概要(PDF) - 筑波大学

筑波大学比較市民社会・国家・文化特別プロジェクト
第 58 回CSCセミナーシリーズ
日時: 2006 年 9 月 26 日(火)、16:45∼18:15
場所: 筑波大学 第二学群 B 棟 411 号教室
講演者: 西谷修 (東京外国語大学教授)
司会者: 川那部保明 (人文社会科学研究科)
演題: 「エコノミーという病――ネオリベラリズムと戦争の変容――」
西谷氏はこれまで、世界戦争による人間存在の意味変容の問題や、現在の世界史を成り立たせている諸制
度の問題などを哲学的に考察してきた。今回の発表では、戦争や政治という観点からではなく、経済という観
点から、アクチュアルな例の提供と、具体的な場面から立ち上げられた生き生きとした思考によって、現代世
界のさまざまな状況が分析された。経済、政治、宗教、法といったいくつもの領域を横断していくその議論は、
まさに現代の市民・国家・社会を動態的に考え直すにあたり、新たな視座を用意してくれる刺激的なものであっ
た。会場は盛況であり、教員、学生のみならず一般の聴講者も加えて、活発な質疑応答が進められた。
(講演者の西谷教授(左)と講演者を紹介する司会者の川那部教授)
まずはじめに、9・11以後の世界のあり方が概観された。同時多発テロ以降、世界の情勢はアメリカの方針
である「テロとの戦い」というスローガンにもとづいて進行しているが、そこに起きている戦いは、従来の主権国
家間に起きた戦争とはまったくことなったあり方をしている。たとえば、アメリカがアフガニスタンを攻撃する場
合、アメリカによって絶対的な悪として断罪された者、国家に属するのではない私兵集団が、その攻撃対象と
なる。この戦争は、これまで見られてきた主権国家間での対等なものではなく、超大国がテロリスト集団を徹底
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的に追い詰めて壊滅させるという非対称的なものである。実際、テロリストたちを殲滅するまで、「テロとの戦
い」は終わることはないだろう。
そうした打開の困難な状況を正確にとらえ直すために、西谷氏は、経済という視点を導入する。現在の行政
について特徴的なのは、それが政治をおこなったり社会を調整したりするのではなく、むしろもっぱら経済的な
機能をはたしているということである。すなわち、自治体の経営責任を問うという具体的な姿勢にもあらわれて
いるように、従来は社会や政治の問題であったものが、いまや経済・経営の問題として語られるようになったの
である。グローバル化という現代社会の現象を考えるにしても、やはり経済という問題が前面に出てくるだろ
う。
(講演会中の様子①)
宗教、政治、経済という三つの観点から、これまでの世界の歴史を解釈してみれば、より明瞭な理解が得ら
れる。まず 15 世紀、ローマ教皇を象徴としたかたちで最初の世界の分割がおこなわれた(神学的グローバル
化)。次に 18 世紀以降、ウェストファリア体制にもとづいて、とくに政治的・軍事的なやり方で世界が新たに分
割された(政治的グローバル化)。そして冷戦後の現在、世界は経済によって再編されつつある(経済的グロー
バル化)。もともと宗教や政治は、ある特定の集団をつくり出す傾向にあり、そのユニットをもとに活動をおこな
う。それに対して経済というのは、特定の対象をきわめて形成しにくい。そのために、今推進されている経済的
グローバル化は、これまでのものとはちがったものとなる。ここにおいて国家の役割は、国民という特定の集団
にはたらきかけるのではなしに、経済的観点からのスリットの役割しかもたなくなる。政治は国民へのフォロー
をやめて、「小さな政府」といった政策を進めていくわけである。これがすなわちネオリベラリズムであるが、こ
のような体制のもとでは、どうしても、経済的仕組みから落ちこぼれ、さらに国家の庇護からも落ちこぼれてし
まう人たちがあらわれてくる。それがまさに現在のイスラム的共同体である。そうした「不安定ゾーン」とも呼べ
るところから、アメリカを敵視する私兵集団が生まれてくるのである。経済という判断基準の設定が、そこからこ
ぼれていくテロリストたちを自発的に育てつづけているといえるかもしれない。
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(講演会中の様子②)
経済=エコノミーという言葉の変遷をたどり直してみても、やはり同じように、宗教、政治、経済という大きな
世界史の流れが見えてくる。周知のようにエコノミーの語源は、古代ギリシアのオイコノミアであって、家(オイ
コス)の切り盛りのこと、物を食べたり寝たりするという単に生きることに関連していた。他方ポリスという語は、
政治的共同体を示しており、そこで何かの計画や企てをするというような、ある様式をもって生きることを焦点
としていた。中世西洋において肝要なのは教会という権力であって、エコノミーとポリスの語は、ほとんどつか
われなかった(宗教的時代)。その後、教会に対抗する勢力として、マキアヴェリ(1469-1527)がポリティクスの
概念を取り上げなおした(政治的時代)。エコノミーが世界史において重要なものとして再び登場するのは、18
∼19 世紀である(cf.アダム・スミス『国富論』(1776))。そのとき経済=エコノミーは、政治=ポリスとの関連に
おいてポリティカル・エコノミー(political economy)として取り上げられ、人間の実践の対象ではあったけれど
も、しかしまだ普遍的な枠組みにはいたらなかった。それに対して現在では、エコノミーが政治の場面から分離
し、政治を越えて普遍化してきてもいる(経済的時代)。世界の世界性を支えているのは経済である。経済はい
まや、国家という形式をも桎梏として感じはじめるのである。
エコノミーの論理をとらえるにあたって参照点となるのは、法人(juridical/legal person)という概念、つまり、
個人ではなくて、法をおこなう主体が人格として設定されるという考えである。法人の特徴的な形態は株式会
社であり、そこにおいては経営者と株主が役割を分かち合っているのだから、主体そのものは見えにくくなる。
その代わりに重視されるのが、法のシステムである。法というフィクションの次元が前面に押し出されて、ここに
人間たちが巻き込まれていく。いいかえれば、あらゆるものが法という一種の舞台にのせられて、あらわし直さ
れる=表象されるわけである。そして、ここでもまたアメリカという国が問題の中心となる。法人が個人と同じ権
利をもつという判例が出たのは 19 世紀アメリカであるし、インディアンたちが生きていた大地を不動産とし、登
記簿に記載するようにしたのもそのアメリカである。さらには、生命科学による水や空気やゲノムの特許化をい
ちはやく進めるのも現在のアメリカであろう。このように、法システムの問題、あるいはそこにひそむ規範や制
度の問題を注意深く見ていくことで、人と経済との関係が変容しようとするまさにその場面が浮かび上がってく
るのである。
(山下尚一)
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