赤蔵小学校の概要 赤蔵小学校の前身となる三引小学校は、田鶴浜小学校から分離して、明治 9 年(1876)に 怡岩院で開設されたとされています。その時の校区は三引村、白浜村、深見村となってい ましたが、明治 18 年(1885)、白浜村と深見村が大津小学校、三引村が田鶴浜小学校の 校区となったため、三引小学校は廃校となりました。その後の校舎は「養蚕室」となりま した。明治 22 年(1889)の町村制の実施により赤蔵村が誕生し、明治 25 年に三引・高 田・杉森の三字を校区として赤蔵小学校が発足しました。小学校の開設には村長のほか助 役や学務委員が奔走し、4 月1日に字高田の中村与野宅を仮校舎として開設されました。民 家の代用ということで多くの不便なこともありましたが、11 日になってようやく授業が開 始されました。また、新設校の教員として簡易科吉田小学校訓導長峯半左衛門氏が赴任し ました。翌明治 26 年には縦 8 間、横 4 間 4 尺で二階建ての新校舎での授業が開始されま した。しかし、一部には三引に所在したときの旧校舎も使用されました。この年の 7 月 30 日の開校式には、学校前に緑門を設け、玄関前にはアジサイの花で「開校式」の三文字を 型とった緑の額縁を掲げました。校舎前の大松からは、数百の電球を四方に吊るし、左側 には築山、右側には曳き山の催しをするといった盛大な式典でした。 明治 33 年(1900)10 月には、田鶴浜組合連合運動会は赤蔵山で行われています。そ の後、明治 35 年には田鶴浜外八校で連合大運動会を(場所不明) 、明治 41 年には田鶴浜・ 端・金ヶ崎・赤蔵の連合小学校運動会が田鶴浜小の校庭で行われました。明治 44 年の連合 運動会には田鶴浜・端・金ヶ崎・赤蔵に加えて、高階と相馬が参加しており、児童数が 1200 人を数えました。 大正 2 年(1913)10 月 18 日に、字高田井部六十番地にて新校舎が建設されました。 校舎は松村徳太郎氏が設計し、大工棟梁は大津の坂口清松氏でした。新校舎は大正 2 年 6 月 15 日に着手し、8 月 2 日に上棟式を行い、9 月 27 日に校舎引き渡し式が行われまし た。また、大正 6 年には創立 25 周年の式典が開催されました。 昭和 9 年(1934)6 月に、赤蔵・田鶴浜・端の 3 村が合併して和倉町となりました。 同年 8 月 31 日に赤蔵尋常小学校は廃校となり、通学区域を田鶴浜小学校に変更となりま した。 明治26年に新築した赤蔵尋常小学校。閉校されたあと、赤 蔵村役場となり、最後には、高田保育園として利用された。 明治35年の赤蔵尋常小学校での卒業記念写真 赤蔵尋常小学校沿革史 (抄) (表紙) 赤蔵校沿革史 (沿革史序) 明治二十八年孟秋 長峰訓導識 (本文) 創設当時ノ梗概 一、御真影並ニ勅語謄本 明治廿五 年十月 左記 ノ令達アリ タルヲ 以テ 長峰訓導ハ 郡衙ヘ 出頭 シ教育ニ関 スル勅語及文部大臣訓示ヲ拝受セリ、 「鹿訓第百八十七号 (朱字) 」 赤蔵尋常小学校訓導長峰半左エ門 教育 ニ関ス ル勅 語及文部大 臣訓示 本月 九日交付ス ヘク候 条仝 日午前九時 ヨリ午後三時マテノ内当庁ヘ出頭スヘシ 明治二十五年十月八日 石川県鹿島郡長大塚志良 奉置ニ関シテハ当時設備ナカリシヲ以テ教室ノ正面ニ安置シ奉リシモ、其後 祠ヲ造リテ奉置シ、現在ノ新校舎ニハ第一教室側方正面ニ安置シ奉リアリ、 コレ火気ノ最モ遠カリタル場所ヲ選定シタルナリ、尚、非常変災ノ場合ニ奉 置スヘキ場所及心得等ハ本校規定ニアリ、 二、設置 明 治 二 十 五年 四 月一 日赤 蔵 村 字 高田 ノ 部三 番地 中 村 與野 ノ 家 宅ヲ 借揚 ケ 仮 校 舎トシテ本校ヲ開設セリ、従来本村ハ田鶴浜小学校ノ校下ナリシカ小学校令実 施ト共ニ国ノ教育事務ヲ町村ニ委任セラレタルヲ以テ、本村ニ一尋常小学校設 置ノ義務ヲ生シ、新ニ指定セラレタルナリ、其ノ淵源ハ遠ク新村組織(明治廿 二年)ノ時ニ胚胎ス、以前ハ三引、白浜、深見三ヶ村連合シ三引村北側中央地 ニ一校設置アルシモノナルカ中コロ教育制度改正ノ際、児童ハ高田、杉森二村 ト共ニ田鶴浜校ヘ就学スルコトヽナリ、其財産モ一度ハ田鶴浜村ヘ引継キシカ、 更 ニ 新 村 トナ リ テ一 校設 置 ス ル ノ機 運 ニ至 リ、 三 引 校ノ 印 鑑 アル 図書 校 具 等 又々赤蔵村ヘ復リ来レルハ面白キ現象ト云フヘシ、 三、教科及編制 創立ノ際 ハ修業 年限 四ヶ年ノ尋 常小学 校ニ シテ教科目 ハ修身 、読 書、作文、 習字、算 術、体 操ノ六 科目ニシ テ当時 裁縫科 ノ設ナシ 、教科 用図書 ハ当分ト シテ左ノ如ク規定セラレタリ、 読書、読書入門・尋常小学校読本七マテ 習字、小学習字帳八マデ 算術、尋常小学筆算全書・小学暗算書・小学珠算教科書 当時出席 児童少 数ナ リシヲ以テ 単級ニ 編制 セシカ一名 ノ正教 員之 ヲ担任シ、 一名ノ准 教員補 助教授 ス併単級 教授法 ハ始メ テ実施ナ レハ、 其ノ経 験ニ乏シ ク修身体操ヲ除クノ外自然学年別教授ニ傾キ随フテ甲組 (一・二学年)ハ重 要ノ科目 ヲ除キ 一時准 教授ニ委 任スル コトヽ セリ、一 学年ヲ 三学期 ニ分チ学 期試業、 学年試 業あり 、所謂試 験制度 時代ナ リ、式日 ハ三大 節儀式 アリ、儀 式ノ次第 等ハ県 令ニテ 規定アリ 、夏季 休業ハ 七月廿五 日ヨリ 四週日 、冬休業 ハ十二月廿八日ヨリ二週日ナリ、 四、設備 校地ハ赤 蔵村字 高田 地内ニシテ 村ノ中 央ナ リ、始メハ 民家ヲ 假用 シ居リシモ 教授訓練 ノ上ニ 於テ不 便少カラ サルヲ 以テ新 築問題起 リタリ 、然ル ニ明治九 年頃字三 引北側 ニ於テ 白浜、深 見ト三 村協同 シ新築シ テ校舎 ニ充テ アリシ建 物アリ、 廃校後 養蚕室 ニ使用シ 居レリ 、教育 令実施ノ 際ハ白 浜、深 見ハ大津 校ヘ連合 シ三引 ハ田鶴 浜校ヘ連 合シ、 高田、 杉森ハ以 前ヨリ 田鶴浜 ノ校下ナ リシカ、 明治廿 五年小 学校令実 施ノ際 ニ当リ 其ノ旧建 物ヲ中 央地ニ 移築シテ 校舎ニ充用シタリ、 五、就学 本校下ハ 字三引 、高 田、杉森ノ 三区ヨ リ成 リ学齢児童 男百八 名、 女百四名ナ ルモ田鶴 浜校ヨ リ引継 セシ児童 数ハ尋 常科男 拾九名、 女三名 、簡易 科男弐拾 三名、女 拾名合 計男四 拾二名、 女拾三 名、学 齢ニ比シ テ就学 ノ僅少 ナルハ驚 クニ堪ヘ タリ、 本校新 設ノ暁ニ ハ非常 ニ就学 出席スル ナラン ト予想 セシニ豈 計ランヤ 出席漸 ク五拾 余名ニ過 キス以 テ教育 思想ノ乏 シキヲ 徴スル ニ足ル、 当時三字 ニ就テ 教育状 況普及ノ 程度ヲ 察スル ニ杉森最 モ進ミ 、三引 ハ僅々数 名ノ通学 生アル ノミ、 高田ニ至 リテハ 皆無ナ リキ何ト ナレハ 杉森ハ 一字ニシ テ四年生 ヲ占メ 高田ハ 全部一年 生ノミ ノ就学 ナリシヲ 以テ見 レハ思 ヒ半ニ過 キン、 六、教務 記事ナシ、 七、校務 教員ハ僅 カニ二 名ノ ミナレハ別 ニ事務 ノ分 掌モナク首 席訓導 一切 ノ事務ヲ処 理セリ、 八、職員 職員ノ進 退ハ町 村制 ノ実施ト共 ニ村長 ハ三 名以下ノ候 補者ヲ 推選 シ知事ニ申 請スルコ トヽナ リシヲ 以テ余程 従来ト ハ趣ヲ 殊ニセル モノア リ、俸 給ノ支給 額亦同ジ 教員ノ 進退ニ 関シテハ 一大改 革ト謂 ハサルヘ カラス 、明治 二十五年 三月某日 本郡簡 易科吉 田小学校 訓導長 峰半左 エ門在職 ノ時、 本村助 役中村与 野、学務 委員代 理藤田 敬三ノ両 氏来校 聘用転 勤センコ トヲ勧 誘アリ 、一応校 下ニ協議ノ上遂ニ赴任センコトヲ契約セシコトアリ以テ一例トスヘシ、 九、衛生 記事ナシ、 十、経済 凡テ村税負担トス、約弐百余円ニ過キス、 十一、村教育事務員左ノ如シ 当時ノ素 封家、 徳望 家トシテ村 長ニハ 大橋 吉造、助役 ニハ中 村與 野、学務委 員ニハ岡 田善行 、三枝 二平、藤 田又次 郎ノ三 氏ニシテ 各区長 ヲ兼務 セリ、以 上ノ吏員 ハ本校 創立ノ 際トテ假 校舎設 置、開 校準備、 財産分 配処分 、校具ノ 設備、教員聘用等ノ件ニ付焦心苦慮セラレシ人ナリ、 十二、巡視 記事ナシ、 十三、特殊教務 記事ナシ、 十四、雑件 (記載なし) (以下略)
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