日本語版

「ケータイ家族」の誕生
- ケータイの利用から見た家族の内的構成の現在 1
天笠邦一
AMAGASA, Kunikazu
0. 論文要旨(800 字)
本論文は、ケータイの利用による家族の内的な構造変化を、個別具体性を重視するエスノグラフィック
な調査を行うことで描き出し、その特徴の分析を行うものである。
現在、日本において、ケータイは「普及」のフェーズを終え、社会インフラとしての機能を果たしつつある。
ケータイの日常生活への浸透により、日常的なシーン・「特別でない」人々のケータイ利用に関する研究の
重要度は増しつつある。
そこで、我々にとって最も日常的な関係性の一つである「家族」内でのケータイ利用について調査研究
を行うこととした。研究の前提として、家族は、様々な社会的アクターから影響を受け、その形を変える社
会的構成物として考える。その上で、経済、社会状況等の外部からの影響について考えるのではなく、ケ
ータイが最も影響を与えていると考えられる家族の内部構成の変化に着目した。
調査は、家族内でのケータイの利用をテーマとした綿密な聞き取り調査の形で行われた。聞き取り調
査の内容は、音声で記録され、逐語起こしの対象となった。これに加えて、聞き取り調査内で、被験者が
記述した自らの家族の関係図と家の間取り図が分析の対象となっている。
上記の調査の結果、ケータイを介したコミュニケーションにより、家族間(特に思春期の子と親)の情緒
的繋がりが、近代的な場所・専門性による断絶を越えて、より強化されるという現象が観察された。成熟
化した社会の中でのアイデンティティ戦略として、ケータイを介した努力により家族の関係が構築・維持・
強化される傾向がある。
また、家庭空間の中で、家庭内での権力・関係性を可視化する装置として静的に存在していた物理
的境界が、ケータイが創りだす情報空間での関係性からの影響を受け、動的にその意味を書き換えられ
るという現象も観察された。人々は、ケータイを通して、激しく移り変わる家族関係をマネージし、家族関係
の構築・維持・発展を図っている。
キーワード: ケータイ(携帯電話)、家族、家庭、エスノグラフィー、社会構成主義
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慶應義塾大学 政策・メディア研究科修士課程 1 年 連絡先:[email protected]
神奈川県藤沢市遠藤 5322 慶應義塾大学内 デザインハウス B 棟 DoCoMo House ケータイラボ
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1. はじめに
多くの国でそうであるように、日本においても、携帯電話(以下ケータイ)は、もはや特別なものではない。
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TCA(2005) によれば、日本におけるケータイの契約数は、2005 年 1 月末現在で約 8580 万台に及び、
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日本の全人口 の約 2/3 と等しい計算となる。また、総務省の調査(2004) によれば、ケータイの普及率は、
社会的にアクティブだと考えられる 13∼59 歳全ての年代で、60%を上回っている。ケータイは、普及の段
階を終え、私たちの日常生活を支える社会インフラとしての機能を果たし始めていると考えられる。
一方で、「家族」は、私たちの日常生活の中で、非常に大きな部分を占める存在である。ゆえに、日常化
を果たしたケータイは、私たちの日常そのものとも言える「家族」の中に入り込み、その私的な空間の中、
親密なコミュニケーションの中で重要な役割を果たしていると考えられる。このような現状があるにも関わ
らず、ケータイの受容に関する先行研究においては、家族のような日常的領域が扱われることが少なかっ
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た。ケータイは、利便性を追及するビジネスマンや大人の理解を超えた若者 たちのような「特別」な存在
が使うものだという認識が、根強く残っているからである。
本論では、このような問題意識に基づき、人々の日常生活を細かく捉えるのに適していると考えられる
エスノグラフィックな手法を用いて、ケータイが旧来的な家族秩序を破壊するのかそれとも再生産するの
かということだけでなく、ケータイがどのように、家族関係や、家庭空間を再編し再構成しているのかという
ことも明らかにすることとする。
2. 概念的枠組
2.1. 社会的構成物としての家族
本論は、家族とは、我々の社会にとって最も重要な社会集団の一つであり、かつ多くの社会的要素と相
互関係にある社会的構成物であるという立場に立つ。
諸説はあるが、最もオーソドックスな社会学の定義によれば、家族とは、婚姻と親族関係を基礎とする社
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会集団である。(Giddens, 2001) 私たちは、日常生活の中で家族の存在を余りに当たり前のものと考
え、その価値を疑わないため、その定義や形や機能が普遍的なものであると認識してしまいがちだ。しか
しながら、多くの人類学や歴史学の研究が示すように、その形や機能は、経済や産業、法律などの社会的
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状況により変化するものである。(Stone, 1977)
そのような家族の可変性は、近代化のプロセスの中で利用されてきた。近代化を実現するため、国家
や産業は、人々が従うべき規範としての家族を創り上げてきたのである。例えば、様々な産業によって推
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日本でのケータイの普及は、若者たちの積極的な利用に支えられていたということによって特徴付けられる。若者た
ちのケータイ利用がマスコミなどで取り立たされたのは、1996 年から数年の間であったが、この時期は、「切れる若
者」「荒れる成人式」など若者の問題行動がマスコミでしきりに取り上げられていた時期でもあった。ゆえに、ケータイ
は、「理解しがたい若者」と結び付けられて社会的に認識されていた側面が強い。詳しくは、岡部・伊藤, 2005,
“Keitai in Public Transportation”, ‘Personal, Portable, Pedestrian: Mobile Phones in Japanese Life’, 伊
藤他 編, 2005 を参照のこと。
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し進められてきた郊外化という規範・現象は、産業にとっては都合のよい大量生産・大量消費の消費社
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会を支える構造を生み出してきた。(Harvey, 1985) 一方で国家は、法律などを用いて、家族内に性役
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割を固定化させることで近代国家を実現してきたとも言える。(上野, 1994)
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しかしながら、社会の多様化・成熟化により(財務省, 2004) こうして定められてきた家族の社会的
規範も失われつつある。現場レベルでの、家族の関係性やあり方の変化により、国家や産業は、法律や制
度を改定せざるを得ない状況に陥っているのである。
これまでの研究においては、経済や産業など家族の外的要因によってもたらされる家族の変化を扱っ
たものが多かった。しかし、このような現状を見る限り、家族の内部や、コミュニケーションの現場で起こって
いる変化も、社会に対して大きな影響を及ぼす可能性を秘めていると考えられる。故に、我々はまず、現
場レベルでの変化を生み出している、人々の日常的な実践と家族の内的構成を描き出し、分析の対象
にすることとする。
2.2. 社会的メディアによって再校正される家庭空間
家族の内的構成を理解する上で、家庭空間の存在は非常に重要である。家庭空間は、家族の関係性
を物理的側面から規定している。すなわち、人々は、常に、家の構造を読み取り、理解し、それを利用しな
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がら行動しているのである。(Meyrowits, 1985) 故に家や家庭空間の構造は、家族内の権力関係を表
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象し、可視化し、再生産するツールであるとも言える。(Spain, 1992)
しかし、家族内における権力関係を表象するのは、家の物理的な構造ばかりではない。家の中に導入
されたメディアや技術環境も、家族の権力関係の構築・維持・再生産において重要な役割を果たす。物
理的な構造を下敷きにして、家族のメンバーはそれぞれ、様々なメディアを介したインタラクションを行う
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ことで、家庭空間における権力構造やその意味を可視化し、戦略的に変化させている。(土橋, 2002)
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家庭空間は、新しいテクノロジーの受容の影響を受けるのである。テレビの受容(Morley, 1986) や電
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話の受容(吉見他, 1992) による家庭空間の変化などは、その良い例として捉えることが出来る。
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人々は 、家庭内に 新し いテク ノロジーを受容するときにそ れを 「飼い 慣ら す(domestication) 」。
(Silverstone, 1992)
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ケータイもその例外ではない。本論は上記のメディアと家庭空間に関する先行研
究を下敷きに、ケータイによる家庭空間の変容と、それによる家族関係の変容双方に焦点に分析を行って
いくものとする。
2.3. ケータイを介したコミュニケーションの特徴
これまで、主に「家族」に関する概念的枠組について議論を行ってきたが、本論のもう一つのテーマであ
るケータイは、一体メディアとしてどのような特徴を持ったものなのであろうか。その特徴を説明するために、
Ling と Yttri(2002)xvは、「ハイパーコーディネーション」と「ミクロコーディネーション」という 2 つの概念を提
唱している。これらの概念は、ノルウェーの若者たちのケータイを介したコミュニケーションを説明するため
に用いられたものであるが、伊藤・岡部(2005)xviが指摘するように、世界の中のケータイが普及した多くの
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R. Silverstone らは、「飼い慣らす(domestication)」という単語を、家族がメディアを受容していく過程を表現する
言葉として用いている。
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地域で、これらのケータイの利用に関する概念は当てはまるものとして考えられる。
Ling と Yttri によれば、「ミクロコーディネーション」は、ケータイ利用の実用的な側面を説明するものとし
て語られる。大人たちは、ケータイを、待ち合わせやミーティングの調整など、お互いの活動を調整し、首尾
よく取り計らうために用いることが多いが、このような利用方法が「ミクロコーディネーション」として捉えられ
る。この場合、ケータイは、目的を実行するための「道具」として用いられるのである。
一方で、「ハイパーコーディネーション」は、ケータイ利用の表出的側面を説明するものとして語られる。若
者たちは、ケータイを介した表出的コミュニケーションのメタレベルの文脈を通して、彼らの関係性を常に
再構成し続けており、このよう利用方法が、「ハイパーコーディネーション」として捉えられるのである。
二人以上の人がいる状況においては、意識的か否かはともかくとして、人々は、その状況に参与するた
めには、状況を理解し、その状況に自らを適応させる形で、振舞い続けなければならない。(Goffman,
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1967)
Goffman は、対面式(Face-to-Face)の状況を前提として、この議論を行っていた。しかし、そ
れが人間による振る舞いである限りは、この議論は、ケータイのような仮想的な集まり・コミュニケーションに
おいても適用することが可能であろう。
本研究では、ケータイによって創り出される仮想的な家族の繋がりに適応し参与するため、人々がどの
ように戦略的に振舞っているのか明らかにするものとする。
3. 調査枠組
本論における分析・考察は、天笠(2004)によって行われたエスノグラフィックなインタビューに基づいて
いる。インタビューにおけるインフォーマントとしては、主に中高生を中心とした学生と、彼らの母親が選ば
れた。これは、家族におけるケータイ利用に関するの初期の研究としては、利用頻度が高く、傾向が見えや
すい若者と母親たちが適していると考えたからである。調査の詳細は以下の通りである。
調査手法:
個別具体性を重視した聞き取り調査 (1 時間半/回)
調査期間:
2004 年 6 月∼2005 年 2 月
調査人数:
21 人 (男性 9 名, 女性 12 名)
調査協力者の居住地:
横浜を中心とした郊外地区
調査協力者の内訳:
中学生 1 名(内男性 1 名)
高校生 11 名(内男性 6 名、女性 5 名)
大学生 3 名(内男性 1 名、女性 2 名)
既婚社会人(子供いる) 5 名(内女性 5 名)
未婚社会人 1 名(内男性 1 名)
表1: インタビュー調査の詳細
このインタビューにおいては、インフォーマントには、はじめに、ケータイや他メディアの利用状況に関する
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基礎情報を尋ねた。次に、インフォーマントに、家族の関係図を図示して貰い、それを互いに参照しながら、
家族内のそれぞれの関係性や、それぞれの間でどのようにケータイを用いてコミュニケーションを行ってい
るかを聞き出した。以下には、インフォーマントに書き出して貰った家族の関係図のサンプルを示す。
図1:インフォーマントに描画を依頼した
家族関係図のサンプル
最後に、インフォーマントには、今住んでいる家の間取りを描いてもらった後、先と同様に、互いにそれを
参照しながら、それぞれの部屋を誰がどのように使っているか、家族それぞれのテリトリーはどこか、ケータ
イやテレビなどのメディアをどこに置き、どのように使っているかなどを尋ねた。以下には、インフォーマント
に描いて貰った家の間取りのサンプルを示す。
図2:インフォーマントに描画を依頼した
家の間取り図のサンプル
4. 調査結果と考察
インタビューデータより、ケータイを介した家族内コミュニケーションにおける二つの興味深い側面が浮
かび上がってきた。以下では、概念的枠組みに基づいて、その 2 側面に対する分析考察を行いたい。
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4.1. アイデンティティ戦略としての家族内ケータイ利用
インタビュー調査の中で、ほぼ全インフォーマントに共通して行われていたプラクティスが存在した。そ
れが、「今どこメール」、すなわち、主に母親から、毎日決まった時間になると、子供たちに「今どこ?」「夕ご飯
はいるの?」などとメールをする習慣である。これは、子供からみれば、一種の親からの束縛であるにも関わ
らず、ほとんどの子供たちが、驚くほど素直にこの習慣を受け入れていた。前述の Ling & Yttri によれば、
思春期の子供たちは、独立心が強く(大人になるためには、独立しなければいけないという社会的規範を
認識し始めるため)通常このような束縛は、拒絶する傾向にあるはずである。(実際にノルウェーでは、同
様のメールを拒絶する傾向も見られた)以下では、この矛盾の理由を分析してみたい。
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松田(2005) は、加藤 が 1958 年に伝統的な村落である奈良県二階堂村で行った 3 世代家族に対
する参与観察のデータと、高度経済成長以後の家族は、個人化の文脈の中に位置づけることが出来ると
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する目黒(1987) の議論を援用し、以前はその維持に何の努力も必要としなかった家族は、各メンバーの
絶え間ないコミュニケーションと努力によりはじめて維持されるものとなったと述べ、その上で。家族間のケ
ータイによる絶え間ないコミュニケーションは、この文脈の中に捉えられる現象であると考えた。
「今どこメール」も、その絶え間ないコミュニケーションの一環として考えることが出来る。しかし、家族間
のケータイによるコミュニケーションは、実はほぼこの「今どこメール」の形に限定されるのである。なぜこのよ
うな、ある種の利用の制限が日常化しているのであろうか。
「今どこメール」は、異なる願望を持った両親と子供の双方を満足させるコミュニケーションの「最適解」と
して位置づけることが可能であると考える。
親の立場に立つと、親としての責任感(社会的規範)や親としてのアイデンティティ確保の必要性から、
たとえ距離が離れていても、子供を束縛、管理し、親子間の権力関係を可視化したいという状況が見え
てくる。しかし、当の子供たちは、独立心を持ち始めており、単純に管理・束縛するだけでは、子供は、それ
に対して反発を感じ離れていってしまうため、当初の目的は果たせなくなってしまう。故に、親が子供に連
絡を取る場合は、子供に過度の反発を受けないようにするため、そのタイミング・頻度・内容が非常に重
要となってくる。なおかつ、そのような条件を満たしつつ、親子間の権力関係を明示的にするものでなけれ
ばならない。
一方、子供の立場に立つと、独立しなければならないという社会的規範から、親の子供との関係維持を
求める明らかな努力は、拒絶せざるを得ない。しかし、成熟化・多様化した社会の中では、不確定要素が
増し、従来子供たちがアイデンティティを得ていた、学校や友人関係からだけアイデンティティを得るのは
リスクが増してきている。そのため、先天的に、ある種自明と錯覚できる家族との関係性は、アイデンティテ
ィ確保のための保険として、確保しておきたいという要望もあるはずである。
習慣化した「今どこメール」が実現する、「ミクロコーディネーション」を装った「ハイパーコーディネーショ
ン」は、これら 2 つの要望を可能な限り同時に満たすことを可能にするのである。そして、親子は、それぞ
れどこにいても、その感情的な連帯を保つことに成功している。
そのような、親子間の場所を越えた感情的つながりは、子供が、アイデンティティの危機に陥ったとき、
当初想定されたとおり、アイデンティティの保険としての役割を果たす。このことを示す例として、あるイン
フォーマントとのインタビューでのやり取りを下に記す。
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(女性 M 54 歳 藤沢市在住 「17 歳の娘とのケータイでのやりとりについて」)
M: あのアルバイトなんかしてて、結局 R が一番下で、大学生ばっかりの所で働いていたんですね。
で、結局話も合わないし、で、自分ひとりでぽつっとしてると話に入ってこなくて感じ悪いみたいなこ
とを言われたり突っつかれるんですよ。そういうときにメールが来るんですね。今すごい落ち込んで
るっていうような感じで。あっ、大丈夫?あんまり気にしないでね。っていうようなメールを入れたりで
あるとか。。あの自分ばっかり責めちゃだめよってメールを入れたりするんですけどね。
天笠: あぁ、それは勤務中とかでも、ちょっと手が空くと?
M: あっ、トイレ行ってきます。とかいってちょっとつらいなって言うときにいってくるんですね。ホントに心
配はするんですけど。
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近代的な分断(Giddens, 1990) を超えて、ケータイは、家族の間に、感情的な依存関係を作り出せ
るツールである。このことは、他のコミュニティからアイデンティティの確保が難しくなればなるほど、家族の
間の感情的繋がりが強化されることを意味している。そのような現象が一般的となった場合、家族は、より
「普遍的のようにみえる」ものとしてたち現れることになる。
4.2. ケータイによって再構成される家庭空間内の動的境界
一般的には、家庭空間とその意味は、物理的な構造によって規定されるものであると考えられている。
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Goffman(1963) は「コミュニケーションの境界」としての物理的境界について以下の様に述べている。
われわれは、社会的協定によってコミュニケーションを境界線の内側に制限し、その内外にいる人た
ちは、コミュニケーションが遮断されているかのように行動するのである。(Pp 160)
吉見他(1992)は、彼らの固定電話の歴史に関する研究において、固定電話の置き場所の変遷につ
いて触れ、電話が地域の共有物であったころは、地域との縁側として機能する玄関に、家族の共有物で
あったころは、家庭の共有スペースであるリビングに、電話がコードレス化によって個人のものとなると個人
の部屋に、といった具合に固定的な場所の意味を基本として、その変遷を説明した。
このように、家庭空間の意味を固定的に捉えることは、ケータイの時代では、どうもうまく当てはまらないよ
うである。この知見を援護するインタビューでのやり取りを以下に引用する。
(女性 I 17 歳 藤沢市在住 「母親のケータイについて」)
天笠: お母さんのケータイって何処においてあるの?
T: お母さんのケータイは、ここ(T の部屋の、真横が両親の寝室であり、その一角を指して)が棚なんで
すけど、そこに親機と一緒においてあります。
天笠: なるほど、さっきお母さんのケータイになったら出ちゃうみたいな話をしていたけど、ここ(T の部
屋を指して)いると鳴ったなぁと思って、取りに行って返しちゃう感じ?イメージ的には。
T: そうですね。お母さんが気付かないなんですよ。いつも。で充電器がここにあるので、そこから取って
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使って上にいってここら(リビングの机の上)辺に置いちゃうんですよ。そこからは机の上、みたいな感じ
で。
天笠: あっ、じゃあ、前もって又返してないんじゃないかなぁとか思って、入ってみちゃうってことは?
T: あぁ、余り鳴らないんですけど、お姉ちゃんから連絡があるんで、たまに見に行って自分のケータイみ
たいに2個ポケットに入れておく。
図 3:インフォーマント T が描いた
家の間取り図(太字は、著者の注)
上記のインタビューのインフォーマントの母親は、通常プライベートなものとして認識されているケータイ
をあえて自分の娘に開放し、利用させることで、物理的な境界と、それに対する社会的な尊重の規範を超
えて、両親の寝室というプライベートな空間に、娘を招きいれることに成功している。このケースにおいては、
ケータイの情報というバーチャルな所有・非所有の関係が、物理的な壁によって構築されていた空間の意
味を再定義し、家庭空間における新たな境界を設定しているのである。
女性 N 17 歳 横浜市在住 「父親のメディア利用について」
天笠:一番リビングのこのテレビを見るのは誰かな?
N: えー。父。あっ、でも前、偉そうなときはそうだったけど、今は立場が無いから、自分の部屋にさっさとに
入っちゃって出てこない。
天笠:なるほどね。じゃあ、お父さんなんだけど、お父さんのケータイってどこにおいてある?
N:父のベットがここにあって、ここが母のベットなんですけど、父のベットの上においてある。
天笠:お父さんのケータイがなっているのとかって見たことある?
N:無いけど。でも見たりします
天笠:で、感想は…。前は、相手から来ていたけど、今はいやだから見ていないです。
彼女の父親は、家の中央にあるリビングルームのテレビを占有的に視聴することで、自らの権力と権威
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を可視化していたものと思われる。しかし、不倫の暴露により、家庭内での立場を失うと、更に立場・面目
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を失うような状況を避ける(avoid する)ため、「フェイスワーク」(Goffman, 1967)
を行い、ケータイや自
分自身を、自らの部屋という家族にとってアクセシビリティの低いところに置こうとしたのである。
さらに、上記のインフォーマントは、家族の断りなしに、家の中の全ての部屋に無断で入り、母親と弟(同
居している家族全員)のケータイも、リビングルームに放置されているときなどにその中身を覗き見ていた。
一方で彼女は、自分のケータイに関しては、決して、リビングルームなど家族共用のスペースに放置しな
いようにし、パスワードまで設定して、自らのプライバシーを守っていた。このことと、他の家族から見たとき、
彼女の部屋だけが、立ち入れない聖域として捉えられていたというインタビューから読み取れる事実をあ
わせると、ケータイへのアクセシビリティが、家の内部のアクセシビリティを表象していたとも考えられる。
ケータイへのアクセシビリティというバーチャルな情報が、家庭空間の物理的境界を侵害できるのか出
来ないかということを決定している。今日、家庭空間における境界を決定しているのは、仮想的なものと物
理的なもの、互いに関連しあい、相互作用を及ぼす2つのレイヤーであると考えられる。
5. 結論
不確定度が増し、様々な場面での選択のリスクが増大した、多様化・成熟社会の中で暮らす人々の多
くは、先天的に自らと関係のある「家族」という社会的集団に対して、アイデンティティ・情緒的連帯の確保
先としての期待を寄せている。どこでも使えるケータイは、そういった家族内での情緒的繋がりを更に強化
する可能性を持っている。人々は、写真などシンボルとしての家族ではなく、家族の関係そのものをケータ
イと共に持ち歩き始めたのである。このことは、全ての情緒的・感情的つながりが、家族に収斂する「家族
の時代」がやってくる可能性を示唆するものである。
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一方、松田(2005) が述べるように、ケータイは、「選択的人間関係」をもたらすものであり、人間関係の
断絶を可視的にするものでもある。今回は、観察こそされなかったが、可能性があるという意味では、ケータ
イにより家族の断絶がより進展していくことも考えられるのである。
このような相矛盾する 2 つの側面を持った「ケータイ家族」は今後、一体どういった方向に向かうのであ
ろうか。今後更なる研究が求められるところである。
6. 追記
この論文は、2005年4月28∼30日にハンガリー・ブタペストにて開催されるカンファレンス”Seeing,
Understanding, Learning in the Mobile Age”にて発表される、同著者が執筆した論文” The
Emergence of Keitai Family: Inner Constructions of Today's Family from the Viewpoint of
Keitai Use” を和訳したものである。
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- 参考文献
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