後編

創作部門賞
小泉八雲「知られざる富山の面影」
(翻訳・金川欣二)
金川 欣二
「最初の朝、米を杵でつく音で目を覚ました。それはゆっくりとした、巨大な鼓動のように伝わってく
る。川向こうの寺の鐘が鳴り渡り、朝早くから物売りに来る人達の声が聞こえる。それから今度は柏手を打
つ音が聞こえて来る。一つ、二つ、三つ、四つ。…今や柏手の音はますます数を加える。パンパンと鳴るそ
の音はまるで一続きの一斉射撃かと思われるほどに激しさを増す。と言うのは、人々は皆お日様、光の女君
であられる天照大神にご挨拶申し上げているのである」…。
日本の小さな町に着いた翌朝の印象を私はこんな文章にしたためました。
私が日本に憧れてやって来たきっかけの一つはパーシバル・ローエルさんが 1888 年(明治 21 年)に出版した『極東
の魂』でした。今から批判することはどれだけでもできるでしょうが、立派な比較文化の入門書になっています。これ
は本当に精読しました。こんなに素晴らしい人々が本当にいるのだろうか、いるなら会ってみたいと強く願いました。
ローエルさんは学者というよりは教養の高い趣味人という感じの人で、1876 年(明治9年)以後の数回の来日で、計
3年間ほど滞在していったのです。私の来日の前年に能登半島を旅行したという話を聞いて日本の奥地に興味を抱きま
した。
この本は 1891 年(明治 24 年)に『NOTO』として出版されることになりますが、この話はとても魅力的でした。
ローエルさんの口癖は「日本人は世界で最も幸福な人々である」ということでしたが、この旅は本当に幸福な人々との
出会いにあふれていたと思います。ローエルさんのことが心から羨ましくなりました。
NOTOという音の響きに惹かれて旅立ったと話していましたが、ローエルさんの話の内容から、その土地が私が育
ったアイルランドのような風土だということが分かってきました。私が来日して最初に目にした東京はすっかり洋風化
してしまい、私が思い描いていた古い日本を見つけることができませんでした。そのために是非、北陸のNOTOとそ
の道すがら出てくるTOYAMAという町を訪れたいと思うようになったのです。実際、ローエルさんの話は能登より
も富山の方に力がこもっていました。来日してからローエルさんには何度かお手紙をもらったことがありますが、彼の
まるで異星人を見るような視点を不満に感じ、そのままにしてしまいました。なるほど、その後のローエルさんは日本
の異星人に飽きたので母国に帰り、
「火星人」を見つけることに専心したようです。1894 年(明治27年)に『オカルト・
ジャパン』を出版した後、アリゾナ州にローエル天文台を創設して、火星の研究に没頭し、運河の発見と火星人の存在
を主張し、1916年(大正5年)冥王星の存在を予知しました。冥王星は生きている間には発見されず、とうとう61歳で
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亡くなられたそうです。
さて、日本への取材旅行に向かっていた私は挿絵画家の謝礼が自分より大きいことを知って船の中で雑誌社との契約
を破棄してしまいました。ですから、横浜に降りたとたん、生活に困りました。いつまでたっても、習い性になってし
まったボヘミア的な生き方から逃れることはできないようです。
その私に外務省の担当官・服部一三さんや『古事記』を翻訳した東大教授のチェンバレン博士が手を差し伸べてくだ
さって、富山県の中学の英語教師として赴任することになったのです。1890 年(明治23 年)8月30 日夕刻のことでし
た。 知られざることですが、40歳の私は富山にやって来ていたのです。
富山に着いた日のことを昨日のように思い出します。富山に着いてまず、屏風のように聳え、人々の暮らしをそっと
護ってくれているかのような立山連峰に目を見張りました。
立山は家持が万葉集で「立山の賦」の長歌に添えた「立山に降りおける雪を常夏に見れどもあかず神からならし」と
いう歌からも分かるように神として人々は崇めていたのです。私はそっとこの町を「神々の国の首都」と呼んでみまし
た。
町の中では富山城とそのお堀の風情に驚きました。こちらには東京と違った時間が流れています。その後、熊本に赴
任する途中、松江という山陰の町に寄りましたが、似たような風情を感じました。富山も松江も日本的湿潤と言う言葉
を絵に描いたようなしっとりした街で、私がこうした土地に住めたことは天の摂理だと思いました。
仏教用語の「因縁」という言葉を英語でどう表せばいいのか分かりませんが、仮に“mysterious fatality”とでも表現す
ればいいのかもしれませんが、ギリシャ悲劇に出てくるような、避けることのできない運命の預言を思い出さざるを得
ません。私は避けることのできない運命、因縁に導かれていたのです。
というのも、私が日本に憧れるきっかけとなった、もう一つの大きな理由は新聞記者として働いていたニューオーリ
ンズで1884年(明治17年)に開かれた万博での展示だったのです。私はここで初めて西洋美術にはない優雅さに触れ、
東洋の神秘というものに魅了されたのです。その後、翻訳で『古事記』を読み、次第に日本に傾注していきました。一
人で模索している時に、雑誌社から例の「日本旅行記」の話が持ち上がり、東海の果てにあると伝えられる蓬莱の国に
取材に来ることにしたのでした。
実はこの万博で、タカヂヤスターゼで有名になる高峰譲吉博士にお会いしたことがあります。富山に来てから分かっ
たのですが、博士は加賀藩医の長男として高岡に生まれた人で万博には事務官として渡米されていました。今から考え
ると、来日して路頭に迷っている時、最初に博士に会って相談すべきだったと思います。そうすれば、富山に赴任する
ことがもっとすんなりと決まっていたかもしれません。また、私が日本人と結婚して帰化したのに対して、博士はアメ
リカ人と結婚して帰化されたのも不思議な因縁を感じます。
私が赴任した当時の富山は神通川や常願寺川の氾濫などで大きな被害を受けていた頃で、翌年にはオランダ人技師
デ・レーケさんが富山を訪れ、
「これは川ではない、滝だ」という言葉を残しました。その困窮ぶりは「ジャガイモ飢饉」
の直後で、混乱が続いていた、私の故郷、アイルランドと似ていました。しかし、富山の人々は互いに親切で思いやり
があり、
「あるがままに」人生を受け容れていく心性を持っていました。厳しい状況にも絶望せず、希望を捨てない富山
の人々の暮らしぶりには目を見張りました。
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私より2年も前の1888年(明治21年)にC.L.ブラウネル(C.L.Brownell)という英語教師が富山に赴任してきていた
といいます。後に『日本の心』
(The Heart of Japan)という本を執筆したのですが、私はこれに意識して『KOKO
RO』を書きました。もちろん、最も意識したのは1886年に出版されたイタリアの作家エドモンド・デ・アミーチスの
『クオレ』
(日本題は『愛の学校』
『学童日誌』ですが、原題は『心』
)で、
「英語教師の日記より」では『クオレ』にな
らって日記体で書いています。
ある日、官僚にキリスト教でなければ、文明開化はできないのではないのでしょうか、と尋ねられたことがあります。
仏教の思想は没個性で日本人は集団主義的で唾棄すべきだというのです。私は泣きそうになりました。
確かに日本人は没個性だとされます。私が来日する前からずっとそうした話を聞かされていました。でも、実際に会
って話をするうちに、私は日本人の弱点とされる個性の欠如にこそ、日本人の性格のもっとも魅力的で重要な点が現れ
ていると考えはじめたのです。
西洋のキリスト教的な考えから生まれる個性や個人性の発達は利己的、攻撃的な色彩を帯びていて、むしろ様々な不
幸を生みだしています。一神教に基づいて行動することは必ず破滅につながるさえ思えてきました。人格や個性という
のは夢に夢見る幻影に過ぎません。あるのは永遠の命だけです。あるように見えるのは命のうごめきでしかありません。
そんな中で、日本の個性の欠如は自発的で、義務のための自己犠牲という日本古来の道徳と重なっています。仏教的
な感性から生まれてくるのでしょうか、日本人の微笑は自己抑制からのみ生まれてくる幸福を象徴しています。
彼に「耶蘇はダメです」とはっきりお話ししたのですが、首を振るばかりです。
「教えてください、なぜ他の人の気に
入ることをするよりも先に、まず神様の気に入ることをしなければならないのか?」とも言いましたが、日本の近代化
しか頭にない彼には理解できなかったと思います。
日本人はなかなか自分たちの良さを認めないようです。日本人は自己克服という仏教の理想を通して、無限の安らぎ、
無限の静寂を求めてきたのに、今の日本は西洋文明の新しい影響を受けて表面は波立っています。それでも日本人の気
持ちは、西洋人の考えに比べれば、今なお驚くべき平静を保ち続けています。
驚いたことに、富山の人々は特に自分たちが没個性だと考えていたのです。例えば、金沢の人に対して富山の人は金
儲けばかり考えて、ゆとりを持たず、趣味もなく、従って個性に欠けているといわれるそうです。日本人は皆、いつも
そうしたいわれのない劣等感に陥っていて自虐的になっているような気がします。
こうした批判に外部の人、県外の人であれ、外国人であれ、そうした人に言われると落ち込んでしまうのが日本人の
悪い癖なのですが、富山はある意味で日本人の縮図のように見えます。私から見れば、富山の人も、加賀の人も、あま
り変わらないような気がします。類似点ばかりが目につきますが、その根源は彼らの信仰である浄土真宗にありそうな
のです。
北陸の地が真宗王国と呼ばれるように、他の地方の真宗とはまた違った面を見せてくれるのです。女性に対しての暖
かさを至るところで感じます。ローエルさんは富山の女性のたくましさに驚いたようでしたが、女性がたくましいとい
うのはそれだけ人生を謳歌していることになります。
私はこちらでヘルンさんと呼ばれるようになりました。中学校英語教師の雇い入れ仮条約書にともなう赴任旅費に関
する文書に「英人ラフカヂオ・ヘルン」と間違って書かれたのが契機でした。ハーンという、小さい頃からの名前は長
音だけで装飾のない音なので、嫌いだったのですが、実際にヘルンさんと呼ばれるようになってから、自分はハーンで
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なくて、ヘルンとして生きるべき人間だったのだ、ということを自覚させられたような気がします。日本人は戒名(法
名)をありがたがりますが、私にとってもこれは戒名のようなもので、空蝉のようだった、それまでの人生を忘れさせ
るものとなりました。
北陸の人は浄土真宗の中興の祖とされる蓮如上人のことを「蓮如はん」
「蓮如さん」と親しく呼んでいます。キリスト
教で聖者をそんなに親しく呼ぶことはなく、せいぜいサンタクロースだけでしょう。ところが、こちらの人々は蓮如上
人をいまだに生きている知己のように、ごく日常的に口にします。
この蓮如上人は女性を大切にしたといいます。上人は6歳の頃に母親と離別しています。夫が正妻を迎える時に、身
分の低かった母親は鹿の子の小袖を着せた我が子を絵師に描かせて、本願寺から身を退いたといいます。その後、蓮如
上人は「女人往生」を唱えました。
「女人」とは室町時代まで最も救いから遠いとされていた存在です。親鸞上人も蓮如
上人も世間の中で教えから最も遠いとされていた人たちこそ、本当に救われなければならないと強く説いたのでした。
「心貧しきものこそ幸い」なのです。
この話を知って、更に不思議な因縁を感じてしまいました。ご存じのように、私の父親はイギリス軍の軍医で母親は
イオニア諸島のキセラ島出身のギリシャ人でした。父は1850 年(嘉永3年)に私が生まれた時、カリブ海の英国領に転
勤してしまい、私は父をほとんど知らないですごしました。そこで、3歳になる時に父の親戚を頼ってアイルランドの
ダブリンへ母と一緒に移り住むことになったのです。ところが、母はダブリンの生活になじめず、ギリシャに帰ってし
まいました。
そして、私の両親は蓮如上人と同じ6歳の時に離婚しているのです。こうして離ればなれになった母親への憧れの強
さは他の人に理解できないものかもしれません。
その後、私は父の母方の大叔母に育てられることになり、フランスのイブトーやイギリスのアショーのカトリック系
の学校で学びました。カトリックの神父の偽善には肌が合わず悩んでいました。そんなある日、学校で「ジャイアント・
ストライド」と呼ばれる遊びをしている最中、飛んできたロープの結び目で左眼を打ち、失明してしまいました。私は
醜くなってしまいました。この時味わった絶望感、喪失感は『怪談』の冒頭の「耳なし芳一の話」に反映してしている
かもしれません。
この事故から目に怪我をしたり、病気になった人には尋常ならざる同情をして周囲を驚かせてしまうのですが、こち
らに来て驚いたことがあります。それは富山藩や加賀藩の基礎を創った前田利家という人が美濃稲生の戦いで片目にな
っていたということです。戦闘の最中に右の目の下に矢が当り、それを自分で引き抜いて戦い続けたという武勇伝が残
っていますが、肖像画には全部両目で描かせたといいます。同じ頃の戦国武将・伊達正宗は5歳の時、疱瘡に罹り、片
目になったのですが、片目だということをむしろ売り物にして怖そうに描かせたのです。私自身は悪い方の目を見せな
いように写真を撮ってもらっていますが、こうした災難に臆せず、何食わぬ顔をして加賀百万石を護った男がいたとい
うことに感動しました。左眼を隠していることに実は罪悪感を感じていたのですが、隠すのは誰でも持っている弱さで
すから、何も恥じることはないのだと思いました。
日本に来て、特に富山に住んでいると、あらゆる瞬間に母性愛というものを感じます。これはやはり浄土真宗、特に
蓮如上人の思想から生まれているものだと思います。あるがままに生きることを英語では「レット・イット・ビー」と
いうことがありますが、プロテスタントが持っている父性的な、断ち切る愛ではなく、カトリックが持っている母性的
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な、包み込む愛が中心になっているのです。蓮如上人の母親への愛はカトリックのマリア信仰、マドンナ信仰にも似て
います。次々と妻と死別し、その後も5人の女性を愛した蓮如上人は私にも勇気を与えてくれます。
私はエメラルドを敷き詰めたようなイオニア海に浮かぶ小さな島レフカダ(Leufcada)に生まれました。レフカダはレ
スボス島に多くの女性たちと暮らしていた女流詩人サッフォーがフォーオーンという若者に失恋して身を投げたリュカ
ディアの海にちなんだ名前でリュカディアは「放浪」を意味します。この伝説をギュスターヴ・モローは「岩の上のサ
ッフォー」という絵で描いていますが、サッフォーもまた女性を愛した人として知られています。
本名をPatrick Lafcadio Hearnといいますが、ラフカディオという珍しい名前は生まれ故郷にちなんだものでした。パ
トリックというのは「聖パトリックの日」
(3月 17 日)という祝日があるように、アイルランドの守護聖人パトリック
からとったもので、アイルランド人にはありふれた名前です。ちなみに、北アイルランドの国旗はSt.Patrick cross と呼ば
れるもので、白地に赤い線がX字形に交差したものになっています。私はその後、パトリックという名前を捨てました。
新聞の仕事をするようになったのですが、当時のアメリカではアイルランド系に対する差別がまだまだひどいものがあ
り、アイルランド系を示すこの名前は仕事に差し支えると思ったからです。
ヘルンと呼ばれることを好んだのは先ほど書いたとおりです。ヘルンはヘロンに通じるので家紋もheron(鷺)にして
みました。今までワタリガラスのように生きてきたのですが、富山で鷺を見つけると、青い空には自分が帰るところが
あるような気がして一緒に舞っていきたくなります。
空の高みに昇れば、お母様に会えるでしょうか?
幸い、私にはママさんがいます。藩士の娘であった小泉セツです。ママさんは私のマリア、マドンナです。ある時、
知人にあなたは恋愛しているのではなく、まるで母親のように奥さんと接していると指摘されたことがあります。その
とおりだと思います。
日本人にとって、自分の妻を「おかあさん」ということは不思議ではありません。
「かあさんや、そこにある茶碗を取
ってくれ」
「ママにご馳走をしようよ」などというのは子どものいる家庭では当たり前の言い回しです。しかし、英語で
自分の妻を“My mother”と呼びかけようものなら、どういう関係か訝しがられるに決まっています。
分かってはいるのですが、私がセツを「ママさん」と呼びかけることで、どんなにか慰められていることでしょうか。
そうした呼称が当たり前の日本人にとってはきっと分からないかもしれません。
私の生まれ故郷ギリシャは神話で知られるように多神教です。私が育ったアイルランドはカトリックで母性原理の国
です。日本は八百万の神の存する多神教の国でありながら、同時に天照大神をはじめとする母性原理の国です。更に、
富山に来て驚いたことの一つは浄土真宗を深く信じながら、一方で立山信仰を矛盾なく受け容れていることでした。未
だに立山信仰が仏教なのか、神道なのか、よく分かりません。浄土とか地獄が立山にあり、芦峅寺とか、岩峅寺とか呼
ばれる土地があるにもかかわらず、聖職者は神主の格好をして雄山「神社」にいるというのはとても不思議な気持ちに
なってきます。
でも、これは私が生涯をかけて求めてきたクレオールそのものではないかと思います。クレオール(creole)というの
はラテン語の“creare”から生まれた言葉で、多文化からの創造の意味があります。狭義にはカリブ海を周辺とする地域
での民族の混合をさしますが、広義には混淆文化と訳すのが適切かもしれない言葉です。植民地と被植民地などの二項
対立を超える多文化主義をクレオールと呼ぶのです。
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私が出会った立山信仰はまさにこの「神仏混淆」ですし、立山信仰と浄土真宗を受容する富山の人々もまたクレオー
ルだと思います。立山信仰はギリシャ神話そのものですし、富山の人々の信じる浄土真宗はアイルランドのカトリック
信仰を思い起こさせます。
実は私のデビュー作が『クレオール料理集』だったことはあまり知られていないかもしれません。クレオール料理と
いうと「ジャンバラヤ」や「ガンボ」が代表的ですが、ご存じでしょうか?
考えてみると、私にとって日本も富山もクレオール的だからこそ、怪談や民話の収集などに興味を抱いたのかもしれ
ません。
さて、私の失明の後、更に不幸が襲ってきました。お世話になっていた大叔母が破産して、19 歳になる前に私は義理
の弟を訪ねてアメリカに渡ることになったのです。当時のアメリカは南北戦争の後で特に南部は安定を欠いていました。
これもあまり知られていないことかもしれませんが、極貧の中でアルティ(マティ)フォーリー(Alethea "Mattie" Foley)
という黒人女性と結婚しました。マティ(愛称です)はケンタッキーの白人農園主との間に生まれた、ムラートと呼ば
れる混血でした。私もギリシャとアイルランドの「混血」ということになりますが、マティだけが黒人との「混血」と
されていわれなき差別を受けるのは理不尽です。そうしたことへの同情もあったのかもしれませんが、不幸な人生を歩
んできた二人が一生懸命に幸せをつかもうとしたのです。当時、私がいたオハイオ州では他の地域と同じように白人と
黒人の結婚を禁じていました。悲劇を予感しながら、私はマティを好きにならざるを得なかったのです。
マティはしかしながら、結婚してすっかり変わってしまいました。違法な結婚ということもあって、心が次第にすさ
んでいき、悲しいことに若い二人はすぐに離婚してしまいました。ウィリーという連れ子がいたのですが、やがてウィ
リー・アンダーソンとなり、コロンビア大学を卒業してシンシナティに戻り、黒人たちのリーダーとなって活躍して地
元の名士となったといいます。幸い、一時期であったにしてもウィリー・ハーンとなったことを誇りにしていたと風の
便りに聞きました。後に書いた「和解」という作品では基になった『今昔物語』と違い、新しい妻を娶ったことに気が
とがめてしまう夫を描いていますが、これは自分自身を振り返って書いたのです。
結婚に破れて1977 年11月、私はシンシナティから逃れるようにしてニューオーリンズに向かいました。懐には20 ド
ルしか残っていませんでした。ニューオーリンズは活気のある町でジャズで有名になるのですが、ジャズというのはア
フリカ黒人の音楽を基礎として様々な要素が融合した音楽です。私はすっかりジャズに魅せられてしまいました。狂気
のように騒々しいかと思うと、もの悲しく嗚咽のように響き、哀愁が私の魂を揺さぶりました。ジャズを採譜したり、
スケッチなどもしてその後の「デイリー・アイテム」という、小さな新聞社での仕事につながりました。
1879 年に、虎の子のお金100ドルを投資して“The HardTimes”という食堂を始めました。洒落のつもりで「不景気屋」
と名づけたのですが、共同出資者に売上金を持ち逃げされ、わずか3週間で閉店という、憂き目に遭ってしまいました。
タダでは起きないぞと頑張って出版したのが1985年の『クレオール料理集』です。解説がよかったのか、幸いよく売れ
ました。例えば、有名なガンボという料理のレシピはこんな風です。
「牛肉1ポンド、仔牛の胸肉半ポンドを1インチ四
方程度の角切りにする。オクラ36本、タマネギ1個、赤トウガラシ1本を薄切りにし、肉と一緒に炒める。茶色く焦げ
目がついたら、水を半ガロン加え、蒸発したらさらに足す。米を添えて食卓へ」…。
こうして「アイテム」で初めて定職を得て生活も安定してきたのですが、1881 年に「タイムズ・デモクラット」とい
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う、南部一を目指すという触れ込みの新聞社が誕生しました。そこでこちらに移り、文芸記者として働きました。当時
から始めていたフランス文学の研究を続け、研究者としての地位を築くことができました。
やがてハリケーンに翻弄される少女を描いた『チタ』や黒人女性の悲劇を描いた『ユマ』という小説も書くようにな
り、私は次第に本当にしたいことを見つけたような気がしました。当時の代表作は1885年に出版した『ゴンボ・ゼブ--クレオール俚諺小辞典』
“Gombo Zhebes”です。
1887 年にはニューヨークの出版社ハーパー社からの依頼もあって西インド諸島の紀行文を執筆することになり、ニュ
−オーリンズを去ってクレオールの故郷であるカリブ海に向かいました。
カリブのそよ風と青い海はイオニア海、エーゲ海の風や紺碧の海のように、優しく私を包んでくれました。
“It's an ill
wind that blows nobody good. ”
(誰のためにもならない風は吹かない)という諺が教えるように、風の吹くまま人生を歩も
うと思いました。
マルティニークでは「この世で初めて青い色の壮大な眺め」に恍惚とした歓びに浸ったものです。青い色は宇宙的な
感情に訴え、遠く遥かなものへ繋がって、遠い先祖たちの哀しみや喜びを思い出させました。マルティニークは1493 年
にコロンブスに<発見>された島ですが、1635 年にフランス人が植民を始めて以来、フランス領になっている。サトウ
キビ栽培のために大量の黒人奴隷が導入され、1848 年まで奴隷制が続いたところです。私の人生が凝縮された町なので
す。
カリブ海でのルポルタ−ジュ『フランス領西インド諸島での2年間』
“TwoYears in the French West Indies”は成功裡に迎
えられました。
マルティニークからニューヨークへ行き、折りから高まっていた東洋への関心を捉えようという出版社と旅行会社の
企画に参加することにしました。こうして、1890年(明治23 年)3月、カナダのヴァンクーヴァーから横浜へ向かいま
した。日本紀行記を書くために、挿絵画家と船に乗ってやってきました。
不幸な出来事から逃げるように生きてきた私にとって初めての夢を追い求める旅だったのです。ギリシャからアイル
ランド、アメリカ、カリブ、そして日本と、ようやく異文化を巡る旅の最終目的地にたどりついたようでした。
自分の複雑な人生そのもののように、私は文化の混淆・融合に大きな興味を抱いてきたのですが、日本はまさにクレ
オールの国でした。いや、日本は単一民族、単一文化の国だと思われるかもしれませんが、根源をたどっていけば、さ
まざまな文化が融合して生まれてきた、雑種文化だと思います。雑種というよりは融合文化というべきかもしれません。
後にセツから聞いた話をまとめた民俗学的な作品『怪談』は日本的な作品だと思われていますが、実はクレオールな
のです。そこに描かれていることはまさに日本なのですが、その基盤には妖精の国アイルランドの文化が根付いている
ように思えます。ケルト文化が根底にあるから、日本以外の国でも受け容れられるのだと思っています。ギリシャ神話
の世界も、妖精たちの世界と同じように、神々の世界が交響曲のような広がりを見せているのです。
富山はまた、地形的に日本の中心でもあり、東西文化が融合した場所でもあります。言葉も文化も関東と関西の双方
を見事にクレオール化した土地柄でした。異境なのに何故か故郷に戻った気持ちに浸れるのだと思います。
こちらでは「裏日本」と呼ばれるのを恥ずかしがる人もいすが、日本海側はかつて表側でしたし、何よりも日本文化
には裏があるから面白いのではないでしょうか?建前があって本音があるのです。日本の黒は西洋の黒とは違っていま
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す。まず朱を塗ってから黒を塗るのです。そうした裏があるからこそ、文化はいぶし銀のように煌めくのであり、うわ
べが一寸美しいだけの金メッキのアメリカ文化とは両極をなしています。
ところで、私は同じ「裏日本」の松江も気に入り、神国日本の象徴の一つでもある出雲大社にちなんで小泉「八雲」
としました。
『古事記』の「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」から名前を頂戴したのです。
富山にはもちろん、島根の出雲大社のような大きな神社はありませんが、同じように古くから信仰の対象となってい
た雄山神社と立山があります。生命の根源に還っていく心地にさせてくれる出雲大社のうっそうとした杜は雄山神社界
隈も同じです。そして、富山の厳しい冬の晴れ間に見える薬師岳の神々しさには心打たれるものがあります。
立山連峰の麓の魚津では蜃気楼が見えますし、ここは蓬莱ではないかと思えてきました。いっそのこと、日本での名
前を「小泉薬師」にしようと常談【冗談】を交わしていたくらいです。
立山では蓮如上人の思想に通じる「女人往生」の手はずが整っているのに驚かされました。立山禅定【精神を統一し
て心理を体得すること・登山】をしなくても救われることになっているのです。芦峅寺の立山曼荼羅には姥堂や閻魔堂、
布橋布橋灌頂会【ぬのばしかんぢょうえ】が強調されているのですが、姥石、美女杉、禿杉【かむろすぎ】などで知ら
れる「女人禁制」の習俗とは対照的に姥堂は女人堂の性格を持っていたといいます。血の池地獄が描かれているにもか
かわらず、全体としては女人救済信仰が行われていたのです。秋の彼岸の中日に閻魔堂と姥堂との間の姥堂谷に架けら
れた橋に白布を敷いて布橋布橋灌頂会が行われるのですが、この時に使用された布は行事の後に経帷子【きょうかたび
ら】にして信者に配られたといいます。
立山はまた怪談の宝庫です。地獄谷は『今昔物語』に罪障の深い者が死後にこの地獄に堕ちたという話があるし、謡
曲『善知鳥』
(うとう)の中にこの地獄谷に行けば死に別れた父母や妻子に会えるという話も残っている。富山を舞台に
能になったものには『善知鳥』の他に『山姥』もあります。
私(1850-1904)よりも若い泉鏡花(1873-1939)君の『湯女の魂』などの怪談も富山から生まれていますが、私も富山
を舞台にした怪談を書きたかったと思います。佐々成政の早百合姫伝説も心惹かれるものがありますし、五箇山にある
人形山の雪形の伝承や四方浦に現れたという人魚の伝説なども含め、もっと人間存在の根源的な神秘に触れる話が富山
から生み出せたに違いないのです。
ローエルさんが立山の針ノ木峠で失敗した話を聞いていましたので随分と心配しましたが、芦峅寺の御師(おし)に
連れられて、日本三霊山である立山にも登りました。修験道の山で、日本九峰にも数えられます。九峰とは大峰、出羽
三山、英彦山、立山、白山、富士、日光、伯耆大山、石槌を指すのですが、私は出雲富士と呼ばれる伯耆の大山も好き
でした。後の1898 年(明治31 年)に駿河の富士山に登って感激して「富士山」というエッセイを書いています。そこ
では「力強い山頂が、いま明けなんとする日の光の赤らみの中で、まるで不可思議な夢幻の蓮の花の蕾のように、紅に
染まっているのが見えた」などと書いているのですが、
「立山」という文章が書き残せなかったのが残念です。富士山は
独立峰でまるでキリスト教の神の如く屹立していますが、立山はゼウスを中心とした十二神が暮らしていたオリンポス
の山々と同じです。立山を見ていると、八百万の神がいて、中心がなく、お互いに肩を寄せ合うように生きている日本
人と同じように感じます。どの山々も富山の人々と同じように自己主張も個性もないところが魅力的なのです。
富山の女性もまた、自然と解け合って美しく思えました。松江美人が持っているような、消えゆくような美しさ、あ
えかな色気はありませんが、健康で溌剌とした凛々しさを保っていました。
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セツが『思い出の記』にも書いていますように、私は盆踊が大好きです。8月30日に富山に着いてまもなく、八尾の
風の盆に行きました。
「あの多数の甘美な大地の叫びをなす夏虫の声と知らぬ間に血の通っている点に何か深い秘密が
潜んでいるのではないか」と感じました。もともと中国の楽器であった胡弓を日本の唄と融合させることで生まれた「越
中おわら節」はまさにクレオールでした。三日間の宴が終わってから自分たちのために町流しをする時の音楽はインプ
ロビゼーション、つまり即興的なジャズを思わせました。哀愁を帯びた音楽の深さはアイルランドで親しんだケルト音
楽そのものでした。地中海の風、カリブ海の風、そしておわらの風が私の魂を揺さぶったのです。
「おわら」は風に吹か
れて漂泊してきた私の生涯そのものを歌っているようでした。
五箇山にも行きました。
「秘境」という言葉を誰にも知られたくないほどひっそりした、場所でした。平家の落人の話
は「耳なし芳一」の話により深みを与えたと思います。
下村という小さな村で行われる「やんさんま」というお祭りにも参加しました。鎌倉武士の流鏑馬が中心となった行
事でしたが、その前に「牛おさえ」という行事があって驚きました。ギリシャ神話でミノタウルスを退治するアテナイ
の王子テセウスそっくりだったからです。ギリシャ神話と日本神話はオルフェウスとエウリディケの話とイザナギ・イ
ザナミの話が酷似していることは知っていましたが、下村の『今昔物語集』に由来するという行事ほど私にギリシャを
思い起こすことはありませんでした。
俳句や芭蕉が大好きですが、富山は芭蕉が『奥の細道』で楽しみにしていた歌枕でもあります。大伴家持が歌ったの
に芭蕉が行けなかった氷見の「担籠(たご)の藤波」にも足を向けました。夕焼けにそよぐ藤棚は切なさを感じさせま
した。
食べ物については私は好みがはっきりしていて、セツも苦労したようです。面白かったのは、富山で結婚式に出され
る蒲鉾でした。蒲鉾は鱈から鮫まで、さまざまな魚を混ぜ合わせて作ります。できあがったものは、とてもおいしく、
これはまさに究極のクレオール料理ではないかとセツと笑いあったものです。
松江で食べた出雲蕎麦もおいしかったのですが、富山の蕎麦も引けをとりません。
「よきです、よきです」とお代わり
を所望すると、セツが何杯も出してくれたものでした。
素麺のようにして食べるイカも好きでしたが、ホタルイカも大好きでした。松江でも獲れるそうですが、富山は日本
でも有名なホタルイカの産地です。
氷見も魚津も新湊も立派な漁港があります。当時の沿岸漁業は不漁で苦しんでいるようでしたが、漁師さんの気っ風
のいいこと。辛くても前向きに明るく生きています。後に東京帝大の教師となった時、漁師町が懐かしくて毎年のよう
に夏休みを焼津で山口乙吉さんに世話になってすごしましたが、富山の漁師さんの気質を思い出したからでした。
放生津潟の蜆(シジミ)も冬の朝には冷えた体に染みわたるようなおいしさをもっています。松江でも宍道湖の蜆を
食べましたが、富山のは味に深みを感じることができました。他にも富山の名産である寒鰤、氷見鰯、蟹、ヒラタエビ
【シロエビ】
、そして鱒の寿司が私の胃と心を満たしました。鰤大根はアイルランドのギネス牛肉煮込(Guiness Beef Stew)
みを、鼈甲と呼ばれるゼリーはプラム・プディングを思い出させてくれました。福光で作っている蕪寿司も、まさにク
レオール料理の女王です。様々な要素が渾然とした料理で、味付けはゆったりと流れる時間だったのです。発酵ととも
に深い味わいが全体に拡がっていきます。
放生津潟といえば、湖の真ん中にある弁天島も大好きでした。宍道湖の嫁が島を見た時に弁天島を思い起こしました。
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富山では夕日は海ではなく、山の間にしか沈みません。この放生津潟だけで弁天島の向こうに光を落としていく夕日が
楽しめたのです。蜆取りの小舟もその淡い茜色に染まった靄の上に浮かんでいました。また、放生津潟の前に拡がる越
の潟海水浴場で泳ぐのも一興でした。芭蕉が「那古と云浦」と呼んだ海岸で「わせの香や分入右は有磯海」という句が
残っています。
しかし、何よりも驚いたことはここにある放生津八幡宮を
訪れた時のことです。越中の国守だった大伴家持が 746 年
(天平18 年)に建てたと伝えられる神社です。ここの絵馬
を神主の大伴さんに見せていただいて、驚きました。波の中
で老人が乗っているものは巨大な瓢箪で、右手に持っている
のは昆布、左手に持っているものは桃の実だったのです。食
べて3千年の齢【よわい】を延ばした、とされる桃の実、不
老長寿のコンブ、百薬の長の酒器瓢箪が揃った絵馬でした。
そして、
この昆布を持っている人物こそ、
徐福だったのです。
やはり私の探し求めていた蓬莱は富山だったのです!『史
記』によれば、徐福【徐市“じょふつ”
】は渤海中にある三
神山(蓬莱・方丈・瀛州【えいしゅう】
)へ行って仙人から
不老不死の薬をもらってくると始皇帝に上奏し、神に使える
童男童女数千人を請い請け、東方の海へ船を出してそのまま
行方をくらましたそうです。この絵馬の徐福が持っている昆
布は中国では採れない、不老不死の薬だったのです。富山は
また渤海からの使節が何度も訪れている場所でもあった。
思いがけないところで蓬莱伝説にたどり着くことができ、私の富山での暮らしは一区切りついたように思えてきまし
た。
辺鄙で不便なのをも心にかけず、俸給も独り身の事であるから沢山は要らないからといって、赴任した富山でしたが、
ここの冬の寒さと夏の暑さには閉口してしまいました。鉛色の雪雲の下で長い、暗い、冷たい冬があるのは聞いていま
した。故郷のアイルランドの風土と似ています。しかし、私には堪えられるものではありませんでした。体が心を裏切
ってしまったのです。こうして、1年3カ月で富山を離れてしまいました。でも、富山のことは決して忘れません。
再びチェンバレン博士のお世話になり、セツを伴って温暖な熊本に逃げるように赴き、旧制第五高等学校に3年間勤
めました。この熊本で長男が生まれ、
「ラフ“カジオ”
」から「一雄」と名づけました。私より前に来日していたアメリ
カの動物学者モース博士は『日本その日その日』で「世界中で日本ほど子供が親切に取り扱われ、子供の為に深い注意
が払われる国はない」と書いています。子ども自身、大事にされることに慣れていて、道をゆく馬や人力車を怖がりも
せず、よけることもありません。私は未来を担う子どもたちと遊ぶのが大好きでした。
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第五高等学校の嘉納治五郎校長は柔道を世界に普及させた人物として知られてますが、人格者で私は心から信頼して
いました。漢学・倫理学の秋月胤永(かずひさ)教授は白虎隊の生き残りでしたが、父親のように慕っていました。近
づいただけで暖かくなる暖炉のような人でした。それだけの人物が揃っていながら、私には「肥後もっこす」の気質が
必ずしも合いませんでした。
1894 年(明治27)には神戸に移り住み、英字新聞「神戸クロニクル」の論説記者として働くことにしました。
1896 年(明治29 年)には日本に帰化して「小泉八雲」と改名することにしました。
この年、東京に転居して、東京帝国大学に英文学の講師として勤務しながら多くの作品を発表しました。この後のこ
とはどなたもご存じだと思います。文部省の外国人教師廃止の方針で、日本人が講義を持つことになり、新進の学者・
夏目金之助君に講座を譲ることになりました。夏目君は私が熊本を離れてから2年後に熊本の第五高等学校に赴任して
いますから、よくよくの因縁を感じます。よく知られているように反対運動もありました。夏目君の講義に反発して小
山内薫君はすぐに出席を止め、川田順君は法科に転じてしまいした。でも、そのおかげで二人とも英文学者にはならず、
劇作家や歌人になったのですから、運命は悪戯なものです。
後にこの夏目君は小説家となります。彼の『吾輩は猫である』の中に高峰譲吉博士の発明した「タカヂヤスターゼ」
が出てくるところは笑えました。
『夢十夜』という幻想的な作品は私へのオマージュともとれますが、挑戦状のようにも
見えてきます。そして、
『こころ』という名作も残しています。私の『KOKORO』に対抗した名前ですが、この作品
の中で先生がKにお参りする雑司ヶ谷に、この私の墓地があります。Kはもしかしたら、この私、小泉かもしれません。
もう既にお分かりだと思いますが、私は今、
「正覚院殿浄華八雲居士」という戒名をもらった身分でこの文章を書いて
いるところです。
東大を逐われるように去った後の 1904 年(明治37 年)
、早稲田大学文学部講師となりました。
『神国日本』を執筆し
ていましたが、
「此書物は私を殺します」とセツに話していました。
「こんなに早く、こんな大きな書物を書く事は容易
ではありません。手伝う人もなしに、これだけの事をするのは、自分ながら恐ろしい事です」などと話していた不吉な
予感が当たって、この原稿の仕上げと出版のゲラ読みを行っていた、この年9月に狭心症で鬼籍に入ってしまいました。
「…私死にましたの知らせ、要りません。もし人が尋ねましたならば、はああれは先頃(さきごろ)なくなりました。
それでよいです」
。
54 年間の短い人生でしたが、日本の最後の幸せな瞬間をかいま見ることができたと思います。私が愛してやまなかっ
た古い日本が「偉大な庶民」
(great common people)の中に存することを信じていたのに、日本の美が、西洋の「実用的
なもの、月並みなもの、品のないもの…」に取って代わられる予感が当たってしまいました。その後の日本人は自然に
対して徐々に傲慢になり、ついに不幸な太平洋戦争へと突入していったのですから。
私は「幸せに生きる秘訣が、日本ほど広く国民の間に理解されているような文明国はほかにない」と信じていますが、
戦争は本当に悲しいことでした。近代化、西欧化は何をもたらしたのでしょうか?
私の遺作の刊行、全集の出版等の世話をしてくれたのが東京帝大時代の教え子であり、女子学習院で教鞭をとってい
た田部隆次君でした。関東大震災で多くの貴重なものが失われたのですが、セツは私の蔵書をどこか安全なところへ移
したと願っていたようです。持ち主をなくした本棚は恒星を失った惑星群のようです。何とかしなければなりません。
この話を聞きつけた田部隆次君は実兄で旧制富山高等学校の初代校長だった南日恒太郎氏に相談したといいます。富
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山のような片田舎に全国から優秀な先生を呼ぶには優れた「コレクション」が欲しいという南日氏の熱意が地元・岩瀬
の素封家・馬場はるさんを動かし、はるさんが買い取って旧制富山高等学校の開校祝いに寄贈されたのです。これは奇
跡です。多くの人が関係して生まれた奇跡なのです。私はここでも女性に救われたのです。
ギリシャに生まれ、アイルランドに育ち、アメリカに逃げ、カリブに流れ、ようやく日本にたどりついた人間の、生
きていた証がこの富山に残っているということは多くの偶然が紡ぎだした奇跡なのです。残された一冊一冊に私の心が
込められているはずです。
ヘルン文庫が開設される少し前の 1922 年(大正 11 年)に同じ富山出身の安田善次郎氏が帝大に莫大な寄付をして安
田講堂が完成しました。失意のうちに帝大を去った私の墓碑のようにも見えてきます。
そして、私の魂は蓬莱の土地・富山にヘルン文庫として残っているのです。
さて、長くなりましたが、夢の世で書きつらねた「知られざる富山の面影」の筆を擱くことにします。
死者がこの世にもたらす
唯一の不思議な力は、
理想に対するあこがれであり、
古き世の希望の光りに対する
あこがれである
『怪談』 ―蓬莱―
部門賞 詩・短詩部門賞
目を伏せて小泉八雲座しいたり ヘルン文庫の書棚の奥に
江夏 半夏
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審査員特別賞
エッセイ・創作・短詩
エッセイ
八雲の探しもの
藤岡 義一
八雲が書いた「耳なし芳一」のなかで、亡者にたぶらかされた琵ワ弾きの芳一が、ただそれだけのことで
は、芳一の耳は引きちぎられはしないだろう。そこは現実と夢との融合というか八雲が苦心してこれを怪談
に仕立てたのである。また、源平最後の戦いといわれる壇の浦において幼帝であつた安徳天皇を腕に抱いて
入水した二位の尼の悲しい話を語る段になると聴いている人は皆同時に長い悲しみの声を発するのであった。
話を戻すと、芳一がもし盲目でなかったら、このように耳までとられることもなかったであろうが、琵ワ弾
きには盲目という設定はなにか型通りの語みたいに思う。
芳一にしてみれば盲目でなくても片耳を失うのは、
大変なことに違いない。八雲はこの二つの悲劇を巧みに一つの物語にまとめている。
さて僕が子供の頃、よく祖母や母達から聴かされた平家蟹の語だが、初めにもふれたように、海に沈んだ
平家の武者の顔、その悔しさや恨みが蟹にのりうつりその甲羅に人面のような模様になったと聴いた。平家
の亡霊は、このあたりを通る船を舷にすがりついて沈めようとしたり、泳いでいる人を水底に引きずりこん
だともいうのだ。
あらためていうまでもなく壇の浦の合戦は一一八五年(寿永四年)の三月二四日というから今から八一九年
前であり、平家の宗盛が安徳天皇と神器を.奉じ、源氏は義経を総大将とし激戦のすえに平家を全滅させたの
だ。そこで二位の尼というのは清盛の妻でもあり、幼い帝と共に入水するには、それそうとうの覚悟があっ
てのことだろう。
八雲が「耳なし芳一」を書いたのはそれなりの理由があったと、思われる。それというのも、八雲が十七
歳まで入学していた英国ダラム市の聖カスばト神学校で寄宿生活をしていた時に友人と遊んでいるうち事故
に遭ったのだが、それというのはロープが左眼に当たり片眼を失明してしまったのだ、八雲は盲人とまでは
いえないにしても芳一が盲人で琵ワを良く弾いて「壇の浦」のような悲しい物語を語り、人々に感銘を与え
たごとく八雲も、たとえ自身が片眼であろうと文学作品を残し多くの人に読まれる自信あったればこそ「耳
なし芳一」に八雲の心情が織り込められているに違いない。しかも自分より厳しい負担を脊負う、つまり盲
目のうえ耳まで失った芳一をより以上に称賛される人物に仕立て上げているところなどは、八雲の心底から
の気配りを感じないではいられない。眼のことについて更にいえば、八雲が松江にきて当分材木町の宿屋に
泊まっていたのに、しばらくして他に転居してしまった。その原因はというと、宿にいた頃八雲の身、のま
わりの世話をするおノブという若い女中が眼病を患っていたので早く病院へいれるよう宿の主人にいうが主
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人はただハイハイと生返事をするだけで入院を延ばしたから、八雲は主人を不人情だといって、ひどく怒り
そこを出てしまった。八雲は自分の眼のことを考えると他人の困った事情を無視できなかったのだろう。こ
のようなことは妻のセツもよく理解していたから、八雲が材木町の宿の主人を不人情だと罵ってそこを出た
あと末次本町の或る家の離座敷に移ってそこからおノブを医者にかけ全快させたのであった。しかもそれ以
前に八雲は宿の女将といっしょにおノブを一畑薬師につれていっているし、さらに松江市殿町の眼科医院を
訪れて治療費は八雲が出す.からおノブの眼を治してくれと頼んだ。眼科医は八雲の言葉に感動しておノブの
眼を治療してくれた。これをみても八雲の性格には、一徹な面があるのはよくわかる。自分が見て、これは
こうだと考えたら、どこまでも、それを押し通す一面があり、世渡りの下手な非社交的なところもうかがえ
る。
「怪談・奇談」を読むと八雲がそれを書くに当たって依拠した日本語原話のうちヘルン文庫として富山大
学付属図書館にある蔵書に依るので八雲はそれらの蔵書から、優れた作家的閃きで、日本語のわからない彼
は英文で書き今僕が読んでいるのは更に翻訳したものであるから「怪談」といっても八雲本人が出雲を見た
り聴いたり又は感じたことを書いたのではなかろう。実際に体験しなくても既に書かれたものから採っても
本人が惹かれるものを認めれば、本入の体験などよりもむしろ作家にとっては、というより僕達読者には喜
ぶべきであろう。というのは、その作品が八雲或るいはハーンとしての個人的な私的な範チユウに閉じこも
らないものがあるからで八雲の蔵書は、そういった枠を取り払うに役立ったのでなかろうか。なかでも「怪
談」となると日常眼にとまることに期待するのは無理であろうし、期待しなくても矢鱈に話を創作すれば作
家の想像と空想に頼るしかない。そうなるとおのずから八雲本人の身辺を描いたり心境を述ぺたりする日本
によくある独特の作風になってしまうが、幸い八雲はイギリス生まれで、そういう習憤には馴染まないし、
ロマンといわれる小説ならヨーロッパや英語圏にあることだから原拠に踏み入るのは自己の精神世界を別世
界に移して日本にいるという八百万の神にも逢ってみたいと願って「怪談」を書こうと思ったのでないか。
八雲が明治時代の日本人の良い風習について書いているのは、当時の日本人からみれば当然のことで日本
側からいえば特別書くことの必要を感じなかったものを八雲は書いてくれたのだ。それを読む者にとっては
あらためて自分達日本の日常生活を知ることにもなったといえる。つまり八雲が日本の生活習憤がどれほど
西洋人からみれば違うかを知って八雲という作家が書いたのである。とりわけ八雲自身が取材した外にもセ
ツから聞かされる話によっても八雲の筆は進んだ。そして、それらは、ただ日本人の日常の生活においてと
いうよりも自分達西欧の人々の普段の出来事からさえ遥に越えたものが「怪談・奇談」にある。そしてそこ
に出てくる生命は現世の人間にとっては謎のような世界で、そこへ足を踏みいれたのは八雲の文学であり彼
の功績であり、作家としての真価が問われるのだ。
もしこれが八雲の抱く恐怖心から出た「怪談・奇談」だとして、それに好奇心も手伝うなら、それが単に
空想ならまだしも、自己の心境を述べる道具に「耳なし芳一」を使う意図があったとしたら、それは作者個
人のその時の気持を表した作で、この「怪談・奇談」は八雲でなくても志賀直哉や尾崎一雄でもよいことに
なる。
富山大学の図書館にあるヘルン文庫の蔵書の手引きによって書き、しかもそれと並行して神や霊魂を探し
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た.のではないか。こうして八雲の作品が生まれ、そこにあるのは彼が体験した過去でもなく未来に対する希
望でもない。従って彼の意図するようなことはどこにも書かれていない。強いていうなら八雲は自分でもわ
からない世界、西洋も東洋も区別なく人間の中に潜む空白に対する叫びのようなものを訴えたかったので、
そしてそれを書いたのではないか。
日本は神の国だといっても八雲が神様を見たり信じたりはしないし.「怪談・奇談」の読者もそんな怪物が
世の中にいたら、怖いもの見たさに、一度お目にかかりたい、.などと、呑気に構えていないで耳なし芳一は
なぜ耳をそぎ落とされたか、もう一度読んで考.え小泉八雲の探す疑間の答を彼に知らせたい。
創作
小泉八雲 殿
前略。ますますご壮健でお暮らしと思います。
さて、噂によりますと貴方様が亡くなられ、もう百年になるといって、記念行事までするそうですが信じ
られません、それどころか貴方の蔵書を保管する大学の図書館へ通い次の作品のために構想を練っていられ
るのではありませんか。この大学の町は貴方が以前住んでいられた松江と同じ日本海に面していて貴方の嫌
いな寒い冬に雪の降るところです。今はまだ九月といっても季節の移りは早いですから精精ご自愛を祈りな
がら次の作品を楽しみにしています。
明治三十七年九月二十六日 八雲愛読者
短詩
百回忌はるかに遠き八雲かな
芳一に怪談話聞きもらし
ハーンとて八百万まで逢いきれね
壇の浦武者が声ありみなそこに
風鈴や涼しき風ぞ芳一の
妖怪ぞはしなく出あう読み半ば
ハーンとてちみもうりょう手間どりて
けものも集めて暗し棚の中
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エッセイ部門 佳作
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)
こ し の
た
み
え
越野 多美恵
ハーンは富山を訪れたことはないが、貴重な渾身の魂の生涯ともいうべき「ヘルン文庫」が富山にあるこ
とは、最高の宝物である。
明治の大文豪としてだけでなく、日本の社会文化の記録として、二十一世紀をも見通して世界に紹介して
いる。ハーンの作品に触れることによって、日本人本来の美徳について立ち返る必要性を痛感するばかりで
ある。ハーンの愛した明治日本のかたちとして、和服や下駄や柏手の音を活写することで、世界の平和まで
が実現するような気がしてならない。
作品形成の軌跡を追いながら、セツ夫人との生活の中でハーンの素顔を読み取り、ハーンの愛した美しき
日本の社会的弱者に対する目は、なんともいえない慈愛に満ちている。
独学で自分の世界をひらいたハーンの作品の魅力に触れて、素朴、善良、質素をこよなく愛したことに強
い感動を覚えながらも、一徹な気性であるが故に他者との摩擦も多く、孤独と苦悩を抱えていたハーンを、
母のようにそして最愛の妻として見守り続けたセツ夫人の真摯で情感溢れる言葉を、私は改めて子や孫たち
に語り継いでやりたい思いでいっぱいである。
ハーンは幼くして両親は離婚、ギリシャの小島から、アイルランド、フランス、英国、米国と、孤独と異
文化のなかで遍歴を重ね、深みを持つ視点を養っている。少年時代に左眼を失明しながらも、民間伝承から
美術史、哲学、宗教などと幅広く日本の古い伝説や怪談に関心を持ち、人間の妄執の移り変わりも見る心が
育てられている。
私が幼い頃から尊敬し、いのちの恩人ともいえる故郷のお寺の住職(ごんげはん)は、結婚して若さま時
代の長い間を、島根県松江市の刑務所に奉職のかたわらハーン研究にとても熱心であったと聞いている。故
郷のお寺に帰られてからは、お説教といえば必ずといってよいほど一部にハーンの日本物語を聞かせてもら
ったことが忘れられない。
私の父がこのお寺の門徒総代を長くつとめさせてもらっていた関係で家族的なおつき合いもして頂き、私
の悩み相談までもして頂いたことを感謝している。そのお礼の意味もこめて近くの公園の桜の花見にごんげ
はんも招待した時、みんなの民謡や踊りのあとにごんげはんは、
「叱られて」の童謡をお説教のときのような
美声で歌われたことが懐かしい思い出となっている。
「叱られて、叱られて、あの子は町までお使いに、この子は坊やをねんねしな。
夕べさみしい村はずれ、コーンときつねがなきゃせぬか」
。
この歌をうたわれたあとにごんげはんのお話されたことは、いつも門徒の法事のあとの酒食にほろ酔いでお
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寺の入口まで夜半に帰ってくると、広い竹やぶに住んでいるきつねが花嫁姿に化けて「ごんげはんお帰りな
さい」と優しく頬を撫でてくれるので「ありがとうおやすみ」といって握手したという話や、あるときは橋
のたもとで迷っている幽霊に出合って、宗教家としてひたすら供養すべきと思いおそろしいような哀しい心
奥を明かされたお話は、単なる幻覚であるとしても、ハーンの心を重ねての話であり、私のハーンを重ねて
聞いていたことを覚えている。
この桜の花見の記念にごんげはんから贈られた「飛雲」と銘のはいった、抹茶わんは今も大切に貴人台に
のせて一期一会の一服を拝服してハーンの心を語り継いだごんげはんの説教名人としての生涯を思い出し、
受刑者への説教によっていち早く社会人となっていった多くの人々の話にも敬服するばかりである。
ハーン没後百年、ごんげはん没後四十年、共にその思い出の心は私をとても無邪気に素直に、可憐に、純
情な私にさせてくれている。ハーンが今も生きているとしたら、現代の日本人をみてどのように思うであろ
うか。
詩・短詩部門 佳作
高原 敦子
ヘルン文庫亡夫と巡れる日のなくて恒讃えたる言葉忘れず
富高生に伝え守られ焼失もせで越に残れるハーンの日本は
「丘の団欒」に集いし若者みな老いて富高健児の世に盡きんとす
青春の話題は常に岩瀬浜 富岩運河 蓮町の駅
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創作部門 佳作
『蝶の幻想』小泉八雲著より
戯曲「蝶の幻想」
作・三宅 エミ
◎じんぶつ ラフカディオ・ハーン (二十六歳の新聞記者)
天女 (蝶の化身=まだ見ぬ妻・小泉節子の魂)
◎とき
一八七六年五月
◎ところ
アメリカ・シンシナティの昆虫博物館にて
【一幕一場】 蝶の幻想
(約十分)
明かりがともると、そこは蝶の標本に囲まれた空間。
無数の蝶は、世界の縮図のように、色彩豊かである。
中央に標本箱。館内には虫かご2つが置かれている。
西洋服に身をつつんだ青年が、取材そっちのけで、中央の標本箱を、のぞきこんでいる。うっ
とりと感嘆のため息。たまらず、言魂が口を突いて出てくる。
ハーン ……ほたて貝の波形。大理石のまだら模様。ムーア式の馬蹄形。アーチを模った断面。緋色の襦子
に、アメシストのきらめく紫、縞瑪瑙に茶の点々、血の赤と骨の白……。ああ、自然という名の仕立
て屋は、なんと豪華な衣装をしつらえたのか。……イングランド、スコットランド、ウェールズ、ア
フリカ、インド、オーストラリア、南アメリカ、アメリカ……。青い地球のすみずみに、愛らしき生
き物を息づかせてくれた、自然の聖霊よ。蝶の羽衣を、鮮麗な色で染めあげた、芸術の魔法の使いよ。
僕は心から拍手を送りたい。
(表示を読み上げる)
「しおらしき 仙女神見て 顔染めぬ」
、
クラショー
作か。うむ、名句を詠ったものだな……。
標本の陰に、羽衣をまとった、女の姿が浮かぶ。
ハーンは、標本に夢中で、まだ気がつかない。
ハーン (憧れのため息)これはまた、なんと優美な妖精……。燦然と光り輝く、東洋の蝶よ。目がくらむば
かりに、変幻きわまりない万華鏡の翅よ。ビロウドの黒衣をまとった花々の精たちよ。いったい、日
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本というのは、どれほどの神秘を抱えた国なのかい? もし、この世に天女がいるならば、他愛のな
い幻想の中にでも、僕を誘ってほしいものだよ。かの地の果てで朽ちたとしても、僕は命を惜しむこ
とはないだろう。そう誓うのだがなぁ……。
艶やかな模様を彩った袂がゆらめく。
標本から飛び立つ蝶のように、天女が空間で戯れる。
ハーン 花々の彩り。蜜の甘い花芯の香り。貴婦人の美しい衣ずれの音。衣ずれの……、音。え?
軽やかに舞う蝶の化身を、目で追いはじめるハーン。
ハーン ……君は、誰?
天女が動くたび、優美にゆらめく長い袂。
ハーン 夢か、それとも、幻か。
天 女 探しているのは、母さま、かしら?
ハーン 母さま……?
天 女 そう、まだ見ぬ、母さま。
ハーン まだ見ぬ……。
天 女 見えるのね、わたしのこと。
ハーン 知っているのか、私の、母さまを?
天 女 もちろんよ。何処へだって、飛んでいけるのだもの。
ハーン 地の果てまでも?
天 女 羽があるのだもの。
ハーン 行きたいんだ、僕も。その羽を、貸してくれないか。
天 女 あなたが、あなたであるように、わたしの羽は、わたしの羽なの。あなたには使えない。許されな
いのよ。
ハーン 飛びたいんだ、僕も。何処か遠い処へ。湖面のように静かな何処かへ。蝶の棲む楽園へ。母さまの
ように、羽を休ませてくれる、懐の深い国へ。
天 女 アメリカだって、懐は広いのよ。いろんな国の顔をもつ、異国のあなたに、新聞記者の仕事を与え
たのだから。
ハーン ほんとうに心から、迎えてくれたのだろうか。両手を広げて、抱きしめてくれたのだろうか。あち
こちの血が一つになって流れるこの僕を……。どうも手ごたえがないんだ。半分だけしか広がらない
腕と、半分だけしか開かない瞳と、半分だけ向けた背中が、僕の寂しさを深くする……。心の聖地は、
- 43 -
ここではなかったようだな。
天 女 心の聖地ね。
ハーン 他にあると思うんだ。両手を広げて、僕をずっと待っている、あたたかい大地が、この世の何処か
に。
天 女 知っているのね、あなたの心は。
ハーン だけど……。
天 女 瞳を閉じるの。そうして、血潮に耳を傾けるのよ。
ハーン (瞳を閉じてみる)
天 女 波の音が、聴こえない?
ハーン ……うん、聴こえる、ほんの、かすかな波音が。
天 女 もっと、耳を澄ませるの。さざ波の響きを、感じてみて。
天女は、ハーンの手をとる。
天 女 心の耳なら、あなたの声が、聴こえるの。
ハーン ……なぜだろう。こんなにも、血が騒ぐのは。鼓動が、頭まで響くのは。ああ、今、透明な風が、
肌に触れたよ。その風が、僕の耳元で囁いてる。
天 女 あなたは、ぜんぶ、知っているの。聴こうとしない、だけなのよ。
ハーン ……あっ(瞳を開ける)
。
天 女 (ほくそ笑む)
ハーン 天女の衣をまとう地、日の出ずる東の国、母さまの待つ家へ、今すぐ飛んでおいで、と……。
天 女 あなた……、怖くはない? たとえ、巨大な蛾が飛び交う園に、迷いこんでも?
ハーン 瑪瑙をまとった、珍種の蝶だと思えば、きっと。
天 女 霊妙な蛾も、恐れない?
ハーン 翅という翅に、夢のような空を描いてもらう。職人を探して、雲を模った判を作ってもらうさ。僕
が網でつかまえて、ぜんぶ蝶に染めかえてやる。君も、手伝ってくれるかい?
天 女 フフフ。
ハーン ひとりじゃ、一生かけても、追いつかない。
天 女 あなたが花なら、どんな蛾だって、蝶になるわ。異国に咲く珍種の花ならば。咲き誇ってごらんな
さいよ。大地に根を張って、思いきり、自由に両手を広げて。
ハーン それはいいや。雲の判を押す手間が省ける。
天 女 何があっても、あなたの花を、枯さぬように。
ハーン たっぷりと涌き出る、水を、まずは探さなきゃ。
天 女 ……待っています。
- 44 -
空間に光が降ってくる。
天女は、ハーンから手を離す。
ハーン 待っている、って、君?
天 女 薔薇色の雲が、出てきた。
ハーン 逢えるのかな、また、君に?
天 女 虹色の雲よ。あの雲を頼りにするといいわ。
天女は舞う。衣が光の中に、ゆらめきはじめる。
ハーン 名は? 何と言う? 僕はハーンだ。ラフカディオ・ハーン。君は? えっ、聞こえないよ? …
…節子? 妻? 誰の? ……僕の? それを、なぜ君が、知っているんだ?
蝶の標本に囲まれた空間に、無数の蝶が舞いはじめる。
天女の姿は、白い光と鮮麗な蝶の群集にかき消される。
ハーン 待ってくれ。これを……。
ハーンは、慌てて、虫かごを2つ差し出す。
ハーン 目印に、これを。約束の印に。追いかけよう、雲を描いた蝶を、僕と一緒に……。
空間は光で染まり、白くはじける。
水を打ったような静寂。
再び、もとの標本に囲まれた空間。
ハーンの手には、虫かごが1つだけ。
彼方を見つめるハーン。
ハーン ……東へ行こう。蝶を探しに。
暗転。
【幕】
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創作部門 佳作
桜の散った夜
小泉節子・
“思い出の記“より
沓名 奈都子
く
つ
な
な
つ
こ
九月、秋の気配香るさわやかな風が、節子の耳元で何か囁いた。
節子は、ふっと立ち止まり、自分の歩いてきた道を振返る。
そこには、穏やかな ヘルンの笑顔のような青空が広がっていた。
九月も もうあとわずかで終わると言うのに、書斎の庭にある桜が一枝返り咲いた。
節子は、庭先よりその桜の一枝を見上げ、何気なしに手を差し伸べたが 我に気づき手を下ろす。
その時、節子の心に 淡い灰色の霞のような、何か言い知れぬ不安がよぎった。
小さな出来事を子供のように喜び感動をするヘルンにこの桜の返り咲きを教えてさし上げよう。イイエ、
これはあまり吉とされないことだから黙っていようかしら。などと、節子は少し迷いながらもヘルンのもと
へ歩みこの小さな事件の報告をした。
ヘルンはその報告をことのほか喜んで「ありがとう」を繰り返しながら、早速書斎へと向かう。
その足取りは軽やかで、節子は やはり教えてさし上げてよかったと ヘルンのあとを追った。
ヘルンは少しでも近くで桜を見ようと 書斎の縁の端近くまで歩み寄り その桜の一枝に 春のような笑顔
で「ハロー」といった。もちろん桜は何も答えない。
しかし節子は心の中で、 (花や虫などの生き物や 四季それぞれの趣を愛しているヘルンだもの、 もし
かしたら桜も「ハロー」と答えているかもしれないわ 、
) などと思ったのだった。
二人肩を並べてその桜の一枝を眺めながら節子は その桜の蕾の奥に、暖かい春の日差しに包まれた二人の
姿を見ていた。
ヘルンも節子と同じ想いだったのだろう。
そしてヘルンはひとり言をつぶやくように
「今、私の世界となりましした」
と 言った。
節子が横に立つヘルンを見上げると ヘルンのその横顔は、春の光のように穏やかな表情をしていた。
節子が 心の中でヘルンに微笑み返した時、今の今まで暖かなまなざしをその桜の一枝に向けていたヘルン
の表情が不意に曇った。
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節子は黙ったままヘルンの横顔を見ていた。
しばらくしてヘルンが またひとり言を言うように
「可哀相です.今に寒くなったらこの蕾たちは驚いて
しぼんでしまう」
と、季節はずれに芽生えた命たちの行く末を悲しんだ。
節子は やはり無言のまま ヘルンの手をとり そっと握りしめた。
ヘルンもだまったまま桜を見やり 節子の手を握り返した。
それから二日後、返り咲きの一枝の桜が開花した。
静かに咲いたその花は、その夜の波間に散り消えた。
ヘルンの顔は とても穏やかであった。
節子は二日前と同じようにヘルンの手をやさしく包み込みこみながら 書斎の庭に咲いた季節はずれの桜の
花を見やった。
うっすらと笑みを浮かべながら 永遠の眠りについたヘルンの枕もとに 桜の花びらが一枚 舞い落ちた。
詩・短詩部門 佳作
大橋 敦子
尋ねゆくヘルン文庫や夏木立
暮れ残る松江旧居の白障子
微笑みのたえぬ石仏八雲の忌
八雲忌や波音近き馬場公園
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エッセイ部門 入選
八雲が教えてくれた日本人の心
や
べ
と し こ
矢部 敏子
私が洋服を着はじめると、妻が気づかって順序よく手渡してくれたり、ポケットを気づかってくれたりす
る。日本の習慣は嫌だった。
だけどそれを反対しようとすれば人の感情を害して、おもしろくないから昔の習慣におとなしく従ってい
ます。
彼が友人に出した手紙に書いているように八雲も最初は日本人の古い習慣に苦しんだ時もあったようだ。
日本で愛する女性とめぐり会い、彼自身も日本を好きになってゆく。妻との生活の中から古い習慣や日本
人の心の中に、生きている生命の根源をみつめ続けて来たのかもしれない。
八雲の作品の中に八雲自身も日本人になりきろうとした、姿勢がよく感じられる。
代表作、耳なし芳一に出てくるように、日本人の神仏に願いや祈りを、こめて生きてきた心を、古い習慣
の中から、理解し、彼自身も懸命にとりこもうとした、様子が八雲自身の作品の中によく現れている。
耳なし芳一の舞台となった、下の関海峡、壇の浦の最後の決戦で平家一門は女、子供まで入水して悲しい
最後をとげる。
その後、七百年もの間この地は、平家の怨霊に、たたられて来た。
怨霊を静めるため、阿弥陀寺を建立したり石碑を建てたりして、こんにち安徳天皇と記憶されている、幼
帝と、ともに命をすてた、歴臣達の供養し成仏を願った。
しかし、成仏出来ない亡霊達は怪異を現す事をやめなかった。
この赤間関に、芳一と言う一人の盲人がいた。
芳一は琵琶を弾唱するのに名を得ていた。琵琶をひいたり語ったりするわざは、幼少の頃から師匠の腕を
しのぐほどであった。芳一は平家物語を語るのに、聞こえていた。
わけても壇の浦の合戦の段を語ると、鬼神も涙を流すと言われる程だった。
ある晩、和尚が通夜に出かけ小坊主も、いっしょうにつれていたので、芳一一人が寺に残っていた。
芳一は縁先に出て気ばらしに、琵琶をひいていた、すると裏庭をぬけて足音が近付く気配がする。芳一の
前まできて、ピタリと止まると、芳一と侍が下郎を呼びつける様な呼びかたであった。
芳一! 芳一はぎょっとしたあまり、しばらく返事をしかねていた。
すると声は、ふたたびきびしく命ずるような調子で呼ぶのである。
芳一! 「はい」おろおろしながら答えた。わたしは、目の見えぬものでござりまする。お呼びくださり
ますはどなた様やら、いっこうにわかりかねまするが、すると客は、やや言葉を柔らげていうのである。
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わしは、この寺の近くにたむろしておる者だが、わしの主君は、さるやんごとないお方におわせられるが、
高位のご家来あまたひきいられ、当赤間が関に、逗留中 ぜひとも、上がそなたの合戦の語りを聞きたいと
われ
のご所望、これよりさっそくに私とまいられよと。
そのころは、かりにも武士の命とあれば軽々しくそむくわけにはいかなかった時代、芳一は言われるまま
について行き、どこか大きな屋敷のような所で琵琶をひき、語り始める。曲がしだいに進んで幼帝をいだき
入水のくだりにさしかかると聞き入るものはみな、はげしい嗚咽をあげる者、すすり泣く声しばらくの間続
いていたが、やがていつとはなしに、あたりはもとの静けさにもどっていた。
その静けさの中から、さいぜんの老女は、いった、今夜の事は誰にも言うなと、次の夜も芳一は出かけて
いった。
夜になると出かける、芳一の様子を、和尚は、不思議に思い小坊主に後をつけさせる、目の見えない芳一の
足の早い事、とうとう小坊主は見失う、帰ろうとしたその時、阿弥陀寺の墓地の中で琵琶を弾じている音が
聞こえてきたのである。
降り出した雨の中にひとりしょんぼりと、安徳天皇の陵の前で琵琶をかきならし声をはりあげて、壇の浦
合戦の段を語っている芳一を見たのである、墓地の中で一身不乱にひき語りする芳一の姿はこの世のものと
は思われなかった。
これを聞いた、和尚はこれは怨霊のしわざ、芳一を救う道は一つそなたの五体に護符の経文を書き付けて
おいて進ぜよう。
芳一をまる裸にすると、背中、頭、顔、手足と五体のうちは足の裏にいたるまで、般若心経を書きつけた。
和尚は書き終わると、芳一、今夜どんな人が迎えに来ても、体を動かさず、口をきいてはならぬ、声をた
てたりすると、その身は八ツ裂きにあうことは必定じゃ、芳一は和尚にいわれたように、動きもせず口もき
かず、ただひたすら耐えた。
全身に経文を書いたが、耳に経を書くのを忘れたため、芳一を迎えに来た怨霊に耳をそぎ取られた。
しかし、お経によって尊い生命を救われる、地球上に人間誕生してから人々は、常に神仏に祈りささげる
事を忘れなかった。それによって人々は古い習慣や、日本に昔から語りつがれて来た、伝説等を現代迄残し
て、これたと思います。
ラフカディオ・ハーンは日本名を小泉八雲として、日本を誰よりも愛し、日本人が忘れかけた、本当の日
本のよさ、そして、日本の民謡や、老人の語り伝えによる、昔話を大切にして来た、本当の日本人の心を持
った人だったと八雲の数々の作品の中に生きていると強く感じました。
十六桜、おしどり、雪おんな。鏡と鐘等特にその中でも、心、抄の中の停車場は どこにでもありそうな
話の中に人間として決して、失ってはならない人の情と愛と真の人間の生きる姿と教えられた。
すばらしい作品だったと小泉八雲の作品を前に感動に身体のふるえを感じています。
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エッセイ部門 入選
小泉八雲の心
小松 信久
日中戦争末期の昭和十六年四月に、私は旧制中学校へ入学した。一年生のとき、国語教科書に英文から訳
された八雲の「松江の朝」と題した文書に松江大橋が架かる宍道湖の風景写真も載っていた記憶がある。
その時、初めて「帰化」という言葉を知った。
長じて昭和五十年には同僚と松江市のハーン(小泉八雲)の旧宅を訪ねた思い出もある。
彼は明治二十三年の夏、松江中学教師になるため当地へ赴く。初め、大橋川沿いの富田屋旅館に宿を取っ
たが、士族の娘セツと結婚し、松江城の堀端にある北堀町の旧武家屋敷に移ったのがそれである。
この邸の庭にハーンがこよなく愛でた樹木「百日紅」があった。幹には夏から秋にかけて紅、白色の小花
が開く。女中であった老婆が、居間の片隅で説明のためか何かつぶやいている…。なぜかいとおしく思った。
ハーンの述べた『日本の庭』には、この佇まいを「塀の外側には文明の日本があったが、内側には全く安
らかな自然の平和と十六世紀の夢が住っている」としている。隣には八雲記念館が建つ。
ラフカディオ・ハーンは明治二十三年四月、四十歳にして来日する。その時、船の甲板から目にした霊峰
富士の美しい姿を描いた「月の出」は、日本的なものの象徴として、まずハーンの心に刻み込まれた。
バジル
ホール
また、日本にかかわる書物で最初に読んだのが英訳『古事記』である。訳者の B ・ H ・チェンバレン
は東大の外人教師でハーンと同じ一八五〇年生まれ。明治六年(一八七三年)に来日し、明治十五年には国
学者、本居宣長の註釈の助けを借りて『古事記』の英訳を完成した。
ハーンはこれに傾倒して、松江を「神々の国の首都」と呼ぶ程である。
やおよろずのかみ
これについて例えば、陰暦の十月を続に神無月ともいうが、出雲では神有月としている。八百万 神 が出
雲で集まってしまうからだ。
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エッセイ部門 入選
耳なしほう一を読んで
四年
田近 風夏
ほう一は、どうして目がみえないのに、びわをひけるのかなと思いました。
さいごのところで、耳をとられて、目もみえないのにびわをひいていて、とてもすごいと思いました。
「耳なしほう一」という本はとてもこわいお話しだけど、すこしかなしいお話でもあるなと思いました。
ほう一は、りっぱなやかたへあん内してもらって、おさむらいや身分の高い女中さんたちの前で、びわを
ひきました。でも本当は、平家のおはかで人だまがいっぱいとんでいる中でびわをひいていたのです。
それで、もしおしょうさんが、寺の男たちに「あとをつけて行っておくれ。
」といわなかったらほう一は、
毎ばんはかの前でびわをひいて、おばけのさむらいに、ころされていたかもしれません。
おしょうさんが、でかける前に、体じゅうに、おきょうを書いて、
「おさむらいがきても、声をだしてはい
けないよ。
」といいました。でも、耳に書くのをわすれたので、耳をとられてしまいました。
ほう一は、前よりもっとびわのけいこをしたので、耳なしほう一とよばれ、有名になりました。
ほう一は、びわが大すきだったので、がんばれたのだと思います。
詩・短詩部門 佳作
鍋島 良子
夏に読んだ
冬に読んだ
少女の頃に読んだ
おばさんになって読んだ
今度は孫に
読み聞かせ
小泉八雲の
コワーいおはなし
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へるん倶楽部
HEARN CLUB
第3号
2005.6.18
富山八雲会
編集 木 下 晶
入力 木下優香子
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富山八雲会
TOYAMA HEARN SOCIETY
連絡先 富山国際大学高成研究室 tel. 076-483-8000
URL http://toyama.cool.ne.jp/tomiyaku/index.htm
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