒子原子核研究所 教授
今回、実行委員会の代表を務めた。
41チ ームの ポ ス
ター のな かから
審 査 員 に よって
選ばれた優 秀 作
3点(左から金賞・
銀賞・銅賞)を作
成した メンバー
たち。
優秀作とは別に、参加
者 全 員 の 投 票 に よる
ベストポスターに選ば
れて表彰された3チー
ムのメンバーたち。
のうちに世界の人たちと交流したい」と参
加した。
「一番印象的だったのは、海外の
若者たちと同じ時間を過ごせたことです。
形で、非常にうまく進行しました」と振り
安全や健康には注意を払いました。全員
みんな自分と同じくらいの年齢なのに、
返る。
「なかなかチームに溶け込めない参
無事に帰国したと報告を受け、ほっとして
知識も豊富で発想もユニーク。ここで知
加者もいましたが、まずは自分の考えを
います」と心境を漏らした。
り合った人たちとは、これからも長くつ
声に出すよう教えました。ポスターは、各
き合えたらと思います。将来はこの経験
自の自由な発想を尊重するために作り方
を生かして、研究者になりたい」と話す。
などは指導しませんが、傑作ぞろいです」。
「苦労はありますが、キャンプには意味
担任や補助員にとっても貴重な体験の
があると確信しています」と岡田さんは言
場となった。
う。KEKがアジアサイエンスキャンプを
キャンプの間、各クラスには日本人の
初めての共同作業である3分間スピー
主催するのは、発案した小柴さんの理念
担任と補助員がつき、参加者の活動を全
チでの出来事だ。チームで話題や時間配
によるところも大きいが、こうした人材育
般的に支えた。担任はKEKの若手 研究
分を相談して順番に話すことになってい
成の活動も、基礎科学を研究する機関の
者が、補助員はこれまでのキャンプに参
た。話が長くなって、チーム全員がスピー
重要な役割の1つととらえているためだ。
加した各地の学生らが務めた。
チできない場合でも、質疑の時間に「あ
講演者や各国との連絡調整から、さまざ
クラス担任を務めたKEK特別助教の
なたの話したかったことは何ですか」と質
まな食習慣に合った食事の手配まで、主
安達成彦さんは、
「チームの中でリーダー
問が出されたのだ。これで遅延なくスピー
催者側の苦労はつきない。
「このように
が自然に生まれ、ポスター作りや議論を
チの機会がうまく割り振られた。
「これは
続けられるのは、みんなが名誉あるイベ
仕切ってくれました。私達はそれを見守る
うまいテクニックだなと思いました。そん
ントと認めてくれたからでしょう。ホスト
な心配りもできる若者たちの賢さに感心
への立候補が続いていることに表れてい
しました」
と話す。
ます」と岡田さん。
「キャンプは、若手研究者の訓練の場で
来年度はシンガポール、その次はタイ
もあります。準備作業や参加者の指導を
で開催されることが決まり、また、新た
通して、多くのことを学べたと思います」
に実務者で構成する国際委員会も発足し
と話すのは小松原さん。
「海外から多く
た。
「持ち回りは大きな負担がかかりま
の若者が集まるわけですから、とにかく
すが、それを継続する基盤ができたのは、
スタッフも学ぶ
新しい伝統に向けて
喜ばしい限りです。これからも、アジアサ
イエンスキャンプという新しい伝統をつ
くっていきたい」
と顔をほころばす。
参加した若者たちは、他では経験でき
ないたくさんの刺激を受けたはずだ。科学
への興味をふくらませ、国を越えたつなが
りを体験した。新たな目標を見出した者も
多かったに違いない。明日の科学技術を担
習字(左上)や折り紙(左下)などの日本文化の体験や、KEK(右)、筑波宇宙センターなどの研究施設訪問
なども行われた。
う研究者として、さらにはアジアを担う社
会のリーダーとして育っていくことだろう。
TEXT:佐藤成美/ PHOTO:浅賀俊一
7
戦略的創造研究推進事業CREST・さきがけ「二酸化炭素資源化を目指した植物の物質生産力強化と生産物活用のための基盤技術の創出」研究領域
CO2を資源活用せよ!
植物の新たな可能性を引き出す
「温暖化は疑う余地がない」
「人間活動が20世紀半ば以降の温暖化の確率が高い」―。国連の「気
候変動に関する政府間パネル(IPCC)
」が今年9月に公表した第5次報告書はこう断定した。温暖
化緩和は人類の喫緊の課題にもなってきた。主な温暖化ガスのCO2を吸収し、化石燃料を節約し、
新しい資源を生み出すための技術として、植物や微生物の働きに学ぶ動きが急速に高まっている。
「バイオ燃料」の原料を目指す
そこで、JSTで植物を利用したCO2資源化を掲げる研究領域での、
イネ科の作物ソルガムの品種改良と、穏やかな環境で植物からバイオプラスチックをつくる「微生物
工場」の研究の今を紹介する。
遺伝子情報を活用して品種改良を高速化
より大きく育つ植物を
産業革命以降、人類は石炭や石油など
ればならない。しかし、化石燃料と比べる
と、石油などの価格が高騰している今も
なお、バイオ燃料は安価とは言いがたく、
の化石燃料を大量に消費してきた結果、
「環境にやさしい」だけではシェアは増え
地球温暖化を招いてしまった。その影響
ない。市場が求める手ごろな燃料を生産
を緩和するため、化石燃料の消費を抑え
するには、同じ農地面積でも大きく育ち、
るのはもちろんのこと、大気中のCO2を
かつ、燃料に加工しやすい糖類を大量に
有効に利用して、少しでもその濃度を下
含む植物が必要となる。
げることが求められている。
そこで、CO2を吸収して育つ植物を原
料にしたエネルギーや材料への関心が高
経験とカンに頼らず
有用な新品種を生み出す
コーリャンや
タカキビなどの
名称で雑穀としても
知られているソルガム。
「テーラーメード育種」だ。より高い生産
性を目指すなら、地域の風土に合わせて、
それぞれで大きくなる品種を開発する方
が有効と考えている。
伝統的な品種改良は、実際に交配を行
まっている。植物原料から生産されるエ
東京大学大学院農学生命科学研究科
い、より望ましい特長を持つ株を選び出
タノールなどのバイオ燃料なら、生産と利
の堤伸浩教授を中心に、明治大学、名古
すことを繰り返して進められる。
「これで
用を繰り返しても、大気中のCO2濃度を
屋大学などの研究者らが参加する研究グ
は新品種を生み出すのに長い年月がかか
高めることはないと期待されているのだ。
ループは、イネ科の作物のソルガム(和名
り、より良い親株を選び出すのに育種家
こうした考えは、
「カーボン・ニュート
モロコシ)を使い、バイオ燃料の低価格
の経験とカンが求められます。私たちは、
ラル」と呼ばれ、地球温暖化対策の1つに
化を目指した品種改良を進めている。大
熟練の力に頼るのではなく、遺伝情報を
数えられている。その効果を発揮するに
規模な遺伝情報を駆使して、その土地や
効果的に活用して、バイオ燃料の原料に
は、バイオ燃料を今以上に普及させなけ
環境に最適な品種を育てていこうという
適したソルガムを、数理統計的につくろう
としているのです」
と堤さんは力説する。
ソルガムは品種により多彩な姿をして
堤 伸浩 つつみ・のぶひろ
東京大学大学院農学生命科学研究科
植物分子遺伝学研究室 教授
1983年東京大学農学部卒業。88年、同大学大学
院農学系研究科博士課程修了。農学博士。同年日
本学術振興会特別研究員、92年同大学農学部助
手、95年同助教授を経て、2002年より現職。
おり、世界五大穀物の1つとしての食用は
もちろんのこと、サトウキビのように糖蜜
を絞る原料や牧草といった用途で古くか
ら栽培されている。その一方で、品種改
良はあまり進んでなく、さまざまな環境に
適応できる遺伝的多様性に富んでいる。
つまり、今ある品種をもっと有用に改良で
きる遺伝子が潜んでいる可能性があるの
だ。大型化や糖液の充実など、バイオ燃
料の原料として求められる特徴をもたら
細胞が塊になっているのを最初に見つけた武部さ
ん。顕微鏡で覗いて「これはすごい」と確信し、す
ぐさま谷口さんにも確認を求めた。
8
November 2013
す遺伝子をうまく組み合わせることがで
きれば、低価格化に大きく貢献できる。
CREST研究課題「高速ジェノタイピングを利用したエネルギー作物のテーラーメード育種技術の開発」
同じ品 種のソルガムをベト
ナムのハノイと中 国 の 蘭 州
で 栽 培した 結 果。ハノイで
は人の背丈の倍以上に成長
するが、蘭 州 では 株 元で 枝
分かれして背が低くなる。
形質評価では、電子ノギス(右上)や
バーコード付き巻き尺(上)で読み取
りを自動 化し、計 測データを瞬時に
反 映 で きるようIT化 を 進 めて い る。
IDタグ(右)で過去の履歴もすぐに確
認できる。
ロワ州ロスモチスを選び、性質が異なる
して、得られた結果から数理モデルの妥
750系統のソルガムを栽培し、成長した
当性を確認する。
ところで大きさや糖度などの形質を詳細
「福島は日本の平均的な気候風土です
堤さんらのテーラーメード育種は、特
に調査した。これらの形質情報と遺伝情
から、ここで大きく成長するソルガムがで
定の遺伝 子に注目することはないとい
報、気候などの環境情報を用い、福島と
きれば、日本の他の地域でも大きく育つ
う。高糖度や高収 量といった性質には、
メキシコそれぞれについて数理モデルを
可能性があります。また、メキシコでの研
多数の遺伝子がかかわっていて、一筋縄
構築すれば、交配して得られた株を現地
究から、塩害に強い品種ができれば、今
ではいかないためだ。そこで、ソルガムの
で栽培しなくとも、遺伝型を調べるだけで
まで作物が育たなかった場所を農地にで
全ゲノムの中から遺伝情報の局所的な差
有望かどうかを評価できるというわけだ。
きます。耕作が可能な土地を広げるだけ
違(一塩基多型)約4万か所について、そ
「亜熱帯気候の沖縄などではソルガム
でなく、バイオ燃料が普及しても、そのた
れぞれを変数とする数理モデルをつくろ
を年3回、栽培することができます。3倍
めの農地確保で食糧生産が脅かされるの
うと考えた。交配によって得られた苗の
の速さで交配を繰り返せる上、望ましい
を避けたいのです」と将来の戦略も見す
遺伝情報をこのモデルに入力して、育て
遺伝子の組み合わせから育てる苗を絞り
えている。
る前からどんな大きさになるかなどをコ
込めるので、伝統的な品種改良に比べて
全ゲノム解析をしなくても、解析しやす
ンピューターで予測する。その結果から、
短期間で欲しい特長を持った品種をつく
い一部の遺伝情報だけから生産量アップ
より大きく、糖度が高くなる可能性を秘め
り出せます」と堤さん。
に有用な数理モデルをつくり、その土地に
た組み合わせを予測して交配を繰り返し
品種改良のための交配は沖縄で実施し
一番適した作物をテーラーメードであつら
ていくことができ、品種改良を何段階も
ているが、遺伝的に同じソルガムであって
えたい。さらに、日本やメキシコともまっ
効率化できるのだ。
も、気候風土が変われば育ち方は大きく
たく異なる気候 風 土へ適 応できる品 種
そのために、温暖地のモデルとして福
違ってくる(上図)。そのため、福島とメ
や、ソルガム以外の作物への応用も広げ
島県、塩害地の代表としてメキシコのシノ
キシコでも改良された品種を実際に栽培
ようと、堤さんの挑戦は果てしなく続く。
気候風土に合うソルガムを
遠隔地でつくり出す
一塩基多型を活用した
「テーラーメード育種」
遺伝型(x)
塩基解析
栽培予定地
(福島、メキシコ)
栽培予定地で
最適な品種を栽培
栽培予定地外
で高速に交配
(沖縄)
y=f(x)
形質評価=表現型(y)
多品種を栽培
交配
コンピューターで
数理モデル作成
より望ましい
遺伝型を予測
選抜
優れた遺伝型をもつ個体を選抜しながら
交配を重ねる
遺伝子型解析は堤さん、数理モデルの作成は東京大学の岩田洋佳准教授と明治大学の矢野健太郎准教授、
福島とメキシコ、沖縄での栽培および形質評価は農業ベンチャーの株式会社アースノート。プロジェクトメン
バーのどれが欠けても成果は得られない。
沖縄の温室で交配を重ね、優れた品種を高速に育
て(上)、メキシコの環境に最 適な品種を現 地で
栽培し評価する(下)。
9
戦略的創造研究推進事業CREST・さきがけ「二酸化炭素資源化を目指した植物の物質生産力強化と生産物活用のための基盤技術の創出」研究領域
「微生物工場」
でつくる高付加価値バイオプラスチック
微生物を改変して
優れた反応の場をつくる
する。
例えば乳酸菌のような微生物は、もと
もと乳酸のモノマー(重合の材料になる
植物原料から生産できるのは、バイオ
単位分子)をつくることができる。しか
燃料だけではない。化学合成や微生物の
し、乳酸を重合できる微生物は見つかっ
働きで、生物由来のプラスチック(バイオ
ていなかった。田口さんは、重合反応で
プラスチック)を生産することも可能だ。
ポリヒドロキシアルカン酸(PHA)をつく
すでに生分解性のポリ乳酸などが実用化
る微生物をそれまで研究していて、その
されているが、硬い、柔らかいなどの種類
応用で微生物の体内で乳酸を重合させる
が少なく、用途が限定的だ。今後、普及さ
ことに成功し、微生物工場の可能性を示
せるには、さまざまな特性を持つものを
した。そして、用途拡大のため、乳酸だけ
開発していかなければならない。
でなくさまざまな種類のモノマーを含む
北海道大学大学院工学研究院の田口
多様な「多元ポリ乳酸」をつくり、これま
精一教授は、植物を原料に、高性能バイ
でにない物性を持たせようとしている。
オプラスチックをつくる微生物工場の研
究に取り組んでいる。
これまでポリ乳酸は、微生物に糖類を
酵素を進化させ
代謝を最適化する
温度や栄養、pH、通気量などを一定に保ちながら微
生物を大量に培養する装置を使い、
バイオプラスチッ
クをつくり出す微生物の改良を進めている。
ときに、3つのグループで構成された研究
体制を構築した。田口さんのグループで
は、バイオプラスチック合成の担い手で
与えて生産した乳酸を、いったん抽出し
新奇な反応を起こすには、微生物の体
ある酵素を改良するため、人為的に微生
て、化学合成プロセスにより重合させ、製
内で化学反応を担う酵素の働きを改変し
物の遺伝子にランダムな変異を起こし、
造してきた。
「この時、有害な金属触媒が
ていく必要がある。酵素は、生体内で働
得られた多種多様な酵素の中から有用な
使われ、高温高圧条件が必要なことから、
く複雑な形の触媒で、その形に応じてさ
ものを選んでいく「酵素進化工学」とい
よりマイルドな合成方法が求められてい
まざまな分子をとらえて化学反応させる。
う手法を用いている。遺伝子に変異が起
ました。微生物体内で重合反応まででき
違う分子を反応させるには、その分子に
こって環境に適したものが生き残る進化
れば、それらが解決されるのです」と、微
合わせた酵素が必要となるのだ。
のメカニズムに似ていることから名付け
生物の改良を進めている田口さんは説明
田口さんは、昨年CRESTに応募する
られた手法だ。
これに対して、東京工業大学大学院総
合理工学研究科の柘植丈治准教授のグ
ループは、複数の酵素による連鎖的な化
学反応である代謝について、その経路を
最適化する「代謝工学」
を用いる。
この2つの手法について、田口さんはこ
う説明する。
「野球にたとえると、微生物
の体内で化学合成を担う酵素は1人1人の
選手で、代謝はチームプレイです。酵素進
化工学ではエース級のピッチャーを生み
出すことを目指していますが、ピッチャー
1人が優れていても、野手がエラーばかり
していたら、試合には勝てません。優れ
田口 精一 たぐち・せいいち
北海道大学大学院工学研究院
生物機能高分子部門生物工学分野バイオ分子工学研究室 教授
1985年東京理科大学理学部卒業。87年、東京大
学大学院工学系研究科修士課程修了、91年に工学
博士取得。東京理科大学基礎工学部助手、理化学
研究所高分子化学研究室先任研究員、明治大学農
学部助教授などを経て、2004年より現職。
10
November 2013
た酵素の力を存分に発揮させるには連係
プレーの洗練が必要であり、それを実現
するのが代謝工学です」
。
田口グループと柘植グループが開発し
たバイオプラスチックは、東京大学大学
院農学生命科学研究科の岩田忠久教授
のグループで、物性を評価するほか、実
CREST研究課題「植物バイオマス原料を利活用した微生物工場による新規バイオポリマーの創製および高機能部材化」
微生物合成によって
バイオプラスチックを
つくり出す
植物バイオマス
ホモPHA
多元ポリ乳酸
微生物工場
(ポリヒドロキシアルカン酸)
酵素進化工学
代謝工学
北大・田口グループ
東工大・柘植グループ
微生物工場
東大・岩田グループ
キシラン
・基礎物性評価
・高性能化・高機能化
・結晶核剤(バイオマス由来)の開発
高性能
バイオプラスチック
バイオプラスチックの原料となるアブラヤシ(左)、
ジャンボススキ(右)。
大量のバイオプラスチックを体内に蓄積した遺伝
子組み換え微生物。
実用生産されているポリ乳酸は硬い(a)。従来の
PHAは半透明で硬くてもろい(b)。田口さんらに
よるPHAを含む多元ポリ乳酸は透明度が高く、や
わらかくのび(c,d)
、柘植さんらのホモPHAは透
明でしなやかだ
(e)
。さらなる高機能化を目指して、
生合成・成形加工技術の開発が進められている。
用化を見据えて成形加工技術も開発して
きないか考えています。高付加価値とい
合成では難しいD体(右手に相当する光
いる。成形加工に使う原材料(結晶核剤
う点では、医療応用できる材料の開発が
学異性体)100%の多元ポリ乳酸ができ
など)も植物由来のものを追求している。
望まれます」と話す。
るが、光学的な純度の高さは、安全性と
バイオプラスチックには生分解性とい
性能の高さにつながる。
う強みがあり、これは医療応用の可能性
地 球温暖 化対 策が求められるように
医療応用など
新たな価値を求めて
を開く重要な特徴といえる。例えば、多
なって、バイオプラスチックは注目を集め
具体的には、どのような物性を持った
孔質の生分解性バイオプラスチックなら、
ているが、
「石油代替」
や「生分解性」など
バイオプラスチックの開発を目指してい
薬物を染み込ませて、患者の体内に埋め
の環境性能だけで普及させることは難し
るのだろうか。
「ポリ乳酸に限れば、耐熱
込むことにより、生分解とともに、徐々に
い。田口さんらは実用化と普及を見越し
性や耐衝撃性が求められています。今は
薬剤を放出する徐放製剤としての応用が
た研究を進めており、すでに柔らかく伸
飲料ボトルなどに使われていて、PETと
見込まれる。分解速度が自在に制御でき
びる材料など有望なものができつつある
見た目は変わりませんが、やや硬いため、
るようになれば、医療での用途はさらに
という。近い将来、当たり前のように植物
持つと違和感があります。先に普及してい
広がっていくだろう。
由来のバイオプラスチックが使われる時
るものがあると、少しの違いで受け入れ
また、酵素による反応は、分子の対称
代が来るかもしれない。
られにくくなるのです。そこで、既存材料
性を容易に揃えることができる点でも優
と競合しない新たな領域で用途拡大がで
れている。田口さんらの方法では、化学
TEXT:斉藤勝司/ PHOTO:浅賀俊一
11
戦略的創造研究推進事業CREST「数学と諸分野の協働によるブレークスルーの探索」領域
研究課題「計算錯覚学の構築 錯視の数理モデリングとそ 道路の錯覚を解き明かして
交通事故を減らす
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 数理モデルで錯覚を制御する
■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ 交通事故の原因に、前方不注意のケースは多い。実はこの前方不注意は、
「錯
視」という隠れた原因によって起こることがあるという。今年 7 月、明治
大学大学院の杉原厚吉特任教授と友枝明保特任講師らは、『道路の錯視とそ
の軽減対策』という事例集を公表した。交通安全の確保や誇大広告などにだ
まされないためにも、目の錯覚に対する賢い備えが必要になってくる。
運転中は立体視がしにくく
錯覚を起こしやすい
錯視とは、目で見たものが実際とは異なるように見えてしまう錯
覚現象で、誰にでも起きる現象だ。事例集では、事故につながりか
ねない10種類の錯視の事例を図や写真とともに紹介している。
上り坂? 下り坂?
奥 の 坂 は 上 り 坂 に 見 え る が、実 際 は
下っている。
ときに錯覚の強さがどう変わるかを予測できることです。錯覚を強
めたり弱めたりをコントロールできるようになれば、実際の生活の
中にも応用できるはずです」
と期待を込める。
美術館に来た人からの
情報提供がきっかけ
私たちは通常、身の回りの世界で左右の目の視差から奥行きを判
錯覚と道路の関係は、2010年よりCREST「計算錯覚学の構築」
断している。ところが写真などのように、実際には奥行きがない2
の一環で研究している。このプロジェクトは数理モデリングを通し
次元のものを見ても、奥行きがあるように感じる。脳が奥行きを復
て錯覚の仕組みを解明し、
応用研究へつなげることを目指している。
元する働きをするからだ。ただ、視差がない場合に奥行きをとらえ
そこで研究成果の情報発信の手段として、2011年に錯覚美術館※
ようとすると錯覚が起きることがある。
を開館した。来館者から寄せられる意見の中に、錯覚が原因ではな
「自動車での走行時のように10メートル以上先を見ている場合
いかと思われる、
事故につながりかねない体験談がたびたびあった。
は、立体視が難しく、写真を見たときと同じような錯覚が起きやす
「はじめは来場者と世間話をしているつもりでしたが、よく考える
くなります」と杉原さんは言う。運転中はとくに奥行きや距離感を
とこれは大事な研究テーマだと気付くようになりました」と杉原さ
つかみにくく、錯覚による事故につながりやすいというわけだ。
ん。まだ知られていない交通事故の背景にあるさまざまな錯覚をあ
かつてロボットの眼の働きを研究していた杉原さんは、コン
ぶり出すきっかけになった。
ピューターと人間の視覚機能のギャップに興味をもち、画像から奥
プロジェクトの一員の友枝さんは、もともと渋滞学が専門で、道
行きを感じるにはどうしたらよいか考えるようになった。
路の錯覚にも関心をもっていた。
「実際は上り坂であるにもかかわ
「数学を使って錯覚を研究することのメリットは、条件を変えた
らず、そうは見えないためにアクセルを踏み足せず速度が落ちてし
事故につながりかねない錯覚
人
ふ
た
左端の図は、実際の道路を簡単に図示したもの。この道路で車を運転していると、Ⓐから踏切に差しかかったと
き、実際には道の端にいる人が、突然、正面に見えることがある。
から見たところ
踏切に差しかかると…
から見たところ
踏切
坂道の頂上を線路が横切っている。
坂の向こう側の、カーブしている道
の端に人がいる。
12
November 2013
坂の頂上の踏切が見え、向こう側の
人や道路のカーブは見えない。
踏切に差しかかったところで道の端に
いる人が突然正面に現れ、避けようとハ
ンドルを切ってしまう。
こちら側からも踏切に向かう車があ
る場合など、衝突事故につながりか
ねない。
の応用」
錯覚により渋滞の発生しやすい道路
勾配の違う坂道が2つ連続していると錯覚が起こりやすい。真ん中の緩い上り坂を認識できないとアク
セルを踏まないためスピードが落ち、自然渋滞の原因となる。周囲の環境を変えることで軽減できる。
真ん中の緩やかな勾配
の坂を上り坂と認識し
実際の道路では路面に
壁を水平面と平行な模
平行な模様の防音壁が
様にすると、緩やかな上
にくい。右図は模型に壁
を取り付けて、車のカメ
立っている場合が多く、
上り坂を視認しにくく
り坂であっても認識し
やすくなる。
ラでとらえた画像。
している。
まう道路があり、不思議でした。そうした道路は自然渋滞を招きま
てみたいのです」
と杉原さんは環境整備への貢献を期待している。
す」
と友枝さん。その道路を逆から見ると、下り坂なのに上り坂に見
もっと多くの事例を集めるために、ドライバーの体験を投稿できる
えて、必要以上に速度が出てしまい事故につながることもある。錯
ウェブサイトを来春にも開設する予定だ。
覚によって事故が起きるのだ。
事故の軽減に役立てたい
誇大広告対策への応用も
プロジェクトは、錯覚現象ごとに個別につくっている数理モデル
学術的な研究では一般的に、十分な実験データの収集や理論的な
を統合して、今ある現象をまとめて説明できるモデルづくりを計画
考察がなされた後で研究成果が公表される。今回の発表は、検証や
している。
考察が必ずしも十分ではないが、それでも公表したのは交通事故の
一方、実社会への応用面では、誇大広告対策も考えている。マン
重大性を考えたからだ。道路の傾斜に限らず、事故の原因として錯
ションの販売などの広告写真で、実際よりも部屋が広い印象を与え
覚が関係しているケースはたくさんある。
る画像が掲載されていることがある。撮影の仕方や掲載方法によっ
杉原さんは、
「錯覚が発生しそうな道路や踏切、トンネルや駐車
てどんな印象になるかは幾何学研究からわかりつつあり、
「作製し
場など、できる限りの事例を集めたいと思っています。多くのドラ
てはいけない広告の基準作りも検討しています」と杉原さん。イン
イバーに情報を提供し、走行中に意識してもらうだけでも意味があ
ターネットを通じた販売では、消費者にとって掲載画像がほぼ唯一
ると思っています」と言う。
「個人的には、この事例を自動車教習所
の手がかりとなる。このような販売形態での混乱を避け、消費者を
の教本に載せたいのです。錯覚と交通事故との関係を明らかにし、
守るためにも重要だと考えている。
少しでも事故が減ってくれれば」
と友枝さんも口をそろえる。
錯覚美術館には、傾斜のわかりにくい坂道の模型のほか、だまし
将来的には「新しい道路をつくるときに、例えばこのような構造
絵や立体錯視の作品などが展示されている。一度、美術館に足を運
は避けましょうという提言や指針に反映できれば良いと思っていま
んで実際に錯覚を体験しながら、その奥にある研究を感じてみては
す。既存の道路でも、錯覚を軽減する具体的な対策案を考え実証し
いかがだろうか。
友枝 明保
ともえだ・あきやす
明治大学研究・知財戦略機構特
任講師・明治大学先端数理科学
インスティテュート
錯覚美術館にて
2003年、大阪大学理学部数学科卒
業。09年、東京大学大学院工学系研
究科航空宇宙工学専攻博士課程修
了。工学博士。11年より現職。10
年度よりCREST共同研究者。
※錯覚美術館
2011年5月 開 設。CREST研 究 プ ロ ジ ェ
クト「計算錯覚学の構築」の研究成果として
生まれた新しい錯覚作品を展示している。
公開は毎週土曜日午前10時~午後5時。
住所:〒101-0063 東京都千代田区神田
淡路町1-1 神田クレストビル2階
HP:http://compillusion.mims.meiji.
ac.jp/museum.html
杉原 厚吉
すぎはら・こうきち
明治大学大学院先端数理科学研
究科特任教授
1971年、東京大学工学部計数工学
科卒業。73年、同大学大学院工学系
研究科修士課程修了。工学博士。通
商産業省電子技術総合研究所研究
官、名古屋大学助教授、東京大学教
授などを経て、2011年より現職。
10年度よりCREST研究代表者。
TEXT:岡本典明/ PHOTO:浅賀俊一
13
NEWS 1
オートファジー研究の
草分けの一人である水
島さん。
受賞
ノーベル賞有力候補者に日本人研究者3人
うち2名はJSTさきがけ・ERATO出身
T O P I C S
ノーベル賞有力候補者を予測する「ト
JST戦略的創造研究推進事
ムソン・ロイター引用栄誉賞」の受賞者
業で研究を進め、本賞のも
28人を、米国トムソン・ロイター社が9
ととなる成果を挙げました。
の仕組みについて成果を収めています。
月25日に発表し、3人の日本人研究者が
水島昇教授(東京大学)は、医学・生
物理分野で受賞した細野秀雄教授(東
選出されました。
理学分野で大隅良典特任教授(東京工業
京 工 業 大 学 ) は、1999年 よ り10年 間
、ダニエル・クリオンスキー教授
同賞は、化学、物理学、医学・生理学、 大学)
JST ERATOのプロジェクトとその発展
経済学分野について、非常に多くの学術 (ミシガン大学)と共同受賞しました。水
研究課題を率い、透明酸化物を研究する
論文に引用されている論文の著者で、特
島さんは1999年から2008年にかけて、 中で、鉄を含有する新しい系統の高温超
に注目すべき研究領域の研究者の中から
JSTさきがけの2つの研究課題とその発
伝導物質を発見しました。
毎年選ばれます。
展研究課題で、細胞内で不用たんぱく質
詳細はHP(http://www.jst.go.jp/repo
今 回の日本 人 のうち2人は、過 去に
を分解するオートファジー(自食作用) rt/2013/130925.html)をご覧ください。
NEWS 2
協定締結
「コラボ産学官」設立の立役者
信用金庫と連携して
中小企業での実用化を加速
です。
JSTは、課題達成型の基礎
研究から、実用化を見据えた
中小企業への技術移転や産学連携を促
本格的な研究開発までの支援を通して、
進するため、JSTと朝日信用金庫(東京
日本の大学や公的研究機関などとの広範
左より、JST中村道治理事長と朝日信用金庫の櫻井保
夫理事長。
都台東区)は相互に連携する包括協定を
なネットワークを培い、研究動向を把握
事業を紹介し、活用を進めることで、企
9月17日に結びました。
しています。また、特許情報などの技術
業の研究開発意欲の向上に貢献していき
今年創立90周年を迎えた朝日信用金庫
シーズについての膨大なデータベースを
ます。これを機にJSTは他の地域の信用
は、新技術開発を目指す企業など地域の
構築し、広く提供しています。
金庫との連携も順次進めています。
中小企業を積極的に支援しています。ま
今回の協定を通し、朝日信用金庫の顧
詳細はHP(http://www.jst.go.jp/pr/
た、産学連携にも力を入れており、全国
客である中小企業に、JSTの持つシーズ
announce/20130917/)をご 覧くださ
の信用金庫や大学をつなぐネットワーク
情報や研究成果の実用化を支援する各種
い。
NEWS 3
イベント
案内
クを広げることによって、科学
科学コミュニケーションセンター サイエンスアゴラ
技術を生かしたよりよい社会を
秋恒例、サイエンスとの新たな出会いの場
実現する方策を見つけ出して
今年8回目となる「サイエンスアゴラ
いくことを目指しています。
教育関係者、
ボランティア、
家族連れなど、 今回は、世界トップレベルの研究プ
2013」を、11月9日、10日に日本科学未
毎年7000人近い人が集まります。シン
ロジェクトを紹介するエリアも加わり、
来館とその周辺施設(東京・お台場)で
ポジウムやトークセッション、サイエン
200を超える多彩な企画が出展します。
開催します。科学と社会をつなぐ科学コ
スカフェ、ワークショップ、ポスター発表、 プログラムなど、詳しくはHP(http:
ミュニケーション実践のための「ひろば
実験・工作講座展示などを通して、お互
(アゴラ)
」として、
研究者や技術者、
学生、 いに考え、意見を交しながらネットワー
14
透明半導体IGZOの発
明者としても知られる
細野さん。
November 2013
//www.jst.go.jp/csc/scienceagora/)
をご覧ください。
NEWS 4
イベント
開催報告
開催報告
覚書締結の調印式。左はJSTの島田昌知的財産戦略
センター副センター長、右はIPIの代表理事 Lam
Khin Yong教授。
シンガポール事務所、知的財産戦略センター
日本発の技術を
アジア・太平洋地域へ
シンガポールで「TECHINNOVATION
2013」展が9月24日に開催され、JSTか
らシンガポール事務所と知的財産戦略セ
ンターが共同出展しました。国際的な産
いて、知財活用からのイノベーション創
学官の関係者が集まってビジネスコラボ
出を目指す政府系機関であり、今回の覚
三陸山田で実証試験中の牡蠣の養殖技
レーションを模索し、シンガポールや周
書締結は、JSTが大学発の知的財産の活
術(群馬高専と石井商事)や、経皮浸透
辺国のオープンイノベーションと産業技
用を成長の目覚しいアジア太平洋諸国の
技術を用いた化粧品(聖マリアンナ医大
術のマッチングを図るイベントです。
市場へ拡げる足がかりとして、有意義な
とナノエッグ)などは、シンガポールの
今回初参加となるJSTは、出展を機に
一歩となります。
みならず多くの国の企業から熱心な質問
主催者のIPIと産学連携推進についての覚
展示では、JSTや大学が保有するライ
や商談申込みが続き、これらの技術のア
書を締結しました。IPIは、アジア太平洋
センス可能な技術を紹介しました。中で
ジア太平洋への展開に期待がふくらみま
諸国のハブ機能を担うシンガポールにお
も、赤潮防止用の素材を用いて岩手県
す。
NEWS 5
イベント
案内
データ分析力を競うコンテスト
12月6日まで参加者募集
出展の様子。
国会図書館長の長尾真さん(JST科学技
術情報特別主監、京都大学名誉教授)が
務めます。
参加者には、JSTが長年収集し整理・
価値が高く自由に利用可能な情報であ
体系化してきた科学技術分野の論文情報
るオープンデータを使いこなして、新し
を中心とするデータと、SAS社の統計処
い知識や世の中の動きをつかむ「データ・
統計学に関心を持つ学生や日常業務
理や文字列解析などの分析ツールが貸与
サイエンティスト」が急速に注目されて
でデータを分析する社会人など、幅広い
されます。課題は自由、
他のオープンデー
い ま す。JSTとSAS Institute Japan社
方々からの応募を受け付け中です。予選
タとの組み合わせなど、柔軟な発想によ
は、情報分析のアイデアや技術を競う初
は書類審査で選考し、プレゼンテーショ
る分析結果の応募をお待ちしています。
めての統計・データ分析コンテストを開
ンで競う本大会は3月8日にJST東京本部
詳 細 はHP(http://www.sascom.jp/
催します。
別館で開催します。審査委員長は前国立
AAC/)をご覧ください。
NEWS 6
イベント
案内
シンポジウム
「グリーンイノベーションと低炭素社会の実現」
11月19日13時半から、東京大学伊藤謝恩ホールにて開催
地球温暖化問題の解決に向け、科学技
り組むべき課題や展望について議論する
術を基に、経済や社会を持続的に発展さ
シンポジウムを開催します。併せて、ポス
せる「低炭素社会」とは、どのようなも
ター展示も行い、低炭素社会実現に向け
のでしょうか。
たLCSの最新の研究成果と自治体や企業
JST低炭素社会戦略センター (LCS)
による取り組みについても紹介します。
は、第一線で活躍する専門家を招き、人々
プログラムやお申込みについて
や地域の個性を活かした低炭素社会シス
は、HP(http://www.jst.go.jp/lcs/
テムの社会実装の先例を紹介し、今後取
sympo20131119/)をご覧ください。
15
戦略的創造研究推進事業さきがけ「藻類・水圏微生物の機能解明と制御
によるバイオエネルギー創成のための基盤技術の創出」領域
研究課題「糖代謝ダイナミクス改変によるラン藻バイオプラスチックの増産」
19
小さなラン藻の
大きな可能性に挑む
研究に目覚めたゲーム少年
ラン藻は夢の詰まった“ポケット”
ファミコン世代で、高校生まではゲー
ラン藻で社会に貢献できる研究をした
ムばかりしていました。たいした夢もな
いと考え始めた頃、勤務先の理化学研究
く、将来はサラリーマンかな、と漠然と
所でバイオマス工学の研究プログラムが
考えていました。特に生物が好きだった
スタート。さらに同年、
「さきがけ」で
わけではありません。
藻類によるバイオエネルギー創成を目指
しかし大学に入って、先生方が未知の
す領域※が開始しました。まるで私のた
現象の解明に生き生きと取り組み、夢に
めではないかと思うタイミングで、運命
挑んでいるのだと知りました。卒業研究
を感じて応募し無事に採択されました。
を始めてみると、これがゲームより面白
さきがけ研究では、ラン藻でグリコー
くて夢中になったのです。大学院では、
ゲンの分解を制御するSigEという因子
その後の研究対象となるラン藻との運命
を過剰に発現させるとPHBの生産量を
的な出会いを果たしました。
2.5倍まで高められることを見いだしま
自作のインキュベータで培養中のラン藻。バイオプラス
チックを作らせるためにチューブでCO2を送り込む。
した。ここに至るまでには、半年ごとの
なのです。
領域会議で「生物学的な意味はわかるが
再生可能な生物資源でイノベーション
ラン藻は、
光合成を行う細菌の一種で、
工学的な意義は何か」
と厳しく指摘され、
を起こしたい。
「今、自分がやらなくて
シアノバクテリアとも呼ばれます。さま
極度の重圧にとらわれたこともありまし
誰がやるのか」という気持ちで夢の実現
ざまな環境に適応しており、中にはポリ
た。しかし、そこで鍛えられ、多面的な
に奮闘しています。
ヒドロキシ酪酸(PHB)というバイオ
見方の必要性に気づかされたことは、私
※
「藻類・水圏微生物の機能解明と制御によるバイオエネル
プラスチックを体内で生産する種もいま
の研究者人生の大きな財産です。今後、
す。PHBは生分解性で、従来の石油系
さらなる応用につなげるため、PHBと
プラスチックに替わる素材の1つとして
水素ガスなど複数の有用物質の同時生産
期待されています。1つのラン藻細胞が
が可能な新たな方法論の構築に挑んでい
生産できるPHBの量は少ないのが現状
きます。
ですが、これを増やすことができれば、
ラン藻は繊細で難しさもありますが、
工業応用に向けて、理想的な製造方法に
シンプルだからこそさまざまに応用でき
なる可能性があります。
る可能性があります。願いをかなえてく
バイオプラスチックで社会貢献を
ギー創成のための基盤技術の創出」
領域は、チーム型研究
「CREST」と個人型研究「さきがけ」の2体制で実施してい
る。
れるドラえもんのポケットのような存在
おさない・たかし
1979年、埼玉県生まれ。2002年、国際基督教大学教養
学部卒業。07年に東京大学大学院農学生命科学研究科
応用生命工学専攻修了。博士(農学)
。07年より日本学
術振興会特別研究員(東京大学)
。10年より理化学研究
所基礎科学特別研究員を経て、11年よりさきがけ専任
研究者
(理化学研究所で研究を実施)
。趣味は休日のジョ
ギング、息子たちと遊ぶこと、年に1回家族で行くディ
ズニーランド。
科学技術振興機構
さきがけ専任研究者
(理化学研究所環境資源科学
研究センター客員研究員)
小山内 崇
●小山内さんの詳しい研究内容を知りたい方はこちらへ
http://www.bioenergy.jst.go.jp/scholar/presto1.html
TEXT:佐藤成美/ PHOTO:浅賀俊一
愛息2人と休日を過ごすのが楽しみ。さきがけ
採択後、間もなく生まれた次男も2歳に成長。
16
November 2013
2 013 / N o v e m b e r
発行日/平成 25 年 11 月 1 日
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