あなたは歌を歌えるか ケインズの欺瞞 - 福岡大学

あなたは歌を歌えるか
ケインズの欺瞞
芹
目
次
はじめに
経世済民の経済学
豊かな社会は実現したか
経済学者の見解
豊かな社会は実現したか
社会心理学者の見解
ケインズの欺瞞
自己欺瞞?
ガルブレイスの敵前逃亡
歌を歌うこと
封印されたのは?
生産の問題が消える
結びにかえて
付論
科学の中に答えはあるか
付論
科学は絶対ではない
科学こそが騙す
福岡大学経済学部
( )
澤
数
雄
はじめに─経世済民にもとづく経済学
経済学の問題が解くに値するかどうかは経済学では判断できない。経済学
は経済問題があるということを前提にして出発する。したがって、経済問題
が設定されたところで、暗黙のうちに経済問題が解くに値することが前提と
される。いかなる問題でも、経済問題として取り上げられた段階で、経済問
題の資格を得る。すなわち、設定された段階で価値判断が行われているので
ある。たとえば、すでに生産の問題は解決したかどうかという問題は、経済
学の範疇でさまざまに論ずることができる。すなわち、この問題は解くに値
することがすでに価値判断されているのである。したがって、生産の問題が
解決済みかどうかという問題自体が、解くに値するかどうかを経済学の範疇
では論ずることはできない。解くに値すると、すでに価値判断されているか
らである。そこで、生産の問題が解決済みかどうかの問題が解くに値するか
どうかは、あらためて判断を求められることで、はじめて問題として表面に
現れる。
一般に科学の問題は、それが解くに値するかどうかは問われない。問題と
して設定された段階で、すべて解かれるべき問題になる。したがって、科学
の問題が解くに値するかどうかは、あらためて価値判断を求められなければ
ならない。解くに値しない問題が設定され、さまざまなかたちでその問題が
論じられると、そのことによって、設定された問題は重要な問題になる。た
とえば、生産の問題が解決済みであるかどうかという問題は、生産の問題が
重要な問題であることを示すことになる。われわれ一般大衆にとって求める
べきは生産であり、生産の問題が重要だと思わせることになる。これによっ
て、生産が重視されることになる。すなわち、生産こそが一般大衆の幸福を
実現するのに寄与するというメッセージを与える。そして、幸福が実現して
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あなたは歌を歌えるか(芹澤)
いないなら、その原因は生産の不足だという判断を与えることになる。
経済学の問題が解くに値するということは、人間の幸福が生産により実現
されることを前提にする。同じことだが、生産こそは人間の求めるもの、善
であるという隠れた価値判断がここにある。
経済学は経済の問題を扱う学問である。本稿でも経済の問題を扱うが、こ
れまでの経済学の範疇にはない問題と取り組むことになる。
これまで経済問題と認定されたものは、経済学者の間で経済学の問題であ
るという合意が得られた問題であった。それ以外に経済学の問題とする基準
はない。だからこそ、経済問題とは経済学者が取り組んでいる問題であると
いわれる。本稿で扱う問題は、そのような意味で、経済学者の仲間うちでは
経済問題とはいわれない問題である。しかし、経世済民という経済学の本来
の定義からすると、至極正当性をもつ問題であり、これこそ経済問題である
と認定されるものである。これに対して、これまで経済問題として解かれて
きたものは経世済民という枠に中に入らないものが少なからず存在し、そう
いう意味では経済問題を解いていることにはならないと判断せざるを得ない。
本稿ではなんらかの命題を論理的に証明するという目的は持っていない。
論証は演繹の問題であり、前提と使われる論理が与えられたなら、正しいか、
誤っているかの問題として定式化される。これまで数多く議論された経済学
の問題はこの範疇で問われ、したがって、その命題の真なることを、ないし
は偽りであることを論証しようと試みる。われわれはこのような命題の証明
を行おうとするのではない。むしろ、命題が問われている価値前提、隠され
て、当然のこととされる形而上学、イデオロギーを問う。この問いを通じて、
経世済民の民を済くの意味を読者に問いかける。民を済けることが単にもの
を与えることだと思われている。このような思い込みの背景には、功利主義
があることは明らかだ。したがって、功利主義の次元に居直ることでは、本
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稿の意図を理解することは難しい。本稿では、経世済民の意味を問いかけ、
本当に済くの意味の理解を促すことにある。
功利主義の背景には価値ニヒリズムがある。ニヒリズムではまさに本当の
価値の存在を認めることができず、したがって価値はあったとしても擬似価
値である市場価値だけしか認めることができない。ニヒリズムを偽装した功
利主義は快楽だけに価値が存在していると考え、それ以外の価値を見ること
はない。
われわれは、快楽、苦痛は本来の人間の幸福、真の人間の幸福には意味を
持たないと考える。だからこそ、多くの快楽を実現させるであろう高い
が実現しても、幸福は実現しない。また、当然のこととして人間の幸福と
密接な関係をもつ平和も実現しない。ところが、経済学を含め、科学といわ
れるものは、価値ニヒリズムに立っていることにさえ気づいていない。だか
らこそ、幸福も、満足も、平和も、この社会の人間の心から消え去っている
のだ。
価値ニヒリズムの克服なしに、真の学問の責務を果たすことにはならない。
そして、ニヒリズムの克服は客観的レベルで実現するものではなく、個々の
主体の努力、その理解を通じて行われるしかない。このことに目を瞑り、あ
たかも幸福の実現、善の実現が客観的なレベルで可能であるかのごとく装い、
夢幻の世界に閉じ込めるかの如き学問では、学問の名に値しない。
功利主義を超える努力をしないでは、本稿の意図は理解することは難しい。
繰り返し述べておくが、真の経世済民、真の人間の幸福、真の善、望むべき
もの、という次元に立つことを要請する。これこそが、学問である経済学の
なすことであると考える。それこそが真の科学の役割である。以下の論述は、
次の順序で行われる。
第一節では、豊かな社会の実現について、経済学者の見解を聞く。続く第
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あなたは歌を歌えるか(芹澤)
二節では社会心理学者の見解を聞く。第三節では豊かな社会実現後の社会に
ついてのケインズの不安について説明する。第四節では、ガルブレイスの見
解について検討する。第五節では、経済問題を究極的に問うと、すなわち真
の経済学、真の幸福を求める学問の観点からすると、ケインズのいう歌を歌
えることこそ問題解決になることを示す。そして、歌を歌うことについてケ
インズ、ムアを引用しながら検討する。そして、歌を歌うこととは、問題は
すでに解決されていること、問題はそもそもそこにはなかったことを知るこ
とである、ということを確認する。第六節では、若干の結論を示して、結び
とする。
付論では、本稿の基本的な姿勢である科学至上主義に対する批判を示す。
そもそもこれまでの問題は科学的に問うのが適当だったのかを問題にする。
経世済民に立つ経済学の観点から、科学の中に答えがあると想定することの
過ちを示す。また、科学が絶対でないこと、むしろ欺瞞の温床になりうるこ
とを示す。
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豊かな社会は実現したか─経済学者の見解
価値判断、驚嘆、謎解きといった現象は、事象のある特定の局面に限って
かかわることではなく、事象全体にかかわることである。それは、浅薄な人
物にではなく、高度な思索のできる人物に顕著に現われるものである。注
豊かな社会は実現したのだろうか、生産水準の不足の故に実現していない
のであろうか。それとも生産水準の問題とは関係なく捉えることが豊かな社
会実現の正しい捉え方なのだろうか。誤った問題の設定は、誤った方向への
注意喚起になってしまう。正しく問いを問わなければならないだろう。
経済問題がすでに解決済みのものである場合、それを相変わらず問題視し
ているとしたらどうであろう。それは社会に対して誤ったメッセージを与え
ることになる。解決する問題など存在しないにも関わらず、あたかも重要な
問題であるかのごとく思い込み、貴重な資源がつぎ込まれ、多くの人々を翻
弄するとしたらどうだろう。本当のところは重要な問題ではないにもかかわ
らず、重要な問題であると思わされ、それが社会システムの中に組み込まれ
ているとしたらどうだろう。その結果、誤った目的をもたされ、目の前にあ
る真の幸福が隠されてしまっているとしたらどうだろう。
すべての真理が、等しく追求し、考察するに値するものであろうか。たと
えば、与えられた面積の砂浜にある砂粒の数などはどうか。注
重要な問題こそ解くに値するものであって、重要でない問題は重要でない
問題だと示されなければならない。これまで重要であったからといって、ま
たその問題を解くことを生業にしている多くの人たちがいるからといって、
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あなたは歌を歌えるか(芹澤)
重要でないにも関わらず、重要な問題であるかのごとく装うことは許されな
いことだろう。さまざまな職業が社会変化の過程で新しく生まれ、また消滅
していった。それは社会の要請である。もし必要とされない職業があって、
それに従事している人たちがいるとするなら、その職業に従事している人た
ちにとってそれは不本意なことであろう。本当に従事するに値する仕事こそ
意味がある。もし必要とされないものであるなら、必要とされるかたちで提
供すべきであろう。財・サービスを提供する側も提供される側も、真に必要
とされる財・サービスかどうかを問い続ける必要がある。
経済問題が解決していないなら、どう解決していけばよいのかを検討すべ
きである。経済問題が解決しているのなら、その証拠を示し、いまだ解決し
ていない問題を解決すべく努めることである。また、経済問題が解決してい
ながら、いまだ解決していないと思わせるなら、その原因を問うことである。
そもそも経済問題が経済問題として存在していたわけではない。人間から
独立して経済問題が存在するのではない。人間があって、その人間が生きる
上で問題が発生し、その問題が経済問題と名づけられたのである。しかし、
人間が直面する問題は状況によって変化する。したがって、恒常的に存在す
るわけではない。かつて重要視されたが、もはや重要視されなくなった問題
も数多くある。以前は認識されなかった経済問題も、重要な経済問題と認識
されるようになった。失業の問題などはいい例であろう。
実際には失業がしばしば非常に多かったにもかかわらず、 失業
という
用語が十九世紀後期まで一般には用いられなかったという事実である。注
経済問題一般も同様である。現在のようなかたちで経済問題が認識されて
いたわけではない。はじめは、経済問題とさえ認識されなかったはずである。
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それが重要な問題として認識され、そして現在に至っている。だからといっ
て、それがいつまでも存在するわけではない。ケインズもいっているように、
経済問題は、生産の問題は恒久的な問題ではない。
重大な戦争と顕著な人口の増加がないものと仮定すれば、経済問題は一
年以内に解決されるか、あるいは少なくとも解決のめどがつくであろうと
いうことである。これは経済問題が
将来を見通すかぎり
人類の恒久的な
問題ではないことを意味する。注
ケインズは近い将来、絶対的必要は満たされることになることを予想して
いる。すなわち、豊かな社会の到来を予想していた。その結果として経済問
題は解決されてしまう。これは経済学は重要な学問ではなくなってしまうこ
とを意味するという。同じ指摘がハロッドによってもなされている。
人間の欲望は満たされることのないものだ、とよく言われます。しかし、
満たされた状態は、思ったほど遠いことではないようです。技術が急速に進
歩すれば、経済的な財が、人々が必要とするだけ(或いは、それに近く)得
られるほど豊富に生産されることが可能です。 満たされることのない
欲
求は、芸術上の精進というような専ら非経済的な目標へ向けられることにな
るでしょう。また、無限に手に入らぬ特殊なタイプの経済的な財が幾つか残
ることはあるでしょう。しかし、それも、人間生活の全体的なパターンから
見れば、あまり重要なことではありません。そうなれば、経済学は、重要な
研究問題としての影が薄くなります。注
シューマッハーはすでに経済問題は解かれたという。すでに経済問題は存
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在しないという。
とりわけ、経済的な問題はすでに解決された収斂する問題であることを悟
るだろう。われわれはいかにして十分なものを供給するかということ、そし
てそのためにはいかなる暴力的、非人間的、侵略的な技術も不必要なことを
知る。経済的な問題は現実にはないのであり、これまでもなかったのである。
だが、道徳的問題はある。そして道徳的問題は解決されれば未来の世代が努
力なしに生きられるような収斂する問題ではない。否、それは拡散する問題
であり、理解され、乗り越えられるべき問題なのである。注
ケインズの指摘は半世紀以上も前である。そしてそろそろ一世紀ほど経と
うとしている。過去
年の間の経済発展は目覚ましいものであったのは事実
である。これはおそらくケインズ、ハロッドの予想を上回るものであったこ
とは間違いないだろう。そうであるとすると、すでに豊かな社会は訪れてい
るのかもしれない。すなわち、経済問題はすでに解決済みの問題であるかも
知れない。
われわれは専門家の意見に大きく左右される環境にある。経済問題につい
ては経済学者が最も理解していると思われている。したがって、経済学者が
経済問題は解決済みであるといえば、解決済みの問題になってしまう。また、
数多くの経済学者が経済問題について論じていれば、いまだ経済問題は解か
れていないと考えられてしまう。
経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合にも間違っている場合
にも、一般に考えられているよりもはるかに強力である。事実、世界を支配
するものはそれ以外にはないのである。どのような知的影響とも無縁である
( )
とみずから信じている実際家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが
普通である。権力の座にあって天声を聞くと称する狂人たちも、数年前のあ
る三文学者から彼らの気違いじみた考えを引き出しているのである。私は、
既得権益の力は思想の漸次的な浸透に比べて著しく誇張されていると思う。
もちろん、思想の浸透はただちにではなく、ある時間をおいた後に行われる
ものである。なぜなら、経済哲学および政治哲学の分野では、二五歳ないし
歳以後になって新しい理論の影響を受ける人は多くはなく、したがって
三
官僚や政治家やさらには煽動家でさえも、現在の事態に適用する思想はおそ
らく最新のものではないからである。しかし、遅かれ早かれ、良かれ悪しか
れ危険なものは、既得権益ではなくて思想である。注
ケインズのいうように、経済学者の影響力は大きいことは認めなければな
らない。しかし、だからといって経済学者の見解が正当なものであるわけで
はない。
ここで重要なことは、生産の問題はかたづいたかどうかを科学の問題にし
ていることである。経済問題が科学の問題として、客観的問題として存在し、
それがすでに解かれたかどうか、それともまだまだ解かれてはいないとする
か、それを問題にしているのである。
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あなたは歌を歌えるか(芹澤)
豊かな社会は実現したか─社会心理学者の見解
経済学者ではなく、社会心理学者の見解に耳を傾けてみよう。
人間同胞(
)の理想はかなりの程度、経済的競争によって促
進された。すばらしい科学的進歩、新しい工場建設、産業機構のさらにめま
ぐるしい進展、これらは人間の物質的繁栄、身体的健康を大いに増進してく
れた。そして、歴史上、はじめて、現代の産業や科学は地球上から飢餓や物
質的欠乏を一掃することの可能なほど大量に生産することができるように
なった。科学と競争的勤勉さが人類を普遍的な同胞愛という倫理的理想へさ
らに近づけつつあると主張しても過言ではない。注
経済的問題は、すなわち生産不足の問題は乗り越えられるべき、ないしは
乗り越えられた問題である。いまや、より同胞愛や倫理的理想の実現にエネ
ルギーを注ぐべきだとロロ・メイはいう。やはり、ワクテルも同様の指摘を
する。生産の問題はすでに解決済みの問題で、その先の問題こそ重要である
と主張する。
すべての鍋にチキンを
という経済的奇跡は、アメリカではほぼ達成さ
れた。われわれはアリストテレス式の経済制限を回避し、彼が生まれながら
の貴族だけのものとした経済力をはるかに超えたところ、アメリカ大衆の経
済状態を引き上げることができた。だがいまこそ、アリストテレスやその他
の思想家が二
年以上にもわたって問いつづけてきた、重要な問題に立
ち戻るときである。われわれは手に入れた豊かさと余暇の可能性を、なんの
ためにどう使おうとしているのだろうか。注
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フロムももはや生産の問題は解決済みの問題だという。
過去数世紀にわたって、誇りと楽天的精神とが、西洋文化を他からぬきんで
たものとしてきた。すなわち、理性の誇りは人間が自然を理解し克服するた
めの道具として働き、また楽天的精神は人類のもっとも深い希望を、すなわ
ち、最大多数の最大幸福を、実現するために働いてきたのである。・・・生
産の問題が
それは過去においては問題であったが
原理的には解決されて
いるということは、ほとんど疑う余地がない。ここに、人間は史上で初めて、
全人類の一体化という観念と、人間のための自然の征服という観念とを、も
はや夢ならぬ現実の可能性として、認めることができるのである。人間が誇
りを持ち、自己自身と人類の将来とに自信を持つのは正当ではないであろう
か?
しかもなお現代人は不安に感じ、次第々々に迷いを深めてゆくのである。
彼は一生懸命に働き、努力しながら、しかも自分の活動は空しいものだと漠
然と感じている。事物に対する自分の力が大きくなればなるほど、彼は個人
的生活と社会的生活とにおいて自己の無力を感じてしまう。自然を使いこな
すための新しい、より良い手段を作り出しながら、彼はそうした手段によっ
てがんじがらめになり、そうした手段に意味を持たせる、ただ一つの目的を
見失ってしまっている。その目的とは 人間自身である。人間は自然の支配
者となりながら、自らの手によって作り出した機械の奴隷になってしまって
いるのである。彼は事物についてあらゆる知識をもちながら、人間存在とい
う、もっとも重要で基本的な疑問については、すなわち人間とは何か、いか
に生きるべきか、人間内の巨大なエネルギーを解放して生産的に用いるには
どうしたらよいか、といったことについてはまったく何も知らないのである。
注
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あなたは歌を歌えるか(芹澤)
社会心理学者の見解では、生産の問題はすでに解決済みのものであり、生
産の問題よりも重要な問題、真の人間の問題に焦点を当てるべきだという。
さて、経済問題が過去の問題、すでに解かれた問題であれば、効用、満足
が実現しているはずである。経済学は基本的に功利主義に基盤を置いている
ことはすでに確認した。そこで、生産の問題がかたづいたということは、満
足が実現することを意味する。ところが、満足が実現していないという指摘
がある。
満足を求めない者がいるだろうか?誰もが満足を求めているにもかかわら
ず、私たちの暮らしには、不満が蔓延している。なにを達成しようが、いく
らお金をかせごうが、いかに多くの幸運に恵まれようが、十分ではないとい
うのが、現代の悲劇である。一つの欲求を満たすと、かならず次の欲求がつ
いてくる。
あなたは高級別荘地に家をもてるかもしれない。世界中のどんな富豪よりも
お金をかせげるかもしれない。それでも、満足感はすり抜けていく。注
豊かな社会は実現した、生産の問題は解決済みである、経済の問題は恒久
的な問題ではないし、現に問題は解決されている。しかし、それにもかかわ
らず、満足感のない社会に生き続けている。これまで手に入らなかったよう
な財、サービスが自由に利用できるようになった。しかし、満足感は、やっ
てくるはずの幸福な社会は実現していない。いわゆる経済福祉の水準は上昇
したことは事実である。ところが、満足感、幸福感はやってこない。
われわれの経済福祉は絶えず上昇しているのに、結果としてより幸福に
なったとは感じていないのである。注
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生産水準は向上し、便利で快適な生活は実現したようだ。無論、すべての
人が快適な生活をしているわけではない。しかし多くの人は裕福になり、貧
しさからの苦痛からは自由になり、これまで貧しかったがゆえに味わえな
かった快楽を味わえるようになったことは事実である。しかし、満足はやっ
てこないのだ、幸福にはなっていない。われわれは思い違いをしているので
はなかろうか。幸福を求めていたのに、結果は幸福の実現ではなかった。
われわれは、いくら水を注いでもコップがいっぱいにならないと感じてい
る。底のどこかに穴があいているのである。注
シューマッハーは、われわれは求めているものを知っている、そしてそれ
を得たと思ったが、実は求めているものとは異なったものを手にしているの
だという。
人はパンを求めているのに、石を与えられている。注
われわれはパンという幸福を求めていた。幸福は快楽の実現と苦痛の回避
だ。快楽の実現と苦痛の回避は生産増大によって実現する。こういう論理で
功利主義は生産増大をその目的にした。
生産は増大したから結果として幸福が実現するはずであった。ところが現
実には幸福は実現しない、満たされていない。
快楽の実現、苦痛の回避は実現したであろう。しかし、快楽と苦痛と満足
は、そして幸福は関係していない。
苦しみとつらさのない文明は、人類の理想のように見える。しかし、苦し
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あなたは歌を歌えるか(芹澤)
みを遠ざける仕組みが張りめぐらされ、
快に満ちあふれた社会のなかで、
人々
はかえってよろこびを見失い、生きる意味を忘却してしまうのではないだろ
うか。注
快楽の実現、苦痛の回避こそがパン、すなわち幸福だ、こう信じた。しか
し、現実は、石は石であって、パンではなかった。すなわち、快楽は実現し
たが、幸福は実現しなかった。
大衆は心底不満であって絶望し、幻滅している。しかし、まさに不満を持
ち、幻滅しているからこそ、全力をもって全体主義への信仰を深めていかざ
るをえない。今手にしているものを失うならば、何が手元に残るというのか。
彼らは、体に悪いことを知りつつ、無限と忘却を求めて麻薬の量を増やす麻
薬中毒患者と同じである。注
豊かな社会になっても問題は、不満は解消されないということはすでに指
摘されていたという。
今日世界全体に目をやると、耕作は日ごとに進展し、人口が増えている
ことは、もはや疑う余地がない。人跡未踏の地はなく、われわれはあらゆる
土地について十分に知るに至り、交易に門戸を閉ざす所は見当たらない。か
つては荒れ果てた危険に満ちた土地が、今では快適な農場に変貌し、昔日の
名残をほとんどとどめていない。われわれは田畑の開墾とともに森林を押し
やり、羊や牛の飼育により野獣を追放してしまったのである。そのうえ、砂
漠にさえも播種し、岩には植樹し、沼地は排水したため、かつては人家がほ
とんどなかった地域さえも、大都市ヘと変貌したのである。地球上には、も
( )
はやわれわれが恐れるような島はなく、険しい岩肌の海岸は消え、あらゆる
場所に人間は住居を構え、政府を置き、文明生活を営むに至った。こうして、
われわれは地上隈無くはびこり人口過剰を来してしまったため、自然の恵み
だけに頼っていては生きながらえることさえ困難な状態に陥っているのだ。
しかもわれわれは欲望を次第にふくらませ、不満を募らせるようになったた
め、生存のための量の獲得はいっそう困難になっている。
こういう状況にあっ
ては、悪疫、飢饉、地震などの災害が過剰人口を減らし、人類を救済してく
れるものと感謝の念で歓迎されるありさまである 。
以上は 霊魂について (
リアヌスが西暦二一
)という論文で、テルトゥ
年に著したものです。これにより、現在私たちが陥っ
ている困難な状況は幾世代も前から継続しているものであることがわかりま
す。私たちはこのままでよいのでしょうか。何か取り返しのつかない事態が
起こってしまったのではないでしょうか。いったい何が問題なのでしょうか。
注
人間は本来幸福にはなれないというのが、フロイトの見解である。
フロイトは人間性に対して悲観的な展望をもっていた。彼の考えの前提か
らすると、必然的にそうならざるをえなかったのだ。彼の見方によれば、人
間はどちらの方向へと向かおうとも不満をいだく運命にあるのだ。人間は、
自分自身や文明をそこなうことなく、初源の本能的な欲動を満足させること
のできる生活を営むことはできないのである。人間は、一人きりであっても、
他人と一緒であっても、幸福にはなれない。人間には、自分が苦しむか、他
人を苦しませるかのどちらかしか選べないのである。注
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
フロイトの言うように、人間は幸福にはなれないのであろうか。幸福とい
うありもしないものを望むことが誤っていたのであろうか。あたかも生産の
問題を解決すれば幸福が得られるとしたことが誤っていたのだろうか。だか
らこそ、生産の問題が解決されたと思わせる環境が整っても、依然として満
足は訪れず、無論のこと幸福にはなれないのだろうか。
それとも、幸福は実現し得るが生産の問題と無関係であったのだろうか。
経済学は、科学は功利主義を暗黙のうちに前提している。ないしは、一般大
衆が功利主義を暗黙の前提にして生きている。一般大衆に奉仕するのが科学、
経済学という現代の学問の役割だと思われている。そうであってみれば、経
済学が一般大衆の欲しいと思っている幻想を提供をするのはごく自然なこと
だ。
科学そのものは、われわれの科学は
否、一切の科学は、生の徴候として
見た場合、そもそも何を意味するか?
一切の科学は何のためのものである
か、さらに辛辣に言えば、どこから生じたものであるか?
どうであろう、
科学性とは事によると単に悲観主義にたいする恐怖、悲観主義からの逃避に
すぎないのではなかろうか?
にたいする?
うか?
一種の巧妙な正当防衛ではなかろうか
真理
また、道徳的に言えば、卑怯と虚偽のごときものではなかろ
非道徳的に言えば、一種の狡智ではなかろうか?注
さらに、科学は現実から目を逸らし、夢見る者を、さらに深く眠り込ませ
るためにのみ役立つだけだという。
理論的文化の胎内に睡んでいる禍つ日が漸次近代人を不安に駆り立て始め、
彼が安き心もなく、従来貯えきたった経験の中から、危険を逸らすための手
( )
段を探し求め、しかも彼自身かかる手段をまともに信じるわけにもいかず、
かくして彼が己れの辿りゆくべき末路を予感し始めている間に、普遍的な才
能に恵まれた偉大な人物たちは信ずべからざる深慮をもって、科学の武器そ
のものを利用することによって科学の限界と制限一般を証示し、これによっ
て普遍妥当性と普遍的合目的性とにたいする科学の要求を断固として否定す
ることに成功したのであった。因果律に拠って事物の最奥の核心を探求し得
ると僭称するかの妄想は、この証示によって初めてその正体を見破られたの
である。・・・楽観主義が、永遠の諸真理に対して何らの危惧をも抱かずこ
れに依拠することによって、一切の世界の謎の認識可能性と探求可能性を信
じ、空間と時間と因果性とを絶対に無制約なもっとも普遍妥当的な法則とし
て取り扱ったとき、カントが暴露したのは次の事実であった、すなわち、こ
れらの法則は本来、マーヤの業である単なる現象を唯一かつ最高の現実に持
ち上げ、この現象を事物の最奥にある真の本質の代わりに置き、これによっ
てかかる本質の実際の認識を不可能ならしめることにのみ役立つにすぎない
ということ、すなわち、ショーペンハウアーの文句に従えば、夢見ている者
をさらに深く眠り込ませるためにのみ役立つにすぎないということであっ
た。注
わたしたちは、科学の持っているその特殊性を充分に認識しながら、それ
が示す問題と、解決のための処方箋を吟味しなければならない。
幸福、満足を求めていた一般大衆は、科学である経済学によって満足が、
幸福が実現することを信じていた。科学にこそ力があると信じていたのだ。
そして、経済学は一般大衆の望みに従うように、ものの所有によって、すな
わち多くの生産が実現することによって、幸福が、満足が実現するというか
たちで問題を定式化した。科学である経済学は、一般大衆が真の幸福の実現
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
という苦難に立ち向かうのを回避する手段を与えたのだ。
しかし、ここで性急に結論を出すのは差し控えなければならない。むしろ、
経済学による、科学による問題の定式化が一般大衆を微睡ます構造を見出し
ておかなければ、さらに科学、経済学はその微睡ます手段を開発するだろう。
それは、功利主義を暗黙のうちに信仰する一般大衆が望むものであるし、や
はり功利主義の虜になっている科学者、経済学者が喜んで提供しようとする
ものだからだ。
( )
ケインズの欺瞞─自己欺瞞?
ケインズが豊かな社会はまだ訪れていない、生産の問題がすなわち経済問
題はまだ解決済みではないとした理由をあらためて考えてみよう。ケインズ
によると、経済問題が解決したことになると、困ったことが起こるという。
経済問題が解決されるならば、人類はその伝統的な目的を奪われることに
なるだろう。
これは、果たして恩恵となるだろうか。人生の真の価値が全面的に信じら
れるならば、この予想は少なくとも恩恵の可能性を開くものである。しかし
数限りない世代にわたる長期間、普通の人のなかに育まれてきた習慣と本能
が、わずか二、三
年のうちに放棄を求められるように再調整されることを
考えると、私は不安を禁じ得ない。
当世風の言葉を使えば、一般的な
神経衰弱
を予想せざるをえないので
はないだろうか。われわれは、すでに私がいわんとしていることを多少とも
経験している。つまりイギリスやアメリカでは、富裕な階級の妻たち、すな
わち不幸な婦人たちの間ではすでにありふれたものとなっているような神経
衰弱がそれである。彼女たちの多くは、その財産の故に、伝統的な努めや仕
事を奪われている 彼女たちは経済的必要という刺戟を奪われると、料理や
洗濯や繕いものに十分な楽しみを見出すことができないにもかかわらず、そ
れら以上に楽しいことを見出すことも全くできないのである。注
このように、経済的必要がもはや切羽詰まったものではなくなると、目的
の喪失が起こる。これは厄介な問題だ。経済以外に価値を、目的を見出せな
い人たちにとって、そしてそれは大部分の人だが、いかに時間を過ごすかが
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
大問題となり、簡単に解決はできない。
人生が耐えられるのは、歌うことができる人たちにとってだけであろう
そして、われわれのうちで歌うことができる者は何と少ないことだろう!
かくて人間の創造以来はじめて、人間は真に恒久的な問題
経済上の切迫
した心配からの解放をいかに利用するのか、科学と指数的成長によって獲得
される余暇を賢明で快適で裕福な生活のためにどのように使えばよいのか、
という問題に直面するであろう。注
豊かな時代が到来したときに、その豊かさを享受することができるのは、
活力を維持することができて、生活術そのものをより完璧なものに洗練し、
生活手段のために自らを売り渡すことのないような国民、歌うことができる
人だけである。
われわれはあまりに長いこと楽しむようにではなく、懸命に努力するよう
に訓練されてきているからである。自らの身を処するということは、特別の
才能をもたない普通の人間にとって恐るべき問題である。とくに彼が伝統的
な社会の土壌や習慣や愛すべきしきたりに根をもっていないとすれば、なお
さらそうである。・・・独立の所得を得ているが、結社や義務や義理をもた
ないこのような階級の大部分は、自分たちに課せられている問題の解決に、
惨めな失敗を重ねているように私には思われるからである。注
豊かになると、恐るべきことになる。そこに幸福はなく、惨めな失敗があ
るだけだという。同じ問題を指摘するのはトルストイである。
( )
われわれのように富裕で、有閑無為なすべての人は、みなこういう狂人な
のだろうか?
そして私は、ほんとうにわれわれがそうした狂人であること
をさとったのである。少なくともこの私は、
まさしくそういう狂人なのであっ
た。注
裕福で、これといった仕事もない人間、トルストイの仲間の大地主は狂人
であるという。トルストイ自身も狂人だったと告白する。また、オルテガも
世襲貴族に関して、自己の力で生み出したのではない、あり余るほどの豊か
さは、欠陥人間を生み出すという。
あり余るほど豊かな可能性をもった世界は、人間の存在形式に自動的に重
大な変形をもたらし、欠陥の多いタイプ、 相続人
という普遍的な種類に
包含しうるタイプの人間を生んだのである。 貴族
はその特殊な一例にす
ぎず、甘やかされた子供もまた別の一例であり、われわれの時代の大衆人も
そのより広汎にわたるいっそう根本的な例である。注
ガルブレイスも指摘する。
富があるために物事を理解するのが妨げられるということは疑いない。貧
しい人は、持っているものが少ないからもっと必要なのだという彼の問題と
解決策とをいつもはっきり理解している。裕福な人は心配事が多くなるので、
それらをどう処理したらいいのかわからないことがそれなりに多い。そして
ゆたかに生活することを身につけるまでは、富の使い方を間違ったり、馬鹿
げたことをしたりすることがよくあるものだ。注
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
この問題に直面したケインズはたじろぎ、まだ生産の問題は解決していな
いと宣言したのだ。ケインズは本当の問題から逃げ、あたかもまだ関わるべ
き問題、すなわち経済問題があるかの如き宣言をした。これには、自分の周
囲の歌を歌えない人々への同情があったのだろう。また自分自身も経済問題
がなくなると、経済学者としては意味をもたなくなる、こう考えたのではな
かろうか。経済問題を解くことで、ケインズは歌を歌っていたのだ。しかし、
解くべき経済問題がなくなれば、ケインズは歌を歌えなくなる、歌を歌うに
は経済学は必要だ、そう思い込んだのかも知れない。歌を歌う手段である経
済学を目的化してしまったのだ。
やはり専門家であったのだ。
専門家に居直っ
てしまったのだ。他者への憐憫の情は自己への憐憫でもあった。自己へも、
他者へも厳しくなかったのだ。自己へも、他者へもやさしくはなかったのだ。
ケインズ自身の絶対善ではなかった。すなわち、他者への、世界への絶対善
でもなかった。いいかえると、真の問題は生産の問題ではなく、人間の問題、
歌を歌えるかどうかの問題であった。しかし、それをすりかえて、生産の問
題にしてしまったのだ。それは自己の真の欲求への道を閉ざすという自己欺
瞞をおかした。さらにはいまだ生産の問題が解決していないというメッセー
ジを与え、一般大衆が真の幸福への道を目指すことを妨げたのだ。難問を一
般大衆につきつけることの恐怖を感じたのかも知れない。そこで一般大衆が
手近に得られるものを与えたのかもしれない。ここで同じ問題を扱ったガル
ブレイスの見解を確認しておこう。
( )
ガルブレイスの敵前逃亡─封印されたのは?
ゆたかな社会が実現しているかどうかについて、ガルブレイスは疑ってい
ない。生産は重要ではなくなった、このように判断する。
生産は、生産される財貨のためにはもはや緊要ではなくなった。・・・し
かし、失業した人は、所得がえられなくて困る。・・・需要および生産の後
退は、近代の大会社にとってまだ防衛策がとられていない主要なリスクであ
る。注
貧困ではない、それは明瞭だという。なぜなら、明らかに感じられる欲望
は既に満たされ、いま重要視されている欲望は、教えられてはじめて認識さ
れる類のものだからだ。そういう意味では、すでに指摘されるまでもなくわ
かっている欲望、自知されている欲望はすでに満たされているのだ。
貧困が世界の致るところにみられても、われわれが貧困でないことは明ら
かだ。食事、娯楽、交通、水道やガスなど、一世紀前には金持でも享受でき
なかった楽しみや便宜を普通の人でもえられるところでは、貧困の世界で急
務とされていたことは意味を失ってしまう。人々のたくさんの欲望がもはや
その人自身にもはっきり意識されないほど、時代は大きく変わっているのだ。
広告やセールズマンにより、いわば合成され仕込まれて初めて欲望がはっき
りするほどである。そしてまた広告やセールズマンの仕事は現代の職業とし
て最も重要で手腕を要するものの一つとなっている。十九世紀のはじめには、
自分の欲しいものが何であるかを広告屋に教えてもらう必要のある人はいな
かったであろう。注
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
さらに、本当には生産を重要視していない証拠、豊かな社会になっている
証拠として、われわれに問いかける。
過去の緊急事態に際して、われわれは生産増加のための措置に真剣に取り
組んだ。現在同じことをしようと思っても、おそらく失敗するであろう。そ
れは無知や惰性のためというよりは、むしろ無理な努力をしてまで生産を増
加する必要は認められないという理由によるものである。換言すれば、生産
に対するわれわれの関心はそれほど重要度の高くない問題に対する関心なの
かもしれない。生産増加のための有効な手を打とうと考えるほどには生産増
加に熱心でないのだ。われわれは生産の現状に満足している。ということは、
問題がひとりでに解決するかぎりにおいてしかわれわれは生産に関心をもっ
ていない、というのに近い。注
このようにガルブレイス自身は豊かな社会になったことを確信している。
しかし、社会一般は、一般大衆はこのことを理解しない。豊かであると指摘
されても、生産重視を改めるのが適切であったとしても、そこに困難がある
なら、豊かさであることを認めることはできない。豊かであることを認める
ことは困難と向かい合うことになる、一般大衆は困難を避けたいのだ。困難
を避けることがすべてになる。
観念が人に受け入れられるようになるのにはいくつもの要因がある。われ
われは真理と便宜とを結びつけて考えることがかなり多い。ここで便宜とい
うのは、利己心や個人的な幸福に最も密接に合致したもの、または無駄な努
力や生活の破綻を避けるのに最も好都合なもののことである。また、自尊心
に貢献することも非常に受けいれやすい。注
( )
われわれは理解しやすい概念、受け入れやすい概念にしがみつくのだ。利
己心はわれわれにとって一番わかりやすいし、したがって受け入れやすい。
これに対して、利己心を超えることは、大変な努力を要求する。したがって、
易きを求める人間としては、遠くにあって努力を必要とする概念は避け、近
くにある、効用、快楽という概念を当然のこととして支えとする。
おぼれそうな人がいかだにしがみつくように、最も理解しやすい観念にし
がみつく。このことは既得利益の最高の表現である。というのは、知識の既
得利益は他のどんな宝物よりもいっそう大切に保護されているからである。
人々が以前によく勉強したことを弁護するに当って宗教的な情熱にも似た態
度を示すことがよくあるのは、まさにこうした理由によるものである。注
また、緊急事態が発生しているのではないかと思わせる事態になっても、
簡単にこれを処理できないと思われれば、問題を先送りする傾向がある。
必要緊急の仕事を避ける最良の方法の一つは、済んだ仕事に没頭している
ようにみせかけることである。注
このようにして、豊かさが実現していても、あたかもまだ貧しく、したがっ
て相変わらず生産が問題だと思おうとするのだ。
さらに豊かさが実現しているとしても、それを前提とできない構造がこの
社会にはあるのだ。
ゆたかさが経済上の事実であると仮定して議論することがとくに便利であ
るとか、容易であるとか考えてはならない。それどころか、そうした仮定は
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
多くの重要な人々の威信と地位を脅かし、新しい思想に直面する大きな恐怖
をあらわにするのである。われわれがここで直面するのは、既得利益の中で
も最大のもの、つまり精神の既得利益である。注
しかし、豊かな社会を豊かだと認められない構造はあるが、だからといっ
て豊かさを認めず、相変わらず生産が問題だとしておくと、せっかく手に入
れた豊かさ自体を失う羽目になりかねない。
自己を誤解したゆたかな世界にとっての諸問題は深刻で、ゆたかさ自体を
脅かすことにもなりかねないが、貧困な世界にあっては、差し迫った貧困が
あるというだけでのことからして、誤解などというぜいたくなことはある筈
がないが、同時に何の解決策もある筈がないからである。注
しかしこのことが可能であったのは、まだまだ生産の問題であるというこ
とを信じさせる構造があったものと思われる。
経済学は本来、経世済民が、したがって幸福の実現こそが目的である。し
かし、伝統的経済学は、さらに一歩踏み出し、功利主義に従い、快楽・苦痛
の次元で捉えた効用を最大化することが満足をもたらし、幸福になると前提
される。効用、満足を実現することは財の消費によって実現する。かくして、
満足が、幸福が実現しないとしたら、それは消費が不足しているからだ。す
なわち生産の増大によってやがて幸福は、満足は実現する、こういう構図で
ある。さて、生産が十分に増大しても相変わらず生産第一主義で推移してい
る原因を、ガルブレイスにしたがって整理してみよう。
ガルブレイスによると、そもそも生産第一主義が当然のこととされる背景
がいくつかある。まずは、富の再分配の問題である。貧富の差があれば、富
( )
の再分配の問題が起こってくる。これを解決するのは難しい。しかし生産が
増大するならば、貧富の差を解消する方向で分配できる可能性が生ずる。こ
れは生産増大を正当化することになる。
昔は生産が第一の関心事であり、近代には保障が広く求められるように
なったが、これらは現代では生産にたいする関心に集約されることとなった。
実質所得がふえれば、富の再分配にからむ昔の恨みを買わずにすんでしまう。
高水準の生産は有効な経済的保障の基礎となった。注
さらに国家の生き残りをかけた競争も、生産増大を正当化することになる。
これらの要因は、生産がいくら大規模になっても、生産そのものの重要性は
失われない根拠を提供する。というのも、絶対的に生産が増大しても、分配
の不平等は必ず残っている。分配の不平等是正に対する要請が存続するかぎ
り、生産増大の重要性は減ずることはない。また、国家の生き残りをかけた
生存競争に勝つためには、仮想敵国に対して優位に立たなければならない。
優位は相対的ということだから、生産がいくら増大しても、その重要性は大
きくなることはあっても、小さくなることはない。
生産増大に伴う国家的威信の競争もこの点に関係する。その結果、生産自
体の重要性が巧妙に弁護されることとなった。この弁護論によると、生産の
重要性は生産規模とは別個のものてある。注
ガルブレイスによると、経済学者は生産の重要性に対して特別な既得権益
をもっているという。伝統経済学の中心課題は生産である。生産の重要性を
前提にして経済学は構成されている。そういう経済学を教えている立場から、
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
もし生産の重要性を取り除いてしまうとしたらどうだろう。経済学の中心課
題がなくなってしまうとしたら、どうだろう。これまでの教育を否定するこ
とになってしまうであろう。また、教えるべき中心課題がなくなってしまう。
これでは職業としての経済学は成り立たない。
通念が生産をどのように正当化しているかという事情を、社会にたいする
生産の特殊な重要性ではなく、経済学にたいする生産の特殊な重要性という
点からまず見ることにする。生産における既得利益についてはのちに考察す
ることにして、ここで注目すべきことは、経済学者が特別な既得利益をもっ
ていることである。生産の重要性は経済学者の経済計算の中心である。あら
ゆる既存の教授方法も、またほとんどすべての研究も、生産の重要性という
基礎の上に立っている。与えられた資源からの生産を増加させる行為は善で
あり、重要とされている。生産を抑えたり滅少させたりするものはどんなも
のでも、その程度に応じて悪であるとされている。注
このように、経済学のもっている構造も、社会の構造も、生産第一主義か
ら脱却しにくい構造を持っている。
豊かな社会になった、すでに生産は重要な問題ではなくなった、こう認め
ることの困難については十分論じた。そこで、正面突破を試みるしかない。
ガルブレイスは過去の経済学者であるマーシャルを引用する。
経済学では目的は問わないという不文律があった。目的を問うというのは
はじめから封印された問題であったのだ。
経済学は財貨に関するものだが、・・・その財貨について判断を下す権利
はないとされた。財貨が必要なものか不必要なものか、重要なものか重要で
( )
ないか、というようなことは、経済学の領域には入らないものとされた。ア
ルフレッド・マーシャルがこの点に関して与えた規則は、ほかの多くの場合
におけるのと同様に、それ以後の経済学者によって忠実に守られている。
マー
シャルは次のように述べている。 経済学者は精神状態の現れを研究するの
であって、精神状態それ自体を研究するのではない。経済学者は、いくつか
の精神状態が同じような行動意欲を起こさせるものであることがわかれば、
彼の目的上、まずそれらを同様に取り扱うのである。
注
しかし、マーシャルはこれが最終的目的地点であるとは考えていなかった。
彼はそのすぐあとで、このような単純化は
出発点 にすぎないと付言し
ている。この単純化は経済学を科学的にする上において非常に貢献したのは
事実だが、その後の経済学者はいつまでもこの出発点にとどまることに満足
していて、またそれが学者的慎みであり、科学的な美徳であるとして満足し
ていた。こうした慎みの必要は若い学徒の心の中に強くたたきこまれている。
いっそう多くの食料がほしいという欲望は正しく、もっと高価な自動車がほ
しいという欲望は軽薄である、というようなことをいいたくなる人は、経済
学の訓練が全然なっていないとされてしまう。注
こんなふうに、目的を問わないことが経済学の姿勢となった。ロビンズも
同じである。目的に対しては問わない、いかなる目的をも研究対象、価値判
断から自由というのがロビンズの立場である。
経済学は、所与の諸目的を達成するために諸手段が希少であるということ
から生ずる、〔人間〕行動の側面を取扱うものである。このことの当然の帰
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
結として、経済学は諸目的の間では全く中立的であることとなる。換言すれ
ば、およそいかなる目的にせよ、その達成が希少なる手段に依存するかぎり、
それは経済学者の第一の任務と密接な関係をもつこととなる。経済学は目的
それ自体を取扱うものではない。経済学は、人間は、定義され理解しうる行
動をなす傾向をもつという意味において、目的を持つものと想定し、そして
その目的に向かっての前進が手段の希少性によってどのように制約されてい
るか
この希少な手段の処分がこれらの究極的な価値判断にどのように依存
しているか
をたずねるのである。注
生産が重要ではないということはすでに認識された。それにもかかわらず、
生産が重要だと思わせることは、他の問題をひき起す。
われわれが生産それ自体をかくも重要視する原因となっている幻想の体系
は、それ自身危険な、害悪のあるものである。注
生産こそが重要だということは、生産を可能にする需要が存在しなければ
ならない。しかし、もはや自発的な需要は存在せず、したがって生産を正当
化するためには需要を創出しなければならない。ここに登場するのがガルブ
レイスの依存効果である。しかし、ただ単に需要を創出したとしても、支出
に結びつかなければ意味がない。しかし、支出を可能とする資金がない。そ
こで消費者金融が普及することになる。
今日の欲望造出方法における一つの危険は、それに関連した負債発生過程
である。消費者の需要は、消費者の借金する意志と能力とにますます依存す
るようになる。注
( )
わが国でも問題になっている消費者金融がひき起す負債の問題である。消
費者金融の根因は依存効果にある。また、デモンストレーション効果を利用
した依存効果にある。企業が多額の宣伝広告費をかけるというのに、借金の
面倒を考慮するのは当然だという。
何十億ドルものかねを使って人々の欲望をかきたてているほどの社会が、
これらの欲望のための金融までもみてやらないとしたら、むしろ不思議とい
うべきであろう。そしてさらに、これらの欲望を実現するための借金が負担
の軽い望ましいものであることを人々に説得するとしても、それは当たり前
のことだ。事実そのとおりになった。消費者金融に関する宣伝と消費者金融
の仕組みは、物資の製造や欲望の育成と同じく、近代的な生産の一部となっ
ているのだ。ピュリタン的な精神が放棄されたわけではない。それは近代的
販売の巨大な力に圧倒されたにすぎない。
この過程全体を眺めると、消費の増加は消費者負債の
上の 増加をもたらすと考えてよかろう。
おそらく比例的以
注
造られた欲望を満たすこと、そのために借金地獄を造り出すこと、これが
当然の帰結であるなら、生産重視の構造は改められなければならないだろう。
ガルブレイスの認識は正しい。そこで古い目標である生産重視が否定された
なら、新しい目標が必要とされる。
古い目標が疑わしいものになれば、新しい目標に対する関心が次の思想的
な仕事であるばかりでなく、それは避け難い仕事である。注
しかしここには大きな困難がある。真正面から通念と対決せざるを得ない
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
のだ。
これは通念との正面衝突である。通念はそのいわゆる建設的批判なるもの
を尊重し、純然たる破壊的あるいは否定的な立場とでも呼ばれるであろうも
のを軽蔑する。このことの中に、いつもながら、通念は健全な自己保存本能
を示すのだ。注
すなわち、これまでの通念である生産重視が否定されたら、何を目標とし
たらいいのかという問題である。具体的目的なしには、通念は我慢できない
のである。
通念は次のようなことを要求するかもしれない。どのようにしてわれわれ
は生産に対する現在の先入主から脱却するのか。より多くの財貨のためによ
り多くの欲望を製造するという果てしない競争からどのようにして脱却する
のか。この競争をやめることによってわれわれの生活に生ずるであろう一見
巨大な真空状態を何によって埋め合わせるのであるか。財貨に対する従来の
考え方を放棄するとすれば何が幸福の象徴になるのか、と。注
功利主義では、生産が幸福に寄与するという基準をもっていた。これはわ
かりやすい基準だ。これを否定したとき、どうなるだろう。
公共政策のベンサム的な基準は
何が最大多数の最大幸福に奉仕するか
ということであって、その幸福とは、多かれ少なかれ暗黙のうちに生産性と
同一視されていた。これがいまでも公式の基準となっている。最近ではこの
基準はきびしく守られていない。財貨の重要性の減退は、認識されるまでに
( )
はいかないとしても、感知されている。それなのにわれわれは、その堕落し
た形においてこの基準にすがりついている。同情、個人の幸福と福祉、社会
的緊張を最小限にとどめることなどの他の基準にとりかえるよりも、古い基
準を守っている方がはるかに簡単である。しかし今では、このような他の基
準こそ、適切なものとなっているのだ。注
そこで幸福の問題に真正面から取り組む姿勢を一応見せるのだが、やっか
いな問題だとすぐに引き下がる。
幸福という概念は哲学的正確さを欠いている。幸福の実体についてもその
源泉についても、意見は一致していない。 生の流れとの深い本能的な結合
が幸福であるということを知っても、何が結合されるのかわからない。注
ラッセルを引用してわからないという。そこで、話を転換して、これまで
のやり方を批判する。すなわち、これまでのやり方、財貨と幸福を同一視す
ることを直接攻撃することを批判する。
財貨と幸福との同一視を直接に攻撃することは、いま一つの欠陥をもって
いる。学術的に論議は、闘牛や古典バレーと同様に、それなりの深いルール
があり、それを尊重しなくてはならぬ。この舞台においては、公衆一般が認
めている価値を攻撃し、自分自身の価値によってとって代えようとしている
とみなされる人に対して、最もひどいマイナスの点数がつけられる。技術的
には、彼の罪は傲慢さである。実際にはそれはルールの無視である。とにか
く彼は自動的にゲームから除外されてしまう。現在の経済的目標の神聖さを
いぶかった人
唯物主義と俗物主義をやっつけてやろうとした人
( )
は、過去
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
においていつもこのような誤りを犯した。彼らは、人間の幸福を増進するも
のについて自分自身の見解を発表した。そのためにかれらは、大衆一般の粗
雑な経済的目標に代えて、もっと敏感で洗練されてはいるが不適切な独自
の目標を持ち出した、といってたやすく非難された。この非難は致命的であ
る。注
経済的目標の神聖視を攻撃することは大衆一般から非難されるからやめた
方がよいという。そして、それはルール違反だからという。そこでガルブレ
イスはこの問題を回避する。それが賢明だからだという。大衆はこわい、大
衆を敵にしたくはない、大衆に疑いを抱かせながら、すなわち大衆の愚かさ
を指摘しながら、大衆の受け入れる範囲内での批判をしながら、それを超え
る批判はしない。それは自分の存在を危うくするのだ。
幸福とそれをもたらすものについての問題は回避された。数学者やその他
の少数者でなければ、賢明にも避けて通れる問題をわざわざ解決する必要は
ないからである。そうではなくて、本書の議論は、とりわけ財貨の生産に関
するわれわれの現在の先入主が、伝統と神話とによっていかに広汎に強制さ
れているか、ということをもりことに向けられてきた。こうした強制から解
放されたときにはじめて、われわれはそれ以外の機会を探求する自由を得る
のだ。これらの別の機会は、幸福と少なくともなんらかの関係があろう。し
かし、生活をよりよくするものに関する自分の感覚とこれらの機会とを調和
させることは、読者が決めることであり、また(これらの機会の多くは国家
活動によってのみ提供されるものであるから)民主的な手続に期待したい。
注
( )
賢いガルブレイスは、このように幸福の問題には踏み込まずに、最終的に
は個人の判断だとする。しかし、自分は責任を果たした。君たち大衆人は愚
かなことをしている、このメッセージだけは伝えたのだから。
からの部屋に家具をそなえることと、基礎がくずれるまで家具をつめこみ
続けることには、全く別のことである。財貨の生産の問題の解決に失敗した
ならば、人間は昔ながらのひどい不幸の状態を続けたことであろう。しかし
その問題が解決済みであることを見そこない、一歩前進して次の仕事にとり
かからないでいることも、同様に大きな悲劇であろう。注
ここで、ガルブレイスが退いた根源的な原因を探っていこう。
生産能率とたえまない労働との奴隷になっている状態から逃げ出せば、機
会が開けてくる。しかし、貧困の世界とゆたかな世界とを結ぶ最後の橋を架
けることが必要である。貧困の世界にあっては、今みたように、労働せざる
をえないという事情が財貨の必要を強力に擁護している。働かない人は、よ
ほどの幸運に恵まれないかぎり、所得を完全に失うという罰を受けた。この
罰によって強制されているのは、今でこそ比較的重要でない財貨の生産なの
であるが、この罰が広くおこなわれている事実にはかわりない。この問題を
解決しないかぎり、われわれがゆたかさの幸を刈り取ることができないこと
は明らかであろう。注
所得を失うこと、これが回避されないかぎりゆたかさの幸は享受できない
という。いかに社会がゆたかになったとしても、個人個人は所得が失われる
可能性がある。その危険を回避するためには、働き続けなければならない。
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
ゆたかさを享受できないという。
さらにそこで生まれる貧困は人間としての品位を損なわすという。
貧困は残っている。ある意味では貧困は物理的なことである。貧困な人は、
食物は限られ、不十分で、衣服は貧弱で、住居は混雑し、寒く、きたない。
その程度がひどいので、生活は苦しく、寿命は短い。しかし、生活水準に関
する事柄においては、すべてが相対的だとするのもあまりに安易だが、すべ
てを絶対的に考えるのも誤りである。人の所得が、生きていくにはたりるも
のであっても、社会的な所得水準よりはるかに低い場合に、その人は貧困な
のである。そのような場合には、彼は、品位を保つのに必要最小限と社会的
にみなされるものを持ち得ない。したがって彼は、社会から品位がないと判
断されても仕方がない。社会的に満足と考えられている程度以下の生活をし
ているので、彼は文字通り堕落しているのである。注
所得を失うこと、それによって品位を失うこと、これは悪だという。これ
には耐えられない。これがガルブレイスの立っている土台だ。これについて
は、付論
で取り上げることにする。われわれは、ガルブレイスが退いた地
点から前進してみよう。ただ単にそれぞれの解決する問題だ、ただわれわれ
は愚かな行為を強制する構造の中に放り込まれている、そこで終わらずに一
歩進んでみよう。
( )
歌を歌うこと─生産の問題が消える
生産水準が上昇しても神経衰弱の人たちが増える。これは豊かな社会の
由々しき問題だ。これがケインズの指摘である。また、オルテガ、トルスト
イ、ガルブレイスの指摘でもある。しかし、よく考えてみよう。神経衰弱が
増加して、しかも豊かな社会が実現したといえるであろうか。ここでもう一
度出発点を見極めなければならない。出発点は私たちの望ましいことの実現、
幸福の実現である。
望ましいこと、それは善である。善であることの表現が豊かさである。そ
して豊かさの否定として貧しさがあった。ここで、常識的な理解に依存する
と、貧しいというのは持つものの量が少ないことである。そして、少ないと
いうのは、科学的な観点から導き出した基準を基にしてのことだ。
ここで科学的な基準はどのようにして導き出されるかというと、その社会
のある水準(たとえば、平均的水準、ないし平均的水準よりも少し低い)で
ある。この水準についての合意は科学者、職業として科学に携わる人たちの
合意のもとに、客観的に決められる。そして、このようにして決められた客
観的基準は、権威ある専門家の手になるものであるから、神聖にして不可侵
な基準と受け取られる。専門家の示した命題は、部外者である素人にとって
は絶対的な基準になる。
ここでこの基準をつぶさに検討してみよう。
まず、
客観的基準を下回る人々
は、貧しいと判断される。また、客観的基準を上回る人たちは、豊かである
と判断される。ここでもう一度確認したいのは、豊かさは善の表現である、
幸福の表現である。貧しさは、悪の表現であり、不幸の表現である。したがっ
て、持つものが客観的基準を上回っていれば、豊かであり、善であり、幸福
であることになる。また、持つものが客観的基準を下回っていれば、貧しく、
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
悪であり、不幸であることになる。
ところが、このようにして豊かさ、貧しさを定義しても、現実はこれとか
け離れていることは明らかである。そして、こんなふうにして豊かさ、貧し
さを定義しても、無意味であることは誰でも知っている。したがって、具体
的に客観的基準を示すことはしない。そんなことをすれば嘘をいっているこ
とがすぐに明らかになるからだ。しかし、暗黙の基準のかたちで示すならば、
誰も反駁はできない。というのは、具体的な基準があってこそ反証をするこ
とができるからだ。暗黙の基準では反証しようがない。したがって暗黙の基
準を示すことは安全である。さらに客観的な基準が存在することを誰でも確
信しているから、客観的基準は受け入れられやすい。一般大衆の望むものを
与えることは科学者の仕事である。こうして、人間の意識から独立した客観
的基準が存在するという信仰が現実のものとなる。
外的な単位を用いた測定法による基準の外面的な表示と、肉体の健康や社
会秩序や精神的調和の中にある普遍的な比などの基準の内面的意味の双方に
関して、基準という観念がますます紋切り型になり、習慣的なものになって
いったからであろう。人々は、
基準という観念を先輩や教師による教育に従っ
て機械的に学ぶようになったのである。誰もが自らが学んでいる比や比率に
ついてのより深い意味を、内的な感情や理解を通して創造的に学びはしなく
なった。いつの間にか基準は、人間に対して外から課される規制の一種であ
ると教えられるようになった。人はそれまでとは逆に自分の全活動分野に対
して肉体的、社会的、精神的な基準を外から課すことになった。そのため、
基準を洞察の一形式とは考えず、 実在についてのありのままの絶対的真理
であるとする考え方が優勢となった。ついに人々は、絶対的真理を知ったと
まで考えるようになった。絶対的真理の起源は、その存在を疑問視すること
( )
さえも危険であり罪深いとされる神によって与えられた、義務的な命令であ
るとしばしば神話的に説明された。基準が何であるかは、以上のような無意
識的な習慣に従って考察された。その結果として、基準は、人間の意識から
独立で直接的に観察しうる客観的実在を表すものとみなされるようになった
のである。注
こうして、反証されず、しかも一般大衆の欲しがるものを与えることに科
学者は成功する。また、一般大衆は望んでいるものを手に入れることで安心
して生活できる。善、幸福を実現する手っ取り早い手段を手に入れるからで
ある。自分の欲しいものがわからないというのは、苦しいものである、つら
いものである。しかし、いまや自分の欲すべきもの、善がいまや明確になる。
それさえ実現すれば幸福になれると思われるのである。
そして、この基準は曖昧な定義をされているので、当初の基準が満たされ、
従って幸福が実現するはずであったとして、しかも実際には実現しないとし
ても問題にはならない。当初の基準が低すぎたのだ、だから幸福が善が実現
しない。客観的判断として示された基準は暗黙のものであるから、解釈の余
地はある。したがって、安心してよりいっそう上を目指して、基準をクリヤー
すべく目指すことができる。この構造が嘘になり、したがって目指す目標が
不明瞭になることは厄介だ。善が、最も望ましいこと、望むべきことが見出
されないからだ。精神的病のもとになってしまう。
かくして、暗黙の客観的基準が満たされて、しかし豊かさが感じられなく
ても、いつまでも満たされなくても、この構造にしがみつく。さらに、自分
が満たされなくても、他者は満たされているように見える。自分の不幸はよ
くわかるが、他人の不幸はわからない。表面上は他人は少なくとも不幸のよ
うには見えないからだ。あたかも幸福であるかのごとく、そしてそれは豊か
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
であるからだと判断される。そして問題を起こして、不幸であることが明ら
かになった人間については、その不幸の理由がさまざまの物理的、社会的条
件に依存していることが科学によって分析済みである。科学者、神聖な現代
の聖職者が証明していることだし、これは一般大衆の信仰とも合致する。か
くして、やはり、不幸は豊かさでないこと、所有するものが不足するからだ、
という結論を確認することになる。
以上より、豊かさは善の指標であり、所有するものの水準が基準を上回れ
ば、豊かさが実現し、幸福になる。
しかし、このように多くのものを基準以上に所有すれば豊かになれる、幸
福になれる、という命題に反する証拠を示す人たちが少なからず存在する。
トルストイの富裕な仲間たちである。オルテガの世襲貴族の悲劇である。さ
らに、われわれの周囲にも所有の量的多さについては明らかに申し分ないが、
幸福とは無縁の、善が実現していない人々が少なからず存在するのを知って
いる。逆に、所有の量的多さは明らかに問題があるが、幸福そのもの、最も
望ましいことを実現している人を知っている。 聖書
でいう、
“人はパンの
みにて生くるにあらず”である。
幸福は、ものの所有とは関係ない。こんなことは経済学以外では当たり前
であるが、経済学の強い影響を受けた社会は、ものの所有こそが豊かさ、幸
福の実現になると思い込んでいる。少なくとも、幸福、善の必要条件として
ものの所有を考えている。また、その他の学問、科学においても同様である。
しかし、ケインズが言うのは、豊かになっても幸福でない人間、神経衰弱
に悩まされる人々のことである。そして、これこそが解決しなければならな
い問題で、現実に発生しており、経済的に裕福な、持てる階層にとって深刻
な問題になっているという。
ここで、ケインズが指摘しているのは、明らかに豊かになっても真に豊か
( )
にならない、真に幸福にならない、善を実現できないということである。生
産の問題が片付いて、必要から自由になっても、神経衰弱の問題に悩む多く
を所有する人々の存在は、所有の多さは、それが相対的であっても、絶対的
であっても、それは幸福や善、豊かさとは無関係だということだ。
だからこそ、歌えない人こそが問題であって、歌えない人がいなくなれば、
生産の問題は解決したと堂々と宣言できるのだ。したがって歌えない人がい
る現状では、そして所有が多くなればなるほど、歌えない人の存在が問題と
なる構造の中では、生産の問題がかたづいたとは宣言できないのだ。
この姿勢は卑怯な欺瞞的なやり方だ。さらに自己をも騙していることにな
る。なぜなら、人間はそもそも歌えない、幸福にはなれないと信じているか
らだ。自分の仲間に対して、自己と切り離せない他者に対して歌える存在で
はないということは、他者と切り離せないこの自己も歌えない存在と信じて
いることになる。ないしは、信じさせてしまう。そこで、可能性を閉じてし
まうからだ。
われわれは、むしろ他者も自己も歌を歌える存在だという可能性を信じる
べきではないか。そこに客観的な、誰でも認めるような証拠を示すことはで
きないが、そこにそのような信仰がないということは、悲しいこと、寂しい
こと、不幸なこと、望ましいことではないからだ。
むしろ、自分も歌を歌える可能性を信ずる、自己と切り離すことのできな
い他者も歌を歌える可能性を信ずる。それは可能性でしかないかも知れない
が、このことによって自分と自分から切り離せない他者を豊かにする、幸福
にする、望ましいことを目指すことになるからだ。そこにこそ善が実現する。
ケインズは疲れたのかも知れない。老年になって疲れてしまった、不幸に
なってしまったのかも知れない。国家を代表して外交を担当し、経済学も最
終的には手段の学問だとみなすことになったケインズ、功利主義を否定しな
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
がら、功利主義を前提とする人々とつきあう。しだいに、世間の欲するもの、
それを実現することのほうへ迎合していったのかもしれない。
しかし、若き日のケインズは疲れを知らない、幸福な、豊かな、善を実現
する存在、歌を歌える存在であったと考えられる。手段の学問ではなく、目
的そのものを見る、道徳科学者であった。そして、手段である経済学を通じ
て歌を歌ったのだと考える。 若き日の信条
の中に、歌を歌うことのヒン
トがあると思われる。若き日のケインズにしたがって、歌を歌うことの可能
性について考えてみよう。
ケインズの受け入れたムアの宗教とはいかなるものであるのか。ケインズ
は歌を歌ったと考えられる。少なくとも、歌を歌うことができることが重大
事であり、それは望ましいことであり、求めるべきものであることは認識し
ていたと考えられる。その結果が、 一般理論
となって著わされたのであ
ろう。
若き日の信条
は、晩年に書かれたもので、若い頃傾倒したムアの宗教
をベースにして彼の生きざまについて論じられている。そして、ムアの宗教
は、晩年になってふりかえっても意味のあるものだと判断されている。
顧みると、われわれのこの宗教は、そのもとで成長していくには絶好のも
のであったと、私には思われる。今でも、それは、私の知っている他のいか
なる宗教よりも真実に近いものであり、無意味で見当違いなところが最も少
なく、恥ずべきところも全くないものであった。注
このように、晩年になってからでも、受け入れるに値するムアの宗教では
あったが、われわれとは本質的に異なった基盤、ケインズの同世代であって
さえも理解できない基盤に立っていたであろうと想像される。とりわけ、経
( )
済学を研究しているわれわれが理解できない点として、われわれがベンサム
主義の虜になっていることである。これに対して、ケインズは反ベンサムの
立場に立っていたことをまず確認しておかなければならない。
要するに、われわれは、われわれの世代の中でベンサムの伝統から脱出し
えた最初の、また多分唯一のグループだったのである。もちろん、実際は、
少なくとも、私に関するかぎり、外の世界を忘れたり、否認したわけではな
かった。注
功利主義を否定していることは、次のことからも明らかである。
ベンサム主義的伝統こそ、近代文明の内部をむしばみ、今日の道徳的退廃
に対して責任を負わねばならない寄生虫であると考える。注
経済学者、通常の経済学を当然視すると、功利主義の呪縛から逃れること
はできない。しかし、功利主義を超えることは、通常の科学、通常の経済学
を超えて、歌を歌うためには必須であろう。また当然のこととして、反世俗
的であったという。
われわれの宗教が全く反世俗的であって、富、権力、名声、あるいは成功、
それらのどの一つに対しても関心を示さず、全く軽蔑していたということが
それを完全に示している。注
ケインズはムアの宗教と呼んでいるが、具体的な宗教、具体的な絶対者に
拝跪するようなものではなかったようである。しかし、われわれとは異なり、
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
宗教を身近に感じ、それが生活の中にしみ込んでいた。
私は、われわれの世代、貴女や私の世代の人間が、私たちの両親の宗教に
非常に多くのものを負っていたということを、考えるようになりました。だ
が、そうしたものなしに育てられている・・・今の若者たちは、生活から多
くのものを得るということが決してないでしょう。彼らは欲望に飢えた犬と
同じであり、取るに足りぬ連中です。われわれは両方の世界の最上のものを
もっています。われわれはキリスト教を破壊しましたが、なおその恩恵に浴
しています。注
その雰囲気を示すものはいくつかある。
つきつめた瞑想と深い内省の生活が、ほかのあらゆる目的を排除する傾向
にあった青年時代・・・。注
神学が骨の髄まで染み込んでいたという。
神学は彼の骨の髄にまで染み込んでおり、神学と経済学との間の距離は今
日よりずっと近かった。注
宗教というと、われわれは科学と対立する、狂信的な側面が強調されがち
である。しかし、それは宗教に対する偏見である。宗教は多くの科学者に受
け入れられ、科学の発展にも寄与している。いや、むしろ宗教なき科学は、
適切な発展ができないとアインシュタインもいう。
( )
科学は、真理と理解にたいする熱望を、徹底していだいている人々によっ
てのみ創造されます。しかしその感情の源泉は、宗教の分野から派生するの
です。存在の世界に妥当する諸規則は合理的である、すなわち理性によって
理解しうるのだ、という可能性への信仰もまた、宗教の分野に属します。私
には、この深い信仰をもたない真の科学者を考えることができないのです。
この事態は、ある物象で表現しえましょう。すなわち、宗教なき科学は歪ん
でおり、科学なき宗教は盲目なのです。注
アインシュタインはケインズと同じ世代、神の死を経験した世代である。
彼らの頭では神は死んだかもしれない。しかし、まだまだ宗教心が残ってお
り、それが日々の生活の中で生きており、無論、その研究生活にも陰に陽に
現れていたということができる。以上のことを考慮しながら、ケインズの宗
教に心を傾けてみよう。頭ではなく、論理ではなく、心で、感情で聴いてい
こう。
われわれがムーアから手に入れたものは、彼がわれわれの前に差し出した
ものの全体ではなかった。彼は片足を新天地の敷居の上にのせてはいたが、
もう一方の足は、シジウィックやベンサム流の計算、すなわち正しい行動に
関する一般法則のなかに突っ込んでいた。 倫理学原理
のなかには、われ
われの関心をいささかも惹かない一章があった。われわれは、いわば、ムー
アの宗教を受け入れたが彼の道徳を捨てたのである。それどころか、実際、
われわれの意見では、彼の宗教の最大利点の一つは、宗教が道徳を必要とし
ないところにあった。すなわち、 宗教
する人間の態度と定義し、 道徳
を、自己自身、および絶対者に対
を、外部の世界、および自己と外部の間
の媒介物に対する人間の態度と定義しているからである。注
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
宗教を自己自身、および絶対者に対する人間の態度であるという。絶対者、
自己自身、これらは日常経験している自己を相対化していることを示す。日
常的な自己を相対化し、絶対的なものではないと断ずること、そして明らか
に無知の知を前提に、絶対者の前に謙虚に立つこと、ここから宗教は出発す
るということだ。
宗教において重要視されるのは、もちろん、われわれ自身と他の人々の心
の状態以外にはないのだが、とりわけ、われわれ自身のそれが問題であった。
これらの心の状態は、行動や成果、あるいは帰結と関連づけられないもので
あった。・・・有機的統一の原理によれば、心の状態の価値は、全体として
の状態に依拠していて、部分に分割して分析することが無意味なものである。
注
宗教において重視されるのは、心の状態、自分自身の心の状態である。こ
れを抜きには宗教はない。しかも、心の状態の価値は部分に分割できるよう
なものではない。部分、部分に分けて吟味するのではなく、全体を統一的な
かたちで感ずることだ。
このようにムアの宗教を受け入れたケインズ、また功利主義を否定したケ
インズは善をどうとらえたのであろうかを見ていこう。私たちが望むべきも
の、真に望ましいもの、単なる快楽を超えるものをケインズは見ていたに違
いない。むしろ、この善の問題と宗教が相即不離であるものと考える。
われわれは、どのようにして、いかなる心の状態が善であるかを知ったの
であろうか。われわれにとって、それは、直感の問題であり、それについて
議論しても無意味であり、議論することができない、分析不可能な直観の問
( )
題であった。注
ここでも善は分析できない、統合的なものであるという。直感の問題であ
るという。われわれは宗教というものは分析できない、統合的なものだとい
うことを確認した。善も同様である。
ここで、ケインズのいう善、歌を歌うことのできること、それはムアの善
であったことを確認しておこう。ムアの善についての表現の中に、歌を歌う
ことの参考になることがあるかもしれない。ムアによると、善は定義できな
い。
善いとは何か
と問われるならば、私の答えは、善いは善いである、と
いうことであり、それでおしまいである。あるいは、私が
善いはいかに定
義されるべきか と問われるならば、私の答えは、善いは定義できない、と
いうことであり、それで私が善いについて言うべきことは尽きるのであ
る。・・・。すなわち、 善いものに関する命題はすべて総合的であって、
決して分析的ではない
と。・・・また、同じことをさらに通俗的に表現す
れば、もし私の考えが正しいなら、誰も
快が唯一の善である
ものとは欲求されるもののことである という公理を、これこそ
とか
善い
まさにそ
の語の意味である と称してわれわれに押しつけることはできない、と言え
るであろう。注
善が分析的なものではなく、総合的であること、これが確認されれば、快
が唯一の善であるなどということはありえない。善いものと欲しがられるも
のとは一致しない、以上のことは自明だという。功利の原理は分析的、世界
を分割してとらえるところから起こる。しかし、統合的にとらえるなら、世
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
界を一体化してとらえるなら、功利の原理は雲散霧消するのである。
さらに善は定義できないということで、善の性質についてのわれわれの姿
勢について正す。
定義
とは、ある全体を恒常的に構成する部分がどんなものであるかを
述べる定義である。そして、 善い
は単純であり、いかなる部分をも持っ
ていないから、この意味では定義できないのである。それは、それ自身は定
義できない無数の思考対象のひとつである。なぜそれらの対象が定義できな
いのかといえば、それらは、定義が可能であるいかなるものもそれに照らし
て定義されねばならないところの究極的な項だからである。注
定義というのは、それを根拠に定義されねばならないものについては不可
能である。そして、善とは、それを根拠にすべてが定義されるようなもので
ある。
かくして
善い
は定義できないのである。注
わたしたちは、善を何か観念的なものと誤解している。単なる数学的な、
科学的な話をするような姿勢で、善を論じがちである。ムアは、善はそのよ
うなレベル、次元のものではなく、究極的なものであるという。全身全霊を
かけて、善に接近すべきである。究極のものであるから、どこかに土台をお
いてそこから演繹することで把握できるものではない、こう主張する。まさ
に、定義できないのである。さらに、普通、われわれが究極のものではない
ものを経験して、そこを土台にしてさまざまな命題を主張するわけだが、快
楽は究極のものではない代表であるという。
( )
誰でも
これは善いのか
という問いを理解している。この問いについて
考えるときの彼の心の状態は、彼が
されているのか
これは快いのか
とか、 これは是認されているのか
とか、 これは欲求
と問う場合の心の状
態とは異なっている。この問いは、たとえそれがどんな点で明確なものであ
るかを彼が認識しえないとしても、彼にとって明確な意味をもっている。彼
が、 内在的価値 あるいは 内在的真価 について考えたり、あるものが 存
在すべきである と言ったりするときはいつでも、彼は、私が 善い によっ
て意味する独自の対象 いろいろなものの独自な特性
を思い浮かべている
注
のである。
善についての問いは全体を志向している。これに対してわれわれは常に部
分を志向するよう習慣づけられている。部分を志向しているから、快いとか、
是認されているとかいうことをよく理解できる心の状態にある。ところが、
善についての問いは理解できない。ムアは理解しているだろうと、われわれ
に確認を求めるが、われわれには、科学の影響を受け、宗教から遠ざかった
われわれには理解できない。これが現在、われわれが置かれている状況であ
る。神の死を当然のこととし、科学技術の成果を素晴らしいことだと受け取
るわれわれの世代は、功利の次元しかわからない。部分を志向することしか
知らない。しかし、ムアはわれわれの世代の人間ではない。かれは全体を志
向することを知っていた、完全ではないにしても、全体を志向すること、善
を知っていたのだ。快楽を超える善を知っていたのだ。そして、ムアの宗教
を受け入れたケインズも全体を志向することを知っていた。だからこそ、功
利主義を批判し、利己心を軽蔑していたのだ。
善を見出すため、すなわち自分自身の幸福を見出すためにケインズは奮闘
したであろうことが理解されたであろう。そして、自分の幸福を何か超越的
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
な、理解できない、自分とかけ離れた存在に委ねたのではないということで
ある。通常、宗教と遠くなったわれわれにとって、神は、絶対者は、自分自
身と離れた存在である。したがって、宗教というと狂信的と同意義になって
しまう。これに対して、
ケインズにとって非常に身近に感じられる存在であっ
た。したがって、まったく狂信的に神、絶対者を受け入れるのではなく、彼
の心の状態を見ることによって充分コミュニケートできるものであったもの
と想われる。部分から出発すると、功利主義的な善悪である、快楽、苦痛し
か見出されない。しかし、神との接触においては、これらは脇に置かれるこ
とになる。神との接触、すなわち全体を志向すると、善とは功利主義的な快
楽ではなくなる。部分を志向すると、心に現れるのは快楽の次元のものであ
り、それが善と感じられる。どうしたって、感じられるのは快楽の次元のも
のだ。
ケインズ、ムアは絶対者の前に立って、心を澄まし、絶対者に耳を傾け、
全身全霊を傾けて、全体を志向したのだ。
それは、時間を超越した、瞑想と、深い内省の極致であり、ことの あと
さき
には、ほとんど無関係であった。注
そのとき、見出すものは快楽の次元ではなく、まさに善であった。ところ
で、ケインズが拒否したムアの道徳とは何故拒否されたのだろうか。このこ
とは善であるということと、善を行うということとも密接に関連する。また、
客観的世界しか理解できない、客観的世界しか焦点を当てないわれわれの世
代、科学の洗礼を受けた世代にはとりわけ理解することが難しい。
宗教 を、自己自身、および絶対者に対する人間の態度と定義し、 道徳
( )
を、外部の世界、および自己と外部の間の媒介物に対する人間の態度と定義
しているからである。注
宗教を内部のこと、心の状態、絶対者に対する人間の態度、そして道徳を
外部の世界、自己と外部の媒介物に対する人間の態度としている。この道徳
については客観的な世界のことであるから、われわれの世代には理解しやす
い。そして、わかりやすい道徳から宗教を導き出す傾向がある。したがって、
道徳を宗教の基礎と勘違いし、宗教を求めないし、土台にすることもない。
しかし、ケインズは宗教と道徳を、内側と外側を峻別する。宗教の方は心の
状態であるから在りようのことである。道徳の方は外の世界のことであるか
ら、行動と関係する。このことから、善であることこそが重要で、善を行う
こととは異なるという言明になる。
善である
ことと、 善を行う
こととの間には、あまり密接な関係は
なかった。注
この点こそ、ケインズの受け入れたムアの宗教とムアの道徳の違いである。
道徳は善を行うことに関わり、これに対してケインズの受け入れたムアの宗
教は、善であること、心の状態に関わるものである。
われわれは、豊かな社会が到来しているかという問いを問うた。どうして
この問いを問うたのか。それは、もし生産の問題が解決済みであるなら、現
在の生産第一主義は誤った方向を相変わらず目指していることになるからだ。
そして、その可能性が非常に高いのではないかという怖れがある。そうであ
るなら、人々を、社会を誤った方向に導いていくのに科学である経済学が加
担することになってしまう。依存効果によって発生する借金地獄、依存効果
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
によって発生する裕福さ故の精神障碍、しかももともと存在しない欲望の充
足こそが依存効果の狙いだ。これらの問題が生産至上主義を誤って追求する
ことによって、必然的に起こってくるのだ。
ケインズをはじめとする経済学者の見解に耳を傾けた。さらに、社会心理
学者の判断を紹介した。いずれも、豊かな社会が到来している、そうでない
にしてもすぐそこに来ているということであった。しかし、豊かな社会とは
満足が感じられるはずの社会である。満足が実現しているかというと、そう
ではない。したがって、豊かな社会はいまだ実現しているとはいえない。
ガルブレイスによると、生産がいくら増大しても、生産の問題がかたづい
ていないという判断には原因があるという。経済学が相変わらず生産を問題
にすることには原因があるという。さらに、われわれ自身のもっている構造
が原因で、いつまでも充分というところが実現しないというのが生産の問題
だという。
問いの問い方に誤りがあったのではないか。まず、このような問いを科学
である経済学に解答を求めることに誤りがあったのではないか。さらに、満
足が実現しないわれわれの姿勢に問題があるのではないか。
問題解決の糸口はケインズの答えの中にあった。歌を歌えることこそが、
幸福の実現、満足の実現、豊かな社会の実現を可能にする。生産が問題であっ
たのは、この問いを発する人間の側の問題であった。歌が歌えることが、生
産の問題を解決済みの問題とする。
歌が歌えないからこそ、外部に答えを求める。専門家である経済学者に、
自分の所有するものに、消費するものの中に、答えを求める。科学の中に答
えを求める結果、より一層の迷路に迷い込む。歌を歌うことこそが解決の糸
口だということを忘れさせることになる。
歌を歌うことの手がかりはケインズの
( )
若き日の信条 、ムアの
倫理学
原理
の中にあった。最後は自分自身が歌を歌うことを体得しなければなら
ない。歌を歌うことが、外側の世界で現象化する。それが生産活動になった
り、消費活動になったりする。学問の研究になったり、教育になったりする。
しかし、生産活動の中に、消費活動の中に、学問研究、教育の中に歌がある
わけではない。歌はわれわれの姿勢の中にある。態度の中にある。それを忘
れて、生産、消費、科学、教育の中に歌があると思うと誤った問いになる。
ケインズのように、豊かな社会が実現した上で、生産の問題がかたづいた
上で、真の幸福、善の実現を問題とすべきだというのは誤りである。また社
会心理学者のように、生産の問題がかたづいたから、真の幸福の問題にかか
わるべきだ、この解答も正しくはない。真の幸福の問題はいまこの瞬間に問
うべきものだ。そして、誰にでも問うことのできる問題だ。社会の置かれて
いる状況、個人の置かれている状況には依存しないのだ。
生産、消費の水準とは関係なく、真の幸福を求めることができる。誰でも、
この瞬間に求められる。
手段が整わないと真の幸福は求められないのではないのだ。手段と真の幸
福を求めることとは関係ないのだ。ケインズがいうように、善であるという
こと、善を行うということは関係ない。ケインズは、ムアの宗教を受け入れ、
道徳を拒否した。ここで宗教は内面の問題で、道徳は外側の問題であった。
この瞬間の内面のことこそ、善の実現に関係ある。歌を歌うことは内面のこ
と、心の状態のこと、自己を超越する存在への姿勢に関わることなのだ。本
当に、と全人格をかけてその望ましいものを問うこと、これが歌を歌うこと
につながるのだ。そして、それは個々の立場からのみなされる。誰かが手助
けし、整えてやれる条件の問題ではない。そのようなありもしない条件、基
準が整ってから、取り組むべき問題ではない。
われわれはよく自分自身を吟味しなければならないだろう。外側ではなく、
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
内側を、自分を除いた自然世界をでなく、自分を含んだ、それが自分自身で
ある世界を感ずることが第一歩だろう。それが生産の問題、経済の問題への
真の接近法だろう。
これまで、生産の問題、経済の問題を時間、空間の中で問うた。しかし、
真の幸福、望ましいものである善、というわれわれが立っている場からする
と、時間、空間は消えてしまう。そして、時間、空間の中に生産の問題、経
済の問題を設定したこれまでのあり方が誤りであることを理解したのである。
時間、空間の中には生産の問題、経済の問題は存在したが、時間、空間を超
えた善の次元、真の幸福の次元には生産の問題、経済の問題は存在しなかっ
たのである。善の次元、真の幸福の次元、全体を志向する姿勢の中には、部
分の次元に属する生産の問題、経済の問題は見えなかったのだ。
( )
結びにかえて
われわれは、生産の問題がすでに解決済みの問題であるかどうかを問うて
きた。第一節では、豊かな社会の実現について、経済学者の見解を、続く第
二節では社会心理学者の見解を聞いた。第三節では豊かな社会実現後の社会
についてのケインズの不安について説明し、第四節では、ガルブレイスの見
解について検討した。第五節では、経済問題を究極的に問うと、すなわち真
の経済学、真の幸福を求める学問の観点からすると、ケインズのいう歌を歌
えることこそ問題解決になることを示した。そして、歌を歌うことについて
ケインズ、ムアを引用しながら検討した。そして、歌を歌うこととは、問題
はすでに解決されていること、問題はそもそもそこにはなかったことを知る
ことである、ということを確認した。付論では、本稿の基本的な姿勢である
科学至上主義に対する批判を示し、そもそもこれまでの問題は科学的に問う
のが適当だったのかを問題にした。経世済民に立つ経済学の観点から、科学
の中に答えがあると想定することの過ちを、また、科学が絶対でないこと、
むしろ欺瞞の温床になりうることを示した。
われわれは全体ではなく、部分に焦点を当てる癖がついている。全体はわ
からない、部分はわかる。しかし存在するのは部分ではなく全体である。わ
かりやすいもの、接近しやすいものを受け入れる。易きにしがみつくのがわ
れわれである。したがって、困難なことを今やり始めるのではなく、先送り
する。しかし、われわれが直面するのは、将来ではなく、今ここしかない。
今ここから、そして部分ではなく全体を志向することだ。そして、その時こ
そ志向が消える。これこそ出発点のはずだ。動かないことだ。
感じてもいない、したがって存在もしていない客観的世界ではなく、今生
活しているこの世界、現実にここにある世界にこそ焦点が当てられるべきだ。
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
科学の普及により客観的世界の存在が前提になっている。したがって、あた
かもわたしたち生きている人間を脇において、客観的世界が存在しているよ
うに思ってしまう。そこで人間の存在しない客観的世界を前提に、わたした
ちが生活する世界は前提されずに出発してしまう。しかし、存在するのはそ
れぞれの主観的世界であり、その主観的世界、生活世界、現実に感じられる
世界からこそ出発するべきだ。
全体を志向するとき、快楽ほどわかりづらいものはない。同様に、時間、
空間もわかりづらい。部分に焦点を当てたとき、部分しか見えないとき、快
楽はわかりやすい、時間、空間もわかりやすい。われわれのもっている性癖
により、はじめから世界を分断する。もともと分断する必然性がないのに、
分断してしまう。そうであれば、意識しないうちに世界を自己と自己以外の
ものに分断してしまう。まず、動いてしまったのだ。そして、動いたことに
より作り出された問題を、動くことの中で解こうとする。これでは、全体を
志向することにはならない。したがって、時間、空間だけしか見えず、善は、
すなわち真に望ましいものは排除され、快楽だけしか見えないことになる。
全体がわかりづらいのは、絶対者、自己を超えるものを想定することを忘
れてしまったからだ。神の死を当然のこととし、神の存在、絶対者の存在を
思うこともないわれわれは、傲慢になっている。全体など存在しない、今自
分がいると思っている世界だけに居直ろうとしている。本当に望んでいるの
か、いま望んでいるものに安住するのではなく、本当に望んでいるかを、真
摯な姿勢で問うていくことだ。善とは何か、善を本当に求めているか、これ
は他者の目を通して問う問題ではない。私自身の個人的世界、主観的世界を
出発点にして問うべきなのだ。手がかりは自分自身の主観的世界、生活する
世界だ。したがって、あらかじめ客観的世界、ものの世界に問題を設定する
のは誤りだ。
( )
望ましいもの、善が実現することこそが豊かさとして現れるのだ。それこ
そが歌を歌うことだ。あらかじめ客観的世界に豊かさを定義しておいたので
は、善は見えて来ない。歌を歌うとは全体とともに、全体からエネルギーを
受け入れ、それとともにあることなのだ。善とは、望ましいこと、望むべき
こと、歌を歌うことは、それぞれの主観的世界、生活する世界とともにある
ことだ。
すでに指摘したように、シューマッハーはすでに経済問題は解かれたとい
う。すでに経済問題は存在しないという。シューマッハーの言葉で本稿を締
めくくろう。
とりわけ、経済的な問題はすでに解決された収斂する問題であることを悟
るだろう。われわれはいかにして十分なものを供給するかということ、そし
てそのためにはいかなる暴力的、非人間的、侵略的な技術も不必要なことを
知る。経済的な問題は現実にはないのであり、これまでもなかったのである。
だが、道徳的問題はある。そして道徳的問題は解決されれば未来の世代が努
力なしに生きられるような収斂する問題ではない。否、それは拡散する問題
であり、理解され、乗り越えられるべき問題なのである。注
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
付論
科学の中に答えはあるか
わたしたちは、問題に直面すると、それを科学の問題として解こうとする。
目的があって、その目的は与えられていて、それを一定の制約のもとに、目
的達成の手段を見出そうとする。これがいわゆる科学の手法である。手段が
見出されれば、問題に解答が見出されたことになる。
私たちには、科学についての暗黙の思い込みをしているのではなかろうか。
科学が発達さえすれば、やがてすべての問題は解決する。そして、人間自身
の問題についてでさえ、科学の発展によってすべては解決すると暗黙のうち
に想定しているのではなかろうか。トルストイにしたがって考えてみよう。
実験科学の分野において、私は自分に言ったものである。《万物は発達し、
分化し、複雑と完成に向かって進んで行く。そしてそこには、この運行を統
御する法則がある。汝は完きものの一部である。したがって、この完きもの
の存在をできるだけ深く広く学び知り、かつその進化の法則を学び知れば、
同時に汝は、この完きものの中における汝自身の位置をも、汝自身をも、学
び知るようになるであろう。
》注
私たちは、問題の解答が必ず科学研究の中にあると想定している。そして、
現段階までに解答が得られていないとしたなら、それは未だ十分な研究がな
されていない証拠であると信じている。学問が私の問いに答えない、これは
私の研究が未熟であるからだとさえ考える。
私は長い間、学問上の知識が人生の諸問題に対して現在答えている解答以
外、いかなる解答をも持たないという事実を、どうしても信ずることができ
( )
なかった。実人生の問題と全然没交渉な学説を立てているにすぎない科学の、
厳粛な物々しい調子に眼を奪われて、私は長いこと、自分の理解が足らない
ように思っていた。長いこと私は学問上の知識に対して怖じ恐れていた。で
その結果、それらの解答が自分の疑問にぴったりと当てはまらないのは、学
問そのものの罪ではなくて、私自身の無智によるのだと思っていた。注
しかし、より深い思考の結果、トルストイは学問の方に責任があるのでは
ないかと、疑う。
この仕事は私にとって、冗談半分の遊戯ではなく、一生涯の事業であった。
私はついに、自分の疑問があらゆる知識の基礎となるきわめて正当な疑問で
あり、こういう疑問を提起した自分が責めらるべきではなくて、それらの疑
問に答えようという色気を見せている限り、むしろ学問そのものが責めらる
べきであるという、確信に達せざるを得なかったのである。注
こうして、自分自身の未熟のゆえではなく、学問そのものの方に解答する
力がない、自分の疑問の方に正当性があるという確信をトルストイは得るに
至った。
トルストイの姿勢は責任を他者に転嫁しており、謙虚な態度ではないよう
に思われる。科学は偉大な体系であり、科学の全大系を知り尽くしたわけで
はない、われわれ浅学非才の輩が、このような傲慢な態度をとることはでき
ないはずだ。それほどまでに、科学は膨大なる実績をわれわれの前に展開し
てみせている。
しかし、ガダマ
によると、科学の枠の中では、問うことのできない問題
があるのではないかという。すなわち、科学によっては解決を見出せない問
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
題があるという。
いかなる科学も問うことすらできないような何かが依然として存在するの
ではないか、つまるところ重要なのは、科学が単に
ハイデガーが、ひどく
誤解されている文章のなかで考えている、語の強調的な意味でー
思惟し
ていないばかりではなく、実際自分の言語を語ってさえいないということで
はなかろうか、と。注
それでは、答えなかった問題とは何であったのか。その問題とは、科学の
中では考えられもしなかったし、したがって科学の言語では表現されること
もなかったような問題である。
数学は、自分の問いのみに明確に答える。これに対して、形而上学は問い
の存在は認めるが、明確には答えない。したがって、いわゆる形而上学的問
いこそが、科学の中では問われることのない問題であった。
私の知識の系統は、まるでこういう問題の存在を、認めないもののようで
ある。がその代わり、単独に自分が提起した諸問題に対しては、明快な解答
を与えている。それは実験科学の系統で、その極点に位するのが数学である。
注
実験科学の分野で定義される問題に対しては、明快な答えを与えてくれた
が、形而上学の分野では全く答えを与えてくれなかったという。
このように明快な解答を与えてくれる数学、実験科学であるが、そこに解
答があるのだろうか、という疑問がトルストイに起こってきた。
( )
私もまた人間の知識の森林の中に、数学、実験科学の平坦な明るい草原で、
みちを失った。そこには明るい地平線がはるばる眼前にひらけて見えた。が
その方向には人家はありえないのであった。私はさらに、理論的科学の闇の
中へ分け入った。そこでは、さきへ進めば進むほど、暗黒がますます深くなっ
た。そしてついに、出口がどこにもないこと、ありえないことを、私は信ず
るに至ったのである。
学問の明るい方面に身を委ねながらも、私は自分が肝腎の問題から眼を逸
らしているにすぎないことを知っていた。私の前にひらかれている地平線は、
どれほど明るく、魅惑的であり、こうした学問の無限の中へ分け入ることが、
いかに魅惑的であっても、それらの学問が、明るければ明るいほど私にとっ
て必要の少ないものであり、生の疑問に答えるところが少ないものであるこ
とを、私はすでに理解していた。
私は自分に言うのだった。《今や私は、科学が執拗に知ろうと欲している、
すべてのことを知っている。が、しかしながら、わが生存の意義に関する疑
問の解答は、この方面にはないのである。
》注
このようにして、トルストイの本当の問題、本当に解答を求めた問題は、
数学、実験科学の領域の中には存在しなかったのだ。ここで確認すべきは、
科学の中に何でも解答があるという思い込みが誤りであったということで
あった。科学に対する盲目的信頼は誤りである。
唯物的科学主義の哲学に全面的に固執し、 見えざるもの の実在を否定し、
数えたり、測定したり、重さを量ったりすることができるものだけに関心を
限定する人間は、非常に貧しい世界に住んでいるわけで、人間の生存に適さ
ない無味乾燥の荒野に住む経験をするのと同じである。注
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
シュマッハーも、見えざるものの実在を否定し、見えるものの中だけに解
答を見つけるようとする科学を行う人間は貧しい世界に住んでいる人間だと
いう。トルストイが貧しい人間だとは到底考えられない。少なくとも豊かさ
を求める人間であることは間違いないだろう。そうであれば、唯物的科学の
中にはトルストイが求める問題の解答はないであろう。
実験科学の知識の中に解答を求めた場合には、私はどういうことをやった
か?
私は自分が何のために生きているのか知りたいと思った、でそのため
に私以外のあらゆる事物を研究した。明らかに、私は多くの事柄を知ること
ができた。が、私の必要なものは、何ひとつ知るをえなかった。注
何のために生きるかというのが、トルストイの問題であった。何が求める
べきものであるか、何が善であるか、これは経済学の本来の問題と一致する。
経済学は経世済民を標榜する学問である。民が救われるということは、民が
最も望ましいものを手にする時であるはずだ。望ましいもの、望むべきもの
についての議論は充分になされてはいない。ミルによる望ましいものとは、
望んでいることだという欲望こそ善だという見解は、ムアによって自然主義
の誤謬として退けられている。したがって、善と欲望が単純に一致しはしな
いのは周知のことであるはずだ。それにもかかわらず、自然主義の誤謬を知
らずに、無視して伝統的経済学は進んできた。われわれは謙虚に、もう一度
善の問題を、真に望ましいもの、望むべきものを見極めなければならない。
人間にとっての善、最も望ましいもの、望むべきものは幸福、生命の喜び
である。
( )
人間にとってほんとうにたいせつで必要なのは、ただ自分のものとしか感
じられない生命のよろこび、つまり、自分の幸福なのである。注
人生は幸福にたいする欲求だ。幸福にたいする欲求が人生だ。あらゆる人
が人生をこう理解してきたし、これからさきだって、いつも、こう理解する
に違いない。つまり、人生は人間的な幸福にたいする欲求であり、人間的な
幸福にたいする欲求であり、人間的な幸福にたいする欲求が人生なのである。
いかにして幸福を実現するか、こそがトルストイの問いであり、われわれ人
間が訊ねる問いであろう。
ところが、考えのない世間一般の人たちは、動物的な自我の幸福が人間の
幸福だと思い込んでいる。
いや、それどころか、まちがった科学にしても、人生の定義から幸福とい
う観念をきりすてて、人生は動物的な生存だなどと考えているわけだから、
けっきょく、動物的な幸福だけを人生の幸福と認めるようなことになって、
こうした世間一般の人たちのあやまちに歩調をあわせる始末なのである。
注
このように、人々は人間的な幸福を忘れてしまった。したがって、大衆の
求める幸福である科学の中には、人間の求める幸福が除かれているという。
これでは、科学が如何に進歩したとしても、人間の幸福が実現するはずがな
い。
さて、われわれが真の幸福、人間の幸福を考えるとき、本当に求めるべき
ものを考えるとき、死の問題を無視するわけにはいかない。われわれは、い
つ死ぬかはわからない。死によって、すべてが一瞬のうちに失われてしまう
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
ように思われる。それにもかかわらず、生きて、求めるべきものは何だろう
か、こう問わねばならないだろう。これこそが、真に幸福、真の善、人間の
幸福であるがずだろう。
死は確実である。しかし死から目を逸らしてわれわれは生きている。あた
かも死が存在しないかのように。しかし、死が確実であることは、知ってい
る。あたかも知らないかのように装っているが、死を無視することはできな
い。真の幸福、本当に求めるべきもの、それを問題にするとき、次の疑問か
ら逃げることはできない。死により奪われないものを求めているか?
トル
ストイの場合もそうだった。
その疑問というのはこうだった。《私が今行っていることや、明日も行う
であろうことから、いかなる結果が生ずるのか?
私の一生涯からいかなる
ものが生まれるのか?》
この疑問を別な言葉で表現すればこうなるであろう。《何故に私は生きる
のか、何故に私は何物かを求めるのか、また何事かを行うのか?》さらにこ
の疑問はつぎのようにも言い表わせる。《私の行く手に待ち構えているあの
避けがたい死によって滅せられない悠久の意義が、私の生活にあるだろう
か?》注
このことから、次のような結論を見出す。
私は、私のこの生活には、時間と空間と因果律とに支配されたいかなる意
義があるか?
という問題にも、答えようとするのであった。・・・そして
とうとう、長い苦しい思索の後で、いかなる意義も存在しない!
ような結果を見たのである。
注
( )
と答える
科学は時間、空間の中に問題を見出すものである。時間、空間の中に見出
される解答には、真の幸福、真の求めるべきもの、善があるはずがない。そ
れにもかかわらず、科学の中に解答を見出そうとするとどうなるだろうか。
この問題は自分の手で解決することができない、その解決は不確実のまま
で残されると、こう答えるばかりである。
この事実をさとると同時に、はじめて私は、この問題に対する解答を、理
性の支配する知識に求めてはいけないことを理解した。注
いわゆる、技術的理性の解決できる問題でもないのである。科学という学
問の中では解決できないのだ。
同様の問題に直面したのは、
マックス・ウェー
バーである。そして同じように、マックス・ウェーバーも学問は答えてくれ
ないという。
学問の意義に関する諸見解、すなわち
真の実在への道 、 真の芸術への
道 、 真の自然への道 、 真の神への道 、 真の幸福への道
などが、すべ
てかつての幻影として滅び去ったこんにち、学問の職分とはいったいなにを
意味するのであろうか。これにたいするもっとも簡潔な答えは、例のトルス
トイによって与えられている。かれはいう、 それは無意味な存在である、
なぜならそれはわれわれにとって最も大切な問題、すなわちわれわれはなに
をなすべきか、いかにわれわれは生きるべきか、にたいしてなにごとをも答
えないからである と。学問がこの点に答えないということ、これはそれ自
身としては争う余地のない事実である。注
トルストイ、マックスウェーバーが直面した問題は客観的な問題ではなく
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
て、個人的な問題であった。私の人生の生きる意味こそが問題であって、そ
れは時間、空間の因果関係の中にはない。
誰もが必要としている問題の解答、それは人生の問題ではなかろうか。そ
して、その解答が科学の中にないことは明らかである。それにもかかわらず、
人生の問題を科学が解くことができるという思い込みがある。そういう科学
万能の信仰がある。
何よりも重大なのは、私自身の個人的な疑問、いろいろの欲望を持ってい
るこの私は何であるか?
という疑問が、今や全く解答なしに取り残された
ことであった。私は学問上のいろいろな知識が、非常に興味あり魅力あるも
のだということをさとった。が、それと同時に、それらの知識の的確さ明白
さは、実人生の問題に対するその度合いに適合に反比例するものだというこ
とをも、私はさとった。それらの知識が人生の問題に当てはまることが少な
ければ少ないだけ、いよいよその明白さ的確さの度は増すのであった。そし
てそれが、人生問題に解決を与えようと試みれば試みるだけ、ますます不分
明な、魅力のないものになるのだった。われわれがもし人生問題に解決を与
えんとする知識の部門
つまり、生理学とか、心理学とか、生物学とか、社
会学とかーに目を向けるならば、われわれはそこに、驚くべき思想の貧しさ
と、極度の曖昧さと、柄にもなくこういう問題を解決しようとする許しがた
い色気と、そしてさらに思想家相互の、いやそれどころか彼ら自身との、た
えまなき矛盾に逢着するであろう。注
これに対して、もしわれわれが、人生問題の解決に没交渉で、ただただ自
己の特殊な学問上の問題にのみ答えようとする知識の部門に向かうならば、
われわれは人間の知力に嘆賞の目を見張るようになるであろう。
( )
その場合、人生問題に対する解答がそこに存在しないことを、われわれは
あらかじめ知っているのである。すなわち、それらの知識、それらの学問は、
人生問題をはじめから無視しているのである。彼らは言う。《君がいかなる
ものであるか、何のために君が生きているのかという疑問に対して、われわ
れは解答を持っていない。われわれはそういうことを研究していないのだ。
がしかしながら、もしも光の法則や、化学上の化合力の法則や、有機体の発
達の法則を知ることが、君に必要であるならば、また、肉体とその形式の法
則や、数と量との関係を知ることが必要であるならば、さらにまた、君の知
力の法則を知ることが必要であるならば、それらのすべてに対して、われわ
れは明快な、的確な、疑う余地のない解答を持っている。
》注
科学は個人的な問題に応えるのではなく、個人から独立した問題に答える。
またその枠組みの中で、真か偽かを述べることができる。しかし、その枠組
みを構成するにあたっての個人の意欲とは独立している。アインシュタイン
の指摘も同様である。科学は個人から独立した問題を設定する。
科学はそれを探究する個人とは独立に存在すると考えられる関係を追究し
ます。これには人間自身が主題である場合も含まれています。また科学的命
題の主題は数学における如く我々自身によって創造された概念であることも
あります。かような概念は必ずしもが位階の対象に対応するものとは考えら
れていません。しかし科学的命題および法則は一つの共通の特徴をもってい
のどちらかです。
・・・
ます。すなわちそれらは 真か偽か(適格か不適格か)
科学的思考方法はもう一つ特徴をもっています。それが首尾一貫した体系を
組み立てるために用いる概念は情緒を表現してはいません。科学者にとって
は 存在 だけがあり、意欲も評価も善も悪も、また目的もありません。・・・
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
彼はあらゆる主意的なもの、情緒的なものを退けます。ついでながら、かよ
うな特色は近代西欧思想に独得な緩慢な発展の結果なのです。このことから
論理的思考は倫理とは無関係であると思われるかもしれません。注
私たちが求めているものが、善、真の幸福、であるとすると、科学の中に
はその答えは存在しない。科学はあくまで人間一般を一括りにして、幸福の
問題を人間一般の幸福として定義する。私たちの真の幸福、善、真に求める
べきもの、これは個人的なものである。であってみれば、科学の中には真の
問いはない、真の答えはないのだ。
さて、生産の問題、豊かな社会の問題が科学の問題としてふさわしいかど
うかを問い直してみよう。
ここで生産がいつまでも問題として残る構造を確認しておこう。国防が前
提とされると、敵国、ないし仮想敵国に対して優位に立たなければならない。
優位ということは相対的であるから、絶対的に十分ということはない。かく
して、国防を実現する手段としての生産も十分になることはない。
また貧困の問題についても同様である。貧しい人々の存在は無視できない。
したがって、貧しい人々へより多くの生産物が分配されることには賛成だ。
こうして、所得の再分配が目的として正当化される。そこで、現状の不平等
を是正する必要があるわけだが、誰も自分の持てるものを分け与えようとは
しない。誰もが、自分自身の所得が少なくなることには反対である。そこで、
新たな生産によって増加した部分を分け与えられることが主張される。新た
に増加した部分であれば、自分自身の取り分が減ることはない、さらに貧し
い人々の取り分は増加する。かくして、生産増加は正当な目的になる。しか
も、この生産増加への要請は止まるところを知らない。増加した生産物が貧
しい人々へと分配されるわけではないからだ。生産物がより多く生産される
( )
ためには、利己心が刺激されなければならない。この利己心の刺激は、新た
な生産物を分配されるという約束のかたちで与えられる。かくして、所得分
配の平等化は実現されず、生産の増加だけが続いていく。そして、相変わら
ずの生産の問題が残る。
そこで、国防の問題、所得分配の問題をあらかじめ前提とすることは、科
学の範疇に問題を設定することである。国防が求めるべきこと、所得分配が
求めるべきこととして、目的として、したがってこれ以上は手段を見出すこ
とだとして、問題が設定される。これは科学の中に解答を見出すやり方であ
る。暗黙のうちに国防が正当化される。所得分配が正当化される。しかし、
わたしたちが真の経済学、経世済民を土台とするとき、これらは前提とでき
るだろうか。科学としての経済学、価値判断から中立な経済学では、この前
提は暗黙のうちに受け入れられる。しかし、真の経済学、経世済民の経済学
ではどうか。
まず、国防は敵国、ないし仮想敵国を前提とする。この立場は、経世済民、
真の幸福とは相容れない。敵国を前提とすることは、世界を分断することだ。
そして、自分と対立するものを敵と名づけ、それとの戦いに勝つことを意味
する。他者であっても、自己であっても、傷付けることは望ましいことであ
ろうか。そもそも敵視する対象を前提することは、真の幸福にはならないこ
とは明らかだ。したがって、国防を前提するような問題は、科学の問題には
なるが、われわれのいう真の幸福を求める経済学、経世済民の経済学の問題
にはならない。
次に、所得分配の前提についてはどうだろう。われわれは真の幸福を、善
を求めている。そこで、所得分配が正当化されるのは、所得分配が真の幸福
に、善に関わるという前提が在るからだ。ものの所有のあり方が真の幸福を
改善すると信じるからだ。しかし、真の幸福は時間、空間の中にはないこと
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
はすでに明らかにした。もののあり方、所得の分配はあくまで、時間、空間
の中でのことである。したがって、所得分配が前提とされる必然性はない。
われわれの求めているのが、善であり、真の幸福であり、経世済民の経済学
であり、単なる手段の学問ではない。この観点からすると、所得分配は前提
とはされない。
最後に豊かさが実現したかどうかの問題を確認していこう。豊かさが実現
したかどうかは、生産水準でわかる。生産水準が高まれば豊かさが実現する、
そうしたら、真の幸福、真の人間のあり方を問えばよい。これが問題を定式
化する仕方であった。しかし、まだ生産は十分ではないようだから、まだ生
産増大に専念していくべきだ、ということになる。まだまだ、利己心を使っ
て、ものの生産に向かって努力すべきだ。真の幸福、人間らしい生き方は、
その後に問えばよい、ということになる。
すでに指摘したが、豊かさとは善であり、貧しさとは悪である。そして、
豊かさは生産水準が高くなることで実現し、貧しさは生産水準が低いことで
実現する。いいかえると、生産水準の多寡によって豊かさ、貧しさが実現す
る、善、悪が実現することになる。
これが誤りであることは明らかだ。善、悪は時間、空間の中で実現するも
のではない。心の、人間の内面の問題だ。それを、あたかも外側に善、悪が
あると思い込んでいる誤りがある。
豊かさを生産水準の問題だとしたところに誤りがあった。善を生産水準の
問題としたところに誤りがあった。豊かさの真の意味を問わなかったところ
に誤りがあったのだ。
ガルブレイスは、所得を失うこと、それによって貧しくなること、そして
品位を失うことは耐えられない、したがって、最後の一歩を踏み出し損なっ
たことについては既に述べた。ここでは、ガルブレイスの立場が善を志向し
( )
ていないことを確認しておこう。ガルブレイスは所得を失うこと、貧しくな
ること、品位を失うこと、これは社会から、すなわち他者から堕落している
と判断されるから、したがって悪だという。ここで悪は善ではないというこ
とだ。繰り返し説明することは必要ないだろう。他者からの評価が善の基準
になりはしない。わたしが全身全霊で判断すべきことであって、他者からの、
社会からの判断ではない。自己の内面の問題である。そういう意味で、ガル
ブレイスは明らかに真の幸福、望むべき善から逃げた。社会の評価、一般大
衆を恐れたのだ。
われわれは、豊かさとは何か、真の幸福とは何か、善、われわれが望むべ
きものとは何か、これらの問いを問い直すことで、科学の中に闇雲に解答を
見出す愚を犯さなくてすむ。それによって科学は立派にその役割を果たすこ
とができる。かくして、問題は科学の方にあったのではなく、われわれが眠
りこけ、いたずらに科学を使おうとしたからだ。われわれに問題があった。
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
付論
科学は絶対ではない─科学こそが騙す
科学の中にわれわれが真に求める問題はない、したがって科学の中にその
解答もない。このことが理解されれば、科学の中に解答を求めることはしな
い。科学と接触することもない。しかし、科学は余りにも深くわれわれの生
活に染み込んでおり、科学なしに生活することはほとんど不可能な状況に
なっている。科学は手段を提供する学問である。われわれが肉体をもってこ
の自然の中で生きていくには、そして、その生きる目的を実現するには、お
のずと手段である科学が必要とされるのである。そして科学が目的を実現す
るための手段として有効であることが認識されると、科学は社会システムの
中に埋め込まれることになる。科学が教育システムの中に、研究システムの
中に、埋め込まれ、あたかも厳然とした真理であるかのごとく思わせる。い
つしか科学は宗教になるのである。
かつて宗教が占めていた地位を科学が獲得し、科学は神聖視されるように
なる。科学を行う者、科学を教える者は司祭になる。もはや科学は批判的に
見られることはない。科学は人間の求めるものを何でも与えるものだと信じ
られるようになるのだ。もし科学の中に求めるものを見出せないなら、それ
は科学を十分に学んでいないからだ。科学を十分に研究しないからだ。もっ
と科学の中にエネルギーを注ぎ込むことで、その目的は確実に実現する。わ
き見をせずに研究せよ、学べ、というわけだ。このことが、われわれに生き
る目的を忘れさせたり、人生には価値が存在しないと思わせる。そもそも生
きる意味や目的や、真の幸福などはないなどと思わせるのだ。
このことが理解されたからといって、科学と接触せずに生きることはでき
ない。われわれが生きる目的を実現するのは、この肉体を通してである。目
の前に広がるこの自然を通じてである。科学という手段を利用せずには、生
( )
きる目的を実現することはできない。そこで、できることは、科学の特殊性
を理解し、あくまで目的を堅持するよう努めることでしかない。
さらに、科学がわれわれが生きる目的を忘れさせる構造を理解しながら、
科学とつきあうことだ。あくまでわれわれの生きる目的が重要で、生きる目
的を実現するための手段として科学を利用していることを確認することだ。
われわれが主人であり、科学は道具である。道具が便利であることから、道
具に主人が使われないよう心掛けなければならない。
以下では、科学がわれわれに生きる目的を忘れさせる構造を確認していこ
う。
フランクルによると、通俗科学はわれわれが求める生きる意味について問
うことをさせない。それは、人間は単に因果の産物に過ぎないと教えるとい
う。
自分の限界を知らないばかりか、低俗化とは言わないまでも通俗化した科
すくなくともそのような科学が、人間に意味を与えることはありません。
学
それどころか、通俗科学は、とどめの一撃として、まだかろうじて残されて
いる意味感情を人間から取り去ってしまいます。通俗科学は、あらゆるマス
コミを通じて、現代の平均的人間にこう吹き込みます。人間は、社会経済学・
心理力学的過程のたんなる産物にほかならない、素質と環境との、また、遺
伝と教育とのたんなる産物にほかならない、と。注
人間に関する現象を因果の範疇でとらえることが科学であってみれば、人
間に関する現象は原因によって説明できるということである。そこには人間
が意味を見出す余地はない。かくして、生きる意味、人が真に求めるものに
ついては最初から問われない構造を科学はもっているわけである。むしろ生
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
きる意味はない、生きる上での目的もない、人間には価値もないと教える。
因果の中で自動的に反応するのが人間だ、単なる歯車だと教える。科学を自
分の上に戴いてしまうと、そのとき私は科学の教えるような単なるロボット
だと思い込む。このとき、目的を問うことも、価値を問うこともなくなる。
これが科学の中に取り込まれた人間の姿だ。
われわれは、科学は無前提に成立していると思い込んでいる。このことか
ら、科学で見出した真理は絶対的真理だと思わされてしまう。この問題につ
いては容易に理解されない。ニーチェの手厳しい批判に耳を傾けてみよう。
われわれは、何はともあれ、現存在の多義的な性格を剥ぎ取ろうなどとし
てはならない。紳士諸君よ、これを要求するのは他ならぬ良き趣味だ、貴方
がたの視界を超越する一切のものに対する畏敬と言う趣味だ!
て貴方がたの存在が正当化され、貴方がたの言う意味で科学的(
それによっ
本当は機
械論的といいたいところだろう)に研究され仕上げられうる世界解釈だけが、
正しいのだと考えること、 数えたり、計算したり、秤ったり、見たり、掴
んだりするもの以外は何も認めないような世界解釈だけが正しいと考えるこ
と、こうしたことは気違い沙汰か阿呆沙汰でないとしたら拙劣か児戯という
のほかはない。逆にむしろ、おそらくは、他ならぬ現存在の最も皮相的なも
の外面的なもの その最も外面的なもの・その皮膚と感覚内容
こそ、いの
一番に掴まれるものだというのが、真当のところではないだろうか?・・・
貴方がたが理解するような 科学的
世界解釈といったものは、したがっ
て、相変わらず、ありとあらゆる世界解釈のうちでも最も愚劣なものの一つ、
いうならば最も意味乏しいものの一つであるかもしれないのだ。このことを
機械論者諸氏の耳と良心に吹き込んでおきたい、
今日とかく哲学者の仲間
に立ち交じり、機械論こそは現存在の全容がその上に築かるべき礎石にも等
( )
しい最初にして最後の法則の理説であるとばかり思い込んでいる、機械論者
諸氏の耳と良心にだ。だが、本質的に機械論的な世界とは、本質的に無意味
な世界であるだろう!
注
ニーチェは、科学が一つの解釈であり、しかももっとも愚劣な解釈だとい
う。機械論的な解釈は無意味な世界しかもたらさないからだ。その科学が単
なる解釈ではなく、絶対的なものであると思われたらどうだろう。そのとき、
おのずと科学は絶対真理となり、それ以外の知識は主観的で無意味な知識に
なる。われわれは意味のある存在ではなくなる。意味をも求めなくなる。
そのように権威づけられた科学が、教育システム、研究システムの中で当
然の知識、学ぶに値する知識になる。科学を行う科学者が大衆人であってみ
れば、視野狭窄に陥った専門家であってみれば、彼らに教養を期待すること
はできない。科学者が、科学が蒐集した知識が果たして知るに値するもので
あるかを問うことはない。科学を学ぶものも、権威づけられた知識を学ぶに
値するかどうかは問わない。
われわれが実践について語る場合、われわれは、近代的な学問概念(科学)
から出発して、学問の応用の方向に、完全に駆り立てられているからである。
実践が、このように、一般の意識にとって学問の応用のことであるとすれ
ば、一体、学問とは何なのだろうか。実践を、匿名の、ほとんど無責任な、
少なくとも学問によっては答えられないような
学問の応用
へと転換して
しまったのは、一体、現代および近代の学問の、どのような新しい自己転換
なのだろうか。学問はもはや、知および知るに値するものの総体ではなく、
ひとつの道、すなわち、まだ研究されておらず、それゆえ、未だに支配され
ていない領域のうちに進展し参入する道なのである。注
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
学ぶに値するかどうか問われず、当然、学ぶに値すると前提とされてしま
うのだ。マックス・ウェーバーも同じ問題提起をしている。学問の中には知
るに値するかどうかの根拠は見出すことはできない。しかし、学問が教育、
研究システムの中で確立されると、学ぶべきものとなってしまう。さらに、
この中にこそ学ぶものがあることになってしまう。
ところが、一般に学問的研究はさらにこういうことをも前提する。それか
ら出てくる結果がなにか
知るに値する
という意味で重要な事柄である、
という前提がそれである。そして、明らかにこの前提のうちにこそわれわれ
の全問題はひそんでいるのである。なぜなら、ある研究の成果が重要である
かどうかは、学問上の手段によっては論証しえないからである。それはただ、
人々が各自その生活上の究極の立場からその研究の成果がもつ究極の意味を
拒否するか、あるいは承認するかによって、解釈されうるだけである。注
学問的研究が知るに値する、重要な事柄であるという前提が、科学の中に
は含まれている。しかし、知るに値するかどうかは、個人個人がそれぞれの
立場から判断すべきで、あらかじめ前提とされるものではない。それにもか
かわらず、科学の学問的成果は学ぶに値するものとされている。学ぶに値す
るかどうかを問わせない構造が科学の中にはあるのだ。それが社会システム
の中に組み込まれているから、より一層理解しにくくなってしまう。科学が
ここでも絶対的真理、宗教のような存在になってしまう。それを疑うことす
ら許されなくなってしまうのだ。
さらに科学の特質である時間、空間の中に解答を見出そうとする構造に注
目しておこう。われわれは時間、空間の中にあるものほど理解しやすいと思
いがちだ。
( )
まちがった人生観にとらわれているときにかぎってそうなのだが、どんな
ものでも、それが、空間や時間によって、正確に限定されればされるほど、
いっそうわかりよくなるように、人は思いがちなものだ。注
科学は、時間、空間の中に真理を見出そうとするものだ。それが一般大衆
の求めていることだ。時間、空間の中に現象化しないものは理解できないと
思い込んでいる。しかし、大事なもの、人間の幸福、善は時間、空間の中に
は存在しない。
さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。心で見なく
ちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えな
いんだよ
かんじんなことは、目には見えない
と、王子さまは、忘れな
いようにくりかえしました。 あんたが、あんたのバラの花をとてもたいせ
つに思ってるのはね、そのバラの花のために、ひまつぶししたからだよ
注
ところが、科学は時間、空間の中に真理があるという前提で研究されてい
る、科学的真理を獲得しているのだ。したがって、科学が学ばれるほど、時
間、空間の中に大事なものを見つけようとする。しかし、本当に重要なもの、
価値あるもの、求めるべきものは時間、空間の中にはない。落とし物を、落
とした暗いところで探すよりも、落とさなかった明るいところで探すという
愚かさを示す寓話がある。まさに科学が普及すると、このような愚かなこと
をしてしまうのではなかろうか。
科学は絶対的真理、学ぶに値することの主張は、科学は客観的であること、
価値判断から中立であることを根拠にしている。価値から分離された事実を
取り扱うのが科学だ、したがって科学は絶対的真理というわけである。
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
事実と価値とは分離されなければならないと人は言う。無論科学者たちに
とってこそ、それは最低限の約束事だろう。しかし私たちは、自分自身の或
る瞬間の思考を捉え、入念に分析してみたとき、あるいは思考の軌跡を顧み
て、誠実にそれを辿ってみたとき、この両者を画然と分離することができな
いのを覚えないだろうか。事実に価値は混入していなかったろうか。価値が
事実を規定してはいなかったろうか。・・・或る現象は、ただのその現象で
あり、意味も目的も何もないと思うことは人には耐え難い。なぜならそれは、
自分が存在したことには意味も目的も何もないと認めるに等しいからだ。そ
して人は、現象を裸のままに放っておけずに解釈し、意味づける。自分を巡
る物語を創る。注
科学は自然を解釈するということについては、ニーチェを引用して示した。
解釈の中に価値が入っていることはあきらかだろう。
生物は進化すると言うとき、そこに既に価値的な匂いはしないだろうか。
秩序
は望ましく、 混沌
は厭わしいと思ってしまうことはどうだろう。
アインシュタインは 科学とは概念化という過程により、自然をあとから再
構築する試みである
と定義したが、彼によって
再構築
される自然とは、
やはり密かに、こうあってほしい、あるはずだ、あらねばならない自然だっ
た。注
このように、科学は価値判断から中立であることを願うが、厳密には価値
判断を常に含むのである。科学は一つの解釈であり、価値判断を前提にして
いるのである。さらに、科学の中ではその命題を根源的な意味では論証はで
きない。ということは、絶対の真理を科学が獲得しているわけではないとい
( )
うことである。
それがはたして知るに値するかどうかは、これらの学問みずからが論証し
うべき事柄ではない。いわんや、これらの学問が対象とする世界がそもそも
存在に値するかどうかということ、またこの世界がなにか
意味
をもつも
のであるかどうかということ、さらにこの世界のうちに生きることがはたし
て意味あることであるかどうかということ、 こうしたことにいたっては、
もとより論証のかぎりではない。これらは、すべて問題外とされるのであ
る。注
このように、科学は絶対の土台の上に立っているようなものではなく、ま
たそれが立っている土台はなんら科学の中では問われているわけではない。
したがって絶対の真理を科学が獲得しているという思い込みは検討はずれで
ある。価値判断から中立な絶対の土台に立っている、だから科学の価値にし
たがえばよい、というのは誤りなのである。むしろ、科学は明らかに価値を
前提にしている、しかし、暗黙の価値なので見えにくいのだ。また、科学が
価値を証明することはできないし、与えることはできないのだ。価値は科学
の中にはないのである。
これらの神々を支配し、かれらの争いに決着をつけるものは運命であって、
けっして 学問 ではない。学問が把握しうることは、それぞれの秩序にとっ
て、あるいはそれぞれの秩序において、神に当たるものは何であるかという
ことだけである。教室で教師がおこなう講義も、この点を理解させることが
できればその任務は終わるのである。もとより、その講義のなかにかくされ
ている重大な人生の問題は、これで片づいたわけではないが、この点につい
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
ては、大学の教壇以外のところにある別の力が物をいうのである。注
科学は価値についていえない、個人が結論をだすことなのだ。わたしたち
は、何らかの支えを欲している。支えなしには生きることはできないと感じ
ている。かつて、宗教にその支えを求めた。しかし、科学が宗教を支えの地
位から放逐した。そして、その後がまに坐ったのが科学であり、技術であり、
功利主義である。
しかし、いずれも支えにはならないのだ。客観性をもつから、価値判断か
ら中立だから、形而上学から独立しているから、さまざまな理由から科学の
絶対的優位が主張されたのだが、根拠はないことはわかった。しかし、否定
されたけれど、それはわれわれが支えを欲するがゆえに、いつの間にか支え
になってしまう。
このような科学的真理、客観的真理だけが重要だとする風潮に警告を発し
たのはフッサールである。客観的真理だけが真理だとする危機、むしろ個々
に根ざした関心に答えることが忘れられている、こうフッサールは主張した。
客観科学の示す真理だけが唯一の真理だとすることに対して、これは真理の
意味の全体を揺るがす危機だという。
ここでいう危機とは、それぞれの個別科学の理論的、実践的成果を問題に
するのではなく、その真理の意味の全体を徹底的にゆるがすような危機なの
である。注
それは、自己自身の真理を放棄することになるという。
哲学の究極的な理念、その真の主題、その真の方法を探し求め、真の世界
の謎を発見し、それを解決の方向にもたらさねばならない、というのが哲学
的近代の負わされた運命なのである。
( )
このような発展を背負っているわれわれ現代人は、懐疑の大海に没し去っ
て、われわれ自身の真理を放棄するという最大の危険の中に身を置いている。
注
自然科学の影響のもとに、客観的真理が模範となる。そして、われわれの
現実に生きている世界が忘れ去られ、自然科学の示す客観的世界だけが普遍
的世界と認識されるようになる。
こうして人文社会科学も自然科学の影響下に成立し、近代の学的世界が生
まれることになる。そこでは主観・客観に基づく
客観的真理
という理念
があらゆる認識にとって規範となり、それが学問の全分野の合言葉となった。
学問は以後単なる事実学に還元され、生に対する意義を喪失してしまったと
フッサールは言う。ヨーロッパ諸学の危機はこのようにして生じたのだが、
そこにはさらに重大な問題が隠れていた。近代以降、学問の世界が広がるに
つれて、こうした客観的・理念的世界が普遍的世界であり、そこでこそ真実
が解明されるという期待が生まれ、私たちが営む日常の 生活世界
は相対
的で曖昧な世界として学問の対象とならないと考えられるようになったので
ある。注
わたしたちの生きている世界、生活世界が忘れ去られるとしたら、われわ
れの真に求めるものがどこに見出されるだろう。わたしたちの善、本当に望
むべきもの、それはわたしたちが本当に求めることによって見出される。本
当に求めるわたしは生活世界に存在する。
生活世界の主観的性格と、 客観的で
( )
真の
世界との対比は、いまや次
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
の点にある。すなわち、後者は理論的
論理的構築物であり、原理的には決
して知覚できず、また原理的にその固有の自体存在について経験できないも
のの世界であるが、他方、生活世界的に主観的なものは、すべての点におい
てまさしく現実に経験しうる、ということによって特徴づけられる、という
点である。すでに触れたように 生活世界
は 根源的な明証性の領域
で
あり、現実的な経験の領域である。ところが、 近代の科学的・合理的世界観
は、それを
主観的
相対的
な世界であるとみなし、 客観的真理
得するためには、その 主観的
相対的なもの
を獲
は克服されるべきものであ
り、客観的・理念的世界に従属させられるべきものと考えた。その結果、 生
活世界 は
主観的
相対的
であいまいな世界であり、もともと
生活世
界 からとりだされたにすぎない、因果関係や客観的法則と言った抽象的な
世界こそが本当の世界であるという逆転が生じた
という。したがってこの
生活世界こそ学の主題とならなければならない ということになる。注
科学の中には、存在するのは科学の領域だけで、生の領域は存在しない。
科学的知は他のすべての知を排除し、知は科学の知だけになってしまう。
人々は、今や
学問が生を支配し始める
ことに凱歌を奏している。これ
を達成することは可能であるが、しかしそのようにして支配された生にはあ
まり価値のないことは確かである。注
問題なのは、科学の領域が真実に実在するものの唯一の領域であると考え
られていることであり、それゆえこの科学が、生とその文化とが成立する領
域を非
存在であるとして、あるいは見せかけの幻想であるとして葬り去っ
てしまうことである。
( )
問題にされるべきは科学的知そのものではなく、今日この知に結合された
イデオロギーなのである。このイデオロギーによって、この科学的知は他の
すべての知を排除する唯一の可能な知となる。
というのも、
このイデオロギー
こそは、他のすべての信仰が崩壊して行くさなかにあって、少なくともただ
ひとつ現代世界に存続している信仰だからである。そして、それこそは、知
はすなわち科学であるという、すでに一致を見、世界中に広まった確信だか
らである。注
このように知は科学の知である、科学の知以外の知はない、こういう構造
を科学はもっている。そうであってみれば、科学研究は無益というよりも、
有害になってしまう。
人間の生活は動物的な生存にすぎず、理性の意識のささやきかける幸福な
どとても不可能なばかりか、理性の法則というのも、しょせん、ただの幻に
すぎないなどと考えるときには、こうした研究も、無益というより、有害な
ものとなるのであって、人の目から知識の唯一の目的をかくしてしまうばか
りでなく、影を研究すればその本体もわかるというような迷いに、いつまで
も、人をひきとどめる役にしかたたないのである。こういうような研究は、
ちょうど、生物の運動の原因がその影の変化や運動にあると仮定して、生物
の影の変化や運動ばかり注意ぶかく研究している人のすることと、似たよう
なものだといえるだろう。注
われわれは科学と距離をとることはできない環境に生きている。そしてつ
き合わなければ生きていけない科学は、われわれをして現実の生活世界から
( )
あなたは歌を歌えるか(芹澤)
目を背けさせる。このことは、求める善を、ありもしないところ、客観的世
界に求めることになる。そして、客観的世界の中にこそ真理はある、求める
真理はあるという前提をより強めることになる。悪循環が果てしなく続く。
われわれはフッサールのいう生活世界を取り戻さなければならない。それこ
そがケインズのいう歌を歌うことに通ずるのではなかろうか。
( )
注
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