第53号(408KB)(PDF文書) - 秋田県

県指定有形文化財
「秋 田 藩 家 蔵 文 書 」とは?
五月二十日(月)から二十六日(日)まで、特
別整 理期 間の ため 休館 とな りま す。ご 不便 をお
か けし 、申 し訳 あり ませ ん。 二十 七日 (月) か
らは通常どおり開館いたします。
し かし 所 蔵 者 の 変 更に ま で 踏 み 込 ん だ例 は 他 に
知 ら れて い ま せ ん 。 秋田 藩 家 蔵 文 書 は 、家 中 が
所 蔵 し て いる 古 文 書 の 台 帳 であ る と い え ま す。
【鈴木満】
公文書館講座のご案内
た 後 、 原 本 を Aに 返 却 し ま す 。ま た 、 一 度 A の
こ う し て残 る八 通 を A の 家 蔵文 書 と し て 写し
共 催で 行 う こ と にな り ま し た 。 詳細 は館 内 の ポ
カ イ ブ ズ 講 座 」を 秋 田 県 生 涯 学習 セ ン タ ー と の
し た 講 座 を 開 催 し ま す 。 特 に 今 年 度 は 、「 ア ー
秋 田 県公 文 書 館 で は 、 今年 も 所 蔵 資 料 を活 用
藩 家 蔵 文 書 」 が秋 田 県 指 定 有 形文 化 財 に 指 定 さ
家 蔵と 認 定 し た 文書 を 後 日 C の 家蔵 に変 更 し た
℡ 〇 一八 ( 八 六 六 ) 八三 〇 一
年度公文書館講座
上級編
中級編
初級編
会場
・
、
、8/3
、7/6・
・
9/6・
7/
6/
公文書館多目的ホール
●古文書解読講座
平成
は当 館 ま で お 気 軽に お 問 合 せ く ださ い 。
や メ ー ル で も お受 け し て お り ます 。 ご 不 明 な 点
あ り ま すの で ご 覧 く だ さ い。 お 申 込 み は FA X
れ まし た 。 こ こ では 秋 田 藩 家 蔵 文書 がど の よ う
元 禄 期 の修 史事 業 、 つ ま り佐 竹 家 譜 編 纂 の過
程 で 家 中 の 文 書改 が 行 わ れ ま した 。 こ の 文 書 改
は享 保 期 ま で 続 きま し た が 、 寛 政期 な ど に も 行
われています 。その成果が秋田藩家蔵文書です 。
文 書 改 は次 の よ う に 行 わ れま し た 。 ま ず 家中
に 所 蔵 し てい る文 書 を 文 書 所 (記 録 所 ) に 提出
させ ま す 。 文 書 所で は 文 書 真 偽 を吟 味 し 、 家 中
の 誰 が所 蔵 す る の がふ さ わ し い か を 検 討し ま し
た 。 こ うし た 審 査 を 経 て 、文 書 所 が 認 定 した 家
蔵 者 ご と に、 正し い 文 書 を 原本 通 り に 見 取 り写
しま し た 。 文 字 ・花 押 印 章 を 原 本に 忠 実 に 写 そ
う と して い る 一 方 で、 竪 紙 か 折 紙 か 切紙 な ど と
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生涯学習センター
●アーカイブズ講座
会場
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い っ た 文書 の 形 態 に は ま った く 無 関 心 で す。 写
秋 田藩 家 蔵 文 書 は 、右 のよ う な 経 過 を経 て 成
所蔵者に発行された青印書(AO288.3-5-1)
ス タ ーや チ ラ シ 、 当 館ホ ー ム ペ ー ジ に 掲載 し て
B に 返却 。
③ 義重 書 状 は B の 家蔵 文 書 と し て写 し、 原 本 を
と 判 断 し 、 そ の旨 を A ・ B に 通知 。
② 頼 朝 書 状は 焼 却 、 義 重 書 状は B の 家 蔵 が妥 当
重 書 状」 は 家 中 B の 先 祖宛 と 判 明 。
① こ の う ち 「 源 頼 朝 書 状 」 は 偽 文 書 、「 佐 竹 義
第 53 号
場合は 、
そ の 旨 をA の 家 蔵 文 書 に注 記 し ま し た 。
【発行】
な 性 格の も の か を 述 べて み ま し ょ う 。
平 成 二 十五 年三 月 二 十 二 日 、当 館 所 蔵 「 秋田
2013.5
立 し て いま す 。 江 戸 時 代 、幕 府 ・ 諸 藩 で も文 書
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秋田県公文書館
を 調 査 し て、 所 蔵 者 ご と に 写を 作 成 し ま し た。
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し 終 え る と、 文書 所 の 認 定 と、 紛 失 し た 場 合に
は申 請 す れ ば 写 を作 成 し て 与 え る旨 の 文 言 の あ
る 文書 を 添 え て 、 原本 を 家 蔵 者 に 返 却し ま す 。
例 え ば 、家 中 A が 源 頼 朝 書状 ・ 佐 竹 義 重 書状
を 含 む 一 〇通 の 文 書 を 提 出 した と し ま す 。
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(2013 年 5 月)
第 53 号
古文 書倶楽 部
評 議 決定 セ ラ ル 」 と あり 、 移 転 中 の 明 徳館 に 達
治 元年 十 一 月 八 日 明徳 館 ノ 称 号 ヲ 改 メ明 達 館 ト
古文書こぼればなし
す る 一 日 前に 決 定 し て い た こと が 分 か り ま す。
宿 所で し た 。 そ れ 以降 十 一 月 ま では 藩の 御 用 所
明 治 元 年 九 月 の撤 退 ま で 明 徳 館は 鎮 撫 総 督 の
明達館と秋田町
~明治維新期の機構変遷~
を 頂き ま す 。 そ の 中か ら 今 回 は 二つ の疑 問 に お
て お り ま す と 、県 民 の 皆 様 か らさ ま ざ ま な 質 問
文 物 が 変 遷を 遂 げ て い ま す 。公 文 書 館 に 勤務 し
た が っ て明 達 館 の 存 在 は 明 治元 年 十 一 月 から 同
再 び 明徳 館 と し て 元 の場 所 に 復 帰 し ま した 。 し
ば らく 御 会 所 の 隅 に閉 じ 込 め ら れて いた 学 館 は
明 治 二 年 六 月 十七 日 、 御 用 所 の移 転 に 伴 い 、 し
け で す が 、そ の 存 続 は 長 く あり ま せ ん で した 。
と し てい た も の を 名 称変 更 し て 明 達 館 とし た わ
答 え した い と 思 い ま す。
二 年 六 月 十 七 日ま で の 、 わ ず か半 年 余 り と い う
明治維新期はさまざまな事件と色々な制度・
問 1 「 記録 に 出 て く る 明 達 館は い つ 誕 生 し、 い
田町に改められたのはいつですか 。」
問 2 「久 保 田 町 の 名 称 が行 政 区 画 と し ての 秋
こ とに な り ま す 。
つ 消 滅 し た の です か 。
」
こ れ に つ い て は 、『 秋 田 県 史 』 文 芸 教 学 編 に
記 述 され て い ま す が 、そ の 出 典 が 明 確 であ り ま
せん 。
そ こ で 改 め てそ の 根 拠 を 確か めた と こ ろ 、
江 戸 時 代 か ら 親し み な じ ん で いた 、 佐 竹 氏 が
て 「 秋 田 県 史 料 」( 二 ) 五 月 二 日 の 本 部 学 校 開
捜し出すことにはかなり難しい点がありまし
的 に 秋田 町 に か え ら れた の か 、 こ れ を 具体 的 に
した 。 こ の 変 遷 につ い て ひ と つ ずつ 解 明 し て ゆ
た 諸 制 度 ・諸 文物 が 大 き く 移り 変 わ っ て 行 きま
維 新 動 乱期 に い た っ て 、 江戸 期 か ら 続 い て来
館日記」(岡七五五)です。それによれば 、「明
四年 八 月 に 「 秋 田町 士 族 金 秀 安 」と あ り 、 秋 田
が表記されて います 。また「秋田県史料 」
(一 )
事 に 民 事方 本 局 と し て 「 秋田 郡 秋 田 」 の 呼び 方
同 年 十 月 二 十 九 日 の 「 御 公 務 控 」( 一 五 ) の 記
段 階 とみ な し て 良 いと 考 え ま す 。
治四 年 で す が 、 その 名 称 の 定 着 は明 治 六 年 十 月
論 的 に い って 、行 政 的 な 「 秋田 町 」 の 確 定 は明
に な っ たと 考 え ら れ ま す 。以 上 の こ と か ら、 結
局 」 があ り 、 行 政 区画 の 位 置 付 け が か なり 明 瞭
治十 二 年 十 二 月 二十 八 日 の 「 秋 田町 久 保 田 郵 便
町 の 表記 が み ら れ ます 。 し か し 、 翌 五年 に 入 っ
【 加 藤 民 夫】
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二 つ の 出 典 を 見つ け ま し た 。
設 の 記 録 に「 秋田 郡 東 根 小 屋町 」 と あ り 、 秋田
く こと は 、 色 々 な 困難 を 伴 い ま す 。 しか し 、 種
支配 す る 城 下 久 保田 町 の 呼 称 が どの よ う に 行 政
の 日 記( 混 架 二 五 ─ 四七 ─ 二 ) の 明 治 元年 ( 一
町を除いて直接城下の町名が使用されていま
々 の 史 料を 組 み 合 わ せ て 辛抱 強 く 作 業 を 続け る
まず 明 徳 館 の 詰 役支 配 を 務 め て い た野 上 陳 孝
八 六 八 )十 一 月 九 日 の 条 に「 一 御 学 館 御 用所 以
す 。明治六年十月二十日の「秋田県 庁日誌 」
(一 )
た。
県 社八 幡 神 社 祠 官 小野 崎
の 字 名 が つ く の は 「 秋 田 県 史 料 」( 十 七 ) の 明
来 明 達 館 と御 唱之 趣 被 仰 渡 有 之候 」 と 記 さ れて
に は 「 秋田 郡 秋 田 町
こ と で 道 は開 け る と 思 い ま す。
明治 四 年 七 月 に 秋田 県 が 誕 生 し ま した 。
まず 、
(2013 年 5 月)
おり ま す 。 さ ら にこ れ を 裏 付 け るも の が 「 明 達
第 53 号
通 亮 」 と あり ま す 。 そ し て 秋田 町 の 下 に 久 保田
明治初期の久保田城(『思い出のアルバム秋田市』より)
古文 書倶楽 部