「知られざる「吉田松陰伝」 ― 『宝島』のスティーヴンスン

祥伝社発行
よしだみどり著
「知られざる「吉田松陰伝」
―
『宝島』のスティーヴンスンが何故?」
この本は、伊豆半島一周バス・ツアーで立ち寄った下田にある開国記念館の売店で購入
した。ヒゲ・じーちゃんの年代の人なら(太平洋開戦前誕生)スティーブンスン作の「宝
島」を読んだことがあるだろう。この本の作者が吉田松陰の伝記を書いているという紹介
記事があったので読んでみたくなった。
体が弱く本国のイギリスで暮らせず、晩年を西サモアの小さな小島のウボル島に眠るス
ティーブンスン(アイルランドの灯台建設に造詣の深いスティーヴンス一族)は、その島
の住民たちが米英独の植民地政策の犠牲になっているのを目の当たりにして次ぎのように
言ったという。
「植民地政策は現地の人々を愛することから始めなければならない」と言ったという。
そのため、大英帝国から追放寸前までいったそうである。
それは以下の思いからの発言である。
「そのころ、サモアを含む南太平洋の島々は、自国イギリス及びドイツ、アメリカとい
っ た 列 強 の 国 々 に よ る 植 民 地 化 政 策 に よ っ て 、そ れ ま で の 島 民 た ち の 非 文 明 的 で は あ る が 、
自然とのバランスがそれなりにとれていた生活は脅かされるようになっていた。スティー
ヴンスンは島の住民になってみて初めて、白人優先、原住民蔑視、武器弾薬の提供、自然
破 壊 な ど 、 植 民 地 政 策 の 行 き 過 ぎ に 胸 を 締 め つ け ら れ る 思 い が 募 っ た 。」
この一文と吉田松陰の伝記を書いているという指摘でこの本を読む気になった。何故か
と言えば、吉田松陰の夢は日本が支那のように西欧列強の植民地となるような辱めを受け
ないような国にすることであり、植民地の考え方に二人とも共通の認識があったと判断し
たからだ。
R. L. ス テ ィ ー ヴ ン ス ン と 言 え ば 、 宝 島 、 ジ キ ル と ハ イ ド が 有 名 。 し か し 、 童 話 や 子
供向けの詩を多く書いていたという。この詩に金子みすゞも、その師である西条八十も傾
倒 し て い た と い う 。” 子 供 の 詩 の 園 ”
ス テ ィ ー ヴ ン ス ン が 、 吉 田 松 陰 の こ と を 書 い た 本 の 題 名 は ” FAMILIA STUDIES OF MEN
AND BOOKS"で 、 ヨ シ ダ ト ラ ジ ロ ウ と し て 紹 介 さ れ て い る と い う 。
ス テ ィ ー ヴ ン ス ン に 吉 田 松 陰 に つ い て 語 っ て 聞 か せ た 日 本 人 の 名 は 、マ サ キ ・ タ イ ソ ウ 。
松 蔭 の 高 潔 な 志 の 根 が 、「 他 国 の 悪 い と こ ろ を 除 い て 良 い と こ ろ だ け 取 り 入 れ 、 夷 人 た
ちの知識を得て日本を利し、しかも、日本の芸術や美徳が他国から侵されないようにと願
っ た の で あ ろ う 。」 に あ っ た こ と を ス テ ィ ー ヴ ン ス ン は 見 透 か し て い た と 書 か れ て い る 。
これ以下にこの著者が翻訳したスティーヴンスンの書いたヨシダトラジロウについての
記述が続く。スティーヴンスンが吉田松陰について書いている英語の本を読めば、日本の
優秀な先輩のことを学びながら英語にも興味を持って読むようになり、最良の教科書の1
冊になると思うのだが。
スティーヴンスンは、吉田松陰の事を聞きかじりながらも、深層を確かな目で洞察して
いる。足軽という身分の者という松蔭の考え方に同調して、松蔭から漢文の教えまで受け
る こ と に な っ た こ と か ら 、「 日 本 の 一 般 庶 民 が 持 っ て い た 受 容 力 と 道 徳 的 美 点 は 高 く 評 価
さ れ る べ き だ ろ う 。」 と ス テ ィ ー ヴ ン ス ン は 書 い て い る 。
この本の著者は、金子みすゞから西条八十にたどり着き、そしてスティーヴンスンに到
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達した。みすゞも松蔭も長州の人間という因縁もある。
ス テ ィ ー ヴ ン ス ン が 、” ヨ シ ダ ・ ト ラ ジ ロ ウ ” の こ と は 、 エ デ ィ ン バ ラ の ジ ェ ン キ ン 教
授の晩餐会で、日本人の役人タイソー・マサキから話を聞いて書いたものと言うことが判
明した。ジェンキン教授とは、ヨシダ・トラジロウの注に出てきたフレミング・ジェンキ
ン ( F. J.) で あ っ た 。
マサキ・タイソウは、正木退蔵(タイゾウ)であることが分かったと著者は書いている
が 、 明 治 時 代 ひ ら が な 、 カ タ カ ナ の 濁 音 に は 「 ”」 を つ け ず に 現 し て い た こ と と 関 係 が あ
るように思える。
「 近 代 防 長 人 名 辞 典 」に よ れ ば 、正 木 退 蔵 の 出 身 校 は 、松 下 村 塾 と 書 か れ て い る と い う 。
これで吉田松陰 ― 正木退蔵 ― スティーブンスンと結びついたのである。
スティーヴンスンは、正木退蔵と知り合う前に日本から灯台設置技術を学びに来ていた
藤倉という日本人に会っていた。明治 5 年。もうこの年に英国留学し英語で意思疎通の出
来る日本の若者が育っていたことに驚かされる。この時代の日本の若者が英語を習得でき
た英語教育法とはどんなものだったのかにも興味がわく。
明治になり灯台建設の顧問にスティーヴンスンの叔父と父がなった。その推奨で日本に
灯台を建設するために派遣されたのが、鉄道が専門のブラントンであった。プラントは、
横浜市の町造りの恩人でもある。お雇い外国人の第 1 号でもあった。全員がイギリス人で
はなく、スコットランド人であった。その通訳を務めたのが前出の藤倉。
イギリス王国の支配下にあった正木にまつわるスコットランド人は、列強の植民地にな
ることを回避するために努力した吉田松陰に同感したのだろうと著者は言っている。
イギリスに併合されてから、イギリスで成功するためにスコットランド人は大いに努力し
たそうである。次のような人物を輩出した。
蒸気機関のワット、電話のベル、ペニシリンのフレミング、麻酔薬のシンプソン、タイ
ヤのダンロップ、テレビのベアード、電気磁気学のマクスウェル、思想家のカーライル、
経済学のアダム・スミス、政論家のマッキントッシュ、哲学者のヒュームなどがいる。
著者の調査から、スティーヴンスンの父トマスの教えを受けたのは、正木、藤倉のほか
にもう一人の日本人がいたことを突き止めた。それが、杉甲一郞。
ヨ ー ロ ッ パ の ジ ャ ポ ニ ズ ム の 潮 流 の 中 で 、ス テ ィ ー ヴ ン ス ン と 藤 倉 の 書 簡 の 往 復 が 続 き 、
スティーヴンスンは藤倉に日本についての情報を知りたがっていたことが窺い知れる。
伊藤博文が密航してイギリスに渡ったとき世話になったウィリアムスン教授とジェンキ
ン教授も同じスコットランド人の輪の中でつながっていた。
スティーヴンスンの吉田松陰伝は史学研究科にはあまり評価されていないと著者は書い
ている。その理由は、聞きかじりで書かれているため史実と異なる記述があるという事か
ら。そこで、著者はどのくらい史実との差異があるのかを追跡するに至った。著者の調査
結果を読む限りにおいて、史実と解釈していいように思える。
松 蔭 が 最 初 に 書 い た 本 は 、「 外 夷 小 貴 」 で ア ヘ ン 戦 争 を 扱 っ た も の 。 い か に 日 本 を 西 欧
列強の植民地にしないようにするかに腐心していた吉田松陰にスティーブンソンは、自分
の境遇を重ね合わせて共感を覚え吉田松陰の伝記を残したようだ。
歴史に素人の作者が、ここまでの掘り下げをして事実を浮かび上がらせた過程を知るに
つけ、何かを調べ上げるときの方法論としても非常に参考になる参考書になるものとして
興味深く読ませてもらった。
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