花のもとにて春 - 備陽史探訪の会

花のもとにて春
道上渡瀬遺跡出土の弥生土器 片
主催備陽史探 訪 の会
平成
16年 4月 4日
(日
)実 施
ス ケ ジ ュー ル
40分
同 8時 58分
同 9時 30分
同 9時 45分
同 10時 15分
同 11時 00分
同 11時 30分
同 11時 50分
◎ 午前 8時
駅前釣 人像前集合
◎
井笠 バス 「 中条 三 谷行」乗車
◎
◎
◎
◎
◎
◎
◎ 正午頃
宮下 バス 停下車
大坊古墳
的場遺跡
猫 山古墳
護 国寺
中谷廃寺跡
亀 山遺跡
(昼 食 を兼 ね て花 見 を します 、不参加の方は ここで 解散 )
※ JR福 塩線道 上 発福 山行 、 12時
30分 が あ ります
※ 花見 は 3時 には 終 る予定 です。
※ 」R福 塩線 道 上 発福 山行 、 14時 33分 、 15時 30分 が あ ります
道上鍋 屋 古墳 出土 の埴輸
ゴ ミは 自分 で持 ちか え りま しょ う
平リカ京と刻 llCリ ビロ存稿
ミ
直1号 線として整備されだ剰ま
劇司じたカミ i繭自 こ
¨
入るとり まま補ど暉れ冽t側 を離 し、
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じていた。
l電 備鰭涯腑蔭堤拗オけゴ手惰制覇巨
うに神辺 。今津を通るコ=ス に
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の 議縫 時側 郷靭 炉 中
こよつて輛・尾道の港町が繁栄し、
こ引き寄せられたためであ
I響
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た井原線の高架 こそつて走り、
・停押票境a墾ける。
1:lii:l夕
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… こ=髯 子して残つている。
…
=― ≡号隙2紹
ただ、ややこしい爾よ この道が古代の
福山北部の史跡
=剖 制 駆道 捗
山陽道であるかどう力ヽこついて異論があ
ることだ。=調 ミ 古代の山場自鎌
ヽ
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ス峠 を豊え、い
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スI力 中に駐還をまず走つiもだ 。
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■劇閉直
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して、郷分で詢囲 llを 渡り、山
・赤坂樋 つい
手・嵩却郭
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折して蹴 壁 い 尋 りゝり、ここから埴
線 こ画 こ向かつていたという。こ‖親
在の胸
tのルート│ゴい
て走り、備
後国分寺の門前を通過して画
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とか 喘 えられた説D錢 し功功き あろ
う力、葺誕Jこ 膳譴しいら匡レ滓ヨこ至獅
嚇
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として生証 。バ
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状の甲野を通つてヽことした方が合理的
だと思う(所勤ヽ
古f…
コTス についての議謝ま
この辺でやめよう。千三百争の震劇規
つて見なけ相 mこ
とはゎからなしヽ
古‖謝即場進r)レ ートに
ら
思い勧 ぐらせる内 ミ ′快 1封儀勧 ヽ
leに入ってしまつた。この辺りでバス
ることをお薦めする。
り味 を,鵠 よう。証
町F)曜 聟ンも(中 執 てヨ電義し、1日 ユ麗諭直
備後国分寺 神辺跡
に沿つて備衡 こ引き返すとき、まず主意
る。まず、訪ねたい創
していただきたいのよ 現県境を越える
現在も真言芽証淮探1と
自降り、鋼
ゞ
却t南 北を走るこの
ところに馴
ヽ
ら同
町の道上1動 Чサて1詰
―儡 劃 Ю 櫛 教 ,あ
寺だ。
…
して法灯を伝える
国分割よ もちろん、奈劇鞠出 難
細い溝こそ往時の国岐だ:そ して、清が
皇の勅服 こよつて国々に建てられた国分
南に突き当たつたところに鴛える台形の
ノ
l■ L『■
b意 し轍 しし
、 1閣酸・備覇北研ヨ
寺の一つである。渤 ヽ 現在の時は江戸
境
=勘
サヴ騨矩蒙刈瞳鍵凛馘の跡であ
る。評翻哄』暑t
助詞 はて十曜郵明議床
ヽ力つ て鋤 疇 脚 啜 動 時
中
の前面 」眠つている。中
動
こよると、申
され螂
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を持たれ 功ヽ戦乱の時掏ま違う。 碗
¨
は人々、中でも武±が命響圏鯖
`}…
」な 左
広大なもので、正面向かつて樹
る場
所であり、各地の 町麺 IJよ 々 さまざ
まな城塞燿菊倒陶Lこ の城もその一つ
1ヽ
である。
ulI=霞 ぇ
=ノ
α 勘
お
を配す 励雄要声赳 伽藍配置で
あつたことが明ら力ヽこされている。福山
周辺の古代制完ヨま証ヨ珈の自の前廃寺
八丈岩 さらに進むと、右調 こ「/畔
着 :旧 」卿
潤 に付く。)撚 講
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目
晰
こ釧躍話護の も鋤 移 し、何
・
故だろうか 。
。解」明かしたし創助卜つ
い
ピークにある
である。
… は さがあるところ
巨大な岩で八畳敷き
からその名力
。一帯は花商岩土壌の
堂々jl初 秒留 ここからは国分守門前を
風化した
…名前の着いた巨岩が累々と連
隠れ岩など
綿 を歩くと傷訴け亀 国分哺r残 易歯から
なり、観光名所となつている。登山道も
堂々川の橋を渡る。ここで橋を渡らず こ
`
i10『 明劉 に至
有 動 と有名 ま り
'あ 、ノも嵯 翻 動 千 人
整備さ,L
珠配ヨこ走′Ы日口』易進
i
右折しして旧山陽自玖 るとまず最初 こ
シ=ズ ン こ
はここで弁当をひろげるのも―興だろう。 る。砂留 ま江戸時代から明 自動bヽ た の
さて、このコ=Ю メイン灘彰拌渤ヽ 砂防ダムの ことで、ここのは見事な石
・
され超鐘 難に も
魂 鋼 動ヽ贅 け
あ 。副 瑠
組 。石□ こよつ嘲嗣こ
らここお ひ く 指折れの規模と構造を持っており、一見
介し角閥蘭静格鷹弱勧ヽ
と慶助%か
ら、メインだけじつくり
の価値ある遺跡である。また、途中『寒
見ようという力よ 井原鉄道の 閻
水事劃 の自目4)つ て租玖 ると、平
力琲 勤 ユ 雁緊 路 副 ′軟 停で降け
鯛 雛
と伝える
―
2
を訪
ねることができる。
ありえなしヽ備後国分尼寺の解明ま今後
の課題である。
│い ヽ
方八丁と大宮遺跡 堂々り
ら小山池ま
で踊離を測ると1測 譜囁罫誕 ある。そし
(地 図を広げるとその南コ測謝暉ヨ
1元
四方の地割が復元できることが分かゐ。
これがかつて
はなし功ヽ
と騒恥財ヴゴ屍野のF/t/再ゝ駅
ある。
としては現在の神中市
勘
1書
がその遺名を伝えた場所であること1端
lr癖 証 dし を望むと左樹 聾
堂々り
氏の意見ま■致している。働 ヽ問題点
力Wttbヾ る力ヽ しヽ月にも備誰鰤観郭層善卸引廣
として有名であ
司狡
ある。
聖武潟懃扉影拌調誠β用によ‖よ そ
る。右手の劇 ヨ灘郵標霧訓撃躍副ヽ左
卸
があつた。それ
れ 瀬鏑 働 館 の 謝 胡 堀 瘍 罰 靖腱
されることになつてした 。地へ 胞
譴山商噴賄じ 詳
しく│ま却費圏 "功
る。
国分割紳
ここからLlざ らく歩 くと
―
道 ま大きなため池2士ヨ咄 る。このた
力鰤
めU力 l世灘1と いって見配慇羽醐む也と
鰤
して醐 されている力ヽ この 磁明割 こ
移されたとす欲
注目される追跡が残つている。J山 醸
議 灘 動 現¨
滋1く 、遠く1紺 慎秦辺
・
にある。なぜか・
。そこで考えられたの
=譲
J■
喘嘔劇電。壱 ら回
油
こ
詢
=,ヽ
池の底から古代の布目瓦が出土すること
て胃願在α清子中嗜養彙こ
ら力噛
ある。衛
同
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刺
地名と地割にあった。
しかし、瑚
諏
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の場υ誡疑塾の調 こ
なりつつある。最近幾度となく実施され
分寺の画面累Jこ 働置し、国分寺と同じ
よると国府の回珈ままとんど
晰
…
な〈¨
こう考え昴 ていた幼じ だ
力ヽ 昭梅勁¥助 ヽ
ら三突破 って徽
1衷■功、
劇
ま当錦届辞咆■D湯 調尉動 れ
を示すと言われる、湯野の 出 ヽ ゝ の
力渕 られていた 出土地劇 ま丁度備後国
に増暉童さ蒻 _は司瞼D¨
│コ
も脚
ものであ 可
能性が言まったためである。働 ヽ この
なものだつた
効 醸 卦 樹 保そ
踏 た 。耐 靖 切
出吐玉 闘防おいら調 灘致分寺より1■ ヽ
こと力“
洋lFFし たのである。そうするとこ
の割J国分層寺として創建されたことは
3
時
賦 醍 別 の 観 であ 。遺
勘σ湯翻謝漢コ璽整理娑薄鏑信闘酎球 るも
J詢
ので、現在地調 同も残っていなし功ヾ
その南喘コ調園跡の名を冠した大宮州園
│よ 5再 如財柳
があり、遺跡をしのぶよすがとなってい
栽 とC蒲 護識罰亦で、
る。近く│ヨ 毒霧瓢圧唸館もあり、井原
線暢圏獅k湘によ聯動ヽ
えば手ごろな散策
保存会の封Jこよつて登山道や トイレな
コ=ス となる。
キングコ=ス となっている。
古瓦を出土する山岳
どが整備され 家族連れの手ごろなハイ
安邪中条 適 力!Ⅷ を過ぎると要害山
山塊の北をかすめて中条地因 玖 る。中
条 灘針飾断締屹漸換期を示批 であ
ー
る。中
トビ1渕地方針 刊劇調コ・
郡・里 (知 のコ卿ぼ所誕
分で行わ
れてヽ、 だカミ ]薔 課訳E幾 期になる
と、律令制の変質 こよってこの制自敏
変赫
赫
旧蠅
錮
よ 妻犠誠組坊 リヒ
い
端をかすめると、¬自開ゴ野卸華功
“ヽ
Jま ど歩くと、
中条の谷口を横切る。一キ
<さ れる。地方の晩台顧
的 コ討じ量調ι霜負となり、イ
誕 分
口
‐
もそれ こ応じて、国 郡 郷・条のコ段
左引 こ
=見すると前方後円墳のような低
で区分し
階となる。条 ま郡を東西・諄‖ヒ
い丘が見えて<る。
としたもので、い
条
…
・
・
もl日 安那郡を東条 中条 1壁剰こ三分し
とし臨
名は残っていなし功岬
―
らF■0
勒ヽ
mヾ
であつたこと
呻
力渕 引Lそ
に上ると中脚 こ立派な祖殿が立っている。
OL
た名残である。颯
な亀画園卵電 醐 コ回つて丘
吉備津彦を祭る岡山神社である。吉備津
彦 ま備後の一宮の祭神として有名地 6ヽ
元々1脚
うするとr鶴 餃洒に雌
られてした もので、綱
として祭
・
端後・偶
制コ
ヾ暉籾陣彰向 であっ
備前のココこ畑 されたとき、熱 ぞれ
中嘴詢%題 跡 中
幅3)棒 邪也茎も釧 ヨ恵
こかすらは‐。資型ヒ調司山劇降Uよ
信謝 こよると、備 ヽ
ら備餡畷雲 [さ れ
まれた地域である。古墳では終末期の整
た吉
FA― ll資
の南の日陵突端 こ位置する直径三〇 0
1鋤
m脚
、
ころと言う。
たことになる。
い
鋼
枷
亀山遺珈よ 戦前からよく知引陶電年
lJ・
勒
御
■哺淵在 されたと
鉤
教 …¨
ある。当初劇零渤滲劫出土
することから 靡珊報腱劃』 として県の
る木
史跡 こ指定さは、 ところ力ヽ この丘を
之上城跡などがある。中でも木之上城跡
/Nに 整備するため発掘すると意外なこ
中条篠窮な 爆
谷との自戦
4
とが分かつて来た。山頂広場を中Ыこ三
持ち、中条方面 こも勢力徹
重劇壌新 わ ぐらされていたこと力沖FB
た。その拠点の一つとなったのが道上の
したのだ。住居址はまだ見付かつていな
護国時である。現自厨謝時
し、 あるしヽよ
HJ脚
]従碁梓噺斧
信・田部輛勧ヽ 月罫!に
地姓集落の跡なのかも知れなしヽ なお、
提を弔うた醐 難
さ
朝
となっ
ている力ヽ 元々は南北朝時代の武将宮兼
11か
らi躍 副妨1現 ら1阪 5励薩の城鋤 高
この嘔劇曜義事割畑こ入ると期
していつ
し ―
、
室町時間 ヨ却即晰磁満続を して全盛を
。宮剰言・中
れたようで、山口肉場の南紹 二│ま 亀山第
一 日二寧 朝罰浦率する。
蹴
中籠怒議ホ 資曇鑓跡からJu朝動 %道
J固めた人物崎、■族の精神的慮主柱と
も古f…
である。
調静饉低の
囃
¨
を饉 したと考えら
し鶴
… から1日 山陽道 ∈則県懸り を■しもてJヒ
亀山
研世■
の解 コ」
CJ影 材 の 利 肪 注 'L時
ヽ
│コ 劇町立の選獄Jヽ議力ら
あり、勘
帯にあったことの例証となる。その場合、
軌
だつて実施された発掘調査で、法隆寺式
ゆ
猟
ように動 寸サ」薩聾のう
さ
ち、ひときわ抜きん出た規模と構造を持
…
…
1畔 率α壊山
れた。
ある。ノ
…ヽ
ら古躍郭割旬動 ヽナて疇
も駒避功
つ、遍照説卸颯勅漏塚の申卿 葛 、
さわ
つて踏査し旭用 コよ 雨水
地で、櫛 渤ヽ
ることから、居城と書提寺の関係を想定
で刻まれだ青 ヨ翼限担2=調 片がごろご
することができる。
ろと転力ち ていた。古墳も多数存在する
かつている。なお、前方餡円買跡
正戸山城跡 ここまで来たら是非訪ねた
が割遺肺ヽ
ら」 .Elこ位置「 る御
“
ま比高
串町の正戸山城跡である。同城跡
側の平野部 こも存在したようで、かつて
・五〇lπ 嶋
わず洲 型口
は前方後円Mこ田の畔が残り、円筒埴輪
に1日 L埋疑動通 り、正1碑 螂婆力要衝を
も出土したという い
猶 卜I…
占めた城塞である。
C詢 唯攣顧董
潔
しく、紳
ようで、未確認ながら前防後円墳も見付
。
まその嘩顧″髪義蘭項噴饉す
し功ヽ眼下
,多 ェ
も色濃
で、曲
LuIEに 立つと神辺平野は■望の 卜
…
く残した地域である。この地 ま中世「石
輪の動も三段ほ麟 つている。南北朝時
成荘上村道上条Jと して螺 申●刷祇 中
旬J鋤離捧硼解郭凛華遭涯城 として現
イ
であつた宮氏が勢
橘 同嚇資力ヽ 朝萎軒計uコ
…
の一つとなり、毛利勢の攻撃を受け落城
した。舌腱封【
ら帰路につ
報鴨遂剛興比助ヾ
力を持って討 ヽ
宮氏の利四
くのも悪くなし、 ここからJR福 塩線万
あっわら
ヽ 石成由内 こも早くから所領を
5
能倉駅まで徒歩十分である。
「そうきゃあ、そうじゃろうのう。わし
が村
中条いわ し
…う」
けえの
ら匹羅子刊動 ヽ
り澤詢嵯活という。
令力ヽ
佐貫坊 ま息協
G湘延殉)出 身
の佐貫坊という蝸
よ 何百年も音の話じゃ
ミ 信,l10と あ 山
で、この不気味な老
婆の話しに耳召回性 。父は灘TCtわ
しを取るのが上手だつたこと、娘の回 こ
中を旅していた時のことだL日 暮れて山
人魚を食べてしまつたこと、蜘
中C汁痺疑君で虐を乞うと、中から「どう
老不死の力があつて死ねない身体 こなっ
aと いう女の声がしフ
L入 つて格
たこと、子や孫が死んで相 鋸 ずら<な
と
老婆が■人で住んでいた。見ると髪は
ゴま不
り国を出たこと…。
黒々として、声は娘のよう│ヨ 長りがある。
◇
く思つ勧 ヽ 山中¬旧 こ
佐貫珈鎌
宿りする場引出工しヽ 請じられるまま囲
:撫 わ Ljの
伝劃 t実 よ 力魚を
強 い で膏鵬め 身
「弗わった
炉覆議湘こ
老婆も最棚¨
神週笏覇承畔略 な
するかわか
体になつたという語 ま全国各地にたくさ
らない旅の膠験者として警戒していた力ヽ
ん残つている。そして、たいてしヽま こ
佐貫坊 こ備後訛りがあるのを知ると、と
の「r彬鷺 ゎ
解l撼舌し力ヽJて きた
た潮 れ
いている。
「し功ヽこも附よ 備後の出身で、安那郡
¨
味
神辺羽昭よ 大昔「六の勧 と嘲 ずれ
る海の底だったという伝承がある。llLG
寸 」
佐貫坊が中条の出身であることを知る
と、老婆動
の話のように、鳳 喘
月の問 癬動溜 こなったという落ちが付
「あん趨よ 備後の人でやんしょう」
鰤
L」
で、聞き返した。
わしも中条の生まれじゃ。今で
にもい
ど、海を想像さすも
のも多しヽ蛇円山の山同地 って南」眺
めると、申
滋功ヾ
り、曲
│…
も鰯 (いわし)がぎょうさん取れるかの
・
・」
う
はこの袋閃 J動 %坪 野を潮 敬
「いわし…」とFI■ ヽ
て、佐貫珈ま絶旬し
「中嘴↓わ しJ6研菱説も、こCがw労 取つ
てしまつた
「なにゅういようてんなあに中条ま海か
伝承かむ生まれたものだ。
ら醒 響絆叱 引中釘でた・」
佐貫坊の話すのJ聞 いて、老婆は悲し
そう│■家)辱舌臼まじめた。
勘
泊 く光つている。昔の人
てた。
妨
かつて神遷雫躙 ヨま深く海水が晨入し、
駄の細 と呼ばれる入海 6ヽ勧 ち てい
6
たという。
薔
今から
岨
=調 ミ
繭
… 二百メー トル以上¬ あ
1雛 より
る。
この 昭数海出 と呼 添
t
った
よ ヨ諦r潮 泊正メー トル
瀬戸内淘 まもち碗 なく、日本夕農は大
…
にまで達していたといし、 国土地瑠完の
陸とつながり、日本翔¨
二万五
れ
た内陸の湖にあつた。この時代大陸の一
メー トルの等
り
ら様々
硼勧ヽ
高線をたどると、勘 ヽここの 動
1輝 した レ ヽし、 りま前嘔聯凛国と
な動植物がやってきた。マンモス象やナ
`‖
して紹際 した戦瀬の卿ヒ史家が
考証した
部であった日本列尊凛
ウマ勁
どの超疇黎湖曝虎や独 現
在もJ麟 縫わ 日高山鷺彗
らへa》晟Jほ と諏割誌 し、権ユ壺lК D御陣告
町を中心として回奏厖調 D涸 餞 剌 ま
・
神翅駒Cり l口 め 東くらいであろうか 。
。
るなき兎
などt当然のことながら人類もこうした
獲物を追つてやってきた。岡山県の羽鷲
しかし■方で、この 動
山や瀬戸大橋の橋脚になった島々から旧
羽躙 糀
は神辺
しなかつたことを推定させる
石器と呼ばれる石器が見つかつているカミ 言
]処もあ 。細 まこα痛薦誌つ「六口痛コ
珈 まこうした狛レJ」勘が残し新
卿
鋼
制
動
で
―
ヽ
lヶ
に
乱 発見されてし颯 こと,亀 穴
ヽ
ところべ 今から一獅
ら急激な
の海のよう
組
あ
。
地球の温暖鮨いまじまつた。気温の上昇
朝鶴籠謝畷明髪覇動史ヨ浴鋤 い晨入し、
の絶好の棲家であつたはずだ。
―
貝塚をはじめ、近く1叫
…
り鵡 馳 り 則 鎧 贈 蒋 勧 贄
―
れ林 している。助
廟 コ鮮 調 jll
三 日月樹 朝長りついてい
“ た期時の
のような硼 :"河 口を開I女 その海水と
r"H妾 捌
│こよって,礎υ
中極蠅
葺融Iナ だ
し、海水面 ま見る見る上昇していつた。
麹
日本はユーラシア爽睦から切ウ離され
真水の入り混じる「汽ポ晩 はシジミ、
現在のよう呻
督翌ヨまじど潔聴虻人α凄書勿「員頃亀 醐
嶋になつた。それ
まで広々とした草原だつた四国と中国地
方の間蟻劉Uこ も東西から瀾
葛瀬國明欄戸内簾動潮
岬
の生息地だったからだ。
濃久 し、
さは ‐。珀引閾帥の
ま今から六訂4菊
、 ここに真実の「穴の海Jを探
る糸口が秘められている。
譲畑自寺湖期ピ
"琳 這勢ヽ理
ークに達し、海水は今より
勘
実在 した穴の海
ま
で侵入していた。関東地かまこに
靭
仰
明治柳噴 嘲
お敏劉底で、中
縄文時代の員塚は群馬軸
を吻語る
ネ
帥
辺りまで
7
奏名薩したI葛 コハなし、
流行 されだ時、現
・』
瑯 ・,75ヨ ロ
じ
1)・ 調 ・力
雇
【
聟
暇
員
の五郡 σ請ピ硼卜 芦田・沼隈郡の¬部
元和五年 (=六
1赫
の鳩 となった動
と神辺町 ヨ硼諭 て翠成 されて
いた。いずれも奈良時代以来の由緒ある
`酬
郡腐である。
よ こ
…
を築き、眼下に広がる海原を
埋
していつた。試州 鋼
名の出来となつた郡として重要である。
町を中Ы■ ネ
副財班載町、同画郭励ヾ
かつての安那翻載
てみるとどうなる力、 見事な 勁
力滋功ミ
る0誌 し功、
る。
旧福 山湾が穴の海 で あ つた こ
で│よ この1圧 難臓財に1増
の海
"跡
ヽ
を求め林 勧 と言え│よ ことはそう簡
とは、考古学 的 に も立 証 で きる。
前回述 べ たよ うに 、今 まで穴の海
単で1潔まし、彊燿沐四ヨ颯 大{ヒ 激晰
力i断行され、国・郡・EttI"滋 輛「された
当初よ 南 理け 榊
だ と言われ て きた神辺 平野 には 、
入海の証拠 貝塚遺跡 は存在 しな
誕硼 郡
い
1研箋詢れてし
サ島 すなわち、 [続 E‖ 薄副
`二
を広げて、71G
田 こよって造成された地域を塗りつぶし
え│よ ¨
(七
ノ明 、備後十万伯
め立てて、城下町を建設し、新田を造成
中でも、安卿即Iま 穴の海の り可 力郡
養老五年
動
=わ
。
珈 摯 lし 、この 辟副 斃 淑 コよ 旧
)四 月の条 こ、「備後
々と姉
る。
引靭町の長浜貝塚 僚 良・■り
、大門
脚
を創貿 、翻
を置く」とあ
σ冴彗爾り:IZゴ 判こ
豪華
り、1日 祥
ヨ上国ド
凌
動
"L′ "岬
欄 ヽ かつては安邪郡の一部だつたこと
「・深舞窺洒祠Ⅱ調縣台
力明
る。 ま測
の町村制の際 こ合併して「深安郡uと な
=合
つて軸
師防 肇輩 傑詢 、蔵 勁 耐 瑠 貝
『
塚 帖顔■平力 、木とコ 粥曖豊貝
塚 繊
“ :鮒詢
、水和 働 硲 則
・‐
・
。これらの 動 譴 跡 齢 お を どうなる
つているから、伝
よ この旧
たことになる。この点
深安郡唆 こ存在し…
し、
仁ヨ詢り相の海醍団勧ヽヨ¬にした 助 ヽ
1鑽
それ ま今まで言われてきた神辺平印 こで
螂
¨
ある、今ま動
力、 立派な穴の海が復元できる。
を論ずる研
よ 養老三年以後の安那郡を以つて
│」
│の 顧 に口
К
ゴエく、調 り
なZ"勝諭
Eネ 雇
ロ
ロ
南
市街地の地下 三存在したのである。
と考えてきたは そ相蝦
りなのである。
亀山遺跡
を1日 福山湾岸まで広げ
ま落ちつくべきところ
ると
―、tO―
に落ちつく。そ打調 1野と箕島を湾口と
神辺陶進峰C糧製 醐助動 として
`洒
はじめて湖 されは羽よ
昭陣専 ←
九二七)の ことであつた。こ嘲
、
するかつての 日
目封電 ブ
宅 この出逝
世初願はで穴の痴の名残を残していた。
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斑測 _Lに 硼静考 古資躙 と題し薪
ていること力鼈認された。亀山瞬碁
稿し、この中で翻棚詢劃卦赫辞殖此亀
け
山から出土していることを報じた。
この丘から弥生式出器や召鏃が出土す
。
発掘の成剰 こよると、瑞 豪
―
の山頂J囲む■重であつ勧 ヽ その後二
ることは 古くから知られていた。
重になり、最盛期 ヨ測 画
『 西備名区』安那郡道 上 村亀 山の
条 に 、「古城跡 な りと云 へ ども主
り巻 く二重となり、外側 二十塁を巡らす
厳重なものとなつた。九J‖ の吉野ケ里ほ
もので まなし功ヽ 全盛期の亀
名 を伝 えす 。近 き比 、古 刀 の 類 、
又、陶物等 を掘出せ し事 あ り。是
よ り古城跡 とい う… 」 とあ つて 、
… 謝腱彗嚇
山
された城塞集落であつた。
珊嘉観勤出現 よ 日本
…た。環謝 ま
を割 ずる大きな出来事であつ
当時の人 々は出土す る
ものと考
-2-…
えていた。
をも取
「ulか ら身を守る施設であつ勧 ヽ 当
時の日本 朝訳つ イオンれ 颯 ヽ胡 よ
学術的 0主 目されるようになつSよ
「
昭和六争のことで、この年備後郷土史会
Iよ
の招きで雑 し
同じ肺
L房 誹肋鴻 まると、水
あつラ
や耕地を巡つて寺t功 ヽまじまつた 集落
は珀敵α埠瓢 こ備えて武装 した。これが
注目し、 暁 レbヽ ■製塾式
亀山別嘲尉こ
環濠集落である。環濠集溜 ヨよ 外敵を
系統のもので、土闘 まいくら力簾
防釧
あ
り、焼成も多少 爆 なつている力ヽ 手法
そ劇回固
轍
るものと見て差支え
なt」 と述べた 0艶窓ヨ曝叱巻第コリ 。
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会の醐調譴正 よつて、剋 …
よ 弥
御 中 0詰 助 ヽ
ら中期 動 ヽサての中部瀬
硼牌軸物薩跡 として、広く
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働 t、 ル
亀山 こ住んだ人々も、やがて人口の増
DElこ よって、各出 卿
を求めて移り
僣ス″亀 弥生時代の中蜘
2発繕棚
け
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"ヽ える。いよい
瀕薇署糊増
て、帥
よ備後の歴史が始まる。その原点が亀山
以上
委員会による調酎 こよつて、この遺跡 こ
Iよ結鼎歎期騒議清整することが分つた。
鐵
る
者 彰翻れる。ク期 まじまり亀
昭和五六年からはじまつた広島県教育
を中酬錮
と謝
│ま翅里さ蹴
の丘であつた
知られるようになつた
その後の発掘によつ欄
るり→キ功 澄場 し,L
猜
謀彗蜻a画頂
載 つて巡らされ、平成六
で│よ 州則 二十塁まで調ナられ
9
田 口義 之執 筆
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恒肇
号38・ 39)
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ある日陵頂Jこ ある墳墓遺跡てある。こ
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東端噸南
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JUこ のびるT字 形を呈す。
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拙跡かあり、ここから
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墳丘をもつ填墓が4-5墓
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存在する。また、lUこのび劉目ロヨ素
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沸直み橘 。拙跡からiコ この
びるVLに も中
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をし、約6X10rR 3× 9
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続き、南北
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あり、下款D
潮集され
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ている。墳丘の中や中央 状 きな石2個
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長さ約3
"m、 8働 ロ
mの長方形になるように自然石
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むよう1毒 勤れ てしる。
タガ部分で冷Jま
(38)│よ 脚
チ∃コレト色を呈し、抽画 ヨ蒻橿聾畔斗
力遂布されている。タガ Jま 2榔
力望× る。
(39)1却 口雛
、直
封 る口ArlJま 7条α減劇渤沢 り榔
はヘラ磨きされてし%。 州画制
力瑾市されている。
神辺町教育委員会刊
歴史民俗資 料館 史料 目録 Xよ り
土器や埴輸 の図面は この 日録
(Ⅵ・Ⅶ も併せ て)よ
り引用
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亀山遺跡図面
編集・発行
備陽史探訪の会
合剰町5‐ 19‐ 8
`勁■3215
TEL 1084)953‐
〒π20‐ 0824楯訓Jド
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第 ‖図
a
亀 山遺 跡
点
g
1
b
中谷廃寺
段坪 古墳 2
道 上地 区遺跡 分布 図
護 国寺 遺跡 c
鍋 屋 古墳 d
門前地 点 e
中谷遺跡 f
渡瀬遺 跡 i
大 附 古墳 i
宮 ヶ峠遺 跡 k
岩崎遺 跡
猫 山古墳 3
的場 遺 跡 4
大坊 古墳 5
亀 山第 1号 古墳
h
:丘 陵_卜 ●は古墳 、 0は 古墳の可能性 のある もの を示す
12
)
浄光 寺 地