古活字本﹃べんけ

翻刻
古活字本﹃べんけ
ざうし﹄︵下︶
古活字本﹃ぺんけいざうし﹄︵下︶ 二七
このむ身なれは、平家のさふらひとも朝恩にほこり、ますますむけんのこうをまねく間、おさへてす㌧めにいらすへ
てうおん
はくの御ほうこふそかし、されとも此へんけい、ざいほうをもたねは、ほうかには入かたし、もとよりあくきやうを
っみにてはよもあらし、こんりう申も又へんけいかれうけんなり、ふるき堂をあたらしく仕てまいらせ侯へは、そく
其後弁慶、又しよしやへ参り、ほとけの御まへにて申やう、﹁此御寺やきたる事、わかなすわさなれ共、さしたる
へんけいざうし巻下︵内題︶
へんけいさうし巻下︵題簸︶
翻 刻
なお、本書の書誌その他に関しては、﹁古活字本﹃べんけいざうし﹄にっいて﹂︵島大国文、6︶に述べておいた。
である。
前稿︵本紀要第10号︶に引き続き、﹃べんけいざうし巻下﹄を収める。翻刻の方針は、前稿の凡例にあげたとおり
下 房 俊 一
レ)
下房俊一 , 二八
し、かれらかたちを千ふりうはひとりて、くきの代に参らせん、ゑいさんの仏前にてたもちつるちうたうかい︵ー
ぷつぜん
オ︶も、此たひはかりは御めんあるへし﹂といふて、らいはいしてけり。
しもりとし つさ
かげきよ ︵マ・︶ たれ
其のち弁慶都にのほり、平家のさふらひ共の太刀をとりけるに、むねとの大名、その外、越中の前司盛俊、上総の
悪七兵衛景清なといふ、一人たうぜんものともをゑらみてそとりける。へんけいとは誰もしらす、八尺はかりの法師
の、かみはおっっかみなるか、まかぷらたかくて、ほうほねあれたるか、京ゐ中にて平家のさふらひ共のたちをとる
事、た\事にあらすといひふる\。さういなく九百九十九ふり取て、いま一ふりかおさめなれは、おとにきくみなも
との九郎御曹司のこかねつくりのたち、き㌧こそおよひけれ、此よしつねと申は、こ左馬頭義朝の御︵ーウ︶子な
ざう かみよしとも
︵マ・︶
り、ようせうよりくらまのてらにて、ひやうはうのひじゆっときはめたまひたる人そかし、いかにもしてこのたちを
べん
とらんとうかかふ所に、六月十五目の夜、月くまなかりしに、北野のしやたんにてゆきあふたり。弁慶いっもこのむ
ひたたれ
しやうそくなれは、しろきかたひらに、かちんの直垂に、、くろいとおとしのはらまき、雲にほうわふのさうのこて、
びやくたんみかきのすねあてさし、くろかねにてすちかねをたてたるばうのてもとをは、そめかわにてまかせ、ゆん
とうさい
てのわきにかひこうて、二王立にたったりけり。たれをかたきとはなけれ共、東西をきっとにらめは、おそれぬもの
なし。さるほとに御さうしは、はなやかなる︵2オ︶ひた㌧れに、其ころ都にはやりける六はらやうのゑほし、こか
ねっくりの御はかせめされ、しやたんにむかひ、ねんしゆしてこそをはしけれ。弁慶こかねっくりにめをかけて、あ
っはれ、此太刀をうはいとり、千ふりにたさはやと思ふか、まっしやたんのかたをふしおかみ、おほいらたかのしゆ
ざうじ
すとりいたし、たらに、しんこんとなへっ\、さらぬやうにて御曹司の御まへを一両度とをり、三とめにくたんのは
うにて、おとりあかってちやうとうつ。御ざうしめての御あしにて、弁慶かひちをちやうとけさせ給て、いっのまに
かはぬきたまひけん、御はかせをふりあけ、うしろとひにゆんっえはかりとひのきて、﹁夜中の事︵2ウ︶なれは、
もし人たかひにや﹂とのたまへは、﹁おとこははやきものかな、人たかひなりとも、うたはなとかうたさらん﹂とて、
︵マ・︶
うってか㌧る。たちにてはあわせたまはす、とひのき、とひちかひ、はしめの程はむしんにあひしらい給て、へんけ
いかひさふのはうを、すちかねひるまきかけて、二尺あまりきっておとし給へは、へんけいおほきにわらひて、﹁あ
つ、きれたり、太刀かな、よきたちをもちたるこくはしや殿かな、其儀ならはてなみのほとを見せん﹂とて、四しや
く六すんのたちをするりとぬいて、すきまもなくきったりけり。其時御さうし、へんげいなりとおほしめし、くひを
うちおとさはやとおほしめすが、あったらものを、しはらく︵3オ︶たすけみんとて、御さうしはひやうほうのしゆ
っをとりいたし、ひきやうじさいのふるまひなり。御はかせをもって、弁慶がかしらのあたりを、てんくわうのこと
くにひらめかし給へは、へんけいあきれて目をふさき、はうせんとして立たるところを、太刀のむねにてかいなをち
やうとうって、たちをうはひとり、うしろへ二三けんほととひすさり、﹁あらにくの法師かふるまひや、ころものう
へにかっちうをたいし、か\る悪きやうをするこそきくはいなれ﹂とのたまへは、弁慶っふやきけるやうは、﹁おほ
あく
せうぶ
くの人と勝負をしけるに、此くはしやとのにあふて、ふかくをとるこそむねんなれ﹂とて、たちすくんてそゐたりけ
の た ま
る︵3ウ︶。御ざうし、﹁此太刀ほしきか﹂と宣へは、﹁わか物なれはほしからては﹂と、りこんかほにそ申ける。﹁さ
らはとらするそ﹂とて、はらまきのむないたをさして、なけっけたまへは、地にもおとさす中にてとり、やかてさやに
おさめけり。このくはしやをみれは、具そくもきすすはたなり。心こそかうなりとも、我ちからにはおよはしとおも
ひ、﹁いさやくまん﹂といふま㌧に、さうのてをひろけておとりか㌧るところを、よしっね、弁慶かゆんてのわきを、
たう しよしん
うしろへっっとぬけ給ふあひた、うしろを見れは人もなし。てんをかけるか地をく\るかとふしきにおもひて、あき
れてそたつたりける。しはらく心をしつめてあんじけるか、当杜は諸神︵4オ︶にこえて、れいちあらたにましませ
あく
は、かりに人間とあらはれ、しやまん、かまんの悪心をいましめたまはんためのはかり事にてやあるらん、あらあり
古活字本﹃べんけいざうし﹄︵下︶ 二九
下房俊一 三〇.
あく
かたの御事とて、しやたんにむかひらいし奉る。もとよりむさし、悪行のものなれとも、ないてん、けてんくらから
す。法花きやうのひほをとき、しよほん第一よりけっくはんして、﹁自今以後、無理無たうの心もっへからす、けん
せあんおん、ごしやうぜんしよ﹂とゑかふして、夜あけて北野を立出けるか、いつのまにかはだうしんさめ、さもあ
れ、すきしよの男は、神かほとけか何ものそ、もし此おとこにあふならは何とかすへし、百日のうちをは、御神ゆる
したまふへし︵4ウ︶、百目か内にこのものにあふならは、ひっくみさしちかへてしぬへし、もしあはすは、衣のい
ぼだい
ろをも心をもふかくそめてごしやう菩提より外あるましと、又たちかへりてらいはいし、京のかたへそかへりける。
しやう
おなしき七月十四目の夜、いっものしやうそくにて、くたんのはうのきりのこしをゆんてにっき、法性寺のあたり
ま こ と
をとをりけれは、みたうの内に、誠にたへなるふえのね聞えける。弁慶たちより見けれは、くたんの人なり。しれも
のよとおもひて、まちかくたちより、なきなたの石っきにて御あしをっかんとし、あふきをもって御くしをなて、ね
すみなきしてとをりけり。御ざうしは御らんして、にくきものかなと︵5オ︶おほしめし、一町はかりやりすこし、
嚢めなる石のかとのあるにてうち給ふ。っぷてはてんくたうの物なれは、砦ひミわたりて、弁慶がちやうく
まなこ
にはたとあたりて、此いしみぢんにくたけたり。へんけい眼くらみけれ共、ふんはり立すくみ、はのねをくひしはり
てそこらへける。其後へんけい、きをとりなをして申やう、﹁此くはしやはっふての上手かな、それかしかしやうと
ざうじ
くかなかしらなれはこそやふれされ、いてさらはへんたうせん﹂とて、太刀をぬきてそか㌧りける。御曹司御らんし
て、﹁あまりに物あひちかし、こ二く一とのたまひて、たうのもとおしさり給ふ。弁慶っ㌧いて、奈みうちに
ちやうとうつ。よし︵5ウ︶つねなにとかとひたまひけん、うしろとひにたうのうへまてあかりたまひて、ますかた
にこしをかけ、﹁御坊、心さしあらはこれ一く一とおほせけれは、弁慶みあけて、はらをたて、い.よくた喜
にてはなしとて、もとのやとへそかへりける。
そのσち八月十七目の夜、ことさら月くまなかりしに、御さうしきよみっへさんけいしたまふ﹂むさしもいつもの
ぷつぜん
しやうそくにて、きよみっへ参りけるに、十七日の夜の事なれは、きせんくんじゆして、仏前よりふたいさきまて、
とうそく、なんによなみゐたり。もとよりへんけい、人をひと共せされは、太刀のさや、なきなたのゑをふりまはせ
は、人おそれてとをしける。しやうめんのか︵6オ︶うしきはまてやふり入けるか、おもてのひたりに一座せんと見
むさし
るに、くたんのこくはしやとのまします。武蔵房ものおそろしきとおもふ事しらねとも、此人を見てむねうちさはき
けれは、ふかくなりとよ我こ㌧ろとて、みつからむねうちさため、ましかくよりておもふやう、ほつたいとしておと
この下につかんもむねんなり、いか\せんとおもひやすらへは、このとのはりやうかんをふさき、ねんしゆし、かつ
しやうしておはしけれは、よきひまと思ひ、こわきをすくひなけんとて、両の手をさしよするところを、御ざうしみ
きの御あしにて、弁慶かむないたをちやうとふみたまへは、うしろへとうとまろひけり。大の︵6ウ︶法師がはらまき
に大具そくとりっけ、思ひのほかたふれけれは、くんしゆのうへにふしか\り、おほくの人ををしふせて、かたはに
なるものおほかりけり。へんけいおもふやう、あらはっかしや、これほとおほき人の中にて、かくふかくのありさま
︵マ ・︶
いか㌧せん、とあんじけるか、しる人のていにもてなして、﹁殿はいまにはしめぬあらさけふや﹂−といひ、ちからなく
ざうじ
下座につく。其後弁慶、御曹司をはつたとにらみ、﹁や殿、ふつぜん、しやたうにては法師こそ上座すれ、そくたい
たう
として法しのうへにゐ給へは、じん儀にそむきたまふへし、ほうし入堂とみたまは\、ざをさりてしやうじ給ふへき
を、あまっさへらうせきのふるまひかな﹂と︵7オ︶いへは、よしっねきこしめし、﹁このほうしはよく物をしりた
るや、ほとけの御をしへのしやうそくをはしらすや、ころもをき、けさをかけたらは、座をさりてもおき申へきか、
をひ
ほったいかとみれはかっちうをたいし、ふしきのくせものなり、追出すへきに、みだうのうちにぷゐにをくをまんそ
くせよ一と、にくくと宣ひて、又ねんしゆしてこそおはしけれ。さんけいの人高て、﹁そも此とのはいかなる人
古活字本﹃べんけいざうし﹄︵下︶ 二二
下房俊一 三二
やらん、鬼神のやうなるものを、あのことくにはおほせけるそ、あらおそろしや﹂と申けれは、其なかにくらまのも
おに
の差りつるか、よく見しり奉り、﹁あれこそ源氏の大将の御ざうし義経にてまし喜、かやうにあさく一7ウ一
しやう よしつね
よしつね べん
さし ︵マ、︶ よしとも
しく申もおほそれあり﹂と申せは、武蔵これを聞、扱はうたかふ処なし、義経にてわたりたまふそとて、其時弁慶ひ
む
さを立、御まへにちかっき、こ㌧ゑになりて申けるは、﹁それかしをはいかなるものとかおほしめす、さいたうの武
蔵坊弁慶と者なり、殿はこさまのかみ義朝の御子、九郎義経にてわたらせたまふか﹂と申けれは、御ざうしきこしめ
し、﹁さては汝をこのほと何ものかとおもひ、きってすてはやと思ひっるに、よくこそたすけをきたれ、扱はへんけ
なんぢ
いといふものか一とて、をひたまふ。そのとき一んけい申けるは、﹁たひく御手なみのほとはみ奉れとも、ひき
やうじざいのじゆったうとおほえて、うちもの\勝負︵8オ︶っけかたし、去なから今一度参り相、せうふをけっし
せ一﹁ぷ
侯は喜一と申せは、﹁しさいあらし、たこたひく御一んはこのよしっねをけしやうしたまふほとに、此たひは
よしっねかぐひをおとさる\か、御身がくびをはぬるか、一っの内にせうふすへし﹂とおほせけれは、弁慶申やう、
﹁それまてはむやく、かち申たらは、源氏なりともむさしか郎等になりたまへ、わふそんちかきへんけいを、さけた
げん らうとう
よしつね
まふへきにもあらす、又うちかたせたまは㌧、それかし御内にめしっかはれて、朝夕ほうこういたすへし﹂と申け
れは、義経おほしめすやうは、とてもまけはせし、りやうじやうして、めしっかはんも一人たうせんたるへしとおほ
っね︵マ・︶ さい ︵マ・︶
しめし︵8ウ︶、﹁さらはともかくもせうふをけっすへし、た\したうのうちはあまり人目しかるへからす﹂とて、二
さカ
人うちつれて、きよみっ坂をくたりたまひ、五条のはしにて、﹁此へんこそしかるへけれ﹂とて、八月十七日やはん
はかりの事なるに、﹁源九郎義経正年十九歳﹂と御名のりあって、御はかせするりとぬきたまふ。弁慶も、﹁正ねん廿
吐ん
六﹂となのり、四尺六すん、するりとぬひてわたりあふ。くはんおん参りの上下、前後のみちにたちとまり、﹁ふし
きのけんふっあり﹂とて、きせんくんしゆしたりけり。たかひにてなみ見せんとて、うけっそむけっして、ひはなを
ちらしたまふ。へんけいははらまきにこ具そくはさしかためたり、たちのすんは︵9オ︶のひたり、すきまもなくき
つてか\る。御さうしはすはたにて、てうとりのことくとひかけりたまふか、いつのまにかはむさし房かひさのくち
をきり給一は、すこししりそく所を、さし吉てたちをうはひとり、うしろなるきし一とひあかり、﹁さてしうく
の た ま
のやくそくはいかに、むさし﹂と宣へは、弁慶いまはことはなくして、こうけんはきたる事なれは、ちからなく御ま
ぺん
へにかしこまる。其ときよしつね、弁慶におほせけるは、﹁いかにむさし、我身こそあらめ、御へんさへ道せはきも
のとならん事のふひんさよ一とおほ苔れは、一んけい承て、﹁しうくのけいやく申う一は、其たんは心得て侯、
御身はあるにまかせてすませ給へ︵9ウ︶﹂とて、うちつれて京中をこそめくりけれ。
よしっねにさいたうのむさしあひそうて、らくちうをめくり、へいけをほろほさんとするよしふうふんしけれは、
入遣相国は聞たまひて、﹁やすからぬ事かな、へいぢのらんにちうすへきこくはしやを、たすけおきたるかうおんを
わすれ、かへつて此一もんをほろほさんたくみ、あまつさへ弁慶といふくせものをあひかたらうこそきくわいなれ、
いかにもして此二人のものともをからめてまいれ﹂とおほせける。さふらひともうけたまはってねらいけれ共、ひや
うはうのじゆっをきはめ、そのあり所をもしらせす、うっへきやうはなかりけり。 一もんの人ミ、れうのひけをな
て、と︵10オ︶らの尾をふむこ㌧ちして、ふっけい、しやさんもこ\ろやすくはしたまはす。いか㌧してこのものを
うちとらんとせんきあるところに、ある人しやうかいの御まへにて申けるは、﹁この弁慶はゑいさんのさいたう、は
\きのりつし慶心のてしなり、此けいしんをめしいたして、へんけいかあり所をとはせたまへ﹂と申けれは、﹁此儀
よ ■き
しかるへし﹂と、やかてなんは、せのおに三百余騎相そへてそつかはされける。けいしんのはうを七へ八へにとりま
あく
はし、つかひたて羊けるは、﹁御てしのむさしはうといふ悪僧、九郎よしつねととうしんして、御一門にさまく
はら
のあくきやくをなす、−師弟の御事なれは、かのへんけいを︵10ウ︶たまはり六原へめしつれん﹂といふ。慶心き㌧た
古活字本﹃べんけいざうし﹄︵下︶ 三三
下房俊一 三四
まひ、﹁是はおもひもよらぬ事にて候、其もの㌧事はちこにて侯ひし時、一さんのそせうによって此坊をはひらき、
二三年此かたは行かたをしらす侯﹂と申されけれは、なんはの次ら申けるは、﹁さらはそのよし、六原にておほせわ
ゆき
けられ侯へ﹂といふ。﹁それはともかくも、我身にくもりあらはこそじたいにもおよふへけれ﹂とて、かうそめの衣
ざうじ
に、おなし色のけさかけて、ぬりこしか\せて出られける。さるほとにむさしばうは、御曹司にっき奉りて、北白河
にゐたりしか、此事を聞て、御ざうしの御前にて、﹁われゆへに師しやう、六はらへまいられ侯よじ承侯、十恩をう
まへ おん
けなからか㌧る︵uオ︶うきめをみせ申事、いんくはのほとあさましう候、御いとま給て平家のてにわたり、ししや
よしっね
うのなんかんをたすけ申へし﹂と申せは、義経御なみたをなかし給ひて、﹁ししやうの事なれは申もさる事なれとも、
とかなきみなれは、さためてやかて登山あるへし、御へんか行ほとならは、きられん事は一ちやうなり、た\まけて
と\まれかし﹂とのたまへは、弁慶かさねて申けるは、﹁たとひきられ侯とも、たちまちにをんりやうとなって、へい
けの一もんをほろほし、けんじのしゆご神とならんことうたかひなし、いまたうんっき侯はすは、おもしろく申ぬ
け、やかて参るへし﹂とて出にけり。あとにと㌧まるは︵1ーウ︶三世のしゆくん、さきにす㌧むは三世のししやう、
いつれもおろかはなけれとも、一字干金のかうおんをはうせんと、さもあらけなきまなこよりなみたをなかしつ㌧、
はら
六原さしていそきけるが、むかししたしかりし人、あんしっむすんてありけるをたっねゆき、﹁師しやうの慶心は・
それかしゆへに六はらへた\いま引立参りたるよし承侯あひた、弁慶まかり出て、御房をはやかてきさんさせ申へ
\
た
る
と
聞
え
侯
は
\
、
よ此
ろ鎧
いともにて僧をもくやうしてたまはれ、も
し 、 此 具 そ く を あ っ け 申 侯 、 む さ し 六 は ら に て し
し又しなすは返したまはれ﹂といひすて\いてけるか、へんけい其日のしやうそくには、かうそめの衣に︵12オ︶か
くろ
ちんのけさかけ、ときんまゆはんにせめこみ、黒は㌧きさしはき、せのおかけいごして行、けいしんのこしをめかけて
をひ Φ一き
は しり ける か、 ほと なく 追
っき、こしのなかゑにとり付て、大おんじやうにて、﹁そもく此けいしんはいっくへ斤
ぷつ
給ふそ一とい一は、こしかき共、大のこゑにおそれてふるひく、・﹁六原一一とい一は、﹁仏事か又はだうたうの御く
ぐん
やうの事ならは、大せいの軍兵にてはよもあらし、何事そ﹂ととへは、りつし聞て、たれともしらす、﹁へんけいか
事をたっねらるへきためそ﹂と申されけれは、﹁さらは老僧まてもなし、弁慶とはわか事なり、何事を六はらにはた
つぬへきためそや、むやくの老僧のくはんけの御︵12ウ︶しゆつしかな、いそいてきさんしたまふへし﹂とて、こし
をおしかへす。其とき慶心なみたをなかし、﹁とうきやうにて見つる後はいまこそはしめなれ、我事はとしより、よ
めいもいく程あらん、汝はわかき身なれは、しはらくしんみやうをつき、らうそうがほだいをとぷらひ給へ、とても
なんぢ
とかなき身なれは、平家へ申わくへし、これまてくたりたるうへはわれこそいつへけれ﹂と宣へはは、﹁其儀ならは
のたま ︵マ・︶
けいこのふしとも一ミふみころし、はらをきるへし、御きさん候は\、なはをかけられ六はらへゆかん﹂とて、はか
みをしてたちけるは、いかなる四天八てんのあらつくりといふ共これにはすきじ。其ときけいこのぷし申けるは︵13
オ︶、﹁りつしの御下向も弁慶をたつねられん為なり、さいはいいてんとおほせ侯うへは、けいしんはきさん侯へ﹂とく
かう ため
ちくに申けれは、このう一はちからなしとて、こしをかきもとしける。その時むさし、師しやうにむかひ、なみた
をなかし申やう、﹁此とし月は御ふけうのふんにて、朝夕此事をなけき存侯、いまはこのあひたの御ふけふを御ゆる
し侯へ一と申せは、﹁いやくその儀なし、一さんのそせうなれはちからなし、まつたくふけふとはおもはぬ一とて、
ころもの袖をぬらされけれは、弁慶も、﹁さては御かんたうにてはなかりしを、うらみ奉りし事こそかなしけれ﹂と
まなこ
てなきけれは、見る人ミ、﹁あのおそろしき眼にもなみたはある︵13ウ︶か﹂と、あはれなからもおかしかりけり。
扱りっしは山へのほり給ふ。へんけい何とか思けん、うちかたなをししやうにわたし、手をのへてなわをか\り、な
こりをしけに見おくり、やすらひけるこそあはれなれ。そののちむさし申けるは、﹁わかきもの共かのりたる馬いた
むまひき
せ、わ殿はらか馬にけたてらるへきか﹂といへは、やかて馬引むけてうちのせて、さふらひともいさみさ\めきかへ
古活字本﹃べんけいざうし﹄︵下︶ 三五
下房俊一 三六
ゆき
りけり。弁慶是ほとのなはならは、十すちなり共しめきり、本まふをたつすへきものをと思ひけれは、あさわらひし
一んけいをくして参りたるよし申けれは、清盛よろこひ給て、ていしやうのしらす一めさミ。一門みなく一皿
て六はらへ行けり。
きよもり
オ︶出あひ給ふ。さて武蔵にはむねとの大ちから十余人とりつき、﹁これは御前そ、かしこまれ﹂とて、ひきすへん
むさし よ ぜん
とすれは、此ものともをひつたて㌧、二三けんさきへす\みける。﹁是はうへの御まへそ、御坊﹂といへは、﹁なに、
くはん ︵マ・︶
うへとはたか事そ、桓武のすゑといへとも、わふそんはるかにへたたりぬ、京わらんへともかたか平大とわらひし
ち わう すへ
くま へつたう
人、世に出てあきのかみといひしか、今うへさまといはる㌧な、弁慶も天智てん皇の御末、す\きたうのせうりう、
熊野の別当弁心か子なれは、うちはます共おとるまし、誰におそれてっくははん﹂といへは、きよもり大にいかり、
﹁あの法師めを門外へひきたてよ﹂とおほせけれは、﹁承侯﹂とて、人ミよって︵14ウ︶ひけ共はたらかす。た㌧大
木をひくことくなり。﹁あなおそろし、弁慶かちからのいみしさよ﹂とて、一もんの人ミ、其ほかさふらひとも、ひ
ろゑんのおっるはかりにさはく。其時むさし、よきついてなり、一もんの名をとひ、よく見しり、かさねて行相たら
むねもり な.こん しやう た工 かみのり みち のりつね
ん時、くひうちおとさん物をと思ひけれは、ここゑになって申けるは、﹁あれにまします人ミのなををしへよ、さあ
しやう
らはなんちらにひかれて、いっくまてもいてん﹂といへは、なはとりともよろこひ、こまつとのをはしめて、右大将
もoとし あく かげ
宗盛、新中檀言とももり、三位中将しけひら、平大檀言時忠、三河守憲盛、三位通盛、のとのかみ憲経、くらんとの
太夫なりもり以下の人ミなり。さてさふらひ︵15オ︶には越中せんじ盛俊、かっさの悪七兵衛景清以下のむねとの人
ミのけみやう、じっみやうををしへける。へんけい座しきをきっとみまはし、あっはれかたきや、の㌧すゑ、山のお
くにても、薯の御心にかけたまふ人くはこれそかし、これほ圭きぢからに、砦はをしめきり、具そく一っ
せうぷ
うはひとり、きよもりのくびのきりよけに見ゆるをうちおとし、其後小松殿そのほかの人ミと勝負せはやとおもひ、
もり
すてになはをきらんとしけるか、又おもひ返して、とても一度はほろほすへきかたきなり、清盛父子のうち、御ざう
ところ
しの御手にかけたくやおほしめすらんとおもひ、とかくしあんする処に、こまっ殿、﹁むさしか︵15ウ︶まなこっき
は見所あり、若もの共ふかくすな、それほとのなはをなにとおもはん、かなくさりなりとも引きるへききしよくを
は、たれもみしりたまはぬか﹂とさ㌧やき申されけれは、弁慶おほきにわらひ、﹁こ㌧にゐれはこそ人ミにまほられ
きよもり
侯へ、いさをのく一とて、なはとりともをひきたて・、せのおかもと一行ける。清盛此よし御らんして、﹁此法師
に心をゆるし、ふかくをなすな﹂とて、はんをかたくおほせっけ、れんちうに入たまへは、っはもの共承て、門ミ
をさしかため、けいごひまなくまはりけり。弁慶は﹁もとよりこくしやうせかい、なんなふにっなかれて、ねかへ共
きたらす、いとへ共さるへからす、な無さんほう﹂とうちゑい︵16オ︶して、あさわらひしてゐたりけるか、しやう
むさし
じをへたて\、わかさふらひともよりあひていひけるは、﹁おとにきく武蔵坊かたつねいたされてきたりたるそや、
一もんのくはほうかな、よしつねもいまのことくならは、やかてとらはるへしと思ふなり、さためてへんけいはさう
なくよしっねのさいしよをはいふまし、さあらは火せめにすへきか、水せめにすへきか﹂とさ㌧やきけるを、武蔵き
㌧て、あらかたはらいたの事共や、まことにとふへきならは、弁慶かちからは人にもあつけす、又おちもせねは、こ
ざうじ ざい がくもん
のなは引きりて、此いゑのけた、うっはりとりなをし、さうのわきにはさみ、むかふものをうちたをし、一とひに御
曹司︵16ウ︶の御在所へ参らん事あんのうちなるへし、とおもひけれは、﹁わとのはらたち、弁慶は学文、かつせん、
いさかひ、すまふ、其外はやわさ、ちからわさもしっ、あたらぬ草きもなけれとも、いまたきうもんといふ事をしら
し相国一しかく申あけけれは、誓の法師めをなにとかせんと、おほしめしわつらはせたまふ処に、吉内左衛門す
す、きうもん、かうもんはにかきものか、あまき物か、ちと心みしたや﹂とて、大くちをあけてそわらひける。此よ
ところ
よしつね
㌧み出て申ける。﹁此弁慶はきうもんにては、いかにせめ侯とも義経のさいしよをは申へからす、思ひきってわれと
古活字本﹃べんけいざうし﹄︵下︶ 三七
下房俊一 三八
参る程のものかおち申事は侯まし、それかしこの者をたはかり義経一∬オ一のあり所をよくく聞て申上侯はん一と
申けれは、清劇き㌧たまひ、﹁ともかくもはからへ、くんこうはのそみにたかへし﹂とおほせける。吉内左衛門心の
内におもふやう、わかさいかくにて、とひおとさんはひつちやうなり、さあらはくはふんの御しよりやうたまは。るへ
し、其とき人をもたてはかなふましと思ひ、﹁しかるへきものあらはふちすへし﹂と申ける心あてこそおかしけれ。
さる程にいろくのさつしやうξの一たるなかひつか喜て、瀬の尾か宿所にゆき、弁慶がゐたる座しき一出、
せ お しゆく
﹁いかにむさし殿、われも人もしゆくんのためにいとまなし、御身のさならせ給ふも、しうのためならすや、とくに
も参り一〃ウ一とひなくさめ申さんを、た・いま申ことくなり一とて、色いろさまくのさつしやうとりいたし、一
んけいにす㌧めける。むさし、﹁此間は野山をすみかとしてしゆはんとをかりしに、これほとねんころなるもてなし
︵ マ ・ ︶ た め
ありかたし、これもしゆくん師しやの為に身をかろんするゆへそ﹂とて、しゆはんをおもひのま\にした㌧めける。
吉内、時分はよきそと思ひ、くちひるくひしめし、うちくっろき、物いひよけにちかっきけり。へんけい申やう、
へい
﹁か㌧る御心さし申にっきなし、くけのましはりなき身にて、平家のさふらひたちを見しり申さす、誰人にてわたり
侯やらん﹂といへは、﹁吉内と申ものなり、人ってならす申度事ありて、これ︵18オ︶まて参りて候、た、しかやう
ため
のしだいを申せは、かへつてびろふににて侯へとも、御房の御為にはかたのことくけしやくに付て、御一門のはしに
たう ところ
て侯、みなはうはい共にも存たるもの㌧侯へは、人の心をは\かり、いままて参らす候、先むさし殿の御事にっき、
当家の御ないたん様く侯、たふんはいそきちうし申さんとおほせ侯処に、いまにはしめぬ小松殿御いけんには、む
かしは源平とりのっはさのことくにして、源氏に事いてきぬれは、へいけ是をやわらけ、平家に事あれは、けんじこ
ゐん げん
れをしっむ、たかひにわかうありし時は、世のみたれもなかりしに、新院本院の御あらそひののち源平の中あしくな
り︵18ウ︶、たうしはけんじほろひ、へいけはんじやうすといへ共、一方かけてはっはさもかけりかたし、ことによ
しっねはひやうしゆっをきはめ、ふりやくにたっしやなれは、国くのけんしとうしんせは、たうけもいか㌧あるへ
き、ほろほしほろほさるミは、たかひにむくひてせうれっなし、あたをあたにてかへせは、あたっきす、あたをおん
にてかへせは、かへってとくをうくるといへり、此よしっねを関東にすへをき、ひかし三十三か国源氏のりやうちと
くわんとう こく じ
し、にしをは平家のちきやうとし、もとのことく源平あひならんて、天下をしゆこし奉らは、たかひにゑいくはをな
かくしそんにったえん、一たんのとくにまよひ、後代のらんを︵19オ︶しらさるは、ぐちのいたりなり、此事御同心
しけもり きよもり
なくは、是よりのち何事を重盛には御たんかうあるへからす、とおほせ侯へは、清盛けにもとおほし1めしけるか、だ
いふのはからひたるへしとおほせられ侯うへ、義経の御在所をたっね申され候、此事申さんために参りたるそ、この
よしつね
う一は世に奮んは御一んの祭らひよ一といふ。其とき弁慶うちうなっき、﹁ありかたしく、いつくにももっへ
ざい
きものは一門なり、たれかかやうの御ないたんをはきかすへき、たとひよしっねをいたし、しざい流罪におよふと
も、きうもんにおよふならは、此弁慶か身、石かねにてあらはこそ、ありのま㌧に申へきに、まして我きみ三十三か
てき
国︵19ウ︶のぬしになりたまは\、へんけいも四五か国はちきやうすへし、敵みかたの内にも、しんるいほとありか
たき事はなし、あひかまいてよの人にかたりたまふな、御へんひとりに申さん﹂といへは、吉内よろこひ、くちのき
㌧たるはてうほうかな、くはふんのしよりやう給て、人ミにうらやまれんこそうれしけれと思ひ、弁慶かひたいにか
ほをっきあはせ、﹁扱いっくそ﹂ととへは、﹁今は何をかっ㌧むへき、我君は日本国あめかしたのうちにまします﹂と
いふ。吉内大にはらをたて、﹁さては人をあやとるか﹂といふ。弁慶聞て、﹁いや、日本国とはそうみやうなり、其内
いっれの国、いっれのさと、いかなる所といはんとすれは、御身はとしころ︵20オ︶にもにす、心みしかき人や、く
くに
はしくかたらん﹂といへは、其時吉内左衛門きしよくをなをし、﹁其儀ならはしかるへし、た㌧し御坊のうんつきな
︶ ︵マ、︶ むさし
は
カたらし、御へんのためをおもひてこそはらをもたつれ、われもひともよにありて源氏へ申へ事あらは、武蔵殿に
古活字本﹃べんけいざうし﹄︵下︶ 三九
へい
下房俊 一 四〇
付て申へし、又平家に御ようの事あらは、吉内に承てひろう申へし﹂といふ。そのときへんけい、﹁それは申におよ
はす、何事もかたくのやうなるよき人にちかっかねは、心ことはもやわらけなし、いまよりのちよろっ御いけんこ
そうれしかる一けれ一と、心よけにわらひけれは、吉内いよくよろこひ、﹁さてよしっねはたれ人のはくくみ奉り、
いかなる所に︵20ウ︶御わたり候そ﹂といへは、弁慶かしら、をふりあけ、そらを見て、﹁あのくものしたにまします﹂
といへは、吉内そふしてたてはらなるおのこにて、せんかたもなく無ねんに思ひ、﹁なにとてかさねて人をはてうら
うするそ﹂と、こらへかたなくいへは、弁慶聞て、﹁いや、その儀なし、すんとへははすんをこたへ、しやくをとへ
︵マ・︶
は尺をこたふといふみやうもくの有をしらすや、わとのが人すかさんには、又わとのをもすかし侯はてあるへきか﹂
とて、あさわらひけれは、吉内無ねんなからもすへきやうなけれは、あとはっかしくかへりける。相国の御まへにて
まこと
は心よけにおうけを申、しゆはんをっいやし、しこくてうらうせられ、誠にはうはいの︵2ーオ︶まへもめんほくなき
次第なり。
きよもりき\たまひ、﹁はしめよりさこそあらんとおもひっるそ、をのれとなはかけられて出るほとのものか、い
かてさる事ある一き、た・くいそきちうせよ一とおほせけれは、大勢の中一うちかこみ、六条かはら一出けるに、
へんけいかさいこをみんときせんくんしゆする。弁慶をよく見せんとて、たかき所にしきかわしかせ、にしむきにひ
きすへたり。吉内てうろうせられたるかむねんさに、わさときりてをのそみ申、きりてになってそいてたりける。其
ときへんけい、四方をきつと見まはして申やう、﹁わか身ほうしにて、たかき所にのほれはかう座とおもふなり、御
ふんはきりに来るか︵2ーウ︶、近っきたるはたんなとみえたり、人のおほく見物すれは、ちやうしゆのことくなり、
いかに吉内、ちやうしゆおそしとまつらんに、せっほう一座のへん﹂といふ。吉内聞て、﹁にくき御はうのきやうけ
んかな、た\いまきられんするに念仏は申さすして、よしなきくちのき㌧事や﹂といへは、弁慶いふやうは、﹁ねん
ふっをす喜るほといとおしくは、よもきるまし一といひて、言くとわらふ。萬かさねて申やう、﹁いまは何
きはうゐのみやこにてと\めたり、ひころのかまんをさしおき、いまをかきりの︵ηオ︶事なれは、さいこのねんふ
ため
かはおかしかるへき、ひとによはけを見せしか為か、かうみやうもふかくもこんしやう一たんの事なり、た\こいし
凸一.
つ申させたまへ、うれうへき所にてうれえす、なけくへき所にてなけかさるは、かへつてふかくなり、しやまん、か
まんをすて、まことのみちにいりたまへ﹂といへは、へんけいうちうなつき申けるは、﹁はつかしや、吉内殿聞給へ、
しやうとくたいしのきもんに、まつたいにならは、そくはころもをき、かう座へあかりせつほうせは、しゆつけはか
っちうをたいしいくさをすへしとみえたり、弁慶、法師なれ共しやけんにして、今も悪心をさしはさむ、御へんはそ
くたいなれとも、いんくはにくら雀す、法師の身としてけうけをうけたる事、か一すくめんほくなし、しよせん
ぜんちしきにたの︵羽ウ︶むなり、せつせんとうじはきしんをらいしてはんちをうく、しやくそんはきつねをらいし
ろん
師しやうとす、そくなり共たうりによるへし、三ひやうとうのくはんねんも、ふじやうなれはしんじんたうにもかな
はす、きやう論はなんきやうなり、そくあくふせんのきなれとも、じきにさいはうとたんするにはすきす﹂。吉内申
ぷつ
けるは、﹁それもねんぷっ申へし﹂といひけれは、﹁いかに吉内殿、なをけふけし給へ、念仏は一ねんか、たりきか、
ひたたれ
一かふか、せんけか、何を申へきそ﹂とわらひけり。吉内はらをたて、﹁御房にわらはせん﹂といふま㌧に、直垂の
袖をとりてそはにつけ、はかまのすそをたかくとり、たちをするりとぬき、うしろにたち︵23オ︶まはりけれは、へ
んけい見かへり、﹁あらおそろしのしろき御はかせや、かねかこほりか、もちたまふてのさそひへ候はん﹂とわらひ
けれは、吉内し㌧のはかみして、たちのっかくたけよと、もってか㌧りちやうとうっ。いっのひまにかはっしけん、
まへなる石をそきつたりける。二のたちをうたんとするに、﹁いさやきられん﹂といふま\に、すんとたつかとみえ
しか、さきへ四五間とひけれは、人みなはつとちりけり。やかてあしをふみそろへはしりけれは、﹁あわ弁慶かはな
古活宇本﹃べんけいざうし﹄︵下︶ 四一
をひ ちやく
下房俊一 . 四二
れたるは﹂とて追かくる。こ\にあはれなるは、吉内か嫡子に、五郎兵衛とて、六十人ちからありと人にしられしも
のつ むま
のあり。心もかふなりとて、うしろのなはを︵23ウ︶ひかへさせけるか、あまり大事にかけ、はらまきの上おひにしか
まら
としめつけけるか、俄にひったてられ、っゐにあしをふみためす、まくわひきにひきたふされて、をのっから河鳳の
石くるまに乗てこけたるは、あら馬をっなきたるくいのぬけて、なはにっきたるにことならす。五六町ひかれ、かう
へみぢんにくたけて、生年廿七にてくさはのつゆときへたりけり。五郎兵衛もさはかりのちからなれは、此なはを手
しやうねん
にもちたらんには、命はすてじものをと、人ミ申されける。弁慶は大みね八大こんかうりきしときねんして、さうの
いのち
せい や
手をの一けれは、さしもかたくいましめたるなわとも、すんくにきれにけり。弁慶河原より一学一石をとって、
大勢の中へうちけれは、せいひやうのいる矢より人はおほくそんしけり。おりふしうちっ\き雨ふりけれは、河水ふ
かく出たるにとひ入、平家の兵共くっはみをならへて川すそへまはり、岩にせかれて水のさかまく所、あるいはきし
つはもの
の柳かもとを、さしとりひきっめさんくいる。むさしは三四町かみのかは中に大せきのあるにのほりみれは、かた
い や
きははるかの下にあり。大おんあけて申やう、﹁弁慶はこれに侯、御ようあらはこれへわたり侯へ、殿はら﹂といひ
けれは、大勢とってかけけれ共、うちものにてはかなはす。又さんくに射けれ共、蒙る矢をはくら、さがる矢
きよもり
をはおとりこえ、一っも身にはあ︵24ウ︶たらす。其時へんけいいふやうは、﹁こ\にてじかいすへし、た\し清盛
や
へことつて申さん﹂といふほとに、矢をと\めてきけは、﹁今度六はらへ参り三っのとくあり、一には師しやうのな
んをのかし申事、二には相国をはしめ御一もんいっれもみしり墨、三には弁慶かふるまひ章つく御目にかけ候、
へい
御一門の人至もろうきはしてはましまさし、御ざうしと二人して、しのひくにきりとる一し、こんりんさいのた
し さう や
まもひろ一はつくるといふ事あり、平家のかたくもせんくにきりとらは、っきなん事はうたかひなし一とい一は、
兵共、﹁た嘉とれやく一とさんくにいけれとも、此ほと御曹司に矢か一の法は一穿一奮ふつ、無しんにみを
っかへは、一すちも身にわあたらす。扱又みっの中へいり、かたきのありける川きしにあかりけれとも、人これをし
らす。敵のもつたるなきなたをうはひとり、﹁弁慶とはしらさるか、こ㌧まてよく来るに、もてなしなくてかなふま
かたき
し﹂とて、大せいの中にわつて入、くもて、十もんしにきってまはれは、さふらひとも申やう、﹁おに神とてもかた
きはた\一人そや、うちとめよ﹂とて、返しあはする処に、俄に河きりたつて東西をもしらす。た\とも具そくにて
ところ にはか とうさい
そくはくうたれけり。
よしっね
弁慶はつみつくりにとてきらす、しはしやすみて北山へかへり、義経の御まへにかしこまり、﹁へんけい、.ふしき
のいのちを︵25ウ︶たすかり申、た㌧いまこそ参りて侯へ﹂と申せは、﹁よしっねも六てうかはらより、た\いまか
へりたる﹂とおほせらる\。弁慶、﹁御そら事や﹂と申けれは、﹁まことかいっはりか、なんぢかこ㌧をいて\からい
ままての事をかたらん、き㌧候へ、まっほうゆうのあんしっに行、具そく共みなあっけおきしはいかに、す㌧かけは
かりにて、けいしんのこしに追っき、りっしをきさんさせ、御一んなはをかけられ、六はら一行、清盛にさんくあ
をひ ゆき もり
つこうせし事な、其のち引たてんとすれとはたらかて、なはとりにさ\やきけるは何事そ、一もんのもの共か名をた
っねけるよな、又せのおかもとへ吉内とやらんかさっしやうかまへて︵%オ︶来り、よしつねかありしよとひし事と
なんぢ
もな、六条河原にてたちとりうしろにまはりし時、吉内がくびをうちおとし、汝をっれてかへらんとおもひしが、な
んちきらるへきまなこさしもなく、くひのもちやうこそはよかりっれ、其後一の太刀のはっしゃうこそおもしろけ
ひき
れ、二のたちをうっひまにとひ出、はしりたりしはみ事かな、九郎兵衛かなわとりして引ころされしふひんさよ、な
は引きり、河にとひいり、大石のうへにて矢ちかひこそおもしろけれ、其後清盛のかたへことってして、かはに入、
や もり
かたきおほくうしなふ事こそむやくのっみっくりなれ、平家のさふらひとも、思ひきってみえし程に、もし︵26ウ︶な
や
かれ矢にもやあたらんとおもひて、俄にかはきりのふりしは、よしっねかわさなり、すいふんのひしゆっなり﹂との
古活字本﹃べんけいざうし﹄︵下︶ 四ミ
下房俊 一 四四
たまひて、書くとわらひ給一は、一んけいなみたをなかし申やう、﹁かけのことくあひそはせ給て、むさしめを
御けいこありし事こそありかたけれ、たとひくにをへたて、大しやうをうけたまはり、かっせんをいたし侯とも、御
ま一にてたふひ、君の御らんするよと存、いさましく侯一し、返くかたしけなき御事かな一とて、かんるいをな
かせは、御ざうしなみたをおさへおほせられけるは、﹁かまだひやうへかうたれし時分に、よしっね今ほとせいしん
してあらは、なとまさきよをうたすへきそ︵27オ︶、まさきよなからへ、弁慶と左右にたつるほとならは、へいけを
ほろほし、ほんいをとけん事やすかる一し一とて、御袖をかほにおしあてたま一は、弁慶いよくたのもしくそおも
口もく もり
ひける。
抑平家には弁慶をとりにかしつる事、清盛き㌧たまひて、大きにさはかせたまひ、﹁よしつね一人ある時たに、心く
さし
るしくおもひしに、あひおとらぬ武蔵め一身して、兵法のしゆつをならひきはめ、かすみをたて㌧其身をかくし、此
一もんをうか\はんには、我ミ父子はまつろうきよすへきか﹂との給へは、小松殿おほせけるは、﹁へんけいかてい
まなこ
しやうにひつたてられし時の?.りましき眼さし、なはをもしめきり、われらとせうふせんと︵27ウ︶あんじゐたるも
のなり、それをみてこそ重盛、さふらひとも、ようしんせよとは申っれ、けっくは九郎もきたりてうかかひっらん、
しげもり
っち風立て、にはのしらすをふきまくりしはあやしかりき、此一門仏神にうんをまかせ、じひのせいたうをとりおこ
なふ間、てんたうのかこあらん程は、義経か兵しゆっ無ようなり、れい儀をた\し、しひの心ふか\んは、すなはち
よしっね ︵マ、︶
ひやうほうのあふきなるへし、弁慶かにけさまに、さふらひの五十人二十人そんじ申たるはもの\かすにあらす、か
くまてふかくなるものともか、ぷようしんにては一人もいき残りたるこそふしきなれ﹂とのたまひて、御心にあたは
ちやく
ぬ御けしきなれは、吉内は︵路オ︶嫡子五郎兵衛かしぬるのみならす、御まへあしくなりて、めんほくをうしなひけ
るを、にくまぬものそなかりける。
さうじ きよ
もり もり
扱へんけいは北山にて御曹司にたっね申けるは、﹁なにとて六はらへ御出ありしとき、弁慶に御しらせありて、清
盛父子をうちたまはさるそ﹂と申せは、﹁されはこそ、内ミそのためにわれも行けるに、清盛のゐたる座しきを見わ
ちやへ よしつね
︵マ・︶
たせは、一もんなみゐたり、よきひまそと思ひ、うちもの㌧っかに手かけてものあひを見るに、れいの小松のおと\
嫡座して、しやけんのっるきを、じひにうわの衣の袖にてっ\み、まなこのそこにかとをたて\、義経かある所をふ
しんけに見けるか、しけもりがかうへのうへに︵28ウ︶、ともし火のやうなるもの一むらたちあかりて、その中によし
もり
つねかとりはきしんし奉るこんかふのせんしゆ、六七すんはかりにてあらはれ給ふ間、こ\にて清盛をはうちとる
しけもり
共、重盛うたるましきと思ひかへりたり、其うへ平家をほろほさは、重盛をまっうってこそほんまふなれ、こまっは
せいしんにて、せいたうをた㌧しくす、此よしっねは悪人にて、世けんをうかかふゆへに、仏神、重盛をしゆごした
あく ぷつ
っね のたま
まひ、義経をはなしたまふとおほへ、あさましきそ﹂と宣へは、弁慶承て、﹁平家もうんつきなは、こ松もいっまてな
からふへき﹂とそ申ける。
さるほとに弁慶奮しくして、ときくらくちう一出たまひ、日くれけれは一穿一みや、てらなとさんけいした
きよもり む
まふに、一んけいに行あふほとのものをけたをし、ふみたをしする事たひくなれは、をのつから京中しづかなら
よしとも
す。此事清盛き\給て、﹁義経も武蔵めもみなおなしぼんふそかし、たとひ人おほくそんする共、うち得ぬ事あるへき
たう
か、かんのかうその三しやくのけんも、うんっきぬれはいらす、此ころ当家のくはほうさかんにして、なんそうんっ
きたる義朝が子ともにほろほさるへき、此ものとも夜ことに京中にてあくきやうするときく、いかにもしてうってす
くろ
てよ、九郎はこおとこにて、いろしろし、へんけいはみな見しるらん、いろ黒く、たけたかき法師そや、うちとりく
んこうを︵29ウ︶のそめ﹂とおほせけれは、みやこ中にていろのしろき小男と、大なる法師をは、みあひ次第にきり
とう
すっるほとに、いよくらくちうさはかしくなる。比事よしっね聞給て、﹁とかなきものをころさせんより、先東国
古活字本﹃べんけいざうし﹄︵下︶ 四五
下房俊一 . 四六
にくたり、都をあんおんにすへし﹂とて、おくへくたりたまふ。弁慶はいっもの具そく共とりっけ、﹁た㌧いま御さ
うし御くたりにて、弁慶も御とも申なり、うちと㌧めて、くんこうのそめ﹂とよは㌧りけれと、いてあふもの一人も
なかりけり。其時へんけい申やう、﹁三年かうちにきつてのほり、おこる平止をせめしたかへ、らくちうをあんとさ
へい︵マ・︶
すへし﹂といひすて\、くはんとうへこそくたられけれ︵30オ︶。 ︵完︶
本稿に記すところは、昭和五十一年度文部省科学研究費補助金︵一般研究D︶による調査の一部である、
訂 正︵巻上︶
な’ん
6ウ 大檀言との
8オ ヘんけい ほ と の も の が
6
1ーオ ふるくなり侯は㌧
12ウ 異儀
よいまさ
13オ頼政
13ウ かなぷちとりそへ、かの四しやく六すんの
⑧ ⑤
2ーウ しつかに物主くさしかため
22ウ 重盛
し和もり
○
羽ウ ほくろく遺に下けり
29オ さては御へんがかきたるか
30ウ いころさる㌧。さる程に