軍医敗戦記

の健闘を行く末永い前途の幸福を念願して決別の辞と
する。
さらば諸子よ 出発だ 出発だ
復員の鐘が鳴る 否復興の鐘が鳴る
親愛なる諸子よ、御機嫌よう 諸子及び諸子の家族
と共に一路平安を祈る
昭和二十一年二月二十五日︺
軍医敗戦記
東京都 山崎義郎 ︱最初に簡単な軍歴を聞かせて下さい。
昭和十六年十月六日に、近衛歩兵第一連隊に軍医予
普通の兵科と異なり軍医になるための予備教育なの
備員教育のため衛生上等兵として入隊しました。
はっきりと伝わって来た感じで、あの時の重広連隊長
で、いわゆる内務班教育というものはなく、従って往
こ の 連 隊 長 の 決 別 の 話 は 静 か で は あ る が落ち付いて
の眼は慈父の眼のようでした。その時の連隊で生き残
せん。習うことも学校で習ったことの復習のようなも
復ピンタとか鶯の谷渡りとかは味わったことはありま
四月になって青島に向かって済南を出発、青島港か
ので、後で見たり聞いたりした兵科の初年兵教育とは
った人は約九〇〇人だったと聞いています。
ら米軍の上陸用舟艇に乗り、四月二十日に佐世保に上
雲泥の相違でした。
内の実地教育でした。
た。前期が隊内教育で、後期は世田谷の第一陸軍病院
教育期間も約一ヵ月ということで気分的にも楽でし
陸しました。その時、つくづく、﹁国破れて山河あり﹂
の詩を実感しました。
︹聴取に際し、菊地卯三の戦友︵第五中隊︶小野寺
秀雄氏の助言があり、感謝します︺
当時、日米間に暗雲が垂れこめ一触即発の情勢でし
た。下手をすると除隊、即日召集という事態になるか
も知れないと秘かに覚悟だけはしておりました。
︱教育期間中一番印象に残ったことは何でしょう
か。
私ごとで恐縮ですが入営して三日目に弟が畔上中尉
︵ 府 立 九 中 の 同 期 生 ︶ と 二 人 で 面 会に 見 え ま し た 。 入
営早々なのにと異様な感じがしましたが、早速、面会
た。
︱二度目の召集はいつですか。
昭和十九年七月十五日、山形の歩兵連隊に入りまし
た。
第一回の除隊後、入隊前から勤めていた病院に復職
しました。
ご存知のように十二月八日未明、 日 米 戦 争 が 勃 発 し 、
文 字 通 り 亜 細 亜・ 太 平 洋 戦 争 と な り 、 世 界 戦 争 に 突 入
所に出向きました。夢想だにしなかったことでショッ
クでした。父が七日の午後散髪中、脳■血に襲われ数
しました。
新婚の夢さめない中の召集令状でした。
召集直前、縁あっていまの家内と結婚しましたが、
時間後に死去したとのこと。 父は平生から血圧が高く、
血圧を計りながら酒類を控え目に飲んでいたのが、私
の入営で二日ばかり宴会が続いたのが響いたのでしょ
十二時間の特別外出の許可を得て、九日の葬儀に列
山形連隊の隊付衛生部見習士官︵ 二 十 七 歳 ︶ と し て 下
大 陸 で す 。 昭 和 十 九 年 十 一 月 に 弘 前 師 団︵弾部隊︶
︱二度目の任地はどちらでした。
席しましたが、霊枢車の中で位牌を持ちながら止めど
関に到着しました。下関では衛生兵を連れ内地最後の
う。
なく涙が出たのを今でもはっきりと思い出します。二
花街を冷やかしたのも思い出の一つです。
や冷やの連続でした。
敵潜水艦が出没し、玄界灘を渡り釜山に着くまでは冷
大本営発表は勇ましかったが、もう日本の近海には
度目の召集で大陸で何十人、何百人の臨終に立合いま
したが父の死はまた格別でした。
昭和十六年十月三十一日、教育も終了し、衛生軍曹
として無事除隊しました。二十五日間の教育期間でし
に送り届けました。
︱軍医と兵科将校の苦労の相違は何でしょう。
釜山に上陸しほっとすると共にようやく落ち着いて
周囲の風物を見ることが出来ました。土の色といい、
質の相違でしょう。 戦 闘 が あ れ ば 兵 科 将 校 が 苦 労 し 、
戦闘終了後は軍医が戦死傷者の手当で苦労する。行軍
黒い豚といい驚くことばかりです。大隊本部将校一同
で米を持込み、釜山郊外の東来温泉で豪遊したのが宴
揚子江を渡河し、武昌から米軍の空襲を避けて一ヵ
中の苦労は全く同じですよ。
海上輸送が危険な時、大陸縦断鉄道が文字通り輸送
月の夜間行軍です。しかも四十キロの背■を背負って
会らしい宴会の最後でした。
の大動脈で、極言すれば釜山から漢口まで貨車が数珠
です。
見習軍医は何時も衛生部員、担架兵と共に救護班と
繋ぎという有様でした。
朝鮮を過ぎると北支 ・中支と占領地ごとに紙幣を交
して部隊の最後尾で、到着後は休む間もなく診断廻り
背負った鉄兜につけ てたらした白布が目当ての夜行
換するのに一驚。また中支を行軍中、場所により岩塩
の列車が停滞し、順徳に降ろされ、占領地といっても
軍で、雨の時は褌までずぶ濡れになり、またぬかるみ
です。
点と線しかないということをイヤというほど思い知ら
に足を取られ、疲労の極、ちり紙一枚でも捨てたくな
しか通用しないのには驚かされました。その中、先発
されました。
間を往復し手当をするのに大奮闘でした。他部隊の軍
すが集団赤痢が発生し、一車両目から四十五車両目の
者が出て、急遽、野戦病院を開設した苦い経験もあり
信陽付近の真冬に大休止が長かったため多数の凍傷患
尖兵小隊が道を間違えたものと思いますが、北支の
ることもありました。
医は麻薬中毒、病兵は渇水と下痢で、とても少人数で
ました。凍傷は耳と四肢の指で、火傷に似て第三度︵壊
出発の時は冬なのに、給食に基因すると推測されま
の手当はゆきとどかず、黄河の要衝、■州の陸軍病院
でやりましたが、主計将校が後払いの紙を張って歩い
最前線にでると生きるため山賊盗賊まがいのことま
日三晩不眠不休の活躍でした。手当の甲斐もなく死ん
に ガ ス 壊 疽・破傷風血清︶給食・ 死 亡 者 の 埋 葬 等 で 三
で 仮 眠 後 、 民 家 で 包 帯 所 開 設 を 命 ぜ ら れ 、 治 療︵ 全 員
すが、すでに多数の死傷者が出た後でした。大隊本部
ていたのはお笑い草でした。馬を持っている砲兵・ 歩
でいく兵を見て涙がぽろぽろでて困りました。
疽︶までありました。
兵砲小隊 ・ 機 関 銃 小 隊・ 輜 重 隊 の 苦 労 に は 頭 が 下 が り
に登りました。蛸壼を掘る暇もなく小隊長の蛸壼にと
長 に 出 撃 を 命 じ ら れ 、 当 番 兵・ 衛 生 兵 等 を 連 れ て 山 頂
い湘潭という所でした。呆然自失、なすすべもないと
敗戦の報に接したのは湖南省の毛沢東の出身地に近
書 を 起 案 中 に P 51
の射撃を受け、腹部貫通銃創で戦死
したのはかえすがえすも無念でした。
慈恵医大出の高級医官秋山博愛中尉が私宛の連絡文
びこみました。激しい銃爆撃の後、チャルメラの音と
いう心境でした。一方、やれやれこれで内地へ帰れる
ました。
共に国府正規軍に突撃された時はもう駄目と思いまし
と思ったのも事実です。兵科将校の中に全員玉砕だと
ある時第一線で味方の数中隊が包囲され、竹中大隊
た。迫撃砲のヒルヒルスーンという音が一番怖かった
悲憤慷慨した者もいましたが、自決者は一人もおりま
終戦後も一苦労も二苦労もありました。集結地に行
ですね。幸い准尉が手兵を引き連れ白兵戦で敵を追い
隊は全滅するので、胸部貫通銃創の見習士官以下数十
軍 中 虫 垂 炎︵ ガ ッ カ リ ア ッ ペ ︶ に な り 、 長 沙 陸 軍 病 院
せんでした。
名を率い、暗くなるのを待って下山しました。途中道
に入院手術。部隊から取り残され、しかも病院が閉鎖
落してくれほっとしました。しかし、このままでは中
に迷い士官も死亡したので軍刀で手首を切断、川を目
になり抜糸もせずお坊さんや当番兵と共にトラックで
部隊を追及した時はこれで私の人生も終わりかと思い
当てに後退し、大隊本部に合流しました。
行き違いに大隊本部から撤収命令が出ておったので
の大病院に転送され、ここで武装解除されました。私
て、途中死ぬ者も多く、生き残った者は岳陽から武昌
追跡中にマラリヤ・ 赤 痢 ・ 栄 養 失 調 の 患 者 が 多 数 出
つまでも眺めていました。復員船に乗るまでシラミ取
した。二年ぶりで水道の水を飲み明るい電灯の光をい
撃に怯えながら上海に無事到着した時は、ほっとしま
待ち恋がれた船で南京まで下り、そこから暴民の襲
いことでした。
は不運にもシラミのため回帰熱にかかりましたがサル
り競争と検便二回︵ コ レ ラ 流 行 ︶ を や り ま し た 。 し か
ました。
バルサン二本で助かりました。
犯かと心配しましたが中支最後の復員船LSTで昭和
し私は乗船地司令部に残留を命ぜられました。一瞬戦
コレラ・ 天 然 痘︵ 仮 痘 ︶ が 発 生 し 、 そ の た め ま だ 日 本
二十一年七月、無事久里浜に上陸しました。
武昌の墓地で部隊に追及しました。 天 幕 生 活 の た め 、
軍が管理した漢口の陸軍病院まで渡舟に乗って行き、
漢口の在留邦人も売り食いで、辛うじて飢えをしの
世話で背広と自動車を借用し、上海市内の見物をし、
弟に会え、松井元軍司令官 ︵ 湯 恩 伯 将 軍 の 朋 友 ︶ の お
乗船地の司令部にいたお陰で五年ぶりで陸軍中尉の
ぐという状況で苦労していました。道路補修のため王
夕食を共に出来たことは望外の幸運で、二人で奇遇を
痘苗等薬品を秘密で分けてもらい助かりました。
陽明の百福寺の近くに行った時は手持ちの薬で中国人
喜びあいました。
当時、上海は戒厳令がしかれ、中共軍の侵攻がある
の治療を行い、食料を稼ぎ、部隊のために大分貢献し
ました。
虜生活をしましたが、チブス性疾患、回帰熱等に罹か
︱一番残念なことは何でしたか。
今は戦死傷者の冥福を祈るのみです。
のではないかと■が流れていました。
った兵が医薬品の欠乏のため帰国を眼の前にして、望
医療器具の不備と医薬品の欠乏です。このため助か
蘇東波の赤壁賦で有名な揚子江沿岸の黄岡で長い捕
郷の涙を流しつつ亡くなっていくのをみるのは大変辛
る兵の多くを死なせました。悔やんでも悔やみきれま
せん。
︱どうも有難うございました。
そ の 時 点 で﹁外地希望﹂と言い合格したのです。
十日後の十二月二十日出発、朝鮮 ・ 満 州・北支経由
で甫口から揚子江の対岸の南京に着きました。南京で
正月を迎えて、上流の銅陵と大通の間の鉄鉱山という
所で編入され、六ヵ月間教育を受けたが、三ヵ月が基
■にも立ち、討伐にも度々出ました。そこで実弾の音
本、三ヵ月は実戦を交えた教育です。夜間の戦闘や歩
歩兵第百三十三連隊 衡陽攻略
の死闘
を聞いて、初めは頭を自然とすくめる。その討伐で初
三重県 浦田幸一 ︱本日は第一三三連隊の衡陽攻略戦で、第一線で直
で、その当番になった。教育中も、半年後の常徳作戦
私は第九中隊 ︵ 第 三 大 隊 ︶ に 入 り 、 西 口 少 尉 が 教 官
めて、ヒューンヒューンという、高い弾でもです。
接戦闘に参加した、生き残りの浦田さんに細かい
の時もそうでした。この作戦はひどい作戦だったが、
戦闘機の銃撃により少尉は
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常徳へ行ってクリークを渡って総攻撃をする前に病院
そのことが、私にとっては運が良かったわけです。
下って、早く内地還送された。
足に貫通銃創を受け、漢口陸軍病院まで、私も一緒に
点を偵察に行く途中、P
明日総攻撃という前日、西口少尉に付いて、上陸地
昭和十八年の十一月雨期でした。
お話を伺いたく参りました。
企画をしていただいた、当時の連隊本部におら
れた萩原さんにもご同席をいただきました。
浦田さんは何年徴集兵でしたか。
大正十一年一月二十五日生れですから、昭和十七年
徴集の現役です。同十七年十二月十日、三重県久居の
留守部隊に入営したのですが、徴兵検査で、内地・ 外
地の希望を聞かれ、 当時私も張り切っていましたので、