全島史跡・聖地めぐり(1)(PDF:1159KB) - 徳之島町

徳之島文化財史跡めぐり Ⅰ
しせき
《 史跡めぐりコース順 》10:00~15:00
だいかんしょあと
とよしまもり
た か ち ほ じんじゃ
い
せ あ さ
ん
いせき
いずみしげ ち
よ
① 亀津(代官所跡~豊島森~高千穂神社)⇒ ② 伊仙町阿三(カムィヤキ遺跡~ 泉 重千代
あごん
たいらけ や し き
いぬた ぶ
たいせきぶつ
像)⇒ ③ 伊仙町阿権(平家屋敷)⇒ ④ 伊仙町犬田布(県指定メランジ堆積物)⇒ 犬田
あまぎちょう に し あ ぎ な
せんこくが
まつばら
どうざんあと
布岬で昼食 ⇒ ⑤ 天城町西阿木名(線刻画)⇒ ⑥ 天城町松原(松原銅山跡)⇒ ⑦ 徳之
て
て
あ じ ばか
島町手々(按司墓)
平成
年
月
日(
)
徳之島の歴史紹介
徳之島の歴史の主なものを説明します。
い せ き
き
の
こ
こ じ ま
さお
徳之島で一番古い遺跡としては、伊仙町木之香集落のアマングスク遺跡、小島のガ ラ 竿
あいら
たんざわ
遺 跡 などがあります。これらの遺跡からは、約 2 万 5 千年前に降り積もった AT(姶良・丹沢)
か ざ ん ばいそう
きゅ う せっ き
ま せき
火山灰層の下から旧石器時代の磨石が出土しています。当時は氷河
時代の最盛期で、海面が今より 130mほども低く、南西諸島の島々
だいじゃ
は今よりもずっと大きな島でした。徳之島には陸ガメや大蛇や鹿な
おき なわ
じん こつ
どがいたことがわかっています。なお、沖縄では 18000 年前の人骨
みなと がわ い せ き
おき のえ ら
ぶ じま
せとうちちょう
が 港 川遺跡というところから出土しており、沖永良部島や瀬戸内町
ど
き
でも 1 万年ほど前の土器が見つかっています。ずいぶん昔から人々が
徳之島や周辺の島々で暮らしていたのです。
じょうもん
縄 文 時代(約 13000~2500 年ほど前)になると気温が上昇し、海面が
きゅうげき
いせ ん ちょ う
おも なわ かい づか
急 激 に上昇を始めます。この時代の遺跡としては、伊仙町の面縄貝塚から、
あと
7、 8 千年も前の人たちの生活跡も発見されていますが、あまり多くはあ
じょうもんかいしん
りません。 縄 文 海進(約 7000 年前)といって、海面が今より 5m前後も
高くなったこともありました。
や よ い
縄文時代の終わりごろから弥生時代(約 2000 年前)に入ると、たいへ
ん多くの遺跡が徳之島で見つかっています。そこからは、日本本土にしかない道具が度々見
つかっていて、当時の島人達は盛んに交易などにより、島と本土との間を行き来していたこ
とがわかります。
せい れき
さて、これから時代はさらに下って、西暦699 年。このとき初めて徳之島が文字資料とし
て日本の歴史に登場します。本土では「日本」という国号が決まり、ようやく国家として動
き出した頃で、まだまだ中国から様々なことを取り入れて学ぶ必要がありました。ところが
ちょうせん
し ん ら こく
日本は朝 鮮 半島の新羅国と仲が悪くなり、中国へ渡るための交通ルートが確保できなくなっ
けんとうし
たのです。そこで日本から中国へ留学生などの使節(遣唐使)を送るのに、奄美や徳之島と
あま み
いった南西諸島を通って行くことにしました。これをきっかけに日本の記録に奄美地方のこ
とが載るようになりました。
しかし 100 年もすると南島路は中止となり、直接中国へ渡るルートに変わります。同時に
き か い じま
なん ば んぞ く
せい ばつ
南西諸島は記録の上では空白の時代を迎えます。わずかですが、喜界島へ南蛮賊を征伐する
つ し ま
い
き
ひ ぜ ん
おお すみ
よう命じたこと、奄美人が対馬・壱岐の島々や肥前の国を襲ったこと、また大隈でも同様な
しゅうげき
襲 撃 があった、などの記録が残っているだけです。こういった事件は、交易上のトラブルが
原因で起きたのではないかといわれています。
ところが、この空白の時代(AD800 年~1300 年頃)の南西諸島はとても活気あふれた時
かま くら
代であったことが最近の考古学調査でわかってきています。本土では、平安時代、鎌倉時代、
く げ
むろ まち
ぶ
け
室町時代にあたります。公家から武家へと政治の中心が変わろうとする時代です。中国の日
しゅうげき
げんこう
なんぼくちょう じ だ い
そうらん
本 襲 撃 (元寇)があったり、国内では「源平合戦」や「南 北 朝 時代」などという騒乱の時
代が長く続き、「戦国時代」を経て江戸時代になってようやく落ち着きを取り戻しました。
このため、この間は国家としてはあまり奄美や沖縄に目を向けることができなかったのです。
そくばく
一方で、南西諸島は国内外の争いや束縛から離れ、自由な時代を迎
えていました。最近特に考古学の世界でいろいろなことが分かってき
こみなと
ています。そのひとつが、奄美大島の小湊集落で見つかったヤコウガ
イの加工場跡です。7 世紀ごろから数百年にわたり右の写真のように
らでんざいく
ヤコウガイそのものを生かして器(貝サジ)にしたり、螺鈿細工の原
料として出荷していたのです。当時はたいへんな貴重品で、奈良の
しょうそういん
正 倉 院 にも宝物として多く残されています。
き か い じま
や し き あと ぐん
ふたつ目は、喜界島で見つかった大規模な屋敷跡群です。1200 年くらい前から 400 年間
いせきぐん
だ ざ い ふ
近くにわたって存在した遺跡群で、奄美を管理するための太宰府(日本の外交と防衛を担当
した)という政府の出張機関であったと思われる施設跡も見つかっています。
いせんちょう
と う き ようあと
みっつ目は、徳之島の伊仙町で見つかった「カムィヤキ陶器窯跡」
です。とても歴史上重要な遺跡なので国の史跡に指定されました。
す
え
き
やき もの
ぎ な や ま
須恵器という黒く硬い焼物が義名山の森周辺で大量に生産されていた
の ぼ り がま
ことがわかったのです。登り窯を使って焼かれる本格的なもので、特
殊な土、水、森が豊富になければ生産できません。カムィヤキは、11
こう えき
世紀から 300 年近くもの間焼かれ続け、徳之島内はもちろん、
その交易
よ な ぐ に じま
は ん い
範囲は北は県本土から南は与那国島にまで 1000kmにも及びました。
うけんそん
くら き ざ き
と う じ き
このほかには、宇検村の倉木崎というところでは大量の陶磁器が海底に沈んでいるのが見
つかりました。1200 年頃のもので、中国の交易船が奄美を経由していたことがわかったの
ごうぞく
です。奄美ではアジと呼ばれる豪族たちがグスク(山城)を持ちそれぞれの地域を治めてい
いしなべ
た時代で、
「按司世(アジユ)
」と呼ばれます。グスクからは、数多くの陶磁器や九州産の石鍋、
カムィヤキが見つかっています。いろんな商人たちが活発に交易を行っていたようです。こ
な
は ゆ
の時代は、琉球の支配を受ける「那覇世」に入ってもしばらく続きました。15 世紀を過ぎる
わこう
かいぞく
と倭寇のような海賊が東シナ海を中心に盛んに出没するようになり、島の交易船が襲われる
ことも度々あったと思われますが、奄美諸島は活気あふれる時代を送っていたのです。この
ような考古調査の結果から琉球王国が成立する以前の南西諸島の中心は奄美地方にあった
のではないかとも言われています。
おき なわ
とつじょ
りゅうきゅう
1250 年ごろのこと、沖縄本島に突如強力な国家(後に 琉 球 王国と呼ばれた)が成立しま
し は い か
す。沖縄の歴史書によると、奄美地方も 1266 年には琉球の支配下に入ったとあります。た
あ
じ
だし、どのような支配を受けていたのかははっきりしません。按司と呼ばれる支配者はその
さいししゃ
ゆる
ままに、後にはノロといわれる女性祭祀者を中心とした緩やかな支配が行われたと考えられ
ています。この時代を「那覇世(ナハユ)
」といいます。この時代は 1609 年に薩摩藩に支配
い お う とり しま
されるまで続きました。徳之島の横に硫黄鳥島がありますが、琉球王国にとってとても大事
な島で、中国と交易をするのに必要な硫黄を採掘していました。硫黄鳥島はほとんど食料が
生産できず、港もない島ですから、一番近い徳之島はいろいろな意味で重要な役割を担って
いたに違いありません。久米島に移住した人たちの言葉も亀津方言によく似ていると言われ
ます。なお、琉球支配時代を知る手がかりとしては琉球王の命令で「宮古島征伐」に参加し
ぐすく
しょどんせいばつ
おきておおはち
た山の 城 アジガナシと大当上ガナシの話や諸鈍征伐を成功させた手々の掟 大 八 ✻(掟とは
村を治める役人のこと)の武勇伝といったいくつかの伝承が残っています。
※掟大八の遺品は、徳之島町郷土資料館に展示されています。
さつまはん
りゅうきゅう しん こう
さて、江戸時代が始まって間もない 1609 年(慶長 14 年)に薩摩藩による 琉 球 侵攻とい
う事件が起きます。琉球王国を薩摩藩に従わせ、中国との貿易を行わせることが目的でした。
あきとくみなと
亀徳の港では薩摩軍との間で「秋徳 湊 の戦い」が起き、大勢の島人が亡くなりました。こ
のときから奄美地方は薩摩藩の支配下に入ります。この時代を「薩摩世(サツマユ)」と呼
びます。
サツマユになってしばらく落ち着いた時代が続きましたが、1700 年代に入ると冷害や干
だいききん
てん ね んと う
えきびょう
おそ
ばつなど天候異変が多くなり、たびたび大飢饉や天然痘などの疫 病 に襲われ、そのたびに数
千人もの人たちが亡くなりました。特に 1700 年代後半には、徳之島の人口が 1 万人も少な
き そ が わ
ざいせい は た ん すんぜん
くなったほどです。その上木曽川の改修工事などを幕府に命令され、財政破綻寸前となった
さつまはん
さい ばい
薩摩藩はお米や麦の代わりにサトウキビの栽培を強制するようになりました。徳之島は、い
まんせいてき
っそう慢性的な食糧不足の状態に置かれることになりました。
のう みん い っ き
ぼ
ま そう どう
そのような中で徳之島では大きな農民一揆が 2 回起きています。1816 年の「母間騒動」
い ぬ た ぶ そう どう
と 1864 年の「犬田布騒動」です。
ろ う や
おきて
母間騒動では、住民 630 名が亀津の代官所を襲って牢屋を破り、捕らえられていた 掟(区
きゅうじょう
みっ こう
じきそ
長)を助け出し、小船に村の代表者 12 名を乗せ、鹿児島本土に密航して島の 窮 状 を直訴し
はん
ふっとうぐみ
た事件でした。藩では、これを「沸騰組」と呼んだらしく、事件から 3 年も過ぎてからよう
やく判決を下します。まず 7 名を無罪とし、残る 5 名を七島への遠島で済ませます。死罪は
ありませんでした。薩摩藩としては、異例の処置でした。
い ぬ た ぶ そうどう
さとう
ごう もん
また、1864 年の犬田布騒動では、砂糖取り締まりのさいに役人による拷問が人々の目の前
おう ぼう
が ま ん
で行われ、そのあまりの横暴ぶりを見かねた住民たちが、我慢ならなくて手に手に武器を持
とりで
きず
って役人たちを追い払い、 砦 を築き、その後 7 日間にわたって代官所と農民がにらみ合っ
つ ぐち よ こ め
い っ き
たという事件です。この騒動では、津口横目という取り締まりに当るべき役人たちも一揆の
がわ
側に加わっていました。
このほか、1756 年に 1700 人の村人が徳之島を捨てて逃げ出した事件などがあり、こうい
った事件は、大小合わせるとサツマユにおいて 10 数回も起きたといいます。徳之島の歴史
において最もつらい時代だったといえるかもしれません。
さつま ゆ
とく がわ ば く ふ
なお「薩摩世」も終わりに近づいた 1862 年には、後に徳川幕府を倒し
さい ごう たか もり
た西郷隆盛が徳之島に流されてきています。3 ヶ月余りしか滞在しません
した
でしたが、青年たちと相撲を取るなどとても島人に慕われました。なお徳
りゅう なかため
之島に滞在中、西郷を世話したのが島役人を勤めていた岡前の 琉 仲為で
なかゆう
す。息子の仲祐は西郷にたいへんかわいがられ、仲祐も西郷を慕い、後に西郷家の家来とし
とうばく
て討幕運動にまで加わりました。しかし残念ながら、仲祐は京都で亡くなってしまいました
しんせんぐみ
とうばく
(新撰組の近藤勇に暗殺されたとも言われる)。奄美から討幕運動に加わった唯一の人物で
した。西郷は一緒に連れてきたことをたいへん悔やんだといいます。仲祐の死を痛み京都に
えいたい く よ う
立派な永代供養の墓を建て、鹿児島の西郷家の墓にも仲祐の墓を建てました。
め い じ
やま とく ほう
やす だ
さ
わ おう
以降は明治時代に入ります。亀津では、山徳峯や安田佐和応といった人
じ
ひ
たちが自費で学校を作り、全島から生徒を集めて教育を開始しました。明
治 4 年のことで、まだ国の学校制度ができる前のことでした。さらに福沢
じんすけ
諭吉の教えを受けた民権運動家の石井清吉、亀津小校長の前田甚助といっ
か め つ が く し むら
か め つ だんぱつ
「亀津断髪」といった言葉
た人たちの啓発もあり、徳之島は「亀津学士村」
はいしゅつ
と共に日本一の学問の島として有名になりました。学士の数は 100 名を越え、 輩 出 した
べ ん ご し
き
ぼ
弁護士の数も多く、いずれも県単位に等しい規模であったそうです。中でも奥山八郎氏は日
もう こ
こもん
もりしまかくふさ
本弁護士連合会会長にまでなりました。ほかに蒙古自治政府王の顧問になった盛島角房、柔
こうどうかん し て ん の う
とくさんぽう
た つ の ていいち
道家で講道館四天王といわれた徳三宝、日本を代表する教育家の龍野定一、100 年に一人の
よしみつよしひこ
はいしゅつ
秀才神学者といわれる吉満義彦などなど多方面にわたる人材を輩 出 したのです。
ぶしゅうまる
ひさん
このあと徳之島では、第 2 次世界大戦中に「武州丸」や「富山丸」といった悲惨な事件が
とっこうき
あり、天城には陸軍特攻機中継基地がおかれました。さらにその後の「アメリカ支配」時代、
いずみほうろう
ふっき
そして昭和 28 年の 泉 芳朗を先頭に奄美群島が一丸となった「日本復帰」運動などを経て、
現在に至ります。この時代は、紹介するとたいへん長くなりますので、今回は省略いたしま
す。
し せ き
今回のコースにある史跡・名所の紹介
だいかんじょ あ と ち
《代官所跡地》
さつまはん
せ い じ
薩摩藩 の代官(島の政治 の最高責任者)の勤める代官
けいさつ し ょ
所のあった所です。その後徳之島警察署が置かれました。
げ ん な
さ が ら
か
げ
ゆ
ぶぎょう
元和 二年(1616)には相良 勘 解 由 という人が初代の奉行
かいしょう
ちゃくにん
(のちに代官と改称)として着任し、薩摩藩の直接支配が始
め い じ
まりました。以来、明治二年(1869)までの 253 年間この制
度は続きましたが、その間 128 名もの代官がこの代官所に
こうたい
い ぶ つ
し き ち
交替で勤めました。その当時をしのぶ遺物 として敷地 の周
いしがき
囲に積まれた石垣が現存しています。
た か ち ほ じんじゃ
《高千穂神社》
さ つ ま はんしゅ
あま み
薩摩藩主の命によって明治二年(1869)奄美各地に 12
こんりゅう
の神社が建立されましたが、亀津高千穂神社もその内の一
せ い ち
む ぎ ほ みね
つです。もとは集落の聖地で、ムンギャマ(麦穂峯)と言い、
ふうそうあと
ざいばん
風葬跡もあったと言われています。在番(明治になって代官
おおすみ こ く き り し ま
が在番に呼びかたが変わった)の手によって大隅 国 霧島
じんぐう
さいじん
ごしんれい
かんじょう
神宮の祭神ニニギノミコトの御神霊が勧請され、同年 10 月
ごしんきょう
しゃおく
こんりゅう
に御神鏡 を納めるための神社社屋 が建立 された。戦争中
しゅっせい へ い し
ぶ う ん ちょうきゅう
き が ん
そんすう
は、出征兵士の武運長久を祈願する神社として尊崇を集めました。昭和 51 年徳之島町指定文化財に
定められました。
とよしまもり
《豊島森》
亀津の豊島氏の拝み場所です。別名ウィントンバリムィ
がんしょう
(上当晴森)と言います。約 20 坪ほどの岩礁の上にあり、
さいじょう
祭場 は西向きになっています。中央の奥まったところに
神体となる石が 2 個立てられていて、右側のものは 2 つ
ふねたび
こうかい
に分かれています。かつては、船旅の人たちが航海の安
き が ん
全祈願 に訪れる場所でした。また、「一日祭り」といって
病人が出ると一日中森にこもって回復祈願をしたそうで
す。亀津の街中には、森神信仰の場として、ほかに亀津
こ が ちもり
森、古勝森があります。
いせき
《カムィヤキ遺跡》
今から 1000 年~700 年ほど前まで、伊仙町のヒラ
スク山周辺では「カムィヤキ」という黒色の焼き物
す
え き
(須恵器)が焼かれていました。とても硬く、たた
ちょうせん
くとカンカンという音がします。朝 鮮 半島の焼き物
かまあと
かしょ
にたいへん似ています。その窯跡は 100箇所を越えま
す。当時、焼き物の生産地は、南西諸島ではここだ
よ な ぐ に じま
けでした。その商品は、北は鹿児島から南は与那国島
まで見つかっています。国の史跡に指定されています。
いずみ し げ ち
よ
《 泉 重千代像》
けいおうがん
あ さん
慶応元(1866)年、阿三生まれ。昭和 61 年に 120 歳で
亡くなりましたが、昭和 54 年にはギネスブックの「世界一
じょうだん
の長寿者」に記録されました。冗談が好きで、好きな女性
は?の質問に「やっぱり、年上の女かのぉ。」は有名。
ほんごう
伊仙町出身者では北郷かまとさんも世界一になり、2 人
の世界一長寿者を出した「長寿の町」として伊仙町は有
名になりました。
あごん
たいらけ や し き あと
《阿権 平家屋敷跡》
たいらけ
阿権は、古い記録には「あこん」と書かれています。平家
よひと
は、代々島役人を勤める家で、与人(今の町長)になっ
た人もいました。平家は 1700 年代になって阿権に移住
してきました。はじめのうちはそれほど豊かなわけでは
...
ありませんでしたが、1800 年頃、めとくという女性が一
はんえい
族の繁栄の基礎を作りました。彼女は、目の見えなくな
った夫に代わり大変な苦労をしながら資産を増やし、決
してぜい沢をせず、熱心に子どもの教育をしたといいま
...
ふく けん
さつまはん
す。めとく の子どもで福 憲 という人の時、薩摩藩 から
「平」姓を名のることを許されました。さらに明治時代
になると徳之島で 1,2、を争うほど豊かになりました。
やしきぐん
ぶ
け やしき
平家屋敷群は、まるで武家屋敷のような見事な作りで、
奄美では他に見られません。
たいせきぶつ
《メランジ堆積物》
平成 21 年 3 月に県の指定天然記念物になりました。
メランジとは、
「ごちゃまぜ」という意味で、今から 1
きょうりゅう じ だ い
しんかい
億年ほど前( 恐 竜 時代)に 7000m以上もある深海に
たまった土砂が固まり、これが地表に現れたものです。
地下深くにあるはずのメランジが、このように地表に
表れているのは大変珍しく、国内でもあまり例がない
といいます。深海に堆積した地層が地表で見えるとい
りゅうき ち か く へんどう
じばん
うことは、徳之島がそれだけ隆起 (地殻 変動 や火山活動によって地盤 が上昇すること)した
しょうこ
証拠にもなります。
りゅうき
しょう
また伊仙町は、ほとんどが隆起サンゴ 礁 でできていますが、このような非常に古い岩石
ふ し ぎ
が一緒に存在すること自体が不思議なことです。
と もり
せんこく が
《戸森の線刻画》
あまぎちょう あき り がみがわ
ほくがん
天城町秋利神川の北岸 の山手にあります。数多く
せんこくが
の船や矢が彫りこまれています。東側を第 1線刻画、
せんこくが
みきょう
西側を第 2線刻画と言います。このような岩は、三京
ば
ね
い ぬ た ぶ だけ
ぼ
ま
や馬根、犬田布岳、母間にもあります。この線刻画
たいしょう
は 大 正 時代に発見され、当時は土に埋もれていまし
た。いつ彫られたものかは、いろいろな説があり、
はんせん
はっきりしません。絵は、たくさんの弓矢や帆船の
えが
いくさ
じ
き
ようなものが描かれ、 戦 の様子を表現しているように見えます。また、この辺りは磁気が
ほ う い じしゃく
強く、方位磁石などで調べると 45 度ほど西へ傾くのだそうです。
まつばらどうざん
《松原銅山》
とく み
わ とよ
松原銅山は、明治 37(1904)年ごろ、亀津の徳三和豊
こうどうかん
してんのう
によって発見されました。三和豊は、講道館の四天王
じゅうどう
とく さんぽう
し も く し
として 柔 道 で名を知られた徳 三宝 の父で、下久志
こうざん
まつばら どうざん
鉱山に続いて松原銅山を発見したといいます。ここ
こうせき
そうこ
か も つ せん
から取った鉱石は、松原海岸の倉庫に集め、貨物船に
おおいたけん
積んで大分県に運びました。松原集落は、本土や地
元の人々が集まり、商店や飲食店も増え、とてもに
ふるかわざいばつ
つ
ぎわいました。
大正 7 年に古川財閥に経営が引き継が
かんとう だいしんさい
れたものの、関東大震災などで日本の景気が悪くな
へいざん
った昭和 3 年には閉山されました。
て
て あ
じ ばか
《手々按司墓》
おきて お お は ち め
けらい
はか
掟 大八目とその家来の墓です。中央の大きめのも
のが大八の墓石で、それをとり囲むように小型の家
来たちのお墓が立っています。500 年近く前のこと、
りゅうきゅう
か
け
ろ まじま
琉 球 の王様から大八に対し、加計呂麻島にあった
しょどんじょう
諸鈍 城 を攻め落とすように命令がありました。家来
だいたん
とともに諸鈍攻めに参加した大八は、大胆な作戦で
やきず
城を落とすことに成功しました。しかし、この時に受けた矢傷のために、手々への帰りの船
上で死んだといいます。
いしく
りゅうきゅう
ほうび
大八は石工としても知られていて、お城造りを手伝うために 琉 球 に行き、その褒美に王
し ゅ き いっしき
きょうどしりょうかん
ほかん
さまから酒器一式を頂いたこともあります。これは現在、郷土資料館に保管されています。
まさ かつ
がんそ
このほか手々には弓の名人政 勝 や政勝が持ち帰った「ソテツの元祖 」、徳之島で一番古い
て
て
もんじょ
「手々ノロ文書」などがあります。