地球人宝塚 2010年 3号別冊

ちきゅうじんたからづか
地 球人宝 塚
べっさつ
2010年第3号 別冊
目次
かこ
けいし
あたら
みらい
キムインギ
過去を軽視するところに新しい未来はない
りちょうめつぼう
よ
「李朝滅亡」を読んで
にほん
とうちか
ちょうせん
う
金仁基
のだかずみ
そだ
野田一三
いみ
日本統治下の朝鮮で生まれ育ったことの意味
ひげき
がいむだいじん
とうごうしげのり
悲劇の外務大臣、東郷茂徳 2
とくしゅう
にほん
ちょうせん
ねん
今井和登
どいひろし
だい
いまいかずと
土井浩
かい
2
7
12
17
やすかわじゅのすけ
ETV 特集「日本と朝鮮2000年 第10回」について 安川寿之輔
たいだん
ざいにちひゃくねん
れきし
ひと
にほん
すがた
シンスゴ
キムチャンジョン
「対談」在日百年の歴史は もう一つの日本の姿 辛淑玉 X 金賛汀
20
25
か こ
けい し
あたら
みらい
過去を軽視するところに新しい未来はない
とよなかしざいじゅう
むしょく
キム
インギ
さい
豊中市在住 無職 金 仁基(87 歳)
(TGSK 会員)
ちょうせんおうちょうまっき
かんみんぞく
しん
朝 鮮 王 朝 末 期、 わ が 韓 民 族 は 清
ちゅうごく
たいこく
とくがわほうけんたいせい
(中 国 ) という大 国と、
「徳 川封建体制」
うちたお
あたら
めいじしんせいふ
じゅりつ
を打倒して、新しい明治新政府を樹立し
いき
にほん
りんこく
はさ
意 気あがる日 本という隣 国に挟 まれて、
なが
はげ
なが
もじ
げんご
とも
どくじ
中 で、独 自の文 字・言 語と共 に独 自の
ぶんか
でんとう
のこ
わたし
文化・伝統を残してくれたことに、私た
かんみんぞく
かったことであろう。
とよとみ
おお
いみ
みんぞくてき
きょうじ
ち韓民族は大きな意味と民族的な矜持を
むこ
かんが
う
イムジンウェラン
つも 脳 裡に 浮 かぶのが「壬 辰倭乱」(
しんりゃく
じ
ひと
「フンドシ」一
豊 臣秀吉の侵 略 ) 時 の、
ひでよしぐん
ぱだか
て
やり
こし
いま
はし
すがた
だ
かんこく
み
ム ラ イ 」 の 姿 と、 韓 国 ド ラ マ で 観 た
すざ
こうけい
「閔妃暗殺」の凄ましい光景である。
わたし
とき
おも
私 が、その時 ふと思 ったのは、もし
かんこく
あんさつたい
にほん
こうしつ
らんにゅう
も韓 国の暗 殺隊が日 本の皇 室に乱 入し
にほん
こうごう
ざんさつ
て、 日 本 の 皇 后 を 惨 殺 し た と し た ら、
にほん
ざんぎゃく
こうごう
あんさつ
いか
しうち
どんな仕打ちをしでかしたことだろうか
…。
かたの つぎ お し
めいちょ
りちょうめつぼう
で
よ
かんこく
にほん
しょくみんち
「李 朝滅亡」読 み、韓 国が日 本の植 民地
ぜんご
はじ
くわ
まな
にされた前後のことを、初めて詳しく学
でき
ぶことが出来た。
にほん
たち
を帯びて、今にも走り出そうとする「サ
みんびあんさつ
せんかほうこく
を暗殺されたとしたら、怒りにまかせて
つの 真 っ裸 で 手 には槍 を 腰 には 大 刀
お
けず
たび
ちょうせんもんだい
ま
はな
こ の 度、 片 野 次 雄 氏 の 名 著
私 が 朝 鮮 問 題 を 考 え る と き、 い
とよとみひでよし
みみ
た「秀吉軍」の残虐さをみるとき、皇后
かん
のうり
みんしゅう
無 辜の民 衆の耳 と鼻 を
感じるのである。
わたし
しんりゃく
「豊 臣の侵 略」のとき、
何 千何万と削 り、それを戦 果報告にし
く し く も、 そ の 永 く 激 し い 流 れ の
どくじ
みなごろ
なんぜんなんまん
くる
苦しんできた。
なか
ちょうせんじん
朝 鮮人を皆 殺しにしか
ふる
ほうけんせい
うちたお
日 本 が 古 い 封 建 制 を 打 倒 し、
めいじいしん
きんだいか
お
すす
こくりょく
明治維新という近代化を押し進め国力を
じゅうじつ
じゅうきゅうせいきまっき
充 実させようとしていた十 九世紀末期、
かんこく
なが
さこく
ゆめ
むさぼ
韓 国 は 永 い 鎖 国 の 夢 を 貪 り、 ロ シ ア、
ちゅうごく
しん
かんしょう
ほんろう
こくろん
さいごうたかもり
せいかんろん
中 国 ( 清 ) の 干 渉 に 翻 弄 さ れ、 国 論 が
ぶんれつ
分裂していた。
めいじいしんいらい
明 治維新以来、西 郷隆盛の「征 韓論」
えいきょう
めいじせいふ
かんこく
日本はどう出ただろうかということだっ
に影 響されていた明 治政府が、韓 国に
た。
目 をつけるようになったのは当 然の成
にほん
め
ちょうせんぜんど
や
つ
日 本 は 朝 鮮 全 土 を 焼 き 尽 く し、
2
ちきゅうじんたからづか
地 球 人 宝塚 2010 年 No3. 別冊
とうぜん
ゆ
かんこく
な
り 行 き で あ っ た と も い え る。 韓 国 が、
こんらんじょうたい
にほん
混乱状態になかったとしても、日本はど
しゅだん
もち
かんこく
わ
にっていさんじゅうろくねん
もの
しず
んな手段を用いても韓国を「我が物」に
めいはく
けっきょく
にっしん
にちろ
たたか
いきお
かんこくない
か
はんにちせいりょく
日本は、その勢いで韓国内の反日勢力を
お
にっかんへいごう
はじ
にほん
たいへいようせんそう
しんりゃく
にほんていこくしゅぎ
かんぜん
はいぼく
しゅうけつ
な敗北によって終結した。
い
みんぞく
た
みんぞく
ごと
ある民 族が他 の民 族をかくの如 く、
なが
しんりゃく
しはい
つづ
永く侵略・支配し続けたことは、あまり
たのである。
しょくみんち
さんじゅうろくねんかん
わたし
その後 の植 民地・三 十六年間は、私
かんみんぞく
ひつぜつ
つ
たち韓民族にとっては筆舌に尽くしがた
みじ
くら
かお
いものであった。惨めで暗くまともに顔
あ
せいかつ
にんげん
そんげん
も上げられないような生活、人間の尊厳
じゅうりん
とよとみ
太平洋戦争における日本帝国主義の完全
「日 韓併合」にもって行 っ
押 しつぶし、
ご
かこ
の侵 略 」 か ら 始 ま っ た 日 本 の 侵 略 は、
結 局、 日 清、 日 露 の 戦 い で 勝 っ た
にほん
かんが
静 か に 考 え て み る と、 過 去「 豊 臣
しんりゃく
したであろうことは明白である。
た
「日帝三十六年」を耐えてきたのだ。
れいこく
さべつ
くつじょく
じだい
せかい
ぜんれい
できごと
世界に前例のない出来事である。
にんげん
なぐ
なぐ
ひと
「人間は殴られると、殴った人はすぐ
わす
なぐ
ほう
わす
忘れるが、殴られた方はなかなか忘れな
い
わたし
ちょうせんみんぞく
い」と言 われるが、私 たち朝 鮮民族は
なんかい
なんかい
なぐ
つづ
き
が蹂躙された冷酷な差別と屈辱の時代で
何回も何回も殴り続けられて来たのであ
あった。
った。
れい
あ
例 を 上 げ れ ば き り が な い が、 そ の
なか
ちょうせん
ちしきじん
くつじょくてき
中 でも朝 鮮の知 識人にとって屈 辱的だ
せんでん
いっしどうじん
ったのは、宣 伝では「一 視同仁」とか
こうこくしんみん
さべつ
い
皇 国臣民だから差 別はないと言 いなが
げんじつ
ちょうせんじん
にほん
いちりゅうだいがく
ら、現実には、朝鮮人が日本の一流大学
で
かん
みんかんがいしゃ
さいよう
かこ
しょぎょう
たい
このような、過 去の所 業に対 して、
にほん
ほんき
こころ
しゃざい
「日本」は本気で心 から謝罪したことが
あるのだろうか!
れきだい
にほんせいふ
せいけん
か
たび
歴 代の日 本政府は、政 権が変 わる度
そうりだいじん
ほうかん
しゃざい
ごとに、総理大臣が訪韓して「謝罪」め
ことば
の
かんこく
かんけい
しゅうふく
を出ても、官と民間会社は採用しなかっ
いた言葉を述べ、韓国との関係を修復し
た。
たいという意向を持っているのはよく分
いこう
とうじ
ちょうせんじん
してい
かよ
当 時、 朝 鮮 人 の 子 弟 だ け が 通
ふつうがっこう
う「 普 通 学 校 」 が あ っ た が、 そ こ を
じゅうねんいじょうつと
ちょうせんじんこうちょう
きゅうりょう
十 年以上勤めた朝 鮮 人 校 長 の給 料が、
しはんがっこう で
にほんじん じょし きょういん
師範学校出たての日本人女子教員と
どうがく
ちょうせんじん
くや
同 額であった。 朝 鮮人は、ひどく悔 し
は
ふる
ひょうげん
いとき「歯 が震 えるほどに」と表 現す
おくば
ふる
おも
るが、まさに奥 歯までが震 える思 いで
も
さいきん
わ
てんのうほうかん
かる。最 近は、「天 皇訪韓」までがとり
ざたされている。
にほんせいふ
げんざい
かんこく
こ れ は 日 本 政 府 が、 現 在 の 韓 国 と
にほん
せいじょう
りんこくかんけい
日本が、正常な隣国関係ではないことを
じにん
しめ
自認していることを示すものである。
まえ
にほん
ざっし
れい
こ の 前、 あ る 日 本 の 雑 誌 に、 例 の
にっかんかいだん
にほんがわだいひょう
ひとり
さんか
日韓会談に日本側代表の一人として参加
過去を軽視するところに新しい未来はない
3
いちじつぎょうじん
ろくおく
し た 一 実 業 人 が、
「 あ の 六 億 ド ル は、
かんこくがわ
ばいしょうきん
めいき
韓国側が「賠償金」として明記すべきだ
い
は
けいざいきょうりょくきん
「経済協力金」
と言い張るのをはねのけ、
お
とお
と し て 押 し 通 し た も の だ。 そ し て
しょくみんちしはい
もんだい
ひとこと
しゃざい
植 民地支配の問 題も一 言も謝 罪してな
わら
の
い」と、笑いながら述べたということが
の
せいぼ
かんこく
かん
い
し
言 って、まだそのことを知 らなかった
にほんじん
おどろ
こだい
日本人を驚かしたが、いわゆる「古代に
にっかんかんけい
だれ
ひていでき
おける日韓関係」は、誰にも否定出来な
かんけい
しりょう
い関係にあったことが、あらゆる資料に
よって明かされている。
にほん
ひとこと
か こ
しょぎょう
しゃざい
しめ
に対 して謝 罪してないことを示 してお
おも
あ
いがい
なに
り、傲 慢な思 い上 がり以 外の何 もので
にほん
いちぶ
しどうそう
むかし
もない。日 本の一 部の指 導層は、昔 の
しばりょうたろう
だいとうあきょうえいけん
ゆめ
かんこく
ゆうじん
しつもん
かんこく
ふそ
ち
したとき、
「韓 国は父 祖の地 だからさ」
こた
と応えたといわれる。
いちぶ
にほん
ちしきじん
しかし、一 部の日 本の知 識人は、こ
にっかん
せいじか
なんどあやま
また、ある有 名な政 治家は「何 度謝
こだい
もんだい
ふ
けいこう
ど げ ざ
い
ほうどう
のか!」と、興奮して言ったことも報道
せいじか
ど げ ざ
ぐらい
されたが、この政治家は「土下座」位で
おも
しゅうち
じじつ
い傾向があるのも周知の事実である。
げんざい
ったらいいのだ!土下座でもしろという
もんだい
い
の日韓の古代の問題には触れようとしな
ないのではなかろうか。
こうふん
ちょくぜん
して韓国に行くんだ」とある友人が質問
わす
ゆうめい
かんこくほうもん
司馬遼太郎が韓国訪問の直前、「どう
「大東亜共栄圏」の夢を忘れようとはし
かいけつ
しそん
ことに、韓 国とのゆかりを感 じる」と
こ れ は、 日 本 は 一 言 も 過 去 の 所 業
ごうまん
ぶねいおう
あ
載っていた。
たい
くだら
生母は百済の武寧王の子孫であるという
かんにちかんけい
めん
ふくざつ
現 在の韓 日関係はいろんな面 で複 雑
から
かんたん
かいけつ
に絡 んでいて、簡 単には解 決できない
もんだい
ふく
問題が含まれている。
こくさいきょうぎ
にほんせんしゅ
ま
解 決する問 題だと思 っているのだろう
スポーツの国際競技で、日本選手が負
か。
ければホッとし、勝てばチェツと舌うち
か
ほんとう
しんぜん
かたち
もんだい
本 当の親 善とは、形 の問 題ではなく
こころ
もんだい
いま
げぼく
ちょうせんじん
あたま
さ
使ってきた朝鮮人に頭を下げられるか」、
かこ
せいじたいせい
おか
「過去の『政治体制』が犯した『あやまち』
こうせい
にんげん
つぐな
せきにん
を後世の人間が、どうして『償う』責任
い
があるのか」と言いたいのであろうか。
はちねんまえ
にほん
てんのう
かんむてんのう
八年前、日本の天皇は、「桓武天皇の
4
けっ
きのうきょうみ
心情は、決して昨日今日身についたもの
「今 さら、
『下 僕』のように
彼 らは、
つか
かんこくじん
するのが、現 在の韓 国人である。この
しんじょう
こ心の問題である。
かれ
げんざい
した
ちきゅうじんたからづか
地 球 人 宝塚 2010 年 No3. 別冊
わたし
しんじょう
ではない。私たちはこのような心情をい
かいしょう
かんが
つかは解消しなければならないと考えて
こころ
にほんいり
おな
いるが、きっと心ある日本入も同じだと
おも
思う。
わたくしごと
きょうしゅく
わたし
ろくじゅうねん
まえ
私 事で恐 縮だが、私 は六 十年ほど前
にっぽんじょせい
けっこん
にほんじょせい
に 日 本 女 性 と 結 婚 し た。「 日 本 女 性 は
やさ
ひょうばん
優 しくこまやかである」とする評 判は、
せかい
ていひょう
かない
とし
世界でも定評になっているが、家内は歳
つ
をとればとるほどに、こころを尽くして
せわ
や
世 話をしてくれる。こうしてわが家 も
ていしゅかんぱく
てんか
うつ
「亭 主関白」から「かかあ天 下」に移 り
や
せいけんこうたい
よ
ちょうせんじん
う
な
こども
いた
かた
ちょうせんじんぶらく
ぜんこく
え致 し方 なく、「朝 鮮人部落」を全 国に
つく
にほん
す
作って日本に住みついたのである。それ
ざいにちななじゅうまんどうほう
が在日七十万同胞である。
すす
ざいにちどうほう
そこく
ぶんだん
かいほうご
在 日同胞は、祖 国の分 断と解 放後の
きび
せいじょう
なか
とき
にほんせいふ
厳 しい政 情の中 で、時 には日 本政府と
でいる。
こごと
おお
ただ、
「お小 言」の多 くなってきたこと
へいこう
には閉口するが…。
たいりつ
こうそう
けいけん
しなくてはならなかった。
ざいにちはちじゅうねん
こと
かん
にほんせいふ
つめ
この間、日 本政府は冷 たかったが、
いっぱん
があった。
まえ
む いみ
対立したり無意味な「抗争」なども経験
在 日八十年にもなるといろいろな事
にほんしょみん
かげ
ひなた
一般の日本庶民の影になり日向になるあ
ざいにち
しゃしんか
ざいにちいっせい
この前、在日の写真家が「在日一世」
のこ
のこ
すく
の姿を残そうと、残り少なくなっている
ざいにちいっせい
さが
ある
「在 日一世」を探 し歩 いたのだが、ある
ろうじん
べっし
ていた朝鮮人は、飢えに泣く子供をかか
つつあり、わが家の「政権交替」は進ん
すがた
りゆう
ボ」とかと呼ばれ、理由もなく蔑視され
おれ
くろう
なみだ
しえん
ざいにちどうほう
さいご
きょひ
こま
かた
まで拒 否したので困 ったと語 っていた。
ざいにちいっせい
くなん
かた
ことば
こ
わたし
わす
ことを私たちは忘れてはならない。
かた
さつえい
い
在日同胞は生きて来られなかった。この
わたし
老人が「俺の苦労は涙なくしては語れな
いさ」と、インタービューと撮影を最後
な
たたかい支 援が無 かったなら、とても
かんみんぞく
そこく
とういつ
私 たち韓 民族は、祖 国の統 一という
おお
みんぞくてきかだい
のこ
大 きな民 族的課題を残 したままでいる。
わたし
みなみ
ぎじゅつ
きた
いずれ私 たちは、「南 」の技 術と「北 」
ほうふ
しげん
ろうどうりょく
せかい
ほこ
わが在日一世の苦難は語る言葉すらない
の豊富な資源と労働力で、世界に誇れる
のである。
統一祖国を創りあげなければと、こころ
せんそう
とういつそこく
かんぱい
にほん
こんらん
つづ
戦 争に完 敗した日 本では混 乱が続 い
ちょうせんひと
めんどう
た。だから、とても朝鮮人の面倒をみる
よゆう
じじつ
にほん
余裕もなかったのも事実ではある。日本
はいせん
きょうせいれんこう
ちょうよう
はたら
の敗戦で、それまで強制連行や徴用で働
こうざん
こうじょう
どぼくげんば
かされていた鉱山、工場、土木現場など
ほう
だ
ちょうせんじん
から放 り出 された朝 鮮人は、いわゆる
い
しょく
じゅう
かくほ
つく
ちか
に誓っている。
にほん
ひつよう
なん
かこ
必要になってくる。何とか過去のわだか
かいしょう
ほんとう
しんぜん
しんぼく
ふか
まりを解消し、本当の親善・親睦を深め
い
て行きたいものである。
エッセイをということでペンをとっ
ぶんさい
「衣・食・住」が確保されなかった。
そうごきょうりょく
ゆえに日 本との相 互協力がますます
わたし
くしん
か
たが、文才のない私が苦心して書いたの
そうでなくとも「チョウセン」とか「ヨ
かんじょう
さきば
が、このような感情の先走しったものと
過去を軽視するところに新しい未来はない
5
おおさかし
はちじゅうななさい
ろうじん
びちゅう
どうか、八 十七歳の老 人の微 衷をく
いただ
りょうしょう
いただ
ていあん
ひと
とくがわじだい
ちょうせんつうしんし
めい
めい
「朝鮮通信使」が400名から600名
にほん
はけん
りょうこく
ゆうしきしゃ
やくわり
ぶんかじん
は
にほん
がくしゃ
しみん
うんどう
お
であろうか。
しんぜん
うら
ねん
しんらい
ゆうこう
恨 みの100年 から、信 頼と友 好の
ねん
大きな役割を果たした。
こんど
ゆうしきしゃ
文化人、市民などで運動を起こせばどう
の規模で日本に派遣され、両国の親善に
おお
こうさつ
て頂 きたいものである。有 識者、学 者、
私 には提 案が一 つある。徳 川時代、
き ぼ
かんげい
ることだろう。ぜひ、有 識者で考 察し
いただ
みとって頂き、了承して戴きたい。
わたし
て
大 阪市などは、もろ手 をあげて歓 迎す
なった。
きず
新しい100年を築くために・・・。
にほんつうしんし
ねん
今 度は、日 本から「日 本通信使」を
だ
がつ
2010 年 4 月
めいぐらい
出 したらどうだろう。1000名 位の
き ぼ
かんこく
はけん
かんこく
規模で韓国へ派遣する、韓国もまた、そ
こた
りょうこく
とよなかしざいじゅう
むしょく
キム
ぜんりんかんけい
れに応える。すると、両国の善隣関係は
こんぽんてき
ふか
まちが
おも
根本的に深まること間違いないと思う。
ざいにち
ふか
かんけい
おおさかふ
「在 日」と深 い関 係のある大 阪府や
こやましゅういち
小山修一詩集
かんこく
ほし
イスヒョンくん
ささ
「韓国の星、李秀賢君に捧ぐ
ぶんげいとうほくしんしゃ
2008年 文芸東北新社刊
ISBN978-4-89487-002-4
イスヒョン
やまてせん
しんおおくぼえき
せんろ
李秀賢は 2001年1月26日、JR 山手線新大久保駅で 線路に
お
すいきゃく
たす
いのち
うしな
かんこくじん しゅうがくせい
とうじ
落ちた酔客を 助けようとして 命を失った 韓国人就学生(当時
さい
26歳)
。
6
ちきゅうじんたからづか
地 球 人 宝塚 2010 年 No3. 別冊
インギ
さい
豊中市在住 無職 金 仁基(87 歳)
りちょうめつぼう
よ
「李朝滅亡」を読んで
の
だ
かず み
野 田 一 三 (TGSK 会員)
さいきん
たいが
れきし
最近、テレビの大河ドラマは歴史ブー
げんざい
さか
うえ
くも
ほうそう
ムで、現 在は「坂 の上 の雲 」が放 送さ
おお
しちょうりつ
たか
わ
れ、多くの視聴率も高いようです。我が
や
まいしゅう
ほうそう
み
やく
家でも毎週、この放送を見ています。約
ねん
さこく
てん
ま
250年にわたる鎖国から転じて間もな
めいじ
きんだいか
まいしん
にほん
にほんじん
い明治、近代化に邁進する日本や日本人
こうよう
ちゅうしん
こうせい
の高揚やダイナミズムを中心に構成され
おお
しちょうしゃ
え
おも
ていて、多くの視聴者を得ていると思わ
わたし
み
にほんじんがわ
してん
えが
日本人側からだけの視点で描かれたもの
かんこくちょうせん
きんりん
ひとびと
で、韓国朝鮮をはじめ近隣アジアの人々
してん
おお
ぬ
お
からの視点が、大きく抜け落ちているの
かん
ぐんじん
ではないかと感じます。それは、軍人の
じだい
にほん
秋山兄弟を時代のヒーローとして、日本
しんしゅつ
くに
かいがいはってん
えが
のアジア進出を国の海外発展として描か
おも
れているように思えてしまうからです。
ちょうせん
ちゅうごく
きんりん
ところが、朝鮮や中国をはじめ、近隣
ひとびと
み
にほん
アジア諸 国の人 々から見 れば、日 本の
かいがいしんしゅつ
にほん
しんりゃく
ほか
海外進出は日本からの侵略に他なりませ
ひさん
はくじん
かつやく
かう白 人が活 躍
するドラマであ
とち
うば
り、 土 地 を 奪 わ
ころ
げんじゅうみん
あくやく
れ殺される原住民は、悪役インデアンと
せってい
おな
して設定されているのと同じことではな
はくじん
せいぶ
かいたく
いでしょうか。白 人の西 部「開 拓」は、
げんじゅうみん
しゅうだつ
さつりく
こうむ
原住民からすれば「収奪や殺戮」を被っ
ひさん
しかし私 はこのドラマを見 ていると、
しょこく
む
じけん
た悲惨な事件です。
れます。
あきやまきょうだい
せいぶ
んどが西 部に向
かこく
ひび
し
れきし
ん。悲惨で過酷な日々を強いられた歴史
おお
じん
この
でしょう。これは多くのアメリカ人が好
えいが
せいぶげき
むハリウッド映画の西部劇が、そのほと
しんたいりくはっけん
コロンブスの「新 大陸発見」も、ヨ
にん
はっそう
ーロッパ人 からの発 想によることばで
すで
す
ひとびと
あって、そこに既 に住 んでいった人 々
はっけん
にとっては、
「発 見」なんてとんでもな
いことでしょう。アメリカはもちろん
せかいじゅう
れきしきょうかしょ
はっけん
世界中の歴史教科書に「発見」というこ
きじゅつ
とばで記 述されているのは、アメリカ
げんじゅうみん
かず
きわ
しょうすう
原住民の数が極めて少数であり、それに
はん
しんたいりく
せいふく
じん
反して新大陸を征服したヨーロッパ人が
あっとうてきたすう
れきし
みかた
せかい
圧倒的多数で、歴史やものの見方が世界
のスタンダードになってしまっているか
らです。
なぜ
はなし
も
だ
何故ここで、コロンブスの話を持ち出
さか
うえ
くも
か
したかというと、
「坂 の上 の雲 」を書 い
「李朝滅亡」を読んで
7
しばりょうたろう
ひじょう
ひがし
れきし
すぐ
しょうせつか
た司馬遼太郎は、非常に優れた小説家で
つう
すぐ
あり、東アジアの歴史にも通うじた優れ
さっか
わたし
だいす
ちょさく
た作家で、私は大好きですが、この著作
かん
きんりん
に関しては、近隣アジアやロシアなどの
してん
ひとびと
しんじょう
ふ
視 点、その人 々の心 情に触 れておれず、
にほん
おも
いた
そのことは日本にいてはなかなか思い至
おも
ものごと
ためんてき
みかた
くに
こじん
あいはん
ばあい
すく
い
みかた
そうい
ありません。言うまでもなく見方の相違
たいりつ
しぜん
や意見の対立そのものは、自然のことで
みと
あ
みんしゅしゅぎ
きほん
それを認 め合 うことは民 主主義の基 本
なに
し
です。しかし、それが何 も知 らないこ
かんが
ゆらい
と、考えたことがなかったことに由来す
はってんてき
ぎろん
るものであったら、発展的な議論になり
え
かんじょうてき
たいりつ
得ず、感情的な対立がエスカレートする
きんりん
かんこく
ちゅうごく
かんけい
ア諸国、特に近隣の韓国や中国との関係
けんちょ
あらわ
れいせい
ぎろん
においては顕著に表れて、冷静な議論や
いけんこうかん
と
かじょう
意見交換はどこかに飛んでしまい、過剰
はんのう
お
れきし
な反 応が起 こりがちです。まず歴 史に
れいせい
め
む
せいかく
ちしき
冷静な目を向けて、正確な知識をもつこ
ひつよう
えいが
つう
せいかつしゅうかん
した
おぼ
韓 国の文 化や生 活習慣に親 しみを覚 え、
りかい
ふか
まこと
よろこ
理解を深めることは誠に喜ばしいことで
8
とく
ぜっこう
おも
がっこう
きんげんだいし
まな
おし
ない(教えない)ので、これはほんとう
たいせつ
りょうこく
りかい
しんみつ
りょうこく
こくえき
に大切なことです。両国の理解と親密さ
しん
なるものと信じています。
りちょうめつぼう
さいてき
そのためには、「李 朝滅亡」は最 適の
しょせき
おも
にほんじん
書籍のひとつだと思いました。日本人は、
ちょしゃ
かんこくちょうせんじん
ちょさく
かんこく
著者が韓国朝鮮人であれば、著作は韓国
た
けいえん
サイドに立つものであろうと、敬遠しま
うこともるでしょう。しかし、これは
にほんじん
しょうさい
しりょう
日本人ジャーナリストが、詳細な資料に
もと
ちみつ
か
にっかん
にっちょうかんけい
基づいて緻密に書かれた日韓・日朝関係
きんだいし
ほん
ぜひ
て
の近代史の本です。是非とも手にとって
よ
読んでみましょう。
わたし
りちょうめつぼう
よ
私 が「李 朝滅亡」を読 んだのは、4
すうねんまえ
かげ
数 年前のことです。そのお陰 で、マス
ほう
かんこくじん
はんにちこうどう
コミで報 じられる韓 国人の反 日行動や
かんじょう
きょうかしょもんだい
りょうどもんだい
感 情、教 科書問題、領 土問題などにつ
かんが
ふか
おも
いての考 えが深 まったように思 います。
ふか
れきしてきじじつ
「深 まった」というのは、歴 史的事実を
にほんがわ
みかた
知らない、あるいは日本側からの見方だ
ついては、映 画やTVなどを通 じて、
ぶんか
おも
し
とが必要です。
かんこく
かんけい
じき
にほん
とく
めいじいご
れきし
時期と思います。学校で近現代史を学べ
ばかりになります。これが、日本とアジ
しょこく
りょうこく
に明治以後の関係にも思いをやる絶好の
かちかん
が含まれていて、相反する場合も少なく
いけん
すす
さらに進んで両国のこれまでの歴史、特
があり、そこには必ず国や個人の価値観
ふく
いま
が増し、それがほんとうの両国の国益に
歴史をはじめ物事には、多面的な見方
かなら
ねづ
ま
れないと思ったからです。
れきし
はんりゅう
す。韓 流ブームが根 付いてきた今 こそ、
ちきゅうじんたからづか
地 球 人 宝塚 2010 年 No3. 別冊
し
みの
ぎろん
けしか知らないならば、実りある議論に
いた
こうせい
さきおく
すら至れない、後世に先送りするだけで
おも
いた
あると、思い至ったということです。
わたし
りちょうめつぼう
よ
かげ
私は、この「李朝滅亡」を読んだお陰
で、さらにTVドラマの「イサン」や
とうほうじんぎ
てん
か
「東方神起」、レンタルビデオ店から借り
かぜ
えし
しょうにん
てきた「風 の絵 師」や「商 人」なども、
ふか
かんしょう
おも
こうりゅう
いけん
こと
ばあい
交 流においても意 見が異 なる場 合には、
ちが
みと
あ
なぜ
違いを認め合うとともに、何故そのよう
ちが
しょう
かんが
たいせつ
な違いが生じるのか考えることが大切で
にっかん
にっちょう
かんけい
りちょうめつぼう
「李朝滅亡」
す。日韓・日朝の関係では、
よ
て
いっそう深 く鑑 賞できたと思 っていま
を読むことはそのいい手がかりになるで
す。
しょう。
すう か げつ
さっこん
はとやましゅしょう
こうそう
しゅしょう
ひがし
いか
ここ数 ヶ 月、昨 今鳩 山首相が「東 ア
きょうどうたい
ジア共 同体」の構 想を主 唱されていま
すば
こうそう
おも
す。素晴らしい構想と思います。しかし、
せんぜん
せんちゅう
だいとうあきょうえいけん
あくむ
戦前・戦中の「大東亜共栄圏」の悪夢が
さ
きんりんしょこく
ひとびと
まだ冷めない近隣諸国の人々は、すんな
う
い
わたし
りちょうめつぼう
以 下 は、 私 が「 李 朝 滅 亡 」 や
うえだまさあきし
かねざいひこしきょうちょ
あさひ
上 田 正 昭 氏・ 金 在 彦 氏 共 著 の 朝 日
かるちゃ
で
にっちょうこうりゅう
カ ルチャーから出 ている「日 朝交流の
せんねん
よ
よ
2千年」などを読んで、あるいは読みな
かんが
がら考えたことです。
がた
りと受 け入 れ難 いのではないでしょう
こうそう
じつげん
ま
か?この構想を実現させるためにも、先
いちいたいすい
にっかん
かんこくちょうせんひと
にっちょうかんけい
はい
ずは一衣帯水といわれる日韓・日朝関係
よ
ほうこう
む
ひつよう
をより良 い方 向に向 けることが必 要で
せいじか
す。そのためには、政 治家はもちろん、
けいざいじん
ぎょうせいかんけいしゃ
こくみん
経済人、行政関係者などすべての国民が
りちょうめつぼう
よ
すす
「李朝滅亡」を読まれることを勧めます。
とく
かんこく
りょこう
ひと
ほん
特 に、韓 国に旅 行される人 は、この本
ぜひ
よ
いただ
にっかん
を是非とも読んで頂きたいです。日韓・
にっちょうかんけい
かこ
し
うえ
げんち
おとず
日朝関係の過去を知った上で現地を訪れ
こころふ
あ
こうりゅう
きたい
ると、心 触れ合 う交 流が期 待できます。
こくみん
あいだ
こくさいこうりゅう
ひろ
国 民の間 でも国 際交流をどんどん広 げ
りょうこくみん
そうごりかい
しんぜん
すす
つぎ
て、両国民の相互理解と親善を進め、次
せだい
みの
りんこくかんけい
きず
たいにちいしき
1 韓国朝鮮人の対日意識 オリンピック、サッカーW杯、プロ
やきゅう
せんしゅけん
野球のWBCやアジア選手権などの
にっかんせん
かんこくみん
にほん
ぜったい
日韓戦では、韓国民の「日本には絶対に
か
こえ
わ
お
せんしゅ
勝つ!!」という声が湧き起こり、選手
にほん
かくべつ
つよ
とう
し
しあい
たちも日 本には格 別の強 い闘 志 で試 合
のぞ
ようす
ほうどう
に臨 む様 子がマスコミで報 道されます。
かんこく
にほん
たいせん
きはく
韓 国のチームは日 本と対 戦する気 迫は、
たいわん
ちゅうごく
まった
こと
つた
台湾や中国とは全く異なることが伝わっ
かんこくみん
にほん
しあい
てきます。韓 国民は日 本との試 合には、
たこく
たい
とき
み
てきがいしん
他国に対する時には見られない敵愾心を
も
めいじいご
にほん
燃やします。これは、明治以後、日本に
ひさん
め
おも
ほねみ
し
の世代へと実りある隣国関係を築いてい
悲惨な目にあわされた思いが骨身に染み
きましょう
つき、決して忘れることがないからです。
くに
ないがい
けっ
こうし
と
国の内外、公私を問わず、どのような
わす
りょうどもんだい
2 領土問題
「李朝滅亡」を読んで
9
ねん
しまねけんぎかい
2 0 0 5 年、 島 根 県 議 会 に お い て、
にっぽんかい
う
たけしま
かんこくめい
トクド
日本海に浮かぶ竹島(韓国名・独島)は
にほん
きぞく
たけしま
ひ
日 本に帰 属するとして、「竹 島の日 」が
せいてい
制 定 さ れ ま し た。 こ れ が き っ か け で、
しまねけん
しまいていけい
かんこく
にっかん
にっちょう
あいだ
きてしまいます。日 韓・日 朝の間 では、
もんだい
せんえいか
れきしてきはいけい
すなわ
問題が先鋭化するのは歴史的背景、即ち
れきしもんだい
かいけつ
歴史問題が解決されていないからです。
きょうかしょもんだい
りゃく
3 教科書問題 (略)
キョンサンプクド
島根県と姉妹提携する韓国・慶尚北道は
はけんしょくいん
ひ
あ
まつえし
派 遣職員を引 き揚 げました。松 江市で
かんこく
こうりゅうだんはけん
えんき
は韓 国へのサッカー交 流団派遣の延 期
いた
となり
とっとりけん
のやむなきに至 りました。隣 の鳥 取県
しまいていけい
むす
カンウォンド
も、 姉 妹 提 携 を 結 ん で い る 江 原 道 が、
こうりゅうじぎょう
むきげん
ぜんめんちゅうだん
交 流事業を無 期限に全 面中断しました。
ぜんこくかくち
かんこく
ゆうこうこうりゅうじぎょう
また、全国各地で韓国との友好交流事業
ちゅうし
たからづかし
となり
が 中 止 に な り ま し た。 宝 塚 市 の 隣 の
さんだし
しまいとし
プクジェジュぐん
三田市でも姉妹都市の北済州郡へのマラ
せんしゅだんはけん
ちゅうし
き
ソン選手団派遣が中止になったと聞きま
ぜんこく
かんこく
ゆうこうとしていけい
した。全 国で韓 国との友 好都市提携の
はき
しゅうがくりょこう
こうりゅう
ちゅうし
破棄や、修学旅行やスポーツ交流の中止
えいきょう
ひろ
はんい
およ
じつ
せかいじゅう
にほん
かんこくいがい
も あ る 問 題 で す。 日 本 は 韓 国 以 外 に
ちゅうごく
たいわん
せんかくしょとう
も、中国・台湾と尖閣諸島、ロシアとは
ほっぽうよんとう
りょうゆう
あらそ
北 方四島の領 有をめぐる争 いがありま
がいこう
けいざい
もんだい
す。しかし外 交や経 済の問 題にはなり
むじん
ことう
りょうどもんだい
ますが、無 人の孤 島をめぐる領 土問題
げんいん
ぜんこく
じちたい
ゆうこうだんたい
が原 因で、全 国の自 治体や友 好団体の
こうりゅうじぎょう
ちゅうだん
はいし
交流事業が中断したり、廃止になったり
き
するケースは聞 いたことがありません。
にっかん
ばあい
きょくたん
はんのう
お
しかし、日韓の場合には極端な反応が起
10
ちきゅうじんたからづか
しはい
げんいん
ふびょうどうじょうやく
(1)
不平等条約
ねん
にほん
たいせいほうかん
1868年、日 本は大 政奉還により
めいじいしん
な
と
さこくせいさく
明 治 維 新 を 成 し 遂 げ、 鎖 国 政 策 か ら
かいこく
てん
開 国に転 じました。しかし、ペリーの
くろふねらいこう
しょうちょう
かいこく
黒 船来航に象 徴されるように、開 国は
おうべいれっきょう
し
むす
欧米列強に強いられたものであり、結ん
つうしょうじょうやく
きわ
ふり
ふびょうどうじょうやく
だ通商条約は極めて不利な不平等条約で
ご
めいじせいふ
あらた
した。その後、明治政府はこれを改めよ
どりょく
せいこう
こうえき
うと努力するも成功しません。交易する
にほん
そん
こうむ
とみ
うしな
じょうたい
ほど日本が損を被り、富を失う状態でし
にほんがいこう
た。これは、長らく日本外交のコンプレ
領 土問題は、実 は世 界中のどこにで
もんだい
かんしょう
なが
など、影響は広い範囲に及びました。
りょうどもんだい
にほん
4 日本の干渉と支配が原因
地 球 人 宝塚 2010 年 No3. 別冊
ックス、トラウマとなります。
わたし
おどろ
にほん
みずか
くる
私 が驚 いたのは、日 本が自 ら苦 しむ
ふびょうどうじょうやく
りしちょうせん
お
不平等条約を、李氏朝鮮に押しつけたこ
ようじき
たいばつ
ぎゃくたい
う
とです。よく幼児期に体罰や虐待を受け
せいちょう
ひと
じぶん
こうむ
て成 長した人 は、自 分が被 ったことを
たにん
おお
い
他人にするケースが多い、と言われます
こっか
せいふ
おな
こと
が、国家や政府のレベルでも同じ事なの
でしょうか。
にほん
かいがいしんしゅつ
しそうてきしちゅう
(2)
日本の海外進出の思想的支柱
だつあにゅうおう
① 脱亜入欧
ふくざわゆきち
にほん
きんだい
そうそうき
福 沢諭吉は、日 本の近 代の草 創期に
せいざいかい
きょういくかい
しどう
いだい
せんかくしゃ
政財界・教育界を指導した偉大な先覚者
しゅうち
めいじ
であることは周 知のとおりです。明 治
ねん
じじしんぽう
だつあにゅうおう
ろん
18年、時 事新報に「脱 亜入欧」論 を
はっぴょう
げんぶん
いちぶ
いんよう
原文の一部を引用すると、
発表しました。
だっ
せいよう
ぶんめいこく
「伍(アジア)を脱 して西 洋の文 明國と
しんたい
とも
ちゅうりゃく
あじあとうほう
進 退 を 共 に し、( 中 略 ) 亜 細 亜 東 方 の
あくゆう
しゃぜつ
か
悪友を謝絶するものなり」と書かれてい
しょこく
かとう
ます。これは、アジア諸国は下等である
まじ
せんしんぶんめいてき
からこれらと交 わらずに、先 進文明的
なかま
なヨーロッパ・アメリカの仲 間になろ
りねん
てん
ひと
うえ
ひと
「天 は人 の上 に人
う、という理 念です。
ひと
した
ひと
をつくらず、人の下に人をつくらず」と
ばんみんびょうどう
と
わたし
して万 民平等を説 いたのです。私 には
りかい
とうじ
しりょう
しら
理解できないので、当時の資料などを調
しん
ちょうせん
ほうけんせい
べてみると、清や朝鮮における封建制を
だっ
かいめいは
ざせつ
しつぼう
脱しようとする開明派の挫折に失望した
かれ
れんたい
かんが
ため、彼らと連帯ができなくなったと考
ふくざわゆきち
えたためのようです。また、福沢諭吉は
ちょうせんかいぞうろん
とな
ちょうせん
ほごか
たいこう
にしようと狙 うロシアと対 抗するため
しはい
どくりつ
に、フランス支配から独立しようとする
にほん
ちょうせんしんしゅつ
みと
ベトナムを、日 本の朝 鮮進出を認 めて
か
ふか
えいきょう
あた
にほんじん
いしき
う
つ
与 え て、 日 本 人 の 意 識 に 受 け 継 が れ、
たいがいせいさく
りよう
ふ
いさん
対外政策に利用されるなど負の遺産とな
にほん
しょこく
ひとびと
ふこう
って、日 本やアジア諸 国に人 々に不 幸
げんいん
をもたらす原 因のひとつになったので
こくさいれんごう
にほん
はないでしょうか。国 際連合で日 本が
じょうにんりじこく
さんせい
常任理事国になることに賛成してくれる
こく
すく
こういしょう
おも
国が少ないことも、その後遺症と思われ
ます。
てんのう
かい
とくがわ
ちょうせん
② 天皇より下位の徳川=朝鮮
じつ
にほん
つごう
よ
りくつ
たいとう
かんけい
実 に 日 本 に 都 合 の 良 い 理 屈 で す。
ちょうせんこくおう
とくがわしょうぐん
朝鮮国王と徳川将軍は対等の関係であっ
とくがわ
てんのう
しんか
た。
しかし徳川は天皇の臣下なのである。
とくがわ
どうとう
ちょうせんこくおう
てんのう
よって徳川と同等の朝鮮国王は、天皇よ
かい
ちょうせんこくおう
おさ
りも下位にある。その朝鮮国王が治める
ちょうせん
てんのう
とうち
にほんていこく
朝 鮮は天 皇が統 治する日 本帝国よりも
かい
にほん
ほご
下位にあり、日本に保護されてしかるべ
じぶんかって
ろんり
へりくつ
し・・・。自分勝手な論理(屁理屈)で
ちょうせん
にほん
やまとちょうてい
す。朝鮮からすれば、日本も大和朝廷の
ちょうせん
おな
ちゅうごく
しんか
時代から、朝鮮と同じく中国の臣下とし
このためか、明治政府は朝鮮を保護下
ねら
ひと
じだい
「朝鮮改造論」も唱えました。
めいじせいふ
しどうてきたちば
指 導的立場にある人 たちに深 い影 響を
う
ちょうこうぼうえき
おこな
ちょうせん
にほん
て朝貢貿易を行っており、朝鮮と日本は
どうれつ
たいとう
かんけい
かんけい
じょうげ
しゅじゅう
くに
同列・対等の関係です。そもそも、国の
関係に上下、主従はあるべきではありま
せんが。
わた
もらう替 わりに、フランスに売 り渡 し、
ちょうせん
たいわん
しょくみんちか
む
朝鮮・台湾の植民地化に向かいます。
だつあにゅうおう
ろん
とうじ
くに
「 脱 亜 入 欧 」 論 は、 当 時 の 国 の
「李朝滅亡」を読んで
11
にほん
とうちか
ちょうせん
う
そだ
いみ
日本統治下の朝鮮で生まれ育ったことの意味
こっかてき
みんぞくてき ざいせき
もんだい
―国家的民族的罪責の問題―
いま
い
かず
と
今 井 和 登 (90才) (TGSK 会員)
わたし
たいしょう
ねん
がつ
にち
私は1920(大正9)年7月18日
ちょうせん チュンチョンナムド
テジョングン テジョンミョン
とうじ
朝 鮮忠 清 南道大田郡大田面(当時)で
いまい
たつ じろう
ちよ
なん
う
今 井辰 次 郎、千 代の4男 として生 まれ
ちち
にちろ
せんそう
じゅうぐん
ちょうせん
ました。父 は日 露戦 争に従 軍し朝 鮮に
ちゅうりゅう
けいけん
ねん
めいじ
駐 留 した経 験から、1907年(明 治
ごろ ちょうせん
わた
はじ
ハンムギョンナムドハム
ぶっし
のうにゅう
フン
40)頃朝鮮に渡り、初め成鏡南道咸興
ちゅうとんにほんぐん
しょうぎょう
わたし
り ま し た。 私 た
にん
きょうだい
ち7人 の兄 妹の
にん
うち6人 までが
テジョン
う
大 田で生 まれて
お り、 そ し て 7
にん みな
そだ
人 皆 がそこで育
ち
ちゅうとうきょういく
お
あと
ほんど
で駐屯日本軍に物資を納入する商業にた
ち、この地で中等教育を終えた後は本土
ずさわっていたそうですが、1909
の大 学専 門学 校に進 学しました。当 時
ねん
めいじ
ごろ チュン チョン ナムド
テジョン
うつ
年(明治42)頃忠 清 南道大田に移り
ぷさん
むす
てつどう
ました。それはソウルと釜山を結ぶ鉄道
キョン ブ
ソン
ふせつ
さら
ちょるらど
ほうめん
京 釜 線 が敷 設され、更 に全 羅道方 面に
つう
ホナム
ソン
しんせつ
けいかく
通 じる湖 南線 が新 設される計 画があり、
ぶんきてん
あたら
まち
かいたく
その分岐点に新しい町を開拓することに
ちち
えいじゅう
ち
なったからです。父はここを永住の地に
かぞく
ともな
かいたくしゃ
すべく、家 族を伴 い開 拓者としてこの
まち
はい
ちち
こめ
なかがいしょう
ホナム
ちほう
町 に入 ったのでした。父 は米 の仲 買商
しゅ
こめ
をしており、主 として湖 南地 方の米 を
かい つ
にほん
いしゅつ
まんしゅう
あわ
買 付 け て 日 本 に 移 出 し、 満 州 か ら 粟、
だいず
まめかす など
いにゅう
きょうきゅう
大豆、豆粕等を移入して供給するのがそ
ぎょうむ
いちじ
かな
せいせき
あ
の業 務で、一 時は可 成りの成 績を挙 げ、
ざいりゅう にほんじん
しゃかい
きんゆう くみあい
がっこう くみあい
在 留 日 本人社 会の金 融組 合や学 校組 合
りじ
じいん
だんと
そう だいひょう など
の理 事、寺 院の檀 徒総 代 表 等 をしてお
12
ちきゅうじんたからづか
地 球 人 宝塚 2010 年 No.3 別冊
だいがく せんもん がっこう
しんがく
わたし
とうじ
あた
まえ
おも
私たちはそのことを当り前と思っており
ねんだい
ぜんはん
にほん
ましたが、1900年代の前半の日本で
にん
こども
ぜんぶ
こうとう きょういく
う
7人の子供全部に高等教育を受けさせる
けいざいてき
とくい
ことが、経済的にも特異なものであった
わたし
し
せいじん
ことを私が知ったのは成人してから、し
せんご
かも戦後になってからでした。
テジョン
まち
せいりつ
これは大 田という町 の成 立について
すこ
はなし
少 しくわしくお話 しなければなりませ
ぜんじゅつ
とお
テジョン
ねん
めいじ
ん。前述の通り大田は1909年(明治
ごろ
てつどう
ようしょう
いとてき
もう
42)頃、鉄道の要衝に意図的に設けら
とし
えき
きてん
にし
かわ
はさ
ごばん
ひろ
れた都市であります。駅を起点に西に広
へい や
いったい
ちい
がる平野一体に小さな川を挟んで碁盤の
め
せいぜん
どうろ
じゅうおう
目のように整然とした道路が縦横につく
わたし
こ
とき ふぼ
られていました。私 が子 どもの時 父 母
き
はなし
げんや
なわ
は
から聞 いた話 では、原 野に縄 を張 って
くかく
わ
にゅうしょくしゃ
くかく
たんい
区画割りをし、入植者はその区画単位で
とち
か
わたし
いえ
土地を買ったということで、私たちの家
しょうぎょう く
いちば
ちか
は 商 業 区 にある市 場のすぐ近 くにあっ
やく
つぼ
しきち
てんぽ
わたし
おお
しょうげき
う
いわなみ しょてん
私が大きな衝撃を受けたのは、岩波書店
いわなみ しんしょ
しゅっぱん
やまべ
から「岩波新書」として出版された山辺
けんたろう
し
ふた
ちょさく
ねん
にほん
にっかん へいごう しょうし
健 太郎氏 の二 つの著 作「日 韓併 合小 史
とうちか
ちょうせん
( 1 9 6 6 年 )」、「 日 本 統 治 下 の 朝 鮮
じむしょ
ねん
にっしん
にちろ
て、約 800坪 の敷 地に店 舗、事 務所、 (1971年 )」でした。日 清・日 露の
そうこ
きょたく
かぞく
はは
た
わたしたち
倉庫、居宅が建っておりました。私達の
ねん
しょうわ
ちち
家族は母が1933年(昭和8)に、父
ねん
しょうわ
しぼう
が1936年(昭和11)に死亡したの
ねん
しょうわ
ぜんざいさん
で、1938年(昭和13)に全財産を
せいり
ほんど
いじゅう
とき
整理して本土に移住しましたが、その時
おお
ふさい
さ
ひ
がくぎょうなか
多くの負債を差し引いてもまだ学業半ば
にん
こども
だいがく
こうせん
すす
であった3人の子供が大学・高専に進む
がくひ
かくほ
ちょうせん
にほん
だけの学費は確保されておりました。
せんご
とうち
かいほう
戦後朝鮮は日本の統治から解放されま
よろこ
つか
つづ
お
ま
こくど
した。ところが喜 びも束 の間、国 土は
なんぼく
ぶんだん
ちょうせんせんそう
南北に分断され、続いて起きた朝鮮戦争
みんしゅう
とたん
くる
のために民 衆は塗 炭 の苦 しみにあい、
まちまち
あ
は
にほん
わたし
町々は荒れ果てました。日本の私たちも
れんごうぐん
せんりょうか
となり
お
せいかつ
お
まだ連合軍の占領下にあり、生活に終わ
くに
じゅうぶんかんしん
れて隣の国で起きていることに十分関心
も
い
じゅうすうねん
つづ
を持っているとは言えない十数年が続き
ころ きたちょうせん
かんこく
ました。その頃北朝鮮だけでなく韓国を
ちか
とお
くに
よ
おも
も「近くて遠い国」と呼んでいたのを思
だ
しゃかい
じょうきょう
お
つ
い出します。やがて社会の状況も落ち着
れき しがく
ぶんや
にほん
たいわん
じったい
すこ
いてくると、歴史学の分野で日本が台湾
ちょうせん
おこな
しょくみんち しはい
と朝鮮で行った植民地支配の実態が少し
あき
ころ
ずつ明 らかにされてきました。その頃
せんえき
ちょうせん
どくりつ
しんこく
ろ
こく
まも
戦役は朝鮮の独立を清国・露国から守る
たいぎめいぶん
にちろ
というのが大義名分であったのに、日露
せんそう
お
ただ
ちょうせんぜんど
にほん
戦争が終わると直ちに朝鮮全土を日本の
ぐんじ
しはいか
お
にっかん へいごう
しょう
軍 事支 配化に置 き、「日 韓併 合」と称 し
しょくみんち
て植民地にしてしまいました。それはま
とち
ちょうさ じぎょう
めいもく
とち
ず「土 地調 査事 業」の名 目による土 地
しゅうだつ
はじ
のうぎょう
こう こうぎょう
しょうぎょう
収 奪に始 まり、農 業、鉱 工 業、商 業な
さんぎょう
しょうあく
いっぽう
ないせん
どあらゆる産 業を掌 握する一 方、「内 鮮
いったい
ことば
こう みんか
一体」というような言葉でもって皇民化
せいさく
きょうりょく
お
すす
みんぞく ぶんか
はかい
政策を強力に押し進め、民族文化を破壊
げんご
うば
みんぞく
したばかりか、言語まで奪って民族その
にほん
どうか
しょうめつ
ものを日 本に同 化消 滅させようとしま
しょくみんち
しはい
ぐんたい
した。このような植 民地支 配は軍 隊と
けいさつりょく
はいけい
そうとくふ
けいかく すいしん
警察力を背景に総督府によって計画推進
しょうこうぎょう
けいざい かつどう
されたのですが、商工業などの経済活動
おも
みんかんじん
にな
は主 に民 間人によって担 われていまし
わたし
ちち
こめ
なかがい
しょくぎょう
た。私の父が米の仲買を職業にしていた
しょくみんち しはい
さいぜんせん
ことはまさしく植民地支配の最前線にい
たわけであります。
いま わたし
てもと
カンジュオン
ちょ
にほん
今 私 の手 元にある姜 在彦著「日 本に
ちょうせん しはい
ねん
あさひ
よ る 朝 鮮 支 配 の 4 0 年 」(朝 日 カ ル チ
ャーブック、1983)の96ページ
日本統治下の朝鮮で生まれ育ったことの意味
13
いこう
ねん
けいざい せいさく
ちゅうしん
以 降に、1920年 の経 済政 策の中 心
さん べい ぞうしょく けいかく
に な っ た「 産 米 増 殖 計 画 」 の こ と が
しる
ねん
ねん
記 されています。1912年 ~16年
へいきん さんしゅつりょう
まんごく
平 均 産 出 量 1, 230万 石が1932
ねん
まんごく
の
~ 3 6 年 に 1, 7 0 0 万 石 に 伸 び て い
たいにち ゆしゅつりょう
ますが、対 日輸 出量は1912~16
ねん へいきん
まんごく
さんしゅつりょう
年 平 均 1 3 1 万 石( 産 出 量 の 1 0. 7
ねん
まんごく
%)が1932~36年には874万石
さんしゅつりょう
(産 出量の51. 4%)にのぼっており、
ぜんしゃ
の
りつ
たい
前 者の伸 び率 が138%であるのに対
こうしゃ
の
りつ
し、後 者の伸 び率 は668%となって
じつ
そうせいさん
はんぶん
にほん
も
おり、実 に総 生産の半 分が日 本に持 ち
さ
ちょうせんない じんこう
ひとり
あた
去 られ、そのため朝 鮮内人 口の一 人当
ねんかん
こめ しょうひりょう
ごく
り 年 間 米 消 費 量 は 0. 7 1 8 8 石 か ら
ごく
へ
0. 4 0 1 7 石 に 減 っ て お り ま す。 こ
すうじ
やす
そうじんこう
の数 字をわかり易 くしますと、総 人口
ひとりあた
しょくりょう
こめ
ごう
やく
一 人当りの食 料が米 1. 2合(約 170
ぐらむ
みやざわ
けんじ
グ ラ ム ) と い う こ と で、 宮 沢 賢 治 の
ゆうめい
あめ
し
なか
有 名 な「 雨 ニ モ マ ケ ズ 」 の 詩 の 中 に
いちにちげんまい4ごう
「一日玄米四合と・・・・」とあることや、
せんじちゅう
しゅしょく はいきゅう
きじゅん
にごう
さんしゃく
戦 時中の主 食配 給の基 準が「二 合三 勺」
くら
ひく
だったことに比べても、いかに低いもの
あき
ちょしゃ
であったかが明らかであります。著者は
じょうきょう
きが
ゆしゅつ
の
この状況を「飢餓輸出」と述べています。
さき
とち
ちょうさ じぎょう
先 に「土 地調 査事 業」についてふれ
にっかん へいごう とうじ
ちょうせん
ましたが、日 韓併 合当 時朝 鮮ではまだ
きんだいてき
とち
せいど
かくりつ
近 代的 な土 地制 度 が確 立しておらず、
14
ちきゅうじんたからづか
地 球 人 宝塚 2010 年 No.3 別冊
のうみん
よ
とっけん
農民はヤンバン ( 両班 ) と呼ばれる特権
かいきゅう
ゆうりょくしゃ
階 級の有 力者や、サーオン ( 舎音)と
よ
きゅうてい きぞく
だいかん
ひご
もと
呼 ばれる宮 廷貴 族の代 官の庇 護の下 で
こうさく
せいかつ
しょゆうけん
耕作し生活をしておりました。所有権・
こうさくけん
めいじ
とうき
など
ほとん
おこな
耕作権を明示する登記等は殆ど行われて
じょうたい
とち
ちょうさ
いない状 態だったそうです。土 地調 査
じぎょう
にっかん へいごう
ねん
がつ
事 業は日 韓併 合(1910年 8月 23
にち
さきだ
ねん
がつ
はじ
日)に先立つ1910年3月に始まって
ねん
がつ
かん りょう
1918年 11月 に完 了 していますが、
ないじつ
とち
しゅうだつ
もくてき
しょゆうけん こうさくけん
内実は土地収奪が目的で、所有権耕作権
めいかく
とち
かんゆうち
の明確でない土地はすべてこれを官有地
はんかん はんみん
こくさく かいしゃ
とうよう たくしょく
にし、半 官半 民の国 策会 社「東 洋 拓 殖
かぶしき
がいしゃ
つう
しゅ
にほんじん
株式会社」を通じて主として日本人
にゅうしょくしゃ
やす
かかく
はら
さ
入 植者に安い価格で払い下げたのです。
とち
ちょうさ
じぎょう
ぜんじゅつ
さん べい ぞうしょく
この土地調査事業と前述の産米 増 殖
けいかく
きょうこう
とち
うば
なりわい
計 画の強 行により土 地を奪 われ生 業を
うしな
のうみん
おお
う
こんきゅう
すえ
失 った農民の多くは、飢えと困窮の末、
りゅうみん
まんしゅう
しべりや
にほん
流 民となって満 州、シ ベリヤに、日 本
わた
こんにち ちゅうごく とうほくぶ
ちゅうしん
まん
にと渡 りました。今 日 中 国 東 北部吉林
ちょうせん みんぞく
きょじゅう
省を中 心に160万 の朝 鮮民 族が居 住
じじょう
しているのはそのような事 情によりま
にっかん へいごう
ぜんねん
ねん
めいじ
す。日韓併合の前年、1909年(明治
にほん
ざいじゅう
ちょうせんじん
にん
42)日本在住の朝鮮人は790人、そ
だいぶぶん
りゅうがくせい
へいごうご
かず
の大部分は留学生でした。併合後その数
しだい
ふ
は次 第に増 えていきますが、1920
ねん
たいしょう
やく
まんにん
年( 大 正 9) に 約 3 万 人 で あ っ た の
ねん
しょうわ
やく
まんにん
が、1930年(昭和5)に約30万人
ねん
しょうわ
に、そして1940年(昭和15)には
まんにん
しゅうせん
とし
ねん
120万人、そして終戦の年1945年
しょうわ
すいてい じんこう
まんにん
(昭 和20)の推 定人 口は210万 人に
ねん いこう
きゅうげき
のぼっています。1941年以降の急激
ぞうか
せん じか
ほんど
ろうどうりょくぶそく
おぎな
な増加が戦時下の本土の労働力不足を補
きょうせいちょうよう
し
うための強制徴用によることはよく知ら
ねん
と
にちしゃ
れていますが、1940年までの渡日者
ぞうか
とち
なりわい
うば
せいかつ
の増加は土地と生業を奪われて生活でき
ていちんぎん ろうどうしゃ
りゅうにゅう
なくなり、低賃金労働者として流入して
ひとびと
だいぶぶん
し
きた人 々がその大 部分を占 めていまし
こんにち
ざいにち かんこく
ちょうせんじん
ほとん
た。今日の在日韓国・朝鮮人の殆どはこ
にほん
ていじゅう
のようにして日本に定住するようになっ
ひとびと
およ
にせい
さんせい
た人々、及びその二世、三世であること
わたし
ただ
し
ちょうせんじん
ゆうじん
すうにん
にっかん きほん
朝 鮮人の友 人が数 人います。日 韓基 本
じょうやく
ていけつ
みんかん こうりゅう
でき
条 約が締 結されて民 間交 流が出 来るよ
しょうわ
ねん
うになった1965(昭 和40)年 ご
とうじ
わたし
かんせい がくいん きょうかい
ぼくし
ろ、当時は私は関西学院教会の牧師をし
かんこく
だいがく きょうし
ていましたが、韓国の大学教師をしてい
ゆうじん
かんこく
がっこう
はたら
る友人から韓国の学校で働かないかとの
さそ
なんかい
う
わたし
う
誘いを何回か受けました。しかし私は生
こきょう
なつ
ひ
まれた故 郷の懐 かしさに引 かれながら
こころ
おもに
ゆえ
おう
も、心の重荷の故にそれに応ずることが
また
ころ
ちゅうがっこう
できませんでした。又その頃から中学校
どうそうかい
ぼこう
ほうもん りょこう
きかく
同窓会の母校訪問旅行の企画がしばしば
さそ
あんい
きもち
あって誘われましたが、安易な気持でそ
さんか
れに参加することはできませんでした。
ねん
しょうわ
がつ
かんこく
を私たちは正しく知らなければなりませ
1985年(昭 和60)4月、韓 国
ん。
のキリスト教 会との交 流のために訪 韓
きょうかい
れきしてき
じじつ
し
とき
わたし
このような歴史的事実を知った時の私
しょうげき
おお
しょうねんじだい
の衝撃は大きいものでした。少年時代に
きょう
にゅうしん
すく
こじんてき
キリスト教に入信し、少なくとも個人的
かみ
まえ
せ
には神 の前 に責 められるところのない
じんせい
あゆ
きがい
人 生を歩 むという気 概をもっていまし
わたし
しゅっしょう
たが、私 の出 生そのものがこのような
こっかてき
みんぞくてき はんざい
きばん
あ
国家的民族的犯罪を基盤としており、当
まえ
おも
わたし
きょういくれき
ちち
たり前 と思 っていた私 の教 育歴も父 の
けいざい かつどう
ぬ
かんが
経済活動を抜きにしては考えられないこ
おも
わたし わたしじしん
せい
そんざい
た
とを思うと、私は私自身の生と存在に耐
おもに
かん
えられない重荷を感ぜずにはおれません
わたし
ちゅうがくじだい
しん がっこう じだい
でした。私は中学時代と神学校時代から
きかい
こうりゅう
せいち
テジョン
ほうかん
おとず
の機 会があり、生 地大 田を訪 れました。
かんこく ちゅうぶ
テジョン し
げんざい
韓国中部にある大田市は現在(1986
ねん とうじ
じんこう
まん
だいとし
せいじ
年 当 時)人 口80万 の大 都市で政 治・
きょういく
さんぎょう
じゅうよう きょてん
教 育・産 業の重 要拠 点となっています。
あらかじ
ちゅうがく じだい
ゆうじん
きょうかい かんけいしゃ
予 め中学時代の友人と教会関係者に
そうそうき
テジョン
じじょう
くわ
ひと
あ
草創期の大田の事情に詳しい人に会いた
むね たの
テジョン
う
い旨頼んでおりましたところ、大田で生
そだ
せんぜん
しんぶん きしゃ
にほん
まれ育ち、戦前は新聞記者として日本に
す
せんご
せいじか
も住んだことがあり、戦後は政治家とし
ちほう
せいじ
かつやく
キム ウォンボン
ころう
て地方政治で活躍した金元鳳という古老
あ
はなし
き
でき
キム
に会って話を聞くことが出来ました。金
し
はなし
ようやく
つぎ
氏の話を要約しますと次のようになりま
日本統治下の朝鮮で生まれ育ったことの意味
15
のうみん
す。
おも
てんさい
だ。農民たちは思いがけない天災にあっ
テジョン
にほんじん
つく
てんけいてき
大田は日本人によって造られた典型的
しょくみん とし
とうじ
じぶん
とち
うば
なりわい
うしな
りゅうみん
たように土地を奪われ生業を失い流民と
たぶん
さんちゅう
はい
ファ
な植 民都 市であった。当 時自 分はまだ
なってしまった。多 分山 中に入 って火
ようじ
ジョン ミン
ちょくご
きおく
幼 児であったので直 後の記 憶はないが、
おや
つた
き
まんしゅう
い
田 民 になったか満 州に行 ったかであろ
しがい
ぞうせい
しごと
とうよう たくしょく
親たちから伝え聞いたところでは、ある
う。この市 街造 成の仕 事は東 洋拓 殖の
ひ
じぎょう
とつぜん くっきょう
にほんじん
いちだん
ずみ
はだか
キム し
日突然屈強な日本人の一団(金氏はその
ひとびと
い
おに
事業であった。
おとこ
人々を『入れ墨をした裸の鬼のような男
ひょうげん
たち』と表 現しました)がやってきて
こやが
すうじつ
はたけ
小屋掛けをし、それから数日のうちに畑
のはら
なわ
は
めぐ
も野原もおかまいなしに縄を張り廻らし
こうさく
のうみん
た。耕 作をしていた農 民がどのように
こうぎ
むだ
とち
と
あ
抗議しても無駄だった。土地は取り上げ
ふきん
られてしまった。もともとこの付 近は
ひと
いえ
すく
のち
いちば
あた
人、家が少なく、後に市場となった辺り
しょうしゅうらく
に「ハンパット」という小集落があった。
おお
はたけ
「ハンパット」とは「大 きい畑 」という
いみ
テジョン
キム ウォンボン
はなし
わたし
れきし
そうぞう
うらづ
んで想像していたことを裏付けるもので
キム し
わたし
テジョン
たず
こと
しら
した。金氏は私がこのような事を調べる
よろこ
あたた
ちょうせん
う
ために大田を訪ねたことを喜んで温かく
かんたい
くだ
歓待して下さった。
いじょう
わたし
にほん
とうちか
以上で私が日本統治下の朝鮮で生まれ
いか
おも
こっかてき
みんぞくてき ざいせき
たことに如何に重い国家的民族的罪責を
おも
もっているかがわかっていただけると思
います。
ちめい
意味で「大田」という地名はこの「ハン
き
ち
パット」から来ている。つまりこの地は
はさ
ひよく
のうち
大田川を挟 んで肥 沃な農 地であったの
16
ちきゅうじんたからづか
地 球 人 宝塚 2010 年 No.3 別冊
まな
金 元 鳳 氏のこの話 は、私 が歴 史を学
ねん
がつ
か
いまい
かずと
2009年11月14日 今井和登
ひげき
がいむだいじん
とうごうしげのり
悲劇の外務大臣、東郷茂徳 2
さつまや
とうこう
しそん
にほんみんぞく
すく
~ 薩摩焼き陶工の子孫が日本民族を救った ~
たからづかしこくさいこうりゅうきょうかい
りじ
どい
ひろし
宝塚市国際交流協会 理事 土井 浩 さんびゃくねんまえかんこくじん
ち
やぶ
こい
三 百年前の韓国人の血で破れた恋
とうごうしげのり だいがくさんねん しょうがつ はいけっかく
東 郷茂徳は大 学三年の正 月に肺 結 核
いちねんかん きゅうがくとど
だ
よくじつ
とうごう
翌 日、 東 郷 は
とうぶでんてつ あさくさえき
東 武電鉄の浅 草 駅
みつ
つ
にかかり、一 年間の休 学届けを出 して
で美 津が着 くのを
ちゅうぜんじこはん
ま
ちゅうぐうし せいよう
中 禅寺湖畔の中 宮祠で静 養することに
いちりゅうりょかん しまがみろう むすめ
なった。そこで一 流 旅 館、島上楼の 娘
じょがくせい みつ
であ
なつ
である女 学生の美 津に出 会った。夏 の
さか
うつのみや
あし
盛 り、いっしょに宇 都宮へ足 をのばし
ちが
ひと
かなら みつ
しせん
た。すれ違う人たちは必ず美津に視線を
な
みつ
あい
投 げた。それほど美 津は愛 らしかった。
どようび
みつ
みじか おうせ
も
土曜日ごとに美津と短い逢瀬を持つよう
しげのり ほんもの こい
になった。茂徳は本物の恋をしたようだ。
みつ
はる じょがっこう そつぎょう
とうごう
美津はこの春、女学校を卒業した。東郷
みつ
りょうしん
ちょうぶん てがみ
か
は美 津の両 親あてに長 文の手 紙を書 い
みつ
ていちょう
た。美津をもらいうけたいむね、丁重に
か
りょうしん
へんじ
ごごいちじ
待 った。午 後一時
でんしゃ
つ
すぎ電車が着い
た。
みつ
すがた
ひとこ
なか とうごう
美津の姿はなかった。人混みの中に東郷
ぼう
た
ごごさんじはん
は棒のように立っていた。午後三時半に
とうごう みれん
た
き
たにん
わ
東郷は未練を断ち切った。他人には分か
ち
いろ
らないがそれは血の色をしている。この
くに
ふとう
べっし たいしょう
ち
いろ
国でのみ不当な蔑視の対象となる血の色
とお
そせん
ひ
ち
である。遠い祖先から引いた血のせいで
とうごう いこく
にんげん
東郷は異国の人間なのだった。 きき
がいしょう とうごうしげのり
[「危機の 外 相 東 郷茂徳」より ]
こ
書 いた。両 親からは返 事が来 なかった。
とつぜん みつ
じょうきょう にちじ
し
ぶりょく
ほんもの だいとうあきょうえいけん
突 然、美 津から 上 京 の日 時を知 らせる
武 力によらぬ本 物の大 東亜共栄圏を
てがみ
き
にほん
むか
したく
しげのり めぐろ
げしゅく みつ
手紙が来た。茂徳は目黒の下宿で美津を
かごしま
ちち
てがみ
迎える支度をした。鹿児島の父から手紙
き
さいきん
こうしんじょ おとこ
なえしろがわ
が来 た。最 近、興 信所の男 が苗 代川へ
とうごうしげのり みもと
しら
きて東 郷茂徳の身 元を調 べていったと。
き
さんびゃくねんまえ
「まさか気にはせんだろう。三 百 年 前の
かんこくじん ち
韓 国人の血のことなど」
もさく
日本は模索すべきだ
しょうわじゅうろくねんじゅうがつじゅうはちにちづけ
昭 和 十 六 年 十 月 十 八 日 付で
とうじょうないかく
せいりつ
がいむだいじん
東 条 内 閣 が成 立した。外 務大臣には
とうごうしげのり
さきだ
たいべいきょうこう
東 郷 茂 徳。それに先 立ち 対 米 強 硬 を
しゅちょう
りくぐん おさ
ごぜんかいぎ
しゅしょう ないてい
き
とうじょうひでき
主 張 する陸 軍に抑 えが効 く東 条英機が
とうじょう
御 前会議で首 相に内 定していた。 東 条
悲劇の外務大臣、東郷茂徳 2
17
にちべいこうしょう でき
じんぶつ とうごういがい
は日 米 交 渉が出 来る人 物は東 郷以外に
とうごう がいむだいじん
いらい
ないとして東 郷に外 務大臣を依 頼した。
せんせんふこく
して宣戦布告をした。
きき
がいしょう とうごうしげのり
[「危機の 外 相 東 郷茂徳」による ]
とうじょうしんしゅしょうたいべいせんそう しんぱい
東 条 新 首 相 は対米戦争を心配される
てんのうしんじょう く
にちべいこうしょう
ほんどけっせん
こくみん
し
天皇の心情を汲んでしぶしぶ 日 米 交 渉
本 土決戦をやれば国 民はすべて死 に、
をしようとしている。そこへつけこん
国体も失われる
こうしょう
せんそう
で交 渉すればよいのだ。それで戦 争を
かいひ
あっとうてき こうぎょうせいさんりょく
回 避できる。圧 倒的な 工 業 生 産 力 を
も
せきゆ
にほん
せいめいせん にぎ
持ち、石油など日本の生命線を握ってい
ちょうたいこく
せんそう
ぐこう
さ
こくたい うしな
しょうわにじゅうねんいちがつここのか
ぐん
昭 和 二 十 年 一 月 九 日、アメリカ軍
とう じょうりく
は フ ィ リ ピ ン の ル ソ ン 島 へ 上 陸 し た。
やましたともゆきたいしょう
だいじゅうよんほうめんぐん
山 下 奉 文 大 将の第 十 四 方 面 軍が
げいげき
あ
あっとうてき
ぐん
る超 大国アメリカと戦 争する愚 行が避
迎 撃に当 たったが圧 倒的なアメリカ軍
けられるのだ。
のまえに二 月 中 旬マニラを占領された。
ゆうき
も
にがつちゅうじゅん
かちゅう くり
ひろ
とうごう
勇気を持って火中の栗を拾おうと東郷は
けつい
おきなわ じょうりく
そうじしょく
し た。 四 月 六 日 小 磯 内 閣 が 総 辞 職 し、
さいげつ さんじゅうまんにん
ち
なが
「四年半の歳月と 三 十 万 人 の血を流
え
ぐん
四 月 一 日、 ア メ リ カ 軍 は 沖 縄 へ 上 陸
しがつむいかこいそないかく
決意した。
よんねんはん
しがつついたち
せんりょう
けんえき
てばな
すずきかんたろうないかく
せいりつ
とうごうしげのり
鈴 木貫太郎内閣が成 立した。東 郷 茂 徳
がいしょうしゅうにん
もと
すずき
して得 た権 益をむざむざ手 放すなど、
は 外 相 就 任 を求められたが鈴木に
くつじょくがいこういがい
そくじせんそうしゅうけつ
屈 辱 外 交 以 外 のなにものでもない」
たなべさんぼうじちょう
め
あ
はんろん
いし
めいかく
即 時 戦 争 終 結 の意 志が明 確でないこ
し
じたい
きどうちだいじん
田 辺参謀次長が目 をつり上 げて反 論し
と を 知 り 辞 退 し た。 木 戸 内 大 臣 か ら
た。
東 郷 外 務 大 臣は天皇のご意向である
とうごうがいむだいじん
ちゅうごく りんこく
ながねん
「中 国は隣 国である。そこへ長 年にわた
ぶりょく あっぱく くわ
とうよう おお
って武力で圧迫を加えたのが東洋の大き
かくらんよういん
ぶりょく
な攪 乱要因となっている。武 力によら
ほんもの だいとうあきょうえいけん にほん
もさく
ぬ本 物の大 東亜共栄圏を日 本は模 索す
しず
とうごう かた
べきではないか」静 かに東 郷は語 った。
かいぎ
しず
会議はしばらく静まりかえった。
じゅういちがつにじゅうしちにち とうごう ぜつぼう つ
十 一 月 二 十 七 日 、東郷を絶望に突き
お
ちゃくでん
つた
てんのう
いこう
がいしょうしゅうにん りょうしょう
と伝 えられ、 外 相 就 任 を 了 承 した。
はちがつむいか ひろしま げんしばくだん
とうか
八月六日、広島に原子爆弾が投下された。
いっしゅん
ひろしま かいめつ
ししゃ
一 瞬 のうちに広 島は壊 滅した。死 者は
にじゅうまん
二 十万といわれた。
がいむだいじん
ぐんじん
こうふく
し
「 外 務 大 臣、 軍 人 に と っ て 降 伏 は 死 よ
はる
くつう
こうふく めい
り遙 かに苦 痛なのです。いま降 伏を命
はんらん
やから かなら
で
に
じれば反 乱する輩 が必 ず出 てくる二・
にろくじけん
ひかく
きぼ
落とした「ハル・ノ-ト」が着電した。
二 六事件とは比 較にならない規 模で」
しょうわじゅうろくねんじゅうにがつようか
あなんりくしょう い
昭 和 十 六 年 十 二 月 八 日、
だいにほんていこくせいふ
がっしゅうこく たい
大 日本帝国政府はアメリカ合 衆国に対
18
ちきゅうじんたからづか
地 球 人 宝塚 2010 年 No.3 別冊
阿 南陸相は言った。
あなんかっか
げんしばくだん
「 阿 南 閣 下、 こ の ま ま で は 原 子 爆 弾
にほんじゅう
とし
かいめつ
で 日 本 中 の 都 市 が す べ て 壊 滅 す る。
なんせんまんにん
ひと
し
ぐんたい こうじょう
何 千 万 人 もの人 が死 ぬ。軍 隊も 工 場
てつどう なに
にほん
も鉄道も何もかもなくなって日本はシベ
ちゅうごく そ れん
つた
アメリカ、イギリス、中国、ソ連へ伝え
ら れ た。 きき
がいしょうとうごうしげのり
[「危機の外 相 東 郷 茂 徳」による ]
げんや
リアの原野のようになってしまうのです
とうごう い
い
あなん
しり たた
とうごうしげのり
わへい
いのち
たたか
ぞ」東郷は言うだけ言って阿南の尻を叩
東 郷茂徳は和 平のために命 がけで 戦
いた。
ってきた
れん
にほん
せんせんふこく
にっ
しょうわにじゅうさんねんじゅういちがつじゅうににち
ソ 連 が 日 本 に 宣 戦 布 告 し た。 日 ソ
昭 和 二 十 三 年 十 一 月 十 二 日、
ちゅうりつじょうやく
きょくとうこくさいぐんじさいばんしょ
いちねんゆうこう
中 立 条 約 はあと一年有効である。そ
むし
れん
せんそう
しか
れを無 視してソ連 は戦 争を仕 掛けてき
げんばく
にほん
ひんし
じょうたいおちい
た。原 爆で日 本が瀕 死の状 態に陥 った
み
せ
こ
さんじょうけん ほうき
めつぼう
てき
い
ち大和民族の滅亡になるのだ。敵の言い
どれいこっか
にほんじん
し
なりに奴隷国家になるよりは日本人は死
あなんりくしょう うめづさんぼうそうちょう
をえらぶ」阿 南陸相と梅 津参謀総長が
とうごうついきゅう お
かえ
きんこにじゅうねん
はんけつ
い
わた
ぼうちょうせき
つま
渡 し た。 傍 聴 席 に 妻 の エ デ イ - タ と
すがた
とうごうしげのり
「東 郷茂徳は
娘 のいせの姿 があった。
「あとの三 条件を放棄することはすなわ
やまとみんぞく
とうごうしげのり
東 郷 茂 徳 に禁錮二十年の判決を言い
むすめ
のを見て攻め込んできた。
きゅうせんぱん
極 東 国 際 軍 事 裁 判 所 は A 級 戦 犯、
せいしんろん
かべ
東郷の追及を押し返した。精神論の壁は
せんそうはんざいじん
わへい
戦 争 犯 罪 人などではありません。和平
いのち
たたか
のために命 がけで戦 ってきたのよ」と
せけん
うった
世間に訴えているようであった。 きき
がいしょう とうごうしげのり
[「危機の 外 相 東 郷茂徳」より ]
おわり
きょうこ
強固だった。
すずきしゅしょう
てんのう
鈴 木 首 相がよろめきながら「天 皇のご
せいだん はい
けつろん いた
い
結論と致します」と言った。
聖断を拝し、
がいむだいじん
いけん
じぶん
どうい
「外 務大臣の意 見に自 分は同 意である。」
てんのう ことば
ほんどけっせん
天皇の言葉がつづいた「本土決戦をやれ
こくみん
し
こくたい うしな
ば国 民はすべて死 に、国 体も失 われる。
せんそういっこく
しのびがたきをしのんでこの戦争は一刻
はや しゅうけつ
も早く終結しなければならない」
はちがつじゅうよっか
ごごじゅういちじ
八 月 十 四 日、 午 後 十 一 時「 ポ ツ ダ ム
せんげん じゅだく
でんぶん
宣言を受諾する」電文がスイスとスエ-
こうしかん
はっしん
ただ
デン公使館へ発信された。それは直ちに
悲劇の外務大臣、東郷茂徳 2
19
にほん
とくしゅう
ちょうせん
ねん
だい
かい
ETV 特集「日本と朝鮮2000年 第10回」について
ねん
2010 年 2 月 6 日
さか うえくも
かんが
ぜんこく
かいごうとうきょうぎんざ
(「<坂の上の雲>を考える全国ネットワーク」 の会合. 東 京 銀 座 )
やすかわじゅのすけ
安 川寿之 輔
たいわんしゅっぺい
はじめに
だいごさとる
しちょう
よ
醍醐聰さんからの視聴の呼びかけも
しんぶん
らん
さか
うえ
くも
あり、新聞のテレビ欄の「”坂の上の雲”
か
ちょうせん
しんしゅつ
せいかんろん
が描 かなかった朝 鮮への進 出 征 韓論
にっしんせんそう
しょうかい
み
から日 清戦争へ‥・」 という紹 介を見
さか
うえ
くも
ほうえい
じゃっかん
て、NHK は < 坂 の上 の雲 >放 映の若 干
つみほろ
の罪 滅ぼしをするのかナ、とかすかな
きたい
かくぎけってい
もうはんたい
の台 湾出兵の閣 議決定に猛 反対をして
いだ
ひごろ
しゅうしんじかん
へんこう
期待を懐いて、日頃の就寝時間を変更し
しちょう
けっか
じしょく
じんぶつ
かいしゅう
ばんぐみ
辞職した人物である(海舟はこの番組で
せんそう
は、「戦争をやりたくてたまらなかった」
かいぐん
だいひょうかく
とうじょう
海軍の代表格としてのみの登場)。
ばんぐみ
かつかいしゅう とうじょう
この番組で勝海舟を登場させるとした
しんりゃく
だつあ
ふくざわゆきち
ら、アジア侵略の「脱亜」の福沢諭吉の
みち
なら
おな
じだい
いっかん
道のりと並んで、同じ時代に一貫してア
れんたい
しゅちょう
かつかいしゅう
ジア連 帯を主 張して、とりわけ勝 海 舟
にっしんせんそう
せんごしょり
せんしょう
にほん
てってい
はんたい
て視聴したが、結果はやはりガックリで
が日 清戦争と戦 後処理に徹 底して反 対
した。
し、
戦勝に湧く日本の民衆にたいしても、
いっとき
わ
しょうり
みんしゅう
うぬぼ
けいこく
と警告し、
「こ
「一時の勝利に自惚れるな」
ぼうとう
こうかとうじけん
はいけい
① 冒 頭の江 華島事件の背 景について
にほんがわけんきゅうしゃ
ばんのじゅんじ
けいしょう りゃく
の日 本側研究者の坂 野潤治(敬 称、略 )
せつめい
かつかいしゅう
たいへん
あやま
の 説 明 は、 勝 海 舟 に つ い て 大 変 な 誤
おか
ばんの
ばくまつ
り を 犯 し て い ま し た。 坂 野 は、「 幕 末
かいぐんぶぎょう
かつかいしゅう
とき
せいかんろん
の海軍奉行の勝海舟の時から征韓論
かいぐん
ものすご
つよ
めいじ
ねん
が海 軍では物 凄く強 くて‥・ 明 治8年
にほん
かいぐん
つぎま
ぎゃくうん
であ
にほん
「逆運に出会う」
)のは日本
の次負ける(
ばん
してき
ねん
にほん
の番だ」と指摘して、1945 年の日本の
はいせん
よげん
じんぶつ
えが
敗戦を予言した人物として描くべきであ
おうひ
めいせいこうごうさつがいじけん
ろう(王妃=明成皇后殺害事件について
かつ
ミンビごろ
せかい
はじ
さら
も、 勝は「閔妃殺しで世界に恥を曝した」
ひはん
と批判)。
せんそう
の日本の海軍は戦争をやりたくてた
せつめい
ま ら な か っ た 」 と 説 明 し た。 し か し、
かつかいしゅう
ばくまついらいいっかん
ひがし
ばんぐみ
たんとう
しおたじゅん
② こ の 番 組 を 担 当 し た 塩 田 純 チ ー
勝 海 舟は幕末以来一貫して東アジア
フ プ ロ デ ュ ー ザ ー は。
「シリーズには
さんごくどうめい
にっかんそうほう
れんたいろんしゃ
めいじ
ねん
三国同盟・連帯論者であり、明治6年に
さんぎけんかいぐんきょう
かつ
めいじ
ねん
参 議兼海軍卿となった勝 は、明 治7年
20
ちきゅうじんたからづか
地 球 人 宝塚 2010 年 No. 3 別冊
がくしゃ
かなら
しゅつえん
日 韓双方の学 者が必 ず出 演」したこと
じふ
れきし
ふくがん
み
を自 負して、それが歴 史を「複 眼で見
かんが
ようす
る」ことであると考 えている様 子であ
がつ
にち
あかはた
ひしんりゃくこく
。 被 侵略国の
る(1 月 30 日「赤 旗」)
がくしゃ
きよう
ふくがん
だいいっぽ
学者を起用することが「複眼」の第一歩
とうぜん
こんかい
であることは当然である。しかし、今回
にっかんそうほう
ふたり
がくしゃ
ぜんたい
の日韓双方の二人の学者は、全体として
ふくざわゆきち
かんけい
福 沢諭吉とキム ・ オッキュンの関 係を
こういてき
ひょうか
がくしゃ
ていせつ
にっぽんきんだいしたいけい
たいがいかん
「定 説 」( 日 本 近 代 史 大 系 ⑫『 対 外 観 』
いわなみしょてん
ふくざわ
しんりゃく
岩 波書店)、「福 沢にとっては、侵 略の
ぶんかこうさく
す
ための文 化工作にしか過 ぎなかった。」
ユンコンチャ ちょうせんきんだいきょういく
しそう
うんどう
(尹 健次『朝 鮮近代教育の思 想と運 動』
とうきょうだいがくしゅっぱんかい
ひょうか
み
東 京 大 学 出 版 会)という評価は、見え
てこない。
きよう
好意的に評価する学者を起用するという
へんこう
たんがん
せんたく
バイアス・偏向、つまり「単眼」を選択
みお
していることを見落としてはならない。
いちばんゆる
おも
ふくざわ
c 一 番許せないと思 ったのは、福 沢
かんけい
ひはんてき
み
と キ ム の 関 係 を 批 判 的 に 見 る の は、
せんごにほん
れきしがく
戦 後日本の歴 史学のせいであるという
こんかい
ばんぐみ
ふくざわゆきち
a 今 回の番 組では、福 沢諭吉が、ア
ちょうせん
きんだいか
かてい
ジ ア か ら は 朝 鮮 の「 近 代 化 の 過 程 を
ふ
はたん
お
踏 みにじり、破 綻へと追 いやった、わ
みんぞくぜんたい
てき
かんこく
もっと
にく
( 韓 国 )、
「最も憎む
が民族全体の敵」
みんぞく
てき
ていこくしゅぎてきかくちょうろんしゃ
「帝 国主義的拡張論者」
べき民 族の敵 」
たいわん
ひょうか
( 台 湾 ) と 評 価 さ れ て お り、
にほんぐんせいどれいもんだい
せんくてき
と
く
日本軍性奴隷問題に先駆的に取り組んで
ユンチョンオク
わか
ひょうげん
きた尹 貞玉さんの分 りやすい表 現では、
にほん
いちまんえんさつ
ふくざわ
いんさつ
「日 本の一 万円札に福 沢が印 刷されてい
にほんじん
しん
ひょうか
るかぎり日本人は信じられない」と評価
そくめん
み
ばんの
はつげん
れきし
げんば
坂 野の発 言である。「 歴 史の現 場 」 に
そく
どうじだいじん
め
もんだい
即した同時代人の目という問題であ
もんかせい
いのうえかくごろう
しょうげん
る。門下生の井上角五郎が証言している
ふくざわゆきち
こうしんせいへん
さい
ように、福 沢諭吉は、甲 申政変に際 し
とうけん
ばくやく
ぶきていきょう
にな
て刀 剣、爆 薬などの武 器提供を担 った
いじょう
ふか
以 上にクーデターに深 くかかわりをも
ふくざわ
し
ち ( 福沢がクーデターのことを「知らな
さかの
かったはずはない」 という坂 野のコメ
そまつ
め
とう
てき
ントもお粗 末だった )、「 目 ざす当 の敵
しな
ゆえ
かいりくたいきょ
しな
は支 那なるが故 に、「海 陸大挙して支 那
しんにゅう
ただ
ぺきんじょう
おとしい
てんのう
されている側 面は見 えてこないのであ
に進 入し、直 ちに北 京城を陥 れ」、天 皇
る。
の「 御 親 征 の 挙 断 じ て 行 ふ 可 き な り。
ごしんせい
きょだん
ふくざわ
おこな
べ
じじしんぽう
し
」 な ど と、 福 沢 の 「 時 事 新 報 」 紙 は
どうよう
b 同 様 に、 キ ム・ オ ッ キ ュ ン ヘ の
ふくざわ
えんじょ
かいかは
福 沢の「援 助」についても、「開 化派の
しゅうらん
いくせい
にほん
えいきょうりょく
どくせんてき
収 攬・育 成も、日 本の影 響 力と独 占的
こっかりえき
かくだい
しんか
な国家利益の拡大・深化のため」という
なんど
はっこうていししょぶん
きょうこう
何度か発行停止処分をうけたほどの強硬
ぐんじかいにゅうろん
ねん
な 軍 事 介 入 論 で あ っ た か ら、1885 年
うえの
たいしじいうんどう
かいしゅうさんぜんにん
の上 野の対 支示威運動の会 衆三千人が、
しちゅう
こうしん
さい
じじしんぽうしゃまえ
市 中デモ行 進の際 に時 事新報社前で 「
ETV 特集「日本と朝鮮2000年 第10回」について
21
どうしゃばんざい
れんこ
じじつ
同社万歳 」 を連呼した事実はある。
ねん
じじしょうげん
し か し、1881 年『 時 事 小 言 』 で 「
ぶえんりょ
そのじめん
おうりょう
無遠慮に其地面を押領 」 するアジア
しんりゃくろせん
かくりつ
いらい
とうじ
ふくざわ
侵 略路線を確 立して以 来の当 時の福 沢
おな
どうじだいじん
みんけんじんえい
は、同じ同時代人である民権陣営からは
ちょうせんしょぶん
かん
ひたす
むてっぽう
「 朝 鮮処分二関 シテ、‥・ 徒 ラニ無 鉄砲
おおばかろん
とな
ふそうしんし
ノ 大 馬 鹿 論 ヲ 唱 へ ‥・」(『 扶 桑 新 誌 』
ほら
ふくざわ
うそ
ゆきち
ひ
)、「 法 螺 を 福 沢、 嘘 を 諭 吉 」 (「 日
でしんぶん
あざけ
の 出 新 聞 」) な ど と 嘲 ら れ、 と り わ け
よしおかひろたけ
もとがいむごんのしょうじょう
吉 岡 弘 毅 ( 元 外 務 権 少 丞 ) か ら は、「
わがにほんていこく
ごうとうこく
へん
我 日本帝国ヲシテ強 盗国二変 ゼシメン
はか
ふくざわ
みち
にほん
ト謀 ル」 福 沢の道 のり ( つまり、日 本
きょうへいふこく
きんだいかろせん
ふかきゅう
の強 兵富国の近 代化路線 ) は、「 不 可救
さいか
しょうらい
い
ことひつ
ノ災禍ヲ将来二遺サン事必セリ」 と
てきせつ
ひはん
ふくざわ
ちょうせん
ぶんめい
めいもく
ぶりょくしんりゃく
ゆうどう
から、福沢が朝鮮を「文明」に誘導する
こうせい
ごうりか
という名目で武力侵略を合理化したもの
はあく
ちょうせん
がんろう
と把握した。つまり朝鮮が「頑陋」であ
ぶりょくこうし
ようにん
ごうりか
ることが、武 力行使の容 認・合 理化に
ていこくしゅぎてき
ぶんめい
つながるという帝 国主義的な「文 明の
ろんり
かくりつ
けっかふくざわ
論 理」の確 立である。その結 果福沢は、
いっせい
ちょうせん
ちゅうごく
まる
べっし
一 斉に朝 鮮 ・ 中 国への丸 ごとの蔑 視・
へんけん
ひょうか
た
なが
かいし
ちょうせんじん
みかい
偏見・マイナス評価の垂れ流しを開始し
た。
りょうじへんぜんご
それが両事変前後の「朝鮮人は未開の
たみ
きわ
がんぐ
きょうぼう
ちょうせんじん
民 ‥・ 極 めて頑 愚‥・ 凶 暴」「朝 鮮人‥・
がんめいきょごう
むきりょくむていけん
しなじんみん
頑 迷倨傲‥・ 無 気力無定見」「支 那人民
きょうじゅひくつ
じつ
ほうがいむるい
の 怯 儒 卑 屈 は実 に 法 外 無 類 」「 チ ャ イ
あたか
こじきえた
ちょうせんこく
ニ ー ズ ‥・ 恰 も 乞 食 穢 多 」「 朝 鮮 国 ‥
じんみんいっぱん
りがいいかん
ろん
いうきびしくかつ適 切な批 判 ( 後 世の
・ 人 民一般の利 害如何を論 ずるときは、
なんきんだいぎゃくさつ
めつぼう
げんばくとうか
とうきょうだいくうしゅう
南 京 大 虐 殺 ・ 原 爆 投 下 ・ 東 京 大 空 襲・
おきなわせんなど
ひげき
よこく
沖縄戦等の悲劇の予告 ) をうけていたの
そのこうふく
だい
滅 亡こそ‥・ 其 幸福は大 」などという
はつげん
さいご
はつげん
ちょうせんじん
発 言である。最 後の発 言は、朝 鮮人は
えいろ
しはいか
しゅうしんないがい
ちじょく
英 露の支 配下に『終 身内外の恥 辱』に
である。
た
ぶべつてき
しゃせつ
耐 え よ と い う 侮 蔑 的 な 社 説 で あ り、
ばんぐみ
じじしょうげん
よく
『時 事小言』の翌 1882
d 番 組では、
ねん
ふくざわ
ろんせつ
ちょうせん
こうさい
ろん
年の福沢の論説「朝鮮の交際を論ず」は、
おうべい
しんりゃく
るいしょう
よぼう
ひょうめい
はあく
じじしんぽう
はっこうていししょぶん
時事新報は、またまた発行停止処分をう
けた。
欧米によるアジア侵略の「類焼を予防す
ぼうぎょてき
せいさく
る」ための防御的な政策の表明と把握し
わたし
おな
ろんこう
ちょうせんこく
ていた。しかし私は同じ論稿の「朝鮮国
みかい
これ
さそ
これ
みちび
べ
‥・ 未 開ならば之 を誘 ふて之 を導 く可
か
じんみんはた
がんろう
ぶりょく
し、彼の人民果して頑陋ならば‥・ 武力
もち
そのしんぽ
たす
しゅちょう
を用ひても其進歩を助けん」という主張
22
ちきゅうじんたからづか
地 球 人 宝塚 2010 年 No. 3 別冊
だつあろん
こうしんせいへん
ちょくせつてき
e 「脱 亜論」は、甲 申政変(の直 接的
しえん
しっぱい
れいがいてき
ふくざわ
お
こ
とき
か
な支援)に失敗して落ち込んだ時に書い
にんしき
た例外的な福沢のアジア認識であるとい
あやま
にんしき
もんぶしょう
きょうかしょけんていかん
う誤った認識(文部省の教科書検定官が
りゆう
ふくざわ
にんしき
これを理由にして、福沢のアジア認識の
てんけい
だつあろん
きょうかしょ
いんよう
典 型として、「脱 亜論」を教 科書に引 用
きさい
あやま
いけん
けんてい
・ 記載することを誤りとした違憲の検定
たい
お
たかしま
よこはま
に対して起こされたのが。「高嶋(横浜)
きょうかしょそしょう
いか
教科書訴訟」である)についは、以下の
とお
みんじょう いっ しん
にほん
きんだいか
おうべい
せんしん
しょこく
の近代化のモデルの欧米「先進」諸国が
ろうどううんどう
ろうばい
ほうこう
社 会主義 ・ 労 働運動で「狼 狽して方 向
まよ
あら
げんじつ
にんしき
に迷 う」という新 たな現 実を認 識した
ふくざわ
ねん
じじしょうげん
よくとし
福沢は、1881 年『時事小言』と翌年の
ていしつろん
ふどう
ほしゅしそう
『帝 室論』によって、不 動の保 守思想を
かくりつ
じょうき
じじしょうげん
確立した。上記したように、『時事小言』
asia
しんりゃくろせん
ていじ
よくとし
で ア ジ ア 侵 略 路 線 を 提 示 し、 翌 年 の
TV
しょうかい
ちょうせん
こうさい
(テ レビでも紹 介された)「朝 鮮の交 際
ろん
あじあとうほう
めいしゅ
を 論 ず 」 で「 亜 細 亜 東 方 」 の「 盟 主 」
にほん
asia
ぶんめい
ゆうどう
日 本がア ジアを「文 明」に誘 導すると
めいもく
ぶりょくこうし
ごうりか
い う 名 目 で、 武 力 行 使 を 合 理 化 し た
ふくざわ
じんごぐんらん
さい
とうよう
福 沢は。壬 午軍乱に際 しては「東 洋の
ろうたいきゅうぼく
いちげき
もと
ざせつ
老大朽木を一撃の下に挫折」させるため
ぺきんこうりゃく
ようきゅう
ねん
へいろん
の北 京攻略を要 求し、1882 年『兵 論』
だつあろん
どうよう
しなこくはた
では、
「脱亜論」同様に、「支那国果して
しょがいこく
て
おち
‥・ 諸 外国の手 に落 ることならば、‥・
しゅうしゅぼうかん
ことわり
われ
またふんき
袖手傍観するの理なし。我も亦奮起して
とも
ちゅうげん
しか
えいじん
なら
だいえいていこく
ひけん
ら ず、 ‥・」 と、 大 英 帝 国 に 比 肩 す る
ていこくしゅぎきょうこくにほん
みらいぞう
えが
だ
帝 国主義強国日本の未 来像を描 き出 し
ふくざわ
よく
ねん
がいこうろん
た福 沢は、翌 1883 年 の「外 交論」で
ぶんめい
くにびと
は
は、「食 むものは文 明の国 人にして食 ま
1879 年『民情―新』において、日本
しゃかいしゅぎ
ぎょ
土 人等を御 すること英 人に倣 ふのみな
は
通りである。
ねん
どじんなど
お
ていしょう
ふぶん
くに
わがにほんこく
るるものは不文の国とあれば、我日本国
そのは
もの
りょうじ
もと
れつ
くわ
ぶんめいこくじん
とも
は其食む者の列に加はりて文明国人と共
か
しんりゃく
に良餌を求めん」と書いて、侵略こそを
ぶんめいこく
そんざいしょうめい
よく
ねん
文 明国の存 在証明とした。したがって、
こうしんせいへん
みずか
翌 1884 年 の甲 申政変においては、自
ぶきていきょう
にな
ふくざわ
ちょうせんけいじょう
ら武 器提供を担 った福 沢は、「朝 鮮京城
みなごろし
しなへい
ただ
ぺきんじょう
の支 那兵を鏖 にし、‥・ 直 ちに北 京城
おとしい
しなよんひゃくよしゅう
じゅうりん
を陥 れ」「支 那四百余州を蹂 躙する」こ
こごう
じんぐうこうごう
これい
なろ
とを呼 号し、「神 功皇后の故 例に倣 ふて
ごしんせい
きょだん
おこな
べ
‥・ 御 親征の挙 断じて行 ふ可 きなり。」
さいきょうこう
ぶりょくこうしろん
てんかい
という最 強硬の武 力行使論を展 開した
じじしんぽう
し
はっこうていししょぶん
(「時事新報」紙は発行停止処分)。
しんふつせんそう
ねん
がつ
清 仏 戦 争 に つ い て、1885 年 3 月 の
ろんせつ
こっこうさい
しゅぎ
しゅうしんろん
こと
論 説「 国 交 際 の 主 義 は 修 身 論 に 異 な
ふつぐん
せんしょう
な
り」において、
「仏 軍の戦 勝とさへ為 り
どうとく
お
またせいぎしゃ
けっ
これ
な
て、‥・ 道徳に於ても亦正義者の名を‥
わがはい
とが
むし
さんせい
・ 我輩は決して之を咎めず、寧ろ賛成し
ひたすらそのかつどう
きんぼ
」と
て只 管其活動を欽 慕するものなり。
ひょうめい
いっ しゅうかんご
か
いじょう
ふくざわ
だつあろん
共 に中 原に鹿 を逐 はんのみ。」と提 唱し
表 明した一 週 間後に、福 沢は「脱 亜論」
た。
を書いた。以上の福沢の戦争・外交論の
どうねん
がつ
とうよう
せいりゃくはた
なが
み
ふくざわ
だつあ
せんそう
がいこうろん
にほん
せいよう
同 年 12 月 の「 東 洋 の 政 略 果 し て
流 れを見 れば、「脱 亜」日 本が「西 洋の
いかん
ぶんめいこく
いんどしな
如 何 せ ん 」 に お い て、「 印 度 支 那 の
しんたい
とも
ちょうせん
ちゅうごく
文明国と進退を共にし」て、朝鮮・中国
ETV 特集「日本と朝鮮2000年 第10回」について
23
ていこくしゅぎてき
ぶんかつ
さんか
いっしんどくりつ
ていげん
だつあろん
asia
ふくざわけんきゅうしじょうさいだい
しんりゃくろせん
た「脱亜論」のアジア侵略路線が、この
じき
ふくざわ
ふどう
いっこくどくりつ
「一 身独立して一 国独立す」について
の帝国主義的「分割」への参加を提言し
ごどく
とうしゅう
の福沢研究史上最大の誤読を踏襲し
まるやまゆきち
こくさく
しんわ
さいげん
時期の福沢にとっては不動の「国策」と
て「丸 山諭吉」神 話を再 現したことに
もいうべきものになっていたことは、あ
ついては、全 国ネ ットのサ イト前 掲の
ぜんこく
ふくざわゆきち
あき
まりにも明らかであろう。
さか
net
うえ
site
くも
ぜんけい
らん
〉を、ご覧い
〈福沢諭吉と『坂の上の雲』
ただきたい。
ふくざわゆきち
がくもん
f 福 沢 諭 吉 の『 学 問 の す す め 』 の
しょうかい
ぶんしょう
ぼうとうく
紹 介 に お い て、NHK は 冒 頭 句 に つ い
てん
ひと
うえ
ひと
つく
ひと
きょうの ために おくって いただきました。
せんせい
つく
い
なごやだいがくめいよきょうじゅ
きんだいにほんしゃかい
先 生は 名 古屋大学名誉教授。 近 代日本社会
した
て、「 天 は 人 の 上 に 人 を 造 ら ず 人 の 下
ひと
やすかわせんせい
この文章は 安川先生から わたしたちの べん
きょういく
しそうしせんこう
きょういくがくはくし
ふせんへいし
( 教 育 ) 思 想 史 専 攻。 教 育 学 博 士。 不 戦 兵 士・
でんぶんたい
しみん
かいりじ
に 人 を 造 ら ず と 云 へ り。」 の 伝 聞 態 を
市民の会理事。 らいねん 2月3日には わた
かって
したちが 企画する KCCの 講師として お
さくじょ
むし
きかく
さか
勝 手 に 削 除・ 無 視 し た こ と と、「 坂
うえ
くも
しょかい
こうし
ちきゅうじんほんたい
むかえします。 (地球人本体 p.10 を みてくだ
どうよう
の 上 の 雲 」 初 回 と ま っ た く 同 様 に、
だいにじせかいたいせんちゅう
さい。)
ようちえん
第二次大戦中の キリスト教会幼稚園の クリスマス
ひょうごけんにしのみやしない
兵庫県西宮市内
24
ちきゅうじんたからづか
地 球 人 宝塚 2010 年 No. 3 別冊
ほん
しょうかい
ばっすい
たいだん
ざいにちひゃくねん
れ き し
ひと
に ほん
すがた
本の紹介 抜粋 「対談」在日百年の歴史は もう一つの日本の姿
しんちょうせんしょ
かんこくへいごうひゃくねん
ざいにち
新潮選書『韓国併合百年と「在日」
』を めぐって しん す
ご
じんざいいくせい
きむちゃんじょん
さ っ か
辛淑玉(人材育成コンサルタント)× 金賛汀(ノンフィクション作家)
ざいにち
し
ざいにち
れきし
みんぞくがっこう
ざいにちし
の民族学校でも、在日史はやっ
在日も知らぬ在日の歴史
いま
ぬ
がら
ていない。今、あそこは抜 け殻
しん
ろうさく
ほんとう
つか
さま
わたし
は
辛 労 作 を 本 当 に お 疲 れ 様 で し た。 私 は
かんこくへいごうひゃくねん
きん
のようなものですよ、恥ずかし
か
はなし
韓 国併合百年のテーマを金さんが書いてくれて、
い話ですが。
ほんとう
しん
おも
本当によかったと思っています。
きむ
たんじゅん
金 そうですか、ありがとうございます。
しん
いま
かんこくへいごうひゃくねん
な
たい
イベントがありますが、それに対 してちょっと
も
へいごうひゃくねん
れきし
違 和感を持 っていたんですよ。併 合百年の歴 史
ざいにち
れきし
ぬ
おも
は、在日の歴史を抜きにしてはありえないと思っ
りょうほう
れきし
けいぞく
いま
ていましたから。両方の歴史が継続して、今でも
しょくみんち
けいぞく
みんぞくし
ざいにち
おや
れきし
し
単 純 に親 の歴 史を知 ることだ
おも
辛 今、あちこちで韓 国併合百年と名 のついた
い わ かん
わたし
辛 私、 民 族 史 と い う の は、
しゃかい
おも
いみ
と思 うんです。そういう意 味で
ざいにち
れきしきょうかしょ
おも
は、これは在日の歴史教科書なんだと思いました。
きょうかしょ
かたくる
ほん
はじ
教科書というと堅苦しいですけど、この本の初め
ほう
じょこう
いきさつ はなし
で
わたし
の方に「女工」の経緯の話か出てきますよね。私
そ ぼ
じょこう
の祖母がやはり女工だったんです。これまではそ
さぎょう
つら
せんごほしょうさいばん
植民地が継続されているのが在日の社会だと思う
の作業の辛さとか、戦後補償裁判などといったこ
んです。
とは知っていましたが、流れとして読んで、泣け
きむ
し
とお
ざいにち
しゃかい
ぬ
にほん
金 その通りです。在日の社会を抜きにして日本
ちょうせんはんとう
ひゃくねん
れきし
と朝鮮半島との百年の歴史を語るというのは、や
たが
み
み
はりどこかお互いに見て見ぬふりをしてきたんだ
おも
ざいにち し
ふくざつ
わ
たと
はい
く
り 組 ん で い て よ く 分 か ら な か っ た。 例 え ば
こくせきひと
せんぜん
だいにっぽんていこくしんみん
国 籍一つとっても、戦 前は「大 日本帝国臣民」
、
せんご
かいほうこくみん
戦 後「 解 放 国 民 」 と な り、
に
ほんこくせき ほ ゆうしゃ
「日 本 国 籍 保 有 者 」
、そして
がいこくじん
かわ
「外国人」と変っていく。そう
なが
せつめい
し た 流 れ を 説 明 す る だ け で、
いき
わらい
きむ
きむ
金 そうだったんですか。
しん
そ ぼ
じょこう
とき
しゃしん
いちまい
も
辛 祖母は女工の時の写真を一枚だけ持っていた
み
ざいにち
れきし
じぶん
ざいにち
にんげん
わ
たち在 日の人 間でもよく分 か
き
まな
しゃかい
けっ
ところ
まな
すから。日本の社会では決して学べない、かとい
せいり
れきし
ってそれが整 理されることもない。歴 史のごく
ぶぶんてき
か
一部、部分的なエピソードが書かれることはあっ
なが
なか
いみ
れきし
じぶん
わか
ほん
ても全体の流れの中での意味が分らない。この本
よ
に
わ
ので、どうやってそこから逃げてきたのかも分か
ほん
よ
らなかった。でも、この本のそのくだりを読んで、
そ ぼ
かさ
ほか
ほん
祖母と重なったんです。他にも、この本のページ
いた
そ ぼ
で
そ ふ
の至 るところに、祖 母が出 てきて、また祖 父や、
ちち
はは
で
かれ
かのじょ
れきし
父、母が出てきます。彼ら彼女らの歴史がどうい
ふう
そ ふ
そ ぼ
う風につながっていたのか、そもそも祖父や祖母
なが
なか ちょうせんはんとう
き
ちょうせんそうれん
みんだん
たのか、あるいは朝鮮総連や民団とのさまざまな
かくしつ ろくじゅう
はちじゅうねんだい
きたちょうせんきかんじぎょう
確執、六 〇~八〇年代の「北朝鮮帰還事業」とい
わか
ちしき
ほんとう
はじ
った断片的にしか分らなかった知識が、本当に初
辛 ええ、本当にそうなんです。学ぶ所がないで
にほん
はなし
だんぺんてき
らなくなってしまっている気がしますね。
ほんとう
ころ
た。「その頃 の話 はしてくれるな」といっていた
がどんな歴史の流れの中で朝鮮半島からここに来
金 在 日の歴 史は、もう自 分
ぜんたい
てきましたね。
れきし
。
ため息がでてしまう(笑)
いちぶ
な
んですね。でも、それは死 ぬまで見 ませんでし
辛 そ れ と、 在 日 史 は あ ま り に も 複 雑 に 入
しん
よ
し
と思います。
しん
なが
かん
れきしてき
いま
わたし
めて歴史的につながりました。今まで私にとって
てん
み
せん
めん
点でしか見えなかったものが線になり、面となっ
ざいにち
にほん
ちょうせんはんとう
れきし
りったいてき
み
て、在日と日本と朝鮮半島の歴史が立体的に見え
おも
てきた思いです。
きむ
しん
じだい
れきし
そうたいてき
み
金 辛さんの時代は、歴史を総体的に見ていこう
はっそう
を読んで、やっと歴史と自分たちがつながった感
という発想がもうあまりなくなってしまっていま
じがしました。
したからね。
きむ
ほんらい
おし
金 そうですね。本来そうしたことを教えるはず
しん
せんごげんだい し
おし
辛 そうなんです。戦後現代史を教えられていな
本の紹介 抜粋 「対談」在日百年の歴史は もう一つの日本の姿
25
にほん
わかもの
れきし
じぶん
ぶんり
い日本の若者は歴史と自分が分離しているとよく
にほんじん
もんだい
いわれますが、それは日本人だけの問題ではなく
ざいにち
じぶん
し
て、在日も自分たちのことを知らないんですね。
きむ
きむ
キムビョンシク
しはい
まった
だめ
わたし
しん
ダメになってしまいましたからね。ただ私も辛さ
おな
はじ
みんぞくがっこう
んと同じで、初めからずっと民族学校にいたので
にほん
金 はい、それはもうはっきりいえます。
そうれん
金 金 炳植が支 配するようになって総 連は全 く
いなか
そだ
こうこうじだい
はなく、日本の田舎で育ったんです。高校時代ま
ちょうせんじん
たい
みんぞく
ではとにかく朝鮮人であることに対する民族コン
じぶん
いったいなにびと
つよ
プレックスがめちゃくちゃ強かった。しょっちゅ
自分は一体何人なのか
ちょうせんじん
う、ちょっとしたことなんですが、朝鮮人である
しん
きん
じぶん
なにびと
にんしき
きず
辛 ところで、金さんはご自分を何人だと認識な
ことでプライドを傷つけられていました。
さっていますか。
辛 金さんでもそうだったんですか。でも、その
きむ ちょうせんじん
しん
にんしき
わたし
いしきてき
じぶん
辛 そうですよね。でも、私は意識的に自分のこ
ざいにちちょうせんじん
かた
とを「在日朝鮮人」といういい方をするんです。
きむ
わたし
たん
きも
わ
きむ
わか
気持ちはよく分かります。
金 朝鮮人という認識ですけど。
しん
きん
ちょうせんじん
かた
金 なるほど。私は単に「朝鮮人」といういい方
ころ
ちょうせんじん
いや
おも
金 だから、若い頃は「朝鮮人は嫌だ」という思
かたまり
おそ
わたし
じだい
きょういく
う
いの塊 だったんです。恐らく私の時代に教育を受
ざいにち
もの
おな
けた在日の者はみな同じようだったんじゃないか
な。
をします。
しん
せ だい
ちが
辛 それはきっと世代の違いなのかもしれません
しん
おも
辛 そう思いますね。
きむ
いま
おぼ
金 今 でもよく覚 えているのが「チョンジェン」
ね。
きむ
おな
金 そ う か も し れ ま せ ん ね。 た だ、 同 じ く
ちょうせんじん
じかく
ざいにち
ちょうせんじん
「朝 鮮人」であると自 覚する在 日でも、
「朝 鮮人」
ないよう
いしき
も
かた
ぜんいんちが
という内容、意識の持ち方はそれぞれ全員違うは
とく
ねんだい
ちが
ずです。特 に年 代によって違 ってくるでしょう。
しん
わたし あいだ
なん
にじゅうねん
さ
し
のことです。知ってますか。
しん
き とう し
いえ
辛 え え、 祈 祷 師 の こ と で し よ。 家 に つ い た
あくりょうばら
もの
な
は で
ふるま
悪 霊 払 い と し て 物 を 投 げ た り 派 手 に 振 舞 う、
みんぞくてきふうしゅう
にほん
せつぶん
ちが
民 族 的 風 習ですよね。日 本の節 分などと違 って
かげき
わたし
辛さんと私の間には、何といっても二十年の差が
とにかく過激。私も「やめて」というのに、これ
ありますから。
でもかと豆を投げつけられた思い出があります。
しん
わたし
まめ
こくせき
も
かんこくじん
い しき
も
辛 私は、国籍を持つ韓国人だという意識を持っ
きたちょうせん
かいがいこうみん
たこともないですし、北 朝鮮の海 外公民という
いしき
にほんじん
い しき
も
意識もないし、日本人という意識を持ったことも
きょういく
う
かんきょう
ちが
金 それはたぶん、教育を受けてきた環境が違う
わたし
じぶん
し そう
かた
じ き
からでしょう。私 は自 分の思 想が固 まる時 期に
ちょうせんだいがっこう
じぶん
ちょうせんじん
朝 鮮 大 学 校におりましたので、自 分か朝 鮮人だ
つよ
う
つ
という意識を強く植え付けられたところがあると
おも
よ ねんかん
みんぞくがっこう
ざいせき
けいけん
とき
ちょうせんそうれんないぶ けんりょくこうそう
ます。でも、その時は朝鮮総連内部の権力抗争が
きむびょんしくじけん
ころ
がっこう
なか
激化した金炳植事件の頃でしたので、学校の中で
しゅうはぶんし
じょうきょう
わたし
も宗派分子などといってひどい状 況でした。私は
なに
し
にほん
がっこう
はい
そんなこと何も知らずに日本の学校から入ったも
そうかつ
たいしょう
のですから、もちろん「総括」の対象になるわけ
わらい
なぐ
なぐ
です(笑 )
。とにかく殴 られて殴 られて、それで
ころ
おも
もうこれでは殺されてしまうと思って、やめてし
わたし
とき
みんぞくきょういく
う
まいました。私の時は、とても民族教育を受けら
じょうきょう
れるような状 況ではありませんでした。
26
わらい
いえ
そと
きんじょ
にほんじん
み
く
わら
み
な見 に来 るのですよ。それで、笑 って見 ている。
かっこうわる
ちょうせんじん
ひとりどく
っているからバカにされるんだ」と一人毒づいて
はなし
じゅうねんまえ
十年前ぐらいでしょうか、
ましたね。で、その話を、
かいごう かんさんじゅん
いっしょ
はな
ある会合で姜尚中さんと一緒になり、話したこと
せんぱい
があるんです。そしたら、「ああ、先 輩もそうで
いえ
いや
おも
すか。私の家でもやられて、すごい嫌な思いをし
辛 私も四年間、民族学校に在籍した経験があり
げきか
な
それを家の外でもやるんです。近所の日本人もみ
わたし
思います。
わたし
ほうちょう
で
「朝 鮮人はこんなことをや
本 当に格 好悪かった。
きむ
しん
まめ
おも
金 豆どころか包丁も投げてきますからね(笑)
。
ほんとう
ないんですね。
いしき
きむ
な
ちきゅうじんたからづか
地 球 人 宝塚 2010 年 No. 3 別冊
はな
とき
たことがあります」と話していた。その時、どう
おも
き
あした
がっこう
思 ったのか聞いてみたら、
「明日から学校にいけ
おも
ないと思った」と。
しん
せだい
すこ
ちが
かん
おな
おも
辛 ああ、世代の少し違う姜さんも同じような思
いをされていたんですね。
きむ
わたし
ばあい
みんぞくてきれっとうかん
金 ええ。でも、私の場合、そんな民族的劣等感
くる
じぶん
に苦 しんだからこそ、それをバネにして自 分の
みんぞくせい ちょうせんだいがっこう
と
もど
で き
民族性を朝鮮大学校で取り戻すことが出来たんだ
おも
と思います。
しん
けいけん
せだい
せんぱい
辛 なるほど。そうした経験のある世代の先輩た
じ こ
だっかん
あと
つよ
いっき
よ
いっぱん
ちは、自己を奪還した後が強い。
したが一気に読めてしまいました。それに一般の
きむ
にほんじん
たし
金 確かに、そうかもしれませんね。
しん みんぞくしゅうだん
なか
い
辛 民族集団の中でしか生きられないと、どこか
にじゅうせい
い
で二 重性、ダブルスタンダードで生 きてしまう。
かこく
み
やはりそこは過酷であればあるほど、ものは見え
おも
けっか
てくるんだと思います。だからこそ、その結果と
つうし
か
くに
す
ご
あいだ
ちょうせんがっこう
もんだい わたし
ほんとう
高校無償化から外すという問題、私、本当におか
おも
じょがい
り ゆう
こっこう
しいと思 うんです。除 外の理 由が、国 交のない
きたちょうせん
せいふ
北 朝 鮮だからだという。そういっている政 府の
ひと
あたま
なか
ちょうせんがっこう かよ
人たちの頭の中では、朝鮮学校に通っているのは
きたちょうせんせき
おも
みな、ありもしない北朝鮮籍だと思っているんで
はんすういじょう
かんこくせき
きむ
おもしろ
ぶぶんてき
けんきゅう
にほん
かんけい
せかい
かんけい
すべ
かんれん
か
関係、世界との関係、全てのことを関連させ、書
ほん
わたし
であ
なん
かれた本にこれまで私は出会わなかった。何とい
せんご
べい
うご
に ほん
ひゃくねん
かた
ふく
りかい
み
日本を見られるのですから。それではっきりいえ
ざいにち
ほん
にほん
れきし
るのは、これは在日の本ではない、日本の歴史な
んだということです。
きむ
にほん
れきし
わたし
金 そうなんです。日本の歴史なんです。 私も
おも
か
わたし
けんきゅうしゃ あいだ
その思 いで書 きました。私 たち研 究者の間 でも、
ざいにちし
ちょうせんし はんちゅう
い
ひと
在日史というと朝鮮史の範疇に入れる人がいます
ざいにちし
とき
にほんこくせき
も
もの
すうじ
いま
たから、正確な数字はわからないですけれど、今
いちわり
おお
わたし
にほん し
にほん し
み
る。在日史は日本史なんだと。日本史として見な
辛 私かいた時でさえ日本国籍を持つ者がいまし
せいかく
ほん
が、それに対して私はいつもおかしいといってい
金 そうですね。
わたし
なら
は、面 白くても部 分的な研 究ばかり。日 本との
たい
しょうね。でも、半数以上は韓国籍ですよ。
しん
しょてん
いんですよね。でも、書店に並んでいる本の多く
せんご
さわ
はず
おお
も戦後も米ソの動き方も含めて理解でき、そこで
辛 こ の 間 ま で 騒 い で い た、 朝 鮮 学 校 を
こうこうむしょうか
かんこく ちょうせんつう ひと
っても百 年です、戦 後だけじゃなく百 年、
。しか
三つの国の″捨て子″
として
しん
けっこう
ひゃくねん
してこの通史が書けたのかもしれませんね。
みっ
なか
日本人の中にも、結構、韓国、朝鮮通の人って多
にほんこくせき
りかい
かた
ければ理解できないのです。だから、いわゆる語
にほん し
よ
られることのなかった日本史として読んでもらい
にほん
くに
でも一割ぐらいは日本国籍の人もいるんじゃない
たいですね。それによって日本がどういう国だっ
かな。だから、あそこほどインターナショナル
たか、また違った視点から見えてくるはずです。
がっこう
わらい
こっか
にんしき
な学 校はないはず(笑 )
。国 家の認 識、あるいは
ろんちょう
いちげんてき
うす
マスコミの論調がいかに一元的で薄っぺらなもの
あらた
おも
かと、改めてうんざりさせられる思いでした。で
げんじつ
い
にほん
しゃかい
ちが
おも
も、現実に生きている日本の社会は違うんだと思
そう
あつ
ひと
うんですね。もっと層 が厚 く、いろいろな人 た
すく
れきしじょう
ちがいる。少 なくとも歴 史上はいた。そのこと
ほん
よん
つよ
かん
わたし
を、この本 を読 で強 く感 じさせられました。 私
ざいにちひゃくねん
れきし
ひと
にほん
は、在日百年の歴史というのは、もう一つの日本
すがた
おも
かがみ
うつ
の姿なんだと思うんですよ。つまり鏡のように映
だ
にほんじん
し
にほん
すがた
し出されている、日本人が知らない日本の姿がこ
にほん
しゃかい
なか
う
だ
こにあると。日本の社会の中で生み出された「も
ひと
にほん
じぶん
う一つの日本」です。いってみれば、自分たちが
ふ
あ
こぶし
ふう
れんさ
振り上げた拳がどういう風に連鎖していったのか
み
ぐあい
どうじ
ちょうせんじん りったいてき
が見えるといった具合に。同時に朝鮮人を立体的
み
い み
に見 ることもできるはずです。そういう意 味で、
ぜ ひ
おお
にほんじん
よ
ほん
是非、多くの日本人に読んでもらいたい本ですね。
きむ
しん
ほ
なん
金 辛さんにそれだけ褒めてもらえると、何だか
わらい
うれしくなってくるな(笑)
。
しん
ほんとう
おもしろ
おも
辛 いや、本 当に面 白かった。読 まなきゃと思
とき
って読 んだのではなく、ああこの時 はこういう
つうし
わか
しん
してん
けっか
み
にほん
くに
つ ど
辛 結 果として日 本という国 は、その都 度その
つ ど
つごう
せんたく
都 度、 都 合 の い い 選 択 を し て き て、 ま と も な
い しけってい
そうごうてき せんりゃく
意思決定も総合的な戦略もなかったといえるのか
だいじ
つぎ
おも
もしれない。でも、大事なのはこの次なんだと思
さき
いま
います。これから先 はどうしていくのかと。今、
にほん
じぶん
すがた
み
やっと日本はおぼろげながら自分の姿が見えてき
たた
あいて
こわ
かお
た。叩こうとしている相手が怖い顔をしているの
み
じぶん
かお
は見えるが、自分がどういう顔をしているのかは
わか
じぶん
こわ
かお
分らなかった。それが自分も怖い顔をしていたの
み
たた
がわ
み
が見えて、叩かれる側のことも見えてきた。それ
にほん
こんかん
すがた
うつ
だ
は日本の根幹にある姿を映し出したもののように
おも
にほん
かぎ
かんこく すがた
思います。そして日本だけに限らず、韓国の姿も
きたちょうせん すがた
いちばんしゅうやく
み
ざいにち
北 朝 鮮の姿 も、一 番集約されて見 えるのが在 日
おも
みっ
くに
す
ご
なんだと思います。三つの国の″捨て子″ですから
みっ
くに
とも
たた
つづ
む し
つづ
はいじょ
ね。三つの国が共に叩き続け、無視し続け、排除
つづ
そんざい
み
こくさいかんけい
し続けた存在を見ることによって、国際関係がリ
み
アルに見えてくるはずです。
(シン・スゴ/キム・チャンジョン)
よ
よ
ちが
キムチャンジョン 「 かんこくへいごうひゃくねん
ざいにち
▼ 金 賛 汀 『 韓 国併合百年と「在日」
』
はつばいちゅう
978- 4-10- 603658- 3発 売 中
たいさく
ことだったのかと通史として分りやすく、大作で
本の紹介 抜粋 「対談」在日百年の歴史は もう一つの日本の姿
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キムチャンジョン 「 かんこくへいごうひゃくねん
ざいにち
▼ 金 賛 汀 『 韓 国併合百年と「在日」
』
はつばいちゅう
978- 4-10- 603658- 3発 売 中
新潮選書
たからづかしがいこくじんしみんぶんかこうりゅうきょうかい
はっこう:2010 年8月 20 日 宝塚市外国人市民文化交流協会
きんげんだいしけんきゅうぶかい
近現代史研究部会
665-0011 宝塚市南口 2-14-1-3 宝塚市国際交流協会気付
e-mail: [email protected] homepage : http://takarazuka-gaikokujin.com/