西予出身!今 旬の人

昨年6月のオペラ公演「欲望という名の電車」でスタンレー役を演じ、
「彗星のごとく現れたバリトン歌手 !」と絶賛された宮本益光さんは、八
幡浜市出身です。
「なんとなく高尚で難しいと思われがちなクラシック
やオペラをもっと日常化して、真の楽しさを多くの人と分かち合いた
い」
という宮本さんに、近況やふるさとへの思いをお聞きしました。
時 は 昼 と 夜 に 稽 古 が あ り、
まっています。公演のない
年先までスケジュールが決
ルもほぼ同様で、現在は二
一、二 年 前 か ら。 リ サ イ タ
オファーが入るのは公演の
程 度 を 要 す る の で、
ペラは稽古に四ヵ月
現在の仕事や日常の様子を
教えてください。
きるんです。
音楽本来の楽しさが実感で
みんなと作り上げるという
う昔の夢も叶うし、何より
意識しています。教員とい
僕は、こうした活動こそ、
自 分が 音 楽 を や る 理 由だ と
愛媛で指導しています。
結成し、現在は横浜と広島、
ン サ ン ブ ル・ ソ ネ ッ ト ﹂を
人たちと、コーラス集団﹁ア
がら音楽をやりたいという
様々なジャンルで活躍しな
て も ら っ て い ま す。 ま た、
ボランティアで授業をさせ
公 演 先 で 積 極 的 に 学 校 の 先 生 方 と 交 流 し、
そ れ な ら 自 分 か ら 近 づ く し か な い と 思 い、
ほ ど、 観 客 と の 距 離 は ど ん ど ん 遠 く な る。
す。ところが演奏活動が忙しくなればなる
も し ろ か っ た ﹂と 言 わ れ る 方 が 楽 し い ん で
やオペラについてよく知らない人から﹁ お
が、 僕 に と っ て は そ れ 以 上 に、 音 楽
い演奏家と評価されるのは本望です
公演で全国を飛び回るかたわら、音楽指導
にも力を入れているそうですね。
宮本 益光さん
帰宅は深夜。それから翌日
声楽家を志したきっかけは。
楽の道を選んだ原点
は、 江 戸 岡 小 学 校 四
年の時に入った鼓笛隊。以
来﹁ 音楽の楽しさ﹂に魅了さ
れ、小中学校で教わった恩
師のような音楽教員になり
たいと思うようになりまし
た。高校入学直後に進路相
談すると、音楽なら専門分
野が必要と言われたんです
が、当時の僕には取り立て
て得意なものなどない。と
はいっても、音楽の先生は
授業の半分で歌を教えるは
ずだから歌が嫌いではまず
の松山のご自宅で個人レッスンを受けまし
意し、佐藤陽三先生︵ 現愛媛大学名誉教授︶
をどう汲み取ってドラマとして成立させる
歌手の解釈によっても表現は様々。それら
は伝えられない。また、その公演の演出や
い。 で は 声 楽 を 学 ぼ う と 決
た。週末になると汽車に乗って通うという
か、演奏者ならではのアプローチを試みて
初舞台を踏んだ時の思い出は。
います。
生活を、三年間続けました。
そして難関といわれる東京芸術大学に見事
合格。大学生活はいかがでしたか。
、東京芸大の大学院博士課程に在
現在は
籍し、オペラの日本語訳詞上演について研
家の鴨居に何度も頭をぶつけました︵笑︶。
忘れていたようで、夏休みの帰省の際、実
せいか、入学当初は故郷のことをすっかり
な い と 続 け ら れ な い と 感 じ ま し た ね。 そ の
して、自分というものをしっかり持ってい
毎日のようにある。音楽を学ぶ環境が激変
も珍しくない。しかも東京では、音楽会は
悔 い は な い け ど、 お 世 辞
ベストの力を出したから
名 前 を 残 せ た し、 当 時 の
史ある演奏会に出演して
出 し て も 緊 張 し ま す。 歴
を 務 め ま し た が、 今 思 い
イア﹂のソリスト︵ 独唱者︶
ルが舞台。ヘンデル﹁ メサ
二五〇〇人収容の大ホー
年、 東 京 文 化 会 館 と い う
ンサートデビューは
究しています。一種の替え歌とも言えます
にもうまくいったとは言
が 進 ん だ 声 楽 科 で は、 驚 く ほ ど ハ イ
が、単なる言葉の置き換えでは作品の本質
日は酒を飲まないといった節制は、僕の場
奏 家 と し て は、 日 本 人 が ヨ ー ロ ッ パ
今後の目標は。
大学卒業時の平成六
の準備や執筆の仕事を片付ける、の繰り返
合は余計ストレスになりますから︵笑︶。
ていませんね。辛いものを避ける、本番前
は注意するけど、体調管理らしいことはし
はがた落ちの厳しい世界。だから風邪だけ
ます。しかも本番で声が出なければ、評価
幸運にもここ数年は大役をいただくこと
が多いんですが、当然プレッシャーもあり
よくやっているという満足感もあります。
ている喜びがあるから楽しいし、我ながら
レベルな指導を既に受けてきた学生
し。でも、自分のやりたいことで生活でき
コ
郷 八 幡 浜 と い え ば、 夏 休 み に 自 転 車
宮本さんにとってふるさととは。
ークにしたいと考えています。
なものでなく日常化させる活動をライフワ
様々なところで生かす、つまり音楽を特別
識や経験を、学校に限らず老人ホームなど
そして、一般の方と音楽の接点をもっと
持ちたい。一流の場で修得した僕なりの知
という環境の足がかりを作りたいですね。
のオペラや歌を外国人が日本に聴きに来る
の オ ペ ラ を 聴 き に い く よ う に、 日 本
演
すごくうれしいです。
出すことがあったら、見に来てくださると
が、これに限らずどこかで僕の名前を思い
には松山市民会館でリサイタルを開きます
奏 活 動 を し て い ま す。 五 月 二 十 八 日
、 愛 媛 や 近 県 を 含 め、 全 国 各 地 で 演
最後に西予の皆さんへメッセージを。
可欠な場所です。
から僕にとってふるさとは、やはり必要不
仕事の時の虚勢もなく気楽でいられる、だ
えない出来でした。
その二年後、﹁ ドン・ジョバンニ﹂でオペ
ラデビューを果たしましたが、主役のオー
ぼ れ が あ っ て、 主 役 も と れ る と 思 っ て い た
ディションには落選。実はその頃ややうぬ
のでショックでした。冷静に考えれば、演
技が下手だったから当然ですけどね︵笑︶。
これまで数々の舞台を経験していらっしゃ
いますが、印象深いエピソードは。
ン・ ジ ョ バ ン ニ ﹂の 初 舞 台 か ら 三 年
後、 オ ー デ ィ シ ョ ン な し で 主 役 を 務
さん
︻締め切り︼
年四月十五日
︵木︶
平成十六
当日消印有効
︻あて先︼
〒七九五 八
―六〇一
大洲市大洲六九〇番地の一
八幡浜・大洲地区広域市町村圏組合
宮本益光さんのリサイタル︵ 五月
二十八日、松山市民会館・開演午後
七時︶のペアチケットを五名の方に
プ レ ゼ ン ト し ま す。 ご 希 望 の 方 は、
ハガキに住所、氏名、電話番号、ご
意見などを明記して﹁ チケットプレ
ゼント係﹂までご応募ください。
★読者プレゼント
昭和四十七年生まれ。愛媛県八幡浜
市出身。東京芸術大学音楽学部声楽科
卒。同大学大学院修士課程を経て、現
在は博士課程在籍。奏楽堂日本歌曲コ
ンクール奨励賞ほか受賞多数。平成六
年、バリトンのソリストとしてコンサ
ートデビュー。平成八年にはオペラデ
ビューを果たし、以来数多くの舞台に
出演するほか、指揮、字幕製作も行う
など多方面で活躍。かたわらではオペ
ラの日本語訳詞上演についての研究
や、音楽指導にも力を注ぐ。今年七月
の宮本亜門演出
﹁ドン・ジョバンニ﹂
主
演やCD発売も予定されており、今最
も注目される若手声楽家の一人。
みやもと・ますみつ
して、肉体派に変身しました︵笑︶。
定期的にジムに通って体重を十一キロ増や
いたんです。そこで毎日プロテインを飲み、
が、この仕事の話をいただいた頃は痩せて
の僕が服を脱ぐというシーンがあるんです
最近では、昨年六月に出演したオペラ﹁欲
望 と い う 名 の 電 車 ﹂。 劇 中、 粗 暴 な 亭 主 役
とで、一気に仕事の幅が広がりました。
ディアからも注目されたこの公演に出たこ
はミラノ・スカラ座からという豪華版。メ
人演出家で、セットはスペインから、衣装
めた時は感動しましたね。しかもイタリア
﹁ド
と、これこそ〝 素〟の自分だと強く感じる。
普 段 は 音 楽 漬 け の 毎 日 で す が、 た ま の
帰省で完全に音楽から離れて過ごしている
ている表れだと思っています。
こかで故郷のような自然のある風景を求め
五年前に都内から横浜に転居したのも、ど
は い な か が あ る ﹂と 安 心 で き る 存 在 で す。
っ た 思 い 出 が 印 象 的。 そ し て、 常 に﹁ 僕 に
宮 忠 八 翁 記 念 飛 行 大 会 ﹂で 模 型 飛 行 機 を 作
で三瓶の海まで泳ぎに行ったり、﹁ 二
故
西予物語 2
撮影/髙橋 宏
3 西予物語
音
僕
今
“オペラ界の若き貴公子”
い
オ