町内史跡めぐり(PDF:954KB) - 徳之島町

徳之島町史跡めぐり
しせき
《 史跡めぐりコース順 》09:00~15:00
① 徳之島町役場集合⇒ ② 亀津(代官所跡・古勝森・亀津森)⇒ ③ 亀徳(秋津神社)⇒ ④
諸田(ナーデントー遺跡)⇒ ⑤ 諸田(シキントー墓)⇒ ⑥ 神之嶺(カンニンウシシギ
ャ墓・テラ)⇒ ⑦井之川(八幡神社・朝潮太郎銅像)⇒⑧母間(線刻画)⇒ ⑨ 畦(プリ
ンスビーチ・昼食)⇒⑩手々(按司墓)⇒ ⑪山(ナゴロ山神社・山中学校前岩石)⇒ ⑫
徳之島町役場着・解散
平成
年
月
日(
)
徳之島の歴史紹介
徳之島の歴史の主なものを説明します。
い せ き
き
の
こ
こ じ ま
さお
徳之島で一番古い遺跡としては、伊仙町木之香集落のアマングスク遺跡、小島のガ ラ 竿
あいら
たんざわ
遺 跡 などがあります。これらの遺跡からは、約 2 万 5 千年前に降り積もった AT(姶良・丹沢)
か ざ ん ばいそう
きゅ う せっ き
ま せき
火山灰層の下から旧石器時代の磨石が出土しています。当時は氷河
時代の最盛期で、海面が今より 130mほども低く、南西諸島の島々
だいじゃ
は今よりもずっと大きな島でした。徳之島には陸ガメや大蛇や鹿な
おき なわ
じん こつ
どがいたことがわかっています。なお、沖縄では 18000 年前の人骨
みなと がわ い せ き
おき のえ ら
ぶ じま
せとうちちょう
が 港 川遺跡というところから出土しており、沖永良部島や瀬戸内町
ど
き
でも 1 万年ほど前の土器が見つかっています。ずいぶん昔から人々が
徳之島や周辺の島々で暮らしていたのです。
じょうもん
縄 文 時代(約 13000~2500 年ほど前)になると気温が上昇し、海面が
きゅうげき
いせ ん ちょ う
おも なわ かい づか
急 激 に上昇を始めます。この時代の遺跡としては、伊仙町の面縄貝塚から、
あと
7、 8 千年も前の人たちの生活跡も発見されていますが、あまり多くはあ
じょうもんかいしん
りません。 縄 文 海進(約 7000 年前)といって、海面が今より 5m前後も
高くなったこともありました。
や よ い
縄文時代の終わりごろから弥生時代(約 2000 年前)に入ると、たいへ
ん多くの遺跡が徳之島で見つかっています。そこからは、日本本土にしかない道具が度々見
つかっていて、当時の島人達は盛んに交易などにより、島と本土との間を行き来していたこ
とがわかります。
せい れき
さて、これから時代はさらに下って、西暦699 年。このとき初めて徳之島が文字資料とし
て日本の歴史に登場します。本土では「日本」という国号が決まり、ようやく国家として動
き出した頃で、まだまだ中国から様々なことを取り入れて学ぶ必要がありました。ところが
ちょうせん
し ん ら こく
日本は朝 鮮 半島の新羅国と仲が悪くなり、中国へ渡るための交通ルートが確保できなくなっ
けんとうし
たのです。そこで日本から中国へ留学生などの使節(遣唐使)を送るのに、奄美や徳之島と
あま み
いった南西諸島を通って行くことにしました。これをきっかけに日本の記録に奄美地方のこ
とが載るようになりました。
しかし 100 年もすると南島路は中止となり、直接中国へ渡るルートに変わります。同時に
き か い じま
なん ば んぞ く
せい ばつ
南西諸島は記録の上では空白の時代を迎えます。わずかですが、喜界島へ南蛮賊を征伐する
つ し ま
い
き
ひ ぜ ん
おお すみ
よう命じたこと、奄美人が対馬・壱岐の島々や肥前の国を襲ったこと、また大隈でも同様な
しゅうげき
襲 撃 があった、などの記録が残っているだけです。こういった事件は、交易上のトラブルが
原因で起きたのではないかといわれています。
ところが、この空白の時代(AD800 年~1300 年頃)の南西諸島はとても活気あふれた時
かま くら
代であったことが最近の考古学調査でわかってきています。本土では、平安時代、鎌倉時代、
く げ
むろ まち
ぶ
け
室町時代にあたります。公家から武家へと政治の中心が変わろうとする時代です。中国の日
しゅうげき
げんこう
なんぼくちょう じ だ い
そうらん
本 襲 撃 (元寇)があったり、国内では「源平合戦」や「南 北 朝 時代」などという騒乱の時
代が長く続き、「戦国時代」を経て江戸時代になってようやく落ち着きを取り戻しました。
このため、この間は国家としてはあまり奄美や沖縄に目を向けることができなかったのです。
そくばく
一方で、南西諸島は国内外の争いや束縛から離れ、自由な時代を迎
えていました。最近特に考古学の世界でいろいろなことが分かってき
こみなと
ています。そのひとつが、奄美大島の小湊集落で見つかったヤコウガ
イの加工場跡です。7 世紀ごろから数百年にわたり右の写真のように
らでんざいく
ヤコウガイそのものを生かして器(貝サジ)にしたり、螺鈿細工の原
料として出荷していたのです。当時はたいへんな貴重品で、奈良の
しょうそういん
正 倉 院 にも宝物として多く残されています。
き か い じま
や し き あと ぐん
ふたつ目は、喜界島で見つかった大規模な屋敷跡群です。1200 年くらい前から 400 年間
いせきぐん
だ ざ い ふ
近くにわたって存在した遺跡群で、奄美を管理するための太宰府(日本の外交と防衛を担当
した)という政府の出張機関であったと思われる施設跡も見つかっています。
いせんちょう
と う き ようあと
みっつ目は、徳之島の伊仙町で見つかった「カムィヤキ陶器窯跡」
です。とても歴史上重要な遺跡なので国の史跡に指定されました。
す
え
き
やき もの
ぎ な や ま
須恵器という黒く硬い焼物が義名山の森周辺で大量に生産されていた
の ぼ り がま
ことがわかったのです。登り窯を使って焼かれる本格的なもので、特
殊な土、水、森が豊富になければ生産できません。カムィヤキは、11
こう えき
世紀から 300 年近くもの間焼かれ続け、徳之島内はもちろん、
その交易
よ な ぐ に じま
は ん い
範囲は北は県本土から南は与那国島にまで 1000kmにも及びました。
うけんそん
くら き ざ き
と う じ き
このほかには、宇検村の倉木崎というところでは大量の陶磁器が海底に沈んでいるのが見
つかりました。1200 年頃のもので、中国の交易船が奄美を経由していたのです。奄美では
ごうぞく
アジと呼ばれる豪族たちがグスク(山城)を持ちそれぞれの地域を治めていた時代で、「按
いしなべ
司世(アジユ)」と呼ばれます。グスクからは、数多くの陶磁器や九州産の石鍋、カムィヤ
キが見つかっています。いろんな商人たちが活発に交易を行っていたようです。この時代は、
な は ゆ
わこう
琉球の支配を受ける「那覇世」に入ってもしばらく続きました。15 世紀を過ぎると倭寇のよ
かいぞく
うな海賊が東シナ海を中心に盛んに出没するようになり、島の交易船が襲われることも度々
あったと思われますが、奄美諸島は活気あふれる時代を送っていたのです。このような考古
調査の結果から琉球王国が成立する以前の南西諸島の中心は奄美地方にあったのではない
かとも言われています。
おき なわ
とつじょ
りゅうきゅう
1250 年ごろのこと、沖縄本島に突如強力な国家(後に 琉 球 王国と呼ばれた)が成立しま
し は い か
す。沖縄の歴史書によると、奄美地方も 1266 年には琉球の支配下に入ったとあります。た
あ
じ
だし、どのような支配を受けていたのかははっきりしません。按司と呼ばれる支配者はその
さいししゃ
ゆる
ままに、後にはノロといわれる女性祭祀者を中心とした緩やかな支配が行われたと考えられ
ています。この時代を「那覇世(ナハユ)
」といいます。この時代は 1609 年に薩摩藩に支配
い お う とり しま
されるまで続きました。徳之島の横に硫黄鳥島がありますが、琉球王国にとってとても大事
な島で、中国と交易をするのに必要な硫黄を採掘していました。硫黄鳥島はほとんど食料が
生産できず、港もない島ですから、一番近い徳之島はいろいろな意味で重要な役割を担って
いたに違いありません。久米島に移住した人たちの言葉も亀津方言によく似ているそうです。
なお、琉球支配時代を知る手がかりとしては琉球王の命令で「宮古島征伐」に参加した山の
ぐすく
しょどんせいばつ
おきておおはち
城 アジガナシと大当上ガナシの話や諸鈍征伐を成功させた手々の掟 大 八 ✻(掟とは村を治
める役人のこと)の武勇伝といったいくつかの伝承が残っています。
※掟大八の遺品は、徳之島町郷土資料館に展示されています。
さつまはん
りゅうきゅう しん こう
さて、江戸時代が始まって間もない 1609 年(慶長 14 年)に薩摩藩による 琉 球 侵攻とい
う事件が起きます。琉球王国を薩摩藩に従わせ、中国との貿易を行わせることが目的でした。
あきとくみなと
亀徳の港では薩摩軍との間で「秋徳 湊 の戦い」が起き、大勢の島人が亡くなりました。こ
のときから奄美地方は薩摩藩の支配下に入ります。この時代を「薩摩世(サツマユ)」と呼
びます。
サツマユになってしばらく落ち着いた時代が続きましたが、1700 年代に入ると冷害や干
だいききん
てん ね んと う
えきびょう
おそ
ばつなど天候異変が多くなり、たびたび大飢饉や天然痘などの疫 病 に襲われ、そのたびに数
千人もの人たちが亡くなりました。特に 1700 年代後半には、徳之島の人口が 1 万人も少な
き そ が わ
ざいせい は た ん すんぜん
くなったほどです。その上木曽川の改修工事などを幕府に命令され、財政破綻寸前となった
さつまはん
さい ばい
薩摩藩はお米や麦の代わりにサトウキビの栽培を強制するようになりました。徳之島は、い
まんせいてき
っそう慢性的な食糧不足の状態に置かれることになりました。
のう みん い っ き
ぼ
ま そう どう
そのような中で徳之島では大きな農民一揆が 2 回起きています。1816 年の「母間騒動」
い ぬ た ぶ そう どう
と 1864 年の「犬田布騒動」です。
ろ う や
おきて
母間騒動では、住民 630 名が亀津の代官所を襲って牢屋を破り、捕らえられていた 掟(区
きゅうじょう
みっ こう
じきそ
長)を助け出し、小船に村の代表者 12 名を乗せ、鹿児島本土に密航して島の 窮 状 を直訴し
はん
ふっとうぐみ
た事件でした。藩では、これを「沸騰組」と呼んだらしく、事件から 3 年も過ぎてからよう
やく判決を下します。まず 7 名を無罪とし、残る 5 名を七島への遠島で済ませます。死罪は
ありませんでした。薩摩藩としては、異例の処置でした。
い ぬ た ぶ そうどう
さとう
ごう もん
また、1864 年の犬田布騒動では、砂糖取り締まりのさいに役人による拷問が人々の目の前
おう ぼう
が ま ん
で行われ、そのあまりの横暴ぶりを見かねた住民たちが、我慢ならなくて手に手に武器を持
とりで
きず
って役人たちを追い払い、 砦 を築き、その後 7 日間にわたって代官所と農民がにらみ合っ
つ ぐち よ こ め
い っ き
たという事件です。この騒動では、津口横目という取り締まりに当るべき役人たちも一揆の
がわ
側に加わっていました。
このほか、1756 年に 1700 人の村人が徳之島を捨てて逃げ出した事件などがあり、こうい
った事件は、大小合わせるとサツマユにおいて 10 数回も起きたといいます。徳之島の歴史
において最もつらい時代だったといえるかもしれません。
さつま ゆ
とく がわ ば く ふ
なお「薩摩世」も終わりに近づいた 1862 年には、後に徳川幕府を倒し
さい ごう たか もり
た西郷隆盛が徳之島に流されてきています。3 ヶ月余りしか滞在しません
した
でしたが、青年たちと相撲を取るなどとても島人に慕われました。なお徳
りゅう なかため
之島に滞在中、西郷を世話したのが島役人を勤めていた岡前の 琉 仲為で
なかゆう
す。息子の仲祐は西郷にたいへんかわいがられ、仲祐も西郷を慕い、後に西郷家の家来とし
とうばく
て討幕運動にまで加わりました。しかし残念ながら、仲祐は京都で亡くなってしまいました
しんせんぐみ
とうばく
(新撰組の近藤勇に暗殺されたとも言われる)。奄美から討幕運動に加わった唯一の人物で
した。西郷は一緒に連れてきたことをたいへん悔やんだといいます。仲祐の死を痛み京都に
えいたい く よ う
立派な永代供養の墓を建て、鹿児島の西郷家の墓にも仲祐の墓を建てました。
め い じ
やま とく ほう
やす だ
さ
わ おう
以降は明治時代に入ります。亀津では、山徳峯や安田佐和応といった人
じ
ひ
たちが自費で学校を作り、全島から生徒を集めて教育を開始しました。明
治 4 年のことで、まだ国の学校制度ができる前のことでした。さらに福沢
じんすけ
諭吉の教えを受けた民権運動家の石井清吉、亀津小校長の前田甚助といっ
か め つ が く し むら
か め つ だんぱつ
「亀津断髪」といった言葉
た人たちの啓発もあり、徳之島は「亀津学士村」
はいしゅつ
と共に日本一の学問の島として有名になりました。学士の数は 100 名を越え、 輩 出 した
べ ん ご し
き
ぼ
弁護士の数も多く、いずれも県単位に等しい規模であったそうです。中でも奥山八郎氏は日
もう こ
こもん
もりしまかくふさ
本弁護士連合会会長にまでなりました。ほかに蒙古自治政府王の顧問になった盛島角房、柔
こうどうかん し て ん の う
とくさんぽう
た つ の ていいち
道家で講道館四天王といわれた徳三宝、日本を代表する教育家の龍野定一、100 年に一人の
よしみつよしひこ
はいしゅつ
秀才神学者といわれる吉満義彦などなど多方面にわたる人材を輩 出 したのです。
ぶしゅうまる
ひさん
このあと徳之島では、第 2 次世界大戦中に「武州丸」や「富山丸」といった悲惨な事件が
とっこうき
あり、天城には陸軍特攻機中継基地がおかれました。さらにその後の「アメリカ支配」時代、
いずみほうろう
ふっき
そして昭和 28 年の 泉 芳朗を先頭に奄美群島が一丸となった「日本復帰」運動などを経て、
現在に至ります。この時代は、紹介するとたいへん長くなりますので、今回は省略いたしま
す。
し せ き
今回のコースにある史跡
だいかんじょ あ と ち
《代官所跡地》
さ つ ま は ん
せ い じ
薩摩藩の代官(島の政治の最高責任者)の勤める代官所のあった所
です。1618 年~1869 年まで存続しました。
カミィ ジ モ リ
《 亀 津森》
江戸時代、ここにはトネヤという屋敷があり、ノロと呼ばれる女
性の神職がいました。豊作を祈る神事など、亀津で行われる様々な
ぎしき
儀式を管理しました。
《秋津神社》
琉球支配の時代からここにはノロと呼ばれる女性の神職がおり、イビ
ガナシが祭られています。祠には、左からノロ神、村建ての神、農業の
神が納められています。
《諸田ナーデントー遺跡》
弥生時代の遺跡です。石器の石斧が多く出ていて、土器には徳之
島でしか見られない「X」の模様が入っていて、遺跡からは貝類が
まったく見られない特徴があります。
《諸田シキントー墓》
い
じ ち しげはる
ほう
ここには、1692 年に亡くなった伊地知重張、1775 年に亡くなった法
が た ろ う ざ えもん
さつまはん
元太郎左衛門といった薩摩藩の役人が葬られています。
《カンニンウシシギャ墓とテラ》
か み の みね
カンニンウシシギャは、神之嶺を治めた人で 400 年ほど前の人物で
ちん し ばか
す。積石墓は、徳之島では余り見られない形式の墓です。また、カ
かかたあと
ンニンウシシギャデラは、かつての 館 跡になります。
あさしお た ろ う
《井之川八幡神社、朝潮太郎銅像 》
どくへび
ひがい
きがんじょ
井之川八幡神社は、明治 8 年に毒蛇の被害をなくす祈願所として建て
られました。
いれい ひ
この丘には「井之川戦没者慰霊碑」や井之川が生んだ日本一の喜
はっぱ
し
劇役者「八波むと志記念碑」
、生涯 5 回の優勝の内 4 回を大阪場所で
いみょう
収めたので「大阪太郎」との異名を持つ第 46 代横綱「朝潮太郎の銅
像」が立っています。
ぼ
ま
せんこくが
《母間の線刻画》
通称イシワラ(石原)と呼ばれる見晴らしのよいこの一帯は、古くは母間
そび
地区では一番大きい水田地帯でした。水源は西側に聾える井之川岳の
かいわい
一角から流れ出るムー山川から引かれていました。ムー山川界隈には、
その昔、大ハブが住み着いているという伝説もありました。ノロの儀式を
行った場所だと言われています。
《山ナゴロ山神社》
ここは、山集落の神様として、豊作や一家安全・繁栄を願って祭が
行われるノロの祭場でした。ナゴロ山のある里集落は、山の発祥の
地でもあります。
《山中学校海岸の岩石》
ペグマタイトやアプライトと呼ばれる岩石が見られます。溶岩が岩の割れ
目に入ってきて、固まったものです。
て
て あ
じ ばか
《手々按司墓》
おきて お お は ち め
けらい
はか
掟 大八目とその家来の墓です。中央の大きめのものが大八の墓
石で、それをとり囲むように小型の家来たちのお墓が立っています。
おきてううはちむぃ
掟 大八目の「目」は、兄や様といった意味の敬称です。大八の墓
を総称してアジ墓といっています。