ゆか た の 起源 ゆか た が 普及し た 要因と し て - 都屋

平成二十四年七月一日発行
平成二十四年七月
第八十一号
〒五〇六‐
〇八四四
㈲都 屋 呉 服 店
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帯締め
長襦袢
帯
きもの
夏用のもの
夏用のもの
絽もしくは麻 半衿は絽
絽・紗・麻などの夏帯
絽・紗・麻などの薄物
高山市上一之町三六番地
☎フリーダイヤル
帯揚げ
わからない場合は何なりと
おたずね下さい。
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どもえ
し っぽ う
ちが
はな び し
たか
は
がしわ
き き ょう
たちばな
※このコラムは毎月第一水曜日に市民時報に掲載されています
多い。飛騨では男性は紋に丸をつけることが多い。
巴 ・七宝に花菱なども多い。古川地区は七宝に花菱が
剱方喰である。違い鷹の羽・
三つ柏 ・
桔梗・橘 ・
左三つ
だ。高山で一番多い家紋は剱方喰で、国府地区はほぼ
けん かた ば み
戦国時代に現在のデザイン化された家紋になったそう
あるらしい。家紋の原形は飛鳥時代にまで遡るらしく、
きものエッセンス ◆家紋
どの家にも家紋がある。現在二万五千以上の家紋が
7月の装い
六月二十五日、久しぶりとなるワイン会を私どもの
ご近所の「
旬亭なか川」
さんにて開催いたしました。
なか川さんのおいしくてユニークな料理をあらかじめ
聞いていた坂本君が五種類のワインを合わせてくれま
した。海洋地質学の専門の坂本君はワイン産地の地質
に詳しく、ふだん聴けないような興味深い話も聞かせ
てもらいました。次回ワイン会をお楽しみに!
ゆかたの起源
浴衣の起源は平安時代、貴族が蒸し風呂に入るとき、水
蒸気でやけどしないように着た「
湯帷子【
ゆかたびら】
」
がはじまりとされています。帷子【
かたびら】
とは麻の着
物のことです。その時代、綿は高級品とされたため、
装束の下着となる薄い着物は麻で作られていました。
江戸時代後期になって、綿の生産量が高まり庶民に普及
するとともに、湯帷子の生地も麻から肌触りの良い綿に
変わりました。また、銭湯の普及にともない着用の場が
増えたため、略されて「ゆかた」と呼ぶようになりました。
現在では風呂上がりだけではなく、夏に着る着物として
定着しています。
帷子【かたびら】とは?
帷子とは、古くは装束をつけるとき、汗とりとして着
たもので、※生絹【
すずし】
・
練り絹【
ねりぎぬ】
または麻
糸で織った布で、色は白が正式だが紅帷子も用いられて
いたといいます。江戸時代には、夏の単衣で麻製の着物
をさすようになりました。
しろあさじえびらうめもんようかたびら
白 麻 地 箙 梅 文 様 帷 子 【京都国立博物館蔵】
※箙(
えびら)
…矢を入れて肩や腰に掛け携帯する容器の
ことで、靫(
うつぼ)
とも呼ばれる。(影山のり子様ブログより)
※生絹【
すずし】
…練っていない絹
ゆかたが普及した要因として
ゆかたが江戸時代後期に普及した要因としては、以下の
四点があげられます。【
裏へ】
一.木綿の生産量の拡大
綿花はもともと日本には存在しない植物で、平安時代に
は一時九州まで広く綿花の栽培がおこなわれましたが、
気候が合わずに廃れてしまったといわれています。戦国
時代に、国内でも綿栽培が開始され、江戸中~後期には
商品として生産量が拡大しました。
二.銭湯の普及
江戸の銭湯は天正十九年(
一五九一)
、伊勢与市という
ものが銭湯風呂を建てたのが最初で、慶長年間の終わり
(
一七世紀初頭)
には今風なたっぷりの湯に首までつかる
「
すえ風呂」ができ、一般庶民にも広まり江戸の「
町ごと
に風呂あり」といわれるほどに広まりました。風呂上が
りに着るために、浴衣が普及しました。
三.倹約政策に対抗して
徳川吉宗の時代、享保の改革(
一七一六年~一七四五
年)
では、一般町人の衣服は木綿、しかも色も藍と決め
られました。そこで生まれたのが、木綿の長板本藍染め
です。表と裏に同じ柄をつけるので、更に技術は難しく
なりますが、ゆかた製造のレベルがアップしました。
※①長板染めをする板場。ご覧のように長い板に生地を
貼るので長板という。※②長板染めのゆかた
②
ゆかた染めの技法
染工場の衰退
発行人:
長澤直彦【
携帯】
◆編集後記◆
ようやく暑くなってきた気がいたします。今回ゆかたの
ことを調べて長い歴史を少しだけ知りました。今回は掲
載できませんでしたが、絞りについても調べてみたいです。
今月もお読みいただきありがとうございます。
一.長板中形染め
注染は日本独自の染色技法で、表裏全く同じ色に染色で
江戸時代より、ゆかたの染めは長板中形染と呼ばれる
き、染料のにじみや混合によるぼかしを活かして、深みの
藍単色染めが中心となりました※②
ある多彩な染色ができる優れた染色法ですが、近年は
安価なプリントゆかたの増加などに押され、注染のゆか
長板中形染は六㍍もある板場とよばれる台※①に生地
た生産は減少の一途をたどり、発祥の地・
大阪でも現在
を敷き、その上に和紙を重ね合わせて柿渋【
かきしぶ】
や
では十社、関東に九社、浜松に四社しかありません。
(
平成二十三年時点)
膠【
にかわ】
で固めて柄を彫った伊勢型紙をあて、防染糊
(
ゆかたが普及した要因~ここまで「新・
きものの基」というブログ
【
ぼうせんのり】
をヘラでおいていきます。
より引用し、一部修正いたしました。)
また総柄であるため「型をおくり」ながら、その継ぎ目が
ピタリと合うようにしていかなければならない、高度な
終わりに
技術が求められ、現在では数人しか職人がいないため、
数社しか制作していません。
高い技術で作られてきたゆかたですが、近年のプリント
技術によるコストダウンと、生産の海外シフトによって日
ゆかたといえば「
長板中形 本国内の業者がずいぶん減りました。
二.注染【
ちゅうせん】
染」
でしたが、大正時代に 恐らく、今残っている業者は何らかの特徴がある染工場
なると大阪で「
注染」が開 だと思います。
発されました。
先
日
、
都
内
の
染
工
場
に
電
話
を
していろいろお聞きしたと
ころ、その染工場では、最近「
江戸ゆかた」が見直されて
いるおかげで、生産に追われているということでした。
お盆明けには来年用の柄を出されるそうですので、一度
おじゃましてみることにいたしました。
来年は皆様に「
江戸ゆかた」をご覧いただけます。
注染は、糊を置いて畳ん
だ生地に、熱した染料を
文字通り「
注いで染める」
もので、それまでゆかたの
染色技法の主流だった
「
長板中形染」をしのぐ
合理的な染色技法で、長
板が一日に十五反なら、
注染だと百五十反はいけ
るというもので、あっとい
う間に大正期にはゆかた
染めの主流となりまし
た。
大阪で発明された注染は、その後、東京や浜松などにそ
の技は広がっていきました。これにより長板染めの業者
がずいぶん廃業したそうです。
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◆次号予告◆第八十二号【
八月号】
◇虫干ししませんか?◇夏物蔵ざらえのお知らせ
【 】
パソコン
メール配信希望の方は、メールにてお知らせ下さい。
【
都屋ホームページ】
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四.歌舞伎人気
ゆかたが最も発達した江戸時代では、特に歌舞伎役者に
よって大いに広められました。歌舞伎役者の考案する柄
が、あっという間に流行しました。
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