バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 序章 第1節 第2節 第3節 研究の背景 分析の枠組み-用語の定義 バングラデシュの特徴 第1節 研究の背景 1 研究の背景と研究目的及び研究仮説 1913 年にアジアで初めてノーベル文学賞を受賞したタゴール・ラビンドラナート(Tagore Rabindranath)は、インドの東に位置するこの地域、つまり現在のバングラデシュ人民共和国(以 下バングラデシュと称す)を、ショナルバングラ(黄金の大地)とたたえた。この地域は、ムガール 帝国滅亡後、イギリス植民地時代(イギリス領インドの東ベンガル州) 、西パキスタン(現在のパキス タン)の国内植民地時代(東パキスタン)といった抑圧と苦難の歴史を辿り、言語公用語化運動や独 立・解放戦争を経て、1971 年にようやく独立国家となった。独立の歴史に人々は誇りを持っており、 バングラデシュ全土に、独立を勝ち取った人々の内発性を象徴するモニュメントが保存されている。 しかしながら、独立後も複数の政党間の抗争など政治的混乱が続き、経済的には負の遺産を引き継い でいる。かつては美しい自然に恵まれ、豊かな文化・芸術を育んできたこの地域で、現在でも依然と して貧困や環境問題等が深刻な社会問題になっている。 独立以降のバングラデシュには諸外国から膨大な額の援助資金が投入され、さまざまな開発が行わ れてきた。中でも、2003 年 6 月までに供与された二国間援助を見ると、日米が最大の援助供与国と なっており、その総供与額は約 100.3 億ドルにも上る1。それにも関わらず、バングラデシュでは南北 問題を一大要因とする経済構造の歪みがますます大きくなっている。その現われとして、地主階級や 政府関係者、大企業家といったごく一部の者が既得権益により富を独占しており、2004 年現在も国民 の約 4 割が絶対的貧困の状態におかれている(Economic Adviser’s Wing, 2005:p.185.)。その数は、 1988-89 年に 4970 万人、1991-92 年に 5160 万人、1995-96 年には 5530 万人、そして、2000 年には 5580 万人と増加傾向にある。また、絶対的貧困者の人口割合は依然として都市よりも農村に多く、 1995-96 年に全体の 82.6%(4570 万人) 、2000 年には全体の 76.3%(4260 万人)を占めている(BBS, 2 2005:p.719.) 。これら絶対的貧困者は、全く農地を所有していないか、あるいは 0.05 エーカー未 満の農地しか所有していない「土地なし農民」3で、1 日に 3 度の「食料」4さえ確保できないという 状態にある。 そのため、こうした農村の貧困を背景に、職を求めて都市へと移動する人々が子どもも含めて急増 経費実績ベースで、その内訳は日本 ODA が 65.8 億ドル、アメリカ ODA が 34.5 億ドルとなっている (Economic Relations Division, 2004:p.83 and p.99.)。なお、バングラデシュの年度は 7 月から翌年 6 月 までとなっている。 2 この統計では、 絶対的貧困の測定方法として、 DCI(Direct Calorie Intake)法と CBN(Cost of Basic Needs) 法を採用している(BBS : 2005, p.825.) 。DCI 法は、世帯構成員 1 人当たりのカロリー摂取量(1 日)を基準 としており、最貧困層(hardcore poor)は 1,805kcal、絶対的貧困層が 2,122kcal となっている。CBN 法は、 世帯構成員 1 人当たりに必要とされる費用の中で、既定のカロリー所要量に相当する食料品の購入費用(1 ヵ月)と基本的ニーズを満たす非食料品の購入費用(1ヵ月)を算出し、それらの合計から貧困ラインを設定 する。ここでは、最低ライン(lower poverty line) 、少し上のライン(upper poverty line)が算出される が、後者以下が絶対的貧困者とされている。 3 「土地なし農民」の基準は、耕作地の所有面積 0.05 エーカー未満となっている(BBS, July 1999:p.21.)。 4 「 『食糧』という用語はもともと軍需用語で、巨視的な視点で『人口対食糧』というように用いる」 (西 川、1994 年:3 頁)という指摘を受け、本稿では「食料」を使用している。ただし、 「食糧援助」について は、原本のまま記載している。 1 1 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) している。しかしながら、ダッカでも雇用水準はそれほど上昇せず、折からの人口増加に都市開発政 策が追いつかないため失業者や不安定就労者が増大し5、農村から移動してきた人々は新たな問題に 「都市スラムの形成と政府によるスラム強制撤去」 「子どもの労働(特 直面している。とりわけ、 「ストリートチルドレン」は、バングラデシュの社会 に子どものメイドと衣類縫製品工場での労働)」 開発を考えるうえで重要な課題となっていることがこれまでの研究・調査より明らかになっている6。 そして、それらが生み出される要因を考察・分析すると、そのいずれもが「農村の貧困」と深く結び ついている。つまり、 「農村に居住する貧困層が抱える問題」が解決されなければ、これらの問題の根 本的な解決はあり得ないであろう。 そこで本論文では、バングラデシュの社会開発を考えるうえで、その根幹にある「農村開発」に焦 点をあて、これまで実施されてきた日米主導による援助が農村の社会開発にどのような影響を及ぼし ているのかということを明らかにする。調査対象地域は、日米主導による援助・開発が繰り返し行わ れてきた「クミッラ県」7ダウドゥカンディ郡を選定している。クミッラ県には、東パキスタン時代の 1960 年以降、アメリカ主導による「コミラモデル」=緑の革命がいち早く導入されている。また、独 立後には、ダッカとクミッラ県を結ぶメグナ橋とメグナ・グムティ橋建設、そして、これら橋梁の東 側に位置するダウドゥカンディ郡を主たる対象とした「モデル農村開発計画」が日本ODAによって実 施されている。こうした背景から、クミッラ県に対して「農業先進県」というイメージを抱いている 人は多く見られる。これに対して、本論文では「当該地域で実施されてきた日米主導による援助・開 発は、農村内の社会関係を無視した外部からの一方向的な供与であり、一部の既得権益集団に利益を もたらした反面、貧富格差の拡大や生態系の破壊といった新たな問題を引き起こした。外部援助を検 証すると、必ずしも貧困層のwell-being実現に顕著な成果をもたらしたとこれを見ることはできない。 とりわけ女性や子どもに貧富格差のしわよせが及んだ。このような状況に対して、現地NGOを始めと する市民社会が貧困層のwell-being向上への取り組みに努力している」という仮説を設定し、その論 証に努める。 そうした仮説実証にあたって本論文では、アメリカ主導による「コミラモデル」や日本 ODA によ る「モデル農村開発計画」といった一連の援助・開発内容を検証するのみならず、クミッラ県の中でも 日米主導による援助・開発の影響をより強く受けたダウドゥカンディ郡における農村居住者へのイン パクト、とりわけ貧富格差のダイナミクスを実証する。また、同郡の農村における社会開発の現状を 明らかにするとともに、農村に居住する貧困層の内発的発展に向けた市民社会の役割及び貧困女性の 参加状況を現地での調査に基づき検証する。 絶対的貧困者率は、1995-96 年に都市(49.7%)が農村(47.1%)を上回り、2000 年には都市 52.5%、農村 42.3%となっている(BBS, op.cit., p.825.)。 6 これらについて、拙稿「ダッカのストリートチルドレン」 『日本の地域福祉』第 17 巻、日本地域福祉学 会、2004 年 3 月、87-98 頁、107 頁、拙稿「バングラデシュにおける子どものメイドへの支援-現地 NGO の理念と活動を通して-」 『日本の地域福祉』第 16 巻、日本地域福祉学会、2003 年 3 月、87-98 頁、135-136 頁、147-148.頁、鈴木弥生・佐藤一彦「バングラデシュの首都ダッカにおける子どもの労働―現地での調 査を通して-」 『東北福祉大学紀要』第 26 巻、2002 年3月、67-86 頁、鈴木弥生・佐藤一彦「バングラデ シュにおける子どもの労働-メイドとして労働することを余儀なくされている子どもの現状-」 『仙台大学 紀要』第 32 巻第2号、2001 年 3 月、40-56 頁、鈴木弥生・佐藤一彦「バングラデシュにおける都市の貧 困・スラム居住者の生活状態-スラム強制排除による居住者への影響-」 『東北福祉大学紀要』第 25 巻、 2001 年 3 月、41-76 頁、佐藤一彦・鈴木弥生「ハーキン法案とバングラデシュ衣類縫製産業の児童労働」 『紀要』第 16 号、秋田桂城短期大学、2004 年 3 月、25-33 頁を参照されたい。 7 クミッラ(Kumilla)はベンガル語表記であるのに対して、コミラ(Comilla)は英語的慣用表記である。 「コミラモデル」はアメリカ主導による開発であるという性格を示すため、本稿ではあえて英語的慣用表 記を用いる。 5 2 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 2 研究方法 先行研究・資料の検証並びに現地での 8 回に及ぶ調査(1997 年 8 月、1999 年 8 月、2000 年 8~9 月、2002 年8~9月、2003 年 8 月、2004 年 3 月、2004 年 12 月~2005 年 1 月、2006 年 3 月)に よる。調査方法は、貧困層からの聞き取り調査を行うために、クミッラ県ダウドゥカンディ郡の農村 居住者、計 85 世帯・568 人(7ユニオンの 30 世帯・210 人、Gau ユニオン P 村の 34 世帯・234 人、 BRAC メンバー10 世帯・56 人、S 村のグラミーン銀行メンバー11 世帯・68 人) 、及びダッカのスラム 居住者(計 40 世帯)を個別に訪問した。また、ユニオン評議会議長や KSS(Krishak Samabaya Samity:農民協同組合)マネージャー、子どものメイドと家族及び雇用主への個別訪問調査を行った。 その他、各関係機関のスタッフ、ストリートチルドレンからの聞き取り調査、NGO やユニオン評議 会、TCCA(Thana Central Cooperative Association:郡中央協同組合)及び各協同組合でのアンケー ト調査等による。なお、1999-2006 年間の現地調査は、文部科学省科学研究費基盤研究(C)(①「バン グラデシュへの援助と社会開発-識字への取り組みを中心として」[1999-2001 年度、研究代表者 : 鈴 木弥生]、②「バングラデシュにおける子どもの労働とその対策に関する実態調査」[2002-04 年度、 研究代表者 : 同上]、③「バングラデシュの農村における貧困層への援助と社会開発-クミッラ県で の実態調査」[2005-07 年度、研究代表者 : 同上]の助成により実施した。 訪問先は、 (1)クミッラ県、 (2)NGO、 (3)国際機関、 (4)政府機関、 (5)研究機関、 (6) その他に分類し、以下に記載している。 (1) クミッラ県 ① ダウドゥカンディ郡 、グラミーン銀行ブランチ・オフィス、 BRAC8エリア・オフィス及びメンバー(10 世帯・56 人) センター及びS村メンバー(11 世帯・68 人) 、貧困層宅(7村、30 世帯・210 人、GauユニオンP村 34 世帯・234 人) 、BRDB(Bangladesh Rural Development Board : バングラデシュ農村開発局) 、 ユニオン評議会及び議長・議員(3行政村) 、ユニオン評議会議長宅(3 世帯) 、TCCA、KSS及びマ ネージャー宅、MBSS(Mahira Bityaheen Samabaya Samity:貧困女性協同組合) 、BSS(Bityaheen Samabaya Samity:貧困者協同組合) 、PIC(Project Implementation Committee;Food for Works Programme の実行委員会) 、組合メンバー研修施設、小学校3校(ジョマルカンディ、イタコラ、イ カプル) 、郡教育事務所、郡統計局、郡ヘルスコンプレックス、灌漑用ポンプ収納庫・低揚程ポンプ・ エンジニア、専門家 1 人、JOCV(Japan Overseas Cooperation Volunteers:青年海外協力隊)3人、 複数のバザールと店 ② コトワリ郡 BARD(Bangladesh Academy for Rural Development : 農村開発アカデミー)及び付属図書館・ 付属施設・政府役人宿舎、政府役人宅、KTCCA(Kotowari Thana Central Co-operative Association: コトワリ郡中央協同組合)、県教育事務所、農家・農地、バザールと店 ③ ホムナ郡 ホムナ小学校 (2)NGO Shoishab Bangladesh、Aparajeyo Bangladesh、UCEP(Underprivileged Children’s Educational Programs)、BRAC、Gono Shahjjo Shangustha、GRAM BANGLA、Mahila Social Welfare Association、シャプラニール=市民による海外協力の会 BRAC は、Bangladesh Rural Advancement Committee ; バングラデシュ農村振興委員会の略語であっ たが、近年都市でも活動していることから、BRAC という名称を使用している。 8 3 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) (3)国際機関 UNICEF(United Nations Children’s Fund:ユニセフ) 、UNDP(United Nations Development Programme:国連開発計画)、ILO(International Labour Office:国際労働機関)、JICA(Japan International Cooperation Agency:国際協力事業団)現地事務所、OECF(Overseas Economic Cooperation Fund;海外経済協力基金;現国際協力銀行:JBIC:Japan Bank for International Cooperation)現地事務所、日本大使館 (4)政府機関 文部省非公式教育局(Ministry of Education Directorate of Non-Formal Education)、財務省 (Ministry of Finance) 、LGED(Local Government Engineering Department : 地方自治技術局) 、 バングラデシュ統計局(BBS : Bangladesh Bureau of Statistics) 、NGO 局(NGO Affairs Bureau) 、 政府系小学校、政府系中学校、政府刊行物出版所 (5)研究機関 ダッカ大学、BUET(Bangladesh University of Engineering Technology:バングラデシュ工科大 学) 、BIDS(Bangladesh Institute Development Studies:国立バングラデシュ開発研究所) 、BRAC University (6)その他 BGMEA(Bangladesh Gaument Manufacturers and Exporters Association:バングラデシュ衣 類縫製品製造・輸出業者組合) 、衣類縫製品工場、グラミーン銀行ヘッド・オフィス、私立小・中学校、 B スラム居住者(28 世帯)と B スラム跡地、A スラム居住者(30 世帯) 、アガルガオンスラム跡地、 子どものメイドと雇用主、ニューマーケット、シシュパーク、ボンゴ・ボンドゥ記念館、バングラデ シュ独立解放記念館、メグナ橋、メグナ・グムティ橋及びこれらの記念碑、ジア・パーク、ショナル ガオン・ホテル(日本 ODA) 、アーロン(BRAC) 、BRAC 銀行、グラミーン・チェツク(グラミーン 銀行)、カリポリ(BRDB) 、Dhaka University Press Limited、ショヒド・ミナル、国立博物館、ブ ックセンター等 3 論文構成 本論文は、序章及び終章を含む 7 章構成である。先ず、冒頭の「要約」に続き、 「序章」では、主 題設定の背景、研究目的及び仮説、研究方法及び調査方法、主要用語の定義(分析の枠組み) 、バング ラデシュの特徴を記載している。 第 1 章「政府主導によるクミッラ県農村の社会開発」では、バングラデシュにおける農村開発の原 型である「コミラモデル」(1960-71 年)を主題として取り上げ、先行研究や現地での聞き取り調査を 通してコミラモデルが導入された背景や実施状況を明らかにし、農村開発におけるコミラモデルの役 割を検証している。 第 2 章「日米 ODA の役割-クミッラ県ダウドゥカンディ郡にみる」では、バングラデシュ独立以 降の外国援助の中で日米 ODA を取り上げ、農村での社会開発、とりわけ貧富格差に及ぼす影響を踏 まえながらその意義と課題を検証している。具体的には、日米 ODA による援助供与額の推移と特徴 を概観したうえで、 「メグナ・グムティ橋」東側に位置するクミッラ県ダウドゥカンディ郡で実施され てきた「アメリカ食糧援助」と「モデル農村開発計画」 (日本 ODA)の実施状況を現地での調査(1999 年 8 月、2000 年 8 月、2002 年 8 月、2004 年 12 月~2005 年 1 月、2006 年 3 月)や現地で収集した 資料を通して明らかにしている。 第 3 章「外国援助・開発による クミッラ県ダウドゥカンディ郡農村居住者へのインパクト-貧富 格差のダイナミクス」では、アメリカ主導による「コミラモデル」の実験に引き続いて、日本 ODA による「メグナ橋とメグナ・グムティ橋建設」及び「モデル農村開発計画」によって近代農法が普及・ 4 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 拡大されたダウドゥカンディ郡において、これまでに実施されてきた援助・開発が、当該地域の農作 物の生産状況や農村居住者の生活状態にどのような影響を及ぼしているのかを現地での調査(2000 年 8 月 30 世帯・210 人、2002 年 8 月 34 世帯・234 人、2004 年 12 月~2005 年 1 月及び 2006 年 3 月 追調査)から明らかにしている。 日米主導による援助・開発によって貧富格差の拡大や生態系の破壊といった新たな問題が生じてい るが、そのしわよせは、とりわけ女性や子どもに及んでいると考えられる。そこで第 4 章「社会開発 の課題- クミッラ県ダウドゥカンディ郡の女性と子ども」では、これらの具体的な状況を、同郡での 調査(2000 年 8 月 30 世帯・210 人、2002 年 8 月 34 世帯・234 人、2004 年 12 月~2005 年 1 月及び 2006 年 3 月追調査)から明らかにしている。 第 5 章「社会開発と参加」では、 クミッラ県ダウドゥカンディ郡において、日米主導による援助 や市民社会を媒介とした各プログラムへの農村居住者の参加状況を明らかにしている。 調査対象者は、 同郡7ユニオン、30 世帯・210 人(2000 年)、同郡 Gau ユニオン P 村、30 世帯・210 人(2002 年) 、同 ユニオンエリア・オフィス、BRAC メンバー、10 世帯・56 人(2006 年)及び同ユニオン S 村、グラ ミーン銀行メンバー、11 世帯・68 人(2006 年)の計 81 世帯・544 人である。 そして「終章」では、全体の考察・分析を行い、必ずしも外部援助に依存しない農村居住者の内発 的発展に向けた取り組みを理論的に解明している。 第2節 分析の枠組み-用語の定義 1 援助と社会開発 本論文で使用する「援助」は、アメリカ・日本による ODA 等の「外国援助」を指している。第三 世界の経済開発は、こうした援助に伴う近代的技術の導入と巨額の資金によって諸産業の近代化を図 り、経済成長の達成をめざして進められてきた。だが、こうした援助・開発によって目覚しい経済成 長を遂げたのは一部のラテンアメリカ諸国の他には、アジア NEIS(Newly Industrializing Economies : 新興工業経済地域) 、アセアン諸国、中国等といったアジア諸国である。アジア NEIS の成功は、世界銀行により「東アジアの奇跡」と称され、第三世界の模範とされたが、実際には多く の問題を引き起こした。1980 年代以降、これらの国々の多くが債務危機や通貨危機等の経済危機に見 舞われている。そのため、対外的には債務返済や資本流出の問題が深刻化し、国内的には大量の失業 と貧富の格差、生態系の破壊、人権侵害等の社会問題が浮上した。このような重大な問題に直面しな がら、開発独裁体制は政府支出の削減、とくに社会的支出の抑制を行ったため、貧困層・失業者を始 めとする国民生活の不安定化をまねき、折からの市民による民主化運動のうねりの中で開発独裁体制 への批判が続出した。こうした一連の事態は、援助する側の先進諸国や国連等の多国間援助機関に一 定の反省を促し、援助方法や開発のあり方の見直しを迫った。 世界銀行は、1990 年版の『世界開発報告』において貧困問題への取り組みを発表している。世界銀 行の貧困克服策は、その重点的対象を重債務国と絶対的貧困層に絞り込み、雇用機会創出あるいは教 育や保健分野への投資を優先的に行うというものである。世界銀行が絶対的貧困層の問題解決に向け て教育や保健分野に目を向けたことは注目すべきことであったが、従来の経済成長重視の開発モデル に対する代替案が明確に示されたとは言えないものであった。これに対して、同じ 1990 年版の国連 開発計画『人間開発報告』はその中で、経済成長重視の開発モデルを見直し、 「人間開発」なる概念を 提起した。この概念はアマルティア・セン(Amartya Sen)のケイパビリティ概念の影響を受け、識 字率・平均就学年数・平均寿命・購買力を人間開発指標に掲げて、とくに貧困層の能力拡大を開発目 標とするものである。貧困の把握は、何も所得貧困のみにとどまらない。貧困層にあっては、所得以 外にも、識字教育や保健医療のサービス、安全な水、栄養、寿命、出産等にアクセスする能力を持ち 合わせていないことにより、それらが悪循環となって「人間貧困」の状態に陥り、そこから容易に脱 け出すことができない。人間開発は、このような貧困状態からの脱出を図るために、単なる GNP・ GDP の拡大ではなく、貧困層のアクセス能力拡大をめざした人間中心の開発である。 5 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) こうした開発モデル見直しの動きは、 1995 年にデンマークのコペンハーゲンで開催された国連世界 社会開発サミットで1つの到達点に達し、人間を中心とした「社会開発」を進めることの重要性が確 認されている。この社会開発概念は、前述したように、経済成長重視の援助・開発がさまざまな問題 を引き起こしたことから、経済成長よりも人間中心の社会発展、人間のwell-beingを第一に考えた開 発を中心にすえる必要があると認識されるようになって生まれた。西川潤の見解に拠れば、このサミ ットにおいて生まれた「社会開発」とは、一方では貧困、失業・雇用、差別・排除等社会統合の諸問 題の解決を指すとともに、他方では「社会問題を解決するための市民社会の発展」を指している(西 川、2000 年、1997 年、1995 年 4 月)9。 こうして、社会開発の重要性が国連の場で宣言され、市民社会参入の必要性が認識されるようにな る。これ以降、NGO を始めとする市民社会は、地域レベルで社会問題に取り組む一方、こうした開 発現場での経験を踏まえて、国際機関や政府、企業等に社会問題解決に向けての提言を行うなどの活 動を展開している。また、西川は、社会開発における概念の発展過程を、①社会インフラ時代(1960 年代) 、②人間の基本的ニーズ(1970 年代後半から 1980 年代)、③人間=民衆を中心に据えた発展、参 加型開発(1990 年)と区分しているが、これらの中で、第 2 期と第 3 期の相違点は「民衆参加を重視す るところ、開発主体として市民社会が登場する」(西川、1997 年)ことである。 ところで、市民社会を構成する「市民」という用語について、西川は、第 1 に「都市に住む人」 、 第 2 に「文民」 、第 3 に「ブルジョワ」 、第 4 に「政治社会の主権者としての市民」を挙げ、これら4 つの意味での市民社会の用例のほかに、第 5 の意味として「国家に包括されない社会」を挙げている 10。そして「アジアやイスラム世界などでは、近代化の必要に対応して、国家が上から形成されたた めに、国家に必ずしも包摂されない市民たちの膨大な社会が存在する」 (西川、2004 年 2 月:54 頁) ことを指摘している。 また、社会開発を進めるうえで重要な役割を担う市民社会も多元的であるが、西川の研究によれば 「封建的専制的な支配システムに対抗して登場したことが大きな特徴」であり「国家や市場の専制と いうものがあれば、それらを是正する自己意識を獲得した主体」 (西川、2000 年:74 頁)ととらえら れる。そして、市民社会は、①漂泊者=キー・パーソン、またはネットワーク型の地方リーダー11に よって、自らを抑圧するシステム、自らの尊厳、権利に目覚めた人たちの集合、②市民社会の根本で ある草の根の住民、生活者、コミュニティ、③キー・パーソンや住民を繋げる権利の主体、あるいは 参画者からなる。また、市民社会の根本である住民やコミュニティについて、 「それ自体では市民社会 として存在することはなかなかむずかしい」こと、 「漂泊者だけでは市民社会は決してつくれない」 (西 川、2000 年:72-73 頁)ことを指摘している。そして、それらを繋げる権利の主体として、NGO等 を位置づけている。 こうした市民社会の構成要素から見ると、BRAC 代表のファズル・ハッサン・アベッド(Fazle Hassan Abed)とグラミーン銀行代表ユヌス・ムハマド(Yunus Muhammad)は、キー・パーソン、 もしくは、ネットワーク型の地方リーダーとして位置づけられるであろう。彼らは、外の世界を知る 人間としてバングラデシュ独立以降祖国に戻り、草の根の住民の中で、とりわけ末端におかれがちな 貧困女性の well-being 向上及び外国援助に依存しない運営方法を模索し続けている。また、両者をつ なげる権利主体として、BRAC(NGO)とグラミーン銀行による具体的な活動がある。両者とも、そ れぞれの地域に、エリア・オフィスもしくはブランチ・オフィスを設置し、スタッフたちは、各農村 その他、西川、2004 年 2 月:50-55 頁、2001 年 3 月:30-35 頁、1998 年:12-28 頁、2001 年 a:4-11 頁、2003 年 1 月、2001 年 4 月:1-20 頁を参照されたい。 10 「市民」のとらえ方について、詳細は、西川、2004 年 2 月(同上)を参照されたい。 11 西川は、鶴見和子が 1970 年代半ばに社会変化の担い手の問題を提起したことに着目し「彼女の言葉で は漂泊者またはキー・パーソン、私の言葉を使うとネットワーク型の地方リーダーだが、外の世界を知っ ている人がローカルな社会の中に入り、この社会を客観化することによって変革主体となる」と述べてい る(西川、2000 年:71 頁) 。なお、鶴見による「漂泊者」 「キー・パーソン(原本はキー・パースン) 」に ついては、鶴見、1996 年を参照されたい。 9 6 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) に根ざした活動を展開している。そして両者は、国家に包摂されない独自の活動を展開している。 実際にも、社会開発を進めるうえで、NGO 等の市民社会は地域で重要な役割を担い、個人の well-being 実現及び内発的発展と密接に関わっている。バングラデシュ農村では、今なお先進諸国の 援助による農業開発が繰り返し行われている。しかし、そこでの恩恵は、当の援助供与国と現地の既 得権益集団に集中しがちである。その反面、最貧困層の開発過程への参加機会や内発的要因はなおざ れにされがちである。したがって、農村の貧困の軽減あるいは撲滅のためには、先進国への援助依存 と既得権益集団中心の農業近代化のあり方を問いただし、最貧困層の内発性と参加を考慮した開発方 法を実践している市民社会の活動を探っていくことが重要であろう。 本論文では、 「援助」として、クミッラ県で実施されてきたアメリカ主導による「コミラモデル」 (第 1 章)と日本 ODA 主導による「モデル農村開発計画」 (第 2 章)を取り上げ、それらがクミッラ県ダ ウドゥカンディ郡農村の社会開発と農村居住者に及ぼす影響を明らかにしている(第 3 章、第 4 章) 。 そして、現地 NGO である BRAC やグラミーン銀行といった市民社会とそれら市民社会による活動へ の貧困女性の参加過程を明らかにしたうえで、同郡で社会開発がどのように推進されたのかを分析し ている(第 5 章) 。 2 近代化論と内発的発展論 内発的発展論は「近代化論に対置する概念」 (鶴見、1991 年:75-150 頁)12であり、西欧をモデル とした近代化方式を地球規模で推し進めることへの疑問や批判の中から生まれている。それは、生態 系の破壊、南北格差や国内的格差、貧困や飢餓の問題等をそれぞれの地域という小さい単位の場で考 え出してゆこうとするものである。本論文では、内発的発展論について、西川潤(2001 年、2000 年) 及び鶴見和子(1976 年:56-75 頁13 , 鶴見・川田、1989 年14)の研究成果をより所としている。 さて、西欧をモデルとした近代化方式を、地球規模で推し進めることへの疑問が生れたのは、1960 年代後半から 70 年代にかけてと言われている(鶴見・川田、1989 年:ⅰ頁) 。西川潤は、 「内発的発 展」(endogenous development) の起源を整理する中で、 「70 年代の中頃、鶴見和子は独自に、タル コット・パーソンズにおける近代化社会の『内発的発展』(endogenous)と『外発的発展』 (exogenous) との類型化を、後発社会に適用し、後発社会にとって先進社会の模倣にとどまらない、自己の社会の 伝統の上に立ちながら外来のモデルを自己の社会の条件に適合するように作りかえてゆく発展のあり 方を『内発・自我の発展論』とよんだ」 (西川、1989 年:3-41 頁)ことを指摘している。鶴見自身が 「内発的発展」という言葉を使ったのは、1976 年である(鶴見、1976 年:58-62 頁) 。鶴見は、早く から社会運動としての内発的発展の重要性についても指摘している(鶴見・川田、1989 年:54-56 頁) 。 また、さまざまな事例研究を行っているが、水俣病の発生について、西欧をモデルとする近代化の弊 害、そして一つの極限状況としてとらえ、病に侵された人々の歩みを根源的な意味での自力更生とと らえている(鶴見・川田、1989 年:120-194 頁) 。 西川の研究では、1970 年頃「期せずして洋の東西で『内発的発展論』の問題提起がなされたことは、 一つには、欧米の近代化社会がつくり上げた世界的な国際分業体制が崩れて、第三世界の国々が独立 し、新たな、自らがその犠牲となってきた支配的発展とは異なる発展の道を模索し始めたことと関連」 (西川、1989 年:5 頁)している。そして、 「内発論の議論」 「19 世紀ヨーロッパにおける内生思考」 「内発的発展の論理と構造」等に関する先行研究を検討したうえで、内発的発展論の特性について、 以下のように述べている(西川、1989 年:32-33 頁) 。 ①欧米起源の資本蓄積論、近代化論のパラダイムを転換し、後者の経済人像に代え、全人的という 新しい人間像を設立している。したがって、利潤獲得や個人的効用の極大化よりは、むしろ人権や人 12 鶴見は、費孝通と柳田国男の研究を分析し、内発的発展論の原型として位置づけている。 ここでは、鶴見は「内発(土着)的発展論」という用語を使用している。 14 本書は、 「内発的発展を主題として取り上げ、それを標題に掲げた邦文の書物としては最初のもの」 (同 書、ⅱ頁)である。また、本書は NIRA(総合開発研究機構)政策研究・東畑精一記念賞を受賞している。 13 7 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 間の基本的必要の充足に大きな比重がおかれる。 ②自由主義的発展論に内在する一元的・普遍的発展像を否定し、すなわち、それに伴う他律的・支 配的関係の形成を拒否し、これに代えて、自律性や分ち合い関係に基づく、共生の社会づくりを指向 する。 ③参加、協同主義、自主管理等、資本―賃労働、国家―大衆という、資本主義や中央集権的計画経 済における伝統的生産関係とは異なる生産関係の組織を要求する。 ④地域レベルにおける自力更生(self-reliance) 、自立的発展のメカニズム形成が重要な政策用具と なる。 また、近代化論と内発的発展論の対抗関係を以下のように整理している(西川、2000 年:63 頁) 。 ①近代化論の根本に経済成長論という経済一元論があるのに対して、内発的発展論は、じつは経済 社会の変化については文化や社会の役割が大きいと考え、変化推進の多様な要因を重視している。 ②したがって、近代化論は世界的な妥当性を主張する普遍論であるのに対し、後者は地域をベース にした多系的な発展論である。 ③前者が変化の外発性を強調するのに対して、後者は内発性の側面に関心を向ける。 ④前者がシステム的変化を重視するのに対して、後者は個人や社会集団が社会変化に占めるイニシ アティブ(キー・パーソン)に目を向ける。 このように、内発的発展論は、社会発展における文化的要因と社会的要因の重視、多系的な地域発 展、内発性、個人や集団のイニシアティブによってその枠組みを築き、近代化論と自らを峻別してい る。近代化論の枠内にある従来の国際開発論では、画一的な思考によって近代的技術や大規模インフ ラ事業が第三世界に持ち込まれ、これにより経済開発を進めることが第一と考えられてきた。だが、 こうした方法では、先進国経済の利益にこそなれ、内発的発展論から見た第三世界の人間と社会の発 展に結実していくと展望することはできない。 とりわけ、 農村に居住する貧困層の問題は解消されず、 社会問題は増大している。 本論文では、近代化論やトリクル・ダウン仮説を拠り所とした外国主導による援助・開発が、農村 内での貧富格差や生態系の破壊といった問題を引き起こしてきたこと(第2章、第 3 章) 、そのしわ よせは、人権侵害や人間の基本的必要の充足困難として現れ、とりわけ貧困女性や子どもに及んでい るということ(第 4 章)を現地調査から明らにする。こうした状況に対して、内発的な市民社会によ る活動は、農村に居住する貧困女性の直接的な参加を促し、さまざま活動を展開している。クミッラ 県ダウドゥカンディ郡の農村地域では、現地 NGO である BRAC やグラミーン銀行といった市民社会 が地域ごとの社会開発を推進してきた。その活動過程では、伝統的な相互扶助関係を媒体としたショ ミティ(小グループ)の組織化及び貧困女性の参加が重視されており、とりわけ農村に居住する女性 自身の内発性が尊重されている。これらの状況を現地調査より明らかにする(第 5 章) 。 3 welfare から well-being へ 「援助や開発のあり方」や「内発的発展」を探求するうえで、人間の存在、あるいは人間の豊かさ をどのようにとらえるのか、ということが問われであろう。本研究では、さまざまな権利や参加機会 を剥奪された人々の well-being 実現ということをその基礎におき、研究・調査を進める。よって、貧 困層の生活状態をとらえるうえで、救貧や慈善事業的な見解・方法論は採らない。 西川潤は、このwelfareとwell-beingを「アジアの内発的発展を考えるキーワード」の一つとして取 り上げ、welfareに「福祉」 、well-beingに「よい生活」という訳語を用いている。西川の研究では、 前者は政府の福祉政策によるwelfareの実現であり、後者は、 「自らの創意で自らの能力を高め、社会 的活動の幅を広げていくことによって豊かさを実現していく生き方」としてとらえている。そして、 「福祉」は所得貧困の是正策、 「よい生活」は人間貧困の是正策で、 「内発的発展の基礎には、この豊 かさ概念の転換が必要である」と述べている(西川、2001 年:305-318 頁)15。 15 その他、 「人間の豊かさ」について、西川、2000 年、1983 年 a、2003 年 8 月等を参照。 8 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 一方、社会福祉の研究・実践領域においても、近年「welfare から well-being へ」というとらえ方 が注目され始めている(高橋、1994 年) 。前者は、国家主導、あるいは行政主導の画一的な流れの中 に個人や集団を規定している。あるいは、そうした仕組みの中に、個人・集団を埋没させてしまう危 険性さえ有している。これに対して、後者は、権利を行使する主体として個人をとらえようとするも のである。個人を保護する必要性は、状況に応じて十分に認められることである。しかし、それのみ では、本質的な問題解決には結びつかないと考える。個人の well-being を尊重するうえで必要とされ る支援は、上から下へという一方的な流れで供与されるものではないからである。それゆえ、貧困層 の存在を、哀れみや保護の対象として規定するのではなく、あくまでも内発性を尊重し、well-being を実現する主体としてとらえたい。 本論文では、日米主導による援助・開発で参加機会を剥奪されていた貧困女性が、BRAC やグラミ ーン銀行といった市民社会の活動に参加することで、自らの well-being のみならず、家族や社会関係 を変化させている状況を現地調査に基づき考察している(第5章参照) 。 4 識字 「識字」は、元来中国に「字を知る」 「字を読む」ことを意味する漢語としてあった16。名称の由来 は戦前の中国に始まっているが、 特に日中戦争から戦後の中国革命における解放区などでの活動から、 識字運動の名称と存在が明らかになっていった(内山、1989 年:30 頁) 。日本では「識字」運動が 1960 年代初頭に福岡に芽生え、教育活動として部落解放運動の発展とともに各地に普及していった (内山、1993 年:50 頁) 。こうした経緯から、現在、国連の場でユネスコが使用する“Literacy”の 和訳語として「識字」を、その反意語である“Illiteracy”に「非識字」という和訳語が一般的に使用 されるようになっている。 識字の定義は各国によってもさまざまであるが、 「文字の読み書き」が基本であり、ユニセフの成 人識字率はこの定義を採用している(UNICEF, 2006:p.117.) 。バングラデシュ政府は、この定義を 参照しながら、識字の定義を「言語の種類を問わず、手紙が書ける」としている。また、識字率は、 全年齢層、5 歳以上、7 歳以上、15 歳以上の年齢層に区分して算出している(BBS, 2003:p.8.) 。 さて、1975 年、イランのペルセポリスで識字のためのシンポジウムが開催されたが、そこでは、 「識 字」が「基本的人権」 「解放の手段」 「社会変革においてなくてはならない道具」としてとらえている。 また、識字を獲得する過程で、 「参加」や「対話」が重視されている。 こうした識字に対する考え方は、第三世界を中心とした識字活動に由来するものであり、その背景 に、パウロ・フレイレの影響がある(フレイレ、1979 年、1984 年) 。それゆえ、本論文ではパウロ・ フレイレの思想や実践過程に学びながら、 「識字」を内発的発展や well-being 実現のための重要概念 として位置づけている。それは、ただ単に読み書きの習得を意味しているのではない。農村居住者に とっての識字とは、自らがおかれた社会状況や矛盾に気づき、その根本的な改革を思考する中で well-being を向上させ、社会を変革する力を養うことを意味している。 本論文では、バングラデシュ政府及び現地 NGO による子どもの識字・就学への取り組み(第 4 章) や現地 NGO やグラミーン銀行といった市民社会による貧困女性の識字獲得への取り組みを取り上げ (第 5 章) 、識字の獲得が well-being 向上に結びついていることを明らかにしている。 第3節 バングラデシュの特徴 3.1 概要 3.1.1 河川 バングラデシュは、インドアジア大陸の東端に位置している(地図 0-1) 。国土面積は 14 万 7570 平方キロメートルで(BBS, 2005:p.xix.) 、その約 7.0%が水面積で占められている。この地域には 16 諸橋轍次『大漢和辞典』巻 10、大修館、1967 年、589 頁。 9 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 大小無数の河川や小沼があり、世界有数のデルタ地帯が形成されていて、主要河川のポッダ川(ガン ジース川) 、ジョムナ川(プラマト川) 、メグナ川は合流してベンガル湾へと注いでいる(地図 0-2)17。 上空から眺めると、洪水時には緑におおわれた大小の島々があちらこちらに点在しているかのような 光景を見せる。こうした自然環境下にある人々は、必然的に「河と共に生きてきた」と言うが、そこ には二つの意味が含まれている。一つは、こうした自然環境が肥沃な土壌を形成し、農作物の収穫を 豊富にもたらしてきたということである。もう一つは大水害であり、例年 6 月から 10 月にかけて、 国土の約 1/3 が浸水する。特に、1974 年、1987・88 年、1998 年の洪水による被害状況は深刻で、現 地の人々は「10 年に1度は大洪水がくる」ととらえていたが、2004 年の洪水被害も甚大であった18。 こうした状況は、自然条件によってのみ左右されているわけではなく、1975 年に建設されたファラッ カ堰をめぐる問題、すなわち、隣の大国インドとの治水問題も見逃すことはできない。インドは、カ ルカッタで必要とされる水量をここで調整している。そのため、水量が十分な雨季には、インドで過 剰となる河川水がバングラデシュへと送り込まれるが、逆に、水不足となる乾季には、ファラッカ堰 で一定量の水が確保されている。こうした状況に対して、政府間で何度か取水条件に関する協定がな されてきたものの、何れもバングラデシュ側が不利な立場におかれている(Abbas, 1982) 。 3.1.2 基本統計-人口、乳幼児死亡率、識字率 人口は 2001 年1月で1億 2385 万人、 2002-03 年に1億 3120 万人 (2001 年1月の推定値) 、 2004-05 年には 1 億 3700 万人(推定値)と年々増加し、人口密度は 834 人(2001 年)にも達する超過密国で、 、全人口に占める その約8割が農村、約2割は都市に居住している19。年齢層別に見ると(2001 年) 14 歳以下の子どもの割合は 39.3% (女児 38.6%、 男児 40.1%) 、 60 歳以上の割合は 6.10% (女性 5.67%、 20 、 男性 4.5%)である 。全人口に占める男女の比率を見ると、女性 48.6%、男性 51.4%(1996 年) 女性 48.4%、男性 51.6%(2001 年)と男性が多くなっている。また、1987 年以降 1996 年の出生数 を見ても、いずれも男児が多いという特徴がある21。 ところで、前述したように、2004 年現在、バングラデシュでは国民の約 4 割が絶対的貧困の状態 におかれているが、農村と都市別の割合を見ると、2000 年現在、絶対的貧困層の 76.3%(4260 万人) が農村に居住している22。諸外国主導による都市偏重の開発によって農村の工業開発は遅れ、農村と 都市の格差は年々拡大しているのであるが、それは、1994 年以降 2002 年までの乳幼児死亡率や平均 寿命等の基本統計にも顕著に表れている。例えば、2002 年の乳児死亡率(1歳未満)は、農村で 57 人(女児 55 人、男児 58 人)と高い数値を示しているにもかかわらず、都市では 37 人(女児 37 人、 男児 38 人)と改善傾向にある (BBS, 2005:p.46.)23。同年の 5 歳未満児死亡率は、農村で 4.7%(女 児 4.6%、男児 4.8%)都市で 3.9%(女児 3.3%、男児 4.4%)となっており、農村と都市で 1.2%の差 17 これらの河川数は約 700 と推定されており、総河川距離は 2 万 2155km である(BBS, 2005:p.12.) 。 18 The Daily Star, July 28, 2004. Ibid. July 29, 2004. BBS, 2005:p.xx., p.33., 2001:p.xx., p.25., Economic Adviser’s Wing, 2005 : p.15. and 2002:Key Socio-economic Indicators of Bangladesh. (2005 年 12 月に刊行された Statistical Yearbook of Bangladesh 2004 はバングラデシュ統計局による最新版の統計本であるが、全人口に関しては 2001 年までのデータし か記載されていない。また、1981 年の人口は 8991 万人、1991 年の人口は 1 億 1145 万人で、この間の人 口増加率は 2.17%、1991 年から 2001 年までの人口増加率は 1.48%である) 。 20 Ibid., 2005, p.34.より算出。 21 1996 年のデータを見ると、農村で女児 150 万 5100 人(49.3%) 、男児 150 万 7500 人(50.71%) 、都 市で女児 16 万 1000 人(47.5%) 、男児 17 万 8000 人(52.5%)となっている(Ibid., p.44.より算出) 。な お、1997 年以降の男女比は記載されていない。 。 22 Ibid., p.719. 絶対的貧困者数及び都市と農村の比較について、2000 年までのデータしか記載されていな い。 23 乳児死亡率は、出生時から満1歳に達する日までに死亡する確率で、出生 1000 人あたりの死亡数をあ らわしている。 19 10 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 、都市で 67.7 が見られる24。また、同年の平均寿命は、農村で 64.4 歳(女性 65.0 歳、男性 63.9 歳) 歳(女性 67.3 歳、男性 67.0 歳)となっており、都市のほうが 3.3 歳長くなっていることが分かる。 さらに、 成人識字率は、 女性 17%、 男性 41% (1980 年) 、 女性 31%、 男性 50% (2000-04 年) と (UNICEF, 2000:p.96. Ibid., 2006:p.117) 、成人女性の識字率が低くなっており、なおかつ農村と都市の比較 では、農村に居住する女性の識字率が最も低くなっている。したがって、都市と比べて農村に、男性 と比較して女性に、不利な状態においこまれている貧困層が多く存在する(第4章参照) 。 なお、2003-04 年の 1 人当たりGDPは 2 万 4628 タカ(Economic Adviser’s Wing, 2005:p.15.)25、 2003 年のHDI(Human Development Index :人間開発指標)は第 139 位(UNDP, 2005:p.221.) となっている。 3.1.3 労働力人口と雇用 労働力人口は、1990-91 年に 5120 万人(女性 2010 万人、男性 3110 万人) 、1995-96 年に 5600 万 人(女性 2130 万人、男性 3470 万人) 、1999-20 年は 4070 万人(女性 850 万人、男性 3220 万人) となっている(BBS, 2005:p.61.) 。この中で、実際に労働している人の数は、それぞれ、5020 万人 (女性 1970 万人、男性 3050 万人;1990-91 年) 、5460 万人(女性 2080 万人、男性 3380 万人; 1995-96 年) 、 5810 万人(女性 2190 万人、男性 3610 万人;1999-20 年)である。ただし、女性の 数値に関しては、経済活動に従事して賃金を得ている人ばかりではない。経済活動に従事して賃金を 得ている女性は、1990-91 年に 490 万人、1995-96 年には 760 万人(BBS, 2001:p.xx., World Bank, 2003:p.i.)となっており、労働している女性人口に占める割合は、それぞれ 24.9%、36.5%となっ ている。つまり、労働している女性の6割以上が不払い労働を余儀なくされており、そうした事実は 農村に多く見うけられる(World Bank, 2003:p.100.) 。 農村では、フォーマルな雇用関係ではない農作業の手伝いや家禽の世話、メイドの労働(ユニオン 評議会議長等、富裕層宅での家事・子守・雑事)等を女性が行っているが、その労働報酬としておお むね農作物や日々の食事が支給されており、仮に日当が支払われたとしても僅かな金額でしかない。 これらの仕事に従事しているのは貧困女性であり、その大多数が非識字である。というのも、農村で は、非識字の貧困女性が現金収入を得られる機会は極めて限定されているからである。近代化ととも に、商品・貨幣経済は農村社会にも浸透しているが、現金収入を得られる雇用機会が少ないため、農 村に居住する貧困・母子世帯は、well-beingを実現するうえで、極めて困難な状況におかれている26。 雇用形態別に見ると、日雇い労働(36.8%) 、自己雇用(32.3%) 、不払い労働(17.6%) 、雇用(13.5%) 、 となっており(BBS, 2001:p.53.) 、日雇い労働、自己雇用が全体の約 7 割を占めていることが分か る。 日雇い労働の中で最も多いのは、農業労働者である。農業に従事している人々の約半数以上は、自 らの農耕地を全く所有していないか、あるいは 0.05 エーカー以下の農耕地しか所有していない人々 (以上、土地なし農民) 、もしくは小農である(World Bank, 2003:p.ⅱ.) 。彼らは中農あるいは大農 のもとで日雇い労働をし、農業労働者として 1 日に 40 ~60 タカの日当を得ている。しかし、近代 農法の普及がこうした農業労働者の雇用機会を狭めている。この他、日雇い労働にはレンガ割り、レ ンガ運び、建設作業の補助等があるが、いずれも重労働かつ低賃金であり、乾季に比べて雨季に需要 が少なくなる27。 自己雇用の形態で一般的なのは農業労働であるが、それに続いてリキシャ引き(男性のみ)がある。 彼らの多くは自らのリキシャを所有していないため、現金収入からリキシャの賃貸料を支払っている 5 歳未満児死亡率は、出生時から満 5 歳に達する日までに死亡する確率で、1000 人に対しての死亡率を あらわしている。 25 1タカは日本円に換算して 2 円前後であったが、ここ数年タカが下がっており、2006 年 3 月時点で1 ドル 68~70 タカであった。なお、Ibid.,では、ドル換算で 450 ドル(1 人当たり GDP)と記載されている。 26 これまでの現地での調査による。 27 同上。 24 11 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 28。この仕事は相当な肉体労働であり、体調不良や疾病により労働できない日には、たちまち現金収 入が途絶えてしまう。そのうえ、近年ダッカでは乗用車の増加が目覚しく、慢性的な交通渋滞や交通 事故が多発しているため、リキシャの出入りを禁止した乗用車専用道路が年々増えている。つまり、 都市の過密化と車両増加の影響によって、リキシャ引きが自由に往来できる区域が狭められている。 また、 リキシャの所有は基本的には登録制となっているが、 実際には未登録のリキシャが相当数ある。 例えば、1987 年にダッカ市に正式登録されていたリキシャは 8 万 8000 台であるが、実際のリキシャ の台数は 15 万~20 万台であったと推定されている(Gallagher, 1992:pp.1-2.) 29。そして 2004 年 現在、政府は未登録リキシャの取り締まりに力を入れている。ダッカ市内アガルガオン地域のスラム 跡地には、政府・警察官によって没収され、破壊されたリキシャが山積みにされている30。こうした 取締りが、貧困層の現金収入を得る機会をより制限している。 その他の自己雇用には、スラムや路上に店を構えての露天商(移動式もしくは木造机の上に品物を 置いて販売) 、路上での物売り、行商等があるが、いずれの場合も低収入である。また、スラムや路上 に店を出すことに対して警察官からの排除・規制を受けることもあるため、警察官に賄賂を渡してこ うした自己雇用をかろうじて継続させている貧困層も見られる。さらに、前述したように、近年ダッ カではスラム強制撤去が頻発しているが、そのことによって店を出す場所を喪失した貧困層もいる。 以上概観したように、自己雇用、日雇い労働の多くは不安定な雇用形態であり、なおかつ低賃金で ある。こうした雇用形態に不払い労働を合わせると、8 割以上の人々が安定した雇用機会を得られず にいる。 3.1.4 産業と貿易 (1)産業 1999 年から 2004 年までの各年 GDP(1995-96 年の固定価格)に占める割合を産業部門別に見る と、各年とも農業・林業・水産業、製造業、小売・卸業・ホテル・レストランが比較的高い割合を占 め、これらの産業の合計でおよそ 40%となっている。その中で、農業・林業・水産業の割合は最も高 いが、25.6%(1999-20 年)から 23.1%(2003-04 年)と低下傾向にある。これに対して、製造業は 15.4%(1999-20 年)から 16.2%(2003-04 年) 、小売・卸業・ホテル・レストランは 14.0%(1999-20 年)から 14.7%(2003-04 年)とわずかながら上昇傾向にある(Bangladesh Economic Review, 2005: p.18.) 。しかしながら、2002-03 年の労働力人口について見れば、全体の 51.7%は農業・林業・水産 業で占められ、製造業は 9.7%、小売・卸業・ホテル・レストランは 15.3%と、農業・林業・水産業 で働く人々が多い。その中でも、農業関連の労働力人口が圧倒的な割合を占めている(Bangladesh Economic Review, 2005:p.26.) 。 そこで農業生産高を見ると、米は全体の約7割を占めており、その内訳はアモン稲(36.4%) 、アウ ス稲(6.1%) 、ボロ稲(26.4%)となっている。その他では、麦(2.9%) 、紅茶(0.7%) 、オイル・ シード(1.8%) 、豆(2.2%) 、シュガーコーン(2.4%) 、ジュート(2.9%) 、野菜(8.6%、このうち じゃが芋が 4.0%)等の農作物が栽培されている(BBS, 2001:p.103.) 。米生産量は 1996-97 年で 2033 、インフレが続き、米価も上昇している。米価は 万 6550 トンとなっているが(BBS, 1998:p.43.) 米の種類、作付け・収穫状況、季節変動等の要因によって異なるが、何れの米も雨季に高くなってい る。製造業では、衣類縫製品、セメント、皮革製品、ジュートと綿織物(textile) 、パルプと新聞印刷 用紙、シガレット、化学肥料、精糖等の製造業がある。また、農村に多い家内工業では、民族衣装等 の手織物、カーペット、履物、竹細工、陶磁器、葉巻煙草等の製造が主として家族労働によって行わ リキシャ引きの労働日数・時間は一様ではないが、概ね 10 時間前後の労働時間に対して 70~100 タカ の現金収入を得ている。リキシャの賃貸料金は、ダッカ市内では、1 日につき 40 タカ、クミッラ県ダウド ゥカンディ郡では、20~40 タカである。後者では、金曜日(現地の休日)に無料でリキシャを貸出してい るリキシャ所有者も見られる(これまでの現地での調査による) 。 29 Gallagher は、全国のリキシャ台数(1988 年)を 70 万台と推定している。 30 2004 年 3 月の現地での調査による。 28 12 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) れている。これらの産業の中で、衣類縫製産業、ジュート加工製品は重要な輸出産業となっている (BBS, 2001:p.xxⅲ.) 。 (2) 貿易 輸入総額は、 1998-99 年の 80 億 1800 万ドルから 1999-2000 年の 84 億 300 万ドル、 そして 2000-01 年の 93 億 6300 万ドルと、年々増加傾向にある(Economic Adviser’s Wing, 2002:pp.43-47.) 。輸入 品は米、麦、オイル・シード、原油、原棉といった食用農作物・原材料、それに工業製品の石油化学 製品や綿製品が主となっている。他方、輸出総額は、1998-99 年に 57 億 6200 万ドル、2000-01 年に 64 億 6730 万ドルと増加したが、2001-02 年は減少している。独立以降を見ても、毎年貿易赤字が続 いている。 輸出の内容を見ると、主要な生活必需品として、加工食品の冷凍食品、伝統的な一次産品の紅茶や ジュート(原材料) 、野菜等がある。また、主要な工業製品として、既製服やニットウエア、皮革製品、 ジュート製品等がある。中でも、衣類縫製品は最大の輸出品となっており、外貨獲得額の 76%を占め るまでになった(Jinnat, 2001:p.4.) 。この商品の輸出向け生産は、世界銀行や IMF のコンディショ ナリティー(融資条件)によって政策的に推し進められてきたものである。 1974 年に政府の各省庁に世界銀行の顧問団が配置され、以後、政府の予算配分全般が世界銀行の管 理下におかれるようになった。さらに、1980 年から IMF の処方箋の実験ケースとして経済安定プロ グラムが実施された。これ以降、農村では土地の細分化と土地所有の集中化、ジュート産業の生産縮 小が進み、中小農民の没落・土地なし農民層の増大、貧困層の都市への移動が生じている。そして、 バングラデシュの経済は、少数のエリート層が独占し、貿易と外国の援助資金の活用に依存していく ようになる。 衣類縫製産業は、都市へと移動した貧困層を含む若い女性労働を多用する都市型産業として、また 従来のジュート産業に代えて、外貨獲得のための輸出産業として発展した。1980 年代、エルシャド政 権の 2 度にわたる工業政策により輸出産業育成が企図されたが、韓国や香港などの外国資本の導入も あいまって、バングラデシュの衣類縫製産業は、長時間・低賃金コストを「比較優位」とする産業分 野として成長してきた。雇用は次第に拡大し、2003 年現在、産業全体の労働者は 150 万人で、その うちおよそ 85%は女性であり、製造業全体の女性労働者の 70%を占めている31。こうした状況につい て、 「衣類縫製産業の女性労働者は社会的に評価されるようになり、 女性の社会的地位向上に貢献した」 32 という評価もある。しかしながら、その反面、強制的超過労働、抑圧的管理、低賃金、雇用機会均 等の立場から見た場合の女性の性差別的雇用、14 歳以下の子どもの労働等が深刻な問題となっている。 14 歳以下の子どもの数は、1992 年当時は5万から7万 5000 人であった(UNICEF, 1997:p.60.)33。 また、BIDSによる 1990-95 年の調査結果では、32 ヵ所の縫製工場において 10 歳以下の子どもは確 認されず、10 歳から 14 歳の子どもは 13.2%で、全員が農村出身であることが報告されている(Salma and Pratima, 1996:pp.25-28.) 。 (3)アメリカのボイコット政策:ハーキン法案 上述した衣類縫製品工場での子どもの労働に対して、アメリカの上院議員トム・ハーキン(Tom Harkin、アイオワ州選出)は、1992 年にアメリア合衆国上院議会に「児童労働抑止法案(以下ハー キン法案と称す) 」を提出した。この法案は、子どもの労働によって生産された商品の輸入全面禁止を Speech of Mr. Kutubuddin Ahmed, Member Bangladesh Employers Federation, Dhaka. Bangladesh on Act/Emp and Empact Workshop on Combating Child Labour-The Role of Employers’ Organization 26-28, May 2003, Tutin, Italy. 一方、BGMEA の資料(Singing of BGMEA-ILO Partnership Project)に は、衣類縫製産業全体の労働者数は 180 万人で、そのうち約 80%が女性と記載されている。 32 村山真弓、1996 年、1997 年。なお、衣類縫製産業の女性労働者の過酷な労働条件、劣悪な労働環境も 認めているが、子どもの労働に関する分析はしてない。 33 Bhuiyan, 1999 では、衣服縫製工場で労働していた子どもの数は 10 万人と推定されている。 31 13 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 求めるものであり、アメリカの輸入相手国の輸出産業を対象にしている。これに反応したバングラデ シュの衣類縫製工場では、子どもを解雇したり、隠したりするようになった。さらに翌 1993 年、こ の法案が再度提出されると、バングラデシュへの影響はさらに拡大し、衣類縫製工場に雇用されてい た子どもの約 75%が突然解雇された。しかし、解雇された子どもたちには何ら保護的配慮がなかった ため、路上で生活・労働することを余儀なくされたり、売春に関わるようになったりと以前にもまし て自らの権利が剥奪される結果となった(UNICEF, 1997:p.60.) 。 そのため、 1995 年7月、 バングラデシュの BGMEA、 ユニセフ、 ILO の 3 者間で 「覚書 (Memorandum of Understanding)」が交わされ、これら 3 機関が出資して、解雇された子どもたちへの識字・教育プ ログラムを開始することになった。そして、1996 年 1 月から、現地 NGO である Gono Shahjjo Shangustha と BRAC が、 それらの子どもたちに識字・教育の機会を提供することになった (UNICEF, 1997:p.60.) 。2001 年現在、336 の識字教室(MOU スクール)で 8,442 名の子どもたちが学んでお り、ユニセフは現地 NGO と提携して 1,100 人の子どもたちに技能トレーニングを行ってきたが (Jinnat, 2001:p.8.) 、解雇された子どもたち全員を包括するには至っていない。 また、我々の現地調査により、Gono Shahjjo Shangustha による MOU スクール3カ所を訪問した が(2003 年 8 月 23 日)、かつて衣類縫製工場で労働していたという子どもは、それぞれ 1 割程度であ った。その他の子どもたちは、親もしくは姉妹が現在衣類縫製工場で労働しているか、あるいは過去 に労働していたという関係から在籍している。また、衣類縫製工場では、明らかに雇用者が従業員に 対して年齢を偽るよう強制していると思われるような自体がまま見受けられる。そして、関係者のみ ならず、現地の人々の反応は徹底している。それは、 「衣類縫製工場では、いっさい子どもは雇用して いない」ということである。 これらのことは、外からのインパクトによる単なる強制的禁止措置では問題が解決しないというこ とを示唆している。最終的にハーキン法案は、ILO やアメリカ国内での反対により上院議会を通過す ることはなかったが、この法案が対外圧力としてバングラデシュに与えている影響は大きい。 こうした輸入品ボイコットのみならず、2001 年 9 月 11 日の「同時多発テロ」事件以降、アメリカ は、国民の約 9 割がイスラーム教徒であるバングラデシュにも圧力をかけている34。2001 年にバング ラデシュの輸出総額が減じている背景には、衣類縫製品輸出の大幅な削減があり、そこには、最大の 輸出先であるアメリカとの緊張関係が影響している。このことがまた、バングラデシュ経済の行方を 不安にさせている。さらに、ブッシュ大統領によるイスラーム社会への政策・発言に対して、現地の 人々は強く反発している。反米感情が高まる中「日本は何故アメリカに追随するのだ。何故あのよう な政策を否定しようとしないのだ」という声が聞かれる。 3.1.5 イスラーム教徒と少数民族 国民の 88.3%がイスラーム教徒であるバングラデシュでは(BBS, 2005:p.xx.)全国各地にモスク が点在し、日の出前から日没後まで、1 日に 5 回コーランが響き渡る。しかし、毎金曜日にモスクで 祈る習慣を持たないイスラーム教徒もいる。1 日に 5 回の祈りも、全イスラーム教徒が厳格に行って いるわけではない。また、農村に居住する貧困層からの聞き取り調査では、 「アッラーの思し召しのま まに」と回答する人々も多く見られるが、これに対して「アッラーは何も出さない。自分自身で考え なければ何ら解決の道は開けない」と力説するイスラーム教徒も 1 人だけ見られた。彼にとってもア ッラーは唯一偉大な神であるが、 「バングラデシュの現状全てをアッラーに帰結させ、疲弊した農村の 生活状態について何も考えなくなることは問題で、解決の途を考え見出さなければならない。そうし なければ、この国は発展しないであろう」と話す。 女性の生活に目を向けると、農村と都市では大きく異なっている。農村には、伝統的なポルダによ る制限が残っており、政府役人、ユニオン評議会議員、NGOスタッフ等を除くと、多くの女性たちが 34 Daily Yomiuri, Child Labor Rules Don’t Ease Burden in Bangladesh, May 12, 2003. 14 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 1 日の大半を家屋やバリ35周辺で過ごしてきた(但し近年では、市民社会による融資を活用して経済 活動に参加している貧困女性たちの生活領域もバリを超えるようになっている。第5章参照) 。衣装を 見ると、宗教的理由から肌を露出することはないが、ブルカ(眼元を除いて全身を覆う衣装)を着用 している女性はダッカでは頻繁には見られず、クミッラ県の農村でも時折見かける程度である。しか しクミッラ県では、BRACスタッフを除くと、殆どの女性が外出時には首から下を覆う衣装を羽織っ ている36。一般的には、結婚前はサロワカミューズ、結婚後にはサリーを着用するというのが習わし であるが、NGOスタッフやダッカで仕事をしている政府役人の中には、 「サリーでは仕事にならない」 と言って、結婚後もサロワカミューズを愛用している女性も見られる。また、クミッラ県の農村に居 住する女性は、戸外ではオウナを頭から被っているが、ダッカで生活している女性たちの中には、オ ウナをスカーフのごとく着用している人も見られる。また、近年ダッカでは、半袖やノースリーヴの サロワカミューズも販売されており、女性を取り巻く環境は次第に変化してきている。ニューマーケ ットにはたくさんのアクセサリーや衣類が並び、そこで買い物をすることが可能な女性たちに限られ るが、思い思いのおしゃれを楽しんでいる。そのような人々は「この土地はもともと豊かな場所だっ たのだから」と語る。その傍ら、子どもたちがゴミをあさり、物乞いをする子ども・乳児を抱えた女 性37・障がいのある男性が、懸命に小銭を求めている。 ところで、こうしたイスラーム教徒の他、ヒンドゥー教徒が 10.5%、仏教徒が 0.6%、キリスト教 「少数民族」と称される人々が 0.3%生活している。本 徒が 0.3%(BBS, 2005:p.xx.)38、そして、 来のイスラーム教徒は、それぞれの宗教や立場を受け容れる立場にあり、 「神はそれぞれの心の中にあ る」と語る人々のあいだでは、宗教的対立等はないかのように見える。しかしながら、少数民族が抱 える問題は深刻である。 少数民族が多く生活しているのはチッタゴン丘陵地域で、現在、バンダルバン県、ランガマティ県、 カグラチャリ県の 3 県がある。面積は 5,093 square. miles で、バングラデシュ全土の約 10%を占め 。ここで生活する人々は、主に焼畑農業を通して食料の自給を達成してき ている(Roy , 2000:p.1.) た。ところが、外国援助による開発や政府による政策が、ここで生活を営んでいた人々のさまざまな 権利を剥奪してきた。 援助・開発の中心となったのは、カプタイ・ダム建設である。第 1 ダムの建設は、アメリカ政府の 援助で 1957 年から 1963 年にかけて行われた。このダムは、カルナフリ川を堰きとめて建設され、当 時、東パキスタン総発電量の約 6 割をまかなうものであった。ダムの広さは 1.036Km²(東京都の面 積の約半分に相当する)にも及ぶ巨大なもので、チッタゴン丘陵地帯の一般耕作地の約 4 割(250 square miles)を水没させ、約 10 万人が強制移住させられた(Chowdhury, 2001:p.53.) 。当時、ア 35 「バリ」は、屋敷地を意味する用語でもあるが、農村では、複数家屋(それぞれの世帯は、おおむね親 族によって構成されている)による居住空間を意味している。その場合、伝統的には、作業場を兼ねた中 庭を囲むようにして家屋が建設されている。それぞれの世帯は夫側親族で、なおかつ父親とその息子たち の家族を中心として構成されている。つまり、娘(女性)は結婚後に夫のバリで生活するようになるのが 一般的とされている。但し、第 5 章で見るように、何ら親族関係がなくても、相互扶助関係を基盤として バリを形成している例も見られる。 36 黒が一般的であるが、中には模様のある製品も見られる。 クミッラ県チャンダィン郡で大学教員をして いる友人(コトワリ郡在住)も、出勤時には必ずこの衣装を身につけている。通勤時間はバスで片道約1 時間を要するが、とりわけ雨季は暑くて仕方がないと話している。だが、この衣装なしで外出することは 今のところ考えられないと言う(2006 年 3 月) 。 37 ダッカでは、女性が物乞いをする際、その殆どが乳児を抱きかかえている。だが、その子どもたちが彼 女たちの実子とは限らない。乳児を抱えているほうが困窮状態を表現できると考え、乳児のいる貧困層か ら子どもを借りている。交通事情が甚だ悪く、大気汚染が深刻なダッカで、車道に下りてまで小銭を求め るのであるから危険極まりない。 38 この統計数値では、イスラーム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒、キリスト教徒の合計割合が 97.7%とな る。少数民族の統計数値について、この項では記載されていない。 15 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) メリカ政府から 2 億 8000 万ルピーがこうした人々の生活復興資金として援助されたが、 政府は、 2000 万ルピーしか受け取っていないとしている39。その後、1981 年から 1984 年にかけて日本ODAが「カ プタイ水力発電施設プロジェクト」に供与しており、総額は 149 億 3000 万円にものぼる40。また、 2000 年度にも、 「カプタイ水力発電所6、7号機拡張事業」に 21 億 9600 万円を供与している41。 元来、チッタゴン丘陵地域は、現在のバングラデシュにおいて「少数民族」と称される人々が生活 していた場所で、1951 年当時、こうした人々の占める割合は 91%であった。ところが、その比率は、 1974 年に 88%、1981 年に 59%と次第に縮小していった。そして、1991 年には、少数民族の占める 割合が 49%となり、半数を下回ったのである(Chowdhury, 2001:p.52.) 。同年の少数民族の人口は 50 万 1144 人で、 これ以外の人々の多くは、 政府の政策によりチッタゴンに移動してきた人々である。 政府は、イスラーム教徒への同化政策を強行するために、チッタゴン丘陵地域に多くのベンガル人を 移動させると同時に、軍を配置してきた。こうした一方的な政策に対して、人々は強く抵抗してきた。 そして、さまざまな対立の中で犠牲を強いられてきたのは、常に少数民族である。 こうした状況に対して、1997 年 12 月、当時のシェイク・ハシナ(Sheikh Hasina)首相(アワミ 連盟)のもとで、バングラデシュ政府と丘陵民族統一党(PCJSS ; Parbattya Chattagram Jana Sambati Samity)との和平協定が締結された。現地で少数民族と称されている人々は、このこと自 体を大きく評価している。だが、シェイク・ハシナ政権にしても、ダッカでスラム強制撤去を強行し、 居住地を失った人々をチッタゴン丘陵地に移動させる計画を打ち出していた42。 そして 2004 年現在、 極右とさえ言われるBNP(カレダ・ジア首相)政権下で、さまざまな暴行や嫌がらせが横行している。 それらは、チッタゴン丘陵地域のみならず、各地に居住するヒンドゥー教徒にも暴行が及んでいると いう。こうした事態は、現地で発行されているThe Daily StarやIndependent等の英字新聞には決し て掲載されないという。つまり、バングラデシュ政府は、こうした暴行等が世界的なニュースになら ないよう隠蔽することに懸命である。事実、チッタゴン丘陵地域の少数民族の問題を真っ向からとり 上げている研究者は、現地滞在ビザを取得しにくい状況におかれている。農村の貧困層のみならず、 少数派においやられた人々もまたさまざまな権利を剥奪されている43。 3.2 独立に至るまでの背景と諸外国の関与 (1)言語公用語化運動(1948 年~)とショヒド・ミナルの建設(1952 年) 東パキスタンの独立・解放運動は、言語公用語化運動に端を発している。パキスタンとして東西に 分かれてイギリスから独立した後の 1948 年 3 月、パキスタン建国の父とされるジンナー (Muhammmad Ali Jinnah)は東パキスタンのダッカを訪れ、30 万人以上の人々に対して演説を行 い、またダッカ大学修了式にも参列した。彼はそれらの席上で、パキスタンの公用語としてウルドゥ ール語のみを使用する政策を強要した。ベンガル語を母語とする人々は、ジンナーの発言、すなわち 西パキスタンの政策に抵抗を示し、学生や知識人を始めとする人々によってベンガル語公用語化運動 が展開されていった。 こうした東パキスタンの動きを西パキスタンは武力で制圧しようとしたため、1952 年 2 月 21 日、 決定的な事件が生じた。ベンガル語公用語化を強く要求していたダッカ大学学生の集会・デモに西パ キスタンの警察・軍隊が乗り込み、彼らの発砲によってバルカト、サラム、ラフィク、ジャッバル (Barkat、Salam、Rafig、Jabbar)が死亡、そして多数の負傷者が出た。だが、東パキスタンの人々 http://www2.gol.com/users/tomedw/jyousetu/history2.htm 供与額内訳は、1981 年に 2 億 5000 万円、1982 年に 40 億円、1984 年に 106 億 8000 万円となってい る(OECF, 1999:p.23.)。 41 (交換公文ベースの額) http://www.mofa/gp/jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/jisseki/kuni/04_detabook/02_aw_a参照。 42 The Daily Star, August, 2000. 43 チッタゴンを離れ、ダッカで生活している友人(名前を明かさないよう念をおされている)からの聞き 取り調査による。 39 40 16 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) は、西パキスタンによる弾圧に屈することはなかった。一両日後の 23 日、人々は煉瓦や石灰粉をも ちより、犠牲者の碑・ショヒド・ミナル(Sahida Minara)を建設して彼らの死を悼んだ。その後、 ショヒド・ミナルは、抵抗運動の象徴的な記念碑となって東パキスタン全土に建設され、人々は、西 パキスタン政府による弾圧を非難し、ベンガル語公用語化をスローガンとして大規模な抵抗運動を展 開していった。ダッカ大学にあるショヒド・ミナルは、西パキスタンによって 2 度も破壊されている が、それぞれ再建され、そこでは、毎年 2 月 21 日に慰霊祭(Sahida Dibasa)が行われている。人々 は、この運動で生命を落とした学生たちを「祖国建設のために尽力した偉大な人々」と敬意を表し、 祈りを捧げている44。このことに関して言えば、現在も、大多数の人々の中にパキスタンへの怨念が 刻みこまれている。しかしながら、それが決して全てではない。 「大国の関与によって、私たちの生活 が切り刻まれてきた」ととらえられてもいるのである。 (2)援助と東西パキスタンの格差(1949-50~1969-70 年) ダッカ大学経済学科政治経済学担当のA教授を始め、この当時の現状を知っている人々は「東パキ スタンは、西パキスタンによる植民地的な扱いを受けていた。そのことが最重要問題である」45と述 べている。この指摘は、西パキスタン政府による対東パキスタン政策が、言語使用の強制にとどまる ものではないことを意味している。そこで、先ず基本統計を通して東西パキスタンの格差を見てみよ う(表 0-1 参照) 。東西パキスタンとしてイギリスから独立した直後(1949-50 年)のGDPを見ると、 東パキスタンは 131 億 3000 万ルピー、西パキスタンが 118 億 3000 万ルピーであった。同年の人口 は東パキスタンの方が多く、4300 万人、西パキスタンは 3600 万人で、1 人当たりGDPは、それぞれ 305 ルピー、330 ルピーであった。つまり、1949-50 年のGDPは東パキスタンの方が上位にあり、東 西パキスタンの 1 人当たりGDPにおいても、大きな開きはなかった。また、産業部門別のGDPを見 ると、GDPに占める農業生産高の割合は、東パキスタンが 64.7%(85 億ルピー) 、西パキスタンは 49.8%(58 億 9000 ルピー)であるが、GDPに占める大規模製造業の割合は、東パキスタンが 1.4% (1 億 2000 万ルピー)にしかすぎず、西パキスタンでも 3.1%(1 億 8000 万ルピー)であった。こ の時点では、農業、そして大規模製造業のGDPに占める割合において、東西パキスタン間に大きな開 きはなかった。しかし、西パキスタンによるその後の政策は、東パキスタンの製造工業の発展を大き く遅らせ、さまざまな領域において、東西パキスタン間の経済格差を拡大させた。 それは、バングラデシュ独立直前の 1969-70 年の基本統計において確認することができる(表 0-1 参照) 。この年の GDP を見ると、東パキスタンが 223 億 8300 万ルピー、西パキスタンは 318 億 8300 万ルピー、その結果 1 人当たり GDP は、東パキスタンが 308 ルピー、西パキスタンは 498 ルピーと なり、西パキスタンの方が大きく上回っている。その理由は、鉱業、製造業、サービス、金融保険、 貿易といった各産業部門や行政部門、そして軍事中枢部門に至るまで、西パキスタン側に集中してい たからである。さらに、農業生産高においては、東パキスタンが 123 億 4400 万ルピー、西パキスタ ンは 122 億 4900 万ルピーと、東西パキスタンが同水準の生産高を示しているが、東パキスタンの農 業生産高の大部分を占めているジュートは輸出に向けられ、そこで得られた外貨は貿易を通して西パ キスタン側が獲得していた。そのうえ、東パキスタンには、西パキスタンから派遣された軍隊が常駐 し、人々の言論・行動が統制されていた。このような国内植民地政策を後押ししていたのは、アメリ カや世界銀行を始めとする外国援助である。23 年間を通して外国援助の約7割は西パキスタンに 供与され(表 0-2 参照) 、それらが、東西パキスタンの格差に影響を及ぼしていた。 44 このことは、現地でなお多くの人々によって語り継がれている。また、ダッカにある解放戦争記念館 (Liberation War Museum)では、言語公用語化運動や独立戦争の状況を紹介・説明している(2002 年 8 月 31 日訪問・聞き取り調査)。また、この出来事にちなんで、ユネスコは、2 月 21 日を Mother’s Language Day としている。 45 A 教授からの聞き取り調査は、2002 年 8 月 29 日、ダッカ大学経済学科で行った。 17 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 表 0-1 : 東西パキスタンの基本指標(1949-50 年と 1969-70 年) 1949-50 年 年 項目 合計 農業 14669 鉱業 27 製造業 単位 : 百万ルピー 1969-70 年 東パキスタン 1433 _ 西パキスタン 合計 東パキスタン 西パキスタン 8500 _ 5890 _ 24593 12344 12249 158 10 148 _ _ 130 _ 6540 _ 1993 _ 4547 _ 2728 1354 1374 建設業 238 120 _ 通信業 1239 _ _ 3595 1300 1295 貿易 2856 _ _ 6705 2508 4197 サービス 1513 _ _ 3521 1133 2388 行政及び防衛 1063 _ _ 3310 503 2807 住宅 1387 _ _ 2296 1172 1124 77 _ _ 830 66 764 24502 13130 11830 54266 22383 31883 128 _ 72.6 55.4 308 498 大規模製造業 銀行、保険 GDP 人口(百万人) 1 人当たり GDP(ルピー) 79 43 36 311 305 330 注 1:_はデータが記載されていない。 2:農業の 1949-50 年の合計数値が合わないが、そのまま記載している。 出所 : A.M.A.Muhith, Bangladesh-Emergence of a Nation, Dhaka: The University Press Limited, 1992. p.94. 表 0-2 : 東西パキスタンへの外国援助額(1947~1970 年) 援助項目 東パキスタン 西パキスタン プロジェクト・ローン 417 608 ノン・プロジェクト・ローン 408 673 PL480(食糧援助) 445 791 無償融資 352 623 無償プロジェクト・技術協力 商品無償 インダス川基金 合計 56 140 263 0 575 1941 4105 756 中央 単位 : 百万ルピー 合計 108 1133 53 1134 5 1241 11 986 200 396 15 793 0 756 392 6439 出所 : Ibid., p.105. このような状況に対して、アワミ連盟 46 総裁のシェイク・ムジブル・ラーマン(Sheikh Mujibur Rahman)は、東パキスタンの自治、東西パキスタンの連邦制、外国貿易・外貨収入の勘定を別にする、 東パキスタン独自の軍もしくは準軍隊を持つ等を求める6項目案を 1966 年 2 月に提起し、 「ベンガル 人の権利を保障するための青写真」と評した(Muhith, 1992, p.138.) 。これに対して危機感を募らせ たアユブ・カーンは、同年 3 月、6項目案を糾弾するために東パキスタンに滞在し、 「決して成し遂 げられることのない忌まわしい夢」と非難した。東パキスタンで生産されるジュートに依存して外貨 46 アワミ連盟は、1949 年にアワミ・ムスリム連盟として結成され、1952 年にアワミ連盟に改名された。 インドの国民会議派のような政治集団と言われている。 18 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) を獲得していた西パキスタンにとって、もはや東西の分離は死活問題であった。そのため、6 項目案 実現を恐れたアユブ・カーン(Field Marshall Ayub Khan)によって、1967 年 4 月、ムジブル・ラ ーマンは逮捕された(Muhith, 1992:pp.140-141.) 。また、6 項目案の要求は、隣国インドとの共謀 によるものととらえられ、ムジブル・ラーマンは、拘束されたまま、1968 年 11 月にアガルターラ陰 謀事件の主犯として裁判にかけられたのである(Muhith, 1992:p.153.) 。 ムジブル・ラーマンを支持する学生を始め、大勢の人々は、集会・デモ・ストライキを行い、大規 模な反アユブ・カーン運動を展開していった(Muhith, 1992:p.155.) 。これにより、1969 年 2 月に ムジブル・ラーマンは釈放され、アユブ・カーンは退陣した。しかしながら、アユブ・カーンは、軍 事独裁政権を温存するために次期大統領としてヤヒア・カーン(Mohammed Yahya Khan)を指名し た。こうした独裁政治に対して、東パキスタンのみならず、西パキスタンにおいても「直接選挙」を 要求する運動が高まり、 1970 年 12 月 7 日にようやく直接選挙が実施された (Muhith, 1992:p.192.) 。 その結果、アワミ連盟は、国民議会 313 議席の過半数を占める 167 議席を獲得して第 1 党となり、パ キスタン人民党は、88 議席を獲得して第2党となった。州議会の選挙結果を見ても、アワミ連盟は、 東パキスタン州議会 300 議席のうち 288 議席を獲得して第 1 党となった。パキスタン人民党は、パン ジャーブ州 180 議席のうち 113 議席、スィンド州 60 議席のうち 32 議席を獲得して第 1 党となった が、北西辺境州では、全国人民党ワリー派が 40 議席中 13 議席を獲得して第1党となった(パキスタ ン人民党は 3 議席のみ獲得した) 。また、バルーチスターン州においても、全国人民党ワリー派が 20 議席中 8 議席を獲得して第一党となり、パキスタン人民党は 1 議席も獲得できずに完敗した。これら の選挙結果によって、ヤヒア・カーンは大統領の権限をムジブル・ラーマンに委任するべきであった。 しかし、彼は 1971 年 3 月に予定されていた国会の召集を無期延期してしまった。 (3)自治・連邦制の要求(1966 年)から独立・解放戦争(1971 年)へ こうした事態に対して、東パキスタンの不満・抗議行動は一段と勢いを増し、それらは、西パキス タンからの完全分離を求める独立・解放運動に発展していった。このとき、ムジブル・ラーマンは、 マハトマ・ガンジー(Mahatma Gandhi)の「非暴力・不服従」47に倣い、商店、工場、事務所等の 一斉休業等ゼネラル・ストライキ(ホッタール)を指示した(Muhith, 1992:pp.212-214.) 。東西パ キスタンの緊張関係が高まる中、ヤヒア・カーンがアワミ連盟と交渉するためにダッカに出向き(3 月 15 日) 、翌 16 日から両者の交渉が始まった(Muhith, 1992:p.221.) 。多くの人々は、この交渉に 平和的な解決の実現と未来への希望を託していた。だが、武力による衝突が避けられないということ を予期していた人々もいたという。そして「バングラデシュの独立」を求めて譲らないムジブル・ラ ーマン率いる東パキスタンに対して、同月 25 日夜、西パキスタンによる一方的な武力行使が行われ た。西パキスタン中央政府軍は、解放・独立運動の象徴であるショヒド・ミナル、そしてダッカ大学 を破壊し、ラジオ局、警察署、新聞社などを攻撃した。その翌日には、東パキスタン住民に対して無 差別虐殺を断行したため、子ども・女性を問わず、多くの市民が戦争に巻き込まれ、ムジブル・ラー マンは再度拘束された。一方、ヤヒア・カーンは、東パキスタンが戦場と化す前に(3 月 25 日) 、西 パキスタンへと脱出した。現地の人々にとって、この 3 月 25 日は、決して忘れることのできない日 となっている。独立・解放運動(戦争)において、人々は「Joy Bangladesh」 「Struggle for Freedom」 を掲げて闘ってきたと言う。これは、ムジブル・ラーマン自らが 1971 年 3 月 7 日にダッカのレース・ コース・グラウンドで大勢の聴衆を前に行った演説内容の骨子であり「バングラデシュの自由と独立 を勝ち取るためには犠牲を払ってでも闘う」ということを意味している48。 マハトマ・ガンジーの思想については、M.K.ガンジー : 1999 年, 西川、1995 年 7 月, J.S.マトゥール(講 演、西川訳) 、1984 年等を参照。 48 演説のタイトルは、The Struggle this time is for Emancipation! The Struggle this time is for Independence ! と記載されている(Poet of Politics-Farther of the Nation Bangabandhu Sheikh Mujibur Rahman, Farther of the Nation Bangabandhu Sheikh Mujibur Ragman Memorial Museum, 47 19 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) ところで、こうした戦火から逃れるために、多くの人々、特にヒンドゥー教徒が国境を越えてイン ドに渡ったのであるが、その数は 1971 年 10 月には 950 万人にも達していたという。多くの難民を 抱えることになったインドでは、アメリカ・イギリス・フランス・旧ソビエト・旧西ドイツ等が西パ キスタンを説得するか、もしくは圧力をかけることによって事態の解決を図りたいと考えていた。そ のため、インディラ・ガンジー(Indira Priyadarshini Gandhi)首相はこれら諸外国を歴訪したが、 期待したような支持は得られなかった49。その後、1971 年 12 月にインドが参戦したことからそれら は印パ戦争へ拡大し、アメリカ・旧ソビエト・中国が関与するのであるが、これら諸外国にはさまざ まな思惑があった。 先ず、アメリカについてであるが、西川は「もともとアメリカは、50 年代の始めに、共産主義封じ こめ戦略の枠内でパキスタンに接近し、武器・食糧援助をてことして、この国の経済に大きな影響を 与えることになった」と論じており、バングラデシュの独立については、 「アメリカは、ソ連と結んだ インドを抑えるためと、より一般に下からの民族主義による現状攪乱が共産主義の進展を招くとの認 識から、パキスタンに積極的にてこ入れした」と論述している(西川、1976 年:34-35 頁) 。 また、ダッカ大学のA教授は、 「西パキスタンは、1950 年代後半から反共同盟に加盟していたため、 アメリカから援助金供与という多大な恩恵を受けていた。そのうえ、ニクソン・キッシンジャー政権 率いるアメリカは、民主主義を標榜して独立を勝ち取ろうとする東パキスタンを嫌悪していた。その ため、3 月 25 日に始まった西パキスタン中央政府軍による無差別虐殺を容認していた。そして、東パ キスタンでの戦火が全土に拡大した 4 月には、ピンポン外交に明け暮れていた」と述べている50。ま た、この外交における仲介者の 1 人がヤヒア・カーンであった(ヒッチンス、2002 年)51、というこ とが指摘されている。こうした背景が、ヤヒア・カーンの軍事・独裁政治に拍車をかけていたとも考 えられる。 次に、中国はヤヒア・カーンの軍事政権を支持していた。このことについて、丸山は「中国の内政 問題への影響を考慮してのこと」と指摘している。つまり、東パキスタンを支持した場合、中国内で 自治運動、分離・独立運動がおこったさい、これを抑えることができなくなる。ましてや台湾の独立 運動を否定する論理的根拠を失う」52ということである。 このように、米・中が西パキスタンを支持していた状況下で、インドの参戦は西パキスタンの軍を 制圧し、1971 年 12 月 16 日にパキスタンは無条件降伏を決めた。このことについて、バングラデシ ュの人々は、 「インドの参戦がなければ、バングラデシュの独立は実現しなかったであろう。恐らく、 戦争は長期化し、ベトナム戦争のような惨状を余儀なくされていただろう。それゆえ、私たちはイン ドの参戦に感謝している」と述べる一方で「インドがバングラデシュを支えたのは、残念ながら解放・ 独立運動(戦争)の9カ月のみであった」と口にしている。 3.3 独立後の政治・経済と社会開発(1971 年~) 3.3.1 政治・経済 独立したバングラデシュの初代大統領に就任するため、1972 年 1 月 10 日に帰国したムジブル・ラ ーマンは、絶対的な信頼と支持を寄せる群衆から歓迎を受けた。その後、彼は「民主主義」 「民族主義」 「非宗教主義」 「社会主義」からなる共和制国家の 4 原則を宣言した。また、同年 3 月には「基幹産 Bangabandhu Bhavan, 18 October,1996. pp.20-27). また、この演説を録音したテープが現在でも販売さ れている(2004 年 12 月、クミッラ県ダウドゥカンディ郡のバザールでは 1 本 35 タカであった) 。彼を信 望する人々は、この演説内容を聞くたびに胸が熱くなると話している。 49 丸山静雄「特集・火を噴く印パ国境 その1矛盾の集約点・東パキスタン」 『朝日ジャーナル』 (13 巻 47 号) 、1971 年 12 月 10 日、6 頁。 50 ダッカ大学、A 教授からの聞き取り調査による(2002 年 8 月 29 日) 。 51 1971 年当時、ワシントンと中国をつないだもう 1 人の人物がチャウシェスク(ルーマニア)であったこ とが記載されている(同、74 頁) 。 52 丸山静雄、前掲雑誌、8 頁。 20 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 業の国有化」政策を発表し、祖国再建に取りかかった。独立・解放戦争による物理的破壊、1972-73 年の失業者率 38.8% (Planning Commission, 1998:p.9.)という状況の中で、翌 1973 年には第1次5 ヵ年計画(1973-78 年)策定に着手している。その序文では「これまでの復興事業や開発、すなわち 数十年間のネグレクトによって生じたギャップを埋めるのは極めて大がかりなことであるが、今後5 年間という短い期間内では、先ず貧困削減から着手する」 (Hasnat, 1996:pp.53-55.)と述べ、大量 に存在する失業者および潜在的失業者の雇用機会創出が優先課題として掲げられた。この計画での最 大の投資は、年間 260 万人の雇用創出を見込んだ農業部門に当てられている。この 260 万人のうち、 130 万人の不安定就業者を従来の農業部門で吸収し、残り 130 万人には新たな雇用機会を提供するこ とが計画されていた。この雇用創出の数は、年間を通して、Rural Works Programme 、治水事業、 灌漑事業で 50 万人、建設サービス部門で 106 万人、工業・電力・ガス部門で 65 万人、社会部門で 59 万人とそれぞれ見込まれている。よって、農業部門の 130 万人と合わせると、合計 410 万人の雇 用創出を実現することが期待されていた。これらの背景には、都市への人口流出を抑制しようという 意図もあった。また、財政政策(有効需要政策) 、価格政策、日用必需品(食料、衣類、灯油、砂糖) の生産拡大、富裕層の収入・消費を維持するための収入上限設定等が採られた。こうした政策を通し て、ムジブル・ラーマン率いるアワミ連盟は、国民所得 1 人当たり 2.5%増という目標を達成したい と考えていた。 しかしながら、9 ヵ月に及ぶ内戦で家屋・道路等は破壊され、経済復興への道は容易ではなかった。 そのうえ、1974 年の大洪水が追い討ちをかけ、多数の死者が出た。戦争による国土の荒廃や洪水の被 害に対する政府の無策が国民の不満・反感を募らせ、1975 年 8 月 15 日にムジブル・ラーマンとその 家族 40 数人は暗殺された、と報告されることが多い。しかし、ムジブル・ラーマン暗殺の背景には、 アメリカCIAの関与があったことがロウレンス(Lawrence Lifschultz)によって指摘されている53 (詳細は、第2章第2節を参照されたい) 。ダッカのダンモンディ地区には、ムジブル・ラーマンが暗 殺された当時の家屋敷地と銃撃の跡が保存されているが、こうした状況についての現地での追跡調査 は困難である。 ムジブル・ラーマン暗殺後、コンダカル・ムスタク・アーメド(Kandakar Mushtaq Ahmed)が 大統領として就任するが、同年 11 月の軍事クーデターにより大統領を辞任した。このクーデターは、 ムジブル・ラーマン暗殺後の戒厳令下で実権を握っていた陸軍参謀総長ジアウル・ラーマン(Ziaur Rahman)によるものであった。彼は 1977 年 4 月に大統領に就任し、自らの権力の受け皿として BNP (Bangladesh National Party ; バングラデシュ民族主義党)を結成している。また、憲法改正を行い、 「国家四原則」の中から「非宗教主義」を削除し、イスラーム色を強化すると同時に、 「社会主義」を 「経済・社会正義」に変更した。 その後 1981 年 5 月にジアウル・ラーマンはチッタゴン市内でモンジュル少佐に暗殺され、アブド ゥール・サッタルが後継者となる。だが、1982 年 3 月の無血クーデターで同政権は終わりを告げ、 同年 12 月、陸軍参謀総長を務めていたホセイン・モハマド・エルシャド(Hossain Mohammed Ershad) が大統領に就任した。このエルシャド政権は事実上の軍事独裁政権であり、国民は 2 度目の戒厳令下 におかれた。この間、第2次 5 ヵ年計画(1980-85 年) 、第 3 次 5 ヵ年計画(1985-90 年)による政 策目標が掲げられている(Hasnat, 1996:pp.55-66.) 。前者では、基本的ニーズを満たすことにより 顕著な生活水準向上を達成すること、労働力人口の増加率を上回る雇用創出を図ること、食料生産の 促進(加速化) 、社会的不公正改善のために、所得・資源・機会を均等に配分化すること等が課題とし て掲げられた。後者では、人口増加率の抑制、雇用機会の拡大、初等教育の充実と人的資源の開発、 食料自給等が課題として掲げられた。そして、これらの目標を達成するために、とりわけ輸入代替工 業から輸出志向工業化への政策転換が謳われた。 エルシャド政権は、軍部を政治基盤とする独裁体制下でムジブル・ラーマン以来の国有化政策の転 換を図り、銀行やジュート工業等の民営化を促進して市場経済化や貿易の自由化促進に力を入れた。 53 Lawrence,1979, The Daily Star, August, 15-20, 2000. 21 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) こうした政策の実施は、1980 年以降、IMF の構造調整政策の実験的ケースとして導入された経済安 定化プログラムによるものである。だが、1984-85 年の失業率は 34.6%にのぼり、1977-78 年の 33.2% を上回ってしまった(Planning Commission, 1998:p.9.) 。また、市場経済化や貿易自由化によって ごく少数の富裕層に富が集中するようになり、農村経済はますます困窮化していった。その結果、GNP の上昇率は、混乱状態にあった独立直後の第1次5ヵ年計画期間(1973-78 年)よりも低下し、第2 次5ヵ年計画期間で 3.5%、第 3 次5ヵ年計画期間で 3.8%に止まった(Planning Commission, 1998: p.2.) 。一方、前述したチッタゴン丘陵地域に居住する少数民族への暴行が勢いを増し、多くの人々が 国境を越えて避難することを余儀なくされた。また、軍事予算は拡大し、軍人の要職への登用、軍人 の給与面での優遇措置といった独裁的な政治体制が採られた。これらに対して国民の不満が高まり、 再度民主化を求める運動が学生・労働者を中心として拡大し、1990 年 12 月にエルシャド軍事政権は 終わりを遂げた。 1991 年2月に実施された国民選挙では、故ジアウル・ラーマンの妻ベグム・カレダ・ジア(Bugum Khaleda Zia)を党首とするBNPが再び第1党となった。カレダ・ジアは、直ぐさま憲法を改正して議 員内閣制を復活させた。第 4 次5ヵ年計画(1991-95 年)では、従来からの雇用機会の創出、貧困緩 和、人的資源の開発が最優先課題として打ち出された(Hasnat, 1996:pp.66-69.) 。マクロ的な目標 としては、505 万人の雇用機会の創出や国内総生産年間成長率5%の達成等が掲げられた。そして、 1980 年代の構造調整が貧困層に及ぼした悪影響に対応するために貧困緩和プログラムを開発志向型 へと転換すること、それに伴い、NGOとの共同でプログラムを展開する必要性が認識されるようにな った。計画では、農村開発プログラムへの参加として、村から郡までの地方政府レベルの参加と開発 活動に従事するNGOの参加を求めている。また、1990 年にNGO局が設置されているが、これにより、 NGOがよりスムーズに活動できるようになることが期待されていた54。だが、第 4 次 5 ヵ年計画が実 施された 1991 年から 1995 年にかけての絶対的貧困者数は 5,160 万人から 5,530 万人へと増加し (BBS, 1999:p.602.) 、社会問題も増大する中で、GDP年間成長率は 3.8%に止まった。 そして、1996 年 6 月の総選挙でアワミ連盟が独立以降 2 度目の政権を握り、故ムジブル・ラーマ ンの長女シェイク・ハシナ党首が首相に就任した。そこで立案された第 5 次5ヵ年計画は、以下のよ うになっている(Planning Commission, 1998:pp.43-44.) 。①経済成長率年間平均 7%台達成によ る貧困緩和、所得水準向上と基本的ニーズ充足による生活水準の著しい向上、②農村地域の雇用と所 得の増大を達成するために、農村経済に多くの村民と大量の資源を投資して村民の質的な生活改善を 図る、③農村社会経済構造の改善と諸資源へのアクセス増加によって農村貧困層自身が自らの生活を 構築する力をつける、④最短期間で、自給自足を上回る食料生産と輸出向け高付加価値製品の多様化 と生産向上の達成を図る、⑤初等教育の充実と人的資源開発や知識社会の構築、⑥電力やガス、その 他の天然資源開発などへの基礎インフラ整備による成長促進とマーケットの整備、並びに地方のイン フラ整備、⑦チッタゴン丘陵地域、北西部、沿岸部等、これまでに取り残されてきた地域の開発、⑧ 人口増加率の縮小並びに保健サービスと母子の栄養改善、⑨リサイクルや天然資源の適正利用に焦点 をあてた環境保護、⑩女性の識字・教育や雇用を通してジェンダー格差を改善する、⑪社会的公正の 確立と社会的弱者層に対するセーフティ・ネットの形成、⑫地方政府の効率化を図り、なおかつ NGO との連携を通して開発プログラムを実施する。この点においては、とりわけ、BRAC を代表とする現 地 NGO やグラミーン銀行によるマイクロクレジット事業を貧困層に到達している成功例として掲げ、 NGO に関連する法令として、東パキスタン時代の 1961 年 Voluntary Social Welfare Agencies (Registration and Control)Ordinance が、独立後の 1978 年には、Foreign Donation(Voluntary Activities) Relation Ordinance が制定された(Ahmed, 1991:p373.) 。後者が制定された背景には、外国から資金援 助を受ける NGO 及び援助額等を把握しようという意図があるが、これ以降、NGO の活動を開始するため の手続き等が煩雑になった。NGO 局は、それらの解消を目的として設立されているが、現地 NGO 関係者 の中には、政府役人の態度を問題視している人も見られる。なお、NGO 局に登録している全 NGO は、 NGO Affairs Bureau, 2003 に掲載されている。 54 22 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) こうした市民社会との連携の重要性を謳っている(Planning Commission, 1998:p.9.) 。 また、社会開発の課題として、2015 年までに達成すべき具体的な目標(数値)が設定されている(表 0-3 参照)。さらに、ジェンダー格差(表 0-4 参照)を 2010 年から 2015 年にかけて根絶させることを 目標としている。その達成度について、1998 年の全国平均値を見ると(表 0-5 参照) 、乳児死亡率 57 人(1,000 人中) 、幼児死亡率 7.3%、平均寿命 60.6 歳となっている他、人口増加率 1.46%(2001 年) (BBS, 2002:p.27.)となっており、これらの項目に関しては目標基準を上回っていることが分かる。 表 0-3 : 社会開発の課題-2015 年までの達成目標 年 1990 2000 2004 2006 2010 2015 項目 絶対的貧困者の割合(%) 59 50 45 43 35 25 最貧困者の割合(%) 28 19 15 13 9 5 成人識字率(%) 35 56 64 69 79 90 初等教育機関への就学率(%) 56 75 81 84 92 100 中等教育機関への就学率(%) 28 65 71 80 85 95 乳児死亡率(人/1,000 人中) 94 66 56 48 37 22 幼児(5 歳未満死亡率(人/1,000 人中) 108 94 80 70 52 31 妊産婦死亡率(人/1,000 人中) 480 320 295 275 240 147 平均寿命(歳) 56 61 64 66 69 73 人口増加率(%) 2.1 1.6 1.5 1.5 1.4 1.3 全人口に占める子どもの割合(%) 67 51 48 42 34 26 出所 : Economic Relations Division, Ministry of Finance, A National Strategy for Economic Growth, Poverty Reduction and Social Development, March 2003, p.25. 表 0-4: ジェンダー格差(1991 年) 単位 : % 高等学校就学 7 歳以上識字率 体重不足 重度の体重不足 5 歳未満児死亡率 80 33 8 26 133 注 : 数値は、男性もしくは男児を 100 とした場合の女性もしくは女児の比率を示している。 出所 : Ibid. 表 0-5: 基本指標(1998 年) 乳児死亡率(人/1,000 人中) 幼児(5 歳未満死亡率、%) 男女平均 女児 男児 平均 女児 男児 全国平均 57 58 56 6.3 6.6 5.4 農村平均 66 64 68 7.3 7.5 7.0 都市平均 47 49 45 5.4 6.1 5.0 出所 : Bangladesh Bureau of Statistics, op.cit., 2002, pp.40-41.より作成 平均寿命 平均 女性 男性 60.6 60.5 60.7 59.9 59.8 60.0 62.5 60.0 62.7 だが、1998 年時点でのジェンダー格差並びに農村と都市との格差は顕著である。中でも、幼児死亡 率は農村に居住する女児が最も高く、平均寿命は農村に居住する女性が最も短い。さらに、成人識字 率は目標数値には及ばず、2002 年でも 49.6%に止まっている(BBS, 2002:p.630.) 。そして、1995 年から 2000 年にかけての絶対的貧困者について見ると(BBS , 2002:p.699.) 、その割合は 47.5%か ら 44.3%へと減少しているが、総数は、1995 年の 5530 万人から 5590 万人へと増加している。中で も、都市の絶対的貧困者数は 960 万人から 1320 万人へと急増しており、都市居住者に占める絶対的 23 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 貧困層の割合も 49.7%から 52.5%へと増加している。これは、1991 年から 1995 年までの間の増加 率を上回っている。その背景にあるのは、農村に居住する貧困層のダッカへの移動である。こうした 現象に伴い、スラム居住者も増大の一途を辿るようになり、政府は、スラムの形成を深刻な社会問題 としてとらえるようになった55。そして 1999 年 10 月にバングラデシュ統計局からCensus of Slum Areas and Floating Population 1997 が発行され、その後、ダッカ市内のスラム撤去が勢いを増して いった。こうしたスラム強制撤去に伴い、スラム居住者を対象として支援活動を行っていた現地 NGOの活動が頓挫してしまった。政府はNGOとの連携を掲げておきながら、これらNGOがスラ ム居住者を対象に活動しているのは、諸外国からの援助金を確保するためであるといった批判さ えしている56。 一方、ハシナ政権下ではチッタゴン丘陵地域における問題解決が重要案件と掲げられ、前述したよ うに、1997 年 12 月、バングラデシュ政府と丘陵民族統一党との和平協定が締結された。この協定は、 丘陵地域での内戦を公式的に終結させるうえでは重要な意味を持っており、当時は高く評価されてい た。また、同年 7 月には、チッタゴン丘陵帯省(Ministry of Chittagong Hill Tracts Affairs)が設立 されている。だが、長期に及んで蓄積されてきたチッタゴン丘陵地域での問題は、こうしたプロセス のみで早急に解決されるものではない。 そのうえ、 2001 年の総選挙で再度 BNP 政権が誕生して以来、 少数民族への暴行が激しさを増しているのみならず、アカデミック・ハラスメントが横行している。 実際、 2002 年には数ヵ月間ダッカ大学が封鎖され、 講義が行われていない状態だった。 これに対して、 キャンパス内では、 「我々に学問の門戸を解放せよ!」と女子学生たちが集団で抗議のデモ行進を行っ ていた。また、対立する 2 大政党が交替して政権を握る中で両者の対立は激しさを増し、政治的な不 安定が今日まで続いている。 こうした状況の中、近年では、最大の野党勢力であるアワミ連盟への嫌がらせが続いている。筆者 がダッカに滞在中の 2002 年 8 月 30 日、シェイク・ハシナ一行が乗車していた車輌に銃が向けられた 57。その知らせはあっという間に拡がり、この日は深夜に至るまで戸外が騒々しく、人々の興奮状態 が伝わってきた。翌 9 月 1 日には野党によるホッタールが行われ、外出困難となった。また、2004 年 8 月 21 日、ダッカのアワミ連盟本部前で、ハシナが演説を終えた直後に連続して爆弾が爆発した。 これにより、10 数人の死者と 150 人以上の負傷者を出した。犯行声明は出されていないが、ハシナ を狙ったテロと言われており、彼女は軽い傷を負った58。過去に家族が銃殺された際、イギリス留学 中であったがために難を免れているハシナは「自分の最期も、人の手によって銃撃されるのではない か」と憂いてるという。 こうした状況に対して、ダッカ大学のA教授は「バングラデシュでは、いつの時代においても学生 が中心となり民主主義を求めてきた。独立後、私たちはリラックスもしているし、生活を楽しんでも いる。しかしながら、現在のバングラデシュの政治・経済状態は決して良いものではない。BNP政権 は、我々の喉もとをつかもうとしている。我々は、例え喉もとをつかまれたとしても、声を出し闘う ことを諦めはしない。何故ならば、例え全てを失ったとしても、我々には何ものをも恐れない『Strong Sprit』があるのだから」59と述べている。 一方、現地の雑誌 Star(March,26,2004) は、独立 33 周年の記念特集を組んでいる。そこでは、大 気汚染、交通渋滞、絶え間ない道路工事、食料や安全性等を始めとする社会問題が指摘され、独立後 33 年経過しても人々の生活が何ら向上していない、また、人々には生活を楽しむゆとりすらない、と 55 政府のスラムのとらえ方は、あくまでも「犯罪や麻薬の温床」というものである。ダッカに居住する友 人の多くも「スラムが撤去されるのは治安改善につながる、スラムには近づかないほうが良い、アガルガ オンスラムには行くべきではない」と力説する。 56 The Daily Star, August, 18, 1999. 57 The Daily Star, August, 31, 2002. 58 Asahi.com 、 2004 年 8 月 22 日(http://www.asahi.com/international/update/0822/001.html)、 BIGLOBE ニュース(インターネット) 、2004 年 8 月 22 日、16 時 48 分。 59 ダッカ大学、A 教授からの聞き取り調査による(2002 年 8 月 29 日) 。 24 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) いうことが記載されている。 また、先にも述べたように、現地では農村と都市との格差が拡大しているのであるが、農村の貧困 を背景としてダッカで労働する子どものメイドや、農村から単身もしくは仲間と都市に移動してダッ カの路上で生活する子どもたちの問題も深刻化している。こうした子どもたちの労働問題が解決すべ き重要な問題であることを政府は認識している60。また「労働している子どもの問題を解決するうえ で、NGOとの連携なしではその糸口さえ掴めない」というのが政府側の見解である61。そのため、文 部省非公式教育局では、Non-Formal Education Programme(NFEP) に基づき、現地NGOに助成 金を交付している。だが、これらの助成金使途方法について、NGOによる自由裁量は認められていな い(第 4 章第3節参照) 。また、2003 年 3 月に刊行されたA National Strategy for Economic Growth, Poverty Reduction and Social Development (Economic Relations Division: 2003)では、こうした 子どもたちの状態を取り上げていない。そして、バングラデシュが抱える社会問題は、後述するよう に、諸外国による援助・開発と無関係ではないのである。 3.3.2 社会開発を担う市民社会の台頭-貧困層の組織化 以上見てきたように、バングラデシュ政府は独立以降、貧困撲滅や雇用機会創出を始めとするいく つかの政策課題を掲げてきた。そこでは、農村居住者の雇用機会創出が貧困緩和の優先課題であるこ とも認識されている。だが、1990 年以降、政府による政策だけでは、これらの目標は充分に達成でき ないということが認識されるようになっていった。とりわけ、1996 年以降の政策では、社会開発を進 めるうえでの課題が明らかにされると同時に、増大する社会問題の解決に向かうためには NGO との 連携が不可欠であるということが認識されている。しかしながら、一連の 5 ヵ年計画は貧困層の生活 改善のために掲げられているのではなく、各党の選挙活動や諸外国からの援助資金獲得のためにある という批判を現地で耳にする。また、本論文で述べるように、諸外国による援助や開発は、現地の社 会開発を進めるうえで無力であるばかりでなく、貧富格差の拡大や生態系の破壊といった新たな社会 問題さえ引き起こしている場合がある。これに対して、バングラデシュ独立以降、社会開発を促進す るうえで重要な役割を担ってきたのが NGO を始めとする市民社会の存在である。 その流れを見ると、独立直後の 1972 年当時、バングラデシュで活動を始めたNGOは 30 団体以上 あったが、その中心は欧米系であり、現地NGOは僅か 2 団体ほどであった(斉藤、1991 年 6 月:40 頁) 。 1973 年当時バングラデシュに滞在した吉田ゆりのによると、 緊急援助が盛んであったこの時期、 諸外国から食料や毛布等大量の援助物資が届いていたが、それらが汚職や盗難の引き金にさえなって いた。さらに、現地で援助活動に携わっていた人々の大半が外国人であったが、それらの中には「援 助してやっている」といった横柄な態度が目に付く人もいた。一方、そのような外国人に対して屈辱 を感じながらも、 「援助」と言う名の下、これら外国人に気を遣わざるを得ない現地の人々の姿があっ たと言う62。また、斉藤の研究によれば、緊急救援として開始されたNGOのプログラムは、1970 年 60 バングラデシュ社会福祉局は、UNDP の経済的援助を受け、ダッカを始めとする各都市で「ストリート チルドレン」と称される子どもたちの実態調査を行った。それらの調査結果は、Department of Social Services, 2001 の他、各地域別報告書5冊(Ibid.,1999)に掲載されている(これに対して、子どものメイ ドに関連した政府による実態調査は行われていない) 。 61 文部省非公式教育局長、イスラム氏からの聞き取り調査による(2000 年 8 月 30 日) 。 62 吉田ゆりの(報告会) 「シャプラさんバングラデシュを行く~市民による海外協力のはじまり・これから」 1999 年 1 月 30 日、仙台 YMCA。なお、シャプラニールは、独立直後のバングラデシュに 4 ヵ月間派遣さ れた「バングラデシュ復興農業奉仕団」に参加した 50 名の有志が、帰国後継続的な支援活動を目指して設 立した民間の海外協力機関である。農村での活動は「ショミティ」という相互扶助のための小グループの 運営に協力することが基本となっている。そこでは、①収入向上プログラム、②成人識字教室、③子ども の補修授業等が行われているが、あくまでも農村居住者の自主性が尊重されている。また、1996 年末から、 現地 NGO とのパートナーシップ事業を通してショミティの支援体制を構築することが検討されてきたが、 2005 年 11 月現在、4つの現地 NGO(内1つはダッカ)とのパートナーシップ事業を展開している(シャプ 25 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 半ば以降には、プロジェクト地域を限定して復興プログラムを展開するようになった。そこでは、農 業面での高収穫新品種や新種野菜の導入、保健衛生、教育、女性を対象とした家内手工芸品生産活動 の導入といった方法が採用されていた。しかし、こういったプログラムによる受益者は地域の有力者 に偏りがちであった(斉藤、1991 年 6 月) 。BRACの活動報告でも「農村部は全体として貧しいが、 同時に地主や一部のエリート、官僚あるいは経済的社会的権力を持った人々も存在して中間搾取を行 っているために、 村全体を対象にすると大多数の村人たちが開発活動の恩恵に浴せない」 (キャサリン、 2001 年:29 頁)という現状が指摘されている。そのため、1970 年代後半から新たな方法論が模索さ れるようになり、 農村の貧困層を直接的な対象とするターゲット方式が採られるようになっていった。 こうした現地NGOの活動について、農村に居住する貧困層を対象としたプログラムを展開している 現地NGOの責任者は以下のように述べている。 「私たちの国は、長い期間外国の管理下におかれ続け てきた。 そこで抑圧されることの悲惨さを痛感させられたがゆえに、 自由と解放を求めて戦ってきた。 バングラデシュ独立に際して、ムジブル・ラーマンへの期待は並々ならぬものがあった。実際に彼の 手腕やインドの応援がなければ、私たちの国は独立できなかっただろう。だが、独立したからといっ て全てが解決されたわけではなかった。問題はそこからどう動き出すかということであった。諸外国 からの援助物資をめぐる横領は、1974 年の飢饉の頃にはピークに達していた。物資の供与が本質的な 貧困問題の解決にならないことは明らかだった。そうした状況を目の当りにしながら、現地NGOを立 ち上げた人々には共通する思いがあった。それは、自らの力で独立した活動を行いたい、2 度と諸外 国の管理や抑圧の下におかれたくないということである」63。 一方、現地では東パキスタン時代の 1960 年代にアメリカ主導による2段階協同組合、すなわち TCCA と KSS が導入され、 独立後の 1975 年には IRDP (Integrated Rural Development Programme; 総合農村開発計画、1982 年以降 BRDB)を通してバングラデシュ全土に普及していった。だが、1980 年代に入り、KSS と TCCA の格差や農業労働者には参加機会さえない農村開発のあり方が問題視さ れるようになった(第 1 章参照) 。また、Food for Works Programme にしても、農村に居住する貧 困層の雇用機会創出への効果は僅かな程度であった(第2章参照) 。このように、政府が貧困問題に対 して有効な手段をうちだせずにいる中で、BRAC やグラミーン銀行を始めとする市民社会の活動は、 貧困層を直接的な受益者とするだけではなく、当事者が自らの生活を構築できるような方法論を模索 していた。そして、1980 年ころまでにはそうした方法論を発見していた。だが、現地 NGO の活動が 活発化し始めた 1980 年代には、政府はそれらの活動状況を疎んじていた。また、BRAC を始めとす る現地 NGO の成長を背景に、 1980 年以降、 外国籍 NGO に対して現地 NGO の数が増加していった。 1990-91 年、NGO の総数は 494 であったが、このうち 395 が現地 NGO、95 が外国籍 NGO であっ た。そして 2003-04 年、NGO の総数は 1,866 にも達しているが、このうち 1,682 が現地 NGO、残り 184 が外国籍 NGO となっている(表 0-6 参照) 。 これらNGOの中で、現地NGOを代表するBRACは、市民社会の創設期であった 1970 年代始めから さまざまな活動を展開してきた。2006 年現在、BRACはさまざまな開発プログラムを展開しており、 マイクロクレジット事業はその一つであるが、その基本的な手法はグラミーン銀行から取り入れてい る64。そして、グラミーン銀行の創始者、ムハマド・ユヌス(Muhammad Yunus)による農村での実験 も 1974 年という早い時期から始まっている。 これらの市民社会は、農村に居住する貧困層を直接的な受益者としてきたことのみならず、当事者 の well-being 実現に向けた活動のあり方を常に思考し続けている。そこでは、貧困層を無力な存在と ラニール、1993 年、2006 年、同『2001 年度総会資料』 、同『南の風』1997~2001 年(各月)、シャプラニ ール活動記録編集部、1989 年、1992 年、同全国キャラバン報告会[1999 年、2004 年 11 月 15 日、2005 年 11 月 20 日]の他、ナラヤンプール地域活動センター、子どもの補習授業及び成人女性識字教室、ダッ カ事務所[1997 年 8 月] 、日本事務所[1997 年 1 月、1998 年 9 月 30 日]での聞き取り調査による) 。 63 2002 年 9 月 2 日、現地 NGO 代表者からの聞き取り調査による。 64 2006 年 3 月、BRAC スタッフからの聞き取り調査による。 26 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 表 0-6 : NGO の推移(1990-91~2003-04 年) 項目 現地 NGO 外国籍 NGO NGO 合計 累積総額・実績ベース(タカ) 年 1990 年まで 293 89 382 217,169,685.00 1990-91 395 99 494 4,264,080,522.19 1991-92 523 111 634 4,865,522,844.98 1992-93 600 125 725 7,828,230,680.78 1993-94 683 124 807 6,840,362,530.43 1994-95 790 129 919 8,380,189,748.61 1995-96 887 134 1,021 10,372,077,588.53 1996-97 1,002 141 1,143 10,410,941,131.80 1997-98 1,102 149 1,251 9,360,719,019.00 1998-99 1,221 152 1,373 13,128,024,641.00 1999-20 1,354 164 1,518 9,846,902,185.00 2000-01 1,455 169 1,624 13,548,423,300.00 2001-02 1,500 171 1,671 11,872,074,573.00 2002-03 1,613 178 1,791 15,939,712,884.47 2003-04 1,682 184 1,866 14,592,213,317.29 出所 : Prime Minister’s Officeのホームページhttp://www/ngoab.gov.bd/Statistics.htmlより作成。 して位置づけたり、ただ単に物資を供与したりといった方法は採っていない。それは、外国主導によ る援助や開発のあり方を根本的に問い直すという営みでもある。また、これらの市民社会は、そうし た活動を行うだけではなく、理念や活動経緯をさまざまな方法で外部に伝えている。そのため、これ らの市民社会から学んだ人の数は計り知れない。つまり、貧困層のみならず、援助関係者やより多く の市民社会に対しても、さまざまなメッセージを発信し続けているのである。これら市民社会の理念 及び活動経緯が当該地域の貧困層の内発的発展とどのように関係しているのかということは、現地調 査に基づき第 5 章で考察・分析しているが、ここでは、BRAC 及びグラミーン銀行の設立経緯と現在 の規模について概観する。 (1)BRAC BRAC(BRAC, 2004、ラヴェル、2001 年)65は、バングラデシュで最大規模を誇る現地NGOとし て知られている。創始者はアベッドで、彼と同様の関心を持つ少数の人々によって 1972 年に設立さ れた。当初の支援活動は、独立・解放戦争時にインドに渡り、バングラデシュ独立以降、北東部シレ ット県のスラ(Sulla)地域に帰還した難民の支援から始まっている。この地域は遠隔地であるため、 BRAC以外の団体による救援活動は行われていなかった。また、ここでの活動は、バングラデシュ独 立を遂げた青年たちの関心を惹きつけるものであった。 しかし、救援活動を開始した 1 年後、アベッドと仲間たちは、そこでの活動が一時しのぎの方法に しか過ぎなかったと考えるようになった。そのため、以後 4 年間は、コミュニティ全体を視野に入れ た総合的開発プログラムを採用した。しかし、農村内の権力構造によって財や資源を独占しているの はごく少数の富裕層であるということ、農村全体を対象としたプログラムによる利益の多くは富裕層 65ラヴェルも指摘しているように、BRAC はさまざまな実践経緯の中で、貧困層の生活状態により相応し い方法論を絶えず学習・検討している。そのため、2006 年 3 月現在の活動状況は、同書に記載された内容 をより発展させたものとなっている。そのため、これらの資料の他、2006 年 3 月の BRAC スタッフから の聞き取り調査より構成している。 27 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) に集中し、貧困層には届かないということが明らかになった。そのため「農村内の権力構造に対処す るためには、貧困層や弱い立場におかれている人々のための能力や制度の開発が必要」 (ラヴェル: 74-75 頁)と考えるようになった。 そこで 1977 年以降、農村内の最貧困層に焦点をあてたターゲット方式を採用すると同時に、貧困 層の組織化に力を入れるようになった。また、それ以降、ショミティメンバーとなる最貧困層(対象 者)を定義してきた。当初の対象者は「土地なし農民、漁師、女性」とされていたが、何度も検討を 重ねる中で「0.5 デシメル(約 2 平方メートル)未満の土地しか持たず、生産手段がなく、生計を立 てるために過去 1 年間に少なくとも 100 日以上肉体労働に従事した世帯。各村落組織の少なくとも 50%以上は土地なし農民から構成されなければならない」 (ラヴェル:75-76 頁)と定義された。そし て 2006 年現在、貧困層の中でも土地を所有していない人々で、なおかつ、女性と子どもを最優先し た活動を行っている(BRAC, 2004) 。 2006 年 3 月現在BRACの活動は多岐に及んでいるが、農村では、貧困女性のwell-being向上に向け たマイクロクレジット事業のみならず、ダウリーや早婚の撲滅、識字・教育といった社会開発に力を 入れている。また、農村の貧困女性を取り巻く社会問題の中で、ダウリー、レイプ、夫による暴力、 一方的な離婚、硫酸を浴びせる事件等に焦点をあて、貧困女性のwell-being実現に向けた支援を行っ ている。この活動では、社会開発担当スタッフを始め、農村内のネットワークを通していち早く問題 の発生原因を突き止めると同時に、必要に応じて貧困女性に弁護士を紹介し、司法の場に持ち込むと いう方法を採っている。そのため、全 64 県にある裁判所に、BRAC専属の弁護士を配置している66。 さらに、バングラデシュ政府及び世界食糧計画との連携により、IGVGD(Income Generation for Vulnerable Group Development)プログラムを実施している。世界食糧計画から分配される余剰農 作物は、ユニオン評議会議長・議員を通して、農村に居住する最貧困女性(VGDカード保持者)に 分配されている。1 ヵ月に分配される余剰農作物総量は 32kgで、その期間は 2 年間とされているが、 BRACは、こうした分配のみでは、貧困女性のwell-beingは向上しないと考えている。そこで、VGD カード保持者を小グループごとに組織化し、余剰農作物が分配される 2 年の間に、IGD(Income Generation Development)研修とSocial Awareness研修を行っている。その他、VGDメンバーは 1 ヵ月に 32 タカをBRACに貯蓄している。こうした活動を行いながら、BRACは、ユニオン評議会議 長・議員による余剰農作物の分配状況も監督している。また、ユニオン評議会議長・議員を対象と した研修活動も行っている。つまり、こうした活動を通して、ユニオン評議会議長・議員の権限分 散化を図る等、農村内の権力構造に介入している67。 2004 年時点の活動状況を見ると、64 県(100%)、480 郡(94%) 、6 万 8408 村の他、4,378 の都市 スラムで活動しており(BRAC, 2004:pp.5-6.) 、ダッカにあるヘッド・オフィスの他、バングラデシ ュ全土に、広域オフィス 137、エリア・オフィス 498、ブランチ・オフィス 1,172 を構えている。ま た、前述したように、現在BRACの活動は多岐に及んでいるが、開発プログラムを概観すると(表 0-7 参照) 、ショミティ数 14 万 2117、メンバー総数 485 万 8763 人にも達している。これらメンバーの中 で女性が 472 万 7286 人と圧倒的に多く、全体の 97.3%を占めている。常勤スタッフは 3 万 2652 人 であるが、その他にBRACスクールの教師、地域保健ボランティア、地域保健ワーカー、家禽ワーカ ー、地域栄養ワーカー、栄養・女性メンバーがBRACの活動を支えている(表 0-8 参照) 。さらに、2004 年時点の総経費は 144 億 8700 万タカにも達しているが、ドナーからの援助額割合は 23%となってい る(表 0-9 参照) 。ドナーからの援助額割合は、1999 年時点では約 3 割であったが、2000 年以降、 20%台となっている。BRACは、今後この割合をさらに減少させたいとしている68。 なお、クミッラ県ダウドゥカンディ郡での BRAC の活動及び貧困女性の参加状況については、第 5 章を参照されたい。 66 67 68 2006 年 3 月、BRAC スタッフとメンバーからの聞き取り調査による。 同上。 2006 年 3 月 12 日、BRAC ヘッド・オフィスでの聞き取り調査による。 28 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 表 0-7 : BRAC の開発プログラム(2004 年 12 月 31 日) メンバー(人) ショミテ ィ(総数) 合計 女性 男性 142,117 4,858,763 4,727,286 131,477 出所 : BRAC, Annual Report 2004, 2004, p.5. 融資支出 (2004 年) 融資支出 (累積) 25,902 133,212 単位 : 百万タカ 融資未払 返済率 メンバー い (%) 貯蓄 14,630 98.7 7,657 表 0-8 : BRAC のスタッフ数(2004 年 12 月 31 日) 常勤スタッ フ 教師(BRAC スクール) 32,652 出所 : Ibid. 65,412 単位 : 人 地 域 保 健 ボ 地 域 保 健 ワ 家 禽 ワ ー カ 地 域 栄 養 ワ 栄養・女性メ ランティア ーカー ー ーカー ンバー 29,736 2,284 50,805 11,988 119,658 表 0-9 : BRAC 経費(2004 年 12 月 31 日) 年 総計 ドナー・援助額割合 1998 6.283 32% 1999 7,708 30% 2000 8,024 21% 2001 8,135 21% 2002 9,258 20% 単位 : 百万タカ 2003 2004 11,471 14,487 20% 23% 出所 : Ibid.,p.6. (2) グラミーン銀行69 アメリカで経済学を学んだユヌスは、バングラデシュ独立直後の 1972 年に生まれ故郷チッタゴン に戻り、すぐさまバングラデシュ政府経済局計画委員会副委員長となった。だが、具体的な仕事がな いという理由から辞職し、チッタゴン大学経済学部長の職に就いた。チッタゴン大学は、パキスタン 時代にアユブ・カーン政権の影響を受け、中心地から 20 マイルほど離れたチッタゴン丘陵地域のジ ョブラ村に隣接していた70。そして 1974 年の大飢饉で大量の餓死者を目の当りにしたユヌスは、高 収穫新品種の作付けをジョブラ村の農民に奨励した。その際、土地所有者が土地を、小作人が労働力 を、ユヌスが全費用を提供し、収穫物は三等分するという方法を提案した(1974~76 年)71。だが、そ こでの利益は土地所有者に多くをもたらしたが、脱穀を担当する女性たちが得られた米の量はごく僅 かであった。 高収穫新品種の作付けが貧困層の利益につながらないことを理解したユヌスは、貧困層の生活状態 を把握しようと、ラティフィー(H.I. Latifee)教授や学生たちとジョブラ村に足を運ぶようになるが、 その中で、竹で椅子を編む 1 人の女性ソフィア・ベグム(Sufia Begum、21 歳)の生活状態を知る。 彼女は文字の読み書きができない女性であったが、竹を編んで椅子を作るという技術を身につけてい た。だが、竹を購入するための資金5タカを所有していないがために、丹精こめて創った椅子を高利 貸しの言い値で売り渡さなければならなかった。そのため、手元に残る現金収入は 1 日に僅か 50 パ イサ程度であった。 こうした貧困層と高利貸しの間に横たわる構造的な収奪問題、とりわけ貧困層が被る不利益に疑問 を抱いたユヌスは、女子学生マイムナ・ベグム(Maimuna Begum)に同村での調査を依頼した。そ 69 グラミーン銀行の活動経緯は、Yunus, 1999 より構成している。 70大学生を嫌悪していたアユブ・カーンは、東パキスタン時代に大学を都市から離れた場所に移転させた。 そのような政策により、大学生たちが政治的な煽動を行って人口の多い都市部を混乱させることはないだ ろうと考えたからである(Ibid., p.ⅷ and p.33.)。 71 ユヌスは、 この当時「Nabajug Three Share Farm;新しい時代の三人農場」と称していた(Ibid., p.38.) 。 29 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) の結果、高利貸しから前借りをしているがゆえに現金収入を収奪されている貧困層は 42 世帯で、そ れら前借分の総額は僅か 856 タカであるということが明らかになった。ユヌスは、充分な能力を持ち ながら重労働を強いられているこれら 42 世帯を支援したいと考えぬいた末、マイムナを通して 42 世 帯に必要諸経費を貸し出したのであるが、それらは全額返済された。 そこでユヌスは、貧困女性は資金を元手に仕事をすることさえ出来れば、利益の少ない重労働や物 乞いからも解放されると考え、1976 年、政府系銀行に貧困層への融資を依頼した。だが、当時の銀行 業務は 99%が男性を対象としていた。そのうえ、担保となる資産を所有していない貧困層を銀行側は 相手にしようとしなかった。ユヌスは、こうしたジェンダー・バイアス等に強い疑問を抱きながらも 交渉を重ね、約 6 ヵ月間を経た 1976 年末、彼自身が保証人になるという条件で融資を受けた。それ 以降今日に至るまで、貧困女性を主たる対象としたマイクロクレジット事業を行っているが、その基 本となるのは、5 人 1 組のショミティを通して貧困女性の well-being 向上を目的とした融資を行うと いうことである。このショミティ組織化は、原則として、農村居住者による話し合いや勧誘を通して 行われている。つまり、女性たちの相互扶助関係や内発性を媒介としたショミティ組織化やセンター 運営に重点がおかれており、 メンバー間の関係や結束力は必然的に強いものとなっている。 そのため、 スタッフが介入するよりも、メンバー同士での話し合いを通して問題解決を図ったり、メンバー間で の情報交換を通して、融資活用方法や子どもの識字・教育に関する意識を高めたり、という傾向が強 くなっている。 さて、 ユヌスがマイクロクレジット事業を始めた 1977 年のメンバー総数は僅か 70 人であったが (表 0-12 参照) 、中央銀行の支援を得てタンガイル・プロジェクトを開始した 1979 年には、メンバー総数 は 2,200 人に増加し、翌 1980 年には1万 4128 人に達した。その後 1982 年に、ダッカ、チッタゴン、 ロングプル、ポトゥアカリ、タンガイルでプログラムを拡大し、メンバー総数は 3 万 416 人となった。 そして 1983 年、政令によりグラミーン銀行が発足したのであるが、それを機に、融資利用者数は飛 躍的に拡大していった。2003 年現在、4 万 3681 村に7万 4703 のセンターを構え、グループ総数は 57 万 7886、メンバー総数は 312 万 3802 人にも達している。また、住宅融資を開始した 1984 年の家 屋建設数は僅か 317 件であったが、2003 年時点の家屋建設数は 312 万 3802 件にも達している。 また、グラミーン銀行は、従来の融資貸出方法を基本としながらも、返済方法の見直し等を行って きた。そのきっかけとなったのは、1998 年の大洪水に際して融資返済に滞る貧困女性が増大したこと である。その後、返済方法見直しと共にさまざまな形態の融資や貯蓄が検討されてきた。そして 2000 年から 2002 年にかけて、 「グラミーン総合的システム」が開発され、従来の一般融資や住宅融資に加 えて、マイクロ・エンタープライズ融資、高等教育融資、Struggling Members 融資、GPS(Grameen Pension Scheme)等が生み出された。これらは、2002 年 8 月以降、各ブランチ・オフィスで運用さ れているが、いずれも、貧困女性の well-being 向上を目的としている。中でも、Struggling Members 融資は注目すべき内容となっている。この活動は、「物乞いは止めよう。融資を受けよう。そして現金 収入を得て返済にあてよう」というスローガンを掲げており、 これまでに 5 万人が融資を受けている。 なお、この Struggling Members 融資を含むグラミーン銀行の活動状況及びクミッラ県ダウドゥカ ンディ郡農村に居住する女性の参加状況は、第 5 章を参照されたい。 30 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 表 0-10 : グラミーン銀行の実績(1977~2003 年) 年 1977 1979 1978 1980 1981 1982 1983 1984 1985 項目 一般融資 4,818 17,171 0.18 1.10 2.00 2.60 2.29 12.20 16.50 住宅融資 0 0 0 0 0 0 0 0.15 0.66 実績合計額(年度) 4,818 17,171 0.18 1.10 2.00 2.60 2.29 12.35 17.16 実績累積額 5,316 22,487 0.20 1.30 3.30 5.90 8.19 20.54 37.70 0 0 0 0 0 0 0 317 1581 家屋建設件数 70 290 2200 14830 24128 30416 58320 121051 171622 グループ 7 29 377 2935 4818 6243 11667 24211 34324 センター 2 3 36 326 482 624 2443 4763 7210 カバーしている村 2 4 17 363 433 745 1249 2268 3666 スタッフ数 1 6 43 147 218 422 824 1288 2777 メンバー数 年 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 項目 一般融資 18.06 26.45 43.71 60.02 84.85 86.18 142.17 260.24 352.12 住宅融資 0.19 4.59 5.41 7.32 6.29 8.47 14.81 42.09 33.53 実績合計額(年度) 18.25 31.04 49.12 67.34 91.14 94.65 156.98 302.33 385.65 累積合計額 55.95 86.99 136.11 203.46 294.60 389.25 546.23 848.56 1234.21 2042 23408 44556 67841 91157 118717 157334 157334 295702 メンバー数 234343 339156 490363 662263 869538 106642 1424395 1424395 1814916 グループ 46869 67831 98073 132452 173907 213286 284889 372298 412145 センター 10279 14390 19663 26976 34206 42751 51367 57649 59921 家屋建設件数 カバーしている村 5170 7502 10552 15073 19536 25248 30619 33667 34913 スタッフ数 3515 4367 7093 9737 13626 12523 1015 1040 1045 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 一般融資 343.80 238.37 370.14 393.90 316.76 268.62 286.31 272.04 366.27 住宅融資 17.82 4.13 15.63 20.64 4.58 1.41 1.01 2.08 3.05 年 項目 実績合計額 361.62 242.50 385.77 414.54 231.34 270.03 287.32 274.12 369.32 累積合計額 1595.83 1838.33 2224.10 2652.20 1879.20 3248.06 3536.77 3810.89 4180.21 家屋建設件数 331201 329040 402747 491012 511583 533041 545121 558055 578532 2065661 2059510 2272503 2368347 2357083 2378356 2378601 2483006 3123802 424993 433791 465384 486870 494044 503001 504651 513141 577886 センター 61156 62681 64701 66712 67691 68467 68591 70928 74703 カバーしている村 35533 36420 37937 39045 39076 40225 40447 41636 43681 スタッフ数 12420 12348 12628 12850 12427 11028 11841 11709 11855 メンバー数 グループ 注 : 一般融資、住宅融資、実績合計額(年度) 、実績累積額の単位は、1977 年、1978 年は US ドル、そ の他の年度は百万 US ドルとなっている。 出所 : グラミーン銀行のホームページhttp://www.grameen-Info.org/bank/hits.html より作成。 31 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 32 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 33 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 34 バングラデシュ農村における援助と社会開発- クミッラ県にみる居住者へのインパクト(序章) 35
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