459KB - 三洋化成工業

京
の
鉄
道
シ
リ
ー
ズ
上:昭和 30 年ころの航空写真。鴨川を斜
めに渡る国鉄(当時)奈良線。その左
側、鴨川の上、疎水沿いに見えるのが
三洋化成の前身、三洋油脂の工場。右
側の大通りが九条跨線橋で、斜め上に
走る東大路通へ続く(三洋化成所蔵)
下:現在も残るかつての石積みの橋脚
ト
ン
ネ
ル
で
難
工
事
で
知
ら
れ
る
。
ま
た
鴨
川
橋
り
途
中
の
逢
阪
山
ト
ン
ネ
ル
は
わ
が
国
最
初
の
山
岳
指
揮
し
て
成
し
遂
げ
た
も
の
と
解
す
る
。
の
思
い
で
図
面
を
引
き
、
現
場
に
立
ち
、
労
働
者
を
技
術
者
の
厳
し
い
チ
ェ
ッ
ク
の
下
、
苦
心
さ
ん
た
ん
と
こ
ろ
養
成
所
の
卒
業
制
作
的
な
も
の
で
、
外
国
人
た
る
こ
と
に
な
っ
た
。
こ
の
鉄
道
は
、
筆
者
の
み
る
は
、
短
期
間
の
教
習
を
受
け
た
こ
れ
ら
技
術
者
が
当
経
由
大
津
︵
現
浜
大
津
︶
に
至
る
鉄
道
の
設
計
施
工
を
歩
け
ば
︱
︱
︱
︱
1
279
山
現在の JR 奈良線鴨川鉄橋
支
線
へ
の
格
下
げ
で
線
路
も
複
線
か
ら
単
線
化
さ
れ
、
神
高
速
道
路
、
国
道
一
号
線
な
ど
に
利
用
さ
れ
る
。
の
線
形
と
な
る
。
残
る
区
間
は
後
年
、
大
部
分
が
名
線
に
転
用
、
そ
の
先
桃
山
ま
で
新
線
を
敷
設
、
現
在
る
。
旧
線
の
稲
荷
か
ら
南
へ
約
一
キ
ロ
トメ
ルー
ま
で
は
奈
良
河
原
町
通
山
、
新
逢
坂
山
ト
ン
ネ
ル
経
由
の
新
線
に
切
り
替
わ
大
津
間
は
急
こ
う
配
を
緩
和
す
る
た
め
、
現
在
の
東
鴨
川
川
を
渡
る
部
分
は
六
連
と
減
少
す
る
。
大
正
一
〇
年
︵
一
九
二
一
︶
八
月
一
日
、
京
都
︱
各
兵
営
と
京
都
市
街
を
結
ぶ
師
団
街
道
に
転
用
、
鴨
京
阪
本
線
東
大
路
通
JR東海道本線
J
R
奈
良
線
京 都
JR東海道新幹線
三
洋
化
成
東
福
寺
九条通
6
三洋化成ニュース
ら
に
も
う
一
連
が
伏
見
深
草
に
新
設
さ
れ
た
陸
軍
の
疎
水
至
奈
良
工
事
で
一
連
が
水
路
用
に
転
用
、
さ
架
橋
さ
れ
る
。
そ
の
後
、
疎
水
拡
幅
Ⅰ 刊
・ 誌
Ⅱ な
﹄
﹃ ど
大 へ
阪 の
・ 寄
京 稿
都 多
・ 数
神 。
戸 著
私 書
鉄 に
駅 ﹃
物 関
語 西
﹄ 電
な 車
ど の
。 あ
る
風
景
家
業
に
従
事
し
現
在
に
至
る
。
長
年
鉄
道
史
を
趣
味
と
し
、
月
の
複
線
化
で
下
流
側
に
下
り
線
用
が
二
八
年
、
京
都
市
生
ま
れ
。
京
都
市
立
四
条
商
業
学
校
卒
業
後
、
さ
れ
た
。
明
治
三
〇
年
︵
一
八
九
七
︶
︿
た
か
や
ま
れ
い
ぞ
う
﹀
京
染
め
悉
皆
︵
し
っ
か
い
︶
。
一
九
げ
た
が
架
け
ら
れ
、
レ
ー
ル
が
敷
設
立
ち
並
ぶ
。
そ
の
上
に
八
連
の
鋼
板
筒
形
で
、
水
流
に
逆
ら
う
こ
と
な
く
に
並
ぶ
七
本
の
橋
脚
は
石
積
み
の
円
う
は
初
め
て
の
例
で
あ
ろ
う
。
川
中
鴨
川
橋
り
ょ
う
で
あ
る
。
約
一
三
〇
年
の
鉄
道
の
歩
み
を
そ
の
ま
ま
反
映
す
る
市
近
郊
の
電
車
区
間
強
化
で
複
線
橋
架
け
替
え
と
、
た
め
の
複
線
橋
化
、
支
線
格
下
げ
で
単
線
橋
、
大
都
開
通
時
の
単
線
橋
に
始
ま
り
、
幹
線
輸
送
増
強
の
と
で
は
な
い
が
、
こ
の
鴨
川
橋
り
ょ
在
は
こ
の
よ
う
な
架
橋
は
珍
し
い
こ
の
鉄
橋
は
斜
め
に
架
け
て
あ
る
。
現
橋
は
流
れ
に
直
角
に
架
け
る
が
、
こ
年
連
続
ト
ラ
ス
げ
た
の
複
線
橋
に
架
け
替
わ
る
。
車
本
数
の
増
加
に
よ
り
複
線
化
が
急
務
と
な
り
、
近
五
九
年
︵
一
九
八
四
︶
奈
良
線
が
電
化
さ
れ
る
。
列
橋
り
ょ
う
が
架
設
さ
れ
近
年
ま
で
使
用
さ
れ
る
。
同
と
嘆
か
せ
た
暴
れ
川
で
の
工
事
で
あ
っ
た
。
通
常
、
る 昔 ょ
は 、 う
賀 白 は
茂 河 、
川 法 ま
の 皇 だ
水 を 河
と し 川
双すご て 改
六ろく ﹁ち 修
の 朕ん も
賽さい の 施
子ころ 意 工
と の さ
山 ご れ
法 と ず
師 く 平
な な 安
期
り ら
﹂ ざ の
破
損
す
る
。
急
き
ょ
撤
去
し
た
旧
上
り
線
部
分
に
新
市
中
の
木
製
橋
は
流
失
、
奈
良
線
鴨
川
橋
り
ょ
う
も
る
。
昭
和
一
〇
年
︵
一
九
三
五
︶
の
鴨
川
大
洪
水
で
鴨
川
橋
り
ょ
う
も
架
設
の
古
い
上
り
線
は
撤
去
さ
れ
蔵
=
文
・
増
田
雅
与
志
=
写
真
明治 45 年ころの鴨川橋りょう。上り列車を引く機
関車は、アメリカから輸入した当時は最強力の大型
機。橋下に師団街道が新設され、川幅が狭まっている
明治 30 年代の鴨川橋りょう。複線化工事が進み、石積み
の橋脚が立ち並ぶ。客車はマッチ箱と称された四輪車とボ
ーギ車との混成。左端に東本願寺の本堂が見える(筆者所蔵)
(筆者所蔵)
京 所
都 を
か 設
ら け
稲 、
荷 そ
、 こ
山 で
科 約
、 一
大 〇
谷 名
、 が
馬 近
場 代
︵ 技
現 術
膳ぜ を
所ぜ 学
︶ ぶ
。
る
た
め
、
同
一
〇
年
大
阪
駅
の
階
上
に
工
技
生
養
成
わ
れ
て
い
た
。
彼
ら
は
日
本
人
の
技
術
者
を
養
成
す
る
外
国
人
技
術
者
、
主
と
し
て
英
国
人
に
よ
っ
て
行
鉄
道
の
建
設
運
営
は
﹁
お
雇
い
外
国
人
﹂
と
呼
ば
れ
工
は
戦
火
の
収
ま
っ
た
同
一
一
年
と
な
る
。
当
時
、
京
都
︱
大
津
間
の
測
量
は
同
六
年
に
済
む
が
、
着
ん
と
し
た
時
期
で
あ
っ
た
。
鹿
児
島
に
挙
兵
、
西
南
の
役
が
開
戦
す
る
世
相
混
と
も
と
挙
行
す
る
が
、
そ
の
数
日
後
に
は
西
郷
隆
盛
が
月
五
日
、
京
阪
神
間
全
通
の
開
業
式
を
天
皇
臨
席
の
津
間
を
計
画
す
る
。
当
時
の
国
情
は
明
治
一
〇
年
二
に
至
る
本
州
横
断
鉄
道
の
第
一
歩
と
し
て
京
都
︱
大
道
経
由
に
変
更
さ
れ
る
。
そ
れ
と
日
本
海
側
の
敦
賀
経
由
の
縦
貫
鉄
道
が
立
案
さ
れ
る
が
、
こ
れ
は
東
海
全
通
す
る
。
さ
ら
に
東
京
︱
京
都
間
を
結
ぶ
中
山
道
京
阪
神
間
の
路
線
に
着
工
、
同
一
〇
年
︵
一
八
七
七
︶
を
明
治
五
年
︵
一
八
七
二
︶
開
通
さ
せ
る
。
続
い
て
は
鉄
道
建
設
を
急
務
と
し
、
ま
ず
新
橋
︱
横
浜
間
明
治
初
頭
、
欧
米
文
化
の
導
入
を
図
る
明
治
政
府
抜
け
、
京
阪
電
鉄
と
の
連
絡
駅
東
福
寺
に
到
着
す
る
。
く
ぐ
り
、
鴨
川
を
渡
り
、
三
洋
化
成
の
工
場
を
通
り
き
電
車
は
向
き
を
東
南
に
変
え
、
新
幹
線
の
線
路
を
が
斜
め
に
横
切
っ
て
い
る
。
京
都
駅
を
出
た
奈
良
行
水
沿
い
に
南
北
に
延
び
る
工
場
敷
地
を
J
R
奈
良
線
真
が
載
っ
て
い
る
。
こ
れ
を
見
る
と
鴨
川
の
東
、
疎
三
洋
化
成
の
会
社
概
況
に
京
都
工
場
の
ふ
か
ん
写
2007 冬 No.445
5