俺がなったのはヒーローではなくお姫様だったようです - タテ書き小説ネット

俺がなったのはヒーローではなくお姫様だったようです
黄昏月ナツメ
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︻小説タイトル︼
俺がなったのはヒーローではなくお姫様だったようです
︻Nコード︼
N2600BX
︻作者名︼
黄昏月ナツメ
︻あらすじ︼
ヒーローになりたい。小さいころはそんなことすら考えた、現
在はごくごく普通の高校生灰尾太李が転校先の学校であれよそれよ
という間に気付いたら愉快な仲間たちと共にヒーロー、ではなくお
姫様に仕立て上げられていくお話。
魔法少女もののような、ヒーローもののような。
5/2に改題しました。
︵pixivにて同じ作品を連載してます︶
1
第一話﹁俺はヒーローになりたかったのになったのはなぜかお姫様でした﹂
はいおたいり
灰尾太李は極々一般的な高校二年生の男子であった。
運動が人より出来たわけでもなければ、頭がいいというわけでも
なく、特別可愛い彼女がいるというわけでもなかった。
普通の家族に囲まれて、普通に育ってきた青年だった。人並みに
勉強して、人並みに中学を出てから、みんなが行くからというなん
ともゆとりの代表のような言い訳をしながら高校に入った。
強いて特筆すべき箇所があるとすれば、それはきっと彼は今日と
いう日において、転校生という立場にあったことだろう。
あと、彼はささやかにヒーローというものに憧れていた。それだ
けである。
神の都と書いて﹃じんと﹄、それが今日から彼の通う高校の名前
だった。
比較的新しい公立高校で制服は男子が学ラン、女子は淡いラベン
ダー色のブレザーに黒いスカートという珍しいものだった。
編入試験に合格し、めでたく神都高校の一員となった彼は真新し
い学ランに身を包みながら転校生にありがちな期待と不安に胸を膨
らませていた。
担任の合図と共に扉が開かれ、中に招き入れられる。恐る恐るそ
の中に入ってから彼は思いっきり頭を下げた。
﹁灰尾太李です。えっと、両親の都合でこっちに越してきました。
よろしくお願いします﹂
そんな当たり障りのない自己紹介にもクラスは湧き上がった。転
はちみね
校生というものにすっかり浮かれ切っていたのだ。
﹁じゃあ、灰尾くんは鉢峰さんの隣に座ってもらおうかな﹂
2
そう言った担任は退屈そうに窓の外を眺めていた一人の黒髪を短
く切り揃えた女生徒に向かって手を振った。
﹁鉢峰さん﹂
しかし、当の彼女から返答はない。担任は負けじとばかりに声を
張り上げた。
﹁鉢峰さぁん!﹂
そこでようやく気付いたのかぴくっと肩を跳ね上がらせてから彼
女は慌てて耳につけていたヘッドフォンを外して首にかけた。
﹁は、はい?﹂
﹁またホームルームやってるのに気付いてなかったのね﹂
﹁すみません⋮⋮﹂
肩を落として小さくなる彼女に担任は息を吐き出してから﹁鉢峰
さん、転校生の灰尾くん。わからないことが色々あると思うから教
えてあげて﹂
ぽんと背を押され、太李は慌てて彼女の元まで行くと﹁灰尾です﹂
と頭を下げた。それに彼女は目を細めてからまた窓に視線を戻して、
巳令です﹂
みれい
ぼそりと一言だけ。
﹁鉢峰
とだけ告げた。
随分冷たい人だな、というのが太李が巳令に抱いた第一印象だっ
た。
﹁前の学校はどこにあったの?﹂
﹁部活は何やってたの?﹂
﹁好きな食べ物なんですかー! あ、待って当てるから!﹂
そんな質問攻めがどっと押し寄せていた。
昼休みになってもそれは留まるところを知らず、彼はほとほと参
っていた。
3
休みが中盤になってきた辺りでようやく昼食を食べなければとい
う理由でその質問攻めも終了していった。
やっと飯が食える。とふらふら彼が教室を出て行くと﹁今からど
ちらへ?﹂と巳令が首を傾げていた。
﹁どこって⋮⋮購買﹂
﹁場所分かるんですか?﹂
﹁なんとか﹂
﹁というか、今から行っても多分間に合いませんよ。ほとんど売り
切れです﹂
﹁ええ!?﹂
前の学校ならそんなことはなかったのに。どうやらここは買い食
いする生徒が多いらしい。
昼飯は抜くしかないだろうかと考え込んでいるとぽいっと彼の手
元に何かが投げつけられた。慌ててキャッチすると生暖かい。視線
を落として、﹃焼きそばパン﹄と書かれたラベルに目を見開いた。
﹁これ﹂
﹁どうせこうなるだろうと思って買ってあげました。不要でしたか
?﹂
﹁いや、ありがとう﹂
焼きそばパンを抱え、太李が小さく笑うと巳令もくすくす笑った。
﹁あ、それとこれも﹂
次いで紙パック入りの麦茶が放物線を描いて飛んでくる。それも
なんとかキャッチして﹁あ、ちょっと待って金﹂とポケットを探る
とふるふると彼女が首を左右に振った。
﹁私が勝手にやったことです。いりません﹂
﹁でも﹂
﹁転入祝いだとでも思って受け取ってください﹂
それだけ言うと彼女はくるりと太李に背を向けた。
ヘッドフォンに手を掛ける彼女に﹁えっとさ、鉢峰さん﹂
﹁なんですか?﹂
4
﹁ん、いや、音楽聞いてるの好きなのかなって﹂
太李の言葉に巳令は足を止め、わずかに眉を寄せた。
少し考え込むようにしてから彼女は首をほんの少し傾けた。
﹁どうでしょう﹂
﹁というかいつも何聞いてるんだ?﹂
﹁別に特定のものは。ただ個人的に好きなものを聞いてるだけです﹂
なにか文句があるのか、と続きそうなほど突き放した言い方に太
李は﹁そうか﹂としか返せなかった。
冷たいと思っていたら焼きそばパンを買ってきたり、かと思った
らちょっとした質問にもこんな態度だ。訳が分からないと彼は思っ
た。
わざわざ教室に戻るほどの気力もなく、別に廊下で昼食をとって
はいけないと言われていたわけでもないので太李はその場で焼きそ
ばパンの袋を開けるとかじりついた。ともかく彼が分かったのは巳
令が根っからの嫌な女ではないということだった。
その光景を見て、自分への言葉がもうないと巳令はヘッドフォン
にまた手をかけた。
そのときだった。ぱっと一瞬窓から光がこぼれたかと思うと次に
は外が真っ暗になっていた。
巳令が慌てたように窓の外を見て、太李が焼きそばパン片手に硬
直した。
﹁え、あれ、なんで⋮⋮曇った?﹂
一人茫然とする太李を置いて、巳令はつかつかと教室に戻ると自
分のカバンを担いで戻ってきた。
それからうろうろと視線を泳がせる太李を見て、驚いたように目
を丸くしてからふぅと息を吐いた。
﹁灰尾くん、大丈夫なんですか?﹂
﹁え、何が?﹂
きょとんと自分を見返す彼に巳令はこくこく頷いてからやがてぽ
5
んぽんとその肩に手を置いた。
﹁ここを動かないで。絶対に﹂
﹁なんでだよ?﹂
﹁いいから。わたしもすぐ戻ります﹂
ね、と言い聞かせるように言ってから巳令は廊下を駆け出した。
その後ろ姿を見送りながら太李はまた焼きそばパンを一口かじっ
た。
いくらなんでも遅すぎる。
十分ほど待っていたものの一向に巳令が戻ってくる気配はなかっ
た。外も相変わらず暗いままだ。何より、先ほどからなんの音も聞
こえない。何かあったのではないだろうかと太李は不安を煽られて
いた。何もしないのも落ち着かないのだ。
教室を覗き込むと全員揃って机に突っ伏していた。一人だけなら
呑気に眠りやがって、と思えていたのだがそれがクラスにいる全員
だと気付き、彼は小さく息を飲んだ。
﹁どうなってんだよ、これ﹂
力なく倒れ込んでいる姿は眠っているというより気絶していると
いう方が正しいのかもしれない。しかもその顔はどこか苦痛に歪ん
でいた。
なぜこんなことになっているのか。巳令はどこへ行ったのか。な
ぜ自分は今大丈夫なのか。
たまらず、彼は廊下を駆け、階段を駆け下りた。どこに行けばい
いのかは分からなかったが外に出ればその答えが見つかる。そんな
気がしてならなかった。
グラウンドに出てから彼は再び言葉を飲んだ。
6
そこにいたのは真っ白で、巨大な蛇だった。赤い目が彼を捉えた。
そして、その足元にいたのは一人の女だった。
紅色の着物を着て、その手には刀のようなものが構えられている。
その頭には黒塗りの大きな鉢のようなかぶっている。顔は伺えな
い。黒く、長い髪が地面につきそうなほど伸びているのを知るのが
やっとだった。
大きな何かに立ち向かう誰か。まるでいつかテレビの中に見たヒ
ーローのようだと太李は呑気に考えてしまった。
ぜぇぜぇと息を切らしながらぶんっと刀を振るったその女は一度
それを鞘にしまうと大きく飛び上がった。
﹁悲しき魂に救いの最期を。多幸ノ終劇!﹂
勢いよく落下しながら彼女が叫んだ。
すれ違いざま、鞘から抜かれた刀がその体を斬り付けた。地面に
着地した彼女はふぅと息を吐いた。
何に巻き込まれてるんだ俺は、と物陰から見つめていた太李は思
っていたがその思考も長く続かなかった。
ぐぐっと白蛇の巨体がわずかに動く。女の方もそれに気付いたの
か身構えたがすでに遅かった。
その体が尻尾に弾き飛ばされ、太李の真横に倒れた。
﹁が﹂
﹁あ﹂
呻きながら小さく丸まった彼女に、太李は見覚えがあった。
﹁は、鉢峰さん⋮⋮?﹂
震えた声で問いかけると彼女は太李に視線を向け﹁動いちゃ駄目
って言ったじゃないですか﹂と苦笑した。
どうやら本当に巳令らしい。どうしようか迷った挙句、彼は謝罪
の言葉を口にした。
﹁ご、ごめん﹂
7
﹁それにしても、あれを喰らってまだ立つなんて﹂
刀を支えにして立ち上がった巳令は目前の蛇を睨み付けるとまた
ふらっと倒れ込んだ。
その体を太李が慌てて受け止めた。
﹁なんなんだよあれ﹂
﹁その説明はあとなのです!﹂
背後から声が聞こえて、彼は振り返った。
そこにいたのは人ではなく、何やら毛玉のようなものだった。小
さな鼻や口、ぴょんと飛び出た耳が辛うじて分かる。
﹁⋮⋮毛玉?﹂
﹁スペーメはアンゴラウサギなのです。ふざけるなです!﹂
ぴょんぴょんと跳ねまわるそれは巳令に視線を向けると﹁鉢かづ
き、彼を迎え入れましょうです﹂
﹁でも、彼男の人だし﹂
﹁問題ないです。お願いです﹂
巳令は鉢の下でわずかに顔をしかめてからやがて仕方ないとばか
りに懐を探って何かを取り出すと太李に差し出した。
それを手にのせ、見てみると銀色の指輪だった。模様が刻まれて
いるがよくは見えない。
﹁なに、これ﹂
﹁さあ、そこの野郎! それを指にさっさとはめて、掲げながら変
身と叫ぶがよいです!﹂
﹁はぁ!?﹂
毛玉かアンゴラウサギかよく分からないものの言葉に彼は思わず
声を荒らげた。
なんだそれは。
﹁ふざけてんのか、どっきりか何か?﹂
﹁この期に及んで信じないなんて鉢かづきより往生際が悪いですね。
いいから﹂
﹁いやいや全然意味が分からない﹂
8
頭を抱えながらうーんと彼は唸った。変身と叫んだら一体何が起
こるというのか。
﹁死にたいなら何もしなくていいです。死にたくないなら叫びなさ
い﹂
ずるずると白蛇が巨体を引きずって来た。巳令の言葉にぐっと太
李は黙り込んだ。
それからやがてわしゃわしゃと頭を掻きむしって﹁あーもー分か
ったよ! 分かりましたよ!﹂と中指にそれをはめるとその手を掲
げた。どうせドッキリか何かだろう。付き合ってやろうじゃないか。
﹁へ、変身!﹂
そう叫んだ瞬間、彼の体は青白い光に包まれた。思わず目をつぶ
ってから、その光が止むのを待って目を開いた。
頭が重い。胸も重い。太李は自分の手を見て白い手袋がはまって
いるのを確認してから﹁え﹂と間の抜けた声をあげた。
﹁おおーついにシンデレラ誕生なのです!﹂
そんな声に彼は愕然とした。
茶色のロングブーツに細身の青いズボンに白と青基調の貴族服風
の衣装。背中には淡い水色のマント。黒で短かったはずの髪は水色
のロングヘアーに。それが今の太李の姿だった。
何より、彼は胸の方を見下ろしてから驚愕した。
本来男であるはずの自分にはない胸の膨らみが服の上から確認で
きる。試しに持ち上げてみるとふにふにと柔らかい感触が布越しで
も分かる。間違いなく、俗にいうおっぱいという奴である。
﹁男の人の胸ってやわらかーい﹂
とか一人で呟いてから彼はいやいやと首を左右に振った。
そんなわけはない。数刻前まで自分の胸は確かにぺったんこだっ
たはず。
﹁ど﹂
わけがわからず、彼は叫んだ。
﹁どうなってんじゃこりゃぁああああ!﹂
9
その声すらも心なしか甲高いように感じられた。
一方で巳令もその光景についていけてはいないようで身を引きな
がら﹁どうしてこうなったんですか﹂
﹁そりゃ姫になるんだから女の子になるのは当然なのです!﹂
﹁いっみがわっからん!﹂
太李はぐいっと毛玉を掴み上げるとぶんぶん左右に揺さぶりなが
ら﹁なんなんだよこれはぁああ!﹂
﹁そ、それより今は!﹂
その手を掴んで止め、巳令がある場所を指差した。
そこには大きく唸る白蛇の姿がある。
﹁あれを倒すことを考えるんです!﹂
﹁考えろたって、どうやって﹂
﹁あーもう!﹂
重そうに頭を振りながら巳令は掴んだままの太李の手を示しなが
ら続ける。
﹁あなたの指にはまった指輪に力を込める! あとはどうにかなり
ますから!﹂
﹁込めるって⋮⋮﹂
﹁イメージ! 想像! なんとかしろ!﹂
﹁無責任だなお前!﹂
ばんっと白蛇の尻尾が思いっきり振り下ろされた。
咄嗟に地面を蹴り上げ、それを回避する巳令と取り残され、地面
に叩き付けられた太李。
﹁灰尾くん!﹂
﹁い、ってぇ﹂
とりあえず死んではいない。はーと息を吐きながら彼はふらふら
と立ち上がった。
とにかく今は、言われた通りにすることで精一杯だ。太李は自分
の中にある想像力を絞り出して言われた通りのことを想像した。す
るとその手の中に細身の剣が現れた。
10
何をどうしようと思ったわけでもないのに太李の手が勝手に動き、
剣を構える。さらには口までもが勝手に動いて言葉を紡いだ。
﹁最も哀れな役に幸せなエピローグを!﹂
ばっと太李の手が彼の頭上に上がるとそれを合図にしたように無
数の剣が現れた。
﹁リベラトーリオ・ストッカーレ!﹂
そう叫ぶと同時に周りにあった剣が次々と白蛇の体に突き刺さる。
同時に、地面を蹴って駆け出した彼の剣がとどめのように突き刺さ
る。
断末魔をあげながら、白蛇がもがき、やがて動かなくなった。
巨体は徐々に小さくなって、最後には一枚の紙になった。そこに
は先ほどの白蛇の絵が描かれている。それを拾い上げてから、もう
一度だけ﹁どうなってんだよ、これ﹂と呟いてから太李は弱々しく
その場に座り込んだ。
11
第二話﹁俺はお姫様にされたものの鉢かづきはデレないようです﹂
太李の頭は本格的に混乱していた。
気付いたら自分の姿はまた元の学ラン姿へと戻っており、空は腹
が立つほど眩しく青くなっていて、巳令は相変わらずの知らん顔だ。
突っ伏していた生徒たちも元通り過ごしている。
﹁鉢峰さん?﹂
﹁まさか本当にシンデレラになるなんてあなたなんかが。どうして、
なんで!?﹂
﹁いやいや全然言ってる意味が分からないし、というかさっきのは
なんな﹂
言いかけてから先ほどの毛玉を抱え、すたすたと校舎へと戻って
いく巳令を彼は慌てて追い掛けた。
下駄箱を通り、階段に巳令が足をかけると同時に﹁みーれい﹂と
明るい声が聞こえてきた。太李が顔を上げると踊り場から黒い髪を
ばさばさと四方に飛び跳ねさせている少女が自分たちを見下ろして
いた。制服の上からはなぜか白衣を羽織ってる。
﹁ディスペア退治ご苦労様。シンデレラはどいつ?﹂
巳令が黙って太李の方へ振り向いた。彼女の視線が自分に向いた
ことに気付いた彼はびくっと肩を跳ね上がらせた。
﹁あ、えと﹂
﹁ぷ。なるほど、それでご機嫌ナナメなわけ﹂
そう言って白衣を翻した彼女は﹁二人ともついてきなよ。特に君﹂
と太李を指差した。
﹁俺?﹂
﹁そう。君が一番知りたいはずだよ﹂
手元で情報端末を操作しながら彼女が続ける。
﹁さっきのが何で自分はどうなったのか﹂
12
午後の授業開始の合図でもあるチャイムが鳴り響いたが太李たち
は教室には居なかった。
くじょうゆずは
使われていない空き教室の中にためらわず入った彼女は我が物顔
でそこの椅子に腰かけると足を組んだ。
﹁まず自己紹介がいるよね。私の名前は九条柚樹葉。君らと同じこ
の神都高校の二年生﹂
よろしく、と差し出される手を恐る恐る握り返しながら自分も名
乗った方がいいのだろうかと口を開きかけたがそれはすぐに飲みこ
まされることになった。
﹁ああ、自己紹介はいらないよ。灰尾太李くん﹂
そう言って彼女は情報端末を指でスライドさせながら﹁なるほど
転入初日だったんだ。ついてなかったね﹂とどこかどうでもよさそ
うに言い放った。どうしてそんなことまで分かるのか。太李は思わ
ず身を引いた。
それを黙って見つめていた巳令が苛立ちを滲ませながら言葉を放
った。
﹁そんなことより、説明するなら説明したらどうです?﹂
﹁おこんなって﹂
ちぇっとわざとらしくこぼしてから柚樹葉は太李を見つめて﹁世
の中には表立って公表されていない技術というのが山のようにある
んだ﹂
﹁はぁ﹂
生返事を返すと柚樹葉はむっと顔をしかめた。
﹁信じてないな。ま、いいや。そのうちの一つが人に意図的に悪夢
を見せるっていうもの﹂
﹁悪夢? なんのために﹂
﹁さあ。とにかく、どうせ理屈は君に説明しても伝わらないだろう
から省くけど人間に悪夢を見せる空間を発生させて意図的に他人を
13
苦しめることができる。そういう力を持った兵器を造り出した科学
者がいる﹂
なんの話かさっぱり分からずきょとんとしていると﹁つまり君は
それに巻き込まれたの﹂と両手を広げた。
﹁巻き込まれた?﹂
﹁そう。今回はこの学校を包み込むその空間、わたしたちは﹃ディ
プレション空間﹄って呼んでるんだけどそれに君をはじめ、多くの
生徒が飲みこまれた。結果、その中にいた人間は悪夢を見た﹂
いやーよくできてるね、とうんうん頷く柚樹葉を見返しながら太
李が問いかける。
﹁でも俺は悪夢なんて見てないけど﹂
﹁いい着眼点だよ、灰尾くん﹂
くすっと笑った柚樹葉は﹁ディプレション空間には欠点があって
ね。まれにその空間に対する適応性を持っている人間がいるんだ。
わたしや巳令、そしてどうやら君もそうらしい﹂
﹁それで俺はあそこでも大丈夫だった﹂
﹁そうなるね﹂
ふんと巳令が視線を逸らすのが太李には分かった。
﹁じゃ、じゃああの毛玉と俺が女になったのはなんなんだよ﹂
﹁だーかーらースペーメは毛玉じゃないのですぅ!﹂
どこからかあの声が聞こえてくるうろうろと辺りを見渡すと白い
毛玉が彼の肩にいつの間にやらのっていた。
﹁うわ!?﹂
﹁何やってんのデブ﹂
ひょいっとその毛玉を拾い上げると柚樹葉は再び椅子に腰を下ろ
してはぁと息を吐いた。
﹁電源抜くぞ﹂
﹁脅迫にはスペーメは屈しないのです!﹂
﹁うるさい﹂
﹁あう!﹂
14
ぐいっと首元を掴み上げながら﹁こいつの名前はスペーメ。人工
知能搭載アンゴラウサギ型アシスタントロボット﹂
﹁ろ、ろぼ⋮⋮?﹂
﹁私が造ったんだ。なかなかよくできてるでしょ?﹂
楽しそうに微笑む柚樹葉だったが太李はとてもこの状況について
いけなかった。
そんなフィクションのような話がとも思うが一方で目の当たりに
してしまった以上は信用するしかなかった。
﹁じゃあ最後に、君の話をしよう。君が今現在おかれている状況の
話といってもいいかな﹂
その言葉に太李は自分が待っていた話題が来たことを察した。
身を強張らせる彼に柚樹葉はくすりと笑ってから肩をすくめた。
﹁心配しなくてもとって食いやしないよ。さっきも言ったけどディ
プレション空間では悪夢が生まれている。その悪夢を生む装置が﹃
ディスペア﹄。君がさっきとどめを刺してくれた白蛇もそうだ﹂
そう言われた太李の脳裏には自分が斬り付けた白い蛇が浮かび上
がった。あれ、装置だったのかと感心する間もなく柚樹葉が続けた。
﹁ディプレション空間を消滅させるためにはそれを発生させている
ディスペアを退治する必要がある。そこでその空間の適応者の力を
底上げして悪夢を消し去る、いわゆるヒーローが求められた。私が
そのシステムを造って、それを使って変身するのが君や巳令だよ﹂
﹁ヒーロー?﹂
﹁そうだよ﹂
にこっと笑うと彼女は続けた。
﹁身体能力は飛躍的に上昇し、それぞれが武器を使い、戦えるよう
になる。必殺技つき﹂
﹁⋮⋮なんで女になるんだよ﹂
﹁それは私の趣味﹂
うんうんと頷いてから﹁そういうわけだから﹂と腕を組んだ。
﹁君にもこれからディスペア退治に協力してもらう﹂
15
﹁そんな勝手な﹂
﹁一度シンデレラとして変身してしまった以上、君のデータが今君
の指にはまっている指輪、チェンジャーに記録されてしまった。初
期化しないといけない。その費用が君に出せるの? 軽く億は超え
るよ﹂
ぐ、と太李が言葉を詰まらせた。それから自分の指にはまった指
輪を黙って見つめた。
現実離れしすぎている。そう思ったが太李にとってみれば目の前
で起こったことだった。信じたくなくても信じるしかなかったのだ。
返答に困っていると﹁私はこの人とは組みませんから﹂と巳令の
冷たい声が響いた。
﹁巳令﹂
﹁今までだって一人だったんですから別にこれからだって同じで構
いません﹂
﹁無茶言わないで﹂
﹁私一人でも全部のディスペアは倒せます﹂
冷たい視線を太李に向け、巳令は二人に背を向けた。
引き戸に手を掛けながら﹁これからも、一人で充分﹂
がらがらと音を立てながら開けた扉から立ち去って行く彼女の後
ろ姿を見送りながら太李は少しだけ憂鬱な気分になった。自分も彼
女と同じヒーローという立場にあるならば少なからず協力しなけれ
ばいけないと思っていたのだが当の彼女はこちらに歩み寄ろうとす
るどころか前にもまして気難しくなったように思える。
﹁あのさ、九条さん﹂
﹁ん?﹂
﹁俺と鉢峰さん以外にもヒーローっているの?﹂
彼がそう問いかけると柚樹葉は少し考え込むような動作をしてか
ら足元に手を突っ込んだ。
16
少し間をおいてから出てきたのはアタッシュケースだった。柚樹
葉はそれを開けてから中を見せる。中にはクッションに包まれたネ
ックレスに髪飾り、ピアスが入っていた。その横には二つほど何も
入っていない凹みがある。
﹁チェンジャーは全部で五つ。今登録されているのは鉢かづきの巳
令とシンデレラの君だけだよ﹂
﹁はぁ﹂
﹁残りは人魚、親指、いばら。これからこの変身者も見つけないと
いけない﹂
その言葉にふとあることに気付いた太李が告げる。
﹁全部おとぎ話だ﹂
﹁そうだよ。今頃?﹂
﹁じゃあ鉢かづき、っていうのも?﹂
﹁知らない?﹂
太李が頷くと柚樹葉はカバンの中から一冊の絵本を取り出した。
﹃鉢かづき﹄とタイトルがつけられた絵本だった。表紙には大きな
鉢をかぶった少女の絵、先ほどまでの変身した巳令の姿のような少
女が描かれている。
﹁読んでみるといいよ﹂
よっこいしょういち、と掛け声をかけながら立ち上がった柚樹葉
は太李を見て薄く笑った。
﹁巳令は接し方が分からないだけなんだよ。仲よくしてやって﹂
どう返答したらいいのか太李は分からず、ひとまず頭を軽く下げ
た。
その夜、彼は柚樹葉から受け取った鉢かづきの絵本をめくって読
んだ。
長者の夫婦が観音に願ったことで待望の女の子供を授かる。その
17
女の子は美しい娘へと成長していく。ところが母が亡くなる前、観
音のお告げに従い娘の頭に鉢を被せたところ、その鉢が取れなくな
ってしまった。
間もなく母は死んでしまい、継母がやってくる。しかし、継母は
意地の悪い人間で鉢かづきはいじめられ、ついに実の父親にまで見
放されてしまい、家を追い出されてしまう。全てを悲観した彼女は
入水をするも鉢のおかげで溺れることが出来ず、浮かび上がってし
まっていたところを公家に救われ風呂焚きとして働くようになる。
そこの四男に求婚されるも、その母が下女との結婚に反対し、兄
たちの嫁との﹃嫁比べ﹄を行って結婚を断念させようとする。
嫁比べが前日に迫った日、鉢かづきの鉢が外れた。美しい顔に学
識が豊かだった姫は非の打ちどころがなく、見事に四男と結婚し、
幸せに暮らしたという話だった。
これは知らなくても無理はなかったな、と読み終えた太李は思っ
た。
小さい子供に読み聞かせる内容には向かないだろう。彼の母はど
ちらかといえば明るい本を読み聞かせていた記憶がある。
そういえばシンデレラもそんな話だよな、と思いながら照明の光
に指輪をかざしながら溜め息をついた。
絵本の中の鉢かづきは気立てのいい娘だったが現実で彼が向き合
わなければいけない鉢かづきは他人を拒絶するタイプの人間だった。
現に彼女はあの後、授業に戻っても特別親切に接してくるどころか
目も合わせようとはしなかった。
しかし、経験の少ない自分がこれから一人で戦っていくのは難し
いであろうことを太李は察していた。どう足掻いても巳令の協力が
必要になる。
うんざりしながら太李はベッドに倒れ込んだ。こちらが譲渡して
でも彼女とは友好的に過ごさなければ、そう心に決めた。
18
翌日の放課後、彼の我慢と決意は脆く崩れ去った。
﹁いい加減にしてくれよ!﹂
校門を抜け、少し歩いたところで彼は前を歩いていた巳令に太李
はそう思いっきり叫んだ。
それすら聞き流して巳令は歩き続けていた。ヘッドフォンから流
れる音楽が阻害しているのか、彼女が意図的に無視をしているのか。
太李には後者のように思えてならなかった。
休み時間に話しかけてもヘッドフォンからの音楽のせいか聞こえ
ていないらしく無視。ならばと授業中に話しかけても無視で、最終
的には太李が教師に叱られる始末だった。
彼はそれでも諦めるわけにはいかなかった。命がかかっているか
らだ。
それに、太李には巳令が性悪な人間だとは思えなかった。昼食を
貰った、というだけだったが人との関係を根源から絶ちたがってい
る人間がそんなことをするとは太李には考えられなかったのだ。何
かをしろと担任に言われていたわけではないのだから放っておいて
よかったはずだ。
﹁鉢峰さん!﹂
がっと彼女の肩を掴み、そちらに振り向かせると驚いたように彼
女が彼を見上げた。
﹁うえ?﹂
﹁とりあえずヘッドフォン外せよ﹂
つんつんと耳を示すと彼女は太李の言葉を理解したのか渋々とい
った風に耳からそれを外した。
じっと彼を見返しながら﹁なんですか?﹂と棘のある言い方で返
した。
﹁いや、何っつーか。なんで俺そんなに嫌われてるのかなって﹂
﹁別に嫌ってるわけじゃありません﹂
19
﹁じゃあ一緒に﹂
﹁それは嫌﹂
﹁なんでだよ!﹂
平行線だ、と太李は頭を抱えたくなった。
﹁俺が男だからか? ん? 俺が男だからなんか女になるのが気に
食わないのか?﹂
巳令が首を左右に振る。しかし、その首の振りがわずかに鈍った
のを太李は見逃さなかった。
少し考えてから太李は恐る恐る問いかけた。
﹁あれか、変身すると俺の方が胸が大きいから気にくわな﹂
瞬間、太李の顔面に激痛が走った。
思わずうずくまりながら彼は巳令を睨み付けた。
﹁おま、グーパンって!﹂
﹁違うもん⋮⋮﹂
震えた声で巳令が言い放った。
﹁和服は貧乳の方が映えるし! 必殺技がイタリア語でかっこいい
から羨ましいとか思ってないし! ほんとはフェエーリコ・デュエ
ットとかやりたいとかちっとも思ってないし!﹂
﹁やりたいのか、デュエット﹂
小声で太李が問いかけると巳令は顔を真っ赤にして俯かせた。
オレンジジュースの缶を太李が差し出すと公園のベンチに座って
いた巳令がそれを奪い取るように受け取った。
自分もぶどうジュースの缶を頬にあてがいながらその隣に腰かけ
た。それから黙って缶のプルトップに指をかけ、かしゅんと音を立
てながらそれを開けた。
中身を口に流し込んで彼は顔をしかめた。
﹁うわまず﹂
20
口の中で中途半端に弾ける炭酸に眉を寄せた。
そんな彼を見てからようやく巳令が声を発する。
﹁あの、その、私、ご、ごめんなさい﹂
﹁いや﹂
苦笑しながら太李はうーんと小さく唸った。
﹁あとは?﹂
﹁え?﹂
目を大きしながら首を傾げる巳令に太李は笑った。
﹁あと俺に言いたいことない? あ、パンチはもうなしな﹂
彼の言葉に巳令は小さく笑った。
﹁なんだよ﹂
﹁いえ、変わった人だと思って﹂
くすくす笑いながら巳令が続けた。
﹁ごめんなさい。私きっとどうしたらいいのか分からないだけだっ
たんです﹂
﹁そう?﹂
﹁はい。今までずっと一人ででもいきなり協力しろ、だなんて言わ
れてもどうしたいいのか分からなくて﹂
首を左右に振りながら彼女が続ける。
﹁鉢かづき、ってシンデレラや人魚姫みたいに有名じゃないじゃな
いですか﹂
﹁そう、だな﹂
﹁だから、ずっとそれが嫌だったんです﹂
足元に転がっていた小石を蹴りながら巳令は太李を見た。
﹁他の変身者が見つかったら華がない私が埋もれてしまうんじゃな
いかって。結局怖かっただけなんです﹂
﹁⋮⋮華がないってことはないんじゃない?﹂
巳令の顔を見返しながら太李が言う。
﹁鉢かづきってそりゃ一度は屈したこともあったけど最後まで頑張
って生き抜いて報われるだろ。それは凄いかっこいいことだと思う
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し、むしろ一度屈したのに立ち上がるのは凄いと思うし、ええとつ
まり俺が言いたいのは﹂
ううん、と難しそうに唸ってから太李はベンチから立ち上がり言
い放った。
﹁鉢峰さんも、そういう人になったら俺は凄くかっこいい、と思う
し﹂
きょとんと太李を見つめていた巳令がやがて小さく笑った。
柔らかい笑顔に彼が見惚れていると彼女は淡々と告げる。
﹁あなたにかっこいいと思われても仕方ないんですけど﹂
﹁んな﹂
精一杯の言葉を一蹴され、硬直していると彼女がにこっと笑う。
﹁でも、あなたは私のこと見ていてくれそうですね。ちゃんと、私
のこと認めてくれますか?﹂
﹁当たり前だろ﹂
認めているからこそ、彼はここまでこうして彼女と話を続けてい
たのだ。
巳令は安心したように﹁そうですか﹂と満足げに告げた。そんな
巳令を見て太李がわずかに口元を緩めたときだった。
辺りが一瞬で暗くなり、遊んでいた子供たちがぴたりと止まって
から次々と倒れだした。
太李が立ち上がると巳令がある一点を指差した。
﹁あそこ﹂
﹁え?﹂
二人の視線の先には大男が地面を揺らしながら歩いているところ
だった。
﹁なるほど、あれが今回のディスペアってわけか﹂
﹁そのようですね﹂
じっと前を見ながら巳令は自分の前に右腕を差し出した。そこに
22
は黒い腕輪がはめられている。
﹁行けますか、シンデレラ﹂
悪戯っぽくそう尋ねてくる巳令に﹁頑張るよ、鉢かづき﹂と太李
は頷いた。
﹁ああ、そうでした。あの、お願いがあるんです﹂
﹁ん?﹂
背伸びしながら自分の耳元でこそこそと話す彼女の言葉を聞いて
一拍おいてから﹁マジで?﹂と太李は苦笑した。
﹁マジです﹂
﹁⋮⋮努力はするよ﹂
溜め息をつきながら彼は指輪を掲げた。それに倣うように彼女も
腕輪を上に掲げ、二人揃って叫ぶ。
﹁変身!﹂
叫んだ二人は眩い光に包まれた。
その光によって大男が唸りながら二人の方を見た。光が止むと同
時に巳令が刀を構えた。
﹁悲しき魂に救いを与える姫、鉢かづき!﹂
本当に叫びおった!
呆れたらいいのか、笑えばいいのか。混乱しながら太李も手の中
にある細身の剣︱︱レイピアを構え、渋々、巳令から先ほど教えら
れた台詞を口に出した。
﹁哀れな役に幸せを与える姫、シンデレラ!﹂
名乗り終えた彼の手を握り、背中合わせになると巳令が更に続け
た。
﹁悪夢には幸せな目覚めを!﹂
それから一拍おいて、死んだような太李の弱々しい声と生き生き
とした巳令の声が重なった。
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﹁フェエーリコ・デュエット!﹂
なんなんだ、これは。唖然とする太李を置いて巳令はぐっと拳を
結んだ。
﹁決まった⋮⋮!﹂
﹁これが、やりたかったのか?﹂
﹁はい!﹂
鉢の下でとても嬉しそうな巳令を見て、太李は反論することすら
馬鹿らしくなった。
﹁あー憧れだったんです、ヒーローの名乗りって﹂
﹁ヘーヨカッタネ﹂
﹁シンデレラも楽しかったでしょう?﹂
﹁俺はこの瞬間、何かとても大切なものを失った気がするよ﹂
膨らんだ胸を押さえながら太李が深々と溜め息をついた。
そんな二人に構わず、大男が両手に棍棒を握りしめ、振り下ろし
た。
地面を蹴り上げてかわした巳令はそのまま喰らって吹っ飛ばされ
た太李を見て﹁大丈夫ですか!﹂と声を張り上げた。
﹁なんか、これ、デジャヴ、なんだけど!﹂
というかあいつはなんであんなに素早く動くんだ、と思いながら
彼は立ち上がって体勢を立て直してからレイピアを思いっきり前に
突き出した。
腹部にそれが突き刺さり、大男がよろめいた。レイピアを引き抜
いた彼はその場から飛びのく。それと同時に巳令がその体に飛びか
かり、蹴り入れた。
大男はその巨体を左右に揺らしながら何かをポケットから取り出
した。それがめんどりだということは太李もすぐに気が付いた。大
男がぽんぽんとめんどりを叩く。
甲高い鳴き声をあげためんどりが産んだ金色に輝く卵がスピード
を伴った太李と巳令に襲い掛かった。
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﹁うっわ!﹂
﹁く!﹂
二人はそれをなんとかかわす。
レイピアの刃で卵を弾きながら太李は考えを巡らせる。なんとか
してこの卵を一斉に処理して奴の元へ近づかなくては。
少し黙り込んでから彼はあることを思い出した。それは自分の必
殺技のことだった。
﹁はちみ﹂
と、そこまで言いかけて彼女が別の名前で呼ばれたがっていたこ
とを思い出して彼は慌てて訂正した。
﹁鉢かづき!﹂
﹁はい?﹂
刀を納めては抜き、また納めるを繰り返しながら自分にぶつけら
れる卵を破壊していた巳令に太李は告げる。
﹁俺が全部卵さばくからお前はあいつにとどめ刺してくれ!﹂
﹁そんなこと、できるんですか?﹂
﹁任せろ﹂
にっと笑う彼に巳令は一瞬返答をためらった。
しかし、ぎゅっと刀を握りしめてからこくんと頷く。
﹁分かりました。お任せします﹂
﹁よっし﹂
ぎゅっと太李は手を握りしめる。
白い手袋の下にある指輪のことを考えながらレイピアを頭上に掲
げる。
﹁最も哀れな役に幸せなエピローグを!﹂
周りに無数のレイピアが現れたのを確認しながら飛んでくる卵を
睨み付け、彼の口が言葉を放った。
﹁リベラトーリオ・ストッカーレ!﹂
瞬間、周りに現れたレイピアが飛んでくる卵一つ一つに突き刺さ
り、空中で破壊していく。
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太李もまた、巳令に向かっている卵を切り捨てる。
﹁鉢かづきぃ!﹂
﹁はい!﹂
粉々になっていく卵の間を駆け抜けながら大男との間合いを詰め
た巳令は自分の腕輪に神経を注ぎ、叫ぶ。
﹁悲しき魂に救いの最期を﹂
走ったまま、そのすれ違いざま彼女が刀を抜く。
﹁多幸ノ終劇!﹂
彼女の刃が大男の体を真っ二つに切り裂いた。
鞘に刀が納まった瞬間、二つに切り裂かれた体が砂のように消え
て行って一枚の紙がふわりと飛び上がった。
何事もなかったような子供たちの笑い声が溢れかえる公園を見つ
めながらふぅ、と変身を解いた太李が息を吐いた。
﹁よっしゃぁ!﹂
思いっきりガッツポーズをして、そう叫ぶと子供たちが一斉に彼
に向かって振り返った。はっとして顔を引きつらせながら軽く頭を
下げた。
そんな彼を見て小さく笑いながら﹁フェエーリコ・デュエットの
初陣大成功ですね﹂と嬉しそうに巳令が告げる。
﹁だな﹂
﹁あの﹂
﹁ん?﹂
恥ずかしそうに顔を俯かせながら巳令が掌を太李に向けた。
それがハイタッチを促していることに気付いて小さく笑いながら
﹁ほい﹂とぱちんと音を立てながら手を合わせた。
﹁さっきは助かりました。ありがとう、灰尾﹂
顔を俯かせたまま掻き消えそうな声でそう言われ、太李は無性に
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嬉しくなると同時に妙に気恥ずかしくなった。視線を逸らしながら
答える。
﹁こっちこそ、これからも頼むよ。鉢峰﹂
太李の言葉を受け、本当に嬉しそうに笑う巳令の声を聞きながら
﹁それでさ﹂と太李は咳払いした。
言い辛いこととはいえ、言わなければ。そんな使命感に駆られな
がら彼は重い口を開いた。
﹁その、フェエーリコ・デュエットってやっぱ、その、かっこいい
とは思うんだけど口に出すのは恥ずかしいっていうか﹂
しかし、その言葉に返答はない。傷つけて無視されたのか、とど
きどきしながら太李は振り返ってから頭を抱えた。
彼女の頭にはヘッドフォンがつけられている。どれだけ大音量で
聞いているのだろうか、と太李は呆れたような気分になった。
巳令が不思議そうに首を傾げた。それに﹁なんでもない﹂と太李
は首を左右に振った。
■
﹁ええー、手下やられちゃったのぉ? だっせーれーこだっせー!﹂
﹁うるさいですわよ、ウルフ。あなただってこの間、あの、シンデ
レラとかいう奴にやられたくせに﹂
﹁やめんか。それにしても計算外だったな、こんなにあっさり二人
目が見つかるとは﹂
﹁あの鉢かづきの小娘だけでしたら潰すのも楽でしたのに﹂
﹁何弱気になってんのぉ? 雑魚が何匹増えたってかわんねーよ!﹂
﹁このトレイターの前ではな﹂
﹁あーあちしが言おうと思ってたのにー﹂
27
第三話﹁俺たちは仲間が欲しかったけど先輩は部員が欲しかったようです﹂
自分ともう一人以外には人の居ない教室で壁に凭れ掛かりながら
太李は自分の指にはまった指輪を見て小さく息を吐いた。
先日、フェエーリコ・デュエットとしてディスペアをなんとか退
治することが出来た。しかし、やはりというべきか、自分たち以外
にも仲間は欲しいと感じていた。
現在、ディスペアを退治するために変身するのはシンデレラであ
る太李と鉢かづきである巳令だけだ。
柚樹葉の話によれば残り三人は仲間ができるはずである。
﹁なぁ、鉢峰﹂
巳令がヘッドフォンを外し、首を傾げた。
﹁なんですか?﹂
﹁いや、ほら、変身する人って他にもいるんだろ?﹂
﹁そうですね、適応者がいればあとは当人の意思で﹂
﹁だったらあと三人、分かったりしないのか?﹂
そんな都合よく事が運ぶわけないだろうが、と思いながら太李は
問いかけたら彼女から返ってきた言葉が予想に反したものであった。
﹁三人、は難しいですが一人は一応適応者が﹂
驚いて彼は巳令を見返した。
﹁分かってるのか?﹂
﹁はい。この学校の生徒です﹂
﹁え、じゃあ、なんで頼みに行ったりしないの?﹂
思わず太李が問いかけると巳令が決まり悪そうに顔を逸らした。
そういえば、と太李は思い出した。この間まで巳令は他の変身者
が増えることを恐れていた。交渉に行きたくなかったのだろう。だ
ったら柚樹葉が行けばいいのに、とも太李は思ったがすぐにその考
えを改めた。そういうタイプではないだろうと思ったからだ。
やれやれと息を吐いてから﹁まぁ。ほら今はもう仲間が出来ても
28
いいんだろ? 三人になったら、ええと、なんだ、フェエリーコ⋮
⋮﹂
﹁テルツェットです﹂
﹁やりたいだろ?﹂
﹁⋮⋮ちょっとは﹂
﹁んじゃ、会いに行こう﹂
手を差し伸べながら太李はにっこりと笑った。
﹁でも﹂
﹁まぁだごねるか﹂
﹁いえ、そうじゃなくて﹂
短い髪をくるくると指に巻きながら彼女は恥ずかしそうに告げる。
﹁その、彼女、三年生なんです﹂
﹁はぁ﹂
﹁私⋮⋮上級生とお話したことなんてあんまりなくって﹂
顔を俯かせて申し訳なさそうにそう言う彼女に﹁ええー﹂と太李。
﹁部活とかは?﹂
﹁ずっと帰宅部で﹂
﹁中学も?﹂
こくこくと頷く巳令にはぁ、と太李は溜め息をついた。
それから少し困ったように笑う。
﹁心配すんなって。酷いことされるわけじゃないんだし﹂
﹁そんなこと言って!﹂
﹁しません﹂
ぴん、と太李が巳令の額を指で弾く。
あう! と情けない声を出しながら後ろに倒れかける彼女を見な
がら彼は壁から離れると学ランを拾い上げて﹁その先輩、どこにい
るの?﹂と問いかけた。
どこってと巳令が言葉を詰まらせていると二人の足元から声が響
く。
﹁陶芸室なのです!﹂
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そこに座っていたのはアンゴラウサギ型ロボット、ことスペーメ
だった。突然声を発したそれにびくっと肩を跳ね上がらせてからや
がて、太李が引きつった笑みを浮かべた。
﹁いたのか、毛玉⋮⋮﹂
﹁スペーメは毛玉じゃないですぅ! アンゴラウサギなのです! 何回言わせればわかるですかこのボケナス!﹂
﹁なんだとおい﹂
危うく首の辺りを掴み上げてしまいたくなりそうな衝動にかれら
たが首が分からないので太李はそれを仕方なく断念した。
﹁でもなんで陶芸室?﹂
﹁それは勿論、陶芸部員だからなのです!﹂
﹁へぇ﹂
荷物を拾い上げながら太李は素直に感想を述べた。
﹁この学校、陶芸部なんてあったんだ﹂
﹁ええ。知りませんでした?﹂
﹁部活なんて入る暇もなくヒーローにされましたから﹂
深々と息を吐きながら太李が教室の扉を開け、廊下に出た。
初夏の少し湿っぽい空気に晒されながら彼はふと気になって後ろ
で立てつけの悪い扉を懸命に閉めようとしていた巳令に尋ねた。
﹁鉢峰さ、部活に入らないで放課後何してんの? 勉強?﹂
﹁いえ﹂
首を左右に振りながら﹁最近は技名を考えてました﹂は、と間の
抜けた声が太李から発せられた。
﹁わ、技?﹂
﹁はい。できたら掛け声と一緒に﹂
﹁⋮⋮え、なんで?﹂
﹁そっちの方が盛り上がりませんか?﹂
きょとんと返してくる巳令に太李は思わず頭を抱えた。
太李は薄々気づきかけていた。巳令がこういった類の技名を考え
たり、掛け声をかけることが大好きなことに、である。
30
﹁鉢峰って意外とそういうの好きだよな﹂
﹁おかしいですか? 灰尾だってやるでしょう?﹂
﹁やらねーよ﹂
階段を下りながら彼がそう答えると巳令は信じられない、といっ
た風な視線を彼に向けた。
﹁なんでですか。あ、なんだったら私がシンデレラの分も考え﹂
﹁絶対やめろよ! 絶対俺の技に名前とか掛け声とかつけるなよ!﹂
﹁ええーなんでですか﹂
む、と顔をしかめる彼女に溜め息を抑え込みながら彼は目の前の
教室を見上げた。
陶芸室。転校生である彼がなぜこの場所が分かったかといえば先
日授業でここに訪れたからである。本当にここに変身者になる可能
性のある人物がいるのだろうかと不思議に思いながらもそっと引き
戸を引いた。
﹁す、すいませーん﹂
恐る恐る、そう声をかけると片隅に座っていた小柄な女生徒がび
くりと肩を揺らした。
黒い髪を一つに縛った彼女の手元にはぐにゃぐにゃと形を形成し
かけていた粘土とろくろがあった。くるくるとろくろを回したまま
彼女は太李と巳令を交互に見比べながら﹁え、ええと﹂と困ったよ
うに声を詰まらせた。
﹁あの人でいいのか?﹂
小声で太李が問いかけるとはい、と巳令が小さく返事した。
﹁あの、俺ら﹂
﹁あ、あ、もしかして﹂
がたんと、立ち上がりながら粘土だらけの手を一生懸命拭って女
生徒が二人を見つめた。
﹁にゅ、入部希望の人⋮⋮?﹂
﹁え?﹂
太李と巳令は顔を見合わせた。それから否定しようと口を開く。
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﹁なんというか﹂
しかし、最後まで聞かず、彼女はしょぼんと肩を落としてしまっ
た。
﹁ご、ごめんなさい。そ、そんなわけないよね、今時こんな陶芸部
に、だなんて﹂
しゅん、と小さくなる彼女を見て太李は言葉を飲みこんだ。
それから、一拍おいて。
﹁いや、俺ら、仮入部がしたくて!﹂
ばっと巳令が彼を見て、ぱぁっと彼女が顔を輝かせた。
促されるがまま、椅子に座った二人はろくろを回し続ける彼女と
対面に座りながら困り果てていた。
本題を話せばいいのだが、いきなりヒーローになってくれ! と
いったところでどうにかなるとも思えず、かといって一から説明し
ようにもどこからどう説明すればいいのかといった具合だった。し
かも自分たちのことを未だに入部希望だと思い込んで嬉しそうな彼
女を見ると事情をなかなか本題を切り出せずにいた。
一方で、ろくろを回していた彼女はその手を休めないままで言葉
を発した。
﹁自己紹介、しよっか。なんて﹂
﹁あ、はい﹂
小さくなる彼女を見ながら太李が返事をすれば彼女は安心したか
とうてんこうりか
のように息を吐いて名を告げる。
﹁ええと、私の名前は、東天紅梨花です。んと、三年生で、一応こ
の部活の部長さん、です﹂
ろくろの回る音が嫌に大きく聞こえた。そうしてまた訪れた沈黙
に自分たちが促されていることに気付いた太李は慌ててその後に続
いた。
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﹁えっと俺は灰尾太李です。で、こっちが﹂
﹁鉢峰です。鉢峰巳令﹂
﹁分かった。あ、あの、あたしのことは、梨花でいいから﹂
そういって何故か申し訳なさそうに小さくなる梨花を見ながら太
李は苦笑した。
ろくろを回す音だけが聞こえた。
﹁ご、ごめんなさい! か、仮入部だなんて久々で、その、どうし
たらいいのか分からなくて。準備もなかったし﹂
﹁いや、そんな。私たちも急に押しかけてしまいましたし﹂
ね、と巳令が太李を見た。それに彼が頷く。
﹁そ、そうだけどあたし部長なのに。明日はちゃんと準備するから
! えっと二人ともジャージかエプロンとか持ってきてくれるかな
? きょ、今日はとりあえず見学だけで﹂
﹁はい。分かりました﹂
まずい。と太李は内心焦っていた。
まずます切り出すタイミングがなくなっていく。どうしてうっか
りあんなことを言ってしまったのか、彼は自分の安直さを呪った。
太李も巳令も結果的に梨花に本題を切り出せないまま最終下校時
刻まで彼女がろくろを回し続ける光景を見ているだけだった。
ろくろから外された作りかけの作品を棚に置いてから梨花は手を
洗うと﹁あの、これ﹂と二人の前に何かを差し出した。白い紙に入
部届と書かれていた。
﹁ま、まだ仮入部だし、気が早いかもしれないけど、もし入る気に
なってくれたなら明日持ってきて? も、勿論なくっても大丈夫だ
から!﹂
入部届を受け取りながら﹁ところで梨花先輩﹂と巳令が問いかけ
た。
33
﹁な、なに?﹂
﹁他の部員の方って﹂
びくっと肩を跳ね上がらせて、梨花が黙り込んだ。
それから掻き消えそうな声で﹁あたし、だけなの﹂
﹁そうだったんですか﹂
その言葉とは裏腹に、巳令はどこかでそれを察していた。驚いた
様子の太李を一瞥してから﹁じゃあ廃部危機なんじゃ﹂と問えばこ
くんと梨花は頷いた。
﹁そう、なの。来月までに部員を五人集めないと廃部にするって。
でもあたし、こんな性格だから。人に入ってくださいって声掛ける
こともなかなかできなくって﹂
顔を俯かせながら﹁だから﹂と梨花は手を組んだ。
﹁二人が来てくれてちょっと嬉しかったんだ。まだあきらめなくて
もいいんだって思って。駄目だよね、こんな部長。あたししかいな
かったからなったとはいえ、こんなことじゃ﹂
弱々しく微笑む梨花に﹁じゃあ、陶芸部、廃部させないようにし
ましょうよ﹂と太李が悪戯っぽく笑った。
﹁え?﹂
﹁俺と鉢峰と梨花先輩で三人、あと二人! 一人はなんとかします
から!﹂
それはもしかしなくても柚樹葉のことか? そして気付いたら私
まで入る前提で話が進んでいるぞ?
色々とツッコみたい衝動を巳令が抑えていると﹁本当?﹂と梨花
が首を傾げた。
﹁はい!﹂
勢いよく太李が頷くと梨花は心底嬉しそうに笑った。
﹁あなたもお人よしですね、灰尾﹂
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陶芸室の鍵を持ってくると言って走って行った梨花を見送りなが
らぼそりと巳令が告げた。
太李は困ったように笑いながら﹁なんてーかさ﹂と頭の後ろに手
を回す。
﹁梨花先輩あんなに一生懸命だったし、なんかほっとけなくって﹂
﹁それをお人よしだって言ったんです﹂
﹁あと﹂
うーんと唸りながら﹁仲良くなったらいつか、変身してください
って言う機会があるかもしれないし﹂
巳令はきょとんとしてからやがて小さく笑った。
﹁あなた意外と計算高いんですね﹂
﹁打算だけじゃないんだぞ一応。梨花先輩助けたいって思ったのは
本当だし﹂
難しい顔をしながら﹁それより﹂と気が重そうに太李は額を押さ
えた。
﹁今の問題は九条さんが来てくれるかどうかだよなぁ﹂
悩ましそうに天井を見上げる太李を見て巳令はどこか楽しそうに
笑った。
翌日の放課後、柚樹葉の手を引きながら太李と巳令の二人は陶芸
室にやって来ていた。
部屋の中に入ればすでにエプロンをつけていた梨花が両手を合わ
せて微笑んだ。
﹁ほ、ほんとに来てくれたんだ﹂
﹁はい! あ、こっちは九条さんです﹂
﹁九条、柚樹葉です﹂
腕を組みながら顔を逸らす柚樹葉を見ながら梨花は首を傾げた。
﹁白衣?﹂
35
﹁あ、ええと、エプロンがなかったらしくって﹂
勝手なことを言うな、とばかりに柚樹葉がぐるっと太李を睨み付
けた。あはは、と彼は視線を逸らした。
巳令の手の中にいるスペーメはぴくりとも動いていなかった。無
暗に喋り出すよりはいいかと太李は思いながら﹁よろしくお願いし
ます、部長﹂と笑いかけた。スペーメを床に下ろしながらカバンか
らエプロンを取り出した巳令もじっと梨花を見つめた。
一方で梨花は部長⋮⋮部長⋮⋮と何度も繰り返してから﹁よし!﹂
と両手を握りしめた。
﹁と、陶芸部、張り切っていっくぞー!﹂
﹁おおー!﹂
﹁お、おおー⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
嫌に張り切って返事をする巳令、戸惑いながら腕をあげて答える
太李、黙り込む柚樹葉を見ながら﹁そんなことで大丈夫なのか﹂と
スペーメはわずかに体を丸めた。
粘土をこねながら巳令は唇をへの字にした。
手の中で動き回る粘土は彼女の思うような形にならない。むすっ
と頬を膨らませる巳令を見ながら梨花はくすくすと笑った。
﹁鉢峰さんって意外と不器用?﹂
じっと自分を見つめる巳令に﹁ご、ごめんなさい﹂と梨花が委縮
する。
太李の方を見て、あ、と声をあげた。
﹁は、灰尾くん、お水つけすぎ。もっと少しでいいんだよ﹂
﹁はぁ⋮⋮思ってた以上に難しいんですね﹂
﹁が、頑張って﹂
それから恐る恐るという風に柚樹葉を見た梨花は﹁わあ﹂と声を
あげた。
まだ形は荒いものの綺麗に形成された器を見て彼女は手を叩いた。
36
﹁す、凄いね、九条さん。筋がいいんだ。とっても綺麗﹂
梨花の言葉に柚樹葉は気恥ずかしそうに視線を逸らすと﹁こ、こ
れくらい﹂と顔を俯かせた。
﹁私にかかればなんてことねーって﹂
﹁うぐぐ﹂
悔しそうに唇を噛む巳令を見てふふっと笑った梨花は﹁みんな頑
張ってるからあたし、ジュースでも買ってくるね!﹂
﹁え、そんな﹂
﹁き、気にしないで! 勝手にやることだから! すぐ戻るね!﹂
ぱたぱたと走り去って行ってしまった梨花を見ながら柚樹葉は呆
れたように息を吐いた。
﹁んで? いつになったら変身者の話するの?﹂
太李と巳令は顔を見合わせ、やがて黙り込んだ。
そんな二人を見て頭を抱えた柚樹葉は更に続けた。
﹁そうやって問題先延ばしにしたって仕方ないでしょ、今はとにか
くこっちだって増員しなきゃいけないわけで﹂
﹁だあ、分かってるって!﹂
﹁そっちが話するって言ったからここに来たんでしょ!﹂
﹁すぐに話すとは言ってない!﹂
﹁屁理屈じゃないか!﹂
白衣の裾を振り乱しながら怒鳴る柚樹葉とそれに応戦する太李に
構わずろくろをまわしていた巳令の手がわずかに止まる。
それからその視線がしっかりと窓の外に向き﹁灰尾、柚樹葉﹂
﹁何!?﹂
﹁外﹂
巳令の指差す先を見て、二人は怒鳴り合うのをやめた。
窓の外の空の色は淀んでいた。三人には見慣れた色だ。
﹁ディプレション空間⋮⋮﹂
太李と巳令が慌てて手を拭うのを見ながらそう呟いた柚樹葉は﹁
スペーメ!﹂
37
自分の名前が呼ばれたことで丸まっていたスペーメが顔をあげ﹁
はいです!﹂と返答する。
﹁ディスペアはどこ!﹂
﹁むむむ﹂
唸ったスペーメは数拍おいてから叫んだ。
﹁屋上なのです!﹂
﹁だって﹂
ポケットに入れていた指輪をはめながら太李が﹁階段登っていか
なきゃ駄目か⋮⋮﹂と呟いた。
しかし巳令は腕輪を掲げると﹁その必要はありません﹂ときっぱ
り言い放った。
﹁変身!﹂
光に包まれ、鉢かづきへと姿を変えた頭の上に乗った鉢に手を掛
けながらベランダの方へと駆け出した。
しかし、頭の上の鉢が大きすぎたようでがっと音を立ててその行
く手はあっさりと阻まれた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
沈黙が流れてから黙って刀を抜いた巳令はそのままそれを一振り
して、再び鞘に戻した。
がらがらと音を立てて扉が崩れ落ちた。
﹁おい﹂
﹁通れない方が悪いんです﹂
それはいくらなんでも酷い理屈すぎる。と太李は思ったがそんな
彼にも構わず巳令はベランダに出ると手すりに足をかけて、そこを
蹴り上げて飛び上がった。
人間離れした脚力で飛びあがった巳令は一気に屋上の方へと消え
て行った。その姿を見つめながら太李は唖然とした。
﹁何あれ﹂
﹁ぼけっとしてないでシンデレラも行くです!﹂
﹁え、あれ、俺もできるの?﹂
38
﹁余裕﹂
ぐっと親指を立てる柚樹葉を見ながら﹁信じるからな! いいか
! 嘘だったら俺怒るからな!﹂と太李は指輪を掲げた。
﹁変身!﹂
青白い光に包まれて、シンデレラになった太李はマントを翻しな
がら巳令と同じように手すりに足をかける。
﹁九条さん、毛玉。梨花先輩よろしく!﹂
適応者ならこの場でも意識が残っている筈だ。無事だといいのだ
が、と思いながら太李は思いっきり手すりを蹴り上げた。
ふわっと浮かび上がるような感覚すら与えられて、彼の体は一気
に飛躍した。それこそ空でも飛んでいるのではないだろうかと勘違
いしたほどだった。
一瞬で、屋上の手すりより高く飛び上がった太李の体だったがず
っと飛び上がっているわけもなく、次には物理法則に従って落ちて
行った。
﹁うわあああああ!?﹂
風を切りながら落ちていく太李の体は辛うじて空中で体勢を立て
直し、両足で地面に着地する。うずくまりながら震え声で告げた。
﹁あ、足から、じーんって、じーんってした⋮⋮!﹂
﹁何やってるんですか力加減くらいしなさい!﹂
﹁無茶言うなよ!﹂
目の前には黒い鱗を持った大きな龍の姿をしたディスペアがぎろ
りと二人に睨み付けた。
巳令はそれを見るなり、こほんと咳払いをすると刀を抜き、龍へ
向けた。
﹁悲しき魂に救いを与える姫、鉢かづき!﹂
ああ、やっぱり。若干がっかりしながら太李もレイピアを構えた。
﹁哀れな役に幸せを与える姫、シンデレラ!﹂
二人で同時にそれぞれの得物を一振りすると巳令が続く。
﹁悪夢には幸せな目覚めを!﹂
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そして二人で声を揃えて叫んだ。
﹁フェエーリコ・デュエット!﹂
今日もばっちりだと巳令が喜ぶ間もなく、龍が大きく鳴いた。あ
まりの音に二人の肌にびりびりと衝撃が走る。
最初に駆け出したのは巳令だった。
彼女は一気に龍との間合いを詰めると刀を抜き、龍に振り下ろし
た。
しかし、振り下ろされた刃は堅硬な鱗にあっさりと弾かれてしま
った。
﹁な﹂
驚く間もなく巨体が回転し、長い尻尾が彼女の体をあっけなく吹
っ飛ばした。
﹁きゃあ!﹂
﹁鉢かづき!﹂
危うく屋上から落ちるといった具合の巳令の体を受け止めると太
李は息を吐き、レイピアを構えて走り出した。
﹁らあああ!﹂
掛け声と共に突き出されたレイピアだったがそれも弾かれた。
傷一つつけられず、唇を噛みながら太李が後退する。
﹁あいつ硬すぎ!﹂
﹁仕方ありません﹂
ぐぐっと立ち上がった巳令は﹁必殺技で一気に畳み込みましょう﹂
と刀を鞘に納めた。
﹁分かった﹂
﹁では同時に﹂
二人は顔を見合わせ、頷き合うと同時に走り出した。
﹁悲しき魂に救いの最期を﹂﹁最も哀れな役に幸せなエピローグを
!﹂
ばっと太李が手を横に振り払うと周りに現れたレイピアが一気に
40
龍に降り注いでいく。
二人は同時に、左右から龍を斬り付けた。
﹁多幸ノ終劇!﹂﹁リベラトーリオ・ストッカーレ!﹂
龍とすれ違った二人が見たのは、まだなんともなさげな龍が大き
く吠える姿だった。
自販機の陰に隠れて小さくなっていた梨花は息を飲んだ。
周りの皆がまるで死んだように眠ってしまっている。この光景を
見るのは彼女にとって実ははじめてではなかった。前にも同じよう
な光景を見た。けれどそのときはすぐに元通りになってしまったの
で自分の気のせいだと思い込んでいたのだ。
しかし、また同じことが起きた。自分の気のせいなどではなかっ
たのだ。
そして先ほどから大きな音が響き渡っている。屋上の方だろうか、
と思いながら梨花は部室にいるであろう後輩たちが急に心配になっ
た。
せっかくできた後輩をまた自分は失ってしまうのだろうか。そう
思うと怖くなり、彼女は居ても立ってもいられなかった。
気付けば、自販機の陰から立ち上がって出て行った梨花は屋上に
繋がる階段へ向かって走り出した。
﹁東天紅先輩!﹂
梨花の手が屋上の扉にかけられかけたとき、後ろから声が聞こえ
て、彼女は振り返った。
そこには白衣を揺らしながら肩にぬいぐるみのようなものを乗せ
た後輩が立っている。梨花は安堵した。
﹁九条さん⋮⋮よかった、無事だったんだね。ほ、他の二人は?﹂
﹁あの、先輩﹂
41
ぎゅっと梨花の肩を掴んだ柚樹葉は真剣な瞳で彼女を見つめると
﹁先輩は、何か守りたいものはありますか﹂
唐突な質問に彼女は言葉を詰まらせた。
﹁ど、どういうこと?﹂
﹁いいから!﹂
ただならぬ柚樹葉の気配に押され、びくっと肩を跳ね上がらせな
がら梨花は掻き消えそうな声で告げた。
﹁あ、あるよ⋮⋮﹂
一例をあげるならきっと部活もそうだった。自分の先輩との楽し
い思い出が詰まった場所で、これから自分が守って行かなければな
らない場所だった。
﹁そのためだったら、頑張ってくれますか。この扉の先の光景に立
ち向かってくれますか﹂
﹁え、えっと言われてる意味がよく分からないんだけど⋮⋮﹂
おどおどしながら梨花は続けた。
﹁で、でも、あたしなんかにできることだったら﹂
その梨花の言葉に柚樹葉はにこっと笑った。
﹁あたしなんか、じゃないんです。先輩にしかお願いできないんで
す﹂
そう言って一度だけ頷いてから﹁スペーメ﹂
途端、梨花がぬいぐるみだと思い込んでいたそれが言葉を発する。
﹁はいです!﹂
それに梨花は目を丸くした。
﹁ぬ、ぬいぐるみが喋った⋮⋮?﹂
﹁むむ、スペーメはぬいぐるみではないので、むぎゅ!﹂
﹁詳しい説明はあと﹂
そう言って柚樹葉は白衣のポケットから髪飾りを取り出した。も
しものために、彼女が持ち歩いていたものだ。
﹁これ、つけてくれます?﹂と促されて梨花は自分のポニーテール
をまとめているゴムにそれを引っかけた。それを確認すると柚樹葉
42
が梨花の横をすり抜けて屋上の扉を開く。
開けられた扉から梨花が視たのは大きく唸り声をあげる巨大な龍
と地面に倒れ伏す二人の少女だった。
﹁え⋮⋮?﹂
動揺した声をあげて、梨花が柚樹葉を見返す。しかしそれには構
わずに、スペーメが生き生きと声を出した。
﹁さあ、そこの娘っ子! 今さっき自分がつけた髪飾りに手をかざ
して変身と叫ぶがよいです! そうすればおみゃーはあの龍の形を
した悪夢に対抗する力を得られるです! 死にたくなきゃとっとと
やるがよいです!﹂
彼女はごくりと唾を飲んだ。
本当に? 疑念を払いきれないものの梨花は髪飾りに手をかざし、
叫んだ。
﹁へ、変身!﹂
薄桃色の光に包まれて、彼女の姿は一瞬で変わった。
ピンク色のまるで大きな花のように広がったフリルのドレスに白
いタイツと大きな花がつけられたブーツ。一つにまとめられていた
彼女の黒い髪は亜麻色へと変わり、ゆるくウエーブを描きながらド
レスと同じように広がっていた。
﹁わあ、わあ、わああ⋮⋮!﹂
もふもふと自分の髪をさわりながら辺りをうろうろと見渡す彼女
を見て柚樹葉は﹁感動するのはいいけど、来ますよ﹂と一言。
言葉の通り、龍は彼女目がけてその長い尻尾を一気に振り下ろし
ていた。
﹁ひゃ!﹂
思わず声をあげながら梨花は前に両手を差し出し、目を閉じた。
いつまで経っても痛みが走らない。不思議に思った梨花が薄く目
を開くと彼女は驚愕した。
自分の手が、巨大な龍の尾を軽々を受け止めていた。
43
﹁え、ええ⋮⋮?﹂
﹁親指姫は他の連中と違って特にパワー強化だからね﹂
柚樹葉のそんな説明など耳にも入らないほど動揺した梨花は両手
で尻尾を掴んだまま、その手を横に薙ぎ払った。
バランスを崩した龍の体が地面に叩き付けられた。これはさすが
に応えたのか、龍がわずかに怯む。
﹁ど、どうしよう﹂
﹁今です! とどめを刺すです!﹂
﹁と、とどめ?﹂
そんなことを言われてもどうしたいいのか分からない、とあたふ
たする彼女の鼓膜を聞き覚えのある声が揺らした。
﹁あなたが変身するときに使ったアイテムに力を込めることをイメ
ージして!﹂
その声に梨花は思わず問いかけた。
﹁え、は、鉢峰さん⋮⋮?﹂
﹁いいから早く!﹂
巳令の声に小さく頷いた梨花は﹁イメージ⋮⋮イメージ⋮⋮﹂と
ぶつぶつ呟きながら自分の髪につけられている髪飾りに手をかざし
た。
するとずしんという質量を持った音と共に何かが彼女の手の中に
現れた。視線を向けるとそこには巨大な斧がある。
刹那、梨花の体はまるで操られているかのように勝手に動きだし、
地面を蹴り上げて一気に飛躍した。
﹁悪しき心に正しき罰を!﹂
その斧を下に突き出しながら梨花は一気に降下した。
﹁マーベラス・フィニッシュ!﹂
斧はそのまま、龍の硬い鱗を破ってその体を切り裂いた。
間もなく、その体が砂のようになって消滅していく。ぜぇ、ぜぇ、
と肩で息をしている梨花に巳令ともう一人の少女が駆け寄った。
44
﹁やったぁ!﹂
嬉しそうな声をあげながらぎゅっと巳令が梨花に抱き着いた。
﹁これでフェエーリコ・テルツェットです! 凄いです梨花先輩!﹂
きゃっきゃっとはしゃぐ巳令にきょとんとしながら﹁や、やっぱ
り鉢峰さんだったんだ﹂と梨花は戸惑いながらその背を抱き返した。
﹁でもこんなに早く梨花先輩が変身してくれるなんて﹂
もう一人の少女の言葉に梨花は目を見開いた。
﹁えっと⋮⋮あ、あたしのこと知ってるん、ですか?﹂
﹁え?﹂
少女は驚いたように目を見開いてからやがて﹁あ﹂と何かに気付
いたようにマントをつまみあげると﹁そっか、そうだよな、やっぱ
このかっこじゃ分かりませんよね!﹂と一人であたふたし始めた。
空が晴れて、また青い色が広がっていく。その光景を見ながら少
女は﹁あの、引かないでくださいね?﹂と首を傾げてから指輪を掲
げた。
ぱしゅん、と音を立て、そこに立っていたのはマントを羽織った
少女などではなかった。
﹁は、灰尾、くん? え? え? さっきまで、女の子、え?﹂
﹁ああ、やっぱりそういう反応になりますよね﹂
頭を抱えながら太李は説明が面倒そうだと深々と溜め息をついた。
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第四話﹁俺はなりゆきでしたが図書委員には何やら事情がありそうです﹂
粘土の入った段ボール箱を床に置いてから梨花はふぅと息を吐い
た。
﹁なんだか、不思議な感じ。あたしがヒーローだなんて﹂
﹁そうなんですか?﹂
その上に巳令が段ボールを積み重ねて首を傾げるとこくんと梨花
が頷いた。
﹁うん。なんか、あんまり今までと変わらないから実感湧かないっ
ていうか﹂
﹁まぁ、確かにすぐ自覚しろっていう方が難しいかもしれませんね﹂
積み重なった段ボールを見ながら巳令が﹁そういえば、残り二人
とスペーメは?﹂
﹁えっと、九条さんはあたしのチェンジャー少し調整するって。ス
ペーメもついていっちゃった。灰尾くんは、今日は用事があるから
って﹂
﹁そうですか﹂
クラスの違う柚樹葉はともかく太李なら自分にくらい一言言って
くれればいいのに、と思いながら一番上の段ボールを開けて差し出
された粘土を受け取った巳令は﹁そういえば、梨花先輩﹂
﹁な、なぁに? あ、あたしなんかしちゃったかな?﹂
﹁いえ、その﹂
恥ずかしそうに視線を逸らしながら巳令は﹁呼び名、なんですけ
ど﹂
﹁う、うん?﹂
﹁⋮⋮その、よかったら、私のことも名前で﹂
巳令の言葉に梨花はきょとんとしてからやがて﹁あ﹂と声を漏ら
した。
﹁え、ええと、い、いいのかな?﹂
46
﹁も、勿論です!﹂
何度も頷きながらそう言う巳令に梨花は困ったように笑った。そ
れから自分の分の粘土も取り出すとじゃあ、と言葉を続ける。
﹁み、巳令さん、でいいのかな?﹂
﹁はい!﹂
嬉しそうに微笑む彼女に梨花はくすくすと笑い出した。
それに巳令が首を傾げると梨花は口元に手を当てながら答えた。
﹁あ、ご、ごめんね。ただ、そういうの気にするんだって思って。
なんだか意外で﹂
﹁だ、だって﹂
顔を俯かせながら巳令が返す。
﹁私は梨花先輩、って呼んでるのに先輩は私のこと鉢峰さんって他
人行儀かなって。せっかくはじめてできた同性の仲間なのに﹂
仲間、という響きに梨花は途端に嬉しくなった。
そうだ。自分と彼女は今や同じ目的で戦わなければならない仲間
となったのだ。まだよくわからないことも多いもののそれが事実だ。
自覚するなり梨花は﹁よ、よーし!﹂と一人で意気込んだ。
﹁巳令さん!﹂
﹁はい、梨花先輩!﹂
﹁今日も部活も正義の味方も頑張ろうね!﹂
﹁はい!﹂
頷き合いながら二人は意気揚々と陶芸室に入って行った。
一方、太李は電車を乗り継ぎ、病院にやって来ていた。まだ慣れ
ない土地にある病院は大きめで設備もそれなりに整っているようだ
った。薬品の匂いに顔をしかめながらかばんを持って廊下を歩いて
いく。
知らされていた病室に入るなり、彼はがっくり肩を落とす。
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﹁あ、おにいー﹂
くれは
両手をふりふりと振るセーラー服姿の自分の身内に﹁紅葉、お前
な﹂と彼は呆れかえった。
﹁えへへぇ、面目ない。いや、せっかくだから転校生らしくかっこ
いいとこ見せようかと思って﹂
﹁アホ﹂
溜め息をつきながらすみません、と彼は頭を下げた。カルテを覗
き込んでいた医師が﹁いえいえ﹂と首を左右に振った。
﹁捻挫で済んでよかったですね、安静にしてればすぐによくなりま
すよ﹂
﹁見たかおにい! 紅葉ちゃん最強なのだ!﹂
﹁うっさい﹂
こつんと彼女の頭を太李が軽く小突いた。
紅葉は小突かれた部分を押さえながら﹁なんだよおにい! 実の
妹に暴力振るう奴があるかよ!﹂
﹁妹がこんな馬鹿じゃ兄の俺だってどうしようもねーわ! ったく、
母さんも騒ぎすぎなんだよ﹂
その電話はちょうどホームルームが終わったとき、突然太李に掛
かってきた。
彼の両親は共働きで母親が職場からかけてきた電話だったのだが
その内容は中学生の妹である紅葉が怪我をして病院に行ったという
ものだった。母親があまりにも切羽詰った様子だったのでこれはた
だ事ではないだろうと思い、太李は梨花にメールだけを送って、一
度家に帰ると財布と保険証だけを持って慌ててここにやって来たの
だ。
そして、太李にとっては案の定というべきか紅葉は大した怪我で
もなかったのである。
病室で言い争いを終えて、念のためと渡された松葉杖をつきなが
ら紅葉ははぁーと溜め息をつく。
48
﹁みんな心配しすぎなんだよなぁー。ちょぉっとマットで着地失敗
したくらいでさ﹂
﹁あのな、それで迎えに来なきゃいけない俺の気持ちも考えてくれ﹂
頭を抱える太李を見ながら紅葉は﹁てへぺろ﹂と軽く舌を出した。
殴ってやりたい、という衝動を太李が押し殺していると彼女は﹁で
もさ﹂と笑った。
﹁なんだかんだでおにいは心配してきてくれるんだよね、自慢の兄
ですたい﹂
﹁はいはい﹂
﹁なんだよ冷たいなー﹂
ぶーぶーと唇を尖らせた紅葉は壁に凭れ掛かりながら続けた。
﹁学校、どうよ?﹂
﹁どうよって﹂
難しい質問だ、と太李は思った。
まさか転入初日にいきなり女になって、それ以来ヒーローとして
戦い続けているとも言えず﹁別に﹂と誤魔化すように告げた。
﹁普通﹂
﹁ふーん。おにい部活入ったんだっけ?﹂
﹁陶芸部﹂
﹁陶芸部ぅ?﹂
きょとんとした紅葉は黒い瞳を丸くさせながら﹁おにい焼き物に
興味あったんだ﹂
﹁んーまぁ、成り行きっていうか﹂
﹁あ、じゃあさ、彼女できた?﹂
﹁うっせーぞませガキ﹂
﹁あいて﹂
こつんと太李の拳が再び紅葉の頭を捉えた。
軽く叩かれて紅葉は頬を膨らませながら﹁なんだよ教えろよケチ
ー﹂
﹁いねーよばーか﹂
49
﹁やっぱり。おにいモテないもんねー﹂
﹁余計なお世話だ﹂
事実だけど、と彼が心の中で付け足したと同時に﹁灰尾紅葉さー
ん﹂と受付の看護師が彼女の名を呼んだ。
その声に太李の方が紅葉に背を向けた。
﹁俺、お会計してくるから。ここで待ってろよ?﹂
﹁待ってろと言われると逃げたくなるな﹂
﹁そういうのいいから﹂
やれやれ、と心の中で呟きながら太李はカウンターの方まで行っ
て手早く会計を済ませた。
あれだけ大騒ぎしていた母親にどう説明したものだろうかと考え
ながら彼が財布をしまいながら元の場所に戻ってくるともうすでに
紅葉の姿はなかった。
薄々予想はしていたが本当にどっか行きやがった。どうしてこん
な妹に育ってしまったのだろうかと太李は嘆きながら辺りを軽く見
渡した。
意外にも紅葉はすぐに見つかった。
﹁紅葉﹂
﹁あ、おにい⋮⋮﹂
振り返る紅葉の横には幼稚園児ほどの少女が自分の服を掴みなが
ら涙目で立っていた。
﹁どうした?﹂
﹁いや、お人形さんをね、なくしちゃったんだって﹂
﹁人形?﹂
太李が聞き返すとこくんと少女が頷いた。
﹁リサのミネラルレイモンドちゃんいなくなっちゃったの⋮⋮﹂
何その名前、とツッコみたいのを太李はぐっとこらえてしゃがみ
込んで問いかけた。
﹁ええと、そのミネラルちゃん、はどこで?﹂
﹁わかんない﹂
50
﹁ええー⋮⋮﹂
探しようがないじゃないか、と太李は困った。恐らくは紅葉が狼
狽えていたのもこのためだろう。
行ったところをなんとか思い出させて歩き回ったりした方がいい
のだろうかと彼が考えていると太李と彼女の間にずいっと何かが差
し出された。
太李がよく見てみるとそれは黒い熊のぬいぐるみだった。ぱぁっ
と少女の顔が華やいだ。
﹁ミネラルレイモンドちゃん!﹂
ぱっとその熊を受け取ると彼女はそれを嬉しそうに抱き締めた。
よかった、と息を吐きながら﹁あ、ありがとうござ﹂と言いかけ
て太李はぴたりと固まった。
そこに立っていたのは太李と同じ学ランを着た男だった。そこま
ではよかった。問題はその男が頭に被せていたものだった。
可愛いと呼ぶにはあまりにも不気味で、しかし気持ち悪いという
のも少しためらうような中途半端なウサギの被り物で顔を隠してい
た。
そのウサギの被り物がわずかに傾いた。それで合っているか? と尋ねているようだと太李は思った。
同じことを考えたのか少女はぎゅっとぬいぐるみを抱き締めなが
ら﹁ありがとうウサギさん!﹂と満面の笑みを浮かべた。それに一
回だけこくんと頷いた男は立ち上がると黙って太李たちに背を向け
て歩き出してしまった。
声をかける間もなく、立ち去ったウサギ頭の男に太李と紅葉は顔
を見合わせた。
翌日の放課後、陶芸の資料を借りたいという梨花に付き合って図
書室までやって来た太李は同じく付き合いだった巳令の肩を突いた。
51
﹁なぁ、鉢峰﹂
﹁なんですか?﹂
彼女は手元で開いていた﹃ファンタジーネーミング大百科﹄とい
う本を閉じて首を傾げた。
﹁いや、うちの学校にさ、キモいと可愛いの中間みたいなウサギの
被り物被った奴っていないかな?﹂
﹁⋮⋮は?﹂
何を言ってるんだお前はとばかりの巳令の視線に﹁うん、居ない
よね、知ってた﹂と太李は肩を落とした。
不思議そうな巳令に仕方なく太李は昨日の経緯を説明した。ふむ、
と頬に手を当てた彼女は﹁気になりますね﹂
﹁気になりますか﹂
﹁ええ。よかったら今日その病院に連れて行ってくれません?﹂
﹁完全に興味本位だな、お前﹂
とはいえ、自分も半分好奇心で巳令に尋ねたので分からないでも
ない。
しかし、彼女の返答は意外なものだった。
﹁いえ、そうではなくて。柚樹葉がこの間、それと似た特徴の適応
者の話をしていたので把握しておきたいかなと﹂
﹁似た?﹂
﹁はい。柚樹葉はトカゲの被り物だって言ってましたけど﹂
なんじゃそら、と太李は顔をしかめた。
しかし、仲間になる可能性があり得るのならば知り合っておきた
いのは太李にとって事実だった。うーんと唸っていると﹁お待たせ﹂
と分厚い本を何冊も抱えながらよろよろと梨花が二人に歩み寄って
きた。
﹁うわ、ちょ、梨花先輩大丈夫ですか?﹂
﹁ご、ごめんね⋮⋮なんだか見てたらどれも凄くよくって﹂
えへへと小さく笑う梨花に﹁俺、持ちますから﹂と太李が何冊か
を手に取った。
52
﹁あ、ありがとう﹂
﹁いえ﹂
﹁それじゃさくっと借りて病院に行きましょう﹂
﹁え、病院? どこか悪いの?﹂
不思議そうな目で二人を見比べる梨花に﹁あとでちゃんと説明し
ます﹂と巳令が言い放った。その手元には先ほどまで読んでいた本
が収まっている。
﹁⋮⋮それ、借りるのか?﹂
﹁はい。技名考えるなら語彙力くらいつけておかないと﹂
﹁そもそもつけなくていいから﹂
必殺技ですら口が勝手に動かなければ言いたくないのに、と太李
は溜め息をついた。
貸し出しカウンターまでやってくると図書委員という腕章をつけ
た男子生徒が小説を黙ってめくっていた。カウンターの前に立つな
り、巳令は手慣れた様子でこんこんとその端を指で叩いた。
彼はその音で本から視線を逸らした。それから呆れたように低い
声で告げる。
﹁またお前か、鉢峰﹂
﹁いけませんか? そんなに怖い顔しないでください﹂
﹁これは生まれつきだ﹂
ふん、と巳令から視線を逸らした彼は次いで太李に視線を向けた。
虹彩の部分がやや小さめの三白眼はどこか攻撃的な印象すら与えて
きた。
﹁見ない顔だな。二年か﹂
﹁最近転校してきたんです。知りませんでした?﹂
﹁他のクラスなんて気にしない﹂
﹁そうですか﹂
手慣れた様子で巳令の持ってきた本の貸し出し手続きをする彼は
﹁名前は﹂と低い声で太李に問いかけた。
﹁え、えっと、灰尾太李﹂
53
﹁⋮⋮じゃあ灰尾、ここに名前と組番号﹂
ん、と差し出されたカードには図書貸し出しカードを書かれてい
た。あ、と声を漏らして首を左右に振る。
﹁いやいや、借りるのは俺じゃなくて﹂
﹁ん?﹂
目を細めた彼は後ろにいる梨花に気付いたらしく、﹁ああ、東天
紅先輩か﹂とだけ呟いて棚の中の物色を始めた。
﹁あ、あの、できればその苗字で呼ばないで欲しいっていうか﹂
﹁はい﹂
﹁あ、うん、ありがとう⋮⋮﹂
カードを受け取りながら小さくなる梨花を見ていると﹁まぁ、い
い。灰尾、一応書いとけ﹂と太李は促された。まぁ、少し書くだけ
ならと彼はカードに傍にあった鉛筆を走らせた。
書き終えてから﹁書けたぞ、えっと﹂と声を詰まらせた。カード
を受け取りながら彼は太李が自分の名前を知りたがっているのに気
南波だ﹂
みなみ
付き、表情を変えずに答えた。
ますみ
﹁益海、益海
﹁⋮⋮二年生、だよ、な?﹂
﹁文句あるか?﹂
﹁いや別にそうは言ってないけど﹂
とんだ図書委員だ、と太李は素直に思った。
図書館で本を借り、梨花に事情を話して三人は再びあの病院へと
やって来た。
本来ならばこの場に柚樹葉も連れて来たかったのだが彼女は用事
があると先に帰ってしまっていた。
﹁しっかし﹂
壁にもたれながら太李は頭をかいた。
54
﹁またそう都合よく来るかね﹂
﹁来ます、絶対来ます。私のゴーストがそう囁いてます﹂
﹁なるほど勘なんだな﹂
分かってたけど、と太李は腕を組んだ。
分厚い本を目を輝かせながらめくる梨花を一瞥してから巳令が言
う。
﹁今日来なくても明日、明日が駄目なら明後日と張ればいいんです﹂
﹁でも昨日一回だけだったかもしれないだろ?﹂
﹁たかだか一回だけならこんなご立派な病院に来る必要はありませ
ん。通院か、あるいはお見舞いか。きっともう一度来る可能性は高
いでしょう﹂
﹁そうだろうけどさ﹂
﹁これもフェエーリコ・カルテット成立のためです!﹂
やっぱりそれが目的か、と太李は頭を抱えたくなった。
しかし、それを終えるより早く、視線を奪われた。
﹁鉢峰、あれ﹂
﹁ん?﹂
太李が指を差す先にはウサギ、ではなく猫の被り物をした例の男
が居た。
彼は特に三人に気付くでもなく、すたすたと病室の方へと歩いて
行ってしまった。
﹁どうする?﹂
﹁追いましょう。梨花先輩﹂
﹁ふぇ?﹂
本から頭をあげた梨花の手を引きながら巳令が歩き出す。そのあ
とに太李は黙って続いた。
55
﹁おかしいですね、確かにこっちの方に来ていたのに﹂
病室が立ち並ぶ廊下で足を止めながら巳令はうろうろと辺りを見
渡した。
﹁もうどっかの病室に入ったのかもしれないな﹂
﹁く、この私としたことが不覚でした﹂
悔しそうに唇を噛み締める巳令を﹁とりあえず今日は撤退しよう
ぜ﹂と太李が覗き込んだ。
むむ、と唇をアヒル型にする彼女に太李が困っていると﹁ひゃ!
?﹂と梨花の悲鳴が二人の鼓膜を揺らした。太李と巳令が同時に振
り返ると病室から出てきたのであろう自分たちの歳の変わらなさそ
うな少女が梨花に手を伸ばしていた。
﹁ご、ごめんなさい。大丈夫でした?﹂
﹁い、いいい、いえ、こちらこそ!﹂
小さくなって頭を下げる梨花に二人が駆け寄ると少女の方が﹁あ
れ?﹂と首を傾げた。
﹁その制服⋮⋮﹂
それからはっとしたように手を打つと﹁そっか﹂と笑みを浮かべ
た。
﹁みーちゃんのお友達だ!﹂
ん、と三人が疑問符を浮かべながら首を傾げているのにも構わず
に彼女は梨花の手を掴んで立ち上がらせると﹁ほら、そんなところ
にいないで入って入って!﹂
訳も分からず、流されるまま病室に入ると三人はぴたりと動きを
止めた。そこにはベッドに寝転がった柔らかい雰囲気の青年と先ほ
どの猫の被り物を抱えた南波が居た。
﹁お前ら⋮⋮﹂
﹁ん、なんだ? 南波のダチか?﹂
ベッドの上の男が首を傾げた。それに﹁違いますよ﹂と慌てたよ
うに南波が否定する。その言葉にええーと梨花の手を握ったままの
彼女が声をあげた。
56
﹁おんなじ学校の制服なのにー﹂
﹁同じ学校に行ってたって友達なわけじゃない。しかもそっちは先
輩だ﹂
﹁うそん!?﹂
梨花から手を離した彼女は﹁ほんとにお友達じゃないの?﹂と太
李たちを見上げた。
﹁知り合いではあるんですけど、彼が認めてくれないんです﹂
﹁勝手なこと言うな鉢峰﹂
﹁やっぱり顔なじみではあるんじゃねーか﹂
かずな
けらけらと笑った彼は﹁ここで会ったのもなんかの縁だろ、茶で
けい
も出してやれよ。和奈﹂
﹁ちょっと京さん﹂
﹁なんだよお前和奈と違って友達とか少なそうだし﹂
笑ってから﹁ほら入口で固まってないでこっちにこい﹂と三人に
手招きした。
﹁二人とも益海くんの幼馴染⋮⋮﹂
﹁うん、そうだよ。私はみーちゃんと同じで二年生、京くんは大学
生﹂
﹁ま、今はこの通り入院中ですけど﹂
湯呑を握りながら二人とにこにこと談笑する巳令を見て南波は黙
って太李を睨み付けた。彼はぎくっと分かりやすいほど肩を跳ね上
がらせてから小さく項垂れた。そんな彼の横に歩み寄ってから南波
は小声で問いかけた。
﹁どういうつもりだ﹂
﹁いや、どういうつもりっていうか俺たちにもなんでこうなってる
のかさっぱり﹂
ね、と太李が同意を求めると梨花が首がちぎれんばかりの勢いで
57
頷いた。
﹁一応お前に話があった、のは事実なんだけど﹂
﹁俺に?﹂
低く聞き返されて太李は小さく頷いた。
目の前の彼は今すぐに話せと言わんばかりだがさすがに幼馴染二
人の前で堂々とヒーローになってくれとも言えず、というかそもそ
もどうして被り物なんてしてたのかと問いかけたい気持ちもあり、
どうしたらと思考を張り巡らせていると﹁こいつさ﹂と京が南波の
肩を叩いた。
﹁この通り顔は怖いし、声は低いけど根はいい奴だから仲良くして
やってくれよ﹂
﹁ちょっと!﹂
三人揃って小さく笑った。
それから南波は京の腕から抜けると窓の外を見て、顔をしかめた。
﹁曇った⋮⋮?﹂
はっと三人が同時に立ち上がる。窓の外には暗雲が立ち込めたよ
うな暗い空が広がっている。見覚えのある空間だ。
巳令が黙って京と和奈に視線を向けた。案の定、二人はその場で
崩れ落ちるかのように眠っている。
南波もそれに気付いたのか二人を覗き込みながら﹁和奈? 京さ
ん?﹂とその体を交互に揺さぶっている。
﹁鉢峰、梨花先輩﹂
﹁分かってます﹂
﹁うん﹂
三人で頷き合ってから﹁益海くん、少し待っていてください。私
たち、様子を見てきます﹂
﹁あ、ああ⋮⋮?﹂
チェンジャーがあれば、事情を話して変身させることも可能だっ
たがそれを持っているのは今この場にいない柚樹葉だ。仕方ない、
と三人は病室を飛び出した。
58
廊下でもその場に看護師や医師、患者たちが崩れ落ちていた。
﹁ほんと、あいつらどこでも出てくるな﹂
﹁結局のところ人が集まってる場所ならどこでもいいんでしょうね﹂
そんなことを言いながら中庭に辿りつくと梨花が一番に声をあげ
た。
﹁あ、ふ、二人とも! あそこ!﹂
梨花が指差す先には軽く二メートルはありそうな海に棲むタコの
姿をしたディスペアがうねうねと触手を動かしている。
﹁こりゃまた﹂
﹁調理のしがいがありそうですね﹂
巳令が腕輪を構えながら小さく笑う。
﹁あんなの食いたくねーよ﹂
溜め息交じりにそう言いながら太李は指輪を掲げ、梨花は髪飾り
に手をかざした。
﹁二人とも準備はいいですね?﹂
﹁ああ﹂
﹁頑張る!﹂
声を揃え、三人が叫ぶ。
﹁変身!﹂
掛け声と共に三人が眩い光に包まれた。
その光にディスペアが三人に気付き、ゆっくりと振り向いた。そ
れを見ながら鉢かづきとなった巳令が刀を抜いて構えた。
﹁悲しき魂に救いを与える姫、鉢かづき!﹂
そのあとに斧の柄を握りしめた梨花が続く。
﹁悪しき心に罰を与える姫、お、親指姫!﹂
最後にマントを風に任せながらレイピアを構えた太李が叫ぶ。
﹁哀れな役に幸せを与える姫、シンデレラ!﹂
﹁悪夢には幸せな目覚めを!﹂
三人が声を揃えた。
﹁フェエーリコ・テルツェット!﹂
59
それから少し間を空けて﹁なんで俺最後なの?﹂と太李。
﹁そっちの方が合わせやすいかなって﹂
﹁こ、こだわるね﹂
﹁当然です﹂
うんうんと頷く巳令とそれに苦笑する二人めがけて大きな触手が
振り下ろされた。
三人はギリギリのところで跳び上がってそれを回避するとまずは
梨花が斧を振りかぶった。
﹁ええい!﹂
鋭い斬撃がタコの触手に直撃して一本を切り落とした。別の触手
が降って来て彼女はそれを斧で受け止めた。
﹁ひっ﹂
﹁ナイスです親指!﹂
梨花の斧に襲い掛かっていた触手を切り落として巳令が笑う。
それから巳令は太李の方に振り向くと﹁シンデレラ!﹂
﹁おう﹂
﹁触手の方は私と親指で落とします。本体に一気に行ってください﹂
﹁了解﹂
レイピアを構えた太李が一気に駆け出した。
長い触手がそんな彼を捕えようと伸びていくが太李を掴む前に巳
令か梨花に切り落とされていく。
地面に落ちていく触手をかわしながら太李が叫ぶ。
﹁最も哀れな役に幸せなエピローグを!﹂
ばっと現れたレイピアが一斉にディスペアめがけて飛んでいく。
﹁リベラトーリオ・スタッカーレ!﹂
しかし、彼の手には何かを突きぬいたという感触は一切なかった。
あったのは、唐突に走った激痛だけだった。
60
白衣を翻しながら柚樹葉はその場に崩れ落ちている医師たちにな
ど目も向けず、つかつかと先に進んでいく。その肩に乗っていたス
ペーメが小さな耳をぴくんと動かした。
﹁ナイチンゲール﹂
﹁その名前で呼ばないで﹂
﹁鉢かづきたちがここの中庭で交戦中のようなのです!﹂
﹁巳令たちが?﹂
居たのか、と眉を寄せながらいや、それよりもだと彼女は病室の
前で足を止めた。
ポケットの中に手を入れて、目的のものがあるのを確認してから
はぁ、と息を吐いた。思い描いた通りにすればなんの問題もないは
ずだ。
﹁おっじゃまー﹂
意気込んで彼女は病室の中に入り込んだ。
個室になっているそこには二人の男女が眠り続けていた。その二
人を茫然と立ち尽くしながら見つめる青年に柚樹葉は安心したよう
に笑った。
お前を探してたんだ。
﹁やあ﹂
後ろから声をかけると青年は勢いよく振り返った。
﹁お前は⋮⋮確か、九条﹂
﹁お、さすが。覚えててくれて嬉しいよ﹂
腰に手を当てて柚樹葉はにこっと笑った。
大丈夫。自分は少なからずこの男の弱点を分かっている。これで
やっと四人目だ。
﹁益海南波﹂
口元を引き上げながら柚樹葉が続けた。
﹁君は、現代科学の生み出した奇跡というものを信じる?﹂
﹁どういう﹂
61
﹁大切なもののためなら﹂
彼の後ろで眠ったままの男を見て、彼女は言い放った。
﹁自分の命をその奇跡に売る覚悟はある?﹂
太李は一瞬、自分の身に何が起こったのか理解できなかった。
﹁シンデレラ! しっかりして! シンデレラ!﹂
ゆさゆさと体を揺さぶられて薄目を開けると鉢の下の巳令の顔が
酷く歪んでいるのが分かった。
﹁はち、み、おれ﹂
﹁叩き付けられたんです。後ろから﹂
﹁後ろ⋮⋮?﹂
不思議そうに顔をしかめる太李に巳令が頷いた。
﹁凄いスピードでシンデレラの技を全てかわして、背後に回ったと
思ったら一気に﹂
﹁まじ、か﹂
でかい図体に似合わないことをする、と奥歯を噛み締めていると
梨花の声が二人の鼓膜を揺らした。
﹁マーベラス・フィニッシュ!﹂
ずしん、と地響きが聞こえたものの彼女の斧は敵を捉えることは
できなかった。
﹁やっぱり、あ、あたしの技じゃ駄目だよ、ね﹂
﹁だったら﹂
太李の体をそっと地面に置くと巳令が刀に手を掛けた。
しかしそれを抜くより早く、少し低めな女の声が制止をかけた。
﹁やめておけ。お前らのスピードじゃ返り討ちだ﹂
背後から聞こえた声にむっとしながら巳令が振り返るとぎゃあと
おぞましい声をあげながらディスペアがよろめいた。
﹁な﹂
62
﹁どこ見てる﹂
うろうろと視線を泳がせて、巳令はようやくその声の主を見つけ
た。
丈の短めな体にぴったりとフィットした赤いドレスを着た釣り目
の女だった。くびれを強調した、まるで人魚のようなデザインだっ
た。巳令たちのものとは異なり、肌の露出面が多いにも関わらず白
い肌はかえって人の目を惹く。
美しい金色の髪をなびかせながら手に握っている三叉の槍を一振
りした。そんな彼女を見ながら﹁もしかして﹂と梨花が恐る恐る尋
ねた。
﹁に、人魚姫?﹂
﹁だったらどうした﹂
そう言って人魚姫は地面を蹴り上げてディスペアめがけて襲い掛
かった。
それに応戦しようとまだ残っている触手を振り上げたがはっと人
魚姫はそれを笑い飛ばした。
﹁遅いんだよ!﹂
振り上げた三叉槍が一瞬にして触手を切り裂いた。
そのまま踏み込んでその体を蹴り飛ばすと﹁で?﹂と首を傾げた。
﹁どうしたらいい?﹂
﹁あ、っと﹂
声を詰まらせながら巳令が答える。
﹁あなたが変身した時に使ったアクセサリーがあるはずです、それ
に力を込めるところをイメージして﹂
﹁これか﹂
首に掛かったネックレスを握りしめた人魚姫は一拍置いてから﹁
不幸な存在に一筋の光を﹂再度間合いを詰めた。
﹁フルクトゥアト!﹂
目にも留まらぬ速さで人魚姫の握った槍が角度を変えながらディ
スペアを貫いていく。
63
最後にはそのまま槍をその体に突き刺し、ゆっくりと引き抜いた。
ぐしゃりとディスペアが崩れ落ちた。
同時に空が晴れていく。見上げながら人魚姫は黙って変身を解い
た。
光の中から出てきた人物に﹁はぁ!?﹂と太李が叫んだ。
﹁お、おま﹂
﹁なんだ﹂
鋭い三白眼。紛れもなく、そこに立っていたのは南波だった。
柚樹葉がここにいたのか、と巳令は眉を寄せた。来ていたならば
一言、言えばいいものを。
不満を募らせながら巳令も黙って変身を解いた。
64
第五話﹁俺たちが後輩を望んだところ、後輩も先輩を望んでいたようです﹂
﹁柚樹葉﹂
背後から聞こえた声に柚樹葉は箸を止めた。
タッパーいっぱいのワカメを突いていた彼女は首を傾げながら﹁
なに?﹂
いつものように、当然の顔をしながら空き教室を占拠する彼女を
見ながら声の主︱︱巳令はわずかに首を傾けた。
﹁益海くんのことでちょっと﹂
﹁んー?﹂
不思議そうに自分を見上げる柚樹葉に巳令は淡々と告げた。
﹁益海くんにチェンジャー渡したの、柚樹葉ですよね﹂
﹁そうだけど、それが?﹂
﹁どうして益海くんが適応者だって分かっても何も言ってくれなか
ったんですか﹂
﹁べっつに﹂
再び手を動かしながらつまみ上げた緑色の海藻を口に放り込むと
柚樹葉は悪びれた様子もなく笑う。
﹁驚かせようと思ってさ。ああいう形になると思ってなかったし?
何? 怒ってんの?﹂
﹁いえ、そういうわけでは﹂
﹁じゃあいいじゃん﹂
そう言い放ち、柚樹葉はそれ以上答える気はないと言いたげに巳
令を見た。それに巳令は溜め息をつく。
﹁連絡の不足はミスに繋がります。一声かけてください﹂
﹁めんごめんご﹂
ごくんと口の中にあった海藻を飲みこんだ柚樹葉は目を細めると、
巳令に低く問いかけた。
﹁君さ、もしかして私のこと疑ってたりする?﹂
65
巳令はそれにすぐには答えなかった。
くるりと柚樹葉に背を向けて扉に手を掛け、ようやく言葉を放つ。
﹁疑っていたとして、私はあなたに何もできません﹂
力でこそ、鉢かづきである自分は上かもしれない。
しかし、このシステムの総括者である柚樹葉には恐らく自分たち
を止める術だってあるのだろうと巳令は思った。ましてや万一何か
したとして、それで彼女が死んでしまっては自分たちも近いうちに
変身することはできなくなるだろう。
だからこその、言葉だった。
﹁それは﹂
柚樹葉はわざとらしくためらってから言葉を続けた。
﹁この問いの適切な回答ではなさそうだね﹂
巳令は何も答えなかった。
図書室に太李の声が響き渡る。
﹁そこをなんとか頼むよ南波!﹂
﹁うるさい黙れあと気安く呼ぶな馬鹿﹂
文庫本から上がった南波の視線が彼に突き刺さった。
ぴたっと動きを止めながら太李は小さく項垂れて、近くにあった
椅子に腰かけるとカウンターに倒れ込んだ。鬱陶しそうに自分を見
る南波を見つめながら太李が問いかけた。
﹁どうしても入部してくれない?﹂
﹁無理﹂
ぴしゃりと言い放たれて彼は思わず頭を抱えた。隣にいた梨花も
小さくなる。
陶芸部に入部してくれ。放課後になってからいつも通り図書室に
いた南波に太李はそう頼んできた。
しかし、南波は陶芸というものに興味がなかった。それ以前に放
66
課後は委員会もあるし、それ以外の時間も出来ることなら京の見舞
いに行きたいと考えていた。
それを分かっているのかいないのか、南波には判断ができなかっ
たものの太李も彼を無理に入部させる気はないらしく、困ったよう
に顔を歪めていた。
﹁どうすっかなぁ、あと一人﹂
五人入部させなければ陶芸部は廃部になる。梨花が生徒会から言
われた言葉だった。
その期限が今週の金曜日だった。しかし、一向に新入部員は集ま
らず、陶芸部は四人だけだ。
悩ましそうに唸る太李を見ながら梨花は申し訳なさそうに言う。
﹁ご、ごめんね、せっかく巳令さんも灰尾くんも、九条さんだって
入部してくれたのに﹂
﹁いや、そんな。俺の方こそ力不足で﹂
知り合いがもっといれば当てはあったのかもしれないが、太李は
ほんの一ヶ月ほど前に転校して来たばかりだ。顔見知りの数もたか
が知れている。
梨花の知り合いにも何人か話をしたらしいが最高学年になって新
しい部活に入るというのも気が進まなかったらしくいい回答は得ら
れなかったようだ。巳令も全滅だと言っていた。
﹁とりあえず、部室に帰りましょうか。鉢峰と九条さんとで、どう
するか考えましょう﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁ほら、部長しっかりして!﹂
﹁は、はい!﹂
びくっと肩を跳ね上がらせてぴんと背筋を伸ばす梨花を見て太李
は笑った。
﹁よし。んじゃ、南波。気が変わったらこの入部届にだな﹂
﹁変わらないと思う﹂
がくっと肩を落としながら太李が一足先に図書室を後にした。
67
全く、と南波は息を吐きながら視線を感じてそちらの方を見た。
大きな本を大事そうに抱えながらじーっと梨花が自分を見ていた。
﹁⋮⋮入部ならしな﹂
﹁か、借りたいんだけど﹂
恐る恐るといった風に自分にそう言う梨花に﹁ああ﹂と南波は棚
から貸し出しカードを取り出した。
黙って渡すと勝手が分かっている梨花は自分がどうこう指示する
前にかりかりと必要事項を書き始めている。南波はまた文庫本に視
線を落とした。
しかし、集中できなかったのかやがて﹁東天紅先輩﹂
﹁なぁに?﹂
﹁あんた、なんであんなことしてるんだ﹂
あんなこと、というのは恐らく部活のことではないだろうと梨花
は思った。
﹁なんで、って﹂
うーんと唸りながら﹁もう嫌だからかな﹂と梨花にしてははっき
りとした声音で答えた。
﹁自分の居場所がなくなるの﹂
﹁⋮⋮ふーん﹂
﹁ま、益海くんは?﹂
問いかけと一緒に差し出されたカードを受け取りながら﹁さあ?﹂
と南波はわざとらしく首を傾げた。それに梨花が小さくなった。
﹁ずるい﹂
﹁勝手に答えたのはあんただろ。返却期限は二週間後だ、忘れるな﹂
﹁はい⋮⋮﹂
本を抱えながら梨花はとぼとぼと図書室を後にした。
その小さな背中を見つめながら南波は太李が強引に置いていった
入部届を見て、それを畳んでカバンの中にしまうとまた黙って本を
開いた。
68
二人が部室に戻ってくると巳令が机に向かって何やら真剣な顔を
している。
顔を見合わせてから﹁鉢峰?﹂と太李が声をかけると彼女ははっ
としたように顔をあげて二人の姿を確認した。
﹁おかえりなさい。益海くんどうでした?﹂
﹁断られちゃった﹂
しょぼんと肩を落とす梨花にやっぱり、とばかりに巳令が頭を抱
えた。
﹁まぁ、予想はしていた事態でしょう﹂
﹁鉢峰は何してたんだよ。っていうか九条さんは?﹂
﹁ポスター書いてました。柚樹葉はご飯食べてます﹂
昼休みに食べればいいのに、と思いながら太李は巳令の目の前に
腰を下ろした。
彼女の手元には新入部員募集と書かれた紙がある。ずっと帰宅部
だったという割には巳令は随分勝手を分かっていると思いながら中
身を見て、彼は顔を引きつらせた。
新入部員募集、まではよかったものの人のような何か禍々しい絵
と﹃アフラ・マズダーの誘いに導かれし、邪気眼を持つ者を待つ﹄
という煽り文句が本当に陶芸部のポスターなのかと彼に疑念を抱か
せた。
﹁アフラ・マズダーってなに?﹂
﹁知りませんか、ゾロアスター。それの最高神です﹂
﹁知らないし知りたくもなかった﹂
きっぱり返すと﹁第一邪気眼ってなんだよそれ、いらないだろ陶
芸部に﹂
﹁個人的に会いたいです﹂
﹁会わんでよろしい﹂
深いため息をつきながら太李は﹁お前それ一年後に見たら絶対足
69
ばたばたさせる奴だからな﹂不思議そうに巳令が首を傾げた。
﹁なぜです?﹂
﹁さあ、なんでだろうね﹂
もう説明するのすら彼には面倒だった。
しかし、何を思ったのか巳令は上機嫌になりながらまたかりかり
と何かを書き込んでいる。悩ましく思っているとその横に座ってい
る梨花も何かを書きだしているのを見て、俺も書かねばと慌ててカ
バンから筆箱を取り出した。
結局、彼らは柚樹葉がやってくるまでの一時間ほど、ずっとポス
ターを書いて過ごしていた。
﹁京さん﹂
面会時間がもうすぐ終了する、という頃にひょこっと顔を出した
自分の幼馴染に京は小さく笑った。
﹁おー、なんだよお前。今日委員会じゃないのか?﹂
﹁帰りにちょっと寄ったんで。これだけ渡そうと思って﹂
とカバンから取り出した袋を机の上に置いてから南波は頭に被っ
ていた犬の被り物を外した。
いつからか、南波は自分の顔を隠してこの病院にやってくるよう
になった。京も、この場にはいない同じく幼馴染の和奈もその意味
を未だに理解できずにいた。
﹁最近、どうです?﹂
﹁どうって?﹂
﹁えっと、調子﹂
どこか申し訳なさげに問いかけてくる南波に京は笑いながら答え
た。
﹁相変わらず起き上がれないかなー﹂
﹁⋮⋮すいません﹂
70
﹁なんでお前が謝るんだよ。病気になったのは誰のせいでもないだ
ろ﹂
ほんの数年前、彼は病気で倒れた。それ以来、彼は自分が目指し
ていた夢も絶たれ、ただベッドの上で生き続けていた。
誰のせいでもない。だからこそ、南波にはそれがどうしようもな
いことのように思えて仕方がなかった。いっそ自分のせいだったら
よかったのに、そうとすら考えた。
顔を俯かせる南波に京は小さく溜め息をついてからその頭を撫で
た。
﹁ばーか。病人の前でそんな顔すんなっつーの﹂
﹁すいません﹂
﹁言っとくけどこれでも薬変わってちょっとずつ回復してんだから
な﹂
﹁はい﹂
こくんと頷く南波に﹁分かればよし﹂と京は頷いてから南波の足
元に放置されていた開きっぱなしのカバンを見て首を傾げた。
﹁南波、お前部活入るのか?﹂
はっとしたように南波がカバンの拾い上げてぶんぶんと首を左右
に振った。
﹁今入部届見えたぞ﹂
﹁あれは、無理やり押し付けられて﹂
むすっとしながら視線を逸らす南波に﹁いいじゃん、部活﹂と京
は寝転がった。
﹁入ってみたら案外面白いぞ、多分﹂
﹁でも﹂
﹁言っとくけど、俺の心配はいらないからな?﹂
ぐっと南波が言葉に詰まるのが京にはよく分かった。
京にはできなくなったことを自分がやるのを嫌がっている。彼が
倒れてから南波は常にそうだった。
悔しくないわけではない。でもだからといって南波が気を遣うの
71
は間違っている。京にはそう思えてならなかった。
翌日、柚樹葉は白衣の裾を翻しながら久々に陶芸室の前にやって
来ていた。
その肩にはスペーメが乗っていて、﹁珍しいのです﹂と感想を述
べている。
﹁何が?﹂
﹁柚樹葉が部活に行くのがです。久々なのです﹂
﹁たまには行かないと梨花はともかく巳令と灰尾くんがうるさいで
しょ﹂
ふぅ、と息を吐いてから彼女はぴたっと足を止めてカバンを開い
た。
小首を傾げるスペーメの首根っこを掴み上げるとそのまま乱暴に
その中にしまい込んで﹁喋んなよ﹂とだけ告げると柚樹葉は一歩踏
み込んだ。
後ろの気配に気づいたのか、陶芸室の扉の前に立っていた女生徒
がくるっとこちらに振り返った。
短いスカートに白いニーハイソックス、くるくると弧を描く茶髪
に耳元のピアスがわずかに光った。ぱちっとした目が柚樹葉を捉え
る。
ギャルだ、と柚樹葉は身構えた。彼女はこの手の人種があまり得
意ではなかった。
﹁あの﹂
﹁あ、あー!﹂
柚樹葉が声をかけるなり、彼女は嬉しそうに手を叩いた。びくっ
はるかぜ
と肩を跳ね上がらせる柚樹葉の手を握りしめながらにこっと笑った。
﹁もしかして陶芸部の人ですか! あ、自分、一年の春風よもぎっ
て言います! あの、その陶芸に前から興味があって﹂
72
どうしたらいいのか分からず、柚樹葉は思わず硬直した。誰でも
いいから助けてくれ!
そんな願いが通じたのか﹁九条さん?﹂と後ろから声がかかった。
そこに立っていたのは太李だった。
﹁あ、灰尾くん!﹂
﹁どうもー!﹂
﹁うお!﹂
柚樹葉の呼びかけとほとんど同時によもぎから発せられた挨拶に
太李は驚いた。
それからまじまじと彼女を眺めて﹁もしかして?﹂と首を傾げた。
﹁入部希望者?﹂
﹁はい!﹂
こくこく頷いてから﹁ちゃんとマニュキュアも取ってきました!﹂
とよもぎは嬉しそうに両手の爪を二人に見せた。
じーっとよもぎの顔を見つめながら巳令が首を傾げた。
﹁冷やかし?﹂
﹁ち、違います!﹂
ぶんぶんと首を左右に振ったよもぎを見ながら﹁馬鹿﹂と巳令の
頭を太李が叩いた。
﹁あた! だって、邪気眼持ってるようにはみえなむぐ﹂
﹁もう頼むからお前喋んないで﹂
口を塞がれてじたばたと両手両足を動かす巳令を見ながら﹁えっ
と﹂とよもぎが辺りをうろうろと見渡した。
﹁部長さん、は?﹂
﹁あれ、そういえば﹂
柚樹葉が首を動かして梨花を探す。
未だ太李に口を塞がれたままの巳令がぽんぽんとその腕を叩いた。
73
あ、と声を漏らして太李が彼女の口元から手を離すとふはぁと息を
吸い込んでから彼女が一番前に置かれた机を指差した。
机の後ろで小さくなりながら梨花はちょこんと顔だけを覗かせて
いる。
﹁あ﹂
﹁ど、どうしよう、わ、わわ、あたし一年の子とお話するのはじめ
て﹂
﹁落ち着いて梨花﹂
ぷるぷると小刻みに震える梨花に呆れたように柚樹葉が告げる。
その一方で﹁灰尾ったら酷いです!﹂と巳令が声を張った。
﹁どうして邪魔するんですか! まだ話してる最中だったのに!﹂
﹁それ以上聞いてると俺が恥ずかしくて死にそうなんだよ!﹂
﹁何が恥ずかしいんですか! 新しい部員に素晴らしい闇の世界を﹂
﹁もうやめろ馬鹿ぁ!﹂
わざとらしく耳を塞ぐ太李をもよもぎは黙って見つめていた。
そんな中、勢いよく扉が開く。全員がそちらに振り返る中で﹁お
前たちは黙って聞いてれば﹂と部室の中に低い声が響く。
﹁本当に頼りない連中だな。しっかりしてくれ﹂
すたすたと梨花の元へ歩み寄った声の主は梨花に入部届を押し付
けた。
﹁委員会がある日は来ない。それでいいな?﹂
その彼︱︱益海南波の顔を見て梨花はぱぁっと顔を輝かせた。一
方でよもぎはどうやら南波に見覚えがあるらしく﹁あれ?﹂と首を
傾げた。
﹁益海先輩?﹂
﹁春風?﹂
南波はよもぎの姿を見つけるなり、﹁お前、陶芸に興味があった
のか?﹂
﹁えっと、まぁ。先輩こそ﹂
﹁一身上の都合だ﹂
74
やれやれと言いたげな南波に困りながらよもぎはてこてこと梨花
の元に歩み寄った。
びくっと肩を揺らしながら自分を見上げる先輩に彼女は笑いかけ
ながら﹁春風よもぎです。えっと、見た目、こんなんだから誤解さ
れやすいんですけどやる気はあるんで!﹂と手を差し伸べた。
梨花はおろおろと視線を泳がせてからやがてその手を握り返した。
﹁そ、そんなわけで無事に部員が五人以上集まりました!﹂
帰りのミーティングで彼女がそう言えばわーっとまばらな拍手が
梨花に送られた。
それに気恥ずかしそうに笑んだ梨花は小さくなりながらも﹁本当
によかった﹂と独り言のように告げた。
﹁これで廃部にならずに済みますね﹂
﹁うん。春風さんも益海くんも入ってくれて本当になんといったら
いいのか﹂
﹁頑張りましょうね、梨花先輩!﹂
﹁うん!﹂
それじゃあ、と梨花がぽんと手を打った。
﹁きょ、今日は解散!﹂
一同がおつかれさまでしたーと声を揃えた。
荷物を拾い上げたよもぎは﹁えっと﹂と全員の顔を見比べた。
﹁皆さん、こっちが地元、ですよね﹂
﹁よもぎさんは違うんですか?﹂
首を傾げた巳令に﹁はい﹂と彼女が頷いた。
﹁ちょっと離れたところにあって、電車乗って行かないと﹂
﹁そうなんですか﹂
少し残念そうに肩を落とす巳令に笑いながら﹁それじゃあお先に
失礼します﹂とよもぎはカバンを担いで歩いて行ってしまった。
75
その後ろ姿が見えなくなるのを確認すると柚樹葉は自分のカバン
のファスナーに手を掛けた。開いた隙間からスペーメがひょこっと
顔を出した。
﹁何するですか!﹂
﹁喋ってるところ見られると色々面倒でしょ﹂
﹁うぎぎ﹂
少しだけ粘土のついた白衣を脱いで、素早く新しいものに着替え
る柚樹葉を見ながら﹁春風さん、見た目は派手だけどいい子だね﹂
と梨花がぼそっと呟いた。
﹁そうですね。この調子でカルテットもクインテットになれればい
いんですけど﹂
﹁案外すぐなれるって﹂
んーと大きく伸びをする柚樹葉は空中を見上げながらわずかに目
を細めた。
その動作になぜか太李は無性に不安になった。自分たちとはまる
で違うものを見ている。そう思えて仕方なかったのだ。
原因を確かめようと口を開きかけたとき、スペーメが叫ぶ。
﹁で、出たです!﹂
﹁何が﹂
南波が低い声で問いかけるとスペーメはぴょんぴょん飛び跳ねな
がら告げる。
﹁ディスペアです! 駅に出やがったです!﹂
﹁それは困りましたね﹂
やれやれと首を左右に振りながら﹁もしよもぎさんが巻き込まれ
たら大変です。すぐ終わらせに行きましょう﹂
五人が駆けて行く間、彼らがよもぎとすれ違うことはなかった。
使う駅が違ったのか、急いでいたのだろうか。そんなことを考え
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ながら駅前の広間に足を踏み込んだ瞬間、空気が一瞬にして変わる
のが太李にもわかった。
歪な鳴き声をあげながらその中央で赤い羽根を大きく広げながら
巨大な鳥が居座っている。そんな鳥を見ながらふぅ、と巳令が息を
吐く。
﹁それでは行きましょうか﹂
腕輪を構えながらそういった巳令に三人が頷いて、柚樹葉は自分
の腕の中から黙ってスペーメを下ろした。
﹁変身!﹂
四人の声が揃い、光に包まれる。眩い光に怪鳥が目を背けている
と一番最初に光から飛び出てきた鉢かづきとなった巳令が刀を抜く。
﹁悲しき魂に救いを与える姫、鉢かづき!﹂
次いで飛び出てきた梨花が重そうに斧を握りしめながら続き、
﹁悪しき心に罰を与える姫、親指!﹂
続いて出てきた南波が半ばヤケクソのように告げた。
﹁不幸な存在に光を与える姫、人魚﹂
そうして最後に出てきた太李がレイピアを構える。
﹁哀れな役に幸せを与える姫、シンデレラ!﹂
﹁悪夢には幸せな目覚めを﹂
四人の声が重なった。
﹁フェエーリコ・カルテット!﹂
それから一拍置いて﹁人魚!﹂と巳令が不満げに唇を尖らせた。
﹁もっとやる気出してください!﹂
﹁これは必要なのか?﹂
﹁超必要です、一番大事です!﹂
呆れ顔の南波に巳令が吠える。
その間に怪鳥は左右の羽を大きく羽ばたかせた。吹き付けてくる
風に耐え切れず、太李たちの足がもつれた。
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﹁ふぎゅ!﹂
唯一、耐え切れたのは梨花だった。
大きな斧を担ぎながらなんとか風に逆らって歩いていくと﹁りゃ
あ!﹂という叫び声と共に一気にそれを振り下ろした。
斬撃を喰らって怪鳥がよろめき、風が止む。それにいち早く気付
いた南波が足を踏み込み、相手の間合いへと入り込んで槍を振り上
げる。そのあとから巳令が怪鳥を斬りつけて、飛び上がった太李が
レイピアを突き出した。
ぐぎぎぎと再び歪な声をあげた怪鳥は辺りにいた四人を振り払う
かのようにして羽を動かして、空中へ浮かび上がった。
四人が風圧で怯んだ隙にあっという間に上空高くへと飛び上がる。
﹁ど、どうしよう﹂
口元に手を当てながらおろおろと狼狽える梨花に構わず、南波は
太李の方に振り返った。
﹁シンデレラ﹂
﹁ん?﹂
﹁土台﹂
ええー、と顔を歪めながらそれしかないかと腹をくくったのか太
李は手を差し出しながらしゃがんだ。
その足に彼の足が乗ったことを確認するなり太李は勢いよく立ち
上がり、南波を上空へと放り投げた。南波はそのまま三叉槍を構え
て突きあげた。
しかし、あとわずかのところで怪鳥の体を捉えることはできず、
南波の体は地面に落ちた。体勢を立て直した彼が地面に着地すると
まるで嘲笑するかのように怪鳥がまた歪な声をあげる。
両方の翼を大きく振ると鋭い風がまるで刃物のように四人に襲い
掛かった。
﹁これ、普通にピンチじゃね?﹂
﹁ピンチです、割と切実に﹂
太李の言葉に風をかわしながら巳令が頷いた。
78
﹁ああ、やっと見つけた﹂
柚樹葉の言葉にベンチの陰にいたよもぎが顔をあげた。
よもぎには目の前の状況があまりよく分かっていなかった。突然
周りの人が倒れたと思ったら妙な鳥が現れて、自分の部活の先輩た
ちもやってくると何かに姿を変えて戦っている。
﹁く、九条先輩、これ﹂
﹁ねぇ、よもぎ﹂
腕を組みながら柚樹葉が告げる。
﹁今の自分を変えてみる。そんな気はない?﹂
よもぎの目がわずかに見開かれるのを柚樹葉は見た。
変えるって、とよもぎは怪鳥の方に視線を向けた。見ていたのは
その周りで戦っている四人である。
﹁ああいう風になるってこと、ですか?﹂
﹁そうだね﹂
こくんと頷く柚樹葉によもぎは一瞬ためらった。
しかし、それから。
﹁やらせて、ください﹂
﹁⋮⋮信じてたよ、よもぎ﹂
にこっと微笑むと柚樹葉は白衣のポケットに手を突っ込んで緑色
の石の付いたピアスを差し出した。不思議そうに首を傾げるよもぎ
に﹁つけて﹂と促せば、彼女は言われるがまま自分の元々つけてい
たピアスを外して、そのピアスをつけた。
﹁それじゃ、簡潔に行こう。そのピアスに手をかざしながらさっき
のあいつらみたいに変身、って言ってくれる?﹂
本当に、それでいいのか。
未だに半信半疑ではあったもののよもぎはピアスに手をかざした。
﹁変身!﹂
79
緑色の光に包まれて、次にはよもぎの姿は変わっていた。
黒いリボンが腰元に結ばれた深緑色のワンピースに、編上げのブ
ーツ、白のタイツ。髪の毛は先ほどまで茶色だった筈なのに黒いツ
インテールへと変わっていた。
体中をぺたぺたと触りながら﹁何これ!﹂と声をあげ、彼女は飛
び跳ねた。
﹁ちょー可愛い!﹂
﹁感動すんのもいいけどさっさとあれ倒してくれない?﹂
くいっと示された先を見て﹁でも﹂とよもぎは困った顔をしてみ
せた。
﹁あんな高いとこにいるし﹂
﹁君の武器なら届くよ﹂
ん、と柚樹葉が背中を示す。
彼女が手を伸ばすといばらをモチーフにした弓矢がある。
やったこともないのに、と思いながら彼女は自分の中にあるイメ
ージを精一杯働かせて矢をつがえた。
よもぎがきりきりと弦を引き、構えているとつがえられた矢が光
を帯びる。
﹁残酷な宿命に新たなはじまりを!﹂
勝手に動き出す口に戸惑いながらよもぎは矢を放つ。
﹁フレッチャ・ウッシェンテ!﹂
放たれた矢は光の線を描きながらまっすぐと怪鳥に向かって行っ
た。
矢の突き刺さった怪鳥は空中でバランスを崩し、そのまま地面に
叩き付けられ、ぴくりとも動かなくなった。
ぺたんとよもぎが座り込むと同時に、四人が一斉に彼女に駆けだ
した。
80
廊下に足音が響き渡る。
人の声が行き交う中で彼女は目的の音だけを聞いていた。
﹁グーデン・ターク。ドイツはどう?﹂
﹁仕事ならもうすぐ終わるぞ。今、爆弾仕掛けにいってる﹂
スピーカー越しに聞こえてくる不満げな部下の声に彼女はくすく
すと笑った。
﹁相変わらず仕事が早いのね﹂
﹁この間みたいにちょっと遅くなっただけで勝手に! 大事な依頼
料を! 減らされたらかなわないからな!﹂
﹁まだ根に持ってるの? しつこい男は嫌われるわよ﹂
手すりに彼女が寄りかかると男がはっと笑った。
﹁俺の恋人は金だけですのでご心配なく。要件は?﹂
﹁新しい仕事。ちょっとした財団の実験の付添人﹂
﹁いら﹂
﹁料金は弾むわよぉ。今までの軍隊の手助けなんかとは訳が違う。
何せ、国家を揺るがしかねないプロジェクトの立会人なんだからね﹂
﹁⋮⋮どういう経緯でそんな仕事を持ってきた﹂
﹁それはナイショ﹂
ふふっと彼女が笑う。
﹁引き受けてくれるわね?﹂
﹁出るだけ絞れよ﹂
﹁勿論﹂
ふんと男が鼻で笑うのが彼女にも分かった。
引き受けるという意思なのだろう。現に彼はついで問いかけてき
た。
﹁それでどこの国? 今度はアメリカさん? フランス? ロシア
?﹂
一拍置いてから彼女が答えた。
﹁日本﹂
﹁⋮⋮日本?﹂
81
﹁そう。ジャパンよジャパン。あんたの故郷。とにかくさっさとあ
の不良シスター連れてこっちいらっしゃい。日本に来たらまた話し
ましょう﹂
一方的に途切れた通話に男が舌打ちした。
あーとわしゃわしゃ頭を掻く彼に﹁んだよお前、どうした?﹂と
一人の女が歩み寄った。銀色の髪を上下に揺らす彼女を見ながら﹁
仕事は?﹂と問えばピースサインを作って彼女は笑う。
﹁完璧﹂
﹁よっし﹂
近くに停めていたトラックの扉を開け、乗り込んで﹁新しい仕事
だ。ドイツとはあと数日でおさらばになった﹂
﹁ええー。マジかよ、あたしまだフランクフルト食ってねーぞ﹂
﹁俺だってじゃがいも食ってねーよ。でもなんかベルが勝手に話進
めてるみたいだし、しょうがないだろ﹂
運転席に置いてあったパックのジュースを手に取ってストローを
突き刺しながら彼はトラックのエンジンをかけた。
﹁んで今度はどこだ? 生野菜がうまい国がいいな﹂
﹁安心しろ。今度は日本だ﹂
﹁日本?﹂
先ほどの自分と全く同じ顔をする女を見て彼は小さく笑った。
82
第六話﹁そんなわけでお姫様と傭兵が出会ったようです﹂
帰りのホームルームを終えたと同時に太李の携帯電話が振動した。
紅葉だろうかとメールボックスを開くと見知らぬアドレスからの
メールが一件だけ入っていた。迷惑メールか、それとも間違いか。
少し迷ってから﹃九条です﹄という件名を見て太李は首を傾げた。
彼女にアドレスを教えた記憶はない。どこから聞きだしたのだろう
かと少し考えてからまぁ、どうでもいいかと本文を開いた。
そこには顔文字も絵文字もなくただ無機質に﹃さっさと校門まで
来ること。大事な話があります﹄とだけ書かれていた。ふと隣を見
ると巳令も同じように携帯の画面を眺めていた。
﹁九条さん?﹂
声をかけると巳令は顔を上げ、こくんと頷いた。
柚樹葉に限って自分にだけ連絡をよこすことはないだろうと思っ
ていた太李は苦笑しながら﹁話って何かな﹂カバンの中からヘッド
フォンを取り出しながら巳令はうーんと唸った。
﹁部活、のことではなさそうですから恐らくフェエーリコ・クイン
テットのことでしょうね﹂
﹁⋮⋮だよな﹂
ということは少なからず他の三人も呼び出されているということ
だろうか。
行けば分かるかと太李がカバンを担ぎ上げたのと巳令が音楽を流
し始めたのはほとんど同時だった。
﹁あ、太李せんぱーい! みれーせんぱーい!﹂
指示された通りに校門に出向くとよもぎの明るい声が二人を見つ
けたことを知らせた。
その横には通学カバンを両手で抱えた梨花とつまらなさそうに門
83
に寄りかかる南波もいる。やはりクインテット絡みかと思いながら
太李は片手をあげた。
﹁やっほ。やっぱみんな呼ばれてたんだ﹂
﹁はい! 九条先輩が大事な話があるとかどうとか﹂
察するに文面も同じだったようだ。
音楽を聞きながら小さく体を揺らす巳令を小突いて無理やり中断
させながら﹁で、その肝心の九条さんは?﹂と問いかけると南波が
﹁お前たちと一緒かと思ってた﹂とだけ告げる。
﹁いや? 俺らクラス違うし﹂
﹁なんだ使えないな﹂
﹁そんな言い方ないだろ﹂
がくっと肩を落とす太李にふんと南波が顔を逸らすと﹁失礼﹂と
背後から男の声が聞こえてきた。
五人が振り返るとサングラスをかけた背の高い男が五人を見下ろ
していた。
﹁ひっ﹂
小さく悲鳴をあげながら梨花が巳令の後ろに隠れ、顔だけを出し
て相手を伺った。
太李も思わず身を引く中、巳令は淡々と﹁なんのご用でしょうか﹂
と問いかける。男は無表情のままそれに答えた。
﹁九条柚樹葉さんがお待ちです。どうぞ、こちらに﹂
そう言って男が示す先には黒いリムジンが威圧感を放ちながら停
まっていた。
巳令の後ろの梨花が小刻みに震えている。太李が小声で巳令に耳
打ちした。
﹁どうするんだよ﹂
﹁ついていきましょう﹂
﹁マジか﹂
﹁大マジです﹂
大きく頷く巳令に﹁で、でも﹂と梨花が震えた声で言う。
84
﹁知らない人についていっちゃだめって﹂
﹁もし万一があったら変身して振り払えばいいだけです。何より﹂
辺りを見渡しながら﹁ここでこんなことしていると目立ってしま
います﹂
校門の前に停まっているリムジンに下校途中の生徒の視線は確か
に集まっていた。長居して騒ぎになるのは賢明ではない。その考え
に納得できたのであろう南波が﹁だったら行くか﹂と促した。
﹁そうですね﹂
﹁よーっしいっちゃいまっしょー!﹂
ぐっと拳をあげながらリムジンの元へかけていくよもぎを太李と
巳令が追いかけて南波もそのあとに渋々と言った様子でついていく。
﹁あ、あ、ま、待ってよー置いてかないでー!﹂
うろうろと視線を泳がせてから結局梨花もその後に続いてリムジ
ンに乗り込んだ。
広い車内には小さいながらドリンクコーナーまで用意されている。
運転席から男の﹁どうぞご自由におかけください﹂という言葉が
かかるまで五人は立ち尽くしたままだった。
﹁気分はどう?﹂
首筋を押さえながら壁に寄りかかる男に白いナポレオンコートを
羽織った女が首を傾げながら近付いた。
﹁いいわけあるか。出会い頭にいきなり注射針打ち込んでくるとか
あのガキどういう神経してんだ﹂
﹁ごめんなさいね、手荒なことはしないで欲しいとは言っておいた
んだけど﹂
くすくすと笑ってから彼女は縛って、頭の上で一つにまとめた髪
に少しだけ触れた。オレンジ色に染められた自然ではないものだっ
た。しかしこの色が彼は不思議と嫌いではなかった。
85
﹁ひとまず適応薬の投与は終わったからしばらくしたら適応検査が
あって、それをパスできたら実戦投下ってところよ﹂
﹁ああ、聞いた。こういう組織は手順を大事にするからな﹂
しかし、と男が笑みを浮かべながら続けた。
﹁開発専門に嫌われるとはお前またなんかやらかしたな﹂
﹁私は何もしてないわ。私たちが雇われたのが気に入らないみたい。
自分たちで充分できるって﹂
﹁ガキの過信ってこえー﹂
ははっと笑う男に彼女はうろうろと辺りを見渡してから﹁あなた、
相方は? ドイツに置いてきたの?﹂
﹁そうしようかと思ったけどちゃんと来てる。武器の手入れするっ
てさ﹂
﹁そう。ならいいの﹂
納得したように頷いてくるりと自分に背を向ける彼女に﹁ベル﹂
と男が声をかけた。
﹁なに?﹂
﹁お前、今度は何企んでる?﹂
問いかけにベルは小さく笑い声をあげた。
﹁やーね、企んでるだなんて。お願いされたから引き受けた。ただ
それだけよ?﹂
﹁お前はそんな慈善者じゃないだろ﹂
﹁いいのよ、私は私で勝手にやるから。あなたは黙って仕事してお
金貰ってちょうだい﹂
片手をひらひらと左右に振り、赤縁の眼鏡をかけたベルを見なが
ら﹁やっぱりなんかあるんじゃんか﹂と男は小さく呟いた。
リムジンが人目を集めながら走り終えた末に停まったのは巨大な
ビルの前だった。
86
ほうむ
入口には﹃泡夢財団﹄と書かれている。ガラス越しに見えるロビ
ーでは人がせわしなく行き交っていた。
﹁何が、どうなって、こんなことに﹂
﹁さあ?﹂
太李が問いかけても巳令は首を傾けるだけだった。
入口の方に歩を進めながら南波が言う。
﹁なんにせよ、ここで降ろされたということは九条もここにいるん
だろう。入ればいい﹂
﹁あ、待ってくださいよ益海せんぱーい!﹂
すたすたと歩いていく南波によもぎが駆け寄っていく。
また取り残されるのが嫌だったのか今度はカバンを抱えて小走り
で梨花もついていく。そのあとに太李と巳令も続いた。
そんなこんなで五人がビルの中に入るとロビーの空気が一瞬で凍
りつく。
今まで動き回っていたのが嘘のように誰もかれもが足を止め、太
李たちに注目している。びくっとよもぎが肩を跳ね上がらせ、太李
も顔を引きつらせた。梨花に至っては目に涙を溜めて震えている。
涼しい顔のままの巳令が﹁随分な歓迎ですね﹂と隣の南波に耳打
ちした。
﹁だな﹂
﹁ど、どうしよう⋮⋮あたし⋮⋮? あたしがなんかやっちゃった
? ご、ごめんなさい⋮⋮!﹂
﹁い、いや多分これ梨花先輩だけっていうより自分ら五人に向けら
れた視線っつーか﹂
今にも泣きだしそうな梨花をよもぎがそうなだめていると痛いほ
どの沈黙の中でかつかつとヒールが床を踏みつける音が響き出した。
五人の耳に届くその音はやがて徐々にではあるものの大きくなり、
やがて止んだ。
次に鼓膜を揺らしたのは艶っぽい女の声だった。
87
﹁九条柚樹葉さんのお連れの方?﹂
その声をきっかけにしたかのようにロビーはまた動き出す。
静寂を破った声の主は両腕を組みながら五人を見つめていた。
﹁そうですが﹂
巳令が頷くと彼女はオレンジ色の髪をふわりと揺らしながら微笑
んだ。
﹁ごめんなさい、本来なら九条さんが来るべきなんでしょうけど彼
女少し立て込んでいて。ひとまず私がお相手するわ﹂
彼女は辺りを見渡してから﹁こんなところで立ち話もなんだから﹂
と悪戯っぽく笑う。
﹁よかったらこれからゆっくりお茶でもどうかしら。美味しい紅茶
とクッキーでも食べながらね﹂
眼鏡の下でぱちんと片目を閉じる彼女に太李と巳令は顔を見合わ
せた。
ビルの中をなんの迷いもなく進んでいく彼女は自分のことをベル
と名乗った。
案内されるがままやって来た太李たちを応接間のような一室に連
れてくると人数分のティーカップと大きめの器に盛られたクッキー
を持ってベルは戻ってきた。
腰を下ろしながらカップの中に入った紅茶を黙ってすするベルを
見上げながら恐る恐る梨花がクッキーに手を伸ばした。黙ってそれ
を見回してからやがて口に放り込み、ぱぁっと顔を輝かせる。
﹁美味しい?﹂
二つ目に手を伸ばす梨花にベルがそう問いかけた。
梨花は伸ばしかけていた手を引っ込め、頷いた。くすくす笑いな
がらベルが言う。
﹁よかった。たくさん食べていいのよ、まだあるから﹂
88
再び梨花の顔が華やいだ。
そんな梨花を見ながら紅茶を口に含んでから太李が﹁あの、ベル
さん﹂
﹁何かしら?﹂
﹁そろそろ色々教えて貰えないかなーとか﹂
﹁ああ﹂
ぽんと手を打ったベルは眼鏡をくいっと持ち上げてから﹁そうよ
ね﹂と大げさに肩をすくめた。
﹁それじゃあまず、この財団のこと、知ってるかしら﹂
唐突に問いかけられた質問に太李が首を左右に振ろうとしたがそ
れより早くよもぎが答えた。
﹁学術研究や社会福祉等の事業への援助、特に新薬やら技術開発に
力を注いでるんですよね﹂
﹁詳しいですね、よもぎさん﹂
﹁って、書いてありました﹂
てへと自分のスマートフォンを見せるよもぎにがくっと巳令は肩
を落とした。
ベルは取り立てて動揺した様子もなく、紅茶を口に流し込むと﹁
そうね、それで大体正解﹂南波が聞き返す。
﹁大体?﹂
﹁ええ。大体﹂
そう言って自分もクッキーに手を伸ばしてからベルは続けた。
﹁近頃多発するディスペアによるディプレション空間の解決。これ
が彼らの今現在の最大課題。勿論表向きに公開されることはないけ
れど﹂
驚いて自分を見返す高校生たちにベルはまた小さく笑った。
﹁まぁ、この財団は言うところのあなたたちのスポンサーみたいな
ものね、フェエーリコ・クインテットの皆さん﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
巳令がそれだけ吐き出してまた紅茶をすすった。
89
柚樹葉がこれだけのものを作りだせた理由が分かった。バックに
何かいるのだろうとは思っていたがまさか財団が控えているとは。
﹁特に気にせず、やることは今までと変わらなくていいと思うけど
ね﹂
﹁そのつもりです﹂
こくんと頷いてから巳令は﹁ところで﹂とベルを改めて見つめた。
﹁ベルさんはこの財団の人なんですか?﹂
﹁⋮⋮あら、私の話がまだだったかしら。ごめんなさい﹂
ふふっと笑ってからベルが言う。
﹁私はこの財団に雇われた傭兵集団の一種の仲介人。ここの人間じ
ゃないの﹂
﹁ようへい?﹂
難しそうな顔をする太李に﹁要するに雇われ軍隊なの﹂とベルが
告げる。
﹁主な仕事はあなたたちの手助け。といってもちゃんとあなたたち
を助ける兵は私じゃないんだけど﹂
挨拶だけでもしておこうと思って。
そう言葉を締めたベルにうーんと太李たちは考え込んでいた。梨
花はクッキーを食べる方に集中していたため﹁傭兵? 財団? 軍
隊?﹂と聞こえてきていた単語を復唱していた。
﹁バックで大きな組織が動いているというのは惹かれるものがあり
ますが少し面倒ですね﹂
﹁面倒なのか?﹂
﹁お約束です。組織の幹部が案外敵だったり﹂
﹁ほんと⋮⋮そういうの好きだなお前﹂
巳令に対して呆れたようにそう告げる太李にベルはふふっと笑み
を零した。
そのときだった。﹁鉢かづき! 鉢かづき!﹂と巳令の足元から
声が聞こえてきた。彼女が下を覗き込むと先ほどまではいなかった
スペーメがぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
90
﹁スペーメ、どうしたんですか?﹂
﹁出たです! ディスペアが! でも今までとはちょっと違うです
! いいから来いです!﹂
迷っている暇はなさそうだ。そう思いながら太李は﹁えっとベル
さん、ご馳走様でした﹂
﹁ええ。急いだ方がいいわ﹂
﹁はい、失礼します﹂
そう言った太李の後に続いて巳令が黙って頭を下げた。その後に
南波の低い声が響く。
﹁東天紅先輩、あんたいつまで食ってる気だ﹂
﹁ふぇ!?﹂
もぐもぐとクッキーを胃袋に詰めていた梨花の腕を引きながら﹁
行きましょう、先輩!﹂とよもぎが走り出した。
スペーメに言われるがまま、五人がビルの中から中庭へと出ると
空はいつもディプレション空間が現れたときと同じように暗くなっ
ていた。
その空の色は無性に不安を与えていた。
﹁紫?﹂
うっすらと紫色の色づいた空は美しいようでどこか不気味だと太
李は思った。
地面に倒れ伏す人々には生気はない。そんな中で、一際目立つ声
が中央の方から響く。
﹁御機嫌よう。やっとお会いできて光栄ですわ﹂
漆黒色のワンピースを着込んだ女がそこには立っていた。
そのウエストラインは異常なほど細く見えた。かつんとハイヒー
ルを打ち鳴らす音に巳令が一番に身構える。
﹁あなたが、ディスペア?﹂
91
﹁嫌ですわ。一緒にしないでくださいます?﹂
女は首を傾げながらにやりと笑った。
﹁わたくしはトレイター。あんな出来損ないの機械とは違いますの﹂
そう言って笑い声をあげる女はそれぞれの顔を見渡してから﹁お
馬鹿さんたちにも分かりやすく説明してあげますわ﹂と長い髪を振
り払った。
﹁わたくしたちは生身の人間でありながらディスペアと同等の力を
得ることができます。あなたたちの同種ですの﹂
﹁同種?﹂
南波が聞き返すと﹁じゃあもっと簡単に教えて差し上げますわ﹂
と女は両手を広げた。
﹁わたくし、あなたたちが気に入りませんの。こちらがしかけたデ
ィスペアをいとも簡単に倒してしまって、鼻持ちならないですわ。
だから潰しに来ましたの。このわたくしが自ら﹂
﹁なんにせよ﹂
よもぎが女を見つめた。
﹁この空間はあんたのせいなんでしょ? だったらやることは一緒
だよ﹂
﹁へぇ﹂
女はおかしそうに笑う。
それに眉を寄せながら太李は指輪をかざした。ディスペアだろう
がトレイターだろうが関係ない。自分たちがやるべきことはいつも
通りだ。
﹁変身!﹂
五人の揃った声がその場に響き渡る。
光の中から足並みを揃えて出てきたそれぞれが名乗る。
﹁悲しき魂に救いを与える姫、鉢かづき!﹂
﹁悪しき心に罰を与える姫、親指!﹂
﹁不幸な存在に光を与える姫、人魚﹂
﹁残酷な宿命に終わりを与える姫、いばら!﹂
92
﹁哀れな役に幸せを与える姫、シンデレラ!﹂
﹁悪夢には幸せな目覚めを﹂
巳令の言葉に続いて、全員の声が揃う。
﹁フェエーリコ・クインテット!﹂
女が退屈そうに欠伸をする。
それを見ながら﹁それでは﹂と巳令が刀を鞘に納めた。
﹁さっさと終わらせてしまいましょう﹂
たっと駆け出した巳令が鞘から刀を抜いた。
しかし刃の先に女は居ない。驚いて目を見開く巳令の腹部に激痛
が走った。
﹁あ、が!﹂
﹁全く、笑わせますわ﹂
はぁ、と女が溜め息をついて巳令の体を蹴り上げた。
上空に大きく逸れた体はやがて物理法則に従って地面に叩き付け
られた。
南波が槍を一回転させてから一瞬で女との間合いを詰めて得物を
振り切った。しかし彼女は上体を逸らすだけでそれをかわすと南波
の足に自分の足を引っかけて彼を転倒させた。そしてその体を踏み
つけた。
﹁その程度で﹂
次いで梨花が斧を振りかざそうと両手を振り上げた。その手を女
が掴み、後ろへ押す。バランスを崩した梨花の体が背面から叩き付
けられ、斧の柄を握ったままの梨花の手を踏みつけた。わずかに梨
花が呻く。
﹁このわたくしに歯向かおうだなんて﹂
女はそのまま、よもぎを睨み付けた。
一瞬だけ肩を跳ね上がらせたよもぎだったがなんとかつがえた矢
を女に向けた。しかしその瞬間、喉元に圧迫を感じて弓矢を手放し
た。
﹁もっと楽しませてくれると思ってましたのに﹂
93
自分を見ながらにやりと笑う女に太李はどうしようもない恐怖を
覚えた。
ディプレション空間から隔離された部屋。そこのモニターでその
様子を見つめながらベルが隣にいた柚樹葉に声をかける。
﹁引き上げさせないと死ぬわよ、あの子たち﹂
﹁分かってる﹂
舌打ち交じりにそう返した柚樹葉は手元にあったマイクを掴み、
声を発するために口を開きかけた。
背後から聞こえた低い声がそれを制止した。
﹁そのまま戦わせろ﹂
低い男の声に柚樹葉の動きがぴたりと止まった。
ベルはこの男を知っていた。この財団の一員で、ディスペア退治
のプロジェクトの主任でもある。いわば自分たちの雇い主だ。
﹁お言葉ですがこのままでは全員死亡は確定かと﹂
﹁敵幹部から逃げ出すことになんの意味がある。奴らのデータはま
だ必要だ。引いて貰うわけにはいかない﹂
主任の声にベルは眉を寄せた。この男は自分の駒が敵から逃げた
という事実を作りたくないだけだ。今すぐにでもこの男を殴って分
からせてやろうかとベルは拳を握りしめた。
しかし、柚樹葉は落ち着き払った様子で﹁分かりました﹂とマイ
クから手を離した。
﹁相変わらずそこらへんのはぐれ軍人とは違って物分りがよくて助
かるよ、九条﹂
﹁とんでもありません﹂
ぺこりと頭を下げる柚樹葉にベルは言葉を失った。なんで、言う
こと聞いてるんだこの娘は。
この男を殴るべきか、柚樹葉を殴るべきかベルが迷っているとモ
94
ニターの向こう側の太李の呻き声が大きく響いた。蹴り飛ばされた
のか大きく吹っ飛んだ彼の体はビルの壁に叩き付けられ、落ちた。
﹁どうしたんですの?﹂スピーカーを経由しながら女の声が挑発的
に告げる。モニターには髪の毛を掴み上げられる太李が映っていた。
﹁もう少しくらい頑張ってくださいませ﹂
そもそもこのプロジェクトには無茶があったのだ。ベルは心の底
からそう思った。
戦闘経験などほとんどない男女五人に戦闘用の力のみを与えて突
然実戦に放り出すなど。だからこそ自分たちが必要だったのに。
そう思ってベルが唇を噛み締めているとスピーカーから銃声が響
き渡った。
﹁な⋮⋮﹂
驚いて画面を食い入るように見つめる主任に倣ってベルも画面を
見て、そして、笑った。
﹁よう、クソ野郎。そいつから手ぇ放しな﹂
そこに映っていたのは二十代ほどの女だった。三つ編みにして一
つにまとめた銀色の髪を揺らしながら、その手には拳銃が握られて
いた。銃口が女を捉える。
﹁あなたは⋮⋮﹂
﹁言っとくけど、そいつ、その距離なら絶対外さないから﹂
援護するように男の声も響く。銀髪の女の横に映っている筋肉質
の男が声の主だった。
﹁だから今日は大人しく帰った方が身のためだ﹂
﹁言っとくけどあたしらはそこのガキ共と違ってそれなりに場数踏
んでんだ。今日は準備もあるぜ?﹂
銀髪の女の鋭い碧眼に彼女は黙り込んだ。
それから、やがて、ぱっとその手を太李から離した。踵を返し、
﹁次会うときはせいぜい、その方たちを少しくらい歯ごたえがある
95
ようにしてくださいまし﹂
﹁その予定だ﹂
はっと男が吐き捨てると彼女は黙って地面を蹴り上げ、その場か
ら立ち去った。
ふぅ、と銀髪を揺らしながら女が銃をしまいこんだ。その様子を
見ながら主任がヒステリックに叫ぶ。
﹁なんなんだあいつらは!﹂
それに答えたのは誰でもなくベルであった。
﹁お願いされていた傭兵ですが﹂
﹁なに?﹂
﹁ああ、詳細をお話していませんでしたね。ごめんなさい﹂
ひいらぎ
そうなみ
柚樹葉の不快そうな視線を浴びながらベルが堂々と答える。
﹁銀髪の彼女は柊・マリア・エレミー・惣波。入って日は浅いです
が類まれなる現代武器の才能。そして二十歳とは思えないほどの戦
闘への身軽さ。ディスペア相手にも充分健闘が期待できます﹂
がもうすずまる
そして、とベルがは続ける。
﹁彼は蒲生鈴丸。マリアの教育係でもありますし、今回、フェエー
リコ・クインテットの戦術教育の担当者でもあります。人格には多
少問題がありますがそのスペックの高さには驚かされるものがあり
ます﹂
自分を睨み付けてくる二人を見つめ返しながらベルは思いっきり
笑った。
﹁どちらも我が傭兵団﹃アシーナ﹄のトップ傭兵です。どうぞ、今
後ともよろしく﹂
96
第七話﹁フェエーリコ・クインテットは傭兵にすら負かされたようです﹂
﹁初陣にしちゃあ上等だったよな、あれ﹂
頭の後ろに腕を回したマリアがにっと笑う。
その姿を見ながらベルが溜め息をついた。
﹁全く、適応テストも上司への顔見せもまだなのにいきなり現場突
入だなんてあなたも鈴丸も何を考えてるの?﹂
﹁んだよ、そんな怒んなって。結果的に助かったんだからいいじゃ
ん﹂
唇を尖らせるマリアにベルは額を押さえた。それに構わずマリア
は頭の後ろの手を解くと横に置いていた銃を照明にかざした。
黙って壁に肩をつける鈴丸が振り返ってその光を見た。
﹁まぁ、あなたたちの有能さを見せつけるという意味じゃ無意味だ
ったとは思わないけど。どっちの悪知恵?﹂
ベルの言葉にぴたりと手を止めたマリアは黙って鈴丸の方を見た。
決まり悪そうに視線を逸らす彼にベルが腰に手を当てながら呆れた
ように告げる。
﹁そんなことだろうと思ったわ。何が目的? そんなに私を怒らせ
たいの?﹂
﹁別に﹂
どこからともなく取り出したパック飲料にストローを刺しながら
鈴丸はそれをくわえた。その二人を見ながら﹁でもよ﹂とマリアが
碧眼を細めた。
﹁いくらなんでもあの状況だぜ? 早かれ遅かれ、あたしたちがぶ
っこまれてただろあれ。あの気に入らねぇ親父はともかくなんだ、
柚樹葉、だっけ。あいつがあたしらにあの五人を助けて来いってい
っただろ﹂
﹁いいえ﹂
ベルが首を左右に振り、マリアが首を傾げた。
97
﹁あ? なんでだよ。じゃあ何か、お前、あの柚樹葉って奴がダチ
を見殺しにしたかもしんねーっていうのかよ?﹂
﹁ええ﹂
﹁そういう命令でも下ってたか?﹂
鈴丸の言葉にベルが困ったように肩をすくめた。相変わらずこの
男は無意味に鋭い。
﹁ご名答﹂
﹁⋮⋮ダチより命令が大事だっていうのかよ﹂
唖然とするマリアに鈴丸が告げる。
﹁お前みたいに馬鹿正直に自由に生きてる奴ばっかじゃないんだよ
マリア。分かるだろ?﹂
﹁頭で分かってたって理解したかねーな﹂
はっと鼻で笑いながらマリアが立ち上がる。どこかに行こうと思
ったわけではなかった。ただそこに座っていることが彼女にとって
少し窮屈なことに感じられたのだ。
ベルがちらりと時計を見上げ﹁さてと﹂と両手を組んだ。
﹁ま、こうなってしまった以上仕方ないわね。予想外の形とはいえ
顔見せも済んでしまったことだし、本格的にお仕事しましょう?﹂
そう言ってかつかつとブーツを打ち鳴らしながら立ち去って行く
ベルに﹁あ、ちょ、ベル待てよ!﹂とマリアが続こうとした。
それから、彼女は鈴丸が立ち上がろうとしていないことに気付い
て足を止めた。振り返ると彼は空中を睨み付けている最中だった。
﹁どうしたんだよ鈴。あれか? 依頼料が不服なのか? お前は金
の亡者だからなー﹂
そんなことを言うマリアに鈴丸は眉を寄せながら﹁別に不服じゃ
ねーよ。前金で百万貰ったし﹂
﹁⋮⋮円?﹂
﹁ドル﹂
げっとマリアは顔を引きつらせた。自分もそれなりの報酬を貰っ
ているのだが彼は常に彼女の何倍もの報酬を受け取っている。逆を
98
言えば自分たち普通の傭兵と同じ報酬では彼は仕事を引き受けない
のだ。金の亡者だと言えば彼は褒め言葉だと笑う。それだけ稼いで
どうするつもりなのだろうとマリアはいつも思う。
﹁じゃあなんだよ。別にお前金貰えたら仕事内容にケチつけないだ
ろいつも﹂
﹁別にケチつける気なんてねーよ﹂
鈴丸の言葉に彼女は神経を逆なでされたかのような苛立ちにから
れた。
﹁お前日本来てから変だぞ。ベルの命令は無視するし、どーもいつ
もより態度わりーし。こんなこと、普段だったらぜってぇやんねぇ
だろ﹂
﹁うっせぇな﹂
﹁ああ?﹂
自分を睨み付ける碧眼を見返しながら鈴丸は頭を掻く。それから
立ち上がり、ぼそりと言い放った。
﹁気に入らねぇんだよ。今回のベルも、あのガキ共も﹂
どういう意味だというマリアの問いは﹁二人とも急ぎなさーい!﹂
というベルの声で掻き消された。
目を覚ました太李の目に飛び込んできたのは真っ白な天井だった。
全身にはわずかに痛みが走っている。わずかに呻いてから彼はよ
うやく思い出した。
そうだ。自分は確か、トレイターを名乗る女と交戦して、そして、
負けた。体を横に向けると隣では巳令が同じように薄く目を開いて
いた。
﹁はち、みね﹂
掠れた声をかけると彼女はぴくりと反応して顔を太李に向けた。
﹁灰尾⋮⋮私たち、あの後どうなって⋮⋮﹂
99
﹁ごめん、俺もまだよくわかんなくて﹂
﹁そう、ですか﹂
黒い目を伏せる彼女を見ながら太李は思い出す。
銀色の髪の誰かが銃を発砲していたのを彼はわずかに残った意識
で見ていた。あれは幻覚だったのだろうか、それとも、事実彼女が
助けてくれたのだろうか。
ばんっと扉が大きな音を立てながら開く。ついで彼の鼓膜を揺ら
したのは歓喜の声だった。
﹁おーなんだ起きてんじゃねーか!﹂
その明るい声に太李は顔を上げ、﹁あ﹂と声をこぼした。
一つにまとめ、三つ編みにした銀色の髪、澄んだ碧眼が彼を見下
ろしていた。白いタンクトップにカーゴパンツを着ただけの簡単な
服装だというのに綺麗な顔立ちがどこか人の目を惹いていた。
﹁確か、あのとき﹂
﹁んあ?﹂
顔立ちとは異なってどこか乱暴な声をあげた彼女は﹁あーそうか﹂
と起き上がる太李を見つめて言った。
﹁お前はまだ意識あったのか﹂
﹁じゃあやっぱり﹂
﹁んまーなんだ大した怪我じゃなくってよかったぜ﹂
﹁今まで、寝込んでたのに大したことないわけないでしょ﹂
こつんと彼女の頭が小突かれた。そこにいた人物の名を巳令が呟
く。
﹁ベルさん⋮⋮﹂
﹁おはよう。気分はどうかしら?﹂
﹁よくは、ないです﹂
顔を俯かせる巳令に﹁そうよね﹂とベルが頷いた。
ふと気になって太李はベルの後ろに視線をやった。腕を組みなが
ら彼を見つめていたのは黒いシャツの上からでも分かるほどがっし
りとした体系の背の高い男だった。
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﹁ひとまずゆっくりお話しましょう?﹂
近くにあった椅子を引きだして腰を下ろしたベルが彼らの後ろを
見る。
﹁他のみんなも起きたみたいだし、ね﹂
全員が太李の周りに集まったところで取り仕切るかのようにベル
がぱんぱんと手を叩いた。
﹁まずみんなが無事でよかったわ﹂
形式的にそんな台詞を吐き出してから彼女は自分の後ろを見て﹁
改めて自己紹介をさせてもらうわ﹂
自分たちに促されている。それに気付いたのか銀髪を揺らしなが
らまず彼女が答える。
﹁柊・マリア・エレミー・惣波だ。マリアでいい。よろしくな﹂
近くにいた太李にそう言ってマリアが手を差し出した。それを恐
る恐る彼が握り返すと彼女は満足そうににっと笑った。
そに次ぐように﹁蒲生鈴丸だ﹂とだけ鈴丸が言えば呆れたように
ベルが溜め息をついた。
しかし、特に何かをいうわけでもなく彼女はまた愛想のいい笑顔
を取り戻すと﹁話したでしょう? あなたたちのサポートに回る傭
兵﹂悪戯っぽくそう告げた。
﹁マリアは銃撃、爆撃は一級。勿論近接攻防も並みの傭兵くらいは
できるわ。場数も少なくともあなたたちは踏んでるし、ディスペア
戦のときは先輩として頼ってあげてね﹂
﹁はぁ﹂
太李がなんといっていいやら迷っていると﹁鈴丸は、あなたたち
の戦術強化における責任者﹂
﹁戦術、強化?﹂
﹁早い話、あなたたちの先生よ。教官、と言った方がいいかしら。
いくらチェンジャーで人間離れした力を得ているとはいえ、訓練も
101
なしに乗り込んだらいいことはないわ﹂
それはよく分かったでしょうと言いたげにベルが笑う。
反論できず五人が黙り込んでいると﹁実力も一応この間の戦いで
証明できたし、あなたたちの損になる話ではないと思うのだけど﹂
﹁それは、よく、分かりましたが﹂
﹁ならよかったわ﹂
巳令の言葉にうんうんとベルが頷いた。
それを今まで黙って見つめていた鈴丸が﹁よっし﹂と拳を鳴らし
た。
﹁とりあえずお前ら全員着替えて訓練場﹂
﹁訓練場って⋮⋮そんなのどこにあるんですか﹂
﹁んなもん自分たちで探せ﹂
よもぎの言葉にそう返した彼は﹁グズグズ言わずにさっさと来い。
これ教官命令﹂とだけ告げた。
部活があると想定していたからか持ってきていた体操着に身を包
んだ五人は長い廊下を歩きながら終始無言だった。
あのあとベルからは自分たちは一晩眠っていたと伝えられた。家
庭にも学校にも連絡はいれたので心配はしなくてもいいと言われた。
しかし、彼らには昨日のことが脳裏に焼き付き、そのことで頭がい
っぱいでそれどころではなかった。
今まで戦ってきたものとは訳が違った。彼らが制圧されたのはほ
んの一瞬だった。まだ塞がり切らない傷とそこから広がるわずかな
痛みが生々しくそれを思い出させていた。
もしあのまま、マリアと鈴丸が来なければ自分たちはどうなって
いたのだろう。考えるだけでも恐ろしかった。そんなことに当たり
前のように片足を突っ込んでいた自分たちにもまた恐怖を覚えた。
恐怖による迷いと混乱。それらが鮮明な記憶と曖昧な記憶に混ざ
102
り合って彼らに沈黙を与えていた。
﹁あ﹂
そんな重たい沈黙を破ったのは梨花の声だった。
﹁九条、さん?﹂
梨花の視線の先には白衣を着た柚樹葉が決まり悪そうに五人を見
つめていた。
彼女は梨花が自分に気付いたことを悟ったのか白衣の裾を翻して
すたすたと彼らとは反対方向へ歩いて行った。
﹁あ、待って、柚樹葉⋮⋮!﹂
巳令が掻き消えそうな声と共に手を伸ばしたがそれらが柚樹葉に
届くことはなかった。
徐々に小さくなっていく柚樹葉の後ろ姿を見ながら巳令は自分の
手を見つめて、黙って顔を俯かせた。南波はそんな光景に溜め息を
つく。
滑稽だ。彼にはそうとすら思った。
長い廊下を渡り終え、用意されていたのは職員用の訓練場だった。
本当にこんなところが、半ば感心しながら太李が扉を開けると﹁
やっと来た﹂と訓練場というよりは運動場と呼んだ方が相応しいよ
うな入口付近で鈴丸が腕を組んで待っていた。
﹁蒲生さん⋮⋮﹂
﹁鈴丸でいい﹂
巳令の言葉にそう返してから彼は何かを放った。
慌てて彼女がそれをキャッチするとどうやらそれはバンダナらし
かった。不思議そうに自分を見上げる高校生たちに鈴丸はきっぱり
告げた。
﹁腕に巻け。右でも左でもどっちでもいい﹂
その言葉に巳令が首を傾げた。
﹁何をするんです?﹂
﹁ひとまずお前らが生身でどれだけの動きができるのか見せて貰お
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うかと思って﹂
そういって自分も同じものを取り出して、腕に巻きながら鈴丸が
言う。
﹁今から腕にあるこのバンダナを奪い合う。俺とお前ら五人で。お
前らのうち誰かが俺のバンダナを取れたらお前らの勝ち。俺が全員
分奪ったら俺の勝ちだ﹂
ただし、と彼は続けた。
﹁チェンジャーはなしだ。さすがに人間離れした力でかかってこら
れたら俺も危ない﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁別に五対一なんだ。それくらいのハンデいいだろ?﹂
首を傾げる彼に五人は黙ったままだった。
それを肯定とみなしたのか﹁よっし、んじゃ始めるか﹂
全てが終わったとき、太李は本気でこの男がこの間の怪しげな女
の正体なのではないだろうかと思ってしまった。
向かってくる自分たちを彼はあっさりとさばいてみせた。それも
この間の女と全く同じようにで、である。
巳令を蹴り飛ばし、南波を転倒させ、梨花をなぎ倒し、よもぎの
首根っこを持ち上げて、最後は太李を踏みつける。全く同じ順番、
同じ動作で奪い取った五人分のバンダナを眺めながら﹁分かったろ
?﹂と彼は首を傾げた。
﹁これが今のお前らの実力だよ。自分たちの弱点が理解できていな
いからそうやって同じ動きで俺に倒される﹂
自分の腕からバンダナを外しながらふぅと鈴丸は溜め息をついた。
息を切らす五人を見つめながら﹁お前らはどうして戦ってる?﹂
と彼は唐突に問いかけた。
五人が目を合わせていると彼は首を左右に振る。
﹁いや、いい。答えなくても。いいけど、一つだけ言わせてくれ﹂
104
彼らに背を向けた鈴丸は掻き消えてしまいそうなほど小さな声で
続けた。
﹁妙な正義感や、責任感でやってるならやめちまえ。やめるのに金
が要るなら俺が出してやる﹂
一旦きゅーけーと頭の後ろに手を回しながら鈴丸はそのまま歩き
去ってしまった。
バルコニーの手すりに背を預けながら太李は小さく息を吐いた。
彼の脳裏には先ほどの鈴丸の言葉が嫌に重たく響いている。
自分はなんのために戦っているのだろう。そう問われると彼はそ
の答えを見いだせずにいた。
柚樹葉に言われて無理やりやっている。そう答えることができた
はずなのに、それを口には出せずにいた。それはきっと鈴丸が言う
ところの責任感になってしまうのだろう。
彼に言えば本気でやめさせてもらえるのかもしれない。しかし太
李はそれに関しても乗り気になれずにいた。
やめたくはない。だが続ける理由はない。
顔を俯かせていると﹁おーなんだ先客がいたのかよ﹂と声が響い
てきた。
彼が振り返るとそこには腰に手を当てながら自分を見つめている
マリアが居た。
﹁あ、えっと、マリアさん⋮⋮﹂
﹁おー。どうしたんだよ、確かお前は、灰尾、だっけ?﹂
こくんと太李が頷くとマリアはにっと笑った。
﹁そんな辛気くせー面して、鈴になんか言われたのか?﹂
いつの間にか自分の隣に移動していた彼女に太李は不思議と拒絶
の感情は湧き上がらなかった。それどころか、気が付けば彼は先ほ
どのことを彼女に喋っていた。
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話を聞き終えるとマリアは眉を寄せながらうーんと悩ましそうに
唸った。
﹁戦う理由、な﹂
﹁はい。なんか、俺、それ聞かれるとぱっと答えられないっていう
か﹂
しゅんと肩を落とす太李に﹁理由なぁ﹂とマリアは頭を掻いた。
﹁そういや、あたしも鈴とはじめて会ったときそんなようなこと聞
かれたっけ﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁おう﹂
頷くマリアに太李は気になって問いかけた。
﹁マリアさんはなんて答えたんですか?﹂
﹁あ? あたしか?﹂
腕を組んだマリアは苦笑しながら﹁あたしは、あれ。罪滅ぼしの
ためって答えた﹂
﹁罪滅ぼし?﹂
﹁ん。あたし、昔色々やっちまってさ。だからその罪滅ぼし﹂
顔を俯かせるマリアに太李は﹁すいません﹂と謝ってしまった。
それにマリアがけらけらと笑う。
﹁なんで謝んだよ。別に人に聞かれて困るような話じゃないぜ?﹂
﹁でも﹂
﹁だあ! お前めんどくせぇ! 男のくせに!﹂
がっと銀髪を掻き毟ってからマリアはふとはっとしたようにその
手を止めて、太李を見つめた。
小首を傾げる彼にマリアは﹁ああ﹂と納得したように呟いた。
﹁お前、なーんかどっかで会ったことあるっつーか懐かしいっつー
かそう思ってたけどやっとわかったわ﹂
﹁え?﹂
﹁あたしのダチに似てるんだ、お前﹂
手すりによりかかりながらマリアは太李を見てにかっと笑った。
106
その笑顔はまるで旧友の向けられているかのように優しいものだ
った。
﹁友達?﹂
﹁ん。なんてーか他人に変な遠慮して、気になってるのに首が突っ
込めなくて結局余計なことしちまうタイプだろ、お前﹂
ぎくっと太李が肩を跳ね上がらせるとマリアが両腕を伸ばした。
﹁そういうとこ、あいつによく似てる﹂
﹁そう、なんですか?﹂
﹁ん﹂
頷きながら﹁そういうタイプは優しすぎてマジであぶねーんだよ。
気をつけろよ﹂
それからマリアは両手を下ろす。
﹁んまー、あたしももうかれこれ一年くらいそいつと会ってねーけ
ど!﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁こんな仕事だからな。世界中いろんなところに行って、そもそも
日本に来たのも久しぶり﹂
空気を肺に取り込みながら﹁お前、神都の生徒なんだろ?﹂
太李が頷いた。
﹁はい﹂
﹁あたし、あそこの卒業生﹂
﹁⋮⋮マジすか﹂
﹁マジマジ﹂
あははと笑いながら﹁そのダチもそこの卒業生なんだ。なんだろ
ーなあそこはお前みたいなの集めちまうのかなぁ﹂と手すりから体
を離した。
﹁とにかくあれだ、遠慮はしすぎんなよ。かえってうぜぇ﹂
﹁⋮⋮努力します﹂
﹁おう﹂
大きく頷いたマリアは﹁それからさ﹂と首を傾け、太李を見た。
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﹁戦う理由なんてなんでもいいと思うぜ﹂
﹁え?﹂
﹁強制的に戦うのならともかく、そうしたいからして覚悟が伴って
るならオッケーだとあたしは思う﹂
彼女が続けた。
﹁お前には理由はあるが覚悟がねぇ、いや覚悟はあっても実感がな
い。そんな状態を鈴に見透かされてんだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁今すぐにどうこうしろとは言わない﹂
でもな。
﹁人は前に立ち止まり続けるとすぐに腐るぜ?﹂
そのマリアの言葉に太李は少し考え込んでからやがて﹁マリアさ
んって不思議な人ですね﹂
﹁なんだよそれ﹂
﹁いや、なんか口調が怖いからそんなこと言われるの意外で﹂
﹁おいおいあたしの前職なんだと思ってんだ﹂
シスターだぞ?
その言葉に目を見開いて固まる太李を無視して、マリアはすたす
たとバルコニーから出た。
階段に足をかけたとき、涼やかな声が彼女の鼓膜を揺らした。
﹁あ、マリアさん﹂
﹁あん?﹂
見下ろすと巳令が息を切らしながら自分を見ていた。
﹁おー鉢峰、どうした?﹂
﹁いえ、その。うちの灰尾を見ませんでしたか?﹂
その言葉にマリアは一瞬きょとんとしてから﹁向こうにいるぜ﹂
とバルコニーの方を示した。
それに巳令が﹁ありがとうございます!﹂と頭を下げて、駆け出
して行った。
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太李はまるで昔の自分のようだ。ちょうど友人と昔の自分を足し
て二で割ったらあんな風になるのだろうかと彼女は思う。
ただ、はじめは一人だったマリアと違って彼には仲間がいた。そ
れはとても恵まれてるとマリアは思う。
一人の不安に比べたら、あの程度の悩みは軽いものだ。
そんなことを考えていると不意に彼女は自分の友人たちが恋しく
なった。
今頃彼ら彼女らはどうしているだろうか。きっと学生だろうな、
と内心苦笑した。
﹁馬鹿灰尾ぉ!﹂
﹁うお!﹂
突然飛んできた拳をもろに食らった太李は思わずその場で蹲った。
それほど力はなかったように思えたが不意打ち的に繰り出された
それは実際より何倍も痛みを持っているように彼には思えた。
﹁はちみ、お前なぁ⋮⋮﹂
﹁心配させないでください! 急にいなくなったりして!﹂
﹁だって休憩だっていうから﹂
言葉を詰まらせる太李に巳令はキッと目を吊り上げた。
その鋭い視線に彼が黙り込むと巳令はその場にしゃがみ込んで顔
を俯かせた。
﹁やめてしまうのかと思って﹂
﹁え?﹂
首を傾げる太李に巳令はか細い声で告げた。
﹁鈴丸さんがあんな風に言っていたから灰尾はフェエーリコ・クイ
ンテットを抜けてしまうのかと思って﹂
﹁⋮⋮心配してくれたのか?﹂
その問いかけに巳令は小さく頷いた。
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そんな彼女を見ながら太李は苦笑する。
﹁大丈夫だ、俺はそんな無責任に投げ出したりしない﹂
﹁でも﹂
﹁それに﹂
巳令の言葉を遮って、太李は言い放った。
﹁俺はやりたいからフェエーリコ・クインテットにいるんだよ。多
分﹂
そんな彼の言葉に﹁多分ってなんですか、多分って﹂と巳令が唇
を尖らせた。そんな巳令に﹁あのさ、鉢峰﹂
﹁はい?﹂
﹁俺、ちょっと提案があるんだけど﹂
楽しげな太李に巳令は首を傾げた。
﹁それで、もう一戦やろうと﹂
﹁はい。お願いします、鈴丸さん、あ、いや、蒲生教官!﹂
ぺこっと頭を下げる太李を見ながら鈴丸はふぅん、と声をこぼし
た。
﹁多少はいい面になったな﹂
ぼそっとそう言ってから彼はバンダナを取り出すと﹁分かった﹂
と頷いた。
それに巳令と太李が顔を輝かせる。他の三人は事態が飲みこめて
いないようで顔を見合わせている。
﹁んじゃ、はい﹂
﹁あ、教官﹂
バンダナを受け取った巳令がそのうちの三本を彼に突き返す。
﹁今回は私と灰尾だけです﹂
﹁⋮⋮ふぅん?﹂
突き返されたバンダナを受け取りながら鈴丸は挑発的に首を傾け
110
た。
巳令の肩をちょんちょんと突いてから梨花が心配そうに言う。
﹁む、無茶だよ巳令さん⋮⋮! 五人ですら勝てなかったのに﹂
﹁大丈夫です﹂
にこっと笑いながら巳令が梨花に対してピースした。
﹁問題ありません﹂
﹁で、でも﹂
﹁よもぎさんも心配しないで﹂
そんな三人を見ながら隣にいる太李を見上げ、不満げに南波が言
う。
﹁お前は馬鹿だと思ってたがそれは俺の見誤りだったらしいな﹂
﹁え?﹂
﹁お前は底抜けの馬鹿だ﹂
きっぱり言い捨てられてあはは、と太李が苦笑する。
﹁でも案外馬鹿より底抜けの馬鹿の方が強いかもよ?﹂
訳が分からない、と言いたげな南波の視線に笑顔を返してから彼
は巳令の隣に並んだ。
二人を見ながら拳を鳴らしていた鈴丸は両手を広げて、不敵に笑
った。
﹁ほれ、かかってこいよ。お二人さん﹂
その言葉に巳令が一歩踏み込んだ。
それを見て﹁だから行動がワンパターンすぎ﹂そこまで彼が言い
かけたとき巳令が体勢を落として彼の腰に抱き着いた。
﹁な﹂
しまった、そう言おうと彼が思った瞬間。
彼の腕からはバンダナがなくなっていた。
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様子を黙って眺めていたベルが﹁あらあら﹂と困ったようにこぼ
した。その横に座っていたマリアも呆れたように笑っている。
﹁鈴の奴、わざと隙作りやがったな﹂
﹁そうみたいね﹂
頭を掻きながら﹁でも灰尾の奴、動きに迷いがなくなったな。戸
惑いっていうか、遠慮がないっていうか﹂
﹁これが欲しかったんでしょうね、鈴丸は﹂
﹁⋮⋮んだよ、あたし、またあいつに利用されたのかよー!﹂
つまんねー! とマリアが背面から地面に倒れ込んだ。
遠慮があってなかなか動きださなかった太李を動かすためにここ
までやったのだろうとマリアもベルも薄々感じていた。そして最後
はとりあえず自分に勝たせて、おまけに結束も深まるという寸法だ
ったらしい。
嬉しそうに笑う五人を見ながらベルは﹁あとは﹂と溜め息をつい
た。
﹁あの困ったチャンだけね﹂
どうしたものか、と彼女は深々と溜め息をついた。
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第八話﹁人間の感情は厄介だということを九条さんは再認識したようです﹂
少女の目に光が飛び込んできた。
彼女は太陽の光が嫌いだった。時々、部屋のカーテンを開いて、
日光に照らされる度にそう思った。
ずっと部屋の中にいて、作ったものを両親に見せる。それが彼女
の楽しみだった。
彼女は手先が器用で頭がよかった。将来は立派な発明家になるだ
ろうと父親は彼女の頭を笑顔で撫で、母親は凄いわねと彼女を抱き
締めた。
その度に、彼女は誇らしい気持ちになった。彼女はもっともっと、
両親の期待に応えようと思った。
自分は人を幸せにして、救うことができる。少女はそう信じてや
まなかった。
彼女は自分が賢い子供だという自覚も持っていた。周りは妹を含
めても馬鹿ばかりだ。きちんと自分が合わせてやらなければ誰も付
いてこない。もっとも、別に誰かについてきてほしいと思っている
わけではなかった。
ただ自分の好きなものを作って、両親に褒められたい。彼女にあ
った思いはそれだけだった。
また父に頭を撫でて欲しい。また母に抱き締められたい。それだ
けあれば他のものなどいらない。同年代の友人たちと遊ぶより、数
式や莫大な量のデータを眺めている方が彼女にはよほど有意義に感
じられた。数式やデータは美しい。その結果は彼女を決して裏切ら
ない。
工具を放り出し、彼女は机の上に出来上がった毛玉を見て満足げ
に息を吐いた。
またこれを両親に見せれば彼らはきっと、自分を褒めてくれるに
113
違いない。また喜んでくれるはずだ。柔らかな体を抱き上げて、彼
女は部屋を飛び出した。
心臓が脈を打つ。普段よりずっと速くだ。これを見たら彼らはど
んな反応を返してくれるだろうか。
いや、きっと喜んで褒めてくれるはずだ。今までの統計からして
そうに違いなかった。
足をもつれさせながら階段を駆け下りた辺りで彼女はぴたりと足
を止めた。
﹁あの話、どうなったの?﹂
母親の声だった。
普段、彼女があまり聞かないような重たい声だった。
賢い彼女はその声に思わず息を潜めた。きっと何か大切な話をし
ているに違いない、そう思ったからだ。本来ならこのまま立ち去る
べきなのだが彼女の中のほんの少しの好奇心がその足を引き留めて
いた。
﹁いや、どうしようかと思ってる﹂
﹁どうしてよ、早くなんとかしましょう?﹂
扉の前に座り込みながら彼女はそっと聞き耳を立てた。
﹁友達もいないし、学校でも浮いてるって言うし、近所でも噂にな
ってて⋮⋮私、もう耐えられないの⋮⋮﹂
どきりと彼女の胸が跳ね上がった。
賢い少女はそれだけでそれがもしや自分ではないだろうかと察知
したのだ。
﹁私⋮⋮あの子が怖いわ⋮⋮﹂
﹁ああ、俺もだよ﹂
この場から離れたい。少女は心からそう思った。
しかし、その意思とは反対にその足はまるで鉛にでも変化してし
まったかのように動こうとはしなかった。
﹁どうして⋮⋮﹂
涙声の母親の声が続く。
114
ゆずね
﹁どうして、私⋮⋮あんな子を産んでしまったのかしら⋮⋮柚音だ
けでよかったのに⋮⋮﹂
彼女の中にあった、﹁自分はすべてを知っている﹂そんな自信が
音もなく脆く崩れ落ちた。
ごとんと鈍い音を立て、柚樹葉が椅子から床へと崩れ落ちた。
その衝撃で意識が覚醒した彼女は不愉快そうに眉を寄せながら頭
を掻いた。
﹁起きたです?﹂
﹁ん﹂
柚樹葉は立ち上がりながら、机の上でコーヒーのカップを一生懸
命差し出していたスペーメに目を擦って頷いた。ふわぁ、と小さく
あくびするとスペーメが次いで問う。
﹁夢を見てたですか?﹂
﹁⋮⋮なして?﹂
﹁うなされてように見えたです﹂
小さい鼻をひくひく動かしながらつぶらな瞳で自分を見るスペー
メに柚樹葉は椅子に腰を下ろしてから再び頭を掻いた。
それからスペーメによって押し出すように差し出されたコーヒー
を口に含んで﹁人間ってのは、寝りゃ必ず夢を見るもんさ。そこに
自覚があるかないかの違いはあるけど﹂
スペーメの不満げな声が響く。
﹁別にスペーメはそんな話をしろだなんて言ってないのです﹂
﹁君が聞いたところで面白い話じゃない。よってこの話題は無意味
だ﹂
カップの中のコーヒーを飲み干してから彼女は振り返って時計を
見た。
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デジタル時計は今の時刻が夜中の二時であることを示している。
余計な時間をロスしてしまった。柚樹葉は苦虫でも噛み潰したかの
ような気分になった。
スリープ状態に変化していたパソコンの画面を再び起動させれば
何かの設計図と共にばっと数式が画面上に現れた。それをしばし眺
めてからやがて彼女は手元のキーボードを打ち出した。
消えては書かれ、また消えていく。まるで数式が踊っているかの
ようだった。その大量の数字を頭の中で処理しながら彼女は時折、
眉を寄せた。
スペーメはそんな彼女があまり好きではなかった。自分は機械だ
が彼女が感情を感じるようなプログラムを組み込んでくれたおかげ
だろうと自覚していた。
だからこそなのか、スペーメの目にはそんな彼女が不快に映る。
画面に並んだ設計図を見てスペーメは問いかけた。
﹁チェンジャーの強化と調整です?﹂
しかし柚樹葉から返答はなかった。
画面を食い入るように見つめる彼女を見ながらスペーメはただで
すら丸い白い体を更に丸めた。
﹁スペーメは柚樹葉は頑張りすぎだと思うのです﹂
カタカタとキーボードの音は止まない。
﹁柚樹葉は本当は凄くいい奴なのです﹂
キーボードの音は鳴り続ける。それどころか大きさを増した。
﹁だけどそんなことばっかりしてると、誤解されるのです﹂
柚樹葉が乱暴にエンターキーを押した。
画面にはエラー表示が現れて、彼女はだんっと机の端を握り拳で
叩いた。憎々しげに画面を睨み付けながら噛み締められた唇からは
若干の血が流れていた。
そんな柚樹葉を見ながらスペーメは自分の視界を狭めた。
﹁スペーメは少し節電するです﹂
それ以降、スペーメの声は聞こえなくなった。
116
エラー画面を処理しながら柚樹葉は目を伏せて、小さく呟いた。
﹁だってもう、捨てられたくないじゃないか﹂
紙コップをぐしゃりと握りしめ、彼女はそれを放り投げた。
放物線を描いたそれはゴミ箱のわずか手前のところで高度を落と
し、そのまま縁に当たって床へと落ちる。鉄の味に顔をしかめてい
た彼女はその光景にさらに不快そうに顔を歪めると勢いよく立ち上
がった。
壁にかけられていた白衣に袖を通し、背後にあったカーテンを開
いた。
まだ外は暗かった。
部室に入る巳令の表情は暗かった。
ここ数日、柚樹葉が学校に来ていないことが巳令には引っかかっ
ていたのだ。
あのとき、鈴丸と訓練する前、まるで自分たちを避けるように去
って行った彼女に巳令は話を聞きたくて仕方ないのに。
結局あのあとも、何度もあの財団の本部に鈴丸と訓練するためと
五人揃って向かったがそこで柚樹葉の姿を見ることはなかった。
そんな巳令の肩を一緒に部室に入った太李がぽんぽんと叩く。
﹁鉢峰、しんどかったら今日は休めば?﹂
﹁い、いえ﹂
首を勢いよく左右に振りながら巳令は無理やり笑みを貼り付けた。
﹁問題ありません。久々の部活ですし﹂
﹁でも﹂
﹁大丈夫ですから。このあと部活が終わったらまた鈴丸さんと会わ
ないといけないし﹂
少しだけ語気を鋭くした彼女に太李はぐっと引きかけてから持ち
直した。
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﹁いや、でも、そうやって集中できてないのは﹂
﹁だから﹂
﹁み、巳令さん!﹂
道具を抱えた梨花が声を張り上げた。
彼女らしからぬ大きな声にびくっと巳令が肩を跳ね上がらせると
﹁あ、あのね?﹂と梨花が巳令を覗き込んだ。
﹁注意が散漫してるとゴミとか空気とか粘土に入ってても気付けな
かったりして、凄く危ないっていうか、大きな気泡とかあるとあの、
ほんと駄目っていうか﹂
おろおろとする梨花に巳令が首を傾げると前の机で粘土をこねて
いたよもぎが声をあげた。
﹁粘土にゴミとか空気あると素焼きのとき窯んなかで爆発しちゃう
んですよ。でも注意しないと前からやってる梨花先輩と違ってあた
したちみたいな新米にはなかなか見分けつかないですし、だから危
ないよって言ってるんですよね、先輩﹂
﹁う、うん! そうなの﹂
こくこくと頷く梨花は﹁凄いね、よもぎさん⋮⋮﹂たははとよも
ぎが笑い声をあげた。
﹁ネットに載ってたっす!﹂
満面の笑みでそう答えたよもぎはそれから巳令を見て、首を傾げ
た。
﹁だから。ね? 今日は益海先輩も委員会で来れない日ですし、少
し休憩した方がいいですよ。なんだったら鈴丸さんの方も、ウチら
が適当に言っときますから﹂
﹁でも⋮⋮﹂
あくまでも歯切れの悪い返事を返す巳令に梨花はむぅと頬を膨ら
ませた。
それから手元のタオルで手を拭ってからつかつかと棚まで歩み寄
って、乱暴に引きだしを開けると中からプリントを取り出してそれ
を巳令に叩き付けた。
118
﹁わぷ!?﹂
﹁も、もう! じゃあこうしよう! それ、九条さんのおうちに届
けて!﹂
怒ったような梨花の言葉に巳令がきょとんと彼女を見返す。
﹁え?﹂
﹁それ、部費の会計報告書! まだ九条さんに渡せてなかったから
お、お願いします!﹂
﹁いや⋮⋮お願いしますって、でも﹂
﹁九条さんのおうちの場所は職員室で顧問の先生に聞いてください
!﹂
﹁あの、そうじゃなくて﹂
﹁灰尾くんも、巳令さんがサボらないかどうか見張ってて!﹂
﹁え、俺!?﹂
突然自分に話が振られたからか目を白黒させる太李にまだ状況が
読みこめていない様子の巳令の二人を梨花は無理やり外に押し出す
と﹁そ、それ届けてくれるまで二人とも部室には入れません! す、
鈴丸さんのとこにもいっちゃだめ! これ部長命令です!﹂とぴし
ゃりと扉を閉めた。
それから丁寧に鍵までかけ、ぷんぷんと擬音がつきそうなほど頬
を膨らませたままの梨花は大股で自分の席まで戻るとろくろを乱暴
に回した。茫然と見ていたよもぎがそんな彼女に弱々しい声で問い
かける。
﹁り、梨花先輩って意外と強引なんですね⋮⋮?﹂
その声にばっと顔を上げた梨花は突然体をぷるぷる震わせながら
言う。
﹁や、やっぱり、強引すぎたかな⋮⋮?﹂
﹁は⋮⋮!?﹂
その問いによもぎは驚いてからやがて、苦笑した。
﹁いや、そんなことなかったと思いますよ﹂
﹁で、でも、言い過ぎたかも⋮⋮やな先輩だと思われちゃったかな
119
⋮⋮﹂
﹁そんなことないですって﹂
あははと笑いながら﹁梨花先輩、ここどうやるんですか?﹂とよ
もぎは話を逸らした。
ま、灰尾先輩がいればなんとかなるっしょ。
そんな呟きをよもぎはとりあえず心の中にしまいこんだ。
締め出されてしまった以上は仕方ないと二人は通学路を歩いてい
た。
目的地は職員室で場所を聞いた柚樹葉の家だった。住宅街にある
とは言っていたものの未だ家から学校の往復ルート以外はさほど活
動範囲が広くない彼にとっては未開の地であった。
結局、巳令の先導の下で道路を歩いていたのだがその巳令の憂い
を含んだ横顔がやはり太李には気がかりだった。
きっと柚樹葉のことだろう。彼女はフェエーリコ・クインテット
の中でも特に柚樹葉と親しい様子だった。
そんな状態で彼女と会っても大丈夫だろうかと考えていると﹁灰
尾﹂と巳令が足を止めた。
﹁うん? 何?﹂
彼が首を傾げると巳令は申し訳なさそうに告げる。
﹁迷子です﹂
﹁はい!?﹂
驚いて彼が目を開くと巳令が頭を抱えた。
﹁いや、勘で行けるかなって思ったんですけど駄目でした﹂
﹁駄目でしたって﹂
うーんと太李が唸っていると﹁あっれ、おにいじゃん!﹂と困惑
したような声が大きく響いた。
声の主を見て、彼は心底驚く。
120
﹁紅葉﹂
﹁んん? なにしてんの?﹂
そこにいたのは、太李の妹である紅葉だった。
先日足を捻挫していたのだがもうすっかりよくなったようで小走
りで太李たちに近付いた。
﹁いや、知り合いの家を探してて。お前こそ、何してんの?﹂
﹁友達んちに遊びに来た﹂
えっへんと胸を張った紅葉は太李の後ろにいる巳令を見て、首を
傾げた。
﹁誰ぞな?﹂
﹁あ、あー。同じ部活の鉢峰。えっと鉢峰、これ、妹﹂
﹁これってなんだよおにいー﹂
げしげしと太李の足を蹴り飛ばす紅葉に巳令がにこりと笑みを見
せた。
﹁鉢峰巳令です。灰尾くんにはいつもお世話になってます﹂
﹁あ、どもっす。妹の紅葉っす。うちのおにい、めんどいっしょ?﹂
﹁余計なこと言わない﹂
ごっと握り拳が紅葉の頭に直撃する。﹁うおおおお﹂とその場に
しゃがみ込む紅葉を冷たい目で見ながら﹁あのさ、紅葉。九条さん
って家知らない?﹂
﹁九条?﹂首を傾げた紅葉が何のこともなさげにいう。﹁九条さん
ちは後ろですぜおにい﹂
驚いて二人が後ろに振り返ると表札には確かに﹃九条﹄と書かれ
ていた。そうたくさんいる名前でもないので恐らくここが柚樹葉の
家だろうと太李は苦笑した。
一方で巳令の方は俯きながら頬を真っ赤に染め上げていた。
﹁んん? でも柚音っちの家になんの用さ、おにい﹂
﹁柚音?﹂
首を傾げた太李に﹁ん、友達﹂と紅葉が頷いた。
﹁あー妹でもいるのかな、九条さん﹂
121
﹁んま、いいや。ぴんぽん押しちゃったほうが早いよね﹂
うんうんと紅葉がインターフォンに手を伸ばした。
呼び鈴の音が軽やかに響いてぱたぱたという愛らしい足音の後に
黒い髪をまっすぐ伸ばした紅葉と同じくらいの背丈の少女がひょっ
こりと顔を出した。
﹁あ、紅葉ちゃん!﹂
﹁やっふ、柚音っち!﹂
にこっと笑った紅葉に柚音は笑い返した。
それから後ろにいた太李と巳令に気付いたようで不思議そうな声
をあげる。
﹁あの⋮⋮﹂
﹁あ、ごめんごめん。これ、うちのおにい。と、こっちはそのお友
達さん﹂
﹁誰がこれだ﹂
むっと太李が顔をしかめたがそれには構わず﹁鉢峰と言います﹂
と巳令は頭を下げた。
﹁こちらの柚樹葉さんにプリントを届けに来たんですが﹂
﹁⋮⋮お姉ちゃんに?﹂
柚音の顔がわずかに歪んだ。
それから彼女はまた元の笑顔を取り戻すと﹁すみません、お姉ち
ゃん、まだ戻ってないのでもし戻ったら渡します。お預かりしても
いいですか?﹂
その柚音の態度に、二人は顔を見合わせた。
太李と巳令は来た道を戻りながらお互いに言葉を発せずにいた。
何かを言わなければいけないという使命感にかられる一方で、言
うべきことは見つからなかった。
﹁えっとさ、鉢峰﹂
122
﹁はい?﹂
その居心地の悪さに耐え切れず、太李が問う。
﹁鉢峰と、九条さんって仲いいよな。いつから?﹂
﹁⋮⋮高校に、入学したときからです﹂
小さく肩をしぼませながら巳令が伏し目がちに答えた。
﹁私、よそから越して来たので中学の時の知り合いがいたってわけ
でもなくて、なんだかグループも出来上がっちゃってて困ってたと
きに声をかけてくれたのが柚樹葉で﹂
小さく笑いながら﹁今思えば私を鉢かづきにするために近付いた
のかもしれないけどそれでも私は嬉しかった﹂そこで太李がはっと
した。
﹁もしかして、あのとき俺に声掛けてくれたのも?﹂
﹁あんな風になれたらなって思って﹂
そっか、と太李が小さく返した。
それ以上の会話はなく、再び、お互いに居心地の悪い沈黙が二人
の間を支配する。
﹁鉢かづき! シンデレラ!﹂
そんな二人の沈黙を解いたのはスペーメの声だった。
﹁スペーメ?﹂
﹁や、やっと見つけたです⋮⋮﹂
ぜぇぜぇと小さな体を上下させるスペーメを巳令が抱き上げる。
﹁どうしたんですか?﹂
巳令がそう問えばスペーメはくりくりとした目で二人を見てから
やがて、
﹁お前らに、柚樹葉に会って欲しいのです﹂
そう言ってスペーメは巳令の腕から抜け出すと自分の足で歩きだ
した。
123
そんな後ろ姿を見て、二人はゆっくりとその後に続いた。
しばらく歩くと三人は土手に辿りついた。
斜面になった芝生の上によく見知った人物がいることに気付いた
太李と巳令はそれぞれ顔をしかめた。
一方でさほど綺麗ではない川が流れていくのをただ眺めていた彼
女は足音が聞こえたので振り返ってからげっと顔を歪める。そんな
彼女になんとか太李が声を絞り出した。
﹁何してるの、九条さん﹂
﹁君ら⋮⋮帰り道は逆じゃ⋮⋮﹂
立ち上がりながら白衣の裾を払った柚樹葉は二人を睨み付けてか
ら決まり悪そうに視線を逸らし、ぷいっと背を向けた。
その手を慌てて巳令が掴む。
﹁柚樹葉!﹂
巳令にしては珍しく感情的な声に柚樹葉は不愉快そうに顔を歪め
ながら鋭く返す。
﹁⋮⋮なに﹂
﹁苦しいなら、苦しいと、そう言ってください﹂
﹁⋮⋮は?﹂
黒い瞳を見返しながら柚樹葉が訳が分からないといった疑問を滲
ませた声を発した。
﹁言ってくれなければ、私だって何もできない﹂
﹁この間は疑っておいて、今度は話してくれ、か。エゴだよ﹂
﹁そうかもしれませんけど﹂
ぎゅっと柚樹葉の白衣を掴みながら巳令が顔を俯かせた。
﹁あの、九条さん﹂
﹁君も﹂
キッと太李を睨み付けながら柚樹葉がきっぱりと告げる。
﹁余計なことに手を貸すんじゃない。君らはただ、フェエーリコ・
クインテットであればいい﹂
124
﹁柚樹葉!﹂
﹁君らは黙って私にデータをくれればいいのに!﹂
どうして人間は思い通りにならないの!
そんな叫びが危うく柚樹葉の喉元から飛び出そうになった。しか
し、それは彼女の体が後ろに倒れ込んだことによって叶わなかった。
﹁九条さん!﹂
崩れ落ちた柚樹葉の体を慌てて太李が受け止める。
スペーメがぴょんぴょんと跳ねた。
﹁ディプレション空間なのです!﹂
﹁え?﹂
スペーメの声に二人は辺りを見渡した。見上げれば空は不自然な
ほど灰色だった。
そして斜面の下に狐のような人間のような姿をしたディスペアを
見つけて巳令が顔を歪める柚樹葉を見て﹁どうして﹂と呟くように
言う。
﹁柚樹葉はディプレション空間の適応者だったんじゃ﹂
﹁適応者にも二通りいるのです﹂
小さな体を震わせながらスペーメが告げる。
﹁完全適応者と不完全適応者。お前らが完全なのに対して柚樹葉は
不完全なのです。だから少し強いディスペアやほんの少し感情に乱
れが起きているとこうして他の不適応者と同じようになってしまう
のです﹂
そんな、と巳令が口を開きかけると﹁やめ、てよ﹂と小さな声が
二人の鼓膜を揺らした。
自分の手元の柚樹葉だと気付いて太李は声をあげた。
﹁九条さん!﹂
﹁やめて⋮⋮お願いだから捨てないで⋮⋮一緒にいて、嫌だ、怖い
よ許してよいい子にするから⋮⋮! もっと私を見てよ⋮⋮!﹂
﹁九条さん起きて! 違うから、それ、夢だから!﹂
そんな太李の声も空しく彼女は顔を歪め、許しを請い続けるまま
125
だった。
そんな彼女をそっと芝生の上に倒してから﹁スペーメ、九条さん
をお願い﹂とだけ告げると太李は立ち上がった。
﹁鉢峰﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁鉢峰巳令!﹂
﹁は、はい!﹂
びくっと肩を跳ね上がらせた巳令に﹁行くぞ。今日はデュエット
だ﹂
﹁はい﹂
深く頷いた巳令が立ち上がり、腕輪を構えるのと同時に太李が指
輪をかざして叫ぶ。
﹁変身!﹂
﹁はぁ? 灰尾と鉢峰こねーの?﹂
腕を伸ばしていた鈴丸はやって来た面々に対して首を傾げた。
それに休憩室の入口の方で固まっていた梨花が﹁は、はい!﹂と
頷いた。
﹁ちょ、ちょっと色々あって﹂
﹁何それ。サボり?﹂
﹁い、いえ、そういうわけじゃ⋮⋮﹂
﹁東天紅先輩が色々お節介したらしい﹂
合流していた南波がきっぱり言い放つとふぅんと鈴丸がどうでも
よさげに視線を梨花に向けた。
﹁ああ、柚樹葉絡みか。お前もそういうの好きそうだな﹂
﹁あうう⋮⋮﹂
126
すっかり小さくなる梨花を見て﹁こら、女の子をいじめちゃ駄目
でしょ﹂とベルが呆れたように言い放った。
それから彼女はテーブルの上に手際よく人数分のカップを用意す
ると﹁全員揃わないならお茶でも飲みましょうか﹂と悪戯っぽく微
笑んだ。
よもぎに手を引かれた梨花、南波がそれぞれ席に着いたのを見て
から鈴丸は頭を掻いた。
﹁お前はお茶の相手が欲しいだけだろ﹂
﹁だってあなたたちいつも付き合ってくれないんだもの﹂
むっと唇を尖らせたベルは視線をソファの上で転がっていたマリ
アに向けた。彼女は野菜スティックをくわえながら銃の手入れをし
ている最中だった。
そんな彼女を見ながらベルは溜め息を吐きだすと備え付けられて
いた棚から皿を持って戻ってきた。
﹁今日はマカロンしかないのだけど好きかしら?﹂
﹁まかろん?﹂
きょとんと梨花が首を傾げた。﹁はい好きっす!﹂と答えたのが
よもぎで、南波は平然と紅茶をすすっていた。
三者三様を見ながら梨花に対してベルが苦笑した。
﹁あら、イマドキの高校生ってマカロン知らないの?﹂
﹁ご、ごめんなさい、あんまりお紅茶は飲まなくて⋮⋮﹂
﹁そう。じゃあ今から好きになってくれたら嬉しいわ﹂
はい、とテーブルの上に置かれた皿の上にはカラフルな焼き菓子
がずらりと並べられていた。
ぱぁっと梨花の顔が輝く。
﹁か、可愛い⋮⋮なんだか不思議な感じ⋮⋮﹂
﹁へー、ベルがマカロンってなんか珍しいな。いつもケーキとかク
ッキーなのに﹂
ベルの後ろからひょこっと顔を出したマリアが何気なくそう言え
ば、ベルが苦笑する。
127
﹁なんだかね、梨花さんみたいだなって思って。つい買っちゃった
のよ﹂
その言葉にぴくっと肩を跳ね上がらせた。
﹁あ、あたし、ですか?﹂
﹁ええ。小さくて可愛らしくて。あ、お気に障ったかしら?﹂
﹁い、いえ!﹂
ぶんぶんと梨花が首を左右に振る。
黄色いマカロンを拾い上げながら﹁あー﹂と納得した風によもぎ
が声をこぼした。
﹁確かに梨花先輩っぽいですね、可愛くて﹂
﹁よ、よもぎさんまで⋮⋮。あたし、こんな可愛くないよ⋮⋮﹂
しゅんと小さく肩を落とす梨花に不意打ち気味に﹁え﹂と鈴丸が
こぼした。
﹁⋮⋮お前、それ本気で言ってんの?﹂
﹁ふぇ?﹂
口にマカロンを放り込みながら不思議そうに自分を見上げる梨花
に鈴丸が頭を抱えた。
そんな彼を見ながら﹁へー﹂とベルが面白そうに告げた。
﹁もしかして、鈴丸ったら梨花さんにご執心なのかしら?﹂
﹁は、なんでそうなるんだよ﹂
危うく紅茶を吹き出しそうになりながら鈴丸が呆れたように言う。
﹁別に可愛いもんは可愛いだろ。だからもっと自信持てばいいのに
なぁって﹂
﹁あらあらお金以外興味がない鈴丸がねぇー﹂
﹁だからなんでそうなるんだって!﹂
勢いよく反論する鈴丸になんだかいたたまれなくなった梨花が震
え声で言う。
﹁ご、ごめんなさい⋮⋮﹂
﹁なんでお前が謝るんだ。お前はマカロン食ってろ﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
128
鈴丸に言われた通り、さくさくとマカロンを食べる梨花を見てか
ら﹁で﹂とベルが手を叩いた。
﹁結局のところ、どうなってるのよ。柚樹葉さんについては﹂
﹁部活どころか学校にも来てない﹂
﹁⋮⋮徹底してるわねぇ﹂
南波の言葉にベルが眉を寄せる。
﹁ほんと、やーねあの子ったら﹂
もしゃもしゃとセロリをかじりながらマリアがむすっとベルを見
た。しかしそれ以上特にいうわけでもなく、ただタッパーからパプ
リカを取り出しただけだった。
﹁なんかあるならウチら的には相談くらいしてほしいもんですけど
ね﹂
﹁そればっかりは性格の問題だからねぇ﹂
うーんと悩ましそうにベルが頬に手を添えた。
と、そのとき、太くたくましい音の響きが周りの空気を振動させ
た。
﹁サイレン?﹂
﹁あら、出たわね﹂
ベルは黙って立ち上がると腰につけた無線を取り出して、どこか
へ繋ぎ出した。
そのベルを見ながら次いでソファから腰を上げたマリアが無造作
に置かれていたロッカーへと歩み寄ってそれを開く。その様子を黙
ってみていた鈴丸に南波が問う。
﹁なんの騒ぎだ﹂
﹁あれ、聞いてねぇの? ディスペアの出現予測のサイレン﹂
驚いた表情で自分を見る南波に彼は続けた。
﹁ディスペアが出現するときに決まって高エネルギー反応があって、
ある程度の場所の予測ができるらしい。まぁ、例外はあるが。それ
が、これ﹂
やかましく鳴り響くサイレンを聞きながら﹁ベル、ポイントは﹂
129
﹁Eの十八地点﹂
﹁車でつけるにゃ微妙に遠いな﹂
困ったように肩をすくめてから﹁面倒だ。ヘリ出す。鍵貸してく
れ﹂無線に話しかけながらベルがコートのポケットから何かを取り
出し、鈴丸に投げつけた。
それを受け取った彼はげっと顔を引きつらせた。
﹁紙屑ついてっぞ⋮⋮お前、レシートと一緒に洗濯しただろ﹂
﹁うっかりやっちゃったのよ﹂
﹁ガサツだな﹂
呆れたように紙屑を鍵から払った鈴丸は﹁何してんだ。ディスペ
ア退治行くぞ﹂
慌てた様子でカバンを拾い上げるよもぎとやはりどこか余裕そう
に立ち上がる南波を見てからまだマカロンを口に運んでいる梨花に
﹁お前はもう食わんでよろしい﹂
﹁は、はい!﹂
びしっと背筋を伸ばす梨花の口元についた食べかすを指で拭い取
った鈴丸に﹁そういえば鈴さん﹂とよもぎ。
﹁あ?﹂
﹁さっきヘリとか言ってましたけど操縦するのって﹂
﹁俺だけど?﹂
手元の鍵を示しながら﹁心配すんな、快適な空の旅を約束する﹂
と笑ってから彼は叫んだ。
﹁おいマリア! 行くぞ!﹂
﹁ちょ、ちょっと待ってくれ! あと二発手榴弾つけたらいく!﹂
駄々をこねる子供のようなそんなマリアに鈴丸は小さく息を吐い
た。
﹁おりゃああ!﹂
130
ディスペアに向かって太李がレイピアを突き出した。
それを飛び跳ねてディスペアがかわし、馬鹿にするかのようにひ
らひらと太李に向かって両手を振った。
そんなディスペアの横を地面を蹴り上げた巳令がすれ違った。素
早く刀を抜き、その動作でディスペアを斬り付けた。斬りつけられ
て怯んだディスペアにさらに太李がレイピアを投げつけた。
腹部を貫かれ、わずかによろめいたディスペアはそのまま倒れ込
んだ。
あっけない。驚いていると巳令の叫び声が太李に届いた。
﹁灰尾! 後ろ!﹂
その声に太李はほぼ反射的に飛び上がった。
瞬間、倒したはずのディスペアの蹴りが彼のいた場所に直撃する。
地面に着地し、レイピアを構え直しながら辺りを見て、彼は更に
顔を歪めた。
﹁なんで、こんなに⋮⋮﹂
同じ姿をしたディスペアたちが何体も彼らを取り囲んでいた。
背中合わせになりながら巳令が刀の柄に手をかけた。
﹁分身か、何かでしょうか。どうやら本体を倒さないといけないよ
うですね﹂
﹁どれが本物か分かるのか?﹂
﹁いえ、ちっとも﹂
少し期待していた太李はがくっと肩を落とした。
二対複数とは厄介だと思いながらそれでもやるしかないと、彼も
またレイピアを握りしめた。
そのとき、頭上から数本の光が飛んできてじりじりと二人に近寄
っていたディスペアの何体かが倒れた。その体には矢が突き刺さっ
ている。
﹁二人とも! 大丈夫ですか!﹂
弓矢を構えながらとんっとその場に着地したのはすでにいばら姿
のよもぎだった。
131
その二人の目の前でディスペアの体が宙に浮く。消えていく彼ら
の中で槍を構えた南波が涼しい顔で彼らを睨み付けていた。その横
では﹁お、お尻打った⋮⋮!﹂と梨花が尻餅をついている最中だっ
た。
﹁人魚⋮⋮親指⋮⋮え、どこから、上?﹂
﹁よおサボり!﹂
頭上から聞こえた声に二人が上を見上げるとパラシュートでゆっ
くり降下しているマリアがそこにいた。
満面の笑みを張り付けた彼女は﹁こいつら、全部ぶっ飛ばせばい
いんだろ!﹂とポケットから取り出した手榴弾のピンを抜き、遠く
へ投げつけた。
遠方で爆発が起き、数体が消えていく。その様子を満足げに見て
から地面についた彼女は肩からパラシュートを外した。
﹁マリアさん⋮⋮なんで、空から﹂
﹁あれ﹂
上を指差され、二人が更に頭上を見るといかついヘリコプターが
プロペラ音を轟かせながら上空を飛行していた。
﹁誰が操縦してるんですか、あれ﹂
﹁鈴﹂
担いでいたカバンからマシンガンを取り出す彼女を見ながら﹁何
者なんですかあの人⋮⋮﹂と太李が独り言のように告げた。
﹁知るか。あ、ちなみにあいつ船と潜水艇と自動車と軽トラも運転
できるぞ﹂
﹁⋮⋮逆にできないものは?﹂
﹁探すのがむずいかもな﹂
それだけ言ってマシンガンを構えた彼女は﹁んじゃ、いっちょ行
くか!﹂と引き金を引いた。
銃声と共に銃口が鉛球を連続的に吐き出していく。足元に転がる
薬きょうを気にした様子もなく彼女は引き金を引き続けた。
背後のディスペアが一掃されていく様子を見ていた太李の肩をぽ
132
んぽんと巳令が叩く。
﹁ん?﹂
﹁あそこ﹂
彼女が指差したのは分身たちが集った一点だった。
﹁あそこだけ数が多いです。突破しましょう﹂
﹁あーじゃあ﹂
﹁道を空ければいいな?﹂
そう言ったのは槍で空気を切り裂いた南波だった。
彼の申し出を少々意外に思いながら、ありがたいと太李は頷いた。
﹁ああ﹂
﹁分かった。親指!﹂
﹁な、なぁに?﹂
大きく斧を振っていた梨花に南波は﹁道を空けて欲しいそうだ。
ここのお客様にご退場願うのを手伝ってくれ﹂
﹁わ、分かった﹂
こくこくと頷いた梨花が斧を振り上げ、三人の前に出た。
﹁ええい!﹂
そんな掛け声とともに振るわれた斧の刃が敵を切り裂き、地面に
叩き付けられた振動で空気が震える。
そのわずかな隙で南波が間合いを詰めて、ディスペアたちを突き
上げていく。
出来上がった隙間を、巳令と太李が駆け抜けていく。
彼らの真意に気付いたのか、分身たちがそんな二人に手を伸ばす。
しかしその手は彼らに触れることなく、射抜かれて消えて行った。
﹁サンキュー、いばら!﹂
﹁いえいえ、お安い御用です! ネットで弓矢による戦闘法を研究
したウチにこんなの朝飯前ですよ!﹂
太李の言葉ににこにこ返しながら再びよもぎが矢を放った。
やがて二人の前を走っていた南波が足を止めた。その先にはけら
けらと笑っているディスペアがいる。そのディスペアが手を叩くた
133
び、分身が増えていく。
太李と巳令が同時に地面を蹴り上げ、それぞれの得物に手を掛け、
飛躍する。他の分身たちがディフェンスするように固まった。
﹁最も哀れな役に幸せなエピローグを!﹂
その太李の言葉と共に周りに現れたレイピアが分身たちを一掃す
る。
﹁悲しき魂に救いの最期を﹂
姿の見えた本体にめがけ、二人が急降下する。
太李が突き出したレイピアと巳令が鞘から抜いた刃が同時に、デ
ィスペアを攻撃する。
﹁リベラトーリオ・ストッカーレ!﹂
﹁多幸ノ終劇!﹂
一瞬にして、ディスペアが跡形もなく消えていく。
それと同時に分身たちもさらさらと砂のようにその場から崩れて
行った。巳令が刀を一振りして、鞘に納める。同時に﹁す、凄くな
かった? 今の﹂と太李が問いかけた。
﹁凄かったです﹂
﹁いつもより威力あったよな?﹂
﹁ありました﹂
こくこく頷く巳令に﹁お、おお⋮⋮!﹂と感嘆をこぼした太李は
それから柚樹葉のことを思い出して慌てて変身を解いた。
﹁九条さんのとこ行かないと!﹂
﹁あ﹂
それに倣って巳令も変身を解いた。何やら慌てた様子の二人にあ
とからやって来た四人は顔を見合わせて、その後に続いた。
空はすっかり明るさを取り戻していた。
目が覚めた柚樹葉の目に飛び込んできたのは自分が不快だと思っ
134
て仕方のない太陽の光だった。
﹁九条さん!﹂
﹁柚樹葉ぁ!﹂
ぎゅっと抱きしめられるような感覚に彼女は思わず眉を寄せた。
懐かしい、二度と味わうことのないと思っていた他人の感触だっ
た。
﹁あー目が覚めなかったらどうしようかと﹂
﹁よかったぁ、よかったぁ⋮⋮﹂
本当に安心したかのように耳元で流れ続ける巳令の声に柚樹葉は
やっぱり顔を歪めた。
君は馬鹿だね。ちゃんと私のことを疑えていたのに。
﹁だから人間の感情って奴は厄介なんだね﹂
その背を抱き返しながら、柚樹葉は太陽の光に当たっていた。
135
第九話﹁当然のことですがベルガモットというのは本名ではないようです﹂
退屈だ、とベルは目の前に座る男を睨み付けながらそう思った。
ディスペア撲滅プロジェクトの主任であるこの男をベルは元々、
よく思ってはいなかった。可能ならば顔も合わせたくないと思うほ
どだ。
彼はベルに対して舐めまわすような視線を向けてからやがてその
口を開いた。
﹁コードネーム、ベルガモット﹂
その低い声にベルがかすかに肩を揺らした。
紅茶が好きだった。特にアールグレイが好きだった彼女が以前の
名前を捨てるために選んだのがこの﹃ベルガモット﹄という名前だ
った。
ベルガモットだからベル。安直だなと思う一方で彼女はこの名前
を気に入っていた。
大好きな紅茶に関係する名前だからか、不思議と名乗ることに抵
抗はなかった。
﹁以前は軍人だったとかどうとか﹂
﹁ええ。国のために働いておりましたが﹂
﹁日本人、だという話も聞いたが﹂
﹁それはお答えできません﹂
全部処分したつもりとはいえ、過去の資料をうっかり見つけられ
たらたまらないですもの。
その言葉をぐっとベルが飲みこんでいると目の前の男は嫌らしく
笑った。
﹁出来れば君とはゆっくり話がしたい。どうかな、ベルガモット﹂
﹁申し訳ありません、そのお誘いはお断り致します﹂
ぺこりと頭を下げて、彼女は叩き付けるように手元の資料を机の
上に置いてからくるりと主任に背を向けた。
136
全く、くだらない。開いた自動ドアを抜けながらベルは奥歯を噛
み締めた。
傭兵を名乗っていながらアシーナはどちらかといえば﹃便利屋﹄
の要素が強い集団だった。
必要のない殺戮の依頼は拒否。主にテロの鎮圧やこういった非常
時への対応が主な彼らの仕事だった。便宜上傭兵を名乗っているが
﹃民間軍事会社﹄と呼ぶ方が相応しいのかもしれないとベルは思っ
ている。
自分たちを悪人と名乗るつもりはないが、かといって正義の味方
を名乗れるほどの存在でもない。彼女は常々そう思っている。
それでも彼女はこの仕事をやめられずにいた。理由は二つある。
一つは鈴丸とマリアのことだった。二人をこの世界へ引き込んで、
後戻りできない状況にしたのは自分である。彼女はそう自覚してい
た。特に二人はこの仕事に不満を持っている様子ではないがだから
こそ、かえって彼女の良心は痛んでいた。無責任に自分だけこの仕
事を放り投げ、二人に背を向けるなどしていいはずもない。
もう一つは、彼女の個人的な感情からだった。
彼女にはどうしても生きているうちに、やらなければならないこ
とがあった。
そして、このディスペアに関するプロジェクトの話が上から回っ
て来たときについにそのときが来たと彼女は思った。
もしかしたら、この仕事が、自分にとって最後のものにできるか
もしれない。ベルはそう考えている。
財団から与えられていた部屋に戻るとソファの上でマリアがすや
すやと寝息を立てている。普段は気性の荒い彼女だが眠っていると
きくらいは大人しいものだとベルは笑った。
彼女の銀色の髪を撫でててからベルは自分のナポレオンコートを
彼女にかけてやった。地面に落ちていた書きかけの書類を拾い上げ、
137
机の上に置いてから彼女は赤縁の眼鏡を外して、まとめていた髪を
解いた。
そういえばもう片方が見当たらない、とベルは思ったがそんな感
情はすぐにもみ消された。
かちりと、銃口が自分に突きつけられる音をベルは聞いた。
﹁⋮⋮何してるの?﹂
そんなベルの問いに、返答はなかった。彼女は呆れて溜め息をつ
きながら続けた。
﹁鈴丸﹂
﹁どこ行ってた?﹂
﹁主任のタヌキ親父のところよ。呼び出されたから現状報告してあ
げただけ。その物騒なもの下ろしなさい﹂
しかし、彼女に耳には一向に拳銃が下がる音は聞こえなかった。
マリアのものだろうかと彼女は心底どうでもいいことを考えてい
た。それだけの余裕を保つだけのことはベルにとって難しいことで
はなかった。
﹁気に入らねぇな、ほんっと﹂
﹁あなたはこういうの、嫌いだからね﹂
困ったようにベルが肩をすくめた。
﹁お金さえあればそれでいい。あなたのそういう割り切ったところ
好きよ、私は﹂
﹁そりゃどうも﹂
﹁でも、情が移るとお金があってもどこか割り切れなくなる、そこ
はあなたの優しすぎるところね﹂
振り向きざま、振り上げられたベルの足が鈴丸の手の中にあった
拳銃を弾き飛ばす。
くるくると弧を描いた銃がそのまま地面に叩き付けられた。その
様子を見ながら彼が小さく舌打ちする。
138
﹁やっぱり銃の扱いはマリアの任せるべきよ﹂
﹁相変わらず足癖のわりぃ女だ﹂
﹁手癖が悪いよりずっといいでしょ﹂
くすっと笑ったベルはそのまま足を下ろすとやれやれと頭を抱え
た。
﹁何を疑われてるのかしら。あなたに不信感を抱かせたのなら謝る
わ、改善するから教えてちょうだい﹂
﹁⋮⋮お前、今回の仕事、何しようとしてる?﹂
ベルが眉を寄せた。味方に置いておく分にはいいがやっぱりこの
男はそうでないと不愉快でしかない。
﹁またその質問? あなたもしつこいわね﹂
﹁答える気はないって顔だな﹂
﹁当然でしょ﹂
答える義理もない。そう思いながら彼女はオレンジ色の髪を振り
払った。
それに鈴丸は溜め息をつくと転がっていた銃を拾い上げ、卓上に
置いてから﹁じゃあもういい﹂とベルに背を向けた。彼女はその後
ろ姿を見ながら腕を組んだ。
﹁そう。おやすみなさい﹂
﹁ああ。だけど一つだけ言わせろ﹂
くるっと顔だけベルに向けながら鈴丸が小さく言い放った。
﹁俺はお前に利用される気は一切ない。それだけだ﹂
その言葉にベルはやはり不愉快だと眉を寄せた。
﹁リベラトーリオ・ストッカーレ!﹂
﹁多幸ノ終劇!﹂
二人の剣先がほぼ同時に訓練用の人形を捉え、切り裂いた。
その様子をモニター越しで見ながらふむ、と柚樹葉が腕を組んだ。
139
そんな彼女に鈴丸が問いかける。
﹁どうだ?﹂
﹁全然。この間の映像データとは比べ物にならないよ。それどころ
か、それぞれの技がお互いの威力を殺し合って単体の攻撃より弱く
なってしまっている﹂
ぱちぱちと目の前のモニターに何かを打ち込む柚樹葉を見ながら
﹁そうか﹂と鈴丸は顔をしかめた。
先日のディスペア戦の鉢かづきとシンデレラの同時攻撃は見事だ
った。映像を見て、鈴丸も柚樹葉もそう思っていた。これを、常に
使うことができたらより戦いも楽になるだろうと思ったのだ。
しかし、実際そう上手くはいかなかった。
財団本部内のシミュレーションルームと呼ばれる特殊な部屋で巳
令と太李が対象に対して同時に必殺技を打ち込んでいたが微妙なタ
イミングのズレやわずかな狙いのブレがお互いの技の威力を殺し合
っていた。
同時に、同じポイントに的確に必殺技を打ち込む。その、まるで
針の穴に糸を通すような繊細な正確性が今の二人には求められてい
た。
﹁偶然の産物というのは恐ろしいものだ。現れるのは一瞬なのに、
再現するのには恐ろしく時間がかかる﹂
くぁ、と欠伸を噛み殺しながら柚樹葉はそう告げた。
そんな彼女の言葉を聞きながら鈴丸はスタンドマイクを拾い上げ
ると﹁二人とも、引き上げていいぞ﹂と中に声をかけた。その声に
肩を上下に揺らしながら巳令が鉢ごと首を左右に振る。
﹁そんな、まだできます!﹂
﹁駄目だ。人間の集中力はそう長くは持たない。焦ったところでで
きるわけねーんだ、こればっかは﹂
﹁⋮⋮はい﹂
渋々といった風に引き下がるスピーカー越しの声を聞きながら鈴
丸はくるりと柚樹葉に背を向けた。そんな彼の後ろ姿を見て、今ま
140
で目を閉じていたスペーメがうっすら目を開いた。
﹁蒲生の奴、なんか今日は機嫌悪そうなのです﹂
﹁そう?﹂
エンターキーを押し、ふぅと息を吐く柚樹葉にスペーメがきっぱ
り言い放つ。
﹁柚樹葉は相変わらず人間の癖に鈍いのです﹂
﹁君はロボットの癖に鋭すぎるんだよ。少しは感度を落として作れ
ばよかった﹂
丸まったままのスペーメを頭の上に乗せて柚樹葉も黙って席を立
った。
一方で、二人が変身を解いてシミュレーションルームから出ると
叩き付けるようにタオルがぶつけられた。
﹁ぶ!﹂
﹁⋮⋮どうだった?﹂
低い声で問いかけてきたのは南波だった。
叩き付けられたタオルで顔を覆いながら太李が首を左右に振った。
﹁駄目だった。微妙に俺と鉢峰の攻撃がズレてるんだって﹂
﹁うーんこっちにはぴったり攻撃してるように見えるんですけどね﹂
難しそうによもぎが唸った。それに横に居たマリアが頭を掻きな
がら答える。
﹁案外同時攻撃ってむずいんだよなぁ。あたしも昔やったことある
けど、あれ、息あわね︱とマジで成立しねーから。前々から練習し
たもんだぜ﹂
﹁やっぱり、そういうものなんでしょうか﹂
腑に落ちないような表情を浮かべる巳令に﹁まぁな﹂とマリアは
頭の後ろに手を回した。
﹁お、お待たせー。あ、二人とも終わったんだ! おつかれさま!﹂
ぱたぱたと駆け寄ってきた梨花が二人にスポーツ飲料のペットボ
141
トルを差し出した。
軽く頭を下げながら二人がその中身を口に流し込んでいると﹁お
う﹂と鈴丸が手を挙げながら六人の元へやって来た。その後ろには
柚樹葉とスペーメもいる。
﹁鈴丸さん⋮⋮九条さんも。やっぱ、俺ら上手くできてなかったで
すよね﹂
﹁いや、いい線は行ってるんだけどな﹂
申し訳なさそうな太李にフォローするかのように鈴丸が笑う。そ
こにさらに柚樹葉が付け足した。
﹁こればかりはタイミングが恐ろしいほどシビアだからね。仕方な
いよ﹂
﹁でも、出来れば次の実戦までには使えるようにしたい﹂
そこで、と鈴丸が続けた。
﹁太李、巳令。お前らは二人で次の実戦までに更に息が合うように
なんとかしろ﹂
﹁ええ! そんな急に!﹂
唐突な鈴丸の言葉に太李が思わず反駁すると彼は太李の肩を掴み
ながら笑顔で言い放った。
﹁教官の命令に逆らうなこんにゃろう﹂
﹁⋮⋮はい﹂
その笑顔に押され、小さく返事する太李を見ながら﹁息を合わせ
るって言ってもどうやって﹂と巳令が困った顔をした。
﹁それは自分たちで考えろ。俺が一から十まで指導してちゃ面白く
ないだろ?﹂
﹁⋮⋮めんどくせーだけだよな、鈴﹂
呆れたようにマリアがそう言うもそれには鈴丸は一言も返さなか
った。少し間を置いてから彼はその返答に代わりのように次の指示
を吐き出した。
﹁ま、とにかく今日はここまで。あとは各自好きにやってろ。しば
らく招集もかけないでおくから。じゃ、解散﹂
142
無責任な、と思いながら何も言わず頭を下げて立ち去って行く高
校生たちに鈴丸は息を吐いた。
それから、まだ自分の横に柚樹葉が残っているのに気付いて﹁行
かないのか?﹂と問いかける。
﹁行くよ。ただ、君は意外と私と気が合いそうだと思ってね﹂
﹁へぇそりゃ光栄だよ﹂
﹁君は彼らの可能性にかけてるの?﹂
その問いかけに﹁さあ﹂と鈴丸は大げさに肩をすくめた。
﹁ただ、面白いなとは思ってる﹂
口角をあげながら放たれたそんな言葉に柚樹葉はくすっと笑った。
﹁いいね、人間の好奇心は人間の能力を向上させる。人間の罪でも
あり、最大の武器でもある。私は好奇心に素直な人間は好きだよ﹂
﹁熱烈な愛の告白ありがと﹂
しかし、からかうような言葉には構いもせず柚樹葉は自分の級友
たちの後を追った。
鈴丸は﹁好奇心、ねぇ﹂と一人呟いた。いつの間にか地面に座り
込んでいたマリアはその小さな呟きに顔を上げる。
そして彼女の口から出たのは今さっきまでの高校生たちのことで
もなく、呟きの意味を確認するものでもなかった。
﹁なぁ、鈴。ベル、どこいるんだ?﹂
﹁⋮⋮いないのか?﹂
﹁朝から。あたしにコートはかけてったみてーなんだけど。おめー、
また怒らせたんじゃねーだろな?﹂
﹁知るかよ﹂
ふんと踵を返す同僚に﹁あ、ちょ、こら! 鈴! てっめ、答え
ろ!﹂とマリアは慌てて立ち上がった。
帰路につきながら太李は未だに悩んでいた。
143
自分と巳令の息を合わせる方法はないだろうかとそればかりを考
えていた。
﹁なんかいい方法ないのかなぁ﹂
そう呟きをこぼすと﹁やっぱり﹂とよもぎがそれに反応した。
﹁二人で過ごすっていうのは大事だと思いますよ。どっか出かけて
みるとか﹂
﹁⋮⋮ネットに載ってたか?﹂
﹁いえ、これは自分論です。つーかなんですか益海先輩! まるで
ウチがなんでもかんでも検索してるみたいな言い方して!﹂
ぷくっと頬を膨らませるよもぎから南波が視線を逸らす。そんな
二人を見ながら﹁二人でお出かけ、ですか﹂と巳令は太李を見上げ
た。
﹁悪くないかもしれないですね﹂
﹁え、マジで? あーでもいつ行く? 明日は部活もあるし﹂
﹁ぶ、部活お休みにしちゃおっか!﹂
悩ましそうな太李にそう言ったのは梨花だった。
身を小さくしながら﹁うん、決まり! 明日の部活はお休みです
!﹂
﹁いや、別にそこまでしなくても﹂
﹁駄目! 部長さんのあたしが言ったからお休み! だから二人は
ちゃんとお出かけして!﹂
﹁は、はぁ⋮⋮﹂
困りながら太李と巳令はお互い顔を見合わせる。
﹁⋮⋮梨花って意外と強引なんだね﹂
﹁いやーウチも最近知ったんですよー﹂
南波の頬を引っ張りながらよもぎが柚樹葉にそう答えた。
翌日の放課後。掃除当番だった巳令を待って校門の横に立ってい
144
た太李の元に小走りで彼女がやってきた。
﹁お待たせしました、行きましょうか﹂
﹁⋮⋮マジで?﹂
﹁なんですか、そんなに嫌ですか。私とおでかけ﹂
むすっと言われて太李は手を左右に振りながら慌てて否定する。
﹁いや、違う違う! そうじゃなくってさ! その、いいのかなっ
て思って﹂
﹁いいも何も、だって鈴丸さんがそうしろって言ったんですから﹂
﹁うん、そうなんだけどさ﹂
頭を抱えながら太李は渋々席から立ち上がった。
男女が二人ででかける。この状況にどんな名前がついているのか、
彼は少なからず心当たりがあった。もっとも自分がそれをやったこ
とは一度もないが。
﹁あの、デートみたい、じゃん?﹂
太李がそう言えば巳令が﹁あ﹂と声を漏らした。
それから太李はまた首を左右に振った。
﹁あ、いや別に鉢峰とデートもどきみたいなことをしたくないって
意味じゃなくってだな! その、鉢峰は、相手が俺なんかでいいの
かなと﹂
﹁⋮⋮梨花先輩みたいなこと言わないでください﹂
くすっと巳令は笑いながら﹁構いませんよ。むしろ灰尾こそ、嫌
なら言ってくださいよ?﹂
﹁あ、や、俺は嫌じゃない、けど﹂
﹁じゃあ問題ありませんね﹂
にこにこ笑いながら巳令は彼の一歩先を歩き出した。
﹁ついでだから町案内もしてあげます。今日はたくさん遊びましょ﹂
﹁そうだな﹂
鉢峰がいいならまぁいいかと彼もその後に続いた。
少し歩いてから﹁あ、そうだ、灰尾。私ね、考えたんです﹂
﹁ん?﹂
145
﹁息が合わないのは必殺技の掛け声と名前が一致しないからじゃな
いかって﹂
その言葉に太李の背に嫌な汗が流れ落ちるのが彼にはよく分かっ
た。
﹁あ、ああ⋮⋮?﹂
﹁だから、コンビ技の名前、新しく考えましょう! 掛け声と一緒
に!﹂
﹁やっぱりな!﹂
頭を抱えながら太李は思わず叫んだ。
しまった、やはり鉢峰の変なスイッチが入ってしまったか。こん
なことならもっと気を付けておくべきだったと彼は心の底から後悔
した。
﹁つーか必殺技出すときにさ、技名叫ぶのあれ強制的に口が動いて
るから違う掛け声かけるの無理じゃね?﹂
﹁大丈夫です、その辺はすでに柚樹葉と相談済みです!﹂
﹁なにそれこわい﹂
というか九条さんそういうの意外とノリノリだよね⋮⋮。
今この場に居ない彼女に怒ったらいいのかどうしたらいいのか太
李が悩んでいると﹁⋮⋮やっぱり、嫌ですか?﹂と巳令が黒い瞳で
彼を見上げた。その上目づかいにぐっと彼は言葉を飲んだ。
﹁ま、まぁ、一理なくはない、よな﹂
自分に言い聞かせるようにそう言えば、巳令は嬉しそうに顔を輝
かせた。
﹁はい! 何がいいかしら、漢字? イタリア語? ああ、でも一
緒にしちゃうって手も﹂
ぶつぶつ言いながら悩む巳令を見て、太李は盛大な溜め息をつい
た。
146
﹁灰尾先輩とみれー先輩ちゃんと行きましたかね?﹂
図書館のカウンターのすぐ近くに凭れ掛かるよもぎの言葉を南波
は聞き流した。
せっかく部活も休みなのだから、京の見舞いに行きたいと思って
いたが南波はそうはしなかった。理由は実に単純に、委員会の当番
だったからである。
文庫本をめくりながら人の少ない図書館の時計の針が時を刻む音
を聞く。そんな南波が気に入らなかったのか﹁ちょっとー益海せん
ぱーい﹂とよもぎはひらひらと彼の前で手を振った。
さすがに鬱陶しいと思ったのか南波は黙って文庫本を閉じると無
言のまま彼女の頭に手刀を振り下ろした。
﹁あだ!﹂
﹁図書室では静かにしろ、馬鹿﹂
﹁ぼ、ぼーりょく反対ですよぉ﹂
うえーんとわざとらしい泣き真似をするよもぎに南波は呆れるこ
とすら馬鹿馬鹿しくなった。
﹁というか、お前、中学の頃と大分雰囲気が変わったな﹂
南波の言葉によもぎはぴくりと反応した。
彼女は顔を俯かせて﹁人は変わるもんですよ﹂とだけ、どこか重
たげに告げる。
﹁それにしても驚きした、益海先輩も神都に来てたなんて﹂
﹁多分来た理由はお前と同じだ﹂
そんな台詞に﹁そうですか﹂とよもぎは業務的に答えた。
二人の間に沈黙が訪れる。居心地が悪い。よもぎはそう思った。
﹁あ、そーだ先輩。面白い本紹介してくださいよ﹂
﹁⋮⋮断る﹂
﹁そう言わずに。可愛い後輩におすすめしてくださいよぉ﹂
無視をしよう。南波はそう思ったが﹁ねーせんぱーいまーすみせ
んぱーい﹂と一人で歌い出すよもぎが鬱陶しく、彼は立ち上がった。
カウンターの外に出てから﹁東天紅先輩は?﹂と南波が問えば﹁
147
本部ビルに﹂
﹁今日は呼ばれてないだろ?﹂
﹁自主練ですって。真面目なんですよあの人﹂
ふーんと、南波はそれだけ返した。
すたすたと本棚の横を通り過ぎていく自分を追いかけてくるよも
ぎに﹁春風﹂と南波は呼びかけた。
﹁はぁいなんですか、可愛い後輩の春風ですよぉ﹂
構わず、南波が続けた。
﹁お前、中学で何があった?﹂
ややあってから、よもぎはそれに答えた。
﹁何もありませんよ。平和そのものでした﹂
その返しに彼はやはり、興味なさげにふーんと返すだけだった。
その日、柊・マリア・エレミー・惣波が目を覚ましたのはもうす
でに太陽が高く昇ってしまっていた頃だった。
昨日遅くまで銃の調整をしていたのが響いたらしいと思いながら
彼女は重い体を引きずって食堂へ行こうとのそのそ廊下を歩きだし
た。
このビルの食堂の食事は美味しくないとマリアは思っている。か
といって、わがままもいっていられず、代わりもないために結局彼
女はいつもその食事に箸を伸ばしている。
たまにはとびっきりうまいもんでも食いたいなぁ、と一人ごちな
がら訓練場の前を通りかかって彼女はその足を止めた。
中では誰かが腹筋をしている最中のようで仰向けに寝転がりなが
らぷるぷると震え、起き上がろうと必死になっている。その人物に
心当たりのあったマリアは食事を後回しにすることに決め、訓練場
の中へと足を踏み入れた。
﹁よう、東天紅﹂
148
その声に誰か︱︱つまり梨花は、びくっと体を跳ね上がらせてか
ら後ろに倒れ込んだ。
﹁あ、マリアさん⋮⋮﹂
﹁んだよ、お前一人か?﹂
寝転がったまま動けない梨花がこくこくと頷くと﹁そっか﹂とそ
の場にマリアが腰を下ろした。
﹁お前今日部活は?﹂
﹁あ、きょ、今日は、お休み、です﹂
﹁へぇ、そうなのか﹂
胡坐をかきながら自分の話を聞くマリアに梨花は﹁あの﹂と声を
出した。
﹁ん?﹂
﹁その、出来たら名前で呼んでもらってもいいですか? あ、あた
し、苗字で呼ばれるの苦手で﹂
そんな申し出に﹁あー﹂とマリアは頭を掻いた。
﹁そうだったのか、わりぃな﹂
﹁い、いえ! そんな﹂
﹁んじゃ梨花って呼ぶ。それでいいな?﹂
﹁は、はい!﹂
こくんと頷く梨花にマリアは笑った。
どこかしゅんとした様子の彼女にマリアは続けた。
﹁別に気にしなくていいぞ。自分の名前が苦手だって奴には慣れて
んだよ。まさかお前もそのクチとは思ってなかったけどな﹂
﹁す、すみません⋮⋮﹂
﹁だからいいって﹂
ふわっと笑いながら﹁人間がみんながみんな、おんなじじゃ気持
ちわりーだろ﹂
﹁そう、ですね﹂
﹁そうだよ﹂
いひひと悪戯っぽく笑ったマリアは﹁うーっし。んじゃ梨花! 149
ついでだ、あたしがお前の特訓手伝ってやる!﹂
﹁ほ、ほんとですか!?﹂
﹁おう、任せとけ!﹂
ぽんと自分の胸を叩くマリアが梨花の目にはとても頼もしく映っ
た。
ハンバーガーショップでジュースをすする巳令に太李は弱々しく
問いかけた。
﹁それで⋮⋮決まった?﹂
﹁何がですか?﹂
﹁いや、技名とか、色々﹂
ポテトをつまみ上げ、太李がそう問えば﹁ああ﹂と巳令は目を細
めた。
﹁ごちゃごちゃ掛け声はかけずに行こうかなって﹂
﹁うわ、気付いたらもう決まってるし﹂
顔を引きつらせる彼に巳令はふふんと笑った。
﹁その名も﹃オーラ・ベアート﹄です﹂
﹁⋮⋮え、なんだって?﹂
思わず聞き返す彼に巳令はもう一度誇らしげに告げた。
﹁オーラ・ベアートです。イタリア語で幸福な時間という意味です﹂
嬉しそうな巳令を見ながら彼は恐る恐る、問いかけた。
﹁前から思ってたんだけどもしかして俺らの必殺技名ってお前がつ
けたの?﹂
﹁はい、そうですよ。柚樹葉にお願いされたので掛け声と一緒に﹂
﹁そんなことだろうと思った!﹂
だんっと太李が机を叩いた。
それから一拍置いて、﹁梨花先輩とかお前の必殺技とかはいいと
して、南波の、なんだっけ﹂
150
﹁フルクトゥアトのことですか?﹂
﹁⋮⋮あれもイタリア語?﹂
﹁いえ、あれは波のように揺れるという意味のラテン語です﹂
﹁よもぎちゃんのは?﹂
﹁フレッチャ・ウッシェンテはイタリア語で最後の矢という意味で
す﹂
何のこともなさげにあっさりそう告げる巳令に太李は何とも言え
ない気分になった。
それから問いかける。
﹁リベラトーリオ・ストッカーレ、も?﹂
﹁イタリア語です。本当はイタリア語って名詞が来てから形容詞を
置かないといけないんですけどストッカーレ・リベラトーリオはち
ょっとカッコ悪いかなって入れ替えちゃいました﹂
﹁ごめん違いが全然わかんない﹂
頭を抱えながら太李は﹁ほんと、そういうの好きな⋮⋮お前⋮⋮﹂
そんな彼に﹁だってこうでもしないと、やっぱり怖くって﹂その
言葉に太李が顔を上げる。
﹁怖い?﹂
﹁怖いですよ。一応命がけですし﹂
﹁⋮⋮なんか意外﹂
ぼそっと言えば彼女は頬を膨らませた。
﹁当たり前です。でも、アニメとかでよく必殺技叫んでるじゃない
ですか。ああいうの昔からカッコいいなって思ってて、ああいう風
にカッコよくなれたらなぁとか﹂
そういえば自分も昔はヒーローに憧れていた気がする。と太李は
思った。
誰かを救う正義の味方になりたかった。悪の組織と戦って、人々
を守る。そんな存在になりたかった。いつからか、そんな感情も薄
れて行って、誰かを救うということがいかに難しくて、人はどんな
に頑張っても正義の味方にはなれないんだと彼は心のどこかで気付
151
いていた。
それがある日、転校して来たら彼が思い描くものとは大分異なっ
たとしてもあっさりとなってしまうのだから世の中は分からないな
と太李は思う。
﹁あーでもさ、あれだと思う。鉢峰は、もう充分カッコいいと思う﹂
何気なしに太李がそう言えば、巳令が大きく目を見開いた。
﹁カッコ、いい、ですか。私﹂
﹁カッコいいだろ﹂
不思議そうに太李が首を傾げた。
﹁技名とかつけたがるのはどうかと思うけど、お前は凄いよ﹂
﹁⋮⋮そんなこと、ないんです﹂
ジュースをすすりながら巳令が弱々しく告げた。
﹁きっと、灰尾の方がよほどカッコいい﹂
﹁え、俺?﹂
﹁そうですよ﹂
こくんと頷いてから彼女は続ける。
﹁転校してきた日、私のことを助けてくれたり、私のこと怒ってく
れたり。技名とか、こんな話ができたのも灰尾がはじめてで、あな
たは凄いです﹂
﹁そう、かな?﹂
﹁はい。きっと灰尾は私の何倍もカッコいいヒーローなんですよ﹂
その巳令の言葉に太李は下を向いたまま動かなくなった。
はっとした彼女が取り繕うかのように言う。
﹁ご、ごめんなさい。不愉快でしたか?﹂
﹁ち、ちが⋮⋮あの、嬉しくて、ちょっと今ニヤニヤが止まんない
から待って⋮⋮﹂
口元を押さえながらそういう太李に巳令はほっと息を吐いた。
﹁やべ、すげー嬉しい。鉢峰そういう風に思ってくれてたんだ﹂
﹁あ、当たり前じゃないですか! 一番最初の仲間なんですし﹂
ごにょごにょと口元を動かしながら拗ねたようにそういう彼女に
152
太李はどうしようもないほど嬉しく感じた。
﹁多分あなたがいなかったら、私はこれからもずっと一人で、梨花
先輩にも、益海くんやよもぎさんたちにも会えないまま、ずっと一
人で戦ってて、こんな風にお茶したり、陶芸部に入ったりできなか
ったんじゃないかって﹂
﹁⋮⋮それは多分俺の台詞だ﹂
わざとらしく咳払いしてから彼が笑った。
﹁ありがとう、鉢峰﹂
ぐっと巳令が言葉を飲みこんだ。
それから﹁私が先にお礼言おうと思ってたのに⋮⋮﹂と唇を尖ら
せた。
﹁え、あ、ごめ﹂
と、謝りかけた太李の携帯電話が鳴り響く。
画面を見てみると梨花からの着信だった。通話ボタンを押して、
それに応答する。
﹁もしもし? 梨花先輩?﹂
﹁は、灰尾くん! み、巳令さんも一緒?﹂
﹁そうですけど⋮⋮﹂
﹁ディスペア! ディスペアが出たの! さっき益海くんとよもぎ
さんにも連絡したところなの、あ、ば、場所いうね﹂
スピーカー越しの梨花の声に彼は慌ててメモ帳を取り出した。
梨花に言われた場所にやってくれば﹁先輩がた!﹂とよもぎが駆
け寄ってきた。空は灰色だ。
﹁すみません、遅れました﹂
﹁ディスペアは﹂
﹁あっこ﹂
マリアが指差す先には巨大な亀の甲羅らしきものが鎮座している。
153
﹁全員揃ったし。始めるか﹂
﹁そうですね﹂
南波の言葉に巳令が頷いて全員がそれぞれのチェンジャーを構え
る。
﹁変身!﹂
各々が光に包まれ、光が晴れた頃にはそれぞれ、変身済みで得物
を構えていた。
﹁悲しき魂に救いを与える姫、鉢かづき!﹂
﹁悪しき心に罰を与える姫、親指!﹂
﹁不幸な存在に光を与える姫、人魚﹂
﹁残酷な宿命に終わりを与える姫、いばら!﹂
﹁哀れな役に幸せを与える姫、シンデレラ!﹂
巳令の刀が風を斬る。
﹁悪夢には幸せな目覚めを﹂
それをきっかけにしたかのように五人の声が揃う。
﹁フェエーリコ・クインテット!﹂
一拍置いてから横に居たマリアが呆れたように告げる。
﹁お前ら⋮⋮揃ったらマジでそれ毎回やってんのか⋮⋮﹂
﹁やめてくださいマリアさん言わないで﹂
頭を抱える太李にへっとマリアは面白そうに笑った。
﹁ほんとにヒーローって感じだな﹂
﹁なんだったらマリアさんの名乗りも考えましょうか? フェエー
リコ・セステットってことで﹂
﹁⋮⋮勘弁してくれ﹂
拳銃を取り出し、構えたマリアが苦笑する。
﹁あたしをお前らの愉快な仲間にいれんな﹂
﹁あら、いいと思うんですけど。フェエーリコ・セステット﹂
﹁それより今はあの亀だろ﹂
154
銃口をディスペアに向けたマリアが引き金を引く。
火花を吹きながら発射された銃弾は甲羅に直撃するも、あっさり
弾かれてしまった。
﹁げ、あいつ、弾、弾きやがった!﹂
舌打ちするマリアは頭上を見上げてから﹁おいおい﹂と苦々しい
表情を浮かべた。
﹁援軍かよ﹂
空中には黒い鳥のような生き物が無数に飛び回っていた。
愚痴をこぼしている暇はない。彼女は拳銃を構え直すと自分たち
に向かってくるそれらを素早く撃ち落とした。
﹁マリアさん、一人で防げますか?﹂
﹁この数だとわっかんねぇ!﹂
その答えによもぎは弓に矢をつがえ、放った。
﹁人魚先輩も、こっち手伝ってください!﹂
﹁なんで俺まで﹂
不満げにしながら南波は地面を蹴り上げ、一気に上昇すると槍を
振り上げた。
その間に﹁親指!﹂と巳令が声をあげる。
﹁は、はい!﹂
﹁あなたの攻撃なら通るかもしれません。試してください﹂
﹁わ、わかった!﹂
巳令の言葉に深く頷いた梨花が斧を構えて、一瞬目を閉じる。
﹁悪しき心に正しき罰を!﹂
地面を蹴り上げ、飛躍してから手元の斧を一気に振り下ろした。
﹁マーベラス・フィニッシュ!﹂
しかし、斧がぶつかった場所は無傷であった。
﹁連中、耐久戦で来たらしいね﹂
155
モニターを眺めながら柚樹葉がぼそりと告げる。その横では鈴丸
が苦々しい表情を浮かべている。
﹁現段階で一番火力の梨花の技も防ぐか﹂
﹁あれを耐えうるなんて大した装甲だ。その技術力は感服せざるを
得ないよ﹂
﹁言ってる場合かよ﹂
鈴丸が呆れたように言えばやれやれと柚樹葉が首を左右に振る。
﹁ただ、一つだけはっきりしたね。やはり彼らは目的もなく人を眠
らせてるわけではなさそうだ。攻撃を一切しないディスペアで時間
稼ぎしてくるということは本来なら邪魔であるはずのフェエーリコ・
クインテットを倒すよりも彼らにとっては重要な目的がある可能性
が高い﹂
﹁長い間のディプレション空間の発生が彼らの目的の達成に必要で
ある﹂
﹁そのようだね﹂
うーんと柚樹葉が唸る。自分にはその目的はちっとも分からない。
ただ人を襲うだけならば、邪魔であるフェエーリコ・クイテット
やマリアを始末できるようなディスペアを出してくるべきだ。だが
彼らはそれをせず、防御力に特化したディスペアを配置してきた。
まるで時間稼ぎのように柚樹葉には思えた。
画面を見ながら彼女が考え込んでいるとモニタールームの扉が開
き、かつかつと音を立てながら黒いナポレオンコートを着たベルが
やって来た。
﹁おーおでましか﹂
﹁遅かったじゃない﹂
﹁少し昔の職場に遊びに行ってたの。状況は?﹂
﹁最悪﹂
肩をすくめながら柚樹葉がモニターの前からどいた。
その画面を見て、ベルはわずかに目を見開いた。
﹁β型⋮⋮﹂
156
ぴくっと柚樹葉がそれに反応する。
それから少し間を置いて﹁ベルガモット、どうして君がその名前
を知ってる?﹂
﹁⋮⋮なんでかしらね﹂
﹁この型はまだ出現していなかったから関係者以外知らないはずだ
けど﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁答えてやれよ、ベル﹂
だんっとベルの横に鈴丸が手を突いた。
﹁俺も気になるぜ、それ﹂
﹁⋮⋮あなたたちには関係ないわ﹂
あくまでそっけなく、ベルはそうとしか答えなかった。
力が抜けてしまったのかへにゃんと座り込んでしまった梨花を二
人でディスペアから遠ざけてから改めて太李はその装甲に目をやっ
た。
梨花の必殺技すら弾いてしまう。これでは恐らく自分たちの誰が
必殺技を打ち込んだところで結果は変わらないだろうと思う。恐ら
く、この状況を打開できる方法は一つだけ。
﹁鉢かづき﹂
﹁分かってます﹂
鉢が大きく動き、﹁よし﹂と太李がレイピアを構えた。
﹁あ、それからシンデレラ﹂
﹁ん?﹂
﹁さっきは言いそびれましたが、ありがとう。これからもよろしく
?﹂
そんな言葉に太李は巳令から視線を逸らしながら答えた。
﹁ああ、よろしく﹂
157
ふふっと笑って、二人が駆け出す。
同時に駆けだした二人はディスペア付近になったところで進路を
変えた。
太李が地面を蹴り、巳令が側面に回る。
﹁行きますよ!﹂
﹁おう!﹂
自分の真下に向かって太李がレイピアを突き出し、巳令が刀の柄
に手を掛ける。
﹁オーラ!﹂
﹁ベアート!﹂
その掛け声を合図にして、二人の刃がそれぞれ同じ個所を全く同
時に捉え、切り裂いた。
攻撃に耐え切れなかった甲羅がぼろぼろと崩れ、消えていく。地
面に着地した太李がレイピアを一振りして、巳令が刀を納める。
そんな光景を見ながら﹁おっと﹂とよもぎ。
﹁こいつぁ負けてられないですぜ。それじゃ、ウチも﹂
きりきりと弦を引く音が響き、次いでよもぎの声が﹁残酷な宿命
に新たなはじまりを!﹂
それと同じく、自分に突進して来ていた敵をさばいていた南波も
槍を構える。
﹁不幸な存在に一筋の光を﹂
どんっと大きな音を立ててよもぎの放った矢が空中で一直線に光
の帯を描き、鳥たちを一掃する。
﹁フレッチャ・ウッシェンテ!﹂
それと少しタイミングをズラして、鳥たちの大群に突っ込んだ南
波が槍で鳥たちを貫いていく。
﹁フルクトゥアト!﹂
158
そんな二人が取りこぼした鳥たちを撃ち落としながら﹁すげーな
お前ら﹂とだけマリアは呟いた。
ほっと一息ついているモニタールームを後にしてベルは握り拳を
作りながら唇を噛み締めていた。
すでにβ型すら起動できているとは、予想外だった。不覚でもあ
った。
わか
︱︱これはきっと人を幸せにできるよ。私は人を幸せにするよ、
和歌。だからお前も、しっかりやってくれ。
﹁あなた、そう言ってたじゃない!﹂
脳裏に響く声が不快で彼女は作っていた拳で壁を殴りつけた。
■
﹁うげげ! れーこぉ、βがたやられちゃったよぉ。なんであのと
きしとめなかったのぉ﹂
﹁彼らを殺してしまうのは惜しいと思ったのですわ。でもまさかこ
こまでになるとは﹂
﹁なんでうれしそーなの! だかられーこはしゅーだんにはむかな
いんだよ! うるふちゃんぷんぷんだよ! うるふちゃんのβがた
がぁ﹂
﹁うるさいですわ。それにしても、うわばみ。どうするんですの?﹂
﹁何が?﹂
﹁あの坊やたち、上に居るのはあなたの知り合いなんでしょう?﹂
﹁さあ、どうだったかな﹂
﹁まぁ、誤魔化すだなんて酷い人﹂
159
第十話﹁先輩後輩の仲というのは想像以上に面倒なもののようです﹂
窓の外の雨音が大きくなって太李は仰向けになって漫画雑誌を頭
に乗せたままうんざりした。
せっかく部活も、訓練もない日だというのにこれではなんのやる
気も起きない。珍しく勉強しようと思っていたのに、と彼は内心不
満を募らせていた。
そういえば、この間梅雨に入ったとか入ってないとか話題になっ
てたっけ、などと考えながらベッドの上から渋々体を起こした彼は
ぱんっと両頬を叩いた。
何かをしなければ勿体ない。掃除でもしようと漫画をベッドの上
に置くと立ち上がった。
引っ越してきてからまだ三ヶ月にも満たない、さほど汚れている
ようにも見えない部屋を見回してから彼は一点で視線を止めた。勉
強机の下に押し込むように置かれていた段ボールがあったからであ
る。
まだ開けてない段ボールなんてあったっけ、と思いながら彼はそ
れを引きずり出した。一度開封の跡がある。なんだろうと思ってか
ら箱を開けた。
中には数冊のノートがぽつんと入っているだけだった。なんでこ
れだけのために、と思いつつ太李はぱらぱらとノートをめくった。
そして後悔した。
大学ノートにはびっちりと太李の字で何かが書き込まれている。
﹃カオスカタルシス﹄、﹃ヴァーミリオンファントム﹄そんな丁寧
な項目分けのあとに細かく設定らしきものが書き込んである。
ヒーローになりたかった。そんな憧れをこじらせるあまり書いた
ものだと思い出すや太李は黙って立ち上がって机の引き出しからガ
ムテープを取り出すと頑丈にそれを閉ざし、油性ペンで﹃開くな!﹄
160
とだけ書くと再び机の下へ追いやった。
それから頭を抱えて、その場に倒れ込んだ。
俗にいう﹃中二病﹄と呼ばれる時期が当然のように太李にもあっ
た。表出しにすることはなかったもののこんな風に自分のなりたい
ヒーローの設定をつらつらと書き連ねていた時期が。
今となっては黒歴史もいいところなのだが何より普段から巳令に
口うるさく言っている身としてはダメージが倍増して襲ってきた。
その場で蹲りながら折れそうになる心を励ます。
結局、太李の一日はそれ以降はただぼーっと過ごすだけのものに
なってしまった。
もう二度とこの段ボールは開かない! 彼は心からそう誓った。
﹁黒歴史、ですか?﹂
よもぎが首をこてんを傾げた。部室には現在彼女と太李しかいな
かった。
昨日起こったことをありのまま話した太李が﹁うん﹂と頷く。
﹁あーまぁ、ありますよ、自分にも。もう二度と見たくない写真と
か﹂
﹁写真?﹂
﹁こういう風になる前の﹂
ぺちぺち自分の顔を叩くよもぎにああ、と太李は納得した。
生まれつきこんなギャル風な格好はしていなかったのだろう。そ
うなる前がどうだったのか、太李は知らないが彼女は気にしている
のかもしれない。
うっすらそんなことを考えていると﹁お待たせー﹂とプラスチッ
ク製の大きな横長のカゴを持った梨花が部室に入って来た。
そっと机の上に置かれたそれが自分たちが作ったものだと理解す
るのはすぐだった。
161
﹁あ、この間のやつ。もう本焼き終わったんですか?﹂
よもぎの言葉に梨花が笑顔で頷いた。
﹁うん! 色々と忙しいから焼けるときに焼いちゃわないと﹂
と、それから妙に元気のない太李を見て梨花は心配そうに彼を覗
き込んだ。
﹁ど、どうしたの、灰尾くん。元気ないね⋮⋮﹂
﹁あーまぁ、黒歴史に心を殺されかけて﹂
自分の作った器を手に取ってやさぐれた風に返してくる太李に梨
花は頭の上いっぱいに疑問符を浮かべた。
それにくすくす笑いながらよもぎが言う。
﹁梨花先輩には黒歴史とかなさそうっすよね﹂
﹁⋮⋮そうでもないよ?﹂
何を思い出したのか顔を真っ赤にしながら俯く梨花に﹁自作ポエ
ムとか?﹂とよもぎが問いかければ彼女はびくんと肩を跳ね上がら
せた。
﹁ひゃ、ひゃんでしっへるの!﹂
﹁言えてない言えてない。いや、なんとなく梨花先輩はそういうの
やりそうかなぁって﹂
﹁うう﹂
顔を両手で覆う梨花に﹁どーせなら今度見せてくださいよー﹂と
冗談めかしてよもぎが言う。
﹁い、嫌です! 全部捨てちゃいました!﹂
首を勢いよく左右に振る梨花にあははとよもぎが笑った。
﹁冗談ですよー﹂
﹁ううう﹂
机に突っ伏した梨花を見ながらよもぎが満足そうにしていると部
室の扉が開く。
廊下から入ってきたのは巳令と南波、それに柚樹葉だった。顔だ
けそちらに向けていたよもぎが感心したように告げた。
﹁おやおや珍しい三人組で﹂
162
﹁廊下でたまたま会った。というか、なんで二人潰れてるんだ?﹂
未だやさぐれ気味の太李と突っ伏したままの梨花を見て、呆れた
ように言う南波に﹁あー﹂とよもぎが頭を掻いた。
﹁その、灰尾先輩の﹃カオスカタルシス﹄の話が発展したあまり﹂
よもぎの言葉にがっと太李が立ち上がった。
﹁ちょっとよもぎちゃん! 鉢峰と南波には言わないって約束した
から俺話したのに!﹂
﹁あ、春風さんったらうっかり。てへぺろ﹂
﹁こんの確信犯めぇぇえ!﹂
太李が作品をカゴに戻してからよもぎの肩を掴んで勢いよく前後
させる。
が、時すでに遅しとはこのことで、何のことだか意味が分からな
いと眉を寄せる南波とは裏腹に彼女の方がそのワードに反応してい
た。
﹁なんですかそのかっこいいの! なんですかそれ!﹂
﹁だから嫌だったんだよ!﹂
﹁灰尾! なんですかそのかっこいいカタルシス! 教えてくださ
い!﹂
﹁絶対嫌だ!﹂
よもぎの肩を離して部室の端へ逃げていく太李を巳令が追った。
じりじり追い詰められていく彼を黙って眺めながら柚樹葉が肩か
らカバンをおろし、ファスナーを引き下げた。開いたカバンから勢
いよくスペーメが飛び出す。
﹁ふへぇ、シャバの空気がうめぇ! なのです!﹂
﹁相変わらずスペちゃんは見た目は可愛いのに言葉遣いが比例しま
せんねー﹂
つんつんとスペーメの顔を突きながら﹁誰に似たんですかねー﹂
とよもぎが柚樹葉の方を見る。
﹁なんで私の方を見るの?﹂
﹁さあ。つい﹂
163
てへっと誤魔化してから梨花を一瞥し、﹁黒歴史、ねぇ﹂とよも
ぎは長いまつげを伏せた。
部活が終わってから電車を乗り継いで目的の駅についた南波は降
り注いでいる雨にうんざりした。
学校を出るときは降っていなかったのに、思わずため息をついた。
南波は現在、学校の近くに親戚のアパートがあるという理由から
一人暮らしをしている。地元の駅から通うより遥かに楽で素直に助
かっている。
そんな南波が今日、地元の駅にやって来た。我ながら何をしてい
るのだろうと思いながらコンビニはどこにあったかと辺りを見渡し
た。
まさにそのとき。
﹁まっすみせんぱぁーい!﹂
聞き覚えのある後輩の大きな声で南波は手を止めた。
声のする方に振り向くと短いスカートをひらひら揺らしながら両
手を思いっきり振っていた。彼はずかずかと彼女の元へ歩み寄り、
手刀を一発。
﹁はうあ!﹂
﹁人の名前を地元の駅で! 大声で呼ぶなこの馬鹿!﹂
それに彼女︱︱春風よもぎは涙目になりながら﹁酷いですよぉ益
海先輩ぃ﹂とマイペースに続けた。
しかし彼はそれには構わずに先ほど見つけた売店の方へとすたす
た歩きだした。慌ててそのあとをよもぎが追う。
﹁ちょっと益海先輩!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
164
﹁なんで無視するんですか!﹂
﹁うるさい俺にギャルの後輩はいない﹂
﹁どうしてそういうこと言うんですか! 春風さん傷つきますよ!﹂
まるで聞こえていないかのように南波は歩を進めた。
よほど悔しいのかよもぎが声の音量をさらに上げる。
﹁ちょっとー!﹂
﹁というかお前はなんでここにいるんだ﹂
ようやく放たれた南波の言葉によもぎは勢いを殺さずに答えた。
﹁そりゃ勿論おうちに帰るためですよ。でも雨降ってるし、かとい
って今こそとばかりに高い傘を買うと負けた気分になるし、どうし
ようかなって迷ってたんです﹂
ああ、そうだった。中学が同じなんだから地元の駅も同じか近い
に決まっていた。聞いておいて南波は後悔した。
傘だけ買って与えたら大人しく帰るだろうかと南波が色々と考え
ていると﹁みーちゃん!﹂と自分を呼ぶ幼馴染の声に彼は珍しく慌
てて振り返った。
﹁和奈⋮⋮﹂
﹁雨降ってきたから傘持ってきてないと困るな、って思って﹂
どうだ気が利くだろ、と笑う自分の幼馴染に南波は自然と頬が緩
んでいた。
﹁悪いな﹂
﹁ううん。私こそ、ごめんね。急に﹂
それから、和奈は隣にいたよもぎに気付いて首を傾げた。
﹁お友達?﹂
﹁あ、いや、こいつは﹂
そうもと
南波が口を開く前によもぎがわざとらしく頬を膨らませながら言
い放った。
﹁酷いですよぉ宗本先輩、自分のこと、忘れちゃったんですか?﹂
随分変わってるから仕方ないとは思いますけどね。
うーんと悩む彼女を見ながら心の中で舌を出して、よもぎは改め
165
て頭を下げた。
﹁春風です。春風よもぎ、中学のとき、一個下の後輩で﹂
﹁ああ! よもぎちゃん!﹂
和奈は驚いたように手を叩いた。それからまじまじとよもぎを見
つめて﹁随分、雰囲気が違うから全然わかんなかった﹂
﹁よく言われます﹂
あははと笑いながらよもぎは南波の方にちらりと視線をやった。
﹁どうしたの、それ﹂
﹁まぁ、いわゆる高校デビューってやっちゃです﹂
よもぎはピースしてから﹁似合いませんか?﹂とくるりとその場
で一回転して見せた。
﹁ううん、すっごく可愛い﹂
﹁おーそりゃよかった。宗本先輩のお墨付きなら間違いねーや﹂
にこっと笑いながらよもぎが首を傾げた。
﹁して、宗本先輩と益海先輩はまたなんで? これからデートで﹂
すか、を言い終える前に南波の手刀が再びよもぎの頭に飛んだ。
﹁おぐあ﹂
﹁ちょっとみーちゃん!﹂
﹁心配するな和奈、こいつはこういう扱いだ﹂
﹁どういうことなの⋮⋮﹂
頭を押さえながら南波を睨み付けるよもぎに﹁ちょっと付き合っ
て欲しいことがあって﹂と和奈が笑いかけた。
ははぁ、と頬に手を当てながらよもぎはにまにまと笑みを浮かべ
た。
﹁どーりで邪魔されたくないわけですね、益海先輩﹂
﹁もう一発食らいたいらしいな、春風﹂
﹁おっと、チョップはもう勘弁﹂
くるっとその場から離れて、﹁んじゃ、お邪魔虫は濡れてでも帰
りますよーだ﹂と頬を膨らませた。
﹁あ、待って、よもぎちゃん﹂
166
﹁はーい?﹂
﹁よかったら、これ、使って﹂
そう言って和奈が先ほどまで自分が使っていた傘を差し出した。
それを驚いたように見てから﹁いや、でも﹂
﹁大丈夫、私はみーちゃんの傘に入ってくから﹂
隣の南波が自分を驚いた顔で見ているのにも構わずに﹁みーちゃ
ん経由で返してくれたらいいから! 女の子が体濡らしちゃうのは
よくないよ﹂
それに少しだけ躊躇ってからどうせ断っても無駄だろうなと判断
したよもぎは傘を受け取りながら軽く頭を下げた。
﹁じゃあ、お言葉に甘えて﹂
﹁うん!﹂
受け取った赤い傘を見つめてから﹁それじゃ、今度こそ失礼しま
すね﹂と頭を下げ、よもぎは二人に背を向けた。
後ろから飛んでくる和奈の声を聞きながら傘を開いたよもぎは溜
め息をついた。
駅から数分歩いたところに和奈の家はあった。
昔から通い慣れたその場所に久々に足を踏み入れた南波はどこか
気持ちが落ち着かない。
﹁よもぎちゃん、凄い変わってたね﹂
﹁そうだな﹂
傘からはみ出て濡れてしまった肩を拭く南波がそう答えれば、和
奈がくすくす笑った。
﹁でも、よもぎちゃんまで神都に行ってたなんてびっくり。なんで
だろ?﹂
﹁さあ?﹂
そんな曖昧な南波の言葉に和奈は少しだけ不満を抱きながら、し
167
かしそれを言葉にすることもなく、冷蔵庫の扉を開けた。
がちゃがちゃと中を漁る音を聞きながら南波は腕を組んだ。特に
何か理由があるわけでもない。考え事をしているから話を振らない
という言い訳が欲しかっただけだった。
案の定、盆を持ってやって来た和奈の言葉は南波の予想通りのも
のだった。
﹁また考え事?﹂
それには返事をせずに腕を解くと和奈はそんな幼馴染にまた笑み
を浮かべた。
﹁というわけで、はいプリン。はじめて作ったからそんなに、自信
ないんだけど﹂
﹁ん﹂
小さなカップを受け取りながら南波は黙ってそれに手をつけた。
突然、和奈が製菓を始めたのは高校に入学した直後だった。調理
部に入部したのが主な理由らしく、自分だけでは味に自信がないか
らと時折、南波を家に招いてはこうして試食させている。
その誘いを南波は今まで一度も断ったことはない。それは彼がお
人よしだからというわけでもなく、﹃相手が和奈﹄だからという分
かりやすい理由だと彼は理解している。
﹁どう? どう?﹂
不安そうに自分を見上げる幼馴染を撫でつけながら南波は薄く笑
った。
﹁うまいけど﹂
﹁ほんと? みーちゃんそれしか言わないから不安になっちゃう﹂
﹁だったら別の人に頼めば?﹂
試すように彼がそう言うと和奈はうーと唸った。
﹁やだよぉ、こんなこと頼めるのみーちゃんくらいだもん﹂
と、キッチンの方を一瞥してから掻き消えそうな声で呟いた。
﹁京くん、喜んでくれるかな﹂
その言葉を聞かなかったフリをして南波は口の中にプリンをかき
168
込んだ。
翌日、前から召集がかかっていたこともあって泡夢財団の本部ビ
ルの廊下を歩いていた太李の鼓膜を軽やかな声が揺らした。
﹁おはようございます﹂
その声に振り返って、彼は見知った人物を見て笑みを浮かべた。
﹁おっす。早いな、鉢峰﹂
﹁灰尾こそ﹂
にこりと微笑みながらヘッドフォンを外す巳令に﹁なんか落ち着
かなくって﹂と太李は苦笑した。
﹁まぁ、早くに行けば行ったでやることもあるでしょうし﹂
﹁だよな﹂
﹁おー、おめーらおはよう﹂
まだ眠たげなその声に二人が振り返ると欠伸をしながらマリアが
自分たちを見つめていた。
﹁あ、おはようございます、マリアさん﹂
﹁おはようございます﹂
﹁ん。しっかし、真面目だなぁ。せっかくの休みまでこんな風に﹂
けらけらと笑うマリアに﹁まぁ、好きでやってますから﹂と太李
が笑うとお、と感心したような声を出してからマリアは彼の額を小
突いた。
﹁んだよ灰尾、わかってんじゃねぇか﹂
﹁どうも﹂
﹁あ、真面目なのはいいけどよ、体壊すんじゃねーぞ﹂
﹁マリアさんこそ﹂
くすくす笑いながら巳令が返すとマリアはぽんと自分の胸を叩い
た。
﹁心配すんな。あたしは頑丈が取り得なんだ﹂
169
にっと笑いながらいつの間にか辿りついていた訓練場の扉を開く。
そのあとに続いて巳令と太李が中に入ると先客がそれに気付いた
ようで﹁あ﹂と嬉しそうな声をあげた。
﹁お、おはようございます! 灰尾くんと巳令さんもおはよう!﹂
﹁おはようございます、梨花先輩﹂
ぺたんとその場に座っている梨花に頭を下げる巳令に続いて﹁お
はようございます﹂と太李が頭を下げた。
その後ろでは下ろした状態の彼女の髪に櫛を入れていた鈴丸が﹁
なんだよもう来たのか﹂と呆れたように告げた。
﹁来ちゃいました。それより、何してるんですか、鈴丸さん﹂
﹁ん、梨花が自分で髪がうまくまとまらないっていうから俺がやっ
てるところ﹂
巳令の言葉にそう返すのを聞くなり﹁ひ、酷いの﹂と梨花が唇を
尖らせた。
﹁鈴丸さんったら私の髪で遊ぶの。さっきもツインテールにされた
し﹂
﹁遊んでねーっつってんだろ。ただついやりたくなるんだよ﹂
﹁だ、だからって盛ったりするのは完全に遊んでたじゃないですか
!﹂
﹁というかなんでそんなことできんだよお前﹂
じっと自分を見てくるマリアに鈴丸はなんのこともなさげに涼し
く答えた。
﹁昔、スタイリストのバイトをちょっとだけやってた﹂
﹁⋮⋮何者なんですか、鈴丸さんって﹂
改めて、そんな疑問を太李が彼にぶつけると﹁ちょっと人より出
来ることが多いだけで大げさだな﹂と笑うだけだった。
﹁でも、結局のところ本当になんなんですか、彼。日本人、ですよ
ね﹂
小声でこそこそと隣にいたマリアに巳令が問いかける。
その巳令の問いにマリアは困ったように頭を掻いてから、一拍置
170
いて答えた。
﹁なんなんだろうな、ベルもそうだけどあいつも経歴全然わかんね
ーんだよ。あたしが下っ端だからかもしれないけど﹂
﹁マリアさんで下っ端だなんてどんな化け物集団なんですか﹂
﹁さあな﹂
大げさに肩をすくめるマリアに巳令はふぅと息を吐いた。
そうこうしている間にも休まず手を動かしていた鈴丸の声が響く。
﹁うっし、終わり﹂
そこにはいつも通り、ポニーテール姿の梨花がいた。チェンジャ
ーを頭につけながら梨花がぺこりと頭を下げた。
﹁あ、ありがとうございました!﹂
﹁おう﹂
ぽんぽんと梨花の頭を撫でる鈴丸を見てから﹁そういえば﹂と太
李が尋ねる。
﹁ベルさんは?﹂
ぴたりと鈴丸の動きが止まる。それからやがて、決まり悪そうに
視線を逸らしつつそれに答えた。
﹁柚樹葉と話してる﹂
﹁九条さんと? なんで?﹂
﹁しーらね﹂
頭の後ろに手を回しながら﹁それより南波とよもぎはどうした﹂
と取り繕うように言った。
そんな彼に何か言おうと口を開きかけた太李を額をぺちんと叩い
てマリアが制止する。
﹁お前は余計なことしない﹂
それだけ言って、にっと笑った。
小走りで、泡夢財団の本部ビルの廊下を走りながら見慣れた後ろ
171
姿を見たときよもぎはほっとした。遅刻気味だったのは自分だけで
はないらしい。
﹁まっすーみせんぱーい!﹂
彼女の声に足を止めた南波は振り返って彼女を見るなり顔をしか
めた。
﹁またお前か﹂
﹁なんですか冷たいなぁ。あ、でも今日はちゃんと返事してくれま
したね﹂
にっこりとよもぎが微笑むとそれには返答せずに南波が再び歩き
出した。そのあとを追いかけながら彼女は手元にあった傘を南波に
差し出した。
﹁先輩、これ、宗本先輩に返してください。ありがとうございまし
たと言っていたとも﹂
﹁ああ﹂
黙ってそれを受け取る南波を見つめながらよもぎはふぅと息を吐
いた。
﹁よかったですね、また宗本先輩に二人で会う口実ができて﹂
どこか挑発的なよもぎの口調に彼は思わず後ろを振り返った。
しかし、よもぎはその鋭い視線にも特に怯んだ様子もなく茶髪に
指を絡めながら意地の悪い笑みを浮かべていた。
﹁そういうところ、変わってないですね﹂
南波はただ視線を逸らすだけだった。
そんな彼の態度によもぎは眉を寄せた。
﹁人に変われと申しておいて自分は変化なしっすか、先輩。ずるい
ですね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁なんですか、自分間違ったこと言ってます?﹂
睨み付けられながらもはっとよもぎが笑った。
何がそこまで腹立たしいのか、よもぎ自身にも分かってはいなか
った。ただ、滑り落ちるように言葉が紡がれる。
172
﹁あーもう自分、先輩のそういうとこ嫌いです。宗本先輩に別に好
きな人がいるだぁ? 関係ねーだろうが、本気で好きなら奪い取っ
てみやがれってんだ﹂
結局、とよもぎが南波を睨み返した。
﹁逃げてるだけじゃないですか、意気地なし﹂
﹁黙れ元黒髪眼鏡﹂
南波の言葉に﹁なんですって?﹂とよもぎは目の端を吊り上げた。
﹁んで、来たはいいけどなんで喧嘩してんのこいつら。馬鹿なの?﹂
睨み合う南波とよもぎを見るなり、鈴丸は一番に吐き出した。
﹁さあ?﹂
巳令が首を傾けると同時に睨み合う二人の間に割って入った梨花
がぶんぶんと腕を振り回した。
﹁あ、あの、ふ、二人とも、け、けけ、喧嘩はよくないよ! な、
なにか原因があるなら、ちゃ、ちゃんとお話したほうが、あの、ど
うしてこ、こんなことに﹂
﹁東天紅先輩﹂
南波はぽんぽんと梨花の肩を叩きながら﹁ちょっと黙っててくれ﹂
いつにも増して低い彼の声にひっ、と短い悲鳴をあげてから梨花
が両手で口を覆った。それを見て、よもぎが﹁駄目じゃないですか﹂
と唇を尖らせた。
﹁益海先輩はただですら怖いんですから、女の子にそういうこと言
っちゃ。あ、だからモテないんですねごめんなさーい﹂
﹁ああ?﹂
﹁ひぃ⋮⋮!﹂
自分に向けられた視線でもないのに震えあがった梨花はその場で
固まって動けなくなってしまった。
とんでもない地雷原に飛び込んでしまった梨花に手を伸ばすのが
173
先か、二人を止めるのが先かと太李が迷っていると巳令が表情を変
えずに口を開いた。
﹁二人とも、何がどうしてこうなってるんです?﹂
﹁ただ益海先輩が逆ギレしてるだけですよ﹂
﹁逆ギレだと?﹂
むすっとしたままよもぎが言い放つ。
﹁逆ギレじゃないですか! 図星突かれて! おっとなげねー! 大人げねーっすよ先輩!﹂
﹁お前に何が分かる﹂
その言葉に、よもぎは異常なまでの苛立ちを覚えた。
自分は何に対してここまで憤りを覚えているのだろう? 彼女自
身にすらそれは分からなかった。南波がどうしようと彼の勝手だと
いうのに。自分には関係ない。
だとしたら何がそこまで自分の神経を逆なでする? 出所の分か
らない憤りとそれに対する苛立ちが混ざり合って言葉となってよも
ぎの口からこぼれ落ちた。
﹁もういいです。知りません。しりゃーしやせん! 勝手にやって
ろばーか!﹂
投げつけるように自分のカバンを放り投げてからよもぎは走り去
って行ってしまった。
﹁ちょ、ちょっとよもぎちゃん! おい、南波、何したんだよ﹂
﹁知るか﹂
放り投げられたカバンをキャッチして、ふんと太李から視線を逸
らす南波にうーと太李は頭を掻いた。
その様子を見ながらしょうがない、といった風にマリアが立ち上
がる。
﹁んま、なんでもいいけどよ。益海、おめー、ちゃんと決着つけろ
よ?﹂
﹁なんで﹂
﹁あ? あったりめぇだろ。殴り合って喧嘩して来いよ﹂
174
ひらひらと手を振りながら﹁中途半端にしかできねぇなら喧嘩な
んかすんじゃねぇ﹂
﹁別に喧嘩じゃ﹂
﹁うっせー!﹂
そう叫びながら彼女はちらりと鈴丸の方を見た。
自分は紅茶よりコーヒーの方が好みだったらしい。そんなことに
柚樹葉が気付いたのはほんの数十分ほど前のことだった。
元より、コーヒーよりも紅茶を口にする機会の方が多かったから
かもしれないと彼女は思った。慣れというのは恐ろしい。そう思う
一方でこの味覚を特にどうこうしようというわけでもない。
目の前に広げた資料と紅茶を淹れた人物を見比べながら﹁で?﹂
と彼女は首を傾げた。
﹁で、って?﹂
﹁単刀直入に聞こう﹂
真っ白な履歴書をぼーっと眺めながら、柚樹葉が小さく笑う。
﹁君は何者?﹂
その問いに彼女は︱︱ベルは困ったように息を吐き出した。
﹁ただの傭兵よ﹂
﹁だったらどうしてβ型のことを知ってた?﹂
その言葉の響きが不快で彼女は眉を寄せた。
﹁さあ。どうしてかしら﹂
﹁⋮⋮ベルガモット、君、今自分がどういう立ち位置にいるか分か
らないの?﹂
そこまで馬鹿だとは思っていなかった。そう言いたげに柚樹葉は
資料を放り投げた。
床に散らばった資料を集めるスペーメを見ながらベルは気怠そう
に言い放った。
175
﹁どうするの? 私は今日限りでクビ?﹂
﹁いいや。君は主任のお気に入りのようだし、クインテットも君ら
に懐いてる。蒲生と惣波も、君がいなければこちらに制御できると
は思えない﹂
首を左右に振りながら﹁でも﹂と柚樹葉はまっすぐベルを見つめ
返した。
﹁もし君が私の敵なら処分を考えよう﹂
なら大丈夫ね、とベルは心の中で笑った。
少なからず彼女と自分が敵になることはない。そう確信していた
からである。
膝を抱えながらよもぎは屋上に設置されていたベンチの上で溜め
息をついた。
行くあても、目的もなく、ひたすらビル内を歩き回ってから不思
議と上に行ってみたくなって階段を駆け上り、ここに辿りついた。
梅雨の晴れ間らしく、湿度は高いというのに強い日差しがよもぎを
突き刺していた。
そんな光を浴びながら﹁あー﹂と意味もなく声をこぼした。
自分は何をしているのだろう。つい感情的になってしまった。
彼女は南波が和奈に好意を抱いていることを知っていた。紛れも
ない、彼の口から聞いてである。
他のクインテットよりも付き合いが長い分、彼女は彼の性格を自
分なりに理解しているつもりだったし、一年間会わなかったとはい
え変わっていなかったことに安堵したのも事実だった。
しかし、何も変わりすぎていなかったことが苛立ちの原因だった
のかもしれない。よもぎはうっすらそんなことを考えていた。
少しくらい何かが変わると思っていた。でも、変わったのは自分
のほんの一部だけ。それが無性に腹立たしくて仕方ない。
176
ただの八つ当たりだと、彼女は自己嫌悪せずにはいられなかった。
自分が何もできないのを、勝手に先輩に重ねて怒鳴っただけじゃ
ないか。そんな自分に対して、よもぎは深々と溜め息をつくしかな
かった。
南波はきっと怒っているだろう。またやってしまったと、よもぎ
はそう思った。
以前にも似たようなことがあったのだ。そのときも言ってしまっ
た後にこうやってベンチの上で後悔していた。南波と出会ったのも
そのときだった。
戻らねばならないことを自覚している一方で彼女の足は鉛のよう
に重かった。
腕の中に顔を埋め、目を閉じた。何も見えなかった。聞こえてく
る音もどこか遠くに感じた。まるで自分だけ切り離されてしまった
ようだと彼女は思った。
そんな彼女を引き戻したのはベンチから伝わってきたわずかな振
動だった。
隣に誰かがいる。まさか、と期待を込めて目を開けてからよもぎ
は小さく肩を落とした。
座っていたのは太李だった。
﹁⋮⋮俺でごめん﹂
なぜかどこか申し訳なさそうにそう告げる太李にふるふるとよも
ぎは首を左右に振った。
﹁いえ、別に﹂
﹁えっと、さ。よもぎちゃんと南波って、同じ中学だったんだって
?﹂
太李の言葉に彼女は伏せていた目を再びあげた。
﹁ええ。一応。部活も、委員会も違いましたけど。益海先輩から聞
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いたんですか?﹂
﹁うん、まぁ﹂
そうですか、とよもぎは抱えていた足をまっすぐ伸ばした。
﹁色々あって、顔と名前と事情くらいは知ってる間柄だったんです。
それこそ、なんでも話せる相談相手みたいな。先輩が高校に上がる
までは﹂
太李は何も言わなかった。それが踏み込んでいいのか、あるいは
それ以上聞くべきではない話題なのか判断がつかなかったためであ
る。
それを察してか、よもぎが更に口を開いた。
﹁先輩、ウチには愚か、中学の誰にもなんにも言わずにこっちに来
てたんですよ。もー陶芸部に来てみてびっくりですよ﹂
﹁そう、だったんだ﹂
﹁結局、なんでも話せるって思ってたのはウチの勝手な思い込みで﹂
情けないなぁ、と彼女は茶髪を指に絡めた。その弱々しい横顔を
見て、太李は無性に不安になった。
﹁でもほら、南波は、色々無口だし、不器用っていうか、だから、
いや、俺は付き合いまだそんなに長くないけど、でもそういう奴じ
ゃないっていうか﹂
困ったように必死に言葉をまとめながら発する太李によもぎはに
っこり微笑んだ。
﹁優しいですね、灰尾先輩は。ありがとうございます﹂
﹁⋮⋮どう致しまして?﹂
不思議そうな表情を浮かべる太李によもぎは何も言わずに笑う。
﹁あ、ちゅーか召集サボってこんなとこにいるとか、鈴さん怒って
ませんでした?﹂
﹁お察しの通りです﹂
﹁あーやっぱりー﹂
こういうの嫌いそうだからなあの人ーとよもぎは唸った。
太李が来てくれたおかげで戻りやすくなった。立ち上がりながら
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﹁戻りましょっか。謝らないと﹂
﹁そう、だな﹂
﹁はい﹂
くるっと入口の方に顔を向けてから彼女はおっと声をあげた。
精一杯の強がりだった。
﹁なーにしてるんですか、益海先輩﹂
﹁南波⋮⋮﹂
太李も彼に気付いたようだが南波は特に返答するわけでもなく、
﹁春風﹂とよもぎを呼びつけるだけだった。
﹁はいはい春風ですよ﹂
﹁気に障ったなら謝る﹂
﹁⋮⋮どうしたんですか、らしくない﹂
驚いた表情で自分を見返す彼女に南波は溜め息をついた。
﹁お前の言う通りだった﹂
﹁⋮⋮いえ﹂
ぺこりと頭を下げながらよもぎが言う。
﹁図星突かれてんのは、むしろ自分の方でした。すいません﹂
そんな二人を見て﹁まぁ、さ﹂と太李が立ち上がった。
﹁ほら、これで仲直りってことで!﹂
﹁はい﹂
にっと笑うよもぎに南波が背を向ける。
けたたましいサイレンの音がディスペアが現れたことを告げるの
はそのあとすぐだった。
普段は喧騒で溢れかえっているショッピングモールは今はただ噴
水が水を流し続ける音しか響いていなかった。
中に居る人間たちはその場で動かない。そんな光景を老婆の背に
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背負われながら見つめていた少女が﹁んふふ﹂満足げに笑い声をあ
げた。
灰色の髪を狼をデザインした黒いパーカーにしまいこんだ彼女は
短い手足をめいっぱい伸ばしながら目を細めた。
﹁そーやって、どーんどん悪い夢みちゃいましょーね﹂
フードについていた耳が彼女の体と共に揺れる。
金色の瞳が世界を捉える。うきうきと﹁わーるいおゆめはみっつ
のあじー、みーんなうなされてーおーさーまがだいふっかーつ﹂と
足をばたつかせた。
しかし、その歌を歌い終える前に彼女は老婆の背から飛び降りた。
自分とは逆方向に飛びのいた老婆が立っていたところには弾痕が残
っている。
﹁うひゃあ、こわーい﹂
両手で顔を覆いながら少女はぐるっと弾の飛んできた方を見た。
そこに立っていたのは銀色の髪をした女︱︱マリアだった。
﹁⋮⋮お前、ただのがきんちょってわけじゃあなさそうだな﹂
﹁んむむ、お前はよーへーだな!﹂
びしっとマリアを指差した少女は﹁あちしらの邪魔ばっかりして
るやつの仲間! 許すまじ! ウルフちゃんげきおこ!﹂と地団駄
を踏んだ。
引き金に指をかけながらマリアは眉を寄せた。
﹁ウルフ⋮⋮?﹂
﹁マリアさん!﹂
あとから続いて入って来た高校生たちを見た途端、ウルフは顔を
歪めた。
それに気付かず、巳令が問いかける。
﹁彼女は﹂
﹁わかんねー。ディスペアの背中に乗ってた﹂
まさか、と太李は声を発していた。
﹁トレイター⋮⋮?﹂
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きゃははっとウルフが笑い声をあげた。
子供らしい、無邪気な声だった。
﹁そーだよおばかさんたち! いっつもいっつも邪魔ばっかしてぇ
!﹂
きーっと叫び声をあげながら地団駄を踏んだウルフは﹁特にぃ!﹂
と太李と巳令を睨み付けた。
﹁そこのお前らふたり! せっかくのβがたをつぶしちゃうなんて
しけいだね! しけーしっこうだね!﹂
﹁⋮⋮β型?﹂
巳令が首を傾げてから﹁とにかく﹂と腕輪を構えた。
﹁やられるわけにはいきませんね。行きますよ﹂
それぞれが、チェンジャーを構え、一斉に叫んだ。
﹁変身!﹂
眩しい光にウルフが思わず目を閉じると、次にその場にいたのは
すでにフェエーリコ・クインテットとなった五人だった。
﹁悲しき魂に救いを与える姫、鉢かづき!﹂
﹁悪しき心に罰を与える姫、親指!﹂
﹁不幸な存在に光を与える姫、人魚﹂
﹁残酷な宿命に終わりを与える姫、いばら!﹂
﹁哀れな役に幸せを与える姫、シンデレラ!﹂
巳令の刀が引き抜き、他の四人もそれぞれ得物を構えた。
﹁悪夢には幸せな目覚めを﹂
声が揃う。
﹁フェエーリコ・クインテット!﹂
それを聞いて、ふん、とウルフは鼻で笑ってから腕を鳴らした。
ばきばきと音を鳴らしながら彼女の手には大きく湾曲した長い爪
が現れた。
﹁ちょーなまいき! ぶっつぶしてやる! やまんば! からす!
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やっちゃって!﹂
その声に今まで沈黙を保っていた老婆がよもぎめがけて走り出し、
どこからともなく黒い鳥が現れて飛び回った。
弓に矢をつがえる前に襲い掛かられたよもぎはしまったと身構え
た。
﹁何やってる!﹂
素早く振り下ろされた槍が老婆に直撃する。
ぎぎ、と声をあげながら後退する老婆を見ながら彼女は槍の持ち
主に﹁すみません人魚先輩﹂と小さく頭を下げた。
﹁⋮⋮いいから行くぞ﹂
﹁はい﹂
三叉槍を南波が構え直し、よもぎが改めて矢をつがえた。
老婆の姿をしたディスペアは距離を取るとそこから鉈のようなも
のを投げつけてきた。南波が三叉槍でそれを振り落とす。
﹁いばら﹂
﹁わーってますって!﹂
弦からよもぎが手を離す。
空気を切り裂きながらよもぎの矢はディスペアめがけて飛んでい
く。
しかし、その矢が目的の場所についた頃にはディスペアはすでに
別の場所に居た。
その一方でマリアは吠えた。
﹁またこいつらかよ!﹂
﹁あ、あわわ、こないでぇ!﹂
クソが、と引き金を引くマリアと斧を大きく振り回す梨花。
そんな二人を見て、巳令が声をあげる。
﹁親指! マリアさん!﹂
﹁なによそみしてん、の!﹂
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ばっと振り下ろされた爪を、巳令は間一髪、刀で受け止めた。
﹁おまえらあるてぃめっとおばかさんの相手はあちしがしてやるよ
! こーえーにおもってね!﹂
﹁ふっざけんなぁ!﹂
ばっと突き出された太李のレイピアを地面を蹴り上げて交わして
からウルフはけらけらと笑い声をあげた。
くるりと空中で一回転したウルフは壁を蹴りつけ加速をつけてま
た爪を振り下ろす。
巳令の腕にわずかに爪がひっかかり、そこから血が流れる。
﹁あ﹂
﹁鉢かづき!﹂
﹁だ、大丈夫です。かすっただけ⋮⋮﹂
そう言って刀を構え直す彼女を見ながらウルフは不満げに告げる。
﹁うでおとしてやろーとおもったのにぃ! うーごーくーなー!﹂
﹁トレイター⋮⋮あなたたちが、ディスペアを?﹂
﹁うるさい! 聞くなぁ!﹂
﹁あなたたちの目的はなんなんですか﹂
﹁だーまーれぇー!﹂
むきゃーと叫びながらまたウルフが地面を蹴り上げた。
画面を食い入るように見ながらふむ、と柚樹葉が額に手をやった。
﹁驚いたな、まだ子供じゃないか﹂
﹁⋮⋮あなたでも驚くことがあるのね﹂
﹁おや、心外だな﹂
ベルの言葉に柚樹葉はにっこり笑った。
そんな彼女に笑い返しながら、ベルは非戦闘員の退避を行ってい
た鈴丸の通信機に連絡を入れた。
﹁鈴丸、聞こえるかしら? まずいわよ﹂
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一拍置いてから彼はうんざりした風に言葉を返した。
﹁何が。敵の幹部が出てること? それとも非戦闘員の多さ?﹂
﹁いいえ、マリアと梨花さん。親指姫はパワータイプ、今の交戦相
手とは相性が悪いわ。おまけに、マリアは今日お気に入りのマシン
ガン持ってないし﹂
﹁⋮⋮早急にマシンガン持って応援に回りますっと﹂
よろしく、と通信を切った彼女を見ながら柚樹葉は何も言わず、
また画面に視線を戻した。
﹁いい仕事だね、ベルガモット﹂
﹁光栄だわ、柚樹葉さん﹂
三叉槍を握りしめながら南波は小さく舌打ちした。
ディスペアは遠距離からひたすら刃物を投げてくる。それだけな
らばよもぎの弓でなんとかできたのだが動きが早く、狙いが定まら
ない。しかし、近距離からしか攻撃のできない南波にとってもこの
相手は分が悪かった。
二人で背中合わせになりながら刃物を払い落とすことしかできな
かった。
﹁どうします、消耗戦ですよこれじゃ﹂
﹁そうは言っても﹂
と何かを言いかけてから、南波はそれを取りやめて、別の言葉を
発した。
﹁なぁ、お前にはあれはできないのか﹂
﹁あれ?﹂
﹁シンデレラの必殺技みたいに﹂
南波の言葉に、よもぎは太李の必殺技を思い出した。そういえば
レイピアが何本も現れて、そこから彼が攻撃していた。そんな気が
する。
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﹁わ、わかんないですけど﹂
﹁⋮⋮やってみてくれないか﹂
槍で刃物を払い落す南波を見て、よもぎはぎゅっと弓矢を握りし
めた。
常識的に考えればできないことかもしれない。が。
﹁物は試し、ですね﹂
そう言って新たに矢をつがえると彼女はディスペアではなく頭上
に向かってそれを構えた。
必殺技はイメージして出てきているんだ。だったらいつもの必殺
技ではなく、拡散する矢のことを考えればもしかすれば。力いっぱ
い弦を引き絞ると彼女は手を離した。
鋭い音と共に頭上へと消えて行った矢はぱっとその場で光ると次
には辺りに降り注いだ。
﹁嘘⋮⋮うまくいった﹂
よもぎがきょとんとするのにも構わず、拡散する矢によって動き
の止まったディスペアとの距離と南波が一気に詰める。
そのまま槍で一撃をくわえればその体がよろめき、その隙にまた
一発お見舞いする。次々と鮮やかに斬撃をくわえていく南波を見な
がらよもぎはまた矢をつがえた。
精一杯の力を込め、矢を放つ。
同時に南波の槍が相手を貫いた。
それに耐え切れず、ディスペアの体は一瞬で消滅した。
﹁なー!﹂
巳令の刀を振り払いながらウルフは口を尖らせた。
﹁またβがたやられちゃったんですけどー! しかもからすもやら
れてるしー! 一人増えてるしー! あちしあんなのきいてないん
ですけどー!﹂
地団駄を踏みながらウルフは﹁もー!﹂と伸びきった爪を横に大
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きく薙いだ。
後退する二人を見ながら﹁なんなのなんなのー! ちょーむかつ
く! しーらね!﹂と二人に背を向けた。
﹁な、待ちなさい!﹂
慌てて後を追う二人を嘲笑うかのように、ウルフがその場から消
え去ると心なしか暗かった外が明るくなった。
﹁二人とも!﹂
人が起きてきて、慌てて変身を解きながら太李が南波とよもぎに
駆け寄った。
同じく変身を解いたよもぎが﹁見てました! 今の!﹂と興奮気
味に太李に詰め寄った。
﹁見てた見てた! すげー強かった!﹂
﹁凄いよ、二人とも息ぴったりで!﹂
﹁でしょー?﹂
きゃっきゃっと梨花と手を取り合いながら喜ぶよもぎを見て南波
はその頭に手を伸ばした。
その手が勢いよく振り下ろされると同時に梨花の手から離れたよ
もぎの手がそれを防ぐ。
﹁な﹂
﹁ふふん、いつまでも先輩のチョップを喰らうほどあまちゃんな春
風ではないのですよ! 悔しかったら出直し、いったぁ!﹂
掴まれていない方の手で南波が手刀を作って躊躇なく振り下ろす
とよもぎはその場でしゃがみ込んだ。
﹁馬鹿が﹂
﹁ひ、酷いじゃないですか! せっかくうまくいったのに! ばぁ
ーか! 益海先輩のばぁか!﹂
うえーんとわざとらしく泣き真似する後輩に南波はどっと肩が重
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くなった気がした。
﹁ほんと、よくこれで連携技ができるな﹂
﹁そうですね﹂
呆れたようなマリアに巳令は苦笑を返してから﹁あ、そうだ﹂と
手を打った。
﹁こうなったら技名つけないと﹂
びくっと南波が肩を跳ね上がらせた。その彼らしからぬ反応に﹁
さすがの南波も技名は嫌なのかー﹂と太李は他人事のように考えた。
﹁どうしてそうなる⋮⋮﹂
﹁いいじゃないですか。技名があると合わせやすいですよ、何がい
いかしら。やっぱりラテン語?﹂
﹁みれー先輩⋮⋮自分もそれは遠慮したいです⋮⋮﹂
﹁ええーなんでですかよもぎさん、遠慮しなくってもいいんですよ﹂
にこにこ笑いながら巳令は﹁あ、そうだ﹂とくるりと太李の方に
向き直った。
﹁せっかくだし、カオスカタルシス﹂
﹁やめろ!﹂
慌てて彼が制止をかけるとええーと巳令が不満げに太李を睨み付
けた。
﹁なんでですか。かっこいいじゃないですかカオ﹂
﹁やめろ二度とそれを口に出すな!﹂
﹁なんでですかー!﹂
耳を塞ぐ太李とその周りをうろうろしながら不満そうな彼を見て
﹁なんだよカオスカタルシスって﹂とマリアが首を傾げた。
﹁灰尾先輩の忘れたい過去、ですかね﹂
﹁はぁ?﹂
わけわかんねーとマリアは銀色の髪を掻き毟った。
﹁人間忘れたい過去の一つや二つあるってもんですよ﹂
南波をちらりと見ながらよもぎが続ける。
﹁でも、あってよかったな、なんて過去も案外あったりします﹂
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﹁ふーん?﹂
不思議そうにしながらマリアは﹁ま、かえろーぜ﹂とぐぐっと背
伸びした。
その光景を黙って見ていた鈴丸はふと、隣の梨花が顔を俯かせた
ままだったのに気付いて彼女を覗き込んだ。
﹁梨花? どうした?﹂
﹁え、あ、いえ﹂
ぶんぶんと首を左右に振った彼女は弱々しく微笑んだ。
﹁どこか怪我したか? それとも体調がすぐれない、とか?﹂
﹁ほ、ほんとになんでもないんです!﹂
大丈夫だから。まるで自分に言い聞かせるようにそう言った梨花
に鈴丸はそれ以上、何も問おうとはしなかった。
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第十一話﹁頑張り屋さんが頑張りすぎるのでコロッケを与えてみたようです﹂
財団本部内の休憩室で目の前にケースが差し出されたマリアは目
を輝かせた。
休憩室、といっても丸机と椅子、それにソファと申し訳程度にテ
レビと観葉植物が置かれただけの空間だった。ごくごく限られた人
間だけが使う場所だ。
そんな空間でふわぁ、と口元に手を当てながら﹁待たせたね﹂と
柚樹葉が小さく笑う。
﹁いや、こんな早いと思ってなかった﹂
﹁そう? ならよかったけど﹂
﹁なんだよ、それ﹂
ひょこっと顔を覗かせる鈴丸に柚樹葉が告げる。
﹁お願いされてた武器、かな﹂
﹁はぁ?﹂
不思議そうに首を傾げる彼とは対照的にうきうきとした様子でマ
リアがケースのロックを外して、それを開く。
ケースの中に収まっていた大型の兵器を見て、鈴丸は顔を引きつ
らせた。
﹁おい、これロケランじゃねーか﹂
﹁に、非常に類似させて作った別物だよ﹂
目を輝かせたままのマリアを一瞥してから柚樹葉は近くにあった
椅子を引きずり出して、腰を下ろした。
マリアは瞳の輝きを保ったまま舐めまわすように兵器を見て、鈴
丸は彼女にさらに顔を険しくさせる。そんな二人にはお構いなしに
彼女は言葉を発した。
﹁対ディスペア用ロケット弾発射機。ロケットランチャーというよ
り、グレネードランチャーの方がより近いかもしれないね。普通の
兵器と違って、反動も小さくしたし、威力もなかなか。軽量もした
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から君でも扱うのは安易だと思うよ﹂
﹁さんきゅーな﹂
へへっと笑うマリアに﹁ただし﹂と柚樹葉は腕を組んだ。
﹁それ、今のところ無誘導弾しかないから。君の腕が試されるよ。
装填にも時間がかかる、あくまで一発。まさに必殺技だ﹂
﹁充分だ﹂
ケースの蓋を閉じながら﹁さんきゅーな﹂とマリアは柚樹葉に向
き直った。そんな彼女に柚樹葉は首を軽く左右に振った。
﹁いや、気にしないで。どの道近いうち、君らの戦闘補助の何かを
作ろうと思ってたところだったし。ただ、実戦がまだまだ足りない
からね。あくまで試作だと考えて﹂
﹁りょーかいりょーかい﹂
ぽんぽんとケースを叩くマリアに鈴丸が呆れたように問いかける。
﹁お前、そんなの柚樹葉に頼んでたのかよ﹂
﹁まぁな。相手が相手だし、強力な一撃がぶちこめるのが欲しいか
ったんだ。かっこいいだろ、必殺技どーんってやるの﹂
上機嫌なマリアに柚樹葉が軽く肩をすくめた。
﹁その話をぜひ巳令にしてやるといいよ。彼女、喜んで君の技名考
えてくれるから﹂
﹁⋮⋮勘弁してくれ﹂
顔を引きつらせるマリアに﹁やっぱり嫌か﹂と柚樹葉が苦笑する。
それから﹁ベルガモットは?﹂紅茶、とうんざりした風に鈴丸が
言う。
﹁彼女も好きだねぇ﹂
﹁ま、名前にするくらいだしな。つーかお前こそお仲間はどうした
よ﹂
﹁そろそろ来る頃だろうとは思うけど﹂
と彼女が腕時計を確認しようとしたとき﹁遅くなりましたー!﹂
と見慣れた高校生たちが一斉に飛び込んできた。
﹁おーきたきた﹂
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﹁遅かったじゃない﹂
﹁いやーホームルームが長くって。というかサボりの九条さんにそ
んなこと言われたくないんだけど﹂
自分に冷ややかな視線を向けてくる太李に柚樹葉は﹁もっともだ﹂
と苦笑した。
机の上に置いたカバンを巳令が開くと勢いよくスペーメが飛び出
した。小さな体を震わせながら声を張り上げた。
﹁うぎぎぎ、鉢かづきのカバン超きたねぇのです! 何をそんなに
入れてやがるですか!﹂
﹁え? 別に大したものは⋮⋮和英辞典とか、イタリア語辞典とか﹂
﹁徹底してますね﹂
苦笑するよもぎに巳令は不思議そうに首を傾げるだけだった。
﹁だってほら、まだ人魚といばらの連携技に名前つけてませんから
!﹂
﹁まだ諦めてなかったのかお前﹂
﹁当たり前です!﹂
ふんすと鼻息荒くする巳令に南波は諦めに近しい感情を抱いてし
まった。頭を抱え、溜め息を吐く。そんなことしかできなかった。
﹁絶対言わないからな﹂
﹁なんでですか! 灰尾は言ってくれたのに!﹂
﹁そりゃあ先輩は素質がありますから。中二病の﹂
﹁ない! そんなものとうに捨てた!﹂
よもぎの言葉に慌てて反駁する太李を見ながら﹁相変わらず仲が
いいことで﹂とマリアがけらけら笑った。
ふと気になって、鈴丸は今まで一度も言葉を発していなかった梨
花を探した。彼女は後輩たちのすぐ横で小さく肩を落としている最
中だ。黙って歩み寄ってから彼は梨花の頬をぺちんと軽く叩いた。
﹁はう!﹂
﹁どうした梨花。可愛い顔が台無しだぞ﹂
﹁か、可愛くありません!﹂
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からかわれてる。そう思った梨花はぷくっと頬を膨らませた。
対して鈴丸の方は口説こうという意思があるわけではなく、単に
本当のことを言っているだけなのだがそれをいつになったら理解す
るのだろうと困り果てていた。自分がどういったところで彼女は聞
き入れてはくれないだろう。
﹁あ、あたし、鈴丸さんのそういうところ苦手です⋮⋮﹂
﹁ふーん? 俺嫌われてんの?﹂
﹁き、嫌いだなんて! 別にそういうわけじゃなくて、あの、あた
しみたいなののことすぐ可愛いとかいうのはどうかと﹂
﹁可愛いもんに可愛いって言って何が悪いんだよ。お前だって熊の
ぬるいぐるみとかよーわからんアイドルに可愛いっていうだろ﹂
ぱっと自分の頬から手を離す鈴丸に梨花は深々と溜め息を吐いた。
﹁あたし、アイドルじゃないし⋮⋮﹂
﹁そうだな、お前はアイドルより可愛いや﹂
﹁鈴丸さん!﹂
顔を真っ赤にしながらぷるぷる体を震わせる梨花に﹁ったく、は
いはい。分かった、分かったから。今度から気を付ける﹂と手をひ
らひらと振った。適当な返答に梨花は不満げだったものの特にそれ
に関しては口を開かなかった。
自動ドアが開き、小型のワゴンを押しながらベルが入ってくる。
﹁お待たせー。あ、よかった、ちょうど来てたのね。って、あら、
梨花さんどうしたの? そんなにプンプンして﹂
﹁す、鈴丸さんが意地悪します⋮⋮﹂
梨花の言葉に素早く鈴丸に視線を向けるとベルが冷たく言い放っ
た。
﹁⋮⋮鈴丸、あんまり梨花さんいじめるようなら報酬減らすわよ﹂
﹁だからなんでそうなるんだよ! つか、報酬盾にするなんて卑怯
だぞ、ベルガモット! 人でなし!﹂
﹁そこまでの金の亡者のあなたの方がよっぽど人でなしよ﹂
呆れたように息を吐いてから手早くティーセットを取り出しなが
192
ら﹁お茶、淹れるから。始めましょう﹂と彼女は微笑んだ。
言い争っていた太李たちもそれぞれ席につき、鈴丸は机の上に放
り出していた資料を拾い上げ、マリアもソファの上に寝転んだ。
人数分の紅茶を手際よく並べ、ベルは最後に机の真ん中にぽんと
大皿を置く。大皿の上にはシュークリームが山積みにされていた。
目を輝かせる梨花にベルはくすくす笑った。
﹁美味しそうだからつい、いっぱい買っちゃった。好きなだけ食べ
てね﹂
﹁毎度毎度、ベル姉様もよく買いますねー⋮⋮﹂
脇に置かれた四枚の小皿の上にシュークリームを一つずつ乗せて、
うち三枚は梨花と巳令、そして柚樹葉に渡しながらよもぎが呆れた
ように告げた。男の人は甘いもの食べるのだろうかという不安から
か男子に渡そうという気は不思議とよもぎの中で湧き起こらなかっ
た。現に南波は特にシュークリームの山に構っている様子はない。
すげーとシュークリームの山をただ茫然と見つめる太李を一瞥し
てからベルは﹁せっかく美味しい紅茶頂くんだから美味しいお茶菓
子を揃えるのは当然のことよ?﹂と至極当たり前のように告げた。
﹁そういうものですか﹂
﹁そういうものです﹂
巳令の言葉にベルが頷いた。それから彼女は後ろに振り返ってソ
ファで寝転がったままのマリアに楽しそうに尋ねる。
﹁紅茶とシュークリーム。置いておくから、いい?﹂
﹁ん﹂
返事だけをして、腕を組んだマリアはそのままそこに顔を埋めた。
太李が自分の取り皿にシュークリームを乗せたところでようやく
鈴丸が口を開いた。
﹁よし、じゃあ、訓練前にこの間のディスペアの話すっぞ﹂
﹁俺と春風が同時攻撃で倒した奴のことか﹂
南波の言葉に鈴丸は﹁そう﹂とだけ肯定した。それと同時にクリ
ームのついた口元を拭いながら柚樹葉が告げる。
193
﹁あれはね、今までのものとは多少違うんだ。その前のディスペア
もそう﹂
﹁前の、は﹂
﹁私とシンデレラの同時攻撃﹂
巳令が確認するかのように呟く。
﹁その通り。あの二体は﹃β型﹄といってね、より強力でありなが
ら人に見せる悪夢の内容もタチが悪い。分かってもらえたと思うけ
ど普通の必殺技では通用しない﹂
カップを傾け、一息ついてからまた柚樹葉が続ける。
﹁今まで君らが戦ってきたのは﹃α型﹄と呼ばれるもの。いわば旧
型のディスペアだよ﹂
﹁連中にも新旧があるのか﹂
﹁そりゃあるよ。彼らは所詮機械だからね﹂
南波の言葉に涼しく答えてから﹁β型には生半可な火力の技では
通用しない。本来なら恐らく出現するのはもっと後だろうと思って
いたから対応が遅れてしまった﹂でも、と柚樹葉は笑う。
﹁君らの連携技は私の予想を遥かに上回って抜群の攻撃力を持って
いた。これなら充分β型に対応できるだろう﹂
﹁えっと、要するに﹂
かじりかけのシュークリームを持ったまま、太李が首を傾げる。
﹁そのβ型っていうのが出たら同時攻撃すればいい、んだよな?﹂
﹁そうだね。それが正解だ﹂
うんうんと頷きながら柚樹葉は紅茶をすすった。
﹁相手方も着々と強くなってきている、というわけですか﹂
﹁ただし、それはお前らも同じだ﹂
薄く笑う鈴丸に﹁はい﹂と巳令が頷いた。
シュークリームを飲みこんだ梨花がカップの水面に映る自分を睨
み付けたのはそれとほぼ同時だった。
194
ミーティングが終わってから、マリアはシミュレーションルーム
にいた。
肩には先ほど、柚樹葉が渡された兵器がある。軽量化されている
とはいえど、女一人が担ぐのには少々重たいなとマリアは思った。
そんなものを担ぎながら彼女は目の前の的を睨み付けた。まだま
だ分からない武器を持つ。彼女は自分がはじめて拳銃を握った日を
少しだけ思い出した。
小さく笑ってから照準を合わせて、トリガーを引く。瞬間、体の
バランスを崩した彼女は後ろへ倒れ込んだ。
﹁うお!﹂
そんな声と共に発射されたロケット弾は当然のように思い描いて
いた軌道からは外れ、的とはかけ離れた場所に撃ち込まれてしまっ
た。
﹁いってぇ⋮⋮﹂
﹁マリア、手ごたえは?﹂
﹁とりあえずこいつがどんなもんかっつーのは分かった﹂
スピーカー越しの鈴丸の声にマリアは笑った。
肩にかかっていたそれを下ろしながらもう一度倒れ込んだ彼女は
銀色の髪をわしゃわしゃと掻き毟った。
﹁久々に死ぬかと思ったぜ﹂
﹁さすがのお前でもそのサイズの武器になると厳しいか﹂
﹁いや、もう大丈夫だと思う﹂
大きく息を吐き出しながら飛び起きたマリアはもう一度、ロケッ
ト弾を装填し始めた。
それを終えると肩に再び担ぎ直し、照準を合わせる。少し間を置
いてから二発目が発射された。
今度はバランスを崩すことなく、なんとか少し後ずさった程度で
済ませたマリアの放った二発目は的の真横をすり抜けて行った。マ
リアが舌打ちする。
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﹁外れたか﹂
﹁⋮⋮大したもんだ、お前﹂
感心したように鈴丸がいえば、けっとマリアがカメラから顔を逸
らす。
﹁あたんなきゃ、外したも同然だろ﹂
﹁もっと素直に喜べよ。二発目でここまで精度をあげるなんて普通
じゃないぞ﹂
﹁あたしじゃない。向こうの仕事がいいだけだろ﹂
ぐぐっと背伸びしながらマリアは自分の手で握り拳を作っては解
くのを繰り返した。それを見て鈴丸は咄嗟に尋ねた。
﹁三発目は少し時間を置くか?﹂
﹁ん、そうする﹂
無理は禁物だ。多少長い期間を扱っているマリアはその程度を理
解しているつもりだ。
﹁あいよ﹂
とだけ答え、椅子から立ち上がった鈴丸はあの五人組がどうして
いるか、と心のどこかで考えていた。
特に今日は梨花だ。この間からどうも様子がおかしいのが鈴丸の
中で引っかかっていた。
﹁マリア、俺、クインテットの方見てくるから﹂
﹁分かった﹂
ごろんとその場に転がるマリアを見てから鈴丸はさっさとモニタ
ー室を後にした。
五人はいつも通り、軽い基礎訓練をこなしているはずだ。
そう思った鈴丸は訓練場に出向いてから思わず顔を引きつらせた。
壁に背を凭れさせながら頭からタオルをかぶった梨花が息に合わ
せて肩を大きく上下させていた。荒い呼吸を繰り返す梨花の背をよ
196
もぎが心配そうにさすっている。
他の三人はひとまずは各々の運動に戻っているようだが時折、梨
花を心配そうに見ては動きを止めている。
息を一つ吐き出してから鈴丸は彼女の元に歩み寄るとしゃがみ込
んだ。
﹁どうした?﹂
梨花はびくりと肩を跳ね上がらせただけだった。
﹁あ、鈴さん⋮⋮﹂
﹁よもぎ、さんきゅーな。お前はとりあえず戻れ﹂
彼の言葉によもぎは困ったように視線をさまよわせてからこくん
と頷いて、三人の元へと走って行った。
梨花の隣に腰かけながら鈴丸はその顔を覗き込んだ。
﹁メニュー、きつかった?﹂
ふるふると梨花が首を左右に振った。
そうか、と困惑した風に返してから彼はよもぎが先ほどまでして
やっていたように彼女の背をさすった。
しばらくして、ようやく梨花の呼吸が整ってきた。そうして弱々
しい声が彼女から発せられる。
﹁あ、あたし、その⋮⋮﹂
﹁当てようか。メニュー外のこともやったんだろ?﹂
びくっと梨花がまた肩を跳ね上がらせた。やっぱり、と鈴丸は苦
笑した。
五人には常に個人用のメニューと全体用のメニュー、それぞれを
渡している。それは各々の体力を配慮した上でのプランである。た
だですら常に時間がない。それなりに厳しいものだ。
﹁そりゃ苦しくなるに決まってるだろ。ただでさえちょっときつめ
に作ってるんだから﹂
﹁ご、ごめんなさい⋮⋮﹂
しゅんと項垂れる梨花に﹁頑張ろうとするのはいいけど﹂と彼は
ペットボトルを差し出した。
197
それを小さい手で受け取りながら梨花は目を伏せた。
﹁ごめんなさい⋮⋮﹂
﹁おう﹂
﹁あたし⋮⋮何もできないから、それで﹂
鈴丸が長い溜め息を吐く。それに梨花は呆れられただろうかと怖
くなった。
それでも、精一杯の思いで口を開いた。
﹁あたし、お姉さんだから、部長さんだから、頑張らないといけな
いから﹂
言い訳だ。梨花にはそう聞こえてならなかった。
どうしようもないほど悲しくなっていると鈴丸が﹁よし﹂と一つ
頷いた。
﹁梨花、お前、今日は帰れ。明日も来なくていい﹂
びくっと梨花がまた肩を跳ねさせた。それから顔を腕に埋めた。
自分が親指姫をやめなければならないのではないか。そうとすら
彼女には思えた。
﹁⋮⋮あ、あたし、どうなっちゃうんですか?﹂
﹁どうなるって?﹂
不思議そうな彼に梨花は問う。
﹁親指も、やめなきゃいけないんですか?﹂
﹁なんでだよ。そうじゃなくて、休みだ﹂
﹁だったら﹂
ここに来させてくれ、今日のようなことはしないから。梨花の次
の言葉が鈴丸には安易に予想できた。
だからこそ、彼は先手を打った。
﹁じゃあこうしよう、梨花、明日の放課後、俺に付き合ってくれ﹂
﹁へ?﹂
驚いたように自分を見る彼女に鈴丸は笑顔を浮かべた。
﹁買い物行きたいから、付き合ってくれたらクレープくらい奢る﹂
﹁なに、いって﹂
198
﹁鈍いな、デートに誘ってんだよ﹂
みるみるうちに梨花の顔が赤く染まった。それからぶんぶんと首
を左右に振った。
﹁な、なんであたしなんですか!﹂
﹁なんでってそりゃお前とデートがしたいからだろ?﹂
何がおかしいとばかりに首を傾げる彼に梨花はますます混乱した。
何を言ってるんだこの人は。
一人混乱する梨花を見ながら鈴丸はおかしそうに笑ってから彼女
から視線を逸らした。
﹁それとも何か? こんな教官とじゃご不満か?﹂
﹁そ、そういうわけじゃ﹂
﹁んじゃ、決まりな﹂
にっと笑う彼にあわわと梨花が視線を泳がせた。そんな彼女に耐
え切れず鈴丸は笑い出した。
﹁はは、わりぃわりぃ! デートってのは冗談だ。飯の買い出しに
行きたいから荷物持つの手伝ってくれ。マリアも一緒﹂
﹁な﹂
またからかわれた。そうと分かるや梨花は頬を思いっきり膨らま
せた。
﹁も、もう!﹂
﹁そんな怒るなよ。とにかく付き合え、いいな?﹂
﹁決定してる⋮⋮﹂
困惑した様子の梨花の額を﹁当たり前だろ﹂と鈴丸が弾く。
﹁これ、教官命令。逆らったらほんとに俺と訓練場で二人っきりデ
ートだからな﹂
﹁ううう﹂
額を押さえながら小さく唸る梨花に鈴丸は笑うだけだった。
199
翌日、格安を売りにしたチェーン店のスーパーマーケットの前に
あるベンチに座っていたマリアが目を細めた。
﹁お﹂
信号待ちをしている人物が誰か。理解した彼女は大きく手を振っ
た。
﹁梨花ー! こっちー!﹂
通学カバンの手持ち部分をぎゅっと握りしめながら梨花は小走り
でマリアと鈴丸、二人の元へ駆け寄った。
彼女は二人の顔を見上げるやすぐにぺこりとその頭を下げた。
﹁ご、ごめんなさい。遅くなっちゃって﹂
﹁あ? べっつにー。おそかねーだろ、お前学校だったんだし﹂
にかっと笑うマリアによかったと梨花はほっと息をついた。それ
から、改めてマリアを見て、彼女はわっと声をあげた。驚きと歓声
の混ざった声だった。
﹁なんだよ?﹂
﹁いえ、なんだか意外だなって﹂
﹁え?﹂
﹁お洋服⋮⋮﹂
その言葉にはっとしたマリアは自分の服を摘まみながら﹁あーこ
れな﹂と苦笑した。
彼女が着ていたのは普段着用しているどこか男臭い洋服ではなく、
裾の辺りに控えめにフリルのついた水色のブラウスとショートパン
ツだった。
うんざりした風にマリアが問う。
﹁似合わねーだろ﹂
﹁い、いえ! 凄く可愛くて、そ、そういうのお好きなんだなぁっ
て﹂
梨花の言葉にマリアがかぶり振った。
﹁ち、ちげーよ! あたしの趣味じゃねーし! こ、これはダチが
送ってくるから仕方なく着てやってるだけで﹂
200
﹁え、ええ⋮⋮ご、ごめんなさい﹂
小さく項垂れる梨花に﹁え! いや、別に謝んなくても﹂とおろ
おろするマリアの頭を小突きながら﹁行くぞ﹂と鈴丸が一足早く入
口の方へと歩いて行った。
そのあとを慌てて追い掛ける梨花を見ながら﹁いってぇなあんに
ゃろー⋮⋮つーかなんであたしまであいつの荷物持ちに付き合わね
︱となんないんだよ意味わかんねー﹂とぶつぶつ言いながら後に続
いた。
もっとも、そう言っていたのは店内に入るまでだった。彼女は店
内に入るや陳列された野菜を見て目を輝かせた。昨日、柚樹葉に武
器を受け取ったとき以上に嬉しそうだと鈴丸は思った。
﹁す、すげー! 鈴! 野菜だぞ、こんなにある!﹂
﹁そりゃ野菜売り場だからな﹂
﹁袋! めっちゃ袋に入ってる! さすが日本!﹂
一人楽しそうなマリアに梨花は﹁ず、ずっと日本にいたわけじゃ
ないんですね﹂と問いかけた。棚に並んだもやしを見つめ、﹁もや
しだけでもこんなに⋮⋮﹂と感心したような声をあげていたマリア
が返事する。
﹁おう。日本は結構久々﹂
﹁でもマリアさん日本語上手ですよね⋮⋮﹂
﹁あー、あたし、色々あって傭兵やる前は二年くらい日本に居たん
だ、神都いってた﹂
え、と梨花が驚いたように彼女を見る。へへっとマリアがなぜか
誇らしげに笑った。そんな彼女に笑い返してから梨花はちらりと鈴
丸を見た。
﹁えっと、鈴丸さんは﹂
﹁見ての通り、俺は日本人だ。っても、やっぱ日本来たのは相当久
々だけどな﹂
﹁そう、なんですか﹂
会話を広げられない。もどかしさを感じながら梨花は気まずそう
201
に視線を逸らした。
それを知ってか知らずか﹁なーなー﹂とマリアが笑う。
﹁パプリカ! パプリカ買ってもいいだろ!﹂
﹁なんでだよ﹂
﹁食う!﹂
びしっと宣言するマリアに鈴丸は溜め息を吐いた。
しかしマリアは彼の答えも聞かず、すでにパプリカの棚に向き合
いながら袋を手に取ってうきうきとどれにするかと選び始めていた。
勝手な奴だ、と鈴丸は悩ましそうに彼女を見た。
それからはっとしたようにズボンのポケットに手を入れて彼はそ
こから財布を引きだした。
﹁す、鈴丸さん? どうしたんですか?﹂
﹁⋮⋮俺、日本円持ってきたっけ﹂
そう言う彼は手元の財布を開いて中身を確認する。
﹁ユーロ、ルピー、キナ⋮⋮あ、これスイス・フラン⋮⋮﹂
細身の財布の中にぎっしりと詰め込まれた通貨を見て梨花はなん
といったいいのか分からなくなった。
マリアが黄色いパプリカを大層大事そうに抱えて持ってきた頃、
彼は﹁あ、諭吉いた﹂となぜか忌々しげに告げた。
﹁つーか諭吉しかいねぇ⋮⋮崩したくない諭吉とバイバイしたくな
いけどこれしかない⋮⋮いやどうせ経費で落ちるにしても⋮⋮﹂
悩ましそうな鈴丸に構わずマリアは抱えてきたパプリカをぽいっ
とカゴの中に放り込んだ。
﹁え、鈴丸さん、いらっしゃらないんですか?﹂
﹁ええ。そうなの。今日は私が代わりに面倒見るようにって﹂
目の前で紅茶をカップに注ぐベルを見ながら巳令はそうですか、
と小さく返事した。
202
差し出されたカップを傾けながら南波が問いかけた。
﹁もしかして東天紅先輩か?﹂
﹁あら、南波くんは勘がいいのね﹂
くすっと笑うベルに﹁別に﹂と南波が視線を逸らした。
﹁珍しいのよ、彼がここまでするの﹂
﹁そうなんですか?﹂
﹁そうよ﹂
太李にそう答えてから﹁普段ならお金さえ貰えてればそれでいい
のに﹂
それから並べられていたパウンドケーキに手を伸ばしながら彼女
は苦笑した。
﹁梨花さんのことは特に放っておけないのかも。自分に似てるから﹂
﹁⋮⋮似てますかね?﹂
よもぎが眉を寄せながら問えばそっくりよ、とベルは大きく頷い
た。
四人にはとても二人が似ている。そんな風には思えなかった。強
気な鈴丸と弱気な梨花はとてもじゃないが結びつかないのだ。
考え込む四人を見ながらベルは小さく呟いた。
﹁頑張り屋さんだから、二人とも﹂
その言葉に、その場にいた全員が妙に納得した。
公園のベンチに身を預けながらマリアは手足を思いっきり伸ばし
た。
足元にはビニール袋が置かれている。
﹁はーおもてーおもてー。梨花、平気か?﹂
﹁あ、あたしは大丈夫です﹂
ビニール袋二つをぎゅっと握りしめながら梨花が微笑んだ。
﹁そか。ほんと梨花がいてくれるから助かるぜ、鈴にこき使われず
203
に済んで﹂
﹁そ、そんな、あたしは﹂
マリアの笑顔に梨花はおろおろと視線を泳がせる。
大したことはできていないのに。これくらいが精一杯だ。マリア
の隣に腰かけながら梨花は小さく息を吐いた。
すると梨花の目の前に白い袋が差し出される。顔を上げると鈴丸
が彼女の前にそれを差し出していた。
﹁ふぇ?﹂
﹁奢り。付き合ってくれたお礼﹂
﹁あ、あたし、別にそんなつもりじゃ﹂
袋の前でぶんぶんと手を振る梨花に鈴丸は﹁いいから﹂と無理や
りその手に袋を握らせる。
﹁マリア、こっちお前の﹂
﹁うお!﹂
放り投げられた袋をマリアは慌ててキャッチした。
一方で梨花は暖かい袋をしばし、眺めてから中を見た。こんがり
と揚がった楕円形のものを見て、梨花はその名前を呟いた。
﹁コロッケ?﹂
﹁さっきそこの肉屋で買ってきた。嫌いか?﹂
﹁い、いえ﹂
首を軽く左右に振ってから梨花はそれに噛り付いた。
まだ揚げたばかりであろうそれはかじったところから白い湯気を
立ち上らせている。はふはふと口の中で冷ましてから彼女はそれを
噛み締めた。
野菜の甘さと肉の甘さがかりっと揚がった衣の下に詰まっている。
いたって普通のコロッケだった。特別まずいわけでもなく、かとい
ってこれといって美味しいわけでもない。
思わずコメントに困っていると﹁普通だろ﹂と鈴丸が悪戯っぽく
笑った。苦笑しながら梨花が頷いた。
﹁普通、です⋮⋮﹂
204
﹁うまくもなけりゃまずくもねぇ。でもなんか、ちょっと落ち着く
味だろ、それ﹂
﹁は、はい﹂
また梨花が首を縦に振ると﹁それでいいんだよ﹂と鈴丸が続けた。
﹁世の中さ、普通なくらいがむしろちょうどいい。いつもいつも、
気張ってばっかじゃあ面白くないだろ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁お前の普通でいればそれでいい。焦らなくていいから。お前、普
段から頑張ってるし﹂
また一口コロッケをかじりながら﹁でも﹂と梨花が目を伏せた。
﹁あたし、お姉さんだし、部長なのにみんなの役に立てなくて。ず
っと弱いままで﹂
﹁うん﹂
﹁迷惑かけっぱなしなのは嫌だし、みんなが頼れるような部長さん
に、なりたいし、親指姫としても、み、みんなの役に立ちたいし﹂
でも、と梨花は肩を落とした。
﹁あ、あたし、駄目な子だから人より頑張らないと、だか﹂
﹁お前さ、もっと自信持てよ﹂
黙ってコロッケを咀嚼していたマリアが首を傾げた。
﹁あたしの目にゃおめーは駄目な奴には見えないぜ? 頑張り屋で、
優しくて、いい奴じゃねーか﹂
﹁⋮⋮無理ですよ﹂
今にも消えてしまいそうなほど小さな声で梨花が言う。
﹁あたしなんて﹂
﹁あーもう!﹂
頭を掻いてから鈴丸はがっと梨花の肩を掴んだ。
びくっと肩を跳ね上がらせ、目を丸くする梨花に彼は言い放つ。
﹁お前は可愛い!﹂
あまりに唐突な彼の台詞にマリアはコロッケを落とすかと思った。
硬直する梨花に構わず、鈴丸は続けた。
205
﹁顔も中身も間違いなく可愛い! 俺はお前がクインテットの中で
一番可愛いと思ってる!﹂
﹁す、鈴丸さん⋮⋮?﹂
﹁努力家で、頑張りすぎで、真面目で。気が弱いけど、本当は凄く
強い奴だ﹂
﹁そんなこと﹂
﹁ただの気弱娘ならクインテットとしてやってけるかってんだ﹂
しばし、彼と目を合わせたままでいてからやがて梨花は顔を俯か
せるとまたコロッケをかじった。
ただコロッケを食べきることだけを考えて口と手を動かしてから、
最後の一口を飲みこんで彼女はまた顔を上げた。
﹁あ、りがとう、ございます⋮⋮﹂
彼女の口からこぼれたのは否定ではなく礼の言葉だった。
ぎこちない言葉と笑顔に鈴丸は笑い返しながらその頭を撫でた。
﹁よし、及第点﹂
﹁ふふ﹂
薄く微笑む梨花を見ながらマリアもコロッケを食べきって指につ
いた油を舐めとった。ベンチから立ち上がり、ぐぐっと伸びをして
から彼女は笑った。
﹁うーっし、んじゃさっさと帰ろうぜ。なーんか中途半端に食った
らかえって腹減っちまった﹂
﹁は、はい!﹂
こくこくと頷いてマリアのあとに次いで梨花も立ち上がった。
それに満足げに笑ってからマリアは携帯の画面を睨み付けたまま
の鈴丸に首を傾げた。
﹁どした、鈴﹂
﹁⋮⋮いや﹂
溜め息を吐きながら彼は続ける。
﹁帰るのは、少し遅くなりそうだと思って﹂
その言葉がどういう意味なのか、梨花とマリアは咄嗟に理解した。
206
空は灰色の染まり、最寄りの駅と繁華街を繋ぐ橋の上を歩いてい
た人々が皆、足を止め、その場にしゃがみ込んでいる。
沈黙の中、巳令の声が響き渡る。
﹁悪夢には幸せな目覚めを﹂
そのあとに続いて、四人分の声が一斉に響いた。
﹁フェエーリコ・カルテット!﹂
岩のように硬く張った筋肉を震わせながらディスペアが四人に振
り返った。
赤い肌はまさに鬼と呼ぶのが相応しいと巳令は思った。刀の柄に
手を掛けながら﹁二人ほどいないのは痛いですがさっさと片付けま
しょう﹂と地面を蹴り上げた。
一気にディスペアとの距離を詰めた巳令が鞘から刀を引き抜いた。
当たった。そう思った彼女の刃は鬼の太い手に掴まれていた。
﹁な﹂
声をあげる間もなく、その手は巳令の体を掴み、放り投げた。
耐え切れず、橋の下へと放られた彼女はそのまま物理法則に従っ
て降下していった。水音が響く。
﹁鉢かづき!﹂
慌てて太李が手すりへと身を乗り出し、下を覗き込む。川の上で
大きな鉢と着物が揺らめいていた。
﹁先輩! 後ろ後ろ!﹂
よもぎの言葉にはっとした太李は咄嗟にその場を蹴り、宙返りし
ながらその場から退避した。
瞬間、大きな地鳴りと共に金棒が振り下ろされた。地面に着地す
る太李に少し離れた位置にいたベルが叫ぶ。
207
﹁シンデレラ! 鉢かづきを拾いに行って!﹂
﹁は、はい!﹂
また振り下ろされた金棒をかわしてから、それを足場にして太李
は橋の外へ身を投げ出した。
そんな彼を一瞥してから南波は金棒を振り下ろした体勢のままの
ディスペアを切り上げてからすぐにその場を離れた。彼が攻撃した
場所へすぐさまよもぎが弦を引き、矢を放つ。
確かに二人の攻撃はディスペアを貫いていた。ディスペアは怯む
様子も見せず大きく吠えるだけだった。
﹁⋮⋮当たってますよね、ウチの矢﹂
﹁ああ﹂
二人でディスペアを挟む形になりながらよもぎは眉を寄せた。
﹁中途半端な攻撃じゃあ、痛くもかゆくもってわけですか﹂
﹁⋮⋮やるぞ、いばら﹂
﹁わーってますって﹂
再度、よもぎが矢をつがえた。
同時に三叉槍を回転させた南波がディスペアに踏み込んだ。
﹁いばら!﹂
﹁はい!﹂
よもぎが矢を放ち、南波がよもぎの狙いと全く同じ場所に槍を突
き刺す。
ディスペアが巨体をわずかによろめかせた。
しかし、そのまま倒れることはなく、再びディスペアが吠え、金
棒を地面に叩き付けた。大きな地響きに二人は動けなくなる。
タイミングは完璧だった。単にあのディスペアの体力が高いのだ。
まずいなとベルは頭を抱えた。
そんなことにはお構いなしにディスペアが南波の目の前で金棒を
振りかぶる。回避しようにもうまく動けない。槍を握りしめながら
208
南波は唇を噛み締めた。
ところが振り下ろされた金棒はそのまま南波に直撃せず、鋭い金
属音と共に大きな斧で防がれていた。
﹁だ、大丈夫?﹂
くるっと振り返って不安げに首を傾げる彼女に南波はほっと息を
吐いた。
﹁親指⋮⋮﹂
﹁ご、ごめんね、遅くなって﹂
ぐっと力を込めなが﹁りゃああ!﹂と梨花は大きく斧を振り払っ
た。
金棒ごと振り払われたディスペアはバランスを崩しながら後退す
る。そんなディスペアに一歩踏み込んで、梨花が斧を振りかぶる。
まっすぐに振りかぶられた斧はディスペアの肌を裂き、紫色の液体
を噴き出した。
間合いを取ろうと慌てて梨花が駆け出す。その後ろ姿を追おうと
したディスペアを今度は鉛弾が直撃する。ゆっくりと振り返ればマ
リアが拳銃を構えていた。
﹁でかした、親指﹂
﹁は、はい!﹂
こくんと頷いた梨花がマリアの横に並ぶ。﹁マリア!﹂鈴丸の声
と共に銀色のケースが彼女の足元に転がり込んだ。
それをしゃがみ込んで開きながら﹁なぁ、お前さ﹂と彼女は梨花
に尋ねた。
﹁その斧、あいつに向かってぶん投げてくれ﹂
﹁え?﹂
驚いたように自分を見つめる梨花にマリアはにっと笑う。
﹁大丈夫、お前ならできる。あたしを信じろ!﹂
すでに装填済みの例の兵器を取り出して、安全装置を外すマリア
209
に梨花は言葉を詰まらせた。
それから、ぎゅっと斧の柄を握りしめ、一度だけ頷いた。
﹁よっしゃ! やってやれ!﹂
﹁はい!﹂
斧を頭上に持ち上げてぷるぷる腕を振るわせながら梨花は手を振
りかぶった。
﹁う、にゃああああ!﹂
こちらに向かってきていたディスペアめがけ、梨花の斧がまっす
ぐ投げられる。
今だ。素早く照準を合わせたマリアがトリガーを引く。ロケット
弾が発射され、反動でわずかにマリアの体が後退する。
ディスペアに梨花の斧が直撃し、同時にマリアのロケット弾が被
弾する。
その場で火柱を上げ、爆発した。あとに残っていたのは黒い焼け
焦げと梨花の斧だけだった。
﹁や、やった⋮⋮?﹂
ぺたんと座り込む梨花に﹁すげー!﹂とマリアが目を輝かせた。
﹁⋮⋮なんですか、あの火力﹂
﹁知るか﹂
引き気味に問いかけてくるよもぎに、南波はそう返す以外なかっ
た。
空が一気に明るくなる。慌てて三人が変身を解き、マリアもてき
ぱきとケースの中に兵器をしまう。
腰が抜けた様子の梨花にマリアが手を差し出した。
﹁ほれ﹂
﹁あ、ありがとうございます⋮⋮﹂
その手を取って立ち上がった梨花に﹁凄いです、先輩!﹂とよも
ぎが抱き着いた。
﹁わぷっ﹂
﹁かっこいいっす! めちゃくちゃかっこいい!﹂
210
﹁そ、そう?﹂
﹁はい!﹂
こくこく頷くよもぎになんだか梨花は少しだけ誇らしげな気分に
なった。
嬉しそうなよもぎを見ながら南波はふと橋の外に視線を投げなが
ら呟いた。
﹁灰尾と鉢峰どうなった﹂
あ、と全員の視線が橋の下へ向く。
﹁あ、あいつら、まさかまだ溺れて⋮⋮﹂
﹁灰尾せんぱーい! みれーせんぱーい!﹂
慌ててよもぎが梨花から離れ、橋の下へ続く道へと走って行く。
そのあとに南波が続き、マリアも駆け出した。自分も続かなくて
は、と梨花が一歩踏み出すとやって来た鈴丸がぽふんと自分の頭の
上に手を置いた。
﹁頑張ったな﹂
その言葉に梨花は無性に嬉しくなった。
思わず満面の笑みを浮かべながら大きく頷いた。
﹁はい!﹂
それから﹁うわー! 水浸しじゃないですか二人ともー!﹂とい
うよもぎの声を聞いて、慌てて彼女も走り出した。
211
第十二話﹁傭兵さんの報酬はお姫様たちのテストにかかっているようです﹂
ヘッドフォンから聞こえてくるリズムに体を揺らしていた巳令は
窓の外を見て、小さく笑った。
今日は曇り気味だった空も気付けば晴れ空に変わっている。そう
いえば朝のニュースで梅雨明けがどうこうといっていたかもしれな
い。
梅雨が明ける。徐々に上がる気温と晴れ空に巳令はそれを実感し
た。雨に当たると少し冷えるからか今まで長袖のブラウスのみで登
校していた巳令も今日ばかりは半袖の夏服へと衣替えを終えている。
明るい曲に合わせながら鼻歌を奏でていた巳令の肩をぽんぽんと
誰かが叩いた。ヘッドフォンを外し、顔を上げてからその人物が自
分の隣人であると気付き、彼女は微笑んだ。
﹁おはようございます、灰尾﹂
﹁おっす。なんか凄い機嫌よかったけどどうした?﹂
肩から荷物をおろし、首を傾げる太李に巳令は﹁もう夏だなぁと
思って﹂
﹁あーそうだな﹂
太李が自分の席に腰を下ろしたのを確認してから巳令は更に続け
た。
﹁夏休み、合宿に行くそうですよ。強化合宿﹂
﹁⋮⋮クインテットとしてってこと?﹂
声を潜めて問いかける太李に巳令がこくんと頷いた。
合宿かぁ、と誰に向けてでもなく太李が呟いた。そこにどこかわ
くわくした風に巳令が尋ねた。
﹁灰尾は、合宿とか経験ありますか?﹂
﹁中学のとき、部活では行ったけど。鉢峰は?﹂
ふるふると巳令が首を左右に振る。ああ、そういえば部活にも入
ってなかったんだっけと太李は小さく笑い返した。
212
頭の後ろに手を回して、体重を後ろにかけて椅子を傾かせていた
彼を見ながら﹁でも夏休み前は色々と大変ですよね。うち、三期制
だし﹂
﹁あれ、うちって三期だっけ?﹂
﹁そうですよ?﹂
きょとんとしながら﹁灰尾は転校生ですし、来週の準備、大丈夫
ですか?﹂太李が首を傾げる。
﹁準備って?﹂
﹁え?﹂
心底不思議そうな太李を見つめ返しながら巳令はまさか、と躊躇
いがちに口を開いた。
﹁来週、何があるか知ってますか?﹂
﹁え?﹂
来週? 椅子を定位置に戻しながら太李は頭を抱えた。何があっ
ただろうか。誰かの誕生日か? いやそれならばこんな深刻な顔を
する必要はないはずだ。開校記念日もまだ先だった筈だ。
さっぱり思い出せない、と一人唸っていると巳令がなぜか申し訳
なさそうに告げる。
﹁期末テストですよ﹂
瞬間、太李は自分以外の時間が全て停止したのではないだろうか
と疑うほどの衝撃を受けた。
そういえばそんなことを担任が言っていたかもしれない。最近、
ディスペア退治とそれに向けた訓練がやたらと忙しくて聞き流して
いたが。
ただですら勉強は好きではないのに、中途半端な時期で転校して
きたせいか授業についていくのもやっとの状態だというのに。両手
を不自然に動かしながら彼は顔を引きつらせた。
﹁で、その様子だと﹂
213
﹁やべぇ何もしてない!﹂
頭を抱えて、太李は机に突っ伏した。
﹁あーあ⋮⋮どうしよう﹂
﹁どうしようって言っても付け焼刃でも勉強するしか﹂
巳令の言葉に彼は深々と溜め息を吐いた。
﹁だよな﹂
﹁あ、そうだ﹂
ぽんと手を打って巳令が笑った。
﹁一人で勉強するのが不安ならみんなで勉強すればいいんですよ﹂
﹁みんなって?﹂
﹁陶芸部兼クインテットです﹂
ぽんと手を叩きながら﹁それに﹂と巳令は楽しそうに続けた。
﹁私たちの知り合いに一人いるじゃないですか、なんでもできるか
ら私たちに勉強教えるくらい涼しい顔してしそうな人が﹂
はっと彼は知っている傭兵のうち一人を思い浮かべた。
蒲生鈴丸、ヘリコプターの操縦から正義の味方の教官までなんで
もこなす彼のことだ。高校生に勉強を教えるくらいなんでもないの
だろう。
巳令は天才なのかもしれない、そんなことを太李が考えたのと同
時にチャイムが鳴り響いた。
﹁はぁ? 勉強教えてくれだ?﹂
放課後、本部ビルにやってくるや頭を下げる太李に鈴丸は顔を引
きつらせた。
﹁やっぱり、駄目ですかね?﹂
﹁いや、駄目じゃないけど﹂
めんどくさい、というのが鈴丸の本音だった。
ぐるっと彼はベルの方を見やった。彼女は人数分の紅茶をカップ
214
に注ぎながら﹁オプション料金にはならないわよ﹂ときっぱり告げ
た。その言葉に鈴丸が舌打ちする。
﹁ケチ﹂
﹁あんまり吹っ掛けると私の立場もなくなるのよ。というか、クイ
ンテットの誰かが平均以下なんか取ってみなさい。むしろ減額す﹂
﹁お前ら酷い点数取ったら殺すから﹂
ベルの言葉を最後まで聞かず、鈴丸はこの場にいる高校生たちを
ぐるりと見渡した。そんな彼にがっくりよもぎが肩を落とした。
﹁人間の浅ましさを垣間見た気がします⋮⋮﹂
﹁浅ましかろうがなんだろうが構わねぇよ、世の中金だ﹂
﹁汚い大人だー!﹂
ぎゃーっと叫ぶよもぎを見ながら手前に置かれていたワッフルを
口に運んでいた梨花がきょろきょろと周りを見渡した。
﹁そ、そういえばマリアさんは?﹂
﹁あー、多分まだ寝てるわ。昨日遅くまで色々やってたから。はい
紅茶どうぞ﹂
﹁い、いただきます!﹂
恐縮しながらベルから受け取ったカップを傾け、﹁あつ﹂と梨花
が肩を跳ね上がらせた。それから警戒したように紅茶を見つめ、ふ
ーふーと息を吹きかける。
﹁つーかなんで俺の金がこいつらの成績に⋮⋮﹂
﹁あら、学生の本分は勉強だもの。当然よね﹂
まぁ、落ち着きなさいよと自分の前にも紅茶を差し出すベルに鈴
丸は呆れていいのかどうすればいいのかと悩みながら椅子に腰を下
ろした。
﹁ちなみにクインテットだけじゃなくて柚樹葉さんも平均以下の教
科があったら減額よ﹂
﹁⋮⋮まぁ、柚樹葉は大丈夫だろ﹂
なぁ、と鈴丸が柚樹葉を見ると彼女はカップをかたかたと揺らし
ていた。
215
﹁も、ももも勿論じゃない。わ、私が高校の期末試験ごときで平均
以下をとるとでも?﹂
﹁めっちゃ手ぇ震えてるぞ﹂
﹁そういえば九条、お前、一年の期末で国語赤点で追試だったよな﹂
ぼそっと告げる南波に思わず鈴丸は﹁え?﹂と聞き返した。
﹁な、何言ってるんだ! 一回だけじゃない! 君こそ数学二科目
両方平均まで足りてなかったじゃないか! あんなの百点取って当
たり前のものだろ!﹂
﹁は?﹂
鈴丸が南波を見れば、彼はふんと顔を逸らした。
﹁ルートだの集合だのが将来なんの役に立つ﹂
﹁何その中学生みたいな反論﹂
﹁何が数学Aだ。どうせ両方やるならなんで分ける!﹂
﹁どうしたのお前、ねぇ数学になんの恨みがあるの?﹂
だんっと机を叩く南波に引き気味で鈴丸はそう問うしかなかった。
﹁だっせ﹂
ぷっとよもぎが吹き出した瞬間、南波の手刀が迷わず彼女の頭に
落とされた。
椅子から落ちて、よもぎが転げまわる。
﹁うわぁああいてぇええ! 今日のチョップ本気じゃないですかー
! ぜんばいのばがぁぁああ! 死んじゃうぅう! 春風死にます
からぁ!﹂
﹁ああ、死ね﹂
﹁酷い!﹂
ことばのぼーりょくだぁああと巳令の元へ駆け寄って行くよもぎ。
そんな彼女の頭をよしよしと撫でてやる巳令に﹁んで、お前は?
何ヤバそう?﹂と鈴丸が尋ねる。ふむと顎に手を当てながら巳令
が答えた。
﹁物理が少しだけ。さすがに赤点までは行きませんが﹂
﹁そうか。太李は?﹂
216
﹁あー英語が﹂
﹁りょーかい。よもぎ﹂
﹁自分は歴史全般がちょっと苦手です⋮⋮さすがにあんなこと言い
ませんが﹂
﹁もう一発行くか? ん?﹂
﹁やめろって南波!﹂
あわわと南波と押さえる太李を見て鈴丸は頭を抱えた。
それから最後に一人もふもふと忙しそうにワッフルを口に運んで
は紅茶をすすっていた梨花に﹁梨花は?﹂と鈴丸が問う。
﹁ふぇ?﹂
﹁あーお前話聞いてなかったな。来週テストどんな感じ? 平均い
けそう?﹂
その鈴丸の言葉にわたわたと梨花は自分のカバンを拾い上げて、
ノートを取り出した。
﹁い、一応お勉強してました⋮⋮あ、これからお勉強するんですか
?﹂
﹁うん、そうなんだけどやっぱお前だけだわ俺の救いは﹂
﹁へ?﹂
頭の上に疑問符をいっぱい浮かべる梨花の肩を鈴丸は黙って叩い
た。
マリアが目を開けると窓からこぼれ落ちてくる光が直接降り注い
できた。
あまりの眩しさに一旦目を閉じ、毛布にくるまってから彼女は枕
元に置いてある時計を見て﹁うげ﹂と声をこぼした。
すでに四時過ぎを示す時計に目を擦りながら上半身を起こした彼
女は舌打ちした。
欠伸を噛み殺し、立ち上がった彼女は身にまとっていた大きめの
217
Tシャツを脱ぎ捨てると傍に畳んで置いてあった白いタンクトップ
に袖を通し、カーゴパンツに足を通した。ベルト型のガンホルダー
を装着してから両手を大きく真上に伸ばし、銀色の髪に手を当てた。
髪ゴムとくしだけを持って部屋から出た彼女はそのまま歩き、一
室の前で足を止めた。
物々しい扉の前でマリアはカーゴパンツのポケットに手を突っ込
んで中からIDカードを取り出した。
それを近くの機械に読み込ませて、軽い電子音と共に扉のロック
が解除された。扉が開き、彼女は中へと足を踏み出した。
整列された棚の中にそれぞれ、種類別に分類された銃や爆弾とい
った兵器が用意されている。自分で使っておきながら物騒な、と彼
女は心の底から思う。
棚の内の一つからハンドガンを取り出して、その横に置いてあっ
た銃弾と一緒にガンホルダーの中に突っ込んだ。棚を閉じ、手榴弾
を拾い上げてから武器庫をあとにした。
クインテットはもう来ているはずの時間だ。そう思った彼女は休
憩所か訓練場か少し迷ってから休憩所の方へと足を向けた。誰か一
人くらいいるだろうと思ったからというのもあるがそれ以前に空腹
を覚えたからである。
休憩所の中に入ってからマリアはその判断を心底後悔した。
﹁マリア、いいところに⋮⋮! 助けろ!﹂
﹁あ?﹂
鈴丸の声にマリアは眉を寄せる。そんな彼女の視界に入ったのは
なぜか自分の見知った高校生たちがノートを広げながら懸命に勉強
する様子だった。
そんな彼らとは少し距離を置いて﹁あらおはよう寝坊助さん﹂と
ベルが紅茶をすすっている。
﹁おう。何やってんの?﹂
218
﹁勉強会。もうすぐ試験なんですって﹂
﹁試験?﹂
そういえばつい数年前まで自分もそんなことをしていたような気
がする、とマリアは瞬きした。
﹁ふーん、それより腹減った!﹂
﹁そういうと思った。これ、お昼のあまり。焼きおにぎり﹂
﹁いよっしゃ﹂
ベルから差し出されるラップのかかった皿を手に取ったマリアは
ラップをはぎとるとその上にのっていた焼きおにぎりに噛り付いた。
夢中で食べ進める彼女を見ながら﹁髪、編んであげるわ。ゴムと
くし、渡しなさい﹂とベルが彼女の真横に手を突きだした。
﹁お、わりぃなー﹂
﹁悪いと思うならもう少し早起きしなさい﹂
呆れたようにそう言って、ベルはマリアの髪をくしで梳いた。口
の周りについた米粒を指で取る彼女に鈴丸が視線を向けた。
﹁旨いか?﹂
﹁おう﹂
﹁んじゃあ食って満足したら手伝ってくれ、この分からず屋共に勉
強を教えるの﹂
﹁あー無理無理、あたし、人に勉強教えるの得意じゃないし﹂
首を左右に振るマリアに教科書を睨み付けていたよもぎが問いか
けた。
﹁マリアさんって頭いいんですか?﹂
﹁いいわよ、元々本国で飛び級してたんだし﹂
﹁おいベル余計なこと言うなって﹂
うーとマリアが頬を膨らませた。
﹁第一、勉強できたって他人に教えられるかは別なんだよ。向き不
向きがあんだ﹂
﹁マリアさんは?﹂
﹁あたしは恐ろしいほど不向きだってのをよくわきまえてんの﹂
219
頬をかきながらマリアはけっと吐き捨てた。
そんな彼女に構わずに交差されていた銀髪がぴたりと留まった。
﹁まぁ、相手が救いようの馬鹿だったってのもあるが﹂
﹁はい、マリア、できたわよ﹂
﹁おーさんきゅーな﹂
一つにまとめられた髪を左右に揺らしながらマリアは笑みを浮か
べた。
焼きおにぎりの乗せられていた皿をベルに渡してから﹁んで?﹂
と彼女は机を覗き込んだ。
﹁⋮⋮そこのぶっ倒れてんのはどうした﹂
彼女の視線の先に居るのは数学の教科書に頭から突っ込んでいた
南波だった。
﹁分母なんて死ねばいいのに⋮⋮﹂
﹁しかもよくわかんねーこと言ってるぞこいつ﹂
﹁ふふ⋮⋮筆者の心情なんて知ったこっちゃないよ⋮⋮﹂
﹁うわぁ、もう一人いた﹂
国語の教科書を開いたまま歪に笑う柚樹葉にマリアは思わず身を
引いた。
数学のワークの答えを眺めていた鈴丸が﹁な?﹂と首を傾げた。
﹁これはさすがの俺でも辛いんだよ﹂
﹁あー⋮⋮﹂
銀髪に手をやりながらマリアは苦笑した。
﹁でもお前ら、その教科だけなんだろ苦手なの。じゃあなんとかし
ようがあるじゃねーか﹂
﹁え、どういう意味ですか?﹂
よもぎが不思議そうに問うとマリアはどこか自嘲気味に言った。
﹁世の中にはな⋮⋮全教科赤点スレスレとかいう救いようのない状
態なのに周りの力を借りて神都から卒業した奴だっているんだよ⋮
⋮﹂
ただならぬマリアの雰囲気に思わずよもぎは黙り込んだ。
220
一方、そんな会話など耳にも入れずに英語のワークを解き進めて
いた太李が﹁あー﹂と難しそうに顔を歪めた。
﹁また間違えた⋮⋮﹂
﹁さっきからその台詞しか聞いてない気がしますけど﹂
巳令の言葉に太李はむっと顔をしかめた。
﹁んなこといっても苦手なんだよ﹂
﹁あ、あの、灰尾くん。よかったら、ワーク見せてもらってもいい
かな?﹂
ひょこっと自分を覗き込む梨花に﹁え? ああ、いいですけど﹂
と彼は自分のワークを差し出した。
そのワークをぺらぺらとめくってから梨花はぱたんとそれを閉じ
ると﹁灰尾くんは、その、文法の基礎さえ分かればもっとできると
思う﹂とワークを差し出した。それを受け取りながら太李は首を傾
げた。
﹁基礎?﹂
﹁う、うん。スペルとかはきちんとできてるから、主語と動詞の順
番をちゃんと頭に置きながら基礎を見直せば間違えないと思うんだ﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁いわゆるSVOって奴ですね﹂
巳令の言葉に梨花が頷く。
﹁そ、そう! そこが曖昧になってるから間違えてるんじゃないか
なぁなんて﹂
﹁そういえば﹂
そうかもしれない、と太李は妙に納得した。
﹁ルールが分かればきっと簡単にできるようになるよ。ほ、ほら、
陶芸にもきちんと基礎があるでしょ? それを守らないといい作品
ができないのと一緒﹂
﹁なるほど﹂
221
﹁いきなり、難しいことするんじゃなくて一個一個理解していくと
できるようになると思う﹂
それからはっとしたように梨花は口元に手をやった。
﹁あ、あ、ごめんなさい! 偉そうに!﹂
﹁い、いやいや! 先輩なんにも悪くないですよ! なんかむしろ、
うん、ちょっとどういう風に勉強すればいいかって分かった気がし
ますって﹂
そう? 不安げに首を傾げる梨花に太李は思いっきり頷いた。
はーっと梨花が安心して息を吐いた瞬間、鈴丸の声が響く。
﹁だああ分かった! じゃあこうしよう、南波、お前が数学平均点
以下だったらお前とよもぎの連携技の掛け声を巳令に考えて貰って
強制的に言わせる!﹂
びくっと南波とよもぎの肩が同時に跳ね上がる。
﹁なんで私考案の掛け声が罰ゲーム扱いなんですかおかしくないで
すか﹂
そんな不満げな巳令の声を無視してばっとよもぎが南波に振り返
る。
﹁何がなんでも平均はとってください! 恨みますよ! 平均以下
だったら春風は益海先輩を恨みます!﹂
﹁ねぇ、よもぎさんそんなに嫌ですか? かっこいいじゃないです
か﹂
しかし、やっぱり巳令の声は届いている様子もなく、南波が震え
る声で、
﹁が、頑張らせていただきます⋮⋮﹂
﹁益海くんがそこまで言いますか!﹂
だんっと巳令が机を思いっきり叩いた。
びくっと肩を跳ね上がらせてから梨花は﹁も、もしかして﹂と泣
きそうな声で言う。
﹁あ、あたしも平均以下だったらマリアさんとの連携技で叫ばない
といけないですか⋮⋮?﹂
222
﹁⋮⋮大丈夫だ、梨花。そんなことにならねーようにあたしがお前
の勉強見てやる﹂
﹁だからなんで罰ゲーム扱いなんですかおかしいですよ﹂
むむっと眉を寄せた巳令は隣でワークにシャーペンを走らせてい
た太李を覗き込んだ。
﹁灰尾はかっこいいと思ってくれてますよね! オーラ・ベアート
とか!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁ヴァーミリオンファントム﹂
巳令から飛び出た言葉に太李は情報源と思わしき人物に視線を向
けた。
﹁よもぎちゃん!﹂
てへぺろとよもぎが舌を出した。
﹁なんですかみんなして、そんなに私はカッコ悪いですか﹂
ぶつぶつと文句を垂れる巳令に﹁そういう問題じゃ多分ないと思
うわよ﹂と言いかけてからベルはその言葉を飲みこんだ。その後に
かっこいいかと問われたら迷わず頷ける自信がなかったからだ。
きゃーきゃーとはしゃぐ高校生たちを見ながらベルは少しぬるく
なった紅茶を口に流し込んで、ふわりと息をついた。仲間内の馬鹿
騒ぎ、自分も若い頃には覚えがある。
もうそれもできなくなってしまったけれど、と目を閉じてから彼
女はすぐに瞼を持ち上げることになった。
太いサイレンがやかましく鳴り響く。
近くにあるソーサーにカップを置いてからベルは重たい腰を椅子
から上げ、ぱんぱんと手を打った。
﹁はい、勉強も大事だけどこっちも大事なお役目よ﹂
﹁必殺技叫ばなきゃならなくなる⋮⋮﹂
﹁大丈夫よ即効で片付けてまた再開すればいいわ﹂
223
はいはいと南波の背を押しながらベルは﹁鈴丸、ポイント確認。
それとマリアは臨戦態勢﹂と素早く指示を出した。
﹁起きろ、デブ﹂
﹁ふぎゅにゅ﹂
スリープモードに切り替わっていたスペーメを揺さぶって起こす
と柚樹葉はモニタールームの椅子に腰かけた。
ぱちくりと大きな瞳を瞬きさせてからスペーメはぴくっと耳を動
かして﹁ディスペアなのです!﹂その額を柚樹葉が指で弾いた。
﹁遅い﹂
﹁あう!﹂
﹁ま、でも今回はα型だし問題なさそうだな﹂
画面を見上げながら鈴丸はどこか安心したように言い放った。
それに﹁そうねぇ﹂とベルも返す。
油断は大敵だが連携技を使う相手でもない。ディスペアの攻撃を
かわした南波がそのまま蹴り込んで、怯んだ隙に太李がレイピアを
突き刺す。着実にダメージも溜まっているだろう。
く
画面を見つめていたベルの鼓膜を扉の開く音が揺らした。ちらり
と扉の方を確認してから不愉快のあまりに彼女は眉を寄せた。
﹁どうだ、戦況は﹂
き
そう問いかけてくるのはこのプロジェクトの主任、確か名前は九
鬼とでも言っただろうかと思いながらベルは頭を下げた。
﹁おかげさまで、問題なく勝てそうですわ﹂
﹁それはよかったよ﹂
どこかいやらしい笑みを浮かべながら九鬼はちらりと鈴丸を見た。
その目にこもっていた確かな憎悪に彼はうんざりした。
そんな視線を向けられるのくらい、こっちは慣れてるんだよ。そ
う思いながら彼は精一杯の笑みを貼り付けた。下手なことをして報
224
酬を減額されたくなかったからである。
﹁ベルガモット、話がある。いいかな﹂
﹁ええ⋮⋮柚樹葉さん、鈴丸、あとはよろしく﹂
小さく微笑みながら九鬼の後を追って扉から出て行くベルに柚樹
葉は振り返りもせず手を振った。
彼らが完全にこの場からいなくなったことを確認してから﹁君は
九鬼さんに嫌われてるんだね﹂と柚樹葉がぼそりと告げた。それに
鈴丸がわざとらしく視線を逸らす。
﹁別に。いつものことだ。曲がりになりにも一回はシスターだった
マリアや元々軍人だったベルと違って俺は育ちが悪いから。特にあ
あいうお偉いとこの人は俺みたいなの嫌いだよね﹂
﹁おまけにぼったくりかと疑われる金額を吹っ掛けるんだろ﹂
﹁むしろ大安売りだと思うがね﹂
近くの椅子に腰を下ろし、どこから取り出したのかパック飲料に
ストローを刺しこむ彼に﹁ここ、飲食禁止だけど﹂
柚樹葉の不満げな声に鈴丸は小さく笑みを浮かべた。
﹁次から気を付けるさ﹂
気を付けない奴の台詞だと、スペーメが思ったのはちょうど巳令
の刀がディスペアを切り裂いた瞬間だった。
225
第十三話﹁女の子の準備は何にしたって大変なようです﹂
その日、蒲生鈴丸はいつにもまして落ち着かない様子だった。
腕を組みながら室内を意味もなく、行き来している。ピーマンを
かじりながらマリアがその光景に面白そうに碧眼を細めた。
﹁娘の大学受験の結果発表を待ってる母親みてーだな﹂
﹁あながち間違いじゃないかもね﹂
ティーカップを傾けながらその言葉にベルが苦笑する。
そんな二人の会話も届いては居ないらしく、彼はわしゃわしゃと
頭を掻き毟った。噛み砕いていたピーマンを飲みこんでからマリア
がけらけら笑う。
﹁ベルの脅しが相当利いてんな、こりゃ﹂
フェエーリコ・クインテットと九条柚樹葉、この六人のテストの
点がどれか一教科でも平均以下だった場合、鈴丸の報酬の減額。そ
れが鈴丸の不安を煽る原因だった。
ほんの少しやる気になればと思っていてみただけだったのだが彼
女の想像以上に鈴丸は心配で仕方なかった。
﹁ちょっとやりすぎたかしら?﹂
﹁そうか? 面白いと思うぞ?﹂
すっかりピーマンを食べ終えた彼女は今度は人参を取り出して噛
み砕いた。
マリアの言葉にベルは頬に手を当てながら溜め息を吐いた。
﹁上にオプションの掛け合いした方がよさそうね⋮⋮さすがに可哀
想になってきたわ﹂
﹁まーあれじゃなぁ﹂
テストの期間中は可能な限り、彼らの勉強を見てやって、今日が
最終となるテスト発表の期間中は食事もろくに喉に通らない始末だ
った。
﹁その点、マリアはお金には執着ないからほんと助かるわー﹂
226
﹁金なんてあっても腐らせるだけだしな﹂
ぼりぼりと音を立て、人参を飲みこむ彼女にベルはにこにこと笑
みを浮かべた。
事実、マリアは鈴丸に比べて明らかに金銭への執着はない。報酬
が少なかろうが仕事をする姿にはベルも感心するほどだった。入っ
て来た報酬も、自分の実家の教会や以前日本にいたときに世話にな
った人間に送っているようで自分の手元には最低限のものしかない
ようである。
その代わり、ベルにとって少し厄介だったのは金銭で釣れない分、
雇い主が気に入らなければどれほど金額を積まれても仕事をしない
ところだった。タイプが全く異なる二人ゆえに、扱いやすいといえ
ば扱いやすかったが扱いづらいときにはとんでもない爆弾だった。
それを考えれば泡夢財団は非常に都合のいい雇い主だったように
ベルは思う。正義の味方という建前はマリアが食いつくには充分足
るものだったし、大きな財団だったおかげで鈴丸の無茶苦茶な要求
にも嫌々ながら応えてくれる。上司は気に入らないがそれもしばら
くの辛抱だと自分に言い聞かせた。
﹁つーかさ、なんで鈴はあんな金の亡者なんだよ﹂
﹁知らないわ。私が会ったときはもうすでにあんな感じだったのよ﹂
だから自分もこの世界に彼を引きずり込んだのだ。金のためなら
なんでもする、その強欲さがベルにとっては何より都合がよかった。
ちらりと時計を見上げたベルは﹁そろそろかしら﹂と立ち上がる
と奥の棚へと駆けて行ってしまった。あんなの前はなかったのに、
とマリアが顔をしかめる。
そのベルの行動通り、ゆっくりと休憩所の扉が開かれる。その音
にびくっと鈴丸が肩を跳ね上がらせた。
﹁こんにち﹂
一番に入って来た太李の言葉を聞かず、そちらの方に歩み寄った
鈴丸が彼の肩を掴んで前後に揺らす。
﹁大丈夫か大丈夫じゃなかったかだけ言え!﹂
227
﹁うお、ちょ、鈴丸さ、頭、がっくんがっくん、す﹂
﹁どうなんだ!﹂
﹁鈴さん落ち着いて!﹂
あわわとよもぎが慌てて鈴丸を太李から引き剥がす。
ぜぇぜぇと肩を上下させる太李が掻き消えそうな声で﹁死ぬかと
思った⋮⋮﹂と呟くのを聞きながら巳令が淡々と言い放つ。
﹁大丈夫でしたよ﹂
けろっとそう答える彼女に鈴丸は後ろの方で気怠そうについてき
ていた南波と柚樹葉を見た。
﹁そこの二人も?﹂
﹁はい﹂
﹁⋮⋮お前ら抱き締めていい?﹂
﹁やめろ気色悪い﹂
不愉快そうに顔を歪める南波と﹁大げさだな、君は﹂と苦笑する
柚樹葉。
﹁だって、お前ら二人揃ってさぁ! あまりにも酷いから俺はもう
駄目かと⋮⋮﹂
﹁自覚はあるんだがなんだろうな、他人に言われるのは凄く腹が立
つな﹂
﹁先輩まずいです、さすがに教官にチョップはまずいっす﹂
南波の右腕を押さえ込みながらよもぎが告げる。
相変わらず愉快な、とマリアが一人で笑っていると﹁その様子だ
とみんな大丈夫だったみたいね﹂とベルが小さく笑いながらテーブ
ルの上に皿を置いた。
綺麗な焼き目の付いた円形の菓子が山詰みにされている。梨花が
じーっとそれを見つめた。
﹁スコーンだ⋮⋮﹂
﹁ふふ。みんなで食べようと思って買っちゃったわ。美味しそうで
しょ、ジャムとクリーム取ってくるから待っててね﹂
くるりと踵を返し、また棚の方へと歩いていくベルの言葉にこく
228
こく頷きながら梨花はぽすんと椅子に腰を下ろした。
いつも通り、そのあとに続いて各々椅子に座っていく。全員が席
に着いたところで﹁はーいお待たせ﹂とベルが白いクリームが入っ
た器とと二種類のジャムの入った器を並べていく。不思議そうにク
リームを見つめる南波を見てからよもぎが﹁黒テッドクリームです
か?﹂と首を傾げた。
﹁ええ。やっぱりこれがないとねー﹂
﹁クロテッド⋮⋮?﹂
首をさらに傾ける彼によもぎはくすっと笑ってから。
﹁イギリスで二千年以上前から作られてるクリームです。ジャムと
一緒にスコーンに塗って食べるんです。紅茶にスコーンとジャムに
クロテッドクリーム。クリーム・ティーって言って英国とかでは割
と習慣の一つみたいです﹂
﹁へぇ﹂
﹁よもぎさんは物知りね﹂
﹁いつも通りこれっす﹂
ちらっとスマートフォンを見せるよもぎにベルが苦笑する。
一方で梨花は嬉しそうに自分の取り皿にスコーンを一つとると﹁
いただきます﹂と手を合わせ、挨拶したのち、それを半分に割った。
その片方に苺ジャムとクロテッドクリームをたっぷりのせて頬張っ
た。
﹁おいふい⋮⋮!﹂
幸せそうな笑顔を浮かべる梨花に﹁喜んでもらえたみたいで嬉し
いわ。あ、そうだ蜂蜜も持ってきましょうか?﹂梨花の目が一際輝
く。ふふ、と笑みを浮かべてベルが蜂蜜の瓶を取りに立ち上がった。
﹁でも、やっぱり落ち着きますね。こうしてベルさんにご馳走にな
ると﹂
﹁だな﹂
もふもふとスコーンを口に入れながらしみじみそう言う巳令に太
李が頷いた。
229
﹁本当この一杯のために頑張ったーって感じですよね﹂
﹁おっさんかよ﹂
﹁⋮⋮でもベルガモットの紅茶が美味しいのは私も認めるよ﹂
紅茶をすすりながら呟くように言う柚樹葉の膝にのっていたスペ
ーメがぎょっと目を見開いた。
﹁どうしたですか柚樹葉。人を褒めるなんて珍しいのです、明日は
嵐ですか﹂
﹁うるさい﹂
ぐいっと体を掴み上げながらけっと柚樹葉が唇を尖らせた。
蜂蜜片手に戻ってきたベルがあらあらと笑う。
﹁駄目よ、喧嘩しちゃ。ほら、蜂蜜持ってきたから。鈴丸、開けて﹂
﹁⋮⋮お前な﹂
文句を言おうと口を開きかけたものの梨花のきらきらとした期待
の眼差しに鈴丸は渋々言葉を飲みこんだ。
がちっと音を立てて固く閉められていた瓶の蓋が開く。
﹁ほら﹂
﹁やっぱりあなた、力あるのね。見せかけの筋力じゃなくて安心し
たわ﹂
感心したように呟いてから﹁お待たせ、梨花さん。このままでい
い?﹂
﹁はい!﹂
嬉しそうに頷く梨花を見てベルはじゃあどうぞと瓶を梨花に手渡
した。
ふふと笑みをこらえきれない様子の梨花を見てから﹁んじゃ、ぼ
ちぼち始めるか﹂と鈴丸が立ち上がった。
﹁おう、さっさとやろうぜ﹂
﹁⋮⋮とか言いながらお前もちゃっかり食うのな﹂
せっせと口の中にスコーンを放り込むマリアに鈴丸が頭を抱えた。
そんな彼に﹁当たり前だろ﹂とマリアが言い放つ。
﹁あたしの中に流れてるイギリス人の血のせいで目の前に紅茶とス
230
コーン置かれたら本能的に食いたくなるんだよ!﹂
﹁なんだそのしょーもない本能は﹂
呆れたように溜め息を吐いてから鈴丸は﹁んまーとりあえず﹂と
話を元に戻す。
﹁テストもなんとか終わって、これでお前らは心置きなく夏休みに
突入出来るわけだ。ってなわけで、合宿に行きます﹂
おお、と巳令が目を輝かせた。
﹁はい! 鈴丸教官!﹂
﹁おう﹂
﹁どこに行くんですか!﹂
﹁ベル﹂
﹁今のところ川でキャンプ合宿予定です。他県になるけど泡夢財団
の経営キャンプ場があるの﹂
バトンタッチされたベルがすらすらとそう答えれば巳令はわぁわ
ぁと嬉しそうに足をばたつかせた。よっぽど楽しみなんだなと太李
は心の中で苦笑する。
﹁というわけで親御さんにはきちんと了承もらってきてちょうだい
ね?﹂
﹁⋮⋮どこまで正直に話していいですか?﹂
﹁お泊りすることだけかしら﹂
太李の問いに困ったようにベルが笑う。
さすがに正義の味方の強化合宿で出かけるとは言えないなと太李
も思っていた。どうしたものかと悩む。
﹁はい、鈴さんせんせー﹂
﹁ん、なんだよもぎ﹂
﹁おやつはいくらまでですか?﹂
﹁⋮⋮三百円かな﹂
くだらない、と思いつつ鈴丸が答えると南波が心底真面目そうな
顔をして問う。
﹁バナナは﹂
231
﹁おやつに入ります﹂
きっぱり答えると忙しそうにスコーンを食べていた梨花が﹁そっ
か⋮⋮入っちゃうんだ⋮⋮﹂と何故か残念そうに呟いた。
楽しそうに微笑んでからカップをソーサーの上に置いてからベル
は手を打った。
﹁そうそう、一応水に入るから水着、用意して来てね﹂
﹁水着、ですか﹂
きょとんとした巳令はふむと顎に手をやった。
﹁新しいの買わないとですね⋮⋮﹂
﹁あーウチも新しいの買っちゃおうかな﹂
んーと巳令の言葉によもぎが眉を寄せる。
そんな二人を見てから﹁じゃあ﹂とベル。
﹁女の子みんなで買いに行きましょうか。お姉さん奢ってあげるか
ら﹂
﹁お前はお姉さんっていうよりおばさ、ごふ!﹂
﹁鈴丸さぁん!﹂
腹部に握り拳を喰らい、その場で蹲る鈴丸に太李が悲鳴に近い声
をあげた。
ちらちらと鈴丸を気にしながら梨花が﹁で、でも﹂と躊躇った。
﹁そんな、高いですし⋮⋮﹂
﹁私も新しいのが欲しいなーって思ってたの。水着がないと不便だ
し、どうせなら可愛いの着たいでしょ? いつも頑張ってるんだか
らこれくらいご褒美があってもいいわよ﹂
ね、と笑うベルを見ながら辛うじて起き上がった鈴丸が口を開い
た。
﹁また年甲斐もなくビキニとか買う気じゃ、がっ!﹂
﹁ベルガモットさんがビキニ着てぬぁにが悪いのかしらぁ?﹂
肘鉄を落とされて、完全に沈黙する鈴丸を見てマリアはガタガタ
と震えあがった。
232
翌日、学校を終えて指定された場所へやって来た巳令たちはうー
んと困り果てていた。
﹁おかしいですね、ベルさんとこのあたりで待ち合わせだったはず
なんですけど﹂
改札を抜けてもベルの姿はなかった。
どこかですれ違っているのだろうかと巳令が辺りを見渡している
とぽんぽんと彼女の肩が叩かれた。彼女が振り返るとそこに立って
いたのは落ち着いた紺色のワンピースにつば広の白い帽子をかぶっ
た女だった。
﹁何か?﹂
﹁もしかして、私を探してるんじゃない?﹂
そう言って帽子の下に浮かんでいた笑顔に﹁あ﹂と巳令は声を漏
らした。
﹁ベルさん!﹂
他の面々もこれでようやく彼女だと気付いたようでほっと息をつ
いている。
﹁ベル姉様、どうしたんですかその格好。どこの奥様かと思いまし
たよ﹂
﹁嫌ねぇ、あのままだとさすがに目立つじゃない。変かしら?﹂
﹁変じゃないけど君だとは判別できなかったよ﹂
呆れたように柚樹葉が言葉を続けた。
﹁髪も見えないし、眼鏡もかけていないし﹂
﹁⋮⋮私、柚樹葉さんに眼鏡と髪の色で判別されてたの?﹂
﹁大まかな判別はそうだね。あとはコートかな﹂
心底この子は私が嫌いでも好意や興味はさほどないらしい、とベ
ルはうんざりした。
そういえば、と梨花がベルの後ろを覗き込みながら首を傾げた。
﹁マリアさんは﹂
233
﹁フラれちゃったわ。前に買った水着があるからいいんですって﹂
つまんないのーと唇を尖らせるベルに梨花が苦笑した。
スカートの裾を翻し、﹁それじゃ行きましょっか﹂とベルが歩き
出した。そのあとをそれぞれが続いた。
﹁暑苦しい﹂
﹁言うなよ、考えないようにしてたんだから﹂
南波の言葉にうんざりしたように返しながら鈴丸は訓練場の床に
倒れ込んだ。
マリアも不貞寝したままということもあって男三人だけで使う訓
練場は嫌に広い割にどこか暑い。梅雨明けの蒸し暑さとも相まって
暑苦しさは充分だった。
ごろごろと床に寝転がっていた鈴丸が何かを思いついたのか勢い
よく体を起こした。
﹁あ、そうだ、お前ら変身しろよ。そしたら多少男臭くなくなるだ
ろ﹂
﹁嫌ですよ、暑いですもん俺の服﹂
ペットボトルを傾け、汗をぬぐっていた太李が苦笑する。
﹁マントもあるし、手袋もあるし﹂
﹁じゃあ南波だけでも﹂
﹁断る、面倒くさい﹂
きっぱり告げられて鈴丸はつまらなさそうにまた床に倒れ込んだ。
﹁つーかお前ら女になること自体はもう抵抗ないのな﹂
﹁慣れだな﹂
﹁慣れっすね﹂
﹁すげーな﹂
感心したようにそう返してから﹁でも中身は野郎なんだよなぁ、
見た目はいいのに﹂と残念そうに続けた。
234
﹁そんな残念そうにされても﹂
﹁いや、このガッカリ具合はなかなかだぞ。戦う美少女が実は男子
高校生だったとか絶望以外何があるんだ﹂
﹁絶望したんですか?﹂
﹁俺はしてない。梨花が男だったら死んでたかもしれねぇけど﹂
あっさりそう答える鈴丸に﹁鈴丸さんって、ほんと、梨花先輩の
こと好きですよね﹂と太李がぼそりと呟いた。その声に鈴丸は首を
傾げた。
﹁はぁ? お前らだって小動物は好きだろ?﹂
﹁東天紅先輩は小動物のカテゴリーなのか﹂
﹁ハムスターの十倍は可愛いけど﹂
真顔で答える鈴丸に﹁これ、親馬鹿に近いのかな﹂と太李は考え
込む。そんな彼を鈴丸は﹁つーかさ﹂と覗き込んだ。
﹁人にそういう話を振ってるお前はどうなのよ﹂
﹁どうって?﹂
﹁巳令﹂
﹁ぶっ﹂
口に含んでいた水を危うく吹き出しそうになりながら太李は慌て
て顔をタオルで覆った。
﹁なんでそこで鉢峰が出てくるんですか!﹂
﹁逆に出さない意味が分からん﹂
な、と同意を求められて南波が小さく頷いた。
﹁つーかぶっちゃけ付き合ってんの? 付き合ってないの?﹂
﹁なんですかその二択。付き合ってないですよ﹂
﹁あれで付き合ってないのか⋮⋮﹂
﹁おい、なんで南波お前が驚く﹂
顔を引きつらせる太李に﹁まぁ、いいや。詳しい話は合宿のとき
にでも聞いてやるから﹂
﹁ええー⋮⋮﹂
理不尽だ、と太李は溜め息を吐いた。
235
それを待っていたかのように訓練場の扉が開く。マリアだろうか
と振り返ってから鈴丸は再びうんざりした気分になった。
﹁蒲生、ベルガモットはどうした﹂
そこにいたのは、九鬼だった。
どこか見下したような目で自分を見る彼に鈴丸は聞こえないよう
に舌打ちした。
﹁さあ。あいつ、自由人なんで、俺にはちょっと﹂
﹁まぁ、突然現場突入するような君ほどではないと思うがね﹂
まだ根に持ってんのかよこのおっさん、と鈴丸は自分の顔が引き
つるのがよく分かった。
﹁うちのベルガモットに用があるなら伝えておきますけど?﹂
仰々しく息を吐き出した九鬼はくるりと鈴丸に背を向けると﹁戻
ってきたら私のところへ来るように伝えろ﹂
﹁へいへい﹂
さっさと行っちまえとその後ろ姿に手を振る鈴丸に﹁誰だ、あれ﹂
と南波が小声で尋ねる。
九鬼の後ろ姿が完全に見えなくなったところで鈴丸はそれに答え
た。
﹁俺らの雇い主ってところ。一応お前らのディスペア退治の財団と
してのプロジェクト主任らしい﹂
﹁へぇ﹂
﹁感じわりぃ親父だろ?﹂
はは、と笑ってから﹁俺、あいつにいじめられてんの﹂
﹁⋮⋮鈴丸さんをいじめるなんて相当度胸いりますよね﹂
﹁いや、そうでもないと思うけど﹂
金さえ盾にすれば難しいことではない。
そう思いながら﹁随分ベルガモットがお気に入りなんだなぁ、お
っさん﹂と吐き捨てた。
また趣味の悪い女を選ぶもんだ。そう心の中で笑いながら。
236
一方で水着売り場にて、にじり寄ってくるよもぎと距離を置きな
がら後ずさっていた梨花がぶんぶん首を左右に振った。
﹁い、嫌です! そ、そんなのいくらよもぎさんのお願いでも絶対
買いません!﹂
﹁なんでですか! 似合ってたじゃないですか!﹂
﹁だ、だってそんなの今まで着たことないし﹂
そう言って梨花が指差すのはピンク色のチューブトップ型ビキニ
だった。
今までワンピース型のような極力露出の少ない水着を選んできた
梨花にとってはビキニというだけでもハードルが高いのに申し訳程
度の首紐がついただけのチューブトップなど更衣室で着るのとは訳
が違う。恥ずかしくて合宿どころではなくなってしまう。
﹁だから今年の夏は勝負をですね﹂
﹁い、いくらなんでも勝負しすぎ!﹂
﹁じゃあ、こっちにしてみる?﹂
すっと柚樹葉に差し出された爽やかな白ビキニを見て梨花はぷる
ぷると体を震わせた。
﹁それもやだよ! ぬ、布小さいし!﹂
﹁意外とわがままだね、君﹂
﹁だ、だからビキニやめようよぉ﹂
﹁あまぁい!﹂
びしっとよもぎが叫ぶ。
﹁いいですか梨花先輩! せっかくそんないい体してるんですから
ここいらで勝負引っかけるべきなんですよ!﹂
﹁やだってばぁ﹂
﹁可愛い水着で愛しの彼をオトすんですよ!﹂
と、よもぎは冗談のつもりで言ったのだが梨花の顔はみるみるう
ちに赤くなっていった。
237
その顔を見て、よもぎははっとわざとらしく驚いた。
﹁ま、まさかマジでオトしたい人がいるとか﹂
﹁ち、違うのぉ! そんな、オトすだなんて、あ、ほんと、ちが﹂
﹁うう、こんなきゅーとでちゃーみんぐで可愛い梨花先輩から好か
れるだなんて許せーん! 一体どこの男ですかぁ!﹂
﹁きゃあ! ちょ、ちょっとよもぎさん!﹂
梨花は自分に抱き着いてくるよもぎを振り払おうと体を大きく揺
らすもののなかなかよもぎは離れようとしない。
﹁クインテット、じゃなさそうだからもしかして鈴丸とか?﹂
﹁ち、ちちがうってば! ほ、ほほほんとにちがうのぉ!﹂
顔を真っ赤にしながら柚樹葉の言葉にそう叫ぶ梨花を見て、ベル
はにこにこ笑みを浮かべながら呟いた。
﹁青春ねぇ﹂
﹁私にはおっさん二人が可愛い女の子に絡んでるようにしか見えま
せんが﹂
水着を見比べながらそう返してくる巳令にベルはふふと笑うだけ
だった。
﹁恋バナで盛り上がってるうちは青春青春。お姉さんくらいになる
ともう色恋沙汰も鬱陶しいだけよ﹂
きゃーきゃーとじゃれあう三人を見ながら﹁昔は色恋に一喜一憂
したものだけど﹂
そう言ったベルのどこか遠い視線に巳令はなんといったらいいの
かわからなかった。あら、と口元に手を当て、ベルが肩をすくめた。
﹁ごめんなさい、変な言い方して。歳とるって嫌ねぇ、すぐこうい
う言い方しちゃう﹂
﹁いえ﹂
﹁私にも昔はね、婚約者っていうのがいたのよ。結局フラれちゃっ
たけど﹂
ふふ、と笑いながら﹁今は吹っ切れたんだから﹂とベルは巳令を
見つめた。
238
しかし、巳令にはどうも彼女が本当に吹っ切れているかどうかが
疑わしかった。はぁ、と曖昧な返答をした。
するとそんな巳令の足元からふもふと暖かい感触が伝わる。下を
見るとスペーメがごそごそと彼女の足元で動き回っていた。水着を
抱えながら慌ててしゃがみ込んだ巳令が小声で話しかける。
﹁ちょっとスペーメ、駄目じゃないですか勝手に出て来ちゃ﹂
﹁鉢かづき! ディスペア! ディスペアなのです!﹂
ばっとベルの方を見上げる。彼女は一度、こくんと頷いた。
﹁私、お会計済ませるから。行って﹂
﹁はい、すみません﹂
ぺこりと頭を下げ、巳令が自分の持っていた水着をベルに手渡し、
梨花たちを見る。
それで大体通じたのか、よもぎが疲れ切っている梨花の手を引い
た。
﹁行きますよ、先輩。あ、ベル姉様これお願いします!﹂
﹁はいはい﹂
よもぎから渡された水着は二着、片方は先ほどのチューブトップ
だった。
﹁ちょ、ちょっと、よもぎさん待ってぇ! あ、ああー!﹂
あの水着に確定してしまったという嘆かわしそうな梨花の声が大
きく響いた。
﹁キリ、ねぇな、こりゃあ﹂
空になったマガジンを地面に捨てて、予備のマガジンと交換を終
え、マリアが引き金を引く。
銃口が火を吹くたびにばさばさと羽音を立てる鳥たちが撃ち落と
されていく。それでもひっきりなしにやってくる敵たちにマリアの
処理速度は追いつかない。
239
﹁マリア、銃!﹂
見かねた鈴丸がそう叫ぶとマリアは自分のホルダーに入れていた
もう一丁の拳銃を放り投げた。それを受け取るや安全装置を外して
鈴丸が引き金を引く。
銃声が二重に響き渡る。全ての弾を撃ち込み終わる前にマガジン
を交換しながら﹁やっぱり﹂と鈴丸は顔をしかめた。
﹁時間稼ぎ、か﹂
彼の脳裏によぎっていたのは柚樹葉の言葉だった。
亀型のディスペアが現れたとき、彼女は、ディスペアを操る一派
は﹃長時間のディプレション空間の発生を目的としているのではな
いか﹄と告げた。それはあながち間違いではないように鈴丸には思
える。
わざわざ雑魚まで用意して、戦力を散らす。だが、だとしたら目
的はなんなのだろうと彼には不思議で仕方ない。
次々に飛び上がってくる鳥たちを睨み付けながら﹁んで﹂と後ろ
をちらりと振り返った。
﹁こっちのお仲間はどうした﹂
﹁知らねぇ!﹂
マリアがそう叫ぶと同時に二人の通信機から同時に声が響いた。
﹁そろそろ到着する頃だと思うけど﹂
﹁へーそりゃいいね﹂
ベルの声を聞きながら照準を合わせたマリアが引き金を引いた。
﹁あの二人が倒れるまでには来いよ﹂
吐き捨てるような彼女の視線の先にはすでに変身して大きな猫型
のディスペアと対峙している太李と南波がいる。
ぎにゃあ、と歪な鳴き声をあげながら毛を逆立てて自分たちを睨
み付けるディスペアに南波は舌打ちした。
握りしめた槍を構えながら﹁どうする?﹂と首を傾げた。どうす
るって、と太李が困惑気味でそれに答える。
240
﹁言われても、どうしようもないっていうか﹂
目の前に対峙する敵がβ型であることは分かっていた。分かって
いるからこそ、厄介だった。連携技が使えなかったからだ。
﹁とにかく鉢かづきかいばらが来るまで頑張るしか﹂
﹁だな﹂
ふぅ、と南波が息を吐くのと同時に地面を蹴り上げたディスペア
が南波に爪を立てながら飛びかかった。
間一髪それを横に飛びのいてかわすも、地面について一瞬で体勢
を立て直したディスペアがそのまま爪を振り上げた。その爪を槍の
柄で受け止めた南波は爪を押し返しながらディスペアの腹部を蹴り
飛ばした。
巨体がよろめいた隙に後ずさって距離を取る。
﹁人魚!﹂
﹁騒ぐな! 今度はお前に遊んで欲しいらしいぞ!﹂
南波の言葉を聞いて太李が地面を蹴り上げた。ディスペアの爪が
太李のいた場所を抉っている。思わず高く飛び上がってしまった彼
はどうしたものか、と思ってからマントの留め具を外した。
地面ではディスペアが口を大きく開けて、太李が落ちてくるの今
か今かと待っている。そんなディスペアを見ながら﹁お前は﹂と彼
は空中でマントを広げた。
﹁ちょっと大人しくしてろ!﹂
無数に現れたレイピアがそのマントを突き抜けて、地面に刺さる。
地面と布が何本ものレイピアに縫い付けられ、その間にディスペ
アの頭が挟まれた。突然視界が暗くなったせいかディスペアはじた
ばたと手足を動かしている。
少し遅れて、ディスペアの真上に落ちそうになっていた太李の体
が何かにぐいっと引っ張られた。軌道が逸れ、少し距離を置いた位
置に彼の体が着地する。
ほっと息をつきながら太李は﹁さんきゅ、鉢かづき﹂と隣にいた
241
巳令に笑いかけた。
ふるふると鉢ごと首が左右に振られた。
﹁いえ、遅くなってしまってごめんなさい﹂
彼女の謝罪の言葉と同時に﹁ふにゃああ!﹂という梨花の叫び声
と共に投げられた斧に切り裂かれた鳥たちが地面に落ちていく。
その光景を見てから巳令は﹁いばら!﹂と後ろに振り返った。
視線の先には弓矢を構えたよもぎがいる。
﹁ほいさー! 人魚先輩! 一気に決めちゃいまっしょー!﹂
﹁遅刻してきた割に美味しいとこ取りか﹂
やれやれとでも言いたげに南波が槍で虚空を切り裂いてから駆け
出した。
えへへ、と笑ってからよもぎは弦を震わせ、矢を放つ。
腹部目がけて飛んでいく矢に合わせ、南波の槍がその箇所を的確
に貫いた。ぎぃいいと断末魔を上げ、ディスペアは消えて行き、あ
とに残ったのはマントだけだった。
それを拾い上げると南波は太李に放り投げた。慌ててキャッチし
てから﹁あー﹂と彼は苦笑した。
﹁穴だらけだ⋮⋮﹂
怒られるよなぁ、と太李はどこか気が重くなった。
■
﹁まーたーしーんーだ﹂
﹁うるさい、ウルフ。それに今日はこれでいいんですの﹂
﹁はぁ? なにそれ? 負け惜しみ?﹂
﹁違いますわ、お馬鹿さん。裏方でデータは充分取れましたでしょ
うし﹂
﹁ばかってなんだよあちしのことばかっていうれーこの方がばかな
んだもんねー!﹂
242
﹁⋮⋮わかりましたわ、ドアホさんのウルフにも分かりやすく教え
て差し上げます。やっと完成しそうなんです﹂
﹁おおー、すげーさすがうわばみー!﹂
﹁何言ってますの? この魔女の力あってこその完成ですわ﹂
﹁れーこはざこー!﹂
﹁殺しますわ﹂
﹁きゃー! こわーい!﹂
﹁とにかく楽しみですわね、γ型を前にして彼らがどれほどやって
のけるか﹂
243
第十四話﹁合宿で何やら青春っぽいイベントが起こりそうです﹂
すっかり空になった食器を重ねながら紅葉は大げさなほど驚いた
声をあげた。
﹁ええー、おにい、明日からいないのー?﹂
﹁ん、まぁな﹂
自分の手元にあった皿も差し出しながら太李が頷けばむーっと紅
葉は唇を尖らせる。
﹁なんだよそれー。夏休み初日からいきなし旅行かよー﹂
﹁いや、一応名目は合宿なんだけどな﹂
旅行といった方が都合がよかったかもしれないと太李は少しだけ
後悔した。
終業式も終え、明日からいよいよ夏休みに突入するのだがその初
日から合宿が始まると教えられたのはほんの数日ほど前だった。
何も初日からいきなり行くこともないのではないかとは言ってみ
たものの﹁あら、早い方がいいでしょ?﹂とのベルの一声で決行さ
れる次第になった。
﹁なんだよ、おにいに宿題見て貰ってはやめに片付けようと思って
たのにー﹂
けっと顔を逸らす紅葉に太李は苦笑する。
ぶーぶーと紅葉は不機嫌そうに頬を膨らませていたがやがて、何
かを思い出したかのようにあ、と声を漏らした。
﹁もしかして、あの美人さんも一緒かね?﹂
きらきらと目を輝かせる紅葉に太李は首を傾げた。
﹁美人?﹂
﹁とぼけなさんなよー。あのショートヘアの美人さんだよ﹂
﹁ああ、お前鉢峰のこと言ってんの?﹂
こくこくと頷く紅葉に﹁一応一緒だけど﹂と答えればがたっと立
ち上がって自分の体を抱き締めた。
244
﹁マジかよ! やっぱり仲いいんだね紅葉ちゃんの読み通りですわ
! いやらしい!﹂
﹁別に二人っきりってわけじゃないし⋮⋮﹂
﹁とかなんとかいって二人で抜け出してランデブーだろ! 青春だ
ぁ!﹂
きゃーきゃーはしゃぎながら体をクネクネ動かす紅葉に太李が呆
れかえっていると﹁紅葉ちゃんうるさい﹂と澄み切った声が彼女に
向かって飛んだ。
彩花である。
あやか
声の主は黒いエプロンを外しながらくすくすと笑っている。彼女
こそ太李たちの実の母親の灰尾
﹁だっておかあー、外泊だよ外泊。お泊りだよやらしーよ﹂
﹁やーね、太李くんヘタレだからそんなことできないよ﹂
﹁その否定の仕方は地味に傷つくよ母さん﹂
机に顔を突っ伏しながら太李が彩花にそう言えば彼女はくすくす
と笑って太李の頬を突いた。
﹁だってほんとでしょ? 太李くんかっこいいのに全然彼女とかで
きないし﹂
﹁母さんそういうのね、親馬鹿っていうの﹂
﹁ええー、太李くんの目は節穴だね﹂
﹁どうしてそうなった﹂
心底楽しそうな彩花にからかわれてるな、と思った太李は苦笑す
るだけにとどまった。
それが面白くなかったのか﹁そ、れ、よ、り﹂と彩花は彼の隣の
椅子に腰かけた。
﹁なになに、ショートヘアの美人さんって、お母さん初耳だけど﹂
﹁だからただのクラスメイトだって﹂
あと正義の味方仲間だけど、と心の中で付け足しておいた。
そんな彼の言葉にけらけらと紅葉が笑う。
﹁またまたぁ、あんな仲良さそうに歩いといて何を仰るかこのおに
い﹂
245
﹁仲良さそうってお前なぁ﹂
﹁やだー今度紹介してよー﹂
ぎゅーっと彼の手を握りながらにこにこ笑う彩花に﹁だからそう
いうんじゃないんだってば⋮⋮﹂とがっくり項垂れた。
﹁ああいうおねえなら私大歓迎だからおにい﹂
﹁お前それ間違っても鉢峰の前で言うなよ、絶対言うなよ﹂
悩ましそうに太李が頭を抱えると同時に扉の開く音が響く。
ばっと太李の手から自分の手を離すと﹁パパだ!﹂と彩花が嬉し
そうに駆け出していく。そのあとに﹁おとー!﹂と紅葉が続く。
なんだかなぁ、と太李は溜め息を吐いた。
翌日、本部ビルのすぐ目の前に停まった八人乗り自動車に荷物を
積み込みながら南波がぼそりと告げた。
﹁帰りたい⋮⋮﹂
﹁早い早い﹂
呆れ顔で太李が返すと南波はがっくりと肩を落とした。
そんなに嫌か、と思いながら太李は南波とは対照的にわくわくし
た様子でナップサックの紐をぎゅっと握りしめる巳令を示した。
﹁ほら見ろ南波、鉢峰なんかあんな楽しそうだぞ﹂
﹁うるさいカオスカタルシス﹂
﹁もう頼むからそのネタやめてくんないかな﹂
震える声でそう言いながら太李が荷台の扉を閉める。
一方でよもぎが﹁そういえば﹂とベルに対して首を傾げた。
﹁これ八人乗りですよね?﹂
﹁ええ、それがどうしたの?﹂
﹁一人乗れなくないですか?﹂
フェエーリコ・クインテットである自分たち五人、柚樹葉、そし
246
てベルたち傭兵三人。全員で九人だ。
それにベルが﹁ああ﹂と小さく笑った。
﹁私とマリアは別の軽自動車で行くから。現地で合流ってことにな
ってるわ﹂
﹁ああ、なるほど⋮⋮﹂
納得した風に頷くよもぎを一瞥してから﹁それにしても﹂と彼女
は梨花の方へ視線を向けた。
﹁梨花さん、そんなにリュックぱんぱんにして一体何が入ってるの
?﹂
﹁ふぇ?﹂
くすくす笑うベルに梨花は不思議そうに彼女を見返した。
彼女のリュックサックは確かに他のメンバーに比べて大きく、め
いっぱい詰め込まれているようである。
﹁え、えと、お菓子とかあと絆創膏とかお裁縫セットとか﹂
﹁あらあら、可愛い中身ね﹂
﹁す、すみません⋮⋮﹂
しゅんと小さくなる梨花の肩をぽんぽんと誰かが叩いた。
﹁んまーあれだ、川に遠足気分で行くと飲みこまれるぞっていう﹂
﹁遠足気分なのはあなたでしょ、マリア﹂
ひょいっとマリアの横に置いてあったスポーツバッグを拾い上げ、
ベルは呆れかえった。
明らかに梨花のカバンの倍は入るであろうバッグがぱんぱんにな
っている。
﹁はい没収没収﹂
﹁あ、おいベルふざけんな!﹂
勢いよく食い下がるマリアにふんとベルがそっぽを向いた。
そんなやり取りを見つめていた鈴丸に太李が駆け寄った。
﹁荷物、積み終わりました﹂
﹁おーお疲れ。んじゃ、そろそろ行くぞ﹂
﹁はい!﹂
247
力いっぱい返事する巳令に鈴丸は思わず苦笑した。
﹁さて﹂と車に乗り込む前に声をかけたのはよもぎだった。
﹁どー座りましょっか﹂
﹁どうってお前⋮⋮﹂
南波とよもぎが同時に太李と巳令を見る。
二人が不思議そうに自分たちを見返した瞬間、南波とよもぎは頷
き合った。
﹁なんか春風は、益海先輩とめちゃくちゃ隣になりたいです!﹂
﹁奇遇だな俺もだ﹂
と、お互いを押し込むように南波とよもぎが三列あるうちの二列
目のシートに腰を下ろした。
三人掛けシートの一人分余ったスペースを見ながら柚樹葉に抱き
締められていたスペーメが口を開いた。
﹁じゃあ柚樹葉はいばらの隣に座るのです!﹂
﹁え、何、なんで勝手に決めてるの?﹂
きょとんとする柚樹葉の腕をよもぎが車内から引っ張った。
﹁どーぞどーぞ!﹂
﹁え、私、君の隣、決定なの?﹂
﹁嫌ですか?﹂
﹁うん﹂
﹁酷い!﹂
ぎゃーぎゃーと言い合いながらも渋々といった具合によもぎの隣
に腰を下ろす柚樹葉を見て、おろおろと梨花は視線を泳がせた。
そんな彼女に助け船を出したのは鈴丸だった。
﹁よーし、梨花、お前助手席来い﹂
﹁え?﹂
﹁運転中たまに話しかけてくれ。眠くなりそうだから。嫌か?﹂
﹁いえ! よ、喜んで!﹂
笑顔を浮かべながら梨花が助手席に乗り込んだ。
そこでようやく自分が置かれている状況に気付いたらしい太李が
248
﹁あー﹂と額を押さえた。ちらりと巳令を見て、彼は口を開く。
﹁俺ら、隣になっちゃうな﹂
﹁嫌ですか?﹂
ふんわり微笑む巳令に﹁いや、全然﹂と太李は首を左右に振った。
﹁じゃあいいじゃありませんか。早く行きましょう﹂
﹁だな﹂
三列目に座りながらひとまず太李は目の前に座っている南波を睨
み付けた。
柚樹葉がおもむろにカバンの中から菓子の袋を取り出したのは高
速道路に入ったあたりだった。
頭にスペーメを乗せたままぱんっと封を切って、中身を口に放り
込む。気付いたよもぎが問いかけた。
﹁柚樹葉先輩何食べてるんですか?﹂
﹁柿ピー﹂
食べる? と差し出されてよもぎは大人しくそれを受け取った。
ぼりぼりと二人で音を立てながら咀嚼する音を聞きながら文庫本
に目を落としていた南波が耐え切れず﹁おっさんか﹂とぼそりと呟
いた。
むっと柚樹葉が頬を膨らませた。
﹁美味しいじゃん、柿ピー﹂
﹁もっと女子高生らしい菓子はないのか﹂
﹁あとはさきいかと、チータラもあるけど﹂
﹁酒のつまみ! 酒のつまみだ!﹂
おかしそうに腹を抱えて笑うよもぎに眉を寄せながら﹁ホタテの
貝柱もあるけど﹂またおかしそうによもぎが笑い転げる。
﹁なんだよ、じゃあよもぎこそ何持ってきたのさ﹂
﹁ふっふっふ、じゃじゃーん!﹂
249
誇らしげによもぎがカバンから取り出したのは五十本入りのカル
パスだった。
それを見た瞬間、﹁ぶっ﹂と南波が口元を押さえ、小刻みに震え
る。驚いて隣を見たよもぎが唇を尖らせた。
﹁ちょ、なんで笑うんですか益海先輩!﹂
﹁お前も大概酒のつまみだ﹂
﹁そ、そんなことないっすよ! 美味しいじゃないですか!﹂
それからはっとして﹁ていうか﹂と慌ててよもぎは南波の顔を覗
き込んだ。
﹁先輩笑いましたね! 見せてください! 春風にますみんスマイ
ル見せてください!﹂
﹁気色悪い名前つけるな﹂
﹁あう!﹂
自分の方によせられるよもぎの顔に手刀を喰らわせてから南波は
再び文庫本を開いた。
ぶーっと頬を膨らませながらよもぎがぼそりと告げる。
﹁そんな益海先輩にはカルパスあげませんから﹂
﹁別にいいけど﹂
﹁えええ!﹂
びくっと肩を跳ね上がらせてから﹁せ、先輩、カルパスお好きじ
ゃありませんでしたっけ?﹂とよもぎが恐る恐る尋ねた。
きょとんとしながら彼はあっさりそれに答える。
﹁カルパスが好きなのは俺じゃなくて京さんだ﹂
﹁ジーザス!﹂
勢いよくよもぎがカルパスの袋に顔を叩き付けた。
自分の記憶違いだったのか、とよもぎは肩を落とす。どうせ南波
のことだから何も持ってこないだろうし、どうせなら食べたいもの
をと思ったのに。
﹁ああ、もう、ああもう﹂
﹁元気出すがよいです﹂
250
柚樹葉の頭からよもぎの肩へと飛び移ったスペーメがすりすり彼
女の頬に顔を押し付けた。
その小さな頭を撫でながら﹁ありがとスペちゃん﹂とよもぎは薄
く笑った。
溜め息を吐いて南波が視線は文庫本に落としたまま手を差し出し
た。
﹁春風、ん﹂
﹁はい?﹂
﹁カルパス﹂
ぱぁっとよもぎが顔を輝かせ、﹁はい喜んで!﹂と彼の掌にカル
パスをのせる。
それから彼女はじーっと自分たちを見つめていた柚樹葉に﹁柚樹
葉先輩もどーぞ!﹂と無理やりカルパスを握らせた。
﹁あ、あーうんありがと。じゃあ、さきいかいる?﹂
﹁はい!﹂
楽しそうなよもぎを見ながらまぁいっかと柚樹葉はさきいかの封
を切った。
こくん、こくんと首を上下させる巳令を見ながら﹁鉢峰?﹂と太
李が彼女の肩を軽く揺さぶった。
巳令はびくっと跳ね上がってからぐわっと太李の方を向いた。
﹁な、なんだ灰尾でしたか⋮⋮驚きました﹂
﹁あ、ごめん。もしかして眠い?﹂
﹁はい、実は﹂
眠たげに目をこする巳令は小さく欠伸をしてから恥ずかしそうに
顔を俯かせた。
﹁昨日はあまり眠れなくって﹂
﹁⋮⋮もしかして楽しみすぎて眠れなかったっていうあれ?﹂
251
えへ、と誤魔化すように笑う巳令に太李は呆れかえってしまった。
﹁お前なぁ、小学生じゃないんだから﹂
﹁お恥ずかしい限りです⋮⋮﹂
ふわぁ、と巳令がまた一つ小さく欠伸する。
巳令が今回の合宿を心の底から楽しみにしていたことは太李も分
かっていたつもりだったがまさかここまでとは、と太李は苦笑する。
同時に、自分たちと出かけることをここまで心待ちにして望んで
いてくれていたと思うと太李は無性に嬉しくなった。
﹁よっぽど楽しみだったんだな﹂
太李が尋ねると巳令がにっこり微笑んだ。
﹁勿論です。とっても楽しみでした。今はとても楽しい﹂
﹁まだ移動中だぞ﹂
﹁こうしてみんなで同じ場所に向かうってだけで私にはもう充分す
ぎるくらいです﹂
ふふっと本当に楽しそうに笑う巳令に﹁そうか﹂とだけ太李は返
した。
はじめて出会ったその日の人を拒絶するような巳令とはまるで違
った。純粋な笑顔だった。今の方がいいな、と太李は若干思った。
﹁で、楽しみだったのは結構だけど、やっぱり睡眠はきちんととれ
よ?﹂
﹁あ、やっぱり駄目ですか﹂
﹁駄目だろ。移動、時間かかるって言ってたし、今のうちに眠っと
けよ﹂
うー、と小さく唸りながらやがて巳令は背もたれに身を投げ出し
た。
﹁着いたらちゃんと起こしてくださいね?﹂
﹁はいはい、起こす起こす﹂
﹁約束ですよ﹂
﹁はい約束しますします。だから寝てろって﹂
疑わしそうな視線を太李に向けてから巳令はやがて目を閉じた。
252
うとうととしていただけあって、巳令の方から穏やかな寝息が聞
こえてくるようになったのはそのあとすぐのことだった。太李がそ
ちらに視線を投げかけると黒い髪の隙間からあどけない寝顔が見え
る。
真っ白で滑らかな肌に漆黒色の髪はよく映える。伏せられている
長いまつ毛に整った唇は清楚で、まるで作り物のようだった。
﹁美人、だよなぁ﹂
まるで確認するかのようにぼそっと呟いてからいかんいかんと首
を左右に振って頬杖を突きながら太李は黙って目を閉じた。
ぎゅっとリュックサックを抱き締めながら梨花が声を絞り出した。
﹁す、鈴丸ひゃん!﹂
﹁ん?﹂
ハンドルを握り、あくまで視線は前に向けたまま鈴丸がそれに反
応した。
梨花は声が裏返ったのが恥ずかしくて顔を真っ赤にしながら﹁あ、
あのその﹂となんとか話題を探した。
﹁きょ、今日はお天気があの、ちが、ええと﹂
何を話題にすればいいのだろう、と梨花の頭の中は混乱していた。
これを道中ずっと繰り返しているのだから可愛いもんだと鈴丸はし
みじみ思う。
やがて話題が見つからず、梨花はリュックサックに顔を埋める。
これの繰り返しだ。
しかし、今回はそれで終わりにはならなかったようで﹁す、鈴丸
さんにはできないことって、ありますか?﹂と小さな声で問いかけ
た。
﹁できないこと? 俺が? そりゃ、色々あるだろ﹂
﹁⋮⋮ほんとですか?﹂
253
﹁なんでそこを疑われなきゃならん﹂
不思議そうにする鈴丸に﹁だって﹂と梨花。
﹁本当に、鈴丸さんならなんでもできそうだから﹂
目を伏せる梨花に﹁んなわけないだろ﹂と鈴丸が笑う。
﹁じゃあ、例えば何ができないんですか?﹂
むっとした風に自分に問う梨花に鈴丸は考え込んだ。
自分に出来ないこと。なんだろう。しばし、考え込んでからアク
セルを踏んで彼は梨花に言う。
﹁梨花、俺にできなさそうなことをあげてけ﹂
﹁え?﹂
驚いて目を見開いてから梨花は少し間を空けてから口を開いた。
﹁お、お料理?﹂
﹁昔、海外のお偉いさんの家の調理場に潜り込む仕事があってな﹂
﹁えと、お裁縫?﹂
﹁マリアがボロボロにしてくる服を直すのは俺の仕事でだな﹂
﹁ギター!﹂
﹁ギターどころかベースもドラムもどんと来い﹂
﹁陶芸!﹂
﹁やった回数は少ないけど知識としては﹂
そこまでやり取りしたところで梨花がくすくすと笑う。
﹁や、やっぱりできないことないじゃないですか﹂
﹁そうかもな﹂
﹁はぁー凄いなぁ﹂
再びリュックにぼすんと顔を埋めながら﹁あ、あたしも、鈴丸さ
んみたいになりたいなぁ﹂それに鈴丸は思わず顔を引きつらせた。
﹁やめとけやめとけ。俺みたいになるとろくなことない﹂
﹁うー﹂
﹁梨花は、梨花のままで充分だ﹂
ぽんぽんと鈴丸が梨花の頭を撫でる。
まだ納得しなさげな梨花を横目に車が停まる。後ろに振り返って
254
鈴丸が﹁おら、着いたぞ﹂と声をかける。
﹁うおお、やっと⋮⋮! 体バキバキっすよー﹂
﹁そういえば後ろが嫌に静かだけど﹂
と柚樹葉は振り返って、ははぁとわざとらしく漏らす。
﹁どうしたんですか、柚樹葉先輩﹂
﹁見てみれば分かるよ﹂
うんざりしたようにそう告げ、正面に向き直る柚樹葉と代わるよ
うに後ろを振り向いたよもぎは﹁おやま﹂と一言だけこぼした。
三列目では巳令と太李が仲良く頭をくっつけながら寄り添って、
穏やかに眠っている。
﹁やーに静かだと思ってたらそういうことでしたか。これで付き合
ってないんだから恐ろしいぜ﹂
﹁え、何、寝てんの?﹂
﹁そりゃもうぐっすり﹂
よもぎの言葉に頭を抱えた鈴丸はシートベルトを外しながら﹁南
波、チョップでもなんでもいいから一発かまして太李だけでも起こ
せ﹂とだけ告げた。
助手席の梨花がシートベルトを外すのに手間取るのを見ながら﹁
なぜ俺が﹂と南波が問う。
﹁いいから。男手がないと色々不便なんだよ﹂
梨花のシートベルトを外してやってから鈴丸は扉を開けて、外に
出た。
無責任な大人だ、と思いつつ後ろを振り返った南波は手を伸ばし
てから太李の額を中指で弾いた。
たったそれだけのデコピンでも太李の意識を覚醒させるのには充
分だったようでびくっと肩を跳ね上がらせてからまだ眠たそうな目
を南波に向けながら額を押さえた。
﹁なにすんだよ南波ぃ⋮⋮!﹂
﹁うるさい。もう着いたぞ﹂
つまらなさそうにそう言い放ってから南波はさっさと扉を開けて
255
外に出て行ってしまった。
そのあとに続いて柚樹葉とよもぎ、梨花が出て行くのを眺めなが
らそこでようやく彼は自分の左側にずっしりと何かが寄りかかって
いるのに気が付いた。
確認しようと視線を投げかけてからそれが未だぐっすり眠ったま
まの巳令だと気付いて更に動揺した。
﹁うわ、ちょ、鉢峰、起きろ﹂
ゆさゆさと巳令の体を揺さぶると彼女はようやく重そうなまぶた
を押し上げ、ぼーっとした表情で太李を見上げ、へにゃんと笑った。
﹁あ、灰尾⋮⋮﹂
﹁お、おう。ほら、着いたってさ。降りるぞ﹂
﹁んん、もう十分だけ﹂
﹁駄目です! ほら、降りる!﹂
また自分に寄りかかって睡魔を貪ろうとしている巳令を無理やり
引っ張って、太李も車外へと飛び出した。
眠たげだった巳令は辛うじてその目を開くと、広がっていた光景
に﹁わぁ﹂と声をあげた。
人の手は最低限しか入れていないような河原に流れる川の水が夏
の日差しを反射させ、きらきらと輝いていた。周りに生い茂る木が
木陰を作りながらさわさわと揺れている。
﹁お、ベルー! 鈴来た!﹂
﹁あら﹂
少し離れたところで座っていたマリアとベルが手を振っているの
に巳令は思いっきり振り返した。
とんかんと不規則な音が響き渡る。
金槌を振りおろし、杭を地面に打ち込んでいた南波は疲れ切った
ように思いっきり息を吐くと﹁終わった﹂と一言だけで報告を済ま
256
せてしまった。
反対側で同じ作業をしていた鈴丸はそれに頷きながら額に滲んだ
汗を拭う。
﹁うっし、こっちも終わり﹂
﹁ということは﹂
﹁やっと全部終わったな﹂
立ち並ぶ三つのテントを見ながら南波はほっと息をついた。
一足先に作業を終えていた他の面々が座っているレジャーシート
の方へ二人で向かえば﹁お疲れ様、二人とも﹂とベルが笑顔で出迎
えた。
﹁おう﹂
﹁じゃあ、テントも張り終えたことだし少し早いけどお昼ご飯にし
ましょうか。これからの予定の確認もしたいし﹂
そう言って、ベルは自分の後ろに控えていたバスケットを取り出
して微笑んだ。
﹁お弁当作ってきたの。時間はあんまりなかったから大したものじ
ゃないんだけどね?﹂
そんな言葉と共にバスケットの中から出てきたのは綺麗に切り揃
えられた色とりどりのサンドイッチだった。
わっと梨花から歓声があがる。
﹁凄い⋮⋮﹂
﹁やーね大げさなんだから。あ、これが卵で、こっちが海老カツで
これがハムね。あときゅうりとトマト。今、おてふき渡すから﹂
そわそわと待ちきれない様子の梨花に手拭きを渡しながらベルは
楽しそうに告げた。
各々、手を拭きながらいただきますと一声かけて綺麗に切断され
たサンドイッチを手に取った。
﹁どうかしら?﹂
﹁とっても美味しいです﹂
﹁ならよかったわ﹂
257
卵サンドをかじりながらの巳令の言葉にベルは安心した。
﹁超美味ですよー。こういう美味しいもの作ってくれる人お嫁さん
に欲しいですわー﹂
﹁じゃあよもぎさんのおうちに嫁いじゃおうかしら﹂
﹁マジですかベル姉様ー!﹂
楽しそうに笑い声をあげるよもぎに微笑みかけてから彼女は水筒
の中身をコップに注ぎながら﹁改めて﹂と手を叩いた。
﹁まずはみんな、ここまでご苦労様。といってもこれからが本番な
んだけどね?﹂
﹁本番って、何するんですか?﹂
海老カツのサンドイッチを口に放り込みながら太李が尋ねれば、
待ってましたとばかりにベルがどこかを指差した。
﹁ここからもう少し行くと、少し広い場所に出るわ。この川は水が
綺麗でね、色んな生き物がいるの。勿論、食べられるものもね﹂
﹁はぁ﹂
﹁早い話、夕飯の調達﹂
鈴丸の言葉にクインテットと柚樹葉がばっと顔をあげた。
﹁自分で獲って来いってことですか?﹂
﹁そうなるわ。獲れなかったら夕飯なし。道具はあるから安心して
ね﹂
﹁水着って、そのために持って来いってことか⋮⋮﹂
はは、と困ったように笑う太李に﹁これも勉強よ﹂とベルが悪戯
っぽく告げた。
﹁そういうわけでお昼食べ終わったら近くの更衣室で着替えて、お
魚獲りに行きましょう﹂
きゅうりのサンドイッチをかじりながらめんどくせーなとマリア
は心の中で呟いた。
258
ばしゃばしゃと音を立てながら水面を太李が叩くと水中の魚たち
は一目散に逃げていく。
逃げて行った先にはタモ網を構えた南波がいる。見事にタモ網の
中に誘導されていった魚たちが逃げようとしたときには遅く、ばっ
と水から網が引き上げられた。
﹁入った?﹂
﹁入った﹂
二人で頷き合いながら岸の方へ上がり、バケツに網の中の魚を放
す。中ではすでに捕えられていた二匹の魚が泳ぎまわっている。
バケツの横に座っていたラッシュガード姿のベルが﹁凄いわね、
また獲れたの?﹂と楽しげに笑う。
﹁はい! 俺ら、タモ網があればどんな魚でも獲れるかもしれない
です!﹂
﹁おい、灰尾。次行くぞ、次﹂
﹁おう!﹂
また水の中に戻っていく二人を見ながら﹁若いっていいわねー﹂
とベルがしみじみ呟いた。
﹁なんだよお前、結局ラッシュガードにしたのかよ﹂
後ろから飛んできた声に文句を言ってやろうと振り返ったベルは
その言葉を飲みこんだ。
Tシャツに長ズボン、長靴に釣り用のライフベストを身にまとい、
クーラーボックスと釣り道具一式を担いだ鈴丸が自分を見下ろして
いた。
サングラスを外しながらまじまじとバケツの中身を覗き込む鈴丸
に﹁ガチ装備じゃない﹂とベルは呆れかえった。
﹁こういうときくらいしかのんびり釣りしてる暇もないだろ?﹂
﹁⋮⋮あなた一人で全員分の夕飯用意できそうね﹂
﹁さすがに九人分は無理無理﹂
軽く笑う鈴丸に何人分だったら大丈夫なのだろうかと思ったがこ
れ以上、部下の化け物っぷりを知るのが嫌になってベルは問いかけ
259
ることをやめた。
﹁うわ、釣りのお兄さんがいる!﹂
きゃっきゃっと明るい声が聞こえて二人が振り返れば着替えに手
間取っていたのであろう女子たちがぱたぱたと駆け寄ってきていた。
﹁おう。遅かったな﹂
﹁いやーなかなか梨花先輩が出てきてくれなくてー﹂
鮮やかな花柄の水着姿のよもぎの後ろにラッシュパーカーを握り
しめたまま動かない梨花がいる。
﹁りーか﹂
﹁や!﹂
ふるふると首を左右に振る梨花を意地でも見てやろうと鈴丸は告
げる。
﹁すぐ出てこないとあれだ、お前だけ今度のミーティングで茶菓子
なしにするぞ﹂
﹁ふぇ!﹂
それは困るとばかりに、梨花は慌ててよもぎの背から飛び出した。
白いパーカーの下に薄桃色のチューブトップ型水着は溢れんばか
りの胸を辛うじて押さえつけているようだった。些細な梨花の動き
にすら合わせて揺れてしまっている。
恥ずかしさからか赤らめられた頬とわずかに涙を溜め、自信なさ
げにおろおろと泳ぐ目が背徳感をそそっていた。
長く息を吐いた鈴丸は黙って梨花のラッシュパーカーの前を締め
るとサングラスを掛け直した。
﹁す、鈴丸さん⋮⋮?﹂
﹁すまんお前が反則級に可愛くてどうしようか困った﹂
はぁーと悩ましそうな鈴丸に梨花の顔はみるみる赤くなった。
釣り道具を抱えながら﹁んじゃ、俺もう行くから!﹂と取り繕う
ように彼はそそくさと立ち去ってしまった。
﹁ほ、褒められたんだよね⋮⋮?﹂
﹁ばっちりっすよ、やっぱりこのよもぎちゃんの目に狂いはなかっ
260
たんです!﹂
まだぼーっと呆けたままの梨花によもぎはすりすりと頬ずりした。
﹁うわ、何あの面白い鈴、きもちわる﹂
パレオ付きのひらひらした水着を着たマリアは﹁らしくねー﹂と
ケラケラ笑う。あなたの水着も充分らしくないけどね、と思いなが
らベルは結局その台詞を口には出さなかった。
その代わりのようにスペーメを頭に乗せ、水色のワンピース型の
水着を着た柚樹葉に﹁巳令さんは?﹂と問いかける。
﹁すぐ来るよ﹂
﹁そう﹂
彼女が大げさに肩をすくめると同時に太李の声が大きく響いた。
﹁ベルさん! 魚! また魚獲れた!﹂
﹁はいはい﹂
まるでお母さんね、と思いながらバケツの方に視線を向けると宣
言通り、今度は三匹一緒に魚がバケツの中に放り込まれた。
おお、とよもぎが歓声をあげた。
﹁凄い、もうこんなとれたんですか?﹂
﹁当然だ。これは俺と灰尾で優勝を貰うしかないらしい﹂
﹁いつから優勝とか決まってたの、これ﹂
怪訝そうに太李と南波を見上げる柚樹葉だったが特に二人は気に
した様子もない。
やれやれと首を左右に振る柚樹葉の隣に誰かがしゃがみ込んだ。
﹁やあ、巳令。遅かったね﹂
﹁少し忘れ物があって。どうですか?﹂
﹁なかなか好調なようだよ﹂
﹁なかなかどころか順調そのも⋮⋮﹂
の、を言いかけながら振り返った太李はすっかり黙り込んでしま
った。
黒いフレアトップの水着を着た彼女の白い肌はいつにも増して白
く、瑞々しく見える。
261
滑らかで白い足に、引き締まった体は健康的な魅力で溢れ返って
いる。
思わず見惚れていると巳令が心配そうに顔を歪めた。
﹁あ⋮⋮もしかして似合いません?﹂
﹁や、逆! すげぇ、似合うと思う﹂
﹁⋮⋮ならよかった﹂
ふんわり微笑む巳令に恥ずかしくなった太李はばっと視線を逸ら
した。
タモ網を構えながらマリアはなるべく水面を揺らさないようにし
ながら辺りを見回し、一点で視線を留めた。
柄をぎゅっと握りしめ、一気に距離を詰めたマリアは網を水面に
振りおろし、すくいあげた。
﹁うおりゃあああ!﹂
ばしゃん、と音を立て水が跳ね上がる。
きらきらと輝く水滴の中に立っているマリアに柚樹葉は呆れたよ
うに告げた。
﹁そんな馬鹿みたいに突っ込んで魚なんて入ってるわけないでしょ。
もっと習性とか﹂
﹁獲れたぞ﹂
﹁⋮⋮君は本当に型破りもいいところだね﹂
網の中でぴちゃぴちゃ跳ねる魚を見ながら柚樹葉は引きつった笑
みを浮かべた。
その反応が面白くなかったのかむっと顔をしかめながらマリアは
首を傾げる。
﹁んじゃそーゆーお前はどうなんだよ。まだ一匹もとれてねーだろ﹂
﹁い、今はまだ本調子じゃないだけだよ。この私が魚獲りくらいで
苦戦するわけないだろ﹂
262
ふんとそっぽを向く彼女にマリアは﹁一回くらいお前も突っ込め
ばいいだろ﹂
﹁馬鹿馬鹿しい。そんなので魚が獲れるなら苦労はないさ。君のは
まぐれだよ、まぐれ﹂
﹁いいからやってみろって。ほら、あそこの奴らとか行けそうだろ﹂
にっと笑うマリアに﹁そんなのうまくいくわけないじゃない﹂な
どとぶつぶつ言いながら柚樹葉はタモ網を構え、すくいあげた。
網を引き寄せて、﹁あ﹂と声をこぼす。
﹁獲れてる⋮⋮二匹も﹂
﹁な?﹂
バケツの中に魚を入れる柚樹葉を見ながら楽しそうに笑うマリア
に﹁もう一回! もう一回!﹂と彼女はタモ網を握りしめて走り出
した。
その光景を見ながら巳令は口元に手をやった。
﹁あら、柚樹葉も一匹獲れたみたいですね﹂
﹁なんですと﹂
岩場に腰かけながら釣り糸を垂らしていたよもぎはむむ、と顔を
しかめた。
﹁くぅ、普段ならネットで検索かけて必勝法を探すというウチの必
殺技が封じられてしまった今、春風は自分の経験と知識からしか﹂
﹁そういえば梨花先輩は?﹂
﹁せめて最後まで聞いてくださいよみれー先輩﹂
がくっと項垂れてから、そういえばとよもぎは眉を寄せた。
﹁いませんね⋮⋮さっきまでそこでぼーっと釣り糸垂らしてたのに﹂
﹁ま、まさか流されちゃったとか⋮⋮﹂
﹁いや、いくらなんでも﹂
と言いかけてからよもぎは頭を抱えた。
﹁ありそうだなこんちくしょう! わにゃーとか言いながらどんぶ
263
らこっこされてそうだな梨花先輩!﹂
﹁ど、どうしましょう﹂
﹁どうしましょうって、探すしか︱︱﹂
﹁ど、どうしたの?﹂
背後から聞こえた声にばっと二人が振り返る。
そこに立っていたのは何故か土だらけの梨花だった。よもぎが叫
ぶ。
﹁いたー! 心配したんですよ!﹂
﹁え、あ、ご、ごめんなさい﹂
﹁というか、何してたんですか?﹂
巳令のもっともな質問に﹁えと﹂と梨花はしゅんと項垂れた。
﹁あの、エサ変えようかなーってミミズとか探してたらちょっと粘
土質の土があったからついついいじりたくなっちゃったっていうか、
楽しくなってきちゃったっていうか、うう、ごめんなさい⋮⋮﹂
﹁可愛いから全然いいですけどお魚獲りましょうね﹂
﹁ひゃい!﹂
巳令の言葉に声を裏返し、びくっと背筋を伸ばす梨花に﹁よしよ
し﹂とよもぎは頷いた。
辺りはまだ明るいものの支度もあるから終わりにしましょうとい
うベルの言葉で水の中から太李と南波の二人が出た頃にはバケツの
中は魚でいっぱいになっていた。
中身を覗き込みながら﹁これ、全部食えるのかな﹂と太李が不思
議そうに呟いていると﹁よっす﹂と満面の笑みを浮かべるマリアと
それとは対照的に疲れ切った表情でずるずる足を引きずっている柚
樹葉がやって来た。
﹁あら、マリア、どんな感じ?﹂
﹁いやーあたしらは全然駄目だったぜー﹂
264
ベルの問いかけにたははと笑うマリアの手元のバケツには大きめ
の魚が三匹入っているだけだった。
﹁だから、言ったじゃない、絶対、うまく、いかないって⋮⋮﹂
﹁なんだよーお前だって終始ノリノリだったじゃねーか﹂
ちぇっとつまらなさそうにマリアが顔を背ける。
﹁もう成果発表ですか?﹂
﹁おー鉢峰﹂
くすくすと楽しそうに微笑む巳令に太李が軽く手を振った。
﹁ならばはい、どーん!﹂
楽しそうにバケツを置いたのはよもぎだった。その中には小さめ
の魚がうろうろと泳いでいる。
﹁随分釣ったな﹂
﹁いやーほとんど梨花先輩なんですけどね﹂
南波の言葉にえへへとよもぎが笑って返す。
﹁ということはあとはっと。あ、来た来た﹂
ベルが手を振る先に居たのは重たそうにクーラーボックスを担い
だ鈴丸だった。
﹁あ、鈴パパおかえりなさい!﹂
﹁誰がパパじゃ誰が﹂
よもぎの言葉に不満げに返しながら肩からクーラーボックスを下
ろす彼に﹁開けてもいいか?﹂とマリア。
﹁おう。あんま期待すんなよ﹂
﹁んー﹂
マリアが開けたクーラーボックスの中には大小さまざまな魚が詰
め込まれた。
﹁うわ、充分じゃねぇか﹂
﹁そうか? すっかり腕が落ちたよ俺も﹂
本気でがっかりした様子の鈴丸に﹁こえーお前超こえー﹂とマリ
アが苦笑した。
﹁まぁ、夕飯に困ることはなさそうだし。着替えて下ごしらえしま
265
しょっか﹂
ふふっと微笑んだベルが今日は一段と楽しそうに見える。マリア
はそう思った。
日もすっかり落ちた頃にようやく全ての調理が終わったといった
ところだった。
それなりの大きさがある魚は焚き火で塩焼きにして、小さめの魚
は唐揚げやホイル焼きにされた。
その料理の数々を見ながらどうしようか迷ってから唐揚げを頬張
って幸せそうに微笑む梨花は﹁そ、そういえば﹂と思い出したかの
ようにベルに問う。
﹁お風呂ってどうするんですか?﹂
﹁近くに温泉があるの。そこに行こうかと思ってるのよ﹂
﹁温泉!﹂
がっとよもぎが身を乗り出した。
﹁いいですねー温泉、ていうか益海先輩、それ何気、ウチが育てた
魚ですけど﹂
﹁食わなかった方が悪い﹂
﹁この人はいけしゃあしゃあと﹂
もぐもぐと塩焼きを南波に冷たい視線を送るよもぎに﹁おら﹂と
マリアが串刺しの魚を一本差し出した。
﹁やる。こんなとこでまで喧嘩すんな﹂
﹁うー面目ない﹂
﹁益海もだ﹂
﹁別﹂
﹁ま、す、み?﹂
﹁⋮⋮はい﹂
自分に圧され、渋々返事する南波ににっとマリアは口の端を引き
266
上げた。
そんな中、うーと低い唸り声が響く。声の主は柚樹葉の腕の中に
居たスペーメだった。
﹁スペーメもお腹空いたです! 腹ペコなのです!﹂
﹁あ、そういえば君、今日充電まだだったね﹂
じーっとスペーメを見つめながら柚樹葉がぼそっと告げる。
﹁どうせうるさいんだし、このまま充電切れにしても﹂
﹁なんてこと言うですか! このロボット殺し!﹂
﹁充電すればいくらでも再起動できるでしょ、君は﹂
そう言いながらカバンを漁った柚樹葉は﹁あ、しまった、バッテ
リー、車の中だ。取りに行くの面倒くさい﹂と顔をしかめた。
﹁な、どうしてそう準備が悪いですか!﹂
﹁しょうがないじゃん、バッテリー自体は水に濡れたらおじゃんな
んだから﹂
﹁防水加工しやがれです!﹂
﹁うっせうっせ﹂
言い争う一人と一体を見て﹁じゃあ私が取ってきましょうか﹂と
巳令が首を傾げた。
﹁お、いいの?﹂
﹁はい。散歩ついでだと思えば﹂
﹁さすが鉢かづき! 話が分かるのです!﹂
ぴょんと巳令の腕の中に飛び込んだスペーメはそのまま丸くなっ
た。
そんなスペーメを見ながらくすくすと巳令が笑う。
﹁というわけなので、車の鍵、貸して貰えますか?﹂
﹁ん﹂
ぽいっと鈴丸が鍵を放り投げ、それを受け取った巳令は﹁それじ
ゃあ、すぐ戻りますね﹂と背を向けた。
彼女の背中が暗闇の中に見えなくなったところで一部の視線が太
李に集まった。魚に噛り付きながらさっと目を逸らす。
267
﹁なんで一斉に俺を見るの﹂
﹁あら、だって、ねぇ?﹂
んふ、と楽しそうにベルが微笑んだ。
忙しそうに魚を口に運んでいた梨花は今までの流れをあまり理解
していなかったようでおろおろと視線を泳がせている。そんな彼女
を見ながら﹁ほら、梨花、口元。ついてるついてる﹂とマリアが楽
しそうにタオルで彼女の口元を拭った。
﹁灰尾先輩、春風、夜道に女の子一人歩きさせるのはどうかと思う
んです﹂
﹁じゃあ何も俺じゃなくっても﹂
よもぎの言葉にすっと南波と鈴丸に太李が視線を向ける。
﹁俺は魚を食うのに忙しいから﹂
﹁うん、ウチの魚ですけどね﹂
﹁いや、俺は梨花を見つめるのに忙しいから﹂
﹁何がなんでも俺に行かせる気だなあんたら﹂
わざとらしい二人の言い訳に太李は深く溜め息を吐いた。
﹁分かった、わーったよ。行けばいいんでしょ、行けば﹂
﹁駄目よ太李くん、ほら笑って笑って﹂
自分の口の端を両方とも人差し指で押し上げながらベルは目を細
めた。
ははと力なく笑いながら立ち上がった太李が巳令の後を追ってい
く。うーむ、とよもぎが唸る。
﹁あれで付き合ってないとは﹂
﹁ふぇ? あの二人付き合ってないの?﹂
﹁ああ、お魚大好きな梨花先輩の目にすらもうカップルに見えてた
んですね﹂
ふぅ、と疲れたように息を吐くよもぎにお人よしだなぁ、と柚樹
葉は心の中で呟いた。
﹁まぁ、灰尾先輩をからかうのはそれなりにおもしろ﹂
とそこまで言いかけて、よもぎはすでに二匹目に伸びかけていた
268
南波の手をぱしんと振り払った。
﹁だーらそれウチが育ててる奴ですってば! なんでウチのばっか
り狙ってるんですか!﹂
﹁俺の目の前にあるから﹂
﹁なんですかその勝手すぎる理屈!﹂
﹁先輩は敬え、春風﹂
﹁むっきー! 今日という今日は春風怒りますよー!﹂
ぐぐぐっと取っ組み合いを始める南波とよもぎを見ながら二人も
そうなんだけどなぁ、と思いつつ梨花はまた魚に噛り付いた。
ぽつんぽつんと街灯が置かれただけの道を歩きながら巳令は空を
見上げた。
墨を流したような真っ黒な空に降ってきそうだと錯覚しそうなほ
どの数の星がきらめいていた。生暖かい風に吹かれながら巳令は目
を細めた。
﹁綺麗ですね﹂
﹁そうですか? 星なんてちょっとなら別に家からでも見えるので
す﹂
﹁スペーメはロマンがありませんね﹂
むすーっと頬を膨らませながら夜道を進む巳令に﹁鉢かづき、こ
こに来てからずっと楽しそうなのです﹂とぼそりと告げた。
﹁だって楽しいじゃないですか﹂
﹁というより最近はずっと楽しそうなのです﹂
静かな夏の夜にやけに響くスペーメの声に巳令は﹁え?﹂と聞き
返すだけだった。
﹁前はずーっと仏頂面して、ただディスペアを倒すだけだったのに
最近は変わったです。とっても楽しいそうなのです。鉢かづきが楽
しそうだから柚樹葉まで楽しそうなのです﹂
269
﹁そうですか?﹂
巳令の問いにはいです、とスペーメは短い首を上下させた。
﹁シンデレラが来てからです﹂
そんなスペーメの言葉に巳令は足を止めた。
﹁そう、ですね﹂
﹁そんなに仲間ができたことが嬉しかったです?﹂
﹁⋮⋮勿論、それもあります、けど﹂
ぎゅっとスペーメを抱き締めながら巳令は小さく笑った。
彼女の頭の中に浮かんでいたのは太李が転校してきたその日のこ
とだった。
﹁灰尾とはじめて会った日に、私、彼に助けて貰ったでしょう? それが、なんだかとっても嬉しくて﹂
そこに居たシンデレラは凛々しくもなければお世辞にもかっこい
いとは言えなかったろうと巳令は今でも思う。あのとき勝てたのだ
って奇跡に近い。
﹁ずっと疑問だったんです、私は誰かを助けているかもしれないけ
れど、じゃあ私を助けてくれる人はどこにいるんだろうって。そん
なことを考えて戦ってる自分がなんだかとても自分勝手なように思
えて、大嫌いで。でもやっぱり戦ってることしかできなくて﹂
でもあの日、と巳令はスペーメの体に顔を押し付けた。
﹁凄く勝手だけど、彼はもしかしたら私が求めていた、私がなりた
かったヒーローなんじゃないかなって。こんな自分勝手な私すら守
ってくれる人がいるんだって思って、なんだか嬉しくなって。私も
彼を守りたくて﹂
ようやく歩を進めながら彼女は続けた。
﹁クラスメイトとして過ごして、仲間として過ごして、私はそんな
ヒーローが大好きなんだなって﹂
﹁好きなのですか?﹂
スペーメの小さな声に巳令は大きく頷いた。
﹁大好きです。私、灰尾のことが好きみたいです﹂
270
﹁それはきっと恋なのです﹂
﹁そうですね、憧れと一緒に恋慕しちゃったみたいです﹂
ふふっと含みのある笑みを浮かべる巳令は﹁この話、誰にもしち
ゃ駄目ですよ﹂とスペーメの頭を撫でた。
心地よさそうにスペーメは目を細めた。
﹁心配しなくてもシンデレラ以外にはバレバレなのです﹂
﹁マジですか?﹂
﹁マジなのです﹂
﹁⋮⋮それはちょっと恥ずかしいですね﹂
頬を赤らめながら巳令は顔を俯かせた。
一瞬で足に力が入らなくなるのが太李にはよく分かった。
へなへなとその場にへたり込みながら混乱する頭を押さえる。
︱︱私、灰尾のことが好きみたいです。
盗み聞くつもりはなかった。追いつこうとして距離を詰めたら偶
然聞こえただけである。そんな偶然の言葉がぐるぐると彼の思考回
路に絡みつく。
好き? 巳令が自分のことを? そんな馬鹿なと思いながらも、
しかし彼女がスペーメ相手に嘘を吐くとも到底思えず、嘘を吐いて
いるようにも見えなかった。
胸の外へ飛び出さんばかりに動く心臓の音が彼の鼓膜にこびり付
いた。
夏の生ぬるい空気が今の太李には冷たく感じられた。
271
第十五話﹁青春かと思っていたらなんだか組織を巻き込んだ壮大に厄介な話にな
空っぽの桶が床に当たった音が天井や壁に反響して大きく響く。
自分たち以外の人がいなかったことで尚更大きく聞こえるのだろ
うと思いつつ巳令は自分の頭を覆っていた泡を一気に洗い流した。
ぱちっと目を開くと白いタイルが反射する光がまぶしくてついつ
い彼女はまた目を閉じた。そんな彼女におお、とよもぎが歓声をあ
げる。
﹁みれー先輩、やっぱ髪すっごい綺麗ですよね﹂
﹁え、そうですか?﹂
黒い髪を耳にかけながら巳令が首を傾げるとよもぎがこくこくと
頷いた。
﹁やっぱり綺麗な黒髪っていいですよねー。ウチなんて茶髪に染め
てるから大分痛んでるし。どーせ痛むならもっと別の色に染めれば
よかったなぁ、似合わないし﹂
﹁よもぎさんだって充分茶髪似合ってますよ﹂
﹁恐縮っす﹂
にこっと笑うよもぎは﹁いやはや、それにしても﹂と後ろに振り
返った。
﹁髪ほどいた梨花先輩もげきかわっすね﹂
﹁ふぇ?﹂
シャワーを止めながら梨花がゆっくりと振り返った。
﹁そ、そんなことは﹂
﹁しかも肌もスベスベだし、あー自分が男だったらこういうきゃわ
いい彼女が欲しいです﹂
﹁くすぐったいよぉ、よもぎさん﹂
すりすりと頬ずりするよもぎに梨花が困ったように微笑んだ。
手元のスポンジで泡を立てながら巳令がくすくすと笑い、左隣に
いた柚樹葉に問いかける。
272
﹁そうだ、柚樹葉。背中流してあげましょっか﹂
﹁うわ、なるべく君らに関わらないようにしてたのに﹂
顔を引きつらせる彼女の後ろに回り込みながら﹁まぁまぁ﹂と巳
令は泡の立ったスポンジを押し当てる。むすーっと不満げな柚樹葉
に﹁いつも頑張ってるんですから背中くらい流させてください﹂と
巳令が微笑む。
どうやら悪い気はしなかったようでふん、と柚樹葉は顔を逸らす。
﹁そこまで言うなら、まぁ、いいけど?﹂
﹁ありがとうございます﹂
ふふ、と巳令が笑い声をこぼすのと同時にマリアの叫び声が響く。
﹁んだぁ、いいって! 自分でやるっつってんだろ!﹂
そんな叫び声にも動じずにマリアの髪を泡立てていたベルが楽し
げに告げる。
﹁んもー遠慮しないの。ほら、目、閉じないと泡が入っちゃうぞー﹂
﹁てっめぇマジ覚えてろよ!﹂
そう言いながらぎゅっと目を閉じ、口を結ぶマリアに照れ屋なん
だからと心の中で呟きつつベルはその泡をシャワーで洗い流した。
白銀の髪が水と一緒にきらきらと光を反射する。いいわよー、と
ベルが洗い流したことを伝えるとマリアは勢いよく頭を左右に振っ
た。
﹁あなたね、犬じゃないんだから﹂
﹁うっせーうっせー!﹂
顔を手で覆いながらぷはーとマリアが息をついた。
それから少しして、多少は涼しい夜風に吹かれながら露天風呂の
湯に浸かった柚樹葉が﹁あー﹂と濁点がつきそうなほど気持ちよさ
そうな声をあげ、空を見上げた。
自分の中に溜まっていた疲れが湯の中に溶けだしていくような感
覚を覚えながら彼女は大きく息を吐いた。
﹁生き返るー﹂
273
﹁おっさんかよ﹂
けらけら笑いながらマリアも肩まで湯に浸かり目を細めた。
ぐぐーっと湯の中で手と足を伸ばしながら梨花が小さく左右に揺
れ、適当なメロディを口ずさみだした。
﹁おーふろーはきもちーなみーんなでたのしーなふんふんふー﹂
即興と思われるその歌に堪えきれなかったのか巳令の顔に笑みが
咲く。
﹁梨花先輩、なんですかその歌﹂
﹁お、お風呂の歌﹂
恥ずかしそうに顔を俯かせる梨花に巳令は﹁先輩らしいですね﹂
とだけ告げた。
夜空に輝く星たちを見上げながら﹁こんなに気持ちいいのにスペ
ちゃんだけ入れないだなんてちょっと可哀想ですね﹂柚樹葉は首を
軽く左右に振った。
﹁別にあのデブは大丈夫だよ。せっかく耐水加工してやったのに風
呂嫌いだし﹂
﹁ええー﹂
それは面白くないなーとよもぎは小さく笑った。
そんなやり取りを聞きながら温泉の効能が書かれた立札を眺めな
がらベルがぼそりと呟いた。
﹁ここで汗流したら少しは痩せるかしら⋮⋮﹂
全員が、思わず自分の体を見つめていた。
ぶくぶくと湯船の中に浸かりながら未だに混乱したままの頭をフ
ル回転させて太李は今、自分が置かれている状況を整理していた。
巳令が自分のことを好きと言っていた。その事実は例え本人の口
から聞いたとしてもまだ彼の中で現実味を帯びていない。
聞き間違いだったのかもしれない。そんな希望的観測が頭をよぎ
274
る。
その事実だけでも混乱していたのに偶然とはいえ、事実だとした
らこの合宿に来ているメンバーの中で一番自分が聞いてはいけなか
った内容を、偶然とはいえ立ち聞いてしまった罪悪感が彼を蝕んで
さらに混乱させていた。
悩ましそうに一人唸る彼を見ながら﹁何あの面白いの﹂と鈴丸が
笑う。
﹁さあ、大方鉢峰と何かあったんだろう﹂
﹁違うわアホ!﹂
南波にお湯を引っかけながらふいっと太李はそっぽを向いた。い
や、違わない。違わないのだが。
太李の態度に鈴丸はぽんと手を叩くと彼の元に近付いた。
﹁そうだ、俺、お前に合宿に来たら詳しく根掘り葉掘り聞かせてね
ってお願いしてたよね﹂
﹁いいですよなんて言った覚えありませんけどね﹂
しかもよりによってこのタイミングとは。
顔を引きつらせる彼に﹁んじゃ、一つ凄く簡単な質問をしようか﹂
と鈴丸はにっと口角をあげた。
﹁お前は結局のところ巳令が好きなのか? 嫌いなのか? そして
それは、恋愛的な好意なのか否か﹂
好きか嫌いかで問われれば、彼は間違いなく、そして迷うことな
く巳令が好きだと答えるだろう。
ではその好意の正体がなんなのか。その部分に太李は引っかかっ
ていた。
巳令を仲間として信頼していることに違いはなかった。一番最初
に仲間になって、それ以来、共に戦い続けた大切な仲間だ。彼にと
っては梨花とはまた違った意味の頼れる先輩でもある。
異性として鉢峰巳令を見たとき、彼は自分が彼女をどう思ってい
るのかがよく分からなかった。巳令に好きだと言われたとき、悪い
気は起きなかったがそれだけで彼女を好きだと断定できるとは思え
275
なかった。
それにどちらかといえば、彼女の思考を占めていたのは彼女が自
分を好きだ云々よりも立ち聞いてしまったことに対してどうしよう
かという悩みだった。
そこでふと、あれ、と太李は自分の頬を手で覆った。巳令に立ち
聞いてしまったことを知られることを必要以上に恐れている自分が
いるような気がしたからである。
どうして、と考えれば答えはすぐに出てきた。実に単純だ。彼女
に嫌われたくない。嫌われることが怖いのだ。
それは何故か。堂々巡りのような思考の末に得た答えに﹁ああ!﹂
と叫んだ太李はずるずると湯船の中に沈んでいった。
だらだらと汗が湧き出てくる。それはきっと、風呂が暑いからと
いうだけではないと彼は思った。
﹁お、俺、あの﹂
﹁あーうんいいよ、大体分かった﹂
今にも目を回して溺れそうな太李を手で制しながら鈴丸は頭を抱
えた。
﹁とにかく、その感情をあとはどうするかはお前次第だ﹂
﹁は、はぁ﹂
﹁持て余すもよし、ぶつけるもよし、好きにしろ。その代わり問題
は起こしてくれるなよ、俺の責任問題になりかねん﹂
それだけ、と鈴丸は嫌に楽しそうに告げた。
﹁んじゃ、俺上がるけど。お前らどうする?﹂
鈴丸の言葉に南波は黙って立ち上がり、太李は﹁もう少しだけ﹂
と息を吐いた。
太李が男湯ののれんをくぐり、外に出ると荷物を抱えた巳令が壁
によりかかってどこかを見上げていた。
276
その光景にぎょっとしつつも、彼は一度深く息を吸い込んで吐き
出してから手を軽く上げた。
﹁よう﹂
彼の声に巳令が顔を上げ、小さく微笑む。
﹁随分長風呂でしたね﹂
﹁ちょっと考え事﹂
軽く笑いながら﹁他は?﹂と問いかければ巳令がすぐに返答をよ
こしてくる。
﹁先に行っちゃいました﹂
﹁⋮⋮待っててくれたんだ﹂
﹁迷惑でしたか?﹂
わずかに目を伏せる彼女に太李が慌てて首を左右に振る。
﹁いや、そんなことはちっともないぞ! むしろ、嬉しいくらいだ、
うん﹂
﹁よかった﹂
心の底からほっとしたように巳令がふにゃりと笑う。そんな一挙
一動がいちいち彼の心を揺るがした。
少しずつ歩を進めながら話題がないのは嫌だったのか巳令はぽつ
りと、﹁今日はよく眠れそうです﹂
﹁そうだな﹂
俺は正直そうでもなさそうだけど。
そんなことを思いつつ太李は息を吸い込んだ。
﹁あ、そういえば、聞いてくださいよ、よもぎさんったらね﹂
﹁あのさ、鉢峰﹂
巳令の言葉を遮って、太李は彼女の名を呼んだ。
彼女はぱちぱちと瞬きしてからやがて、こてんと首を傾げた。
﹁はい?﹂
﹁その、俺、隠し事とか苦手だし、ずっと黙っていられるよりお前
もいいだろうと思って話すんだけど﹂
﹁なんですか?﹂
277
きょとんとする彼女に太李はきっぱり告げた。
﹁その、スペーメのバッテリー取りに行ってたとき、偶然、話が聞
こえちゃったというか。ほんと、わざとじゃなかったっていうか﹂
﹁へ?﹂
驚きのあまり、足を止め、目を見開いたまま固まった巳令はぱし
ぱしとしきりに瞬きを繰り返す。
やがて、それがどういう意味かを理解したのか外気にさらされて
冷めていたはずの頬が真っ赤に染まり、驚きと恥ずかしさをごちゃ
混ぜにした表情を浮かべた。
いたたまれなくなってくるっと彼に背を向けながら﹁あ、あれは
違﹂と今にも逃げ出そうとする。
その腕を掴みながら慌てて太李がそれを止める。
﹁や、ちょっと待て! とりあえず鉢峰の言い訳は後で聞く。黙っ
て聞いてたのも悪かった。だからひとまず俺の話を一回聞いていた
だくわけには参りませんでしょうか!﹂
勢い余って敬語になった彼の言葉に巳令の動きがぴたりと止まっ
た。
少し間を置いてからこくんと巳令が頷く。
﹁お、おおうありがとう⋮⋮﹂
ぱっと巳令の細い腕を離してから太李はわざとらしく咳払いをし
た。
何から話せばいいのだろう。考えをまとめながら彼は必死に言葉
を紡いだ。
﹁えと、まず、うん、嬉しかった。鉢峰が、俺のことをああいう風
に見てくれてるんだって思うとすげー嬉しかったし、誇らしいくら
いで﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何かを言いたいのか、ぱくぱくと巳令が口を開け閉めする。
しかし、それに構っていられるほどの余裕も今の太李にはない。
﹁前も言ったけど、俺は、お前のことカッコいいと今でも思ってる。
278
カッコいいし、美人だし、最近は、その、可愛いなぁとも思ったり
しないでもない﹂
じっと彼女の目を見ながら話すのが苦しくて、太李は彼女から視
線を逸らした。
相手に聞こえるのではなかろうかと思うほど、心臓の音が彼の耳
にこびり付いた。
﹁あのな、鉢峰、俺は︱︱﹂
そこまで言いかけたとき、﹁シンデレラー! 鉢かづきー!﹂と
いう声と共に何かが太李の顔面に衝突した。
よろけながら、柔らかいそれがスペーメであるということを彼は
すぐに理解した。顔から引きはがして﹁な、なんだよ!﹂と彼は取
り繕った。
﹁ディスペア! ディスペア出たです! しかもこの近くで!﹂
こんな最悪のタイミングでか、と太李は頭を抱えたくなった。
しかし、それより早く溜め息を吐いた巳令が﹁分かりました﹂と
頷いた。
﹁灰尾﹂
﹁は、はい!﹂
﹁即効で片付けて、話の続き、聞かせてください﹂
顔を俯かせながらそう言った彼女に太李は大きく頷いた。
﹁お、おうよ!﹂
﹁随分都合がよすぎるんじゃない?﹂
カタカタと膝の上にのせたパソコンのキーボードを打ちながら柚
279
樹葉は隣にいるベルに問いかけた。
彼女は乾かしたばかりのオレンジ色の髪を振り払いながら﹁なん
のことかしら﹂と告げる。それが柚樹葉には異常なまでに白々しく
感じられた。
﹁こうも運よくディスペアの出現地点に私たちがいることが、だよ。
小説やアニメじゃあるまいし出来過ぎた話だと思って﹂
﹁事実は小説より奇なりってよく言うでしょ?﹂
くすっと笑うベルに柚樹葉はふーんとこぼした。
パソコンの小さな画面ではカマキリ型のディスペアとフェエーリ
コ・クインテット、そしてマリアが交戦しているところだった。
小さなホテルの目の前でディスペアを蹴り飛ばす南波の姿を見な
がら柚樹葉は眉を寄せた。
画面の端に何かがちらついて見える。大きなカマにレイピアを受
け止められて、吹っ飛ばされながら着地した太李を見てから柚樹葉
は通信機を引っ掴んだ。
﹁ちょっと待って、もう一体いる!﹂
そう彼女が叫んだ時にはもう遅く、目の前に現れた牛型のディス
ペアに太李が後ろ足で蹴り飛ばされた。
吹っ飛ばされ、近くの茂みへと滑り込んでいく太李を見ながらよ
もぎが叫ぶ。
﹁シンデレラ先輩!﹂
助けに行こうとして自分目がけて突進してくる牛型に彼女は地面
を蹴り上げ、飛び上がった。
そのまま空中で矢をつがえ、放つ。降り注いでくる矢が命中する
のを見ながら地面に着地した彼女は今度はカマキリ型がふりかぶっ
たカマを間一髪のところでしゃがんでかわす。
﹁こ、こえぇよおい﹂
280
﹁く⋮⋮﹂
カマキリとの間合いを詰め、巳令が鞘から刀を抜いて斬り付ける。
青黒い体液を出しながらよろめく体を睨み付けながら﹁厄介ですね﹂
と溜め息を吐いた。
一方、吹っ飛ばされた太李は木に衝突した痛みで顔を歪めていた。
﹁もう一体いたのかよ⋮⋮﹂
一人で呟きながらなんとか起き上がった彼は再び、戦闘へ戻ろう
とレイピアを構えた。
しかし、彼が一歩踏み出す前にどこからか、叫び声が聞こえた。
小さな子供の、泣き声が入り混じった声だった。
もしかしたら適応者がいたのかもしれない、と彼は辺りを見渡し
てから目を見開いた。
まだ十歳程度の少女を担ぎながら黒服の男がトラックの荷台に乗
り込むのが見える。
どうしようか、と迷ってから彼はその後を追って、荷台の中に飛
び乗った。
相手はα型だ、そう聞いてすぐさま動いたのはマリアだった。
鈴丸がよこしてきたランチャーに弾を装填して構えると﹁二体ま
とめて、あたしと親指の技でぶっ潰す﹂と言い放った。
充分な火力だろう、となれば。その言葉の聞くなり﹁了解です﹂
と巳令はカマキリに対して軽く一撃を加えた。
ぎ、と歪な声をあげるそれに彼女は挑発的に﹁ほら﹂と両手を広
げた。
﹁こっちですよ﹂
ぎぃ! 短く叫んでカマキリが巳令のいる場所に飛びかかる。
281
そこで南波の方も﹁いばら﹂とよもぎに振り返る。彼女は黙って
頷くと一本だけ牛に向かって南波の後ろから矢を放った。
びくっと体を震わせて、二人の方を向く。それに怯まず、彼は堂
々と告げる。
﹁こっちだ、単細胞﹂
大きく鳴いた牛が南波に向かって突進する。
それを南波が跳びあがってかわすと二体の影が重なる。
﹁親指、行くぞ!﹂
﹁はい!﹂
マリアの言葉に梨花が斧を大きく振りかぶり、投げる。
巨大な斧に傷つけられたと同時にマリアの弾が直撃する。
煙が晴れた頃には、二体は跡形もなく消え去っていた。
倒れ込んだ男を見ながら太李は﹁大丈夫?﹂と少女に声をかけた。
彼女は震えながら小さく頷いた。
殺してはいない。単に当て身を当てただけだ。恐らくしばらくし
たら目を覚ますことだろう。鈴丸の訓練を受けていてよかったと彼
は心の底から安心していた。
しかし、この怪物騒ぎにかこつけて女児誘拐とは許せない奴め、
と心の中で吐き捨てつつ太李は少女に手を伸ばした。
﹁行こう﹂
彼女がこくんと頷いて手袋のはめられていた太李の手をぎゅっと
握りしめた。
その手を握り返しながら太李がくるりと振り返った、まさにその
ときだった。
軋むような音を立てながらトラックの荷台の扉が閉まった。な、
と太李が駆け出したときには遅く、完全に金属の扉で閉ざされてし
282
まった。
いや、それなら、と彼は暗闇の中でもう片方の手で持っていたレ
イピアを握りしめる。簡単だ。この力があれば恐らくここを突破で
きるだろう。
﹁ちょっとごめんな﹂と優しく声をかけ、太李がレイピアを構えた。
刹那、ごとんと大きな音と共に車体が揺れる。
﹁うお﹂
咄嗟のことでバランスがとり切れず、太李がその場に倒れ込む。
その後も不安定に揺れ続ける車と体を襲う奇妙な浮遊感。太李は
このトラックが単に走っているわけではないと直感的に感じた。
だとしたら、自分だけならともかく小さな子供がいる中で扉を破
壊しない方ではいいのではないだろうかと立ち止まった。
﹁お姉さん⋮⋮﹂
不安げな少女の声に﹁ああ、そうか俺はお姉さんに見えるよなぁ﹂
と思いながら﹁大丈夫だよ﹂と見つけ出した彼女の手をもう一度握
りしめた。
突然響いた轟音がヘリコプターの大気を切るブレードの音だと鈴
丸が気付いたのは太李を探して茂みの方へと駆けて行った四人の背
を見送った直後だった。
﹁鈴、あれ!﹂
﹁あ?﹂
興奮気味のマリアの指差す先には大型ヘリが一台のトラックをワ
イヤーで吊りあげて空へ飛び立っている光景だった。
茂みから四人が慌てた様子で出てきた。
﹁す、鈴さん! マリアさん! あ、あの、ヘリコプターがトラッ
ク一本釣りであの、その!﹂
﹁ああ、見えてる﹂
283
よもぎの言葉に鈴丸が顔をしかめる。
泡夢財団のヘリだとは彼にはとても思えなかった。もしそうだと
してもなんのためにここにいる。はっとした様子で巳令が呟く。
﹁ま、まさか灰尾があそこにいるなんてこと﹂
その場にいた全員が揃ってヘリコプターを見る。
﹁なぁ、鈴、どう思う。この距離からあたしのランチャー当たると
思うか?﹂
﹁やめなさい﹂
無線からベルの声が響く。
でも、と言葉を詰まらせるマリアに﹁落ち着け、万が一トラック
に当たったら一大事だ﹂と鈴丸も彼女をなだめる。
いるとしたらトラックの中。今ここで見つからないのも頷ける。
﹁まずいね﹂
柚樹葉の声が無線から次いで響く。
﹁チェンジャーの発信機の反応が移動し続けてる、ヘリが飛んで行
ったのと同じ方向へ﹂
無線越しの彼女の声に全員が目を見開いた。
﹁どうするんだ九条﹂
﹁待って、今考えてる!﹂
南波の声に苛立った風に柚樹葉が返す。
﹁ひとまず泡夢財団に戻りましょう。発信機がある限り、見失うこ
ともない。今ヘリを手配するわ﹂
一拍置いて、響いたベルの声に全員が固まった。
泡夢財団の本部では深夜にも関わらず人がばたばたと行きかって
いた。
財団あげての一大プロジェクトであるディスペア殲滅における変
身者がさらわれてしまったという報告に、その処理に追われていた
284
のだ。
主任である九鬼は奥歯を噛み締めながら現場から帰ってきたとい
う面子に話をするために長い廊下を歩いていた。
休憩所の扉を開けば、普段モニター越しで見ている高校生たちや
傭兵が一斉に自分に視線を向けた。
﹁九鬼さん﹂
﹁話は聞いた﹂
重苦しい彼の声に九鬼に呼びかけたベルは視線を下に向けた。
九鬼は間を空けながら実にわざとらしく躊躇って、言葉を続けた。
﹁灰尾太李の救出はひとまず保留となった﹂
がたんと巳令が勢いよく立ち上がった。
てっきり、自分たちが今すぐにでも助けに行けると思っていたの
だ。他の面々も同じようにその顔に動揺を浮かべている。
﹁どうして⋮⋮﹂
﹁この間にもディスペアが出現しないとも限らない。情報もまだ確
定していない。そんな危険な状態で向かわせることはできない﹂
彼の言葉に巳令は怒りすら覚えた。太李の方がよほど危ないのに。
ぐいっとマリアが九鬼の襟首を掴み上げた。
﹁てめぇ﹂
﹁マリア、やめなさい﹂
ベルの制止も聞かず、マリアは鋭い碧眼を彼に向けた。
﹁ふざけんじゃねぇ、あいつを見捨てろってことか。このまま何も
せずに指くわえて待ってろってか﹂
﹁そうは言ってない﹂
﹁言ってるようなもんだろうが!﹂
ぎゅっとマリアの手に力がこもる。それに一切構わずに彼はまた
続けた。
﹁それから、今この場を持って、蒲生鈴丸、柊・マリア・エレミー・
惣波両名をこのプロジェクトから解任する﹂
さすがに力が抜けたとばかりにぱっとマリアが九鬼から手を離す。
285
﹁どういうことだよ⋮⋮﹂
﹁言葉のままだ。もっと簡潔に言うならクビだ﹂
﹁なん、だよ、それ﹂
すっかり力の抜けた様子のマリアを見ながら鈴丸が小さく舌打ち
する。
この状況でどう動くか分からない自分たちを置いておくほどこの
おっさんも馬鹿ではなかったか、と鈴丸はポケットから泡夢財団か
ら渡されていたIDを取り出した。
それを机の上に思いっきり叩き付けると﹁今までの分の報酬は払
え。んで二度と俺の前に顔みせんなクソ親父﹂と吐き捨てた。
﹁す、鈴丸さん⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮わりぃな、俺にもできないことがあった﹂
バツが悪そうにそう梨花に告げ、鈴丸はそれ以上何も言わずに休
憩所から出て行った。
マリアも同じようにポケットからIDを取り出すと﹁クソったれ
!﹂と叫んで駆け出して行った。
﹁君らを思ってのことだ。ひとまずこの場で待機していてくれ﹂
明らかに作られた優しい声音に吐き気がすると南波は顔をしかめ、
よもぎは聞こえないように舌打ちした。梨花はしゅんと肩を落とし、
巳令は彼を精一杯睨み付けた。
そんなことされても、もうあなたはなんとも思わないんでしょう
ねとベルは小さく息を吐いた。
286
第十六話﹁俺は五人揃ってクインテットという当たり前のことを知ったようです
かたかたと忙しくキーボードを打つ柚樹葉の耳にかすかにベルの
声が届いた。
﹁本当にこのまま、灰尾太李を放っておくおつもりですか?﹂
スペーメがわずかに頭をあげて、彼女はその頭を無理やり押さえ
つけた。
少し間を空けてから九鬼がそれに答えた。
﹁一人くらいいなくなっても問題なかろう﹂
それが本音か。
手を止めた柚樹葉はぐぐっと腕を伸ばした。二人の会話は聞いて
いないということを示すための無意味なアピールだった。
﹁適応者だって他にいないわけじゃあない、代わりはいくらでもい
る﹂
﹁ですが﹂
﹁ベルガモット﹂
ぐいっと九鬼がベルを引き寄せた。
うえと顔をしかめた柚樹葉が立ち上がり、椅子にかけていた白衣
を拾い上げる。
﹁君は優秀だ。だから君は残したんだ。俺をがっかりさせないでく
れ﹂
その言葉にベルはにっこり笑みを浮かべながら﹁勿論ですわ﹂と
だけ答えてみせた。
くだらない。どいつもこいつも。
白衣の袖に腕を通し終えた彼女はぽんぽんと自分の肩を叩いた。
乗れという合図だと気付いてスペーメはそこに飛び乗った。
287
日が明け、どれほどの時間が経ったのかももはや彼らには分から
ない。待機を言い渡された四人が取り残された休憩所にはただ重苦
しい空気が漂っている。
ずっと固まっていたような気もすれば、少しだけ眠っていたよう
な気もする。一体今までの時間をどうやって過ごしていたかは四人
ともよく分かってはいなかった。
どうして自分たちが行ってはいけないのだろう、そんな思いでい
っぱいだった。
確かに九鬼の言い分は全てを否定できるほど無茶苦茶なものでは
なかった。必要以上の危険に自分たちの身を晒し、全滅を避けるべ
きなのも分かっていたし、もし万が一ディスペアが出現した時にそ
ちらを放っておいていいはずもない。
そう頭で理解していても、我慢できるかといえばそうではなかっ
た。
太李は今どうなっているのかも分からないのに自分たちだけがこ
うして安全な場所にいる。それが許せないことのように思えてなら
なかった。
自分たちには何もできない。そんな虚無感がじわじわと四人を蝕
んだ。
膝を抱え、顔を俯かせていた巳令が扉の開く音を聞いた。そこに
立っていたのは白衣をわずかに揺らし、肩にスペーメを乗せた柚樹
葉だった。
机の上に並べられた手の付けられていない食事を見つめてから彼
女は中に進み、椅子に腰かけるとそこではじめて口を開いた。
﹁残念ながら、私は君たちに灰尾太李がどこにいるかを教えること
はできない。私も我が身が可愛いからね、そう簡単に組織には逆ら
えないよ﹂
がたっと南波が立ち上がった。その手を引きながらよもぎはふる
ふると首を左右に振った。
それに構わず、柚樹葉の言葉が淀みなく続いた。
288
﹁だから今から私が言うのは全て独り言だよ﹂
巳令がわずかに顔をそちらに向ける。ふぅ、と息を吐きながらぼ
さぼさの髪をいじって柚樹葉は言う。
﹁シンデレラのチェンジャーについていた発信機の反応がある一定
の座標で拾えなくなった﹂
わざとらしく両手を広げながら彼女が続ける。
﹁でもあのチェンジャーはね、そうそう簡単には壊れたりしない。
勿論追尾機能が阻まれることだってない。ではなぜか。恐らくは電
波を阻害されている﹂
こんこんと机を叩きながら﹁簡単だよね、通信が遮断されるエリ
アに彼はいて、そんなものが作れる連中の元にいることくらい﹂
じゃあ、とよもぎが柚樹葉をちらと見た。それでも彼女はそれを
聞かなかったことにして続けた。
﹁灰尾太李は恐らく、敵の基地にいる。少なからず私はそう見てい
る。そして状況は最悪だとも思ってる﹂
白衣のポケットを探ってから柚樹葉は一枚の紙を机の上に置いて
立ち上がった。スペーメがわざとらしく言う。
﹁あー柚樹葉ってばうっかりさんなのですー。シンデレラの電波が
途絶えたところの座標のメモをうっかり机の上に置きっぱなしなの
ですー。まぁでも座標が分かったところで蒲生や惣波がいないお前
らだけじゃどうしようもないから問題なさそうなのでスペーメは何
も言わないですー﹂
わざとらしい台詞のあとに巳令は慌てて机の方に歩み寄って、メ
モを拾い上げた。
メモを握りしめながら巳令は小声で﹁ありがとう﹂と礼を述べた。
はぁ、と柚樹葉は溜め息を吐いた。
﹁何に感謝されてるのか全く分からないよ。私はちょっと大きな声
で独り言を言って、渡したところで移動手段のない君たちにはどう
しようもない座標のメモをうっかり落としてしまっただけだ。単な
るミスに礼を言われる筋合いはないよ﹂
289
九鬼とこの四人。どちらについた方がいいのかは分かっているは
ずなのに、それ以上に彼女は自分の好奇心を押さえられずにいた。
彼らはこれからどうするのだろう?
うんざりしながらやれやれと首を左右に振った彼女は休憩所を出
てからぼそりと呟いた。
﹁誰かの馬鹿がうつったよ﹂
﹁じゃあ文句言ってやらなきゃです﹂
﹁そうだね﹂
肩に乗ったスペーメの頭を撫でつけながら柚樹葉は来た道を戻っ
て行った。
一方で今まで顔を俯かせていた梨花がばっと顔を上げた。
彼女はふらふらと立ち上がると荷物を抱え、休憩所の入口へ覚束
ない足取りで歩いていく。
﹁梨花先輩⋮⋮?﹂
﹁行かなきゃ⋮⋮﹂
ぎゅっとリュックサックを大事そうに抱えた彼女は﹁鈴丸さんと、
マリアさんのところに行かなきゃ⋮⋮﹂と告げた。自分に言い聞か
せる意味もあった。
分かってる。こんなことしてはいけないのは分かっている。九鬼
という男はきっと自分たちの上司にあたる人のはずだ。そうでなく
ても年上の人の言うことに逆らったことなど梨花には指折り数える
ほどしかない。もしかしたらそれすら自分の考え過ぎで、もしかし
たら一度もないのかもしれない。
あの二人がどこにいるかなんてわからない。力を貸して貰えるか
どうかの保証もない。でも自分ができることはこれくらいしか思い
つかなかった。
フェエーリコ・クインテットという新しい自分の居場所を失いた
くなかった。五人揃わなければ駄目なんだ。大事な後輩を失いたく
ない。
290
地面を蹴りながら駆けていく梨花に﹁ちょ、梨花先輩!﹂とよも
ぎが立ち上がろうとした。
それを制したのは南波だった。
﹁春風、俺が行く﹂
﹁益海先輩⋮⋮﹂
﹁どうせあの人のことだ。また妙なことをする。お前一人じゃ荷が
重い﹂
そう言うなり、彼は梨花のあとを追って行った。
残されたよもぎが茫然とする中、ぱちんと巳令は自分の頬を張っ
た。うじうじしている暇などない。
﹁よもぎさん!﹂
﹁は、はい!﹂
﹁行きましょう、私たちも﹂
﹁行きましょうって、どこぞにですか﹂
きょとんとする彼女に巳令は笑いながら言い放った。
﹁ベルさんのところです﹂
自分がどこにいるのか、太李には全く分からなかった。
大きく揺れる中で小さな手を握りしめながら溜め息を吐いた。
他の四人は今頃どうしているだろうか。味方は来るのだろうか。
ちらと考えてからそんな不安をとっ払おうと彼は首を左右に振った。
絶対に来る。必ずどんな手を使ってでも。今の彼はそう信じる以
外なかった。
ごとんと車内が再び大きく揺れる。それまで与えられていた浮遊
感がなくなって彼は首を傾げた。よもやどこかに着いたのではなか
ろうか。
291
不安に震える少女に彼は言う。
﹁何があってもここを動かないで。お、私がなんとかするから﹂
あくまで自分はシンデレラのままなのだ。余計なことを言って混
乱させるべきではない。
少女がこくんと頷いた。暗闇の中でにこっと微笑んでから太李は
レイピアを構える。
間もなく、ぎぃと軋んだ音を立てながらトラックの扉が開いた。
光が見えた瞬間、太李は外に飛び出した。入口付近を取り囲むよ
うにする男たちが一斉にざわめいた。
屋内のようだ。不気味なほどに真っ白な場所だった。床も壁も、
照明さえも全て白い。物々しい雰囲気に押されながら彼は地面を踏
み込んで男たちのうちの一人を掴み上げると、首元にレイピアを押
し付けた。
﹁この誘拐犯が⋮⋮! ここはどこだ、何が目的だ!﹂
﹁な、なんでこんなところにシンデレラが﹂
その名前に太李はわずかに目を見開いた。
なぜだ。その名前をどうして知っている。泡夢財団の関係者か、
否、そんなはずはない。
﹁どうして俺のことを﹂
そのときだった。
とんっと鈍い痛みが彼の首元に落ちる。男から手を離し、前のめ
りに倒れ込む。その手から離れたレイピアを黒いハイヒールが蹴り
飛ばした。
﹁全く、こんなところまで来るなんていけない坊やですわね。ああ、
今はお嬢さんでしたか﹂
視界に捉えた女の姿に太李は思わず呟いた。
﹁トレイター⋮⋮!﹂
﹁ご機嫌よう、シンデレラ。お久しぶりですわね﹂
292
鈴丸とマリアがはじめて彼らの前にやって来た日、自分たちを襲
ったあの女だった。
なぜこんなところにこの女がいるんだ。ただの誘拐じゃないのか。
﹁面白いおまけでしたわね。適応者が二人も捕れただなんて。しか
も片方はフェエーリコ・クインテット﹂
くすりと妖艶に笑いながら女はその足を太李に振り下ろした。
あまりの痛みに彼の意識は一瞬で飛んだ。そのまま動かなくなっ
たシンデレラはすぐに元の男子高校生の姿へと戻った。
﹁運んでおきなさい﹂
男たちに冷たく言い放ってから彼女はトラックの中に居た少女に
笑いかけた。
金属のこすれ合う規則正しい音が錆びたブランコが鳴きながら揺
れていることを周りに示していた。
そのブランコに揺られながら、鈴丸はコーヒー牛乳の入った紙パ
ックにストローを刺し込んだ。中身を吸い上げながら溜め息を吐い
た。
クビになった以上、自分はこれ以上この国にいる理由はないのだ。
日本に傭兵ができる仕事は少ない。払いのいい人間だって多くはな
い。さっさとこんな国とはおさらばして、もっと儲かる仕事を探そ
う。鈴丸はそう考えていた。
それでも彼の足は一向にブランコを漕ぐことをやめなかった。
ストローのずずっという音がいつの間にかパックの中身がなくな
っていたことを知らせた。舌打ちしながら彼は立ち上がろうとして
それをやめた。
﹁よう、隣いいか?﹂
そこに立っていたのはマリアだった。﹁勝手にしろ﹂とだけ告げ
て、立ち上がるタイミングを失った彼は再びブランコに腰を据えた。
293
マリアは銀髪を揺らしながら鈴丸の隣のブランコに腰を下ろすと
大きく揺らし、その後、その上で立ち上がった。いわゆる立ち漕ぎ
の状態だった。
きーきーとブランコの声だけが響く。暑さのせいか公園には二人
の他に誰もいなかった。以前梨花と来たときは結構人がいたのにな、
と思ってから鈴丸はそれを振り払おうと声を発した。
﹁お前、ダチのところに行ったんじゃなかったのか?﹂
マリアにはこの国に、しかもこの付近に高校時代の知り合いが何
人もいるはずだ。頼るには充分だろう。
少し間を空けてからマリアは﹁いけるわけねーだろ﹂と吐き捨て
た。
﹁ただでさえ今までほとんど連絡してねーのに仕事クビになったか
ら泊めてくれなんて言ってみろ。あいつら全員あたしのこと殴り飛
ばすぜ﹂
ははっと軽く笑ってから﹁これからどうすんだよ﹂とマリアは問
いかけた。
﹁どうするって? クビになったからこんな国とはもうさよならだ。
次はどこに行くかね。アメリカさんはやっぱり儲かりそうだよな﹂
にっと笑いながら鈴丸は﹁お前も来る?﹂と首を傾げた。彼女は
聞こえるように舌打ちした。
﹁ちげーよ、灰尾のことだよ。このままほっとくのかよ﹂
﹁俺たちにはもう関係ない話だ﹂
ぼそりと告げる鈴丸をマリアは思いっきり睨み付けた。
﹁なんだよそれ﹂
﹁俺だって、自分の関わった人間に死なれたら気分は悪い。でも慈
善事業できるほど俺には余裕がねぇ﹂
やるならお前一人でやれと続いたその言葉にぐっとマリアは言葉
を詰まらせた。
鈴丸がいなければ自分だけではどうしてやることもできない。
苛立ちすら覚えていると、唐突に柔らかい声が二人の鼓膜を揺ら
294
した。
﹁鈴丸さん! マリアさん!﹂
はっとした二人が声の方に顔を向けるとぜぇぜぇと息を切らした
梨花が胸を押さえながら二人を見つめていた。その後ろには南波も
いる。
マリアは取り繕うように笑顔を作った。
﹁よう! 梨花! どうしたんだよ、そんなに慌てて﹂
﹁ふ、二人に、どうしても、話がしたくて﹂
これ以上この場にいると、自分の築き上げた何かが崩れ落ちそう
な気がする。鈴丸は今度こそブランコから腰を上げるときっぱり言
い放った。
﹁俺はもう話すことなんてない﹂
梨花の脇を抜け、立ち去ろうとする彼の腕を南波が黙って掴んだ。
鈴丸にとってそれを振りほどくのは酷く簡単だ。ただそれをしよ
うとしない自分に苛立った。
なんと言ったら彼女は俺の前から消えてくれるだろうかとそれば
かりを鈴丸は考えた。そんな彼の手を梨花は握りしめた。
﹁益海くん⋮⋮ありがとう、もう大丈夫﹂
梨花の言葉に南波はゆっくりと手を離した。
臆病な彼女の折れてしまいそうなほど細い腕に鈴丸は動揺した。
それから彼女を睨み付け、低い声で言う。
﹁手を放せ、梨花﹂
その声に梨花は一瞬びくっと肩を揺らしてから首を左右に振った。
﹁は、放しません! す、鈴丸さんに、ちゃんとお話聞いてもらま
では、ぜ、絶対に!﹂
﹁しつこい。俺はもうお前らのお守りする必要ないんだよ。もうお
前らとは関係ない。うんざりだ、放してくれ﹂
﹁い、いい、嫌です!﹂
295
どれだけ低く言っても、冷たい言葉を浴びせても梨花は決して動
かない。
何がここまで彼女を突き動かすのか鈴丸には全く分からない。だ
からこそ得体のしれない恐怖を感じていた。自分にはないものが自
分の中にあるものを崩そうとしている。そう思えてならなかった。
一度だけ、崩壊したことのあるそれを再び崩壊させるのが嫌で、
鈴丸は声を荒らげた。
﹁いい加減にしろ!﹂
ひっ、と悲鳴をあげてから梨花は黙って俯いた。
それでいい。そのまま俺から手を放してくれ。そんな鈴丸の願い
とは裏腹に彼女は手を放そうともせずに、ポケットの中を探った。
それから引きずり出した薄っぺらい茶封筒を彼の手に握らせ、そ
こでようやく梨花の手が放れた。
何が入ってるのか。鈴丸は封筒の中を開け、中に入っていたもの
を引きずり出した。
紙幣が入っている。鈴丸は思わず問いかけた。
﹁どういうつもりだ﹂
﹁全部で四十万円、あります。お年玉とか色々溜めたので、その﹂
梨花は思いっきり頭を下げた。
﹁お願いします! あた、あたしに、雇われてください!﹂
目の前の彼女が泣きそうな声で何を言っているのかが鈴丸は本気
で一瞬、理解ができなかった。
それはマリアも同じようできょとんと目を見開いている。一緒に
来ていた南波でさえ、口を半開きにして梨花を見つめるだけだった。
﹁今すぐにはそれしか用意できなくって、全然、足りないの分かっ
てて、いつもより、安くしてくれだなんて言いません、鈴丸さんが
いつも貰ってるくらいのお金をぜ、絶対に、必ずいつかお支払いし
ま、す! だから、灰尾くんを、あたしの大切な後輩を、たすけて
ください⋮⋮!﹂
大きな目から今にも涙をこぼしそうな梨花に鈴丸は固まった。
296
﹁なんでもしますから、お願いだから﹂と繰り返しながら泣くのを
懸命にこらえる彼女に鈴丸は頭を抱えた。
封筒に入った四十万。それを見つめながら﹁なぁ梨花﹂と鈴丸は
ぼそりと呟くように言う。
﹁俺はな、自分の命を売り物にしてるんだ。なんでか分かるか?﹂
﹁え?﹂
﹁何より高く売れるんだよ。金を儲けるのには一番手っ取り早い﹂
黙りこくる梨花に彼は続けた。
﹁俺は、多分お前が思ってるほど立派な大人じゃない。金のためな
らお前らに言えないような仕事だっていくつもやって来たような奴
だ。ただただ金を儲けるため。それだけのために今日までこうして
自分の命を売り歩いてきた﹂
ああ、と梨花は絶望的な気分になった。やっぱり虫のいい話だっ
たのかもしれない。
ふるふると小さく震えながら涙をこらえている梨花を見てから鈴
丸は携帯電話を取り出した。手慣れた様子でどこかに電話を掛ける
と口を開いた。
﹁よう、ベル。クビになった鈴丸だけど?﹂
ゆっくり梨花が顔をあげる。泣きそうになりながらそれを堪え、
ぐちゃぐちゃになった梨花の顔を見ながら彼は一瞬だけ口元を緩め
た。
﹁新しい依頼人ができたから早急にヘリかなんか手配してくんねぇ
? いや、仲介はもういい。できれば、そうだな。七人くらい乗れ
るのがいいな﹂
あ、と彼女が声をこぼす。
﹁報酬? 聞くなよ、俺史上始まって以来の大金で腰抜かすぜ。大
口契約取った俺超偉い。臨時ボーナスを要求したいくらい。とにか
くそういうわけだ。ああ? 依頼内容?﹂
鈴丸はなんのこともなさげにきっぱり言い放った。
﹁灰尾太李の救出、かな﹂
297
ぱぁっと梨花は顔を輝かせ、南波がおお、とこぼした。そんな中
でマリアが苦笑する。
﹁なんだって?﹂
﹁大口なら仕方ないからアシーナの支部からヘリチャーターしてく
れるとさ﹂
﹁あーあ﹂
﹁嘘は言ってないだろ。バイトもしてない高校生にとって万単位っ
てだけでも腰抜かすほど大金じゃねぇか﹂
中の紙幣を取り出しながら﹁報酬は前払い十五万、成功報酬は必
要ない。強いて言うなら今度ジュース奢れ﹂
そう言って十五枚だけ紙幣を取り出すと残りを彼は梨花に押し返
した。
﹁これはとっとけ﹂
﹁あ、あの﹂
﹁あ? なんだ不服か?﹂
﹁ど、どうして⋮⋮﹂
おろおろと問いかけてくる梨花に鈴丸は笑って見せた。
﹁俺は依頼主に無理な報酬引っかけるほど酷い傭兵じゃないの﹂
﹁よく言うぜ﹂
﹁うっせーぞ﹂
けらけら笑うマリアは梨花を覗き込んで﹁受け取っとけって。大
事に溜めてきたんだろ、こんなやつに使ってやるこたねーよ﹂
ぶんぶんと梨花が首を左右に振る。受け取れない、ということだ。
﹁だ、駄目です﹂
﹁わかんねーかな。この金は、もし万が一、また俺たちを雇う必要
が出たときに使えばいい。一回だけで全部巻き上げるのは馬鹿がす
ること。ちょっとずつ巻き上げるのが俺のやり方なの﹂
な、と鈴丸がそう言えば梨花は困ったように視線を泳がせて、や
がて残りが入った封筒を受け取った。
それに満足げに頷いてから鈴丸はマリアに数枚を手渡して﹁お前
298
が二万、ベルが三万、俺が十万でいいな?﹂おう、と彼女はそれを
受け取った。
﹁俺が言えた義理じゃないが本当にいいのか、それで﹂
南波の言葉に鈴丸ははっと笑い飛ばした。
﹁何度も言わせんな。俺は金が貰えればそれでいいんだって﹂
ポケットに残りの紙幣をねじ込んだ鈴丸は﹁本当にいいんだな?﹂
と首を傾げた。
こくんと梨花が頷く。
﹁は、はい!﹂
﹁うっし。んじゃ、交渉成立ってことで﹂
差し伸べた鈴丸の手を梨花が握る。
その様子を見ながらやれやれとマリアは肩をすくめてから横に居
た南波に笑いかけた。
﹁益海、お前が一緒とは意外だったぜ。案外面倒見いいんだな﹂
﹁⋮⋮別に。あのままただですら危なっかしいのに冷静さまで欠い
てる東天紅先輩を突っ走らせておいたら交通事故でも起こしそうだ
と思っただけだ。そうなったら相手の運転手に申し訳が立たない﹂
突っ放した南波の言葉にむっと梨花が頬を膨らませた。
﹁ひ、酷いよ益海くん! いくらあたしそんなことしません!﹂
﹁どうかな﹂
﹁起こしませんー! も、もう! 先輩をなんだと思ってるの!﹂
ぶんぶんと手を振り回しながら必死に抗議する梨花を見つつ、鈴
丸はポケットの中の紙幣を握りしめた。
鈴丸にとってこの報酬額は今までで最低金額だった。それでも﹃
金を受け取って仕事をする﹄なんらいつもと変わらない仕事だ。別
に梨花だから情があってこの金額で引き受けたわけではない。彼女
にとってそれが普段の金額に値するほどの大金だったというだけの
話だった。まだ出せるのに出し惜しんで安い金額を提示してきてい
る、いつも依頼を断る連中とは違っただけ。そして何より都合がよ
かった。それだけだ。
299
自分の中では筋が通っている。ただほんの少し譲歩や妥協があっ
ただけで自分の中のルールは何も変えていない。彼は自分に言い聞
かせた。
言い訳がましい。そんな風に思わないわけでは無論なかった。
アシーナには世界中を駆け巡る所属傭兵のため、いくつかの国に
支部がある。
日本も例外ではない。ヘリの手配くらいはどうということはなか
ったのだ。
そして、今自分たちには新しい依頼主がいるという建前がある。
なんて都合がいいんだろう。そう思いながらベルは通話を終了させ、
じっと携帯の画面を見つめた。
そんな彼女に不意に声がかかる。
﹁ベル姉様﹂
まだ幼さを残した優しい声に、ベルは精一杯の笑みを浮かべて答
えた。
﹁あら、よもぎさん。それに巳令さんも。何か用かしら?﹂
﹁ベルさんは、何か知ってるんですか﹂
巳令の声に彼女はかすかに苦笑した。疑われても仕方ない。
どうかしら。ベルの口からこぼれたのはそんな曖昧な言葉だった。
からかわれているようだと巳令はその言葉を不快に思った。
けれど、巳令が太李を助けたいのは確かだった。それはよもぎも
である。ベルがどちらの側にいるのかが二人には未だに分からなか
った。
まっすぐな自分を捉える瞳を見て、ベルは息を吐いた。
﹁鈴丸とマリアが太李くんのところに行くとして、きっとあなたた
ちはそれについていくでしょう? だとしたら泡夢に未だに雇われ
てる私としてはあなたたちを止めないといけないわ﹂
300
やっぱりか。巳令は眉を寄せた。
でも、と彼女は続ける。
﹁きっとあなたたちは私の言うことなんて聞いてくれないわ。だと
したら監督責任のある私はあなたたちについていかないといけない﹂
巳令とよもぎが顔を見合わせる。それは、つまり。
﹁本当は規則ギリギリアウトなんだからね﹂
ぱちんと片目を閉じ、ウインクしてみせる彼女に二人は同時には
いと頷いた。
その勢いのある返事にふふっと笑いながらベルは目を伏せた。
自分でやったことくらい、自分でケリつけるわよ。
心の中で彼女はそう呟いた。
足元に広がる駄菓子を見ながら少女は満足げに微笑んだ。
麩菓子に、ラムネにスナック菓子。チョコレートにクッキーに、
ソフトキャンディー。全て自分ひとりのものだった。
黒く短い髪をふわふわと左右に揺らしながら彼女は袋をびりびり
と音を立てながら破ると中に入っていた棒状の麩菓子を口に詰め込
んだ。
ばきっと音を立てながらそれを折って、もしゃもしゃ口の中で咀
嚼しながら彼女は更にグミが入った瓶に小さな手を突っ込んだ。手
がいっぱいになるまで色とりどりのグミを掴み上げて、麩菓子を飲
みこむなり、それを口の中にねじ込んだ。
くちゃくちゃと音を立てながら噛み締めていると﹁相変わらず下
品な食べ方ですわね﹂と彼女にとってみれば水を差す声が聞こえた。
彼女はむぅと顔をしかめた。
ドアをくぐってやって来ていたのは紫色のスカーフをまいたスー
ツ姿の女だった。ハーフアップにされた黒い髪がどこか育ちのいい
ような印象を与えていた。かつんかつんとハイヒールを鳴らしなが
301
ら自分の元へやってくる女にごくんとグミを飲みこんでから少女は
唇を尖らせる。
﹁れーこはうるさいなー。どんなたべかたしよーとあちしの勝手じ
ゃん﹂
しょうごいん
﹁目の前で下品な食べ方をされるとこちらの気分が害されるんです
の﹂
そう言いながら女は少女の口元をハンカチで拭った。
れいこ
なされるままにしながら、彼女は少なからず自分がこの、聖護院
麗子という女を嫌っていないことを自覚した。
麗子はハンカチを少女の口元から離すと首を傾げた。
﹁うわばみはどうしたんですの?﹂
﹁散歩﹂
﹁呑気ですわね﹂
そう言って少女の手に握られていた麩菓子に麗子は噛り付いた。
﹁あーあちしの!﹂
﹁こんなにあるんですから少しくらいいいでしょう?﹂
﹁ばかぁ! れーこのぶぅわぁかぁ! おたんこなーす!﹂
うう、とじたばた足を踏み鳴らし懸命に自分の不満を伝えようと
する少女に麗子はふんと顔を逸らすだけだった。
涙目になりながら頬を膨らませる少女はチョコレートの包みを乱
暴に開けながら問いかけた。
﹁そーえば、あのクソなまいきなばかどーするの?﹂
シンデレラのことだろう。麗子はすぐに分かった。
﹁さあ。うわばみはしばらく手元に置いておくと言ってますけど﹂
チョコレートを噛み砕きながら﹁さっさとぶっころしちゃえばい
ーのに﹂と少女は吐き捨てた。
﹁もし、あのクソなまいきなばかのクソなまいきなウザイ仲間が来
たらどーする気?﹂
﹁その心配はないですわ﹂
うふ、と嫌に自信に満ちた麗子に少女は冷たい目を向けた。
302
﹁れーこはクソ女だね﹂
﹁褒め言葉ですわ﹂
心底楽しそうに笑った麗子にうげぇ、と少女が顔を歪めた。
まさにそのとき、建物全体がわずかに揺れる。驚いたのかふにゃ、
と声をあげながら少女は後ろへひっくり返った。
﹁ふぎえ! なに、なに!﹂
﹁上からでしたわ﹂
カツカツとハイヒールを鳴らし、麗子が扉の方に向かえば軍服を
着た男が慌ただしく扉を開き、中に入った。
﹁なんの騒ぎですの?﹂
﹁そ、それが、アシーナの傭兵連中と残りのフェエーリコ・クイン
テットが﹂
そこまで聞いたところで麗子はハイヒールで思いっきり男の足の
甲を踏みつぶした。
声にならない悲鳴をあげながら激痛に顔を歪め、うずくまった男
を見下ろしながら﹁話が違いますわ!﹂と彼女はヒステリックに叫
んだ。
﹁八つ当たりこえー﹂とこぼしながら少女はチョコで汚れた口元を
袖でぬぐって、近くにかけてあったパーカーを羽織った。
部屋の中に戻ってきた麗子は白いハイヒールから真っ黒なハイヒ
ールに素早く履き替える。
﹁ちょーうざいね! こんなとこまでじゃましにくるなんて!﹂
﹁潰しに行きますわよ﹂
﹁あたぼーよ!﹂
一歩歩くごとに、二人の姿は変わって行った。
少女の黒かった髪は灰色に染まり、真っ黒な瞳は鋭く攻撃的な金
色へと変わっていく。
ハーフアップにされていた麗子の髪はいつの間にかウェーブがか
303
かった長い長い髪へと、スーツも体格を強調するワンピースへと変
貌している。
﹁しくじんなよー魔女!﹂
﹁そっちこそ、きちんと頼みますわよウルフ﹂
廊下を歩きながら二人はそう睨み合った。
上空で起こった爆発を背に、一番に着地したのはすでに人魚姫に
変身済みの南波だった。
ぶわりと金髪を揺らしながら手に握った槍の柄で自分の元へやっ
てくる軍服の男の一人の腹部を突いた。ふらつく男に構わず、別の
男が足を振り上げ、それを左手で受け止めてから軽く受け流した。
その南波の後ろに次いで着地した鉢かづき姿の巳令が南波に向か
っていた男の目の前に腕をつきだして直撃させる。また一人、男が
駆け出して来れば今度は彼女は自分の頭を突き出して鉢で思いっき
り叩き付けてやった。
そんな二人に掴みかかろうとした数人の服が射抜かれた。矢を放
ったのはよもぎだった。あくまで体には触れず、服だけを射抜き、
それができなければ体の周辺に矢を放つ。
最後に着地した梨花が気絶させられていた男を担ぎ上げ、その体
を思いっきり投げ飛ばした。数人が巻き込まれ、倒れていく。
その光景をパラシュートで降下しながら眺めていたマリアが﹁あ
くまで殺さず、か。やりづれーな﹂と吐き捨てた。
﹁ディスペアならまだしもさすがに人は抵抗あるでしょうから仕方
ないわ。あー、それにしても﹂
炎上しながら海の中へ落ちていくヘリを見ながらベルが深々と溜
め息を吐いた。
304
﹁ヘリ上空爆破して支部にどう説明するのよ⋮⋮絶対怒られるわ﹂
﹁お出ましは、派手に伝えてやった方がいいだろ? どうせバレる
んだ﹂
﹁何よその理屈﹂
パラシュートを肩から外しつつ﹁にしても﹂と鈴丸は息を吐いた。
﹁こんな孤島で研究施設なんて作っちゃって大した連中だこと﹂
周りを海に囲われた孤島、その島の山の上に立っている不釣り合
いな科学施設のようなもの。そこの屋上、それが今現在、彼らのい
る場所だった。
どんな場所だろうと関係はない。太李はこの中に居るはずだ。な
んとしても見つけなければと巳令が拳を握りしめると軍服の男たち
は一斉にその場から引いていく。
なんだ、と眉を寄せてからその理由はすぐに分かった。
はばたく音と共に、現れたのは時折、ディプレション空間に現れ
る黒い鳥たちだった。
これでもう巳令が刀を抜かない理由はなくなった。地面を蹴り上
げ、鞘から刀を引き抜くとそのまま周りに居た鳥たちを切り裂いた。
自分も加勢しなければ、矢を鳥たちに向けながらよもぎが弦を引
く。
しかし、それを放つ前に彼女の体は横転する。原因はすぐに分か
った。
﹁ちょーうっざい!﹂
自分に馬乗りになったウルフが長い爪を構えていた。振り落さな
ければ、そう思っても思うように力が入らない。
どんっと鈍い音がして、ウルフの体がよもぎの上から離れた。ぜ
ぇぜぇと息を切らす梨花が体当たりしたらしかった。
体勢を立て直し、再び弓矢を構えるよもぎと自分を睨み付ける梨
305
花にウルフは小さく吐き捨てた。
﹁うっざ﹂
﹁情けないですわねぇ﹂
小馬鹿にしたような台詞を放ったのは麗子だった。
﹁トレイター⋮⋮﹂
南波がはっと笑う。
﹁うちのシンデレラはどこだ﹂
﹁残念ながらあれをお渡しするわけには参りませんの。お引き取り
願えます?﹂
﹁納得するわけないだろう?﹂
双眸を大きく見開き、怒りを隠そうともしない南波にはぁ、と麗
子は溜め息を吐いた。
それから、ふと視線を泳がせて彼女はある一点で視線を止めた。
﹁あら、うわばみの知り合いというのが誰かと思えば﹂
その視線の先に居たのはベルだった。
﹁久しぶりですわね、ハスミ﹂
愉快そうに微笑む麗子に彼女は歯ぎしりした。
﹁あなたなんて知らないし、ハスミなんて名前も知らないわ﹂
んふ、と麗子が笑う。
ここで時間を使っているわけにはいかない。なんとか鳥たちを一
掃した巳令が鞘に刀を納め、そう思っていると南波が三叉槍を構え
て、小声で彼女に言う。
﹁ここは引き受けた﹂
﹁え、でも﹂
﹁いいからさっさとあの馬鹿連れて来い﹂
調子狂うんだよ。
三叉槍の先が虚空を切り裂く。それを見ながらこくんと頷いた巳
令は梨花とよもぎの手を引いて走り出した。
地面を蹴り上げて、ウルフに南波が三叉槍を振り下ろす。ウルフ
が槍を爪で受け止めるのを見ながら﹁そう簡単に行かせませんわよ﹂
306
と麗子が一歩踏み出そうとした。
その足元に、弾丸が撃ち込まれる。
﹁かっこつけやがって﹂
銃口を麗子から離さないまま、マリアは小さく笑った。
﹁鈴、ベル。ここにはあたしも残る。お前らもさっさと行け﹂
その彼女の言葉に二人は何も言わずに巳令たちの後を追った。
﹁ああ、ベル﹂
マリアの言葉に彼女が足を止める。
お互い振り返らず、マリアが言葉をかける。
﹁帰ったらちゃんと全部教えろよ、馬鹿﹂
吐き捨てるようなマリアの台詞に、ベルは何も答えずに駆け出し
た。
その足音を掻き消すように麗子が甲高く笑った。
﹁馬鹿ですわねぇ、あの女がなんなのかも知らないで﹂
﹁うっせぇ﹂
﹁ベルだなんて可愛い名前名乗って、昔のことに蓋をし﹂
﹁うるせぇ!﹂
麗子の真横を銃弾がすり抜ける。
マリアの碧眼には確かな憎悪と怒りが満ちていた。
﹁確かにあたしは、あいつのことはなんにも知らねぇ! いつも紅
茶飲んで、太る癖にお茶菓子食ってることくらいしか知らねぇよ。
昔、何があったとか、そんなの全然わかんねぇ。向こうはあたしの
昔話知ってるのにな﹂
でも、とその目が麗子を捉える。
﹁ベルガモットっつー傭兵のことは、よく知ってる。だからあたし
は、傭兵のあいつを信用する。それだけだ﹂
麗子の目にはわずかな軽蔑の色が浮かんでいた。
﹁寒いですわ﹂
307
﹁いってろ﹂
引き金が引かれる。
飛んできた銃弾を跳びあがってかわしてから麗子の手元が黒く光
り、何かが現れる。それが銃だということにマリアはすぐさま気が
付いた。
どちらからともなく、銃口が火を吹いた。
施設内に入るなり、ベルは﹁西側の地下二階﹂とぼそりと告げた。
え、とその場にいた全員が彼女に振り返る。ベルは顔を俯かせな
がら﹁太李くんを閉じ込めておくなら。そこしかない。変わってな
かったら、の話だけど﹂
﹁お前、昔、ここにいたのか?﹂
鈴丸の問いに、ベルは視線を逸らすだけだった。
それから、やがて﹁データをね、見ただけなの﹂
﹁どういうことだよ﹂
﹁とにかく、ここのメインシステムを止めないと。太李くんが見つ
かっても帰れないわ﹂
すっと目を細めながら﹁お願い、私が怪しいことくらい私だって
分かってるわ。でも太李くんを助けたいのは私だって同じなの﹂と
震えた声で言う。
その言葉にちっと鈴丸は舌打ちすると﹁親指は俺と西側。鉢かづ
きといばらでベルと一緒に行ってくれ﹂
はい、と三人が声を揃えて返事する。顔を上げるベルに﹁勘違い
すんなよ﹂と鈴丸。
﹁今はとにかく怪しくたってお前を信用するしかない﹂
それに、と鈴丸はにっと笑った。
﹁お前は敵にしちゃむしろ怪しすぎて怪しめないレベルだ﹂
その言葉に巳令たちは小さく苦笑した。
308
白塗りの鉄格子に太李の体が直撃する。
当然のように鉄格子はびくともせず、ただただ彼の体が痛みを覚
えるだけだった。目が覚めてから何度繰り返しただろう。息を切ら
し、地面に崩れ落ちながら太李はふらふらとまた立ち上がった。
チェンジャーも取り上げられ、金庫にしまわれているせいで変身
も出来ない。
助けは来ると信じていても大人しくしてもいられない。
太李の中に諦めるという選択肢は存在しなかった。それは彼が今
まで憧れてきたヒーローたちがそうだったからだ。
何があっても最後まで諦めない。その姿が、自分の目には格好よ
く映っていたのだ。馬鹿馬鹿しいと言われるかもしれない。けれど、
そんなことは太李には諦める理由にはならない。
もう一度助走をつけよう。覚束ない足取りで壁際まで下がった太
李は息を吸い込んだ。
そのとき、部屋の外から鈍い大きな音と太い呻き声が聞こえてき
た。
ぴたっと太李が動きを止める。まさか、と思っていると部屋の扉
が勢いよく破壊され、ふわふわとスカートを揺らしながら彼の待ち
望んでいた誰かが入って来た。
﹁灰尾くん!﹂
﹁太李!﹂
鉄格子にしがみつくように梨花と鈴丸が彼を視界に捉えていた。
安堵で太李の足から力が抜ける。
﹁梨花先輩⋮⋮鈴丸さん⋮⋮﹂
﹁よかったぁ、よかったぁ⋮⋮﹂
同じく、無事な太李を見て安堵したのか梨花が大粒の涙を流して
いる。
309
それを拭ってから梨花は﹁ちょっと、そこで待っててね!﹂と鉄
格子に手を掛けた。
どうするつもりだという太李の疑問はすぐに解消された。
﹁ふぐ、んぐ、ぐぐぐ⋮⋮!﹂
力む梨花の手に握られた今までびくともしなかった鉄格子が、ぐ
にゃりと曲がる。
ようやく人一人が通れるほどの隙間ができるとへにゃりと梨花が
その場に座り込んだ。
﹁て、手が痛い⋮⋮﹂
パワー特化の親指と言えど、安易に鉄格子を曲げてしまうとは。
苦笑しながら太李は立ち上がる。その手に指輪がはまっていない
のを見て鈴丸は顔をしかめた。
﹁お前、チェンジャーはどうした﹂
﹁あ、それがあそこに⋮⋮﹂
太李が指差す先にある金庫を見て﹁親指ー﹂と鈴丸は梨花に視線
を向けた。
うう、と小さく唸りながら立ち上がった梨花は握り拳を作ると﹁
ええい!﹂と金庫目がけてそれを振り下ろした。
分厚い鉄の板を貫通した梨花の手が引き上げられる。その手には
きちんと銀色の指輪が握られている。ぱたぱたと太李に歩み寄りな
がらにこっと梨花は笑みを浮かべた。
﹁はい、灰尾くん﹂
﹁ありがとうございます﹂
変身後の梨花はなるべく怒らせないようにしよう。そう心に決め
ながら彼は指輪をはめてほっと息をついた。
指輪をかざし、太李が叫ぶ。
﹁変身!﹂
まばゆい光に包まれて、それが晴れた頃には太李はすでにシンデ
レラへと変身を終えていた。
鈴丸は疲れ切った様子の梨花の頭をぽんぽんと撫でながら﹁よー
310
し、んじゃもう一仕事。行くぞ﹂
自分たちに背を向ける彼を二人は慌てて追い掛けた。
手慣れた様子で施設内を突き進んでいくベルは跳ね上がっている
心臓を無理に抑え付けていた。
この先にはきっと自分の見たくないものがあるはずだ。それを見
るのが怖い一方で向き合わなければならないという責任感にすら追
い立てられていた。
自動ドアが開く。中に足を踏み入れた途端、横に居たよもぎがわ、
と声を漏らす。
壁一面に設置された大きな液晶画面に至る所に伸びる配線、いか
にも精密そうな機械が広い部屋の中に並んでいる。
﹁いかにも悪の秘密基地って感じですね⋮⋮なんちゅうベタな﹂
そんな台詞を聞き流しながらきょろきょろと辺りを見渡していた
巳令は一点で視線を止めた。
ベッドの上には鎖を手で繋がれた一人の少女がぽろぽろと涙を流
していた。太李が追って来た彼女だった。
よもぎもそれに気付き、二人で慌ててそちらに歩み寄るとよもぎ
が﹁どうしたの?﹂と首を傾げた。彼女はびくっと肩を跳ね上がら
せてからわからないとばかりに首を左右に振った。
少し困ったようにしてからよもぎは続けた。
﹁悪い奴に捕まったの?﹂
彼女は小さく首を縦に振った。
それから﹁お姉さんが、助けてくれようとしたけど、駄目で﹂と
涙声で続ける。太李か。巳令は確信しながら彼女ににこりと笑いか
けた。
﹁ならもう大丈夫。私たちは、そのお姉さんの仲間ですから﹂
﹁ほんと?﹂
311
﹁ええ。少し動かないで待ってて﹂
刀の柄に手を掛けた巳令は一瞬でそれを引き抜くと鎖を切断して
刀を鞘に納めた。
自由になってよろける彼女をよもぎが抱きとめた。
﹁よーしよし、大丈夫﹂
少女を抱き上げると﹁灰尾先輩、これで捕まってたんですね﹂
﹁全く、どこまでお人よしなんだか﹂
巳令が呆れたように溜め息を吐いた。
一方、まっすぐ機械の方へと歩み寄ったベルはそれを操作しなが
らぼそりとこぼした。
﹁やっぱり、γ型、か﹂
画面に映った小難しい計算式や設計図らしきものの意味をベルは
よく分かっていた。
唇を噛み締めながら操作を続けていた手を誰かが掴み上げた。
無理やり体がそちらの方に向かされて、彼女は黒い瞳を見開いた。
そこに立っていたのは真っ黒な着流しに、それとはまるで正反対
な白い髪を一つに結わえた男だった。
光の宿っていないその目に、彼女は恐怖と共に焦りを覚えた。
﹁やあ、和歌﹂
懐かしくて不愉快な名前だとベルは相手を睨み付け、その手を振
り払おうと抵抗した。
﹁放して!﹂
﹁久しく会った元婚約者にそんな言い方ないだろう﹂
キッと彼を睨み付け、彼女は言い放った。
﹁ふざけないで! あなたのせいで兄さんは!﹂
﹁あれは不幸な事故だ﹂
﹁黙れぇ!﹂
叫べば叫ぶほど、自分は虚しいほど悲しい何かに憑りつかれてい
る。ベルにはそう思えた。
312
そんなベルの手からぱっと男の手が放れ、ベルと彼の間に刀が割
って入った。
﹁なんなんですか、あなた﹂
冷たい巳令の声にははっと男が笑う。
﹁君らと会うのははじめてかな、フェエーリコ・クインテット。今
は二人だからデュエットかな﹂
﹁その名前を知ってるということはあなたは敵?﹂
﹁相違はない﹂
ぱっと両手を広げながら男は清々しいほどの笑みを浮かべた。
﹁私の名前は、うわばみ。魔女やウルフが世話になったようだ﹂
﹁じゃああなたもトレイター?﹂
﹁そうだとも﹂
うわばみが一歩踏み出した。巳令がそう思ったときにはすでに彼
女と男の間合いは寸前までに迫っていた。
身構えても遅く、彼の手は巳令の首根っこを掴み上げた。
﹁あ、あく﹂
﹁鉢かづき先輩!﹂
少女を下ろしてからよもぎが背中にかけていた弓を構える。しか
し矢をつがえる前にうわばみは淡々と告げる。
﹁はい止まっていばら姫。今の私には鉢かづきの喉を潰すくらい簡
単だ﹂
ぐっと言葉を詰まらせたよもぎは、やがて、弓を下ろした。
﹁いい子だ﹂
﹁⋮⋮あなたたち、トレイターの目的はなんなの﹂
よもぎの問いにふっとうわばみは笑んだ。
﹁唯一無二の王の復活﹂
なんとかうわばみの隙を見つけ出して、巳令を助けなければ。よ
もぎは焦った。
その間にも、巳令の意識は遠のいていく。
ああ、なんとかしなければ。そう思いながらも彼女の体は思うよ
313
うに動かない。助けて。目を閉じながら彼女はそんな三文字を思い
浮かべた。
まるでその願いが叶ったかのように巳令の首元の圧迫は消え去っ
た。体が落ちていくのを感じていると誰かの腕がそんな彼女を抱き
止める。
﹁鉢かづき!﹂
その声に、ぱっと巳令は目を開けた。
いつぞやに見たヒーローを、また再び見た。彼女はそんな気がし
た。
﹁灰尾⋮⋮﹂
ぎゅっと太李の首元に抱き着いた。
彼がほーっと息を吐くのが分かった。安心してくれているのか。
立場は逆のはずなのに、と巳令は内心そんなことを考えていた。
レイピアがかすめ、血が流れる頬を拭いながらうわばみはやれや
れと肩をすくめた。
﹁もう出てきたのか﹂
﹁余計なお世話だ!﹂
そう吠えた太李から視線を逸らし、入口の方からかけてくる梨花
と鈴丸の姿も捉えるなり、うわばみは首を押さえた。
﹁私もここでやり合うのは分が悪い。今日は和歌にも会えたし、よ
しとしよう﹂
硬直するベルに視線を向けてから﹁それじゃあ﹂とうわばみは指
を鳴らした。
﹁また会おう、フェエーリコ・クインテット﹂
もうそこにはうわばみという男の姿はない。
真っ白な、多少大きな蛇が壁を伝い、ダクトから逃げて行った。
後を追わねば、いばらが身を乗り出すと同時に警報が響く。画面
には英文が立ち並び、それによもぎはうろうろと視線を泳がせた。
﹁な、何事ですか!﹂
﹁⋮⋮あと数分で証拠隠滅のために建物自爆しますだと﹂
314
﹁わお凄いさすが鈴さん、グローバル﹂
とよもぎは感心してから﹁あれ、これやばくないっすか。SF映
画とかでよくある展開ですよね!﹂とよもぎが顔を引きつらせる。
﹁超やばい!﹂
まだ腰の抜けた様子のベルを抱きかかえてから﹁お前ら、外出る
ぞ!﹂と彼は来た道を戻って行った。
自分のいる場所に的確に撃ち込まれる銃弾をかわしながらマリア
は舌打ちした。マガジンを交換してからマリアは引き金を引く。ど
れほどこのやり取りを繰り返したのか分からない。
放たれた弾丸を走ってかわしながら麗子が引き金を引く。それを
前転しつつかわす。
﹁ただの動きの読み合いですわね﹂
﹁そうだな﹂
﹁久々に楽しい遊びですわ﹂
言葉の通りに、心底嬉しそうな笑顔を浮かべる麗子にマリアはは
っと笑い飛ばす。
だったら、とマリアは麗子めがけて駆け出した。距離を詰め、銃
口を突きつける。
麗子はそれに一瞬にやりと笑うとしなやかな足を振り上げ、彼女
の銃を吹っ飛ばした。空中に浮かぶ自分の銃を見上げるマリアの左
こめかみに麗子が銃口を突きつける。マリアは腰に携えていた銃を
右手で引きだすと自身の左手に放り投げ、麗子の銃をぶつけ合わせ
た。
軌道が彼女の脳天から外れ、弾が地面に撃ち込まれる。
再度右手に持ち直してからマリアは左足を彼女の腹部目がけて蹴
り出した。距離とわずかな隙が生まれ、彼女は麗子の銃めがけて銃
弾を放った。
315
不安定な状態でも放れた銃弾は見事に麗子の右手に握られていた
銃に命中し、くるくると宙を舞わせる。
やった。そう思ったのもつかの間、麗子の左手がまた黒く輝いて、
その手には同じ銃が握られている。火花を吹いたそれから放たれた
弾はマリアの肩を直撃した。
血と火薬の匂いの不快さに顔をしかめながらマリアはしゃがみ込
んだ。
﹁降参ですの? 白旗ですの?﹂
うふふ、と笑う麗子にマリアはにっと口の端を持ち上げた。
ズボンの裾から手榴弾を取り出したマリアはピンを抜くと麗子め
がけてそれを放り投げた。
飛躍して、それをかわす麗子にマリアは再び引き金を引いた。空
中で身をよじり切れなかった彼女の頬を弾丸がかすめる。
頬を流れる血を拭いながら麗子は地面を蹴り上げて再びマリアと
の距離を詰めた。そのまま足がしなやかにマリアの銃に直撃する。
吹っ飛ばされるマリアの銃に麗子はさらに銃弾を撃ち込んで、銃口
を彼女に向ける。
まだ煙を吐く銃口を睨み付けながらマリアはゆっくりと両手を挙
げる。やっぱりつまらない遊び相手でしたわ、と思っているとマリ
アは頭の上で片手に握っていた手榴弾のピンを外して上空へ放り投
げた。
そのまま物理法則に従ってその場に落ちてくる。麗子が身を引く
とマリアも後ろへ下がり、先ほど吹っ飛ばされていた銃を拾い上げ
た。
空気を揺らし、手榴弾が爆発する。
煙と共に上がる火柱を見つめながら麗子はふふっと笑みをこぼし
た。
﹁本当に楽しいですわねぇ﹂
悪趣味だぜ、とマリアは銃口を麗子に向けた。
316
その横で、爪を振り下ろしながら﹁あームカつく! ちょームカ
つくー!﹂とウルフが叫ぶ。
がむしゃらに振り下ろされる爪を三叉槍の柄で受け止めながら﹁
さっきから馬鹿の一つ覚えだな﹂と南波は吐き捨てた。
﹁かっちーん。ウルフちゃんを怒らせるとどうなるかわからせてや
るー!﹂
きーっと叫びながらウルフは姿勢を低くすると爪を突き出して、
南波に向かって突進した。
身をよじったもののかわしきれなかったようで腹部の辺りの服が
わずかに破れる。
﹁うーおしー! まっぷたつにしてやろうとおもったのにー!﹂
自分のスピードでかわしきれないとは、南波は内心舌打ちした。
わずかに後ろに下がってから地面を蹴って跳躍する。空中で三叉
槍を構え、一気に降下する。
﹁ふん、ばーか! あたるかー!﹂
ひょいっとそれを少し跳んでかわすウルフに槍を軸にして蹴り込
んだ。
後退するウルフは﹁いちち﹂と顔を歪めながら﹁もーゆるさない﹂
と低く言い放った。
﹁ぶっころす!﹂
突き刺さった槍を抜きながら﹁やってみろクソガキ﹂と南波は挑
発的に告げた。
そのとき、けたましい警報が鳴り響き、両者の動きが止まる。
﹁ウルフ、行きますわよ﹂
﹁ちぇっ﹂
わざとらしく舌打ちしたウルフは南波を睨み付けて、べーっと舌
を出すと言い放った。
﹁こんどあったらぶっころしてやるからおぼえてろクソやろー!﹂
ウルフがばっと飛び降りる。﹁それではまた後日、この決着はつ
317
けましょう﹂とにこやかに微笑んでから麗子もその後に続いた。
それを見送ってから﹁大丈夫か、マリアさん﹂南波の言葉に﹁こ
んくらい唾つけときゃ治る。それより﹂と後ろを振り返った。
﹁なーんかこの警報、あんまりいい感じじゃあねぇよなぁ﹂
﹁さっさと出るか﹂
少し考え込むようにしてから南波はその場にしゃがみ込んだ。
﹁掴まれ﹂
﹁え、なんで?﹂
﹁俺たちも飛び降りる﹂
﹁ああ、薄々そんな気はしてたぜ﹂
どこか遠い目をしながらマリアは渋々、南波の背に掴まった。
マリアの体を背負いながら少し後退して、助走をつけ、南波は地
面を蹴り上げ、飛び降りた。
爆発音が響き渡る。
びりびりと背中に熱気を感じながら太李は地面に座り込んだ。
﹁あ、あー⋮⋮ギリギリセーフ⋮⋮﹂
﹁も、もうこれ以上走れないっす⋮⋮﹂
たははと笑いながらよもぎがその場に倒れ込んだ。
少女を抱きかかえながら走って来ていた梨花もくたくたと座り込
んで、巳令もはぁーと疲れ切った息を吐き出している。
﹁おーお前ら! お、灰尾も無事みたいじゃん﹂
﹁マリアさん! 益海くんも!﹂
遠くから駆けてきた南波とマリアに巳令は顔を輝かせた。
一方で、太李は顔を俯かせると﹁えっと﹂と言い辛そうに口を開
いた。
﹁その、なんつーか、色々、迷惑かけて、ごめん﹂
その場にいた全員がその言葉に固まる。
318
やがて、﹁ぷっ﹂となぜか南波が吹き出した。びくっと太李が肩
を跳ね上がらせる。
﹁な、なんで笑うんだよ!﹂
﹁うるさい気持ち悪い﹂
﹁気持ち悪いってなんだよ!﹂
ばんばん地面を叩く太李に﹁いやー灰尾先輩はマジ馬鹿っすね﹂
とよもぎは吐き捨てた。
﹁よもぎちゃん!?﹂
﹁これだからヴァーミリオンファントムは﹂
﹁変な罵り方しないで!﹂
ぎゃあ、と叫ぶ太李を﹁灰尾くん﹂と梨花がまじまじ見つめた。
﹁はい?﹂
﹁ご、ごめんね﹂
それだけ断って、ばしんと梨花が思いっきり太李の頬を引っ張っ
た。
﹁ひゃ、ひゃにすんすか!﹂
﹁も、もう! お馬鹿さんの後輩なんて知りません!﹂
ぷくっと頬を膨らませながらそっぽを向く梨花にええーと太李は
首を傾げた。
﹁⋮⋮当たり前じゃないですか、五人揃わなきゃフェエーリコ・ク
インテットじゃないんですから﹂
ぼそっと放たれた巳令の言葉に、あ、とようやく太李は何故自分
が怒られているのかを理解した。
それから気恥ずかしくなって頭を掻きながら﹁あーっとじゃあ﹂
と改めてその言葉を口にした。
﹁ありがとう﹂
そのやり取りを聞きながら鈴丸の腕から下ろされたベルは息を整
えた。
319
見たくなかった事実を再確認しただけだ。自分は自分のやるべき
ことをするだけでいい。
はすみ
上空にヘリが横切って行くのを見ながら﹁さーて﹂と両手を叩い
た。
そこに居たのは蓮見和歌を捨てた、ベルガモットという一人の傭
兵だった。
﹁みんなで帰りましょ﹂
そこまでの会話を聞いてから柚樹葉はゆっくりとヘッドフォンを
外した。
はーっと息を吐いて両腕を伸ばす。安堵の吐息だった。
まだ分からないことがたくさんある。確認しなければならないこ
とも山積みだ。
だが、それよりも、と彼女は眠っているスペーメを抱き上げて、
ゆっくり歩きだした。
■
﹁話が違いましたわ﹂
﹁⋮⋮まさか、そこまでするとは﹂
﹁思わなかった、じゃあ済まないのですのよ﹂
﹁ま、待ってくれ!﹂
﹁殺して差し上げますわ、と言いたいところですけどいいですわ。
γの開発は多少遅れましたが支障はありませんし。でも二度目はな
いと思ってくださいまし?﹂
﹁あ、ああ⋮⋮﹂
320
小話﹁ずるいおとなのはなし﹂
ぺたぺたとサンダルが床を踏む音が響き渡る。
上下に揺れる肩にしがみつきながら今日の柚樹葉は機嫌が悪いら
しいとスペーメは心の中で呟いた。口に出して確認しなかったのは
それを言えば彼女の機嫌は更に降下するだろうと判断したからだ。
階段の踊り場から下を覗き込んだ柚樹葉は目的の人物を見つけて、
はじめて声を発した。
﹁九鬼さん﹂
自分の名を呼ばれたことで仰々しく彼女の姿を捉えた。柚樹葉に
は、その動作は酷く面倒そうに見えた。
﹁なんだ九条﹂
﹁いえ、純粋に自分の疑問を解消しようかと思って﹂
ぺたぺたと階段を下りながら柚樹葉はゆっくり首を傾げた。
﹁なぜ、蒲生と惣波はチームから外されたままなのでしょうか?﹂
フェエーリコ・クインテットたちが太李を連れて帰って来てから
早三日、九鬼の口から鈴丸とマリアの名が出ることはなかった。
彼の救出において大変尽力した彼らを再び雇うことはなんら不思
議なことではない。態度こそ悪くてもどれほど有能であるかという
ことをあらためて知らしめていたはずだ。マリアに至ってはその身
一つでトレイターとやり合ったという。
柚樹葉の言葉に九鬼は冷たい視線を彼女に投げつけた。
﹁何か勘違いが生じているようだ、九条﹂
﹁勘違い?﹂
﹁私は、灰尾太李を助けてこいなどと命令してはいない。彼らが勝
手にやったことだ﹂
白衣のポケットに突っ込んでいた手を柚樹葉はぎゅっと握りしめ
た。
﹁本来ならクインテットも全員チームから外してもよかったのだが
321
チェンジャーの初期化にかかる費用も無駄になる。戦力を失わなか
ったという点において評価はしている﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁だがしょせんそれだけだ﹂
つまりは、二人を再度雇う気は一切ないらしい。
でもそれは答えになっているようでいないんだよなぁ、と柚樹葉
は心の中で溜め息を吐いた。
﹁じゃあ一つ聞かせてください﹂
歩き出そうとしていた九鬼の背に柚樹葉は投げ掛けた。
﹁そこまで頑なにあの二人を雇わないのは何か理由が?﹂
一拍置いてから九鬼が答える。
﹁上の方がね、今回の件はあまりにも出来過ぎていると﹂
﹁⋮⋮それに関しては私も同意ですが﹂
クインテットの合宿所付近にディスペアが現れて、都合よく他の
適応者が居て、さらわれた。
出来過ぎている。自分もベルにそう言った記憶がある。柚樹葉が
眉を寄せていると九鬼が言い放った。
﹁組織の中に手引きした者がいるのではないかともっぱら噂だ﹂
﹁それが蒲生と惣波だとでも?﹂
﹁確固たる証拠はない。が、疑わしきはとも言っていられないんだ。
何せ、我々は組織だからな﹂
両手を広げる九鬼は﹁九条、君はよくそれが分かるだろう?﹂と
首を傾けた。柚樹葉は形式的にええ、と相槌を打つ。
本気で言っているのなら、この男はやっぱり自分より遥かに馬鹿
だ。と彼女は心の中でせせら笑った。一番疑わしいのを残してどう
いうつもりなんだか。
それともわざとやってるのか? 考えるのも馬鹿馬鹿しくなって
柚樹葉は小さく頭を下げた。
﹁ありがとうございました﹂
会話を終結させるためだけの、形式的な礼だった。
322
﹁はぁ? あたしらがスパイだぁ?﹂
ベッドの上で胡坐をかいていたマリアが顔を歪めた。
泡夢財団を追い出され、泊まる場所もなくなったマリアと鈴丸が
泊まっているホテルだった。それなりの広さのある部屋に全員揃っ
たクインテットと柚樹葉にスペーメ、そしてマリアがいた。
クインテットたちから驚愕の視線を送られるのも気に留めずパプ
リカに噛り付くマリアに柚樹葉は淡々と答えた。
﹁一応君らをクビにした建前はそういうことらしい﹂
﹁冗談だろ﹂
﹁うん、馬鹿馬鹿しくてとても聞いていられなかったよ﹂
ひらひらと手を振りながら柚樹葉が続ける。
﹁そもそも鈴丸やベルガモットはともかく、君はスパイにするには
あまりにも素直すぎる。そういう行為も好きじゃなさそうだしね﹂
﹁ったりめぇだ、スパイなんてきたねぇ真似したら罰があたっぞ﹂
ばりばり音を立てながら流し込むように野菜をかじっていくマリ
アにそういうと思ったよとばかりに柚樹葉は肩をすくめた。
そういえば、と巳令が辺りを見渡した。
﹁鈴丸さんはどうしたんですか?﹂
﹁あ? しーらね。朝、何も言わずに出てってそれっきり﹂
﹁君の同僚はどうしてそうなんだ﹂
はぁ、と柚樹葉が深々と息を吐く。
﹁ベルガモットもまだ部屋に引きこもったままだし﹂
泡夢財団に戻り、九鬼に報告を終えてからそれっきり、ベルは自
室に閉じこもって出てきていなかった。
南波と梨花と、三人でババ抜きを始めていたよもぎがそれに答え
る。
﹁無理もありませんよ、なんだかんだで相当応えてましたもん、あ
323
れ﹂
うわばみを見た瞬間の彼女は誰が見ても普段の﹃ベルガモット﹄
ではなかった。
なんだったのだろう、と巳令は戻って来てからずっと考えていた。
南波の手札から一枚トランプを抜き取ったよもぎが顔をしかめる。
抜き取ったカードを手札に加えて、そのまま梨花に差し出した。
﹁二人が無実だって分からなかったら戻ってこられないんですよね
?﹂
太李の問いかけに﹁分かってもどうかなぁ﹂と柚樹葉が顔をしか
めた。
パプリカのヘタをぽんっとタッパーにしまってからごろんとベッ
ドに寝転がったマリアが手を振る。
﹁あのオッサン、よっぽどあたしらが嫌いなんだろうな﹂
﹁仕方ないさ。組織に嫌われるのは正しかろうがなんだろうが我が
道を行って全体の意向に従わない存在だよ﹂
よもぎの手札から迷った末にカードを引き抜いた梨花がびくっと
跳ね上がる。カードの上では小馬鹿にしたようにピエロが笑ってい
る。
うー、と唸ってから梨花は手札をシャッフルして南波の前に差し
出した。
﹁君らはそういう意味では組織に嫌われるには充分だよ。規格外の
金額を吹っ掛けてくる傭兵と自分の理念を第一としてヘタをしたら
言うこと利かないで突っ走るタイプだから﹂
﹁今さら言うなよ、性格なんだから﹂
ごろごろ転がりながら﹁でもなぁ。お前らをこのままあのオッサ
ンのとこに置いとくのもなぁ﹂
一度は太李を見捨てようとした存在だ。組織としてはそう動くの
が正解でもだからといって味方であるはずのそこに殺されては意味
がない。
﹁もういっそ、お前ら全員アシーナに来ちまえばいいんじゃね?﹂
324
﹁無理言わないで。チェンジャーの制御システムは泡夢の設備じゃ
ないと動かせないんだから﹂
柚樹葉の言葉にむぅ、とマリアが顔をしかめた。
南波の手が見事に梨花に握りしめられていたババを避けて数字の
カードを引く。わかりやすいんだよなぁ、と南波は心の中で呟いた。
﹁でも、マリアさんもいつまでも仕事ないのは困りますよね﹂
巳令の言葉にマリアは﹁いつかは困りそうだな﹂と顔をしかめた。
﹁いざとなりゃ、支部に行けばなんか仕事貰えそうだけどな。まー
確実に海外だろうけど﹂
﹁そうですよね⋮⋮﹂
しゅんと肩を落とす巳令に﹁お、おい、なんだよ。別に今すぐ出
て行くなんて行ってねーだろ﹂とけらけらマリアが笑う。
やったー! と何もなくなった両手をあげるよもぎの声が響く。
決着がついたらしい。
﹁灰尾を助けられた。それは後悔も何もないくらいすげぇ誇らしい
ことだと思ってる。実際、梨花の依頼って建前がなかったら支部は
ヘリ貸してくれなかっただろうし﹂
﹁そのヘリは上空で爆発四散しちゃいましたけどね﹂
﹁しゃあねぇだろ鈴がやれっていうんだから﹂
ぶすっと答えるマリアに巳令はくすくすと笑った。
そんな彼女をじっと見つめていた太李の手をちょんちょんとスペ
ーメが突いた。
﹁ん? なんだよ?﹂
﹁お前呑気にしてるけど鉢かづきにちゃんと話したですか?﹂
﹁馬鹿!﹂
ぐいっとスペーメを掴み上げながら太李がしゃがみ込む。
﹁灰尾?﹂
不思議そうに首を傾げる巳令に﹁なんでもない! なんでもない
から!﹂と笑うと彼はスペーメと顔を突き合わせた。
﹁お前⋮⋮さては聞いてたな﹂
325
﹁聞いてたわけではないです聞こえてたのです﹂
﹁同じことだろ!﹂
﹁どさくさに紛れてなかったことにしようとするなんてさすがヘタ
レなのです。ヘタデレラなのです﹂
﹁うっさいお喋り毛玉!﹂
むにーっとスペーメの頬を引っ張りながら太李は声を潜めて言い
返した。
合宿のとき、太李は巳令にディスペアとの戦闘が終わったら自分
の気持ちをきちんと伝えると宣言した。
ところが、そのディスペア戦の際に自分は敵陣営まで連れ去られ、
それどころではなくなってしまった。帰って来てから何度も伝えよ
うと決意してはみたものの話し出すタイミングは掴めずにいて、巳
令の方は巳令の方で何事もなかったかのように過ごしていてなおさ
らそれがタイミングを失わせていた。
﹁ヘタレのお前がうかうかしてるうちに鉢かづきに何かあったらど
うするですか﹂
﹁何かって?﹂
﹁もうお前に振り向いてもらえないと悟って若気の至りでとんでも
ない彼氏作っちゃうとか﹂
そのスペーメの言葉に太李が想像したのはいかにも不良のリーゼ
ント頭の男と仲睦まじげに腕を組む巳令の姿だった。
﹁いや、まさか﹂と否定の言葉を口にすると﹁分からないなのです
よ女子高校生って奴は﹂とスペーメが嫌に深刻そうに告げる。
そんな一人と一体を見ながら﹁何お話してるのかな?﹂と梨花は
トランプをまとめながら首を傾げた。
﹁さあ。でもとても楽しそう﹂
ちょっと羨ましいです、とぼそりと続けた巳令を不思議そうに見
つめていた柚樹葉の携帯が突然鳴り響く。
立ち上がった柚樹葉は各々から距離を置きつつそれに応答した。
326
﹁あ、そうだ、今度はみれー先輩とマリアさんもゆずちゃん先輩も
一緒にやりましょ! ババ抜き!﹂
﹁お、いいぜ。こう見えてあたしはな、日本に住んでた頃はババ抜
きの女帝なんて家の中で恐れられてたもんだぜ﹂
﹁なんだそのコメントに困る称号は﹂
誇らしげなマリアに南波が冷たく返すと﹁いや、馬鹿にすんなよ。
こう見えてマジでつえーぞあたし﹂とマリアはにっと笑った。
トランプをきりながら梨花が告げる。
﹁なんだか意外です⋮⋮マリアさん、その、こういうの、やるんで
すね?﹂
﹁ああ。たまにな。負けた奴は風呂掃除だったから死ぬ気でやった
もんだぜ﹂
﹁なんですかそれ﹂
くすくす笑う巳令にへへっとマリアも笑い返した。
そこで通話を終えた柚樹葉が真面目そうな顔をして戻ってきた。
﹁ごめんね。私は一旦本部ビルへ戻るよ﹂
﹁どうしたんですか?﹂
﹁いや、少し制御システムの調子が悪いらしくて。調整に戻るだけ﹂
スペーメ、と彼女が呼びかけると﹁はいです!﹂と太李の腕から
抜け出したスペーメがぴょんと柚樹葉の肩に飛び乗った。
﹁それじゃ、マリア、鈴丸が帰ってきたらよろしく伝えておいて﹂
﹁おー﹂
背を向ける柚樹葉にマリアが手を振った。
それから疲れ切った様子の太李に﹁ほら、灰尾もやろーぜ。ババ
抜き﹂と笑いかけた。
泡夢の本部ビルのエントランスに辿りついた柚樹葉はふと足を止
めた。
327
警備員に呼び止められて、カバンの中を検査させられているだぼ
だぼの作業服姿の男がいたからである。帽子を深く被っているせい
でその顔までは見えない。
受付カウンターまで向かった彼女は﹁あれなに?﹂と男を指差し
ながら受付嬢に声をかけた。
﹁ああ、今日、水道管の検査があるらしくて﹂
﹁一人でやるの?﹂
﹁いえ、責任者の方が先に下見にとのことでした﹂
﹁⋮⋮ふーん﹂
目を細める柚樹葉に﹁何か?﹂と受付嬢が首を傾げた。
﹁ううん。随分体格のいい配管工だと思ってね﹂
そう言ってから彼女は受付嬢に﹁システム室に九条が来たと連絡
いれてくれる?﹂はい、と受付嬢は人のよさそうな笑顔を浮かべた。
人混みの中に柚樹葉が飛び込んでいく中で﹁よいのですか﹂とス
ペーメが問いかけた。
﹁何が?﹂
﹁⋮⋮なんでもないのです﹂
ははっと柚樹葉は渇いた笑いをあげて、スペーメの頭をぽんぽん
と彼女は撫でた。
一方でようやく警備員から解放された男は大荷物を抱えながら受
付カウンターまで歩み寄った。
先ほどまで九条柚樹葉がここにいたことを思い返しながら﹁入館
証を﹂はい、と受付嬢がケースに手を伸ばした。
サングラスの奥にある瞳を彼女に向けたまま、落ち着かない様子
で顎ひげに手を伸ばす彼に﹁どうぞ﹂と受付嬢は笑顔で入館証を差
し出した。
﹁どうも﹂
﹁お帰りの際はこちらに入館証をお返しください﹂
返せるかなぁ、と心の中で呟きながら男はもう一度だけ彼女に頭
328
を下げた。
カバンを担ぎ直しながら彼はギリギリしまりそうだったエレベー
ターに駆け込んで五階のボタンを押した。一般の入館証で入れる限
界だった。
降りて行く社員の波に紛れてそこに降りた男は迷わずトイレの方
へ向かうとカバンの中から立ち入り禁止の立札をそこに置いた。
幸いなことに、中には誰もいなかった。ふぅ、を息をついてから
男はカバンを床に放ると帽子とサングラスをさっさと取っ払い、顎
のひげに手を伸ばすとそれを一思いに剥がしてしまった。付けひげ
だった。
もう少し、手間取ると思ってたんだけど。鏡の向こう側に映る普
段の自分に彼は苦笑した。
そこにいたのはもう、配管工の男などではなく、傭兵・蒲生鈴丸
だった。
大きめの作業着を脱ぎ捨てた彼はぴったりとしたスーツを着込ん
でいた。二重底になっていたカバンの中からリュックサックを取り
出した彼は必要最低限の道具をその中に移し替えた。
スーツのポケットから黒縁の伊達眼鏡を取り出すとそれをかけ、
帽子の下で乱れてしまった髪を整える。
パッと見るだけならば、普段から傭兵として高校生たちにあれや
これや言ってきた男とは思われない。腕時計をはめながら鈴丸は﹁
うっし﹂と両手で頬を張るとトイレから出た。
わざわざ猫背を作りながらおどおどと辺りを見渡す。我ながらわ
ざとらしいな、と思いながら鈴丸は一人の男性職員に目をつけた。
タイミングを見計らって男の目の前に体を滑り込ませる。鈴丸の
狙い通り、男はバランスを崩し、その場に座り込んだ。
﹁あ、す、すみません! ぼ、ボク、つい慌てて﹂
わざとらしいほどの猫なで声を作ってあわわと男に手を伸ばす。
329
鈴丸の手を借り、立ち上がった男は﹁新しく入った人?﹂と問い
かけてきた。いいから行けよ! 心の中でごちつつ、鈴丸は笑顔を
作ってそれに答える。
﹁は、はい。営業部の方に⋮⋮、引き抜きで、あ、その、お怪我は
?﹂
﹁ああ、大丈夫大丈夫。大変だねぇ、この時期から﹂
﹁い、いえ、好きでやってますから﹂
話がなげぇんだよおっさん! 心の中で悪態をつきつつ彼は必死
に取り繕った。
﹁いいねぇ、仕事に自信が持てる! その調子で頑張ってくれ! 石の上にも三年というしね!﹂
﹁は、はい⋮⋮為になります﹂
何年目か分からなくなるくらいにはこの仕事やってるわ。
それでも鈴丸は気弱な後輩職員を演じきった。はっはっは、と高
笑いしながら﹁また会おうじゃないか!﹂と彼は立ち去って行った。
﹁⋮⋮本当に、ありがとうございました﹂
手の内に収まっていた職員用のIDカードを見ながら鈴丸は口元
で笑みを浮かべた。
南波の手に握られた二枚のトランプに指を伸ばしながらごくんと
太李は唾を飲んだ。
太李がどちらのカードに手を伸ばしても南波は表情一つ変えない。
だからこそ、難しい。これがポーカーフェイスという奴かと思いな
がら直感的に太李は右側にあったカードを引き抜いた。
それがハートの五だと分かるやぱっとトランプの山に放り投げて
ガッツポーズ。
﹁よっしゃ! 南波に勝った! 南波には勝った!﹂
﹁⋮⋮お前に負けたと思うとなんか凄いいらっとする﹂
330
太李に冷たい視線を向けながら彼はそう吐き捨てた。いまだに嬉
しそうな太李の後ろでその台詞を聞いたよもぎが﹁まっけおっしみ
ーまっけおっしみ﹂と適当なメロディをつけて歌っている。
間もなく、そんな彼女の頭に南波の手刀が振り下ろされた。
身悶えるよもぎを無視してトランプをまとめていた巳令が﹁そう
いえば﹂とマリアを見上げた。
﹁ん?﹂
﹁単純な疑問なんですけど、マリアさんはどうして傭兵に? 言い
たくなかったらいいんですけど﹂
巳令の問いにマリアは銀髪を掻き毟りながら﹁そうさなぁ﹂と考
え込んだ。
﹁んまぁ、なりゆきかな﹂
﹁なりゆき、ですか?﹂
びっくりした風に身を乗り出す梨花に﹁おう﹂と返した。
﹁前にも言ったかもしれねーがあたしはそもそもは実家の教会でシ
スターをやってたんだ﹂
自分の前職はシスターだ。そう言っていたマリアのことを太李は
思い出した。
﹁親父が神父で、母さんがシスター。そんな中にあたしも入って、
小さい教会だったが幸せにやってた﹂
﹁それが、どうして傭兵に﹂
南波の言葉に﹁最初に言っとく。湿っぽい話になる﹂と前置きし
てからマリアは続けた。
﹁ある日親父は、知り合いの婆様とその息子を助けるために家を飛
び出して、そのまま帰ってこなかった﹂
﹁⋮⋮帰ってこなかったって﹂
﹁不幸な事故と言えばいいのか、神様のお導きだとでも言うのか、
悪魔の仕業とでも言えばいいのか、親父は死んだ。殺された﹂
はっと笑いながらマリアは更に、
﹁あたしは、怖くて親父を止められなかった。心にどこかで親父は
331
危ないかもしれないと分かっていたのに。それがずっと心のどこか
に溜まってて、とても納得できなかった。親父の死を納得できなく
て、色々あってあたしは半ば逃げるように日本に来た﹂
うーんと難しそうに唸りながら続ける。
﹁いや、目的はあったのかもしれない。それを勝手に使命と言い聞
かせ、あたしは親父を見殺しにした事実から逃げたんだ﹂
﹁⋮⋮マリアさんのせいじゃ﹂
﹁あたしのせいじゃねぇ。妹にもそう言われた。挙句、神の前で許
されちまった始末だ。だから、今じゃあたしの中でもう終わってる。
でも当時のあたしはとてもじゃないがそう思えなかったんだ﹂
太李に笑いかけてから﹁だからあたしは自分で決着をつけた。自
己満足だった目的を達成して、色んなことにケリをつけた﹂
ただ、と碧眼を伏せた。
﹁そうなっちまうと、あたしは目的を完全に失った。国にも帰れず、
シスターにも戻れず、何をしたいというわけでもねぇ。そのときの
あたしは抜け殻だった﹂
ぎゅっと手を握りしめながら﹁周りのダチは、色んな目標を見つ
けて行った。だから焦ったんだよ。あたしにはそういうのがなかっ
た﹂そんなとき、とマリアは窓の外を見た。
﹁あたしは、ベルに出会った。傭兵になって一緒に、世界中の困っ
てる人を助けましょうってそう言ってくれた﹂
笑っちまうよな、と彼女は真後ろのベッドに倒れ込んだ。
﹁一度は、シスターをやめ、人を救うことから逃げたあたしがまた
人助けなんて。でもあたしはそれにすがるしかなかった﹂
﹁だから、傭兵に?﹂
よもぎの問いかけにおうとマリアが笑う。しゅんと巳令が項垂れ
た。
﹁なんか、すいません﹂
﹁あ? 別にいいって。終わった話だし。こうしてつるんでる以上
はいつかはあたしがこういう人間だって話はお前らにしないといけ
332
ないなと思ってたし。ベルに感謝してるし﹂
だから何かあったなら力になりたいんだけどな、とマリアは心の
中で溜め息を吐いた。
それから﹁だぁ! そんな湿っぽくなんなよ! やめろってば!﹂
と銀髪を掻き毟って彼女が言う。
﹁こういうときはあれだ! 焼肉食いに行くぞ! 焼肉!﹂
﹁え、なんでですか?﹂
﹁うっせぇ! あたしが食いたいんだよ!﹂
怒鳴りながら起き上がったマリアは﹁奢ってやるから来い! パ
ーッと食うぞ!﹂と部屋から飛び出して行った。
カタカタとキーボードを叩きながら柚樹葉はぐっと唇を噛み締め
た。
おかしい。どこにも不具合なんて見られないのに。
同じように判断したのか﹁柚樹葉、これおかしいのです﹂とスペ
ーメが顔を上げた。
﹁やっぱり? こっちもプログラム上の不備は全く見られない﹂
﹁もしかして第三者が何かしたんじゃないです?﹂
﹁まさか﹂
ぱち、と手を止めながら柚樹葉は顔をしかめた。
﹁そこらへんの防御システムとはレベルが違うんだよ? それこそ
ウイルスなんてそうそう簡単に﹂
﹁最先端は案外アナログに弱いのです﹂
ぽふんと自分の膝に座るスペーメを見て﹁なるほど﹂と柚樹葉は
頭を掻いた。
もし本当にスペーメの言う通りだとしたら。顔をしかめていると
ばちっと柚樹葉のパソコンの電源が落ちた。
﹁ただの馬鹿だと思ってたけど厄介な相手だったのかもね﹂
333
周りでざわめく職員たちに﹁うるさいな! これならまだ攻撃の
初期段階だ。相手もこっちのシステムを完全に落としきれてない。
君らはいい歳した大人なんだからどうすればいいかくらい自分で考
えて!﹂と言い放つと彼女は白衣のポケットから自分の携帯端末を
取り出して、下へと潜り込んだ。コンピュータの蓋を強引にこじ開
けて、ぱっぱと繋ぐと起動させる。
﹁何が落ちてもここだけは落とされるわけにはいかないね﹂
﹁はいです!﹂
そう頷き合った瞬間、今度は警報が鳴り響く。ディスペアの出現
とは違うものだ。
それに構わず柚樹葉は画面を睨み付けた。ぴょんと柚樹葉の膝か
ら飛び降りたスペーメは一人で職員の足元まで行くと﹁おいお前!
これはなんの騒ぎですか!﹂と問いかけた。
﹁そ、それが五階の火災報知器が作動したらしくて﹂
﹁五階?﹂
何やってるんだ、とスペーメは白い体を震わせた。入館証で入れ
る限界の階。それだけで自分が先ほど視認していた鈴丸の仕業の可
能性が高いことくらい判断はできた。
居ても立ってもいられずにスペーメは扉の小さな隙間から廊下へ
飛び出した。警備員が職員たちが忙しく行き来している。
とにかく五階に降りなければとスペーメが前足を振り上げたと同
時にその体が持ち上げられた。
﹁よう、久々だなスペーメ﹂
自分の頭上から聞こえた声にスペーメは口を開いた。
﹁何やってるですかがも、むぐ!﹂
﹁あんまり騒ぐな。正式なアポとって中にいるわけじゃないから﹂
スペーメの口を塞いだのは鈴丸の手だった。
鈴丸は小さな口を手で覆ったままで低く告げる。
﹁俺のIDカードはどこだ。まだ処分されてないよな﹂
334
ぱっと鈴丸の手が放れる。
﹁し、知らないのです。持ってるとしたらベルガモットなのです﹂
﹁ベルは駄目だ﹂
﹁どうしてお前のIDカードがいるですか﹂
スペーメの問いかけに﹁仕事で使う﹂
﹁⋮⋮スペーメはここでは柚樹葉の予備ID代わりです。といって
も出来るのはせいぜいシステム起動くらいですが﹂
﹁何が言いたい?﹂
﹁お前の手助けをしてやるです。だからお前も柚樹葉を助けろなの
です﹂
鈴丸は小さく舌打ちした。ロボットの癖に取引きとは生意気な。
だがここまで来た以上、彼も後戻りはできなかった。
﹁分かった﹂
それだけ言うと彼はリュックから筒を取り出して、放り投げた。
彼の手を離れ、地面に叩き付けられた瞬間、筒が煙を吐き出した。
天井に取り付けられていた火災報知器が鳴り響く。
﹁やっぱりお前の仕業だったですか﹂
﹁火ぃつけてないだけマシだと思え﹂
スペーメを抱きかかえながら鈴丸は走り出した。
至る所で鳴り響いている警報が不愉快で仕方ないと九鬼は眉間に
皺を刻み込んだ。
先ほど内線で発煙筒が火災報知機の下に設置されていただけとは
言われていたがそれでも止まない警報は彼にとって不快でしかない。
役立たず共が、と内心吐き捨てていると今日何度目か分からない
内線が鳴り響く。荒々しくそれを拾い上げた。
﹁今度はなんだ!﹂
﹁申し訳ありません九鬼主任、ご確認願いたいことがあるのでロビ
335
ーまで来た頂けますか?﹂
電話越しに聞こえてきた若い男の声に九鬼は更に苛立った。
﹁ああ、すぐ行く!﹂
乱暴に受話器を叩き付けてから彼はパソコンの電源を落として、
立ち上がった。
扉を開け、そのまま廊下を進んでいく。その後ろ姿を見つめなが
ら扉の後ろに隠れていた鈴丸とスペーメが中に潜り込んだ。
内線に無理やり繋いで、九鬼を誘い出す。簡単なもんだ、と鈴丸
は心の中で笑っていた。
電源が消えたパソコンを見つめながら、彼はスペーメに促した。
﹁スペーメ、頼む﹂
﹁任せるです﹂
財団内の全てのパソコンはIDがなければ起動できない仕様にな
っている。IDのスキャナーにべったり張り付くスペーメは感心し
たように告げる。
﹁にしても、蒲生は器用なのです。声、全然違ったですよ﹂
﹁まーな。これくらいできないと色々不便だから﹂
喉元に手をやりながら鈴丸が苦笑すると﹁蒲生はどうして傭兵な
のですか﹂と問いかけた。
彼はスペーメが予想していたよりも早くそれに答えた。
﹁金が欲しかったから。一番儲かるんだよ、これが﹂
パソコンが再び立ち上がる。
IDとパスワードの要求に怯みもせず、彼はキーボードで決めら
れた英数字を打ち込んだ。なぜ知っている、とは聞かずにスペーメ
は質問を続けた。
﹁その仕事は好きですか?﹂
﹁好きとか、嫌いとかってもんじゃないだろ。金が入るからやって
るだけだ﹂
画面を食い入るように見つめながら﹁天職だとは思ってるよ、我
ながら﹂同意なのです、とスペーメは丸くなった。
336
﹁でも、ま。今やってることは楽しいかな﹂
手慣れた様子でエンターキーを押すとぐぐっと腕を伸ばした。
これで自分の仕事は終わりだ。残りは向こうが勝手にやってくれ
るだろう。
﹁んで? どうやって柚樹葉を助ければいい?﹂
鈴丸の問いかけに﹁今からお前はスペーメの言う通りに指を動か
せばよいです。こっちからまとめてぶっ潰すです﹂とスペーメは彼
の肩に飛び乗った。
うっし、と鈴丸が笑う。
クーラーのよく利いたロビーで九鬼は腕を組み、足踏みをしなが
ら周囲に自分がいかに不機嫌であるかを知らせていた。
九鬼の周りにはそんな空気を嫌って誰も近づかない。そんな中で、
かつかつと足音が響く。
夏という季節には不釣り合いな黒いブーツに真っ白なナポレオン
コートに身を包んだ彼女は﹁九鬼さん﹂と声をあげた。九鬼は彼女
の方へ振り返り、驚愕で目を見開いた。
﹁ベルガモット⋮⋮いつ﹂
﹁ご迷惑をおかけてして申し訳ありませんでした。突然お呼びした
ことも謝ります﹂
ぺこりと頭を下げるベルに彼は﹁どういうつもりだね﹂と低く問
いかけた。
﹁いえ、ただの確認ですよ﹂
﹁確認だと?﹂
愛想のいい笑顔を浮かべたままのベルに九鬼が不愉快そうに顔を
歪めていると﹁やあ、九鬼くん﹂と初老の男性がゆっくり二人の元
さがの
へ歩み寄った。それに九鬼は背筋が凍るかと思ってしまった。
﹁佐ケ野会長⋮⋮!?﹂
337
白髪が混じりの髪をオールバックにしたこの男は、この泡夢財団
の会長という身分だった。
冷や汗が流れるのを感じながら九鬼がごくりと息を飲むと佐ケ野
はのんびりと話し出した。
﹁いやぁ、フェエーリコ・クインテットの活躍は聞き及んでいるよ。
先日もトレイターたちの拠点を潰したとかどうとか﹂
﹁ええ、まぁ⋮⋮﹂
﹁でも、実は昨夜、こんなものが私のところに届いてね﹂
そう言って佐ケ野が取り出した紙の束を九鬼は奪い取るように見
た。
告発状と書かれたそれには匿名で泡夢財団にトレイターと繋がり
のある職員がいることが書かれている。
そして最後には九鬼が名指しされていた。
﹁な、まさか、会長、こんなでたらめを信じてらっしゃると﹂
﹁まさか。優秀な君がそんなわけないだろうと私も思っているが﹂
送られてきた以上は、ね。と佐ケ野が薄く笑う。それをうすら寒
いとすら彼は思った。
そんな重苦しい空気の中、持っていたタブレットを開いたベルが
わざとらしく声をあげた。
﹁あらあら、大変です、佐ケ野会長。どうして、なぜだか、トレイ
ターとは無縁でスパイでもなんでもないはずの九鬼さんのパソコン
に入っていたデータとしてこの間壊滅させた拠点の見取り図や詳細
な指示書が送られてきました﹂
その言葉に、九鬼はベルを睨み付けた。
彼女の手元には鈴丸から転送されていたデータを示すタブレット
がある。
﹁ベルガモット、まさか、貴様、はじめからこれが﹂
﹁あ、ここなんか九鬼さんの名前があります。灰尾太李が連れ去ら
338
れてから、私たちがこの場で待機するように仕向けろということら
しいですね﹂
﹁これは罠だ﹂
﹁まぁ、しかも今さっきまでフェエーリコ・クインテットの変身シ
ステムを攻撃していたウイルスの制御プログラムまでありました﹂
九鬼が眉を寄せた。
﹁今さっきまで?﹂
﹁はい。もう、うちの優秀すぎて困っちゃう傭兵がきちんと阻止し
ました﹂
がっと自分の部屋の方を睨み付けながら九鬼は喉が潰れんばかり
に叫んだ。
﹁蒲生鈴丸!﹂
当然それに鈴丸が答えるはずもない。
自分を見つめている佐ケ野に九鬼は必死にしがみついた。そこに
はもはや、今まで溢れかえっていた自信も、余裕も、プライドすら
もない。
﹁ち、違うんです会長、私はこの女に﹂
﹁傭兵団体アシーナ専属チームテセウス、五月某日に仲介人ベルガ
義照。依頼内容は﹂
よしてる
モットを通し、泡夢財団と契約を結びました﹂
淡々と、ベルガモットが続ける。
﹁依頼人は、泡夢財団会長、佐ケ野
孝明の外部組織との癒
こうめい
九鬼を見下ろしながらベルは非情なまでに明るい笑みを浮かべた。
﹁ディスペア撲滅プロジェクト主任、九鬼
着の調査です﹂
そこで九鬼は、完全に言葉を失った。
はじめから泡夢財団の上層部が疑っていたのはマリアや鈴丸など
ではない。九鬼自身だ。だから裏側でこっそりと彼女は動き回った。
茫然とする九鬼の手を振りほどきながら﹁残念だよ、九鬼くん﹂
と佐ケ野が告げると同時にどこからともなく現れた黒服の男たちが
彼を掴み上げた。
339
はは、と九鬼が笑う。
﹁なんの茶番だ、これは﹂
﹁茶番? 何言ってるの? 自業自得でしょ﹂
冷たいベルの言葉に九鬼が吠える。
﹁ベルガモット! 貴様! 俺がどれだけお前に賭けてやったと!﹂
﹁知ったこっちゃないわよ。幼気な高校生たちダシにして、自分だ
けいい思いしようだなんてムシのいいこと考えるからよ。ずるい大
人が損する世の中じゃなくっちゃ、あの子たちだって安心できない
わ﹂
にっこり笑うベルに食って掛かろうとしたものの九鬼は両方から
固められて、ちっとも動けなかった。覚えてろ、そう叫ぶ彼をふん
とベルは笑い飛ばした。
どこかに連れ去られていく九鬼を見ながら隣にいた佐ケ野が告げ
る。
﹁ご苦労だった。ベルガモット君﹂
﹁いえ、むしろ突然部下をこの仕事に絡ませてしまって申し訳あり
ませんでした。わたくしの不手際です﹂
ぺこりと頭を下げるベルが言っているのは鈴丸のことだった。
本来ならフェエーリコ・クインテットのアシスタンという表面上
の依頼に隠れ、この依頼は水面下でベル一人の手によって進められ
るはずのものだった。
ところが、それに目ざとく気付いたのが鈴丸だった。相変わらず
金の匂いを嗅ぎつけるのが得意な男だと彼女はいっそ感心すらして
しまった。
ははっと佐ケ野が笑う。
﹁なに、気にすることはない。彼にはよく働いて貰っているからね、
臨時ボーナスだとでも思えば。ただ発煙筒はやりすぎだと言ってく
れ﹂
﹁はい、よく言って聞かせます﹂
﹁それより、大丈夫かい。和歌くん、色々と﹂
340
懐かしい名前に、彼女は困ったように頬をかいた。嫌がらせ、の
意思はないのだろうとベルは判断した。
﹁ひとまずは。それに会長のご厚意でやっとここまで来られたんで
す、無駄にはできません﹂
﹁そうか﹂
ふんわりと笑った佐ケ野は﹁それじゃあこれからも頼むよ﹂とぽ
んとベルの肩に手を置いた。
そうだ、自分はここで立ち止まっているわけにはいかないのだ。
ぎゅっと拳を握りしめて、彼女は佐ケ野の背が見えなくなるまで
深々と頭を下げ続けた。
柚樹葉は復旧したコンピュータを見てはぁーと息を吐いた。
まるで処理が追いついていなかったウイルスが嘘のように消えて
行った。大方、スペーメと鈴丸の仕業だろうと思いつつだらりと椅
子に腰かけた。
それを待っていたかのように彼女の携帯が鳴り響く。発信者は太
李だった。
﹁なに?﹂
﹁あ、九条さん? どう? 仕事終わった?﹂
﹁たった今だよ﹂
げっそり答えると﹁そうか、ならよかった﹂と彼が言う。
﹁これからマリアさんが奢ってくれるから、焼き肉行くんだけどよ
かったら九条さんも﹂
﹁⋮⋮へぇ﹂
全くいいね、君らは気ままで。
うんざりした風に天井を仰ぎながら﹁なに、鈴丸とベルガモット
も連れて行けばいい?﹂
﹁きてくれんのかな﹂
341
﹁大丈夫、あの二人、今はきっと君らと話がしたくて仕方ないはず
だよ﹂
色々積もる話があるはずだ。私にも彼らにも。
そんなことを考えながら柚樹葉は﹁すぐに合流しよう﹂ときっぱ
り告げた。
長い焼き肉パーティになりそうだ。そう一人笑いながらである。
342
第十七話﹁やっぱりさようならよりおかえりと言いたいようです﹂
煙と共に肉の脂の匂いが部屋に立ち込めていた。
網の上に乗せられた切り揃えられたカルビがじゅうじゅうと音を
立てながら脂を下へと落としている。赤みが徐々に色づいていく様
に梨花は顔を輝かせていた。
トングでそれを突いていたマリアが﹁うーっしもういいだろ﹂と
梨花の小皿の上にそれを乗せる。ぱぁっと彼女の顔が輝いた。
﹁あ、ありがとうございます!﹂
﹁おー、食え食え。遠慮せずにガンガン食え﹂
﹁はい!﹂
笑顔を浮かべる彼女を見ながらマリアも自分の小皿にそれを乗せ
た。
梨花はマリアが乗せてくれたカルビを軽くタレにくぐらせてから
手元に置いてあったご飯の上にとんとんとつけ、タレのついた白米
と共に口の中に放り込んだ。ほろほろと柔らかい肉としつこくない
脂が白米によくあっていて梨花はふにゃぁと気の抜けた笑みを浮か
べた。
その横で、別の網を突いていたよもぎの声が響く。
﹁あ、ちょ、益海先輩、それ! それ、春風のカルビ! もう! なんでまた横取りするんですか!﹂
ばんばんと机を叩くよもぎに隣に座る太李を見た南波が答える。
﹁灰尾が食っていいって言った﹂
﹁言ってねぇよ! なんでそんな平気な顔で嘘吐くんだ!﹂
﹁灰尾先輩! なんてこと言うんですか!﹂
﹁言ってないってば!﹂
冤罪だぁ! と叫ぶ太李の皿を見ながら﹁ほら灰尾、野菜。野菜
食べないと﹂と巳令が彼の皿にししとうを放り込んだ。
343
﹁あ、お、おう、さんきゅーな﹂
﹁みれー先輩お嫁さんみたいですね﹂
﹁およめさ!?﹂
びくっと肩を跳ね上がらせる太李におおこりゃおもしれーやとよ
もぎはまだ南波に食べられていなかったカルビを口に運んだ。
巳令はただただにこにこしているだけだった。なんで彼女はそん
な平気な顔をしているのだろうかと太李には不思議で仕方なかった。
まさかこの間のことはすでに巳令の中で何かしら結論づけられてし
まって勝手に終わってるのではなかろうかという不安も煽られる。
その光景を見ながら﹁あなたたち相変わらず愉快ねぇ﹂と入店し
てきたばかりのベルが呟いた。その後ろには柚樹葉と鈴丸もいた。
﹁ベル姉様!﹂
よもぎの嬉しそうな声に彼女はにこりと微笑んだ。
﹁引きこもりやめて来ちゃった。焼肉なんてほんと久しぶりー。あ、
マリア隣いい?﹂
﹁おー﹂
大した興味もなさそうにマリアは網をいじりながらベルの言葉に
答えた。
さも当然のごとく、巳令の隣に座る柚樹葉を見てから﹁隣、座っ
てもいいか?﹂と鈴丸が梨花に首を傾げた。口を白米でいっぱいに
しながら梨花がこくこくと頷く。ハムスターみたいだと鈴丸は心の
中で笑った。
﹁で、マリアの奢りなんですって?﹂
﹁え、あたし鈴とお前の分は奢らねーぞ﹂
微笑むベルにマリアが顔を引きつらせながら答えるとえ、と戸惑
いを含んだ声が鈴丸とベルから上がる。逆に驚いたとばかりにマリ
アが告げる。
﹁なんで奢られる気満々なんだよお前ら! 年下にたかんな!﹂
344
﹁そう言われても、ねぇ?﹂
﹁俺ら財布持ってきてねーぞ﹂
﹁帰れ!﹂
﹁まぁ、いいわ。とりあえず中ジョッキ!﹂
﹁酒頼むな!﹂
がぁっと吠えるマリアに﹁あら冷たいこと言わないでよ﹂とベル
が苦笑する。
﹁素面じゃ話し辛いこと話すんだから、ちょっとくらい大目に見て﹂
ぴたっとマリアの動きが止まる。
小さく舌打ちした彼女は﹁しゃーねぇなぁ﹂と頭を掻いた。
﹁今度はお前が奢れよ﹂
﹁ええ﹂
そんなやり取りを横目に、注文を取りにやってきた店員に鈴丸が
告げる。
﹁肩ロースとホルモンとタン塩⋮⋮あ、あと豚トロと中落ちカルビ
と大ジョッキ﹂
﹁お前もなんか話すのかよ﹂
やたら手慣れた様子で頼んでいく鈴丸にマリアがむすっと問いか
けると彼は首を傾げてそれに答えた。
﹁いや、俺は飲みたいから頼んだだけ﹂
﹁お前はほんと帰ってくれ⋮⋮つーかなんでスーツなんだよ就活か
よ﹂
﹁うっせぇほっとけ﹂
上着を脱ぎながら締まっていたネクタイを緩める鈴丸に﹁あ、で
も鈴さんスーツ意外と似合いますよねー。デキる男って感じです﹂
とよもぎ。
﹁意外とは余計だっつの﹂
﹁お、おおおおおしごとれしゅか!﹂
345
﹁ん、まぁな﹂
梨花の声に軽く笑い返すと彼女はぎゅっと両手で箸を握りしめた
きり動かなくなった。
あらーこれも面白いなーとよもぎが思っているとごく自然な流れ
で巳令の皿からカルビを奪取した柚樹葉が言う。
﹁それより、色々話すことがあるんでしょ。君らには﹂
﹁ねぇ、柚樹葉、今私のお皿からカルビ持って行きましたよね。私
のカルビ﹂
﹁鉢峰、やる。俺のやるから﹂
むすーっと不満げな巳令に太李がカルビを渡していると﹁やっぱ
り話さなきゃ駄目かしら﹂とベルが首を傾げた。
﹁そのためにわざわざ君らを引きずって来たんだよ。私の労力も考
えてよ、あ、これ美味しい﹂
﹁そうですか私のカルビ美味しいですか﹂
﹁やる! ししとうもやるから落ち着け鉢峰!﹂
ずずずっと暗いオーラを背負っている巳令に太李がししとうも差
し出す。
悔しそうに柚樹葉を見つめる巳令に笑いながらベルはぼそっと呟
いた。
﹁九鬼さんが主任から外されたわ。つーか解雇処分喰らったわ﹂
え、と鈴丸と発言者のベル以外の全員が固まった。肉が焼ける音
だけが嫌に大きく響く。
一番に声を発したのはマリアだった。
﹁な、ななななな、なん、なんで﹂
明らかに動揺している彼女に声にベルは肩をすくめた。
﹁さあ? 今日突然、そういうことになっちゃって﹂
﹁く、九鬼さんってあの人ですよね! 鈴丸さんをいじめてた人!﹂
太李の言葉にベルが鈴丸に視線を送った。
﹁え、そうなの?﹂
﹁おう鈴丸さんいじめられてた﹂
346
こくこく頷く鈴丸にふーんとベルは上辺だけの興味を示した。
柚樹葉はまっすぐベルを見つめながら問う。
﹁でも、どうして? 嫌に急だね﹂
﹁だから、何度も言うけど私にもよく分からないの。そういう辞令
がくだったとしか﹂
白々しい、と鈴丸は苦笑した。
誰でもなく自分が相手を処分に追いやった張本人だというのに。
それをこの場で代わって口に出してやるほど鈴丸は自分が﹃親切
な男﹄だとは思っていなかった。
店員がサイズの違うジョッキ二つと肉の盛られた皿をテーブルに
並べて行った。中ジョッキの方が自分に来ていて鈴丸はベルを見た
もののすでに彼女は大ジョッキを呷っていた。
口元を拭いながら彼女は告げる。
﹁私ね、昔、婚約者がいたのよ﹂
だらんと椅子に身を投げ出しながらベルが喋り出した。
前にも聞いたことのある話だと巳令は思っていたが口には出さな
かった。恐らくこれには続きがある。そう思ったからだ。
実際に、彼女はそのあとの話も淡々と喋り続けた。
﹁それはそれは素敵な人だったわ。ある軍に勤めていた開発者で、
私も同じ軍に所属していた。私の兄もそうだった﹂
一拍置いてから、ごくごくとベルの喉元をビールが通り過ぎてい
く。いつもより苦く感じながら彼女は一息ついてまた口を開く。
﹁ある日彼は、いえ、彼と兄はと言った方がいいわね。とにかく、
ある技術が生まれたのよ﹂
﹁技術?﹂
﹁失われた生命をもう一度取り戻す技術、とでも言えばいいのか﹂
柚樹葉がわずかに目を見開いた。
﹁馬鹿げてる﹂柚樹葉の唇から震えた言葉が漏れた。
﹁ええ、馬鹿げてる。でもそのときの私はそうは思わなかった。う
うん、私だけじゃない。その場にいた誰もが、そんな馬鹿げた奇跡
347
を信じていた﹂
いつもと変わらない愛想をたっぷりと含んだ笑みを浮かべながら
ベルによもぎが問いかける。
﹁でも、それと今回のこととどう関係が﹂
﹁ディスペアが見せる悪夢って、どういうものか知ってる?﹂
唐突な問いかけに、その場にいた全員が固まった。無理もない、
とベルは思う。ここにいるのは適応者か、あるいはあのっ空間へ対
応できるように適応薬を打たれた人間だけだ。眠ったことはない。
いや、柚樹葉は一度その経験があるが恐らくは覚えていないだろう。
﹁幸せの絶頂からね、突き落とされる夢なのよ﹂
ベルのぽつんとした言葉に柚樹葉は目を伏せた。言われてみれば、
という状態らしい。
﹁突然悪夢を見せられて、茫然としている人間が生きるために使っ
ているエネルギーを集めてる。それがディスペア﹂
﹁⋮⋮話の繋がりが全く見えないよ、ベルガモット﹂
﹁そのエネルギーを、その技術でちょっとだけ変換して死んだ人間
の体に注ぎ込むの。すると﹂
﹁蘇る、とでもいうの?﹂
﹁ええ﹂
大きく頷くベルに柚樹葉は頭痛がすると言いたげに額を押さえた。
それでもベルは構わずに続ける。
﹁人一人蘇らせるのにも莫大なエネルギーがいる。しかも全てが全
て、変換出来るわけでもない。だから彼らは何度も何度もディスペ
アを使ってそのエネルギーを集め続けている﹂
網に乗っていた肉をひっくり返しながら﹁最初はね﹂とベルは薄
く笑った。
﹁最初は、こんな風になるはずじゃなかったのよ。必ず、人間のエ
ネルギー以外の何かで代用できるようにして、人を蘇らせるじゃな
くて、もっと別のことに活かせたらって﹂
﹁それがどうして﹂
348
﹁⋮⋮あれが出来てから狂っちゃったのね、私たちの人生って﹂
ぽつんと呟くように言ったベルは﹁彼はね、壊れたわ。無理な実
験であの技術は有能であると示そうとした。だから私の兄と対立し
た﹂
﹁それで﹂
﹁⋮⋮兄は死んだわ。彼を止められないままね。そして生まれてき
てしまったのよ、トレイタートディスペアという存在が。彼の手に
よって﹂
﹁やっぱり﹂
薄々嫌な予感がしていた太李が言うより早く、彼女が告げる。
﹁うわばみ、っていうのはね、私の婚約者だった人。もう違うわ、
あれは別人よ、私の知ってる彼は死んだわ﹂
ふるふるとベルが首を左右に振る。恐る恐る、巳令が問う。
﹁じゃあ、ベルさんは﹂
﹁せめて兄が半分は造ったシステムをこれ以上悪用されないように、
私も彼を追ったの。以前の私を殺した。名前も変えた、髪も染めて、
眼鏡もかけた﹂
それでも、と苦笑した。
﹁この間会ったとき、どうにもできなかったけどね﹂
その寂しげな笑顔に、誰も何も言うことができなかった。
﹁それが、私が傭兵になった理由。あなたたちと戦い続けている理
由よ﹂
﹁どうしてそんな話を、私たちに?﹂
﹁なんでかしら、話してもいいかなって思っちゃったのかも﹂
巳令の言葉ににっこり返して、ベルはまたジョッキを呷った。
沈黙が訪れる中で、わざとそれを壊そうとよもぎが﹁っていうか
!﹂と南波の方に視線を投げた。
﹁なんで益海先輩は無言で肉食ってるんですか!﹂
﹁そこに肉があるから﹂
﹁これだからこの人は!﹂
349
がんっとよもぎが机を叩くと南波はちらとベルを見ながら﹁別に。
ベルさんが昔何があって、どうして俺たちに協力してるかなんて至
極どうでもいい。俺がやることが変わるわけでもないし﹂
また全員が動きを止める中でふふ、とベルが笑みをこぼした。
﹁やーねぇ、南波くんったらぁ。ぐずぐずされるの嫌だけどそーや
って流されちゃうのも悲しいなー﹂
﹁同情して欲しかったか?﹂
﹁まさか﹂
うふふと楽しそうに笑ったベルは﹁すいませーん大ジョッキ追加
でぇ﹂と楽しそうに手を振った。
﹁あら、梨花さん手が止まってるわよ。食べて食べて﹂
﹁え、あ、はい!﹂
﹁サンチュも頼んじゃおっか。どーせマリアの奢りだしぃ﹂
﹁だからお前らの分はぜってーおごんねーかんな!﹂
叫ぶマリアにおほほほとベルはわざとらしい笑い声をあげた。
ハイヒールが地面を蹴る音が響くたび、誰かが自分に振り返る。
そんな視線の集合が麗子にとっては愉快で仕方なかった。
そして自分は誰に対しても振り返らない。わずかな優越が彼女の
中を満たしていく。
紙袋を抱えながらまだ真新しいドアノブを捻ると﹁あ、れーこお
っそーい!﹂とウルフの声が響き渡った。
﹁引っ越したばかりですのよ? 子供なあなたと違ってこちらは色
々とやることがあるんですの﹂
﹁ぶー。あ、飴かってきてくれた? あーめ!﹂
﹁ありますわよ﹂
はい、と手渡された円形の棒キャンディにウルフはきらきらと目
を輝かせた。
350
袋をはぎ取りながらがじがじとそれに噛り付きつつ彼女はさらに
首を傾げた。
﹁じゃあ、本は? 本!﹂
ぴたっと麗子の動きが止まる。
それからやがて、自分の額をこつんとウルフのものぶつけると﹁
本は駄目ですわ﹂と低く言い放った。
﹁どーして?﹂
﹁本なんてなくってもうわばみやわたくしがあなたに必要なこと全
て教えてあげますわ。だからあなたには本なんていらない﹂
彼女が外界の知識を必要以上に取り入れることを麗子は恐れてい
た。このまま純粋に自分たちについてきてくれる存在でいればそれ
でいい。
かじっていたキャンディを袋に戻しながらウルフは目を伏せた。
そんな彼女の頭を麗子は優しく撫でる。
﹁わたくしがあなたに間違ったことを教えたことがあって?﹂
﹁ううん。れーこがいうならしょーがないよね⋮⋮﹂
﹁ええ。外の本なんて読んでも仕方ないことばかりですわ﹂
こぼれ落ちた言葉は少なからず嘘を孕んではいなかった。彼女に
とっては仕方ないことばかりだからだ。
﹁んじゃーしょーがないかられーこがあそんでくれたらそれでよし
としてやります!﹂
﹁生意気なクソガキですわね。そんなガキはこうですわ﹂
締め上げるように麗子の腕がウルフの腹部を圧迫する。
それすら楽しいのかきゃーっと叫び声をあげながら彼女は満面の
笑みで両手足をじたばたと動かした。
﹁れーこのかいりきー! ごりらー!﹂
﹁あら、あなたなかなか抱き心地がよろしいわね。これからわたく
し専用の抱き枕にして差し上げてもよくってよ?﹂
﹁いやー! れーこにだきころされるぅー!﹂
きゃっきゃっとはしゃぐウルフを振り回しながら麗子は笑い声を
351
あげた。
久々に、心の底からこぼれた笑みだった。
﹁随分楽しそうだね﹂
扉の向こう側から聞こえた声に、はっと麗子は動きを止めた。立
っていたのはうわばみだった。
ごほんとわざとらしく咳払いしてから﹁嫌ですわ、わたくしった
ら﹂と彼女はウルフの小さな体を地面に下ろした。そのままウルフ
の体を抱き締めていた腕を彼の首に回した。面白くなくてウルフは
むぅと唸った。
﹁それにしてもやっぱりあなたは酷い人。知り合いが蓮見ならそう
だと早く言ってくださればよろしかったのに﹂
甘ったるい声にははっとうわばみは笑って返した。
﹁言っていたらどうした?﹂
﹁一番に殺しましたのに。わたくし、あの女が嫌いですから﹂
﹁向こうは多分君を覚えてない﹂
﹁だからムカつくんですわ﹂
ぎゅっと彼を抱き締めながら﹁まぁ、でも今はわたくしの元にあ
なたがいますからよろしいですけど﹂と囁いた。
ウルフがげしげしと小さな足でうわばみを蹴り飛ばした。ひょい
っと彼女を抱き上げて﹁遊び相手がとられて不満げだね、ウルフ﹂
﹁うっせうっせばぁか!﹂
その体を肩車してやるのを見ながら﹁あなたが来たということは、
ディスペアをけしかけて来いってことですのね﹂
﹁ああ。悪いね、邪魔して﹂
﹁いいえ。それがわたくしの使命ですもの﹂
軽く会釈すると﹁それでは、ごめんあそばせ﹂と彼女は踵を返し
た。
352
ソファに放り出されたベルはううん、と苦しそうに唸りながらそ
の上で丸まった。
﹁ぎもぢわるいぃぃ⋮⋮はぐぅう⋮⋮﹂
﹁ちょ、ベル姉様待って! 今桶! 桶!﹂
あわわと慌てるよもぎに鈴丸が苦笑しながら告げる。
﹁心配すんな、いつもそう言って吐かないから。調子乗って昼間っ
から飲むからだばーか、自業自得なんだよー!﹂
﹁やめろぉ⋮⋮耳元で叫ぶなぁぁあ﹂
じたばたと手足を上下させるベルに﹁ざまぁみろ﹂と鈴丸は吐き
捨てながらげらげら笑った。ああこの人も酒入ってるなぁとその場
にいた全員が思った。
泡夢財団の休憩所までベルを運んできたのは鈴丸だった。今現在
無関係者である彼が中に入るために他のクインテットが同伴した。
それだけのことだった。
それになんとなくついてきたのがマリアで彼女は自分の財布を眺
めながら深々と溜め息を吐いた。
﹁お前ら⋮⋮ほんとに奢らせやがって⋮⋮﹂
﹁あ、あの今からでもあたしだけでも自分の分﹂
カバンに手を突っ込んで財布を取り出そうとする梨花に﹁いや、
いい! お前はいいんだ!﹂とマリアが笑う。
﹁んまぁ、あれだ。別れの挨拶にゃあ安すぎるくらいだぜ﹂
へへっと笑うマリアにクインテットと柚樹葉が純粋に驚いた視線
を向けた。
視線を受けながらマリアは﹁なんつー顔してんだよ﹂と苦笑した。
巳令が震えた声で問いかける。
﹁だって、マリアさん、今すぐ行かないって﹂
﹁ん、あたしもそのつもりだったんだけどな。んまぁ、九鬼の親父
がいなくなったんならお前らは心配しなくても大丈夫だろうし? ベルの本音も全部じゃねーけど分かった。これ以上、あたしが日本
にいる理由ってねーよ﹂
353
﹁で、でも﹂
﹁心配しなくてもベルは残るんだしさ。あたしら、クビになっちま
ったし? あの親父がやめちまったからってまたここで雇ってもら
えるとも限らないしな﹂
にっとマリアが笑う。
引き留めるのはわがままだ。そう思っていても太李はそのための
言葉を探さずにはいられなかった。
居心地の悪い沈黙を打ち破ったのはディスペア出現を告げるサイ
レンだった。
﹁う、うるざいぃ⋮⋮﹂
ソファの上に転がっていたベルが更に丸くなったのと、﹁どうす
る?﹂と南波が小さく首を傾げたのは同時だった。
ちらりとベルを見た柚樹葉は舌打ちしてから﹁スペーメ!﹂と叫
んだ。部屋の隅でスリープモードに突入していたスペーメがぴょん
ぴょん跳ねながら柚樹葉の元へ駆け寄った。
﹁場所は?﹂
﹁Aの八地点なのです!﹂
﹁なんだ、近場じゃない。よかった。クインテットを案内してやっ
て﹂
﹁了解なのです!﹂
ぴょんと巳令に飛びつくスペーメを見てから﹁君らの最優先任務
はディスペアの退治だ。ほら、行って﹂
マリアを柚樹葉を見比べながらやがて、太李がそっと二人に背を
向けた。それに倣って残りの四人も戸惑いながら飛び出していく。
柚樹葉を見て今まで黙っていた鈴丸が口を開いた。
﹁新しい主任はまだ未着任状態、高校生のガキだけで動けるのかよ﹂
﹁君にぼったくられるよりマシだよ﹂
白衣を翻しながら﹁私はこれで失礼する。さっさと君らも帰ると
354
いい。新しい仕事を探しなよ﹂じゃあね、と手を振って彼女もまた
廊下へと消えて行った。
その後ろ姿を見送ってから鈴丸は﹁なぁ、マリア﹂と自分の同僚
に呼びかけた。
﹁あん?﹂
﹁お前はさ、死んじまった人間を蘇らせたいと思うか?﹂
﹁全然﹂
間髪入れず返ってくる答えに彼は小さく笑った。彼女らしいと思
ったからだ。
﹁ちょっと悩めよ﹂
﹁ばっか。神様がくださる一つの運命なんだぜ? それに背くのは
どんな理由であろうとやっちゃいけねぇことだ﹂
﹁安心したよ﹂
ほっと息を吐く彼に﹁おめーはどうなんだよ、鈴﹂彼は一拍置い
てから肩をすくめただけで何も答えなかった。
そこは工事現場だった。足場では安全メットをかぶった男たちが
ぐったりと倒れ伏している。
﹁悲しき魂に救いを与える姫、鉢かづき!﹂
﹁悪しき心に罰を与える姫、親指!﹂
﹁不幸な存在に光を与える姫、人魚﹂
﹁残酷な宿命に終わりを与える姫、いばら!﹂
﹁哀れな役に幸せを与える姫、シンデレラ!﹂
変身を終えた五人が得物を構え、口々に告げる。
ひゅんっと巳令が虚空を斬って、続けた。
﹁悪夢には幸せな目覚めを﹂
そういえば、きちんと名乗ったのは随分久しぶりだと太李は考え
ていた。
355
今さら恥ずかしいとは思わなかったが少しだけ物足りないような、
そんな気がしていた。
﹁フェエーリコ・クインテット!﹂
二メートル近いサソリが尻尾を振り上げた。その周りにはいつも
の鳥たちが空を埋め尽くさんばかりの数飛び回っている。
通信機のスピーカー越しに柚樹葉の声が響く。
﹁いい? 相手はβ型だ。連携技で一気に畳み込め﹂
その声に﹁じゃあ﹂と梨花は斧を担ぎながら答える。
﹁あたしは、えと、鳥さんたちに回るね﹂
﹁そうだね、頼むよ﹂
柚樹葉の声に返事するより早く、梨花は地面を蹴り上げて斧を真
上に振り上げた。
刃に切り裂かれ、何匹もの鳥が宙に散る。バランスを崩しつつ、
地面に着地すると梨花は真上を睨み付けた。
よもぎが弦を引く。
それを合図にしたように残りの三人が間合いを詰めた。一番に自
分の元に辿りついた南波にディスペアが大きなはさみを振るう。
はさみを跳びあがってかわすと、その上に乗り、南波は捻じ込む
ように三叉槍を突き刺した。ぎゃあ、と声をあげ、後退していくデ
ィスペアから南波が離れると一歩踏み込んだ太李がレイピアを突き
出す。皮膚を破り、刃が突き刺さった。
さらに巳令が鞘から刀を抜き、斬り付ける。緑色の液体を噴射さ
せながら更に後ずさって行く。
よもぎが弦を放そうとしたまさにそのとき、ディスペアがその長
い尾を左右に振った。
途端、周囲に砂煙が巻き起こり、思わず四人は目を閉じた。
砂でできた煙幕が晴れるとディスペアはそこにはいなかった。
﹁⋮⋮逃げた?﹂
﹁まだいるのですー!﹂
356
端の方へ逃げていたスペーメが叫ぶ。
四人が得物を構える中、不敵に太陽の光を反射させるサソリの尾
が南波を襲う。
気付いたときにはもう遅く、南波の体に尾についていた針が突き
刺さっていた。するりとそれが抜け、再びディスペアが姿を消す。
その場で崩れ落ちる彼に巳令が駆け寄った。
﹁人魚!﹂
﹁いい、平気だ﹂
平気だけど、と自嘲気味に笑った。
﹁体が動かん﹂
﹁それは平気とは言いません!﹂
やはり毒針だったか、と巳令は内心舌打ちでもしたい気分だった。
南波のすぐ横で柄に手を掛けながら宙を睨みつける。そうする以
外なかった。
そんな彼らの目の前で突然、火柱が上がる。事態が飲みこめず、
四人が硬直する中、﹁はぁい﹂と通信機越しにベルの声が響く。
﹁ベルさん、今の﹂
﹁まず、改めて挨拶させてね﹂
太李の問いに答えず、彼女はつらつらと自分の用件を述べた。
﹁先ほど、このディスペア殲滅チームの主任待遇になりましたベル
ガモットです。これからは、あなたたちには私の指示に従ってもら
います。九鬼さんと違って私はばんばん首突っ込むから、よろしく
ね﹂
多分向こうでベルガモットがウインクでもしているのではないだ
ろうかとその場にいた誰もが疑わなかった。
また火柱が上がる。巳令の視界の端には黒い何かが映っていた。
﹁それともう一つ、あなたたちには絶対お知らせしないといけない
ことがあります﹂
357
火柱と共に、今度はディスペアが姿を現した。四人がそれぞれ構
える中で先ほどのものとは比べ物にならないほどの爆発が起こる。
﹁この場を持って、蒲生鈴丸、柊・マリア・エレミー・惣波の両名
と再契約。まだまだ日本に居て貰うわよ﹂
﹁そういうことらしいぜ﹂
爆風を碧眼で捉えながらランチャーを担いだマリアがひょいっと
四人の前に現れ、﹁よっ﹂と手を挙げた。
﹁マリアさん!﹂
﹁なんかさーあたしあーんなかっこつけて別れの挨拶までしちまっ
たのに再契約までされちまっちゃあかなわねーよな、ほんと﹂
ランチャーを足元で転がしながらあははとマリアが笑う。
腰に携えていた銃を一丁取り出して、安全装置を外す。そんな彼
女を茫然と見つめていると﹁残念だったな、鬼教官から逃げられる
と思ってたのに﹂と鈴丸の声まで響いてきた。痺れたままの体でな
んとか南波が言葉を発した。
﹁ああ、残念だ﹂
﹁はっはっは、言うなぁこいつぅ、痺れてる癖にぃ。腕立て五十回
な﹂
あっさりペナルティを課した彼はそのまま﹁マリア、お前から九
時の方向に一人。外すな﹂とだけ告げた。すっと彼女の腕が持ち上
がる。
﹁りょーかい!﹂
言われた通り、銃弾を撃ち込んでマリアはその場を離れた。
それに答えるかのようにマリアが元居た場所に銃が撃ち込まれる。
﹁あっぶねぇ﹂と額を拭った。少し間を置いてから﹁本当に、面白
い方ですわね!﹂と麗子が吐き捨て、その場を去って行った。
爆風が晴れ、ようやくディスペアの姿が見えるようになった。そ
れに太李と巳令が踏み込んだ。考えることは同じようだと、太李の
358
方が心の中で苦笑する。
﹁行きますよ!﹂
﹁おう!﹂
レイピアが構えられるのと同時に巳令が叫ぶ。
﹁オーラ!﹂
﹁ベアート!﹂
突き出されたレイピアと鞘から抜かれた刀が同時にディスペアに
直撃する。
叫び声すらあげる間もなく、砂となって消えていく。
梨花に加勢していたマリアは、最後の一匹に弾丸を撃ち込むとは
ーっと息を吐いた。
﹁マリアさん!﹂
﹁うお!? やめろって梨花! 苦しい!﹂
変身を解除するのも忘れてぎゅっと自分を抱き締めてくる梨花に
マリアは笑みを浮かべた。
﹁ちゅーか益海先輩! ちょ、マジ大丈夫ですか!?﹂
﹁心配すんな。もうだいぶ動く﹂
そう言って両手を動かして見せる南波によもぎが﹁いやそれもな
んすけど﹂と視線を逸らす。
﹁腕立て﹂
﹁やめろ言うな﹂
地面を蹴りながら彼は吐き捨てた。
﹁あの鬼教官め﹂
でもその呟きがなんとなく楽しそうで、よもぎは小さく笑ってし
まった。
そんな彼女の頭に南波の手刀が落ちたのはすぐあとのことだった。
359
第十八話﹁図書委員には案の定、事情があったようです﹂
耳に届く蝉の声が徐々に遠くなっていくのを感じながらよもぎは
ひたすらに真っ白な廊下を突き進んでいった。
腹いっぱいに鳴き続ける彼らの声をよもぎは不快だと思ったこと
がなかった。むしろ羨ましいと思ってしまうほどだ。
手元にあるメモと部屋の前にかけられているナンバープレートを
見比べながらやがてそれが一致する部屋を見つけて彼女は足を止め
た。
クーラーの風に吹かれ、首筋に通っていた汗が彼女の体温を奪っ
ていく。夏独特の涼しさに心地よさすら感じながらよもぎは恐る恐
るその扉を叩いた。
﹁どうぞ﹂
返事はすぐさま飛んできた。
大きく息を吸い込んだよもぎは失礼します、と形式的に告げると
扉を開けた。
瞬間、頭を下げる。
﹁お久しぶりです、京さん﹂
そう再会の挨拶を述べ、ゆっくり頭をあげたよもぎの視線の先に
はベッドに横たわったまま南波の幼馴染たる京が驚いた表情で彼女
を見ていた。
﹁おま⋮⋮春風か?﹂
﹁はい。春風です﹂
﹁⋮⋮随分、また派手に﹂
南波や和奈と同じ反応によもぎは苦笑するほかなかった。
自分はそんなに変わってしまっただろうか? いや、変わってい
るとしたらそれは髪の色や服の趣味が変わっただけで﹃春風よもぎ﹄
360
という人間そのものは変えられてはいないのだろうと思う。
そう思うと先日のベルの話が彼女の心にどこか重く圧し掛かって
いた。自分は変わろうとはしたもののベルのように元の自分を殺す
ほどの覚悟はない。
自分の変化はとても中途半端で甘ったれたものではないのだろう
かと彼女は疑わずにはいられなかった。
そんな思いを振り払おうとやって来たのがここだった。
手に持っていた見舞い用のカゴを机の上に置いてから椅子に腰か
け、改めてよもぎは頭を下げた。
﹁すいません、何度か来ようとは思ってたんですけどなかなかタイ
ミングがなくって﹂
﹁いや、全然﹂
ふるふると頭を左右に振る彼によもぎは安堵して微笑んだ。
何を話そうと思ってきたわけでも、どうしようと思ったわけでも
なかった。ただ単純に、なんとなく京の顔を見に来ただけだった。
﹁今、春風、神都にいるんだって?﹂
京の問いかけによもぎはゆっくりと頷いた。
﹁はい。益海先輩が言ってました?﹂
﹁いや、和奈の方。南波は学校の話全然しないから﹂
あの人らしいな、とよもぎは苦笑した。
そんなよもぎを見ながら京は小さく尋ねた。
﹁南波、学校ではどう?﹂
純粋に、南波を心配する気持ちから飛び出す問いなのだろうとよ
もぎは思った。
余計なことを言うのはいかがだろうかと、彼女はにぱっと笑みを
浮かべた。
﹁もー相変わらずぶすーっとしてますよ! それになんかやたらぼ
ーりょくてきだし。最近なにかっつーとすーぐ春風にチョップする
んですよ!﹂
ぶーっと唇を尖らせるよもぎに京は笑みを浮かべた。
361
安心したような、どこか優しい笑みに彼女はほっと息をついた。
﹁あいつはどうも、昔から不器用が過ぎる﹂
くすくすと笑いながら告げる京によもぎは何も言わず、微笑むだ
けだった。
﹁頑張りすぎというか、無謀というか﹂
﹁⋮⋮そうですね﹂
涼しい顔をして、いつも苦しい場所に居る。なんとなく、京の言
葉の意味を理解できるようになってしまった。
よもぎが顔を俯かせていると勢いよく病室の扉が開いた。
﹁京くーん!﹂
明るい笑顔を携えながら中に入ってきたのは和奈だった。
彼女はよもぎに気付くなり﹁あれ、よもぎちゃん?﹂と首を傾げ
た。
﹁どうもっす! 宗本先輩!﹂
﹁どうしたの?﹂
﹁嫌ですねー、ただのお見舞いっすよ﹂
と後ろの方を伺ってから彼女は本当に無意識に尋ねていた。
﹁益海先輩は?﹂
﹁あー、今日は来られないって。多分用事があったんだと思うな﹂
﹁そっすか﹂
まぁ、ぐちぐち言われるよりいいけど。よもぎは改めて京に向き
直ってから頭を下げる。
﹁じゃあ、自分はここで﹂
﹁なんだ、もう帰るのか﹂
﹁色々用事があるもんで。宗本先輩も、また﹂
﹁うん、ばいばい﹂
無邪気に手を振る和奈に笑顔で振り返してからよもぎは病室を出
た。
後ろからは扉越しで明るい和奈の笑い声が聞こえてくる。その声
を聞き流しながら彼女はロビーの方へと足を伸ばした。
362
かつかつと足音が鼓膜を揺らす中で医師に囲まれたスーツ姿の男
が見える。特に意味もなくそちらに視線を投げかけると男の持って
いるスーツケースに描かれたロゴによもぎは顔をしかめた。
自分が今まさにその本部へと行こうとしている場所のロゴにそっ
くりだったからである。
訓練場で横たわりながら南波は自分の右の掌をじっと眺めていた。
時折、開いたり閉じたりを繰り返しながら体を支配する気だるさ
に目を閉じる。
今日はどうも調子が悪い。和奈から京の病室に行こうとかかって
きた電話に断りを入れ、やることもないと召集時間より早くここに
来たまではよかったが、結局それでもやることが見つからずにこう
して冷たい床に横たえているだけだった。
こんなことなら本でも持ってくるんだったと彼がわずかに後悔し
てると﹁益海くん?﹂と頭上から小さな声が南波に投げ掛けられた。
閉じていた目を開き、ぐるりと振り返ると梨花がぺたんと彼の横
に座り込んでいた。
﹁⋮⋮東天紅先輩か﹂
﹁ど、どうしたの? 早いね﹂
﹁そんなこと言うとあんただって早いじゃないか﹂
上半身を起こしながらそう言えば梨花は﹁あたしは、いつも、こ
の時間だよ?﹂と小さく首を傾けた。
﹁いつも?﹂
﹁うん。なんとなく、落ち着かなくって﹂
ふーんとさして興味なさげに南波が返事した。
そこで会話は途切れる。微妙な居心地の悪さを感じて梨花がまた
口を開いた。
363
﹁きょ、今日はいい天気だねー﹂
﹁話題がないなら無理しなくてもいいんだぞ、東天紅先輩﹂
きっぱり言い放たれて、梨花はしゅんと肩を落とした。
南波としては気を遣っているつもりなのだろうがそう言われると
なんだか自分が余計なことをしたようで梨花は気が重くなった。そ
れに彼は深々と溜め息を吐く。
﹁そんな顔するな﹂
﹁ご、ごめんなさい!﹂
慌てて梨花は自分の頬を引っ張って笑顔を作ってみせた。
そうじゃないんだが、と南波は思ったものの口には出さなかった。
代わりのように﹁あんたは凄いな﹂
不思議そうに彼女が首を傾げた。
﹁凄いって?﹂
﹁別に﹂
頭の上にいっぱいの疑問符を浮かべる梨花に南波はかすかに笑い
かけた。
南波に褒められたのが意外で梨花は難しそうに顔をしかめてから
やがて、ぽんと両手を打った。
﹁益海くん、どこか悪いの?﹂
﹁なんでだ﹂
眉を寄せる南波に﹁な、なんとなく﹂と梨花は視線を逸らした。
そんな彼女に南波はぽつんと告げた。
﹁いつぞやに、あんたに言ったことあったよな。どうしてこんなこ
としてるんだって﹂
彼の言葉に梨花の脳裏にはほんの数か月前、まだよもぎが加わる
前に図書室で南波と交わした言葉が蘇る。
梨花が小さく頷くと南波は掻き消えそうな声で告げた。
﹁俺は、どうしてこんなことしてるのか正直よく分かってない﹂
南波の言葉にゆっくり梨花が視線を戻した。
悩ましそうに髪を掻き毟る後輩に何か声をかけよう。そう梨花が
364
口を開きかけると訓練場の扉が大きな音を立てて開いた。
﹁おー、はえーなお前ら。まだ召集時間まで三十分くらいあるぞ﹂
中に入ってきたのはマリアだった。
南波に声をかけるのはひとまず保留して梨花がぺこりと頭を下げ
た。
﹁こんにちは、マリアさん﹂
﹁おう。って、あ?﹂
梨花の後ろにいる南波に気付いたマリアは面白そうに彼を覗き込
んだ。
﹁なんだよ、梨花はともかく益海がはえーの珍しいな﹂
﹁悪いか?﹂
﹁んな怖い顔すんなよ﹂
ひらひら手を振るマリアに﹁これは生まれつきだ﹂と南波は肩を
落とした。
その場に腰を下ろしながら南波と向き合ったマリアは不思議そう
に首を傾げるだけだった。
炎天下、灰尾太李は顔を伝っていく汗への不快感を押し殺しなが
ら太陽の光を浴びて熱を持ったコンクリートを蹴り飛ばしていた。
紅葉の奴、と彼は心の中で自分の妹に吐き捨てた。少しだけと言
っておきながら結局一時間近く彼女の宿題に付き合うことになって
しまった。
兄として自分を頼ってくれるのは嬉しいことではあるのだが勉強
くらいは友人に教えて貰って欲しいと思わずにはいられない。
どうにかならないものかと思いながら彼は自分の携帯電話を見て
顔をしかめた。遅刻ギリギリだった。
泡夢財団の本部ビルに飛び込んでから一目散にエレベーターの方
へと向かった太李はズボンのポケットを探った。自分のIDカード
365
を見つけるためだった。
ところがどこを探しても手にはそれらしい感覚が引っかからない。
どこにしまっただろうかと一人で慌てていると﹁これ﹂と自分の真
横に目的のIDが突き出された。
﹁あ、ありがとうござ﹂
とそこまで言いかけてからそれを差し出しているのがにっこり笑
っている巳令だったことに気付いてびくっと姿勢を正した。
﹁お、おう、鉢峰﹂
自分の顔が引きつっているのが太李にはよく分かった。巳令の方
は相変わらず笑みを携えたままで﹁探し物は違いましたか?﹂と首
を傾げている。慌てて彼は首を横に振った。
﹁いや、合ってる合ってる! さんきゅーな!﹂
﹁ならよかった﹂
彼女の真っ白な手からそれを受け取った彼はタイミングよく開い
たエレベーターに誤魔化すように乗り込んだ。そのあとに巳令も続
く。
それ以外には誰もいない。狭い空間で二人きり。そんな状況を彼
は恨めしいとすら思った。
エレベーターの扉が閉まり、ゆっくりと箱型のそれが上って行く。
開発区画に繋がっている五階まで向かう一分足らずの間ですら恨め
しい。
巳令はそんなこと気にした様子もなく、ヘッドフォンから流れて
くる音楽に合わせて体を小さく揺らしている。
一方的に気まずい沈黙が流れる。話さなければいけないことはあ
るはずなのに太李の口からそれがこぼれ落ちることは決してなかっ
た。
りん、と軽やかな音と共にエレベーターの扉が開く。巳令が先に
外に出て、そのあとを太李が追った。
忙しなく通り過ぎていく職員たちとすれ違いながら彼はどうせ聞
366
こえていないだろうと思いながらぼそりと言葉を放った。
﹁今日は何聞いてるんだ?﹂
聞こえなくても構わない。そんな気持ちで放たれた彼の問いに巳
令はヘッドフォンを外しながら小さく答えた。
﹁クラシックです。ショパン﹂
予想外にも返ってきた言葉と音楽の授業で数回聞いた程度の作曲
家の名前とで困惑しながら﹁へぇ﹂としか太李は返せなかった。
会話が途切れる。何かと思ってからそういえば巳令が遅刻だなん
て珍しいと口を開きかける。
しかし、彼が会話を振るより先に、彼女は小さく鼻歌を歌い出し
た。ヘッドフォンから流れてくるリズムに合わせて奏でられるそれ
は確かに耳慣れた曲だった。
すっかり会話を再開するタイミングを失った彼は溜め息を吐いて
から巳令の鼻歌に合わせて自分も同じように歌い出した。一瞬だけ
太李の方に振り返った巳令は嬉しそうに笑みを浮かべてからそのま
ま軽やかに進んでいく。
結局二人は、訓練場に辿りつくまでずっと鼻歌を歌い続けていた。
﹁で? なんで仲良く歌って入って来たお前ら﹂
遅刻までして。そう続けて不機嫌そうに腕を組む鈴丸に二人はさ
っと視線を逸らした。
鈴丸の後ろにはだらんと倒れたままの南波と扇風機の前であーと
声を発するマリアと梨花の姿が見えた。一人足りない、と先に気付
いたのは太李だった。
﹁よもぎちゃんは?﹂
﹁華麗に話を逸らすな﹂
眉を寄せながら鈴丸がきっぱり告げる。
367
﹁知らん。連絡来てないし﹂
﹁珍しいですね﹂
﹁仲良く歌って乱入してくるお前らもなかなか珍しかったけどな﹂
巳令の言葉にそう返してから﹁全員揃ってないけど先に始めるか
なー﹂と鈴丸はなんの前触れもなくがっしりと太李の首を掴まえた。
﹁んで?﹂
﹁んで、って?﹂
﹁いや、仲よく入ってきたから俺に報告することはないかなと聞い
てるんだよ灰尾くぅん﹂
﹁なんですか気持ち悪いですよ急に﹂
﹁はっはっは、絞め殺されたいか己﹂
ぎゅうっと首に回された腕に力がこもるのを感じて彼は慌ててそ
の腕を叩いた。
締めるほどの力ではないものの、それでも太李にそう易々と解け
る腕力ではなかった。渋々、彼は小声で返した。
﹁その、タイミングが掴めなくて﹂
﹁出ましたヘタレの常套句﹂
﹁俺だって、言えるもんなら言っちゃいたいんですけど﹂
不満げに唇を尖らせる太李にどう叱ってやったらいいかと鈴丸が
考えていると扉が開き、明るい声が響き渡る。
﹁ちゃーっす! 春風おっくれましたー! いやーちょー面目ねぇ
!﹂
その明るい笑い声を聞きながら﹁命拾いしたな﹂と鈴丸はぽんと
太李の背を叩いた。
ほっと彼が息をつくのもよそに南波の声が淡々と彼女に問いかけ
た。
﹁何してた﹂
南波の問いによもぎは一瞬だけ顔を歪めてから、またいつも通り
の笑みを浮かべた。
﹁春風にだって用事くらいありますよーやだなぁ、益海先輩ったら。
368
ちゅーか、顔色悪いっすよ? 大丈夫っすか?﹂
﹁別に。ちょっと眠いだけだ﹂
視線を逸らす南波にそうですか、とよもぎは無機質に返した。意
識してそうしたわけではない。
﹁南波ーきつかったら無理すんなよー﹂
﹁大丈夫だ﹂
ゆっくり立ち上がる南波を見ながらそうかい、とだけ鈴丸。
それ以上、言ったところで聞きはしないだろう。そんな気がした
からだった。
ぴょいと台の上に乗っかりながらスペーメは大きな瞳で耐熱ガラ
スでできたティーポットをじいっと見つめていた。
ティーポットの中では緑色の葉が浮き沈みを繰り返している。ふ
りふりと尻尾を振りながらスペーメは隣で座っていたベルに声をか
けた。
﹁珍しいもんを淹れてるです﹂
﹁いくらクーラーが効いてるとはいえ、訓練したらそれなりに暑い
もの。あっつい紅茶は嫌がられるかと思って﹂
そう言いながらベルは手際よく棚からガラス製のカップを取り出
した。この季節にちょうどいい、透明で涼しげなものだった。
カップの中に固形の氷を放り込まれる。その中にポットから浅緑
がかった液体が注ぎ込まれる。からんと音を立てて氷と混ざり合っ
た。
夏らしい爽やかな香りに彼女は小さく笑いつつ、残りのカップに
も同じように茶を注ぐ。
全員分のカップが浅緑に染まると同時に休憩所の扉が開き、先ほ
どまで訓練を続けていた彼らが各々汗を拭いながら中に入ってくる。
﹁いい匂いですね﹂
369
中に入るなり一番に反応したのは巳令だった。
すすっと自分の方にやってくる彼女にベルはくすりと笑う。
﹁今日はハーブティー淹れてみました。普段淹れないからあまり自
信はないのだけど。お好みで蜂蜜かレモン入れてね﹂
あっという間に並べられていく全員分のカップを見ながら﹁はぁ﹂
と巳令が感心したような声をあげた。
カップを並べ終えたベルは素早く後ろに控えていた皿を運んで、
そのまま置いた。梨花が嬉しそうに笑う。
﹁チョコレートだ﹂
﹁梨花さんはチョコレートは好きかしら?﹂
ベルの問いかけにこくんと梨花は頷いた。
ならよかったわ、とベルはふんわり微笑んだ。
﹁あ、というかみんなハーブティーは平気? そこまで強く淹れて
ないんだけどミントだから好き嫌いがあるかもしれないわね。そし
たら紅茶でアイスティー作るから﹂
﹁あー、つーか俺、そもそもハーブティー自体はじめてです﹂
太李の言葉に﹁あら﹂とベルは口元に手を当てた。
﹁そうだったの。お口に合うといいんだけど﹂
﹁まぁ、でもベル姉様の淹れるお茶で外れた試しないっすからねー﹂
もうすでに席に着きながらニコニコ笑うよもぎに﹁全く、調子が
いいんだから﹂とベルは苦笑した。
えへへとよもぎが笑いながらカップを傾ける。
そのいつも通りの会話を聞き流しながら南波は自分の手を見つめ
ながらまた開いては閉じるを繰り返している。隣に座っていた太李
が首を傾げる。
﹁南波?﹂
太李の声にはっとしたようにそれをやめると﹁なんだ﹂と南波は
手を下ろした。
﹁ん、いや、どっか怪我でもしたかなと﹂
﹁まさか﹂
370
答えてから南波は黙って円形のチョコレートに手を出した。珍し
い、と太李は顔をしかめた。普段は菓子にはほとんど手をつけない
のに。
恐る恐る、と言った風に太李が問いかける。
﹁南波チョコ好きだっけ?﹂
﹁なんか腹にいれたかっただけだ﹂
チョコレートを無感情に飲みこんでから彼は﹁九条はどうした﹂
という問いかけを発した。それに答えたのはスペーメだった。
﹁今日は来ないですよ﹂
﹁どこにいる﹂
﹁言うとスペーメが怒られるです﹂
面倒そうにそう言って、丸くなるスペーメを南波は少しだけ憎た
らしく思った。
また一つ口にチョコレートを入れてから彼は黙って頭を抱えた。
﹁おい、南波?﹂
鈴丸の声に、彼が弱々しく返す。
﹁頭、クラクラする﹂
﹁熱中症か?﹂
﹁⋮⋮わからん﹂
ふるふると首を左右に振る南波は立ち上がろうと、机に手を掛け
た。
ところがその腕にすら思うように力が入らない。あっという間に
倒れ込んだ。
動かしたくても動かない。内心舌打ちしながら南波は黙って目を
閉じた。
次に南波が目を開けるとそこには不満げに自分を見下ろしている
柚樹葉の姿があった。
371
﹁九条⋮⋮﹂
﹁ああ、いいよ、起きなくて。辛いんでしょ?﹂
どこか叱責するような柚樹葉の言葉に南波は大人しく従った。
ベッドの上に倒れたままの彼を見ながらこんこんと彼女は机の端
を指で叩いた。
﹁いつから?﹂
毛布にくるまりながら南波が小さく答えた。
﹁この間のディスペア戦のときから﹂
呆れたように柚樹葉が息を吐く。
サソリ型のディスペアと交戦した際に南波は毒による攻撃を受け
ていた。簡易検査こそ行ったもののそこで異常が見つからず、万が
一、少しでもおかしいと思えば南波が柚樹葉に伝えるという手はず
になっていた。
やってくれたよ、と柚樹葉は誰にでもなく呟いた。それは何も言
わなかった南波に対してでもありながら異変に気付かなかった自分
への苛立ちのようにも思えた。
﹁俺は死ぬのか?﹂
﹁馬鹿も休み休み言いなよ。そんなことになってたら今頃大騒ぎだ﹂
ふんと柚樹葉は腕を組む。
﹁そもそもそこまで強い毒じゃないようだから血清でなんとかした。
少しは体が動くでしょ? まぁ、しばらくは大人しくしてもらわな
いと駄目だけど﹂
﹁もしディスペアが出たら?﹂
﹁君は待機﹂
きっぱり言い放たれ、南波は舌打ちした。
それから、目を閉じて呟くように、
﹁体が動かないって、こういうもんか﹂
ははっと柚樹葉は乾いた笑い声をあげた。
﹁相変わらず君は馬鹿だね。私がチェンジャーを持って行ってやっ
たときから何も変わっていやしない﹂
372
柚樹葉の言葉に南波は何も答えなかった。
その代わりのように、少し間を空けてから﹁俺が死んだらどうな
る?﹂別に、と柚樹葉は目を伏せた。
﹁人魚姫のチェンジャーを初期化して、新しい変身者を探すだけだ
よ﹂
﹁違う、そうじゃない﹂
そんなことはどうでもいいんだと首をわずかに左右に振りながら
絞り出すように南波が更に問う。
﹁京さんはどうなる?﹂
ややあって柚樹葉は﹁さあ。治療継続くらいはするんじゃない?
君の名誉の死に敬意を示して﹂
そうか、と南波が吐き出した。安堵するような声音に柚樹葉は眉
を寄せた。
﹁自分から持ちかけておいてあれだけど、どうしたら成功するかも
分からないのに他人のために命がけで戦うのかが私にはとても理解
やしろ
できないよ﹂
矢代京の治療に力を貸す。チェンジャーを手渡された日に言われ
た柚樹葉の台詞を南波は脳裏に巡らせた。
泡夢の本分は元々、新薬の開発に力を入れている組織だ。結果は
確かなのに燻っているだけの薬も少なくはない。それを普通は回っ
てこないはずの彼に投薬する。勿論本人にはきちんと話をした上で、
である。
勿論成功する保証はない。しかし、ベッドで眠ったままだった京
を見て南波は二つ返事でそれを了承した。
不治の病というわけではなかった。それなりに時間をかけて、リ
ハビリもして、安静に過ごせば人並みには生活できる。でも南波に
はそれが納得できなかった。それだけの話だ。
﹁してくれなくたっていい﹂
俺だけが分かっていればそれで十分だ。
柚樹葉は退屈を誤魔化すために自分の髪を見つめていた。
373
﹁なんのためにそこまでする?﹂
﹁⋮⋮さあ﹂
京のため? 和奈のため? それとも自分のため? 南波は未だ
に自分の気持ちがどこに向いているのかが分からなかった。
ふぅ、と息を吐いて柚樹葉はパイプ椅子から重たげに腰を上げた。
ひらりと白衣の裾が舞う。
﹁君は馬鹿だよ﹂
﹁馬鹿を選んだのはお前だ、九条﹂
柚樹葉は何も言わずに白衣を翻した。
そんな彼女が医務室から出てくるとそこにいた不安げな後輩の姿
に目を開いた。
﹁何してるの、よもぎ﹂
俯いたままだったよもぎがはっと顔を上げる。
﹁みんなで来るのもどうかなって。自分だけ﹂
﹁心配しなくても言ったでしょ、死ぬような毒じゃないんだって﹂
そうですけど、と彼女は不満げに唇を尖らせた。
目の前で倒れたところを見た分、自分より心配するのは必然だろ
うかと柚樹葉は思った。
それより今生まれた疑問を解消しようと柚樹葉は口を開いた。
﹁聞いてた?﹂
ぴくっと眉を動かしてからえへへとよもぎは頭に腕を回した。呆
れて柚樹葉は歩き出した。慌ててそのあとによもぎが続く。
﹁立ち聞きするつもりは全然なかったんですよ﹂
﹁分かってる﹂
君はそういうことをする奴じゃないからね。
よもぎの瞳をちらりと見ながら﹁で?﹂と柚樹葉は首を傾げた。
それに合わせてよもぎもゆっくり首を傾ける。
仕方ないので柚樹葉が更に続ける。
374
﹁私を責めるかなと。幼馴染を盾にして、彼を戦わせることに関し
て﹂
ああ、とよもぎは自分の茶髪を指に絡めた。
﹁いやー灰尾先輩とかみれー先輩だったら怒ってたかもしれないっ
すけどウチは怒らないっすよ。むしろそういう質問が柚樹葉先輩か
ら出たのに素直に驚いてます﹂
﹁ほっとけ﹂
楽しそうに笑い声をあげるよもぎに柚樹葉はすぐさま言い放った。
へいへい、とつまらなさそうにしながらよもぎは手をふりふりと
宙で振った。それから一拍置いて、﹁むしろよかったんじゃないん
ですかね、益海先輩的には。どういう形にせよ、チャンスが巡って
来たんですから﹂
チャンス、ねぇ。と柚樹葉は心の中で呟いた。
﹁まぁ、それでも、無茶されちゃうのは困っちゃいますけどね﹂
﹁全くだよ﹂
困ったように二人が笑いあうのと同時に何かを切り裂くようにサ
イレンが鳴り響いた。
閃光が晴れた中から出てくるなり、巳令は刀を引き抜いた。
﹁悲しき魂に救いを与える姫、鉢かづき!﹂
そのあとに、斧の柄を握りしめた梨花が続く。
﹁悪しき心に罰を与える姫、親指!﹂
本来なら、あるはずのやる気のない声が聞こえてこないのによも
ぎが気付き、ワンテンポ遅れて叫んだ。
﹁残酷な宿命に終わりを与える姫、いばら!﹂
そして最後に、太李のレイピアが宙を裂く。
﹁哀れな役に幸せを与える姫、シンデレラ!﹂
﹁悪夢には幸せな目覚めを﹂
375
それぞれが得物を構え、声を揃えた。
﹁フェエーリコ・カルテット!﹂
やっぱり一人足りないだけで物足りないな、と横で拳銃の安全装
置を外していたマリアは思った。
大きな二枚貝が口を開けたり閉じたりを繰り返している。その周
りにはいつものカラスたちが歪な鳴き声をあげながら飛び交ってい
る。
マリアの拳銃が火を吹いた。それをきっかけにして、四人が一斉
に駆け出した。
﹁今日はαよ、さくっといきましょう﹂
﹁はい!﹂
通信機から聞こえるベルの声に太李が返した。
その様子を見ながら﹁あるぇー﹂とウルフは目を丸めた。
﹁おっかしいなーおさかなやろーいなーい﹂
長い爪をがしがしと音を立てながら合わせつつ彼女は不満げにそ
うこぼした。
彼女が探しているのは南波だった。基地に乗り込まれた際に小馬
鹿にされて以来、ウルフは南波が更に嫌いになった。
今日は殺してやろうと思ったのに。﹁なんで休むんだよー!﹂ウ
ルフは地団駄踏んだ。
﹁魔女のやつぅ、サソリはウルフちゃんがつかおーと思ってたのに
なんで使っちゃうんだよばぁかばぁか﹂
この場に居ない麗子が高笑いしているような気がしてウルフはま
すます不機嫌になった。
五人を再度見てから﹁むしゃくしゃするから全員しけーしっこう
です! 今きめました!﹂と自分の爪を反射させた。
376
﹁俺はここにいるぞ、クソガキ﹂
背後から聞こえてきた声に、振り返ると彼女はにたぁと笑みを浮
かべた。子供らしからぬ笑みだった。
﹁なぁんだ。いるじゃん、おさかなやろー﹂
そこにいたのは自分が探している男、つまり益海南波だった。
苦しそうに息を荒げながら、胸に掛かったネックレスを掴んで﹁
変身!﹂
光の中から出て来たときには、南波はすでに人魚へと変わってい
た。三叉槍を握り、金髪を振り払う南波を見ながらウルフは﹁やっ
ぱおまえが一番最初にしけーじゃなきゃね!﹂と彼に飛びかかった。
自分に襲い掛かってくる鋭い爪を三叉槍で振り払いながら距離を
取り、大きく息をついた。その間に地面を蹴り上げたウルフがまた
南波に爪を振り下ろす。
今度は横に転がってかわすとそのまま槍を横に薙ぐ。ぴょんと飛
び跳ねてかわすとその上に乗って、ウルフは爪を横に振り払った。
南波が上半身を逸らしてそれをかわすときゃはっと楽しそうな声を
あげながら槍を蹴り、ウルフが距離を取る。
﹁またびゅんびゅんうごけよ!﹂
﹁うるさい!﹂
動かない足と腕を必死に動かし、踏み込んで三叉槍を振り下ろす
ももうそこにウルフはいない。
身構えるもそのときにはすでに遅く、彼女は南波に体当たりした。
南波の手から槍が離れ、そのまま地面に叩き付けられる。倒れ込
んだ南波の上に乗りかかりながらウルフはにまにまと笑みを浮かべ
た。
﹁ばっかだなぁ、毒があるならおとなしくしてればよかったのにぃ﹂
抵抗しようにも体は思うように動かない。
ウルフの爪がぐいっと南波の喉元に押し付けられる。
377
ところがその爪が南波の喉を切り裂くより早く、二人の間に矢が
通り抜けて行った。
驚いたのかびくっと体を揺らし、固まったウルフのほんの一瞬を
突いて南波はあらん限りの力を込めてどうにか彼女を蹴り飛ばした。
ぎっ、と歪な声をあげ、ウルフの小さな体が地面を転がって行く。
それを見ながら後退した南波は三叉槍を足に引っかけて、蹴り上げ
た。
宙に浮かんだ槍の柄をぱっと掴むと同時にウルフが口元を拭いな
がら立ち上がった。
﹁全員まとめてころすー! ころすころすぶっころーす!﹂
きーっと子供特有の甲高い声をあげながら彼女は爪を構えて、駆
け出した。
爪の端が南波の左腕を捉えて、かすめた。血を噴きながら未だ手
に握ったままの槍を振り上げる。
その槍の先端がウルフの頬の皮膚を切り裂いた。ぴっと血が流れ
た。
瞬間、ウルフは口から声を発するのをやめて、小さな手で頬を拭
った。自分の血を見つめながら金色の目を見開いた彼女は、ぶわっ
と涙を目に溜めると爪を思いっきり地面に叩き付けた。
砂煙が巻き上がり、なくなった頃にはすでにウルフの姿はその場
にはなかった。
逃げたか、と顔をしかめながら南波はずるずると地面にへたり込
んだ。
あのまま病院のベッドで寝ているのがあまりにも彼にとっては気
に入らなかった。少なからず生きているうちは戦い続けなければ、
そんな気がしてならなかった。
378
はーっと大きく息を吐いていると靴が地面を蹴る音が規則的に響
く。それはやがて、南波のすぐ近くで止まると﹁先輩!﹂というよ
もぎの鋭い声に変わった。
﹁なんだ﹂
﹁なんだじゃねぇよなんだじゃ!﹂
ぐいっと腕を掴み上げながらよもぎは目を吊り上げ、怒鳴る。
﹁怒ってるんですよ! 春風、めっちゃ怒ってるんですよ!﹂
﹁⋮⋮九条には怒らなかったのにか?﹂
﹁あのねぇ!﹂
聞いていたのかと聞くことすら忘れてただよもぎは言葉を吐いた。
﹁いいですか! 無理するなとも無茶するなとも春風は別に言いま
せんよ! そう言っても先輩聞いてくれる人じゃないし、そういう
ことが必要なときだってあると思いますから! でもね、死ぬなん
て許しませんから!﹂
キッと南波を睨み付けたままよもぎが更に続けた。
﹁人のために、益海先輩まで犠牲になるなんて春風は絶対許しませ
んから⋮⋮!﹂
今のよもぎは自分を見ているようで、そうでない。そんな気がし
て爆発音を背後から聞きながら南波は言葉を飲みこんだ。
379
第十九話﹁彼らの成長は誰かが思っている以上に早いようです﹂
外はまだ薄暗い。
太陽も上り切っていないような時間帯に鈴丸を叩き起こしたのは
携帯電話から鳴り響く着信音だった。
そもそも鈴丸が所持している携帯電話は一台だけではない。三台
ほどあるうちの一つで、主にアシーナとの連絡用に使用している電
話だった。
更に言えば、そこから鳴り響いている着信音はそれぞれ個別に登
録されている中で滅多に聞くことのないものだった。しかし、誰が
発信者かは分かった。思わず辟易しつつ、ベッドから出ずにそれに
応じた。
﹁⋮⋮もしもし﹂
﹁よう坊主。俺だよ、ミハエルだ。日本はどうだい?﹂
スピーカー越しに響いた流暢な日本語に鈴丸は眉を寄せた。重量
のあるこの声を彼はよく知っていた。
ミハエル・アウレッタ。そんな名前が鈴丸の脳裏をよぎる。
鈴丸をはじめ、ベル、マリアが所属する傭兵部隊を取り仕切るア
シーナと呼ばれる組織の長、それがこのミハエルだった。鈴丸にと
っては個人的な恩人でもある。
その世界では知らぬものはいないほど名の知れた傭兵だった。も
っとも今は歳を取って傭兵としては引退しているが。
そんな彼がなぜ自分に電話をよこすのだろう。疑問よりも叩き起
こされた不満の方が鈴丸の中では勝っていた。
体を起こしながら渋々彼はそれに答えた。
﹁どうって、別に。相変わらずつまんない国だよ。空気は淀んでる、
人は多い、おまけにどいつもこいつもケチだ﹂
380
﹁そうかい。俺はこの国がなかなか好きだがね﹂
変わってるよ、そう心の中で呟きながら鈴丸は﹁なんの用だよ、
時差考えろクソジジイ﹂と頭を抱えた。
どうせヨーロッパ辺りに居るんだろ、そう心の中で毒づきながら
である。
﹁いや、何、ちょっと頼まれて欲しくてね﹂
﹁言ったろ俺個人じゃ受けないってば。ベル通してくれ﹂
﹁お使いだよ﹂
断っても食い下がってくるミハエルに彼は聞こえるように舌打ち
した。
﹁くどい﹂
﹁鈴丸﹂
﹁うっせーうっせー﹂
ベッドに倒れ込みながら鈴丸がそう答えてやってもミハエルは涼
しい声で﹁迎えの車を手配して欲しい﹂鈴丸は眉を寄せた。
﹁なに?﹂
﹁だから車だ﹂
﹁どこに﹂
﹁空港﹂
どこの、と問うより早くミハエルが言い放った。
﹁日本の空港、明日の十時に﹂
﹁⋮⋮どこの空港だって?﹂
思わずまた聞き直すとミハエルはスピーカー越しに大きく溜め息
を吐きながら、なんのこともなさげに告げる。
﹁日本だよ。ジャパン、お前の故郷で現在地。おーけー?﹂
小馬鹿にしたような日本語に神経を逆なでされながら鈴丸はさら
にそれに食って掛かった。
﹁なんで﹂
﹁この俺に歩けというのかお前は﹂
不満げなミハエルの声に違うそうじゃないと鈴丸は首を左右に振
381
った。
﹁なんで日本に来るんだよ﹂
﹁ベルが渡したい書類があるからと。郵送でいいと言われたんだが
久々にお前たちの顔が見たくてな﹂
あのベルガモットという傭兵はどうもこのミハエルという男が嫌
いだということを鈴丸はよく分かっていた。
それで自分なのかと彼は納得する。ベルに日本に行くから車を用
意しろなどといったら面倒になるに決まっている。マリアもしかり
である。そうなると必然的に面倒が少なくて済むのは鈴丸だ。
やれやれと鈴丸が半ば呆れていると﹁坊主、今の仕事は楽しいか
?﹂
その問いかけに少しためらってから鈴丸は﹁さあ?﹂とわざとら
しく答えた。
ははっとミハエルが渇いた笑い声をあげる。
﹁とにかく明日、頼んだぞ﹂
そう言って、鈴丸の答えなど聞かずに一方的にミハエルは会話を
切り上げた。
一人取り残されたような気分になりながら鈴丸は電話を放り出し
てベッドの上に倒れ込んだ。
手配は明日の朝でも十分に間に合うだろう。とにかく今は眠りを
貪り食いたい。ただそれだけだった。
欲求のままに眠っていた鈴丸を起こしたのは自分の体を左右に揺
れているという感覚だった。
問答無用で布団を引っぺがしてくるマリアとは違って優しい起こ
し方だ。ベルにしてももっと揺さぶってくるのに。
気持ち悪い優しさに目覚めたのだろうか。薄気味悪さすら感じな
がら鈴丸は強硬に毛布に潜り込んだ。
382
﹁あとちょっとだけ寝かせてくれ⋮⋮頼むから⋮⋮ちゃんと訓練ま
でには起きるから⋮⋮﹂
ただですら夜中に叩き起こされて、余計な時間を取らされたせい
で眠いのだ。そう心の中で文句を垂れながら毛布の中で丸くなった。
冷房が効いているお陰で夏でも心地いい。目を閉じればそれだけ
で眠気を呼び戻すには十分すぎるほどだった。
また意識を手放しかけているとそれでもなおしつこく体が揺さぶ
られる。それを無視しようと思ったものの布団の間からこぼれてき
た声に彼の意識ははっきりと覚醒した。
﹁す、鈴丸さーん、起きてくださいー⋮⋮あ、朝ご飯冷めちゃいま
すからぁ﹂
困ったような愛らしい声。マリアの澄んだ声ともベルの女らしさ
全開の声とも違う、よく知っている声だった。
飛び跳ねるように鈴丸が起きると窓から差し込む光に照らされな
がら洋服の上からエプロンをつけた東天紅梨花が彼を見つめていた。
﹁梨花⋮⋮おま、なん﹂
﹁あ、あの、ベルさんに早く来るようにお願いされて、ちょっとお
手伝いを﹂
両手を組み合わせながら気まずそうに視線を逸らす梨花に﹁お手
伝いって⋮⋮﹂と顔をしかめた。
何時だろうかと備え付けの時計で見てみればまだ七時半を回った
ばかりで、こんな時間から家を出ていいのかと彼は疑問に思わずに
は居られなかった。
しかし、そんなことにも構わずに梨花はにこにこと笑っている。
溜め息を吐いてその頭を撫でながら﹁分かった分かった、すぐ行く
から﹂と鈴丸は彼女に笑いかけた。
はい、と嬉しそうに頷いてから彼女は失礼しましたーとぱたぱた
鈴丸の部屋を後にした。
383
その後ろ姿を小動物のようだと思いつつ、気が重いながら彼はミ
ハエルの車を手配すべく、携帯に手を伸ばした。
結局、きっちりミハエルの車を手配してやってからさっさと着替
えて鈴丸は個室をあとにする。
泡夢財団からあてがわれた個室は決して狭くもなく、かといって
広くもなかった。眠るくらいはできるので特に鈴丸は不満もない。
その個室が並んだ廊下を抜けて、共用スペースまでやってくると
﹁あら、おはよう﹂とトーストをかじりながらベルが鈴丸に微笑み
かけてきた。彼はその目の前に腰を下ろしながら﹁なんでこんな朝
っぱらから梨花を呼んだ﹂と不満げに言い放った。
﹁だって来てくれるっていうから。色々話があったのよあの子と﹂
にこにこしながらパンを飲みこむベルにミハエルの話をしようか
と思ってから鈴丸は取りやめた。少しくらい痛い目を見ればいい。
そう思ったからである。
目の前に重ねられたトーストを一枚手に取って、くわえながら鈴
丸は卓上に転がっていた新聞紙を広げてふと考えた。
ミハエルを梨花に会わせたくない。素直にそう思ってしまったの
だ。
色んな理由があるがとにかく面倒な気がしてならない。どうにか
ならないものかと悩んでいると﹁おはよーさん﹂と眠たげなマリア
の声が響いた。
まだ眠たそうに目をこすりながら彼女はベルの隣に腰を下ろした。
その横にはふぅ、と息を吐く梨花の姿がある。それを目の端で捉え
つつ、あくまで視線は新聞に落としたままで鈴丸は適当に挨拶を返
した。
﹁うっす﹂
﹁おはよう。梨花さん、お疲れ様。ごめんね、手伝わせちゃって﹂
﹁い、いえいえ﹂
384
ふるふると首を左右に振る彼女にうふふとベルが嬉しそうに微笑
んだ。
それにしてもベルが言う梨花に対する話とはなんなのだろうかと
鈴丸は不思議に思った。そしてそれは自分に関係のあることなのか
? 疑問だった。
しかし、それ以前の問題がやはりミハエルだった。彼は恐らく空
港からここにやってくるつもりだろうと鈴丸は踏んでいた。
いつの間にかつけられたテレビは朝の情報番組を流している。今
日の特集はクレープらしい。
だったらいっそ、と鈴丸は新聞紙から目を離さずに﹁梨花ー﹂と
彼女に手招きした。
不思議そうにしながら彼女はちょこちょこと自分に近寄ってくる。
そんな梨花に鈴丸は新聞紙で口元を隠しながら耳打ちした。
﹁悪いんだけど今日、俺に付き合ってくれ﹂
いつぞやと同じ誘い方になった。鈴丸が気付いたのは言葉を放っ
た後だった。
案の定、梨花は少し黙り込んでからぽんと手を叩いた。
﹁マリアさんも一緒、です、よね?﹂
ほんの少しだけ不満げな彼女に鈴丸は笑いそうになりながら﹁い
や﹂と否定の言葉を入れた。
﹁残念、今日は俺と二人きり﹂
何を言われているのか分からないのか梨花は頭上に疑問符を浮か
べながら固まってしまった。頭の処理能力が言葉を理解するのにつ
いていけていないようだった。
それから、やがて、梨花は何かを思い出したかのように﹁あ、あ
たし何かしましたか?﹂と震え声で問いかけてくる。
会話が聞こえず不思議そうに首を傾げるマリアを一瞥してから﹁
なんでそうなる﹂
﹁だ、だって訓練場に残されるってことじゃ﹂
そういえばそんな脅し文句を前に使った気がする。
385
自分を言ってきた言葉に後悔しながら彼はわしゃわしゃと梨花の
頭を撫でた。
﹁察してくれよ、今日はマジでデートに誘ってんだぞ﹂
純粋に、ただ驚きだけを浮かべた表情が鈴丸の目に飛び込んだ。
畳み掛けるように彼が続けた。
﹁特に意味もなく二人で買い物行って、お茶しようって誘ってんの。
今度こそクレープも奢ってやるから﹂
またからかわれているに違いないと思いながら梨花は動揺で視線
を泳がせた。
いつもならこの辺りで否定が来るはずなのに今日はそれがない。
本気なのだろうかと梨花はちらと思ってしまった。
そんなはずはない。彼女の喉元までせり上がったのは理由もない
自信に溢れた後ろ向きな言葉だった。自分なんかに彼が本気になっ
てくれるわけもないじゃないか。
どうせいつもの冗談だ。そこまで辿りつくまでの数十秒の思考が
梨花にとってはたった一秒もかかっていないような気がしてならな
かった。
﹁あ、あたしでよかったら﹂
こう言えば、また彼はいつもの冗談めかした笑みを浮かべるのだ
ろう。
第一今日はいつもの訓練だってあるんだし。やっぱり冗談だと思
っていると彼女にとっては存外な言葉が返ってきた。
﹁うっし、じゃあ決まり。ちょっと待ってろ、すぐ戻る。今日はサ
ボりだ﹂
新聞紙を畳んで、立ち上がる鈴丸に﹁うえ?﹂と間の抜けた声が
梨花からこぼれた。
ああ、やっぱり冗談だと思ってたんだなこいつ。そんなことを考
えながら鈴丸は苦笑した。
386
暴れまわる短い手足を抑え付けながら麗子が叫んだ。
﹁落ち着いてくださいまし! 絆創膏を貼るだけですわ!﹂
﹁いやだぁぁあああいたいのやだぁぁああ!﹂
びえええんと泣き叫ぶウルフの頬にはすっかり塞がりかけている
ものの先日南波につけられた傷がまだ残っている。
これくらいなら絆創膏など貼る必要はないとも麗子は思ったが傷
口をそのままにしておくとウルフがかさぶたを剥がしてしまうこと
は分かっていたので菌の侵入を防ぐというよりはウルフがいじらな
いようにするための対策だった。
動物の書かれたカラフルな絆創膏を救急箱にしまいながら﹁じゃ
あいいですわ﹂と麗子は冷たく言い放った。
﹁そんなこと言う子にはお菓子あげません﹂
﹁なんで! ばんそーこーとおかしは関係ないじゃん!﹂
ばんばんと床を叩きながらウルフは頬を膨らませて、自分の不満
を表現した。
ここで甘やかしてはいけませんわ。麗子は自分に言い聞かせなが
ら更に続けた。
﹁わたくしの言うことを聞きもしないうるさいだけのクソガキにお
菓子をあげる意味がありませんわ﹂
﹁お、おかしくれないとあちし、れーこのこと嫌いになっちゃうよ
!?﹂
口から咄嗟に出たのであろう脅し文句に麗子は内心むっと顔をし
かめた。
しかし、表情にはあくまでも出さずににっこり笑ったままで、言
い放った。
﹁どうぞ。そうしたらわたくしも思う存分あなたのことを嫌いにな
りますから﹂
視線を逸らしながら麗子がそう言えばウルフはびくっと小さな体
を震わせた。
387
それから困ったように救急箱と麗子を見比べて、黙り込んでしま
った。
すっかり静かになったウルフに不安を覚えながらちらと麗子が振
り返ると彼女は目に溜めたいっぱいの涙を拭いながらふぐ、えぐと
小さな嗚咽をこぼしていた。反撃が利きすぎた、と麗子は焦った。
﹁れ、れーこにあちしを嫌いになるけんりとか⋮⋮っ、ないんです
けど⋮⋮! き、きらいになっちゃいやなんだけど、ちょーうざい
よ、れーこ⋮⋮ちょーうざい⋮⋮!﹂
どうしようかと麗子は慌てた。
このまま甘やかすのはいかがなものか。かといって泣かしたまま
でいるのも困る。自分の子供じゃないものの子育てって難しいと麗
子は思った。
ぼろぼろと涙をこぼしながら救急箱から絆創膏を取り出したウル
フは硬直している麗子の元まで歩み寄ると握りしめられ、更には涙
でぐちゃぐちゃになった絆創膏を突きつけながら﹁ちゃんと貼るか
らぁあああ!﹂と絶叫した。
﹁ちゃんと貼るからぁ、いい子にするからぁああ! おかしほしい
じ、れいごとあぞびだいでずぅうう⋮⋮!﹂
大泣きするウルフに罪悪感すら覚えながら麗子はスーツのポケッ
トからハンカチを取り出すとその目に当てた。
﹁わ、分かればよろしいですわ。わたくしも言いすぎました﹂
ぐちゃぐちゃになった絆創膏を受け取りながらぽんぽんと涙を拭
い、ぎゅうっとウルフの体を抱き締めてから﹁ほら、ちーんって﹂
とハンカチを鼻の前に差し出した。
ずるずると流れていた鼻水を取り去りながらウルフは﹁ごめんね
ぇわぶいごでごめんねぇ﹂と何度も謝っていた。
﹁いいえ、あなたは他にいないほどとってもいい子ですわ﹂
絆創膏を頬に貼りながら麗子はにっこりを笑みを浮かべた。
その言葉に、涙を流すのをやめたウルフはどこか誇らしげにする
とえへへと小さく笑う。﹁とーぜんだね!﹂とすっかりいつもの調
388
子で言い放った。
額に滲む汗を拭いながら本部ビルまでやってきて、職員区画の入
り口付近で見えたよもぎの後ろ姿に南波は今来た道を引き返してや
りたくなった。
それほど今の彼にとっては会いたくない人物でもある。苦手意識
が生まれた、というわけではなかったが気まずいのは事実だった。
思い返せば彼の知っている春風よもぎという人間は誰かに対して
激昂するタイプでは決してない。むしろ、穏やかに他人に流されつ
つ流しつつ空気を読んでにこにこしているような後輩だった。
それが、どうであろう。自業自得とはいえ、南波はよもぎに怒鳴
られたことを少しだけ心に引っかけたままだった。
何よりあのときの彼女の言葉がなんとなくよもぎから南波を遠ざ
けている。
しかし、ここで本当に引き返すわけにもいかなかった。京の治療
が続いているうちは、せめてこうしてここに通わねばならないし、
よもぎと顔を合わせることだってしなければならない。
諦めるように溜め息を吐いてから南波は少しだけ歩くスピードを
速めてよもぎの隣に黙って並んだ。
隣に立った人物が南波と分かるやよもぎは嬉しそうな笑みを浮か
べた。
﹁おっはようございまっす、まっすみせんぱーい!﹂
いつも通りの笑顔に、南波は返事をしなかった。
その対応がやっぱり気に食わないのか歩き続ける南波の周りをぴ
ょいぴょい跳ね回りながら﹁無視しないでくださいよーねー!﹂と
よもぎは叫んだ。
ええい、鬱陶しい。迷いなく南波の手刀が飛んで、﹁はう!﹂と
情けない声をあげながら彼女はようやく動きを止めた。
389
﹁ひ、酷いです、なんでチョップするんすか自分で隣きといて! 鬼かあんたは! 誘いチョップとは卑怯なり!﹂
﹁自分に集る虫を払うのは当然だろう﹂
﹁虫! 春風は虫ですか益海先輩のばっきゃろー!﹂
うわああと珍しく反撃の意味を込めてぽこぽこと自分を殴ってく
るよもぎに南波はもう一発手刀を落とそうか迷っていた。
それをしなかったのは﹁うひゃう!?﹂という先ほどとは種類の
違う情けない声をよもぎがあげたからである。
なんだと南波が顔をしかめている間によもぎは素早く彼の後ろに
隠れてしまった。眉を寄せながら﹁一人で騒いでどうした﹂
﹁は、背後から、撫で、えええ?﹂
﹁は?﹂
全く要領を得ないよもぎの説明に南波が首を傾げると先ほどまで
いなかったはずの誰かがそこにいることに気付いて更に深く首を傾
げた。
この猛暑の中で紺色のスーツを涼しく着こなした四十代ほどの男
だった。くすんだ風な金髪と深緑色の瞳から到底日本人ではなさそ
うだと南波は思わず身構えた。
そんな彼に構わずに自分の手を見つめていた男はぼそりと呟いた。
﹁無理なダイエットは禁物ですよお嬢さん、女性は少しくらい肉が
ついていた方が魅力的だ﹂
流暢に流れてきた日本語によもぎはがたがたと震えあがった。
厄日か今日は、と南波がうんざりしていると腹部の辺りに違和感
の感じて彼は顔を引きつらせた。
いつの間にか、自分と間合いを詰めていた男がさすさすと南波の
腹をさすっている。
﹁お兄さんは体質かな、太りにくいだろ﹂
﹁は、なん⋮⋮!?﹂
珍しく声に動揺を滲ませながら南波は硬直した。
後ろで震えあがっている後輩も同じようなことをされたのか。い
390
や、しかしならばなんで自分までと困惑していると男はすっと南波
から手を離した。
その手で、男はそのまま自分に向かって飛んできた拳を受け止め
た。わずか数秒のことに南波もよもぎも呆気にとられていると彼は
拳の持ち主を軽く受け流し、転倒させる。
﹁いってぇ!﹂
﹁相変わらず体術の荒っぽさは健在だな﹂
けらけらと笑いながら男は拳の持ち主、マリアに手を伸ばした。
ところがその手は立たせてやるのだろうという南波たちの予想に
反して膨らんだマリアの胸部を包み込んだ。
﹁いや、相変わらず動きにくそうな肉がついて﹂
刹那、マリアの振り上げた足が男の直撃した。
﹁マジ死ね!﹂
後ろに倒れていく男を睨み付けながらそう吐き捨てたマリアは南
波たちの方を見て﹁あーお前らもすでに被害者か﹂とがっくり肩を
落とした。
自分たちの目の前で何が起こっているのかが全く理解できず、疑
問符を浮かべる二人の肩を﹁ごめんなさいね﹂という柔らかい言葉
を共にマリアの後ろからやって来ていたベルが叩く。
その目には明らかに面倒だと言いたげな色が浮かんでいる。彼女
は茶封筒を抱えたまま、首を傾げた。
﹁ミハエル、なんでいるの。書類は送ると言ったはずよ﹂
ベルの言葉に男︱︱ミハエル・アウレッタは顔をしかめた。
﹁坊主から聞いてないのか?﹂
﹁何を?﹂
意味が分からないとばかりにベルが眉をよせていると﹁あああ!﹂
とマリアが立ち上がった。
﹁あ、あいつ⋮⋮逃げやがったんだ⋮⋮! 梨花連れて逃げたぞあ
いつ!﹂
391
そこでようやくベルも理解したようで﹁ああ!﹂と入り口付近を
睨み付けた。
﹁鈴丸⋮⋮! あいつ! デートとか言って!﹂
﹁通りで朝からおかしいと思ったんだよ! ちくしょうあの金の亡
者め!﹂
ベルとマリアの口からぽんぽんとこぼれ落ちていく言葉を聞きな
がら二人は声を揃えた。﹁梨花先輩とデート?﹂﹁東天紅先輩とデ
ート?﹂
そんな中で﹁リカ?﹂とミハエルは首を傾げた。
﹁リカって例の、あのリカ?﹂
緑色の瞳を見返しながらええ、とベルは返事した。
﹁よっぽどあなたに会わせたくなかったみたい﹂
﹁失礼だな﹂
やれやれと肩をすくめる彼にベルは頭を抱えた。
恐らく彼女がいなければミハエルは帰らないのに。
これから鈴丸が帰ってくるまでミハエルの相手をしないといけな
いと思うとベルは憂鬱な気分になった。
同じ頃、梨花は未だに自分の置かれた状況を理解できずにいた。
冗談だといつ言われるのだろうかと身構えていたのに鈴丸が彼女
を連れて来たのはショッピングモールだった。
きょとんとする彼女に反論する隙すら与えずに、夏休みだからか
家族連れやカップルで賑わうその中に飛び込んでしまった。これじ
ゃ本当にデートだよね、とほんの少しだけ期待している自分が梨花
は嫌だった。
前に比べて梨花は自分のことを卑下しなくなったと思っていた。
多少なりと自信も持てるようになった。こんな自分でも誰かの役に
392
立てるのだと少し誇らしくもあったし、嬉しくもあった。
偶然自分が適応者からだったとしてもその偶然のおかげで戦えて
いることに彼女は後悔したことはなかった。自分の大切な居場所を
自分で守ることが梨花は何より嬉しかった。
しかし、その半面で、彼女は未だに鈴丸や後輩たちがよく言う﹁
可愛い﹂という褒め言葉を認め切れずにもいる。そう言ってくれる
のは嬉しいのだが自分よりも巳令やよもぎの方がよほど可愛いのに
と心から思ってしまうのだ。
そもそも自分にどうしてここまで自信が持てないのかと梨花は聞
かれるとどうしてなのかと迷ってしまう。物心ついたときにはもう
こんな性格だったような気がして、そんな自分がいつも嫌いだった。
変えたいと何度も思っても、なかなか踏ん切りがつかなかった。嫌
いなはずなのに手放す勇気はなかったのである。
そんなことを色々とぐるぐる頭の中で考えていた梨花だったが思
考に沈んでいた意識を手から伝わる感触に引き戻された。
驚いて自分の手の方を見ると鈴丸の手が梨花の右手を包み込んで
いた。
そのまま自分を引っ張っていく鈴丸に﹁あ、あの、すす、鈴丸さ
ん!?﹂と彼女は上ずった声をあげた。
﹁ん?﹂
﹁な、なんで手﹂
﹁人混みに流されそうだから。あとデートっぽいだろ、こういうの﹂
頬を桃色に染める梨花を見ながら楽しそうに笑った鈴丸は﹁なん
だったら腕組む?﹂
﹁組みません!﹂
ぶんぶんと首を左右に振って断る梨花にははっと彼は笑い声をあ
げた。
﹁ガード硬いなお前﹂
393
むぅと顔をしかめながら彼女は自分の手に繋がれた鈴丸の手を見
つめた。
梨花の手よりも一回りも二回りも大きい手は彼の体格同様にがっ
しりとして男らしいと呼ぶのが相応しい。
最初はこの手を含めて、実は梨花は鈴丸のことが怖くて仕方なか
った。そもそも自分より何歳も年上の男性というものに教師と父親
という存在以外にほとんど面識のない彼女は初日にあっさりと倒さ
れたこともあって心のどこかで鈴丸を怖がっていた。
ところが今ではどうだろうか。彼の隣にいるときに、梨花は怖が
るどころか安堵すらするようになっていた。いいこと、なのかなぁ
と内心首を傾げている。
﹁もしかして結構嫌々付き合ってたりする?﹂
鈴丸の問いかけに梨花は慌ててかぶり振った。
嘘は吐いてないだろうと判断しつつ﹁んじゃ、あれ食うか﹂とど
こかを指差した。
示された先にはクレープ屋の看板が提げられている。
﹁あ、あの、えと﹂
﹁俺の奢り。別のがいいか?﹂
﹁そういうわけじゃ﹂
クレープは食べたい。が、奢らせてしまうということに梨花はど
こか気後れしていた。
そんな彼女に鈴丸は困ったように言う。
﹁これくらい奢らせろよ。せっかく付き合ってくれたんだから礼く
らい受け取っとけって。好きなの選んでいいから﹂
な、と言われて梨花は小さく頷いた。これ以上拒むのはかえって
失礼になるのではないだろうかと思ったからだ。
じゃあ、とメニューを指差しながら梨花は言う。
﹁い、苺の食べたいです﹂
﹁ん。どっか適当に座って待ってろ。すぐ行くから﹂
手を離し、ぽんぽんと梨花の頭を撫でてから鈴丸は注文口の方へ
394
と歩いて行ってしまった。
一人取り残された梨花は辺りを見渡してから適当なベンチに腰か
けて、ふぅと息を吐く。
誰かとこうやって二人だけで出かけるのなどいつぶりだろうと梨
花は思う。昔は父親とよく出かけていたがそれもしなくなった。反
抗期というわけではなくもっと複雑な理由でだった。
家からすら逃げるようになった。自分がそこにいることが間違っ
ているように思えて仕方なくなってしまったのだ。
なんだか考え込んでいたら悲しくなってきて、梨花は顔を俯かせ
た。
﹁梨花?﹂
言葉の通り、クレープ片手にすぐに戻ってきた鈴丸にあ、と梨花
は声をこぼした。
﹁おかえりなさい⋮⋮﹂
﹁おう。どうした?﹂
﹁あの、お、お腹空いちゃって﹂
えへへと誤魔化すために笑う梨花に鈴丸は視線を向けながらやが
て、﹁そうか﹂とだけ返してクレープを差し出した。
薄黄色の優しい色の皮に大きめの苺と真っ白な生クリームが包ま
れていて、その上からたっぷりのチョコソースがかけられている。
わぁっと嬉しそうに目を輝かせながら﹁い、いただきます﹂と梨
花は小さな口でそれに噛り付いた。
口の中に広がる甘味に彼女は幸せそうに笑みを浮かべた。
﹁おいしい⋮⋮﹂
なるほどベルが梨花に菓子を食べさせたがる理由がよく分かる、
と鈴丸は思った。
また一口、ぱくんと口の中にクレープをいれていた彼女は鈴丸を
見てにっこりと微笑んだ。
﹁とっても美味しいです﹂
﹁そうか﹂
395
梨花の隣に腰かけながら鈴丸は自分の口元がほころぶのを確かに
感じていた。
今頃、ミハエルが泡夢財団に到着している頃だろう。写真でも撮
ってベルに送り付けたやろうかとも鈴丸は思ったが帰ったときにぶ
つけられる怒りが増えるだけだと判断して結局断念した。
﹁ずっと美味しいものだけ食べるお仕事があればいいのに⋮⋮﹂
ぼそっと梨花が呟いた言葉に鈴丸は口元を押さえながら堪えきれ
なかった笑みを吹き出した。
それに自分の思っていたことが言葉になってしまっていたことに
気付いた梨花が恥ずかしそうに頬を染めた。
﹁あ、あたしったら凄い変なこと⋮⋮!﹂
﹁いや、いいんじゃないか。あるだろそういう仕事も﹂
くすくす笑いながらそう返してくる鈴丸に梨花は苦笑するだけだ
った。それからふと、急に気になって﹁そういえば﹂と彼は梨花の
方を見た。
﹁お前⋮⋮進路どうするんだ﹂
梨花は現在高校三年生、場合によっては受験生というものに当て
はまる年齢だった。
彼女の口から聞こえなかったから特別そんな意識を持っていなか
ったか本当はこの時期、死に物狂いで勉強するはずではないのか。
そんな鈴丸の問いに梨花ははっとしたように顔を上げると少し考
え込んでから﹁就職、しようかなって﹂
意外だと鈴丸は思った。てっきり大学に行くのかとばかり思って
いたのだ。
﹁進学じゃないのか﹂
﹁その、早く、家から出たくて﹂
視線を逸らしがちにそう言った彼女に言葉に鈴丸は言葉を飲みこ
んだ。
それから別の言葉を吐く。
﹁どっか働きたいとことかは?﹂
396
﹁そ、それが﹂
大きく息を吸い込んでから﹁お誘いを貰ってて﹂
﹁仕事の?﹂
﹁はい﹂
こくんと頷いて梨花は、
﹁あたし、その、誰かの役に立ちたくて、それができるなら頑張ろ
うかなって思ってて﹂
﹁甘すぎ﹂
梨花の額につんと自分の指を当ててから鈴丸は返した。
﹁もっと自分のために生きろよ。お前は人に尽くしすぎ﹂
無理に進学させたいというわけでもなかった。
ただなんとなく、人のためにと生き続ける梨花が窮屈そうに見え
て仕方なかった。それだけだった。
しかし、梨花から次に飛び出した言葉は悲観でも、肯定でもなく
否定だった。
﹁ち、違うんです! その、なんていうか、自分のためでもあって﹂
なんといったらいいのだろうと言葉をまとめながら梨花は更に続
けた。
﹁そ、そのお仕事ができたら、鈴丸さんとかマリアさんみたいにな
れないかなって﹂
恥ずかしそうに顔を伏せる梨花に鈴丸は頭を抱えた。
﹁⋮⋮自分のために生きろって言ったけどマリアはともかく俺レベ
ルになれなんて一言も言ってない﹂
﹁でも二人みたいに優しくなれたらなって﹂
﹁俺はそんなに優しい人間じゃない﹂
ただ金が欲しいだけだ。
今回のことだって単にミハエルから逃げたかっただけで、自分に
得があるから。そう思ってから不意に﹁ならばどうして梨花を連れ
て来たのだろう﹂と。そんな疑問に至ってしまった。
会わせたくなかった。ならばなぜ会わせたくなかったのか、言い
397
訳をつけようと思えばいくらでもつけられたはずだったのに鈴丸は
一向にその言い訳を結論とはしなかった。
自分が薄々恐れていたことが今目の前の少女によって引き起こさ
れようとしているのではないだろうかと底知れぬ恐怖のようなもの
を鈴丸は感じた。
それを誤魔化すように﹁お前の方がよほど強いのに﹂と吐き捨て
た。
﹁そんな﹂
﹁んで、俺のことはもういいとしてさ。お前、どんな仕事のお誘い
受けてるわけ?﹂
これ以上議論を展開するのは彼にとっては苦痛でしかなかった。
自分に取り付く何かを振り払うためだけにそう言えば﹁それは、
その﹂と梨花は視線を逸らした。
もうじき、梨花の口からこぼれる組織名に、自分が絶句するとは
鈴丸はまだ知る由もないのである。
太李は事態の意味不明さに言葉を失った。
やってこいと言われたからやって来た休憩所で見ず知らずの男、
ミハエルと身を寄せ合いながら対峙する二人、吠えるマリアにもう
どうでもいいとばかりに机に突っ伏すベルの姿があった。太李が来
たと分かるや南波とよもぎは彼の後ろに素早く隠れた。
一緒に入って来た巳令も意味が分からなかったようで首を傾げな
がら﹁何がどうして﹂と顔をしかめている。
太李が振る返るやよもぎが悲鳴に近い声をあげた。
﹁セクハラです! セクハライケメン親父です! めっちゃ怖い!
春風おうちに帰りたい!﹂
﹁灰尾⋮⋮あいつ見境ないぞ⋮⋮﹂
398
がたがたと震えたままそんなことを言っている二人に太李と巳令
は顔を見合わせ、首を傾げた。
傭兵、ということはベルたちの関係者だろうかと色々考え込んで
いると臀部に軽く何か触れるような感じがして﹁ひっ﹂と情けない
声をあげた。
恐る恐る振り返るといつの間に自分たちの方に来ていたのかミハ
エルがなんのこともなさげにふむ、と腕を組んでいる。
﹁いい反応だ﹂
﹁なに!? え!? 俺今何された!?﹂
﹁だから言っただろうこいつ見境がないって!﹂
珍しく声を荒げながら南波が叫ぶ。
未だに何が起こっているのか理解しきれていないのか巳令は頭上
で疑問符を浮かべている。そんな彼女の胸部を見てから﹁不憫なヤ
マトナデシコ⋮⋮!﹂とだけミハエルは呟いた。
その言葉の意味を瞬時に理解したらしい巳令が腕輪を構えた。
﹁斬り捨てます﹂
﹁うわ、ちょ、鉢峰ストップ!﹂
その手を慌てて掴み上げながら太李は必死に彼女を止める。
結局制止させられた巳令は﹁灰尾がそこまで言うならいいですけ
ど﹂とぶつぶつ文句を垂れて引き下がった。それを見ながら﹁愛か﹂
とミハエルが呟いた。
﹁あ、あ⋮⋮!?﹂
ぱくぱくと口を開け閉めしながら硬直していた太李だったがなん
とかそれを押し殺して﹁つーかあんた誰なんですか!﹂ともっとも
な問いかけを投げつけた。それにそうだそうだとよもぎが頷いた。
﹁そうなんすよ! マジそれっすよ!﹂
﹁というかマリアさん、あんたの知り合いなんだろ?﹂
碧眼を鋭く細めながらミハエルを睨み付けていたマリアに南波が
問うと﹁あたしはこいつを知り合いとすら思いたくない﹂と吐き捨
てた。
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﹁冷たいな﹂
﹁うるせぇ頭ぶち抜かれたくなかったら寄んな﹂
ぐるるとミハエルを睨み付け、マリアはけっと視線を逸らした。
そのやり取りを聞いていたベルはゆっくり顔を上げてから一言だ
け﹁私たちのクソ上司﹂ときっぱり告げた。
﹁クソはいらないだろ、ベルガモット﹂
﹁うっさいわねーあなたに会いたくなかったから書類は揃えるって
言ったのにぃ﹂
だんだんと机を叩きながら不満げに顔を歪めるベルは﹁あー私就
職先ほんと間違えたかも⋮⋮﹂と後悔交じりの言葉を吐いてまた机
に突っ伏した。
﹁じゃ、じゃあ傭兵ってことっすか、その人も﹂
﹁今は引退済みですよお嬢さん﹂
﹁分かったからちょっと距離離してもらっていっすか﹂
実にいい笑顔での返答を受け取りながらよもぎはずずっと後ずさ
った。
そんなことを意に介さずに巳令は自分の胸を押さえながら淡々と
言葉を紡いでいた。
﹁不憫じゃないし⋮⋮全然不憫じゃないし⋮⋮着物着ること考えた
らこれが普通だし⋮⋮ていうかこれから育つし⋮⋮! 日本人って
これくらいだし、小さくて十分だし、あんなのいらないし﹂
ぶつぶつと怨念のように言い続ける彼女に﹁鉢峰⋮⋮﹂と太李は
なんと声をかけたらいいのか迷っていた。
少し考えてからがっとその肩を掴むと﹁なぁ、鉢峰よ﹂
﹁はい?﹂
﹁俺は、その、なんだ、胸の大きさなんて関係ないと思います!﹂
何言ってんだ俺は! と太李が心の中で叫んだのは言い切ったあ
とのことであった。
巳令はその言葉で顔を上げ、﹁灰尾⋮⋮!﹂と嬉しそうに彼を見
上げていたが一瞬にして微笑みをもみ消すとなぜかそのままぱーん
400
っと彼の頬を張った。
突然の出来事に顔を押さえながら太李が混乱していると涙目の巳
令が彼の襟首を掴み上げ怒鳴る。
﹁シンデレラになったら自分はボインボインだからってぇ! 同情
なんてしないでください!﹂
﹁いや別にそういうわけじゃ⋮⋮というかお前まだ言うかそれ!﹂
﹁揉めるほどの胸がなくってごめんなさいねぇ!﹂
うわーんと声をあげながら巳令はひたすらに太李に世の中の不条
理さに対する怒りをぶつけた。
鉢峰でいてくれれば俺からすれば関係ないと伝えたかったはずな
のにどうしてこうなったと太李は自分の度胸のなさを恨めしく思う。
﹁これがいわゆる夫婦喧嘩って奴ですかね﹂
スマートフォンで二人が言い合っている様子を撮影しながらよも
ぎはしみじみと呟いた。つーか一体この人たちはいつになったら付
き合うんだろうなーと考えながらである。
﹁そんな写真撮ってどうする?﹂
﹁梨花先輩に送ります﹂
メールに添付しながらいえーいとピースを作るよもぎに南波は興
味なさげに視線を逸らした。
そんな彼らの様子を見ながらそそくさとベルの隣に腰を下ろして
いたミハエルが首を傾げる。
﹁随分愉快な職場じゃないか、ベルガモット﹂
﹁⋮⋮楽しすぎて時々自分の目標を忘れそうになるわ﹂
ぐしゃりと髪をかき上げながらベルは弱々しく微笑んだ。
﹁それにしても本当になんで来たの? 冗談抜きで本人がご登場な
んて珍しいわね﹂
﹁別に。坊主が他人に入れ込むとろくでもないことばっかり起こる
からヤジウマしに来た﹂
にやにやと笑いながらそう告げるミハエルに﹁だから鈴丸に嫌わ
れるのよ﹂とベルはぽつんと告げた。
401
﹁おいおい、あいつを育ててやったのは俺だぞ?﹂
物心がついてまだ間もない頃、蒲生鈴丸は両親を失った。
死別というわけではない。彼を疎ましく思った両親が彼を手放し
た。それだけのことだった。
そんな鈴丸を拾い上げたのが当時彼のいた施設にたまたま立ち寄
っただけのミハエルだ。ただの気まぐれで、あの手この手を使って
自分の手元に連れて来た鈴丸をミハエルは勿論、当時彼の周りに居
た傭兵たちも可愛がっていた。
あらゆる分野において専門的な知識を持つそれぞれに色んなこと
を教わった彼は気が付けばミハエルでさえついていけないほど器用
になっていた。鈴丸が傭兵になったのもある種自然な流れだった。
それが彼にとって本当に幸せなことなのか、未だにミハエルには
分からない。
﹁反抗期だと思えば可愛いもんさ﹂
﹁そうかしら﹂
ベルは顔をしかめながら口を動かしていたのの次の言葉はサイレ
ンの音で掻き消されてミハエルに届くことはなかった。
モニターを眺めながら九条柚樹葉は退屈そうに頬杖をついた。
﹁話には聞いていたけれど本当に面倒くさいね﹂
その視線の先には食い入るように柚樹葉と同じ画面を見つめてい
るミハエルがいる。
柚樹葉の頭の上に乗ったスペーメが﹁やっぱりさすがベルガモッ
トの上なのです頭おかしいのです﹂
はぁーとベルが息を吐く。
﹁やめてちょうだい、その言い方。うちの上層部みんながみんなあ
んなんじゃないのよ﹂
﹁ただ一人のせいで全てがそう見えるなんてことは世間じゃよくあ
402
る話だよ﹂
んーと大きく腕を伸ばした柚樹葉は﹁今日はα型だね﹂と小さく
笑った。
﹁相変わらず意地悪な言い方する子ねぇ﹂
自分の頭に伸びて、そのままなでなでと優しく撫でつけてくるベ
ルの白い手を柚樹葉はぺちんと振り払った。
﹁撫でないでよ﹂
不満げな柚樹葉の声に、はいはい、とベルは渋々両手を背中に回
した。
﹁しかし、実際見てみるとこりゃまた凄い光景だこと。あんたをう
ちに引き抜きたいくらいだ﹂
ミハエルの言葉に柚樹葉は薄い笑みを浮かべた。
﹁生憎、泡夢財団の支援で今のところは不便していないからね。ヘ
ッドハンティングはお断りだよ﹂
﹁そりゃ残念だ﹂
画面の向こう側では熊の形をしたディスペアがグルルと鳴いてい
る。
その視線の先に居るのは、親指に変身していた梨花だった。斧を
握りしめて、相手を睨み付ける彼女を見つめながら﹁どうする、リ
カ﹂と彼は小さく微笑んだ。
そうとも知らず、梨花は自分の後ろに居た太李に目配せした。
ぱくぱくと口が動く。それを辛うじて理解した太李が顔を引きつ
らせながら小さく頷いた。
背後で火薬の匂いが立ち込めて﹁人魚! お前病み上がりなんだ
からあんま暴れんなって!﹂という鈴丸の怒鳴り声が響く。それを
聞き入れる気は一切なさそうに三叉槍がカラスを切り裂く。
403
早く終わらせよう、梨花がそう決めると同時に地面を蹴り込んで
ディスペアが爪を振り上げたまま彼女目がけて飛びかかってくる。
その両手を避けようともせず、掴み取る。ガウ、とディスペアが
驚いたような声をあげる。
お互い一歩も引かずに取っ組み合いの体勢になる。顔を歪めなが
らも彼女はある限りの力を両手に込めると踏ん張りながら両手ごと
ディスペアの体を徐々に振り回し始めた。
﹁んにゃああ!﹂
ある程度のスピードを持って振りまわれていた体がそのまま梨花
の手から離れて飛んでいく。
それに合わせて太李がマントを振り払う。
﹁最も哀れな役に幸せなエピローグを!﹂
途端に現れたレイピアが空中で一斉にディスペアに突き刺さる。
地面を蹴り上げ、同じ高さまで上昇した彼が叫ぶ。
﹁リベラトーリオ・ストッカーレ!﹂
突き出された刃がディスペアを貫いた。
うおっと、とバランスを崩しながら着地した太李の頭上にはすで
にディスペアの姿はない。
暗くなっていた空が徐々に明るくなって行く。変身を解きながら
がっくりと太李は肩を落とした。
﹁やることがめちゃくちゃですよ梨花先輩⋮⋮﹂
﹁ご、ごめんね?﹂
ぱっと変身を解いてから梨花は小さく笑った。
全く、と太李が半ば呆れているとようやく変身を解いた巳令がじ
ーっと彼を見つめていた。
﹁な、なんすか鉢峰サン﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁やめて! そんな怖い目で俺を見るな!﹂
何も言わず、ただただ太李を見るだけの彼女に﹁巳令さん?﹂と
不思議そうに梨花が首を傾げた。
404
﹁さ、て、と﹂
拳銃を素早く片付けて、マリアは後ろへ振り返った。
﹁てっめぇえ鈴、梨花を言い訳にしてミハエルのオッサンから逃げ
やがってぇえ!﹂
やっべと顔を引きつらせた鈴丸が逃げ出したのはすぐだった。
どの道帰る気でいたといえど、マリアに怒鳴られながら帰るのは
絶対に嫌だ。そんな妙な意地が彼の中にあったからだ。
泡夢財団に戻ってくるやいなや、鈴丸を出迎えたのは彼の育ての
親だった。
﹁よう坊主。何年振りだ﹂
﹁どういうことか説明して貰おうかクソジジイ﹂
一気にミハエルと距離を詰めた鈴丸は淡々と問いかける。
﹁何をどうボケちまったら梨花をアシーナに入れようって発想にな
る?﹂
え、と梨花とアシーナのメンバー以外の全員が彼女に振り返る。
ミハエルの方はそんな鈴丸の横をすり抜けて梨花の前までやってく
ると﹁どうも、リカ・トウテンコウ﹂と片手をあげた。
﹁ミハエル・アウレッタだ。会えて嬉しいよ、いつもうちの坊主や
マリアが世話になってる﹂
﹁い、いえ、こちらこそ迷惑かけっぱなしで﹂
背筋を伸ばしながら恐縮しきった様子の梨花にふっとミハエルは
笑った。
﹁それで、先日の話の続きだ。俺はなかなか君に興味があってね﹂
腕を組みながらミハエルは﹁支部から報告を受けた。彼らを雇っ
たと﹂あのお喋り共め、と鈴丸は内心吐き捨てた。
太李が捕まった際のことだ。泡夢からクビを言い渡された鈴丸た
ちに協力を仰ぐため、梨花は自分の金であの三人を雇ったのだ。
405
それがミハエルには愉快で仕方のないことだった。
﹁他に手段がなかったからとはいえ、あの荒っぽい連中を雇ってや
ろうという君の度胸を俺は買いたい﹂
こんなことなら、雇われない方がよかったのか。一瞬、鈴丸はそ
う思ったが、しかし、すぐにその思考を振り払った。ミハエルのこ
とだ。梨花が親指姫を続ける限りは遅かれ早かれ、勧誘に来ていた
ことだろう。
そこまでの人材だと判断されてもなんら不思議はない。鈴丸には
そう思えた。
﹁我々の仕事は命を売る仕事だ。嫌なら断ってくれて構わない。二
度と勧誘もしない﹂
そう言って微笑むミハエルに梨花は顔を伏せながら小さく告げた。
﹁あたしなんかで、よかったら﹂
小声ながら梨花にしてはよく通った声だとマリアは思った。
ミハエルからの梨花への勧誘の話をマリアは知っていた。無論本
人が日本にまでやってくるとは思っていなかったが。
彼女は決めるのは梨花だからと一言も口を出さなかった。ベルも
この仕事がどういうものなのかと説明しただけだった。鈴丸には自
分で言うから黙っていて欲しい。そんな梨花の要望も勿論あっさり
と受け入れた。
その上で出た結論ならばもう自分に言えることも止めることもな
いとマリアは目を閉じた。こんな大事なことを勢いで決めるほど馬
鹿な奴じゃない。それを分かっていたからだ。
分かっていながら、納得しきれていないのが鈴丸だった。
﹁いいのかほんとに﹂
﹁は、はい﹂
﹁分かってんのか、命売る仕事なんだぞ。嫌だからって逃げられな
いんだぞ﹂
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﹁それが﹂
まっすぐ鈴丸を捉える梨花の目は恐ろしいほどに澄んでいる。
﹁それが、あたしのためですから﹂
重たく言い放たれた梨花の言葉に鈴丸は舌打ちした。それから、
﹁条件がある﹂とミハエルに向き直った。
﹁ほう﹂
﹁汚れ仕事は絶対にさせない。それと、フェエーリコ・クインテッ
トとしての役割が終わるまでは日本から出さない﹂
それから、と鈴丸は笑った。
﹁所属はうちのチームだ。体術から何まで基礎を叩き込んだのは俺
だ、今後も俺が面倒見る。文句ねぇな?﹂
﹁リカはそれでもいいのか?﹂
ミハエルの言葉に梨花は﹁あたしは、むしろ嬉しいというか﹂と
困ったように頷いた。
﹁ベル、マリア、いいな?﹂
﹁⋮⋮まーいいんじゃねぇの? 歓迎はしてやるけど﹂
けらけら笑うマリアにベルは小さく溜め息を吐いてから﹁勝手に
なさい﹂と肩をすくめた。
﹁じゃあその結論で上に持って行ってみる﹂
ミハエルの言葉に﹁ああ、それと契約金は高くつけろよ。梨花は
そんなに安い女じゃない﹂と笑う。
﹁⋮⋮変わったなぁ坊主﹂
﹁余計な世話だ﹂
ふんと視線を逸らす鈴丸を見上げていた梨花に﹁どういうことで
すか!﹂と巳令が説明を求めていた。
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第二十話﹁俺はようやく踏ん切りをつけたようです﹂
花器に活けられた暖色のスカシユリを見つめながら巳令は小さく
息を吐いた。
石化柳のなんとも言えない曲線の間で三点を取りながらしかしど
こか不揃いにユリの暖色が咲く。
蝉の声を聞きながらぼんやりとそれを眺めて、つまらないと彼女
は顔をしかめた。
いけばなを始めたのは家の意向だった。得に楽しいと思ったわけ
でもなく、勧められたからなんとなくやってみただけだった。
家族は気を遣わなくていいと言ったが家族以外の人間が多く出入
りする家の中で彼女は自然と丁寧な言葉遣いと大人しさを身につけ
た。
舞踊も、茶道も、着物の着付けもやれと言われたわけではなかっ
たが自分で覚えた。家族に言われたわけではないけれど、巳令の行
動の陰にはどこかしらにいつも家の存在があった。
家族は自分を家に縛り付けていたわけではなかった。むしろ自由
に育ってきた方だと思っている。誰でもなく、彼女の心そのものが
彼女を家に括り付けていたのだ。
それでも最近になって巳令には家の存在関係なしに出来たことが
二つほどある。
一つ目はフェエーリコ・クインテットとして巳令に限定して言え
ば鉢かづきとして戦うことができているという点だった。
ヒーローに憧れて、そしてそれに実際になったのはまさに巳令の
意思そのものだった。誰かを救い、そして自分も救われてそれがど
れほど幸せなことであるのか巳令にはある程度の自覚があった。
二つ目は、年頃の娘らしく恋をしたことだった。
408
好きな人ができた。自分よりずっと優しくて、かっこいいヒーロ
ーに恋をした。
そこまで考えてから自分の口からその気持ちを彼に知られてしま
ったことを思い出して巳令は恥ずかしくなると同時にふつふつと怒
りが込み上げてきた。
そういえば結局あの話はどうなったのだろう。色々あったから仕
方ないとはいえ、あれ以来一向に太李の口からその話を聞かされる
ことはなかった。
忘れている? いや、太李に限ってそれはないだろうと巳令は思
う。何か一言くらい言ってくれればいいものを。
フラれるならフラれるでも構わない。ただこうして傷つけないよ
うにと気を遣われるとかえって腹が立つ。
我ながら理不尽だと思いながら視線を外に放り出すと同時に彼女
の携帯電話が小さく震えた。
自分の携帯電話の画面を睨み付けながら太李はソファの上で倒れ
込んでいた。
そこに開かれているのはなんの変哲もないメール画面だった。宛
先にはあらかじめ巳令のアドレスが設定されていて、本文には短く
﹃明日どうする?﹄という問いかけだけが書かれている。
毎日のように続いていた召集が久々にない日だった。
どうも巳令と二人になれず﹃例の話﹄を持ちかけられなかった太
李がこの日しかないと心の中で決めていた。
決めたはいいもののいざ彼女に予定を聞くメールを送ろうとした
途端これだった。
おかしいところはないだろうか、こう送ったら彼女はどう返して
くるだろうか。不安と躊躇いでいっぱいになってなかなか送信ボタ
409
ンを押せずにいる。
こんなことでいいはずはないのに。それでも指は動かない。
このままずるずる引きずっていても仕方のないことだと分かって
いる。あー、と唸っていると﹁おっにいー﹂愛らしい声にびくっと
体を跳ね上がらせて彼は慌てて起き上がった。
﹁な、なんだよ、紅葉!﹂
﹁ハサミ貸してーはーさーみー﹂
兄を驚かせたことに対して特に悪気もなさそうにゆさゆさと左右
に揺れる紅葉に﹁部屋にあるから勝手にもってけ﹂と力なくまた彼
は倒れ込んだ。
そんな兄の様子を不審に思ったのか紅葉は首を傾げながら﹁どし
たの?﹂と眉を寄せた。無意味に鋭い妹め、と心の中で履き捨てな
がら﹁なんでもないけど﹂と顔を逸らした。
それが益々、紅葉が太李を気にする要因になった。自分の兄が携
帯を持っているのを認めると﹁携帯かー!﹂﹁やめんか!﹂
飛びかかってきた妹から携帯を庇うように太李は身をよじるも彼
に飛びついた紅葉は﹁見せろー! みせんかーい!﹂と手をいっぱ
いいっぱいに伸ばしている。
それに対して見られてたまるものかと太李も紅葉の手から逃れる
ように携帯を離す。
﹁やめ、やめろってば!﹂
﹁ええい乙女でもあるまいに!﹂
ぎゃーぎゃーと言い争いながら携帯を奪い合っていると特徴的な
電子音が響く。
それに太李は顔を引きつらせ、恐る恐る画面を見る。
画面には﹃送信しました﹄の文字だけが浮かび上がっている。
やってしまった。今にも逃げ出そうとしていた紅葉の腕を掴みな
がら﹁お前なぁ!﹂
410
﹁な、なんだよーおにいが隠そうとするから悪いんだろ! どうせ
送る気だったならいいじゃん!﹂
﹁よくないんだよ! これはマジでよくないんです!﹂
送ってしまったものは仕方ない。頭の中で理解していながらも彼
は慌てずにはいられなかった。
自分がグズグズしていたのが悪いのは百も承知で紅葉の頬を引っ
張っていると放り出されていたメールの着信音と共に携帯電話が震
える。はっとして慌てて拾い上げると送信者は巳令だった。
恐る恐るメールを開いてみると中には﹃特に何も決めてませんけ
ど﹄の文字。ゆっくり紅葉に振り返りながら﹁紅葉!﹂びくっと彼
女は肩を跳ね上がらせた。
﹁な、何さ﹂
﹁この時期ってどこにデートとか行けばいいんですか!﹂
ただならぬ様子の兄から出たそんな問いかけに﹁は?﹂と紅葉は
返してから顔をしかめた。
﹁おにい⋮⋮そりゃあれか⋮⋮彼氏なんざいない紅葉ちゃんへのあ
てつけか﹂
﹁違う、心底真面目だ﹂
﹁なお悪いわい﹂
けっと吐き捨てられながら﹁つーか彼女とかじゃないし﹂とぶつ
ぶつ言ってる太李に構わずに﹁逆に聞いちゃえば?﹂とどうでもよ
さそうに紅葉が告げる。
﹁聞く⋮⋮聞く、そっか、聞けばいいのか⋮⋮﹂
紅葉の言葉に驚かされたという風に呟きながら太李はソファに再
度腰を下ろし、携帯の画面と向き合った。そんな兄の隣に腰かけな
がら紅葉は面白そうに笑っていた。
その笑みに少しも気付かずに太李はその返信に﹃一緒にどこか行
かないかなと思ったんだけどもし行けそうだったらどこ行きたい?﹄
という問いかけを打ち込んで今度は躊躇わず送り返した。
彼女からメールが返ってくるには時間がかかった。携帯の画面を
411
食い入るように見ながら不安げにする太李に紅葉は感心してしまう
ほどだった。こんな兄は初めて見た。
時間にすれば五分ほどだったが太李の体感では三十分か、それこ
そ一時間過ぎたのではないかと思うほどだったがとにかく返ってき
たメールには﹃水族館﹄とだけ書かれている。どうやら一緒に出掛
けることに関しては了承してくれるようだ。ほっと息を吐きながら
﹃じゃあ水族館行くか﹄とだけ返す。
不安げに、でも楽しそうにメールのやり取りをする兄に﹁恋って
すげー﹂と紅葉は本当に小さな声で呟いた。
ソファに横たわりながらよもぎは文庫本の上に踊っている活字を
読みながらページを捲った。
その手にはあるのは以前、南波が読んでいた本と同じものだった。
たまたま本屋に平積みにされていたのを見て、ついつい好奇心に駆
られて買ってしまった。
タイトルと表紙しか知らずに、内容は全く分からないまま買った
が内容は超能力者が出てくるSF推理小説だった。超常的な力を持
った主人公が事件を解決していく。それでも現実離れしすぎずに、
どこかで現実味を帯びる。フィクションとリアルが混ざり合ってい
て読んでいて退屈しない。
こういうものが好きなのか、それとも単にこの作家が好きなのか
よもぎにはそれが判断できなかったが少なからず買ってよかったと
思った。
他の作品も見てみようかなとよもぎがポケットに入れていたスマ
フォに手を伸ばすと﹁よーもぎちゃん﹂彼女が顔を上げると黒髪を
短く縛った女だった。真っ白なフレアスカートと、その清楚なスカ
ートとは真逆の雰囲気の紫色のスカジャンを着ている。この時期に
412
までよく着るものだといっそよもぎは感心するほどだった。
﹁どーしたの、あけびちゃん﹂
春風あけび、よもぎの一つ違いの姉だった。
あけびはどうやらよもぎのことが可愛くて仕方ないようでやたら
と構ってくる。姉馬鹿、またはシスコンとも言うのだろうかとよも
ぎは思う。
けれどよもぎは決してあけびのことは嫌いではない。今の彼女に
なる上であけびの存在は必要不可欠だった。
﹁明日のお昼ご飯焼きそばでいーい?﹂
﹁うん﹂
﹁海老とイカいっぱい入れてとびっきり美味しいの作ったげる。あ、
それともお野菜いっぱいがいい?﹂
﹁あけびちゃんが食べたいの作りなよ﹂
﹁よもぎちゃんが食べたいのがいいんだもーん﹂
ぴょんぴょん飛び跳ねるあけびによもぎは苦笑した。
﹁じゃあ海老﹂とよもぎが答えればあけびは嬉しそうに微笑んだ。
﹁りょーっかいしっちゃいましたー!﹂
ふふふんと冷蔵庫の方に駆けて行くあけびの後ろ姿を見送ってい
ると手に握っていた電話が鳴り響く。
首を傾げながら画面を見れば﹃みれー先輩﹄の文字が見えてよも
ぎは首を傾げた。彼女から電話がかかってくるなんて珍しいのだ。
﹁もしもし?﹂
応答してみるとスピーカー越しに当てたような巳令の声がよもぎ
の鼓膜を揺らした。
﹁ど、どどどどうしましょう! よもぎさん大変なんです一大事で
す!﹂
﹁どうしたんすか、そんな慌てて。らしくないっすよ﹂
本を閉じ、起き上がりながらよもぎは首を傾げた。
よもぎの言葉に一旦呼吸を整えてから、多少は落ち着いたのか巳
令が﹁明日、出かけることになって﹂はぁ、と生返事。
413
﹁それが何か?﹂
﹁そ、それが灰尾と出かけることになって﹂
その場で勢いよくよもぎが立ち上がる。
音を聞いてあけびがびっくりした顔で振り返っていたがそれに構
わず巳令の言葉は続く。
﹁咄嗟に水族館とか答えちゃって、ああなんか子供っぽすぎたかな
ってっていうか何着て行けばいいのか分からないしどうしましょう
!?﹂
﹁みれー先輩どうどう﹂
キッチンの方に向かってから電話を少し自分から離してよもぎは
あけびに小声で告げた。
﹁あけびちゃん、私明日のお昼ご飯いらないや﹂
翌日、待ち合わせ場所である駅にすでに到着していた太李は時計
を見上げながら深々と溜め息を吐いた。
いつ話を切り出そうかと考え込んでいた。別に悪い話をするわけ
でもないのだし、合流したらすぐでもいいだろうかとかやっぱりそ
れなりに切り出せそうな雰囲気になるまで待つべきだろうかとか色
々と考え込んでいたのである。
早く着きすぎた、と太李は若干後悔した。遅れるよりは待ってい
た方が格好はつくかもしれないが彼女が来るまで不安で仕方ない。
ひっきりなしに思考が切り替わる。
やっぱり合流したらすぐに話を切り出そう。太李は心の中でそう
決めた。
そのときだった。
﹁ごめんなさい!﹂
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ぱたぱたと忙しそうに足音をさせながら巳令が息を切らし、太李
の元へと駆け寄ってきた。
短い黒髪をぺたぺたと押さえ付け、彼を見上げる巳令は肩を小さ
く上下させる。それから少し息が整ってきたところでようやく、申
し訳なさそうに口を開いた。
﹁待たせてしまって⋮⋮﹂
はっとして太李は慌てて取り繕った。
﹁いや、俺が勝手に早く来ただけだし待ち合わせ時間まで全然あっ
たし、っていうか全然待ってないし!﹂
あははと引きつった笑みを浮かべながら両手を頭の後ろに回す太
李にくすくすと巳令は笑う。
その柔らかい笑顔が酷く魅力的に見えて、彼は言葉を飲みこんだ。
元々は綺麗な顔立ちなのにそこに可愛らしい笑顔が咲くのがアンバ
ランスなようで太李には魅力的に見えて仕方ない。
ずっと見つめていると不意に自分がどんな言葉を発するか分から
ないので視線を逸らしつつ話を切り替えた。
﹁んで、あれだ。なんで水族館?﹂
﹁アザラシが見たくって﹂
咄嗟にそれしか思いつかなかったなどとは言えず、誤魔化すよう
にそう言った。
﹁アザラシ、好きなのか?﹂
﹁特別そういうわけでも。ただ可愛いじゃないですか。まるっとし
てて﹂
手で丸を描きながらにこにこと笑う巳令にそうか、と太李も笑い
返した。
﹁さ、行きましょう﹂
﹁え、あ、だな﹂
楽しそうに歩いていく巳令の後ろ姿についていきながらああ、タ
イミングを逃したと太李はがっくり肩を落とした。
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その後ろで大きめのサングラスを外しながらよもぎがきらきらと
目を輝かせた。
﹁いいですね青春ですねぇ、あのヘタれ先輩がデートのお誘いだな
んて何事かと思ってましたけど﹂
うふふと楽しそうに笑うよもぎに呆れたような声がかかる。
﹁なかなか悪趣味だなお前﹂
﹁何を仰いますマリアさん。自分だってノリノリで来たくせに﹂
よもぎの言葉にへへっとマリアは楽しそうに笑った。
その後ろにはカバンを抱えた梨花と文庫本をめくっている南波も
いる。
﹁そ、れ、に﹂とよもぎは唐突に梨花の腕に抱き着くと﹁この間の
鈴丸さんとのおデートについても詳しく聞きたいですわ春風﹂
びくっと梨花が肩を跳ね上がらせる。
﹁だからあれはミハエルさんから逃げたかっただけで﹂
﹁んもうまだそういうこと言いますか﹂
ぷくっと頬を膨らませる梨花にむむっと顔をしかめるよもぎを見
ながらマリアは苦笑する。
そしてマリアは横に立っていた南波を見て、にっと笑った。
﹁でもなんか、意外だな。お前までついてくるなんて﹂
活字の海から思考を引き上げて、少しだけ顔を上げた南波はちら
りとよもぎを見てから﹁さあな﹂とだけ答えるだけだった。
よもぎから誘い電話が掛かって来たとき、南波は本当に意識せず
についていくという答えを本能的に吐き出していた。それは太李が
どうとか、巳令がどうとかではなく、誰でもなくよもぎの誘いを断
るだけの勇気がなかっただけだった。
勇気がないという言い方も妙かもしれないが南波にとって今のよ
もぎは一種の恐怖の対象でもあった。せめてよもぎの激怒の理由を
知るまではこの態度を改めることは無理そうだと彼は思っている。
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南波がじっとよもぎを見つめているとその視線に気づいた彼女が
首を傾げる。なんでもない、と南波は軽く首を左右に振った。
歩いていく二人を追ってマリアがゆっくり歩きだす。その後を梨
花が追って、さらに南波とよもぎが並んで続いた。
﹁あ、そういや﹂とよもぎは南波を覗き込んだ。
﹁春風、この間、本読んだんです。小説﹂
﹁へぇ﹂
いつもより食いつきがいい。よもぎにはそう思えた。
本の話題だからだろうか。やっぱり本が好きなんだと思いながら
﹁えっと、あの作家さんなんて言ったかな。し⋮⋮しま⋮⋮?﹂南
しまつぐはる
波がすぐに答えた。
﹁志摩次晴﹂
﹁あ、そう、それです! あの人のをね、読んでみたんです﹂
﹁面白かっただろ﹂
南波らしからぬどこかはきはきとした声によもぎはたまらず吹き
出した。
くすくすと笑い自分を見ながら眉を寄せる南波に﹁すいません、
なんか益海先輩ほんと本好きなんだなって﹂ふんと顔を背けながら
南波がまた気だるそうな声で答える。
﹁悪いか?﹂
﹁いいえ、ちっとも。素敵だと思いますよ﹂
にっこりと笑いながら﹁何か夢中になれるもんがあるなんて、羨
ましいっす﹂
まただと南波は思った。いつかのようによもぎはまた、自分を見
ているようでどこか遠く、もう手が届かないような場所を見つめて
いる。そんな気がする。
﹁お前にはないのか?﹂
そういえば自分は春風よもぎのことをちっとも知らない。知ろう
という努力すらしなかった。ふと不思議になって南波が問えば、よ
もぎは手を頬にやった。
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﹁自分ですか? 自分はないっすねぇ﹂
それから悩ましそうに、
﹁生きてるだけで万々歳ですから﹂
と締めくくった。
柚樹葉のところに行こう。ベルがそう思い立ったのはほんの数分
前だった。
ここ数日、彼女は柚樹葉の姿を見ていなかった。同じビル内にい
るのは確かなのだがお互いに忙しくて顔を見なかったのだ。
九鬼と代わってなった主任待遇という役職はいささか窮屈だとベ
ルは思う。外部の人間だからか前よりずっと報告を求められること
が多くなった。
それでもこんなことくらいなら、とベルは思っている。今までの
ように何もできず、ただ向こうが尻尾を出すまで待つよりはずっと
マシだ。
そんなことを考えているうちに、ベルは柚樹葉の部屋の前に辿り
ついた。
柚樹葉の部屋、というのは少しばかり語弊のある言い方で正確に
言えば柚樹葉に研究開発のため与えられた一種の実験室とも呼べる
部屋だった。そこに半ば住み着くようにしながら彼女は暮らしてい
る。
そういえば最近あの子家に帰ったのかしら、と一抹の不安を覚え
ながらもし帰っていなかったら叱ってやろうと決めて呼び鈴に指を
伸ばした。
間もなくぴんぽーんと軽い音が響き渡る。返答はなかった。ベル
は﹁ゆーずーはちゃーん、あーそびましょー﹂と茶目っ気づいた口
調でそう言うもやはり声は返ってこなかった。
何よ、とベルはドアノブに手を掛けた。がちゃがちゃしてやろう。
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なんとも子供じみた考えがベルの中に生まれたのである。
ところがドアノブはベルの予想に反してぐるりと回るとそのまま
扉を開けてしまった。
あら。間の抜けた声をあげて彼女はぱっとノブから手を離した。
しかしそうしている間にもぎぎっと音を立てながら開いてしまった。
あらあらあら。今度は声に出さずに心の中でベルは呟いた。
どうしようかと迷ってから彼女は開いた隙間から身を乗り出して
こっそりと中を覗き込んだ。
小難しそうな本が何冊も床に転がって、雑然とした部屋には人が
いるという空気こそあっても生活感というものは一切ない。床に散
らばっている工具を避けながら中に入り込んでベルは慌てて駆け出
した。
﹁ちょっと柚樹葉さん!?﹂
ぽつんと作業机の目の前に置かれた椅子にだらんと倒れ込みなが
らパソコンのディスプレイの光に当てられていたのは九条柚樹葉だ
った。
その様子は明らかに普通ではない。柚樹葉といつも一緒にいるお
喋りロボットの声も聞こえてこない。
真っ青な顔をした柚樹葉を抱き上げながら軽く揺さぶると彼女は
うう、と短い声をあげた。
﹁何してるのよ﹂
﹁⋮⋮やあ、ベルガモット⋮⋮﹂
弱々しい彼女の声に﹁どうしたの﹂と問うより早く、ぐうと可愛
らしい腹の音がベルにも聞こえてきた。
湯気の立ち上る真っ白なリゾットをスプーンですくいあげ、柚樹
葉は無我夢中でそれを口の中にかきこんだ。
あまりの勢いにベルが唖然としているのにも構わずに白衣の袖で
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口元を拭ってから柚樹葉は後ろに居た鈴丸に振り返り、皿を突き出
した。
﹁おかわり!﹂
﹁分かったから落ち着いて食えよ﹂
それを受け取って鍋の中から盛り付けてやっていると待ちきれな
いとばかりに柚樹葉はとんとんと机を叩いた。
その横には先ほどまで充電切れで動くことのできなかったスペー
メがバッテリーの上でだらんと倒れ込んでいる。はふぅ、と声が上
がった。
﹁ベルガモットが来なかったら危なかったのです﹂
﹁もしかして、ずっと食べてなかったの?﹂
鈴丸から皿を受け取りつつ柚樹葉は黙ってベルから視線を逸らし
た。返答としてはそれで十分すぎるほどである。
﹁あのねぇ﹂
呆れて口を開きかけてからベルはそれを取りやめて、代わりの問
いを発した。
﹁一体何してたの?﹂
﹁⋮⋮スペーメ、教えてやって﹂
口の中にリゾットをかきこむ柚樹葉にそう言われ、スペーメは純
粋に驚いたような声をあげた。
﹁よいのですか?﹂
﹁教えないとめんどくさいんだもんこの大人は﹂
えへ、と歳不相応にベルが笑う。無理すんなよババアという台詞
が鈴丸の喉元まで押しあがったが我が身可愛さで彼はそれを飲みこ
んだ。
珍しい、と感心すらしながらもスペーメは小さな口を開いた。
﹁フェエーリコ・クインテットのチェンジャーの大幅強化の計画を
してたです﹂
﹁強化?﹂
鈴丸が繰り返すとこくこくと柚樹葉が頷いた。
420
ごくんとリゾットを飲みこんだ彼女は﹁主にγ型対策かな﹂ぴく
っとベルが眉を寄せた。
﹁あれに出てこられたらいよいよ今の戦力だけで対応するには無理
がある﹂
﹁そうねぇ﹂
嫌にのんびりしたベルの声にこの大人は、と思うばかりで柚樹葉
は何も言わなかった。
﹁だから色々煮詰めてたんだけどついつい食べるのも忘れてて﹂
﹁ほんと、困った子なんだから﹂
子ども扱いしてくるようなベルの言葉が不快で皿に残っていたリ
ゾットを平らげると彼女はまた鈴丸に声を飛ばした。
﹁おかわり!﹂
﹁まだ食うのかお前﹂
その皿を受け取って呆れ顔の鈴丸はふと思い出したかのように、
﹁あれ、マリアは?﹂
ああ、何も言わないで出て行ったのか。そんなことを考えながら
ベルはただ、さあねぇと返すだけだった。
いつになったら﹃これ﹄は終わりを告げるのだろうか。そんなこ
とを考えながらである。
人工の明かりをきらきらと反射させて輝く魚を見ながら巳令は嬉
しそうに身を乗り出した。
その目に映っている鮮やかな魚たちは水中を舞い踊るかのように
ひらひらと泳いでいる。間もなく、綺麗という感想がぽつんと巳令
の口からこぼれ落ちた。
そうだなとありきたりな相槌を太李が打てば巳令はふふっと笑っ
てからスカートを翻した。
421
﹁次はタツノオトシゴ行きましょうか﹂
﹁アザラシは?﹂
﹁その次です!﹂
嬉しそうに口元を綻ばせながら駆けて行く巳令の後ろ姿に﹁はし
ゃぎすぎだろ﹂と声をかけることしか出来なかった。
しかし、巳令の方はそんな太李の声を気に留めた様子もなく人混
みの中を器用に抜けていく。そのあとをなんとか追いながらさて本
格的に困ったぞと顔をしかめた。
切り出すタイミングを失った。ただそれだけである。
そうこうしている間にも廊下を抜け、少しだけ広いフロアに出た
巳令は﹁あ﹂と声をあげ、立ち止まった。
どうした、と太李が聞くより早く、巳令はしゃがみ込むと柔らか
い声でこう言った。
﹁どうしたの? 迷子?﹂
その視線を合わせる先にはまだ言葉をうまく使えないであろう三
歳ほどの少女がぼろぼろと涙をこぼしながら泣きじゃくってるだけ
だった。
そういうことかと嫌に納得しながら太李は辺りを見渡した。巳令
らしい、そう思ったからである。
間にも少女は両親を求めて一層高く泣くばかりだった。どうしよ
うと巳令がおろおろしているとそこでようやく戻ってきた太李はそ
の場でしゃがみ込んでから手に持っていたアザラシのキーホルダー
をひょこひょこ左右に動かしながら少しだけ高い声で、あくまで楽
しげに告げる。
﹁お嬢さん、お嬢さん、泣いてちゃやだよー﹂
きょとんとする巳令とは逆に、少女は左右に揺れる可愛らしいア
ザラシを見て嬉しそうに笑みを浮かべた。気付けば涙は止まってい
る。
キーホルダーを握らせて、太李はいつも通りの声で﹁お父さんと
お母さん探しに行こうか﹂こくこく、彼女が首を上下に振った。
422
ふふ、と巳令が笑い声をこぼした。
﹁本当に凄いですね、灰尾は﹂
﹁え、いや、そんなことは﹂
たまたま売店が出てから助かっただけでそうでなかったらどうな
っていたか自分だって分からない。
そもそも最初に彼女を見つけたのは巳令なのだからむしろ凄いの
は巳令の方である。色んな大人が黙って視界から外していたような
子供の元へ迷わず行ってしまったのだから。
例え変身していなくても彼女はヒーローなのだと嫌に太李は実感
した。
そしてその実感は仲間である彼にとっては誇りでもあった。
そんなことを思いながら彼女の手を引いていた二人だったが存外、
目的の人物は早く見つかった。
﹁ままぁ!﹂
するりと巳令の手から自分の手を抜いて、少女は母親と思わしき
人物に駆け寄って行く。
母親は何も言わず、ただぎゅっと彼女を抱き締めたかと思うと太
李と巳令に勢いよく頭を下げた。困惑しながら二人が揃ってそれに
下げ返すと母親は後ろの方に振り返り、そちらにも深々と頭を下げ
た。誰かいるのだろうかと巳令は不思議に思ったが確認する前に少
女は嬉しそうに声をあげた。
﹁ばいばい!﹂
大きく振られる彼女の手にまぁいいかと太李は黙って振り返した。
ひと段落ついて、ほっと巳令が息を吐く。
﹁なんだか疲れちゃいましたね﹂
﹁そうだな﹂
太李が苦笑で返すと巳令は﹁もう帰りましょうか﹂と小さく問い
かけた。それに太李が首を左右に振った。
423
﹁いや、まだ駄目だろ﹂
え、と間の抜けたような巳令の声を聞きながら彼は先へ進んで手
招きした。
﹁アザラシ。見たかったんならせめてあれだけ見ていこうぜ﹂
どこまで優しいんだか。
その優しさが今は身に痛いと思いながらはい、と巳令はぎこちな
く頷いた。
フラれるのかもしれないと心のどこかで巳令は不安だった。結論
を聞きたくてもなかなか切り出せなくて、彼女の目にはいつも通り
に映る太李が腹立たしいほどだった。
程なくしてアザラシの水槽の前に着く。丸々と太ったそれはくる
くると丸い目で客たちの方を眺めている。
﹁⋮⋮可愛い﹂
このときばかりは巳令も苛立ちを忘れて、そう、心の底から吐き
出した。
時間帯がよかったのか周りには人はいない。楽しそうな巳令の横
顔を見ながら﹁なぁ、鉢峰﹂
﹁はい?﹂
﹁結構前になっちゃったけど、その、あの話の答え﹂
巳令はやってきた結論に自分が思っている以上の恐怖を覚えた。
顔を引きつらせながら精一杯の笑みを浮かべて﹁べ、別に﹂と顔
を逸らした。
﹁気を遣ってくれなくてもいいのに⋮⋮。私のこと嫌いなら嫌いと
そう言ってさっさとフッてくれた方がむしろ楽だし﹂
は、と驚愕交じりの太李の声が響く。
それからやがて頭を抱えた彼は﹁どうしてそうなる⋮⋮﹂と弱々
しく告げた。
いや、分かってる。自分が悪いのだと。
さっさと言ってしまえと誰かに背中を蹴り飛ばされたような気が
して、彼は言葉を捻り出した。
424
﹁俺は、好きだからな。俺は鉢峰のこと好きだから﹂
言ってしまった。思わず太李はその場でへたり込んだ。
一方で巳令の方もてっきりフラれるとばかり思っていたせいで衝
撃が大きく、そのまま固まってしまった。
一秒、二秒と硬直してからやがて太李と同じようにその場にしゃ
がみ込むと自分の頬を思いっきり抓った。いた、と確かに走った痛
覚に感想を述べてからゆっくりと問う。
﹁ほんとに?﹂
﹁疑われるのは仕方ないけどほんとです⋮⋮。その、鉢峰とそうい
う関係になれたらそれは凄い嬉しいなって思ってるし、割と手繋い
だり、そのなんだ、年頃の男だからキスとか、それ以上のことがし
たくないわけでもない﹂
かぁ、と巳令の頬が染まる。
素直すぎる。そう思いながらその手を握り、ふふっと笑う。
﹁嬉しいです、とっても﹂
答えとしては十分すぎるほどだった。
その手を握り返してから太李はゆっくりと振り返った。
﹁あ、あれ、灰尾くんこっち見てるよね⋮⋮?﹂
﹁見てるな﹂
びくびくした梨花の言葉にマリアが素早く返す。
完全に目と目が合っている。こちらを補足している。数々の戦場
を乗り越えてきたマリアにはよく分かる。
﹁あー⋮⋮帰りましょうか﹂
ぱたん。南波が文庫本を閉じる音だけが嫌に四人の耳に残った。
嫌な予感がする。よもぎはかちゃっとサングラスを掛け直し、そ
425
っと背を向けた。
﹁どうせよもぎちゃんが主犯だろうけどそこの四人ちょっと待った
ぁ!﹂
という太李の言葉が響くのはそれからすぐだった。
■
﹁幸せですわ﹂
﹁なんだ、急に﹂
﹁いえ、本当に幸せですの。この瞬間に立ち会えたことを誇りに思
いますの。γ型が地に立つ瞬間をもうすぐみられると思うとわくわ
くしますわ﹂
426
第二十一話﹁花火が打ち上がるのと同時に何かが動き出していたようです﹂
﹁たっだいまー﹂
﹁おかえりあけびちゃん﹂
スーパーの袋を抱えながら戻ってきたあけびの声によもぎは顔を
上げた。
よもぎの手元にはこれから泡夢財団に出かけるための荷物を詰め
た小さなカバンが一つあるだけだった。それを見ながらあけびは残
念そうに眉を下げた。
﹁あ、よもぎちゃん今日もおでかけなんだ⋮⋮﹂
しゅんと肩を落とすあけびに﹁そんなにがっかりしなくても﹂と
よもぎは苦笑する。
だって、とあけびはそれに返した。
﹁今日、花火大会だから電車乗って一緒に見に行こうかと思ってた
のに﹂
﹁花火大会?﹂
首を傾げてからああ、とよもぎは自分の頭の中から思い当たるも
のを見つけた。
そういえばこの時期になると電車で少し行ったところにある海の
方から花火が上げられている。毎年、遠くの方から音だけが聞こえ
てくるのだ。
開錠の付近では祭りだなんだと屋台が出て、まるで縁日のようだ
った。浴衣の人も大勢いる。
一度だけ、よもぎはあけびと一緒に両親に連れられてその花火大
会を見に行ったことがあるが今でも鮮明にその日のことを覚えてい
る。間近で打ちあがる花火の振動に小さな体を震わせながら父親に
肩車をされ、見た花火はとても綺麗だった。
最近は、そんなところに行くこともしなくなってしまった。そこ
まで考えてなんだか少し寂しいなと思ってからよもぎは納得した。
427
この姉も同じことを考えていたに違いない。だから急に花火大会に
行きたいなどと言い出したのだろう。
﹁彼氏さんと行けばいいのに﹂
﹁やだやだーよもぎちゃんと行きたいのー﹂
子供のようにぶーと口を尖らせるあけびを﹁はいはい考えておく
ね﹂と軽く一蹴しながらよもぎは玄関の方まで歩いてきた。
スニーカーに足を突っ込んで、指でちょいちょいとかかとの部分
を直してからじゃ、とよもぎは手を挙げた。
﹁いってくるねー﹂
﹁いってらっしゃーい﹂
あけびが本当に残念そうにするのを見ながらよもぎは扉を開けて、
外に出た。
太陽の光がよもぎの肌を焼き、蝉の声が体を包む。心地いいとま
では行かないもののやはりよもぎにとっては嫌いにはなれないもの
だった。
蒸し暑い空気の中を一歩踏み出してからよもぎはポストの中に無
造作に放り込まれた絵葉書を見て足を止めた。
真っ青な海が描かれた絵葉書だった。水彩絵具で描かれた柔らか
い絵葉書を手に取りながら彼女はそれをひっくり返して宛名を確認
した。
心当たりがなかったわけではない。むしろあったからこその確認
だった。心臓の音が蝉の声を上回るほどの大きさでよもぎの耳にへ
ばりつく。
みかげこゆき
そうして、見てしまった自分の名前と﹃御影小雪﹄という名前に
彼女は宛名を確認してしまったことを心の底から後悔した。
蝉が腹いっぱい鳴く声を聞きながらゆっくりと、よもぎは後ろへ
振り返って来た道を辿って行った。
428
携帯電話を耳に当てながらベルは顔を歪めていた。
﹁ごめんなさい、もう一回言ってくれるかしら?﹂
﹁お腹痛いから今日の訓練休みます⋮⋮﹂
小学生のような言い訳にベルは通話相手が本当に現役高校生なの
かどうかを疑った。
携帯を肩と首の間に挟みながら戸棚に手を伸ばしたベルは白い皿
を取り出しながら﹁体調が悪いのなら、それは仕方ないけれど﹂と
言葉を濁しつつ続けた。
﹁よもぎさん、何かあった?﹂
﹁いや、ほんと、なんでもないんす。ちょっと疲れただけだと思う
んで、鈴さんにもよろしくお伝えください﹂
それじゃ、と切れた電話にベルは少し黙り込んでから﹁その鈴丸
もいないんだけどね﹂とぽつりと呟いた。
言っていても仕方がないので皿の上に焼き菓子を並べていると﹁
こんにちはー⋮⋮﹂
どこか自信なさげなその声にベルは嬉しそうな微笑みを携えた。
﹁あら、いらっしゃい梨花さん。相変わらず早いわねぇ﹂
﹁ご、ご迷惑でしょうか﹂
﹁いいえ。遅刻するよりずっといいわ﹂
ベルの言葉に小さくなっていた梨花は嬉しそうに微笑むばかりだ
った。
﹁すぐにお紅茶淹れるから。ちょっと待っててね﹂
﹁は、はい!﹂
ぴんと背筋を伸ばす梨花に笑いかけながらベルは楽しそうに手を
動かした。
落ち着かないのか梨花はそわそわと視線を泳がせている。いつも
話しかけてくる男を探しているのだろうかと思いながらベルはから
かうような口調で言う。
﹁鈴丸なら今日はいないわよ﹂
429
﹁へ?﹂
びっくりしたように自分を見つめる梨花を見て、ベルは湧いてき
たそれをくすくすと笑い声に変換した。
グラスに詰め込むように入れられた氷の中に水筒に移しておいた
紅茶を注ぎながらベルはさらに﹁今朝いきなりね。出かけてそれっ
きり。あいつのことだからろくなことしてないんでしょうけど﹂と
出来上がったアイスティーを梨花の前に差し出してにっこり。
突き刺されたストローから紅茶をすすりあげた梨花は﹁そうなん
ですか﹂とだけ答えて小さく肩を落とした。そんな彼女を見てまた
からかってみたくなってベルは笑いながら、
﹁ごめんなさいね。今日のところは私で我慢してちょうだい﹂
﹁え!? あ、あたし別にそういうつもりじゃ﹂
おろおろと視線を泳がせる梨花に鈴丸の気持ちも分からないでも
ないと思うベルだった。
そういえば、とベルは首を傾げた。
﹁梨花さん、よもぎさん何かあったの?﹂
﹁ふぇ? よもぎさん?﹂
どうしてそんなことを聞くのかとばかりに不思議そうにする梨花
に﹁いえ、何もなさそうならいいの。変なこと聞いてごめんなさい﹂
とベルは謝罪で返すだけだった。
よもぎに何かあったのかもしれない。切り上げられたということ
は話し辛いことではあるのだろうがしかし梨花にはそれが気になっ
た。
﹁あの、よもぎさん何か?﹂
﹁いいえ。今日は体調がよくないからお休みするんですって﹂
つまらなさそうにそう言うベルに梨花はそれ以外にも何かあるの
ではなかろうかとちらと疑った。
しかし、それを問いかけようという意欲は﹁こんにちはー﹂とい
う太李の間延びした声に掻き消された。
﹁あ、灰尾くん⋮⋮それに巳令さんと益海くんも﹂
430
﹁こんにちは梨花先輩﹂
にこっと笑って挨拶を返す巳令のあとに南波は黙って頭を下げる
だけだった。
﹁あらあら、今日はみんな早いのねぇ﹂うふふと楽しそうに笑うベ
ルは﹁三人で来たの?﹂
﹁いや、南波とはさっき入口で﹂
﹁いちゃいちゃしてるカップルに絡まれた俺の身にもなってくれ﹂
﹁別にいちゃいちゃなんてしてねーよ。なぁ、鉢峰﹂
﹁はい﹂
にこにことお互い笑いあう太李と巳令に﹁そういうのいちゃいち
ゃしてるっていうのよ、バカップル﹂とベルは呆れたように息を吐
いた。
太李と巳令が付き合い出したという事実があの場にいなかったベ
ルや鈴丸の耳にも入ったのはすぐのことで、隠す暇すらなく周知の
事実になってしまっていた。
そんな初々しいカップルを眺め、彼女にしては珍しく意地の悪そ
うな笑みを浮かべてこう続けた。
﹁まぁでもはじめはラブラブでもその後どうなるかは、ねぇ?﹂
﹁ベルさんが悪い顔してます⋮⋮﹂
﹁んふ﹂
人の色恋沙汰にはしゃぐなど何年振りだろうと思いつつベルは肩
をすくめるだけだった。
また休憩所の扉が開く。
﹁おーっす﹂
まだ三つ編みに編む前の銀色の髪をふわふわ揺らしながら出てき
たのはマリアだった。
﹁また寝起きですか?﹂
くすくすと笑う巳令にむっとマリアが唇を尖らせた。
﹁うっせーな。こいつのスライドストップの調子がわりいんだよ⋮
⋮﹂
431
ぽんぽんと黒い銃を自分の手に当てながら不機嫌そうにそう言う
マリアに﹁あら﹂とベルはそれを覗き込んだ。
﹁それ、結構気に入ってた奴よね。同じ型、武器庫にあったわよ?﹂
﹁こいつがいいんだよ。だから鈴に見て貰おうと思って⋮⋮あれ、
鈴は?﹂
﹁出かけたわ﹂
﹁んだよあいつ、いざってとき役にたたねぇな﹂
舌打ちしながらホルダーの中に銃をしまうマリアは半ば定位置と
なりつつあるソファに腰をかけて足を組んだ。
後から入って来た人数分のアイスティーを並べるベルを見ながら
﹁そういえばさ﹂とマリアはなんのこともなさげに太李と巳令の二
人に視線をやった。
﹁今日の花火大会お前ら仲良く行ったりすんのか?﹂
ぴたっと二人の動きが止まった。
それから顔を見合わせ、あわあわと何かを言おうとする二人に誘
うつもりだったもののまだだったんだろう、マリアは苦笑した。
そんな彼女を見ながら﹁意外ね﹂とベルはアイスティーの入った
グラスを差し出した。それを受け取ってストローからすすり上げ、
マリアは首を傾げた。
﹁何が?﹂
﹁あなた、人の恋愛ごとに首突っ込むタイプだったのね﹂
﹁おいおい、人が愛し合うことほど美しいことなんて他にないだろ
?﹂
心底真面目そうな顔をするマリアにベルは苦笑しつつ﹁本音は?﹂
マリアは真面目な顔をしたままで﹁ただの野次馬精神だ﹂
一方で太李と顔を見合わせていた巳令は﹁あの、えと﹂と困った
ように声をあげていた。マリアの予想の通り、まさにこのあと花火
大会に誘おうと思っていたところでそれを先に言われたおかげで意
味もなく恥ずかしくなってしまった。それは太李も同じようで視線
を合わせたり、逸らしたりしながら﹁い、行くか!﹂と今にも裏返
432
りそうな声で言う。
﹁花火大会!﹂
﹁は、はい!﹂
恋人同士なのだからおかしいことは何もないのに何を照れている
んだと南波が呆れていると﹁いいなぁ﹂と梨花がこぼすのを彼は聞
いた。
振り返って彼は思わず問う。
﹁バカップルになりたいのか?﹂
﹁違うよ!﹂
ぶんぶんと首を左右に振る梨花はしゅんと顔を俯かせた。
﹁そうじゃなくて、花火大会なんてしばらく行ってないから﹂
﹁それなら一緒に行きましょうよ。梨花さん﹂
にこっと微笑むベルに梨花は嬉しそうに顔を輝かせた。
﹁い、いいんですか?﹂
﹁ええ。浴衣着て、一緒に見に行きましょう。マリアも﹂
﹁ええーあたしもかよー﹂
ぶーっと唇を尖らせるマリアにふふっとベルが嬉しそうに笑う。
それからベルは南波を覗き込んで﹁南波くんも一緒にどう?﹂
﹁いや、俺は﹂
とそこまで南波が言いかけたところで彼のポケットに入っていた
携帯電話が実にタイミングよく震えた。取り出して南波が画面を見
ると発信者の名前として﹃和奈﹄とある。南波は軽く頭を下げてか
ら少し距離を取ってそれに応答した。
﹁もしもし?﹂
﹁あ、みーちゃん、ごめんねぇ、忙しかった?﹂
﹁いや、別に﹂
和奈の間延びした声に口元がにやけそうになるのを押さえながら
彼は問いかけた。
﹁どうした?﹂
﹁うん、みーちゃん、今日時間あるかな?﹂
433
﹁⋮⋮花火大会?﹂
もしやと問いかけてみるとわあっと和奈が嬉しそうな声をあげた。
﹁凄い、なんで分かったの!?﹂
﹁さあ。なんでだろうな?﹂
電話の向こうで和奈が笑顔になっているのが手に取るようにわか
って南波も嬉しくなった。
南波が壁に凭れ掛かると和奈の明るい声が続けて言った。
﹁一緒に行かない?﹂
﹁⋮⋮俺しか誘う奴いないのか、お前﹂
﹁あーひどーい、そういうこと言わないでよー﹂
ぶーっと電話口でむすくれる和奈の声を聞きながら南波は誰にも
見えないように小さくガッツポーズした。
日がすっかり沈んだ頃、すでに人混みに飲まれ、屋台の並ぶ通り
を歩いていたマリアは自分の足元を睨み付けながら不満げに言葉を
吐き出していた。
﹁なんであたしまで浴衣なんて、歩きにくいし、暑いし、全然着た
くなかったのにベルが無理やり﹂
嬉々として浴衣を持ち出したベルに、抵抗する間もなく彼女が着
せられたのが朝顔の浴衣だった。
紺色の地にシンプルに白でアジサイが描かれただけのどこか控え
めなデザインだったものの元々整った顔立ちと銀色の髪のおかげか
華やかさには欠いていなかった。現にすれ違う何人かはマリアの方
へと振り返った。
不満げに口をへの字にするマリアに﹁でもマリアさんとっても可
愛いのに⋮⋮﹂と梨花が小さく返した。
それを聞いて、梨花の方へと振り返り、彼女の姿を確認したマリ
434
アがうーんと唸った。
黒地に薄紫色の藤がしだれている浴衣は普段は愛らしい梨花の雰
囲気をどこか大人っぽく見せている。普段はポニーテールにしてい
るだけの髪も上の方で団子にされ、かんざしでまとめられている。
﹁お前は恐ろしいほど似合ってるんだけど﹂
﹁そ、そんな﹂
ぶんぶん首を左右に振って否定する梨花は﹁あ、でも﹂と浴衣の
裾を摘まみながら横を歩いていたベルに笑いかけた。
﹁あ、ありがとうございます、こんなに可愛い浴衣﹂
﹁いいえ。サイズがあったみたいでよかったわ﹂
にこっと笑うベルはいつかに着ていた紺色のワンピースに白のつ
ば広帽子というよもぎに言わせれば﹃どこぞの奥様﹄スタイルだっ
た。
下駄を履いた足を引きずりながらマリアは、心底不満げに、
﹁なんでお前は浴衣じゃねーんだよ﹂
﹁だってこの髪の色だと浴衣に合わないんだもの﹂
頬に手を当て、悩ましそうに告げるベルに梨花は﹁でも、ベルさ
んの浴衣ちょっとだけ、見たかったな﹂とぽつんと独り言のように
こぼした。その言葉にベルは口元に手を当てた。
﹁んまぁ、なんて可愛いこと言うのかしらこの子は﹂
﹁えと﹂
﹁もうお姉さん嬉しいからお好み焼きでも奢っちゃおうかしら﹂
財布を握りしめながら嬉しそうに笑うベルに梨花はおろおろと視
線を泳がせた。
お前はお姉さんっていうには無理があるだろ、とマリアは思った
もののそれを口に出したせいで痛い目に合った同僚のことを思い出
して言葉を飲みこんだ。
そうこうしている間にもお好み焼き屋の列にちゃっかり並んでし
まったベルは﹁しっかし鈴丸の奴、どこに行ったのかしら﹂と顔を
しかめた。
435
﹁鈴丸さんも一緒に来られたらよかったのに﹂
﹁そうね。あんなのでもボディガードくらいにはなったものね﹂
むむ、と眉を寄せながら進んでいく人の行列に乗っていたベルは、
マリアがそわそわと落ち着かない様子で辺りを見渡しているのを見
て首を傾げた。
﹁あら、どうしたの?﹂
﹁え? あ、や、日本のこういうのって久々だなって思ってさ﹂
ははっと笑いながら﹁やっぱいいよな、祭りは﹂
﹁嫌ね、メインは花火なんだからね?﹂
﹁わーってるって﹂
頭の後ろに手を回して拗ねたようにするマリアにもう、とベルは
呆れた。
いつしか人の列は進んで、屋台の目の前にベルたちは立っていた。
﹁あ、すみません﹂若い男の声が困ったように告げる。
﹁今ちょうど焼けてた分終わっちゃったんで少々お時間頂いてもよ
ろしいですか?﹂
﹁別にかまわな﹂
顔をあげ、店員の顔を確認したベルは﹁あ!﹂と男を指差して一
歩後ずさった。
男の方もベルを確認するなり、げっと顔をしかめた。
﹁鈴丸、あなた何やってるのよ!﹂
蒲生鈴丸、その人であった。
彼の方も彼の方で先ほどまで浮かべていた愛想のいい笑顔をもみ
消すと﹁お前こそ何やってんだ﹂と鬱陶しそうに顔を歪めていた。
﹁いつもいつも財団に詰めて、書類作ってると嫌になっちゃうもの。
たまには遊びに行かなくちゃ﹂
﹁一人ぼっちで祭りなんて無様だな﹂
﹁あら誰がぼっちですって?﹂
ぐいっと梨花を引っ張ったベルが勝ち誇ったように笑う。
梨花は今までの会話を聞いていなかったらしく、鈴丸の顔を見る
436
なり﹁あれ!? 鈴丸さん!?﹂と純粋に驚いた声をあげている。
﹁お前⋮⋮梨花まで連れて﹂
﹁マリアもいるのよ?﹂
そう言ったベルの後ろでマリアがにやにやと笑っていた。
﹁少々お時間頂いてもよろしいですかぁ? だってよ﹂
先ほどの鈴丸の台詞を小馬鹿にしたように繰り返すマリアに﹁黙
れクソガキ﹂と鈴丸が吐き捨てた。
﹁で、あなたこそ何してるのよ?﹂
﹁バイト﹂
涼しく答える彼にベルは顔を引きつらせた。
﹁なんであなたって隙あらばお金稼ぐことしか考えてないのよ⋮⋮﹂
﹁だって求人広告出てたし、地味に給料よかったし。たまにはこう
いう仕事もしてみたくなったんだよ、悪いか﹂
﹁蒲生くん、上がったよー!﹂
﹁あ、はーい!﹂
また愛想を取り戻す鈴丸の声にマリアは腹を押さえながら今にも
笑い転げてしまいそうなほどの笑い声をあげた。
それに顔を引きつらせながら﹁おいくつでしょうか?﹂と問いか
けた。それにまたマリアが爆笑した。
﹁三つ﹂
﹁千五百円になります﹂
﹁ごめんなさい、一万円しかないのだけど﹂
﹁ぶっ飛ばすぞババア﹂
﹁ああ?﹂
ばちばちと火花を散らす鈴丸とベルを見比べておろおろとしてい
た梨花が慌てたように千円札を二枚差し出した。
﹁こ、これで﹂
﹁⋮⋮はい、確かに﹂
にこっと笑いかけられて梨花は顔を真っ赤にさせて、やがて俯い
た。
437
そんな彼女に五百円を握らせてから鈴丸はパックに詰められたお
好み焼きをビニール袋に入れて差し出す。
﹁はい、どうぞ﹂
﹁どうもありがとう﹂
それを受け取ったベルが怒りをにこにこ笑顔で隠しつつくるりと
背を向けた。
﹁ありがとぉごっざいましたぁ?﹂
﹁⋮⋮覚えてろよマリア﹂
﹁おーこえー、じゃあな金の亡者!﹂
ベルのあとを慌てて追い掛けていくマリアを見て、自分もと歩き
出す梨花に﹁梨花﹂
くるりと振り返った彼女が首を傾げる。
﹁似合ってるぞ、浴衣。大人っぽくて﹂
湯気が出ているのではないだろうかと思うほど顔が熱い。
梨花は両方の手で頬を押さえながら﹁あ、ありがとうございまし
た!﹂と頭を下げてから逃げるようにその場から駆け出して行った。
そういうところが可愛いんだよなぁと思いながら次に並んでいた
客に対して﹁お待たせしました﹂と鈴丸はまた愛想のいい作り笑い
を取り戻した。
﹁一つ﹂
﹁はい、お一つですね﹂
箸をつけ、袋に詰めたパックを差し出すとそこでぴたっと動きを
止めた。
この時期だというのに深緑のコートを着た男は真っ白な包帯が巻
かれた手を差し出されていた。大きな目が鈴丸を捉える。その目は
猫のよう、というよりは昆虫の大きな目といったところで上にかけ
られた黒縁の眼鏡のせいかなおのこと爛々と光っているように見え
た。
ぞくりと背筋を寒くなる。
﹁ああ、これ?﹂
438
わずかに首を傾けた男は包帯の巻かれた手を見せつけるようにし
ながら笑った。
にこりというよりにやりという擬音が似合う笑みだった。
﹁なかなか傷が塞がらなくてね﹂
﹁はぁ﹂
困惑気味に返す鈴丸の手からふんだくるようにお好み焼きを受け
取ると﹁どうもありがとう。蒲生鈴丸さん﹂
男の口からこぼれた自分の名前に鈴丸は眉を寄せた。先ほどの会
話を聞いていた? でもだとしたらなんのために?
そうこうしている間に五千円札を一枚ポケットから取り出した男
は﹁お釣りは結構﹂とだけ言い放って、立ち去ってしまった。
皺だらけの五千円札をしまいこみながらほぼ本能的に鈴丸はTシ
ャツの裏に隠していた拳銃に手を伸ばしたものの﹁蒲生くーん列止
まってるよー!﹂という店主の言葉に苦虫を噛み潰したような気分
になりながら、答えるしかなかった。
﹁はーい!﹂
ポイが金魚をすくいあげて、器の中に放り込む。
おお、と巳令が嬉しそうに声をあげた。白い生地に青や紫の撫子
が咲く素朴な雰囲気の浴衣の裾をまくりあげたままなのも忘れて、
彼女は夢中になって太李の手元を見つめていた。
﹁凄いです灰尾、そんなに金魚がすくえるなんて﹂
さっき自分は一匹もすくえないままでポイがやぶれて駄目になっ
てしまったのに。
きらきらと輝く巳令の瞳には小さな器の中でぴちぴちと泳ぐ五匹
ほどの金魚が泳いでいるのが映っている。くるくると軽くカールさ
れた黒髪を押さえながら嬉しそうに笑う巳令に太李も不思議と笑み
がこぼれた。
439
またポイの上に金魚がすくいあげられた。尾ひれを動かし、必死
に抵抗した金魚はわずかに空いた隙間からするりを身を滑らせて、
そのまま器に入るより前に水の中に落ちて行ってしまった。
﹁あ﹂
﹁はい、お兄さんお疲れ様ー﹂
店主の男が金魚の入った器を受け取って袋の中に手際よく入れて
行く。
﹁いやー、やっぱ調子に乗るもんじゃないな﹂
苦笑しながら太李が立ち上がるきらきらと自分を見つめていた巳
令の顔のすぐ近くに顔がいってしまった。ほんの少し近づけば触れ
てしまいそうだ。
﹁うお、悪い⋮⋮﹂
﹁いえ﹂
ぱっとお互い視線を逸らす二人を見ながら﹁若いねぇ﹂と店主は
茶化すように笑った。
恥ずかしそうに目を伏せながら﹁からかわないでください﹂と巳
令はわずかに膨れて見せた。
﹁はいよ。ん、お兄さん﹂
﹁あ、どうも⋮⋮﹂
金魚の入った袋を受け取った太李は改めて立ち上がると﹁鉢峰、
袖﹂あ、と慌てたように巳令は自分の袖を引き下ろした。
それからじーっと自分の手元の金魚を見つめる彼女に﹁金魚、お
前が連れて帰る?﹂太李の言葉にぱっと巳令が顔を上げる。
﹁い、いいんですか⋮⋮?﹂
﹁おう。よかったら﹂
﹁はい!﹂
嬉しそうにこくんと頷く巳令に笑いかけながら太李は彼女に金魚
の入った袋を手渡した。
えへへと嬉しそうに笑う彼女にそれだけで来たよかったと思って
しまう自分はやっぱりバカップルの片鱗があるのだろうかと少しだ
440
け不安になりつつまぁいいかと自己完結していた。
﹁楽しいか?﹂
﹁とっても﹂
﹁ならよかった﹂
満面の笑みを浮かべる巳令に﹁なんだか子供みたいだな﹂と太李
は笑いかけた。
それが恥ずかしかったのかぷいっとそっぽを向きながら﹁だって、
こういうところ、あまり来たことがなかったから﹂
﹁そうなのか?﹂
﹁はい。一緒に行くような人もいなくって、家の人間もあまりこう
いうところには来たがらなかったから﹂
﹁⋮⋮もしかして鉢峰ってお嬢様だったりする?﹂
冗談交じりで太李が問いかけると﹁ま、まさか﹂と巳令は手を左
右に振った。
自分が金持ちだと知らせて妙な壁を築きたくなかった。ただそれ
だけの想いで彼女は自分の家のことに関して閉口した。
まぁいいか、と太李は巳令を覗き込みながら﹁んじゃ、これから
は俺がとことん付き合ってやるからさ。行きたいとこ行こうぜ﹂
ふふっとたまらず巳令が笑い出した。
﹁ありがとう﹂
﹁お、おう﹂
急に恥ずかしくなって視線を逸らす太李に礼を述べながら巳令は
黙って彼の手に自分の手を伸ばした。
それに一瞬触れてから、次にはぎゅっと手を絡める。
﹁鉢峰さん!?﹂
声が裏返りそうな太李に対して顔を俯かせながら、
﹁て、手、繋ぎたいって言ってたから。繋ぎましょうよ﹂
﹁そ、そそそ、そうですね!﹂
なぜ俺は敬語で話しているんだとぐるぐる考えていると﹁でも﹂
と巳令はどこか冷たい目で彼を見上げた。
441
﹁キスとか、そういうのは、まだですから! いいですか! まだ
ですからね!﹂
﹁は、はい!﹂
お互い顔を真っ赤にしながらひたすら人混みの中を歩き続けた。
人が行き交う駅前で南波は幼馴染の声を聞いた。
﹁みーちゃーん!﹂
改札口の方から駆けてくる和奈の姿を見て、彼はそちらの方へと
同じように駆け寄った。
桜柄の真っ赤な浴衣を揺らしながらにこにこ微笑む和奈は﹁じゃ
じゃーん!﹂と両手を広げた。
﹁どうどう? 可愛いでしょ? どや?﹂
﹁ああ。よく似合ってるよ﹂
南波の言葉にえへへと嬉しそうに笑う和奈はぎゅっと彼の手を握
ると﹁ほれほれ﹂とぐいぐい引っ張った。
﹁行ってみよー!﹂
﹁はいはい。あんまりはしゃぐな、転ぶぞ﹂
﹁大丈夫だよ、もーみーちゃん心配性なんだからー﹂
この幼馴染は小さい頃から変わっていない。南波は心からそう思
った。
昔からにこにこ笑っている子供だった。無愛想な自分とは違って
人の笑顔を向ける和奈は割合、誰にでも好かれていたような気がす
る。
幼馴染という立場でなければ自分は和奈とこうして出かけること
はなかっただろうと思う。それは幸運なことだったなと南波は思っ
ている。
人混みの中を歩きながら﹁そういえばさ﹂と和奈が首を傾げた。
﹁よもぎちゃん、どっか悪いの?﹂
442
突然聞こえてきた後輩の名前に南波は少なからず動揺した。
﹁⋮⋮なんで俺に聞く?﹂
﹁んー、みーちゃんを誘う前にね、よもぎちゃんを誘ったんだけど
なんか元気なかったから﹂
その言葉に南波は顔を引きつらせ、彼女に問う。
﹁誘ったのか、春風を﹂
﹁断られちゃったけどね。みーちゃん、よもぎちゃんと仲良しだか
ら何か知ってるかなって﹂
びく、と南波はわずかに肩を跳ね上がらせてから彼は目を伏せて、
静かに答えた。
﹁俺は何も知らないよ﹂
嘘は言っていない。自分は春風よもぎについてほとんど何も知ら
ないのだから。
人混みの声にかき消されそうな程度の声量だったにも関わらず、
和奈はそっか、と小さく返すだけだった。
よもぎが体調不良を理由に今日の訓練を休んでいたことは南波も
知っていた。心配にならないことはないが、メールをするほどでも
ないだろうと結局彼は何もせずにいた。
また自分が迂闊なことを言うのではなかろうかとそう思っていな
いわけではなかった。
あ、そうだとまるで世紀の大天才になったかのように和奈は明る
い声でまた言った。
﹁みーちゃん、よもぎちゃんにお土産買って行ってあげなよ。うん、
それがいい﹂
﹁なんで﹂
﹁買って行ってあげたらきっと喜ぶよ﹂
そうだろうか。和奈に対して妙に否定的な自分がいることに気付
いて南波は頭を抱えた。
もしかしたら次いで出てくる台詞を恐れたのかもしれない。南波
はわずかにそう思った。
443
﹁私もなんか買って行くからさ﹂
誰に、などという問いはもはや彼にとっては愚問でしかなかった。
和奈は恥ずかしそうに目を伏せたまま﹁今度は三人で出かけたい
ね﹂喉元に魚の骨でも突き刺さったような感覚を南波は奥歯で噛み
殺した。
﹁来られるだろ﹂
﹁そうかな﹂
﹁ああ。京さん、よくなってるんだろ。新しい薬が合うから﹂
﹁うん﹂
そうだよね、と和奈は確認するように呟いた。
偶然の結果とはいえど、自分の立場のおかげで京はよくなってい
るんだ。喜ばしいことのはずなのに。どうしてか南波の心は今一つ
晴れやかなものではなかったのだ。
そんな自分が彼は心の底から嫌だった。
﹁あ、あのね、みーちゃん﹂
人混みの声の中に、隠すように和奈は細い声で言う。
﹁私、京くんのこと好きなんだ﹂
なんの前触れもなく、そう放たれた台詞に、彼は今すぐにでもこ
の場から逃げ出してやりたくなった。それをしなかったのは多分わ
ずかに残った彼女の幼馴染としての良心からである。
﹁ああ、俺もだよ﹂
そう誤魔化す以外、彼にできそうなことはなかった。
えと、と困ったような和奈の声の少し後に﹁あれ、和奈ー?﹂と
女子の甲高い声が南波の鼓膜を揺らした。前方に人影を捉えるなり、
﹁あ、ごめんねみーちゃん、ちょっと行ってくる﹂とするりと南波
の腕をすり抜けて彼女は恐らく友達であろうその人影に駆け寄って
行ってしまった。
まだ少しだけ幼馴染のぬくもりが残る手を見つめながら南波は深
444
々と溜め息を吐いた。ああ、分かってるさ、それくらい。ずっと見
てたんだから。
﹁和奈﹂ん? と和奈が南波に振り返る。オレンジがかった明かり
に照らされる彼女は心底綺麗だと南波は思った。
﹁悪い、急用ができた。あとは一人で回ってくれ﹂
﹁ええー﹂
﹁すまん、埋め合わせは今度するから﹂
ぶーと唇を尖らせる和奈に軽く笑いかけてからくるりと彼は背を
向けた。
﹁みーちゃぁーん!﹂
﹁んー?﹂
﹁まったねー!﹂
背中に投げ掛けられるその言葉は今は何より鋭く痛い。南波には
そんな気がした。
ベッドの上で体育座りしながらよもぎは茫然と外を眺めていた。
建物の明かりのせいで星はほとんど見えない。そもそも、天体観
測を目的にしていたわけでもないしいいかと思いながら彼女は膝の
上に頭を乗せた。
この体勢がいつも、一番落ち着く。何かがあると部屋の中でこう
するのは一種の彼女の癖でもあった。
今頃みんなどうしているのだろう、訓練に行けばよかったかなな
どとよもぎを後悔が襲っていると軽やかに来客を告げるチャイムが
鳴った。数秒してからはーいとあけびの声がそれに応答してぱたぱ
たと忙しい足音が響く。
こんな時間に誰だ。宅急便か? つい気になってこっそり聞き耳
を立てていると﹁よーもぎちゃーん! お客さーん!﹂とあけびの
大きな声が響いた。
445
私? よもぎは不思議に思いながら渋々体操座りの姿勢をやめて、
ベッドから下りて恐る恐る玄関の方へと歩いて行った。誰だろう。
ベル姉様辺りだろうかと色々予想を立てながらあけびが少しだけ腰
を引かせているのを気にしつつチェーンに繋ぎとめられてわずかに
開いたドアの隙間から外を伺った。
﹁やっぱり仮病か﹂
開口一番なんちゅー失礼な人じゃ。よもぎは少しも迷わずばたん
と扉を閉めた。
しかし相手もしつこいものでまたチャイムを押して、ついでのよ
うに扉まで叩いてくる。視線に射すくめられたあけびはふにゃふに
ゃと腰が砕けてしまったようでその場で座り込んでいる。
まったく、と少しの怒りを覚えつつまた扉を開けたよもぎは嫌々
ながら問いかけた。
﹁なんの用っすか、益海先輩﹂
そこにいたのは益海南波だった。
別に。そう答えた南波はわずかに自分から視線を逸らす。なんだ
よそれ、また扉を閉めようかと思っていると﹁お前の顔が見たくな
った﹂あまりの薄気味の悪さによもぎは顔をしかめた。
﹁なんですかその中距離恋愛中の彼氏みたいな言い分は﹂
﹁じゃあ言い方を変える。お前のムカつく面を見たくなった﹂
﹁なるほど台詞は益海先輩になりましたがお断りします﹂
そう言って扉を閉めようとするもがっと南波の足がわずかな隙間
に突っ込まれてそれを阻止する。
﹁いいから顔貸せ、春風。どうせ仮病だろ﹂
﹁どうせとか変な言いがかりつけないでください!﹂
﹁じゃあ本当に体調が悪かったのか? ん?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
言葉を濁すよもぎは顔を俯かせながら﹁自分じゃなくて、宗本先
輩とでもいればいいじゃないですか⋮⋮﹂とどこか拗ねたような物
言いをする。
446
﹁とにかく、大人しく、ついてこい﹂
﹁嫌ですってばしつこいな!﹂
﹁俺をわざわざ地元に戻らせてそれを無駄足にする気か﹂
﹁あんたが勝手に戻ってきたんでしょ!﹂
ぐるると隙間越しに睨み合う二人に﹁う、うちのよもぎちゃんに
あんまり意地悪しないで欲しいんですけど﹂といつの間にか立ち直
っていたあけびが南波を睨み付けた。
﹁⋮⋮久々だな春風の姉の方﹂
﹁その変な呼び方やめてって言ってるじゃん! 相変わらず無愛想
だね、益海くん!﹂
﹁うるさいシスコン﹂
﹁シスコンじゃないですぅ、可愛いよもぎちゃんを愛でるのは姉と
しての当然の義務ですぅ﹂
﹁それがシスコンだと俺は何度﹂
﹁ああもうやめて! あけびちゃんも益海先輩もやめて!﹂
面倒になったのか素早く扉のチェーンを開けると﹁行きますから
! 出ますから!﹂とよもぎはさっさと南波の方へ駆け寄った。
﹁よ、よもぎちゃん⋮⋮﹂と少なからずショックを受けた様子のあ
けびに﹁大丈夫だって、すぐ戻るから﹂とよもぎは笑いかけるだけ
だった。
それにううう、と唸ってからキッと南波を睨み付け、あけびは乱
暴に扉を閉めた。
﹁相変わらずだな﹂
そんな感想が南波の口からこぼれる。
中学の頃のあけびと南波は同級生だった。そんなことを思い返し
ながら﹁んで?﹂とよもぎは首を傾げた。
﹁なんかあったんですか?﹂
よもぎの言葉に南波は少しだけためらってから﹁お前の方こそ何
かあったんじゃないのか?﹂と問いかけた。
それはきっと今のことを尋ねた問いではないだろう。よもぎは決
447
まり悪そうに視線を逸らすとやがて、
﹁友達がね、いたんです。とっても苦しんでた友達が。でも春風、
その子に何もしてあげられなくて﹂
どこか遠い目をしながら﹁今は、親戚のおうちに引き取られて幸
せみたいですけど、なんか色々あって仲たがいしたままで、それが
ずっと気になってるんです﹂
へぇ、とやはりどこか無関心な言葉が南波から滑り落ちた。深く
掘り下げようとしてこないのは相変わらずこの人らしい、とよもぎ
はいっそ安心した。
﹁益海先輩こそどうしたんですか?﹂
よもぎの二度目となるその問いに、今度はためらわずに彼が答え
た。
﹁ただの失恋だ﹂
おや珍しい。よもぎはすくっと立ち上がると南波の頭に手を置い
てにやにや笑った。
﹁ほーらよしよーし南波くん泣かないでくだちゃーい﹂
﹁馬鹿にしてんのか﹂
﹁いってぇ!﹂
すっと飛んできた手刀をモロに食らって涙目になるよもぎからふ
んと南波が顔を逸らした。
﹁しっかしマジなんで春風なんですか⋮⋮﹂
﹁八つ当たりしに来た﹂
﹁ああなんか薄々そんな気はしてました﹂
うんざりしたように溜め息を吐くよもぎに﹁明日は来るか?﹂と
南波は問いかけた。
﹁おうよ、勿論っす﹂
ぐっとよもぎがサムズアップして見せると同時に遠くの方から花
火の打ち上がる大きな音が響いた。
448
花火の光が辺りを照らし、音の波が空気を揺らす。
人々の視線が全て花火に注がれるのをビルの屋上から眺めつつ彼
は小さく笑っていた。
﹁最初のおにんぎょさんはどうしようか?﹂
﹁相変わらず不愉快ですわ﹂
風になびく緑色のコートを見て、スーツ姿の聖護院麗子は顔をし
かめた。
おやぁ? 彼は不気味に首を傾けた。
﹁僕の遊びにケチつけるつもり?﹂
﹁いいえ。γ型の臨床実験さえ成功させてくれればあなたの性癖を
どうこう言うつもりはわたくしにもうわばみにもなくってよ?﹂
また花火が打ち上がる。赤い光が麗子の顔を照らす。うーんと彼
は唸った。
﹁やっぱり、違うんだよなぁ。君は確かに綺麗だけれどどうも違う。
何かが違う﹂
ねぇ? 彼が不気味に笑った。
﹁僕のおにんぎょさんになってみない?﹂
﹁お断りですわ﹂
かちゃっと彼の額に銃口を押し当てながら麗子は不敵に笑った。
﹁余計なことはしないでくださいまし。わたくしをあなたのような
下等な者のおもちゃにしようだなんて考えないでくださる?﹂
﹁はは、分かったよ﹂
降参、と両手をあげる彼からゆっくりと麗子は銃口を彼から離し
た。
やれやれと首を左右に振ってから﹁心配しなくても﹂と彼は身を
乗り出した。
﹁これだけ人がいるんだ。ちょうどいいおもちゃは見つかるよ﹂
﹁⋮⋮どうしてうわばみもあなたのような変態にこの実験を任せる
のかしら﹂
449
ぼそりと悩ましそうにそう言ってからまぁいいですわと髪を振り
払った麗子はそのままかつかつとハイヒールの音を花火に負けない
ほど甲高く鳴らしながら階段へ続く扉に手を掛けた。その手にはわ
たあめの袋が握られている。
﹁甘いものが好きなの?﹂
彼の言葉に﹁これはお留守番してるいい子へのお土産ですわ﹂と
だけ答えると麗子は改めて扉を開き、スカートの裾を持ち上げて会
釈した。
﹁それではごめんあそばせ。活躍を期待していますわ、﹃キリギリ
ス﹄﹂
鉄製の扉がばたんと閉じた。
眼鏡のフレームを押さえながら彼はぽつんと﹁自分ももうすでに
十分﹃うわばみのお人形﹄なのにね﹂とだけこぼした。
450
第二十二話﹁魔女は魔女なりに苦悩しているようです﹂
目の前に広げられた資料は﹃蓮見和歌﹄としては懐かしいもので
あったが﹃ベルガモット﹄としては煩わしいものだった。
過去に自分が勤めていた職場の職員資料。自分のもの以外を手に
入れるのは今のベルにとっては非常に安易だった。
否、手に入れるという言い方は少し違うのかもしれない。自分の
過去を処分する上で、持ってきていた当時の資料を引っ張り出すだ
けの作業だった。
ずっと彼女に心に引っかかっていることがある。
︱︱あら、うわばみの知り合いというのが誰かと思えば。久しぶ
りですわね、蓮見。
あの場に居たトレイターは確かに自分にそう言った。
返した言葉の通り、ベルにはあの女に心当たりはなかった。当然、
あのときの彼女と自分が過去に出会っているのであろう彼女の姿は
異なる可能性が高い。現にうわばみはそうだった。
無駄な足掻きであろうことは分かっていた。それでもベルは目の
前の資料から視線を外すことができなかった。
彼女がこの場にやって来たときにはまだ湯気を吐き出していた白
磁のカップは冷たく冷めきっていた。
冷房の風が湯気をさらって行ってしまった。紅茶があるのにほと
んど口をつけずにそのまま置いておくなど自分らしくもないとベル
は自分で自分を嘲笑った。
普段は誰よりも周りを見ているのに、時々、本当に周りが見えな
くなるのが君の悪い癖だ。
451
誰かにそう言われたことをふと思い出して、ベルは不快感から顔
を歪めた。
言葉の意味が不快だったわけではない。それを発している相手と
それを受け取る存在が不快だったのだ。
本当はどんな顔をした人だったろうか。もう彼女にはそれをおぼ
ろげに思い出すことしか出来なかった。
楽しかったことも、愛おしいと思ったことさえも、今となっては、
ただただ不愉快で余計な記憶でしかない。だからきっと脳内でそれ
を排除しようとしているのだろう。ベルは頭の中でそう自分に言い
聞かせていた。
それが事実であろうがなかろうが、彼女にとってはどうでもいい
ことだ。ただそう思い込むことだけが必要だった。
そう思っている間でなら自分は﹃ベルガモット﹄でいられるのだ。
蓮見和歌の記憶を許した瞬間、心底弱い自分はベルガモットでは
いられない。
過去を許さない。それは分かっているうえで、彼女が選択するし
かなかった無意味は罪滅ぼしだった。自分の手で自分を殺す。
冷めきった紅茶を彼女は一気に仰いだ。わずかな甘みと苦みが口
の中で広がる。
見たくないものに蓋をしているだけ。そんなことは自分が一番分
かっている。
それでも彼女は立ち止まるわけにはいかなかった。立ち止まり、
自分の過去をベルガモットとして肯定できない以上はこうして、無
意味な罪滅ぼしを続けるしかなかった。
﹁にが⋮⋮﹂
口から思わずついて出そうになった言葉を押し殺すために、彼女
はただそれだけの事実を外に吐き出すのに全力を傾けた。
ただあの女が誰なのか。それだけを知ればいい。
今ここで自分が思い悩んだところで兄が返ってくるわけでも、う
わばみが元に戻るわけでもないのだ。そう言い聞かせる一方でまそ
452
んなことを考えている自分に彼女はうんざりした。
聖護院麗子は以前はこの名前が自分にそぐわないものだと、常々
思っていた。
麗しい子と書いて麗子。両親が与えた名前はどこか自分に枷を与
えている。名前負けだ。きっと周りもそう嘲笑する。
だから前の自分は名を聞かれても苗字しか答えなかった。それで
不便しなかったのだ。
そうやって自分が名前負けているということを周囲に悟られない
ように過ごしてきたある日、彼女はいつも通り苗字を名乗った相手
にこう言われてしまった。
﹃苗字じゃないさ。名前の方を教えてくれ﹄
そう言われ、彼女は無意味に波風を立てる必要もないと渋々下の
名を名乗った。
﹃いい名前じゃないか﹄
たったその一言だけで、自分が救われるような気持ちになるとは
思ってもみずにであった。
叶わぬ恋だと分かっていた。それでも彼女は彼を追い、想うこと
をやめられなかった。
手に入れたいとそう願うようになった。
そしてその日、麗子は彼からその言葉を聞いた。
﹃君は私の味方でいてくれるかい?﹄
涙が出るほど嬉しかった。
選ばれたのはあの女じゃないのだと。
自分はあの女に勝ったのだと。
麗子は自分の中に湧き上がってくるどす黒い何かを隠そうともせ
ずに、ただ落ち着いた声音で答えた。
﹃勿論ですわ﹄
453
これは自分にとって幸せなことなのだと。信じて疑っていない。
それからの麗子はまるで人が変わったかのようだった。
湧き上がる感情のまま、生き続けた。臆することも、苦しむこと
もなく。
やっぱり幸せなことだと思う。
自分の膝の上に頭を乗せてすやすやと穏やかな寝息を立てるウル
フを撫でながら彼女はそれを自分の中で再確認した。
子供らしいあどけない寝顔のまま規則正しく息をする。そんな彼
女の口元に駄菓子の残りかすがついているのを見つけて麗子はそれ
を指ですくいあげるとぺろりと舐めた。
妹とも、娘ともつかぬ彼女を麗子は心のどこかで愛おしく思って
いた。
最初は頼まれたから面倒を見ていただけだったものの、いつの間
にかその気持ちは母性に近しいものになってしまったのかもしれな
いと思っている。
情を抱くなとは一言も言われていない。だったらいいだろうと麗
子は思っている。
自分より弱い者を見て安心したいという弱者の理屈だということ
に彼女は少しも気付いてはいなかった。
﹁魔女さまが聖女ごっこ?﹂
頭上から聞こえてきた不愉快な声に麗子は眉を寄せた。
それからその不快な声の持ち主を確認するまでもなく、どこから
か取り出した拳銃を相手に突きつけた。
﹁お黙りなさいな、キリギリス﹂
麗子の視界の端に映り込んでいた緑色のコートがわずかに揺れる。
キリギリスが眼鏡の奥の目を細めて、わずかに笑う。
﹁そんなに怒らないでおくれよ﹂
﹁分からない奴ですわね、ウザいと申してますの﹂
454
麗子の鋭い眼光が彼を捉えた。やれやれとキリギリスは肩をすく
めた。
﹁そんなに僕が嫌い?﹂
﹁それより、γはどうしたんですの?﹂
あくまで彼の質問には答えずに自分のペースで話を進める麗子に
キリギリスは苦笑するばかりだった。
﹁少し、君にも手伝って欲しくてね﹂
﹁うわばみはなんと?﹂
﹁君の返答次第だと﹂
麗子は溜め息を吐いた。あの人はそうやっていつも大事なことを
人に任せてしまう。
信頼されてはいるんだろうが。なんともいえない気持ちで奥歯を
噛み締めながら﹁お手伝いしてあげても構わなくってよ﹂とウルフ
の頭をわずかに持ち上げた。
素早くその頭の下にクッションを置いてやるとその枕元に小さな
お菓子の缶を一つ置いてやった。
一連の流れを眺めを見つめながらキリギリスがからかうように告
げる。
﹁すっかり母親だねぇ﹂
その言葉を当たり前のように麗子は無視した。
黒塗りの銃口が弾を吐いた。
動き回っていた的の動きがぴたりと止まる。その真ん中には綺麗
に穴が空いていた。
煙を上げる銃口を見つめながらその銃の持ち主たるマリアは首を
傾げる。
何かが微妙に違う。感じている本人ですら言葉にするのは難しい
ような微妙な違いにマリア自身が戸惑っていた。
455
そっと瞳を閉じたマリアは鈍く輝く銀色の銃を取り出した。それ
を両手で構えてから彼女は引き金を引いた。
またしても中央に空いた穴を見つめながらそれでもマリアは満足
そうな顔をしなかった。
目を伏せながら二丁の拳銃を丁寧に片付けてから彼女はようやく
訓練場を後にした。
その足はどこか重い。本当に調子が悪いのはなんなのかよく分か
らなかったからだ。
くそったれ。彼女が日本語で呟いたつもりの言葉はいつの間にか
母国の言葉に変換されて耳に届いた。
そんな日だってある。そういえば納得できないわけでもなかった
がそれで納得するにはあまりにも酷いありさまだとマリアは思って
いた。
焦ってロクなことはない。廊下を突き進みながら彼女はいつも通
り、休憩室の扉を開いた。
﹁ああああもう無理っす! ぜってぇおわんねぇ!﹂
﹁落ち着け春風、まだだ、まだ二日ある﹂
﹁あんたこそ落ち着いちゃ駄目なんですよ益海先輩!﹂
がぁっと吠えるよもぎの声を聞いてマリアは入口できょとんと固
まった。
﹁あ、マリアさん⋮⋮﹂
ととっと自分の元に駆け寄ってくる梨花に﹁どういう状況だよ﹂
と彼女は苦笑した。
梨花は気まずそうに視線を逸らすと﹁その、みんな宿題が﹂
マリアには心当たりがある。高校時代の夏休みの終了間際、長期
の休みの前に出された大量の宿題に対して友人たちが悲鳴を上げて
いたことがある。それが冬と春にも同じようなことが起こったよう
に彼女は記憶している。どこか一ヵ所に集まって大騒ぎしながら終
わらせたのも一度や二度のことではなかった。
懐かしさすら感じながら呆れたように彼女が言う。
456
﹁溜めてたのか、お前ら﹂
﹁いや、なんかすっかり忘れてて⋮⋮鉢峰と梨花先輩はまだマシだ
ったんですけど俺らは重症で⋮⋮﹂
ワークにシャーペンを走らせながら険しい表情を浮かべる太李に
マリアは頭を抱える。
仕方のないことだとは思うが、かといって学校側にヒーロー活動
が忙しくて宿題を忘れましたなどと言い訳できるはずもない。
それから不意に、辺りを見て﹁鈴とベルは?﹂と彼女は首を傾げ
た。それに答えたのは巳令だった。
﹁鈴丸さんは用事があるから大人しく宿題してろと。ベルさんは今
日はまだ﹂
﹁⋮⋮あいつら二人揃ってあたしに押し付ける気かよ﹂
わしゃわしゃと髪を掻き毟りながら、小さく笑ったマリアは﹁う
ーし﹂とぱきぱき首を鳴らす。
﹁しゃあねぇなぁ。あたしが手ぇ貸してやる。分かんないとこあっ
たら持って来い﹂
にっと笑ったマリアにおお、と歓声が上がった。
じゃあじゃあ、と一番にマリアに歩み寄ったのはよもぎだった。
﹁これ、これよくわかんなくって﹂
﹁ん?﹂
彼女の手の中にあるプリントを覗き込むとところどころ穴の空い
た年表が印刷されている。
じょうのうち
その宿題の出し方にマリアは心当たりがあった。苦笑しながら問
う。
﹁これ、作ったの城之内だろ?﹂
﹁え、あ、はい。マリアさん、城之内先生のこと知ってるんですか
?﹂
﹁知ってるも何も二年んときの担任。あいっかわらずわかりづれー
問題出すよなーそいつ﹂
けらけら笑いながらプリントを眺めるマリアに﹁あ、そっか、マ
457
リアさんそういえばうちの高校の卒業生でしたっけ?﹂と太李。
﹁まぁな﹂
﹁なんか、マリアさんが高校生ってあんまり想像できないですね﹂
﹁なんだよそれ﹂
巳令の言葉を笑い飛ばす。
﹁別にお前らと同じような感じだったぜ。ダチとつるんで、おんな
じとこに集まって騒ぐんだ﹂
懐かしいな、とマリアは碧眼を細めた。
その優しそうな横顔に﹁なんかマリアさんって﹂と太李は特に他
意もなく問いかけた。
﹁ほんと、友達の話するとき楽しそうですよね﹂
﹁そうか? ま、一応大事なダチだしな。あ、これお前らもそうだ
かんな﹂
とそこまで言い切ってから急に恥ずかしくなったのかよもぎにプ
リントを押し返しながら彼女は慌てたように首を左右に振った。
﹁いやいや! あたしの話はどうでもいいんだって! お前らもあ
んな感じで必死になれ!﹂
そう言った彼女が指差したのは数学のプリントを目の前にして唸
りながら頭を抱える南波だった。
麗子は自分のいる空間の不快さに思わず顔をしかめていた。
ちらりと視線を投げた先には色とりどりのドレスを着せられ、じ
ゃらじゃらと装飾の付けられた女の﹃人形﹄たちだった。
しかし、そのうちの一体は肌はただれ、ところどころ骨が露出し、
普通なら我慢ならないほど、ただ永遠と不快にしか鼻を刺激しない
腐臭や床に散らばる破片や髪の毛がそれがただの﹃人形﹄ではない
ことは誰の目から見ても明らかだった。
まして、ある程度、目の前にいるキリギリスのことが分かってい
458
る麗子には尚更だった。
彼はこれらを見ては美しいと称賛するのだが麗子にはどうもそう
は思えなかった。うわばみもきっと同じ答えを返すだろうと踏んで
いる。
どうでもいいか、そう思いつつ麗子はそのどうでもいいことに関
して言葉を発していた。
﹁悪趣味ですわ﹂
ぽつんと宙に放たれた麗子の言葉をキリギリスは聞き逃してはい
なかった。
踵を返し、くるっと振り返った彼は爛々とした瞳を麗子に向けて
今にも歌でも歌い出しそうなほど楽しそうな声で話し出した。
﹁この美学が理解できないなんて、だから人間に価値はないのさ﹂
﹁あなただって人間じゃありませんの﹂
﹁まぁね。でも人形の素晴らしさが分からない魔女たちよりは遥か
にマシな人間さ﹂
そう続けながら﹃人形﹄に唇を落とす彼にげっと麗子は身を引い
た。
彼にとって生きる者を﹃殺す﹄という行為は単に﹃人形を作って
いるだけ﹄に過ぎない。彼にとっては裁縫をするのと殺人は同義な
のだ。
死体そのものが好きなわけではない。あくまで彼が好きなのは﹃
人形﹄なのだ。その違いは麗子にも全く分からないがとにかくそう
いうことらしい。
生きることを放棄させられて、﹃人形﹄と化したそれらだけに彼
ははじめて愛にも近しい、燃え上がるような感情を覚えるのだとい
う。
全く理解できないことでもある。理解できなくても困ることはな
いだろうと思っている。
これ以上この場にいることも、自分の理解の範疇を越えた価値観
459
を永遠と聞かされることもうんざりだった麗子は﹁それで﹂と無理
やり話を打ち切った。
﹁どうなってるんですの、γの方は﹂
言わせまいとする麗子の意思が伝わったのかキリギリスは不満げ
にしつつもその瞳をゆっくり後ろへ向けた。
﹁本当は人間になんて興味ないんだけどね、うわばみが言うから仕
方なくだよ﹂
﹁適応者ですの?﹂
﹁抜かりはない﹂
二人の視線の先には、腰を抜かして涙目で震えている女がいた。
﹁まぁまぁお可哀想に﹂
上っ面だけ取り繕った、実にわざとらしい麗子の言葉が狭い部屋
に響く。
麗子が手を伸ばせばぴくっと女が体を跳ね上がらせた。逃げ出し
たそうに手を、足を、伸ばそうと試みているのは麗子にも分かった
がそれを手助けしてやることは一切せずに魅力的な笑顔を浮かべた
まま、また言葉を続けた。
﹁大丈夫、すぐに恐怖などなくして差し上げますわ﹂
麗子の握り拳が女の腹部に直撃する。
小さく呻いてから、女は前のめりに倒れ込んだ。それを受け止め
て、白いカチューシャを取り出した彼女はそれを女の頭の上に置い
た。
女の姿は変わっていく。淡い青色のドレスに美しい黒髪が映えて
いる。
﹁ほんとにうまくいくの?﹂
﹁わたくしを疑うことはすなわち、うわばみを疑うこと﹂
いつの間にか自分も白いハイヒールを履いた麗子の姿も変わって
いき、やがて魔女になった。
その手に握った拳銃を迷いなくキリギリスに向けながら彼女はに
460
っこりと笑う。
﹁もし今度無駄な口を叩いたらそこの不快なお人形のお仲間にして
さしあげますわ﹂
﹁それは勘弁して欲しいもんだね﹂
そっと銃口を自分から外しながらキリギリスは傍らに置いていた
シルクハットをぽんと被った。
もう、そこに居たのはコート姿の男などではない。先ほどのコー
トとほとんど同じ色の九尾服に滑稽なほどしっかりと蝶ネクタイを
つけた丸メガネの男だった。白い手袋をはめ直すその姿を見ながら
紳士というよりは路上でパフォーマンスでも始めそうだと麗子はお
かしくなった。
くるくるとキリギリスの手元のステッキが弧を描く。上の方を見
上げながら﹁さあ﹂と麗子は両手を広げた。
﹁はじめましょうか﹂
どうか、見ていてくださいまし、うわばみ。心の中で麗子はそう
呟いた。
変身済みの南波の声がどこか不満げに響く。
﹁本当にここなのか?﹂
金髪を鬱陶しそうに払う南波に通信機越しのベルの声が答えた。
﹁確かにここに反応が出てるのだけれど﹂
﹁別にベル姉様を疑ってるわけじゃないんですけど、ねぇ?﹂
振り返ってくるよもぎに太李は小さく頷いた。
ディスペアが出現する合図であるサイレンのせいで宿題の中止を
余儀なくされた彼らがいたのはすでに廃れてしまった廃病院の前だ
った。もはや清潔感を失い、くすんだ白の壁には蔦が絡まりつき、
薄汚れた外見は果たして昔本当に病院として機能していたのかどう
かを疑ってしまうような見た目だった。
461
しかし、空は暗い。
頭の後ろで手を回しながらマリアが唇を尖らせた。
﹁そもそも、ディスペアって人が多いとこに出なきゃ意味ねーんだ
ろ? これじゃ、多いどころかゴキブリくらいしかいそうにねぇよ﹂
﹁でもセンサーはここを差してるし、こういうときに限って柚樹葉
さんはいないし﹂
ぶつぶつ一人で言いながらベルは﹁少し見て回ってくれないかし
ら﹂了解です、と一番に返事をしたのは巳令だった。
一歩踏み出したマリアがわずかに顔をしかめる。
﹁マリアさん?﹂
﹁⋮⋮待ち伏せたぁ、穏やかじゃねぇな﹂
梨花の声を聞きつつ、目を細めたマリアがホルダーに手を伸ばす
と﹁そうでしょうか?﹂と本当に純粋に疑問を含んだような声がど
こからか上がる。
声の主は、すぐさま、全員の前に現れた。
﹁ご機嫌よう、フェエーリコ・クインテットとその愉快なお仲間さ
ん﹂
﹁トレイター⋮⋮!﹂
ようやく見えた麗子の姿に全員が身構えた。
はぁ、と麗子は溜め息を吐いた。
﹁嫌ですわ、相変わらずお馬鹿丸出しの仲良し集団で。吐き気がし
ますわ﹂
﹁そういうお前だって仲良く仲間引きつれてるだろ﹂
太李が麗子を睨みながら後ろにいる人影を差してそう返せば、彼
女は甲高い笑い声をあげた。
﹁これだからお馬鹿さんは困りますの。この高貴なわたくしをこん
な使い捨てのディスペアと変態と一緒にしないでくださる?﹂
﹁変態って、酷いなぁ。魔女は﹂
そう言ってくねくね体をくねらせるのはキリギリスだった。
彼は対峙している全員の顔を見渡してから﹁そことそこ﹂と太李
462
と南波を順に指差した。
﹁そこは元々、男なんだっけ? ﹃人形﹄にしたら元に戻るのかな
?﹂
寒気を感じて、太李はわずかに身を引いた。南波の方も愉快そう
な顔はしなかった。
﹁知りませんわ、そんなこと﹂
冷たく麗子が返す。
﹁そんなことより﹂
梨花は後ろに控えている淡い青のドレスを着た女を見つめながら
﹁ディスペアって、どういうこと?﹂と少しだけ震えた声で問いか
ける。女の持っていた剣がわずかに動く。
ぱちくり。わざとらしく瞬きを繰り返してから麗子は﹁言葉の通
りですわ﹂
﹁言葉の通りって、だって、その、今まで、あんなにはっきり人の
形してたディスペアなんて﹂
﹁γ型﹂
忌々しげなベルの声が通信機を越えて告げる。
﹁完成してたのね﹂
﹁あら蓮見、聞いてたの﹂
一瞬だけ不愉快そうに眉を寄せてから﹁今日は試験ですの。ぜひ
協力してくださる?﹂
﹁試験だ?﹂
﹁ああ、心配しないで﹂
目を鋭くさせるマリアに麗子は心底楽しそうに微笑みかけた。
﹁あなたはわたくしが相手をして差し上げますわ。光栄に思ってく
ださいまし﹂
そもそも麗子の変身は身体能力そのものはほとんど常人より上程
度のものだった。それこそ生身のマリアでもやり合える程度のもの
だ。
だからこそ、それを補助するために彼女の武器は銃なのだ。そし
463
て今回の目的はあくまでフェエーリコ・クインテットとγ型の衝突
であってこの女に邪魔されるのは面白くない。
何より、身体能力的な差が歴然とついてしまっているキリギリス
とやらせるより自分とやった方が﹃面白い﹄だろうと麗子は思って
いた。
自分の間合いに入り込んでくる麗子に引き金を引いてからマリア
は舌打ちしつつ後退した。
両足で地面を踏みしめながらマリアの銃が先に火を吹いた。それ
をわずかに身をずらすだけでかわした麗子は自分の銃を彼女のもの
とぶつけ合わせた。
鈍い音を立てながら銃と銃がぶつかり合う。ズレた照準を先に合
わせたのは麗子だった。引き金を引く。それを寸前でかわしてから
今度はマリアが麗子に銃口を向けた。
しかし同時に、麗子の銃口もまたマリアに向いていた。お互い硬
直する。
﹁⋮⋮ウザいですわ﹂
マリアの碧眼を睨み返しながら麗子はぽつんと呟いた。
﹁あんな女の部下だってだけで殺してやりたいくらい不快なのに、
その上、自分の身を危険に晒してまでお仲間ごっこだなんておかし
すぎてわたくしがお馬鹿になりそう﹂
﹁そりゃよかったな﹂
ぎりっと麗子が奥歯を噛み締めた。
﹁なぜ、あの女ですの﹂
﹁あ?﹂
それ以上、麗子は何も言わずに、空いていた左手を空中でぱっと
開いた。
紫色の光を帯びて、やがてそれが右手に握られているものと同じ
拳銃になった。右手を突き出して一度引き金を引いてからさらに麗
子は軽く回転しながらもう片方の引き金も引いた。当てるつもりは
464
ない、距離を開けるためだけに撃ち込まれた弾だった。
その考えの通りに、麗子の足元に銃弾を撃ち込んでから間合いを
取って、手に握っていた拳銃を放り投げた。
新しく銃を持ちかえるとそのまま麗子の向かって向けられた銃口
が火を吹くのはすぐだった。それを高く飛び上がってかわした麗子
は空中で引き金を引き続けた。
迷いも疑いもなく撃ちこまれていく銃弾をマリアはただ後退しな
がらギリギリでかわすだけだった。
地面に着地した麗子がそのまま地を蹴ってまた飛び上がった。
そうしてマリアとの距離を詰めながら首を傾げた。
﹁どうしたんですの? 前とは比べ物になりませんわ﹂
﹁ちょっとしたスランプなんだよ、ほっとけ!﹂
また銃声が上がった。
ゆらりゆらりと左右に揺れるγ型を見ながら太李は底知れぬ違和
感を覚えていた。
今までとはまるで違う。直感でしかないものの自分たちが今まで
戦ってきていたはずの﹃ディスペア﹄という﹃機械﹄とは何かが違
うのだ。人の形をしているということ以上の違和感が。
﹁シンデレラと私でディスペアを叩きます。三人はトレイターの方
を﹂
それだけ言ってγ型の方へと駆けて行く巳令の後ろ姿にはたと我
に返った太李が続く。
見送ってから南波はよもぎの方にちらと視線を向けて﹁いばら、
俺と親指の背中は任せた﹂にっと笑ったよもぎが頷いた。
﹁どーんっと任されました﹂
それだけの返答を聞くや、南波はキリギリスに向かって一気に踏
み込んだ。
465
握られた三叉槍が振り上げられる。身をよじってよけるキリギリ
スに対して彼はさらにそれを振り下ろした。やれやれと言いたげに
その先端を睨んでから彼は手に持っていたステッキを放り投げると
緑色の光と共に現れた剣でそれを受け止めた。
槍ごと薙ぎ払いキリギリスの足が南波の腹部に直撃する。揺らぐ
彼の体にさらに追い打ちをかけようとキリギリスの回し蹴りが次い
で、同じ場所に喰らわせられた。
ぐっと顔を歪めて、南波が後退する。その彼に代わるように梨花
の斧が地面を抉るように振り下ろされた。
しかし、これをもかわしたキリギリスはよりにもよってその斧の
上に乗りながら歪な笑みを浮かべるばかりだった。斧を蹴り付け、
飛び上がった彼は急降下しながらキックをかましてきた。
両手でなんとかしのいだ梨花ではあったものの彼女の表情は決し
て明るくはない。わずかに後ずさりながら負けじと足を振り上げた。
キリギリスはその足を掴んでぽんと押し返した。
梨花がバランスを崩すと同時に今までタイミングを伺っていたよ
もぎの矢がキリギリスの頬をかすめる。自分の頬から流れる血を拭
い取ってから彼は涼しい表情のままで頭にかぶっていたシルクハッ
トをよもぎに向かって投げつけるとゆっくりと立ち上がっていた南
波に足を振り下ろした。
円を描きながらまるではじめから決められていた軌道をただ滑っ
て行くだけのように、はたまた、まるで吸い寄せられるようによも
ぎの手元に飛んで行った。
普通ならただ当たって落ちるだけのはずがよもぎは手元にやって
きた衝撃に耐え切れず、弓を手放した。そのまま弓は放物線を描き
つつ地面に落ちて、シルクハットは彼の元へ戻って行った。
自分に向かってきていた梨花の腕を掴み、南波の方へと投げ飛ば
したキリギリスがよもぎとの間合いを詰める。弓を取りに戻ってい
る暇はよもぎには与えられていなかった。黒い髪を揺らし、身を低
466
くしたよもぎが握り拳を叩き込む。
もっともそれは、直前で受け止められてキリギリスに届くことは
なかった。
ぐっとよもぎを引き寄せてからキリギリスは彼女の体を自分に向
かってきていた梨花に放り投げた。
﹁おわ!?﹂
﹁きゃ!﹂
二人が重なり合って、地面に倒れ伏す。
﹁さあって、次はどうする?﹂
心底楽しそうなキリギリスに南波は不快感すら覚えていた。
一方で、間合いを保っていた巳令は相手が何もしてこないことに
眉を寄せている最中だった。
ゆらめくだけで、相手の方からは動きがない。こちらの攻撃こそ
受け流してはいるもののだ。今この場には不適応者はいないのだか
ら時間稼ぎなど必要のないことのはずなのに。
なんにせよ、油断ならないことだけは分かる。柄に手を掛けなが
ら一歩踏み込んだ巳令は鞘から刀を抜こうとして顔を強張らせた。
がちゃがちゃと音がするばかりで一向に刃は鞘から姿を見せない。
慌てて腰に差した刀を見れば鞘から鍔にかけての箇所が透明な何か
で固定されている。
凍ってる。巳令にはすぐに分かった。目の前のディスペアの力で
あろうこともだ。
こんなときに動き出した相手から自分目がけて振り下ろされる剣
を鞘がついたままの刀で受け止める。鈍い音と共に氷はわずかに飛
び散るだけで凍結が溶ける様子はない。凍ったままの刀でγ型を押
467
し返すと相手は後退しながらもするりと伸ばした足で巳令を蹴り飛
ばした。
﹁あぐ⋮⋮﹂
呻きつつしゃがみ込む巳令に代わって太李がγ型との距離を詰め
る。
γ型が足を振り上げる。それを両腕で受け止めてからその場にレ
イピアを呼び出した太李はそれを構える。
そのときだった。キリギリスの声が響く。
﹁α、βの両型とγ型の決定的な違いが分かるかい?﹂
﹁え?﹂
ゆらゆらと自分を見つめる女からは視線を逸らさずに太李はキリ
ギリスの声に耳を傾けた。
﹁起動の方法が違ってね。αとβはボタン一つでどうにかなるけど
γはそういうわけにもいかない﹂
﹁なに、なに言ってるの?﹂
突然、通信機越しからでも分かるほど狼狽したベルの声が響く。
あれ、とキリギリスはおかしそうに笑った。
﹁驚いた、蓮見ですら分かっていなかったんだ。いや、薄々は気付
いてたのかな?﹂
しかしベルの返答は待たずにキリギリスは言葉を続けた。
﹁γは適応者の体に、もっといえば精神に寄生してはじめて起動す
る﹂
﹁⋮⋮え?﹂
目を見開きながら太李は目の前の女を見た。それで大体のことは
分かったらしいとキリギリスも気付いたらしく﹁そうとも﹂と笑っ
た。
﹁シンデレラ、γを倒すというのは僕らに利用された適応者を﹃殺
す﹄ことなんだよ。正確に言えば強化された肉体的には死ぬことは
468
まずない。でも、寄生された精神はγもろとも死ぬ﹂
はったりかもしれないことなど太李にも分かっていた。
だが万一本当のことだったとしたら? 彼にはとてもレイピアを
突き刺す気にはなれなかった。
敵であり、同時にフェエーリコ・クインテットにとっては守らな
ければならない存在なのだ。その矛盾した存在がγ型。
硬直する太李の間合いに一気に入り込んだγ型が剣を振り下ろし
た。慌てて横にそれてかわすも剣先は太李の腕をかすめ、血を帯び
た。
腕を押さえながら後退した彼はレイピアを握りしめながらキリギ
リスを睨み付けた。ただそれだけが彼に残された抵抗だった。
﹁何もできないのは悔しいか?﹂
﹁⋮⋮なんとかするさ﹂
﹁どうやって?﹂
﹁どうやっても!﹂
柄を強く握りしめながら太李は声を張る。
﹁必ずγは倒して適応者は救う﹂
﹁そんな都合のいいことはできないんだよ!﹂
﹁そうかな?﹂
彼にとって救世主ともいえる声が通信機から響いた。
﹁なるほど、大方は予想通りだったね﹂
そのまま、そう続く声。一体いつぶりだろう。一番最初に声をあ
げたのは巳令だった。
﹁柚樹葉!﹂
﹁やあ、随分無様じゃないか、全員揃っておきながら。君たちがそ
こまで弱かっただなんてそれは予想外だ﹂
ほう、とキリギリスが楽しそうに告げる。
469
﹁九条柚樹葉、確か君がチェンジャーシステムの開発者だとかどう
とか。直接会えなくて残念だよ﹂
﹁私は会えなくてよかったと心底安心しているところだがね﹂
少しも冷静さを失っていない柚樹葉の声は尚も続ける。
﹁しかし、君らも妙なことにばっかり頭が回るんだね。彼らがお人
よし馬鹿集団だって知っているからこその精神寄生による起動、君
らがシンデレラを連れて行ったとき、ベルガモットが送って来たデ
ータを見てもしやとは思っていたけど﹂
だとしたらそれはうわばみにはじめて自分たちが遭遇する少し前
だろうと巳令は思った。あのとき操作していたのは自分がデータを
見るためだけではなかったらしい。
﹁⋮⋮へぇ?﹂
キリギリスが両手を広げて笑う。
﹁だがどうしようもない。君の造ったシステムではどうすることも
ね。このまま殺されるか、相手を殺すかなんだよ﹂
﹁ははっ﹂
芝居がかった口調に柚樹葉が笑い声をあげた。心底おかしい。そ
う言いたげな声だった。
﹁何がおかしい?﹂
キリギリスの低い声に怯みもせずに柚樹葉の笑い声はまだ続く。
ひとしきり笑ってから、ふんと彼女は笑い飛ばした。
﹁私を誰だと思ってるの?﹂
一拍も置かず、柚樹葉は当たり前の事実を告げた。
﹁九条柚樹葉だよ?﹂
その言葉を待っていたかのように激しいエンジン音が轟いた。
怒り狂った猛獣のような鳴き声をあげながらキリギリスの視界に
黒いバイクが滑り込んできた。ヘルメットをかぶった運転手は腰か
ら拳銃を取り出すとそのまま数発を彼の足元に撃ち込んだ。
キリギリスがそれを飛び上がってかわす。同時に摩擦音を立てな
がら動きを止めたバイクから運転手が飛び降りた。その手が荷物入
470
れを開くなり﹁ぷはぁ!﹂と形式的に空気を吸い込む声が聞こえる。
﹁つ、ついにスペーメバイクデビューしちゃったですワルなのです
ワルワルなのですワルウサギになっちまったですうへへへへぇ﹂
﹁うっせぇぞお前﹂
毛を震わせ、興奮を示すスペーメに一喝してから運転手は小さな
箱を取り出すとぽんぽんと手の中で弄んだ後にそれをクインテット
の手元に放り投げた。寸分の狂いもなく、決められていたかのよう
に太李の目の前に落ちていく箱を見ながら運転手はそこでようやく
ヘルメットを脱いだ。
﹁さっすが鈴丸さん、ナイスコントロール﹂
﹁自画自賛とかイタい奴なのです﹂
﹁仕方ないだろ褒めてくれる奴がいないんだから﹂
そこに立っていたのは蒲生鈴丸その人だった。
耳につけていた通信機に手を当てながら﹁おい柚樹葉﹂と鈴丸は
銃を構えながらにっと笑った。
﹁デリバリー料金は普段の報酬とは別だからな?﹂
﹁はいはい好きなだけ泡夢に請求しなよ。君にデリバリーの才能ま
であったなんてとんだ誤算だよ﹂
呆れたような柚樹葉の声をどけるようにベルの声が響く。
﹁⋮⋮鈴丸、あなた﹂
﹁しゃあねぇだろ、柚樹葉が万が一のためにいてくれって言うんだ
から﹂
それで今日いなかったのか、とクインテットは妙に納得した。
だがなんのため。それを誰かが問うより早く、鈴丸の頭の上に登
ったスペーメが声を張り上げた。
﹁さあシンデレラ! 耳の穴ぁかっぽじってよおうく聞くです! さっさと箱を開けて、中に入ってる指輪を左手薬指につけるがよい
です! あとは柚樹葉がなんとかするです!﹂
その声を聞いて、太李は目の前に転がっていた箱に手を伸ばす。
中には銀色に輝く指輪が一つだけ丁寧にしまわれている。水色の
471
大きな石がついた指輪だった。
今はもう、スペーメの言葉と柚樹葉を信じるしかなかった。言わ
れた通り、手袋の上からではあるものの太李が指輪をはめる。
﹁柚樹葉! いっちょかましてやるです!﹂
﹁うっせ、お前が仕切るな!﹂
怒鳴り返す割に、通信機越しの柚樹葉の声はどこか楽しげだ。
﹁さあ、悪役に目にもの見せてやれ、シンデレラ﹂
そんな柚樹葉の言葉のあと、突然、太李が新しくはめていた方の
指輪が輝きだした。
閃光にその場にいた全員が目を瞑り、視界を閉ざす。
そうして開けた視界の中にいたのは元のシンデレラではない。
﹁まず君らには謝罪をしよう。チェンジャーの強化が遅れてしまっ
た。追加情報の対策に時間を使いすぎたのがまずかったね、おかげ
で残念ながらシンデレラの分しか用意できなかったんだ﹂
そんな柚樹葉の声に意識を向ける間もなく、太李は自分の足元へ
の凄まじい違和感を覚えた。
足が涼しい。風が酷くよく通る。恐る恐る手を伸ばした太李は情
けない声をあげた。
﹁うお!?﹂
自分が身にまとっていた衣装はいつもの、あのマント付きの衣装
ではなかった。リボンやフリルといった派手な装飾こそないものの
左右に大きく広がった白のミニスカートのドレスだったのだ。
肩口から手首にかけて伸びたレースの袖を見つめながら﹁何これ
⋮⋮﹂とだけ顔を引きつらせながら太李は呟いた。
﹁強化版シンデレラ、かな。気に入った?﹂
﹁⋮⋮男に戻ってたらもっとよかった﹂
忌々しげに胸元に視線を落としながら重たそうに胸を自分の腕で
持ち上げてから溜め息を吐いた。
不服なはずなのに不思議と体には力を湧くのが尚のこと腹立たし
い。
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﹁⋮⋮お嫁さん?﹂
﹁やめろ鉢かづき言うな、気付いてたから﹂
悩ましげに頭を抱える太李を見ながらキリギリスが笑い声をあげ
る。
﹁姿を変えたところで、何ができる!? 結局そいつはγを壊すこ
とをためらうだろう! 馬鹿だからな!﹂
﹁ああ、そうだろうな﹂
小さく答えたのは肩で息をしながら、槍を地面に突き刺してゆっ
くりと立ち上がっていた南波だった。
﹁⋮⋮まだ立てたんだ﹂
﹁ただ、うちのシンデレラをそこらへんの馬鹿と一緒にするなよ﹂
ようやく立ち上がった南波は金髪を振り払い、槍で宙を切り裂き
ながらキリギリスを睨み付けた。女になってもまだ残る、目つきの
悪さ以上に、彼の目を何かが鋭くさせる。
﹁あいつは、底抜けの馬鹿だ﹂
もっと言い方ないのかよ、と太李は苦笑した。
﹁おい親指、いばら、いつまでヘバってるつもりだ﹂
﹁うっせうっせー! んなこたぁ、人魚先輩に言われるまでもねー
んですよ!﹂
梨花と肩を貸し合いながら立ち上がったよもぎがにっと笑う。
﹁でもそこのヴァーミリオン馬鹿先輩以上に、親指先輩がげきおこ
ですぜ﹂
﹁もう、絶対の、絶対に、許さないんだから﹂
キッとキリギリスを静かに睨み付けてから梨花はよもぎの体を抱
き上げて、そのまま放り投げた。
くるくる空中で弧を描き、弾き飛ばされた弓の元までやってくる
と矢筒から矢を抜いて一瞬でつがえ、それを放った。腹部ギリギリ
をかすめた矢を見て﹁惜しい!﹂と彼女は悔しそうに地面を蹴りつ
けた。
﹁なぜまだ抗う﹂
473
﹁だって私たち﹂
太李と背中合わせになるように立った巳令がにこりと、可憐な笑
みを鉢の下で浮かべた。
﹁底抜けの馬鹿の仲間ですから﹂
とんっと太李の背中を押してから巳令はキリギリスの元へと踏み
込んだ。
みんなして馬鹿馬鹿言うなよ。気恥ずかしいやらおかしいやらで、
不思議と太李の中にくすぶっていた恐怖は消え去っていた。
いつも通り、武器を呼び出そうとして一瞬目を閉じる。しかし、
青白い光と共に彼の手元に現れたのは鞘付きの剣だった。
﹁武器が全く同じじゃ、面白くないだろ?﹂
いらない柚樹葉の気遣いを解説されて、太李は肩をすくめた。
鞘から細身の剣を抜く。普段のものより少し重みのあるそれに太
李は息を吸い込んだ。
﹁⋮⋮俺はどうすればいい?﹂
今この場に居ない友人に彼は問いかけた。
﹁簡単だ﹂
彼女の答えは簡潔だった。
﹁目の前の敵を倒せ﹂
﹁それじゃ﹂
﹁灰尾太李﹂
柚樹葉の声が淡々と続けた。
﹁私が信じられないかい?﹂
ははっと太李が笑う。
﹁卑怯だなぁ、九条さんって﹂
﹁君の馬鹿に応えるなら同等の馬鹿になるか、こうするしかないか
らね﹂
﹁全く﹂
だっと踏み込んだ太李の剣とγ型の剣が鋭い金属音を立ててぶつ
かり合う。
474
﹁ただ俺、九条さんも同じくらい馬鹿だと思うよ﹂
﹁勘弁してよ﹂
﹁⋮⋮信用してるからな、九条さん﹂
﹁うん﹂
頼りがいのある返事に小さく笑ってから彼は相手の剣を弾き返し
た。
そのまま振り上げられた足がγ型の手元に直撃する。手放された
剣を奥へ追いやってから太李がさらに間合いを詰めた。
しかし、その右足がぴたりと止まる。
視線を落とすと足元が凍っている。顔をしかめていると﹁さあ、
シンデレラ。ここからが強化版の凄いところだ﹂
﹁え?﹂
﹁今の君には全員の力がリンクしている、といっても過言ではない﹂
その言葉にああ、と太李は強引に右足を突き出した。
ぱき、ぱき。音を立てながらやがてそれは脆くも崩れ去ってしま
った。
﹁親指の怪力の共有くらいなんともないよ﹂
次の柚樹葉の言葉を高速でγ型との間合いを詰めていた太李が聞
いていたかは怪しいものだった。
不思議だ。自分はどうすればいいのか分かる気がする。
一瞬だけ目を閉じた太李は剣を振り上げた。
﹁そこだぁああ!﹂
その剣先が捉えていたのは女の頭の上に乗ったカチューシャだっ
た。それだけを見事に切り上げた太李は落下してくるそれを真っ二
つに切り裂いた。女がまとっていた青いドレスは消え、元の彼女の
姿に戻って行く。
馬鹿が。キリギリスは心の中で嘲笑った。確かにγ型の本体はあ
のカチューシャだ。しかし、あれを切り落としてしまっては彼女の
精神もろともを殺すことになる。もう言葉を発することすらできな
475
くなる。
ところが太李に抱き止められた彼女はげほごほと咳き込みながら
﹁私、なんで⋮⋮﹂と言葉を発してしまった。
キリギリスも、マリアと戦い続けていた麗子でさえもそれに驚い
た。
﹁だから言ったでしょ﹂
そんな中で柚樹葉の声だけが響く。
﹁γ型本体を壊すときに一緒に精神から切り離せるようにする作業
に時間がかかったんだって﹂
なんてことだ。九条柚樹葉はすでにそこまで克服していたという
のか。
そう叫びたいのを押さえて梨花の体を蹴り飛ばしてからキリギリ
スは地面を蹴り上げて、立ち去った。
それを見た麗子はマリアと睨み合いながら口を開いた。
﹁仲間だ、信用だ、本当にうすら寒い連中ですわ⋮⋮﹂
忌々しげにそう言ってから銃口をマリアから外さずに、問う。
﹁あなた、お名前は?﹂
知らないわけではなかった。麗子は﹃彼女自身の口から﹄その名
前を聞きたかったのだ。
はっと笑いながらマリアはそれに答えた。
﹁マリア。柊・マリア・エレミー・惣波だ﹂
それから麗子にとって予想通りの質問が飛ぶ。
﹁お前は?﹂
笑いをこらえながら、麗子は堂々と自分の名を告げる。
﹁聖護院、麗子と申しますの﹂
ぺこりと頭を下げてから﹁ではマリア﹂と照準を下げ、引き金を
476
引いた。
﹁ごめんあそばせ﹂
足元に撃ち込まれた銃弾をマリアがかわしている間に、麗子の姿
は消えていた。
477
第二十三話﹁バカップルでもやっぱり喧嘩はするようです﹂
一旦、泡夢財団に戻ってきたクインテットたちを出迎えたのは心
配そうに自分たちを見つめるベルと白衣を揺らす柚樹葉だった。
鈴丸の頭の上に乗っていたスペーメがぴょいと柚樹葉の腕の中に
飛び込んだ。自分の定位置に戻ってきたことに安心したのか目を細
めるスペーメを撫でてから彼女は改めて帰ってきたメンバーの顔を
見比べてからようやく言葉を吐き出した。
﹁おかえり﹂
それだけ言ってくるっと彼らに背を向けた柚樹葉はスペーメの位
置を自分の腕の中から頭の上へ移動させると何も言わずに歩き出し
た。
今さら自分が改めて、着いてこいなどというべき必要もないと思
ったのであろう。現に彼らは黙って柚樹葉の後に続いていた。
いつもの休憩所に辿りつくや、彼女はためらいもなく椅子に腰か
けると入口付近で立ちっぱなしの彼らに視線を投げかけた。
﹁改めて、ご苦労だったね。少しだけ話をしようよ﹂
ディスペアの元へ向かう直前まで広げられていた宿題の山々には
目もくれず、柚樹葉は淡々とそう言うだけだった。
誰も拒絶を見せなかった。クインテットたちは座っていた位置に
座り直し、マリアは当然のようにソファに腰かけ、気怠そうに自分
につけていたホルダーを外していた。その動作が酷くゆっくりで、
重たそうなものだとベルは思った。もっとも彼女がそれを口に出す
ことはなく、傷の手当でもしてやらねばと救急箱を取りに一度その
場から離れたのだった。鈴丸はマリアの近くの壁に凭れ掛かるだけ
で腰を下ろすことはなかった。
﹁さて、まずは今回、君らが戦ったディスペアについての話だ﹂
いきなり本題に入った柚樹葉の話にその場にいた全員が身構えた。
それが手に取るように分かった柚樹葉はくすっと笑ってから口を
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開いた。
﹁γ型。大まかは君らが向こうからされた説明の通りだ。αともβ
とも違う新しいディスペアだね﹂
ようやく目的のものを見つけたのか、ベルは救急箱を持ってマリ
アの元へ駆け寄った。
腕。そう言われて彼女は面倒そうにベルに腕を突き出した。
﹁言われた通り、あれは普通に倒すだけじゃ駄目なんだ。一度、起
動者の精神から切り離さないと。そのためには今までの君らのチェ
ンジャーでは少々力不足でね﹂
そう言ってにっこり笑った柚樹葉は﹁そこで出てくるのがさっき
シンデレラがやってくれた強化だ﹂ちらりと柚樹葉の視線が自分に
向いたのに気付いて太李は背筋を伸ばした。
﹁ただこの強化変身には弱点があってね﹂
﹁弱点?﹂
南波が首を傾げ、﹁そう、弱点﹂と柚樹葉がもう一度言葉を繰り
返した。
﹁強化型は人間の上限いっぱいギリギリまで身体能力を向上させる。
それは確かに強力だけれど、それゆえ連続使用は変身者に多大な負
担を与えてしまう。だから、一定期間を過ぎるまで同じ変身者によ
る強化変身は不可能だ﹂
﹁普通の変身はできるんだよな?﹂
太李の問いに﹁そこは問題ないよ﹂と柚樹葉は頷き、言葉を続け
た。
﹁それと、君らも見た通り、あの状態になると全員の力の共有が起
こる。そのリンクシステムの都合で強化変身ができるのはそのとき、
一人だけ。同時に二人以上が変身することは不可能だ﹂
﹁なんか、結構制限だらけなんすね⋮⋮﹂
うーん、と腕を組み難しそうに唸るよもぎに柚樹葉は苦笑した。
それからぐるりと周りを見て、彼女は問う。
﹁質問は?﹂
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すっと手を挙げた巳令が首を傾げた。
﹁あのとき、シンデレラの分しかできてないって言ってましたけど﹂
﹁心配はいらない。すぐに残りも出来上がるよ﹂
涼しく答える柚樹葉をじーっと梨花が見つめる。彼女の視線に気
づいた柚樹葉が顔をしかめた。
﹁どうしたの、梨花。言いたいことがあるなら言っておきなよ﹂
﹁うぇ、あ、その﹂
おろおろと困ったように視線を泳がせてから梨花は小さく言う。
﹁その、柚樹葉さん、ずっと頑張っててくれたんだなって思って。
凄いなぁって﹂
﹁⋮⋮別に。好きでやってることだし﹂
ぷいっと視線を逸らす柚樹葉に梨花は﹁あ、う﹂と困惑の声をあ
げた。
ぷくく、とスペーメの笑い声が響いた。
﹁柚樹葉照れてるのですか?﹂
﹁う、ううううっせぇ!﹂
珍しく狼狽したような声をあげながら柚樹葉はバツが悪そうに視
線を背けた。
怒らせたわけではなさそうだと小さく安堵の息を彼女が吐くと同
時に﹁一個だけいい?﹂と太李。
﹁ん?﹂
﹁⋮⋮再度言うけどなんで俺、女のままなんだよ﹂
むすっと不満げに告げる太李に柚樹葉はにっこり笑って返した。
﹁わざわざ聞くほどのこと?﹂
﹁ああはいはい九条さんの趣味なんだよな﹂
頭を抱えながら深々と溜め息を吐く太李に柚樹葉は満足げに頷い
てから、腰を上げた。
それから少し間を置いて、これ以上自分に問いかけられることは
ないだろうと確認してから白衣を翻し、彼女は入口の方へ歩いて行
った。
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﹁話は以上だ。何かあれば連絡するよ﹂
それじゃ、とその場から彼女は居なくなってしまった。
あまりにあっという間のことで驚いていたものの﹁まぁ、今はそ
れより﹂と南波は机の上に散らばったプリントを見てぽつんと呟い
た。
﹁今は、こっちだな﹂
分からないことだらけのことに対する質問をまとめているよりも、
目前の宿題を片づける方が彼らにとってみれば重要なことらしい。
鈴丸は小さく溜め息を吐いた。
それから二日後、神都高校の生徒たちはついに長い夏休みを終え
て、始業式の朝を迎えていた。通学路を歩く二人も例外ではないの
である。
久々に袖を通したワイシャツの白さを眩しく思いながら﹁しっか
し﹂と太李は隣にいた巳令に対して笑いかけた。
﹁ほんと、ギリギリだったな⋮⋮﹂
何が、と巳令にとっては改めて問うまでもないことだった。無論
ながら宿題のことである。
もう。呆れたように巳令は笑う。
﹁終わったからよかったようなものなんですよ。これに懲りたら宿
題は溜めずにやってくださいね﹂
﹁悪かったって⋮⋮﹂
頭の後ろに手を回しながら太李は苦笑した。
﹁ほんと、鉢峰がいなかったらどうなるかと思った﹂
﹁まったく、調子いいんだから﹂
ぼそっと言われてごめんってと太李は両手を合わせ、軽く頭を下
げた。
なるべく自力でなんとかさせようと思っていたのに気付いたらす
481
でに宿題を終えていた自分は太李の宿題まで手伝ってしまっていた。
これが惚れた弱みでも言うのだろうかと巳令は自分の甘さにうんざ
りするほどだった。
それでもまた太李が同じ状況だったら自分は手を貸してしまうの
だろうなとそんな予想を立てることが今の巳令にできた精一杯だっ
た。
どことなく不機嫌そうな巳令に﹁いや、ほんと反省してるって﹂
と太李は項垂れた。
﹁次は自分でなんとかします⋮⋮﹂
﹁え、あ、いや﹂
太李の言葉にまるで取り繕うかのように巳令は弱々しい調子で言
う。
﹁その、頼ってくれること自体は全然嫌じゃないっていうか。むし
ろ、嬉しいっていうか﹂
黒い髪を耳に押し付けながら自分を見上げてくる彼女にぐっと太
李は言葉を詰まらせた。
そのまま髪から手を離すと指を突き合わせ、﹁もっと頼ってくれ
てもいいんですよ。その、恋人、なんだし﹂
自分で言っておきながら巳令の顔は真っ赤に染めあがっていた。
顔中が燃えるように暑い。残暑のせいだけではないだろうと巳令は
思う。
太李も太李でその場で硬直してから﹁お、おう、そうだな! そ
うだよな!﹂と自分の顔を手で覆い、ぱっと背けた。
かれこれ、お互いに想いをぶつけあってめでたく結ばれてから数
週間経っているものの未だに﹃恋人﹄だの﹃カレシカノジョ﹄とい
う形容に慣れない自分がいるのを太李は自覚していた。巳令も同様
である。
二人で花火大会に行ってみたり、こうして連れ立って泡夢の本部
ビルにやら、学校にやらに行ったりこそするもののこれでいいのだ
ろうかとついつい考えてしまう。
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手を握るどころか恥ずかしくて距離を詰めることすらままならな
い。この間の花火大会でこそその場の雰囲気に呑まれてなんとかな
ったものの、それすら巳令から握ってきたのであって自分からでは
ない。
どうにかしなければとは思うもののしかし、この登校時の人混み
の中で彼女の手を取る勇気もない。ああ、意気地なしめと太李は自
分で自分を罵った。
そうしたところで彼女の手に自分の手が伸びるわけでは無論ない
のであるが。
どうしたらいいのだろうと太李が考え込んでいるとふふっと、巳
令が唐突に小さく笑い声をこぼした。何を見て笑ったのかさっぱり
分からず、太李は首を傾げた。
そんな彼を見て、口元に手を当てたまま巳令は楽しげに告げた。
﹁なんだかこんな風に二人で登校するのって楽しいなって思って﹂
﹁え、あ、そういうことか﹂
少なからず自分が妙な言動を取っていたわけではないらしいこと
に安堵してから太李は﹁じゃ、これからも一緒に行こうか﹂とだけ
ぽつんと言い放った。
ぱっと巳令が嬉しそうに笑う。
﹁いいんですか?﹂
﹁いや、別に駄目ってことはないだろ﹂
苦笑しながら太李がそう返せばふふ、と巳令は照れくさそうに笑
うだけだった。
その横顔を見てからばっと視線を逸らした太李はワイシャツの間
に空気を送り込みながらわざとらしく言葉を紡いだ。
﹁今日もあっちいなー﹂
﹁そ、そうですねー﹂
ぎくしゃくと不思議な距離感を保ちながら二人は昇降口を抜けて
行った。
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教室の前までやってくると﹁あ、そうだ﹂と太李は思い出したか
のように足を止めた。
振り返って、巳令は首を傾げた。そんな彼女を見つめ返しつつ、
カバンの中から財布を取り出した太李は苦笑した。
﹁飲み物買ってくるの忘れた。今、自販行って買ってくる﹂
﹁あ⋮⋮そうですか⋮⋮﹂
すぐ戻ってくるというのにどこか残念そうにする巳令に軽く笑い
かけながら﹁お前は? 飲みたいもんない?﹂
ちょっと考え込むようにしてから小さく彼女は口を開いた。
﹁緑茶⋮⋮﹂
﹁はいはい﹂
財布片手に彼は来た道を戻って行った。
忙しそうに廊下を行き来する生徒たちとすれ違いながら聞こえて
くる会話は夏休みの宿題の多さを嘆くものから小麦色に焼けた肌に
関する質問が飛び交っている。
そういえば自分も少し日に焼けた気がする。
しかし、今年の夏は今までとは比べ物にならないくらいせわしく、
そしてあっという間に過ぎてしまったような気がする。
色々ありすぎて振り返るのも大変なほどだ。今までの自分はこん
なことになるだなんて思ってもみなかったことだろう。
小銭を飲みこませ、その代わりに吐き出されたスポーツドリンク
と緑茶のペットボトルを取り出して、振り返ると太李はびくっと肩
を揺らした。
理由は単純に、後ろに人が立っていたからだ。じっと自分を見つ
めていたその人物もびっくりしたように太李を見返してから﹁あ、
その﹂と視線を泳がせた。
長い黒い髪の上に緑色のカチューシャが特徴的な女子だった。確
か同じクラスの。太李が彼女の名前を思い出したのはすぐだった。
484
もろぼし
﹁諸星さん?﹂
やえ
自分の名前が呼ばれたことで諸星八重は﹁お、おはよう﹂と引き
つった笑みを浮かべていた。
﹁おう、おはよう。あ、諸星さんも自販?﹂
﹁え、あ、まぁね!﹂
えへへと何故か照れくさそうに笑う八重を不思議に思っていると
﹁あのさ、灰尾くん﹂
﹁ん?﹂
﹁今日、放課後って時間あるかな?﹂
﹁放課後?﹂
いつもより早上がりなこともあって鈴丸からの呼び出しまでには
授業終了から少々時間があった。
特にしようと思っていたこともない。部活もまだ始まらない。
﹁あるっちゃあるけど﹂
﹁⋮⋮ちょっとだけ話、あるから、付き合ってくれるかな?﹂
﹁話?﹂
なんだろうと思いつつ特に深い考えもなく﹁構わないけど﹂と太
李は返答していた。
そんな彼の視界の中に梨花が映り込んだ。太李に気付いたのであ
ろう彼女はぱぁっと顔を輝かせてから右手を挙げて、小走りで歩み
寄ろうとしていたものの八重と会話中だと気付くやぴたっと足を止
めてしまった。困ったように視線をうろうろと泳がせてからやがて
何を思ったのか近くにあったベンチの陰にしゃがんで隠れてしまっ
た。
もっとも顔だけをこちらに覗かせて、様子を伺っている状態で隠
れてるとはとても言えない状態である。
﹁嬉しい! じゃあ、また放課後に!﹂
﹁え、あ、おう﹂
すっかり梨花の観察に神経を注いでいた太李の返事は中途半端だ
ったことにも構わずに八重はぱたぱたと走り去ってしまった。
485
自販機に買い物に来たのではないのか、と思いながらそれより気
がかりな先輩に向かって太李は駆け寄った。
﹁隠れられてませんよ、梨花先輩﹂
﹁ふぇ!?﹂
びくっと顔を上げて、心底驚いたような顔をしながら梨花は太李
を見上げていた。
﹁お、おはよー灰尾くん、偶然だねーあははー﹂
﹁⋮⋮気にしないで声掛けてくれればよかったのに﹂
ぼそっと太李が言うとうう、と梨花は顔を俯かせた。
﹁でもお話の邪魔しちゃ駄目かなって﹂
﹁大した話でもなかったんですから﹂
﹁ごめんなさい﹂
申し訳なさげに視線を伏せる彼女に﹁そんなんだと、また鈴丸さ
んに怒られますよ﹂
太李の言葉に梨花は勢いよく立ち上がった。
﹁す、鈴丸さんは関係ないですぅ!﹂
﹁はいはい﹂
﹁もう! あたしオレンジジュース買ってきます!﹂
ぷんぷんという擬音が似合いそうな怒り顔で自販機に向かってず
んずん歩いていく梨花の後ろ姿を見ながら太李は苦笑した。
放課後、久々にやってきた図書室に南波は安堵感を感じていた。
古臭い紙の匂いとずらりと並んだ書架の威圧感が南波には心地い
い。
傍目から見ても分かるほど今の南波は生き生きとしていた。やは
り自分にはここが合うらしいと少なからず自覚していた。
﹁相変わらず益海くんも好きだねぇ﹂
のんびりと間延びした口調に南波はカウンターの奥からゆっくり
486
みよし いくえ
と出てきた女性を見た。
三好生江という司書教諭の女だった。一年生の頃から入り浸るよ
うに図書室にいた南波にとってはどの教科の担当よりも馴染みのあ
る教師でもあった。
荷物を抱えながらカウンターの中に入った南波は﹁悪いか﹂と無
愛想に返すのだった。生江はそれを気にした様子もなく、苦笑で返
す。
﹁そんなに怒らないでよぉ。怖いんだから﹂
﹁別に怒ってない﹂
﹁はいはいその顔も生まれつきなんでしょ﹂
書類を抱えながらくすくす笑う生江に南波は何も言わずにカウン
ター内にある椅子に腰かけた。
カバンの中からのそのそと本を取り出す彼に生江は面白そうに話
しかけた。
﹁ねぇねぇ益海っち益海っち﹂
﹁なんだ﹂
﹁志摩次晴の新刊読んだ?﹂
﹁当たり前だ﹂
﹁当たり前と来ましたか⋮⋮﹂
ちぇっとつまらなさそうに生江は手元のハードカバーの本に視線
を落とした。
﹁せっかく三好先生頑張って新刊入荷したのにー﹂
﹁俺は借りるより買う派なんだよ﹂
﹁えへへぇ私も﹂
しかし、その言葉には南波は声を返さなかった。
すでに彼の意識は本の中の活字の方に潜ってしまったらしく、こ
うなってしまえば自分が声をかけたくらいではぴくりとも反応して
くれなくなるのだ。
またちぇっとわざとらしくこぼしながら口を尖らせた生江は退屈
そうに腕を組んだ。
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がらりと音を立てて引き違い戸が滑りながら開く。﹁こんちはー﹂
次いで聞こえてきた声に南波はほぼ反射的に顔を上げていた。
﹁あ、春風さん、ちょうどよかった。新刊、入ったよ﹂
﹁いやったー!﹂
生江の言葉にぱたぱたとカウンターの方へやって来たのはよもぎ
だった。
嬉しそうに笑うよもぎに生江は手元のハードカバーを差し出して、
にこりと笑う。表紙を眺めてから中をぱらぱらとめくり、よもぎは
ふぅと息をついた。
﹁いやーなかなか買えなくって。司書さんに頼んで正解でしたわ﹂
﹁でもなんか意外、春風さんって志摩次晴とか好きなんだね﹂
﹁なんで意外とか言うんですかー。んもう、とにかくありがとうご
ざいました﹂
ぶーっと不満げにしながら南波の前まで移動したよもぎは﹁まっ
すみせーんぱい﹂と彼に笑いかけた。
用件は終わったからか生江はさっさと奥の部屋へと引っ込んで行
ってしまった。溜め息を押し殺しつつ南波は貸し出しカードを探す
ために近くの引き出しを開いた。
うきうきした様子でカウンターから身を乗り出したよもぎは楽し
そうに体を揺らしている。それだけの動作が南波には邪魔に思えて、
手刀を振り下ろした。
いつも通り﹁あいってぇぇ!﹂と悶絶するよもぎを放って、よう
やく見つけ出したカードを南波は彼女に差し出した。
﹁ほ、ほんと先輩が暴力的すぎて怖い⋮⋮﹂
﹁なんとでも言ってろ﹂
ふん、と視線を逸らし、また文庫本に意識を投げかけようとした
南波の考えはあっさり打ち砕かれた。
﹁益海くーん﹂
気弱そうな声をかけられて、振り返った南波は何も言わずに引き
だしに手を掛けた。
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そんな彼に代わるかのように﹁うおおお!﹂と叫び声をあげたよ
もぎが声の主に抱き着いた。
﹁制服梨花先輩だー!﹂
﹁ひゃぷ!?﹂
ぎゅううっと抱きすくめられて声の主、こと梨花は顔を真っ赤に
しながら固まった。
そんなことにはお構いなしによもぎは梨花の体に顔を押し付けな
がらきゃっきゃっとはしゃいでいた。
﹁最近ずっと私服でしか会ってなかったから制服久々っすね! や
っぱり先輩は制服が似合いますわー﹂
﹁そ、そんなこと﹂
﹁あーもーりかわいいんだからこの人は!﹂
よもぎの言葉にぴくっと梨花は顔を引きつらせた。
﹁り、﹃りかわいい﹄って何?﹂
恐る恐る問いかけてくる彼女によもぎは悪びれた様子もなく告げ
た。
﹁え? ﹃梨花先輩鬼可愛い﹄の略です﹂
﹁変な略語作らないでぇ!﹂
慌てた様子で梨花はぽかぽかとよもぎを殴る。殴ると言っても親
指姫のパワーで殴られるのとは訳が違う。痛くもなんともない。
にこにこというよりにやにやと笑いながらよもぎは告げる。
﹁そういうのがりかわいいんですよ、先輩﹂
﹁だからそれやめてぇ! せ、セクハラだぁ! セクハラなんだか
らね! 怒るよ!﹂
わーんと泣きそうになりながらただただ梨花はよもぎをぽかぽか
しているだけだった。
目の前で繰り広げられる戦闘︵というより一方的な先輩いじめ︶
に眉一つ動かさず、南波は黙って貸し出しカードを取り出した。そ
れを見た梨花は渋々、よもぎへの攻撃をやめて、カバンの中から今
日が返却日になっていた本を取り出し、彼に手渡した。
489
﹁ちゅーかそもそも、りかわいいって言い出したの自分じゃないで
すし﹂
﹁へ!?﹂
﹁いや、そんなびっくりした顔されてもなぁ﹂
複雑そうな顔をしながらよもぎは書き終わったカードを南波に差
し出す。
返却手続きを終えた南波がよもぎのカードに手を付けると梨花は
﹁じゃあ、誰?﹂とよもぎに問いかける。彼女は満面の笑みでそれ
に答えた。
﹁鈴さん﹂
やっぱり! 予想通りの人物にぷくーっと梨花は頬を膨らませた。
それが可愛いんだよなぁ、とよもぎは膨らんだ梨花の頬をぷにぷ
にと押し返してしぼませようとする。
うーと唸りながら踵を返した梨花は﹁益海くん、よもぎさん、ま
たあとで!﹂とだけ言い残すと大股で図書室を後にしてしまった。
﹁怒ってましたね﹂
﹁怒ってたな﹂
ようやく会話に加わった南波は﹁ほら﹂とハードカバーをよもぎ
に対して突き出した。あざっす、と彼女はそれを受け取って頭を下
げた。
やっと本が読める、南波はそう思ったものの現実は甘くはなかっ
た。
﹁あ、みれーせんぱーい﹂
ふりふりと手を振るよもぎに入口に立っていた巳令が振り返して
いた。
なんでこいつらは揃いも揃って人がここにいるときにやってくる
んだと南波は嘆きたくなった。
そんな南波の心情など知ったこっちゃないとばかりに巳令の後ろ
を覗き込んでいたよもぎが﹁あれ?﹂と首を傾げた。
﹁みれー先輩ダーリンどうしたんすか、ダーリン﹂
490
﹁だ、ダーリンとか変な言い方しないでください!﹂
恥ずかしそうにぷいと顔を背ける巳令は﹁灰尾はその、用事があ
るから。ちょっとだけ時間潰しにと思って﹂
黒い髪を押さえ、そう告げる巳令の姿は同性のよもぎにすら可憐
に映った。ふらっと眩暈を覚えたよもぎはカウンターによりかかり
ながらふふ、と小さく笑った。
﹁なんてこったい⋮⋮春風の先輩みんな可愛い過ぎる⋮⋮可愛い過
ぎるぜ⋮⋮﹂
﹁そりゃよかったな﹂
深々と溜め息を吐きながら南波はそれだけ返した。
困ったように笑っていた巳令は﹁そういえば﹂といましがた自分
が入って来た入口を見つめて首を傾げた。
﹁梨花先輩、なんであんなに怒ってたんですか?﹂
﹁鈴さんにからかわれたんですよ﹂
﹁ああ⋮⋮むしろ怒ってる梨花先輩が見たいがためにやってますよ
ね、鈴丸さんも﹂
﹁ですよねー﹂
笑い合っている女子二人に南波はもう一度だけ溜め息を吐いた。
一方で太李は八重に呼び出された教室になぜかこっそりと顔を出
していた。
後ろめたいことなど特にない。そう思いながら窓際の机の上に腰
かける八重以外誰もいない教室に彼は一歩踏み込んだ。
入って来た太李に気付いて八重は笑みを浮かべた。その裏表のな
さそうな笑顔に少なからず安堵しつつ、彼は首を傾げた。
﹁それで、用事って?﹂
﹁あ、うん、用事ね⋮⋮﹂
目を伏せながら、両手の指を擦り合わせた八重は恥ずかしそうに
491
視線を泳がせたのちに、やがて意を決したようにその言葉を放った。
﹁あの、好き、です﹂
顔を真っ赤に染めながら、言ってしまったとばかりに自分を見上
げる八重に太李は一瞬訳が分からなかった。
告白された。理解するまでそう時間はかからなかった。
絞り出すような言葉に自分も覚えはある。だからこそ、曖昧にし
てはいけないと彼は視線を逸らしながら小さく返した。
﹁ごめん﹂
それ以上、どう言葉をかければいいのか、太李には分からなかっ
た。
八重の方はふらっと後ろに下がると﹁やっぱり⋮⋮﹂と弱々しく
笑うだけだった。
﹁やっぱり?﹂
﹁いや、なんとなくそんな気がしてて。でも言いたかっただけって
いうか、ごめんね、私の我儘なの﹂
薄く笑う八重に﹁そう、か﹂としか太李は返せなかった。
ぎゅっとカバンを抱き締めながら八重はぺこりと頭を下げる。
﹁ほんとに、ごめんね﹂
弱々しくそう言って、顔も上げずに八重は歩き出そうとする。
ところが、あろうことか、足をもつれさせた八重がそのままぐら
りと前のめりに倒れ込んだ。太李がその体を受け止めようとしたも
のの微妙にタイミングがズレたせいで二人揃って倒れてしまった。
ぼふんと太李の顔を何か柔らかいものが包んだ。
むにむにと生々しい感触が伝わってくる。人のものに触れたこと
はないが変身したあとの自分にとってはある意味馴染みのある感覚
だった。
一瞬、頭の中が真っ白になって硬直してからやがて﹁うわぁああ
あごめん!﹂と太李は勢いよく起き上がると後ろへ後ずさった。
真っ赤になりながら震える八重になんと言ったらいいのか悩んで
いると彼女の後ろに人影を見つけ、彼は恐る恐る、視線を上へと移
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動させた。
そして、本日、二度目となる硬直を味わうことになる。
﹁⋮⋮ふーん?﹂
黒いスカートをふわりと揺らしながらそこに立っていたのは太李
にとっては今この場面を一番見て欲しくなかった人である。
真っ黒な瞳が冷ややかに太李を見下ろしている。その瞳に侮蔑の
色すら浮かんでいたのが太李にはよく分かった。
﹁やたら遅いと思ったらそういうことだったんですか⋮⋮﹂
彼女らしからぬ低い声に彼は思わず萎縮した。
鋭い瞳で太李を睨み付けてからちらと自分の胸に視線を落とし、
﹁ああそう﹂と巳令は何も言わずに踵を返した。
﹁あ、ちょ、鉢峰!?﹂
慌てて立ち上がった太李は﹁あの、ほんとごめん!﹂とだけ八重
に言い残すとさっさと廊下を歩いていく巳令に駆け寄って行った。
その日、ウルフの目に映った聖護院麗子は酷く憔悴しきった様子
だった。
原因は単純に、この間、γ型をフェエーリコ・クインテットに破
られたことに少なからずな責任を感じているからであるがそれを理
解できるはずもないウルフは物陰から疲れ切って、ソファの上に倒
れ込む麗子をちらちらと見ながら自分のせいではなかろうかと怯え
ているのが精一杯だった。
﹁ウルフ?﹂
後ろから声をかけられて彼女はびくっと小さな肩を跳ね上がらせ
た。
それから勢いよく振り返り、声の主に向かって吠えた。
493
﹁び、びっくりさせんなうわばみ! ばぁかばぁか!﹂
﹁はは、すまない。そこまで驚くと思っていなかったんだよ﹂
がう、と吠えるウルフにうわばみは小さく笑いかけた。
彼はウルフと視線を合わせるためにしゃがみ込むと﹁こんなとこ
ろでどうしたんだい?﹂と首を傾げた。
菓子類の入った袋をぎゅっと握りしめてからウルフは少し躊躇っ
たあとに、麗子のことは悔しいながら自分よりこの男の方が理解し
ていると子供ながらに判断して口を開く。
﹁れーこがつかれてる。あちしのせいかもしれない﹂
ははっとおかしそうにうわばみが笑い声をあげた。思わずウルフ
は再度吠える。
﹁なんでわらうのー!﹂
﹁すまない。大丈夫、君のせいではないよ﹂
彼の言葉にきょとんとしてからウルフは大きく首を傾げた。
﹁ほんと?﹂
﹁ああ。そんなに心配なら聞きに行ってみればいいだろう?﹂
﹁⋮⋮やだよ﹂
目を伏せながらウルフは不満げに言う。
﹁れーこはあちしにきをつかうからあちしのせいでもあちしが悪い
ってゆわないもん﹂
﹁気を遣うだなんて難しい言葉を知ってるんだね、ウルフは﹂
﹁ばかにすんなー!﹂
きーっとその場で地団駄を踏むウルフにうわばみはまたおかしそ
うに笑い声をあげた。
やっぱりこの男は嫌いだ! 心の中で叫びながらそーいえばとウ
ルフは辺りを見渡し、目を鋭く尖らせた。
﹁キリギリスは?﹂
﹁さっき面白そうなのを見つけたってまた出て行ったけど。どうし
て?﹂
﹁だってれーこキリギリスと出かけてかえってきてからあんなんだ
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もん。ずぇったいにキリギリスかあのばかどものせいだもん!﹂
ぶんぶんと腕を振り回すウルフに間違ってはないね、とうわばみ
は心の中で答えを返した。
しかし彼がそれを口に出す前に、ウルフはさらに続けた。
﹁キリギリスが悪くなかったらあのおさかなやろーのせいだよ! ぜったいそう!﹂
﹁どうして?﹂
﹁だってウルフちゃんあいつきらいだもん! すぐばかにするしー
! うわばみみたい!﹂
べーっと舌を出すウルフにうわばみは苦笑した。
それから何を思ったのかウルフはぎゅっとうわばみの手を握ると
﹁うわばみーきてー﹂
﹁トイレ?﹂
﹁ちーがーう! れーこんとこ! うわばみにはれーこうそつかね
ーもん!﹂
ふんす、と鼻息荒く歩き出す彼女にうわばみはまた苦笑するだけ
だった。
これくらいで気が済むならいくらでも付き合ってあげるよ。
そう心の中で思いつつである。
先ほどまで怒っていたのが嘘のように梨花はふるふると怯えきっ
た表情で震えていた。
いつもの休憩所で再合流したよもぎは﹁どうしてこうなった⋮⋮﹂
と顔を引きつらせ、梨花の怒りの原因であったはずの鈴丸は﹁お前
らは⋮⋮﹂と頭を抱え、マリアはちらちらと碧眼で伺いつつ銃を磨
いて、南波はお構いなしに本をめくる。
ああ、空気が悪い。紅茶を淹れながらベルはちらりと横目でその
原因を伺った。
495
彼女の視線の先にいたのは雰囲気だけで﹁私は不機嫌です﹂と語
る巳令と小さくなって項垂れながら正座する太李だった。
﹁で、何があったのかしら?﹂
ティーポット片手にこそっとベルはよもぎに耳打ちした。
﹁さあ。自分らと一旦別れる前は相当機嫌よかったんですけどね﹂
﹁女心と秋の空、って奴か﹂
﹁あらマリアよく知ってるわね﹂
ベルの感心したような台詞には何も返さずに彼女は再び銃へと視
線を落とした。
いつもなら喧嘩を止めに入る梨花が何もできないくらいには今の
巳令は怖いらしいと鈴丸がどこか他人事のように思っていると彼女
は重たそうな口をゆっくりと開いた。
﹁私、待ってたんですけど?﹂
﹁いや、だから誤解なんだって﹂
﹁待ってた彼女ほったらかして他の女の子といちゃいちゃしといて
まだ言い訳します?﹂
﹁だーかーら﹂
話は平行線だった。
巳令が頑固だということは太李もある程度は分かっていたつもり
だったがここまでとは思っていなかった。勿論自分に非があるのは
分かっているが。
﹁ごめんなさいね、顔を突っ込めるような胸もない彼女で!﹂
﹁ひ、卑屈だ⋮⋮みれー先輩が卑屈になるあまり自虐してる⋮⋮!﹂
ひい、と悲鳴を上げながらよもぎは体を引いた。
﹁いや、鉢峰、だからあれは事故で⋮⋮﹂
﹁どうせ男の人なんて⋮⋮﹂
低い声のまま巳令がぶつぶつ続ける。
﹁男の人なんて胸にしか興味がなくってちょっとお、お⋮⋮む、胸
が大きいからってデレデレして⋮⋮諸星さんなんていい人な上に胸
が大きいし⋮⋮﹂
496
﹁あのなぁ⋮⋮﹂
﹁どうせ灰尾だって、胸がないより大きい方がいいと﹂
﹁思ってないです﹂
すっぱり言い放つ太李に巳令はすぐさま答える。
﹁嘘﹂
﹁嘘じゃないって。俺は、鉢峰の胸囲がどうだろうが、その、鉢峰
が好きだし﹂
﹁それは﹂
﹁あとな、鉢峰﹂
ぽんぽんと彼女の肩を叩きながら太李は勢いよく告げる。
﹁俺は、その、胸よりも足に興奮するタイプでだな﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
彼の言葉に巳令は思わず固まってしまった。
気まずそうに視線を逸らす太李を見て、巳令はぼそっと告げた。
﹁変態﹂
﹁⋮⋮すいません﹂
﹁そこは嘘でもいいから鉢峰がとか言うところじゃないんですか﹂
﹁いや、だってこの状況で嘘吐いたらお前もっと怒りそうだし﹂
ぶつぶつと言い合う二人になんだかなぁとベルが苦笑していると
やかましいサイレンの音がその場にいた全員の鼓膜を揺らす。
よもぎは口を尖らせて思わず不満を口にしていた。
﹁うえー⋮⋮こないだ来たばっかりなのに⋮⋮﹂
﹁文句を言っても相手は待ってくれないの。はい、行った行った﹂
ベルに促されてようやく重たそうに腰を上げるよもぎを一瞥して
から巳令は涼しく告げた。
﹁⋮⋮ひとまず休戦です。いいですか、ただの休戦ですからね﹂
﹁は、はい!﹂
びくっと背筋を伸ばす太李に﹁よろしい﹂とだけ言い放ち、巳令
もまた入口の方へと歩いて行った。
497
﹁ほんっと﹂
銃口を相手に向けながらマリアは笑う。
それは心からの笑みではない。自分の無力さを嘲り笑うかのよう
な、自虐的な笑みだった。
﹁心底趣味が悪いぜ﹂
合わせられた照準にはうっすら紅色がかった着物を着た女が刀を
抜いて立っていた。深く考えずに、マリアでも分かる。またγ型が
来た、と。
その後ろには四本足で地面を踏みしめる焦げ茶色の毛を全身にま
とった生き物︱︱巨大なたぬき型のα型が牙を剥いていたもののそ
れよりも、その女の顔に、太李も巳令も覚えがあった。
﹁諸星、さん?﹂
どちらともなくその名前が口からこぼれ落ちた。
諸星八重、まさに今自分たちが対立している原因ともいえる人物
だった。適応者だったのかと驚く前に偶然とも必然とも分からぬ事
態に太李は焦った。
今の巳令はとてもじゃないが冷静でいられるとは思えない。ちら
りと振り返ると巳令は黙って自分の刀に手を掛けている最中だった。
﹁は、鉢かづき?﹂
恐る恐る太李が声をかけると﹁全く﹂と彼女は鞘から刀を抜き、
剣先を八重に向けた。
﹁私は自分の感情で敵を見誤ってしまうほど愚かだとでも思われた
のでしょうか﹂
だとすればそれはとても不快なことだと、巳令は鉢の下で顔をし
かめた。
地面を蹴り上げ、巨体を引きずりながらα型が太李に襲い掛かる。
それをきっかけにしたように周囲からぶわっと群がるようにカラス
たちが黒で空を埋めた。
498
マリアの銃口の向きが変わる。カラスを捉え、火を吹いたそこか
ら飛び出した鉛玉が次々とカラスたちを撃ち落としていく。その彼
女とは反対側によもぎも矢を放った。
梨花と南波が太李に駆けて行くのを見ながら巳令もまた、駆け出
した。目的は無論、八重であった。
振り下ろされた巳令の刀がぎちっと音を立てながらぶつかり合う。
鍔迫り合いのような形になりながら刀を押し返されて、巳令がバラ
ンスを崩す。
まだ体勢の整っていない巳令に対して黙って振り上げられた八重
の刀がそのまま、彼女の首元を捉え、振り下ろされた。間一髪でそ
れを受け止めると﹁やっぱり、言葉での説得なんて無理ですよね﹂
と巳令は息をついた。
太李はγ型に唯一対応できる強化変身はまだ出来ない。他の分は
完成していない。自分に迫ってくる刀をなんとか押し返してから巳
令は自分の懐の手を入れて、小さな箱を取り出した。
自分がやるしかない。それが巳令の答えだった。
当然ながら八重に対して腹が立たないというわけではない。しか
し、﹃人のため﹄という大義名分で八重を犠牲にしていいはずなど
ない。
すでに柚樹葉から受け取っていた箱の中から黒い石のついた指輪
を取り出した彼女は恐らく自分のことを見ているのであろう友人に
呼びかけた。
﹁柚樹葉﹂
﹁相変わらず君は判断が早くて助かる﹂
通信機越しの彼女に声にふふ、と巳令は笑った。
﹁当然です。私に友人を犠牲にしろと?﹂
﹁君はいい奴だ﹂
巳令が指輪をはめたのを確認した柚樹葉は﹁それじゃあ﹂と言葉
を続けた。
﹁始めようか﹂
499
一瞬、光に包まれた彼女から八重が勢いよく離れていく。
きらきらと輝く光が、やがて小さく散っていく。そうして光が晴
れたそこには丈が短めの白い着物姿の巳令だった。紅色の華が裾の
方でわずかに咲くばかりではあるものの腰に絞められた黒い帯には
金糸が華やかな帯締めがされていて決して控えめなだけではなかっ
た。
何よりの違いは今まで頭の上に乗っていた黒い鉢がなくなってい
たことである。長く伸びた黒髪が風を拾い、なびいている。
かつんと黒いブーツで地面を蹴りながら綺麗に切り揃えられた前
髪をいじり、巳令はぽつんと感想を述べた。
﹁視界が広い⋮⋮﹂
通信機の向こうで柚樹葉の大笑いする声が聞こえてきた。
それに少しだけむっとしつつ巳令は腰に差された二振りの刀を見
て、両手にそれぞれ一振りずつ握って引き抜いた。
たんっと地面を蹴り上げた八重が巳令に向かって刀を振るう。そ
れを右手の刀で受け止めた巳令はその刀を巻き込んで、くるりと一
回転させた。八重の手から離れた刀がそのまま巻き上げられる。
﹁⋮⋮ごめんなさい。すぐ終わりますから﹂
そう言った巳令は怯む八重から少しだけ距離を置くとぐっと刀を
構え、次には踏み込みながら交差するように振り上げた。
斬り付けられた八重の体はまるで糸が切れた操り人形のように地
面に倒れ伏した。その姿はすでに元の八重のものだ。
﹁マーベラス・フィニッシュ!﹂
ずん、という重い音が聞こえてどうやら向こうも終わったらしい
と彼女は二振りの刀を鞘に納めた。
﹁もう怒ってないですよ﹂
財団への帰り道、少しだけ自分と距離を置く太李に巳令は静かに
500
そう言った。
太李はぱっと顔を上げるとほんとに? とでも言いたげな表情で
巳令を見つめ返した。
﹁本当ですって﹂
巳令が苦笑しながら返せば、﹁そ、そうか﹂と小走りになりなが
ら太李は巳令の横に並んだ。
やっぱりこの方が落ち着くんだ。巳令は自分がどうにも甘いこと
を再度自覚した。
﹁怒ってないですけど﹂
次いで太李に向けられたのはどこか呆れたようなじっとりとした
目だった。
﹁足に興奮するって発言についてはドン引きです﹂
はっとしたように太李が慌てて首を振る。
﹁ち、ちが、あれは勢いで!﹂
﹁じゃあやっぱり胸がある方がいいんだ﹂
﹁いや、ちが!﹂
わたわたと一人慌てる彼を心底楽しそうに巳令は見つめていた。
501
第二十四話﹁頑張ってるときに飲んだコーヒーは少しだけ苦かったようです﹂
昼休みの到来を知らせるチャイムを聞きながら梨花はふぅと息を
ついた。
筆箱の中にペンをしまっている最中に号令の声を聞いて、彼女は
慌てて立ち上がった。その手にシャーペンを握ったままだったのを
思い出してぽいと投げ出す。
号令に合わせてわたわたと頭を下げ、再度椅子に座り直した梨花
はまた深々と息を吐く。
﹁こら、りーか。可愛い顔が台無しだぞー?﹂
﹁わっぷ﹂
自分の首元に細い腕が回ってきたのを見て梨花はその腕をぽんぽ
んと叩いた。
﹁く、苦しいよぉキヨちゃん﹂
あははは、と腕を持ち主が笑い声をあげながら梨花から離れた。
半袖のブラウスのままではまだ暑いのか袖をまくりあげ、コンビ
ニの袋を担いだくせ毛のクラスメイトがにかっと笑う。
﹁ごめんごめん、また小難しい顔してるからちょっとほぐしてあげ
ようと思って。ま、悩んでる梨花も可愛いんだけどさー﹂
﹁⋮⋮キヨちゃんのばか﹂
すずもりきよ
﹁えー、そんな怒んなよー反省してっからさぁ﹂
そう言って梨花の目の前に座った彼女︱︱鈴森雪が両手を合わせ
ながら﹁ほら、このとーり!﹂と頭を下げた。
膨れっ面のまま、もう、と雪から視線を逸らした梨花はふらふら
と教室の扉の方へと歩いていく編み込み髪の少女を見つけて﹁あれ﹂
こずえ
と声をあげた。
ふぶき
﹁梢ちゃん、どこ行くの?﹂
梨花の言葉に振り返った風吹梢はぽけーっと若干垂れ気味の目で
梨花を見つめてからぼそっと﹁間違えちゃった﹂とだけ告げて梨花
502
と雪の元へとふらふら歩いてくる。
椅子を引っ張って雪の隣を陣取った梢は手を空中で泳がせてから
首を傾げた。
﹁私のカバンは?﹂
﹁アルパカよ、あっこのちみの席に掛かってるスクバはなんだい﹂
ほれと雪が指差す先は梢の席だった。その机の側面には紺色の通
学カバンが提げられている。アルパカとは梢のあだ名のようなもの
であった。
アルパカ︱︱もとい梢は目を丸くしながら首を傾げる。
﹁なんであんなところに﹂
﹁そりゃあんたが忘れてったからだろうに﹂
苦笑する雪に釣られて梨花はたまらず吹き出した。
雪と梢は梨花にとってはクラスの中でも特に仲のいい二人だった。
一年生の頃からこうして昼休みになるといつも一緒に昼食をとって
いる。最後の年に同じクラスになれてよかったと心の底から喜んだ
ものだ。
自分のカバンを抱えながら戻ってきた梢はごそごそとその中を漁
ってから眉を寄せた。
﹁大将、お弁当がないです﹂
その呼び名が一体どちらのことを言っているのかは分からなかっ
たがとにかく梢の昼食がないことだけは梨花も辛うじて理解した。
その言葉を聞いて壁にかかった時計をちらりと見上げた雪はふむ、
と顎に手を当てながらあんぱんに噛り付いた。
﹁今から行けばギリギリ購買でなんか買えるかもよ﹂
﹁⋮⋮お財布﹂
ごそごそとカバンの中に再び手を突っ込んでからがま口財布を取
り出した梢はぱこりと音を立てながらそれを開いて中を二人に見せ
る。
中に入っていたのは紙幣はおろか、小銭でもなく、大量の洋服の
ボタンだった。
503
﹁ええええ、な、なんでお財布の中にボタン?﹂
戸惑う梨花に構わず、がま口をしまった梢は﹁間違えちゃったみ
たい﹂とだけ答えた。
どうやったら間違えるんだよ、と雪は半ば呆れたものの梢にとっ
てはこれが日常だ。梢がどこか抜けているのは今に始まったことで
はない。
﹁ったく、世話が焼けるんだから﹂
はい、と雪は袋の中から焼きそばパンを取り出して差し出した。
﹁あげるよ。今度利子付けて返して﹂
それを両手で受け取った梢はじーっと焼きそばパンを見つめてか
ら﹁キヨ﹂と雪の名を呼んだ。
﹁なんだよ、いいって。友達じゃん?﹂
﹁私、焼きそばパンよりメロンパンの方が好きだなぁ﹂
﹁文句言わずにさっさと食え﹂
顔を引きつらせる雪に﹁キヨは短気なんだから﹂などと言いなが
ら梢は袋の中の焼きそばパンに噛り付いた。
もしゃもしゃと咀嚼する梢を見て、雪は頭を抱えてから﹁いいよ
なー、推薦組は気が楽でさー﹂と唐突に話題を進路に切り替えた。
むっと梢が唇を尖らせた。
﹁夏期講習は来たもん﹂
﹁そりゃそうだけどさ﹂
と、それから、﹁あり?﹂と首を傾げた雪はもぐもぐと一生懸命
弁当を口に運んでいた梨花に問いかけた。
﹁そういや、梨花、夏期講習来てた?﹂
﹁ふぇ!?﹂
箸を止め、大げさに驚く梨花に﹁あ、いや﹂と雪は言葉を続けた。
﹁夏の間、梨花見なかったなぁって思って。どっか悪かった?﹂
﹁いや、その、そういうわけじゃなくって﹂
軽く首を左右に振りながら視線を伏せた梨花は﹁その、就職しよ
っかなって﹂ええ!? 大げさなくらいに驚いたのは雪だった。そ
504
の声にびくっと梨花まで肩を跳ね上がらせた。
﹁そ、そんなにびっくりしないでよぉ!﹂
﹁だって⋮⋮てっきりあたしゃ、梨花は大学に⋮⋮﹂
﹁もう決まった?﹂
驚く雪を放ってマイペースに問いかけてくる梢に﹁んと、今、ま
さに﹂ほえぇ、と間の抜けた声が雪から上がる。
それから噛み千切ったあんぱんをパックの牛乳で流し込んでから
あ、と何か思い出したかのように彼女は顔をしかめた。
﹁あんたさ、もしかして例の﹃鈴丸さん﹄に変に感化されたんじゃ
ないでしょうね?﹂
雪と梢には当たり障りのない程度に自分の教官である鈴丸の話を
していたことを梨花は思い出した。無論、フェエーリコ・クインテ
ットのことなどは隠しつつ、あくまで知り合いのお兄さんとしての
話だし、九割は彼が自分に仕掛けてくる悪戯に関する愚痴にも近し
いものだった。それを聞いてか、それとも別の理由でか、とにかく
雪がどうやら鈴丸に対していい印象を持っていないらしいというの
を梨花は薄々感じていた。
﹁ち、違うよ、あたしが自分で決めたの﹂
まっすぐ雪を見返しながら梨花はそう言い返した。
確かに鈴丸やマリアの影響がまるっきりなかったといえば嘘にな
る。しかし、就職という進路自体、そもそもアシーナに誘われる前
から決めていたことで、最終的には自分の意思だ。
﹁⋮⋮ならいいけどさー。梨花っていい子だから凄い心配﹂
なぜか、どことなく悔しそうにそう言ってから雪は﹁どういう会
社に行くの?﹂
素直に傭兵になる、とはとても言えなかった。
﹁か、海外系のお仕事で⋮⋮﹂
﹁へぇ、グローバル。さっすが梨花﹂
感心したような雪は﹁お父さんたちなんて?﹂
一瞬だけ、梨花は言葉を詰まらせた。それから﹁うん、まぁ、そ
505
の、決めた進路ならいいんじゃないって﹂そっかぁ、と雪は笑った。
﹁でもさみしーな、そしたらこうやって会えるのも少なくなっちゃ
うかもね﹂
﹁うん⋮⋮﹂
こくんと頷く梨花に﹁こら、そんなしみったれた顔しないの﹂と
雪はデコピンした。
あう、と呻きながら額を押さえる梨花に今まで黙っていた梢が言
う。
﹁それはそうと、例の﹃鈴丸さん﹄って写真とかないの?﹂
突然、話題が鈴丸になったことに驚きながら梨花は﹁ないよ﹂と
首を左右に振った。
職業柄なのか、それとも元々の性格のせいなのか、鈴丸はあまり
写真に写りたがらない。反対にマリアはよく一緒に写真を撮りたが
るが。
とにかく、梨花の携帯電話には鈴丸の写真は一枚もない。それを
寂しく思ったことはあまりない。会いに行こうと思えば会えるから
だ。
﹁そっか、残念﹂
と梢が肩を落とすのを見ながら﹁梨花と射止めるんだからそりゃ、
それなりにイケメンなんだろうけど﹂あわわと慌てて梨花は訂正し
た。
﹁い、射止めるってなにそれ! そういうんじゃないんだってば!﹂
﹁ふぅん?﹂
にやにやと笑いながら雪は﹁りかわいいなぁ﹂びくっと梨花が肩
を揺らす。
﹁な、なんでそれ⋮⋮﹂
﹁あーこの間梨花の後輩の子が言ってたから教えてもらっちゃった﹂
えへへ、と笑う雪に梨花はよもぎの仕業か、と頬を膨らませた。
不機嫌顔の梨花に構わず雪は続ける。
﹁でもさ、梨花。顔にだけ惑わされちゃ駄目だかんね。いざってな
506
ったらあたしんとこ連れてくるんだよ。梨花を幸せに出来ないよう
なろくでなしだったらぶん殴ってやるから﹂
﹁もー、キヨちゃんったら⋮⋮﹂
満更でもない気分になりつつも、梨花の心はほんの少しだけ、憂
鬱だった。
﹁ぶぁっしょん!﹂
休憩所の中に響く鈴丸のくしゃみの声にうとうとと眠りかけてい
たマリアの意識が無理やり引き戻された。
ソファが落ちそうになりながら目を擦ったマリアは﹁あー⋮⋮ち
くしょうめ⋮⋮﹂と口元を押さえている鈴丸に首を傾げた。
﹁んだよ鈴、風邪か?﹂
﹁ちげーよ﹂
﹁だよな、筋肉馬鹿が風邪引くわけねーもんな!﹂
けらけらと明るく笑うマリアに﹁ぶん殴られたいか﹂と鈴丸は舌
打ちした。ぶーっとマリアが唇を尖らせる。
﹁怒んなよ﹂
﹁お前が余計なこと言うからだろ﹂
鈴丸の言葉におーこわ、と茶化すようにマリアがソファから起き
上がった。
それから後ろの銀髪に触れて、その髪がまとめられていないこと
に気付くと近くにある机に置いてあったクシを手に取って銀髪に通
した。
上機嫌な鼻歌交じりにブラシが柔らかい銀髪を梳いていく。紡が
れている歌が讃美歌だということに鈴丸はすぐに気付いた。
白い手に流れる白銀の髪は照明を反射しながらきらきら輝いてい
る。ある程度好き終えたところでポケットに片手を突っ込んで髪ゴ
ムをくわえた。頭の後ろで器用に銀髪を三つ編みにしていく彼女を
507
見ながら鈴丸は溜め息を吐いた。
これだけ見ればマリアが聖職者だと言われても納得してしまいそ
うな自分がいる。
もっともその感想を鈴丸が口から出すより早く、開いた扉の奥か
ら出てきたベルの声が響いた。
﹁廊下まで響いてたけどなぁに? くしゃみ?﹂
不思議そうに自分を覗き込むベルに鈴丸は﹁ん、まぁな﹂とだけ
返した。
﹁嫌ねぇ、誰かに噂されてるんじゃない?﹂
くすくすと笑うベルに﹁まっさかぁ﹂と返したのは鈴丸、ではな
く今まさに三つ編みをまとめ終えたマリアだった。
﹁鈴の噂する物好きなんていねーだろ﹂
﹁それもそうね﹂
ベルの言葉にぴくぴくと眉を動かした鈴丸はすたすたとマリアの
元へ歩み寄った彼はそのまま握り拳を彼女の頭の上に振り下ろした。
いっ、と顔を歪めたマリアがそこを押さえた。
﹁いってぇ! 何しやがる! 益海じゃあるまいし!﹂
﹁うっせぇクソガキ﹂
﹁て、てっめぇ⋮⋮! 言っとくけどあたしはもう二十歳なんだか
らな! ガキじゃねぇ!﹂
﹁そういう歳にこだわってるとこがいちいちガキだって言ってんだ
よ! クソガキが!﹂
﹁うるせぇクソジジイ!﹂
﹁うーるーさーい!﹂
耳を押さえながらわざとらしく顔を歪めるベルは両手を腰に移動
させると﹁全く﹂と呆れたように告げる。
﹁どうしてあなたたちってそうやって仲良くできないの? マリア
なんて前は大人しくて可愛いもんだったのに﹂
﹁あ、あれは⋮⋮生意気するとクビになるとかダチが言うから﹂
ぶつぶつと不満げに口を尖らせるマリアにぷ、と吹き出した鈴丸
508
が裏声で言う。
﹁柊・マリア・エレミー・惣波ですぅ、至らぬ点もあるかと思いま
すがぁよろしくご指導くださいぃ﹂
はじめて彼女に会ったときの挨拶の真似らしい。
びきっとマリアに青筋が浮かんだのがベルには分かった。しかし、
怒鳴ることはせず、
﹁ありがとぉごっざいましたぁ?﹂
いつぞやの鈴丸の接客を真似た言葉だというのはすぐに二人に分
かった。
だんっと机に手を叩きつけながら鈴丸が叫ぶ。
﹁前から言おうと思ってた! それ似てねぇから!﹂
﹁ああ!? お前のも似てねぇよ! あたしはあんなんじゃねぇ!﹂
﹁銃の才能くらいしかないくせに!﹂
﹁うっせぇな万能野郎!﹂
﹁やめなさい!﹂
バンバンと机に叩きながらベルが鋭く叫ぶ。
ぴたっと二人が動きを止めるのを見て﹁あなたたちがそんなこと
でどうするの⋮⋮﹂とベルは頭を抱えた。
そのとき、﹁ベルガモット主任待遇﹂と後ろから声がかかった。
そこに居たのは若い職員だった。
怒鳴られたところを人に見られたのが恥ずかしく思ったのか頬を
押さえながらベルは誤魔化すように笑った。
﹁あ、あら、なにかしら?﹂
﹁アシーナ本部の方からお電話です﹂
すっと差し出される受話器を受け取りながら﹁どうもありがとう﹂
とベルは冷静ぶった声を返した。
頭を下げ、立ち去って行く職員を見送ってから誰だろうかと内心、
首を傾げながら﹁もしもし﹂と受話器に向かって話しかけた。
﹁ようベルガモット。元気かい?﹂
聞こえてきた流暢な日本語にベルはうんざりしたように顔を歪め
509
た。
溜め息を吐きながら机の真ん中に受話器を置いて、スピーカーに
切り替えてから彼女は腕を組んだ。
﹁なんの用よ、ミハエル﹂
げ、とマリアが身を引いた。
不機嫌そうなベルの声にははっと彼女の上司、ミハエル・アウレ
ッタは乾いた声をあげた。
﹁相変わらずだな、ベルガモット﹂
ミハエルはベルとマリアがもっとも苦手とするアシーナのトップ
であり、鈴丸の育ての親でもある。うんざりしていることを隠しも
せずにベルは告げる。
﹁あなたの声なんて聞きたくもないわ﹂
﹁冷たいなぁ、俺は君の細い足が恋しくて仕方ないけど﹂
﹁うるさいわよセクハラ親父﹂
相手に聞こえるように溜め息を吐いて、どかっと椅子に座るベル
に構わず鈴丸が言う。
﹁いいニュースか悪いニュースかだけ言え﹂
一拍置いてからミハエルは楽しそうに告げる。
﹁坊主は短気だなぁ﹂
﹁生憎、組織の上でふんぞり返ってるお前と違って現場の人間は死
ぬほど忙しいんだよ﹂
﹁どうせマリアと喧嘩してただけだろ﹂
ミハエルの言葉に鈴丸は顔を引きつらせ、辺りを見渡した。
﹁見てたのか?﹂
﹁見なくても分かるさ﹂
そう言ってからミハエルは仕切り直すかのように続ける。
﹁恒例だ、いいニュースと悪いニュースがある﹂
﹁勿体ぶらねぇでいいニュースから聞かせろ﹂
不機嫌そうなマリアの声に笑い声をあげてから﹁リカ・トウテン
コウの採用が上層部に正式に認められた﹂おお、とマリアが身を乗
510
り出した。
﹁マジかよ﹂
﹁ま、当然だな﹂
ふん、と顔を逸らしながら鈴丸がきっぱり言い放った。
﹁金は積めよ﹂
ははは、とまたミハエルが渇いた声をあげる。
﹁坊主ならそう言うと思っていた。とにかく、他の手続きはベルガ
モット、お前と坊主で進めてくれ﹂
﹁分かったわ﹂
それからベルガモットは少しだけ気が重そうに問う。
﹁悪い方は?﹂
﹁ベルガモット、お前の昔の職場を少しだけ洗ってみた﹂
ぴくっと三人が動きを止める。少し間を空けてから、彼は続けた。
﹁残念ながら﹃聖護院麗子﹄という女はいなかったよ﹂
そう、とベルは小さく返すことしか出来なかった。
予想はしていた。もし元自分の職場にいた人間ならばそもそも忘
れてしまった、資料が見つからないなどあるはずがない。
けれどあのトレイターは確かに自分を知っている。そしてマリア
に名乗った﹃聖護院麗子﹄という名前に何か引っ掛かりを感じてい
たベルもいる。
﹁話は以上だ。近いうちにまた俺も日本に行くよ﹂
﹁二度と来なくていいわ﹂
﹁最後まで冷たい奴だ。美人なんだから少しは愛想よくしとけ﹂
﹁ご心配なく、あなたにしかこんな態度とらないわ﹂
﹁ジャパニーズツンデレ?﹂
﹁ノーよ。早く仕事しなさいよ、セクハラ親父﹂
彼女はしっしっと相手に見えていないのを分かっていながら手を
振り払う動作をする。
﹁幸運を祈ってるよ﹂
﹁グラシアス﹂
511
ベルの返しを聞いて、ああ、ミハエルはスペインにいるのかなど
と鈴丸は呑気に考えた。
放課後、久々にやってきた陶芸室の前で南波は硬直していた。
理由は簡単だった。その場から動けなかったのだ。
南波の周囲をぐるぐると梨花がよもぎを追いかけまわしている。
﹁もーよもぎさん! あたしのお友達に変なこと言わないでよぉ!﹂
﹁変なことってなんすか、自分はただ聞かれたからお答えしただけ
ですよー﹂
﹁鈴丸さんもそう言ってたぁ!﹂
自分が怒っているのも意に介さずにけらけら笑いながら逃げ回る
よもぎを梨花はひたすらに追いかけ回した。
時々おちょくるようにくるっと梨花の方に振り返ってはえへへと
笑うよもぎが今日の梨花の目にはひたすら憎らしい。くるくるとす
ばしっこく逃げ回る様を見ながら南波には、しばらく解放して貰え
そうもないと諦めにも近い感情が芽生え、それがカバンの中から文
庫本を取り出させた。
﹁よもぎさんのそういうとこあたし嫌い!﹂
﹁あはは! そうですか春風は梨花先輩のこと大好きですよ!﹂
﹁そ、そりゃあたしだってよもぎさんのことは基本的に好きだけど
⋮⋮ってそういう話してないでしょ!﹂
﹁でも先輩は春風より鈴さんの方が好きだしなー﹂
﹁ななな、なんでそこで鈴丸さんが出てくるのぉ!﹂
﹁またまたぁ。真っ赤な梨花先輩もかわいーなー﹂
﹁よもぎさん!﹂
きゃーきゃーと二人分の悲鳴に耳を傾けず、南波の手は機械的に
本のページをめくる。
三ページほど進んだあたりでようやく﹁何やってるんですか﹂と
512
いう二人の悲鳴以外の声が南波の鼓膜を揺らす。
﹁あ、灰尾先輩こんちゃーっす! もう梨花先輩鬼かわなんですよ
!﹂
﹁も、もう! 灰尾くん聞いてよ! よもぎさんったらね!﹂
追いかけっこは続行しながら自分に話しかけてくる二人に太李は
顔を引きつらせる。
﹁とりあえず二人とも落ち着いて﹂
ちぇ、とわざとらしく言いながら、よもぎはその言葉に従って足
を止めた。
が、梨花の方は急に止まれなかったようで足をもつれさせながら
﹁むぎゅ﹂と奇妙な声をあげてよもぎの背に抱き着いた。うう、と
よもぎにぶつかった鼻を痛そうに押さえながらぽかぽかと梨花がよ
もぎを叩く。
﹁なんでそうやってあたしのことからかうの﹂
﹁からかってるつもりはないんですけどね?﹂
くすくす笑うよもぎにぷーっと頬を膨らませた梨花は目の前の入
り口に手を掛けて、がらりと開いた。
﹁もう知らない!﹂
ずんずん中に入って行く彼女の後ろ姿を見て﹁あちゃー怒らせち
ゃった﹂とよもぎは肩をすくめた。それに呆れたように太李が言う。
﹁あのね、よもぎちゃん﹂
﹁それより、灰尾先輩、みれー先輩はどうしたんすか? また喧嘩
?﹂
﹁またとか言うな。違う、ただの掃除当番﹂
﹁ちっ﹂
﹁おい南波なんでお前今舌打ちした﹂
ぱたんと本を閉じた南波は﹁したか? そんなの﹂としらばっく
れるだけだった。
何を言っても無駄だ。何かを言いかけてから結局諦めた太李はさ
っさと工芸室の中に入った。
513
それから巳令が部室に入ってきたのは十分ほど後のことだった。
彼女はカバンを抱えながらこんにちは、と形式的に挨拶しつつ目
の前の光景に視線を奪われていた。
﹁何してるんですか?﹂
梨花に頬をつねられているよもぎがそこには居た。
むにーっとよもぎの両方を引っ張りながら﹁なんでもない﹂と視
線を逸らした梨花はやっとその手を彼女から離した。
﹁いてぇえ⋮⋮﹂
両頬をさすりながら席に着いたよもぎを見てから梨花は息を吐い
て、全員に向き直った。
柚樹葉はその場にいなかったが今回は仕方ないことだ。彼女は今
もチェンジャーの強化に忙しいことだろう。
﹁そ、そんなわけで、夏休み明け最初の部活です!﹂
なぜか胸を張る梨花の言葉にわーっとどこか気の抜けた返事が返
ってきた。
しかし、特にそれに気を悪くしたわけでもなさそうに梨花は背中
を向けていた黒板に駆け寄るとレールからチョークを拾い上げてそ
の先を黒板の上に走らせた。
白い粉を吐き出して、削れながらチョークは﹃文化祭について﹄
という文字を書きだした。
﹁ああ、そういえばそんな時期でしたね﹂
ぽんと手を叩く巳令にうん、と梨花が頷いた。
神都高校の文化祭は十一月の初めごろに開催される。周辺の学校
が十月の真ん中や終わりごろにやっているのに比べて、遅い方の開
催ではあるものの毎年、地域的に盛り上がりを見せる。神都高の学
校をあげての最大のイベントといっても過言ではない。
そのため、生徒たちもある程度のモチベーションをもって挑んで
いる生徒が多いのだ。それこそ、本格的な準備を夏から始める団体
514
も多い。
それゆえに、夏休み最初の部活というタイミングで、この話が出
てきたことはある意味では自然なことだった。
﹁といっても﹂と梨花はへにゃりと笑った。
﹁実際、作品展示するだけだからそんなに深刻にならなくてもいい
んだけど⋮⋮﹂
﹁でもなんだかわくわくしますね、文化祭﹂
﹁そうか?﹂
目を輝かせるよもぎに南波が冷たく返した。そうですよぉ、と彼
女は間延びした言葉を返しながら机に突っ伏した。
高校に入学してはじめての文化祭、期待も大きいのだろうかと太
李は思った。自分も転校して来てはじめての文化祭だ、前の学校と
はまた違うのだろうかと楽しみにしている自分がいるのは隠しきれ
ない事実だった。
﹁あ、そうだ、灰尾﹂
﹁ん?﹂
﹁文化祭、一緒に回りましょうね﹂
巳令にとびっきりの笑顔を向けられて、太李は思わず黙り込んだ。
数秒間を空けてから、気恥ずかしさから視線を逸らしつつ﹁お、
おう﹂と返した。まだまだ先のことだというのにまた楽しみが増え
てしまった。
﹁バカップルめ﹂
﹁ご馳走様です﹂
南波とよもぎから連続して投げ掛けられる言葉に﹁そんなんじゃ
ねぇって!﹂と太李は反駁した。
一連の様子を見ながらくすくす笑みを浮かべ、梨花は楽しそうに
目を細めていた。
ああ、自分が欲しかったのはこんな居場所なのかもしれない。今、
ここに立っている自分に対して梨花はほんの少しだけ誇らしさを抱
いていた。
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そのとき、彼女のポケットに入っていた携帯電話が小さく揺れる。
梨花は首を傾げながらそれを取り出して応答した。
﹁もしもし?﹂
﹁あ、梨花? 俺だけど﹂
はっとしたように梨花は声の主がその場にいるわけでもないのに
顔を引き締めた。
﹁す、鈴丸さん⋮⋮﹂
珍しい。ぎゅっと携帯電話を握りしめていると彼は﹁あ、悪い。
今部活中だよな﹂と取り繕うように言った。ふるふると首を左右に
振る。
﹁いえ、あの、何か?﹂
﹁んー、今から会えないかなって﹂
恋人のような台詞だ。まるで逢引に誘うかのよう。
そう思った瞬間、動揺のあまり、梨花の手からは携帯電話がこぼ
れ落ちた。
﹁梨花先輩!?﹂
巳令の声にはっとした梨花は﹁だ、だいじょぶ、大丈夫!﹂と慌
ててしゃがみ込んで携帯電話を拾い上げた。
彼女は勢いよく謝罪の言葉を口にする。
﹁ご、ごめんなさい!﹂
﹁いや、なんかあったか?﹂
﹁な、なんでもにゃいれふ!﹂
噛み噛みになってしまった言葉を言い直す余裕すら今の梨花には
ない。
朝にキヨちゃんとさっきはよもぎさんが余計なことを言ったせい
だ、と火照る頬を押さえながら﹁あの、あたし、何か?﹂と問いか
けた。
﹁何かってわけでもないんだけど﹂
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一拍置いてからスピーカー越しの声は続けた。
﹁ちょっとお前の進路の話。手短にするから﹂
やっぱり相手には見えないのに、梨花は小さく頷いていた。
後輩たちに部活を任せて、梨花がやって来たのは最寄駅から少し
歩いたところにあるカフェだった。
ビルの三階に造られたこじんまりとしたカフェだった。漂ってく
るコーヒーの香りに梨花は少しだけ気後れした。
カウベルの音を聞いて﹁いらっしゃいませー﹂と駆け寄ってくる
店員に待ち合わせだということを伝えながら辺りを見渡した。鈴丸
は存外、すぐに見つかった。
窓際の席で午後の日差しを浴びながら彼は穏やかに眠っていた。
整った寝顔にはどこか踏み込むことを躊躇わせるような雰囲気すら
持っていた。机に置かれた空のカップに入っていたのであろうコー
ヒーは眠気覚ましとしては役割を果たせなかったらしい。
梨花が数歩近づくと鈴丸はまだ重たそうな目をかすかに開きなが
ら﹁よう、梨花﹂とだけ小さく呼びかけた。
﹁あ、えと、おはようございます﹂
微笑みながらそう言った梨花に鈴丸は続けた。
﹁悪いな、急に呼び出して﹂
﹁いえ、そんな﹂
﹁⋮⋮とりあえず、座れよ﹂
ん、と目の前の席を促されて失礼しますと断りを入れながら梨花
はようやく椅子に腰を下ろした。
﹁コーヒーでいい?﹂
﹁え、あ、はい﹂
その間、どこかぎこちなく頷く梨花に鈴丸は苦笑しながら近くに
いた店員に呼びかけた。
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梨花はやっぱり落ち着かなかった。そもそもこういう店に来るこ
と自体、さほど多いわけではない。まして、座っているのは老夫婦
や大学生らしき若い男女などばかりで制服姿の高校生の姿などない。
場違いではなかっただろうかと少しだけ不安になる。
それを拭い去るようにすぐに鈴丸の視線は店員から梨花へと戻っ
ていた。
﹁そんなにビクビクするなって。とって食うわけじゃあるまいし﹂
店員が空になったカップを回収して、カウンターの方へと戻って
行く。その後ろ姿を見送りながら﹁はい﹂と梨花は頷くだけだった。
二人の間に訪れたのは梨花にとってはなんとなく気まずい沈黙だ
った。梨花の方は鈴丸から話題が振られるのではないだろうかと身
構えて、下手な話題を口にはしなかった。ところがその鈴丸も、黙
り切ったままだったので結果としては二人の間には一切の会話は生
まれなかったのである。
やがて、若い女の店員が湯気が立ち上る白磁のカップ二つを持っ
てやって来た。中に入った茶褐色の液体を揺らしながら手早く二人
の前にカップを並べた店員はちらりと鈴丸の方を一瞥してからごゆ
っくりと頭を下げた。
やっぱり見ちゃうよね、などと考えながらガラス製の砂糖入れの
中から角砂糖を取り出してカップの中に放り込んだ。鈴丸が世の中
で言うところの美男に当たるのは梨花にだって分かる。添えられて
いたコーヒーでくるくると混ぜてからはふ、と梨花は溜め息を吐く。
鈴丸はその視線を特に気に留めた様子もなく、カップを持ち上げ
て口元へ運んでいた。その姿すら様になる。じーっと彼を見上げな
がらやっと梨花もカップの縁に口をつけ、ちびちびと中身を口の中
に流し込んだ。
久々に飲むコーヒーは嫌に苦く感じた。こんなことなら紅茶にし
ておけばよかったなと若干後悔しているとわずかに動いた彼の目と
自分の目が合ってしまった。
梨花は悲鳴をあげたくなった。変な子だと思われたに違いない。
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目を逸らさなければと思っているものの、しかし、どういうわけか
絡み合った視線はそう簡単に外れようとはしなかった。
ただカップを傾けながら硬直する梨花を見て、ふわと微笑んだ鈴
丸はやがて、確認するかのように一言だけ告げた。
﹁可愛い﹂
顔を歪めた梨花がカップを慌てて口から離す。コーヒーが気管に
入り込んで、咽るかと思った。
そっとカップを机に置きながら反論しようと口を開きかける梨花
を押し付けるように鈴丸は言葉を続けた。
﹁そう、そうなんだよ、お前はすっごく可愛い。困ったことに本当
に可愛い﹂
﹁あの﹂
﹁なろうと思えばお前はアイドルにだって、グルメレポーターにだ
ってなれる﹂
まっすぐ梨花を見返しながら﹁だから、本当は駄目なのに、お前
を傭兵にしたくないと思ってる俺がいる﹂
彼に言葉に梨花はすっかり黙り込んだ。心のどこかで分かってい
たのだ。ベルやマリア、ミハエルと違って、鈴丸は自分がアシーナ
に入ることを決して快くは思っていないことを。
それは商売敵が増えるからでも、梨花が邪魔だからでもない。恐
らくは自分を純粋に心配してくれているのだろう。
分かっているからこそ、梨花は反論する言葉を用意できなかった。
﹁梨花に覚悟がないとか、そういう話じゃないんだ。お前はちゃん
と分かった上で言ってるし、俺もそれは分かってるつもりだし。た
だ﹂
やっと目を伏せながら鈴丸は小さく言う。
﹁お前は、絶対にアシーナからは歓迎されない﹂
日本の高校から出たばかりの小娘をきっと自分の同僚連中は快く
は思わないだろうと鈴丸は思っている。
マリアのときが、そうだった。いくら技術があったとしても、ベ
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ルが認めて連れて来たのだとしてもいい顔をする存在ばかりではな
かった。自分のときだってそうだ。
それどころか、自分より仕事のできる存在を疎ましく思う。そう
いう人間だって組織の中にはいる。
まして、それが梨花になったら。どうなるかなど火を見るより明
らかだった。目の仇もいいところ。格好の餌であろう。そしてそれ
を表面上で止めることはできても本質的に止めることは彼にはまず
できない。全員の上に立つミハエルにすらどうにもできないだろう。
﹁俺は、アシーナの中にはお前の居場所は作ってやれない﹂
だから心配なんだ。そう続いたように梨花には思えた。
少しだけ熱を失ったコーヒーをまたちびちび飲みながら梨花は本
当に小さく、口元で笑みを浮かべた。
﹁す、鈴丸さん﹂
﹁ん?﹂
﹁居場所がないなら、手に入れれば、いいんですよね﹂
珍しく、驚きという感情を前に出しながら鈴丸は梨花を見返した。
それでも彼女は構わず言う。
﹁大丈夫! あたし、自分の居場所は自分でも、もぎ取りますから
!﹂
それを聞いて、鈴丸はたまらず、といった様子で吹き出した。
自分はやっぱりおかしなことを言っているだろうか梨花がつい不
安になっていると﹁そうだったな﹂と鈴丸は梨花の頭をぽんぽんと
撫でた。
はじめて会ったときから変わっていない。梨花は気弱なようで、
実は誰よりもたくましく、誰よりも強引なのだ。すっかり忘れてい
た。鈴丸は自分の怠惰を心の中で叱責した。恥ずかしさすら感じる
ほどだ。
俺が心配しなくても、こいつは大丈夫なのだ。
恥ずかしそうに顔を俯かせる梨花に﹁お前は、やっぱり強いよ﹂
と鈴丸が苦笑した。
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言葉を返そうとしたとき、彼女はそれを飲みこむことになった。
﹁ブェナスェルテ﹂
ぽつっと鈴丸が呟いた言葉に梨花は首を傾げた。英語ではないの
は分かったが、一体どこの言葉なのかは分からなかった。
﹁スペイン語で、﹃幸運を祈る﹄って意味。向こうじゃ頑張ってる
人間に﹃頑張って﹄とは言わないんだ﹂
笑いながら鈴丸はさらに、
﹁お前はもう十分すぎるほど頑張ってるからな﹂
照れくさいやら、嬉しいやらで梨花の胸はいっぱいになった。
んきゅ、と梨花がすっかりカップの中身を飲み干した瞬間、彼女
の鼓膜をどさりという鈍い音が揺らした。
音のした方を見ると先ほどの店員が床に倒れ伏していた。
否、その店員だけではない。客も、他の店員も、皆、その場でぐ
ったりと顔を歪めながら倒れているのだ。先ほどまで眩しいくらい
入り込んでいた太陽の光はもう見えなかった。
﹁す、鈴丸さん﹂
梨花の呼びかけには答えず、自分もコーヒーを飲み干してから紙
幣を一枚、ソーサーの下に置いた。三杯分のコーヒー代にしては一
万円は少し高かったが、何せ手持ちにこれしかなかった。彼は席の
すぐ近くにあったバルコニー席へと繋がるガラス扉を開き、躍り出
る。
手すりに身を乗り出し、下の方に見つけたのはドレスを着て、め
かしこんだ女だった。
その様子は尋常ではない。地面を蹴りながら、一人でくるくると
動き回っている。踊っているようだと鈴丸は思った。
同時に、気付く。
﹁γか﹂
厄介だな。今この場には太李も巳令もいない。いたとしても、巳
令の方は強化変身は行えない。
しかし、梨花はぎゅっと唇を噛み締めながらじーっと下を見つめ、
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やがて決心したように一つ息を吐いた。
﹁よっし!﹂
その一声と共に、梨花は申し訳程度だった手すりを乗り越えて下
へと迷わず飛び降りた。
途端、彼女の体を薄桃色の光が包み、三階の高さから両足を綺麗
につけて着地していたのは親指姫姿の梨花だった。
﹁ほんと、大した女だよ﹂
自分に向かってきていたカラスを一匹、懐に隠し持っていた銃で
撃ち落としながら鈴丸は呆れ半分、感心半分で呟いた。
恐らく他のメンバーはすぐに来てくれるだろう。それまでとにか
く持たせなければ。
斧を握ろうとしてから梨花はそれを取りやめた。γ型は下手に傷
つけられない。自分の武器では駄目だ。
一度拳を握りしめてからまだくるくると踊り続ける相手に向かっ
て踏み込んだ。
間合いを詰め、梨花が拳を突き出した。γ型はひらりと身を翻し
てそれをかわした。外れたと分かるや今度は足を振り払うもこれも
駄目だった。
ステップを取りながら彼女の攻撃をかわしていく。カツカツとハ
イヒールの音が規則的なリズムを紡ぎながら響く。
γ型はくるくるとその場で何度も回転してから嘲笑うかのように
拳を突き出した。それを受け止めていると今度は上げられた膝が梨
花の腹部に叩き付けられた。
わずかに顔を歪める梨花にγ型の足が伸びて、そのまま蹴り飛ば
す。
﹁あ⋮⋮!﹂
呻き声と共に梨花の体が吹っ飛ばされた。
しかし、その体が壁や地面に叩き付けられることはなかった。
﹁捕まえた﹂
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少しだけ後ずさりながら誰かが梨花の体を受け止めていた。誰が、
と確認しようとしてから視界に入り込んだ九尾服にぞわりと背筋が
寒くなった。
そこに居たのはキリギリスだった。
﹁トレイター⋮⋮! は、離して!﹂
ぐっと体に力を込めるも思うように彼は引き剥がれない。
笑みを携えたまま、キリギリスは梨花の耳元で囁いた。
﹁一人ぼっちの親指姫に何ができるっていうのかなぁ?﹂
ぎりっと奥歯を噛み締めながら、彼女はキリギリスを睨み付ける。
ははっと乾いた笑い声がその場に響いた。
﹁そんなに可愛い顔で睨まないでくれよ﹂
そう言ったキリギリスの頬を、鉛弾が掠める。
つーっと自分の頬に血が流れるのを無視してゆらりとキリギリス
は銃弾が飛んできた方向へ振り向いた。
﹁あっぶね﹂
﹁親指から手を離せクソ変態野郎が﹂
いつの間にか、下に降りてきていた鈴丸が銃口をキリギリスから
離さずに吐き捨てた。
﹁せっかくお話中だったんだから邪魔しないでくれよ﹂
﹁ふざけんなこっちはお前らにデート邪魔されてんだよ﹂
苛立ちを隠すようにすらない鈴丸にくすくす笑いながらキリギリ
スは告げる。
﹁いいの? こんなに動き回るのは君の理念に反するんでしょう、
蒲生鈴丸﹂
﹁さあ﹂
弱々しく笑いながら彼は小さく言った。
﹁どうだったかな﹂
瞬間、きらりときらめいた何かがキリギリスの首元に当てられた。
小さく舌打ちしながら彼は梨花を離し、後退する。
その場に咳き込みながら座り込む梨花に駆け寄ったのはすでにい
523
ばらに変身を終えたよもぎだった。
﹁親指先輩! 大丈夫ですか! 変なことされてませんね!﹂
﹁う、うん⋮⋮﹂
こくりと頷く梨花を﹁よかったぁ﹂とよもぎは抱き締めた。
キリギリスの首元に刀を向けていた巳令も小さく息を吐いた。安
堵の吐息だった。そんな様子を見ながらキリギリスは背後に違和感
を感じて身をよじった。
﹁おらぁ!﹂
﹁ふん!﹂
太李のレイピアと、南波の槍が彼が居た場所を突いた。思わずキ
リギリスは舌打ちした。
そのキリギリスにさらに一発、銃弾がぶち込まれた。撃ったのは
鈴丸ではない。
﹁よう、クソジジイ。弾ぁ足りてるか﹂
銀髪を揺らしながら自分に振り返ったマリアにはっと鈴丸は笑う。
﹁足りてねぇ、早くよこせ﹂
﹁ったく、それが物頼む態度かよ﹂
ちらりと鈴丸の銃を確認してから予備弾倉の一つを彼女はくれて
やった。
それから梨花の方に駆け寄ると﹁悪いな遅れて﹂ぽんと彼女の肩
を叩く。ふるふると梨花は首を左右に振った。
﹁来てくれるって﹂
﹁信じてたとか言うなよ。むずかゆいから﹂
けらけら笑ってからマリアはカーゴパンツのポケットに手を突っ
込んで小さな箱を取り出すと、とんと梨花の前に置いた。
﹁これ⋮⋮﹂
﹁悪いね、梨花。彼らが遅れたのはそれが原因だ﹂
通信機越しに、聞こえてきた柚樹葉の声にふふっと梨花は笑った。
ひらりひらりとよもぎの矢を交わしていくγ型を睨み付け、梨花
は立ち上がった。
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箱を開けば、予想通り、そこにあったのは桃色の石のついた指輪
だった。左手の薬指にはめながら﹁柚樹葉さん﹂いいねぇ、と柚樹
葉の声が響く。
﹁それでこそ東天紅梨花だよ﹂
その言葉と共にまばゆい光が彼女を包んだ。思わず目を瞑る。
目を開けると﹁わぁ﹂と手を叩いた。
桃色中心のドレスから一変して白を基調にしたドレスだった。シ
ルエットは全体的には相変わらずふわりと大きいものだったが腰辺
りはきゅっと絞められて先ほどのものとはまた違う。左右に大きく
広がったスカートの裾は薄く桃色だった。
そのドレスを大きな花やフリルが装飾する、まさに﹃可愛らしい﹄
ものだった。
白い手袋のはまった指先を見ながら﹁可愛い⋮⋮﹂と梨花は呟い
た。
﹁やっぱり君によく似合うよ﹂
楽しそうな柚樹葉の声に反論しようとも思ったが彼女はそれを取
りやめた。
がすんと鈍い音を立て、目の前に落ちてきた武器に目を奪われた
からだ。
大きく丸い殴打部分から伸びる桃色の柄。それが巨大なハンマー
だということに梨花が気付いたのはすぐだった。
﹁⋮⋮よし!﹂
気合をいれ直してから梨花はハンマーの柄に手を伸ばし、軽々と
持ち上げた。
ふらつきもせず、もう一度γ型を視界に捉えなおしてから彼女は
一気に踏み込んだ。
一瞬だった。ほんの一瞬で間合いを詰めた梨花は地面を蹴り上げ
て、急上昇した。
﹁ふりゃあああ!﹂
下降しながら振り下ろされたハンマーの殴打部分が直撃する。た
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まらず、倒れ込んだγ型の姿が徐々に普通の洋服に戻って行く。
ころりと、赤いハイヒールが脱げた。
舌打ちしながら自分に向かってきていた南波を蹴り飛ばし、キリ
ギリスはその場を去った。
翌朝、教室に入った梨花を一番に迎え入れたのは雪だった。
﹁おっはよー梨花ー!﹂
﹁わっぷ﹂
上機嫌にぎゅーっと抱き締められて恥ずかしいのだがいつものこ
となので半ば諦めるように﹁おはよう﹂とだけ梨花は返した。
うー可愛いなーこんのー、とすりすり自分の頬を梨花に押し付け
てくる雪に彼女は苦笑しつつ告げる。
﹁キヨちゃん﹂
﹁んー?﹂
﹁あたし、が、頑張るよ﹂
きょとんと、雪は梨花を見返した。
それから﹁よくわかんないけど﹂とぎゅーっと梨花を抱きしめ直
した。
﹁頑張れよー。いざとなったらキヨちゃんが悩み愚痴くらい聞いて
しんぜよう﹂
﹁ありがと﹂
梨花と雪がえへへと笑い合う。
﹁それじゃ恋の悩みとかないのかな梨花くぅん﹂
﹁えー、な、ないかな﹂
﹁じゃあ鈴森家に嫁に来るかー!﹂
﹁行きません﹂
ちぇ、釣れないんだからと雪は唇を尖らせた。
あと少ししたら自分は一度は居場所を失うかもしれない。
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﹁おはよぉ﹂
﹁お、おっすアルパカ﹂
﹁って、こ、梢ちゃんそっち教室違う!﹂
別方向に向かっていく梢に叫びながら梨花は笑みを浮かべた。
それでも不思議と、怖いと感じないのは何故だろうか。
その疑問が解消されるのはしばらく先かもしれない。梨花は理由
もなくそう思っていた。
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第二十五話﹁それでも図書委員は後悔してしまったようです﹂
九月なのに日差しが強かった。宗本和奈はスクールバッグを担ぎ
ながらふぅ、と額に滲んだ汗を拭った。
遠くから蝉の声が聞こえてくる。夏休みが明けたのだという自覚
は一向にやってこなかった。
昔なら自分の幼馴染がそんなことでどうすると小突いてくれたも
のだがそれをしてくれた彼も今は遠い学校に通っている。
少しだけ寂しいな、と思いながら通学路を進んでいると彼女の耳
に自動車のエンジンの音や蝉の声、同じ学校の生徒たち以外の声が
聞こえてきた。
にゃあ、とどこからか愛らしい声が聞こえてくる。振り返ってか
ら、和奈は思わず笑みを浮かべた。
﹁猫ちゃんだー﹂
そう言いながらぱたぱたと和奈は住宅の外壁に駆け寄った。
薄墨色の雑種の猫が短い尻尾を揺らしながら和奈を見つめていた。
にゃあ、とまた一声鳴いた。
短い舌を自分の手に伸ばしてからその手でてしてしと自分の頭を
撫でつけた。
﹁あはは、かーわーいーねー﹂
当然だろうとばかりにまたにゃあと猫が鳴いた。
﹁お前全然逃げないねー、人馴れしてるのかな? どこの子?﹂
自分の方に頭を突き出してくる猫の頭に和奈の手が触れた。猫は
逃げるどころか気持ちよさそうに目を細める。
首に首輪はついていなかった。
﹁野良なのかい?﹂
和奈が問いかけても猫はにゃあと鳴くだけだった。むぅ、と彼女
は唸った。
﹁私猫語わかんないからなぁ﹂
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﹁にゃあ﹂
﹁にゃー﹂
猫の頭を撫で続けながら和奈はそんな風に声真似してみせるがや
はりこれも効果はなかった。
気持ちよさそうにもっと、もっととばかりに頭を突き出す猫に和
奈は嫌がりもせずに頭を撫で続けた。
﹁まー迷子じゃなさそうだしいいよね﹂
はぁー、と和奈は深々溜め息を吐いた。
﹁いいよねーお前は。自由気ままで、どこにでも行けて﹂
和奈の頭の端にちらついていたのは京だった。
よくなってきているとはいえど、昔のように駆けまわれるような
状態ではまだなかった。
﹁お見舞いするしかないなんて寂しいよ﹂
顔を俯かせてから﹁そーだ!﹂と和奈は片手をポケットに突っ込
んだ。すでに彼女の中では暗い思考は明るいものへと切り替わって
いた。
取り出したのは携帯電話だった。彼女は手早くそれを操作すると
気持ちよさそうな猫の顔をぱしゃりとそこに収めた。
えへへ、と笑ってから遠くで聞こえるチャイムの音に彼女はびく
っと肩を跳ね上がらせた。
はっとして携帯の画面に視線を落とすともうすぐ、始業の時間を
過ぎようとしていた。周りに居たはずの同じ制服を着た生徒ももう
一人も見当たらない。大変、とカバンを持ち直して、もう一度だけ
猫の頭を撫でてから彼女はくるりと踵を返した。
﹁バイバイ、猫くん!﹂
にゃあ、と小さく返ってきた鳴き声に名残惜しさを覚えながら和
奈は駆け出した。
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眠りから覚めた麗子の視界に一番に飛び込んできたのは枕元に重
ねられた菓子の箱だった。
チョコチップクッキーに、スナック菓子の箱詰めやガムの箱がこ
れでもかと積み重なっていた。こんなことをする人物に麗子は一人
しか心当たりがなかった。
それを説明するかのように手にいっぱいの菓子を抱えたウルフが
扉の隙間から体を滑り込ませてきた。
彼女は麗子が起きているのに気付くと大きな目を見開いた。
﹁ぴゃ!﹂
奇妙な声をあげてからウルフは扉の向こう側へ駆けて行く。
少し間が空くと恐る恐る、中の様子を伺ってきた。
そんな彼女に麗子はくすりと笑ってから箱の一つを手に取って﹁
これは、あなたですの?﹂隙間から見えるウルフの首が小さく縦に
振られた。
ここ数日、自分がまだ本調子じゃなかったのがよほどウルフは気
になっていたのだろうと麗子は思った。悪いことをしてしまった、
とも。
もう一度菓子の塔を眺めてから﹁わたくし一人じゃこんなに食べ
きれませんわ﹂あう、とウルフが顔を俯かせた。麗子は柔らかく微
笑みながらベッドからようやく降りて、扉の近くに歩み寄った。
なぜか申し訳なさそうに自分から視線を逸らそうとするウルフの
前でしゃがみ込んだ麗子は﹁一緒にお食べなさい﹂
顔を上げながらウルフは驚いたように言葉を放った。
﹁いいの?﹂
﹁いい、悪い、の問題ではありませんわ。食べろと言ってますのよ﹂
きょとんとするウルフの手を引きながら麗子は部屋の中に戻って
行った。
手を引かれるがままについて行ったウルフは沈黙が嫌だったのか、
思ったことをそのまま口に出した。
﹁れーこの手はでっかいなぁ﹂
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﹁あなたの手が小さいのですわ﹂
﹁それにれーこは背が高いなぁ﹂
﹁あなたが小さいのですわ﹂
と、そこまでのやり取りを繰り返してから麗子は眉を寄せた。昔
どこかで読んだ昔話を同じ会話の流れだったからだ。
それを知る由もないウルフが似たような言葉を返してくることが
とても皮肉に思えた。
麗子は無理やり会話を切り上げるために手元にあった袋の封を切
ると中に入っていたグミをウルフの口の中に詰め込んだ。おぼぼ、
とウルフがばたばた両手を震わせたので、彼女はその手を止める。
もちゃもちゃとグミを咀嚼してからごくんと飲みこんだウルフが
吠える。
﹁何すんだよばかれーこ!﹂
﹁あら、あなたが物欲しそうな顔で見ていたから親切心でお口に入
れて差し上げたのよ?﹂
﹁うそだー!﹂
きぃ、と声をあげるウルフに麗子はいつもの高笑いをあげた。
いつものれーこだ! ウルフの顔が一際、輝いた。
﹁れーこはやっぱりウザいほーがいーね!﹂
まぁ、と口元に手を当てた麗子ががばりとウルフを抱きすくめた。
﹁また生意気言ってますわねこの子は。お仕置きですわ!﹂
﹁きゃーやめてー!﹂
ウルフを抱きかかえたまま、麗子は後ろにあったベッドに背面か
ら飛び込んだ。
ぼふんとマットが浮き上がり、掛布団や枕が浮き上がった。
二人の楽しそうな笑い声が室内に響き渡る。
﹁そーえばさいきんあちし全然でばんがないんですけどー﹂
ぐるぐる布団に巻き込まれながらウルフが不満げに頬を膨らませ
た。
彼女を見ながら麗子は人差し指を口にあてがいながらくすりと笑
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った。
﹁あなたにはまだ早いですわ﹂
﹁むー!﹂
よく分からないけど馬鹿にされてる、そう思ったウルフはまたじ
たばたと両手足を動かした。
放課後、メールの着信を確認した南波は口元が緩んでいたのが自
分でも分かるほどだった。
和奈から送られてきた﹃猫いたー﹄というだけの本文と猫の写真
が添付されたメールはいかにも彼女らしいと南波は思う。送られて
きていた時刻を確認すれば恐らく向こうも始業したばかりの頃であ
ろう時刻だった。午後でもよかったのにせっせと打ってきたのだろ
うかと思うとよほど自分に猫の存在を知らせたかったのだろうと思
う。それでどうということもないのに。
微笑ましいような、少しだけ照れくさいような。幼馴染のたった
一通のメールが南波にとっては舞い上がるには十分すぎるものだっ
た。
よかったな、と打ち込んでから﹃久々に一緒に見舞い行くか?﹄
と打ち込んだ。誰の、とはもはや二人にとってみれば特別書きださ
なければいけないようなものではない。
最近は、和奈と一緒にはあまり見舞いに行かなくなった。行きた
いのは山々なのだが部活も委員会もフェエーリコ・クインテットま
でかけ持っている南波と和奈の予定がなかなか噛み合わなかっただ
けだった。
今日は久々にクインテットとしては訓練がない日だ。部活も休み、
委員会も今日はシフト外だ。彼にしては珍しく、自由な時間が有り
余っていた。
それに対する和奈の返信は﹃やったー!﹄という文字だけと可愛
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らしくバンザイする顔文字だった。にこにこ笑う和奈の姿が見えた
ような気がしてまた南波は少しだけ表情を緩ませた。
待ち合わせ場所だけを決めて、携帯をねじ込んだ彼の背後から聞
き慣れた声が飛んできた。
﹁南波?﹂
振り返ってから﹁ああ、なんだ灰尾か﹂と南波はいつもの無表情
を取り戻した。
南波の物言いに後ろに居た太李が頭を掻きながら苦笑する。
﹁いや、お前、なんだはないだろ、なんだは⋮⋮ちょっと傷つくぞ﹂
﹁知るか﹂
ふん、と顔を逸らす南波に太李は﹁それより﹂と彼の顔を覗き込
んだ。
﹁どうしたんだよ、南波。なんかさっきはやたらご機嫌、っていう
かにやにやしてたけど﹂
げ、と南波は内心顔を引きつらせた。知り合いに見られた可能性
をちっとも考えていなかった。それほど浮かれていたのだ。
しかし、あくまでそれを表には出さずに南波は淡々とした声で答
えた。
﹁鉢峰といるときのお前よりはマシだ﹂
﹁な、なんだよその言い方!﹂
むっとなった太李が勢いに任せて言い返せばふっと南波は先ほど
のものとは全く異なる、どこか嘲笑的な笑みを浮かべた。
﹁にやにやしてるだろ、いつもいつもデレデレと﹂
﹁んなこと⋮⋮﹂
﹁あ、鉢峰﹂
﹁え!?﹂
くるっと嬉しそうに後ろに振り返る太李に南波は思わず吹き出し
た。
巳令の姿が見えなかったことでからかわれたと分かるや太李は再
度、南波に向き直ってから彼を睨み付けた。
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﹁南波、お前なぁ﹂
﹁俺に構ってる暇があったらさっさと大好きな鉢峰のところに行く
んだな﹂
吐き捨てながらカバンを担ぎ直す南波を見て、太李は思わず問い
かけた。
﹁矢代さんのとこ?﹂
そういえばこいつは京さんに会っていたんだった、進みかけてい
た足を止め、ふぅと息を吐きながら南波は呆れ交じりに告げた。
﹁ああ。悪いか?﹂
﹁いや、別に﹂
南波の背中を見送りながら﹁気を付けてな﹂とだけ太李は言葉を
送った。
言われるまでもないさ、南波は思うだけでそれを言葉にはしなか
った。
本を抱えながら図書室にやって来たよもぎはカウンターにいる図
書委員を見てあらら、と顔をしかめた。
そういえば今日は南波はシフトではなかっただろうかとふと思い
出したからだった。気付くのが遅すぎた、と思いながら別にあの人
がいなくても本の貸し借りはできるなとよもぎは思い直した。
﹁あ、春風さーん﹂
﹁司書さん!﹂
のんびりとした生江の声を聞いてよもぎは笑顔を浮かべた。
生江はよもぎが抱える本がこの間彼女が借りて行った新刊だと理
解するや、嬉しそうに微笑んで﹁どうだった?﹂と首を傾げた。
﹁めっちゃ面白かったです! 司書さんに頼んでよかった﹂
﹁わあ、よかったぁ﹂
にぱっと笑う生江にえへへとよもぎも笑みを浮かべた。
534
読み終えて返却する本を差し出すと生江はそれをカウンターの前
にいた女生徒に渡し、﹁ごめんね、今日益海っちいないんだ﹂と笑
いかけた。む、とよもぎが顔をしかめる。
﹁別にウチ、益海先輩目当てってわけじゃないんですけど。むしろ
暴力振るわれなくてせいせいすらぁ﹂
不機嫌そうなよもぎにあれ、と生江は驚いたように目を開いた。
﹁そうなんだ、てっきり春風さんは益海くんにそういう気持ちがあ
るのかと思った﹂
﹁はぁ!?﹂
顔を歪め、カウンターから飛び退くように離れたよもぎは今自分
がいる場所が図書室であるということも忘れて声を荒げた。
﹁なんで! ウチが! あんなチョップと本でしかまともに会話で
きないような先輩に恋愛感情をいだかなきゃならんのですか! 洒
落にならねーっすよ司書さん! 冗談きつすぎ!﹂
ええー、と生江は唇を尖らせるだけだった。
﹁そりゃまぁ、恩人ではありますけど﹂
よもぎが深々と溜め息を吐きながら近くにあった椅子に腰かける。
それでも気持ちは収まらない。冗談じゃないぞ、とそればかりを考
えた。
﹁でも益海っち意外とかっこいいから﹂
﹁あの凶悪な面をかっこいいと表現しますか﹂
﹁そりゃ目つきは悪いけど。悪い子じゃないし﹂
カウンターから出てきた生江がずるずると自分の横に椅子を持っ
てきてちゃっかり座ってしまった。文句を言う気にもなれずによも
ぎは足を組んだだけだった。
﹁というか、そもそも春風さんが志摩次晴に興味持ったのだって益
海くんが志摩作品大好きだからでしょ?﹂
﹁そ、それは﹂
そうだけど。ごもごもと口を動かすよもぎはむすっとしながら言
い放った。
535
﹁でも! 別に益海先輩に関係なく、志摩作品が原作のドラマとか
好きだったし、たまたま本格的に興味持つきっかけになっただけで
あって、推理物とか元々好きだし﹂
﹁んもー﹂
やれやれと首を左右に振りながら椅子から腰をあげた生江はよも
うすい かよこ
ぎの両手を握りしめるとにこりと笑いかけた。
﹁じゃあそんなに推理物が好きなら一応、碓井佳代子も読んでみた
らどうかな﹂
﹁碓井?﹂
﹁そ。志摩と並んでる若手の推理作家さん。彼女はなんでも書く志
摩と違って本格推理ものがほとんどなんだけど。毎回文学賞で競り
合ったりしてて、志摩のライバル、なんて言われてたりもするんだ﹂
と、近くの棚から一冊の文庫本を取り出した生江はぽんとよもぎ
にそれを押し付けた。
﹁というわけで面白いので読んでみるのをおすすめします﹂
﹁⋮⋮もしかして司書さんが布教したいだけ?﹂
﹁あ、バレちった﹂
てへ、と笑いながら﹁私は実は志摩作品より碓井作品派なんだ﹂
などと悪びれもせずに伝える彼女によもぎは苦笑しつつ本を受け取
った。
﹁こんにちはー﹂
間延びした巳令の声が泡夢財団の休憩所に響き渡った。
机に身を乗り出していた梨花がその声に振り返り、ぱぁっと顔を
輝かせた。その横に並んでいたマリアも巳令に気付いたらしく、手
を振っている。
﹁こんにちは巳令さん! 今日は召集ないのに珍しいね﹂
﹁たまには自主訓練でもしようかと思って。梨花先輩こそ、相変わ
536
らず真面目ですね﹂
﹁そうかな?﹂
首を傾げる梨花にそうです、と返してから﹁それはそうと﹂と巳
令は興味深そうに机の上を覗き込んだ。
﹁二人で何見てたんですか?﹂
﹁え、ああ、あたしの卒業アルバム。高校の﹂
マリアの言葉にへぇ、と返しながら巳令は机の上で広げられてい
たアルバムに改めて視線を落とした。
﹁あ、マリアさんここにはいなかったの﹂
と、梨花がぱらりと一枚ページをめくる。様々な写真が並べられ
たページの端に自分たちも着ているラベンダー色のブレザーを着た
マリアを見つけてわあ、と巳令は声をあげた。
﹁これ、マリアさんですよね﹂
﹁げっ﹂
よりによってその写真かよ、とマリアは顔を引きつらせた。
写真の中の彼女は相変わらず銀色の髪を三つに編んでいた。その
服装は神都高校の制服、ではなく茶色基調のウェイトレス衣装だっ
た。恐らく文化祭の写真だろうと巳令は思った。不満げな彼女が同
じ衣装を着た友人と制服姿の友人、二人に手を引かれ、項垂れてい
た。
横の梨花もわあわあと嬉しそうに笑っている。一方でマリアは誤
魔化すために頭を掻いてから叫んだ。
﹁ち、ちげーぞ! これは、無理やり着させられて!﹂
﹁マリアさん可愛い﹂
﹁ちーがーうー!﹂
うがーと両耳を塞ぐマリアに巳令と梨花は笑い合った。
写真を見つめながらふと巳令の視線は写真の中でマリアの手を引
く友人に向いた。衣装を着ている方は少々くせのついた黒い髪の女
生徒だった。ぎこちないながら笑う彼女は美人でもあり可愛いよう
な、絶妙な顔立ちだった。
537
もう一方は美人という形容が似合う長い黒髪の女生徒だった。目
の下のほくろが高校生とは思えないほど彼女を色っぽく見せていた。
そんな彼女が満面の笑みを浮かべている。
﹁なんだか、マリアさんのお友達って綺麗なんですね⋮⋮﹂
﹁え?﹂
素直に巳令がそう言えば悪い気はしなかったのか﹁そうだろ?﹂
とマリアは照れくさそうに笑った。
梨花も横に並んでいた友人たちを見てそれからわずかに目を見開
いた。
﹁あれ?﹂
﹁ん、どした、梨花﹂
﹁え、あ﹂
ふるふると首を左右に振りながら﹁なんでもないです﹂と梨花は
もう一度だけ視線をアルバムに戻した。
誰か見覚えがある奴でもいたのだろうかとマリアが考えていると
﹁あらあら﹂
といつの間にやって来ていたのかベルが口元に手を添えながらそ
うこぼした。
よりによって見られたくない奴に! 嘆きたくなるのを抑えなが
らぱっとアルバムを閉じたマリアは﹁お前! いつからいたんだよ
!﹂と吠えた。
ひどーい、とベルが頬をわざとらしく膨らませた。
﹁ついさっきからいたわよ? それよりなんで隠すのよ、若いマリ
アもっと見たーい﹂
﹁若いってまだ数年前の写真だぞこれ! そんなに変わってねーだ
ろ!﹂
﹁えー変わってるわよぉ。今のあなた、だいぶ大人っぽくなった﹂
自分の手元を覗き込もうとして来るベルをマリアは威嚇するよう
に睨み付けている。
もう、と悔しそうにベルは顔を俯かせた。
538
﹁意地悪なんだから﹂
﹁うっせぇ!﹂
はぁああ、とアルバムに顔を押し付けて目の前に倒れ込むマリア
にくすくす楽しそうに笑ってからベルは改めて巳令と梨花に向き直
った。
﹁こんな子でもあんな可愛いお友達がいるんだから不思議よねぇ﹂
﹁悪かったなこんなので﹂
けっと吐き捨てるマリアを見ながらまた巳令と梨花が笑い合った。
なんで笑うんだよ、と不満げに告げてからふと思い出したかのよ
うに﹁あ、鈴は?﹂と問いかけた。
﹁支部に文句言いに行ったわ﹂
﹁今度はなんだよ﹂
﹁前にミハエルが来日したとき送迎の手配してやったんだから五万
は出せって﹂
﹁あいつほんとなんでも金取るのな﹂
呆れたようにマリアが笑った。
待ち合わせの場所である病院の最寄駅に南波が着くと和奈はすで
にカバンの抱えながら彼を待っているところだった。
鼻歌を歌いながら体を小さく前後に揺らす和奈の姿を見てどこか
安心したような自分がいるのを南波は認めていた。
﹁和奈﹂
﹁あ、みーちゃん﹂
ぱっと笑った和奈がぱたぱたと南波に近付いた。
嬉しそうにしている幼馴染の頭に思わず手を伸ばし、そのまま南
波の手が和奈の頭を撫でる。えへへ、と和奈がにやけ面を浮かべた。
自分の頭を撫でていた手を和奈は掴まえると引っ張った。
﹁よーし、じゃあみーちゃんも来たことだし行きますかー﹂
539
﹁ん﹂
﹁あ、そうだ﹂
くるっと振り返った和奈が南波に不機嫌そうに言う。
﹁今日は被り物禁止だからね﹂
南波は思わず、自分が顔を引きつらせているのが分かった。
﹁ていうかさ﹂と南波の手を掴んだまま、和奈は唇を尖らせた。
﹁なんであんなん被ってるの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮から﹂
顔を逸らしながらぼそっと答える南波の声が聞こえずに﹁なに?﹂
と和奈は首を傾げて聞き返した。
自分を見上げる彼女が愛らしくて、ついヤケクソのように南波は
叫んだ。
﹁怖がられるからだよ!﹂
なぜか悔しそうにそう吐き捨てる彼に和奈はきょとんと、その場
で固まった。
それから、何が面白かったのか口元に片手を当てながら﹁ぷふ﹂
と吹き出した。
﹁ふふ、あはは!﹂
﹁なんだよ⋮⋮﹂
﹁だって、みーちゃ⋮⋮気にしてたんだ⋮⋮ふふ﹂
﹁悪いか!﹂
話すんじゃなかった、と顔を背ける南波に和奈はまだ笑ったまま
﹁ごめんね﹂と肩を叩いた。
﹁そうだよね、みーちゃんって昔っから顔は怖いのに繊細だよね、
ぷくく﹂
﹁⋮⋮お前、ほんとに俺が繊細だと思ってるか?﹂
﹁思ってる思ってる﹂
げらげら笑いながら和奈は楽しげに続ける。
﹁小さい頃さ、一回蜂に刺されたら怖くて一ヶ月くらい外に出られ
ないでさ。京くんと私がいくら言っても駄目なの﹂
540
﹁いつの話だ!﹂
慌てたように声を荒げる南波にまた和奈が笑う。
ずっと一緒だったから和奈だからこそ知っている自分の存在は恥
ずかしいような、嬉しいような、南波にとってはなんとも言えない
ものだった。
﹁でも今日は被り物だーめ﹂
﹁なんで﹂
﹁え? だって、私、怖いけどみーちゃんの顔好きだもん﹂
けろっと答える和奈に南波は心臓が止まるかと思った。
硬直する南波に﹁おんやぁ?﹂と和奈はにやにやと笑みを浮かべ
た。
﹁さてはみーちゃん氏、照れてますなぁ?﹂
﹁うるさいお前が変なこと言うからだ﹂
そう言ってすたすた歩いていく南波に手を引かれながら和奈はそ
れに合わせるために足を忙しく動かした。
﹁あー、早いよーみーちゃんのばかー﹂
不満げにそう言っている和奈に溜め息を吐きながら南波は少しだ
け歩くスピードを緩めた。
やっと着いた病院で不機嫌そうに歩き続ける南波にもう、と和奈
は不満げに頬を膨らませた。
﹁そんなにぶすっとするともっと顔が怖くなるよ﹂
﹁ほっとけ﹂
﹁ほっときませんー。これから京くんに会うんだからみーちゃんの
不機嫌顔なんて見たらもっと悪くなっちゃうよ﹂
﹁お前な﹂
むにーっと和奈の頬を引っ張りながら南波は足を止めた。
京の病室の前だった。特に何の気なしに扉に手を伸ばした南波の
手を﹁ちょっと待って!﹂と小声で言いながら和奈が再度掴んだ。
﹁なんだよ?﹂
541
﹁そ、その、心の準備が⋮⋮ほ、ほんとに待って﹂
ぱっと南波の手から自分の手を離し、和奈はそれを胸に当てると
すーはーと深呼吸した。
少しだけ跳ね上がってる髪をちょいちょいと整えてからもう一度、
息を吐き出して﹁よし﹂と両頬を張った。ぱちん、と乾いた音をさ
せてから和奈が勢いよく扉を開けた。
﹁けっいくーん! きったよー!﹂
﹁ん?﹂
窓の外を見ていた京が振り返り、おお、と笑った。
﹁和奈と南波か。一緒に来るの久しぶりだな﹂
﹁うん。みーちゃんが誘ってくれたんだ﹂
ねー、とこちらに振り返る和奈に南波は頷き返した。その彼を見
て﹁しかも南波は珍しく被りもんなしか﹂と京は驚いたように言う。
ほっとけ、と南波は内心言いながら溜め息を吐いた。
それだけで京には大体伝わったらしく、苦笑した。
近くの椅子に腰かけた和奈が﹁あのね、京くん、今朝ね、猫が居
てね﹂と楽しそうに話し出した。
そこから先は南波にとっては特に面白くないものだった。基本的
に自分は和奈と京が会話しているのを聞くだけで時折、適当に相槌
を打つくらいだった。
自分から会話に参加しようという気持ちが湧き上がらない。性格
悪いな、と自分で自分を罵った。
面会終了のギリギリまでこれが続くのだろうと南波は思った。今
から都合よくクインテットの呼び出しがかからないものかと期待し
てしまうほどだった。
しかし、現実はそう甘くはない。なんとなくその場から逃げ出し
たくなった南波はゆっくり椅子から腰をあげると﹁コーヒー買って
きます﹂とだけ告げて、病室を出た。
病室の外に出ても二人の笑い声は聞こえてくる。これでいいんだ
と言い聞かせながらなるべくゆっくりと自販機まで向かった。
542
自分でも酷いと感じるほど、そのときの南波の動作は一つ一つが
重かった。戻りたくない、心のどこかでそう思っていた。
無糖の缶コーヒーを買ってから来た道を戻って行く。病室の前に
つけばまたゆっくりと扉に手を伸ばし、のろのろとそれを開きかけ
た。
中から聞こえてきた声に、扉を全て開くことは阻まれたのだ。
﹁ごめん﹂
病室の中から聞こえてきた思いつめたような京の声に南波はまた
しても心臓が止まるかと思った。けれど今のは先ほどとは全く違う。
凍りついたような気すらした。
まさか、と思いながら南波の体は動かなかった。動かなかったと
いうよりも動けなかったという方が適切だった。
﹁前も言った通りだ。お前は、俺といたってしょうがない﹂
﹁そんなこと﹂
﹁俺はお前に幸せになって欲しいんだよ﹂
考えるまでもなく、和奈が今どのような話をされているのか南波
には分かる。
何も言わずに、和奈は傍に置いていたカバンを掴み上げるとくる
りと方向を変え、やはり何も言わずに開きかけていた扉を開いてし
まった。
﹁あ﹂
扉の前で固まっていた南波と目があっても和奈は何も言わずに顔
を俯かせて、走り出す。
その背を追いかけることができるほど南波はまだ冷静ではなかっ
た。
沈黙の後に﹁悪いな﹂とだけ京の声が響く。
﹁京さん、今の﹂
﹁いや、なんつーか。色々あって﹂
難しそうに顔を歪めた京はやがて、まっすぐ南波を見つめると﹁
ほら、こうなっても俺は追いかけてやることすらできないから﹂と
543
寂しげに告げた。
南波は、やっと動いた足で病室の中に入るとまだ開けていない缶
コーヒーを机の上に置いて﹁また来ます﹂とだけ頭を下げ、やっと
和奈の後を追いかけた。
和奈は南波の予想に反して、すぐに見つかった。
病院の裏手の人通りの少ないベンチで座りながらてしてしと袖で
涙を拭っていた。
﹁和奈﹂
南波が声をかければ、和奈はゆっくりと顔を上げた。
その目は赤く腫れ上がっている。ここまで涙している和奈を果た
して自分は見たことがあっただろうかと自分に問いかけてから南波
はすぐにそれをもみ消した。答えが出てしまったらどうしようもな
く自分が空しくなるだけのような気がしたのだ。
﹁みーぢゃあん⋮⋮﹂
ぐしぐしと袖で涙を拭いながらへへっと和奈は弱々しく笑った。
﹁フラれちまったぜ⋮⋮﹂
和奈の顔に無理やり浮かべられた笑顔が痛々しい。それだけで南
波にはどれほど和奈にとってこれが辛いことなのかが分かってしま
う。
ずっと好きだった。和奈はずっと京のことを想い続けていた。小
さい頃の純粋な憧れがやがて恋愛感情へと変わって行った。いつか
らか、問いかけても無駄だろうと南波は思う。自分もいつから和奈
が好きかと問われたら答えることができない。
ずっと見てきたからこそ分かる。自分の想像を絶するほど彼女は
辛いのだろうと。そんな和奈を見るのが南波にとっては息苦しい。
しかし、その一方でどこかで安心している自分がいることが南波
544
は腹立たしかった。
だったらいっそ。ベンチに座ったままの和奈を南波は自分の胸に
抱き寄せた。
﹁みぃ、ちゃん⋮⋮?﹂
上ずったような和奈の声を聞きながら南波は黙って彼女に回して
いた腕の力を強めた。
驚いたように身を強張らせる和奈に彼は告げる。
﹁俺にしろよ﹂
﹁へ?﹂
こんな状況で言うのがどれほど卑怯なことか、南波には分かる。
けれど自分がこれ以上卑怯になる前に、終わらせたかった。ただ
それだけだった。
﹁京さんなんてやめて、俺にしろよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁俺だってお前のこと、ずっと見てたのに﹂
八つ当たりだ、自分でもうんざりするほどだった。
和奈は南波の体を黙って抱き返すと﹁そっか、そうだったんだ﹂
と一人でこぼしてからやがて、震える声で言う。
﹁嬉しいよ、でも、ごめんね﹂
その返答に彼は安堵すら覚えたほどだった。
﹁ああ。分かってる﹂
これでもう終わりにするから。
自分か、それとも和奈にか。誰に言い聞かせているかも分からな
い呟きを南波はこぼすことしか出来なかった。
どちらが何かを言うまでもなく、抱き合うのをやめた二人はその
まま別れた。
正確には和奈がその場を逃げるように去っただけで南波はそこに
取り残されていた。
545
﹁はは﹂自嘲気味に笑いながら南波は先ほどまで和奈が座っていた
ベンチに腰を下ろした。まだ和奈の体温が残って生暖かい。思わず
彼は顔をしかめた。
そのしかめ面を手で覆いながら﹁俺は馬鹿か!﹂と吐き捨てた。
だがどれほど後悔したところで時間は巻き戻らない。どうしてこ
うなったのだろうと心の底から不思議に思った。
最初は自分と京と和奈と、三人揃ってただ笑い合っているだけだ
った。ところが自分が和奈への想いを自覚すればするほどに、痛い
ほどに和奈の京への想いが分かってくる。彼が入院してからは尚更
だった。その度に、自分の中に嫌なものが積み重なっていくのが分
かった。
もう見たくなかったから。これ以上、積み重ねたくなかったから。
だから柚樹葉の誘いを受けたのだと、南波は痛感した。
見たくないものを隠すために、なんの意味がないのを分かってい
ながら自分を犠牲にすることが小さな代償だと思い込めるほど隠し
たいものを必死に隠しだけだった。
京のために何かをしたいのも事実だった。和奈に笑っていて欲し
いのも事実だった。でもそれ以上の理由がこれだった。
そうまでしても、駄目だった。
南波は胸に掛かった銀色のネックレスとを乱暴に外しながら腕を
振り上げた。なんの意味もないじゃないか。自分の汚さを実感した
だけだ。
しかし、手の中にあるネックレスを地面に叩き付けるでもなく、
ゆっくり、拳を下ろすだけだった。また逃げたところで仕方がない。
そう思った。
太陽の光を反射させ、きらきらと輝くそれにしか、自分の道は残
されてはいなかった。ゆっくりと、それを掛け直した南波は深々と
溜め息を吐いた。
遅すぎる連絡が入ったのはそのときだった。
546
人魚姫となった南波の金髪が風を受けて、ぶわりと宙に広がった。
握られた槍の先に居るのは古ぼけた洋服を着た男女一人ずつの子
供だった。γ型なのであろうことはすぐわかる。
すでによもぎと一緒に合流していた太李が﹁人魚、お前、今日暴
れすぎじゃね?﹂と心配そうに問いかけた。はっと南波がそれを笑
い飛ばす。
﹁そういう日もあるさ﹂
男児を蹴り飛ばしながら南波は舌打ち交じりに答えた。
それを眉を寄せながら見つめていたよもぎは溜め息を吐きながら
頭上に向けて矢を放った。飛び回っていたカラスの軍団の一部が射
抜かれて落ちていく。
自分目がけて口ばしを突き出して、急降下してくるカラスを弓で
薙ぎ払ってから矢をつがえ、よもぎはまた弦を揺らす。
羽を射抜かれたカラスがじたばたと地面に落ちていく。その彼女
の後ろを別のカラスが捉えた。
﹁いばら、後ろ!﹂
﹁やべ﹂
振り向いたよもぎのすぐ横を弾丸がかすめた。まっすぐ撃ち込ま
れた銃弾がカラスの体を叩き落とす。
銃弾が飛んできた方に立っていたのは拳銃を構えるマリアだった。
その後ろには巳令と梨花の姿も見えた。
﹁マリアさんナイスです!﹂
体勢を立て直したよもぎが再び弓を構えた。
一方で女児の方に踏み込まれ、蹴り込まれた南波が後退しつつ巳
令の前に下り立った。
鉢の下の彼女と視線が合った。やがて槍を片手に持ち直すと右手
を差し出す。
547
﹁あるんだろ﹂
﹁⋮⋮今日は一段と機嫌が悪いですね、人魚﹂
﹁ほっとけ。バカップルから同じような質問を受け付ける気はない﹂
早く出せとばかりに手を出す南波に巳令は溜め息を吐いてから懐
を漁った。
彼の予想通り、彼女が取り出して来たのは黒い箱だった。開けば、
赤い宝石のはめられた指輪︱︱強化版のチェンジャーが待っていた
とばかり堂々と存在していた。
﹁九条﹂
通信機に向かって声をかけると、少し間を空けてから柚樹葉の笑
い声が響いた。
﹁どうしたの、随分機嫌が悪いね﹂
﹁しつこいぞ﹂
﹁⋮⋮後悔はない?﹂
まるで全てを見透かしたかのような柚樹葉の問いに南波はわずか
に笑みを浮かべながら答えた。
﹁勿論だ﹂
その言葉にだけは、嘘偽りはない。
安心した、ただそれだけの返答が聞こえたの同時に南波は自分の
薬指に指輪をはめた。
眩い光に包まれてから現れた南波は前に大きなスリットの入った
ワインレッドのドレスだった。相変わらずボディラインをくっきり
と映し出している。胸元と背中に入ったスリットが強化前よりさら
に人の目を惹いた。ゆらゆらと揺れていた金色の髪は団子状になっ
て一つにまとめられている。
その手に握られているのは先ほどの槍と違い、穂先は幅広の三角
形をしていた。
ぺたぺたと自分の体を触ってから槍を構え直した南波は小さく笑
った。
﹁文句は後で言う﹂
548
﹁君は賢い﹂
二体のγ型が南波と間合いを詰める。
同時に後ろへ引かれた拳が南波目がけて投げ掛けられる。同時に
襲ってきた拳を片手ずつで受け止めると南波は二体を担ぎ上げて、
上空へと放り投げた。
上空へと吹っ飛んでいく二体を追うかのように地面を蹴り上げた
南波の体もあっという間に同じ高さに辿りついた。構えていた槍を
下から上へと南波は一思いに斬りあげた。
ほとんど同時に二人の首につけられていたチョーカーを刃が切り
裂いて、小さく爆発が起こる。地面に落ちてくる男女の子供を慌て
たように太李と巳令が受け止めた。
地面に着地した南波はそれを見ながら息を吐いた。
今は、後悔して立ち止まっているときじゃない。そう自分に言い
聞かせながらである。
549
第二十六話﹁時々人は意外な特技を持っているようです﹂
真っ白なキャンバスに太めの筆が滑って行く。青い絵の具が筆の
持ち主の頭の中で広がる画像を描き出して行く。
何も考えず、ただ目の前の白い画面に向き合っている瞬間が何よ
り彼女にとっては楽しい。
前は現実逃避の一つだったのに、今は純粋に楽しい。
こうして、絵を描いていると彼女は友人を思い出した。
﹃絵、描くの好きなの?﹄
勇気を振り絞るように、顔を真っ赤にしながら問いかけてきた彼
女をどこかおかしく思ったのを覚えている。
うん、と頷いたのが彼女との始まりだった。
そんな彼女とも今では会話が交わせなくなってしまった。
距離が遠いということもあるがそれ以上の理由がある。
楽しい思い出に浸ってから彼女の気持ちはいつも重くなる。思い
出したい記憶でありながら、思い出したくない記憶でもある。
それを拭い去ろうとするように彼女はごしごしと服の袖で顔を拭
った。
ところがその袖に絵の具がついていたらしく頬に青い絵の具がつ
いてしまった。
しかし、そんなことは気にも留めずに彼女はまたキャンバスの中
に意識を投げかけた。
﹁小雪ちゃん﹂
みよ
キャンバスに飲みこまれかけていた意識を澄んだ声が引き戻した。
振り返って﹁ああ、美代おばさん﹂と小雪は小さく笑った。
自分の両親が亡くなったときに、自分を引き取ってくれた親戚の
女性だ。色々と苦労していたところを助けて貰った人でもある。
550
おばさん、といってもまだ三十代だ。だが、お姉さんと呼ばれる
のは嫌だと彼女は言う。だから結局、小雪は彼女をおばさんと呼ん
でいる。
美代は小雪の顔についた青い線を見るとくすりと笑った。
﹁やだ、また絵の具つけて﹂
﹁え?﹂
一瞬、きょとんとしてから小雪は顔を真っ赤にすると机の上に放
っておかれていた濡れタオルに手を伸ばしてそれを拭い取った。
くすくす笑ってから美代はエプロンのポケットに手を入れた。
ごそごそと中を漁ってから一枚のはがきを取り出すと差し出した。
﹁これ、小雪ちゃん宛て﹂
﹁私?﹂
不思議そうに首を傾げながら小雪はそれを受け取った。
はがきには鉛筆で、何故か陶器の絵が描かれていた。
まさか、と彼女は慌ててはがきをひっくり返す。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁小雪ちゃん? どうしたの?﹂
﹁⋮⋮なんでもない、大丈夫﹂
うっすら、目に涙を浮かべる自分を心配そうに覗き込む美代に小
雪はふるふると首を左右に振った。
悲しいことのはずがないのに小雪の目からは涙がこぼれ落ちてい
く。
﹁よもぎちゃん⋮⋮﹂
宛名には小雪には見覚えのある住所と共に春風よもぎ、そう書か
れていた。
その始まりは三日前に遡る。
放課後になったばかりの廊下によもぎの声が響き渡る。
551
﹁待ってください益海先輩!﹂
しかし南波はまるで聞こえないとばかりにすたすたと工芸室を目
指して歩いていく。
﹁聞いてんのかー! 益海ぃー!﹂
きーっと悔しそうによもぎが叫ぶのもお構いなしだった。
すれ違う生徒たちが振り返って行く。
﹁いいから待たんかい堅物!﹂
﹁ウザい﹂
低い声で言い放たれて、むきゃーとよもぎが叫ぶ。
そんな彼女を南波はひたすら鬱陶しそうに見るだけだった。それ
から小さく溜め息を吐いて﹁なんでもないって言ってるだろ﹂とだ
け返してからまた歩いていく。
﹁嘘だー!﹂
ぎゃーっとよもぎが叫ぶ。必要のないときだけ鋭い奴め、と南波
は彼女を恨めしく思った。
ここ数日︱︱というのは和奈にフラれてからの数日だが︱︱彼と
しては普通に過ごしてきたつもりだった。現に太李たちはこの間の
戦闘で暴れまわっていたこと以外はさして気に留めた様子もないよ
うだった。
ところが、春風よもぎだけは違ったのである。
何にひっかりを覚えられたのか南波本人にも全く分からなかった
のだがよもぎだけは本人にすら分からない細やかな違いを感じ取っ
たらしくしきりに﹁何があった﹂と尋ねてくる。
心配してくれているのだろうが、とどうしたらいいのか南波にも
分からない。
ぐぬぬ、と眉を寄せてからよもぎはがっくり肩を落とすと﹁分か
りましたよ﹂と掻き消えそうな声を出しつつ顔を俯かせた。
ほーっと息を吐きながら﹁それでいい﹂とだけ南波は答えた。
言い争いが終結したと分かるや周りからの好奇の目は二人から離
れて行った。やれやれとまた南波が歩き出すとよもぎがぼそぼそと
552
呟いた。
﹁そんなに春風頼りにならんですか、益海先輩のばーかばーか﹂
足を止めた南波はくるっとよもぎの方に向き直るとすたすたと彼
女との距離を詰め、手刀を彼女の頭の上に振り下ろした。
﹁いぎゃ!?﹂
﹁別にそうは言ってないだろ﹂
﹁そうやってぼーりょくに頼るのはよろしくないです⋮⋮﹂
手刀が襲ってきた箇所を押さえながら南波を見上げていたよもぎ
は﹁あれ﹂と目を丸くした。
﹁なんだ﹂
﹁馬鹿って言われたことに怒ったんじゃないんですか?﹂
心底不思議そうに問われて、南波は顔をしかめた。
咄嗟に返答してしまうあまり、つい本音の方が出てしまったらし
い。口元を押さえながら﹁いや、これは﹂と視線を逸らす。
南波がよもぎを頼りにしているかいないかでいえば当然、前者に
なる。口に出すと負けたような気分になるから黙っているだけだ。
一応先輩として、格好の悪いところを見せたくない。そんな南波
の意地だった。
﹁そ、そうですか、そういう意味じゃないんですか﹂
えへへとにやにや口元を情けなく緩ませながらよもぎは両頬を押
さえた。
南波にとってはそれがどこか救いだった。せめて彼女がいつも通
りなのがまだ救いだ。安心する。
勿論これを口に出すほど、南波は素直ではなかった。
﹁気持ち悪い笑い方するな﹂
再び手刀が飛ぶ。はうあ、と奇妙な声をあげながらよもぎがよろ
めいた。
﹁先輩の暴力が春風を襲うぅう﹂
うわーんとわざとらしく泣き真似をしながら彼女は美術室の前を
通り過ぎようとした。
553
みずほ
そのとき、ばぁんっと派手な音を立てながら美術室の扉が開いた。
﹁瑞穂ちゃんのばかぁあああ!﹂
甲高く怒鳴り付けながら短い髪を振り乱し、女生徒が叫んだ。
そのまま構わず、廊下を走って行く彼女によもぎは見覚えがあっ
あかね
た。
﹁茜ちん!?﹂
同じクラスの生徒だった。比較的、クラスメイトとは隔てなく仲
良くしているよもぎにはすぐに分かった。
しかし、茜はそんなよもぎに気付いた様子もなくだぁーっと廊下
を走って行ってしまった。おろおろ視線を泳がせてから何を思った
のかよもぎは南波の肩を掴み、叫んだ。
﹁益海先輩、おっかけて!﹂
﹁はぁ!?﹂
顔を引きつらせながら﹁なんで俺が!﹂
﹁いいから!﹂
よもぎによって強引に前に押された南波は小さく舌打ちしてから
﹁持ってろ!﹂と自分のカバンをよもぎに押し付けて駆け出した。
その間に、よもぎは美術室の中を覗き込んだ。中には女生徒が一
人いるだけで、他の姿は見えない。そっちの方が楽でいいや、と思
いながらすたすたと中に突き進んだ。
﹁瑞穂っちどしたん?﹂
﹁あー⋮⋮春風さん⋮⋮﹂
バツが悪そうに視線を逸らす彼女ににこにことよもぎが笑いかけ
ると﹁いや、ちょっと、喧嘩しちゃったっていうか﹂
深々と溜め息を吐く瑞穂によもぎは胸の奥を深く突き刺されたよ
うな気がした。
その痛みを掻き消そうとするかのようにぎゅっと拳を握ってから
﹁よかったら話してみない?﹂
放っておくという選択肢が自然とよもぎの中から消えていた。
554
すでに工芸室に居た梨花は携帯電話片手にどこか浮かない顔をし
ていた。
耳にあてがっていた電話を離し、息を吐く梨花に﹁梨花先輩?﹂
と太李が声をかけた。びくっと体を跳ね上がらせてから﹁ふぇ!?
あ、ああ⋮⋮﹂と梨花はにこりといつもの笑みを浮かべた。
﹁こんにちは、灰尾くん、巳令さん⋮⋮﹂
﹁どうしたんですか? なんだか元気がないみたいですけど﹂
首を傾げる巳令にううん、と梨花が目を伏せた。
﹁鈴丸さんと、連絡つかなくって﹂
﹁鈴丸さん?﹂
この間の戦闘から鈴丸は泡夢の本部には来なくなった。
それどころか連絡がつかなくなったという。ベル曰く﹁いつもの
ことだから気にしなくてもそのうちひょっこり帰ってくる﹂とはい
うものの心配ではあった。
度々、電話をかけてはいるもののやはり応じてはくれなかった。
ちょっとくらい言ってくれてもいいのにな、と梨花は少しだけ考え
てしまった。
携帯を制服のポケットにしまいながら切り替えるように﹁よし﹂
と両頬を張った梨花は﹁今日も頑張るぞー! おー!﹂と一人で気
合をいれ直した。
﹁来週は灰尾くんたち、修学旅行でいないし、しっかりしなきゃ﹂
梨花の言葉にあ、と太李が顔を引きつらせた。
﹁そっか、来週か⋮⋮﹂
﹁また忘れてたんですか?﹂
﹁色々ありすぎて﹂
苦笑する太李に巳令と梨花がくすくすと笑う。
そんな梨花の横顔を見ながら巳令が﹁先輩、お土産、買ってきま
555
すね﹂わっ、と梨花が身を引いた。
﹁い、いいの?﹂
﹁勿論です。リクエストは?﹂
﹁そうだなぁ⋮⋮﹂
少し考え込んでからぽんと手を叩いた梨花が笑顔で告げる。
﹁美味しいものがいいなぁ﹂
ぷっ、と今度は太李と巳令が同時に吹き出した。びくっと肩を跳
ね上がらせてからおろおろ梨花が視線を泳がせる。
﹁な、なんで笑うの!? 変なこと言っちゃった!?﹂
﹁い、いえ、梨花先輩っぽいなって。ね?﹂
﹁ああ﹂
じたばたと悔しそうに手を振り回す梨花に二人は笑みを浮かべる
ばかりだった。
そんな三人の耳に﹁いやぁあああ﹂という甲高い声が聞こえてき
た。廊下の方からだった。
﹁な、悲鳴?﹂
﹁ディスペア、じゃないですよね﹂
念のため、それぞれのチェンジャーに手を掛けながら工芸室のド
アを開けて三人がひょこっと顔を出した。
目の前を何かが通り過ぎていく。揺れるスカートが女生徒だとい
うことを示していた。
﹁なんでついてくるんですか放っておいてぇー!﹂
ぎゃーっと叫ぶ女生徒の後ろを制服姿の男子生徒︱︱益海南波が
追っている。
﹁俺だってなんでお前を追いかけてるのか分からないんだよ!﹂
そう言いながら廊下を駆けぬけて行く二人を見て、太李たちは黙
り込んだ。
やがて、ゆっくりと二人の方を向いた梨花が震え声で問う。
﹁い、今の益海くん、だよね?﹂
﹁益海くんでした⋮⋮﹂
556
﹁南波、でしたね⋮⋮﹂
二人の叫び声が遠くなっていく中で、工芸室には奇妙な沈黙が訪
れた。
迂闊だった。頭の後ろで手を組みながら蒲生鈴丸は内心舌打ちし
た。
彼の後頭部には銃口が向けられている。
どうせ発砲はされないだろうが変に事を荒立てるのも望ましくな
い。ゆっくり膝を折りながら鈴丸は溜め息を吐いた。
アシーナの日本支部、そこの資料室が鈴丸の現在地だった。手に
持っていた書類は床に置かれてしまった。
﹁久々に顔を出したと思ったら書類を漁ってるとは相変わらず油断
も隙もない男だ﹂
﹁とりあえずその危ないもん俺から離してくれよ。スパイってわけ
でもないんだからさ﹂
銃口を向けたまま、はっと銃の持ち主である男が笑う。
﹁どうだかな。お前は簡単に金で買える﹂
﹁よしてくれ。俺はそんなに安い男じゃない﹂
けらけらと笑う彼にぐいっと銃口が近づく。
はぁ、と鈴丸は深々と溜め息を吐いた。元々彼はこの銃の持ち主
があまり得意ではなかった。
﹁相変わらず融通が利かないな、あーちゃん﹂
﹁変な呼び方するな殺すぞ﹂
﹁よせよ、支部内で血生臭いことしたくねぇ﹂
あさみ ひろ
けっと笑う鈴丸の頭からようやく標準が外れた。
浅見博、チームは別だが広い意味では鈴丸の同僚の一人だった。
融通の利かない堅物だと彼は思っている。
やれやれと頭を抱えつつ、立ち上がった鈴丸に﹁聞いたぞ﹂と浅
557
見が腕を組んだ。
﹁また日本人だって?﹂
﹁なんの話だ﹂
﹁リカ・トウテンコウ。もうすっかり噂だ﹂
げっと鈴丸は顔をしかめた。よりによって知られたくない奴に。
浅見は彼とは違って元は軍人だった。だから自分を疎ましく思っ
ているのだ。マリアのこともそうだ。そして恐らくは梨花のことも。
ましてや梨花は誰でもなく、彼らにとって一番上の存在であるミ
ハエルが直接指名した相手だ。なおのこと面白くないことだろう。
本当に相変わらずだ。だから必要がないのならここには来たくな
かったのに。
﹁それで、蒲生。今日はなんの用だ?﹂
﹁別に。今の仕事の調べものだよ﹂
﹁ああ、例の泡夢の胡散臭い仕事か。お前にはぴったりだな﹂
ほっとけ、と内心吐き捨てながら﹁もう行くよ﹂と踵を返し、ド
アノブに手を掛けた。
その腕を、浅見が掴み上げた。い、と鈴丸が顔を歪める。
﹁なんだよ!﹂
﹁⋮⋮資料室の資料は持ち出し禁止だ﹂
ぐいっとドアの外に鈴丸の体が押し出された。その手には鈴丸が
隠し持っていた書類が握られている。鈴丸は小さく舌打ちする。
﹁バレたか﹂
﹁何が欲しかったんだ?﹂
﹁さあな﹂
ひらひらと片手を振りながら廊下に出て行った鈴丸は肩を落とし
ながらポケットに手を突っ込んで携帯を取り出した。
今まで切り続けていた電源を入れ直していると﹁蒲生くん﹂
杖をつきながらスーツ姿の男がのっそりと自分に近付いてきてい
た。ああ、と鈴丸は片手をあげた。
﹁支部長のおっさんじゃん﹂
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﹁この間のヘリの件はどうも﹂
苦笑する支部長に気まずそうに鈴丸は視線を逸らした。それに支
部長は溜め息を吐く。
﹁活躍してくれるのは構わないけどあんまり暴走されると﹂
﹁はいはい説教はまた今度聞くっての﹂
あははと笑いながら鈴丸は彼の横を通り過ぎた。
少し距離が空いてから彼は問う。
﹁何を疑ってるの?﹂
微笑を携えながら鈴丸はその問いの答えを言い放った。
﹁俺はいつでも組織を疑うのスタイルなんだよ﹂
答えになってないし、という彼の言葉は鈴丸に届いた様子もなか
った。
廊下を使った追いかけっこの末、中庭まで逃げて行った名前も知
らない後輩をやっと捕まえた。
ぜぇぜぇと息を切らす彼女を見ながらその顔に見覚えがあって﹁
ああ、お前、図書室によく画集借りに来るやつ⋮⋮﹂と南波はこぼ
した。
後輩、こと茜は最初こそ本当にどうして見知らぬ先輩に追いかけ
回されているかが分からなかったようで目を白黒させていたものの、
まじまじと南波の顔を見つめたところでやっと思い当るところがあ
ったのか﹁益海先輩、でしたっけ﹂
驚いたように南波が茜を見返した。
﹁俺の名前、知ってたのか﹂
﹁よもぎちゃんが、乱暴者だって﹂
勝手なこと言いやがって、と顔をしかめながら南波は近くにあっ
たベンチに乱暴に腰かけた。
そういえば、よもぎとはじめて出会ったときもこんな風にベンチ
559
に座っていたような気がする。そんなことを思いながら気付けば南
波は口を開いて問いかけていた。
﹁で?﹂
驚いたように自分を見返す茜に﹁別に。話さなくてもいいけど話
したら気が楽になるかもしれないだろ﹂
彼なりに気を遣っているのだろう。そう思った茜は南波の隣に座
りながら顔を俯かせ、ぼそぼそという。
﹁最後に残ってたお菓子を、私が食べちゃったから喧嘩になって﹂
南波は頭を抱えた。
思ってはいけないことだと分かっていても茜から聞いた喧嘩の理
由はくだらない、と、そう思ってしまった。
この世の終わりだとばかりに悲しそうな顔をする茜に頭を抱えた
まま南波は言う。
﹁それなら謝ればいいだろ﹂
﹁私だって途中で謝ろうと何度も思いましたよ!﹂
でも、と溜め息交じりに茜は告げた。
﹁いざ謝ろうと思ったら、上手く言葉にならなくて﹂
なんとなく、南波にはその言葉の意味が分かった。感情を言葉の
するのが苦手だからなおさらだ。
しかしここで同意したところでどうにもならないだろう。少しだ
け間を空けてから南波は﹁後悔するぞ﹂とまるで脅すような言葉を
かけた。
ぴくっと茜が自分を見上げているのにも構わず﹁俺は、知ってる
ぞ。仲たがいしたままにして後悔してる馬鹿を﹂
誰でもなく、よもぎのことだった。いつも明るい彼女が唯一暗く
なる話題。それだけでどれだけ彼女の心の中を深く蝕んでいるのか
は分かる。
﹁言いたいことは全部言っておけ﹂
なんて、とベンチから腰を上げ、南波は薄く笑った。
﹁ただの先輩の戯言だ﹂
560
きゅっと茜が口を結んだ。
後は知らない。立ち去ろうとしたとき、後ろから﹁茜!﹂と女生
徒の声が南波の鼓膜を揺らした。
﹁瑞穂ちゃん⋮⋮﹂
﹁⋮⋮悪かったよ、言い過ぎた﹂
﹁⋮⋮わ、私も﹂
後ろでそんなやり取りが繰り広げられているのを聞きながら何や
ってるんだ俺は、と内心がっくりしながら南波は校舎へ戻って行っ
た。
このあとまた言い合いが起きようが、仲直りしようがもはや南波
の知ったことではないのだ。
無我夢中で飛び出してきたせいでうわばきから履き替えていない
ことを思い出して南波はうんざりした。
どうしようか迷った挙句にそのまま中に入ろうとした彼をまだ幼
い声が引き留める。
﹁おいおい先輩、そんなきったねぇ足で学び舎に入ろうってんじゃ
あないでしょうね﹂
目の前で腕を組んでいたのはよもぎだった。その手には古びた雑
巾と南波のカバンが握られている。
全く、と雑巾を突き出しながら彼女は笑った。
﹁夢中になるのはいいですけど、靴くらい履き替えてくださいよ﹂
﹁誰のせいだと思ってるんだ﹂
靴の裏を拭う南波がそう言えば﹁すいやせん﹂とよもぎがひょい
と肩をすくめた。
それ以上言葉を返す気にもなれず、南波はよもぎに雑巾を投げ渡
すと代わりに自分のカバンを要求した。はいはい、とよもぎが渋々
それを差し出す。
乱暴にカバンを受け取ってから﹁俺を巻き込むな﹂と淡々と言い
放った南波が歩き出した。
﹁あ、待ってくださいよー﹂
561
﹁待たない﹂
あくまで自分のペースで進んでいく南波にぶーっと唇を尖らせて
いたよもぎだったがそのあとに続きつつ、﹁だって﹂と言い訳を述
べ始めた。
﹁後悔して欲しくなかったんですもん﹂
ああ、またか。南波はうんざりした。
またそれなのか、春風。
﹁失恋した﹂
なんの前触れもなく、南波がそう告げる。
顔を引きつらせたよもぎはそのあとけらけら笑いながら﹁それは
前からじゃないっすか﹂
﹁フラれた﹂
﹁は?﹂
よもぎが口を開けて、びっくりしたように南波を見る。
言葉の意味を理解できない。そう言いたげだった。
﹁告白して、フラれた。分かったな?﹂
﹁いや、全然わかりませんけど!?﹂
え、え、とひたすら困惑したような声をあげ続けるよもぎは﹁な、
なんで?﹂と目を白黒させながら南波を見るばかりだ。
告白? 誰に、など聞くまでもないのだがそれをしたという南波
の行動が信じがたいものだった。そしてそれを自分に話すことも。
﹁どうしたんですか急に⋮⋮﹂
﹁気まぐれだ﹂
どちらに対する答えかはよもぎには皆目見当もつかなかったがと
にかく南波が傷心なのははっきりわかった。
変に同情されるのが嫌な人だろうと思ったよもぎは両手を広げな
がら冗談めかして言う。いや、本当は少しだけ、別の狙いもあった
が。
﹁春風の胸でよければ貸しますから泣きますか? 今人いないし﹂
﹁お断りだ﹂
562
きっぱり断られて、ちぇっとよもぎは悔しそうにこぼした。
それからじーっと南波を見て、彼女は息を吐くと﹁先輩﹂とどこ
か押し殺した声で南波を呼んだ。
﹁ん?﹂
﹁春風は少し泣きたいので胸を貸していただけないでしょうか﹂
﹁断る﹂
だろうな、とよもぎが少しがっかりしていると﹁胸は貸さないけ
ど﹂と南波は彼女の目の前に腕を突き出した。
﹁腕は貸してやる﹂
素直じゃないな、この人。
目の前に出された腕にすがりつくように顔を埋めてからひっく、
と小さく嗚咽を漏らした。
本当に小さな、掻き消えてしまいそうな嗚咽だった。
﹁春風も、ちゃんと仲直りしたかったなぁ⋮⋮!﹂
目から涙をこぼしながらよもぎはその言葉をこぼしただけだった。
小さく体を震えさせる彼女の肩をぽんぽんと叩いてから南波は﹁
まだ遅くないだろ﹂
﹁そうですかね﹂
﹁⋮⋮お前は俺の知ってる春風だけど、俺の知らない春風でもある﹂
よくも悪くも。
そう続いた言葉によもぎはぐっと何もかもが止まったような気に
なった。自分は少しでも変われていたのだろうか。南波の目には少
なからず、変わっているように見えたのだろうか。
そのことが嬉しいような、誇らしいような、それでいて少しだけ
照れくさいような不思議な気分になった。
へへっと涙を拭きながらよもぎが顔を上げると﹁南波とよもぎち
ゃん、ここにいた!﹂と太李の声が大きく響いた。
﹁あ、灰尾先輩﹂
﹁どうした﹂
﹁ディスペア﹂
563
太李がぼそっと言えば一度頷いた南波がぽんとよもぎの背を押し
た。
﹁行くぞ﹂
﹁合点です!﹂
ぐっとサムズアップで返す。それしかよもぎには出来なかった。
カラスと共に立っていたのは真っ白なファー付きのドレスを着た
女︱︱γ型だった。
ドレスと同じように白いふわふわのブーツで地面を蹴りつけてな
がらびょんびょんと縦横無尽に跳ね回る姿はまさにうさぎだった。
途中でマリアと合流した五人がその目の前に立つ。
それぞれの顔を見てから巳令は﹁久々にきちんと揃ったんですし﹂
とチェンジャーである腕輪を構えながらにこにこ笑う。
﹁やっておきましょうよ、あれ﹂
﹁⋮⋮まぁ、お前に限って忘れてるとは思ってなかったよ﹂
がっくりと太李が肩を落とし、残りの三人も苦笑する。
拳銃に弾を詰め終えたマリアが﹁おら、グズグズやってねぇでさ
っさと行くぞ!﹂と声を張り上げた。
まるで銃声が合図だったかのように、銃口が火を吹いた瞬間、五
人の声が重なった。
﹁変身!﹂
五人を包んだまばゆい光の中から一番に飛び出てきた巳令が鉢を
押さえながら、一番に名乗りを上げた。
﹁悲しき魂に救いを与える姫、鉢かづき!﹂
続いて出てきたのは梨花だった。ひらひらとスカートの裾を揺ら
し、足をもつれさせながら名乗る。
﹁悪しき心に罰を与える姫、親指!﹂
その次には金色の髪を邪魔そうに振り払いつつ、南波が現れた。
564
落ち着いた声で名を告げる。
﹁不幸な存在に光を与える姫、人魚﹂
よもぎが出てきたのはそのあとすぐだった。くるくるっとその場
で一回転した彼女は両手を広げながら笑顔で言い放つ。
﹁残酷な宿命に終わりを与える姫、いばら!﹂
最後に出てきたのは太李だった。水色のマントを風になびかせな
がら凛々しく、
﹁哀れな役に幸せを与える姫、シンデレラ!﹂
太李の声に合わせ、巳令が腰に携えていた刀を抜いた。
それに合わせ、梨花は斧を握り、南波の槍は宙を切り裂き、よも
ぎは弓を持ち、太李もレイピアを構えた。
﹁悪夢には幸せな目覚めを﹂
五人の声が一斉に告げる。
﹁フェエーリコ・クインテット!﹂
全ての名乗り口上を終えると握り拳を作った巳令がそのまま小さ
くガッツポーズした。
﹁やっぱりヒーローなんですからこれがなくっちゃ⋮⋮!﹂
そんな巳令に太李が苦笑する。
﹁ずっとやりたかったんだな、鉢峰﹂
﹁だって最近、なかなかみんなで揃う機会なかったから⋮⋮!﹂
心底嬉しそうにしていた巳令だったがその笑顔もすっともみ消す
と﹁さて﹂と刀を鞘に納めた。
﹁γ型ですね﹂
﹁だな﹂
頷いた南波はくるりとよもぎの方を向くと﹁やってやれ、春風﹂
にっと笑ったよもぎは何かを取り出した。黒い箱だった。それを
ぎゅっと抱きしめると﹁任せちゃってくださいよ、先輩方﹂とその
中身を取り出した。
565
深緑色の石のはまった指輪。手の上にそれを乗せて﹁ゆずちゃん
せんぱーい﹂あからさまな溜め息が通信機越しによもぎに聞こえて
きた。
﹁皆さんの決意を聞いてるようなのでぜひ自分ともお話してくださ
い﹂
﹁君らが勝手に話してるんじゃないか﹂
そんな台詞の割に柚樹葉の声の調子はどこか明るい。
本当に鬱陶しがられたらどうしようかと身構えていたよもぎは少
しだけ嬉しく思いながら矢をつがえ、弦を引いた。
﹁自分は変わりましたかね?﹂
﹁さあ、どうだろう﹂
柚樹葉の返答と共に弦が揺れ、矢が放たれる。
暴れ回るγ型には掠りもしない。予想通りだな、と思いながら﹁
自分はね、結構駄目だったなって思ってたんです﹂
﹁へぇ﹂
﹁ほんの少し見た目を変えただけで周りが変わってくれないかなぁ
なんて心のどこかで思っちゃって。でもだからちょっとずつ動こう
としてみて﹂
一拍置いてからふふ、とよもぎは指輪をはめながら小さく笑んだ。
﹁それで、ちょっとずつ変われたみたいだったのでもう少しだけい
い方に変わりたいなって﹂
﹁⋮⋮そういうところは君のいいところだよ﹂
﹁あざっす!﹂
元気よく返してからよもぎは改めて指輪をかざした。
閃光がよもぎの体を包む。
ふわっと閃光が散っていく。余計な装飾やフリルは一切ない、シ
ンプルな爽やかな淡い緑色のドレスがよもぎの身を包んでいた。同
じ色のショールが肩にかかっている。
手触りのいい手袋を見つめながらよもぎは﹁こりゃすげぇ﹂と素
直な感想を一言こぼした。
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その手にはいつもの洋弓はなく、ボウガンが握られていた。
﹁よっしゃ﹂
自分に向かって振り下ろされたγ型の足を転がってかわすとよも
ぎはボウガンの狙いを定め、引き金を引いた。
ばねの力で弦から矢が連続的に放たれる。何本もの矢に貫かれて
いく体はバランスを崩しながら後ずさって行く。転倒する体を見て
よもぎは地面を蹴りつけてから踏ん張って、回し蹴りをかます。
宙に浮かぶ体にもう一度、狙いを定めるとよもぎは肩に掛かった
ファーに向かって矢を撃ち込んだ。
小さな爆発が起こり、その場に一人の女が倒れ込んだ。
翌日、工芸室に入った梨花は﹁あれ?﹂と首を傾げた。
﹁よもぎさん⋮⋮?﹂
﹁あ、こんちは、梨花先輩﹂
にこにこと微笑んでいるよもぎはスケッチブックを抱えていた。
鉛筆を持った手は真っ黒に汚れている。
机の上には彼女の一番最初の作品が置かれている。不思議そうに
首を傾げる梨花を見てくすくす笑ったよもぎは﹁もうちょいで終わ
りますから⋮⋮﹂とスケッチブックの上に鉛筆を走らせた。
不思議に思いながらよもぎの後ろに回り込んだ梨花はわっ、と声
をこぼした。スケッチブックの上に机の上と同じ光景が映し出され
ている。白と黒しかないのにまるで何色もあるかのように思えてし
まうほどだった。
﹁よもぎさん絵上手⋮⋮﹂
﹁え?﹂
思わず口をついて感想が出てしまった梨花は慌てて口を塞いだ。
邪魔になってしまったのではないだろうかと心配になったからだ。
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しかし、よもぎは特に不快に思ったような様子もなく手を止めな
いまま﹁自分なんてまだまだですよ﹂
一通り描き終えたのか、ふぅと息を吐いてからスケッチブックを
閉じたよもぎは﹁これでよし﹂と笑ってから人差し指で自分の口元
を押さえた。
﹁他の皆さんには内緒で﹂
﹁え、あ、わ、分かった⋮⋮!﹂
こくんと頷く梨花に﹁ありがとうございます﹂とよもぎは嬉しそ
うに笑った。
568
第二十七話﹁傭兵さんは友達と再会したようです﹂
空には澄み切った青い空が広がっている。
木々が揺れる音に織り交ぜられた鳥の鳴き声と羽ばたく音が今が
朝であるということを人々に告げていた。
大きなゴミ袋を抱えながらマンションのエントランスから出てき
た梨花はふぅ、と小さく息をついた。
出てすぐ傍にあるゴミ捨て場に重たそうにポリ袋を抱えて行った
彼女はカラス除けのネットをどかしてから、やっと袋を手放すこと
ができた。重たかったぁ、と心の中で呟いていると﹁おはよう梨花
さん﹂と彼女の後ろから声がかかった。
聞き覚えのある隣人の声に梨花は思わず身を強張らせながら﹁お、
おひゃようごひゃいましゅ!﹂と声をひっくり返して答えてしまっ
た。
そんな梨花に声をかけた人物はもう、と唇を尖らせた。
ききょう
﹁そこまで驚かなくってもいいんじゃない?﹂
﹁ご、ごめんなさい⋮⋮桔梗さん﹂
とおやま
拗ねたような彼女に梨花は思わずしゅんと小さくなる。
泣きぼくろが特徴的な彼女の名前は遠山桔梗という。今は大学生
で、梨花の隣の部屋に同居人と一緒に暮らしている。若い男なので
恋人なのかもしれないと梨花は勝手に思っていた。
高校の入学と同時期に、隣に越してきた梨花に大層よくしてくれ
ている。
桔梗は艶やかな黒い髪をふわりと揺らしながら彼女も手に持って
いたゴミ袋をゴミ捨て場に置く。珍しいな、と梨花は思った。家事
全般は彼女の同居人の仕事だと以前に聞かされていた気がするから
だ。
﹁あ、今、私が朝からゴミ出しなんて珍しい、なんて思ったでしょ﹂
﹁え!?﹂
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なんで分かったの、とばかりに口を両手で覆う梨花に桔梗はおか
しそうに笑みをこぼした。
﹁失礼しちゃうわ。と、言いたいけど今日は彼が居ないから仕方な
くやってるだけなのよね﹂
ふふっと笑われて、梨花もふにゃりと笑った。
それから、そういえば、と思い出すことがあって口を開きかけた。
しかし梨花の声が発せられる前にあら、と桔梗は彼女の首元に手
を伸ばした。
﹁梨花さんったら、ネクタイが曲がってるわよ﹂
﹁へ!?﹂
﹁待って、直してあげるから。動かないで﹂
すっと顔を近付けて白い手でネクタイを正していく。
綺麗に整った綺麗な顔立ちに急に恥ずかしくなって梨花はすっか
り黙り込んでしまった。
手慣れた様子でネクタイを直していた桔梗は﹁懐かしいなぁ﹂と
ぽつんとこぼした。
﹁え?﹂
﹁ああ、昔ね、よくこうやって友達のネクタイ直してたの。あの子
ったらこういうの気にしてくれなかったから﹂
懐かしそうに目を細めていた桔梗はやっと手を放すとにこりと微
笑んだ。
﹁はいできた﹂
﹁わあ、ありがとうございます﹂
﹁どういたしまして﹂
ふふ、と小さく笑ってから﹁あ、ごめんね。こんなところで引き
留めて。そろそろ行かないといけないんじゃない?﹂
はっとした梨花はそうだったとカバンを担ぎ直すと、ぺこりと頭
を下げた。
﹁あ、ありがとうございました! 失礼します!﹂
﹁気を付けてね﹂
570
﹁はぁーい!﹂
結局聞けなかったなぁ、と思いながら梨花は慌てて駆け出した。
新幹線の窓の外を流れていく景色を見ながら南波は溜め息を吐い
た。
先ほどから見えないくらいの速度で流れていく景色を見ているだ
けだ。はじめこそ、目的地である京都に行くために滅多に新幹線に
乗らないこともあって物珍しさから多少面白かったもののそれも三
分も見ていれば退屈になった。
本を読もうとも思ったが何冊も持ち込んできたわけではない。今
から読んでいたら最終日まで全て読み終えてしまいそうだ。一度読
んだ本を読み返すのも南波は好きであったが、しかし読んだばかり
の本をまた読み返すのはさほど多くはない。よほど難解だったか、
あるいは面白かったときだけだ。
そういえば、と南波は思い返した。はじめて志摩次晴の本を読ん
だときはあまりに面白くてすぐ読破したのに、また読み返してしま
ったんだったと思い出した。何度も何度も読んだせいで今では一番
最初に買った本はよれよれだ。
少し懐かしい気分に浸っていたもののそれでも三十秒ほどしか時
間は潰れない。
普通なら隣、または前の席に座っている友人とでも話せばいいの
だろうが南波はそんな気分にはなれなかった。
クラスの枠を越えて編成された班員で固まって座っているお陰で
決して話せない相手が近くにいるわけではない。いや、それどころ
か南波にとっては親しい部類に入る人物ばかりだ。
だからこそ、と言った方がいいのかもしれない。
﹁南波、さっきから外ばっか見てるけどなんかあるのか?﹂
ついに指摘された、と南波は顔をしかめた。
571
観念して、南波は窓から視線を外すと隣で問いかけてきた友人︱
︱太李に向かってうんざりしたように言い放った。
﹁お前らを視界に入れないようにしてた﹂
﹁どういう意味だよ!﹂
﹁うるさいバカップルいちゃいちゃすんな﹂
ふんと南波が吐き捨てると太李とその目の前に座っていた巳令が
同時に顔を真っ赤に染め上げた。
先ほどから、恋人同士である二人は心底楽しそうに会話を続けて
いた。最初こそ、南波も会話に加わることができるくらいの余裕は
あったが出発から一時間以上経っても何をそこまで話す話題がある
のかずっと話し続けている。
顔を真っ赤にしながらわたわたする二人を置いて、ふと南波は視
線を前に投げ掛けた。
南波の前に座っている柚樹葉はブラウスに黒いズボンと珍しく白
衣のない私服に身を包んでいた。彼女は三人のやり取りを気にした
様子もなく手元のビーフジャーキーをがじがじとかじっている。
再度息をついた南波は﹁お前もなんか言ってやれ﹂と柚樹葉に声
をかけた。
彼の言葉に一旦ビーフジャーキーから口を離した柚樹葉は顔をし
かめる。
﹁今さら何言ったって無駄なことくらい私だって分かるよ。君はも
う少し彼らを理解した方がいい﹂
﹁⋮⋮それもそうだな﹂
もっともらしい顔で頷き合う二人に巳令はむーっと頬を膨らませ
た。
﹁なんだか失礼なことを言われているのは分かりますよ﹂
﹁合宿のときもそうだったけどまだ移動中なのに何がそんなに楽し
いのか私には理解できないよ﹂
やれやれと肩をすくめる柚樹葉に巳令は拗ねたように顔を逸らし
た。
572
次いで太李が﹁そういえば﹂と柚樹葉を覗き込んだ。
﹁九条さんこないかもってちょっと心配してたんだよ、な、鉢峰﹂
﹁はい﹂
﹁君らの中で私はどういうキャラ設定なの?﹂
困ったように一拍置いてから、﹁君らと一緒に修学旅行に行きた
いと思ったらいけない?﹂
気恥ずかしそうにそんなことを言う柚樹葉に巳令がぱぁあと顔を
輝かせ、彼女の両手を握りしめた。
﹁いけなくありません! 嬉しい! 思い出いっぱい作りましょう
ね!﹂
﹁わ、分かったから手は離してよ﹂
﹁あ、ごめんなさい﹂
しゅんと項垂れる巳令に柚樹葉はわしゃわしゃと髪を掻き毟った。
ふと、何か物足りなさを感じた南波がその正体に気付いて問いか
ける。
﹁スペーメはどうした﹂
﹁置いて来たよ。喋られても面倒くさいし。向こうでディスペアが
出たときにあいつが居た方が都合がいいだろうと思って﹂
﹁じゃあ寂しいな、九条さん的には﹂
﹁まさか、清々するよ﹂
太李の言葉にけっと吐き捨てた柚樹葉は頬杖をつきながら﹁お土
産、何買って行こうかな﹂と呟いた。
﹁あ、そうだ、梨花先輩たちにも買って行かなきゃな。何がいいん
だろ、八つ橋とか⋮⋮?﹂
うーんと難しそうに顔をしかめる太李を見ながら﹁益海くんはよ
もぎさんのお土産担当で﹂と巳令が微笑んだ。南波は思わず顔を歪
めた。
﹁なんで俺が﹂
﹁だって益海くんが一番よもぎさんのこと知ってそうだから﹂
﹁ただの腐れ縁だ﹂
573
そう返しながらも南波の手は黙って携帯を引きずり出していた。
﹁大体、柚樹葉はスペーメがいないと駄目なのにスペーメを置いて
いくなんてアホなのです馬鹿なのです! だからだめだめなのです
!﹂
きーっと休憩所内に響き渡るスペーメの声に書類を整理しながら
はいはい、とベルは適当に相槌を打った。
﹁一緒に京都行きたかったのね﹂
﹁そうじゃないのです別にスペーメ、ロボットだから全然京都とか
興味ねぇです! 寂しくねぇです!﹂
﹁はいはい寂しくないのね、鈴丸、そっちの判子取って﹂
﹁ん﹂
前の席に座る鈴丸によって放り投げられたそれを受け取って、ベ
ルは手元の書類に判を押した。
むむむ、と体を丸めたスペーメは﹁ただお前らに預けられなきゃ
いけないのが不満なだけなのです! お前らの面見るくらいならカ
バンの中がよいです! 隙間から清水寺を観た方がよいのです! スペーメ人形のフリができるから柚樹葉の膝の上で新幹線に乗れた
はずなのです!﹂
﹁俺らが不満ならペットホテルに預けてやってもいいぞ﹂
とんとんと書類の端を揃えつつ、そう言った鈴丸にスペーメがま
た叫ぶ。
﹁蒲生はすぐそういうこと言うから嫌なのですー! お前なんて親
指に嫌われればよいのですー!﹂
﹁ばーか、俺はそんなへまはしない﹂
勝ち誇ったように笑う鈴丸になぜか無性に腹が立ったスペーメは
声を一層張り上げた。
﹁年下好きの変態なのですー!﹂
574
﹁おい大声で変なこと言うな﹂
真っ白な体を摘まみ上げながらひくひくと顔を引きつらせる鈴丸
はスペーメの顔を間近で見返した。
ひう、と一瞬ばかり怯んでからスペーメは﹁そういえば﹂と空中
でじたばたと足を動かしつつ彼に問いかけた。
﹁この間、どこに行ってたですか?﹂
いつのことを指しているのか鈴丸にはすぐわかった。自分が支部
に行ったときのことだろう。
分かっている上で﹁この間って?﹂ととぼけたのである。
目の前のベルは聞いているのかいないのか、黙りこくっているま
まだった。
﹁とぼけるでねぇです。何日かいなかったときがあったじゃねぇで
すか﹂
﹁⋮⋮ああ、あのときな﹂
我ながら分かりやすい芝居だと思いながら﹁別に。今時流行りの
自分の探しの旅だよ﹂
スペーメの目が疑わしそうに細められる。
しかし、何かを問いかける前に眠たそうに目を擦ったマリアが休
憩所の中にのろのろと入って来た。
﹁おっす﹂
くあ、と噛み殺し切れなかった欠伸をこぼしたマリアは鈴丸に掴
み上げられているスペーメに目を丸くしてから首を傾げた。
﹁お前、なんでいんだよ。いつも学校だろ﹂
﹁今日は修学旅行だからうちに預けるって柚樹葉さん昨日言ってた
でしょ? 忘れちゃったの?﹂
困ったように笑うベルにマリアは少し顔をしかめてから﹁ああ⋮
⋮言ってたかもな﹂と腕を組んだ。
呆れた、と小さく告げてから書類の山の一番上にあった封筒を拾
い上げた。
﹁これ、あなた宛て﹂
575
﹁あん?﹂
受け取った封筒を見たマリアはげっと顔をしかめた。
封をするために固められた赤い蝋に押されたシンボルを見て差出
人を確認するまでもなく彼女はそれが誰からの手紙なのかを理解し
た。
﹁誰から?﹂
﹁妹﹂
鈴丸にそう答えてからぺりぺりと手紙を開封したマリアは中に入
っていた白い便せん三枚にびっしりと書き連ねられた母国語に苦笑
した。
マリアにとって、自分の妹は自分が傭兵になったということを伝
えた数少ない人物である。母国でシスターをしている妹はよほど姉
が心配なのだろう、こうして支部を通してではあるもののマリアに
手紙を送ってくる。
手紙の中では彼女の妹はしきりにマリアの体調や怪我を心配しな
がら自分の近況や母親のことなどを書きこんでいる。最後には﹁時
間があったら返事をください﹂という意味の一文だけが添えられて
いた。
彼女が妹の手紙に返事を書いたことは数えるほどしかない。それ
は妹と不仲だからというわけではなくて、単に返事を書いてやるだ
けの時間がないだけなのである。
同封されていた写真を見つめながら丁寧に手紙をしまい込んでか
ら溜め息を吐いた。
﹁妹さん、また心配してたの?﹂
﹁あいつは昔っから心配性なんだよ﹂
どかりと椅子に腰かけながら不満げにそう言うマリアにベルは小
さく笑った。
﹁嫌ね、心配してくれる人がいるだけいいじゃない。そういう人に
はきちんと報告しなきゃ悪いわよ﹂
﹁へいへい﹂
576
頭の後ろに腕を廻したマリアはそう生返事をしながら碧眼を細め
た。
少し考え込むように黙り込んだ彼女は不意に立ち上がると﹁ちょ
っと出かけてくる﹂とだけ言い残し、その場を後にした。
八つ橋じゃなくて、抹茶プリンを頼めばよかった。放課後、廊下
でスマホをいじりながらよもぎはわずかに後悔した。
なんの話かと言えば、南波から朝送られてきた﹃土産は何がいい﹄
というだけの簡単な問いかけに対する返信だった。授業が始まるま
でそう時間がなかったのもあって咄嗟に八つ橋と返してしまったの
だが惜しいことをしたとよもぎは心の中で嘆いた。
とはいえ、今さらやっぱり抹茶プリンがいいですなどと言ったら
万が一、彼がすでに土産を買っていた場合、帰ってきた瞬間、土産
と一緒にチョップも受け取らなければならないと思うとよもぎはど
うもプリンを要求する気にはなれなかった。
くっそー、と悔しがりながらスマホをポケットにしまったよもぎ
は自分の少し先を歩いている上級生を見つけて、嬉しそうに顔を輝
かせた。
﹁梨花せんぱーい!﹂
﹁ふぇ?﹂
びくっと足を止めて、振り返った梨花によもぎは小走りで近付い
た。
二年生がいないので部活は休みで、訓練も今日はなし。ディスペ
アが出ない限り会えないのではないだろうかと思っていたのでよも
ぎは梨花に会えたことを嬉しく思った。
それはどうやら梨花も同じだったらしく、﹁よもぎさん!﹂と嬉
しそうに笑っている。
﹁どもっす! 今日は会えないかと思いましたぜ﹂
577
﹁わ、私も⋮⋮﹂
えへへと笑う梨花に釣られてへへ、とよもぎも照れくさそうに笑
う。
あーあ、それにしても、とよもぎは肩を落とした。
﹁益海先輩たちは修旅だし、いいなー。ウチもまた先輩たちと旅行
に行きたいなー﹂
むぎゅーと自分に抱き着きながら頬をすり寄せてくるよもぎに﹁
くすぐったいよぉ﹂と梨花は困った顔を浮かべた。
しかし、よもぎはそれをやめようともせずに言葉を続けた。
﹁いきましょーよ、旅行。二人で旅行しましょーよ、愛のとーひこ
ーですよー普段いかないとこにいきましょーぜ﹂
﹁なぁにそれ﹂
くすくす笑った梨花は仕方なさそうによもぎの頭を撫でながらあ、
そうだと言葉をこぼした。
﹁いいこと思いついちゃった﹂
どこか悪戯っぽい笑みを浮かべる梨花にほほう、とよもぎが身を
乗り出した。
そんなよもぎに﹁あ、あのね﹂とどこか恥ずかしそうに梨花が目
を伏せながら言う。
﹁二人で旅行は無理だけど、その、私の家でお菓子食べよっか﹂
ぱぁぁっとよもぎが顔を輝かせる。
﹁先輩の家にお呼ばれされろってことですか!﹂
﹁う、うん。迷惑、かな?﹂
心配そうに自分を見つめる梨花に﹁まっさかー!﹂とよもぎは飛
びついた。
﹁こんな名誉なことがあってたまるかです! 超嬉しいっす!﹂
﹁⋮⋮ほんと?﹂
﹁ほんとですほんとです! 行きましょう! 今から行きましょう
!﹂
梨花の細い腕を掴みながらよもぎは下駄箱の方へと彼女を引っ張
578
った。
全体的に白っぽいマンションは光を浴びてきらきらと輝いている。
その輝きがどうにも恐ろしく鋭いもののような気がしてマリアは苦
々しい表情を浮かべていた。
数年前と何も変わっていない。それが逆にマリアの気を重くした。
手に持っていたきゅうりを口元に運んで、噛み千切ってから深々
と溜め息を吐いた。
まだアシーナに入る前、マリアはこのマンションで生活していた。
正確には友人の家に転がり込んで、同居人としてである。
恐らくその友人はまだここで暮らしているはずだ。散々世話にな
った恩人の一人で、大切な友人だ。殴られるのも覚悟で日本に来た
と言ってやろう。マリアはそう心に決めていた。
ところが、いざ、ここまで来てみるともう一歩踏み出す気にはな
かなかなれなかった。
今さら自分が出て行ったところで迷惑だろうかとらしくもないこ
とを考えてしまう。そんな自分に嫌気がさして、マリアは踵を返す
ことにした。
ひとまず撤退して、作戦を立て直そう。
そう心に決めながら振り返ったマリアは目の前の光景にげ、と顔
をしかめた。
ちどり むつき
今日はとことんついていないらしい。携帯の画面を睨み付けなが
ら千鳥夢月は苦々しい気分になった。
前々から予定していた恋人とのデートは急にキャンセルになって
それはそれは最悪の気分だった。その上、大学の講義の最中でうっ
579
かり眠ってしまうしでうんざりするほどだった。
そんな彼女の携帯に久しぶりに友人である遠山桔梗からの連絡が
入ったのだった。
高校時代からの友人で、親友と呼んでも差し支えがないほど親し
い間柄だった。辛いことも楽しいことも、色んなことを共有した友
人だった。
内容は実に簡単で、単にお茶をしようという誘いだった。待ち合
わせ場所を彼女の家にして、夢月は少しだけ早めに彼女の家の前に
到着していた。
ところが、ついていない日というのはとことんついていないもの
で、桔梗は急用ができて大学に行ってしまったという。
それを知らせるメールを見ながら、夢月は苦々しい気分に浸って
いたのである。
どうしようかと迷ってからだったら帰りに喫茶店にでも寄って行
こうと心に決めた夢月は顔を上げた。
﹁げ﹂
同時に聞こえてきたそんな声に顔をしかめた。
いくらなんでもいきなり嫌がられなければいけない理由なんてな
い。むっとした気分になりながら文句の一つでも言ってやろうと目
の前にいた誰かを見て、目を見開いた。
三つに編んだ銀色の髪に、到底日本人のものではない青い瞳、ス
タイルのいい体をタンクトップにカーゴパンツという簡単な服装で
固めている。自分と同じくらいの歳の女だった。
夢月はしばらく自分の目の前に立っている彼女を現実のものとし
て受け止めきれなかった。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、頭の中を整
理する。彼女に見覚えがあったのだ。
﹁⋮⋮マリア?﹂
久しぶりに彼女はその名を呼びかけた。
580
友人の名だった。高校を卒業して以来会っていなかった。
一方で女︱︱マリアの方はばっと両手で顔を隠すと﹁ひ、人違い
だ!﹂と苦しい言い訳を述べる。
なんでこいつこんなところにいるんだ! そう心の中で叫んでか
らマリアは自分が訪ねようとしていた友人の唯一無二の親友が彼女
だったことを思い出した。むしろ今まで出会わなかったことの方が
運がよかっただけなのかもしれない。
案の定、誤魔化しきれるはずもなく、いやいやと夢月が首を左右
に振った。
﹁マリア、だよ、ね? え? なん、え、日本にいて、ええ?﹂
数年ぶりに再会した友人に視線を右往左往させる彼女にマリアは
頭を掻いてから﹁最近、どうだよ﹂と開き直ったように問いかけを
発した。
﹁ど、どうって⋮⋮あ、そうだ時間あるならこれからお茶︱︱﹂
﹁あたしは元気だ! じゃあな!﹂
吐き捨てるように、そうきっぱり言い放って、マリアは夢月の脇
を通り抜け、走り出した。
あまりのことに夢月はしばし固まってからやがて、﹁ちょ、逃げ
んな!﹂とそのあとを追いかけた。
しかし、ただの大学生である夢月と日夜傭兵として働いているマ
リアではあまりに体力も、身体能力も差が付きすぎていた。あっと
いう間に二人の間の距離は広がっていく。
まともに追いかけていたらこのまま逃げられる。夢月は叫んだ。
﹁こら、止まれっての! とーまーれー! なんで連絡しなかった
のよ! いつから日本にいたの!?﹂
﹁私、難シイ日本語ワカリマセン!﹂
﹁ペラペラのくせに都合のいいときだけ外人面するなー!﹂
そんな叫び声も空しく、あっという間に夢月の視界からマリアが
消えた。
581
見事、友人を振り切ったマリアは若干乱れてしまった息を整えな
がら﹁くっそ﹂と前髪を掻き上げた。
思わず逃げてきてしまった。しかし、数年ぶりに会った友人を追
いかけ回すとは相変わらずだなとマリアはうんざりした。
彼女の性格はマリアもよく知っていた。お人よしで、お節介で、
おまけにしつこいと来ている。そんな彼女は友人として誇らしいも
のの追われる側になると心底面倒くさい。
とにかく今のうちに一刻も早くこの場から離れなければ。息を整
えたマリアが歩き出そうとしたとき、﹁あっれー?﹂と聞き覚えの
ある声が彼女の鼓膜を揺らした。
﹁マリアさんじゃないっすか? 奇遇ですねこんなとこで。何して
るんですか?﹂
また面倒くさいのに出会ってしまった。
目の前に現れたよもぎと梨花に﹁いや、なんてーか﹂とマリアは
頭を抱えた。
﹁お前らこそどうしたんだよ﹂
﹁なんと! これから先輩の家にお呼ばれなんですー!﹂
梨花の腕に抱き着きながらねー、とよもぎは上機嫌に笑っていた。
それに笑い返していた梨花がそうだ、とマリアを見上げた。
﹁あの、よかったらマリアさんも一緒に﹂
﹁え!? いや、あたしは﹂
ちょっと今は無理、そう返そうとしたもののマリアは続ける言葉
を飲みこむことになった。
マリアの腕を、肩で息をする夢月が掴んだ。
﹁やっと、捕まえた⋮⋮!﹂
キッと自分を睨み付ける彼女にマリアは悲鳴をあげそうになった。
582
店頭に並べられた箱を見比べながらむぅ、と柚樹葉は難しそうな
顔を浮かべた。
﹁生八つ橋ってこんなに種類があるものなの⋮⋮?﹂
彼女の視線の先には餡入りの生八つ橋が並んでいた。
定番のニッキに加えて、抹茶や胡麻、チョコレートや苺などとい
った変わった種類の味まで並んでいる。ニッキの存在しか知らなか
った柚樹葉にとっては衝撃的だった。圧倒されてしまうほどだ。
ベルに﹁お土産は、お姉さん生八つ橋が食べたいわねぇ。あと湯
葉もあると嬉しいわ、お仕事頑張れちゃう﹂と勝手なことを言われ
てしまい、買って帰らなければ彼女はうるさいに決まっていると太
李たちと一緒になって店に入った。こんなことなら知らんぷりすれ
ばよかったと柚樹葉は若干後悔した。
そもそも柚樹葉は京都に来たこと自体がはじめてだ。聞いた話、
見た話としての知識はあっても詳しく知っているわけではない。中
学の修学旅行も行き先は京都だったらしいが参加しなかったのであ
る。
というよりも生まれてから旅行に来たこと自体、数えるほどしか
ない。元々外に出るのはあまり好きじゃなかったし、家族と疎遠に
なってからは益々そうだった。
だから誰かに土産を買って帰らなければいけないという状況もは
じめてだった。
べったり貼り付くように中身を覗いている彼女に太李が苦笑した。
﹁そんな、この世の終わりみたいな顔しなくてもいいだろ﹂
﹁ほっといてよ。君らと違って私は京都の経験値が少なすぎるんだ
から、分からなくて当然でしょ﹂
むすくれる柚樹葉に﹁いや、俺もこれで二回目だけど﹂とがっく
り肩を落としながらなんだよ経験値ってと太李は一人心の中で呟い
た。
彼の手にはすでに会計済みの八つ橋が入った紙袋が握られている。
583
それを一瞬、憎々しげに睨んでから柚樹葉は吐き捨てた。
﹁だって君はもう買い終わってるじゃないか﹂
﹁あーまぁ、これは頼まれてたから。﹃おにい、チョコの生八つ橋
買ってきてね!﹄って﹂
﹁おにい?﹂
首を傾げた柚樹葉は﹁君、兄弟いるの?﹂
﹁あれ、言ってなかったか? 妹いるけど﹂
﹁聞いてないよ。いくつ?﹂
﹁中二だから⋮⋮十六かな﹂
柚樹葉にはその年齢に思い当たるものがあった。自分の妹と同じ
歳だ。
太李の方は太李の方で、以前、柚樹葉の妹に会ったことを思い出
して内心少しだけ焦っていた。あの様子だと、どうも姉妹仲はよく
ないのだろう。
まさか太李の妹が自分の妹と仲がいいとも知らず、柚樹葉は﹁ふ
ーん﹂とこぼしただけだった。すでに彼女の中で太李の妹、こと紅
葉への興味は薄れていたようだった。
それを証明するかのように次に柚樹葉の口から出たのは全く別の
話題だった。
﹁ベルガモットは何が好きだと思う?﹂
﹁え? ベルさん?﹂
﹁そう。生八つ橋を買って来いとしか言われなかったんだよ﹂
面倒そうに箱に視線を落とす彼女が深々溜め息を吐くと同時に﹁
灰尾ー﹂と手の上に箱を重ねた巳令がこちらに駆け寄ってくる。
﹁うわ、鉢峰、お前⋮⋮﹂
﹁梨花先輩に苺味買って行こうと思うんですけどどうですかね?﹂
﹁いや、いいと思うけど⋮⋮。そんな買ってどうするんだよ﹂
呆れたような太李にぎくっと巳令は言葉を詰まらせた。
自分で食べる、という言い訳は厳しいだろう。その、と目を伏せ
ながら﹁父の知り合いに﹂嘘は吐いていなかった。
584
﹁大変だな﹂
﹁い、いえ、そんな。とにかく! お会計してきますね﹂
箱を抱えながらどこかうきうきとした様子でレジに向かう巳令を
見送りながら柚樹葉はどこか無感情に告げた。
﹁人への土産を選ぶだけであんなにはしゃげるなんて私にはよく分
からないよ﹂
﹁鉢峰は楽しみすぎなだけだ﹂
軽く笑う太李に黙って視線を向けてから柚樹葉は少し間を空けて
からこれまた特に感情を込めずにぽつんと、
﹁そんな鉢峰が好きとは言わないんだね﹂
﹁な⋮⋮﹂
顔を赤くする太李にはは、と笑った柚樹葉は山積みになっていた
箱の一つに手を伸ばす。
巳令より一足早く会計を終えた南波が二人の下に歩み寄ってきた。
﹁九条、まだ悩んでたのか﹂
﹁もう決まるよ﹂
そう言って何種類かの味が詰め合わせられた箱を手に取ってよう
やく柚樹葉もレジの方へと向かって行った。
八つ橋の入った袋を肩にかける南波に﹁結局、八つ橋買ったんだ
な﹂と太李。
﹁春風が食いたいって言うから﹂
﹁⋮⋮お前意外とよもぎちゃんに優しいよな﹂
﹁うるさい﹂
げしっと太李の足を蹴り飛ばしてから南波は店の外へと出て行っ
てしまった。
いってぇ、と顔を歪めた太李が足を押さえた。
﹁あいつ⋮⋮!﹂
﹁どうしたんですか﹂
大きな紙袋を抱えながら巳令に覗き込まれ、太李は﹁いや、別に﹂
と誤魔化した。
585
それから重たそうな袋を見て、息をついてから手を差し出した。
﹁重いだろ、持つよ﹂
﹁え、あ、いえ、そんな⋮⋮! これは私が買ったものですし!﹂
﹁いいって。ほら、あのー﹂
恥ずかしそうに顔を背けながら太李は小さな声で続けた。
﹁ちょっとくらい彼氏頼っておけって﹂
言っておいてやはり恥ずかしくなったのか顔を覆う太李に釣られ
るように巳令も頬を染めた。
少し困ったように視線を泳がせていた巳令だったがやがて、
﹁じゃあ⋮⋮﹂
おずおずと紙袋を差し出した。
それを受け取る彼を見ながら巳令は嬉しそうに微笑んだ。
﹁ありがとう、灰尾﹂
柔らかく咲いた笑顔はまるで花のように可憐だった。
他の誰とも違う、どこか落ち着いた、それでいて無垢な笑顔は太
李が好きな巳令の表情の一つだ。悩ましそうに額を押さえながら太
李はやっと歩き出した。
テーブルを挟んで向かい合うマリアと夢月を見ながらよもぎは引
きつった表情で呟いた。
﹁何がどうなってんだ⋮⋮﹂
湯呑を持ってきた梨花が吐き出したい台詞でもあった。
偶然出会ったマリアとどこかで見た顔の女︱︱それがこの間、マ
リアの卒業アルバムで見た顔だと梨花が気付いたのはついさっきだ
った︱︱が目の前で突然言い争いを始めてしまい、周囲にいた人々
の視線を集めた。
それが梨花には耐えられず﹁あ、あのぅ!﹂と二人の間に割り込
んでからついつい言ってしまった。
586
﹁こ、ここじゃ目立ちますから喧嘩ならうちで﹂
どうして自分の口から咄嗟にそんな台詞が出たのか梨花にも分か
らなかったが結果的には二人を招き入れることになった。
梨花から湯呑を受け取ったよもぎは﹁ちゅーか﹂と夢月に視線を
向けて首を傾げた。
﹁そこの可愛い姉ちゃん誰なんですか﹂
﹁⋮⋮可愛い?﹂
頬を手で覆いながら夢月の表情がわずかににやける。
えへへぇと情けない顔をする友人に顔を引きつらせてから頬杖を
ついた。
﹁あー、なんてーかダチ﹂
それからわしゃわしゃと髪をかきむしったマリアは﹁というかお
前んち、桔梗の家の隣なのな﹂と梨花に言う。
﹁あ、やっぱりあのアルバムの人、桔梗さんなん、です、よね?﹂
﹁まぁな。まさか、お前が桔梗の知り合いとは﹂
困ったように、どこか弱々しくマリアが笑った。
﹁ほんと、神様は人間をどこで繋げるかわかんねーな﹂
﹁それより!﹂
ぐいっと身を乗り出した夢月は不満げにマリアの青い瞳を見返す
と﹁いつから日本に居たの?﹂と同じ質問を繰り返した。
顔を逸らしていたマリアもさすがに観念したのか、息を吐いてか
らあーと唸った。記憶を捻り出そうとこぼれた唸り声だった。
﹁夏前、くらいだな﹂
﹁⋮⋮なんで連絡くれなかったの﹂
どこか叱責するような夢月の口調にマリアはぐっと言葉を詰まら
せてから視線を逸らした。
﹁別に。しても迷惑かなって﹂
﹁なんでそうなるのよ﹂
むにーっとマリアの白い頬を引っ張りながら夢月は不満げに続け
る。
587
その光景を梨花もよもぎもただ黙って見ていることしか出来なか
った。
﹁みんなマリアがどうしてるかって心配してたんだからね。桔梗だ
って、死ぬほど﹂
﹁ああ、もう悪かったよ﹂
ひらひらと手を振りながらマリアは﹁最近、どうだ﹂
﹁学校出たら起業しようかなって。みんな変わってないよ。マリア
に会いたがってる﹂
﹁そうか﹂
頭の後ろで腕を組んだマリアはそのまま天井を見上げた。特に意
味などない行為だった。
﹁マリアは? ちゃんと、ご飯食べてる? 他の人に迷惑かけてな
い? 辛くない?﹂
﹁お前はあたしの母さんか﹂
けっと吐き捨ててから﹁大丈夫、だよ。うん﹂とマリアは何度か
頷いた。
それから夢月は黙ってやり取りを眺めていた梨花たちに向き直る。
﹁あなたたちがマリアとどういう関係か、あんまり分かんないけど。
口が悪くて乱暴でも、この子ほんとは凄く真面目でいい奴だから﹂
﹁ば、変なこというなよ!﹂
慌てて夢月の口を塞ぐマリアに梨花がくすくす笑った。
﹁し、知ってます。ね、よもぎさん﹂
﹁はい﹂
二人の言葉に林檎のように赤くなったマリアは顔を俯かせた。
﹁な、なんだよみんなして変なことばっかり言いやがって⋮⋮﹂
そんなマリアに構わずに﹁それにしても﹂と二人の姿を見てから
夢月は口元で弧を描いた。
﹁その制服懐かしいなー。昔のままなんだ。今じゃもうこんなの着
れないや﹂
﹁そうっすか? お姉さんまだいけそうですけど﹂
588
﹁いやいや﹂
よもぎの言葉に苦笑する夢月はじっとマリアを見つめてから﹁う
ん、その格好しっくり来る﹂と頷いた。
﹁何がだよ﹂
﹁いや? 制服姿じゃないマリアってあんまり見たことなかったし、
でも今こうして、久々に別の格好で見ると凄く似合ってるような気
がするっていうか﹂
うーんと難しそうな顔をする彼女にマリアは苦笑した。
高校最後の年、ベルに誘われるまで目標を見つけられずにいたマ
リアは随分思いつめていた時期がある。そのときは夢月や桔梗に散
々迷惑をかけたものだった。
しかし今まるっきり悩みがないかと言われればそうでもない。結
局マリアは誤魔化すように﹁そうかよ﹂と言うだけだった。
﹁やっぱりマリアはかっこいいよ﹂
ぽつんと、そう言われ、彼女は驚いたように夢月を見返した。
いつか、前にも同じようなことを言われた気がしたからだ。
﹁あたしが?﹂
﹁そうだよ。だってマリアはいつも一生懸命だし。自分の信じた道
を進んでるから﹂
そうか。とマリアは心の中でだけ返事した。
へへっと笑いながら﹁そうか。そう、だよな﹂と頷いた。
自分は何を悩んでいたのだろう。
なんだか急に馬鹿馬鹿しく思えて、﹁そうだよな!﹂と夢月の肩
を思いっきりマリアは叩いた。
﹁いった! 何すんのよ!﹂
﹁やっぱりお前馬鹿だわ! 相変わらず馬鹿で安心した!﹂
﹁何よそれ!?﹂
けらけらと笑ったマリアは急に立ち上がると﹁悪い! やること
できた!﹂
その吹っ切れたような横顔を見ながら﹁そっか﹂と目を伏せた夢
589
月は﹁ねぇ、マリア﹂
しかし、彼女の言葉より早く、玄関の方へ駆け出したマリアの声
が大きく響く。
﹁またな千鳥! 今度は桔梗も一緒にな!﹂
そう言って、駆け出していく彼女の後ろ姿を見て、なんだかなぁ
と夢月は小さく笑った。
やがて取り残された二人を見て、﹁あーっと﹂と困ったように笑
った彼女はこう続けた。
﹁マリアの、昔話でもしよっか?﹂
がたっとよもぎが身を乗り出した。
﹁ぜひ﹂
きりっと真面目そうな顔でそう言った彼女に夢月は小さく吹き出
した。
なんだ、またいい友達いるんじゃない。マリア。
590
第二十八話﹁九条さんでも予測できないことはあるようです﹂
四日間の修学旅行を終えて、帰ってくるや柚樹葉の足は自然と泡
夢財団の本部へと向かっていた。
目の前に突き出された紙袋を見ながら﹁まぁまぁ﹂とベルは口元
に手をやりながら嬉しそうに微笑んだ。
﹁ほんとに買ってきてくれたのね﹂
﹁⋮⋮なに? 悪い?﹂
不機嫌そうなまま、自分を見上げてくる柚樹葉にくすくすと笑っ
たベルは首を左右に振った。
﹁いいえ、帰ってきて早々に私にお土産持ってきてくれるとは思っ
てなかったから﹂
京都での修学旅行も終わって、単にスペーメを迎えに来るついで
だっただけと柚樹葉はよほど言おうかとも思ったがそれを言ったと
ころで目の前の女が素直に聞くはずもないとすぐに言葉を飲みこん
だ。
そんなこととも知らずに紙袋の中を覗き込んだベルはあらあらと
声をこぼした。
﹁湯葉も生八つ橋もある、本当に貰ってもいいの?﹂
﹁買って来いって言ったのは君﹂
やれやれと腕を組んだ柚樹葉は机の隅で丸まっているスペーメを
見て溜め息を吐いた。
﹁いつまで拗ねてるんだよ、デブ﹂
﹁スペーメ、デブじゃないのです⋮⋮﹂
消えてしまいそうな声でスペーメはそう答えた。
いつもと違って覇気のない声に苦笑しながらベルが言う。
﹁スペーメったら柚樹葉さんがいない間、ずっと寂しそうだったの
よ﹂
﹁別に寂しそうじゃなかったですぅ!﹂
591
そう言って、スペーメは後ろ足をばしばしと机の上を叩き付ける。
小さな体躯からは想像できないような力強い音を聞きながらわしゃ
わしゃと柚樹葉は髪を掻き毟った。
先ほどからスペーメはこの調子だった。元々柚樹葉について回る
ことばかりで、何日も置いて行かれるという状況がなかったせいか
出発する日から機嫌が悪そうだったのだが柚樹葉が戻っても知らな
いの一点張りだった。
こういうことが起こるたびに、彼女はスペーメの感情の豊かさが
ある種の失敗だったように思えてしまう。
﹁仕方ないでしょ、こっちでなんかあったときに君がいなかったら
困るんだから。それが君の仕事でもあるんだし﹂
﹁だから別に気にしてないのです﹂
﹁そんなに京都に行きたかったの?﹂
﹁行きたくなんてなかったですぅ!﹂
きーっと叫びながらスペーメは再び、激しく後ろ足を机に叩き付
けた。
その様子を見て、ベルは思わずといった様子で腹を抱えながら笑
い出した。小さな子供が怒っているようにしか見えなかったのだ。
﹁ベルガモット、言っとくけど面白くもなんともないんだからね、
これ﹂
﹁ごめんなさい、可愛いなって思って﹂
﹁スペーメが可愛いのは当たり前なのですー!﹂
もはや今のスペーメにとっては褒め言葉さえも火に注がれる油の
ようだった。
その目は吊り上り、自分が不機嫌であるということを精一杯伝え
ている。
﹁なんなのですか、スペーメは京都になんて行ったことないのに自
分だけ楽しんできて全く柚樹葉はずるいのです﹂
﹁やっぱり行きたかったんじゃない﹂
﹁行きたくないって言ってるのですぅ!﹂
592
ぶーっと鼻を鳴らすスペーメに柚樹葉はまた深々と溜め息を吐い
て、ベルは心底おかしそうに腹を押さえた。
大事そうに袋を抱えたベルはふと思い出したかのように首を傾げ
た。
﹁そういえば、ご家族の人にはお土産買ったの?﹂
ぴたりと、一瞬だけ動きを止めた柚樹葉は軽く目を閉じてから首
を左右に振った。
﹁買ってないよ。渡されても迷惑だろうし﹂
﹁⋮⋮そう﹂
﹁第一、君にそんなこと関係ないでしょ﹂
少しきつい言い方になった、そんな感想が柚樹葉の中で芽生えた
のは言葉を放ってからすぐだった。
ゆっくり振り返って﹁そっかぁ﹂と紙袋を見つめているベルを見
ながら柚樹葉はまたわしゃわしゃと髪を掻き毟った。
同じ頃、太李が家に戻ってくるや、彼を出迎えたのは嬉しそうに
両手を差し出している紅葉だった。
きらきらとした彼女の瞳が何を求めているのか兄である彼にはす
ぐ分かった。溜め息を一つ吐き出してから彼はカバンの中に手を突
っ込んでから買ってきた生八つ橋の箱を取り出して、その手に乗せ
た。
﹁ひゃっはー! 八つ橋ー! 八つ橋ー! おにいありがとー!﹂
﹁あとで俺にも一個くれよ﹂
靴を脱ぎながらそう言う兄にうんうん、と紅葉は何度も頷いた。
くるくるその場で回ってから紅葉はリビングに戻り、叫んだ。
﹁おかあー! おにい帰ってきたー! 八つ橋買ってきたー!﹂
﹁えー?﹂
その声に答えた彩花はひょこっと廊下に顔を出すと笑った。
593
﹁わあほんとだ。おかえりなさい。荷物、洗濯機のところにまとめ
て置いておいてくれればいいから﹂
﹁ん、分かった﹂
荷物をあげながら太李がそう答えれば、彩花は再びキッチンの方
へと戻って行った。
嬉しそうに八つ橋を見つめていた紅葉がそんな彼にふと、口を開
いた。
﹁ねえ、おにい﹂
﹁なに?﹂
﹁おにいさ、九条柚樹葉さんって知ってるべ?﹂
思わぬ問いかけに彼は自分の妹をまっすぐ見つめ返した。その瞳
はどこか不安混じりな、普段の彼女のものとは異なるものだった。
先刻まで一緒だった学友の名前に太李は頷いた。
﹁知ってるけど﹂
﹁その妹の柚音っちが紅葉さんのお友達なわけなんだけれどもね﹂
﹁おう﹂
以前、柚樹葉の家の前で紅葉と遭遇したことも勿論彼は覚えてい
た。というよりはまさに数日前、思い出したばかりだった。
なぜそれを今さら確認しているのだろう、自分の友人関係を知っ
てこの妹はどうするんだ。などと太李が考えていると紅葉の話はま
だ続いた。
紅葉からすれば人に︵といっても聞くような人間もその場にはい
なかったのだが︶聞かせたくない話だったようで耳打ちで、
﹁柚音っちとお姉さんってあんまり仲良くないみたいでね。でも柚
音っちの方は仲良くしたいっていうか﹂
特別、柚樹葉本人の口から聞いた話ではないがうっすらと感じて
いたことだった。やっぱりな、というのが太李の抱いた感想だ。
しかし、いざ、自分の妹からそんな話題が切り出されると彼はそ
れにどう返答したものかと悩んでいた。
そうやって太李が言葉を選んでいる間に紅葉は本題を切り出した。
594
﹁だから今度、うちで、夕飯食べさせたくて。おにい、お姉さんの
方誘ってくれないかなって﹂
兄として、本来なら人の家の事情に首を突っ込むなと太李は言い
たいところであった。事実、その言葉はあと少しのところで口から
出そうになっていた。
しかし、寸前でそれが留まったのは他でもなく、自分もまたその
ことを気にしていたからだ。直接的に戦ってこそいなくても、柚樹
葉は実際フェエーリコ・クインテットの一人で、友人だと思ってい
る。だから何かをしたいと思ってしまうのかもしれない。
この話をしたら南波か鈴丸辺りにお人よしなどと言われてしまい
そうだなと思いながら、それでも太李は、自分の中で結論をまとめ
るより早く頷いていた。
﹁分かった﹂
不安げだった顔を紅葉は一気に輝かせた。
こういうところはやっぱり兄妹なのかもしれないと感じつつ、太
李は頭を掻いた。
﹁分かったけどさ、俺が声かけてきてくれるかな、九条さん﹂
﹁⋮⋮まぁ、確かに女子高生が彼氏でもない男子高生の家に上がる
のは抵抗あるよなぁ﹂
むぅ、と紅葉が小さく唸る。
顔をしかめ、考え込む紅葉はやがて、名案を思い付いたのか﹁そ
うだ!﹂と太李を覗き込んだ。
﹁他の女の子も一緒にいればまだマシなんじゃないの? 例えば、
あの﹂
また眉を寄せ、記憶を探っていた紅葉は目的の名前を見つけてそ
うそう、と頷いた。
﹁鉢峰さん、だっけ。あの美人さんとか。おにい、仲良しみたいだ
し﹂
595
自分の妹が発した名前に太李は凍りつくような思いだった。
ただのクラスメイトを連れてくるのとは訳が違う。以前ならまだ
しも今や巳令とは仲良しどころか恋人同士だ。いつか親に話をしな
ければいけないと思いつつ今日まで黙ってきたのは気持ちの整理が
つかないのと同時に、何より、自分の父親に彼女を紹介するのが太
李にとっては憂鬱だったからだ。
基本的には家族がそろってから夕食をとる灰尾家で一緒に食事と
なれば必然的に彼女と父との邂逅は避けられない。今まで黙ってい
たことを考えてもどう考えても面倒になる。
﹁や、それは、まずいんじゃないんでしょうか﹂
﹁なんで?﹂
きょとんと自分を見返す紅葉に﹁その、父さんが面倒だし﹂
﹁え? なんでおとうがめんど﹂
そこまで言いかけてきたはっとした顔を浮かべた紅葉は途端にに
やにやと笑いだした。
﹁まさかおにい、あれか、リア充なのか?﹂
﹁うっせぇ!﹂
﹁あはは、ウケる!﹂
﹁ウケんな!﹂
吠える太李にひとしきりけらけらと笑ってから﹁いいじゃんいい
じゃん﹂と目に浮かんだ涙を指で拭った。
﹁いい機会じゃん、一石二鳥じゃん。おとうに紹介しちゃいなよ。
鉢峰さんみたいな人なら別に反対されないだろうし﹂
﹁父さんを鉢峰に会わせるの気が重い﹂
﹁いいじゃん、未来のおにいじゃん。そっくり親子なのに﹂
﹁似てねぇっつーの﹂
けっと吐き捨ててから、しかし逃げていても仕方ないことだよな
と太李は溜め息を吐いた。
﹁明日誘ってみるけど。いいか? 鉢峰が嫌だって言ったら作戦変
えるからな﹂
596
﹁アイアイサー!﹂
びしっと敬礼して見せる紅葉に太李は言いようのない不安を覚え
たのであった。
その翌日の昼休み、鉢峰巳令は珍しく屋上へ向かっていた。
手には京都で買ってきた土産が握られている。
梨花が唐突に、屋上でみんな一緒にお昼ご飯食べようか。そう言
い出したのが巳令の珍しい行動の理由だった。
近年の学校にしては珍しく、神都高校は屋上の出入りを禁止して
いなかった。しかし、天候に左右されることもあって大半の生徒は
教室や食堂で食事をしてしまうためそこまで人が集まらない、とい
う話程度は巳令も耳にしていた。
実際に、階段を登り、その屋上を覗いてみるとさほど人が集まっ
ている様子はなかった。
﹁みれーせんぱーい! こっちこっちー!﹂
空白を埋めるためのように設置されたベンチの上に座っていたよ
もぎが手を振って彼女を呼び寄せた。その横には大事そうにお弁当
を抱えた梨花もいる。
その手を振り返しながら二人に駆け寄った巳令は﹁お待たせしま
した?﹂と首を傾げた。ううん、と梨花が首を左右に振る。
﹁あたしたちも今来たところ﹂
﹁ならよかった。でもどうして急に屋上なんです?﹂
梨花の隣に腰かけながら巳令が問えば﹁マリアさんがよく来てた
らしいんすよ﹂とよもぎが答えた。
﹁マリアさんが? マリアさんって、あのマリアさん?﹂
﹁あの銃ぶっ放すマリアさんっす﹂
﹁実は、あたしたち、巳令さんたちが京都に行ってる間に、その、
597
マリアさんのお友達に会ってね。その人に教えて貰ったの。だから、
なんだか来てみたくなっちゃって﹂
ええ!? と巳令が純粋に驚いた声をあげる。それから身を乗り
出してぷーっと頬を膨らませた。
﹁ずるいですよ二人だけ。私もマリアさんのお友達に会ってみたか
ったです﹂
﹁ご、ごめんね?﹂
﹁いやーめちゃ可愛かったっすよ。しかも優しいし﹂
﹁あ、あのあとジュース奢って貰っちゃったもんね﹂
﹁ねー﹂
二人で笑いあう梨花とよもぎを見てむぅ、とさらに不機嫌そうに
巳令が頬を膨らませた。
﹁なんだか二人とも私たちが居ない間に随分仲良くしてたんですね﹂
﹁お? 嫉妬ですか? みれー先輩嫉妬? 可愛いのう可愛いのう﹂
つんつんと頬を突くよもぎは﹁でもいいじゃないですかぁ﹂と頬
に手をやってにやにやと笑う。
﹁鉢峰先輩は京都でダーリンとずっと一緒だったわけですしぃ。色
々進展があったんじゃないんですか?﹂
﹁進展って⋮⋮﹂
若干頬を赤らめた巳令は少し視線を逸らしながら﹁手は、繋ぎま
したけど﹂
え、とよもぎが目を丸くする。
﹁手繋いだだけ!? ちゅーは!?﹂
﹁よもぎさん声が大きい!﹂
真っ赤になって言い返す巳令に構わず﹁だって!﹂とよもぎは空
中に拳を振り下ろした。
﹁鈴丸さんなんて見てる人間が少ないのをいいことに梨花先輩をい
じめたい放題してたのに! しまいにゃ抱き締めてましたからねあ
の人! けしからん! あれ見てなかったら絶対ちゅーまでしてま
すよ!﹂
598
﹁よ、よもぎさんそれは言わないでって言ったでしょ! というか、
へ、変なこと言わないでよぉ! ばかぁ!﹂
なぜか自分に飛び火して来て真っ赤になりながら手を振り回す梨
花はそのまま恥ずかしさのあまりか顔を俯かせてしまった。
その一方で叫びきったよもぎは満足そうにはふ、と息を吐くと﹁
なんちゅーか﹂と額を押さえた。
﹁相変わらずっすね、灰尾先輩も﹂
﹁ヘタレだからな﹂
背後から聞こえてきた低い声にびくっと肩を跳ね上がらせたよも
ぎはゆっくりと振り返ると、声の主に問いかけた。
﹁益海先輩いつからいたんすか?﹂
﹁東天紅先輩が鈴丸さんにやりたい放題されてたって話の辺りから﹂
﹁変な言い方しないでぇ!﹂
顔を上げて、涙目で叫ぶ梨花からふんと南波は視線を逸らした。
そんな会話に思わず項垂れた巳令はぶつぶつと呟く。
﹁別にヘタレとかそういうんじゃ﹂
﹁ヘタレだろ﹂
ごそごそとカバンの中を漁りながらなんのこともなさげにきっぱ
り答える南波はカバンから手を引っこ抜くと﹁ん﹂とよもぎの前に
箱を突き出した。
その箱を見返しながら﹁お﹂と声をあげた。
﹁八つ橋。買ってきてくれたんすね﹂
﹁まぁな﹂
決まり悪そうに吐き捨てる南波を見て、巳令もカバンに手を突っ
込んだ。
﹁私もお土産⋮⋮あ、あった。はい、梨花先輩の分です﹂
﹁あ、わあ、ありがとう﹂
巳令から差し出された生八つ橋を大事そうに抱きかかえながら梨
花はにこにこと笑っている。
味がどうとか、それでよかったかとか巳令と梨花の二人がそんな
599
話を交わすのを見ながらよもぎは手元の八つ橋を見て苦笑した。ま
ぁ、頼んでしまったのだからこれが来るのは当然だよな。
南波の方を見てから﹁あざっす、いただくっす﹂とよもぎは頭を
下げる。
﹁⋮⋮春風﹂
﹁はい?﹂
﹁プリンも食わないか﹂
南波の言葉によもぎは自分が思った以上に面食らっていた。
きょとんと自分を見返すよもぎに南波はもう一つ箱を差し出す。
﹁抹茶プリン﹂
﹁え、なんで?﹂
﹁別になんでもいいだろ、食え﹂
よかねぇよ、と顔をしかめたよもぎはじーっと箱を見つめながら
首を傾げる。
﹁誰かのお土産だったとかじゃないんですか?﹂
﹁勢い余って買っただけだ﹂
﹁だって益海先輩、甘いものそんな好きじゃないっすよね﹂
﹁⋮⋮プリンだったから﹂
ぼそっと呟く南波に﹁はい?﹂とよもぎは彼の顔を覗き込んだ。
まさかプリンを見て和奈を思い出して買ってしまった、とは南波
も言えなかった。吹っ切れてなどいないのだ。
その澄んだ瞳が自分を責めているような気がして南波は素早く自
分の手を手刀の形にする。
﹁うるさいつべこべ言わずに受け取れ!﹂
﹁ふぎゅ!﹂
振り下ろされた手刀によもぎは奇妙な声をあげながら打たれた首
を押さえた。
﹁ぼ、ぼーりょく反対です!﹂
﹁お前が口答えするからだ﹂
﹁理不尽! これが俗に聞くこーはいいじめって奴ですね!﹂
600
うわん、とわざとらしい泣き声を出しながら顔を覆ったよもぎは
ちらりと南波を見上げると溜め息を吐いた。
﹁じゃあ、お言葉に甘えていただきます﹂
﹁ああ﹂
どこか満足げに頷く南波に未だ首を傾げたまま、よもぎは八つ橋
と一緒にプリンの箱もしまい込んだ。
そこで自動販売機に飲み物を買いに行っていた太李がやって来た。
﹁あ、灰尾、こっちこっち﹂
﹁おう﹂
ちょいちょいと巳令に手招きされてやってくる彼を見て、自分の
中に燻っている疑問を置いてにこりと笑った。
﹁遅いですよ、先輩。放課後、ジュース奢ってもらお﹂
﹁なんでだよ﹂
苦笑しながらその場に腰を下ろした太李はじーっと巳令を見つめ
た。
どう切り出すか考えていたら昼休みになってしまった。事情を話
せば彼女は喜んで協力してくれそうな気もするが、ついつい悩んで
いた。
彼の視線に気づいたのか黒い髪を耳にかけながらはにかんだ。
﹁私の顔に何か?﹂
﹁あ、いや﹂
もういっそ、息を吐き出してから太李は悩んでいたことが馬鹿馬
鹿しくなるほど簡単にその台詞を言い放った。
﹁鉢峰、今夜、うちに飯、食いに来ない? 親に紹介とかしたいし﹂
太李の言葉に、一瞬でその場が凍りついた。
発言者たる彼もまた、その台詞を言い終えたあとで、ここまで簡
潔に述べたらその言葉がどう捉えられるかを自覚して顔を赤くした。
誰が動くよりも早く、まず最初に動いたのは梨花で、彼女はばっ
601
と太李の手を掴むと叫ぶように言う。
﹁け、けけ結婚おめでとう!﹂
﹁梨花先輩!?﹂
やっぱりそういう誤解が生じたか、と弁解を言うより早く南波が
ぽんぽんと太李の肩を叩いた。
﹁俺はお前を見誤ってた。ヘタレとか言って悪かった﹂
﹁自分もすいませんでした⋮⋮! 先輩堂々と人前でプロポーズで
きるまでに成長してたなんて春風感激です⋮⋮!﹂
﹁二人ともやめろ! あと南波、お前心なしか優しい目で俺を見る
のをやめろ!﹂
恥ずかしいやら怒りたいやら。太李の頭の中はいっぱいいっぱい
だった。
そんな彼に追い打ちをかけるかのように真っ赤になっていた巳令
がしずしずと頭を下げた。
﹁⋮⋮不束者ですが﹂
﹁待て! 待て待て! 違う! 違うんだ、鉢峰!﹂
﹁違う?﹂
顔を上げた巳令の黒い瞳がわずかに潤んでいるのを見て、太李は
ぎょっとして首を左右に振った。
﹁いや、違くない! お前を嫁にしたくないという意味じゃない!﹂
﹁じゃ、じゃあうちに婿入りを⋮⋮?﹂
﹁そうでもない!﹂
﹁と、いうことはもしかしてご両親の前で別れ話を﹂
﹁なんでそうなる!? お前と別れたくないし、生意気だけどそれ
こそ将来的に結婚考えたいし、お前のこと大好きだし︱︱﹂
そこまで言いかけてから太李は頭を抱え、﹁何言ってんの俺!?﹂
と一人泥沼にはまって行く。
﹁バカップル乙っす﹂
話の流れが読めない上に、大好きという言葉に完全にオーバーヒ
ートした巳令の頭を撫でたよもぎがうんざりしたように呟いた。
602
それから太李がきちんと事情を説明するまでに五分も必要としな
かった。
一番に勘違いした梨花は﹁なんだぁ、そ、そっか、そうだよね、
まだ灰尾くん結婚できないもんね⋮⋮﹂となぜかむしょうに残念そ
うに肩を落とし、南波とよもぎは声を揃えて﹁やっぱりな﹂と言っ
ただけだった。
巳令は弁当の中身を突きながら﹁そういうことなら早めに言って
ください﹂と唇を尖らせている。
﹁いや、すまん。色々考えてたらごちゃごちゃしちゃって﹂
﹁にしても、妹までお人よしとは救えないな灰尾家﹂
﹁余計なお世話だ﹂
南波にそう返してから﹁九条さんのこと、ちょっと気になってた
しさ。俺ならともかく、鉢峰が誘えば来てくれると思うんだよね、
頼む﹂と太李は再度頭を下げた。
そんな彼に卵焼きを口に放り込んだ巳令は不満げに言う。
﹁柚樹葉のついでに私なんですか?﹂
﹁いや、そういうわけじゃ。親に紹介したいと思ったのはほんとだ
し﹂
ぶつぶつと小声で呟く彼に巳令がふふっと笑った。
﹁冗談です。柚樹葉の妹さんがそうしたいなら、お手伝いくらいな
ら。あとはどうにもできませんけど﹂
﹁ああ、ありがとう﹂
笑いあう二人を見て、やっぱりお人よしだと南波は溜め息を吐い
た。
﹁なんの話?﹂
彼らの元に、柚樹葉が現れたのは間もなくのことだった。
603
放課後、太李と巳令に連れられてしまった柚樹葉を見送った三人
はいつも通り、泡夢財団の本部に居た。
休憩所の机の上に皿を並べていたベルは挨拶もそこそこにその三
人の中から南波を見つけるなり、にこりと微笑んだ。
﹁あら、南波くん久しぶり。無事帰って来てくれたみたいでお姉さ
ん安心したわ﹂
﹁ん﹂
彼女の後ろに控えている菓子の山を見ながら南波は顔をしかめた。
数日振りのその光景は、普段滅多に手を付けていないとはいえ、な
んとなく見ないと落ち着かないものだった。
チョコや粉砂糖、アイシングといったデコレーションが施された
揚げ菓子︱︱ドーナツの山に梨花はきらきら目を輝かせた。
﹁どーなつ⋮⋮!﹂
﹁紅茶よりコーヒーかなって思ってたんだけど、思い切って買っち
ゃった。たくさん食べてね﹂
ふふっと笑ってからベルが首を傾げる。
﹁三人くらい足りてないけどどうしたの?﹂
﹁色々あって灰尾先輩の家に行っちゃいました﹂
よっこいせっと親父臭い掛け声を掛けつつ椅子に腰を下ろすよも
ぎにベルは面白そうに口元を緩めた。
そこで今まで黙り続けていた鈴丸もまた、面白そうに彼女に問う。
﹁何それ修羅場?﹂
﹁場合によっては修羅場もあり得ますね﹂
ほほう、と、鈴丸は口角を引き上げた。
﹁それは太李の口から直接聞くのが楽しみだな﹂
﹁わー悪い顔だー﹂
ベルに差し出された紅茶を受け取りながらよもぎは﹁なんちゅー
か﹂とどこか呆れたように告げる。
﹁鈴さんって意外と騒動の中に首突っ込みたがるタイプですよね﹂
﹁そっちの方が面白いだろ﹂
604
﹁うわぁ言い切ったよこの大人﹂
﹁何もしないで後悔するのも御免だしな﹂
そう言った鈴丸にベルは苦笑した。
﹁そういうところ、ミハエルに似たんじゃないの?﹂
﹁俺のどこがあのクソ親父に似てるんだよ﹂
けっと吐き捨てる彼を見つめながらよもぎは顔を引きつらせた。
﹁ということも鈴さんもいつかセクハラ魔に⋮⋮﹂
﹁ならん﹂
きっぱりと答える鈴丸だったがそんなことお構いなしに自分の体
を抱き締めたよもぎは机に突っ伏した。
﹁あーもー梨花先輩が心配になるぅー﹂
﹁ふえ?﹂
すでにドーナツに手を伸ばし、もふもふと口の中に詰め込んでい
た梨花は今までの話を一切聞いておらず、唐突に聞こえてきた自分
の名前に目をぱちくりさせた。
ごくんとドーナツを飲みこむ梨花を見てよもぎは顔を覆った。
﹁りかわいいなクソ!﹂
﹁だからそれやめてってばぁ!﹂
顔を真っ赤にしながらぶんぶん首を左右に振った梨花はじとーっ
と鈴丸を見上げた。
﹁鈴丸さんが、よもぎさんに変なこと教えるから。あたしのお友達
にまで広まっちゃったし⋮⋮﹂
﹁嫌か?﹂
﹁い、嫌じゃないですけど﹂
ぶすっと頬を膨らませる梨花の頭を鈴丸はぽんぽんと撫でた。
﹁はいはい悪かったって。怒った梨花も可愛いな﹂
そんな謝罪なのかよく分からない言葉に梨花は顔を背けるだけだ
った。
やれやれと息をついてから彼はドーナツを一つ手に取るとそれを
一口大にちぎって梨花の口の前に差し出した。
605
ぱくんと小さな口が彼の手にあったドーナツの欠片を飲みこんだ。
もきゅもきゅと口を動かして咀嚼する彼女を見ながらそれが可愛い
んだけどな、とまた鈴丸はドーナツをちぎった。
紅茶のカップから口を離し、南波がぼそっと呟いた。
﹁春風の言葉の意味が少しだけ分かった﹂
﹁でしょ!?﹂
勢いよく自分の方へ身を乗り出すよもぎに対して少しだけ身を引
いた南波はふと、あることに気付いて誰に、というわけでもなく問
いかけた。
﹁マリアさんは?﹂
それに答えたのはベルだった。
﹁ここ最近ずっとシミュレーションルームにこもりっぱなし。あの
子のことだから変なことはしてないと思うんだけど、色々と吹っ切
れたみたい﹂
ベルの説明を聞いて、南波が最初に思ったのは純粋に羨ましいな
ということだけだった。
恐らくは、マリアがここのところ不調だったのは自分のように恋
煩いというわけでもないがそれでも吹っ切れた、という状態が未だ
に吹っ切れていない南波には羨ましいことこの上ない。
それから自分の胸元にかかったネックレス型のチェンジャーを見
つめてからそれを握りしめ、片手で紅茶のカップを呷った。一気に
中身を飲み干した南波は立ち上がる。
﹁俺も行ってくる﹂
﹁え?﹂
﹁俺もシミュレーションルームに行く﹂
それだけ言って歩いて行く南波に、よもぎとベルは思わず顔を見
合わせた。
606
最近、自分が予測していなかったことばかり起こる。九条柚樹葉
は嘆きたくなった。
何故だろう。考えるのすら馬鹿馬鹿しくなるほどに予測していな
かったことばかりだ。
前は大体のことは自分の予想通り進んでいて、そうでなくても自
分の思い通りに動いてきた。それは他でもなく、自分が賢い人間だ
からだと柚樹葉は自覚していた。
ところが最近、柚樹葉はそれが本当なのかどうか少なからず疑う
ようになっていた。というよりは自信がなくなってきたという方が
いいのかもしれない。
自分の予測を遥かに超える馬鹿がいる。その馬鹿といるせいで自
分まで馬鹿になったらしい、というのが柚樹葉の出した結論だった。
今日もまさにそれだった。どうして自分が太李の家に連れて行か
れているのか、柚樹葉にはさっぱり分からなかった。
﹁どうして私が行く必要があるの。私いらないでしょ﹂
不思議そうに自分たちを見つめる柚樹葉に決まり悪そうに太李と
巳令は視線を逸らした。
恋人である太李の家に巳令が行くというのはいくら人間関係に鈍
い柚樹葉でも分かる。分からなかったのはそれに自分が一緒に行か
なければならないということだった。
必要、どころかむしろ自分の存在は邪魔にすらなるはずなのにな
ぜ自分が連れて行かれるのか。
そんな柚樹葉の一方で太李と巳令は内心焦っていた。
やはりさすがの柚樹葉でもこの状況には疑問を覚えているらしい。
とはいえ、本当のことを話せば彼女はなんの迷いもなく帰ると言
い出すに違いなかった。いくらなんでも話くらいはしておくべきだ
ろう、というのが二人の考えだったのである。
607
視線を逸らしながら巳令が答える。
﹁ほ、ほら、柚樹葉もたまには違う環境でご飯が食べたいかなって﹂
﹁別に思わないけど﹂
あっさりそう答える柚樹葉に今度は太李が食い下がる。
﹁今日うち寿司だから! 九条さん寿司好きだろ!?﹂
﹁いや、そうでもないけど﹂
いかにも面倒そうな彼女の両手を巳令が掴んだ。
﹁とにかく! 柚樹葉とお夕飯が食べたいんです!﹂
﹁この間修学旅行で三食一緒だったじゃない﹂
﹁今! 今日! あなたに居て欲しいんです!﹂
ぐぐっと自分の手を握る柚樹葉の手の力が強くなるのを感じて、
顔をしかめてから柚樹葉は軽く肩を落とした。
﹁分かったよ、分かった﹂
やはりどこか面倒そうだったのもののそんな返答を得られて巳令
は安堵の息を吐いた。
そこでカバンの隙間から顔を出しているスペーメと太李の目があ
った。
スペーメの﹃何を企んでいるのです﹄とでも言いたげな目に彼は
苦笑してからしーっと口に指を当てた。
引っ越してきてから、またはシンデレラとなってから数ヶ月、歩
いてきた道はさすがに彼の中に染みつき始めていた。歩き慣れた地
面を踏みつけながら進んでいた彼はやがて足を止める。
﹁えっと、我が家です﹂
へーと大して興味もなさそうに目の前に建つ家を眺める柚樹葉と
は対照的にびくっと肩を跳ね上がらせた巳令は背筋を伸ばした。
わたわたとその場でネクタイに手を伸ばしながら巳令は太李を見
上げながら不安げに問う。
﹁私、その、おかしくないでしょうか?﹂
608
﹁おかしいって?﹂
﹁いえ、だから﹂
目を伏せながら彼女は恥ずかしそうにさらに尋ねた。
﹁恋人の家に尋ねるのにおかしな格好じゃいけないでしょう?﹂
巳令の言葉に途端に自分まで恥ずかしくなった太李は顔を赤くし
た。
口元に手を当てながら誤魔化すように声を張り上げた。
﹁大丈夫だ! 鉢峰は今日も可愛い!﹂
﹁全然答えになってないですけどありがとうございます!﹂
お互いにこれでもかとばかりに顔を赤くする二人に﹁青春なので
す﹂とどこか遠い目をしながら呟いたスペーメは再びカバンの奥底
へと潜って行った。
﹁そういうもんなの?﹂
問いかけのつもりがスペーメの回答がなかったせいで独り言にな
ったそれを口から吐いてから柚樹葉は腕を組んだ。
﹁とにかく行こうよ﹂
促され、鉄製の小さな門の扉を開けてから太李は家の扉に手を掛
けた。
くるりとあっけなく回ったドアノブを若干恨めしく思いつつも中
に踏み込んだ。
家に帰る。ただそれだけだったのに、巳令が一緒ということと、
柚樹葉のこともあって太李は異常に緊張していた。
﹁た、ただいまー﹂
﹁おかえりおにい!﹂
ばたばたと駆け寄ってきた紅葉は太李の耳元で﹁柚音っち遅れて
くるってさ﹂そっか、とだけ返すと﹁お、帰ってきたな﹂と紅葉の
あとを追って彩花もやってくる。
背筋をぴんと伸ばす巳令とそこまで気にした様子もなさそうな柚
樹葉を一瞥してから﹁えっと、鉢峰は知ってると思うけど妹です﹂
どうも、と紅葉が頭を下げる。
609
﹁妹の紅葉でーす﹂
﹁と、こっちが母です﹂
﹁太李くんのお母さんでーす﹂
にこにこと上機嫌な彩花に思わず太李は苦笑した。
それから巳令たちに向き直るとちらちらと自分の身内二人を見比
べてまず柚樹葉を示した。
﹁んで、同じ学校の、九条さん﹂
黙ってぺこりと頭を下げる柚樹葉を見てから意を決して、彼は告
げる。
﹁と、こちらが、その、鉢峰さんで、付き合ってるんだ﹂
﹁は、鉢峰巳令と申します! その、太李くんとはお付き合いさせ
ていただいていて! あ、その、つまらないものですがお土産にお
まんじゅうを!﹂
カバンの中から取り出した箱を差し出しつつ、すっかりかしこま
った様子で体を二つに折って、巳令は深々と頭を下げた。
柚樹葉のこと以外何も聞いていなかった彩花はきょとんとしてか
らふふ、と小さく笑みをこぼし、﹁やだもー!﹂と口元に手をやっ
た。
﹁巳令ちゃんったらそんなにかしこまちゃってぇ。というかどうい
うこと? 彼女? 母さん聞いてないよ?﹂
﹁うるさいな、いいだろ別に! 俺だって彼女くらいできますー!﹂
不満げな太李にくすくす笑ってから﹁なんで? なんで太李くん
なの? ヘタレなのに﹂
﹁えと、それは﹂
顔を真っ赤にしながら律儀に答えようとする彼女を慌てて太李が
制止する。
﹁鉢峰答えない! 母さんも余計なこと聞かない!﹂
﹁ええーケチー﹂
ぶーと唇を尖らせながら巳令の手からまんじゅうの箱を受け取っ
た彩花は﹁ほら、入った入った﹂と部屋の奥へ一番に引っ込んでい
610
った。
まだ緊張でガチガチに固まっている巳令を見て、口を開きかけた
柚樹葉の手を紅葉が掴んだ。
﹁柚樹葉さん、一緒にゲームしません? ゲーム!﹂
﹁ゲーム?﹂
﹁ゲーム!﹂
ぐいぐい引っ張られて彼女は、ああ、太李の妹だと嫌に納得して
いた。
眼鏡のレンズに目の前のパソコンの画面が映り込んでいる。
カタカタと音を立てながらキーボードを叩いていた麗子は足元に
妙な生暖かさを感じて顔をしかめ、机の下を覗き込んだ。
それからぎょっと椅子から飛び退いた。
﹁あ、あなた何してるんですの!﹂
﹁んにゃぁ﹂
眠たげに目を擦り、机の下で小さな体を起こしていたのはウルフ
だった。
椅子をどかし、しゃがみ込んだ麗子は目をぱちぱち瞬かせながら
自分を見上げるウルフに﹁いつからそこに?﹂
﹁おぼえてないよぉ﹂
﹁お馬鹿さんですわね﹂
﹁あちしはおばかじゃないもん!﹂
ずるずると机の下から這い出て来ながらまだ目を擦るウルフは﹁
ねーれーこヒマだよーあそんでよー﹂とその小さな手で麗子の足を
叩いた。
その体を抱き上げて、椅子の上に座らせると麗子は首を左右に振
った。
﹁駄目ですわ、わたくしは忙しいんですの﹂
611
﹁じゃあαかβ貸してよ! 最近あちしぜーんぜん外にでてないん
ですけど!﹂
﹁それも駄目ですわ﹂
﹁なんでだよー!﹂
きーっと甲高い声をあげているウルフの頭を撫でながら﹁今はト
レイターは準備期間ですの、それが終わったらあなたの出番もあり
ますわ。全員で行くんです﹂
頬を膨らませたウルフは不満げに首を傾げる。
﹁それっていつまで?﹂
﹁うわばみがいいと言うまでですわ﹂
﹁またうわばみぃ?﹂
自分の頬をぷにぷにと押しながらウルフは椅子の背もたれに体を
投げ出した。
はっきり言えば、ウルフにとってそれは最近投げ掛けられる言葉
の中で、もっともつまらない言葉だった。うわばみがいいと言うま
では大人しくしていろ。ずっとそう言われて、押さえ付けられて来
たせいだ。
最初はそれが正しいとか、悪いとか、そんな考え方は彼女の中に
存在しなかった。﹃それしかなかった﹄だけだった。それが当たり
前で、それ以外を見たことがなかった。
やっとの思いで外に出て、はじめてフェエーリコ・クインテット
を見たときに、ウルフは幼いながら自分の生活にはじめて違和感を
覚えていた。
麗子が嘘を吐くはずがない。そう思う一方で、本当に外はつまら
ない場所なのか。不思議で不思議で仕方なくなった。
けれどそれを口に出して問おうとするたびに、麗子の顔がちらつ
いて、彼女はいつも言葉を飲みこんだ。だからこうしてうわばみの
指示を待てという言葉につまらないという感情を抱くことだけが細
やかな反撃だった。
612
そして麗子は、薄々それに気付いていた。だからこそ、怖かった。
自分が嘘吐きだとバレてしまうことが何故か、無性に怖かったのだ。
椅子に座って不貞腐れるウルフを黙って抱き締める。
﹁ごめんなさい﹂
そう囁く麗子にウルフはきょとんとして、目を丸くした。
﹁なんでれーこがあやまんの?﹂
﹁なぜかしら﹂
わたくしにも分からないわ。
そう答えて、麗子は腕の力を強めた。
ゲームをしましょうと言い出した紅葉が持ち出したのは格闘ゲー
ムだった。
今まで格闘ゲームは愚か、ゲームというものそのものをまともに
やったことのない柚樹葉と曲りなりに持ち主である紅葉とでは当然、
最初は実力の差は明らかだった。
ところが柚樹葉が徐々にプレイの方法を理解し始めると試合の流
れは変わり始めた。
初めは歩くことすらままならなかった柚樹葉の操作キャラは十分
も満たない内にステージ上を自由に動き回るようになり、それがさ
らに五分ほどすれば紅葉の操作キャラと対等に戦うようになった。
さらにはいつの間にか紅葉の勝利数が敗北数を下回り始めた。
段々、柚樹葉に勝てなくなるのが分かった紅葉は後ろの方で巳令
と自分の試合を見ていた太李に﹁おにい! 可愛い妹の仇を討って
くれ!﹂とコントローラーを押し付けた。
太李はこのゲームを紅葉以上にやり込んでいた。というのも買っ
てきて数ヶ月で飽きたと紅葉に押し付けられていたからである。
久々に手にするコントローラーだったものの手に馴染んだ操作感
613
覚は彼の中から抜けきっておらず、二人は画面内で接戦を繰り広げ
るようになった。
﹁おっしゃー! やったれおにい!﹂
﹁任せとけって﹂
﹁倒せるもんなら倒してごらんよ﹂
きゃーきゃーと騒ぎ合う三人を黙って眺めていた巳令の隣に彩花
が腰を下ろした。
﹁ごめんね、うちの紅葉ちゃん、うるさくって﹂
﹁あ、いえ﹂
ぺこりと頭を下げる巳令に安心したようにふわりと笑ってから彩
花はただ﹁不思議だなぁ﹂とだけこぼした。
彩花の方に巳令が振り返って首を傾げた。その瞳を見返しながら
彼女はくすくすと笑った。
﹁巳令ちゃん美人だからなんで太李くんなんだろうなぁって。勿体
ないくらい﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
ふるふると首を軽く左右に振った巳令はさらに続けた。
﹁むしろ、太李くんの方が私に勿体ないと言いますか﹂
﹁またまたお上手で﹂
にへらと笑った彩花は﹁気を付けてね、あの子お人よしだから﹂
﹁知ってます﹂
﹁お、それは嬉しいな﹂
彩花はソファの背もたれに身を投げながら、﹁お父さんの血なの
かなぁ﹂
﹁お父様、ですか﹂
﹁そう。太李くんそっくりだから﹂
きっとびっくりするよ、という言葉に巳令は楽しみです、とだけ
返した。
そこからは特に二人の間には他愛もない話が続き、接戦もいよい
よ終わりを見せようとしていた、まさにそのときだった。
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リビングに扉が開く音が届いた。それに勢いよく彩花が勢いよく
立ち上がった。
﹁パパー!﹂
心底嬉しそうに玄関の方へ駆け出していく彩花を見て、紅葉もい
そいそと立ち上がるとその後に続いた。
ポーズ画面にしたまま、﹁何、どうしたのあれ﹂と不思議そうに
する柚樹葉に﹁あー﹂と太李は頭を抱える。
﹁多分、父さん帰ってきたんだと思う﹂
弾かれたように立ち上がる巳令を見て、太李は問いかけた。
﹁行く?﹂
こくこく巳令が頷いた。
苦笑しながらコントローラーを置く太李を見て、柚樹葉もどこか
仕方なさげにコントローラーを手放した。
その三人が廊下を抜け、玄関に向かうと立っていたのはスーツ姿
の男だった。
すっきりとした顔立ちの男は太李を見つけるなり、嬉しそうに微
笑んだ。
﹁ただいま。珍しいな、お出迎え﹂
﹁そうだっけ?﹂
拓真は
たくま
すっとぼけるように視線を逸らした太李は改めて巳令と柚樹葉の
二人に向き直ると一瞬、躊躇ってから男を示した。
﹁父です﹂
﹁どうも、父ちゃんです﹂
ぐいっと片手で彼を抱き寄せて、太李の父︱︱こと灰尾
どこか清々しい笑みを浮かべた。
﹁そっくりだろ、どや?﹂
﹁はい、とても﹂
薄く笑いながら答える巳令に﹁余計なこと言うな、調子乗るから﹂
と太李は拓真の腕から抜け出した。
あー、と拓真が寂しそうな声をあげた。
615
﹁冷たいんだから。んで、このかわいこちゃんたちどなたよ? 二
人とも彼女?﹂
﹁父さんうるさい﹂
爽やかな笑顔を浮かべたままで問いかけてくる父親に対し、本気
で鬱陶しそうな表情を浮かべる太李に巳令は思わず苦笑した。
それから﹁はじめまして﹂と頭を下げた。
﹁太李くんとお付き合いさせていただいてます、鉢峰巳令と申しま
す﹂
﹁⋮⋮え、ガチ彼女なの?﹂
びっくりしたように自分を見返す拓真にはい、と巳令が恥ずかし
そうに頷いた。
柚樹葉の方は、一応最低限の挨拶は必要と判断して小さく頭を下
げる。
﹁九条柚樹葉です。ただの友達です﹂
ただの、とやたら強調した言い方だったのもののそれより彼女が
自分を友達と表現してくれたことがなぜか嬉しくて太李の中ではど
うでもいいことになってしまった。
頭を下げられ、自分も頭を下げてから拓真は﹁あ、これ玄関にお
寿司屋さんいたから貰ってきちゃった﹂と片手に持っていた包みを
彩花に差し出すと次いで紅葉に視線を投げかけた。
﹁くー、駄目だろ。友達来るならきちんと迎えに行ってやれよ﹂
﹁え﹂
驚いて目を見開く紅葉に構わず、拓真は扉の外に声をかけた。
﹁上がっておいで﹂
その言葉と共に、現れたのはセーラー服姿の柚音だった。
彼女を見た瞬間、柚樹葉は目を見開くとぐるりと太李と巳令を睨
み付けた。
﹁君ら、まさか、私をハメたの? 親切のつもり?﹂
616
迂闊だった。柚樹葉は苦虫でも噛み潰したような気分になった。
裏があると思っておくべきだった。ましてや相手はフェエーリコ・
クインテットでお人よしツートップに君臨しているバカップルだっ
たのに。
よりによって、柚音だ。柚樹葉には彼女と普段、他人にしている
ように接することができる自信がなかった。
それが八つ当たりだと分かっていてもである。
カバンを引っ掴んでさっさと帰ってしまおう。くるりと柚樹葉が
方向転換しようとする背中に、声が飛んだ。
﹁お姉ちゃん!﹂
ぴたりと足を止め、柚樹葉は眉を寄せた。いっそ、そう呼んでく
れない方がマシだというのに。
﹁違うの、私が無理言って紅葉ちゃんにお願いして、お兄さんたち
に協力してもらったの!﹂
スカートの裾を握りしめながら、彼女は絞り出すように告げる。
﹁またお姉ちゃんと話がしたかったの⋮⋮!﹂
その声を聞いて柚樹葉が完全に動きを止めたのを確認してから﹁
とりあえず﹂と彩花は手元の箱を示した。
﹁お寿司、食べよっか。特上﹂
柚音は自分のことを憎んでいるのだと思っていた。
否、憎むまで行かなくても間違いなく嫌われている。きっと父と
母と同じように、彼女も自分を疎ましく思っているに違いない。そ
うでなくては困る。それが柚樹葉の考えだった。自分が迷いなく彼
女から一番遠い席を選んでも柚音は何も言わなかった。だから間違
ってはいないはずだ。
しかし、もしかしたらそうでないのか? 今の柚樹葉にはそんな
気持ちがわずかながら芽生えていた。
617
そんなわけはない。考える度に柚樹葉は自分を叱責した。
ただですら人の感情という部類を考えるのは柚樹葉にとっては苦
手なことだ。まして、それが原因である家族ならなおさらのことで
ある。
ぐるぐると同じ思考に捕らわれ続けていたせいで、柚樹葉は口の
中に入れた寿司の味を覚えていなかった。気付いたら皿の中にはガ
リしか残っていなかった。
食事を終えると、紅葉と拓真が先ほどの格闘ゲームで戦闘を始め
ていたがそれを眺めている余裕も今の柚樹葉にはなかった。テレビ
から視線を逸らすとカバンの隙間から顔を出して自分を捉えている
スペーメと目があった。黙っているのにその瞳すら自分を責めてい
るような気がして、遂に柚樹葉は視線のやり場を失った。
目を閉じようかと悩んでいると﹁あのー﹂
遠慮がちな声が鼓膜を揺らして、彼女はそちらに視線を向けざる
を得なくなった。
﹁なに﹂
﹁隣、いい?﹂
自分の妹の声に、柚樹葉はそっけなく返した。
﹁勝手にすれば﹂
うぐ、と一瞬だけ言葉を詰まらせたものの引く気はないらしく、
柚音はさっと柚樹葉の隣に腰を下ろした。
気まずいけれど、会話のネタを放り込んでやる必要もない。飽き
たら勝手に立ち去るだろうと柚樹葉は頬杖をついて何も言わなかっ
た。
ところがその柚樹葉の予想を裏切って、柚音は黙って柚樹葉を見
つめているだけだった。
黙って座っているのはともかく、見つめられては居心地が悪い。
振り返り、口を開きかける。
﹁あのさ﹂
﹁お姉ちゃん、最後に見たときより髪伸びたね。邪魔じゃない?﹂
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ぼそっと、告げられるそんな一言に柚樹葉は言葉を飲みこんだ。
それから、別に気を遣ったわけでもなく本当に無意識的に長くな
ってしまった前髪に手を伸ばした。
﹁これくらいなら大したことないよ﹂
﹁そうかなぁ﹂
うーんと悩むような仕草をしてから﹁あ、そうだ﹂と柚音はセー
ラー服のポケットに手を突っ込んだ。
引きずり出された彼女の手には赤いヘアピンが握られている。
﹁よかったら、これ使って﹂
﹁いらな﹂
﹁私のなんて使いたくなかったら、捨ててくれて構わないから﹂
強引に柚樹葉の手にヘアピンを握らせるとうんうんと柚音はしき
りに頷いた。
自分の手にやって来たピンを見つめ、やがて溜め息を吐くと柚樹
葉はどこか拗ねた風に、少しだけ低い声で言う。
﹁私に気を遣ってるつもりならいいよ、別に﹂
﹁⋮⋮お姉ちゃんこそ、私に気を遣ってない?﹂
自分を覗き込んでくる柚音に、柚樹葉はなぜか言葉が出なくなっ
た。そんなつもりはないはずなのに、反論する言葉が出てこなかっ
たのだ。
次いで出たのは彼女らしからぬ言葉だった。
﹁君は、私が嫌いなんだろ。だったら私のことは放っておきなよ﹂
﹁嫌いじゃないよ﹂
まっすぐ柚樹葉を見つめながら、柚音は淀みなく言う。
﹁家に帰ってもお姉ちゃんに会えなくて寂しいよ﹂
そりゃ帰ってないもの。柚樹葉は心の中で眉を寄せた。
自分を半ば捨てるように財団に押し付けた両親と顔を合わせたく
ない。両親も自分が疎ましいから会いたくない。それで両者の利害
は一致していて誰も損はしていないはずだ。少なからず柚樹葉はそ
う思っていた。
619
﹁私、お姉ちゃんとまた仲良くしたいよ﹂
また。その二文字に柚樹葉は顔をしかめた。
﹁お姉ちゃんは私のこと嫌いかもしれないけど︱︱﹂
﹁柚音﹂
彼女の言葉を遮って、柚樹葉が続けた。
﹁君と私が、仲良しだったことなんてないよ﹂
自分の妹がわずかに目を見開く。
両親が喜ぶから、そうしていただけだ。彼女が自分より馬鹿だと
心の底から見下すようになってからはそれすらしなくなった。多分
自分たち姉妹の距離が開きはじめたのはそこからだろうと柚樹葉は
どこか他人事のように思い返していた。
﹁というか、私が誰かと仲良しだったなんてこと、﹃なかった﹄よ﹂
それが今は、どういうわけか、こうして騙されてしまうほど、誰
かと親密になってしまった。
後悔がないといえば嘘になるが、そればかりかといえばそうでも
なかった。
﹁おね﹂
﹁今すぐ君とは仲良くなれない﹂
目を伏せながら柚樹葉は告げる。
﹁でも、君を好きになる努力はしてもいい﹂
ほんの少しだけ歩み寄っても構わない。そんな考え方ができるよ
うになってしまった。
等身大でぶつかっていく﹃誰かさん﹄たちを見て、自分もそれに
憧れてしまったのだ。
﹁これでよかったのでしょうか﹂
夜道を歩きながらぽつんと巳令がこぼした。
彼女が言っているのが先ほど別れた九条姉妹のことだと聞くまで
620
もなく分かった太李は﹁どうだろうな﹂と曖昧な返事をするしかな
かった。
﹁そう、ですよね、分かりませんよね﹂
﹁あとは九条さんの問題だしな﹂
そうですよね、と巳令は目を伏せた。
心配だが、これ以上は自分が悩んでも仕方ないことだ。巳令は笑
みを浮かべると話題を変えようと口を開いた。
﹁それにしても、似てますね、お父様と﹂
﹁は!?﹂
唐突な話題に顔を引きつらせながら太李は首を左右に振った。
﹁似てない似てない! 逆にあの爽やかおっさんのどこが俺に似て
んの!?﹂
﹁雰囲気とか?﹂
﹁冗談きついって﹂
あら、と巳令は唇を少しだけ尖らせた。
﹁いいじゃないですか、素敵なお父様で。お母様も、紅葉さんも﹂
﹁⋮⋮そんな風に言ってくれるんならもっと早く誘うんだったな﹂
照れくさそうに太李は告げる。それが無性に幸せだった。
人気の少ない道を歩いていたものの、少し遠くに明かりが見えた。
ぴたりと足を止めた巳令は薄明かりの中で微笑を浮かべる。
﹁そろそろ家なので、この辺りで大丈夫です﹂
﹁え、あ、いいよ、家の前まで送る﹂
ぎくっと巳令は内心跳ね上がった。卑怯だと分かっている。けれ
ど、まだ家のことは話せずにいたし、知られたくなかった。
﹁いえ、ご迷惑でしょうし﹂
本当は自分だって送って欲しい。
巳令が視線を逸らしながらそう言えば﹁変なこと言ってもいいか
?﹂
﹁なんですか?﹂
﹁その、まだ鉢峰と別れたくないっていうか﹂
621
ぎゅっと巳令の手を握って、太李はどこか弱々しく続けた。
﹁ほんと許されるなら鉢峰と一緒にいたくてだな﹂
それからはっとしたように手を離してから彼は顔を手で覆って、
﹁ご、ごめん!﹂と謝罪の言葉を述べた。
﹁やっぱおかしいよな、うん﹂
﹁⋮⋮灰尾﹂
﹁うん?﹂
ふわり。巳令がスカートを揺らし、太李に抱き着いた。
あまりに急なことに太李が固まっていると彼の胸に顔を押し付け
ながら巳令が静かに言葉を放つ。
﹁私もです。好きです﹂
とんでもないことをしてしまった。太李に負けないほど顔を真っ
赤にしながら俯く巳令をそっと太李が呼んだ。
﹁鉢峰﹂
﹁はい?﹂
上げられた巳令の顔に、太李は黙って自分の顔を近付けた。
躊躇いも見せずにまっすぐ近付いた顔は、なんの障害もなく唇を
触れ合わせた。
一瞬、軽く触れ合ってから離れた唇に巳令は驚きで目を見開いて
いた。まだ閉じられたままの柔らかい唇に、再び太李の唇が重なっ
た。
今度はすぐには離れなかった。数秒、触れ合ってからやっと離れ、
それを誤魔化すように太李の声が暗がりに響いた。
﹁お、おやすみ!﹂
やってしまった。頭がいっぱいになりながら太李がそう言えば顔
を真っ赤にしながら唇を押さえていた巳令はわずかに口元をゆるま
せながら﹁おやすみなさい﹂と頭を下げた。
とんでもないことをした。もう一度、彼女はそう思った。
622
第二十九話﹁狼少女は嘘しか言わなかったのではなく嘘しか知らなかったようで
やってしまった。
柚樹葉が家にやってきた翌日、泡夢財団に向かいながら太李は頭
を抱えていた。
ほんの少し油断していただけ。ふとした弾みに自分にかせていた
ダガが外れただけだった。
それが彼にとってはとんでもない大問題であることは、当然なが
ら理解していた。
今でも、巳令の唇の感触が生々しく残っている。それを思い出す
度に彼は自分を叱責した。
後悔しても仕方ない。それは分かっていても頭の中でぐるぐると
色々なことを考え込んでしまう。
翌日が休みだったお陰で学校で顔を合わさずに済むと思ったがよ
くよく考えるまでもなく、学校が休みなら泡夢財団での訓練が待っ
ている。クラスメイトとしてではなく、フェエーリコ・クインテッ
トとして巳令とは会わなければならない。
会いたくないというわけではない。むしろ、会いたいくらいだ。
ところがどんな顔をして彼女に向き合えばいいのか。太李にはさ
っぱり分からなかった。
職員区画の廊下を歩きながら思わずそんな思いが口から溜め息と
してこぼれてしまう。
そんな太李の後ろから声がかかった。
﹁ど、どうしたの? 灰尾くん⋮⋮﹂
太李が振り返るとそこにいたのは相変わらず理由もなく自信なさ
げな梨花の姿だった。
はっとした彼は首を左右に振る。
﹁いや、大したことじゃ﹂
﹁もしかして、柚樹葉さんと何かあった?﹂
623
目を伏せながら心配そうに自分を見上げる梨花にまた、太李は首
を左右に振った。
少なからず、彼女のことは大丈夫なはずだ。自分たちが出来る限
りはした。悪い方向に転がっているとも思えない。
言うまでもなく、太李の悩みは全く別のことだ。
﹁九条さんは大丈夫だと思いますよ﹂
太李の答えにうーんと考え込んだ梨花はやがて、
﹁あ、あたしでよかったらお話聞くけど﹂
﹁うえ!?﹂
奇妙な叫び声をあげて、肩を跳ね上がらせた太李はぶんぶんとさ
らに激しく首を振る。
﹁いやいや! 梨花先輩に聞いてもらうような話じゃ!﹂
﹁そう?﹂
まだ心配そうな梨花に太李は笑いかけるので精一杯だった。
どうやら巳令と何かがあったとは夢にも思っていないらしく︱︱
喧嘩、というわけでもないので仕方ないと太李は思った︱︱難しそ
うな顔をしながら考え込んでいる。
そうこうしているうちに、休憩所に辿りつき、二人は中を覗き込
んだ。
中では彼らの教官役たる蒲生鈴丸が苦しそうにワイシャツの袖を
引っ張っていた。正面ではベルが腕を組んで彼を見つめている。
椅子にはズボンと同じ色のネイビーのジャケットがかけられてい
る。
いつも軽装の彼が珍しくスーツ姿だった。
思わず、といった具合にわあ、と梨花が声をこぼした。その声に
振り返った鈴丸はおう、と片手をあげた。それから後ろにいた太李
を見つけて顔をしかめた。
﹁珍しいな、太李。梨花と一緒なんて﹂
﹁さっき、たまたま会って﹂
624
ね、と促され梨花はこくんと頷いた。
ふーんと面白そうに笑ってから鈴丸は琥珀色の縁の眼鏡を手に取
るとかけてみせた。
﹁どうだ?﹂
﹁派手すぎない?﹂
鈴丸の顔からひょいと琥珀色の眼鏡をとるとベルは傍に置いてあ
った黒縁の眼鏡を拾い上げて渡した。
﹁こっちがいいわ﹂
﹁地味だろ﹂
言われた通りに黒縁の眼鏡を掛け直した鈴丸は机上の鏡を覗き込
むと顔をしかめ、太李と梨花に向き直ってから困ったように笑った。
﹁地味だよな、これ﹂
﹁まぁ、さっきよりは﹂
﹁な?﹂
太李の言葉に大きく頷いた鈴丸は最初にかけていた方を手に取る。
﹁やっぱこっちがいいって﹂
﹁駄目よ。なるべく目立たないようにして﹂
﹁へいへい﹂
けっと吐き捨てながらいかにも渋々という風に机に眼鏡を置くと
黒縁の方を掛け直した。
﹁ピアスは?﹂
﹁アホ言うんじゃないわよ﹂
全くと呆れ顔のベルは硬直したままの梨花を見つけて、首を傾げ
た。
﹁どうしたの、梨花さん。ぼーっとして﹂
﹁ふぇ?﹂
ベルの言葉ではっとしたように顔をあげた梨花は﹁いや、そのぅ﹂
と視線を逸らした。
﹁か、かっこいいなぁ、なんて﹂
口にした途端に恥ずかしくなってしまったのか、顔を真っ赤にし
625
ながら顔を俯かせてしまった。
鈴丸の方は、彼の方で梨花の言葉に一瞬だけ硬直してから照れく
さそうに笑う。
﹁可愛いなぁ、お前﹂
悩ましそうに溜め息を吐いてから鈴丸は梨花の頭を撫でてやる。
緊張のあまりガチガチになる梨花を見て苦笑しながら﹁ていうか﹂
と改めて鈴丸に視線をやった。
﹁なんでスーツ?﹂
﹁お仕事﹂
ネクタイを二本手に取って、鈴丸が首を傾げる。
こっち、とやはりどこか控えめなデザインのネクタイを指差して
からベルは悪戯っぽく微笑んだ。
﹁言っておくけどあなたたちにも無関係じゃないから覚悟しておい
てね﹂
ぱちんとウインクする彼女に太李と梨花は顔を見合わせた。
唇を口紅で染め上げてから麗子は息を吐いた。
形のいい唇を彩ったのは鮮やかな紅色だった。黒いスーツによく
映えている。
いかにも上機嫌というように鼻歌を紡ぎながら口紅を鏡台に置い
た彼女は並べられていたピアスを耳に通した。
その様子を茫然と、黙って見つめていたうわばみが腕を組みなが
ら笑う。
﹁楽しそうだね﹂
﹁勿論ですわ﹂
ピアスが照明の明かりを反射して、輝いた。
いつもより念入りに化粧された顔は普段よりさらに華やかだった。
﹁女は表舞台に立てばより美しくなりますわ﹂
626
﹁裏で支える美しさというのもあるだろ?﹂
﹁確かにあるにはありますが﹂
髪に手を当てながら麗子はふぅ、と肩を落とした。
﹁わたくしには不釣り合いですわ。表舞台でスポットライトを浴び
ている方が好きですの﹂
自分にはそれだけの資格も、能力もある。麗子はそう信じてやま
なかった。
スーツのスカートを揺らし、立ち上がった彼女はうわばみの首に
抱き着いて囁いた。
﹁あなたもね﹂
﹁随分面白いことを言うね﹂
麗子の頬を軽く撫で、うわばみは薄く笑みを浮かべた。
その手を握りしめながら麗子はそっと彼の胸に自分の顔を押し付
けた。驚いたようにわずかに身を引くうわばみに麗子は愛おしさを
感じていた。この気持ちには間違いなどないはずだった。
﹁私はどちらかといえば裏で暗躍する方が好きなんだけどな﹂
自分の背を軽く抱き返してくるうわばみに麗子は口角を引き上げ
た。純粋な嬉しさから湧き上がってきた笑みだった。
その気持ちを特に隠しもせず、麗子は彼の首元に腕を回した。
﹁あら。わたくしはいつかあなたと一緒に華やかなステージの上で、
照明を浴びながら高笑いするのが夢ですのよ﹂
﹁どうして?﹂
﹁酷い人。乙女にそんなことを聞いてはいけませんわ﹂
彼の唇に人差し指を当ててから麗子は悪戯っぽく微笑んだ。
苦笑したうわばみは﹁そういえば﹂と窓の外に視線を投げた。
﹁最近、ウルフはどう?﹂
びくっと麗子は自分でも驚くほど肩が跳ね上がったことに気が付
いた。
﹁どうって﹂
﹁いや、どうも﹂
627
声音を少しも変えないでうわばみは淡々と言い放った。
﹁あの子が外の世界に興味を持っているようにしか見えなくて﹂
なぜか、麗子は心の奥底が凍るような思いだった。
彼女はふるふると首を軽く左右に振ると﹁まさか﹂と誤魔化すよ
うに口を開いた。
﹁あの子に限ってそんなことは﹂
﹁⋮⋮それもそうだ。君の自慢の女の子だからな﹂
ふわりと笑ったうわばみにほっと息をついてから麗子は時計を見
上げてから軽く頷いた。
スカートの裾を持ち上げると軽く会釈して、
﹁そろそろ時間なので行って参ります。ごめんあそばせ﹂
﹁いってらっしゃい﹂
背後から飛んでくる声に麗子は複雑な気持ちになった。
クインテットが全員揃ったのを確認すると紅茶のカップを傾けな
がらベルが柔らかく微笑んでいた。
鈴丸の姿はもうそこにはなかった。すでに出かけてしまったのだ。
並べられたビスケットに手を伸ばしながら巳令が問いかけた。
﹁それで、手伝って欲しいこととは?﹂
その巳令の手と誰かの手がぶつかった。
﹁あ、ごめんなさい﹂
﹁あ、悪い﹂
手を引っ込めた口に出した謝罪の言葉がかぶった相手が自分の恋
人だと気付くや、彼女は顔を真っ赤にしながら固まった。
太李の方も、顔を赤くしたかと思うとその場で突っ伏した。
﹁なんでそんな面白いことになってるの、あなたたち﹂
ベルがくすくす笑う。
628
それを聞きながらよもぎはビスケットを梨花の口の前に差し出し
た。
﹁はい、先輩。あーん﹂
﹁ふぇ?﹂
﹁いっつも鈴さんばっかずるいですもん、ウチも梨花先輩に食べさ
せたいんですー﹂
なんだそりゃ、と思いながらビスケットが貰えるならいいかと梨
花はビスケットに噛り付いた。
はぁ、とよもぎは悩ましそうな表情を浮かべた。
﹁ほんと鬼かわっすね﹂
もぐもぐと夢中になってビスケットをかじる梨花を見ながら心底
楽しそうな彼女を見て、南波は呆れたように溜め息を吐いた。
それに気付いたよもぎはむっと唇を尖らせた。
﹁なんすか、その顔﹂
﹁別に﹂
﹁またそういうこと言うー。ほんとは春風にあーんってして欲しか
ったんじゃないんですかぁ?﹂
﹁アホか﹂
吐き捨てるような南波ににこにこ笑いながらよもぎはもう一枚ビ
スケットを手に取ると南波の前に差し出した。
﹁ほら、あーん、とか。なんちて﹂
ところがよもぎの言葉と予想とは裏腹に、南波はそのビスケット
を口にくわえた。
思わず、びっくりしたようにばっとビスケットから手をの引っ込
めたよもぎはわなわなと震えた。
﹁え、なん、ちょ、なんで食べるんすか!﹂
あっという間にビスケットを砕いて、飲みこんでから口元を拭っ
た南波は首を傾げた。
﹁お前がやったんだろ﹂
﹁い、いつもはここでチョップじゃないですか!﹂
629
﹁チョップだとお前がうるさいからな。これで満足だろ?﹂
にっと笑う南波によもぎはぐぐっと言葉を詰まらせた。
紅茶のカップを傾けてから南波は改めて問いかけた。
﹁それで?﹂
ベルからしてみればそれで十分だった。
﹁潜入調査のお手伝い、かな﹂
きょとんとするそれぞれをベルが見渡していると﹁最近、奇妙な
噂があってね﹂
そう言いながら入ってきたのは柚樹葉だった。ノートパソコンを
一台抱えながら自分の隣に座る彼女にベルが尋ねる。
﹁あら、もういいの?﹂
﹁うん﹂
パソコンを起動させながらこくんと頷く彼女に﹁噂って?﹂と問
うたのは梨花だった。
それに答えたのは柚樹葉の肩の上に乗っていたスペーメだった。
﹁とある新薬の説明会があるのです﹂
前足をぺろぺろ舐めてからスペーメは続けた。
﹁そこの説明会の参加者が毎回何人か行方不明になるそうです﹂
﹁まさか﹂
﹁そう。それがディスペア関連なんじゃないかって﹂
よもぎが言いかけた言葉に頷きながらベルは言う。そのあとに柚
樹葉が続ける。
﹁で、鈴丸がそこに潜り込んでるってわけ。馬鹿高い追加料金取っ
てね﹂
﹁それでスーツ⋮⋮﹂
納得したように呟く太李は、あれ、と首を傾げた。
﹁マリアさんは?﹂
﹁あの子も別ルートでいるの。鈴丸一人で行かせるのはなんかね﹂
苦笑するベルはまだ画面に食らいついていた柚樹葉に話題を戻し
た。
630
﹁どう、柚樹葉さん﹂
﹁ん。できた﹂
ぱっと画面に現れたのは薄暗いステージが写り込んだ画面だった。
﹁ばっちり。これで中の様子は見られそうだね。彼もよくやるよ﹂
満足げな柚樹葉にそうね、と小さく返してからベルはそこに視線
を落とした。
その様子からして、鈴丸から送られてきている映像だということ
はクインテットの五人にもすぐに分かる。それぞれが柚樹葉とベル
の後ろに回りながらパソコンを覗き込んだ。
小声で交わされる人の会話が聞こえてくる。
﹁調子の方はどう?﹂
通信機越しにベルが話しかければ画面がわずかに揺らぐ。それか
ら気怠そうな鈴丸の声が響く。
﹃特に今のところは異常もなさそうだけど。頭のよさそうな連中が
多くてうんざりするね﹄
﹁そう言わないで我慢しててよ﹂
もーっとベルが呆れた表情を浮かべた途端、ずっと暗かったステ
ージに照明が当てられた。
明るく壇上を照らすスポットライトの中にすらりと女の影が伸び
た。
ハイヒールを打ち鳴らしながら光の真ん中に現れた彼女は恭しく
頭を下げた。
﹃ご機嫌よう﹄
ベルがわずかに目を見開く。
それから掻き消えそうな声で﹁聖護院、麗子﹂と苦々しく呟いた。
﹁トレイターがいるということはやはり、ディスペア絡みなのでし
ょうか﹂
﹁そうでしょうね﹂
巳令の言葉に大きく頷いたベルは﹁こうなった以上は、本格的に
あなたたちの仕事になりそうね﹂とクインテットを見渡した。
631
説明会は、極々自然に進行していった。
といっても鈴丸が聞いていたのはせいぜい冒頭の十分ほどで、残
りは耳にすら入っていたかどうか疑うほど彼の記憶にははっきりと
残っていなかった。
あらゆる病状に対してある程度の有効性を示した、等の説明を受
けていたような気がするがどうせ嘘なのだろうなと聞き流していた
のは事実だった。
﹁それでは、これから個別に詳しい説明をさせて頂きますので皆さ
ま別室へ移動してくださいまし﹂
そう聖護院麗子が丁寧に促せば、人の波が説明会場から流れてい
く。
とにかく、今は下手に動いて目立たない方がいいだろう。
その波の中に自分も加わろうとする鈴丸の肩をとんとんと誰かが
叩いた。
振り返れば、そこに立っていたのは焦げ茶色の髪を短く切り揃え
た女だった。
短いスカートからすらりと伸びた足で地面を踏みつけながら間合
いを詰めた女は口元でにやりと弧を描きながら彼の耳元で囁いた。
﹁今日はいくらで雇われた?﹂
ははっと、力ない笑いが鈴丸の口からこぼれた。
周りの人間はもう室外へ出て行ってしまった。
スーツの裏に手を伸ばしながら、内心、この状況を少しだけ面白
がっている自分に苦笑した。思えば、いつも遠くから見ているばか
りで自分で動くことがなかったかもしれない。
﹁俺に勝ったら教えてやるよ、お嬢ちゃん﹂
632
スーツの裏から取り出した銃口を向け、鈴丸は引き金を引いた。
しかし、そこに女の姿はすでにない。
﹁話の通り、危ない奴だこった﹂
背後から聞こえてきた声に振り返ってから、鈴丸は薄々予感して
いたことが当たっていた事実にうんざりした。
先ほどまで焦げ茶色だった髪はくすんだ金髪の二つ結びに、服装
はスーツから革製の赤いジャケットに白のショートパンツへと変わ
っていた。正面が開いたままのジャケットの下からはサラシの巻か
れた白い肌が挑発的に見えている。
トレイターだ。出来れば外れていて欲しかった予想の的中具合へ
のがっかりを拭うために彼はからかうように口笛を吹いた。
﹁いいね、サラシの女なんて。最高に煽られるよ﹂
﹁あんたの好みかい?﹂
﹁生憎俺はエロい女より可愛い方がタイプでね﹂
﹁それは残念﹂
肩をすくめた女は双眸で彼を捉えたまま続けた。
﹁はじめまして、蒲生鈴丸。会えて嬉しいよ﹂
にぃっと笑った女は両手を広げた。
﹁あたいの役割は盗賊。新米トレイターだ、仲良くしよう﹂
﹁よしてくれ。いくらタイプじゃないとはいえ、お前みたいな女、
目のやり場に困る﹂
﹁どこを見てくれても構わないよ。なんだったら触ってみる?﹂
ふふっと楽しそうな盗賊に鈴丸は舌打ちした。
﹁言ったろ、お前はタイプじゃない﹂
﹁でもあんただって男だろ? あんたがこっちについてくれるなら
本当にそういう関係になって構わないんだけど﹂
﹁俺は現金報酬しか興味ありません﹂
やれやれ、と盗賊は溜め息を吐いた。
銃声が轟く。視線をぶつけ合う二人の間に、銃弾が撃ち込まれた。
633
ステージの上で、魔女となった麗子が自分の手元の銃を見つめな
がら肩を落とした。
﹁嫌になりますわ、とんだネズミが混ざっていて﹂
﹁俺も嫌になるよ、二対一とか﹂
息を吐いてから鈴丸は﹁マリア! 出番だ!﹂
部屋の隅で積み上げられていた段ボールから一発の銃弾が撃ち込
まれる。銃弾は麗子の手に握られていた銃を払い落す。
嬉しそうに麗子が笑みを浮かべた。
﹁よう、聖護院﹂
段ボールを押しのけながら自分に銃口を向ける彼女の名を、確か
めるように麗子は口に出した。
﹁あら、マリア。ご機嫌よう。あなたもいらっしゃったなら早く言
ってくださればよかったのに﹂
﹁わりーな﹂
﹁まぁ、いいですわ﹂
にこにこと笑いながら﹁今日こそ殺して差し上げる﹂
﹁やってみやがれ﹂
またマリアの銃口が火を吹いた。
その光景を見ながら盗賊は溜め息を吐いた。
﹁ずるいじゃないの。隠し玉なんて﹂
﹁そっちだって同じようなもんだろ﹂
そう言って鈴丸は排気口のカバーに銃弾を撃ち込んだ。
カバーが外れ、落下する。
﹁ふぎゃあ!﹂
その上に乗っていたウルフも一緒に、である。
うう、と頭を押さえる彼女に盗賊は口元に笑みを浮かべるだけだ
った。
634
﹁うわあああああ!?﹂
上空を飛行しているヘリコプターから見慣れた顔が落下してくる
のを見ながら人魚に変身していた南波はすっと横に一歩だけ移動し
た。
そのすぐあとに、先ほど南波が居た場所に背面からシンデレラの
太李が叩き付けられた。その場で丸くなる彼が死にそうな声をこぼ
す。
﹁い、いってぇ⋮⋮背中からいったぁ⋮⋮!﹂
﹁何やってるんだ、アホか﹂
﹁俺はヘリコプターから飛び降りたのはじめてなんだよ!﹂
吠える太李に南波は思いっきり溜め息を吐いた。
その横にすとん、と足を揃えて着地した梨花がおとと、とバラン
スを崩しかける。ふるふる両手を振りながらなんとか持ち直した彼
女はまだ倒れたままの太李を心配そうに覗き込んだ。
﹁だ、大丈夫?﹂
﹁あんまり大丈夫じゃないです⋮⋮﹂
背中を押さえながら答える太李に﹁だよね﹂と彼女は申し訳なさ
そうに目を伏せた。
すちゃ、とよもぎも着地する。彼女は太李の顔を見てから、ぶふ
っと吹き出した。
﹁いばら!?﹂
﹁やっべぇ、シンデレラ先輩やべぇ、さすが期待を裏切らないぜ﹂
﹁う、うっさい!﹂
自分だって格好悪いのくらい分かってる。
やっとの思いで太李が立ち上がったのと同時に、最後に地面に着
地した巳令が﹁はいはい、和むのもそこまでですよ﹂と手を叩いた。
マントを振り払いながらだな、と返した太李は室内へと続く扉を
睨み付けた。
635
﹁じゃあマリアさんと鈴丸さんのところには﹂
﹁俺と親指で行こう﹂
金髪をいじりながらそう答えたのは南波だった。
後ろにいる梨花に﹁それでいいな?﹂と問いかけると彼女は小さ
く頷いた。
﹁んじゃ、俺ら三人で﹂
﹁行方不明者探し、ですね﹂
﹁っすね﹂
五人が揃って頷いた。
そのあとに、扉を見つめた太李はふぅ、と息を吸い込んでから足
を思いっきり振り上げた。
﹁おらぁ!﹂
激しい音と共に鉄製の扉が吹っ飛んで、壁に叩き付けられた。
足を振り下ろす彼に、一同の視線が向けられる。
﹃乱暴すぎない?﹄
呆れたような言葉を通信機越しに投げかけてきたのはベルだった。
太李はちらりと梨花を見てから苦笑した。
﹁多分先輩がうつりました﹂
﹁え!?﹂
そう言って中に入って行く太李に梨花が慌てた様子で問いかける。
﹁ちょ、ちょっと待ってよ! あ、あたしそんな乱暴なことしない
よぉ!﹂
﹁乱暴だろ、東天紅先輩のときはともかく親指のあんたのときは﹂
﹁ええ!?﹂
南波の言葉にびくっと跳ね上がる梨花の肩をぽんぽんとよもぎは
叩いた。
﹁乱暴っす﹂
﹁そ、そんな⋮⋮﹂
ふらふらと自分に視線を向ける梨花に巳令はおろおろしてから、
やがて、
636
﹁ご、ごめんなさい!﹂
逃げるように室内へと駆けこんだ。
そんな後輩たちに梨花は頬を膨らませた。
﹁も、もう!﹂
しかしここで文句を垂れ流していても仕方ない。終わってからに
しようと心に決めて、彼女も中に飛び込んだ。
もはや階段を駆け下りることすら時間が勿体ないと思ったのか、
それぞれが手すりを乗り越えて、下の階へ降りて行く。太李のマン
トが揺れ、南波の髪が広がって、よもぎのイヤリングが小さく跳ね
る。巳令の足が着地したかつんという規則正しい音がしたのと、梨
花のスカートがわずかに煽られたのはほとんど同時だった。
走り出しながら﹁じゃあ、またあとで!﹂と太李が片手をあげた。
﹁ええ、気を付けて﹂
﹁そっちもな!﹂
小さくなっていく彼の背中を見送りながら﹁では私も﹂と巳令は
彼とは逆方向に駆けて行った。
﹁じゃあウチは正面、っと。人魚先輩、親指先輩いじめちゃ駄目っ
すよ﹂
﹁いいから行け﹂
へーいとよもぎもまっすぐ走り出した。
固まったままの梨花の背をぽんと叩いてから﹁俺らも行くぞ﹂﹁
ひゃ、ひゃい!﹂上ずった梨花の声に南波は思わず、といった様子
で溜め息を吐いた。
マリアの真横を銃弾がすり抜けていく。
室内を走り回っていた彼女はそれに足を止めた。小さく舌打ちし
ている間に、麗子が舞台を蹴り上げ、空中で一回転してからマリア
の前に着地した。
637
自分の照準を合わせようとあげられる拳銃をマリアは自分の拳銃
で叩き落とすと一発蹴り込んだ。
﹁ぐ﹂
麗子の体がよろめいて後ろに反れる。
しかし、彼女の体が地面に着くよりも前に新しく麗子の手に握ら
れていた銃はすでにマリアを捉えていた。
その銃が火を吹くより早く、マリアは横へ逃げる。その間に大き
く反らしていた上半身を元に戻すとマリアをじっと見据えた。
﹁この間に比べて随分、マシになりましたわね。何かありまして?﹂
﹁余計な世話だ﹂
向けられた銃口から自分を外すため、麗子はマリアの銃に向かっ
て足を振り上げた。
宙を舞う銃を睨み付けながら舌打ちするマリアに彼女はさらに問
いかける。
﹁あなたとわたくしは似ていますわ﹂
﹁んなことねーだろ﹂
マリアが腰に携えていた銃を取り出したのと麗子がまた銃声を轟
かせたのは同時だった。
銃弾はマリアではなく、彼女の足元に撃ち込まれている。
﹁いいえ、とても似ていますわ﹂
﹁冗談きっついな﹂
﹁あら、わたくしこれでも本気ですのよ﹂
笑みを浮かべたまま、麗子は続ける。
﹁例えば一人の人間に命がけで付き合っているところとか﹂
はっと、マリアはその言葉を笑い飛ばした。
﹁ただの仕事だ﹂
﹁いいえ、わたくしには分かりますわ﹂
一歩踏み込んだ麗子が彼女を覗き込んだ。
﹁あなたにはそれ以上のものがある。それはわたくしと違うけれど、
わたくしと同じようにさせる何かが﹂
638
黙って自分を捉える碧眼を見て、麗子はくすりと肩をすくめて笑
った。
﹁惜しいのはその相手がよりによって蓮見なところですわ。もっと
別の方なら仲良くできましたのに﹂
﹁してくれなくって結構だ﹂
今まで固められたように動けなかったのが嘘のようにマリアは勢
いよく銃を握りしめた手を持ち上げた。
その手を軽く振り払いながら麗子が銃口を向ければ、今度はマリ
アが自分から銃口を外す。
﹁それに、お前とあたしは違う﹂
感情を押し殺したようなマリアの声に麗子はたまらずと言った具
合に笑い声をあげた。
自分と同等にされたのがそこまで気に入らなかったのだろうか。
﹁それは何故? まさか、わたくしは悪者で自分は正義の味方だか
ら、なんてくだらない理由ではありませんのよね﹂
楽しそうな麗子の質問に、マリアはすぐさま答えを述べた。
﹁あたしはもう迷ってねぇ。迷ってないし、言いなりでもない﹂
マリアがそう吐き捨てるのを聞いて、麗子はわずかに目を見開い
た。
その一方で、振り上げられた足をかわしながら鈴丸は舌打ちして
いた。
﹁いい女がぶんぶん足を振り回してんじゃねぇよ﹂
﹁サービスって奴だ﹂
よく言うぜ、と鈴丸はうんざりしながら距離をとった。
ふぅ、と息を吐いた彼女は両手を広げながら﹁でも本当に前向き
に考えてみない?﹂
﹁何をだ﹂
﹁あんたの移籍の話さ。金ならいくらでも出す﹂
639
﹁そういう奴ほど後から出し惜しむんだよなぁ﹂
何を思い出したのか、苦々しい表情を浮かべる鈴丸に彼女は首を
振った。
﹁まさか。あたいがそんなことをする人間に見えるかい?﹂
﹁少なからず信用ならないのは確かだ﹂
﹁悲しいねぇ﹂
﹁嘘つけ﹂
その言葉を遮るようにぎゅん、とウルフの爪が会話中の彼の真横
を切り裂いた。
バランスを崩しかけながら、転がった鈴丸は﹁あっぶねぇなクソ
ガキ﹂と眉を寄せた。二対一、どう考えても自分が不利である。
キーッとウルフが足を踏み鳴らした。
﹁お前もあちしのことをクソガキっていったなー! このやろー!﹂
﹁クソガキにクソガキと言って何が悪い﹂
低めの女声にウルフは鈴丸を睨み付けていた視線をばっと別の方
へ向けた。
彼女の目に映り込んできたのは金色の髪だった。
﹁おさかなやろー⋮⋮! ここであったがひゃくねんめじゃー!﹂
そう言ってウルフは鈴丸になど目もくれず、お魚野郎︱︱こと益
海南波に飛びかかって行く。
おやおやと悠長にこぼした盗賊が一瞬だけ顔をしかめると、床を
蹴り上げる。
先ほど彼女が居た場所を、巨大な斧の刃が抉っていた。
﹁す、鈴丸さん!﹂
﹁親指⋮⋮﹂
今にも大丈夫ですかと自分に尋ねて泣き出してしまいそうな梨花
の顔を見て、笑いながら鈴丸は安堵の息をこぼす。
﹁死ぬかと思った﹂
640
﹁お、遅くなってごめんなさい﹂
ぺこりと頭を下げてから彼女はキッと盗賊を睨み付けると﹁きょ、
今日は一体何が目的なの!﹂と声を張り上げた。
くはっと盗賊が吹き出した。純粋な笑い声だった。
﹁なるほど、こういう子があんたの好みってわけかい?﹂
﹁いい趣味だろ?﹂
﹁甘ったるすぎてあたいは勘弁だね﹂
なんのことやら、と視線を行き来させる彼女を見て﹁親指、あん
たの問いかけには悪いが答えられそうもないよ﹂と言い放つと、盗
賊はくるりと方向を変えて室外へと飛び出した。
﹁魔女! ウルフ! あとは任せたよ!﹂
そう言い残して、彼女は駆け出していく。
﹁親指、追うぞ﹂
﹁は、はい!﹂
斧を担ぎ直す梨花の背を押しながら﹁マリア、人魚、またあとで﹂
と鈴丸たちもそのあとを追った。
南波とマリアが顔を合わせて、どちらともなく、溜め息を吐いた。
先に口を開いたのは南波だった。
﹁灰尾と言っていることが同じだった﹂
﹁マジか。馬鹿ってうつるのな、やっぱり﹂
そんな会話を聞いてからウルフはまた床に足を叩き付ける。
﹁いいからこっちみろおさかなやろー!﹂
﹁うるさいクソガキ﹂
﹁また言ったなー!﹂
ぐがーと悔しそうに甲高い声をあげるウルフにくすくす笑ってか
ら麗子は両手を開いた。
一瞬紫色の光に包まれてから、その手には二挺の銃が握られる。
﹁嬉しいですわマリア。追いかけて行ってしまったらどうしようか
と思いましたのよ、わたくし﹂
﹁馬鹿言え、あたしは目の前の敵をみすみす見逃してやるほど優し
641
くねーっつの﹂
今まで手に持っていた銃をホルダーにしまい、代わりのものを取
り出すとマリアはにっと笑った。
﹁お前とは決着つけてーんだよ、あたしもな﹂
﹁まぁ嬉しい﹂
ふふっと笑ってから後ろに飛びのき、自分の隣にやってきたウル
フに麗子は告げた。
﹁行きますわよ、ウルフ﹂
﹁おうよ!﹂
麗子の銃とウルフの爪が照明の光を反射させた。
642
第三十話﹁いろんなことが終わっていって始まるようです﹂
フェエーリコ・クインテットが侵入してきた。すでにビル中で話
題になってしまっているのか、スーツ姿の男たちがせわしなく建物
の中を走り回っていた。
そんな中で扉の前で二人の大男が守っている扉があった。喧騒の
中、まるで銅像のように立っている男たちの後ろの扉には何かがあ
る。そう言わんばかりだった。
その様子を物陰から見つめていた太李は小さく溜め息を吐いた。
できることなら余計な騒ぎは起こさずに居たかったがそうも言って
いられないらしい。
ぎゅっと拳を握りしめてから隠れるのをやめた彼は目前の男を殴
りつけた。
パワー特化の親指と違って手加減さえしていれば自分は人を殴り
殺すということもないはずだが一撃で気絶させてしまうという事実
にどうしようもないほどに不安を煽られた。こんなことに加担して
いる人間相手とはいえ、強化された力で
殴るのに罪悪感がないといえば嘘になる。
すまん、と心の中で謝りながら抵抗する暇も与えずに二人目を倒
すと彼はドアノブを回して、中に入り込んだ。
瞬間、ぞわりと背筋に気持ちの悪いものが走るのを太李は少なか
らず感じた。
﹁やあ、シンデレラ﹂
何もない部屋の中央で両手を広げていた男を見て、太李は奥歯を
噛み締めた。やられた。
﹁うわばみ⋮⋮!﹂
その顔を、太李が忘れているはずもなかった。
蓮見和歌ことベルガモットの元婚約者でありながらトレイターた
ちのリーダー、あるいは全ての元凶とも呼べるうわばみがそこに居
643
た。
握っていたレイピアを構え直して、太李はうわばみを睨み付けた。
くるくると部屋の中を歩き回るうわばみから視線を外さないよう
に太李もゆっくりと動く。重たい沈黙ののちに、やっと口を開いた
のはうわばみだった。
﹁嗅ぎつけてやってくるだろうとは思っていたが予想以上に早かっ
た。さすが、優秀だね﹂
﹁お前に褒められたって嬉しくない﹂
﹁嫌われたものだな﹂
やれやれだとばかりに溜め息を吐くうわばみに太李はぐっとレイ
ピアを握る力を強めた。
冷や汗が伝う。この男の何に、自分は恐怖を抱いているのか。太
李には分からなかった。
ただ一つだけ。絞り出すように太李は問いを投げつけた。
﹁まるで俺たちをおびき寄せたみたいな言い方だな﹂
﹁おびき寄せたからね﹂
悪びれた様子もなくそう告げるうわばみに太李は息を飲んだ。
﹁なんだって?﹂
﹁自分で言ったのに分からない? 君らがここに来たのは必然だよ﹂
あっさり肯定されたうわばみの言葉に太李はわずかに目を見開い
た。
次の問いが口からこぼれ落ちたのはすぐだった。
﹁なんでだよ﹂
ぴんとうわばみは右手の人差し指と中指を立てた。
﹁理由は二つほどある。一つは君らには関係ない﹂
﹁もう一つは?﹂
うわばみの乾いた笑い声が響く。
﹁聞くまでもないだろう? 君らが邪魔なんだよ﹂
﹁お前らの邪魔をするのが俺たちの仕事だ﹂
﹁それが人類の進化を妨げてるとも知らずに愚かだ﹂
644
うわばみの言葉に太李は腹の底が煮え立つような、今まで感じた
ことのないほどの感情が湧き上がってくるのを感じた。
気が付けば、彼は一歩踏み込んで、うわばみの首にレイピアを向
けていた。
﹁愚か? 人のことを犠牲にして、何が進化だ。何が愚かだ! 笑
わせんな!﹂
その言葉にはっとうわばみは笑い飛ばした。
﹁実験に犠牲はつきものだ﹂
﹁だったらお前らで勝手にやればいいだろ。関係ない人を巻き込む
な!﹂
﹁それはできない相談だよ、シンデレラ﹂
自分の首にレイピアが向けられているのにそれでもなお、落ち着
いた声音でうわばみは続けた。
﹁研究者は常に一歩離れた状況で冷静に事を見守るものさ。そうし
て人類は結果的によくなっていく﹂
一瞬、太李は言葉が出なかった。
やっと出来たのは、追いついた思考から生まれた言葉を吐き出す
だけだった。
﹁お前なんかのために、ベルさんは⋮⋮﹂
うわばみはわずかに驚いたように目を見開いた。
﹁驚いた。君は、和歌のために怒っているのか。てっきり私が悪だ
と信じ込んで怒っているのかとばかり﹂
﹁そうでもあるし、そうじゃないのかもしれないし。俺だってよく
分からない﹂
太李はうわばみを精一杯睨み付けた。
﹁お前が本当に正しいのか、間違ってるのか、俺には分からない。
でも、俺は間違ってると思う。俺が正解だとは言えないけど、やっ
ぱり俺は、関係ない誰かを巻き込むお前のやり方が気に入らない﹂
﹁勝手だ。しかも幼稚だ﹂
﹁世の中のためなんて勝手なこと言ってるお前の方がよほど幼稚だ﹂
645
ふぅ、とうわばみは呆れたように息を吐いた。
﹁それが君の答えか。残念だよ﹂
鈍い音を立てながら太李がうわばみに蹴り飛ばされた。
壁に叩き付けられた体を必死に起こしている彼の耳に今まで沈黙
を保っていたスピーカーから声がこぼれた。
﹃シンデレラ﹄
﹁九条さん⋮⋮﹂
なんとか立ち上がる太李に、柚樹葉は冷たく告げる。
﹃どうやら君だと勝てそうもない﹄
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
太李が返答できずにいると柚樹葉はまた続けた。
﹃でも君はラッキーだ。その場にγがいる様子はない﹄
﹁え?﹂
﹃強化版で叩き潰してやれって言ってるんだよ、鈍いな﹄
吐き捨てるようにそう言ってから柚樹葉は押し殺した様子の声で、
﹃君は間違いなく、ヒーローだよ﹄
﹁褒め言葉として受け取っておくよ﹂
ポケットからもう一つの指輪を取り出すと彼はそれを掲げた。
眩い光が晴れ、そこにいたのは白いドレス姿の﹃シンデレラ﹄だ
った。
﹁一人だけど、ヒーローと言われたからにはやっておくかな﹂
じっと自分を見据えるうわばみを見ながら太李は高らかに告げた。
﹁哀れな役に幸せを与える姫︱︱﹂
あれほど嫌がっていた口上もここまでくれば、どこか誇らしくあ
った。
﹁シンデレラ!﹂
﹁てりゃああ!﹂
646
ドアを蹴破ったよもぎは辺りに何もない空間を見て小さく舌打ち
した。
先ほどからこの調子だ。見てくれこそ立派だったが中身はほとん
どない。それで十分だったのだろう。
長居をしている暇はない。一旦誰かと合流しなければとくるりと
向きを変えたよもぎは目の前に誰かが立っているのを見て顔をしか
めた。
深々とした青色の髭をたっぷり蓄えた男だった。同じ色の髪の毛
は全て後ろに撫で上げられていた。金色を基調にしたジャケットを
見ながらよもぎは﹁趣味わる﹂と心の中で毒づいた。
味方でないことは嫌でも分かった。弓を手に握りしめながら彼女
は口を開く。
﹁やーやー、すいません。なんか迷子になっちゃいやして﹂
矢をつがえ、相手に向けながらよもぎは続けた。
﹁とりあえずあんた誰。はじめましてだよね﹂
きりきりと弦を引きながらよもぎが問えば、髭の下の顔に笑みを
浮かべながら男が答える。
﹁青髭、とでも名乗っておこう。いばら姫﹂
顔をしかめながらよもぎは首を傾げた。
﹁トレイターさん?﹂
﹁ご名答﹂
彼の言葉に参ったなぁ、とよもぎがこぼした。
﹁前情報なし初見プレイは苦手なんだけ、ど!﹂
そう言って、彼女は弦から手を離す。
弓弦が鳴り、勢いに任せて矢が飛び出した。
飛んで行った矢を横に身を反らし、かわしてから拳を握った青髭
は地面を蹴り上げるとよもぎ目がけてそれを振り下ろした。新しい
矢をつがえようとしていたよもぎはうわ、と顔を引きつらせながら
後ろに飛んでそれをかわす。
鈍い音と共に先ほどよもぎが立っていた場所に、青髭の拳がめり
647
込んでいる。
﹁親指パイセンレベルでやばそうでちょっといばらは泣きそうです﹂
そう言いながらよもぎは矢を放った。
二発目はわずかに青髭の肩をかすめる。それでも直撃することの
ない矢に彼女は苛立ちを覚えた。
自分の肩から流れる血を指ですくいとってからぺろりと舐めた。
﹁俺に一撃喰らわせた奴は久々だ﹂
﹁そりゃよかった﹂
また矢をつがえようとするよもぎとの距離を青髭は一瞬で詰めた。
今度は逃げる隙を与えずに彼女の顎を掴み上げた。突然襲ってき
た苦痛によもぎは顔を歪めた。
﹁が⋮⋮あ⋮⋮!﹂
﹁どうした、いばら。そんなもんか﹂
﹁う、ぐ﹂
みちみちぎりぎりと顎が音を立て、体が持ち上げられる。
からん。彼女の手から弓が落ちた。
ああ、こんなとき益海先輩がいてくれたら。らしくもなく、よも
ぎは南波のことを考えていた。
どうしてあの人はもの食べるときは散々人の隣でやりたい放題な
のに人がピンチのときは来ないんだよ! 前あんたがピンチのとき
行ってやっただろ! この場に居ない彼を罵ってから、それも無駄
だと思い直した。
最後の力を振り絞り、彼女はまだ辛うじて握っていた矢を青髭の
胴体目がけて突き刺した。見事に腹部に直撃した矢に顔を歪めた青
髭はぱっとよもぎを離した。体が地面に落ち、咳き込みながら弓を
拾い上げた彼女は横に転がり込むと構え直した。
﹁あ、顎が砕けるかと思ったぜ⋮⋮あんた、無表情で酷いことする
辺り、人魚先輩に似てるわ﹂
でも、とよもぎは青髭を睨み付けた。
﹁人魚先輩の方がよほどイケメンだったこんにゃろう腹立つなあい
648
つ﹂
そんな理不尽な怒りをぶつけられているとは南波は思っていない
のだろうなと思いつつ、よもぎはまた弓弦を鳴らした。
その理不尽な怒りをぶつけられている張本人である南波の槍とウ
ルフの爪がぶつかり合っていた。
爪ごと南波が槍を横に薙ぐとウルフはごろごろと横に転がって、
彼を睨み付けた。
先ほどから、こんな具合に鋭い音と共に、勢いのままぶつかり合
った両者は言葉の通り、火花を散らしてから離れるを繰り返してい
る。
﹁おさかなやろー! なんでいっつもあちしのじゃまばっかりする
のー!﹂
キーッと足を踏み鳴らすウルフに、はっと南波は笑い飛ばした。
﹁邪魔されるようなことをしてる方が悪い﹂
﹁なんだよそれー!﹂
﹁逆に聞こう﹂
槍の先をウルフに向けながら南波は淡々と尋ねた。
﹁お前はなんで俺たちに邪魔されるようなことをしているのか考え
たことがあるか? 本当にお前の意思か?﹂
ぴたりと、ウルフは動きを止めた。
なんで? だってそうすれば麗子が喜んでくれたから。そうしろ
とうわばみが言ったから。そうでなければいけないと、今まで育て
られた。
理由は頭の中に浮かんだのにウルフはそれを口に出さなかった。
南波が求めている回答ではないと気付いてしまったからだ。
﹁う、ウルフちゃん難しいことわかんない!﹂
逃げ道を口に出しながらウルフはまた南波に飛びかかった。
649
鋭利に光る爪をかわしてから槍で宙を薙いだ南波は彼女と一定の
距離を保ちながら眉を寄せた。
こんな子供が、自分の意思でこんなことに加担している。南波に
はそれが信じられなかったのだ。
けれど他人のため。それならまだ理解が及ぶ。それと同時にこの
子供に感じていたどうしようもないほどの苛立ちの正体も掴めるの
だ。
﹁お前は、俺と同じなのか﹂
﹁はぁ?﹂
誰かのためと言い訳して戦い続ける姿に、無意識に自分を見てい
るような気分になって、お互い腹を立てていたのかもしれない。
薄く笑った南波は首を左右に振ると槍を握り直した。
﹁なんでもない。独り言だ﹂
﹁⋮⋮おさかなやろーも、喜んで欲しい人がいるの?﹂
ウルフのまっすぐな言葉に南波は﹁さあ﹂と曖昧に答えた。
いるんだ。ウルフは直感した。
﹁おんなじなのに、じゃましてくる。やっぱ、おまえ、ちょームカ
つく﹂
爪を擦り合わせ、不愉快そうに顔を歪めるウルフに南波はまた元
の無表情を取り戻して答えた。
﹁俺もだ﹂
再び、互いにぶつかり合った。
一方で、巳令は目の前の光景に顔をしかめている最中だった。
ぐったりと倒れ込むスーツ姿の男女がそこにはいたのだ。中には
やつれた様子の人間もいれば、点滴を繋がれた人間までいる。これ
自体、覚えがある。ディプレション空間だ。
ならばそれを発生させているディスペアがいるはずなのに。その
650
姿は見えなかった。
ディスペアでないとすると。そこまで考えてから巳令は地面を蹴
り上げた。
背筋を跳ね上がらせるような破裂音が響いた。着地してから後ろ
を振り返るとそこに立っていたのは黒の長い丈のドレスに灰色のフ
ァーケープを合わせた女だった。爛々と輝く青と金色の瞳は巳令を
捉え、長く伸びた漆黒色の髪は今にも腰に届きそうだ。
その手にはブルウィップのような長い鞭が握られている。
﹁また一匹可愛い子が忍び込んできた﹂
そう言って、女はにこりと微笑んだ。
巳令は腰に携えた刀の柄に手を掛けながら一歩後ずさった。それ
に舌なめずりすると彼女は嬉しそうに手を叩いた。
﹁おまけに可愛がり甲斐のありそうな生意気な鉢かづき﹂
﹁このディプレション空間はあなたのせいですか﹂
薄気味悪さを感じながら巳令は極めて冷静に問いかけた。
女は笑みを崩さぬままでそれに答える。
﹁ええ。私はトレイター。区別名は黒猫。よろしくね﹂
﹁よろしくなんてしたくありません﹂
キッと自分を睨み付ける巳令にンフフと黒猫は特徴的な笑い声を
あげた。
﹁そんなに冷たいこと言わないで。私は、あなたみたいな子のこと
好き﹂
﹁私はあなたのような人は嫌いです﹂
﹁そう、それ!﹂
床に対して振るわれた鞭がまた破裂音を立てる。
﹁この状況下でも強気だなんてゾクゾクしちゃう。あなたみたいな
子を屈服させるのが大好き﹂
﹁私があなたに屈服だなんてあり得ません﹂
自分を睨み付けてくる巳令に黒猫は身を抱いて、また特徴的な笑
い声をあげる。
651
﹁ンフ! ああ、いいわぁ⋮⋮気に入った。うわばみにお願いして
あなただけは生かしておいて貰おうかしら⋮⋮私のオモチャとして﹂
﹁冗談じゃない⋮⋮﹂
﹁冗談じゃないもの。あなたの目に直接見せてあげたいの、あなた
の大切な家族が、仲間が、友達が、あるいは恋人が、傷ついていく
姿を﹂
なんて不愉快な女なんだ。ぎりっと歯ぎしりする巳令に黒猫が笑
う。
﹁そしたらあなたどんな顔してくれるかしら。その綺麗な顔が涙で
歪むのを見てみたいわ﹂
﹁ふざけるな!﹂
地面を蹴り、間合いを詰めた巳令は鞘から刀を引き抜いた。
くるっと一回転してそれをかわすと黒猫は長い鞭を勢いよく振る
った。巳令の肩に直撃した鞭が破裂音を立てた。
﹁きゃ!?﹂
﹁予想通り、いい声で鳴くのね﹂
また振るわれる鞭に刀を振る彼女を見て黒猫は確認するかのよう
に呟いた。
﹁顔は傷つけないようにしなきゃね。勿体ないわ﹂
面倒な奴に出会ってしまった。巳令は素直にそう思った。
床を蹴り上げた麗子の体がふわりと跳び上がる。
後退する彼女に向けられた銃口が火を吹いた。追い立てるように
自分の後をついて回る鉛玉に鬱陶しい、と麗子は心の中で吐き捨て
た。
部屋の隅まで走った麗子は壁に足を掛けるとそのままそこを駆け
上がり、自分に銃口を向けているマリアに向かって引き金を引く。
わずかに怯んだ彼女を見て、麗子は口元に笑みを浮かべると壁を
652
蹴り付け、空中でくるりと回転してからその目の前に着地してみせ
た。
碧眼を少しだけ大きくしたマリアが銃を握った右手を振り上げる。
それを麗子が左手の銃で叩き落とすと右手の引き金を引く。
マリアが身をかがめ、鉛玉をかわす。体勢を戻すの同時に振り上
げられた黒い革製のブーツを履いた足が麗子の銃を打ち上げる。そ
の足はそのまま麗子の腹部にも叩き込まれた。
バランスを崩しかけた黒い体は倒れ込む寸前で、自分を支えてい
た足の片方を体の横を通して、マリアの体に叩き込んだ。
﹁Shit!﹂
吐き捨て、マリアはごろりと横に転がり込んだ。
ふらりと揺らいだ麗子の体が地面に崩れる。それに追い打ちをか
ける余裕は今のマリアにはない。
へぇ、と麗子が面白そうに彼女を見つめた。
﹁あなた、英語、喋れたのね﹂
﹁⋮⋮あたしが日本語しか喋らないと思ったのか?﹂
顔を引きつらせるマリアに麗子は首を振る。
﹁いえ、あなたは日本人には見えませんわ﹂
﹁だろうな﹂
﹁本当に余裕がない時、人は普段から自分が使っている言葉が出て
しまいますわ﹂
にこりと微笑んだ麗子はさらに続けた。
﹁あなたの余裕を崩せたようでわたくし嬉しいですわ﹂
﹁たまたまだ。普段はこれでも、善良な日本人共に変な英語聞かせ
ないように気ぃ遣ってんだ﹂
﹁じゃあわたくしの前だと素ということかしら?﹂
﹁Rubbish!﹂
くだらねぇ。笑いながらそう告げてマリアはやっと立ち上がった。
彼女の鋭い言葉に麗子もゆらりと立ち上がると銃口を向け、淡々
と言う。
653
﹁マリア、ついでだからもう一つくだらない話を聞いていただいて
もよろしくて?﹂
﹁⋮⋮なんだよ﹂
﹁わたくし、あなたに頼みごとがしたいんですの﹂
眉を寄せたマリアも銃口を向けながら首を傾げる。
﹁勿体ぶらずにさっさと言いやがれ。あたしは鈴やベルと違って気
長じゃねぇ﹂
﹁残念。もっとあなたとお話していたかったのに﹂
肩をすくめる麗子にマリアは違和感を覚えた。まるでこれが最後
になるとばかりの、麗子らしからぬ言葉だった。
﹁きっとわたくし、あなたのようにはなれないけれど、なるつもり
もないけれど。でもわたくし、わたくしでいたいんですの﹂
﹁⋮⋮何、言ってんだ、聖護院﹂
﹁最後にあなたの母国語が聞けて良かった﹂
そう言って薄く微笑んだ麗子は銃口をマリアから外すと真横に向
け、引き金を引いた。
何もなかったはずの場所に現れたのは肩を押さえたキリギリスだ
った。
﹁魔女⋮⋮!﹂
憎々しげに自分を見るキリギリスに麗子は穏やかな笑みを浮かべ
た。
﹁ご機嫌よう、クソ野郎﹂
まるで自分のように吐き捨てた麗子にマリアが混乱していると﹁
れ、れーこ⋮⋮?﹂と震えた声でウルフが呼びかけた。
﹁ど、どうしたの? なんでキリギリスがいるの﹂
﹁マリア﹂
ウルフには一切答えず、マリアに振り向いた麗子は続けた。
﹁わたくしの最後のお願いですわ。あなたの愉快で無愛想なお友達
と、うちのウルフを連れて、ここから立ち去ってくださいますこと
?﹂
654
﹁おい! 聖護院!﹂
﹁立ち去れ、と申し上げてますのよ﹂
自分との距離を詰めるマリアの額にもう片方の手で銃口を突きつ
けた麗子は冷淡に告げる。
マリアが一歩下がる。ふわりと、麗子の顔に笑みが戻る。
﹁そう、いい子ですわね、マリア。人魚姫、あなたもよ﹂
南波の方にちらりと視線を投げると南波は溜め息交じりに言う。
﹁状況が読めない﹂
﹁これだからお馬鹿さんは困りますわ﹂
まだキリギリスから銃口を外さないまま﹁あなたたちなんて本当
はどうでもいいですの。わたくし、こいつを処分したいだけですわ﹂
それから麗子はウルフに視線を向けて告げる。
﹁ウルフ、一つだけ謝ります﹂
彼女から視線を逸らした麗子は、
﹁わたくしあなたが嫌いでしたわ﹂
﹁⋮⋮れー、こ?﹂
﹁言うことは聞かないし、悪い子だし、お馬鹿だし﹂
﹁ねぇ、れーこ?﹂
﹁ごちゃごちゃうるさいですわね! わたくしあなたが嫌いですの
さっさと行ってしまえばいい! 顔も見たくない!﹂
麗子の怒鳴り声にウルフはびくっと肩を揺らした後に黙り込んだ。
﹁⋮⋮聖護院、それは、罪滅ぼしのつもりか?﹂
﹁まさか。ただの内部抗争の末ですわ﹂
自分を睨み付けてくるマリアに麗子は黙って目を伏せる。
﹁あなたたちと騒ぎを起こせば、彼を処分しやすくなる。分かりや
すいでしょう?﹂
﹁おい﹂
マリアの言葉を最後まで聞かずに麗子はくるりとキリギリスに向
き直ると、言う。
﹁わたくしが全員撃ち殺してもよろしくてよ? 本気ですから﹂
655
﹁それで納得するわけねぇだろ﹂
﹁ああ、もう!﹂
一瞬で間合いを詰めるとマリアの体に麗子は思いっきり銃で殴り
付けた。
﹁て、め、なに、しやがる⋮⋮﹂
﹁あなたの聞き分けがよろしくないのがいけないんですわ﹂
碧眼を閉じて、彼女の体が崩れ落ちる。彼女の体を探ってから麗
子は床を蹴りつけた。
南波の真後ろに立った彼女はそのまま彼の首にも銃のグリップを
振り下ろした。
顔を歪めながら崩れる彼を見て﹁この子を頼みますわ、お馬鹿さ
ん﹂と麗子は呟いた。崩れ落ちた体はすでに人魚姫ではなく、益海
南波だった。
ぐったりと倒れた二人分の体を担ぎ上げてから最後に泣きじゃく
るウルフを担いだ麗子は﹁二分だけちょうだい﹂とキリギリスに告
げ、部屋の扉を開けた。
彼女の腕の中に抱えられながらウルフは泣き叫んだ。
﹁はなせよばかれーこ! どーゆーこと!? キリギリスがなんな
の!? いみわかんないんですけど!?﹂
﹁今からあなたはトレイターじゃなくなりますわ﹂
﹁はぁ!? ウルフちゃんはウルフちゃんですけど!?﹂
﹁お馬鹿さんはお馬鹿さんたち同士で生きなさい﹂
淡々と告げて、自分を下ろした麗子にウルフが飛びかかろうとす
れば、彼女は最後だとウルフの小さな体も銃で殴り付けた。
固まるウルフに笑いかけてから彼女はこてんと、首を傾けた。
﹁ごめんあそばせ﹂
たった一言、誰も聞いていない別れの言葉を告げて麗子は扉を閉
めた。
656
﹁お待たせしてごめんなさい﹂
﹁いいや、支障はない﹂
肩を押さえているキリギリスを睨み付けながら麗子は自嘲気味な
笑みを浮かべた。
﹁あっさりあの子を外に出させてくれた辺り、はじめから処分した
いのはわたくしみたいね﹂
冷え切った麗子の言葉に彼は薄く笑みを浮かべるのみだった。
﹁ウルフは外に出ても問題ない。トレイター化さえできなくなれば
さほど脅威ではない。事情を知ってるお人よし集団も知り合いにい
ることだしね﹂
﹁でもわたくしは違うと﹂
﹁君は少し母性に目覚めすぎた。邪魔なんだよ﹂
キリギリスの言葉に息を吐いてから麗子は問うた。
﹁誰の意思ですの?﹂
﹁分かってるくせに﹂
﹁⋮⋮うわばみがそう願うなら、それがわたくしにとっても本望で
すわ﹂
髪を振り払って、麗子は弱々しく笑んだ。
﹁しょせん君も彼にとってはモルモットさ。裏切られた気分はどう
?﹂
﹁裏切るだなんてとんでもない﹂
大事そうに銃を抱えながら麗子は首を左右に振った。
﹁はじめから彼の心にわたくしなど居ませんわ﹂
﹁それでも今まで仕えてきた﹂
﹁だって愛しておりましたもの﹂
胸を押さえながら目を細めた麗子は﹁それがわたくしが、聖護院
麗子として誰に指図されるまでもなく願ったこと。そして、あの子
を逃がしたのもそう﹂
﹁それから?﹂
﹁あなたをぶち殺してやるのもそうですわ﹂
657
床を蹴り付け、麗子が飛躍した。
紫色の空を仰ぎながら盗賊は腰に手を当てた。
ゆっくり正面に視線を戻せば、屋上へ来るための唯一の出入り口
から梨花と鈴丸が飛び込んできたところだった。やれやれと彼女は
首を軽く左右に振った。
﹁あんたたちもしつこいねぇ﹂
﹁生憎、しつこくするのが仕事なもんでな﹂
自分に銃口を向ける鈴丸にくく、と盗賊は笑ってみせた。
﹁たぁああ!﹂
その間に振り上げていた斧を梨花が振り下ろす。おっと、とその
場で飛躍し、刃をかわすと盗賊はぴょいと斧の上に飛び乗った。
﹁おー可愛い﹂
からかうような言い方にかちんと来た梨花は握りしめていた斧を
横に薙ぎ払った。
刃を蹴り、空中で一回転しながらやれやれと盗賊は肩をすくめた。
﹁普段はこれ出さないんだけど。かわいこちゃんに特別サービスだ﹂
そう言って、盗賊が手を真上に突き出すと藍色の光の中から鎖に
繋がれた鉄球が現れた。
地面に着地するなり、鎖を握りしめたまま、盗賊はそれを大きく
振るう。
鉄球が、勢いよく梨花に襲い掛かった。
﹁ふな!?﹂
慌てて斧を構え直し、自分に向かってくる鉄球を受け止めるも、
彼女の体がわずかに後退する。
﹁ほらほらどうした!?﹂
一旦自分の元へ鉄球を引っ込めてから再度、彼女がそれを振り回
そうとしたときだった。
658
空気が揺れ、下から爆発音が聞こえてくる。わずかに目を見開い
てから盗賊は舌打ちした。
﹁なーにやってんだか﹂
呆れ半分といった感じでそう告げて、盗賊は鉄球を放り出すと口
角を引き上げた。
﹁今日のところはここまでだ。また近いうちに会おうじゃない﹂
じゃあね、と自分の手にキスをしてから彼女はそれを放り投げる
ような動作をしてみせた。
腕を振り上げ、くるりと二人に背を向けた瞬間、彼女はその場か
ら消えていた。
﹁逃げたか﹂
舌打ち交じりにそう言いながら銃をしまう鈴丸の服を梨花がそっ
と引っ張った。
﹁い、今の、下から、でしたよね?﹂
﹁⋮⋮見に戻るか﹂
﹁はい!﹂
返事をしながら梨花はすでに階段を駆け下りはじめていた。
太李の振り下ろした剣を防いだのはうわばみの持つ黒い刃の剣だ
った。
床を蹴り、大きく後退した太李は小さく肩を上下させながらうわ
ばみを睨み付けた。先ほどからこの繰り返しだ。
軽く空中で剣を振ったうわばみはじっと自分の足元を見つめてか
ら息を吐いた。
﹁ああ、よかった﹂
﹁何が﹂
659
﹁やっと本来の目的が果たせたらしい﹂
﹁⋮⋮どういう意味だよ﹂
眉を寄せる太李に﹁言葉のままだよ。やっと失敗作の処分が終わ
ったらしい。多少手違いはあったようだけど﹂
﹁なに言って﹂
﹁もう片方は君らにあげよう。煮るなり焼くなり好きにするといい﹂
訳が分からない。太李が声をあげようとするとうわばみは彼を見
てにこりと微笑んだ。清廉な顔に浮かんでいたのはどこか歪な笑顔
だった。
﹁君は勝手で幼稚だが、見込みはある﹂
﹁はぁ?﹂
﹁嫌になったら私のところに来るといい。歓迎しよう﹂
両手を広げるうわばみを太李は思いっきり睨み付けた。
﹁誰が行くか﹂
﹁じゃあ言い方を変えよう﹂
ぱっと剣を手放して、うわばみは言い放った。
﹁いつか君は必ず私のところにやってくる﹂
どういう意味だ。
それを問うより先に、うわばみの姿は白い蛇へと変わり、するり
とその場から逃げ出していた。
鼓膜を揺らす激しい爆発音に、南波が目を開ける。
首元を襲い続ける鈍い痛みに顔をしかめながら自分の手が、男の
ものに戻っているのを見て彼はさらに顔を歪めた。そうだ。確か、
トレイターに殴られて、そのまま。
はっとして顔をあげると目の前の部屋が火に包まれていた。何も
かもを燃やし尽くそうとせんばかりに、炎が揺らめき、申し訳程度
のスプリンクラーが鎮静しようと躍起になっていた。
660
辺りを見渡すとマリアとウルフが倒れ込んでいる。
︱︱この子を頼みますわ、お馬鹿さん。
そんなようなことを言われた気がした。
南波は、じっと、燃え盛る炎を見つめてからやがて首に掛かった
ネックレスを握りしめ小さく﹁変身﹂とだけ告げた。
一瞬にして、人魚姫へと戻った彼はマリアとウルフの体を抱き上
げてからようやく立ち上がった。
﹁⋮⋮クソ﹂
たったそれだけ、吐き捨てて。
661
小話﹁とあるところに﹂
むかしむかし、あるところに魔女がいました。
魔女はとても綺麗な人でしたがちょっとだけ意地悪で、嫉妬深か
ったのです。
だから魔女は自分から悪いことをするようになりました。
けれど、心のどこかでそれを後悔し始めて、苦しむようになった
のです。
そんな彼女が人間に恋をしました。
□■□
鏡に映る自分の姿を見て、麗子は目を見開いた。
先ほどまでの堅苦しいスーツなど跡形もない。髪の色も、目の色
も、全て変わった自分がそこにいたのだ。
本当にこれが自分かと、彼女は己の目を疑った。
そっと前に歩み出て、鏡に触れた彼女は息を吐いた。鏡の中の彼
女も同じように、どこか信じられないように目を開いている。
そんな彼女に今まで黙って眺めていた﹃最悪の人﹄が言葉を投げ
かけた。
﹁今日から君は﹃魔女﹄だ﹂
﹁﹃魔女﹄⋮⋮?﹂
彼は頷くと、言葉を続けた。
﹁綺麗だよ、麗子﹂
662
﹁⋮⋮ま、まぁ、お上手ですこと﹂
ぷいっと視線を逸らす麗子に彼はくすくすと笑った。
それに釣られ、彼女も小さく笑みをこぼす。
﹁まだ二人だけだけれどいずれ同志も増えるだろう。そうすれば君
には先頭を務めて貰いたい﹂
﹁光栄ですわ﹂
ワンピースの裾を持ち上げ、軽く会釈する麗子に彼は言う。
﹁実は、まだそのスーツには基本的機能しか備わってなくてね。有
事のときのために武器を持って欲しいんだ、何がいい?﹂
﹁わたくしが決めてもよろしいのですか?﹂
﹁好きな武器で戦いたいだろう?﹂
にこりと微笑む彼に、そうですわねぇ、と麗子は唇に指を当てた。
考えるまでもなく、彼女の頭には一つの武器が思い浮かんだ。と
いうよりは、これ以外の武器の存在を麗子はあまりよく知らなかっ
たのだ。
﹁銃がいいですわ﹂
﹁銃?﹂
聞き返してくる彼に麗子はこくんと頷いた。
以前、彼の隣にいたあの女が使っていたのを麗子は一度だけ見て
いる。自分も同じ武器を使ってやりたい。どこへかもわからない無
意味な意地だった。
麗子がじっと見据えていると彼が小さく吹き出した。びっくりし
て肩を跳ね上がらせてから彼女はむっと顔をしかめた。
﹁わたくし、何かおかしなことを言いまして?﹂
﹁いや、魔女なのに銃は生々しいなと思って﹂
言われたらなんだか急に恥ずかしくなってきた。頬を赤らめなが
らふいと麗子がそっぽを向くと彼の手がぽんぽんと彼女を撫でる。
﹁馬鹿にしたつもりはなかったんだ﹂
﹁⋮⋮本当に?﹂
﹁⋮⋮すまない、ちょっと嘘だ﹂
663
顔を逸らす彼がどこか可愛らしく、愛おしくて、麗子はふふっと
また笑い声をこぼした。
それから﹁そういえば﹂と身を乗り出す。
﹁わたくしが魔女ならあなたはなんですの?﹂
﹁うわばみ﹂
その答えにまぁ、と麗子は口元を押さえた。
﹁では一飲みされないようにしなくては﹂
﹁そうだね﹂
すっと彼女の頭に伸びて、優しく髪を梳く手を頬に引き寄せなが
ら麗子は薄く笑みを浮かべた。
■□■
銃口から火を吹いて、飛び出した鉛玉が的を打ち抜いた。
黒い銃もやっと手に馴染んできたところだ。これなら実戦でもな
んとかなるだろう。麗子はどこか誇らしい気持ちだった。
﹁随分、上手くなったね﹂
背後から飛んできたうわばみの声にふふっと笑んでから麗子は振
り返った。
﹁当然ですわ。わたくしです、も、の?﹂
振り返った彼女は視線の中に飛び込んできた﹃小さなもの﹄に目
を奪われた。
うわばみの着物の裾を引っ張りながら彼の背に隠れているのはま
だ幼気な少女だった。麗子は首を傾げる。
﹁この子は?﹂
﹁孤児院で引き取って来た﹂
664
ああ、そういうことか。麗子は目を細めた。
育ての恩を売りつけて、自分の計画に加担させるつもりか。こん
な子供に。
けれど、麗子の中には不思議とうわばみへの侮蔑の気持ちは湧き
起こらなかった。むしろ、益々彼が愛おしくなるほどだった。
しゃがみ込んで麗子は彼女と視線を合わせた。
﹁ご機嫌よう﹂
少女は驚いたように目を見開いてから小さな口をぱくぱくと動か
して、声を発した。
﹁ごき、ごきげん? ご?﹂
頭の上にいっぱいの疑問符を浮かべる彼女の両手を掴むと麗子は
小さく微笑んだ。
﹁⋮⋮こんにちは﹂
これでやっと理解したのか、彼女はぱぁっと顔を輝かせた。
﹁こ、こんにちは!﹂
元気よく返してくる彼女に麗子は笑い返した。元々子供は嫌いで
はなかったのだ。
その様子を見て、うわばみは軽く頷いた。
﹁魔女、頼みがある﹂
﹁なんでしょう?﹂
きょとん、と自分を見上げる麗子にうわばみは笑いながら告げた。
﹁よかったらその子の面倒を見てやってくれないか﹂
﹁この子の?﹂
﹁ああ。君に適任だと思う﹂
どんな役割でも、彼から言われてしまえば麗子は引き受けざるを
得ないのだ。
神様なんていなくても、彼が私にとっての神なのだから。微笑み
ながら麗子は答えた。
﹁仰せのままに﹂
665
彼女の役割はウルフだと、麗子はそう伝えられていた。
だから麗子は一度も、彼女を本当の名前で呼ばなかった。それを
拒むわけでもなく、ただ彼女は受け入れた。
この少女は、いい子なのだと、麗子は思った。
自分の傍に居るうわばみや自分が間違った存在であるなどあり得
ない。迷いのない、疑いすら生まれていない瞳で彼女は自分たちを
見る。
そんな彼女に違和感を覚えないかといえば、麗子にとっては嘘に
なってしまった。
けれど麗子は彼女を育てた。外の世界に触れさせないように、大
切に、何も知らない無垢な瞳が自分に疑いを向けることを、いつの
間にか恐れていた。
そうやって過ごしているうちに、遂に自分たちが動き出す日がや
ってきた。
﹁れーこ﹂
前日の夜、彼女は麗子の名前を呼びながらそろそろと麗子のベッ
ドに上がって来た。
麗子は首を傾げた。
﹁どうしましたの?﹂
﹁いっしょに寝て﹂
枕を引きずりながら歩いてきた彼女に麗子は微笑んだ。
彼女が望めば、麗子は全てを与えた。最低限のことは守らせたけ
れどお菓子が欲しいと言えば好きなだけ食べさせたし、遊べと言わ
れたら可能な限りは遊んでやった。
だから今日も、その要望を麗子は拒まなかった。
﹁構いませんわよ﹂
666
そう返せば、ベッドに登り切った彼女は満面の笑みを浮かべる。
ごそごそと毛布の中に潜り込んでにこにこ笑みを浮かべた彼女は
﹁明日は外にいってもいーんだよね﹂
顔をしかめて、それに答えた。
﹁一応。でもウルフ、分かってると思いますけど﹂
﹁わかってるって、表にでちゃだめなんでしょ。れーこのやってる
ことをずーっとみてるの。わかってるよー﹂
ぶーっと唇を尖らせるウルフの髪を梳きながら麗子は笑った。
﹁ならいいですわ。あなたはいい子ですから、きちんと言うことは
聞くでしょうし﹂
﹁ったりめぇよ﹂
えへんと胸を張る彼女にふふっと笑い声をこぼしてから麗子は腹
部に指を這わせた。
﹁生意気ですわね、こんな子はこうですわ!﹂
﹁ぎゃー! れーこやめてー!﹂
くすぐられてじたばた暴れ狂う彼女を見ながら麗子は今までに感
じたことがないほど、穏やかな気持ちになった。
■□■
けれど魔女は自分の呪いで、その人を殺さなければならなくなり
ました。
□■□
667
自分の頬を伝う血を拭いながら麗子は口角を引き上げた。
思うのは先ほど気絶させた傭兵、柊・マリア・エレミー・惣波だ。
自分と彼女は似ている。けれど、決定的に違う。だから、彼女を
正しい道に引き戻すことができるなら、恐らく彼女しかいない。
これは彼女が神と崇めた者への叛逆だ。でもそれでいいじゃない、
と麗子は穏やかだった。
魔女とはそういうものだ。神に逆らい、常識に逆らい、自分勝手
に生きるのだ。これが、魔女として神を愛するという行為に違いな
い。
たとえ禁忌であったとしても、彼女は自分勝手に振る舞いたかっ
た。聖護院麗子という名前の魔女でありたかった。
﹁君が、うわばみを裏切るだなんて意外だな﹂
キリギリスの声に麗子はふわと微笑んだ。
﹁わたくしは魔女ですもの。気まぐれなんですわ﹂
﹁あれだけ愛していたのに﹂
﹁勝手に過去形にしないでくださる?﹂
銃口をキリギリスに向けながら麗子は鋭く言い放った。
﹁今でも愛してますわ﹂
﹁ならなぜ?﹂
﹁なぜかしら﹂
くすりと肩をすくめて、麗子は笑った。
﹁馬鹿がうつりましたわ、きっと﹂
フェエーリコ・クインテットから、そしてあの傭兵から。
自分は馬鹿をうつされたに違いない。
﹁くだらない﹂
キリギリスがそれを笑い飛ばす。
﹁ええ、わたくしもくだらないと思いますわ﹂
668
﹁ここで僕を殺せても、どうせ君も長くない﹂
﹁別に﹂
にこりと微笑んで、麗子は言う。
﹁生き残ろうだなんて思ってないですわ。あのお馬鹿さん五人組プ
ラスαのところに行く気もありませんし﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁神に逆らった者は死して当然でしょう?﹂
そう言って麗子はキリギリスの腱を迷いなく、打ち抜くと隠し持
っていた手榴弾のピンを引き抜いた。
殺されるならあなたがいいと思ってましたの。宙に手榴弾を放り
投げ、この場にいないマリアに向かって麗子は心の中で告げた。
それが叶わないから、せめてあなたの武器で死のう。
空中に舞い踊る手榴弾に向かって、麗子は引き金を引いて最後の
銃弾を放った。
■□■
だから、彼女は自分を殺しましたとさ。
﹁めでたしめでたし﹂
﹁⋮⋮くだらない話だったこと、欠伸が出ちゃう﹂
﹁そう言わずにさ。仲良くやろうよ。そこの髭野郎も﹂
﹁今は髭はない﹂
669
﹁あの魔女さまももういないんだし、とりあえずクインテットより
はまずちみっこかなぁ。あー、忙しい忙しい。こっちは学校もある
のにさ﹂
﹁悪役と学生の両立なんてできなーいなんて言い出さないことね﹂
﹁言わないよ。あたしにゃあのうわばみを裏切るのは無理だわ﹂
670
第三十一話﹁星空は見えませんでしたが立ち直ることはできたようです﹂
目を開けると白い天井が飛び込んできた。
マリアの頬を開けっ放しの窓から吹き込んできた冷たい風が撫で
る。薬の匂いが鼻腔を通って行く。
﹁ぁ、ぐ﹂
ひらひらと揺れるカーテンの音を聞きながらわずかに寝返りを打
とうとした彼女は体を走る痛みに呻いた。
手にぐるぐると巻かれた包帯を見て、マリアは小さく舌打ちした。
これじゃあまるで重病人ではないか。
痛みに顔を歪めながら、ベッドのフェンスに手をかけ、体を起こ
した。
やっと上半身を起こすと視界に白い毛玉が入った。ぴくり、と動
いたそれは小さな頭を突き出すと首を傾げた。
﹁惣波⋮⋮もう起きたのですか﹂
﹁スペーメ⋮⋮﹂
ということはここは泡夢財団か。
そこでマリアの頭の中に、意識を失う直前までの記憶が流れ込ん
できた。傷が痛むことも忘れて、彼女は腕を伸ばすとスペーメの体
を掴み上げた。
﹁ふぎゅ!?﹂
﹁スペーメ、なんであたしはこんなところにいる!?﹂
空中でじたばたと短い足を振り回すスペーメにマリアは声を荒ら
げた。
頭のどこかで理解していることを拒むために、吠えていただけだ
った。
﹁聖護院は、あのガキは、どうなった!? ああ!? 言えこのウ
サ公!﹂
ぎゅううと喉元を締め上げられている以外の理由で、スペーメは
671
口を開くことができなかった。
ぴりりと頬からわずかに走る痛みに南波は思わず身を引いた。
その彼の顔を無理に抑えつけるようにしながら﹁消毒だけなんだ
からじっとしてろって﹂と鈴丸は低く告げた。
いつもの休憩所を包み込む空気はどこか重苦しいものだった。原
因は、考えるまでもなく自分が担ぎこんできた﹃彼女﹄なんだろう
なと南波は思った。
頭を抱えながらちらりとソファの方を伺ってからベルは重たそう
に口を開いた。
﹁つまり彼らは、今回のことは、はじめからあの子を殺すことが目
的だったのね? で、それを庇って聖護院麗子が殺されたってこと
?﹂
﹁多分な﹂
もういい、とばかりに顔を逸らす南波に鈴丸は溜め息を吐いた。
渋々、消毒液を救急箱に戻す彼を見ながらそうか、と誰にともな
く太李が呟いた。
﹁そういうことだったのか、あれ﹂
彼が思いだしているのはうわばみの言葉だった。
うわばみが言い放った﹃やっと本来の目的を果たせた﹄﹃片方は
君らにあげよう﹄⋮⋮あのときは訳が分からなかったが今こうして
南波の話を聞けば、なんとか噛み砕くことができる。
トレイターである聖護院麗子を倒す。それは確かに自分たちの一
つの目的だった。けれど、それはトレイターとして倒すことが目的
だったのだ。できることなら生きて償わせたかった。
おまけに、それが目の前で裏切られていくようなそんな姿だった
のだ。気分のいい終わり方ではなかった。
672
恐らく、あの言い方からすると麗子がすでにこの世にいないこと
も分かっていたのだろう。だとすれば、
﹁もしかして、はじめから狙いは聖護院麗子だったのかも﹂
﹁え?﹂
驚いたように自分を見返すベルに太李が口を開きかけると﹁なん
にせよ﹂と巳令はソファの上で寝息を立てたままの﹃彼女﹄に視線
を投げてから低い声で、淡々と告げる。
﹁彼らは自分たちの仲間であるはずの彼女たちを処分しようとあん
なことをしたんです。それには違いありません﹂
その声には、量り切れないほどの怒りと憎悪がこもっていた。
今にも居場所の分からない誰かに向かって突進していきそうだと
不安になった梨花は、しかし、かける言葉も見つけられず、巳令の
服の裾を掴むだけに留まった。
そんな彼女ににこりと微笑んでから梨花はその場に腰を下ろした。
頬杖をついていたよもぎが﹁見たことねー奴、いました﹂
それに鈴丸が答えた。
﹁こっちもだ﹂
﹁彼女たちの脱落によって戦力が欠けた、ってことはなさそうだね﹂
腕を組みながら柚樹葉が小さく唸ったところでうきゅ、と小さな
声がソファの方から聞こえてきた。
全員がそちらに注視する中で誰よりも早く動いたのは南波だった。
ソファの前に立ち、そこを見下ろした。
毛布をかぶった小さな体がごそごそと動く。ぐるんと寝返りを打
った﹃彼女﹄は小さく唸ってからぱちりと目を開けた。
南波の視線と﹃彼女﹄の視線がぶつかり合う。ぱちくりと何度も
瞬きを繰り返した﹃彼女﹄は毛布を掴み上げ、南波に投げつけると
ばっと後ろに飛びのいた。
﹁なんで﹂
素早く視線を動かしながら周囲を確認した﹃彼女﹄は震え声で言
673
う。
﹁なんで、おさかなやろーがいるの⋮⋮?﹂
その﹃彼女﹄︱︱ことウルフをただじっと南波は見つめていた。
首元に手をやってからフードがないのに気付いてウルフは顔をし
かめた。これじゃあ自分はただのか弱い子供だ。
﹁あちしをどーする気?﹂
﹁別に? どうもしない﹂
腕を組み、そう答える南波にウルフは素早く返した。
﹁嘘だ﹂
﹁俺がお前に嘘を吐いてなんの得がある?﹂
﹁そう言ってあちしのことを殺すんだ﹂
﹁殺すならもっと前に殺してる﹂
それに、としゃがみ込んだ南波はウルフと視線を合わせるとにこ
りともせずに言い放った。
﹁トレーターから捨てられたお前を今さら倒したところで意味がな
い﹂
﹁ま、益海くん、いくらなんでもそんな言い方﹂
梨花の宥めるような言葉に、南波はふんと顔を逸らすだけだった。
捨てられた。ウルフ自身も薄々感じていたことだ。
やっぱり。彼女の小さな口からこぼれた呟きはそれだった。
﹁また捨てられたんだ﹂
﹁また?﹂
ぴくりと眉を寄せる南波にウルフはぷいと顔を背けた。
どうにかしてここから逃げ出さないと。それで頭がいっぱいにな
りかけていたウルフは、ふとあることを思い出して口を開いた。
﹁れーこは?﹂
泣きそうな声だった。
その問いをうっすらと予感していた南波は、自分の中で用意して
いた答えを出す。
﹁その聖護院麗子にお前を頼むと言われた﹂
674
﹁なんでおさかなやろーはそういう嘘ばっかり言うの!?﹂
﹁嘘なもんか﹂
鋭い視線に射すくめられ、ウルフは動きを止めた。
﹁嘘なんか、吐くか﹂
その目をただ、黙って見返したウルフは南波の足元に転がってい
た毛布を拾い上げるとそこに包まった。それからぼそりと、
﹁お前のせいで、れーこは﹂
誰のせいでもない。分かっていたのにウルフはこんなことを口に
出したのを後悔した。きっとこの男は怒って自分を追い出すに違い
ない。
しかし彼の反応は彼女の予想を裏切るものだった。
﹁俺のせいだろうがなんだろうが、あいつにお前を頼まれたのは事
実だ﹂
その言葉に、ウルフは黙り込んだ。
麗子の名前が出てきてしまった以上、ウルフにはそれに逆らうこ
とができなかったのだ。
やがて、ぼそりと、﹁お腹減った﹂
﹁だそうだ﹂
ぐるっと振り返ってくる南波に苦笑した鈴丸が立ち上がった。
食事のことは彼が何とかするだろう。そう判断したベルは﹁その
子、どうする気?﹂と南波に問いかけた。
﹁頼まれたからには、ある程度の面倒は見るべきだろう。捨てられ
た以上、何もできないだろうし。どこかに放って殺されても寝覚め
が悪い﹂
﹁お前らしいよな、そういうの﹂
ぼそっとこぼす太李に﹁うるさい馬鹿﹂と南波は吐き捨てた。
その様子を見ながら苦笑した柚樹葉はその場を後にした。
675
ウルフが再び体を起こしたのは目の前にナポリタンが置かれたと
きだった。
毛布にくるまったまま、じーっとそれを見つめた彼女はぽつんと
こぼした。
﹁あちし、ピーマンきらいなんだけど﹂
ひく、と口角を引きつらせた鈴丸がそれに返した。
﹁食わせて貰う立場で偉そうなこと抜かすんじゃねぇ。いらないな
ら食うな﹂
﹁いらないなんて言ってない!﹂
皿を引き上げようとする鈴丸の手から奪い取るようにして皿を抱
きかかえたウルフは側にあったフォークを手に取ると麺を口に流し
込んだ。
甘酸っぱいケチャップの味にウルフは頬に手をやった。お菓子ば
かり食べていたが普通の食事をしなかったわけではない。では、な
いが。
﹁おいしー⋮⋮﹂
﹁当たり前だろ、俺が作ったんだから。食堂のまずい飯とは訳が違
うっつの﹂
こつんとウルフの頭を小突いた鈴丸は﹁ピーマンも食えよ﹂と言
い放った。うげぇ、とウルフが顔をしかめる。
その様子を見ながら﹁あー﹂とよもぎが腹に手をやった。
﹁そういえば、もう夜なんすよね⋮⋮﹂
そのよもぎにベルが告げる。
﹁とりあえず、みんなのおうちには今日はうちで預かるって連絡い
れたから、みんなもお夕飯にしましょうか﹂
﹁ナポリタンだったら多めに作ってあるぞ﹂
﹁おお、鈴パパ﹂
﹁誰がパパだ﹂
やれやれ、とばかりに立ち上がる鈴丸と入れ替わるようにベルが
ウルフの前に座った。
676
ウルフはフォークを口に運ぶ手を止めないまま、ちらりと彼女を
見上げた。
﹁ハスミワカだ﹂
﹁ここではベルと呼んでちょうだい﹂
困ったように笑ってからベルは首を傾げた。
﹁あなた、名前は?﹂
﹁ウルフ﹂
﹁いや、区別名じゃなくて﹂
﹁それ以外もっへにゃい﹂
もぐもぐと口を動かすウルフにベルは顔をしかめる。
﹁持ってない?﹂
ごくんとナポリタンを飲みこんでからウルフは続ける。
﹁うわばみがいらないってゆったからあちしの名前はウルフだけ﹂
﹁⋮⋮そう﹂
小さく返してからベルは﹁鈴丸のご飯美味しい?﹂
なんだか素直に認めてしまうと負けるような気がして、今さらに
も関わらずウルフはぷいと視線を逸らした。
すぐに受け入れて貰うのは無理があるか、と少しだけ嘆息してか
らベルは﹁ケチャップ、つけすぎよ﹂とべったりケチャップのつい
たウルフの口周りを拭ってやった。
前にも麗子にこんなことをされた気がする。なんだか複雑な気分
になりながらウルフは何も言わず、また一口ナポリタンを口に運ん
だ。
ピーマンが紛れ込んでいたらしい。うげぇ、と彼女は苦々しい表
情を浮かべた。
一方、一足遅れてナポリタンに口をつけるクインテットを見なが
ら鈴丸はぼそりと告げた。
﹁こういうことだってある﹂
677
どういうことだ、とは誰も問わなかった。
淡々と彼が続けた。
﹁ムカつくのも、苛々すんのも、悔しいのもすっげぇ分かる。どう
しようもない気持ちも分かる。別にそういう気持ちを持つなとも言
わない。それを原動力にするのも俺は止めない。でも、そういうの
は腹の中でためとけ。ここで立ち止まるな﹂
エプロンを外しながらにっと笑った鈴丸は一番近くにいた太李の
頭をわしゃわしゃと撫でる。
﹁うわ﹂
﹁とりあえず表向きはうまいもん食って、さっさと風呂入って寝て、
忘れろ。お前ら馬鹿だけが取り柄なんだから﹂
こくんと、一同が小さく頷いた。ははっと、鈴丸は短く笑う。
﹁いい子だ。お前らはいつも通りでいい﹂
そんな鈴丸に溜め息交じりに太李が問う。
﹁とりあえず俺の頭撫でてて楽しいですか﹂
﹁いや全然。でも梨花が遠かったから﹂
﹁⋮⋮あのね﹂
太李が文句を言ってやろうとしたときにはふわりと彼の手は頭か
ら離れていた。
その様子に、なんだか用意していた言葉を言うのが馬鹿馬鹿しく
なった太李は結局何も言わないまま、ナポリタンを口に突っ込んだ。
話題を変えようとしたのか、でも本当、と巳令が微笑んだ。
﹁美味しいですよね、これ﹂
それによもぎが同意する。
﹁ねー。さすがリアルチート鈴さんですぜ﹂
﹁そうだろう? もっと褒めてもいいんだぞ?﹂
﹁うわーこの大人めんどくせー﹂
顔を引きつらせるよもぎに楽しそうに鈴丸が笑う。
それに今まで黙っていた南波が口を開いた。
﹁鈴丸さん﹂
678
﹁ん?﹂
なんだかんだで、このメンバーで直接、麗子の最後に立ち会った
のは南波だ。
やっぱり高校生がそこまでは無理だったろうかと鈴丸がちらと考
えていると彼はすでに空になった皿を差し出して、特別感情も込め
ずに言う。
﹁おかわり﹂
﹁凄いなお前、たくましいな﹂
思わず思ったことを口にしながらその皿を鈴丸は受け取った。
自分が思っているよりは、やはり彼らは強いらしい。空元気だろ
うが、それでもどうしようもないことを考え続け、ずっとふさぎ込
んでいるよりましだ。
どこか分かっていた結果に安心しながら鈴丸が南波の皿におかわ
りを足すために別のテーブルに行った隙に梨花は皿を抱えながら立
ち上がった。
歩いて行った先はウルフの隣だった。すとんと、黙って自分の横
に座ってくる梨花にウルフは目を白黒させた。
﹁なに? 今はわるいことしてないんだけど﹂
﹁ぴ、ピーマン﹂
ぼそっと告げる梨花にウルフは﹁へ?﹂と間抜け声をあげながら
首を傾げた。
そんな彼女の耳元に手をやりながら梨花はそっと耳打ちした。
﹁ピーマン、あ、あたしが食べよっか?﹂
﹁いいの⋮⋮!?﹂
ぱぁっと顔を輝かせるウルフに梨花はこくこく頷いてからまだこ
ちらに視線を向けていない鈴丸を見て、口元に人差し指を当てた。
﹁あたしも、苦手だったから。あ、でも鈴丸さんには、内緒だよ﹂
﹁うん⋮⋮!﹂
自分の皿の端に溜めていたピーマンを喜んで梨花の皿に移そうと
するウルフにベルはくすくす笑っていた。案外、自分が余計なこと
679
をしなくてもいいらしい。
しかし、彼女の皿にピーマンがやってくる前に振り返りもせず鈴
丸が言う。
﹁梨花、俺に内緒でピーマン引き取ろうとしない﹂
﹁へ!?﹂
なんでバレたの、とウルフと梨花は顔を見合わせた。
それが妙に楽しいような気がして、ウルフはどこかに引っ掛かり
を覚えていた。
全く、と南波の前に皿を出してやってから﹁俺、離れるけど梨花
がうっかりピーマン貰わないように見ててな。あと太李、お前も引
き取るなよ﹂ぎくっと太李が肩を跳ね上がらせた。
﹁どちらに?﹂
巳令の問いに鈴丸は一拍置いてから﹁馬鹿を励ましてくる﹂
余計なことはしないでよ、お願いだから。ベルは心の中でそう思
うしかなかった。
かつかつとミリタリーブーツが床を踏みつける音が響き渡る。
音の主である鈴丸の手には紙パックのジュースが二つ、握られて
いた。途中の自販機で購入して来たものだ。
目的の人物がどこにいるかは分かっている。迷いなく扉を開けた
鈴丸は飛び込んできた光景に思わず苦笑した。
銀髪をぴくりとも動かさないまま、マリアは上半身を起こしてぼ
ーっと窓の外を眺めていた。自分が入ってきたのにも気づかないほ
ど夢中になっているようだが何かある、というわけでもないのだろ
う。
溜め息を一つこぼしてから﹁よう、元シスター。随分、湿気た面
してんな﹂と彼はマリアの元まで歩み寄った。
その声でようやく鈴丸の来訪に気付いたマリアはおう、と小さく
680
返事するだけに留まった。
﹁わりぃな、鈴﹂
視線はあくまで窓の外に向けたまま、そう、ぽつんとこぼす彼女
に鈴丸は額を押さえた。自分が思っていた以上に重症らしい。
﹁なんだよ、らしくねぇ﹂
ほれ、と鈴丸は手に持っていた紙パックを突き出した。ふるふる
とマリアが首を左右に振った。
﹁いらねぇ﹂
﹁珍しく俺が奢ってやるって言ってんのに﹂
﹁たかがジュースで偉そうにすんな、クソジジイ﹂
碧眼が退屈そうに空を見つめていた。
それを見て、あっそうとあっさり手を引いた鈴丸はそのパックに
ストローを刺すと自分の口にくわえた。
つるつると細い管を駆け上がり、野菜ジュースが口に広がった。
ごくんとそれを飲みこんだのと同時にマリアが弱々しく言う。
﹁また駄目だった﹂
がじがじとストローをくわえながら、鈴丸はなんのこともなさげ
に告げる。
﹁傭兵なんてそんなもんだ﹂
﹁でも﹂
﹁それに、相手は善人じゃなかった。死んで当然、とは言わないけ
ど﹂
う、とマリアが言葉を詰まらせた。
﹁そう、だけど﹂
﹁⋮⋮よく覚えとけマリア﹂
彼女の肩に手をやってから鈴丸はどこか重苦しそうに口を開いた。
﹁人間には限界があって、どうしようもないことだってあって、で
もだからこそてめぇに何ができるか考えろ﹂
低く告げる彼にはっとマリアは鼻で笑った。
﹁それ、励ましてるつもりかよ﹂
681
﹁悪いか? 蒲生さんは不器用な男なんだよ﹂
﹁よく言うぜ﹂
頭の後ろに手を回したマリアは真後ろにぼふんと倒れ込んだ。
掛布団が一瞬だけふわりと浮かぶ。白い照明を見つめていたマリ
アははっとしたように鈴丸に視線を向けると不満げに唇を尖らせた。
﹁あたしは落ち込んでねぇ﹂
﹁まぁた﹂
肩をすくめる鈴丸にマリアは吠えた。
﹁本当だかんな! 別に、人が死ぬのなんて﹂
﹁何回見たって慣れないだろ?﹂
苦笑しながら鈴丸はさらに続けた。
﹁俺が慣れないからな﹂
﹁⋮⋮お前は何人、死ぬの見たんだよ﹂
﹁さあ。数えるのも馬鹿馬鹿しくてやめた﹂
まだ未開封の野菜ジュースを机の上に置くと﹁早く出て来いよ、
クインテットが心配する。特に梨花﹂
﹁お前、ほんっとブレねぇな﹂
両手でパックを握りしめながらマリアは馬鹿馬鹿しくなってまた
目を閉じた。
空腹が満たされたら自分はまた眠っていたらしい。
ウルフは目を擦りながら体を起こすとぱちぱちと瞬きを繰り返し
た。目に飛び込んでくるのは暗闇だけだった。
ようやく闇に目が慣れてくるとうっすらと何かの輪郭が自分が横
たわっていたソファを取り囲むようにあるのに彼女は気が付いた。
なんだろう。目を大きく開いて、やっとその正体が分かった。
フェエーリコ・クインテットだった。彼らがぐるりと周りを取り
囲むようにして眠っていた。
682
どうやら敷布団を引っ張り出して来たようだ。一人一組の布団で
穏やかに眠っている。
それをただじーっと見つめてからウルフは布団の間に足を下ろし
た。ぺたんと何も履いていない足が地面についた。
きょろきょろと周りを見渡したウルフはなぜか無性に寂しくなっ
て、あてがあるわけでもないのに布団の合間を縫って歩き出した。
ぺたんぺたん。ぺたぺた。静まり返った部屋の中に小さな足音が
響く。布団地帯から抜け出したウルフは薄い明かりを頼りに扉の元
まで歩み寄ると手を伸ばして、ノブを捻った。
きぃ、と特に抵抗なく扉が開く。
廊下はウルフが思っていたより明るかった。静かに扉を閉めた彼
女はまたぺたぺたと歩き出した。
どこに行こう。長い長い廊下を歩きながらウルフはそんなことを
考えた。
そのうち、彼女は大きな階段の前に立っていた。上に続く階段と、
下に続く階段だった。下に行くのはなんだか怖くて、ウルフの足は
自然と上へと向いていた。
彼女からすれば大きな鉄扉を開け、くぐってみると屋上のようだ
った。小さなベンチが月明かりに照らされてぽつんと置いてある。
コンクリートの地面はもう秋だということもあって冷たかった。
それを我慢しながら彼女は柵に歩み寄って外を眺めた。
立ち並ぶビルの一つ一つが、光り輝いていた。ビルが並んでいる
光景はウルフも何度か見たことがあったが夜ははじめてだ。あんな
にきらきらと輝いている。昼間はなんでもない、高いだけのものな
のに。
寒さも忘れて、ウルフは柵の外の光景に噛り付いた。今まで見た
ことなかったものだったからだ。
﹁夜中にこんなとこで何やってんだ﹂
683
背後から聞こえてきた声にびくっとウルフは肩を跳ね上がらせた。
ゆっくり振り返るとそこに居たのは太李だった。﹁うわ、さっみ
ぃなぁ﹂と文句をこぼしながらウルフの元まで歩み寄ってきた。
両手に息を吹きかける彼にウルフは﹁別に﹂と視線をまた柵の外
に戻した。
﹁おまえこそなにやってんだ﹂
﹁お前が出て行くのが見えたから追いかけてきたんだよ﹂
あー寒い寒いと言いながら彼はウルフの隣に並ぶと柵に背を凭れ
ながら座り込んだ。
その様子を横目で伺ってから夜空を仰いだウルフが唐突に尋ねた。
﹁れーこは死んだの?﹂
彼女の言葉に太李は一瞬、言葉が出なかった。
あえて、幼い彼女には誰も振らなかった話題だった。けれど彼女
は、言わずとも、心のどこかで理解していたらしい。
街の明かりのせいで空には星はほとんど見えない。特別明るい星
たちだけが濁った空で光り輝いていた。
﹁多分⋮⋮﹂
﹁でもおまえらがころしたんじゃないんでしょ? キリギリス、な
んでしょ﹂
﹁ああ﹂
﹁そっか﹂
はふーっと小さく口で息を吐きながらウルフは首を傾げる。
﹁あちしにやさしいのはれーこが死んだから?﹂
﹁⋮⋮少しは、そうかも﹂
顔を手で覆いながら太李は﹁でも、それだけじゃない。俺も、南
波も、他のみんなも﹂
﹁あちし、うそついてるかもしれないよ?﹂
﹁お前はそういうことができるタイプじゃないと思うけど﹂
じっと彼女を見据えながら小さく太李が笑った。
﹁俺は、お前を一から十まで理解してやれないし、お前がやってた
684
ことを正しいとは認められない。今お前が何を思ってるかも、分か
ってやれない。でも、今のお前は一人なんだってことくらいは分か
るよ﹂
﹁おばかさんはばかだなぁ﹂
まっすぐ自分を見ながらそういうウルフに﹁あのな﹂と太李は頭
を抱えた。
﹁俺、一応ばかって名前じゃないんだけど﹂
﹁あちし、おまえの名前知らないよ﹂
ああ、そういえば。
妙に納得させられた太李は﹁それはごめん﹂と視線を逸らし、答
えた。
﹁灰尾太李だ﹂
﹁んじゃあ、はいお﹂
﹁呼び捨てかよ﹂
顔をしかめる太李に構わずウルフが言葉を続けた。
﹁あちしね、こわいんだ﹂
﹁怖い?﹂
﹁れーこがきえちゃいそうで、こわいんだ。うわばみにも、他のや
つらにも捨てられて、あちししかおぼえてる人がいないの。でもあ
ちしが忘れちゃったられーこがきえちゃうの﹂
ウルフの言葉に彼は﹁大丈夫だ﹂と小さく返した。
﹁俺も、ちゃんと聖護院麗子のこと、覚えてる。俺だけじゃなくて、
鉢峰も、よもぎちゃんも、梨花先輩も、南波も、マリアさんたちも
そう﹂
﹁おまえらはれーこがきらいだったのに?﹂
﹁でも死んで欲しかったわけじゃない﹂
太李の言葉にウルフはへんなの、としか返さなかった。
﹁変で悪かったな。これくらいしか俺らにはできないんだよ﹂
ふんと顔を逸らす太李にウルフはくすくす笑った。
それからまた空を仰ぐと﹁夜はおそらにいっぱい星があるんじゃ
685
ないの?﹂
﹁え?﹂
﹁れーこが言ってたよ。夜は星があるって。でも全然ないね﹂
彼女なりの強がりなのだろうと太李は思った。
今は、嫌でも自分たちと行動しなければならない。子供なりに、
彼女はそれを受け入れようと必死なのだ。それを拒む理由は、誰も
持っていなかった。
同じように空を仰ぎながら彼は答えた。
﹁ここは周りが明るいからなぁ。もっと暗くて空気が澄んでるとこ
ろにいけばいっぱいあるけど﹂
﹁ここじゃだめなのー!?﹂
がっくり、と項垂れたウルフは﹁外って、綺麗だけどやなことが
いっぱいなんでしょ﹂
ずっと押し込まれるような生活を送ってきたのであろうことは太
李も薄々気づいていた。だからこそ、その言葉を特別不思議には思
わずに首を傾げた。
﹁怖いか?﹂
﹁ちょっとだけ﹂
でも、とウルフは満面の笑みを浮かべた。
﹁見てみたいきもすんの﹂
﹁めんどくせーなぁ﹂
けらけら笑う太李にむぅ、とウルフは顔をしかめた。それが彼女
にできる精一杯だった。
すると、ここでふわりと彼女の肩に毛布が掛けられた。
﹁そのままでは、体が冷えてしまいます。今日は特別寒いですから﹂
そう言って、微笑んでいたのは巳令だった。
毛布を身に寄せ、ウルフは黙ってそれに包まった。そんな彼女を
見てから太李は巳令に尋ねた。
﹁どうしたんだよ、お前まで﹂
﹁いえ。お手洗いに起きたらウルフも灰尾もいなかったので。その
686
⋮⋮心配に、なって﹂
恥ずかしそうに顔を逸らす彼女に自分まで恥ずかしくなって﹁そ、
そうか﹂と太李も慌てて目を逸らした。
なんで顔を見合わせないんだろうとウルフが不思議に思っている
と﹁あ、こんなところにいた﹂とぱたぱたよもぎが駆け寄ってきた。
﹁お、よもぎちゃん﹂
﹁んもー。どこに行ったかと思ったら子供をダシに夜中にこっそり
逢引なんて﹂
﹁あ、逢引だなんて⋮⋮!﹂
顔を真っ赤にする巳令にくすくす笑ってから﹁何してんの?﹂と
よもぎはウルフと視線を合わせるためにしゃがみ込んだ。
﹁星を見てたの﹂
﹁星ぃ?﹂
ウルフと同じようによもぎも空を見上げた。
んーっと唸っていると低い声が鼓膜を揺らす。
﹁何ガキと一緒に変な顔してるんだ、春風﹂
げ、とよもぎは顔をしかめた。
声の方を見れば、案の定、益海南波が不機嫌そうにこちらを見て
いた。
﹁相変わらずそのこっええ顔やめてくださいよ﹂
﹁生まれつきだ﹂
冷たく返す南波の後を追って﹁ま、待ってよ益海くん⋮⋮!﹂と
梨花が階段を駆け上がってきた。
思わず太李は苦笑した。
﹁なんか全員こっち来てるし﹂
﹁鈴丸さんかベルさんにバレたら怒られますね﹂
﹁だな﹂
太李と巳令が笑いあう。
ぜぇぜぇ息を切らす梨花に慌ててよもぎが駆け寄るのを見ながら
ウルフは小さく笑った。
687
外の世界は自分の知らない変なものでいっぱいだ。
そのとき、大きな音を立てて屋上の扉が開く。
﹁うげ、鈴さん!?﹂
そう言って、思わず身構えるよもぎの予想に反した人物が、そこ
には立っていた。
﹁何やってんだお前ら﹂
呆れたような低い女の声に全員は一瞬面食らった。
それからやがて、一番に声をあげたのは太李だった。
﹁マリアさん!?﹂
﹁おっす。いやーすっかり寝ちまった﹂
そう言ってちらりとウルフを見ると﹁おう﹂
﹁おう、くそよーへー﹂
﹁悪かったなクソ傭兵で﹂
けっと吐き捨ててから﹁また贖罪の理由が増えちまった﹂と独り
言をこぼして銀髪を掻き毟った。
自分はこれを背負わなければならない。その上で、出来ることは
なんだろうか。考えた結果がこれだった。
腰に手を当てたマリアは﹁つーか﹂と全員を見渡した。
﹁何やってんだよお前ら﹂
﹁えと、成り行きで?﹂
困ったように笑う太李にマリアは深々と溜め息を吐いてから﹁お
ら、ガキは寝ろ﹂
﹁あちしまだねむくなーい﹂
﹁お前は特に疲れてるんだから寝てろ﹂
がしっとウルフを捕まえて、彼女を小脇に抱えたマリアはずんず
ん階段を下りて行った。
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とにかくこれが、今のマリアには精一杯だった。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n2600bx/
俺がなったのはヒーローではなくお姫様だったようです
2014年10月24日01時11分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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