奈良の伝統的祭礼の保存と伝承に向けて - 奈良女子大学

Nara Women's University Digital Information Repository
Title
奈良の伝統的祭礼の保存と伝承に向けて
Author(s)
武藤, 康弘
Citation
武藤康弘: 奈良女子大学文学部研究教育年報, 第3号, pp. 39-45
Issue Date
2007-03-31
Description
奈良女子大学文学部研究教育年報 第3号 特集:奈良学の現在より
URL
http://hdl.handle.net/10935/3106
Textversion
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奈良女子大学文学部研究教育年報
3
9
第 3号
奈良の伝統 的祭礼 の保存 と伝承 に向けて
武
1 無形民俗文化財
民俗文化財には有形のものと無形のものがあります。
藤
康
弘
となる疫神が村 の中に入 って こないように、結界の勧
請綱を掛 けた り、牛玉札を刷 った り、弓を射 ることに
有形の ものは生活の道具である民具や仏具などの儀礼
よって防 ぐという機能があ ります。 いずれ も、仏教行
用具をさ します。一方、無形の ものは、形 としては存
事 に起源があ りますが、神仏混交 した独 自の複雑 な様
在 しない、お祭 りや祈 りといった信仰の形それに技術
相を もっています。正月の行事 としては、 この他 に年
などをさ します。無形民俗文化財 は、形 として存在 し
の初めに農作物 の作柄を占う粥 占や、山間部で行われ
ないものですか ら、適切な保存策をとらないと伝承が
る山の神祭などがあ ります。奈良県内の粥 占行事 は、
途絶えて しまい、消えて無 くなって しまいます。現在
いずれ も竹筒を小豆粥 に沈めて、管内の入 った米や小
は、農業や林業 などの生活基盤の変化や、地域の集団
豆粒の状態か ら農作物の作柄を占う、簡粥の形式をとっ
構造や生活習慣の変化 などによって、伝統的祭礼や行
ています。 また、山の神祭 は、山仕事 の安全等を祈願
事 といった ものが急速 に失われています。無形民俗文
す る行事で、山仕事の道具の ミニチュアを奉納す る独
化財の保存 と伝承 は、 まさに危機的な状況 にあるとい
自の様式が特徴です。
えます。
春先の農作業の開始前 に行われる重要 な祭礼が、豊
作 を予めお祝 いす るという御 田植祭やオ ンダ祭 とよば
2 奈良県の伝統的祭礼 と行事
れ るものです。牛役や田男役が登場 して神社の境内の
民俗芸能研究者の新井恒易氏 は昭和5
6
年 に全国の田
砂の田圃を耕 した り、松葉で作 った模造苗で田植えの
遊びや御田植祭 (
オ ンダ祭)を集成的に研究 した著作
真似事を した りします。 このよ うな田植えに関す る神
を発表 しま した。 (
註 1) その中で近畿地方 の御 田植
事 には、正月か ら 2月頃に行われるオ ンダ祭や田遊 び
祭 も5
7
事例集成 しています。 なかで も、特 に奈良県 に
とよばれる田植えの真似事 をす るものと、 5月か ら 6
集中 しているのが注 目され、全体の半数 にあたる2
7
事
月に実際に田植えを行 う田植神事 とよばれるものの 2
例が報告 されています。 これに対 して、大阪府ではたっ
種類があ りますが、奈良県内で現在伝承 されているも
た 2事例 しか存在 していないのです。 この数字か らも
のは、すべて年初 に田圃を模 した場所で、田植えまで
わかるように、奈良県 には米作 りにかかわる祭礼がた
の農作業を模倣 して演 じるオ ンダ祭や田遊びのみで、
くさん伝承 されています。 この理由として、奈良盆地
実際に田植えを行 う田植神事がひとっ もないのが特徴
が近世か ら近畿地方 の穀倉地帯であったためと考え ら
としてあげ られます。奈良 の田遊 びのなかで、春 日大
れます。 もうひとっ重要 なことは、奈良の人 たちが こ
社の御田植祭 は、社伝 の史料では平安時代末 まで遡 る
のような古 くか らの祭礼や行事 を大切 に保存 し伝えて
大変古 い歴史があ り、 しか も美 しい盛女の田舞いの神
ききたためといえ るのです。
楽で有名です。 また、奈良市の手向山八幡宮、吉野町
ここで、奈良県内の農業 に関わる伝統的祭礼を稲作
の農事暦 に沿 って概観 してみたいと思 います。
正月の行事 としては、オコナイ (
初祈祷) ・ケチ ン
の吉野水分神社、宇陀市の平野水分神社の御田植祭 は、
いずれも中世末か ら近世前半まで遡 る古式の様相をもっ
ています。一方、奈良盆地南部 の御 田植祭 は、牛役 の
(
結鎮) や ツナカケ (
網掛 け)行事があ ります。 いず
大暴れや餅撒 き等 に特色がある大変賑やかな行事です。
れ も、仏教行事 の修正会や修二会が起源 となっている
奈良県内の御 田植祭の大部分 は五穀豊穣を祈願 して行
ものと考え られます。農作物の不作や病気などの原因
われる行事ですが、 これに子孫繁栄の願 いが込め られ
4
0
奈良の伝統的祭礼の保存 と伝承 に向けて
た独特の所作をともな う、明 日香村の飛鳥坐神社の御
田植祭や川西町の六県神社 の子出来オ ンダ祭 りなどの
存在 も注 目されます。
ているのが現状です。
秋の祭礼 は、文字通 り収穫を感謝す る秋祭 りです。
翁舞や田楽踊、 そ して神事相撲等の奉納が各地でさか
一方、田植え前 に苗代 田で行われる儀礼 として重要
んに行われています。御神輿の渡御 も行われますが、
な ものが、苗代作 りの頃に行われる水 口祭 りとよばれ
先頭を行 くのはその年 に収穫 された稲 を神 に奉納す る
るものです。オ コナイで配 られた厄 よけのお札である
御初穂です。奈良の秋祭 りでは、山車や太鼓台 ・ダン
牛玉札 と、オ ンダ祭 りで配 られた松葉で作 られた模造
ジリといった都市型の祭礼 に一般的に見 られる要素 は、
苗をセ ッ トに して、色花 とともに苗代の水口に供え、
大阪に隣接 した一部地域を除けばやや希薄で、 どち ら
稲の順調な成育や、虫 よけなどが祈願 されます。現在
か と言えば先述の神事芸能の奉納 に重点が置かれてい
は、苗代を作 らずに稲苗を一括購入す ることが多 くな
るといえます。 これは、奈良の秋祭 りが春 日若宮おん
り、だんだん水 口祭 りは行われな くなってきています。
祭 に代表 される中世 の祭礼の様相を色濃 く伝承 してい
同 じように水田で、田植え開きに行われる 「サ ビラキ」
るか らとも言えます。 この他の特徴 として、餅や木の
や田植終 いに行われ る 「サナブ リ」 とよばれる儀礼 も
実 ・果実を山形 に盛 り付 けた り、串刺 しに した特殊神
次第 に忘れ去 られて しまいま した。
僕 とよばれるお供えや、神 の依 り代 となる御仮屋等 も
もうひとっ田植えの直前の時期 に行われる祭礼 とし
秋祭 り構成要素 として重要です。特 に、特殊神僕 は本
て重要 なのか、 ノガ ミ祭 りです。裏作 として麦が作 ら
来寺院の仏願であったものが、神仏混交 によって神社
れていた昭和4
0
年 までの農事暦では、麦の刈 り取 りと
の神僕 となった ものが多 く、独 自の様式を もっていま
田植えの間に時期 に行われていま した。 したが って、
す。また、先述の神事芸能 として特に注 目されるのは、
ノガ ミ祭 りには麦の収穫祭 として意味があるもの と推
奈良市東部 に伝承 されている田楽踊 と題 目立です。 田
定 されます。 これに加えて、 目前の稲の田植え前 まで
楽桶 はもともと農耕の所作が連続的に演 じられて全体
に雨がた くさん降 ることと、農耕用の牛の健康などが
の踊 りが構成 されていま した。現在各地の神社の祭礼
祈願 されま した。
で奉納 されている 「
神拝」や、擬態的呼称の 「
三角跳」
続 く田植え後の大切 な行事 は、稲 につ く害虫を追 い
や 「
横跳」 あるいは、擬音的呼称 の 「バ クラン」 や
払 う虫送 りです。 この行事 は、祈祷札を先頭 に鉦や太
「ピッビラ」 とい った所作 は、扇で楽器や床 を扇 ぐ所
鼓をたたきなが ら松明をもって田んぼの中を行列 して、
作 とともに、本来 は一連の流れを もった田楽踊が時代
稲 につ く害虫を追 うものです。現在で も奈良市東部や
を経 るに したが って断片化 して部分的な所作だけが伝
宇陀市室生区の笠間川流域 などで盛んに行われていま
承 された ものと考え られます。 この他 に、奈良市大保
す。
町の八坂神社では、神社の周囲の山の神の名前を順 に
夏の祭 りは盆踊 りなどた くさんありますが、特 に、
読み上 げる 「
森神呼び」 とよばれ る所作があ ります。
農事 に関わるものとして重要 なのが太鼓踊 りです。太
これは、春 日大社の神おろ しの神楽が、伝承 された も
鼓踊 りはナモデ (
南無天)踊 りやイサ ミ踊 りとも呼ば
ので大変貴重な ものといえます。
れ、 もともとは降雨を祈願 して満願の際に奉納 された
一方、奈良市上深川町 (
旧著開閉寸)の八柱神社の秋
風流芸能です。県内で も近世か ら近代 にかけて各地で
祭 り宵宮 に奉納 される題 目立 は、福岡県瀬高町の幸若
盛んに行われていた ことが、神社の奉納絵馬等の存在
舞 とともに日本の中世芸能歴史を代表す る重要 な芸能
か ら明 らかになっています。代表的な太鼓踊 りとして、
です。演者 は立 ったまま殆 ど動かず、番帳 とよばれる
奈良市吐山や大柳生、 そ して吉野町の国楢、下市町丹
進行表の順 に、不動 の姿勢 のまま、 自分の台詞を淡々
生 などがあげ られます。 しか し、定例開催の行事では
と謡 い上 げていきます。武家物語 などの語 り物が舞台
ないため催行間隔が開いて しまい、催行 どころか伝承
芸能化 してい く初期の姿をとどめる大変貴重 な芸能 と
その ものが危機的状態 にな っています。 このなかで、
して、国の重要無形民俗文化財 に指定 されています。
奈良市大柳生町では、毎年盛大 に行われていますが、
もともとは、神社の造哲の時に奉納 されていたようで
多 くの人が同時に舞 う難 しい桶で、 しか も、舞手が年々
すが、現在 は秋祭 りの宵宮 に1
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歳前後の少年達 によっ
少 な くなって しまったために、伝承が困難になって き
て奉納 されています。演 目は、平清盛が弁財天か ら薙
奈良女子大学文学部研究教育年報
刀を授か る 「
厳島」が中心 とな りますが、東大寺の転
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がほぼ終了 します。
害門が舞台の 「
大仏供養」 もあ ります。 しか し、最近
は演 じられていません。 この他 に明治時代以来演 じら
3 伝統の断絶、祭礼の伝承の危機
れていない 「
石橋山」 とい う演 目もあ ります。時間が
前述のように奈良県内には数多 くの祭礼、特 に農事
かか るものや演者の人数が多 いものは、 しだいに上演
に関わる祭礼が伝承 されています。 しか し、 ここ1
0
年
され る機会が少 な くなって しまうことは伝統芸能では
か ら2
0
年の間に、劇的にその数が減少 し伝統の伝承が
よ くあ ります。 このように演 目が少 な くなって行 くこ
困難 になってきています。
とは、伝承 の難 しさを物語 っています。題 目立 は、か
その原因 として第- にあげ られるのは、農山村 の少
って八柱神社のほかに隣接す る的野地区 と奈良市丹生
子高齢化です。子供の減少 は祭礼 などの伝統文化 の伝
町で行われていたことがわか っています。 この うち丹
承 には大 きな影響をあたえ ことは言 うまで もありませ
生神社 には、天正三年 の記年のある台本 の残欠が保存
ん。 昭和4
0
年代の祭礼の様子を記録 した奈良県立教育
されてお り、『多門院 日記』 とな らんで、 これ らの奉
研究所 と奈良県立民俗博物館の映像 アーカイブで は、
納芸能が中世 にまで遡 る古 い歴史があることを直接示
どこのお祭 りで も子供たちで ごった返 している様子が
す重要 な史料 といえます (
註 2)。 また、上記の三地
映 し出されていますが、現在、現地調査 に行 って もそ
区以外 にも、奈良市東部の北野山の戸隠神社 と隣接す
のよ うな光景 は全 くみ られません。 どこの地区で も子
る山添村室津の戸隠神社 と桐山の戸隠神社では、秋祭
供の減少 は深刻な問題で、特 に、子供が行事の主役 と
りに 「りタヨミ」 とよばれる神事芸能が奉納 されます。
なるような祭礼では、大人 も参加 して催行せざるえな
神事芸能の奉納のあとで、当屋宅 にもどり、笹の枝を
い状況 にな っています。少子化 による祭礼の伝承 の危
持ちなが ら、米 をまいて種 まきの所作をす る 「オ ドリ
機 に、 さらに拍車をかけているのが核家族化です。伝
コ ミ」 とよばれ る短 い芸能が演 じられます。 この際に
統的な生活様式や祭礼の伝承 は一般的に隔世代間で行
謡われるのが、先の題 目立の導 き歌である 「
安芸の国、
われ ことが多いため拡大家族の中で こそ可能 とな りま
厳島の弁財天 は-」 と同 じ出出 しの歌です。 このよう
す。隣接世代だけで構成 される核家族のなかでは困難
な事例 も、か って演 じられていた題 目立の遺風を留め
といわざるをえません。 少子高齢化 と核家族化そ して
るものと推定 されます。上記のように中世後期の一山
農山村 の過疎化 は現在 も進行中の問題ですので、 もは
村において、題 目立 のような芸能が奉納 されていたこ
や誰 もとめることはで きません。
とは、当時の大和の国の農山村の リテラシーの高 さ、
一方、農山村をめぐる生活様式、特 に産業基盤の変
つまり文化水準 の高 さを端的に物語 ってお り、古 い歴
化 と専業農家の減少 も、農業や林業などの生産様式 と
史を もっ寺社 とその周辺の村落 とで、一体 となって芸
密接 にむすびっいた祭礼や伝統行事 の伝承 を困難 にし
能が育 まれてい くという、奈良の風土の特性 として特
ています。 夏の盆踊 りや秋祭 りなどの祭礼の日程 は、
筆すべ きもの といえます。
以前 は隣接 した地区同士で相互 に訪問可能 なように日
収穫祭の最後 を飾 るのが亥の子祭です。西 日本を中
程 をず らしていましたが、現在 は兼業農家や農業以外
心 に して全国各地でみ られます。奈良県内で もい くっ
の勤務者が多 くなったため、参加者の祭礼の負担を軽
か事例があ ります。大淀町上比曽では、子供達が藁を
減するために、なるべ く日曜 日などに集 中させて一斉に
棒状 に束ねて持 ち手をっ けた ものを作 り、 それを持 っ
行 うように変化 しています。そのため、隣接地区でもお
てその年 に嫁入 りがあった家々を廻 って、入 り口で亥
互 いの祭礼の様子が全 くわか らなくなって しまいます。
の子歌を歌 いなが ら、地面を蔽 くという典型的な亥の
また、社寺の氏子組織などの特定のメ ンバーだけで
子祭が行われています。祭 りの最後 には、藁束を家の
構成 され る宮座などの祭礼組織 は、時代の流れによっ
屋根 に向か って放 り投 げます。一方、桜井市高田には、
て、 しだいにその垣根を低 くして地区の住民 に開放 さ
一般的な亥の子祭 とはやや異な った、子供 たちの大暴
れ誰 もが参加で きる村座的な組織へ と変容 してきま し
れがある珍 しい亥の子暴れ祭 りがあ ります。小型模造
た。祭礼の催行 にはある程度の経費負担が必要 となる
農具を奉納す る点か ら山の神祭 と習合 した行事 と考え
ため、当屋や頑家あるいは年預や一年神主 などよばれ
られます。亥の子祭が終わると、稲刈 りの後の農作業
る当番制度が長い間有効に機能 してきま した。 しか し、
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奈良の伝統的祭礼の保存と伝承に向けて
祭礼組織が開放 されて肥大化す るとともに、 それを維
持す る経費 も増大す るため、近年では経費負担 を均等
化す るために、当番制度 を廃止 して保存会へ と移行 し
ている例 も多 くみ られます。 これ も、農 山村 の共同体
の構造 における大 きな変化 といえます。
4 伝統的祭礼の伝承 に向けて
それでは、前述 のよ うな伝統的な祭礼 をめ ぐる危機
に対 して どのよ うな方策が想定 され るので しょうか。
第一 にあげ られ るのが、地域 の祭礼行事 の伝承 と学
写真 2 国栖の太鼓踊
校教育 との連携です。現在、県内各地 の小中学校で、
学校の行事 として地域の伝統的な祭礼 の学習が行われ
ています。一例 をあげると、十津川村重里 の西川第一
小学校 と西川中学校で は、地域 の伝統的な祭礼である
獅子舞や、国指定 の無形民俗文化財である十津川 の大
踊り (
西川 の大踊 り) を学校 の教職員や地区の方が主
体 となって児童 に指導す る取 り組みがなされています。
これ らの成果 は、地域 の祭礼行事で披露 され るほか、
十津川ふれあい物語 などの合同盆踊 り大会で も披露 さ
写真 1)。 まさに、地域 と学校が
れています (
註 3)(
一丸 とな って伝統的祭礼 の伝承 に取 り組んでいるので
写真 3 紀伊半島民俗芸能祭 篠原踊
す。 また、吉野郡大淀町で も、町内の小学校 を中心 と
して 「ちびっこ桧垣本座」が組織 され、能楽を練習す
る取 り組 みがなされています。 その成果 は、 「
紀伊半
0
0
4
」や演能会 などで発表 されています
島民俗芸能祭2
。 また、最近 の例 と して、昨年 1
1
月2
3日に吉野
(
註 4)
町国楢の太鼓踊が1
6
年ぶ りに催行 されま した (
写真 2)
。
太鼓蹄 はもともと雨乞 い祈願 ない しは満願 の際に、奉
納 されていたなので、催行間隔が開いて しまい伝承が
困難 にな っていま した。今回 は、大人だけでな く放課
後 に練習を続 けていた国栖小学校 の児童 も参加 しま し
写真 1 十津川ふれあい物語 西川の大踊 り (
カケイリ)
写真 4 お伊勢参りと伊勢音頭
写真 5 田原地区伝統芸能公演 おかげ踊 り
奈良女子大学文学部研究教育年報
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た。 これ も、地域の人 たちの伝統を守 ろうとする熱意
地域の住民が皆で共有 して再評価す るという点では、
の賜物です。
大変有意義な行事であったといえます。
このよ うな学校を利用 した伝承の試みか ら一歩進ん
同様の取 り組みは、奈良市 田原町で も行われていま
で、学校教育のなかで、「
総合的な学習の時間」 を活
す。 田原地区は奈良市東部 に位置 し、山添村 に抜 ける
用 したさらに積極的な取 り組みが行われている事例 も
街道沿いに位置 しています。田原地区では、地区の人々
注 目されます。斑鳩町の斑鳩小学校 と川西町の結崎小
によって伝統芸能保存会が組織 され、奈良県指定文化
学校では、総合学習の時間で、能楽への取 り組みが行
財である祭文語 りをは じめとして、祭文音頭やおかげ
われています。両校 とも、中世 には大和猿楽の金剛座
踊 り等の貴重な伝統芸能が伝承 されています。祭文 と
と結崎座 (
後の観世座)が存在 した場所で、地域の伝
は、 もともとは神仏 に対 して願 い事を祈願 して読み上
統文化を歴史 とともに学ぶ という、最 も適 した学校で
げ られる祝詞 を意味 しています。それが、のちに山伏
の取 り組 みの事例 といえます (
註 5)。 さらに、 この
によって錫杖や法螺員 を使 って、独特の節をっけて謡
ような試みは小学校だけでな く、奈良県立山添高等学
うように読み上 げ られるようにな りま した。それが、
校で も、学校活動の一部 として地域 に伝わる国指定の
「山伏祭文」 とよばれ るもので、 山伏 によって各地 に
重要無形民俗文化財である 「
題 目立」の伝承への取 り
伝え られま した。 このような祭文 は、江戸時代後期 に
組みがなされています。
は三味線 など楽器の伴奏をともな って、 さらに芸能的
一方、伝統的な祭礼の伝承 に向けて第二 にあげ られ
るのが、地域 における公民館活動の重要性です。
地域の伝統的な祭礼がいかに貴重 な ものかを、地域
の人たち自身 に再評価 して もらうとい うことが、伝統
な色彩が強 くな って 「
歌祭文」 と呼ばれる型式 に発展
し、一般庶民の娯楽 として定着 しま した。 これが後の
浪曲や浪花節の もとにな ったのです。
現在伝承 されている田原地区の祭文語 りの歴史 は、
的な祭礼の保存 にあたって最 も重要なことです。特 に、
大正時代 まで遡 ります。当時三重県の伊賀上野地方か
地域 における祭礼の重要性 を、隣接地域 との同種行事
ら巡業 してきた山崎芸能社 (
通称北山座) という祭文
との比較 において認識す るための、伝統芸能の合同発
語 りの一座が大変人気を博 して しま した。あまりの人
表会の開催 などは、祭礼の伝承 に重要 な役割を果 して
気ぶ りに、田原地区で も祭文語 りを始める人々があ ら
いるといえます。現在、東海北陸近畿地方の祭礼や伝
われま した。その中で中心 とな ったのが下谷鶴松 とい
統芸能を対象 とした、近畿 ・東海 ・北陸 ブロック民俗
う方で、仲間 とともに砂川座 とい う芸能集団を結成 し
芸能大会や、三重県、奈良県、和歌山県の祭礼や伝統
ま した。地元や周辺地域の盆の時期や農閑期などに祭
芸能を対象 とした紀伊半島民俗芸能祭 (
写真 3)が、
文語 りを演 じて大変 な人気 とな りま した。 こうした砂
規模の大 きな ものとして定期的に開催 されています。
川座の活動 は戦後 まもな くまで続 きま したが、時代の
今後 は公民館 などの機関が中心 とな って、 より小 さな
流れのなかでいっ しか活動が休止 して しまいま した。
規模で地域 に密着 した祭礼や伝統芸能の合同発表会を
このような状況のなか、昭和 5
7
年 に地元有志が協力 し
開催することが、求め られているものと考え られます。
て、下谷鶴松氏の長男の鶴吉氏や喜多楢治郎氏、下谷
一例をあげれば、平成 1
6
年 8月 に吉野郡川上村で、村
戻-氏 によって祭文語 りを再上演 して もらい、翌年 に
内各大字か らの参加者が一堂 に会 して、伊勢音頭大会
は保存会が結成 されて郷土の伝統芸能が保存伝承 され
民俗講演会第 6回いろ りばた
ることにな りま した。無形民俗文化財 は伝承が途絶え
お伊勢参 り伊勢音頭)が開催 されま した (
写真
て しまうと跡形 もな くな って しまいますが、 このよ う
4)。 この催 しは、川上村 の各大字 で伝承 され る伊勢
な形で伝承が成功 したのは奇跡 ともいえます。祭文語
音頭を祭礼 の映像を背景 に して歌 うという大変ユニー
りは現在では山形県 に伝承 されているのみの大変貴重
クなもので した。祝 い歌 としての伊勢音頭 も現在では
な民俗芸能です。
(
森 と水 の源流館主催
教室
日常的に歌われ ことも少 な くな っていますが、合同発
田原地区では、祭文語 りの他 に、祭文語 りと、盆 の
表会 とい う形式 をとったため、大字毎 の節回 しの違 い
念仏踊 りが結 びっいた祭文音頭 と、おかげ踊 りが伝承
がはっきりとわか り、 なっか しい祭礼の映像なども上
しています。前者 は近世末か ら近代 にかけて江州音頭
映されて、大変好評な企画で した。地域の伝統文化を
や河内音頭 として発展す る踊 りの原型 ともいえるもの
4
4
奈良 の伝統的祭礼 の保存 と伝承 に向 けて
です。一方、後者 も歴史のある踊 りです。音頭取 りの
え って くるような気が します。お祭 りの時には多 くの
歌 と太鼓 に合わせて、踊 り子が シナイという御幣を手
アマチュアカメラマ ンが押 しかけて写真を撮影 してい
に しておどるもので、踊 り子の輪の中心 には御幣持 ち
ますが、それ らの写真 は、 いっの 日か、 きっと貴重 な
や鈴振 りが位置 します (
写真 5)。 おかげ踊 りは江戸
地域の民俗資料 になるはずです。 このような、写真の
中期か ら幕末 にかけて、数度の大流行をみた伊勢参 り
展示場所 として、公民館の一角をギ ャラリーとして開
(
おかげ参 り) の時に踊 られま した。 おかげ踊 りは、
放すれば、地元の祭礼行事 に対す る、人々の認識や愛
その後の幕末慶応年間の 「ええ じゃないか」 あるいは
着 もますます深 まって くることは間違 いないと思 いま
昭和天皇の御大典の際にも踊 られた大変めでたい踊 り
す。 また、 もうひとっ重要 なのは、各家庭で取 りため
です。田原地区には、伊勢神宮への参拝を記念 して建
られているホームムー ビーの活用です。か っての 8mm
て られた 「おかげ灯龍」 も残 ってお り、おかげ踊 りと
フイルムで撮影 された映像 は、 それぞれの家庭での子
ともに江戸時代の伊勢参宮の歴史を今に伝えています。
供の成長記録などが大半 を占めると思われますが、 な
このように、田原地区では、地元の方 々が一丸 とな っ
かには地域の祭礼などが記録 されているもの も少な く
て伝統芸能 の保存 と伝承 につ とめま しています。平成
ないと思 います。 これ らの映像 は、地域の決 して大昔
1
1
年 3月には、祭文語 り ・祭文音頭、おかげ踊 りとと
ではない、近 い過去の有 り様 を記録 した、現在の時点
もに奈良県の無形民俗文化財 に指定 されま した。現在、
か らみると大変貴重 な映像 といえます。 これ らを発掘
奈良市東部地区各地の公民館では、地域の伝統芸能や
して、保存活用す ることによって、極めて貴重な地域
祭礼の公演会を開催 してお り、地区の内外か ら多 くの
の映像 アーカイブを構築す ることが可能 になるといえ
方が参加 しています (
註 6)。
ます。 このような資料 は 8mmフイルムに限 ったもので
一方、地域社会の構造変動 による祭礼組織の変化 は、
はな く、 ホ-ム ビデオムー ビーに範囲を広げれば、過
祭礼の伝承 における地域の公民館の活動を、外的な要
去四半世紀の劇的な社会の変化の過程を動画映像によっ
因 としてより活性化 させていることは言 うまで もあ り
て辿 ることが可能 になると思われます。
ません。 特に、芸能の共同練習の場、祭礼の準備の場、
祭礼の用具の管理保管の場 としての地域の公民館の役
割 は、 これか らますます重要 になって くるといえます。
5 地域の祭礼の保存 と伝承 に向けての公民館の役割
奈良県内には、数多 くの伝統的な祭礼や行事が伝承
以前 は、 このよ うな場 は当番の方のお宅や、寺社の境
されてきま した。 しか し、少子高齢化 と過疎化、そ し
内等 に設 け られていたま したが、保存会のような組織
て、社会構造の変化 とい う避 けることのできない現実
に移行 した場合 は、 その拠点 として地域の人々の活動
に直面 し、その保存 と伝承 は危機的状況 にあるといえ
が公民館 に収赦す るもの と考え られます。
ます。
さらに、 もう一つ重要 な役割が公民館 にあ ります。
無形文化財 は無 くな って しまうと何 も残 らないので、
や社会教育の視座か らい く■
っか想定 されますが、地域
映像記録を残す ことが特 に重要です。奈良県 はもとも
を中心 としてみれば、最 も重要 なのは地域の活動の拠
と写真が盛んな土地柄です。祭礼行事の写真の先駆 け
点 としての公民館 の役割です (
註 8)。 それは以下 の
は、昭和 1
9
年 に刊行 された辻本好孝氏の 『
和州祭礼記』
2点 にまとめ られます。
という本です。 (
註
7)辻本氏 は新聞記者だ ったので、
祭礼の調査 と記録 に当時では珍 しい小型 カメラを活用
しま した。 この本 には、昭和 1
0
年頃の貴重 なお祭 りの
写真が掲載 されています。現在、県内各地のお祭 りの
1 地域 の活動の拠点 として、祭礼行事の催行や伝
承の場 としての役割。
2 地域の祭礼の重要性 を内外 に再認識 させ るとい
う、情報発信拠点 としての役割。
0
年間ほどのお
現地調査に出かけると、公民館 に過去 1
伝統的祭礼 と行事の保存 と伝承 に向けて、地域の活動
祭 りの時の集合写真が飾 られているのを目にす ること
拠点 として公民館のはたす役割 はますます重要 になっ
があ ります。地区の世話役の方を中心 に して子供 たち
て くるものと考え られます。
や親御 さんが仲良 く写 っている写真を見 るたびに、つ
い最近のことで もなんだか懐か しい記憶 としてよみが
奈良女子大学文学部研究教育年報
〔
註〕
註 1 新 井恒易
昭和 5
6
年 『農 と田遊 びの研究』 明治
書院
註 2 題 目立保存会
平 成5
4
年 『題 目立 』
註 3 平成 1
8
年 8月1
9日に、十津川村 湯之原 の体育 セ
ンターで開催 され、西川 中学 校 の生徒達 が参加 し
て大 踊 りの 「カケイ リ」 が披露 され た。
7
年1
1
月 7日 大淀 町立文化 会館 (あ らか
註 4 平成 1
しホール) で開催 され た。
7
年 9月2
5目付朝 日新 聞奈良版記事 「伝統
註 5 平成1
神野武美)より
体 感積極性養 う」(
註 6 奈良市教育委員会
平成
2年 『奈 良市民俗芸能
調 査報 告書一六斎念仏 ・風流 ・語 りもの-』。
奈 良県教育委員会文化 財保存課
2
年 『奈
平成1
良 県指定文化財』。
註 7 辻 本好孝
昭和 1
9
年 『
和 州祭礼記』
天理 時報
社
7
年1
0
月2
1日に田原本 町で開催 され
註 8 本論 は平成 1
た奈 良県公民館大会 の際 の配布 資料 に加筆 した も
ので あ る。
第 3号
4
5